タイムリミット(1)

 お待たせしました、サードインパクトですっ。(絶対に誰も待ってないと断言できる)

 最後のバクダンです、おっきいです!(>∇<) ←なぜこんなに嬉しそう?
 お付き合いくださるみなさまには、どんなに絶望的な状況でも、最後まであおまきさんの絆を信じて読んでください。 原作と同じように!! (エライ傲慢ですが、原作も同じ気持ちで待ちましょうよ、と言う意味で理解してください)

 ではでは、
 よろしくお願い致しますっ!!





タイムリミット(1) 


     プロローグ1  ~2062.春  ファースト・カウント~




 場に存在するだけで、周囲に緊張と勤勉を強いる。薪が『鬼の室長』と呼ばれるのは、その特質のせいだ。
 身体は小さいのに、その威圧感は聳え立つ山の如し。彼の顔色ひとつに部下たちの心拍数は激しく変化する。もし彼が提出された報告書を前に眉を顰めようものなら、それを書いた者は蛇に睨まれた蛙のごとく冷たい汗をかきながら、心の中でひたすらに神の加護を願う。
 そんな室長に会議の予定が入れば、研究室全体の空気が緩むのも無理からぬことだ。鬼の留守居はたった半日。短いけれども約束された穏やかな時間に感謝して、職員たちは伸び伸びと職務に向かう。皆、足取りも軽く笑顔も多い。一人だけ、一番年若い捜査官を除けば。彼は室長がいないと萎んだ風船のようになってしまう。いつも室長に苛められてばかりいるのに、おかしな男だ。
 
 室長の留守中は、副室長の岡部が室長代理を務める。新しい事件が起こらない限り、職務内容は前日の延長だ。事前に室長から指示を受けていた幾つかの点を職員たちに伝達し、捜査の進み具合を確認し、緊急の用件があれば室長の携帯にメールで報告をする。
 その日は特段処理に迷うようなことも起こらず、また、捜査対象も既に犯人が確保された事件の検証作業が主だったため、比較的のんびりと第九研究室の時間は動いていた。

 研究室の時計が凍ったのは、昼前。

「ちょっといいかな」
 飄々とした足取りで、開いた自動ドアから入ってきた人物に、弾かれたように職員たちは立ち上がる。本来なら研究所勤めの一職員など目通りも叶わないほどの高官、小野田官房長だ。
 室長代理の岡部が、さっと前に出て敬礼した。
「申し訳ありません。生憎、室長は会議で警視庁に出向いておりまして」
 小野田は、第九の影のパトロンだ。それはもちろん、口さがないお喋りスズメどもが囀るような、官房長と薪の不埒な噂を肯定するものではない。噂の真偽は重要ではない。何故なら例えそれが事実だとしても、一個人の感情で動かせるほど、警察は甘い組織ではないからだ。

「知ってるよ。今日は薪くんじゃなくて、きみを誘いに来たんだ」
「は?」
「昼ごはん付き合ってよ、岡部くん」
「……はあ」

 官房長が一警視を食事に誘うなんて、常識では想像も付かない光景が、ここ第九研究室ではまかり通っている。それは小野田と第九研究室の密接な関係によるものだ。
 第九研究室創立の青写真を描いたのは当時官房長に就任したばかりの小野田で、まだ警視だった薪の才覚を見抜いて室長に抜擢したのも彼だった。第九が修めた数々の功績によって、小野田は己の勢力を広げてきたといっても過言ではない。第九と小野田は、いわば運命共同体なのだ。

 後のことを今井に預け、岡部は小野田の後につき従い、第九の正門を出た。
 小野田は、黙って岡部の前を歩いている。普段の彼は、官房長である自分に対する岡部のプレッシャーを軽くしようとしてか、あれこれ気負わない話題を振ってくれるのだが、今日の小野田は軽口どころか、いつも口元に浮かべている微笑みすらない。
 彼の沈黙に、岡部は嫌な予感を覚える。あまりいい話ではないらしい。

 自分の身上よりも、薪のことが心配になって、岡部は薄い眉根を寄せた。
 小野田が自分に話があるなら、それは薪のことに決まっている。公私ともに薪の面倒を見て欲しいと、小野田に直接頼まれているからだ。
 官房室に定例報告に来る薪の様子が何処となくおかしければ、こんな風に食事に誘っては、その理由を岡部に訊いてくる。それは和やかな雰囲気で相手から話を聞きたい、と言うよりは、人は嘘を吐くとその動揺が箸使いに現れるものだから、そこから真実を見抜こうとする小野田の計算なのだと、お人好しの岡部は未だに気付けないでいる。

 小野田が行きつけの蕎麦屋に顔を出すと、当たり前のように奥の座敷に通された。個室で二人きりになって、開口一番、小野田は言った。

「薪くんが青木くんと不適切な関係に陥ったみたいなんだけど」

 ……もうバレたのか。青木から報告を受けて、まだ一月も経ってないのに。
 こちらの方面にはとことん不器用な薪のこと、隠し事も不得手だろうと予想はしていたが、何も初っ端から、バレたら一番厄介な相手にカミングアウトしなくたって。

 思わず出そうになった溜息を飲み込んだ岡部に、小野田は容赦なく畳み掛ける。
「いったいどういうことなのか、説明してくれないか。君はあの二人をずっと見てきたはずだ。気付かなかったなんて言わせないよ」
 小野田の薄灰色の瞳には焦燥と心配が滲み、それは親が子供の身を案じて浮かべる苦慮の色にとてもよく似ていた。
 珍妙な噂を立てられるほどに小野田が薪に眼を掛けるのは、利害が一致している部分も大きいのだろうが、決してそれだけではない。小野田は薪の才覚に惚れ込んでいる。愛娘の婿に迎えて、自分の跡継ぎにしたいと本気で考えているのだ。だから、今回のことは見過ごせないのだろう。

「君が着いていながら、何てザマだい」
 岡部は一言も言い返さず、黙って小野田の苛立った声を聞いていた。彼の気持ちはよく分かった。自分だって、最初は反対だったのだ。
 青木が薪のことを特別な眼で見ていることに気付いたとき、岡部はそれを諦めさせようとした。想いが通じ合ったとしても茨の道。薪も青木も大事な友人だ、そんな道を歩ませるのは忍びなかった。
 岡部の放った鋭い牽制球を、しかし青木は見事に場外まで飛ばしてみせた。逆転ホーマーだ。あそこまでされたら味方につくしかない。

 何よりも薪が。
 青木と一緒だと、よく笑った。青木を見つめる亜麻色の瞳が、生き生きと輝いた。死んだ魚のような眼をして、ひとりモニタールームで放心していた薪を何度も見ていた岡部には、そのことがとても嬉しかった。

「ったく、薪くんにも参ったよ。あんなに分別の付かない子だとは思わなかった」
「お言葉ですが。ふたりとも、いい加減な気持ちではないと」
「分かってるよ! だから困ってるんじゃないか」
 彼には珍しく小野田が声を荒げたとき、笊に載った冷たい蕎麦が運ばれてきて、話は一時中断した。店員が下がると、小野田は乱暴に箸を割り、常になく大雑把な箸使いで蕎麦を持ち上げた。よほど頭に来ているらしい。

「薪くんは真剣だよ。もともと遊びで恋なんかできない子だからね。あの子がなんで昔、風俗通ってたか知ってる? 結婚するつもりもない女の子とそんなことできない、って真面目に考えてたからだよ。呆れるくらい古臭い男なんだよ」
 薪が若い頃、その手の店に出入りしていたことは知っていたが、そんな理由だったとは。今時どんだけメンドクサイ男なんだか、我が上司ながら眩暈がしそうだ。

「こんなことになるなら、あの息抜きを辞めさせるんじゃなかった。あの子には男と寝る趣味なんかなかったはずなのに」
「そんな気持ちからじゃないことはご存知でしょうに」
 薪の淡白さを小野田は知っている。どうして小野田が彼の極秘事項にそこまで詳しいのか、その裏事情は未だ解明していないが、あの淡白な薪が身体の欲求から、自分の部下、しかも男と関係を持つなんて。不自然極まりない。

「岩を背負って歩く覚悟があるって言われた」
 唐突に言われて、岡部は啜り上げた蕎麦を途中で止めた。
 何のことです、と岡部が問えば、小野田は蕎麦に苦いものでも混じっていたような顔になって、
「ぼくが『青木くんなんか道端の石ころだ』って言ったら、『青木は岩みたいな男です』って返してきてさ。で、自分はその岩を背負って歩く覚悟があるって」
 薪らしい。仕事も恋も、スタンスが一緒だ。
 薪は慎重派だ。新しい機械を導入したり、通常とは違ったアプローチで捜査をしようとするとき、彼は最初、ありとあらゆる可能性を考え、最悪の事態を想定する。だから踏み出すのに多少時間がかかる。反面、捜査中にどんなハプニングが起きても動揺を見せずに冷静に対処する。その事態は想定済みだからだ。

「あの子がぼくに、ここまで逆らうなんて初めてだ。どんなに意に副わない仕事でも、最後はぼくを信じて肯いてくれたのに」
 小野田にしてみれば、ショックもあるのだろう。薪が捜査一課にいた頃から眼を掛けてきたというから、その歳月は10年以上。科警研始まって以来の大スキャンダルに塗れた薪を見捨てず、己の公正性を地に落としてまで彼を第九の室長に据え置いた。そこまでして薪の希望を叶えてやったのに、こんな仕打ちが返ってくるとは。手塩にかけて育てた自分の子供に裏切られたような気持ちになっているのだろう。
「君から青木くんに手を引くように、話してくれないか?」
 それでも、小野田はやっぱり薪のことが可愛いのだ。説得を試みる相手を薪ではなく青木にしてくるあたり、彼の心痛を思いやっているのだろう。その分、怒りは青木に向くのだろうな、と岡部は憂い、大事な後輩が小野田の不興を買わない手はないものか、と考えを巡らせた。

「俺にはできません」
 熟考の末、岡部は首を振った。小野田の顔が、憤慨に歪む。
「ぼくの頼みを断るだけの、正当な理由があるんだろうね?」
 初めて聞く、小野田の脅しつけるような声音に、ぞっと背筋が冷たくなる。
 自分の警察人生もここまでか、とちらっと頭を掠めたが、仕方ない、自分は彼らの味方になってやると決めた。
「説明するより、見てもらった方が早いと思います。お付き合いいただけますか、官房長」




*****




 一年で最も気候が爽やかな季節、多くの職員たちは研究所の中庭でランチを楽しむ。暖かな日差しと涼やかな微風。美味しい食事と楽しいお喋り。それは平和で幸福な、日常の風景だった。
 その一翼で、二人の男性がコーヒーを飲んでいた。大きな樹の生い茂った枝葉の陰、芝生の上に胡坐をかいて楽しげに談笑している。

 彼らからは死角になっている別の樹木の幹に身を隠し、岡部は「どうです?」と尋ねた。それを無視して、小野田はだんまりを決め込む。
 岡部が自分に何を確認して欲しかったのか、合点が行った。恋人と二人でいるとき、薪がどんな顔をしているのか、自分に見せたかったのだ。

「あの人のあんな穏やかな顔、なかなか見られるもんじゃありませんよ」
 岡部に補足説明されて、小野田の不満は余計煽られる。言われなくたって、見れば分かる。薪は心の底から満ち足りた顔をしていて、それはポットから注いだコーヒーを彼に差し出している背の高い男の存在ゆえだ。
「俺は、事件当時の薪さんを知ってますからね。壊れかけてたあの人が、あんなに楽しげに笑えるようになって。それだけでも青木の努力は評価されるべきだと思いますがね」
「薪くんが立ち直ったのは青木くんの手柄だって言うのかい?」
「青木が寄与した部分は大きいです。俺では、とてもあそこまで踏み込めなかった」
「いくら何でも踏み込み過ぎだろ。身体の中にまで入っちゃうなんて」
 それには苦笑いを返して、岡部は直ぐに真面目な顔になった。

「あそこまでの笑顔を見せてくれるようになったのは、つい最近です。薪さんは、やっと立ち上がったばかりなんです。今のあの人から青木を奪うことが、何を意味するか」
 岡部は、薪のことを心から案じている。真剣に、それは真剣に、彼の幸福を願っている。官房長の小野田に逆らうほどの愚直さで。

「岡部くんの言いたいことは分かったよ」
 何処にもぶつけようのない怒りを腹の内に抱いて、小野田は静かに言った。なにが頭に来るって、自分の後継者にと望んで心血注いできた掌中の珠が、あんな青二才に骨抜きになって新婚気分で浮かれている現実、それを自分が心のどこかで嬉しく感じている事実だ。

 幸せそうな薪の顔。屈託なく笑う、それは未だ罪を知らない昔日の彼のようで。
 小野田では、薪にあんな顔をさせることはできない。それは上司と言う立場上、仕方のないことではあったが、相手があのつまらない男だと思うと妙に悔しい。

 舌打ちしたくなる感情に既視感を覚えて、小野田はもう一つの不愉快なことを思い出す。
 先日、長女の美和子に付き合っている男がいると聞いて、調査部に調べさせた。同じ大学の同級生だということだったが、成績も中の下、特筆すべき才覚もない。取るに足らない男だった。
 もちろん、娘には別れるように諭した。彼女には小野田家の長女としての責務がある。小野田家に相応しい婿を取り、家を盛り立てていくという使命が。
 美和子は悲しそうな顔をしたが、小野田の言葉に従った。当たり前だ。恋愛は自由だ、などと寝言をほざくような娘には育てていない。
 ただ、完全に切れたかどうかは怪しいものだ。何と言っても自分の娘だ。彼女の嘘とポーカーフェイスは、実の親でさえ見破るのが難しい。
 小野田は娘と薪を結婚させたいとまで思っていたのに、二人して自分を裏切るような真似をして。

「確かに、いい顔してる。鈴木君が生きてた頃を思い出すよ。でもねえ」
 二人が真剣に想い合っていることは解っている。彼らには個別に面談したのだ。簡単には引き離せそうになかった。だから小野田も、一旦は矛を収めたのだ。
「岡部くんなら分かるだろ? こんなことがマスコミに流れでもしたら、薪くんがどんな目に遭うか。薪くんを大切に想っているなら、身を引くのが本当の愛情だと思わないかい?」
「その辺はあいつも分かってますよ。充分、注意しているはずです」
 しばらく様子を見てみろと、ロンドン赴任中の悪友にも言われた。でも、どうにもじっとしていられなくて、事情を知っていそうな岡部に相談してみたのだ。彼の良識に賭けた。結果は見事に裏切られたが。
 いや、最大の裏切り者は別にいる。自分自身という、最低のコウモリが。

「ぼくがあの二人の関係に気付いたのは、第九の仮眠室でキスしてたのを目撃したからなんだけど」
「…………青木をシメときます」
「頼んだよ」
 あのキスは薪から迫ったものだったが、敢えてそこには言及せず、小野田は薄く笑った。あんなに不愉快な思いをしたのだ、これくらいの腹いせはさせてもらおう。

「薪くんには執行猶予を与えてあるんだ」
 三白眼をパチパチさせて、岡部が小野田を見る。
「約束どおり、待つことにするよ。彼が自分で歩き出せる力を取り戻し、自分から青木くんとの仲を清算して、ぼくのところに帰ってくるのをね」
 あんまり長く待つ気もないけど、と心の中で言い添えて、小野田は踵を返した。背後で岡部が、黙って頭を下げる気配。

 警察庁に向かう小野田の脳裏には、遠目に見た薪の暖かい笑顔が、美空の煌きのように揺れていた。






テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(2)

 こんにちは~。

 何日か前から過去作品を読んでくださってる方々、毎日拍手をありがとうございます。
 おかげさまで16000を超えました。 ありがとうございます。

 みなさまの温かいお気持ちに支えられて、しづはPCに向かっております。
 感謝の気持ちを込めまして、2番目のプロローグです。
 ええ、恩を仇で返すとはこのことで……すみません……。 

 




タイムリミット(2)



          プロローグ2 ~2066.秋 カウントダウン~





 残暑と言うにはあまりにも強い日差しが肌を焼く、文月も半ばを過ぎたある日のこと。薪は所長の田城に呼び出され、流麗な飾り台紙に挟まった若い女性の写真を手渡された。
 中身を見なくても、薪にはそれが何だか一目でわかった。見合い写真だ。
 この世には、他人の結婚を世話したがる人種がいる。彼らの気持ちは、薪にはさっぱり分からない。どうして彼らは人の人生を左右するような重大時に軽々しく口が出せるのだろう。誰かの人生を変えるきっかけを自分が生み出すかもしれないことに、懼れはないのだろうか。対象者の人生を背負う気もないくせに、無責任に出会いを押し付けてくる彼らを、薪はどうしても好きになれなかった。

「総務部長のお嬢さんなんだがね。先日、部長を訪ねてきたときに見かけて、どうやら一目惚れらしい。部長の方から是非にとのことでね」
「縁談ならお断りします」
「いや、あのね薪くん」
 二つ折りの台紙を開こうともせず、薪は冷ややかに切り捨てた。田城には普段から世話になっているし、特に追加予算の認可の件では感謝している。でも、それとこれとは別だ。

「以前にも申し上げたはずです。僕は誰とも結婚する気は」
「君じゃなくて、青木くんにだよ」
「もっとお断りします!」
 思わず反射的に返してしまった。だって、予期していなかった。どうして青木の見合いの件で自分が呼び出されるのだ。
 ぽかんと口を開けて薪を見ている上司の前で、薪は必死に平静な顔を取り繕う。恋人の見合い話なんてぶち壊して当然だけど、それをここで暴露するわけにはいかない。

「いえその……ほ、本人に訊いてみませんと」
「もちろん話したよ。でも彼、聞く耳持たなくてねえ。青木くん、普段はあれだけ気配りのできる男なのに。写真も見てくれないどころか、話だけでも物凄く迷惑そうな顔されたよ」
 ソファを勧められて、座面に腰を落ち着けながら、薪は緩みそうになる頬を意識して緊張させる。
 田城には悪いが、青木が迷惑がるのは当然だ。彼には意中の人がいるのだから。

「三好くんに振られたこと、かなり引きずってるみたいだねえ」
 青木の想い人は、法一の三好雪子。世間的にはそういうことになっている。真実を知る者は、片手ほどしかいないはずだ。
 雪子の結婚式から、3ヶ月が過ぎていた。
 結婚相手が相手だけに心配は尽きないが、今のところは平和にやっているようだ。薪としてはあんな不誠実な男とは一刻も早く別れて欲しいのだが、肝心の雪子はとても幸せそうで、薪も迂闊には手が出せないでいる。

「三好くんも酷いよね。青木くんと竹内くん、両天秤に掛けて顔がいい方取るなんて」
「田城さんまでそんな噂を信じてるんですか? 雪子さんがそんなこと、するわけないじゃないですか」
 竹内のファンクラブから相当の悪意を持って発信されたその流言は、薪の耳にも届いていた。大切な親友の風聞に薪は腹を立てたが、しかし当の本人は『薪くんの悪女伝説に比べたら何てことないわ』とケラケラ笑って……男の自分が悪女伝説って、いったいどんな噂になってるんだか、もう怖くて質すこともできない。

「雪子さんは素晴らしい女性ですよ。誠実で、やさしい人です」
 雪子が沈黙を守っているのは自分たちのためだと、薪には分かっている。その噂に心を痛めないはずはないのに、竹内の耳に入ったら自分の立場も悪くなるだろうに、それでも青木との間には何もなかったと彼女が誰にも言わないのは、薪が彼と恋人関係にある事実を隠すため。人の妻になってからも、彼女は薪を助けてくれているのだ。

「そうか、君たちは長年の親友だったね。いや、悪かった」
 薪の剣幕に押されたように、田城は流言に乗った自身の軽挙を謝罪し、改めて薪に青木を説得してくれるように頼んできた。
「青木くんが他の女性と付き合うようになれば、彼女の不名誉な噂も下火になると思うんだがね」
 雪子のためと言われては断ることもできず、薪は写真を受け取ってしまった。彼女の悪評は、元はと言えば自分たちのせいなのだ。

「まあ、見合いしたからと言って必ず結婚しなきゃいけない訳でもないから。一度会うだけでも、って薪くんから説得してみて」
「わかりました。青木は今日は非番ですから、明日にでも」
「そんなに急がなくていいから。週末にでも、一献傾けながらゆっくり話してみてよ。よろしく頼んだよ」
 そう言われて所長室から追い出されて、薪は大きなため息を吐いた。押し付けられた写真と薪を信じて疑わない田城の実直に、ずん、と心が重くなる。

 何年か前にも、薪は青木に見合いを勧めたことがある。
 青木の叔父がセッティングしたとかで、相手は青木と同郷の女性だった。薪は青木の母親に「必ず見合いに行かせる」と電話で約束し、彼に休暇を与え、見合いをするように命令した。ところが青木は薪の命令を無視して自ら母親に電話を入れ、好きな人がいるからと、直球で見合いを断ってしまった。
 きっと今度も同じだ。だったら言わない方がいい。

 所長室から第九へ帰る僅かな間に、薪の気持ちは口を噤む方向へと向かっていた。
 青木が首を横に振るのは、火を見るよりも明らかだ。結果が分かっているのだから、言うだけ無駄だ。写真を見せる必要もないだろう。田城には「説得したが、青木の気持ちは変わらなかった」と報告すればいい。
 嘘じゃない、僕が何を言おうと青木の気持ちは変わらない。それは事実なのだから、嘘を吐いたことにはならないはずだ。

 卑劣な理論武装を固めて、薪は拳を握りしめる。
 何が正しいかなんて、もうわからない。

 雪子が結婚したことで、青木と過ごすたび頭の片隅に浮かんでいた憂い顔のひとつは減った。それだけでも薪の心は軽くなったのだ。
 軽くなった心は浮遊して、彼の元へと自然に流れた。これ以上嵩を増やすことは危険だと分かっていた、後戻りできなくなると恐れていた。しかし、その流れを堰き止めることは薪にはできなかった。日に日に流量と勢いを増していくそれに恐れ戦きながら、有効な手立てを講じるどころか思考すらまともにできず、自分が流されていくのを感じていた。

「お帰りなさい、薪さん。所長の話って何だったんですか?」
 定時をとうに過ぎているのに、第九には部下たちが全員残って薪の帰りを待っていた。田城からの呼び出しは仕事関係ではないと言ってあったのに、暇な連中だ。
「おまえらには関係ない」
「もしかして、また縁談ですか?」
 小池の核心を付いた指摘に、薪は眉をひそめる。仕事の時にもこれくらいの鋭さを見せて欲しいものだ。
「それ、お見合い写真ですか? 見せてくださいよ」
 薪の沈黙を肯定と取って、曽我が無邪気に手を伸ばす。脊髄反射もかくやの勢いで、薪は右手に抱えた茶封筒を彼の手から遠ざけた。
「詮索好きも大概にしろ。プライバシーの侵害だぞ」

 薪が叱ると、曽我を初めとした全員が眼を点にして、
「どうしたんですか? 薪さんいつも、『僕の代わりに誰か行って来い』って見合い写真を放り投げてきたじゃないですか」
 ……そうだっけ?
「それから『縁談をスムーズに断るために、この女の過去を洗い出せ』って」
 それは違法だよね? 警察官がやっていいことじゃないよね?
「どうしても汚点が見つからないときは、宇野が彼女のイケナイ写真を捏造して」
 犯罪だよね!?

「ちょっと待て! 確かにその考えは一瞬頭を掠めたような気もするけれど、警察官の良識に懸けて、それを実行に移したことはなかったと」
「それはほら、実行に移す前に、薪さんの悪女伝説を聞いた相手の方から100%断ってきたからですよ」
 だからどんな悪女伝説なんだよっ!!

 本人の与り知らぬところで想像を絶するほどに成長する、噂という怪物に助けられたり落とされたり。迷惑極まりない。これも無責任に他人の噂話に興じる人間が多すぎる証拠だ。無駄口叩く暇があったら仕事しろ、給料ドロボーめ。

 破談に向けての作戦会議を始めようとしない薪に、予想を違えたか、と部下たちは思う。定時過ぎにプライベートの用事で呼び出されて、薄いA4の茶封筒を抱えて帰ってきたからてっきりそうだと思ったが、早とちりだったのか。
「とにかく、おまえらの手は必要ない。さっさと帰れ」
 薪が厳しく言い渡すと、部下たちは顔を見合わせて、「じゃあお先に失礼します」と次々に帰って行った。最後に残った副室長の岡部が「送りましょうか?」と声を掛けてくれたが、薪は仕事があると言って断った。どうしても今日やらなければいけない仕事ではなかったが、家に帰る気にはなれなかった。

 モニタールームの明かりが消され、研究室全体が静かになると、普段は気にならないパソコンのファンが回る音さえ耳につく。そんなものにまで苛立ちを覚える自分を発見して、呆れ気分でパソコンの電源を落とすと、自分以外は何も動かなくなった部屋の静寂に、薪の耳は痛みを覚える。
 ようよう諦めて薪は、田城からの預かりものを手に取り、中を確認してみた。
 華やかなパーティドレス姿の、愛くるしい女性だった。写真で見る分には中肉中背、童顔だが胸は大きい。年下の可愛い娘がタイプの男には好かれそうだ。

 写真を見て、薪は想像する。
 この女性の隣に、青木を立たせてみたら。彼の大きな手に、彼女の柔らかそうな肩を抱かせてみたら。なんてしっくりくるんだろう。自分と青木では、こうはいかない。年は離れているし、男同士だし、違和感だらけだ。
 この世は男と女で成り立っているのだ。男女が対になった姿が絵になるのは当然だ。それが自然なんだ。

 じりっと胸が焼ける。
 嫉妬した。
 会ったこともない、名前も知らないこの女性に。

 羨ましい。雌雄の蝶が戯れるように、自然に青木の傍にいられる彼女が。誰もが微笑ましい眼で見てくれる、その約束された幸福感が。なにより、彼に安定をもたらすことのできる彼女の性そのものが、妬ましかった。
 自分が夢見ることすらできない未来を、彼女は彼に与えることができる。自分では未来どころか、現在のことだって。

 青木は今日は非番で、今頃は家で薪からの電話を待っているはずだ。時計と電話を代わる代わる見ながら、今か今かと恋人からの誘いを待っている。
 自分に有益な情報を握り潰そうとしている恋人のことを疑いもせず――――― そうだ、これは青木にとって貴重な情報だ。いくら頑張っても、自分たちは一生を共にすることはできないのだから。

 パソコンをオフにして、写真を片付けて、もう薪がすべきことはこの部屋には何ひとつ残っていないのに、彼は席を立とうとはしなかった。あまつさえ、仕事中には滅多につかない頬杖までついて。今夜は此処に籠城を決めたというように、肩の力を抜いて背中を丸め、沈痛な面持ちで眼を閉じた。

 忘れていたわけじゃない。僕たちは期限付きの恋人同士。
 執行猶予の最長期限は5年、それを限度として関係は解消する。小野田にそう約束したのは、他でもない自分だ。

 でも。
 あの時と今では事情が違う。あの頃は、青木が自分をこんなに長く愛してくれるなんて思わなかった。夢に浮かされたような時間が過ぎれば、彼は自然に自分から離れていくだろうと考えていた。決してネガティブになっていたわけではなく、過去の経験から冷静に未来を予見しただけだ。

 どれだけ愛し合っても、男同士には未来がない。何も生み出せないし、自分たち以外誰一人として喜ばない。たとえ青木と自分の間に最上級の愛を育む事ができたとしても、それを周りに広げることはできない。
 愛というのは、広がっていくものだ。
 愛し合うふたりがいれば、それを微笑ましく思う家族や友人がいて、ふたりの間で毎日生まれ続ける愛は彼らに伝播していく。愛しい子供に、父母に、大切な人々に。ふたりから愛情のお裾分けをもらった彼らはそれを更に周囲に分け与え、数多くの人々を幸せに導く。だから愛は素晴らしいのだ。

 だけど、僕たちの愛は閉塞する。
 秘密厳守の閉じられた世界。その狭い閉鎖空間の隅っこで、ふたりぼっちでコソコソ愛し合って、それが何になる。青木の未来に、一片の光すら差せないではないか。

 頬杖をついた右手に濡れた感触があって、薪は肘を机上から外した。つっと顎に流れる一筋の涙。この年になっても泣き虫のクセが直らない自分にガッカリだ。

 青木の未来を幸多きものに。たくさんの祝福と笑顔の真ん中に、彼の人生を据えてやりたい。
 何よりも重視すべきその一点に於いて、僕は彼女に勝てない。青木と4年も関係を持っている自分が、彼が未だ顔も知らない女性に負けるのだ。
 青木は子供好きだし、自分の子供も欲しいだろう。親思いだから、親の喜ぶ顔も見たいだろう。さらに総務部長の娘なら、彼の将来にどれ程の光を投げかけてくれることか。

「……潮時か」
 ひっそりと呟いて、薪は涙を止める努力を放棄する。水滴が、ぱたぱたと机面に不恰好な円を作る。いくつかの円は融合してアメーバーのような不定形体になる。
 アメーバーは口々に、嫌だ嫌だとダダを捏ねている。彼に捨てられるのは嫌だと、身勝手なことを口走る。

 手のひらでエゴの集合体を拭って、薪は自分を叱咤する。
 なにがそんなに悲しいんだ。
 おまえの大切な青木一行に訪れた、千載一遇のチャンスだぞ。おまえが尻込みしてどうする。自分の目的を、もう一度思い出してみろ。
 彼を幸せにしたい。そのためには何でもする、彼を本当に愛しているなら、何でもできるはずだろう。自分の気持ちを殺すことくらい、今までさんざんやってきたはずだ。

 そう言い聞かせるのに、涙は止まらない。
 自分も弱くなったものだ。青木に別れを告げたことは何度かある。悉く失敗に終わったものの、自分から別れを切り出すまではできたのだ。以前はできたはず、それが今はどうにも為せそうになくて、薪は自分の惰弱に唾を吐く。

 だって、年々、好きになる。
 付き合いが長くなればなるほど、好きの度合いが大きくなる。離れなければ、と思うが先に、絶対に離れたくないと叫ぶ自分がいる。下手したらこれ、青木の方から別れてくださいって言われたら、泣いて取り縋っちゃうんじゃないか。

 これ以上好きになれない、今までに何度もそう思った。でも。
 今日の好きは昨日の好きを易々と超えて、きっと明日の好きはもっと上を行く。天井知らずに育った想いはやがて僕の自我を潰し、青木に重荷となってのしかかる。その一歩手前まで来ている。

 僕が、青木の未来を潰す。それだけは、あってはいけないことだ。

 ぐいっと手の甲で涙を拭く。肺の中の空気を全部吐き出して、気持ちを落ち着ける。
 携帯電話を取り出して、いつものようにメールを打つ。「帰宅時間 20:00」。たったこれだけの文面に、彼が飛び上がって喜ぶことを薪は知っている。
 満面に笑みを浮かべ、自分の所にやって来るであろう彼。彼の顔が悲哀に歪む様を見たくはないけれど。
 でも、早い方がいい。延ばせば延ばすほど辛くなる。夜を一緒に過ごしたら、明日の朝は今よりもっと彼を好きになっているに決まってるんだから。

 ぱたりとフラップを閉じ、色気のない茶封筒を右手に抱える。これが、今夜の自分の武器になる。効果的な使い方を幾通りかシミュレーションして、そのどれもが不成功に終わる気がして、だけどこれは完遂させるべきミッション。
 いつの間にか残り半年に迫った約束の日に向けて、カウントダウンを始めなければ。

 正門を出ると、きれいな円形の月が見えた。
 青白く、小さく、美しく。
 それは薪の背中を押すように、いつでも薪に勇気をくれる。何故か分からないけれど、薪は昔からこうなのだ。月の光を浴びると気持ちが落ち着くというか、頭の中が整理されるというか。
 大きな自然の理の中、人間の憂いなど些末なことに過ぎないと、その永遠とも思える雄大な営みが、卑屈に萎縮した自分の世界を広げてくれる。酷暑を引きずる昼間とは打って変わった夜の清涼な空気に包まれれば、この痛みも克服できるような気分になって、薪はそのしなやかな背筋を伸ばした。

 なのに、その直後。
 彼は悲しいくらいに人間で、それもどうしようもなく卑小な存在であることを、残酷にも思い知らされる。

「すみません、待ちきれなくて。お迎えに来ちゃいました」
 第九の正門から歩いて2分、科学警察研究所と刻まれた門の影から現れた長身に、薪は一瞬棒立ちになる。予期せぬ出会いは薪の胸を高鳴らせ、やっと固まりかけた決意をあっけなく突き崩した。
「お荷物、お持ちします」
 自分が今なにを壊したのか、青木は知る由もない。薪から鞄を受け取って、ニコニコと悪意のない笑いを振りまきながら、ただただ恋人に会えた喜びを全身から溢れさせている。
「それは?」
 薪が右手に抱えた茶封筒に目を留めて、青木は無邪気に尋ねる。薪は一筋の乱れもなく、平然と応えを返した。
「預かりものだ。おまえには関係ない」

 答えたら、腹の底が氷を飲み込んだみたいに冷たくなった。
 嘘だ。大有りだ。
 本来なら青木にこそ関係するもので、自分には口を出す権利もないものじゃないか。

「そんなことより、夕飯、なに食いたい?」
「今日は魚が食べたいです」
「じゃあ、季節から言って秋刀魚かな」
 意識して話題を逸らそうとする、なんだ、この醜い生き物は。こんな卑怯なことをしてまで、彼を自分につなぎとめておきたいのか。彼の愛を失うのがそんなに怖いのか。彼の幸せと自分の欲望を天秤に掛けて、それが後者に傾くからと、どの面下げて言えるんだ、このエゴイストが。呪われろ。

「薪さん? 眼が赤いような?」
「モニターの見過ぎでな」
 濁った、薄汚れた眼をしているに違いない。眼は心の鏡とか言うし、内面の醜悪さが滲み出てしまっているのだろう。
 汚い自分を彼に見られるのが耐え難くて、薪はふいと横を向く。右隣の青木を見ないように、彼に自分の真実を気付かれないように、左手にあるプリペットの生垣に注意を向ける振りをして、ひたすらに己を匿う。

「だから休み取るの嫌なんですよね。薪さん、オレがいないとぶっ続けでモニター見ちゃうから」
「おまえがいても、僕の職務内容は変わらんが」
「そんなことないですよ。オレ、ちゃんと2時間にいっぺんは薪さんの様子見に行きますもん」
「様子見? 嫌がらせされてるのかと思ってた」
「ええ~……」
 青木の不満顔に、クスクス笑える自分に、吐き気がした。

 結局、薪は青木に田城からの預かり物を渡さなかった。茶封筒の中身は一度も青木の目に触れることなく、発信者に返されることになった。
 
 その晩、薪が握り潰したのは青木の縁談だけではなかった。薪がずっと守ってきた大切なもの、自分を守って死んだ親友が最期まで守ろうとしてくれたもの、それを自分は己が手で潰してしまったのだと、だからこんなことになったのだと。
 気付けたのは、ふたりの恋人関係が解消されて2ヵ月後。薪の結婚式のひと月前のことだった。







*****


 こちらは、『ゲスト』というSSに書いてあった「青木さんの縁談を薪さんが潰した話」です。
 薪さんが青木さんに見合いを勧める話は、『運命のひと』の中のエピソードです。
 


 

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(3)

 ここから本編です。

 この話、2年前の秋に書いたんですけど、読み直したら展開が唐突すぎる気がして、プロローグを書き足しました。 
 なので、前回までのプロローグは現在の文章で、ここから2年前の文章なんです。 読みにくかったらすみません。 
 え、書き直せって? いやー、本編70ページはちょっと~。(^^;
 は? 内容的にヒドイから書き直せって? 
 ううーん……。(@@)






タイムリミット(3)





 華やかなゴブラン織りの絨毯の上に胡坐をかき、薪は書類をめくっている。指先を彩る桜色の爪は、磨きあげられたピンクオパールのように奥ゆかしい輝きを放っている。
 豪華な絨毯に相応しく、高価な調度品で設えられた部屋。女性らしいピンク系のクッションやカーテン。壁に掛けられた明るい風景画。サイドボードには大きな花瓶に生けられた蘭の花が、高貴な香りを振りまいている。

 薪はきちんと髪を撫でつけて、正装に近い服装をしている。チャコールグレイのスーツはタリア・デルフィノ。ブルガリのネクタイは少し派手目のシルバーを。カフスとタイピンは、近い将来、義父となるひとからもらったエメラルド。
 薪の隣には、ソファに座った美しい女性の姿がある。
 ドレスアップした彼女の年のころは、30歳前後。いくらか目立ち始めたお腹を、フレアーのたくさん付いたワンピースで、上手く隠している。
 彼女の咎めるような視線に気付いて、薪はふと手を止めた。
「すみません。これ、明日の朝使うもので」
 弁解がましい薪の言葉を、彼女は笑って許してくれる。その笑顔は薪のものではないけれど、自分はたしかにこの女性に救われたのだ、と薪は思った。

 青木と別れてから、2ヶ月が過ぎた。
 悲しみのあまり死ぬこともなく、涙の海に溺れることも無く。薪は穏やかに毎日を過ごしている。
 付き合っていた頃と、薪自身は何も変わらない。相変わらず、第九と官房室の掛け持ちで忙殺される日々だ。が、仕事の方はあと半年もすれば落ち着くだろう。警視監の試験を受けて結果を出したら、官房室に完全異動する予定だ。

 変化のない薪の周囲で、変わっていくものがひとつ。
 婚約者の中で息づく、新しい生命。日を追うごとに成長し、彼女の子宮を少しずつ広げていく。その命を、愛おしいと思う。
 これは、自分の子だ。

「支度できた?」
 ノックの音と共に、声が聞こえた。
 薪の耳に親しい、聞き慣れた男の声。職場でも毎日聞いている。薪にはとてもやさしいが、怒ると背筋が凍るほど怖い直属の上司。そして2ヵ月後には、薪の義父になる。
「はい、お父様。行きましょう、剛さん」
「はい」
 書類を鞄に入れて、薪は立ち上がった。すっと右手を婚約者に差し出し、彼女の手を取る。
 開いたドアから姿を現した彼女の父親が、目を細めて仲睦まじいふたりの様子を見ている。嬉しそうなその表情に、薪の心も温かくなる。

「今日は薪くんが次席参事官になる前祝いだからね。きみが行きたがってた『仙岳』だよ」
 日本料理の頂点を何年も独占している赤坂の料亭の名前を出して、彼はにっこりと薪に笑いかけた。薪も心からの笑顔を返す。
「お父様は剛さんに甘いのね。わたしがチボーに行きたいって言ったときには、忙しい忙しいって。結局、連れて行ってもらってないわ」
「薪くんに連れて行ってもらいなさい。もう、美和子は薪くんに預けたんだから」
「美和子さん。僕でよかったら」
 仲の良い父娘の会話に、娘婿が控えめに口を挟む。薪は自分の立場をわきまえている。
「だれがお金払うのよ。一食、いくらするか知ってるの?」
「……すいません、小野田さん。お給料、前借りさせてください」
「ほーら。やっぱりお父様が一緒じゃなきゃ、ダメよ」
 冗談を言い合って、カラカラと笑う。美和子は明るい女性だ。

 官房長付の運転手が操る黒いレクサスは、四方山話の間に料亭の駐車場に滑り込む。凝った作りの日本庭園から奥の間に通されて、薪は美和子と並んで腰を下ろした。
 久しぶりに吸いこむ、イグサの香り。三ヶ月前に嗅いだ同じ香りを思い出しそうになって、薪は慌てて心に蓋をする。思い出を捨てる気はないが、ここではまずい。

 上品な着物を着た給仕係が、一品ずつ料理を運んでくる。食前酒と前菜から始まる、日本一の名に恥じない見事な日本料理の王道を味わいつつ、冷たい吟醸酒を傾ける。小野田は薪の好みの酒まで用意してくれていて、薪が楽しい一時を過ごせるように図らってくれていた。小野田はいつも薪にはやさしいのだ。
「薪くん。憧れの仙岳はどう?」
 美和子が化粧室へ立つ間、小野田は薪にこっそりと囁く。
「すごく美味しいです。さすが日本一ですね」
 言葉のとおり、薪は料理を残さずに平らげた。昔はもっと小食だったのだが、何年か共に過ごした誰かの影響で、胃袋も大きくなったらしい。

「最近、痩せたみたいだったから、ちょっと心配してたんだけど。大丈夫のようだね」
「いいえ。痩せてないですよ。元からこんなものです」
「そう?」
「いつも気に掛けていただいて。小野田さんには感謝しています」
 軽く小首を傾げるようにして自分を慈しみの眼で見る上司に、薪は正直に心の内を吐露する。本当に、小野田には感謝しているのだ。
「プライベートのときは、『お父さん』て呼んでくれない?」
「はい。お義父さん」
 薪が照れを含んだ口調で彼を呼ぶと、小野田は嬉しそうに笑った。

 自分は幸せだ、と薪は思った。
 美しい妻に優しい義父母。可愛い義妹がふたり、いっぺんにできた。
 再来月からは、小野田の家に住むことになる。薪が昔から、ずっと欲しかった家族。それがようやく手に入る。遠回りしたけれど、ここに辿り着けてよかった。

「ごちそうさまでした」
 マンションの前に停まった車の中で、小野田に頭を下げる。運転手にも礼を言って、薪は車から降りた。
「どういたしまして。ぼくも美和子も、とても楽しかったよ」
微笑み合う3人。残業を強いられた運転手まで、その雰囲気に釣られたかのように微笑んでいる。
「悪いけど、明日の会議に使う資料。用意しておいてね」
「はい」
 それは既に作成済みだ。右手に抱えた鞄の中に入っている。ここで渡してもいいが、今夜は小野田にとっても貴重なオフだ。明日の朝にしよう。

 おやすみなさい、と挨拶をして、薪はエントランスのドアをくぐった。ちょうど向かいから歩いてきた管理人が、薪に会釈する。
「お帰りなさい。こりゃまた、えらくめかし込んで。デートですか?それにしちゃ帰りがお早いですね」
「義父と3人で食事だったんです」
「ああ。結婚されるんでしたね。おめでとうございます」
「ありがとう」
 薪は階段を上がって、自分の部屋に入った。
 真っ暗な、寒々とした部屋。誰もいない部屋の静寂に心が冷えるのも、あとしばらくの我慢だ。
 2ヵ月後、薪が帰るところはここではない。妻とその家族が待つ、あの豪勢な屋敷だ。

 ドアを閉めて靴を脱ぐと、薪はサニタリーに直行した。トイレのドアを開けて、スーツの汚れも気にせずに膝を折る。背中を丸めて小さく口を開けると、まるでそれが自然の摂理だというように、胃の中身が全部出てきた。
 恒常的に食事を吐くようになって、しばらく経つ。
 食事をして1時間もすると、いつも耐え難い吐き気に襲われる。この行為も慣れてくると、コツがつかめるというか、胃の弁と食道が自然に動くというか。端から見るほどの苦痛はない。

 しかしその日は、料亭で食べたものがすべて汚物になっても、吐き気は治まらなかった。こうなると、少し苦労する。胃液を吐くのは苦しいし、みっともなくゲエゲエ呻かないと出てこない。
 こみ上げるままに、嘔吐を繰り返す。自分の耳に響くうめき声が、だんだん泣き声になってくるのが聞くに堪えないくらい情けない。
 やっと吐き気が治まって、薪は汚れた口をトイレットペーパーでぬぐい、汚物を流す。そのままトイレの床にごろりと横になって、胸のつかえが取れるのを待つ。
 ブランドのスーツもネクタイも、汚物まみれだ。それに、この臭い。また後始末が大変だ、と顔を横に向けると、涙が下方につつっと流れ落ちた。耳を伝って、亜麻色の髪に吸い込まれていく。

 薪は自分のくちびるが、何かを言っているのに気付く。
 よく、聞こえない。こめかみを流れる血液の音がうるさくて、言葉が聞き取れない。

「……」
 だれかの名前。薪の胸を抉るように痛ませる、ひとの名前。

「…………会いたい」

 最後の一言だけは、はっきりと聞こえた。
 しかし、それが自分の声なのか、あるいは薪が呼んだ誰かの声による幻聴だったのか。
 薪には判断がつかなかった。





*****


 やっぱり書き直さなきゃダメ?(笑)


 

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(4)

 こんにちは。

 更新、空いちゃいました。 すみませんでした。 今日から再開します。


 3回目にして早くも鍵コメ率100%になっている『タイムリミット』ですが。
 大丈夫ですから、どうかご安心くださいね、って何度目だろう、このセリフ。 そしてこれから何回言うことになるんだろう。(笑)




タイムリミット(4)



続きを読む

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(5)

 言い忘れましたけど、この話、R5本立てなんですよね。(^^;
 しかも2年前のRだから、グロイんだ、これが。 気持ち悪くなったらごめんなさい~~。





タイムリミット(5)





続きを読む

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(6)

 高校生の甥っ子に、トモコレのソフトを借りてたんですけど。

 ゲームを完全にクリアしたので(目的のカップルを全員結婚させた)甥っ子にソフトを返そうとしましたらね、なんと受け取りを拒否されたのですよ。
 その理由が、
「そんな腐食したゲーム、いらねぇ」
 …………腐食ってどういう意味よーー!!! 薪さん2人と青木さんと鈴木さんを作って結婚させたのがそんなに気に入らないのかーー!? 

「お姉ちゃん、遊び方間違ってる」って小6の姪にも言われましたが。 
 最近の子供って生意気ですよね?(笑)

 




タイムリミット(6)





 最後にどうしても寄りたい、と薪が言い出したのは、青木のアパートの正面にある公園だった。
 時刻は20時半を回ったところ。閉園時間まで、あと15分ほどだ。

 何か目的があるらしく、薪は真っ直ぐに歩いていく。桜並木の通路を抜けて、見事な枝振りの巨木の前で、ぴたりと止まった。
 この桜の樹には、特別な思い入れがある。
 青木が薪に恋をしたのもこの場所だし、付き合い始めるときに想いを告げたのも此処だ。この桜は、もしかしたら自分たちのことを覚えているかもしれない。

「まだ咲いてないのか」
 がっかりしたように言うが、今は3月だ。今年の冬は寒かったから桜前線も遅れ気味で、東京の開花は4月半ばと予想されていた。
「最後に、見たかったな……」
「あと3週間もすれば見られますよ」
「今日、見たかったんだ」
 また、無茶を言う。
 薪はこうして絶対に実現不可能なことを言っては、青木が困るのを見て楽しむ悪いクセがある。旅行中はずっと素直でいい子だったのに、帰ってきたら途端に意地悪になるなんて、いかにも薪らしいというか。

「どうしても、見たかったんだ」
「ここの桜が咲いたら、真っ先に薪さんに知らせますから」
 執拗に繰り返す薪を、子供をあやすような口調で青木が宥める。いつもの言葉遊び。
「そしたら、一緒に見に来ましょう」
「…………そうだな」
 薪が引き下がった。
 珍しい。いつもなら、もう二言三言、絡んでくるのに。

 薪は、きゅ、と口元を引き締めて、蕾すら見えない桜を見上げた。その横顔は何だかとても寂しそうで、青木は少し切なくなる。これは、祭りの後の寂しさというやつだ。

「青木。あのな」
「はい?」
 つややかなくちびるが開こうとしたとき、突然、辺りは闇に包まれた。
 薪の瞳がうっすらと曇ったような気がしたが、瞬時に降りた闇に遮られて、何も見えない。あいにく、新月の晩で他に明かりはなく、目が慣れるまで動くこともできない。
「時間みたいですね。帰りましょうか」
 9時になると、この公園の明かりは落とされる。エコロジーが叫ばれる時代、今は殆どの公共施設でこのシステムが取られている。転倒防止のために、申し訳程度にフットランプが付いているが、その程度の光源では互いの顔は見えない。
「えっと、なんでしたっけ? 何か言いかけてましたよね」

 暗闇の中で、何かやわらかいものが青木の唇に押し当てられた。
 それを薪のくちびるだと認識するより早く、薪は青木から離れてしまい、抱きしめようとした青木の手は行き場を失う。

「帰る」

 出口に向かって歩き出す。暗さに目が慣れてきて、先刻よりは周りの風景が見えるようになった。
 目の悪い青木には少し早すぎるスピードで、薪は前を歩いていく。薪の背中は厚手のコートを着ていてさえ、細くて頼りなくて、闇の中に消えてしまいそうな錯覚を覚える。

「送らなくていい」

 公園の出口で、薪はそう言った。
 いつだって仕事が一番の薪は、翌日仕事があれば必ずそうする。特別な日でもなければ青木が薪の家に泊ることを許可しないし、平日のデートは10時が門限だ。青木は1分でも長く薪と一緒にいたいから、家まで送りたいし、送り狼にもなりたいのだが、薪がそれを許してくれたことはない。

「僕は、大丈夫だから」

 暗がりで、薪の表情はよく見えない。声の調子もいつもと変わらない。

「じゃあ気をつけて。おやすみなさい」
「……………さよなら」

 遠くに見える街灯がぼんやりと照らす歩道を、早足で遠ざかっていく後姿を見送りつつ、青木は何となく違和感を感じていた。それは重大なものではなく、捜査中に脳内で鳴り響くアラームに比べたらとても小さいものだったので、さして気にも留めなかった。何よりも、夢のように楽しかった3日間の終焉にケチをつけたくない、という気持ちが働いて、青木にそれを追及させることを阻んだ。
 それでも、捜査官の本能が青木に警鐘を鳴らしたのだろう。アパートのドアに手を掛けたとき、青木は突然違和感の正体に思い当たった。
 薪の口から、ありふれた別れの挨拶を聞いたのは、それが初めてだった。




*****


 このお話とはぜんぜん関係ないんですけど、新しいお話を書き上げました。
 かねてから何人かの方に、「新しい話が書けたら報告します」とお約束してましたので、お知らせします。
 独り言にお付き合いいただける方は、追記からお願いします。



続きを読む

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(7)

 日曜日、オフ会に参加してきました!
 みなさん、遊んでくださってありがとうございました!

 え? レポ?
 いやん、このブログでレポなんて、木に縁りて鯨(?)ってやつです、求めちゃいけません☆

 はい? 
 オフ会に関する記事を上げておいて、その姿勢はどうなんだ、と?

 では一言、全体的な感想を申し上げるなら、
 ずっと途切れることなく、笑い声の響くオフ会だったように思います。
 初めましての方々が半数近くを占めていたのに、あんなに賑やかに過ごせるなんて。 みんな、薪さんのことが大好きだから。 共通した想いを抱いているって、素晴らしいことですね。(^^


 とか言いつつ、
 お話の方は何やらアレな展開なんですけど~。

 とりあえず、重い話はサクサク行きたいと思います。
 さくさく。





タイムリミット(7)





 青木がその噂を聞いたのは、桜前線が訪れる1週間前のことだった。
 最初にその話を耳にしたとき、青木は単なる流言だと決め付けて、噂の真偽を疑いもしなかった。青木にしてみれば、それは当然の判断だった。

「聞いたか? 青木。薪さん、婚約したんだって」
「まさか」

 青木が恋人と思い出の地で、まるで蜜月旅行のような濃密な時間を共有したのは、たった2週間前。同僚たちの間で声高に交換される会話は、青木にとって晴天の霹靂ではなく、またこんなデマに踊らされて、と失笑を禁じえないものであった。
「どうせ、またどこかの『自称薪さんの婚約者』でしょ」
 薪は、警察庁および警視庁の女子職員の憧れの的だ。一般人にも、薪のファンはたくさんいる。薪との恋愛を夢に見て、現実と夢の区別がつかなくなってしまった女性による自作自演の噂は、今までにも何度か流れたのだ。

「今回は違うって。相手は官房長の一番上の娘さんだって」
 曽我が、薪の相手になっても不自然ではない女性を持ち出してくる。「第九にいた頃はともかく、官房室の仕事をするようになったら断りきれなくなったんだろうな」などと尤もらしい理由付けを、訳知り顔で喋っている。
「早々と子供まで作っちゃったらしいぜ」
 なんと、子供まで。これは、相手の女性もいい迷惑だろう。
「デマですよ。オレは何も聞いてませんもん」
「なんで薪さんが、おまえにそんなこと話す必要があるんだよ」
「……それはそうですけど」
 オレというものがありながら、薪さんがそんなことするはずないです。そんなふうに言い返せたら、どれだけすっきりするだろう。
 しかし、薪との仲はトップシークレットだ。何があっても秘密にしなければ。

「子供ができたっていうのがデマの証拠じゃないですか。あの晩熟なひとが、そんなことできると思いますか」
 余裕の笑みを見せる青木に、曽我は思い直したように、
「おれもそこは不自然だと思ったんだけどさ」
「でしょう? やっぱりガセネタですよ」
 例えそれがどんなに真実味を帯びた話でも、青木は薪のことを信じられる。
 青木のこころと身体に、まだ色濃く残る恋人の熱。薪と、あんなに甘い時間を過ごしたのは初めてだった。
 いつも意地悪で我が儘な恋人は、旅行先ではとても素直で愛らしく、終日ニコニコと笑っていた。どこへ行っても何を見ても、嬉しそうに歓声を上げた。昼間は観光を楽しみ、夜はたっぷりと愛し合った。旅先の開放感も手伝ってか、夜の薪は大胆で奔放で。青木の求めに何度でも応じてくれた。
 最高に幸せな3日間だった。それからまだ2週間しか経っていないのに、こんな噂を聞かされても。
 それに薪とは、昨夜も会ったばかりだ。手の込んだ夕食をごちそうになり、ベッドではそれを作った本人を味わった。旅行先のような激しさこそなかったが、十分に満ち足りた夜だった。

 だから、青木が薪を訪ねて官房室へ足を運んだのは噂を確認するためではなく、ただ単に急ぎの書類に判をもらわなくてはならなかったからだ。
 小さい部屋だが、薪は官房室のフロアに私室を与えられている。目の中に入れても痛くないくらい薪を可愛がってくれている小野田官房長そのひとの采配で、薪はここでも優遇されているのだ。

 青木の来訪を、薪は冷静な管理者の顔つきで迎えた。
「取り急ぎ、逮捕状を。別件で洗っても証拠は出ると思います」
「思いますじゃ困るんだ。逆さにしてでも出せ」
『逆さ』というキーワードで青木は、この厳格な上司が自分の目の前で逆さになっていたときのことを思い出す。瞬時にニヤけた表情を消したつもりだったが、目ざとい上司はそれを見逃してはくれなかった。

「なんだ?」
 逆さにするのはいいとして、薪さんみたいにヨガリ狂っちゃったらどうしましょう。
「いえ。実は、おかしな噂を聞いたものですから」
 思ったことを言うわけにもいかず、青木は第九を席捲していた薪の噂をカモフラージュに使うことにした。
「うわさ?」
「薪さんが、小野田さんの娘さんと婚約したって。しかもデキちゃった婚らしいって」
 青木にしてみれば、これは完全に笑えるネタだ。
「おかしな偶然ですね。栄子さん、でしたっけ?」

 一昨年前の騒動を思い出して、青木はクスクス笑う。雪子が青木に恋をしていると思い込んだ薪が、青木と別れるために小野田の娘と付き合っていると尤もらしく嘘を吐いた。ところが薪は娘の名前を間違えるという失態を犯し、青木はその場で彼の嘘に気付いた。雪子の協力もあって彼の企ては見事なまでに砕け散り、薪の落ち込みようは相当だったが、結果として薪との絆は強まった気がする。

「まったく、どこから出てくるんでしょうね。そういうデマが」
「事実だ」
「オレの予想では、交通課の……え!?」
 何やら分厚い書類をめくりながら、薪は流言を肯定した。
「来週、結納なんだ」
 突然、青木の言語中枢は崩壊した。まともに言葉が出てこないし、薪の言うことも理解できない。

「子供ができたというのも本当だ」
 口の中がカラカラに乾く。舌が上顎にくっついて、口を開くこともできない。
「僕の子供だ」
 無理やり唇を動かして、青木は声を出そうとする。が、それは能わず、乱れた息を前歯の間から漏らすのがやっとだった。

「半年くらい前に、小野田さんに紹介されたんだ。それから時々会ってて。美和子さんに子供ができたって言うから、結婚することにしたんだ」
 薪の口は滑らかに言葉を継ぐ。
 昨夜、青木の欲望に愛おしそうに接吻したくちびるが、今日は他の女性との情事を告白する。
「だから、おまえとはもう」
 薪は、落ち着き払っていた。事件の説明をするような、事務的な口調だった。
「何を」

 喘ぐように、青木は言った。
 何度目かの呼吸と共にようやく搾り出した声は、掠れた囁き声だった。

「なにをおっしゃっているのか、わかりません」
 青木には、本当に理解できなかった。
 薪の言葉も表情も、自分自身でさえ。突如として異世界に迷い込んでしまったかのように、すべてのものが異質に感じられた。
「オレはなにも聞いてません」
「何度も言おうとしたんだけど。おまえの顔見たら、どうしても言えなくて」
「オレは聞いてません!」
「…………ごめん」

 薪が謝った。
 あの薪が。風邪を引いても道で転んでも、自分が落として割った皿でさえ全部青木のせいにする薪が。

 その時、軽いノックの音がして、髪をアップに結い上げた美しい女性が入ってきた。
「剛さん。お父様がランチにお誘いしなさいって」
 マタニティドレス姿の彼女は、年のころ30歳前後。薪と同じくらいの背丈で、黒髪に鳶色の目をしていた。
 青木の姿を認めて、軽く会釈をして寄越す。お仕事の邪魔をしたかしら、と薪の方に顔を向け、婚約者の顔色を見た。

「はい。すぐ行きます」
 薪は彼女を安心させるように微笑みかけると、青木との件はこれで済んだというように立ち上がり、見ていた書類にペーパーナイフを栞代わりに挟んだ。
「待ってください! ちゃんと説明してくださいよ!」
 美和子の方へ歩いていこうとした薪の腕を乱暴に掴み、自分の方へ引き寄せる。不意を突かれて薪の足がよろめき、細い腕が咄嗟に青木の腕にすがった。はっとして青木を見上げた薪の目と、眼鏡の奥の熱い視線が絡む。
 刹那、亜麻色の瞳に走った動揺は、青木に対してのものか美和子を気遣ってのものか。

「あなたが剛さんに付きまとってる悪い虫?」
 スタスタと、美和子がこちらに近寄ってくる。有無を言わせぬ強気な態度で青木の手を払い、薪と腕を組んで高圧的に青木を見上げた。
「わたし、おなかに赤ちゃんがいるの」
 優越を含んだ、侮蔑的な視線。
 この女性は、薪と自分の関係を知っているのだ。知った上で青木を敵と見做し、挑発しているのだ。

「誰の子だ、なんて馬鹿な事を聞かないでね」
 ふふ、と不愉快な含み笑い。
『あなたにこのひとの子供が産めるの?』
 そう言わんばかりの勝ち誇った笑いに、青木はいたたまれなくなる。

「失礼します」
 短く挨拶をすると、敬礼もせずに部屋を出る。後ろ手に閉めたドアの向こうに、美和子の嘲る声が聞こえるようだ。

『おなかに赤ちゃんがいるの』
『剛さんの子よ』

 耳について離れない女の声を振り払うように、青木は警察庁の廊下を走った。執拗に繰り返される死刑宣告にも等しい言葉から逃れようと、夢中で走った。
 警察庁の敷地を走り抜け、研究所の門をくぐる。中庭に出ると、正午を告げる無機質なチャイムが聞こえてきた。
 自分の職場に戻る気にもなれず、かといって職員食堂を訪れる気分にはもっとなれず、青木は中庭をあてどなく歩いた。

 ふと、目に付いた一本の樹木。昔、薪がよく昼寝をしていた場所だ。
 太い樹の根元に、倒れ込むように膝をつく。樹を背もたれ代わりに座ると、第九の建物が見えた。
 実用性を重視した飾り気のない建物を、ぼんやりと眺める。白い無機質な壁に、恋人の住まいが連想される。

 だめだ。
 今はまだ、考えたくない。

 そう思って目を閉じたのに、目蓋の裏側には一層くっきりと、愛しいひとの姿が浮かび上がる。瞬時に結ばれた画像は、たった今青木を痛烈に裏切った恋人の、花がほころぶように笑う愛くるしい笑顔。
 あんな笑顔で、自分に笑いかけておきながら。この腕の中で幸せそうに、午睡の夢にたゆといながら。
 もう何ヶ月も前から、薪は自分を裏切り続けていたのだ。何食わぬ顔で、美和子との間に新しい生命を育んで……。

「ちがう」
 それが自分の声だとは気付かずに、青木は聞こえてきた真実に耳をふさいだ。
『わかっていたはずだ。何ヶ月も前から、薪はおかしかった』

 いやだ。
 聞きたくない。

『薪がおまえに抱かれて、感じなくなったのはいつ頃からだ? 半年くらい前じゃなかったか。彼女に子供が宿った時期と、ちょうど重なるんじゃないのか』

 黙れ。
 その先を言うな。

『薪は彼女に心を移した。でも、おまえが可哀想で別れを切り出せなかったんだ。おまえがあまりにも哀れで』
 うるさい、黙れ。
『薪に人生の伴侶が現れたら、身を引くって約束しただろう? おまえの役割はそこまでだ。自分でも分かっていたはずだろう』
 黙れ、黙れ、黙れ。
『みっともない真似はするな。薪の恋人として、相応しく振舞え』
 両手で耳を塞ぎ、ぎゅっと目を瞑る。外界からの情報をすべて遮断してなお、容赦なく聞こえてくる諭旨に、青木は泣きたくなる。
『薪を困らせるな』
 その言葉に、青木は何も言えなくなる。

「頼むから……黙ってくれ……」
 耐え切れず、膝に顔を伏せる。春物のスラックスに、ぽたぽたと落ちる水滴。薄いグレーのストライプが、滲んで歪んだ波線に見えた。
 青木の脳内の薪は、くっきりとあでやかな笑みを見せているのに、青木の視界は夢幻のようにその輪郭を失っている。
 内と外の落差に眩暈を覚えつつ、青木は声を殺して泣いた。



*****


 さーっ、つぎつぎっ。 ←逃げた。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(8)

 はい、サクサク行きますよ。
 さくさく、さくさく。




タイムリミット(8)




 青木の姿が消えると、美和子はすぐに薪の手を放し、ソファに腰を下ろした。マタニティドレスのお腹をそっと擦りながら、澄ました顔で強烈な皮肉を薪にくれた。

「あれがあなたに付きまとってるヘンタイ強姦野郎? とてもあなたが言ってたような人には見えないけど」
 美和子の協力を得るために、青木には泥を被ってもらっている。薪の計画には、彼女の力がどうしても必要だ。
「ていうか、あなたの今の顔が『ストーカーと縁が切れて清々している男』には、ぜんぜん見えないんだけど」
 痛いところを突かれて、薪は下を向く。彼女には、薪の本当の気持ちは伝えていない。

「すみません。美和子さんにまで嘘を吐かせてしまって」
「あら。わたしは嘘なんか言ってないわよ。あなたと婚約したのはホントだし、赤ちゃんがいるのも事実でしょ。あなたの赤ちゃんだ、とは一言も言ってないわ」
 さすが小野田の娘だ。機転も利くし、頭もいい。とりわけ、相手をミスリードする話術は巧妙だ。
「わたしたちは、共犯者みたいなものでしょ。わたしはこの子の父親が必要だし、あなたは父の後ろ盾が欲しい。そういうことでしょう」
「ええ。いい加減、お遊びは終わりにしないとね」
 そう、いつまでもゲームは続かない。そしてゲームの終局は、最初から決まっているものだ。

 ソファに座った美和子に手を差し伸べて、薪は彼女をエスコートしようとする。しかし、美和子は薪の手を取ろうとはせず、手を口元に当ててクスクス笑い始めた。
「あなたって、わたしの前では見事なポーカーフェイスだけど、彼の前に出るとボロボロなのね」
 ソファの背もたれに寄りかかり、悪戯っ子のような目で薪を見上げる。育ちの良い娘らしく、年齢の割に甘えの残ったその顔は、とても魅力的だった。

「覗いてらしたんですか?」
「人聞きの悪いこと言わないで。出るタイミングを見計らっていただけよ」
 差し出された手を取ろうとはせず、美和子は自力で立ち上がり、薪の顔を正面から挑むように見た。

「わたしはあなたに本当のことを話したんだから、あなたも本当のことを言ってくれないと。この先、上手くいかなくなるわよ」
 優雅に腕を組み、尖った顎を反らす。裕福な家庭に育ったもの特有の、自然で高慢な態度。
「父に気兼してるんでしょ? 彼にだけは、本当のことを言ってあげたら?」
 そのくせ、お人好しでやさしいのだ。彼女のことを、薪は決して嫌いではない。

「本当のことを言いましたよ。あなたと結婚するって」
「子供のことは?」
「嘘じゃありませんよ。僕の子として生まれてくるんですから」
 6ヵ月後にこの世に誕生する子供は、薪の籍に入る。薪は婿入りするから、戸籍上は小野田剛の子として生まれてくることになる。
「その子は、僕の子供です」
 すでに腹は決まっている。美和子の子供の父親としての世間的な責任は、きちんと果たすつもりだ。

「何度も聞くけど、あなたは本当にそれでいいの? わたしはあなたを一生、愛さないわよ? わたしが愛せるのは、この子とこの子の父親だけ。この子にも本当のことを話すわ。そうしたら、この子もあなたを愛さないのよ?」
 矢継ぎ早な尋問口調。妊娠時期の不安定な精神状態と未来への不安に駆られて、ついつい厳しい話し方になってしまうのだろう。
 彼女の声から感じられる、不甲斐ない男に対する苛立ちと怒り。その裏に見え隠れしている、一抹の憐憫。

「解ってます」
 簡潔に答えを返し、美和子の目を見る。
 同情は要らない。自分だって、彼女を利用しようとしているのだから。お互い様だ。

「だからあなたと結婚することにしたんです」
 彼女のためにドアを開けてやりながら、薪はにっこりと微笑んだ。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(9)

タイムリミット(9)





 その晩、薪は久しぶりに親友の夢を見た。
 場所は何処だかわからない。だだっ広い枯野に、鈴木はひとり風に吹かれていた。セピアに染まる空気の中に、所在無げに立っていた。
 鈴木の姿を見つけて、薪は彼に駆け寄った。いつもそうするように、その胸に飛び込んで彼のぬくもりを確かめようとした。
 常なら薪の身体を抱きしめてくれる鈴木の腕は、何故かだらりと垂れたまま、しかし薪のことを払おうとはせずに、薪のするがままに任せていた。

「鈴木?」
 無反応な彼に異変を感じて、薪は顔を上げる。鈴木は眉根を寄せて、黒い瞳を曇らせて、とても困った顔をしていた。
 彼の夢はこれまでに何度も見たけれど、こんな鈴木は初めてだった。鈴木は薪の夢の中では必ず笑顔だった。昔、薪を責め苛んだときでさえ、笑顔を絶やしたことはなかった。

「どうしたんだ? なにか心配事?」
 すでにこの世のものではない友人に向けるにはおかしな質問だと思ったが、鈴木の憂いは放っておけない。
「あ、もしかして、雪子さんのこと?」
 雪子は昨年竹内と結婚して、秋には子供も産まれる。あの遊び人のこと、いつかはやらかすだろうと思っていたが、竹内のやつ、とうとう尻尾を出したか。
 統計的にも、妊娠中の浮気が一番多いのだ。薪も男だからその気持ちは分からなくはないが、雪子が絡むなら話は別だ。120%竹内が悪い。

「わかった。僕が明日、竹内をとっちめて」
「違うよ」
 苦笑して、鈴木は薪の頭をくしゃくしゃと撫でた。その手は大きく温かく、薪にとってはとても懐かしいものだった。
「しょうがないなあ、薪は。相変わらず早とちりばっかりして」
「じゃあ、何だよ」
「おまえのことだよ」
「僕? 僕は順調だよ。鈴木の夢に、一歩ずつ近付いてる。来年は警視監になってみせるよ。小野田さんの娘婿になれば、上の連中も押さえ込めると思うし」
 鈴木は薪の髪に指を埋めたまま、ゆっくりと首を振った。

「分かってるだろ? オレの望みは」
「……分からないよ。なに?」
「本当に、わからない?」
 鈴木の両手が薪の頭をやさしく掴み、彼の背中が丸められた。間近に迫ってきた鈴木の唇にびっくりして、薪は顔を背けた。

「や、今は……ちょっとその、ダメ」
 思わず拒んでしまったことで鈴木が気を悪くしなかったらいいのだけれど、とビクつきながら彼を見上げると、鈴木は何故か、今度はにっこりと微笑んでいた。

 親友の意外な反応に驚いて瞠られた亜麻色の瞳が、鈴木の後ろで起こった変化に、さらに大きくなる。
 鈴木の笑顔が魔法を発動したかのように、ふたりを取り巻く枯野が、みるみる緑の草原に変わっていく。柔らかそうな草の間からは名もなき花が一斉に芽吹いて、色とりどりの花弁を開く。
 笑顔ひとつでこんなことができるなんて。やっぱり鈴木はすごい。

 可憐で、それでいて力強い野花の美しさに心を奪われながら、薪は頭の隅で、あのとき青木と見た桜も、鈴木とだったらこんな風に花開いたのかもしれないと、詮無いことを考えた。

 次々に塗り替えられていく自分の足元を、目を丸くして見ている薪に、鈴木のやさしい声が響く。
「ちゃんと、わかってるじゃないか」
 なにを? と薪が顔を上げようとしたとき、目が覚めた。
 見慣れた照明器具に、薪は自分が自宅のソファで転寝していたことを知る。

 ローテーブルの上には、白い厚みのある封筒が何通か重なっている。中には返信用の葉書が入っており、その宛名は小野田聖司。これまでに薪が何度か貰ったことのある、自分からは初めて出すことになる招待状だ。
 第九のみんなには薪くんから直接手渡して、と小野田から預かってきた。残りは小野田の方から郵送してもらう手筈になっている。
 もう、後戻りできない。

 一番上になっている招待状の宛名に、薪のこころが冷える。どうして役所の人間というのは、すべてのものを50音順に並べたがるのだろう。
 薪は封筒を手に取り、一番上にあった封筒を最下層に入れ直した。こういうものは、年功序列でいくものだ。

 そう思いながらも、岡部宛の封書を上に持ってくることはせず、テーブルの上に戻す。それだけを為すと、あとはすべての興味を失ったかのようにその場を離れ、付きっぱなしだったテレビを消して寝室へ入っていった。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(10)

タイムリミット(10)





 計画の発端は、半年前に遡る。
 所長の田城を通して、青木のところに見合いの話が来た。
 相手は総務部長の末娘。年のころも相応で、見た目も悪くない。何より、彼女の父親の役職は魅力だ。
 彼女と見合いをするように青木を説得してくれと、薪は田城から頼まれた。青木のためにもなることだし、言われた通りにしようと一旦は決意して、でもどうしても為せなかった。見合い写真を青木に見せることもせず、浅ましい嘘と共に田城に返したとき、薪の中の何かが壊れた。

 自分は、青木の未来を潰した。
 結果は同じだったかもしれない。青木は心から薪を愛していて、だから彼の答えは聞かなくても分かる、でも。
 それを選ぶのは青木でなければならない。自分が手を出してよいことではない。そんな、子供にも分かる事ができなくなってしまうなんて。

 もう、駄目だと思った。
 自分の存在が、彼の未来の可能性を奪う。そんなことは許されない、許せない。自分が、彼に不利益な人間になっていくことが耐えられなかった。
 別れようと決意した。自分がこれ以上、醜い生き物にならないうちに。

 その日も、別れ話をするつもりで家に誘った。薪の思惑を知らない青木は、尻尾を振って着いてきた。別れたがっている恋人の真意に気付かずに、バカな男だな、と心の底で彼を嘲り、そんな自分を最低だと思うことで自身を鼓舞した。
 繰り返し繰り返し、呪文のように。自分に言い聞かせる。
 今日こそ片をつけなければ。
 言わなくてはならない。終わりを告げなくてはならない。それも手ひどく、痛ましく。青木が自分に未練の欠片も残さないように。

「この鯛の煮付け、絶品ですね」
「そうか?」
 薪が作った料理を美味そうに食べる恋人の姿に、つい微笑んでいたことに気づいて、薪は自分を戒める。
 今日は笑顔は禁止だ。青木が取り付く島もないように、徹底的に冷酷に。

「薪さんて、本当に料理上手ですよね。惚れ直しちゃいます」
「これ以上エスカレートしたら犯罪になるだろ。おまえの場合」
「薪さんが悪いんですよ? そんなに可愛くて料理も上手で、あっちのほうもすごくって、惚れるなって方が無理――――― 痛ったあ!」
 薪の足が素早く動き、青木の向こう脛を蹴り飛ばす。大仰に声を上げるが、そんなに強く蹴った覚えはない。その証拠に青木は照れ笑いを浮かべると、嬉しそうに食事の続きに戻った。
 ……まあいいか。食事くらい。

「惚れるで思い出しましけど。曽我さんに新しい彼女ができた話、聞きました?」
「本当か? また、騙されてんじゃないのか?」
「前回で懲りてるはずだから、今度は大丈夫だと思いますけど」
「あいつって学習機能がないから、ちょっと心配なんだよな。典型的なO型人間ていうか。騙された翌日、また同じ女に騙されるタイプ」
「もしも騙されてたら、また薪さんが彼女の振りして相手の女性を懲らしめてやれば―――― あいた!」
 薪は手を伸ばし、青木の耳を引っ張る。痛いと言いながらも、青木は薪の手を払わない。ムッと眉をひそめながらも、亜麻色の瞳は笑っている。
 ……食事の時には、楽しい会話をしないと。消化にも悪いし。

 食後のコーヒーを飲みながら、四方山話に興じる。
 観たい映画の話とか、今度休みが取れたら行きたい観光地とか。秋の空はきれいだし、そろそろ紅葉も見ごろになってきたし。
「H渓谷とかどうですか? つり橋から見る紅葉と渓流が最高みたいですよ」
「つり橋?面白そうだな」
「今度の週末、休み取れますか?」
「うん。小野田さんに頼んでみる」
 ……行く気はないが、少しくらい話に乗ってやっても。

 尻尾があったら千切れそうな勢いで振り回しているだろう表情で、青木は食事の後片付けを始める。シンクの前に並んで食器を洗いながら、さして重要でもない会話を続けている。
「美味しい食事のお礼に、後でお風呂掃除しましょうか」
「ああ、頼む。天井の隅のカビが気になってたんだ」
「そうだ、お風呂と一緒に薪さんも洗ってあげま、痛っ!!」
 三度蹴り飛ばされた左足を痛そうに擦り、青木は顔をしかめて床に座り込んだ。まったく、大げさなやつだ。

「骨が折れたかもしれません」
「そんなわけないだろ」
「だって、見てくださいよ。こんなに腫れ上がって」
「どこが」
 咎めるような口調に辟易しながらも、仕方なく屈んで年下の我が儘に付き合ってやることにする。3回目の蹴りは、ちょっと力が入ってしまったかもしれない。

「ここです」
「……蹴ったところと腫れた場所に、ずい分隔たりがあるみたいだけど」
 確かにそこは下半身だけど、脚の付け根というかその間というか。
「薪さんにここを撫でてもらうと、痛みが止まるんですけど」
 抜け抜けとほざいて、薪の手を取る。手当てが必要だと主張する患部に導いて、ズボンの上から触れさせる。
「人間の身体って、不思議ですね」
 ていうか、おまえが不思議なんだ。いったい、どのタイミングで欲情したんだ。

「薪さんの不思議も知りたいです」
「僕のどこに謎があるんだ」
「薪さんは謎だらけですよ? どうしていくつになっても顔が変わらないのかな、とか。意地悪で自分勝手なくせに、なんでこんなに可愛いんだろうとか。年上の男のひとなのに、守ってあげたくなるのは何故だろうとか」
 大きなお世話だ。いつ、だれがそんなことをおまえに頼んだ。
「何故これほどまでに、オレの心を捉えて放さないのか。あなたとの付き合いが長くなるほどに、あなたが好きになっていくのは何故なのか」
 彼に触れた手のひらから、青木の熱と脈動が伝わってくる。熱伝導で温められる金属のように、薪の身体が彼と同じ温度に近付いていく。

「疑問があるなら、徹底的に追求したらどうだ。おまえも第九の捜査官だろ」
「はい」
 ふたりの周辺の空気がふわっとなごみ、それに釣られて薪の頬も緩むと、青木は嬉しそうに薪を見る目を細くする。
 ……いかんいかん。こんな甘い雰囲気にしてどうするんだ。

 大きな両手で頬を挟まれて、青木の熱っぽい視線に包まれる。
 何となく気恥ずかしくて目を伏せると、それをカンチガイしたバカが唇を重ねてくる。
 温かくぬめった舌が口の中を這い回り、薪の舌と一瞬だけ触れ合って離れていく。思わず追いすがった薪の舌を待ち受けていた青木の舌の動きに、先刻の掠めるだけの接触は、実は計画的だったことを知る。
 くそ、引っかかった。
 こちらから差し出した手前、引くに引けなくなり。思う存分、ねぶられて舐め溶かされて、息をするのも苦しくなってきた頃、青木はやっと薪のくちびるを開放してくれた。

 頭がぼうっとしたせいで、当初の目的が曖昧になる。そもそも、今日こいつを家に誘った理由はなんだったか。
 太い首に両腕を回すと、それを合図に抱き上げられた。胸に顔を伏せたまま運ばれて、目を開けたときにはベッドの上。
 白い天井と照明器具が目に入って、薪は我に返る。
 そうだ。今日は別れ話をするはずだったんだ。それなのに、この状況は。
「薪さん。愛してます」
 強く抱きしめられて、うっとりする。朝晩めっきり冷えてきた10月の空気の中、人肌のぬくもりはとても心地よくて。
 ……まあいいか。最後に、一度くらいセックスしても。

 いつもの手順で、青木が薪の身体を開いていく。薪の身体を知り尽くした男の手。
 持ち上げられて撫でられて、口に含まれて舌でしごかれる。広げられた脚の間に、青木の指先が忍んできて、入り口の周辺を捏ね回す。ゆっくり入ってくる長い指は、薪にいくばくかの異物感を与えるが、すぐに捕らえられた果実への刺激で、またたく間に快楽の波にさらわれる。
 熱心な愛撫に薪の身体が緩めば、薪の中にいる青木の指は自由になって、好き勝手に振舞い始める。やがて、すっかり準備の整ったそこにかれが押し当てられると、そのカタチを覚えている薪は自分から形状を変えて、かれをすっぽりと飲み込んだ。

 ひとつになる幸福感に酔いしれながら、薪の頭の隅には例のことがあり、行為にのめり込むことを防いでいる。 怪我の功名とでも言うべきか、その夜の薪は常より長く、青木の攻撃に耐えた。
 薪は青木を受け入れながらも、落ち着いた目で彼を見つめていた。

 冷めたこころが、薪に冷静さをくれる。
 知らなかった。こいつ、こんな顔して僕のこと抱いてたのか。
 なんて、なんてセクシーな顔をするんだろう。
 僕の中に入ってくる瞬間の、苦しいような、それでいて悦びに震えるような顰められた眉の形に、じんわりと身体の芯が痺れるような感覚を覚える。僕の手を押さえつける長い指の曲がり方に、かれの切羽詰った官能を知る。僕の腰を持ち上げる腕の筋肉が、浮き上がる首から鎖骨にかけての筋の曲線が、ゾクゾクするくらい色っぽい。

「薪さんっ」
 熱い息を吐く唇が近づいてきて薪のくちびるを塞いでも、薪は目を閉じることなく青木の顔を凝視していた。
 見ておきたい。青木のすべてを覚えておきたい。
 
 よく見ると、閉じられた目蓋には睫毛がたくさん生えていて。高い鼻梁は慎ましい小鼻に支えられていて。大食漢に相応しい大きめの唇は、適度な厚みでやわらかくしっとりとして。いつもは両側が上がった形か、あるいは情けなく歪められている口角は、今はぎゅっと引き結ばれている。
 こめかみに汗が浮いている。つっと流れて、目に入りそうだ。
 指先で拭って口に含む。塩辛い、恋人の汗。
 
 くっ、と歯を食いしばり、自分に向かって懸命に動いている彼を見て、薪は青木を愛しいと思う。がんばれ、って声をかけたら、青木はどんな顔をするだろう。
 胸をぎゅうっと掴まれるような感覚。心臓を押し潰されるような苦しさ。内側から圧力が掛かって、身体が破裂しそうだ。

 ああ、青木、青木。
 好きだ好きだ好きだ。

 別れ話をしなきゃいけないのに、もうとっくに済まさなきゃいけなかったのに、どうしても言い出せなくて。
 今日もまた言えない。だって口を開いたら、本音が出てしまう。
 おまえが好きだって。別れたくないって。
 それだけじゃない、もっとひどいことも言ってしまう。
 心の底に押し込めた、僕の醜さ。それを知ったら、青木は僕に幻滅するだろう。
 きれいごとだけで別れられるとは思っていない。別れるときなんか、誰だって修羅場に決まっている。でも、できることなら彼に嫌われたくない。彼の中の僕を、永遠にきれいなまま残してほしい。そんな卑怯な考えに囚われて為すべきことを為せない自分に、反吐が出そうだ。

 小野田に約束した期限までは、あと半年ほど。時間はあまり残されていない。
 それにしても長かった。まさか、期間いっぱい使うことになるとは夢にも思わなかった。僕にとっては嬉しく、青木にとっては不利益な誤算だ。何故なら、自分との関係をいくら強めたところで、青木の人生には何のメリットもないからだ。

 だから探して。青木にたくさんの幸せを運ぶことができる、そんな女性を探して欲しい。
 愛し合っている恋人に、他の女性を探せだなんて、僕の考えはおかしいとおまえは言うだろう。
 そう、僕たちは相思相愛だ。でも、それがどうした。恋ってそんなに大事なのか?
 恋だけじゃ生きられないことを、僕は知っている。それに、激しい恋をせずともお互いを慈しんで、幸せな家庭を作ることはできる。青木はむしろ、そういうタイプだったはずだ。
 僕とでは作れない、あげられない数多の笑顔と幸福。その中にこそおまえの人生はあるべきだ。おまえが本来辿るべきだったのは、そちらの道なんだ。
 長いこと付き合わせて悪かった。もう充分だから、帰ってくれ。正しい道へ引き返せ。僕も僕の道を行く。
 
 頭の中の草案は完璧なのに、いざ声に出そうとすると声帯が固まる。無理に押し通そうとすると、声がひっくり返る。
 脳の命令を、身体が裏切る。

 いつからこんなに弱くなったのだろう。昔はこうじゃなかった、どんなに辛くても本当にしなければいけないことはできた。いつだって、私情よりも正しいことを優先してきたはずだ。それが僕の男としての気概と誇りだった。
 それがいつの間にこんな―――――。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(11)

 50000HITありがとうございます。m(_ _)m (キリバンリク受けようと思ってたのに、忘れちゃいました(^^;)

 何か記念のSS書きますね、甘いやつ。
 わたしの中のロマンチック精神で、がんばって妄想しますね。 
 さー、まずはロマンチック細胞の培養からだなっ。 ←神経細胞に育つまでに何億年かかることやら。


 そして、ロマンの欠片もない本編の続きです。
 まことに相すみません……。





タイムリミット(11)





「また余計なこと考えてるでしょう」
 苦笑交じりの声が聞こえた。
 一度では満たされず、更なる高みを目指そうと、四つん這いになって互いを愛し合っている最中にそんなことを言われて、薪は驚いて口の動きを止めた。薪の秘部から指が抜かれ、愛撫が中断される。
「薪さんの身体は正直だから。ほら、全然濡れてこない」
 そんな風に冷静に判断されてしまうと、青木の顔の上に跨るような体勢を取っている自分が、ひどく恥ずかしくなる。

「ちょっと、疲れてて」
 腰の位置をずらして、ローションを手に取る。薪の口の中で屹立していた恋人にローションを垂らし、青木の視線を感じながら彼を受け入れる部分にも塗る。
「でも、大丈夫だから」
 青木に背中を向けたまま、薪は彼の上に自分の腰を重ねる。自分を欲しがってくれている恋人の証を手に持って、熟練した仕草で飲み込む。
 この行為にもすっかり慣れて、今は青木が相手なら、眠っている最中に犯されたって平気だ。薪のそこは青木の形を細部まで覚えて、彼に沿うように自然と開いていく。最初の門を抜けるときだけは抵抗があるが、そこから先はすんなりと進む。内壁も奥の空間も、自由に操ることができるようになった。

「あっ、あ、んっ!」
 よがり声も腰の振り方も、いつもの夜を演じてみせる。快楽に溺れる振りをして、ともすれば萎えてしまいそうになる自分自身を両手で扱く。勃たせておかないと、青木が気にするから。
 青木の両手が薪の腰にかかる。起き上がる気配がする。
 一度目は正常位だったから、きっと次はバックで来る。好都合だ。顔は見えないし、不自然さに気付かれる可能性も低くなる。
 しかし、青木の言葉は薪の期待を裏切った。

「薪さん。止しましょ。ムリしなくていいです」
「無理なんかしてないだろ。ほら、こんなに感じてる」
 薪の腰を押さえる青木の手を取って、前に導く。反応している男の証拠を握らせて、自分の手を添えて動かす。
「甘く見ないでください。あなたの身体を仕込んだのは、オレですよ」
 年下のクセに、生意気なことを言うやつだ。それは確かに事実だったけれど。
 青木は薪の分身から手を放し、後ろからぎゅっと抱きしめてきた。耳元にくちびるを寄せて、愛しそうに耳を噛む。
「演技かそうじゃないかなんて、すぐに解っちゃいます」

 紳士的な言葉とは裏腹に、薪の中の恋人は激しく薪を求めていたけれど。青木は自分から動こうとはせずに、ただ薪を後ろから抱きしめていた。
 刺激を与えられなくなった薪のものは、すぐに萎れて落ち、青木とつながった部分はたちまち乾いていった。満たせなかった欲望をそっと引き抜いて、青木は薪の身体をゆっくりと横たえた。長い腕に絡め取られ、広い胸に抱きこまれて、やさしく背中を撫でられる。
「さて。男爵さまの釈明を聞きましょうか?」
「あん? 男爵ってなんだ?」
 青木はそれには答えず、薪の背中を撫で続けた。

「せっかくの夜をフイにされたんですから、理由を尋ねる権利はあるでしょう?」
「だから、ちょっと疲れてただけだって」
「さしずめ、部長の娘との縁談のことですか」
「ああ、そんな話もあったみたいだな」
 自然に口をついて出た言葉に、薪は絶望でいっぱいになる。
 違うだろう? 青木を説得するように田城に頼まれて、でもできなかったことを告白して謝るのが本当だろう?
 自分で握りつぶしておいて、空惚けられる自分にびっくりだ。取調室で嘘を重ねる犯罪者と変わらないじゃないか。
 ここまで最低の人間に成り下がってしまった自分に、彼の恋人でいる資格があるのか。愛される資格があるのか。こんなくだらない人間に関わること自体、彼の人生にとって大きな損失ではないのか。

「僕には関係ないけど」
 関係がないというのは適切ではない。口を出す権利がない、というのが正しい言い方だ。だって、僕はこいつの伴侶にはなれないから。青木と人生を歩んでいくのは、どこの誰かは知らないが、女性であることだけは間違いない。
「またそんな意地悪言って」
「で? どうするんだ」
 非難めいた青木の言葉に被せるように、薪は軽い調子で青木の予定を尋ねる。恐れ戦いている自分の本心に気付かれないように。青木が本音を言いやすいように。

「断りましたよ。当たり前でしょう。熱愛中の恋人がいるのに」
 当たり前と来た。こいつの日本語の使い方は間違っている。
 部長の娘と結婚できるチャンスを棒に振って、40過ぎの男を選ぶと言う。その選択のどこが当たり前なんだ。
「青木。いい機会だからちゃんと考えろ。自分の将来のこと、親のこと、友人のこと。よく考えて答えを出すんだ」
 年上らしく諭す自分の声を聞きながら薪は、心中で激しい罵倒を繰り返す。自己嫌悪を通り越して、殺意まで生まれそうな勢いだ。

 青木が縁談を断ったと聞いて、やっと正しいことが言えるようになった声帯など、腐り落ちてしまえ。自分に都合のいい時しか動かない声帯なんか、あっても無意味だ。
 そのセリフはもっとずっと前、田城から写真を受け取った時に彼に告げるべき言葉だったはずだ。縁談を断ってしまってから言っても、まったく意味がない。それは充分承知の上、さも自分は青木の将来のことを大切に考えている、美しい自分を演出するために利用して。あざといなんてレベルじゃない、もう存在すら許せなくなってきた。

「オレはあなたのこと以外、考えたくありません」
「……それは、現実逃避だろ」
 青木の胸から、顔を上げることができない。
 僕はどんどん駄目になる。嘘を見破られるのが怖い、醜い自分を見られたくない。
 ああ、もう、早く早く、青木から離れたい。虚装に塗れた自分を守るのが精一杯、そんな蛆虫みたいな人間が彼の一番大事な場所にいるなんて、許せない。

「考えましたよ。色々と。でも、無理なんですよ」
「何が」
「例えば、オレの将来。このまま警察に勤めているにしても、別の職業に就くとしても、隣には必ずあなたがいて。オレのこと能無し呼ばわりするんですよ」
 青木の胸に顔を埋めている薪に、彼の表情は見えない。が、その声は、話題に不釣合いなほど明るかった。
「家に帰ったらやっぱりあなたがいて。オレは仕事で疲れているのに、優しい言葉もかけてくれないどころか、意地悪ばっかりするんです」
 僕は意地悪なんかしたことないのに、と薪は心の中で言い返す。
 青木が聞いたら顎が外れるほど驚きそうな事実だが、薪に意地悪をしているという自覚はない。薪は、青木が凹む顔を見るのが好きなのだ。あの顔に愛しさを感じている。嫌味も皮肉も、愛情確認の手段に過ぎない。

「だけど、すごく美味しい夕飯ができていて。皮肉ばかり言うあなたの顔はとっても可愛くて。ベッドの中ではもっと可愛くて」
 薪はムッと眉を顰めたが、青木のこの台詞は嫌味ではない。意地悪をするときの薪の顔は、掛け値なしに可愛い。心の底から楽しそうだし、間違いなく生き生きしている。
「でも結局、セックスの途中で眠っちゃうんです」
「なんだ、そのオチ」
 落語のような結末に、薪は思わず顔を上げる。形の良い眉を思い切りしかめて、失礼な男をぎろりと睨みつける。
 亜麻色の瞳から発せられる殺人光線に怯む様子もなく、青木はにっこりと笑う。どんな恐ろしいものでも、慣れてしまうとその威力は半減するものだ。

「ね、幸せでしょう」
「幸せなのか? それ」
「はい」
 自信たっぷりに頷く青木に返す言葉が見つからず、薪は嘆息した。
「まあ、残り半年だからな」
「何が半年なんですか?」
「なんでもない」

 来年の4月。
 僕は青木と絶対に別れなければならない。5年前、小野田さんと約束したから。それを条件に、見逃してもらったんだから。約束は守らなければ。
 この胸も腕も、笑顔も。全部、捨てなきゃいけない。

 ……見つからないようにすればいい。
 小野田さんには別れたって言って、こっそりと会えばいい。青木が誰かと結婚してからだって、そんな風に会えばいい。そうすれば、ずっと一緒にいられる。

 そんな考えが浮かぶくらい。
 僕は最低の人間になってしまった。
 僕は、嘘つきが大嫌いだったはずだ。不倫とか浮気とかする人間を、軽蔑していたはずだ。
 それなのに。
 みんな、こんな気持ちで罪を重ねるのだろうか。愛し合って、でもどうしても公に結ばれることは叶わなくて。もてあますほどの愛しさに焼かれるように、その身を堕としていくのだろうか。

 若い恋人の規則正しい心音を聞きながら、薪は深いため息を吐く。
 もう、20回くらい、このパターンで失敗してるような気がする。一体、いつになったらこいつと別れられるのだろう。
 この責務を遂行するには、自分ひとりでは難しいかもしれない。共犯者が必要だ。薪と一緒に、地獄に落ちてくれる相棒が。

「いないよな。そんな都合のいい相手」
 最終手段として、金でひとを雇うことも考えたが、金で言いなりになる人間は金で裏切るものだ。あまり頭のいいやり方とは言えない。
 困り果てた薪の前に現れたのが、美和子だった。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(12)

 今週から堤防の修繕工事が始まりまして、代理人なので現場に出てます。
 でもこの現場、今まで経験したどんな現場よりも、

 くそ寒いっ!
 骨まで染みとおるくらい風が冷たい! (そりゃそうだよね、川っぺりだもん)
 冷凍庫なんかに入らなくても、人間シャーベットになりそうです☆

 この現場に年末までいるのか……。
 せめてアツアツのあおまきさんでも妄想して暖を取ろう、と思えば、うちの薪さん、こんなことしてるし。 あー、さむい。
  





タイムリミット(12)




 彼女に会ったのは、小野田の家だった。薪は小野田のお供で出張や会議に出席した後、自宅で労をねぎらわれることがしばしばあった。小野田の末娘の香が、薪の来訪をことのほか喜んだからである。

「剛さん、いらっしゃい!」
「こんばんは、香ちゃん。元気だった?」
「うん! 剛さんは相変わらず素敵ね。うっとりしちゃう」
「こらこら。彼に怒られるぞ」
「あ、あ、ナイショにして。彼、意外とヤキモチ妬きなの」
 香は今年、19になる。
 色々と気になる年頃で、小野田は彼女のことが心配でたまらないらしく、大学のボーイフレンドからかかってくる電話に戦々恐々としている。香と仲の良い薪は、彼女の恋人が2歳年上のゼミの先輩であることを知っているが、パパには黙ってて、と固く口止めされている。

「そうなの?」
「うん。わたしが他の男の子と喋ってたりしたら、もう大変」
「ああ~、わかるわかる。ものすごくウザイよね、そういうの」
「そうなの。ウザイんだけど、でも」
「ちょっと嬉しいんだよね」
「さすが剛さん。女心が分かるのね」
「いや、僕、男なんだけど」
 香のガールズトークに付き合っていた薪は、自分に向けられる密かな悪意を感じて頭を巡らせた。この家に、自分を嫌っている人間はいないはずだ。少なくともこれまで、それを表面に滲ませるような人物は存在しなかった。

 ドア口を見た薪の瞳に映った、小野田の妻によく似た美しい女性。それが美和子だった。

 彼女は実家に住んでおらず、神楽坂のマンションで一人で暮らしている。これまで彼女を見かけたことがなかったのは、香曰く「美和子姉さんはお見合い写真を見ると鳥肌が立つ」から。要は、結婚しろと親にうるさく言われるのが嫌で、実家に寄り付かなかった、ということらしい。
 しかし、美和子も30歳の誕生日を迎え、諦めの境地に入ったのか、最近は夕食の誘いを受けるようになった。「こないだもママにお婿さん候補の写真を見せられていたわ、長女って大変ね」と末っ子ならではの無邪気さで、香は笑った。

 小野田に紹介されたとき、美和子は薪を恨むような目で見た。
 初対面の女性にどうしてそんな目で見られるのか、訳が分からなかった薪はひどく戸惑ったが、小野田に言われて彼女の運転手を何度か務めるうちに、彼女が自分を警戒している理由に思い至った。
 10年ほど前に、「ぼくの娘と付き合ってみないか」と小野田に言われたことがある。
 小野田は、現在の薪の恋人のことを知っているから、薪には何も言ってこない。しかし、彼は今でも自分の娘と薪との結婚を望んでいる。その気持ちはありがたいが、薪にはそれに応じることはできない。
 薪の心の定員は、ひとりだけ。不器用な男なのだ。
 美和子は、そんな父親の気持ちを察しているのだろう。父親が自分と結婚させたがっている男、という目で見られているのだ。
 ここは、先手必勝だ。

「美和子さん。お付き合いしてらっしゃる男性はいるんですか?」
 美和子は何も言わなかった。
 彼女は無口で、薪とふたりで車に乗っていても、何も喋らないことが殆どだった。薪も必要がなければ口を開かないタイプだから、二人が乗った車はいつもとても静かだった。
「僕はいますよ。一生、思い続けようと心に決めているひとが」
 赤信号の手前で注意深くブレーキを踏みながら、薪はさらりと言った。ルームミラーの中で俯いてた美和子が、薪の言葉に顔を上げた。
「あなたにもいるんでしょう? 例えば」
 フロントガラスの向こう側を、泳ぐように歩く人々を見ながら、薪は言葉を切る。息を吸い込んで、何気ない口振りで美和子の秘密を暴露した。
「そのお腹の子の父親とか」

 ミラーの中の美女は、ギョッと両目を見開いた。見る見る青冷めていく頬に、細い右手が当てられる。
「なぜ?」
「初めてお会いしたときは、ハイヒールを履いてらっしゃいましたよね。最近はローヒールに変えられたみたいでしたので」
「それだけのことで?」
「香水も、つけられなくなりましたよね。色々な匂いに、敏感になられているのでしょう」
 信号が青に変わり、薪は慎重にアクセルを踏む。左側の車線をゆっくりと走る黒のレクサスを、周りの車が追い越していく。

「余計なお世話だとは思ったんですが。隠していても、いずれ分かることです。早くご両親に打ち明けた方がいいですよ。デキちゃったもの勝ちで、彼との結婚を許してもらえるかも」
 一人暮らしをしていても、美和子は放蕩娘ではない。長女らしく落ち着いているし、きちんと礼儀も弁えている。彼との付き合いも、いい加減な気持ちではなかろう。
 お腹の子にしても、愛し合った相手との結晶なら、誰に恥じることもないはずだ。靴の踵を低い物に変え、季節的にまだ早いと思われる厚手のハイソックスを着用していることから、お腹の中の子供を慈しんでいることが分かる。これは間違いなく、愛した男性の子供だ。
「よく気が付いたわね。お母さまでさえ知らないのに」
 その事実に少し驚く。が、あり得るかもしれない。高名な政治家の末娘である小野田の妻は、よくも悪くもお嬢さまで、世間知らずというか純真無垢というか。
 
 やがて車は、彼女の父親と母親が待つレストランに到着する。薪の今日の仕事はこれで終わりだ。
 小野田はもちろん薪を誘ってくれたが、第九の仕事が残っていると嘘を吐いた。親子水入らずの夕食を邪魔するのも気が引けたし、今日は水曜日だから。どこかの誰かさんが、薪の帰りを待っているはずだ。

 今日こそ、別れ話をしなきゃいけないな、と薪は苦笑する。
 これから青木に電話をして、この店ほど高級でなくても、近くのレストランに呼び出そうか。最後に食事くらいはいいものを食べさせてやって、思い出に夜景のきれいなホテルとかで愛を交わして、それから……駄目だ、ぜんぜん別れられる気がしない。

「あなたはどうして結婚しないの?」
 車をレストランの駐車場に入れても、美和子は車から降りようとしなかった。薪のお節介への報復か、弱味を握られたことへの牽制か、そんなことを聞かれた。
「僕の相手は、絶対に結婚できない相手なので」
「わたしと一緒ね」
「……もしかして、不倫ですか」
「違うわ。だったらとっくに奪い取ってる」
 強気の発言とは裏腹に、美和子の表情は今にも泣き出しそうだった。

「じゃあ、どうして? 年が違いすぎるとか、身分が違うとか?」
 この女性がどんな恋に苦しんでいるのか詮索する気はなかったが、彼女の秘密を暴いた本人としては、話に付き合う義務があると思った。
「彼とは大学の頃からの付き合いなの。でも、お父様はわたしたちの仲を認めくださらなかった。彼は将来を託するに値しない男だって。その上」
「大丈夫ですよ、少しくらい反対されても。子供がいるって言えば、少々のことには目をつぶりますよ。親って、結局は子供の幸せを願っているものじゃないですか」
「彼のお兄さんが、人を殺してしまったの」

 低い女の声に、薪は振り返った。
 警察官僚の長女として、いやでも内部事情に詳しくなってしまった彼女は、それがどんなことか、よく分かっていた。
「傷害致死。はずみだったのよ」

 殺人犯の実弟と、官房長の娘。
 かける言葉が見つからず、薪は黙り込んだ。

「それが父の耳に入って、わたしたちは無理矢理別れさせられたわ。子供がお腹にいることが分かったのは、その後」 
「かれは、知ってるんですか? 自分の子供があなたの」
 美和子は首を振った。
 その理由を、薪はすぐに察した。
 親にこの事実が知れたら、間違いなく堕胎させられる。美和子もそう思ったから、母親にも相談できずにいたのだ。産めるかどうかも分からない子供の存在を、別れた相手に告げることはできない。相手は美和子と一緒になりたいと思っていても、彼らは引き裂かれる運命で。結局は愛する女性も子供も失うという悲痛を、彼に味あわせるだけだ。

「彼を愛してるわ。この子も、産みたい。小野田家と縁を切って、彼と一緒になることも考えたわ。でも、親のことも悲しませたくない。わたしがそんなことをしたら、お父様の名前に泥を塗ることになるし。
 だけど、彼が好きなの。彼と一緒に、この子を育てたいの」
 話しているうちに、美和子の鳶色の瞳からは、ほろほろと涙が零れ落ちてきた。
「どうしていいのか、わからない」

 両手で顔を覆って俯く姿に、美和子の頑なで高慢な態度は、彼女の精一杯の強がりだったことを知る。
 この女性は、自分と同じだ。
 添い遂げられない相手と恋をして、その想いに胸を焼かれて。別れなくてはいけないと思いつつも、相手を思い切ることができない。

 薪は携帯を取り出すと、メモリーの中からひとつのアドレスを選び出した。「今日は行けない」と用件だけを発信し、車を降りて外に出た。ふっと夜空を仰いで、きっとあいつもこの空を見ている、と何故か確信し、そのことに心が凪いでいくのを感じながら後部座席の女性の隣に座った。

「美和子さん。僕と結婚しませんか」
「え!?」
 美和子は、びっくりして薪を見た。
 彼女の目の周りは涙で流れたアイメイクで無残な有様だったが、薪はそれを滑稽とも思わず、笑ったりもしなかった。

「あくまでひとつの方法ですけど。僕と結婚して、その子を産むんです。で、彼と一緒に育てればいい」
「なにをバカなこと言ってるの? そんなことできるわけが」
「一番誠実なのは、ご両親に本当のことを話して、彼との仲を許してもらうことです。でも、今の状態でご両親が本当のことを知ったら、その……お子さんは、殺されてしまうかもしれません。僕には、それを阻止する力はありません」
 小野田は、やさしいばかりの男ではない。目的の為には手段を選ばない、非情な一面も持っている。薪にそれが向けられたことはないが、敵には容赦しない。そうしなければキャリア組の熾烈な出世競争の中では生き残っていけないし、官房長の役職を得ることは不可能だ。

「もしもご両親が真実を知っても、子供が生まれてしまった後では、それはできなくなります。お子さんの命だけは確実に守れる。彼とのことだって。僕をカモフラージュに使えば、会うこともできるでしょう?」
 細い眉を寄せて、美和子は怪訝な顔をしている。薪の突拍子もない提案に、どう反応していいのか分からない、と言った表情だ。
「彼と会う時は、僕に連絡をください。話を合わせておきますから」
 
 薪には、彼女の気持ちが痛いほどわかる。
 自分と同じ苦しみを舐めている女性。愛するひとと共に生きていくことが、周りの人間を不幸にする。でも、彼女の場合はまだチャンスがある。子供という強い切り札が。
 薪には子供がいないし母性本能もないから、子供を利用しようなどという冷酷な考え方ができるのかもしれない。だが、手札は出来る限り有効に使わなければ。

「問題は彼の気持ちです。偽装とはいえ、あなたが他の男の妻になるわけですからね。だから、これはひとつの企画案です。彼と相談して、よく考えて決めてください」

 美和子の恋は、叶えてやりたい。
 捨てなくてはいけない僕の恋の代わりに、この女性の恋は成就させてやりたい。僕が青木と別れることで、日陰とはいえひとつの愛が貫けるなら。僕も青木も、少しは救われるかもしれない。

「あなたはそれで、何を得るの?」
「僕にだってメリットはあるんですよ。あなたと結婚できれば、僕の将来は約束されたも同然ですから」
「尤もらしい理由ね。でも、それをわたしに信じさせたかったら、普段の行動にもう少し気を配らないと。あなた、わたしのことなんて眼中になかったでしょう」
 たしかに。
 香とはよく話をするが、美和子とふたりでこんなに喋ったのは初めてだ。皆と一緒のとき、それも誰かを挟んで話をしていた気がする。

「わたしの周りに集まる男たちはね、もっとギラギラした目をしてるわ。あなたは出世なんか望んでない」
 さすが幼い頃から、警察関係者に囲まれて育っただけのことはある。官房長の娘ともなれば、妻にしたがる男がわんさか押しかけただろうし、自然とひとを見る目も養われたというわけか。
 美和子を納得させるために、薪は小さな嘘を吐くことにした。

「実は僕、男のストーカーに悩まされてまして」
「え? 男のひとなのに?」
「あ、僕ゲイなんです。だから結婚しても、あなたには指一本触れません」
 薪は本当は女性とのセックスのほうが好きだが、こう言っておけば相手の男も安心するだろう。

 薪の衝撃の告白に、美和子は大きく頷いた。……なぜ驚かないんだろう。
「やっぱりね。そうじゃないかと思ってた」
 なんでっ!?
「まあ、あなたの顔を見れば大体ね」
 顔ってなんだ! 女っぽいとか言いたいのか!!
「アレ取って、女性ホルモン注射してるんでしょ。そうでもしなきゃ、その顔は無理よね」
 拡声器で洗いざらいぶちまけてやろうか、このオンナあああ!!!

 荒れ狂う心を必死で抑えて、薪は美和子の誤解を敢えて解かない。誤解させておいたほうが都合がいい。そう思いつつも泣きたくなるのは、彼のなけなしのプライドだ。
「僕が結婚してあなたの家に住むようになれば、彼も諦めると思うんです。この計画に乗ってくださるなら、僕のことも助けてくださいませんか」
「結婚しても、お互いの恋人については干渉しない。そういうことでいいのね」
「はい」
 考えてみる、と美和子は言った。

 薪は車を降りてドアを開けてやり、ご両親がお待ちかねですよ、と微笑んだ。
 レストランまでの小道を歩いていく美和子の足取りは、しっかりしていた。芯の強い女性なのだろう。

 薪は運転席に乗り込み、警察庁に向かった。
 今夜の予定はなくなった。少し早いが、来週末の支部会議の資料を作っておこう。
 運転をしながら、美和子の顔を見たレストランの支配人がどんな顔をしたかな、と考えてクスクス笑う。美和子の化粧の乱れを指摘しなかったのは、傷つけられたプライドのささやかな報復だった。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(13)

タイムリミット(13)





 金曜日の室長会議の後、薪は第九の部下たちに、金箔の封緘が貼られた白い封筒を配って歩いた。見事な文字は毛筆で書かれており、小野田の知り合いの書道家の手によるものだった。
「え? 俺たちも招待してもらえるんですか?」
 招待状を受け取って、小池と曽我は揃って声を上げた。相変わらず、この同期生は仲がいい。
「ああ。美和子さんのお友だちは、美人ぞろいだぞ。おまえらも頑張れよ」
「はい!!」
 この二人はまだ独身だ。こいつらもそろそろ、落ち着いてもいい年だ。
 40過ぎまで独身でいた自分が、説教する権利はないが。

「青木は?」
「青木は宇野さんと一緒に、新システムの研修です。夕方まで帰ってきませんよ」
 知っている。だから、今日これを持ってきたのだ。
「そうか。じゃ、これ渡しといてくれ」
 差し出した封筒を曽我が受け取ろうとしたとき、野太い男の声が響いた。

「ご自分で渡したらどうですか。まだ日数もあることですし。その方が青木も喜びますよ」
 第九の副室長、岡部警視だ。薪が官房室との掛け持ちになってから、岡部は実質的に室長の職務をこなしている。
「そうですよ。青木は室長を尊敬してますから。きっと直接、お祝いの言葉を言いたいと思ってるはずですよ」
 岡部の言葉尻に乗って手を引っ込めた曽我に、薪は頷くしかない。受け取り手のいなくなった招待状を、仕方なく内ポケットにしまいこんだ。

「そう言えば青木のやつ、この頃元気ないんだよな」
「そうそう。食欲もなくて。ずい分やせたみたいだし」
「このところ薪さんが、ずっと官房室に詰めてるからじゃないですか? 顔が見れなくて寂しいんだと思いますよ」
「青木は室長っ子だから」
「おかしな日本語を作るな、バカ」
 薪が怒ったフリをすると、すいません、と明るく笑って二人は仕事に戻った。

 招待状の返事は、小野田のところへ郵送するようになっている。結婚式の2ヶ月前といえば、式の準備でてんやわんやの時期だが、婿養子に入る薪にはさほどの負担はない。小野田が気を使って、仕事を優先させてくれているからだ。美和子と小野田の妻に任せきりで申し訳ないとは思うが、小野田家の付き合いのことなど分からないし、女性のドレスのことなどもっと分からない。

「室長。さっきの会議のことですけど」
 岡部に促されて、薪は室長室へ入る。部屋にふたりきりになると、岡部はファイルを閉じてしまい、薪は嫌な予感が当たったことを知った。

「薪さん。いま、幸せですか?」
 岡部のお節介が始まった。
 岡部は薪の後継者で、腹心の部下だ。彼の捜査能力の高さと人心を掌握するスキルは、第九の誰よりも高いと評価している薪だが、このお節介だけはマイナス点だ。

「2ヵ月後に結婚する男が、幸せじゃないわけがないだろう」
「俺にはそうは見えませんけどね」
 太い腕を組み、グローブのような手を無精ひげの生えた顎に当て、岡部は何かを思い出すように視線を上空に泳がせた。
「何年か前、足を引き摺りながら歩いてたあなたのほうが、ずっと幸せそうでしたよ」
 
 岡部は、薪と青木の関係を知っている。
 青木とこういう仲になる前から、岡部には自分たちの気持ちを悟られていた。ふたりが恋人同士になってからは、陰になり日向になり、その秘密を他の職員の目から隠してくれた。
「あの頃のあなたは、まともに座ることもできなくて。よく前傾姿勢になってましたよね」
「岡部。やめろ」
「怒った俺が青木を道場で締め上げたら、あなたは真っ赤になってあいつを庇って」
「やめろ!!」

「あなたが決めたことなら、俺は何も言いません。でも、今度は引き返せないですよ」
 岡部の声には、心配と叱咤が入り混じっている。その割合は9対1。これはずっと昔から変わらない、岡部の黄金比率だ。
「そんな無責任なことはしない。夫としても父親としても、精一杯務めるつもりだ」
「責任とかで務めとかで結婚される女性も、たまったもんじゃないでしょうね」
 ぐっと言葉に詰まって、薪は俯いた。

「薪さん。嘘から始まった供述は、必ずどこかに歪みがでるもんです。そこで本当のことを言えばマルヒは楽になれますけど、あなたは一生、歪んだままの人生を背負っていかなきゃいけないんですよ」
 畳み掛けるように、岡部は言葉を重ねる。相手の弱みに付け込むのは、容疑者を自白に追い込むときの常套手段だ。
「イビツなものってのは、持ちづらいんですよ。あっちこっちで落っことしては、その度に相手も自分も苦しむことになるんです。でっかい岩の方が、よっぽどマシじゃないですか? 疲れたら岩を道に下ろして、寄りかかって休むこともできるんですから」
 岩の例え話を、誰から聞いたんだ。小野田さんが岡部にそんな話をするはずはないから、青木のやつか。あのお喋りめ。

「寄りかかろうにも形が悪いと、相手もろとも崖下に真っ逆さまですよ」
「大丈夫だ。おまえの心配してるようなことにはならないから。夫婦ってのは、長い時間かけて愛を育てていくものだろ」
「それまで、あなたが保てばいいですけど」
 僕はそんなに脆弱な人間じゃない、と言おうとして、薪は言葉を飲み込む。岡部の右手がさっと薪の身体を抱え、肩に担ぎ上げたのだ。

「下ろせ! 何のつもりだ」
「この軽さは、俺達が初めて会った夏以来じゃないですか」
 何を食べても吐いてしまうものだから、びっくりするくらい体重が落ちた。パット入りのスーツを着ていたのだが、やはり岡部の眼は誤魔化せないか。
「仕事が忙しかったから、それだけだ。来年までには官房室へ完全異動になるだろうから、そうしたら接待や付き合いでブクブク太るさ。立派なメタボになって貫禄つけてやるから、楽しみにしてろ」
 岡部の背中に向かって、薪は悪あがきをしてみる。何を言っても岡部には通用しないと思うが、もう後戻りはできない。
 きれいにアイロンが掛けられた、岡部のワイシャツの白さが目に沁みる。頭が下になっているせいか、水分が頭部に集まってきたようだ。

「あれ? おまえらどうしたんだ。研修は?」
 モニタールームから聞こえてきた声に、薪はびくりと身を震わせる。岡部が薪の身体を床に下ろし、室長室の扉を細く開けた。ドアの向こうに、メガネを掛けた男がふたり、顔を見合わせて苦笑している。
「研修所のシステムに障害が発生しまして。復旧の目途が立たないので、研修は先送りになりました」
「さては宇野。新システムにウィルス入れたろ」
「そんなことするかよ。楽しみにしてたんだせ、俺は。須崎の作った新しいシステムが、俺の作ったスーパープログラムの負荷にどこまで耐えられるかなって」
「まさか、入れたのか? MRI専用のスパコンでさえ悲鳴を上げるおまえの悪魔のプログラム」
「……ちょっとだけ」
「研修段階でシステムをショートさせてどうするんだよ」
「どっちにせよ、あんなスペックじゃ使い物にならないよ。俺は先のことを考えてだな」
「ほー。そのセリフ、室長の前でも言ってみろ」
「え? 薪さん、来てるのか」
「結婚式の招待状。俺たちも式に呼んでくれるって」
 小池が室長室のドアを指差したのを見て、宇野が嬉しそうな顔をする。その様子を見て、岡部は後ろを振り返った。

「良かったじゃないですか。これで直接あいつらに招待状を……っ!?」
 そこにいるはずの上司の姿はなく、岡部は言葉を失う。窓が開いて、風に煽られたブラインドがカタカタ音を立てている。
「なんて無茶を! ここは3階だぞ!」

 窓に走り寄って下を見るが、薪の姿はない。
 薪に会うために室長室に入ってきた宇野と青木が、岡部の様子に気付いてこちらに寄ってくる。
「どうしたんですか? 岡部さん。室長は?」
「知らん! 窓から帰りたくなる人間の心理なんか、理解したくもない!」
「え!?」
 宇野が驚いて、窓から顔を出す。岡部の顔と交互に下を見て、まさか、という顔で首を捻った。

 ぎりっと奥歯を鳴らして口惜しそうに眉を吊り上げる岡部の後ろで、そうっと床を這っていく小さな人影。机の下から出てきたその影は、岡部の様子を伺いながら、ドアの隙間に滑り込もうとした。
 何かにぶつかって、行く手を阻まれる。亜麻色の頭がごつんと音を立てたのは、薄い灰青色のズボンに包まれた長い足だった。
「何してるんですか?」
 四つん這いの犬のような格好で固まってしまった薪に視線を合わせるように、衝突事故の相手はその場に屈み、薪の顔を覗き込んだ。

「青木」
 騙されたと知った岡部が、怒りよりも青木の炯眼に驚いて振り向き、彼の名前を呼んだ。隣で宇野が妙に落ち着いた態度で腕を組み、窓枠にもたれて足を交差させた。
「薪さんの行動は、だいたい読めますから」
 静かに言って、手を差し出す。薪がその手を取るのを躊躇っていると、青木は乾いた声で薪に話しかけた。

「ご結婚おめでとうございます、室長」

 床に正座して、薪は硬直していた。大きな目をいっぱいに見開いて、小さなくちびるを引き結んで。
「どうか末永くお幸せに。結婚式には必ず出席させていただきます」
 自分を敬愛している部下からのお祝いの言葉に、薪は目の前に出された大きな手の意図を知る。
 自分に向けられた手は、自分を助け起こすためのものではなく、さっさと招待状を置いてオレの前から消えろ、という意味だったと。思い知らされて、息が上手くできなくなる。
 促されるままに内ポケットから招待状を出し、青木の手の平に載せる。膝に手を当てて立ち上がり、崩折れそうになる足に力を込める。
 薪は室長室を出て行った。岡部がその後を追って行き、部屋には青木と宇野が残った。

「薪さん、俺には招待状くれないのかな」
「忘れちゃったんじゃないですか。あのひと、意外とドジだから」
「おまえがあんなこと言うからだろ」
 あからさまな舌打ちの後の宇野の言葉に、青木は驚いて先輩の顔を見る。ITの申し子のような彼の顔は、厄介なウイルスを発見したときのように歪められていた。

「あんなことって……オレ、なんかおかしなこと言いましたか?」
「もう少し言葉を選べよ。薪さんが可哀想だろ」
 理不尽だ。
 結婚が決まった上司に、おめでとうございます、とお祝いを言って叱られるなんて。

「何か他の言い方あるだろ。例えば」
 宇野は両目をぐるりと回して、なにかうまい言い回しを考えているようだったが、やがて肩を竦めて、ハッと短く息を吐いた。
「何を言っても同じか。仕方ないよな」
「宇野さん?」
 四角いレンズの向こうから、どんな小さなバグも見逃さない目が、青木の顔をじっと見ている。まるで自分がプログラムになって宇野に解析されている―――― そんな錯覚を、青木は覚えた。

「おまえはそれでいいのか」
「なにがですか」
「このまま薪さんが結婚して、それでいいのかって聞いてんだよ」
「おめでたいじゃないですか。これで薪さんの警視監昇任は決まったようなもんだし。上手く行けば、どこかの局長とかに就任できるかも」
 宇野はわざとらしく額に手を当てると、天を仰いで大きなため息を吐いた。芝居がかった仕草に、微かな苛立ちが感じられる。

「はあ……ほんっと、デキの悪い後輩もつと苦労するわ」
 突然、自分の能力にケチを付けられて、青木はムッとするより先に意外に思う。宇野はいつも頑張り屋の青木を、高く評価してくれていたはずだ。

「青木。おまえ、第九に来て何年だっけ」
「7年です」
「7年もかかって、おまえはここで何を学んできたんだ」
「……MRI捜査の手法と技術を」
 それが宇野の求める解でないことは分かっていたが、青木には他に答えが見つからない。
「MRIには、音声は無い。だから俺達は読唇術を習得して、必死こいて事件関係者の唇を読むわけだけど」
 青木の答えに可も不可も付けず、宇野はズボンのポケットに両手を入れて室内をゆっくりと歩き始めた。
「そうやって読み取った言葉が捜査を混乱させたことが、今まで何回あった?言葉だけじゃない。意識的に作った表情にミスリードされて、袋小路に迷い込んだこともあっただろう。失敗から何も学べないなんて、爬虫類以下だぞ」
 ぐるぐると室内を歩いて青木の側までやって来た宇野は、今まで見たこともないような凶悪な目つきで、オチコボレの後輩を睨みつけた。

「このクソムシ野郎が。薪さん、泣かせてんじゃねえよ」
 薪の陰に隠れて目立たないが、ノンキャリアの宇野は口が悪い。第九で薪の次に罵倒文句がキツイのは宇野である。

「宇野さん。あの、もしかして」
 はっきりと言葉にすることはできないが、宇野の言動は青木にある危惧を抱かせる。人に知られてはいけない自分たちの秘密に、宇野は気付いてしまったのだろうか。
 後輩の青くなった顔を見て、宇野が意地悪そうに笑う。室長の影響か、第九には意地悪な先輩が多くて困る。

「俺だけじゃないぜ。みんな薄々気付いてるよ。薪さんが嫌がるから、知らない振りしてるだけだ」
「えっ!」
「あんだけイチャイチャしてて、気付かれないとでも思ってたのかよ」
「仕事中にそんなことはしてないです。どっちかって言うと、薪さんにはイジメられることが多かったかと」
「それがあのひとの愛情表現だって、第九の人間なら常識だろ」
 青木は言葉に詰まった。
 たしかに、むかし薪は自分を愛してくれた。でも、今は……。

「青木。薪さんとは、ちゃんと話したのか」
「話も何も。いきなり婚約したって知らされて、美和子さんのお腹には薪さんの子供がいるって聞かされて。アアもウウも無かったです」
「俺はさ、薪さんの結婚に反対してるわけじゃないよ。だた、薪さんがあまりにも」
 宇野はそこで言葉を切った。辛そうに伏せられた眼鏡の奥の瞳が、その先の言葉を雄弁に語っていた。

「その蛆虫みたいなチンケな脳みそで、もう一度考えてみろ。おまえがしなきゃいけないことが、まだ残ってるはずだ」
 かつて薪がよくしたように、宇野は青木のネクタイをぐいと掴み、脅し文句を叩きつけた。

「オレが……しなきゃいけないこと……」
「おまえも第九の捜査官なら、最後まで真実を見究めろ」
 真剣な目で言って青木を突き飛ばすと、宇野は室長室を出て行った。




*****


 この話を書いてしまってたのでね、トイレで、滝沢さんの手が宇野さんに掛かったときはどうしようかと思いましたよ。 
 うちじゃこの役、宇野さんにしかできないもん。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(14)

タイムリミット(14)





 自宅のソファで膝を抱えて、薪はテレビを見ている。
 こんな悠長にしていられるほど暇ではないのだが、上司に休養を取るように言われて、強制帰宅させられてしまった。小野田が言うには、薪の顔は土気色で生きた人間のものとは思えないそうだ。
 まったく、ひとをゾンビ扱いして。心配性の部下も困りものだが、心配性の上司にも苦労する。

 薪は膝を抱えたまま、ころりとソファに横になる。目をつぶって、テレビの音が両側の鼓膜を震わせるのを茫漠と感じる。
 番組の内容は、ぜんぜん頭に入ってこない。でも、何か音がないと落ち着かない。静寂を恐ろしく感じるなんて、幼い子供に帰ったみたいだ。 
 目を閉じたままじっとしていると、岡部に言われたことが頭の中でぐるぐる回る。絶望的な未来図が浮かび、刹那、薪は激しい後悔に襲われた。

 もしかしたら、自分と美和子は方法を誤ったのかもしれない。
 正直に、小野田に告白するべきではなかったのか。その上で、最善の策を講じるべきではなかったか。こんな詐欺まがいの手で、大切な人々を騙して……。
 いや、やはり無理だ。
 殺人犯の実弟と自分の娘の結婚を、官房長の小野田が許すはずがないし、将来の厄介ごとに繋がりそうな子供の存在は、もっと許してくれないだろう。

 しかし、今となっては。
 美和子の子供は、すでに中絶が難しい時期に入っている。娘の命に関わるとなれば、このまま産ませてくれるかもしれない。今、本当のことを言えばあるいは。

 パッと開けた亜麻色の瞳に、ローテーブルに置かれた封筒が映る。宇野に渡し忘れた招待状だ。
 ――― もう、遅い。
 薪は再び目を伏せる。長い睫毛の間から零れそうになる弱さに、ぐっと奥歯を食いしばる。

 大丈夫。
 僕の中には、たくさんの青木がいる。
 いつかくるこの日のために、もう何年も前からストックしていた彼の思い出がたくさんある。目を閉じれば、はっきりと思い出せる。彼の顔も身体も、自分に注がれた愛情も。
 それだけで充分だ、と薪は思う。
 それに、青木は生きている。鈴木みたいに、死んでしまったわけじゃない。
 ちゃんと生きて動いて、僕はそれを見ることができる。この先、青木にも運命の女性が現れて、彼女と恋に落ち、やがては結婚して幸せな家庭を築いていくだろう。僕が本当に青木を愛してるなら、それを自分のこととして喜べるはずだ。
 だからこんな風に胸が痛むのはほんの一時のことで、こうして青木の笑顔で脳内を満たしておけば、そんな時間はあっという間に過ぎる。

 しっかりと思い出す。
 その声を、仕草を、僕を見る瞳を。
 瞬きする睫毛の動きを、風になびく髪の流れを。
 僕の手を握るときの指の曲がり方を、腕を曲げたときの肘の形を、若々しく張った筋の一本一本までを、脳細胞をフルに使って克明に描く。

 思わず声が出そうになって、薪はくちびるを噛みしめる。
 やさしかった恋人の姿をリアルに思い浮かべながらも、胸の痛みは治まらない。それどころか、画像が鮮明さを増すほどに、痛みは強くなっていくようで。

 ―――― 苦しい。

「なんだよ……思ったよりも、うまく行かないな」
 仰向けになって天井に顔を向け、両腕を交差して目の上に乗せる。こみ上げてくるものをやり過ごすために、大きく息を吸った。
 瞬間、チャイムが鳴る。
 誰かと約束をしていたか、と薪は記憶を探る。予定はなかったはずだが、近頃、他人との約束を忘れてしまうことがあるから、今日もそれかとカメラを確認するために席を立った。

「な!」
 来訪者を映し出す小さな液晶画面を見て、薪は飛び上がるほど驚いた。
 青木が映ってる。

 何故? どうして?
 もしかして、結婚式の招待状の返事を持ってきたのか? ウスラバカが。あれは郵送するものだ。しかも受取人は薪ではなく、小野田だ。

 早鐘のように打ち出す胸を押さえて、薪は必死で平常心を取り戻そうとする。
 後戻りはできないと、覚悟は決まっていると、昼間、岡部に豪語したばかりなのに。この息が止まりそうな焦燥感は何なのだろう。

『薪さん、お願いします。開けてください』
「何しに来たんだ、おまえ」
『ごはん食べさせてください。空腹で倒れそうなんです』
「ああ?」
 何をふざけてるんだ、こいつは。
 青木とはもう、ただの上司と部下だ。結婚が決まった上司のところへ、食事をたかりに来るなんて……いや、別におかしくないか。かといって、開けてやる義理も無い。部下の食事の世話までしていられるか。

 心の中で毒づきながら、薪はカメラに映る男の顔を食い入るように見つめる。
 この2ヶ月、薪は青木の顔をまともに見ていない。それは別に青木のことを避けていたわけではなく、官房室の仕事が忙しかったからだ。見たら冷静でいられなくなってしまうかもしれないとか、決意が揺らいでしまうかもしれないなんて、心配してたわけじゃない。

 ……そうじゃない、けど。

 薪は、そっと画面に手を伸ばした。
 指先で青木の頬をなぞり、くちびるを撫でる。額を髪を、細い指先が愛おしそうに滑っていく。

 見るだけなら。
 少しだけ、少しだけ。彼を見るだけなら。

 薪が震える手でドアを開けると、青木は昔のように笑って、「お邪魔します」ときちんと挨拶をした。物怖じしない態度で部屋に上がりこむと、真っ直ぐ台所へ行き、断りもなく冷蔵庫を開けた。
「うわー。薪さんちの冷蔵庫がここまで空っぽなの、初めて見ました」
 冷蔵庫の中には、500mlのミネラルウォーターが3本だけ。他には何も入っていない。
「この頃、外食ばかりだから」
 それは青木の手前吐いた、ささやかな嘘で。本当は、殆ど食事をしていない。たまに食べても、1時間後にはバックしてしまうし。
「買い物してきて良かった」
 買い物をしたなら、どうしてここに来る必要があったんだ。相変わらず、訳の分からないやつだ。
「病気で早退したって聞いたから。オレが美味しい卵ぞうすい作ってあげます」
 押しかけ女房ならぬ、押しかけ家政夫か。なんてお節介なやつだ。いい迷惑だ。
 帰れ、と言いたいのに、薪のくちびるは動かない。呼吸も上手にできない。まるで水の中にいるみたいに、息が苦しい。

 青木は慣れた手つきで野菜を刻み、鍋にお湯を沸かし、パックに入った米飯を一度水に晒してからだし汁の中に入れた。片手でボウルに卵を割るとざっくりと掻き混ぜ、鍋の煮え具合を確認する。
 薪はその様子をじっと見ていた。
 何も言わず、突っ立ったまま。ただただ青木を見ていた。

「薪さん。味見、お願いします」
 突き出された小皿に、薪は戸惑う。
 恒常的な嘔吐に薪の味覚は完全に崩壊して、最近は何を食べても味がしない。おかげで、料理も満足に作れなくなってしまった。
 案の定、小皿の中の液体もただのお湯と変わらなかった。でも、温度は感じられる。温かくて、薪の胃をほっと緩ませてくれる。
「うん。いいんじゃないか」
「そうですか? じゃあ、卵入れますね」
 卵を流し込み、鍋の蓋を閉める。二分ほど置いて再び蓋を取ると、ふわっと香る昆布出汁。半熟の卵がとろりとして、見た目はとても美味しそうだ。

「さ、冷めないうちに食べましょう」
「おまえこれ、ネギ入れすぎじゃないのか」
「薪さんが風邪引いたんじゃないかって、中園さんが言ってたから。ネギは風邪に効くって」
「風邪なんか引いてないぞ。まったく、小野田さんといい中園さんといい、ひとを勝手に病気にして」
 ぶつぶつ言いながらも食卓につく。
 一時間後には汚物になると分かっていても、せっかく部下が作ってくれたのだ。上司として、部下の好意を無にするのはよくない。
 くちびるを尖らせて、ふーふーと雑炊を冷ましていると、青木が蕩けそうな顔をしてこちらを見ている。妙にニヤけているのを不思議に思って聞くと、薪さんがあんまりかわいくて、と失礼なことを言うからレンゲを投げつけてやった。

「聞いてくださいよ。今日の研修が延期になったのって、実は宇野さんが」
「あのめちゃくちゃ重いプログラムを稼動させたのか? システムが吹っ飛ぶのも当たり前だ。あれはまだ、試作品なんだから。須崎のやつも可哀相に」
「宇野さんが言うには、あのプログラムを動かすくらいのスペックがなきゃ、将来使い物にならないって」
「こだわりすぎなんだ、あいつは」
 青木が作った雑炊を一口食べて、少し塩辛い、と思った。でも、まあまあ食べられる。こいつも料理が上手くなった―――。

 ぎくりと薪は手を止めた。
 日本一の料亭の懐石料理も、3人前で6桁のフランス料理も、砂を噛むようだったのに。ネギと卵しか入っていない雑炊が、美味いなんて。

「食い終わったら帰れよ。今からここに、美和子さんが来るんだ」
 約束などしていないが、青木を追い出すにはこれが一番だろう。
 息の苦しさは相変わらずだ。そろそろ呼吸困難に陥りそうになってきた。このままここに居すわられたら、終いには窒息死しそうだ。
「いいですね。彼女に看病してもらえば、病気なんて一発で治っちゃいますね」
 青木は笑顔を崩さずに、薪を見ている。美和子の名前を出せば青木が泣いて出て行く、と思っていたのは薪の自惚れだったか。

 そうだ。昼間、青木に言われたばかりだった。
『ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに』

 青木のこころは、もう自分にはないのだ。
 そう思ったら、途端に味が分からなくなった。
 単なる炭水化物の塊に変貌した茶碗の中身を、薪は黙々と食べる。咀嚼し、飲み込むたびに喉が引き攣れるように痛い。

「あれ? でも薪さん、病気じゃないってさっき。あ、さては彼女の気を惹こうと、仮病を使いましたね?」
「おまえじゃあるまいし」
「あの時は、すみませんでした」
 薪が返した軽口を、青木は昔の狂言自殺を皮肉られたと勘違いしたらしく、両手をテーブルについて、ぺこりと頭を下げた。
「でも、とっても嬉しかったです」
「ちがう。そのことを言ったんじゃない。僕はただ」
「すごくすごく、嬉しかったです。薪さんにあんな風に言ってもらえて」
「違うんだ、あれは。あの時は動転してて」
 薪の抗弁を馬耳東風と受け流し、青木は眩しいくらいの笑顔を見せた。
 青木の全開の笑顔は、薪から瞬間的に声を奪う。その僅かな時間に、青木は薪が忘れたがっている失言をことごとく再生した。

「『僕が結婚しても他のひとを好きになっても、おまえは僕を一番好きでいろ』」
 歌うように言って、青木は席を立った。
「『子供ができても孫ができても、僕の一番近くにいろ』」
 テーブルをぐるりと回って、薪の隣に膝をつく。強張った薪の肩をやさしく掴んで、自分の方に向けた。
 青木は昔から薪のことだけは、天才的な記憶力を発揮する。1年以上も前のことを、言った本人もうろ覚えの台詞を、見事に再現してみせた。
「『死んでも僕を好きでいろ』でしたよね? なんたって、神さまの前で誓っちゃいましたからね。破るわけには行かないんですよ」
 最後の台詞だけは、はっきり覚えている。雪子の結婚式の日だ。
 教会の中、祭壇の陰に隠れて、誓いのキスをした。タイムリミットを忘れたわけではなかったが、青木との付き合いが5年も続くとは思っていなかったし、何より幸せに輝く雪子の姿が嬉しくて、薪自身かなりハイになっていた。

「オレは誓いを果たします。あなたが結婚しても、父親になっても。オレは一生あなたを好きでいます」
 組み合わされた薪の手が、青木の両手にすっぽりと包み込まれる。
「オレの恋人は、生涯あなただけです」
 熱のこもった恋人の瞳。キラキラと輝いて、真っ直ぐに薪を見る黒い宝石のような瞳。

 ダメだ、もう限界だ。
 薪は、青木の思い出の中に生きることを諦めた。

「じゃあ、捨てろ」
 搾り出すように、薪は言った。
「僕のために、この世でたった一人残った母親を捨ててみろ」
 せっかくひとが気を使って、思い出を作ってやったのに。恥ずかしいのを我慢して、自分からベッドに誘ったり人前でイチャついたり、旅行先では夫婦の真似事までしてやったのに。ひとの苦労を台無しにしやがって。
「友人も仲間も、自分の将来も。ぜんぶ捨てて、おまえの残りの人生、僕に捧げてみろ!!」
 きれいなままで別れたかったのに。醜い本性を出さなければ、青木は僕から離れない。
「おまえにそれができるのか!? 僕を選ぶってことは、そういうことだぞ。わかってんのか!」

 とうとう言ってしまった。これが僕の本音だ。
 世界と引き換えに、僕を選んで欲しい。すべての夢を諦めて、僕だけを見て欲しい。祝福される人生を捨てて、僕と日陰を歩いて欲しい。
 口では青木の人生を元に戻してやりたい、なんて言ってたけど、心の中ではずっとそう思っていた。
 僕はとことん汚くて。
 青木の親を泣かせても、こいつと別れたくない。人生を棒に振ってでも、僕を愛して欲しいと、心の底では願っていた。
 青木には知られたくなかった。彼の美しい心が描く美しい僕の偶像を壊したくなかった。
 でも、これでいいのかもしれない。青木も目が醒めただろう。現実を知っただろう。
 どちらにせよ、僕たちに未来はない―――。

「はい」
 あっさりと頷かれて、薪は耳を疑う。こいつ、僕の言葉の意味が理解できなかったのか。
「ちゃんと聞いてたのか? おまえ、親をなんだと思って」
「オレはとっくに覚悟してます。もう5年も前に。5月だったかな、その証は、小野田さんに預けてあります」
「小野田さんに? いったい」
「薪さんは知らなくていいです。これはオレと小野田さんの秘密です」
 薪は追求を断念した。青木がこういう言い方をしたら、口が裂けても喋らない。
「宇野さんの言ったとおりだったなあ。オレ、第九に勤めて良かったです」
 何を言っているのか分からない。青木の言動は、ときどき薪の理解の範疇を易々と超える。

「薪さん。結婚なさっても、オレと会ってください」
 また青木が、とんでもないことを言い出した。これから結婚しようという男に、婚前から不義の約束をさせようというのか。
「そういうの、間男って言うんだぞ。重ねられて4つに斬られても、文句言えないんだぞ」
「いつの時代の法律ですか」
 極端な返事に吹き出して、青木はクスクスと笑う。笑える内容でもないと思うが。
「僕がそういうこと嫌いなの、知ってるだろ」
「オレは、そんなことは望んでません。こうして会って、ごはん食べてお喋りして。オレはそれだけでいいです。薪さんが笑ってくれれば、オレはそれで充分です」
 青木はいつもきれいごとばかりだ。そんなことができるはずがない。……そう思う僕のほうが、汚れきっているのか。
 青木といたら、抱き合いたくなる。迫られたら拒めない。今だって、彼に触れたいと願う自分がいる。あんなに苦労して別れたのに、ふたりきりで会ったりしたら元の木阿弥になるのは目に見えている。

「美和子さんは、僕たちのこと知ってるんだぞ。何もしてないって言っても、信用してくれるわけないだろ」
 青木は知らないが、美和子には自分がゲイだと嘘を吐いている。美和子にだって愛する男性とその子供がいるのだから、薪が青木と縁りを戻しても彼女からクレームがつくことはない。むしろ、問題は青木のほうだ。
 このまま、青木を牢獄につなぐような真似を続けていくわけにはいかない。
「おまえが悪者になるんだぞ」
「オレは、泥棒猫でいいです。変質者のストーカーでいいです」
 スパッと言い切った青木に、薪はまたもや返す言葉を失う。
 前々から言葉の意味を知らないやつだと思っていたが、こいつは本当のバカだ。泥棒猫とかストーカーなんて、そんな爽やかな笑顔で言うもんじゃない。

「薪さんと一緒にいられるなら。他人になんて思われても、構わないです」
 薪の両手を包む青木の手に、ぐっと力が籠もる。じっと見つめられて、逸らすこともかなわずに、薪は青木の視線に射抜かれる。

 迷わない瞳。
 ああ、そうだ。
 青木は、ずっとこの眼で自分を見ていた。もう何年も前から、青木の気持ちは固まっていたのだ。
 覚悟ができていなかったのは、僕のほうだ。

「身のほど知らずが」
 自分の手を包む大きな手を乱暴に払いのけ、強い口調で薪は言う。
「僕のカウンセラーにでもなるつもりか? ただのセフレのくせに」
 できる限り辛辣な声音で吐き捨てるように告げたつもりだが、どうやら失敗したらしい。青木の顔が、笑ったままだ。
「おまえみたいな低脳に、そんな大層な仕事ができるもんか」
 夏らしい水色のネクタイをぐいと掴み、薪は青木の身体を引き寄せようとする。が、思ったよりも体力が落ちていて、逆に自分の身体が動いてしまった。
 彼の顔が、間近に迫る。思惑とは違ったが、結果は一緒だ。

「セフレならセフレらしく、僕を抱いてりゃいいんだ」
 薪は憎々しげにくちびるを歪めると、青木の唇を強引に奪い、舌を割り込ませた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(15)

タイムリミット(15)





 薪の身体は、すっかり衰えているように見えた。
 前々から細かった身体が、ありえないくらい痩せてしまっている。青木の片手で回ってしまうウエストは、手のひらに収まるほど細くなり、かすかに浮き出ていたあばら骨は目に見えてくっきりと、その形を明らかにしている。肉は殆どない。骨の間に、指が埋まってしまいそうだ。
 痛々しいほど頼りなげな薪の裸体に、青木の手が止まる。こんな状態の薪を抱いたら、壊してしまう。

「薪さん。今夜は止しましょう」
 身体の不調は当然、性感にも現れる。触ってもキスをしても、薪のそこは反応しなかった。シャワーを浴びたばかりの清潔な匂いのする薪の肩口に唇をつけて、青木は囁いた。
「早退しておいて、こんなことしちゃダメですよね。ちゃんと休まなきゃ」

 薪の体調が回復するまで、行為はお預けだ。
 待たされるのには慣れている。薪の我儘と気まぐれに掛かれば、デートのキャンセルなんて日常茶飯だし、1月以上させてもらえなかったこともザラだ。
 前戯と本番を飛ばして、後戯に入る。いつものように薪の頭を自分の肩に載せようとすると、薪は青木の腕を押しのけて下の方へ潜っていった。

 シーツがひとの形になって、モゾモゾと動いている。やがて目的の場所にたどり着いた華奢な手が、薪を前にしては大人しくなれない青木を捕らえた。
 やわらかい口唇が先端に触れ、すぐに濡れた内部に吸い込まれる。上下に擦られるたび、白いさざ波のようにシーツが動き、内からこみ上げる大きな波が青木の理性を奪っていく。
「薪さん、無理しなくていいです」
 息を乱さないように心掛けて、青木は薪の愛撫をやんわりと断る。
 しかし、シーツの動きは止まらない。小波のような動きは次第に大きくなり、男を狂わせる水音を立てる。

「いいですったら。我慢できなくなっちゃいます、ホント、っ!」
 付き合い始めて5年も経てば、薪の技巧も一流の域に達してきて、その口の中に注ぎ込むことも多くなった。薪も下で受けるより体力を消耗しないし、若い青木を満足させようと思ったら、こちらの技術に頼るしかない。
 後に引けないところまで追い込まれて、このままお終いまでして欲しいと、願いを込めて薪の髪に指を埋める。なのに薪はすっと頭を上げて、愛撫を中断してしまった。
 足を開いて青木の腰の上にまたがり、痛いくらいに脈動する青木の切っ先で入り口をなぞる。ぬるりとした感触は、薪が自ら準備した愛戯のための液体で、かれが先の行為を望んでいることを証明していた。
 しかし。

「無理です。薪さん、壊れちゃいますよ」
 薪の腰を押さえて動きを止め、右手を下方に滑らせる。その感触に、青木は悲しくなる。
 数ヶ月前までは、青木好みのふっくらした可愛い尻だったのに。今はごつごつとして固く、形も三角形に近い。
「平気だ」
「でも」
「いいんだ。これは、誓いだから」
「はい?」

 薪の顔が近付いてくる。あどけない頬が、青木の頬に頬ずりする。
 身体が痩せても顔にそれが表れない性質の薪の頬は、柔らかくすべらかで。つややかなくちびるは、アップで見るとたまらない蠱惑に満ちていて。

「お願いだから、僕の中に」
 ゆっくりと瞬く睫毛の動きは、孔雀が羽根を広げるように、薪の魅力を最大限に魅せつける。
「おまえの勇気を注いで」

 青木はやさしく薪の身体を自分の下に抱きこむと、骨ばった足を自分の肩に載せた。そうっとあてがい、見つめ合いながらゆっくりとひとつになる。

 少しずつ、慎重に。
 敬虔に、神聖な態度で。
 水鳥の羽毛のようにやさしく。
 ふくろうの羽音のように密やかに。
 声もなく。
 音もなく。
 愛の言葉さえ、いらない。

 微かに眉を顰めた薪が、切ない目をして青木の腕を掴む。引き寄せられるようにくちびるが触れ合い、あまやかな糸がふたりを結びつける。
 薪の背中に腕を回し、青木は薪の中を進む。自分の背中に縋る薪の手の弱々しさを感じて、青木は庇護と愛情を新たにする。

 このひとを。
 弾劾するものがあれば、自分はその口を塞ごう。
 殴ろうとするものがあれば、自分はその腕を折ろう。
 憎むものがあれば、その心を潰してしまおう。

 これから何があっても。
 必ず、このひとを支えていく。

 その夜の青木は、最後までやさしさを通した。



*****




「メシ食ってから、どのくらい経った?」
 青木の腕の中でため息交じりに薪が吐き出した言葉は、情交の直後には相応しくないロマンの欠片もないセリフだった。
「え? あー、2時間くらいですか」
「なるほど」
 何を納得しているのだろう。相変わらず、薪は謎だらけだ。

「もう寝るぞ。明日は戦争だ」
「あれ? 月曜までお休みもらったんじゃなかったんですか?」
 薪は答えなかった。
 もしかしたら、結婚式の準備が忙しいのかもしれない。むかし姉に聞いた話では、式の前の2ヶ月というのは寝る間もないほどやることがあって、舞の結婚式は楽しみだが準備のことを思うと憂鬱になるそうだ。

 そのことは考えないようにして、骨ばった硬い身体を抱きしめる。
 ……こんなに痩せてしまって。
 宇野の言った通りだ。画や言葉に惑わされて、ひとを見ることを忘れていたなんて。第九職員失格だ。

 辛い現実から逃れようと塞いでいた目を開いて、改めて薪を見れば。
 ドアを開けてくれた細い手は震えて、亜麻色の瞳はもっと震えて。あんな、親を亡くした子供のような目をして。どうやって生きていけばいいのか、考えることもできない迷い子のような瞳で。
 薪は、ずっと青木への気持ちを叫び続けていたのに。

 どうして信じなかったのだろう。薪は、恋人に抱かれながら他の人間に心を移すような器用なひとではないと、何故すぐに思わなかったのだろう。

 それに薪の性格なら、別れたいなら別れたいとはっきり言うだろう。それが言えなかったということは、まだ青木に心を残しているのだ。こうして青木に抱かれるということは、青木を愛しているのだ。
 自分たちがしている行為は恥ずべきことだが、薪の身体の方が大切だ。
 これから先、積み重なる季節の中で、薪が美和子を本当に愛するようになったら。その時こそ自分の役目は終わる。
 しかし今はまだ、そのときではない。

「そうだ。薪さん。今度宇野さんに、好物の五目稲荷を作ってあげてくれませんか?」
 宇野に何か礼をしたいと思ったが、彼が喜びそうなものといったらPC関連か薪の手料理だ。結果を報告するためにも、後者の方が望ましいだろう。
「すっごく食べたがってて……薪さん?」
 青木が覗き込むと、薪はすでに寝息を立てていた。
「墜落睡眠は健在ですか」
 久しぶりに見る恋人のかわいい寝顔にキスをして、青木は目を閉じた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(16)

タイムリミット(16)





 官房室に続く長い廊下を、薪は歩いている。
 公休日の警察庁に人影は少なく、薪の靴音だけが耳障りに響く。いつものように一分の隙もなく固めたスーツの背中では、不安と気概がせめぎ合っている。

 自分の職場に着いて、入り口の前で深呼吸をする。
 これから為すことを思うと、その罪の大きさに足が竦む。見慣れたドアが、地獄の門のようだ。

「どうしたの。今日はきみ、非番だろ」
 ノックに続いてドアを開けると、薪よりも休みの少ない上司が、ポロシャツにジーパンというラフな格好で机に向かっていた。
「ちゃんと休みなさいって言ったでしょ。ああ、でも顔色は少し良くなったみたいだね。安心したよ」
 薪の体調を気遣ってくれる、やさしい上司。小野田は昔から、薪にはずっと細やかな愛情を注ぎ続けてくれた。
 第九を快しとしない世間の迫害から、薪の早すぎる昇任を嫉む警察内部の政敵から、薪を守ってくれた。あの事件が起きたときでさえその態度は微塵も変わらず、ひたすら薪の身を案じ将来を嘱望し――― 薪にとっては父親のような存在。小野田に受けた恩を返すには、一生かかってもまだ足りない。
 それなのに。

「ぼくは大丈夫だから、早く帰りなさい。休めるときに休んどかないと、後悔するよ。次の休みはいつあげられるか、分からないんだから」
 薪はうつむいて、顔を伏せた。
 小野田の顔を見ることができない。恩人をここまで裏切る自分の非道さに、不誠実さに涙が出そうだ。
「どうしたの? 薪くん。何かあった?」
 心配そうな声が、薪の心を痛ませる。良心の呵責に耐えかねて、思わず踵を返したくなるのを、両足を踏ん張ってこらえた。

 大きく息を吸う。
 目蓋の裏に、真っ直ぐに自分を見ていた黒い瞳を描く。自分に注ぎ込まれた、彼の愛情を思い出す。
 僕はもう、迷わない。

「すみません! 僕は青木と別れられません!」
 目を瞑って腰を折り曲げ、お辞儀と一緒に叫ぶように謝った。勢いを付けないと言い出せないし、小野田の悲しそうな顔を見てしまったら、また決心が鈍ってしまう。
 そのまま床に膝をついて、薪は深く頭を垂れた。
「僕では、お嬢さんを幸せにはできません。どうか、僕と美和子さんの結婚は白紙に戻してください!」
 厚い絨毯の上は柔らかくて、正座した足には痛みもなく、それは薪をますます心苦しくさせた。絨毯に額を触れ合わさんばかりに近づけて、薪は床に向かって一気に喋った。
「どんな処分でも受けます。小野田さんの気の済むようにしてください。地方にとばされても文句は言いません。精一杯勤めさせていただきますから」

 額ずいたまま、小野田の審判を待つ。
 何を言われようと、反論はしない。どんな罰でも甘んじて受ける。だけど、小野田が一番望むことは叶えてやれない。

 さすがの小野田も言葉を失ったらしく、部屋は一時、静寂に包まれた。
 沈黙が重い。重みで押し潰されそうだ。
 このまま潰れてぺしゃんこになってしまえばいい、そうしてこの世から消えてしまえばいい。ともすれば否定的な考えに自分が傾くのを必死で堰き止める。
 もう、逃げないと決めた。この身体の奥には、彼に分けてもらった勇気が詰まっている。

 息を殺して重圧に耐えていた薪の耳に、やがて小野田の硬い声が響いた。
「家庭の事情で悪いんだけどさ、実はぼく今、ものすごく機嫌が悪いんだよ。はっきり言って、きみの顔を見るのも不愉快なんだ」
 当たり前だ。
 小野田からすれば薪の言い分は、『あなたの娘と子供は作ったものの、同性の恋人と別れられないから婚約は破棄して欲しい』というものだ。いっそ、殴りかかってこないのが不思議だ。
「出てってくれる? 君の手伝いは要らないから」
 穏やかだが、冷たい声。
 小野田にとってこの状況は、飼い犬に手を噛まれるどころか、大事な娘に噛みつかれ、一生消えない傷を負わされたようなものだ。殺しても殺したりないくらい、薪のことが憎いだろう。
 小野田は、ずっと自分を守ってきてくれたのに。今の自分があるのは、みんなこのひとのおかげなのに。その恩に報いるどころか、彼の社会的な立場にまで瑕をつけようとしている。

 心の中に良識の欠片でもあれば、こんな真似はできない。
 でも、僕は鬼だから。
 人でなしでいい。極悪人でいい。世界中の人に後ろ指を差されてもいい。

 僕は、青木と生きる。

「美和子がさ、きみと結婚するのはゴメンだって」
「は?」
「死んだサカナみたいな目をした男の相手なんか、ゾッとするってさ」
「あの……?」
 床に正座したまま、薪は顔を上げて上司の顔を見た。やってられないよ、まったく、と常にないむくれた表情で吐き捨てて、小野田は行儀悪く頬杖をついた。

「いいよ、もう分かったから。美和子と一緒になって、ぼくを騙してたんだろ」
 小野田の話についていけない。美和子がなんだって?
「きみ、美和子と何もしてないよね」
 本当のことを言っていいものかどうか判断がつかずに、薪は口を噤んだ。
「君が父親だとすると、美和子と会って1ヶ月足らずで子供ができたことになるだろ。そんなに上手くいくものかと思ってね。で、娘に訊いてみた」
 確かに可能性は低いが、それでもゼロとは言い切れないはずだ。美和子はシラを切りとおすことができなかったのだろうか。

「そしたら美和子がね、ベッドの中の君はすごいからって言ったんだよ。何回も続けてできるし、とても自分より12歳も年上には思えない。あれなら子供もできて当たり前だって。
 きみがあっちのほうはサッパリなの、ぼくは知ってるからね。すぐにウソだって分かったよ」

 そんなとこからバレたのか!?
 しまった、言っておけばよかった。僕はあっちのほうはめちゃめちゃ弱くて、3ヶ月に1回くらいが関の山、続けて二回なんてとてもムリ、って言えるか!!!

「問い詰めたら白状したよ。あの男の子供だとさ」
 無理矢理別れさせられたと言っていた、殺人者を兄に持つ、美和子の本当の恋人。
 気弱そうな彼の顔を脳裏に浮かべ、その写真を自分に見せてくれたときの美和子の笑顔を思い出して、薪は眉根を寄せた。
「小野田さん。祐二くん自身には、何の罪もありません。罪は加害者のみに課せられるものであり、親族に波及するものではない。それを小野田さんが身を持って証明されることは、決して官房長の名に恥じることではないと、僕はそう思います」
 差し出がましいとは思ったが、美和子の恋を応援してやりたい。
 自分と同じように、日向に出ることの叶わなかった彼女の苦しみは、薪には痛いくらい伝わってきた。彼女たちの障害は、小野田だ。彼の心を少しでも懐柔してやれれば。

「分かってるよ、そんなこと。きみに言われるまでもない。正直に言うとね、あの男、頼りないだろ。そっちのほうがイヤだったんだよ。それに、美和子にはどうしてもきみと結婚して欲しかったし。卑怯だとは思ったけど、彼のお兄さんのことを利用させてもらったんだ」
 小野田は一見やさしそうに見えるが、非情な策略家の顔も持っている。自分の目的を達成するためなら、使えるカードは徹底的に利用する。このひとが本気になったら、本当に怖いのだ。

「薪くん。きみも覚悟しときなさいよ。ただじゃ済まさないからね」
 小野田に向けられた初めての敵意に心が凍りつくのを感じながら、薪は殉教者のように何もかもを受け入れる覚悟を決めた。
「はい。存分に処罰してください。僕は小野田さんとの約束を守ることができませんでした。それだけでも、万死に値すると思っています」
「約束って?」
「5年前、僕と青木の関係に、小野田さんが執行猶予をくださるって。執行猶予の最長期間は5年ですよね、って僕が言ったこと、覚えてらっしゃいませんか」
 小野田が限りない寛容の心で自分たちを見逃してくれたとき、薪は小野田に『5年もあればお釣りがくる』と請合った。それを反故にするのだから、制裁は当然のことだ。

「薪くん。きみ、刑法、一から勉強し直してきなさい」
 小野田は手元の書類に視線を戻し、細めた目で文字を追う。その瞳は鋭く冷涼で、無情な管理者の眼でありながら、どこかしらやさしい光を宿している。
「執行猶予期間が満了したら、刑の言い渡しは効力を失う。前科もつかないし。ぶっちゃけ、そこで無罪放免なんだ」
 小野田の宣告に、薪の頭は凍る。
 感情も思考も停止した大脳で、無罪放免という言葉の意味を、薪は必死で思い出そうとする。

『無罪』ってことは、つまりええと……。

「そんなことも解らないなんて、呆れたね。そんなんじゃ、警視監の特別承認はあげられないな。今回の試験は見送りなさい」
「小野田さん。あの、あのっ」
 思わず立ち上がって、小野田の机に駆け寄る。一昨日まで義父として仕えようと心に決めていた上司の顔を、薪は下から覗き込んだ。
「きみには耳がないの?今日はきみの顔は見たくないって言ったでしょ。家に帰って休養する。それだって立派な仕事だよ」
「ありがとうございますっ……!」

 許してくれた、と思っていいのだろうか。
 青木と僕が一緒にいることが、決してマイナスの面ばかりではないと、認めてもらったと思っていいのだろうか。

「礼なんか言われたくないよ。さっさと出て行きなさいよ」
 言葉はとても冷たいのに。小野田の顔つきは、とても苦々しいのに。薪の頬はどうしても緩んでしまう。
「失礼します」と頭を下げて、薪は官房長室を出た。
 知らず知らず、早足になる。弾むような気分のままに、薪は走り出していた。甲高い革靴の音が廊下に木霊する。

 早く帰って、青木にこのことを知らせてやりたい。
 小野田さんが僕たちのことを認めてくれたと考えるのは都合が良過ぎるとしても、別れなさい、とは言われなかった。執行猶予が切れたら無罪だ、と言った台詞の裏側は不明だが、美和子との結婚は無くなったし、「青木と別れない」と言い切った薪に怒りを見せることもなかった。

 警察庁の門の前で、薪は足を止めた。
 逆光線の太陽をバックに、見慣れたシルエット。世界一愛しい、恋人の姿だ。
「どうして」
 薪がここに来たことは、青木は知らなかったはずだ。薪も言わなかったし、青木も聞かなかった。不思議そうに尋ねる薪に、青木は無邪気に微笑みを返す。
「小野田さんから電話をもらいました。1時間もしないうちに薪さんが警察庁を出るから、家まで送ってくれって」
「小野田さんが? おまえに?」
 薪の前で、小野田が電話を掛けた様子はなかった。ということは、薪が警察庁に入る前に青木に連絡を入れたのだ。
 おそらくは薪がこの門をくぐるのを見て、自分の部下が何をしに休日の職場を訪れたのか、小野田は瞬時に理解したのだろう。その上で、青木に電話をしたということは。

 全身を震わすような歓喜に矢も盾もたまらず、薪は恋人の胸に飛び込んだ。戸惑いながらも、青木がそっと腕を回してくる。渾身の力でしがみつく薪に、やがて青木の腕にも力が入る。
 しっかりと抱き合ったとき、薪の頬の辺りがブルブルと震えた。青木の胸ポケットで、携帯電話が鳴っている。

『青木くん。薪くんを送ってくれとは言ったけど、抱き合えなんて言ってないよ。離れなさい』
 携帯から、小野田の声が聞こえた。
 薪は泡を食って青木から離れ、仰ぎ見て小野田が窓からこちらを見ていたことを知る。
 官房室の窓から、シッシッと追い払うように手を振る小野田の表情は遠くてよく見えなかったが、苦笑してくれているかもしれないと楽観することにした。

 はるか上空の寛大な上司に深く頭を下げて、ふたりは警察庁を後にした。






テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(17)

タイムリミット(17)





 7月の日差しに焼かれて、白いチャペルが眩しく輝いている。
 黒塗りのレクサスが滑るように入ってきて、式場のエントランスに乗客を降ろした。車を運転していた亜麻色の髪の青年は、駐車場に車を停めると急ぎ足で式場に入った。素早く目を走らせて、花嫁の控え室に向かう。
 彼は、両手に大きな薔薇の花束を抱いている。赤い薔薇は彼の美貌を引き立て、華やかさを添えていた。

 たくさんの花に囲まれた今日の主役は、椅子に腰掛けて2,3人の友人と話をしていた。薪の姿に気付いて、驚いた顔をする。気遣いのできる友人たちは、自然に席を外してくれた。
「おめでとうございます、美和子さん」
「ありがとう。みんなあなたのおかげよ」
 彼女の花嫁衣裳は、ウエストのゆったりとしたドレープタイプ。裾引きのスカートもヴェールもなく、靴はシンプルなローヒール。それでも充分優雅で美しかった。

「ていうか、あなたの残念な下半身のおかげよね」
 ……式場にバクダン仕掛けたってガセ電入れてやろうか、コラ。

「美和子さんが勇気を出して、小野田さんに本当のことを言ってくださったから。その気持ちに、小野田さんも応えてくださったんだと思います」
「娘のわたしが、一番にお父様を信じなきゃいけなかったのにね」
「いいえ、僕が脅しつけるようなことを言ったから。人との信頼においても、真実に勝るものはないんですね。捜査官の基本を忘れてました。恥ずかしいです」
「だけど、この子が無事に生まれてこれるのは、本当にあなたのおかげよ。あの時あなたに気付いてもらわなかったら、わたし、ひとりで先走ってたかもしれない。感謝してるわ」
 きれいに化粧された美和子の表情は、今までと違った小野田家の父娘の関係を薪に伝えてきた。それは薪の心を温かくさせ、自分がやらかしたあれやこれやの失敗も、まったくの無駄ではなかったのかもしれないと思わせた。

「彼のお兄さん、執行猶予がついてよかったですね」
 美和子の結婚相手の兄が起こした致死傷害事件は、実刑4年、執行猶予5年という判決が出た。もともと被害者側から仕掛けた暴力を伴う挑発に乗せられたものであり、被告人に殺意は無く、深い俊悔が見られ、相手が素行に問題のある人物だったことも考慮され、殺人という事実がありながらも寛大な裁きが降りた。
「お父様が、とびきりの弁護士をつけてくれたから」
「小野田家のお抱え弁護士ですか。検察の苦い顔が浮かびますねえ」
 長年の経験から司法制度の裏側に詳しいふたりは、ふふ、と笑う。
 ほんの一時、自分の婚約者だった女性と微笑み合いながら、薪は彼女の幸せを心から祝福していた。

「剛さん。本当に、ありがとう」
「こちらこそ。おかげさまで、大事なことがわかりましたから」
「真実に勝るものはないってこと?」
 いいえ、と首を振り、薪は初めて美和子の前で満面の笑みを見せる。アイラインに縁取られた鳶色の瞳が、ひゅっと小さくなって彼女の驚きを表した。

 ふたりの間にある薔薇の花束の、すべての蕾が一斉に開いたかのような麗しさと眩しいほどの美しさ。こんな彼を見たことはない、と彼女は思った。
「僕は、あいつがいないと生きていけないみたいです」
「……結婚式3時間前の花嫁にノロケかますって、どーゆーひと?」
「いや、ノロケじゃなくて事実って言うか、あれ?」
 自分が言った台詞に照れて、薪は少し頬を赤くすると、美和子に花束を押し付けて控え室を出て行った。
 ひとり残された花嫁は、だいぶせり出してきたお腹をさすりながら、低い声で呟く。
「この子の名前『ツヨシ』にしたら、祐二さんが妬くかしら」



*****




 親族の挨拶ラッシュを済ませた後、小野田は喫茶室の窓際の席で紅茶を飲んでいた。
 一般客の来訪までには、まだ時間がある。ここらで一息入れないと、途中でへばってしまいそうだ。
 
 たった今会ってきた娘の夫となる人物に、小野田は心の中で舌打ちする。何の取り得もないつまらない男。薪の才覚の3割でもあれば、もう少し歓迎してやるのだが。
 しかし、薪が彼に敵わない一面も確かにある。美和子のあんな笑顔を引き出せるのは、彼だけだ。

「めでたい日だっていうのに、そんな辛気臭い顔するなよ」
 断りも無く向かいの席に腰を降ろした熟年の紳士が、気安い口調で小野田に話しかけてくる。洗練された動作で小野田と同じものをオーダーし、スマートに足を組む。
「花嫁の父親なんて、みんな複雑なものさ。おまえだけじゃない」
「まあね。娘はあと二人、残ってるしね」
 美和子の籍は、相手の家に入ることになった。執行猶予がついたとはいえ、犯した罪が消えるわけではない。彼は、小野田家に相応しい人間ではないのだ。

「そうだよ、おまえはいいよ。僕なんか、加奈子が嫁に行くときのことを考えると。あー、ダメだ。やっぱり別れさせてやる、あのふたり」
「手を切らなきゃいけないのは、おまえの方だろ。こないだの男の子、しつこそうだったぞ」
「後腐れのない相手を選んでるつもりなんだけどさ。たまに失敗しちゃうんだよな」
「いい加減にしなさいよ。終いにはアラスカ支局へ飛んでもらうよ」
 おどけた調子で小野田の気を引き立てようとしてくれる親友に心の中で感謝しつつも、口では辛辣な応えを返す。官房室付首席参事官の中園とは、幼馴染みの腐れ縁。ありがとう、なんて口が裂けても言いたくない。

 寒いところは嫌だ、どうせならハワイにしてくれ、などと減らず口をたたき続ける親友の話を聞き流して、小野田は手入れの行き届いた庭園を駐車場に向かって歩いていく人影に目を留めた。
 亜麻色の短髪をなびかせて颯爽と歩くその姿は、すれ違う人々を思わず立ち止まらせる。駐車場の方からやってきたカップルが、仲良く彼に見とれつつその傍らを過ぎたとき、彼はふと足を止め、ポケットから携帯電話を取り出した。着信画面を見て、ふわりと微笑む。
 何を話しているのかは知らないが、彼の瞳はキラキラと輝いていて。その表情は、限りなく幸せそうで。ちょうど彼の後ろには、庭園の奥に設置されたチャペルがあり、折りしも鐘の音が流れて――― まるで、ブライダルサロンのCMを見ているようだ。

「あの10分の1でもいいから、幸せな顔をしてくれてたらなあ」
 小野田の独り言を耳にして、中園がこちらに身を乗り出してくる。小野田の視線の先に薪の姿を見つけて、皮肉な口調で彼を揶揄した。
「まったく、顔に出やすい子だね。プリップリの頬っぺたしちゃって。ありゃあ昨夜、たっぷり若さを注ぎ込まれた顔だな」
「やめてよ。想像しちゃうじゃない。考えたくないよ、ぼくの薪くんがそんな」
「いっそ、アラスカに飛ばしちゃえば? 青木くんのこと」
「どこに飛ばしたって無駄だよ。離れていても心はひとつです、なんてクサイ台詞を真顔で言われるのがオチだよ。ごめんこうむるね、彼らのノロケ話を聞かされるなんて」
 薫り高いダージリンティーを口に運び、小野田は気分を落ち着かせようとする。同時にカップを取り上げた中園が、右手を宙に浮かせたまま小野田の顔を見据えた。

「分かってたんだろ? 最初から」
「まあね」
 カップをソーサーに戻し、正直に親友の質問に答える。昔から中園には、小野田の嘘が通用しなかった。
「ぼくは、それでもいいと思ってたんだよ。薪くんにあの嘘を貫いてほしいと願ってた。男女の仲なんて、どう転ぶかわからないしね。周りからできるだけフォローしてさ、時間さえかければあるいは、なんて淡い希望すら抱いてたんだよ。
 でも、当人たちがそれを望まないなら。無理強いするわけにも行かないだろ」
「へえ。おまえって、そんなにヌルイ男だっけ」
 目的のためには手段を選ばない。今の地位を守るために、小野田も一通りのことはしてきた。その中には、人には言えないこともある。古い付き合いの中園には、その辺のことも知られているのだ。

「仕方ないだろ。薪くんときたら、日に日にやつれていってさ。
 口数は減る、ミスは増える。終いには死人みたいな目になって。それでもぼくに気を使って、必死で笑おうとするあの子を見てたら、まるで8年前に戻ったみたいでさ。見ていられなかったんだよ」
「式のひと月前になっても招待状が届かないから。おかしいとは思ってたよ」
「式の予定は変わらなかっただろ。花婿の質は、だいぶ落ちたけど」
 あの男に引導を渡すつもりで薪に預けた第九の職員宛のものを除いて、招待状は小野田の手元に止めておいた。上層部や代議士に発送した後では、何があっても取り消せなくなる。
 念には念を入れて、行動は慎重かつ大胆に。小野田の戦法は、今回も効を奏した。小野田自身にとっても、苦い戦果となったが。

「薪くんにはガッカリだよ。たかが男と切れたくらいで、あんなにダメダメになっちゃうなんて。どうもあの子は、色恋に左右されすぎるっていうか」
「それだけじゃないだろ。みんなに嘘を吐いていることも、おまえを騙してることも、心苦しくして辛かったんだろうよ」
 おまえなんかに言われなくても分かってる、と小野田は心の中で舌打ちする。20年も前から見てきたのだ。薪の清廉な性格は、嫌というほど知っている。
 
 5年も前の約束なんて、忘れてしまう人間が殆どだろう。それを覚えていたばかりか、履行できないことで自分を責め、万死に値すると覚悟を決めて正面から謝罪にくるなんて。
 あの時は、本当に頭にきた。
 バカにつける薬はないというか、バカは死んでも治らないというか。いっそ豆腐の角に頭をぶつけて、そのまま豆腐に埋もれてしまえ、と叫んでやろうかと思った。

「純粋すぎるんだよ。あの子は」
 苦笑を洩らしつつ、中園が薪を庇う。きれいな男の子が大好きな彼は、何かと薪には甘いのだ。もちろん、薪の能力を高く評価した上での甘さだが。
「厄介な性質だね。その上頑固とくれば、もうお手上げだよ」
 もっとしたたかになってくれないと、自分の跡を継がせられない。自分のために他人を利用する術を覚えないと、この先は上っていけない。警察というところは、そういうところなのだ。
「先が思いやられるよ。今のままじゃ、とてもぼくの後釜には据えられない」
「よく言うよ。薪くんがもっとスレた子だったら、手元に欲しいなんて思わなかったくせに」
 小野田の言葉の裏側を、中園は見事に言い当てる。
 悩みの種とぼやきつつも、小野田は薪の純粋さに惹かれている。彼のような人間が伸び伸びと仕事ができる職場こそ、小野田が理想とする警察機構だ。自分は、それを創るための礎になる。

「今回の試験、見送らせたんだって?」
 一連の欺瞞の責任として薪に下した罰について、中園は早くも聞き及んでいるらしい。ああ、と軽く頷いて、小野田は厳しい口調を崩さずに言った。
「あの天然記念物指定が取れないうちはね。薪くんに警視監の試験は受けさせないよ」

 薪にこの処分を言い渡したときも、小野田はとても不愉快な思いをした。
『そんなことでは、僕の気がおさまりません。どうか、もっと重い処分を』
 そんなこと?
 警視監の受験資格を取り消されることが、『そんなこと』か。いったい、何人のキャリアが警視監になれると思っているのだ。何千人にひとりというその価値を、彼は分かっていないのか。
 血反吐を吐く思いをして、大事なものをたくさん切り捨てて、みんなここまでのし上がってくるのだ。無論、小野田もそのひとりだ。
 それを、『そんなこと』とはなんだ。小野田にしてみれば、あの背が高いだけで碌な能力もない道端の石ころのような男との絆のほうが、よっぽど『そんなこと』だ。
 小野田がそのことで薪を叱り付けると、薪はしゅんとうなだれて、すみません、と素直に謝った。充分に重い処罰と端からは見えるのに、本人はちっとも堪えてない。常識知らずの薪がきっとまた、「小野田さんが手心を加えてくれたんだ」などとあの男に説明するのだろうと思うと、はらわたが煮える思いだ。

「賢明だね。薪くんの性格じゃ、警察庁中引っ掻き回されちまうだろうな」
 警視監の昇格試験は、超が5つほど付く難関で突破したものは数えるほどしかいない。
 元来、昇格試験の目的は人員を篩いにかけることだから、ここまで階級が上がると受験の意味はなく、上層部の推挙によるものが殆どだ。今までの実績から鑑みて、薪には充分その資格があり、この上試験まで合格されると、彼を昇任させない理由がなくなってしまう。だから見送らせたのだ。
「おまえにはもう少し、ぼくの所にいてもらうことになりそうだよ」
「どうやら、先は長そうだな」

 ふたりの紳士の視線の先で、薪は電話を終えて携帯をポケットにしまうと、弾んだ足取りで駐車場へ歩いていった。細い後姿はしゃっきりと伸び、人類の希望と未来を背負っているかのように生気に満ちていた。
 薪の元気な様子は、小野田を微笑ませる。
 あれほど彼の言動に腹を立てていたはずなのに、薪の幸せそうな様子を見ていると、やはり嬉しくなってしまう。これが『デキが悪い子ほど可愛い』という心理か、と小野田は自嘲した。

「あーあ。あの子に『お父さん』て呼ばれたかったなあ」
「女々しいね、おまえも。スッパリ諦めろよ」
「おまえにぼくの気持ちは分からないよ。ぼくはね、20年も前から薪くんのことを」
「はいはい。後でゆっくり聞いてやるから。ほら、出番だぞ」
 喫茶室の入り口で、担当の係員が小野田に頭を下げる。集合写真の撮影準備が整ったのだろう。
「やれやれ。花嫁の父もけっこう忙しいね」
 片手を上げてそれに応え、親友に小さく愚痴って、小野田は立ち上がった。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(18)

 しばらくの間、ご挨拶もできずにすみませんでした~。

 実は、オットが尿管結石を患いまして。
 22日に左の背中が痛くなって、近くの内科に掛かったんですけど、理由が分からず胃腸の薬と痛み止めを貰って様子見。 翌日は祝日で、病院がお休みだったので、24日の木曜日に大きな病院へ行ってCT撮って病名が判明しました。
 内臓の病気じゃないから心配要らないよ~、膀胱のすぐ傍まで下りてるから今日か明日には治るよ~、とお医者さんに言われて、薬と痛み止めを貰って帰宅。
 でも、金曜の夜になっても痛みは止まらず……痛み止めも3時間くらいしか効かなくて、残りの18時間は「痛い」と「すごく痛い」が周期的に繰り返されるそうで、夜も熊のように寝室をウロウロと歩き回っておりました。(痛くて眠れないのと、横になっているより立っていた方が痛みが和らぐらしい)
 土曜の夜には痛みがMAXになってしまって、救急病院へ連れて行きました。 田舎に住んでるもんで、車で50分くらいかかるのですけど、四の五言ってられない状態で~~、
 これ、本当にただの結石なの? もう5日だよ、長すぎない? 他の病気なんじゃないの?
 とか考えてしまって、けっこう焦りました~。 休日だから専門医がいないし~~、祝日、土、日に病気になるのは困りますね。

 結局、石は日曜日の夕方に飛んだらしいのですが、おかげで月曜日は仕事がパンク状態!!! そりゃそうだよ、この時期に5日もサボっちゃったんだもんっ!

 うがーっっ!! と心の中で叫びながら仕事を片付けていたのですが、友人に言われて気付きました。 
 もしもお勤めに出ていたら、日中、何度も病院に連れて行ったり、オットの世話を焼いてあげることもできなかったのだろうなって。 今の社会では、それは贅沢とも言えることなんだなって。
 大事なひとが苦しいときに傍にいてあげられる自由があるのは、幸せなことなんですね。

 そういう気持ちで溜まった書類を見れば。
 やっぱり「うがーーーっっ!!」ってなる★ ←ダメ人間。



 さーてっと。
 お話の方は、残り1章ですね。 次のエピローグでおしまいです。
 まきまきさん、サクサク終わっちゃってすみません~。 お詫びに、次は『言えない理由 sideB』を公開しますので。(^^) (←イタイすずまき話。 死者に鞭打つとか言われそうだ)
 
 
 





タイムリミット(18)




 夕食の話題は、一通の葉書だった。
『男の子が生まれました』とホップな文字で飾られた写真付の吉報に、薪はその夜、とても機嫌が良かった。

「賢そうな子ですね」
「美和子さんの子だからな。我が儘に育つんだろうな」
「祐二さんに似れば、やさしい子になると思いますけど」
 にっこりと笑った仲の良さそうな夫婦の間に、白い産着に包まれて母親の腕に抱かれる赤子の姿がある。丸々と太った赤子の後ろには、命名『祐輝』と書かれた掛け軸。

 子供の名前は、実は薪がつけた。
 生まれてくる子供に薪の名前を付けたいという夫婦の申し出を、薪は固辞した。それは彼らの感謝の証であったけれど、薪は美和子と婚約していた事実がある。期間は3ヶ月足らずだったし、世間的に見て薪はただのアテ馬だったわけだが、それでも誤解を受ける恐れがあるからと丁寧に断ったのだ。
 薪に相談されて、青木も一緒に子供の名前を考えた。青木がいなかったら、この子は古典的な名前になっていたかもしれない。
 というのも、子供の名前を考えるのは存外大変な作業で。名前の響きだけでなく、漢字の意味やら画数やら果ては運勢まで、考えすぎて煮詰まってしまい、「もう太郎でいいだろ」と言い出した薪のテンションを何とか上げて、この名前に落ち着かせたのだ。

 美和子の結婚式から4ヶ月が過ぎて、季節は晩秋を迎えていた。
 来月、1年の終わりの月に、薪は43歳の誕生日を迎える。その美貌は相変わらずで、年齢を聞くと我が目を疑いたくなる。ひいき目に見ても20代前半、下手をしたら高校生だ。このひとの成長ホルモンは、一体どうなっているのだろう。
 肌理細やかな肌。薔薇色のくちびる。長い睫毛と大きな瞳。この顔で43というのは、ある意味犯罪だ、と青木は思う。
 見れば見るほど惹きつけられて、魅せられて。年月と共に色褪せるどころか益々あでやかに、咲き誇る花のような魅惑を発するようになってきた。静謐な白百合を思わせる佇まいは変わらずとも、時おり見せる真っ赤な薔薇のような妖艶さ。誘惑に満ちた色濃いフェロモンを、今もその身体に漂わせていることを、本人は気付いているのかいないのか。

 さりげなく外された胸のボタンに、前髪をかきあげる細い肘の角度に、知らず知らず煽られて。下くちびるをぺろりと舐めた小さな舌の赤さとその動きに、我慢ができなくなった。
 青木の向かいで葉書を持っていた薪の手を、そっと握る。
 若い恋人の欲情のタイミングを計りかねている薪が、訝しそうに青木を見た。
「今夜、いいですか?」
「今日は約束の日じゃないだろ」
「お願いします。1度だけでいいですから」
「嫌だ、面倒くさい。セックスなんて、1年に1回もすれば充分だろ」
 ……間隔が延びてる。そのうちオリンピックみたいに、4年にいっぺんとか言い出すんじゃないだろうか。

 生まれつきこちらの方面には興味が薄い薪は、大昔のおかま帽を被った探偵が出てくるDVDを見たり、ネットで次のデートプランを練ったり、夜はそんな風にして過ごすのが好きなのだ。薪に合わせられるのは、70歳くらいの煩悩から解き放たれた世代の人間だろう。青木がそこに到達するまでには、あと40年くらい掛かりそうだ。
 仕方ない。いつもの手でいくか。

「じゃ、キスだけ」
 薪はキスが大好きで、どんなに機嫌が悪いときでもこれだけは許してくれる。
 仕方ないな、という表情でこちらを向き、光線の関係で青みがかったようにも見える目蓋を閉じてくれる。
 頬に手を添えて上向かせ、艶めいた花びらのようなくちびるにくちづける。自然に開く花弁を押し分けて中の実を舌先で剥き、その甘さに酔いしれる。
 のけぞった顎下から首筋にかけて舌先を滑らせ、可愛らしい耳を甘噛みする。ぴくん、と薪の両肩が上がって、困惑したように眉根が寄せられた。

「あ、青木。キスだけって」
「キスですよ? 誰もくちびる限定なんて言ってないでしょ」
「それはサギじゃ、んんっ」
 詐欺じゃない。
 だって、薪も青木の行動を予想しているはずだから。
 本当にしたくないときは、薪はくちびるを開いてくれない。青木の舌に応えてくれたら、それはOKのサインなのだ。
 誘っても拝み倒しても、素直に頷いてくれない恋人をベッドに連れ込もうと思ったら、こんな回りくどい手を使うしかない。なんて面倒くさい、と他人は思うだろうが、本人たちにしてみれば、これはこれで楽しい。

「おまえってば、ズル……あ、あんっ」
 早くも乱れ始める薪の様子に、青木は自分の行動が正解だったことを知り、密かに安堵する。薪も今日は、その気でいてくれたらしい。このひとは本当に勝手なひとで、これを読み取ってやらないと、あとで機嫌を悪くするのだ。
「ベッドに」
「いつかみたいに、ここでしたいんですけど」
 狭い椅子の上での不自由な愛撫に焦れて、薪が場所の変更を求めてくる。常ならばそれに応じるが、今日はぜひ、以前の感度を取り戻した薪をキッチンで味わいたい。青木は何週間か前から、この機会を狙っていたのだ。
「ね、いいでしょう?」
「イヤだ! 放せ、このヘンタイ!!」
 ドカッと腹に蹴りが入った。後頭部を殴られて、目から火花が出た。
 青木は不承不承、薪を抱えて寝室に移動する。させてもらえないよりはマシだ。

 せめて灯りは点けたままで、ベッドの上で白い肌を味わう。薄く脂肪ののった腰周りや太ももは滑らかで柔らかく、手のひらで擦ると微かな震えが伝わってくる。
 薪の身体は、元の麗しさを取り戻しつつある。まだ完全ではないけれど、ヒップも丸みを帯びてきたし、あばら骨も目立たなくなってきた。
 以前のような手触りを楽しむには、あと3キロくらいかな、などと計算しながら恋人の腰を撫でていると、横向きに寝そべって青木の背中に片腕を回していた薪が、上目遣いのコケティッシュな表情で剣呑な言葉を吐いた。
「おまえ、この頃やたらと僕のケツに触ってくるけど。チカンの練習でもしてるのか」
 恋人を使って痴漢の練習って、何の意味があるんだろう。
「薪さんのお尻ってかわいいから。つい触りたくなるんです」
 青木がそう言うと、薪は思いっきりイヤそうな顔をした。
「ヘンタイ」
 ベッドの中で恋人の身体に触って、変態呼ばわりされるなんて。相変わらず理不尽だ。
 
 そう思っても口に出しては言えないから、青木は行動で不満をぶつける。薪の腰を持ち上げて割れ目に顔を埋め、肉の感触を頬で確かめる。
「止めろ。普通はしないんだぞ、こんなこと」
「オレ、ヘンタイですから」
「あ、や、いやだ。中はダメっ……!」
 指先と舌で薪の秘密をつつけば、たちまち追い詰められた薪が切ない声で啼き始める。足を開かせて裏返し、膝を立てさせて彼のすべてを露呈させれば、もう嫌だとは言わず青木の舌に悶えて腰を捩るばかり。
「キス以外のことも、してもいいですか?」
 耳元で囁くと、今度は素直に頷いて、それは薪が青木を欲しがってくれている状況証拠。押し当てるだけでほどけていく秘部の潤いは、確かな物的証拠だ。

 薪の上半身を後ろから抱きしめて、覆いかぶさるようにひとつになる。急に攻めてはつらいかと恋人の身体を気遣えば、誘い込むような薪の動きが青木を先導する。請われるままに、引き出し押し込み。きゅんきゅんと締め付けて腰を使う薪の中を、右へ左へ掻き回すように打ち込む。
「ひゃんんっ! い、いあああ!!!」
「……鼓膜が破れそうです」
 快楽の虜になった薪の、びっくりするような声。この声を聞くと、薪が本当に感じてくれているのが分かって、前後のことも考えずに夢中で攻め立ててしまう。
「も、ダメ! もうっ!!」
「ちょっ、待ってください。オレ、まだ……!」
「あっ、あっ、あ―――ッ!!」
 しまった、激しくしすぎた。薪はあんまり長持ちしないから、快感を長引かせる工夫が必要なのに。

 くにゃりと薪の身体がベッドに沈んで、顔が枕に埋まった。
 青木を受け入れたままの状態で、薪は間もなく寝息を立て始める。その間、なんと30秒。墜落睡眠も神業の域だ。
「すいません。コレ、どうしてくれるんですか?」
「くか――――」
「ムゴイ……」

 薪はカンペキに元に戻ってしまった。
 我儘も自己中も、皮肉も嫌味も意地悪も。自分勝手なセックスまで、すっかり元通りだ。

 薪本人は何も変わらないのだが、青木には嬉しい変化があった。しばらく前から、青木は自分の自由意思で、薪の家に泊まっても良いことになったのだ。
 美和子との破談が決定的になった、あの日。
「離れたくないです」と普段は言わない我儘をこぼした青木に、薪は説教を始めた。
「泊まりたけりゃ、泊まればいいだろ」
「だって薪さん。前に、そんな半同棲みたいなだらしない真似はダメだって」
「おまえがいつまでもそんなだから、小池に『室長っ子』なんてからかわれるんだ」
 おそらくそれは、自分たちの関係に勘付いている彼の、軽い嫉妬を含めた皮肉だったのだろう。恥ずかしがり屋の薪には、とても教えられないが。
「おまえ、もう30だろ。自分の行動は自分の責任において決めろ。おまえが決めたことについて、僕は何も言わない」
 ベッドの中でそれだけ言うと、薪はいつものように寝入ってしまった。眠る薪を抱きしめたまま、その日青木はとても幸せな朝を迎えたのだ。

 温かい蒸しタオルで薪の身体を清めながら、青木は頬が緩むのを抑えられない。
 自分から誘って奉仕をしてくれた薪よりも、今の薪の方がずっといい。やっぱり薪はこうでないと。
 5年という月日の間に、青木の奴隷根性も骨の髄まで沁みたようで、そんな考えが一般的でないことなど、気にもならない。
 
 チェストからパジャマを出し、海月のようにふにゃふにゃした恋人に着せてやり、布団に包んで床に寝せる。シーツを新しいものに取り替えて、再びベッドに横たえ、首まで包むように布団を掛けてやる。
 明日の朝、薪が爽快な目覚めを迎えられるように。清潔な寝床は夜のうちに設えておく。薪が起きる前には風呂を沸かし、コーヒーの準備をして。ベッドで一緒にコーヒーを飲んでから、薪を風呂に入れて身体を洗ってやって。
 ドレイの仕事は山程あって、薪といる限り青木にはゆっくり休む暇もないのだが、その奉仕のひとつひとつがこの上なく楽しみだ。
 
 つんと澄ました恋人の清廉な寝顔にしばし見惚れ、軽くくちびるにキスを落とすと、青木は薪の雫を含んだシーツを持って寝室を出た。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(19)

 最後のエピローグです。
 これまでお付き合いくださいまして、感謝にたえません。
 誠にありがとうございました!!






タイムリミット(19)




      エピローグ  ~2068.春 サナギの中~







 幾週も続いた捜査がひと段落ついた週末、薪は幼虫になった。
 
 目が溶けるほど睡眠をとり、パジャマのままでうだうだと食事をし、ゆっくりと風呂に浸かってからまたパジャマを着て、リビングの床に昼寝用の布団を敷いて寝転んだ。ごろごろと寝返りをうち、もぞもぞと動いて布団に頬ずりをし、枕代わりのクッションを抱いて目を閉じた。
 お日さまが高くなる時間まで眠ったのに、またウトウトしてきて、人間は寝溜めはできないけれど永遠に眠り続けることはできるかもしれないとバカバカしいことを思う。とろりとろりと脳が溶けていくような心地よさを味わいながら、意識を手放そうとしたときチャイムが鳴った。

 まったく間の悪い。あいつはいつもそうだ。

 ノンレム睡眠に落ちかかっていたせいで重く感じられる身体を引きずるようにして、薪は玄関に向かう。カメラで来訪客を確認するまでもない、壁の時計はいつも彼がここに訪れる時刻を示している。
 ドアを開けると昨夜まで一緒にモニターを見ていた部下の姿があり、しかしその服装と表情は15時間前とはまるで違っている。ジーンズ生地のラフなダウンシャツにコットンパンツ、髪も洗って乾かしただけで、額に落ちる前髪を左に流している。

「薪さんっ」
 弾んだ声で名を呼ばれ、いきなり抱きすくめられた。外見の相違点以上に彼の行動は職場のものとは違って、それはつまり彼の立場の違いだ。休日の午後にここに来る彼は、薪の部下ではなく、もっと近しい存在だから。
「まだお休みだったんですか? 疲れてらっしゃるんですね」
 パジャマ姿に気付いて気遣う素振りを見せるが、薪を眠りに戻らせてくれようとはせず、立ったままキスをされた。軽く済ませてくれればいいものを、むさぼるように吸い上げられて胸が苦しくなる。薪は無抵抗のまま、相手の腕に身体を預けている。抵抗する気がないのではなく、手足が言うことを聞かない。低血圧で寝起きにはうまく身体が動かない薪の弱点を、相手はよく知っている。
 
 足がもつれて真っ直ぐに歩けないのを見透かされたか、抱え上げられて運ばれ、リビングの布団に寝かされる。覆いかぶさってきた恋人に、弱々しく薪は抗議した。
「疲れてるんだ、休ませてくれ」
「オレもです。さすがに4日目の徹夜はきつかったです」
 薪より12歳も年下の部下は情けない顔で弱音を吐くと、眼鏡を外してローテーブルの上に置き、薪の隣に寝転んで長い腕をこちらに伸ばしてきた。薪の背中の下に手を入れて、横に転がすようにして自分の胸に抱きこむ。薪の髪に鼻先を埋めて、すうっと息を吸い込み、薪さんの匂いがします、と当たり前のことを言った。

「本当は家で休もうと思ったんですけど。お休みが重なったのに、薪さんに会わないなんてもったいなくて」
 もったいない、という表現はおかしいと思ったが、いつもの5%も働いていない薪の脳は状況を的確に表現する言葉を見つけることができなくて、またそれを指摘するのも面倒で、結局薪は検索作業を放棄する。スリープモードの薪の頭を彼がそっと持ち上げて自分の肩に載せるのに、抗うこともできない。
「薪さんだって、こうしたほうがよく眠れるでしょ」
 半身を触れ合わせ、足を絡めるように抱き合う側臥の姿勢。完全な側位ではなく、薪の方は伏臥に近く相手は仰臥に近い。要は相手の身体に薪の右半身を載せるような形だ。その体勢が安眠に適していると推奨する彼を、薪は鼻で笑い飛ばした。
「はっ、女の子の胸ならともかく、男の胸なんて。固いしゴツイし、汗くさ……ぐぅ」

 文句を言い終わらないうちに眠りに落ちていく自分を相手が笑っているのが胸の振動でわかって、それはとても腹立たしいことのはずが何故か嬉しくて。先刻抱えていたクッションより遥かに寝心地の悪い褥が妙に気持ちよくて、薪の意識はあっという間に浮遊する雲間に埋もれた。



*****



 それからふたりはサナギになった。
 リビングの床に敷いた小さな布団の上で、抱き合って丸くなって。

 薪がすやすやと眠る幼子のように安らかな寝息を立てれば、青木は雄大な海のように深いストロークで呼吸をする。ペースも息継ぎの間隔もまるで違うはずのふたりの呼気は、どういう不思議かぴったりと合わさって。それは互いの背中に回した手のひらから伝わる肺の収縮による筋肉の動きのせいかもしれないし、互いの肌に掛かる息の間合いからかもしれない。
 
 寝苦しいと一蹴した褥に、薪は深く深く沈んでいく。薪が辿りついたのは、海の底のような蒼くて薄暗い空間。静かでとても居心地がいい。
 広い空間にたったひとりで、でも全然さびしくない。感じるのは、自分を包むなにか。周囲の空気が、いや、この空間そのものが自分を守ってくれているような気さえする。
 現実の身体は恋人の腕の中で窮屈な形に戒められているのに、ここでの薪は自由に動ける。伸び伸びと手足を投げ出し、遊び疲れた子供のように仰臥して、その解放感に身を委ねた。

 青木は自分の上に乗った快い重みに、安心を覚える。
 薪の身体から力が抜け、すべてを自分に預けてくれる。彼の平穏をこんなに近くで感じ取れる、もしかしたらその一翼を自分が担っているかもしれない。それは彼にとって最大級の喜び。
 現実には布団よりずっと重いものを載せられて苦しいはずなのに、彼は浮遊する自分を感じる。形状の束縛を逃れた彼は、隣で眠る大切な存在に寄り添うように形を変える。
 彼の頭頂部からつま先までを包み込むように身体を広げて、あらゆるものから彼を守ろうとする。だけど現実に守られているのは自分の方だと嫌になるくらい分かっている青木は、せめて彼の眠りくらいこの手で守りたい、と強く願う。

 眠りの波形の頂点で時折、薪はぼんやりと目を開ける。うつらうつらとした時間が10時間以上も続いていれば、眠りも浅くなって当然だから、それは幾度も繰り返される。
 その度に亜麻色の瞳に映るのは、見慣れた男の顔。ガキくさくてマヌケで、だけど何故か薪の胸をあたたかくする。温まったこころとからだに眠気を促され、薪は再び目を閉じる。穏やかに寄せてくるやさしい波にその身をさらし、攫われる快感を楽しむ。

 隣にいる美しいひとのことが気になって、青木は時々目を覚ます。眠っている最中にも薪のことが頭から離れなくて、愛しいと強く思った瞬間、彼の眠りは破られる。
 目を開けると、目蓋を閉じた薪の顔が至近距離で寝息を立てていて、その美しさと安らかさに青木は至上のよろこびを覚える。
 深い眠りを要求する若い体の欲求に負けて、青木はすぐ目を閉じる。目蓋の裏に、たった今見た天上の美をのせて。

 そうしてふたりで寝息を重ね、互いの眠りを深くして、静かで平和な時を過ごす。
 せっかくの休日なのに、新緑が見ごろの爽やかな気候なのに、昼間から眠ってしまうなんてつまらない連中だ。そんなふうに評されても反論できない彼らの休日は、実は最高に満たされていて、その満足感は彼らにしかわからない。
 普段から時間に追われている彼らにとって、滅多に過ごせない怠惰な時間はとびきりの贅沢だ。それを一緒に味わえることの幸せ。意識はなくても、この世で一番望む相手が隣にいることをふたりは知っている。彼らの穏やかな眉目と安心しきったリズムで打つ胸の鼓動が、その事実を物語る。

 閉ざされた空間で、彼らだけの世界で。彼らにしかわからない幸福は、だれに認められずとも確かに存在する。
 サナギの中で眠り続ける、幼虫たちの幸福。



*****



 ふわりと水面に浮かび上がるように眠りの海から放たれた彼らは、目の前で互いの目がゆっくりと開くのを見た。

 最後の寝息を同時に吐き終え、同じ瞬間に目蓋を開いて、直後に見るのは夢の中ですら見ていたいと思う愛しい顔。
 ああ、なんて幸せなんだろう、と青木は思い、昼寝をすると頭が痛いと薪は愚痴る。低血圧の薪は、寝起き時は機嫌が良くない。
 コーヒーでも淹れましょうか、それとも風呂を炊てましょうか、と気遣う青木に、薪は額を押さえつつ、青木、と不機嫌そうに呼びかけた。
「両方ですね、はいはい」

 薪をそこに残して起き上がろうとするのを、薪の腕が青木の肩を抱いたまま、それをさせない。さては抱き上げて椅子に座らせろ、あるいは風呂まで運べ、という薪お得意の無言の命令だと悟って、青木は恋人の細い身体をソファに座らせる。
「風呂が沸くまでここで待っててくださいね。只今、コーヒーをお持ちしますから。……薪さん?」
 青木がそう言っても、薪の腕は青木の首に絡んだまま。不思議に思ってかれの名を呼ぶと、薪ははんなりと微笑んで、
「僕たち、一緒に暮らそうか」

 薪の科白に、青木は言葉も出ない。薪は強烈に寝ぼけるタイプだが、ここまでボケたのは初めてだ。
 なにか悪いものでも食べたのだろうか。熱もないみたいだし……あれ? 今日ってエイプリルフールだっけ?
 いや、違うな。今年のエイプリルフールはもう済んだ。
 
 青木は毎年、第九の先輩たちに悪質な冗談でからかわれるのだが、今年は特にひどかった。異動の辞令を偽造して、それぞれに餞別の袋を青木に手渡した。雪子にいたってはお別れの花束まで贈ってきた。副室長の岡部が『ロンドンへ行ってもがんばれよ、青木』と肩をたたき、薪は『どこへ行っても第九の誇りを忘れるな』と感動的な台詞を吐いた。青木は、薪やみんなと離れるのがイヤで思わず涙をこぼしてしまい―― 次の瞬間、全員が床に突っ伏して笑い転げた。
 今年こそは騙されまいと気張っていたのに、人事部長の承認印まで偽造するという念の入ったイタズラにやっぱり引っかかってしまった。宇野の仕業だろうが、ものすごく精巧にできていたのだ。

『一緒に暮らそう』なんて、薪がそんなことを本気で言ってくれるわけがない。付き合い始めて6年目、アイシテルの言葉さえ彼の口から聞いたのは片手に余るほど。引き換え「バカ、マヌケ、役立たず」などなど、罵倒のセリフは千回をとうに超えた。そんな生活を8年も送っていれば、どんな天使だってひねこびる。
 オレってけっこう可哀相、だけど世界一の幸せ者だという自信もある。その二つの評価は青木の中で矛盾しない。
 ここでカンゲキする素振りを見せたらこの感動をぶち壊し、粉々に砕いて楽しむ薪の非道な性格を知っている青木は、薪が『冗談に決まってるだろ、バカ』と言ってケラケラ笑い出すのを待っていた。しかし、薪は動かない。
 ずい分タメが長いな、もしかしてまた眠ってしまったのかな、じゃあ今のは寝言?
 意地悪説から寝ぼけ説に傾きかけた青木の耳に、ようやく薪の声が聞こえた。

「いっしょにいよう。ずっと」

 素直でストレートな飾らない言葉。青木の首に顔を伏せて、薪の表情はわからない。だけど彼の声は、やさしさと好意に溢れていて。まるで動物たちに話しかけるときのような、むかし親友の写真に話しかけていたときのような、自分の耳には馴染みの薄いその響きを、青木は全身で感じ取った。

「はい」

 それ以上、言葉が出なかった。
 壊れた言語機能は放棄して、青木はソファに座り薪の身体を自分の膝に乗せ、ぎゅっと抱きしめた。やわらかい薪の頬が青木の頬に触れて、その夢のような感触に自分はまだ夢の中にいるのかと妙に納得し、次いでやっぱりそうかと苦笑する。

 まどろむ春の午後に青木が見るのは、夢の夢、夢のまた夢。
 夢でいいから永遠に醒めるな。



*****



 その夜、ふたりは一緒に羽化した。
 欲望に大きくからだを膨らませ、その圧力で蛹殻を破り、翅脈に愛情を送り込んで思う存分羽根を広げた。
 誰にも邪魔されない秘め事の愉しみに、ふたりはクスクス笑いながらお互いのからだを探りあう。表も裏も中も外も、余すところなく触れ合わせて。

 青木の膝の上に跨るようにして、彼の腕の中にすっぽりと包まれる、それは薪がいちばん安心して快楽に浸れる体勢。
 周囲に回された腕に自分を守ろうとする意志を感じる、でも本来守護者になるべきなのは自分の方だ。だから薪は彼の腕をほどき、青木のからだを横たえて彼の快楽に奉仕する。
 そうして彼の官能を深める努力をしつつ、自分もまた彼と同じ感覚を味わい。彼とつながって溶け合う場所から生み出されるうねるような煽動に、我を失いそうになる。やり過ごそうとして、しかし能わず、結局はその衝動に身を任せ、溺れ。
 制御の利かなくなった薪に気付き、青木は半身を起こして快楽に耽る彼を愛おしそうに抱きしめる。羞恥心からかプライドからか、自分を抑えようとする薪もかわいいが、流されてしまう彼はもっとかわいい。

 消し飛んだ理性の残骸が自分を抱く恋人の腕を感じ取り、薪は夢中で相手の背に爪を立てる。身体中に満たされたエナジーが、解放の瞬間を待っている。
 悲鳴にも似た声と共に渾身の力で相手を抱きしめ、自分の中で大きく脈打つ彼を認識した瞬間、薪は自分のからだがぱっくりと割れてかれを包み込むような不思議な感覚を覚える。自分は青木の腕に抱かれ、彼に愛されながらもこうして彼を満たすことができる。昔のように受けるしか能のない愛玩人形ではないと、今の自分の在り方を自覚する。

 振り返ってみれば、と薪は思う。
 僕はずっと、殻に閉じこもった蛹だった。
 自分を縛る様々な制約、でもその多くは自分自身が作り出したもので、自分が強くなれば何ということはない、明日からでも破れる呪縛。

 青木のため、彼の将来のため、彼の親を泣かせたくない、そのことで彼を苦しませたくない。青木との関係を否定する理由はいくらでも思いついたけど、自分はあくまで青木のことを思って彼と距離をおこうとしているのだと自分に信じ込ませようとしていたけれど。そんなものは欺瞞に過ぎない、僕はそんな立派な人間じゃない。鈴木みたいに本気で他人を思いやれるような人間になろうとしたけど、結局はなれなかった。
 青木の未来を奪うのが怖かった、自分自身そう思い込んでいたけれど、底の底まで自分の心を探れば、そこにいたのはただの臆病者で。要は、自分が周りの人間に謗られるのが怖かっただけだ。いつも一緒にいたい、一緒に暮らしたいという互いの気持ちを拒んでいたのは、それだけの理由だった。

 青木はとうの昔に、僕に自分の人生を預けてくれていた。僕はとっくにそのことに気付いていた。この男は僕のためなら命を懸ける、そう分かっていた。
 だけど、僕には自信がなかった。もしものときには世界でたったふたり、他に味方は誰もいなくなる。あらゆる弾劾から彼を守り、人生のすべてと引き換えにして余りあるほどの幸福を彼に与える、そんなことが自分にできるわけがないと思った。
 そんな理由から、僕は常に逃げ道を用意していた。いつ別れてもいいように、傷が最小限に抑えられるように、予防線を張っておいた。愚かな僕。

 目の前の問題から逃げることばかり考えていた卑怯でちっぽけな僕を、青木はずっと愛し続けてくれた。さんざん迷って堂々巡りを繰り返して、転んで起き上がって歩き出してまた転んで、そんな不器用な僕を、青木は辛抱強く待っていてくれた。
 僕は転んでできた傷の分だけ痛みを知って、起き上がった回数分だけ強くなった。そうして辿りついた解は、ひどく単純で明確な真実。

 例えるなら、僕たちは一対の羽根。どちらが欠けても飛べない。
 一生カゴの中で飛ぶことを知らなくても鳥は生きていけるけど、それは鳥にとって本当の生じゃないように、僕たちにとっても離れて暮らす人生は人としての生じゃない。偽りの心を抱き続ける人生は、消費するだけの生に過ぎない。

 こんな簡単なことを悟るのに、こんなに時間が掛かったのかと思うと自分に呆れるけれど、もっと早くに気付けばよかった、今までの時間を無駄にした、などとは思わない。きっと僕には必要なことだったんだろう。迷い悩み傷ついた僕たちの軌跡があるからこそ、得たものは尊いと思っておこう。

 つながったまま、ふたりは互いの胸に刻まれるリズムが同じトーンに落ち着いていくのを聞いている。平静の呼吸を取り戻すまで、そのままの姿勢で動かずに、相手の背中をやさしく撫であう。
 手のひらに感じるのは汗ばんだ皮膚と固い肉。だけど彼らが互いの手のひらで慈しみあっているのは、触覚では感知できない、身体の奥深くに息づくもの。

 大事に大事にあたためてきた、ふたりで一緒に育ててきた、サナギの中のタカラモノ。
 もう絶対に手放さない。




 ―了―


(2009.11)


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(1)

 勝手に予定変更してすみません。
 書き上がったばかりの作品ですが、クリアファイルの青木さんのカッコよさに触発された勢いで、こちらを先に公開します。 
 青木さん、カッコいいよ、カッコいい。 にに子さんと女の争いになりそうだよ。(笑)

 
 それとこちら、2万5千拍手のお礼にさせていただきます。
 誘拐とかテロとか銃撃戦とか、とにかく物騒な話で気が引けるのですけど~、えらいすんません。
 よろしくお願いします。





たとえ君が消えても(1)








 気怠さが支配するベッドの中で。
「オレが死んだら、後を追ってくれます?」
 そんなふざけたことを言われたので、薪は「追わない」と答えた。
「じゃあ、一緒に死んでもらえます?」と更に戯けた質問を重ねられたので、「死にたきゃ一人で勝手に死ね」と吐き捨てた。

 その2日後。
 青木は薪の前から姿を消した。



*****




 青木が消息を絶ったのは、8月1日のことであった。
 その日、彼は仕事で神戸にあるMRIシステム技術研究所を訪れ、それきり行方を暗ませた。1日の夜、青木が出張先から電話を掛けてこなかったことを、薪は気にも留めていなかった。と言うのも、出張で一日薪の顔を見られなかった日の夜、青木はどんなに遅くなっても必ず電話を掛けてきて、その度に寝入りばなを起こされた薪にこっぴどく怒られる、という愚行を繰り返していたからだ。
 具体的にはこうだ。何か急用か、と不機嫌の虫を噛み殺して尋ねる薪に、
『いえ、特に用事はないんですけど。薪さんの声が聞きたくて』
 薪は青木の言い訳を最後まで聞いたことがない。最初の頃は、「用事はない」と言う言葉が出た時点で切っていた。最近は、「特に用事は」で切ることが多くなった。将来的には「いえ」で切られることになるだろうとの予測に、さすがの青木も諦めたのだと思った。

 煩わしい電話に邪魔されず、ぐっすり眠ることができた翌朝を、薪は実に爽快な気持ちで迎えた。出勤の準備をし、マンションを出る。
 通勤路になっている井之頭公園の朝は、晴天に恵まれてとても美しかった。
 8月の上旬、当然のように日差しは夏のものだったが、薪は眩しさをものともせずに空を見上げた。青い空にぽっかりと浮かんだ真っ白な夏雲が、先日、青木と一緒に冷やかした夏祭りの屋台の綿菓子みたいだと思った。

 昔は、この夏空がひどく辛いものに感じられて、顔を上げることもできなかった。8年と言う月日が自分を癒してくれたと彼は思い、でも、もっと大きな要因があったことは薪が一番よく分かっている。
 この通勤路が満開の桜に彩られていた頃、薪は上司の娘と結婚の約束をした。それは互いの保身の為に結ばれた協定のようなものだったが、どうしても為さなければいけないことだと、その時の薪は本気で思っていた。なのに、途中で心が折れてしまった。
 敗因は明白だ。あの男のせいだ。
 何をやっても思い切れないと知った。相手の女性の窮地を利用してまで自分を追い込んだのに、あの体たらく。自分の意志薄弱に焦点を合わせると死にたくなるので、もうこれは、努力や精神力と言った人間の意志が及ぶ範囲のことではどうにもならない領域に到達してしまっているのだ、と割り切ることにした。

 しごく個人的な事情に少なからぬ数の人々を巻き込んでしまって、特に小野田には絶大な迷惑を掛けてしまって、どうやって償ったらいいのか分からないくらいだ。小野田本人は薪の警視監昇進を見送ることで責を取らせたと厳しい表情で言い渡したが、本来なら地方への左遷が妥当な処分だと思った。薪がそう零すと、仕事上のミスもないのにそんなことができるわけがない、と官房長の親友に笑われた。それは道理だが、人事の理由など後から着いてくるのが警察という所だ。またもや小野田の温情に救われたと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 そんな後ろめたさを抱えてさえ。
 どうにも押さえ切れない気持ちが、心の奥底から湧き上がってくる。

 青木と、ずっと一緒にいたい。言葉にしてしまえば、同じ家で暮らしたい。

 とても口には出せない身勝手な欲望が生まれた原因は、大きく二つ。一つは、小野田と約束した執行猶予が解除され、定められた別離のときを見据えなくてもよくなったこと。もう一つは、今迄特別な日でもなければ許さなかった薪のマンションへの宿泊を、青木の自由意思に任せたことだ。
 恋人同士になって丸5年、でもこのところの甘さはどうだろう。付き合い始めの蜜月をやり直すように、休日ともなれば朝から晩までべったりだ。飽きるほど恋人の顔を見て過ごすのに、月曜の朝になればやっぱり別れがたい気持ちが湧いてくる。週末が待ち遠しくて、会えない日は一日が長く感じる。
 二人きりの時間が重なるほどに、離れたくないと思う気持ちも強くなる。一緒にいたい、夜の更ける音を青木と一緒に聞いていたい。朝、目が覚めたとき、一番最初に彼の顔が見たい。
 欲望には限りがない。容認してもらっただけでも感謝すべきなのに、こんな図々しいこと、小野田にはとても言い出せない。

 普通なら、恋人と同居するのに上司の承諾を得る必要はないはずだが、薪の場合は事情がある。8年前の事件で強烈なバッシングを受けた薪は、それまで住んでいたアパートを立ち退かざるを得なくなった。しかし、当時スキャンダルの渦中にいた彼を受け入れてくれる住居はおいそれとは見つからず。困っていた薪に、小野田が、知り合いが経営するマンションを紹介してくれた。小野田自ら保証人になってくれて、薪はようやく留守中に自宅の窓ガラスを割られなくて済むようになった。本当に小野田には、何から何まで世話になりっぱなしなのだ。
 セキュリティの関係から、居住者数が増加する際には保証人を立てる必要がある。それはやはり、小野田に頼むのが筋だと薪は思う。小野田の反対を押し切って青木と一緒に住むなら、今のマンションは出なければいけないだろう。こっそり転居したとしても、マンションの管理人は小野田の知り合いだ。彼から連絡が行くだろう。勝手なことはできない。

 そんなわけで、薪は今日も自分の我が儘を胸に沈めて職場へ向かう。
 青木が出張から帰るのは明後日の午後。4日も会えなかったのだから、夕飯ぐらいは一緒に摂りたい。だから木曜日はなるべく早く帰りたいと、火曜の朝から、それも限りなくプライベートな理由で仕事の工程を組む自分を、薪は軽蔑する。
 薪を堕落させる男の顔が脳裏に浮かぶ。薪の心に、いつも全開の笑顔で甦るその姿は、薪の気持ちを逆撫でる。その男のおかげで、こうして夏空の美しさを思い出せるようになったのだと分かっているからいっそう腹が立つ。さらには、彼が隣にいたらもっと輝いて見えるのだろうな、なんてことを無意識に思ってしまうものだから、いっそ殺意さえ湧いてくる。
 出張から帰ってきたら泣かしてやる、といくつかの彼を凹ませる効果的な言葉を考えつつ、自然に綻ぶ口元に何とも言えない甘さを滲ませながら駅までの道程を辿っていると、胸の携帯電話がそれを咎めるように振動した。何となく予感がして携帯を取り出すと、やはり青木からだ。薪に苛められる前にご機嫌取りをしておこうと言うのか、青木の小動物的危険回避能力はロジックを超えている。

「薪だ」
 無愛想に電話に出る。「何か用か」といつものように解りきったことを尋ねて、それに対する青木の答えも薪には判っている。今日は「いえ、特に」で切ってやろうと携帯電話のタッチパネルに親指を近付ける。

『薪剛警視長?』
 薪の全身が強張る。聞き覚えのない男の声。咄嗟に録音ボタンを押し、有事に備える。嫌な予感がした。
「そうだが。君は誰だ。青木は、この電話の持ち主はどうした」
 名乗るとは思わなかったが、尋ねてみた。予想通り、相手は薪の最初の質問を無視し、二番目の質問に答えた。
『青木一行警視は預かった』
「それはどういう意味かな。まさか、現職の刑事を誘拐などと、バカな真似をしてるんじゃないだろうな」
『返して欲しかったら20万円用意しろ』
「一般人じゃないんだぞ。成功する確率は限りなく低い、てか身代金安っ!!」
 このご時世に身代金20万て! 罪の重さと金額が釣り合わないだろう。ましてや青木は警察官、警察組織が威信を懸けて向かってくることを考えたら、ゼロが3つくらい足りない。
『薪警視長の預金残は3桁だと青木警視が言うので。無理なく払える範囲でと思って』
 誘拐犯に財布の中身を心配されるってどんだけだっ!! 
『何なら、分割払いでも』
「……分割でいいのか。それは助かる」
 身代金の分割払いって、こんなアホな誘拐があって堪るか。金品目当ての強盗、オヤジ狩り、第九職員を狙った怨恨説など、薪の頭脳に次々と事件の仮説が浮かび上がる中、優勢になったのはイタズラ説だった。

「わかった。給料日には必ず払うから、とりあえず青木を返してくれ」
 飲み屋の払いを待ってもらうときのような言い草で、薪はネゴシエイトを始めた。青木の携帯のGPSを辿るには職場に連絡を入れなければ、と考えて、自宅でもそれが可能なことに気付く。事が表沙汰になれば青木の立場も脅かされるし、薪の夢も遠くなる。薪は瞬時に判断し、身を翻した。先刻までのゆっくりとした歩みは、走り出さんばかりの急ぎ足になっていた。

『そうはいかない。身代金と交換だ』
「じゃあ、人質の声を聞かせろ」
『断る』
「青木の携帯を君が持っていると言うだけじゃ、本当に誘拐したのかどうか信用できない。拾っただけかもしれない。金が欲しかったら、青木を電話口に出せ」
『……ちょっと待て』
 僅かな逡巡の後、通話口から人の気配が遠ざかった。こちらの具申を素直に聞くあたり、相手の甘さが感じ取れる。犯人の交渉術は明らかに素人だ。青木の能力なら自力で帰ってこれるだろうと踏んで、薪は部下の声を待った。しかし。

『怒られるから嫌だと言ってる』
「っざけんなっ!! さっさと出せッ!!!」
 それが警察官の言うことか! 帰ってきたら一本背負い十連発だっ!
『そ、そう怒るな。ちょっと青木さん、出た方がいいですよ』
 怖いのは解るけど勇気を出して、と人質に語りかける声が聞こえる。犯人に応援されるなんて、どこまで危機感のない人質だ。もしかしたら発案したのは青木のほうじゃないのか、とまで考えを巡らせて、薪は低い声で脅すように言った。
「おい、おまえ。一族郎党身に覚えのないテロ容疑で投獄されたいか、と青木に言え」
 もうどちらが犯罪者だか分からない。

『薪さん、こんなことになってごめんなさい。オレは大丈夫ですから心配しないでください』
「心配なんかしとらん。金が必要なら送ってやるから、さっさと帰ってこい」
『それがその……すみません、今は帰れません』
「なぜ」
『ええと、まだハッキリしたことは言えないんですけど、神戸支局の中に』
 そこで突然、電話は切れた。マンションまで、あと10mの距離だった。薪はそのまま自宅に入り、パソコンを立ち上げてGPSを辿ったが、すでに携帯の電源は切られていた。

 チッ、と行儀悪く舌打ちし、薪はこの事件をどう処理したらいいものか考える。
 青木の緊迫感の無さから察するに、犯罪性は薄い気がした。もちろん、青木を拉致して金銭を要求した時点で立派な営利誘拐なのだが、青木が言った「今は帰れない」という言葉から導き出されるのは、青木が自分から犯人に着いて行ったのではないかと言う可能性だ。そしてその理由は、やはり彼の言った「神戸支局の中に」。
 神戸支局の内部で何かしらの犯罪行為が行われていて、それに気付いた青木が犯人に捕まり、否、囚われた振りをして詳細を探っているのではないか。

 青木の言葉を信じて様子を見るべきか、すぐさま神戸支局に乗り込むべきか。迷いが生じた薪の瞳に、プライベートメールの着信を知らせる点滅ランプが映った。
 このアドレスにメールを送ってくるのは、ほんの一握りの友人だ。青木もよく此処に、他人には見せられない写真データを送ってきたりする。中には嫌がらせとしか思えないくらい恥ずかしい写真もあったりして、そのたび青木は薪に殴られるのだが、まったく悪びれる様子がない。困ったものだ。
 受信ボックスを開けてみると、果たして、青木からのメールが届いていた。

「やはりな」
 一読して、薪は呟いた。メールには、神戸支局内部で公金横領が行われている疑いがある旨書かれていた。青木の出張目的は、神戸支局で開発された改良型MRIシステム機器の動作確認だったはずだが、何を余計なことに首を突っ込んでいるのやら。
 手紙の終わりは、「内部告発の準備を整えているので心配しないでください」と結んであった。どうやら告発者の説得まで終えたらしい。さっきの20万は、告発者に対する礼金か。
 これは青木に任せるが得策と判断して、薪は愁眉を開く。お人好しの青木のこと、告発者に付き合うつもりでいるのだろう。告発文と幾つかの証拠資料を揃え、神戸市警に提出する。それを終えたら帰ってくる心算なのだ。

「支局のドブ攫いもけっこうだが。動作確認は、ちゃんとしたんだろうな」
 本来の目的が疎かになっていたら只じゃおかない。市警の強制捜査が入ろうと地検がデータを全部持って行こうと、おまえの責任に於いて確認して来いと脅してやる。

 イナゴの大群のように押し寄せた地検職員が、経理事務に関係のないパソコンから研究資料から洗い浚い奪い去った後のガランとした支局に、青い顔で呆然と佇む大男の姿を想像して、薪は意地悪く笑った。







テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(2)

 こんにちは!
 いつもたくさんの拍手とコメント、ありがとうございます!
 
 現場がひとつ上がりまして、これから竣工書類に入ります。 ので、コメントのお返事はすみません、少し待ってください。 図面描き終えたらお返事しますからねっ。
 
 お話の方は、みなさん、青木さんのことが心配でしょうから、先に進めておきます。 とか言いつつこの展開。 
 本日も広いお心でお願いします。




たとえ君が消えても(2)







 公金横領告発の手伝いをする、青木のささやかな正義感が大化けしたのは、翌日のことだった。
 青木の携帯から発信されたメッセージを、薪は官房室フロアの私室で受け取った。携帯電話の画面に映った青木一行の文字を見て薪は、市警での手続きが完了したものと思った。部外者の青木が立ち入れるのは此処までだ。この後はどうせ仕事にならないから一旦帰る、と言う報告だろうと考えた。ところが。

『薪剛警視長?』
「……そのパターンはもういい」
『青木一行警視は預かっている』
「知ってるよ。おまえもこれから色々大変だろうし、20万は振り込んでやるから。銀行口座を教えろ」
『彼の命が惜しくば、『赤羽事件』の真実を全国民に公開し、刑部長陽を釈放しろ』
 弾かれたように、薪は席を立った。右手に持っていた数枚の報告書が、スローモーションのように床に散らばる。

『人質の身代金は20億だ。受け渡し方法は追って指示する』
「ま、待て! おまえは誰だ!」
『刑部長陽と聞いて解らないのか? 愚鈍な奴め。直接おまえに制裁をくれてやりたいところだが、仕方ない、こちらにいる部下で我慢しよう』
「やめろ! 青木には手を出すな!」
 叫んだ時には、電話は切られていた。無用になった携帯電話を切ろうとするのに、手が強張って動かない。心臓が激しく打っている。机上に置いた右手の下で、数枚の書類がくしゃくしゃになっていた。

『赤羽事件』と聞いて、薪の背中を冷たい汗が伝った。

 数年前、神戸に拠点を構える過激派の集団が活動資金調達の為に宝石店を襲撃した。13名からなる犯人グループは時価2億円にも上る貴金属類を奪って逃走、しかし神戸市警の素早い包囲網によって神戸市を出る前に追い詰められた。
 最終的には神戸市警と銃撃戦になり、犯人グループが逃げ込んだ神戸市I町の赤羽ニュータウンでは、住民に多くの被害者が出た。13人の強盗犯のうち、生き残ったのはたったの4名。そのうちの一人、刑部重陽には、一般人を巻き込んだ凶悪なテロ犯罪組織のリーダーとして、1週間ほど前に死刑判決が出ている。

『赤羽事件の真実を』と脅迫者は言った。その死傷者の数の多さから凶悪事件に数えられてはいるが、事件自体は単純な強盗殺人のはず。あの事件の裏側で、何が起きていたというのか。
 それも気になるが、いま薪の心を占めているのは。

「青木……」

 気が付くと、膝がガクガクと震えていた。
 恐ろしい想像が頭に浮かぶ。過激派が制裁を与えると言えば、それは死を意味する。否、青木は人質だ、身代金を受け取るまでは殺しはしないはず。でも、相手は女子供に至るまで容赦なく撃ち殺した過激派グループだ。腕や足の一本くらい、切り落とされても不思議はない。

 視界の端がすうっと暗くなり、吐き気が襲ってくる。貧血を起こしかけていると解って、薪は自分を叱咤した。
 失神は後だ。今は一刻も早く。
 自分が取り落とした書類を踏み付けて、薪は勢いよく駆け出した。





*****


 そしてここで切れると♪ 
 Sでゴメンね☆


テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(3)

 図面描き終わったー♪
 腕を回すと肩がバキバキ言います。

 変更設計書ができてくるまで、2,3日手待ちになります。 その間に更新しますね。
 書類が来たら、また少しおヒマいただくことになるかも~。
 不定期更新ですみません、よろしくお願いします。





たとえ君が消えても(3)






「薪さん、怒るだろうなあ。困ったなあ」
 ガムテープで拘束された手首のだるさを両肩の上げ下げで緩和しつつ、青木はため息交じりに呟いた。
 何故こんなことになってしまったのだろう。藪を突いたら、蛇どころか竜が出てきてしまった。青木が探していたのは小さな蛇、せいぜいがヤマカガシくらいのものだったのに。

 事の始まりは、神戸のちょっと高級な洋食屋だ。
 昨夜、青木の接待係に付いた職員が、自分が妻子に持ち帰る土産代も合わせて領収書を切ってくれと会計係に要求しているのを聞いてしまった青木は、持ち前の正義感からそれを咎めた。青木も入庁6年になるから、この程度の小さな流用は多かれ少なかれ何処の組織でも行われていることだと知っている。だからわざわざ穿り返すことはしないが、自分の耳で聞いてしまったからには仕方ない。
 青木が眉根を寄せると、職員は苦笑いして、
「いやあ、すみません。うちの娘、ここのエビフライが大好物で。家族三人になると結構な金額になるから、私の給料じゃ中々連れて来てやれなくて」
「そうですか。でもそんな、ごまかしたお金で買ったフライを食べても娘さんは喜びませんよ。何なら、娘さんへのお土産はオレがプレゼントしましょう。桐谷さんには神戸を案内していただきましたから、そのお礼もしたいし」

 第四研究室の桐谷吾郎と言うその職員を、青木は穏やかに諭した。
 桐谷は青木よりも10歳くらい年嵩に見えたが、年長者の故の居丈高さは何処にもなく、青木の言葉に素直に耳を傾けてくれた。彼の垂れ気味で小さな目は、その人柄を物語るようだった。彼は斜め下に視線を落とし、そうすると生え際が後退して広くなった額が店の照明に照らされて光った。彼の髪は年の割には大分薄くなっており、透けて見える頭皮に汗が滲んでいた。
 青木の説諭に深く感じ入ったらしい彼は、もともと真面目な性格だったのだろう、自首する、加えて自分の上司がやっている横領も告発すると言い出した。
 青木は困惑した。桐谷の行動を咎めておいて何だが、それは止めた方がいいと思った。本当はこういう考えはよくないのだが、飲食費数千円程度の水増しでいちいち内部告発なんかしていたら組織は回らない。そんなことをしたら、桐谷も職を失うことになるだろう。

「そこまでしなくても。桐谷さんは、これからはなさらないでしょうし。上役の方には、こういったことは慎むよう桐谷さんからお話しされてはいかがですか」
 青木が保守的な意見を述べると、桐谷は頑固に首を振った。
 自分がしたことがあるのは接待ついでの飲み食いくらいだが、第四研究室の経理決裁を任されている小坂課長は、自分とは比べ物にならないくらいの大金を懐に入れている。と言うのも、小坂は腕時計マニアで、限定品の高級時計をいくつも持っているらしい。一本買っただけでも一年分の給料が吹っ飛びそうな代物を何本も、あれは絶対に使い込みをしている。確たる証拠はないが、どうも怪しい。
 証拠となる二重帳簿は小坂のパソコンに入っていると思われるが、ロックが掛かっていて見られないからハードごと持ち出して警察に駆け込むのだ、と酔った勢いもあったのか、桐谷は息巻いた。

「いやあの、こういうことはできるだけ水面下でその」
「ありがとうございます、青木さん。あなたのおかげで目が醒めました」
「いえ、ですからその、騒ぎ立てることばかりが最上の策とは限らなくてですね、桐谷さんの場合は立件されるかどうかも微妙、てかこの程度のことでいちいち事件にしてたら警察パンクしちゃうんじゃないかな……小坂さんの事にしても、証拠もないのに」
「私が証拠を掴みます。これは私の使命です。青木さんも応援してくれますよねっ」
 青木は、事を穏便に収めようと言葉を選んだ。が、桐谷は前々から考えていたことだと言い張って譲らず、成り行き上青木は、桐谷の上司、小坂直継のパソコンのデータを抽出する手伝いをすることになってしまった。
 話が決まり、晴れ晴れとした顔をして新しい仕事を探すと笑った桐谷と別れ、青木はホテルに帰った。翌朝になって酔いが醒めれば桐谷の気持ちも変わると期待したが、そうはならなかった。研究所の一室で、桐谷は再度、自分の決意を青木に繰り返した。これは協力するより他にないと、青木も腹を括った。

「あの、余計なお世話かもしれませんが」
 控えめに、青木は言った。
「桐谷さん。お金の方は大丈夫なんですか?」
 青木の気がかりは、桐谷の今後の生活費のことだった。内部告発をしておいて、その職場に居座ることはできないだろう。桐谷は中途採用3年目で、大した貯金もないはずだ。家族三人で外食もままならない生活だと言っていたし、この先、どうする心算なのか。
 金のことになると、桐谷も困った顔になった。自分のことはともかく、妻子に惨めな思いをさせたくないのだろう。

「用立てて差し上げたいのは山々なんですけど。オレも今、持ち合わせがなくて」
「いや、けっこうですよ、青木さん。そこまで気遣ってくださって、返って申し訳ないです」
 桐谷の奥ゆかしさに、青木は涙をそそられる。謙虚な態度を取られると、余計にどうにかしてやりたくなるのが人間というものだ。
「桐谷さん、オレは警官ですよ。勇気を出して内部告発して、その挙句に家族三人路頭に迷うなんて、正しい人がバカを見るなんてこと、絶対に見過ごせません」
「いえあの、大丈夫ですから」
「桐谷さんがそんな目に遭うなら、この話はなかったことに」
「ですからその、青木さんのお気持ちは嬉しいですけど、私は本当に大丈夫ですから」
 昨夜とは逆の力関係になって、青木は昨夜の桐谷の気持ちを理解する。そうだ、此処まで来たら後には引けない。

「桐谷さん。オレを人質にして、身代金を要求するってのはどうです?」
「はあ?」
 突拍子もない青木の提案に、桐谷は目を剥いた。桐谷の反応は無理もないが、青木にはこれが最上の策だと思えた。
「オレを誘拐したって、その人に電話を掛けてください」
「何を言い出すんですか?」
 青木は苦笑いして、種明かしに掛かった。

「お金を出してくれそうな人に心当たりはあるんですけど、その人、物凄く規則に厳しい人で。正直に事情を話したら、自業自得だ、ってソッポ向くと思うんです。でも、根はすごく優しい人だから。後で事情を話せば必ず許してくれます」
「だったら最初から本当の事を」
「それはダメです。一応、桐谷さんも横領犯なんですから。横領犯にお金を渡すんですから、形だけでも取り繕わないと……あ、でもすみません、要求金額は20万円くらいでお願いします。通帳残3ケタの人なんで」
「いやあの、青木さん。身代金を要求した時点で私、犯罪者になるんじゃ」
「なりませんよ。オレが証人になるんですから」
 狼狽える桐谷を置き去りに、青木は携帯を取り出し、電話帳から一つの名前を選択した。
「でも、その人から警察に連絡が行ったら」
「連絡も何も。薪さんはオレと同じ警察官ですよ」
『薪剛警視長』と表示された画面を見て、桐谷の顔面が蒼白になった。
「誘拐犯らしく。頑張ってくださいねっ」

 予想通りと言うか、薪はえらく怒った。
「すみません、今は帰れません」
 こういう言い方をすれば、薪のことだから、青木が一枚噛んでいることは即座に見抜く。それが分かれば事を大きくしたりしない。その上でお金を用意してくれるかどうかは、実は青木にも自信がなかったのだが。
 幸い、薪は取引に応じると言ってくれた。格安の身代金が彼の神経を宥めたのかもしれない。
「まだハッキリしたことは言えないんですけど、神戸支局の中に」
「ちょっと青木さん、困りますよ。決行は今夜なんですから、その前に情報を洩らされちゃ」
 桐谷に電話を取り上げられ、薪との会話は途中で切れてしまった。念のため、経緯を文章にして薪のプライベートメールに送っておいたのだが、夜にはまた事情が変わってしまった。




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(4)

 ブツブツ切ってて誠にすみません。
 いやー、今の役所はメールで設計書送って来るから、時間外でも油断ならないねっ。 夜の9時とかねっ。 (木曜の夜に会社のメールに届いてたんですよー。 竜也、仕事早いな)
 おかげで週末無くなって(TT)、更新遅れてすみませんでしたー。
 でも、日曜日に粗方やっつけたんで。 後は手直しと検査待ちです。

 この話ね、できれば次のメロディ発売前に終わらせたくて、だけど既に2日に1回の計算だと間に合わないのねー。 84Pあるからねー。←長すぎ。 
 さくさく更新して行きますので、よろしくお願いします。




たとえ君が消えても(4)





 その夜の10時に、青木は桐谷と第四研究室で待ち合わせた。青木が時間通りに研究室に行くと桐谷は既に部屋に居て、小坂の机の前に座っていた。
「青木さん、どうも。パソコンは立ち上げておきました」
 相変わらず、桐谷は意欲満々だ。軽く頷いて、青木は小坂のパソコンに手を伸ばした。ハードディスクはすでに温められており、それは桐谷の勇み足を悟らせる。内心の溜息を隠しつつ、青木は尋ねた。

「桐谷さんのパソコンのパスワード、教えてもらえますか?」
「私の? どうするんですか?」
「データの保存場所を探すんです。同じ型のパソコンだから、エリアも同じはずです」
 二台のパソコンを起動させてから、半時間ほどで青木は目的のデータを探し当てた。宇野直伝のATAパス解除テクニックにかかれば、この程度のセキュリティはロックされているうちに入らない。

「青木さん、すごいですね。私はアナログな人間でして、こういったものはどうも」
「ご謙遜を。常にIT技術の最先端を行く神戸支局の方が、そんな」
「いやあ、職員と言っても私は中途採用で。主な仕事場は庶務課と資料室。実質、雑用係と言った所ですよ」
 そんな会話をこそこそと交わしながら、二人は一時間も経たないうちに問題の帳簿を見つけ出した。当然、パスワードを入力しなければ開かないようになっていたが、こちらは小坂の生年月日と言うお粗末なものだった。
「ATAパスワードを過信し過ぎるとこんなにことに、――えっ?」
 いざ帳簿を開いてみて、二人は息を飲んだ。適用に『GE』という文字があり、そこに何度も支払いが為されている。小坂の隠し口座と思われたが、問題はその金額だ。

「……2億?」
「お土産のエビフライが、えらいもんに化けましたね。オレ、ブランドには詳しくないんですけど、腕時計ってそんなにするもんなんですか?」
「まさか」
 釣り上げた獲物の大きさに怯んだのか、桐谷はゴクリと唾を飲み、自分の懼れを振り落すように強く首を振った。
「私はドアの前で見張りをします。青木さんは、もう少し詳しい調査を」
「わかりました」

 日付を遡って帳簿を確かめてみると、『GE』への支払いは三年前ほど前から五十回以上に渡り、アイディア料やメンテナンス代などの無形費用を装って振り込まれていた。トータルすると2億以上になる。飲食費どころの騒ぎではない。
「遊興費にしては額が大きすぎますね。桐谷さん、この『GE』というのはどういう会社なんです?」
「グリーンアース。『緑の大地』って意味だよ」
 聞き覚えのない声が響いて、青木はパソコンの画面から横に視線を走らせた。髭面の見知らぬ男が、こちらに銃を向けていた。後ろにも二人、黒いシャツとズボンに身を包んだ男がアサルトライフルを両手に構えている。

「なんでバレたのか分からないって顔だな。タネは簡単、その帳簿が動くと、こちらにも分かるようになってるんだよ。こんな時間にデータが動くのは初めてだからな。来てみて良かったよ」
 リーダー格らしい髭の男は、年の頃40前後。がっしりした体つきで、身長は180センチくらい。色黒で髭が濃く、髪は短く刈り込んである。彼は精悍な顔にニヒルな笑いを浮かべ、楽しそうに青木の胸に銃口を押し付けた。
「下手な正義感は命取りってな」
 データ検索に夢中になっていて気付かなかった。警察官の自分はともかく、桐谷は。
 そっと様子を伺うと、桐谷は既に男の仲間に捕えられていた。口にガムテープを張られて、涙目になって青木を見ている。小柄で痩せ型の彼は、仲間の一人に軽々と担ぎ上げられた。手足を縛られているからロクな抵抗はできないが、ジタバタと足を動かしているところを見ると、大きな怪我はしていないようだ。

「あんたは自分で歩いてくれよ。そんな図体、負ぶったら腰が痛くなっちまう」
 両手を上げて降参の証を立てる青木の胴体を、男の手が探る。内ポケットの中の身分証に気付いた男の目が、冷酷に光った。
「警官か……ここで殺しておくか」
 銃の撃鉄を上げる音に、思わず肩が竦んだ。人生で、他人に銃を突きつけられたのはこれで二度目だ。二度とごめんだと思っていたが、ここで引き金を引かれたら三度目はないわけだ、とパニックに陥りそうな脳で妙に冷めたことを考える。
「それは困ります」
 青木が率直に返すと、見かけに因らず肝が据わってるな、と男は不敵に笑い、青木の手首を後ろに捕えてガムテープで拘束した。
「銃は持ってないみたいだな。いいか、命が惜しかったら大人しくしてろ」
 携帯電話と財布を取り上げられて、青木は焦った。電話にも財布にも、薪の写真が入れてある。現金はいいから写真だけは返して欲しいと思ったが、口には出せなかった。言ったら問答無用で撃ち殺されそうだ。

 研究所の裏門に、箱型の車が止まっていた。車好きの青木は瞬時に車名と年代を見極めたが、肝心のナンバープレートは辺りが暗くて見えなかった。
 車に乗せられた時点で、アイマスクを付けられた。青木は神戸には土地勘がないから、何処をどう走ったのか、まったく分からない。時計を確認すると走行時間は2時間弱だったが、神戸の道路事情を知らなければ、自分たちが何処に連れてこられたのか見当の付けようもなかった。

 そこは、倉庫のような建物だった。剥き出しの鉄骨と高い屋根。コンクリート敷きの床は汚れていて、空調もないから部屋はひどく暑く、じめじめして不快だった。
 廃屋になって久しいらしく、天井の照明器具も壊れており、泥だらけの窓から差し込んだ頼りない月明かりが中の様子を、間接照明のように照らしている。だだっ広い空間に、今は使われなくなった大型機械が埃を被っている。ドラム缶や角材、ジャッキなどが数えきれないくらい置かれて、只でさえ薄暗い視界を遮っている。遠くに、埃まみれの壁とドアが見えた。ユニットハウスのようだ。
 青木と桐谷は、両手を戒められたまま床に座らされ、そのまま朝まで放置された。見張りは小銃を持った男が一人だけという、警官相手にしては緩い警戒態勢だったが、一般人の桐谷がいる以上、彼の命を脅かすようなことはできなかった。

 ささやかな内部告発の心算がとんでもないことになってしまって、生きた心地もない様子の桐谷を元気付けようと、青木は小さな声で彼に話しかけた。
「大丈夫ですよ、桐谷さん。オレが付いてます。あなたのことは必ず守りますから」
「青木さん。申し訳ありません。私のせいで、あなたまで危険な目に」
「何を言ってるんです。桐谷さんは、正しいことをしようとしたんじゃありませんか。善行を積んだ人間には必ず運が向いてきます。神さまは見てますよ」
「そうそう。カミサマは見てる」
 見張りの男が、青木たちの会話に入ってきた。彼は、青木たちを拉致した3人組の中で一番若く、髪を金髪に染めていた。
「おれ達にはカミサマが付いてんだよ。おまえらのことも、カミサマが教えてくれたんだ」

 一瞬、グリーンアースとはカルト教団なのかと思った。しかし、彼はすぐにゲラゲラと笑い出した。「ばっかみてえ」と足で小突かれたので、いい年をして神様なんてものを信じている青木を嘲笑ったのだと分かった。
 髭の男が言っていた、「帳簿が動くとこちらにも分かるようになっている」。データが上書きされると指定されたメールアドレスに自動的にメールを送信する、そういうプログラムが組まれていたのだろう。金髪の男が言うカミサマとは、多分その通知システムのことだ。

 青木が黙ると、桐谷は一層悲しげな顔付きになって、
「青木さん……すみません、本当にすみません」
 自分が余計なことをしたばかりに、と謝り続ける桐谷を宥め、体力温存の為に少しでも寝ておきましょう、と彼の目を閉じさせた。が、こんな状況で普通の人間が眠れる訳がない。この暑さの中、コンクリートの床の上、その上銃で脅されて。青木だって泣きたいくらいなのだ。一般人の桐谷はもっと辛いだろう。
 結局、二人はまんじりともせずに朝を迎え、さらに待つこと3時間。昨夜の髭面の男がやって来て、見張りをしていた金髪の男にコンビニの袋を渡した。袋の中には菓子パンと牛乳が入っており、それを見た青木の腹がぐうと鳴った。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(5)

 コメントのお返事も返さんとすみません、サクサク行きます。
 今日は役所で見積もり合わせがあるの、それが終わったらお返事しますね。



たとえ君が消えても(5)






「人質のクセに腹が減るか。ふてぶてしい奴だ」
 ちゃんとおまえらの分もあるから、と彼は薄ら笑いを浮かべながら、青木の手首の拘束を解いてくれた。抜け目なく、金髪の男が桐谷の額に銃口を押し当てて青木の反乱を防ぐ。
「妙な考えを起こすなよ」
「分かってます。でもその前に、トイレに行かせてください」
「おい、外に連れてけ」
「え、オレ、事務職だから開放的なトイレって慣れてなくて、できれば建物内のトイレに」
「無理だ。ここには水道がない」
 奥の部屋の様子を探りたかったのだが、諦めるしかないようだ。代わりに、外に出れば場所についての情報が得られる。特徴的な建物の一つでもあれば、位置を特定する有力な手掛かりになる。問題はどうやって、警察に情報を伝えるかだ。
 携帯電話を取り上げられてしまったから、通信手段がない。桐谷も同様だろう。

 建物の裏手で、背中から銃で狙われた落ち着かない体勢で小用を足しながら、青木は考えを巡らせた。残念ながら、周囲には期待したような特別な建物はなかった。次点の策として、青木は通りの向こうにある店舗の並びを確認した。通りは敷地からかなり離れており、青木の視力では店舗名は読めなかったが、何の店かくらいは判断が着いた。
 通りの端から、コンビニエンスストア、雑居ビル、衣料品店、新聞店、時計店、コーヒーショップ。最後の店舗は青木も知っている。全国展開している著名なコーヒー専門店で、豆の挽き売りもしている。青木の職場の近くにもあって、第九のバリスタの異名を持つ青木はそこの常連だ。

「おい、まだか」
「すみません、もう少し」
 朝が早いせいか、通りに人影はなかった。誰かが通りかかるのを願って青木はできるだけ時間を稼いだが、もしもその幸運がもたらされたとしても、その誰かが青木の姿を確認してくれる可能性は限りなく低かった。建物の裏手の庭には、雑草が青木の腰より高く生い茂り、生け垣と目隠しの役割を果たしていたからだ。やはりここは廃屋なのだ。

 室内に戻ると、桐谷が牛乳を飲んでいた。それを見て青木はホッとした。食事が喉を通るなら一安心だ。桐谷には、できるだけ体力を回復しておいてもらいたい。桐谷を抱えて彼らから逃げるのは、いくら体力自慢の青木でもきつい。
 銃を向けられて食事ができる普通人もいないだろうとの気遣いからか、髭の男は銃を下ろしていたが、やはり警官の青木のことは警戒しているらしい。青木の姿を見るや否や、こちらに銃を向けてきた。
「おまえも早く食え」
 青木の消化には気を使ってくれないらしい。警官だからって、差別だ。
 入れ替わりに、桐谷が用足しに外へ出た。青木は、神戸っ子の桐谷の土地勘に期待を懸けていたが、戻ってきた彼の表情に希望は見えなかった。神戸と一口に言っても広いし、何処にでもあるような街並みだったから、桐谷にもここが何処だか分からなかったのだろう。

 髭の男は、再び青木と桐谷の両手を拘束し、「いい子にしてな」と凄んで見せた。
「あの。オレたち、あとどのくらいここに居なきゃいけないんですか? ここは暑いし、床は硬くてお尻が痛くなるし、長引くようだったらもう少し環境に配慮を」
「今すぐ解放してやってもいいぞ?」
 人質らしからぬ青木の態度は、髭の男の勘に障ったらしい。喉元を銃先で圧迫され、青木は口を噤んだ。
「遠慮しなくていい。暑さも痛みも感じなくなる」
 青木が口を閉ざすと、「冗談だ」と男は笑って、銃を持っていない方の手で懐から携帯電話を取り出した。ストラップの先端で揺れるミニチュアのツーリングワゴンで、それが昨夜取り上げられた自分のものだと分かる。まさか、と青木は思った。
「まあ、相手次第だな」
 青木の嫌な予感は的中し、男は薪に電話を掛けた。昨日の朝のような狂言誘拐ではない、本物の誘拐事件だ。しかも身代金は20億。たった一晩でゼロが4つも増えてしまった。
 その衝撃はいかばかりか。薪の心痛を思うと青木の胸は痛み、薪の怒りを思うと胃が痛んだ。帰るのが怖くなってきた……。

「仕方ない、こちらにいる部下で我慢しよう」
 そう言って、髭の男は電話の電源を切った。青木の携帯を自分の持ち物のように無造作にポケットに入れると、つかつかと青木の方へ歩いてきた。
 何の説明もなく、腹を蹴られた。男の靴は爪先に鉄板が入っているらしく、その痛みに青木は呻いた。今食べたばかりのものが戻ってきそうになって、根性で飲み込んだ。腹筋に力を入れ、2発目、3発目の痛撃に耐えた。
「恨むなら上司を恨むんだな」
「こいつ、涙目になってますよ。こんな図体して、情けない男っすねえ」
 若い男に嘲笑う口調で言われて、青木はわざと大げさに呻いてみせた。弱い人間だと思わせておいた方が、相手に隙ができると思ったからだ。
 泣き出しそうな顔で青木を見る桐谷に、青木は大丈夫ですよ、と微笑んで見せた。声に出せばもっと殴られるから、表情で伝えるしかなかった。桐谷は自分が殴られでもしたかのように辛そうに眼を伏せ、罪悪感に押し潰されるように俯いた。

「大事な人質だ。ちゃんと見張っとけよ」
「えー、交代じゃないんですか? おれ、昨夜も徹夜だったのに。テツさん、頼んますよ。せめてコーヒーくらい差し入れしてくださいよ」
「今は急ぐから我慢しろ。後で持ってきてやる」
 コンクリートの床に横たわったまま、コーヒーと聞いて青木は、カップを鼻先に近付けて微笑む薪を思い浮かべた。
 毎朝、薪のために淹れるコーヒーを、今週は一度も淹れていない。明日の夜には会えると思っていたのに、この状況では。永遠に会えなくなる可能性もあると考えて、青木は心の中で苦笑した。先日のベッドの中のやり取りを思い出したからだ。

『オレが死んだら、後を追ってくれます?』

 重大な決意があったわけではない。昼間、薪と一緒に観たテレビドラマの真似ごとをしてみただけだ。
 追わない、と薪は答えた。青木は重ねて訊いた。
「じゃあ、一緒に死んでもらえます?」
 冷たい言葉が返って来て、青木は嬉しくなった。例え何があっても、薪が強く生きてくれること。それが青木の何よりの望みだからだ。
「だいたい、一緒に死ぬなんて心中でもしなきゃ不可能だろ。おまえ、明日隕石に当たって死んじゃうかもしれないし」
「ぷっ。隕石ですか」
「隕石に当たる確率はそんなに低くないぞ。およそ2万分の一くらい、確か飛行機事故に遭う確率と同じくらいだったと」

 青木が噴き出すと、薪は彼らしい理屈をブツブツと捏ね回し、さも眠そうに大きな欠伸をした。ごろんと寝返りを打って青木に背を向け、寝言だか独り言だか分からないようなぼやけた声で、
「その代わり、一緒に生きてやる」
 青木は眼を瞠った。
「死ぬまで……おまえと一緒に」
 薄暗い部屋の中、白く浮かんだ薪の背中がぼんやりと、でも青木には涙が滲むほどに眩しかった。
「はい」
 思いがけず鳴らされた福音に心が震えて。青木は、眠ってしまった薪の後ろ首にそっと口づけた――。

 薪と約束したのだ。必ず生きて帰る。
 蹴られた腹部の痛みに耐えつつ、青木は強く胸の内で誓った。




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(6)

「サクサク行くんじゃなかったのか」
 だって、入札の公示があったから……見積りとか、大変だったんだもん。
「仕事が大変なのは当たり前だ。 みなさん忙しい中、時間をやりくりして訪問くださってるんだぞ」
 それは分かってるけど~、3件重なると設計書だけでも100P超えるんだよ。 明細に至っては軽く2000を超えて。 それに一つ一つ単価を当てはめていくにはそれなりの時間が。
「ええい、見苦しい! 男子警察官たるもの、言い訳は認めん!」
 
 てな具合に薪さんに叱られたい。
 わたしは男子でも警察官でもありませんけど、薪さんの仰ることなら心から平伏します。


 すんませんマジすんませんホントすんません。 コメントのお返事、今日から少しずつさせていただきます。
 入札は28日なのですけど、それまでヒマ見て更新します。 運よく仕事取れたらごめんなさい、書類作成の為4,5日お休みします。 よろしくお願いします。







たとえ君が消えても(6)






 警察庁8階の廊下を、薪は走っていた。行き先は同じフロアの首席参事官の居室だ。
 目的は二つ。直属の上司に事件の報告をすることと、もう一つは、過激派の情報を得ることだ。
 過激派の取り締まりは県警公安部の仕事だが、それらを統括・指導する立場にあるのが警察庁公安部だ。よって、公安部には全国の過激派情報が集まってくる。公安部は警備局の所属で、本来の手順で言えば警備局長に情報の開示を依頼する所だが、自分の上司に頼んだほうが早い。
 警察庁にある6つの内部部局(科警研等の附属機関を含めれば7つ)、それらを統括管理するのが官房長の小野田だ。その実質的な職務は首席参事官がこれを代行する。つまり、首席参事官の中園には警察庁全部の、否、警察庁の存在意義に則れば日本警察すべての情報を引き出す権限があると言うことだ。

 薪が血相を変えて開けたドアの向こうに、中園はいなかった。秘書に尋ねると、官房長の小野田の所に出向いていると言う。
 青木に関わる厄介ごとが小野田に知れることに薪は少しだけ怯んだが、いずれにせよ、隠し通せることではない。2年前の滝沢の時のようなわけにはいかない。青木が囚われの身になっているのだ。

 官房室のツートップは、いつもの配置で薪を迎えた。小野田は自分の机、中園はソファで足を組み、二人とも書類の束を両手に持っていた。
「要するに」
 薪が事件の概要を説明すると、中園は書類をローテーブルの上に放り捨てるように置いた。ぞんざいな動作で肘掛けに左肘をつき、投げやりな口調で、
「ドブ攫いをしていたら、たまたまそこに金の延べ棒が隠してあったってこと?」
 的を射た理解に、薪は頷く。二人の上司はしばらくの間言葉を失い、居室は緊迫した空気で満たされた。沈黙を破ったのは、やはり中園だ。
「まったく、余計なことしてくれたねえ」
 事情を解しても、二人に狼狽える様子はなかった。事態を深刻に捉えていることは表情で分かる、動揺を強い精神力でカバーしているのだ。電話を受けた直後、貧血まで起こしかけた自分を、薪は恥じた。

「『グリーンアース』にはね、公安二課がマークを付けてたんだよ。神戸支局から資金が流れていることも、内部調査で分かってた。ただ、証拠がねえ。オンライン上の金銭の授受だけじゃ、摘発してからの捜査に時間が掛かり過ぎる。その間に大物には逃げられちまう。だから、団員と支局員が接触するのを待ってたんだけど」
 ソファにそっくり返って、中園は両手を頭の後ろで組んだ。横目でジロリと薪を見て、痛烈な皮肉を投げつける。
「よく躾けておきなさいよ。君の飼い犬だろ」
「……申し訳ありません」
 飼い犬、という表現には大いに反発したが、謝るしかなかった。青木の今回の失態はおそらく、公安の内偵を潰してしまったのだ。
「公安への謝罪は改めてします。今は、一刻も早く捜査本部の設立と刑部の釈放の検討、それに身代金の用意を」
「なに言ってんの。検討なんかしないよ」
「えっ?」
 耳がおかしくなったのかと思った。聞き間違えか、或いは中園特有の場を弁えないブラックな冗談かと思った。が、どちらも違った。中園は本気だった。

「彼らの要求には応えられない。警察はテロには屈しない。長官と法務省に話は通してみるけどね、結果は同じだと思うよ」
「青木の命が係っていてもですか?」
「君だって殉職の覚悟くらいできてるだろ? 彼も同じだ。それが国家の安泰のためなら、喜んで犠牲になる。それが警官の使命だ」
「殉職の覚悟を決めるのと、部下を見捨てることはまるで違います!」
 命を懸けて奉職しても、有事の際には冷酷に切り捨てられる。組織の非情さに、薪は激しい憤りを感じた。

「青木が一般人だったら要求に応じると? それはおかしい、警察官でも一般人でも、人命は等しく貴重なものでしょう」
「もしも青木くんが一般人なら! 意味のない例えだが、説明させていただこう」
 中園は声を張り上げた。錚々たるメンバーが集う幹部会議で朗々と響き渡る官房室の代弁者の迫力に、思わず薪は一歩退がる。
「誘拐されたのが一般人なら、マスコミに事件を公開し、首相以下官房長官、特命担当大臣に事務次官、法務大臣、司法法制管理官、検察庁に公安調査庁までお出まし願って会議を開く。でも話し合いはしない。あくまでも世間に対するパフォーマンスだ。テロリストの要求に応じて死刑囚を解放するなんて愚かな事はしない。警察の威信にかけて、絶対にしない」
「そんな」
 臍を噛む思いで薪は拳を握りしめた。面子を守るためなら犠牲を厭わない警察組織と言う怪物の裏の顔を、薪は知っていた。命を奪われるまでは行かずとも、そうして葬られてきた警官たちが多数存在することも。

「中園、そんな言い方しなくたって。テロリーダーの釈放は無理でも、他に、捜査のやり方次第で青木くんを助ける方法を見つけることは可能だろ」
 薪の消沈振りを見かねたのか、小野田が出してくれた助け船に、中園はひょいと片方の眉を上げて、
「おまえは本当に薪くんの前では善い人振るね」
「何を言い出すんだい。職員の生命と安全を守るのは我々上層部の役目だろう」
「こないだ飲んだ時、青木くんなんか馬に蹴られて死んじゃえばいいって言ってたくせに」
「小野田さん……」
 思わず呟いたものの、薪はそれを中園の冗談だと思った。が、小野田は明後日の方向に視線を逸らし、
「記憶にないな」
 ……言ったんですね。

 この緊急時に、でも小野田の陰口は結構ショックで、薪は思わず膝が落ちそうになる。図らずも途切れた緊張の糸を繋ぎ合わせるように、中園の冷ややかな声が響いた。
「薪くん。分かってると思うけど、君は捜査から外れてね」
「何故ですか」
「邪魔だから」
 薪が亜麻色の瞳に反抗心を浮かべると、中園は意地悪そうに片頬を歪めて、
「敵のアジトを見つけていざ突入って時に、『僕の青木がまだ中にいます』なんて叫ばれると困るんだよ」
「……気を付けます」
 口を衝いて出そうになった罵詈を、薪は寸でのところで止めた。悔しさに唇を噛み締める。こんな時まで彼との関係を当てこすられて、何だか青木の命を軽く扱われているようで耐えられない。薪の神経を逆撫でするように、中園の嫌味は続いた。

「もし彼が死んでも、後を追うなんて馬鹿な真似はしないでね。後始末が大変だから」
 敢えて避けていた死と言う言葉を出されて、薪の白い頬が強張る。わななきそうになる唇を気力で引き結び、薪は強い瞳で上司を睨んだ。
「そんな下らないことはしません。僕と青木は」
 腹の底に力を入れて、ぐっと背筋を伸ばす。中園に負けない張りのある声で、薪は堂々と言い返した。
「一緒に死のうって約束したんじゃない。共に生きようと約束したんです」
 クールが売りの中園が、一瞬、呆気に取られたような顔をした。自分よりも高性能を誇る彼のポーカーフェイスを崩すのは、最高に気分が良かった。

「青木は絶対に助けます」
 薪はそれを捨て台詞を残す口調で言って、官房室を後にした。次に向かうは公安二課。グリーンアースについては以前から彼らが捜査を進めていた、ならば捜査本部が設置されれば指揮は自分たちが執ると言い出すだろう。『赤羽事件』の詳しい資料も欲しいし、話を通すが得策だ。

 若き警視長が去った居室では、二人の幹部が言葉もなく顔を見合わせていた。やがて中園は、彼らしくヘラヘラと笑い、
「『共に生きる』とさ。言うようになったねえ」
「おまえが挑発するからだろ。て言うか、後追い自殺よりもそっちの方が下らないよね? ぼくの感覚がおかしいの?」
「いや。僕もおまえと同意見だけど。24時間一緒にいられるわけじゃなし、片方が隕石に当たって死んじゃったらどうする気なんだろうね?」
「呑気なこと言ってないで、さっさと帳場を立てなさいよ。それと、薪くんは多分、公安の言うことなんか聞かないから。ちゃんと止めてね」
 公安の立てる捜査方針は、テログループの壊滅が最優先だ。人質の命を守りたい薪とは、真っ向から対立することになるだろう。
「やれやれ。彼に恨まれそうなことは、みんな僕に押し付けるんだからな」
 身勝手な上司と周りが見えない部下の間で板挟みになって、中園は深いため息を吐いた。



*****


 中園、めっちゃ書きやすい。
 性格悪いキャラほど書いてて楽しいのは何故かしら。 やっぱり自分の性格が悪いからか、そうか。


テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(7)

 今日、明日は連休です。
 工事場所がお祭りでねー、現場に入れないの。 カナシイ。

 今日はオットと「踊る」を観に行きます。 楽しみ♪
 個人的には室井さんを応援してます。 ポイントは、あの頑固さ。 薪さん(←やっぱり)



 それとですね、カウンターがもうちょっとで7万になるのですけど、
 7万のキリバン踏まれた方、よろしかったらリクエスト受けますので、お気が向かれましたらご連絡ください。

 わー、リクエスト久しぶりー、とか言ってるそばから、きゃー、書けるか不安だわー。 (だったら言わなきゃいいのに……)
 原作のハッピーエンドのおかげで、最近少し、だらけてるんで。 喝入れしてやってください。 よろしくお願いします。
 





たとえ君が消えても(7)






 法医第九研究室は、重い空気に包まれていた。
「止せよ、笑えない冗談だぞ」
「こんなこと冗談で言えるかよ。証拠にほら、青木の携帯、電源切れてるし」
「じゃあ本当なのか? あいつドジだから、携帯自分で踏んで壊しちゃったりとかじゃないのか」
「それならそうと連絡してくる筈だろ、青木の性格なら」
 青木が厄介な事件に巻き込まれたらしい、という噂を聞き及んできたのは情報通の小池だ。それから各々の伝手を辿って、どうやら過激派に拉致されたらしい、と俄かには信じがたい事実に行き着いた。システムの稼働確認に行っただけなのに、どうしてそんなことになったやら。

「岡部さんが官房室に呼び出されたのだって、きっとそのことで……あ、帰って来た」
 自動ドアから入ってきた副室長の姿に、全員の眼が集中する。深刻そうなその表情は、何か思わしくない事件が起きたことを示していた。
「岡部さん。青木が誘拐されたって本当ですか」
「……官房室に盗聴器でも付けてるのか?」
 ざわっ、と波紋のような声が広がる。誰一人として次の言葉が浮かばず、広い執務室は水を打ったように静まり返った。

「心配するな。公安と薪さんが動いている」
「薪さんが? え、でも、過激派の取り締まりは公安の仕事じゃ」
「薪さんの携帯に、犯人から電話が掛かって来たそうだ」
 どうして青木を誘拐したと言う電話が、警察でもなく青木の実家でもなく薪の所に掛かって来るのか、普通に考えれば誰もが疑問に思うことを、第九の職員たちは誰も口にしなかった。二人の特別な関係については全員が何となく気付いていて、でも言葉にすることは躊躇われた。微妙な問題だったし、不用意な言葉で彼らを傷つけたくなかったからだ。

「青木の実家には、連絡したんですか?」
「ああ、中園さんがしてくれた」
「心配でしょうね、お母さん」
 警察は、入庁する際にある程度の覚悟を決めなくてはいけない職場だが、我が子が誘拐されて平気でいられる親はいない。ましてや青木の母親は連れ合いを亡くして一人暮らし、さぞや心細いことだろう。

「それにしても青木のやつ。どうして誘拐なんて」
「青木は神戸支局の公金横領の証拠を掴んだらしい。具合の悪い事に、その資金ってのが」
「過激派に流れていたと」
 そういうことだ、と岡部は苦い顔になって、青木の不運を嘆いた。青木の性格から推し量るに自発的に横領事件を暴いたのではなく、偶然見つけてしまったとか偶々現場に居合わせてしまったとか、望まずして事件に巻き込まれた可能性が高い。青木が積極的になるのは、薪の役に立つことだけだ。それは警察官の正義の基準としてどうかと思うが、それなしでは彼のモチベーションは1ミリも上がらないのだから仕方ない。

「いずれにせよ俺たちに捜査権はないし、何もできん」
「悔しいですね。仲間が被害者なのに、捜査に加われないなんて。公安絡みの捜査情報は公開されないし、総本(総合捜査本部)が設置されるのは敵の拠点に近い神戸でしょうしね」
「薪さんに託すしかないのか……」
「残念ながら、それも無理だ」

 青木の身の上を案じる第九職員たちから最後の希望まで取り上げたのは、官房室の首席参事官だった。
「中園参事官。何か急用でも?」
 岡部は、不思議に思って尋ねた。中園とは今さっき官房室で顔を合わせて、事情を聞いてきたばかりだ。それからまだ1時間も経っていない。
 中園は滅多に見せない厳しい顔で、「岡部警視」とこれまた珍しく役職名で呼びかけた。

「これは正式な命令だ。薪警視長の拘束、監視を命ずる」




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(8)

 7万ヒットありがとうございますー!!
 みなさまのおかげです。 心からの感謝を捧げます。

 キリバンの方、お祝いコメントありがとうございました。 
 でもアレですよね、言った当日じゃリクとか言われても準備ができないですよね。 もっと前から予告しないとね。(^^;)
 ドキマギさせちゃってごめんなさいね。 後ほど、コメント欄でゆっくりお話しましょうね。

 
 今日は実家のおばあちゃんに、敬老の日のプレゼントを。
 お彼岸のお供えもしなきゃで、お休みでもけっこう忙しいです。
 でもほら、ポストカードの薪さんがわたしを睨むから♪ がんばらないとね。




たとえ君が消えても(8)






「ちょっと待ってください!」
 両手が痺れるほどの勢いで、薪は机を叩いた。会議用の長テーブルが大きく揺れ、積み重ねてあったファイルが滑り落ちる。咄嗟に床を見た薪の眼と、広がった頁に記載された写真の男の眼が合った。強そうな短髪に髭面の男。彼が今回の首謀者と思われる。写真の下に、彼の役職と名前だろう、「副長・真鍋哲夫」と書かれてあった。

 中園の尽力で、捜査本部は当日の午後には立ち上げられ、30名ほどの捜査員が集められた。これだけの事件に対してその人員数は少なく感じられるが、捜査は神戸市警との合同捜査になるので、総合的な人員は100人程度になる。問題は、この顔ぶれだ。
 此処にいるのは、警視庁・警察庁から厳選された精鋭たち。しかしながら、その殆どが公安二課の人間で占められていることに、薪は不安を覚えた。これでは公安の都合の良いように捜査方針が決められてしまう。彼らにとって大事なのは国家の安泰であり、個人の命ではないのだ。
 薪は顔を上げ、捜査本部長に任命された公安二課の課長、南雲修一警視正の顔を見据えた。

「その人質救出計画は、あまりにも杜撰ではありませんか」
 予期した通り、テログループの逮捕にばかり重点を置いた捜査計画に、薪は意義を申し立てた。捜査方針の偏りは、壇上のホワイトボードを見れば明らかだ。メンバーを一人残らず捕まえる方法ばかりが協議されて、人質救出の題目の横には何も書かれていない。薪が具体的な手段について問えば、「臨機応変に対応する」と政治家の答弁のような答えが返ってくる。とうとう堪りかねて声を荒げた薪に、南雲がうんざりした顔つきで答えた。
「本格的な捜査会議は、神戸西署に本部を設置してから行います。今は市警に乗り込む前に、捜査員たちの考えを一つにまとめるための簡易的なミーティングです。市警で正式な総合捜査本部を発足し、全員で捜査会議を行えば、人質救出についても具体的な策が出ますよ」
「僕はこの場で策を出せと言ってるんじゃありません。人質の安全を第一に行動する、捜査の基本を守ってくださいと言ってるんです」
 南雲の眼が不穏な光を宿す。公安部に籍を置いて10年以上になる彼の眼光は一般の刑事よりも遥かに鋭く、その堂々たる体躯は彼を見る者にある種の危惧を抱かせる。南雲の相貌は街中にあっては一般人に遠巻きにされる類のものだが、一クセも二クセもある公安職員を従わせるのには役立っているに違いなかった。

「薪警視長。これは公安のヤマです。我々に任せてください」
「あなた方に任せておいたら、僕の部下は死にます」
「ご理解ください。大儀の前には、少々の犠牲は止むを得んのです」
「止むを得ない? 僕にはあなた方の言い分は、テログループを捕まえるためには人質は死んで当たり前って聞こえますけど」
 言葉と表情が厳しくなるのを、抑えることができない。公安が普通の部署とは異質であることは知っていたが、ここまでとは。捜査の目的からして違っている。
 普通の誘拐事件の場合、一番の目的は人質の救出だ。交渉も、人質の安全を優先するのがセオリーだ。犯人の要求は一通り呑んでみせて、その中で時間を稼いだり、人質の声を聞かせるよう要求したりする。犯人が逆ギレして人質を殺してしまったりしないように、できるだけ犯人側の要求に応じる姿勢を見せ、人質の解放まで持っていく。
 警察が本気を出すのはそれからだ。人質の安全さえ確保できれば、後はもう容赦しない。紙幣に紛れ込ませた発信機も、札のナンバーを控えないという約束を反故にすることも、卑怯だなんて思わない。犯罪者との約束を破るのなんか、ホステスとの同伴の約束を破るより心が痛まない。それが警察だ。
 が、今回捜査本部が打ち出した計画は、その基本から大きく外れていた。

「神戸市警と協力し、誘拐犯のガサ(隠れ家)を見つけ次第突入、犯人の射殺を許可するって、そんな乱暴な計画がありますか。突入の前に投降を呼びかけるなり交換条件を提示するなり、人質を救う為にしなければいけないことは沢山あるじゃありませんか」
「これは普通の誘拐事件じゃありません。相手はテロリストですよ」
 南雲は冷たく言い放った。執拗なクレーマーを相手にするときのように、マニュアルでも読んでいるかのごとく平坦な口調で、
「3年前の赤羽事件でやつらが何人殺したか、ご存知ですか? 20人ですよ。怪我人に到っては100人以上だ。たった17人で、あいつらは普通の犯罪者とは違うんです。殺す気で行かなければ、アカバの二の舞になります」
「殺す気? 戦争にでも行くつもりですか」
「その通りですよ。こいつは戦争です」

 今や、部屋中の人間が薪を睨んでいた。テロと一般の犯罪者は違う、その違いも分からない人間は引っ込んでろ。そう言いたげな視線が薪を取り囲み、薪は彼らの敵意を肌で感じ取った。
 孤立無援の状況の中、持ち前の負けん気に火が点いた。周り中が敵、こんな状況は久しぶりだ。緊張感が刺激になり、頭が冴えてくる。論戦に必要な程良い興奮を携えて、薪は南雲に挑みかかった。
「何をバカなことを。テロリストとは言え、相手は人間ですよ。我々警察に、そんな心構えが許されるとでも」
「我々だって穏便に事を運ぼうと、内偵を進めてたんですよ。それをあんたの部下が台無しにしたんじゃないか」
「その件に関しては謝ります。でも、あれは不可抗力です。彼に罪はない」
「ええ、分かってますよ。だからそれについちゃ、こちらも黙ったんだ。痛み分けってことで、あなたも黙ってくださいよ」
「そうはいかない。僕は官房室の人間として此処に居るんです。立場上はあなた方の監督者だ」
「いい加減にしてくれ!」

 先刻の薪に勝るとも劣らぬ勢いで、南雲は立ち上がった。コの字型に組んだテーブルの端にいる薪の所まで来ると、薪が両手を付いたままの机上を拳で叩き、
「現場に突っ込むのはあんたじゃない、我々公安と神戸市警だ!」
「人命よりも破壊を優先する捜査活動なんか、僕は認めません!」
「覗き部屋で死体ばかり相手にしてきたあんたに何が分かる!」
 第九上がりの警視長の噂は、公安にも届いている。それを理由に彼らに蔑視されていることも、薪は承知していた。
「こうなった以上、相手を殺す覚悟はせにゃならん! あいつらを放っときゃ、また何十人も死ぬんですよ!」
「それは警察の正義じゃない! 人殺しの言い訳だ!」
「なにぃ!?」
 言い過ぎたか、と思った時には遅かった。ガタガタっと椅子の動く音が重なり、彼らは一斉に薪に詰め寄る気配を見せた。南雲が止めなかったら、薪はその場で袋叩きにされていたかもしれない。そうなったらそうなったで自分が有利に立てると踏んでの挑発だったが、南雲はさすがに百戦錬磨だ。二課の課長は単細胞では務まらない。

「ちょっと。廊下まで丸聞こえだよ」
「中園さん」
 ちょうどそこに現れた首席参事官に、薪と南雲の声が重なった。良すぎるタイミングに、薪は疑いの目を向ける。ドアの向こうで様子を伺っていたに違いない。廊下は冷房の効きが悪いから暑かったのだろう、額にうっすらと汗が浮いている。

「参事官。この人、連れて帰ってくださいよ。人殺し呼ばわりまでされて、一緒に仕事なんかできやしません」
「それはこちらのセリフです」
 顔を合わせてから1時間も経っていないのに、もう親の仇みたいになっている。課長の南雲だけではない、部屋中の人間から憎まれている感じだ。小一時間の間にこれだけ大勢の人間に恨まれるなんて、一種の才能だな、と中園は呆れ顔で薪を眺めた。

「薪くん。公安のやり方に従う約束だろう?」
「でも中園さん。彼らは人質を助ける気がないんです。テログループさえ根絶やしにすることができれば、人質は死んでもいいと」
 対立するだろうとは思っていた。数々の修羅場を経験してきた彼らと違って、薪はテロ現場に立った経験がない。だからこの局面に於いても、人命優先の法則が成り立つと信じているのだ。
 そう諭せば薪は、自分にもテロ現場の悲惨さは分かっている、と反論するだろう。しかし、彼が知っているのはあくまでスクリーンに映った他人の記憶であり、虚像に過ぎない。戦争映画を観るようなものであって、実際に現場に居合わせた人間の受ける衝撃とは比べ物にならない。テロ専門家の公安が薪を素人扱いするのも当然だ。
 が、公安の人間もまた、第九の職員たちが抱える秘密の重さを知らない。自分たちと同じように、悲惨極まりない現場の光景を夢に見て飛び起きる、そんな日常を彼らがこなしていることを知らないのだ。互いの仕事に理解が及ばないと歩み寄りは難しい。ましてや青木の命が懸かっている。薪に、冷静になれと言う方が無理だろう。
 それでも、これは公安のヤマだ。彼らから指揮権を奪ったりしたら、後々の業務に差し支える。警察庁全体のことを考えなければならない立場の中園には、薪を抑えるしかなかった。

「君の気持ちは分かるけどね、今回は黙って彼らの言う通りに」
「納得できません。こんなやり方を許していたら、警察の正義が」
「正義正義ってあんたな、自分だけが正しいような顔をしなさんなよ!」
 第九がやっていることだって正義とは程遠い、覗き部屋の主が笑わせる、などと、二課の捜査員たちが口々に喚き立てる。第九は警察庁の鼻つまみ者だ。嫌われ指数は公安といい勝負、だったら仲良くすればいいのに、同族嫌悪と言うやつか。

「ちょっとみんな静かに。これじゃ会議にならないだろ」
 官房室首席参事官の威光をかざして、中園が論争に口を挟む。二課の職員は賢明に口を閉ざしたが、聞き分けのない警視長が一人。
「一緒にしないでください。第九は人の命を職務の犠牲にしたことはありません」
 せっかく静まった水面に石を投じるごとき彼の愚言の、その波紋が広がるように、二課の職員たちの間に再びざわめきが起こる。
「そりゃあないだろうよ、最初から死体が相手なんだから」
「職務内容の詳細も知らず、分かったようなことを言わないでください。これまでにもMRI捜査は、何度も貴重な人命を救って」
「それを言うならおれ達は、もっと多くの人命を救ってるさ! あいつら、放っておけばいくらでも殺すんだからな!」
「全員、黙りなさいッ!」
 壇上のホワイトボードを震わすほどの大声で、中園が叫んだ。クールが売りの彼が怒声で他人を威嚇するなど、薪も南雲も見るのは初めてだ。思わず互いに顔を見合わせ、珍しいものを見ました、と眼で語り合う。

「薪くん、ちょっとおいで」
「ちょ、中園さん。猫の子じゃないんですから」
 後ろ襟を掴まれて、薪は部屋から引きずり出された。夏の強い日差しが乱反射する廊下には何故か岡部が待機していて、自然照明の明るさ以上に薪を驚かせた。
「どうしておまえが此処に」
 薪の問いに岡部は答えず、困惑したように額を掻いた。代わりに口を開いたのは中園で、しかしそれも薪の疑問への答えではなかった。

「薪くん。頼むから、これ以上僕の白髪を増やさないでくれ。捜査は公安に任せて、君は大人しく犯人からの連絡を待つこと。いいね?」
「そんな悠長なことはしていられません! 捜査本部に僕の居場所がないなら、僕は僕で勝手にやらせてもらいま、っ、岡部、何をする! 放せ!」
 腹心の部下に突然羽交い絞めにされて、薪は慌てた。岡部の大きな手が薪の細い手首をがっちりと掴み、拘束する。薪がいくら力を込めてもびくともしなかった。

「じゃあね、岡部くん。頼んだよ」
「任せてください。先程お話した通り、薪さんには第4モニター室で大人しくしててもらいます。モニター室の窓は嵌め殺しになってますから、窓から逃げることもできませんよ」
「中園さん、待ってください! 神戸西区警察署から提出された赤羽事件の調書を読みましたけど、あの事件には不自然な点が」
「やめてくれよ。終わった事件は掘り返さないのが警察の鉄則だろ。岡部くん、早く連れてって」
「こら岡部、おまえ人を荷物みたいにっ、放せこの!」
 腹心の部下に担ぎ上げられ、口汚く罵りながら去って行く薪を見送って、中園は大きく息を吐きながら右肩を回した。ボキボキと関節の擦れる音が聞こえる。あの子の相手は本当に疲れる。

「後は宜しくね、南雲君」
 ドアを開けて声を掛けると、廊下でのやり取りが聞こえていたに違いない、南雲は複雑な顔で中園の言葉に頷いた。あんな部下を持って可哀想に、と同情されたのかもしれない。
 ったく小野田のやつ。こんな役回りばかり人に押し付けやがって。
 中園は、誰もいない廊下で苛立たしげに舌打ちすると、身勝手な上司に事の顛末を報告するため、エレベーターに乗り込んだ。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(9)

「よしよし、真面目にやってるようだな」
「今のところ、連続更新続いてます。頑張ってます。褒めてください」
「あほ。秘密界のSS書きさんは、殆どの方が、続きものは連日公開してるだろうが。中には書きながら連日公開なんて偉大な人もいるんだぞ。これまでのおまえが怠慢過ぎたんだ、やっと最低ラインだ」
 てな具合に薪さんに説教されたい。

 とか言ってるそばからすみません、今日はこれから測量なので、明日はお休みします。
 一日現場に出ると疲れちゃって……年には勝てません☆
 




たとえ君が消えても(9)






「なんだ、このコーヒーは!」
 昨夜の寝不足のせいでうとうとしかけていた青木は、男の怒鳴り声で眼を覚ました。
「なんだって、テツさんが淹れろって言うから」
「粉が混じってるじゃねーか! インスタントコーヒーじゃねえんだぞ!」
 髭の男が、不機嫌にカップを机に置いた。中のコーヒーが大きく揺れて、白い紙コップの側面を伝い落ちる。

 ここに来て半日、青木たちは倉庫内のユニットハウスに移された。最初そこはがらんどうだったが、午前中のうちに色々なものが運び込まれ、只の箱だったハウス内は一応、人が一定の期間を過ごすのに耐え得る場所になった。発電機と照明器具、テーブルに数脚の長椅子。それらと共に人数も6人ほど増えて、どうやらここが彼らの本拠地になるらしい。
 殴られはしたものの青木の要求自体は通って、冷風機と布団が与えられた。暑さもいくらかは凌げるし、ベニヤ張りの床に布団があれば横にもなれる。昼食も弁当だったし、朝の菓子パンに比べたら改善されている。快適には程遠いが、人質の環境としてはまずまずと言えた。

「テツ、そんなに怒るなよ。ツトムが不器用なのは今に始まった話じゃねえ」
「サトシさん、フォローになってないっす」
 人質となった青木たちの傍にいるのはこの3人。薪に電話をした髭の男が首謀者だと思われるから、他の二人は彼の側近だろう。サトシと呼ばれた人物は髭の男を呼び捨てにしているところから、ツトムよりもテツに近しい人物、相棒である可能性が高いと青木は考えていた。年もテツと同じくらいだし、闘争慣れしているように見えた。2人に比べるとツトムはぐっと若く、他の6人の誰よりも武術的な未熟を感じさせた。彼は主犯格ではなく、リーダーの世話係なのかもしれない。
 犯人が集団である場合、グループ内の力関係の見極めが大事なのだと岡部に習った。交渉はできる限り首謀者に近い人物に、自分の意見だけを通すのではなく双方に利が生まれるよう交換条件を提示しつつ行う。犯人とネゴシエイターは敵ではなく協力者、そう思わせるところが交渉術の要だと、これは昔特捜にいた今井が教えてくれた。

「あのー、よかったらオレが淹れましょうか?」
 何を言い出すのかと驚いた顔をしたのは、犯人グループばかりではない。隣で横になっていた桐谷も、ぽかんと口を開けて青木を見上げていた。
「おまえ、自分の立場分かってんの?」
 ツトムが呆れた顔で前髪をかき上げた。明るい金髪の根元の部分は黒く、彼の生まれ持った髪の色を青木に教える。彼の日本人の特徴を備えた顔付きには黒髪の方が似合うだろうに、敢えてこの色を選ぶのは彼の若さの表れか。
「解ってますよ。オレが下手な真似したら、桐谷さんもオレも殺されちゃうんでしょう?」
「本当に、見かけに因らないやつだな」
 見かけに因らないのは上司譲りです、と返したくなったが、さすがに抑えた。親近感を表面に出すことは大事だが、砕け過ぎはよくない。
「オレ、仕事ではいっつも薪さんに怒られるんですけど、コーヒーだけは誰よりも美味いって褒められるんです」

 ツトムとテツはちらと視線を合わせ、するとテツが頷いた。サトシが青木の手枷を外してくれて、でもツトムの銃がしっかりと青木を狙っている。青木も武道を始めて5年になるから、相手の身のこなしで大体の強さは分かる。銃を持っていてもツトム一人なら倒せる、が、彼を殴った瞬間他の二人にハチの巣にされるだろう。自分が死んだら桐谷を守れなくなる。危険は冒せない。
 ツトムに銃で脅され、テロリストたちの冷酷な視線に囲まれ、青木は慣れない器具でコーヒーを淹れた。「手が震えちゃうから、あんまり近づけないでくださいね」などと気弱さをアピールすることも忘れなかった。せっかく、図体ばかり大きくて気の小さい男に見られているのだ。それを利用しない手はない。

「お」
「いい匂いだな」
 青木がドリッパーにお湯を注ぎ始めると、それまで武器の手入れをしていた他のメンバーが手を休め、こちらを見た。何人かは寄ってきて、物珍しそうに青木の手元を眺めた。コーヒーを淹れる人質なんてそりゃあ珍しいだろうし、それが警官なら尚更だ。見世物大いに結構、今は彼らの機嫌を取ることだ。それが桐谷の命を守ることにつながる。
 コーヒーを淹れ終わると、青木は再び手枷を嵌められた。ツトムが紙コップに注いで、周りの人間に配った。ドリッパーが5人用のものだったので皆には回らない計算だが、全員がそのコーヒーを飲んだ。一人分の量を減らして、仲間意識は高いらしい。

 薪警視長のお抱えバリスタが淹れたコーヒーは、メンバーたちを唸らせた。おお、という単純だけれども明快な称賛の声に、青木は人の好い笑みを浮かべた。
「美味いな」
 満足そうにコーヒーを啜るテツに、青木は苦笑し、
「失礼ですけど。テツさんは、本当に美味しいコーヒーを飲んだことないんですね」
「嗜好品に贅沢はせん」
「豆の値段の問題じゃありません。保管状況が悪いのと、あとはブレンドの問題です。ジャバロブスタが多過ぎますね。だから旨味より苦味が勝ってしまって」
「じゃばろぶすた? なんだ、それ」
 聞き慣れない単語に首を傾げるツトムに、青木は笑顔を向けた。誘拐犯と人質の間に会話が成り立つのはいいことだ。
「コーヒー豆の種類ですよ」
「何で分かるんだよ? 飲んでもいないくせに」
「馨で分かります」
「おまえ、なんでそんなに詳しいの」
「薪さんが、あ、薪さんてオレの上司なんですけど、これがものすごく怖い人で。でもってその人、無類のコーヒー好きで。ご機嫌取りの為に必死で覚えたんです」
 本当は薪の気を惹きたくて頑張ったのだが、さすがに本当のことは言えない。
「へえ、そうなんだ。じゃあおれと同じだ。テツさんもコーヒーマニアでさ、おれ、此処に入って初めてコーヒーの淹れ方覚えて」
「そうなんですか? じゃあ、今度オレが淹れ方のコツを」

「ツトム。人質と馴れ馴れしくするな」
 サトシに咎められて、若いツトムは唇を尖らせ、「いいでしょ、話くらい」と言い返した。部屋の中には彼のように若い団員はいないから、話し相手に不自由しているのかもしれない。
 ツトムの生意気な態度をテツが黙認している様子に光明を見出した青木は咄嗟に一計を案じ、それを為すべく何気なさを装って切り出した。

「朝、トイレに行ったときに見つけたんですけど。通りの向こう側に、珈琲問屋がありましたよね。オレの言う通りに豆を買ってきてもらえれば、薪さん専用のブレンド、淹れてあげられるのになあ。このブレンドね、なんと国務大臣にも好評だったんですよ。いったい何処のホテルから取り寄せたのかって聞かれて、オレが淹れたんですって言っても信じてもらえなくて」
 青木のお喋りはサトシの蹴りで止まった。朝、テツから受けたようなキツイものではなかったが、あまり調子に乗り過ぎるのも良くない。青木はしゅんと項垂れて、口を噤んだ。

「緊張感のない奴だな。人質のクセにべらべら喋りやがって」
「1分だ」
 サトシの言葉を、今度はテツが遮った。「テツ」と思わずサトシが呟くのに、テツは厳しい表情を崩さず、
「1分で銘柄を書け。余計な真似をしたらこいつの首が飛ぶぞ」と横になったままの桐谷の頭に銃口を向けた。脅かす対象を桐谷の命に代える辺りはさすがリーダーだ。青木の弱点を分かっている。
「はい」と素直に返事をして青木は、薪専用ブレンドの配合を頭の中でおさらいした。




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(10)

 こんにちはー。
 昨日、うちの方はすっごい雨でした。 現場がお休みになったので、今度の週末は多分仕事です。 外の仕事なのでね、天気に左右されてしまって。 この時期は、なかなかカレンダー通りに休めません。 悔しいので、
 うちの会社のカレンダーは赤い数字の上から黒いマジックで塗り直してあります。
 こういうことばっかりやってるから、子供が会社経営してる、とか言われちゃうんだな、わたしたち夫婦は。





たとえ君が消えても(10)







 警察庁長官と次長、警視総監及び官房長が顔を揃える会議を、一般の職員は畏怖を込めて御前会議と呼んでいる。大きな式典でもなければ顔も見れない人々が一堂に会する、それは警察全体を揺るがすような重大な事件が起きたことを意味する。

 こんなに尻の据わりの悪い会議は旧第九が壊滅したとき以来だ、と小野田は心の中で溜息を吐く。この後はここにいる3人と共に内閣府に出向いて、大臣連中に囲まれて更に息苦しい思いをしなければならない。さすがの小野田も胃が痛くなりそうだ。
 科警研に属している第九は官房室の管轄だ。その職員がテロリスト集団の人質となり、テロリーダーの釈放と20億と言う巨額の身代金が要求されているとなれば、その非は当然、官房長の小野田に係ってくる。青木が被害者であることは、小野田の責を軽くしない。上層部の観点は只一つ、彼のせいで今現在警察の立場が脅かされているという事実だ。

「既に、公安二課が主体となった捜査本部が動いています。兵庫県警にも通達済みです。遅くとも18:00までには県警との合同捜査本部が神戸西署に設置されることになっています。現場には、『グリーンアース』と名乗るテロ集団に詳しい市警公安部と共に当たり、速やかに彼らの拠点を探し出し、テログループ全員の捕縛と人質の救出を行います」
「テロの要求には応じないこと、一般市民に被害を出さないこと。この二点だけは必ず守ってくれたまえ」
「お任せください」
 小野田は力強く言い切った。捜査に絶対なんてあり得ないのは解っているが、ここはこう言うしかない。

「小野田さんの采配だ。間違いはないでしょう」
 事態の深刻さに困惑気味の長官を、隣に座った次長が安心させるように話しかける。表面上は長官の心痛を案じ、官房長の小野田を持ち上げるような言葉だが、本心ではこの窮地を歓迎している。次長の時任と小野田は警察庁内での覇権を巡っての敵同士。相手を失墜させる機会を、虎視眈々と狙っているのだ。忌々しいがお互い様だ。

「まったくですな」
 警視総監がブルドックのように垂れた頬を皮肉に歪めながら、革張りの椅子にふんぞり返る。同じ警察庁に籍を置くもの同士、長官の前では一応の友好関係を装わねばならない次長と違って、警視総監の態度はあからさまだ。小野田に対する敵意が溢れている。それは彼の言葉の端々に、如実に現れていた。
「その上、小野田官房長お墨付きの薪警視長が指揮を執るとなれば、鬼に金棒。我々凡人には真似のできない神がかりの捜査をなさることでしょう」
 捜査一課から犯人検挙率トップの名誉を奪った第九を、警視総監は憎々しく思っている。そこの室長を長年務めている薪も当然、彼の攻撃対象に入っていた。

「指揮は、二課長の南雲警視正に任せます」
 官房室の身贔屓非難が目的の総監の発言を、小野田の穏やかな声が否定した。よほど意外だったのか、総監は口を開いたままで小野田の口元を見つめ、ほう、と間の抜けた声を出した。
「過激派の取り締まりは公安の管轄ですし、『グリーンアース』の調べも進めていましたから」
 小野田の説明に総監は「なるほど」と頷き、矛先を収めた。警視庁と警察庁は根本的に犬猿関係にあるが、公安だけは協力し合っている。対象の特殊性のためだ。警視庁の横槍を防ぐためにも、公安が指揮権を執ることは有効だった。

 小野田が為すべき報告をすべて終えると、会議はお開きになった。御前会議で何が決まるわけでもない。テロに対する警察の方針は百年も前から決まっていて、それは絶対に変わらない。何を犠牲にしても警察の威信を守る事、すなわち威信は警察機構の屋台骨である。そこが揺らげば警察組織そのものが瓦解する。
 人質の命よりもテログループの撲滅を優先する。いくら世論が騒ごうと、この基本方針は変えられないのだ。
 薪のことは実の娘たち以上に可愛がっている小野田だが、今回ばかりは彼に泣いて頼まれても譲れない。若い青木には気の毒だが。
 青木のことを薪に付いた悪い虫だと酷評している小野田だが、この機会に死んで欲しいとまでは思っていない。青木のおかげで薪に笑顔が戻ったことは事実だし、その点では感謝することもやぶさかではない。が、やはり小野田には二人の関係は認めることができないし、叶うことなら薪には自分の娘と結婚して欲しい。この際、末娘の香でもいい。

 まあ無理だと思うけど、と小野田は薪に対する二つの望みに見切りをつける。仕事方面なら常に優等生の答えを返してくるのに、こちらの方面になるとひどく不器用で手際が悪いのが薪という男だ。その殆どが結婚をランクアップの手段としか考えていないエリート組の恋愛事情の中で、変わり種と言うか時代遅れと言うか、あれは薪の大きな弱点だ。実際、青木のために奔走し、結果、殺人犯に殺されそうになったこともある。命取りにならないうちに何とかしなければ、と小野田の心配は尽きない。
 それでなくとも薪の周りには、彼の外観に惹かれて集まってくる危険分子がうじゃうじゃいる。それは彼の咎ではないが、小野田の神経は磨り減るばかりだ。小野田が彼の為に演出している「薪警視長は小野田官房長のお気に入り」という牽制策は警察関係者には有効だが、一般人には効き目がない。もっと青木くんにしっかりしてもらわないと、と思いかけて、小野田は慌てて首を振る。青木こそが最大の危険分子ではないか。

「御前会議はいかがでしたか?」
 官房室に戻ると、中園が書類を手に待ち構えていて、皮肉な口調で聞いてきた。彼の慇懃さに、いまさら腹も立たない。会議で神経を減らして帰って来た上司への労りの気持ちとか、この男には期待しても無駄だ。
「いつもと同じ。一般市民を巻き込まず、犯人確保」
「テロ相手に一人の被害者も出すなって? 無茶なこと言ってくれるな」
「立場上、そう言わざるを得ないんだよ。警視総監も一緒だったから……あ、総監と言えばね、ちょっと面白いことがあった」
 小野田は上着を脱いで椅子の背に掛け、緊張をほぐそうとネクタイを緩めながら、
「指揮は薪くんじゃない、二課長に執らせる、て言ったら、彼、何も言えなくなってた」
「公安だけはシチョウさん(警視庁)と協力関係にあるからな」
 ははは、と乾いた声で悪友が笑うのを聞いて、小野田は苦笑する。この台詞だけで会議室で交わされたやり取りの殆どを見抜いてしまうのだ、この男は。

「で、薪くんは? 大人しく公安に協力してる?」
「もうぐっちゃぐちゃ。どういう育て方したんだよ、おまえは」
 あ、やっぱり、と小野田は天井を仰いだ。中園が自分を待っていた理由はこれか。

「『あ、やっぱり』じゃないよ。おまえが甘やかすから」
「まあ、それがあの子の持ち味だし」
「おまえね、親バカもほどほどにしなさいよ。そのうち足元を掬われるよ」
 自分が薪に対して抱くのと同様の不安を、中園は自分に対して抱いている。小野田が中園を口うるさく思うとの同じように、自分も薪に鬱陶しいと思われているのだろう。そう考えて、小野田は肩を落とした。

「それで、結局どうしたの?」
「薪警視長には現在、第九の一室で資料整理に励んでいただいております」
 軟禁か。まあだいたい予想は付いていたが。
「なんで第九なんだ。あそこは薪くんの実家じゃないか」
「だからさ。自分が逃げれば岡部くんに迷惑が掛かる。それなら彼は逃げないだろう?」
「分かってないね、おまえは。そんなこと百も承知で薪くんを逃がすのが岡部くんだよ。上司が上司なら部下も部下なんだから、あそこは」
 小野田が監禁作戦の穴を指摘すると、中園は心外そうに細い眉を吊り上げ、持っていた書類をテーブルの上に置いた。

「岡部くんは其処までバカじゃない。ちゃんと薪くんを第4モニター室に閉じ込めてたよ。あそこの窓は嵌め殺しになってる。僕がこの目で確かめた。その鍵は、この僕が預かってる」
 眉を吊り上げるのは小野田の番だった。上司が驚いたのに気をよくしてか、中園は揚々と経緯を説明する。
「第4モニター室を使おうって言い出したのも岡部くんなんだよ。普通の部屋に閉じ込めたら、薪くんは窓から逃げるからって」
「本当に? ちょっと信じられないな」
「なに言ってるんだよ、常識で考えてみれば分かる事だろ。この状況で薪くんを逃がすってことは、彼を一人で死地に赴かせるってことだよ。薪くんの守護神の岡部くんが、そんなことをするもんか」

 一理ある、と小野田は思った。
 岡部は薪のことを大事に思っている。彼の命を守るためと有らば心を鬼にするだろう、しかし。
 やっぱり分かってないな、と小野田は心の中で呟いた。
 それでも岡部は薪を逃がすだろう。何故なら、薪には青木が必要だと岡部には分かっているからだ。青木を喪えば薪はまた、昔の彼に戻ってしまうだろう。8年掛かってやっとあそこまで立ち直ったのに、二度目は無理だ。その時にはもう精神が耐えられない。
 それに、岡部は薪よりも現場に詳しい。公安の方針も骨身に沁みている。この場合、人質が見捨てられることは承知しているだろう。青木は彼の大事な後輩だ。助かる可能性があるなら薪に託したい、と考えるに違いない。

「おまえの言うことも分かるけど。一応、確かめてみてよ」
 中園はやれやれと肩を竦め、「官房長殿の心配性にも困ったものですな」などと嫌味を言いながらも、ゆるゆると立ち上がった。机に置いた書類を指し示し、判をお願いします、と頭を下げてから退室した。

 それから30分後。

「どう育てればあんな警視長が出来上がるんだ!?」
 官房長の居室のドアをノックも無しに開けた首席参事官の怒声で、小野田は自分の予想が的中したことを知った。
「窓、確認したんじゃなかったの?」
「20もある窓を全部調べるほど僕は暇じゃないよ!」
 2つ3つ確認して、それで済ませてしまったのだろう。第九の執務フロアは3階だし、それが普通だ。
 中園は苛立ち紛れに、きっちりと整えた頭髪に手を突っ込んだ。それで彼の腹立ちが治まるわけではない。近頃めっきり白髪の増えたオールバックが乱れただけだ。やがて彼はふーっと息を吐き出して、小野田に深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした、私のミスです。薪警視長の行方はGPSを追って割り出し、即刻戻らせます」
 こんなことなら彼の携帯を取り上げておけばよかった、と中園は思った。薪の携帯に犯人からの連絡が来る可能性が高いと分かった時点で、彼の携帯に掛かってくる電話は本部の受信機で受信できるようにしてある。会話は筒抜けになるわけだし、次からは交渉役は二課の人間に任せるつもりだった。だから必要ないと思ったのだが、念には念を入れておくべきだった。犯人からの連絡がある可能性が高い携帯電話が中園の手元にあれば、薪は動けなかったはずだ。

「いいよ、放っておいて。どうせ無駄だから」
「大丈夫です。犯人からの電話は彼の携帯に掛かってきた。電源は切らないはずです」
「そうじゃなくて。おまえが戻れって言っても、彼は帰らないよ。青木くんを助けるまでは」
 小野田が匙を投げると、中園はひどく驚いた顔をした。無理もない、常に薪の身を案じている小野田が彼を見捨てるような発言をしたのだ。
「小野田。下手すると薪くんも死ぬよ?」
 心配そうに眉を寄せる悪友が滑稽だった。本人を目の前にすれば皮肉や当てこすりばかり出てくるのに、中園は昔から自分の感情に素直ではない。

 小野田は背もたれに寄りかかり、横柄に腕を組んだ。削げた頬に、キャリア同士の熾烈な戦いに生き残った勝者の冷酷を刷いて言い放つ。
「あの子が此処まで立ち直るのに8年掛かってる。これから8年は、僕は待てない」
 あの二人が共存関係にある事は小野田にも解っている、が、問題はその程度だ。青木を喪えば薪は潰れると、そう岡部が判断したならそれは多分事実なのだろう。半年前の騒ぎがいい例だ。あれ以上に壊れてしまうなら、それはもう只のガラクタだ。

「彼を切ることも考えろって言ったのはおまえだろ」
 かつて供された中園の進言に従う意向を見せると、中園はとても複雑な顔になった。50年近い付き合いになる腐れ縁の友人を横目で見て、こいつも少し変わったな、と小野田は心の中で呟いた。




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(11)

 こんにちは。

 最近、やたらとカウンターの回りがいいんですけど、間違って来てる人、多いのかな?
 だとしたらすみません、真面目に法医学とか警視正とかで検索してここに辿り着いちゃった不運な方々に、心よりお詫び申し上げます。
 お詫びの徴に、良いことを教えて差し上げます。

『秘密』1~10巻、ジェッツコミックスより絶賛発売中です! 最高に面白いです! ぜひ読んでください!

 ふ~、今日もいいことしたなあ。





たとえ君が消えても(11)






『第4モニター室』という言葉が岡部の口から出た時、薪は岡部の真意に気付いた。第4モニター室の北側から2番目の窓が壊れていることを、薪は知っていた。見た目には分からないが枠自体が外れてしまっていて、動かすとガラス窓半枚分の隙間が空くのだ。月曜に岡部から報告があり、明日には修理業者が入ることになっていた。
 中園の手前せいぜい暴れて見せて、その鍵を彼が持って第九を去った後、薪は速やかに行動を起こした。キャビネットから緊急用の避難梯子を取り出し、壊れた窓をずらして、そこから梯子で下に降りた。うまい事に第4モニター室は建物の裏面に位置しており、薪は誰にも見つからず建物から抜け出すことができた。

 が、問題はその後だ。
 科警研の門は5つ程あるが、そのすべてに守衛がいる。抜け目のない中園のこと、薪の姿を見たら官房室に連絡を入れるようにとの指令くらいは回していそうだ。
 そう思うと、中庭を歩いている人間がみんな自分を見張っているような気がする。科警研の人間は未だ誘拐事件のことは知らないはず、ましてや自分が監禁された挙句に逃げ出そうとしているなんて思いもよらない筈なのに、背中がざわざわして落ち着かない。他人と目が合うと、心臓がバクバクする。逃亡者の心理とはこんなものかと薪は思い、深く息を吸って心を落ち着けた。嫌な気分だ。いつも追う方だから、分からなかった。

 こそこそ隠れたり走ったりするのは却って目立つと考え、薪は悠然を装って東へ歩いた。目指すは東門、此処から一番近い門だ。一刻も早く警察の敷地を抜けたい。駅の雑踏に紛れ込んでしまえば、後は何とかなる。
 できるだけ人気の少ないルートをと、薪は北側の散策路に入った。中庭を突っ切るよりは回り道だが、樹木と茂みが多く、人目を避けるには最適だ。
 そうして20mほど樹木の間を歩いた時、薪は散策路に二人の男の姿を発見した。樹の陰に隠れて、じっと息を殺し、二人が通り過ぎるのを待った。自分を探しているわけではないと思ったが、目撃情報は少ない方がいい。
 二人の白衣姿が茂みに隠れたのを確認して、薪は再び歩き出した。プリペットの大きな茂みの横を通りかかった時、不意に手首を掴まれ、同時に口を手で塞がれた。身構えようとしたときには遅く、薪は強い力で茂みの中に引き摺り込まれた。
 やはり中園は甘くなかった。薪が逃亡を企てるのを見越して、部下に庭を見張らせていたに違いない。しかし、ここで捕まる訳にはいかない。力づくでも逃げなければ。

 必死になってもがく薪の耳に、聞き覚えのある囁き声が忍んできた。
「室長、落ち着いてください。俺です」
「竹内……?」
 捜査一課の竹内は、中園とは関係がない。でも、こいつは敵だ。自分に恨みを持っている。何処からか今回のことを聞き及んで、自分の足を引っ張りに来たのだと思った。有事の際の箝口令は数えきれないほど敷かれたが、それが完璧に機能した試しがない。時に、人の口というのは電波よりも早く情報を伝達する。

 薪は、後ろから抱え込まれるような姿勢で、地面に座らされている。竹内の脚はその長さでもって薪の下半身を完全に抑え込み、右腕は強い力で薪の右手を拘束していた。自由になるのは左手一本だけ、この状況から抜け出すのは自分の力では無理だ。しかし、他にも手はある。青木と竹内は友人だ。そちらの方面から説得すれば、或いは。
「放してください、僕が行かなければ青木が」
「岡部さんからです」
 ひょいと目の前に出されたのは、紙製の手提げ袋だった。
「俺が預かりました。室長に渡すようにと」
 岡部の献身に、薪は泣きたくなる。岡部は薪の手助けになるアイテムを用意して、でも自分や第九の人間が動けば中園に知られてしまう可能性が高いから、一課の後輩の竹内に託したのだろう。薪の身勝手な行動で、彼も何らかの処分を受けるに違いないのに。

 岡部、済まない。この借りは必ず。
 部下の無骨な顔を思い浮かべ、薪は心に誓った。必ず、雛子さんとの仲を僕が取り持ってやる、とそれは岡部にとって迷惑過ぎる誓いだったが、薪の感謝は本物だった。

「すみません。竹内さんまで巻き込んでしま、っ?!」
 受け取って中を確認した薪を襲った驚愕は、竹内に不意を衝かれたときの比ではなかった。突き上げる感情に任せて薪は顔を上げ、怒りに満ちた亜麻色の瞳をメッセンジャーに向けた。
「これはどういうことですか」
 中に入っていた警官の制服を取り出し、薪は詰問する。竹内はためらいがちにそれに答えた。
「俺は反対したんです、危険すぎるって。本音ではあなたを行かせたくありません。青木は友だちで、俺だって助けに行きたい。でも」
「そんなことは聞いてません」
 憂いを強調するためか、竹内は額に手を当てて顔を隠した。けど、肩が震えてる。こいつ絶対に嗤ってやがる、と薪は手前勝手な判断を下す。

「僕が訊いてるのは、この制服がどうしてスカートなのかってことです」
 警官を隠すなら警官の中、そこまではいい、でもそれが女子職員の制服である事には大きな疑問が残る、てか、あり得ないっ! しかもスカート短いし!!

「室長が確実に逃げられるようにとのことでしたので」
「オボエテロよ、オカベッ……」
 制服を用意したのは竹内だったが、また、竹内は純粋に薪が確実に科警研を抜け出せる方法を考えたに過ぎなかったのだが、そんな事情まで説明している時間もされている余裕もなかった。薪は仕方なく、でも素早く着替え、警帽を目深にかぶった。走りやすいように、靴はスニーカーが用意されていた。靴ひもを締める薪に竹内の声が掛かる。

「室長。これを」
 彼が差し出したのは、自分の銃だった。
 テログループの捜査に単身で乗り出そうと言うのだ、銃くらい持たなくては話にならない。が、科警研の岡部が銃を貸与できるのは特別な場合だけ。この状況下でそんな目立つ真似をしたら、薪に貸したのだと一発でバレてしまう。だから用意ができなかったのだ。
「岡部さんの銃では大きすぎて、室長には扱えないでしょう」
 捜査一課の自分なら、比較的簡単に銃を持ち出せる。射撃練習をしたいと課長に一言言えばいいのだ。勿論、射撃場以外で発砲すれば相応の報告書、もとい始末書が必要だが。
「そこまであなたに迷惑を掛けるわけには」
 いくら青木の友人でも、竹内は部外者だ。今の段階なら、薪の逃亡に手を貸したことは明るみに出なくて済むだろうが、万が一追っ手に捕まったとき、彼の拳銃を薪が持っていたら言い逃れができなくなる。
 それに。

 薪は未だに、銃を持つことに抵抗があった。この道具で、自分は鈴木を殺したのだ。
 現場に出ないキャリアの薪にとって、拳銃の練習は必須ではない。それをいいことに、もう長いこと本物の銃を撃ったことはなかった。果たして、こんな自分がまともに銃を扱えるかどうか、情けない話だが自信がなかったのだ。

 躊躇する薪に、竹内は唐突に愚痴り始めた。
「最近、ホルスターの調子が悪くて。簡単に留め金が外れちまうんですよ、ほら」
 渡されたホルスターの留め金に、竹内が指摘したような歪みを、薪は見つけることができなかった。革製のホルスターは磨き上げられており、光沢が美しかった。竹内は射撃の名手、銃の手入れは普段から念入りに行っているはず。当然、銃をしまうホルスターも大切にしている筈だ。
「紛失なんてことになる前に、修理に出さなきゃ」
 そう言って予備のカートリッジを2包、紙袋の中に落とし込むと、竹内は薪に背を向けた。そのままスタスタと、樹木の陰に消えていく。

「……恩に着ます」
 竹内に借りは作りたくなかったが、今回だけは避けられなかった。薪は他人に借りを作るのが好きではない。嫌いな人間には特にだ。

 この借りは絶対に返す。その為にも、必ず生きて帰る。

 警帽のつばを下げ、薪はぎゅっとくちびるを噛み締めた。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(12)

たとえ君が消えても(12)






 薪が屈辱的な思いで女子の制服に袖を通してから6時間後。夕方の6時を回った神戸西警察署では、早くも第一回目の捜査会議が開かれていた。

 捜査本部は本庁、兵庫県警、神戸西警察署、総勢120名の大所帯となったが、会議の内容は警察庁で開かれた事前会議と殆ど変わらず、捜査方針も本庁の主張が貫かれることになった。
 市警と言えど所詮は所轄、本庁の言い分は飲まざるを得ない。これまでに幾度となく味わってきた地方警察の本庁に対する不満を飲み込んだような幹部たちの視線を南雲は覚悟していたが、それは杞憂に終わった。県警本部長の田山管理官はもちろん、神戸西区警察署の大石署長も、終始南雲たち本庁の人間に協力的で、テログループの壊滅に積極的な姿勢を見せた。彼らは会議前の顔合わせの際、南雲にこう囁いたのだ。

「人質が警官一人と言うのは、ある意味幸運でした」
「さよう。人質の命を諦めざるを得ない場合も、世論を美談に導きやすい」
 例え人質が死んでも、それが一般人と警察官では世間の反応が違う。一般人の場合、どんなに繕っても警察の非難は避けられないが、警官となれば話は別だ。たとえ実情がどうあれ、彼は市民を救うため、テロ壊滅に命を懸けたことになる。美しき自己犠牲の精神。警官の鏡と言うわけだ。

「何よりも重要なのは、テログループの根絶です。奴らの一掃は、我々神戸西警察署の悲願です」
 グリーンアースと名乗るテログループが、3年前に神戸市西区に落とした禍。その深い傷跡が神戸市警を協力的にしている、と南雲は分析する。地方警察幹部が潜在的に持っている警察庁への反発心、それを中和するほどに彼らの受けた傷は凄まじいものだったと言うことか。
 おかげで、と言っては語弊があるが、捜査が進めやすい。反発分子が一人いれば、捜査スピードは半分になる。相手を納得させるために使う10分間は、1時間の遅延となって現れる。いつ爆ぜるか分からないテロリスト相手の捜査に於いて、この遅れは致命的だ。

 あの常識知らずの警視長が捜査から外れてくれて、本当に良かった。いくら切れ者でも、捜査は団体戦だ。スタンドプレーはそれがどんなにレベルの高いものでも、捜査の妨げにしかならない。
 実は南雲は、薪のことを前々から知っていた。南雲は公安に来る前、警視庁の捜査一課に居たのだ。そこでは、薪の立てた数々の功績が伝説のように語り継がれていた。捜査資料を一読しただけで事件を解決してしまう天才、当時捜査一課の資料室に埋もれていた迷宮入り事件を片っ端から解き明かしたなどと、彼には数えきれないほどの逸話が残されていた。それは、現場主義の南雲を少なからず不愉快にさせた。元々、頭脳派の薪とは反りが合わなかったのだ。

「協力、感謝します。それでは、グリーンアースの本拠地と目される西区平野町の地取り調査については、市警さん主体でお願いします。班編成もお任せしますので、うちの連中を一人ずつ混ぜてやってください」
「承知しました」
 地取りは地元に詳しい所轄にさせるに限る。彼らは自分なりの情報網を持っており、効率的な捜査が期待できるからだ。そこに本部の人間を混ぜ込むのは、情報隠匿の防止の為だ。誰だって手柄は自分の部署のものにしたい。だから他者に出し抜かれないよう、有益な情報は秘匿する。合同捜査本部が打ち立てられた場合、当然のようにまかり通るそのやり方は、捜査全体を著しく遅延させる。本部の人間を同行させるのはそれを防ぐための、いわば監視役だ。
 だから当たり前の話、所轄はそれを嫌がる。しかし今回は、この点についても易しと思われた。署長自ら厳しい口調で、現場の捜査員たちに訓令を下したからである。
「情報隠し等の事実が発覚した場合、例えテログループを一人で壊滅させたとしても其の者は厳罰に処する! 肝に命じておけ!」
 本部の人間が言いたくても言えないことを、所轄の代表が自分の部下たちに言って聞かせてくれた。本部の人間にとって、こんなにありがたいことはない。

「地取り用の地図は作ってあります。西区平野町をこのように6つに分け、1班佐藤班、2班北里班……中でも有力な場所は、3班担当の平野町向井地区です。よって此処には、本部の方も可能な限りの人員を割いていただきたい」
「わかりました。そこにはうちの一番手を遣りましょう」
「ありがとうございます。頼りにしています」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
 ここまで協力的な所轄は初めてだ、と感動を覚える一方で、南雲の中に言い知れぬ不安が広がって行く。
 署長を始めとした所轄上層部たちのこの態度は、果たしてテログループに対する積年の恨みから来るものなのか? それだけで、手柄への執着心を捨てることができるのか?
 警察官は功名心にて職務に励むに非ず、それはもちろん正しい事なのだが、そんなに簡単なものだろうか。

「では、直ちに捜査を開始する! 全捜査員は22:30捜査本部に集合、結果を報告すること。それ以前に有力と思われる情報は、直接本部に電話連絡しろ!」
「どんな手がかりでもいい、必ず何か掴んで来い!」
「はい!」
 次々と飛ばされる指示と檄、それに応える捜査員たちの熱が、広い会議室全体を包んでいる。テロに対する義憤が、捜査員たちを一丸としている。南雲はその様子に、心地よい興奮を味わっていた。
 過ぎるほどに協力的な署長たちの態度に対する違和感は、瞬く間にその熱に埋もれ。南雲は白熱化する捜査活動の中でそれを忘れ去った。




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(13)

 毎日、過去記事に拍手をありがとうございますー。
 昔の話を読み直してみると、文章がつながってなくてびっくらします。 が、もう直すこともできないんで、すみません。 話を全部つなげちゃったから、下ろすこともできないんですよね。(^^;
 苦労かけます。 よろしくお願いします。
 






たとえ君が消えても(13)






 同日、午後8時。場所は東京に戻って、科警研の第九研究室である。
 業務は終了したものの、後輩が心配で退庁できずにいる第九の面々の前に、官房室の主が姿を現した。

「岡部くん」
 呼びかけられて、岡部は大きな身体を縮込めた。てっきり、叱責されるのだと思った。自分は参事官の命に背いて薪を逃がしたのだ。処分は覚悟の上だった。だが、小野田の言葉は岡部の予想とはまるで違っていた。
「こんな時間に悪いんだけど、神戸に出張頼めるかな?」
 岡部を始めとした第九の職員たちが驚くと、小野田は残業で子供の誕生会に間に合わなかったサラリーマンのように、「もっと早く来たかったんだけど、内閣の会議が長引いちゃってさ」と肩を竦めた。

「いくら青木くんが仕事熱心でも、今回はさすがにリタイヤでしょ? だったら代わりに誰か行かないと。岡部くんが適任だと、ぼくは思うんだ」
 小野田の情に、岡部は涙が出そうだった。官房長、と思わず声を詰まらせるのに、
「ぼくから命令されたって言わないでね。後で、公安と中園に怒られちゃうから」
 仕掛けた悪戯を内緒にして、と頼む子供のように、小野田は人さし指を立てて唇に当てると、おどけた様子で片目をつむって見せた。

「官房長は、薪さんを見限られたと聞きました」
 警察庁に帰る小野田の見送りにとエントランスまで来た岡部は、他の職員たちのいない所でこっそりと打ち明けた。

 ――もう僕は知らない、勝手にするといい。

 第4モニター室がもぬけの殻になっているのが発覚した時、中園は我を忘れてそう叫んだ。それは怒りからではなく、薪の身を案じるが故の暴言だった。岡部は、中園の本心を知っている。2年前の秋、薪が正体不明の病原菌に侵されて死にかけた。その時彼がどんなに取り乱していたか、見ているのだ。

『薪くんを引き戻すことはしない。小野田も見切りをつけたらしいよ』
 一旦官房室に引き返した中園は、数時間後にまた戻ってきて、岡部にそんなことを言った。
 どんな事情があったにせよ、小野田の娘との婚約を破棄した時点で、そうなっていておかしくなかった。そこにとどめを刺すような今回の職務違反だ、無理もないと思った。常々、岡部は小野田の寛大さに感嘆していたのだが、彼にも限度はあるだろう。
 小野田に見捨てられた後の薪の処遇について、考えない訳ではなかった。しかし、薪が青木と別れてボロボロになっていたのはたった4ヵ月前だ。岡部はその様子を間近で見ている。彼を止めることはできなかった。
 そして小野田もまた、そんな薪を心配していた一人――否、小野田は誰よりも薪を案じていた。日に日に憔悴していく彼に、胸を痛めていた。なんとか自分たちの愛情で彼を癒してやりたいと、だがそれは無理なのだと思い知らされて、自分たちが家族総出で掛かってもあの木偶の坊一人に勝てないのだと分かって、その時の落胆と言ったらなかった。青木と縁りが戻って、めきめき元気になる薪を見て、諦めた。認めたくないが、薪には青木が必要なのだ。

「中園を抑えるには、ああ言うしかないだろ。あいつには薪くんたちの関係が理解できないんだから、て、ぼくにも理解できないけど」
 拗ねたように唇を尖らせて、小野田さんは時々子供みたいなんだ、と話していた薪の幼い顔を、岡部は思い出す。聞いた時はえらい違和感だったが、目の当りにしたらそうでもない。
 小野田はついと天井を見上げ――そこに何を思い描いたのか、岡部には知る由もなかったが――たとえようもなく寂しそうに微笑んだ。
「薪くんは青木くんがいないと、本来の自分でいられない。それはいずれ彼が越えなくてはいけない壁だけど、今は未だ無理。そういうことだよね?」
 くるりと小野田は岡部に背を向けた。娘を嫁に出した後の父親みたいな背中だった。
「ぼくは公には動けない。薪くんを頼んだよ」

 第九に帰ると岡部は、その場で今井に仕事の引継ぎをした。それから部下たちに注意事項を述べて、慌しく帰って行った。
 岡部の姿がドアの向こうに消えると同時に、小池が細い目をいっそう細めて、
「あの官房長が、薪さんが青木を助けに行くのを止めないなんて」
「いくら止めても無駄だと思ったとか?」
「官房長公認てこと?」
「「「もう結婚しちゃえばいいのに」」」
「曽我、小池、宇野……岡部さんに聞かれたら殴られるぞ」
「結婚祝いは何にしましょうか。やっぱり夫婦茶碗ですかねえ」
「「「「山本、チョイス渋過ぎ」」」」
 岡部が薪の援護に回ったことで、いくらか見通しが明るくなったのか、職員たちは軽口を叩いた。失笑が零れる第九研究室の廊下、ドア近くの観葉植物の陰で中の様子を伺っていたのは、官房長が怖がっていた首席参事官。

「ったく、小野田が甘やかすから。ロクな職員が育たないな、第九は」
 憎々しげに毒づくと、ジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出した。
「僕だよ。薪くんのGPS、追いかけてる? じゃあ、それをこれから言うメールアドレスに転送しておいて。うん、携帯でいつでも見られるように、システムごとね」
 通話を終えて携帯をしまい、中園はしばし黙考した。骨身に染みて解っている公安のテロ対策方針と、嫌になるくらい見せ付けられた薪の愚直な純真が、中園の中でぶつかり合う。立場上守らなくてはならない前者と、それに逆らうような行動を中園に取らせる後者。今、中園に電話を掛けさせたのは後者の仕業だ。
 どちらに軍配を上げることもできず、中園は虚空に向かって呻くように呟いた。
「死ぬなよ、薪くん」



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(14)

たとえ君が消えても(14)






「そういうわけで、俺も神戸に向かいますから」
 小野田から密命を受けて1時間後、岡部は早くも新大阪行きの新幹線の中にいた。

「飛行機は最終便に間に合わなかったんで、新幹線を使います。新神戸へは、0時25分に到着の予定です。駅で待ち合わせて、今後の対策を」
『駄目だ岡部、そこにいろ』
 連れ戻される心配がないと分かってさぞ安心するかと思いきや、薪は岡部の協力を拒否した。せっかく小野田が岡部を差し向けてくれたのに、今は気を使っている場合ではないと思うが。

「今更遠慮は無しですよ。どのみち、あなたを逃がした時点で俺はもう」
『そうじゃない。おまえには第九にいてもらわなきゃいけないんだ』
「……そいつはどういう意味ですか?」
『此処では人目が多くて話せない。後で連絡するから、とにかく第九で待機を……待て。青木から連絡が入った』
「青木から?!」
 薪の携帯に掛かってくる電話は、すべて本部に同時受信されるようになっていると中園に聞いた。何のかんの言って、中園は薪の味方だ。岡部が薪の居所を掴みやすいよう、GPSのデータも即時携帯に送ってくれている。
 薪からも受信機からも遠く離れたところにいる岡部には、電話の内容は知る由もなかったが、しばらくすると流れていたメロディは途切れて、薪の声が聞こえた。

『岡部、早速だが動いてくれ。第九の近くにある珈琲問屋、いや、その前に』
「でもあの、俺、新幹線に乗っちゃって」
『降りろ』
 新幹線から飛び降りたら死にますけど。

 上司の命令に何と返していいものか迷う岡部の耳に、薪の逼迫した声がせまる。
『降りて青木のアパートに向かえ。管理人を叩き起こして、部屋を開けさせろ。おまえに調べて欲しいことがある』




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(15)

 あらやだ、何かしら、前回の記事の短さは。
 挨拶文も入ってないし、これは所謂アレですね、手抜きの予約投稿ですね。(すみません)
 
 今ね、書いてる話が山場で、こっちの世界に戻ってこれなくてですね。(またか)
 あっちの話の薪さんはもっとウジウジしてて、こっちの話を読むと勇ましくなり過ぎちゃって、青木さんのお姉さんにケンカふっかけちゃいそ……意味わかんないですよね、すみません。 
 でも、(恋愛関係で)悩み多き薪さんを書くのは久しぶりなので、ごめんなさい、楽しいです。(←鬼)






たとえ君が消えても(15)





 薪警視長の携帯電話に連絡が入ったのは、午後9時32分だった。入電を報せるブザーが鳴り、捜査本部に緊張が走る。集合予定の1時間前とあって、本部には南雲を入れて6名の捜査官しか残っていなかったが、内容の確認には充分な人数だった。

「今度は本物だといいですね」
「ああ」
 薪の携帯には昼間も何度か電話が掛かってきていたが、そのすべてを傍受していたわけではない。ついさっき掛かってきた第九の副室長からの電話も、事件には関係ないと判断したので南雲は聞いていない。プライバシーの保護ということもあるし、お互い機密が命の商売だ。気に入らない相手にも仁義は通す、それが南雲の信条だった。この南雲の律義さが災いして、捜査本部は薪が独断で神戸に来ていることを知らずにいた。

『薪警視長?』
 受信機から聞こえてきた男の声に、捜査本部は色めき立った。ボイスチェンジャーは使っていない、これはおそらく真鍋哲夫の声だ。
『刑部長陽の釈放はいつ頃になりそうだ?』
『上の者が法務大臣に掛け合っている。明日まで待って欲しい』
『身代金は』
『やっと半分の10億、用意ができたところだ。警察ではそれが精一杯でな、残りは内閣の方で何とか都合をつけてもらえるよう、算段の最中だ』
 堂々と嘘を並べる、薪の落ち着きぶりに南雲は舌を巻く。自分も面の皮は厚い方だと自負しているが、この男も相当なものだ。

『努力はしているようだな。もう一つの条件は?』
 もう一つの条件とは赤羽事件の真実の公表を指していたが、これは南雲たち公安の人間にも意味がよく分からなかった。あの事件は多数の被害者を出したものの、事件そのものは単純明快で、隠された真実など何もないはずだ。一応、別働隊に事件の洗い直しをさせているが、今のところ目立った報告は上がって来ていない。
 公安の南雲たちがその調子なのだ。部外者の薪にはもっと分からないだろう。

『そのことだが。僕は、3年前は官房室には勤務していなかった。あの事件に直接関わったわけではないから、詳しいことは何も』
『なんだ。第九の天才も噂ほどじゃないな』
 薪の噂を真鍋が聞き及んでいることは、不思議ではなかった。第九の室長時代、若き天才警視正として、薪は何度もマスコミに取り上げられていた。第九のイメージアップを狙って、テレビ出演したこともある。だからと言って彼が全国の凶悪事件のすべてを掌握していると考えるのは、えらく短絡的な思考と言わざるを得ない。が、薪は一言も反論せず、己の力不足を素直に詫びた。

『申し訳ない。それと、今後の交渉だが、南雲と言う職員が引き継ぐことになった。彼は僕よりも君たちの内情に通じているから、要求も通りやすかろう』
『それは駄目だ。交渉窓口は、おまえ以外認めない。交代すると言うなら交渉は決裂だ』
 ほんの少し沈黙した後、薪は「分かった」と返事をした。ここまで完全に拒絶されたのでは仕方ない、薪には次に犯人から連絡が入る前に神戸に来てもらうしかない。あの異分子を捜査本部に招くのは本意ではないが、同じ場所にいなければ指示を与えられない。

『そちらの要求が通るよう、最大の努力をする。だから、人質の声を聞かせてくれ』
 薪の演技力は大したものだ、と南雲は思った。彼の声からは誠実と憂慮が滲み出ている。その独特の容姿から囮捜査に駆り出されることも多いと聞いたが、この程度の芝居は序の口なのだろう。
 芝居が通用したと見えて、薪の要求は通った。僅かな空隙を挟んで、別の男の声が聞こえてくる。

『薪さん、オレです』
 若い男の声だった。これが青木警視の声か、と南雲は思ったが、薪はすぐには返事をしなかった。
『…………青木』
 長い間を置いて、薪が答えた。さすがに解っている。
 できるだけ会話を長引かせるのは、交渉術の基本中の基本だ。昔のように固定電話の番号が特定できるわけではないが、得られる情報は多いに越したことはない。人間の耳ではよく聞きとれないような音も、音声分析に掛ければ明確になる。特徴的な音が入っていれば、場所を特定することもできるのだ。頭脳派の薪らしいと本部の人間は考えたが、その空白の時間に彼の心の中でどれほどの葛藤があったのか、それは彼らには理解の及ばないことだった。

『無事か』
『はい、どこも怪我してません。あ、でも、この人たちのことについては何も話しちゃいけないんです。今も銃をこっちに向けられてて、痛っ!』
 犯人は複数、銃を持っている。人質に怪我はなく、場所は銃声が響いても通報されない、つまり周りに民家が少ない、倉庫街かビル街。携帯がつながっているから地下ではない。

『無理をするな、青木。無事ならそれでいい』
 何を甘えたことを、と南雲は薪の応答に不満を覚える。いやしくも警察官なら少々の脅しには屈せずに、状況を本部に伝えるくらいの根性を見せて欲しいものだ。
『大丈夫です。みなさん、意外と親切で。暑いのと、コンクリの床はお尻が痛くて眠れないって言ったら冷風機とお布団入れてくれました。あと、お昼はコンビニのお弁当だったんですけど、これがオレの好物のマーボー茄子弁当で』
 青木の言葉から得られる情報を、南雲のペンがサラサラとメモ用紙に書きつけていく。大量の荷物を運び入れたなら目撃証言が取れるかもしれない。近くにマーボー茄子弁当を販売しているコンビニ。だが、コンビニは至る所にある。もう少し、場所を絞り込める要素が欲しい。

『よく電話に出してもらえたな』
『コーヒーが美味しかったご褒美だそうです』
『コーヒー?』
『薪さん専用ブレンドの豆を買って来てもらいましてね、淹れてあげたら皆さん、とても喜んでくださって。オレも味見しましたけど、これが見事に同じ味に出来て』
 弁当だのコーヒーだのと、どうにも緊張感のない会話だ。何と答えたものか、薪も迷ったのだろう。しばらく考えたのちに、「よかったな」と当たり障りのない言葉を返した。

『こっちは大丈夫ですから。薪さん、あんまり心配しないで』
『明日、また連絡する』
 青木の言葉は途中で途切れ、真鍋の声に取って代わった。話していたのは2分少々、それでも得られた情報はある。基地局は神戸市西区の向井町で、地取り中の平野町はその圏内だ。録音データを解析すれば、他にも何か分かるかもしれない。データを音声解析室に送って、その結果待ちだ。

「テログループ相手にコーヒーですか? 呑気な人質ですね。肝が据わってるんだかバカなんだか」
 データ送信を終えた部下が、呆れた顔で第九の警視を嘲笑う。のほほんとした青木の話を聞いてそんな評価を下したのだろうが、南雲の考えは違っていた。
「バカはおまえだ。あれは符号だ」
「えっ。隠語なんか混ざってませんでしたけど?」
「本当にアホだな、おまえは。連中相手に隠語なんか使ったら逆に命取りだろ。あれはあの二人にしか分からない符号なんだろうよ」
 テロ集団に拉致されて銃で狙われて、あんな風に喋れるのは百戦錬磨の強者か頭が弱いかのどちらかだ。エリートしか入れない第九の職員が、後者のはずがない。南雲は青木と言う男を写真でしか知らなかったが、なかなかどうして、肝の据わったいい捜査官だと思った。引き換え、うちの若いのときたら。

 部下に説教をくれながら、南雲は薪に電話を掛けた。この後の打ち合わせをしようとしたのだ。
「薪警視長、電話の内容は確認しました。ええ、交渉役が変えられないなら、あなたに此処に来てもらうより他ありませんね。西警察署の場所は分かりますか? ―― はあ!?」
 電話口から返って来た言葉の意外さに、思わず大声が出た。隣の部下がびっくりして、コーヒーカップを取り落しそうになっている。
『すみません、そちらには行けません。電話は傍受していただいて結構ですから』

 交渉の際に盛り込んで欲しい内容があれば言ってください、と薪はそれでこの局面を乗り切る心算らしい。確かに通話は本部に筒抜けだし公安の意向は薪が犯人側に伝えてくれる、が、そんなものでもないだろう。なぜ来れないのか、と尋ねる南雲に薪が掲げた理由は、南雲には到底納得できないものだった。
『第九で調べたいことがあって』
「第九で調査を? 何についてですか?」
『調べてみないと分かりません』
 何を調べるかも、調べてみないと分からない。人を喰ったような答えに、堪忍袋の緒が切れた。

「ふざけなさんなよ! 私らの邪魔ばかりしたかと思えば必要なときには行けないって、あんたね! 天才警視長だか官房長の愛人だか知らんが、我が儘もいい加減にしなさいよ!」
『愛……!!』
 ぶつりと電話が切れた。本部に残ったのは、南雲の荒い鼻息と西区警察署職員の丸くなった目。
「愛人なんすか? 官房長の?」
「いや、単なる噂だ。ガセだってことは分かってるよ。けど、あんまり頭に来たもんだから」
 西区警察署の捜査員が疑わしそうに、部下と会話する南雲を見ている。おかしな噂が広まるのも時間の問題かもしれない。あの第九の引きこもり野郎が、いい気味だ。
 神戸市警で囁かれる薪の不名誉な噂を想像して、南雲は少しだけ溜飲を下げた。




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(16)

 こんにちは!
 
 会社のお仕事、決まりまして!(喜)
 契約書類を作らなきゃなので、連日更新は今日でストップですー。 我ながら短かったなー。(--;
 申し訳ないのと、この章も短いので、次のも一緒に上げておきますね。
 ではでは、また来週!





たとえ君が消えても(16)






 電話から5分後、岡部は新横浜で降りて、タクシーを拾った。薪からの指示があと5分遅かったら、名古屋まで行く所だった。警察手帳を振りかざして無理矢理新幹線を止める羽目にならずに済んでよかった。薪ならそのくらい平気で「やれ」と言うに決まっている。

 夜の10時過ぎ、年老いた管理人には申し訳なかったが、緊急を要する事件の捜査のためだと頭を下げた。管理人がしょぼついた目を擦りながら開けてくれたドアに滑り込み、岡部は青木の部屋に入った。
 岡部は余所見をせずに本棚に向かった。そこには、試験勉強用の参考書やIT工学の専門書、果ては趣味のカー雑誌までもがきちんとナンバー順に並べられていた。几帳面な青木らしいと思った。

「こいつか」
 雑誌とIT関連本の間に挟まれたノートを見つけ、岡部はそれを抜き出した。薪から聞いた通り、表紙に『研究書 極秘扱』と書いてある。床に腰を下ろし、目的のものを調べるためにパラパラとノートをめくり出した岡部の無骨な手が、脱力したように投げ出された。
「なんだこりゃ」
 ノートには、青木のコーヒー職人としての経歴が細々と記されていた。独自に試みたブレンドの配合設定、それを飲んだ薪の反応が逐一書いてある。コーヒーの研究書と言うよりは、薪の好みを探るための研究日誌みたいだ。これは確かに個人情報ではあるが、『極秘扱』とは大げさな――。

「うおっ!?」
 ある一文が目に入って、岡部は吼えた。それは夜間に不適切な音量で、でもこれは不可抗力だ。いきなりこんなことが書いてあれば、誰だって我を失う。
「こ、これは……!!」
 生々しい言葉の羅列に、心臓が早鐘を打ち始める。岡部の耳に、薪の不必要に凄みを利かせた声が甦った。

『いいか、コーヒーの記述以外のところは絶対に読むなよ? 読んだらコロスぞ』
 その後に続いた、彼のヒステリックな声も。
『ホントは自分で調べたいんだ! でも僕は神戸に来ちゃってるから、調べに帰ってたらコーヒー店の閉店時間に間に合わないし!!』

 取り乱すわけだ。これは他人には見られたくないだろう。
 おそらく薪は電話口で顔を真っ赤にして、この内容では無理もない。まったく青木のヤツ、薪さんになんて酷い事を。何が新記録だ、幾ら若いからって一晩に6回はないだろ、薪さんもすごく悦んでたってそれはおまえの主観じゃないのか薪さんお可哀想にっ。

 これが事件の最中でなかったら、またこのノートに重要な手がかりが書き記されていることを知らなかったら確実に破っていたところだ、てか、読んだ後に破ればいいんだ、そうだそうしよう。
 いや待て、このノートの存在を薪が知っていて、その上で放置していたことを考えると勝手なこともできない。こんなことまで記録されるなんて自分なら絶対にごめんだが、まあこういうモノは人それぞれだし。とりあえず、青木が生きて戻ってきたら、
「この手で息の根を止めてやる」

 神戸から直線距離にして約400キロ離れた東京の地で、自分に対する殺意が生まれたことを、青木警視は知る由もなかった。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(17)

 本日、2個目の記事です。
 (16)を先に読んでくださいね。(^^





たとえ君が消えても(17)






 同日同時刻。法医第九研究室では、もう一つの羞恥プレイが繰り広げられていた。

 それは、KYには定評のある曽我の言葉から始まった。
「青木のやつ、薪さんと話せるだけであんなに浮かれちゃって」
「薪さんだって、声が甘すぎだろ。あれってどう聞いても」
「見事にラブコールでしたねえ」
「まあ、無事で良かったじゃないか」
 薪と犯人の通話内容を、なぜ曽我たちが知っているのか。薪と青木を心配して誰も家に帰ろうとしない第九の職員たちを安心させようと、捜査本部から報告を受けた中園が教えてくれた、なんて心温まる舞台裏ではない。話はもっと単純だ、薪の電話を傍受しているのだ。ITの申し子、宇野にかかればこれくらい、朝飯前どころか二度寝しながらでもやってのける。その手段は法的にどうかと思うが、彼らの捜査姿勢は室長譲り。目的を達するためには少々の違反には目をつぶるのだ。

「ねえ、今井さん。なんで犯人は、薪さんを交渉役に指名したんですかね?」
「そりゃあおまえ……なあ」
 歯切れ悪く語尾を濁す今井に振られて、山本が弱気に眉を寄せながら「ですよねえ」と応じる。他の2人も何となく眼を逸らし、研究室は微妙な空気に包まれた。

「いや、俺たちにとっては、あの二人がデキてるのは常識ですけど」
 誰もが薄々勘付いて、でも誰も言い出せなくていたことを、曽我は遠慮なく口にした。さすが曽我。ある意味、勇者だ。
「でも、それが神戸までダダ漏れってことはないですよね? なのに、どうして薪さんなんですかね?」
「青木が喋ったんじゃないのか」
 曽我の疑問に小池が答えた。が、その言葉は直ぐに質問者の曽我によって否定された。
「青木だぞ? 薪さんの不利益になることは、殺されても喋らないよ」
 その意見には皆が頷いた。青木の行動基準は、薪の為になるかならないかだ。脅されたくらいで秘密をばらすとは思えなかった。ウーンと天井を見上げ、考え考え山本が、
「携帯を調べれば、ある程度のことは分かるんじゃないですかねえ。青木さん、しょっちゅう薪さんに電話してるじゃないですか。発信履歴一つ取ったって、薪さんの名前が10回連続で並んでいれば、それは」
「立派なストーカー行為だな」
「薪さん、よく我慢してるな」
 大きなお世話だ、と薪が聞いたら怒るだろうか。それとも、僕の苦労を分かってくれるのか、と感涙するだろうか。

「二人で撮った写真ですとか、携帯に保存してるかも」
「それはない。青木は発信履歴も受信履歴も、その場で消すようにしてる。写真も多分、俺が作ったプロテクトでガードしてるはず」
 青木はどうしても携帯に薪の写真を入れておきたくて、でも絶対に誰にも見られる訳にはいかなかったから、宇野の手を借りたのだ。宇野も内容については詮索しなかったが、プロテクトキーは作ってやった。必ず使っているはずだ。

「じゃあどうやって犯人は、青木と薪さんの関係を知ったんだ? 知ったから薪さんに電話してきたんだろ?」
「単純に、リダイヤル押したら薪さんに繋がったとか」
「誰が出るかも分からないのに、そんなヤマ張れるかよ。脅迫電話ってさ、普通は肉親に掛けるもんじゃん」
「過激派の場合は別だろ。金だけが目的じゃないし。それに、実家には電話したくてもできなかったさ。宇野のプロテクトのおかげで、青木の携帯からは何の情報も取れないようになってるから」
「それなら、第九に掛けてくるのが普通じゃないか? 青木は名刺を持ってるだろ」
 それもそうだな、と今井が受けて、軽く首を捻る。考えてみれば、犯人の行動は不自然だ。加えて、犯人が交渉役の交代を拒否したことから導き出されるもう一つの可能性、それは。

「犯人は、薪さん個人を脅す必要があった?」
 そういうことになる。

「赤羽事件の真相を公開するように言われたんだろ。あれって、何か裏があったのか? それを薪さんが知ってる、と犯人は思っていたとか」
「事件調書に薪さんの名前はないけど」
 小池の推理を受けて、宇野がキーボードを叩く。画面に映し出されたのは公安部の事件記録簿だった。もちろん、科警研の職員に閲覧権はない。
「宇野、おまえそのハッキングのクセ……まあいいや。となると、薪さんが知ってる訳ないな。だって薪さん、3年前はバリバリ第九の室長やってて、官房室には出入りしてなかったもんな」
「官房室の人間が事情を知っていると思えば、直接官房室に掛けるはず。何故そうしなかったんでしょうねえ?」
「薪さんが3年以上前から官房室の人間だったと勘違いしたか、それとも」
「第九の室長なら知っているはずだと犯人が思っていたか、だ」

 彼らは一瞬、申し合わせたように口を噤み、すると広い研究室を静寂が支配する。だがその静けさは、嵐の前触れ。
 それは天啓のように、殆ど同時に全員の中に湧き上がった疑惑であった。

「過去のMRI捜査の中に、『赤羽事件』に繋がる何かが?」
『赤羽事件の真実』は、MRI捜査の中にある。自分たちが観てきた、脳のどこかに。

「……持ってこい」
「今井さん」
 室長、副室長、ともに不在の折、常日頃の冷静さをかなぐり捨てて、副室長代理の今井が怒鳴った。
「2063年以降にMRIに掛けた脳を、全部ここに持って来い!」




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(18)

 ご無沙汰ですー!! 更新、空いちゃってすみませんー!
 仕事取れたと思ったら、町内のお葬式ができちゃって。 1日、2日とお手伝いに行ってました。 田舎の嫁の宿命でございます。 それで役所も書類待ってくれるんだから、スゴイよね☆


 ところで、久しぶりにアクセス解析を覗いたら、ホスト名のとこに、
『滋賀医科大学』
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。 紛らわしいサイト名付けてすみません。←今更謝っても無駄だと思いつつ謝らずにいられない。
 しかも、時間を置いて3回も、すみません、一度間違ったら次からは注意してください。←逆ギレ!? 

 
 以上、お話とは何の関係もない前振りでした。

 お話の続きです。
 短くて申し訳ないんですけど、今日はここまでですー。
 
 でねっ、
 土曜日、実家の父の3回忌なんです。 その準備がちょっとあって、明日明後日は更新できません、ごめんなさい。 同時に、コメレスもすみません、もう少しお待ちください。

 あと、拍手も毎日たくさん、どうもありがとうございますー! 3万のお礼SS、形になりましたので今度「現在の妄想」のところに内容載せます。

 あとあと、7万ヒットのリクくださった方、ありがとうございました! 多分、2番目のリクならお応えできると思います。 時間ができたら練ります。

 あとあとあと、日曜日遊んでくださったお二方、お礼のメールも出さんと、本当に不義理なヤツですみませんー! 見捨てないでください。






たとえ君が消えても(18)






 南雲修一警視正は、朝の5時に目を覚ました。昨夜は12時丁度に報告会を終えて、市警の仮眠室を借りて休んだ。南雲の部下たちは所轄の捜査員と一緒に、道場に布団を敷いて雑魚寝した。神戸西署の大石署長からは、南雲にはホテル、他の者たちには官舎を用意するとの申し出があったが、南雲はそれを断った。大きな事件の帳場が立つと、所轄の負担は数百万にも上るのだ。無駄な経費を使わせるのは気の毒だと思った。

 捜査の進捗状況は、思わしくなかった。地取りに掛かった時間が遅かったせいか、上げられた情報は少なかった。人質が警官であったことで、仲間意識の強い現場の捜査員たちは交代で仮眠を取りながらも殆ど一晩中駆けずり回ったが、目ぼしい手がかりはつかめなかった。
 捜査員の中には、あまりの手ごたえの無さに違和感を覚え、それを指摘した者も少なからずいたが、捜査方針を変えるほどの訴えには至らなかった。手掛かりが上がってくるまでに、日数を要することは珍しくない。地道に続ければ必ず結果は着いてくる、と南雲は自分に言い聞かせた。

 朝の7時に、捜査会議が始まった。僅かな睡眠時間で街中を歩き回った所轄の捜査員達には疲れの色が濃く、南雲は3交代で休息を取るように命じた。凶悪なテロリストを相手取るのに、疲労は命取りだ。咄嗟のときに身体が動かなかったら、それは死を意味するのだ。
 昨日の報告のまとめと、今日も引き続き地取りに当たること、特に倉庫街を重点的に、メンバーの写真で目撃者を探す事。真夏の暑さを倍増させるような地道な捜査の指示を与えながら、南雲は焦りを感じていた。
 本当に、平野町で間違いないのか。音声解析室からの結果は今日の午後にならないと上がってこないが、昨夜の犯行グループからの電話の基地局は、確かに平野町だった。しかし青木警視の話では、その建物では昨日の昼間、荷物の搬入作業があったはず。空き家だと思われていた建物にそんな動きがあれば、誰かが記憶していても良さそうなものだ。
 薪警視長から捜査本部に電話があったのは、そんなときだ。

「引きこもりが何の用だ。今、全体会議中で……青木警視の居場所が分かった?!」
 兵庫県警の刑事部長が職員たちを鼓舞する中、南雲の声は部屋中に響き渡った。捜査員たちの動揺が、さざ波のように広がって行く。捜査本部総員120名が総出で当たって得られなかった成果を、南雲の電話の相手は東京に居ながら突き止めたと言う。彼らが動揺するのも無理はなかった。

『まだ、推測の域を出ませんが』
「こっちも平野町の何処かだと見当がついてる。もっと絞り込めるのか」
『平野町? 違いますよ、伊川谷町の長坂地区です。廃業した自動車学校があって、青木がいるのは多分、その学校が大型車を格納していた倉庫棟じゃないかと』
 伊川谷町は西区の東端だ。平野町は西区の中ほどに位置しており、両者は大分離れている。薪の言が正しいとなると、自分たちはまるで見当違いの場所を探していたことになるが。

「どうして其処だと?」
 南雲の声は、疑念に満ちていた。テログループのホームグラウンドでずっと彼らの足取りを追っていた所轄が、その本拠地を平野地区と断定したのだ。グリーンアースと名乗る過激派がいることも今回初めて知ったような人間、それも東京在住の彼に、それを覆せるだけの情報を得ることができたとは思い難い。
『いや、説明したいのは山々なんですけど僕にも事情が……とにかく、僕、今そこに向かってるんで。本部から応援回してもらえますか?』
「向かってるって、ちょっ、おい、待て! 勝手なことするな!!」
『大丈夫です、様子を見に行くだけですから。念のために、Sを1隊連れてきてくださいね』

 SITを連れて応援に来い――勝手極まりない妄言を最後に、薪の電話は切れた。南雲の額の血管は、凄まじいことになっている。
「あの男には常識がないのかっ!!」
 携帯電話を折らんばかりの勢いで南雲が毒づくと、部下が恐る恐る、
「それで課長。どうしましょうか」
「決まってるだろうが! さっさとSITに出撃命令を出せ!!」
「大丈夫なんですか? あんな電話一本でSITまで動かしちゃって」
「薪が警視長まで昇ったのは、官房長の愛人だからじゃない。ココだ」
 南雲は左手の人差し指で自分の側頭部をコツコツと叩き、
「あいつは天才なんだ」
 捜査一課に配属された人間なら誰もが耳にする、薪警視長の伝説。彼が手がけた事件でお蔵入りしたものは一件もない。それどころか、彼が一課に所属していた時期の犯人検挙率はほぼ100%なのだ。1~13まである捜査班の班長は、捜査に行き詰ると薪のところに相談に行った、という逸話が信憑性を高める要因だ。

「捜査班を分ける! 1~8班までは昨日に引き続き平野町の捜索に当たれ。9班と10班はSITと共に伊川谷町に向かう。こちらの指揮は私が執る」
 地取り捜査については所轄の意向を尊重する、その基本方針が部分的にではあるが変更になったことに、神戸西区の上層部は驚きの色を隠せない様子だった。それは捜査員たちも同様で、しかし彼らが本当に驚いていたのはそこではなかった。

(官房長の愛人?)
(薪警視長って女性なのか)
(いや、「あの男には」って南雲さんは言ったぞ)
(え、じゃあ……)
 南雲が発して、でも否定したはずの「官房長の愛人」という言葉が、いつまでも捜査員たちの耳に残っていた。



*****

 とうとう薪さんの悪女伝説が全国区に。(笑)

テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(19)

 おかげさまで、父の3回忌、無事に終わりました。
 お話、再開させていただきます。

 残り13章、次のメロディ発売までに、あ、今日はもう8日か。 明日は役所に書類を届けなきゃだし、明後日は大洗の下水の検査だしなあ。 どうしてわたしって、計画を立てて前倒しに実行するとかできないのかなあ……仕事は期日に遅れたことないんだけどなあ。


 気を取り直して。 
 この章、とっても短いので、次の章も一緒に上げます。
 実は、公開するときは前の章と一緒にしようと思ってて忘れちゃったのね。(^^;) どうしてわたしって…… ←もどった。





たとえ君が消えても(19)






 捜査員たちが慌ただしく署を出て行った後、神戸西警察署長の大石は、南雲の要請で出撃準備を整えるSITを激励するため、隊長の広瀬を署長室へ呼び出した。

「犯人グループ全員の狙撃を許可する。SIT本体とは別に、狙撃班を配置しろ」
 唐突に命じられて、広瀬隊長は眼を瞠った。
「テログループ相手に情けは無用だ。特に」
 大石署長の太くて短い指が、一枚の写真を指し示した。出動の命が下った時、最初に見せられた男の写真だった。名前は真鍋哲夫。今回の事件の首謀者と目されている男だ。
「この男は危険だ。見つけ次第、殺せ」

「見つけ次第、ですか?」
 凶悪事件の現場には何度も赴いている広瀬だが、これほど虚飾の無い抹殺命令を、それも署長から直接受けたのは初めてだった。上司の中には無慈悲と言うか、比較的簡単に射殺命令を出す者もいるが、署長はそうではないと記憶していただけに、この言葉は意外だった。

「しかし、人質が」
「致し方なかろう」
「署長」
 いくらテロ相手とはいえ暴言とも思える大石の言葉に、広瀬は面食らった。人質の保護は最優先に為されるべき、それを致し方ないとは。

 広瀬が返答に困っていると、大石は丸い顔に普段の好々爺とした笑みを浮かべ、
「なに、そのくらいの気構えで挑めと言うことだよ。『赤羽事件』では、この男が作った爆弾で100人近くが死傷した。この男が指一本動かせば、この警察署くらいの建物が簡単に吹き飛ぶんだ。私は君たちの誰一人として、失いたくはないのだよ」
 3年前、刑事部長だった大石署長は赤羽事件で多くの部下を失った。それ故の強硬意見なのだと広瀬は判断し、はい、と緊張した顔つきで頭を下げた。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(20)

 本日、2個目の記事です。
(19)を先に読んでください。




たとえ君が消えても(20)






 囚われの身になって2回目の朝、青木は再び銃を突き付けられながら、犯人たちの為にコーヒーを淹れていた。
 何人かのメンバーはサトシに連れられて何処かへ出かけて行き、倉庫内に残っているのはテツとツトムの他2名、計4名のテロリストと2人の人質だけだった。青木一人なら、この人数なら逃げられたかもしれない。しかし桐谷がいては、それも諦めるより他なかった。

 自分が淹れたコーヒーを旨そうに飲む男を見上げて、青木は不思議な感覚を味わっていた。
 目の前の男は、凶悪犯だと聞いた。青木も、何もしていないのに腹を蹴られた。悪人だと分かっているのに、何故か恐怖はなかった。
「なんだ」
 青木の視線を訝しがって、テツが眉をしかめる。堅そうな髭に囲まれた唇がへの字に曲がり、彼をいっそう硬派に見せた。
「いえその、真鍋さんは本当にコーヒーがお好きなんだなと思って。コーヒー飲むときは、優しい眼になるから、痛っ!」
「余計なこと言うからだよ」
 脛を蹴られた青木を見て、ツトムが苦笑する。青木も彼に笑い返した。昨夜、薪と話せたのはツトムが真鍋に口添えしてくれたおかげなのだ。
 ただ、電話をした場所は此処ではなかった。電話は車の中で掛けたのだ。青木は目隠しをされ、車に乗せられて、何処か知らない場所へ連れて行かれた。携帯電話の場合は近くの基地局が割り出されるから、場所を変えて電話をすれば捜査の撹乱になるのだ。

「薪さんも普段は鬼のように怖いんですけど、コーヒー飲むときだけは優しい顔になるから。それを思い出しちゃって」
「おまえさ、その『薪さん』て人、好きなの?」
「はい」
「鬼のように怖いのに?」
 青木は困ったように笑って、するとツトムは青木の両手首をガムテープで戒めながら、
「分かるよ。おれもテツさんのこと好きだから」
 ツトムの言う好きと青木の好きは微妙に違うが、敢えて触れないことにした。
「やめろ、ツトム。気持ち悪い」
 真鍋はツトムの尊敬を切って捨て、黙ってコーヒーを啜る。ツトムは苦笑いして、自分も紙コップに口を付けた。

「おまえのコーヒーを飲むと、刑部さんを思い出す」
 最後の一滴を飲み終えて、真鍋はぼそりと言った。
「コーヒーを淹れるのが上手い人でな。よく飲ませてもらった。徹夜で話すことが多かったから」
 テロの殆どは思想犯から始まる。憂国の士と言うやつだ。最初はこの国を良くするため、豊かで平和な国にするにはどうしたらいいのか真剣に考えて、でもどこかで道を間違えてしまう。考えを行動に移すと壁に当たって、だけど自分の考えが間違っていることは認められず、国が悪い政治が悪い果ては国民が悪い、と危険思想に傾いて行く。結果、最初の思惑とは掛け離れた場所に着地してしまい、その時にはもう、後戻りできなくなっている。青木は彼らの身の上を、そんな風に考えていた。

「刑部さんを助けたい。おれの望みはそれだけだ」
 真鍋の切なる願いを聞いて、青木は複雑な気分になる。誰かを助けたいと思う気持ちは善であるはずなのに、それを為すためには悪に手を染めなければならないと言う矛盾。彼らの善行は悪行を内包し、それは警察官として決して認めてはいけないことなのに。
「その為なら何でもする」
 大切な人を守りたい。その単純な気持ちは青木には痛いほど分かってしまう。だってもしも薪がそんな目に遭ったら、青木も同じことをする。身体にダイナマイトを巻きつけて、薪を強奪に行くかもしれない。

「すごい人だったんすね、刑部さんて。テツさんが惚れるんだから」
 ツトムは2年前にグループに入ったそうで、刑部を直接は知らない。詳しいことは知らないが、真鍋が刑部を尊敬するように、ツトムは真鍋を尊敬しているらしかった。
「だからその言い方止せって」
 ツトムの言い草に真鍋が顔を歪めた時、真鍋の携帯が震えた。着信を確認した真鍋の顔に緊張が走る。

『テツ、大変だ。西署の特殊部隊に動きがある』
「ガサが割れたってことか」
『分からん。別件かもしれないし、ただの訓練かもしれない。念のため、そちらへ戻る。平野の陽動作戦は延期だ』
 青木は知らなかったが、これまでグリーンアースの活動は主に平野町で行われていた。地元警察の眼をそちらに引き付けておくのが目的で、実際の本拠地は此処、伊川谷町にあった。MRI科学研究所神戸支局からの裏金はその殆どが武器に化け、この倉庫にしまわれていた。平野町には団体の名義で事務所を置いていたが、登記のみのダミー事務所だった。

「みんな、行くぞ」
 応戦の準備を整える気なのだろう、真鍋は厳しい顔をして、ツトムと他の2人を呼び寄せた。それから青木の頭を銃先で軽く小突き、
「逃げようなんて思うなよ」
「誓って逃げませんよ。命が惜しいですから」
 4人は連れ立って、ユニットハウスを出て行った。彼らの足音が聞こえなくなると、青木はおもむろに手首のガムテープに噛み付き、強く引っ張って裂き始めた。

「さて。桐谷さん、逃げましょう」
 舌の根どころか先端も乾かないうちに、青木は誓いを撤回した。呆気に取られる桐谷を安心させようとにっこり笑い、彼の手枷を外してやる。
「オレたちが此処に居たら、薪さんの足手まといですから」
「……はあ」
 青木の行動基準に一般の警官とは根本的なズレを感じつつ、桐谷は戒めから解放された手首を何度も擦った。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(21)

 こんにちは。
 この回は、にに子さんに殴られそうです。 ごめんねっ。




たとえ君が消えても(21)






 南雲に連絡を入れてから1時間後、薪は目当ての自動車学校の敷地内にいた。
 10年ほど前廃校になった教習所の敷地は広く、騒音対策の為か、壊れかけた門を除く正面と側面は深い林に囲まれていた。練習場だったはずのコースは雑草が伸び放題で、地面は見えない。校舎と倉庫はかなり離れていて、ここが教習所だったことを知らない人間には両者を結びつけることは難しかろうと思えた。

 薪は、そっと倉庫に近付いていく。伸びた草が薪の身体を隠してくれる。斥候にはもってこいの環境だ。
 10m付近まで接近して中の様子が見える場所を探したが、窓はひどく汚れており、見通すことはできなかった。この暑さだ、どこかしら開いている窓があるに違いないと踏んで、周辺をぐるりと回ってみた。が、どの窓も閉まっている。しかし、人の気配はある。目を凝らせばぼんやりとだが、窓に人影が映る。間違いない、青木はここにいる。

 薪は倉庫の裏手に回り、するとそこには青木が薪にくれたヒントがあった。第九の近くにもある珈琲豆専門店。店のデザインが同じだから直ぐに分かる。
 第九のバリスタご自慢の「室長専用ブレンド」は、実に15種類もの豆をブレンドして作られている。そのことを青木から聞いていた薪は、青木との一見呑気な会話の裏に隠された彼のメッセージを正確に受け取った。
 官房室に異動が決まって青木にコーヒーの手ほどきを受けた際に教えてもらった、豆の味は農園や焙煎機によって変わってくるから店ごとに味が違う。店が違えば同じ味は出ない。実際は水によっても違いが出るから神戸と東京では同じ味にはならないのだが、その上で青木が「同じ味になった」と言えば、それはコーヒー豆を購入した店舗が同じであることを暗示している。

 青木は以前、ブレンドの内訳について薪に話したことがあり、薪がそれを覚えていると思ったのかもしれない。残念ながら薪は興味のないことはきれいに忘れる性質で、まったく憶えていなかった。しかし青木がブレンドの配合をノートに記していることを、とある事情から薪は知っていた。忘れたかった記憶を呼び出してみると、それは暗号のような記号で書かれており、コーヒー豆の知識がない人間が読んでも分からないと思われた。それで岡部に確認させた上、第九近くの珈琲問屋まで走らせて店員に豆の種類を確認してもらい、本社にそれを送って神戸市にある支店の売り上げ記録を調べさせたのだ。
 時刻が遅かったため確認できたのは今朝になってしまったが、成果はあった。昨日の昼間、午後3時ごろ、ここ伊川谷町支店で15種類の豆を一度に買った客がいた。青木が買いに行かせたくらいだ、隠れ家から見える位置に店舗はあったはずだ。そう考えて地図を調べてみると、通りを挟んで廃校になった自動車教習所があった、と言うわけだ。

 中の様子が分からない以上、迂闊に近付くのは危険と判断し、薪は応援が到着するまでその場で待つことにした。闇雲な進撃は彼らの命を危うくする。捜一時代にやらかした勇み足の数々とその苦い報酬を、薪は忘れていない。
 薪の方針が覆されたのは、そこに一発の銃声が響いたからだ。
 重い破裂音のようなその音は、薪の耳の底に残る記憶を瞬時に甦らせた。自分でも呆れるくらい鮮明に浮かぶ、胸を真っ赤に染めて倒れている男の姿。8年も前のことなのに、流れた血液が床に描いた模様まで思い出せる。
 自分が殺した親友の顔は、即座に現在の恋人の顔になる。鈴木と同じように、まるで眠っているかのように安らかな死に顔。
 足が竦む。しばらく見なかった白昼夢、でもこの夏の暑さと銃声にタッグを組まれたらひとたまりもない。すうっと視界が暗く狭まっていく感覚に、薪は奥歯を噛み締めて対抗した。

 竹内から借り受けた銃をホルスターから取り出し、右手に持つ。その質感が、薪の心を鉛のように重くした。意識すまいと思っても、その感覚は自然に湧き上がってくる。心臓の辺りがギリッと痛む。その痛みは瞬く間に全身に広がり、薪の手足を見えない針で空中に縫いとめる。薪は奥歯を噛む力を倍にして、自分を叱咤した。
 僕の身体、しっかり動け。貧血は後だ、しゃんと立て。
 僕の心、強くあれ。罪深さを嘆く高徳者の誠実は要らない、私利私欲に塗れた強欲な咎人でいい、そのせいで何を失うことになろうとも。今は、青木を助けることだけを考えろ。
 自分が踏ん張らなければ、青木は死ぬ。その思いだけが彼の足を支え、前へと進ませた。

 侵入は容易かった。浮浪者の出入りでもあったのか、シャッターの一部が曲げられており、その隙間から簡単に入ることができた。現場が倉庫であることも幸いした。内部にはドラム缶や壊れた工具、クレーンなどの大型機械がそのままになっており、隠れ場所には困らなかった。
 物陰に隠れながら銃声のした方向へ足を進めると、薪の背の高さの2倍近くに積まれたドラム缶の陰に、大きな革靴を履いた足が見えた。咄嗟に青木だと思った。日本人で29センチの足の持ち主はそうそう居ない。

 そっと覗き込む薪の瞳に、恐ろしい光景が飛び込んできた。
 青木はうつ伏せに倒れていた。後頭部から流れた大量の血が、彼の横顔を幾筋にも伝い落ち、埃まみれのコンクリートの床に血溜まりを作っていた。

「青木っ」
 警戒も忘れて、思わず飛び出した。何も考えられなかった。
 人間の生死を確認するためには顎の下で脈を取る。重傷者の場合、手首の脈は弱くなっていて、振れないことがあるからだ。薪の知識は取るべき行動を教えていてくれたのに、彼にはそれができなかった。
「青木、あおきっ!」
 さすがに身体を揺さぶって症状を悪化させるようなことはしなかったが、無意識に頭部に触れてしまった。左手にべったりと着いた血の色を見た瞬間、辺り一面が血の海になったような錯覚を覚える。
 本能的に縋るものを求めた薪の腕は青木の頭部を抱き、薪はうつ伏せになった青木を上から抱きしめるような形になって彼と重なった。彼の頭部は血液特有の鉄臭い匂いがして、薪をますます混乱させた。頬を摺り寄せると乾きかけた血が薪の頬を汚し、自然と涙が溢れた。

「青木……ん?」
 ふと気付いて後ろを振り返ってみると、誰かの手が薪の尻を撫でていた。誰かと言っても、此処には薪以外の人間は一人しか居ない。
「この非常事態に……!」
 薪は右の肘を鋭角に曲げ、青木の広い背中に容赦なく叩き込んだ。




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(22)

 こんにちは!
 施工計画書と格闘中のしづです。 見たこともやったこともないポリ管の融着継ぎ手について、さも詳しそうに嘘八百を書き連ねております。 ペーパー代理人(←ペーパーテストで資格が取れるので、土木業界にはゴロゴロいると思う)はハッタリが命。<オイオイ。
 便覧とか融着機の使用説明書とか調べて書くんだけどさ、現物を見たことがないから殆ど想像で書くしかないんだよねえ。 ……仕事でも二次創作?(笑)
 以上、近況でした。
 
 さて、お話の続きです。
 本日も広いお心でお願いします。





たとえ君が消えても(22)






「安心しろ。テログループと戦って華々しく死んだことにしておいてやる」
「わざとじゃありません! 信じてください!!」
 喉元に拳銃を突きつけられて、青木は夢中で叫んだ。真鍋に銃を向けられたときより、遥かに怖かった。
 青木の弁解は真実だ。彼は本当に気絶しており、薪の抱擁と涙で眼が覚めた。初めは何が起きているのか分からなかったし、状況が状況だっただけに、薪が自分に抱きついていると分かったときは天国に来てしまったのかと思った。手を伸ばして触れてみて、薪がスーツを着ているなら現実だと考えた。ここが天国なら薪の衣装は絶対に天使のそれであるはずだと、その理論は30過ぎの男としてどうかと思うが、彼の供述が正しいことに変わりはない。

 両手を挙げてブルブルと首を振る青木の頭部から血が飛び散って、薪は忌々しそうに舌打ちした。ポケットから真っ白なハンカチを取り出し、患部に当ててやる。頭部の怪我は、損傷の割には出血が多い。患部を圧迫して安静にしていれば、10分程度で血は止まるはずだ。
「痛むか」
「いえ、どっちかって言うと背中の方が……何処も痛くないですっ、本当です!」
 最後の供述は嘘だったが、これは緊急避難に該当する。人間、生きる為には嘘を吐かなければいけないこともある。

 出血こそ派手だが、どうやら命に係わるような怪我ではないと、青木の様子にすっかり平常心を取り戻した薪は、持っていた銃を床に置いた。それから、青木のポケットから勝手にハンカチを取り出し、彼の顔に付いた血を拭いてやりながら、道で転んだ友人を冷やかすような軽い口調で、
「なに誘拐されてんだ、バカ」
「オレだって好きで誘拐されたわけじゃ」
「助けに来てみりゃ呑気に寝てるし」
 優しい手つきとは裏腹に、薪の言葉は辛辣だ。自分のヘマに腹を立てているのだ、と青木は思い、怯えながらも控えめに抗議した。
「いやあの、寝てたわけじゃ。オレだって大変だったんですよ、横領の証拠データをパソコンから引き出してたら、突然テログループに拉致されて」
「うるさい! 僕なんか中園さんに苛められて公安とケンカして岡部に捕まって監禁されて終いにはミニスカポリスのコスプレまでさせられたんだぞ!」
「すみません、薪さん側のストーリーのどの辺がこの事件に絡むのか解りません」
 おまえなんかに分かって堪るか、と薪は吐き捨てて、だったら言わなきゃいいのに、よっぽど腹に据えかねる何かがあったらしい。だけどこっちは自分と桐谷の命が懸かっていたのだ、自分の方が事態は深刻だったはずだと思いつつも、青木は悲しいくらいに薪には弱い。

「コーヒーのメッセージ、薪さんなら分かってくれると思ってました」
 乾きかけて落ちにくい頬の汚れを丹念に拭いてくれる薪に、ありがとうございました、と青木はにっこりした。此処はテロリストの巣窟でいつ彼らに見つかって殺されるかもしれないのに、太平楽もここまで来れば表彰ものだ。そう言いたげな目つきで青木を睨む薪の、手つきは相変わらずやさしい。
「血が止まるまで、しっかり押さえておけ」
 やっと拭き終えて、止血のハンカチを青木に託し、薪は立ち上がろうとして、すると整理棚の陰に投げ捨てられている角材が眼に入った。何本かの角材は立てかけられており、その一本だけが床に転がっていた。取り上げてみれば予想通り、血痕が付着している。

「どうやら、凶器はこの角材だな」
「そんなもので……なんか、急に痛くなってきました」
「殺されなかっただけ有難いと思え」
 相手はテロリストだ。逃げ出そうとしたのが見つかったなら、殺されていても不思議はない。交渉の道具にするために生かしておいたのだろうが、ならばどうして青木を此処に放置したのだろう。
「ウドの大木が幸いしたか」
「はい?」
「いや。考えるのは後だ、とりあえず逃げるぞ」
「それは駄目です。桐谷さんが」
 一緒に逃げたはずの桐谷が此処に居ないのなら、彼は青木を襲ったテロリストに捕まったのだろう。見るからに文系の彼が単独で逃げおおせたとは、いくら楽観的な青木でも思えなかった。

 桐谷の名前を出すと、意外なことに薪は不思議そうな顔をした。
「桐谷って、神戸支局の桐谷吾郎氏か? 彼も人質に?」
「はい。横領の告発をするって仰って、一緒に証拠のパソコンを調べてて、で、一緒にテロリストに捕まって……伝わってなかったんですか?」
「人質はおまえ一人だと思ってた。昨日、おまえの足取りを調べるために神戸支局にも行ったけど、彼は休暇扱いになっていたぞ?」
「それは課長の小坂氏の仕業だと思います」
 二重帳簿のファイルが開かれたことはログで分かる。翌日、桐谷が出勤しなければ、彼を疑うのは当然だ。会社から彼に連絡が入ったりしないよう休暇扱いにし、自分は逃げ出す算段を整えていたに違いない。

「でも、桐谷って」
 何処かで聞いた名前だと、薪は思った。
「神戸支局で名前を知る前に、どこかで……」
 薪の頭の中にはスパコンに足が生えて逃げ出しそうな超高性能のコンピュータが搭載されており、無尽蔵に人物の氏名と顔を記憶できる。その検索機能が自動的に動いて、しかし名前だけでは完璧なヒットにはならない。薪は、この場での追及を諦めた。

「そうか、それでおまえを置いて行ったんだな」
 人質がもう一人居るなら、交渉には充分だ。体の大きな青木を苦労して引きずっていくことはない。こうなると、青木が殺されなかったのは幸運としか言いようがなかった。おそらく、頭部を殴られて派手に血が噴き出たのも幸いしたのだ。放っておいても死ぬと思ったのだろう。

「きっと彼らに捕まったんです。助けなきゃ」
「青木、もうすぐ応援が来る。SITも手配済みだ。だから桐谷氏のことは」
 助けが来ると聞いて、青木は安心した。それなら、自分が助けに行くよりも確実かもしれない。SITは籠城事件の専門家だ。専門職であるネゴシエイターもいるし、平和的な解決が望めるだろう。
「じゃあ安心ですね。……薪さん?」
 青木を安堵させておきながら、何故だか薪は憂慮に沈んだ。いや、と口の中で否定の言葉を呟き、彼にしては長いこと考え込んだ。
 やっと顔を上げた薪の瞳に静かな決意が宿っているのを見て、青木は彼がまた、自分の知らない何かを抱え込んでいることに気付いた。

「桐谷氏は僕が救出する。おまえは外で、応援を待て」
「薪さんが行くならオレも行きます」
 迷いない青木の答えは、薪の言葉を予想していたかのようだった。何故、と青木は訊かなかった。この状況で詳しい説明などしてくれるはずがない、それが青木の命を脅かすことに繋がるなら尚のこと。青木は薪と言う人間を知っていた。
「怪我人は足手まといだ」
 ジャギッと不吉な音をさせて撃鉄を起こす薪の横顔はひどく冷たくて、彼の表情をそんな風にさせるのはこの差し迫った状況ばかりが原因ではないはずだと、それは青木にはハッキリと分かるのに、具体的なことは何一つ解らない。多くの問題を独りで抱え込んでしまう薪の癖は、青木が彼の恋人になっても変わらなかった。

「桐谷さんを助けることは賛成ですけど、薪さんと別行動になるのは却下です。第一薪さん、桐谷さんの顔知らないでしょ」
「人質とテロリストの区別くらい付くさ」
「駄目です。オレはあなたのボディガードです」
「青木。これは命令だ」
「聞けません」
 青木が頑固に言い張ると、薪は困ったように眉尻を下げた。
「青木、僕は」
「薪さんて頭いいのに、どうして時々、そんなに的外れなんですか?」
 薪の言葉を、青木はわざと遮った。彼が何を言うのか、確信があった。
「オレだって同じです。あなたを死なせたくない」

 薪は観念したように眼を閉じて小さくため息を吐き、それは青木の推察を裏付ける。薪が青木を死なせたくないと思うなら、それは青木も同じこと。昔の薪なら我を通したかもしれないが、今は違う。
 だって、彼は言ってくれたから。青木と一緒に生きてくれると、死ぬまで一緒に生きてくれると、誓ってくれたから。

「大丈夫ですよ。薪さんと一緒なら、何とかなります」



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(23)

 ハロウィンが近いので、カボチャのお化け時計のブログパーツを貼ってみました。
 本当はね、テンプレ替えればいいんですけど、カウンターとかアクセス解析の設定とかメンドクサ、いえその。

 日曜日にしては更新の時間が早いのは、今日は町内のゴミ拾いだからなんですー。 せっかくの日曜日なのに、メンドクサ、いえその。 

 お話の方は、メインイベントの銃撃戦に突入でございます。(>▽<)←楽しそう。
 いつもながら、内容と前振りがミスマッチですみませんー。
 行ってきますー。




たとえ君が消えても(23)






「大丈夫ですよ。薪さんと一緒なら、何とかなります」

 青木の眼に、迷いはなかった。薪にはどうしても捨て切れない恐れや不安、でも青木にはその片鱗すら見えなかった。
 青木は勇猛果敢な男ではないし怖いもの知らずでもない。ただ薪と一緒に居られるなら、其処がどんな環境でも何をさせられても、頓着しないだけだ。彼と共にあること、それが自分の人生に於ける最重要課題だと迷いなく思える。そういう人間を世間一般的にはストーカーと言うのだが、その一般論は青木の自意識の外にある。問題外だ。

「大凡ですけど、武器庫の方角は分かるので、そちらへ向かいましょう。みんな、その近くにいると思うし、逃げ出したと分かれば人質は眼の届く所に置くでしょうから」
 薪に貸してもらったハンカチを後頭部に固定するため、青木はネクタイを外して頭に巻いた。ネクタイで鉢巻なんて、ガード下の酔っ払いオヤジみたいだと本人は思い、それを口にしたら薪に白い目で見られた。
「まったく。緊迫感の無い男だな」
「それ、テツさんにも言われました」
「テツ? 真鍋哲夫か?」
「フルネームは知りませんけど、メンバーがテツって呼んでて」
「どうでもいいけど、テロリストをさん付けで呼ぶのは、――っ!」

 突然、ガラスの割れる耳障りな音が響いて、二人は反射的に音のした方向に眼を向けた。それは青木が目指していた方向と一致していた。外気が流れ込んできて、割れたのは窓ガラスらしいと分かる。目的地の東に進路を取り、彼らは慎重に歩を進めた。10mも進まないうち、今度はもっと手前のガラスが割れた。反対側の壁に銃弾がのめり込んでいる。銃声が聞こえなかったから、サイレンサー付の銃で撃ったものと思われた。

「な……投降の呼びかけも無しに、こんな」
 信じられない暴挙だった。とても警察のする事とは思えない。不意打ちなんて、これではテロリストと一緒ではないか。
 銃声は聞こえずとも、狙撃によってガラスが割れたことはテロリストたちの知るところとなった。程なく倉庫内から外に向けて発砲する音が聞こえ、そうなれば相手も遠慮なく撃ってくる。次々とガラス窓が割れ落ちる音が奥の方から聞こえ、テロ集団の位置を二人に報せた。桐谷も其処にいるとしたら、彼の命は風前の灯だ。

「南雲さん、僕は建物の中にいます。青木と一緒です。僕たちは自力で逃げられますが、一般人が一人人質になってます。発砲許可を取り消してください」
 薪は、迷わず南雲に電話をした。現場指揮者に話を付けなければ、この状況は改善されないとの判断だ。
「え、テロリストの仲間を逮捕? 西署付近で?」
 多分、サトシたちのことだと青木は思った。彼は陽動作戦の為に外出していたが、神戸西署に動きがあると、テツに連絡をしてきた。署の付近で探りを入れていて、捕えられたに違いない。
「じゃあこちらの指揮は誰が……神戸西署の大石署長が自ら? またどうして。……そうですか、ならば署長に連絡を、うわ!」
 ガラスの砕ける音が聞こえた瞬間、薪は乱暴に床に押し倒されて、したたかに背中を打った。痛みに顔をしかめながら眼を開けると、青木の精悍な横顔が見えた。青木の視線の先を追って、薪は壁に食い込んだ弾丸を発見する。さっきまで、薪の頭があった位置だ。

「ずい分正確ですね。このガラスの汚れ方では、オレたちの姿は見えないはずなのに。赤外線センサーを使ってるのかな」
 サイレンサーに赤外線センサーなんて、殺し屋のようだ。公安にはそういった闇の仕事をする者もいるらしいが、此処に来ているのは神戸西区警察署のSITのはずだ。こんなやり方は通常ではあり得ない。
「ちょっと南雲さん、早くしてくださいよ。このままじゃ青木も僕も蜂の巣に、え、現場と連絡が取れない? 無線機の故障ですって? 勘弁してくださいよ、この非常時に焦らしプレイは無しですよ」
 青木のことを呑気だ何だと言うが、薪も負けてない。大体、青木の豪胆さは薪に付き合わされているうちに自然に身に付いてしまったのだ。年がら年中、生死に係わるトラブルに巻き込まれている薪を守ろうと思ったら、青木の生まれ持った大人しい性格ではとても対応しきれない。

「わかりました、こちらはこちらで何とかします。その代わり、調べて欲しいことが」
 薪はかなり一方的に2,3の頼みごとをし、電話を切ると、自分たちの置かれた状況について、事情の分からない青木に大まかな説明をしてくれた。
 今回の捜査は公安二課と神戸西区警察署の合同捜査となっているが、3年前に起きた『赤羽事件』の遺恨から、西区警察署は真鍋哲夫率いるグリーンアースに過剰な攻撃態勢を取っている。強引極まるこのやり方は、そのせいだと思われる。通信機も意図的に切っている可能性が高い。彼らは、建物内で動いている者はすべてテロリストだと思っている。薪たちのこともテロリストの仲間だと見做して攻撃してきたのだろう。

 簡潔に言えばこういうことだ。
 自分たちは狙撃班の銃弾をかいくぐって、桐谷の救出に向かわなければならない。

 体勢を低くして窓からの狙撃に備え、薪と青木はゆっくりと進んだ。途中、犯人の死体が一つ、転がっているのを見つけた。名前は知らないが、青木のコーヒーを美味そうに飲んでいた男だ。右手に拳銃を握ったまま、額を撃ち抜かれて死んでいた。
「頭部を一発なんて。まるで殺すのが目的みたいだ」
 青木は低く呟き、辛そうに唇を噛んだ。例えそれが大勢の人を殺めてきた犯罪者であろうとも、人が死ぬのは見たくない。さっきまで生きて動いていた、それを知る身にあっては尚更、横たわる彼を見るのは辛かった。肩を落とす青木の背に、薪の声が掛かる。

「青木」
 よそ見をしている余裕はないぞ、という叱責を覚悟したが、薪の言葉は青木の予想とはまるで違っていた。
「神戸西署は、何かを隠している」
 敵を警戒してか、薪の声は、傍にいる青木にだけ聞こえるような小さな声だった。しかしそこには、揺るぎない信念があった。

「おまえの言う通り、これは殺害を目的とした撃ち方だ。表のSITとは別に、狙撃班がいるんだ。この指示を出したのが大石署長となると、あの事件はやはり」
「どういうことですか?」
 いつものことだが、薪には事件の裏に隠された真実が見えているらしかった。それを青木に説明してくれないのもいつものことだ。
「証拠が揃えば大石の逮捕は可能だろうが、問題はこの場をどう切り抜けるかだな。頼みの綱は南雲か。間に合えばいいが」
「あの、薪さん。オレ、さっぱり解らないんですど」
「真鍋哲夫はその事実を知っていた、と言うよりは同志だったんだろうな。だから彼の誠意を信じて、今まで待った。仲間を13人も失って、組織立った活動ができなかったと言うこともあるだろうが。でも1週間前、刑部に対して死刑判決が下りて、彼が裏切り者だったことが証明された。それでこの事件を」
 青木の質問を完全に無視して、薪の中で話が進んでいく。青木に語りかけていると言うよりは、言葉にすることで自分の考えを確認している、という感じだ。
「すみません、薪さん。オレにも分かるように説明してください」
 青木が薪の肩に手を掛けると、薪は今まで青木の存在を忘れていたかのようにびくりと身を震わせた。それから簡潔に、実に淡々と、事件のあらましを教えてくれた。

「3年前の赤羽事件は、神戸西区署長の大石が刑部と組んで起こした事件だ。その事実を真鍋哲夫は知っている。だから大石は、彼とその仲間たちを皆殺しにしようとして狙撃班を動かしている」



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(24)

 こんにちはー。

 お礼言うの遅くなりましてすみません、
 3万3千拍手ありがとうございますー。
 
 3万のお礼SSは書き上げたので、この話が終わったら公開します。
 お礼SSらしく、穏やかで平和なお話です。 ええ、拍手のお礼はね、みなさんに喜んでもらえるよう楽しくて愛に溢れたお話をと心掛け……

 過去のお礼SS  1万5千『パンデミックパニック』←薪さん、正体不明のウィルスで死にかける。
                2万『水面の蝶』←青木さん、元カノに刺されて入院。
 

 こ、心掛けて書いてはいるんですけどね、

 2万5千公開中『明日に向かって撃て』←現在、銃撃戦の真っ只中。

 こっ、この次は大丈夫です!! ……信じて?







たとえ君が消えても(24)





 薪が神戸空港に着いたのは昨日の午後、3時35分だった。
 捜査のため、最初に彼が訪れたのは、MRI技術研究所神戸支局だ。青木の足跡を辿り、そこから何かヒントを掴むことができないかと考えたのだ。
 桐谷が青木の世話係に付いたことも、そこの職員に教えてもらった。誘拐される前夜、一緒に夕飯を摂ったという洋食店『神戸倶楽部』にも行ってみた。店員から興味深い話は聞けたものの、犯人に繋がるものは何も得られなかった。

 次に薪は、赤羽事件の際強盗の被害に遭った宝石店へ行った。ここでは更に興味深い話が聞けた。
 赤羽ニュータウンのテロ事件が有名になったおかげで、宝石強盗の件については世間の同情が少なかった、と店主は嘆いた。2億円も盗られたのにと、でも損金については保険が下りたわけだし、宝石店では誰も怪我をしなかった。100人以上の死傷者を出した団地に世間の耳目が集中するのは仕方のないことだった。
 所轄の捜査も、一通りの調べしかされなかったらしい。薪が聞いても単純な強盗事件で、昼食休憩で店員が減る時間に、留守番の店員を銃で脅して金庫の鍵を開けさせた。単純で特徴的なことは何も無く、スピーディな仕事だった。薪の興味を引いたのは、神戸市警の捜査員なら聞かない振りをしたであろう次の証言だ。
『警察には直ぐに連絡したのに、到着までに防犯訓練のときの倍も時間がかかった』

 驚くことではない。防犯訓練は、予め日付が決められているものだ。万端準備を整えて、連絡が入るのを待っている。素早くて当たり前だ。
 だがもしも。
 この遅れの裏に、何者かの作為があったとしたら? 例えば所轄の当該地区担当者、あるいはもっと上の誰か。

 考え過ぎかも知れないが、宝石店と赤羽団地に於ける被害者数の大き過ぎる差が、どうにも引っ掛かる。窃盗事件で死傷者が出るということは、やり方が拙いのだ。宝石店で鮮やかな手並みを見せた強盗犯が、団地に逃げ込んだ挙句に銃撃戦なんて。全然スマートじゃない。
 2億円の資金が何処へ流れたのか、捜査があっさりと打ち切られていることと併せると、ますます怪しい。資料を読んだときに感じた違和感とそれに対する仮説のひとつ、所轄に、それもこの事件の責任者に近い人物の中に犯人側の人間がいたのではないか、という薪の疑惑が、確信に変わったのはそのときだ。

「じゃあ、真鍋さんは大事な証人なんですね」
 青木が訊くと、薪はこくりと頷いた。
 薪の言っていることは、突拍子もなかった。でも、青木は無条件でそれを信じた。これまでにも薪は、捜査資料を読んだだけで幾つもの迷宮入り事件を解決してきた。彼が天才と呼ばれる所以である。その彼が言うのだから、それは事実なのだと青木は思った。

「まだ推測に過ぎない。証拠が出ないことには……ああ、くそ、僕が第九に帰れたらな」
「第九? MRI捜査と何か関係が?」
「真鍋がどうして僕に電話を掛けてきたのか、その理由を考えてみろ。第九で扱った脳の持ち主の中に赤羽事件の関係者がいて、その人物は大石署長と刑部が通じている場面を目撃していた。そういうことじゃないのか」
 薪に脅迫電話が行ったのは、直前に掛けた電話が薪宛だったから、そのせいだと思っていた。もちろん、薪もそれは考えた。しかし、彼は必ず常人の一歩先に思考を進める。
 幾多の未解決事件に光明を灯してきた薪だが、彼が見つける手がかりは決して捜査資料の中で異彩を放つものではなく、例え調書に記されていても普通の人間なら読み流してしまうことばかりだ。現場写真に於けるほんの僅かな違和感、供述の些細な綻び。しかしそこから導き出される推理は大胆で奔放だ。勿論、常識的な推理も彼の中には存在する。が、未解決事件の多くは常識では解決できなかったからお宮入りになったのだ。薪の豊かな想像力が解決に結びつくことは、必然とも言えた。

「あの事件には不明な点が2つあった。テロリストが赤羽ニュータウンを籠城場所に選んだ理由と、奪われた貴金属類の行方だ。籠城は成り行き、貴金属は逃走途中で仲間の手に渡ったものと結論付けられていたけど、どちらも確証はない。僕なら絶対にこんな報告書に判は押さない」
 薪が署長になったらその所轄は機能停止に陥るに違いない、と思ったことは億尾にも出さず、青木は返した。
「確証はなくても、それが普通の考えだと思いますけど」
「そうかな。テロリストが団地に逃げ込むなんて、不自然じゃないか? あれはきっと大石が上手いこと言ったんだろうな。『警察は住民の命を尊重するのが決まりだから、止む無きを装って君たちを逃がしてやれる』とか」
「なるほど。でも、現実にはあんなに大きな被害が出たわけで」
「だからそれは、現場の伝達がうまく行かなかったとか何とか、それらしい説明をしたのさ。もちろん真鍋も納得いかなかったろうけど、その時には大石に人質を取られてたから。逆らえなかったんだ」
「リーダーの刑部さんのことですか」
「うん。貴金属類を売りさばいた金も、大石の懐に入った可能性が高い。強奪した2億と、神戸支局からの2億、合わせて4億の金持ちテロ集団にしては、さっきの男の装備はお粗末過ぎる。刑部を刑務所から出すのに買収資金が必要だとか、多分そんな理由で」

 小声で話しながら、二人は物陰に隠れて前進を続ける。時間は掛かるが、迂闊に走ったりしたら外からも中からも銃弾が飛んでくる。もどかしくとも仕方なかった。
「大石に疑いを抱いていても、真鍋は刑部を救いたい一心で」
「そうかもしれません。テツさん、刑部さんのことすごく尊敬してたみたいで。今度のことも、『あの人を救いたいだけだ』って言ってました。やってることは間違いだけど、気持ちは分かると」
「テロリストをさん付けで呼ぶな。彼らには彼らのポリシーがあるのかもしれないが、そんなものは理解しなくていい。テロは犯罪だ。無差別に人の命を奪っていい理由なんか、この世の何処にもないんだ」
 薪はすっぱりと切って捨てるが、青木はどうしても潔くなれない。だって、もし薪が同じことになったら? どんな手段を用いても彼を救おうとする、そんな自分が簡単に想像できる。薪の命とそれ以外の人の命、どちらも同じだと答えるのが警察官の正答だが、青木にはそれを実践できる自信がない。

 ふと、薪は足を止めた。青木に屈むよう手で示して、低く囁く。
「あれ、真鍋じゃないか」
 二人のいる場所から20mほど先に、青木たちが囚われていたユニットハウスがあった。向かって右側、上半分に嵌められていた窓ガラスが綺麗に割れていて、そこからハウスの右半分と、真鍋の上半身が見えた。真鍋は狙撃を警戒して右奥の壁に寄り、窓に向かって銃を構えていた。他のメンバーは窓側にいたのかもしれないが、青木たちの位置からは確認できなかった。
「そうです、テツさんです」
「だからさん付けで呼ぶなって、あっ!」
 窓の方から飛んできた銃弾が、真鍋の肩を貫いた。真鍋はその場に崩れ落ち、窓下の壁に隠れて見えなくなった。

「テツさんが」
「大丈夫、肩を貫通した」
 真鍋が一矢報いようとしたのか、内側からの銃弾がユニットハウスと倉庫の窓ガラスを連続で破った。それを合図に、SITの弾丸が真鍋のいる部屋に降り注ぐ。
「まずい、集中攻撃されてる。このままでは時間の問題だ」
 窓越しとは言えあれだけの銃弾が撃ち込まれたら、真鍋の致死率は8割を超える。重罪人でも真鍋は大事な証人だ。失いたくなかった。一刻も早く救出に行きたかったが、青木たちとユニットハウスの間にはラフタークレーンの残骸が置いてあり、真鍋のいるところに直線的に向かうことは不可能だった。一番の近道は窓から外に出て建物伝いに回る事だが、それをしたら間違いなく、魂だけになって目的地に向かうことになる。

「何とか真鍋を安全な場所に、て、こらっ!」
 隣から聞こえたガーンという発砲音を、薪は何かの間違いだと思った。銃を弄っているうちに誤って発砲してしまったのだ、青木のやつ仕方ないな、緊張しすぎたんだろうな、とバカ息子を擁護する母親の態で薪が庇うのに、青木はしっかりと足を踏ん張り腕を真っ直ぐに伸ばし、それはそれは見事な射撃姿勢で手前の窓ガラスを撃ち抜いていた。





テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(25)

たとえ君が消えても(25)








「このアホ木!! 撃ち返してどーするんだ!!」
 侵入者である自分たちの立場も忘れて、薪は叫んだ。青木の発砲は集中射撃の分散を狙っての威嚇だと、理屈は分かるが彼の神経は理解できない。
「だって撃たなきゃ死んじゃいます。テツさんは大事な証人なんでしょう? 守らないと」
「だからって、わっ!!」
 青木が割ったガラス窓から多量の弾丸が飛んできて、薪は慌てて床に伏せた。すっかり見通しの良くなった窓からは、アサルトスーツに身を包み、防弾ベストにヘルメット、防弾盾で装備を固めた50名ほどのSIT隊員たちがずらりと並んでいる様子が見えた。

「てかおまえ、その拳銃、どこから」
「さっきの男の人から形見分けに頂きました」
 このくらい根性が座っていないと、薪のボディガードなんか務まらない。この世で失いたくないものが一つしかないだけあって、青木は開き直ると強かった。そして、薪も。
「あー、くそ! もう自棄だ!!」
 ガンガンと勢いよく引き金を引く。精神的に追い込まれて、鈴木のことを思い出す余裕もなかった。

「青木!」
「なんですか!」
 飛来した銃弾が、鉄骨に当たって乱舞する。その度に鳴り響く、鉄同士がぶつかり合う耳障りな音。倉庫内に反響するその音量は凄まじく、二人は声を張り上げた。
「警察、クビになったら何する!」
「そうですね、喫茶店でもやりますか!」
「それ、小野田さんにも勧められたことある……」
 ぼそっと呟いた薪の言葉は青木の耳には届かず。飛んでくる弾丸を避けるために床に伏せた薪の耳元で、青木は未来の計画を楽しそうに語った。

「オレがコーヒー淹れて、薪さんは厨房をお願いします」
「可愛いウェイトレスを雇ってな」
 こんな状況でも笑みがこぼれることを、薪は不思議に思わなかった。平常心はとっくに振り切れていた。
「制服はミニスカだ!」
 銃撃の止み間に、素早く立ち上がって撃ち返す。こちらに注意を引き付けるのが目的だから、弾は明後日の方向に飛ぶよう角度を付ける。万が一にも的中など、してはならない。
「和服もそそりますよ! 肌の白さが映えるように、着物の色は紫とか良いですねっ」
 隣で青木が、薪に負けない大声で自分の要望を叫びながら引き金を引く。発砲音と跳弾の音で、耳がおかしくなりそうだった。
「メイド服もいいな!」
「猫耳、似合ってましたね!」
「……おまえ、僕をモデルにしてないか?」

 大声で不謹慎な会話を続けながら、銃弾を避けるために重機の影に身を潜める。会話はお気楽だが、状況は厳しい。
 だいたいSITを相手に銃撃戦なんて、バレたら懲戒免職間違いなしだ。とりあえず査問会に掛けられたら、撃ったのはさっきの死体の男だと言おう、と薪は決めた。幸い、青木の拳銃は元々あの男の物だし。

 果たしてそれは、濡れ衣を着せられた男の怨念か、狡猾な愚者に天罰が下ったのか。破れた窓から撃ち込まれた数限りない銃弾が金属製の柱に当たって跳弾する中、一発の流れ弾が薪を捕えた。
 弾は薪の右腕を傷つけ、薪は痛みで銃を取り落した。青木は顔色を変えて薪を屈ませ、心配そうに眉根を寄せた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大したことない。やっぱり悪いこと考えちゃダメだな」
「悪いコト? もう薪さんたら。ノーパン喫茶とか、そっちのことでも考えたんでしょ。イヤラシイんだから」
「……その手があったか。いや、おさわりパブってのも」
「いい加減にしてください。こっちへ」

 雨のように飛来する銃弾から薪を守ろうと、青木は彼をドラム缶の陰に引き摺って行き、彼の上に覆い被さった。青木の下になって、薪は歯を食いしばる。
 大石は証人である真鍋を殺す気で狙撃班に指示を出している。テロリストとは言え、目の前で人の命が失われようとしているのに、しかも彼は大事な証人なのに、銃撃が激しくて近付くこともできない。

「テツさん、逃げてください! 逃げて真実を!」
 苦し紛れの青木の叫びが、虚しく響いた。

 それからしばらくして、不意に銃声は止んだ。遠くから聞こえてくる銃声は何発か残っていたが、青木たちを狙っていた狙撃隊は撃つのを止めたらしい。白旗の先に警察手帳を括りつけて出て行けば助かるかもしれない、と青木は淡い希望を抱いた。
 立ち上がろうとした時、一発の銃声が轟いた。さては自分たちを油断させる作戦だったか、危ない所だった、と再び青木は床に伏せ、次の襲撃に備えた。が、それはいつまで待ってもやってこなかった。

 たっぷり5分間が経過したのを腕時計で確認し、二人はそろそろと窓に近寄って、そうっと様子を伺った。窓枠だけになった窓から薪が顔を覗かせると、ゴツンと拳骨で頭を叩かれた。
「いたっ」
「痛くない!」
 悪い事をした子供に折檻する親の態度で、薪を殴った男は言った。頭を押さえながら、薪が目を丸くする。
「小野田さん。どうしてここに」
「ぼくのセリフだよ。まったく、こんなところで何をやってるの、きみは」
「別に遊んでたわけじゃ」
 抗議しようと顔を上げると、また叩かれた。モグラたたきのモグラになった気分だ。仕方なく「すみません」と謝って外を見ると、30mほど後方の草むらにSITが整列していた。隊員たちの前に立っているのは中園と南雲、それと制服姿の恰幅の良い初老の男だった。彼の手には手錠が嵌められており、あれが大石署長か、と薪は初めて見る裏切り者の顔を睨み据えた。

「怪我をしたの?」
 薪の右腕に血が滲んでいることに気付き、小野田が心配そうに尋ねた。早く救急車に、と促す彼に、薪はにっこりと笑って首を振った。
「掠っただけです。大したことありません」
「生きた心地がしなかったよ。岡部くんに報告を受けた時点で、ヘリを飛ばして正解だった」
 岡部から官房長に何の報告が行ったのか、青木には見当もつかなかったが、薪は満足そうに微笑んだ。部下が期待以上の成果を上げてくれた、そんなときに見せる表情だった。

「青木くん、よく薪くんを守ってくれたね」
「あ、いえ、オレは」
 もともと青木が誘拐なんて間抜けなことをされなかったら、薪がこんな目に遭うこともなかった。そのことを謝罪しようと頭を下げると、小野田は長いこと青木に向けてくれなかった穏やかな笑顔で、
「薪くんは危険に鈍感だから。これからもよろしく頼むよ」
 青木はぽかんと口を開け、だって咄嗟には信じられない。小野田はずっと薪を自分の娘と結婚させたがっていて、この春、やっと婚約まで漕ぎ着けたのに青木のせいで破談になって、だから自分は今まで以上に彼に疎まれていると思っていた。
 はい、と返事をして、それがやっとだった。そっと横を見ると、薪も驚いた顔で小野田を見上げていた。

 小野田さん、と薪が呼びかけたが、小野田は中園に呼ばれてSIT集団の所へ行ってしまった。よく見れば、手錠を掛けられて草の上に座らされている人間も何人かいた。その中には、あの若いテロリスト、ツトムの姿もあった。
 死を栄光とせず、投降して生きることを選んだ彼らを、青木は立派だと思った。辛い現実が待っていることを十分承知の上で、彼らはそれを選んだのだから。

 青木は長い脚を使って、割れた窓から身軽に外に出た。膝上まで伸びた雑草がチクチクと青木の脚を刺し、夏の息吹を彼に吹きかける。青木は振り返り、窓の内側に佇んでいる薪に、茶目っ気たっぷりの笑顔で言った。
「『死ぬかと思ったランキング』、今年も更新ですね」
「おまえは本当に呑気だな」
 呆れ顔で左手を伸ばしてくる薪の身体を、青木は軽々と抱き上げた。




*****


 以上、法十版「明日に向かって撃て」でございました。
 名作を汚すような話ですみませんー。 (すでに原作を汚してる、て、きゃー、それは言っちゃダメー)


  



 

テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(26)

 法十版「明日に向かって撃て」、楽しかったとのコメント、ありがとうございました。(^^

 そ、それでねっ、
 この話、実はあと6回も残ってて。 
 メインの銃撃戦部分は終わったんですけど、お話のクライマックスはこの先です。ええあの、事件が全部解決したのに『クライマックス』と予告されたメロディ6月号のように。(笑)
 紛らわしいこと書いてすみませんでしたー。

 メロディ発売前には終わらせますので、それまでよろしくお付き合いください。



 ちょっと私信です。

 拍手コメントくださった方、ありがとうございました。(〃▽〃)
 そうなんですよ、拍手コメントは管理人じゃないと訂正できないんです。 ので、誠に勝手ながらこちらで修正させていただきました。 でも、お名前の間違いは分からなかったので、すみません、そのままで。 
 勿論、ご希望でしたら元通りにできますので。 遠慮なく、おっしゃってくださいね。(^^

 





たとえ君が消えても(26)






「薪警視長、無事ですか」
 小野田と入れ替わりに駆け寄ってきた南雲に、薪は軽く頭を下げた。

「そこに、真鍋がいるはずです。無事だといいのですが」
 薪が指した窓を顎で示し、南雲は部下たちをユニットハウスに向かわせた。ほどなく部下の一人が窓から首を出し、「真鍋哲夫の死亡を確認しました」と無情に告げた。
「そうですか。残念です」
「まあ、生きていてもあいつが検察側の証人に立つとは思えませんがね」
 それは薪の落胆を慰めるための、不器用な南雲らしい言葉だったのだが、薪は険しく眉を吊り上げて、
「証言が欲しくて彼の無事を願ったわけではありません。犯罪者は生きて捕え、罪を償わせる。それが日本警察です」
「そんなことは解ってますよ」
 傲然と言い放った薪に、南雲は言い返してきた。その口調に、青木は自分の知らないところで起きた諍いを慮る。何度も繰り返されたのだろう、二人ともうんざりした様子だった。

「しかし、テロの現場と言うものはねえ」
「南雲課長! もう一人は生きています!」
 二人は弾かれたように振り返り、部下が顔を出している窓辺に急いだ。青木も後を追う。先程は見えなかったが、真鍋は仲間の誰かと一緒だったのだろう。あの銃弾の嵐の中で生き残った幸運な男を、果たして青木は知っていた。
「桐谷さん!」
 割れ落ちたガラスの中に、血塗れになった桐谷が倒れていた。その先に、胸を撃たれ、壁にもたれる形で息絶えている真鍋の無残な姿。床には真鍋のものであろう銃が2丁、転がっていた。

 駆けつけた救急隊員たちが桐谷を担架に乗せ、訓練された動きで救急車に運ぶ。桐谷の青白い顔と出血量に、青木は彼が心配で堪らなくなった。
「薪さん。オレ、桐谷さんに付き添ってきていいですか?」
「付添いじゃなくて、おまえはさっさと頭診てもらってこい。頭部損傷は後が怖いんだ」
 薪の命に従い、青木は桐谷と一緒に救急車に乗り込んだ。サイレンを鳴らして遠ざかって行く車を見送って、南雲がぼそりと呟く。
「もう一人の人質か。無事で良かった」
 ホッと胸を撫で下ろす様子の南雲に、薪は嫌味っぽく、
「そうですね。さぞ良い証言が取れるでしょう」
 途端に南雲は苦虫を潰したような顔になって、「あんたねえ」と声を尖らせる。まったく、薪は人に恨みを買う名人だ。

「いい加減にしなさいよ。所轄の前でみっともない」
 官房室首席参事官の鶴の一声で、二人の男は口を閉ざした。しかし、その目は決して自分の非を認めず。互いに、後で決着を着けてやるとでも言いたげな目つきで相手を睨んでいた。
「薪くん。南雲君に、ちゃんとお礼言いなさい。彼がSITを抑えてくれたんだから」
 東京から飛んできたヘリには、中園と、どうしても行くと言い張る小野田、そのSPたちが同乗した。兵庫県警のヘリポートから車で20分、彼らが現場に到着した時には、銃撃戦の真っ最中だった。泡を食って止めに入ろうとしたが、SPに全力で阻止された。
 そこに、南雲が現れた。南雲はその体躯と怒声でSITの隊列に食い込んでいき、強引に発砲を止めさせた。当然異議を申し立ててきた大石と南雲が言い争いになったところに、中園が逮捕状を提示したのだ。
 南雲は薪に連絡を受けて、直ぐに現場に向かったのだった。南雲の参入があと5分遅れたら、薪は死んでいたかもしれない。彼は恩人だと、中園にそう窘められればさすがの薪も殊勝にならざるを得なかった。
「ありがとうございました」と薪が頭を下げると、南雲は、公安二課の課長職に相応しい態度でそれに応え、薪に依頼された調査内容について報告した。

「大石の経済状況は、部下に調べさせました。警視長の見立て通り、大石は株で失敗して、多額の借金がありました」
 それを埋めるために署の金を流用、後に会計監査が入ることになって追い詰められた大石は、昔から付き合いのあった刑部に強盗計画を持ちかけた。そこから先は、ほぼ薪の推理通りで、刑部は大石に裏切られ、奪った金品もすべて大石の手に渡ってしまった。
「証拠は第九で見つかった。2年前、品川で起きた通り魔殺人の被害者だったよ」
 当時、神戸西区警察署の管理官を務めていた警察官が新宿南署に転勤になり、そこで不幸にも連続殺人の被害者になった。薪が考えた通り、彼の脳には、刑部と大石の密会の様子が映し出されていた。
 その脳を見た捜査官を不注意だと責めることはできない。刑部長陽が世間を騒がせてから1年以上経っていたし、殺人事件には直接関係のない事柄だ。気付かなくても無理はない。が、第九で脳がMRIに掛けられた以上、薪はその事実を知っている筈だと真鍋は考えた。その上で意図的に口を噤んでいるものと判断し、薪に脅しを掛けてきたのだ。

 県警本部長と話をしている小野田を横目に、中園は薪の右腕を取り、自分たちが乗ってきた公用車の後部座席に乗せた。病院まで送ってくれるつもりなのだろう。中園は自分も薪の隣に乗り込み、彼の細い腕の血の滲んだ箇所に自分のハンカチを巻き付けながら、
「自業自得だよ。僕の言うことを聞かないから」
 ぎゅ、と中園が力を入れると、薪は痛そうに顔をしかめ、でも素直に謝罪した。
「命令に背いて、すみませんでした」

「君の居場所はGPSで追ってたし、君が現場に向かったことは救難バッジから流れてきてたから。一刻も早く此処に来たかったんだけど、総監がごねて、逮捕状が請求できなくてねえ。で、どうしたと思う?」
 逮捕状を下ろすのは裁判官の仕事で、まずはその請求を裁判所に出さなければならない。請求は警部以上の役職にあれば可能だが、転んでも只では起きない中園は、証拠を見つけた第九の有能さをこの機会にアピールするべく、長官に話を通した。ところが、場に居合わせた警視総監からクレームが付いてしまった。
 逮捕すれば警察の醜聞になる、そんな重大なことをMRI画像だけで決めていいのか。もしも間違いがあったらどう責任を取る気だ。第一、大石と刑部に交流があったと言うだけでは、事件を画策した証拠にはならない。逮捕状を請求するのだったら、まずは物証を持ってこい。
 警視総監の提言は尤もで、時間があれば中園もそうしたかった。が、今は時間がないのだ。
 所轄の不始末は警視総監である自分に懸かってくるのだ、その私の許可も無くそんなことは許さない、と強固に詰め寄られて、長官は逃げ腰になった。結果、大石署長の逮捕状は警視総監と協議の上請求すること、という指示が官房室に下された。
 仕方なく、中園は手ぶらで現場へ行こうとしたのだが、現実にはこうして逮捕状は中園の手にある。つまりそれは。

「長官の命令を無視したんですか? それはちょっと拙いんじゃ」
「君じゃあるまいし。小野田は長官相手に、そんな無謀な真似はしないよ」
 では、警視総監を説得したのだろうか。いったい、何と引き換えに?
「取引なんかしてないよ。直球勝負さ。小野田が総監の首根っこ締め上げたんだよ」
「下らない敵愾心でわたしの大事な跡継ぎを殺す気か」と総監に詰め寄ったらしい。あの小野田が実力行使に出るなど、薪には想像も付かなかった。
 小野田はまた、こうも言った。
 神戸西署の失態の責任は、総監一人で負うものではない。我々上層部全員が世間に詫びるべき問題だ。国民の信用を取り戻そうとするとき、警察庁と警視庁は協力し合わねばならない。それができなければ警察機構は朽ち果てるばかりだ、と。

「人間、年を取ると短気になっていけないね」と中園は肩を竦め、
「あんなに怒った小野田を見たのは二度目だな」
「前にもあったんですか?」
「うん。君が美和ちゃんとの婚約を解消した時。めちゃくちゃ怒ってた」
「……すみません……」
 二度とも自分が絡んでいたことを知って、薪は消え入りたい気持ちになる。小野田のことは大好きだし、とても尊敬しているのに、迷惑を掛けてばかりだ。

 俯いてしまった薪をニヤニヤと眺め、中園は愉快そうに、
「あの古だぬきが目を白黒させてたのも、これで二度目だな」
「一度目は?」
 第九の室長として、意見を戦わせることの多い総監のこぼれ話に興味を示した薪を、中園は意味ありげな目つきで見た。それからひょいと肩を竦め、洒脱に嘯いた。
「さあ、いつだったかな。忘れちゃった」




*****


 警視総監が目を白黒させてた1回目の原因は、やっぱり薪さんだったりします。
『GIANT KILLING』というお話に書いてあります。 雑文カテゴリにありますので、よろしかったらどうぞ。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(27)

 休日の晴天、最高ですね♪
 しかーし、
 今日は町内の「大日様の引き継ぎ」とやらがあって、どこへも遊びに行けません……ホント、田舎って色々ありますよね。(^^;




たとえ君が消えても(27)





 署長であった大石の罪が発覚し、神戸西区警察署は上を下への大騒ぎになった。大石が刑部と通じていた当時、署長の指示に従ってテログループに情報を流していた巡査部長2名が懲戒免職になり、管理責任を問われた兵庫県警の上役たちにも降格等の処分が下った。
 中園の厳命を破って単独行動に走り、捜査班の秩序を乱したとして、薪は一週間の謹慎処分に処せられた。と言っても形だけのこと、要は、ゆっくり養生して怪我を治しなさい、という小野田の気遣いだ。「親バカだねえ」と部下に皮肉を言われる官房長の姿が目に浮かぶようだ。

 官房室への出勤を禁じられた薪は、久しぶりに時間をかけて料理を拵え、それを持って第九に顔を出した。部下に対する褒美の心算だった。
 薪はその事実を、岡部から聞いた。
 岡部が薪の指示を受けて、過去の事件から赤羽事件関係者を洗い出すべく第九へ戻ると、驚いたことに3時間も前から捜査が開始されていた。第九の職員たちは、薪がどうして誘拐事件の交渉役に指名されたのか、そのことに疑問を抱いて推理を重ねた結果、薪と同じ考えに辿り着いたのだ。

 彼らの成長を、薪は誇らしく思った。これは彼らの手柄だ。中園ではないが、警視総監に自慢してやりたいくらいだ。
 第九は、脳を漫然と見るだけの部署ではない。常に神経を張り巡らせ、小さな矛盾や些少の違和感、そんなものを大切に拾い上げる。疑問に思ったことは決してそのままにしない。自分の指導はしっかり彼らの中に根付いている。それが嬉しかった。

「みんな、よくやった。中園さんが褒めてたぞ」
 官房室の首席参事官は皮肉屋で、部下の人事評価の点が辛い事でも有名だ。その中園から賛辞の言葉が出たのだ、胸を張っていい。そのことよりも彼らをもっと喜ばせたのは、室長の元気な姿だった。
 彼らはそれを差し入れに対する喜びと巧みに摩り替えていたが、薪を見る眼が物語る、無事でいてくれて本当によかった。薪が銃撃戦に巻き込まれたと聞いたときには、全員が蒼白になったのだ。気の弱い山本などは卒倒してしまって、岡部に介抱されていたくらいだ。

「宇野。公安のコンピューターに何者かが侵入した形跡が残ってるって、南雲課長にイヤミ言われたぞ」
「え、ホントですか? やっぱり公安のセキュリティは厳しいですね」
「次からは気をつけろよ」
 薪と宇野は当たり前のような顔をしているが、この会話は明らかにおかしい。公安のコンピューターをハッキングしておいて悪びれない部下も部下だし、それを「次から気をつけろ」と諭す上司も上司だ。ありえない。他のメンバーは聞かなかった振りで、差し入れのスペアリブにかぶりついた。

「セキュリティって言えば、青木に聞いたんですけど。小坂って上司のパソコン、帳簿残高が動くとテロリスト達に連絡が行くようになってたそうですね。二重帳簿なんだから、普通はそんな痕跡を残さないもんだけど。やっぱり技術屋ってのは考えることがズレてますね。常識よりもシステムを優先しちゃうんですよね」
 宇野の自嘲を含んだ苦笑いに、薪は、ふふ、と微笑み返した。薪特有の皮肉が出るかと宇野は思ったが、薪は曖昧に微笑んだまま、山本の淹れた薄いコーヒーを黙って飲んだ。

「薪さん。怪我は大丈夫なんですか?」
「心配ない。ほんの掠り傷だ」
 料理するのにも痛まなかったぞ、と言い掛けて薪は口を噤む。男らしい上司は手料理を差し入れたりしないものだと、実はとっくに薪の特技は部下全員にバレているのだが、本人が隠そうとしていることをわざわざ口に出したりしないのが彼らの美点だ。

「青木の怪我は、けっこう酷かったみたいですね。7針も縫ったって」
「でも、脳に異常がなくてよかったよ。髪の毛に隠れれば、傷跡も目立たないだろうし」
「そうそう、青木のヤツ、いま部分ハゲなんですよ。縫うのに邪魔だから、傷口の周辺の髪の毛を剃られちゃって」
「後ろから見ると噴き出さずにいられない可笑しさですよ。薪さん、ぜひ見てやってくださいよ」
「そうか、それは見ておかないとな」
「残念ながら、今日は休みを取ってます。病院に行くって言ってましたよ」
 他人の不幸を笑う素振りの、だけどそれは彼らなりの愛情表現。第九で一番年若い捜査官を、彼らがどんなに可愛がっているか、薪は知っている。今回のことも青木を助けるために必死で、彼らは自分が持ち得る能力をすべて注いで、できる限りのことをした。その情熱が、薪と青木を救ったのだ。

 それからしばらくは四方山話に花を咲かせ、薪は頃合を見て席を立った。第九を出て、科警研の正門前からタクシーを拾い、羽田空港へ向かう。
 2階の出発ロビーで、青木が待っていた。青木は休日らしく、白い半袖のコットンシャツに色褪せたジーンズ、それから顔に合わない野球帽を被っていた。
「部分ハゲなんだって?」
 薪が野球帽のつばをひょいと弾くと、青木は慌てて帽子を押さえた。傷口を保護するために包帯を巻いているのだが、この帽子はそれを押さえる役割も果たしている。似合ってないぞ、とそれは薪に言われなくても承知の上だ。

「チケットです」
 青木が用意したeチケットの控えを持って、保安検査場に足を向ける。それは幸運にも一致した休日、二人で飛行機に乗って何処かへ出掛ける恋人同士の姿なのだが、何故か二人の足取りはひどく重かった。

 入り口のセンサーにチケットのバーコードを宛がいながら、薪はひっそりと呟いた。
「気付かなければよかったのに」
 後ろに続いた青木が、強い口調でそれを否定した。
「いいえ、気付けてよかったです。でなかったら、薪さんお一人でなさるつもりだったでしょう?」
 薪は思わず振り向いた。薪の亜麻色の瞳と青木の黒い瞳がぶつかって、それは誰も知り得ない二人だけの会話。
「気付けて良かったです」と青木はもう一度繰り返した。素っ気なく薪は前を向いて、そうだな、と呟いた。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(28)

 こんにちはー。

 今週末にはメロディが発売されるんですね。 新しい薪さんにまた会える。
 こんなに穏やかな気持ちで発売を待てるの、何年振りだろう!!←オオゲサ、だけど同じ気持ちの人、いるよね?

 この話は、発売日までに終わらせます。
 残り4回、よろしくお付き合いください。




たとえ君が消えても(28)






 二人が向かった先は、神戸の病院だった。
「青木さん。わざわざお見舞いに?」
 途中で買った花篭を差し出して、青木は桐谷に笑いかけた。たった2日とはいえ、人質仲間だ。見舞いに来るのは当然だ。
「傷の具合はいかがですか」
「痛み止めが切れると、痛いですねえ。でも、これくらいで済んで良かったですよ」
 桐谷は右足を銃で撃たれ、搬送後直ちに手術を受けた。発見された時は血塗れだったが、その殆どはガラスの破片による切り傷で、右足以外に銃創はなかった。あの銃撃戦の真っ只中に居て、奇蹟とも言える軽傷だった。

「いやあ、ありがとうございます。退屈してたから嬉しいですよ」
 桐谷の部屋は個室で、ベッドサイドに置かれた小型のテレビの上に、研究室から贈られたのだろう、ガーベラの花束が花瓶に活けて置いてあった。2,3日前のものにしては花は元気なく頭を垂れていて、見ると花瓶の水が尽きかけていた。桐谷は脚を怪我しているから、洗面台の所まで歩くのも大変なのだろう。青木は気を利かせて水替えをしてやった。

「あ、そちらが薪さんですか? その節はお世話に、いや、ご迷惑を、その、すみませんでした」
 狂言誘拐の際、薪に掛けた電話の恐怖を桐谷は覚えていたのだろう。妙にしゃちほこばって、上手く喋れないようだ。薪は、彼を安心させるようにやさしく微笑み、いいえ、と優雅に首を振って、
「あなたの上司の小坂さんは、横領の事実を否定しているようですね。身に覚えはない、グリーンアースなんて聞いたこともないと。それから、逮捕された幹部の供述によると、実際に彼らに渡っていた金は5千万程度でした。あの二重帳簿を信用するなら、1億5千万は小坂直継が使い込んだことになりますね」
「はあ、そうなんですか」
「おや、素気無いお返事ですね。もっと憤るかと思ったのに。あなたは告発に積極的だったと青木から聞きましたが」
「いやあ、こうやってね、生きるか死ぬかの経験をしてみると、他のことはどうでもいいような気がして」
「なるほどね」

 水替えを済ませた青木は、壁に立てかけてあった折り畳み椅子を2脚持ってきて広げ、そのひとつに腰を下ろした。落ち着いた様子の青木に引き換え、薪は少しもじっとしていなかった。彼はぐるりと部屋を見回し、すたすた歩くと、キャビネットや冷蔵庫を勝手に開けて回った。桐谷の驚きも知らぬ顔で、中のものを無遠慮に眺め、
「ずい分殺風景なお部屋ですね。冷蔵庫も空っぽだし。着替えも乱雑に突っ込んであって、これじゃ皺だらけに、ああ、洗濯物も溜まってるじゃないですか。気の利かない奥さんですねえ」などと、無神経なことを言い出した。
「そんなことはないです。うちのは家庭的で」
「家庭的? この有様でですか?」
「……家内も仕事を持ってて、忙しいもので」
「そうですか。僕はてっきり、桐谷さんは奥さんに愛想を尽かされてるのかと思いましたよ。お子さんもお見舞いに来た様子がないし。可哀想にお父さん、一家の粗大ゴミ扱いなのかと」
「青木さん。この方、ちょっと失礼じゃないですか」
 薪の無礼な振る舞いに、桐谷は腹を立てた。彼に脅迫電話を掛けたのだって、自分の意志ではない。あれは青木にやらされたのだ。なのにこんな侮辱を受ける謂れはないと、それは正当な怒りだった。

「すみません、桐谷さん。この人はこういう人で……でも」
 青木は済まなそうに謝り、しかし椅子から動こうとはせず、薪の暴挙を諌めようともしなかった。怖くて意見することができないのだろうと桐谷は察し、青木が日常的に薪の横暴に晒されていることを考え合わせ、彼に深く同情した。が、青木は次の言葉で桐谷の好意的な解釈を裏切った。
「オレも桐谷さんの奥さんは、桐谷さんのせいで悲しい想いをしていると思います。お嬢さんも」
 いくら宮仕えだからと言って、この上司に追従するのは人としてどうかと思う。同情心でいっぱいだった桐谷の心に青木に対する不満が紛れ込み、しかしそれは次の刹那、跡形も無く消え失せた。
「オレも悲しいです。桐谷さんは、こんなにいい人なのに」
 青木は眼を閉じ、はらはらと涙をこぼしていた。膝の上で握った右の拳に幾つもの水滴が落ち、交じり合って小指側からズボンに流れ落ちる。青木の涙を吸い込んで、厚手のジーンズ生地は色を濃くした。薄い水色の布地が青に変わり、すると薪が後ろから彼の背中をパシリと叩いた。

「泣くな、バカ。しゃんとしろ」
 言葉は冷たかったが、薪の部下を見る眼は温かかった。桐谷は瞬時、二人の関係性に対する認識を改めさせられた。「普段は鬼のように怖い」と青木は言ってたが、そんな時ばかりではない。それも道理、威圧的にプレッシャーを掛けるだけでは、青木のような良い部下は育たないだろう。
「おまえが始めたことだ」
 それだけ言うと薪はその場を離れ、壁にもたれて腕を組んだ。亜麻色の瞳が、部下を静かに見守っていた。

 青木は眼鏡を押し上げて、指で涙をぬぐった。それから帽子を脱ぎ、するとそこには包帯の巻かれた頭部が現れた。短い黒髪に白い包帯が痛々しくて、桐谷は彼から眼を背けた。
 ギプスで固定された自分の足に視線を落とす桐谷に、青木の穏やかな声が掛かった。
「桐谷さん、お願いです。本当のことを話してください。真鍋の遺体を解剖すれば、彼の命を奪ったのが警察の銃ではなく、あの部屋に転がっていたものだと分かります。SITの集中攻撃に遭って、あの部屋には誰も近付けなかった。真鍋さんをあの銃で撃てたのは、あなたしかいないんです」
「なにを」
 自分に掛けられた嫌疑にびっくりして、桐谷は大きく眼を見開いた。

「何を言い出すんです、青木さん。私は彼らの人質になって、真鍋に無理矢理あの部屋に連れてこられて。挙句に、この怪我ですよ。立派な被害者じゃないですか」
「あの部屋に真鍋さんを呼び出したのは桐谷さんじゃないんですか。彼と二人きりになるために、オレを殴って気絶させたのも」
「まさかそんな。あの銃撃戦の中で、自分だって死んでいたかもしれないのに」
「だって、死にたかったんでしょう?」
 問われて、桐谷は言葉を失う。
「真鍋を殺して、ご自分も死ぬ気だったんですよね」
 重ねて言われて、桐谷は首を振った。友人になれたと思っていた青木にとんでもない疑いを抱かれていたことが、悲しくもあり、腹立たしくもあった。
「青木さん。テロリストに殴られたせいで、頭がどうかしちゃったんじゃないですか。どうして私がそんなことをしなきゃいけないんです?」
 まったくの濡れ衣です、と憤慨する桐谷に、青木は一層悲しそうな顔になった。が、今度は彼は泣くこともなく、きっぱりとした口調で言った。

「神戸倶楽部のエビフライは、お子さんの好物だったそうですね」
 お店の人に聞いたんです、と、責めるでもなく詰るでもなく、青木は淡々と語った。
「あのお土産は、陰膳、ですよね」
 病院で手当てと検査を受け、放免になった青木は、薪と一緒に東京へは帰らなかった。調べたいことがあるんです、と申し出た青木を薪は引き留めず、憐れむような瞳で見つめた。それが青木にとっては確証になった。この人は、既に気付いている。
「桐谷さん、奥さんと子供さんを亡くされてますよね。3年前……赤羽事件で」
 薪は、赤羽事件の資料を読んだのだ。たった一読、それで彼の頭脳には桐谷吾郎の名が、200人を超す被害者遺族の一人として刻み込まれた。あの時の薪の既知感の正体は、これだったのだ。

 桐谷に、目立った反応はなかった。何も聞こえないかのように、彼はじっと自分の足を見ていた。
「真鍋哲夫とその仲間を、許せなかったんでしょう? だからオレを引き込んで、警察を動かして、彼らの掃討を……いや、そんな消極的なものじゃないですね」
 青木は桐谷から眼を逸らさなかった。能面のように表情を失くした彼の横顔を見つめて、熱心に言葉を継いだ。
「彼らへの献金も、あなたがやってたんですよね? オレ、あなたの前の会社にも行ってきました。社員のレベルが高い事で有名なIT企業で、あなたは優秀な技術者だった。小坂さんのパソコンのパスなんか、あなたにとっては有って無いようなもの。あなたは小坂さんのパソコンを使って、彼らに資金を送り続けた。何のために?」
 自らの質問に自答する形で、青木はその答えを桐谷に告げた。
「野に埋もれようとしていた彼らを再び集結させて、皆殺しにするためです」

 赤羽事件の後、グリーンアースは壊滅状態だった。リーダーを含む仲間の大半を失い、資金もなく、メンバーの誰もが胸の内でグループの存続を諦めていた。そこに、『K』と名乗る人物から多額の寄付があった。寄付と一緒に手紙が添えられ、MRI研究所の者であること、グリーンアースの主張に賛同すると、それだけが書かれていた。以降、真鍋のメールアドレスに『K』からのメッセージが届くようになった。

「オレと桐谷さんが小坂さんのパソコンを見ていたら、彼らが突然現れて。でも、真鍋はあの時オレにこう言いました。『帳簿に動きがあると、こちらにも連絡が入るようになっている』。あの後パソコンを調べたら、帳簿残高が変わるとメールシステムが連動して、真鍋さんのアドレスに通知されるようプログラムが組まれていました」
 誘拐された夜、ツトムが青木に言った「カミサマ」とは、このシステムのことを指すと同時に、スポンサーである「K」のことを暗示していたのだった。
「でもあの時、オレは帳簿を閲覧しただけ、数字は動かしてません。オレが研究室に入る前に、桐谷さんがやったんでしょう?
 真鍋さんのパソコンもあの騒ぎで壊されちゃいましたけど、内容はサーバー会社に確認を取れば復元できますよ。用心深いあなたのことですから、足が着かないようにフリーメールを使っていたでしょうけど」
 真鍋は『K』の正体を知らなかったが、青木たちを誘拐した翌朝、人質のひとりに「自分がKである」と告げられて、大そう驚いた。刑事が一緒だからこのまま人質として扱って欲しい、と頼まれて、一芝居打つことにした。真鍋にとって、「K」は大事なスポンサーだ。待遇が良くなったのも当たり前だった。
 こういったグリーンアース側の事情は、サトシの供述から判明したことだ。相棒のテツを失った彼は、まるで憑き物が落ちたようにすらすらと供述を続けている。それを青木は、南雲から直接教えてもらった。警視長には内緒だぞ、と、その理由には全く心当たりがないのだが、南雲は青木のことを気に入ったらしい。

 青木を人質にして刑部を救うことも、20億もの身代金を要求することも、桐谷が真鍋に指示したことだった。赤羽事件の裏側こそ知らなかったが、この誘拐事件の原案を描いたのは、目の前にいる『K』こと桐谷吾郎だったのだ。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(29)

たとえ君が消えても(29)





 青木の衝撃的な告発にも、桐谷は無反応だった。否定も肯定もせず、じっと青木の言葉を聞いていた。
「桐谷さんが死ぬ気だったこと、オレには分かってます。パソコンが使えない振りをしていたこと、子供さんのこと、こうやってちょっと調べれば分かってしまう。杜撰です。3年も掛けてテログループに近付いたやり方とは別人みたいだ。それはあなたが、復讐さえ遂げられれば後はどうなってもいいと思っていたからでしょう?」
 疑問符を最後に青木が口を閉じると、病室は臨終間際の患者のそれのように、息詰まる沈黙に満たされた。その重さに耐えかねたのか、ねっとりとしたジェル状の空気を破って、桐谷がようやく口を開いた。

「青木さんの仰ることは、正しいこともあるし間違っていることもあります。私の妻子が赤羽事件の被害者であることは本当だし、私がパソコンを扱えることも事実ですが、彼らに資金を送ったりはしていません。Kは小坂のKで、彼がやったんでしょう。
 真鍋のことは……無我夢中だったんです。撃たなければ自分が殺されると思って。正当防衛です」
「いいえ、いいえ、桐谷さん。あなたは殺意を持って真鍋を殺したんです。あれは殺人です」
 頑固に繰り返す青木に、桐谷はやるせないため息を吐いた。後頭部に手をやり、薄くなりかけた髪の毛に指を絡ませる。しばしの沈黙の後、桐谷は青木をじっと見据えて鋭く言った。

「証拠がありますか?」
「いえ、それは」
 ははは、と桐谷は肩の力を抜き、抑揚のない声で言った。
「あなたに私を捕まえることはできない」
「桐谷さん……」
 自分は絶対に捕まらない――そんな自信は、彼の何処からも感じ取れなかった。でも、青木の告発を受け入れることは負けること、ひいては自分の間違いを認めることになる。彼らへの報復が間違いだなんて、桐谷には死んでも認められないことなのだろう。青木は黙るしかなかった。

 俯いてしまった青木の横に、それまで黙って様子を見ていた薪がやってきて、ピンと背筋を張った。眼光鋭く桐谷を見据え、彼は高らかに宣言した。
「青木一行警視を営利誘拐した罪で、あなたを逮捕します」
 唖然としたのは桐谷ばかりではない。青木もポカンと口を開いて、薪を見上げた。
「あれは冗談ですよ。ねえ、青木さん?」
「あ、はい、あれはオレが言い出し、っ、痛ったーい!!」
 信じられないことに、薪は青木の後頭部を包帯の上からスパンと叩いた。怪我人を叩くなんて、青木の口を閉じさせるためとはいえ、なんて乱暴な。

「名誉棄損で訴えますよ。私が青木さんを誘拐してお金を取ろうとしたと、そんな証拠がどこに」
 薪は自分の携帯電話を取り出し、録音した音声をその場で再生した。そこには桐谷の声が、はっきりと残っていた。
「違法だ。これは別件逮捕というやつでしょう。弁護士を」
「あなたが証拠を出せと言うから応じたまでです。例え、人質と結託した狂言誘拐だろうと罪は罪」
 薪はベッドに左手を付き、桐谷にぐっと顔を近付けて凄んで見せた。
「逮捕した以上、警察はあなたを裸にする。覚悟することだ」
 薪の瞳は限りなく冷酷に桐谷を捕え、桐谷は背筋がぞっと寒くなるのを感じた。ほんの少しの妥協も許さない剛直さが、彼の大きな亜麻色の瞳に輝きを添えている。どんな理由があろうとも罪を犯した者にはその償いをさせる、彼は根っからの警察官なのだと桐谷は知った。

「なるほど、青木さんの言ったことは本当ですね。鬼のように怖い」
 やれやれと肩を竦め、桐谷は顎を上げて遠くを見た。空に据えられたその視線の先には何もなく。遠い日のことを思い出しているのかもしれない、と青木は思った。

「薪さん」
 斜め上を見上げたまま、桐谷は呼びかけた。
「娘が死んだとき、私が最後に聞いた音がどんなものだったか、分かりますか」
「分かります。銃声は、一度耳に付いたら離れない」
 薪もまた、大事な人を銃で喪っていた。その音は右手の記憶と共に、薪の耳奥に永遠に刻み付けられていた。
 しかし、桐谷の記憶は違っていた。
「違いますよ。銃声なんかじゃない。もっと軽い、パーンて音ですよ。何の音だか分かりますか?」
 薪が訝しげな顔になると、桐谷はそれが痛快だったらしい。くくっと含み笑いをして、正解を教えてくれた。
「娘の頭蓋骨が割れる音ですよ」
 薪も青木も言葉を失った。桐谷の声に悲痛さは欠片もなく、でも分かる、伝わってくる。それは、地獄を経験した人間の非業の叫びだった。

「私にはハッキリ聞こえた。妻が娘を抱いて庇って、その妻が爆弾で吹き飛ばされて、鋼鉄製のドアに叩きつけられたんです。その衝撃で、娘の頭は割れました。妻は、爆発で両脚を捥ぎ取られてまで、娘を守ろうとしたのに」
 彼の眼の前で死んだ彼の愛する家族。その様子は青木と薪の心にありありと浮かんだ。ひとり取り残された桐谷の悲しみは、いかばかりだったろう。家族を殺した人間に対する怒りも恨みも、その気持ちは痛いほど分かってしまう。彼らにもまた、かけがえのない大切な人がいるから。
「爆弾の音なんか聞こえませんでしたよ? 二人がドアにぶつかる音も、妻の悲鳴も。私の耳に聞こえたのは、娘の」
 桐谷さん、と青木が控え目に声を掛ける。が、彼の耳には届いていないようだった。桐谷の、年と共に垂れた小さな目には、暗い怨嗟の焔が灯っていた。

「一個人に何ができます」
 自分の非力を嘲笑うように、桐谷は吐き捨てた。
 彼は、その場で妻子の仇を取りたかったのだ。その場でテログループを皆殺しにしてやりたかった。それができない自分を責めた。責めて責めて、復讐の鬼になった。
「妻と娘を殺されて、泣き寝入りするしかない。警察はテログループの残党を放たらかしじゃないか。復讐して何が悪い」
「桐谷さん、それは違います。奥さんも娘さんも、復讐なんか望んでない」
「そんなことがどうしてあんたに解る!」
 いい加減なことを言うなと、桐谷は青木を怒鳴りつけた。妻子を殺された者の気持ちは同じ体験したものにしか分からない。彼は激昂し、彼の顔は赤黒く染まった。青木は椅子に座ったままで身を引き、悲しげに首を振った。眼鏡の奥の黒い瞳には再び涙が浮かび、しかし彼の上司は、今度はそれを咎めなかった。

「青木の言葉は嘘じゃない。解るから言ってるんです、青木も僕も」
 澄んだアルトの声が、病室に響いた。先刻までの傲慢な声音とは別人のようなその声に、ふと桐谷の視線が現実に帰る。
「僕たちは、死んだ人の脳を沢山見てきました。だから人が死ぬときに何を考えるのか、知っているんです」
 系列の職場に勤めているのだから、桐谷も当然、第九研究室の業務についは熟知していた。彼らが毎日、死人相手に捜査を続けていることも、死体の脳を見ると言う特質性から「科警研の死神」と呼ばれて同じ刑事仲間から疎まれていることも。

「彼らは復讐なんか望まない。死んでゆく彼らには、そんな余裕はないんです」
 死んでいく人間に余裕はない、それは当たり前のことだと桐谷には思えた。痛みに、苦しみに、悔しさに、不条理に、呻き喘ぎ喚きのた打ち回り。そんな凄惨な死を、桐谷は3年前のあの日、嫌と言うほど見たのだ。
 でも、薪の意見は桐谷とは正反対だった。それは彼が第九と言う特殊な職場に身を置いてきたからこそ、辿り着いた答えだった。
「人は死の瞬間、大切な人を想うんです。その人との大事な思い出を思い出すことに精一杯で、他のことを考える余裕はまるで無いんです。僕たちが見てきた脳には、はっきりとそれが残されています」

 桐谷は知らなかったが、それは薪の実体験だった。自分が殺した親友の脳を、薪は見た。てっきり自分を殺した薪を恨んで死んでいったと思っていた、でも違った。彼は、鈴木は、薪の笑顔を死の瞬間まで願っていた。心臓が最後の鼓動を刻むまで、肺が最後の息を吐くまで、現実に命を懸けて願っていた。
 実体験を伴う言葉は現実味を帯びる。薪と同じように地獄を見た桐谷は、そのことを知っていた。この男の言うことは、この場凌ぎの虚言ではない。
「奥さんも娘さんも、桐谷さん。あなたとの大事な思い出を脳裏に思い浮かべながら、亡くなられたに違いないんです」
 相手を思う気持ちに溢れた薪の声は、不可思議な音色だ。聖者が鳴らす鐘の音のように、人の心に沁み通る。
 桐谷は観念したように眼を閉じて、がっくりと肩を落とした。

「復讐なんかしても、妻と娘が帰るわけじゃない。分かってるんですよ。私は理数系の人間ですからね、ちゃんと分かってるんです。でも」
 桐谷のやつれた頬に、涙が一筋、伝った。
「そうせずにはいられなかった」

 桐谷の気持ちは、薪にも分かった。
 理屈ではないのだ。自分も、鈴木のやさしさは分かり過ぎるほど分かっていたのに、ずっと彼に恨まれていると思い込んでいた。結局、桐谷が許せなかったのは妻子を守れなかった自分自身なのだ。この殺人計画は、彼が自分に下した罰だ。
 薪は辛そうにくちびるを噛みしめた。涙が出そうになって眼を伏せると、そこには、彼が思わず一歩退がるほどに大泣きしている大男の姿があった。

「桐谷さん……桐谷さん、オレはっ……あなたと一緒だったのに、ずっとあなたの傍にいたのに、気付いてあげられなくて、あなたを止めてあげられなくて」
 眼鏡を外して、拳で涙を拭うも間に合わず、腕にまで涙が伝い落ちている。大の男が人前でよくこうも泣けるものだと、思う間にも青木の瞳からは新たに大粒の涙が湧きあがる。噴水みたいだ。
「本当にすみません」
 青木の泣きっぷりは実に見事で、薪も桐谷も涙が止まってしまった。これはあれだ、映画館で泣きそうになった時、隣の観客がオイオイ泣いているのを見てすーっと感動が冷めてしまう、あの現象だ。

 桐谷はポリポリと広い額を掻き、薪を見上げて訊いた。
「薪さん。どうなんですか、殺人犯に泣いて謝る刑事って」
「日本中探しても、こいつだけだと思いますよ」
 薪からも、惚けた答えが返ってくる。桐谷も薪もお互いに、自分と同じ気持ちでいることが分かる。
 この男には敵わない。
「じゃあ、私はラッキーだな。青木さんに捕まえてもらえて」

 もしかしたら、と桐谷は思った。
 もしかしたらあの世話好きの妻が、この世に残したダメ亭主を見るに見かねて、この男と巡り会わせてくれたのかもしれない。
 桐谷は、自分から両手を前に出した。怪我をしたのが足で良かったと思った。このやさしい男は、怪我をした手に手錠をはめることに心を痛ませるだろうから。

「うっ、桐谷さん、オレ、ううっ」
「いい加減にしろ! さっさと手錠出せ!」
 薪に厳しく叱咤され、青木は涙にまみれた顔を驚いたように上げた。
「えっ。オレ、手錠なんか持って来てませんけど」
「ああ!?」
「だってオレ、今日、休みだし」
「おまえ、何しに此処に来たんだ」
「桐谷さんには自首して欲しかったんです」
 薪はうんざりした顔つきで溜息を吐き、桐谷は差し出した手の置場に迷う。まったく、青木には敵わない。
「おまえが始めたことなんだぞ。最後まできちんとやれ」

 薪に叱られて、青木はしゅんと項垂れた。飼い主に叱られた飼い犬のようだ。
 青木は大型犬のような純粋な瞳で桐谷を見つめ、宙に浮いていた桐谷の両手を、自分の大きな両手で温かく包んだ。
「桐谷吾郎、殺人の容疑で逮捕します」
「13時51分、確保」と付け足して、青木はまた瞳を潤ませた。が、ぐっと歯を食いしばり、耐えた。エライエライ、と桐谷は彼を褒めてやりたかったが、そうもいかない。自分は殺人犯、彼は刑事だ。
 桐谷はただ黙って、深く頭を垂れた。




*****

 最終回以来、どうも、
「青木さん=泣き崩れ」 の図式がわたしの中に。(笑)
 でも、銃撃戦の時よりこっちの青木さんの方が好きだったりするー。

テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(30)

 コミックス11巻の表紙は、メロディ4月号の表紙にもなった 『携帯電話を持った薪さんと青木さんの近過ぎるツーショット』 なんですね。 ……またテレビガイド重ねないと、おばちゃんレジに行けない。(笑)
 12巻はクリアファイルのお二人ですね。 青木さんが超カッコいいんですよね。 楽しみだなー♪







たとえ君が消えても(30)







 満ち足りたベッドの中で。青木は薪の髪に鼻先を埋め、彼の香りを吸い込んだ。
 前髪や額にやさしくキスをしながら、眠りに就く体勢を整える。右の肩に薪の頭を載せ、脚を絡ませて身体を密着させる。背中に手を回し、ゆっくり撫でてやる。こうすると薪は10秒で寝就く。
 が、その日は少し様子が違っていた。

「おまえ、いつから桐谷のこと疑ってたんだ?」
 大切な後戯の時間を無粋な質問で台無しにされて、青木はげんなりする。今日はどうも集中してないと思えば、青木に抱かれながら事件のことを考えていたのか。昔はそんな余裕はなかったはずだが、この人も大人になったと言うか。
「僕に脅迫電話を掛けてきたの、あれも計画のうちか」
「あの時はまだはっきりとは。実際、まだ何も起きてませんでしたし。でも桐谷さん、告発に迷いが無さすぎたんです。奥さんも子供もいるのに、自分が職を失うことなんて気にも留めてないみたいで。家族のことを顧みない人なのかと思えば、子供にお土産買ってるし。辻褄が合わない気がして、それで薪さんにも話を通しておこうと思って」
「狂言誘拐とはよく考えたな。やり方次第で有罪にも無罪にもなる。金額もあの程度なら、悪戯ってことで厳重注意で放免だろうな。勿論、おまえは減俸処分だけど」
 警察官の罪は2割増し、それは職責と言うもので、青木も覚悟はしていた。
「次の日になって、ゼロが4つも増えたのにはビビった」
「オレもです。テロリストに捕まった時はどうしようかと思いました。ホント、怖かったんですよ。ライフルで脅されて。生きて帰ってこれてよかったです」

 桐谷と二人で人質になった記憶は、未だ鮮明だ。桐谷もまた、命懸けだったのだ。あの時点ではまだ、桐谷がKであることを真鍋たちは知らなかったのだから。
 家族の仇を討つためなら、自分は死んでもいいと思った。自分が生き残った理由はそれだとすら思い込んでいた。そこまで追い詰められていた桐谷の心情を推し量ると、青木はまた目頭が熱くなる。

「桐谷さん、警察病院に移されたんですよね。神戸の警察病院て、何処にありましたっけ」
「そんなことを聞いてどうする」
 薪はぎろりと青木を睨みつけ、不機嫌な声音で吐き捨てた。答えを期待したわけではないが、怒られるとも思っていなかった青木は、何が薪の機嫌を損ねたのだろうと不安になる。
「まさか、また見舞いに行く気じゃないだろうな」
「いけませんか?」
「このバカ! どこまでお人好しなんだ」
 恋人たちの寝室に相応しくない怒号と言葉で、薪は青木を貶した。ライフルを構えたテロリストよりも怖かった。青木の下になって喘いでいるときはあんなに可愛いかったのに、この人は本当に怖いときと優しいときのギャップが激しい。

「あの男はな、おまえが巻き添え食って死んでも構わないと思ってこの計画を実行したんだぞ」
「それは違います。桐谷さんには迷いがありました。何度もオレに謝ってたし……それに、仕方ないと思います。オレだって同じですから」
 ああ? と薪はますます顔を歪め、青木は今度は、彼に殴られるのを覚悟して言った。

「薪さんが誰かに殺されたら。オレ多分、相手のこと殺しちゃいます」
「ば……」
「バカなことだって分かってます。そんなの、薪さんが絶対に喜ぶわけないってことも。でも、きっと止められないと思います。自分でもどうにもならない、だって、オレがあなたを好きだって気持ちも自分じゃ止められないから」
 怒りから諦めの表情に、ゆっくり変わっていく薪の美しい顔を見つめながら、青木は続けた。
「誰かに止めてもらうしかないんです。きっと桐谷さんもそうだったんです。だけど、オレは彼を止めてあげられなかった」

 青木は本当に悔しかった。自分が情けなくて仕方なかった。彼はあんなに何度も、自分にサインを送ってきていたのに。
 自分がもっと早く事の真相に気付いて桐谷を諌めていれば、彼は手を汚さずに済んだかもしれない。そうすれば、真鍋も仲間たちも死ななかった。桐谷は彼らにとって大事なスポンサーだったのだから、交渉次第では無傷で帰れたかもしれないのだ。

 沈み込む青木の額に、やがて薪はそっと手を置いた。その手のやさしさに、青木が伏せた目蓋を開くと、亜麻色の瞳が湖面に映る満月のように潤んでいた。
「おまえのせいじゃない」
 きっぱりと、薪は言った。
「おまえはよくやった。テログループの隠れ家を報せて捜査に貢献し、銃弾の雨から僕を守り、テロの陰に隠れた殺人事件を解明した」
 薪は、青木の抱擁から頭一つ分抜け出ると、腕を伸ばして青木の頭を胸に抱いた。縫い目も新しい後頭部の傷をそうっと撫で、それは青木にとっての勲章。
「さすが僕の恋人だ」
 薪の薄い胸、でもそれは温かくて、涙が出るほどに温かくて、青木の壊れやすい涙腺はたちまち緩む。薪に手放しで褒められたのは初めてで、青木はとても面食らったけれど。一生に一度、あるかないかのこの幸運を、今はありがたく噛み締めようと思った。

 細い背中に手を回して、青木は思う。桐谷も、きっとこんな風に妻と愛を交わし合ったのだろうと、二人の愛の結晶である娘を深く愛していたのだろうと、思えば思うほど身に積まされて、青木はどうしても彼を断罪することができない。呼吸すら儘ならぬほどの切なさに、止まらない青木の涙に、薪の静かな声が子守唄のように響く。

「家族を殺されて、桐谷の中には彼らに対する憎しみ以外、何も残っていなかった。おまえはそう思うか」
 薪の裸の胸を涙で湿しながら、青木は頷いた。
「僕はそうは思わない。桐谷は普通のサラリーマンだった。戦闘訓練を受けたことも、銃を撃ったこともない。そんな人間がテログループ相手に渡り合おうなんて、憎しみだけでは、あれだけのことはできない。彼を突き動かしたのは彼らへの憎しみじゃない、亡くなった家族への愛情だ」
 家族の仇を討つために、桐谷は血の滲むような苦労をしたに違いない。家族の命を奪った人間に、自らの手で裁きを下すために。
「殺人てのは大変な仕事だ。憎悪は殺意を育てるけれど、それには相応の時間と契機が必要だし、実行に移すとなるとこれがまた。衝動殺人は別として、決して楽なものじゃない。でも」
 薪はそこで一旦言葉を切り、頼りない胸を大きく震わせた。
「愛が絡むと、人は呆れるほど簡単に人を殺すんだ」

 青木はそっと顔を上げ、薪の様子を伺った。薪は上を向いたままで、小さな頤とそこから伸びるほっそりした首のラインが、惚れ惚れするほど美しかった。
「愛が人を殺人者にする」
 悲しいことだ、と薪は呟き、そっと息を吐き出した。その吐息の中には、薪が見てきた数々の凄惨な事件から抽出した悲しみのエッセンスがちりばめられ、それは青木には想像も付かないくらい深い闇を孕んでいた。
 きっと薪は、桐谷のような人間をたくさん見てきたのだ。その度に人間の業を見せつけられ、彼らを救い切れない己の力不足を、やり切れない思いと共に噛み砕いては自分の糧にしてきた。どんな状況でも薪が強くあるのは、それだけの経験を積んでいるからだ。

 青木、と呼び掛けられ、青木は薪の顔を見る。非情な言葉とは裏腹に、薪のきれいな顔にはやさしい笑みが浮かんでいた。
「おまえは僕が死んでも、悲しい人間になるな」
 桐谷のように。愛情を憎しみに変換して復讐に命を懸ける、そうしなければ生きられないような悲しい人間に。決してなるな、と薪は言った。
 自信がない、と青木は正直に答えた。怒られると思ったが、薪は白い歯を可愛らしいくちびるから覗かせて、
「大丈夫。僕は死んでもおまえの中に残る。おまえが生きている限り、僕はおまえの記憶の中で生き続ける」
 それはよく聞く坊主の説教、所詮はきれいごとで、実際にその立場に立ってみなければ分からない。でもそんなことは薪だって承知の上、だって彼は鈴木を亡くしているのだから。鈴木を殺した自分を殺したいと、ずっと思ってきたのだから。
 その彼が言うのだ。きれいごとなんかじゃない、きっと現実に、薪の中で鈴木は生きているのだと青木は思った。

「僕も同じだ。僕も悲しい人間にはならない。おまえが死んでも、おまえはここに。僕の中に生き続ける」
 薪はそう言って、自分の胸に手のひらを当てた。
「一緒に生きるってのは、そういうことだ」
 死ぬまで一緒に生きてやる――薪はそう言った。眠りに墜ちる瀬戸際、寝言みたいに紡がれた言葉に、それほどの決意が込められていたなど青木は思いもしなかった。

 相手の生死は関係ない。自分の命の続く限り、共に生きる。

 自分勝手な薪らしい考えだと思った。薪の考え方はいつも独特で、これだと青木はいつ死んでもいいことになる。それは、危険を顧みず死地に飛び込んで来た彼の行動とは全く整合性が取れない綻びた理論で、だけど青木には、それが薪の本心であることが分かる。
 なぜなら。
 普通の人間が一生のうちに一度経験するかしないかの惨事を日常的に見続け、自分自身も、親友をその手で撃ち殺すと言う凄絶な過去を彼は持つ。だから彼は知っている、人間は死ぬ、あっさりと死ぬ。どれだけ祈っても、死んでしまう。
 自分にも青木にも、それは避けられない未来で、だけどそれでお終いじゃない。どちらかの人生が残っているならもう片方の人生も共にある。
 だから大事にして。生き残った自分の人生を大切にして。
 それは、愛した人を大切にすることだから。

 はい、と青木は返事をした。それがやっとだった。
 彼の顔は涙でぐしょぐしょで、抑え切れない嗚咽が後から後から込み上げた。その慟哭が桐谷に対する哀惜なのか、愛する人と一緒に生を謳歌できる我が身の幸せによるものなのか、いくら考えても青木には分からなかった。



*****

 すみません、青木さんは結局最後まで泣きっぱなしってことで……。
 Nさん、ゴメンねー、あんまりカッコよくならなかったよー。(^^;


テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

たとえ君が消えても(31)

 終章ですー。
 お付き合いいただいてありがとうございました。

 ちゃんと予定通りに終わって良かった。
 さあ、メロディ買いに行こう♪




たとえ君が消えても(31)






「あの誘拐事件の裏側にそんな事件があったとはね。青木くんもなかなかやるじゃない。ねえ、小野田」
 部下から提出された表には出ない報告書を読み終えた小野田に、中園は快活に話しかけた。途端に返ってくる不機嫌な視線を、彼は余裕で受け止める。青木の話題を出せば相手が不機嫌なるのは承知の上、分かっていて賛辞を重ねるのが中園の話術の基本だ。

「あの激戦の中で薪くんを守り、埋もれようとしてた殺人犯を捕まえた。どうだろうね、彼を警視正に昇任させては」
「中園。いつからおまえの人事考課はそんなに甘くなったんだい」
「甘いかい?」
「甘い甘い、おまえの苦手な虎屋の羊羹よりも甘いよ」
 確かに、今回の青木の働きは褒賞に値する。しかし、青木はまだ30歳になったばかりだ。薪ほどの天才ならともかく、彼のような凡才に警視正は早すぎる。それに、小野田は中園が言うほど、彼の功績を認めていない。

「彼は最低限の課題を果たしたに過ぎないよ。大したことはしていない」
 小野田は冷たく言い放った。報告書を机上に立てて紙片の角を揃えながら、
「薪くんの番いの相手なら、そのくらいできて当たり前なんだよ」
 無愛想に書類を突き返すと中園は、ひゅっと唇を窄めて息を吸い込み、「とうとう認めたな」と、小野田の逆鱗を金束子で擦り上げるようなことを言った。

「認めてない!」
「しぶといねえ、おまえも」
 当たり前だ、納得してたまるか。薪が同性の恋人と一生を共にするなんて。
 例え世界中の人間が彼らの仲を認めようとも、自分だけは絶対に認めない。自分はこの世界に残された最後の良識になってみせる、と小野田は心に誓った。

「それに、桐谷は自首扱いだから青木くんの手柄にはならない。手柄も立ててないのに昇格人事なんかできないよ」
「だけど、彼に功績があったことは事実だ。彼を警視正に昇格させないなら、別のことで褒美をやらないとな」
「別のこと?」
 瞬間、訊き返して失敗した、と小野田は思った。中園の眼が、仕掛けた落とし穴に落ちた大人を笑う悪戯っ子のように輝いていたからだ。

「例えば、この書類に判を押してやるとか。どうだ?」
 報告書と引き換えに差し出されたのは、賃貸マンションの変更契約書だった。変更項目の「住人の数」の欄に「2名」と表記があり、その他は空欄だった。
「なにこれ」
「薪くんがね、2ヶ月くらい前からこの書類袋を見ては溜息ついててさ。中身を確認したら、それが入ってた」
 薪に紹介してやったマンションはセキュリティ重視で、居住者数を増やす際には保証人を立てる必要がある。もちろん、小野田以外の人間でも相応の社会的信用がある人物なら保証人になることはできる。彼らの友人の岡部でも、三好雪子でもいい。が、そこは律儀な薪のこと、彼と一緒に住むのなら紹介者の小野田に話を通すべきだとそう思って、でも言い出せなくて、空白の書類を2ヶ月も眺めていたのだろう。

「あの二人、よくやったよね? テログループと悪徳警官、それに影の首謀者まで捕まえたんだから。功労には褒賞を。警察機構の鉄則だろ」
 中園の言うことは尤もだ。勲功を立てても褒賞を得られなければ、職員のモチベーションは低迷し、不満が蓄積されていずれは火を噴く。だがしかし。

 少しはこっちの気持ちも考えてくれ、と小野田は心の中で叫ぶ。中園の具申が正当だと言うことも薪の自分に対する心遣いも、解り過ぎるほど分かっていたけれど。
 これを認可すると言うことは、彼らが一緒に住むのを他ならぬ自分が後押しすることになる。要はそれって男女で言う結婚とか同棲とかになるわけで、言い換えれば彼らの婚姻届の保証人になるようなこと、それをどうしてこのぼくが!!

「しばらく、考えさせてくれないか」
「おまえも往生際が悪いね」
 薪が紛失したものと思っていたこの書類に小野田の判が押されて彼の元に返るのは、それから2ヵ月後のこと。そして書類が効力を発揮するのは、更にその半年後のことだった。



―了―


(2012.7)


テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
メロディ6月号、読みました。
一言感想 「どひゃー……」
文字サイズをお選びください
最新記事
最新コメント
拍手のお返事
いつもありがとうございます!

最新拍手コメのお返事はこちらです。

過去の拍手レスの確認は、該当記事の拍手欄を押してください。
鍵拍手コメのレスは、記事のコメント欄にお返しします。
月別アーカイブ
カテゴリ
詩 (1)
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
QRコード
QRコード
FC2カウンター
こんにちは(^^
現在の閲覧者数: