桜(1)

桜(1)







 人事異動の季節になると、第九にも新人が入ってくる。
 新人の面倒を見るのは青木の役目だ。自分が先輩にしてもらったことを、後輩に伝える。そうして後輩と一緒に成長していくのだ。

「青木さん。おれ、夜、眠れないんです。気持ち悪い夢ばかり見て」

 後輩の悩みを聞いてやるのも、先輩の仕事のひとつだ。
 自分も新人の頃はそうだった。あまりに凄惨なMRIの画像を夢に見て、眠れない日々が続く中で、次第に余裕を無くして憔悴していった。自分のことで手一杯になって、周りが見えなくなって、素直な気持ちを失っていった。
 今となっては苦い思い出である。

 が、そのとき青木には、これからの人生を大きく変える出来事が訪れた。だから今も第九にいられる。この仕事を続けている。

「オレもそうだったよ。そのうち慣れるさ」
「先輩は悪夢を見ないんですか?」
「コツがあるんだ。寝る前にな」
 数年前に、青木を救ってくれたひとに教えてもらった技を伝授する。しかし、うまくいくとは限らない。何人かに伝えたが、個人差があるようで、まったく効果のなかった者もいた。

「わかりました。やってみます」
 後輩は、素直に礼を言った。
 こいつはオレよりまだマシだ。あの頃、オレは素直に礼を言う余裕もなかった。

 その頃のことを思い出して、青木は自嘲した。でも、そんな状態だったからこそ、あのひとがオレに手を差し延べてくれたのかもしれない。

「今井。世田谷の放火殺人の件だが」

 室長室から資料を抱えて、薪が出てくる。今井の机に資料を置き、モニターを覗き込む。きりりと吊り上った眉。真剣な瞳。今日も室長は捜査に夢中だ。
 春のやわらかな日差しが、ブラインド越しにその清廉な美貌を包み込む。淡い光に溶けていくような儚さに、つい目を奪われる。

 あのときの室長もとてもきれいだったな――。

 記憶の連鎖で、青木はその当時の出来事を思い出していた。




テーマ : 二次創作
ジャンル : 小説・文学

桜(2)

桜(2)






 通勤ラッシュの波に揉まれて、霞ヶ関の雑踏を歩く。
 青木のアパートから勤務先までは徒歩20分程度の距離で、いつもなら歩いてくるのだが今日は地下鉄を使った。
 別に、寝坊したわけではない。アパートの前の公園を通りかかったときに見かけた桜があまりにもきれいで、つい見とれてしまった。気が付いたら出勤時間ぎりぎりになっていた。

 日本という国が美しいのは四季があるからだ、と青木は思う。
 春爛漫。
 青木の一番好きな季節だ。冬の寒さに耐えた後、あちらこちらに春の花が咲き始めて新しい生活が始まる。なんとなく気分もうきうきする。
 しかし、この気分も第九の門をくぐるまでだ。職場に近づくにつれ、青木の足取りは重くなる。

 今年の1月に念願の第九に配属になって、2ヶ月。
 まさか、あんなところだとは思わなかった。

 毎日毎日、見せられるのは殺人の画ばかり。それも修正がかけられたものではなく、現実の生々しい画像である。これがビデオ撮影されたものならまだましなのだが、殺された被害者のものとなると、その恐怖と衝撃のために現実よりおどろおどろしいものになっている。
 目に見えるものを見ずに隠された真実を見抜け――先輩はそうアドバイスをくれるのだが、実際に見てしまうとどうしてもそれに引きずられてしまう。2ヶ月経っても一向に慣れない。

 自分には向かないのかもしれない、と青木は思い始めている。

 何より気が重いのは、室長のことだ。
 毎日のように叱られて、二言目には異動願いを出せ、と言われる。
 単に自分のことが気に入らないのか、あのときの出すぎた真似を怒っているのか。

 第九に入って1週間もしないうちに、青木は室長の過去の傷を抉るような真似をしてしまった。
 あの時は、そうすることが室長の重荷を軽くする唯一の方法だと信じていたのだが、果たして正しかったのか。そのあとの室長の態度を見ていると、間違っていたような気がしてならない。
 新参者の自分が、室長のいちばん深い傷に触れてしまった。癒してやれたわけでもなく、ただ残酷に真実を見せつけただけだ。

 あれを見て、室長の苦悩はますます深まったのではないか―――― そう思うと、いたたまれない。
 自分は、薪室長に憧れて第九に転属願いを出したのだ。その自分が、室長の苦しみを増大させるような真似をしてしまった。そんな後悔が青木の頭から離れない。

 室長は、本当は自分の顔を見るのも嫌なのではないか。
 この頃は、そんなことまで考えてしまう。
 そこに追い討ちをかけるように『おまえに第九は勤まらない』『異動願を出せ』と言われると、青木は地の底まで落ち込んでしまう。

 一番つらいのは、こんなに冷たくされているのに室長を嫌いになれないことだ。
 相手を恨むことができればいっそ楽なのだが、あいにく青木の中で室長に対する憧れは色褪せないどころか、ますます大きくなっている。
 とにかく、凄いのだ。
 あんなひとは見たことがない。小説の中に出てくる名探偵のように、ずばずば犯人を言い当てる。捜一からの資料で犯人の動機を推理して、MRIは検証に使うだけ、ということも多々ある。

 天才の呼び名も高い第九の室長、薪剛警視正。
 その仕事ぶりを間近で見て、卓越した推理能力を見せつけられて、魅了されない捜査官などいない。みな、彼のように鮮やかに事件を解決することを切望しているのだ。

 室長との才能の差があまりに大きすぎて、自信を喪失してしまう者もいる。
 第九に入ってくるのは、殆どが東大・京大卒のエリートばかり。言い換えれば、自分の頭脳に自信を持った人間ばかりだ。それが室長の前に出ると、まるで中学生が大学生と一緒に仕事をしているような、絶対的な実力の差を思い知らされる。
 それは彼らには耐え難い屈辱で、そのために第九を去る者も多い。実際、青木が第九に来てから2ヶ月の間に、2人の新人が辞めていった。

 しかし、室長の方にも大いに問題はある。

 室長は仕事のこととなると、とにかく厳しい。
 相手のプライドなど考えずに皆の前で叱りつけるし、バカとか無能とか役立たずとか、およそエリートが今まで言われたことのないような言葉で怒鳴りつけたりもする。
 加えて、あの無愛想な顔。いつも眉を険しく上げて、睨むような目でひとを見る。
 せっかくきれいな顔をしているのに、怒ってばかりでは美人が台無しだ。室長の笑顔など見た事がない、と先輩たちも言っていた。

 室長が笑うとすれば、何か意地悪なことを考えて、誰かをやり込めてやろうとするときだけだ。基本的に、意地の悪いひとなのだ。もちろんそのときの笑顔は、口の端だけを歪めたような陰険な笑みで、好ましいものではない。
 捜査官としての薪はともかく、人間としての薪はとても好きになれそうにない。だが、薪の明晰な推理能力には、どうしようもなく惹きつけられてしまう。

 青木が警察官になろうと思ったきっかけも、大学時代に薪のことを書いた新聞記事を読んだからだ。
 青木はもともと弁護士を目指していた。それで東大の法学部に入った。
 それが、在学中に見た新聞記事で、弱冠27歳で警視正に昇任したエリートが、新設された科学警察研究所法医第九研究室の室長に任命されたことを知った。それからの彼のめざましい活躍を知るにつれ、青木は自分も第九で働きたいと思うようになったのだ。
 
 そこまで憧れて、薪のもとに来たのだ。ちょっとやそっとのことではこの思いは消えない。だから青木は第九を去れない。
 それに、一応青木にも東大法卒のプライドがある。第九を辞めるにしても、今の役立たずのままではまるで負け犬だ。少しでも自分を室長に認めさせてから異動願を出して、惜しかった、と後悔させてやりたい。

 正門の前に立ち、自分の職場を見上げて青木はため息をつく。
「よし。今日も頑張るか」
 言葉に出して、自分を鼓舞する。そうでもしないと気力が萎えてしまいそうだ。
 
 青木はゆっくりと、第九の門をくぐった。



テーマ : 二次創作
ジャンル : 小説・文学

桜(3)

桜(3)








 法医第九研究室には、今日もとびきりの凶悪犯罪を映した脳が送られてくる。

 今回の事件は俗に言うバラバラ殺人で、死体を解体する画像が映し出されている。
 一般のバラバラ殺人は、死体の処分に困り果てた末、運びやすいように手や足を切ったり、身元を分からなくするために首を切り落としたりするものだが、第九に送られてくるものはまったく種類が違う。
 誤って人を殺してしまって仕方なく切り落とすのではなく、人間を切り刻みたいがために殺人を犯す――― 動機からして一般の事件とは違うのだ。よってその犯人の脳も、普通の人間に理解が及ぶものではない。普通の人間が、ひとを殺さないと眠れないなどとは思わないからだ。
 
 内臓の飛び出た死体。胃や腸を切り開いて、中身を全部ぶちまけた、もはや人間の原型をとどめなくなった肉の塊。そんな、グロテスクな狂った画像ばかりを見せられる。しかもそこから事件の全容を把握し、報告書にまとめあげなくてはいけない。
 並の神経では勤まらない。下手をすれば、こっちが狂う。よって、第九では強靭な精神力だけが武器になる。

「小池。4人目の被害者(ガイシャ)の画は出たか」
「はい、ここからです」
 モニターに映し出される、恐怖に引き攣った被害者の顔。震えながら助けを乞い、壁にへばりついている。
 すぐに真っ赤に染まる画面。崩折れていく若い女性。それから悪魔の宴が始まる。ナイフで耳をそぎ、鼻を切り落とし、目をひきずり出し、のどを縦に切り開いて、気管と食道を手で引きずり出す。
 筆舌に尽くせないような、凄惨な画像である。

 その凶行を行った犯人も、それを顔色ひとつ変えずに見つめる第九の捜査官も、まともではない。しかし、両者の間には天と地ほどの隔たりがある。
 第九の職員は、みな良識のある警察官である。平和な社会を望み、その為に役に立ちたいとこの職業を選んだ。神経をすり減らしながらもMRI捜査の必要性を認め、厳しい室長の下で勤務時間を超過して働くことを厭わない、気高い精神を持っている。そこが決定的な違いだ。
 
 今なお、MRI捜査に対する世間の風当たりは強い。その非難の嵐から自分たちを守ってくれているのは他ならぬ室長だと、第九の人間なら誰もが知っている。だから現在第九に残っている部下たちは、みな薪を慕っている。意地悪で皮肉屋で自分勝手で、しかも怒るとめちゃめちゃ怖い。だが、信頼している。
 MRI捜査への偏見が、逆に第九を一枚岩にしている。そうでなくては、こんなつらい仕事は続けられない。

「青木はどうした? この件は青木と2人で係ってるはずだろう」
 新入りの姿が見えないことに気づいた室長が、小池に尋ねる。小池は少し言い淀んで、しかし正直に答えた。
「青木ならその……トイレで吐いてます」
「またか」
 室長の舌打ちが聞こえる。せっかく自分になついている後輩を庇おうと、小池は青木の弁護にかかった。
「しかし、よく続いてますよ。1週間で辞めるクチかと思ってましたけど、見掛けより根性あるじゃないですか」
「だが、こうも慣れなくてはな。体のほうが保たないだろう」
「生理的に受け付けない奴もいますからね。でも、あいつは頑張ってますよ。室長のイジメにもよく耐えてるし……いや、その、あの……」

 突如として黙り込み、室長はじっと小池の顔を見つめた。
 MRIの凄惨な画像に顔色も変えなかった小池が、青くなって口をパクパクさせるのを見てから、思い切り意地悪そうな笑みを浮かべる。楽しそうだ。
 「そうか小池。この事件だけじゃ仕事が足りないんだな。西新宿の誘拐事件の方も担当してもらうか」
 
 この性格だから新人が居つかないんだよな、と思うが、もちろん言葉には出せない。
 ボールペンを首に突きつけられて、上から目線での厳しい命令調に、小池はたじたじとなる。殺人の画像よりよっぽどこわい。
「今日中に報告書、上げとけよ」
「……はい」
 ひとこと多いのは自分の悪い癖だ、とわかってはいるが、なかなか直らないものである。

 小池は薪に言いつけられた報告書に取り掛かるため、事件の資料を読み直し始めた。



*****



 今朝食べたトーストと目玉焼き、レタスのサラダ。他にはもう吐けるものなどないはずなのに、吐き気は一向に治まらない。トイレの床に座り込んで、便座にもたれかかる。衛生面に気を配る余裕はない。

「大丈夫か?」
 誰かが背中をさすってくれる。
 しまった、せっぱつまってトイレのドアを閉め忘れていた。吐いたものの臭いが凄いはずなのに、ここの先輩はやさしい。あの陰険な室長の下で働いていて、よくこんなに他人に親切にできるものだと感心してしまう。
 岡部さんかな、と青木は直感で思った。岡部は見かけによらず、とても気配りが上手い。でも、それにしては手が小さい……。

「ほら、水」
 コップに入った水が差し出される。その人の腕から、なんだかいい匂いがする。
 フローラル系の香水のような、そんなお洒落な人が第九にいたかな、と思いながら受け取って、口の中を漱ぐ。いくらか気分が良くなった。
「すいませ……しっ、室長!」
 親切な先輩に礼を言おうと振り向いて、青木は青い顔を一層、青くした。

 いま、一番会いたくないひとがそこにいた。トイレの床にしゃがんで、自分の膝にひじを当てて、頬杖をついた姿勢で青木の方を窺っている。
 青木が言葉を無くしていると、立ち上がってトイレの水洗レバーを押し、吐瀉物を流してくれた。……いっそ、気絶してしまいたい。

「おまえ、夜眠れてないんだろう。これ飲んで仮眠室で寝ろ」
「いっ、いいえ! 大丈夫です!」
「無理をするな。休むのも仕事のうちだ」
 青木の手に錠剤のシートを握らせて、室長は去っていった。

 あんまりびっくりしたからか、吐き気も吹き飛んでしまった。手洗い場で顔を洗い、置いてあったタオルで水滴を拭き取る。これも室長が置いて行ってくれたものだ。
 こんな醜態を曝したのに、今日は何故かいつものセリフを言われなかった。それどころか、あんなにやさしく介抱してくれて。
 いったい、どうしたんだろう。室長は自分を嫌っているはずなのに。

「大丈夫か? 青木」
 岡部がトイレに入ってくる。
「すみません、先輩。もう大丈夫ですから」
「おまえ、少し仮眠室で休め。薪さんに言われた。昨夜、よく眠れなかったんだろう?」
 昨夜だけではない。
 第九に入ってからは、ずっとだ。悪夢にうなされて、睡眠時間は4時間を切っている。それが続いては、青木がいくら若くても体力が持たない。嘔吐は日課のようになっているし、この2ヶ月で7キロも痩せた。

「ただでさえ室長に嫌われてるのに、これ以上気に障るような真似するわけには」
「だれが?」
 岡部が驚いた顔をする。
 岡部は室長の腹心の部下だ。きっと、自分に対する不満を室長から聞かされているに違いない。白々しい言い草に腹が立つ。

「オレがいくら鈍くたってわかりますよ。あんなに露骨に嫌がらせされれば」
 つい、口調が荒くなる。岡部に罪はないのに、疲れが溜まっているせいでイライラしているのかもしれない。
「薪さんが、おまえに? 嫌がらせ? バカかおまえ」
 室長の部下らしく、口が悪い。薪に比べればかわいいものだが。

「あのひとは、そんなつまらん真似はせんぞ」
「だって、いっつも睨みつけられて、毎日毎日怒られて、二言目には異動願いを出せって。オレをここから追い出したいんでしょ」
 とうとう口に出してしまった。
 この件は、岡部から室長に伝わってしまうだろう。後悔するが、もう遅い。

「それならとっくに室長権限で異動させてるさ」
「それはできませんよ。本人の希望か、大きな失敗でもない限りは。人事規定に定めてありますからね」
「規定がどうだろうと、あのひとが自分の気に入らないやつと一緒に大人しく仕事するようなタマかよ。失敗なんか、いくらでも捏造できるだろ」
……鬼だ。

「薪さんは、ここに自分が嫌いな人間は置かない。室長がおまえのこと、いつも睨んでるって? 俺には心配してるようにしか見えないけどな」
『岡部さんは室長派だから』と小池が言っていたが、本当に薪に心酔しているらしい。あの険しい目つきのどこが、心配しているというのだ。

「薪さんは、いつもおまえのことを気にしているよ。青木はちゃんと飯が食えてるのか、睡眠は取れているのか、疲れている様子はないか。一日に何回も俺に聞くよ。まあ、俺はおまえの指導員だからな。業務内容の習得具合を室長に報告する義務があるが、どっちかっていうと健康状態を聞かれることのほうが多いな」
「本当ですか?」
「嘘ついてどうするんだよ。こんなこと」
 自分が薪に嫌われていないという岡部の言葉を信じたいが、それはやはり難しい。このひとは嘘はつかないひとだと思うが、思いやりの嘘はきっと上手なのだろう。

「なあ青木。どうして室長が新入りに辛くあたるか、わかるか」
 それはあのひとが意地悪だからでしょう。
 心の中で応えを返して、青木は岡部の言葉を待つ。室長のあの陰険な態度にどんな理屈をつけて正当化するつもりなのか、室長派先鋒の見せ所だ。

「この仕事は、精神を病むんだ。毎日毎日あんな画を見続けて、精神的に強くない人間は参ってしまう。今のおまえみたいにな。強い人間じゃないと勤まらないんだ。本当の病気になっちまう。
 去年、そうやって室長は自分の部下を4人も失ってる。二の舞は踏みたくない。人にきつい言葉を投げつけられたくらいで耐えられなくなってしまうような人間は、ここでは生き残れないんだよ。もっと図太くないと。だからそうなる前に……あれは、室長なりのやさしさなんだ」
 とてもそうは思えません。岡部さんは、室長に心酔するあまり現実が見えなくなっているんです。
 そう言ってやりたかったが、言葉にはできなかった。やはり青木はこの先輩を尊敬しているし、好ましくも思っていたからだ。

「信じるかどうかはおまえの勝手だがな。ただ、リーダーを信じられない人間がやっていけるほど、ここの仕事は甘くないぞ」
 じゃあ仮眠室で寝てろよ、と会話を閉めて、岡部はモニタールームへ戻っていった。
 
 先輩の指示通りに仮眠室へ向かう。横になる前に室長に貰った薬を飲む。なんだか、やたらとすっぱい睡眠薬だった。
 が、効き目は確かで、ベッドに横になるとすぐに眠気が襲ってきた。岡部に言われたことを反芻しながら青木は眠りに就いた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

桜(4)

桜(4)








 青木は、真っ赤な血の海の中にいた。

 手や足に纏わりつく紐のようなもの―――― それは、人間の腸だった。
 これはいつもの悪夢だと分かっていても、青木の恐怖は本物だった。払っても払っても追いかけてくる生きた内臓に、夢の中でも嘔吐を覚える。だれか助けて、と叫ぼうとしたが、口の中にまで入ってくる臓物がそれを許さない。

 そのとき、助けを求めて伸ばした青木の手に何かが触れた。
 やわらくて、あたたかい、小さな手。
 それは地獄のような悪夢の中で、不思議と信じられる力強さを持っていた。

 青木の手を、誰かの手が握ってくれている。
 これは、夢ではない。いや、やっぱり夢かも知れない。どちらにせよ、そのぬくもりが青木を底なし沼のような夢から引っ張りあげてくれたのは確かだった。

 それから夕方まで。
 青木は、2ヶ月ぶりにぐっすりと眠った。



*****




 目が覚めると、モニタールームには誰もいなかった。時刻は7時を回っていた。
 本当に、よく効く睡眠薬だ。夢にうなされずに眠れたのは久しぶりだった。

 室長室には、まだ明かりがついていた。
 先刻の自分の無様な姿を思い出すと室長と顔を合わせるのは気が重いが、勤務時間中にこんなに長い時間熟睡してしまったことへの謝罪と、睡眠薬のお礼も言うべきだろう。

「室長。すみません、オレこんな時間まで」
 見ると室長の机はきれいに片付いている。
 左の角にきちんとファイルが重ねてあるのは、青木が小池と担当していた事件だ。どうやら、先輩が不甲斐ない後輩の分も仕事をしてくれたらしい。
 申し訳ない気持ちで一杯になる。室長だって今日は、急ぎの仕事があったわけではない。自分を待っていてくれたのだ。

 ゆっくり眠って冴えた頭で周りを見れば、そんなことも分かってくる。この2ヶ月、自分がどんなに余裕を無くしていたか、そのせいで人の思いやりに気付かずに過ごしてきたのか―――― 青木は素直に、先刻の岡部の言葉を信じることにした。

「よく眠れたか?」
「はい。あの薬、よく効きますね」
「そうだろう。以前、岡部が僕にくれた薬でな。僕もそれから眠れないときは使ってるんだ」
 室長でも、眠れない夜があるのか。
 ……当たり前だ。この人は、誰よりも重い過去を背負っている。

「おまえには、特によく効くと思ったんだ」
 鞄を持って立ち上がり、帰るぞ、と声を掛けてくれる。いつもは鬼のようだと思っていた室長が、今はやさしく見える。
 
 玄関口までの長い廊下を室長と2人で歩く。
 今までなら胃が痛くなりそうな状況だが、不思議と緊張感はない。室長の雰囲気が、仕事のときとはうってかわって穏やかなものだからだろうか。

 本当は、こんなひとなのかもしれない。
 ただ単純に仕事に厳しいだけで、嫌がらせをしたり、意地悪をしているわけではないのかもしれない。

「悪夢を見ないで済むコツは、対象となりそうなものを眠る前に自分の中で別のものに変換しておくことだ」
 廊下を歩きながら、唐突に薪は話し始めた。脈絡も話の筋も突然すぎて、青木には一瞬薪の言葉が理解できなかった。

「例えばさっきおまえは、内臓が自分に絡みつく夢を見ていただろう」
 なんで夢の内容を知っているのだろう?
 いくら室長が切れ者だからといって、他人の夢の内容まで解るなんて。

 もしかして、自分がうなされている様子を見ていたのだろうか。
 ならば、さっきのあのやさしい手は……。

「それは、その前に見たMRIの画像のせいだ。あれを人間のものと思わずに、牛や豚のものと置き換える。きれいに洗ってパック詰めされたものを思い浮かべてみろ」
「そういえばオレ、モツなべ大好きなんですよね。出身が福岡だから」
「いや、別に食べなくても……まあいい。でも、気持ち悪くなくなっただろう?」
「はい」
 普段の無愛想な室長とは別人のように、安眠のための秘策を教えてくれる。
 青木は、嬉しかった。
 やはり岡部の言葉は本当だ。自分は室長に嫌われているわけではない。

「それから、寝る前には何か自分の好きなものを見るんだ」
「好きなもの、ですか?」
「彼女の写真とか画集とか、星が綺麗な夜ならそれでもいい」
 彼女とは別れたばかりだ。うなされそうだ。
「じゃあ、今日は公園の桜を見ます。オレの家の前に公園があって、そこの桜が今すっごくきれいなんですよ」
「桜か。そういえば、今年はまだ見てないな」
「え? だめですよ。日本人なら桜を見なくちゃ。すぐに散っちゃうんですから。よかったら観に来ませんか? ここから20分くらい歩きますけど」

 玄関を出て正門をくぐる。駅に行くなら青木のアパートとは反対の方角だ。
 薪は、立ち止まって逡巡する。無意識に手を口にあてて、小首をかしげる。仕事が絡まないとこんなに無防備な顔をするのか、と青木は薪から目が離せない。

「そんなにきれいなのか?」
 自信たっぷりに頷いて、青木は歩き出した。




*****




 青木のお勧めのスポットは、かなり大きな公園だった。

 園内に30本はあろうかという桜の樹が、満開に咲き誇っている。
 薄いピンク色の花びらが群生して、闇の中に幻想的な風景を描く。嫋嫋たる美しさ、秘められた艶かしさ。朧月に映えて、桜はその魅力を余すところなく曝け出している。桜の名所でもなければなかなかお目にかかれないような、実に見事な眺めだ。

 薪は大きく目を瞠り、息を呑んだ。
 小さな口唇をすぼめて、わずかに開く。いつもはきりりと吊り上がった眉が、今は驚きの形に変わって緩やかなカーブを描いている。
 その表情の愛くるしさ。
 桜より、この室長の顔のほうがよっぽど希少価値だ。

「すごいな」
 桜を見上げて、薪はうっとりと微笑んだ。
 その微笑に青木の目は釘付けになる。
 こんなにきれいに微笑むひとを、いままで見たことがない―――――。

「花のような」とか「天使のような」とか、世の中には美しい笑顔を表現する言葉はいくらでもある。
 しかし、これは。
 次元がちがう。すべての美辞麗句が陳腐な響きに成り下がるようで、何も言えない。
 ただ素直に、きれいだ、と青木は思った。

 夜風が亜麻色の短い髪を揺らす。桜の花びらが薪の周りを戯れるように舞って、まるで桜の精のような―――。

 あれ? と青木は首を傾げる。
 このひとは、本当に室長なのか? こんなにきれいなひとだったか? こんなに愛らしい顔をしていたか?
 きちんとスーツを着てネクタイを締めているのに、なんで桜の化身みたいに見えるんだ?

 夜桜の魔力か。十六夜月の悪戯か。

 ゆっくり歩いて、夜桜の中を散策する。桜の樹の陰に隠れるたびに、薪が消えてしまうのではないかと不安になる。
 あちこちに視線をめぐらせる薪の姿から、目が離せない。桜を見に来たはずなのに、自分は室長ばかりを見ている。

 儚げでたおやかで、限りなく清楚で―――― それは、青木の理想の女性を具現化したような姿だった。
 青木の心臓がとくんと脈打って、息苦しさを覚える。が、それは今までの気まずさゆえのものではなく、もっと甘い痛みを伴うものだ。

 このひとは男のひとだ。いったい自分は何を考えてるんだ?

「いいものを見せてもらった。今夜は僕もよく眠れそうだ」
 公園をぐるりと一周して、薪は帰途についた。駅まで送りますと申し出たが、女子供じゃあるまいし、と断られた。
 遠ざかっていく細い背中を見えなくなるまで見送って、青木は自宅への道を歩き始めた。


テーマ : 二次創作
ジャンル : 小説・文学

桜(5)

桜(5)







 その夜の夢は、悪夢ではなかった。

 緑一面の草原のような場所に、ひとりの女性が立っている。ノースリーブの白いワンピース姿。可憐という言葉がぴったりの、愛らしい少女だった。
 風が吹いて亜麻色の髪がさんざめく。そっとスカートを押さえながら、伏せた長い睫がとてもきれいだ。

 寝る前に桜を見たはずなのに、どうして草原の風景なんだろう。
 多少の違和感は、夢特有のいい加減さに紛れてすぐに消えた。遠くに立っているはずの少女の顔がこうもはっきり見えるのも、本来なら矛盾しているのだ。

 誰だろう。あの少女は。どこかで見たような。

 男なら誰もが理想の女性像を持っている。
 そんな女性に巡り会える可能性は限りなく低いし、理想とはまったく違った女性と恋に落ちる男も多いのだが、心の奥底に必ず息づいているものだ。
 きっとこれは自分の理想の女性なのだ、と青木は思った。

 だって、こんなに胸が苦しい。顔を見ているだけで動悸が激しくなる。その髪に、やわらかそうな頬にさわりたい。そばに駆け寄って抱きしめたい。

 夢とは都合のいいもので、次の瞬間には彼女は自分の腕の中にいる。
 豊満とは言いがたい、華奢な肢体。髪はさらさらと心地よく、頬は思ったとおりにやわらかい。
 幼げな相貌。大きな二重の眼。こじんまりした鼻。つややかに、濡れたように光る口唇だけが成熟した色香を漂わせている。

 そのくちびるに引き寄せられるように、自然にくちびるが重なる。
 軽く、触れ合わせるだけの儀式めいたキス。彼女の亜麻色の瞳の中に、自分がいる。思わず強く抱きしめる。白いのどがのけぞって、赤いくちびるが青木の名前を呼ぶ。

『青木』
……このシチュエーションで、苗字呼び捨てって。
『報告書はできたのか?』
……はい?

 聞きなれた声に度肝を抜かれて、慌てて体を離す。どこから聞こえてきたのかと周りを見渡すが、誰もいない。いまさっき、青木と接吻を交わしたばかりの少女が、胸の前で腕を組んで軽く舌打ちした。

『さっさとしろ。この役立たずが』
――――― !!

 声にならない叫びを上げて、青木は飛び起きた。
 心臓が早鐘を打っている。夢で良かった、と心底思う。なんでこんな夢を見たんだろう。ある意味、悪夢よりタチが悪い。
「うそだ。なんかの間違いだ」
 自分に言い聞かせて、頭を振る。とんでもない夢のせいで早く目が覚めてしまったが、不思議と気分は悪くない。

 はっきりと覚えている、夢の中の美しい少女の顔。
 あれは、室長の顔だ。
 昨夜、公園で見た室長の微笑みだった。
 確かに、あれは本当にきれいだった。でも、夢にまで見るなんて。

「よっぽどびっくりしたんだな、オレ」
 このことは、室長には絶対に秘密だ。
 こんな夢を見たことがバレたら、書類を投げつけられるくらいでは済まないだろう。早く忘れることだ。自分は考えていることが顔に出やすいらしい。あの聡明な室長に、すぐに気付かれてしまう。

 とはいうものの。

「……キスまでしちゃったよ」
 夢を忘れるには、時間がかかりそうだった。



*****




 その日も青木は、第九の正門の前で自分の職場を見上げていた。
 お決まりの姿勢で、お決まりの台詞。

「よし、今日も頑張るぞ!」

 いつもと違うのは、その台詞が自分を励ますためのカラ元気ではなく、心の底から湧き上がってくる意欲によるものである、ということだ。
 今日はまた別の意味で室長と顔を合わせづらいのだが、それはやはり昨日までとは違う、ほのかな甘さの混じった気まずさだ。

 あのひとに認められたい。あのひとに褒めてもらいたい。
 ……あの微笑を、もう一度見たい。

 青木は大きく一歩を踏み出して、第九の門をくぐった。




 ―了―






 ―― 後日談 ――

「岡部さん。この睡眠薬のメーカー、教えてもらえます? 室長にもらったんですけど、飲みきってしまったので。新しいの欲しいんですけど」
「なんで俺に訊くんだ? 室長に訊いたらいいだろう」
「以前、室長が岡部さんに貰ったものだから岡部さんに訊けって」
「室長に睡眠薬なんて差し上げたことはないぞ」
「そんなはずは。だって、室長が」
「ああ。これか」
「すごくよく効きますよね、これ。他のクスリと違って寝覚めもいいし」
「……酸っぱくなかったか? それ」
「そういえば、変わった味ですよね。まるでビタミンCの錠剤みたいな……え? あれ? えええ――!?」

 それから現在に至るまで。
 青木の枕元には、室長の写真とビタミンCが置かれている。



 (2008.9)


テーマ : 二次創作
ジャンル : 小説・文学

女神(1)

 このお話は、雪子さんが主役みたいに出張ってます。
 うちの雪子さんは心から薪さんのことを心配し、薪さんと青木くんの仲を応援する女性です。(腐女子ではありません(笑) しかも、薪さんとめっちゃ仲良し。
 薪さんの気持ちを知っている雪子さんが、こんな風になってくれたらな、って願いを込めて書きました。
 原作の設定とは違うので、苦手な方にはごめんなさいです。





女神(1)







 ヒールの音を響かせて、彼女は颯爽と歩く。

 白衣を翻し肩をそびやかし、女王然とした雰囲気が良く似合う。両手には、テイクアウトのサンドイッチが入った大きな紙袋を抱えている。
 女にしては高い背丈。短く切りそろえた漆黒の髪。派手な顔立ちに合わせたはっきりしたメイク。勝気そうな黒い瞳に高い鼻。大きめの唇は真っ赤なルージュに彩られている。白衣よりも、豪奢なドレスが似合いそうだ。
 が、本人はあまりファッションには興味がない。彼女の興味は今のところ、監察医の仕事ともうひとつ――。

「はーい、薪くん。サブウェイのサンドイッチよ」
 第九の自動ドアから室長の姿を見つけて、彼女は快活に声を掛けた。今井の後ろからモニターを見ていた薪がすぐにこちらにやってくる。
「雪子さん。ありがとうございます、いつもすみません」
 にこっと笑いかける薪に、紙袋を手渡す。身体の小さな薪の上半身は、大きな紙袋に隠れてしまいそうだ。その様子に微笑んで、雪子は周りをぐるりと見回した。
 第九の職員たちが「ごちそうさまです」と笑顔で答える。しょっちゅう差し入れをしてもらっているからというわけでもないのだが、みな雪子とは仲がいい。

「あれ? 新人くんは?」
「青木なら、ちょっと出てます」
 みんなにサンドイッチを配り始めた曽我が、雪子の質問に答える。
「まだ続いてるんだ。結構がんばるわね」
「ああ見えて根性ありますよ、あいつ」
 今井が気を利かせてコーヒーを運んでくる。本来なら新人の役目だが、外出中では仕方がない。
「なんか青木のやつ、このごろ妙に張り切ってるんですよ。いつも遅くまで残って機器操作の練習とかしてるし、事例集や専門書も勉強してるみたいですよ」
「あら大変。追い越されちゃうわよ、先輩」
「昨日今日、警大出たばかりのヒヨッコにそうそう追いつかれませんて」

 軽口をたたきながら、束の間の休息を楽しむ。いくら忙しい第九でも、このくらいは許されて然るべきだろう。
別段、室長もとがめだてはしない。少々行儀悪く机に腰掛けて、岡部と話しながら野菜サンドをかじっている。
 薪はここで、雪子が身内のように振舞うことを認めてくれている。ゆえに第九の職員も一目置いている。だからといって、その上に胡坐をかくような浅はかな真似はしない。雪子は頭の良い女性だった。

「室長。見つかりました、この本です」
 突然開いた自動ドアから慌しく駆け込んできた男によって、ゆったりとした空気は破られた。やたらと張り切っている新人である。
 今井の言葉通り、仕事にやりがいを見出したもの特有の生き生きとした顔をして、眼鏡の奥の黒い目をきらきらさせている。その喜びに満ちた瞳は研究室の中の誰よりも早く室長の姿を捉えて、薪に屈託のない笑顔を向けている。

 雪子の存在に気付いて会釈をする。が、その目にはわずかに敵意が感じられる。その敵意の理由は、なんとなく察しが付く。部外者の自分がちょくちょく第九に出入りするのが気に入らないのだ。

「ここに映っているこの本です。限定本で、日本で200部しか発行されていません」
 差し入れには見向きもせず、自分のモニターに飛びついて薪を呼ぶ。
 サンドイッチを口に咥えたまま、薪はモニターを覗きにいく。青木の肩越しにモニターを見て、自分の目で確認する。
「よく見つかったな」
「古書店を20件くらい廻っちゃいました」
 薪に褒められて、嬉しそうに笑う。若さの溢れる頬が紅潮している。
 女特有の鋭さで、雪子は青木の気持ちに気付き始めている。考えすぎかとも思うが、この様子を見ているとまるっきり見当違いとも言い切れない。こういうことに関して雪子の勘は外れたことがない。

「雪子さんから差し入れ貰ったぞ。礼を言っとけよ」
「あ、どうも」
 素直に雪子に頭を下げるが、取りに来ようともしない。捜査に夢中のようだ。
「この限定本、ナンバーが打ってあるんです。ほらここ。画の中にこの部分が映っていれば特定できます」
「青木。それは後でいい。とりあえずそれを食べてからにしろ」
「今はいいです。ここから虱つぶしに見ていけばきっとどこかに」
「おまえ、昼も食べてないだろ」
 薪が眉をひそめる。
 それだけで少女めいた雰囲気が消えて、厳しい男性の顔つきになるから不思議だ。薪くんて性別あるのかしら、と医者にあるまじきことを考えながら、雪子は2人の様子を伺っている。
 「平気です。あっ、今のとこ……」
 
 突然、青木のモニターがザ――ッ、という音とともにブラックアウトした。
 操作ミス、いや、人為的なハプニングである。

「メシはちゃんと食え。健康管理は社会人の基本だ」

 電源キーを押してしまったのは確かに青木の手なのだが、その原因は青木の後ろにいた人物にある。
 青木はキーボードの上に手を置いたまま、固まってしまっている。硬直の理由は画面の暗転ではなく、自分の口に突っ込まれたサンドイッチのせいだ。
 薪が今まで咥えていた野菜サンド――― 気の短い室長は、実力行使が得意なのだ。

「なんだその顔。僕は病気なんか持ってないぞ。いいから、それ食え!」
 かわいそうに、と雪子は思った。
 昔から薪は、こういうことには鈍感なのだ。たぶん、というか絶対に、彼の気持ちには気付いていない。

 今年の1月に第九に入ってきた新人は、やたらと背の高い青年だった。昨年の9月に警察大学を卒業したばかりで、雪子より1回りも年下だ。平凡な見かけによらず東大法卒と聞いているが、高学歴でなくては第九には入れないので本当なのだろう。
 キャリアで警察庁に入ってきているので、階級は警部補。地方なら署長クラスの階級である。もっとも、ここの職員はすべて警部以上なので、やはり青木はただの新入りに過ぎないのだが。

 真面目で気弱そうな新人を見て、1週間で辞めるほうに賭けたのは雪子だけではない。第九の職員の殆どがそちらに賭けてしまって、賭けが成立しなかったくらいだ。全員の思惑通りにこの新人は、最初の2ヶ月ばかり第九の精神攻撃に打ちのめされて憔悴していたが、今はどうにか立ち直り、この仕事の醍醐味が分かってきたところらしい。
 自分の読み通りにうまく手がかりを見つけることができるようになると、思いついたことをすぐに確かめたくなって、寝食を忘れてのめり込んでしまう。薪といいこの新人といい、困ったものだ。そういう自分も解剖台で死体の隣に寝ていて、助手の女の子によく怒られるのだが。

 その新人の目が薪ばかりを追うのに雪子が気付いたのは、4月の終わり頃。
 薪に憧れて第九に来たそうだから当然かとも思っていたのだが、その目にちらちらと見え隠れする甘いものが混じりだしたのは、つい最近のことだ。
 第九の職員たちは、こういうことには疎い連中だから、まだ誰も気付いていない。まあ、男なんてみんなそんなものだ。表面に現れるものしか見えない。
 だが、女はその裏を読む。
 中には薪のようにひとの気持ちに鋭い男もいるが、その薪にしてみても、こういうことに関しては雪子に遠く及ばない。仮説を立てて検証を繰り返す捜査の手法とは、根本的に違うからだ。

 なんとなく。

 それが女の理屈である。
 男が永遠に女に勝てない理由のひとつだ。

 食べかけのサンドイッチをいつまでも見ている青木を横目に、雪子は笑いを堪えている。
 薪のほうに目をやると、罪作りな室長は既にやりかけの捜査に戻っていて、哀れな新人のことなど見向きもしない。
 青木はそんな室長を見て軽く嘆息すると、思い切ったように残りのサンドイッチをほおばって、モニターの電源を入れ直した。


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女神(2)

女神(2)







 第一から第九までの研究室は、すべて同じ敷地内にある。

 建物は4つに分かれており、第一から第四までの生化学研究所と第五から第八までの物理学研究所、MRI捜査を行う第九、それから職員食堂やレクリエーションルーム、売店やコインランドリーなど、さまざまな施設を盛り込んだ管理棟。広大な敷地の中に、それぞれの正門があり建物がある。社会平和の名の下に、巨額の国家予算が投じられた結果の大規模な設備である。

 設立当初、科学警察研究所は千葉県に建てられていたが、警視庁との連携のため、また交通の便の良さなどから、今は警視庁と同じ霞ヶ関に移転している。警視庁と研究所は地下通路で繋がっており、その距離は歩いて5分ほどだ。当時は第四研究室までしかなかったが徐々に専門機関が増えて、2056年に第九が設立され、研究室は9つになった。
 その中でも第九は最先端の技術を用いて、日々進化するIT技術に対応していかなくてはならないため、科学警察研究所の金喰い虫と酷評されることもある。

 予算の交渉も、室長の仕事である。

 第九には職員が多くないため、人件費はさほどかからない。が、MRI装置の維持費、管理費、メンテナンス費用は莫大なもので、他の研究室の倍は掛かっている。その上に新技術のためのシステム更新費用は、なかなか捻出できないのが現実である。
 確かに、新しい技術は仕事の能率を上げる。しかし、とにかく金がかかるのだ。
 国民の税金でこの費用は賄われているのだから、あまり無茶なことは言えない。それは薪も解っている。が、この新しいシステムがあれば、第九の平均残業時間を1時間は減らせる。部下の負担を少しでも軽くしてやりたい室長の親心だ。

 追加予算の交渉のために所長の田城の所に出向いた薪は、しかしそこで、最も苦手とする人物と遭遇してしまった。
 警務部長の三田村である。
 年の頃は五十二、三。脂ぎった感じの太った男で、何かと薪を目の敵にしている。
 これは出直したほうが良い。田城だけなら何とか説得できるかもしれないが、三田村がいたら絶対に不可能だ。逆に予算を削られるかもしれない。
「失礼しました、出直します」
「待ちたまえ。その資料は何かね? まさか、また金のかかる話じゃないだろうね」
 別にあんたに話をしに来たわけじゃない―― そんな気持ちが顔に出てしまったとも思えないが、三田村はやたらと薪に突っかかってくる。
「どうにも君は目つきが悪いな。何か言いたいことがあるなら、言ったらどうかね」
 階級は三田村の方が上なので、薪は何も言い返せる立場ではない。警察は完全な縦社会だ。俯いて、すみませんと頭を下げるしかない。
 しかも、三田村は警務部長だ。一般の会社でいう人事部長に相当する権限を持っている。いくら薪が出世に興味がないと言っても、ここで三田村に逆らったら、その被害は第九の部下たちにも及ぶ。それだけは避けなければならない。

「まあ、三田村さん。目つきの良い捜査官なんていませんよ。特に第九は、朝から晩までモニターを見続けているんですから。目つきが悪くなって当然です。
 薪くん、話があるんだろう? 構わないから言いたまえ」
 所長の田城が助け舟を出してくれる。上層部の中で、上役に媚を売らない薪はあまり評判が良くないが、田城だけは薪の実力を近くで見ているためか、何かと力になってくれる。第九の追加予算の殆どは、田城の尽力によるものだ。
 田城に促されて、薪は用意してきたIT関連の資料を渡す。最近注目され始めた新しいタイプの半導体を使ったもので、アクセスの時間が大幅に短縮できるのが、そのシステムのセールスポイントだった。
 システムの詳しい内容についてはよく解らない田城のために、薪は商品の概要を簡単に説明し、これによってスピーディに解析が進むことを強調した。
 
「しかし、この金額はちょっとキツイな」
「そこを何とか、田城さんのお力でお願いします。
 うちは人手が足りないんです。九つある研究室の中で、一番時間外作業が多いのはうちです。みんな体力的にもぎりぎりなんです。このままいくと過労死する職員が出ますよ。そうなったら田城さんにも、迷惑を掛けてしまうことになるかと」
 田城の机に両手をついて、薪は身を乗り出す。
 普段は無口の部類に入る薪だが、こういうときだけは雄弁で、次から次へともっともらしいセールストークを繰り広げる。警察をクビになってもセールスマンで食いつなげそうだ。

 巧みにアメとムチ、もといお願いと脅しを練り混ぜて、薪は田城を説得する。30分も粘れば大抵は薪の要請(わがまま)が通るのだが、この日は事情が違った。
 三田村警視長の存在である。
「薪くん、無茶をいうもんじゃない。どこから金が出てると思ってるんだ。国民の血税だよ。国民を守るための警察機構が、国民の生活を苦しくするような真似をしてどうする」
 やっぱり口を出してきた。嫌な予感はしたのだ。
 三田村の言うことは確かに正論だ。それは薪も重々承知している。が、正直に言って、薪には自分の部下たちの体のほうが大切だ。

「私は所長と話しているんです。人事に関することではないのですから、口を挟まないで頂けませんか」
 もう少し、というところで掛けられたダメ出しに、薪はつい口を滑らせてしまった。しまった、引っかかった、と思うが後の祭りである。
「なんだ、その口の利き方は。わしは警視長だぞ。自分の立場をわきまえろ、薪警視正! だいたい君は」
 言葉尻を捕らえて、三田村は薪を糾弾し始めた。薪個人のことから第九のことや部下たちのことまで、言いたい放題である。
 こうなったら黙って下を向いて、頭の中で羊の数でも数えるしかない。

 そういえば青木のやつ、ちゃんとメシを食ったかな。どうもあいつはこの頃オーバーヒート気味だ。気をつけてやらないと、などと、三田村の非難とはまったく関係のないことをつらつらと考える。

「君は人手が足りないというが、こっちは優秀な人材ばかりを選んで送り込んでいるんだ。彼らが次々と第九を辞めてしまうのは、室長としての君の責任じゃないのかね」
「まあまあ三田村さん。それくらいで」
 田城の弁護も、三田村の耳には届かないようである。
 薪も悪い。
 しおらしく頭を垂れてはいるものの、まったく三田村の叱責を聞いていない。そういうことは相手に伝わるものだ。
「なんとか言いたまえ!」
 本当に『なんとか』と言ってそれきり口をつぐんだら面白いだろうな、と漫画のようなことを考える。やってみたいが、さすがにまずいだろう。

 当たり障りなく、すみません、とだけ言っておく。役立たずばかり送り込んでくるくせにと思うが、言葉にはできない。
 やる気がある人間なら、別にキャリアじゃなくてもいいのだ。MRI機器の操作は確かに複雑だが、そんなものはやってるうちに慣れていく。
 勉強ばかりしてきて、ひとの心の機微や世間の常識に疎く、更には昔からエリート扱いされてきたせいで、ほんの少しの挫折や他人からの叱責に驚くほど弱く、すぐに心が折れてしまうような人間に、第九の仕事が勤まるわけがない。
 その点、青木は合格だ。
 落ち込んでいたのは最初のうちだけで、今は毎日のように薪に怒鳴られているのに、平気な顔で元気に仕事をしている。打たれづよい性格なのだろう。最近の若い者にしては見所がある。

「君のところに人を送るのも大変なんだよ、薪室長。何故か分かるかね?」
 唐突に猫なで声になった三田村を訝しんで、薪は顔を上げる。薪の両肩に肉付きの良い毛深い手が置かれ、腫れぼったい目が薪の目を捉えた。
「人殺しの下で働きたくない、と言う者も、たくさんいるからだ」
 斬りつけられた言葉に、薪の両肩がびくりと上がる。
「三田村さん!」
 さすがに田城が声を荒げた。それを薪は遠くで聞いていた。

 自分の動揺をこの男に知られるのは屈辱だ。が、体の震えを止めることができない。とっさのことで、身構える余裕がなかった。
 青ざめている自分を悟って、薪は負けを認めた。
 「……申し訳、ありませんでした。失礼します」
 田城の机から持参した資料をひったくるようにして、薪は所長室を辞した。三田村の嘲笑に追い立てられるように、誰もいない廊下をひた走る。

 階段を駆け下りて、建物の外に出た。今は誰にも会いたくない。こんな気持ちのまま、第九に戻れない。
 科学警察研究所の敷地には、緑がたくさんある。多くの樹木が植えられていて地面は芝生になっており、ちょっとした公園のようだ。
「ちっくしょ……」
 一本の樹に辿り着いて、薪は呼吸を整えた。
 いつの間にか涙が出ているのに気付いて、慌てて拭う。木に背中を預けて空をあおぐ。霞ヶ関の空は今日もきれいな夕陽に彩られていて、今の薪の乱れた心中にてんでそぐわない。

 この樹は、薪にとって少し特別だ。
 むかし、親友とこの樹の下に座って、よく昼食を摂った。
 第九の建物が見える場所で、日当たりもいい。満腹になると、彼はいつも芝生に寝転んで、薪と色々な話をした。たまにそのまま眠ってしまうこともあった。彼の寝顔を見るのは薪の密かな喜びであり、休み時間が終わりに近づいた頃に彼を起こすのは、薪の楽しみのひとつだった。

「鈴木……」
 あの頃のように芝の上に座り込んで、薪は親友の名を呼んだ。
 夕刻の風が、薪の短い髪をなぶる。亜麻色の髪がさんざめき、前髪が赤くなった目を隠してくれる。
「おまえに会いたくなっちゃったよ。はやく、迎えに来いよ……」

 やがて、夜の帳が辺りを包むまで。
 薪はその場にうずくまっていた。



*****


 三田村部長はオリキャラです。
 これからもうちの話にはバンバンオリキャラが出てきますが、寛大なお心でスルーしてくださいますよう、お願い致します。

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女神(3)

女神(3)







「よっ、新人くん」
 馴れ馴れしい呼びかけに、青木は思わず眉をひそめた。
 法一の女傑、三好雪子の研究室である。別に雪子に会いに来たわけではない。解剖所見を取りに来たのだ。
 部署違いの女医に新人呼ばわりされる筋合いはない。まあ、社会人としても自分は確かに新人なのだが。

 青木は、この女が嫌いだった。
 同じ研究室ならともかく、部外者のくせに頻繁に第九に来ては室長と親しげに話をする。室長も室長で、この女のことだけは特別扱いだ。それはつまり……その先は、考えたくない。

 先日の、夜桜の一件から青木の心中は複雑だった。
 あれからついつい、薪の姿を目で追ってしまう。その一挙一動が気になって仕方ない。
 薪に認めて欲しくて、夢中で仕事をこなす。機器操作の練習もMRI技術の解説書を読むことも苦にならない。難しい専門書も、薪に教えを乞うことができる貴重なアイテムだからだ。その情熱の釣り合いを取るように、薪が出張などで不在のときは心の中が空っぽになってしまう。

 自分でもヘンだと思う。
 たしかに、薪に憧れて第九に来た。だからもちろん敬愛している。
 でもこれは……。

 この気持ちは、それとはまた別のもののような気がしてならない。
 薪と親しげに話す女医に、苛立ちを覚えるのは何故だろう。自分は室長のことを独占したいと思っているのか? 好きな女の子と仲のいい男に嫉妬するように? いや、でも室長は男のひとだし。

 ただでさえ自分の不安定な気持ちに振り回されている青木の心を、ますます不安にさせる女医の態度に、青木は憤りを感じている。
「何かご用ですか」
「室長の食べかけのサンドイッチの味はどうだった?」
―――― こういうところが、大嫌いだ。
「べつに、普通でしたよ」
「ふう~ん」
 含みのある言い方だ。やたらと勘に障る。
「何が言いたいんです?」
 挑戦的に言い放った青木の言葉に、勇ましい女医は、更に強い言葉で切り返してきた。

「あなた、薪くんのことが好きなんでしょう」

「なっ!何をバカな……!」
 根が正直な青木は、心の中がそのまま顔に出てしまう。頬が火照っているのが自分でも解る。これでは認めているのと同じことだ。
 それでも否定しておかないと、ここはまずい。室長に迷惑が掛かる。何より、この女から室長にその話をされるのは願い下げだ。まだ自分でもよく解らない感情なのに。

「そりゃ好きですよ。てか、第九に室長を嫌ってるひとなんかいませんよ。好きじゃなきゃ、あのひとにはついていけないでしょう」
「なかなかうまい言い方だけど、その顔じゃバレバレよ」
 この無神経さが嫌なのだ。どうして薪はこんな女がいいんだろう。
 薪にはもっと、細やかな神経の女性が似合うと思う。容姿にしてもこんな大女じゃなくて、小柄な薪にも釣り合う女性がきっといるはずだ。そういう相手だったら、自分も納得したかもしれないのに。
……いや、多分ダメだ。どんな相手でも、たとえ相手が深窓の令嬢でも、きっと自分は相手の女性のアラを探すのだろう。

 これは、嫉妬だ。

「だったらどうだって言うんですか」
 自分は室長にとってただの部下だ。嫉妬する資格なんかないのに、この女性に当たってしまっている。なんて勝手な男だ。
「あなたが誤解してるみたいだから解いておこうと思って。あたし、薪くんの恋人じゃないから」
「えっ?」
 女医は、思いもかけないことを言い出した。
 てっきり、余計なちょっかいを出すなと言われると思っていたのだ。それが薪との関係を否定している。どういうつもりだろう?

「お二人のことは、見てれば解りますよ。べつに今更隠さなくたって。オレ、邪魔するつもりはありませんから、安心してください」
「だから違うって。ありえないから、薪くんだけは。……誰からも聞いてないの?」
 いつもはポンポン言葉が出てくる彼女にしては、めずらしく言い淀んでいる。なにやら言い難いことらしい。
「何をですか?」
「みんな口が堅いのは認めるけど、今回は裏目に出たみたいね」
 独り言のように呟いて、真っ直ぐに青木の目を見る。これは真剣な話のようだ。
「あなた、去年の夏に起きた事件のことは知ってるわよね? あのとき薪くんに射殺されたのは、あたしの」
 そこまで言われてようやく気がついた。
 事件には関係ないと判断して流してしまった画の中に、彼女がいたような気がする。
 彼女は鈴木の――――。

「いくらあたしが非常識だからって、婚約者を殺した人の恋人にはなれないわ」
 法一の女薪は、きっぱりと断言してあっけらかんと笑った。




*****




 夜の第九に、薪はひとりで残務整理をしている。
 薪の就労時間は極端に長い。いつも朝の8時前には職場に入って、帰りは夜の8時過ぎ。12時間労働が日常になっている。
 が、家に帰れるのは余裕がある証拠だ。忙しいときには第九に泊り込みで捜査をする。それも一日二日の話ではない。今までの最長記録は、たしか3週間だった。
 研究所にはシャワー室も仮眠室もコインランドリーもあるから生活できないことはないのだが、仮眠室のベッドでは熟睡できないし、シャワー室には湯船がない。やはり家に帰って休まないと疲れをとることはできない。

 仕事が一段落ついて、そろそろ戸締りをしようと開け放していた窓に近付いた薪の目に、雪子の姿が映った。庭のベンチに腰掛けて、隣には青木がいる。珍しい組み合わせだ。

 雪子と一緒だからだろうか、その姿に鈴木が重なる。
 昔、こうしてよくあのベンチに腰掛けて楽しげに話している2人の様子を、ここから見ていた。見る事しかできなかった。
 あのときの切なさは、忘れられない。
 もう何年も前のことなのに、その記憶は薪の身体の奥に刻み込まれていて、一向に色褪せない。今でも思い出すとちゃんと泣けてくるから、自分でも驚きだ。

 自分はいつまで鈴木のことを忘れられないのだろう―――― そう思っていたところに、あの事件が起きた。
 そして薪は、鈴木への想いを忘れる努力を放棄した。

 僕が彼のすべてを奪った。彼の人生は、僕が終わらせた。
 だから。
 僕の人生もそこで潰えた。僕の残りの人生は、彼のものになった。
 彼の愛した第九を守って彼の愛した女性を見守って、一心にその身を聖職に捧げようとした彼の遺志を継いで、僕は生きることを決めた。彼が僕を迎えに来るまで、僕は自分のすべてをこの仕事に捧げる。

 薪の決心は固い。もともと頑固なのだ。
 言い出したらきかないし、思い込んだら止まらない。それは捜査官にとっては粘り強いという長所になるかもしれないが、人格としては少々困りものである。

 こうして見るとあの2人、なかなかお似合いだな、と薪は思う。
 雪子は女にしては175cmと背が高いが、青木は190cm近い長身なので身体の釣り合いも取れている。ただ年が若すぎる。雪子は薪と同い年だから、一回りも年下だ。雪子を任せられる男性を探していた薪だが、青木ではまったくもって頼りない。
 しかし、将来性はある。キャリア組の青木は望めば出世できる立場にいる。今年中に昇格試験を受けさせて警部にして、4年後には警視だ。それから警視正になるには多少かかるだろうが、それでも頭は悪くないから40前には昇進できるはずだ。

 何より、青木は鈴木によく似ている。
 雪子の心に入っていくには、それはどんな甘いマスクよりも強い武器になるはずだ。

 明るく振舞っているが、雪子は鈴木のことを忘れたわけでも乗り越えたわけでもない。彼女が法一の女薪などと呼ばれるようになったのは、解剖台の上で眠るほど仕事に没頭し始めたのは、鈴木を失ってからのことだ。つらい記憶を忙しさで紛らわせ、心に開いた大きな穴を仕事で埋めようとして、自分を追い込んでいるだけだ。
 それが薪には痛いほどわかる。自分も同じだからだ。
 周りの人間は、自分と雪子をよく似ていると評するが、もともとはまったく通じるところなどない。
 ただ、ふたりの間には鈴木がいた。
 鈴木というひとりの男を愛した者同士、それを失って絶望に打ちのめされた者同士、同じような方法で残りの人生を歩もうとしているに過ぎない。

 決定的な違いは、薪は加害者で雪子は被害者だ、ということだ。
 薪が死んだ鈴木にこの世で償うことは、もうできない。償えるのは、いま生きている雪子や鈴木の遺族に対してだ。
 鈴木の家には大学の頃から出入りしていて、薪と鈴木の両親とは15年近い付き合いだったが、それでも葬儀への出席は許してもらえなかった。香典も献花も返された。マスコミも来ているし、ご親族の手前もあるから、と雪子が薪に言いづらそうに事情を説明してくれた。
 遠くから、火葬の煙が上がるのをずっと見ていた。
 葬儀場から遠く離れた人目につかない道端で、電信柱の陰に隠れて、うずくまって泣いた。

 去年の夏―――― あと3ヶ月で1年だ。今年は墓参りを許してもらえるだろうか。

 自分のしたことを、許してもらおうとは思わない。薪の望みは、雪子にも鈴木の両親にも平穏で幸福な生活を送ってもらうことだ。
 自分だってもし、他の誰かが鈴木を殺していたら、一生その人物を怨むだろう。
 怨みが消えることなどない。鈴木はもう、絶対に帰ってこないのだから。死ぬまでこの憎しみが薄れることはない。
 雪子のように、加害者の自分と友人関係を続けることなど思いもよらない。自分にはそれは無理だ。

 彼女には敵わない、と思う。

 鈴木が死んでから、雪子の凄さがわかった。鈴木が雪子を選んだのは、性別の問題だけではない。雪子の方が人間として自分よりも勝っていたからだ。
 強さも、やさしさも、鈴木への愛も―――― きっと自分より上だった。
 自分の鈴木への気持ちは誰にも負けないと思っていたけれど、あれは愛とは呼べない代物だった。執着心と、独占欲。嫉妬と我儘。あの頃の自分は、本当に醜かった。

 雪子は違った。
 雪子の愛は、もっと大きかった。鈴木が雪子と付き合い始めてからも、鈴木が僕のところに来るのを許していた。僕が鈴木を見つめることを咎めなかった。気付かなかったはずはないのに、僕たちの関係について問い質すことをしなかった。
 引き換え、僕がしたことといえば、鈴木に縋り付いて縛り付けて、結局かれを困らせただけだ。あんなのは愛じゃない。だから、鈴木との関係は長くは続かなかった。

 今なら、もっとうまくやれる自信がある。でも、鈴木はもういない。
 僕が、殺したから。
 鈴木の人生も、雪子の人生も、僕がめちゃめちゃに壊したから。

 だから雪子には幸せになって欲しい。自分の贖罪のためにも、雪子には良いパートナーを見つけて欲しい。そうしたら、この胸を切り裂きたくなるような自分への嫌悪感も少しは薄れるかもしれない。

「う~ん。青木か……候補リストに加えておくか」
 まずは再来月の昇格試験だな、と頭の中の室長メモに書き込んで、薪は窓を閉めた。




*****

 補足説明させていただきます。
 薪さんがこの中で昇格試験について触れていますが、実際には存在しない試験です。
 キャリアは自動昇任ですから。でもそうなると、原作の岡部さんの階級が……??
 ということで、その帳尻を合わせるために作者が勝手に作った制度ですので、ご了承ください。


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女神(4)

女神(4)







「なるほどね。薪くん、こういうことには鈍いからね」
 差し入れの残りのターキーサンドをかじりながら、雪子は頷いた。隣では第九の新人が、同じくチキンサンドを頬張っている。
 時刻は夜の8時。どうやらこれが今夜の夕食になってしまいそうだ。

「そうなんですよ。今日のサンドイッチだって、無神経ですよね」
「自覚がないところが始末に終えないのよ、あのひとの場合。悪いと思ってないから、直す気もないし」
 話してみると、雪子はとても良い相談相手だった。
 親身な相槌と的確な質問。青木の曖昧な気持ちをはっきりとした言葉に変換して、小気味よく返してくれる。
 雪子と話しているうちに青木の心中は次第に整理されて、どうやら薪への感情には『恋』という名がついたらしい。
 が、もちろんそこには抵抗がある。何と言っても、室長は男のひとなのだ。

「でもまあ、男同士だからね。自分だって缶ジュースの回し飲みとか、学生の頃やったでしょ。それと同じ感覚なんじゃないの?」
「今でもダチとはよくやりますけど。……そうですよね、ヘンに意識するオレがおかしいんですよね。ああもう」
 青木は思わず頭を抱える。
「なんで男なんだろう、あのひと。女の子みたいな顔してるくせに。室長が女性だったら、こんなに悩まなくて済むのになあ」
 今まで、誰かに聞いて欲しくて仕方なかったのだ。しかし、こんな気持ちは誰にも話せない。
 それを雪子の方から気付いて、水を向けてくれた。気持ち悪がられると思っていたのに、彼女はそんな気配は微塵も見せなかった。ひたすら親身になって、青木の逡巡する想いを聞いてくれた。

 自分の気持ちを、正直に話せることが嬉しかった。
 この女が誰かにこのことを喋ってしまうかもしれない―――― 初めはそう思った。だが、雪子と薪の関係を聞いてしまっては、雪子を信用するしかなかった。この女性は、常識を超えている。自分の婚約者を殺した男と友人でいられるなどと、普通では考えられない。

『親友で、ライバルなの』
 雪子は薪と自分の関係をそう表現した。それ以上は、語ろうとしなかった。

「あんた、いつの時代の人なの? 今時そんなことで悩む人いないわよ」
「親が悲しみますよ。孫の顔が見れないじゃないですか」
「養子もらえばいいじゃん」
「そういう問題じゃ」
「じゃあ、やめたら? 他にいいひと探せば良いじゃない」
「薪さん以上のひとなんていませんよ。かわいいし、やさしいし、気は利くし」
「……だれのこと?」
 あばたもえくぼというが、本当に薪のことなら何でも好ましく思えてしまう。
 相変わらず仕事には厳しくて、怒鳴りつけられる毎日だが、叱責に落ち込むと同時に怒った顔もきれいだな、などと思ってしまう。それに上手くできたときは、ちゃんと褒めてくれる。先日、誰よりも早く手がかりの画像を見つけたときには、青木に笑いかけてくれた。
 その微笑のために、どんなに辛い仕事でもこなせる。この人のためなら何だってできる。恋は魔法とはよく言ったものだ。

「仕事のときは怖いですけど、本当はすごくやさしいひとなんですよ。こないだだって、夢にうなされてるオレの手を握ってくれて」
 薪と一緒に夜桜を見に行ったときのことをざっと話して、青木は雪子の返答を待った。それは気の迷いよ、と言われるかと思ったが、彼女は何も言わなかった。
「本気なんだ、青木くん」
 青木の気持ちを茶化すことなく、真剣に聞いてくれる。さすが自称『薪の親友』だ。
「本気で好きになれる相手と巡り会うのって、奇跡みたいなものよ。その気持ちは大事にしなさい。性別なんて些細なことでしょ。
 人間なんてね、いつ死ぬかわかんないのよ。鈴木くんだって突然だった。無理やりにでも籍入れときゃよかったって思ったわよ。そうしたらほんの少しでも、鈴木くんの奥さんできたのに」
 この年で結婚歴なしってけっこうツライのよ、と雪子は大口を開けて笑い飛ばした。
 強い女性だ。『女薪』の称号がふさわしい。

「そのときになって後悔しないように、自分にできることはしておいた方がいいわよ。ただ、相手の立場も考えてね」
「はい」
 サンドイッチを3つもたいらげて、雪子は仕事に戻っていった。残りはあげるから、と空の袋だけを渡される。マイペースなところは誰かに似ている。

 ひとりになって、青木は夜空を仰いだ。
 今夜も星がきれいだ。薪もこの星空を見ているだろうか。
 桜の中で微笑んでいた薪の姿を思い出す。たったそれだけで、胸が締め付けられるような、やりきれない切なさ―――― 甘い、痛み。

 これは恋だ。
 雪子のおかげで、はっきりと分かった。
 オレは室長に恋をしている。

「ささいなこと、か」
 まだ青木には、雪子の言うように性別の問題が些細なこととは思えない。このままこの気持ちが育っていって、そんなことはどうでも良くなるのか、逆に薄れていって、このジレンマから抜け出すことができるのか―――― それは青木にもわからない。恋の行方は予測がつかない。誰にもそれを誘導することはできない。
 今はただ雪子の言う通り、自分にできることをするまでだ。

「まずはゴミの始末だな」
 雪子が食べ散らかしたサンドイッチの袋を拾い集めて、青木は勢いよく立ち上がった。


 ―了―



(2008.9)


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新人教育(1)

 今回のお話は、青木くんが警察官として大事なことを学ぶ、というお話です。
 原作の青木くんは、その辺、初めからよくデキてて、偉いなあ、と思いました。
 うちの青木くんは最初の頃はヘタレ設定なので、青木くんファンの方は幻滅必至です。どうか、寛大なお心でお願いします。




新人教育(1)






「見つけましたよ、この角の看板の黒い部分です」
 得意満面という顔つきで、青木が画面を指差した。
 この新人は、最近とても調子がいい。このように、小池でも気づかなかったところを指摘することもしばしばある。調子付くと怖いタイプだな、と小池は思う。

「黒い文字の上だから分かりにくいんですけど、拡大すると……ほら、血が付いてます」
「現場検証では無かったな。こんな立て看板」
「ええ。血が付いた可能性があると思って、現場からここへ持ってきたんですね。けっこう気の回る犯人ですね」
 自分の発見に興奮して饒舌になる新人に苦笑して、小池は報告書の添付ファイルのフォルダにその写真を追加した。発見者の欄に、ちゃんと青木の名前を載せる。かなり有力な手がかりだ。あとで室長のお褒めの言葉があるかもしれない。

「でも、MRIにかかればこの通り。ほんと、神様みたいなシステムですよね。何でもお見通しってやつです」
 青木はまだ喋り続けている。普段はそれほど口数の多い男ではないが、自分が一番最初に手がかりを見つけたときの高揚感は、小池にも良く分かる。こんな時にはつい、軽口を利いてしまうものだ。
「面白いですよね。MRI捜査って」
「……面白いって、おまえ」
「あ、すいません。殺人事件の捜査を面白いって言い方はないですよね」
 小池の非難するような眼に気付いたのか、素直な後輩はすぐに謝罪してくる。しかし、それほど悪いとは思っていないようで、続けて自分の意見の補足にかかる。
「でも、自分が予想したところにピタッとはまる画を見つけた時って、オレってすごいとか思っちゃうじゃないですか。なんかゾクゾクしちゃいますよね。エンドルフィン出てるぞ、みたいな。室長なんかもっとズバズバ当てちゃうから、脳内麻薬バンバン出てるんでしょうね」
「青木。言葉に気をつけろよ」
 小池の口調が厳しくなる。普段は軽い皮肉が得意な小池が、こんな風に真面目に叱ることはあまりない。

「すいません。ちょっと調子に乗りすぎました」
 今度はきちんと反省したようだ。しおらしく頭を下げる。
 青木は東大の法律学部を卒業した秀才なのだが、自分の頭の良さを鼻にかけるようなことはしない。頭の出来が良いと周りの人間がバカに思えてきて、周囲の苦言を素直に聞く心を失っていくものだが、青木はそれを失わない。エリートらしからぬ素直で可愛い後輩なのだ。あまり表立って褒めたことはないが、小池は青木のそんなところをとても高く評価している。どこかの誰かに、爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ。
 しかし。

 小池はそのどこかの誰かに、青木のことを相談する必要性を感じている。
 このところ、青木の言動はときどき小池の理解を超えることがある。
 べつに、生意気だとか反抗的だとかいうことではない。誰よりも熱心に仕事をするし、先輩の言うことは素直に聞くし、叱られれば真面目に反省もするのだが、なんとなく根底の部分が浮ついているというか。

 警察官にとって最も大切なものを、この新人はまだ手に入れていないのではないか―――― 小池には、そう思えてならない。

 仕事熱心な後輩は、せっせと次の画の解明に取り掛かっている。眼鏡の奥の真剣な瞳は、しかしどこかしら面白がっているようで、それが小池に不安の種を植え付ける。
 後輩に対するこの疑念は自分でも不明確で、はっきりとした言葉にはできない。そんなあやふやなものがあの人間味のない室長に伝わるかどうか不明だが、とにかく報告はしておいたほうがいい。
 きっと、早いほうがいい。なんとなくそんな気がする。

 報告書のファイルと一抹の不安を抱えて、小池は室長室の扉をノックした。


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新人教育(2)

新人教育(2)






 昨日まで降り続いた雨はようやく止んで、今日はいくらか薄日が差している。しかし梅雨時の空は不安定で、重く立ち込めた雲は、いつまた水滴を落としてくるかわからない。
 そんな空模様とは対照的に、青木は上機嫌でハンドルを握っていた。

 青木は、ある遺族の自宅へ向かう途中だ。
 死亡した人物は、自宅付近で起きた連続殺人の目撃者と思われる若い女性だ。殺人現場のほうから慌てて走ってきて、車に飛び込んで亡くなった。目撃者の話によると、何かに追われるように怯えた表情で駆けてきたと言う。偶然にも殺人現場を目撃してしまい、パニック状態で走り出して車道に飛び出してしまったものと考えられる。
 こういう場合、直接犯行の被害に遭ったわけではないので、遺族の承諾が無ければ司法解剖には回せない。犯罪による被害者であることが確定できれば半ば強制的に司法解剖を行い、遺族の承諾書を取りつけてMRI捜査にかけることができるのだが、今回の場合はそうはいかない。あくまで交通事故による死亡であることしか立証できないからだ。
 しかしながら、当日殺された被害者の死亡推定時刻によると、この若い女性が殺人現場を目撃している可能性は非常に高い。そこで警察庁の方から働きかけて、遺族に承諾を得て、MRI捜査に協力してもらう運びになった。
 MRI捜査のためには、遺体から脳を抜き取らなければならない。その外科手術のため遺体を病院に引き渡すのだが、それには警察庁の人間の立会いが必要とのことで、青木の出番となった。
 
 もちろん、青木の上機嫌の理由は研究室を出られて息が抜けるといったことではない。好きな車の運転ができることが1割、残りの9割は隣で窓の外を見ているきれいな横顔の持ち主のおかげだ。
 たかが遺体の引渡しの立会いにわざわざ室長が出向くということにも驚いたが、同伴者に青木を指名してくれたことにはもっと驚いた。室長はたいてい、岡部と一緒に行動することが多い。青木が室長と2人で仕事に出るのはこれが初めてだ。
 目的の家は越谷だ。霞ヶ関からは車で30分ほどの距離である。たとえ短い時間でも、薪と2人きりでいられることは青木にとって嬉しい。狭い車中で薪と同じ空気を吸っていられる。まるでドライブデートのようだ。

「おまえ、なんでそんなに機嫌が良いんだ? これからどこへ行くか分かってるのか」
 うれしさが顔に出てしまっていたらしい。室長の厳しい言葉に、青木は姿勢を正した。
「遺族の前で、そのにやけたツラ晒してみろ。塩撒かれるぞ」
「すみません」
 青木の謝罪を受け入れてくれる様子もなく、室長の眼は冷たい。仕事のときは本当に怖いひとだ。
 仕事中に無駄口を叩くのを嫌う室長とは、会話が続かない。重い雰囲気になってしまうのは嫌なので何かしら話しかけるが、うるさいと一喝されてしまう。以前なら胃が痛くなってしまう状況だが、今の青木の精神状態は少し違う。

 自分がこのひとに恋をしていると気付いたのは、つい先日のことだ。青木の中に生まれた感情は、自制心の及ばない日陰の場所で徐々に育ってきている。
 薪にどんどん惹かれていく自分を、まずいな、と思う。
 これは憧れだ、室長は男の人だ、と自分に言い聞かせるが、違うぞ、と頑固に反論する自分がいる。憧れと恋の間の境界線が、いまひとつはっきりしなくて困っている。
 
 今だって、こうして薪の姿を見るだけで幸せな気分になるのだ。

 こんな気持ちは、中学生の時の初恋以来ではないだろうか。
 大学の頃付き合っていた彼女とは一緒にいて楽しかったが、そこは大人の関係なので、将来のこととかもっと切実な男の事情とか――― どうやってベッドに連れ込もうとか――― そういうものが絡んできて、純粋に相手を想うばかりでは立ち行かなくなってくる。恋愛の駆け引きというやつだ。
 薪はちがう。
 何と言っても室長は男のひとだ。結婚のことなんか考えなくていいし、ベッドのことはもっと必要ない。恋心が性欲に繋がらないこともあるのだ。薪は確かにきれいだが、青木にはそういう趣味はない。……今のところは。

 ろくな会話もないまま、青木の運転する車は目的の家に到着した。
 今時珍しい古風な日本建築の屋敷で、玄関には忌中の札が掲げてある。外観の通り内部も日本調で、障子と襖と畳の風景がノスタルジックな雰囲気だ。
 そして、強い線香の馨り。
 さすがに青木の顔も引き締まる。ここには死体があるのだ。

 薪が玄関で声を掛けるが、応えがない。呼び鈴を押しても誰も出てこない。警察庁のほうから連絡は入っているはずなのに、と青木は不審に思う。
 玄関は諦めて、庭に回ることにする。日本家屋の便利な点は、玄関以外にも庭に面した出入り口が多いということだ。
 二人が建物に沿って歩いていくと、奥の部屋のサッシが開いていて、中の様子が見えた。
 昔の日本家屋によくあるように、サッシから直接廊下に上がれるようになっていて、その奥に八畳間がある。暗い部屋の隅に棺があり、その周りに様々な葬具が置かれている。一見すると華やかな装具は、やはり蒼を基調とした寂しい色彩で、死者の魂を安らかに眠らせようとしている。黒い縁取りが為された大きな写真立てには、まだ死ぬには早すぎる若い女性の姿がある。

 ひとりの中年の男が、コップに入った酒を飲みながら遺影の前に座っている。亡くなった女性の父親だ。その悲痛な表情は深い悲しみを慮らせ、周囲の人間の声を失わせる。
「太田さんですね。警察庁から参りました法医第九研究室室長の薪と申します。この度は突然のことで、さぞお力落しのことと存じますが」
 薪がそっと声を掛ける。いたわりの心が表れた哀しげな表情―――― いや、薪は車の中から、既に沈痛な顔つきだった。この光景を予想していたのだろうか。

 薪の言葉を聞いているのかいないのか、相手には何の反応もない。娘に先立たれた親の心痛は計り知れない。しかし、こちらも仕事だ。
 ところが、男は意外なことを言い出した。
「帰れ。娘は渡さん」
 青木にはびっくりだ。警察庁からの連絡で、今日この時間に遺体を取りに来ることは、遺族には了承済みのはずである。もう病院の手配もしてあるのだ。今更そんなことを言われても困る。

「なにを言って」
 反論しようとした青木を、薪の華奢な手が制した。横目で睨まれる。黙っていろ、ということだ。
「お気持ちはよく分かります。大切な人を亡くされたんです。ご遺体を他人の手に渡すのは、身を切られる辛さだと思います。しかし、娘さんの無念を晴らすためにも、ぜひMRI捜査にご協力を」
「そうしたら、娘は生きて帰ってくるのか」
 無茶苦茶なことを言っている。
「だいたい、あんたらが早く犯人を捕まえないから娘がこんな目にあったんだ。警察の怠慢のせいで娘は死んだんだ」
 支離滅裂だ。第一、現場の捜査は警察庁の仕事ではなく警視庁の仕事だ。一緒くたにされて、他の部署の非でこちらを責められてはたまったものではない。
 もちろん、警視庁の捜査官も必死で頑張っている。その努力を見もしないで怠慢とは、被害者遺族とはいえ、あまりにも言葉が過ぎるだろう。

「お言葉ですが、それは」
 青木の反論は再び、薪の細い腕に阻まれる。
 薪は青木の眼を見て左右に首を振ると、一旦その場を離れた。庭の隅まで歩いて立ち止まり、まるで青木を糾弾するかのように険しい目でじっと見つめる。
「黙ってろ、青木。余計なことを言うな」
「だって室長。あの親父、めちゃくちゃですよ。まるでオレたちが悪者みたいじゃないですか。オレたちは遺体を預かりにきただけなのに」
 家人に聞こえないように声を抑えて、青木は謂れのない非難を受けたことに対する憤りを吐露する。薪はその言葉を黙って聞いていたが、何も言わなかった。
 薪だってそう思っているに決まっている。自分たちは何も悪いことはしていないし、娘が事故にあった元凶の犯人を捕まえてやろうとしているのだから、逆に感謝されてもいいくらいだ。あの男のほうがおかしいのだ。大きな悲しみが彼の正しい思考を奪ってしまっているのだろうが、こういうことははっきりさせなければ。

「青木。おまえ、先に第九に帰れ。僕はもう少しご主人と話をするから」
「オレも行きます。あの親父、頑固そうですよ」
「いいから、帰れ」
 声は低いが目は厳しい。部下に否と言わせない威厳を、この室長は持っている。
「……はい」
 青木が頷くと、薪は踵を返して今来た道を辿り始めた。
 青木は植え込みの陰に隠れて、そっと後を着いていく。命令とはいえ、室長を独り残して帰ることなどできない。あの親父は酒も入っているようだった。薪に危害を加えるかもしれない。

 開け放された窓から、薪は家人に向かって説得を続けている。廊下に上がり込むこともしない。庭に立ったまま背筋をぴんと伸ばして真摯な姿勢を崩さない。
「太田さん。ご心痛のほどはお察しします。しかし」
 薪はそこで深く頭を下げる。腰を90度に折り曲げて、平身低頭というありさまだ。
「犯人を捕まえるためには、どうしても必要なことなんです。娘さんのご遺体を、ほんの少しだけ預からせていただけませんか」
 薪の態度が、青木には少し意外だ。
 警察官は基本的に、15度より深いお辞儀はしない。警察学校でこの角度はいやというほど仕込まれるのだ。最敬礼でも30度。だから 体がそれ以上は曲がらないように、自動的にセーブがかかる。それは警察庁のトップである警察庁長官に対しても同じだ。ましてや市井の人間相手にこのような深いおじぎなど、警察の威信にも関わることではないか。

 警察庁の管理職であり研究室室長という肩書きを持つ薪が、そこまで礼を尽くしているというのに、相手の態度には変化がない。薪の方が年は下でも、社会的地位を鑑みればこの男よりずっと偉いのだ。
「脳みそを取り出すっていうじゃないか。娘がうちに帰ってくるときは、脳の代わりに紙切れでも詰めてよこすのか?」
「データを引き出した後は、ちゃんと元通りにしてお返しします。腕のいい外科医が、なるべく傷が残らないように最大限の注意を払います」
「娘の脳を見るんだろ? 親の俺も知らないような娘のすべてを、おまえらが見るんだろ? 頭を割られて脳を抜かれて、おまえらの視線に散々汚されて……そんなことを許す親がいると思うか!?」
「MRIに掛けるのは、事件に関わる最低限の箇所だけです。娘さんのプライバシーも絶対に守ります。私たちにできるだけのことはします」
「やかましい! おまえらなんか信用できるか!」
 真剣な薪の声に耳も貸さないとは、あまりにも酷すぎる。こっちがこれだけ下手に出ているのに、どこまで傲慢な親父だろう。

「帰れ!このハイエナ野郎が!」
 憤怒の表情で自分を罵る男に対して薪が次に取った行動は、青木を驚愕させた。
 地面の上に、薪は膝を折ったのだ。
 昨日までの雨で、庭の土はぬかるんでいる。スーツを汚した泥を気にする様子もなく、薪は両手を着いて頭を下げた。
「お願いします。これ以上の犠牲を出さないためにも、何卒ご協力を」

 あのプライドの塊のような室長が土下座するなんて―――― 薪の弱気な態度に、青木は少し幻滅している。
 何も薪がここまですることはない。土下座してまで頼み込まなくても、警察には公務執行妨害という伝家の宝刀があるではないか。これは殺人事件の捜査だ。力ずくで遺体を奪って行っても、罪には問われないのだ。
 あの無礼な男を怒鳴りつけてやりたい。が、薪の気持ちを考えて、青木は立ち上がりかけた足を自分の手で押さえつけた。土下座しているところを部下に見られるのは、室長のプライドが許さないだろう。
 警察庁の管理職にここまでさせたのだ。どんなに陰険な男でも満足だろう。慌てて「頭を上げてください」などと言ってとりなしてくるに違いない。

 しかし、青木の予測は見事に裏切られた。
 頭を地面にこすり付ける薪に、男は冷たく「帰れ」と言い放ったのだ。
 ここまでして犯人を検挙し、犯罪を未然に防ごうとする薪の正義感が分からないなんて、この男こそ人間じゃない。青木は怒りで目の前が赤く染まるのを感じた。
 それでも薪が食い下がる気配を見せると、男は突然立ち上がり、バケツに水を汲んできて薪の頭からぶっ掛けた。更にはずぶぬれになった薪に、空のバケツを投げつける。
 もう、じっとしてはいられない。反射的に青木は薪の前に立ちはだかり、飛んできたバケツを叩き落していた。

「なにを乱暴な!」
「引っ込んでろ、青木!」
 助けようとしたのに、怒鳴りつけられる。理不尽なことだらけだ。
「だって室長。事前に連絡したときにちゃんと許可を得ているのに、今になってこんなことを言う方がおかしいんですよ!」
「あれは妻が勝手に、俺は了解などしていない!」
 妻は後妻で娘とは血は繋がっていないから、と父親は弁解がましいことを言っている。が、それはそっちの都合だろう。承諾書に印鑑まで貰ってあるのだ。どこに出てもこちらの言い分が通るはずだ。
 それは百も承知しているはずなのに、薪はどこまでも低い姿勢を崩さない。

「失礼致しました。この男は新人でして。私の教育が行き届きませんで、誠に申し訳ありません」
 バケツがぶつかっていたら、薪は怪我をしていたはずだ。それなのに謝罪をするのはおかしい。この態度は、もはや謙虚というのではない、卑屈というのではないか。
 薪のきれいな顔も髪も泥まみれだ。室長としての身だしなみにと用意してきた英国製のスーツも泥だらけになって、もう使い物にならないだろう。せっかく薪の細身の身体によく似合っていたのに、この男のせいで台無しだ。
 そんな情けない姿になっても、薪の熱心な説得は続く。ここまでしなければならない理由が、青木にはわからない。

「太田さん。犯人はまだ大手を振って歩いているんです。娘さんのような被害者がもっと増えるかもしれない。それを防ぐには、太田さんのご協力がどうしても必要なんです。お願いします、お願いします!」
「……一日だけだ。それ以上は貸さんぞ」
 消え入るような声で、男は言った。やっと引き出した了承の言葉だ。
「ありがとうございます!」
 本来なら、礼など必要ないはずだ。それに、一日だけという限定つきでは徹夜作業になってしまう。まったく迷惑な話だ。
「感謝します」
「あんたは警察のお偉いさんだと聞いてたが、違うのか?」
「警察庁の者ですが、偉くなどありません」
「そうか」
 あなたより遥かに偉いんですよ、と教えてやりたい。薪は警察庁始まって以来の天才と呼ばれていて、出世の最短記録を更新中なのだ。

 薪はようやく立ち上がり、無愛想な家人にもう一度頭を下げた。ハンカチを絞って髪を拭き汚れた顔を拭く。とても拭き取りきれるものではないが、この家の風呂を借りるわけにもいかない。
「青木。病院に連絡だ。僕の携帯は浸水して使い物にならん」
「はい」
 室長の指示通り病院に連絡を入れながらも、青木は不満を隠しきれない。しかし、それをここで話すことはできなかった。もしあの男に聞かれて臍を曲げられでもしたら、室長の苦労が水の泡だ。

 程なく病院の車が来て、遺体を搬送していった。泥まみれの薪を見てびっくりしている病院の担当者に、薪はくれぐれも遺体に傷を残さないようにと頼み込んだ。
 午後には第九へ脳が届く。この男のせいで今夜は徹夜だ。

 薪が父親に再度丁寧に礼を言って、2人はその家を辞した。
 車に乗り込もうとして、薪は足を止める。自分の泥だらけの格好を見て、困惑した表情を浮かべる。車のシートが汚れてしまうことを気にしているようだ。
「室長。オレのジャケットで良ければ着てください。ズボンを脱いでも、ワイシャツとジャケットだけ着てれば外からはわからないと思います」
「そうだな。そうするか」
 庭の片隅で車のドアに隠れて、薪はスーツを脱いだ。白いワイシャツにも所々泥は跳ねているが、直接地べたに着いたわけではないので、見苦しい程ではない。

 ズボンを脱ぐと、人形のように形の良い足が現れる。その肌の白さは、目に痛いくらいだ。思わずワイシャツの裾のあたりを凝視してしまう。なんというかその……色っぽい。
「青木。ジャケット貸してくれ」
 ワイシャツの裾を絞ると、ぼたぼたと水が垂れてくる。ちらりとグレーの下着が見える。ごく普通のボクサーパンツなのだが、なんだか妙に……。
「青木。上着!」
「あ、はい」
 慌てて上着を脱いで薪に手渡す。薪は怪訝な顔をしたが、何も言わなかった。

 青木のジャケットはとても大きくて、丈が薪の膝の辺りまである。そのことは室長のプライドをいくらか傷つけたようだ。
 人間でかけりゃいいってもんじゃないぞ、と口の中で言って、汚れたスーツを無造作に丸め足元に積み込む。土下座よりも背丈のほうが気になるなんて、室長のプライドの基準はよくわからない。
 助手席に座った薪は、ジャケットの前を掻き合わせるようにして身体に巻いている。頭から水をかけられたのだ。ズボンも履いていないし、寒いに決まっている。
「ひどい目に遭いましたね」
「ああいうことは珍しくない。誰だって、大切な人の遺体を傷つけるのは嫌だろう」
 他人に聞かれる心配のない車内でまで、薪は父親を弁護した。青木はますます薪という人が解らなくなる。お人好しなのか、偽善者なのか。どちらも普段の冷徹な室長の姿からは、かけ離れた人物像だ。

「あんなの、おかしいですよ。ちゃんと本部のほうから遺族には話を通してあって、遺体の受け取りに立ち会うだけだって言ってたじゃないですか」
「いざとなると躊躇ってしまうんだ。そういうものだ」
 室長らしくない。
 室長はいつでも冷静で、ちょっと皮肉屋で。誰よりもきれいでスマートで。土下座なんて想像もつかなかったのに。裏切られた気分だ。

「別にいいじゃないですか。すぐ返すんだし」
 何より、薪をあんなひどい目に遭わせたことが許せない。こんなにきれいで可憐で気高いひとに、よくあんな真似をさせられたものだ。もはや犯罪だ、と青木は憤慨している。
「遺体はどうせ焼いちゃうんでしょ。無くなってしまうものじゃないですか。脳を抜かれたからって、死んだ人間が痛みを感じるわけじゃなし。室長があそこまですることないですよ。公務執行妨害で引っ張っちゃえばよかったじゃないですか」
 突然、青木の頬に薪の平手打ちが炸裂した。華奢なくせに、かなり強い平手打ちだ。
 昔から優等生で育ってきた青木は、親に叩かれたことがない。ましてや他人に叩かれるのは、これが初めての経験だった。
 痛みよりも驚きのほうが大きい。
 薪を見ると、なぜか悲しそうな表情をしていた。

「なんでオレがひっぱたかれなきゃならないんですか。ちゃんと説明してくださいよ」
「なぜ叩かれたのか分からないなら、おまえには第九を辞めてもらうしかない。異動願いを書いておくんだな」
 ふい、と横を向いた薪の顔は、とても冷たかった。
 わからない。
 法学部の青木は刑事訴訟法にも詳しい。自分は間違ったことは言っていないはずだ。ああいう場合、公務執行妨害を適用して任務を速やかに遂行するべきだ。それが迅速な捜査活動の為にもなるし、警察の威信を示すことにも繋がる。警察庁の人間なら、そう考えるのが正しいはずだ。

 久しぶりに異動願いを書けと言われてしまった。この頃、ようやく言われなくなったと思っていたのに。あの親父のせいだ。

 押し黙ったまま、青木は車をスタートさせた。
 曇天の空は陰鬱だ。いっそ雨でも降ればいいのに―――― 何もかもが面白くなくて、青木は帰りの車中でとうとう一言も口を利かなかった。


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新人教育(3)

新人教育(3)







 新人と一緒に帰ってきた室長の姿は、第九の職員を仰天させた。
 いったい何があったのか、上から下まで泥まみれである。ワイシャツの上に明らかに借り物とわかる大きなジャケットを羽織って、膝から下は裸足だ。華奢な足首が痛々しい。
 車に泥水かけられたんだ、と子供にも解る嘘を白々しく吐いて、室長は真っ直ぐにシャワー室へ向かった。室長のロッカーには、急な泊まり込みに備えて着替えが置いてある。シャワーさえ浴びればこのまま仕事に戻れるのだ。

「薪さん。大丈夫ですか?」
 扉の向こうで岡部の声がする。熱いシャワーを頭からかぶりながら、薪は応えを返した。
「ああ、なんとかな」
「だから言ったでしょう。あそこの親父はキツイって」
「まあ、あの気持ちは分かるから」
 髪を洗いながら、薪は昨日の岡部との会話を思い出している。
 室長室に報告書を持ってきた小池の一言から、この件は始まったのだ。
 
「青木のことなんですけど、その……」
 小池の言葉に、室長は報告書をめくる手を止めて顔を上げた。
 一言多くても少ないことはあまりない、その小池がこうも言い淀むのは珍しい。なにか言いにくいことがある証拠だ。
「青木がどうした」
「どうもなんか現実感がないっていうか……悪い言い方をすると、ゲーム感覚で捜査をしてるみたいな」
「青木の性格は、そういうんじゃないだろ。どっちかって言うと優しすぎるのがネックになるタイプだろ」
 同席している岡部が、的を得た人物評を下す。その見立てには薪も同感だ。
「そうですよね。俺の気のせいですかね、やっぱり」
 バツの悪そうな顔で頭を掻く小池に、薪は無表情に、
「小池、よく報告してくれた。あとは僕に任せろ」
「は?」
「行っていいぞ」

 小池が室長室を辞した後、薪はすぐにPCのキーボードを叩き始めた。室長のIDを打ち込んで、人事部の検索システムから情報を引き出す。画面を見つめる大きな眼が細められ、小さく舌打ちする音が聞こえた。
「そうか、失敗したな。指導の順番を間違えた」
「どういうことです?」
 岡部の問いに、薪はPCの画面を指し示す。警察庁が誇る人事統括データ―――― 画面には青木の経歴が細かく表示されていた。
「青木のやつ、所轄の経験がゼロなんだ。見ろ、警大を9月に卒業してそのあと警察庁の総務課に配属されてる。そこからここに来たんだ」
 考え込む時の癖で、薪は右手を口元に当てる。それから手を頬に滑らせて、机の上に肘をつく。
 岡部の前では薪はいくらかくだけて、こんな仕草もしたりする。頬杖はあまり良いことではないが、室長がやると優雅に見えるから不思議だ。

「うっかりしたな。あいつ、おそらく現場を見たことがないんだ。被害者遺族と話したこともない。遺族の悲しみや嘆きを聞いたことがない。だから捜査が上っ滑りするんだ。
 まずいな。このままいくと、ただの技術屋になってしまう。なまじ頭が良い分、陥り易いんだ。何とかしないと」
「俺が話してみましょうか」
 経験と実績に裏打ちされた岡部の指導力は確かだ。任せておいて間違いはない。が、これは言葉だけで理解できるものでもない。実際に現場に連れ出すのが一番だ。
「……例の越谷の家に、青木を連れて行く。あの遺体は明日がリミットだからな」
「あそこの親父はキツイですよ。俺が行きますよ」
「いや、僕が行く。室長は僕だ」

 昨日、室長とそんな会話を交わしていた岡部は、薪の身をずっと心配していた。
 案の定、こんな格好で帰ってきた。怪我はしていないようだが、体中泥まみれだ。
 青木が一緒だったのだから暴力を振るわれたわけではないと思うが、土下座くらいはさせられたのだろう。こんなことは初めてではない。頻繁にあることでもないが。
 薪は意外とこういうことは平気だ。室長が天より高いプライドの持ち主ということは岡部も認めているが、そのプライドに傷をつけるのは人に頭を下げることではなく、もっと別のことだ。例えば……背丈とか。

「岡部。あの件、頼んでくれたか」
 タオルで髪を拭きながら、薪がシャワー室から出てくる。もちろん素っ裸だ。その姿から岡部は自然に目を逸らして上を向く。自分の容姿が見るものをどんな気持ちにさせるのか、自覚のない室長はこういうことには無頓着だ。
「後輩には頼んでおきましたけど、今は出待ちです。初めはきれいなやつがいいと思って」
「いや。出来れば1週間くらい経過したのがいいんだが」
「え? 最初からそんなの見せる気ですか?」
 素肌に直接ワイシャツを着込み、下着とズボンを履く。防弾チョッキは濡れてしまっているが、さすがに替えは置いていない。今日は仕方がないと割り切ったようだ。
「あいつには荒療治が必要だ」
「ていうかそれ、周りのフォローの方が大変ですよ」
「フォローは僕がする」
「いや、何も室長がなさらなくても。指導員は俺なんですから、俺がやりますよ」
「部下の経歴を把握して指導方針を決定することは室長の役目だ。それを怠った僕が悪かった」
 備え付けのドライヤーで髪を乾かしながら、室長は潔く自分の非を認めた。
 髪を掻き回す手つきが乱暴だ。自分の失態に腹を立てているのだ。薪は部下にも厳しいが、自分にはもっと厳しい。その厳しさが薪の強さであり、危うさでもある。岡部は薪のそういうところを一番心配している。

「まさか、大学から直接に近い形で第九への人事があるとは思いませんでしたからね。三田村のやつ、なにか問題でも起こせばいいとでも思ったんですかね」
「三田村のせいじゃない。これは僕のミスだ。責任は僕にある」
 くどくどと理由を述べることはしないが、薪はひどく後悔している。岡部にはそれが分かった。

 新人に現実を見せる前に、MRIの画像を見せてしまった。
 最初に画像から事件に入っては、現実感を失ってしまっても無理はない。頭では現実に起きたことだと理解していても、どこか絵空事のような気がしてしまうのだ。
 現実が見えない人間に、捜査官は務まらない。どこの部署に行っても使い物にならない。最初が肝心だったのに自分のせいだ―――― 薪の考えは大体読める。

「青木は粘り強いし打たれ強い。着眼点もいい。きちんと育てれば、良い捜査官になる。あいつの才能を潰すわけにはいかない。僕が何とかする」
 亜麻色のさらさらした髪に櫛を通し、さっと整えると、薪は予備のジャケットを着込んだ。何だかいつもより、華奢に見える。防弾チョッキを着ていないせいか。

「午後には病院から目撃者の脳が届く。今日中に、徹夜してでも画を捜すぞ。一日しか猶予をもらえなかったんだ」
「じゃあ、みんなでやっつけますか」
「うん。頼む」
 はい、と頷いて岡部はモニタールームへ戻っていく。ロッカールームのドア口で振り返ると、薪はうつむいて厳しい目で空を睨んでいる。

「室長」
 岡部の呼びかけに、我に返ったように顔を上げる。岡部はにやりと気安い笑みを浮かべて楽しげに言った。
「新入りをいびる楽しみを、独り占めせんで下さいよ。俺にも少しは分けてください」
 何でも自分で抱え込もうとする薪の性癖を矯正するのは自分の役目だ、と岡部は自負している。
 室長の重責を少しでも軽くしてやりたい。独りではないのだと思わせたい。もっともっと自分を頼って欲しい。

 薪は亜麻色の目を丸くした後、きれいな微笑を岡部にくれた。
「そうだな。共犯者がいたほうが、イジメは楽しいからな」
「はい」
 第九研究室の懐刀と称される岡部の気持ちは、どうやら室長に届いたようだった。



*****

 かみんぐあうと。
 わたし、岡部さん大好きなんです。(きゃ、言っちゃった)


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新人教育(4)

 初めに謝っておきます。
 いろいろ汚くてすみません……。






新人教育(4)
 





 まんまと徹夜作業になった翌日、仮眠すら取れない状態で、青木は室長に呼び出された。
 事件現場へ向かうという室長を後部座席に乗せて、車のハンドルを握る。助手席には岡部の姿がある。昨日のことがあるので、室長と二人きりになるよりは岡部がいてくれたほうがありがたい。が、何となくつまらないような気もする。相変わらず複雑な心理状態が続いている青木である。

「現場検証に立ち会うんですか?第九が?」
「今日は特別でな」
 何故だろう。
 第九の仕事は、基本的に研究室の中に限られる。現場に出て証拠を集めたり聞き込みをしたりするのは、捜査一課の仕事だ。そのテリトリーに入ることは、一課の人間にとっても不愉快なことのはずだが。

 捜査現場は、鑑識や捜査官で溢れかえっていた。
 こんなに大勢の人間が現場に集まるのか、と青木は驚いている。現場はそれほど広くない公園だ。すべての出入り口はKEEPOUTと赤く印字された黄色いテープによって塞がれている。その中に40人~50人くらいの捜査官がひしめき合っている。たくさん居すぎて身動きが取れないのではないかと心配になるくらいだ。
 テレビドラマのように、10名くらいの人数で捜査をするというのは現実にはない。殺人事件ともなれば、こうして最低でも30人からの人員が捜査に携わるのが普通だ。青木も勿論それは承知していたが、こうしてそれを間近に見るのは実は初めてだ。警大のときに研修で見学をしたことはあるが、遠くから眺めただけで現場の中に入ったわけではない。警大の授業は机上の勉強だけで進んでいくものだ。
 圧倒される。一人だったら、とても中に入っていける雰囲気ではない。

 岡部が捜査官の一人と何事か話している。気心の知れた者らしく、砕けた口調だ。
「青木。こっちだ」
 岡部に呼ばれて、青木は人混みを掻き分けるようにして黄色いテープの内側を進んだ。薪が後ろから着いてくる。ちらちらと青木のほうを見ている瞳が、何事か言いたげだ。
 昨日は全員徹夜だったのだから、薪も岡部も眠っていないはずだ。自分よりだいぶ年上なのに、二人ともタフだ。頑丈そうな岡部はともかく、見るからに華奢な薪のどこにそんな体力があるのだろう。

 岡部の向かう先は、公園の植え込みの方だ。ごった返す捜査員の狭間に、シートを被せられた物体が見え隠れしている。近づくにつれ、死臭が強くなる。青木は手で鼻と口を覆う。これだけ離れていても物凄い臭気だ。
 シートの中のものを想像して、思わず青木は足を止めた。
 岡部が手招きをしている。行かなくてはダメだろうか。死体を見るのが第九の仕事ではないはずだが。
 躊躇していると、後ろから薪に背中を押された。もう少し心の準備をさせて欲しいが、どうやらその気遣いはしてくれないらしい。

 嫌がる足を無理に進めて、青木は岡部の横に立った。岡部は地面にしゃがみこみ、シートに手をかけている。青木にも屈むよう指でサインをする。あまり近寄りたくはないが、先輩の命令では仕方がない。
 薪は青木の背中越しに覗き込むように身を乗り出している。その目は被害者に向けられているようだが、何故か青木は薪の視線を感じる。さっきからずっとだ。室長は自分を見ている。
 岡部の無骨な手が、いきなりシートをめくった。
 その瞬間。
 青木の目に飛び込んできた凄絶な光景――――。
 土気色の顔。断末魔の形に歪められた口。落ち込んだ眼窩。鼻や耳、ありとあらゆる穴から湧き出している蛆虫が、もぞもぞと蠢いている。
 今まで嗅いだことのない強い腐敗臭に、猛烈な嘔吐感が沸き起こる。まるで身体の中に直接手を突っ込まれて胃をひっくり返されたかのようだ。意志の力で止められるものではない。

「青木、吐くな! 現場を汚すな!」
 岡部が叫ぶが、とても無理だ。
 もともとスプラッタは苦手なのだ。臭いのないMRIの画像でさえあんなに吐いていたのに、現実の腐乱死体に耐えられるはずがない。
 岡部の叫びが終わらないうちに、思い切り吐いてしまった。
 口元を押さえていた手の隙間から、吐瀉物が溢れてくる。すみませんと心の中で謝るが、裏返ってしまった胃は元に戻せない。
 こんなことなら朝食を食べるんじゃなかった。食べないと仕事にならないと思って無理に詰め込んだのに。しばらくはツナサンドが食べられなくなりそうだ。こんな間近に、未消化のものを見せられたのでは。

 あれ、と青木は思う。
 何故こんなに近くに吐いたものが有るんだろう。地面に落ちたはずなのに、この距離感はまるで宙に浮かんでいるようだ。

「終わったか?」
 薪の声が耳元で聞こえる。
 眇めた視線を横に走らせると、顔がくっつきそうなほど近くに薪の美貌があった。
 状況を把握しようと、しっかり目を開ける。
 後ろから薪が、青木の首に抱きつくようにして、両腕を前に回している。自分の上着を袋のような形に持って、青木の口の前に差し出している。上着の中は青木の吐いた汚物でどろどろだ。
 室長が自分の上着でとっさに汚物を受け止めてくれたのだ、とようやく理解する。理解して、青くなる。

「大丈夫か?まだ吐きそうか?」
 室長は青木の顔色の変化の意味を誤解して、やさしく言葉をかけてくれる。このパターンは確か前にもあったような。何故一番見られたくない人に、こういうところを見られてしまうのだろう。恥ずかしくて顔が上げられない。

「青木。どれだけ吐いてもいいから、よく見ておけ。これが現実だ」
 頬が触れそうな至近距離で、薪のつややかな唇が動く。
「このむごたらしい現実の上に僕たちの仕事はあるんだ。それを忘れるな」
 真剣な声音。強い眼差し。亜麻色の瞳は、凄惨な死体を真っ向から見据えている。
「人間は年を取って家族に看取られて、穏やかに死んでいくものだ。こんな悲惨な死に方をしなきゃいけない人間なんて、本来はいないはずだ。おまえだって自分の大事な家族や友だちに、こんな死を迎えて欲しくないだろう。
 僕たちが作らなきゃいけない社会は、人間が自分の人生に満足して死ねる社会だ。神様から貰った命を全部使い切って死ねる社会だ。他の誰かに途中で奪われるなんてことがあってはならないんだ」
 普段、口数の少ない室長の言葉は重みがある。
 それは青木の心にずっしりと沁みてくる。

「おまえは昨日、遺体はどうせ焼いてしまうのだからと言ったな。死んだ人間は痛みを感じないから、脳を取り出しても平気だと言ったよな。この死体もそうだ。痛みは感じないし、嗅覚も触覚も失っているから、この臭いも蛆虫が這い回るのも解らない。
 でも、どうだ。これを見ても同じことが言えるか? この被害者に今ここで、昨日のセリフを繰り返すことができるか? この被害者の遺族に、死体は何も感じないのだから腐っても平気です、と言えるか?」
……言えない。
 言えるわけがない。こんな悲惨な目に遭った可哀想なひとに、その家族に、そんな鬼のようなことが言えるものか。
「おまえが昨日、あの父親に言おうとしたのはそういうことだ」
 薪の横顔がゆっくりこちらに向いて、青木と目が合った。鼻先がぶつかりそうな距離で、長い睫毛に囲まれた亜麻色の瞳が瞬きもせずに青木の眼を見ている。

――――そうだ。
 不当に薪を責める父親を鬼だと青木は思った、でも。鬼は自分だった。

「事件の被害者たちは、みな理不尽に自分の人生を奪われて、夢半ばに死んでいくんだ。ものすごく痛い思いをして苦しんで苦しんで、そんな辛さを味わった被害者の脳を取り出すためにまた身体にメスを入れる。頭蓋骨をドリルで削って脳漿を抜いて脳髄を切り取って……文字通り、死者に鞭打って初めてMRI捜査は成り立つんだ。
 だから、僕たちを信用して愛する人の亡骸を預けてくれる遺族の人には、頭を下げるのが当然だ。社会正義のために、自分たちの身を切られるような痛みを推してまで協力してくれる。その気高い精神に敬服して、感謝するんだ」
 青木は自分を恥じた。
 人からはやさしいと褒められることが多い青木は、自分でもそれなりに優しい人間でいたつもりだった。なのに、自分はいつの間にこんな傲慢な人間になっていたのか。

 それは多分……薪に恋をしたからだ。

 薪のこと以外、目に入らなくなっていた。物事のすべての基準は薪にとって良いことかどうか、そんな風にしか考えられなくなっていたのだ。だから薪に冷たく当たったあの男に腹が立って、それを分かってくれない薪にまで苛立ちを覚えて。
 これではまるで、子供の恋だ。中学生の初恋どころか、幼稚園児の戯れだ。
 自分は薪を思うあまり、他の人々に対する気遣いがなくなっていたのだと初めて気づく。
 これではだめだ。こんなことでは、室長に迷惑を掛けるだけだ。
 室長の役に立ちたいと、室長の助けになりたいと思っていたはずだ。もっと大人にならなければ―――― もっともっと自分を磨かなければ、このひとを助けることはできない。

「すみませんでした」
 青木の吐き気が治まったのを見て取ると、薪はエチケット袋代わりの上着を持って立ち上がった。捨てとけよ、とそれを青木のほうへ渡す。死臭よりはマシだが、やはり臭う。

 現場から離れて、公園の外に出る。青木はようやくまともに呼吸が出来るようになった。
「今月は、洋服代がかさむな」
 昨日に引き続いて今日もまた、薪のスーツは駄目になってしまった。
「昨日はドロで今日はゲロですか。1字違うだけでえらい差ですな」
 室長とその腹心の部下は、信頼しあったものだけが持つ気安い空気の中で、とぼけた会話を交わしている。青木にはその関係がとても羨ましい。

 徹夜明けの薪は、大きく背伸びをして欠伸をした。二人とも、自分のために仮眠も取らずにここへ連れて来てくれたのだ。
 防弾チョッキを着ていない室長のワイシャツ姿は、とても細くて頼りなく見える。しかし、この人の強さは本物だ。自分が目指すのはこの強さだ。そして岡部のような懐の大きい人間になって、室長に信用してもらうのだ。

「青木、第九まで車で送ってくれ。そしたらおまえは、今日は家に帰っていい」
「室長はどうなさるんですか?」
「僕は、岡部と一緒に昨日の遺体を返しに行く」
「オレも連れて行ってください」
 ハンカチで口元を拭いて、青木は言った。
 岡部が眉を寄せて首を振る。行かないほうがいい、という意味だ。
「おまえ、昨日あの親父とケンカしてるだろう。親父の神経逆撫でしないほうがいいぞ」
「大丈夫です」
「あのな、青木。困るのは室長」
「岡部。おまえ小池と交代してやってくれ」
 室長を気遣う岡部の言葉を、涼やかなアルトの声が遮った。
「あいつ、先週の日曜も出てたんだ」
「室長」
「太田さんの所へは、僕と青木で行く。大丈夫だ」
「しかし」
「僕が大丈夫と言ったら大丈夫なんだ」
 自信に満ち溢れた声。背筋をピンと伸ばして腕を組み、しっかりと2本の足で立っている。長年、第九の室長として数多の窮地を切り抜けてきたという自信が、薪を輝かせている。
 なるほど、女性にモテるわけだ。男から見てもカッコイイ。

 暗い雲の切れ間から光が差してくる。梅雨時期の太陽はすでに夏の力強さを持っていて、その光は徹夜明けの青木の目にとても眩しい。そして、室長の白いワイシャツ姿はもっと眩しい。
 冷静な室長の仮面の裏に隠された、熱い正義感。守るべき人々に対する、深い愛情と感謝。
 この人はどこまできれいなんだろう。どこまでやさしい人なんだろう。

……完全に持って行かれた。

 心の片隅に生まれた感情はいつの間にか大きく育って、青木のこれまでの常識を粉々にぶち壊した。薪は男性だ。自分と同じ男のひとだ。でも。
 降参だ。
 すごい力で惹き寄せられる。もう、止まらない。自分にも止められない。
 この魅力の前に、自分の薄っぺらな理性など消し飛んでしまう。

 ああ、やっぱり室長はきれいだな、と青木は思う。きれいでかっこいい。
「青木。途中で洋品店に寄ってくれ。さすがにもう、替えの上着が無い」
 華奢な肩を竦めて両手を広げる。芝居がかった仕草は、青木の気持ちを汲み取ってくれた証拠だ。
 青木の答えを待たずに、踵を返して薪は歩き出す。2人の部下は、その華奢な背中を慌てて追いかける。

 この背中を守っていきたい――――。

 青木の心に、薪に対する深い尊敬が刻み込まれた一幕だった。



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新人教育(5)

新人教育(5)







 越谷の家には昨日と同じく、父親が一人で祭壇の前に座っていた。
 遺体を元通りに棺の中に収め、儀礼的な挨拶をした後、病院の係員は帰っていった。忌中の家には、室長と青木と父親だけが残された。

「ありがとうございました」
 昨日と同じように、廊下側の窓の外から、薪は深く腰を折る。室長に倣って、青木も深く頭を下げる。他人に向かってこんなに深いお辞儀をしたのは何年ぶりだろう。客商売に就いたことの無い青木には、なじみの薄い姿勢だ。
「まあ、線香の一本もあげてやってくれ」
 昨日と違って、父親の態度は柔らかい。薪が約束した通り、遺体に目立った損傷は見られなかったせいもあるのだろう。薪の頼みを聞き入れてくれた病院のスタッフに感謝だ。

 父親の好意に甘えさせてもらうことにして、薪は家の中に上がりこんだ。祭壇の前に正座して、手を合わせる。
 凛とした佇まいは、純日本風の部屋にあっては時代劇の剣客のようだ。顔は女のようにきれいなのに、室長は時々とても男らしく見える。
 薪の後ろで焼香の順番を待っている青木に、父親が低い声で話しかけてくる。どうやら薪には聞かれたくないらしい。
「あんたのところの上司は本当に刑事なのか」
 それはたまに言われる。まったく、薪の顔には似合わない職業だ。
「はい。室長は警視正ですよ」
 警視正という役職の高さをこの男が理解しているとは思えないが、今日はそんなことはどうでも良いことに思えた。
「あんな刑事もいるのか……」

 薪は長いこと手を合わせていた。心の中で、不運な被害者に語りかけているようだ。
 あなたをこんな目に遭わせた犯人は必ず捕まえます―――― 険しく寄せられた眉が、固く結ばれた唇が、薪の決意を表している。
「いい上司を持ったな」
「はい」
「あんたは幸せものだ」
「はい。うちの室長は最高です」
 もしかしたら謙遜するべきところだったかもしれないが、青木は素直に頷いてしまった。まだまだ社会人としては半人前である。この会話を小池にでも聞かれたら、また笑われそうだ。小池は言葉を巧みに操ることに長けていて、交渉事が得意なのだ。口下手な青木には羨ましい才能である。

 薪の後に続いて青木が焼香をしている間に、父親は薪と何事か話しているようだった。父親の言葉に薪が小さく微笑んで、首を振っている。昨日の一件のことだろうか。
 青木の方を見て、何か言っている。声が小さくて聞き取れないが、昨日の今日だ。大方の予想はつく。世間知らずな新入りをしっかり教育してくれ、などと言われているに違いない。

 父親のことは薪に任せて、青木は心の中で被害者に誓いを立てる。
 オレたち警察が、必ず犯人は捕まえて法の裁きを受けさせます。それであなたの人生が戻るわけではないけれど、オレたちにはそのぐらいしかできないから。だからオレは、自分にできることを一生懸命にやります。あなたのお父さんやお義母さんのためにも、犯罪のない社会を作れるように。

 社会正義の為に奉仕する心。
 青木が手に入れたその想いは警察官にとって、一番大切なものだ。それを持たないものに、薪の部下でいる資格はない。
 この日、青木はようやく第九の仲間入りを果たしたのだった。




*****





 太田の家を辞するとき、青木が深く頭を下げるのを見て、薪は胸を撫で下ろしていた。あの腐乱死体が効いたらしい。岡部の人脈には感謝しなくては。

 岡部にはああ言ったものの、実は不安だった。
 昨日の青木の様子では、相手の出方次第で、また揉め事に発展する恐れは充分にあった。青木が自分を心配してくれるのは分かっているのだが、だからと言って遺族を責めるのはお門違いだ。彼らはあくまで被害者であり、自分たちが守るべき存在なのだ。

 何か吹っ切れたような表情でハンドルを握っている新人を横目で見ながら、薪は先刻、被害者の父親に言われたことを思い出している。
『あんたの部下は、あんたのことをよほど大事に思ってるんだな』
 以前も青木は、自分に憧れて第九に来たと言っていた。
 でも自分は、そんな人間じゃない。
 自分は咎人だ。殺人を犯した犯罪者なのだ。そのことを青木は知っているはずなのに、なぜ憧れだなどと言えるのだろう。

 あの事件は、警察内部の隠蔽が効くほど些細な事件ではなかった。
 新聞でも大きく報道されたし、マスコミもメディアも連日のように騒ぎ立てた。薪の顔も、TVや大手の新聞にこそ出なかったものの、週刊誌やその他の二流雑誌には掲載されてしまって、それまで住んでいたマンションを引越さざるを得なかったくらいだ。当時警大に在籍していた青木も当然知っていたはずだ。
 しかも、青木はあの28人殺しが薪のせいで引き起こされたことも知っている。第九の他の職員たちは、そこまでの事情は知らない。鈴木の脳を見た青木と自分だけが知っていることだ。そこまで知っていて、断罪するどころか逆に自分を庇おうとしてくる。

 何故だろう。自分が上司だから?
 人殺しの下で働きたくない、とは思わないのだろうか。自分だったら願い下げだ。人殺しの命令など聞けるものか。

 朝も青木の前で偉そうなことを言ったが、自分は本来なら他人に説教ができるような徳の高い人間ではない。
 もちろん、警察官になろうと決めたときから社会正義の為に働くのだという意識はあった。しかし実際は、青木の年齢の時の自分は野心と功名心に燃えて、捜一で迷宮入りの事件を片っ端から調べ直していた。謎を解くのは楽しかった。その結果、犯人が逮捕され、周囲の皆に誉めそやされるのはもっと楽しかった。自分はもともとそんな俗な人間なのだ。

 あの事件が薪を変えた。
 MRI捜査に協力してくれる遺族の気持ちが身に沁みて解ったのも、あの事件があってからだ。

『鈴木警視の脳を保管する』

 しごく当然の上層部の決定に、薪は激しく動揺した。
 鈴木は貝沼の脳を見て発狂し、保管庫から拳銃を強奪、MRIシステムを破壊したうえ薪に発砲してきたのだ。その様子は監視カメラに映っており、だから薪の正当防衛が認められた。常軌を逸した凶行に及んだ捜査官の脳を保管するのは当たり前のことだ。
 だが、薪は嫌だった。
「鈴木のご両親は納得したんですか?雪子さ……いえ、婚約者の方は?」
 決定事項を伝えてきた所長の田城に、薪は食って掛かった。
「納得して頂いたよ。鈴木くんは自分の職場を愛していたからと、ご両親はすんなり承諾書に判を押してくれた」
「僕はいやです」

 自分の撃った弾丸が鈴木の心臓を貫き、びっくりするくらい沢山の血が飛び散った。白いワイシャツの胸が真っ赤に染まった。
 鈴木はものすごく痛かったはずだ。苦しかったはずだ。そんな辛い思いをして死んでいったのに、またその体を傷つけるなんて。そのうえ、鈴木の私生活も秘め事もすべて晒しものにされるなんて。
 鈴木が可哀想だ。

「薪くん。残念ながら、君に決定を覆す権利は無いよ」
「いやです」
 薪は頑固に繰り返した。
 田城に言っても仕方のないことだと解っていた。しかし、心の中の激しい感情を吐き出さずにはいられなかった。
「これ以上鈴木の身体を傷つけるなんて、絶対にいやです!」
 田城は眉根を寄せて薪を見ていた。あんな大事件を起こしたすぐ後で、こんな頑迷な態度を取るなんて。懲戒免職になりたいのか―――― 田城の目は薪を心配してくれていたが、薪には自分が止められなかった。
「やめてください、お願いですから……もう鈴木を傷つけないでっ……』
 田城の前で涙を見せてしまったのは、後にも先にもあれが最後だ。

 あの時、壊滅状態だった第九を放り出すことは出来なかった。鈴木が愛した第九を守りたかった。
 あの事件が尾を引いて、第九はまだまだ不安定な状態だ。もっとしっかりとした地盤を築かなければ、部下を育て上げなければ、後を任せることはできない。
 あの事件がなかったら、薪はきっと今でも功名欲に燃えて捜査に取り組んでいたかもしれない。自分のところに謎めいた事件が来ないかと心待ちにするような、最低の捜査官になっていたかもしれない。そんな人間が他人に説教など、ちゃんちゃらおかしい。
 ただ、薪には室長としての立場と責任がある。
 部下を導くのは自分の役目だ。自分に自信がないからといって指導をしないのは、職務を全うしないことだ。だからこうして、自己嫌悪に陥りながらも偉そうなことを言わねばならない。おまえがそんなことを言える人間か、と自分自身を責めながらも、高潔な人格を装わねばならないのだ。

 鈴木のように生まれつき清らかな心を持った人間なら、こんな風には思わないのかも知れないが、薪は自分の中に醜い感情が沢山あることを知っている。第九に対する偏見や捜査一課の情報隠匿などは、本当に腹が立つ。鈴木ならそんなことで相手を責めたりしないが、自分はそうはいかない。つい口汚く罵ってしまう。
 罪を犯した人間に対しても同じだ。
 鈴木は『罪を憎んで人を憎まず』を地で行く男だったが、薪はどうしても犯人を許せない。罪は憎いが、犯人のことはもっと憎い。犯罪者には制裁が必要だ。被害者と同じ痛みを苦しみを、犯人たちは身をもって知るべきだと思っていた。
 いかなる理由があろうとも、殺人は許されない。過失でも正当防衛でも、殺人は殺人だ。

 だから薪は、自分のことも許さない。
 司法が裁いてくれないのなら、自分で自分を裁くしかない。でなければ、これから自分が生きていくことを認められない。
 他人も自分も許すことができない。そんな狭い心しか持てない自分を、情けなく思う。
 鈴木の遺志を継いで生きると決めたのだから、できるだけ彼のような人格者に近付きたいと努力してはいるのだが、いかんせん、デキが違うというか素質がないというか。一朝一夕の努力で埋められるほど、鈴木との格差は小さくなかったようで、薪は未だ自分の性格の矯正には成功していない。

 まだまだ鈴木には遠く及ばない―――― 薪の自分に対する評価は低い。

 しかし、それはあくまで薪自身の評価であって、周囲の人間の自分に対する評価とは大きな隔たりがあることを薪は知らない。
 薪は自分の容姿に自覚がないのと同じに、自分の評価にも自覚がない。第九の部下たちがどんなに自分のことを尊敬し、慕ってくれているか、大切に守ろうとしてくれているのか、薪は分かっていない。それに気付けばもう少し自分自身の評価も上がり、自分を許す気持ちも出てくるのだろうが……それはまだ、先の話である。
 とにかく、今はこの新人が、警察官の心得を習得したことを喜ぶべきだ。
 これからは新入りだからと言って、遠慮はしない。他の職員と同じようにビシビシしごいてやる。根幹の部分さえしっかりしていれば、徹夜の2日や3日平気なはずだ。次はどうやってイビリ、いや、教育してやろうか。

 基本的に意地悪な自分を、薪は認めない。これは室長としての指導だと主張して憚らない。
 昔の第九には薪の親友がいて、そのことをいくらかは諭してくれたものだったが、今は誰も咎めるものがいない。よって薪の意地悪と皮肉はどんどん増大して、現在の部下たちに降り注いでいるのだ。
 新人の成長を心から願って、薪は第九仕様の特別養成プログラムを頭の中で組み立て始めた。


 ―了―



(2008.10)


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オフタイム(1)

 薪さんのプライベートのお話です。
 薪さんには似合わない発言があります。
 原作のイメージを大切にしたい方は、ご遠慮ください。





オフタイム(1)







 それは第九の新人の、素朴な疑問から始まった。

「室長って休みの日、何してるんですかね?」

 第九の職員ご用達の居酒屋『どんてん』の指定席で、今井を除く5人の面子が1週間のストレスを解消しようと、ビールジョッキを片手に笑い合っている。
 酒の肴は仕事以外のことなら何でもいいのだが、特に多く話題に上るのは、やはり彼らの最大のストレスの原因となっている直属の上司のことだ。
「なにって、休みの日に仕事はしないだろ」
「わかんないですよ。仕事中毒ですからね、うちの室長は」
「ああいうのをワーカホリックっていうんだ。一番嫌な上司のタイプだよな」
「他にやることないんですかね。あの性格じゃ恋人はおろか、一緒に遊ぶ友達もいないんでしょうね」
「淋しい人生だよな」
「ああはなりたくないよな」
 云いたい放題である。
 アルコールが入っているせいもあるが、彼らがこの厳しい上司に常日頃からどれだけ虐げられているか、誰もフォローする者がいないことでも察しがつく。

「まあ、誰かが休日出勤するときには必ず出てくるな」
「そうですね。俺、先週出たとき、室長がメシ奢ってくれました」
 笹で作ったような頼りない助け舟を出したのは宇野である。
 宇野は、第九の誰よりもMRIシステムに精通している。年に何回か行わねばならないシステムチェックの間は他の操作ができないので、その作業は休日に行なうことが多い。そのため、休日出勤が一番多いのは宇野である。
「俺は水曜日に代休取ったけど、室長は取らないんですよね。あのひと結局、2週間休みなしですよ」
「別に、出てきてくれって頼んでないのにな」
 宇野の出した助け舟は、小池の意見によってあっさり波間に沈められた。その上から石を投げ込むように、小池は引き続き室長の欠点をあげつらう。
「あのひとって、自分以外誰も信じられないんだよ。報告書一つにしてもめちゃめちゃ細かい所までチェック入れてさ。元のデータから全部見直してんだぜ、あれ。毎日毎日、遅くまで残業してるのはそのせいだよ」
 だから突然倒れたりするんだよ、と吐き捨てるように言ってジョッキを呷った。

「部下に仕事を任せられないってやつ? ちいさい男だね」
「小さい小さい。背丈なんか小学生並だもんな」
「うちのおふくろより小さいよ。でもって細いったら」
「青木と並ぶと大人と子供みたいだよな」
「おまえ、年の割りに老けて見えるからさ、お父さんと子供ってカンジ?」
 話を振られて、背の高い新人は曖昧に笑って見せた。

 先輩たちはひどく室長のことをけなすが、この新人は室長に憧れて第九に入ってきたという変り種だ。初めのうちこそ室長の厳しいイジメ、もとい指導に心が折れそうになっていたが、いろいろあって、今は室長を心の底から尊敬している。
 夢中で敬愛していると言い替えてもいい。むしろ、崇めている。
 室長のためなら、どんなことでもできる。あのひとの役に立ちたくてたまらない。あのひとに褒めてもらいたくて、あの優しい微笑を見たくて。いつも一緒にいたくて、片時もそばを離れたくなくて。

 つまり、恋をしている。

 青木は最近、現場で警察官の心得を室長から叩き込まれたばかりだ。
 青木にそれを教えてくれたときの薪の高潔な心に、冷静な仮面の裏の熱い正義感に、とうとう魂ごと持っていかれてしまった。
 その前から少しずつ惹かれてはいたのだが、ずっと迷い続けていた。
 いくら見かけがきれいでも、室長は男の人だし、自分より12歳も年上だし。いくら想いつめても叶うはずもないし、叶ってしまっても困るし。
 しかし、今はもうそんな段階ではなくなってしまった。
 迷いなどない。
 真っ直ぐに薪のことだけを見ている。

 薪の強さを、潔さを清廉さを、見れば見るほどきれいで透明で、どんどんのめり込んでいく自分を感じている。
 時々は引き返したほうがいいのかなと思うのだが、研究室で顔を合わせてしまうと、そんな考えは瞬時に消滅する。捜査に没頭する薪のひたむきな姿を見ていると、世間的な不利益を考えて自分の気持ちに嘘を吐こうとしている自分がひどくいやらしく思えて、迷わなくてもいいのだと確信してしまう。
 だからこうして、薪の悪口を聞いているのは、正直つらい。
 どうして先輩たちは室長の素晴らしさが分からないんだろう。そう思うが、新人の立場では先輩に意見することもできない。辛辣な陰口にも曖昧に笑うしかない。

「明日は多分、井之頭公園だな」
 薪のシンパだと噂される岡部が、独り言のように呟く。
 岡部は薪の味方のはずなのに、なぜ先輩たちに注意をしてくれないのだろう、と青木は思う。
 一番の年長者で実力も高い岡部の言うことなら、みなも素直に聞き入れてくれるに違いないのに。せっかくみんなが気分良く飲んでいるのに、水を差したくないということだろうか。気配り上手の岡部らしいが、青木には少し不満だ。

「公園ですか? ……もしかして、デートとか」
 薪は青木より一回り年上だから、今年で36歳になるはずだ。結婚を約束した恋人がいてもおかしくない。
 青木にとってはけっこうしんどい予想だったが、岡部はその可能性を笑い飛ばした。岡部だけではない。第九の職員たちはみな、青木の言葉にいっせいに噴き出し、畳の上に転がって笑いこけている。
 なんだろう、この反応は。
「でっ、デートって、おまえ……!」
「デート、あのひとが女の子とデート! ないない、ありえない!」
「どこにそんな勇気のある女がいるんだよ!」
「生きてる女に興味ないぞ、室長は」
 ひどい言われ方だ。薪みたいないい男に、恋人がいないとは考えにくいのだが。

「室長ってモテるじゃないですか。しょっちゅうラブレターが届いてますよね」
「ありゃ、半分は中傷だ。第九は警察内部でも風当たりが強いからな」
「……そうなんですか」
 去年の夏に起きた事件以来、非難の手紙が薪のところに届けられるようになった。
 いかにもそれらしく装ったピンクの封筒を開けてみると、便箋に『警察庁の面汚し』と書いてあったりする。他にも『人殺しは警察を辞めろ』『警視正の資格なし』『第九は閉鎖しろ』などと非難の言葉は限りない。

 どんなひどい言葉にも、平気な顔で中身を確認してはゴミ箱に捨てていた薪だったが、一通だけ薪の顔色を変えさせた手紙があった。

 『私の憧れだった鈴木さんを返して』

 その手紙には、女の文字でそう書いてあった。
 それから薪は、自分宛に届く私信の封を二度と切らなくなった。今では読みもせずにシュレッダーに直行である。それはそれでひどい話だ。

「青木。あのひとの彼女いない歴、何年だか知ってるのか? 間違いなく35年だぞ」
「室長みたいなエリートが? まさか」
「いくらエリートだって、あの性格じゃ。皮肉屋で陰険で意地悪で、その上お天気屋で癇癪持ちだぞ。相手の女性がノイローゼになっちまうよ」
 そこまで言うか。

「じゃあ、何をしに公園へ?」
「来ればわかる。動きやすい格好で7時ごろ来てみろ。珍しいもんが見られるぞ」
 岡部は事情を知っているようだが、詳しいことは教えてくれなかった。
 休日の朝7時とは、ずいぶん早い時間だ。しかし、薪に会えるのなら早起きするだけの価値はある。
 朝の公園なら散歩か。犬でも飼っているのだろうか。
 薪には、マルチーズのような小型犬が似合うだろう。いくら薪が偏屈でも、自分の愛犬にはきっと笑顔を見せるに違いない。岡部の言う『珍しいもの』というのは、きっとそういうことだ。

 薪の明るい笑顔を想像して、明日の朝が今から楽しみな青木だった。



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オフタイム(2)

オフタイム(2)





 吉祥寺にある井之頭公園は、森林浴のスポットとして有名である。
 広い敷地には遊歩道が整備されていて、ジョギングコースやちょっとしたアスレチック施設もある。季節の花や植物が美しく配置され、公園を訪れた人々の目を楽しませてくれる。恋人同士の散策には、もってこいの公園だ。

 こんな美しい公園を、薪とふたりで歩いたらどんなに幸せな気分だろう、と青木は考えている。
 薪の物静かな佇まいには、緑色の樹木が良く似合う。薪はそれほど活動的なタイプではないから、さんさんと照りつける太陽の下より、こういった静かな雰囲気がぴったりだ。
 遊歩道をゆっくりと歩く白百合のような美貌に、青木は声を掛ける。
『室長。散歩ですか?お供します』
 薪は青木の姿を見て少し驚くが、にっこりと微笑んで隣を歩くことを許してくれる。あまり口数が多くない薪のこと、取り立てて会話はないが、それでもこうして連れ立って歩いていると恋人同士のような甘い雰囲気に……。
―――― などと、中学生のような青臭い妄想をたくましくしていた青木だったが。

「も、もうだめです。限界です」
 現実の青木は、芝生の上に四つん這いになってゼイゼイと息を弾ませていた。
「限界って、おまえまだ2キロも走ってないだろ」
 確かに隣には薪の姿があるのだが、それは青木が想像していたものとはまるで違う。白地に黒の線が入ったトレーニングウェア姿。ジョギングシューズにスポーツタオル。今日の室長はめいっぱいアクティブないでたちである。
 そんな服装をしていると、とても青木より年上には見えない。きっちりとスーツを着ていてすら30代というのが信じられないのだ。ジャージ姿なんて間違いなく高校生だ。

 薪はその場で足踏みをしながら少しの間待っていてくれたようだったが、青木がもう立てそうにないことを見て取ると、大仰に肩を竦めて見せた。
「だらしないな。最近の若いもんは」
 まったくもって顔に似合わないセリフを吐いて、薪はジョギングの続きに戻る。セリフも似合わないが、室長の学者然とした雰囲気に、スポーツはもっと似合わない。

「こんなに走ったの、何年ぶりだろ」
 芝生の上に座り込んで、青木は息を整える。薪は走る速度を上げて前を行く岡部に追いつき、何事か話しかけている。たぶん、青木のヘタレっぷりを嗤っているのだろう。
「まさかジョギングなんて」

 薪は亜麻色の短髪を上下させながら、1周2キロのジョギングコースをひた走る。細い身体のどこにそんな体力があるのか、岡部と一緒のペースで早3週目である。
「青木、これ持ってろ」
 側を通り過ぎるときに、上着を投げられた。ウェアの下は半袖のTシャツを着ている。なんの変哲もない白いTシャツだが、薪が着ているとブランド品のように見えるから不思議だ。
 上着からは、甘やかで清冽な香りがする。これは薪の体臭なのだろうか。以前も薪はこの匂いを纏っていた。あのときは香水かと思ったが、どうやら違うようだ。

 5周目を回り終えた時点で、薪は走るのを止めた。息を弾ませながら青木のところへ歩いてくる。両膝に手を置いて前に屈み込み、荒い呼吸を繰り返している。
「青木、水くれ」
「あ、これオレのですから」
 新しいの買って来ます、という前に横取りされて、ペットボトルに半分ほど残っていたミネラルウォーターは薪の口の中に注ぎ込まれた。薪がこういうことに無頓着なのは知っているが、それでもやはりドギマギしてしまう。
 ごくごくと、白い喉が動いている。額や首筋に汗が流れていて、それが何故か妙にきれいだ。普通、男が汗にまみれるともっと汚らしく見えるものだが、やはり惚れた欲目なのだろうか。
 しなやかな腕。仰け反った細い首。汗でシャツが身体に張り付いているため、反り返った後頭部から背中のラインがはっきりとわかる。そのフォルムは、とても男のものとは思えない。肩も背中も華奢で頼りない。ウエストは青木の元カノより確実に細い。
 思わず見とれてしまう。やっぱりきれいだ。

 青木の視線の意味をどう捉えたのか、薪は秀麗な眉を寄せて軽く舌打ちした。
「……わかった、買って返すから」
 水くらいでケチくさいやつだ、と空のペットボトルを放ってよこす。
 誤解です、と青木は心の中で言い返す。まだそれを口に出せるほど、室長とは近しい関係ではない。
「岡部さんは?」
「まだ走ってる。岡部にはかなわん」
 薪は芝の上に仰向けに寝転がって、目を閉じた。呼吸を整えようと大きく息をする。薄い胸が上下して額には汗が浮かんで、その姿は見るものに蠱惑を与える。
 まるでそういう行為の後のような……あの艶めいたくちびるのせいだろうか。

「おまえ、もう少し体を鍛えたほうがいいぞ。この仕事は体力勝負だからな」
「室長はよく走ってるんですか?」
「まあな。毎朝5キロは走るぞ。平日は警視庁の中のジムでトレーニングするんだ。朝早いうちは誰もいないから」
 知らなかった。室長がこんなに体力づくりに熱心な人だったなんて。
 物静かでなよやかなイメージとはかけ離れた薪の習慣に、青木はびっくりしている。ジムでトレーニングなんて、想像もつかない。

 20キロを完走して、岡部がこちらへやってくる。冷たい水が入ったペットボトルを2本、手に下げている。片方を薪に渡して青木の隣に腰を下ろすが、表情はまだまだ余裕のようだ。岡部の体力は底なしらしい。
「岡部さん。知ってました?室長がジムでトレーニングしてるって」
 もちろん、という顔で岡部は頷いた。薪のことなら何でも知っていると言いたげだ。青木は微かな嫉妬を覚える。岡部と薪の信頼関係が、ひどく羨ましい。

 「ジムで竹内に会うそうですね」
 「あのバカ、ああ見えてよくトレーニングしてるんだ」
 ひょいと腹筋で起き上がり、薪は芝生の上に胡坐をかいた。
 男の人だから自然な座り方なのだが、やっぱり顔に似合わない。薪には、椅子の上でスマートに足を組んでいて欲しい。が、実際は職場でも足を組んでいることはあまりない。背筋をピシッと伸ばして、きっちりと両足を床に着けているのがいつものスタイルだ。
「竹内さんて、捜一の?」
 竹内という人物は捜査一課のエースで、薪とはあまり仲が良くない。青木もまだ、竹内のことは噂でしか知らない。何でも署内モテる男№1で、俳優のような色男だという。
「細く見えるけど、あいつ僕より筋肉あるんだ」
 その事実は室長にとって、面白くないらしい。いくらか顰められた眉と、尖らせたつややかな口唇が薪の不満を表している。
「バカのクセに、生意気なんだよな」
 竹内は確か京大出のエリートだ。それをバカと言い切ってしまうところがすごい。
「竹内はキャリアですよ」
「キャリアだって、バカはバカだ。おまえはキャリアじゃないけど、竹内よりずっと話が通じる。竹内の頭には、毛虫程度の脳みそしか入ってないんだ」
 薪は岡部にだけはこんなふうに、砕けた口調で話をする。表情も研究室にいるときとは大分ちがう。決してにこやかではないが、無表情ではない。

「それ、竹内が聞いたら泣きますよ」
「あいつが泣くようなタマか。そもそもあいつに涙なんかあるのか? 親が死んでも泣かないぞ、きっと」
「どんだけ嫌ってんですか」
「世界で3番目にきらいだ」
「ベスト1と2は誰ですか?」
「2番目は三田村のバカだ。1番は」
 そこで薪は、ちらりと青木の顔を見る。まさか自分じゃないですよね、と不安になってしまう青木である。そこまで嫌われることはしていないと思うが、いや……。

 やはり、あれだろうか。

 第九に来たばかりの頃、無神経にも鈴木の脳を薪に見せた。あのことで、自分を恨んでいるのだろうか。
 一度、きちんと謝っておいたほうがいいのかもしれない。しかし、もしも違っていたら、また余計なことを蒸し返してしまう。

 ふと、青木は自分の膝に微震を感じた。預かっていた薪の上着のポケットで、携帯電話が震えている。薪がすぐに気が付いて上着を取り上げ、電話に出た。
 「はい、薪。……分かりました。すぐに伺います」
 簡潔な会話の後、薪は慌しく上着を着込んだ。所長からの呼び出しらしい。休日だというのに、室長は本当に忙しい。
「俺も行きましょうか」
「いや。僕ひとりで十分だ」
 岡部の申し出を断ってすっくと立ち上がると、薪は封を切っていないペットボトルを青木に放ってよこした。
「あんまりケチくさいこと言ってると、女にもてないぞ」
 だから誤解ですったら。
 どう言ったらいいものか困惑顔の青木に意地悪な笑みをくれて、室長は歩き去った。
 薪の眼に、自分はどう映っているのだろう。出来の悪い手のかかる新人―――― 残念ながら、まだそんなところだろう。

「薪さんの朝メシ、食い損ねたな」
「はい?」
「いつもなら、これから薪さんちで朝メシ食うんだ。あのひとの料理は美味いぞ」
「え!? 室長、料理なんかするんですか」
 意外だ。これもまた想像がつかない。
「卵焼きなんかプロはだしだぞ。味噌汁もちゃんと出汁をとってな」
 岡部は、薪の自宅にもよく遊びに行くと聞いた。休みの前日などはふたりで飲みに行くことも多いという。
「岡部さんて、本当に室長と仲がいいんですね」
「仲がいいっていうか、危なくてひとりにしておけないっていうか」
「は?」
「まあ、あの人とは年も近いし。経験した部署も同じだから、話が合うのかもな」

 岡部は薪よりひとつ年上。第九の中で唯一、薪の先達である。
 階級は下でも、警察官としての経験年数なら18年にもなる。長い下積み期間を経て捜査一課に配属になった岡部は、そこで水を得た魚のごとくめきめきと頭角を顕し、たちまち捜一のエースとなった。犯人検挙率トップの座を守り続けて4年。その実力を買われてキャリア限定の第九へ特別に異動となったわけだが、それは警視総監じきじきの人事だったと聞いている。薪が頼りにするわけだ。

 あと10年早く生まれたかった。そうしたら。
 岡部ほどではなくとも、もう少し薪と親しくなれたかもしれない。いかんせん、12歳の年の差は厳しい。
 羨望の眼差しで頼りがいのある先輩を見ながら、青木は自分の若さを嘆いていた。




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オフタイム(3)

オフタイム(3)








 岡部のおかげで薪の意外な一面を知ることができた青木だったが、翌週には更に大きく薪のイメージを変える出来事があった。
『青木くん。面白いもの見せてあげるから、道場に来なさい』
 一日の職務を終えての帰り道、法一の女医からそんな電話が入ったのだ。

「法医第一研究室の女薪」と称される彼女は、腕利きの監察医である。第九にもちょくちょく解剖所見と差し入れを持って来てくれるのだが、それはカモフラージュで、本当の目的はたぶん薪だ。
 こんな言い方をすると恋愛関係かと思われがちだが、雪子の方はそれをきっぱりと否定している。
 雪子は、薪が射殺した鈴木の婚約者だった。それを青木は、本人の口から聞かされたばかりだ。
『婚約者を殺した男と、恋仲にはなれないわ』
 青木の邪推を、雪子はそんな言葉でばっさりと切り捨てた。その上、青木の薪に対する気持ちまであっさりと看破して見せた。現在、雪子は青木の恋の相談相手である。

 ただ、薪の方はどう思っているのかわからない。

 薪は雪子に対してだけはいつもにこやかで優しくて、どう見てもただの女友達に対する態度とは思えない。もしかしたら、鈴木が生きていたころから雪子に想いを寄せていて、でも親友の彼女だから遠慮していたのかもしれない。それがあの事件のせいで、余計に愛してはいけない女になってしまった。だが、諦めきれない―――― ふたりの関係は、そんなふうにも取れるのだ。
『親友でライバルなの』
 雪子は、薪との関係をそう定義づけた。
 親友は分かるが、ライバルというのは意味不明だ。仕事の上で張り合っている、ということだろうか。犬猿の仲である捜査一課と違って、第九と法一はそれほど対立することはないのだが。

 さておき。
 雪子が指定した道場は警視庁の中にある。
 警察官にとって、武道の修練は大切な仕事のひとつだ。特に現場に出る一般の警察官には、警察学校を卒業する際に柔道あるいは剣道の初段習得が義務付けられている。しかし、青木のようなキャリア組には、そのような義務付けはない。キャリアは基本的に現場には出ないからだ。警大で柔道の基本だけは学んだが、実戦経験はないに等しい。道場に行くのも、これが初めてだ。
 ましてや監察医の雪子にとっては、道場などまったく関係のない場所と思われるが、いったい何事だろう?

 道場の扉を開けて中に入った青木は、思わず我が目を疑ってしまった。
 自主稽古に余念のない多くの職員に混じって、青木の見知った顔がある。雪子と薪と岡部の3人だ。
 薪が似合わない柔道着姿で雪子と向かい合っている。まさか組み手をしようとしているわけではあるまいが、この状況はそれ以外に説明のつけようがない。
 お互い真面目な顔をして腰を低くし、相手の道着を取りに行く。雪子の足が外側から薪の足首を払い、見事な大外刈りが決まった。
「痛ッ!!」
 なるほど、面白いものとはこのことか。

 薪の醜態に、青木は思わず噴き出してしまう。いくら自分より体が大きいとはいえ、女の雪子にこうも簡単に倒されてしまうとは。
 しかし、そこがまた可愛らしい。薪の弱さは青木の庇護欲をかき立てる。守ってあげたいという気持ちになるのだ。
「いま、受身取るヒマなかっ……手加減してくださいよ、雪子さん」
「ムリよ。薪くん相手に手加減できるほど、あたし強くないもの」
「よく言いますよ。いたた」
 畳の上に座り込んで、薪は左の腰の辺りを押さえている。薪の柔道の実力は、大したことはないらしい。それも当たり前のことだ。薪は青木と同じキャリア組。武術など必要ない。

 青木の姿に気づいて、雪子がこちらに歩いてきた。女だてらに道着姿がばっちり決まっているのは、薪より10cm以上も高い身長の為せる業だ。
「青木くん。見てた? あたしの勇姿」
「すごいんですね、三好先生」
「まあね」
「引き換え、うちの室長は」
 薪はまだ座ったままだ。よほど痛かったらしい。
 これまた道着姿が板についた岡部が、薪に手を貸して立たせようとしている。岡部に比べると、薪の道着姿はまるで中学生くらいの子供のようで、それだけで笑えてしまう。

「あら。薪くんは強いわよ」
「だって、いま」
 薪が振り返って青木のほうを見る。青木の表情を見て取って、自分が笑われているのが分かったらしい。ジロりと凶悪な目をして、それから何を思ったのかニヤリと笑った。
「青木。ちょうどいい。練習相手になってくれ。雪子さんも岡部も僕とは実力が違いすぎて、痣が増えるばかりなんだ」
「いいですけど」
 青木も柔道は授業で習った程度だが、この体格差である。負けるとは思えない。それどころか、下手をしたら怪我をさせてしまうかもしれない。
 青木は岡部に道着の上だけを借りて、紐を締めた。雪子がそっと青木の袖を引いて、アドバイスをしてくれた。
「寝技に持ち込めば、勝てるかもしれないわよ」
 青木の気持ちを知っている雪子ならではの、きわどいアドバイスだ。その時、青木はそう思っていた。

 薪と向き合って礼をする。顔を上げて相手の目を見る。重心を低くして、構えを取る。
 薪がこちらに踏み込んできた。意外と素早い。あっと思ったときには道着の襟を摑まれて、下に潜り込まれていた。体勢を崩したところに足払いを掛けられてたたらを踏む。何とか踏みとどまるが、けっこうきつい蹴りだ。
 小さいくせに生意気な、と細い腕に手をかける。これだけの体重差があるのだ。押さえ込んでしまえばこっちのものだ。
 ところが。

 薪はさっと身を翻すと、青木が伸ばした腕を自分の肩にかけ、前方に引っ張った。そのまま思いがけない力で引き摺られ、周りの風景が一回転したかと思うと、次の瞬間畳の上に仰向けに倒されていた。
「おまえ、弱すぎ」
 きれいな顔で厳しい意見を吐いて、薪は腕を組んだ。
「うそ……」
 薪との身長差は、30cm近くある。体重は30キロ以上違うはずだ。それなのに、自分を投げ飛ばすなんて。

「だから寝技に持ち込めって言ったのに。体重かけちゃえば、身動き取れないんだから」
「大丈夫か? 青木」
 仰向けになったままの青木に、岡部が屈んで話しかけてくる。
「岡部さん。室長って柔道やってたんですか?」
「知らなかったのか? 薪さんは柔道と空手、どっちも2段だぞ」
「えっ!? あんなちっこいのに?」
 途端、道場の空気がビシッと凍りついた。
「バカおまえ、それ言ったら……!」

「青木。警察官は日頃の鍛錬が大切なんだ。僕がたっぷり稽古つけてやる」
 バキボキと華奢な手を鳴らして、薪はにっこりと微笑んだ。こういう時、薪は本当にきれいに笑う。笑いかけられたほうは、めちゃめちゃ怖いが。
「いえあの、今日はちょっと用事が、痛たたたたッ!!」
 左の肘に関節技を決められて、青木が悲鳴を上げた。
「あらあら。仲のいいこと」
 他人事だと思って、雪子は呑気なことを言っている。こっちは本当に痛いのだ。
 と、腕にかけられた力が不意に消えた。さっと手を離して、薪は岡部のほうに歩いていく。

「雪子さん、こいつの手当てお願いします」
 雪子にそれだけ言うと、後はもう青木の方を見もしない。
「岡部。今日、一杯飲まないか?」
「いいですよ。『瑞樹』にしますか?」
「うん」
 そんな羨ましい会話を交わしながら、2人の上司は連れ立って道場を出て行った。残された青木は、ひどく寂しい気分になる。

「いいなあ……岡部さん」
「妬かない妬かない。これからよ」
 雪子は元気付けてくれるが、青木には自信がない。捜査官としても男としても、自分はまだまだ未熟だ。岡部のように薪に頼ってもらうには、あと何年かかることか。
「あたしに任せなさい。最短コースで薪くんの心に入らせてあげるから」
「ほんとですか」
「あたしが何年薪くんの親友やってると思ってるの? 薪くんのことなら、職場のだれより詳しいわよ」
 まったく、雪子は青木にとっては女神のような存在だ。いつもこうして青木のことを励ましてくれる。迷ったときも悩んだときも、その強気な瞳で青木を導いてくれる。

「三好先生。夕飯、何がいいですか?」
 下心みえみえの青木の誘いに、道着姿の美女は嫣然と微笑んだ。





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オフタイム(4)

オフタイム(4)







 美濃部焼きのぐいのみを細い指が傾けて、透明な甘露をつややかなくちびるへと運ぶ。芳醇な味と鼻に抜ける吟醸酒独特の香りに目を細め、薪は満足そうにため息をついた。
「くーっ、酒は日本酒に限るよな」
 親父くさいセリフに思わず笑ってしまう。まるで顔に合っていない。

 外見とのギャップが激しいのが薪の特徴だ、と岡部は最近ようやく理解してきた。
 女のような顔をして、中身は本当に普通の男だ。付き合いを重ねてみれば、べつに気取ってもいないし上品でもない。今も岡部の前で胡坐をかいて、炙ったするめを齧っている。
 もちろん第九の室長として重鎮との会合の席には慣れているから、その気になれば優雅に振舞えるのだが、薪が本当に好きなのは、こういう静かな店でゆっくり飲む日本酒だ。
 
「それにしても、最近の若いもんは情けないな」
 その年寄りくさいセリフは、もう3回目だ。酔っ払いは繰り返す、というのは本当なのだ。
「まあ、仕方ないでしょう。青木はキャリアですから」
「関係ないだろ。竹内のバカもキャリアだけど、あんなにトレーニングしてる。うちの連中だって柔道はともかく、2キロも走れないやつなんていないぞ」
「竹内は一課の人間ですし、うちの連中はみんな所轄を経験してますからね。青木はまだ警大を出て1年足らずなんですから、そう言っちゃ可哀相ですよ」
「でも、僕があいつの年にはもっと」
 岡部の酌を受けながら、薪は新人の不甲斐なさを嘆いている。そう見せかけてその実、薪が青木のことをひどく心配していることに、岡部は気付いていた。
 あの新人が入ってきてから、薪はずっと彼のことを気にしている。
 いつも心配そうに見ているし、岡部にもしょっちゅう青木のことを聞いてくる。初めの2ヶ月くらいは、青木も慣れない職場に悪戦苦闘しているようだったから岡部も心配していたのだが、「役立たずは第九にはいらん」と言い切ってしまう薪にしては珍しい傾向だ。

「まあ、この頃は少しがんばってるみたいだけどな」
 薪の言葉は、ずい分と控えめな評価だ。
 4月頃から青木は、誰に言われたわけでもないのに、自主的に訓練を始めた。毎日遅くまで残って、機器操作の練習や専門書の解読に打ち込むようになったのだ。
 MRIシステムの操作の難しさは半端ではない。岡部たちも第九に入った当初は、連日のように薪から特訓を受けた。
 岡部が第九に来たのは去年の夏。例の事件の直後だった。
 当時、ほとんど機能停止状態の第九に異動になって初めて薪に会い、その複雑怪奇な人格に驚きながらも、捜査官としての類まれなる能力に魅せられて今に至っている。
 あの頃の第九は、あの事件のせいで開店休業状態だったから、操作訓練の時間はいくらでもあった。なにより、室長の他にMRIシステムを扱えるものがいなかったのだ。職務時間を全部練習に当ててでも、岡部たちには操作を習得する必要があった。
 青木が入ってきたのは、それから5ヵ月後のことだ。
 失地回復とまでは行かなかったが、それでも氷河期のような時期は乗り越えて、ようやく平常業務に戻れたころだ。だから青木には岡部たちほど緊急に操作方法を覚える必要もなく、自主訓練は日中の業務を終わらせてからということになり、習得に時間がかかっているのは仕方のないことと思われた。

「青木は努力家だし、飲み込みもいいですよ。さすが薪さんの後輩です」
「学歴なんか、クソの役にも立たないぞ。東大出の人間が今まで何人第九を辞めていったか、岡部だって知ってるだろ」
 辞めていったというか薪に辞めさせられたというか、その辺は敢えて曖昧にすることにして、岡部は上司のぐいのみに酒を注いだ。
「ろくな実力もないくせにプライドばっかり高くて、使いづらいったら。おまえたちのほうがよっぽど役に立つ」
「青木は大丈夫ですよ。素直で単純で、かわいいやつです」
 岡部も学歴を鼻にかけるキャリアは嫌いだが、青木にはまるでそういうところがない。キャリア組にしては珍しいタイプだ。
「だから危ないんだ。ああいうタイプは持っていかれやすい。それじゃなくてもあいつは一度、あれを見てるから……」
 言いかけて、薪は口を閉ざした。亜麻色の頭を左右に軽く振って、岡部の訝しげな視線をいなす。
「いや、なんでもない」

 捜査一課で数多の嘘を見抜いてきた岡部には、以前から薪が何か自分に隠し事をしていることが分かっていた。室長としての立場でしか知りえない秘密も多い薪のこと、岡部に言えないこともあって当たり前なのだが、どうもこれは捜査上の秘密というわけではないようだ。
 これまでにも薪は、何度も岡部にそれを言い出そうとしては途中で止めている。上層部から口止めされた機密情報の類いなら、薪は最初から話す素振りなどみせないはずだ。何かしら含むところがあるのだろうが、先のことを考えすぎて、結局なにも言えなくなってしまうのは薪の悪いクセだ。

 腹の中に溜め込んだものをアルコールで流してしまおうとするかのように、その夜の薪は早いピッチでしたたかに飲んだ。
「薪さん。飲みすぎですよ」
「うるさいな。自分がちょっと酒に強いからっていい気になるなよ。僕だってその気になれば酒の一升や二升……う~ん……なんで岡部が2人いるんだ?」
 座卓に突っ伏してくだを巻いている室長など、滅多と見られるものではない。雪子がここにいたら、間違いなくカメラに収めているだろう。

 腰が立たなくなってしまった薪を背負って、岡部は店を出た。薪と酒を飲むと、3回に1回はこのパターンだ。たいして強くもないくせに、岡部のペースに合わせようとするからこうなるのだ。
 酒は強いほうが男らしいと思い込んでいるらしい。男らしさを強調したいのだったら、薪の場合は根本的な解決策が必要だ。例えば整形手術とか。
 タクシーを捕まえて一緒に乗り込む。マンションに着いても、一人では部屋まで歩けないだろう。薪の部屋は2階だから、そこまではまた背負っていかねばならない。まったく手のかかる上司だ。
「ん~、田城さん……追加予算、ありがとうごさいます」
 岡部の苦労も知らずに、薪は半分夢の中にいる。
 しょうがねえな、と口では言うが、こんなふうに頼られるのはまんざら悪い気分ではない。職場では鬼の室長だの氷の警視正だのと称される薪が、自分の前ではこんなに無防備な姿を見せてくれる。それは岡部と薪が共有する、ある秘密のせいかもしれない。

 信号待ちの間、何気なく窓の外を見ていた岡部は、道行く人々の中に見覚えのある長身の男を発見した。第九の新人である。
 一軒の中華飯店から出てきたところで、しかしひとりではない。隣にこれまた見覚えのある黒髪の美女―――― 雪子だ。
 薪のセリフではないが、最近の若いもんは仕事は半人前のくせにこういうことだけは素早いらしい。しかし雪子に誘いをかけるとは、青木はなかなか勇気がある。

「仕事の手も、あれくらい早けりゃな」
 いつの間にか目を覚ました薪が、早速辛辣な意見を述べる。しかしこの件に関しては、岡部も薪の意見に全面的に賛成だ。
「でも、いい雰囲気だな。あのふたり」
「そうですか? 俺にはそうは見えませんけど」
 恋人同士というよりは、何だか姉と弟のようである。12歳という年齢差のせいか、何となく色気が足りないのだ。
「おまえはこういうことには疎いからな。僕にはわかるんだ」
 自分ではそう言うが、薪も恋愛にはかなり疎遠なほうだと岡部は思っている。
 その秀麗な容姿から男女問わず好意を寄せられている薪だが、女気の無さなら岡部とあまり変わらない。金曜の夜に、自分と酒を飲んでいるくらいだ。第九の部下たちの陰口の通り、彼女いない歴35年はけっこう的を射ているのではないかと思う岡部である。

 知らないうちに逢瀬の事実を上司に見られてしまった青木だが、店の前で二言三言、言葉を交わしただけで雪子とは別れてしまった。軽く手を振って去っていく雪子に、青木は頭を下げている。やっぱり恋人同士には見えない。
「あ、何やってんだ、あいつ。ここで帰しちゃダメだろう」
「三好先生だから心配ないと思いますけど。一応、送るべきでしょうね」
「なに言ってんだ。ちょっと歩けばホテル街があるだろ」
「あれはそういうんじゃないと思いますけど」
 青木は相手を見送るわけでもなく、さっさと踵を返して駅のほうに歩いていく。どう見ても、雪子に恋心を抱いているようには思えない。
「情けないやつ。ここで決めなきゃ男じゃないだろ」
「だから違うと思いますよ」
「女なんかやっちゃえばこっちのもんなのに」
 女のような顔をして、世界中の女性を敵に回すようなことを言っている。本気でそう思っているわけではないだろうが、まったく外見にそぐわない。
「三好先生に聞かれたら、肩車くらいますよ」
「コワイこと言うなよ」
 岡部の冗談に、薪はぎょっとした顔になる。絶対に内緒だぞ、と口の前に人差し指を立てて、大げさに身震いしてみせる。
 実際、薪は雪子にだけは頭が上がらない。この力関係は、大学生の頃には既に確立されていたというから、10年以上も続いていることになる。もう、一生このままかもしれない。

 信号が変わって車がスタートし、流れる景色の中に青木の姿も消えた。車中の話題は、自然と青木のことになる。
「青木はさ、鈴木によく似てるから。雪子さんもきっと気に入ると思ってたんだ」
「まあ、仲は良いようですね」
「青木も」
 言いかけて、止める。
 薪の隠し事は、どうやらこの新人に関することらしい。

「それにしても、ほんとに似てるよな。まるで鈴木の生まれ変わりみたいだ」
「そんなに似てますかね?」
「似てるさ。おまえは鈴木のことを写真でしか知らないから分からないんだ。顔も性格も考え方も……10年以上も親友やってた僕が言うんだ。間違いない」
 自信たっぷりに言い切るが、岡部にはそこまで似ているようには見えない。たしかに雰囲気は似ているかもしれないが、生まれ変わりというのは大袈裟だと思う。
 岡部は写真だけでなく、現実の鈴木も見ている。それほど親しかったわけではないが、いつもにこにこしていて、エリート然としたイメージの強い第九の人間とは思えないくらい人当たりの良い人物だったと記憶している。

 鈴木は、室長の薪のそばに常に寄り添っていて、二人の仲の良さは署内でも有名だった。
 だが、彼らの性格はまるで正反対で『仏の鈴木・鬼の薪』となどと揶揄され、このふたりが何故こうも仲がよいのか、ひとえに鈴木の忍耐によるものと噂では囁かれていたが、それは違うと岡部は確信している。
 薪と鈴木が二人で写っている写真を、岡部は見たことがある。ふたりの笑顔を見れば、お互いを大切に思い合っていることがはっきりと伝わってくる。本当に仲の良い親友同士だったのだ。

 それが、どうしてあんなことになってしまったのか―――――。

 昨年の悲劇は、薪からあの笑顔を永遠に奪い去った。
 この世から姿を消した薪の親友が、持っていってしまった。いつになったら返してもらえるものか、見当もつかない。
 薪が青木のことをやたらと気に掛けるのは、青木がその親友に似ているからだ。かれを思い出させる青木を、ついつい目で追ってしまうのだろう。青木が第九に入ったばかりの頃は、それが特に顕著だった。
 あの頃は青木自身もかなり精神的に参っていた時期だったから、余計に心配だったのだろう。早く異動させないと精神を病んでしまうかもしれないと危惧して、しきりと異動届を出すように促していたようだった。単純な青木は、それを自分が薪に疎まれているものと誤解していたらしいが、薪はそんな狭量な男ではない。少なくとも、仕事に私情は挟まない。岡部は薪のそういうところを尊敬している。

「女性の好みも似てるはずだ。問題は年の差だよな。12歳は厳しいかなあ」
「青木にはもったいないんじゃないですか?」
「そうだけどさ、大切なのは雪子さんの気持ちだから」
 青木の気持ちはどうでもいいらしい。
 薪は雪子のことをとても大事にしている。頭が上がらないのも事実だが、それ以上に友人として―――― 本音を言ってしまえば、自分が殺した親友の婚約者に対する贖罪の気持ちから、雪子の幸せを切望している。
 雪子が望むなら、薪は大抵のことは叶えてやる。
 雪子は聡明な女性だから、薪の気持ちを利用するようなことはしない。図に乗ったりもしない。雪子自身やはり薪のことを大切に思っていて、岡部は最初この二人は恋人同士なのかと誤解していたくらいだ。

「僕が取り持ってやろうかな」
「余計なことしないほうがいいと思いますよ。男と女なんて、周りがどう騒いでも、結局は本人たち次第なんですから。かえってギクシャクさせるだけですよ」
 恋愛の機微に疎い薪が何かしようものなら、熱愛中の恋人同士でさえまぜっかえしてしまうに違いない。あの2人はそういう関係ではないが、どちらにせよここは抑えなければ。

「そんなもんかな」
「そうですよ」
「まあ、確かに。誰かに言われたからって、その人を好きになるわけじゃないものな」
 なにかを思い出したかのように切ない目になって、薪は独り言のように呟く。
「理屈じゃないんだよな。好きになっちゃいけないひとを好きになっちゃったりしてさ。自分でもどうにもならなくなって……でも、好きでいるのを止めることもできなくて。キツイんだよな、あれって」
 薪にも、辛い恋の記憶があるらしい。30年以上生きていれば、そんな経験のひとつやふたつ、あって当たり前だ。
 
「それじゃなくても女と付き合うのって疲れるよな。面倒だし」
「室長だってまだ若いんですから。恋人ぐらい作ったらどうですか」
「僕はいいんだ。一生だれとも結婚する気ないから」
 なんとも寂しいことをさらりと口にして、薪は話題を変えた。
「それよりもさ、小池のやつ、最近彼女と別れたんだって?」
「何でも月に2回しかデートできなかったとかで。上司命令で仕方ないんだって彼女に言ったら、『じゃあ上司と結婚すれば』って怒鳴られたみたいですよ」
「そうすると、残る彼女持ちは今井だけか」
 薪はお得意の意地悪そうな笑いを浮かべて、さもおかしそうに言った。

「今井のシフト組み直して、2ヶ月くらい休み無しにしてやろうかな」
 やりかねない。
 こういう意地悪を考えるとき、薪はとても楽しそうだ。困った上司である。
「MRIのメンテとバックアップ、週末ごとに入れてやりましょうか」
「よし。決まりだな」
 本人が聞いたら確実に泣き出しそうな冗談を言って、第九の室長とその腹心の部下はニヤニヤと笑う。岡部もすっかりエスプリの利いた冗談に慣れてしまって、単純なネタではそう簡単に笑えなくなってしまった。上司の影響というのは恐ろしい。

 薪のマンションまでの車中で四方山話をしながら、岡部は薪が抱えている秘密について考えている。どうやら薪は、今日もその打ち明け話を岡部にしてくれるつもりはないらしい。
 ここで突っ込んで訊けないところが俺のダメなところだな、と岡部は思う。
 岡部は慎重派だ。相手の気持ちを尊重しようとすると、どうしても自分の行動にブレーキがかかる。自制心も人一倍、強いほうだ。
 薪を本当の意味で救ってやれるのは自分ではない。自分はただ、薪の表面に噴き出した血を拭いてやれるだけで、奥深くに刻まれた傷を癒してやることはできない。それには薪の心の奥まで入っていかなくてはならないし、自分にはそれは無理だ。
 薪の心に入ろうとすれば、そこで大きな抵抗にあう。自分はその時点で諦めざるを得ない。自分の性格ではそれ以上は進めない。薪を救うには無理やりにでも薪の心に入っていって、力づくでも過去の妄執から引き摺り出すくらいの強引さが不可欠だが、岡部にはそれはない。

 薪の過去は、薪のものでしかない。
 結局は自分自身で立ち直るしかないのだが、薪のような場合はきっと誰かの助けが必要で、その誰かは自分ではない。自分は薪を見守ることしかできない。部下として、友人として、そばにいてやることしかできないのだ。
 その誰かが薪をしっかりと支えてくれる日が来るまで、岡部は薪を見守るつもりでいる。が、本人がこの調子ではまだ先は長い。薪は今のところ仕事以外には興味を示さないし、仕事では薪の支えにはならない。

 薪のマンションに到着したのは、11時を回った頃だった。
「ひとりで大丈夫ですか?」
「平気だ。じゃあ、また明日な」
「おやすみなさい」
 どうやら酩酊状態からは抜け出したらしい。
 薪は車を降りてマンションの自動ドアをくぐり、エントランスを通って奥の階段の方へ歩いていく。その様子を岡部は、車の中からじっと見ている。

「お客さんはどちらまで?」
「もう少し待ってくれ」
 階段を上っていく薪の姿が見えなくなり、しばらくすると二階の部屋に明かりが点った。
 偏光ガラスを使用しているので中の様子はまったく見えないが、ここまで自分の目で確かめなければ安心できない。店の前であっさり別れた男女とは対照的だ。
「新橋2丁目まで頼む」
「はい」
 薪の安らかな眠りを祈って、岡部はようやく帰途についた。



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オフタイム(5)

オフタイム(5)







 翌日の昼休み、青木は研究所の近くの珈琲問屋を訪れた。

 天心天の酢豚とエビチリで手に入れた雪子からの情報によると、薪はコーヒーが好きらしい。他にもいくつか薪の好みは聞いたのだが、職場で用意できるものといったら飲み物と菓子ぐらいしかない。甘いものはそれほど好きではないというから、せめて美味しいコーヒーを飲ませてやろうと、こうして豆から選ぶことにしたのだ。
 青木もコーヒーは飲むが、コーヒー好きという程でもない。コーヒーとビールが並んでいたら、間違いなく後者を手に取る。

 店の中に一歩足を踏み入れると、コーヒーのいい匂いが立ち込めていた。思わず鼻をひくひくさせてしまう。
 ガーッという音がして、その音の方から強い香りが漂ってくる。コーヒー豆を挽く時にこんなに良い香りがするとは知らなかった。コーヒーメーカーでコーヒーを落としている時より、何倍も強い匂いだ。コーヒー好きにとってはたまらない匂いだろう。薪にも嗅がせてやりたいものだ。
 店員のお勧めというキリマンジャロを買って、早速コーヒーメーカーで淹れてみる。なるほど、研究所の購買部で買うコーヒーとは香りが違うような気がする。値段のほうも倍くらい違うが。

 落としたてのコーヒーを持って、室長室を訪れる。薪には、研究所内のカフェテリアや街の食堂でランチを摂る習慣がない。この時間は室長室で昼寝をしているはずだ。
 が、お目当ての寝椅子に薪の姿はなかった。
 視線を巡らせて、思いがけない場所に薪の姿を発見し、青木は思わず大きな声をあげた。
「室長! なにしてるんですか?」

 窓枠の上にこちら側を向いて不安定な格好で立ち、左手で窓の上辺を持って自分の体重を支えている。胸から上の部分は完全に窓の外に乗り出しており、右手を窓の上部に伸ばして、外壁から何かを取ろうとしている。
 窓の外にベランダはない。ここは3階だ。落ちたら確実に怪我をする。
「ああ……鳥ですね?」
 ばさばさと、翼をはためかせる音がしている。どうやら小鳥が換気扇の隙間に挟まってもがいているらしい。それを助けようとしているのだ。
「うるさくて昼寝ができん」
 口ではそんなことを言うが、本当はやさしいのだ。ひとに言われたままを信じてしまうことが多い青木にも、それくらいは分かる。
「オレがやりますよ」
 換気扇は窓よりだいぶ高いところにあって、薪の身長では爪先立ってもなかなか手が届かないようだ。危なっかしくて見ていられない。万が一落ちても受け止められるように、両腕を薪の足の周りに差し伸べる。

「大丈夫だ」
「でも、薪さんの身長じゃ届かないんじゃ」
「バカにするな。僕だってこれくらい―――― わっ!」
 言ってるそばから体勢を崩して、薪は足を踏み外した。構えていた青木の腕の中に落ちてくる。とっさに抱きとめて墜落を防ぐ。
 仰け反った背中を右手で支え、左手で腰を支える。抱きかかえるようにして部屋の中に華奢な身体を下ろす。小さな手が、青木のワイシャツを握り締めている。
「大丈夫ですか?」
 少し、顔が青くなっている。怖かったらしい。
 その様子があまりに可愛らしくて、つい抱きしめてしまった。はた、と気づいて慌てて身体を離す。早く離れないと、また投げ飛ばされてしまう。

 薪を寝椅子に座らせて、青木はひょいと窓枠に乗り、換気扇に挟まっていた鳥を開放してやった。こいつに罪はないが、もう少しで大切なひとが怪我をするところだった。思わず鳥を睨みつけてしまう。

 薪はまだ青白い顔をしている。亜麻色の瞳は、涙で潤んでいるようにも見える。そんなに怖かったのだろうか。
「これ、飲んでみてください。きっと落ち着きますよ」
 青木が差し出したコーヒーを受け取って、しかし口にしようとはしない。じっと青木の顔を見つめている。その目はいつもの冷静な瞳ではなく、熱に浮かされたような情を含んだ眼で……。
 これはもしかして、「つり橋効果」というやつかもしれない。
 生命の危険を感じて心拍が上がった現象を恋のときめきと勘違いする、というあれだ。青木には思いがけない僥倖である。あの小鳥に感謝しなくては。

……睨まれたり感謝されたり。小鳥のほうも災難である。

「薪さん。そのコーヒーはキリマンジャロのストレートなんですよ。購買部のブレンドとは違いますから、試してみてください」
 コーヒーにかこつけて、ぐっと顔を近づける。薪に接近できるチャンスは、何が何でも逃したくない。
 薪はびくりと肩を上げて、後ろへと身を引く。寝椅子の背もたれに当たって、これ以上は下がれないところで青木の視線を受け止める。いくらか頬が紅潮してきて、つややかなくちびるが何事か言いたげに小さく開かれた。

「……出て行け」
 薪は不意に横を向くと、手付かずのコーヒーカップを青木に突き返した。
「僕は昼寝をしたいんだ。コーヒーはいらない。出て行け」
「……すみません」
 それもそうだ。薪は昼休みにはいつも昼寝をしているのだから、コーヒーのカフェインは邪魔になるだけだ。うっかりしていた。
「じゃ、明日の朝お持ちしますね。楽しみにしててください」

 薪の都合を考えなかった自分が悪い。青木は素直に室長室を出ると、モニタールームに戻った。せっかくのコーヒーが無駄になってしまってがっかりだが、捨ててしまうのも勿体ないので自分で飲むことにする。
 珈琲問屋で嗅いだあの匂いに比べると、コーヒーカップの中の液体は気の抜けたような匂いだ。抽出してしまうとこんなものなのかな、と少し残念に思う青木である。
 冷たく黒い液体を飲みながら、青木は帰りに珈琲問屋に寄って美味しいコーヒーを淹れるコツを教えてもらおうと考えていた。




*****




 室長室にひとり、薪は寝椅子の上にうずくまっている。
 両膝を抱えて、踵を椅子の上に乗せている。薪は考え事をするとき、無意識のうちにこの格好をしている。

 心臓が、まだどきどきしている。
 窓から落ちそうになったくらいで、こんなに動揺したりしない。これまで何回も鳥を助けているし、何回も足を滑らせて落ちかけては窓枠に掴まって、事なきを得ている。

 この胸のざわめきは……青木のせいだ。

 初めて会った時から気になっていた。ずっと目が離せなかった。
 長身に黒い髪。やさしそうな黒い瞳。素直で真っ直ぐな心根。正直で嘘のつけない性格。裏表のない明るい笑顔。
 似てる。
 鈴木にそっくりだ。
 鈴木が生き返ったのかと思った。

 僕の心を奪ったまま雪子さんと恋に落ちて、挙句の果てに僕の人生に絶望だけを残していなくなってしまった僕の親友。僕がこの手で殺したかけがえのない友。彼が再び僕の人生に帰って来たのかと……そんなことがあるわけはないと分かっているのに、でもそうとしか思えなくて。

 今のちょっとしたハプニングにしてもそうだ。
 以前にも、これと同じことがあった。
 あの時も鳥を助けようとして足を滑らせて、鈴木に受け止めてもらった。鈴木はよほど驚いたのか、僕をしばらくの間ぎゅうっと抱きしめていた。
「びっくりさせるなよ」
 鈴木の心臓はすごい速さで打っていて、僕もどきどきが止まらなくて。いけないとは思ったけど、両腕が勝手に鈴木の背中を抱き返してしまった。そんなふうに触れ合ってしまったら、20歳の頃に時が戻ったようでたまらなく切なくなって……。
 そのとき鈴木から離れるには、ありったけの理性を総動員しなければならなかった。表情もうまく取り繕えていたかどうか、自信がない。
「大丈夫だよ。大げさだな」
 素っ気無く聞こえるように努力はしたつもりだったけど、声が震えてしまったような気もするし……細部のことは、よく覚えていない。
 ただ、鈴木の大きな手の感触だけが僕の背中にいつまでも残って……今でも……。

 1時のチャイムが鳴って、薪を追憶から引き戻した。

 薪は、すっと室長の冷静な顔に戻る。
 仕事とプライベートの境界線は、はっきりと引くのが薪の主義だ。いまは仕事の時間だ。どんなに心が乱れても、それは職務には関係のないことだ。事件の被害者にはもっと関係がない。集中力を欠いて良い理由にはならない。
 寝椅子から立ち上がり、執務席に着く。しゃんと背筋を伸ばして、両足をきっちり床につける。
 デスクの上の書類に手を伸ばす。捜一からの協力要請が来ている。元になる捜査資料の内容を頭に叩き込み、概要説明の草案を組み立てる。
 その厳しい瞳に、先刻の憂いは微塵もない。薪を仕事へと駆り立てる強い力―――― それは公僕としての自覚であり、室長としての責任感である。
 一切の感情も感傷も切り捨てて、第九の室長の横顔は、今日も氷のようだった。




 ―了―




(2008.11)

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ウィークポイント(1)

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 スパコンのファンが、勢い良く回っている。季節は夏である。
 モニターからの放熱が不快だ。外では強い日差しがアスファルトを焼いて、今年の最高気温を記録している。こんな日は、プールにでも行きたい。いや、のんびりとクーラーの効いた部屋の中で眠りたい。
 しかし、第九の休みはコンビニより少ない。

「過労死しないのが不思議だよな……」

 誰かがぼやいた。
 このところの暑さが影響しているのか、連続した凶悪犯罪のせいで、第九は目の回るような忙しさだった。全員が既に3日、自宅に帰っていない。交代で仮眠を取り、MRIの画像と現場検証の資料に埋もれている状態だ。
「一度に事件が5件て……脳みそ、混ざっちゃいますよ」
「俺たちはまだいいだろ。それぞれ1件ずつ、個別にかかってる。薪さんは1人で5件分の資料に目を通してるんだぞ」
「あの人は特別です。頭の中、四次元空間みたいな人ですから」

 室長室のドアが開いて、噂の当人が顔を出した。両腕にたくさんの資料を抱えている。
「曽我、仮眠の時間だぞ。切りのいいところで仮眠室へ行って寝ろ」
 それぞれの事件を担当している部下のところへ資料の束を配りながらモニターを覗き込み、各々の捜査の経過報告を受ける。メモは取らない。すべて頭の中に書き留める。首の上に異次元がある―――― まんざら的外れでもない、超人的な記憶力である。

「今井、この男の6月28日の行動を調べてくれ。多分、朝のうちの行動に鍵がある」
 ただ満遍なくMRIを見ていれば、事件が解決できるわけではない。まずは捜一からあがって来る捜査資料から推理を組み立てて、事件の鍵となる画像がどこにあるか予想する。その上でポイントを絞って画像に目を通す。そうしなければ時間ばかり掛かって仕方ないし、重要な場面を見落としてしまう原因にもなる。
 薪はその聡明な頭脳で、いつも最短距離で真実に辿り着く。誰もが室長のようにスムーズに事件を解明できたらと憧れるが、なかなかそうは行かないのが現実だ。
 だから今回のように事件が立て込んでしまったときは、薪がすべての捜査資料を読む。自分の推理と部下の推理を抱き合わせにして、モニターを見るのだ。
 よって、室長は現在5件の捜査を抱えている。5件分の被害者の数20人余り。その膨大な数の画像を資料を、人の心の動きを、観て読んで捉えて推理する。室長が天才と言われる所以である。

 しかし。
 その天才にも弱点はあった。

「宇野、6月20日のこの男の行動だが」
「はい」
 話しかけられた宇野が返事を返したところで、室長は突然黙り込んだ。
 不自然に長い沈黙。宇野が訝しげに声を掛ける。
「薪さん?」
「―――― 西新宿の駅から自宅までの帰宅の間に、何かなかったか確認してくれ」
 名前を呼ばれて、我に返ったように応えを返す。その後は何事も無く曽我のところへ行って指示を出す。
 その様子を見ていた岡部が、そっと青木の傍に来た。
「そろそろだな」
「そうですね」
「用意しといてくれ、青木」
「はい」
 岡部の曖昧な指示に、青木は席を立ってどこかへ歩いていく。その間にも室長は、てきぱきと資料を配って歩いて、捜査を絞込むポイントを明らかにしていく。
「小池、この女性の勤め先に」
 そこまで言って、また黙り込む。またもや長い沈黙。
 と、ふいに亜麻色の瞳が焦点を失って、長い睫毛が重なり合った。
「おっと」
 室長から資料を受け取ろうと小池が差し出した手の中に、ふわりと薪は倒れこんできた。青ざめた美貌、冷たい頬―――― 意識は混濁している様子である。

「岡部さーん、薪さん、いっちゃいましたー」
「ああ、青木がいま支度してるから。仮眠室に運んどいてくれ」
「はーい」と間延びした返事をして、小池は薪の細い体を抱き上げた。
 室長が倒れたというのに、ここでは誰も騒がない。小池以外の職員は、自分のモニターから目を離しもしない。それが当然のように、平然と作業を続けている。
「まーったく。限界まで仕事して急にぶっ倒れるクセ、どうにかならないんですかね。こっちの身が持ちませんよ」
 薪の憔悴しきった寝顔を見ながら、小池がぼやいた。

 実は、第九の面々にはこの光景は慣れっこであった。
 仕事が混んでくると、薪は眠るのも食べるのも忘れてしまう。何かに追い立てられるように、捜査に没頭してしまうのだ。今まで何回こんなことがあっただろう。
 始めのうちこそ岡部が口を酸っぱくして注意していたのだが、やがて諦めた。どれだけ注意しても、次の時にはやっぱり同じことを繰り返すし、無理やり仮眠室に閉じ込めても携帯電話で指示を出してくるのだ。これではやりようがない。

 天才の弱点―――― それは、切れすぎる頭脳と人間離れした気力に普通の人間の体力がついていけない、というバランスの悪さであった。




*****

 やっぱり、お姫様だっこは基本ですよね。
 うちの薪さんは、第九の姫なので。
 オヤジ姫。ぷぷぷ。

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ウィークポイント(2)

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「飲まず食わず眠らずでどれだけ仕事ができるか、ギネスにでも挑戦する気?」
 忙しい最中突然呼び出されて、法一の女医はおかんむりだ。
 このパターンは既に何度も経験済みだ。どれだけ注意しても一向に改善しようとしない聞き分けの無い患者に、彼女はうんざりしていた。

「コーヒーは飲んでたんですけど」
 不真面目な患者が、言い訳にもならないことを口の中で呟く。まるで医者に酒を止められた酒好きの患者が、「ビールは酒に入らないよな」とバカ丸出しの言い訳をしているようなものだ。
「コーヒーを完全栄養食みたいに言わないでくださいよ!だいいち薪さん、ブラックコーヒーしか飲まないじゃないですか!」
 雪子の怒りを代弁して、岡部が薪を叱り飛ばす。いつもなら考えられない光景だが、自分のせいで皆に迷惑をかけてしまったと反省しているのか、薪は神妙な表情でおとなしく岡部の叱責を受けていた。
「みんなが迷惑するんですよ、薪さん。自覚してくださいよ。自分のことをロボットだとでも思ってるんですか?」
 岡部の心配9割、怒り1割の小言を聞きながら、薪はベッドの中でもそもそとあんぱんを食べている。牛乳じゃなくてコーヒーが欲しいなと思うが、とても要求できる雰囲気ではない。
 そこに絶妙のタイミングで、青木がコーヒーを淹れてきた。薪はさっさと牛乳パックを置いて、コーヒーカップを受け取った。実は薪は牛乳が苦手なのだ。

「いったい、いつから食べてないわけ?」
 薪の昏倒の原因は、睡眠不足と低血糖による貧血と分かってはいても、一応は医者に診せておいたほうが安心である。しかし、救急車を呼ぶほどでもない。眠ってまともな食事を摂れば元に戻ることが明らかだからだ。
 だからこんなときは、いつも雪子にお呼びがかかる。まったくいい迷惑だわ、とぷりぷりしながらも、薪のこととなると駆けつけてくれる。雪子は薪の数少ない友人なのだ。

「――― 指折り数えなきゃわかんないようなほど前からなの!?」
 自分が最後にちゃんとした食事を摂ったのがいつなのか、記憶を探り始めた薪の様子に、雪子は思わず声を荒げた。
 薪はこれ以上雪子の機嫌を損ねないよう、必死で言い訳を考える。彼女を怒らせると、得意の一本背負いを決められてしまう。あれはとても痛い。
「たしか、2日、いや、3日……青木、雪子さんがサンドイッチ差し入れてくれたのって、いつだ?」
 青木は雪子のお気に入りだ。彼女の怒りの矛先を逸らしてくれるよう、うまいフォローを期待したつもりだった。
「薪さん。それは4日前です」

「―――― 薪くん!」
「薪さん!!」
 2倍になった小言の嵐に、薪は人選を誤ったことを悟った。


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ウィークポイント(3)

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「アタマいた……あんなにガミガミ怒鳴らなくたって」
 耳元でサラウンドで騒ぎ立てられて頭痛がする、と室長はぼやいた。睡眠不足のせいだとは考えない薪である。全然、反省の色がない。
 
「薪さんが悪いんですよ。みんな心配してるんですからね」
「小言は聞き飽きた」
 言い捨てて、ベッドから降りる。横になっていたせいで、ワイシャツはしわくちゃになっている。着替えが必要だ。
「どこいくんです? 今日はもう仕事は」
「汗かいて気持ち悪い」
 心配そうな顔つきで自分を見る新米捜査官に、わざとつっけんどんな返事でその先を言わせない。岡部や雪子ならともかく、こんな若造にまで小言を言われる筋合いは無い。
 が、青木の本当に心配そうな顔つきを見ていると、それも大人気ないかと思ってしまう。青木はとても正直な男で、心の中がそのまま表情に表れる。見せ掛けの心配顔ではないと分かるから、突き放すのも気が引けるのだ。

「シャワーを浴びたら、ここに戻って寝る。それならいいだろう」
「……本当ですね?」
 素直に信じてもらえない。
 無理もない、青木はこのパターンで何回か騙されている。
「岡部さんに薪さんを見張るように言われてるんですけど」
「バカ! そんなことしてるヒマがあったら、捜査を進めろ!」
「今はオレの仮眠の時間です」
「だったらここで寝ろ」
「平気です。一日くらい寝なくたって」
「睡眠も摂らずにMRIを見続けたらどうなるか、分かってるのか?幻覚や幻聴に悩まされて、捜査が手につかなくなるのがオチだ」
「……今の薪さんには言われたくないです」
 たしかに説得力がない。
 しかし、上司のプライドは崩れない。
「僕は大丈夫だ。慣れてるからな。おまえみたいな半人前と一緒にするな」

 冷たく言い放って仮眠室を後にする。青木は黙って薪の後ろを着いてきた。大人しいくせに、意外と頑固なのだ。
 軽く舌打ちしてシャワー室へ向かう。本当はこのままモニタールームへ行こうと思っていたのだが、舌の根も乾かぬうちにと言うのはさすがに拙い。貧血を起こした時の冷や汗が背中を濡らしていて、気持ちが悪いのも事実だ。

 脱衣所代わりのロッカールームで、薪は服を脱いだ。
 どうせだったら、シャワー室じゃなくてユニットバスが欲しい。脱衣所と洗濯機も置けば完璧だ。第九に何日でも泊り込める。
 洗濯しなければならないワイシャツはロッカーの床に丸めてズボンを脱ぐ。恥ずかしげも無く下着も取って全裸になる。そのまますたすたと歩いて、シャワー室へ入っていく。
「何やってるんだ、青木。僕を見張るんじゃなかったのか?」
 何故か後ろを向いてしまった青木に、薪が声を掛ける。長身が硬直している。ワイシャツの襟足からわずかに覗く首と耳が真っ赤だ。

「いえ、あの……すいません、オレ、見てませんから」
「? 何言ってるんだ? 男同士だろ。おまえと同じ身体だぞ」
「同じじゃないです」
「べつにヘンなものは付いてないぞ? おかしな奴だな」
 最近の若いものの考えは良く分からん―――― オヤジくさいことを心の中で呟いて、シャワー室へ入る。温かい水滴の飛沫が心地よい。でもやっぱり湯船が欲しいよな、と風呂好きの薪は思う。
 髪と体をきれいに洗いあげて、気分は上々だ。これで仕事の能率も上がる。仮眠室に戻って休むと青木に約束したことは、薪の記憶から早くも消去されたようだ。

 シャワーを止めてふと気づく。しまった、タオルを忘れてきた。
「青木、タオル取ってくれ。僕のロッカーに入ってるから」
「はい」
 返事は聞こえたものの、青木はなかなかこちらへ来ない。しびれを切らして、薪はシャワー室のドアを開けた。

「青木、まだか? そうだそれ、こっちへ持って……どこへ行く!?」
「すいませんっ!」
「ちょっと待て、タオル!」
 薪の制止を振り切って、青木は走り去ってしまった。
 びしょ濡れのままではここから出られない。が、タオルは青木が持って行ってしまった。仕方なく水滴をたらしながらロッカーまで歩いて、さっき脱いだワイシャツで髪を拭く。
「まったく、最近の新入りは……うう、ぜんぜん拭き取れない……」
 吸水性の悪い布に四苦八苦しながら、新人の謎の行動に首を傾げる室長だった。



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ウィークポイント(4)

ウィークポイント(4)







 ノックの音がして、ロッカールームに岡部が入って来た。手には青木が持って行ってしまったはずの、大判のタオルが握られている。
「なんでおまえがこれを持ってるんだ?青木は?」
 頭にワイシャツを被って、裸のまま室長は問い質す。べつに恥ずかしがる様子もなく、裸身を隠そうともしない。

 華奢な肩、滑らかな背中―――― 男とは思えない、白くて細い肢体。腰の辺りに漂う色香。小さな尻から形の良い足がすんなりと伸びて、まるで人形のようだ。

「半泣きになってましたよ。あんまり苛めないでやってくださいよ」
「僕は何もしてない」
 タオルで身体を拭きながら、憤慨したように薪が反論する。

 優雅な腕。薄い筋肉が覆う胸。引き締まった腹。たしかに女の身体ではないが、男の身体でもない。自分たちとは別の種類の生き物のようだ。
 きれい、という素直な表現が一番ふさわしい。

 こんなものを見せられたら、普通の男だってどぎまぎしてしまう。ましてや、青木は室長に憧れてこの第九に入ってきたのだ。理性を失ってしまうのも無理はない。襲い掛からなかっただけでも褒めてやりたいくらいだ。
 しかし困ったことに、薪は自分がどんなふうに他人の目に映るのか、まったく自覚がない。
「あいつが勝手にパニクって飛び出して行ったんだぞ。おかげで見ろ、このワイシャツ。床は水浸しだし。後で掃除しておくように、青木に言っといてくれ」
「まあ、だいたい想像はつきますけどね」
 室長のほうを見ないように、顔を上に向けて会話をつなぐ。岡部はノーマルな男だが、これは礼儀というものだ。
「最近の若いもんはよく分からんな。10以上も違うと、世代の差ってやつかな」
 髪を拭きながら年寄りじみた意見を言う。まったく顔に似合わない。

「なあ岡部。ここ、ユニットバスに改造したいと思わないか? ちゃんとした湯船のあるやつ。脱衣所と洗濯機と、ああ、アイロンもいるな」
「薪さん、ここに住むつもりですか?」
「田城さん、予算組んでくれないかな」
「難しいんじゃないですか」
 そんな雑談を交わしながら、着替えを終えた室長は、真っ直ぐモニタールームに向かう。
 きちんとスーツを着ると、先刻の危ういような美貌は消えて、静謐ないつもの顔に戻る。硬質な色香を含んだその顔を、岡部はいちばん好ましいと思っている。

 前を歩いている、生気溢れる背中。
 室長という重責を、その苦悩を微塵も感じさせない頼もしい背中。この小さな背中を守って、ずっと着いて行く。岡部は生涯、薪の下で働くつもりだった。

「薪さん、この画なんですけど」
「室長、6月28日の画像出ました」
「さっきの女の件ですけど」
 モニタールームに入るや否や、我先にと部下たちが捜査状況を報告する。薪は、それぞれの報告にそれぞれの捜査の方向を示しながら、次々と推理を展開させていく。
 やはり、うちの室長はすごい。エリート集団第九の頂点を極める男なのだ。

 その明晰な頭脳に、ずばぬけた実力に、何よりも捜査のため―――― ひいては市民を犯罪の魔手から救うため―― 自分のすべてを捧げるその潔さに、憧れずにはいられない。男が男に惚れるとはこういうことだ。
 青木の奴は、少し勘違いしているみたいだが。

 岡部は青木の薪に対する執心に、少しだけ異質なものを感じている。あの外見だから、初めはみんな多少はそんな感情を抱いてしまうのかもしれない。
 見た目は確かに幼げでなよやかで、つい見とれてしまうほどきれいな顔をしているが、中身はそこいらの男よりも数段男らしい。そのうち青木にも分かるだろう。薪の芯の強さは、捜一の出世頭だった岡部が舌を巻くほどなのだ。
 それに気付けば、おかしな気持ちは消えてなくなる。そういう対象として見ること自体が彼に対する冒涜だ。
 室長は、ただ真っ直ぐに事件と向き合い、職務にそのすべてを懸けているだけだ。だから今回のようなことが起こる。押さえつけてでもベッドで休ませたいが、無駄なことだと岡部には分かっている。
 だから薪が倒れるまで、岡部は口を挟まない。室長のプライドを優先して、手出しもしない。その代わり、室長の考えに従ってひたすら捜査を続ける。それが部下の役割だとわきまえている。

 しかし。
 薪の過去に何があったか、岡部はそれも知っている。
 そのせいで、まるで憑かれたように仕事に没頭する室長を見るに耐えないこともある。
 ぎりぎりのところで持ちこたえている薪の精神状態を、危うい均衡を、放ってはおけない。が、自分では彼の内側に入り込めないことも承知している。自分の過去に、殺してしまった親友とのことに、他人が口を挟むのを薪は何より嫌うからだ。
 自分では、薪の背負った十字架を取り除いてやることはできない。自分は少し大人になりすぎて、分別を持ちすぎた。
 逆に、青木のような若輩者ゆえの無鉄砲さが、案外薪を救ってくれるかもしれない。下手に突いて薪を怒らせてしまう可能性のほうが遥かに大きいが。
 
 若い青木の可能性に、ほんの少しだけ嫉妬を覚える。
 それでも室長がいつか、心の底から笑ってくれたら―――― そう願わずにはいられない。そのためなら、青木の後押しも辞さない。
 
「岡部。この建物の2階の窓に」
「はい、調べてあります」
「さすがだな。で、映っていたか?」
「いや、残念ながらありませんでした」
「そうか。じゃ、次の可能性としてはこちらのビルの」
 小さな頭の中で、あらゆる仮説が瞬時に立てられ、打ち消され、再構築される。岡部には真似のできない早業である。
 エスカレートしていく薪の推理に引き込まれるように、岡部もまた捜査に夢中になっていく。これが室長と仕事をする醍醐味だ。

 俺の役割は、これでいい。
 ずっとこうして、このひとと捜査がしたい。

 その日、第九の灯りはとうとう朝まで消えなかった。



 ―了―




(2008.8)


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23日目の秘密(1)

今回のテーマは新婚さんです。(笑)





23日目の秘密(1)






「あやうく記録更新するところだった」
 第九に泊り込んで20日目。薪は疲れきった声で呟いた。

 ようやく、本当にようやく家に帰れる。
 この書類に判を押したら、今日は自宅でゆっくり休もう。この3日で2回も貧血を起こした。身体のほうも、いい加減限界だ。
 30歳を超えると、途端に徹夜仕事がきつくなってくる。20代の頃とは違うのだ。

「室長、所長から急ぎの捜査の依頼が」
 岡部の言葉に、思わず書類の上に突っ伏して耳を塞ぎたくなる。そこをぐっとこらえて、室長の威厳を保つ。
 書類を抱えた岡部が心配そうに薪の顔を覗き込んで言った。
「なんか涙目になってますけど。大丈夫ですか? 薪さん」

 ……保ててない。

 受け取った書類を見て、内容を確認する。連続強姦殺人―――― 被害者の数は6人。MRI該当者はそのうち4人。
「新記録達成か」
 結局、薪が家に帰れたのは3日後。第九に泊り込んで、実に23日目であった。


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23日目の秘密(2)

23日目の秘密(2)







 青木の運転する車の助手席では、疲労困憊した室長が死んだように眠っていた。

 危ないと解ってはいても、運転しながらちらちらとそちらを見てしまう。疲れ果てた室長の様子が、気になって仕方ない。
 赤信号を幸いと、青木は横を向いて室長の具合を確認する。
 青白い顔をして、浅い呼吸をしている。仕事中は厳しく吊り上げられている眉が、今は目蓋に合わせて自然なカーブを描き、その寝顔をひどく幼いものにしている。
 重なり合った睫毛の長さは、映画女優さながらだ。疲れの浮き出た頬にはいつもの張りはないが、その分白さが強調されて、車窓から差し込む朝の光に溶けてしまいそうだ。
 清廉で、淡い美貌―――― そのくせ口唇だけは妙につややかで、グロスを塗ったように光っている。これで化粧をしていないのだから、いっそこわい。

 きれいだな、と青木は思う。

 室長の寝顔は、なかなかじっくり見られるものでもない。つい見とれてしまっていると、後続車にクラクションを鳴らされた。いつの間にか青信号だ。室長の眠りを妨げないように、ゆっくりと車をスタートさせる。

 ずっと心配していたのだ。
 6月の終わりに起こった連続殺人事件を皮切りに、第九の捜査ラッシュが始まった。ピーク時は、一度に5件の事件をMRI捜査にかけていた。
 すべてが進行中の事件だったため、どの捜査も火急の対応が必要だった。一刻も早く犯人を検挙して、これ以上の犠牲者を増やしてはならない。職員全員が研究室に泊まりこみ、交代で仮眠を取りながら捜査に当たった。
 室長は、労働基準法を無視した勤務体制(シフト)を組んだ。
 第九は本来なら週休2日制だが、その表によると休日は10日に1度だけだ。それでも部下たちが何も不満を訴えないのは、事件の緊急性と捜査の重要性を知っているからだ。そして誰も室長を恨まない理由は、薪が休日どころか仮眠すらろくに取らないで捜査に打ち込むことを知っているからだ。

 今月の初めにも1度、薪は睡眠不足と貧血で倒れた。
 雪子と岡部の叱責をBGMに、ベッドの中でパンをかじっていた室長の姿は記憶に新しい。ただ、本人はあまり反省していないようで、彼の職務状態の改善は見られなかった。その後も倒れこそしなかったが、何度も貧血を起こしているのを青木は見ていた。
 ただでさえ細い身体なのだ。そんなに体力があるはずはない。
 それを言うと室長の不興を買うのがはっきりしているので誰も指摘しないが、薪は男にしては背も低く、体も小さい。抱えあげて仮眠室へ運んだことがあるが、5ヶ月前に別れた彼女よりもずっと軽かった。
 成人男性の平均身長が175cmを超えようという昨今、160cmをいくらも超えない薪の身長は、女性と変わらない。いや、青木の元カノや雪子に比べると、10cm以上も低い。体重も10キロくらい少ないような気がする。
 そんな薪が根性だけは誰にも負けなくて、常人を遥かに超えた気力でもってその脆弱な肉体を酷使するのを、第九の職員はみな心配しているのだ。

 もっと自分が室長の役に立てれば、と青木は不甲斐ない自分を叱咤する。
 青木はまだ、第九に入って半年。一人前にはなれていない。早く一人前になるために、室長命令で青木は今月、昇格試験を受けることになっている。
 その昔、青木のようなキャリア組には、昇任のための試験はなかった。
 一般の警察学校を卒業した警察官には昇任試験があり、その試験をパスしないと上の役職には就けない。しかし、有名大学を出て国家公務員Ⅰ種試験に合格して警察庁入りする俗にいうキャリア組は、入庁時の役職がすでに警部補、23歳で警部、25歳で警視という具合に自動的に昇任していき、45歳になれば警視長の役職が約束されていた。

 が、年々開いていく一方のノンキャリアとの格差が両者の間に対立を生み、捜査にまで支障をきたす様になった。本来ならば現場の者同士、話し合いで解決するべき問題だが、両者の価値観の相違がそれを許さなかった。
 ノンキャリアの者たちが特に不満に思っていたのは、試験も受けず特別な手柄を立てずとも、所轄と警察庁を行ったり来たりするだけでエスカレーター式に出世ができる、キャリア組にだけ許された昇任制度であった。
 そこで政府は、ノンキャリアの不満を少しでも解消するため、またその役職に相応しい人間を選考するためという理由で、キャリア組にも昇任のための試験を設けることを決定した。
 それが2045年―――― 薪が警察庁入りする2年前のことだ。

 キャリア組のために作られているだけあって、一般の警察官が受ける昇任試験より遥かに難しい。この問題を一般にも公開することによって、ノンキャリアとの差を明確にする。ひいてはキャリアの地位を確固たる物にするための制度なのだが、実際はそのあまりの難しさのために試験に合格できない者もいる。そのため、今はキャリアでも30歳で警部という役職も珍しくなくなった。
 この制度が採用される前に警察庁に入った者には、旧態の昇任制度が適用されている。いわば早い者勝ちで、田城や三田村はその口だ。一見不公平なようだがこれは当たり前のことで、今までの上下関係を突然ひっくり返してしまったら命令系統が混乱し、組織が壊滅してしまう。仕方のないことなのだ。

 このキャリア専用の昇任試験のことを一般の昇任試験と区別して『昇格試験』と呼び、毎年7月に実施されている。青木が受けようとしているのは、警部用の昇格試験である。
 しかし青木は、試験よりも薪について捜査を学びたい。
 実は今日から試験準備のための休暇を貰っていたのだが、そんな理由で第九に出てきてしまった。3日間の休暇を取った室長の代理を務める岡部にそれを指摘され、ついでに薪さんを送ってくれと頼まれた。
『人手がいると思うから、今日は薪さんを手伝ってやってくれ』
 家でも仕事をするつもりなのだろうか。第九の資料は殆どが対外秘なので、持ち出し厳禁のはずだ。だから捜査が混んでくると、第九に泊り込む羽目になるのだ。まあ何にせよ、室長の家に行って室長と一緒に過ごせるなら、どんなことでも大歓迎だが。

 ここだけの話、青木は薪に惚れている。

 上司としての薪を尊敬しているといったことではなく、もっと世俗的な意味合いで、つまり恋をしているのだ。
 好きな人の家で、好きなひとと一緒に過ごせる。青木の頬が自然に緩むのも無理はない。
 鼻歌でも歌いたい気分で、青木はハンドルを切った。



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23日目の秘密(3)

23日目の秘密(3)







 薪がやっとの思いで報告書を仕上げ、田城の許可を得て帰途についたのは、朝の9時だった。3週間以上家に帰っていないことを知ると、田城は薪に3日間の休暇をくれた。
 後の段取りを岡部に伝えて、溜まった洗濯物や家から持ってきた資料を段ボール箱に突っ込んで研究室を出ようとすると、岡部が車で送ってくれると言う。荷物もあることだし、何よりとても疲れていたので、素直に甘えることにした。
 車で待っててください、と言われて助手席に座った途端、どっと疲れが出て眠り込んでしまった。気が付いたら家の前だ。

 何故か青木に揺り起こされた。
 いつの間に、岡部から青木になったんだろう。確かこいつは、今日から試験のための休暇に入るんじゃなかったか。

 低血圧者特有の寝起きの悪さで、薪の機嫌はすこぶる悪い。頭は重いし、足元はふらふらする。起き抜けには真っ直ぐ歩けない。薪の血圧は、体調が良いときでも上が95。今は多分80を切っている。
 青木の腕が自分を支えてくれるが、それは室長のプライドをいたく刺激する。
 岡部ならまだしも、青木はまだ24歳だ。一回りも年下の若造に手を借りるのは、何だか面白くない。自分が両手でなければ持てなかった段ボール箱を、小脇に抱えているのも癪に障る。人間でかけりゃ良いってもんじゃないぞ、と青木には罪のないことでいちゃもんをつけておいて、階段を昇る。部屋は2階だ。

 このマンションは、セキュリティー重視で選んだ。玄関のロックは瞳孔センサー方式である。第九の室長には、様々な思惑からの嫌がらせも多いからだ。
「ご苦労だったな。ここまででいい」
「いえ、今日は薪さんの手伝いをするようにと岡部さんから言われてますから」
「なに言ってるんだ、おまえ。昇格試験の勉強はどうした。もう1週間もないんだぞ」
 青木を家に上げるつもりはさらさらない。予告してから来てくれれば別に構わないのだが、今日はだめだ。
「じゃ、この荷物だけでも。かなり重いですよね、これ」
 それは確かに苦労しそうだったが。

「……玄関開けるから、息止めてろよ。間違っても鼻で呼吸するな」
「はあ?」
 大きく息を吸い込んで肺の中に溜め、鼻と口にハンカチを当てて、薪は玄関の扉を開けた。


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23日目の秘密(4)

23日目の秘密(4







 青木は、胸をドキドキさせていた。
 室長の家に来るのは、これが初めてだ。住所は名簿からチェック済みだったが、外から確認したことがあるだけで、中に入れてもらったことはない。
 薪の清らかなイメージに合わせたような、白い清潔な建物だった。そう大きくはないのだが、外から見た限り一軒一軒の間取りは広そうだった。防犯のためかベランダはない。窓にはブラインドが降りていて、中の様子は見えなかった。

 室長の机は、日中どれだけ書類が山積みになっていても帰りには必ずきちんと整頓してあるから、きっと自宅もきれいにしているに違いない。先日雪子から聞いた話でも、薪はきれい好きということだった。
 きっとモデルルームのように掃除も行き届いていて、絵画とか観葉植物が飾ってあって、男の一人暮らしとは思えないような、そんな部屋を青木はイメージしていた。薪の外見から推し量ろうとすると、どうしてもそうなるのだ。
 が、息を止めていろ、と意味不明の指令とともに玄関の扉が開けられた瞬間。
 青木は吐きそうになった。

「なっ、なんですか、この部屋。臭っ!!」
 青木の悲鳴を無視して薪は窓に突進し、ブラインドを上げて窓を開けた。首を外に出して、口で息をしている。
「この季節に3週間以上も家を空けてみろ! おまえの部屋だって、絶対こうなる!」
 振り向いて怒鳴られた。
 6月の終わりから7月の半ばまで。薪の主張は間違ってはいない。が、とにかく臭い。
 段ボール箱は玄関口に置いて、薪に倣って窓の外に首を出す。外は直射日光がガンガン当たって目が回りそうな暑さだが、この悪臭よりはましだ。

「何がこんなに臭うんですか?」
「まあ、いろいろ」
 窓を開けたまま、薪は部屋の片付けにかかる。
 2LDKの1人暮らしにしては広い部屋。
 見ると、部屋の中はそう散らかっているわけではない。衣服が脱ぎ散らかされているとか、コンビニ弁当の残りが腐っているとかそういうことではなく、単に空気の入れ替えができなかったことによる悪臭、という事らしかった。

 インテリアは備え付けのものらしく、アイボリー系で統一してある。とても明るい部屋だ。
 ただ、家具は極端に少ない。背の高い本棚と机に回転椅子。大型の液晶テレビと来客用のソファ。広いリビングに置いてある家具はたったそれだけで、作り付けのサイドボードの中は殆ど空っぽだった。
 そのサイドボードの上に、写真立てと枯れた百合の花が置いてある。もちろん3週間前はきれいに咲いていたのだろうが、今は無残にも枯れ果てて、花瓶に残った水はヘドロのようになっている。これが悪臭の原因のひとつだ。

 花瓶を取る振りをして、薪がさりげなく写真立てを引き出しに隠したのを、青木は見逃さなかった。きっと他人に見られたくないのだ。
 もしかしたら、彼女の写真かもしれない。気になるが、隠そうとしているものを訊くわけにもいかない。

 薪は百合の花をゴミ袋に入れて、台所へ向かう。花瓶を洗うためだ。
「あ、オレやります」
「いいから、おまえは帰って勉強しろ」
「でも、岡部さんが薪さんの手伝いをしろって」
「僕は今日は仕事はしない。部屋の掃除をして寝るだけだ。いや、その前に」
 薪はそこできれいな顔を歪めて、亜麻色の頭をがりがりと掻いた。
「とりあえず風呂だな。もう3日も入ってないんだ。臭うだろ」
「そんなことないですよ。薪さんは良い匂いです」
「おまえ、耳鼻科に行ったほうがいいぞ」
 狭い車中で一緒だったが、べつに気にはならなかった。そういえば、少し甘い匂いがしたような。が、不快な匂いではなかった。

 風呂の準備のためにバスルームに行った薪が、すぐに飛び出してくる。窓に駆け寄って、大きく深呼吸。
 ……風呂場も臭いのか。
 バスルームも白を基調としたユニット式で、かなり大きな湯船が置いてある。薪なら楽々と手足がのばせるサイズだ。そのバスタブの中で、3週間前はただの水だったものが何か別の液体に変わり果てている。排水溝から流れて出してはいるものの、すさまじい臭気である。
「薪さん。風呂場が下水道みたいな臭いなんですけど」
「朝、風呂に入ってそのままだったんだ。急に岡部が迎えに来て、まさかこんなに帰れないとは思わなかったから」
 換気扇の目盛りを強にして、青木はその場を離れる。掃除をするにしても、もう少し臭いが抜けてからだ。

 リビングに戻ると、薪が窓枠にもたれてへたばっていた。先刻、眠っていた時より顔が青白い。
「大丈夫ですか?」
「昔から臭いがキツイの、ダメなんだ。気持ち悪い……」
「腐乱死体の臭いは平気だったじゃないですか」
「仕事だと思えば大丈夫なんだ。でも、うう……」
 そんなものだろうか。
 今日は体調も関係しているのだろう。極限まで疲れ果てた身体が食物を受け付けなくなるように、臭いや刺激にも弱くなるのかもしれない。

「オレ、掃除してきますよ。風呂場」
「……いいのか?」
 目が期待している。そんな室長はかわいくて、つい笑ってしまう。
「掃除はわりと得意なんです」
 軽い足取りでバスルームへ入ると、半月以上締め切っていた湿潤空間は、天井にまでびっしりカビが生えている。これを落とすのは一苦労だ。岡部の言っていた『人手』の意味がようやく解った。
 カビ取り用の洗剤を吹き付けておいて、青木は一旦風呂場を出る。背の高い青木は、実家でもちょくちょく窓拭きや電灯や風呂場の掃除をやらされていたから、要領は踏まえている。

 カビ取り剤が浸透する間に薪に冷たい水を持って行ってやろうと思い立って、青木は台所へ向かった。
 流し台は綺麗に掃除してある。が、食卓の上には食べかけの朝食が、これまたひどい状態になっていて、特に野菜サラダの変貌と言ったら新種の微生物が誕生してしまいそうだった。
 カビだらけのトーストと泥沼のようなサラダの残骸をゴミ袋に入れて、周りを見る。コーヒーメーカーの蓋を開けると、やはりカビの生えたコーヒーが入ったままで、それも捨てる。コーヒーのドリッパーと皿は漂白剤につけて、殺菌しておく。
 思いついて冷蔵庫を開けてみると、案の定魔窟になっている。無事なのはペットボトルの水と缶ビールくらいのものだ。特に野菜室は全滅だ。レタスもトマトもどろどろに溶けている。ものすごく、クサイ。

「知らなかった。野菜って溶けるんだ」
 青木はきれい好きという程ではないが、ここまでにしたことはない。そういえば、炊飯器にごはんを入れたまま半年ほど置くとカビが侵食して内釜に穴が開くそうだが、本当だろうか。
「三好先生……話が違います」
 冷蔵庫の中のものを次々とゴミ袋に入れながら、青木は筋違いの非難を呟かずにはいられなかった。


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23日目の秘密(5)

23日目の秘密(5)






「はあ。23日ぶりの風呂だ」
 生き返ったような心地よさに浸りながら、一人呟く。薪は風呂好きだ。広いバスタブに両手両足を伸ばして、まったりするのが彼の至福のときである。
 季節柄汗をかくので、職場でシャワーは使っていたが、あれはどうにもいただけない。湯船に浸からないと風呂に入った気がしないのだ。時間さえ許せば、朝からでもゆっくりお湯に浸かりたい。

 青木が掃除をしてくれたので、白い浴室は天井までぴかぴかだ。薪の顔が映るくらいに磨かれている。背が高いというのは便利なものだ。
 掃除はわりと得意なんです、と自分で言うだけあって、カビも水垢も残っていない。排水溝まできれいにしてある。先ほどのカビだらけの浴室と同じ場所とは思えない。もしかしたら、3週間前より清潔なくらいかもしれない。
 今年の新人は若いわりには気が利いて、薪に冷たいミネラルウォーターを勧めた後、風呂の用意をしてくれた。 こんなに丁寧に掃除をしてくれるとは思わなかったから、ろくに礼も言わずに「勉強しろ」と追い出してしまった。
 まあ、いい。あとで自宅宛に宅配ピザでも送ってやろう。

 湯船から上がって髪を洗う。この季節に3日も洗ってなかったから、べたべたしている。
 とにかく、最後の3日間は修羅場だった。風呂の時間も惜しんで徹夜で報告書をあげたのだ。最後に食事をしたのがいつだったかも覚えていない。雪子に知られたら、また雷が落ちそうだ。

 椅子に腰掛けて石鹸を泡立て、ボディ用のタオルで丹念に身体を洗うと一皮剥けたようにさっぱりとする。立ったままのシャワー室では洗いにくい足の裏や指の間をしっかりと洗って、ようやく人心地がついた。
 シャワーの勢いを強くして、一気に泡を洗い流す。身体に強くぶつかる温水が心地よい。その刺激の為か、ひと仕事終えた後の安堵感からか、下腹部が勃ちあがりかけているのに気付いた。
 そういえば、こちらも3週間振り……いや、確か2ヶ月くらい前だったような。

 我ながら枯れてるな、と思う。
 35歳という年齢を鑑みても、薪の性欲は薄いほうだ。昔からその方面にはさほど興味がない。
 セックスなんかしなくたって、人間死にはしない。誰かを誘うのも誘われるように仕向けるのも、面倒くさい。そんなヒマがあったら報告書の一枚でも仕上げたほうが良い。
 でもまあ、これは一応処理しておこう。その方がゆっくり眠れる。半端にしておいて、つまらない夢でも見たら最悪だ。
 石鹸の残る手で、そこを探る。床に両膝を折った姿勢で、握ってしごきはじめる。
「んっ……あ、はっ……!」
 いくらか呼吸が荒くなってくるが、至極あっさりしたもので、3分後にはすっきりした顔で残滓をシャワーで洗い流している。何とも淋しい性生活だが、無ければ無いで慣れてしまうもので、本人はこれで何ら困ることがないから、どうにかする気もない。30代でこれはさすがにマズイかとたまに思うが、やっぱり面倒くさい。

 もう一度ゆっくり湯船に浸かって、薪は上機嫌で風呂から上がった。
 サニタリーでは、独り暮らしには不釣り合いなほど大きな洗濯乾燥機が音を立てている。段ボール箱の中に入っていた洗濯物を、青木が入れておいてくれたらしい。
 バスタオルで身体を拭きながら、エアコンをかけておけば良かったと気付く。夏でも湯船には浸かりたい薪だが、その後が大変だ。冷たい風に当たらなければ、汗が止まらなくなってしまう。
 頭にバスタオルをかけて脱衣所を出ると、すでに部屋は冷やされていた。
 裸のまましばらく涼む。どうやら青木がエアコンをつけて行ってくれたらしい。本当に気配りのできるやつだ。宅配ピザはやめて、寿司を送ってやろう。

 水分補給をしようと髪を拭きながら台所に向かった薪は、冷蔵庫の前で何かやっている人影に気付いた。
 こいつ、まだいたのか。
「なにやってんだ、おまえ」
「あ、薪さん。冷蔵庫の掃除を」
 薪を見て、持っていた卵を取り落とす。ぐしゃりと潰れて床が汚れた。
「掃除してるのか汚してるのか、どっちなんだ」
 3週間の間に、冷蔵庫の中身はあらかた腐ってしまっただろう。せっかく旨い刺身を買っておいたのに、もったいないことをした。

「青木、水くれ」
 青木は何故か動かない。
「青木、みず!」
 怒鳴っても動かない。
 チッ、と舌打ちして自分で取りに行く。風呂から出たばかりなのだ、のどが渇いてたまらない。冷蔵庫の前の邪魔者を押しのけるように中を覗き込む。さっきの飲みかけがあったはずだが、どこにしまったかな。

 腐ったものはゴミの袋に移してくれたようで、冷蔵庫の中はほぼ空だ。野菜の汁やら魚の血やらで汚れた庫内を、除菌液で拭き上げていた最中らしい。
 ペットボトルを取り出して、飲み口から渇いたのどに流し込む。風呂でたっぷり汗をかいた身体に浸み通るようだ。
 本音では冷たいビールを飲みたいところだが、これからまだ部屋の掃除が残っている。買出しにも行かなくてはいけない。日常の雑務は地道に多いものだ。

 青木はまだ固まったままだ。疑問に思うが特に心当たりは……。
 あ、と思う。
 まさか、さっきの声聞かれたんじゃ。風呂場は声が反響するし。
 別に構うことはないか。こいつだって男だし、オナニーぐらいするだろう。
 しかし、薪の仮説は外れたらしい。

「服を着てくださいよ!」
 真っ赤になって叫んでいる。どうやら薪がハダカでいるのが気に入らないらしい。
「いいだろ、べつに。暑いんだ」
「オレがいるんですよ!」
 男の裸を見るのは不愉快だ、ということか。
「風呂から上がったらハダカで涼むだろ、普通」
「パンツくらい穿いてくださいよ!目のやり場が無いじゃないですか!」
「見なきゃ良いだろ!」
 何か言われたら倍返しが薪の基本である。すぐさま反論に出て、青木の抗議を封じ込める。新入りが室長に意見するなんて、十年早いのだ。
「じゃ、なにか? おまえ、自分の家でも風呂から上がったらすぐに服を着るのか? ここは僕の家だぞ、自分のうちで僕がどんな格好してようと僕の勝手だろ!」
 言い負かして胸を張る。が、たしかに裸の王様みたいで、それほど威厳のある姿ではないことに気付く。とりあえずバスタオルを腰に巻いて、それでもぶつぶつ言いながら、薪は下着を取りにクローゼットに向かった。

 クローゼットの中には、何着かのスーツと部屋着がかけてある。隅には小型のチェストが置いてあり、下着や靴下、ハンカチなど細々したものはその中だ。
「あ、しまった」
 3週間以上も泊り込んでいたせいで、下着の替えがない。全部職場へ持っていってしまったのだ。あの段ボール箱の中だ。
 取りに向かうが、箱の中身は既に空だった。資料の類は机の上に重ねてあるが、下着とワイシャツはどこにもない。そういえばさっき、洗濯機が回っていた。どうやら気の利く新人が、一枚残らず洗濯機に入れてしまったらしい。

「青木~」
 帰りの荷物をまとめる頃には意識が朦朧としていて、汚れ物もそうでないものもぐしゃぐしゃに突っ込んであったのだから青木が誤解するのも無理はないのだが、そんなことは考慮しないのが薪流である。
「青木、段ボールの中に僕の下着」
「いつまでそんな格好してるんですか? 早く服着てくださいよ」
「替えの下着がない」
「なんで」
「おまえが全部、洗濯機に入れちゃったからだろ!」
 自分が悪いくせに、そんなことは棚に上げるのは薪の得意技だ。
「替えの下着くらい家に置いてないんですか」
「泊り込みが長引いて全部持って行ってたんだから仕方ないだろ! じゃあ、おまえは30枚もパンツ持ってるのか!?」

「……薪さん。もしかして、オレの忍耐力、試してます?」

 この新人は時々、意味不明のことを言う。が、第九の室長の役職は伊達ではない。観察力と洞察力、そこから仮説を組み立てる速さなら誰にも負けない薪である。
「ああ、そうだな。もう11時か。腹減ったよな。朝食まだなんだろ?」
 そう言って、ダイニングの椅子の背に掛けてあったエプロンを裸の胸につけた。
「その卵、食べられそうか?」
「……ホント、もうカンベンしてくださいよ……」
「なに泣いてんだ。そんなに腹減ってるのか?」
 
 やっぱり良く分からない。
 世代の差だな、と見当違いの見解に達して、薪はクッキングヒーターの電源を入れた。



*****

 やっぱり新婚さんは、裸エプロンが基本ですよね♪(←変態)


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23日目の秘密(6)

23日目の秘密(6)








 青木の懇願で、薪はようやくパジャマを着てくれた。
 白い半袖のパジャマの上に水色のチェック柄のエプロン姿は、それはそれでやっぱり青木を平静ではいられなくしたが、裸にエプロンよりはなんぼかマシだ。
 ぜったいに、わざとだ。
 薪は自分の気持ちに気付いて、からかっているに違いない。ハダカにエプロンて、エプロンて……今夜は夢に見てしまいそうだ。

 湯上りの、全身が薄紅色に染まった薪の姿といったら、魂が抜けてしまうほどきれいだった。
 以前、第九のシャワー室で見てしまったものとは比較にならないくらい、色っぽくて扇情的で。それも今回は至近距離だ。青木に平静を保てという方が無理だ。
 青木の肩越しに、冷蔵庫の中からペットボトルを取っていった腕のしなやかさが、背中に当たっていた胸の体温が、青木を石にした。身体から石鹸の匂いがして、髪からはシャンプーの匂いがして、首筋に滴る水滴を弾く肌が桜色に染まって……女の子だったら、全力で口説いてる。
 よく痴漢で捕まった男が逆切れして「あんな短いスカートを穿いてるから悪い」などと見当外れの言い訳をしているのを聞いたことあるが、今は少しだけその男の気持ちが解ってしまう。こうして人は犯罪に堕ちていくのだろうか。

「野菜が全滅なんだよな。冷凍物しかないな」
 食事の準備を始めた薪に、青木は声を掛けた。
「手伝います」
「じゃ、このパンをトースターに。あとコーヒー頼む」
 コーヒー好きの薪らしく、専門店のブレンドを置いている。2人分の分量をきちんと量って、青木はコーヒーメーカーをセットした。さっき殺菌をしておいて良かった。
 薪は手際よく卵を割り、泡立て器でかき混ぜている。
 冷凍しておいた食パンに温野菜、ベイクドポテト。きれいな黄色に焼きあがった卵焼きは見た目にもふわふわで、とても美味しそうだ。
「有り合わせで悪いな。でも、コンビニとデリバリーはもうウンザリなんだ」
 確かに、コンビニの弁当は続くと飽き飽きする。青木もあまり好きではないが、研究所の食堂は昼時しか開いていないので、朝と夕食、そして夜食はいつもコンビニかデリバリー、もしくはテイクアウトの食事になってしまうのが実情だ。

 コーヒーの良い匂いがダイニングに立ち込める。トースターがチンと音を立てて、香ばしい匂いがする。実は青木は朝食は食べてきたのだが、美味しそうな匂いを嗅いだら急に腹が減ってきた。
「いただきます」
 さっそく薪のお手製の卵焼きを口に運んで、青木はびっくりする。今まで食べたことがないくらい、美味い。
「薪さん、料理上手なんですね」
「料理のうちに入らないだろ、こんなの」
 それは過少評価だと青木は思う。少なくとも青木にはできない。

 箸を扱う手がとても優雅だ。きっと躾がよかったのだろう。食べ方もきれいだ。
 そういえば、ちゃんと箸を使って食事をする薪を見るのはこれが初めてだ。いつも書類やモニターを見ながら、片手でつまめるものを食べているところしか見た覚えが無い。薪は昼休みはたいてい眠っているので、研究所の食堂でも一緒になったことがないのだ。
 小さな口唇がトーストをかじる。咀嚼して飲み込む。白い喉がこくりと動く。普通の食事風景なのに、どうしてこんなに目が離せないんだろう。
「……わかった。これ、やるから」
 青木のほうに、薪は二枚目のトーストをよこした。自分の注視の意味を取り違えたのだろう。捜査では勘違いなんかしたことがないくせに、と青木は心の中でぼやく。

「これ食ったら、帰って勉強しろよ」
「もう少し手伝います。奥の部屋の掃除が残ってますよね」
「あそこは寝室だから入るな」
 何か見られたくないものがあるのだろう。さっきリビングで、薪が引き出しに隠していた写真立てを思い出す。
 誰だって、夫婦の寝室に他人を入れるのは嫌なものだ。そういうことかもしれない。
 黙ってしまった青木を見て何を思ったのか、薪は軽蔑するような目で青木をねめつけると、箸を置いて腕を組んだ。
「言っとくが、僕はおまえの好きな雑誌やDVDは持ってないぞ」
 
……薪さん、誤解です……。

 かと言って、彼女の写真が置いてあるんでしょう、とも言えない。青木は黙ったまま3枚目のトーストをかじった。


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23日目の秘密(7)

23日目の秘密(7)







 朝食の後片付けを引き受けて、青木は食器洗いに精を出していた。
 食事をした後、薪はダイニングの椅子に腰掛けたまま眠ってしまった。2日間は徹夜だったらしいから、とうに限界だったのだろう。
 ベッドに寝せてやりたいが、寝室には入るなと言われたので、仕方なくリビングのソファに運んだ。
 薪を抱き上げて、また軽くなったな、と思う。無茶をするからこんなに細くなってしまうのだ。自宅ではさすがに防弾チョッキは着ていないから、その華奢な身体の線がはっきりわかる。

 相変わらず、きれいな寝顔だ。
 初めて会ったときも、室長は眠っていたっけ。あの時は驚いた。「泣く子も黙る法医第九研究室の鬼室長」とか「氷の警視正」とか、とにかく厳しい人だと言う噂を聞いていたから、その外見とのギャップに驚いたのだ。中身は噂以上にキツかったが。
 でも、実際に彼の下で仕事をしてみると、室長は鬼でも冷血でもない。どれだけ忙しくても、部下たちにはできるだけ仮眠と休暇を取らせるし、体調には気を使ってくれる。室長が冷酷なのは部下に対してではなく、むしろ自分に対してだ。

 なぜ、あんなに捜査に夢中になるのだろう。

 不眠不休で何度も貧血を起こして、自分の身体を苛め抜く。まるで何かの罰のように、聖職者が自分で自分を鞭打つように、室長の仕事ぶりは少し異常だ。
 初めは仕事に対する熱心さの表れだと思っていた。しかし、そんな単純なものではない。おそらくは、昨年のあの事件が尾を引いている―――― 夏のことだと記憶しているから、もう1年になるのだろうか。

 キッチンをきれいに片付けて、風呂を簡単に洗い、洗濯機を覗き込む。終了までの時間を示すタイマーが、残時間を20分と表示している。
 それにしても大きな洗濯機だ。
 よくコインランドリーに置いてあるような、業務用の洗濯乾燥機である。確かにまとめ洗いには便利だし、洗濯物もしわにならなくて良いが、普通の家にあるのは珍しい。

 リビングに戻ると、薪はまだ眠っていた。
 寝返りを打とうとしてソファの狭さに中断したのか、上着の裾がめくれあがって形の良い臍が見えている。何か掛けてやらないと寝冷えしてしまうかもしれない。
 あいにくリビングには毛布は置いてない。あるとしたら寝室だが、そこは立ち入り禁止区域だ。仕方なく脱衣所から乾いたバスタオルを持って来て、お腹の辺りに掛けてやろうとしたとき、薪が目を覚ました。

「―――― すずき?」
「いいえ。青木です」

 間違われるのは、これで何度目だろう。
 そんなによく似ているだろうか。写真を見た限りでは、それほど瓜二つと言うわけではないと思うのだが。
 共通しているのは、長身と黒髪くらい。岡部には、雰囲気が似ていると指摘されたことがある。が、その岡部に鈴木と間違われたことは一度も無い。

 薪はだるそうに身体を起こすと、すっかりきれいになった部屋を見回した。びっくりしたように、あちこちを見渡している起き抜けの薪の姿が可愛らしい。
 机や本棚に積もっていた埃はきれいに拭き取られ、木目が美しく磨き上げられている。薪が眠っている間に窓から電灯から床磨きまで、青木は掃除は得意なのだ。
「僕がやるよりきれいだな」
「薪さんの部屋は、物が少ないですから。やりやすいです。もともとそんなに汚れてなかったですし」
「気持ち悪くなるくらい臭かったけどな」
「あれは不可抗力です」
 その時、洗濯機のブザーが鳴って、ようやく薪は着替えることができた。
 休みの日なのでワイシャツにネクタイではなく、半袖のパーカーに膝丈のジーンズだ。ごく普通の服装なのだが、絶対に高校生にしか見えない。普段、きちんとスーツを着込んでいてさえ学生に間違われることがあるのだ。ブレザーにネクタイの制服は珍しくもない。

「ご苦労だったな」
「いえ。薪さん、買物に行くんですよね。オレ、荷物持ちしますよ」
 野菜や果物は結構重い。一人暮らしとはいえ、次の休みまでの1週間分を買い込むとなれば、かなりの量になるだろう。
「いいから帰って勉強」
 言いかけて止め、薪は何か思いついたように立って台所へ行く。後ろから着いていくと、米びつと戸棚を覗いて在庫のチェックをしているようだ。両方とも、ほぼ空である。

 公用車を個人の買い物に使ってよいのかどうか、迷うところだが。
「車、出してくれるか?」
「はい」
 青木はにっこり笑って、頷いた。



*****

 新婚さんは一緒にお買い物に行くものです。

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23日目の秘密(8)

23日目の秘密(8)






 薪は車を持っていない。
 免許はあるが、自宅からは駅が近いし、急ぎのときは岡部が迎えに来てくれる。あれば便利かもしれないが、維持費が大変だ。
 近くのショッピングモールまでは車で5分くらいだが、歩けば30分はかかる。この炎天下、往復1時間の道のりを、10キロの米袋を持って歩くのはさすがにきつい。

 平日のモールは、人出もそれほど多くない。午前中なので尚更だ。おかげでゆっくり商品が選べる。
 野菜に果物、パンにミネラルウォーター。精肉のコーナーは素通りして鮮魚の冷気の中で足を止める。薪の好物は魚だ。肉はもともと好きではないが、第九に入ってからはますます食べなくなってしまった。
 大好きな白身魚の刺身を前に、鯛にしようか平目にしようか迷っている。酒に合うのは平目だが、ごはんに合わせるなら旨みの強い鯛だ。結局二つともかごに入れる。迷ったときには両方買うのが薪の主義だ。

 後ろからカートを押して、青木がついて来る。
 カートには買い物かごが2つ。ひとつは青木のものだ。中にはレトルト食品やインスタント食品、スナック菓子の袋が目立つ。
「そんなものばっか食べてると、身体壊すぞ」
「食べるの忘れてぶっ倒れる人に言われたくありません」
「なんか言ったか?」
 薪が声のトーンを変えると、青木は慌てて首を振る。ちゃんと聞こえているぞ、と睨んでやると、苦笑して「作るの面倒なんですよね」と言い訳した。

「確かに、あの帰宅時間から自炊はきついか」
 ふと、薪の脳裏に、先日雪子と並んでベンチに腰掛けていた青木の姿が浮かぶ。夕食の材料を見繕いながら、薪は何気なさを装って訊いた。
「おまえ、彼女いないのか?」
「今はいません」
 よし、第一段階はクリアだ。
 心の中でガッツポーズをとりながら、薪は平静を装って青木を揶揄した。
「なんだ、情けない」
「第九に入って、1ヶ月で振られたんですよ。忙しくて、メールもできなくて」
「あのシフトじゃな」
「薪さんが組んだシフトじゃないですか」
「人のせいにするな。おまえの男としての魅力が足りなかっただけの話だ」

 青木が第九に入ったのは1月の末だから、前の彼女と別れて約半年。いいタイミングだ。そろそろ相手が欲しい頃だろう。
「そういう薪さんは、どうなんですか?」
「僕のことはいい」
 放っておいてくれ、と素っ気無く言って、薪は言葉を選んだ。
「おまえの……恋人の許容範囲って、どのくらいだ?」
 曖昧な質問に、きょとんとした顔をする。やっぱりハッキリ訊かなくてはだめか。
「12歳年上の恋人って、ありか? どう思う?」
 青木はまだ24歳。36歳の恋人を、果たして受け入れてくれるだろうか。他の面ではその辺の女には負けないと思うが、どうにもそこだけが心配だ。

 少し迷うようだったが、突然、何かに思い当たったように青木は頬を緩めた。微かに赤くなっているようだ。これはもしかすると、青木のほうも。
「はい。オレ、そのくらい年上の人のほうが好きです」
 よっしゃ! と心の中で喝采を叫びながらも、薪はポーカーフェイスを崩さない。こういうことは急いでは駄目だ。ゆっくりと懐柔しないと。
「そうか」
 まだ相手の名前を出すのは早すぎると判断して、薪は一旦会話を終わらせた。あとは雪子だ。あっちは青木のように単純ではないが、鈴木に似ている青木の事を、彼女が拒めるはずは無い。

 上機嫌で魚を選んでいる薪に、売り子の声が聞こえた。
「奥さん、今日は鯵のいいのが入ってるよ」
 周りを見るが、誰もいない。
 まさか自分のことじゃあるまいと思いたいが、魚屋の前掛けを締めた男は真っ直ぐに薪を見ている。
「新婚さん?仲良いねえ」
「ち、ちがっ……!」
 否定しようとする薪を遮って、さっと青木が前に出る。
 そうだ、こいつがいるから間違えられたんだ。おまえの責任において善処しろ。

「ありがとうございます。それ、いただきます」
 礼を言ってどうする!
「こんなきれいな奥さんがいて、羨ましいなあ。男冥利に尽きるねえ」
「ええ、まあ」
 否定しろ! 彼の誤解を解け!

 怒りが大きすぎて声も出ない薪の前で、2人の男は意気投合したように話している。
 その後も「恋愛結婚なの?」とか「ずいぶん若い奥さんだけど20歳は超えてるの?」とか、薪の神経を逆なでするようなことばかり言って、しまいには3割引のシールをカゴの中の刺身にまで貼ってくれた挙句。
「やさしい旦那さんでよかったね、奥さん。大事にしなよ」
 もう薪に残された道は、引き攣った笑いを浮かべてその場を離れることだけだった。


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23日目の秘密(9)

23日目の秘密(9)







「どうなってるんだ、あの男! 僕のどこが奥さ……笑うな、青木!」
 様々な冷凍食品が並ぶ棚の前で、薪は激しく憤っている。
「さっきから笑いすぎだろ、おまえ」
 青木は別に、薪が女の子に間違えられたことを嘲っているのではない。怒った薪の様子が可愛くて、つい頬が緩むのだ。
「僕とおまえは上司と部下だぞ? どこをどう見間違えたら『新婚さん』になるんだ!?」

 新婚さんはともかく、奥さんは無理の無い見解だ。
 この時間にスーパーに来られるのは専業主婦くらいのものだし、薪のカゴの中のものを見ればきちんと料理を作れることがわかる。丸のままの魚に、野菜にきのこ類。泥つきの牛蒡に里芋と、手をかけなくては食べられないものばかりだ。男の買い物で、こうも家庭料理の素材が並ぶことは少ない。
 しかも、今日の薪の愛らしさは半端ない。
 カーキ色のパーカーに半ズボン姿。パーカーは身体のラインを露にしないので、上半身だけでは男か女かわからない。暑さから袖を捲り上げているものだから華奢な肩がむき出しになっていて、その肩の細さとそれに続くしなやかな腕の白さは、断じて男のものではない。
 ましてや、素足にスニーカー履きのふくらはぎから踝のラインは、どうしても男には見えない。まず体毛がほとんどない。女の子のように脱毛しているわけでもあるまいが、うすい産毛しか生えていない。くわえて足首の細いこと。膝丈のジーンズから覗く膝の形までが美しい。
 直前の会話で何故か嬉しそうだった薪の様子が、「愛する夫と一緒に買い物をする幸せいっぱいの新婚の妻」に見えたとしても、なんら不思議ではない。

「それをおまえまでなんだ、あの親父と一緒になって!」
「でも、あそこで『この人は男の人です』なんて言ったら、それこそ店中の注目を集めちゃいますよ」
 青木のその意見には納得したようで、薪は一応、頷いた。
 それはまあ、と口の中で言って、アイスクリームを手に取る。ハーゲンダッツのアフォガード。薪のお気に入りのコーヒー味のアイスクリームだ。
「あれ?ジェラードじゃないんですか?」
 青木の言葉を無視して、薪はカゴにアイスを入れた。
「まずいですよ、ここはジェラードにしとかないと」
「? なんで?」
「薪さんはジェラードって決まってるんですよ」
「だから、なんで」
……どうしてだろう。何となく、そう言わないといけないような気が。

「どうして間違えられたのかな。服装のせいか? くっそ、スーツ着てくりゃよかった」
「いいじゃないですか。おかげで安く買えたんだし。そんなに怒ると、アイスクリーム溶けちゃいますよ」
 新鮮なものにまで3割引のシールを貼ってもらったので、だいぶ得をした。薪の不機嫌と引き換えだから、手放しでは喜べないのだが。
 最後に重い米を買って、レジを通る。買い物籠は3つになって、エコバックに入りきらない。調味料や重い野菜、果物は段ボール箱に入れてカートで車まで運ぶ。
 やっぱりついてきて良かった。これだけの荷物だ。タクシーを呼んだとしても、車まで運ぶのも大変だったろう。

 車をスタートさせながらも、青木はにやつきが止まらない。
「いつまでニヤニヤしてるんだ」
「いえ、べつに」
「このこと、誰かに言ったら承知しないぞ」
「はい」
 青木のやに下がった顔は、早とちりの魚屋のせいばかりではない。さっきの薪の意味深な言葉を思い出しているのだ。
 12歳年上の恋人をどう思う―――― 薪はそう言った。
 12歳年上、つまり36歳。薪の年齢だ。そういう意味合いで訊かれたのかも知れないと思うと、つい顔がほころんでしまうのだ。

 都合のいいように解釈しすぎかもしれないが、恋とはそういうものだ。
 相手の何気ない言葉に態度に、一喜一憂する。その視線に仕草に自分への好意を探して、気持ちを浮き立たせる。逆に少しでも冷たくされると、地の底に沈みこんでしまう。
 特に相手が薪のようなタイプだと、振り回されるほうは大変である。天国と地獄をジェットコースターで行き来するようなものだからだ。しかし、そんなところすら愛おしい―――― 惚れた弱みというやつだ。

「今日は悪かったな。大事な勉強の時間を無駄にさせて」
 無駄なんてとんでもない。
 青木にとって、こんなに有意義な日はないくらいだ。薪の家で2人きりで朝食をとって、まるで恋人同士のように買い物に出かけたりして、実際新婚夫婦に間違えられたりして。
「そんなことないです。色々とごちそうさまでした」
 さっきのスーパーで自分用に買ったものも、薪がお金を払ってくれた。独身貴族の強みか、薪は気前が良い。飲み会に誘っても顔を出してくれた事は無いが、上司として金だけは出すタイプだ。他に使うところもないのか、あまり金銭に執着がないようだ。

「完璧な掃除の礼に、今度はもっといい物を食わせてやる」
 これは、食事の誘いと受け取っていいのだろうか。
 薪と2人でレストランで食事なんて。だめだ、運転に集中できない。でも、もし本当に薪に誘われたら、親が危篤でも駆けつけてしまいそうだ。

 どうしてこんなに、オレはこのひとに惹かれてるんだろう。
 このひとのどこがそんなに好きなんだろう。
 その容姿か、明晰な頭脳か、優秀な捜査官としての能力か。
 どれもがそうであり、そうでないような気がする。

「薪さんて、恋人いないんですよね」
「なんだ、その決め付け方。これでも僕はモテるんだぞ」
「それは知ってますけど」
 薪のところには、頻繁にラブレターが届く。女性8割男性2割といったところで、男女問わずにもてるのは事実だ。
 が、それらはすべて薪に読まれることなく、シュレッターに直行だ。氷の警視正の名に恥じない冷酷っぷりである。
「でも、特定のひとはいないんですよね」
 第九の職員全員が、口を揃えてそう言っていた。先ほどの意味深な問いかけの効果もあって、青木は少し大胆になっている。
「まあ、いまのところは」
 語尾を濁す。
「好きな人はいるけどな」
 そう言って、窓の外を見る。
「……三好先生ですか?」
 雪子は否定していたが、やはり青木は気になっている。雪子の方にその気が無いとしても、薪のほうはどうなのだろう。
「いや。それだけはありえない」
 雪子も同じセリフで否定していた。本当に、この2人はよく似ている。

 もしかしたら、と青木は思ってしまう。
 それがどんなに可能性が低くても、期待せずにはいられない。薪の意中の人に自分がなれたら、と。

 途中、薪は花屋に寄った。
 一抱えの白百合の花を買い込む。百合は夏の花だ。薪の清廉な美貌に良く似合う。
 そういえば、薪は時々職場でも良い匂いをさせているが、あれは百合の匂いだ。
 香水ではなく移り香だったのか、と気付く。先刻も枯れた百合を片付けていた。薪は百合が好きらしい。何か機会があったら、百合の花束を贈ってやろう。

 薪のマンションへ帰り着き、地下の駐車場から大量の荷物を部屋まで運ぶ。生ものを冷蔵庫にしまい、自分のものは箱に入れる。会計は薪が一緒に払ってくれたので、荷物が混ざってしまっているのだ。
 青木が冷蔵庫の整理をしている間に、薪はダイニングテーブルの上で百合の花束を解き、そこから数本を取り分けた。抜き取った1本をサイドボードの上に飾り、さらに1本の花を持って寝室に入る。
 入ったまま、出てこない。
 20分ほど待ったが、やはり出てこない。
 寝室のドアをノックして外から声を掛けるが、反応は無かった。もしかすると眠ってしまったのかもしれない。

 そっとドアを開けてみると、案の定、薪はベッドで眠っていた。
 ブラインドの隙間から入る夏の日差しの中、真っ白なシーツの上で微かな寝息をたてている。枕元に備え付けの棚があるタイプのベッドで、サイズはセミダブル。
 枕元には何故か、目覚まし時計が3つも置いてある。それから、さっき持っていった百合の花が、透明な花瓶に挿してあった。

 薪の寝顔を覗き込んで、青木は驚く。
 涙の、あと。
 胸には大判の写真立てを抱いている。
 これは……。

 思いついて、青木はリビングに戻った。サイドボードの引き出しから、さっき薪が隠した写真を見つける。そこに写っていたのは長身に黒髪の、自分に良く似た人物。
 やはり、と青木は思った。
 思うと同時に、雪子の言葉が思い出される。
 『親友で、ライバルなの』

 つまり、薪の好きなひととは。

 サイドボードの前で百合の匂いに包まれながら、青木は写真を見つめて立ち尽くしていた。


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23日目の秘密(10)

23日目の秘密(10)








 薪が目を覚ましたのは夕方だった。
 片付けが途中だったのを思い出して寝室から出てみると、キッチンと冷蔵庫はきれいに片付いていて、青木はいなかった。寝室に花を活けていたら眠くなって、そのまま寝てしまったのだ。置き放しだった百合の花は、浴室のバケツに活けてあった。

 久しぶりに熟睡した。
 シャワーで寝汗を流そうと、リビングを横切って風呂場へ向かう。
 ふと、サイドボードの上の写真に気付いた。
 百合の隣に立ててある。先刻、確かにしまったはずだ。……青木か。
「なんだ、見たのか」

 それは、女性の写真ではなかった。
 仲の良い友達同士のツーショット。2人とも男だが、片方の男性は黒髪で背が高く、もうひとりは亜麻色の髪で線が細い。在りし日の薪と、その親友だった。
 鈴木がふざけて後ろから薪に抱きついている。
 第九の発足当時、これは雪子が撮ってくれた写真だ。昔から、シャッターチャンスは逃さないのが雪子の主義だ。それが原因で後々薪はひどい目に遭うのだが。それはここでは置いておこう。

 ふたりとも、極上の笑顔で写っている。
 特に薪の笑顔は最高で、それはもちろん彼の背後にいる人物が引き出したものだ。自分の首に回された鈴木の腕に華奢な両手をかけて、嬉しそうに笑っている。

 ひと目で。
 たった一瞥しただけで、薪の気持ちが分かってしまうような写真だった。

 しばらくの間、薪はその写真を手にとって見つめていたが、やがて元通りの位置に戻すと、百合の花に顔を寄せて匂いを嗅いだ。今日は、これから行きたいところがある。
 シャワーを浴びて、出掛ける準備をする。
 髪を梳かし、黒いスーツに黒いネクタイを締める。机の引き出しを開けて、奥のほうに隠すように置いてあった小箱を取り出し、中に入っていた指輪を左手の薬指にはめた。細い指にプラチナの輝きがよく似合う。
 その手に百合の花束を持って、薪は家を後にした。


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23日目の秘密(11)

23日目の秘密(11)






 大きな公園が見渡せるアパートの一室で、青木は参考書をめくっていた。
 試験勉強など久しぶりだ。警察大学では定期的に試験があったが、卒業して1年も経ってしまうと、勉強する習慣などすっかりなくなってしまった。集中力が取り戻せなくて、どうも調子が出ない。
 日没後の公園には、人影もまばらだ。元気に遊んでいた子供たちも、とっくに帰ってしまった。かといって、恋人たちがここを訪れるにはまだ間がある。今はちょうどその中間の時間帯なのだ。
 薪と一緒に見た桜の樹は、緑色の葉を生い茂らせ、静かに佇んでいる。また来年の自分の出番に向けて、養分を蓄えている最中なのだろう。

……勉強が捗らないのは、さっき見た写真のせいだ。

 親友に抱きしめられて、うれしそうに笑う薪の写真。ふたりともスーツ姿だったから、きっと職場で撮ったものだろう。
 あんな薪の笑顔は見たことがない。
 楽しそうで、幸せそうで、この上なくきれいで。その笑顔が、後ろから薪を抱きしめている背の高い男の存在に起因するものだと、青木にはひと目でわかった。

 鈴木克洋。
 雪子の元婚約者で、薪が射殺した男だ。

 きっと、薪は鈴木を殺したことで、彼を忘れられなくなったのだ。それが辛くてあんな無茶をするのだろう。笑顔も楽しみも封印して、ただひたすら鈴木との思い出の第九に縋り付いて。自らを傷めつけるような過酷な生き方を自分に課して。
 これでは、どっちが殺されたのかわからない。今の薪は、生きながら死んでいるようなものだ。
 何とかしてやりたいが、今の自分では力不足だ。もっと薪を支えられる人間にならないと。
 それには、今回の昇格試験も大切だ。階級が上がればこなせる職務も多くなる。そうしたら、今より室長の役に立てる。

 気合を入れ直して、がんばるか、と思ったところにチャイムが鳴った。
 玄関のドアを開ける前に薪のことがちらりと脳裏を掠めたが、それはない。果たして、ドアの外にいたのは寿司屋の出前持ちだった。
「特上1人前、お待たせしました。」
 頼んだ覚えはない。
「薪剛さんのお名前で、お代頂いてますけど」
 掃除の礼に、今度はもっといい物を食わせてやる―――― あれはこういう意味か。
 少しがっかりしてしまう。
 薪が届けてくれたのは銀座の有名な寿司屋のもので、普段はなかなか手が出ない代物だったが、青木には薪とふたりで食べた冷凍物だらけの朝食のほうがおいしかった。不思議なものだ。きっと薪と一緒なら、コンビニの弁当だって美味しく感じるのだ。
 それでも、薪の気持ちは伝わる。自分のことを気にかけてくれたのだ。

『がんばれよ、青木』
 厳しい叱咤とやさしい心遣い。薪はやはり、理想の上司だ。
「ごちそうさまでした、室長」
 空になった寿し桶の前で手を合わせる。現金なもので、食べたら俄然、やる気が出てきた。写真のことが気になって昼食を抜いてしまっていたのだが、集中できなかったのはそのせいかもしれない。

 薪に認められるためには、この試験をパスすることだ。
 再び参考書を広げる。次第に、その内容にのめりこんでいく。目前の公園には恋人たちの姿もちらほら現れ始めているが、青木にはもう、周りの音も聞こえない。 
 東大法卒の第九の新人は、持ち前の集中力と根気を遺憾なく発揮し始めた。



*****

 鈴木さんと雪子さんが婚約していた、と言うのは、創作上の勝手な設定です。
『コピーキャット』を読むまで、ふたりは婚約していたのだとばかり思っていました。4巻の葬儀のシーンで、雪子さんが親族席にいたから、てっきり。自殺未遂までしたみたいだし。本当は、おなかに鈴木さんの子供がいたのかな~、とそこまで思っていたのですが。鈴木さんが亡くなったショックで流産しちゃって、絶望して、みたいな。
 でも、今の雪子さん(2010.8月号)を見ると……オレのと違うなあ(BY倉石)


 

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23日目の秘密(12)

23日目の秘密(12)








 夏の夜の霊園は、淡い月明かりに照らされて、闇の中に沈んでいた。

 天空の霊園の名に相応しく、長い石の階段が果てしなく続く。その階段を、薪はゆっくりと昇っていく。亜麻色の短髪に夜目にも白い肌。痩身を喪服に包み、百合の花束を抱えている。
 時刻は夜の10時。
 こんな時間にこんな場所に来るものは、他には誰もいない。昔は子供たちの間で肝試しという風習があったらしいが、最近は見かけなくなった。幽霊や妖怪の類は時代が進むにつれてその居場所を無くし、2060年の現代では、子供たちの心の中にさえも住めなくなってしまったようだ。

 薪は、ほのかな明かりを頼りに目的の墓所へと進む。
 もうここへは何度も来ているのだろう。真っ直ぐに前を見て、迷いなく歩いていく。
 やがて薪は、ひとつの墓石の前で足を止めた。暫くの間立ち尽くす。
 夏の夜風が短い髪をなぶり、美しい額が顕わになった。

「また来ちゃったよ。ここに来たって、おまえに会えないのはわかってるのにな」

 そう呟いて花束を墓前に供える。その場に屈み込んで、手を合わせる。
 3分ほどで合掌を解いて、屈んだ姿勢のまま墓石を見つめた。
 鈴木家之墓、とある。薪が1年前に射殺した親友が眠る場所だ。
 自宅で写真に話しかけるように、薪は墓石に小さな声で語りかけた。
 
「雪子さんは元気だよ。お父さんとお母さんも。今、車の中から見てきたけど、元気そうだった。妹さんも来年成人式だってね。きれいになってたよ」

 今日は鈴木の命日ではない。
 もちろん間違えたわけではなく、鈴木の両親と顔を合わせたりしないように、わざとずらしたのだ。

 鈴木の両親とは、大学時代からの付き合いだった。自宅から大学に通っていた鈴木の家に、薪はよく遊びに行っていた。それは警察庁に入ってからも続いた。あの事件が起こるまで、実に15年もの交流があった。
 鈴木の両親は一人暮らしの薪を暖かく迎え、家族の団欒の中に混ぜてくれた。幼い頃にふた親を亡くした薪にとって、それは宝物のような時間だった。

 あの事件が起きたとき、鈴木の親は薪を責めなかった。
 それが逆に辛かった。
 糾弾して殴って欲しかった。刑法上の罪など関係なく、罵って欲しかった。
 覚悟していたのに、厳しい言葉は何もなかった。
 ただ、拒絶された。
『二度と顔を見せないでください』
 そう、頭を下げられた。
 薪は引き下がるしかなかった。

 本当は雪子のように、鈴木の遺体に取りすがって泣きたかった。しかし、薪にはそれは許されなかった。息子を殺した男が、息子の遺体に触ることを両親が許してくれるはずもなかった。
 だから薪は、鈴木の葬儀にも参列していない。
 棺に入った鈴木の姿を見ることも、最後のお別れも献花も何も―――― 本当に、何ひとつできなかった。最後に見たのは、病院で医師の必死の蘇生術を受ける鈴木の姿だった。

 鈴木の両親は2人ともとても優しい。だからあんなにやさしい息子が生まれたのだと薪は思う。薪のことを恨めば楽なのに、優しすぎてそれができない。逆に、恨みがましい気持ちに傾く自分たちを責めてしまうのだろう。そんな彼らにとって、薪の姿を見ることは苦痛以外の何ものでもない。
 これ以上、苦しめたくはない。
 四十九日も月命日も、こうして日をずらして、なるべく人のいない時間に訪れてきた。鈴木の好きだった百合の花を携えて、黒装束に身を包んで、長い石段を何度のぼってきただろう。

「1年たったな。鈴木」
 もう、1年なのか。
 ようやく、1年なのか。
 自分はあと何年、待てばいいのか……。
「僕は頑張ってるよ。がんばってるから」
 息が、つまる。
 鼻の奥が痛い。

「だから……早く迎えにこいよ。鈴木……」

 つらい。
 もう、たえられない。
 はやく、はやく、おまえのところへ行きたい。

 でも、殺人者にはそんな勝手は許されない。贖罪はまだ、終わってはいない。
 第九の地位が確実なものになるまで、雪子さんが幸せになるまで……まだ死ねない。

 涙は止めようがなかった。地べたに腰を落として、薪は泣いた。
 静まり返った霊園に、薪のすすり泣く声だけが、いつまでも響いていた。


 ―了―



(2008.9) 

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ジンクス(1)

 Rです。(しょっぱなから(^^;)
 18歳未満の方と苦手な方はご遠慮ください。




ジンクス(1)

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ジンクス(2)

ジンクス(2)







 法医第九研究室の室長席には、今日もうずたかく書類の山が築かれている。
 机の上には、かぐわしい香りの黒い液体が入った白いマグカップが置かれている。コーヒー好きの室長のために、青木は毎朝挽きたてのコーヒーを淹れる。
「今朝はキリマンジャロAAです」
 軽く頷いて室長は左手でカップを持ち上げ、その香りに酔うかのように目を閉じる。長い睫毛が今日もきれいだ。

 さりげなく薪に見惚れていて、青木は気付いた。いつもならてきぱきと仕事を捌く室長が、今日に限ってはその仕事ぶりに冴えがない。普段は眼にも留まらない速さでキーボードを叩く手が、今日は緩慢に動いているような気がする。それでも充分人並み以上の早さだが、薪にしては遅い。
「青木。岡部を呼んでくれ」
 モニタールームに帰りぎわ、そう頼まれた。岡部は室長の腹心だ。何かにつけては呼ばれることが多い。
 室長の信頼を得ている岡部が、少し羨ましい。
 青木はまだ、警察官としてのキャリアも1年と少し。第九に来たのはたった8ヶ月前だ。捜査官として18年を経ている岡部とは比べ物にならない。
 キャリア組の青木は、7月の昇格試験の合格通知を貰ったばかりだから、正式な辞令が出れば肩書きだけは岡部と同じ警部なのだが、経験と実力は雲泥の差だ。
 第九では実力のあるものが上に行く。役職は関係ない。室長の方針は厳格な実力主義だ。
 だからもし、自分より実力のあるものがいれば室長はその役職を潔く降りて、その人物に室長の椅子を譲り渡すだろう。室長はそういうひとだ。エリート集団第九の頂点に立って天才の名を欲しいままにする薪剛警視正以上の切れ者がもしもいたら、の話だが。

 青木と入れ違いに、岡部が室長室に入っていく。
 岡部に対する室長の態度は、新参者の青木に対するそれと格段の違いがある。気安い口調と微笑み。年が近いせいもあるのだろう。見た目は青木のほうが同年代に見えるのだが。

「岡部。今日、僕の家に来ないか」
「何か御用ですか?」
「カレー作りすぎちゃってさ。ひとりじゃ食べきれないから、食いに来いよ」
 机に両肘を突いて両手の指を組み合わせ、その上に細いあごを乗せて、上目遣いに少し甘えるような声音で部下を誘う。青木だったら腰砕けになってしまう媚態に、しかし岡部は冷静だった。
「本当の目的は、なんなんですか?」
「ばれたか」
 ちろりと赤い舌を出す。つややかな唇が、たまらなく魅力的だ。

「身体が疼いてどうにもならない。また頼めないかな」
「もうですか? こないだやってあげたのって、先週ですよ」
「だって、我慢できないんだ」
「ここでやってあげましょうか」
「ここではちょっと。職場だし、誰かに見られたら恥ずかしいから」
「自然なことだと思いますけどね」
「落ち着かないから、やっぱり家でしてくれないか」
「分かりました。じゃ、8時ごろ伺います」
「悪いな。頼んだぞ」

…………。

 室長室の入り口に立って、聞くとはなしに聞いてしまった。青木の頭の中には疑問符が渦を巻いている。
 なんなんだろう、この会話は。
 カラダガウズクって……ガマンデキナイって……。
 まさか?
 室長はあの外見だし、鈴木さんのこともあったりするから可能性はあるけれど、岡部さんはそういうこととは無縁の人だと思っていたのに。
 仲がいいとは思っていたけれど、まさかそういう関係じゃ。

「なにボーっとしてんだ、青木」
 ドア口に立ったまま呆然自失の態を晒していた青木に、室長室を退室した岡部が声を掛けてくる。あんな会話の後に、よくこんなに落ち着いていられるものだ。
「岡部さん。今日、室長のお宅へ行かれるんですか?」
「ああ。おまえも来るか?」
「え!? それは室長に、むちゃくちゃ怒られるんじゃ」
「なんで怒られるんだ?カレー食いに行くだけだぞ」
「いやその……ご迷惑じゃ」
「大丈夫だろ。あの人は割とそういうの気にしないから」
「じゃあ、ご一緒させて頂きます」
 素直な言葉とは裏腹に、どうしても険のある目つきになってしまう。無骨な見かけによらず人の心の機微に敏感な先輩は、不思議そうな顔をしたが何も言わなかった。



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ジンクス(3)

ジンクス(3)







 青木はこの頃、どうもおかしい。
 仕事はきちんとこなしているのだが、心ここにあらずといった感じで、集中力を欠いているように思える。上がってくる報告書や書類にそれはまだ顕れてはいないが、フォローの必要性を室長は認識していた。
 
「8ヶ月、か」
「青木ですか?」
 脈絡のない呟きに、岡部が応えを返す。少し驚くが、岡部との会話では珍しいことではない。端的な言葉から人の真意を汲み取る能力は、さすが捜一のもとエースだ。
「あいつ、このごろ少しヘンじゃないか?さっきもドアのところにボーっと突っ立ってたろ。疲れてるんじゃないのかな」

 白いマグカップに顔を近づけて、薪はその香りに目を細める。
 薪は夏でも、涼しい室内では熱いコーヒーを選ぶ。この香りはアイスでは楽しめない。好みはもちろんブラックコーヒーだ。胃には良くないのかも知れないが、砂糖やミルクはせっかくのコーヒーの味と香りを濁らせてしまう。
 今日のコーヒーはキリマンジャロAA。
 薪は食べることにはあまり興味がないが、コーヒーだけは好きで、よく飲んでいる。別に職場で飲むのだからインスタントでも文句は言わないが、数少ない室長の好物だからと部下のほうが気を使って、近くの珈琲問屋から焙煎したてのものを買ってきてくれる。その好意は素直に嬉しい。

「あのくらいの頃って、普通じゃ考え付かないようなミスをしてくれるんだよな。なんでそうなるんだ、ってカンジの。だから、大学出たての新人はあまり欲しくなかったんだ」
「まあ、誰もが通ってきた道ですから」
「そうそう。僕も警視庁で半年くらいの時にすごいポカやって、課長にえらい迷惑掛けた」
「何をやったんです?」
 みんなには内緒だぞ、と前置きして、薪は過去の失敗を岡部にだけ打ち明けた。
「現場で押収した証拠品を失くしちゃったんだ。同じ日にあった別の事件の分とごっちゃになっちゃって、最後には見つかったんだけど、鑑識から預かったはずの証拠品が手元にないと分かったときのあの焦燥感って言ったら……いま思い出しても胃が痛くなる」
「室長でも、そんな時代がありましたか」
「あったさ。岡部は、そういうのなかったのか?」
 秘密を共有する共犯者の笑顔で、岡部はそれに答えた。
「やりましたよ。それも室長みたいな、そんな可愛いもんじゃありませんよ。俺なんか」

 岡部の失敗談に耳を傾けようとした薪の耳に、モニタールームからの叫び声が聞こえた。
『なにやってんだ、青木――――!!』
 今井の声だ。
 思わず室長室の2人は顔を見合わせる。穏やかな性格の今井が、こんな声を出すことは滅多にない。
「……やってくれたか?」
「そうらしいですね」
「はあ。聞きたくないな」
「そうもいかんでしょう」
 ひょいと肩を竦めて、室長はモニタールームへと歩いていく。
 その顔はいつもどおり冷静で、先刻の後ろ向きの台詞はただのポーズだったと分かる。部下のミスを拭うのは室長の仕事だ。薪はそれを自分の責務だと心得ている。

「どうした」
「あ、室長。その……」
 モニターを見ると、画面が完全にバグっている。操作の途中でデータを破壊する何かを行ってしまったときに起こる現象だ。
「見事に消してくれたな。復旧にはどれくらいかかりそうだ?」
 青くなってしまっている青木を横目に、いつもの少し皮肉な口調で室長が問う。
「システム自体はリスタートかければ済みますけど、元のデータのほうが」
「元データ? なんでだ? スパコンが破壊されたわけじゃあるまい」
 言い渋る今井に、今度は岡部が尋ねる。
 他の職員たちの表情からミスの大きさが予測される。嫌な予感がした。
 青木はうつむいてしまって、何も言えないでいる。こういうときには下手に慰めないほうがいい。

「これは脳の画像じゃありません。CDです」
「CD? まさか」
「その、まさかです」
 消してしまったデータの重要性に気付いた岡部は、思わず今井を怒鳴りつけた。
「なんでバックアップ取っておかないんだ、ばかやろう!」
「バックアップの最中に、青木が電源落としちゃったんですよ。MRIシステム専用の信号に切り替えしている途中で切れちゃったもんだから、情報流出防止の自動プログラムが働いて、メインシステムはおろかCDのハードにまでバグが回って……結局データがオシャカです」

 MRIシステムにかけられる情報は極秘扱いのものが殆どで、その情報が外部に洩れないようにするために二重三重のガードが施されている。その機能のひとつに今井が言った情報流出防止プログラムがあり、セオリーから大きく外れた操作をした場合には自動的にこのプログラムが働くようになっている。
 要はMRIシステムに詳しくない外部のものが簡単に情報を引き出せないようにするためのプログラムなのだが、このようなことも起こりうるとは。これだから新人は怖いのだ。

「なにやってんだ!」
 怒りに青くなっている岡部に、室長の静かな声が聞こえた。
「岡部、もういい。データの控が厚生労働省に残っているはずだ。もう一度、取り寄せてもらえば済む話だ」
「いや、取り寄せるって、薪さん、これ」
「黙れ」

 岡部がCD一枚のことで大騒ぎしているのには、もちろん理由がある。
 現在捜査中の連続放火事件。
 厚生労働省の官僚の自宅ばかりが、4件続けて被害に遭っている。明らかに厚生省に遺恨を持つものの仕業と考えられる。
 これから被害に遭うかもしれない家宅の予測をつけるため、官僚の住所データがぜひとも欲しいところだが、お役所仕事はとにかく時間が掛かる。何枚もの書類を提出して何度も厚生省と警察庁を行ったり来たりして、ようやく情報を入手したときにはリストに載っている家は全部焼けてしまった後、と言う笑えない話になりかねない。
 そこで、所長の田城を通じて、厚生省にいる三田村警務部長の同期から正規の手順を踏まずにリストを回して貰った。人の命が係っている以上、こんな方法でも取らざるを得ないこともある。
 ところが、三田村は薪をひどく嫌っていて、このリストもさんざん嫌味を言われた挙句に渡してもらったのだ。それを誤って消してしまったのでもう一度ください、とはとても言えない。しかし、このリストがないとこの事件は捜査ができない。
 青木はまだ新人で、室長の人間関係や確執には理解が及んでいないが、他の職員たちは警察庁の勤務自体が長いから、その辺のこともよく解っている。だからこんなに青くなっているのだ。

「青木、大丈夫だ。心配するな。システムの復旧をしておけ」
「すみません、室長」
 申し訳なくて室長の顔が見られないらしく、青木はうつむいたまま低い声で謝罪した。
「気にするな。大したミスじゃない。みんな、仕事に戻れ」
 落ち着いた声で部下の動揺を収めると、室長は研究室を出て行った。
 その優美な後ろ姿には、苛立ちも焦燥も表れてはいない。いつもの通り、華奢ではあるが頼れる背中だ。
 
「青木。後で薪さんにもう一度よく謝っておけよ。なんたって」
「今井。もういい」
「岡部さん。でも」
「薪さんがいいと言うんだから、もういいんだ。さ、仕事仕事」
 室長の意向を尊重して、岡部は新人捜査官の広い肩を元気付けるように叩いた。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ジンクス(4)

ジンクス(4)








「申し訳ありません」
 明るい日差しが差し込む捜査一課の応接室で、薪は何度目かの謝罪の言葉を口にした。
 薪の謝罪を受けて革張りのソファにふんぞり返っているのは、もちろん三田村部長だ。太い腕を組み、突き出した腹の上に乗せている。小さな藪睨みの眼が、深く頭を垂れる薪の姿をじっと見据えている。

 あの後薪は、第九から所長室に直行し、データを消去してしまった旨を田城に説明して三田村に連絡を取ってもらった。所長と共に謝罪をして、データの再取得を頼もうと考えていたのだが、当の三田村に捜一の応接室に一人で来るよう命じられた。
 応接室といっても、捜査一課の部屋の一角に応接ソファを置いただけの代物である。薪の謝罪の様子は、捜一の面々から丸見えだ。要は、生意気な第九の室長が滅多に下げない頭を下げる場面を晒し者にしてやろう、と言う三田村の趣向なのだ。

 そもそも、第九と捜査一課は仲が悪い。
 昔は薪も捜一の人間だったのだが、その頃とはすっかり人が入れ替わってしまって、薪の顔見知りは一人もいない。いるのは全体会議でいつも険悪な雰囲気になる課長の池沢と、顔を合わせれば嫌味の応酬になる捜一の現在のエース竹内警視とその一派である。
 つまりここは、薪にとって四面楚歌―――― できれば立ち入りたくない場所だ。
 三田村は警察庁の人間なのだから、なにも捜査一課で薪の話を聞く必要はない。が、三田村と刑事部長の池上は仲がよく、その関係で捜一にもよく出入りしている。
 第九排斥派の捜一と三田村は話が合う。両者にとって、薪は『共通の敵』というわけだ。

「えらいことをしてくれたな。あのデータを友人から回してもらうのに、わしがどれだけ苦労したと思っとるんだ」
 頭を下げた姿勢のままの薪を傍らに立たせておいて、三田村は先刻からずっと非難の言葉を繰り返している。
薪には返す言葉もない。今回のことは、確かにこちらのミスだ。
 しかし、薪は頭を下げながらも別のことを考えている。何かと風当たりの強い第九の室長ならではの特殊能力だ。

―――― そういえば、今朝のコーヒーは美味かった。
 キリマンジャロAAって言ってたな。香りが良くて後味がすっきりしてて、朝にぴったりのコーヒーだったのに、まだ半分も飲んでなかった。もったいないことをしたな。
 それにしても、青木が淹れるコーヒーは美味いな。他のやつらが淹れてくれるのより遥かに美味いし、もしかしたら喫茶店のコーヒーよりも上かもしれない。第九のバリスタと呼んでやったら、どんな顔をするかな。
 そうだ、あいつ昇格試験に合格したんだっけ。岡部に言って、簡単な祝賀会の席を……。

 神妙な顔でそんなことを考えている。まったく、不遜な男である。が、三田村のほうもかなり陰険だ。その私情に偏った叱責を、真面目に聞くこともない。どっちもどっち、ということになるだろうか。
「本当に申し訳ありません」
「どうも君の謝罪には心がこもっていないな」
 それはそうだろう。込めた覚えもない。

……薪は人間として、少し道を間違えている。かつての親友がここにいたら、そう諭してくれるだろう。

「君は心の中で、周りの人間をバカにしとるだろう。自分が人より多少早く出世したからといって、それが自分ひとりの功績だとでも思っているのかね」
 周りの人間を見下したことなどない。バカだと思っているのは、あんたのことだけだ。
「そんなつもりは。お気に障ったのでしたら謝ります」
 言葉だけは丁寧に謝罪を繰り返すが、こういうことは何となく相手に伝わってしまうものだ。その証拠に三田村の怒りは、薪が謝れば謝るほど大きくなっていく。
「だいたい横柄なんだ、君は。謝罪というのは相手の目の高さより下に自分の頭を持ってくるものじゃないかね」
 低いソファにふんぞり返っている三田村より頭を低くしようとしたら、床に膝を着くしかない。土下座して謝れ、ということか。

 なるほど。
 第九の室長が土下座するところなど、そうそう見られるものではない。それで捜一を舞台に選んだというわけか。ここならそれを喜ぶものこそあれ、止めるものなどいない。
 三田村の子供じみた嫌がらせに、反吐が出そうになる。こんなやつが警視長だなんて世も末だ。やはり昇格試験が導入される以前のエスカレーター式の昇任制度には問題がある。
 周囲の視線もあからさまなもので、中には伸び上ってこちらを覗いている者までいる。捜査一課の人間なんて、ろくなもんじゃない。少なくとも第九には他人の困惑を喜ぶような、こんな卑しい人間はいない。

 軽く嘆息すると、薪は呆れるほど素直に膝を折った。それはとても優雅な動作で、まるで日本舞踊の舞のような麗しい姿だった。
 床に額づいても、凛とした雰囲気は変わらない。屈辱に身を震わせる薪の姿を期待していたであろう三田村が、苦い顔をする。周囲の人間も呆気に取られた表情をしており、ここまでやらなくてもいいだろう、という小さな呟きも聞こえてきている。
 薪にとっては、土下座なんか何でもない。今回のように形だけの土下座で潰れてしまうほど、薪のプライドはやわではない。
 長いこと第九の室長をやっていれば、こんなことはいくらでもある。
 何ヶ月か前、MRI捜査に偏見を持った遺族から脳を貰い受けたときなど、地面に土下座した上にバケツで水を掛けられた。それでもなお、地べたに頭をこすりつけて被害者の脳を預からせてもらったのだ。あらかじめ遺族に了承は取ってあるのだが、実際に現場に行ってみるとそういうことは珍しくない。
 だからといって慣れるものでもないが、騒ぐほどのことでもない。薪もすでに、人生の修羅場はくぐってきている。その凄惨さは、並みの人間には計り知れない。

「どうか、もう一度だけ。お願いします」
 亜麻色の短髪が下方に流れて、普段は見ることのできない襟足がのぞく。
 その白さと、ぞくりとするような色香。三田村は、新しい計略を思いついてほくそ笑んだ。

「今夜、その友人に会うのだが、君も来たまえ」
 床に膝を着いたまま、薪は顔を上げた。
 その友人、というのは厚生省にいる三田村の同期のことだろう。当然、薪とは面識がない。
「私がですか?」
「直接、君が彼に頼むんだ。君の口から事情を説明して、彼に謝罪したまえ。もちろん、わしも一緒に行ってやる」
 おかしな注文だが、それでことが済むなら薪に異存はない。相手は厚生省の役人だから料亭くらいは押さえなくてはならないだろうが、経費で落ちるだろうか。
「わかりました。会食の席はどちらに?」
「いや。これは友人としての付き合いだから、余計な気遣いは無用だ。8時に麻布の『寂洸』という料理屋で待っている」
 接待費と言う名目で自分の娯楽費用を賄う警察官僚が多い中、公私にきちんと区別をつける三田村を、薪はほんの少し見直した。
「では8時に」
 膝を着いたときと同じくらい優雅に立ち上がって、三田村に再度一礼すると、薪は捜査一課を後にした。

 今夜、8時。麻布の寂洸。
 岡部の約束と、見事にブッキングしてしまった。仕方がない。岡部のほうは明日にしてもらおう。カレーが腐らないといいのだが。
 なんなら今日は、青木の合格祝いをやってやればいい。おそらくこのミスのことでへこんでいるだろうから、元気付ける意味でも一石二鳥だ。

 褒賞金用の新札はあったかな、と考えながら薪は捜査一課のドアをくぐる。
 その背中を見送る険悪な瞳。現在の捜一のエース、竹内警視である。

「麻布の寂洸って……やばくないですか?」
 現場でいつもコンビを組んでいる部下の大友が、ためらいがちに呟く。お人好しの部下は、あの生意気な室長を心配しているらしい。
「別にいいだろ。そうと決まったわけじゃないし」
 部下の老婆心を笑いつつ、しかし竹内の心境もまた複雑だった。
 竹内は、薪が第九へ行った2年後に捜査一課に配属になった。ノンキャリアの先輩たちは、キャリアの竹内を敵視しており、初めの頃はかなりのイジメにあった。
 第九の室長として捜一から転属した薪も当然キャリアのはずだが、彼の才能はあまりにもずば抜けていたため、妬みの対象にもならなかったと言う。薪の偉業をさんざん聞かされ、同じキャリアでもずい分ちがうとか、キャリアならあのくらいやってみせろとか、ことあるごとに比べられて、すっかり薪のことが嫌いになった。

 先輩の中でただひとり、竹内を薪と比べなかったのが岡部靖文警部だ。
 岡部は、薪が第九へ行った1年後に捜査一課に配属された。懐の大きな男で、自分がノンキャリアであるにも関わらず、竹内のことを後輩として可愛がってくれた。捜一の中で唯一、尊敬できる先輩だった。
 それが昨年のあのセンセーショナルな事件の直後、岡部は第九に引き抜かれた。最初本人は嫌がっていて、竹内にはすぐに捜一に戻ってくると言っていた。
 ところが、第九に入って1月も経たないうちに、どんな手管を使ったものか、岡部は薪に取り込まれてしまった。1年を経た今では、第九の室長の懐刀とまで呼ばれている。
 キャリアのプライドをズタズタにされて、たったひとりの敬愛する先輩を奪い取られて、竹内の薪に対する憎しみは膨らむ一方だった。

 だが、竹内には、岡部に教えてもらった大切なことがあった。
 警察官としての心だ。
 キャリアもノンキャリアも、同じ警察官であることには変わりない。正義を貫く心。市民を守る心。公僕たるものの責務を全うすること。岡部と一緒に捜査ができなくなっても、それは竹内の中に確かに息づいている。

 先刻の三田村の子供じみた振舞いは、竹内の目にも苦々しく映った。
 薪のことは大嫌いだが、別にあんな姿を見たところで溜飲が下るわけでもない。だいたい、薪はちっとも悔しがってなどいなかった。髪の毛ひとすじ乱さずに、優雅に土下座してみせた。あれでは三田村の狭量さが強調されただけだ。
 それはきっと、当の三田村にも解っていたに違いない。だから『寂洸』なのだ。
 あそこは見かけは高級料亭だが、そういう目的の場所だ。必ずしもそうとは限らないが、可能性は高いと思われた。
 しかし、だからと言って三田村に逆らってまで薪のことを案じる義理はない。汚いやり方だと思うが、別に実害があるわけでもないだろう。とりあえず、何をされても子供はできない。女のような顔をしているくらいだから、もしかすると薪もまんざらではないかもしれないし。
 でも、そうすると逆に今度は、あの生意気な室長の弱点を握ることができる。そういった趣好を持っているとしたら充分脅しのネタになるし、写真でも撮っておけば一生飼い殺しにできるだろう。
 まさか、そこまではしないと思うが……わからない。

「どうなってもいいさ、あんなやつ」
 苛立ちも迷いも投げやりな言葉と一緒に吐き捨てて、竹内は書きかけの報告書に視線を戻した。


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ジンクス(5)

ジンクス(5)






「薪さん、捜一で土下座させられたみたいだぜ」
 早耳の小池が、ひそひそと囁いた。
 昼時のカフェテリアは混みあっていて、ざわめきの中に秘密の会話を紛れさせてくれる。

「えげつないよな、三田村って。なんであんなのが警視長なんだろな」
「いくら薪さんが天才でも、上役には逆らえないもんな」
「それって、オレのせいですよね」
 小池に曽我に青木。第九の3人組は、一緒にランチをとることが多い。
 時には街に出て行列のできる洋食屋に並んでみたいと思うが、時間の制約もあって、大抵は研究所内の職員食堂を利用することになる。特に豪華なメニューは置いてないが、ここの定食は野菜をたっぷり使っていて栄養バランスもいい。しかも安くておいしい。社会人1年生の青木には嬉しい食事処だ。
 いつもなら2人前をぺろりと平らげる青木が、今日ばかりは食事にほとんど箸をつけていない。あのミスのせいで、青木はすっかりしょげているようだ。
 
「まあ、気にすんなって。そのうち薪さんが警視長に昇任して、三田村と同じ階級になるまでの我慢さ」
 小池が青木の背中を叩いて、ことさら明るく笑う。
 シニカルな外見によらず、青木のことをいつも気遣ってくれる。いい先輩なのだ。
「あと何年だっけ。薪さんが警視長の昇格試験、受けられるの」
 青木が今回警部の昇格試験を受けたように、薪も警視正から警視長に昇任するためには、警視長用の昇格試験を受けなければならない。それは警部用の試験より何倍も範囲が広く、さらに専門的な知識も要求される。
 法規、実務、裁判の判例。世界情勢や果ては医学部門まで幅広い分野から出題される試験は司法試験より遥かに難しく、その合格率は1%に満たない。何を考えてここまで難しいものを作ったのか不明だが、その試験を1回でパスした者はまだいない。

「薪さんて確か27のときに特例で警視正になってるから、10年の実務経験を足して37。あと2年か。って、40前の警視長かよ。すげえな、それ」
 警視長に昇任できるのは旧態の自動昇任制度の場合、最短でも45歳以上である。
 もちろん、昇格試験導入以前に入庁したキャリアたちも、薪のように特別承認を受けて試験に合格すれば昇任できるのだが、まだそういった方法で警視長に昇任したものはいない。
 何ヶ月も徹夜で勉強しなければ受からないような試験を受けずとも、一定の年齢になれば自動的に昇任できるのだ。努力しようとするものは少ない。が、その安心感から来る怠慢こそが旧態のキャリアと薪たちのような新しいキャリアの実力に格差をつけていることに、上層部は気付いているのだろうか。
 本人が出世には興味がないのにも関わらず、薪は警察庁に入った当初からすこぶる順調に出世してきている。警部も警視も最短の年数で昇任しているし、警視正の昇任に至っては官房長直々の特例措置で普通の人事より8年も早く、翌年には新設予定の第九の準備室長に任命されている。警察庁中の妬みを買うのも無理はない。

「薪さんなら特別承認、所長に出せば通るんじゃないの? 警視正のときもそうだったわけだし。これだけ実績上げてりゃさ」
 薪が警視正に昇任する際に取られた特例措置も、官房長宛に特別承認願を提出する形で行われている。
 警視正の昇格試験の受験資格のひとつに、警視になってから10年の実務経験があげられる。しかし、薪のように迷宮入りの事件をいくつも解決するなど多大な実績を上げた者には、直属の上司の推薦を貰うことで特別に許可が下りる。しかしそれは、せいぜい1、2年程度の経験年数の短縮であり、薪のように8年も短縮された上、室長という役職まで約束されたのは異例中の異例なのだ。

「あのひと、出世には興味ないからなあ。もったいねえ」
「出世に興味がないのに、なんで土下座なんか。そんなにあのデータが重要なものだったんでしょうか」
 あのプライドの高い室長が自分のせいで膝を折ったかと思うと、地面に埋まってしまいたくなる青木である。どうしてこんなに、室長の足を引っ張ってばかりなのだろう。自己嫌悪の泥沼に嵌りそうだ。
 が、小池はそれは違う、ときっぱり言い切った。
「データは確かに必要だけどさ。要は、三田村が警務部長だからだろ」
 警務部は、警察庁の福利厚生や研修教育等を担当する部門である。一般の会社の人事部がここに該当する。三田村は、この部門の最高責任者なのだ。警察庁の人事権を掌握している、と言っても過言ではない。
 しかし、青木には初耳だ。
 第九の新人はまだ仕事を覚えるのにいっぱいいっぱいで、警察庁内の役職の顔と名前など、全然わからない。

「あいつに逆らったら、室長ともども俺たちまで左遷されるってわけ」
「それじゃまるで人質じゃないですか」
「そ。人質だよ」
 曽我があっさりと肯定する。そんなことが本当にまかり通っているのだろうか。
「何でそんな人が警務部長なんかやってるんですか?」
 後輩の素朴な疑問に、2人の先輩は顔を見合わせる。
「なんでってなあ」
「きっと向こうも同じことを思ってるんだよ。なんでこんな若造が、第九の室長なんかやってるんだってさ」
「若くたって当たり前じゃないですか。薪さんほどの捜査官は、日本中探したっていませんよ」
 この新人の薪への傾倒ぶりは、聞いていて笑ってしまうくらいだ。もともと青木は室長に憧れて第九に来たのだから、無理もないのだが。
 
「おまえはまだ警察機構の恐ろしさがわかってないんだよ。完全な縦割り社会なんだぞ、ここは。上役には絶対服従だし、官僚に逆らったりしたら一生日の目を見れないぞ」
「でも、薪さんはそんなこと一度も」
 警察官僚とは、警視正以上の役職のことだ。ここからは現場ではなく、管理者の責務を負うことになる。つまり、薪は管理者の端くれというわけだ。
「あのひとは特別だよ。役職なんか気にしないし、徹底的な実力主義だからな。試験に受かりゃいいってもんじゃないから、ある意味こっちのほうが厳しいよな」
「青木は初めから第九に配属されたから、他の部署を知らないんだよ。第九みたいに、先輩後輩が厳しくない課なんてないぞ。薪さんの方針で、おまえもちゃんとした捜査官の仕事を与えてもらえているけど、普通はもっと下積みの期間が長いんだ。俺なんか二課で1年も伝票の整理しかやらせてもらえなかったんだぞ」
 知らなかった。
 伝票の整理は確かに新人の仕事で青木もやってはいるが、MRIの捜査が入ればそれは後回しにしていいことになっている。そのせいで経理課に提出する締め日に間に合わないときには、皆で分担して片付けてくれる。それが第九特有の制度であり、室長の方針によるものだとは気付かなかった。

「まあ、室長があそこまで怖い課もないけどな」
「そうだな」
「そんなに怖くないですよ。薪さんは本当はやさしいひとですから」
 ムキになって否定する。まったくこの新人は、薪にぞっこんだ。初めはそうでもなかったように思うが、この頃は室長派の先鋒役を岡部から譲り受けそうな勢いだ。
「わかってるよ、バカ」
「俺たちのほうが薪さんとの付き合いは長いんだぜ、新人よ」
「すいません」
 室長への親しみを込めた冗談だったことに気付いて、青木は苦笑する。どうも自分は、ひとの言葉を額面通りに受け止めすぎる。

 それにしても、三田村と言う男は許せない。
 あのプライドの塊のような薪が、捜査一課の人々の前で土下座などと屈辱的なことをさせられて、どれだけ悔しい想いをしたことか。怒鳴り込んでやりたいところだが、それはかえって薪に迷惑を掛けることになる。

「しかし、土下座かあ。これは久しぶりに、室長の平手打ちが出るかもな」
「覚悟してます」
 そうしてくれたほうが気が楽なのだが、室長はそういう八つ当たりはしない。それを分かっていての冗談なのだと、今度は青木も気付くことができた。
「とにかくオレ、もう一度きちんと謝ってきます」
「一緒に行ってやろうか」
「大丈夫です」
 昼食にほとんど箸をつけないまま、青木は席を立った。心配顔の先輩たちに笑って手を振ると、ごった返す人の波をすり抜けて職員食堂を後にした。

「大丈夫かな、青木のやつ」
「ああいうミスって、尾を引くと連続するんだよな。気持ちの切り替えができないと、連鎖に嵌るっていうかさ」
「薪さんがうまくフォローしてくれるといいけどな」
「岡部さんならともかく、あのひとにそれはムリだろ」
「……やっぱり?」
 人より頭一つ分高い新人の後姿を見送って、2人のやさしい先輩は後輩の身を案じていた。




*****


 補足説明させていただきます。
 現行の昇任制度と、作中の昇任制度は一致しておりません。
 正しくは、22歳で警部補、23歳で警部、25歳で警視、33歳半年で警視正(だから原作の薪さんの階級は年齢と実績からして当然なんですね)40歳で警視長、44歳で警視監となっております。

 作中の設定としては、薪さんの敵を多く作るため(笑)昇格制度を作り、警視正を35歳、警視長を45歳、警視監を50歳、とさせていただいてます。ちなみに定年は55歳です。

 とりあえず、薪さんは天才でめちゃめちゃ出世が早いため敵も多い、と理解していただきたいと思います。

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ジンクス(6)

ジンクス(6)






 室長には、ゆっくりランチを摂る習慣がない。
 いいところ売店のおむすびか、それも面倒なときには非常食用に研究室においてあるクッキーやビスケットなどをつまんで済ませてしまう。
 以前、青木は室長に「レトルト品とかインスタントものばかり食べていると体を壊すぞ」と注意されたことがあるが、薪にだけは言われたくないと思う。室長の小言には、自分を省みないものが存外多いのだ。

 この時間、薪はたいてい昼寝をしている。
 食べることに時間を割くより、そのぶん眠っていたいらしい。室長室の寝椅子か、この季節なら研究所の芝生の上か。薪のお気に入りの寝床はいくつか心当たりがある。
 今日は雲ひとつない秋晴れ。こんな日はきっとあそこだ。
 果たして、薪はそこに仰向けになっていた。
 第九の建物が見える大きな樹の下で、例の分厚い洋書を胸の上に乗せて、安らかな寝息を立てている。
 白いワイシャツ姿で、片方の手は広げられもう片方の手は洋書に置かれ、足はのびのびと伸ばされている。カウチだと足が伸ばせないので、気候さえ良ければ芝生のほうが気持ちがいいのかもしれない。

 その隣に正座して、青木は薪が目覚めるのを待つことにした。
 重い洋書を乗せた胸が、ゆっくりと上下している。顔に直接日が当たっているが、まぶしくないのだろうか。
 そこには、三田村に強制されたという屈辱的な行為に対しての悔恨も恥辱も表れてはいない。清廉で誇りたかく、ただただ美しい、いつもの静かできれいな寝顔。
 青木は、自分の夢が恥ずかしくなる。
 夢の内容は自分でも制御不能だ。しかし、室長のこんなに清らかな姿を見てしまうと、このひとを辱めるような真似をしてしまったという罪悪感が青木を苦しめる。そのくせ青木の手は、唇は、目の前のきれいな生き物に触れたい、キスをしたいと自然に求めてしまう。二律背反というやつだ。

 それにしても、ほんとうにきれいな寝顔だ。
 まるで人間じゃないみたいだ。ほんのわずかな欲さえ持っていないように見える。食欲も性欲も、世俗的な出世欲も、そこには片鱗すら見えない。まあ、睡眠欲だけは人一倍あるようだが。

 室長の寝顔をじっくりと見られる幸運に、青木は感謝している。できればずっと見ていたいくらいだが、そろそろ時間だ。
「室長。10分前ですよ」
 小さな呼びかけに、薪は眉根を寄せた。長い睫毛がゆっくりと開く。
「……すずき?」
 幸せそうな微笑。まだ半分、夢の中にいるようだ。
「いいえ、青木です」

 小さな手の甲を瞼の上に乗せ、軽くこする。ゆるゆると上半身を起こし、両手を斜下方に開いて、胸を反らす。力を入れた両の腕がしなやかに反り返って、大きな欠伸とともに、それはどうやら伸びのしぐさであるらしい。
 薪は仕事時間と自由時間の切り替えがはっきりしていて、今は冷血な室長の表情はどこにもない。子供が昼寝から醒めてぼうっとしているときのように、寝ぼけまなこで首を振る様子がとても可愛らしい。
 
「どうした。なにか用か」
「室長。先ほどは本当にすみませんでした」
「なんだ、まだ気にしてたのか」
 芝の上の胡坐をかいて、薪はこともなげに言った。
 平手打ちは冗談にしても、皮肉屋の室長のこと、剃刀のような嫌味のひとつやふたつは覚悟していたのだが、薪は何も言わなかった。三田村の前で自分がさせられたことを思えば、その原因を作った青木に腹いせをしてきてもおかしくはないのに、そんなことはおくびにも出さない。
 考えてみれば、薪が怒るのは捜査ミスやそれに繋がる画の見落としをしたときだけだ。それ以外のことで怒鳴りつけられた覚えはないし、暴力行為を受けたこともない。
 もっとも、薪に大声で叱られるときよりも、氷のような冷たい目で見られるほうが青木にはよほど堪えるのだが。

「青木。おまえ、なにか悩みでもあるのか」
 室長は唐突にそんなことを聞いてくる。表面には出さないつもりでいたが、自分の内面の葛藤を見抜かれていたのだろうか。だとしたら、嘘をついても仕方がない。
「……あります」
「どんなことだ。僕に話してみろ」
「仕事のことじゃありませんから」
「いいから、話せ」
「……薪さんには言いたくないです」
 というか、絶対に言えない。言ったら確実に殺される。

 薪は俯いてしまった青木の顔をじっと見ていたが、口を割りそうにもないと判断してか、話題を変えた。
「今朝の件だが、何故あんな初歩的なミスをしてしまったのか、自分でわかるか?」
 何故、と改まって聞かれると、こうだ、という理由は意外と出てこないものだ。うっかりしていたとしか言いようがないが、それでは答えにならないだろう。
「ああいった本人にも原因の解らないミスはヒューマンエラーといって、仕事に慣れないうちは誰にでも起こることなんだ。僕だって昔はやったさ」
 室長がミスをするところなど想像もつかない。青木の目には、室長は何事においても完璧なひとに見える。
 が、それはあくまで仕事のときであって、職場を離れた日常生活ではそうでもないことを青木は知っている。捜査以外のことでは、勘違いも思い込みも激しいのが薪の特徴である。
 先日薪の家に行ったときには、薪のいろいろな顔が見られて楽しかったが、大変なこともあった。あの薪の裸体が頭から離れないせいで、あんな邪な夢を見た挙句、こんなつまらないミスをしてしまったのかもしれない。

「どんなに努力を重ねても、人間である限りは集中力が切れる空隙が必ずくる。ヒューマンエラーはそういう時に起こる。それを防ぐには普段からの心のケアが大切なんだ。悩みがあったり、嫌なことがあったりしたら集中力を持続させるのは難しい。いつも自分を平静な状態に置いておかないと、あの手のミスはなくならない」
 青木にもそれは解っている。
 分かっていても、他人に話せることではない。
「言葉に出すことで悩みは軽くなる。おまえにも誰かしらいるだろう。友達とか先輩とか、信じられる相手が。そういう相手に話を聞いてもらえ」
 話せる相手といわれても、現段階ではひとりしか思いつかない。しかも、女性だ。こんな話題を振っていいものかどうか、大いに疑問である。

「たちの悪いことに、あの手のミスは連鎖するんだ。おまえみたいにミスしたことを引き摺っていると、必ずまた同じようなミスを起こす。だから気持ちの切り替えが必要なんだ。
 おまえには何か、ジンクスのようなものはないのか?これをすると必ずうまくいく、みたいな。ネクタイとか、ジャケットとか、時計とか」
「特にはないです」
「じゃあ作れ。儀式みたいなもんだから、何でもいいんだ」
「室長はどうしたんですか? その、昔のミスのとき」
 青木の問いに、薪は目を丸くした。青木が大好きな子供っぽい表情になって、かすかに頬を赤らめる。
「僕は……いいだろ、僕のことは」
「室長と同じものだったら、効き目があると思うんですけど」
 控えめに、だがしぶとく言い募る青木に、薪はしばらく考え込んでいたが、やがて胡坐を解いて立ち膝の姿勢になった。そのまま膝で青木の傍に寄って来て、片方の手を青木の肩に置き、もう片方の手で青木の頭をやさしく撫でた。

……なるほど。これは効きそうだ。

「女の子にやってもらうと良く効くんだがな」
 オレには室長のほうが効くと思います。
 室長は、誰にやってもらってたんですか――?
 その台詞はふたつとも、言葉にできなかった。一つ目は言ってはいけないことだったし、二つ目は答えを聞きたくないことだった。

 1時の鐘が鳴って、薪は仕上げとばかりに青木の頭をくしゃくしゃと掻き回し、脱ぎ捨ててあったジャケットに袖を通して立ち上がった。
「じゃあ、誰かに相談しろよ。これは室長命令だからな」
「はい」
 小さな背中の後に着いて、青木は歩き出す。室長に乱された髪はこのままにしておきたいところだが、そうもいかない。手櫛でさっと整えて、そこに薪の手のぬくもりを探す。さっきの室長の小さな手の感触を思い出せば、もう何でもできるような気がする。
 落ち込んだ気持ちが嘘のように、仕事に対する意欲が湧いてくる。それが室長のためにもなると思うと、なおさら頑張ろうという気持ちになる。
 このひとのためなら何でもできる。

 華奢な背中を見つめながら、青木は心の中で大きく膨らんでいく薪への思いを感じていた。



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ジンクス(7)

ジンクス(7)






 三田村の指定した料亭の前で、薪がタクシーから降りたのは約束の30分前だった。
 しかし、既に客人は席に着いているという。これはまた嫌味のネタを提供してしまったなと思いながら、案内の仲居について板張りの廊下を歩く。
 通されたのは一番奥の部屋だった。密談に使う料亭らしく廊下側の仕切りは障子ではなく、部屋の内部が見えない襖だ。

「お連れ様がお見えになりました」
 仲居が声を掛けてから襖を開けてくれる。薪は廊下に正座して頭を下げた。中には三田村と、その友人であるという男が座卓を挟んで酒を飲んでいる。
「申し訳ありません。遅くなりました」
「いやいや。こっちが早く着いたんだ。君に会えると聞いて、楽しみでね」
 厚生省の役人だという男は、三田村の同期という話だがもっと年上に見えた。髪は既に白く、銀縁の眼鏡をかけている。どちらかというと痩せ型で神経質そうで、でっぷりした三田村とは対照的だ。
「はじめまして。法医第九研究室室長の薪と申します。この度は多大なご迷惑をお掛けしまして、誠に申し訳ありません」
 部屋の中に入って襖をきちんと閉め、薪はもう一度頭を下げた。
「堅苦しい挨拶はいいよ。今日は公式の席ではないのだからな。腹が空いとるだろう。ここの料理はなかなかだぞ」
「ありがとうございます」

 高級料亭という割にどこかしら下卑た感じのする店舗に微かな違和感を感じつつ、薪は末席に着いた。
 この部屋は日本間なのに、間接照明を使っている。その暖色系の明かりのせいか、床の間の掛け軸も違い棚に飾られた皿も、なんだか品が悪い。料理も薪の好きな山水亭の本格的な日本懐石とは違って、洋食の要素を取り入れた和風懐石という感じだ。箸をつけたものの、この面子では食べる気がしない。
 これから延々と2人がかりで嫌味を言われるのかと思うと気が重いが、まあ、頭の中で先日読んだミステリー小説のストーリーでもなぞっていればそのうち終わるだろう。平日だし、午前0時を越えることもあるまい。

「三田村部長。データの件ですが」
「まあ、焦るな。ちゃんと持ってきてもらってるさ。な、工藤」
 三田村の言葉に頷いて、相手の男は自分の胸の辺りを軽く叩いた。
「ここにちゃんと持ってきているよ。かさばるからメモリーにしたんだ」
「ありがとうございます」
「三田村、おまえのもちゃんとあるからな」
 データさえ手に入れば、こいつらに用はない。このままメディアを奪って逃げたいくらいだが、さすがにそれはまずいだろう。
「酌をしてくれるかな?」
「はい」
 コンパニオンくらい雇えばいいのだが、これは非公式の会合だ。部外者の同席はなるべく避けたほうがいい。
 若輩者の自分が酌をするのは仕方のないことだと割り切って、薪は徳利を手に取った。膝を進めて工藤の右隣に正座し、素直に酌を始める。

「どうだ、工藤。薪くんは美人だろう」
「ああ、写真より実物のほうがずっといいな」
 おかしな会話だ。
 しかし、薪を糾弾する気配はない。この工藤という男は、三田村の友人にしては話のわかる男なのかもしれない。三田村も友人の前では、薪にあからさまな攻撃を仕掛けてくることはないようだ。これは上手くすると、1時間くらいで解放してもらえるかもしれない。
 岡部との約束をキャンセルするんじゃなかったな、と後悔しながら、薪は優雅な手つきで酌を続けた。
 と、突然、工藤の手が薪の手を押さえ、手の甲をさすった。
「女のような手だな」
 そのまま薪の手を握って、自分の口元へ持っていこうとする。思わず振り払って、薪は身を引いた。
 眼鏡の奥の目が、薪に愁派を送ってくる。ぞっとするようなねちっこい視線――――。
 まさか、こいつ……。
 
「あの」
 三田村に目をやると、にやにやしながら酒を飲んでいる。
「なんでもっと早く紹介してくれなかったんだ?こんな美人」
「おまえは10代専門だって言ってただろう。薪くんは30過ぎだぞ。いいのか?」
「とてもそうは見えんな。この肌なら18くらいで通るだろう」
 手首をつかまれ引き寄せられて、頬を触られる。背中に鳥肌が立った。
「やめてくださ……!」

 すたん、と襖の開く音がして、奥の部屋の様子が薪の目に飛び込んできた。
 襖を開いたのは三田村だ。その大きな腹の向こうに、日本間に敷かれた大きめの布団。枕が2つ並んで置いてある。
 なんだ、この料亭は――――?
 あまりのことに開いた口が塞がらない。声も出ない。
 冗談じゃない。いくらなんでもこれはないだろう。

「君も初めてじゃないだろう?」
 どういう意味だ! 三田村のバカはいったいどんな紹介の仕方をしたんだ!?

 まったくもって馬鹿馬鹿しい。あのデータのためにここまですることはない。大きく息を吸って呼吸を整えると、薪はできうる限りの侮蔑を込めた目で工藤を睨んだ。
「君もいい大人だろう。相手をしてやりたまえよ」
「そんな話は聞いてません。帰らせていただきます」
 三田村の指示をきっぱりと断って、気色の悪い男の手を乱暴に振り払う。やっぱりバカの友達だ。ろくなもんじゃない。
「データはいらんのか?」
「けっこうです」
 田城から正式に厚生省に申し入れて、きちんとした手順を踏めばデータの入手は可能だろう。ただ、改竄されないとは限らないし、データが来るのは早くて半年後。捜査には間に合わない。だからといってこの要求を呑むのは……。
 いや、いざとなれば宇野に命じて、厚生省のシステムにハッキングかけてやる。どっちにしろ違法捜査には変わりないわけだし。

「もうすぐ昇任人事の時期だろう。君のところの新人、警部の内示が出ていたが、彼はどこの部署に行きたいだろうね?」
 席を立とうとした薪に、三田村の声が飛ぶ。
 汚い男だ。こんな汚いやり口に屈してたまるか。
 しかし、迷うところではある。
 せっかく第九に慣れてきた青木を失いたくはない。あいつはこのまま育てば、いい捜査官になれる。今が一番、大切な時期だ。下手な部署に飛ばされてしまったら、あの真っ直ぐな正義感が潰されてしまうかもしれない。
 警察というところは、綺麗ごとでは動かない。政治がらみの汚いことも、上層部が絡んだ隠蔽工作もたくさんある。青木もキャリアで入庁した以上、いずれはそういうことも知っていくことになるのだろうが、今はまだ早い。

「公安の4課なんか、どうかね」
 隠蔽工作の専門部署だ。新人が配置されるところではないが、三田村ならやりかねない。
「お互い子供じゃないんだ。わしは席を外すから、君も楽しみたまえよ」
 工藤の手が肩を抱く。ネクタイを緩められ、ジャケットを脱がされる。顔が近づいてきて、首筋に息がかかる。
 気持ち悪い。吐きそうだ。
 だが、青木のことを思うと、ここは……。

 せいぜい1時間くらいの我慢だ。たしかに自分は初めてでもないし、子供でもない。
 込み上げてくるおぞましさと懸命に戦いながら、薪は目を閉じた。



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ジャンル : 小説・文学

ジンクス(8)

ジンクス(8)







 生ビールのジョッキがいくつも合わさって、鈍い音を立てた。真っ白な泡が黄金色の冷たい液体の上で、クリームのように揺れる。
 ここは第九の職員の行きつけの店で、美味い地ビールが置いてある。

「試験合格、おめでとう」
「ありがとうございます」

 霞ヶ関にあるこの居酒屋は、裏通りという立地の関係もあって都心の店の割に値段は手頃だ。酒の種類も豊富だし、料理もボリュームがあってそこそこ美味い。
 ジョッキは冷凍庫でキンキンに冷やされていて、周りに付いた霜がビールの味を引き立てる。ビール好きの青木には嬉しい心遣いだ。
「よかったな、青木」
「皆さんのおかげです。いろいろとアドバイスしてくださってありがとうございました」
 にこにこと笑って素直に礼を言う。いつもの元気な青木を見て、先輩たちは密かに安堵している。
 昼休みの間に、室長にきちんとした謝罪ができてすっきりしたらしく、青木は午後からいつもの集中力を取り戻した。この調子ならミスの連鎖に嵌ることもないだろう。

「薪さんから金一封、出てるぞ」
「へえ。こんな制度があったんですか」
「そんなわけないだろ。俺たちは国税で動いてるんだぞ。これは薪さんのポケットマネーだ」
 ここの勘定も室長持ちだという。警視正の給料はさぞ高いのだろうが、それにしても薪は気前がいい。顔を出してくれるともっと嬉しいのだが。
「たまには来てくれればいいのに、室長も」
「あのひとは騒がしいのが苦手だから。てか、気取り屋?」
「居酒屋なんか来ないだろ。フランス料理にワインてイメージだし」
「小洒落たカフェバーとかだったら来るかもな。うわあ、飲んだ気しねえな、そういう処」
 酒の席で、その場にいない者は言われ放題だ。軍資金を出しているはずの室長とて例外ではない。

「気を使ってるんだろ。上司の前じゃ、俺たちが楽しめないだろうって」
 そうかもしれない。
 仕事中は唯我独尊を地で行く薪だが、その陰では気配りの名人であることを第九の職員はみな知っている。
「まあ、飲んだら上司の悪口ってのはお決まりだからな」
 第九には、上司の悪口を言うものはいない。言ったとしても、そこには親しみがある。どんな辛辣な言葉も本気ではない。基本的に薪のことが好きでなければ、第九の仕事は勤まらない。
「薪さん、気にしすぎですよね。そんなことないのに」
「あのひとらしいだろ。それに、今日は接待だとさ。三田村部長のご友人とやらに会うらしい」
 薪との約束がキャンセルになって、岡部は少し機嫌が悪いようだ。なにも室長が行かなくても、などとぶつぶつ言っている。

「じゃあ、今頃はきっと料亭で豪華な会席料理ですね。いいなあ」
「三田村と一緒だぞ。食った気しないだろ」
 岡部の言葉にみんなが頷く。たしかに、まずいメシになりそうだ。
「こっちの料理のほうが美味そうですね。赤坂の仙岳とかなら別かもしれませんけど」
 仙岳は日本料理の名店だ。毎年、日本料理店№1の称号を獲得している。が、料金のほうも№1で、一般人にはなかなか手が出ない。
「違うな。寂洸、とか言ってたな」
「寂洸? まさか、麻布のじゃないですよね」
「よく知ってるな」
 今井が箸にエビフライを挟んだまま、固まっている。心なしか顔が青いようだ。
「麻布だとなんかまずいのか?」
「麻布の寂洸っていったら、連れ込み宿ですよ。高級料亭の看板はあげてますけど、中にそういう部屋があって、目的はどっちかっていうとそっちのほうです」
 今井の情報に全員が押し黙る。薪の容姿ならその可能性もなくはないが、三田村にその気はなかったはずだ。でなければ、あれほど薪と仲が悪いわけはない。

「まさか。三田村の女好きは有名だぞ」
「その友人の名前って、なんていいましたっけ」
 岡部もそこまでは聞いていない。黙って首を振ると、宇野がノートパソコンを取り出して、キーボードを叩き始めた。
 いくつかのサーバーを経由して、警視庁の裏ファイルに侵入する。滅多なことではやらないが、宇野はとびきりのハッカーだ。
「いましたよ、やっぱり。工藤幸一、52歳。2年前に猥褻行為で訴えられてます。相手は17歳の男子高校生です」
「なんでそんなやつが厚生省の役人なんかやってられるんだ?」
「三田村が揉み消したんですよ。人事部長の圧力かけて。高校生の親は所轄の巡査長で、たいした功績もなしに2階級も特進になってます。親も親ですね」
 岡部は腕の時計を見た。時刻は8時を回っている。会食は8時からだと言っていたから、どちらにせよ今からでは……。

「青木?どこ行くんだ!?」
 曽我の声に顔を上げると、青木が外へ駆け出していくところだった。
「待て、青木! 室長に迷惑がかかるんだぞ!」
 岡部の制止も耳に入らないらしく、後ろを振り返りもしない。テーブルの上に飲みかけの生ビールと室長からの金一封、鞄まで置き去りにして、青木は店を出て行ってしまった。

「行っちゃいましたね」
「あ~あ、青木は薪さんの性格、知らないから」
「あんなデータくらいで言うこと聞くひとじゃないですよね」
「でも主役がいないんじゃ、今日はお開きですね」
 青木の合格祝いはまたの機会に譲ることにして、割り勘で居酒屋の料金を払うと、第九の面々は思い思いに散って行った。あまり室長の身を案じているようでもないが、心中は複雑だ。薪のことだから上手く切り抜けたとは思うが、万が一。
 岡部は薪の携帯に電話を入れてみた。接待なのだから当たり前の礼儀だが、電源は切られており、薪は電話には出なかった。
 なんだか、いやな感じだ。
 しかし自分にはどうにもできない。青木が無茶なことをして、室長の立場をこれ以上悪くしないことを祈るだけである。
 後先考えずに行動できる青木が、少しだけ羨ましい。

「明日は室長のカレーが食えるかな」
 誰にともなく呟いて、岡部は帰途についた。


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ジャンル : 小説・文学

ジンクス(9)

ジンクス(9)






 タクシーの運転手を脅すようにして、青木は問題の料亭に乗りつけた。
 玄関口に出てきた仲居に三田村たちがいるはずの部屋を聞くが、当然案内はしてもらえない。こういうところで秘密が守られなかったら、店は潰れてしまうだろう。それは百も承知だが、青木の方もおいそれと引き下がるわけには行かない。
 これは警察手帳を出すしかないか、と覚悟を決めたとき、背後から聞きなれない声がした。
「こんばんは、雅子さん。重光さんに頼まれたんですけど、これ、部屋に届けてもらっていいですか?」

 振り向くと30歳くらいのすらりとした好男子が、にっこり微笑んで立っていた。青木より背は低いが、かなりの男前である。
 彼は、仲居と押し問答をしている青木の後ろから、ぬっと紙袋を出して仲居に手渡した。仲居は青木に対するときと打って変わって、愛想よくその袋を受け取った。
 袋を持って、仲居は建物の中に入ってしまった。それを押しとどめようとした青木の腕をつかみ、見知らぬ男は低い声で囁いた。
 
「君は第九の人間か?」
「……警察の方ですか?」
「俺は一課の竹内だ。来い。こっちだ」
 竹内と名乗った男は、懐からモバイルを取り出して蓋を開けた。電源が入ると同時に、点滅する赤いマークが画面に現れる。発信機だ。
「それ、もしかしてさっきの袋の中に?」
「重光さんてのは三田村部長のことなんだ。隠語ってやつだ。俺はここには何回か三田村のお供で来てるから。あの仲居とも顔見知りだ」
 一課の人間だという竹内が何故ここにいるのか不思議だったが、青木は薪のことが心配でそのことを尋ねる余裕もなかった。

「どうやらこの部屋だな」
 樹木の茂った裏庭を抜けて、発信機の示す場所に出る。庭と廊下の間は開け放してあり、直接部屋に入ることが可能だった。
「さて、どうするか……って、おい!」
 腕組みをした竹内を尻目に、青木は靴のまま廊下に上がり部屋に突進した。襖を開け放ち、中に駆け込んでいく。しかし、部屋には誰もいない。仲居が持ってきたらしい紙袋は廊下に置いてある。ここで間違いはないはずだ。
 奥にもうひとつ部屋がある。きっとここに薪が――――。

 青木が襖を開けると、そこには信じられない光景があった。
「薪さん!?」
 二つの枕が並べられた布団の上で、ワイシャツの前をはだけた姿で男の上に馬乗りになり、薪が相手の股間をまさぐっている。青木の姿を見て驚くが、男から離れる様子はない。

「なにやってんですか!?」
 淫猥な室長の姿に、目の前が真っ暗になる。こんな室長の姿を見たくはなかった。無理強いをされているならともかく、自分から積極的に上になって。
「ひどいですよ! 薪さんて、そんな人だったんですか!」
「青木。おまえには悪いことをしたかも知れないが、ついその」
「ついってなんですか? 相手は誰でもよかったんですか? 岡部さんのほうがまだましでしたよ! なんでオレじゃダメなんですか!?」
 余計なことまで口走ってしまったが、青木は完全にパニック状態で、それに気付く余裕はない。

「……なに言ってんだ? おまえ」
「なにって、あれ?」

 薪の冷静な口調に青木はいくらか落ち着き、改めて二人を見た。
 よく見ると、ワイシャツのボタンは外れているが、薪はきちんとズボンを履いている。ベルトも外した様子はない。相手の男は仰向けになって、目を閉じたままぴくりとも動かない。どうやら気を失っているようだが、この場合容疑者は一人しかいない。

「あった、あった。こんなとこに隠しやがって。汚いな。使えるかな、これ」
 男の下着の中から目的のものを発見し、親指と人差し指で摘み上げる。USBメモリーだ。どうやらこれが欲しくて男の体を探っていたらしい。
「あれ? もうひとつある。バックアップかな」
 2つのメモリーフラッシュを指の先だけで持ち上げて、ハンカチに包む。気持ち悪そうに顔をしかめて、枕元にあったおしぼりで手を拭いた。
「これはもうゴミだな」
 苦々しく言って、おしぼりをゴミ箱に投げ入れる。嫌悪の表情を隠そうともしない。

「よくここがわかったな」
「岡部さんに聞いて……今井さんが、この店のことを知っていて」
 ワイシャツのボタンを留めて、ネクタイを締めなおす。青木のほうを見て何か言いかけるが、途中で思いとどまって薪は口を閉ざした。
「オレ、いてもたってもいられなくなって……すみませんでした」
「なんでこの部屋だとわかった? おまえ、まさか手帳使ったんじゃ」
「いえ、捜査一課の」
「工藤!!」
 青木の言葉を遮って、三田村の野太い声が響いた。
 三田村に届け物を頼まれた仲居が、別の部屋にいた彼を呼んできたらしい。気絶した友人と、身支度を整えた薪の姿を交互に見る。ここでなにがあったかは一目瞭然だった。

「青木。おまえはもう帰れ」
 薪が小さな声で青木に命令する。しかしこの状況では、薪に不利な結果になるのは目に見えていた。

「よくもわしの友人を。覚悟するんだな!」
 毛むくじゃらの太い手が薪の襟元をつかみ、華奢な身体を引き摺り上げた。もう一方の手が振り上げられる。  一、二発、殴られるくらいなんでもない。薪は観念して目を閉じ、奥歯を噛み締めた。
 しかし、頬に与えられるはずの痛みはなかなか襲ってこない。不審に思って目を開けると、三田村の太い手首は青木の大きな手にがっちりと押さえられていた。
「なにをする!わしは警視長だぞ!」
 ぎりぎりと音がするほど強く手首を握り、青木は三田村の腕をねじ上げる。薪には見せたことのない凶悪な表情で、青木は右手を振り上げた。
「青木、よせ!」
 薪の制止に青木の手が止まる。が、その憤怒は収まらない。
 長身にものを言わせ、三田村が薪にしたのと同じように、両手で三田村の首元を摑んでその太った身体を持ち上げる。薪の倍はあろうかという巨体は、青木の強い腕力によって宙に浮いていた。

「青木!やめろ!」
「オレの室長に手を出すな!」

 二人の声が重なる。
 青木の台詞に、薪は軽いデジャビュを覚える。どこかで聞いたような……。
 それに思い至って、薪は目を瞠る。そういえば、あの時もこうして彼は相手のことを持ち上げていたっけ。

「オレの、じゃなくて『うちの』だろ」
「……すみません。間違えました」
 首が絞まって、三田村は意識を失いかけている。この状況をどうやって収めたらよいものか、見当もつかない。
「もういい。降ろしてやれ」
「はい」
 薪にだけは素直に従うが、納得していないのはその顔つきでわかった。
 伸びてしまった三田村とその友人を並べて布団に寝かせて、この後のことを考える。が、もうここまでしてしまったらフォローのしようがない。どうやら身の振り方を考えなければならないようだ。
「こいつらのことは放っておけ。僕はこのデータを持って第九に寄って帰るから、おまえも早く家に帰れ」
「薪さん……すみません、オレ……」
 自分だけの左遷で済むといいのだが、と心の中で思慮を重ねるが、その可能性は低い。おそらく青木にも、何らかの処罰があるに違いない。
 そうなったら自分の免職をかけてでも、こいつを守ってやらなければならない。こいつがこんなに怒ったのを見たのは初めてだ。大人しいこいつが我を忘れてこんなことをしでかしたのは、自分のためなのだ。

「心配するな。おまえのことは僕が守ってやる。大丈夫だ」
 今は考えても仕方がない。処分が決まってから打開策を打ち出すしかない。

 薪が廊下に出ると、そこにはまたもや会いたくない人物がいた。捜査一課の竹内だ。
「どうしてあなたがここに」
 険悪な眼で宿敵を睨みつける。が、何故か竹内は、今日だけは薪の悪意に苦笑で応えた。
「第九にも、無茶なやつがいるんですね」
「あいつはまだ新人で。警察がどういうところか解っていないんです」
「それにしても、部長にあそこまでするとは。勉強ばかりしてきたモヤシとは思えませんね。見所があるじゃないですか。第九をクビになったら、捜一で面倒見ますよ」
 それには答えず、薪は竹内に背を向けた。

 もうここにはいたくない。早く第九へ帰ろう。

 さんざんな夜だった。明日は田城に報告をしなければならない。……なんと言えばいいのだろう。
 タクシーに乗り込みながら、薪は田城への言い訳をあれこれ考えていた。



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ジンクス(10)

ジンクス(10)





 薪が帰った後には、第九の新人と捜一のエースが残された。

「さて。どうする?」
 憤懣やるかたない様子の青木を見て、竹内は言った。
 こいつはこの程度でこの2人を許す気はさらさら無いらしい。
 先刻、薪に言ったことはまんざら嘘でもない。竹内は青木を気に入った。大人しそうに見えてとんでもないことをする。竹内の周りにはいないタイプだ。

「竹内さん。これ、見てください」
 青木は部屋の隅に積まれた座布団に目をつけた。布団の敷いてある方向に向かって、小さなレンズが覗いている。座布団を取ると、果たしてビデオカメラが出てきた。
 ビデオモードに切り替えると、薪の可憐な姿が映っている。
 布団の上に座って、後ろから工藤に抱きつかれ、ワイシャツのボタンを外されるまでは大人しくしていたようだが、服の中に工藤の手が入ってきた途端、見事な背負落しが決まっていた。
 しまった、という顔で工藤を見るが、早々に諦めてメモリーを探し始める。切り替えの早さはさすがである。そこに青木が飛び込んで来た、という一部始終が映し出されていた。
「これで室長を撮る気だったんですよ。汚い真似を!」
 もしも薪が素直に要求を呑んでしまっていたら、ここにはその様子が映ったことになる。そんなものが公表されたら、薪はおしまいだ。

「やっぱりな。やりかねないと思ったよ」
「室長を潰す気だったんですね」
「それか、一生脅す気だったんだろ」
 眼鏡の奥の切れ長の目が、危険なものを孕む。こいつは怒ったほうが男前だ、と竹内は思う。

「どっちにせよ、許せないです。薪さんはああ言ったけど、オレは絶対にこいつらを許せません」
 ビデオの映像を消去して、青木は静かだが怒りのこもった声で言った。
「じゃあ、どうする?」
「もちろんリベンジです。薪さんの恥ずかしい姿を撮る気だったんですから、目には目を、です」
「面白い男だな、おまえ。手伝ってやるよ」
「ありがとうございます」

 竹内も三田村のことは、本当は大嫌いだった。薪のことはもっと嫌いだが、この男は気に入った。坊主が憎くても袈裟に罪はない。第九にも面白いやつがいるのだ。
 捜一と第九。本来なら相容れない二人の男は、共通の目的のために今だけは相棒になった。



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ジンクス(11)

ジンクス(11)






 やっとの思いで手に入れたデータを携えて第九へ戻ると、何故か全員が顔を揃えていて、室長を驚かせた。時刻は9時を回っている。こんな時間まで仕事をするほど、今は忙しくないはずだ。

「どうしたんだ?おまえら」
「青木の祝賀会をやってたんですけど、主役がいなくなっちゃって。一旦はお開きにしたんですけど、なんとなくここに集まっちゃったんです」
 みな、薪の顔を見て安心したように笑う。そのことには何も触れてこないが、心配してくれていたらしい。
 薪の胸に暖かいものが広がる。
 しかしそこは室長らしく、緩もうとする頬を意思の力で引き締めて、平静な顔を崩さない。ここで感情に流されてしまったら、却ってこいつらに心配をかける。

「今井。これ、明日でいいからスパコンに移しといてくれ。どっちに入ってるか解らないから、内容を確認してからリーディングかけてくれ」
 二つのメモリーを今井に手渡す。はい、と受け取って、今井は鍵のかかる保管庫にメモリーを入れた。
「今度はちゃんとバックアップしてくれよ」
 皮肉っぽい口調。いつも通りの室長だ。
 今井はそれに苦笑で応える。皆も笑って、その夜は解散になった。

「岡部。ちょっといいか」
「はい」
 他の部下たちを帰してから、室長室に岡部を呼ぶ。今後の対策を練るためだ。
 岡部には事情を説明しなければならないが、どうにも言いづらい。が、言わなくては対策も立てられない。
 カウチに並んで腰掛けて、薪は重い口を開いた。
「1時間くらい、目をつむって羊の数でも数えてりゃ済んだんだが」
 後ろから抱きつかれて胸をまさぐられた瞬間。そのときの感触を思い出したのか、薪はきれいな顔を歪めた。
「投げ飛ばしたんですね」
 図星だ。さすがは岡部だ。

「こう、手が勝手に……ああ~、田城さんになんて言い訳しよう。左遷かなあ、やっぱり」
「しかし、今回のことは向こうにも非があるでしょう」
「僕だけの問題じゃないんだ。青木のやつがやってくれてさ」
 薪は、青木が三田村にしたことをかいつまんで話した。その内容の重大さに、さすがの岡部も青くなる。とっさには言葉が出ないようだ。
「相変わらず、キレると怖いやつですね」
「ほんと、ダイナマイトなやつだよな。―――― でも」
 そこで室長は、なんとも思わせぶりな微笑を見せる。何かを思い出しているようだ。

「まあ、室長のことを思えばこそだったんでしょうけどね。しかし、そこまでやってしまったら、腹くくるしかないでしょう」
「大丈夫ですよ」
 室長室のドアを開けて、噂の当人が入ってくる。なにやら上機嫌で、手にはプリントされた数枚の写真を持っている。
「青木。おまえ、これ店に忘れて行っただろ」
 岡部が青木の鞄を差し出す。やさしい先輩は後輩の忘れ物を預かっていてくれたようだ。
「すいません、岡部さん。室長、金一封ありがとうございました。これ、お礼です」
 手に持っていた写真を薪に手渡す。横から岡部がそれを覗き込んで、目を丸くした。
 「こりゃまた思い切ったなあ。おまえ」
「オレだってキレてましたから」

 写真には、三田村とその友人のあられもない姿が映っていた。
 ふたりともネクタイだけの素っ裸で、布団の上に横になっている。意識がないのをいいことに、色々とおかしなポーズを取らされて、中には2人が抱き合っている気色の悪いものもあって、見るものを辟易させた。

「お互いのために今夜のことは忘れましょうって、二人の携帯にこの画像と一緒に入れておきました」
 自信たっぷりに言い放つ青木に、慎重派の岡部は自分の不安を投げかける。
「おまえ、まずいだろ、それ。薪さんの仕業だと思われるんじゃ」
「あっ! そっか、そうですね……どうしましょう」
 ただでさえ三田村は、怒り心頭に発しているに違いない。そこにこんな写真を見せられたらどんな暴挙にでるか、想像するのも恐ろしい。
 青木は自分の思慮の足りなさを知って焦燥に駆られた。岡部も心配そうな表情になる。
 が、薪は肩を震わせて笑っていた。
 
「こっ、この格好っ、くくくくっ」
 とうとうこらえきれずに、腹を抱えて笑い出してしまった。カウチの上で足をばたつかせて、子供のように笑い転げている。こんな室長は初めて見た。
「あははははっ! 傑作だ、よくやった、青木!」
 滅多に見られない室長の笑顔に、ふたりの部下は顔を見合わせる。こんな薪の姿が見られるのなら、あの重量級の部長の服を脱がせるという苦労も、その汚い体に吐き気をこらえた痛苦も、無駄ではなかったと思える。
 
「いっそ、MRIの起動画面に入れておきますか」
 岡部がそんな冗談を言い出す。MRIのメインスクリーン一杯にこの画像が映し出される様子を想像してか、薪の笑いがますます高まった。
「システムが暴走しちゃいますよ」
「ちがいない!」
 薪は笑いすぎて、涙を拭いている。頬を紅潮させて、細い指を目に当てる。カウチの背もたれに突っ伏して笑いをおさめようとするが、すぐにまたぶり返してしまう。
 
「薪くん。なんの騒ぎかね?」
 いつの間にか、所長の田城がそこに立っていた。薪の笑顔が凍りつく。
 田城の目が、床の上にちらばった数枚の写真に留められた。いましがた、笑いすぎた薪が取り落としたものだ。
「やば」
「た、田城さん。これはその」
 薪が苦しい言い訳をするのを横目に、岡部と青木はそっと室長室を離れる。ここからは室長の仕事だ。
「あっ、おまえら、ずるっ……!」
「薪くん! これは何かね!?」
「いや、あの」
「ちゃんと説明したまえ!」
「……おぼえてろよ、青木~」

 いつもは穏やかな田城が鬼のようになって、言葉のつぶてが薪の上に降り注ぐ。薪はそれを受け流すことなく、真面目に受け止めた。
 田城は三田村とは違う。薪のことを考えて叱ってくれているのだ。
 そのことを薪は分かっているから、小言も叱責も素直に聞ける。今日だって薪を心配して、こんな時間まで研究所に残ってくれていたのだ。
 叱ってくれる人のいる嬉しさを、自分を心配してくれる人のいるありがたみを、薪はうつむきながらも噛み締めていた。


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ジンクス(12)

ジンクス(12)






「田城さんにあんなに怒られたの、初めてだ……」
 自宅のダイニングテーブルに肘をついて頭を抱え、薪は呟いた。

 キッチンには美味しそうなカレーの匂いが充満している。一人暮らしの食卓には不釣合いな、大きな寸胴鍋。中身は満タンで、10人分くらいはゆうにありそうだ。
「田城さんて、普段は穏やかなひとですものね」
「怒るときは怒るんだな。所長も」
「おまえら、僕を置いて逃げたくせに」
 薪の恨みがましいセリフはスルーして、青木は鍋の中身を木べらで混ぜた。
 秋の夜長とはこのことで、あれだけのことが起きたにもかかわらず、時刻はまだ10時前。少し遅めの夕食にありつこうと室長のマンションへやって来た3人である。

「ああ、いい匂い。重労働だったからもうお腹が空いて」
「そういえばおまえ、あれひとりでやったのか? 重かっただろ」
「一課の竹内さんて方が手伝ってくれたんですよ。あ、これは内緒ですけど」
「竹内が!?」
 青木の言葉に薪が大声を上げる。身体を青木のほうへ捻って、椅子から腰を浮かせている。よほど驚いたようだ。

「嘘だろ」
「本当ですよ。発信機を使ってあの部屋を突き止めてくれたのも竹内さんなんですよ」
 そのときのことを思い出したのか、嫌そうに顔を歪めて、薪は吐き捨てるように言った。
「おまえ、それ確実に後でなんか要求されるぞ」
「まさか」
「あいつは三田村の子分なんだぞ。なんの見返りもなしにそんなことするはずがない」
「だって、すごく楽しそうにやってましたよ」
 薪は椅子に座りなおして、テーブルの上に頬杖をつく。頬杖は薪の悪いくせだ。可愛らしい仕草だが、あまり行儀の良いものでない。
 
「いいや、絶対に裏がある。あいつはそういうやつだ。蛇みたいな男なんだぞ」
「そんな人には見えませんでしたけど」
「おまえは他人を信じすぎるんだ。もっと疑い深くなかったら捜査官は務まらないぞ」
「はあ」
 室長らしく居丈高に説教するが、自宅で私服に着替えた上に頬杖をついた姿勢では、いつもの威厳はない。チェック柄のシャツにジーンズ姿の室長は、青木の目にはなんとも可愛らしく映る。

 やがて夕食の準備が整った。
 テーブルの上には3人分のカレー皿と大盛りの野菜サラダ。青木の好きなサウザンドレッシングと岡部の好みなのかソースが出してある。
「美味しそうですね」
「薪さんのカレーは美味いぞ。俺のお袋が作るより美味い」
「いただきます」
 長い時間をかけて煮込んだらしいチキンカレーは、口に入れると鶏肉がほろほろと崩れて、スパイシーでまろやかな風味が最高だ。
「ほんとだ。すごく美味しいです。薪さんて、なんでこんなに料理上手いんですか?」
「カレーなんて誰が作っても同じだろ。市販のルーを使ってるんだから」
「そんなことないですよ。オレには絶対にムリです」

 色とりどりの野菜を自分の皿に取りながら、薪は首を傾げて言葉を継いだ。
「まあ、一人暮らしが長いからかな」
「オレだって大学に入ったときからだから、もう4、5年になりますけど」
「僕は20年だ」
 それはすごい。
「高一の時からだから。始めはレトルトばっかだったけど、あれって不味いし、外食はすぐに飽きるし」
「そうなんですよね。白いごはんと漬物だけでもいいから、家で食べたいときってありますよね」
「学生の頃はけっこう、手の込んだものも作ってたんだけど。フォンドボーから煮込んだりしてさ。ホワイトソースとかデミグラスソースとかも、市販のルーなんか使わないで……今はダメだな。時間がないし。一人分だと特に面倒で、味噌汁まで顆粒ダシ使うようになっちまった。日本人失格だな」
 その定義で言ったら、今の世の中、日本人は料亭の板前だけになってしまうだろう。

「岡部はいいよな。自宅だから。お袋さんのメシだもんな」
「いや~、うちのお袋、料理下手なんですよ。俺が作ったほうがましなくらいです」
「そうなのか? まあ、女の人の中にも料理が苦手ってひとはいるから。そういえば、雪子さんもすごいの作るんだよな」
「三好先生、料理上手なんですか?」
「一回、食わせてもらえ。まるで魔法みたいだぞ」
「そんなに美味しいんですか?」
 薪は大きく頷くと亜麻色の目を悪戯っ子のようにくるめかせて、茶目っ気たっぷりに雪子の料理についての解釈を述べた。
「雪子さんの場合、食えるものだけを鍋に入れていくのに、それが最終的には食えないものになるんだ。鍋の中で何が起きているのか、不思議で仕方ない」
 いかにも雪子らしい。

 親しい友人を肴に、三人で笑い合う。こういうのも気楽で楽しい。男三人というと華がないように感じるが、薪の微笑だけで充分おつりがくる。

「カレーとかって、たくさん作ったほうが美味いだろ。だからつい作りすぎちゃうんだよな。食べきれないの解ってるのに。て、おまえらどんだけ食うんだ」
 大鍋に煮てあったカレーは10皿分。恐ろしいことに殆ど残っていない。五合炊いたはずのご飯もあらかた空で、薪の2皿目は無いようだ。
「青木。おまえそれ、4杯目だろ。少しは遠慮しろよ」
 そういう岡部も3杯目だ。
「すいません。オレ、今日の昼メシ、あんまり食べられなくって」
 と言いつつ、おかわりをよそる。鍋を逆さまにしてきれいに底をさらう。炊飯器の中身も完全に空っぽだ。
「ありえないだろ、それ」
「早いもん勝ちですよ、こういうのは。めちゃめちゃ美味しいんですもん、これ」
「まあ、俺も若い頃はそのくらい食べたけどな」
「おまえらとメシ食うと、なんだか自分がすごく損してるような気がする」
 薪は頬杖をついて、青木が食べるのをじっと見つめている。不満げな言葉とは裏腹に、何やら嬉しそうだ。

「そうだ、岡部。この後、いいか?」
「はい。いいですよ」
「じゃ、僕は風呂に入ってくるから。ちょっと待っててくれ」
 なぜか青木が突然麦茶にむせ返っていたが、薪はこれからのお楽しみに夢中で気付きもしない。自分の食器を水に浸けると、足取りも軽く風呂のほうへ歩いていく。その後姿は、明らかにウキウキしている。

「……オレ、帰ったほうがいいですか?」
 青木がぼそりと呟く。地の底に沈みこみそうな声だ。
「あんだけ食っといて、後片付けぐらいしていけ。常識がないのか、おまえは」
「いや、そういう意味じゃなくて」
 岡部と青木が食器を洗っているうちに、薪がパジャマ姿で風呂から出てくる。風呂好きの薪にしてはえらく早い。よほど焦っているようだ。

「悪いな、青木。岡部を借りるぞ」
「リビングのソファでいいですか?」
「ソファは狭いから、ベッドに行こう」
 ガシャン、という派手な音がして、青木の大きな手から皿が床に落ちる。それは薪のお気に入りの皿だったが、見事に真っ二つに割れてしまった。
「怪我しなかったか? 青木」
 青ざめた顔をして、口をパクパク動かしている。割れた皿を気にしているのだろうか。
「青木、どうせ安物だ。気にするな。それより岡部、早く。僕はもう待てない」
「そんなに辛抱たまらんのですか?」
「今日、あんなことがあっただろ。もう限界、超えそうだ」
「薪さんも好きですよね」
「僕の年でこれが嫌いなやつなんか、この世にいないだろ」
「そうですかね」
 刺激的な会話を交わしながら、ふたりは寝室へ入っていってしまった。残された青木は、ただうろたえるばかりだ。

 やがて寝室から聞こえてくる、薪の色っぽいうめき声――――。
 青木は思わず寝室のドアに走りよって、耳をそばだてた。
「う……ん、イッ……岡部、もっと」
 薪のあられもない声に、青木は目の前が真っ赤になる。背中にはじっとりと嫌な汗が噴き出して、貧血を起こしそうだ。
「ここですか?」
「そ、そう、下の方……あ、そこっ」
 そこってどこ!?
「ああっ、い、いいっ」
「気持ちいいですか?薪さん」
「うん、もっと強く……あああっ……」
 嘘だ。これは何かの間違いだ。あのふたりがそんな。

 部屋の中がぐるぐると回りだし、青木は床にへたり込んでしまった。寝室の閨声は、無情にもまだ続いている。

「あっ、ダメだ、岡部っ……そこはまだ早い」
「いいから任せてください。ほら、こんなに固くなってるじゃないですか」
「だ、ダメっ……、あっ、あんんっ!」
「よくなってきたでしょ」
「う、うん、でも……や、やっぱりダメだ、それ以上は、ああっ、あっ、あっ」

 青木にとっては地獄のような時間が過ぎて、やがて薪はすっきりとした表情で寝室から出てきた。ドアのところに座り込んでいる青木の姿に気付くが、悪びれた様子もない。
「あ~、気持ちよかった~。ほんと、岡部はテクニシャンだな。僕、もうこれがないと生きていけないかもしれない」
 両腕を耳の後ろにつけて腕を上げ、大きく伸びをする。しなやかな体躯が反り返って、薄いパジャマの下でえもいわれぬ色香を醸し出す。

「よっぽど溜まってたんですね。すごく固くなってましたよ」
「今日はいろいろあったしな。って、青木。おまえ、なに泣いてんだ」
 ひとの気も知らないで、残酷なことを言う薪がうらめしい。とうとう抑えきれずに、青木は叫んでしまった。
「ひどいですよ! オレがいるのに、こんな!」
「なんだ、おまえも岡部にやってほしかったのか?」
 可愛い顔をして、恐ろしいことを言う。青木は絶句した。
 
「岡部、できるか? いくらおまえでも一晩にふたりはきついか?」
 薪の過激な発言に、青木は悶絶しそうだった。
 この世界のことはよく解らないが、薪の心境は理解できない。今さっき、自分の相手をしていた男が、続けて他の男と同じことをしても平気なのだろうか。
「平気ですよ。もう一人くらいなら」
「いりませんよ! そんなわけないじゃないですか!!」
 青木の剣幕に薪が鼻白む。岡部の背中に回って、小さな声で青木を非難した。

「なに怒ってんだ? あいつ」
「俺、なんとなくわかりました」
 何かに思い当たったらしく、岡部が苦笑する。が、青木を怒らせている元凶の薪には見当もつかないようだ。
「一人で皿洗いやらせたのがそんなに面白くなかったのかな」
「室長が面白いです……」
 きょとんとした顔つきで不思議がる薪は、この上なく可愛らしい。が、こんな可愛い顔であんなことをしていたのも許せないし、その後の発言も不誠実この上ない。
「室長にそんなこと言われたら岡部さんだって可哀想です。だいたい、人前ですることじゃないでしょう」
「だって仕方ないだろ。もう、腕も上がらない状態だったんだから」
「腕が上がらないくらいなんですか! ―――― は?」

 青木の想像と繋がらない薪の言葉に、はっとして二人の様子を観察する。
 薪はきちんとパジャマを着ている。パジャマはいくらかしわになっているが、寝乱れた様子は無い。髪の毛も整っている。
 岡部は岡部で、ネクタイを緩めた様子も無い。情事の後というのはもっとこう、艶っぽい雰囲気になるものだが。

「ストレス溜まると肩が凝るんだ。おまえも30過ぎれば、この辛さがわかるさ」
 ……そういえば今日、昼寝から醒めた室長は、腕を横に開いて伸びをしていたっけ。
「じゃあ、あの声って」
「声?」
 薪が岡部のほうに視線を泳がせると、岡部は何も言わずに首を横に振った。

「まぎらわしいことしないでくださいよ!」
 自分の勘違いにめずらしく逆ギレして、青木はキッチンへ逃げ出した。
 つい先刻『仏の田城』の異名を持つ所長に怒られ、大人しいだけが取り得の部下にまで怒鳴られた室長は、自分の無実を岡部に訴えるしかなかった。
「僕がなにをした? 何も悪い事してないだろ? まぎらわしいって、何が」
「薪さんは知らない方がいいです……」
 薪がいくら訊いても、岡部は教えてくれない。
 もとより、言えるはずもない。マッサージのときの室長の声はあえぎ声にしか聞こえません、などと当の本人に言えるわけがない。そして、薪にはもちろん自覚はない。

 かわいそうに、青木のやつ。

 岡部は純情で一途な後輩に、心の底から同情していた。


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ジンクス(13)

ジンクス(13)







 翌日、第九は天地をひっくり返したような大騒ぎになった。
 三田村部長から室長の左遷の辞令が出た―――― わけではない。

「薪さん! 大変です、ちょっとこれ、見てください!」

 室長の指示通り朝一でメモリーからデータを取り出していた今井が、血相を変えて室長室に飛び込んでくる。ノックを忘れたことなどないこの礼儀正しい部下に自分を失わせた原因―――― それは、昨夜薪が苦労して手に入れてきたメモリーであった。
 一つは確かに見覚えのある官僚の住所のデータだった。
 厚生省の官僚の自宅ばかりを狙った連続放火事件の捜査のために、このデータが必要だった。個人情報であるからには、外部に渡すデータは最低限のものにしなければならないという厚生省の言い分で、そのための抜き出し作業に時間がかかるという理由から、このデータは正規のルートではなかなか手に入らなかった。それを三田村に頼んで、裏から手に入れてもらったのだ。

 ところが、もうひとつは違った。
 薪がてっきりバックアップだと思って持ってきた二つ目のメモリーには、厚生労働省麻薬取締部の極秘データが入っていたのである。
 与党の高名な政治家。映画のスクリーンで世界的に有名な俳優。お茶の間の人気者のバラエティの司会者。若手のアイドルグループ―――― 誰もが一度は聞いたことのある名前がずらりと並び、その横に薬の種類と数量が書いてある。さらには金額と暴力団の名前が追記され、これが麻薬の売買データだということは誰の目にも明らかだった。

「これが公表されたら大変な騒ぎになりますよ、室長」
「とりあえず、現内閣は総辞職だな」
 麻薬犯罪の捜査は、警察庁刑事局組織犯罪対策課第5課の仕事である。しかし、それとは別に厚生労働省にも麻薬取締部があり、専門の麻薬捜査官が在籍している。
 そもそも5課は組織犯罪対策課と銘打たれるように、暴力団対策課の4課と生活安全部の銃器対策課及び薬物対策課が合併して設立されたもので、麻薬犯罪だけを取り扱っているわけではない。どちらかというと暴力団自体の犯罪検挙に力を注いでいる。対象とする犯罪の範囲が広いため、麻薬犯罪の検挙に関しては、それを専門とする麻薬取締部の実績に今一歩及ばないのが現状だ。同じ麻薬捜査をするもの同士仲良くすればいいと思うようだが、実際は手柄を奪い合っているようで、とても仲が悪い。
 このデータはその麻薬取締部のものだ。つまり、警察庁が未だ未検挙の麻薬犯罪が満載されているのだ。厚生労働省は国の機関だから、政治がらみの圧力は警察庁より大きい。だからもちろん、高名な政治家の検挙はしない。
 
「しかし、何故こんなものが」
 薪は首を傾げて昨夜の記憶を辿る。そしてすぐに工藤の台詞を思い出した。
 あの時、工藤は『三田村の分も』と言っていた。それがこの売買データだったわけだ。
 今までもこうして三田村は、あの友人からこういった秘密のデータを受け取っていたのだろう。その裏の功績により出世してきた、というわけだ。そしてその見返りには、金や今回の薪のような生贄が差し出されていたと想像がつく。
 
「なんでロクな実績もない三田村が警務部長になれたのか不思議だったが、このご友人のおかげってわけか。まったく反吐が出そうな関係だな」
 汚い駆け引きや裏取引が大嫌いな岡部が、顔を歪めて吐き捨てるように言った。
 言葉にはしないが、室長の眼にも厳しい光が宿っている。怒ったときのくせで、目を大きく開いて唇を引き結び、微かに頬を紅潮させている。

「どうします? こいつの裏を当たるよう、5課に要請入れますか?」
 興奮を隠しきれない今井の言葉に、しかし何故か室長は少し考え込むような素振りを見せた。
 その小さな頭の中で、このデータが公表された際のあらゆる可能性が試算されている。亜麻色の瞳がじっと空を睨んだ。
「僕が行く。今井、バックアップはとってあるな」
「もちろんです」
 今井から手渡されたメモリーを握り締め、薪は足早に研究室を出て行った。室長がいなくなった研究室では、興奮冷めやらぬ職員たちが、これから日本中を驚愕させるであろうセンセーショナルな事件の展開にあれこれと予想を立て始める。

「これで三田村も終わりですね。裏取引が公になるわけですから」
「室長、また出世しちゃいますね」
「これだけのでかいヤマ(事件)ですからね。2階級特進もありかも」
「それは無理だろ。巡査長が警部になるのとはわけが違う。でも、警視長昇任は間違いないな」
「次の試験を受けられるのは来年だから、警視長昇任は36歳かあ。さすがうちの室長ですね。また警察庁の歴史を塗り替えちゃいますね」
「警視長の試験て、すごく難しいって聞きましたけど。まだ誰も一発で合格した人はいないって話ですよね」
「薪さんだぞ。落ちるわけないだろ。あのひとトップで東大入ってトップのまま卒業してんだぞ。人間じゃないよ」
「そうでした」

 明るい見通しに浮かれる第九の面々に混ざらず、一人だけ難しい顔をしているものがいた。室長の腹心の部下、岡部である。
「そう、うまくはいかんと思うぞ」
「岡部さん?」
「薪さん逆に……」

 今回の事件は大きすぎる。
 本当に日本中がひっくり返ってしまう。そんな騒ぎを警察は好まない。警察が検挙したいのは国の根底を揺るがすような事件ではなく、世間がその解決を知って安心できるようなレベルのものなのだ。
 薪は第九の室長として、それをよく知っているはずだ。だから自らが足を運ぶことにした。行き先は5課ではなく、おそらく警視総監のところだろう。この件について直談判をしに行ったとしたら、上層部は秘密を守るために薪の権限を削ごうとするかも知れない。相手が例え警察幹部でも媚へつらわない薪は、ただでさえ上の連中に受けが悪いのだ。

 果たして、岡部の読みは当たっていた。
 朝一で出て行ったはずの室長は、どこまで行ったものか夕方になるまで帰ってこなかった。帰ってきたかと思えば、心配顔の部下たちには何の説明もせず、人形のように無表情な顔でシステムの端末に手を伸ばした。
「今井。データのバックアップはこれか」
 先刻のデータを確認すると、冷静な顔でそれを睥睨し、ためらう様子もなく削除のキーを押した。
「室長!」
「この件は終わりだ。放火事件の捜査に戻れ」

 冷たい目だった。
 すべての感情を殺した冷徹な室長の姿に、第九の部下たちは何があったのかを悟った。
 が、ひとりだけ、それを察することのできない人間がいた。新人という厄介な人種である。

「捜査権は5課に移ったんですか?」
「この件は終わりだと言ったんだ。捜査はしない」
「そんな! あれだけの事件を隠蔽するんですか!?」
「よせ、青木!」
 岡部の制止も耳に入らない。
 真っ直ぐな正義感が、青木の口調を強くしていた。普段なら室長の言うことに逆らったりはしない。が、今回だけは自分の言い分が正しいはずだ。

「このデータは不法なものだ。初めから存在しなかったんだ」
「あるじゃないですか、ここに!」
「青木、やめろ!」
 非難がましい青木の叫びに、しかし室長はどこまでも冷静さを失わない。いつも通りの静かな声音で、当たり前のように事件の隠蔽を指示する。
「もうない。おまえたちもこの件は他言無用だ。絶対に誰にも言うな」
「見損ないましたよ、室長はそんなひとだったんですか!? 上のひとに言われて事件を隠蔽するなんて……!」
「うるさい! 僕が終わりだと言ったら終わりなんだ! さっさと持ち場に戻れ、青木警部補!」

 凄まじい恫喝に青木が怯んだ隙に、薪は室長室へ入ってしまった。
 なおも追いかけようとする青木の腕を、がっしりとした岡部の手が捕まえる。その強い力に引き戻されて、青木は床に尻もちをついた。
「ばかやろう! 室長を責めてどうするんだ!」
「だって! オレ、室長は上の命令なんかに屈しないで、正しいことを貫けるひとだと信じてたのにっ!」
 尊敬の念が強すぎて、自分の理想と違うことをした時にはそのひとを許せなくなる。憧れゆえの思い込みは相手にとっては迷惑この上ないが、青木にしてみれば純粋な気持ちだ。岡部にもそれは分かる。

「薪さんだってやりたくてやってるわけないだろ。あのひとがそんな人間じゃないのは、おまえだって知ってるだろう」
「でも!」
「青木。警察ってとこはな、こんなことはよくあるんだ。仕方ないんだよ」
「納得できません。犯罪者を野放しにするんですか?」
「納得できようができまいが、おまえがこれからも警察機構に属する気なら、それを飲み込まなきゃいかん。それができなきゃ、辞表を出すんだな」
 青木は黙り込んだ。
 岡部にこんな厳しいことを言われたのは初めてだ。こんなに理不尽なことを言われたのも。
「室長はな、俺たちが知らないこともたくさん知ってるんだ。俺たち部下には言えないことも、秘密にしておかなきゃならないことも、山のように抱え込んでる。それが室長の責務ではあるけれど、あのひとの性格には辛い仕事だと思う」
 しかし、隠蔽の事実に変わりはない。どんな辛い気持ちでそれを為そうとも、事実の前にはただの言い訳に過ぎない。
 
「じゃあ辛い気持ちで人を殺したら、それは無罪になるんですか? 岡部さんが言ってるのってそういうことですよね」
「いい加減にしろ、青木。
 おまえ、あの人ほど真剣に捜査に取り組む捜査官を見たことがあるか? 被害者のために、遺族のために、自分の身を削ってまで捜査を続けるあのひとの正義を疑うのか? いったい、今まで室長の何を見てきたんだ」
 それは確かに、青木が惹かれた室長の姿だ。
 そんな室長だから好きになった。でも、今回のことだけは会得がいかない。清濁併せ呑むには、青木はまだ若すぎた。

「青木。おまえ、室長に守られすぎだよ」
 小池が意外なことを言い出す。何のことか分からず、青木は首を捻った。
「警察署内の隠蔽工作なんて日常茶飯事だ。おまえ、ここに来てもう8ヶ月だろ。他の部署なら1ヶ月で分かることだぞ。俺なんか二週間で分かった」
「おまえだけじゃない。俺たちだって、室長に守ってもらってるんだ。今回のことだって、この事実を知っているのは自分だけだと上層部に信じ込ませるために、室長がデータを持っていったんだ。俺たちに隠蔽工作の罪悪感を抱かせないために、バックアップの削除キーも自分の手で押した」

 守られている―――― それは感じていた。

 自分を庇護する優しい手を、いつも見守っていてくれる亜麻色の瞳を、進むべき方向を示してくれる小さな背中を、求めて追いかけてここまで来たのだ。
 薪の優しい微笑を思い出して、青木の心が沈みこむ。

 その通りだ。
 薪は保身のためにこんなことはしない。全部自分たちのためなのだ。

「青木。おまえの気性には、警察の水は合わないかもしれない。自分の人生だ。よく考えてこれからのことを決めろ」
 岡部の言葉が重くのしかかる。
 人生の岐路に立たされて、青木は床に座り込んだまま、立つことができなかった。


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ジンクス(14)

ジンクス(14)







 誰もいなくなったモニタールームに、青木はひとり端末のキーボードを叩いている。
 研究室の明かりは消えている。デスクランプの明かりだけを頼りに、青木は作業を続けていた。これは外部には秘密の作業だからだ。

 時計の針が7時を指し、室長室のドアが開いた。
 薪が足早に出てくる。と、青木に気付いて足を止めた。
「青木。何をしている」
 声には剣呑な空気が含まれている。どうやら先刻のことで、いま青木がしていることに疑念を持っているようだ。
「ログファイルの削除です。これであのデータは完全に無くなりました」

 驚いた表情で青木の机に近付いてくる。いくつかの操作をしてモニターを確認し、青木の言葉が本当だと知ると、その驚きはますます大きくなったようだ。
「おまえ、できるのか? 普通のPCじゃないんだぞ」
 PCでファイルを削除してもハードディスクにその断片が残るように、MRIシステムも一度リーディングしたデータを削除キーだけで完全に消し去ることはできない。これが普通のPCであれば読取防止のプログラムをダウンロードすることで消去が可能だが、MRIシステムの完全削除はそう簡単にはいかない。スパコンのハードディスクから残された断片のひとつひとつをすくい上げ、個別に消去していかなくてはならないのだ。
 MRIはシステム自体が非常に複雑なため、完全な消去作業はプロのエンジニアでなくては不可能だ。もちろん、薪にもできない。

「いつの間に覚えたんだ? こんな普段使わないような」
「難しい専門書、読んだことが役に立ってよかったです」
「明日、宇野に頼もうと思ってたんだ。そうか……おまえがやったのか……」
 消え入りそうな声で室長が呟く。すまなかった、という言葉が聞こえてきそうだ。謝ってもらう筋合いは無い。これは自分の意思でしたことだ。

「さっきはすみませんでした、室長」
「気にしなくていい。おまえは間違ってない」
「はい。オレもそう思います。でも室長も間違ってません。だから、すみませんでした」
 青木の謝罪を受け入れる気があるのかどうか、薪は黙ったままだ。モニターから視線を逸らさずに、じっと立ち尽くしている。
 デスクランプの白い光が、その美貌を照らし出す。いつもより憔悴した室長の横顔――――― 赤く滲んだ眼。おそらくは悔し涙にくれて……。
 他の職員たちが何故今日に限って早々と帰ってしまったのか、青木はようやく分かった。部下たちが退室しなければ自分の部屋から出てこないであろう室長を気遣ってのことだったのだ。それなのに、また自分は余計なことをしてしまった。が、今更どうしようもない。室長の涙の跡には気付かない振りをするしかない。

「キリマンジャロAA」
「は?」
「昨日も今日も、半分しか飲めなかったんだ」
 朝のコーヒーを飲んでいると今井の叫び声で中断させられ、その後大変なことになる。そんなことが2日も続いたら、明日はそのコーヒーを飲むのをためらってしまうだろう。
「相性が悪いのかな。あんなに美味いのに。いやなジンクスができちゃいそうだ」
「なんなら、今から淹れましょうか」
「……いいのか?」

 端末の電源を落として、メインスイッチを切ると青木は給湯室へ向かった。薪が後ろからついてくる。広い研究室に、独りにはなりたくないのかもしれない。
 給湯室はあまり広くはないが、小型の冷蔵庫や流し台、IHヒーター等が備え付けられている。ここは新人の青木にとって第二の仕事場だ。
 民間の会社ならお茶を汲むのは年の若い女子社員の仕事かもしれないが、第九は国税で動く警察関連の研究室なので、そんな贅沢は許されていない。すべて新人の青木にお鉢が廻ってくる。
 が、そこは第九特有のシステムが働いて、青木が捜査で忙しいときには誰でも良いから手の空いているものがお茶汲みやコピー取りなどの雑務をこなすようになっている。
 だれの手も空いていないときは、恐ろしいことに室長が自らコーヒーを淹れたりもする。室長の面子だとかこんなことは室長の仕事じゃないとか、薪はあまりそういうことは気にしない。しかし周りは気が気ではない。薪が給湯室にいると真っ青になって誰かが飛んでくるので、最近はあまり来ないようにしている。

 青木はIHヒーターの電源を入れると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、まずはお湯を沸かし始めた。
「この豆、オレも一度飲んでみたかったんですけど、いいですか?」
「自分で淹れてるのに、飲んだことないのか?」
「この豆は室長専用です。全員であの豆飲んでたら、経理の人に怒られちゃいますよ」
 職員たちのために普通のブレンドコーヒーやインスタントコーヒーなども置いてあるが、室長専用のコーヒー豆はちゃんと別に密封して閉ってある。それを戸棚から取り出して、少し多めに2人分の量を量る。コーヒーメーカーに付いているミルで豆を挽くと、ペーパーフィルターにセットして、お湯が沸くのをしばし待つ。

「コーヒーメーカーは使わないのか?」
「大人数のときとか、急ぐときはメーカー使ってます。でも、こっちのほうが口当たりが柔らかくて美味しいんですよ。時間がかかるから、朝くらいしかできませんけど」
「それでか。おまえが淹れたコーヒーは何か違うと思ってた」
 コーヒーポットとカップをお湯で温めてから、フィルターに湯を落とし始める。コーヒーのいい香りが狭い給湯室に広がる。コーヒー好きにはたまらない匂いだ。
「お湯の温度は90度くらい。最初は中央部分から、ゆっくり『の』の字を描くように。ちょうど点滴が落ちるくらいの速さで落とすんです」
 コーヒー専用の薬缶の細い注ぎ口から、ぼたぼたと湯が滴り落ちる。ペーパーフィルターの中で挽き立てのコーヒーが真ん丸く膨らんでいく。
「あ、丸くなった」
「焙煎の鮮度が新しいとこうなるそうですよ」
 へえ、と目を丸くしている室長が可愛らしくて、青木は手元が狂いそうだ。

「ん~、いい匂いだな」
 コーヒーの香りに酔いしれるように、薪は目を閉じる。実際、コーヒーは淹れている最中のほうが出来上がったものより香りが強い。
「お湯は3回に分けて注ぎます。2回目は初めより多く、3回目はもっと多く」
 3回目のお湯がドリッパーに半分ほど残った状態で青木はコーヒーポットを外し、ドリッパーを流し台に置く。薪が首を傾げて疑問を投げかけてくる。
「なんで途中で捨てちゃうんだ? もったいない」
「最後のところにコーヒーの雑味や余分な苦味が残るんです。ちょっと贅沢ですけど、豆もお湯も少し余分に入れて、こうして途中で取り出したほうが美味しいんですよ。
 はい、お待たせしました」
 暖めたカップにコーヒーを注いで薪に手渡す。ここには椅子もないが、さんざん匂いを嗅がされて、薪は待ちきれない様子だ。

 冷蔵庫の扉に行儀悪くもたれかかり、薪はカップに口をつけた。
 満足げな微笑。青木が一番、見たかった顔だ。
 
「ああ、美味いな」
「ありがとうございます」
「もう、今井は来ないよな」
 薪の冗談はシュールすぎて時々笑えないが、このかぐわしい液体がかれの心をほぐしてくれたのは間違いないようだ。
「本当に美味いな。うん、おまえに『第九のバリスタ』の称号を与えてやろう」
 青木をからかうように、意地悪そうな笑みを浮かべる。素直に笑う薪など見たことがない。
 初めの頃はこの笑みをとても好きになれそうもないと思っていたはずなのに、今はたまらなく愛らしいと思う。薪の本当の姿がわかってくるにつれ、嫌っていたはずの振る舞いが、行動が、好ましいものに思えてくる。恋とは不思議なものだ。

「オレは薪さんの専属のバリスタになりたいです」
「僕の専属? おまえ、僕が1日に何杯コーヒー飲むか知ってるのか? 休みの前の日なんか夜中でも飲むんだぞ」
 やはり、こんな回りくどい言い方では薪には伝わらないようだ。薪はこういうことにはひどく鈍い。が、そこがまた可愛いと思ってしまうのだから、青木も救いようがない。
「おまえ、コーヒーハウスでバイトでもしてたのか?」
「違いますよ。室長がお好きだと聞いたので、いろいろ研究したんです」
 青木は正直に答えた。少し照れくさいが、本当のことだ。薪に好かれるためだったら努力は惜しまない。
「言ったでしょ。室長に憧れてここに来たって」
「……悪かったな。幻滅させて」
「幻滅なんかしてません」
 自分のカップにコーヒーを注ぎ終えて、青木は室長の眼を見る。自分の言葉に嘘がないことを知って欲しかった。

「薪さんはオレが思った以上のひとでした。仕事ができるだけじゃなくて、強くてやさしくて。オレが未熟で、さっきはそれに気付けなかっただけです。本当にすみませんでした」
 亜麻色の瞳に翳りが差す。自分はそんな立派な人間じゃない―――― そう言いたげな表情で、薪は顔を伏せた。
 そのまま黙ってコーヒーを飲む。何事か考え込んでいるらしく、無意識のうちにマグカップを両手で持っている。まるで子供のようなしぐさに、青木はあることを試してみようと思いつく。
 殴られるかもしれないが、そのときはそのときだ。

 空になったマグカップを薪の手から取り上げ、うつむいたままの亜麻色の頭にそっと手を置く。薪は一瞬、肩を強張らせたが、青木の手を振り払わなかった。
「オレじゃ効かないかもしれませんけど」
 さらさらした髪を撫でる。亜麻色の頭は青木の大きな手にすっぽりと収まって、そのコンパクトさが男の庇護欲を駆り立てる。

「……ちがう」

 低い声で、薪が呟く。
 予想はしていたが、やはり自分ではだめか。
 
「すみません。やっぱオレじゃダメですよね」
 引こうとした青木の手を押さえて、薪は首を振った。
「そうじゃなくて……昨日のは、本当は違うんだ。手はこう……」
 青木の手を引き、自分の後ろに回す。頭上に置いた手は後頭部に、もう一方の手はその背中に置いて、薪は青木の胸に頭をもたせかけてきた。
 これは……抱きしめてしまってもいいんだろうか。というか、その先までいってしまいそうなのだが。
 
「……っ、ぐっ」
 亜麻色の髪が揺れて、肩が震え始める。その震えを止めてやりたくて、青木は背中に回した腕に力をこめ、髪を撫でた。
「ひうっ……ふッ……!」
 両手の拳を白くなるほど握り締め、薪の嗚咽は激しくなった。涙が床に滴り落ちる。
「くやっし……いっ、ちっくしょ……!」

 今回のことがどれだけ薪の心を傷つけたのか、青木には想像もつかない。
 衆目の中で三田村に土下座をさせられたときでさえ平然としていた室長が、新人の自分の前で涙を流している。くやしい、と臆面もなく訴えている。
 自分の信じる正義を自ら裏切らねばならない現実―――― 薪のプライドを傷つけるのは、それだけなのかもしれない。

 狭い給湯室の壁に薪の嗚咽だけがいつまでも響いて、研究室の夜は更けていった。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ジンクス(15)

ジンクス(15)







 その翌日。第九にはいつも通り、室長の痛烈な罵声が轟いていた。

「なにやってんだ、おまえら! どうしてこの画に気付かないんだ? ちょっと考えたらわかることだろう。頭を使え、頭を。第九にバカはいらん!!」
 放火事件のMRIを見ていた今井と曽我が、激しい口調で怒鳴りつけられている。
 がっくりと肩を落とす二人を尻目に、今度は小池と青木のほうへやってくる。手には先日提出したばかりの誘拐事件のファイルが握られている。
「やり直しだ。写真の解像度が足らん。不明確で、初めて見るものにはわけがわからん。こんなもので給料貰ったら泥棒といっしょだ。窃盗罪で告発されたくなかったら2時間以内に作り直せ」
「に、2時間ですか?」
「昼メシが食えるかどうかは、おまえらの努力次第というわけだ」
 ファイルを叩きつけるように机に置いて、戦々恐々とする部下たちをぐるりと見回す。ぎりっと吊り上げられた眉と固く結ばれた唇が、次の標的を探している。
 
「岡部、あの会社の裏はあたったのか?」
「あ、いえ、まだ……」
「何をぐずぐずやってる! 指示したのは3日も前だぞ!」
「い、行ってきます」
「情報取れるまで帰ってくるな!」
 岡部が慌てて外に出て行く。今日は雨が降っているが、この部屋の中で室長の怒号を聞いているよりずっとましに違いない。

「宇野、データのバックアップ、できたのか」
「も、もうちょっとなんですけど」
「……僕の目には、あと3時間はかかるように見えるが。まあ、システムの専門家のおまえが言うことだ。ちょっとと言うからにはちょっとなんだろうな。ちなみに時間の感覚で『ちょっと』と言った場合は、30分以内のことを指すそうだ」
「す、すいません……」
「別に謝ることじゃないだろう? もうちょっとで出来るんだろう? 待たせてもらおうか。僕はここにあと何分、立っていればいいんだ?」
 ほんの少しの言葉尻を捕らえられて、長々と皮肉を言われる。可哀想に、宇野は涙目になっている。反対に室長はとても楽しそうだ。

 部下たちをさんざんいたぶって気が済んだのか、足取りも軽くモニタールームを出て行く。やがて給湯室からいい匂いが漂ってきて、焦った小池が慌てて走っていった。
「室長、俺がやります」
「ついでに淹れたから、配ってやってくれ」
「すいません」
「コーヒーメーカーだけどな。うちのバリスタみたいにはいかん」
「はい?」
 小池には意味不明の言葉を残し、自分のマグカップを持って室長室へ入っていく。研究室の職員たちから、ほーっというため息が漏れた。
「今日の薪さんて、なんか……」
 小池がコーヒーを配るのを手伝いながら、青木はぼやいた。
 今日の薪は怖い。いつも怖いけれど、今日は全開という感じだ。

「ああ、機嫌いいよな」
「はあ!? あ、皮肉ですか」
「ちがうって。室長、機嫌が悪いときは黙り込むタイプだぜ。しかも無表情。怖いのなんのって。部屋にこもって出て来ない時あるだろ。あれは機嫌が悪いんだ」
 わからない。ここの感覚は、世間一般の常識が通用しないようだ。
「薪さん、今日は生き生きしてるよな」
「いいことでもあったんですかね。あ、三田村が左遷されたとか」
 その噂は警察庁中で、まことしやかに囁かれている。耳の早い小池が聞き込んできて、穏やかな性格のおかげで友人の多い今井がその出所を辿ると、どうやら上層部発祥のものらしい。これはほぼ決まりと思って間違いないだろう。
「でも、室長は噂とか興味ないから。なんか別のことだと思うけど」
「そうですね。自分の噂にも関心無いみたいですからね」

 室長が淹れてくれたコーヒーを口にして、青木はそれが昨夜飲んだ豆と同じものであることに気付く。気前の良い室長は、自分専用の高いコーヒーを部下たちに振舞ってくれたらしい。
「やっぱり、普通のブレンドとは違いますよね」
「いつものコーヒーじゃないのか? これ」
「違うだろ、明らかに」
 味覚には個人差があって、中には違いの分からないものもいるようだが、室長が淹れてくれたと思うとそれだけで美味しい。きっとインスタントでも美味しく感じるのだろうな、と青木は思う。

「そういえば室長、バリスタが何とかってさっき言ってたけど。バリスタってなんだっけ?」
「あれじゃないのか。コーヒー屋でコーヒー豆のブレンドとかするやつ」
「コーヒーのソムリエみたいなもんか」
「……なに笑ってんだ、青木」
「いえ、なんでもないです」
 昨夜のことを思い出すと、つい頬が緩んでしまう。
 実は、今日の薪の不機嫌の原因は自分か、と内心びくびくしていたのだが、それもどうやら誤解だったらしく、素直に昨夜のことを喜ぶことができる。

 自分の胸の中で涙にくれていた薪の姿を―――― きっと、まだここにいる誰も見たことがない室長の姿を、自分は知っている。薪が、自分の前で弱い部分を見せてくれたことが、純粋にうれしい。
 声を抑えた嗚咽が止まり、泣くのを止めて自分から離れていった室長の恥ずかしそうな横顔が、とても可愛かった。
 このひとを守りたい、と痛切に思った。

 元はといえば、自分のつまらないミスが原因でこの大騒動は起こったのだ。結果、室長をあんなに苦しめることになってしまった。だからもう、今回のようなミスを二度と起こしてはならない。それには室長のアドバイスの通り、自分の心を強くしなければ。
 雪子に話を聞いてもらおう、と青木は決心した。
 女の人にこんなことを相談するのは気が引けるが、話せる相手は彼女しかいない。悩みを抱えたまま守りきれるほど、第九の室長の背中は小さいものではない。

 青木は皆から、飲み終わったコーヒーカップ受け取って給湯室へ運ぶ。カップとコーヒーメーカーを洗いながら、昨夜ここで立ったままコーヒーを飲んでいた薪の姿を思い出す。
 冷蔵庫のドアにもたれて子供のように両手でカップを持って、満足そうに微笑んでいた。あのきれいな微笑を、今度は自分の仕事を見て浮かべてもらいたい。
 多忙な法一の女医に時間を割いてもらうために、青木は携帯電話を取り出した。


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しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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