イヴに捧げる殺人(1)

 こんにちはっ。

 先週の日曜日はご挨拶もなしに、いただいたコメントも放置状態で、失礼いたしました。金曜日の検査で指摘になった書類を作り直してました。
 先週の水曜日、竣工書類を再提出してきました。請求書も出し終えて、完了です。


 ああ、終わったよー! ようやく解放されたよー!!
 やっと妄想できる! 
 仕事にかまけてほったらかしの家事は、大丈夫、埃で人間死なない!←オットはハウスダストアレルギー(笑) 


 現場で学んだことや経験したことを基に、妄想三昧したいです。
 第九のみんなでお花見に行く話とかいいなっ。←下水道工事関係ない。
 血沸き肉踊るスペクタクルサスペンスとかもいいなっ。←下水道工事もっと関係ない。
 とにかく、ドSとギャグは欠かせないよねっ! ←下水道……。

 妄想できたら、文章の書き方を思い出さんといかんなー。ここしばらく協議書しか書いてなかったから、役所向けの文章しか書けなくなってる(^^;




 さて。
 こちらのお話は、本格的に現場が始まる前に妄想していた推理物です。が、現場が忙しくなって挫折しました。
 一応最後まで書いたことは書いたんですけど、挫折したくらいですから出来が良くなくて。他に何かあればお蔵入りにしようと思ってたんですけど、ぶっちゃけもう在庫がナイ(・∀・)
 お目汚しするのも申し訳ないくらいなのですけど、半年以上前の妄想なんで書き直すのもタルくなっちゃって(←おい)、えいやって公開しちゃいます。

 えいやっ。







イヴに捧げる殺人(1)






 イヴに出会ったアダムのように。わたしはあなたに恋をした。
 例えるならそれは、長しえに続く夜に灯った小さな灯火。灰色の空から零れ落ちる一条の陽光――いいえ、そんなもの無くても人は生きられる。ならばそれは。
 あなたを愛することは、生きることと同義。

 あなたというイヴがいれば。
 神さまが創り損ねて投げ出したこの世さえ、わたしには楽園。




*****



 ―― 寒い。

 岸谷千秋の意識を目覚めさせたのは、本能が鳴らす警鐘だった。太古の昔から人間がその生命を脅かすものとして恐れていた寒さへの恐怖。それに突き動かされるように、千秋は眼を開けた。
 何も見えない。周囲は完全な闇に包まれており、マッチ棒一本ほどの光さえ見当たらなかった。
 それだけでも彼女には多大な負担であった。さらには自分が猿ぐつわを噛まされ、手首を縄のようなもので縛られ拘束されていることを認識するに至って彼女は、激しいパニックに襲われた。

 誘拐犯に攫われて箱のようなものに閉じ込められた。運が悪ければ殺されるかもしれない。
 怖くて涙が溢れた。千秋の家は裕福で、両親は一人娘のための身代金を惜しむことはないと分かってはいたが、無事に帰れる保証はどこにもない。それ以前に、寒くて暗くて身体中痛い。猿ぐつわが無かったら大きな声で泣き喚いていたに違いなかった。
 泣きながら、千秋は恐ろしいことに気付いた。
 呼吸が早まったせいか、妙に息苦しい。この狭い箱の中には十分な空気が無いのかもしれない。だとしたら、窒息して死んでしまう。もしかしたら犯人は既に身代金を手にしていて、千秋を隠れ家に放置したまま逃走してしまったのかも。

 神さま、助けて。
 これからはいい子になりますから、助けてください。

 千秋は必死で神に祈った。その思いが天に通じたのか、果たして扉は開かれた。
 温かい空気と光が、千秋に向かってなだれ込んできた。暗い所に閉じ込められていたためか、普通の蛍光灯の灯りがひどく眩しかった。すっと息が楽になり、千秋は束の間、安堵の息を吐いた。

 明るさに目が慣れて、ようよう千秋が前を見ると、そこには彼女の見知った少女が立っていた。
 なんてこと、と千秋は彼女の顔を見て自分の行いを悔やんだ。
 それは先刻千秋が神に「これからはいい子になる」と誓っていた要因そのもので、要するに彼女は千秋が仲間と一緒に苛めていた生徒だった。つまりこれは苛めの仕返しで、これから自分は彼女にしたことをやり返されるのだ。引っぱたいたり蹴飛ばしたり、バレーボールのように仲間にパスしたり。
 まさか、彼女がこんな実力行使に出るとは思わなかった。それも、どうして今ごろになって?
 理由は分からなかったが、自分がすべきことは分かっていた。謝るのだ、誠心誠意。もう二度とあなたを苛めたりしない、と頭を下げる。彼女は本来はやさしい少女だ。きっと許してくれる。
 千秋は縋るような眼で彼女を見つめた。彼女の表情に怒りの色はなく、むしろ悲痛ですらあった。彼女も、自分のしたことを悔やんでいるのかもしれない。謝れば許してもらえると思った。

 彼女の手が千秋の顔に近付いてきた。猿ぐつわを外してくれるのだ、と千秋は考えた。安心して千秋は眼を閉じた、しかし次の瞬間。
 頬にひやりとした感触があって、千秋は焦った。金属特有の冷たさが千秋に伝えるのは凶禍の予感。

「立って」
 恐怖心から立とうとしてかなわず、千秋は床に転がった。
 刃物で脅されたら身が竦んだ。それでなくとも身体が冷えて、それに長い時間狭い所に閉じ込められていたものだから脚が痺れている。縛られているのは手首だけで脚は自由だが、とても逃げられないと思った。しかも、千秋は衣類を一枚も身につけていなかった。これでは人前に出られない。猿ぐつわが外されても、助けを求めることができない。
 背後に眼を走らせると、自分が閉じ込められていたのが古い冷蔵庫であることが分かった。部屋には見覚えがなかった。6畳ほどの狭い洋間で、家具も絨毯も壁紙もカーテンも使い古された安物だった。
 ここが何処だかは分からないが、少なくとも千秋を追い詰めている人物の家ではない。彼女は自分と同じ学園の生徒、生活水準も同程度だったと記憶している。このみすぼらしい部屋は別の誰かのものだろう。

「立ちなさい。歩いて」
 脚の痺れはそう簡単には癒えなかったが、千秋は言われたとおりに立ち上がった。彼女の手に握られているのは切っ先の尖った包丁。それが自分に迫ってくる。千秋は夢中だった。
 彼女が促す方向に歩いた。そこは浴室だった。
「入って」
 空の浴槽を彼女が眼で示した。不自由な両手でバランスを取りながら、千秋は言われるままそこに腰を下ろした。
 恐怖に眼を見開く千秋を見て、彼女は涙を零した。見れば刃物を持つ彼女の手はぶるぶると震えている。彼女も怖いのだ。
 彼女は包丁をそろそろと動かし、千秋の首の左側に宛がった。そのままの体勢で、しばらく手を震わせていた。
 テレビドラマで、ナイフで脅された人間が繰り出される刃先を避けて逃げる、あれは嘘だと千秋は思った。相手は自分と同い年の女子、しかも泣くほどびびってる。そんな状態でも「切られるかもしれない」と言う恐怖は絶大で、逃げなければその恐怖は確定した未来になると、分かっていても身体が動かない。

「ねえ、早くなさって。お茶が冷めてしまうわ」
 千秋の耳に聞き覚えのある女の声が届いた。これほどの恐怖に晒されていなかったら、その声から千秋はここが何処だか察することができたはずだ。だが、そんなことはしても無駄だった。千秋には、もう時間がなかったのだ。

 左首に、焼けつくような痛みが走った。
 切られたと言うよりは火箸でも押し付けられたような感覚で、でも辺りに飛び散ったのは間違いなく千秋の血だった。
 噴水のように吹き出す自分の血液が遠くの壁に激しく雨の降るように叩きつけられる。それが、千秋が見たこの世で最後の光景だった。





テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

イヴに捧げる殺人(2)

 おはようございます。

 仕事も一段落つきまして、恒例のお義母さんの温泉行きたい攻撃が始まりまして。
 今日から3日間、行ってまいります世界遺産、富士山。
 温泉につかって、まったりして、幸せ気分で富士山見ながら青薪さんの妄想をします~。薪さんが崖から落っこちて記憶失ってマッドサイエンティストの実験台にされる話とかどうかな? ←体験と妄想の内容が合わない。
 
 では行ってきますー。







イヴに捧げる殺人(2)







 出会った瞬間、九条礼子は彼に嫌悪を感じた。

 正確に言えば驚嘆と嫉妬と羨望と苛立ち、それらが綯い交ぜになった不快感。嫌悪と一括りにできるような単純な感情ではなかったが、表面に現れたのは単純な拒否反応だ。
 ツイてない、と礼子は思った。新しいボディガードが来るとは聞いていたが、こんな男だとは思わなかった。
 彼の何がそんなに礼子の気分を害したのか、言ってしまえば容姿だ。礼子と彼は初対面。第一印象の95%は外見だ。
 一見、年の頃は自分といくらも変わらない。男のくせに線が細くて、透き通るような白い肌をしている。亜麻色の髪はサラサラ、眼はぱっちり二重で睫毛が長くて、下手したら女の子より可愛い。というか自分より確実に可愛い。
 今は彼のような中性的な容姿の草食系男子とやらが流行りらしいが、礼子は嫌いだ。彼の運転手について来たモブ顔のメガネ男の方がずっといい。だって。
 ――こいつと並んだらあたしが霞むじゃない。
 礼子は美人の部類に入るが、言葉を選ぶなら勝気な、選ばなければキツイ顔立ちをしている。日本人らしく黒々とした瞳はそれなりの大きさで美しく輝いているものの、吊り目の一重瞼がそれを険しく見せている。面長の輪郭を縁取るのは栗色のクセ毛で、長さは背中の中ほどまで。見るからに手入れが大変そうだ。

「薪です。よろしくお願いします」
 公僕らしく、彼は簡潔に挨拶をした。他の大人たちのように、現職の国会議員である父親や、その一人娘である自分に愛想笑いをしないところだけは好感が持てたが、頭を下げた時に彼の髪が金糸のように揺れ動くのを見たら腹が立った。
 花の女子高生がクセ毛で悩んでるって言うのに、なにその無駄なサラサラヘアー。ヘアサロンで髪エステとかしてんの、なんか仕事の役に立つの、それ。

「礼子。薪さんには長谷川さんの代わりに、おまえの学校での警護をお願いしたんだよ。ご挨拶なさい」
 どうしてこんな見るからに軟弱そうな男にボディガードなんて力仕事が割り振られたのか疑問だったが、校内の警護と聞いて合点がいった。礼子の学校は女子高で、原則として男性は立ち入り禁止。でも彼の容姿なら黙っていれば女性で通る。長谷川と同じように、学内での待機が可能になるのだ。
「礼子です。薪さま、よろしくお願い致します」
 頭を下げると、長く伸ばした髪が礼子の顔を隠す。鬱陶しかった。クセ毛の長髪なんて手間が掛かるだけで、いいことなんか一つもない。父母の眼がなければ鋏で切ってしまいたいくらいだ。
 不満を抑えつつ、礼子ができるだけ優雅に微笑むと、彼も微笑みを返してきた。礼子と違って気負いのない、自然な笑顔だった。それでいて育ちの良さが感じられた。
 彼の笑顔を見て礼子は確信した。彼は、目的のために容姿最優先で選ばれたのだ。中身は只のチキン野郎だ。

 父母の前では愛想笑いを絶やさなかった礼子だが、それを彼の前でも続ける気はさらさらなかった。明文化されていない学校の決まり事を教える、という名目で私室に招いた彼に、礼子は強い口調で言った。
「余計なことはしないでね」
 こういうことは最初が肝心なのだ。舐められないように、ビシッと言っておかないと。
 自分はソファに座って、彼にはわざと椅子も勧めなかった。彼に気に入られる心算も、誠実に仕事をしてもらう心算もなかった。長谷川が帰ってくるまでの10日間、何もしないでいて欲しかった。
 部屋の掃除をしていた世話係兼家政婦のユリエが、礼子たちに気付いてお茶を淹れに行った。要らない、と怒鳴ったが、ユリエは答えなかった。彼女はいつも都合の悪いことは聞こえない振りをするのだ。

「先ほどとは別人のようですね。淑やかなのはご両親の前だけですか」
「当たり前でしょ。使用人の前でまでお嬢様やってたら、暴漢に襲われる前に神経衰弱で死ぬわ」
 腕を組んで軽蔑したように礼子を見る、彼の瞳に苛立った。負けずにこちらも腕を組み、頭に来たから脚も組んでやった。
「余計なこととおっしゃいますと」
 聞き返した彼に、礼子は胸を張った。ソファに腰を下ろした礼子の隣に立ったままの彼を、鋭く睨み上げる。
「あなたの仕事は何? わたしを守ることでしょ。それ以外のことはしないでって言ってるの」
「例えばこういうことですか」
「げっ」
 カエルが踏みつぶされたような声が出た。人間の声帯は驚くと固まるのだ。
 彼は礼子の勉強机の引き出しを勝手に開けて、中から煙草とライターを持ち出した。それを自分のポケットに入れると、次は花瓶の中から小瓶に入れたお酒を、その次は本棚に眼を付けて百科事典の箱からイケナイ雑誌を、ちょっとそれはカンベンしてー!

「なんで一発で場所が分かるのよ?!」
「こういうのを探すのが得意な友人がいたんです」
 彼は花のように微笑んで――思い掛けて礼子は慌ててその言葉を打ち消した。比喩ではなく、彼の後ろに花が見えたのだ。色は薄ピンクで、花びらがいっぱいあるやつ。ああ気持ち悪い。
「ご両親には内密に処分しておきますよ」
 そう言って、彼は礼子が苦労して集めたコレクションを没収した。得意の右ストレートをお見舞いしてやりたいと礼子は思い、ここが家の中であることを考えて断念した。顔を腫らした彼を父母に見られたら困るのは自分だ。
 ユリエが、お茶を淹れながら肩を震わせて笑っているのが見えて、軽くキレそうになった。覚えときなさいよ、後で泣かしてやるから。

「さあどうぞ。お嬢様のお好きなローズヒップですよ」
「いらないって言ったでしょ」
「では僕が」
 彼はカップを手に取ると、立ったままで紅茶を飲み干した。もしも礼子がそれをしたなら、立ち飲みなんてお行儀が悪いと必ず文句を付けるはずのユリエは、その様子を固唾を飲むように見つめていた。なによ、その差は。
 紅茶を飲み終えて彼は「ごちそうさま」とユリエに微笑みかけ、それを見たユリエがまた頬を赤らめて、ちょっとやめてくれる。二人まとめてサイドボードで殴りたくなっちゃうから。

 部屋を出るとき、彼は丁寧に頭を下げた。
「それでは明日。学校で」
 礼子は精一杯優雅に「ごきげんよう」と挨拶した。もちろん嫌味だ。
 彼がいなくなり、するとそれまで詰めていた息を吐き出しながら、ユリエが感心したように言った。
「おきれいな方ですねえ。本当に男の人なんですか?」
「そうよ。気持ち悪いでしょ」
 は? と不思議そうに首を傾げるユリエに、礼子は吐き捨てる口調で、
「男だか女だか分かんないような男は気持ち悪いわ」
 それは礼子の正直な感想で、現代の風潮を当て擦る彼女の意見でもあった。しかしユリエはコロコロと笑い、
「お嬢様はお若いのに、お祖母さまの年代の美意識をお持ちですのね」
 あんたホントに覚えときなさいよ。

 怒りをため息に変えて、礼子はソファにそっくり返った。女性にしては大きめの手をひらひらと振り、ユリエに仕事をするよう促した。
「そろそろ行ってあげなさい。今頃迷ってるはずだから」
 はい、とユリエは彼の後を追って部屋を出て行った。

 礼子が住んでいる九条の屋敷は実に広大である。母の実家は日本でも有数の資産家で、この家は彼女が結婚したときに実家の両親に建ててもらったものだ。
 巨万の富に支えられた九条の祖父母は少々浮世離れしており、いささか変わり者であった。娘が金目当ての強盗や泥棒の被害に遭わないようにと、迷路のように通路を張り巡らせた屋敷を建てたのだ。
 この家を初めて訪れた客は一様に迷子になる。家人の案内無しにはゲストルームへ行くことも、この屋敷を出ることもできない。彼には住み込みの小間使いであるユリエの助けが必要なのだ。

 ユリエのことは後でシメるとして、問題はあの男だ。家では良い子の仮面を付けなければならない礼子にとって、学校は唯一の息抜きの場だった。長谷川は礼子の事情を心得ているから学校生活を見られてもなんてことはなかったけれど、あの男には通用すまい。余計なことを父母に報告されては困るのだ。

 ノックもなしにドアが開き、礼子はソファの上で身を固くした。暴力的な勢いで思案から現実に引き戻される。
 この部屋のドアをノック無しに開ける者は、家の中には一人しかいない。そして、ノックをせずに彼が部屋に入るときは、それが秘密の来訪であることを意味している。
 男がゆったりとした足取りで礼子に近づき、背後から自分の身体を抱きしめるのに、礼子は落ち着いた口調で尋ねた。
「お母様はお出かけに?」
「ああ。後援会の会合だとさ」
 どうせ若いツバメの所だ、と嘯く男の肩に、礼子は自分の後頭部を預けた。甘ったるい整髪料と煙草の匂い。最悪の組み合わせだ。
 太くてごつごつした指が、麗子の胸をまさぐった。諦めて眼を閉じると、仰向かされてキスされた。ムスクの香りとヤニ臭さが礼子の口の中で混ざり合い、悪心を掻き立てる。礼子は腹に力を入れて、流れ込んできた男の唾液と一緒に吐き気を飲み込んだ。





 

テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

イヴに捧げる殺人(3)

 ただいまですー。
 旅行は楽しかったのですが、あいにく天候に恵まれませんで、富士山は見られませんでした。 
 でも、河口湖は桜が満開!
 ホテルの部屋にベランダがあったんですけど、そのベランダに桜の枝が張り出していて、桜のつかみ取りができる! 花が可哀想だから触ったりしませんけど、花の群れに顔を寄せる薪さんとか、きれいだろうな~、などと想像しては楽しんでおりました。




 お話の続きです。
 今さらですが、このお話の時期は2066年の11月。「パンデミックパニック」の翌月でございます。薪さん、毎月こんな調子で仕事大丈夫なのかww



イヴに捧げる殺人(3)






「セーラー服は好きかい?」

 書類に印が押されていることを確認しながら「はい」と薪は答えた。いつもの雑談だと思ったからだ。質問者は薪の答えに満足そうに頷き、珍しいことににっこりと微笑んだ。
「それはよかった。嫌いだと言われたら頼みづらくなるところだった。実はね」
「お断りします」
「まだ何も言ってないけど」
 雑談は早合点だったと、自分を見上げた上司の眼で分かった。厄介事の予感。しかもこれはイレギュラーだ。中園と言う男は、それが正当な職務である限りどんなに苛酷な内容であっても「頼みづらい」なんて殊勝なことを言う人間ではない。

「話も聞かないなんて酷くないかい? 僕は君の上司だよ」
「職務外のお話でしたら承諾の義務はないと存じます」
 さっさと踵を返した部下を湿っぽい声で非難する彼を切って捨て、薪は首席参事官室を出ようとした。逃げるが勝ちとばかりにドアを開けた薪の耳に、上役の独り言が響く。
「先月は大変な目に遭ったなあ」
 ここで足を止めたら負けだと本能が叫んだ。非道になれ、薪剛。逃避こそがおまえを救う唯一の手段だ。そう言い聞かせるのに爪先がそれを拒否する。薪の中で後ろめたさが勝った証拠だ。
「夜中に電話で叩き起こされて、『正体不明のウィルスが第九に撒かれた』て誰かさんが騒ぐから慌てて第五と第一と警備部に連絡取って」
 あの時は様々な要因が重なって、それを疑うに値する状況が出来上がってしまった。つくづく思う、偶然て恐ろしい。
「小野田が出張中で良かったよ。いたら絶対に厚生労働省に報告入れて、最高の医療スタッフを用意するために東京中の大学病院の教授連中を叩き起こしただろうから。そうしたら、小野田も僕も終わってたねえ」
「分かりましたよ。もう勘弁してください」
 中園の言う通り、先月のあれは大失態だった。薪の無事を純粋に喜んでくれた小野田と違って、中園は腹の虫が治まらなかったに違いない。実際に迷惑を被ったのは彼なのだ。

 詫びの意味もあって、薪は中園の頼みとやらを聞くことにした。
「九条議員のお嬢さんなんだけどね。ボディガードが怪我をして困ってるんだ。で、彼女の怪我が治るまでの十日ほど、信用できるSPを貸して欲しいって」
「要人警護ですか? それなら警護課に」
 警護は官房室の仕事ではないし、薪はSPの訓練は受けていない。腕に覚えはあるが、本職には遠く及ばない。官房室首席参事官に直接警護を頼んでくるような大物議員の子女なら、専門家に任せた方が無難だ。
「頼めない事情があるんだよ。警護エリアは男子禁制の学校なんだ」
 いま一つ話が見えてこない。男子禁制と聞いた時点でものすごく嫌な予感はしたものの、話の途中で逃げ出すわけにもいかない。駆け出そうとする両脚を、薪は理性で抑えつけた。

「学校って、ボディガード付けられるんですか?」
「通常なら無理だけど。その学校は現在、特別警報発令中でね」
「特別警報?」
「そのお嬢さん、礼子さんて言うんだけど」
 中園は薪の視線をはぐらかし、警護対象者の説明を始めた。警報の内容に薪の興味が向いているうちに、情報を入れてしまおうという腹積もりだろう。テレビコマーシャルの要領ですね、と言う皮肉を頭の隅で思いつくが、それを言葉にするほど薪は野暮ではない。
「学内で何度も危ない目に遭ったらしい。階段から突き落とされたり、上から物が落ちてきたり。制服や学用品も汚されたりして」
「それ、単にその子がイジメに遭ってるんじゃ」
「ご両親もそれを心配してね、学校側に何度も掛けあったそうだ。でもその事実はないって否定されて。だから学内に入ってイジメの証拠を掴んでご両親に報告すれば、そちらでしかるべき処置を取ると思う。そのついでと言っちゃなんだけど」
 ついでと言いながら中園は青灰色の瞳を鋭くした。軽い口調に隠された気迫を感じて、薪は腹の底に力を入れる。此処からが本題だ。

「最近、そのお嬢さんの学友が3人亡くなってる。それもすこぶる変わった死体になって」
「――星稜学園の吸血鬼事件ですか」
 被害者は学園の女生徒で、いずれも17歳。ここ2ヶ月の間に3人の被害者が出た。彼女たちはみな忽然と姿を消し、翌朝には身体中の血を抜かれて死んでいた。刺激的な記事を売り物にするマスコミが名付けた「吸血鬼事件」をそのまま正式な事件名にした捜一の神経もどうかと思うが、その名称が事件の概要を端的に表しているのも事実だ。
 こんな猟奇的な連続殺人がどうして第九に回ってこないのかと言えば、被害者の頭部が完全に潰されていたからだ。司法解剖には薪も立ち会ったが、彼女たちの脳は原形を留めていなかった。MRIによる精査は不可能だと判断した。

 昨今は、こういう事例が増えた。
 MRI捜査の弊害と言うべきか、第九の功績が広く世間に知れ渡るに従って、頭部を潰したり持ち去ったりする犯行が増加した。おかげで本来第九に持ち込まれることのない単純な殺人事件や傷害致死事件に、死体損壊罪のおまけが付くようになってしまった。
 秘密を匿おうとする人間の意志は強く浅ましく。犯人たちはMRI捜査を警戒して遺体の脳を破壊する。自分が人を殺した映像を他人に見られたくないからだ。
 捜一の捜査で十分に犯罪が立証できる事件に、第九は手を出さない。基本的に3件以上の連続殺人、あるいは明らかに異常者の仕業と思われる遺体が発生しない限り、被害者の脳をMRIに掛けることはしない。しかしその基準は世間には公表されていない。MRI捜査の行使による犯罪の抑止効果が失われてしまうからだ。結果、場末の酒場で起きた喧嘩による傷害致死事件の被害者の頭部が持ち去られたりする。
 事件関係者の日常に影響を及ぼさない捜査活動があり得ないように、MRI捜査もその手法自体に大きな問題を孕んでいる。それはさておき、今は吸血鬼事件だ。

「犯人が学内にいると?」
「僕はそう踏んでる。3人とも同じ学校の生徒だし、何より、学友があんな殺され方をしたら普通は警戒するよね。みんな金持ちの娘なんだから、送り迎えはもちろん用心棒も付けたと思う。その状態で第2第3の殺人が起きてることを勘案すると、犯人は被害者の顔見知り。被害者が最後に目撃されているのもすべて校内だし、犯人が学園の人間である可能性は高い」
「捜一の捜査状況は」
「それがさ、この時代に男子禁制を貫いてる学園だけあって、教師陣はともかく生徒は箱入り娘ばっかりで。相手が男ってだけで俯いちまって口も利けない状態なんだよ。だから生徒の中に入って事情を聞いてこれる人間が必要なんだ」
「では潜入捜査を兼ねているわけですね。ですが、女子校でしたらやはり女性の捜査官に任せるべきではありませんか」
 薪が生徒のボディガードとして校内に入ったとしても、男である以上は捜一の刑事たちの二の舞になるだろう。女子高生とのガールズトークは香(小野田の末娘で高校生)で慣れているから捜一の連中よりは巧く聞き出せる自信はあるが、やはり同じ女性には敵うまい。
「僕もね、最初は女性のSPを事務員に仕立て上げて潜り込ませようと思ったんだけど、それだと生徒は警戒するよね。彼女たちから話を聞くにはやっぱり彼女たちと同じ立場で、そう、休み時間に一緒にトイレに行くような関係にならないと」
 一理ある、と薪は思った。大人には言わない事も友人には話す。あの年頃の子はみんなそうだ。中園のことだ、薪が生徒たちから親しみを持ってもらえるよう何らかの対策を立てているに違いない。理事会に圧力をかけて、ボディガードではなく臨時の教師として送り込むとか。教員の立場なら彼女たちの信頼も得られるだろうし、相談に乗ると持ちかければ事件のことを聞きだせるかも。

 事件に挑む時の高揚感を味わいつつ、薪は冗談を交えて尋ねた。
「僕だって女子トイレには入れませんよ。何か策があるんですか?」
「そこでセーラー服の出番だ」
 ……聞かなきゃよかった。

「お断りします」
「先月は本当に大変だった」
「処分してくださって結構です。降格でも減俸でも」
「好きなんだろ? セーラー服」
「見るのも脱がすのも大好きですけど自分が着るのは嫌です」
 言い捨ててドアを閉めた。四十過ぎの男がセーラー服着て女子高生のボディガードって、あり得ないだろ。中園の冗談の際どさは心得ているが、それにしたって。

 内心、ぷりぷりして第九に帰ったら岡部に見とがめられた。何かあったんですか、と訊いてくる。相変わらず鋭い男だ。他の誰にも気付かせなかったのに。
 腹を立てていたし、「それはひどいですね」と言う同意も欲しくて、薪は事情を岡部に話した。
「だいたい、たった十日学校に潜入したところで二ヶ月も警察から逃げおおせている殺人犯が捕まるもんか。あの人は無理難題を僕に押し付けて面白がってるんだ」
 ひどいだろう? と部下を伺うと、岡部は神妙な顔になって、
「九条徹夫議員と言えば大物ですが、黒い噂の絶えない男ですよ。陰では暴力団ともつながってて、薬物疑惑も」
「それは僕の仕事じゃない」
 麻薬等の取り締まりは警視庁組対5課の仕事だ。官房室の管轄ではないし、第九はもっと関係ない。
「特に、麻薬がらみの潜入捜査はごめんだ。何年か前にやって死にかけたんだ」
「あれは薪さんが勝手な行動を取ったからだって課長の脇田が言ってましたけど」
 ……そうだっけ?

「なんでも九条って男は警察の上層部にも顔が効いて、あれこれ煩く言ってくるそうですよ。あの男の差し金で止められた捜査がいくつもあるって、竹内がぼやいてました」
 代議士は多かれ少なかれ、警察に影響力を持つ。十日で潜入捜査を完遂しろと言うのも無謀だと思ったが、中園の真意は九条議員の弱みを掴み、それをネタに警察への口出しを控えさせるというところか。
「だからってセーラー服は」
 ないな、と薪は首を振り、これで話は打ち切りだとばかりに分厚い報告書のファイルを取り上げた。ところが岡部は、聞きたくもない九条議員の情報を薪に話して聞かせ――裏金をごっそりと懐に入れながら、篤志家の顔をアピールする為その一部を様々な福祉団体に寄付していることや、施設から女の子を引き取って育てている事など――、最後にこう結んだ。
「たった十日でしょう。引き受けてあげたらいいじゃないですか。相手が女子高生の苛めっ子なら危険はないでしょうし。ゴスロリに比べたらセーラー服の方がマシでしょう」
「なんだ、おまえまで」
「中園さん、先月のウィルス事件のとき、薪さんのことをものすごく心配してましたよ」
 それを持ち出されると弱い。あの時は岡部にも迷惑を掛けた。

「それに、薪さんは中園さんにプライベートで借りがあるでしょう。この機会に返しておいたらどうですか」
「借り? なんのことだ」
「あれ。聞いてないんですか」
 薪に心当たりはなかったが、岡部は一人頷き、「やっぱり中園さんはいい人ですね」などと笑えないジョークを飛ばした。中園がいい人だったら小野田は間違いなく神さまだ。
「青木のことですよ」
 春の事件の後、どうして自分たちのことが公にならなかったのか、岡部に聞くまで薪はその真相を知らなかった。自分が手を回して守ってやったのだと、中園は一言も言わなかった。

「……くっそ」
 頭を掻き毟るようにして逡巡した後、薪は席を立った。
「岡部。十日ほど第九を頼む」





*****

 薪さんにセーラー服着せてみたい人、手上げてー! ←いるわけない。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

イヴに捧げる殺人(4)

 こんにちは。
 みなさんはもう、連休に入りましたか?
 うちはカレンダー通りの休日で、日曜日と昨日はお休み、3~6日まで連休の予定です。5日に漏水当番が入ってるから実質は3日ですが。

 日曜日はねえ、那須の動物園に行ってきたんだ~。
 カピバラと戯れてアルパカと遊んで、ハシビロコウとにらめっこ。犬猫ウサギ、馬、羊、牛、ラクダ、猿に鳥たち。正に動物キングダム♪
 温泉まであるんだから、うちの青薪さん定番のデートコースになるはずだわ~、て書いたことなかったっけ。今度書く。


 昨日はお休みだったから、ブログの更新とかお返事とかできたわけなんですけどね、昼間っからビール飲んだら眠くなっちゃってテレビ見ながら寝ちゃいました。←ダメ人間の見本みたいな休日。
 人間て、どうしてお休みになるとだらけちゃうんだろうねえ? え、わたしだけ?







イヴに捧げる殺人(4)







「礼子さま、おはようございます」
 校門前で車から降りた途端、礼子は見知らぬ女生徒に声を掛けられた。亜麻色の巻き毛の、はっとするくらいキレイな娘だった。こんな子学校にいたかしら、と礼子はしばらく考えたが思い出せなかった。だいたい、向こうから自分に話し掛けてくるなんて――。
「……うそ」
 昨日、自宅に挨拶に来た男だと気付くのに一分くらいかかった。気付いて白目を剥いた。
 だってセーラー服よ、セーラー服。
 てか似合い過ぎなんだけど。違和感なさ過ぎて気持ち悪い。いっそ叫びながらこの場を走り去りたい。

 気付けば、周囲は登校してきた生徒たちのざわめきに満たされていた。
「あの方はどなた?」「転校生かしら」「なんてきれいな方なんでしょう」「本当に。まるで天使のよう」
 次々と聞こえてくる称賛の声に、礼子は心の中で激しく言い返す。
 いや、確かに似てるけど。宗教の授業の時に習った何とかって言う天使にそっくりだって認めるけど、野郎だからね、こいつ。

 知らぬが仏とは正にこのこと。そんな状況で彼が礼子に声を掛けたから堪らない。礼子は生徒たちの質問の集中砲火を浴びる羽目になった。
「九条さま。この方とお知り合いですの?」「まあ羨ましい。わたくしにも紹介してくださいな」「お名前は何とおっしゃるの?」「お家はどちら?」
 きれいで華やかなものが大好きな彼女たちは、新しいお人形を見つけた興奮にきゃあきゃあ騒いだ。礼子は仕方なく、彼女は自分の遠縁で日本に留学中、今日から十日ほどこの学校に通うことになったのだと説明した。虚言は孤児院育ちの礼子の十八番。お人好しのお嬢様連中には見抜けまい。

 群れ為す生徒たちを朝礼の時間を理由に遠ざけ、礼子と彼は校舎へと向かった。こっそり話していることがみんなに分からないように、互いに前を向いたまま小さな声で刺々しい会話を交わす。
「なんでそんなカッコしてんの。あんた変態だったの」
「ご学友として陰ながらお嬢様をお守りしろとの命令ですので」
「陰ながらって、あたしの方が影になってるんだけど」
「仕方ないですね。お嬢様は地味なお顔立ちですから」
 この場でこいつのスカートめくって社会から抹殺してやろうかしら。
 いい考えだと礼子は思ったが、不発に終わりそうだとも思った。礼子よりも若干短いスカートから伸びている彼の脚の優雅なこと。足首なんか折れそうに細い。スカートの中身が見えたところで男だとは分からないんじゃないか、ていうか、
 生足よね、それ。なんでスネ毛無いのよ。ホント気持ち悪いわ、この男。

「事件の大まかな内容はご両親から伺ってますが、当事者から詳しい話を聞かせてもらえますか」
「事件てなんのこと」
「校内で危ない目に遭われたのでしょう?」
 何故昨日部屋で訊かなかったのだろう。少し考えて、ユリエがいたからだと気付いた。この男は礼子が学校でどんな目に遭っているかおおよその見当を付けていて、それで気を使ったんだと分かったら妙に悔しくなった。
 昇降口で真新しい上履きに履き替える。ついでに、たぐまっていたソックスを引き上げた。隣で同じように上履きを履いている彼に、礼子は素っ気なく言った。
「別に。大したことじゃないわよ」
「もう少しで大怪我をするところだったと聞きましたよ」
「平気よ。あたし、運動神経いいもん」
「ご両親は苛めを疑ってらしたそうですが」
「あたしがエセお嬢様だってみんな知ってるからね。この学校、真正のお嬢様が通う学校だから。面白くない人間もいるんじゃないの」
 育ちのいい子から見れば、礼子が受けている行為は苛めになるのかもしれない。しかし礼子には、そんな被害者意識はなかった。

「流れてる血が違うのよ。あの子たちとあたしは」

 生まれ持った魂の差って、出るものだ。お金持ちの家に生まれた子は品が良く、そうでない家に生まれた子は何処かしら浅ましい。みんなそれを敏感に感じ取って、だから自分を遠巻きするんだろうと礼子には分かっている。皆が悪いのではなく、自分が悪いわけでもない。悪いとしたら、礼子をこんな場違いの学校に入れた養い親のせい。それだって彼らに悪気があったわけじゃない。
 結局、誰も悪くないのだ。

「でも大半は良い子たちよ。見たでしょ、さっきの。此処にいる大抵の子は幸せしか知らないのよ。苛めって言ったって、幼稚な意地悪よ。あんなの、施設の熾烈な生き残り競争に比べたら何でもないわよ」
 施設では、みんなが互いの足を引っ張り合っていた。夕飯のおかずやしょぼいおやつ、そんなものの為に殴られたり、やってもいない悪行をでっち上げられたり。貧しさは人の心を醜くする。それを礼子は幼い頃から叩き込まれて生きてきた。それに比べたらここは天国だ。何もしなくても美味しいご飯が食べられるし、それを誰かに取り上げられる心配もないのだから。
「だからあんたはあたしが苛めになんか遭ってないってお母様たちに報告して。早くあたしの前から消えてちょうだい」
 礼子が彼を遠ざけたいと思った、一番の理由はそれだった。事実を報告されたら、転校させられるかもしれない。それは避けたかった。

 彼は冷静に礼子の話を聞き、堅い声で言った。
「判断するのは僕です。……ところで、前の上履きは誰に捨てられたんですか」
「さあ。気が付いたらなくなって、っ」
 口を滑らせた礼子に、彼はニコリと微笑んで見せた。それがもうどこからどう見ても絶世の美少女で。虫唾が走るわ、この男。
「失礼。月曜日でもないのに、鞄から靴を出されていたので」
「あたしは新しいクツが好きなの。足元がちょっとでも汚れてると気になるのよ」
「それにしてはソックスがずり落ちてるようですけど」
「こ、これはファッションよ。ルーズソックスってやつ」
「百年くらい前に流行ったファッションですよね。大体それ、普通のソックスでしょ」
「今はこれが流行りなのっ」
「さっき引き上げてませんでした?」
 なんて口の立つ男だろう。ああ言えばこう言う。諦めて、礼子は白状した。

「誰に捨てられたかは分からない。でも、本当に大したことじゃないわ。上履きくらい、また買えばいいんだもの」
「他に被害はありませんでしたか」
 ない、と礼子は言い切った。もちろん嘘だった。まだ二学期の半ばなのに、学用品はおろかジャージも制服も三枚目だった。礼子の嘘を見抜いたように、彼は礼子が一番恐れていたことをあっさりと口にした。
「嫌がらせが続くようなら、転校という手もありますよ」
「転校してどうするの? また同じことを繰り返すだけよ。それに」
 礼子は意識的に彼に背を向けた。これ以上、嘘を暴かれるのはごめんだった。
「負けて逃げ出すのは嫌」

 そこで彼との会話は終わった。教室に着いたからだ。彼は転入生だから職員室に行かなくてはいけない。「ではまた」と小さく手を振って廊下を歩いていく、その姿に廊下にいた生徒がみんな見蕩れていた。
 この鞄、後ろから投げつけてやろうかしら。
 そんなことができる筈もなく、礼子は肩をすくめて教室に入り、自分の席に着いた。机が汚されていないことに少なからずホッとし、鞄の中身を机に移す。
 ここ2ヶ月の間に、礼子への苛めは極端に減った。が、彼女を取り巻く環境はさらに劣悪なものになった。クラスでは完全に孤立して、誰も彼女と眼を合わせようとしない。誰も彼女に話しかけない。
 それはそれで気楽だったが、寂しくないと言えば嘘になる。施設では嫌なことばかりだったが、それでも一応は友達と呼べる子が何人かはいた。現在、礼子には友達は一人もいない。

 いや、たった一人だけ。
 好意を持ってくれていると、信じるに足る相手はいた。もう何週間も言葉を交わしていないけれど、礼子は彼女を信じていた。
『何があっても私は礼子さまをお慕いしております』
 彼女はそう言ったのだ。

 その彼女も今は、礼子に話しかけてこない。それは彼女やクラスのみんなが意地悪なわけではない。怖がっているだけなのだ。
 彼女たちは2ヶ月前、いや、一月前までは朝の挨拶くらいはしてくれた。でも先月の頭に2度目の事件が起きて、それから誰も礼子に近付かなくなった。事件の裏に隠された符号に気付いたからだ。学園中がそれを知っているわけではない。クラスメイトと言う近しい関係にあったからこその恐れ。でも礼子には、彼女たちを弱虫と罵る気持ちは起きなかった。だって仕方がない。彼女たちは生まれた時から守られて来たのだから。戦い方を知らないのだ。

 十分ほどすると担任の先生が来て、転入生を紹介した。正門前で起きたことが再び繰り返され、礼子はうんざりした。初めての場所に彼を連れて行くたびにこの脱力感を味あわなくてはいけないのかと思うと、始まったばかりの十日間が十年にも思えた。
 続いて始まった大嫌いな数学の時間を、礼子は欠伸を噛み殺しながらやり過ごした。一時限目にこの科目を持って来られるのは拷問だと思うのは、自分の育ちが悪いからだろうか。
 クラス朝礼で紹介された彼は、礼子の斜め後ろの席に陣取って、油断なくこちらを見ていた。彼が同じクラスに入れたのは、多分父親が手を回したのだろう。父はこの学園の理事の一人なのだ。
 退屈な授業が終わって休み時間、いつもは一人で文庫本を眺めて過ごすのだが、その日はそれが許されなかった。美貌の転入生に群がった生徒たちがうるさくて、本の内容がちっとも頭に入ってこなかったのだ。

「美奈子様は礼子様の御親戚と聞きましたけど、同じ名字ですのね」
 九条美奈子と言うのは彼の偽名だ。学校に転入するのに誰かの戸籍を借りたかでっち上げたかしたのだろう。
「この学校は気に入りまして?」
「ええ。とても素敵な学校ですわね」
「まあ、よかった。よろしかったらお友達になってくださいな」
「よろこんで」
 彼の関心を引こうと何人ものクラスメイトが彼に話しかけ、彼は卒なくそれに答えていた。普段警察でどんな仕事をしているのか、あの板に着いたお嬢言葉はいったい何処で習得してきたのだろう。

「美奈子様がいらしてくださって、久しぶりに華やいだ気分になりましたわ。このところ、嫌なことばかり続いたから」
「まあ、貴子様ったら。美奈子様はこちらにいらしたばかりなのにそんなこと」
「噂は伺っておりますわ。学園に吸血鬼が出るって」
 ざわめいて眉を顰めたのは、彼の近くにいた生徒だけではなかった。皆なるべくその話題には触れないようにしてるのに、無神経な男だ。基本的に此処にいる娘は温室育ちの甘ちゃんで、だから本気で吸血鬼を怖がっている娘もいたりする。礼子の隣の席の娘に至っては真っ青になっていた。見かねて礼子は席を立った。
「そんな噂を信じてらっしゃるの? 案外ロマンチストなのね、美奈子さんは」
 皮肉っぽく言うと彼はコロコロと笑って、だからそれ止めてってば。みんな見惚れてるけどそいつ男だからね。「鈴を転がしたようなお声ですこと」ってパンツ脱がしたら股間に鈴がぶら下がってるからね。

「まさか。吸血鬼なんてこの世にはいませんわ。人間の仕業でしょう」
 彼が断言すると、ざわめきはますます大きくなった。みんな不安で仕方ないのだ。だって被害者はこの学校の生徒ばかりなのだから。いつ自分に白羽の矢が立たないとも限らない。漠然とした恐怖に日夜晒されているのだ。
「恐ろしい」「一体どこの変質者かしら」「この学園の生徒ばかりが狙われるのは何故でしょう」
 口々に不安を零す彼女たちを彼はじっと観察していた。その眼光の鋭さで分かった。彼がボディガードという名目でこの学校に何をしに来たのか、礼子はその時、初めて理解したのだ。
 礼子の意味深な視線に気付くと彼は頬を緩め、見事な作り笑顔で言い放った。
「わたくし、この事件にとても興味がありますの。被害に遭われた方々のことや事件当時のこと、どんな小さなことでもお聞きしたいわ」
「物見高い方ね。生憎わたしたちは、物騒な話は致しませんの」
 利用されてたまるかと、礼子は思った。薪が険悪な目でこちらを睨んだが、気付かない振りをした。

「随分冷たい言い方ですこと。礼子様は美奈子様と御親戚なのでしょう?」
 彼は警察のスパイよ、と叫んでやりたかったがその気も失せた。横やりを入れて来たのが三角貴子だったからだ。彼女はこのクラスにおける礼子排斥グループの筆頭者。勝手に騙されて利用されればいいと思った。
「ああ、そうでしたわね。親戚と言っても血の繋がりはございませんのよね」
 貴子はクスリと嫌な笑い方をし、礼子に見下す視線をくれた。
「私も事件のことはとても気になっておりますのよ。美奈子様とは気が合いそうですわ」
「まあ嬉しい。いろいろ教えて下さいな」
 ぷいとそっぽを向いて、礼子は教室を出た。これから十日間は休み時間を廊下で過ごすことになりそうだ。憂鬱になって彼女は、重苦しいため息を吐いた。






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イヴに捧げる殺人(5)

 こんにちは。
 今日から連休の方、多いですよね。みなさん、行楽なさるのかしら。お天気に恵まれますように。

 わたしは遠出の予定はありませんので、真面目に更新を……あれっ、4月って記事6つ?
 なんで現場出てた時と数変わらないの? ←当事者の言葉とは思えない無責任さ。

 すみません~、5月はがんばるです~。
 でも今日は映画に行ってくるねっ。右京さん、今行くよー!






イヴに捧げる殺人(5)






「美奈子さま。ちょっとお話が……あの、美奈子さま、あのっ」
 それが自分に対する呼び掛けだと気付くまで、4秒ほどかかった。その時薪はよんどころない事情で焦っていて、つまり生理現象だ。潜入捜査とはいえ、さすがに生徒たちがたむろしている女子トイレには入れない。考えた挙句、日中は使われていない講堂か体育館のトイレを使えばいいと思いつき、校舎外に走り出そうとしていたのだ。
「はい」と淑やかに返事をして振り返る。薪を呼びとめたのは、ストレートの黒髪を背中に垂らした大人しそうな女の子だった。同じクラスの、名前は確か更科柚子。席は礼子の隣だ。
「更科さま。なにか」
「もう私の名前を? 優秀でいらっしゃいますのね」
 褒め言葉には微笑みだけを返し、心の中で、あなたのお父様の会社の住所まで知ってますよ、と薪は答えた。一応ね、と中園から渡された資料の中に、礼子のクラスメイトたちの履歴書があった。すべてインプット済みだ。

 廊下の隅に連れて行かれ、お喋りを楽しむ他の生徒たちの眼から隠される。普通の学校なら新入りに対するヤキ入れだが、ここは天下のお嬢様学校。そんな野蛮なことはしないだろうと思う一方で、礼子がイジメを受けている事実を思い出す。ガキのやることなんて、金持ちも庶民もあまり変わらないのかもしれない。
 私のことは柚子とお呼びになって、と微笑んだ後、彼女は口ごもった。言おうか言うまいか迷っている素振り。どうでもいいから早くしてくれ、と言いたいのをぐっと堪える。

「あの、こんなこと、言っていいのかどうか」
「遠慮はいりませんわ。どうぞおっしゃって」
 薪が促すと、柚子は意を決したように顔を上げ、きゅっと唇を引き結んだ。
「礼子さまとは、あまり親しくなさらない方がよろしいと思います」
「何故ですの?」
「礼子さまはその、お可哀想なことに苛めにあってらして……」
「一緒にいるとわたくしまで巻き添えになると? それはご親切にありがとう。でもわたくしは礼子さまとは小さい頃からとても仲良しでしたの。そんな状況ならなおさら、礼子さまの支えになって差し上げたいわ」
「違います。それだけなら私だってこんなことは申しません」
 強く言い返されて、少したじろぐ。マスク越しで話をしているようなホワホワした声しか出せない連中だと思っていたが、例外もいたらしい。薪は改めて彼女を見直し、彼女の黒い瞳に振り絞った勇気を見つけた。

「先ほど、美奈子さまがおっしゃった吸血鬼事件。被害者は3人とも、礼子さまを苛めていた生徒なんです」
「ほう。それは面白い」
「えっ?」
「あ、いえ、そうなんですの。それは初耳ですわ」
 有力な手掛かりに、思わず素が出てしまった。慌ててお嬢様の仮面を被り、薪は咳払いでその場をごまかした。幸い、柚子はそれ以上薪の失言を追求することはしなかった。この辺がお嬢様だ。これが雪子ならここぞとばかりに突っ込んでくる、絶対。
「最初に被害に遭われた三宅裕子様、二人目の遠峯千尋様、そして三人目の岸谷千秋様。みんな礼子様にひどいことを……だから、礼子様は事件と何か関わりがあるんじゃないかって」
 柚子は眼を伏せ、長い髪で顔を隠すように俯いた。それから弱々しい声で、
「あの方に近付くと血を抜かれて殺されてしまうって。クラスでは噂になってるんです。だからクラスであの方に近付く生徒はおりません」
 育ちの良さ以上に。不安が彼女を追い詰めていたのだろう。その中で、彼女は薪の身を案じて忠告してくれたのだと知った。

「大丈夫。こう見えてもわたくし、とても強いんですの。礼子さまはもちろん、柚子さまのことも守って差し上げますわ」
 薪はにっこりと笑い、柚子の小さな肩に手を置いて顔を近付けた。それは子供を安心させるときに青木がよくやっている仕草で、でも薪がやるとまったく別の効果を表す。すなわち柚子はぽーっと顔を赤らめ、つまり彼女にはこれから自分の性癖を疑い悩むと言ういささか可哀想な未来が待っている。色んな意味で罪作りな男である。

「ではこれで。わたくし、休み時間中に行きたいところがありますの」
「あら、どちらへ? よろしかったらご案内しますわ」
「ありがとう。でも大丈夫ですから」
 着いてこられたら身の破滅。これから毎日トイレに行くたびにハラハラしなきゃならないのかと思うと悲しいやら情けないやら。さらには自分のこんな姿を想像して意地の悪い上司が嗤っていることも予想がついて、そうしたら今度はひどく腹が立ってきて今すぐにもこの太腿にまとわりつくスカートを脱ぎ捨ててここから立ち去りたい衝動が沸き起こり。
 それらすべてを薪は、3日後の土曜日、自宅を訪れるはずの恋人をいじめ倒す手段を考えることで押さえつけた。



*****




 薔薇の花が華やかに踊るティーカップを、礼子は乱暴にソーサーに置いた。ガチャンと痛々しい音が響く。エルメスの限定品とか知ったこっちゃない。
「あの男。マジでムカつく」
 礼子の苛立ちの原因は臨時雇いのボディガード。初日から気分は最悪だ。
「どうしてそんなに薪さまのことをお嫌いになるんです? あんなに綺麗な方なのに」
「だから、気持ち悪いって言ってるでしょ」

 雇われ人のくせに上から目線だとか口の利き方が超生意気だとか、彼を不快に思う要素は他にもあるし、心の底では礼子も彼の美しさを認めている。礼子が彼を遠ざけたいと思う、本当の理由は別にある。
 それは彼の気品だ。
 彼の内面から滲み出る優雅さは本物だ。自分のように、上っ面だけの紛いものではない。クラスメイト達と同じ本物だけが持つ品の良さ。自分には決して得られないそれを持っている彼が、礼子には妬ましくて仕方ないのだ。

 礼子は九条家の本当の娘ではない。生物学上の親は顔も知らない。
 孤児という境遇に幼い頃は苦労したが、施設から九条家に引き取られ、それからは何不自由なく育ててもらった。養父が行かせてくれたお嬢様学校も養母が用意してくれた服も、習い事も友だちもまったく趣味ではなかったが、文句を言ったら罰が当たると思った。施設の暮らしに比べれば、ここは天国だ。
 養父母には感謝しなければ、といつも自分に言い聞かせていた。どんなことをされても我慢して、彼らの恩に報いようと思っていた。
 それは幼い頃からの礼子の決意ではあったが、時に我慢の限界を超えそうになった。特に子供の頃は、その純粋さ故に傷つくことが山ほどあった。慣れない上流階級の暮らしやしきたり、来訪者たちの物珍しそうな視線と嘲りの笑み。幼い礼子は彼らの悪気のない態度や言葉に自分を否定され、陰で涙を流した。
 そんなとき、礼子を慰めて元気付けてくれたのがユリエだ。彼女は小間使いで、当然庶民だ。だから礼子とは話が合ったし、気持ちも通じた。その頃はユリエが礼子の支えだったのだ。
 一人寝に慣れていない礼子のために、嵐の晩はそっとベッドに潜んできてくれた。夜が更けるまでお喋りに興じていたから翌朝寝過して一緒に寝ているところを見つかってしまい、執事の高田にめちゃくちゃ怒られていた。それでも礼子が頼むと、添い寝してくれた。中学生になってからはそんなこともなくなったけれど、生まれのせいで学友たちとの間に常に溝がある礼子にとって、ユリエは使用人というよりは気の許せる友人であった。

 高等部に進んで、礼子は一人の女生徒と親しくなった。何度か家に連れてきて、ユリエと3人でお茶を飲んだりした。その彼女とも事件のせいで距離ができてしまったが、彼女を大事に思う礼子の気持ちは変わっていない。

「お代わりはいかがですか?」
「ありがと」
 ユリエがティーポットを傾ける。細い注ぎ口から流れ込むうっとりするような赤色を、礼子はしげしげと見つめた。
 新しいお茶を一口含んで首を捻る。どうしてユリエが淹れるローズヒップはこんなに美味しいのだろう。酸味はあるがまろやかで、何とも言えないコクがある。何処に出しても恥ずかしくない味だ。
「同じ茶葉なのに。なんであたしが淹れると酸っぱくなるのかしら」
「性格が出ますから」
 思わず舌打ちする。小さい頃のあれやこれやを知られている分、ユリエは礼子に遠慮がない。

 そう言えば、あの娘が淹れたお茶は優しい味がした。
 お茶の味に人柄が出ると言うのは本当のことかもしれない。正確には育ちが出るのかも。
 九条の家に引き取られたばかりの頃、料理の味付けが薄いことに驚いた。良質の材料を使えば調味料を多用せずとも十分な旨味が得られる。が、普段安手の材料ばかり使っている人間はその引き出し方を知らないから、ついつい調味料に頼る。それと同じで、茶葉の入れすぎとか時間の置き過ぎとか、礼子が気付いていないミスがあるのかもしれない。

「結局は血が違うのよね……」
 礼子の自嘲めいた呟きを、ユリエはいつものように聞こえなかった振りをしてくれた。





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イヴに捧げる殺人(6)

 こんにちは。
 GW、楽しんでますか~?
 お仕事中の方はご苦労様です。

 わたしのGWは、映画2本立てでした。
「相棒」と「テルマエ」。 どっちも面白かったです。
 個人的には「相棒」の方が笑ったかな。右京さんの変人に磨きがかかってます。まあ、あれも計算のうちなんでしょうけど。

 そう言えば、昨日は結婚記念日だったんですよ。
 去年の結婚記念日も映画を観に行ったんですけどね、その時が「藁の楯」で今年が「相棒」。我ながらシュールなアニバーサリィチョイスだなあ(^^;

 青薪さんにも、結婚記念日(家族になった記念日)ってあるのかしら。
「今日は薪さんが初めてオレの家にいらした日ですから」とか言って3人でお祝いすればいいと思うの。だれか書いてください。 




イヴに捧げる殺人(6)







 支度をしてドアを開けたら青木がいて、うわっと仰け反られた。無理もないと思った。40男のセーラー服なんて薪だって卒倒する、ていうか、条例違反でトラ箱にぶち込む、絶対。

「悪い。驚かせた」
 薪が謝ると青木は慌てて首を振り、
「落ち着いて見れば大丈夫なんですけど、いきなりだとドキッとしますね」と自分の動揺を恥じるように言った。
 醜悪だという自覚はあった。青木は薪の女装は何度も見ていて、つまりは免疫がある。その青木ですらたじろぐような姿なのに。
「おまえがドン引くほどヒドイ格好なのに。不思議だよな、どうしてバレないんだろう」
「いえあの、衣装に驚いたんじゃなくて。要はですね、全世界美少女コンテストの優勝者が突然目の前に現れたら誰だってびっくりするでしょう?」
「美少女コンテストの優勝者? そんな娘とどこで知り合ったんだ?」
「いや、そうじゃなくて」
「僕にも紹介しろ」
「……もういいです」
 訳の分からない事を言い出したと思ったら勝手に会話を終了させて、これだから最近の若い者は。世界一の美少女は何処へ行ったんだ。
 まあいい。薪の好みは成熟した大人の女性だ。背は低めでちょっとぽっちゃり系。他のことはあまり拘らないが、胸はCカップ以上が必須条件。未成年者は対象外だ。

「お嬢様ってのは温室育ちだからな。どこかズレてるんだろうな」
「薪さんには言われたくないと思いますけど」
「何か言ったか」
「いいえ、なにも」
 青木はついと眼を逸らし、薪の追及を逃れた。昔は蛇に睨まれたカエルよろしく冷汗を流すばかりだったのに、最近は空っとぼけるようになった。
 この制服を着るのも4日目だ。さすがに慣れてきて、スカーフを結ぶのも早くなった。おかげで今朝は時間が余って、薪はその空白を2杯目のコーヒーで埋めることにした。昨夜青木が此処に泊った、ということは薪は当然寝不足だ。いつもより多くのカフェインを摂る必要があった。

「調査の方はいかがですか」
 お湯をドリッパーに注ぎながら、青木は現在薪が携わっている事件について尋ねた。青木の問いに、薪はきらっと眼を輝かせ、
「面白いことが分かったぞ」と遠足に出掛ける前の子供のように笑った。
「彼女は間違いなく苛めの被害者だ。それも多数の人間から苛めを受けていた」
「受けて、いた?」
 言葉尻を捉えて青木が聞き返すと薪は満足そうに頷き、次いで青木が差し出したコーヒーを鼻先に近付けて、夢見るように微笑んだ。その美しい微笑み。やわらかな線が織りなす、いっそ夢幻の世界にしか存在しないかのような美貌。
 しかしながら、その花のような口元からこぼれる言葉はひどく現実的で、青木は彼が作り出すギャップと混沌にいつも眩暈を覚える。

「吸血鬼事件の被害者は3人とも、彼女を苛めてた生徒なんだ」
「えらい偶然ですね。捜一の見解はどうなってるんですか?」
「それが件の学園は男子禁制で、生徒たちは男性に免疫がなくてな。捜一の連中が彼女たちに話を聞こうとすると、一様に口を噤んでしまうらしい。だからこの事実は未だ掴んでないと思う」
「潜入捜査のお手柄というわけですか。苦労した甲斐がありましたね」
 昨夜、ベッドに行く前の前哨戦が行われたソファで仕事の話をする。そんな日常にもだいぶ慣れた。
「じゃあ、その子が犯人なのかもしれませんね。苛めに耐えかねて、衝動的に相手を殺してしまった」
「被害者は身体中の血を抜かれてるんだぞ。頭も丹念に潰されてる。子供にできるとは思えないが」
「それは彼女の犯罪を隠そうとして、周りの大人たちが。子供にはできない、と思わせることが目的なんですよ」
「だとしても親は無関係だ。中園さんにボディガードの斡旋を頼んできたくらいだからな」
「父親だけが知らないのかも。母親や使用人たちがグルになってて」
「そろそろ時間だ」
 薪はふいに席を立った。薪が話を打ち切きったということは、青木の推理は却下されたと言うことだ。薪の琴線に響かないなら、この線は誤りなのだろう。青木は思考をリセットし、鞄とコートを持って彼の後を追いかけた。

「あの。苛めの方はまだ続いてるんですよね。放っておいていいんですか」
 車の後部座席に収まった美少女にミラー越しに話しかけると、思いもかけない答えが返ってきた。
「首謀者を絞り込むことはできると思うけど、注意したところで苛めがエスカレートするだけだろう。何より、本人が戦う気マンマンなんだ」
「マンマンですか」
「代議士のお嬢さんで苛めに遭ってるって言うから、風が吹いただけでも泣くような女の子を予想してたんだけど。まるで違ってた」
 ミラーの中で薪は微笑んだ。相手を好ましく思っているときの笑み。子供のお守なんてまっぴらだと、初めはあんなに嫌がっていたくせに。野良猫も3日飼えば情が移るというやつか。

「施設にいたらしくて、小さい頃から苦労して育ったみたいだからそのせいかもしれないけど。必死に強がる様子が、なんか可愛くてさ」
 薪に邪心はないのかもしれないが、青木は穏やかではない。薪は青木の恋人だが、同性愛者ではない。普通に女性が好きなのだ。その証拠に、可愛い女の子がいれば自然にそちらを見る。今もちらっと右側を見た、視線の先にはバス停でバスを待つOL。ふっくらしたくちびるがキュートな女の子だった。
 そんな彼が女の園で潜入捜査。仕事とは言え、楽しくないわけがない。
 嫉妬心に煽られて昨夜は少々無理をさせてしまった。鏡の中で彼が発した大あくびはその証。自覚はあるが反省する気になれないでいる。ヤキモチは謙虚さを遠ざけるのだ。

「それと、あの子には何か秘密がある」
「秘密? それはさっきオレが考えたようなことで?」
「おまえの言う通り、彼女は事件に関係してる。被害者の接点が彼女なんだからな。でも彼女の秘密は事件とは無関係だと……いや、もしかしたら」
 薪は右手の拳を口元に当て、視線を虚空に据えて固まった。推理を巡らせるときのポーズ。表面は静かだが、彼の頭の中では目まぐるしい速度で仮説とそれに基づく論理展開がなされているに違いない。
 それから学校までの約20分、薪は黙りこくって思考を続けた。その間、彼は声も発せず身じろぎもせず、窓の外を見ることもなかった。




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イヴに捧げる殺人(7)

 こんにちは。
 前の記事から10日も過ぎちゃいましたね(^^;)
 どうしてこんなに日が経つのが早いんだろうっ。←万国共通ナマケモノの言い訳。

 うーんとね、実は、実家のおばあちゃんが心筋梗塞で入院したんですよ。
 最近、寒暖差が激しかったし、もう年だからね~。96歳だもん、心臓も疲れるよね。
 そんなこんなで、少しワタついておりました。

 更新を待ってくださってる方、もしもいらしたらゴメンナサイでした。
 続きですー。





イヴに捧げる殺人(7)





「柚子さま。お聞きしたいことがあります」
 体育館の壁の前、ジャージ姿で薪は、自分と同じように隣に座った女生徒に話しかけた。コートではバスケットボールの試合が行われており、広い空間にはドリブルの音とバスケシューズが激しく床を叩く音が響いていた。
 楽しそうでいいな、と薪は軽い羨望を彼女たちに抱く。ジャージならともかく、ここの体操服はブルマなのだ。穿いたら一発で男だとばれてしまう。体育の授業は見学で通すしかない。隣の柚子は生まれつき身体が弱いらしく、激しい運動は医者に止められているそうだ。おかげで彼女に話を聞くことができる。

「なんですの」とこちらに顔を向けた柚子の声を掻き消すように、わっと歓声が上がった。輪の中心にいるのは、驚いたことに礼子だった。
 運動神経が良い、と自慢していただけあって、礼子のプレイは群を抜いていた。周りがおっとりしたお嬢様ばかりだからかもしれないが、薪の眼から見ても俊敏な動きだった。特にドリブルは巧みで、コートの端から端まで3人抜きでシュート、などというスーパープレイも見せてくれた。今のはそれに対する称賛の声だ。
 バスケなんて何年もやってないけど、もともと好きなスポーツだからついつい試合に眼を奪われる。活発に動く若い女性の身体は男の薪から見れば魅力的だ。食べ物のせいか最近の子は発育が良くて、胸やお尻も成人女性と同格以上だ。ハーレム気分なんでしょう、と青木にベッドの中で詰られて、「彼女たちはまだ子供だ」と否定したけれど。中にはそちらの方面の成熟を感じさせる娘もいる。間宮じゃないけど、見れば何となくわかる。男を知っている女の身体。

「あの、美奈子さま?」
「はい?」
「私に聞きたいことって」
 自分から話しかけたくせに彼女の存在を忘れていた。気付いて薪は、コホンと咳払いをした。

「礼子さまを苛めている生徒のこと。詳しく教えていただけませんか」
「先生におっしゃるつもり?」
 情報の出所が自分だと分かれば、今度は自分が標的になる。その恐れが柚子の口を重くした。俯く彼女に、薪はそっと身体を近付けて、
「わたくし、考えましたの。もしも今現在礼子さまを苛めている生徒がいれば、次はその生徒が吸血鬼に狙われるんじゃないかって」
「まさかそんなこと」
「どうしてですか? 被害者の3人が3人ともイジメをしていた生徒なら、次の犠牲者もきっとイジメをしている生徒だとわたくしは思います」
「それもそうですわね……分かりました、お教えします。でもあの」
「大丈夫。あなたから聞いたことは決して誰にも言いません。わたくしたちだけの秘密ということで」
「美奈子さまと私だけの」と顔を赤らめる柚子に、薪はダメ押しとばかりに微笑んだ。彼女の好意を利用するようで気が引けるが、潜入捜査とはこういうものだ。非情でなければ務まらない。非情な人間ならこの任務自体を断れたはずだが、そこは触れないでおくことにした。

 柚子から聞き出した情報によると、礼子を苛めていた生徒は7人。首謀者を含む3人が死んだことで、彼女への苛めは現在は止まっている。次に狙われるとしたら残りの4人の誰かである可能性が高い。薪は被害者候補の名前とクラスを聞き出し、頭の中にメモをした。

 最初に殺人が起きたのが2ヶ月前。2回目がそれから2週間後。3回目がさらに3週間後。最後の殺人から、そろそろ一月が経とうとしていた。
 最初はともかく、2番目3番目の事件の際には被害者たちも警戒していたはずだ。良家の子女なら尚更、単独行動を取らないよう人の少ない場所に行かないよう、親に注意を与えられたに違いない。そんな彼女たちが人知れず連れ去られたのは自ら人気のない場所に赴いていた、つまり自分が人に見られたらまずいことをしていたからではないか。
 被害者は殺される前に陰に隠れて礼子を苛めていた。家や学校では良い子で通っているのだ。人に見られない場所を選んだはずだ。そして被害に遭った。
 そう考えると、やはり犯人は礼子の関係者か。しかし、子供が苛められたからと言ってその相手を殺すか? 現場を押さえたなら、教師や相手の親にその証拠を叩きつければいい。両親は除外される。彼らは苛めの事実を疑ってはいたが、確証を持てずにいたからだ。
 ならば、礼子の使用人たちはどうだ。
 あの家には執事、ボディガード、小間使い、家庭教師に下男、と言った使用人たちが礼子と一緒に暮らしている。例えば小間使い。年が近い誼で、親には言えないことも彼女には話したかもしれない。主人の為に復讐を誓った小間使いが――。

「ないな」
 ちっ、と舌打ちして、薪は首を振った。どこかの執事話ではあるまいに、ご主人さまのために人殺しまでする使用人がそうそういるとは思えない。苛めは学内で行われているのだから、それを使用人たちが把握しているのも変だ。
「み、美奈子さま?」
 しまった。地が出た。
 この柚子と言う子は大人しくて目立たないから、つい居ることを忘れてしまう。空気みたいな娘だ。こういうのをエアー女子と言うのだろう。いつの間にかクラスからいなくなっていても誰も気付かない。遅刻やサボリには最適な能力だ。育ちの良い彼女はそんなことはしないだろうが。

 にこっと笑ってごまかした。相手もつられて微笑む。猜疑心の少ないお嬢様は扱い易い。こういうのが人攫いにとっ捕まって外国へ売られるのだ。自室に酒やタバコを隠し持っているなどとんだ不良娘だが、礼子の方がずっとしっかりしている。自分の意見を持っていて、それをハッキリと言葉にできる。良い子ではないが、頼もしさを感じる。
 ふと思った。柚子のような女の子の眼に、礼子はどんな風に映るのだろう。
 そっと隣を伺えば、真剣に試合を見つめる柚子の姿。よくよく観察すれば彼女の視線は一人の女生徒に固定されており、それはつまりコート上で一番活躍している選手だ。柚子の黒い瞳は羨望と憧憬で満たされ、ふっくらとした丸い頬には朱が上っていた。
 体の弱い少女にとって、スポーツ万能の礼子は憧れなのだろう。更に観察すれば、礼子を同じような眼で見ている生徒は他にもいて、要するに、彼女は苛めを受けていても嫌われ者ではない。誰も彼女に話しかけないのは事件の関与を疑って、或いは巻き込まれるのを懸念した親たちの訓戒に素直に従っているものと思われた。

 礼子は育ちの違いを気にしているようだったが、周りにはそれを介しない人間もたくさんいる。一部の狭量な観念を持った生徒たちが彼女を苛めていたのだ。なのに彼女は。
 ――そうだ。彼女はあのとき何と言った?
『彼女たちとは流れてる血が違うのよ』
 薪が初めてこの学園に登校した朝、正門から昇降口までの短い会話で、彼女はこう言ったのではなかったか。

「血か」
「え? 何かおっしゃいまして?」
 隣で柚子が尋ねたが、答えるのも面倒で無視した。
「美奈子さま、あの、お加減でも?」
「ちょっと気分が。わたくし、保健室に参ります。先生には柚子さまから伝えてください」

 薪は仮病を使って体育館を出た。推理を組み立てている最中に邪魔されるのが一番頭にくる。幸い授業中だ。校舎裏にでも行けば誰にも邪魔されずに考えることができるだろう。
 ところが、体育館から校舎に向かう途中、守衛に見咎められた。授業中に気分が悪くなったので保健室へ行く途中だと言うと、一人では危ないからと付き添われてしまった。藪蛇もいいところだ。

 良家の子女を預かるだけあって、この学校のセキュリティはしっかりしている。
 学校の門は3つ。そのそれぞれに守衛室があり、外部からの訪問客はそこで必ず、住所氏名訪問先、訪問の目的を記載した届出書を身分証明書と一緒に提出しなければならない。守衛は届出書に基づいて訪問先に連絡を取り、訪問の目的が虚偽でないことを確認する。帰りは訪問先の印鑑を書類に貰ってくることが条件だ。
 つまり、内部の人間と通じていないと外部から侵入することは難しい。そして薪のように単独で校庭をうろつくものがいれば、生徒であれ父兄であれ、守衛が寄ってくる。
 加えて今は、腕に覚えのある多数のSPがいる。生徒のボディガードを務める彼女たちは、校舎内に幾つかの部屋を与えられ、そこに待機している。薪と同じように無線の警報受信機を持っており、ご主人さまからの一報があればすぐさま駆けつけると言う段取りだ。

 この状況下では犯人も手出しができないのか、ここ一月、新しい被害者は出ていない。ボディガードの同伴を学校側が許可した時期から犯行が行われていない、その事実は、学内に犯人がいると言う中園の推理を裏付けるものであった。
 薪もその推理に概ね賛成だった。その線で探りを入れてみたが、犯人らしき人物は一向に浮かんでこなかった。
 犯人は大人である可能性が高いと、薪も最初は思っていた。教員、用務員、学園に出入りしている業者。それらの中の誰かが、と、それはしかし捜査一課の見解も同様で、彼らからは十分な事情聴取とそれに基づいた裏付け捜査が為されていた。
 残る学校関係者は生徒たちと父兄。そして3人の被害者を結ぶ糸が礼子が受けていた苛めだとすると、捜査対象は絞られてくる。

 礼子の周りに犯人がいる。1週間の潜入捜査の末、薪が出した結論だった。

 学内には彼女の友人は見当たらないから、家の者かもしれない。両親も使用人たちもそこまでのことをするとは思えなかったが、薪の知らない秘密があるのかもしれない。あるとしたらおそらく、それは礼子の抱える秘密と密接な関係がある。
 礼子の自宅に探りを入れてみようと思った。自宅の警護は任務外だが、父親に報告があると言えば訪問の理由はできる。
 父親にアポを取ろうとして、薪はそれを途中で止めた。
 行くなら不意打ちだ。自分はあの家に探し物をしに行くのだから。
 人間は不意を突かれると、隠しておきたいものに対して不自然な行動を取る。視線がその付近を何度も行き来したり、逆にその場所だけを見なかったり。人を観察することで隠しているものの種類や重要度が分かる。刑事である薪にはそれを見抜く力がある。

「ありがとうございました」
 昇降口まで送ってくれた守衛に礼を言い、薪は教室へ戻った。体育の授業はまだ30分くらい残っている。無人の教室は九条家の捜索計画を立てるのに持ってこいだ。

 何の気なしにドアを開けて、咄嗟に立ち竦んだ。教室の中に人がいたのだ。
 その人物は、机の上に出した学用品に墨汁を降り注いでいた。礼子の席だった。
「何をしている」
 反射的に厳しい声が出た。びくっと身体を強張らせた少女が、怯えた顔で薪を見た。黒髪のおかっぱ頭で色白の少女、このクラスの生徒ではない。先刻、柚子に教えてもらった残り4人のうちの誰かか。

 彼女は身を翻し、薪が現れたのとは反対のドアから逃げ出そうとした。咄嗟のこととはいえ、それを逃がす薪ではない。彼女がドアに行き着く前に、彼女の細い手首は薪の右手にがっちりと拘束されていた。
「お願い、見逃して」
 彼女が持って逃げようとした墨汁の容器に、クラスと名前が書いてあった。C組、水島智子。思った通り、柚子が名を挙げた生徒の一人だった。

「黙っていてあげるから、ひとつ教えて」
 薪の提案に、彼女は訝しそうに顔を上げた。助かるかもしれないと言う一縷の希望と、後悔に歪んだ顔。彼女には自分が悪いことをしている自覚がある。
「頷くだけでいいわ。あなたにこれを命令したのは」
 薪がある女生徒の名を口にすると、彼女は狼狽し、うろうろと目を泳がせた。それで充分だったが、薪は彼女の返答を待った。
 彼女はやがて、すべてを観念したように力なく頷いた。





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イヴに捧げる殺人(8)

 こんにちはー。

 おかげさまで、実家のお祖母ちゃん、退院しました。
 お見舞いくださった方、ありがとうございました(^^


 またまた更新が空いてしまったしづですが、今回は放置していたわけではなく。新しいお話を書いててそっちに夢中になってブログを放ったらかしに、あれ、やっぱり放置ですね、すみません。

 4月中も、お花見の話とか青薪さんが夜中に雪を眺める話とか、ぼちぼち書いてたんですけどね。さっぱり筆が進まないわ、ブランクできちゃったからな~とその時は思ってたんですけど、
 やっぱりネタだね! ドS話だと筆が走る走るw
 というわけで、只今40Pお話の中盤、岡部さんと青木さんは爆弾で吹っ飛ばされて生死不明、薪さんは変態殺人鬼の毒牙に掛かろうとしております。
 いつも自分だけ楽しくてすみません(>▽<)







イヴに捧げる殺人(8)





 その日、自宅に戻った礼子は真っ直ぐに自分の部屋に向かい、机に向かって宿題を始めた。
 教科書の内容がちっとも頭に入ってこないのは、課題が礼子の苦手な数学だからではない。「ただいま」の挨拶をしに養父母の部屋を訪れると、そこには養父だけがおり、養母が不在だったからだ。
 婦人会の集まりで、今夜は遅くなるそうだ。養母は後援会の会長も務めているし、付き合いも広い。養父ほどではないが、夜、家を空けることも多かった。
 要するに、夕食は養父と二人きり。大分日も空いているし、今夜は確実だと思った。
 いっそのこと、泥酔して寝ててやろうか。できもしない抵抗を思いつくが、あの男がそれを歯牙にも掛けないことは、自分がそれを為せないこと以上に明らかだった。相手は礼子の意志などどうでもいいのだ。自分はただの人形。そのために引き取られたのだと今では分かっていた。

 身体の関係ができたせいか、礼子は義父のことを義母以上によく知っていた。見栄っ張りで小物の性格も、篤志家の仮面の裏で様々な悪事を働いていることも。
 今日のようなたっぷりと時間の取れる夜、礼子は義父の部屋に呼ばれる。部屋には常時鍵の掛かっているクローゼットがあるのだが、礼子はその中身を知っている。
 その扉は礼子にとっては絶望の扉だった。そこには女の身体を責め苛むための様々な性具と、義父の未来の政治資金に化ける粉が置いてあるのだ。礼子が義父に逆らわないのは、それを使われるのが怖いせいもある。性具だけならまだしも、薬漬けにされるのは嫌だった。

 ドアがノックされ、養父の声が聞こえた。ユリエが直ぐにドアを開け、何事か言い付けられて部屋を出て行った。
 人払いされたことを知って、礼子は焦る。まさか、こんな時間から?

「ママから電話があってね。今日は夕食までに戻れるそうなんだ。家族3人で食事が取れるのは嬉しいけれど、パパは少しだけ残念な気分だ。礼子もそうだろう?」
 養父は机に向ったままの礼子の背後に迫り、後ろから礼子の身体を椅子ごと抱きしめた。シャープペンを握りしめたまま、礼子は身構える。声が漏れないように奥歯を噛みしめた。
「可愛い娘をがっかりさせるのも忍びなくてね。夜の予定を繰り上げることにしたよ」
 胸のリボンが解かれ、ボタンが外された。襟の隙間から手が入ってくる。ごつごつした男の手。吐き気がした。
「おまえも期待していただろう?」
 養父の息が耳に掛かる。ヤニ臭い男の息。腹の底から嫌悪感が這い上がって来る。このペン先を無粋な手に突き立ててやりたい。
「さ、早く脱ぎなさい」
 養父の性的虐待が始まった当初は、礼子はなんのかんのと理由を付けてそれを拒もうとした。そして学んだ。抵抗しても不快な時間が伸びるだけだ。素直に言う事を聞いて、さっさと終わらせた方がいい。
 諦めて、礼子はシャープペンを机に転がした、その時だった。

「礼子さま。入りますよ」
 入りますよ、と言った時には既に薪は部屋のドアを開けていた。養父が泡を食って礼子から離れる。思わず噴き出しそうになった。
「九条先生もこちらでしたか。ちょうどよかった、先生に報告があって来たんですよ」
「き、君っ、案内もなしに失礼じゃないか!」
「すみません。インターホンを鳴らしても、誰もお出にならなかったので。勝手に入らせていただきました」
 嘘だ。インターホンは鳴らなかったし、玄関には鍵が掛かっている。
 驚くべきは彼がこの部屋に自力で辿り着けたことだ。九条邸は迷路屋敷の異名をとる建物、道順を知らない者にとって主要な部屋に行くのは至難の業だ。からくり屋敷のように入り組んだ廊下と階段が、泥棒避けにもなっているくらいだ。

 躊躇う様子もなく部屋の中に入ってきた彼に、養父は太く短い指を突き付け、だぶついた頬を赤くして彼を糾弾した。
「そんな嘘が通るとでも、――っ」
 ずい、と美しい顔が迫ってきて、養父は言葉を飲んだ。彼の美貌は氷の冷気と凄味を持っていた。
「どうやらインターホンが故障しているようですね。早く修理された方がよろしいですよ。でないと」
 完璧に整った顔が凄まじく微笑む。草食系なんて誰が言ったんだか、彼は立派な猛獣だ。
「不用意に入って、見てはいけないものを見てしまう輩がいないとも限りませんから」
 言外に、見たぞ、と言っている。養父の顔が青ざめて行くのが痛快だった。
「ど、どうかね、夕食でも。報告はそのときに」
「ありがとうございます。では後ほど」
 養父がそそくさと部屋を出ていくと、彼は傲慢に腕を組んだ。冷たい眼で礼子を見る。蔑まれても仕方ないと思った。

「お礼を言うべきかしら」
「僕に感謝する気持ちがあるなら、君にはしなきゃいけないことがあるはずだ」
「お母様に黙っててやるから好きにさせろとでも?」
 寝てやる気なんか無かったけれど、ブラウスの前をはだけて見せた。彼の説教口調は礼子の神経を逆撫でする。大人しく話を聞く気にはなれなかった。
 彼の瞳は礼子の胸元を見ても冷たいままだった。見入るどころか呆れたように、
「最近の女子高生は進んでるって青木が言ってたけど、本当なんだな。まさか、お父上も君の方から誘ったのか」
「8歳の子供にそれができると思うなら勝手に思ってれば」
「そんなに小さい頃から?」
 あのクソ親父、と言う罵声が聞こえたが、気のせいかもしれない。彼の綺麗な顔には何の変化もなく、相変わらず上品でそんなことを言うように見えなかったから。

「なるほど。周り中とても話が合うとは思えない世間知らずのお嬢様ばっかりで、その上いじめにまで遭って。そんな学校にどうして君が行きたがったのか、分かったよ」
 彼は組んでいた腕をほどき、養父が解いて床に落としたリボンを拾って、何も書かれていないノートの上に載せた。白いノートに蛇のようにのたくった臙脂色のリボンは、酸化して黒ずんだ血液を思わせた。
「でも分からないな。君はいじめに負けないくらい強いのに、どうしてあんな親父の言いなりになってるんだ?」
 訳知り顔に言われて腹が立った。彼に自分の気持ちが分かるはずがない。この気持ちは、経験したものでないと分からない。
「生きていくためよ。世の奥さん連中だって自分が食べるために亭主に抱かれるでしょ。あたしがしてることもそれと同じ」
「全然違うと思うけど」
「あんたみたいに裕福な家庭に生まれ育ったお坊ちゃまには分からないわよ。夜ごはんも朝ごはんも誰かに奪られちゃって食べられなくて、学校の給食だけで何日も過ごしたことなんかないでしょ」
「さすがにそこまでの経験はないけど、僕の家だって裕福じゃなかったよ。小さい頃に親が死んで親戚の家に引き取られたんだけど、その家も借金がたくさんあってね。小学生の頃から家のことやら叔母の内職の手伝いやらで、遊ぶ暇もなかった」
 おかげで手先が器用になった、と微笑んだ彼を、礼子はしげしげと見直した。正直、驚いた。そんな幼少期でも、彼のような気品は身に付くものなのか。

「大人になって稼げるようになって、自分で自分の生活を賄うことの喜びを知った。君もそうすればいい」
「働けってこと? 無理よ、そんなの」
「無理なものか。もうすぐ十八だろう。立派に働ける年齢だ」
 君の年には僕はアルバイトで生活費を稼いでいたぞ、とそれは彼だからできたこと。とても優秀な頭脳と飛び抜けた容姿を持っている、そんな人間なら引く手あまたで、就職先にも困らなかっただろう。
「自立するんだ。この家にいちゃいけない」
「だから無理だって。あたしにできることなんて」
 自分には何の取り柄もない。家を出て働くと言っても、まともな職なんか見つかりっこない。結局は身体を売って生活している施設の先輩を、礼子は何人も知っている。要は、不特定多数相手に商売をするか一人に絞って商売をするかの違いで、だったら後者の方が倫理的にもマシではないか。

「いいか。君はもう非力な子供じゃない。大人の言いなりにならなければ生きて行けない、そんな弱い生き物じゃないんだ。勇気を出せ」
「放っておいてよ。あたしは今の生活に満足してるんだから」
「今のままでいいわけないだろ。好きな人ができた時、絶対に後悔するぞ」
 下らないことを言う男だと思った。
 好きな人? どこの世界の夢物語? 少なくとも、今までの自分の人生には無縁のものだった。
「誰も愛してくれないわよ、あたしのことなんて」

 そんなものは、物ごころ付くと同時に諦めた。礼子が純潔を失ったのは九条家に引き取られる以前のことだ。相手は施設の職員で、彼は礼子に「他の子には内緒だよ」と言って菓子や人形を与え、それを代価にして礼子の幼い身体をおもちゃにした。
 その当時、礼子は自分が何をされているのか分からなかった。ただ、これは秘密にしなければいけないことだとは感じていた。もしもこれが皆に知れたら、もうお菓子は食べられなくなる。その程度の認識しか持っていなかったどころか、他の子には与えられないお菓子が自分だけに与えられることに無邪気な優越さえ抱いていた。
 あれが性行為の真似事だったことを知った時、礼子は自分のしたことが恐ろしくなった。お菓子をくれた男性職員が自分の腹の上に撒き散らしていた白い液体が子供の元になる成分だと分かり、もしかしたら自分にも赤ちゃんができるかもしれない、そうしたら皆にこの事が知られてしまう。未だ初潮も迎えていない礼子に妊娠の可能性はなかったが、それを彼女に教えてくれる人はいなかった。
 さらに長じて、お金で自分の身体を売る女たちがいることを知った。娼婦と言うのよ、最低の職業よ、と施設の友人が話しているのを聞いたのだった。お菓子が欲しくて彼の言いなりになった礼子は、知らないうちに娼婦になっていた。

「気が付いたら汚れてた」
 知った時には手遅れだった。なんて愚かだったのだろうと、いくら悔やんでもこの穢れは消えない。
 今となっては顔も覚えていない男性職員を恨む気持ちはなかった。悪いのは自分だ。自分が何も知らないバカな子供だったから。
「あなたには、わたしの気持ちは分からない」
 今さら、自分の身の上を嘆こうとは思わない。なのに、どうしてか涙が溢れた。
 汚い人間には汚い人生しか歩めない。割り切ってすべて受け入れて、自分はこれからもそうやって生きていく。覚悟は決まっていたはずなのにどうしてだろう、彼の亜麻色の瞳を見ていると、心がぐらぐら揺れる。まるで。
『何があっても礼子さまをお慕いしております』
 生まれて初めてあの娘に言われた言葉を、胸のうちで反芻するときのように。

「分かるよ」と彼は呟いた。
「僕は取り返しのつかない罪を犯した人間だから。自分自身を呪わしいと思う、君の気持ちはよく分かる」
 彼の犯した罪がどんなものか礼子は知らなかったが、呪わしいと言う言葉には驚いた。彼のように美しく、優れた人間が自分を呪わしく思うことがあるなど、俄かには信じがたかった。
「でも、僕と君では状況が違う。僕はもう取り戻せないけど、君はまだまだやり直せる。君次第だよ」
「悪いけど、あたしの汚れは年季入ってるわよ。もう落ちないわ」
 諦めるには早すぎる年齢だと、そう言った意味合いの慰めならよして欲しい。若くてきれいなのは表面だけ、皮一枚、剥いだら下は汚物塗れだ。どろりと腐って酸っぱい匂いを撒き散らす肉の塊。誰の目にも触れずに消滅できればいいのに。

「どうやら赤点は数学だけじゃないな。生物もだろ」
 絶望する礼子を、あろうことか彼は嘲笑った。なんて性格の悪い男だろう。確かに礼子は現国以外はオール赤点と言う華々しいタイトルホルダーだが、何もいま成績の話を持ち出すことはなかろうに。
「汚れが落ちない? バカバカしい。人間の皮膚細胞は約28日間、一番サイクルの長い骨でさえ7年ですべて新しくなるんだ。どんなに深く浸透した汚れでも落ちないなんてことはない。第一」
 礼子の非学をせせら笑う調子で知識を披露していた彼は、一旦言葉を切り、表情を改めた。それから礼子の頬に手を伸ばし、人が大切なものを扱うときのやさしさと慎重さで、そおっと頬を包んだ。
「人間は男と寝たくらいじゃ汚れない。汚いとすればそれは君の身体じゃない。心根だ」
 いつも礼子を見下していた亜麻色の眼は、今は下から、椅子に座った礼子を見上げていた。すなわち彼は床に膝をつき、学友の誰よりも近しい距離で礼子を見つめていた。
「どんな辱めを受けようと、君にそれを拒む心があれば君は汚れない。自分の弱さに屈服したとき、初めて人は穢されるんだ」

「これ以上、自分を汚すな」と彼は言った。
 負けるな、戦え。戦って自分の人生を勝ち取れ。

 彼の、見た目よりもずっと温かな手から伝わってくるのは強烈なメッセージ。彼は優しい男じゃない、慰めなんか一言もくれない。厳しく礼子を叱咤し、茨の道を歩ませようとする。
 だけどそれは礼子に大事なものを取り戻すための試練。とうに失くしてしまった未来を夢見る心、何も知らなかった子供の頃に自分を支えてくれたもの。夢とか希望とか、取りとめもなく漠然として具体的に何ができるわけでもない、でも人が人として生きていくには絶対的に必要な、明日を夢見る能力。
 取り戻すことができるなら。惜しいものなど何もない。

「何度か、考えたことはあったの」
 家人の眼を盗んで家を出る。でもその先のことは自信がなかった。未成年の上に身元保証もないのだ、まともな職に就けるとは思えない。そんな女が行き着く先はほぼ決まっている。それでは本末転倒だ。
「それに、わたしは謂わばお父様の暗部なわけでしょう。この家を出たところで、直ぐに連れ戻されてしまうわ。秘密を知る人間は手元に置いて監視しておくのが一番だもの」
「もっともだ。君は案外頭がいいな」
 褒められて嬉しくなった。こんな単純な褒め言葉が嬉しいのは、今現在も自分の細胞が生まれ変わっているから? 屈服しない限り汚れないと言う彼の言葉が本当なら、こんな自分でも幸福を求める権利はある?
 心の中で発した礼子の問いを肯定するように、彼はにこりと微笑んだ。その美しさに礼子は図らずも感動した。大袈裟だけど、神さまに許されたような気がした。
 彼は礼子の机からノートを持ち上げ、少し首をかしげて、
「それでどうしてこんな簡単な問題が解けないんだ?」
 ちょっと、あたしの感動返してくれる。

「君の言う通り。こっそり姿を晦ましたところで天下の代議士先生だ、どこまでも追って来るだろう。そこで提案だ」
 彼はノートの上部を掴んで開き、空白のページを礼子に突き付けた。
「このノートが君の武器になる」



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イヴに捧げる殺人(9)

 こんにちは。
 お祖母ちゃん、また入院しちゃいました。
 なんかねえ、あれは繰り返すんだって。発作が起きると息が吸えなくなるそうで、とっても苦しいって言ってました。がんばって生きてきたのに、どうして最後はみんな痛かったり苦しかったりするのかなあ。

 さて。
 お話の方は、うん、この辺からめんどくさくなっちゃいました感アリアリで……とにかく早くたたんじゃえって雰囲気が随所に現れてる気がしますが、ごめんなさい、大目に見てください。





イヴに捧げる殺人(9)









「まさか娘に告発文を書かせるとはね」
 驚いたな、と中園は微笑み、満足そうな視線を薪にくれた。
 大学ノートを破り取ったものでも、要件さえ揃っていれば法的には有効だ。未成年者でも告訴状は出せるし、正式に提出された以上、警察は責任を持って事実関係を確かめなければならない。
 これで強制捜査が可能になる。九条議員の逮捕は時間の問題と思われた。
「いったいどうやったの? 寝たの?」
「冗談でもそういうこと言わないでもらえますか」
「やきもち妬きの恋人に聞かれたらエライ目に遭わされる?」
 中園はこうして事あるごとに青木との仲を当てこする。ポーカーフェイスの裏側で、薪は舌打ちしたいのを必死でこらえた。

「僕に潜入捜査を命じたの中園さんだって、小野田さんにばらしますよ」
 どうせまた中園の独断だろうと踏んでいた。こんな職務範囲外の危険な仕事、小野田が薪にさせるはずがない。
 痛いところを衝いたのか、途端に中園は猫なで声になって、
「さすが薪くんだ。君のような優秀な部下を持って鼻が高いよ」
「お褒めに預かり恐縮です。で、臨時会の方は抑えられそうですか?」
「うん、電話しておいた。今は11月だからね。時期もよかった」
 国会議員には不逮捕特権がある。円滑な政治を行うため国会の会期中は逮捕を拒むことができる、と言う警察にとっては忌々しい悪法だ。国会の会期とは、通常国会が開かれる1月からの150日間、及び臨時会、特別会の開催期間のことで、最後の特別会は内閣総辞職の際に開かれるものだから今回は関係ないが、心配なのは臨時会だ。
 臨時会の召集決定権を持っているのは内閣だが、総議員の4分の1の要求があれば、内閣はこれを認めなければならない。九条が逮捕を逃れるため、仲間の議員を扇動して臨時会を要請することは十分考えられる。
 しかし、合理的な期間内に常会(通常国会)が召集される場合には臨時会の要請を棄却しても憲法違反にはならない。通常国会が開かれる1月まで2ヶ月足らず。臨時会の召集理由に緊急性が薄いと内閣が判断すれば、正当な棄却の理由になる。もちろん、警察寄りの閣僚に前もって通告はしておくが。

「警護対象の娘が警察の保護下に入るんじゃ、ボディガードもお役御免だね。吸血鬼事件の方は、君が見つけてきた被害者の共通点から洗い直すように捜一に言っておくよ」
「その必要はありません。犯人の目星は付きました」
「本当に?」
 自分が部下に命じた職務でありながら、中園はその成果に舌を巻いた。性格や気質に難はあるものの、この男は捜査に関しては捜査員百人分の働きをする。

「犯人、分かったの」
「証人も見つけましたので間違いないと思います。ただ動機が」
 薪は口ごもった。学内で集めた証言をもとに推理を組み立てるとある人物に辿り着く。黒幕は彼女で間違いない。しかし。
「動機が見えてこないんですよね。らしきものはあるんですけど、理解に苦しむっていうか」
「それは取り調べで明らかにすればいい。連続殺人だぞ、のんびりしてたら次の被害者が」
「その点は大丈夫です。犯人の目的は既に達成されてますから。逃亡の危険もありません。逃げてしまったら殺人を犯した意味がなくなる」
「誰なの、犯人」
「学園の生徒です」
 薪がその人物の素性を告げると、中園はひどく驚いた顔をした。学内に犯人がいると確信してはいたものの、生徒だとは思わなかったのだろう。

「もちろん彼女一人に犯行は無理です。彼女には協力者がいました。この証拠は、協力者の家にあった物です」
 積み重ねられた書類の隙間に音もなく置かれた小瓶には、赤黒い液体。血液だ。薪がこれをここに持ってきたと言うことは、DNA鑑定の結果が被害者の一人と合致したのだろう。
 決定的だね、と中園は呟き、そんな証拠を残しておいた犯人の心理を疑問に思った。血液なんて処分しやすいもの、さっさと流してしまえばよいものを、犯人はこれを何のために取っておいたのだろう。

「物証があるなら速やかに逮捕だ。犯人の氏名を捜査一課に」
「すみません。それはちょっと待ってもらえますか」
「なぜ」
「共犯者が確定できないのと、……できれば、自首を」
 躊躇いながらも薪が言うと、あからさまに舌打ちされた。だから言いたくなかったのだ。自首では世間に警察の有能さと威光を示せない。だが今回は事件関係者に未成年者が含まれることと礼子のプライバシーを優先し、できるだけ秘密裏に事を運びたいと薪は考えていた。
「不明瞭な動機も共犯者の氏名も、取り調べで吐かせればいい。17歳の少女だろ。ちょっと脅せばすぐに落ちるさ」
「被疑者を脅して得られる供述は往々にして真実ではありません」
 それきり薪は口を噤んでしまった。まったく使いにくい部下だ。いくら優秀でも上官の命令に逆らう職員は部下として失格だ。中園ならそれを最初に徹底的に叩き込むのに、小野田が甘やかすから。

 直球では薪の口を開かせるのは難しいと悟って、中園は話題を変えることにした。
「犯人の動機らしきものって?」
 その動機が犯人たちに証拠品を保存させたのかもしれない。中園はそう考えたが、薪はため息交じりに首を振り、
「中園さんには理解できないと思います。もちろん僕にも解りません」
「決めつけないで欲しいな。僕は君みたいな石頭じゃないよ」
「じゃあ話しますけど、つまり」
 珍しく自信無さ気に薪が話すのを聞き終えて、中園は眉間に深い皺を刻んだ。
「なんだい、それ」
「だから言ったじゃないですか、理解できないって。女の子じゃないと無理なんですよ、きっと。雪子さんにでも訊いてみようかな」
「それじゃもう一つの質問。どうして犯人は被害者の血液を2ヶ月も持ってたの? トイレにでも流しちゃえばいいじゃない」
「それも分かりません」
 確かに弱い。物的証拠があるから自白がなくても送検はできるだろうが、供述書に不明点が多過ぎるのは困る。

「女ってのは謎だねえ」
「ええ、まったく」
 上司と部下は顔を見合わせ、殆ど同時にため息を吐いた。
 警察庁の天才と官房室の諸葛亮が知恵を絞っても解けない難問。汝の名は女なり。




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イヴに捧げる殺人(10)

 6月ですね~。
 6月と言えば、我が家では梅を漬ける時期です。
 今年は、すごく梅のデキがいいんですよ。オットがよく梅木の手入れをしてくれたから。
 風の強い日が多かったので落ちちゃった実も多いんですけど、でもそれが上手く間引きになったみたいで、大粒できれいな梅が実ってます。3人しかいないのでね、100個もあれば十分なんですよね。
 新しい梅干しができる夏が、今から楽しみです(^^





イヴに捧げる殺人(10)





 鮮烈に残っている彼のイメージは血の色。血の池と化したバスタブに浸かっていた彼の姿。真っ白な肌も澄んだ瞳も、その時ばかりは血の色に染まっていた。形のよいくちびるを開けばその中も血で真っ赤で、唯一血が付いていなかった左頬は青みがかる程の白さ。
 恐ろしいのに目が離せなくて、魅入られるとはまさにこのこと。
 長身の男がやってきて、裸の彼を抱き上げた。男のシャツも顔も血に染まって、それはさながら吸血鬼に魅入られた憐れな奴隷が主たる怪物にかしずくよう。
 彼の身体から滴る血が、床に不気味な模様を描く。男に抱きしめられた吸血鬼が、ほう、と冷たい息を洩らした。


*****



 礼子の告発書に基づく強制捜査が執行され、九条徹夫議員は逮捕された。九条家には大量の捜査員が押し寄せ、イナゴの群れのようにあらゆるものを持ち去った。彼らが去った後、まるで嵐にでもあったかのような惨状を呈した屋敷を片付けるのに、家政婦の淑子と小間使いのユリエは夜中まで掛かった。

 まったくもって腹が立つ。これは明らかに職務外の仕事だ。ユリエの仕事は礼子の身の回りの世話だ。その礼子がいなくなってしまって、他にすることもなかったのだが。
 実際、ユリエの仕事は掃除くらいしかなかった。
 奥方がいればそのお世話もあるが、彼女は夫の手が後ろに回ると同時に成城の実家に帰り、絶対に表に出てこなかった。賢明な彼女は、それが執念深いマスコミを避ける唯一の手段だと知っていたのだ。幼い頃に引き取って育ててきた子供に裏切られたことはショックだったに違いない。自分の夫が礼子にしていたことを知ればもっと酷いショックを受けたはずだが、それは薪だけが知る秘密で、彼はそれをこの世の誰にも話さなかった。

「このお屋敷も寂しくなりましたね」
 家人が誰もいなくなり、使用人たちは一部を除いて離散した。残った者はほんの数名、執事を筆頭に屋敷の片づけを任されている。この屋敷も遠からず人手に渡るのだ。
「礼子お嬢様はお元気でお過ごしですか」
「ご安心を。警察で手厚く保護していますよ。彼女はもうここに戻ることはありませんが、大丈夫、元気にやってます」
 屋敷を取り巻くマスコミの目をどうやって抜けて来たのか、美貌の警察官は玄関先でユリエに微笑みかけた。十日前と同じ、非の打ちどころのない完璧な美しさだった。

「今日は何の御用ですの」
「ユリエさんに会いに来たんです」
 理由を聞いてユリエは驚いた。彼は礼子嬢の臨時のボディガードとして警察から派遣されたはず。肝心の礼子が此処にいないのに、何をしに来たのだろう。
 ユリエが訝しげに眉を寄せると、彼は何とも可愛らしい照れ笑いを浮かべ、
「こないだ頂いた、何て言いましたっけ、ローズ何とかってお茶。あれが飲みたくて」
「ローズヒップティー、ですわね?」
 そう、それです、と彼は子供のように眼を輝かせてユリエの手を握り、有無を言わせぬ強引さで屋敷の中に入ってきた。
「あのお茶は実に美味でした。屋敷の片づけが終われば、あなたも此処からいなくなるのでしょう。今しかチャンスはないと思って押し掛けた次第です」
「まあ。光栄ですわ」
 茶葉はユリエの自室に置いてあった。屋敷内の品物はすべて業者に買い取ってもらう事になっていたが、飲みさしの茶葉など売り物にならないから、自分が貰って行こうと思っていた。

 客人をどの部屋に通そうか少し考えて、ユリエは彼を自室に招くことにした。主な家具は売却されてしまって、応接間には椅子一つ残っていないからだ。
 ユリエの部屋は屋敷の東の端っこで、六畳一間の狭い洋室だった。ベッドとビニール製の洋服ダンス、小さな化粧台。バストイレ付だが、テレビやステレオコンポと言った孤独を紛らすものは何もなく、つましい生活状況が伺えた。

「自炊なんですか? 住み込みなのに?」
 第九の給湯室より狭いキッチンに、古い冷蔵庫が置いてあった。一つだけだがクッキングヒーターもあって、ユリエはそこで客人のためにお湯を沸かした。
「わたしたち使用人のお食事は、シェフの近藤さんと家政婦の淑子さんが食堂に用意してくれるのですけど、時間を過ぎると下げられてしまうんです。わたしは礼子さまのスケジュールに合わせて仕事をしますので、朝晩は時間内に食堂に行けないことが多くて」
 薬缶のお湯を沸騰させ、茶器を温めてから茶葉を茶匙で掬う。ポットにお湯を注ぐと、ローズヒップの華やかな香りが部屋いっぱいに広がった。

「ああ、やっぱり」
 カップを傾けて彼は、満足そうに微笑んだ。その様子にユリエも嬉しくなる。このところ、ユリエに与えられるのは滅入る仕事ばかりだった。そんな中、自分が淹れたお茶を喜んで飲んでくれる人の存在はありがたく、勇気付けられる心持ちになった。
 ユリエは、彼の口から発せられるであろう称賛の言葉を待った。が、次に彼のつややかなくちびるが開いたとき、そこから零れた言葉はユリエの予想とはまるで違っていた。

 カップに半分ほど残った赤いお茶を見つめ、彼はこう言ったのだ。
「犯人はあなただったんですね。ユリエさん」




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

イヴに捧げる殺人(11)

 過去作に拍手をありがとうございます。
 最初の話から、最終章にずっと拍手が入ってるの。昔の話を読んでもらえるの、うれしいです。(あ、拍手だけして読んでない可能性も……だれがそんな無駄なことするんだw)

 第九編が終わって、もうすぐ2年ですね。
 うちは青薪小説がメインですから、2年前に終わった話を延々読んでもらってることになるわけで。今更ながら、原作の素晴らしさを痛感しています。だって、原作に惚れこんでなかったら二次創作なんか読まないでしょう? 連載が終わっても、数多くの人が未だに薪さんにお熱、というこの状況がスゴイなあって。
 ちょーっと原作からズレちゃってますが、それでも沢山の方に読んでもらえて、うちの薪さんは幸せものだなあって思います。ありがとうございます。

 この話が終ったら、10万ヒットのお礼SSと4万5千拍手のお礼SS公開しますね。
 これよりはマシな話になってると思うので(←もうどんだけ(^^;)、どうかよろしくお願いします。




イヴに捧げる殺人(11)







「というわけなんですよ、雪子さん」
 話を終えて薪は、法一の副室長の顔を見上げた。彼女は薪よりも十センチほど背が高く、同じ高さの椅子に座っても僅かに見上げる形になるのだ。
「彼女の気持ちが理解できますか?」
「ぜんぜん」
「雪子さんでも無理ですか」
 きっぱりと首を振られて、薪は肩を落とした。雪子を当てにして、官房室から第九へ戻る途中わざわざ立ち寄ったのに、どうやら無駄足だった。

「先生には無理ですよお。同じ女性でも、先生は彼女たちとは対極にいる人なんですから。多分、薪室長より遠いですよ」
 クスクスと笑いながら、雪子の助手が顔を出した。可愛い顔をして遠慮なくものを言う。あけすけなところが雪子と合うのだろう、彼女たちはとても仲が良かった。
「対極ってなによ。そりゃあたしはお嬢様じゃないけど」
「お嬢様とか庶民とかの問題じゃなくて、いっそ染色体もしくは遺伝子の問題じゃないかと」
 どういう意味、と引き攣った笑いを浮かべる雪子をきれいにスルーして、菅井は薪の質問に答えた。

「わたし、ちょっと分かります」
「本当ですか」
 菅井の言葉に、薪は思わず腰を浮かせた。薪にはまったく理解できない17歳の少女の心。多感な少女時代を過ごしてきた女性なら分かるかもしれないと思っていた。
「その子と同じで、わたしも学生の頃は引っ込み思案で」
「え、だれが?」
「言いたいことも言えなくて」
「ちょっと、誰の話?」
「先生、黙っててください。これでも飲んで」
 話の腰を折りまくる雪子に苛立ったように菅井は、3人分のカップをテーブルに置いた。3つとも、赤いきれいな紅茶だ。花の香りがする。

「いらない。それ、酸っぱいんだもの」
「なに贅沢言ってるんですか。40超えた女が女でいようと思ったら常日頃から努力しなきゃダメです。結婚半年で竹内さんに捨てられたいんですか」
「すみません。話戻してもらっていいですか」
 女と言うのはどうしてこう話がズレるのだろう。飛躍も多いし、彼女たちのお喋りにはとても付いていけない。
「雪子さん、離婚裁判の時には最高の弁護士をお付けします。僕も証人として法廷に立ちますから。二人で協力して、史上最高額の慰謝料ぶんどってやりましょうねっ」
「薪くん、話戻ってない」
 窘められて咳払いをする。何もなかった振りで、薪は先刻の話をおさらいした。

「僕が見る限り、Y嬢はR嬢に恋心にも近い好意を抱いていたと思うんです。なのに彼女は、他の生徒を使ってR嬢を苛めていた。R嬢に近付くと一緒に苛められると言って、R嬢を孤立させていた。どうして好きな人にそんなことを?」
 あの日、薪が教室で捕まえたおかっぱ頭の生徒に聞いた。彼女に礼子の学用品を汚すよう命じたのは更科柚子だった。
 薪が柚子を疑ったのは、彼女が正しい情報を持ち過ぎていたからだ。礼子の苛めについて何人もの生徒から聴取を行ったが、柚子が一番詳しかった。お世辞にも社交的とは言えない彼女がどうしてそれを知り得たのか。苛めの場面を目撃していたか、あるいは逆に。
 そう考えて墨汁を撒いていた生徒にカマを掛けた。真実は後者だった。
 しかし、柚子は熱い瞳でコートを走る礼子を見ていた。あれは恋する者の眼だ。少なくとも、苛めの対象者を見る目ではない。

「誰のものにもなって欲しくなかったんだと思います」
「独占欲ですか? 恋人でもないのに?」
 理屈じゃないんです、と菅井は前置きして、彼女の代弁者になった。
「自分のものにならないなら、誰のものにもなって欲しくない。自分が話しかけられないから誰にも話しかけて欲しくない。愛情の裏返しですよ」

 ずっと、ずっと昔のこと。
 鈴木の恋人になる前、その権利もないのに薪は鈴木の彼女や友人に嫉妬した。鈴木はみんなの人気者で、自分とは釣り合わないと思った。だったら自分が鈴木のようになる努力をすればよいのに、それはひどく難しいことに思えて。いっそ鈴木が自分のように、誰にも相手にされないような欠陥だらけの人間なら自分だけが彼の友だちでいられるのにと考えた。
 バカな話だ。鈴木がそんな人間なら、そもそも好きにならなかった。

「分からないなあ。好きな人には幸せになって欲しいと思わないわけ?」
 雪子は薪よりも彼女たちから遠いところにいる。菅井の言葉は当たっていた。彼女は薪以上に、柚子の気持ちが理解できなかった。
「思いますよ。でも、自分以外の誰かの力で彼女が幸せになるのは許せなかったんだと思います」
「じゃあ自分から彼女に近付いて、親友なり何なりになればよかったじゃない」
「雪子先生みたいに思ったことを行動に出せる人ばかりいないんですよ。特にあの年頃は、それが難しいんです」

 誰かと友だちになることが人殺しよりも困難だと?
 もちろん、協力者の存在がなかったら彼女だってそれを実行に移すことはなかっただろうが、それにしたって。

 薪は心の中でその可能性について思案した。殺人事件の話は雪子たちにはしていない。礼子の苛めの話だけだ。しかし、それがこの事件の核になっていることは間違いない。
 逆に、協力者に利用されたのかもしれない。被害者はいじめを行った後に拉致されている。犯行のタイミングを計れるのは柚子だから、彼女が主犯だと考えたけれど。むしろ柚子は連絡係のようなもので、主犯格は協力者の方だったのかも。

「……すっぱ」
 菅井が淹れてくれた紅茶を無意識のうちに口に運び、薪は思わず顔をしかめた。
「ね。酸っぱくて飲めないわよね、こんなの」
「はちみつ入れると飲みやすいんですけど、用意してないんです。置いてあると雪子先生がみんな舐めちゃうから」
「あたしはどこぞの黄色いクマか」
 二人の掛け合いを聞き流しながら、薪はこれと同じ色合いのお茶を飲んだ時のことを思い出した。ローズヒップティーは礼子の好物だとユリエが言っていたが、あのお茶はもっと飲みやすかった。

「前に飲んだのはこんなに酸っぱくなかったですけど」
 砂糖類は入っていなかったと思う。薪は味覚は鋭い方だが、甘味は感じられなかった。
「偽物の茶葉だったんじゃないですか? ローズヒップはビタミンCが売りなんだから、酸っぱくなかったから嘘ですよ」
「まさか。代議士の屋敷ですよ」
 味を確かめるためにもう一度口に含んだ。酸味が強すぎて他の風味が消されてしまっている。淹れ方の問題かもしれない。薪の恋人がリーズナブルなコーヒー豆を最高級のブレンドに変えるように。淹れてくれた菅井にそれをそのまま伝えるわけにもいかず、茶葉の種類が違ったんでしょうと薪は答えた。
「きっと飛び切り高級な茶葉だったんですよ。味ももっと玄妙で、深いコクが」

 あの味を的確に他人に伝える喩えがないかと、これまでに食した料理や飲料の中から類似したものを探るうち、薪はスッポンの専門店で飲んだ食前酒の味を思い出した。あれは確か赤ワインにスッポンの――。

「薪くん?」
 突然青ざめた薪を心配して、雪子が声を掛けてくれた。
「いや、ちょっと気分が……いえ、大丈夫です。もう何日も前のことですし……うっ、ぷ、し、失礼」
 我慢できず、洗面所に走った。幸いトイレは雪子の私室のすぐ側にあり、でも彼女たちには薪が嘔吐する音が聞こえていたに違いない。
「吐くほど酷い味でした?」
「薪くん、味に過敏なとこあるからねえ。あたしの料理食べて何度か気絶してるし」
 それは薪が弱いのではなく雪子の料理がカクバクダンなのだ。薪は必死に反論したが、込み上げてくる嘔吐に阻まれて、その叫びは誰にも届かなかった。



*****
 
 うちの薪さんて、しょっちゅう吐いてる気がする。

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イヴに捧げる殺人(12)

 今日、6月10日はうちの青木さんの誕生日なんですよ。←どうでもいい。
 原作薪さんの誕生日は3月ですが、青木さんはいつなんでしょうね。なんとなく青葉の頃ってイメージがあるんですけど。青木だけに。
 ……青二才の青だったりして(笑)





イヴに捧げる殺人(12)





「おかげで女性二人の前でえらい恥をかきました。あなたのせいですよ」
 苦笑して薪は残りのお茶を飲み干した。混じり気のない強い酸味。これは普通のローズヒップだ。最初の日、ユリエが礼子に淹れたものとは違う。
 あれには、被害者から抜いた血が入っていたのだ。
 薪が被害者の血液を見つけたのは、礼子の自室に備え付けられた小型の冷蔵庫の中だった。冷凍保存用の小型容器に入って冷凍庫に入っていた。
 これは何かと尋ねると、知らないと彼女は答えた。夏の間はアイスクリームを入れておくから冷凍庫を開けることもあるが、残暑を過ぎればそれもない。そもそも、この冷蔵庫の品物は礼子が自分で用意するわけではなく、小間使いのユリエが管理しているのだ。

「自分がずっとそんなものを飲まされていたなんて。礼子が知ったら、僕と同じように胃が空になるまで吐くと思いますよ」
「そんなに悪いお味じゃなかったでしょう? あなただって、美味しいって飲み干してたじゃありませんか」
 薪の指摘に怯むどころか、開き直ったようにユリエは笑った。薪は冷たく彼女を見据え、立ち上がって狭いキッチンに足を踏み入れた。迷うことなく冷凍庫のドアを開ける。中にはビニール製のストッカーに入った血液が大量に保管されていた。

「動かぬ証拠だ。観念なさい」
「何をおっしゃってるのかしら。それはスッポンの血ですよ。美容と健康にいいって話で、通販で安く買ったんです」
「そうですか? じゃあ、僕にも分けてもらえますか。科警研に健康オタクの友人がいまして、ぜひ彼に飲ませてやりたい」
 ユリエはさっと表情を消し、押し黙った。沈黙に焦燥をにじませる彼女に、薪は鋭く言い放つ。
「バカじゃないんですか、あなた。血を飲んだって彼女たちと同じにはなれませんよ」
 冷蔵庫を背中に守るようにして薪はユリエを糾弾した。今では珍しい旧タイプの冷蔵庫は冷蔵室の上に冷凍庫が付いていて、そこに大事な証拠が匿われている。薪は警察官だ、身体を張ってでも守らなくてはならない。
「ましてや礼子に飲ませるなんて。いいですか? 彼女はあの学校の誰よりも魅力的で優れた資質を持ってますよ。そんなものは彼女には必要ない」
 それは生まれ落ちた場所を引け目に思う礼子を救おうとした、彼女なりの愛情表現だったのかもしれない。しかし礼子が呪わしく思っていたのは幼少のころから性的虐待に晒された自身の身体であり、そして本当に払拭するべきは、自分には他の少女のたちのように幸福を求める権利がないと言う思い込みであった。

 薪がきっぱりとユリエの愚行を否定すると、彼女は静かに微笑んだ。
「ええ、存じておりますわ。私の礼子さまは誰よりも素敵なの」
 うっとりと夢見る少女のような顔つきになって、ユリエは主人の名を口にした。柚子と同じ目をしている。礼子の学友と小間使い、なぜ二人が共犯者になり得たのか、やっと分かった。二人は同胞なのだ。
「そんなに礼子が好きなら、どうして養父から彼女を守ってあげなかったんです。何も雇用主に抗議しろと言うんじゃない。奥方が真実に気付くよう仕向けるとか、あなたならできたはずだ」
「そんなことをしたら、礼子さまは此処を追い出されてしまうでしょう。お顔を見れなくなってしまうわ」
 そんなの、耐えられない。
 ユリエは辛そうに零した。

「君のそれは愛じゃない」
 俯くユリエに、薪は強く言い返した。同情なんかできない。彼女は礼子を愛していた、だから彼女を苛めた人間を殺した、それは分かった、でも。
「そんなものは愛とは呼ばない。身勝手を相手に押し付けているだけだ。相手の真の幸せを願うのが本当の愛情だ」
 愛とエゴを取り違える、彼女の不明に腹が立った。恋は盲目とは言え、彼女は殺人まで犯しているのだ。彼女の言い分の何一つ、認めてはいけないと薪は思った。
「押し付けたのはあなたでしょう。礼子さまは今の生活に満足してらしたのに、あなたが礼子さまを唆して」
「彼女は頭のいい子だ。話したらちゃんと分かってくれた。人として何をすべきか、――」
 尻のあたりに微かな振動を感じて、薪は後ろを振り向いた。古い冷蔵庫だからコンプレッサーが弱っているのだろう、そう思って再びユリエに視線を戻す。すると今度はドンと叩かれたような感覚があり、薪は慌てて振り向いた。まさか。

 冷蔵庫の扉を開けてみる。中には猿ぐつわを噛まされた少女が押し込められていた。
「柚子さん」
 ぐったりと薪に身を預けた少女の身体はとても冷たかったが、まだ息はあった。古い冷蔵庫で助かった。パッキンが劣化して、空気の通り道があったのだろう。
「身体が冷え切ってる。温めないと」
 急いで毛布を持ってきて彼女の身体を包んだ。人を呼びに行くことも考えたが、その間に証拠を処分されては困る。薪がここを離れるわけにはいかなかった。

「なんてことを……彼女はあなたの仲間でしょう」
「もう仲間じゃないわ」
 協力して殺人まで犯した相手を、ユリエはゴミでも見るような目で見た。
「私は礼子さまを私たちから奪った人間を許さないと言ったの。礼子さまを傷つけた女たちと同じ目に遭わせてやるって。そうしたら、その子なんて言ったと思う?」
 腰に手を当てて、昂然と顎を上げる。吐き捨てるように言い落した。
「『美奈子さまに酷いことはしないで』」
 冷たい瞳だった。人の情けとか憐みとか、そういった人間らしい感情をみんな打ち捨ててしまったかのように、まるで彼女の身体には冷たい血が流れてでもいるかのように、ユリエはひたすらに冷酷であった。

「あなたに心変わりしたのね。若い子はこれだから」
「そうじゃない。彼女には良心が残っていた。それだけのことだ」
 柚子に唆されて礼子の学用品を汚した生徒から聞いた。最初に苛められていたのは柚子で、それを礼子が助けてくれたのだそうだ。それをきっかけに礼子と柚子は友人になり、礼子は柚子を庇い続けた。そのせいで苛めのターゲットは礼子に移り、柚子は心を痛めると同時にほの暗い愉悦を味わった。
 柚子は、それまで陰のアイドル的存在だった礼子が自分と同じ立場になったことに同情と親和を抱いた。昔の彼女には告げられなかった想いも、今の彼女になら言えると思った。

 一世一代の勇気を出して告白した。
『私は何があっても礼子さまをお慕いしております』

 でも礼子は、柚子と違って苛めに負けなかった。学校を休むこともなく、平気な顔で毎日を過ごしていた。礼子は本当に強かった。
 やはり自分では彼女に釣り合わない。そう思った柚子は、彼女を孤立させることを考えた。他に誰も彼女に話しかける人がいなくなれば、彼女の方から自分のところへ来てくれるのではないかと、淡い期待を抱いたのだ。彼女と一緒にいると苛めに巻き込まれる。柚子はそんな言葉で人が好い学友たちを操った。
 しかし、礼子が実際に怪我をしたり殴られたりすることには耐えられなかった。柚子の気持ちは本当だった。それでユリエに相談したのだ。

 友人として、柚子は何度か九条家を訪れていた。その際にユリエと出会い、話してみて、彼女が自分と同じ気持ちを礼子に抱いていること知った。それから二人は礼子の情報を共有するようになった。
 柚子の知らない家での礼子と、ユリエの知らない学校での礼子。互いの情報は貴重で、彼女たちは毎日のようにメールをやり取りした。その中で、自然に苛めの話もユリエに伝わることになった。
 ユリエは激怒した。体育の時間に飛び箱に突っ込んだ、と笑っていた礼子の怪我が、他人によって故意につけられたものだと知り、報復を決意した。
 今度現場を押さえたらその場で連絡して。そう頼まれた柚子は言われるまま、礼子が裏庭に呼び出されると同時にユリエにメールを送った。その時点で柚子は、苛めの事実をユリエが明らかにしてくれると思っていた。苛めた生徒たちは親や先生に叱られて、反省すればいい。ところが。
 翌日になって柚子は青くなった。苛めを行っていた生徒の一人が死んだからだ。
「メールが残ってるわ。あなたも共犯よ」
 問題は昨日のメールだけではない。ユリエに煽られて、自分をいじめた連中が死んだらすっとする、などと毒の強い言葉を手紙に書いてしまった。柚子にも殺意はあったとユリエは言い、そんなことはないと否定すると、
「警察はどう思うかしら」
 それからはもう、ユリエの言いなりになるしかなかった。柚子は世間知らずの子供だったのだ。

 礼子を苛めていた主犯格の3人が死んで、ユリエの凶行も止まった。柚子は胸を撫で下ろしたが、一方で、「苛めに巻き込まれる」と言う自分の流言は効果を無くしてしまった。そこで彼女は自分で苛めを演出することにした。自分と同じ気の弱そうな生徒に目を付け、礼子に嫌がらせをするように仕向けたのだ。やり方はこうだ。
「礼子に嫌がらせをしないとあなたを標的にするって。伝えて来いと、私も脅されましたの」
 彼女たちは震え上がり、柚子の僕になった。柚子が過去に苛めを受けていたことは周知の実であり、その彼女が言うことを疑う者はいなかった。柚子は自分の立場を逆手にとって、自分を苛めた人間や見て見ぬふりをした彼女たちを利用していたのだ。

「いいえ、心変わりよ。あなたの正体が男だったと知って、彼女あなたを好きになったみたい。結局、礼子さまを本当に愛してるのはわたしだけ。もともとその娘は礼子様の復讐一つ果たせなかった弱虫よ。ほんのちょっと血を見ただけで気を失ってしまって、結局わたしが全部やらなきゃいけなかったわ。本当に役立たずな子」
 とどのつまり、吸血鬼事件に於いて柚子がしたことは、ユリエに情報を流したこととユリエが殺人者であることを知りながらそれを黙っていたことだ。弱さが彼女を罪から遠ざけた。しかし、罪を引き寄せたのもまた彼女の弱さであった。
「礼子さまのためならこの手を汚すことすら厭わない、それが真実の愛と言うものよ」
「笑わせるな。他人の命を軽く扱う者に、真実の愛など見つけられるものか」
 毛布で包んだ柚子の身体を手のひらで擦るが、彼女の頬は真っ白なまま。一向に血の気は差してこない。早く病院に運んだほうが良いと判断し、薪は携帯電話を取り出した。

「困るわ。それはこっちへ渡して」
 ユリエの手に握られたものを見て、薪は手を止めた。相手を刺激しないように、そっと電話を床に置く。ユリエは手に、煮えたぎった薬缶を持っていた。
「渡して」
 床を滑らせて携帯電話をユリエの足元に送った。ユリエは薪の携帯電話を拾い、それをエプロンのポケットに入れた。
「あなたが余計なことをするから。だから礼子さまは私の前からいなくなってしまった」
 一歩、また一歩と、ユリエがこちらに近付いてくる。
「あなたは蛇ね。イヴに余計な知恵を付けてエデンから追放させた」
 ユリエはまだ薬缶を手放さない。薪は少女の身体をしっかりと抱きしめ、自分の身体で少女を匿おうとした。柚子は17歳の女の子。顔や体に火傷の跡が残ったら可哀想だ。

「悪い蛇は殺さなきゃね」
「僕を殺したら、残りの人生は刑務所の中だぞ」
「刑務所になんて入らないわ。いくら警察だって、死人は捕まえられないでしょう」
「死ぬ気なのか」
「イヴのいないエデンなんて。わたしには何の意味もないの」
 何処かで聞いたような科白だと思った。思い出して、薪は説得を諦めた。
 何を言っても無駄だ、そう、何を言われても無駄だった。彼がいなくなった世界は無意味だと、何の価値もないと、そう思っていたあの頃。
 そんな季節を過ごしてきた自分だから分かることがある。ユリエを死なせてはいけない。

「どこまでも身勝手な女だな。死にたきゃ一人で死ね。人を巻き込むな」
 一か八か、飛びかかって凶器の薬缶を取り上げる。それしかないと思った。薪の言葉に激昂したユリエは薬缶を振り上げる、凶器が彼女の身体から一番遠い場所に到達したときがそのチャンスだ。
「――あ?」
 屈んだ状態からジャンプしようとした、瞬間、膝の力が抜けた。体勢を崩して床に転がる。起き上がろうとしたができなかった。
「さっきのお茶に何か」
 迂闊だった。ユリエは薪の来訪の目的に気付いていたのか、それとも、自分から礼子を遠ざける原因になった薪を最初から殺すつもりだったのか。いずれにせよこのままでは二人とも、いや、三人とも死んでしまう。

「もう何も要らない。あなたもこの子も、これも」
 霞んでいく薪の視界で、ユリエが冷凍庫から血液のストックを出すのが見えた。大事な証拠品が、とそこで薪の意識は完全に途絶えた。
 身動きするものがいなくなった部屋に、ユリエの独白がぽつりと落ちる。
「わたしも」




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イヴに捧げる殺人(13)

 このお話って、1年くらい前にツイッターで話したことがきっかけで書いた覚えがあります。血塗れの薪さんを青木さんが抱き上げるシチュエーション。なんでそんな話になったんだかは忘れましたけど。

 その後、ツイッターからはすっかり遠ざかってしまいましたが。
 確認してみたら、最後のツイートが去年の12月でした。今年になってから新しくフォローしてくれた方とか、ホント申し訳ない(^^;)
 だってねっ!
 ツイッターって140文字しか喋れないんだよ。そんな短い文章、書けないよ。10ページ以下の短編だってきついのに。←壊滅的言語不自由者。
 ツイッター慣れしてるどなたか、コツを教えてください。




イヴに捧げる殺人(13)





 真っ白な肌を赤黒い血が汚していた。
 一人用の小さなバスタブの中、その液体は座った彼の腰の位置に到達していた。壊れた人形のように手足を投げ出した彼の意識はなく、でもその胸は緩やかに上下している。
 浴室の床に座り、バスタブの中に上半身をうつ伏せるようにして、一人の少女が倒れていた。彼女の手首からは血が滴り、それは既に黒く酸化したバスタブの中の血液に一瞬の紅を咲かせたのち、すぐに交じって見分けがつかなくなった。

「起きて」
 ピシャピシャと頬を張られ、薪は眼を開けた。ひどく不快な気分で、部屋の空気を吸うとすぐに胸が悪くなった。狭い浴室は血の臭いで満たされていた。
「ねえ見て。礼子さまは憧れてらしたけど、そんなにきれいなものじゃないわよね」
 彼女に促されて下を見ると、自分の手首に手錠が掛けられていた。自分の手錠で拘束されるのはこれで二度目だ。不愉快極まりない。

「――っ」
 その光景が眼に入って、薪は思わず顔を背けた。予想していたこととはいえ、大量の血液の中に人間の身体が浮いているなんて気味の悪い絵面、MRIでだってなかなかお目に掛かれない。肌に染み込んで取れなくなりそうだ。ていうか、なんで裸なんだ。
「逃げられないようにと思って」
 女ならではの発想だが、薪は男だから裸で人前に出ても平気だ。好んで見られたいとは思わないが、肌を見せることを躊躇って焼け死んだ昔の女性たちほど強固な慎みは持ち合わせていない。
 しかし、逃げることも難しそうだ。まだ身体が言うことを聞かない。下半身に力が入らない状態だ。これでは手錠を掛けられていなくても立てない。

 どうやらここが犯行現場らしい、と薪は思った。少女たちは此処で命を奪われ、血を抜かれたのだ。今薪が身を浸しているバスタブにこんな風に血を溜めて、パック詰めして冷凍。残りは排水溝に流し、壁や床に残った大量の血痕はシャワーで流す。実に効率的だ。
 吐き気を堪えて横を向くと、そこには柚子が横たわっていた。手首から大量の出血があり、それが薪のいるバスタブの中に流れ込んでいる。
「柚子さん、柚子さん!」
 呼びかけると彼女は微かに呻いた。まだ息はある。が、このままでは時間の問題だろう。
「彼女は、むぐっ」
 助けてやってくれ、と言おうとした薪の口に、布のようなものが詰め込まれた。それがミニタオルであることに安堵する。さすがは女性だ。薪が反対の立場だったらパンツとか靴下とか突っ込んでる、絶対。
「大声を出されると困るの。お屋敷には淑子さんと執事の瀬川さんが残ってるんだから」
 そんな状況でこのような凶行に及ぶ彼女の精神は、すでに彼岸の向こう側。誰が死のうが生きようが関係ない。自分自身ですら。
「このお屋敷も処分するんですって。要らないものはみんな捨てるの。この娘も――あなたも、わたしも」
 言葉を操ることができても、死を望む人間相手のネゴシエイトは難しい。ましてや今薪は呻くことしかできない。

 柚子の手首を切ったと思われるナイフの切っ先が自分の喉に宛がわれ、薪は眼を閉じた。
 じりっと焼けつくような痛みが首に走った。切られたのだ。
 噴水のように吹き出す鮮血のイメージが薪の脳裏を過ぎる。情けないことに気が遠くなりかけた。腹の底に力を入れて意識を留める。ここで自分が死んだら柚子も死ぬ。
 痛みでアドレナリンが多量分泌されたのか、いくらか身体が動くようになった。
 手錠で戒められた両手で血を掬い、ユリエの顔めがけて投げつけた。「きゃっ」と怯むのを逃さず、二つ揃えた手の甲でナイフを叩き落とす。
 ユリエがナイフを拾いに行く間に浴室から出て助けを求める、しかしそこで薪の反撃は頓挫した。何とか立ち上がったまではいいが、血で足が滑って浴槽に逆戻り。頭まで血に浸かってしまった。刑事も長いことやってるが、ここまで血まみれになったのは初めてだ。
 生臭くて気持ち悪い。口の中に詰めこまれたハンドタオルが血を吸って、強制的に血を飲まされた。夢中で取って思い切り咳き込む。風呂がトラウマになりそうだ。
 ユリエは素早くナイフを拾い、薪のところへ戻ってきた。彼女の顔も血まみれだった。ザマアミロだ。

「これが原因で僕が風呂嫌いになったら一生怨むぞ」
「口の減らない人ね。死ぬのが怖くないの?」
「怖いさ。けどな」
 不自由な両手で前髪を後ろに流す。白い額も血の洗礼を受けていたが、その形は相も変わらず人形のように整っていた。
「僕はおまえみたいに自分のエゴを他人に押し付けることを愛情だと思ってるような人間が一番嫌いなんだ。命乞いなんか死んでもするか」
 薪が鋭く言い放つと、ユリエはぎょっと上半身を後ろに引いた。薪はそれを自分の気迫が為せる技と解釈したが、現実はそんな都合のよいものではなかった。
 亜麻色の瞳は血で濁って、白目の部分が赤く染まっていた。口を開けば歯も舌も血を含み、ただでさえ人並み外れて美しい彼はまるで本物の吸血鬼のようだ。気の弱い人間なら恐怖に駆られて逃げ出していたに違いない。

「おまえなんかに好かれて礼子もいい迷惑だな。やっぱりこの家から連れ出して正解、っ」
 再びナイフが薪に突き付けられた。ユリエには先刻までの余裕はなく、薪はその時が迫っていることを悟った。
「黙って」
「……何も言わなくても殺すんだろ」
「そうね」
 振り上げられたナイフの切っ先が、真っ直ぐに薪の喉元を狙っていた。咄嗟に身を躱そうとしたが、狭い浴槽の中、避けるに避けられない。薪がぎりっと奥歯を噛みしめた、その瞬間。

「ユリエ!」
 鋭い女の声が浴室に響いた。
 声の主は一瞬の躊躇いもなく、凄惨に彩られた部屋の中に駆け込んできた。
「お、お嬢様」
 ユリエの頬を無言で引っぱたく。ぱあん、と景気の良い音が浴室に木霊した。刃物を持った人間の顔を叩くなど、薪だってちょっと引く。すごい勇気だと思った。

 最愛の女主人に自分の悪行を知られて放心したのか、ユリエはゆっくりとその場に膝を着いた。礼子はユリエからナイフを取り上げてもう一度彼女の血塗れの頬を張ると、後は彼女には目もくれず、こちらに突進してきた。
「大丈夫?!」
 何のかんの言って、可愛い娘だ。薪のことが心配で、さっきは夢中だったのだろう。若い女の子にそんな風に尽くされるのは悪い気分じゃない。若い女の子の好意は無条件で嬉しい、これはオヤジのサガだ。
 礼子の後ろからもう一人、見慣れたシルエットが現れた。青木だ。民間人を先に現場に入れるなんてどういう了見だ、と怒鳴りつけてやりたい。
 彼は血の浴槽に腰まで浸かった薪を見つけるや否や、礼子に負けない勢いでこちらに突っ込んできた。
「薪さん、無事ですかっ」
「アホ! おまえは犯人確保が先だ!」
 要領を弁えない部下に眩暈を覚える。青木にはもう少し、現場の経験を積ませないといけない。この調子では将来現場の指揮を執る際、現状を無視した指示を出してしまうことになりかねない。

 薪に叱りつけられた青木がユリエに手錠を掛ける間に、礼子は衣服が汚れるのも厭わず、薪の傍に膝を着いた。そんなに僕を心配してくれるなんて、とちょっと感動した。ていうか、この娘もしかしたら僕のこと好きなんじゃないか、先日の説教で惚れられちゃったのかな、参ったな、僕には一応青木と言う恋人がいるんだけど、まあ相手は高校生だしその辺ちょっと遊びに行くくらいなら付き合ってやっても、
「柚子! しっかりして!」
「なんだ、そっちか」
 ぽろっと零したら青木に睨まれた。こういうことだけは耳聡い男だ。

「大丈夫だ、血は止まっている」
 普通に手首を切っただけでは、出血多量で死ぬほどの血液は流れ出ない。傷口を水に浸すなどして血が固まるのを防がなければ、自然に止まってしまうのだ。
 礼子は薪に言われて傷口を確認し、僅かに血が滲み出す患部をハンカチでぎゅっと縛った。幼少期に身に着けたのか、適切な処置だった。

「柚子……よかった」
 あの礼子が泣いていた。
 養父に弄ばれ、学校では苛めを受け、それでも気丈に振る舞っていた礼子が、柚子の無事を知って安堵の涙を流している。彼女が苛めの事実を両親に隠そうとした理由、つまりは転校を拒んだ、引いては養父の虐待に耐えていた本当の理由を、薪はそのとき初めて知った。

 たった一人の大切なともだち。何を犠牲にしても離れたくない。

 礼子にとって彼女を傷つけられることは、ナイフの恐怖を凌駕するくらい頭に来ることだった。そんな礼子が事件のからくりを知ったら、どんなに傷つくことか。ましてや自分のために殺人が行われ、大事な友人がその手伝いをさせられたと分かったら。
 今はただ涙を流すだけの少女に、薪は同情せずにはいられなかった。

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イヴに捧げる殺人(14)

 こんにちは。
 メロディまで二週間になりましたね。 
 早く来週にならないかな~。一日なんて四時間もあれば十分なのにな~。
 え。それじゃ妄想以外何もできないだろうって?
 大丈夫! 今もそれ以外してないから。


 さてさて、お話の方は残り三章です。
 もう少し我慢してください。





イヴに捧げる殺人(14)






「薪さん。本当にご無事でよかったです」
「無事じゃない! 遅い!」
 無事でよかったと涙を流す青木を、薪は怒鳴り付けた。殺人犯が連行された後の九条家である。これから礼子は警察の事情聴取を受けなければならない。今捜査員たちは現場検証で大わらわだから、それを待つ間、唯一家具が残っている執事の部屋を借りたのだ。
 執事が淹れてくれたお茶を挟み、礼子は彼らと向き合う形で年代物のソファに腰を下ろした。途端、この騒ぎが始まったのだ。

「僕が信号を出したの、いつだと思ってるんだ。1時間も前だぞ」
「それが、このお屋敷迷路みたいで。迷ってしまって」
 礼子さんに案内していただいたんです、と青木は申し訳なさそうに頭を下げた。
「おまえの方向音痴のせいで死にかけたの、これで何度目だ」
「すみません」
 薪はそう言うが、この迷路屋敷で迷わない人間はなかなかいない。家人の案内がなければ目的の部屋が解っていても到達することは難しい。先日、薪が礼子の部屋に自力で入れたのは、彼に天才的な記憶力があったからだ。普通の人間には無理だし、ましてや本館ではなく離れとくれば、この屋敷に長く住んでいる人間以外、例えば通いの家政婦などは2,3回は来た道を戻る羽目になるだろう。ユリエの犯罪が発覚しなかったのは、この屋敷の特異性による部分も大きかったと思われる。
 礼子が此処に来たのは柚子からメールが届いたからだ。
 話したいことがあって家の前まで来てる、玄関まで迎えに来て欲しい。柚子は礼子が家を出たことを知らなかったのだ。自分もうその家にはいない、と礼子は返信したが、それに対する返事はなかった。気になって電話を掛けてみたが、その時には柚子の携帯の電源は切られていた。心配になって家まで来てみたら、廊下でうろうろしている青木を見つけた。彼から事情を聞いて、ここまで案内してきたと言うわけだ。薪は運がよかったのだ。本人は文句タラタラだが。

 二人のやり取りを礼子は公正に聞き、薪の部下を可哀相だと思った。彼はあんなに薪のことを心配していたのに。
 血の池に浸かって動けない薪を、彼は迷わず抱き上げた。亜麻色の髪を、白い肌を凄惨に彩る血が、散りぎわの黒ずんだ薔薇のようだった。
 彼の身体に大量に振りまかれた、鮮度の落ちた血液の臭いは吐き気を催すほど。それでも彼は大切そうに、薪の身体を自分の上着で包み込んだ。
 そうして隣の部屋のバスルームまで彼を運び、彼の身体を綺麗にしたのだ。ユリエに薬を盛られたとかで動けない薪に献身的に、ていうか、疑ってる相手が淹れたお茶を飲んじゃうってバカなのこいつ。
 薪を助けるために服を汚してしまった青木は、今は身の丈に合わないシャツとズボンを身に着けている。執事からの借り物だが、絶望的にサイズが合わないのだ。シャツはぴちぴち、丈はつんつるてんで、ズボンのボタンが留まらないからそれを隠すために腰にバスタオルを巻いている。ひきかえ薪はちゃっかりと自分の服を着ている。あんな状況でも、ユリエは薪の服をハンガーに掛けておいた。小間使いの習性だ。

 執事に案内されてきた刑事たちが、放心状態のユリエを連れて行った。意識不明の柚子のことも、病院に運んでくれた。
 毎日顔を合わせていた小間使いが恐ろしい殺人犯だったなんて、礼子には信じがたかった。でもそれは事実だった。ナイフで薪を刺し殺そうとした彼女を、礼子はその眼で見たのだ。

「ねえ。ユリエはどうしてあんなことをしたの」
「礼子ちゃん。それはさっきも言った通り」
 廊下で迷子になっていた青木に最初に会った時、一番に言われた。ユリエさんの部屋に案内して欲しい、おそらくそこに君の友だちもいる。でも事件のことは一切説明できない。
 警察には守秘義務があるんだよ、とそれは礼子も承知の上。だけど聞かずにはいられなかった。だって。
「ユリエとは10年以上の付き合いなのよ。子供の頃は、夜は一緒に寝てくれたの。やさしい子なのよ。それがどうして」
「オレたちにもまだ分からないんだよ。理由はこれから取り調べで」
「青木さん、なんで嘘吐くの。警官でしょ」
 礼子がずばりと切りこむと、青木は眼鏡の奥の黒い瞳を泳がせた。正直な男らしい。
「許してやってくれ。こいつは嘘が下手なんだ」
 苦笑いして薪は、青木を庇った。おかしな男だ。あれだけ悪しざまに彼を責めておいて、礼子がちょっとキツイことを言っただけで彼をフォローするのは矛盾していると思った。

「礼子。これから僕が話すことを、落ち着いて聞いて欲しい」
 薪の雰囲気で、何か悪いことを言われるのだと分かった。父親が麻薬容疑で逮捕された上に小間使いが殺人犯、それ以上に悪いことなんてそうそう考えつかないけど、よっぽど衝撃的なことなのだろうと思った。彼の亜麻色の瞳が礼子に告発状を書かせたときと同じように、心配そうに、でも強く輝いていたから。
「薪さん、それは話すべきじゃありません。礼子さんのためにならない」
「鈴木の脳を僕に見せたおまえがそれを言うのか」

 横から口を出した青木に、薪は礼子には解らないことを言った。
 脳を見る? 何のこと?
 少し考えて思い至った。警察の中に第九って部署があって、そこでは死人の脳を見て捜査をしていると、テレビで見たことがある。ホラー映画みたいな話が現実にあるのだと知って驚いたが、この二人はそこの人間なのか。そこの捜査官は変質者ばかりに違いないと思っていたけど、部下の方は変質者には見えない。上司は立派な変態みたいだけど。

「すみません」
 その言葉はこれまでのどの言葉よりも穏やかに発せられたのに、青木は顔色を変えて謝った。青くなって俯く彼に薪は、先日礼子にしたように下からその顔を覗き込み、彼が自分の膝の上で強く握った大きな手に自分のほっそりした手を添えて、
「勘違いするな」
 顔を上げた青木の瞳が、薪の瞳にぶつかった。他人が見ても分かる、二人の間を行き交うなにがしかのエネルギー。
 経緯を知らない礼子は、その様子を黙って見ているしかなかった。なかったけど、ねえ、あんたたち普通じゃないでしょ。眼と眼で会話しちゃって、どう見てもデキちゃってるわよね?
「やっぱ二人とも変態か」
「「うん?」」と揃って声を上げて振り向くとか、本当に止めて欲しいと思った。息ぴったりなのは認めるから、どっかよそでやって。

「礼子、君は強い子だ。僕にできたことは君にもできると信じている」
 薪は青木から礼子に向き直り、真剣な眼差しで彼女を見つめた。嫌な予感に、礼子の胸がどきどきと鼓動を早める。
「真実を受け止めろ。僕が力になる」
 聞かない方がいいのかもしれない。幼少期のあれが性行為の真似事だったと、知らない方が幸せだったように。今回もそういうことかもしれない。
 でも、薪はそれを礼子に知らせようとしている。どんなに残酷な真実でも知らないままに未来を過ごすことは虚構でしかないと、彼の瞳が言っている。覚悟を決めて、礼子は彼の言葉を待った。

「ユリエが殺人を犯したのは君のためだ」
 つややかなくちびるが次に開いた時、そこにあったのは礼子の人生をひっくり返すような現実だった。
「どういうこと」
 呻くような声が出た。自分のせいで誰かが命を奪われたなどと言われても、咄嗟には理解できなかった。頭が理解することを拒んだと言ってもいい。
「ユリエは君を愛していた。君を傷つけた者たちが許せなかったんだ」
 ユリエは自分のために殺人者になったのだと薪は言う。苛めに遭った自分の復讐の為に、学友たちを殺したのだと。

「なにそれ」
 乾いた声が出た。
 腹が立った。仇を取ってくれたと、感謝の気持ちなんか微塵も沸いてこなかった。
「そんなのあたしは知らない。そんなこと頼んでない、ユリエが勝手にやったことでしょ。なのにどうしてあたしが」
 どうしてこんな罪悪感に押し潰されなきゃいけないの。

 喉が詰まって、最後は言葉にならなかった。泣きそうな顔を見られるのが嫌で、礼子は俯いた。長い髪が顔を隠してくれる。この時ばかりは養母の趣味に感謝した。
 気が付くと、薪が隣に座っていた。
 青木にしたように手を握るでも肩に手を置くでもなく、ただ前を向いて座っていた。そうして礼子が落ち着くのを待っていた。まだ続きがあるのだ、と礼子は直感した。
 果たして薪は口を開いた。

「柚子ちゃんのことだけど」
 その名前を聞いて、礼子は心を強くする。
 どんなことがあってもわたしを好きでいてくれると言った。幼い頃から男の欲望に晒された身でも、人殺しの動機になるような人間でも。彼女だけはわたしを見限らない。そう信じていた。
 そんな彼女を巻き込んでしまった。礼子の心は彼女に対する申し訳なさでいっぱいになった。そんな礼子の気持ちを踏みにじるように、薪の冷徹な声が響いた。
「彼女はユリエの共犯者だ。そして苛めの首謀者でもある」

 今度こそ、礼子の思考は停止した。ユリエが殺人犯だったことよりも受け入れがたい事実だった。「うそ」と反射的に言葉が零れた。
「君に直接危害を加えてきた連中とは別口で、彼女は君が学校中から無視されるように仕向けていた。学用品や上履きの嫌がらせは彼女がやらせていたんだ」
「うそ」ともう一度礼子は言った。今度は反射ではなく、意志の籠った打ち消しだった。この優秀な男に間違いなどあり得ない、解っていても否定せずにはいられなかった。
「本当だ。こないだ君、教科書に墨撒かれただろ? 僕はあの現場を押さえた。君の机に墨を掛けた生徒から直接聞いたんだ」
 彼は警察官だ。証拠もなしに憶測を述べたりしない。
 身体中の力が抜けて、礼子はソファにもたれかかった。思わず笑いがこぼれた。衝撃も大きすぎると笑えてくる。あの時もそうだった。「娼婦と言うのよ」と施設の友だちから聞いた時、礼子は笑ったのだ。

「あーあ。結局、何処も変わらないのね。施設と同じだわ」
 顔を上げると、向かいで青木がとても心配そうにこちらを見ていた。薪への献身ぶりからも伺える、彼はやさしい男なのだろう。だから真実を告げようとした薪を止めようとした。でも、嘘は嘘だ。そこには礼子に必要なものは何もない。
「大丈夫よ。こんなの慣れっこだもの。優しくしてくる人には何か裏があるの。みんなそうだった」
 施設にいた頃お菓子をくれた職員も、自分を引き取ってくれた養父も、ユリエも。醜い欲望を、その優しい仮面の下に隠していた。柚子も彼らと変わらない。そういうことだ。
 彼女の純真を、笑顔を、その言葉を、信じた自分が馬鹿だった。人は気紛れに自分に近付いてきて、耳に心地よい言葉を残して、でもいつかは去っていく。だから信じては駄目、縋っては駄目。所詮、人間は一人なのだ。

「ありがとう、薪さん。あたし、強くなるわ」


*****

 この章、長いので2つに分けます。



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イヴに捧げる殺人(15)

 いつもたくさんの拍手をありがとうございますー!
 二人がまだ恋人になる前の話とか、原作で彼らが家族になった今では化石みたいなものだと思うんですけど、読んでくださる方、ありがとうございます。

 お話の続きです。
 この辺になるとまとめよう感が強くて自分でもツライです(^^;)、でも、もうすぐメロディだし! 更新がんばります!




イヴに捧げる殺人(15)






「ありがとう、薪さん。あたし、強くなるわ」
 礼子が薪に礼を言ったのは皮肉ではなかった。本気で感謝していた。
 自分はこれから、誰にも頼らず独りで生きていく。そのためには強くあらねばならない。他人の好意などに縋らなくても済むように、強く強く。薪は真実を告げることで、それを自分に教えてくれたのだと考えた。ところが。
「やっぱりバカだな、きみは」
 彼は片頬を引き攣らすようにして軽蔑の笑いを浮かべ、てか、なんてムカつく顔なの。あたしの感謝返しなさいよ。
「薪さん。失礼ですよ、そんな」
「おまえといい勝負だ」
 青木が薪の無礼を諌めた、その瞬間だけは感心したのに。一言で怯んでんじゃないわよ、このヘタレ男。

 こういう場合、大人と言うものはもっと優しい言葉を掛けてくれるものではないだろうか。養父の虐待を知った時もそうだったが、薪は常に冷然と礼子を叱咤する。
 何故だろうと考えた。何故彼は、礼子が他人から同情されると余計に傷つくことを知っているのだろう。

「強くなると言うことは、悲しみから目を背けることじゃない。自分の心に嘘を吐くことでもない。悲しみも、それによって傷つく弱い自分も全部認めて、そこから再生することを言うんだ。それが本当の強さだ」
 どうしてオヤジって生き物は説教をしたがるのだろう。自分の経験値をひけらかしたいのか、いいこと言ってる自分に酔いたいのか、その辺の心理は不明だけど。嘘は言ってないと思った。
 確かに彼は自分よりも長く生きていて、その間には色々な経験を積んできたのだろう。そこから学んだことを礼子に教えようとしている。礼子が、道に迷わないように、回り道をしなくて済むように。

「傷ついてない振りなんかするな。ぼろぼろのくせに」
 ぽん、と頭に手を載せられた。気安くさわらないでよ、と何故だか振り払うことができなかった。
 目の前が霞む。こめかみがパンパンに膨れ上がっていた。ずっと息を止めてるせいだ。
「我慢なんかするな。泣きたきゃ泣け」
 冗談じゃないと思った。せっかくここまで我慢したのに。
「きみは未だ子供で、しかも女の子だ。それが許される立場にある。特権は使えるうちに使っておけ。いずれ、使えなくなる日がくるんだ」
 彼の言う通りだと思った。
 自分は子供で女だ。子供の無知と女の弱さの両方を持っている。そのことを認めなければ、改善することもできない。先に進めないのだ。

「泣き顔を人に見られるのが嫌なら僕の胸を貸してやっても、――お?」
 飛び込んだ胸は、これまでに礼子を抱いたどの男よりも薄くて頼りなかった。だけどすごく安心できた。言葉も態度も冷たいのに、彼の胸はとてもやさしかった。
「うっ、ううっ、うっ」
「泣くな! おまえは男で大人だろ!」
 何故か向かいで青木が泣いてて、薪に怒鳴りつけられていた。よく分からない男だ。

 彼は礼子を抱きしめることはせず、子供をあやすように背中をぽんぽん叩きながら、礼子が泣きやむのを待っていた。彼に比べたら自分は子供かもしれないが、さすがに幼児扱いはないだろうと少し頭に来たから、最後にブランド物らしいネクタイで思いっきり洟をかんでやった。彼は複雑な顔でネクタイをつまみ上げ、無言でネクタイを外すとゴミ箱に捨てた。
「ごめん遊ばせ」
「ホンっとに可愛くないな、きみは」
「自分より可愛い男の前で可愛い女演じて何の意味があるのよ」
 ちっと舌打ちして彼はそっぽを向き、「ずっと泣いてりゃいいのに」と警官とは思えないような暴言を吐いた。

「いくらかすっきりしたか? でもしんどいのはこれからだぞ。不意に思い出しては辛くなる。君の言う通り、君は強くならなきゃいけない」
「平気よ。あたしは雑草だって言ったでしょ」
 頼もしいね、と彼は皮肉に笑い、礼子の方を見もせずに言った。
「どんな状況でも強くあろうとする、僕は君の考え方には大賛成だ。でも人間てのはおかしなもので、自分を守るのは案外下手なんだ。いくら努力してもその強さを発揮しきれない。すぐに自分なんかって思ってしまう。自分のために頑張れる人間は、案外少ないよ」
 まるで独り言のようだった。自分自身を振り返っているのかもしれない。他人が見たら欠点なんか性格の悪さ以外は見当たらないような彼でも、そんな失敗を重ねてきたのだろうか。

「人間が、その最大の強さを発揮するのは大事なものを守る時なんだ。これからの痛みは、すべてそのための訓練だと思え」
「大事なものって?」
「それは人によって様々だ。人だったり物だったり、目に見えないものだったりする。でも、人が人として生きていくためにはそれは絶対に必要なものなんだ」
 礼子は既に人生を選び取った。養父の玩具としてではなく、人間として生きて行こう。自分がそれを実行に移せたのは彼のおかげだけれど、その欲求はずっと前から抱いていた。そもそものきっかけは。

「柚子にはいつ会えるの」
 礼子の言葉に、薪は息を飲んだ。大きな眼を見開いて、まじまじと礼子を見る。自分を裏切った友人に会いたいなんて、正気の沙汰じゃないのかもしれない。でも。
 彼女がくれた言葉が。礼子を支えてきた。
 それは欺瞞だった、嘘だった、でも。支えられた事実は無くならない。

「彼女は実行犯の一人だ。取り調べが済むまで面会は出来ない」
「じゃあ伝えて。ずっと待ってるって」
 え、と薪が聞き返した。自分の耳が信じられなかったのかもしれない。
「あの子はあたしに言ったの。何があってもあたしのことが好きだって。だからあたしも答えたの。自分もそうだって」
 礼子自身、自分の言うことはおかしいと感じていた。だけど言わなきゃいけない。自分にとっての大事なもの。
 柚子はあたしの友だち。
「だから伝えて。あたしの気持ちは変わらないからって」

 薪はくちびるを引き結び、礼子の願いを聞いていた。礼子が話し終えると彼は詰めていた息を吐き出し、やれやれと言うように軽く肩をすくめた。
「参ったな。君はどうやら僕より強い」
 薪は両手を自分の肩の高さに上げ、要するにそれは降参の証。
「本当のことを教えよう。君なら、この修羅の道を行けるだろう」
「どういうこと?」
「柚子ちゃんは君が好きなんだよ。おそらく君に恋をしている。彼女は君を独り占めしたくて、それで誰も君に近付かないように仕向けたんだ」
 多分、薪はそれを秘密のままにしておこうとした。その方が礼子がこの事件を乗り越え易くなるからだ。柚子の本当の気持ちが解れば、礼子は彼女を放ってはおけなくなる。しかしそれは事件の加害者と被害者が同じ道を歩むと言うことで、二人とも互いを見ては事件のことを思い出すだろう。
 正に修羅の道。しかしそれはかつて、薪と雪子が選んだ道でもあった。

「馬鹿ね。他に話したい子なんか一人もいなかったのに」
 嬉し涙を滲ませる礼子を、薪はやるせない眼で見ていた。「苦労するぞ」と、それは彼の経験から出た言葉。加害者と被害者が友人関係を築く難しさも、同性で愛し合うことの困難も、嫌というほど知っている。
 それでも、彼女たちがそれを選ぶなら。止める権利は薪にはない。

「君は自分じゃ気付いてなかったみたいだけど、意外と人気者だったんだよ。友だちが少なかったのも多分、君の前だと緊張して喋れなくなる子が多かったんじゃないかな。憧れの君ってやつだ」
「バカバカしい。貴子じゃないけど、あたしの血は」
 何処の誰とも知らない親から生まれたのよ、と礼子が卑下するのを薪は嘲笑い、
「人間の血液の組成は45%の血球成分と55%の血漿だ。血球成分の殆どは赤血球で、そこに1%弱の白血球および血小板が含まれる。赤血球は直径約7.5ミクロン、厚さ約1~2ミクロンの円盤状で」
「薪さん、薪さん、その辺で。礼子ちゃん、耳から煙が出てます」
「精神は強いのに。頭は軟弱だな」
「これが数学なら放電現象が起きてるわ」
 本当に煙を押さえるためでもあるまいが、耳を塞いだ礼子に薪は語りかけた。
「君もその眼で見ただろう。血に格差なんか無い」
 そうね、と礼子は笑った。
「いまこの瞬間にも、あたしの細胞は生まれ変わってるんだものね」
「その通りだ」
 彼だけに通じる言葉で礼子は言い、彼はそれに微笑みを返した。訳が分からなくてキョトンとしている青木の様子が、何だか可笑しかった。

 それから幾らも経たずに二人の刑事が執事に案内されてきた。その一人に、「大友さん、よろしくお願いします」と青木が頭を下げた。礼子を促した刑事が「薪室長、失礼します」と挨拶するのに、薪は横柄に頷いただけだった。
 部屋を出るとき、ソファに座った薪の後姿に礼子は呼び掛けた。
「ねえ。ちゃんと伝えてよ」
 薪は答える代りに右手を上げた。了承の合図だと分かった。
 後ろにいた刑事が、何故だかぎょっとした顔をした。不思議に思ったが、初対面の人間に裏事情を訊けるほど礼子は気さくな性格ではなかった。彼女がその理由を知るのは、それから1時間後。事情聴取が終わって薪の身分と年齢が明らかになった時だ。
 聴取をした若い刑事が教えてくれた。警視長と言うのは上から二番目の役職で、彼は本来なら自分たちなど口も利けないくらい上層にいる人なのだと。

「ふうん、偉いのね」
「来年あたり警視監になるんじゃないかって言われてる。四十代前半で大したものだよ」
「えっ、四十?!」
 てっきり二十代前半だと思っていた、ていうか、四十オヤジがセーラー服を着こなしていた事実に卒倒しそうなんだけど。ユリエや柚子のショックに負けてないんだけど。
「まさか本物の吸血鬼じゃ」
「あはは。それが本当でも誰も驚かないねえ」
 星稜学園には吸血鬼はいなかったけれど、警察にはいるのかもしれない。礼子は美奈子と言う名の女生徒を脳裏に浮かべ、今度薪に会ったらどんなふうに皮肉ってやろうかと考えて、にんまりと笑った。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

イヴに捧げる殺人(16)

 やっと、最終章です~。

 このお話、4月から公開してたんですね。
 こんな話に3ヶ月も付き合わせて申し訳なかったです。読んでくださった方の温情には心から感謝しております。
 この後、あとがき代わりの後日談がございますので、もう少しお付き合いください。 




イヴに捧げる殺人(16)





 レジャー帰りのファミリーカーが渋滞を生み出す休日の夜道を、闇に溶け込むような黒いボディの公用車が滑って行く。その運転席では青木が、つんつるてんのシャツにボタンの留まらないズボンという何とも情けない恰好でハンドルを握っていた。
 時刻は夜の九時過ぎ。今日は日曜日だから薪を家に送ったらそのまま帰らなければいけない。土曜日だったら泊らせてもらえたかもしれない、どうせなら一日早く今日の事件が起こればよかったのにと、とても人には言えないような考えが浮かぶのを慌てて打ち消す。薪にこんなことが知れたら殴られる、絶対。

 渋滞に捕まってノロノロ運転の車の中、そっと助手席の薪を見るとドアに頬杖を着く形で熟睡していた。疲れたのだろう。薪は平気な顔をしているから他人にそうとは気付かせないが、殺されかけたのだ。精神的な苦痛も大きかったはずだ。
 相変わらず無茶をする人だ。何度目かの赤信号を隠れ蓑に青木は深いため息を吐く。本当に、こんなことを続けていたら命がいくつあっても足りない。
 今回のことだって、何も薪が自分でユリエを聴取することはなかった。九条家の誰かが犯人たりうる物証が上がっていたのだから、捜一の捜査員に任せればよかったのだ。それを、あの少女たちの未来を守るために。

 青木は礼子の秘密を知らなかった。そのことを、薪は青木にすら話さなかった。しかし薪が彼女のために無茶を通したことは解った。
 どうしてだろう、と青木は薪の寝顔を見ながら考える。
 薪はやさしい人だけど、そこまで事件関係者に入れ込むタイプの捜査官ではない。感情移入はするな、同情心に溺れるな、割り切り無しに捜査はできない。事件関係者の心情に振り回されがちな青木はいつも薪にそう言われる。その彼が、どうして。

 対向車の多さにサンデードライバーらしい先行車が右折できないまま信号が変わり、同じ交差点で二度目の赤信号に捕まった。停止を命じる強烈な赤に、薪が青木に突き付けたレッドカードを思い出す。

 ――僕に鈴木の脳を見せたおまえがそれを言うのか。

 僕の判断に生意気な口を挟むなと、叱られたのだと思ったけれど。違ったのかもしれない。
『勘違いするな』と薪は言った。
 思い上がるな、自分の立場を弁えろ。あれはそう言われたわけじゃなくて、もしかしたらまったく逆の意味で。
 貝沼事件の真相を薪に告げたこと、それを後悔するなと言ったのかもしれない。だって薪が、自分がされてマイナスにしかならないと感じたことを他人にするはずがない。
 勘違いするな、責めてるんじゃない。あれは必要なことだった。
 そう言いたくてわざわざ鈴木の名前を出したのかもしれない。そう思っていたから、礼子にとっては残酷な真相を話したのかもしれない。おそらく、薪は礼子を自分と重ねていたのだ。

 薪のせいで沢山の少年の命が奪われた。鈴木はそれを隠そうと自分の命を犠牲にし、青木は真実を掘り起こして彼に伝えた。
 あの頃、青木はまだ本当に未熟な新人で。何も分かっていなかった、MRIの矛盾も冷酷も。ただ最新鋭の捜査に自分が加われることに感激し、憧れの薪の下で捜査ができることに浮かれ。躊躇いもなく鈴木が隠した真実を暴いた。それが正しいことだと信じていた。
 経験を重ねるに従って、明らかにしない真実があっていいことを学んだ。そうして自分の行為の傲慢さに気付いた。
 あの行為の是非は、青木の中ではまだ答えが出ていないけれど。捜査官として間違ってはいないと、薪はそう言ってくれたのかもしれない。

「まだ着かないのか」
 零れた不平に隣を見ると、薪が起きていた。眼を細めて眉をしかめて、いかにも寝起きと言った顔だ。
「日曜の夜ですからね。お台場帰りの車の渋滞にハマっちゃったみたいです」
「いま何時だ」
「九時四十分です」
「家に泊っていくか」
「はい。――えっ」
 右折可能の矢印が消えた、その瞬間に言われたものだから、ついブレーキを踏み込んでしまった。助手席で前後に頭を振られた薪が、不機嫌そうに青木を睨む。

「いいんですか? 明日、月曜ですけど」
「構わん。おまえが玄関で寝ればいいんだ」
 玄関はちょっとスペース的にキツイです。
「せめて寝室の床を貸してください」
 そうさせてもらえたらどんなに楽だろうと、青木は思った。今ごろ薪はどんな気持ちでいるんだろうとか悪夢にうなされてやしないかとか、思うだけで何もできない情けなさに比べたら、その場に居合わせて自分の無力を思い知る方痛みの方がマシだ。知らないところで苦しまれるよりずっといい。

「勝手にしろ」
 薪は欠伸混じりに言って、再び眼を閉じた。その横顔を対向車のヘッドライトと信号機の青が青白く照らし出す。
「はい。勝手にします」
 そう返して青木はハンドルを切り、ようやく途切れた対向車の隙間を横切った。


―了―


(2013.11)

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イヴに捧げる殺人 後日談(1)

 日曜日にたくさん拍手くださった方、ありがとうございました。
 せっかくの日曜日を無駄にし、いえその(^^;)、
 貴重なお時間を費やしていただいて光栄です。常連さんもご新規さんも、ありがとうございます(〃▽〃)


 さてさて、
 今週末は1年ぶりの薪さんですねっ。
 予告によると薪さんが誌面に登場するかどうか分からないのですけど、薪さんいないと秘密始まらないと思うし。会えるといいな~。





イヴに捧げる殺人 後日談(1)





 比較的早い時間に退庁が叶った金曜日の夜。予定がなかったら付き合え、と薪に誘われた。
 薪と向き合ったとき、イエス以外の言葉なんて青木の中には存在しない。「どんてん」で待っている小池たちを裏切る決意をするのにコンマ1秒、「急な用事ができました」とメールを打って携帯電話の電源を切るまで1分もかからなかった。
 明日から連休と言う夜に誘いを受けたのだ。彼は青木の上司だけれど、これは仕事ではない。その証拠に公用車は使うなと指示された。駅前で拾ったタクシーの運転手に薪が告げた行先は有名な繁華街。想像するに、酒を交えた食事をしてからホテルに一泊するか薪のマンションに行くか、どちらにせよ青木にとっては最高の夜が待っているはずだ。

 道端に停められたタクシーから降りた青木は、わくわくしながら薪の後について歩き、店に入り席に着き。薪が、おしぼりを持ち上げたところでブチ切れた。
「なんでキャバクラなんですか?!」
 いくら薪でもあり得ない。金曜の夜の恋人たちが甘い時を過ごす場所がキャバクラって! 薪は見た目は高校生でも中身は立派なオヤジ、それは知ってるけれどこれはない!

「騒いでないでおまえも指名入れろよ」
 薪は慣れた様子でボーイを呼び、女性の名前を告げた。指名する女の子がいるってことは、彼はこの店に何度か出入りしていると言うことだ。遊ぶなとまでは言わないけど、何も青木の目の前でキャバ嬢といちゃつかなくたって。それとも新しい嫌がらせ?
「オレ、今週なにかミスしましたっけ」
「報告は上がってないが、なにかやったのか」
「覚えがないから聞いてるんです。どうしてこんな仕打ちを受けなきゃいけないのかと思って」
「おかしなやつだな。普通、上司にキャバクラ奢ってもらったら喜ぶだろ」
 それは普通の上司と部下の場合であってオレたちには当て嵌まりません、と大声で叫びたかったけれど、人前ではマズイ。青木は歯を食いしばり、眼の縁に浮かぶ涙を必死で堪え、ようとしてくじけた。ソファに突っ伏して大きな体躯を丸める。だって耐えられないもん、こんなの。

 薪の指名を受けた女の子が、こちらに近付く足音がする。まさかそういう関係にはなってないと思うけど、こういう店で働く娘って貞操観念が薄いし、ましてや相手は薪だし、むしろ女の子から誘ってきたりとか、あああどうしようオレこの娘殺っちゃうかも。

「何しに来たのよ」
 相手を見てしまったら自分が抑え切れなくなりそうで、顔を伏せたままの青木の耳に、尖った女の声が聞こえた。思わず跳ね起きる。青木が知っている声だったからだ。
「れ、礼子ちゃん?」
「あら青木さん。来てくれたの。うれしい、ご指名ありがとうございまーす」
「おい、指名入れたのは僕だぞ。ここの勘定も僕持ちだ」
「だからなに」
「礼を言うなら僕に言え」
「うっわ、かっこ悪。恩着せがましい男って最低」
 開いた口が塞がらない青木と薪の間に礼子は腰を下ろし、激しく舌打ちする薪をガン無視して青木に笑い掛けた。前々から可愛い娘だったけど、綺麗に化粧をして華やかな衣装を着けた彼女はあの頃とは比べ物にならない。グラビアアイドルにときめかなくなって久しい青木ですら一瞬見蕩れた。

「礼子ちゃん、ここで働いてるの?」
 2ヶ月前の事件で九条の家を出たとは聞いたが、こんな仕事で生計を立てていたとは。青木は彼女の現況を知って、やるせない気分になった。
 礼子は告発者であり、事件被害者でもある。彼らには国から補償金が出る仕組みにはなっているが、生活を賄える十分な額は支給されないのが現状だ。結局はこのように、まだ少女のうちから辛い仕事に就かなくてはいけなくなる。

 同情心いっぱいの青木の視線を跳ね返すように、礼子は明るく笑って、
「うん。薪さんの紹介」
「そう、薪さんに、えええええ!?」
 未成年に水商売斡旋する警官が何処にいるんですか!!
 叫びたかったけれど、ここは店の中だ。礼子の立場も薪の立場も悪くなる。青木は慌てて自分の口を押さえた。
 声には出せなくてもそれは拙いでしょうと薪を見れば、澄ました顔で水割りのグラスを傾けている。警察官というより人としてどうなの、この人。

「この水割り薄いぞ。もう少し濃いめに作り直せ」
「自分で足せば」
「おい、僕は客だぞ」
 横柄な口調で嫌われる客ナンバー1の台詞を吐いてソファにそっくり返る、青木の眼から見ても感じが悪い。案の定、礼子は眉をしかめて言い返した。
「うるっさいなあ。本当に何しに来たのよ」
「キャバクラに女子の胸を触る以外の目的で来る男がいたらお目に掛かりたいものだ」
「薪さん、違います。みなさん、女の子とお喋りしに来てるんです」
「馬鹿かおまえ。そんな健全な経営方針で風俗店が成り立つか」
 それは分かってますけど建前上。
「と言うわけで揉ませろ」
 言ってることと外見のギャップがものすごいんですけど。いっそこの場で気絶したいくらいなんですけど。
「薪さん」
 青木の非難がましい声なんざどこ吹く風。不良警官はその華奢な指を卑猥なカタチに曲げて、礼子に迫った。白い手の甲を、涼しげなパールブルーのマニキュアに彩られた指先がぱちんと叩く。
「――って。おい、それが客に対する態度か!」
 うわー、お約束。それが警察官の態度ですかと言ってやってほしい。

 憤る薪に対し、礼子はきちんと膝を揃え、その上に両手を置いてすっと頭を下げた。
「当店では女の子との過剰な接触は禁じられております。ご了承ください」
「よし。酔っ払いの撃退は慣れたみたいだな」
 手の甲が赤くなるほど叩かれたのに薪は満足そうに頷いて、いそいそとグラスを取り上げた。ウィスキーの蓋を開けて、青木の水割りを作り直してくれる。青木の好みに調整された水割りは舌に心地よく絡み、ベルガモットの香りが鼻腔を官能的にくすぐった。
「その辺の男に簡単に触らせるなよ。何度も言うけど、将来好きな人ができたとき」
「そうね。あたしの身も心も、柚子のものだものね」
「その道は行かせたくなかったんだが」
「……あのお」
 質問の形に手を上げた青木を、二人が振り返った。顔を見合わせてすぐ、薪はふいっと横を向き、察して礼子が説明役を引き受けた。

 よくよく話を聞いてみれば。
 この店は薪の捜一時代の先輩の行きつけで、他の店のように暴力団とのつながりは一切ない。何でも店主が元警察関係者で組にも顔が効くので、彼らも簡単には手出しができないらしい。
 礼子のような身寄りもなく行き場のない少女たちを、彼女は自分の店で働かせている。現代の日本で、手に職もない女の子が生活しながら資金を貯め、人並の生活を手に入れるためにはコンビニのアルバイトでは不可能だ。何年かの間この店で稼がせてもらって、ある程度の余裕ができたら給金は安くても昼間の勤めに切り替える。その就職先もママが紹介してくれるんだって、あたし、美容師になりたいんだ、と礼子は遠い未来の話を夢見るように語った。
 が、あくまでも風俗店。店主は信頼が置けるが、客のすべてが素性がいいとは限らない。薪は礼子が心配で、何度も店に顔を出していたそうだ。酔客の対応に困窮する彼女を警察手帳をちらつかせて救ってやったこともあるとか。
「なんだかお父さんみたいですね」
「冗談!」「願い下げだ!」
 二人から突っ込まれて青木も思い直した。それもそうだ、年が合わない。実年齢ではなく外見的に。正直な印象は美人姉妹。口に出したら殴られるから言いませんけど。

「でも礼子ちゃん、17でしたよね?」
「いいだろ、2ヶ月くらい。固いこと言うな。こんだけ胸がでかけりゃ大丈夫だ」
「さっきから胸胸ってイヤラシイ。セクハラよ、それ」
「あのな、胸はでかさだけじゃなくて形も大事なんだ。恭子ちゃんの女神のような胸に比べたら、おまえの胸なんかまだまだ」
「恭子ちゃんてだれ? 薪さんの恋人?」
「いや。深田恭子ちゃん。女優の」
「ああ……」
「可哀相な人を見る眼で僕を見るな!!」
 二人のやり取りを聞くと、ほんの僅かなジェラシーをおぼえる。薪はこんな風に、女の子に遠慮なくぽんぽん言われるのが嬉しいのだろう。
 薪のファンは数知れず、でも彼女たちはお互い牽制し合って彼を遠巻きに見つめるだけ。直接話し掛けたり、ましてやこのような親しげな関係になったら仲間の制裁が待っている。もっと恐ろしいのは腐女子と呼ばれる過激な一派で、薪の相手は男性以外あり得ないと言う凝り固まった信念を元に、布教活動と称して薪と警察内部の美形との恋物語をまことしやかに吹聴している。相手は竹内だったり二課の大山だったり間宮部長だったり、おかげで薪はすっかり誤解を受けて、ていうか、どうしてその相手の中にオレがいないんですか、腐女子のみなさんっ。

 とにかく。
 薪が礼子を気に入っているのは、その眼で分かった。青木や部下たちに向けるのと同じ、温かい眼。
 もしかしたら、と青木は思う。
 もし自分とこういう関係になる前に彼女と出会っていたら。薪は素直に彼女を愛したのかもしれない。年は20以上も違うけれど、そんな夫婦は世の中にいくらでもいる。大切なのは気持ちだ。
 こうして見ればお似合いの美男美女だし、性格も合ってるみたいだし、この二人が恋人関係にあってもなんら不思議ではない。まあ、薪に限って浮気なんて面倒なことは、
「ねえ。お店終わったら部屋に来てよ」
 ……部屋ってなに。しかもこの口ぶり、誘ったのは今日が初めてじゃない。
「ああ。こないだの続きだな」
 続きってなんの続き? 寸前まで行ったとかここから先は結婚してからとかそういうこと?
「よし、今日は朝までみっちり」
「許しません!!」
 二人の間に大きな手を割り込ませ、青木は鋭い声を上げた。びっくり眼で青木を見る、薪の顔はやっぱり可愛い。その隣で何故だか礼子がにんまりと笑った。

「なに怒ってんだ」
「そりゃ怒りますよ。現職の警察官がキャバ嬢の部屋で朝まで頑張るとか言われたら」
「あたしは二人相手でもいいけど。てか、その方がいいかも。薪さん一人じゃ体力が」
 なに言い出すの礼子ちゃん! 柚子ちゃんに操立てるんじゃなかったの? 男は別腹とかそんなのお父さんは許しませんよっ!
「そうだな。疲れたら交代できるし、仮眠取って再開しても」
 あんたはどんだけやる気なんですか。

「青木、頼めるか」
「冗談じゃありませんよ!」
 青木はソファを蹴り倒す勢いで立ち上がった。長身の彼は立つだけで人々の注目を集める。店中の視線が集中する中、青木はついに叫んだ。
「オレ、もう薪さん以外の人には欲情しないって何度も言ってるじゃないですか! ハッキリ言って女の子の胸なんか肉の塊にしか見えませ、ぐぎゃっ!」
 青木の顔にストレートパンチがめり込んだが、一瞬遅かった。殴られた頬を押さえながら起き上った青木の眼に、腹を抱えて笑い転げる礼子と頭を抱え込む薪が映った。



*****

 あおまきさんの絡みはやっぱり楽しいです。
 この後日談のために3ヶ月耐えてきたといっても過言ではないww



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ジャンル : 小説・文学

イヴに捧げる殺人 後日談(2)

 いっつも後手に回ってすみませんー。注釈入れるの忘れてました(^^;
 礼子が勤めてるキャバクラは、羽佐間さんの行きつけです。羽佐間さんは薪さんの捜一時代の指導員です。ADカテゴリの「折れない翼」という話に書いてあります。よろしくです。






イヴに捧げる殺人 後日談(2)






「夜間高校行ってるの。明後日、数学の追試なんだ」
 窓際に置かれた勉強机代わりのローテーブルの前で、礼子は数学の教科書を掲げてみせた。

 礼子のアパートは小間使いのユリエの私室より小さくて古い物件だったけれど、こまめに掃除されているようだった。ここも店のママの持ち物だそうで、彼女は礼子の生活を全般に渡ってサポートしてくれているらしい。おそらく薪が昔のツテを使って、頼み込んだのだろう。
 部屋を見回して、青木は複雑な顔をした。女の子の部屋というよりは男の子の部屋みたいだったからだ。カーテンや壁に掛かっている服には英文字やら髑髏やらが踊っていて、色づかいもモノクロや青系が多い。それでも、所々に星やハートが混じっているところはやっぱり女の子だ。

 青木が一人入ったら一杯になってしまう手狭い台所でインスタントコーヒーを淹れて戻ると、二人は畳敷きの床に座って額を寄せ合っていた。本当に、仲の良い兄妹みたいだ。
「他の科目は何とかなったんだけど、これだけはどうしても苦手で」
「数学なんか簡単だろ。公式さえ覚えておけば、後はそれを当てはめるだけなんだから」
「ちっ」
「女の子が舌打ちなんかするな」
 説教臭いところはやっぱりお父さんですね。

「なあ青木。数学は公式さえ抑えれば楽勝だよな」
「そうですね。オレも地理や歴史の方が苦手でした。覚えることいっぱいあって」
「なんで。一度読めば覚えるだろ」
「「ちっ」」
「おい。今、舌打ち二つ聞こえたぞ」
 青木がコーヒーを差し出すと、薪は不機嫌に青木を睨み上げるようにしたけれど。クレーンゲームで獲ったぬいぐるみが置いてあったり(キャバクラの先輩からのプレゼントだそうだ)、コーヒースプーンの柄にカエルの顔が描いてあったりする女の子の部屋で、畳に胡坐の薪は何だかあどけなくて、礼子がいなかったら襲ってたかもしれない。青木なんか人差し指どころか小指も入らない女性用のカップの持ち手に彼の二本の指が無理なく入ってしまう様とか、来客用らしい白地に桜模様の陶磁器が薪の上品な顔立ちにすごくよく似合う様子とか、そんな微細な、でも青木の心を猛烈に焚き付けるものがプライベートの薪には盛り沢山で、ついつい熱っぽく彼を見つめてしまう。心を落ち着けようとして、青木は熱いコーヒーを一気に飲んだ。

 これのどこに疑問を挟む余地があるんだ、と礼子とはまた違った意味で薪が教科書に首を捻っている隙に、礼子が青木を意味ありげな眼差しで見た。多分、青木の視線の特別さに気付いたのだ。
 いや、以前から気付かれていたのかもしれない。雪子もそうだけれど、恋愛慣れしていないように見えても女の子は鋭い。
 もっと気を付けないといけないと思った。薪に迷惑が掛かるのだけは避けたい。既に色々なリスクを背負わせてしまっているのは分かっている、だからこれ以上は。

 1年くらい前、薪に言われた。ずっと僕のことを好きでいろ、と。
 その時にふっ切ったつもりだった。弱気になることはない、引け目なんか感じることはない。もちろん自分よりも彼に相応しい人はいる、でも選ぶのは彼自身。自分は彼に言われた通りひたすらに彼を愛していればいい。だけど。
 ――本当にそれでいいのだろうか。
 同じループに何度でもはまる。この選択は正しいのか。彼のためになることなのか。何十回も考えたのに、未だに答えは出ない。答え合わせのできない宿題はいつまでも残って、心の隅に深く根を張る。つねに出張って来るわけではないけれど、視線をめぐらせればいつもそこにいる。愛するが故の根深さで。

「青木、手伝え」
 イライラしたような声で呼びかけられて、青木は我に返った。畳に胡坐の薪が、こちらを向いて眉を吊り上げている。
「こいつ、言った端から忘れていくんだ。僕一人じゃ教えきれん」
「なによ、教え方が悪いのよ。柚子はもっと分かりやすかったわ」
「どれどれ。ああこれはね、10万と2万と3千とって言うように、単位ごとに分けて考えるといいんだよ」
「なんでそんなことする必要があるんだ。そのまま掛けりゃいいじゃないか」
「薪さん。普通の人間は6ケタの掛け算は暗算じゃできないんです」
「なんで」
「「ちっ」」
「あっ、また舌打ちしたな、おまえら!」

 それから、数学とは相性の悪い礼子の脳に二人がかりで数式を詰め込むこと二時間。礼子が疲れて不平を言い始めたのと薪のイライラが頂点に達したのを見取って、青木は2度目のコーヒーブレイクを提案した。
 なんでこんな簡単な式が覚えられないんだ、と薪は、コーヒーの湯気の向こうで心底不思議そうに首を捻る。舌打ちの代わりに歯を食いしばって、礼子はこっそりと青木に洩らした。
「もー。どうして薪さんてあんなに意地悪なの」
 素直な憤慨に思わず笑う。青木もむかし新人だった頃、似たようなことを思っていた。でも今は、彼の思考経路を察することができる。あれは嫌味ではない。
 彼女がどうして数式を覚えられないのか、薪には本当に分からないのだ。よって悪気はない。悪気がない分タチが悪い、というやつだ。
 薪は家庭教師には向かない。教師に向くのは天才ではなく秀才だからだ。天才という生き物は、教科書を一読するだけでカメラで写し取ったかのように細部まで正確に覚えてしまう。しかも一度覚えたことは忘れない。覚える努力、理解する努力というのをしたことがないのだ。だから生徒たちが問題の何処に躓いているのか、見当がつかない。青木のように悩みながら勉強してきた人間の方が、教えるのは巧い。

 誤解されやすい薪を庇おうと、青木は礼子に薪のフォローを入れた。
「本当に意地悪な人は、勉強見てくれないと思うよ」
「ったく。うちの部下たちの方がまだマシだ。頭の程度はおまえと変わらんが、根性だけはあるからな」
 言った途端にとばっちりが来て、青木は黙ってコーヒーを飲む。安価なインスタントコーヒーの味にここまで癒されたのは初めてかもしれない。同情心に溢れた顔つきで、礼子がぽんと青木の肩を叩いた。
「苦労してるのね、青木さん」
「すみません、慰めないでもらえます? 泣きたくなっちゃうんで」
「職場では嫌われ者で恋人もいない。薪さんも大概ボッチよねえ。これであたしまで冷たくしたら、ちょっと可哀想かな」
 礼子の表情に青木は危機感を抱く。やばい、本気で同情している。彼女には柚子がいるが、この年頃の女の子の気持ちは変わりやすいもの。同情から恋に発展したりとか、その可能性が例え百万分の一でも潰しておかないと青木は不安で眠れない。

「そんなことないよ。薪さんは厳しいけどね、すごくやさしい人なんだよ。誰よりも多くの仕事をこなしてるし、辛い仕事は全部自分で抱え込んじゃう。部下の誰かがその仕事をしなきゃいけない時だって、必ず自分がフォローに付くんだ。そんな人だから、どんなに厳しくされてもみんな薪さんが大好きなんだよ」
「本当に?」
「そうだよ。薪さんはみんなに好かれてるよ」
「それは青木さんが」
 礼子はそこで言葉を切り、人を揶揄する目つきになった。黙ってコーヒーを飲む彼女の頭の中では何かが企まれている気配。やがて礼子は口を開いた。
「そう言えばさ。薪さんて、右のお尻の下にホクロがあるでしょ」

 ぷつん、と青木の中で何かが切れた音がした。青木は半分ほど残ったコーヒーカップをトレーに戻し、すっくと立ち上がって3歩ほど歩いた。それだけで薪の背中に到達する、そんな狭い部屋だった。当然、礼子の言葉も薪の耳に入っている。1メートル近い落差で見下ろす青木の表情からこれから起こることを察したらしい、彼は数学の教科書を盾のようにして身構えた。
「薪さん」
「待て青木、落ち着け」
「彼女、薪さんのホクロが何処にあるか知ってました」
「そ、それはつまりその、ほら、こないだの事件のとき」
「あの時は薪さんの腰から下は血で染まってて、ホクロなんか見えませんでした」
「無駄に鋭いな、おまえ」
 青木を取りなすことに懸命な薪と、薪を詰問するのにいっぱいいっぱいの青木は、青木の大きな身体に隠れた場所で礼子が笑いをかみ殺しているのに気付かない。

「寝たんですね」
「ちがう。僕は何もしてない」
「じゃあどうして彼女が薪さんのホクロの位置を知ってるんですか? 礼子ちゃんの前でパンツ脱いだってことでしょ?」
「礼子じゃない。脱いだのは他の女の前で、それも自分から脱いだんじゃなくて、無理矢理脱がされたと言うか剥ぎ取られたと言うか」
「他の女とも?!」
 自分の意志じゃない、という薪の言い訳は青木には届かなかった。青木の頭を満たしたのはたった一つ、薪の秘部を自分以外の誰かが見たという事実。
「じゃあオレは最低二人は殺らなくちゃいけないんですね……」
「青木―! 戻って来いー!!」
 焦りまくって叫んだ薪の声に、礼子の笑い声が重なった。若い女の子らしくケラケラ笑う彼女に、冗談じゃないぞ、と薪が舌打ちする。
「あー、可笑しかった」
 礼子は眼の縁に溜まった涙を拭い、「意地悪のお返しよ」と薪に舌を出して見せた。
「青木さん、思い詰めると怖いタイプね」
「下手に刺激しないでくれ。地獄を見るのは僕なんだから」

 種を明かせば。
 薪が捜査一課で羽佐間とコンビを組んでいた頃、連れて来られたのが礼子が働いている店で、まだ24歳だった薪はそこでキャバ嬢たちにからかわれて丸裸にされた。その時のキャバ嬢の一人が現在のママになっている。礼子はママからその話を聞いたのだ。
「キャバ嬢軍団に服を脱がされたのは事実だけど、酒の席のおふざけみたいなもんで、おまえが邪推するような事実はどこにもない。そもそも男のケツなんか見られたって減るもんじゃなし」
 礼子の前で、青木と恋人関係であることを匂わせるような会話は避けたかったのだが仕方ない。青木が向こう岸に渡ってしまわないうちに引き戻さないと。
「そうですか、集団で。じゃあオレはいったい何人殺せば……」
 戻って来れないらしい。

 畳に正座し、壁に向かってぶつぶつ言い始めた青木をほったらかして、薪はコーヒーカップを片手に礼子の方へやってきた。隣に胡坐をかいてコーヒーを飲み始めた彼に、礼子は夜中特有のテンションで絡む。
「抱きしめてアイシテルって言ってあげればいいのにぃ」
「腹減って錯乱してるだけだ。何か食わせりゃ正気に戻る」
「そこまで単純?」
 薪の冗談に礼子は笑った。念のために言い添えるが、薪は冗談を言ったつもりはない。

「あたしもお腹空いた。薪さん、なにか食べさせて」
「作るのはいいけど、こないだみたいに冷蔵庫の中空っぽのくせに手間の掛かるグラタン食いたいとか無茶言うなよ」
「薪さん、グラタン作るんですか? オレの分もありますか?」
 グラタンと聞いただけで四つん這いで走り寄って来た、青木は正座して、薪を期待に輝く瞳で見つめる。その姿は正にイヌ。
「おまえの分も作ってやるから手伝え」
「はい!」
 小さな冷蔵庫の中を覗き込む薪と、ウキウキしながらその後ろに付き従う青木を見て、礼子はため息交じりに呟いた。
「悪いことして青木さんに捕まったら、フライドチキンを投げてその隙に逃げるわ」
「楽勝だな」
「え。なんですか、それ。どういう意味ですか」
 きょとんと首を傾ける青木に向かって、使い掛けの玉ねぎが投げられた。咄嗟に右手でキャッチする。細い指先が青木を指し、職場仕様の硬い声が言った。
「みじん切り」




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

イヴに捧げる殺人 後日談(3)

 発売日ですね! 
 本屋さん行ってきます! 薪さんに会えますように!!

 あ、あとがき、これでおしまいです。
 最後まで読んでくださってありがとうございました(^^




イヴに捧げる殺人 後日談(3)






「ねえ、薪さん。ユリエの裁判っていつ頃始まるの」
 礼子の問いに、薪は直ぐには答えなかった。フォークの先端に貫かれたマカロニに息を吹きかけ、伸びたチーズの糸をくるくると巻き付ける。礼子はしばらくその様子を見ていたが、やがて諦めたようにホワイトソースに包まれた鶏肉を口に入れた。
 薪のつややかな唇がぱくりとフォークを咥える。薪は牛乳の匂いが苦手なのに、グラタンやシチューは平気で食べる。青木には不思議でたまらない。温めたら匂いは強くなると思うのだが。

「来月だ」
 薪が正直に答えたから、青木は少し驚いた。事件のことは早く忘れろと、てっきりそう言うと思ったのだ。しかし。
「傍聴したいなら席は僕が用意してやる」
「薪さん」
 思わず口を挟んだ。あの事件から未だ2ヶ月も経っていない。裁判の傍聴は礼子にとっては生傷を抉るようなものだ。
「ただし、一人では行くな。ママにでも付き添ってもらえ」
「薪さん」
「分かった」
 薪を留めようとした青木の声と、礼子の了承が重なった。礼子の強い瞳に押されて薪を伺えば、おまえは口を出すなと薪の眼が言っている。

 事件の時も感じたけれど。
 薪は真実は隠すべきではないと言う強い信念を持っている。おそらくそれは、警察官としての正義というよりは経験に基づいての結論なのだろう。

 青木は薪の心情をそのように察したが、その解答は80点。薪の中にも迷いはあるし、礼子に真実を告げることが絶対に正しいと信じ切っているわけではない。だが、薪にはそれを隠すことはできない。
 例えそれがどんなに残酷な事実でも、どれだけの愛とやさしさでもって包み隠そうとした秘密でも、それを知ることで悔いるばかりの人生が待っているとしても。隠してはいけないのだ。
 秘密は必ず洩れる。何年かかっても、日の元にその姿をさらけ出す。問題はその現れ方で、秘密というものは人を介すると必ずと言っていいほど真実から遠ざかる。秘密が内包する不確定要素と、時間が経つほどに曖昧になる人の記憶のせいだ。結果、歪められた真実が当事者に届くことになる。それは隠した者の本意でも隠された者の幸福でもない、単なる悲劇だ。
 未来永劫誰一人としてそれを知らずに済む保証がないなら、真実は隠すべきではない。そして、そんな保証は誰にもできない。

 加えて。
 薪は自分の経験から知っている。人間はそんなにやわじゃない。どれだけ凄惨な事実を突き付けられても、先に進める。一時は足が竦んで、一歩を踏み出すそれだけで針を踏むような痛みを覚えても、ちゃんと歩いていける。何よりも強くそれを信じている、否、信じなければいけない。
 ――だって。
 そのことを教えてくれたのは青木だから。何年もの間、そして今も。薪に真心を注ぎ続けてくれた、薪が自分の脚で歩きだすのを辛抱強く待っていてくれた彼だから。

 現実にはショックのあまり、発作的に自ら命を絶ってしまったり、精神的に病んでしまう人間がいることも知っている。さらには青木が自分にしてくれたように、彼女の傍にいて彼女に愛情を注ぐことは薪にはできない。それが分かっていてこの行動を取る無責任は承知の上、それでも薪は彼女の強さを信じたい。
 誰かが自分を信じてくれる、それだけで人は強くなれる。そのことを薪に教えてくれたのもやっぱり青木なのだ。

 一回りも年下で、見れば未熟さばかりが目につく彼の、なのに多くのことを教えてくれる男を、薪は改めて見直す。前に進む勇気をくれるのはいつだって彼だ。
 命令されずとも食べ終わった皿を集めて洗い始める青木の背中を眺めながら、薪は小さくため息を吐いた。彼の支えがなくなったとき、自分が今と同じように行動できるかどうか未だ自信が持てない。情けない話だ。

 青木は濡れた手を拭きながら戻ってきて、膨れた腹を擦っている礼子に声を掛けた。
「さあて、あとひと踏ん張りだね。礼子ちゃん、応用問題に挑む前に正弦定理を確認しておこうか」
「まかせて。cosA = (b2 + c2 +a2)× 2bc」
「うん、それは余弦定理だよね。しかも間違ってるし……薪さあん」
 薪と二人掛かり、懸命に教えたことが空腹感と一緒に礼子の中から消えてしまったことを知って、青木は薪に泣きついた。なんだったの、あの苦労。

「だから言っただろ。そいつ、教える側から忘れていくって」
「礼子ちゃん、もう一度やるよ。正弦定理は三角形とそれに接する円に関する定理で」
 薪が投げかけた匙を青木が拾い上げる。青木は薪よりも諦めが悪いのだ。そうでなかったら、とっくに薪のことも見限っていただろう。
 諦めないこと、続けることが何よりも大切だということ。それも彼に身を以て教えてもらった。

「どうやらおまえは僕よりも教師向きだ。頑張れよ、先生」
「ちょ、薪さん、ずるっ」
 黄緑色の鞘から犬のような顔を出しているキャラクタークッションを枕にして、薪はころりと横になった。くあ、と欠伸をして5秒後には寝息が聞こえてくる。相変わらず見事な墜落睡眠である。
 眠りに堕ちる寸前、二人が揃ってクスッと笑う声が聞こえた。




(おしまい)


テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
おかげさまで8歳になりました(^^♪
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