新人騒動(1)

 作中では1年が経ちました。
 青木くんも2年目に入り、今年は先輩になります。

 厳しい上司と、やさしい先輩のもとでがんばってきた1年。
 今回は、彼の成長ぶりを見てやってください。





新人騒動(1)




 須崎武彦が第九に配属されたのは、2061年の4月のことだった。
 須崎は、とても優秀な成績で、国家公務員Ⅰ種試験を突破したキャリアだ。昔から学校の成績は誰にも負けたことがなく、エリートという言葉は自分のためにあると思い続けてきた。よって、超がつくエリートしか入れないと評判の、法医第九研究室への着任命令は、須崎の自尊心を満足させる人事だった。

 第九には、天才の噂も高い薪警視正がいる。
 聞くところによると、部下にはかなり厳しく当たるらしい。
 しかし、その心情は須崎には良く分かる。

 愚鈍な連中は、話していて本当に頭に来る。彼らには、須崎の言葉がまるで通じない。
 須崎の優秀な成績を知っている彼らは、試験前になると須崎の周りに群れを成したが、彼らに数学の解を教えてくれと請われて須崎がその説明をしてやると、自分ひとりで考えていたときより遥かに難しい顔つきになって、黙り込んでしまう。
 須崎にしてみれば、どうしてこんな問題が解けないのか、彼らのほうが不思議だ。
 彼らの頭の中はどうなっているのだろう?
 わけのわからない流行言葉や、くだらないアイドルのプロフィールはすぐ覚えるクセに、数学の公式が覚えられないのは何故だろう。きっと薪警視正も、一部の部下たちに、そんな苛立ちを感じているのだ。

 自分なら。
 自分なら、薪警視正の期待に応えられる。エリート集団第九の一員として、相応しい働きをしてみせる。親から貰った優秀な頭脳に幼いころから磨きをかけてきたその努力は、第九で報われるのだ。

 須崎は今も机に向かっている。
 机の上には脳科学に関する研究書。MRI捜査の事前研修で使った、解説書などが広げてある。新しい職場に着任する前に、基礎知識以上のものを身につけておこうとしているのだ。

 同期の連中には、これで差をつけてやる。いや、すでに自分が国家I種のトップ合格者だということは、みんな知っているはずだ。初めから差はついているのだが、キャリアの彼らでさえ自分の足元にも及ばない、ということをはっきりと見せ付けてやらなくては。

『みんな、須崎を見習えよ』
 昔から教師がクラスメートたちに言ったセリフを、薪警視正が口にする様子を想像して、須崎はワクワクする。あのセリフは、何度聞いても気分が良い。

 難しい本がたくさん並んだ本棚の隅に、須崎が尊敬する第九の室長の写真が飾ってある。それは今年の1月に、彼がテレビに出たときの録画から作成したもので、天才の名に相応しい理知的な瞳が魅力的なショットだった。
 須崎はふとその写真に目をやると、銀縁のメガネの奥から丸っこい目を細めて、ひとり呟いた。

「薪室長。待っててくださいね。僕があなたの右腕になりますからね」




*****


 質問  どうして性格の悪いキャラって、こんなに書きやすいんでしょう。
 解答  そりゃー、作者の性格が悪いから。


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新人騒動(2)

新人騒動(2)






 春の人事異動は、1年のうちで最も大きな人事である。
 新しく配属になるもの、昇任するもの、多くの人々が新しい部署と役職を得る。心機一転、みながやる気に溢れたこの季節、ここ第九にも新しい人員が配属されることになった。

 万年人手不足に嘆く第九研究室では、職員の数が増えるのは喜ばしいことだが、問題はその職員たちの経歴だ。
彼らは大学を出たばかりの新米キャリア。優秀な頭脳を持った3人もの新人が、この研究室に来ることになったのだ。

 一般の部署なら歓迎される人事だ。優秀なキャリアは、どこの部署でも引っ張りだこだ。しかし、ここ法医第九研究室の室長の考えは、違っているようだった。

 明日から配属になる新人たちの経歴書を見て、薪は形の良い眉を寄せる。不満そうに歪められたつややかなくちびるから、チッと舌打ちする音が聞こえた。
 新人というのは、すぐには役に立たない。つわもの揃いの第九では、完全に足手まといだ。
 しかもキャリア。イコールそれは、大学を出たばかりで机の上でしかものを考えられない、口ばかり達者な頭でっかちの若造ということだ。

 それがわかっているから、薪の口調はつい辛辣なものになる。
「シロウト4人も抱えて、どうしろって言うんだ!」
 室長の厳しい未来観を、岡部は苦笑いで受け止めた。薪のこういう物言いには慣れている。
「新人は3人ですよ」
「もうひとりいるだろが。大きなお荷物野郎が」
 これは青木のことだ。相変わらず、薪は青木に厳しい。

「青木はもう、素人じゃありませんよ。あいつは努力家だし、この頃だいぶやるようになったじゃないですか」
 岡部は、いつものように青木を庇う。
 最近気付いたことだが、薪はこんな風に自分で青木のことを酷評するくせに、それを岡部が否定すると、微かに嬉しそうな顔をする。どうも複雑な心理のようだ。
「捜査官としての経験のことを言ってるんだ。努力でどうにかなるなら、年功序列は社会に存在しない」
「まあ、年数も大事ですけどね。ところで、教育係はだれがやります? また俺ですか?」
「青木にやらせろ。素人は素人同士で隔離して、捜査の邪魔にならないようにしとけ」

 その冷たいセリフが口先だけのものだと、岡部にはもう分かっている。
 いざ新人が配属されてきたら、彼らの精神と身体を気遣って、シフトを組み直したり研修と称して外に出してやったり、その負担をなるべく軽くしてやろうとするに決まっている。
 青木のときもそうだった。薪は、見えないところでひとの世話を焼くのが得意なのだ。

「青木で大丈夫ですか? 俺がやったほうがいいんじゃないですか?」
「おまえはダメだ。おまえには今年から、副室長の役職についてもらう」
 薪の人事命令に、岡部は目を丸くする。
「新人が入れば、職員の数は10人になる。副室長が選任できる。僕の女房役は、おまえしかいないからな」
 薪の言葉は、とてもうれしい。が、岡部には、その役目を引き受けることはできなかった。
「お気持ちだけ頂いておきます」
 何事にも抜け目のないこの上司が、こんな基本的なことを忘れているなんて。薪でもそんなことがあるのだな、と岡部は苦笑した。

「室長。俺は警部です。副室長になれるのは、警視からです。連中の中では年齢も考慮して、今井あたりが適任ではないかと」
 残念そうに首を振った岡部の顔の前に、二枚の紙が突きつけられた。
 一枚は法医第九研究室副室長の任を命ずる、と書かれた任命書。もう一枚は所長宛に出された、特別就任人事の決定書だった。
 岡部のこれまでの実績と、高い実力を評価した室長の推薦文が添えられたその書類には、所長の田城の印も押してある。

 薪から任命書を渡されて、岡部は我が目を疑う。
 任命書には人事部長の朱印もあって、つまりこれは正式な人事ということだ。まさか警部の自分が、警察庁で管理職に就けるとは。
 その特別人事の裏側のことを推し量って、岡部は困惑する。
 役職が上がるのは嬉しいが、この任命書に警務部長の印を貰うために、薪はまた厭な思いをしたのではないだろうか。

「……そんなに僕の片腕はいやか?」
 岡部の複雑な表情を見て、薪はまたいらぬ気を回している。
 このひとは時々、とても弱気になる。普段の意地悪で皮肉屋な態度が嘘のように、今の薪は不安げでとても可愛らしい。
「いえ、そんなことはありません。ただ、この人事部長の印を押してもらうのに、あなたがまた無理をしたんじゃないかと」
「いや。間宮は変態だけど、仕事はきちんとやる。人事評価に私情は挟まない。おまえのことも、高く評価していた」
「間宮を殴った俺をですか?」
「たったあれだけの情報からあの場所を探り当てて、僕を助けに来てくれただろ。さすが捜一の元エースだって、褒めてたぞ」
 そこで薪は何を思い出したのか、くくくっと笑った。
「おまえ、あいつの顔、何回殴ったんだ? まるで風船みたいになってたぞ」
 あんなことをされたのに、薪はえらくさばさばしている。
「きっと1ヶ月くらいは、女遊びもできないんじゃないかな。あの顔じゃ、どんな口説き文句も笑い話にしかならないだろ。いい気味だ」

 いつものように意地悪そうに笑って、薪はその件は水に流すつもりらしい。
 大きく騒ぎ立てて、噂にでもなったら傷つくのは薪のほうだから、岡部も間宮の犯罪を告発するつもりはないが、このまま泣き寝入りというのも腑に落ちない。
「いいんですか? あんなにひどい目に遭わされたのに」
「いいんだ。あんなの大したことじゃない」
 あれが大したことじゃなかったら、この世に性犯罪は成立しない。
 薪の裸身を見てそういう状態になった、というだけの理由で全人格を否定されそうになっていた誰かに比べたら、えらく寛大な態度だ。
「おまえのおかげで未遂だったし。……大事なこともわかったから」
 間宮に付けられた心の傷は深かったはずだが、薪はすっかり立ち直っているようだ。このひとは、いつの間にこんな強さを身につけたのだろう。

 しかし、薪が元気でいてくれるなら、それに越したことはない。間宮に復讐するよりも、あんな嫌な出来事は、早く忘れてしまったほうがいい。
「ありがとうございます。謹んで拝命します」
 任命書を押し頂いて、岡部が敬礼すると、薪はにこりと微笑んで目を輝かせた。
「これから僕がいないときは、おまえが室長だ。室長の仕事も合同会議の進め方も、きっちり覚えてもらうからな。ビシビシいくから覚悟しとけ」
「はい!」
 背筋を正して、力強く返事をする。

 これで薪の激務を、少し軽くしてやることができる。岡部はそのことが純粋に嬉しかった。



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新人騒動(3)

新人騒動(3)






「副室長。今日の郵便物です」
「この書類にサインお願いします、副室長」
「副室長、総務課からの回覧ですけど」
「……頼むからその呼び方、やめてくれ」
 岡部が情けない顔で周りの職員を見回す。強面の岡部の弱りきった様子に、第九の面々は一斉に笑った。

 今朝のミーティングで、岡部が正式な副室長に任命されたこと、明日から3人の新人が配属されてくることが発表された。岡部は人望も厚く、前々から副室長的役割を果たしていたから、この人事はみなに歓迎されるものだった。
 暴君のような薪を抑えられるのは、岡部しかない。正式に副室長に任命されたことで、ますます薪との絆は深まるだろう。

「副室長。コーヒーどうぞ」
「青木。おまえもか」
「あはは。岡部さんってば、照れ屋なんだから」
 明日から先輩になる第九の新人は、岡部の副室長就任のお祝いに、特別なコーヒーを淹れてくれた。この男は、第九のバリスタと異名を取るくらい、コーヒーを淹れるのが上手いのだ。

「ガラじゃないよ。俺が役付きなんて」
「そんなことないですよ。岡部さんの実力は、みんな知ってるし」
「そうですよ。この中で室長の操縦ができるのは、岡部さんだけだもんな」
「そこがいちばんスゴイところだよな」
「ああ。尊敬するよな」
「俺の実力ってそういうこと?」
 とぼけた会話に、また笑いがこぼれる。岡部の就任をみなが喜んでくれていることが伝わってきて、岡部は胸が暖かくなるのを感じた。

「青木。新人の教育係、おまえにやらせろって室長が言ってたぞ」
「え? オレ、ひとりでですか?」
 たしかに、今年の新人は3人だ。青木ひとりでは荷が重過ぎる。
 どうせ長続きしないに決まっているから青木にでもやらせとけ、と薪の本音はそんなところなのだろうが、一応の形をとっておかないと、後々厄介なことになる。薪の思惑通りになったとして、人事部への異動願いには、指導に当たっていた職員の氏名も記入する。それが3人とも同じ人物だったら、第九は新人の教育に不熱心だ、ということになり、室長の失点になってしまう。

「そうだな。小池と今井。おまえらも頼む」
「はい。わかりました」
 この二人を選んだのは、一流大学卒業のキャリアだからだ。新人がキャリアなら、指導員もキャリアのほうが話が合うだろう。

 薪の方針で、第九内部では全くないと言っていいキャリアとノンキャリアの見えない壁は、研究室の一歩外に出ると確実に存在している。
 今年の新人は、キャリア入庁後警察大学を修め、半年間の内部勤務を経て第九に配属されてくる。そこで彼らはノンキャリアを見下す毎日を送っていたはずだ。
 彼らがノンキャリアである宇野や、キャリアではあるが大学のレベルで劣る曽我の指導を、素直に受けるのは抵抗があるだろう。気配り上手な岡部らしい配慮である。

「青木。僕にもコーヒー淹れてくれ。みんなにも」
 コーヒーの匂いを嗅ぎつけてきたわけでもあるまいが、薪が室長室から出てきた。手には会議用のファイルを持っている。これから研究所内の室長会議があるのだ。
 会議と言っても、これは4月の異動で新しく役職についた人間の紹介をする、いわばお披露目会のようなものだ。これから1年間はこのメンバーで室長会を運営していくことになる。その最初の挨拶というわけだ。

 馨しい香りを漂わせて、第九のバリスタがコーヒーを運んでくる。
「今日はブラジルサントス№2です」
 どうぞ、と差し出された白いマグカップを受け取り、薪はその芳香と味に満足そうな笑顔を浮かべる。薪にはいつもスペシャルなコーヒーを淹れる青木だが、近頃はまさに職人の域に達してきた。
「職場でおまえのコーヒーが飲めるのも、今日で最後だな」
「え、どうしてですか?」
「明日から新人が来るんだぞ。お茶汲みは新人の仕事だろ」
 それはそうだ。青木のコーヒーが飲めなくなるのは残念だが、これは仕方のないことだ。
 バリスタ解任の命に、青木は少し複雑そうな顔をしたが、はいと素直に頷いた。

 貴重な最後の1杯を楽しみながら、モニタールームでしばしの歓談を楽しむ。
 特に急ぎの案件がなければ、室長を囲んでこんなゆっくりした雰囲気も生まれるようになってきた。これも第九のバリスタによる魔法の液体のおかげである。
「室長。今度うちに来る新人の中に、Ⅰ種試験全国1位のやつがいるって本当ですか?」
「そうらしいな」
「全国1位? どうしてそんなこと分かるんですか? あれって順位発表されないですよね」
「そうだけど。でも毎年、それとなく伝わってくるよな」
「本人にも分からないものが、どうして噂になるんですかね」
「1位になると、人事院の総裁から激励の賞状が届くんだ」
 マグカップをゆらゆらと動かして、薪がこともなげにみなの疑問に答える。室長が何故それを知っているのか、理由は単純なことだった。
「届いたんですね」
「薄っぺらいただの紙切れだぞ。何の役にも立たん。同じ紙なら、トイレットペーパーのほうがまだ気が利いてる」
 なんてありがたみのない全国1位だろう。人事院が気の毒になってきた。

「全国1位かあ。きっとすごく頭がいいやつなんだろうな。MRIの機器操作も、あっという間に覚えちゃったりして」
「どうする? 1週間で青木よりサーチが早くなっちゃったら」
「そんな。脅かさないで下さいよ、小池さん」
 素直な青木は1年経っても新人のイメージが強くて、みなにからかわれる。その様子を薪は穏やかな目で見ている。

「でも、ホントにそうなったらどうしよう。オレ、先輩って呼んでもらえますかね?」
「何度も言ってるだろう。学歴なんぞクソの役にも立たん」
 東大首席卒業及び国家公務員Ⅰ種試験首席合格者は、その勲章をばっさり切って捨てた。謙遜ではなく、このひとの場合本気でそう思っているから怖い。
「第九で必要なのは学歴じゃない。試験ができたからって、優秀な捜査官になれるとは限らない。実際の捜査には、ひらめきや想像力のほうが大切だ。でも、一番大事なのは」
 全員が室長に注目する。
 室長が、自分の部下に求める最重要資質。これは聞き逃すわけにはいかない。
「体力と根性だ」
 ……エリート集団というより、スポ根集団である。

 何とも複雑な表情をしている部下たちを尻目に、薪はコーヒーを飲み終えて立ち上がった。
「さて。会議に行くぞ、副室長」
「薪さんまで」
 くすくすと笑いが漏れる。モニタームールの会話を薪も聞いていたようだ。

 空になったマグカップを青木に渡し、歩き出そうとして薪は足を止めた。
 振り返って青木の顔を見上げる。この新人は、薪より30センチも背が高い。
「青木。明日からはコピー取りも買出しも、雑用は全部連中にやらせて、おまえは捜査活動に専念しろ。新人の教育なんて適当でいい。どうせこいつらは長続きしない」
「そんな言い方ないですよ」
「無理だ。大学出たての坊やに、ここの仕事が勤まるはずがない」
「オレだって大学出たばかりでここに来たんですよ」
 明日から此処に来る青木の後輩は、青木と同じ経歴を持っている。自分が第九で働くことを誇りに思えるようになったのだから、彼らだってきっと頑張れるはずだ。

「オレ、絶対に彼らにこの仕事の素晴らしさを教えてやります。そして立派な捜査官に」
「いいのか? そんなことしたら、おまえ確実に全国1位の後輩に追い抜かれるぞ」
 薪が意地悪そうな顔で、青木を下からねめあげる。薪はこの新人を苛めるときは、ものすごく生き生きしている。
「そうなったら、またおまえのコーヒーが飲めるな。第九は完全な実力主義だからな」
「そんなあ……」
 もはや見慣れた風景となったふたりのやり取りを聞いて、他の職員たちはみな似たような感慨を抱く。

 第九に必要なのは学歴ではない。室長が主張する体力と根性でもない。
 本当に重要なのは、薪のイジメに耐え抜く忍耐力だ、と職員たちは思った。




*****


 すみません。
 お話の進行上、また勝手に、都合よく設定してます。
 現実には、国家公務員Ⅰ種試験の順位は発表されます。人事院の総裁からの賞状は存在しません。
 さらに、副室長には警視以上の階級でないとなれない、という規定もないです。(室長は警視正以上と決まっているみたいですね)
 エピソードの為にいろいろ作っちゃってます。ご了承ください。


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新人騒動(4)

新人騒動(4)





 科学警察研究所の管理棟には、大小合わせて20の会議室がある。
 200名ほどの人数が収容可能な大会議室が3つと、定員50名以下の中規模な会議室が5つ。残りは30名ほどしか入れない狭い小会議室だが、これは各研究室のグループ会議などに使われている。
 室長会議には、約30名ほどの人数が集まるため、中程度の部屋で行なわれる。
 定番は第4会議室。部屋にはすでに全研究室の室長と副室長が顔を揃えて、所長の到着を待っていた。コの字形に並んだ会議用の机に向かい、隣の者と雑談を交わしながら、配布された今年の室長会のメンバー表を眺めている。

 いつもはぽつねんと会議の開始を待っている薪だが、今日は隣に副室長の姿がある。それだけで、待ち時間の退屈さは半減する。
 その副室長は、落ちつかなげに周囲を見回している。薪はこの会議に慣れているし、周りの面々とも顔なじみだが、岡部は初めてだ。ガラにもなく、緊張しているらしい。
「なんか俺、浮いてます?」
「研究所内の会議だからな。おまえみたいなタイプは、少ないかもな」
 科学警察研究所の室長、副室長といえば、階級は警視正か警視以上、その殆どがキャリアだ。研究室というくらいだから、学者のような風貌の者が多く、岡部のようないかつい男はいない。たしかに目立っているが、顔で仕事をするわけではない。

 しかし、中にはそう思っていない輩もいるようで、第3研究室のふたりが岡部の方をちらちらと見ながら、不愉快な話を始めた。
『第九の副室長は、警部だって?』
『ええ。しかもノンキャリアだそうですよ』
『ノンキャリア!? 嘘だろう。研究所一の頭脳集団と呼ばれる第九の副室長だぞ』
 噂話には大きすぎる声だ。聞きたくなくても耳に入ってきてしまう。

「岡部。気にするな。聞き流しておけ」
 副室長の心中を慮って、薪は前を向いたまま小さな声で言う。
 こういうのは、聞こえない振りをするに限る。自分が槍玉に上がっているときには、いつもそうしてきた。
「大丈夫ですよ。覚悟はしてきましたから」
 さすがに岡部は落ち着いたものだ。これぐらいの神経がなければ、薪の片腕は務まらない。

『そもそも、なんでノンキャリアが第九に入れたんだ?』
『警視総監の指示だったみたいですよ。捜一からの特別人事で』
 周りの人々も、彼らの話に耳をそばだてている。みな多かれ少なかれ、新しく第九の副室長に就任した人物に、関心はあるのだ。
「階級に拘る連中に、ロクな人間はいない。そんなやつらの話なんか、聞く必要はない」
「はい」
 第九の二人は澄ました顔で、静かに会議の開始を待っている。騒ぎ立てないことが彼らの中傷を否定することにも繋がるし、おまえらなんか相手にしていないぞ、という意思表示にもなる。

『捜一から? じゃ、本物の叩き上げってことか』
『ええ。もう現場専門で。あの太い腕を見れば解るでしょう?』
『うわあ。俺だったら耐えられないな、そんな野蛮な部下なんて』
『見た目も凄いですよね。警察官というよりは、ヤクザですよ、あれは』
『どう見ても肉体労働者だな。脳みそまで筋肉で出来てるんじゃないか?』
「ろくにPCも使えない副室長なんて、薪室長も気の毒に……わっ!」

 ばばん! という派手な音に、第3研究室の室長と副室長は、椅子から転げ落ちんばかりに驚いた。
 彼らの大きく見開かれた目に映ったのは、至近距離にまで近づけられた第九の室長の、凄惨さを添えたきれいな顔だった。
 ついさっきまで、コの字型に組まれたテーブルの向こうにいたはずの薪室長が、いつの間にここに来たのだろう。いや、それよりも彼は、何をこんなに怒っているのだろう。

「あなた方は、私を誹謗するんですか」
 水を打ったように静まり返った会議室に、薪の冷たい声が響いた。
 薪の実力は、ここにいる者ならみな知っている。第3研究室のふたりも、薪にそんなことを言った覚えはなかった。
「わ、わたしは何も、薪室長のことを言ったわけでは」
「そうですよ。事務仕事に慣れない副室長では、薪室長が気の毒だと」
 ふたりの弁明に、薪の不興はますます高まったようだ。
 亜麻色の大きな瞳が、冷たい怒りに燃えている。いつも冷静な第九の室長のこんな姿を見るのは、初めてだ。

「副室長を選任したのは私です。副室長への言葉は、私への言葉と受け取ります。その上で彼を中傷するなら、それなりの覚悟をしていただきます」
 薪の周囲の空気が、まるで真冬の凍てつくような冷気に変貌していく。ひんやりとした寒波がふたりを襲い、彼らは思わず白衣の肩を震わせた。
「いえ、そういうことでしたら」
「すいませんでした」
「謝る気があるのなら僕ではなく、うちの副室長に謝ってください」
「はあ?」
 薪の無謀な言い分に、会議室の中がざわめき始めた。
 彼らの階級は、警視正だ。その彼らに対して、警部に頭を下げろと?

「わたしたちは警視正ですよ? あなたには謝罪してもいいが、彼に謝罪するわけには」
 薪の要求は、無茶苦茶なものに思えた。
 警察機構において、上の階級の者が下の階級の者に人前で頭を下げることなど、まずありえない。第三研究室のふたりの言い分は尤もだ。
 しかし、薪は引かなかった。
「悪いことをしたと思ったら、相手が誰だろうと素直に謝る。これは人間として当たり前のことでしょう。子供にも分かることですよ。国民の見本となるべき我々警察官が、どうしてそれを実践できないんです?」
「いや、しかし」
「上に立つ人間がそんなだから、警察(ここ)は腐る一方なんですよ。人の基本を忘れてしまっているから」
「聞き捨てなりませんな。薪室長といえども、言葉が過ぎますよ」
「僕は本当のことを言ったまでです」
 3人の男は睨みあい、その表情はどんどん険悪なものになっていく。周りの人間たちは、不安な顔つきで、あるいは興味深そうに事の成り行きを見守っている。

 そのとき。
 まさに一触即発の空気の中、突如として大音量で鳴り響いた携帯電話の着信音が、部屋のムードをがらりと変えた。

「なんだ、お袋? 今、会議中なんだ。後でかけ直すから」
 緊迫した空気を破った携帯電話の持ち主は、言い争いの種になっている第九の副室長本人だった。
「いやあ、すいません。携帯マナーモードにするの忘れてて」
 照れたように頭を掻きながら、にやりと笑う。
 その笑顔は決してやさしそうとは言えないが、不思議とひとを落ち着かせる。
 しかし、その日の会議室は落ち着くどころか、ざわざわとおかしな声が洩れ始め、ところどころでクスクスという忍び笑いが。

「も、森のクマさん……」
「クマみたいな男が『森のクマさん』の着メロ!」
 とうとう耐え切れなくなった第8研究室の片山副室長が、岡部を指差して笑い始めた。
「ぎゃはははは! あっ、いや、これは薪室長を笑ったわけでは―――― しかしっ!」
 片山の方を振り向いた薪は、芝居がかった仕草で華奢な肩を大仰にすくめて見せた。
「いいです。ここは笑うところですから」
 薪の許可を待っていたとばかりに、会議室中が笑い出す。
 怒っているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。こうなったら第3研究室のふたりも第九の室長も、笑うしかない。

 げらげらという笑い声が響く中、薪は自分の席に戻った。
「……すまん」
「聞き流しとくんじゃなかったんですか」
「身体が勝手に動いちゃったんだ」
 会議室に入る前から、岡部が携帯をマナーモードにしていたことを薪は知っている。岡部の携帯の着信音が、実用的なピーピーという電子音であることも。
 隣に座った強面の副室長を見やって、薪は嘆息する。
「やっぱり、おまえには敵わないなあ」

 3人の警視正が作り出した険悪な雰囲気は、一人の警部の機転によって、和やかなものへと変えられた。観察力に優れた人間には、今の一幕の真相は解っている筈である。
 一部始終を会議室のドアの陰から見守っていた人物も、その理解者のひとりだ。
「楽しそうだね。何かあったの?」
 所長と一緒に会議室に入ってきた人物に、室内の人間が一斉に立ち上がって最敬礼する。警察庁№3の小野田官房長官である。
 
「やあ、岡部くん。来たね」
 新顔の岡部に、真っ直ぐに近付いてくる。研究室の幹部たちは、その事実にびっくりする。
 官房長がご執心の薪よりもお声掛かりが早いとは、この警部は何者だ?
「きみが第九の副室長を受けてくれて、本当に良かったよ。きみに任せておけば安心だからね。これからも、ぼくのかわいい薪くんを頼んだよ」
 見事な手並みだったよ、と岡部にだけ聞こえるように耳打ちして、小野田はいつもの調子で薪に話しかける。

「薪くん。今日のお昼、ランチデートしようよ」
「だからそういうことを、ひと前で言うのはやめてくださいって」
「ふたりきりのときに誘えばいいの?」
「そういう問題じゃありません。いったい何しにここへ」
 そこで薪は、岡部を見るみなの視線が変わっていることに気付く。
 曲がりなりにも第九の副室長。
 その上、官房長の信頼まで得ている。薪が官房長の秘蔵っ子であることは周知の事実だが、この男にも警察庁最高幹部との繋がりがある。

 第3研究室のふたりが、顔を見合わせている。彼らの困惑した表情に、薪は吹き出しそうになる。
 小野田は岡部のことを気遣って、ここまで足を運んでくれたのだ。新任の副室長が、自分が見込んだ男だということを、室長会に知らしめるために。
「小野田さん。僕、ぺニンシラホテルのカントリーピザが食べたいです」
「え? ぺニンシラでいいの?」
「ええ、ぜひ」
 薪が希望したランチデートの場所に、小野田は目をぱちくりさせている。
 そのホテルは、先月、薪が悪夢のような出来事にみまわれた場所だ。自分から行きたいと思うところではないはずだが。

「岡部くん。薪くん、どうしてこんなにさばさばしちゃってるの?」
「俺も不思議なんですけど」
 薪に聞こえないように、官房長と副室長はこそこそと言葉を交わす。しかし、薪の耳はすこぶる性能がよい。ふたりの会話はちゃんと聞こえている。
「おかげで大事なこともわかったからいいんだ、とか言ってましたけど」
「大事なことって?」
「あの状態でしたから。俺が帰った後、女の子でも呼んだんじゃないですか?」
「つまり、自分が女の子を満足させられる男だってことが分かって、嬉しかったってこと?」
「だと思いますよ」

 ものすごい誤解を受けている。
 が、本当のことは口が裂けても言えない。ここは聞こえない振りだ。
 
「単純だね、薪くんは。所詮クスリの力なのにね」
「どういう意味ですか?」
「だって薪くんて、あっちのほうはてんで弱くって、続けて2回なんてとても」
「小野田さん、会議資料です!」
 小野田のセリフを遮って、新しい室長会名簿を顔面めがけて叩きつける。
 そこから先を言わせてなるものか。

「うん。じゃあ、これだけ貰ったらぼくは帰るね。またお昼にね、薪くん」
 セクハラ好きの困った上司は、薪の氷の視線にすごすごと引き下がった。残されたのは岡部の誤解だけだが、これはどうやって解いたらいいものか。
 
「薪さん。まさか、官房長と」
「なに想像してんだ! 僕がそんなことするはずないだろ!」
「それじゃ官房長は、どうやってあんな情報を得たんです?」
「聞かないでくれ。思い出したくもない」
「やっぱり過去にそういうことが」
「ない! 断じてない!」
「じゃあ、どうして官房長が、薪さんの打ち止めの数まで知ってるんですか?」
「打ち止めってなんだ! 僕がその気になったらすごいんだぞ!!」
「薪さんて、自信のないことに限って『自分はすごいんだ』って言い出すんですよね」
「なんだって!?」
「薪くん」
 田城の声に、はっと我に返る。
 知らないうちに、声のトーンが上がっていたらしい。岡部との会話は周りの人間に聞かれてしまったらしく、みな呆れたような顔をしている。

「取り込み中のところ悪いんだけどね。そろそろ会議を始めさせてもらってもいいかな」
「す、すみません」
 薪は咄嗟に顔を伏せて、赤くなった頬を隠す。
 周囲の人間が、くすくすと笑っている。室長会で他人に笑われたのは初めてだ。これもみんな小野田のせいだ。

 もう、ピザは止めだ。スカイレストランのプロヴァンスコースを奢らせてやる。1階のラウンジの、2千円のコーヒーも追加してやる。
 穴があったら入りたいような恥ずかしさに顔を赤らめながら、薪は小野田に対するセコイ仕返しを決意していた。



*****



 薪さんのやんちゃ坊主化が進行してます。
 わたしにも止められません☆

 小野田さんが薪さんの打ち止めの回数を知っていた理由は『2062.7 スロースロースロー』の中に書いてあります。よろしかったらどうぞ。(R色の強いお話なので、苦手な方にはすみません)



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新人騒動(5)

新人騒動(5)





 和やかな雰囲気、というより、忍び笑いの中で始まった室長会は1時間ほどで終了し、時刻はちょうど昼だ。
「岡部。おまえも来る? 小野田さんに奢ってもらえるぞ」
「俺はいいです。馬に蹴られて死にたくありません」
「おまえまで、そんな冗談言うなよ。この頃、小野田さんに影響されてきたんじゃないのか」
 苦笑と共に肩をすくめて、薪は会議室を出て行った。

 残された岡部が、会議の記録に2,3の必要事項を書き加えていると、隣の席に座っていた第8研究室の副室長が話しかけてきた。
「岡部副室長。さっきはお見事でした」
「いや。返ってご協力ありがとうございました。片山副室長」
「あんなケンカの収め方があるとはね。俺も岡部副室長を見習わないと」
 賛辞の言葉を掛けてきたのは、第7研究室の水谷副室長だ。
他にも10人ほどの副室長や次長が、岡部の周りに集まってきている。さすがに室長クラスになると会議の後で無駄話に興じたりしないらしいが、警視になりたての彼らは、去年まで自分と同じ階級だったこの新任の副室長を、仲間に加えてくれる気になったらしい。

「薪室長のあんな顔を、初めて見ました。あの人でも怒ることがあるんですね」
 どうやら薪は、室長会ではネコを被り通していたらしい。
「あの第3研究室のふたりは、人の噂話が好きで、いつもあの調子なんですよ。薪室長のことも言いたい放題で。その、昔の話とか官房長との噂とか。でも、何を言われても、薪室長は顔色ひとつ変えなかったんですよ。立派だなって思ってたんですけど」
 これは失敗した。
 他の研究室の幹部からせっかく尊敬されていたのに、薪の未熟な人格が露呈してしまった。フォローしておかなくては。

「いや、今日はたまたま」
「岡部副室長が羨ましいです」
「はい?」
「自分のことでは怒らないのに、部下の悪口を言われて怒るなんて。薪室長に、よほど大切に思われているんですね」
「そうだよ。うちの室長なんか、何でも俺のせいにするもんな」
 薪にもそういうところはある。その対象となる人物は岡部ではなく、他のだれかに限られているようだが。

「それにしてもさ、薪室長って運動神経良かったんだな」
「そうそう。あの跳躍にはびっくりした。自分の机から向かいのテーブルまでひとっ飛びだもんな。映画のスタントマンみたいだったよ」
 あのくらいは捜一の後輩なら誰でもやるが、研究室の学者たちの目には賞賛に値するのか。ならばここはもう少し、薪の株を上げておいてやろう。

「うちの室長は、ああ見えて強いんですよ。柔道も空手も黒帯です」
「あはは、またまた」
「岡部副室長って、本当に面白いひとですね」
「薪室長が黒帯だったら、うちの奥さんは世界チャンピオンですよ」
「おまえのかみさん、めっちゃ強いもんな」
 薪の武道家としての力にさぞや感心してくれるかと思いきや、だれも信じてくれない。
 仕方ない。薪のためにもう一押しだ。

「本当ですよ。柔道も空手も、2段の実力者です。みなさん、なかなか信じてくれないんですよね。逆に、生花と日本舞踊の師範だっていう冗談の方が、リアリティがあるって納得されてしまったりして」
「ああ、そうなんだ。道理で立ち振る舞いが優雅だと思った」
「日本舞踊かあ。薪室長にぴったりだな」
「いや、あの、これは冗談で」
「なに? 薪室長、日本舞踊やってるの? 生花も?」
「師範らしいぜ」
「いや、薪さんは柔道と空手を」
「うちの奥さんに教えてもらえないかな」
「おまえが教わりたいんだろ」
「ばれた?」
「柔道と空手……」
「生花は池ノ坊? 名門じゃん」
「日本舞踊は花柳流の名取だって? すごいな」
 ……止まらなくなってしまった。

 岡部の否定の言葉には、誰も耳を貸そうとしない。イメージの先行というのは、人間の正しい理解力を阻害する。
 今度、室長会の懇親会で踊りを披露してもらおう、などという恐ろしい意見も出始めて、岡部はこの話が自分の手の届かない場所に到達してしまったことを悟った。
「薪さん、すいません……」
 
 岡部副室長は初日からしでかした大きな失敗に、いかつい手で頭を抱え込んだのだった。



*****


 社会の平和を守るための警察機構に、こんなに勘違いと思い込みの激しい人間ばかりそろってて、この世界の明日は大丈夫なんでしょうか(笑)


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新人騒動(6)

新人騒動(6)





 今日も第九のモニターには、グロテスクな人体模型が映っている。
 いや、これは模型ではない。実際の死体だ。
 生きながらに生皮を剥がされた、無惨な他殺死体。人間はその外見がいかに美しかろうと、皮を一枚剥いだだけで、こんなにも醜悪な生き物に変貌する。

「大丈夫か? 姫宮」
 自分の隣で真っ青になっている後輩を横目で見て、青木は昔の自分を思い出している。
「仮眠室で少し休むといい。これはオレがやっておくから」
「すいません、青木先輩」
 青木が指導することになった新人は、とても線の細い神経質そうな男だった。
 彼の名前は姫宮貢。青木にとっては初めての後輩である。
 姫宮は、小さい頃から勉強ばかりしてきたと見えて、度の強い眼鏡を掛けて、不健康そうな肌をしていた。MRIの凄惨な画に耐えられるのかと危惧していたが、やはりかなりしんどそうだ。

「いいなあ。青木先輩はやさしくて」
 向こうのデスクで小池と一緒にモニターを見ている姫宮の同期生、遠藤宏がぼそりと呟く。耳ざとくそれを聞きつけ、小池は嫌味な口調で新人を揶揄した。
「悪かったなあ。小池先輩はやさしくなくて」
「あっ、いえ。そんな」
 遠藤は小池の皮肉癖に困っているようだったが、青木からすれば姫宮よりもずっと恵まれていると思う。
 小池は皮肉屋だが、優れた捜査官だ。まだ新米の域を出ない青木より、的確な指導ができるはずだ。
 青木も小池の指導を受けたことがあるが、自分でも気付かずにいた欠点を精確に指摘してくれる。耳には痛いが、ためになる指導である。

 姫宮と一緒にまとめるはずだった殺人事件の報告書を、自分ひとりで仕上げて室長室に持って行った後、青木は後輩の様子を見に仮眠室へ向かった。気分の悪くなったときは冷たいジュースがいい、と昔だれかに教えてもらった通り、見舞いはオレンジジュースだ。

 仮眠室には先客がいた。第九の最高責任者である。

 室長室にいないと思ったら、姫宮の様子を見に来ていたのか。こいつらはどうせ長続きしない、などと冷たいことを言ったクセに、いざ蓋を開けてみればこの調子だ。
 薪はベッドの端に腰掛けて姫宮と何事か話していたが、青木に気付くとさっとベッドから立ち上がって仮眠室を出て行ってしまった。自分が他人にやさしくしているところを見られることを嫌う。薪は照れ屋だ。

「姫宮。具合はどうだ?」
 薪がさっきまで座っていた場所に腰を下ろして、姫宮の顔を見る。モニターを見ていたときと比べて、顔色も大分良くなっている。
「室長と何を話してたんだ? もしかして、よく眠れる方法か?」
「いえ。室長がこれにサインしろって」
 姫宮がおずおずと青木に差し出した書類を見て、青木は思わず舌打ちする。
 異動願だ。
 あのひとは、また勝手に先走って。姫宮は異動したいなんて一言も言ってないのに。

「室長の言うことなんか気にするな、姫宮。オレも去年はずーっとこれをやられたんだ。でも、これには訳があってな。室長は意地悪をしてるわけじゃなくて、おまえの精神力を試してるだけなんだ。どんなに酷いことを言われても、本気で言ってるわけじゃないから」
「意地悪? 室長は、とてもやさしく異動を勧めてくれましたけど」
 なんでだ。
 自分のときとは、えらい違いだ。

「とにかく、これはオレが室長に返しておくから。姫宮はもっと頑張るって言ってますって、はっきり言っといてやるからな」
「はい……ありがとうございます」
 姫宮のことは定時で家に帰らせて、青木は室長室へ引き返した。
「室長。これはどういうことなんですか」
 ドアを開けると同時に、口調を荒げる。さすがの青木も腹に据えかねているのだ。
 指導員の自分に何も言わずに、異動願いを本人に渡すなんて。いくら薪でも勝手過ぎる。姫宮はここに来てまだ1週間だ。異動なんて早すぎる。

「姫宮はもう持たない。異動させたほうが彼のためだ」
「何言ってんですか。まだ1週間しか経ってないんですよ」
「青木。姫宮の顔をちゃんと見てるか」
 青木の作った報告書に目を落としたまま、薪は青木の観察力を疑うようなことを言う。
 もちろんよく見ている。
 指導員の自分が、一番長く彼のことを見ているのだ。左の手首にホクロがあることまで知っている。
「当たり前じゃないですか。オレは姫宮の指導員ですよ」
「これでもか?」

 薪は机の中から一枚の書類を抜き出し、青木に差し出した。それは姫宮の経歴書だった。
 経歴書に添付された写真を見て、青木は驚く。
 写真に写った姫宮は、神経質そうでも不健康そうでもなかった。眼鏡は掛けているが、今よりも少し太っていて元気そうだ。
「その書類は、おまえにも渡してあったはずだぞ」
「でも、最初から姫宮はあの体つきでした。1週間でこうなったわけじゃありません」
「撮影された日付を見ろ。ここへの配属が決まる1ヶ月前だ。配属が決まってひと月の間に、彼は身を細らせたということだ。最初から嫌でたまらなかったんだ」
 姫宮は、そんなことは一言も言わなかった。「よろしくお願いします」と青木に頭を下げたのだ。

「初めに言っただろ? この仕事は精神を病むんだ。このままだと、彼は確実に精神科医の世話になる」
 薪の見解は正しいのかもしれない。しかし、姫宮本人がそれを言い出すまでは、彼をサポートするのが先輩の役目だ。
「あいつはまだ頑張れます。オレにそう言ってました」
 報告書から目を上げて、薪は青木の顔をじっと見た。亜麻色の瞳が強い光を宿している。
 仕事中の薪の瞳というのは、どうしてこうも煌いているのだろう。自分ひとりのことならこの瞳の前にはあっさりと白旗を掲げる青木だが、今回は後輩の進退が掛かっている。いくら薪の瞳が魅力的でも、おいそれと従うわけにはいかない。

「わかった。それは白紙に戻そう」
 勝った。
 睨み合いで薪に勝ったのは、初めてかもしれない。

「青木。明日の朝、一仕事頼めるか」
 室長室を出て行こうとした青木の背中に、薪の声が掛かる。
 もちろん、断るいわれはない。青木にとって薪の命令は最優先だ。
「はい。何をしましょうか」
「キャビネットの資料を移動したいんだ。8時に此処へ来てくれ」
 わかりました、と返事をして青木は室長室を後にした。

 薪に生意気な態度を取ってしまって、機嫌を損ねたかと危惧したが、そんなこともないようでほっとした。内心はドキドキだったのだ。
 明日は、早朝から薪とふたりきりになれる。3日ぶりに、モーニングコーヒーを淹れてやろう。朝の目覚めにぴったりなキリマンをベースに、ブラジルとジャバロブスタをブレンドして。

 自分が淹れたコーヒーを飲んで微笑む薪のきれいな顔を想像して、青木の頬は自然と緩んでいた。


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新人騒動(7)

新人騒動(7)






 翌朝、青木が約束の10分前に室長室を訪れると、室内は既にコーヒーの匂いで満たされていた。そのコーヒーを淹れたのは、前評判の高い全国1位の新人、須崎武彦である。
 
「おはようございます。青木先輩」
「おはよう」
 実は、青木はこの新人が少し苦手だ。
 ずば抜けて頭が良いと聞いているせいか、どうしても一歩引いてしまう。指導員の今井が舌を巻くほど、機器操作の習得は早いらしい。入室前に、すでに基本操作は自己学習してきたらしく、今はもうサーチの段階に入っているそうだ。一年前の自分とは雲泥の差である。

「それで薪室長。これなんですけど」
 須崎は難しそうな物理学の専門書を開いて、薪と話をしている。
 この新人は頭の訓練と称して、休み時間によく数学や物理の問題集に取り組んでいる。青木も何年か前には習ったはずだが、試験が終わればそんなものは忘却の彼方だ。もともと青木は、勉強が好きではない。

 須崎は薪に憧れているらしく、こうして毎朝室長室を訪れている。
 思い返せば、自分が薪とまともに話が出来るようになったのは、去年の4月ごろ。第九に入って、3ヶ月も経ってからのことだ。それまでは、怖くて声も掛けられなかった。

 天才同士で話が合うのか、薪も須崎の質問には笑顔で答えている。青木もこうして薪に教えを乞うたものだが、こんな風に同等の話ができたわけではなかったから、そのときの薪の態度は自然と上司のものになっていた。
 それが須崎とは、まるで旧知の友達同士のように、さくさくと話が進む。打てば響くといった感じだ。青木との会話はこうはいかない。薪と自分では頭のレベルが違いすぎるのだ。

 頭の良い新人をやっかんでも仕方ない。青木がここに来たのは、仕事をするためだ。キャビネットの中身を移動するのが今朝の仕事だ。ふたりのことは放っておいて、青木は作業に取り掛かることにした。
「新しいキャビネットと取り替えるから、その資料は一旦窓際の床に置いといてくれ」
「はい」
 肉体労働を青木に命じておいて、薪は須崎との会話に戻る。本来は新人の仕事だと思うが、薪が自分に直接命じたのだ。これは自分の仕事だ。

 須崎は楽しそうに薪と話をしている。先輩がこういう仕事をしていたら、自分から手伝いを申し出るのが普通だが、須崎にはそういう気持ちはないらしい。体を使う仕事はキャリアの仕事ではないと思っているらしく、彼はコピー取りもお茶汲みもしない。
 青木は壁際のキャビネットから資料を取り出し、棚ごとに分けて窓際の床に資料を置く。それを幾度も繰り返す。何度目かの資料を運んで窓から外を見ると、ちょうど青木の後輩が出勤してくるところだった。

 窓を開けて声をかけようとして、青木は思わず手を止める。
 姫宮の周りにたゆとう、重苦しい空気。落ち込んだ肩、丸められた背中。重い足を引き摺るようにして、第九の門の前に立つ。
 正門を見上げて、しばし立ち尽くしている。やがて小さく嘆息して諦めたような表情になると、とぼとぼとまるで老人のような足取りで門の中に入ってきた。
「姫宮……」
 そうして改めて彼を見直してみると、彼の憔悴ぶりは尋常ではない。
 あの不健康そうな肌の色も、ストレスによる血行不良と考えられる。自分の前では元気そうに装っていたが、頭痛も吐き気も慢性化しているのだろう。食事も睡眠も摂れていないに違いない。

 弱りきった後輩の様子に、青木は自分を恥じた。
 薪の言うとおりだ。
 自分は今まで、姫宮の何を見てきたのだろう。
 初めてできた後輩の存在が嬉しくて、自分の知識が誰かの役に立つことが嬉しくて、肝心の相手に対する気遣いを忘れていたなんて。

「姫宮はおまえに遠慮してるんだ。おまえがあんまり一生懸命だから、第九を辞めたいって言えなかったんだ」
 いつの間にか、隣に薪が立っている。
 薪はこれを見せたくて、青木を今朝ここに呼んだのだ。
「異動願いは、オレから姫宮に渡します」
「うん。希望する部署があったら、訊いておいてくれ。なるべく希望に沿うように所見をつけるから」
「ありがとうございます」

 この室長室の窓からは第九の門が丸見えだ。もしかすると室長はここで、毎日職員たちの出勤の様子を観察していたのかもしれない。
 そういえば、誰かの体調不良を一番に見抜くのは必ず薪だ。
 もしそうなら、昨年の自分のことも、薪はここから見ていてくれたのだろうか。今の姫宮にそっくりな、あの頃の情けない自分の姿を。

 第九に入ってすぐにあの自殺事件があって、翌月から青木は3ヶ月の間に5つも専門分野の研修に行かされた。
『おまえ程度の半端な知識で、ここの仕事が務まると思うな』
 薪にはそう言われたが、そのときの青木は薪という人を理解していなかったから、単に自分の能力に不満で、頻繁に研修を組むのだろうと思っていた。もしかして、顔を見るのも不愉快なくらい嫌われているのかも、とも。
 今になってようやくわかった。
 薪はあの頃の自分をここから見ていて、自分のことを心配して、徐々にMRIの惨たらしい画に慣れることができるように、何日かずつインターバルを置いてくれていたのだ。その頃さかんに自分に異動願いを出せとせっついたのも、自分の身を気遣ってのことだった。
 やはり自分は薪に守られていたのだ。

「オレのことも、見ててくれてたんですね」
 微笑を添えた青木の言葉を、薪はいつもの冷たい横顔で受け取る。返事はないが、こういう場合のこのひとの沈黙は肯定の意味だ。
「ありがとうございます。オレが今、ここにいられるのは薪さんのおかげで」
「薪室長、こっちへ来てください。ネットに情報がアップされてます」
 青木の感謝の言葉は、須崎の無遠慮な呼びかけに中途で遮られた。

 なんて空気の読めない新人だろう。今は自分が薪と話をしていたのに。
 薪も薪だ。須崎に呼ばれてさっさとそちらへ行ってしまった。宙に浮いた自分の気持ちは、どこへ持っていけばいいのだ。

 収まらない腹の虫を無理矢理押し込めて、青木は作業を続行した。キャビネットが空になり、すべての資料が運び出されたのは業務開始15分前だった。青木が資料運びをする間、須崎はずっと薪と楽しそうに喋っていた。最後まで、一冊の書籍すら運ぼうとしなかった。
「室長。終わりました」
「ご苦労だった」
 須崎が青木を横目で見ている。眼鏡の奥の丸い瞳には、密かな優越感が含まれている。

「青木」
 敬礼して退室しようとした青木を、薪は呼び止めた。
「まだ時間あるだろ。コーヒー、淹れてきてくれないか?」
 朝のコーヒーは須崎が淹れてきてくれたはずだが、お代わりが欲しいのだろうか。
「薪室長、僕が淹れて来ます。これは新人の仕事ですから」
 薪のコーヒー以外は淹れたことがないくせに、よく言えたものだ。これからお茶汲みは、こいつの専門職にしてやる。
「青木先輩のお手を煩わすなんて、とんでもない」
 とんでもないのはおまえの性格だ。

「須崎。僕は青木のコーヒーが飲みたいんだ」
 薪は穏やかな口調で、しかしはっきりと言った。
「明日から、朝のコーヒーは青木が淹れるから。おまえはここに来なくていい。新人には、朝の仕事が沢山あるはずだぞ」
 初めて須崎の顔から笑みが消えた。
 須崎は青木の顔をじろっと睨みつけると、無言で室長室を出て行った。まるで子供だ。
 どうして天才というのはこう、強烈なパーソナリティを持っている人間が多いのだろう。薪もかなりエキセントリックだが、ここまで未熟ではない。それとも須崎と同じくらいの年の頃は、こんな風だったのだろうか。

「2杯目ですから、さっぱりとキリマンのストレートでいきますか?」
「うん。おまえに任せる」
 薪の華奢な手からボーンチャイナのマグカップを受け取って、青木は3日ぶりのコーヒー職人に変身した。



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新人騒動(8)

新人騒動(8)





 朝のミーティングのあと、青木は姫宮を会議室に連れて行った。
 モニタールームで異動の話をしたら、みなに聞かれてしまう。姫宮もそれは嫌だろう。

 異動願いの書類を後輩の前に差し出すと、姫宮は沈痛な顔つきになって青木に頭を下げた。
「すみません。青木先輩はあんなに一生懸命、ぼくに色々と教えてくれたのに」
 こいつはやさしくて、人を思いやることのできる人間だ。たしかにこの性格に第九の仕事はきついだろう。あの凄惨な画を見て、我がことのように共鳴してしまう。青木も最初はそのループにはまって、さんざん苦しんだ。薪が助けてくれたから、なんとかそこから抜け出すことができたのだ。
 自分では、姫宮をそこから引き上げてやることができなかった。自分の力不足を痛感して、青木は肩を落とした。

「悪かったな、姫宮。おまえの辛さをわかってやれなくて。ごめんな」
「先輩は悪くないです。ぼくが未熟だから……本当に申し訳ありません」
 素直な後輩は自分を責めた。
 こいつは謝らなければならないようなことはしていない。精一杯頑張ったではないか。
「そんなことないって。異動先だけど、どこか行きたい部署はある?」
「できれば、元いた総務に戻りたいです」
「うん、わかった。室長に話しておく。必ず希望が叶えられるとは限らないけど、どこへ行っても頑張れよ。オレも陰ながら応援してるから」
「はい。ありがとうございます」
 姫宮はようやく自分の気持ちを表に出すことができて、ほっとした表情になった。それは青木が始めて見る後輩の安堵の顔だった。

 薪は多分、これまでにも姫宮のように我慢に我慢を重ねて、ついには神経を病んでしまった職員たちを見てきたのだろう。だから過敏なまでに新人たちの身体を心配する。
 強く異動を勧めたり、わざとキツイ言葉で第九から去りやすいように仕向けたり、あれは薪なりのやさしさだと以前岡部が言っていたが、自分が上の立場になって、ようやく理解できた。

 姫宮が異動することは周囲に洩れないようにと気を配った青木だったが、モニタールームに帰ってみると何故か、全員がそれを知っていた。薪がみんなに話したのだろうか。姫宮のサインをした異動届を見せる前に、薪がそんなことをするとは思えないが。
「須崎から聞きました」
 新人の遠藤が、発信源を教えてくれた。
 そうか。今朝、室長室で薪と自分の会話を聞いていたのか。しかし、室長に書類を提出するより前に、職員たちに触れ回ってしまうなんて。姫宮の気持ちを考えなかったのか。

「姫宮のやつがいなくなっちゃうと、雑用係はおれひとりってことですよね」
「須崎がいるだろ。ふたりで頑張れよ」
「無理ですよ。だって初日に朝の掃除当番決めようってあいつに言ったら、『僕は掃除をするために第九に来たんじゃない。掃除がしたかったら君達でやりなよ』って言われたんですよ。おれたちだって掃除しに来たわけじゃないっての!」
 朝一番にモニタールーム中の机を拭き、モニターの埃を払うのは新人の役目だ。青木も去年はずっとそうしてきた。
「たしかに面倒なんだよね。ここってモニターが20くらいあるし、メインスクリーンはめちゃめちゃ大きいしね」
「あ、いえ。掃除が嫌だって訳じゃないです。仕事だと思ってますから」
 遠藤は、明るくて気持ちのいい男だ。須崎に姫宮の10分の1でもいいから謙虚なこころがあったら、こんな諍いは起きないだろう。

 他にも、須崎には色々と問題がある。
 たとえ先輩の命令でも、自分がやりたくないことはしない。お茶汲みやコピー取りは『ご自分でどうぞ』という返事が返ってくる。傍若無人というか唯我独尊というか、とにかく協調性がない。誰かさんといい勝負だ。

 最大の被害者は、やはり指導員の今井だ。
 全国1位の名に恥じず、覚えは早いし、よく勉強もしている。が、それを逆手にとって、今井の説明のわずかな綻びを見つけては言い返してくる。重箱の隅をつつくような質問の数々に答えるために、今井はMRIシステムの説明書を読み返すはめになった。
 他の職員も、須崎にはうんざりしている。
 わずか1週間で第九を去ることになった新人と、全職員を敵に回してしまった新人。同じ新人でもえらい違いだ。

 姫宮が第九を去った翌日、青木は須崎と話をしてみることにした。
 青木も須崎のことは苦手だが、彼のせいで第九の雰囲気が悪くなるのは困る。先週まではあんなにも和やかだったモニタールームが、たった一人の新人のせいでぴりぴりした空気に包まれてしまうなんて。
 このままでは須崎も、ここにいづらくなってしまう。姫宮がいなくなった今、須崎には遠藤と協力して、様々な雑務をこなしてもらわねばならない。
 MRIの専門書を開いている須崎に、青木は意を決して話しかけた。

「須崎。ちょっといいか?」
「なんですか、青木さん」
 薪の前では青木のことを先輩と呼んでいたが、普段はこの調子だ。青木はまだ須崎にとっては先輩ではなく、ただの同僚と思われているらしい。
「もう少し周りの雰囲気を読むようにしないと、みんなとうまくやれないぞ」
 青木が話しかけているというのに、須崎は本に目を落としたままだ。その本は青木も読破している。ただし、読み終わったのは去年の秋だ。一冊読むのに3ヶ月くらい掛かった。とても難解な手順書だった。それをまるで漫画雑誌でもめくるように読んでいる。あれで理解できるとは、須崎が天才だというのは本当らしい。

「僕がKYだって言いたいんですか?」
「そうは言わないけど。でも、誰かが話をしてるときに、そこに割って入るのは止めた方がいいと」
 須崎はとにかく自分の知識をひけらかすのが好きで、誰かがPCの話をしていたりすると、すぐに間に入ってくる。一緒に話をするだけなら構わないのだが、他の人間の知識不足をあげつらったりバカにしたり、挙句の果てには『第九のキャリアって言っても所詮その程度ですか』などと、聞き捨てならないセリフまで飛び出してくるのだ。

「もしかして、昨日のことですか? 室長室の?」
 須崎は初めて書籍から顔を上げて、青木の顔を見た。明らかに軽蔑の表情を浮かべている。
「あの時は、わざと声をかけたんですよ。青木さんが一方的に喋ってて、薪室長が迷惑そうだったから」
 青木は、開いた口が塞がらなかった。
 たしかに喋っていたのは青木のほうだったが、薪との会話はいつもあの調子なのだ。言葉は返ってこなくても、会話はちゃんと成立している。
 青木の感謝の言葉に、亜麻色の瞳がやさしさを含んで、きれいな頬が少しだけ緩んで、薪の雰囲気が暖かくなって。こいつにはその微妙な変化がわからないのだ。

「青木さんのほうこそKYなんじゃないですか? 薪室長とあなたじゃ、話が合わないでしょう。薪室長は、あなたとの下らない会話なんか望んでませんよ」 
 かわいくない。
 姫宮のほうが、ずっとかわいかった。姫宮は気が弱くて第九には向かなかったけど、素直でいい子だった。

「須崎。青木は警部だぞ。上級職に向かってその口の利き方は」
 2つ隣の席で書類に目を通していた小池が、青木の味方をしてくれる。小池も須崎のことは快く思っていない。
「完全実力主義をモットーとする第九の職員のお言葉とは思えませんね。青木さんが僕よりも上だと納得させてくれれば、僕も改めますよ。青木さんは一応、キャリアですからね」
 一応ってなんだ。青木が一応のキャリアなら、自分は帝王だとでも言うつもりか。
「でも、宇野さんと曽我さんは別です。警部といっても宇野さんはノンキャリアだし。曽我さんはキャリアだけど、大した大学を出てないし。無駄な友人関係は要りません」
「完全実力主義ってことは、キャリアもノンキャリアも関係ないってことだ。岡部さんだってノンキャリアだけど、副室長だぞ」
「それがいちばん不思議なんですよね。どうして薪室長は、叩き上げの警部なんか信用してるのかなあ。あの人の頭のレベルって、せいぜいネアンデルタール人ですよね」
 口では誰にも負けない小池が、言葉を失うくらいの無神経さ。思わず目が点になる。

 ぱくぱくと酸欠の金魚のように口を開け閉めしている小池を引き摺って、青木は給湯室へ避難した。小池はけっこう喧嘩っ早い。このままでは、手が出てしまう可能性が高い。
 給湯室には、須崎の友人リストから除外されている幸運な男がふたり、浮かない顔で壁にもたれていた。今は10時の休憩時間だからどこにいようと個人の勝手だが、大して広くもない給湯室に4人もの男が入ると、かなりむさくるしい。
「どうしたんですか? ふたりとも」
「モニタールームであいつと顔合わせるの、嫌なんだよ」
 あいつ、というのは100%の確率で全国1位の新人のことだ。

「何かあったんですか?」
「宇野さんと春モデルのPCの話をしてたら、須崎が割り込んできたんだよ」
「だべってるだけなのに、あいつがやたらと専門的なことを言い出すから白けちゃってさ。休み時間に難しい話はよそうぜ、って言ったんだ。そしたらあいつ、なんて言ったと思う?」
 だいたい予想はつく。きっと「この程度のことが難しいなんて」とか嫌味な言い方をしたのだろう。
「これだからノンキャリアとは話が合わないんですよね、って言ったんだぞ!」
 予想を超えている。青木には考えもつかないセリフだ。

「何かって言うと全国1位を鼻にかけてさ。あいつの携帯の待ち受け画面、知ってるか? 人事院からの賞状の写真だぞ」
「俺も見せられた。これは貴重な映像ですよ、とか言われてさ。携帯に水ぶっ掛けてやろうかと思ったよ」
 あんなもんとっくに捨てちまった、と言っていた誰かとは正反対である。人事院にしてみれば、須崎のほうが好ましい受賞者といえるだろうが。
「トイレットペーパーのほうがよかった人とはえらい違いだな」
「そっちもちょっと問題だと思うけど」
 そこに今井が駆け込んできた。
 真っ直ぐに流し台に向かうと、収納庫になっている下部の扉を無言で蹴り始める。
 また須崎となにかあったらしい。

「どうしたんですか? 今井さん」
「脳データの修復について説明してたら、俺の説明は解りづらい、知識が半端だからもっと勉強してくださいって言われたんだよ! 俺はおまえの家庭教師じゃないっての!!」
 あの温厚な今井を、ここまで怒らせるとは。恐るべし、全国1位。
「そのくらいならまだいいよ。あいつ、いま岡部さんのことなんて言ったと思う!?」
 憤懣やるかたない調子で、小池が先刻の一件を3人の仲間に説明する。小池の話を聞いて、彼らの顔色が変わった。

「むかつく、あいつ!!」
「何とかしてあの鼻っ柱を折る手はないのか!?」
 自分たちのことよりも遥かに激しい怒りで、曽我と宇野が吐き捨てる。
 上司を侮辱されて怒る部下が警察庁にどのくらいいるかは分からないが、第九ではこれが当たり前だ。岡部の実力は、第九の全職員が認めている。新入りごときに馬鹿にされるいわれはない。

「モニタールームに閉じ込めて、メインスクリーンで『お宝画像』流してやるってのはどうです? オレだったら泣いちゃいますけど」
「青木~! おまえは本当にかわいい後輩だよ」
「出来が悪い子ほどかわいいって本当なんだな」
 それは褒め言葉ではない。
 その手が通用するのは、青木ぐらいのものだ。須崎はすでに、何本かのお宝画像を見ている。10ヶ月も経ってからようやくそれが見られるようになった青木とは、月とスッポンである。

「オレたちのことはともかく、岡部さんのことまで。絶対に許せねえ」
「でもなあ。須崎のやつ、室長に気に入られているからな」
「天才は天才同士、話が合うみたいだな」
 たしかに、あのふたりの会話には誰も間に入って行けない感じだ。というより、だれもついていけない。
「須崎はもともと、室長のことしか眼中にないんだよ。初めて自分より頭のいい人に会えましたって、室長に言ってたぜ」
「室長はなんて?」
「出会いが少なかったんだな、って」
 薪の答えを聞いて、青木は少し安心する。
 捻りのない切り替えしだ。これは薪の好きな会話ではない。
 薪の基本は、皮肉とエスプリの効いたジョークだ。薪はそれほど須崎との会話を楽しんでいるわけではない。

「コーヒーでも淹れましょうか」
 第九のバリスタはコーヒーの準備を始める。本来ならドリップで淹れてやりたいところだが、時間がないからメーカーで我慢してもらおう。コーヒーのかぐわしい香りが、先輩たちのささくれ立った心をわずかでも癒してくれればいいのだが。
「そうか。今日から遠藤は研修か」
「遠藤がいないと、青木がお茶汲みやることになるんだ」
「ラッキーだな。1週間は美味いコーヒーが飲めるってわけだ」
「遠藤にじゃんじゃん研修入れてくれるように、室長に嘆願書でも書くか」
「……カンベンしてください」
 青木をからかって、第九の職員たちはにやにやと笑う。コーヒーの香りの効果か、彼らの顔つきはいくらか和んだようだ。

「オレも昔、須崎と似たようなこと言った覚えがありますよ。薪さんみたいに頭のいい人は、初めて見ましたって。おべんちゃらじゃなくて、本当にそう思ったから」
「その時はなんて言われたんだ?」
「おまえよりバカな人間を探すほうが難しいだろうって」
 青木の情けない顔に、みなは遠慮なく吹き出す。久しぶりに明るい笑い声が響いて、部屋の雰囲気は一気に明るくなった。

 出来上がったコーヒーをカップに注ぎ、残った一つを紙コップに入れて給湯室を出ようとした青木を、今井が呼び止めた。
「それはおまえが飲めよ。須崎になんかやることないだろ」
「オレもそこまでお人好しじゃないです。これは岡部さんに持っていこうと思って」
「充分お人好しだろ。自分の分がないじゃないか」
 実は、朝のコーヒーを薪と一緒に飲んでいる。今日から朝のコーヒーは青木が淹れることになった。今朝はそのご相伴にあずかった、というわけだ。

 急ぎの捜査がないときの薪は、職務が始まる前のひと時を、警察庁内の通達や機関紙を読んで過ごす。青木の淹れたコーヒーを飲みながら、静かに読書をする薪のきれいな横顔を、青木は通達を読みつつさりげなく見ている。
 取り立てて会話はなくても、薪とのこういう時間は楽しい。薪もこの穏やかな時間を、好ましく思ってくれているのが伝わってくる。須崎のように喋り続けることだけが、相手との関係を好転させるとは限らない。

「そのコーヒー、貰っていいですか」
 突然、須崎が現れて青木に手を差し出した。和やかだった給湯室の空気が、一瞬で真冬の外気のように冷たくなる。
「これは岡部さんの分なんだ。飲みたかったら自分で」
「あのひと、コーヒーって顔じゃないですよね」
 いいから貸してください、と青木の手から紙コップを奪い取ると、須崎は自分の席に戻って行った。青木の後ろでは怒りのオーラが渦を巻いている。
 いたたまれなくなって青木は給湯室を出た。
 せっかくいい雰囲気だったのに。本当に空気の読めない男だ。

 須崎の席を見ると薪が隣に座っていて、どうやら脳データの修復作業を教わっているようだ。コーヒーは薪の机の上に置いてあるから、自分が飲みたいわけではなかったらしい。
「さすが薪室長。このぐらいのペースで進めてもらえると、解り易いです。今井先輩は説明がくどくて、しかもまどろっこしくて。僕を小学生だとでも思ってるんですかね」
 青木は今井にもシステム操作を習っているが、とても解り易い説明だったと記憶している。
 青木の指導員は岡部だったが、岡部はMRIシステムの専門的な知識や細かい操作は、それほど得意ではない。機器操作の技術的な面では、他の職員のほうが優れている。岡部はそれを素直に認め、青木の成長を考えて、操作技術は他の職員から習得するように計らってくれたのだ。器の大きい岡部らしい配慮である。

「普通の新人で、おまえほどの知識を持っているものは少ないからな。今井には、おまえを新人扱いするなと言っておく」
 まるで今井のほうが悪いような言い方だ。なぜ薪は須崎の肩を持つのだろう。
「ありがとうございます。これからも解らないところがあったら、ご指導を賜りに伺っても良いですか?」
「ああ」

 青木の後ろでふたりの様子を見ていた小池が、チッと舌打ちして席に戻った。
「あれじゃ、今井さんの立場がないよな」
 ぼそりと呟いて、宇野と曽我が資料室へ降りていく。
 当然、青木も面白くない。
 青木の視線に気付いて、須崎がこちらを向いた。室長のお気に入りの看板を背負っているかのような、その優越感に満ちた表情に、青木は眉をひそめる。

「須崎。マウスはこう、親指と薬指を使って操るんだ」
 薪は小さな手を須崎の右手に重ねて、MRI専用マウスの操作のコツを教えている。
 何も、あんなことまで薪がしなくても良いのに。指導員の今井に任せておけばいいのだ。
「普通のPCマウスとは違うから、慣れないうちは細かい作業が難しいと思うけど」
「はい。練習しておきます」
 須崎は薪の前でだけは、素直ないい子になる。薪にはそれが見抜けないのだろうか。

 何よりも心配なのは、これが原因で職員たちの心が薪から離れていってしまうことだ。そんなことになったら第九は崩壊してしまう。
 みんなが薪を尊敬しているから、あの厳しさについていけるのだ。それが誰かを特別扱いしたり、公平さを欠くような真似をすれば、職員たちの間で不満が高まるに違いない。

 新人と室長という階級差を超えて、親密そうに言葉を交わすふたりの天才を見ながら、青木は不安に胸を曇らせていた。



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新人騒動(9)

新人騒動(9)






「岡部さん、何とかしてください!」
 副室長の新任研修から帰って来た岡部を待ち受けていたのは、今井の懇願だった。
 その内容は察しがついている。何かと問題の多い新人のことだ。指導員の今井はその新人といちばん接点が多いため、ストレスもそうとう溜まっているのだろう。

「おまえの他に適任者がいないんだ。もう少し頑張ってみてくれよ」
 出張中の室長に代わって報告書の閲覧をする手を止めて、岡部は今井を勇気付けるように言った。実際、今井のほかには須崎の相手ができそうな職員はいない。須崎はキャリア以外の言うことには耳を貸さないし、青木では力量不足だ。

「俺よりも青木のことです。このままじゃ、青木が可哀想ですよ」
「なんで青木が」
 話を聞くと、新人の仕事をしようとしない須崎の代わりに、青木が遠藤と一緒に雑用をこなしているという。
 それは、姫宮が抜けたことを自分の指導力不足によるものと責任を感じて、残された遠藤の負担を軽くしてやろうという、青木らしい心遣いだった。
「青木は去年、ずっとひとりで新人の仕事をしてきたから、その大変さが分かってるんだ。だから遠藤を手伝ってやりたいんだろう」
「それはそうかもしれませんけど。でも、須崎は感謝するどころか青木をバカにしてるんです。『実力主義の第九ではこの配役が順当でしょう』とか言いやがったんですよ!」
 第九でいちばん温厚な男がここまで憤るのを、岡部は初めて見た。
 今井でもこんなに怒るんだな、怒らせたほうも只者じゃないな、と妙な感心の仕方をしてしまう。

「でもなあ。青木が自分から進んでやってることなんだろ。周りの人間が思ってるほど、本人は自分を可哀想だとは感じてないんじゃないか?」
「いいえ。青木は落ち込んでます」
「どうして」
「自分より須崎のほうが、覚えが早いからに決まってるじゃないですか。一年前の自分と比較して、がっくりきてるんですよ」
 謙虚な振りをして、けっこう図々しい男だ。自分の習得能力を全国1位と比べて、劣っていることに落ち込むなんて。

「しょうがねえな。あんなガキに踊らされて」
「須崎の能力はたしかにずば抜けてますからね。ここに来てまだ2週間なのに、もうお宝画像を制覇しちゃいましたよ」
「ほう。大したもんだ」
「呑気に構えてる場合じゃありませんよ。このままじゃコンビを組むことになったときに、須崎のほうがメインで青木がサブということもあり得るんじゃないか、と不安がってましたよ」
 後輩の心痛を思いやって、今井は眉根を寄せる。たしかに1年くらいの年の差なら、立場が逆転してしまう可能性は大いにある。

「第九は完全実力主義ですからね。青木の実力が須崎より劣っているなら、それは仕方のないことですけど。でも、そうなったときの青木の気持ちを考えると」
「今井。おまえ、本気でそう思ってるわけじゃないだろうな」
「そりゃ俺だって、青木の味方をしたいですけど」
 今井を安心させるように、岡部はにやりと笑った。
「心配するな。あんなガキより、青木のほうがずっと上だ」
「青木のやつが? I種試験全国1位よりもですか?」
「すぐにわかる」

 岡部は再び報告書に目を落とす。薪の出張中に、できるだけ多くの書類を片付けておいてやりたい。
 薪の負担を少しでも軽減してやりたいと思い続けてきた岡部だが、副室長に就任したいま、それを実行に移すことができる。副室長の肩書きよりも役付手当てよりも、岡部にはそれが嬉しい。
 今井が言ったことについては、岡部はそれほど心配していない。
 青木は繊細そうに見えて、芯は強い男だ。薪のイジメに耐え抜いたうえ、薪の右隣の席を確保した男なのだ。並みの神経ではない。放っておいても大丈夫だ。

 しかし、と岡部は思いなおす。
 やはり一声掛けておいたほうがいいかもしれない。青木は調子付くと、実力以上の力を発揮するからだ。自分がフォローしてもいいが、岡部よりも効き目の高い人物がいる。フォローはその人物に任せるべきだろう。
 このところ、青木は毎朝その人物と、いくばくかの時間を香り高いコーヒーと共に過ごしているらしい。そのときにでもフォローを実行してもらえるよう、頼んでおこう。

 今日は第九にいないその人に連絡を取るために、岡部は携帯電話を取り出した。



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新人騒動(10)

新人騒動(10)





 早朝のモニタールームで、青木は掃除に精を出している。
 モニターの埃を払うのは新人の仕事だが、3人いたはずの今年の新人は1人が異動し、2人目は研修、3人目は職務開始時間5分前の出勤という状態で、朝の仕事をするものがいない。これは誰かがしなければならないことだ。それは社会人2年生の青木しかいない。

「おはよう。早いな」
 モニタールームに薪が入ってくる。頬がいくらか紅潮しているところを見ると、警視庁のジムで一汗かいてきたと見える。
「おはようございます」
「なんでおまえが掃除してんだ。新人にやらせろって言っただろ」
「遠藤は、今週いっぱいPC工学の研修ですから」
 新人はもうひとりいるはずだが、薪もその事情は分かっている。くすりと笑って手近な机に鞄を置くと、ジャケットを脱いで椅子の背もたれに掛けた。

「相変わらずお人好しだな、おまえは」
 液晶画面専用のブラシを持って、モニターの埃を払い始める。青木は慌てて薪の手から、掃除用具を取り上げた。
「室長にこんなことさせられません。ただいまコーヒーをお持ちしますから、室長室で新聞でもご覧になっててください」
「いいから貸せ。おまえほどじゃないけど、僕だってここの掃除は慣れてるんだぞ」
 薪は、ひとつひとつのモニターの埃を丁寧に払っていく。そのやさしい手つきから、MRIシステムに対する愛情が感じられた。

「一昨年の夏、僕はここで一人ぼっちになった。その時は、ずっと僕がこうやって掃除をしてたんだ」
 旧第九の部下たちが全員いなくなって、岡部たちが異動してくる間の2週間、薪はたった一人で第九の仕事を切り回した。部下たちが途中にしていた案件を、すべてひとりで片付けたのだ。不眠不休で何度も貧血を起こしながら、食事も受付けなくなったぼろぼろの身体を無理やり動かして、何かに取り憑かれたように仕事をした。そうすることであの事件から逃れようと必死だった。
「モニターを全台使うことはないと分かってたけど、やっぱり全部の埃を払って。メインスクリーンを拭くのは苦労したな」
 薪の身長では、脚立を使わないと上のほうは届かない。メインスクリーンは壁一面に広がる巨大なものだから、脚立を何度も移動させなければならなかっただろう。
「これはずっと鈴木の仕事だったんだ。昔の第九には、新人はいなかったから」
 青木ほどではないが、鈴木も背が高かったらしい。写真を見ると、薪よりも20センチは大きい。
 メインスクリーンを拭いている青木に親友を重ねているのか、薪の目が感傷を含む。薪はまだあの事件から、完全には立ち直っていない。

「ところで。今井がおまえのことを心配してたみたいだぞ」
「今井さんが? どうしてですか」
「全国1位の新人に負けて、落ち込んでるってさ」
 痛いところを衝かれて、青木は思わず困った顔になる。表面上は普通にしていたつもりなのに、見抜かれてしまっていたらしい。さすがは第九の捜査官だ。

「須崎がお宝画像を2週間で制覇したって聞いて、さすがに落ち込んじゃいました。オレがあれをマスターしたのは、去年の冬でしたから」
「バカ。全国1位と自分を比べること事体、間違ってるだろ」
 いつもの皮肉が返ってくる。これが薪のスタンダードだ。
「あはは。そうですよね。須崎は、昔の薪さんと同じ成績を修めてるんですもんね。オレなんか敵いっこないか」
 青木がしんみりした口調になると、薪は意地悪な微笑を引っ込めた。真面目な顔つきになって、メインスクリーンを拭いている青木の方へ歩いてくる。

「青木。僕をがっかりさせるな」
「だって、須崎は全国1位の実力者ですよ。オレなんか模擬試験も合格ラインすれすれで」
「何回も言わせるな。試験の成績なんか、クソの役にも立たん」
 そのきれいな顔には似つかわしくないセリフで、薪は青木の弱音を切り捨てる。亜麻色の瞳が強い光を持って、青木の瞳を射抜いた。

「おまえは、第九の全員で育て上げた捜査官だぞ。おまえの中には、みんなの能力(ちから)が注ぎこまれてる。もちろん僕の力も」
 強い口調で、青木の強気を引き出そうとする。涼やかなアルトの声が、青木の耳に心地よく響いた。
「未だ発展途上だが、新人より下ということはない。僕が保証してやる」
 薪の言葉は嬉しかったが、青木にはいまひとつピンとこない。自分が全国1位の天才よりも勝ることなど、あるのだろうか。

「自分を信じろ。それが無理なら」
 薪は顎を上げて青木の顔を真っ向から見つめる。迷いのない瞳が、青木の実力を信じていると言っている。
「おまえの中の僕を信じろ」
「オレの中の……あなたを……」
 青木の魂の根幹の部分には、薪の倫理観がしっかりと刻まれている。それを信じろということか。

「わかりました。室長の期待に副えるよう、頑張ります」
「頑張るだけじゃダメだ。きちんと結果を出せ」
 相変わらず手厳しい。薪は結果主義者だ。
「はい。必ずご期待に応えてみせます」
「それでいい」
 満足そうに頷くと、薪は掃除に戻った。全部のモニターを拭き終えて、室長室へ入って行く。青木はその背中に最敬礼で感謝をする。

 何としても薪の期待に応えたい。須崎に勝てるとは思わないが、何か一つくらいは、勝ち星を上げなくては。
「とりあえずは室長のコーヒーだな」
 確実に勝てるひとつを実行するために、青木は給湯室へ向かった。



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新人騒動(11)

新人騒動(11)






 室長室の扉が勢いよく開く音は、本当のMRI捜査が始まる合図だ。
「捜一からの協力依頼だ!」
 この瞬間から、薪は仕事の鬼になる。

 捜一から送られてきた捜査資料を、岡部が全員に配布する。すぐさま中身を確認して、青木はこの事件の捜査が、火急を要するものであることを認識した。
 被疑者未確定の連続殺人。被害者はすでに3人。犯行の手口に同一性が認められ、シリアルキラーと断定された。

 全員に資料が行き渡ると同時に、薪の鋭い声が響く。
「10分後に捜査会議を始める。10分で頭に叩き込め!」
「10分? これを全部?」
 写真を交えた20枚ほどの捜査資料を見て、新人の遠藤が困惑の表情を浮かべる。これが10分で覚えられたら、試験前の数ヶ月を勉強に費やす必要はない。

「遠藤。全部覚えなくても大丈夫だから。室長がちゃんと、事件の概要は説明してくれるから。それをよく聞いてれば解るから、平気だよ」
 この資料を10分で覚えられるのは、第九の中でも、薪と捜一の資料に慣れた岡部くらいのものではないだろうか。少なくとも青木には無理だ。
「オレだって10分じゃ覚えきれないよ」
「ありがとうございます。青木先輩」
 遠藤は安堵の表情を浮かべて、青木に笑いかけた。
 このところ一緒に雑務をこなしている遠藤と青木は、すっかり仲良くなった。
 遠藤は素直で明るくて、好感の持てる後輩だ。指導員は小池だが、新人の仕事を教えるのは青木の役目だから、遠藤とは共に過ごす時間も多い。朝の掃除から始まって、昼の弁当の手配や夜食の買出し。職員全員の好みを覚えてもらうには、もう少し時間がかかりそうだ。

 かっきり10分後に、捜査会議は始まった。
「全員、メインスクリーンに注目!」
 普段は大声を出さない薪だが、進行中の事件の時だけは別だ。よく通るアルトの声が、モニタールームに響き渡る。
「事件の概要を説明する。現在のところ被害者は3人。いずれも頚動脈を鋭利な刃物で切られている。凶器の断定はまだされていないが、有力なのは手術用のメスか、薄い剃刀のようなものと思われる。
 第一の事件発生は、4月25日の午後7時34分。場所は青山2丁目3-246、プラムというラブホテルで、被害者の名前は山崎恵子。南青山のベルフォーレマンションに住む主婦だ。遺体には情交の後があり、死体発見の状況から不倫のもつれと思われたが」
 メモひとつ見ないで、薪は流暢に説明を続ける。というか、薪はメモを取らない。薪の頭の中にはPCが入っていて、必要な情報はそのメモリーに保存しておけるらしい。

「資料の4枚目の写真にあるように、現場に残されたグラスは3つ。洗浄済みだったが、微かに口紅の痕跡が見られた。この口紅は被害者がつけていたものとは一致せず、遺留品の中にもグラスに付着した口紅と同一のものは存在しなかった」
 事件の現場には、被害者の他に2人の人間がいたことになる。そのうちひとりは女性の可能性が高いが、グラスに残った口紅からそれを辿るのは難しいだろう。

「第2の被害者も女性で、名前は」
 薪はふいに言葉を切り、つややかなくちびるを引き結んだ。亜麻色の瞳が険悪なものになり、きりりとした眉が吊り上げられる。
 びっくりするくらいの素早さで、薪がこちらに来る。青木の2つ隣の机をバン!と叩き、資料を見ていた新人を厳しい眼で睨みつけた。
 
「ガサガサ音を立てるな。周りの人間に迷惑だ」
 事件の説明に合わせて資料をめくっていた遠藤の手が、薪の華奢な手に押さえつけられる。説明を受けながらレジュメを見るのは会議のセオリーだが、第九では通用しない。

「頭に入れておけと言っただろう」
「だ、だって、10分じゃとても写真の細かい情報までは」
 遠藤の尤もな言い訳に、薪の目が氷のように冷たくなる。こういうときの薪は、本当の冷血漢に見える。
「その程度の頭で、よくここに来れたもんだな」
 遠藤は、真っ赤になって顔を伏せた。
 薪のこのセリフで、今まで何人のキャリアが第九を去って行ったことだろう。キャリアとしてのプライドを衆目の中でズタズタにされて、自分が自慢にしてきた頭脳を『その程度』と称され、彼らの我慢の糸が切れてしまう様子を、何度も見てきた。
 遠藤はそれほど自分がキャリアであることを鼻にかけていないから大丈夫だと思うが、後で元気付けてやらなくては。

 しかし。
 遠藤を傷つけるものは、薪だけではなかった。

「まったく、薪室長の仰る通りですよ。この程度の資料の暗記に、10分も必要ないでしょう。遠藤君。きみ、ほんとにI種試験受かったの?」
 薪に対しては自分の能力不足を恥じた遠藤だったが、同期の須崎にまでそんなことを言われて、さすがにかっとしたらしい。先輩の前では決して見せなかった厳しい顔で、同い年の天才を睨みつけた。
 他人から向けられるこういう視線に慣れているのか、須崎は一向に平気な様子だ。怯えるどころか優越感を滲ませた声で嫌味を重ねる。
「もっとも、先輩方の中にも、記憶力に障害のある人がいるみたいですけどね」
 露骨に青木を見ている。悔しいが、実際に覚え切れていないから言い返すこともできない。

「須崎。無駄話は慎め」
 室長に注意を受けて、すいません、としおらしく謝るが、青木のほうを見る目は変っていない。完全に馬鹿にされている。
 薪は須崎の青木に対する視線の意味に気付いていたはずだが、そのことには言及せず、遠藤の手から捜査資料を取り上げると、踵を返して壇上に戻ってしまった。
「おまえにこれは必要ない」
 薪の洗礼を初めて受けた新人は、呆然としている。どこの部署に配属されても、新人は似たような目に遭うのだが、第九でのそれは殊のほかきつい。

 再び薪の流暢な説明が始まり、職員たちの視線は新人から壇上の人物に戻された。
「いいか、おまえら。この事件の犯人は、まだ大手を振って街中を歩いている。今この瞬間にも第4の被害者がでるかもしれない。一刻も早く犯人の手がかりを見つけ出せ!」
「はい!」
 モニタールームに緊張感が張り詰めていくのが分かる。その源泉はもちろん室長の毅然とした姿だ。犯人確保に到るまで、これから薪は不眠不休で捜査に当たる。

 みなが席を立って必要な資料やファイルを取りにいく中、椅子に座ったまま動けずにいる新人の姿がある。薪の冷たい仕打ちに、心が萎えてしまったらしい。指導員の小池の慰めも耳に入らないようだ。
 このままだと、また遠藤は薪に叱られる。見かねて青木は声を掛けた。

「遠藤、元気出せ。室長は厳しいひとだけど、努力すれば必ず認めてくれるから」
「どうやって努力するんですか? 室長はおれから捜査資料を取り上げたんですよ。おれはお荷物だから、捜査に加わるなってことでしょう?」
「あれはそういう意味じゃない。捜査資料を見慣れていない人間は、資料を読むより話を聞いたほうが理解が早いんだ。資料を読むのはその後だ。でも手元に資料があると、ついそっちを見ちゃうだろ。だから室長はおまえから資料を取り上げたんだ」
「そうなんですか? あんな言い方されたら、誰だっておれみたいに考えると思いますけど」
 青木の説明に、遠藤は納得がいかないようだった。
 ふてくされたような顔をして、ぶちぶちと吐き捨てる。どうも今年の新人は精神的に未熟な気がするが、自分も去年はこうだったのだろうか。

「そんなに気にするな。青木なんか去年、目の前で資料をびりびりに破られて、それを顔にぶつけられたんだぞ」
「え! 破かれちゃったんですか?」
 小池の昔話に、遠藤が目を丸くして青木を見る。自分の情けない過去を話すのは抵抗があるが、これも凹んだ後輩を力づけるためだ。
「うん。紙ふぶきになって飛んでった。あとの掃除が大変だったんだ」
「……それって、もう読めませんよね」
「それもそうだな。青木、おまえあの時、本当に捜査から外されてたんじゃないのか?」
「ええ? そうだったんですか?」
 小池と青木の掛け合いに、遠藤は少しだけ頬を緩ませる。その微妙な変化を汲み取って、青木は新人を資料運びの相棒に勧誘した。
「遠藤。一緒に捜一へ行って、過去の類似事件のファイルを借りてこよう」
「はい」

 警視庁への地下連絡通路を歩きながら、青木は遠藤に話しかける。
 遠藤にはフォローが必要だ。去年青木も、薪に厳しい言葉をぶつけられるたびに、岡部や他の職員たちに勇気付けてもらった。こころのケアは早いほうがいいのだ。
「遠藤。さっきはオレの言い方が悪かった。資料はうろ覚えでもいいから、しっかり室長の顔を見て話を聞くんだ」
 薪を中心にしてみなが一丸となったときに、第九は最大の力を発揮する。遠藤も第九の一員だ。心にしこりを残したままでは、捜査に差し支える。
「でも、室長の説明は立て板に水で、とてもついていけません」
「一言も洩らさずに話を聞くよりも、室長をよく見るんだ。ひとは自分が大切だと思ったことを話すときには自然に力が入るから、この事件のポイントがどこにあるかすぐに解る。次はそうしてみろ」
「わかりました」
 遠藤は素直に頷いた。

 須崎と違って、こいつは自分を先輩と呼んでくれるし、自分の言うことを真面目に聞いてくれる。明るくて気立ても良くて、プライベートの趣味もオートバイだというから、青木と共通するものもある。公私ともに、いい友人になれそうだ。

 段ボール箱いっぱいのファイルをふたり掛かりで持ち上げて第九に帰ると、薪が資料を携えて青木を待っていた。
「第2の被害者の林田琴美。おまえがメインで担当しろ」
「はい」
「サブには須崎をつける。よく指導してやれ」
 相棒の名前に、青木だけでなく部屋中の職員たちが息を呑んだ。
「あの、今井さんは」
「今井は岡部と組んで、第1の被害者の検証に当たる。なにか問題でもあるか」
「いえ」

「薪室長。お願いがあります」
 青木のサポートに付くことになった新人が、教室で手を挙げるように薪に声を掛ける。
「青木先輩より僕のほうが先に犯人を見つけたら、僕をメインにしてくれますか? 第九は実力主義なんでしょう?」
 周囲の職員たちが、眉を顰める。
 火急の捜査に当たらなければならないこのときに、こいつは何を言い出すのだ。
 常識外れの須崎の振る舞いを、しかし薪は咎めなかった。それどころかくすっと笑って、頼もしいな、と須崎の士気を揚げるようなことまで言う。
「いいだろう。ふたりとも頑張れよ」

 第2の被害者の経歴や資料を綴じたファイルを青木の手に押し付けて、薪は小さな声で言った。
「青木。僕の言いたいことはわかってるな」
「はい」
 わかっている。
 結果を出すこと。それがすべてだ。

 瞬時に絡んだ互いの視線で言外の言葉を確認し合い、青木は自分の席に戻った。



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新人騒動(12)

新人騒動(12)





「須崎。よろしくな。まずはこの資料に目を通して」
「そんなものより、脳データの検証が先でしょ」
 青木の指示を待たずに、須崎は勝手にサーチを始めている。
「被害者の脳に犯人の画が映っていれば、一発じゃないですか」
 須崎の言う通りだが、それはメインの人間がやる仕事だ。
 サブの役割は、メインの補佐だ。資料を熟読して被害者の人間像を摑み、そこから何故この人物が殺されなければならなかったのかを推測する。事件の裏側を探るのも大事な仕事だ。

 須崎の勝手な行動を止めるのは諦めて、青木は黙って資料に目を通した。
 家族構成に交友関係。近所付き合いに仕事関係。膨大な資料の中には、必ず手がかりが隠されている。

 青木は、岡部の指導を思い出す。
 捜一からの資料は、事件の概要を説明したものだ。被害者の名前は記号でしかない。
 この資料の中にこそ被害者の人生はあり、それを終えなければならなくなった理由が潜んでいる。それを見つけ出すのが捜査官の仕事だ。

 資料には、赤いフレームの眼鏡を掛けた、若い女性の写真が添付されている。
 被害者の林田琴美は27歳。まだまだやりたいことがあっただろう。結婚して5年目で、子供もいなかったから、きっとこれから生まれてくるであろう子供を夫と共に夢見ていただろう。

 資料に没頭している青木を尻目に、須崎は新人とは思えない手つきでMRIマウスを操っている。頭が良い上に手先も器用だなんて、神様は不公平だ。
「犯人もバカじゃありませんね。被害者は目隠しをされてます」
 真っ暗な画面が突如赤く染まって、被害者の人生は終わりを告げた。
 須崎が犯行時の画像を探り当てるまで、時間にして2時間も掛かっていない。去年の同時期の青木と比べると、大人と子供ほどの違いがある。やはり、全国1位はダテではない。

「でも、被害者をホテルに連れ込む前に目隠しをしていたはずはないから、ここから遡って探していけば、すぐに見つかりますよ」
 須崎は5分おきに脳データを取り出し、犯人の映像を探し始めた。
 データの抽出には時間が掛かる。けっこう面倒な作業だ。
 隣の席では、ようやく青木がMRIマウスを手にしたところだ。
 今頃取り掛かっても遅い。犯行時のカウンタは解っているが、ライバルにそれを教える気はない。MRIを見始めた時間差は約2時間。こんなトロくさいやつに負けるわけがない。

 しかし、それから1時間もしないうち、須崎は思わぬ逆襲を受けることになる。

「室長。お願いします」
 青木の声に、須崎は思わず隣を見た。
 サーチを始めてから1時間も経っていない。それなのに室長を呼びつけるとは何事だろう。
 青木の呼びかけに、薪はすぐにやってきた。背後から青木のモニターを覗き込み、亜麻色の目を輝かせる。
「見つけたか」
「はい」
 いつの間にサーチを完了したのだろう。いや、それよりも何を見つけたって?
「この女性です」

 女、と聞いて須崎は胸を撫で下ろした。
 なんだ、青木に先を越されたのかと焦ってしまった。この事件の犯人は男だ。犯行現場はすべて都内のラブホテル。死体には情交の痕跡もあった。女は事件には関係ない。
 しかも、青木のモニターに映っているのは病院の待合室のようなところだ。犯行現場ではない。

「青木。メインスクリーンに出せ。みんな! メインスクリーンに注目!」
 メインスクリーンには、髪の長いなかなかの美人が映っている。年のころは30~35。右の頬に、縦に並んだホクロが3つある。
 この女が何だと言うのだろう。薪は何故、この画をみなに見せようとしているのだろう。

 ……しまった。グラスに残った口紅の件を忘れていた。
 1人目の被害者のときには、女の影があった。遺体に情交の後が残っていても、女が犯人ということもあり得るのか。

 薪に促されて、青木が立ち上がる。背の高い青木は、それだけでみんなの注目を集めることができる。
「この女性は第2の被害者、林田琴美さんが通っていた産婦人科の看護師です。この人物は個人的にも林田さんと付き合いがあったらしく、頻繁に病院の外で会っています。おそらく、不妊治療のために病院に来ていた、林田さんの相談にのっていたものと思われます」
 メインスクリーンの画が切り替わる。
 喫茶店の中、ショッピングセンター、レストラン、そして犯行現場となったラブホテルの駐車場。いずれもその女はにこにこと笑って、被害者の女性と楽しそうに喋っていた。

「林田さんはこの女性と、何度もラブホテルに通ってます。これは、この女性と同性愛の関係にあったわけではなく、不妊治療の一環と思われます。なぜならここに、彼女の夫の姿があるからです」
「夫とわざわざラブホ?」
「子供が出来にくい夫婦の場合、環境を変えることは有効な手段です」
「目隠しは?」
「目隠しをして行為に及ぶというのも、外部の情報をシャットアウトして、行為に集中することで性的な興奮を高め、女性をオルガスムスに導きやすくします。女性はその状態で受精すると、とても妊娠しやすいんです」
「なんでおまえ、そんなこと詳しいんだ?」
「実は姉夫婦に子供が出来なくて。やっぱり不妊治療を受けてるんですけど、病院で受けたアドバイスを、いちいちオレにメールしてくるんですよ。自分じゃ旦那に恥ずかしくって言えないから、オレから言ってくれって言うんですよ」
 青木家の舞台裏に、思わず失笑が洩れる。
「でも、その苦労が報われまして、もうすぐ―――― あ痛っ!」
 話が横道に逸れて、薪の蹴りが青木の向こう脛に決まった。青木は慌てて話を戻す。

「これが犯行当日の画です。この日も都内のラブホテルを利用していますが、夫の姿はありません。この女性の前で目隠しをしている画が、これです。この画から30分後に、林田さんは殺害されました。この女性の犯行である可能性が高いかと」
「情交の後があったのは、どう説明するんだ?」
「この女性は産婦人科の看護師です。不妊治療の患者から精子を採取して持ち込み、針のない注射器で被害者の局部に注入したのではないでしょうか」
 今のところ理論上の破綻はない。詳しく調べればボロも出るかもしれないが、一刻を争う進行中の事件だ。容疑者の絞込みは、早ければ早いほどいい。

「宇野! 病院のデータからこの女性の身元を割り出せ。他のものは全員、被害者の脳からこの女性の画をサーチ!」
 青木から言葉を引き継いで、薪がみなに指示を出す。青木は自分の席に腰を下ろし、冷静な顔で再びモニターを見始める。
 その様子を、須崎は信じられないものを見る目で見ている。
 誰よりも早く容疑者を見つけ出したというのに、嬉しがる素振りも見せない。真剣な眼でモニターを見つめ、さらなる手がかりを捜そうとしているようだ。

「室長。ひとつ気になることがあるんですけど」
「なんだ」
「この女性、印象が……なんだか場所場所で変わる様な」
「女性は、髪形や服装で印象が変わるものだ。見掛けに惑わされるな」
 青木のあやふやな疑問に、薪がこともなげに答える。
 やはり、青木はまだ半人前だ。というよりは、女性の二面性をよく知らないのだろう。

「ありました! 被害者との接触は、犯行の4時間前。ここからサーチを続けます」
「こっちも出ました。当日の午後6時の画像です」
 他の捜査官から声が上がる。どうやら青木の読みは当たったらしい。
「よし! 青木、この女性の画像をプリント」
 言葉の途中で差し出された写真に、薪の言葉が止まる。にやりと笑って、右の拳で青木の胸を軽く小突いた。

「岡部、行くぞ! 今度こそ青木の金星を捜一に認めさせてやる!」
 数枚の女性の写真を手に、薪はモニタールームを早足に出て行く。報告だけなら室長が出向くことはないが、今回は青木の手柄を捜一に認めさせる必要がある。
 青木は先々月、初めての金星を捜一に横取りされている。それは薪も承知の上で、青木も納得したことだったが、やはり悔しかった。薪も同じ気持ちでいてくれたらしい。そのことが少しだけ嬉しい。

「やったな、青木!」
「成長したなあ、おまえ」
「ずっと頑張ってたもんな」
「みなさんのおかげです。オレは、みなさんに育ててもらったんですから」
 口々に自分を褒めてくれる先輩たちに謙虚な言葉を返して、青木は再びモニターに目を戻す。眼鏡の奥の切れ長の目が、何かに引き寄せられている。

「宇野さん。この女性の個人データ、見せてもらえますか?」
「いいぞ」
 薪に渡したのと同じものを、宇野はプリントアウトしてくれた。
 犯人とおぼしき女性の名前は早川智美。35才、独身。5年前から花房産婦人科の看護師を勤めている。
 両親共に健在。妹がひとりいる。
 青木はそれを見て、男らしい眉根を寄せた。 

「やっぱり」
「なんだ? やっぱりって」
「この事件、犯人の特定は難しいかもしれません。ああ、でもオレの考えすぎか。室長もそう言ってたもんな。うん、考えすぎだ、きっと」
 ひとりで疑問を投げかけて、ひとりで納得している。青木の言動はときどき意味不明だ。第九の職員たちは、すでにこの現象に慣れている。

 宇野はそのデータを人数分プリントして、職員全員に配った。
 青木は、何かに気付いている。きっとこのデータは必要なものになる。

「いりません。犯人を見つけたら、後は捜一の仕事でしょう。それは、報告書をまとめる青木さんだけが持っていればいいものです」
 須崎は宇野から資料を受け取ろうとせず、投げやりに言った。青木に先を越されたのが、よっぽど悔しかったらしい。いい気味だ。
 ノンキャリアの宇野は、この生意気な新人に数々の暴言を吐かれている。宇野は意地の悪い人間ではないが、この機会に少しくらいの報復をしても罰は当たらないはずだ。

「残念だったな須崎。メインになれなくて」
「どうせまぐれ当たりでしょ。この次の事件では負けませんよ」
「この事件は、まだ終わってないぞ」
 宇野の思いがけない言葉に、須崎は顔を上げた。
「なに言ってるんですか。薪室長がいま、捜一に報告に行ってるじゃありませんか。それが間違いだとでも言うつもりですか」
「青木が何かに気付いてる。あいつ、調子づくと怖いんだ」

 青木は首を傾げながら、モニターを見ている。腕を組んで遠くから見たり、顔を画面に近づけてみたり、やはり青木の考えることはよく分からない。
 青木の様子が気になって、須崎は自分のモニターを青木のものに連動させてみる。青木と同じ画を見て、青木が何を考えているのか予想してみる。

 場面は次々と変わる。しかし犯行現場は一度も現れない。被害者の日常の風景を見ているようだ。
 画面には、夫や職場の友達が映っている。そんな事件に何の関係もないものを見て、いったいどうする気なのだろう。バカの考え休むに似たりというから、これは何の意味もないことなのかもしれない。

 ノンキャリアの言ったことを真に受けて、ついモニターを見てしまった自分を少しだけ恥じて、須崎は宇野が置いていった資料をゴミ箱に投げ捨てた。



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新人騒動(13)

新人騒動(13)






 青木が金星を上げた翌日。捜査は意外な展開を見せた。
 第九のミーティングルームでは、職員たちに捜査一課の竹内警視を交えて、捜査会議が行われている。
 今回の事件で、第九と捜一は協力体制に入った。被疑者は確定したものの、さらに第九の力が必要とされる事実が判明したからである。

「犯人がふたりいる?」
「正確には被疑者と思われる人物が2人いて、厄介なことに彼女たちの見分けがつかないってことです」
「一卵性双生児か」
 薪の言葉に、竹内が頷く。目と目を交わして、相手の中に自分と同じ危惧があることを知り、ふたりのエリートは同時に眉根を寄せた。

「個人データには同い年の妹がいるとあった。可能性には気付いていたんだがな」
 このふたりは普段はとても仲が悪いのだが、お互い仕事には私情を挟まない主義だ。いまも普通に話しているし、隣同士の席で額を寄せて考え込む様子は、仲の良い友人のようだ。
「双子? まさかこの事件は」
 岡部もその可能性に気付いたらしい。
「そうだ。双子のうち、どちらが犯行を行ったかを確定しないと、犯人を検挙することはできない」
「まいったな。双子に組まれたら、落とすのに苦労するぞ。あいつらテレパシーあるんだ」
 本気だか冗談だか、岡部の顔は判断がつかない。だから岡部のジョークは、他人に伝わらないことが多い。

「昨日から任意同行で引っ張ってきて、尋問はしてるんですけど、完全に口裏合わせてて。敵ながら見事なもんですよ」
「しかし、MRIで見ても一卵性双生児の見分けなんかつきませんよ。姉か妹のどっちかが映ってるわけなんでしょうけど」
 大きく引き伸ばされた2枚の写真に写っている女性の顔と、MRIからプリントした画を見比べて、小池が困惑の表情を浮かべる。たしかに3人とも同じ人間に見える。他の職員たちも一様に渋い顔だ。

「捜一の尋問の仕方が、甘いんじゃないんですか? うちはここまで容疑者を限定したんだから、あとはそちらの仕事でしょ」
 辛辣な捜一批判は、竹内と敵対関係にある室長のものではなかった。
 竹内が初めて見る顔だ。年も若い。今年入った新人と推測される。
「なんすか、あいつ」
「あれが噂の全国1位だよ」
 昔、現場でコンビを組んでいた岡部が、こっそりと教えてくれる。室長の薪に言われるならともかく、新人ごときに捜一の取り調べの甘さを貶される筋合いはない。

「全国1位? それは自称だろ。I種試験は正式な順位発表はされないはずだ」
 須崎は自分の携帯を開いて、待ち受けの画面を竹内に見せた。そこには、人事院の総裁の名前を冠した表彰状が映っていた。
 賞状には須崎武彦様とあり、国家公務員I種試験に首席で合格を果たしたこと、これからの活躍に期待している、という激励の文章が認められる。これは本物らしい。噂には聞いていたが、現実に見たのは初めてだ。

「自分たちの力不足を、こちらに押し付けてくるなんて。これだから現場の人間は。どうせロクな大学も出てないんでしょう」
「須崎。竹内さんは京大出のキャリアだぞ」
「へえ、そうなんですか。これはお見それしました」
 新人とは思えない態度で鷹揚に頷くと、須崎は竹内のほうをバカにしたような目で見た。
「面接の試験官は、女性だったんですか?」
「どういう意味だよ」
 国家I種試験には、最後に人格評定として試験官による面接がある。これがけっこうなポイントを占めている。例え筆記試験で合格しても、面接で落とされるケースもあるのだ。
「運も実力のうちって言いますからね。竹内さんの場合、顔も実力のうちですか」
「須崎、黙ってろよ! 竹内さん、すいません」
 不躾な新人を嗜めたのは、指導員の今井である。先輩に対する礼儀を教えるのも指導員の仕事だが、この新人は聞く耳を持たない。今井には心労の日々が続いている。

「申し訳ありません。うちの新人が失礼を」
 言葉だけはしおらしいが、薪は明らかに須崎の発言を面白がっている。新人の無遠慮な態度も、竹内がターゲットなら許せるらしい。
「いいえ。I種試験全国1位の新人なんて、羨ましい限りですよ。さすが第九ですね。捜一じゃとても使いこなせません。うちは試験の成績よりも、人間性を重視しますから」
 竹内も皮肉は鋭い。
 薪と対等に舌戦を繰り広げられるのは、警察署内でもこの男くらいのものだ。

「全国で1位になるくらいだ。幼い頃から勉強漬けで、他のことは何もしてこなかったんでしょう。人間的に欠落している全国1位より、礼儀を知っているノンキャリアのほうが、現場ではずっと役に立ちますからね」
「……悪かったですね。人間的に欠落してて」
 反論は生意気な新人からではなく、竹内の隣の人物からのものだった。
「は? いや、室長のことを言ったわけでは」
 とんとん、と肩を叩かれる。振り返ると岡部が苦い顔をして、小さく呟いた。
「そのひとにも届いてんだよ、さっきのやつ」
「え!?」
 薪は明らかに気分を害している。能面のような無表情がその証拠だ。
「いや、そのっ、ちが……」
 なんとも気まずい雰囲気になったところに、絶妙のタイミングで第九のバリスタともうひとりの新人が、コーヒーを運んできた。場の空気がほっと和む。

「サンキュ、青木。ここへ来ると、おまえのコーヒーが楽しみなんだよな」
 薫り高い飲み物を供されて、竹内は素直に礼を言う。竹内は青木とは仲が良い。
「でも、なんでおまえがこんなことしてんだ? お茶汲みなんか、新人の仕事だろ」
「今日は竹内さんがお見えでしたから。特別にドリップしちゃいました。時間がかかってしまって、すみません」
 捜一の迅速な働きによって、被疑者の身柄が確保され、被害増大の恐れはない。
 そうなれば第九の厳戒態勢も解かれ、薪もこうしてゆっくりとコーヒーを楽しむことができる。お客にかこつけて、青木の本心は実はこっちだ。

 竹内なんかに高い豆飲ませることないのに、と薪が小さい声でぶつぶつ言っている。それには聞こえない振りをして、竹内は話を捜査の焦点に戻した。
「第一の犯行のあった時刻、『レンガ亭』という世田谷のレストランで、早川を見たという目撃証言があります。彼女はここの常連客だったそうで、店のマスターが覚えていました。友人とふたりで食事に来ていたようです。しかし、姉か妹かは分かりません」
「どちらかがアリバイ工作をしていたということか。計画的だな」
「とにかく、彼女たちは髪型から服装までわざと合わせてるんですよ。もうずっと昔からそうしていたみたいで、母親ですら見分けがつかないそうです。もっともこれは、わざとそう言ってるのかもしれませんけど」
 竹内はとても口惜しそうだ。
 どちらか、あるいは両方が殺人犯であることは確実なのに、それを証明することができない。証拠がなければ逮捕することはできない。任意同行で引っ張っておけるのは、今日が限界だ。夕方には釈放しなければならない。
「そうだ。グラスに残った口紅から、DNA鑑定してみたらどうですか」
「DNA鑑定は役に立たない。一卵性の双子のDNAは、塩基配列が同じなんだ」
 個人を特定する最終手段まで使えないとなると、あとは尋問に当たる捜査官の落としの技術に頼るしかない。となると、生意気な新人の言う通り、やはりこれは捜一の仕事だ。

「あの」
 他の職員たちにコーヒーを配っていた青木が、控えめに進言する。
「ふたりの見分けなら、つきますけど」
 青木の発言に、会議室の全員が注目した。
「見分けられる!? 母親にもできないことが、っておまえ、まだふたりの写真も見てないだろうが」
 コーヒーを用意していたため、遅れて会議室に入ってきた青木と遠藤は、捜一からの資料をまだ受け取っていない。当然、双子の写真も見ていないはずだ。
 だいたい被疑者が双子だという情報も、今もたらされたばかりなのだ。青木が事前にそれを知っていたとは、考えられないが。

「おまえ、昨日妙なこと言ってたな。場所場所で印象が変わるとか」
 薪が思い出したように呟く。
 化粧の仕方や服装のせいで、女性の雰囲気が変わるのは当たり前のことだから、その時にはなんとも思わなかった。しかしこうなってくると、話は別だ。
「肉眼じゃ無理ですけど、MRIなら。ご説明します。モニタールームへどうぞ」



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新人騒動(14)

新人騒動(14)





 モニタールームに移動して、青木は自分の端末に保存しておいたデータを、メインスクリーンに映し出した。全員がスクリーンの前に集まってくる。
「これは2番目の犠牲者になった、林田琴美さんの脳データです。この2枚の画を見比べてみてください」
 スクリーンにはふたりの男性の顔が映っている。片方は林田琴美の夫で、もうひとりは会社の上司だ。
 見比べろと言われても、このふたりはまったくの別人だ。だいいち、犯人とは何の関係もない。青木は何が言いたいのだろう。

「ちょっと待ってくださいね。動かしたほうが解り易いので」
「傾いでる」
 薪はぼそりと呟くと、メインスクリーンの前から離れた。遠藤が気を利かせて持ってきたコーヒーカップの中から、自分のマグカップを選び取り、青木の隣に腰を下ろす。
「なるほど。眼鏡のフレームか。メガネ男には有利なヒントだったな」
「あ、もう解っちゃいました? オレ、あのあと3時間くらいモニター見たんですけど。薪さんには3秒なんですね」
「人間の目は自動補正が掛かるからな。林田琴美が眼鏡をかけていなかったら、判らなかったかもしれないな」
 早くも解答を導き出した薪と出題者の間で、内輪の話が交わされる。他の者たちは意味が解らず、首をひねってメインスクリーンを見ている。

「証拠は?」
「あります」
「重ねてみたのか」
「はい」
 青木の答えを聞いて、薪が満足そうに頷いた。
「続けろ」

 メインスクリーンに映った画像が、動き始める。安定した夫の画に比べて、上司のほうはなんとなく不安定だ。視点が揺れるというか、定まらないというか。
 視界の隅に、棒のようなものが映る。それが時々、斜めになる。その正体は、眼鏡のフレームだ。
「首を傾けてるのか」
 岡部の指摘に、青木は説明を始める。

「そうです。林田さんは、あまり心を許していない人を見るときに、首を傾けるクセがあるんです。夫や仲の良い友だちに対しては、その兆候はありません。苦手な上司や、よく知らない人を見るときだけです。それを頭に入れて、次の画像を見てください」
 スクリーンの画は切り替わって、容疑者の早川智美の顔になる。2枚の画の場所は別々で、喫茶店とレストラン。同じ人物と相対しているはずなのに、その2つの画像にはわずかではあるが、先刻と同じ差異が見られる。

「林田さんは、看護師をしていた姉の智美と、友人関係にあったと思われます。でも、このレストランで一緒に食事をしているのは、姉の智美ではなく妹の睦美だった可能性があります。ほんの少しですけど、首を傾げてるでしょう?
 はっきりとは気付いてなかったのかもしれませんが、なんとなく感じていたのではないでしょうか。目の前の人物が、自分の友人とは別の人間であることを。そして自分が何かに利用されようとしていることを」
「利用?」
「画面の時計を見てください。最初の事件の犯行時刻です」
「時計? えっと……」
 竹内が、きょろきょろと視線を動かしている。竹内は捜一の人間だ。MRIの画は見慣れていない。
 竹内のために、青木は奥のほうに映った日付時計を拡大してくれた。竹内が自分の手元に青木を欲しがっている理由は、こういう細かい気配りがさっとできることだ。

「なるほど。しかし、このMRIの画だけでは第1の事件のアリバイを崩すことはできない。証人になる林田琴美は死亡しているし、食事をしたのが妹だったという証拠にしても、希薄すぎる」
「はい。それで、これです」
 次の画はレストランの店員が、こちらに歩いてくる場面だった。ふたりの席にコーヒーのお代わりをポットで持ってきた店員に、ふざけあっていた隣の席の子供がまともにぶつかってきた。ポットの中身は早川の手に掛かり、彼女の手がコーヒー色に染まった。
 店員は、慌てて何枚もの冷たいおしぼりで早川の手を拭いたが、彼女の手は真っ赤になってしまった。

「火傷をしていないほうの人物には、このときのアリバイはありません。そこを揺さぶってみたらどうでしょう」
「青木。残念だけど、ふたりとも手に火傷の痕なんか残ってなかったぞ。この日からもう10日近く経ってるから、完治してしまったと」
 言いかけて竹内は、青木の真意に気づく。手が赤くなった程度の軽い火傷の痕が残っていないことくらい、青木にだって解っていたはずだ。となると。

「科捜研か」
「はい。人間の皮膚の新陳代謝は28日間。この火傷は肉眼には見えなくても、細胞のダメージとしては残っているはずです。
 それと、決定的な違いはこれです」
 画面には、人間の顔の3Dポリゴンが2つ表示された。とても良く似た形状をしている。このままでは見分けがつかない。
 しかし、そのポリゴンを重ね合わせると、ただ一点においてわずかな相違がみられた。
「ほくろの間隔が違う」
「ここまで拡大しないと分からないくらいですから、肉眼じゃとても無理です。でも、このラブホテルの駐車場にいた人物とふたりのポリゴンを重ねれば、どちらが現場にいたのかは分かると思います。林田さんの場合は、姉のほうでした」
「え? じゃあ、別に火傷なんか調べなくたって」
 人物を確定する方法があるのなら、わざわざ科捜研の検証を待つことはない。火傷の痕を調べるには皮膚のサンプリングもしなければならないし、手続きも面倒なはずだ。
 新人の遠藤が不思議そうに青木を見る。指導員の小池が、その理由を教えてくれた。

「このポリゴンは被害者の脳データに残ったものだ。それだけだとは物証と認められない可能性があるんだ。MRIには視覚者の主観が入るという理由から、状況証拠としか認めない、と明言している裁判官もいるくらいなんだ」
「それで科捜研に」
「ちょっと悔しいけど、証拠物件の立証機関としてはあっちのほうが大分先輩ですから」
 言葉ほど悔しそうな顔もせず、青木はいくつかのデータをプリントする。すでに簡単な報告書にまとめ上げられている。昨日のうちに、ここまで辿りついていたということか。

「薪室長。ありがとうございます。第九の協力に感謝します」
 プリントアウトされた数枚の書類を手にして、竹内が敬礼の角度に頭を下げる。とても率直で、気持ちの良い態度だ。
 それを受ける薪のほうは、いささか大人気ない。椅子に座ったまま腕と足を組んで、横柄な口ぶりで応えを返した。
「竹内警視。今回のことはきちんと上に報告してください。被疑者確定の方法を発見したのは、青木の手柄です」
「約束します。この事件は第九の実績になるでしょう」
 竹内の言葉に、第九の職員たちは大いに盛り上がる。青木の周りにみなが集まって、口々に手柄を立てた後輩を褒め称える。これは青木の大金星だ。

「お見事です。青木をおだてさせたら、室長の右に出る人はいませんね」
「なんの話だ」
 岡部と薪が、意味不明の会話をしている。どうやらこれは、ふたりにだけ分かる内容のようだ。

 青木は先輩たちに小突き回されて、髪をくしゃくしゃに乱されている。苛められているのか可愛がられているのかよくわからないが、その笑顔はとても明るい。
 その様子を見て竹内は、青木を第九から捜一に引き抜くのは難しそうだ、と思った。



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新人騒動(15)

新人騒動(15)





 誰もいなくなったモニタールームで、須崎はひとり机に向かっている。
 23年間の人生で、自分より試験の成績が悪い人間に、遅れを取ったことなどなかった。
 あの青木という男は、ぼうっとしてるように見せかけて、実は優秀な頭脳を持っているのだろうか。とてもそうは思えない。やっぱりあれはただのまぐれだ。
 青木に出し抜かれた一番の原因は、やはりMRIマウスの操作技術だ。こればかりは、経験がものを言う。だが、練習さえ積めば自分だって負けない。薪室長に肩を並べるには何年もかかりそうだが、青木ごときの技術なら、すぐに追いついてみせる。

 青木の金星の祝賀会と称して、連中は飲みに行った。
 くだらない連中だ。第九のエリート集団には期待していたのに、自分とまともに話ができるのは室長くらいのものだ。
「マウスの練習か?」
 鞄を小脇に抱えて、薪が室長室から出てくる。いつの間にか時計は8時を回っていた。
 「反復練習は大事だけど、あんまり根を詰めてもダメだぞ」
 優しい言葉を掛けて、須崎の隣の席に腰を下ろす。昼間の厳しい彼とは別人のようだ。

「みんなと飲みに行かなかったのか。遠藤は行ったぞ」
「くだらない人たちとは、付き合いたくありません」
「くだらないってどうして思うんだ?」
「歓迎会の時で懲りました。あの人たちの話題って、グラビアアイドルの話だったり車の話だったり、交通課の女子職員とコンパをする計画だったり、そんなつまらない内容ばっかりなんですよ。レベルが低すぎます。もっと仕事の役に立つ話を聞けるのかと思って参加したのに、がっかりです」
 一番多かった話題は薪の悪口だったのだが、それは内緒だ。須崎だって相手によっては、気を使ったりするのだ。

「管理部にいた頃もそうでしたけど、ノンキャリアの言うことは、まったく理解できません。僕がノンキャリアの先輩に、管理部の歓迎会で何言われたか分かりますか? いきなり女性経験を聞かれたんですよ。なんて非常識な人なんだろうって思いましたよ」
「女性経験ならいいじゃないか。僕なんか……」
「はい?」
「なんでもない」
 なんだか、その話題には触れられたくないらしい。

「その他にも、テレビドラマの話とか芸能人の噂話とか、署内の誰と誰はデキてるとか。直接自分に関係のないことでどうしてあんなに盛り上がれるのか、僕には不思議です。室長も飲み会には参加されないって聞きましたけど、やっぱりあのくだらない話を聞くのが耐えられないんでしょ?」
「いや。酒の席のそういう話が、くだらないとは思わないけど」
「じゃあ、どうして? 青木先輩の誘いを断ってましたよね」
「僕が顔を出したら、あいつらが僕の悪口を言えなくなるだろ」
 薪は、須崎が意図的に隠したことをずばりと指摘した。
 どうやら、自分の陰口が、連中の酒の肴になっていることを知っていたらしい。しかし、そう不愉快そうな顔もしていない。頭にこないのだろうか。

「サラリーマンにとって上司の悪口ってのは、効果的なストレスの解消法なんだ。僕だって若い頃は、友だちと上司の悪口で盛り上がったさ」
「僕は、人の陰口は好きじゃありません。本人に言えない事なら、陰に回っても言うべきじゃないと思ってます」
「潔癖なんだな。須崎は」
「青木さんだって室長の前ではいい子ぶってますけど、みんなと一緒に室長の悪口言ってますよ。僕はああいうのが許せないです」
 自分は薪を尊敬している。だから薪の悪口は聞きたくない。
 しかし薪は、青木が自分の陰口を叩いていることを知っても、さほど気にならないようだ。
 ふっと表情を和ませて立ち上がると、須崎の右手の上に自分の右手を重ねて、MRIマウスの正しい持ち方を教えてくれた。
「おまえ、薬指の使い方が違うんだ。もっとこう、指を立てて」

 連中は室長を鬼呼ばわりするが、自分にはこんなにやさしく指導してくれる。自分が室長にとって、特別な存在であるような気がして、須崎はうれしかった。
「ご教授ありがとうございます。なんとなく、コツが解ったような気がします」
 薪室長の言うとおり、こういうものは一日ではうまくならない。続きはまた明日だ。
 須崎は机の上を片付けて、モニターの電源を落とし、帰り支度をした。

「おまえくらいの手だと、教えやすいな」
「え?」
「去年は青木にも教えてやったんだけど、あいつの手は大きくてさ。指が届かないから、形を作るのも難しくて。今みたいにすんなりいかなかったんだ。それじゃなくてもあいつ、不器用だし」
 なんだ。青木もこの個人レッスンを受けたのか。
 この課外授業が、自分にだけ施された特別なものではなかったことが分かって、須崎は少しがっかりした。
「じゃ、僕のほうが優秀ですか?」
「覚えの速さから言ったら、おまえのほうがずっと上だ。青木はここに来て最初の2ヶ月は、トイレで吐いてただけだからな。あいつを仕込むのは、本当に苦労したよ。ようやく画に慣れたのが秋の終わりだから、1年近く掛かったんだ」
 青木の情けない逸話に、須崎は声を立てて笑った。今も大したことはないが、新人の頃の話は、もはや漫才だ。

「おまえは平気なんだな。あの凄惨な『お宝画像』を見ても」
「僕は理Ⅲの人間ですから。人間の内臓は見慣れてるんです」
 東大理科三類は、医学部への道でもある。それで薪なら納得してくれるはずだ。
 しかし、須崎がお宝画像のグロテスクさに目を背けなかったのは、大学の頃からずっと訓練してきたからだ。医学部の教授に頼んで解剖の見学をさせてもらったり、DVDを見せてもらったり、須崎は将来警察機構で働くことを視野に入れて、努力を重ねてきたのだ。

「なるほどな。がんばれよ、須崎」
「はい」
 薪室長は、自分に期待してくれている。
 たかだか1歳年上の、あんなボンクラに負けるわけには行かない。青木にもそこのところは、きっちりと釘を刺しておかなくては。1度くらいのまぐれ当たりで、自分のほうが上だと思われてはたまらない。
 セキュリティーをかけて部屋を出る室長の後について歩きながら、須崎はひとつ年上の同僚に敵愾心を燃やしていた。



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新人騒動(16)

新人騒動(16)





 翌日、青木には報告書をまとめる仕事が待っていた。
 捜一から借りてきた膨大な資料の中から、林田琴美以外の被害者に関するものをピックアップする。他の被害者のことも、報告書には記載する必要があるからだ。
 今井と曽我が、自分たちの調べ上げたデータは渡してくれたが、被害者達がどんな人間だったのか、自分の目でも確かめておきたい。何を考え、どんな人たちを愛し、そしてどれだけの無念を抱えて死んでいったのか、できる限り理解してやりたい。

 箱の中を探っている青木の前に、ふいに人影が差した。
 須崎だ。コンビのサブとして、自分を手伝いに来てくれたのだろうか。
「青木さん。あのぐらいで僕に勝ったと思わないでくださいね」
 ……だと思った。
 
「僕に勝って室長の期待に応えられて良かった、とか思ってるんでしょう」
「別にそんなこと思ってないよ。それより、資料を探すのを手伝ってくれないか。最初の被害者の、山崎恵子さんに関するものを」
 須崎は勘違いをしている。
 薪が求めているのは、部下たちが優劣を競うことではない。全員が協力して、いち早く事件を解明することだ。

「須崎。捜査は勝ち負けじゃなくてさ、被害者の数を増やさないため、被害者や遺族の無念を晴らすためにするものだろ。おまえもこういう資料を読んで、被害者の人生について考えてみたら」
「僕、あなたのそういうところ大嫌いです」
 面と向かって人に嫌いだ、と言われたのは初めてだ。そんなにカンに障ることを言っただろうか。
「綺麗ごとばっかり並べ立てて。謙虚で控えめな可愛い後輩を装って。自分の能力に自信のない人は、そうやって他人に媚びへつらって生きるしかないんでしょうけど、あなたの場合はその態度が露骨過ぎて、ものすごく頭にきます」
 自分は、他人からそんな風に見えるのだろうか。自分では意識していなかったが、先輩たちに媚びているように感じられるのだろうか。
「I種の模擬試験もギリギリだったくせに。お宝画像も去年の冬、ようやく見終わったばかりのくせに。どっちも僕の成績の足元にも及ばないじゃないですか。それなのに、どうして室長はあなたを僕よりも上だなんて!」
 それは何日か前の早朝、薪とモニタールームの掃除をしながら交わした会話だ。どうやら立ち聞きされていたらしい。
 須崎の勢いに押されて、青木は黙った。ここで言い返せないところが、青木のやさしさであり、ダメなところだ。

「須崎。第九はたしかに実力主義だがな、それは目上の者に対する敬意を忘れていいということじゃないぞ」
 何も言えない青木の代わりに、須崎をたしなめてくれたのは、岡部だった。
 岡部は、薪と遠藤の次の研修について話していたのだが、新入りに追い詰められている青木を見かねて助け舟を出しに来たのだ。薪は放っておけと言ったが、青木の性格では、須崎にやり込められてしまうだろう。今井に頼まれていたことでもあるし、一度は話をしておこうと思っていたのだ。

 青木は頼りになる先輩の出現に、ほっと胸を撫で下ろした。
 副室長の岡部の言うことなら、須崎も素直に聞くだろう。
 青木だけでなく、職員たちはみなそう思っていた。陰でこの新人が、岡部のことを類人猿呼ばわりしていたとしても、本人を目の前にしては何も言えないはずだ。岡部は正式な第九の副室長なのだ。
 ところが、須崎のキャリア魂は常識を超えていた。

「目上? ノンキャリアのあなたが、キャリアの僕の上だって言うんですか?」
 攻撃対象を岡部に変えて、須崎は辛辣に言い放った。
「僕は7月には、警部の昇格試験を受けます。秋にはあなたと同じ警部だ。たった半年の間の尊敬が、そんなに欲しいんですか?」
 ぎゅっと拳を握り締めて、岡部は口を閉ざした。
 こいつには何を言っても無駄だ。幼い頃からエリート教育を受けて育ったのだろう。警察庁に入って、たった半年で、すっかりキャリア組の色に染まっている。
「まあ、気持ちは解らなくもないですけど。ノンキャリアのあなたがキャリア組の僕の上に立てるとしたら、今のうちだけでしょうからね。でも、そんなの無駄なことだと……っ!」

 パン! という音に続き、カシャン、という無機質な音が響いて、須崎の眼鏡が床に落ちた。
 全員が須崎の頬を張った人物に注目する。それは、須崎が第九で唯一尊敬していた室長その人だった。
 
「須崎。おまえは僕を愚弄するのか」
「まさか。僕は薪室長を心から尊敬して」
「岡部を副室長に選任したのは僕だ。僕の人事評価が、間違っていると言いたいのか」
 背中に冷気をまとって、薪は須崎を睨み据える。会議のときに遠藤に見せた冷たさとは比較にならない、絶対零度の青白いオーラ。
 氷の室長の本領発揮である。
 初めて見せる薪の冷たい瞳に、須崎は鼻白んだ。

「岡部の言葉は、僕の言葉だ。肝に銘じておけ」
「……やってられません」
 床に落ちた眼鏡を拾い、掛けなおして須崎は薪を睨んだ。薪の前ではずっと従順だった新人は、初めて彼に反抗心を見せてきた。
「上司の命令に従えないなら、おまえにはここを辞めてもらうしかない。命令をきけない部下など、無能な部下よりたちが悪い」
「キャリアの僕に、ノンキャリアの命令に従えって言うんですか。自分より頭の悪い人間の言うことを聞くなんて、僕には耐えられません」
「頭の悪い人間? 僕から見れば、おまえの頭も大したことないけどな」

 部屋中の人間が、耳を疑った。
 全国1位の頭脳を持つ須崎が、大したことない?
 薪が優秀なのは知っているが、これは少し言葉が過ぎるだろう。
 薪と違って、須崎は去年大学を卒業したばかりだ。勉学にも論文にも慣れ親しんでいるし、休み時間にまで数学の専門書を読んでいるほどの勉強家だ。

「いくら薪室長でも、言っていい事と悪い事があります。僕は自分の頭を錆付かせないために、いつも努力してるんです」
「おまえの努力って、これのことか」
 薪は須崎の机から、数学の参考書を取り出した。
 分厚い本は、難解な数式で埋め尽くされている。理数系が苦手な青木などは、表紙を見ただけで頭が痛くなってしまう。
「くだらんな」
「くだらない? 昼休みに昼寝ばかりしてるあなたに、その内容が理解できるんですか? 次のページの問題が解けますか?」
 薪は、現役の学生から離れて大分経つはずだ。大学を卒業してからもずっと勉学に励んできた自分より、学問に関して勝っているはずがない。

 挑戦的に言い募る須崎に、参考書が突き返された。
「つまらん。頭の体操なら、オセロゲームのほうがまだマシだ」
「負け惜しみ言って、え!?」
 難解度Aクラスの問題を掲載したページには、いつの間にか答えが書き込まれていた。
 いずれも計算式の記載はなく、解だけが記入されている。10問すべての答えがあっていることを確認して、須崎の顔が青くなる。

 計算式も書かずに、この問題を暗算で? しかもこの短時間で?

 須崎はぎりっと口元を歪めると、参考書を床に叩き付け、モニタールームから飛び出していった。残された職員たちは、今の一幕に完全に固まってしまっている。
「おまえら、なにをぼーっとしてんだ。さっさと持ち場に戻れ」
 薪の言葉にみなが我に返り、自分の仕事に戻っていく。
 岡部が床に落ちた参考書を拾い上げて、パラパラとページを捲った。薪が解答を記入した頁を開いて、大きくため息をつく。

「俺には、問題の意味すら解りません」
 その参考書の内容は、岡部には理解不能だ。外国語どころか、宇宙の言葉で書かれているようだ。
「僕だってそんなの、解けるわけないだろ。何年現役から離れてると思ってんだ」
「だって今、すらすらと答えを」
 薪は意地悪そうな顔になると、人の良い副室長に種明かしをしてやった。
「須崎の目を盗んで、巻末についてる答えだけ暗記したんだ。数式までは覚え切れなかったけど、答えだけならな」
「なんだ。そうだったんですか」
 自分の上司が宇宙人ではないと分かって、岡部は安心したように笑った。
「そんなもの解けたって、仕事の役には立たない。それはただの資源ゴミだ」
 せせら笑いを浮かべて、東大理Ⅲ用の参考書を資源ごみと断定する。この上司はどこまでも傲慢だ。
「昼休みに、オセロでもしますか」
「いいぞ。その代わり、負けたほうがランチ奢りな」
「受けて立ちますよ。オセロは俺、けっこう得意ですから」

 そんな会話で、今の寸劇に幕を下ろすふたりを見て、青木は切ない気持ちでいっぱいになる。
 なんてひとだろう。
 あの参考書は青木も見たことがある。店頭で手に取っただけだが、自分には無理だと諦めた。
 だから青木は知っている。薪は巻末の解答を見て答えを書いた、と言ったがそれは不可能だ。あの参考書は、解答が別冊なのだ。つまり、薪はあの問題をその場で解いたのだ。
 しかし、青木のこころの震えは、その人間離れした頭脳への感嘆ではない。

 まことしやかな嘘。あんな見事な嘘がつけるのは、薪しかいない。
 なんてやさしい嘘をつくひとなんだろう。
 これまでもこのひとは、こうして鮮やかな嘘を吐き続けてきたのだろうか。あの皮肉屋の仮面の裏側で、どれだけの見えない愛を周囲に注いできたのか。

 新人の新しい研修内容を決定して、薪はモニタールームを出て行った。所長に研修の申請をしてくる、と薪は言ったが、たぶん帰りは遅くなる。申請書類を挟んだファイルに隠すように、分厚い『資源ゴミ』を持って行ったからだ。

 その細い背中を見送って、青木は薪に対する気持ちが、また膨らみ出すのを感じる。
 自分はよくひとにやさしい男だと言われるけれど、薪のような真似はできない。関わる人間すべてに注げるほどの、愛情は持ち合わせていない。
 部下に、友人に、事件の被害者や遺族、あるいは加害者、さらには市井の人々にまで―――― 対象となる人物は限りがないように思える。
 どうやったら、あそこまでやさしくなれるのだろう。自分もここで研鑽を重ねれば、いつか薪のようになれるのだろうか。

 青木は、2年目の春に相応しい決意を胸にする。
 きっとなってみせる。
 薪の下で精進を重ねて、強さもやさしさもしたたかさも、薪に吊り合うくらいの人間に。頭脳だけは、無理だと思うが。
 
「よし。山崎さんの書類書類、と」
 新たな想いを胸に、青木は再び資料を探し始めた。



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新人騒動(17)

新人騒動(17)





 中庭のベンチに腰掛けて、須崎武彦は柔らかな緑色の新芽が芽吹いた樹木を、ぼんやりと眺めていた。目に映ってはいるのは新芽の緑だが、須崎の脳に結ばれた画像は、まったく別のものだった。

 あの参考書に書かれた薪の解答。その解を導き出すまでの、人間離れした速さ。
 先刻の出来事は須崎にとって、言い訳の余地のない初めての敗北だった。
 完敗だ。あの人は本物だ。
 その室長が、どうしてあんな類人猿なんかのために、あそこまで怒ったのだろう。
 今まで一度も咎められなかったのに。青木に対する侮蔑の態度も、捜一のキャリアに対する揶揄も、見過ごしてくれたのに。

 これまで須崎は、こんな風に、他人の気持ちを考えたことがなかった。
 須崎にとって他人は、自分のライバルかそうでないか、どちらかだった。
 ライバルには容赦しない。蹴落とすためなら、心無い言葉で精神的なダメージを食らわせたりもするし、ライバルの勉強が遅れるように小細工もしたりする。嫌がらせの手紙や、講義の時刻変更の意図的な連絡洩れや、須崎もさんざん受け取ってきた。自分もそのぶん他の誰かに返してやったが、胸の中に黒く滞った塊は、大きくなる一方だった。

 エリートの人生なんて、そんなに楽しいもんじゃない。自分の苦労など、誰にも分からない。
 自分がここまで来るのにどれだけの辛苦を舐めてきたのか、どれだけのものを切り捨てて来たのか、誰も知らない。
 薪なら、理解してくれるかと思っていた。
 超がつくエリートで、須崎が初めて自分より優れた頭脳を持っていると認めた相手。
 薪も自分のことを気に入ってくれている、と思っていた。自分と話をするときの薪は、いつも穏やかに微笑んでいて、他の職員たちにするように、皮肉や嫌味を言ったことはなかったからだ。

 突然、目の前に数学の参考書が出てきて、須崎は驚いた。
 薪が前に立っている。細い腕をぴんと伸ばして、須崎の顔に限りなく近づける形に参考書を突き出している。
「いらないなら資源ゴミに出すぞ」
 須崎はそれを受け取った。
 薪は、黙って須崎の隣に腰を下ろす。しばらくの間、須崎と同じ樹を見つめていたが、やがて穏やかな声で話し始めた。

「須崎。どうしておまえが見つけられなかった真相に、青木が気付いたか、知りたいか」
「まぐれ当たりじゃないんですか」
「MRI捜査に、まぐれなんてものはない」
 薪は、須崎の答えを予想していたようだった。静かな表情のまま、すぐにその解答に不可をつける。
「おまえの頭が、とびきり優秀なのは認める。努力を怠らないこともわかってる。でも、おまえには捜査官として、決定的に欠けているものがある」
「僕に足りなくて、青木さんにあるものってことですか?」
「そうだ。何だと思う?」
「……解りません」

 この言葉を口にしたのは、何年ぶりだろう。
 解らない、ということは須崎にとっては屈辱だ。恥ずべきことだ。例え身に着けた知識があやふやでも、解答欄には何事か記入して部分点を稼ぐのが試験のセオリーだ。何も記入しないことは、始めから勝負を捨てることで、嘲笑に値する愚行だった。
 だが、薪は須崎の白紙解答を笑わなかった。真剣な表情で、須崎に答えを教えてくれた。
「視覚者の気持ちを読む能力だ」
 薪の解答は、須崎にとってはいささか詭弁めいて聞こえた。
 MRIは画像だ。気持ちは目に見えない。見えないからMRIには映らない。見えないものを、どうやって読めと言うのだろう?

「事件は試験問題じゃない。現実の人間が起こしたことなんだ」
 納得していない様子の須崎を見て、薪は詳しい解説に入った。
「おまえがMRI捜査の練習用に使ってたお宝画像は、編集済みのライブラリだ。つまり、必ずそこには解答が映りこんでいる。この画の中にあると判っているものを探すのは、誰にだってできる」
 青木がお宝映像をマスターしたのが、去年の冬だったと聞いたとき、須崎は記憶力だけでなく、観察力においても彼より数段優れていると確信した。彼が1年近くかかってようやく達成したことを、自分はたった2週間でやってのけたからだ。
 しかし、それは人によって遅いか早いかの違いだけで、早いからといって優れているわけではない、と室長は言う。

「現実の事件は、そうはいかない。視覚者の脳データのどこに事件の鍵があるか、そこから絞り込む必要があるからだ。それには事件の詳しい捜査資料や、被害者のデータを把握する必要がある。だから青木は、最初に資料を読め、とおまえに言ったんだ」
 たしかに言われた記憶がある。しかし、そんな説明は受けなかった。
 ……受けたとしても、聞かなかったか。

「おまえは、青木と同じ画を見ていたはずだ。青木のモニターと自分のモニターを連動させてたんだろ? にも関わらず、おまえは早川智美が双子であること、入れ替わっていることに気付かなかった。何故だと思う?」
 答えが見つからず、須崎は黙り込んだ。
 問いに答えられない生徒を見る講師の目というのは、とても冷たいものだ。
 こいつはどうして、これくらいのことが解らないんだろう―――― 須崎も、ずっとそんな目で周囲の連中を見てきた。
 自分がその立場に立たされたのは、初めてだ。きっと薪も、あの講師達のような目で自分を見ているのだろうと思うと、須崎は顔が上げられなかった。

「おまえは、モニターしか見ていないからだ」
 薪の声は穏やかで、講師達の声に含まれていたような苛立ちは微塵も感じられなかった。須崎がそうっと顔を上げると、強い光を宿した亜麻色の瞳と、視線がぶつかった。
「資料を読みもせず、被害者のことを解ろうともしないままMRIを見ても、そこにはただの画しか映らない。被害者がその光景をどういう思いで見ていたのか、それが理解できなければ、手がかりは見つけられない。だからおまえは、青木に負けたんだ」
「まだ負けたわけじゃありません。今回はたまたま。次は、必ず勝ってみせます」
 資料を読むか読まないかの差が出ただけだ。負けたわけじゃない。

「おまえは10年経っても、青木には勝てない」
 薪の予言に、須崎は眉をひそめた。
 自分が10年先も青木の下だと? それは須崎には、到底認められない未来図だった。

「そんなことはありえません。観察力も推理力も、僕のほうが青木さんよりずっと上です。MRIマウスの技術さえ習得すれば」
「技術だけに拘っているうちは、青木には絶対に勝てない。捜査はモニターを見るんじゃない、人間を見るんだ」
 亜麻色の瞳が、須崎の目を捉える。吸い込まれるような感覚とともに、須崎は薪から目が離せなくなった。
「第九は室内で捜査を行うけど、スタンスは現場と一緒だ。仲間とのコミュニケーションすら取れないおまえには、ましてや会ったこともない視覚者の気持ちは見当もつかない。周りの人間を思いやることもなく、自分の我を通すことしかできない子供には、MRI捜査はできない」
 誰かとこんな風に、真っ向から目を合わせて話をした事があっただろうか。自分と同じ高さで、真っ直ぐに向かってくる視線を、これほど真摯に受け止めたことがあっただろうか。

「僕がおまえと話をしているとき、僕が何を考えていたか分かるか?」
 薪は唐突に話題を変えた。
 その質問の意図がわからない。須崎は薪との会話を楽しんでいたし、薪もそう思ってくれていると信じていた。そうではなかったのだろうか。
「こいつの話はつまらないなって。ずっとそう思ってた。おまえはぜんぜん気付いてないみたいだったけど、僕はかなり迷惑してた」

 冷たい言葉だ。
 でも。

「青木はバカだけど、おまえと違って人の気持ちには敏感だ。言葉にしなくても、あいつには僕の言いたいことが全部伝わる。おまえが青木に勝てない理由のひとつだ」
 何かが、伝わってくる。
 薪の身体から、なにか温かいものが流れ込んでくる感じだ。なんだかとても安心する。

「僕が口に出さなかったから、気がつかなかっただろ?
 でも、人間は本当のことは言わないし、思ったままの行動を取るとは限らない。笑顔の裏の悪意を、悪言の裏の好意を見抜けなければ、事件の捜査はできない。わかったか?」
 薪の険しい表情と厳しい口調を目の当たりにしながら、須崎の心はまるで反対の感情に満たされていく。
 不思議だ。薪にかかると、日本語の意味が解らなくなりそうだ。
 自分はいま落伍者の烙印を押されているはずなのに、屈辱も悔しさも湧いてこないのは何故だろう。まるで憑き物が落ちたように、清々しい気持ちになるのはどうしてだろう。

 須崎はふっと肩の力を抜いて、ベンチの背もたれに寄りかかった。
「警察の科学捜査で、そんな曖昧なものを重要視しなければならないとは思いませんでした。僕には、第九の仕事は向いてませんね。なんたって理Ⅲの人間ですから」
「システム開発室に、推薦状を書いてやる。おまえはそこで頑張れ。あそこの室長は僕の同期だ。おまえのことをよく頼んでおくから」
 薪の瞳が、限りないやさしさをたたえる。その言葉は、上辺だけのものでない。
 試験前になると塾の教師たちは、熱を込めて須崎を励ましてくれた。でも、その激励を受けて、こんなふうに気持ちが落ち着いたことは、一度もなかった。

「どうして僕の世話を焼いてくれるんですか。副室長に暴言を吐いた僕を、怒ってたんじゃないんですか」
 薪は少し考え込んだ。
 右手を口元に当てて目を泳がせる。薪でも、向けられた問いに即答できないことがあるのか。

「おまえは多分、もうひとりの僕だから」
 ためらいがちに薪は言った。

「昨夜おまえは、自分と周囲の人間の違いについて、感じていることを僕に話してくれただろ? みんなの言うことは、自分には理解できないって。どうしてあんな話題で盛り上がれるのか、不思議でたまらないって」
 亜麻色の瞳が感傷を含む。薪は昔のことを思い出している。
 話をするときに相手の目を見ると、言葉に表れないたくさんの情報が、こんなにもはっきりと伝わってくるのだ、ということを須崎は初めて知った。

「僕もおまえと同じだった。ずっと周りの人間とのズレを感じていた。この世界は彼らのもので、自分は異邦人のような気がして。
 でも、僕には大学の時に親友ができて」
 親友。
 それは自分には、馴染みのないものだ。エリートを称するものにとって、友という言葉はライバルと同じ意味だ。親友なんてできるはずがない。

「彼はとてもやさしい男で、僕は彼にいろんなものをもらった。彼が僕に与えてくれたものは、僕とこの世界をつないでくれた。それでようやく僕は、この世界の住人になることができた。親友が、僕とこの世界の橋渡しをしてくれたんだ」
 その親友と出会えなかったら、薪は須崎と同じ、第九の仕事に向かない人間になっていたと言いたいのか。だから自分のことを放っておけなかったと。

「僕と対等に話ができる人間は、頭のいい人間に限られてしまうから、相手も僕に敵愾心を持っています。薪室長のお友だちのように、頭も良くてこころも広い人間は、なかなか見つかるものじゃありません」
「鈴木は、僕の親友は普通だった。学校の成績なんか、おまえの足元にも及ばなかった。Ⅰ種試験だって僕がつきっきりで教えたんだ。おかげで僕は、自分の勉強をする暇がなかった」
「それで全国1位?」
 もしかして、これは自慢だろうか。
「面接の試験官が、女性だったんだ」
 違った。冗談だった。
 にやりと笑った薪の意地悪そうな顔は、第九の職員たちにいつも向けられていたものだった。それが、こんなに親しみを込めたものだったなんて。須崎はちっとも気付かなかった。

「おまえはあの時、みんなのことを自分より低レベルだと評したけど、だから彼らと話が合わないと言ったけれど、それは逆だ。僕たちが彼らに及ばないんだ。
 彼らのコミュニケート能力に、ついていけない。僕たちのレベルが低いんだ」
 正午のチャイムが鳴って、第九の門から職員たちが出てくる。
 背の高い捜査官を真ん中にして、なにやら楽しそうに話しながら管理棟のほうへ歩いていく。カフェテリアに昼食を摂りに行くらしい。
 その和やかな様子を見ながら、薪は彼らを慈しむような微笑を浮かべる。
 
「青木の周りには、自然とひとが集まってくるだろ。何故だと思う?」
 たしかに、青木はいつもみんなに囲まれている。
 どうしてだろう。

「あいつは、特別面白いことを言うわけでも、おかしな行動を取るわけでもない。でも、側にいるだけでみんなが笑顔になる。
 一緒にいると、楽しいからだ。
 青木は相手が何の話をしてきても、楽しそうに話を聞くだろ? 青木だって、相手の言ってることが全部解るわけじゃない。それでも、相手のことを理解しようとして、表情を見て心を読んで。あいつはバカだからよく間違ってるけど、それでもいいんだ。青木が相手のことを理解しようと、一所懸命に心を砕いていることは伝わってくる。それが周りの人間を、幸せな気分にさせるんだ」
 そう言う薪の顔も、とても幸せそうだ。

「だから須崎。開発室へ行ったら、友だちをつくれ」
 室長の最後の業務命令に、須崎は内心の驚きを隠せない。警察機構で上司にこんな指示を受けるなんて、考えもしなかった。
「ダイヤモンドはダイヤで磨くだろ? 人も同じだ。人を成長させてくれるのは、やはり人なんだ」
 ベンチから身を乗り出して、薪は須崎に相対している。須崎もそれに応えて、自然と薪のほうを向いている。
人と向かい合うというのは、こういうことなのだ。その間には、難しい物理学の本やPC工学の専門書は必要ない。
 ただ、素直な気持ちがあればいいのだ。

「競争相手じゃない、友だちを作れ。ライバルという名の友だちでもいいから、腹を割って話せる相手を作れ。それがおまえの感性を磨いてくれる。それができれば、おまえは最強の捜査官になる」
 須崎はこっくりと頷いた。
 これまで自分の力不足を認めることは、負けだと思い続けてきたが、そうではないのかも知れない。
 肩が軽い。
 自然に顔を上に向けたくなるのは、何故だろう。

 欲求に従って顔を上げると、5月の美空が目に飛び込んでくる。緑一面の芝生も樹木も、生命力に溢れて、きらきらと輝いている。
 もうずっと長いこと、空がきれいだとか緑が美しいとか、思ったことがなかったような気がする。
 この目は、文章や数式を読むためだけでなく、風景を見ることにも使えるのだと、いま気付いた。
 世の中には、自分の目を楽しませてくれるものが沢山あるのだ。

「さて、行かなくちゃ。岡部と昼休みに、オセロゲームをやる約束をしてるんだ」
 薪はすっと立ち上がった。いくらか伸びてきた前髪を優雅な指先で払って、ジャケットの襟を正す。
 今まで気付かなかったけれど、こうやって見ると室長は、とてもきれいだ。
 理知的でクールだ、とは思っていたけれど、こんなにきれいな人だったのか。もっと早くに気付いていれば、もう少し違った展開になっていたかもしれないが、どうやら手遅れのようだ。
 
「勝った方は、カフェテリアのSランチだ。絶対に奢らせてやる」
「頑張ってください」
 須崎の応援に薪はにっこりと微笑んで、第九の正門へ歩いていった。



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新人騒動(18)

新人騒動(18)






 職員食堂のSランチは、人気メニューのひとつである。
 他の商品と比べて少し値は張るが、それだけの価値がある。内容的には洋風フルコースの形をとっており、サラダにスープにメインの魚と肉料理、パンかライスかパスタが選べて、デザートにアイスクリームとコーヒーまでついている。研究所の食堂だから味はそこそこだが、そのボリュームは街中のどの店にも負けない。

 薪は、食後のコーヒーを飲んでいる。
 昔はこのコーヒーを何とも思わずに飲んでいたはずだが、久しぶりに口にしてみると、いまひとつ、というか3つくらい物足りない。
 そういえば、この前小野田にご馳走になったペニンシラのブルマンも、やっぱり後味が悪かった。初めてあのホテルのコーヒーを飲んだときに感じた後味の悪さは、間宮が混入したクスリのせいではなかったのだということが解って、薪は第九のバリスタの地位が不動のものとなったことを悟った。

「もう食べないんですか?」
「うん。ごちそうさま。おなかいっぱいだ」
 岡部から勝ち取ったSランチを結局は食べきれず、半分は残してしまった。食堂の人に悪いとは思うが、これ以上食べるといつぞやの二の舞になる。ぜんぶトイレに食べさせるより、半分でも人間の身になったほうが、これを作った人も喜ぶだろう。その理屈に、何人のシェフが納得してくれるかは別として。

 職員食堂の一角で、突然わあっという歓声が上がった。仲間内で何かめでたいことがあったらしく、おめでとう、という声が聞こえる。
 大きなはしゃぎ声に、薪は眉をしかめた。周りの職員たちも、何事かとそちらを見ている。
ここは公共の場所だ。祝い事も節度を持ってするべきだ。他の職員の憩いのときを妨げるような真似をするなんて、どうせ捜一あたりのマナーをわきまえない連中――――。
「良かったな、青木!」
 ……うちのバカどもだ。

「岡部、止めて来い。周りに迷惑だ」
 向かいの席で食後のコーヒーを飲んでいた岡部に、連中を黙らせるように命じて、薪はため息をついた。
 青木の金星はたしかにめでたいが、いくらなんでも大げさに騒ぎすぎだ。少し、締めてやらなくては。
 が、彼らのお祭り騒ぎは別のことだった。

「室長、見てください!」
 騒音公害の元凶が、こちらに移動して来た。他の連中もわらわらと付いてきて、騒ぎはちっとも収束されていない。何をやってるんだと岡部を見れば、連中と一緒になって青木の肩を叩いている。完全にミイラ取りがミイラだ。
「姉の子供が産まれたんです!いま写メが来て。ね?可愛いでしょう」
 薪の背後から大きな手が伸びてきて、携帯電話の画面が差し出された。
 画面には、生まれたばかりの目も開かない赤ん坊の姿が映っている。産湯を使ったばかりらしく、はだかでバスタオルの上に仰向けに寝かされている。ぎゅっと握られた小さな手が顔の両脇に置かれ、細い棒のような足が、赤子特有の形に開かれている。女の子だ。

「将来はすごい美人になりますよ、きっと」
 サルの子供にしか見えない。頭の形なんか、まるでサトイモみたいだ。
「もう叔父バカか。おめでたいやつだな」
「いくら可愛くても、最終的にはどこかの男にとられちゃうんですよね。嫌だなあ」
 姪の前に自分の心配をしろよ、と小池から突っ込みが入る。
 仲間たちは笑っているが、自分たちだってひとのことは言えないはずだ。第九で恋人がいるのは今井だけで、他の者は女友達すらいない。しかし青木は言い返しもせず、バツが悪そうに頭を掻いた。

 こいつの単純な思考回路の十分の一でもいいから須崎についていれば、あいつはあんな学生時代を送ることもなかっただろう。もしくは、自分のようにいい友だちに巡り会えていれば、もう少し楽に人生を生きられたはずだ。
 須崎は大丈夫だろうか。
 新しい職場で、また除け者にされてしまうんじゃないだろうか。
 第九の仕事が務まらない職員に引導を渡すのは薪の役目だが、その後はいつも憂鬱だ。相手のためを思ってすることだが、切り捨てていることに変わりはない。これで良かったのかどうか、かならず幾ばくかの迷いが残って、それが亜麻色の瞳を曇らせる。

「こんなふうに、産まれたときはみんな天使なんですよね」
 青木の声が低くなる。薪は、その微妙な変化を肌で感じる。
 こいつは叔父バカをよそおって、自分に何か言いたいことがあるのだ。
「みんな、そのことを忘れちゃってるだけです。きっかけさえあれば、思い出せるんです。だから、きっと大丈夫ですよ」
「なにが」
 青木は笑って答えない。
 ……自分の心配事に気付いていたのか。こいつ、このごろ岡部レベルになってきた。

「室長の携帯にも、この写メ転送しときましたから」
「嫌がらせか?」
「子供、嫌いですか?」
「サルの写真なんか要らん。20年後に撮影しなおして、再送しろ」
「うわあ。薪さんて本当は、むっつりスケベなんじゃ」
「あん?」
「だってこれ、オールヌードですよ」
 あはは、と自分の部下たちが笑っている。
 なるほど、須崎の言う通り低レベルだ。
 が、傍目から見ると呆れるような会話でも、輪の中に入ってしまうと楽しいものだ。

「わかった、生写真は諦める。その代わり」
 薪は自分の携帯の写真フォルダを開いて、青木から転送されてきた写メールを画面に呼び出す。意地悪そうな顔になって、新米の叔父に不埒な計画を持ちかける。
「スパコン使って、成長過程をシミュレーションしてみるってのはどうだ?」
「シミュレーション?」
「この写真のポーズのまま、大人の姿になっていくと」
 どういうことになるか、青木にも解ったようだ。他の連中は一足早く、にやにやと笑っている。

「やめてくださいよ! オレの姪っ子を穢さないでください!」
「僕は室長だからな。部下の期待を裏切るわけにはいかん。むっつりスケベならそれらしくしないと」
「助けてください、岡部さん。オレの姪っ子が、嫁にいけなくなっちゃいます」
「おまえさっき、他の男に渡したくないって言ってただろうが」
「えええ~、岡部さんまで」
 青木が情けない顔になる第九の黄金パターンが決まって、職員たちがげらげらと笑い始めた。薪の周りにいた顔も知らない職員たちまで、つられて笑っている。

 笑い声に包まれたカフェテリアの真ん中で、薪はゆっくりとコーヒーを飲み干した。



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新人騒動(19)

新人騒動(19)





 システム開発室の入り口に立ち、須崎武彦は背筋を正した。

 今日からここが須崎の職場だ。PC工学の専門知識は、事前に頭に入れてきた。研修なしで即戦力になれるだけの力が、須崎にはすでに備わっている。
 自分は国家公務員Ⅰ種試験首席合格者だ。みんなが自分に期待している。それに応えなければならない。全国1位の自分にできないことなど、あってはならない。周囲に遅れを取ることも許されない。

 だから。
 前の部署の上司の期待にも、応えてみせる。

 須崎は上着のポケットから、携帯電話を取り出した。写真のフォルダを開き、一つの画像を選び出すと、迷うことなく削除ボタンを押した。
 携帯の待ち受け画面が、初期状態の面白味のない幾何学模様に戻る。

 須崎は肩をすくめて携帯を閉じると、新しい職場のドアをひらいた。


 ―了―




(2009.3)



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新人騒動 ~あとがきと拍手のお礼~

 この度は、この世界で起きた新人騒動にお付き合いくださり、誠にありがとうございました。
 須崎君のキョーレツなキャラ、いかがだったでしょうか。思い切り、むかついていただけましたでしょうか。って、なんて不愉快な小説でしょう(笑)

 今回のお話は、青木くんの成長物語でございました。というか、このお話そのものが、彼の成長物語になっております。薪さんに相応しい男になるべく、努力を重ねていく彼の姿を描くのが、わたしの小説の骨子です。
 うそです。そんな大層なもんじゃないです。R系ギャグですから☆

 今回も、コメントや拍手をたくさんいただきました。
 ありがとうございました。
 コメントも拍手も、とってもうれしいです。あれは物書きにとって、栄養ドリンクみたいなものです。すごく元気が出ます。
 もともとわたしは、掲示板とかでワイワイやるの、大好きなんです。だからコメント書くのもいただくのも、レスを書くのも返していただくのも、とても楽しいです。
 以前、よそのブログさまで拝見したのですが、秘密仲間でチャットをなさったことがあったとか。
 う、羨ましい……わたしも覗いてみたかったです。

 さて、次のお話ですが。
 第九に残った、最後の新人くんの顛末が書いてあります。
 遠藤くんは、明るくていい子なんですけどね。どうしてああなったかな。まあ、最初から3人の役割は決まってたんですけどね。


 ところで。

 みなさまにポチポチと押していただいた拍手の数が、7/19で1000を超えました! ありがとうございました!
 すごくすごく、うれしいです。
 これだけ閉鎖されたブログで、(訪問者数はせいぜい10人くらいだと思います)1ヶ月あまりの間に1000もの拍手をいただけるなんて、ある意味スゴイと思いました。なんて律儀な方々でしょう。

 とりあえず、懲りもせずにリクエストを募ります。
 こないだは締め切りが早すぎる、というご意見もございましたので、今回はゆっくりと。8月いっぱいくらいまで、お待ちしてます。

 よろしくお願いします。




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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

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毎日たくさんの拍手をありがとうございます。励まされてます。
おかげさまで、しづは元気で仕事してます。(10/28)
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