Today&Tomorrow(1)

 本日はお日柄もよく。みなさま、お運びありがとうございます。
 お礼、その2でございます。よしなにお願いいたします。
 





Today&Tomorrow(1) ~彼を守る9つの方法~




 2065年の秋、薪剛警視長(40)の正式なボディガードに任命された青木一行警視(29)は、この重要な任務を完遂すべく日夜研鑽を重ねて現在に至る。以下は、警視の実体験に基づき、注意すべきポイントとその対処法を要約記述したものである。


危険ポイントその1 街の中


「すみません。この近くにドラックストアってありますか」
「ええ。その信号渡って2軒目のコンビニの手前の路地を入って、100mくらい歩くと右手にありますよ」
「この辺、詳しくないんで。連れて行ってもらえませんか」
「いいですよ」
 そんな会話を交わして1分後、50m先の路地に連れ込まれる。急いで駆け付けるが、青木が現場に到着する前に、男が路地から蹴り出されてきた。

 相手が集団でもない限り心配は要らない。薪はとても強いのだ。一対一なら大抵の相手には負けない。しかし、青木の神経には限界がある。街に出る度にこの調子では心臓が持たない。逃げていく男を睨みながらの説教も、厳しくなろうと言うものだ。
「ダメですよ。知らない人に着いて行っちゃ」
「着いてきたのはあっちだぞ?」
 薪は基本が分かっていない。
「道案内は警官の仕事だろ。だから僕は」
 道案内にかこつけたナンパを見抜けなかった、間抜けな自分を正当化しようと薪は必死だ。でもその理由は本当のこと。
 薪は本当は交番勤務をしたかったのだ、といつだったか酒の席で話していた。詳細には触れなかったが、子供の頃、交番のお巡りさんに憧れていたのだそうだ。それが今では、警察官房室付次席参事官。階級は巡査の遥か上の警視長だ。そろそろ科警研の所長に就任する話も出ている。現所長の田城は再来年定年だから、その後任に収まるのだろう。直接の上司から更に上の上司になるわけで、青木はますます薪に頭が上がらなくなる、というか、今まで薪に上から物を言ったことなんか一度もない。それもそのはず、青木は薪の奴隷なのだ。

 ――まあ、奴隷って言っても恋の奴隷だけど。

 青木は薪の秘密の恋人だ。頭が上がらないのは一緒だが、彼への奉仕は愛と幸福で満たされている。
 青木はそう考えているが、青木以外の人間の眼には只の奴隷にしか見えない。彼の幸福はその事実に気付かないことと、『青木以外の人間』というカテゴリーに薪も含まれていることを知らない点に掛かっている。不憫だ。

「それより、ビール買ってきたか」
「はい。良く冷えてますよ」
 差し出した缶ビールを受け取り、その場でプルトップを引く。と、白い泡がぶわわっと飲み口から溢れて、歩道のアスファルトを白く汚した。コンビニからたった50mとはいえ、全力疾走したのだ。当然、ビールはしっかりシェイクされていた。
「この役立たず!」
 道路でプルトップを引くほど飲みたかったビールを地面に飲ませてしまった、薪の怒ること怒ること。通り掛かったお婆さんがビクッと身を竦ませたのを見て、青木は慌てて薪を歩道の真ん中から建物の角の目立たないところに引き込んだ。

「すみません」と素直に謝る青木に、薪はずいっと泡だらけになった缶ビールを突き出し、
「こっちの量が減ったの、おまえの分だからな。そっちの寄越せ」
「ごめんなさい。ビールは薪さんの分しか買いませんでした」
「なんで」
 かっきりとスケジュール管理されたウイークディを過ごしている反動か、休日の薪は気紛れだ。急に「海に行きたい」とか言い出すかもしれない。そしたら青木が車を運転するのだ。アルコールは飲まない方が賢明だ。
 青木がそれを説明すると、薪はムッと眉をひそめ、缶ビールに口を着けた。缶の中に呟くように、
「二人で飲むのが楽しいんじゃないか」
「なにか言いました?」
「これ、ものすごくマズイ。傾けても泡しか出てこない」
 斜め下から睨み上げてくる薪は、どうやら本格的に怒っている。ここでご機嫌を取らないと、今日のデートはキャンセルされてしまうかもしれない。焦った青木はコンビニに戻ろうとした。
「もう一本買ってきます」
「もういい。飲む気が失せた」
 素っ気なく言ってスタスタ歩く。薪の背中を追い掛けて、青木はおずおずと彼に話しかけた。

「あの、薪さん。今日、どこか行きたいところってありますか」
「何処かって、日比谷スポーツ店だろ?」
 薪は不思議そうに瞬きをした。そのきょとんとした顔の可愛いこと。
 今日の外出の目的は、青木の剣道衣を受け取ること。青木は平均より20センチばかり背が高く、市販のサイズでは合わないから道着はいつも特注品だ。日比谷スポーツ店からは、先週末に入荷の連絡を受けていた。だけど、その受け取りは今日でなくてもいい。もともとが薪を外に連れ出すための方便のようなものだったのだ。

「それは明日の昼休みにでも行くとして。ここなんですけど」
 スマートフォンの画面に美しく広がる海原の写真を薪に見せると、薪はそれを受け取って、自分でホームページを読み始めた。歩く速度は緩めずに、器用に通行人を避けながら、人差し指を滑らすごとに頬を緩ませ、やがて青木を振り仰ぐ。
「海辺の温泉か」
 青木を見上げる薪の、穏やかに開かれた眉を見て、青木はほっと胸を撫で下ろす。怒りは治まったらしい。
「日帰り入浴なら行けますよ。ほら、このお昼寝セットなんてどうです?」
 11時からのコースで、温泉、昼食、部屋付き寝具付きで夕方の5時まで。日曜日限定だからこそのプランだ。これが休前日となると宿泊客が多いから、3時以降は部屋が塞がってしまう。翌日が月曜の今日なら、宿泊客は土曜の半分以下になる。部屋を開けておくのは勿体ない、とホテル側の考えは実に合理的だ。

「Ⅰホテルまでの所要時間は1時間ほどです。どうですか」
 一応訊いてみたけれど、答えは分かっていた。亜麻色の眼がきらきらしている。それはもう、写真の海に負けないくらい。
 温泉、海の幸、昼寝は薪を籠絡する三種の神器だ。ここに美味い日本酒でも加わったら、相手が見ず知らずの男だってホイホイ着いて――マズイ。
 温泉でご機嫌の薪は警戒心が薄れ、愛想がよくなる。相手が青木限定ならよいのだが、この人は公僕の精神とやらを持っていて、一般市民には元々愛想がいい上に彼らを自分が守るべき存在と考えている。だから先刻のようなナンパにも簡単に引っ掛かってしまう訳だが、それが温泉の効果で更に増すとなると……ホテルの掃除のおばちゃんにまで物陰に引き込まれそうだ。絶対に目を離せない。

 青木の心配をよそに小旅行の話はとんとん拍子に決まって、青木はスマートフォンでプランの予約を済ませ、通り沿いのレンタカーショップで車を手配しようとした。その足を、薪が止める。
「東京駅から直通バスが出てるって書いてあったぞ」
「いや、でも」
 直通バスは無料だけど乗り合いだ。薪と二人きりにはなれない。私用車なら行きも帰りも二人だけの空間で、薪のきれいな横顔を眺めるとか手を握るとか太腿を触るとか、もっと大事な所を触るとか途中で横道に入って車停めてシートを倒し……さすがにそれは温泉に着かなくなっちゃうから我慢するけど前半3つくらいはやってみたい。
「おまえ、脇見運転多いから。バスの方が安心できる」
 見抜かれたか。

 出発時刻を確認すると、後30分ほど。霞が関から東京駅までは地下鉄で二駅、所要時間は約5分。飲み物などを購入したとして、ちょうどいい時間だった。
「よし、東京駅でビールを買おう。それから枝豆と柿の種」
「はいはい」
 今日も薪さんのガードは固い、と青木がいささかげんなりと彼の後を追うのに、薪は、これでやっと二人で一緒にビールが飲めるとご満悦であった。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

Today&Tomorrow(2)

 平和な青薪さんの続きです。
 この先の展開をみんなに疑われてる気がしますけど、本当に今回は平和なお話なんですよ。
 ……信じてえええッ!!! ←大文字にしないと信じてもらえないSS書きのクズ。





Today&Tomorrow(2)




危険ポイントその2 高速バス

「どちらから?」
「東京です」
「ぼくもです。奇遇ですね」
「はあ」
「このバス、東京駅から出てますから。奇遇でも何でもないですよね」
 薪の曖昧な返事に被せるように、青木はシビアに言い放った。前の席から身を乗り出して、あわよくば薪の隣の席に移動しようと言う魂胆がミエミエの若い男性は、気まずそうに自分の席に座り直した。出発までの隙間時間に、ほんのちょっと飲み物を買いに行っただけなのに。まったく油断も隙もない。

 買ってきた枝豆とビールのセットを黙って渡すと、薪はそれをカップホルダーに落とし、枝豆の袋を開けた。2,3粒口に放り込み、ビールに手を伸ばす。コンビニの全力疾走に続き、バスの発着所を探して東京駅構内を歩き回って、青木もいい加減喉が渇いていた。薪に倣ってビールのプルタブを開け、ぐっと呷ってふうとため息を吐く。横を見ると珍しいことに、薪がニコニコしている。ずっと飲みたかったビールが飲めて満足らしい。

『ご乗車ありがとうございます。このバスはS温泉Iホテル行、直通バスでございます』
 出発時刻になると、バスの中にアナウンスが流れた。乗車率は6割といったところだ。
 行先が温泉だからか、中年の夫婦やカップルが多かった。前の席の若者は数人の男友達と来ていて、多分ナンパ目的。その証拠に彼らは、先に声を掛けた薪に連れがいると分かって席を移動し、後部座席にいた女の子のグループとお喋りをしていた。その様子を横目で見ている青木に、薪がこそっと囁いた。

「青木。あんな言い方したら相手が可哀想だろ」
 すみません、薪さんの口からそんな言葉を聞くともうすぐこの世は終わるんだなって気がするのはオレだけですか。
「旅は道連れって言うじゃないか。初対面の相手との会話を楽しむのも一興だぞ。明るくて感じのいい若者だったし」
 なんでそんなに市民の方にはやさしいんですか。その100分の1でもオレに分けてくれませんか。
 もう警察辞めちゃおうかな、そしたら薪さんにやさしくしてもらえるかもしれない。そんな考えが頭を過った時点で青木の脳は煮立っている。だって無理もない、ビールに温泉でウキウキの薪は、眩暈がするくらい可愛いのだ。どうしてだか、今日はやけにめかしこんでるし。
 今朝、会った時から思っていた。こないだ買ったばかりのワイン色のミリタリーシャツとか英国製のバミューダパンツとか、職場近くのスポーツ店に行くにしては気合が入り過ぎている。休日の少ない彼は、買ったはいいが着る機会の無い服が多いと嘆いていたから、そのせいかもしれないが。

 やがてバスは都心を抜け、目的の温泉地へと進路を向ける。徐々に高層ビルが減り、民家と緑が増えてくる。しばらく続いた松林が切れると、そこに海が見えた。
「青木。海だ」
 声を弾ませた薪は小さな頭を窓に近付けて、飲みかけのビールをホルダーに戻した。騒いでいた割に大した量は飲んでいない。本来薪は日本酒党で、ビールはあまり好きではなかったはずだ。休日の気紛れ小僧が顔を出したのだろうが、予備に買った一本は青木が飲むことになりそうだ。
「窓際の席と替わってやろうか」
「いえ。ここでいいです」
「遠慮するなって」
「結構です。オレは通路側の席が好きなんです」
「……変わった奴だな」
 青木は別に、気を使ったわけではない。これだけの身長差があれば十分に外の風景は見えるし、海を見る振りをして自然に薪を見ることができる。熱い眼で見つめても、周りの人間に不自然に思われない。いいこと尽くめだ。

 どことなく気落ちした風に、薪は窓の外を見た。一面に光る海が見えて、それはきっと薪の心を癒してくれると思った。薪は雄大な自然の風景が大好きなのだ。
「サーフィンやってる。楽しそうだな」
 潮干狩りの時季は過ぎ、海水浴には早い今時分、幅を利かせているのはサーファーだ。サーフボードを器用に操って、絶妙のバランス感覚で波に乗る。鈍くさい青木にはとても無理だが、薪ならやってのけるかもしれない。薪はとても運動神経がいいのだ。訊いてみると、果たして若い頃に経験があると言う。
「今度、教えてやろうか」
「遠慮します」
 テイクオフとワイプアウトを繰り返すサーファーたちに眼を据えながら薪が誘ってくれたサーフィンデートを、青木は辞退した。長身の青木には、バランス物は相性が悪い。スキーもスケートも苦手だ。平らな所でさえ転ぶのに、絶えず動く波の上だなんて。薪の前で恥をかくだけだ。
「そうか、残念。じゃ、一人で行こうかな」
「ぜひお願いします! 前からやってみたかったんです!」
 慌てて弟子入りを申し込むと、薪はくるっと振り返り、意地悪そうに笑った。

 その顔、オレ以外の誰にも見せないでくださいね。

 思わず口に出そうになった言葉を舌の根で押さえる。今はこうして自分が薪を隠しているからいいけれど、無防備にその笑顔を振りまかれたら。後部座席で女の子たちとポッキーゲームやってる男どもがポッキー咥えたまま突進してくる、自分ならそうする、だって立場とか常識とか考えられないもん、いま。

「青木。おまえさ」
 上目使いに自分を見上げてくる、彼の小さく整った顔立ちの愛らしさと言ったら。天使とか女神とか俗な言葉が浮かぶけど、そんなものじゃとても表しきれない。彼を喩え得る言葉はこの世にはない。
「来週、……だろ?」
 いつも思うけど、薪の肌はなんでこんなに白いんだろう。陶器みたいにつるんとして、それでいて透明感がある。女性のように乳液とかファンデーションとか、人工的なものを何一つ付けていない素肌の美しさ。だから思わず触りたくなってしまうのだ。微粒子の粒ひとつ彼との間を邪魔しないことの充足感。くちびるも睫毛も同じ、神さまにもらったそのままの造詣美。ここがバスの中でなかったら、とっくにくちづけてる。
「で、いろいろ考えたんだけど、これが一番喜ぶかなって。どうだ?」
 青木を誘惑するように動いていたくちびるの動きが止まり、その花弁が緩く結ばれる。しばらくして「青木?」と呼ばれた、自分の名前には疑問符が付いていた。

「なんだ。聞いてなかったのか」
 何か話をしていたのか。いや、今の今まで薪のくちびるの動きに目を奪われていたのだから、確実に喋っていたのだ。もう一度話をしてくれるように頼むと、機嫌を損ねたのか、薪はぷいと横を向いてしまった。
「二回話すような内容じゃない。聞かなかったならそれでいい。ていうか」
 窓枠に肘をつき、頬杖をして外を眺める。細い肩は怒ってないけれど、些少の落胆が感じ取れた。
「相談した僕が悪かった。本人に訊くことじゃないよな」

 重要なことだったのだろうか。それも青木に関することで。
 時期を考え合わせると、異動のことか。今は6月。7月は4月に続く人事改変の月だ。期初めに一度に済ませた方が効率的だと思うが、これには人事部の仕事量を分散する狙いもあって、て、人事部の都合はどうでもいい。問題は、青木に異動の話が来ているかもしれないということだ。
「オレは第九を離れたくありません。薪さんの傍に居たいです。一生薪さんと仕事がしたいです」
 嫌な予感に駆られて、青木は思わず口走る。不用意な発言だったが、薪がぽかんと口を開けたので、自分が見当外れのことを言ったのだと分かった。
 薪はものすごく怪訝な顔をした後、恐縮する青木に、
「おまえみたいな出来損ない、客に不良品を売るようなものだ。寝覚めが悪くて他の部署に渡せるか」
 と、キツイ一言をくれた。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

Today&Tomorrow(3)

 今年も現場の時期になりまして。思うように更新ができないしづです。
 毎日たくさんの方に訪問いただいてるのに、拍手もいっぱいもらってるのに、お返しできなくてすみません。もっと上手に時間を使えるようになりたいです。

 去年は現場で神経消耗しちゃって、SSが惨敗だったんですけど(「イヴ」が未だに心残り)、今年はそんなことのないようにしたいです。
 リアルがいかに厳しくても、それに飲み込まれてしまったら楽しくないものね。人生、楽しまなくちゃね。(*^^*)




Today&Tomorrow(3)





危険ポイントその3 大浴場



「お兄ちゃん、どこから来たの?」
「東京です」
「へえ、そうかい。やっぱり東京の人は男でもきれいやねえ。うちの息子とはえらい違いだ。モデルさんか何かかい?」
「いえ。公務員です」
「ふわあ。東京の役場にはこんなきれいな兄ちゃんがおるんか。そりゃあ税金も高いわな」
 右手に居た仲間たちと一緒にワハハと笑う。薪も呑気に笑ってるけど、青木はそれどころじゃない。
 ここは大浴場の脱衣室。薪も、薪に声を掛けてきた男も、服を脱ぎかけた状態だ。脱衣室は広くて、バスの中のように自然に薪を隠せない。気が気ではなかった。

 街中で、ユニセックスな私服に身を包んだ薪に声を掛けてくる男は、実はそれほど危険ではない。その半数が彼の性別を間違えているからだ。男たちの殆どは自分の間違いに気付けば照れ笑いで去っていく。まず安心していい。
 これが仕事帰りのスーツ姿だと少々厄介だ。男性であることがほぼ確定的なのに声を掛けてくるなら、それは確信犯だ。強気の対応が必要だ。
 そして、大浴場。この状況下で薪に粉を掛けてくる男は危険度200%だ。人の善さそうな笑顔に騙されてはいけない。「おれの息子も君くらいでねえ」とか、いかにもお父さんが自分の息子に声を掛けるみたいな風情を装っているけど、そんなわけないから。そのひと、あんたと同年代だから。

「東京の人は、こんなに肌が白いの」
「陽に当たらない仕事なもので。お父さんはいい具合に日焼けしてますね」
「ここは漁師町だもの。あんたは背中も真っ白で、ほお、すべすべしてるねえ」
「あは。くすぐったいです」
 純朴の皮を被って薪に触るような輩は問答無用で殴り倒していいと思う。憲法で制定するべきだと思う。
「尻もこんなに小さくて、おうっ」
 突然の衝撃に驚いた男が、ビクッとして手を引っ込める。「すみません」と愛想よく笑いながら、青木は取り落とした脱衣籠を男の足元から拾い上げた。
「何やってんだ、青木。危ないじゃないか」
「すみません。手が滑ってしまって」
 青木の脱衣籠が左隣の薪を通り越して男の足元に落下するためにはどういう動線を描いたらいいのか、もしも相手が訊いて来たら実演してやろうと思っていた。今度はこの扇風機で。

「お怪我はありませんでしたか?」
「ああ大丈夫。じゃあ、おれたちは帰るから」
「お仕事ですか」
「帰って寝るんだよ。おれたちは猟師だから。朝早く漁に出て、風呂に入って休むんだ」
「そうなんですか。お疲れさまでした」
「あんたたち、ここで昼飯かい?」
「ええ。風呂の後に」
「そうかい。ここは刺身が旨いよ。今日はメバルのいいのが揚がったから、それにしなよ」
「ありがとうございます。そうします」
 日焼けした顔をほころばせて、漁師たちは和気藹藹と帰って行った。その時薪はズボンを脱ごうとしていたが、彼らがこちらに未練がましい視線を送って来ることはなかった。
「いいこと教えてもらったな」
「そうですね」と頷きながらも、青木には些少の罪悪感がある。彼らが薪に声を掛けたのは地元民のお愛想で、ナンパではなかったのかもしれない。悪いことをしてしまった。

 無闇に人を疑わないようにしよう、と青木は心に決め、薪の後に続いて大浴場の引き戸を潜った。瞬間。2秒前の決意も忘れて、青木はピリピリと神経を尖らせる。浴場の空気が明らかに変わったからだ。
 空いている洗い場に腰を下ろす薪を、周りの男たちが茫然と見ている。特に隣の人、シャンプー眼に入ってますけど痛くないんですか、それ。
 気持ちは分かりますけど、と心の中で呟きながら、青木は薪の隣の席に座った。だから貸切風呂にしようと言ったのに、大浴場の方が広いとか露天風呂が無いと嫌だとか、終いには「一人で入るからいい」。青木の恋人は理屈を捏ねさせたら日本一、我儘を言わせたら世界一だ。

 思いつきで訪れた温泉だが、この施設は「手ぶらで温泉」をキャッチフレーズにしており、部屋付きプランを申し込むと格安で入浴セットを購入できる。石鹸とボディタオル、シャンプーとリンスのセット、レンタル品のフェイスタオルと湯上げタオルに浴衣が付いて三百円。入浴のみの場合は千円で、差額はプラン料金に上乗せされているのかもしれないが、とりあえず破格だ。値段の割に質は良く、特にこのボディタオルは肌触りがいい。
「薪さん。背中、流しましょうか」
「大丈夫だ。一人で洗える」
「遠慮なさらず。ほら、気持ちいいでしょ」
 やや強引に薪の背中で石鹸を泡立てる。別にボディタオルのアピールをしたいわけじゃない。こうすることで薪には自分が付いているのだと周りの人間に教えるためだ。

「はい、OKです。髪の毛も洗ってあげましょうか」
「おまえが僕の世話を焼いてどうするんだ。今日は」
「はい?」
「……なんでもない」
 薪は黙って髪を洗い、終えるとふいと席を立って、青木に声も掛けず露天風呂へ行ってしまった。周りに人がいるのに、親しげにしたのが拙かったらしい。薪が人目を気にすることを忘れていた。

 青木は念入りに身体を洗い、髪を二度洗いして時間調整をした。すぐに後を追ったりしたら薪にウザがられる。こういった心遣いは意外と大切なのだ。青木は好きな人となら24時間一緒にいても平気だが、薪は多分、一人になれる時間を作らないと疲れてしまうタイプ。だからこうして少し距離を置いて、なおかつボディガードとして彼を見守ることが肝要だと――。
 髪を洗いながら、ちらりと対象の様子を伺った青木の眼が見開かれた。思いっきりシャンプー目に入ったけど、うん大丈夫、痛くない。隣の人といい、人間、本気でヤバいと思ったときは痛覚がマスキングされるんだな。
 なんて暢気に分析してる場合じゃない。ガラス張りの大浴場から見える露天風呂には5人の先客がいて、薪が引き戸を開けるや否や一斉にそちらを見た。薪が、眼下に広がるパノラマの海に夢中で周りの視線に気付かないのをいいことに、頭のてっぺんから爪先までジロジロと。
 いくらなんでも見過ぎだ、と青木は腰を浮かし掛け、先刻の失敗を思い出して留まった。これも田舎の流儀だ。彼らは人を見るときは真っ直ぐに、横目で見たりしないのだ。
 彼らの視線は、薪の顔と胸と腰を行ったり来たり、その比率は1:2:3。顔より身体を見る時間が長いのは単純に面積の関係で、決して彼の腰骨とタオルから伸びるモデルみたいな腿に眼を奪われているわけじゃないと思いたい。
 水面の輝きに引き寄せられるように、薪は海に向かって歩を進め、展望露天風呂の外枠の手摺を掴んで身を乗り出し、すると腰のタオルがずり上がって、ちょ、待て、いくらなんでも比率0:0:10はあからさますぎだろ!
 田舎の無遠慮な視線は凶器だと思う、視姦と変わらないと思う、取り締まるべきだと思う、ていうか、薪さんもいつまでも突っ立ったまま海見てないで浴槽に入って! 内風呂のお客さんまでみんな見てるから!!

 どうにも我慢が出来なくなって、青木は露天風呂の引き戸を開けた。薪がすぐに気付いて、こちらに寄ってくる。「あそこ空いてる」と指を指す、どうやら青木を待っていてくれたらしい。
 青木は薪の前に立って、先に浴槽に入った。普段は薪の後ろに立つが、危険箇所に進む場合は対象者がボディガードの後ろに続く形になる。自然に前後位置が定められるくらいには、青木はこの仕事に慣れてきていた。
「ちょっと待て。おまえ、髪に石鹸が付いてる」
 背後から言われ、浴槽の階段で立ち止まる。慌てて来たから泡が残ってしまったらしい。
「ちゃんと流さないとダメだろ」
 薪はお湯に浸けたばかりの足を抜いて、露天風呂の入り口の横にある掛け湯用のシャワーに向かった。海を見る態で薪を見ていた男たちの視線が、こちらに集中する。一番遠くの男なんか乗り出して首曲げて、曲げ過ぎて首攣ったみたいだけどその首90度に固定してやろうか。
 薪から受け取ったシャワーで髪を流す間も、薪への視姦、ちがった、視線が気になって仕方ない。見るなと怒鳴りたい、もとい全員海に投げ落としたい。

「どこに当ててんだ。貸してみろ」
 ひたすら壁を打っていたシャワーを、薪は青木の手から取り上げた。それから青木に屈むように顎で指図すると、青木の頭にシャワーを掛けた。
「まったく。子供みたいだな、おまえは」
 叱り口調とは裏腹に、やわらかな水流と一緒に青木の髪を梳く薪の手は、どことなく楽しそうで。青木は夢見るような心地になる。ほんの1分くらいの間だったけれど、すごく幸せな気分だった。

「よし、いいぞ。早く入ろう」
 待ちきれない様子の薪は青木を置いて湯船に入ろうとし、青木は現実に引き戻された。先に立って足場を確認する。あくまで対象者はボディガードの後ろだ。
 とぷんとお湯に入って肩まで沈む。背筋を這い上がるような快感がある。心臓に悪いと聞くが、風呂好きはこの感じが好きなのだそうだ。だから温泉に来ると、薪は何度も風呂に入りたがる。

 風呂は岩風呂で、うっかり寄り掛かると背中を痛くするけれど、タイル張りよりずっと情緒がある。座って、壁にそっと背中を預けて前を向くと水平線が見える。シー・グリーンの海が、眩しいくらいに輝いている。太陽はもうすぐ真上だ。
 海からの風は心地よく、潮の匂いがする。都会人には貴重な匂いだ。青木も山の中で育ったクチだから、海を見ると純粋に嬉しくなる。海の温泉もいいものだ。温泉の質は山に敵わないが、風光と言う点では決して引けを取らない。

「あの辺の海の色。すごく綺麗だ」
 あそこら辺、と薪は海を指差した。
 お湯の中から伸ばした腕が、たおやかな百合のよう。葉の瑞々しさと茎の伸びやかさ、そして花弁の白。その先端は桜貝のピンク色。爪の先まで美しい人だ。
「気に入りました?」
 うん、と薪は頷き、湯から上がって岩に腰かけた。タオルを腰に置き、軽く足を組んで、濡れた前髪を右手で梳いて後ろに流す。まるで映画のワンシーン。
 青木は薪の恋人で、彼の身体で知らないところはないくらいの深い仲だ。その青木でさえうっとりと見惚れてしまうほど、今日の薪は美しい。桜色に染まった裸体を彩るたくさんの水玉が、日光に反射してきらきら輝く。自然の力を借りずにこの情景を再現するとしたら、小粒のダイヤモンドを千個も用意して彼にちりばめる、いや、そんなものじゃとても追いつかない。
 ほぼ毎日薪と顔を合わせている青木でさえこの始末だ。免疫のない周りの人間には、さぞや衝撃的な光景だったに違いない。
「潮風に抱かれてるみたいだ。すごく気持ちいい」
 ダメですよ、薪さん。そんな官能的なセリフ、純朴な田舎の人に聞かせたら。みんなユデダコみたいになってるじゃないですか。
 上がるに上がれなくなっているのだろう。こんな美しいもの、見逃したら損だ。気持ちは分かるが、このままでは湯あたり患者大量発生だ。青木は公共の利益に寄与することを決意し、薪に退出を促した。

「食事前ですし、そろそろ上がりましょうか」
 食事の後にもう一度入りましょうと、言えば薪は一も二もなく賛同して、ザバッと水しぶきを立てて立ち上がった。周りの人間が慌てて眼を逸らす。見ない振りでこっちをチラチラ、さっきまではガン見してたくせに、どういった心境の変化だろう。
「湯上げにシャワー使った方がいいですよ。ここの温泉は塩がキツイですから」
「しお?」
 不思議そうに薪は首をかしげて、自分の人さし指を口に含んだ。
 温泉効果でつやめき率250%のくちびるが細い指を咥え、赤い舌がそれを舐める。モンローも真っ青だ。
「本当だ。塩辛い」
 青木を見上げてにこっと笑う。「でしょう」と返しながらも青木は、何故か急に海に背を向けて内風呂を眺め出した何人かの客を憐れに思う。彼らは多分、自己崩壊を起こしている。これまでの人生に無かった経験、つまり同じ風呂に入っている男にときめくと言うあってはならない感覚を自覚し、必死でそれを打ち消そうとしている最中なのだ。青木もかつては通った道だから、彼らの気持ちはよく分かる。ここは一刻も早く、薪を連れ出すことだ。今ならまだ彼らは、白昼夢で自分を納得させることができる。いま湯の中で股間を押さえてる人たちは無理かもしれないけど。

 浴室を出て、暑がる薪に急いでバスタオルを被せる。早く行かないと食堂が混む、という嘘で彼を急き立て、早々に脱衣室を出ることに成功した。昼食付のプランなのだから、席は当然予約席だ。青木の思惑通り、ホテルは二人のために窓際のテラス席を用意してくれていた。
「青木さま、お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
 案内に立った給仕は白いワイシャツに黒いスラックス姿で、恰幅の良い中年の男だった。ネームプレートには支配人とある。あまり大きなホテルではないから、忙しい時は支配人自らホールスタッフに早変わりするらしい。

 席に着いて、食事の前に生ビールを注文すると、突き出しと一緒に白身の刺身が運ばれてきた。
「こちら、高宮からです」
 聞いたことのない名前だ。調べれば職場にも同姓の人物はいるかもしれないが、少なくとも青木の知り合いにはいない。薪を伺うと、小さく首を振った。薪も知らないのだ。
「誰かとお間違えじゃ」
「高宮は当ホテルの専属漁師でして。東京からいらした青木さまとお連れさまに、ぜひこちらをご賞味いただきたいと」
「ああ、さっきの」
 先刻の漁師は高宮と言うのか。ならばこれは彼が推奨していたメバルの刺身だろう。差し入れてくれるなんて、よほど薪が気に入ったらしい。

「どうしてオレの名前を?」
「高宮は青木さまのお名前を存じません。しかし、東京からのお客さまと言うことと、高宮が申しておりましたお二方の特徴で」
「支配人、大変です」
 話に割って入ってきたのは、20歳くらいの若いスタッフだった。「お客さまの前ですよ」と支配人は窘めたが、彼のパニックは収まらない。黒いエプロンにジーンズ姿の彼は、青木たちにペコッと頭を下げると、支配人の太い腕を引いて「大変なんです」ともう一度繰り返した。

「男湯のお客さんが、みんな湯船に浮いてて」
 すみません、と青木は心の中で頭を下げる。自分たちが風呂から上がった後、何が起きたのか察しがついたからだ。
 あの状態はタオルを巻いたくらいじゃ隠せまい。男湯で同性の身体を見て欲情したなんて、いくら男同士でも他人には知られたくない現象だ。大人しくなるのを待って、その間にのぼせてしまったのだろう。
「救急車が必要ですか」
「いえ、単なる湯あたりですから。みなさん湯船から上がられて、脱衣室の床でお休みになってます」
 すみません。本当にごめんなさい。
「では、脱衣室が使えないと。ならば湯あたりされたお客さまには、空いている部屋でお休みいただいて」
「それが、浴槽が血の池地獄みたいに真っ赤なんです。お湯を入れ直さないと使えません」
 すみませんーー!!
 だから貸切風呂にすればよかったのだ。そうすれば、誘惑に負けた青木が蹴り飛ばされて浴槽に浮かぶくらいで済んだのに。被害が拡大したのは薪のせいだ。自分の美しさに自覚がない、天性の誘惑者。

 支配人たちが去った後、すぐにアナウンスが流れてきた。男湯で揚水ポンプのトラブルがあり、2時間ほど入浴ができないとの内容だった。浴槽のお湯を入れ替えるのに、それくらい掛かるのだろう。お湯が濁った原因を入浴客の血ではなくポンプの故障に依るものとしたのは、風評被害を恐れたホテル側の保身か、あるいは客に対する配慮だろうか。
 事件の真相を知っているのは、現在男湯の脱衣室に転がっている客たちと青木たちだけだ。青木は薪の自覚と反省を促すべく、厳しい顔つきを作って言った。
「薪さん。聞きましたか」
「ああ。迷惑な話だ。何処の慰安旅行も一緒だな」
 我慢大会だろ、と薪は断定し、気の良い漁師が差し入れてくれた刺身を旨そうに食べた。慰安旅行に行くたびに風呂場で我慢大会やってるのは第九だけだと思いますけど。
 反論の糸口を掴めず口をパクパクさせる青木に、薪は感心したように、
「しかし、鼻血を出すまで我慢するとは。C県の人は根性があるな。――なんだ、その脱力しきった顔は。おまえものぼせたのか?」
 真に守られるべきは薪か彼らか。新鮮なメバルの刺身を前に、青木は頭を抱えた。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

Today&Tomorrow(4)

 今日はお義父さんの7回忌法要で、久々に長男の嫁らしいことをしております、しづです。
 メロディ発売も近いですし。励みにしてがんばります。
 



Today&Tomorrow(4)



危険ポイントその4 客室


「ここからも海が見えるんだな」
 部屋に入った薪は、さっそく窓に張り付いた。海岸縁に建てられたホテルは、全室オーシャンビューを売りにしている。潮で傷みが早いせいかホテルの外観はあまり豪奢な印象ではなかったが、中に入ってしまえば内装は綺麗だし、自慢するだけあって眺望は最高だ。
「下の砂浜はホテルのプライベートビーチだそうで。利用客は、岩ノリや貝を自由に獲っていいそうですよ」
 ふうん、と薪は漁には大した興味も示さなかったが、夕暮れの散歩には同意してくれた。このホテルは東を向いて建っているから海岸線に陽が沈む光景は見えないが、夕焼けで赤く染まった空の色を映した海も、きっと薪の心を和ませてくれる。

 二人が通された部屋は薪が好む純和室で、十畳の二間続き。二人で使うのがもったいないくらい広い部屋だ。一間に一台、大型のテレビが置いてある。それぞれにビデオデッキがセットされているのを見て、青木はロビーにDVDの貸し出しコーナーがあったのを思い出した。温泉街と言えば必ず近くに観光客向けの盛り場があるものだが、ここは田舎の漁師町で夜は早い。客は、海の見えない夜間はもっぱらこれで時間を潰すのだろう。
 お昼寝プランなので、奥の部屋には二組の布団が用意されている。海の幸のフルコースでお腹も一杯だし、男湯が使用可能になる3時までの間、お昼寝タイムと行くことにした。
 布団の上に、腹ばいになって手足を伸ばす。隣を見ると、薪がうつ伏せになって枕を抱えていた。盛り上がった腰のラインが妙に色っぽい。浴衣は濃紺の布地に白でホテルのロゴが入っている一般的なものだが、黒っぽい着物は肌の白さを強調する。だから余計に色気を感じてしまう。まくれ上がった浴衣の袖から覗く白い腕から、青木は慌てて眼を逸らした。
 薪は、髪の色も瞳の色も日本人離れした明るい色なのに、和装がとてもよく似合う。浴衣も甚平も、紋付き袴も堂々と着こなす。それは薪が主張するように、彼が日本男児だからなのだろうか。まあ、振り袖も似合ってしまうとなると日本男児からは遠ざかるような気もするが。

「波の音がする」
「今日は、風がありましたからね」
「不思議だ。けっこう大きい音なのに、ぜんぜん耳触りじゃない」
「自然の音ですからね」
 ザーザーと繰り返す音の響きはラジオの雑音に似て、でもまったく違う。モーツァルトの楽曲みたいに華やかじゃないけれど、その単調さが眠気を誘う。段々に手足が重くなって、海の底にいるみたい。
「おまえの声と似てる」
 え、と青木は枕から顔を上げた。薪は先刻と同様、枕に顔を埋めたまま、モゴモゴと、
「説教ばかりでうざったいのに。聞いてると気持ちいい」

 ふいに、そんなことを言われたら。
 大好物のビーフジャーキーを見せられた犬のように、青木は布団の上に身を起こす。うつ伏せたまま、早くもまどろみに入っているらしい薪に声を掛けた。
「そっちへ行ってもいいですか」
「来るなって言っても来るんだろ」
「薪さんが一人でお休みになりたいなら諦めます」
 いささかシュンとして、それは薪に素気なくされたからではなく。仕事で疲れている薪にリフレッシュして欲しいと思って此処に連れてきた、だから彼を疲れさせることはする気はなかった、はずなのに。薄い浴衣一枚で寝具に寝そべっている彼を見ているとやっぱり欲しくなってしまう、自分の意志の弱さにがっかりしたのだ。

 すごすごと自分の布団に戻ろうとした青木の耳に、薪の声が聞こえた。枕に口をつけた不明瞭な発音ではなく、いつもの澄んだアルト。
「風呂が使えるまで2時間以上ある。昼寝には長すぎる時間だ」
「ですよね! 昼寝が過ぎると夜眠れなくなりますし」
 サカサカと四本脚で薪の布団に擦り寄る、変わり身の早さは天下一品。相手が薪でなければもう少しは自分の主義主張を通せるのだが、いかんせん、青木は薪の前では完全なるイエスマンだ。例えそれが明らかな間違いだったとしても、薪の言うことには逆らえない。

 薪の隣に寝る、というか覆いかぶさると言うか、とりあえず身体を寄せると、湯上りの肌からはいい匂いがする。さらさらした髪を耳に掛けて、小さな耳たぶを口に含んだ。潮の味。
「薪さん。下着」
 浴衣の上から撫でてみて分かった。薪は下着を着けていなかった。道理で色っぽいはずだ。
「どうせ脱がされると思ったから」
 その気でいてくれたってことですか?
「おまえがこの状況で何もしてこないとは思えない」
 はい、すみません。おっしゃる通りです。
「対象と関係を持つのはSPのご法度だぞ」
「意地悪言わないでくださいよ」
 薪の言う通り、それは確かに掟破りだが、青木の場合はボディガードになる前から薪の恋人だったわけだし。当てはまらないと思ったけれど強く反論することもできなくて。お腹が空いた犬のような顔をした青木を見て、薪がクスッと笑う。
「うん、分かった。今日は意地悪はやめる」
 いきなり素直にならないでもらえますか、気持ち悪いです。
「どうしたんですか?」
「バスの中で言ったこと、おまえ、本当に聞いてなかったんだな」
 薪の笑顔に骨抜きになって話を聞いていなかった。聞き直したが、薪は答えてくれなかった。異動の打診かと思ったけれど違った。本当は何だったのだろう。

「来週の火曜、おまえの誕生日だろ」
 そうですけど、それがなにか。
「毎回、何も要らないって言われるから。今年は物じゃなくて、思い出作りにしようかなって」
 薪は毎年気遣ってくれるが、青木は本当に何も欲しくないのだ。もう何年も前から青木が欲しいのは薪だけで、その薪がこうして自分の恋人でいてくれる。以前のように、抱き締めても投げ飛ばされたりしない。ちゃんと青木を受け入れてくれる。青木に笑い掛けてくれる。毎日プレゼントをもらっているようなものだ。
「そんなの当たり前だろ。恋人なんだから」
 薪は当然みたいに言うけれど、その当たり前のことが実はけっこう難しい。年が重なるにつれて慣れ合いになる、手抜きが増えていく。薪の場合は最初から我儘方題だったから、変わる必要性が無かったのかもしれないが。

 薪はゆるゆると身を起こし、浴衣の裾を乱して布団の上に座った。下着を付けていないと分かったせいで、奥の暗がりが気になって仕方ない。白い太腿に眼を奪われている青木に薪は膝でにじり寄り、大胆にも腰の上に跨った。青木の身体の中心に手を載せて意地悪そうに笑う。
「毎年、誕生日が来るたびにココが疼いて堪らなくなるくらい。過激な思い出作ってやろうか」
「はいっ!」
「脅し甲斐のないやつだな。少しは怯えてみせろよ」
 Sっ気の強い薪には、怖がる相手を苛めたい欲望があるのかもしれない。でも青木は薪にされることならなんでも嬉しい。多分、鞭で打たれても抵抗しない。薪がそうしたいなら、自分もその快楽を得られるように努力しようと思う。
 どんな形でもいい。薪と愛し合えるなら。

 薪のやさしい手が青木の前髪を後ろに向かって撫でた。露出した額にくちづけを落とす。目蓋、鼻先と下ってきて、青木の唇を捕えた。
 やや強引に入ってきた薪の舌が、青木の口中を侵略する。舌が触れ合うと、痺れるような甘さが全身に広がる。薪はキスが上手い。
 細い背中を抱いていた手をずらし、浴衣の合わせから手を入れると、乳首が硬くなっていた。コリコリと転がせば、薪の背中がびくりと波打つ。んっ、とくぐもった声を青木の口の中に残し、薪はくちびるを離して息を吐いた。
 浴衣の裾をまくり、中を探る。少し汗ばんでしっとりした太腿と、やわらかい尻と、それから――。

「あ、ちょっと待ってください。襖、閉めてきますから」
「この部屋には僕たちだけだぞ?」
「そうなんですけど、一応」
 不思議がる薪の前で青木は部屋を隔てる襖に近付き、静かにそれを閉めた。



*****



危険ポイントその5 密室

 当人たちの強い希望により、公開を控えさせていただきます。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

Today&Tomorrow(5)

 メロディ発売日は目覚まし時計が要らないしづです。
 今朝も4時に眼が覚めました。でも、そわそわして何も手に着かない。早起きの意味ないんですけど、何か有意義なことをしようと思って起きたわけじゃないからいいや。←ダメ人間の思考法。

 一昨日から過去作読んでくださってる方、たくさん拍手いただいてありがとうございます(*^^*)
 公開中のお話にもいっぱい。どうもありがとう(〃▽〃) 妄想がんばります。
 え。物騒なものはいらない? ううーん。


 つづきです。
 発売日までに終わらせたかったんですけど、やっぱり終わらなかったです。(ダメ人間……)



Today&Tomorrow(5)





危険ポイントその6 貸切風呂



『男子浴場の準備が整いましたので、どうぞお越しください』
 お客さまにはご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございませんでした、と続くアナウンスに、青木は眼を覚ました。鼻先に当たる髪の感触に眼を開けば、薪が青木の腕の中で裸のまま眠っていた。薪は普段は眠りが浅いけれど、情事の後はよく眠る。ホテルのアナウンスくらいでは起きないだろう。

「薪さん。大浴場、入れるみたいですよ」
 本当はもう少し寝せておいてやりたいのだが、放っておいたら「どうして起こさなかった、温泉に入れる時間が短くなった」と後で文句を言われる。でも薪は低血圧だから昼寝の途中で起こすとイライラして青木に当たり散らす。どちらにせよ青木は怒られるのだが、だったら早く起こした方が得だと思う。寝ぼけて怒る薪の可愛い姿が拝めるからだ。
 華奢な肩を揺さぶると、薪は、ううんと呻いて青木の胸に顔を埋めた。眠り足りないらしい。もう30分したら起こそうと心に決めて、青木は薪の身体を抱き直す。二人分の体温で温まった身体が、自然にぴったりと重なった。

「貸切風呂。3時半から取ってある」
 半分寝言のようなフニャフニャした声で、薪が呟いた。最初に青木が貸し切りを提案したとき、そこは露天じゃないから嫌だと言われた。青木がそのことを蒸し返すと、薪はため息交じりに、
「今日はもう大浴場には入れないだろ」
 言われて初めて気付いた、薪の胸元のキスマーク。今日は薪が積極的だったから、青木の胸にもけっこうな数が残っている。これでは人前に出られない。

 薪は青木の肩に載せた頭の位置を微調整し、不明瞭な呟きとも呻きともつかぬ声を漏らした。時間まであと30分以上ある。その間こうやって、布団の中でうだうだするつもりなのだろう。薪の低血圧は筋金入りで、起き抜けは真っ直ぐ歩けないくらいなのだ。
 生まれたままの姿で、満ち足りた気持ちで、愛する人と触れ合える時間の貴重なこと。やさしく背中を撫で、腰や太腿の肉の柔らかさを楽しんで、激しい欲望に己を支配されることなく穏やかに脚を絡め合う。素肌の感触がすごく気持ちよくて、いつまでもこうしていたいと青木は願う。
 部屋の中は相も変わらず、潮騒の音で満たされている。ブラインドを下ろした居室は薄暗く、波の音以外は何も聞こえない。二人きりで海の底にいるみたい。青木がそう言うと、薪はようよう身を起こし、見下すように青木を見た。
「海の中にいたら波の音は聞こえないだろ」
 それはそうかもしれませんけど、そこはムードというかロマンというか。薪にロマンチックを期待しても無駄だと分かっているが、青木は夢見ることを止められない。だって薪はこんなにきれいなんだもの。
 重い頭を引きずるようにして起き上がった薪は怠そうにしているけれど、アンニュイな雰囲気が彼の美貌によく似合っている。情事の後だからか、デカダンスを感じさせる。白い胸に散らした赤い花びらの艶美は、浴衣で隠してしまうのが惜しいほど。これで中身がオヤジだなんて、完全に詐欺だ。

 予約時間の5分前、フロントから電話があった。貸切風呂まで案内するから受付に来て欲しいとのことで、いつものように青木が一人で行って説明を受け、それから薪を部屋まで迎えに行った。一人で風呂を使いたがる客は珍しくないが、男二人で貸切風呂に入る客は好奇の眼で見られる。面倒だけれど仕方ない。これは旅先のトラブルを避けるための知恵だ。

 風呂は大浴場より2階高い、3階にあった。
 脱衣所には鏡と洗面台、ロッカーに籐椅子、トイレ等、一揃いの設備が整っている。冷房は低めの22度。小型の冷蔵庫もあって、中にはミネラルウォーターと日本茶が入っていた。
「なんだ。酒はないのか」
 入浴時の飲酒は危険だ。ホテル側がそれを促すような真似をするはずが無い。
「持って来て正解だな」
 自慢気に薪が袂から出したのは、部屋の冷蔵庫に入っていた日本酒だ。こういう客がいるから入浴事故が後を絶たないのだ。
「薪さん。風呂での飲酒は」
「固いこと言うな。ほら、おまえの分」
 と、缶ビールを取り出す。青木を共犯にする気らしい。
「危ないですって。お湯に浸かってアルコールを摂取すると、急激に酔いが回って」
「僕って酔っ払うとエッチな気分になるんだよな」
 そういうことなら話は別です。
「お茶のコップとお盆が置いてありますよ。これ、使いましょう」
 悲しいくらいにあっさりと陥落した青木を、薪が嘲笑う。たぶん青木は一生この調子で、薪には逆らえないのだろう。他人から見たら随分情けないことで、おそらくは憐憫の眼で見られまくり。でも本人たちはその状況を楽しんでいる。他人には分からない、舞台裏の予定調和。

 貸切風呂は贅沢な間取りで、詰めれば8人くらいは入れそうな広さがあった。前面は一枚ガラス、側面には通風窓があり、室内に風が通るようになっている。浴槽の右上には竹を斜めに切った湯管が置かれ、そこから新しい湯が注がれていた。微量の湯が、絶えず浴槽の縁から零れ落ちている。ホームページの写真の通りだった。
 シャワーを使ってから二人で同時に湯船に浸かると、大量の湯が押し出された。ザーッと言う派手な水音にテンションが上がる。もったいない気もするけれど、これが掛け流しの醍醐味だ。
「はー。極楽だー」
 オヤジくさい感想は聞かなかった振りをして、青木は顔を上げた。
 一面ガラス張りの窓からは、コバルトブルーの海が見える。見る角度によって色が違う、そこが海の魅力だ。風呂は薪の好きな檜風呂。白檀の香りを吸い込むと、身体の隅々まで浄化されたような気分になる。そこに潮の匂いが混じって躍動感が生まれ――。
「日本酒サイコー」
 ダメだ、アルコール臭に掻き消された。

 青木は苦笑して横を見た。湯に浸かって冷酒ぐいぐいとか、色気のイの字もない。ベッドの中の妖艶な彼とはまるで違う。無邪気で明るくて、コップを持ち上げる二の腕の内側のキスマークが無かったら、あれは別人だったのかと思ってしまう。
 でも薪は本当に幸せそうで。見ているこっちまで嬉しくなってくる。
 彼にはこちらの方が楽しいのだろうと青木は思う。部屋に籠って二人きりの秘め事に時を費やすより、こうして明るい場所で、誰に気を使うこともなく、後ろ指を指されることもない、つまりは友だち同士の関係。むかし薪はずっと、青木と特別な関係を結ぶことを拒んでいた。「友だちのままじゃダメなのか」と何度も聞かれた。彼が望んだその関係に満足できなかったのは青木の方なのだ。
 自分の我欲を通したことで薪に捨てさせた幾つかの貴重なものを思い、青木は憂鬱な気分になった。今さら詮無きことではあるが、この罪悪感は消えない。たぶん一生消えない。

「わぷっ」
 いきなり顔面にお湯を掛けられて、青木は顔をしかめた。この人は急に何をするのかと見れば、薪の澄ました顔。
「ぼーっとしてるからだ」
 ぼうっとしてたら顔に水を掛けるんですか。いつの時代の取調室ですか。
 何を考えてた、と訊かれて答えに迷った。言葉にしてはいけない気がした。青木が考え付くようなことに薪が気付かないとは思えないけれど。言葉にすることで、今までは漠然としていた不利益が具体化する。それが怖い。だからと言って空っとぼけられるほど、青木は面の皮が厚くない。結局、青木が口にしたのは巨大な恐れのほんの一部だった。

「オレが女ならよかったのかなって、――薪さん、汚いです」
 だらーっと薪の口から零れた日本酒がお湯に落ちる。掛け流しでよかった。
「おまえが気持ち悪いこと言うからだろ」
「でもほら。今日だってオレが女なら、薪さんと一緒に此処に来れたじゃないですか」
 口を手で拭いながら足で青木のふくらはぎを蹴る薪に、身近な例を挙げて説明する。一事が万事で、薪ならそこから多くを悟ってしまうに違いない。
 自分からは言えないから察して欲しい。青木のそんな卑怯な気持ちまで。そう思ったから青木は言ったのだ。
「もしもオレが女なら、薪さん今ごろ警視監になってたかも。結婚だって子供だって」
 同性の恋人にこの手の話はタブーだと、青木だって解っている。けれども、薪に卑怯者と蔑まれるくらいなら。自爆した方がマシだ。

 話を聞いて薪は眉ひとつ動かさず、くい、とコップの酒を呷った。
「バカらしい。考えても仕方ないことは考えないって、昔おまえが言ったんだぞ」
「オレ、そんな無責任なこと言いましたっけ」
「おまえ、本当に頭悪いな」
 マジマジと人の顔見てそういうこと言うの止めてもらえませんか。泣きたくなっちゃいます。
「だから忘れるんだよ。大事なこと」
 空になったコップに手酌で冷酒を注ぎ、前方のコバルトブルーに眼を据えたまま、薪は言った。
「思い出してみろ。おまえと会う前の僕は、何も持ってなかった」
 みんなおまえが僕にくれたんだ。

 薪がそういう気持ちでいてくれたのは知っていたけれど、それは違う。昔も今も、彼の人生は価値あるもので満たされている。あいつはもうお終いだと他人の謗りを受けていた時期でさえ、彼の周りに愛はあった。薪が手を伸ばそうとしなかっただけだ。
 岡部や第九の部下たち、雪子に小野田。彼らは正しかった。薪に、何ひとつ余計なものを背負わせることなく彼を再生させた。それに比べて青木がしたことは。

「オレのはシタゴコロありましたから」
 冗談に紛らせながらも心が痛みを訴える。本当のことなのに、どうにも悪い酒だ。
「岡部さんや雪子先生のやり方が正しかったんです。オレも、そうすべきだったのかも」
 最後の言葉はコップの中に濁した。ビールの泡と一緒に消えて欲しいと願いながら。

「おまえ、一番大事なこと忘れてないか」
 さっきも言われた。青木はバカだから大事なことを忘れてしまうと。その通りかもしれない。薪に笑ってほしいから彼の恋人になりたいなんて、よくよく考えたらおかしな理屈だ。同性を恋人にすることのリスクを考慮したら、笑顔どころの話じゃ……。

「僕がおまえを好きになったんだぞ?」
「え」
 あんまり思いがけない言葉だったから。青木の時間は一瞬で凍りついた。眼を丸くして薪を見つめる。と、薪はチッと激しく舌打ちして、
「なんだ、その反応は。知らなかったとか言ってみろ、沈めるぞ」
「あ、いえその」
 ものすごく怖い眼で睨まれて、舌が上顎に張り付いた。苦労して引きはがす。ビールの苦みが口中に広がった。
「うれしいです。すごく」
 本当に嬉しかったのに、何故だか上手に笑えなくて。強張った笑顔しか作れなかったのだと思う、薪の額に青筋が立ったから。

 薪は青木からビールを取り上げ、自分の冷酒と一緒に盆に載せた。それを浴槽の縁の置くと、青木の正面にずいと顔を寄せた。首に両腕を回し、青木の膝に座る。密着すると嫌でも薪の尻の感触が伝わってきて、多分それも計算のうち。
「海に温泉に僕のヌードだぞ。もっと楽しそうな顔しろ」
「薪さんの顔以外見えませんけど」
「おまえ、僕の睫毛とくちびるでヌケるんだろ。顔だけ見えりゃ充分じゃないか」
 薪の憎まれ口にハイと答えると、「素直でよろしい」とお褒めの言葉をいただいた。今度は自然に笑えて、そうしたら薪がキスをしてくれた。
 塩辛くてアルコール臭い。でも最高に幸せなキスだった。




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ジャンル : 小説・文学

Today&Tomorrow(6)

 読みました♪
 報告するの、遅くなってしまってごめんなさい。心配してくださった方、ありがとうございます。凹んでません、元気です。仕事がめっちゃ忙しかっただけ。発売日には手に入れたものの、読めたのは30日だった(^^;
 簡単な感想は追記に。

 10月26日から昨日にかけて、過去作読んでくださった方、拍手をたくさんありがとうございました。
 仕事で神経削られるとSS書く気力がなくなっちゃうんですけど(^^;)、とても励まされました。書きかけのSS、来年まで寝かさないで続き書きます。よーし、今回は薪さんが泣く話だぞーw ←仇で返した。

 
 ところで、
 公開中のお話、二人がイチャイチャしっぱなしなものだから身体中痒くて仕方ないです。体質に合わないらしい。




Today&Tomorrow(6)





危険ポイントその7 夕陽



「薪さん、見てください。貝がこんなに採れましたよ」
「……どうやって持って帰るんだ、それ」
「あ」
 両手いっぱいの名も知らない貝を、薪に言われてやり場に困る。仕方なく青木は、貝を海に戻した。
「ほんっとーにバカだな」
 だからしみじみ言うの止めてくださいってば。

 貸切風呂を堪能した後、二人は部屋で洋服に着替えた。プラン終了の時刻になったのでフロントに鍵を返し、帰りのバスを待つ間、海岸の散歩と洒落こんだ。ホテルのプライベートビーチだからか人は少なかった。波打ち際で波と追いかけっこをしている家族連れが二組と、浅瀬に点在する岩の上に立っている青木たちだけだ。
 身軽な薪は岩から岩へと飛び移り、波しぶきが掛かるギリギリのところまで進んだ。後を追いかけたが濡れた岩は滑りやすく、青木は何度も海に落ちそうになった。その度に薪に笑われて、ホントにこの人は意地が悪い。

「バスの時間、何時だっけ」
「6時です」
「それが最終?」
「いえ。1時間に1本、東京行の最終は8時です」
 じゃあさ、と2つ先の岩で薪が笑う。傾きかけた太陽が照らす海はガラスの破片を散りばめたごとくに慎ましやかな輝きを抱いて、薪の後ろできらきらと光る。思わず見蕩れる、その笑顔の向こうにバーミリオンの空。
「……な?」
「え?」
 しまった。また聞いてなかった。今日何回目だ、この失敗。

 薪は軽やかに岩を渡って、青木の隣の岩までやって来た。青木を叱るために近付いてきたのだと怯えたが、そうじゃなかった。
「1本遅らせて、夕陽を見てから帰ろう」
「あ、いえ。ここでは夕陽は」
 朝日は見られるけれど夕陽は見られない。
 ホームページの地図を見ればそれは分かることで、その程度のことに気付かない人ではない。青木が口を噤んで待つと、果たして薪はバミューダパンツの尻ポケットから一枚の紙切れを取り出した。
「朝、バスで一緒になった子がいただろ。さっきロビーでもらったんだ」
「いつの間に」
「おまえがフロントで支払いしてたとき」
 まったく油断も隙もない。
 薪をナンパしようとした若者からの情報であることには些少の引っ掛かりを覚えたが、そのチラシにはいかにも薪が喜びそうな内容が書かれていた。題して「夕陽ツアー」。ホテル側の企画で、この時間帯には使う当てのない最寄り駅とのシャトルバスを用い、夕陽の絶景ポイントまで連れて行ってくれる。途中、地域の隠れた名所案内も、と付記されている。地元のホテルならではのオプショナルツアーだ。

「ガイド役の笹本さんて、ホテルの支配人さんですよね。さっきボーイもやってたのに」
「一人三役か。大したものだ」
 薪も感心していたが、青木も見習いたいと思った。第九で一番下っ端の青木の仕事は多岐に渡るが、自分のバランス感覚の悪さは自覚している。ついつい目の前の事を優先し、それに掛かりきりになってしまう己が未熟の代償を、室長である薪に押し付ける形になっている。反省しなくては、と青木は心に決め、それに気付かせてくれた笹本氏に感謝した。
「そうか。第九のシフトにも兼任という概念を」
 笹本さん、余計なことしないでっ。

 とにもかくにも、二人は海岸の散歩を終え、夕陽ツアーの集合場所であるホテルの玄関前に向かった。そこには既に、約20名の参加希望者が集まっていた。席は早い者勝ちで、みんな次々とバスに乗り込んでいる。青木たちも列に並ぼうとすると、チラシの提示を求められた。どうやらこのチラシはチケットとしての役割も果たしていたらしい。となると、これを薪にくれた若者は参加できなくなってしまう。涼しい顔でバスに乗り込もうとする薪にそのことを訊くと、薪は事もなげに青木の問いに答えた。
「貰ったって言っただろ。自分たちは行かないからって」
 なるほど。あの年代の若者なら、夕陽を見るよりも仲間と騒いでいた方が楽しいのかもしれない。
 青木の短絡思考が可笑しかったのか、薪はぷっと吹き出すように笑って、
「朝はあんなに怒ってたくせに。おまえは本当にお人好しだな」
 言ってタラップを昇る、パンツの裾から伸びたふくらはぎがしなやかに彼の身体を運んで行く。青木は慌てて後を追う。ボケっとしていたら朝の二の舞だ。

「本日は夕陽ツアーにご参加いただき、誠にありがとうございます。定刻となりましたので、発車させていただきます」
 時間になると笹本氏がやって来て、簡単な挨拶をした。バスが出発すると彼は簡単な自己紹介をし、たっぷりと肉の付いた腹をさすって、
「当ホテルの支配人の目印はこのお腹です。このお腹を見たらお気軽に声を掛けてください」と自虐ネタを披露した。
 青木はあまり笑ってはいけないとは思ったが、彼の人の善い笑顔に釣られてついクスッと笑ってしまった。他の客もそうだったのだろう、笹本氏は一番前の席に座っていた若い女性に微笑みかけて、
「いいんですよ、お嬢さん。笑うところですから。あ、隣のお父さんは笑わないでくださいね。笑えるような体型を目指して、わたくしと一緒に頑張りましょう」
 今度こそバスは笑いに包まれた。ピエロに選ばれてしまったお父さんには申し訳ないが、おかげでバスの雰囲気が和やかになった。笹本氏は名ガイドらしい。

「さて、後にしましたのは当ホテル、『I観光ホテル』でございます。潮による侵食が進んで外見はちょっとアレですけど、施設をご利用いただいたお客さまにはお解りのことと存じます。見掛けは残念、中身はアットホーム。家は住む人を表す、ホテルは支配人を表すとは誠に名言で」
 バスは東京からの途を戻る形で走り、やがて地元民しか知らない横道に入った。その間、笹本氏は名ガイド振りを発揮し、乗客を大いに沸かせた。
「イギリスでは『ドーバーの白い崖』と言うのが有名ですが、あちらの屏風が浦は東洋のドーバーと呼ばれております。下方の白い地層、時代は白亜紀のものでございます。ロケ地としても有名で、先日も女優のUさんが撮影を」
「両側はキャベツ畑でございます。温暖な気候を活かして冬でもキャベツが栽培され、年間4回もの収穫が可能で」
 へえ、とか、ほう、などと言う声と共に乗客が頷きを返す中、薪はずっと外を見ていた。彼の瞳に映っているのは、暮れかけた海辺の風景と切り立った崖。反対側は山になっていて、夏の生命力に満ちた木々が生い茂っている。冷房で閉められた窓を通って中に入り込んできそうな、匂い立つような緑。

 薀蓄を聞くよりも自分の眼で、五感で。薪はいつもこうだ。その知識量はスーパーコンピューター級、だけど彼はいつだってそれを軽んじる。辞書を引けば簡単に得られる情報に、大した意味はないと考える。
 大切なのは、自分がそれをどう感じるか。捜査中にもよく言われる。感性を研ぎ澄ませ、五感を使って捜査をしろ。精神の奥深さが問われることで、それが薪の驚異的な推理力と神憑った的中率に繋がっている。
 薪のその姿勢を青木は心から尊敬している。だから青木は言ったのだ。目的地の入り江に到着してバスから降り、赤く染まった水平線近くにわだかまる雲が残念だと、青木たちを追い越して行ったカップルが何度も繰り返すのをやり過ごしてから、
「雲が多いことで有名な海岸ですけど。だからこそ玄妙な趣がありますよね」
 その瞬間を待つ5分ほどの時間。丘の上や船着場の突端など、各々が自由に自分たちのベストスポットを定める中、薪はバスの側にぼんやりと立っていた。折り重なる雲と、それらを照らす夕陽の神秘的な美しさに魂を抜かれたように。
「どれ一つとして同じ形の雲はなく、よって夕陽の掛かり具合も反射も微妙に違う。人間も同じです。同じものを見て同じように感動しても、その形は微妙に違って、完璧に重なり合うことはない。その違いを推し量ることしかできない。だから犯罪捜査は難し、すみません、熱はないんで安心してください」
 真面目な顔で額に手を当てるとか、レトロなジョークで青木の長舌を遮った。薪が冷やかすような表情をしたので、青木はやや恥ずかしくなって横を向く。

「何らしくないこと言ってんだ」
「海は人を詩人にするんですよ」
 あなたと一緒です。本当はそう言いたかった。
 いよいよ鮮やかさを増す夕陽を浴びて、薪の亜麻色の髪が金色に輝く。白い頬は朱色に透けて、その輪郭を危うくする。いっそ夕陽に溶けてしまいそう。
 口にしたら海に突き落とされるから言わないけれど、青木は常に薪の讃美者で、彼を称える詩は胸のうちで何千と作られている。

「捜査官にとって鋭敏さは大切だ。見過ごしは命取りになる。心の鋭敏さを保つためにも体験による感動は有効だ。だけど今はもっと」
 言いかけた、薪のくちびるが止まった。
 水平線から肉眼距離で約3メートル上空の雲に楕円形の夕陽が隠れ、辺りは急に薄暗くなった。しかしその1分後、雲の下方から再び太陽が顔を出し、帯状の雲に上下を挟まれる形で最後の光芒を強烈に放ち出した。
 上空で海を翡翠色に輝かせていた時とはまるで違う、眼を刺すような朱色。鉛色の雲とのコントラストはあざとささえ感じさせる。太陽は今や液状化し、下方に待ち構える雲の器に女の吐息のように落ちてくる。痛ましいほどの蠱惑。

「すごいな。雲から夕陽が生まれてくる」
「こんなの見たことないです」
 前方で歓声を上げる者、カメラのシャッターを切る者、携帯電話に映像を保存する者。それぞれがそれぞれのやり方で、この美しい光景を留めおこうとする。そんな中で。
 青木は薪の手を握った。薪がさっき何を言い掛けたのか、分かった気がしたから。

 ――だけど今は。
 もっと大事なことがある。その感動を誰と共有するかだ。

 薪は少しためらって、でもすぐに握り返してくれた。解答に丸をもらった、と解釈しておくことにした。
 たった2分ほどの光景だった。雲から生まれ落ちた太陽が再び雲に飲み込まれ、やがて海に沈んでいった。
 辺りが暗くなり、乗客たちがバスに戻ってくる。青木はそっと手を離した。



*****

 かーゆーいー(笑)


 この下、メロディ12月号の一言感想です。

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Today&Tomorrow(7)

 最終章です。
 お付き合いくださってありがとうございました(^^




Today&Tomorrow(7)




危険ポイントその8 家路


 帰りのバスの中、薪は殆ど眠っていた。
 この人は子供と一緒で、遊びに出ると大体こうだ。ペース配分ができないのか自分の体力を過信しているのか、帰りはほぼ100%の確率で爆睡している。
 東京駅にバスが着いて、そこからは電車を利用するのが普通だが、薪がこの状態では仕方ない。タクシーを使うことにした。一人で乗せたら間違いなく乗り過ごすし、それ以前に薪の無防備な寝顔なんて他人には見せられない。誘拐される、絶対。

 タクシー乗り場に並んで順番を待つ間にも、薪の膝は何度も崩れそうになる。「眠っちゃダメですよ」と声を掛けるが、耳に届いているのかどうかも怪しい。
 何とかタクシーに乗せたものの、薪は完全にグロッキーだ。「お客さん、どちらまで」の言葉を待たずに後部座席に横たわり、運転手に白い目で見られた。
「お客さん。行き先は?」
「……うち」
 ダメだ、こりゃ。
「吉祥寺までお願いします」
 見かねて一緒に乗り込んだ。クラゲみたいにふにゃふにゃする薪の身体を起こし、背もたれに預けて座らせる。シートベルトをして、でもそこまでだった。腰の部分だけを固定するシートベルトに姿勢の保持は望めず、薪はコテンと青木の胸に倒れてきた。
 寝やすい位置を探して、薪の頭が無意識に動く。本当に電車に乗せなくてよかった。もしも青木が女の子だったら完全に痴漢行為だ。

 眠ってしまった友人をタクシーで送る男を装って、青木は溜め息交じりに窓の外を見た。自分の胸で無邪気に眠る恋人を、本音では抱きしめてしまいたい。だけどそれはできない。どんなに愛し合ってもつきまとう切なさ。彼は秘密の恋人。

 薪のマンションの前でタクシーを降りて、青木は管理人室に向かった。住人が眠りこけていては瞳孔センサーは使えない。管理人に鍵を開けてもらうしかないのだ。
「やあ、青木さん。いつもご苦労さまだねえ」
「毎度すみません」
 いやいや、これも仕事だから、と管理人は鍵の束を持って青木の前に立つ。他人の手を煩わせておきながら、薪は青木の背中で熟睡している。いい気なものだ。
 部屋に入り、薪をベッドに寝せる。服を脱がせ、パジャマに着せ替えて、布団を掛けてやる。目覚まし時計を4つともセットして、ついでに風呂のタイマーも付けておく。朝、目が覚めたら風呂に入りたいだろう。
 リビングと台所の火の元を確認して、やり忘れたことはないかと辺りを見回す。冷蔵庫とストッカーはきれいに整理されていたが、照明器具の上に埃が積もっていた。今度来た時に掃除をしてやろう。

 最後にもう一度、薪の寝顔を見るために寝室に入った。
 こうして、薪と同じ家に帰ってきてそのまま隣で眠れたら、どんなにか幸せだろう。彼と別れたくない気持ちが、ついそんなことを考えさせる。
 人の欲には限りがなくて。
 何年か前は彼に触れることもできなかった。それが今では彼の恋人として彼に愛されている。
 過ぎるほどに幸せなのに。もっともっとと考えてしまう、欲張ってしまう。ずっとずっと一緒にいたい、片時も離れたくないと。
 ――これ以上望んだら、本気でバチが当たる。

 おやすみなさい、と青木は声に出さずに言って、寝室を後にした。管理人に挨拶をし、マンションを出てから薪の部屋を仰ぎ見る。明かりは消えているけれど、あそこに薪がいる。そう思うだけでまた彼の顔が見たくなる。出たばかりの部屋に戻りたくなる。
『薪さんと一緒に暮らしたいです』
 言えない言葉を、今日も青木は飲み込む。それがどんなに薪を困らせるか、分かっているから。
 代わりに、青木は大きく伸びをした。
「あー、今日は楽しかったー」
 デートの最後にしんみりするのは、青木のスタイルではない。誕生日のプレゼント代わりにと薪がくれた夢のような時間を大切に胸にしまって、そうしたら切ない気持ちなんかどこかへ吹っ飛んでしまう。
 鼻歌交じりに長い脚を動かして、青木は家路を辿り始めた。



*****


危険ポイントその9 明日


 今日の二人はこんな風に別れても、明日の二人は違うかもしれない。
 その明日は、すぐそこ。


―了―



(2014.6)


 今日の青木さんはヘタレでも、明日の青木さんは違うかもしれない。
 期待してます。

テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

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Author:しづ
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2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
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