うつくしいひと(1)

 こんにちは~。

 今日から公開しますこのお話、29Pと短いのですが、5万拍手のお礼にさせていただきます。理由は、
 久々に薪さんの女装が入ってるから。←おい。

 本編に戻りまして、時期は2067年の2月。「タイムリミット」の直前です。なので、二人は一緒に暮らしておりません。
 題名は福山雅治さんの「Beautiful Life」の一節から。(ファンの方、イメージ潰したらすみません)
 それと、何人か昔のキャラが出てきます。「2066.11 イヴに捧げる殺人」の礼子嬢と、ADカテゴリの中の「折れない翼」に出てくる羽佐間さんと佐藤くん。未読でも差支えないように書いたつもりですが、気になるようでしたら併せてどうぞ。






うつくしいひと(1)






 きらびやかなシャンデリアが虹色の光彩を放つ、夜の店。目に沁みるような赤色のソファはふかふかで、一旦腰を下ろすと立ち上がるのに弾みがいる。ゆったりと背もたれにもたれれば、「いらっしゃいませ」と男性のホールスタッフがおしぼりを渡してくれる。「女の子のご指名はございますか」と尋ねる、その声に華やかな女の嬌声と男の下品な笑い声が重なり、青木は思わず苦笑した。最初の二文字しか聞き取れなかった。
 聞こえなくてもスタッフの訊きたいことは分かる。ここはそういう店だ。

「礼子ちゃんお願いします」
 此処に来たら必ず、彼女を指名することにしている。そうすれば彼女の懐に指名料が入るし、顔見知りの彼女が相手なら余計な気を遣わなくていい。
 しかし青木には不安があった。それは店の中で笑い声が上がるたびに大きくなった。本当に、この店でよかったのだろうか。
 今日は薪と二人で来たわけではない。客がいるのだ。それも薪の恩人らしい。賓客を接待するのに、銀座のクラブあたりならともかく、この店では。

「薪さん。本当にここでよかったんですか。大事なお客さまなんでしょう」
 隣で手を拭いている薪にこっそり耳打ちすると、薪は細い肩を竦めて、
「仕方ないだろ。羽佐間さん、キャバクラ大好きなんだから」
 店の喧騒に負けない声を張り上げる代わりに、薪は青木の耳元にくちびるを寄せ、
「こないだ飲んだ時、警視監昇任の監査が入ってるってウソ吐いて、キャバクラ勘弁してもらったんだ。だから今日は羽佐間さんの好みに合わせないと」
「でも。こんなところじゃ、ゆっくり話もできないんじゃ」
「こんなところで悪うございました」
 コソコソ話すうち、指名した女の子が席にやってきて、青木たちに遠慮ない口調で悪態を吐いた。細い顎をつんと反らして、怒った時の彼女のそういう仕草は薪に良く似ている。
「あ、いや、そういう意味じゃないんだよ、礼子ちゃん。ただ、こちらの方は薪さんが昔お世話になった方で。積もる話もあるんじゃないかと」
 ごく簡単に接待客の紹介をすると、礼子は客に向かってぺこりと頭を下げた。

「いらっしゃいませ、礼子でございます。本日はご指名いただきありがとうございます。精一杯務めさせていただきます。お時間の許す限り、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
「おまえ、ちゃんと挨拶できるんじゃないか」
「当たり前でしょ」
「僕はされたことないぞ?」
「薪さんにしてどうすんのよ」
 相変わらず客扱いされていない。薪は何事か言い返そうとしたが、客の前だと思い直したのか口を噤み、でもやっぱり治まらなかったらしく、結果、青木の足を踏みつけた。
「痛った! なんでオレにくるんですか、もう」

 その光景には礼子もすっかり慣れっこになっていて、何事もなかったようにL字形に設えられた席の薪と羽佐間の間に腰を下ろし、「みなさん、水割りでよろしいですか」とにこやかにオーダーを取った。慣れた手つきでグラスに氷を入れる。店に出て3ヶ月、水割りの作り方も板についてきたようだ。今日は二人以外にも客がいるからかホステス業に徹しようとしている礼子に、よせばいいのに横から薪が茶々を入れた。
「おい。ドレスの胸、盛り過ぎじゃないのか」
「普通よ、これくらい」
「しかも空き過ぎだ。この角度からだと先っちょが見え、うごっ!」
「どこ見てんのよ、スケベ」
 表面的にはキャバ嬢の恋人が彼女のコケティッシュを独占したがっているように聞こえるが、あにはからんや、これは子離れできないお父さんと娘の会話だ。
「見えるような服を着る方が悪い。男は視覚刺激に弱い生き物なんだ。無駄に挑発するな、ガキのクセに」
「はあ? キャバ嬢が男誘わなくてどうやって売上げ伸ばすの」
「売上っておまえ、まさか、軽はずみな真似してないだろうな。お金のために売っていいものといけないものがこの世にはあるんだぞ」
「あーあー、またお説教。お酒飲みに来たんじゃないの」
 ドン、と目の前にグラスを置かれて、薪は、大事な客を招いたことを失念していた自分に気付いたらしい。ハッとして顔を向ければ、白髪頭の日に焼けた偉丈夫がにやにやと笑っていた。

「すみません、羽佐間さん。こいつ、口の利き方知らなくて」
「失礼ね。あたしだって薪さん以外の人となら普通に」
 隣になれば言い争いを避けられないことを悟った薪は、グラスを持って席を立ち、羽佐間の左隣に移動した。自分でグラスを持っていく辺り、薪も多分、礼子をホステス扱いしていないのだろう。
「実は、以前ちょっとした事件で知り合った娘なんですよ。ママに面倒見てもらってて」
「いいってことよ。俺ぁよ、元気のいい女の子が好みだからよ。はねっ返りって言われるくらいが女は可愛いってもんよ」
 そう言って礼子に笑いかけた後、薪には声を落として、
「もしかして、例の娘かい?」
「そうです。羽佐間さんのおかげで助かりました」
 彼らの会話は隣の礼子に聞こえないくらい密やかで、でも青木には彼らの唇が読める。この店は先輩刑事の馴染みの店で、ママも元警察関係者だと薪に聞いた。その先輩刑事と言うのが羽佐間で、礼子がこの店に勤められるように彼に口利きをしてもらったのだろう。礼子には事の次第を言わずとも、その報告も兼ねてこの店を選んだのだと分かった。

「礼子ちゃんね。えれえシャンだな」
「それ、本人に言わないでくださいね。いい気になりますから」
 へ、と鼻に息を抜き、羽佐間はニヤリと笑った。
「恋人の前で愛人とイチャつくたあ。おめえもやるようになったじゃねえか」
 水割りに思いっきりむせて、咳き込む薪を礼子が嘲笑う。「いつも薄いって文句言われるから、薪さんのだけ思いっきり濃くしてやったの」と青木に耳打ちするが、多分、そういうことじゃない。

「人を好色一代男みたいに言わないでくださいよ。この娘は本当にそういうんじゃないんですから。それと、青木もそういうんじゃありませんから」
 他人の前で、薪との関係を否定されることには慣れている。それは仕方のないことだと分かっているけれど。その度に薪が少しずつ傷ついていることを青木は知っている。
「隠しても無駄だ。ちゃあんと顔に描いてあらあな」
 それに対して薪がなんと答えたのか。隣の席から沸き上がった一気飲みコールに消されないように薪が口の横に手を当てたので、唇の動きは読めなくなった。

「最初からの約束なんです。僕は約束を守ります」
「おめえ、40越してまだそんな」
 手覆いを外してからの会話からは、内緒話の内容までは分からなかった。ただ、二人の顔つきが明るいものではなかったので、あまり楽しい会話ではなかったのだろう。
「薪。人は変わるもんだぜ」
「そんなこと」
 分かってますよ、と笑って羽佐間のグラスに氷を追加する。そのまま差し出そうとして舌打ちされた。氷を入れたらアルコールも入れろと言うことらしい。
 還暦過ぎの身体に高濃度のアルコールは毒だが、羽佐間がそんな忠告を聞き入れる可能性は限りなく低い。無言でウィスキーの瓶を傾ける薪に、羽佐間の苦笑がふわりと降ってきた。

「いいや、分かってねえよ。変わらねえ人間に、それが分かるわけがねえ」
「羽佐間さんにはいつまでも頼りなく見えてるのかもしれませんけど。僕も一応は、室長職を10年以上勤めてきて」
「そういうことじゃねえんだよ」
 青木が薪の話を途中で遮ったりしたら、回し蹴りを決められた挙句に人の話は最後まで聞けと説教されるところだ。ところが薪は大して不快な顔もせず、素直に首を傾げた。
「じゃあ、どういうことですか」
 羽佐間はニヤッと笑うと薪の頭に手を置き、亜麻色の絹糸のような髪をくしゃくしゃと掻き回した。青木があんなことをしたら、以下略。
「顔だ顔。全然変わらねえ。薪坊のままだ」
「羽佐間さん、その呼び方やめてください。部下の前なんですから」
「失礼しました。薪警視長殿」
「……薪坊でいいです」
 新人の頃、さんざん面倒を掛けた先輩に敬語を使われて、薪は俯いた。下を向いた小さな頭を、羽佐間はもう一度楽しそうに掻きまわした。


*****


 今日の午後3時、現場が供用開始になるんですよ~。要は車が通れるようになるってことで、とりあえず一段落。
 心配なのは、道路の線形が変わること。今まで真っ直ぐに進めた道路が、一時停止して新しい道路に合流するようになるから、そこで止まってくれないと事故になっちゃう。そのための安全設備は通常の道路の3倍も設置したのですけど、それでも不安です。事故が起きると、去年みたいに対応に追われて、ブログどころではなくなってしまいます。ので、
 この話の続きが読みたい方は交通事故が起きないように祈っててください。←要らない? くすん。
 先週は交通解放に向けての段取りでバタバタしてて、とうとうお返事も返せずじまい……今日の開放が終わったら少しは余裕ができると思うので、もうちょっとだけ待っててくださいね。
  

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ジャンル : 小説・文学

うつくしいひと(2)

 こんにちは。
 めっきり春めいてきましたね。現場の行き帰りにある川辺の桜がとてもきれいです。今日の雨で、花が散ってしまわないとよいのですけど。
 
 コメントと拍手、いつもありがとうございます。
 現在、開通後のゴタゴタが続いてて、お返事が滞っています。長らくお待たせしてしまって、本当にごめんなさい。

 わたしが不義理をぶっちぎってる間に、5万5千拍手をいただきました。ありがとうございました。
 お礼SSの公開中に次の節目を迎えると言う。管理人のモノグサがバレバレですね(^^;
 現場が終わったら新しい妄想をしてお礼しますので、その時はまた、よろしくお願いします。





うつくしいひと(2)





 如月の最初の月曜日。官房室に出勤した薪を、一人の男が待ち受けていた。
 待合室の椅子に姿勢よく座っていた彼は、薪の姿を認めると立ち上がって敬礼し、二重封緘された書類袋を薪に手渡した。「ご苦労さまです」と言って彼の手から書類を受け取る、薪の顔色は冴えない。薄くて軽い、何の変哲もない茶封筒。しかしその内容を知る者にとって、封筒は鉛の重さに変わる。その重さに耐えかねたように、薪は、秘書が機能的に整えた机の上に封筒を置いた。
 浮かない顔の薪に、秘書の三条が気遣わしげに「コーヒーをお持ちしましょうか」と声を掛ける。緩く首を振ってそれを断り、代わりに薪は彼女に一つの頼みごとをした。
「三条さん。1時間ばかり、部屋に誰も入れないでください。電話も取り次がないで。後でこちらから掛け直しますから」

 秘書の姿がドアの向こうに消えると、薪は椅子に座って溜息を吐いた。頬杖を着き、書類袋を指先で弾く。頬杖の高さは段々に低くなり、やがて薪は宿題に悩む子供のように机に突っ伏してしまった。
「あー、見たくない」
 月初めの月曜日。彼によって運ばれてくるその書類は、毎回薪を憂鬱にさせる。与えられた職務に不平を言うのは薪のポリシーに反するが、正直この仕事だけは避けて通りたい。
 警察が組織である以上、必要な部署だと思うし、重要な職務であることも承知している。解っていても、やはり嫌なものだ。仲間を疑うと言うのは。
 重苦しい気持ちで身を起こし、諦めて封を切る。中に入っていたのは3名分の報告書で、その数の少なさに薪が僅かばかりの慰めを見出した矢先。
「えっ」
 まさか、と思わず口を衝いて出た。見知った者の氏名がそこにあったからだ。

 問題の報告書は、封筒の一番下に入っていた。氏名、佐藤昌一。年齢52歳。階級は警視。入庁2040年。交番勤務から世田谷署強行犯係で2年連続検挙率1位を獲得。2047年、警視庁捜査一課に転属。
 間違いない。捜査一課で同期だった佐藤だ。

 警大卒の薪と所轄組の佐藤は、同じ年に一課に配属になった。2047年度の新人同士、研修などで一緒になる機会が多かった。警視庁の捜査一課ともなれば大所帯で、同期の数は100人を超える。薪もその全員と交流があったわけではないが、佐藤とは班も隣同士で、合同で捜査に当たったこともあった。コンビを組んだことはなかったが、課内ではしょっちゅう顔を合わせていた。
 薪とは正反対の、明るい男だったと記憶している。
 配属されてすぐに捜査一課中の人間を敵に回してしまった薪とは違って、所轄経験を経ていた佐藤は処世術に長けていた。愛想がよくて冗談好きな彼は、先輩たちの受けもよく、みんなに可愛がられていたように思う。

 あれから20年が過ぎて、佐藤に掛けられた疑惑は暴力団S組との癒着。資料には、佐藤とS組の幹部が同じテーブルで酒を飲んでいる写真が添えられていた。佐藤の両側には着飾ったホステスが座っており、S組の息が掛かったクラブであろうと察せられた。
 他に証拠はと言うと、クラブで隣にいた女の子と一緒にホテルの入り口を潜る写真が一枚。よくよく思い出してみれば、佐藤は美しい女性に弱かった。妻子を持つ身で、組経営のクラブのホステスと関係を持ったのは拙かったが、癒着疑惑とは。
 ノンキャリアの佐藤が警視に昇進したのは45歳の時。昇任試験によるものではなく、拳銃摘発の好成績を評価されての昇進だったが、暴力団との癒着疑惑が生まれた今、それもS組への情報漏洩の見返りだったのではないかと言うのが内偵者の見解であった。
 監察官による聞き取り調査の際、佐藤は、その疑惑をきっぱりと否定していた。しかしながら女性関係は認めており、そのルートからS組に捜査情報が流れた可能性を完全に消すことはできなかった。

 少し考えて、薪はその案件に再調査の指示書を付けて監査課へ差し戻した。
 他の二名に関しては十分な証拠があり、かつ、本人たちも概ね罪を認めていた。しかし薪は、監査課の出した依願退職の決定に不可を付けた。道を誤った警察官を辞めさせることは簡単だが、それでは彼らが失敗を取り戻すことは永遠にできなくなる。やり直す機会を与えてやりたいと思った。
 仕事は手早く、嫌な仕事はもっと手早くが薪のモットーだ。秘書に約束した1時間後には、官房室次席参事官としての所見が添付された書類が出来上がっていた。二重封緘を施して、秘書の三条に首席参事官に届けるように頼んだ。

「かしこまりました。では次席、こちらが今日のお仕事です」
「……なぜこのタイミングで」
 気分がくさくさしたから、気晴らしに第九へ行って捜査を覗こうかと思っていたのに。軽く50センチはある書類束を突きつけられたら何処にも行けないではないか。
「監査課の書類を後回しにされたら、また首席に叱られますよ」
 三条事務官は、薪の秘書になる前は中園の専属事務官だった。前の上司から色々と言い含められているに違いない。他の仕事があれば薪くんはそちらへ逃げるから他の仕事は隠しておいて、とか。いかにも中園がやりそうな小細工だ。
 舌打ちしたいのを何とかこらえる。三条が男なら「おまえは誰の秘書なんだ」と噛みつくところだが、相手が女性ではそうもいかない。こっそりと溜め息を吐く薪に、三条はにっこりと微笑んで、
「コーヒーをお淹れしましょうか?」
「お願いします」
 二度目のコーヒーの誘いと共に、薪は書類束を受け取った。



*****

 納得できない仕事って辛いねえ、薪さん。
 今、ちょっと気持ちが分かる……この下、仕事の愚痴です。吐き出せるとこ無いから。後で消します。どうかスルーで。


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ジャンル : 小説・文学

うつくしいひと(3)

 こんにちは。

 仕事のストレスで心の産廃ボックスがとうとう満杯になって、昨夜は眠れず。夜中に起き出して人様のブログを徘徊、迷惑顧みずにコメントを入れたりして、そうしたら、
 なんだか今朝は元気。2時間しか寝てないのに。
 雨で現場がお休みになったので、掃除して、書類整理して、Mさんのブログにお邪魔して、自分のブログのお返事返して、
 こんなに物事がすらすら進んだの、久しぶり! 
 お昼ご飯の後にちょーお腹痛くなったけど、(寝不足のせいだな)20分で治ったし! 1週間くらい続いてた下痢も止まったし!←汚くてごめん。
 
 仕事のために休息をとブログを我慢してましたけど、それが間違いだったのかもしれません。身体の栄養だけじゃなく、心にも栄養を与えてあげないと、人間て枯渇しちゃうんですね。

 わかった? 薪さん!
 薪さんの心の栄養=青木さんなんだから! 我慢しすぎるとわたしみたいになっちゃうよ!

 てなわけで更新しますー!
 先日、心配してコメントくださった方、あっちゅー間に元気になってすみません。根が単純なんで(^^;

 本日も広いお心でお願いしますっ!





うつくしいひと(3)





 その日の薪の最後の仕事は、首席参事官室に出向くことだった。
 ボディガードを廊下に待たせておいて、部屋に入る。親の遺言で6時以降は仕事をしないと言うのが口癖の首席参事官は、その役職にあってはそんな勤務体制が通るわけもなく。未処理の書類が積まれた机の前で薪と向かい合った時、時刻は9時を回っていた。

「明日の朝、呼び出そうと思ってたんだ」
「明日は第九に出る日なので。邪魔されたくないですから」
 ああ、そうだっけ、と書きかけの書類を脇に追いやって、中園はシークレットボックスからA4サイズの封筒を取り出した。二重封緘が切られている。昼間、薪が提出した書類だ。

「毎回毎回、同じこと言いたくないんだけど」
「僕も聞きたくないです」
「じゃあ言わせないでよ」
 薪はついと眼を逸らした。もう何度この会話を繰り返したことか。不毛だ。
「きみの人事考課は甘すぎる。人事部に提出した部下の昇任願にしても」
「中園さんが厳しすぎるんですよ」
「小池君や曽我君に室長が務まると思う?」
「やらせてみなきゃ分からないじゃないですか」
「やらせてみてできなかったじゃ済まされないんだよ。警察にミスは許されないんだ」

 この件に関しては、中園と薪は永遠に平行線だ。人間の能力にそれほどの個体差はない、やらせてみればできるはずだと薪は考える。仕事は習うよりも慣れろ、自分だって最初は散々失敗したけれど、長く勤めるうちにこなせるようになったのだ。しかしそれは彼だからこそ到達できる境地であって、その理屈が適用されない人間は残念ながら巷にゴロゴロしている。
「人事考課の甘さは優しさじゃないよ。きみの大きな欠点だ」
 薪にはあらゆることが簡単に出来すぎる。彼が誰にでもできると思うこと、それは彼だからできているのであって、他の人間にその水準を求めるのは厳しい。その事実にまったく気付かない。こういう人間は人事には向かない。

「廊下に青木を待たせてるんです。説教なら簡潔にお願いします」
「きみが待てと言えば朝までだって待ってるだろ。彼、骨の髄まできみのイヌなんだから」
 聞きようによってはとことん失礼な、しかし単なる事実でもある。帰宅時間のメール一本で、青木は夜通し薪を待っていた。そんなこともあった。
 昔のことを思い出して、甘酸っぱいような感覚に満たされた薪の胸に、中園の冷静な声が突き刺さる。そうだ、今は深刻な話をしていたのだった。

「本人の自白が取れているにも関わらず、地方への異動。依願退職扱いだけど、当然退職金は辞退させるし、そうなれば懲戒免職と変わりないから後味悪いのは分かるけどさ」
 中園は、薪を睨み上げて言った。
「首切りだって立派な仕事だよ」
 分かっている。組織の規律を守るためには、懲戒人事も必要なことだ。しかし。
「警察を辞めてしまったら、彼らの失点は永久に取り戻せないことになります。それよりは地方にあっても、公僕としての精神を貫いてほしいと」
「アタマいいのか悪いのか分かんない子だね。中央から地方に飛ばされたキャリアが真面目に勤める気になると思う? 彼らは、その人事が下った時点で依願退職するんだよ。結果は同じなの。人事部に書類作らせるだけ無駄」
 中園の言う通りだった。それは何度も繰り返されてきた、でも薪は希望を捨てきれなかった。過ちを犯した彼らの中にもまだ、入庁した当時の志が残っていると信じたかった。

「こっちの差し戻しはどうして?」
「癒着を疑うには証拠が足りないかと。本人も否定してますし」
「女との関係は認めてるじゃない。懲戒処分の理由には十分だ」
「一夜限りの関係かもしれないじゃないですか。S組の幹部が同じテーブルにいたのだって、単なる相席かも」
「蕎麦屋じゃないんだよ」
 中園の言う通り、クラブで相席は苦しい。薪は咄嗟に言い訳を考える。
「同じテーブルで酒を飲んでいたからって、癒着しているとは限りませんよ。例え和やかに話をしていても、相手に探りを入れていたのかもしれない。ホステスとの写真だって、彼女から情報を得るためにホテルまで行ったのかも」
「やけに庇うね」
 喋りすぎたと悟って、薪は口を噤んだ。が、遅かった。
 中園は佐藤の調書を見直し、「ああ、なるほど」と軽く頷いた。薪と佐藤の関係を見抜いたに違いない。

「この案件は僕が預かるよ」
 拙い。中園に掛かったらどんな小さな職務違反でも減点対象にされてしまう。ヤクザの女と関係した事実があったら間違いなく懲戒免職だ。
「いえ、これは僕の」
「今日はもう帰りなさい。青木くんが待ってるんだろ」
「待つのもボディガードの仕事のうちです」
「さっきと言ってること違わない?」
 中園が封筒に戻そうとした書類を、薪は強引に押さえた。人に冷たい印象を与える上司の薄灰色の瞳が、じっと薪を見る。薪は引かなかった。

「本人が認めていないものを、たった2枚の写真で断罪するんですか」
「あまり人をバカにするもんじゃない。ちゃんと調査はするよ。聞き取り調査も改めて僕がする」
「では、その調査を僕にやらせてください」
「なに勝手なこと言ってんだい。きみには官房室の仕事が」
 言い掛けて、中園は口を噤んだ。この手の制止が薪には無駄なことを学習したらしい。
「では指示書を出そう。明後日の朝、取りに来なさい」
「いいんですか」
「ダメって言っても勝手に動くんだろ。休みの日に旧友と飲んだだけですとか白々しい言い訳されるくらいなら、正式な指示書を出すよ」
「ありがとうございます」
「ただし」
 引こうとした薪の手を、今度は中園が止めた。薪の手首を机に押さえつけ、立ち上がって顔を近付ける。
「調査はこちらで、僕の手の者がする。きみがするのは本人への聴取のみ。いいね」
「しかしそれでは」
「僕の調査が信じられない?」
「そうじゃありませんけど」と返しながらも、完全には信じきれなかった。中園は裏工作の専門家で、自分に都合の良い証拠を見つけ出すのが得意だ。都合の悪い証拠は見て見ぬ振りをすることもある。つまり、彼の意向通りに調査票が作成されてしまう可能性が高い。

 薪の疑惑を見抜いたのか、中園は薪を押さえつけた手に一層の力を込めて、
「じゃあ聞くけどね、きみ、暴力団関係の調査をどうやってするつもり?」
「僕にだってそれなりのルートが」
「脇田くんは使っちゃダメだよ」
 当てにしていた組対5課の課長の名前をズバリと出されて、薪は息を飲む。見透かされていた。中園のことだ、薪の交友関係なんか官房室に異動になる前に調査済みだったのだろう。薪に調査を任せたくない中園は、薪が持っている人脈一つ一つにダメ出しをするつもりなのだ。そう来るならこっちだって。
 反発心を剥き出しにしかけた薪に、中園は冷静に言葉を継いだ。
「いいかい。組対5課は暴力団の取り締まりを職務としている、だから当然組関係には詳しい、でもね。彼らがやっているのは表の仕事だ。警察官の不正を調べるのは裏の仕事で、それを彼らにやらせるべきではない」
 中園の言葉で、薪は、この仕事に対する自分の認識が甘かったことを知った。そして、何故彼が先回りをして薪の行動を止めたのかも。
 中園の忠告を無視して薪が脇田に調査を頼んだ場合、どうなるか。脇田は薪が官房室で身内の不正を暴く仕事をしていることを知る。結果、今までのような関係は保てなくなる。脇田も自分の仲間を守らなくてはならないからだ。

 しおらしく頭を下げて、薪は言った。
「分かりました」
「よろしい。それじゃ、現場の人間に連絡させるから」
「調査は僕が一人でやります」
 言うが早いか、油断に緩んでいた中園の手から強引に問題の調査票を引き抜くと、薪は研究者の手をすり抜けるモルモットの勢いで部屋から逃げ出した。
「待ちなさい、それはもっとダメ……!」
 立ち上がった時には既に、居室のドアは閉ざされていた。廊下を駆けていく、2人分の革靴の音が聞こえる。

「もういやだー!」
 あの子のお守はこりごりだ、そんなのは僕の仕事じゃない。もう知るか、と空の封筒を床に叩きつけて2分後、中園は仕上げに掛かっていた別の書類を衝動的に破り捨て、卓上の電話を取り上げた。
「僕だ。うちの問題児がそっちに行くから、ああいや、合流はしなくていい。余計な手出しもしないで。ヤバくなったら殴り倒してでも彼を連れて逃げて――違う違う、ヤクザ殴れなんて言ってない。相手じゃなくて、うちの問題児をだよ」

 似たような内容の電話を4,5本掛けて、やっと落ち着いたらしい彼は、引き裂かれた書類を見て驚いたように立ち上がった。
「なにこれ。誰がやったの」
 頭で考えるより早く身体が動くと言う現象を生まれて初めて体験した首席参事官は、締めの文を書くばかりになっていたはずの草案が失われたことにいたく落胆し、残った書類をまとめて書類保管庫に突っ込んで、執務室の灯りを消したのだった。

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

うつくしいひと(4)

 こないだ、現場でひどい目に遭いました。
 歩道と車道を隔てる縁石ってあるでしょ。あれは正式名称を歩車道境界ブロックと言うのですけど、略して歩車道BLと書いたりするんです。
 でね、わたしが来週の工程をホワイトボードに書いておいたら、下請けさんの職長さんが「BLってなに?」て聞くんですよ。彼は来年還暦だし、アルファベットの略は使わないんでしょうね。
 わたしが説明する前に、一緒にいたオットが、
「本じゃね?」
 てな具合にあっさりとわたしの趣味をカミングアウトしやがりまして、もう明日から現場来れないわ、と思ったのですけど、そこはさすがに還暦、
「ああ、ビニール本か」
 ちがうっっ!!! いや、共通するものもあるかもしれないけど違ううう!!!!
 激しく思ったのですけど、BL本がどういうものかを説明することもできず、ぐるるるる。
 あやうくオットに(社会的に)抹殺されるところでした。


 続きです。






うつくしいひと(4)





 暖色系のネオンに照らされると、亜麻色の髪は黄金のきらめきを放つ。その輝きに目を奪われた通行人が思わず彼の後を追おうとするのを、さりげなくウィンドウを覗き込む動作で遮る。目立ちすぎて尾行には不向きだと薪に宣告された大きな体躯も、なにかを隠すにはもってこいだ。

 酔客でごった返す歌舞伎町の通りを、薪はすいすいと歩いていく。器用に人を避けて、その歩みに迷いはない。目的地が決まっているのだろう。
「この辺で下してくれ」と命じられたのは、彼が滅多に足を踏み入れない歓楽街。当然と言うべきか「お供します」との申し出は断られたが、薪の言うことを素直に聞いていたら彼のボディガードは務まらない。青木は薪の後を尾けることにした。

 薪は何度か角を曲がり、横道に入った。一軒の店の前に立ち止まり、中に入って行く。
 薪の姿が店の中に消えたのを確認し、青木は店舗に近付いた。外壁は黒く塗りつぶされ、窓の一つもない。いかにも怪しい建物だ。
 入口に小さな看板が掛かっている。『ソープランド 姫』とピンク色の文字が踊っていた。

 その文字を読んでから後の青木の記憶は、5分ばかり途切れている。気が付いたら店の廊下で、何故だか若い男が青木の足にしがみついていた。後ろを振り向くと、何人もの女の子がドアから顔を出し、不安そうな眼でこちらを見ていた。
「お客さん、待ってくださいよ! まずは受付!」
 あまりのショックに思考停止した頭で薪の後を追い、受付係の制止を振り切ってここまで来てしまったのだと知った。銀色の指輪をした手の甲に擦り傷ができている、受付の彼には何の罪もない。不安がらせてしまった女の子たちにも。悪いことをしてしまった。

「どうしたの?」
 と、奥のドアから男が顔を出した。客の一人だろうか。口髭の似合うニヒルな顔立ちの男だった。
「すみません。すぐに出ます」
 失礼しました、と本当に、青木はその場を去るつもりだった。看板を見ればこの店の営業内容は嫌でも分かって、必然的に薪が今どこで何をしているかも察しがついて、つまり店の中で彼の身に危険が及ぶことはない。ならば、店の外で彼が出てくるのを待つのが自分の仕事だ。
 辛いけれど、悔しいけれど、青木は女の子にはなれない。彼女たちが薪に与えてやれる快楽を、青木では差し出すことができない。分かってる、こんなのは男の本能ってやつで、浮気ですらないのだ。

「痛てて。ったく、勘弁してくださいよ」
 手の擦り傷に息を吹きかけながら、受付の男子は青木に文句を言い、でも途中で気遣わしげな顔で青木を見上げた。事情があることを察してくれたのかと思ったが、もっと具体的なことだった。
「――泣かなくてもいいですけど」
「うっ」
 青木は両手で顔を覆った。頭では理解しようと頑張ったけれど、悲しくて悲しくて。涙がとめどなく溢れた。
 薪を責める気は起きなかった。ただひたすらに悲しかった。

「茅場さん。なんの騒ぎで――青木」
 男性客と同じドアから、薪が顔を出した。青木は混乱した。
 ここは男の天国。男が可愛い女の子と一緒にお風呂に入って楽しいことをする店だ。そこに来ている男性客と薪が同じ部屋にいた。ということは、つまり。

「着いてくるなって言ったのに。すみません、茅場さん。この男は僕の部下で」
「ひどいじゃないですか、薪さん」
 薪が同室の男に騒ぎを起こしたことを謝る、そんなことすら許せなかった。薪の手を掴んで、彼を薄暗い廊下に引き出す。華奢な肩を手のひらに収めて、青木は訴えた。
「相手が女の子なら仕方ないってこともありますけど、ええ、どうせオレにはおっぱい無いですからね。薪さんにだって男の事情ってもんがあるでしょうし。でもっ」
 青木は冷静になろうとした。いわゆる修羅場と言うやつで、周りには他人もいることだし、自分が騒ぐと薪に迷惑が掛かる。だが、言葉にするうちに青木の感情はどんどん高まってきて、それにつられるように声のトーンも上がってしまった。
 結果、青木は自分でもびっくりするような大声を出していた。

「相手がこちらの方ってどういうことですか!? 男性じゃないですか!」
「ちがう。この人は」
「なにが違うんですか。ヒゲ生やした女の人も世の中にはいるのかもしれませんけど、この人は男の人です! オレの眼は節穴じゃありません!」
「落ち着け、青木。これは仕事だ。茅場さんはこの店の店長で」
「仕事? まさか薪さん、ソープ嬢に転職を!?」
「なんでだっ」
「つまりなんですか、店に出る前に僕に味を見せてみなさい的なアレですか。この店で働く心構えを教えてあげるとか上手いこと言われて引き込まれてこういうことは身体で覚えるのが一番だからとか尤もらしい理屈捏ねられてこれも社会勉強だなんて訳の分かんない納得の仕方で服を脱いじゃう世間知らずでもカラダは百戦錬磨のお嬢さん的な、ふごぉっ!!」
 長舌を回し蹴りで断ち切られ、青木は廊下に突っ伏した。
「AV会社の宣伝係か、おまえは」
 廊下の床より冷たい薪の声。蹴ってもらってよかった。酸欠で死ぬところだった。

 青木の巨体は3人掛かりで男と薪が居た部屋に引き込まれ、見ればそこには浴槽もベッドもなく、素っ気ない事務机が2つとスチール製のロッカーがあるだけだった。
 薪と店長は、奥の応接セットで話をしていた。薪はこちらに背を向けて、だから薪のくちびるは読めなかったけれど、店長の口髭の下で彼の唇が「辛い仕事だね」と言ったのが見えた。

 事務机の前に座らされた青木に、受付の男の子がコーヒーを淹れてくれた。インスタントだけど、温かくて落ち着いた。「さっきはごめんなさい」と青木が深く頭を下げると、彼は苦笑いして仕事に戻って行った。若い子なのに、人間ができている。今どきの子らしく髪の毛は見事な金色に染まって、耳にはピアスが3つも刺さっていたけれど、前髪に隠れた黒い瞳は優しそうだった。ドア口から彼の後ろ姿に頭を垂れて、ふと見ると、「STAFF ONLY」の立て看板を直そうと彼は悪戦苦闘していた。先刻、青木が気付かずに蹴り倒し、脚を曲げてしまったらしい。後で弁償させてもらおうと青木は、薪と話している店長の様子を伺い、謝罪のチャンスを待った。
 やがて二人の話は終わり、お願いしますと薪が頭を下げた。どうやらここへは捜査協力の依頼に来たらしい。しかし、薪のようなエリート警視長がソープランドの店長に、どんな頼み事があったのだろう。

「話は済んだ。帰るぞ」
「はい。その前に、店長さんに謝罪を」
「大丈夫だ。僕がしっかり謝っておいたから」
 でも、と言い掛ける青木を、薪は上目使いに見上げて、
「僕に内緒でそんなAV見てたんだな」
「見てません」
「嘘吐け」
 設定が具体的過ぎると言う理由であらぬ疑いを掛けられたけど、先に疑ったのは青木の方だ。素直に謝ることにした。
「すみませんでした。途中からあれって思ったんですけど、なんか止まらなくなっちゃって」

「いいんだよ。若さってそういうものだよね」
 優しい言葉を掛けてくれたのは薪ではなく、店長だった。店に迷惑を掛けた青木に腹を立てているものと思ったが、彼は心の広い人らしく、恐縮する青木に微笑んでくれた。
「でさ、君はどんな娘が好みなのかな? やっぱり巨乳? それとも色の白い娘? うちには色々揃ってるよ。おススメは」
「茅場さん。彼には営業掛けない約束でしょう」
 やけに優しいと思ったらそういうことか。これを縁に、青木に客になって欲しいのだ。
「だから謝らなくていいって言ったのに」と薪は口の中で言って、それはつまり青木を誘惑から守ってくれたのだと分かったら、妙に嬉しくなった。

 薪は信じがたいほどに淡白で、自分の気分が乗らない時に青木がしたがると「ソープへでも行ってこい」なんてとんでもない暴言を吐くけれど、あれは本心ではないのだと証明された気がして。思わず頬を緩めたら薪に睨まれた。「巨乳に鼻の下伸ばしたわけじゃないです」と目で訴えたが、「どうだか」と目で返された。それから薪は茅場に向って、やや厳しい口調で、
「ダメですよ。彼は僕と同じ警察官なんですから」
「剛くんだって若い頃は、あうちっ」
「すみません。手が滑って」
 どんな滑り方をしたら店長が椅子ごとひっくり返ることになるのか。まったく薪は、頼みごとをしている人間にも容赦がない。
 いくら青木がヤキモチ妬きでも、自分と付き合い始める前の素行にまで文句を言うほど子供ではない。薪が若い頃、こういう店に出入りしていたことは本人から聞いて知っていた。正直に話してくれたのだから、そこは寛大に許すべきだ。――今夜は眠らせる気はないけど。

「店長さんに、何をお願いしてたんですか」
 此処に来るときと同じく、後部座席で考えに沈む様子の薪に青木は尋ねた。ミラーを調整し、彼の表情がよく分かるようにする。が、ドアを閉めて1分もせずにルームライトは消えて、薪の顔を暗がりに隠した。
「おまえには関係ない」
「官房室のお仕事ですか」
「そうだ」
 官房室の名前を出されてしまうと、青木には手の出しようがない。自分に手の届かないところは潔く諦めて、自分にできることを精一杯しようと思った。

「あの、今日はすみませんでした」
 一旦は締めたシートベルトを外して、青木は後ろを向いた。
「オレ、薪さんのことになると冷静になれなくて。特にああいうことがあると、タガが外れちゃうって言うか。ガキっぽくて単細胞で、自分でもイヤになるんですけど」
 大人の薪に釣り合う大人の男になろうと努力してきた。けれどやっぱり、一足飛びに経験の差は埋まらなくて。早く追い付かないと薪に見捨てられてしまうのではないかと不安になる。その不安が焦りにつながり、青木から自信と余裕を奪っていく。今日の失敗はその最たるものだ。自分に自信がないからあんな誤解が生まれるのだ。
「お仕事の邪魔をして、本当にすみませんでした」
 低く頭を下げて、薪の言葉を待った。薪は何も言ってくれなかった。じっと自分の考えに沈んでいるようだった。
 これ以上は薪の邪魔になる。青木は前を向き、シートベルトを締め直した。スタートボタンを押し、シフトノブを握る。

 ギアをドライブに入れようとして、手を止めた。運転席のシートごと、薪に後ろから抱きしめられたからだ。
「いいよ。青木はそれでいい」
 ヘッドレストの陰で、薪が小さく呟いた。その声は微かに震えていた。
「生後3ヶ月の赤ん坊より子供でも」
 いくらなんでもそこまでは。
「ミドリムシより単純でも」
 植物性単細胞生物以下ですか、オレ。
「ガキっぽいおまえでいい。単細胞のおまえでいい。AV命のおまえでいいんだ」
 感動的なこと言われてるっぽいですけど、すみません、最後のでぶち壊しです。

「おまえはそのままでいろ」
 暗がりの中、いくら眼を凝らしても、薪の表情は見えなかった。彼はヘッドレストに顔を伏せてしまっていたから、昼間でもそれは同じだったに違いない。
 薪は青木に言えないことで苦悩を抱えていて、それを青木が知ることは薪の立場を悪くする。青木も警察機構に籍を置いて7年、それが分からないほど未熟ではない。でも。
 薪が、こんなに苦しそうなのに。自分には何もできない、話を聞いてやることすらできない。釣り合うとか釣り合わないとかのレベルじゃない。まるで話にならないじゃないか。

「そのままでいろ」と薪は言ったけれど。
 このままでいいはずがない。せめて薪が自分の胸の内を吐き出せる立場まで早く昇って行きたいと、青木は痛切に思う。
 薪の細い身体が、その重みに押し潰されないうちに。

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うつくしいひと(5)

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 自分が余計なことをしたら薪に迷惑が掛かる。そのことを肝に銘じて青木は、その夜のことを忘れようとした。しかし運命は皮肉なもので、結果的に彼は最後の一幕に名を連ねることになる。

 それは週末の金曜日、夕刻のことであった。
 青木は再び歌舞伎町の店を訪ねた。客としてではなく、立て看板を弁償するためだ。あのときは薪の様子に気を取られて忘れて帰ってしまったが、青木は器物損壊の現行犯だ。店からは何も言ってこないようだが、こういうことはきちんとしておかないと。
「やあ、いらっしゃい。まだ開店には早いけど、特別に入れてあげるよ」
 ドアを壊されちゃたまらないからね、と店長の茅場は悪戯っぽく笑い、青木を中に入れてくれた。

 客として来たのではなく、看板の弁償に来た旨を話すと、あの立て看板の脚は元々曲がっていたのだと言う。気にすることはないと店長は言ってくれたが、迷惑を掛けたのは事実なのだから何かしら詫びはさせてくれと頼んでみたら、「それならぜひ」と女の子のカタログを差し出された。
「すみません。それだけは勘弁してください」
 職業を理由に丁重にお断りすると、茅場は渋い顔をして、
「剛くんもきみも、お堅いねえ。こっちは商売あがったりだ」と肩を竦めた。
「オレたちは警察官ですから」
「みんな隠れて巧いことやってるよ。きみや剛くんは不器用すぎるんじゃないの」

 当然だが、売春は違法行為。警官である青木に聞き捨てならないことを言った後、店長はふと気付いたように、
「て言うか、こないだきみが泡食って止めに来た時に思ったんだけど。もしかして剛くん、そっちの人になっちゃったの?」
「えっ」
「やっぱり。昔とは色気が段違いだったもの」
 驚きが先に立って即座に否定することができず、青木は店長の誤解(とも言い切れないのだが)を許してしまった。生存競争の激しい歌舞伎町で20年以上も店を構えている切れ者の店主は頭の回転も速く、青木が返答に迷ううちにどんどん話を進めていく。

「きみ、僕と剛くんの仲を疑って彼を諌めてただろ? てことはさ、剛くんがこれ以上そっちの色に染まらないようにきみが監視に付いてるってことじゃないの」
 すみません。薪さんをその色に染めたのは多分オレです。
「狙われやすい顔だから気を付けなよって忠告しといたんだけどねえ。あの子さあ、気が強そうに見えて意外と押しに弱いところがあるから。強引に迫られちゃったんだろうなあ」
 はい。押しまくりました。
「それできっと目覚めちゃったんだねえ。あれってヤミツキになるみたいだしね」
 そうなってくれるともっと楽しい、いやその。

「さっきもさ、剛くんと電話で話したんだけどね。彼、今日も男と会うんだって。夜通し掛けても彼を落とすって、剛くん、思い詰めてたなあ」
 口髭に飾られた薄い唇がふっと笑った。それから青木を振り返り、店長は明るい声で、
「なあんちゃって! 冗談だよ、冗談。相手は昔の同僚だって話だから、落とすって言っても引き抜きとか――あれ?」
 店長が気付いた時には青木の背中は遥か遠く。小さくなっていた。
「若いねえ」
 笑いながら店内に入って行く。その背中はいつまでも揺れていた。

 一方、衝動的に走り出してしまった青木は、本格的に混み始める前の歌舞伎町通りを100mほど走ったところで気が付いた。
 しまった。薪とその男がどこで会うのか場所が分からない。
 店主が聞いているかもしれないと思いつき、店に戻ろうとする。と、ちょうど店に出勤してきたらしい受付の男の子と出くわした。
「薪さんでしょ? こっち」
 この店にいるよ、と彼がポケットから出したのは、『N』というクラブのミチルと言うホステスの名刺だった。
「どうしてきみが薪さんの居場所を?」
「どうしてって……なんだよ、気付いてなかったの? ばっちり見られたから当然バレてるものと」
 彼は金色の頭をガシガシと掻き毟り、「あー、もういいや」と青木に先日の夜のことを話してくれた。

 青木にはまったく憶えがなかったのだが、あの夜、彼は受付にはベルだけ置いて、自分は事務所のドアの外で集音器を用いて店長と薪の会話を盗み聞きしていた。そこに突然青木が現れて、あの騒ぎになったのだ。
 考えてみたら、受付から店長がいた事務室までは相当の距離があった。細身とは言え彼は若い男だし、身体を張って止められたならその場で気付いただろう。彼が青木の脚にしがみついていたから引き摺って来てしまったのかと思ったが、盗み聞きのために屈んでいたからあんな体勢になったのだと分かった。
 しかし、集音器まで使って店長と客の会話を盗み聞きなんて。何処にでもいそうな若者なのに、やっていることはスパイみたいだ。

「きみはいったい」
 何者なんだ、との青木の問いかけに彼は苦く笑った。もしも薪に危害を加えるつもりならば許しておけないという青木の秘めた闘志を見透かしたように、軽く肩を竦める。
「一人で無茶してるように見えるけど、本当はたくさんの人に守られてる。薪さんて、幸せな人だよね」
 予想外の応えが返って、青木は再び混乱する。敵ではないようだが、薪も自分も彼を知らない。無条件に信用するわけにはいかなかった。
「安心して。僕は薪さんの――いや、あんたの味方だよ」
 そう言って彼は青木の先に立ち、歌舞伎町通りをすいすいと進んだ。器用に人を避けていく細い背中に既視感を覚える。青木が着いてきているかどうか確かめるために振り向いた、彼の金色の髪が薪の亜麻色の髪と重なった。




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うつくしいひと(6)

 あと5日です。



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 受付の彼――桜井健也と名乗ったが偽名かもしれない――に連れられて青木が訪れたのは、名刺にあった『N』というクラブだった。彼は電話で名刺のホステスを呼び出し、対象にほど近い場所で、かつ相手からは自分たちの居場所が死角になるような席を用意させた。
 監視対象の席には男が3人、ホステスが2人。一人は50がらみでベージュのスーツ姿、髪の毛は短く刈り込まれている。がっちりとした体育会系の体つき。警察関係者だとしたら現場の人間だろう。他の二人は黒っぽいスーツに、髪型はかっちりとしたオールバック。そこまでは青木と同じだが、黒いワイシャツに白いネクタイとなると職種が変わってくる。警察官ではあるまい。

 案内された席に座り、色とりどりの生花が飾られた大きな花瓶の陰に身を潜めつつ、青木はがっくりと肩を落とした。
「薪さん……」
「話には聞いてたけど。見事に化けるね」
 対象の、テーブルを挟んで反対側に、銀のサテンドレスを優雅に着こなした眼が覚めるような美人が座っていた。長い黒髪を結い上げて黒い瞳をしているが、青木には分かる。あれは薪だ。

「お店に来た所を捕まえて、ヘルプに入って欲しいって頼んだんだけど。あれでよかった?」
「上出来。じゃ、次のお仕事」
 桜井は、小指に嵌めていた銀色のリングをミチルに渡した。盗聴・盗撮機能が隠されたリングを装着したミチルは、対象の隣ににこやかに座る。

「僕には読唇術なんて使えないからね」
 その口ぶりから、彼が青木たちの部署を知っていることが窺えた。
 どちらにせよ、この距離でこう薄暗くては読唇術は役に立たない。それを見越して彼は、予備の受信機を青木の耳に入れてくれた。会話が聞こえてくる。雑音は極力抑えて人の声を拾ってくれる高性能の盗聴器だ。映像はリアルタイムで桜井のスマホに送られてくる。これだけの道具を駆使しているところを見ると、やはりその道のプロなのか。
 彼は薪の変装を即座に見抜き、『話には聞いていた』と言った。薪のことをよく知る何者かが、彼に指示を与えていることになる。
 そこまで考えて、青木はやっと彼の正体に辿り着いた。薪がどうやってこの店のホステスとして紛れこんだのかと思っていたが、これも彼の導きだったわけだ。
「桜井くん。もしかしてきみ」
「しっ。黙って」
 青木の解答は聞いてもらえなかったけれど、恐らく間違いない。彼は、中園の部下だ。官房室の首席参謀として裏の仕事をこなさなければいけない中園には、何人もの秘密の協力者がいると小野田から聞いたことがある。桜井はそのうちの一人なのだろう。

 ここまできてようやく、青木にも今回の構図が見えてきた。
 調査の目的はまだ不明だが、薪には黒服の彼らと接触する必要があった。彼らは明らかに筋もの、となればそのシマに店を構える人間から情報を得るのが手っ取り早くて確実だ。
 中園はそれを見越して、あらかじめ配下の者を店に潜り込ませておいたのだろう。中園はその昔、薪の監査をしたことがある。当然、あの店のことも知っていたはずだ。薪が店長を頼るであろうことも。
 中園は陰険で意地が悪くて、小野田の前で青木との関係を当てこするから苦手だ、と薪は酒の席で零していたが。きっと小野田と同じくらい、薪のことを可愛がっているのだと思う。でなければ、書類を奪って逃げだした部下の身を案じて自分の配下の者に手助けをさせるなんて真似はしないだろう。

 桜井のスマホ画面で、黒服の一人が懐から何かを取り出した。
『佐藤さん。こないだはありがとうございました』
 これはほんのお礼です、と続く言葉の意味を、青木は何となく理解する。と同時に、薪が今回どんな仕事に就いていたのか、どうして沈みがちだったのか、察して悲しくなった。
 誰かに言えたら、ほんの少しでも彼の心は軽くなったかもしれないのに。自分が彼に協力できる立場にあったら、あるいは。

『お役に立てましたか』
『ええ、おかげさんで。また次もお願いしますよ』
 黒服の男からスーツの男に厚みのある封筒が渡される間、薪はさりげなく髪飾りに手をやり、他のホステスたちと同じように男たちの手元からわざと視線を外した。でもその親指は耳の後ろをなぞるように動いて、恐らくはそこにカメラのシャッターが仕込んであるのだろう。
 男たちの背中が目隠しになって、他の席からは封筒は見えない。ミチルが付けている指輪のおかげで青木たちには映像が送られてくるが、この決定的瞬間を捉えるには、同席しなければ無理なのだ。薪の変装は的を射ている。

 さすが薪さん、と青木は感心しきりだったが、すぐにその考えを改めた。
 シャッターを切るたび、薪の顔が、暗く沈んでいくのが分かった。美しい化粧の下で、明るい笑顔の陰で、薪が泣いているような気がした。

 彼らは1時間と店にいなかった。
 長い時間を共にすることはお互いに避けたいのだろう。先に黒服の二人が帰り、スーツの男はそれから1時間ほどミチル相手に飲んでいたが、やがて頃合いを悟って席を立った。黒服の男たちがいなくなってすぐに、薪は席を離れていた。証拠は掴んだのだ。後は写真を報告書に添付するだけ。長居は無用なはずだ。
「青木さん。どこ行くの」
「帰ります」
 薪のマンションで、彼の帰りを待とうと思った。きっと落ち込んで帰ってくる。具体的な言葉で慰めることはできないけれど、黙って抱きしめてやることはできる。今日みたいな日、薪はそうして欲しがる。
 そんなことしかできない自分が歯痒かったけれど、自分は自分にできることを一生懸命にやろう。青木はそう心に決めていた。ところが。

「何寝ぼけたこと言ってんの。これからでしょ、薪さんが無茶するのは」
「え?」
「言ったでしょ、僕は薪さんの味方じゃなくて青木さんの味方だって。僕の仕事は彼の暴走を止めることだよ」
 なるほど、手助けではなくストッパーか。中園らしい。いずれせよ、薪が帰ってしまえば此処に用はないはずだが。
「行くよ」
 そう言って彼が追いかけたのは、封筒を受け取っていたスーツの男だった。その男を見張ることも彼の仕事なのかもしれない。でも、それは青木の仕事ではない。警察では管轄外の仕事に関わるのはタブーだ。青木個人に訓戒が下るのはやむを得ないが、室長である薪に迷惑が掛かるのは困る。
「桜井くん、オレは官房室の人間じゃない。対象の取引を目撃したのも拙いくらいなんだ。これ以上は」
「薪さんのボディガードでしょ。彼を守るのが仕事じゃないの」
「でも、薪さんはとっくに」

 店を出て、男の後を追う。人ごみの中、20mも歩かないうちに、青木は見慣れたシルエットを見つけた。
 夜に溶け込むようなチャコールグレイのスーツ姿で、薪はゆっくりとこちらに歩いてきた。青木たちの前で、スーツの男が立ち止まる。
 やばい、と青木は思った。官房室の仕事に首を突っ込んでしまったことが薪にバレたら、エライ目に遭わされる。思わず自分よりも小さい桜井の後ろに隠れてしまった。
「バカ野郎」と言う鋭い叱責を、青木は覚悟した。反射的に眼をつむる。

「なにやってんの、青木さん」
 え、と眼を開けた時、薪は自分に背を向けていた。彼の隣にはベージュのスーツを着た男がいて、二人は並んで駅の方へ歩いて行った。
「あ、あれ?」
 見れば、前を行く二人はにこやかに笑い合っている。どうして薪と彼が?
「追うよ」
 呆れたような口調で言った桜井に手を取られ、青木は二人の後を追った。

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うつくしいひと(7)

 あと2日です。



うつくしいひと(7)




 最後の舞台は歌舞伎町の外れの、小さなバーだった。
 店に入る時、小さな店で入り口は一つしかないし、絶対に薪に気付かれてしまうと青木は尻込みしたが、薪は隣の男との会話に夢中になっており、新しい客には見向きもしなかった。

 ビルの地下にあるその店には窓もなく、場末に相応しい雰囲気だった。LED電球の明かりが古ぼけたシェード越しに淡い光を客に投げかける。効果を狙ってと言うよりは単純に掃除が行き届いていない気がする、そんな中にあっても、薪の美しさは変わらなかった。
 脚の長いスツール椅子に腰かけた彼の、背もたれが無いおかげでハッキリと分かるたるみのない上半身とかあからさまな腰のラインとか、砕けた様子でカウンターに肘をついた彼が同伴者に向ける心安い笑みなどが、青木たちが陣取ったボックス席からはよく見える。
 先刻のクラブより距離が近いおかげで、男の顔もよく見えた。
 体つきに相応しいいかつい顔。年は中年を通り越して熟年と呼ばれる年齢だったが、眼が子犬のようにくりっと丸くて愛嬌があった。シャツの袖をまくり上げた腕には岡部と同じくらいの腕毛が生えていたが、髭はきれいに剃られていた。

 二人は再会した時と同じように、和やかに会話をしていた。話の内容から、昔の同僚らしいことが分かった。
 もちろん、彼らの会話が自然に聞こえてきたわけではない。彼らは一見客らしい慎み深さでグラスを傾け、自分たちにしか聞こえないように声を落として話をしていた。その会話が青木の耳に入ってきたのは、桜井の盗聴器のおかげだ。
 どうしてそんな離れ業が、と不思議に思って聞くと、薪が使っていたカメラと盗聴器は、官房室の備品らしい。出所が分かれば周派は合わせられるとのことで、おそらく薪は上着のポケットにでも髪飾りから外した機器を入れてあるのだろうと桜井は言った。

 ポケットの中ではカメラは役に立たないが、盗聴器はその性能を遺憾なく発揮した。二人の耳にクリアに響く薪の声。男の声は見た眼よりも甲高かった。
「薪は変わらないな」
「佐藤も。相変わらず女には弱いみたいだけど」
「なんだよ。どこから見てたんだよ、おまえ」
 同席していたホステスの一人が目の前の男と同一人物だとは夢にも思わないだろう。黒服の男たちのことも考え合わせると、薪の変装はベストな選択だったということになるのだろうか。なんとも複雑な気分で、青木はウィスキーのグラスを傾けた。

「俺はおまえと違って家庭持ちだからさ、滅多にこんなところに来ないんだけど。今日は本当に偶然だったな。いや、会えてうれしいよ」
 ――おまえがいつもこの町にいるなら、俺もちょくちょく来ようかな。
 佐藤と呼ばれた男が軽口を叩く。薪はそれには答えず、上着の内ポケットに手を入れた。
「僕は今、官房室付の次席参事官を務めてる」
「知ってる。出世したよなあ、薪。まあ、お前は昔からすごかったけどな。捜一に入って2年で警視総監賞獲ったもんな。当然て言えば当然、――っ」
 佐藤が、ひゅっと息を飲む音が聞こえた。
「監査課から回って来たんだ」
 佐藤の背中に隠れて見えないが、薪に調査票を見せられだのだろう。二人で警察庁の廊下を走って逃げた夜、薪は書類を持っていた。多分それだ。
「なんだ。そういうことか」
 はは、と乾いた笑いを洩らして、佐藤は背もたれのないスツール椅子の上で背中を反らした。グラスの中で氷が触れ合う音がする。しばらくの間、それ以外は何も聞こえてこなかった。

 やがて佐藤が言った。
「覚悟はしてたよ。監査課の聴取を受けたからな。で、どうなんだ。俺はクビか」
「ちゃんと話を聞きたい。この女性との関係は認めていると聞いた。それが原因で彼らに意に副わぬ行為を強いられたなら、話は違ってくる」
 薪はスツール椅子を回し、佐藤の方を向いた。肩越しに、薪のきれいな横顔が見える。真剣な瞳をしていた。
 佐藤は僅かに顔を動かし、薪の顔を見た。それからグラスに口を付け、残っていた酒を一気に飲み干した。
「おまえの言う通りだよ、薪。雅美との関係をネタに脅されて、仕方なくやったんだ」
「彼らから金銭を受け取ったことは」
「ない」
「本当に?」
「本当だよ」
「……そうか」
 薪は初めての落胆を、その声に滲ませた。

 青木は思わず立ち上がった、瞬間に脚を蹴り飛ばされてバランスを崩す。肩を掴まれてソファに戻された。桜井がものすごい目で睨んでいた。
「薪さんのことになると周りが見えなくなるクセは直した方がいい。いつか死ぬよ」
「だって。薪さんが可哀想で」
「あのさあ。幼稚園児がお遊戯やってるんじゃないんだからさあ」
 カワイソウとか言わないでくれる、と頭を抱える桜井の隣で青木は「だって」と繰り返した。

 だって、薪は。
 ただ機械的に判を押して上に回せば済む書類を、上司の手から奪い返して。調査に間違いがないか、どこかに彼を救う道はないかと模索して。言い逃れのできない証拠を見つけてもなお、隠された事情があるのではないかと最後の望みを懸けて彼と直接向き合った、それなのに。相手は嘘で薪を欺こうとしている。

 相手への怒りと薪への同情心で青木の心は乱れ、泣きださんばかりだった。手で口を押さえて背中を丸めた青木の耳に、薪の静かな声が聞こえてきた。
「佐藤。この街を離れて、もっと空気の良い場所で、田舎の朴訥な住民相手にのんびり仕事したいとか、思ったことないか。もしもおまえが望むなら」
 もう我慢ができなかった。せめて音を立てずに、青木は涙を流した。
 どこまで強いのだろう、どこまでやさしいのだろう。そういう人だから好きになった、でもこうして眼の前で、それを誇るでもなく淡々と示されたら。
 怒りと悲しみに満たされていた青木の心は感動に包まれ、だから、次の彼の行動が信じられなかった。

 薪の言葉の途中で、佐藤は耐えきれなくなったように噴き出した。クツクツと笑い、肩を揺らし始める。
「――佐藤?」
 きょとりと薪が首を傾げると、佐藤はカウンターに頬杖を付いて斜下から薪を見上げた。
「ほんっと、人の気持ちの分かんねえやつだな」
 お前は昔からそうだったよ、と嘯く。何が起きたのか分からなかったのは薪も一緒だったと思う。亜麻色の瞳が大きく瞠られたから。
 罪を犯した友人への罰則を、地方への転属で穏便に済ませてやろうとしている薪に対して、態度を改めるどころか、乱暴な口の利き方をして。普通なら、少しでも処分を甘くしてもらおうと謙るのが自然ではないか。

 驚きに言葉が出ない様子の薪を前に、佐藤は昔話を始めた。
「憶えてるか、薪。昔、迷宮事件をおまえが掘り起こしたせいで、一家心中した家族がいたこと」
 薪は捜査一課にいた頃、迷宮入りしていた難事件を、捜査資料を読み直しただけで解決に導いた。一つや二つではなく、当時資料庫にあった殆どの迷宮事件を解明してしまったそうで、それはもはや伝説になっているのだと、捜一の竹内に聞いた。佐藤が言ったのはそのうちの一つだろうが、青木はそんな話は知らなかった。
「三流週刊誌にちらっと載っただだけで、新聞にもテレビにも流れなかった。子供まで一緒に死んだのに、扱いが小さすぎるとは思わなかった?」
 感じの悪い含み笑いを挟んで、佐藤の話は続く。嫌な予感がした。彼は、薪を傷つけたがっている。
「おまえは知らなかったと思うけど。課長が上に掛け合ってマスコミを黙らせてたんだよ。おまえに内緒で」
 青木の予感は当たった。笑みを消し去り、佐藤は吐き捨てた。
「週刊誌にリークしたの、俺だ」

 カラリと薪のグラスが鳴った。無意識に動かした手がグラスに触れ、中の氷が激しくぶつかった。
「課長も羽佐間さんも。俺らの班長だった世良さんや他の班の班長まで、おまえのことは特別扱いでさ。みんながおまえを大事に思って、守ってやろうと必死になって、だから」
 小さなスツール椅子の上で薪は自然と後退り、でも椅子の脚は床に固定されていて動かない。友人の距離を保ったまま、次にくる言葉を予期してか、薪は身を固くした。
「だから、俺はおまえのことが大っ嫌いだった」

 佐藤はその言葉を、薪の顔を見ずに言った。空になったグラスを両手で包み、その中に吐き出すように言葉を重ね続けた。
「みんなの前であからさまな態度が取れなかっただけで、本当は顔見るのも嫌だった。おまえが得意顔で迷宮事件解決するたびに、はらわた煮えくり返ったよ。現場で犯人に刺されておまえが死ぬ夢、何回も見た」
 長い長い時間、彼の中に鬱積していた感情。それを突然ぶつけられて、青木だったらどうしてよいか分からないだろう。きっと取り乱してしまう。でも薪は一言も口を挟まず、彼の話を聞いていた。
「おまえが第九に転属になって、やっと平穏な気持ちで毎日を過ごせると思った矢先だ。雅美と関係ができたのは」

 その供述を最後に、佐藤は沈黙した。彼がもう言葉を持たないことを悟り、ようやく薪が口を開く。
「僕の仕事は監査報告書の内容を確認し、適切な処分を下すことだ。おまえの僕に対する嫌悪感は、僕の仕事とは何の関係もない」
 スツールから下りて、薪はカウンターに2枚の札を置いた。
「処分は追って通知する。辞令が出るまで謹慎するように」
 言い置いて、先に店を出る。かと思いきや、こちらに向かって歩いてきたから青木の心臓は跳ね上がる。薪は青木たちの存在に気付いていたのだ。

 アワアワと意味不明の声を発する青木には眼もくれず、薪は上着のポケットから盗聴器とそのケースを取り出した。それを桜井に差し出す。
「あなたから中園さんに返しておいてください。僕は来週から第九なので」
 上から見下すように言われて桜井は、むっと眉を潜めた。一瞬、二人の視線が絡み、すると桜井はすぐに破顔して、差し出された器具を受け取った。
「全部お見通しかあ。嫌味なやつ」
 薪の表情が微かにほころぶ。次の言葉はさっきと同じように上から降って来たけれど、敬意と丁寧さを含んでいた。
「彼の監視をお願いできますか」
「かしこまりました、警視長」
 頷いて薪は踵を返す。青木には何も言わず、店を出て行こうとした。

「薪さん、送りま」
「いらん」
「でも」
「青木警視。越権行為に対する罰だ。君にも明日から2日間の謹慎を命じる」
 冷たく言い渡されて、青木は浮き上がりかけた腰をソファに戻す。「大丈夫だよ」と隣で桜井が誰かに電話を掛けた。仲間に連絡をして薪の警護をさせるつもりなのだろう。青木は気付かなかったけれど、薪を守っていたのは桜井だけではなかったのだ。
 自分だけが色々なことに気付けないでいる。謹慎よりもその事実に凹む青木に桜井が、対象を見据えたまま言った。
「青木さん。さっきは偉かったね」
「なんのことですか」
 謹慎を食らったくらいだ。褒められるようなことは何もしていない。皮肉かと思ったが、人の言葉をそんな風に受け取るのはよくないと思い直した。
「薪さんがあいつに責められてたとき。よく殴り掛からなかったなって」
「ああ。でもあれは」

 青木は桜井の視線の先で、ハイボールのお代りを飲んでいる寂しそうな男の背中を見つめた。年を重ねても鍛錬を怠らなかったであろう見事な体躯をしょんぼりと丸めて、それはたった今、確定となった自分の暗い未来を憂いてのことだと、先のやり取りを聞いていた者なら誰もが思っただろう。おそらくは桜井も、もしかしたら薪でさえも。
 青木の見解は桜井とは違っていたが、説明しても分かってもらえないと思った。彼は薪のことをよく知らない。知らないと佐藤の気持ちは理解できないだろう。青木は薪を知っているから、逆に佐藤の暴言の裏側は想像がつく。

 そうだ、と青木は思った。
 ――オレは薪さんのことを知っているんだ。

「やっぱり送ってきます」
「大丈夫だよ。外にいる仲間に連絡しておいたから」
 それは予想していたが、青木の決意はそういうことじゃない。誰かが守ればいいというものじゃない、薪が誰に、いや、他人に守られたいなんて思う人じゃない。思う人じゃないけど。
「オレ、薪さんのボディガードですから」
 これオレの分です、と桜井に千円札を押しつけて、店を出たときに気付いた。薪みたいにスマートに、テーブルに札を置けばよかった。まあ、あれは薪がやるから決まるのだ。自分があんな真似をしたって。

 さして重要ではないことを考えながら、青木は走る。
 メトロの駅は左に折れて100m程、でもきっと薪はまだ歩いている。この凍りつきそうな夜気の中、コートの前も閉めず背中も丸めず、平気な顔で歩いているに違いない。

「薪さん!」
 歌舞伎町通りはとうに過ぎて、日本一の歓楽街のおこぼれに預かろうとしている通りも終わろうかと言う場所で、青木は薪を捕まえた。振り向いた薪に青木が走り寄る、それまで薪はその場に立ち止まっていてくれた。
「やっぱり。駅じゃなかった」
 よく分かったな、とか、犬かおまえは、とか、薪はいつもの皮肉すら言ってくれなかった。当然だ。青木は、薪の仕事の邪魔をしてしまったのだ。
「薪さん、すみませんでした。オレ」
 ちゃんと謝らなきゃ、でも息が。
 薪は怒っている。だけど彼は、膝に手を付いて息を乱している青木の、疾駆の振動で首から落ちそうになっていたマフラーを巻き直してくれた。

 並んで歩きだす。繁華街を外れた空には微かだけれど星も瞬いていて、月は天辺にある。もうすぐ日付も変わる。
「あの、薪さん。今回のことは本当に」
「明日からの謹慎処分、忘れるなよ」
「……はい」
 明日は土曜日、その次は日曜日。せっかくの連休なのに、青木は何処へも行けない。
「不満か」
「いえ。ただ、お休みの日に薪さんに会えないのは辛いなあって」
「謹慎はおまえだけだ。僕には関係ない」
 それはそうだ。青木の謹慎に薪が付き合う必要はない。薪は自由に、自分の行きたい所へ行けばいい。

「出直すのも面倒だな。このままおまえの家に行くか」
「えっ?!」
「なんでそんなに驚くんだ。女でも隠してるのか」
 自分には関係ないって、あんまり冷たい言い方だったから。思いもしなかった、薪が自分から青木の家に来てくれるつもりだったなんて。すごく楽しい謹慎になりそうだ。
「いえ。部屋を掃除してなかったから」
「二人でやれば早い」
 はい、と元気よく返事をする。嬉しそうにしていたら薪に怒られた。
「おまえ、謹慎の意味分かってるのか」
「はい。2日間、ずーっと部屋にこもるってことですよね。薪さんと二人っきりで」
「……やっぱ帰る」
「え。ちょっと待ってくださいよ、薪さん!」

 真冬の夜中の12時。シンデレラのように突然走り出した薪を、青木は夢中で追い掛けた。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

うつくしいひと(8)

 今日です。

 お話も最終章です。
 読んでくださってありがとうございました。





うつくしいひと(8)






 謹慎明けの月曜日。青木は首席参事官の居室にいた。

 中園さんにも謝りに行け、と薪に言われて来たのだが、桜井から詳細な報告を受けた中園の思い出し笑いが止まらなくて、どこで謝罪の口を挟んだものか悩んでいる。
「別にいいよ。ボディガードに任命した時から、ある程度の干渉は計算に入れてたし」
 でも、と青木が済まなそうな顔をすると、中園は桜井の報告書をパシリと叩き、
「薪くんから大目玉食らった上に謹慎したんだろ。それで充分だ」
 客観的に見ても、中園は青木に甘いと思う。だって。
「ちゃんと慰めてあげた?」
 こんなことまでバレているのに。

 桜井の仲間が薪の監視を続けていたから、そこから中園に報告が行ったのだろう。薪はあれから青木の家に帰って、青木と共に週末を過ごし、今朝早くに自分の家に戻ったのだ。それじゃ謹慎にならないんじゃないの、と小野田なら突っ込みが入るところだ。小野田が青木に厳しい分、吊り合いを取っているのだろうか。
 中園の質問に、青木は首を振った。
「薪さんは、他人に慰めてもらいたいなんて思う人じゃないですから」
 確かに、と中園は頷き、報告書をまた一枚めくった。

「佐藤くんもねえ……嫌な予感はしてたんだよね。同期とはいえ、これだけ差が付いちゃうとね。薪くんはそういうとこ鈍いからなあ。当時から鬱屈するものもあったようだし」
 それは違うと青木は思っていた。佐藤は薪を手酷く傷つけて、過去にも卑劣な真似をしたけれど、あれは多分。
「佐藤さん、薪さんのことが好きだったんだと思います」
「そうくる? あの会話で?」
「雅美さんと関係ができたの、薪さんが捜一を出た直ぐ後だって聞きました。寂しくて、きっと」
 そうかなあ、と中園は首を傾げたが、青木には、人の気持ちのわからないやつだと薪を罵った佐藤の苛立ちが、少しだけ分かる。
 好きで好きで、でもその差が大きすぎて、遠くから見ているだけでいいと思っていたのに相手が無防備に近付いてきて、もしかしたらと期待させるや否や無慈悲に去っていく。薪はそれを無意識に繰り返している人間だ。この手の恨みは山ほど買っているに違いない。

 他人の眼から見て、自分がどれほど綺羅綺羅しい存在なのか自覚がない。それどころか、自分は人に好かれないタイプだと思い込んでいる節がある。
 あんなにきれいなのに、あれだけ何でもできるのに、けれど。みんなが薪を気に掛けずにいられなくなるのは、それが理由じゃない。

 薪さんは、と青木は思う。

 善い人じゃない。人徳者でもない。強がりは得意だけど実際はそれほど強くもないし、常に正しいわけでもない。でも。
 いつだって、真剣に選ぼうとする。
 天才と言われる彼が、どんな問題だってたちどころに解いてみせる彼が、全精力を傾けて悩んだ上で最善と思われる道を選び取る。そこに自分の存在はない。それによって自分の立場が危うくなるとか苦境に立たされるとか、そういうことはすっぽり抜け落ちている。
 そんな人だからきっと。みんながきっと。
 あなたを守りたいと思うんです。

 うつくしいひと。とてもとても美しいひと。彼に相応しくなりたくて、青木はずっと頑張ってきた。
 ――あの人はたぶん、それに途中で疲れてしまった。

「佐藤さんの気持ち、よく分かります。オレも同じような気持ちで薪さんを見てたことがありますから」
「そう? でもきみは、佐藤くんみたいにはならないよ」
 中園はそう言ってくれたけど、それは分からないと青木は思った。
 少数精鋭の第九で、いつも薪に気に掛けてもらえた自分と。大所帯の捜査一課で、その他大勢の一人にしかなれなかった彼。
 自分がもしも彼と同じ立場だったら、この顔をしていなかったら。きっと相手にされなかった。そのくせ翻弄される日々が続いたら、いつしか愛情は憎しみに変わるかもしれない。
 それでもやっぱり根っこは好意。いくら捻じ曲がっても、相手を好きだという感情に変わりはない。傷つけたくて斬り付けた、けれど本気で傷ついて欲しくはなかったはずだ。だって佐藤は、一言も鈴木のことを口にしなかった。

「佐藤くんもなかなかに複雑ってことか。薪くんには全然通じてないみたいだけど」
 青木に見えるように書類を机の上に置いて、中園はぱらりと頁をめくった。そこには懲戒免職の文字。
「薪くんが免職査定にGOサインを出したのは、これが初めてだ。まあ無理もないよね。ずっと騙されてたんだから」
「ちがいます」
 つい、反射的に言い返してしまった。中園が訝しげに眉を寄せるのに、しまったと心の中で舌を打つ。
「なにが違うの。僕から書類を奪って逃げて、この結果だよ?」
「薪さんが佐藤さんの好意に気付いてないって言うのは当たってると思います。けど」

 薪の気持ちはそうじゃない、きっとそうじゃない。
 たった一枚の紙切れがその後の人生を180度変えてしまう、その書類にそこまでの威力があるのなら、せめて自分が。彼の不遇を一番悲しんでやれる、一緒に痛みを感じられる人間が、その処分を下すべきだと。
「そう思ってるんだと思います」

 弁明など薪の欲するところではないと知って、でも説明せざるを得なかった。裏切られたと知った、薪に怒りはなかった。薪が怒った時はあんなものじゃない。空気がずしっと重くなる、それが無かった。あの時あの場所にいた者でないとその感覚は分からない。薪を怒らせたことのない桜井には分からなかっただろうが。

 青木の釈明に納得したのかしないのか、中園はふうんと唸って、
「青木くん、きみさ。これからのことについて、薪くんから何か聞いてる? 春になったらどうするとか」
「いいえ。特に何も」
 いきなり話題を変えられて、青木は戸惑う。
 そう言えば、薪とは未来の話をしたことが無い。休みが取れたら何処かに行こうとか、そういう話はするけれど、例えば今年は南に旅行に行ったから来年は北海道へ行こうなんて具合に、ずっと先の話になるといつも薪は曖昧になる。まるで来年は自分が此処にいないかのように。
「そう。ならいいや」
「え。どういうことですか? 今年の春に何か」
「いや、僕の考え過ぎだ。下がっていいよ」

 青木が敬礼して去った後、中園は監査報告書を精査済の箱に入れ、電話で秘書に頼んでおいた資料を持ってくるよう命じた。
 書類が届く僅かな空き時間、部下の心情とプライベートについて考える。
 最初の約束は5年間と聞いている。一昨年の秋、中園が茶々を入れたとき、「約束は守る。もう少し猶予をくれ」と薪は小野田に言ったらしいが。
「いくら薪くんが天然記念物でも、自分をあれだけ理解してくれる人間を切るなんて。まず不可能だろうな」
 早く諦めた方がいいよ、と進言したら、上司はどんなにか怒るだろう。薪も薪だ。できもしないことをできる振りして相手に期待を持たせて、決断の時を引き延ばすだけ引き延ばして。それを小野田は誠実さの表れと捉え、薪の首はどんどん締まる。二人とも全く。
「メンドクサイなあ、もう」
 我儘な上司と頑固な部下に挟まれて、中間管理職の懊悩を嫌と言うほど味わう中園であった。



*****



「わあ、すごい。美味しそう」
 宅配便の中身は採れたてのじゃが芋だった。差出人の名前を見て、青木は奥の書斎に声を掛ける。30キロのじゃが芋は重かったけれど、一刻も早く薪を喜ばせたくて、青木はそれを書斎のドアの前まで運んだ。
「薪さん。新じゃがですよ」
「うるさい、仕事中だ。新じゃがでもじゃんがらでも勝手に」
 内開きのドアを引きながら不機嫌そうに発した、薪の声が途中で止まった。足元に置かれた箱の蓋に貼られたラベル、その差出人の欄に薪の視線が落ちる。彼は一瞬、キツネにつままれたような顔をし、やがてゆっくりと箱の蓋を広げた。屈んで中を覗き込む。
「大地の匂いがするな」
「はい」
 薪と箱を挟んで膝を折り、青木はにっこりした。薪は笑わなかったけれど、きっと喜んでいると思った。

 薪の承認印が押された監査報告書で、佐藤は警察を懲戒免職になった。罪状からすれば実刑は確実だったが、長年の不正で彼はS組に関する豊富な情報を持っていた。それを差し出すことで起訴を免れた。
 佐藤が北海道の実家に帰ってじゃが芋農家を継いだことを、青木は中園に教えてもらった。「薪くんには知らせたけど、何か言ってた?」と訊かれたから、何も聞いていないと本当のことを答えた。

 薪は、思ったことや感じたことを言ってくれない。あんなに嘘が上手いくせに、本音を言うのは苦手だ。秘密主義というわけではなく、単に不器用なのだろうと思う。
 誤解されやすい人だけれど。その心はいつも弱者に寄り添っている。

「男爵ときたあかりですって。じゃがバター作りましょうか」
「僕のはバター抜きで」
「それじゃただのふかし芋でしょ」
「トッピングはシンプルに塩。明太子とか、イカの塩辛もイケる」
「薪さん、好みがオヤジくさいです」
 正直に言ったら、ピシャリと額を叩かれた。北の大地の香りの向こう側に、薪のふくれっ面。それがなんだか嬉しくて、額も赤くなるほど叩かれたのに何故か嬉しくて、青木はへらっと笑った。

 薪はそんな青木とじゃが芋を交互に見て、すっと立ち上がった。開きっぱなしだったドアを閉めて、キッチンの方向へと歩いて行く。
 よいしょ、と青木は箱を抱え上げ、薪の後を追いかけた。



―了―


(2015.2)

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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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