夢のあとさき(1)

 おはようございます!
 今日は銀魂観に行くんだー、と楽しみにしてたら5時半に目が覚めました。(子供か) 時間ができたので更新しますー。


 お約束の日光東照宮SSです。 て、そこがメインじゃないんですケド。
 いつものように「薪さんと青木さんのらぶらぶデート♪」と思いながら書き始めていつものように違うものになりました。毎度毎度すみませんです。
 鈴薪さんなら計画通りに書けるんですけど、青薪さんだとズレる傾向が強いです。青薪脳がぎゃーぎゃー騒いで第一の脳の邪魔をするからだと思います。ほんと迷惑。
 
 





夢のあとさき(1)






 薪がぽつりと呟いた。

「42」

 それが何の数字か最初は分からなかったけれど、すぐに理解した。だから青木はグラフィックボードの強化について解説されているページに付箋を貼り、本をテーブルの上に置いて、薪に提案したのだ。
「次の休みに神社へ行きましょう」
「神社?」
 ソファを背もたれ代わりに床に胡坐をかいた薪は、大きな眼を無垢に開いて青木を見上げた。いきなり何だ、と彼が首を傾げるのは予測済みだった。

「薪さん、厄年でしょう。お祓いに行かないと」
 青木が大真面目に言うのに、薪はひらひらと手を振って、
「迷信だろ、あんなの」
 薪は信心深い人間ではない。それも承知の上だ。説得方法は考えてある。
「オレも若い頃はそう思ってたんですけど身近な実例があってですね。オレの叔父さん、まだ50になったばかりなのに帽子以外の被り物が手放せない人なんですけど、なんと42歳から急速に風化が進んだそうなんです」
 と、青木は実家の近くに住んでいる叔父の話を持ち出し、
「聞いたら、厄落としに行かなかったって」
「おまえの叔父さんの話だろ。厄祓いが必要なのは僕じゃなくておまえじゃないのか」

「落とすのにお金を使うよりも植えるのに使った方が賢明だと思うけど」とシビアに切返す薪の冷たい視線をものともせず、青木はリビングのサイドボードから菓子折りサイズの箱を取り出した。蓋を開ければそこに広がるのは、その9割が計画倒れになった青木の夢。なんてことはない、観光地のパンフレットだ。

 青木はその一つを取り出し、薪に向けて開いた。A4サイズの限られたスペースに、美しさを競い合うように並べられた数枚の写真のうちの一枚を指差して、
「厄落としの後は滝を観に行きましょう。水と一緒に厄も流そうってことで」
「おい」
「この時季だと高原もいいですね。ニッコウキスゲ満開ですって」
 スマートフォンのWEB画面を薪に見せると、険しかった薪の眉間がすうっと開かれた。若草色の絨毯の上に広がるゼンテイカ(ニッコウキスゲ)のやや赤みがかった黄色。広々とした草原は、薪が好む勝景のひとつだ。

「このホテルのビーフシチュー、一度でいいから食べてみたかったんですよねえ」
「僕の厄落としにかこつけて、自分が遊びたいだけだろ」
 近郊グルメのページを眺める青木に薪は苦笑し、ソファに寄りかかった。面倒そうに青木が持ち出したパンフレットに手を伸ばし、だが彼の口角はわずかに持ち上がっている。ここで切り札。
「立ち寄りの露天風呂は野趣。源泉かけ流しだそうです」

 青木の言葉を聞き流している風を装っても、亜麻色の瞳の輝きがそれを裏切る。青木は余裕で彼の応えを待った。やがて薪は青木のスマートフォンを我が物顔で操りながら、
「東照宮は文化財としての価値も高く、国宝8棟、重要文化財34棟。世界遺産にも登録されている。日本人なら一度は見ておくべきかもしれないな」
 文化人を気取って見せるけど、薪が熱心に見ているのは温泉情報と地酒の特集ページだ。時間さえ取れれば泊まりたいと言い出すに違いない。
 新緑に囲まれた温泉の湯気が漂ってきそうな画面に、無意識に身を乗り出す薪の横で、青木は箱の中から温泉宿の情報誌を取り出した。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

夢のあとさき(2)

夢のあとさき(2)






 日光東照宮の駐車場から入口までは緩やかな登り坂が続く。その両脇には見事な日光杉が列をなしている。
 歩きながら、青木は空を見上げた。抜けるような皐月の空を背景に新緑が萌えるようだった。昨日の夕方から雨が降り出したので心配していたのだが、今朝はきれいに晴れ上がってよかった。
 ゆっくりと坂道を登っていく、多くの観光客が正面の石鳥居より先に眼を奪われるのは、右手前にある巨大な石柱だ。時代劇でおなじみの金色の葵紋の下に、いささか品性を欠くのではと危惧される程でかでかと神社の名称が書いてある。

 もう少し慎ましくすればいいのに、とは青木の恋人の意見だ。彼は仰々しいことは嫌いで、形骸的なことはもっと嫌いだ。拝観料を取ることからも分かるように、神のおわす場所と言うよりは観光名所に分類されるのが相応しいその趣に、彼はいささか不満げであった。
 それでも彼は作法通り、左の鳥居柱の前で立ち止まって一礼した。彼の隣を他の観光客がぞろぞろと追い越して行く。参道の真ん中を歩く彼らに薪はチッと舌打ちし、「神社に来るなら作法の一つも勉強してきたらどうなんだ」と小声で吐き捨てた。「家康公に祟られるぞ」なんて憎まれ口まで叩いて、普段はここまでうるさ型のオヤジではないのだが、今日の彼はあまり機嫌がよくない。

 彼に顰め面を作らせる大きな原因は、このごった返した人混みだ。うじゃうじゃと言う表現がぴったりだ。それもそのはず、世は大型連休の真っ只中。此処に辿り着く間にも交通渋滞に巻き込まれて、高速道路ならぬ超低速道路をのろのろと走って来たのだ。
「これで金を取るのは詐欺じゃないのか」
 渋滞によるイライラをETCバーにぶつける助手席の声を聞こえない振りでやり過ごしたら、目的地の名物を当てこすられてか「サル」と罵られた。薪の眉間の皺に怯えながら、だけど青木はちょっと嬉しい。サイドブレーキが必要になる程の渋滞なら薪の顔を見て話ができる。ぷんぷん怒っていても、休日の薪はやっぱりかわいい。
 薪の今日の服装は定番のカジュアルな少年ルックではなく、キレイ系だ。白いボタンダウンシャツにシルバーのナノータイを合わせ、ズボンもライトグレイのスラックスで上品にまとめている。祈祷を受けるのだから神さまに失礼な服装ではいけないと、同伴者の青木にまでジャケットの着用命令が出た。この格好ではウォーキングは無理だと思い、霧降高原のニッコウキスゲは諦めた。

 生理前の女性のように取るに足らないことが勘に障って仕方ないらしい薪の様子が落ち着いたのは、石鳥居を潜って左手に五重塔を観て(これについても彼は「せっかくの歴史的建造物を現代の塗料で塗り直してしまうなんて」と文句を言っていた)、表門に入ってからだ。目前に現れた三神庫と名付けられた建造物は、五重塔と一緒に何回目かの補修工事を終えて美しく塗り直されたばかり。赤と金を主体にした派手な色合いが青空によく映えた。
「きれーい」と、青木の隣で立ち止まった中年男女の女の方が声を上げた。「華やかねえ」と彼女ははしゃいだ声を上げ、夫らしき男に「派手な墓地だねえ」と失笑された。
「え、墓地って?」
「知らないの? ここ、家康公のお墓」
「そうなの」
「あの葵の御紋はなんで付いてるんだと思う?」
「単なるデザインかと」
「どんだけ勇敢な建築デザイナーだよ。徳川家の紋章を勝手に使ったら打ち首だって」

 無知な女性もいたものだ、と青木の懸念はそんなことではない。この会話を耳にしたら、薪の機嫌は直滑降だ。慌てて隣を見ると、薪はきょとんとした顔で歩き去って行く二人を見ていた。怒りを通り越して虚脱したらしい。
 彼は茫然とその場に立っていたが、彼らが歩き去ってからくすりと笑い、
「うん。綺麗だな」と呟いて歩き出した。
 青木もそう思った。歴史とか時代背景とか、何も解らなくてもきれいだと思えた。ここが家康公の墓地であることさえ知らなくても、その美しさに感じ入ることは許される。それを咎める権利を自分は持たない。よって彼女の無知に憤ることは自分の仕事じゃない。薪はそう考えたのかもしれない。

 表門から順路に従って進むと、最初の人だかりはやはり有名な三猿の彫刻がある建物だ。この建物は神馬の馬小屋だとパンフレットに書かれていたことを思い出しながら、青木は素朴な疑問を薪に投げかけた。
「馬と猿って相性がいいんですか?」
「どうしてだかは僕も知らないけど。昔、猿は馬の病気を治すって思われてたらしい」
「へえ。でも『見ざる言わざる聞かざる』じゃあ、病気の馬がいても気が付かない振りをされちゃうんじゃ」
「ぷっ。どっちにせよ、子供の猿じゃ役に立たないかもしれないな」
「え?」
 青木が不思議そうな顔をすると、「なんだ、本当に知らないのか」と薪は軽く眉を顰め、「そうか。おまえ福岡だっけ」と青木の出身地を口にした。関東の人間なら小中学校あたりで必ず訪れる見学地だが、北九州生まれの青木には馴染みが薄いのだ。

「恥ずかしながら大学のとき友人と一度来ただけで。三猿は覚えてましたけど、他の彫刻は忘れてました。全部で、えっと、8枚あるんですね」
 最前列に彫刻についての説明書きがあるらしいのだが、この人混みでは近づくことも困難だ。人の隙間から何とかして読もうとしている青木に、薪は8枚の彫刻の概要をざっと説明してくれた。
「この彫刻は人の成長を模していて、1枚目が母子、2枚目の三猿は幼少期で、悪いことを『見ざる言わざる聞かざる』で素直に育ちなさいって意味なんだとさ。それから少年期、青年期と移り、あの青い雲は青雲の志を表わしていて」
 さすが薪。何でも詳しい。
 人に問われて返答に窮する薪を、青木は見たことがない。信じがたい量の知識をその小さな頭脳に納めていて、それを淀みなく引き出すことができる。天才の頭脳は周囲の尊敬と畏怖を集め、だがそこで終わらないのがこの人の欠点だ。例えば、電気炊飯器はどういう仕組みでご飯を炊くのかを尋ねたとする。すると彼はとても分かりやすく説明してくれるのだが、その後、「仕組みも知らないでよく使えるな? 爆発するかもしれないとか思わないのか」などと嫌味なことを言うから誰も感謝してくれない。

 だけど青木はそのおかげで彼に近づくことができる。これで性格までよかったら高嶺の花すぎて、声をかけることもできない。その時も薪は一通りの説明を終えた後、三猿の彫刻に視線を戻して、
「インターネットが幼稚園児まで浸透したこの時代に、どうしろって?」と皮肉な笑みを浮かべた。意地の悪いツッコミは彼の上機嫌の証拠。嬉しくなって青木はそれに応じる。
「それは子供たちを隔離するしかないのでは」
「ふむ。となると、あの三猿の前には鉄格子とインターネットは1日1時間までの貼り紙が」
「……祟られますよ」
 青木が苦笑すると、薪はニヤニヤ笑って、
「そのための厄落としだろ。同じ料金ならたくさん祓ってもらった方が得だと思わないか」と罰当たりなジョークを返した。

 祈祷を行うのは祈祷殿という建物で、宮の中枢である本殿のすぐ横にある。厄落としに訪れた者たちは、約2時間おきに行われる祈祷の時間を待つ間、坂下門の手前にある眠り猫を様々な角度から見上げたり、その先に続く長い長い石段を登って家康公が眠っている奥宮に参拝したりする。
 その中枢エリアの外門となっているのが、有名な陽明門である。別名『日暮しの門』と呼ばれる、時が経つのを忘れて見惚れるうちに日が暮れる、それほどまでに美しい門。が、これは薪の好みではないだろうと青木は思っていた。
 陽明門は、門と呼ぶにはあまりにも豪華絢爛な建造物だ。実用性を重視する薪に、この門は装飾が多すぎる。

「薪さんは、もっとシンプルなものの方がお好きでしょう」
 薪の好みに詳しいところを見せたくて青木は先走る。相手が言葉を発する前にその意見を決めつけるのは失礼な行為だと思う、でも実際は、無口な父親の言葉を母親が代弁するように親しい関係にはありがちな言動だ。
 天邪鬼の本領を発揮するでもなく、薪は軽く頷き、まあな、と青木の予想を肯定した。
「薪さんが絶賛するのって、大抵は自然ですよね。オレはこういった建築物を観るのも好きですけど」
「自然が生み出す美しさに比べたら人間が作るものなんて大したことない。でも」
 それから顎を上げて、じいっと門の彫刻を見つめた。508体の彫刻の上を亜麻色の瞳が撫でていく。青木も釣られて、門を見上げた。
「此処でそんなことを言うやつは想像力がないんだ。どれだけの苦労を重ねて彼らがこれを造ったのか。考えたら、とてもそんなことは言えない」
 薪らしいと思った。薪は我儘だけど、常識人でちゃんとTPOを考える。根は真面目なのだ。

 混み合っているおかげで、彫刻を堪能する時間は充分にあった。流れに乗って門を潜り、そこで皆がするように振り返る。目的は、もちろん逆さ柱だ。
「『建物は完成した瞬間から崩壊が始まる』て言われてて、それで逆につけたんですよね」
「そうだけど、門にそれを施すのは珍しい。門にはもともと魔を通さない役目があって、ほら、この門にも正面に鬼神が彫られてただろ?」
 確かに、ものすごく怖い顔をした鬼がこちらを親の仇みたいに睨んでいた。眼がギョロッとして、青木は五課の脇田課長を思い出したくらいだ。
「あの鬼神で払いきれない大きな魔が訪れた時には、門は自ら壊れてそれを滅するんだ。逆さ柱に縛られて、この門は肝心な時に役目を果たせない。本末転倒だ。つまり、この逆さ柱は建造物の永続性を願ったわけじゃなくて、この門が美しすぎて災厄を引き寄せると人々に思われてしまったから付けられたんだ」
「美しすぎて……災いを……」
「魔よけのために作られたのに、逆に魔を呼ぶと懸念されて逆さに柱を付けられたとき。この門はどんな気持ちだったんだろう」
 門に同情するように、薪は呟いた。

 本人の好みとは関係のないところで、この門は薪に似ている。見る者の魂を奪う絶対的な美しさ。彼自身は何も思う所はないのに、その美しさが魔を呼ぶと人に言われる。事実、薪の美に魅入られた者たちは次々と道を誤って行く。多分最初の頃は、青木もそう思われていた。彼の殺人鬼と同じように、自分が青木を惑わしてしまったのかと悩んだに違いない。きっと薪は自分とこの門の境遇に共通点を見つけて、やるせない思いでその絢爛さを見つめていたのだ。

 掛ける言葉が見つからなくて、青木は口ごもる。そのまま俯いてしまった青木に、薪は笑って、
「信じたのか?」と意地悪そうに言った。
「ウソに決まってるだろ、バカ」
 ぽかんと口を開ける青木を尻目に、薪はくるりと踵を返した。
「おまえの言うとおり、逆さ柱の意味は建造物の崩壊を避けるおまじないだ。門が魔物と心中するわけないだろ。門が壊れたら小物の妖怪まで入り放題じゃないか」
 肩を揺らしながら嘲笑う、細い背中を追いかける。自分の取り越し苦労に気付いて、本当は全然そんなことは思わなかったのだけれど、青木は薪を非難した。
「ヒドイですよ。どうしてそんな嘘つくんですか」
「バカをからかうのは楽しい」
「もう。薪さんの話が本当だったら、この門、今の瞬間に崩れてますね」
「あ? なんだ、僕がアクマだとか言いたいのか」
「よく言われてますよね。太夫さんに」
 太夫とは被疑者のことだ。周りに一般人がたくさんいる場合、彼らのことをこう呼んだりする。
「大した根性も信念も持たずに法を犯すことの愚かさを、頭の悪い連中にも解るように噛み砕いて説明してやってるだけだ」

 何年か前、捜二からの協力要請で取調べを手伝ったことがある。詐欺師の学校なるものを摘発したときだ。信じがたい事に、犯人グループは詐欺の仕方を授業形式で教えていたのだ。主犯格たる経営陣の取り調べは二課の人間が行うとして、問題は生徒として登録されていた300名を超える詐欺師の卵たちだ。とても課だけでは捌き切れず他の課に応援を頼んだのだが、元二課の小池を通して第九にもお鉢が回ってきた。
 薪は犯罪者には容赦しない。そのことを青木が知ったのはその時だ。
「でも言葉には気を付けないと。身体に危害を加えなくても、威圧的な言葉で怒鳴ったりしたら強制的に歌わせたことになっちゃうんですから。それを理由に法廷で自白を覆されたりしたら」
「そんなことをしたら死ぬより怖い目に遭わせてやると言い聞かせてあるから大丈夫だ」
「だから脅しちゃダメなんですってば」
 犯罪者に人権なんかないと言い切る、そんなだから彼はいつまでも自分を赦せないのだと青木は思う。

「脅すなんて人聞きの悪い。丁重にお願いしてるんだ」
「じゃあどうして皆さん、オレの顔を見た途端『助けてください』って飛びついてきたんですか?」
 いったい何をされたらああなるのか、取調室に青木が赴くと、それまで薪と向き合っていた犯罪者の多くは青木の後ろに隠れてしまう。そのことを指摘すると、薪は肩を竦めて、
「さあ。悪い夢でも見たんじゃないか」
 と他人事のように言ってのけた。まったく、薪のツラの皮は鋼鉄でできている。

 青木には薪のような取調べの仕方はできない。というか、取調べそのものが苦手だ。犯罪者には犯罪を起こすに至った彼らなりの理由があって、それは時として涙を禁じ得ないほど悲しい物語だったりする。同情心の強い青木のこと、ついつい可哀想になって調書が甘くなる。問題は、その8割が作り話である、という事実だ。「交代だ」と言われて薪と席を替わった5分後には、彼らは何かに取りつかれたように本当のことを話し出す。その際、幼少期に死んだはずの父親は生き返り、男を作って出て行ったはずの母親と慎ましく暮らしていたりするのだ。
 鬼神の代わりに取調室仕様の薪の顔を置いておけば如何なる魔物も寄り付かないのではないかと青木は思い、その代わり、自分にとっては日暮しどころか人生そのものが暮れ落ちるまで門の前から動けなくなるかもしれないと、洒落にならない冗談を考えた。

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

夢のあとさき(3)

 説明書き入れるの忘れちゃったんですけど~、
 このお話は2066年の5月、「2066.4 緋色の月」の直後です。そちらを読んでない方にはちょっと分かりづらいかと、て、肝心の陽明門を過ぎてから言われても(^^;
 東条というド変態のことが詳しく書いてありますので、未読の方はよろしかったらどうぞ。



 ところで。

 東照宮は実際に見てきたのですけど、一番驚いたのは、陽明門の左にある神輿舎です。
 そこには3つの神輿が保管されてるんですけど、それぞれに宿ってる魂が源頼朝、徳川家康、豊臣秀吉の3人なんですって。説明書きを読んでびっくりしました。 
 ケンカしないの? これ。
 わたしの記憶違いかもしれませんけど、徳川家康って大坂の陣で豊臣一族滅ぼしたんだよね? それもわりと阿漕なやり方で。
 それを並べちゃうなんて、さすが天下の東照宮。度胸いいですよねえ。祟りとか怖くないんでかすねえ。

 神輿舎の中で、
『家康、てめーよくもワシの子孫を騙してくれたな!』
『戦は勝ったもん勝ちじゃもーん。騙される方が悪いんじゃもーん』
 みたいな会話してるんだろうか。 頼朝、困ってるだろーなーww。






夢のあとさき(3)








 厄落としの祈祷は十時から約1時間、終えて授与品を受け取ると、青木は激しい空腹を覚えた。朝が早かったせいもあって我慢できそうもない。ぐうぐう鳴る腹を押さえて薪を見やれば、「僕もだ」と薪の腹から相槌が返ってきた。つまらない偶然が可笑しくて一緒に笑い出す。些細なことに笑えるひと時に幸せを感じた。

「薪さん、何が食べたいですか」
「Kホテルのビーフシチューが食べたかったんじゃないのか」
 言われて青木は、薪を誘う時に老舗ホテルの名物料理を挙げたことを思い出した。しかしこの時季、ガイドブックに載るような人気店は何処も行列ができている。短気な薪が2時間も並んで食べるビーフシチューを有難がるとは思えないし、二人の腹具合にも余裕はない。混雑を避けるため朝は早目に家を出て、朝食はコンビニのおにぎりを車の中で食べたのだ。それでもあれだけの交通渋滞に巻き込まれた、恐るべし黄金週間。

「まだ奥宮にお参りしてないですよね。食事に出たとして、再入場できるのかな」
「戻らなくていい。風呂の時間がなくなる」
 世界遺産よりも風呂、そして今必要なのは食べ物だ。それでも一応、表門の所で拝観券のもぎりをしている係員に再入場の是非を尋ねると、理由を話して半券を提示すれば可能だと言われた。「戻らない」と断言したが、休日の薪は気紛れでコロコロ意見が変わる。保険を掛けておくに越したことはない。

 昼食は、混雑を避けるために東照宮から少し距離を取り、日光市の街中の店を選んだ。インターネットで目星をつけておいた幾つかの店の一つだ。HPにアップされた写真より実物は大分風雪に晒された感があったが、木立に囲まれた瓦屋根に木造りの佇まいはなかなかに風情があって、薪の気に入りそうな店構えだった。店の入り口には地元名物の「湯葉料理」と書かれたのぼりが立っている。
 店内は明るく、古めかしい外観を裏切るようなモダンな造りになっていた。8つほどあった天然杉らしいテーブルに着くと、薪は壁の張り紙を一瞥しただけで、そこに書かれた湯葉刺しと冷たい蕎麦のセットを注文した。メニューを端から端まで見ないと決められない青木とは対照的だ。
 蕎麦と植物性タンパク質だけでは2時間もしたら腹が空くと判断した青木は、薪が頼んだセットの他にカツ丼を注文し、それを食べ終わった後、更にもり蕎麦を一枚追加した。

「お兄さん、身体大きいだけあってよく食べるねえ」と店の主に感心される中、薪は青木が追加の蕎麦を食べる様子をソワソワしながら見ていた。早く行かないと風呂が逃げると思っているのかもしれないが、予約の時間までにはまだ間がある。
「二時に予約を入れてあります」
 青木はボディバックからパンフレットを取り出し、薪に差し出した。受け取ろうとして薪は、「いや」と首を振り、
「写真に騙されたことが何度もあったからな。今回は見ないでおく」
「あはは。パンフレットの写真て、本当に上手く撮ってありますよね。実物の3倍くらい広く見えますものね」
「なんでもそうだろ。おまえの履歴書の写真も、頭良さそうに写ってたぞ」
 皮肉られて苦笑する。薪さんの口の悪さも写真には写りませんしね、と心の中で言い返した。

 そんなやり取りをしておいて、結局薪はパンフレットの誘惑に耐えられなかった。2分もしない内にテーブルに置かれた冊子を取り上げ、
「話半分てことで、片目で見れば大丈夫だよな?」
 こういうときの薪の理屈には、笑い出さずにいられない。クスクス笑いが止められないでいると、
「この温泉、切り傷や打ち身によく効くって書いてある。試してみるか」と薪に指を鳴らされた。慌てて蕎麦に意識を集中する。何事もなかった顔をして再びパンフレットを眺める、きれいな顔を見ればたった今脅されたことも忘れてしまう。青木にはボケ防止に効果のある薬湯が必要かもしれない。
「へえ。森の中に風呂があるのか」
「近くに川も流れてるから、せせらぎも聞こえるそうですよ」
「今時期だと、小鳥の声も楽しめそうだな」
「露天ですからね。鳥やら虫やら飛んできちゃうみたいですけど。薪さん、虫、大丈夫ですよね?」
 パンフレットを見ながら「ああ」と頷いた薪は、期待に眼を輝かせていた。質問形式だけれど、これは確認だ。薪は自然の生き物は分け隔てなく好きなのだ。青木が苦手な蛇や爬虫類にさえ、彼はやさしい目を向ける。

 食事を終え、二人は、予約時間までの空隙を散策で埋めることにした。車があるのだから中禅寺湖辺りに足を延ばせれば良いのだが、途中のいろは坂の混雑は想像するだけでげんなりする。近隣でオススメの散歩コースはないかと店の主人に尋ねると、店から車で10分ほどだという滝を勧められた。
 この県には日本三代名瀑に数えられる有名な滝もあるが、あちらはすっかり観光客用に整備されて、昔の、滝壺に飲み込まれるような臨場感はなくなってしまったそうだ。規模は小さいがこちらの方が見て楽しめる、と主は太鼓判を押した。

 彼の言のとおり、そこは一つの穴場というやつだった。無料の駐車場は20台ほどのスペースだったが、埋まっているのは半分くらい。観光客が少ないおかげで待ち時間なしで停めることができた。
 駐車場の出口には掲示板があり、滝の謂われなどが書いてあった。江戸時代の頃からの景勝地で、由緒ある滝らしい。滝までの簡単な経路図も描かれており、それによると観瀑台までは約五百メートル。山の中をてくてく歩く。
「薪さん、大丈夫ですか?」
「平気、っと、や、大丈夫、うわっ」
 地面に積もった落ち葉に昨夜の雨が悪戯して、その滑りやすいことと言ったらなかった。青木はスニーカーだが薪は革靴だ。いくら慎重に歩いても、ぬかるんだ土に足を取られる。それでなくてもアップダウンの激しい山道、古びた木製の階段と遊歩道はあったがそれは断続的で、快適な散歩道には程遠い。
 でも薪は楽しそうだった。不安定な足元を絶妙のバランス感覚で補う、その軽快さは運動靴の青木に比べても遜色なく、途中、何人かの観光客を追い越したくらいだ。

 森の中、渓流を遡っていく小道は実に爽快だった。ザアザアと流れる水の音と小鳥の鳴き声と枝葉の擦れ合う音が、自然のハーモニーを奏でる。天気はいいし、風は心地良いし、新緑は美しい。下方を流れる川の透明度は溜息が出るほどで、流水が岩にぶつかって白く弾ける様を見れば心が弾む。
「あ。滝の音がしますね」
 土に丸太を埋めて作った階段を上がりきった時、唐突にその音が聞こえてきた。不思議なもので、一定の距離まで近付くといきなり大きな音になる。音の減衰理論には合致しないが、自然界は様々な音で満たされているため、重なり合う音がフィルターの役目を果たすことからこんな現象が生まれるらしい。
 そこから観瀑台までは木製の橋が架かっていて、足元が確かになった薪は駆け出さんばかりに目的の場所へと急いだ。吹き上げてくる風に水の粒子が混じる。川を横断する形に架けられた橋の中ほどまで行くと、視界を塞いでいた木立が切れて、前方に流れ落ちる水の風景が広がっていた。観瀑台まではさらに30段ほどの階段を昇る必要があったが、目前に迫った滝に気を取られて殆ど無意識のうちに登り切っていた。

「ああ、本当に。小さいけど綺麗ですね」
 観瀑台に立った薪は、青木の言葉に頷くこともしなかったけれど。その瞳は落下する水と岩が生み出す刹那の光景に熱っぽく輝き、白い頬には柔らかな笑みが浮かんでいた。
 心から感動したとき、薪は寡黙になる。それは、どんな言葉を持ってしてもこの美しさを表しきれないと思う言語そのものの限界によるものかもしれないし、胸中を口に出す必要を感じない彼のマイペース精神ゆえの怠慢かもしれない。そのときも薪は黙って長い時間、同じ場所に立っていた。

 青木たちの前に観瀑台にいた数人の客が去り、新たな客が訪れ、その客がまた去っていく。それを何回か繰り返し、青木はこの名所が混み合わない本当の理由を知った。
 寂れているのではなく、長居をする客がいないのだ。だって、滝しかない。こんなところに10分もいたら欠伸が出る。5分ほど眺めて写真を撮ったら次のスポットへ向かう、彼らが普通なのだ。それを薪ときたら足に根が生えたように動かない。そのまま20分が経過して、さすがに青木も飽きてきた。
「あの。薪さん、そろそろ」
「え。まだちょっとしか観てないだろ」
 一枚のMRI画像の分析に20分も掛けていたら雷が落ちるが。仕事のときとは時間の流れ方が違うらしい。

「隣のお客さんは5回ほど入れ替わってますけど」
 青木が客の回転効率について説明すると、薪はすっと滝の右下を指して、
「太陽の位置が変わると水の色合いが変化するんだ。太陽は15分に1度西に移動するから、ほら見ろ、最初よりも明るい緑色になってるだろ? 光の進入角が変わった証拠だ。それから、滝の右上にある枝にさっきシジュウカラが止まって、それを先刻から子狐が狙ってて」
「それ多分、薪さんにしか見えないと思います」
 目を凝らしたが、青木には木しか見えない。
 頭脳だけでなく眼も耳も。薪のパーツはとびきり優秀だ。そんな彼には見える世界も、普通の人間とは違うのかもしれない。

「もう行きましょうよ。A温泉の予約時間に間に合わなくなっちゃいますよ」
 焦れた青木は薪が楽しみにしている風呂を餌に彼を釣ろうとしたが、その企ては薪に見透かされた。予約は1時間も先、ここからA温泉までは30分程度だ。
「じゃあ予約時間を変更しろ」
 白々しい嘘と分かって旋毛を曲げた薪が、実現不可能な命令を下した。特別日に時間変更なんて出来るわけがない。そんなことは薪も承知の上、要は「黙ってろ」と言いたいのだ。

 結局、観瀑台には小一時間もいた。退屈で仕方なかった青木は、滝ではなく薪を見ていた。それなら青木は半日でも眺めていられる自信がある。他の見物客から見たら奇妙な二人連れだったと思うが、旅の恥はかき捨てだ。
 放っておいたら夕方まで居座りそうな薪に、ゴールデンウィークならではの交通事情の因果を絡めて、やっと引き剥がすことに成功した時には午後1時を回っていた。




*****

 滝のモデルは「裏見の滝」です。
 けっこう歩きますが、お勧めです。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

夢のあとさき(4)

 日曜日の夜と月曜の夜、たくさん拍手くださった方、ありがとうございました。 とっても嬉しかったです(^^)

 本誌連載が一旦終了したせいか、最近秘密を語る機会が減ったように感じます。原作についてのコメント、いただけると狂喜しますです。語りたい。
 ツイッターにもっと積極的に参加すればいいんですけどね、あれ、字数制限がメンドクサくて。わたしみたいにだらだら喋る人間にはブログの方が合ってるみたいです。

 まあ、ツイッターに参加できない一番の原因はオットの妨害なんですけど。
 こないだなんか就寝時間超えてツイッタしてたらコンセント抜くって言われて、「PC壊れるよ」って言い返したら「どうせ直すのはオレだからいい」
 ……参りました。




夢のあとさき(4)







 車に戻って目的地をナビにセットする。目指すは薪の大好きな露天風呂。もちろん、湯上りの地酒セットも予約してある。
 街中の道路は青木の懸念通り混んでいて、ナビに30分と表示された予定時間が50分掛かった。おかげで予約時間に十分ほど遅れてしまったが、薪からの文句は出なかった。自分が滝に長居したせいだなどと殊勝な気持ちからではない、温泉施設を取り囲む深い林に気を取られたからだ。木々が太陽の光を遮るせいか周辺の空気はヒヤッとして、入浴には最適な涼しさだった。
「本当に森の中にあるんだな」
 一年の内で一番生命力に溢れた新緑の森を眺めながら、風呂に入って地酒で一杯。嬉しそうな薪の様子に、青木は心の中でガッツポーズを取る。待合室を兼ねた受付所も木造りの大きな建物で雰囲気がいいし、遠くに見える貸切風呂の棟々も贅沢にスペースを取ってある。これは期待できそうだ。

「受付でタオルとか浴衣とか貸してくれるみたいですよ」
「浴衣か。まさか女物じゃないだろうな?」
 薪の冗談に二人は楽しそうに笑いながら建物の中に入り、しかし。
 その後の出来事は、正に悪夢だった。

「え!」と驚きの声を発し、青木は軽いパニックに襲われた。何の因果か、混み合う休日には稀に起きてしまう事故が我が身に降りかかったらしい。青木たちが入るはずだった離れの露天風呂は、2人が時間に遅れた十分の間に別の客を受け入れてしまったと受付係の女性は言った。
「申し訳ありません。ちゃんと確認したんですが、さっきは空室になっていて……いえ、すみません。こちらの不手際で、誠に申し訳ありません」
 弁解がましい言葉が出るのは、ネットの予約係と現地の受付係で分担が分かれているせいだろう。ダブルブッキングはこの女性のミスではなく、予約係のミスであると推察された。
「謝られても」
 青木の深刻な様子に気付いたのか、待合室の掲示物を眺めていた薪が振り返る。ちらりと彼を見れば、先ほどまで新緑の美しさに輝いていた亜麻色の瞳は不興に曇り、だから青木は必死になって受付係の中年女性に言い募る。
「困ります。なんとかしてください」
「それが、本日はどの部屋も予約でいっぱいで」
「オレだって予約はちゃんと」
 言い掛けて青木は口を噤んだ。予約係のミスを被って平謝りに謝る受付係に同情したからだ。でも、相手の望む「じゃあまた今度」という言葉はなかなか出てこなかった。自分一人のことなら譲ることに抵抗はないが、薪がいる。彼が一番楽しみにしていたスポットなのに、それがキャンセルなんて、後で薪にどんな目に遭わされるか。今の青木の未来予想を見せることができたら受付係の対応も変わるだろうに。

「やっぱり先約があったんですね。こんな日に空きがあるのはおかしいと思いました」
 振り返ると、そこには三人の親子連れが立っていた。3人とも吊り目の痩身で、よく似ている。手に着替えの浴衣とタオルを持った若い母親が、五歳くらいの男の子の手を引いていた。父親の方は足に怪我をしているらしく踝から下に包帯を巻き、歩く時にはびっこを引いていた。
 どこかしら神経質そうで線の細い彼は、細い目をさらに細めて青木に微笑みかけた。
「私たちは飛び入りみたいなものですから。辞退しますよ」
 申し出に感謝する。相手方からそう言ってもらえて青木が安堵したのも束の間、
「やだっ!」
 反発したのは子供だ。両親と一緒の露天風呂を楽しみにしていたのだろう。それが取り上げられて、我儘を爆発させたのだ。
「おじさんたちが遅れてきたのが悪いんだ」
「こらっ」
 母親が叱ってくれたが、青木は自分が「おじさん」と呼ばれたことに少しだけショックを受けた。
「ワガママ言うんじゃありません。もともとこの方たちのものなのよ」
「やだやだ、ぜったいに嫌だ! だって、お父さんが」
 子供はちらりと父親の足を見た。この温泉は、切り傷や打ち身によく効くとパンフレットに書いてあった。子供がそれを読んだわけでもなかろうが、母親にでも教えてもらったのかもしれない。
 父親の怪我を案じる彼のやさしい気持ちを知って、青木は自分たちの権利を主張することを躊躇う。譲ってあげたい気持ちが押し寄せるが、薪のがっかりした顔を思い浮かべると青木の口は重くなる。板挟みだ。

 母親と子供が言い合うのに、事情を察した薪が寄ってきて、親子連れに見えないように青木の脚をスリッパの爪先で蹴りとばした。
「子供みたいに駄々をこねるな。空きが無いものは仕方ないだろ」
 駄々を捏ねさせたら5歳の子供にも負けない人に言われても。
「僕のことなら気にしなくていい」
 すみません、足を踏まれながら微笑まれても首肯できません。
「こういう場合は多数決でしょう。3対2で僕たちの負けです。どうぞ」
 物分かりの良い大人の態度で3人に微笑みかける。薪は外面がいい。母親が若くて美人なのも関係しているに違いない。

 子供は薪の言葉にぱっと眼を輝かせ、満面の笑みを浮かべると、
「お兄ちゃん、ありがとう。後でお礼するね」と子供らしい率直さで礼を言った。
 照れ臭かったのか、「いや」と薪は横を向いた。前に、薪は子供が苦手だと聞いたことがある。理由を聞くと、善人と悪人を本能で見分けるから怖いんだ、と訳の分からない答えが返ってきた。どうやら子供にはある種のシックスセンスがあると信じているらしい。薪の思考は常人には理解し難いことだらけだ。
「おじさんも。どうもありがとう」
「いいえどういたしまして、てちょっと待って、どうしてオレがおじさんで薪さんがお兄さんなのか説明してくれないかな、ねえちょっときみ!」
 青木の叫びを無視して3人は深く頭を下げ、貸切風呂への渡り廊下を渡って行った。さりげに失礼な親子だと思った。

「お客様、誠に申し訳ありませんでした。お詫びと言っては何ですが、こちらはご予約いただいた地酒のセットです。どうぞお持ち帰りください」
 低いお辞儀と共に、受付係の女性は小型の手提げ袋を2つ差し出した。薪はそれを受け取り、「また機会があったら利用させていただきます」とよそ行きの笑みを返した。その間、青木の足はずっと薪の足の下敷きになっていた。

 車に戻って袋を開けてみると、中には1合瓶の3本セットの他に小型のポーチに詰め込まれたアメニティグッズと、貸切風呂の優待券が入っていた。心遣いは嬉しいが、期限は3ヵ月。再訪できる確率は低いと思われた。
「すみません。予約時間に遅れると分かった時点で電話を入れておくべきでした」
 箱から取り出した地酒の瓶を陽光に透かして見ている薪に、青木は謝った。忙しい薪に時間を割いてもらったのに。一番大事なプランで空振りなんて申し訳なさ過ぎる。
「別に、おまえのせいじゃないだろ」
 声に怒りはなかったけれど、薪の怒りは2種類あって、直情爆発型の時はその場で済んでしまうが、沈着進行型の時は後が怖い。今回は後者だと悟って、青木はこれから何週間かはこのネタで苛められるに違いないと覚悟を決めた。

「あの神社、ご利益ないな。墓所に参らなかったのが拙かったかな」
 クスッと笑って薪は瓶を箱に戻した。後部座席の床に置いて、シートベルトに手を掛ける。
「すみません」ともう一度青木は謝った。ハンドルに置いた手に額を付けるようにして、顔を隠した。その深刻な様子に、シートベルトを付けようとしていた薪の手が止まる。露天風呂がポシャったのは確かに残念だけど、そこまで落ち込むことじゃない。もともと今日は厄落としに来たのであって、こちらはメインではないのだ。
「なんでそんなに落ち込んでんだ。目的は果たしただろ」
「すみません」
「だから謝るなって。おまえのせいじゃ」
 手首とハンドルの隙間から見えた青木の眉が苦しげに歪んでいるのに気付いて、薪は口を噤んだ。

 唐突に知る。あのとき薪が呟いた数字の意味を、青木は理解していたのだ。

「おまえのせいじゃない」と薪は繰り返した。それから強い口調で、
「もちろん僕が悪いんでもない」と当たり前のことを言った。
 何かを察して顔を上げる青木の眼を、薪は真っ直ぐに見つめた。そして自分の推測に確信を得た。やっぱり、青木は気付いている。
 厄年なんて勝手に誤解して、青木はそれを二人で出掛ける口実にしたがった。春先の事件は自分の隙から起きたのだという自覚もあったし、そのことで青木がひどく傷ついたであろうことも推察できたから彼の我が儘に付き合うことにした。と、今回の小旅行を薪はそんな風に考えていたけれど。
 青木はちゃんと分かっていたのだ。

『42』
 それは薪のせいで死んだひとの数だ。東条の事件でまた二人、犠牲者が増えた。

 言葉にすれば青木は必ず言ってくれる、「人が死ぬのはあなたのせいじゃない」。だから言えない。自戒の言葉が慰めを期待する言葉にすり替わる、そんな甘えを薪は許せない。
 青木は薪のそういった性格を知り尽くしていて、その言葉を口にすることができないならせめて薪の無聊を慰めたいと。思ってこの旅行を企画したのだろう。神社はむしろフェイクで、メインはこちらだったのだ。

「再入場できるんだろ? 時間もできたことだし、家康公の墓所、参って行こう」
 突然の話題転換にぽかんと口を開ける青木に、薪は楽しそうに言った。
「そう言えば、鳴竜見てないよな」
「見たいんですか? 鳴竜」
「興味はあるさ。音の多重反響現象を利用した建築方法を江戸時代の大工が確立していたんだぞ。すごいことだと思わないか」
「えっ。すいません、多重反響って?」
「……おまえ、本当に東大出てるのか」
 呆れた口調で呟かれて自分の愚を悟ったのか、青木は慌ててシートベルトを締めた。スイッチを押してエンジンをかける。

「いいか? 音は波動現象だから反射・屈折・回折・干渉・重ね合わせ等の特徴を持っている。鳴竜はその中の反射と重ね合せの効果が重なったものだ。平行する2枚の板の間で音を発すればそれは天上と床にぶつかり、跳ね返って重ね合わされ、増幅される」
 わかったか、と薪が理解度を確認すると、青木は、
「ベッドの中の薪さんみたいですね」と薪の顎が落ちるようなことを言い出した。
「オレが薪さん大好きって思うと、薪さんもオレにそれを返してくれるでしょ。繰り返すうちに増幅されて」
 何となくオチが予想できて、薪は後部座席に置いたばかりの紙袋を取り上げる。中の物を取り出して、逆手に構えた。
「その結果薪さんが大きな声で鳴くことに、――すみません、酒瓶は割れたら臭いんで勘弁してください」
 青木が頭を下げると、薪はチッと舌打ちして酒瓶を箱に戻した。赤い顔をして黙り込んだ薪がシートベルトを装着するのを確認して、青木は車をスタートさせた。
 楽しい旅行はまだ続くのだ。




*****


 ここから先はプロットにはなかった話です。薪さんの気持ちを理解して、そうとは言わずに彼を気遣う青木さん。それだけの話だったんですね。
 ……ここで終わっときゃいいのにねえ。
 なんで蛇足を書いちゃうかねえ。

 

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夢のあとさき(5)

夢のあとさき(5)





 それから3時間。車内の空気は激変していた。

「青木のせいだ」
 低く唸るような声で薪は呟いた。恨みがましい声だった。
「さっきは違うって言ってくれたじゃないですか」
「やかましい! おまえのせいだろ、これ!」
 これ、と薪が指差したのはフロントガラスで、目前には見渡す限り続く森の風景。道なき道に迷い込んではや3時間、まだ日暮れには早いはずだが、生い茂った木々の枝で日光が遮られているのか辺りは夜のように暗く、ライトなしでは進むことも困難だった。

「おかしいですねえ。来るときは一本道だったのに」
「一本道に見えても枝道がたくさんあって、その一つに入ってしまったんだろう。自分を過信してナビ入力を省いたりするからだ」
 森の奥を見透かすように、薪は強い目で前方を睨み、さっと右手を上げて、
「いいからさっさと公道に戻れ。僕の勘ではあっちだ」
「さっきそれで崖から落ちそうになりましたよね」
 事件の勘は外したことがないのにそれ以外の勘はまるで当たらないのがこの人の特徴で、商店街の福引きですらポケットティッシュ以外もらったことがない。以前科警研の忘年会でやったビンゴゲームでは、なんと25マス中の未開マス4つでビリッケツというあり得ない記録を打ち立てていた。12リーチの確率は約1/2700。逆にスゴイとみんなに感心されて、無言でカードを破り捨てていた。

「森が深いせいか、ナビも動かないんですよ。困りましたね。このまま日が暮れてしまったら……そうだ、薪さんの救難バッジを使えば」
 青木は薪の襟を見た。その裏側には、小さなバッジが取り付けられている。スイッチを押すと救難信号が発信され、信号を受信した官房室の警備担当者からすぐさま当該県警本部に救助命令が下る仕組みになっている。小野田が薪の安全の為に用意してくれた有難いシステムだが、県警から消防署から、何十人もの人員が駆り出されることになる。ちょっと道に迷ったくらいで気軽に使えるものではない。それに。
「簡単に言うなよ。プライベートでバッジなんか使ったら、中園さんになんてイヤミ言われるか」
 薪の直属の上司である官房室付首席参事官の中園は、薪の若い恋人のことを当てこするような皮肉が得意だ。しかもそれを小野田の前でぬけぬけと言うから性質が悪い。
 隠し撮り写真を突きつけられて「別れなさい」と命令されたくらいだから、中園が自分たちの関係を壊したがっていることは明白だ。が、最近の彼の嫌味には冷やかしのニュアンスが混じっているような気がする。二人の仲はある程度認めていて、その上で揶揄しているような。小野田が中園の戯言にいちいち目くじらを立てるようになったのも、そのせいかもしれない。

「でも薪さん。この暗さは少し、えっ?」
 青木が急ブレーキを掛け、薪は前方に頭を振られる形でつんのめった。シートベルトにロックが掛かり、強く胸を押されて息が止まる。
「なんだいきなり。――あれ?」
 乱暴な運転に文句を言おうと横を向き、青木の視線を追って上方へと顔を上げる。そこにはぽっかりと浮かんだ満月。
「まだそんな時間じゃないよな」
 薪の声に、青木は無言で頷いた。腕時計は5時5分前を指している。5月の日没は午後7時ごろ。どう考えてもおかしい。

「昨夜は三日月だった気がするけど。違ったか」
「さあ」と青木は首を振り、ドアを開けて車外に出た。公道へのルートを見つけ出そうと耳を澄ます。
「あっちの方から何か聞こえます。人の声みたい」
 ちょっと見て来ますね、と青木はそのまま右手前方の藪に入って行った。
 一人車中に残って、薪は腕の時計を見る。5時2分前。見間違えたわけではない。車のフロントパネルに埋め込まれたデジタル時計も、同じ時刻を指している。なのに上空には月が輝いている。
 辺りが暗かったのは木々が日光を遮っていたからではなく、日が沈んでいたから? では時刻はどう説明する? 2人の腕時計と車の時計、合わせて3台の時計が同時に狂って?
「ありえない」と薪は呟いた。
 薪はこれまでに何度か不可思議な体験をしてきた。その経験で鍛えられた勘が告げていた。薪の勘は仕事以外は当たらない、しかしそれには例外がある。悲しいことに、悪い勘は仕事以上に良く当たるのだ。

「青木、ちょっとおかしい。あまり離れない方が―― 青木?」
 ついさっきまでは下生えを掻き分けて進んで行く青木のジャケットが見えていたのだが、ちょっと眼を離した隙に見えなくなった。森の中で光源が乏しいため、少しでも車のライトから外れると視認できなくなってしまうのだ。
 探しに行って逆に迷ってしまう危険性を考え、薪は携帯で青木に連絡を取ろうと思った。ポケットから取り出して電源を入れる。だが。
「ちっ。やっぱりか」
 圏外の表示が出ていて通話ができない。現代の日本にこんな場所があっていいのか。
「青木! 戻ってこい!」
 窓を開けて怒鳴る。返事がないので、派手にクラクションを鳴らした。それでも青木は戻ってこなかった。

「ったく、役に立たないボディガードだな。僕が野犬にでも襲われたらどうするんだ」
 薪は諦めて車から降りた。青木が向かった方向へ茂みを分けて進む。
「おい、青木! どこまで行っ、――!」
 すぽんと床が抜けた。
 のではなく、穴に落ちたのだと理解した時には急斜面の草の上を滑り台のように滑っていた。何とかその場に留まろうと足でブレーキを掛けたが、つるつる滑る座面の草に無効化された。いったい何という草なのか、まるで蝋でも塗ってあるように滑るのだ。
 心の中では絶叫ものの速度だったが、人間、落ちるときには上手く声が出せないものだ。加速度とGで舌が上顎に張り付き、口を開けるのが困難になる。暗闇の中、どこまでも落ちていく恐怖はかなりのもので、薪は身体が竦み上がるのを感じた。

 まずい。このままいくと最終的には何処かに衝突する、そうしたら怪我をするかもしれない。青木ともはぐれてしまったし、動けなくなったら救難バッジで助けを呼ぶしかないが、こんなに森の奥まで来てしまって果たして救助が間に合うだろうか。
 そんな不安に駆られて、薪は奥歯を噛み締める。
 いつの間にこんなに臆病になったのだろう。いつ死んでもいいと思っているなら、恐怖なんか感じないはずなのに。今の自分は、この世に未練が多過ぎる。

 滑り台の終わりはやや唐突で、柔らかい壁のようなものに思い切り打ちつけられた。衝撃に脳震盪を起こしたらしい。くらくらと回る世界は闇一色で、何も見えないのに回っていると感じるのは不思議だと、そんなどうでもいいことを最後に薪の思考は途切れた。




*****


 蛇足というか楽しいデートが台無しというか。
 でも書いてて楽しかったのはこっちだなー。人生、無駄なことの方がなんでも楽しいんだよね。

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夢のあとさき(6)

 こんにちはー。
 
 ここ2ヶ月ばかり、鈴薪妄想しかしていないことに気付きました、あおまきすとのしづです。おかげで切実な青薪不足です。
 こういうのも自業自得っていうのかな。




夢のあとさき(6)






「薪さん、起きてください」
 揺り起こされて気が付くと、そこは車の中だった。

「着きましたよ。早く行きましょ」
「着いたって、どこに」
「東照宮ですよ。家康公の墓所、お参りするんでしょう?」
 青木の言葉に周りを見回せば、相も変わらずごった返す人混みと神社を抱く広大な森。
 思いついて薪は、眼前の男の滑らかな額を手のひらでパシッと叩いた。「痛い!」と大袈裟な悲鳴を上げる男に冷ややかに言い放つ。
「ダメだろ。ボディガードが対象から離れちゃ」
「すみません。……え?」
 身に覚えがなくても、青木は薪に怒られたら条件反射で謝るクセが付いている。夢の中の出来事を持ち出して八つ当たりされるのなんかしょっちゅうで、でもその理不尽を飲み込めないようではこの人とは付き合えない。

「絶対に僕から離れるなよ」
 そう言って、薪はシートに置かれていた青木の手を握った。温もりを感じて安堵する。夢で良かった。
 何となく放し難くて、人混みを幸いに手をつないだまま歩いた。他人の眼は、その時は気にならなかった。知り合いにさえ会わなければいいのだ。青木はとても嬉しそうで、それだけでも危険を冒す甲斐があると薪は思った。

 入口に近いこともあって、先に鳴竜を観ることにした。過剰な見学者数に薬師堂は入場制限がされており、薪たちは2回の入れ替えの後ようやく天井の竜と対面となった。

 お堂の中ほどに柵で仕切られた一画があり、そこに男性の係員がいた。修行僧のような恰好をして、拍子木を持っている。彼はその拍子木を部屋の隅と竜の頭の位置で交互に叩き、響きの違いを観光客に聞かせていた。部屋の隅で打ち鳴らされた拍子木がカンと乾いた音を立てるのに、竜の頭の下で発せられた音は、くわんくわんと長く響く。
「今日は鳴竜も大忙しですね」
 青木は面白そうにその様子を見ていたが、構造に興味があった薪は、天井の板の形状や材質などを観察していた。天井一面に描かれた竜、あれは只の画だ。今にも動き出しそうな迫力のある絵だが、このアトラクションの中枢は天井板が形成する緩やかなアーチなのだ。両端を僅かに曲げることに因って、跳ね返った音を部屋の中心に集めるような造りになっている。重なった音は増大し、人の耳に竜の鳴き声になって届く、という仕組みだ。

 こけおどしの竜に関心はない。そんな薪の態度が癇に障ったのか、一度も天井の竜を観ようとしない彼の耳に非難がましい声が響いた。
『何故おれを見ない?』
「おまえは只の画だろ。本当にすごいのはこれを造った、――あ?」
 竜に話しかけられた気がして上を見上げると、竜がこちらを睨んでいた。
「……いかん。寝ぼけているらしい」
 眼を覚まそうと首を振る。肩をぽんと叩かれて振り向くと、そこに竜が立っていた。

「なんだ。寝ぼけてるんじゃなくて夢を見ているのか」
『見かけによらず肝が据わっているな』
「この世に怖いものなど何もない」
 それは嘘だったけれど、竜自体は本当に怖くなかった。彼の見かけが、何とか言う漫画に出てくる願いを叶えてくれるドラゴンにそっくりだったせいもある。あれは人に危害は加えなかったはず。だいたい、神社を守っているのだから悪い竜のはずが無い。墓荒らしでもしに来たなら良心の呵責もあろうが、宮を維持するためのお布施まで払ったのだ。感謝されこそすれ、恨まれる理由はない。

「見る価値も無いようなことを言って悪かった。立派なものだ」
『素直でよろしい。その心掛けに褒美をやろう』
「じゃあひとつ、深田○子ちゃんを僕のお嫁さんに」
『たやすいこと』
 夢だと思って言いたい放題、言ってみたのが拙かった。
 竜は頷くと、口から息を吐いて薪に吹きかけた。もくもくと黒い雲のようなものが周りを取り囲み、あっという間に薪は周囲から隔絶される。本格的に夢だなと瞑目し、今までの経験から、これで何も見えなくなるか気を失うかすると夢から覚めるものと予想を立てた。

 黒雲の中で意識が途切れる瞬間、ああ、また家康公の墓所を参り損ねた、と薪は思い、次に目覚める場所があの森奥の穴の底でないことを祈った。





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夢のあとさき(7)

 鈴木さんの命日に合わせて鈴薪話を公開しようと思ってたんですけどね。8月号のメロディで東照宮のやつが(^^;)
 そんなわけで今年のお盆はどっぷり青薪さんです。
 
 このお話が終わったら鈴薪さんに移行します。3話で120Pくらいあるので、しばらくは鈴薪さん一色ですね。Eさん、待っててね~。





夢のあとさき(7)





「薪さん、起きてください」
 気が付くと、そこは見慣れた自宅マンションの地下駐車場だった。

「竜は?」
「竜? どんな夢見てたんですか?」
 なんでもない、と薪は左右に頭を振った。遠出したせいか、強い疲労を感じた。
 薪が車から降りてエレベーターに向かうと、二人分の荷物を持って後ろから着いてくるはずの青木がいつまで待ってもやって来ない。おかしいと思って振り向けば、青木はようやく車から降りたところだった。
 遅い、と文句を言おうとした薪に、青木は薪のショルダーバックを差し出した。
「カバンをお忘れですよ」
「……今日は寄って行かないのか?」
「遠慮しておきます」
 平日のアフターだってシンデレラタイムの22時までは部屋に居座る青木が、しかも今日は休みなのに。一体どうしたことか。

 珍しいこともあるものだ、と薪はその時、深くは考えなかった。ひどく疲れていて、青木が部屋に来ても何もしてやれないと思ったせいもある。だから一人でエレベーターに乗り込んだ。ドアの前まで送ってくれないことも荷物を薪に持たせることも、普段の青木ならやらないことだと気付いたのは、網膜認証のスキャンが亜麻色の瞳をなぞり終えたときだった。
「どうしたんだろう、あいつ」
 口の中で呟きながらドアを開けると、驚いたことに部屋には明かりが灯っていた。朝が早かったから照明を点けて支度をし、そのまま消すのを忘れてしまったらしい。
 自分の失敗に舌打ちし、次の瞬間、薪はその場に棒立ちになった。

 深田○子がいる。

 呆然と立ち尽くす薪に、彼女はスリッパの音を響かせて走り寄ってきた。
「お帰りなさい」
「すみません、部屋を間違えました」
 慌てて外に出てドアを閉める。プレート番号を確かめる、間違いなく自分の部屋だ。てか、網膜認証システムを導入しているマンションでどうやって部屋を間違えるって言うんだ。薪はもう一度ドアを開け、厳しい口調で彼女を問い詰めた。
「君はだれだ」
「やだ。何を言ってるの?」
 グラビアそっくりの笑顔で彼女は笑い、白いエプロンに包まれた豊かな胸の前で両手の指を組み合わせた。
「恭子よ。あなたの妻です」

 薪は無言で部屋を出た。廊下を猛ダッシュして階段を駆け下りる。地下駐車場に走り込み、外に出ようとしていた車のフロントに両手を付いた。キキィッ、と鋭いブレーキ音がコンクリート製の地下室に木霊する。
「危ないですよ、薪さん」
 運転席の窓から顔を出した青木の顔は困惑していた。が、薪の困惑は青木の比ではない。乱れまくった心のままに、薪は大声で叫んだ。
「僕の家にフカキョンがいる!!」

 驚愕するものとばかり思っていた恋人の反応は、いささか微妙だった。さほど驚く様子もなく、薪のように顔色を変えることもなかった。それどころか彼は小さく首を傾げ、不思議そうな顔つきで、
「当たり前でしょ。奥さんなんですから」と、薪が飛び上がるようなことを平然と言ってのけたのだ。
「なんだそれ?! てか、なんで納得しちゃうんだ。おまえ、僕の恋人だろ」
「えっ。いやあの、確かにオレは薪さんが好きで何度もアタックしましたけど、薪さんは元々ノーマルだし、オレのことを好きになってくれなくて」
「そんな時期もあったけど今は」
 おまえを愛してる、と言おうとして薪は、その衝動を抑える。マンションの駐車場は住人共有のスペース、しかも出口に程近いこの位置で車のエンジン音に負けない声量でそれを叫べば、通りまで聞こえてしまう。
 それに、この状況はどう考えてもヘンだ。自分の奥さんを忘れるなんて。

 詳しい事情が知りたくて、薪は青木に尋ねた。
「僕と恭子ちゃんは、どうやって知り合ったんだ?」
「去年、ストーカー被害に遭って警視庁にいらした恭子さんに、前々からファンだったと薪さんがサインをお願いしたのがきっかけで交際が始まり、3ヶ月前に彼女と結婚式を」
「結婚式?」
「テレビまで入って、すごい騒ぎでしたよね」
 すっと薪は眼を細めた。右の拳を口元に当て、この喜劇の舞台裏を見抜こうと精神を集中させる。
 どうしてこんな美味しい展開、いやいや、バカげたことに? 問うまでもない、先刻のドラゴンの仕業だ。
「冗談の利かないやつだな」
 今更、あの願いは取り下げだと言っても通じないだろう。竜の力がどの程度のものなのか分からないが、薪が取る行動は一つだ。すなわち。

「薪さん?」
 駐車場内の徐行運転中で自動ドアロックが未だだったのを幸いに、薪は助手席のドアを開けた。シートベルトを締め、「出せ」と短く命令する。
 家に帰らなくていいんですか、と訊いてくるのに腕を組んでそっぽを向いてやったら、青木は軽い溜息を吐いて車をスタートさせた。力関係は変わってない。これならイケる。

 曲がり角に来るたびに、右、左、と指示を出し、そこに停めろ、と薪が最後に命じたのは所謂ラブホテルの駐車場だった。
 青木は戸惑っていたが、薪が迷いない足取りでホテルの入り口を潜ると、おずおずと着いてきた。フロントに並んだ3台の受付機の右端に立ち、勝手に部屋を決めて現金を入れる。確認ボタンを押すとカードキーが出てくる。昔は受付に人がいたそうだが、今はこの形のホテルが主流だ。
「あの、どうしてこんな所に?」
「初めてか? 僕もこういうとこ、あんまり使ったことないけど」
 部屋はシンプルで、余計なものは一切なかった。空室リストには遊び心満載の部屋もあったが、今日はそういう気分じゃない。

 ドアが閉まるが早いか、薪は服を脱いだ。青木は「ひっ」と引き攣った声を上げて後退り、口に右手の甲を当てて赤くなった顔を隠した。でも、薪から眼が離せない。このまま押せると判断し、薪は脱いだシャツをソファに放り投げた。
「何やってんだ。おまえも早く脱げ」
 青木はそれには答えず、ロボットみたいにカクカクした動きで薪の裸体から目を逸らした。が、彼が誘惑に耐えられないことを薪は知っている。横目でちらっと薪を見る、瞳は若い情熱に潤んでいる。

「なんだ、脱がして欲しいのか」
 下着姿でスタスタ歩き、壁にへばりついている大男に手を伸ばす。上から順番にワイシャツのボタンを外して、中に手を差し入れた。顕わになった裸の胸に頬を押し付ける。
「ま、薪さ……」
「動くな」
 睨み上げると、青木は口を噤んで身体を硬直させた。ゴクリと唾を飲む音が聞こえて、男らしい喉仏が震える。そうとう緊張しているらしい。
「よし。いい子だ」
 猫なで声で言って、薪は喉の奥でククッと笑った。

 たまにはこういうのも楽しい。本当に楽しい。焦った青木の顔とか、抵抗している風に見えて本当は脱がされるのを期待してる息遣いとか、身体が密着すると自然に揺れてしまう彼の腰とか。
「クセになりそうだな」
 ベルトを抜いてズボンを落す。下着の前が内部から押し上げられているのを認めて、薪は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ほら見ろ。おまえのスカスカの脳みそが僕のことを忘れても、おまえの身体は僕を忘れてない」

 薪が下着に手を掛けると、青木は初めて薪の手を拒んだ。細い手首を遠慮がちに握り、自分から遠ざける。
「できません。奥さんに申し訳ないです」
 きれいさっぱり忘れやがって、今のおまえの方が僕に申し訳ないわ、どあほー。
「そのセリフ、5分後に言えたら作戦の変更を検討してやる」
「作戦?」
「いいから来い。思い出させてやるから」




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夢のあとさき(8)

 こんにちは。
 日曜日、過去記事にたくさんの拍手をありがとうございました(〃▽〃) ご新規さんも常連さんも、いつも励ましていただいてありがとうございます。
 お礼のRです。(←え)
 追記からお願いします。







夢のあとさき(8)








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夢のあとさき(9)

 お盆休みくらい頑張って更新してみよう。
 1日目。




夢のあとさき(9)






「青木」と呼ばれて振り返った、途端にくちびるを押し付けられた。ニコッと笑ってコーヒーカップを手渡してくれる、パジャマ姿の可愛い恋人。
 厄祓いに行った日から、薪は毎日機嫌が良い。ご利益覿面だ。旅行帰りにラブホテルなんて初めてだったし、東照宮って本当は縁結びの神社なんじゃ、などと心の中で思ってはニヤニヤしっぱなしという青木にとっては夢のような日々が続いていた。

「週末は休みが取れそうだ。大型連休が終わったばかりだから、東照宮も空いてるんじゃないか」
「また神社に行くんですか?」
「鳴竜に火をつけてやるんだ」
 先週ホテルのベッドで青木が嫉妬に狂うようなことを薪が言うから、他の人間のことなんか考えられなくなるように徹底的に責め、いや、可愛がってやった。「僕は悪くない、鳴竜が悪いんだ」と意味不明のことを叫んでいたが、どうして東照宮の鳴竜に責任転嫁がされたのか、薪の思考経路は相変わらず謎だ。
「いいですね。リベンジと行きますか」
 あの悪夢のような渋滞さえなければ、いろは坂をドライブがてら中禅寺湖まで足を延ばしてもいいし、高原を訪れてもいい。ニッコウキスゲの盛りも過ぎていないだろう。

「こないだもらった優待券、まだ使えるかな」
「ええ。期限は3ヶ月くらいあったと、あ、でも」
 頷きかけて青木は気付く。次の日曜日は9日。鈴木の月命日だ。
 毎月この日は、薪は絶対に青木を拒む。あからさまに彼の名前を出されたことはないし、薪も義理立てしているつもりではないのだろうが、要は気分になれないのだろう。「悪いけど」と言う断り文句に、彼のそんな気持ちが現れている。薪が青木の誘いを断るとき、しおらしい態度を取るのは自分に引け目があるときだけだ。仕事なら仕事、休養に充てたいなら休みたいとハッキリ言う。誘いを断られた青木の落胆なんて、この人は基本的に考えない。
 察しの良い薪のこと、青木が具体的な言葉を用いずとも言いたいことは分かるはず。が、その日の薪は「なんだ?」と無邪気に首を傾げた。

「いえ、何でもないです。えっと、優待券使うと半額ですって。よかったですね」
「浮いた金で地酒を頼もう。こないだのあれ、美味かったよな」
「非常に残念ですが賛同を求められましても一滴残らず薪さんの口に入ってしまいましたのでお答えできません」
 仕事の報告をする口調で青木が丁寧に反論すると、薪はふいっと上方に眼を逸らし、「だっておまえ運転だし」と口の中で言い訳した。
「今度はオレにも飲ませてくださいね」
「わかった。じゃあ、今回は泊まりだな。昼間の風呂が森の中だから、夜の風呂は渓流沿いとかいいんじゃないか」
「そうですね。この宿なんかどうです?」
 山ほど集めたパンフレットと旅行雑誌を広げて、掲載された一枚の写真から二人で想像を膨らませる。薪は心の底から楽しそうで、彼の人のことは胸の片隅にも留めていないように見えた。
 彼が言い出さないものを青木から言及することはない。後で気付いて取り消されるかもしれないけれど、こうやって薪と一緒に旅行のプランを立てるのは青木の一番の楽しみなのだ。

 その週の青木は、薪からキャンセルの通知がいつ来るかと気に掛けながら過ごした。約束を反故にされても落胆を表に出さないよう、薪に話しかけられるたびに身構えたが、金曜日の夕方に「明日な」と手を振られて、これは明朝ドタキャンか、当日キャンセルは宿泊代100%返ってこないんだよな、と少々セコイことを考えた。
 翌朝、薪からの電話がないので約束の時間に彼のマンションを訪れると、薪はボストンバックを片手にマンションの車止めで待っていた。「晴れてよかったな」と上機嫌で車に乗り込む。自分が言うべきではないと思ったけれどどうにも我慢がならなくて、青木はとうとう彼の名前を出してしまった。
「少し回り道になりますけど、鈴木さんのお墓に寄って行きましょうか」
「鈴木の? どうして?」

 不思議そうに尋ねる薪に、だけど訳が分からないのは青木のほうだ。鈴木の名前を出すとき、未だ薪はその瞳に苦渋を浮かべる。自分の手で殺めてしまった親友の命を、奪ってしまった彼の未来と幸福を偲んで、身を切り裂くような罪悪感に打ちのめされる。鈴木がどんなに薪の幸せを願って死んでいったか、その事実が分かっても薪の痛みは変らない。鈴木のためにも頑張って生きようという決意と、自責の念はまったく別物だ。己が内から発せられる人殺しという罵倒が、薪の中から消えることはない。
 ところが、その時の薪からは一欠けらの後悔も痛みも感じられず。薪が彼の死を乗り越えてくれることを望む青木にとってそれは喜ぶべきことなのに、何故かひどく不安になった。

「どうしてって。明日は鈴木さんの月命日でしょう」
 遺族に気を使って当日の墓参りは避ける、青木はそのことも知っている。明日は帰りが遅くなるかもしれないから、行くとしたら今しかない。青木がそこまで口にしたのに、薪は助手席の窓に肘を載せた姿勢で細い眉根を寄せ、不満そうに唇を尖らせた。
「鈴木の墓は横浜だぞ。回り道なんてもんじゃないだろ」
「でも」
「それに、命日じゃなくて月命日だろ。命日にはちゃんとお参りするけど、月命日まではなあ。いくら親友だったからって、もう7年も経ってるし」
 青木もそれが普通だと思う。一生を共にすると誓った伴侶でさえ、3回忌を過ぎた辺りからは月命日は自宅の仏壇を飾るくらいで済ませ、墓所を参るのは彼岸と盆くらいになっていくものだ。
 だが、薪の場合は普通ではない。鈴木は薪に殺されたのだ。

「それじゃ鈴木さんが……ちょっと気の毒って言うか」
「ああ、不幸な事故だった。鈴木は運がなかったんだな」
 今度こそ、青木は驚きで声も出せなかった。
 不幸な事故? 運がなかった?
 薪の口から鈴木の事件が、そんな軽い言葉で語られたことは一度もない。いや、あってはならない。

「あの時は僕も辛かった。鈴木は一番の親友だったから、ずい分泣いたよ。でもさ」
 薪は澄んだアルトの声にほんの少しだけ悲しみを滲ませ、しかしすぐにその色を明るく変えた。ハンドルに置いた青木の左手をぎゅっと握る。
「いつまでも過去に拘ってちゃダメだろ。人生楽しまなきゃ」
 それは青木が薪に、何度も何度も繰り返し訴えたことだったけれど。いざこうしてそれを薪の口から聞くと、えらい違和感だった。
 薪は鈴木を殺した、だからいつまでも自戒の煉獄に囚われていろと、そんなことは思っていない、断じて。でも――でも。

「青木。どうした?」
 狭い車中で仰のくようにして、薪は自分の頭をハンドルと青木の顔の間に潜り込ませた。楽しそうな彼の様子に青木は戸惑ったが、考えてみたら全然おかしくない。これから恋人と二人で旅行に出掛けるのだ。はしゃいで当たり前だ。
「いえ、何でもないです。行きましょうか」
 青木はにっこり笑って薪にシートベルトを締めさせ、慎重に車をスタートさせた。

 何を考えていたのだろう。憂いの無い薪の笑顔、自分はそれが見たくて彼の恋人になりたいと思ったのではないか。屈託なく笑える薪に喜びこそすれ、違和感を覚えるなんて。
 過去を乗り越えるときは、唐突に訪れるのかもしれない。あの日聞こえてきた滝の音のように、次第に薄れていくのではなく、ある日を境に吹っ切れるものなのかも。
 交通量の少ない早朝の道路を快適に走りながら、青木は自分の中に生まれた違和感に折り合いをつけようと、そんなことを考えていた。




テーマ : 二次創作(BL)
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夢のあとさき(10)

 お盆休みくらい頑張って更新してみようとか口ばっかですみませんー(^^;
 15日はオットの誕生日で、家族で温泉行ってお祝いして、昨日の夕方帰ってきました。13日の夜にも義弟家族とさんざん飲んだんですけどね、また飲みすぎちゃいましたよ★




夢のあとさき(10)





 森林の露天風呂は期待通りの解放感だった。オープンして2年目で設備も新しく、浴槽に身を沈めると檜の良い香りがした。
 長時間の運転で凝り固まった背中を反らし、青木は大きく息を吐いた。隣には柔らかな表情で景色を眺める薪の横顔がある。その美しさを横目で見ながら青木が肩を回していると、視線に気づいた彼は青木に微笑みかけた。

「おまえも肩が凝る年になったか」
 笑いながら、青木の肩を揉みほぐしてくれる。背骨と肩甲骨の間をぐいぐい押されると、温泉効果で身体が温まっているからか、たちまち肩が軽くなっていく気がした。
「ありがとうございます。もう充分です」
「遠慮するなって」
「薪さんの手が疲れちゃいますよ」
「それはおまえの方だろ。運転、お疲れさま」
 薪にやさしい言葉を掛けてもらえたのは何年ぶりだろう。いやまさか年単位ってことはないか、と苦笑して記憶を辿るがとんと思い出せない。罵られた記憶ばかり甦ってきて悲しくなった青木はその作業を中断し、目前に広がる新緑の風景に心を移した。
 来てよかった、と青木は幸福感に浸りきる。眺めはいいし空気は爽やかだし薪はやさしいしで、最高の気分だ。

「ありがとうございました。お返しします」
 振り返って薪の肩をつかみ、後ろを向かせる。揉もうとすると、肩に掛けた手を握られた。
「肩よりも、こっちを」
 そう言って薪は、青木の手を自分の胸に宛がった。もう一方の手は脇下を通して腰の位置に、薪のそこはすでに硬くなっていた。
「おまえの裸見てたら何だかそんな気分になっちゃって。いいだろ」
 嬉しいけれど、ここではマズイと思う。男同士で貸切風呂の時点で限りなく黒に近いグレーなのに、喘ぎ声なんか聞こえてきたら追い出される。

「此処からは見えませんけど、隣も同じ造りになってて人がいるんですよ。ちょっと大きな声を出したら聞こえちゃいます」
「いいじゃないか。聞かせてやれば」
「えっ?」
「隣は若いカップルだ。声を聞いたら自分たちだってしたくなる。そうなればお互い様だ。文句なんか出ないさ」
 薪は自分たちの関係を他人に悟られることを極端に恐れていた。その彼が、こんなことを言うなんて。

「青木。早く」
 さばっと湯から上がって板張りの床に座り、薪は大胆に青木を誘った。湯の中ではのぼせてしまうのと、理由はもう一つ。
「ここにキスして」
 淫蕩に腰を揺らして湯中ではできないことをねだる。薪の顔つきは妖しかった。
 蛇に睨まれたカエルというかローレライに魅入られた舟人というか、とにかく逆らえるはずがない。これは青木の意志が弱いのではなく、薪が妖艶すぎるせいだ。そう思いかけて青木は、何でも人のせいにする恋人の癖が伝染ったかと恥じ入るような気持ちになった。
「ああ、青木、ああ、いい」
 口に含むとすぐに、薪は派手に善がり出した。腰を浮かせて青木の手を取り、後方を探らせる。青木の指を掴んで内部に導き、気持ちよさげに腰を捩った。
 先に進むことを躊躇う青木の腰に、薪の脚が絡んだ。脚で抱き寄せられる。そこに宛がわれたら、さすがに我慢が効かなくなった。薪は恍惚とした表情で青木を迎え入れ、結局は二人して溺れた。

 放った液体を洗い流した後、もう一度湯に浸かった。時計を確認すると10分も経っていなかった。長い時が過ぎたように感じたが、錯覚だったらしい。何だか得した気分だ。
 湯船の壁に背中を預け、自分の膝に座った薪の柔らかい太ももを撫でながら、青木は彼の後ろ首にキスをした。背後からかぶさるように緩く抱きしめて、耳の穴に舌を入れる。薪はくすぐったそうに笑った。
「なんか最近、積極的じゃないですか。こないだの旅行の帰りだって」
 強引にホテルに連れ込まれた。あんなにがっついた薪は初めてだった。
「あれは違うんだ。鳴竜が」
「あの時もそんなことを言ってましたよね。深田○子ちゃんが奥さんになった夢を見たって」
「夢じゃない、本当なんだ。願いを叶えてやるって言われて冗談で『恭子ちゃんを僕のお嫁さんに』って言ったら本気にされて。でも僕はおまえが好きだから、おまえの記憶を戻そうと必死で」
「……長い上に凝った夢ですね」
 東照宮で見た鳴竜が印象に残って、それでそんな夢を見たのだろう。竜が願いを叶えてくれるなんて、まるで漫画だ。夢以外の何物でも―― 夢?

「あれ?」と思わず声を上げたら、膝の上の薪に「どうした」と尋ねられた。
「いやあの、オレも最近、そんな夢見たなあって」
「夢? おまえも恭子ちゃんと? ていうか、したのか?!」
 そこに突っ込むか。
「ちがいます、竜の方です。――いや、違うな。薬師寺じゃなかった。もっと暗くてじめじめした所で、『何か一つ願いを叶えてやる』って言われたような」
「暗くてジメジメした所? 不思議だな、僕もその夢を見たぞ。森の中で迷って、おまえを探しに行ったら深い穴に落ちたんだ。草の上をどこまでも滑っていって」
 眼が覚めたら東照宮の駐車場だった、と薪は言った。
 それは青木も覚えている。薪を起こしたら出し抜けに額を叩かれて、「対象から離れるな」と叱られた。その時に見ていた夢のことだろう。
 ふと、青木は首を傾げた。
 では自分は、いつ夢を見たのだろう? 運転中に居眠りなどしていない。ならばもっと以前の記憶か。いや待て、暗い場所に落ちる前に森の中を彷徨ったような、自分を呼ぶ薪の声が遠くから聞こえてきたような――。

「青木。そろそろ時間だぞ」
 薪に声を掛けられて、青木は我に返った。薪はいつの間にか湯から上がって、ドライヤーで髪を乾かしていた。時計を見れば残り時間は10分ほど。せっかく薪と二人きりで露天風呂にいたのに、考え事に時間を割くなんてもったいないことをした。それも、どうでもいい夢の話に。


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夢のあとさき(11)

夢のあとさき(11)






 貸切風呂を出て、共有の休憩スペースでまずは冷たいビール、次に頼んでおいた地酒を飲んだ。車は駐車場に停めてあるが、今宵の宿はこの施設の系列ホテルだ。フロントに頼めば係員がホテルの駐車場まで車を移動してくれるし、宿泊客はホテルと此処を往復するシャトルバスに乗せてもらえる。運転手の青木には嬉しいサービスだ。
 古民家風のラウンジは広々として、木のぬくもりに満たされていた。桟の無い大きな窓の向こうに広がる風景は、風呂から見えたのと同じ新緑の森。風に揺れる枝葉に木漏れ日がキラキラと輝いて、実に美しい。
 屋外に張り出した小縁に足湯のスペースが取ってあって、そこに座ると直に森の空気を味わうことができた。酒瓶を一本空けるころには身体の火照りも治まったので、そちらに席を移すことにした。
 二人お揃いの浴衣姿で差しつ差されつ、幸せを絵に描いたような休日だった。傍らに薪がいればそれだけで青木は天国だが、旅先の薪は特にかわいい。職場から離れるせいか、ガードも甘くなるし、先刻のような大胆な真似もしてくれる。

 休憩スペースには何人かの客がいたが、次の予定が詰まっているのだろう。青木たちのように長居をする客はいなかった。薪にも気になる観光地があるかもしれないと考え、二本目の酒の封を切る前に、青木は彼に聞いてみた。
「チェックインの時間にはまだ早いですね。薪さん、どこか行きたい所ありますか? と言ってもオレ、飲んじゃったんで車は無理ですけど」
 湯上りの酒が利いているのか、薪はとろんとした瞳を青木に向けた。それから青木の肩に自分の身体を持たせるようにして、
「いい。おまえとこうしていたい」と眼を閉じた。
 青木も同じ気持ちだった。独りで街を彷徨う人間が孤独を感じるように、知人のいない人混みは風景と一緒だ。ここに自分たちを知っている者はいない。こうして彼を抱き締めても誰にも咎められないし、恥ずかしいとも思わない。

「薪さん。楽しいですか?」
「うん。すごく楽しい」
 素直な答えが返ってきて、青木はますます彼が愛しくなる。本当に旅先の薪はかわいい。
「夜も楽しみだ」
「渓流沿いの露天風呂ですからね。気持ちいいですよ、きっと」
 違う違う、と薪は眼を伏せたまま笑って、もっといいこと、と悪戯っぽく青木を見上げた。
「また飲む気ですか? お酒はほどほどに」
「違うって。こっちの方」
 細い指がそっと青木の股間を撫でていく。ベッドの誘いだと分かってびっくりした。あの薄い薪がこんな、さっき風呂の中でしたばかりなのに。
「まさか、さっきので打ち止めとか言わないよな?」
「そういうわけじゃありませんけど。あの……失礼ですが、薪さんは1日に複数回のエッチはできないってご自分で」
「失礼な。僕はまだ40になったばかりだぞ。一晩に5回はいける」
「男は30を過ぎたら簡単に僧侶になれるんじゃなかったんですか?」
「なんだそれ。どこの世界のED患者だよ」
 あははと笑い出した、薪は真に楽しそうで。朝から続いていた違和感を、またも青木は遠くへ押しやる。薪がこんなに無邪気に笑ってくれるのに、余計なことは考えたくない。

 薪は青木の手を取って自分の後方に導き、その大きな手のひらの上にふざけて自分の尻を乗せた。みっしりと詰まった肉の感触。薪の腰は細いけれど、その触感はすこぶる官能的だ。
「こっちはおまえが僕に教えたんだぞ。ちゃんと責任取れよ」
「それはもう。一生面倒見させていただきますから、浮気なんかしないでくださいね」
「するわけないだろ。おまえが僕には最初で最後の男だ」
 ムードに流されたのか、薪はウソを吐いた。女性のことは知らないが、薪の最初の男は鈴木だ。鈴木以外に、彼が自分を全部差し出した相手はいなかった。
 青木にとって薪の過去の情事は嫉妬せずにはいられない事実だが、薪には大事な思い出だろう。青木だって、昔の恋人のことを何一つ覚えていないわけではないし、忘れたいとも思わない。

「気を使ってくださるのは嬉しいですけど。薪さんの最初の人になれなくても、最後の人になれたらオレは最高に幸せです」
「ちょっと待った。聞き捨てならないな。いつ僕がおまえ以外の男と寝たって言うんだ」
「すみません。20年以上前のことなんて時効ですよね」
 青木はぺこりと頭を下げた。薪が本気で怒っているように見えたからだ。これは青木が悪かった。恋人同士の睦言の最中に、過去の男のことなど口にすべきではなかった。しかし薪の怒りは、青木の無神経さに対してのものではなく、認識の相違によるものだった。

「20年前? 何言ってんだ、僕はおまえと会うまで男性とは経験なかったぞ」
「え。だって、薪さんは鈴木さんと」
「鈴木? おまえ、僕と鈴木のことをそんな風に見てたのか?」
 心外だ、と薪は眉根を寄せ、不愉快そうに青木の手の上から尻を退けた。
「鈴木とは親友だったけど、そんな気持ちになったことは一度もない。鈴木には雪子さんがいたじゃないか」
 頑固に薪が言い張るので、青木も少々意地になる。薪にとって鈴木の思い出は謂わば聖域で、それを簡単に否定する薪が理不尽に思えた。
「どうして知らないふりをするんですか。オレは鈴木さんの脳を見てるんですよ。薪さんも一緒だったじゃないですか」
 普通なら、過去の恋人のことを共有する必要はない。でも鈴木の場合は特別だ。薪がどんなに彼を愛していたことか。その彼を殺めてしまった薪の苦悩を、痛みを、理解して慰撫するためにはその事実を避けては通れない。嫉妬で心が焼き切れようと、枯れるほどに泣いた瞳が腫れ上がった瞼に塞がれようと、青木は薪と鈴木が愛し合う姿を見続けた。薪に、鈴木の本当の願いを知って欲しかったから。
 ところが。

「鈴木の脳を見た? 何の話だ」
 薪が心底不思議そうに尋ねるので、青木は自分の頭がおかしくなったのかと思った。何があっても、薪は鈴木のことを忘れない。それは薪が友人を忘れるような薄情な人間ではないという人間性以前の問題で、言ってしまえば、薪が彼を殺したからだ。なのに薪は罪悪感の欠片もない口調で、
「鈴木は貝沼の画を見て発狂して自殺した。それだけだ」
「自殺……」
 青木は戸惑った。なんだか話がおかしい。
 それでも、薪が鈴木を射殺した事実をそのまま口にすることはできない。青木は言葉を選び、さらに慎重に濁らせた。

「ええ、あれは自殺に近かったと思います。あの時も言ったように、オレは薪さんとの心中説を推しますが」
「心中? なんで僕なんだ。心中するなら相手は僕じゃなくて雪子さんだろ」
 自分は関係ないと言わんばかりの口ぶりに、青木は薪に真実を告げる決意をした。苛立ったのではない、薪の中で何かが起きていると確信したのだ。
 薪から、鈴木の事件の記憶が抜け落ちている。自分に罪のないように改竄までされている。これは異常事態だ。

「鈴木さんは薪さんに、自分を撃ってくれって言ったんですよね? それで薪さんは鈴木さんを……もちろん正当防衛で薪さんに罪はありませんけど、薪さんはそのことをずっと悔やんで、辛い日々を過ごして来られた」
 青木の言葉に薪は眼を瞠り、ぽかんと口を開けた。ゆるゆると首を振り、不安そうに青木を見上げた。
「どうしちゃったんだ、青木」
「どうかしてるのは薪さんの方ですよ。自分が鈴木さんにしたことを忘れちゃうなんて」
 青木は薪の両腕を掴み、彼と眼を合わせた。亜麻色の瞳はいつもと変わらず澄み切っており、そこに狂気はなかった。しかし薪は言った。
「さっきから何を言ってるのか、さっぱり分からない。鈴木は貝沼の脳データを破壊し、自分の頭を拳銃で撃ち抜いて自殺した。それがあの事件のすべてだ。貝沼の捜査の指揮を執ったのは僕だから責任を感じてはいるけれど、防ぎようのないことだった」
 事件に関する自分の認識をひとつ残らず否定されて、青木はどうしたらいいのか分からなくなる。東京に戻れば事件調書も新聞記事も保管してあるが、ここでは証明は不可能だ。

「誰から何を聞いてきたのか知らないけど、この話はもう終わりにしよう。せっかくの旅行なんだ。もっと楽しい話をしよう」
 青木を見上げてにっこりと微笑む。この上なく美しい薪の顔が、虚ろに見えた。





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夢のあとさき(12)

夢のあとさき(12)






「薪くんじゃない?」

 2本目の酒瓶が空こうとした時、名前を呼ばれて薪は振り返った。
「雪子さん」と驚いた顔で薪が応じるのに、青木もそちらを見やる。自分たちと同じ浴衣を着て、髪を濡らした雪子が立っていた。
 青木は彼女に会釈しながら、見なかった振りで通り過ぎてくれればいいのに、と思った。青木たちと同じように忙しい日々を送っている人間は科警研にも沢山いて、たまの休みに羽を伸ばしに来た彼らとばったり顔を合わせてしまうのも不思議ではない。が、こんな話の最中に選りにも選って雪子とは。不幸な偶然としか思えなかった。

「青木くんとデート?」
「ええ、まあ。雪子さんは竹内さんと?」
「そ。たまにはね」
「婚前旅行ですか? いいですねえ」
 なんだ、このありえない会話は。
「デート?」と聞かれて薪が頷いたのにも驚いたが、薪が竹内の名前を出したのにはもっと驚いた。竹内と雪子は今年の1月に婚約したばかりだが、そのことを薪は快く思っていない。否、思うなどと言う消極的なものではない。薪は二人を別れさせるべく果敢に行動しているのだ。具体的には、雪子にあることないこと竹内の悪口を吹き込んだり、竹内の女関係を躍起になって調べたりしている。そんな薪が二人の婚前旅行を容認など信じられない。

「竹内さんはどちらへ?」
「実は替えの下着を車に忘れちゃって。取りに行ってくれてる」
「え。じゃあ雪子さん、この下って」
「ストップ。それ以上想像したら投げるわよ」
 笑いながら雪子は言って、薪の隣に座った。薪と二人きりのところを邪魔するなんて、ガサツに見えて気遣い上手な雪子らしくないと思ったが、そのうち竹内も来るだろうし、それまでの間だと思い直した。
 ところが、竹内はなかなか戻ってこなかった。雪子に勧めた冷酒の瓶が空になり、追加注文をして半時間が過ぎても姿を見せない。この日帰り入浴施設は自然の中の露天風呂をコンセプトにしているため、エンジン音が聞こえないように駐車場までは多少の距離を取ってあるが、それにしたって時間が掛かり過ぎだ。雪子は心配にならないのだろうか。
「先生。竹内さん、遅くないですか」
 堪りかねて青木が尋ねると、雪子はパタパタと手を振って、「大丈夫大丈夫」と繰り返した。すでに酔っぱらいの口調になっている。

 薪もそうだが、雪子も鈴木の月命日のことは頭にないようだった。そこで青木は朝から感じていた違和感の正体に気付いた。
 鈴木の存在が希薄なのだ。
 7年も前に亡くなった人の存在を濃厚に感じることの方が異常なのかもしれない。でも、青木はずっとその思いを味わってきた。薪に雪子に、現実には会ったこともない彼の姿を見てきた。
 青木の恋人になってくれる前、薪の心は鈴木のものだった。付き合いだしてからも長いこと、それは変らなかった。最初の頃は完全に鈴木の面影を重ねられていて、酷いことにベッドの中で間違われたこともある。それでも少しずつ少しずつ、薪は青木自身を見てくれるようになった。
 薪と二人、辿ってきた道筋は決して楽なものではなかった。喧嘩もすれ違いも嫌になるほどあった。だけどそのたびに、青木はますます薪のことが欲しくなった。薪もまた、青木を必要としてくれた。
 鈴木の存在を否定されると、自分たちが重ねてきた大事なものまで否定されたような気分になる。青木の苛立ちはそれが原因だったのだ。

「三好先生。竹内さんとのこと、鈴木さんのお墓には報告に行ったんですか」
「行ったけど。なに、急に」
 雪子は面食らっているようだった。婚約者を亡くして7年、新しい伴侶を得た報告を彼の墓前に供えたのかと、どうしてそれを赤の他人の青木に質されなければいけないのか。理由が分からなかったに違いない。
「雪子さん、気にしないでください。青木は朝からヘンなんです。ここに来る前も、鈴木の墓参りに行かなくていいのかって僕に訊いたんですよ」
「え。ああ、明日が月命日だから? なんで薪くんが。いくら親友だったからって、月命日まで参る義理はないわよね」
「それがなんか、何処かからおかしな話を聞いてきたみたいで。言うに事欠いて僕が鈴木を殺したって言うんですよ。ひどいデマですよね」
「えー、なにそれ。ていうか、なんで青木くん、そんな話を信じるのよ?」
「なんでって……どうしちゃったんですか、お二人とも! 鈴木さんのことを忘れちゃうなんて」
 思わず大きな声が出た。びっくり眼で自分を見返す、二人が見知らぬ他人に思えた。
 これはどういうことなのだろう。薪だけではなく雪子の中でも、あの事件は鈴木の自殺になっているのか。
 まさか、自分の記憶が間違っている? 自分は何か、とんでもない思い違いをしていたのだろうか。

「忘れてなんかいない。鈴木のことを忘れるはずがないだろ。鈴木よりいい友だちなんて、僕にはいなかったんだから」
「そうそう、仲良くてねー。克洋くんが薪くんばっかりチヤホヤするもんだから、あたし時々、ヤキモチ妬いてたのよ」
「嫌だなあ、雪子さんたら。ヘンなこと言わないでください。こいつ、僕と鈴木の仲を疑ってるみたいなんですよ」
 あら楽しそう、と雪子は彼女らしいノリの良さで薪の懇願を受け止め、でもちゃんと親友の立場を守ってくれた。
「大丈夫よ、青木くん。二人は健全な親友でした。あたしが保証するわ」
 薪が鈴木を好きだったこと、それを教えてくれたのは雪子だった。自分の記憶と異なる会話が次々と展開し、青木は目眩を感じた。車酔いした時のように気分が悪くなってくる。気持ちが悪い、薪も雪子も。これは本物じゃない。
 黙ってしまった青木に、何となく白けた空気が流れた。手洗いに行ってくる、と薪は席を立ち、気まずさが漂う空間には青木と雪子が残された。

「オレが間違ってるんですか?」
 青木が躓くたびに、雪子は青木を助けてくれた。傷ついた青木を慰め、勇気付けて、再び薪の元へ送り出してくれた。薪に関することで何か困ったことがあれば青木は雪子にすぐに相談する。目の前の彼女に違和感を感じてはいても、その習性は変えられなかった。
 果たして、雪子は青木の問いに答えた。
「間違ってないわよ。薪くんが忘れちゃってるだけ」
 あっさりと肯定されて、青木はまた分からなくなる。雪子はやさしい女性だが、真実を追求する研究者でもある。その彼女がこんな姑息な嘘に追従するだろうか。

「ご存知だったんですか。なぜそれを薪さんに教えてあげないんです」
「いいじゃないの。あんな辛いこと、忘れちゃったほうがいいのよ」
「そんな。それじゃ鈴木さんがあまりにも可哀想で」
「可哀想? 克洋くんと直に会ったこともないあなたが?」
 偽善者ぶらないで、と暗に糾されて青木は黙った。鈴木の婚約者だった雪子に、青木の立場で言えたことではなかった。彼女の方が青木より遥かに傷ついている。当たり前のことだ。
 それでも雪子は澄んだ眼をして、強く言い切った。
「これまで薪くんがどんなに苦しんできたか、傍にいたあなたが一番よく解ってるでしょ。それに、薪くんの記憶が戻ったところで克洋くんは帰ってこないのよ」
「それは違います」
 雪子のやさしさは痛いくらい分かって、でもやっぱり青木にはそれを認めることはできなかった。青木は警察官だ。真実を捻じ曲げて前に進めば、その先にはもっと大きな悲劇が待っている。そう教えてくれたのは他でもない薪だ。見過ごすことはできない。
「雪子先生のおっしゃるそれは、被害者は生きて戻らないのだから殺人犯を捕まえる必要はないと言うのと同じで」
「薪くんを犯罪者と一緒にしないで!」
「す、すみません、そんなつもりじゃ……」
 一喝されて青木は怯んだ。相変わらず雪子は怒らせると怖い。
 青木が俯くと、雪子は軽く肩を竦め、足の先で低く張られた湯をぱちゃぱちゃと叩いた。

「忘れて欲しかったんじゃないの。克洋くんのこと」
 問われて、青木は自分の心を湯面に映し出す。最初に薪の顔が浮かび、次に鈴木の顔が浮んだ。再び水面に現れた薪の顔は、涙で濡れていた。
 出会ったばかりの頃、薪はずっと下を向いていたような気がする。いつもしゃんと背中を伸ばして胸を張っているのに、何故かそう感じた。青木はそれを、彼が鈴木に囚われているせいだと思い、彼の中から鈴木を追い出してやろうと決意した。自分が鈴木に成り代わって、薪の心を愛で満たしてやろうと思った。
 ――だけど。

「たしかに、オレは薪さんに鈴木さんのことを忘れて欲しいと思ってました。オレが忘れさせてみせるって。でも、こういうのは違う気がします」
「何が違うの。あなたが望んだことよ」
「違います。上手く言えないけどこれは違う。忘れちゃダメなんです」
 薪と過ごしてきた年月、重ねてきた数多の出来事。それらが青木に教えてくれた。
 辛いことも悲しいことも、廻り回って糧になる。人生には無駄なことなどない、忘れていいことなど何もないのだ。
「未来に進むためには過去を忘れちゃ駄目なんです。傷も痛みも、抱えたまま進まなきゃ。真の意味で乗り越えたことにならない」




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夢のあとさき(13)

夢のあとさき(13)







 青木は結論を出し、顔を上げた。真っ直ぐに雪子の眼を見る、その瞳に迷いはなかった。
 雪子なら分かってくれる、青木はそう信じた。が、雪子は醜悪な虫でも見たように、眼を逸らして顔をしかめた。

「あんたさ。ご大層なこと言ってるけど、それ自分の都合でしょ」
 憎々しげに吐き捨てる。蔑みの籠った瞳に、青木の腹の底が急速に冷えた。雪子に厳しいことを言われたことはある、でもそれは青木のため、再び薪に向かっていく勇気を与えるため。こんな風に、切り捨てる口調で言われたことは一度もなかった。
 呆然とする青木の前で、雪子はすっくと立ち上がった。今まで座っていた床面に上がり、座ったままの青木を冷酷な瞳で見下した。
「あなたは薪くんに、克洋くんを殺したことを忘れて欲しくないの。だって、そうなってしまったら」
 赤い唇が薄笑いする。思わず青木は息を詰めた。
「薪くんはあなたを必要としなくなるものね」

 床が抜けたような気がした。

 気付くと、青木は足湯の中に尻をついていた。温かい温泉水が何故だかとても冷たかった。石張りだったはずの浴槽はぬるぬるして、驚いて手元を見ると、青木が浸かっているのは泥水に満たされた大きな水溜りだった。
「なんで」
 思わず口を衝いて出た、だが青木は思い出した。この冷たい泥水、ここはあそこだ、あの不思議な声が聞こえてきたところだ。
 薪も言っていた、同じ夢を見たと。
 同じ夢? あり得ない、双子でもない自分たちに、ゼロではないがその確率はとてつもなく低い。では、あちらが現実でこちらが夢? あの声の主は、本当に願いを叶えてくれた?

 ああ、では、もしかしたら。
 これは薪が望んだ世界なのか。

 辛い記憶を消し去りたいと、薪は願っていたはずだ。アイドルとの結婚なんかより、ずっとずっと切実な魂の叫び。
 あの時、この右手が引き金を引かなければ。
 その後悔を持たずに済む世界。鈴木のことを、純粋な悲しみと愛情を持って思い出せる世界。それが薪にとっての幸せな世界。

「あー、イライラする! あんたって本当にバカね」
 雪子のヒステリックな声が、青木の思考を破った。見上げると、雪子が腕を組んで仁王立ちになっていた。赤い唇を大きく開けて、彼女は鋭く青木を糾弾した。
「まだ気付かないの? これは薪くんが見てる夢じゃない、あなたが見てる夢なのよ」
「オレの?」
 そんなわけはない、と青木は思った。自分はこんな世界を望んではいない。第一自分が望んだ世界なら、薪が女性と結婚する夢を見たりするはずがない。
「そうよ。証拠もあるわ」
「証拠?」
「薪くんの夢だったら、フカキョンほっぽってあんたの方に来るわけないでしょ」
 うわあああんっ!!

「わ、分からないじゃないですか! 彼女よりオレを選んでくれる可能性だって」
「じゃあ一晩にエッチ5回とか、信じられるわけ?」
「だからそれは薪さんの夢だから」
「なんでそこで夢決定なんだ!?」
 いきなり薪が出てきた。「ちょっと引っ込んでて」と雪子に言われて頬を膨らませている。何だかメチャメチャになってきた。

「青木くん」
 乱れた場を雪子が仕切り直し、青木の名を呼んだ。その声は、いつもの雪子の声だった。青木を正しい方向に導こうとする女神の声だ。
「あなたは薪くんの幸せを願いながら、その実、彼が罪から解放されることは望んでない。あなたは自分が彼の人生に関わっていたいがために、彼の救済を妨げている」
「そんな」
 その望みが表れたが故のこの世界なのか。解放を切望する心と否定する心、両方が組み合わさった故の矛盾と混沌。

「違います。オレは本気で薪さんに鈴木さんのことを乗り越えて欲しいと」
「結果、薪くんがあなたから離れて行ったとしても?」
 薪が本当に立ち直った時が終わりの日だと。そう自分に言い聞かせて、でも抑えきれなかった青木の心が見せた夢。それがこの世界。きりきりと胸は痛むけど、事実なら認めるしかない。
「仕方ありません」
「だったら早めに身を引くことね」
 え、と青木は首を傾げた。現実の薪はまだ立ち直っていない、青木の力を必要としてくれているはず。だってそう言ってくれた、ずっと僕を好きでいろと、一生好きでいていいと、だからだからだから。
 心に決めても不安は残る。本当に自分といることが彼にとって一番の幸せなのか。

「分からないの?」
 雪子は青木が尻をついている泥溜まりにさぶんと飛び込んだ。跳ね上がった泥が浴衣の裾を汚す。
「この顔」
 豊かに張った腰に手を当てて、雪子は青木の頬に指を添えた。冷たい手だった。
「この顔を見るたびに、薪くんは克洋くんのことを思い出すわ。越えられる壁も越えられなくなってしまう」
 雪子は腰を折り、青木に顔を近付けた。至近距離で見る彼女の顔は美しく、黒い瞳が真正面で燃えるように輝いていた。
「薪くんの壁を高くしているのは、あなたよ」
 自分の存在が薪の躍進を妨げる。そのことは承知していた、心苦しくも思っていた、しかし。自分が薪の心に悪影響を与えていると弾劾されたのは初めてで、それも薪が一番触れて欲しくない領域に関することで、その指摘の鋭さに青木は息が止まりそうになる。

 自分の顔。鈴木にそっくりのこの顔。
 何度も何度も薪に間違えられた、数えきれないくらい重ねられた。そのことを青木は悲しく思った、でも薪はもっと傷ついたのだ。薪に辛い思いをさせないためには、鈴木か自分、どちらかしか薪の中には住めない、ということだ。
 現実に帰れば薪の元から去らねばならない、だったらこのままこの世界に留まりたい。この世界なら薪は鈴木の笑顔を思い出せる。自分が殺した鈴木の死体ではなく、彼との楽しかった日々を思い起こせる。さすれば彼に瓜二つのこの顔も薪の罪悪感を煽り立てるものではなく、大切な友人の記憶の風化を防ぐ手立てとなろう。薪と鈴木、両方の役に立てるのだ。

「――でもそれは」
 真実ではない。

「青木!」
 夢に過ぎないと言おうとした時、鋭い声で名を呼ばれた。その声を聞いた瞬間、青木は直立した。毎日のように研究室に轟く室長の怒号だ。条件反射とは恐ろしいもので、この声を聞くと例えどんな心理状態でも青木は背中がしゃっきりと伸びる。
「騙されるな。そいつは偽者だ。雪子さんがそんなこと言うわけないだろ」
「あれ。薪さん、いつの間に服を」
 薪は白いボタンダウンのシャツにライトグレーのスラックスを穿いていた。朝と服装が違う。今朝は青木が好きな少年ルックだったはずだ。

「さっきのは僕の偽者だ。ふんじばってトイレの個室に閉じ込めてきた」
「偽者?」
「いや、偽者じゃなくて虚像というべきか。ああ、今はそんなことはどうでもいい」
 薪はざばざばと泥水に入ってきて、雪子に対面した。
「雪子さんに化けるなんて身の程知らずな。彼女の怖さを知らないのか。彼女が本気で怒ったら、この建物全体が吹き飛ぶぞ」
 褒めているのか貶しているのか微妙だが、薪が尊大に言い放つと雪子は舌打ちして身を翻し、前庭から続く森の中に姿を消した。偽者を追い払った薪はさっと振り向き、青木の浴衣の襟を掴んだ。

「青木、目を覚ませ。このままだと僕たち二人ともオダブツだぞ」
「え? なんのことで、痛っ!」
 いきなり頬を張られた。それも往復、しかも速いし! パンパンて音が重なってパパパンて聞こえますけど!?
「いたっ、痛いです、薪さん、そんなに叩かないで」
「いいから起きろ!」
「起きてますよ、とっくに!」
 あまりの痛みに喚いたら、周りが突然暗くなった。

「――あれ?」
 見回すとそこは暗くじめじめした洞窟のような場所で、腰を落とした地面には真っ黒な水が溜まっていた。向かいに薪がいて、青木にビンタをくれようとしていた。刹那、目を覚ました青木と眼が合った、合ったのに。
「痛ったーい!!」
 思い切り頬を張られて青木は泣いた。




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夢のあとさき(14)

夢のあとさき(14)








「ここ、何処ですか?」
「日光の森の中。古井戸らしい。正確な位置は不明だ」
 おまえ、ずっと気を失ってたんだぞ、と薪に言われて思い出した。森の中で道に迷って、公道を探すために車から降りた。何処からか人の声がして、こちらだと思われる方向に歩いて行ったら地面に穴が開いていて、そこに落ちたのだ。
「するとおまえは上から落ちたんだな。首の骨を折らなかったのはラッキーだったな」
 上を見るとかなりの距離があった。あれだけの高さから落ちて怪我がないのは、薪の言う通り幸運だった。長い年月で井戸の底に泥が堆積し、柔らかかったのが幸いしたのだろう。
「僕はそこの横穴から滑ってきたんだ。おまえにぶつかって脳震盪起こしたけど、衝撃が軽かったおかげで直ぐに目が覚めた」
 薪が指し示した場所は暗くて、青木の眼には周りと区別がつかなかった。月明かりもここまでは届かない。察して、薪は携帯電話の電源を入れ、パネルの明かりで青木にそれを見せてくれた。そこには動物が掘ったのか、歪な形の穴がぽっかりと開いていた。

「落ちた時に水に浸かってしまったらしい。発信機が使えなくなった」
「携帯電話は」
 無言で提示されたスマートフォンの画面には、圏外の文字がでかでかと書かれていた。ナビのGPSも届かない森の中、しかも地中とくれば、携帯電話など通じるはずがなかった。
「落ちた横道から這い上がれば」
「無理だ。草が滑って」
 横穴は青木が通れるほど大きくはなかったが、せめて薪だけでもと思った。薪も自分が助けを呼びに行くことを考えたのだろう、何度か挑戦してみたが駄目だったらしい。
「レンタカーの返却期限が過ぎても返ってこなけりゃ、レンタルショップで探してくれるかな」
「届を出せば所轄が探すかもしれませんが。ここを探し当てるのは何ヶ月先でしょうね」
「そんなに待てるか。明日は仕事だ」
 何ヶ月もここに放置されたら餓死してしまうが、命の心配よりも仕事の心配が先に立つ。実に薪らしい。

「なんとかしてここから出ないと。忌々しい古井戸だ、――おわっ」
「薪さん、大丈夫で――ええっ?!」
 腹立ち紛れに井戸の壁を蹴ろうとして薪はぬかるみに足を取られたらしく、バランスを崩してその場に転倒した。泥まみれになった彼に手を差し伸べようとして、青木は驚きの声を上げる。
 井戸の壁がぐにゃぐにゃと歪んで消えていく。深い穴の底にいたはずの二人は、いつの間にか森の中の草叢の上に座っていた。

「な……なんだ、これ」
「水たまり、ですね」
 尻の冷たい感触だけは本物で、その正体は窪地に溜まった昨夜の雨だ。日の射さない森の中だから乾くのに時間が掛かるのだろう。
「まるで狐に化かされたみたいだ」
 我が眼が捉えた一連の出来事が信じ難くて、青木は呟く。森林の足湯が古井戸の汚水になり、窪地の水溜りになった。
 これまでにも不思議な体験は何度かしてきた、そのいずれもが薪と一緒だったことを思い出し、青木は彼の美しさが呼び寄せるのは人間だけではないのかもしれないとファンタジックな考えを持った。青木はそのくらいで済んでしまうが、理屈屋の薪は超常現象が苦手だ。科学で説明のつかないことに出会うとパニックに陥る傾向がある。青木は彼の乱心を心配したが、薪は意外にも落ち着いていて、軽く肩を竦めると意味不明の言葉を呟いた。
「だからガキは苦手なんだ」
「え?」
「なんでもない。車に戻るぞ」
 薪は「よっこいしょ」とオヤジくさい掛け声を掛けて立ち上がり、左手の茂みを目指して進んだ。すぐそこに、銀色の屋根が見えている。自分たちが乗ってきた車だ。

 青木は薪を追いかけた。長い手を伸ばして細い肩を掴み、彼の優雅な歩みを止める。薪は不機嫌そうに首だけでこちらを振り返り、形の良い眉を盛大にしかめた。
「こんな場所に長居は無用だ。話なら後に」
「薪さん。来週末、休みが取れたらまた此処に来ませんか」
 青木は薪の言葉を遮った。舌打ちを聞かない振り、吊り上がった眉を見ない振りで彼を誘う。薪は少しだけ眉を下げると、再び前を向いた。
「悪いけど。来週はだめだ」
 薪の返事を聞いたら胸が潰れそうになって、青木は咄嗟に薪を抱きしめた。何かで押さえないと、本当に砕けてしまいそうだった。

「な、なんだ急に。離れろ。おい青木」
「オレが」
 中腰になって背中を丸め、華奢な肩に顔を埋めた。青木が泣いていることが分かると、薪はもがくのを止めた。大人しくなった薪をいっそう強く抱きしめて、青木は言った。
「オレがあなたを抱きしめてさしあげます。風邪を引いたときもお腹が痛いときも、こうして抱きしめてさしあげます」
「いやいい。特に病気の時は鬱陶しい」
「傍にいさせてください」
 薪の冷静な切り返しも醒めた口調も気にならない。胴に回した青木の手の甲を、薪の温かい手がやさしく包んでいるから。
「オレがあなたを苦しめるとしても。オレはあなたの傍にいたい」

 人間は、なんて矛盾した生き物なのだろう。彼のためなら何でもできると、それは決して嘘偽りではない青木の本心なのに。その行動は時として薪を追い詰め、その立場を危うくさせる。そんなつもりではない、困らせたいのじゃない、泣かせるつもりなんかなかった。何度も経験した失敗の記憶と、それがまた繰り返されるのではないかという不安。彼と瓜二つの容貌を持つ自分は薪を苦しめているのかもしれないと、薄々感づきながらも彼から遠ざかることができない。

「すみません……すみません」
 身勝手な望みを口にしたら、自分が最低の人間になったような気がした。泣きながら謝る青木に、薪は溜息混じりに、
「なんだ。怖い夢でも見たのか」
 言って右手を自分の肩に伸ばし、そこに突っ伏した男の頭を撫でた。休日仕様のソフトワックスで整えた短い髪を丁寧に梳きながら、薪は愛おしく吐き捨てた。
「ガキ」





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ジャンル : 小説・文学

夢のあとさき(15)

 明日はジェネシスのコミックスの発売日ですが、清水先生のサイン会の引換券が配布されるそうですね。
 何人かの秘密仲間は渋谷のツタヤまで行かれるとかで。暑い中ごくろうさまです。みなさん、ゲットできますよう応援しております。がんばってー!





夢のあとさき(15)







 車に辿り着いてみると、思いもかけない人物が待ち受けていた。

「きみは昼間の」
 露天風呂でダブルブッキングした子供だ。両親の姿はない。どうやら迷子らしい。こんな子供が森の中に独りきり、さぞ心細かっただろう。
「はぐれちゃったんだね? 大丈夫、すぐにパパやママに会わせてあげるから」
 青木は驚き、咄嗟に彼を勇気づけようとしたが、薪は予測していたみたいだった。彼の顔を見据えて腕を組み、穏やかな口調で、「滝で僕たちの話を聞いていたのか」と質問した。
「ごめんなさい」
 青木には意味が分からなかったが、子供には通じたらしく、彼は薪に向かって頭を下げた。ツーブロックに揃えた黒髪がさらりと下方に流れる。謝罪の理由に見当も付けられず、青木が薪と子供を交互に見ていると、薪は彼の小さな頭に手を載せてやさしく言った。
「お父さん、早く怪我が治るといいな」
「うん。ありがとう」

 まったく話の見えない青木を置き去りにして、薪と子供の会話は進んでいく。あのお、と控えめに掛けた青木の声を、薪は尊大な溜息で迎えた。
「おまえは本当に頭が悪いな。その程度の頭で人間やってて恥ずかしくならないか」
 ひどい言われようだが、薪のアイスピックで心臓一突きにされるみたいな罵倒には慣れている。動じない青木に、薪は明確な回答をくれた。
「彼は滝の上にいた子狐だ」
「ああ、あの滝の、――キツネ!?」
 薪の口から突拍子もない言葉が出て、青木は声を裏返す。此処は森の中、気が付いたら水溜りに座っていた。薪と自分は二人揃って夢を見ていた。昔話によく似たシチュエーションだけど、まさかそんなことって。

「何を驚いてるんだ。さっき自分で言っただろう。『狐に化かされたみたいだ』って」
 いや、言いましたけどそれでオチが付くとは思ってなかったです。

 口はパクパク動くのに声は出てこない。下手くそな腹話術師の人形みたいになった青木が哀れになったのか、薪はこの結論に到った経緯を説明してくれた。
「観瀑台で僕が『予約時間を変更しろ』って言っただろ。彼はそれを真に受けて、あの時間風呂が空くと思ったんだ。それで慌てて家に帰って、両親を連れて温泉に向かった。簡単な幻術で受付の女性を欺いて、でも騙すつもりじゃなかったんだ。キャンセルは本当になると思っていたから、それで」
 狐の一家が風呂に来た理由は分かった。が、どうして狐が風呂に来たがるのだ。
「パンフレットに書いてあったじゃないか。切り傷と打ち身に効くって。彼の父親は足を怪我していた。そもそも彼のような子供が単独で狩りをしなきゃいけなかったのは、親が動けなかったからだ」
 それでは父親の傷を癒すために? 親孝行は立派だが、わざわざ人間が造った施設に出向かなくてもいいだろうと青木は思った。この森には未だ沢山の自然が残されている。その中には薬草も、傷を癒す泉もあるだろう。
「待合室の掲示板に書いてあった。2年前、森の中に自然に湧き出ていた温泉を利用してあの施設が造られた。あの温泉は元々、この子たちのものだったんだ」
 土地の所有権は人間が人間の社会の中で決めたもの。人間は自分たちの都合で勝手に定めた法に則り、先住民である彼らには何の断りもなく彼らの住処を奪っていく。そう思ったら貸切風呂の予約くらい、進んで差し出したい気分になった。

「もしかして薪さん、始めから?」
「まさか。分かったのはついさっきだ。キツネの妖術なんて信じてなかったし。足に包帯を巻いた父親を見て、この子を連想したのは事実だが」
 薪はすっかり納得しているようだったが、青木はまだ頭の中がぐるぐるしている。だって、狐に化かされたのなんか初めてだ。

「ええっと、まだよく分からないんですけど。あの一連の夢はもしかして」
「そうだ。この子の仕業だ」
「森の中で道に迷ったのも古井戸に落ちたのも、この子の悪戯ですか」
「そうだけど、悪気があったんじゃない」
 薪は本当に動物には甘い。楽しみにしていた露天風呂を奪われた上に散々な夢を見せられたのに、怒るどころか彼に微笑みかけている。青木の扱いとはえらい違いだ。
「これは僕の推測だけど、君はまだ子供で、自分の妖気が強くなる一定の場所でしか術が使えないんじゃないか。だから僕たちをあの場所に導く必要があった」
「術?」
「人に願い通りの夢を見せる。礼のつもりだったんだろ」
 子供はこっくりと頷いた。あの時、礼をすると彼は言った。それはこういう意味だったのか。
「所々、子供には不適切な場面があった気がしますが」
「安心しろ。この子がシナリオを書いたわけじゃない。あれはあくまで僕やおまえの心の中の願望が夢に現れただけだ。この子も夢の詳細までは分からないはずだ。でなかったらもっと早くに術を解いていた。そうだろう?」
 少年は再びこくりと頷き、申し訳なさそうに言った。
「ぼく、余計なことしちゃったんだね」
 彼の殊勝な様子に、そんなことはない、と青木は言い掛けたが、夢を見てうなされたことも夢から醒めて泣いたことも、彼は承知しているのだと思い直して止めた。下手な嘘は彼の罪悪感を募らせるだけだ。

「せっかく用意してくれたのに、ゴメンね」
 夢を楽しめなかったことを謝ると、ううん、と子供は首を振り、つぶらな瞳で青木を見上げた。キツネが化けていると分かったせいか、最初見たときよりも愛らしく感じた。
「お父さんが言ってた。この世には箱の中の世界で――ぼくたちはキョコウって呼んでるけど――自分に都合のいい夢を見ることで自分を保っている人がいっぱいいるって。でも、お兄ちゃん達はそうじゃないんだね」
 箱とは何のことだろう。青木は考えて、パソコンのことかもしれないと思いつく。
 古きよき時代の夢と現代の夢は、少々趣を異にする。昔、夢は明日への活力を担う楽しいものだった。いい夢だった、今日も頑張ろう。そんな風に夢をエネルギーに変換できた。
 しかし時代は変った。夢の形態も変わり、現代人は起きたまま、ネットの世界で夢を見られるようになった。電脳世界に展開される理想の自分に酔い知れるのは気分がいい。偽ることはリアルよりずっと簡単で、しかも露見しにくい。
 心地良さに負けてリアルに帰れなくなる。一日の殆どをそちらの世界で過ごす。そんな人間が増え、大きな社会問題になっている。薪の言う三猿の教えではないが、インターネットは諸刃の剣なのかもしれない。

「お兄ちゃん達には、夢は必要なかったんだね」
 青木だって夢を見るのは大好きだ。薪がやさしくしてくれる夢とか薪が好きだと言ってくれる夢とか薪がベッドに誘ってくれる夢とか、何度見たか知れやしない。でもどうしてだろう、青木には現実の素っ気ない薪の方が魅力的なのだ。青木の期待を悉く裏切る、その外しっぷりが薪らしいとさえ思える。
「現実の憂さ晴らしに夢を見るのはいいが、夢に幸せのすべてを求めてしまっては本末転倒だ」
 薪の言う通りだと青木も思う。一日中偽りの世界から離れられない彼らにも彼らなりの意見があろう、でもこの世に生を受けたなら。この世界で精一杯生きるべきじゃないのか。
「夢は夢に過ぎない。大事なのは現実だ。そこから逃げたら何も始まらない」
 転んでも傷ついても、やることなすこと裏目に出ても。頑張って生きること、生き続けること。時には逃げてもいい、夢に縋ってもいい、だけどそれはあくまで緊急避難であり一時的なもの。
 現実以外に、人間が生きる場所はないのだ。

「他人に迷惑掛けなきゃいいだろって言い分もあるけどな。現実に背を向けて人生を終えるなんて、男のすることじゃない」
「お兄ちゃんみたいな人、なんていうか知ってる。ブシって言うんだよね」
 青木は思わず吹き出した。横で薪がフクザツそうな顔をしている。
「後はええと、ジダイサクゴとかカセキとか言うんでしょう?」
 笑いを募らせる青木を薪の脚が蹴り飛ばす。子供を、それも動物を殴るわけにもいかず、溜まったストレスを青木にぶつけるのはいつものことだ。

「お兄ちゃん、カッコイイね」
「そうだよ。薪さんはとってもカッコイイんだ」
 話の流れからいって素直に喜べない薪の代わりに、青木は相槌を打った。自分の腿くらいまでしかない子供に合わせて屈み、彼の小さな肩に手を置く。
「きみも、カッコイイ大人になりなさい」
「うん。おじさんもね」
「だからどうしてオレがおじさんで薪さんがお兄ちゃんなのかそこんとこ説明してくれないかなってきみはなんでこの質問するといなくなっちゃうの?」
「現実から逃げちゃダメってことだろ」
 どうせ後ひと月ほどで30の大台ですけど、41歳の薪さんに言われたくないです。

 一陣の風と共に消え失せた子供が立っていた場所には、茶色い狐の毛が数本。青木がそれを拾っていると、薪に「早くしろ」とどやされた。これから東京へ、しかもあの渋滞の中を帰るのだ。速やかに出発しないと夜が明けてしまう。
 水溜りで濡れたズボンと下着は脱いで、立ち寄り風呂のために用意しておいたものに着替えた。浴衣を貸してくれることを知っていた青木は下着しか用意してこなかったが、予備知識のなかった薪は下着の他にバスタオルとスウェットパンツを持ってきていた。青木は薪からバスタオルを借り、腰から下に巻いて運転することにした。検問に引っかかったら末代までの恥、というか変質者扱いされてそのまま連行されそうだが仕方ない。

 エンジンをかけると、ナビゲーションが誇らしげに帰り道を示した。順路に従って車を走らせると、2分もしないうちに太い砂利道に出た。そこからは来る時と同様一本道で、迷いようもなく公道に戻ることができた。
 公道に出る直前、多くの車が走る音と錯綜するライトに交じって、遠くから、ケーンという鳴き声が聞こえたような気がした。




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ジャンル : 小説・文学

夢のあとさき(16)

 昨日は朝早くから行列に並ばれたみなさま、ごくろうさまでした。
 8時開店で10時には配布終了しちゃったそうで……さすが。
 整理券をゲットされた方、おめでとうございました。31日のサイン会、どうか楽しんできてください(^^






夢のあとさき(16)








「もう少し詳しく説明してもらえませんか」
 信号や路上駐車の車両など障害物が多い街中の道路を抜けて高速に乗り、落ち着いたところで青木は切り出した。
 狐に化かされた、いや、お礼に夢を見せてもらった、そこまでは分かった。でも青木の夢は楽しいことばかりではなかったし、最終的には薪に叩かれて眼が覚めたのだ。薪は憧れのアイドルと結婚するというケチの付け所のない夢を見たのに、どうして自分はあんな結果になったのだろう。

「三好先生にイタイとこ衝かれちゃったし」
「雪子さんが出てきたのか?」
 薪は青木の方に身を乗り出して、興味深そうに尋ねた。不思議に思って青木が質問を返す。
「薪さんもいらしたでしょう?」
「僕は恭子ちゃんとの結婚がポシャったところで眼が覚めちゃったから。その後の夢は、おまえしか知らない」
 そうだったのか。では薪の言う通り、2度目の旅行に出かけた薪は虚像だったのだ。道理でやさしくてあっちの方も積極的だったと、ああいっつもこんなんでもうほんとヤダ。

「どんな夢だったんだ?」
 問われて青木は、自分が見た夢を思い返す。

 青木が夢見たのは、薪が何の罪も苦しみも背負わない世界。それを望むと同時に青木は、自分が薪にとってかけがえのない人間であることを願った。鈴木の事件がなかったら青木はここまで薪の心の中に入れなかった。それは十分承知の上で、青木は2つの相反する望みを持った。
 どちらも青木の心からの願い。その願いは最初から矛盾を孕み、だから青木の夢は崩壊したのだ。

 夢の内容を薪に聞かせていいものかどうか少し迷ったけれど、青木は話した。すると薪は、
「僕が一緒だったらその夢はないな」
 そう、あっさりと言った。だから思わず訊いてしまったのだ。
「チラッとも思わないんですか。忘れたいって」
 思わないわけはないと思った。薪が自分の罪に向き合おうとしない弱い人間だなどと言う心算はない、むしろ逆だ。もう7年も経つのだし、罪悪感も薄れていくのが自然だ。なのに薪はこの春の事件で、また抱えなくてもいい罪を背負い込んで。
 青木はもうこれ以上、薪に自分を責める要因の一欠けらたりとも持って欲しくない。あの夢のように薪がすべてを忘れてくれるなら重畳、そのせいで薪に捨てられることになっても我慢しなくてはいけないのだと、彼を本当に愛しているのなら耐えられるはずだと、夢の中の青木は悲壮な決意を固めようとしていたのに。

「鈴木さんのことを忘れるって意味じゃなくて、その……あの事件だけを忘れることができたらって」
「思わない」
 薪が返してきたのは、はっきりとした否定の言葉だった。
「僕に殺されたことまで含めて鈴木の人生だ。僕が背負わなくて誰が背負う」

 それを聞いた瞬間、青木は頭をバットで殴られたような衝撃を覚えた。
 自分はなんておこがましかったのだろう。こんなにも強い人に、自分ごときが何をしてやれると?
 鈴木のことを忘れさせてやりたいとか、彼の支えになりたいとか、よくも言えたものだ。薪に幸せになって欲しい、心から笑って欲しい、青木はそのために努力し続けてきた、その実。それは自分が薪に必要とされたいと切望していただけのこと。
 結局は我欲に塗れた行為だったと今更ながらに気付いて、青木はひどく落ち込んだ。でも、次の瞬間。
 自嘲の形にくちびるを歪めて、薪が言ったのだ。

「まあ、おまえに鈴木の脳を見せてもらうまでは僕もけっこう逃げてたからな。あんまり偉そうなことは言えない」
 鈴木の願いを夢を。その心を伝えてくれたのは青木だと、だから自分は強くなれたのだと。薪はそう言ってくれた。
「ありがとう。僕が自分のことをほんの少しでも好きになれたの、青木のおかげだ」
 涙が溢れて止まらなかった。どうしようもなくぼやけるフロントガラスに、前走車の赤いテールランプが滲んで水に映った夢のように見える。

 しゃくりあげる青木に、薪は言った。
「運転中に泣くな、顔を伏せるな、前を向け――っ!!」



*****

 このシーンを書きたくて、敢えて蛇足を書きました。
 薪さんなら鈴木さんの人生をこんな風に背負うんじゃないかな。


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夢のあとさき(17)

 すみません。昨日、ちょっとフライングしちゃいまして。次の話、下書き保存したつもりが公開になってた☆
 拍手が入ってたのに気付いて下げたんですけど、不完全な状態で公開してしまってすみませんでしたー。特に(3)、ワードからコピペしただけの状態で。読み辛かったでしょう?
 ちゃんと体裁整えて公開し直しますので、少々お待ちください。





 青薪さんは最終章ですー。 
 お付き合いくださってありがとうございました。






夢のあとさき(17)








 怒っても宥めても青木の涙は止まらず、結局、次のサービスエリアで薪と運転を交代することになった。
「ったく。おまえのその泣き虫のクセはどうにかならないのか」
「す、すみませ、うっ、ううっ」
 鬱陶しいからと後部座席に追いやられた青木は、ヘッドレストから少しだけ覗いた亜麻色の髪に向かって頭を下げた。

 高速道路の両側に取り付けられた道路灯が、夢幻のように流れていく。時間が遅くなったせいか道路も空いたらしい。おかげで帰路は順調に進み、高速を下りて薪の自宅までは半時間ほど。ナビの到着予定時刻は午後9時を指していた。明日薪は仕事で、だから今日は薪の家には行けない。マンションの玄関まで見送って「さようなら」だ。
 離れ難いのはいつものこと。その我が侭は青木には許されていない。時計と薪を交互に見て、ミラーの中でそっと溜息を吐く青木に、薪は軽く舌打ちした。
「泊まっていくか」
「いいんですか?」
「帰りに思い出し泣きされて事故って死なれたら寝覚めが悪い」
 ひどい言われようだが、大事なのは言葉面ではなく、薪のほうから誘ってくれたという事実だ。ぴたりと涙を止めて笑顔になる青木をルームミラーで確認し、薪は苦笑した。

 心のまま、人前でも素直に涙を流せる青木を薪は羨ましく思う。よほどのことがなければ、自分は他人の目があるところでは泣けない。涙を見せるのは弱さを曝け出すこと、そんな思いが感情を堰き止める。要は怖いのだ。自分の弱さを他者に知られるのが怖い。
 付き合いの深い岡部や青木には、何度か情けない自分を見せてしまった。そのことも後悔している。そのせいで彼らが薪のために危険を顧みずに行動するようになってしまったのではないかと、ひどく申し訳ない気持ちになる。と同時に、彼らの安全のためにも自分は強くあらねばと思う。

 昔、薪は自分のことが大嫌いだった。
 人類の中で誰か一人を殺してよいと言われたら真っ先に自分を選んだ。薪が自分自身を殺さずにいたのは、鈴木の生き甲斐だった第九を守りたかったのと、死んだ方が楽だったからに他ならない。自分は罰を免れた罪人。楽な方を選んではいけないと思った。
 刑法上の罰を受けることはできなかったが、人を殺しておいて何も報いを受けないなんて、そんなことは道理が通らない。近いうちに自分には天罰とやらが下るのだろう。だから自分がこの世に留まらなくてはいけないのは第九を軌道に乗せるまでだと、それはさほど長い時間ではなく鈴木の元へ逝けるだろうと。
 そんな死生観を持って生きていたはずなのに、いつの間にか。薪には大事なものが沢山できていた。大切な人が、守りたい人が、たくさんたくさん。
 鈴木がいなくなった世界には何も残っていないと思っていた。でも、そうじゃないと気付かされた。薪に殺された鈴木ですら、薪が生きるために大事なものを遺して行ったと教えられた。
 ――この男に。

 青木は自分の部下であり恋人であり、鈴木の本心を見せてくれた恩人でもある。青木への薪の気持ちは、かつて鈴木に向けていたような純粋な恋愛感情ではない。恋心だけではない、様々な気持ちが混じっているのだ。
 その上、問題も山積みだ。以前のように、恋人がいる男に片思いしているのなら現実的な問題は自分の心のケアだけだ。仕事に生き甲斐を感じていた薪にとって、それは耐え切れないほどの痛みではなかった。しかしこうして秘密の関係になってしまうと、自分だけの問題では済まなくなってくる。彼の肉親や友人や仕事仲間。否応なく多勢の人々を巻き込んで、その内の何割かは確実に彼を責めるだろう。自分の眼の届かない所で起きる彼への弾劾、それが辛い。
 秘密を秘密のまま永久に。しておけるなんて夢みたいなことは思っていない。真実は滲み出るものだ。隠しても隠しても、ほんの僅かな隙間から染み出してくる。

 とりあえず、一番大きな課題は。
 1年後にこいつとどうやって別れるかだ。

 青木と付き合い始めた頃に上司と約束した。5年のうちに彼と別れることは、さほど難しくないと思った。というより、初めからそんなに上手く行くとは考えていなかった。あの頃、まだ薪は鈴木に想いを残していて。いつも彼と鈴木を比べていた。もっと酷いことに、彼を鈴木を思い出す縁にしていた。自分のことでありながらそれが無意識に為されることに、当時の薪は深く絶望していた。
 青木との始まりは、そんな薄ら寒い恋人関係だった。長く続くとは到底思えなかったのだ。
 でも青木は諦めなかった。終いには「薪が誰を好きでもいい」と、自らの立場を否定するようなことまで言ってくれた。
 それから色々なことがあって。何度も何度も壊れそうになるものを二人で守って、気がついたら。
 どうしようもないくらい好きになっていた。

「別れてくれ」と薪が言えば、青木はきっと頷く。そのことで薪がのっぴきならない立場に陥ると分かれば、必ずイエスと言う。青木はあの子狐に負けないくらい純真だけれど、なりふり構わず相手にしがみつくほど子供ではない。
 それに、本当のことを知ったら自分から離れて行くかもしれない。心からの愛情を捧げた相手が他の誰かと「彼とは5年のうちに必ず別れます」なんて約束をしていたと知ったら。お人好しの彼にも限界はあるだろう。
 問題は自分だ。
 どうやって彼に別れを切り出せばいいのか、見当もつかない。5年前から用意していた言葉はある。どんな状況になっていても対応できるよう、相手がどんな反論をしてきても封じられるようにシミュレーションを重ねてきた。が、それを口に出せるような雰囲気に持っていくこと、これが難しい。

 青木といると楽しい。バカみたいに楽しい。
 薪は知っている、いい夢は長く見れば見るほど目覚めが辛いこと。だからできるだけ短期間で終わらせるつもりだったのに。
 彼の顔を見た瞬間、そんな気持ちはなくなってしまう。些細なことで笑いあって、ちょっとでも気分が盛り上がったら睦みあって。戯れた後はもっと彼のことが好きになってる。そんなことを繰り返していたら、あっという間に時が過ぎて、約束の日まであと1年を残すばかりになってしまった。
 家に着いたら、今日を最後に別れようと切り出そうか?
 無理すぎて笑える。同じ車中にいるだけで、こんなに浮かれた気分になれる相手と別れる術ばかり考えなきゃいけない。頭がおかしくなりそうだ。

「――ね、薪さん」
「え。なに?」
 考え事をしていて彼の話を聞いていなかった。聞き返すと青木は上の空の恋人を責めもせず、身を乗り出して薪に近付いた。
「今日は手をつないで寝ましょうね、って言ったんです」
 あと一月ほどで三十になる男が、なんて可愛いことを言うのだろう。道端に車止めて押し倒してやりたい。

 ――ほら見ろ、この有様だ。

 ちょっとした彼の仕草や言葉に心を揺さぶられ、様々な感情が入り乱れる。愛しくて苦しくて嬉しくて切ない。まるで僕を愛した殺人鬼のように、自分では止めようのない激情の波に流されて行く。
 僕は彼に恋をしている。夢中で恋をしている。
 こんな状態で、頭の中で組み立てたシミュレーションが何の役に立つ?

「明日は薪さんが仕事だから。今夜はそれだけで我慢します」
 薪の身体に負担が掛からないよう、気を使ったつもりらしい。薪の腹の底で天邪鬼の虫がむくむくと目を覚ます。
 風呂上りに、バスローブ姿で誘惑してやろう。「今日はゆっくり眠らせてくれるんだよな?」と言い含めながら、彼の膝の上に座ってやろう。
 青木の困惑顔を想像して、薪は意地悪く笑った。



―了―


(2013.6)


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
メロディ6月号、読みました。
一言感想 「どひゃー……」
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