ラストカット 後編(1)

ラストカット 後編(1)





「もう一度、長野に行きませんか?」
 青木の小旅行の誘いに、薪はしぶしぶ頷いた。その目的が、自分に深く関わっていたからだ。

 半年ほど前、ふたりは長野の山中で猛吹雪に遭い、もう少しで死ぬところだった。
 MRI捜査のための遺体を搬送中の出来事で、経過時間の関係から遺体を冷凍保存しなければならない状況に追い込まれた彼らは、雪の中に遺体を埋めるという非常手段に出た。その作業の最中、突風で飛ばされてきた巨木が車両に激突し、彼らは降りしきる雪の中で救助を待たなければならなくなった。
 吹雪の中で意識を失い、死を覚悟した薪だったが、青木の機転により九死に一生を得た。青木は道端の石地蔵で車のリアガラスを割り、気絶した薪の体を棺の中に避難させたのだ。

 壊してしまった石地蔵と同じものが出来上がったので、それを元の位置に祀って来るという。青木が勝手にやったことだが、自分を助けるために行ったことであるし、きちんと礼を述べて拝んでくるのが人間として正しい行動だろう。
 せっかくの休日だが、仕方ない。人として部下の見本になるように努めるのも、上司の仕事だ。

 季節は変わり、街はすっかり春の気配に包まれている。
 桜前線も訪れて、先週第九でも職員総出で夜桜見物をしたばかりだ。もちろん薪は行かなかったが、場所は青木のアパートの正面にある例の公園だったと聞いている。あそこの桜は一昨年前から見ているが、実に見事なものだった。今年も1度くらいは見ておきたい。
 そう思って、薪は青木の家まで出向くことにした。

 約束の時間より早めに行って、公園をぶらつく。桜はすでに満開だ。
 とても美しかったのだが、休日の公園は人出が多く、昼間だというのにすでに酩酊している輩もいて、ゆっくり散策を楽しむどころではなかった。
 子供の金切り声と酔っ払いの笑い声に辟易しながら、薪は公園を素通りした。
 いまここに、花を愛でているものなど存在するのだろうか。もっとも花見の目的は花だけではない。仲間と過ごす楽しい時間こそが、彼らの本当の目的なのだろう。青木のように、料理が目当てという意地汚い奴もいるが。

「おはようございます。今日はお付き合い頂いて、ありがとうございます」
「おはよう」
 時間よりはだいぶ早かったのだが、青木は公園の出口で薪を待っていた。
 青木の部屋からはこの公園が丸見えだ。窓から薪の姿に気が付いて、出てきたのだろう。

 ふたりとも春の出立ちだが、手には冬のコートを持っている。
 長野は春の訪れが遅い。特にあの地方は、まだ雪がたくさん残っている。荷物にはなるが、準備は必要である。

 霞ヶ関の駅で、薪は青木から電車の切符を渡された。旅費は自分で出すつもりでいたが、律儀な部下は薪の分まであらかじめ切符を購入していたらしい。
 しかし、その切符の目的地がいささかおかしい。
「なんで横浜なんだ?」
「ここが一番近いヘリポートなんです」
「ヘリポート?」
 長野に行くために、わざわざヘリを調達したのだろうか。電車で充分用が足りるのに、それは無駄遣いというものだ。
「なんでヘリなんか借りたんだ? もったいない」
「今日はオレ、かけてますから」
「なにを?」
 青木はにっこり笑って薪の口を封じる。この疑問に答えてくれる気はないようだ。

 ここ最近、青木は少しおかしい。
 長野から帰って来た頃からだ。口数が減った気がするし、いくらか元気がないようだ。
 だが、仕事はこれまで以上に頑張っている。薪が帰ったあとも研究室に残って自己学習をしているようだし、宇野について特別なMRI画像の引き出し方なども学んでいるようだ。
 さらには、身体的な鍛錬も積んでいるらしい。
 よく岡部と一緒に道場へ行っているし、警視庁のジムも利用しているようだ。何故か薪には秘密にしたいらしいが、そんなことは先刻お見通しである。

 青木の努力を、薪は見守るつもりでいる。
 男というものは、こうしてがむしゃらに自分を鍛える時期があるものだ。
 薪も捜一に入ったばかりの頃は、必死でトレーニングに明け暮れた。周りの体力についていけなかったからだ。柔道だけは雪子に習っていたから、現場ではまったくの役立たずというわけでもなかったのだが、負けず嫌いの薪は何事においても人より優位に立ちたかった。そのためには自分の能力を高めるしかない。薪はずっと陰で努力してきたのだ。
 他人が言うように、自分は天才などではない。ただ、努力を続けられる才能があるだけだ。

 薪自身はそんなふうに自分の能力を評価しているのだが、やはりその頭脳だけは生まれつき飛び抜けている。そこに努力が加わって、昇格試験の最高得点やら最年少警視正昇任やらの記録を塗り替えてきたのだが、今のところ薪の快進撃は停滞している。本人は打ち止めだとさえ思っているが、薪の実力を知る者たちは、こぞってその復活を願っている。
 あれだけの才能を、埋もれさせるのはもったいない。
 第九の職員をはじめ、所長の田城や官房長の小野田まで、薪に警視長の昇格試験を受けるよう説得を試みているのだが、本人はどうしても首を縦に振らない。

 それはさておき、今日は絶好のフライト日和だった。
 澄み渡った空に暖かい太陽。空からの眺めは素晴らしかった。
「薪さん、見えます? この下、オレのアパートですよ」
 喧騒に気を削がれて、先刻は見る気にもならなかった桜が、ピンク色の絨毯のように眼下に広がっている。人々の姿はとても小さくて、まるで蟻のようだ。

「空から花見をするのは初めてだな」
「そこにクーラーボックスがあるでしょう? 中に薪さんの好きなものが入ってますよ」
「お、綾紫。わざわざ銀座まで買いに行ったのか?」
 薪の一番好きな酒は、京都伏見の『綾紫』という吟醸酒である。一般の酒屋では取り扱いがない酒で、会員限定の通信販売か銀座の専門店まで行かないと手に入らない。値段もいいから薪も特別な日でないと開けないのだが、この素晴らしい眺望には相応しい酒だ。
 クーラーボックスには保冷材がたくさん入っており、吟醸酒は薪の好みに良く冷えていた。つまみもちゃんと用意されていて、薪の好きな貝柱とあたりめ、ピーナツ抜きの柿の種。至れり尽くせりという感じだ。

 薪は紙袋の中から柿の種だけを取り出すと、後は元に戻してクーラーボックスの蓋を閉めた。袋を開けてカリカリと食べ始める。
「あれ? 飲まないんですか?」
「だっておまえ、操縦で飲めないだろ?」
「オレはいいですよ。それは薪さんのために」
 手を伸ばして、運転手の口にいくつか放り込んでやる。せっかくの美しい風景に、言葉は要らない。
 薪の気持ちを察したのか、青木は黙ってヘリの操縦に集中した。



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ラストカット 後編(2)

ラストカット 後編(2)




 眼下の風景は移り変わって、今は海が見える。きらきらと輝く水面はとても美しいが、目的地までの間に海はなかったはずだ。
「なんで長野に行くのに海が見えるんだ?」
「せっかくですから、風景のいいところを飛ぼうと思って。飛行距離が増えてもレンタル料金は一緒ですから」
 なるほど。それには薪も大賛成だ。

「どうです? 東京湾もこうしてみるときれいでしょう。あれ、海ほたるですよ」
「おまえ、この手で今まで何人口説き落としてきたんだ?」
「はい?」
「それで航空機免許取ったんだろ」
「あはは。バレました?」
 そんな冗談を言い合いながら、長野までは1時間ほどだ。車より電車より、遥かに早い。このペースなら夕方までには帰って来れそうだ。
 密かに薪が立てていたプランより、だいぶ早い帰宅時刻だ。てっきり夜になると踏んでいたから、公園の夜桜を見て帰ろうと思っていたのだが。

 市立病院の中庭を再び拝借して、長野に降り立ったのは午後2時を回ったところだった。
 ここからは、病院の車を借りるように手筈を整えていたらしい。前回、薪たちが借りたバンはスクラップになってしまったが、古いバンが新車になって返ってきたというので、病院側としては逆に喜んでいる。二匹目の泥鰌を狙っているわけでもあるまいが、病院の事務長は快くワゴン車を貸してくれた。
 青木はヘリから荷物を降ろし、ワゴン車に載せるとハンドルを握った。地図を片手に薪が助手席に座ろうとすると、青木はナビは要らないと言う。
「大丈夫です。任せてください。もう庭みたいなもんです」
 風邪をひいただけの薪とは違って、青木の容態はそれほど軽いものではなかった。
 特に腕の凍傷はひどくて、入院生活を余儀なくされたのだ。あの後、薪はすぐ東京に戻ったが、青木はここに3週間ほど滞在していた。その間に道を覚えたのだろう。リハビリと称して、ふらふら遊んでいたのかもしれないが。

 薪は当然のように後部座席に陣取った。前回は遺体運搬用のバンだったが、今回はツーリングワゴンだ。シートも柔らかいし、乗り心地もいい。
 石像を頼んだ石材店は、病院から車で30分ほどの距離だ。壊した地蔵と同じものを作るなら、やはり地元のほうが良い。

 4月だというのに、長野はまだ雪が残っている。
 市立病院の辺りには見られなかったが、田舎道に入るとかなりの量が溶け残っている。道の上はきれいなものだが、両側の林には地面が真っ白に見えるほどの雪があって、ともすると季節を間違えてしまいそうだ。
「けっこう雪が残ってますね。これは好都合だな」
「好都合? おまえ、あれだけの目にあっておいて、まだ雪が楽しみだとか言うんじゃないだろうな。僕はもう雪はこりごりだ」
「吹雪には参りましたけど、この風景はなかなかですよ」
 枝々のそこかしこに雪を飾った林は、クリスマスツリーが林立しているようだ。道端の地蔵にも雪がついている。たしかに東京ではお目にかかれない風景だ。

 石材店から地蔵を貰い受け、問題の場所に戻しに行く。地蔵の代金は薪が払うことにした。その値段に少し驚いたが、こういうものは値引きが利かない。坊主の読経が値切れないのと同じ理屈だ。
「薪さん、いいです。オレが払います。ちゃんと用意してきましたから」
「大丈夫だ。経費で落とすから」
「……いいんですか?」
「だってこれがなかったら、僕は死んでたかもしれないんだぞ。病院の車代が出せてお地蔵さまの代金が出せないなんて、おかしいだろ」
 たぶん経理課で撥ねられるとは思うが、ここはそういうことにしておかないと青木が気を使う。薪にとっては月給の3分の1程度だが、青木にはほぼ1月分だ。警部の給料などたかが知れている。キャリア組でも役職に就かないと、大した給料は貰えないのだ。

 石材店では設置を申し出てくれたが、青木は断った。感謝の気持ちを表すためか祟りを恐れてかは知らないが、自分でやると言う。ありがたいことに、石材店では設置手間の分を値引いてくれた。
 ワゴンの荷台に石像を積み込み、ベルトで固定する。見かけよりかなり重い。こんな重いものを振り回したとは、人間死ぬ気になればなんでもできるものだ。

 40分ほど走って目的の場所に辿りつく。3体の地蔵のひとつが無くなっているのが目印だ。あの日の極寒地獄のような光景とは打って変わって、今日のその場所は穏やかだった。
 薪の命を救う重要なアイテムとなった石像を元の位置に設置して、お祀りする。こういうものは設置する前に神主に頼んで祝詞を上げてもらうのだが、石材店の方でそれは済ませておいてくれた。神主への礼金も入っていたとなると、先程の料金はそう高いものでもなかったのかもしれない。
 元通りに3体の地蔵が並んで、この風景は完成する。
 やはりここには、このオブジェは必要なものなのだ。青木はワゴンからお供え物を出して、地蔵の前にしゃがみこんだ。季節に合わせて桜餅を用意してきたらしい。薪も隣に屈んで手を合わせる。

 心の中で礼を言って、薪は顔を上げた。青木はまだ熱心に何事か祈っている。
 当然だ。こいつが首を折ったのだから、祟られないようにしっかり拝んでおいたほうがい。
 ……青木が地蔵を壊したのは薪を助けるためだったのだが、祟りのほうは全部青木に被せるつもりらしい。

 再び車中の人となり、病院への道を戻る。が、青木はハンドルを逆の方向に切って、横道に入った。
「道が違わないか?」
「この道でいいんですよ」
「なんかだんだん、山の中に入っていくみたいだけど」
「大丈夫ですってば。信用してください」
 信用してくださいと青木は言うが、以前にもこいつの方向音痴にはひどい目に遭った。

 車はどんどん道ならぬ道に分け入っていく。やっぱり自分が案内をすればよかった、と後悔するが、今からではたぶん地図を見てもわからない。
 車の行く手には、幾重にも雪に覆われた枝が重なり合い道を塞いでいる。その5センチほどの隙間に車体を進めていく青木のドライビングテクニックは、確かにすごい。しかし、運転技術がいかに優れていても、道に迷ってしまっては運転手失格だ。

 やがてこれ以上は進めないところまで来て、ようやく青木は車を止めた。
 完全に迷ったらしい。
 運転席の役立たずが、後ろを振り返る。このままバックで来た道を戻るしかない。だからこいつに任せるのは心配だったのだ。
「おまえなあ」
「薪さん。降りてもらえますか?」
 皮肉のひとつも言ってやろうとした薪の言葉を遮って、青木は奇妙なことを言い出した。
「降りろって……おまえ、僕をここに置き去りにする気じゃ」
「まさか。薪さんのためにここまで来たんじゃないですか」

 青木はさっさと車を降りて、クーラーボックスとボストンバックを手に雪道を歩き出した。仕方なく薪もその後ろをついて行く。この先に、避難所でもあるのだろうか。
「もうすぐ着きますよ」
「どこに」
「天国です」
「置き去りじゃなくて、心中のつもりか?」
「あはは。薪さんの冗談は、相変わらず笑えないですね」
 しっかり笑っている。

「天国っていったい――― お!?」
 木の枝をくぐって目にした光景に、薪は思わず声を上げた。
「サルがいる!」



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ラストカット 後編(3)

 半年近く前になりますけど。
 500拍手のお礼のリクを募集したとき、『ふたりきりで露天風呂』というのをいただきまして。(かのんさん、覚えてらっしゃるかしら)
 後の話に出てきますので、とその時は先送りにさせていただいたのですが。
 それがこの章です。

 これはもう10ヶ月も前に書いたお話なので、細かいところは忘れちゃったし、あれー、なんでこんなこと書いたんだっけって、あちこち綻びているのに修正もままならず。
 残念な記憶力ですみません。(^^;





ラストカット 後編(3)







 雪に囲まれた岩の狭間に、滾々と湧き出る熱いお湯。それが自然に出来た溝を通って窪みに溜まり、大きな池になっている。
 ここは地元の人しか知らない温泉だ。
 お湯の中には先客がいる。野生のサルだ。ここは彼らの大浴場なのだ。
 
「ここに来るサルは大人しいですから。ひとを襲ったりしませんよ」
 青木は回復期には、この温泉に日参していた。病院の看護師に凍傷に良く効くと勧められたからだ。サルたちはまだ自分のことを覚えているかもしれない。

 ボストンバックから大きな布とバスタオル、海水パンツを取り出す。手ごろな木の枝を探して布を掛け、簡易式の脱衣所を拵える。
「薪さん、この中で水着に着替えてください」
「ん? なんか言ったか?」
 ……もうお湯に入っている。
「薪さん……脱ぎっぷりよすぎです」

 薪が脱いだ服が、岩の上に置いてある。
 防寒対策の白いロングコートに、パステルグレーのジャケット、同系色のズボン。春らしい薄緑色の開襟シャツに深緑色のネクタイ。よほど急いで服を脱いだと見えて、ズボンと下着が重なったままだ。
 青木は苦笑して薪にタオルを差し出し、薪の衣服を脱衣所に運んだ。コートは雪が積もっていない木の枝に掛けておく。こんなところに置いたら濡れてしまう。
 ここには着替える場所もないし、地元の人が来るかもしれないから、それなりの準備をしてきた。布を木の枝に掛けて簡易式の脱衣所を作り、その中で薪に水着に着替えさせて、温泉に入ってもらうつもりだった。

「薪さん。水着、着たほうがいいですよ。誰か来たらどうするんですか?」
「こんなとこに、男の裸を見て悲鳴を上げるような若い女の子なんて来ないだろ。それに、僕は男だから見られたって平気だ。だいいち温泉に水着で入るなんて。サルに失礼だ」
 最後の理屈はよくわからない。しかし、薪がわけのわからない理屈をこねるのは、機嫌がいい証拠だ。

「サルが来る温泉があるって、あれ嘘じゃなかったんだな」
「はい。ホテルの人に聞いたんじゃなくて、病院の守衛さんに聞いたんですけど。場所も奥平じゃなくて、病院のすぐ側なんです。あの時は後ろにいた男を撒こうと思って。嘘ついて、すみませんでした」
「ちゃんと説明してくれれば、引っかいたりしなかったのに」
 もちろん、正直に話そうとした。後で必ず連れて行きますから、と叫んだような覚えもある。聞く耳を持たなかったのは薪のほうだが、それを言うとまた傷薬が必要になる。

 クーラーボックスから吟醸酒を出して、木の盆に載せてお湯に浮かべてやる。亜麻色の瞳がいっそう輝いて、つややかなくちびるが冷たい甘露にキスをする。
「天国だ~!」
 雪景色に温泉に『綾紫』。自分を幸せにしてくれる3大アイテムが揃って、薪は大はしゃぎだ。今回の青木の計画は当たりらしい。
 
 実は、今日のデートに青木は勝負を賭ける気でいる。
 告白してから1年半。薪は一向に答えをくれない。
 いや、何回かきっちり振られているのだが、この1年半の間には色々なことがあって、そのたびに薪との距離は縮まっていくように思える。
 今日だって、二つ返事でついてきてくれた。決して嫌われているわけではない。その証拠に、薪はこんなことまで言い出した。

「あ~、気持ちいい。おまえも早く入れよ」
 恐ろしいことをさらっと言ってくれる。青木の自制心を信用してくれているのかもしれないが、他の人間がいる公衆の大浴場ならともかく、2人きりの温泉なんて危なすぎる。
「オレはいいですよ」
「なんで?」
「なんでって」
 このひとは自分の気持ちを知っているはずなのに、どうしてこう鈍いのだろう。
 事件のときは視覚者の心情をあんなに的確に見抜くくせに、と恨みがましい目つきになってしまう。
「なんだ、その顔。いいから入って来い! 僕の言うことが聞けないのか。僕はおまえの上司だぞ!」
「はいはい。わかりましたよ」
 薪は早くも絡み酒だ。温泉で身体が温まっているから、酒の回りが早いらしい。

 薪のために用意した脱衣所を使うことにする。
 服を脱ぐところを見られるのは、変に恥ずかしいものだ。脱ぎ終わった後のほうが露出度は高いはずなのに、あれはどういう心理なのだろう。薪はぜんぜん気にしないようだが。
「なんだおまえ。男のクセに裸になるのが恥ずかしいのか?」
 腰にタオルを巻いて出て行くと、ひとにイチャモンをつけるのが得意な上司が、また何か言っている。男らしくないだの、さては自分の身体に自信がないんだろうだの、勝手に言っててくださいという感じだ。酔っ払いの戯言をいちいち真に受けていたらきりがない。

「タオルはお湯につけないのが温泉のマナーだろ」
「ほっといてください。いいんですよ、ここは。水着も大丈夫なんですから」
 こんなことなら、自分の水着も持ってくればよかった。薪のために用意した水着では、片足しか入らない。
 マナーを説くだけあって、薪はタオルを頭に載せている。しかし、普通こういう場合は前を隠すものだが。薪の羞恥心はサル並みだ。

 周りを雪に囲まれているから、気温はかなり低い。お湯に入って温まらないと、10年ぶりに風邪を引いてしまう。
 なるべく薪から離れた位置でお湯につかる。ここへ来るのは5ヶ月ぶりだが、やっぱりとても気持ちがいい。

「あれ? おまえって」
 薪がこっちを見ている。サルは他人の裸も気にしない。
「なんですか?」
「おまえって、こんなにいい身体してたっけ」




*****


 ま、薪さんがセクハラオヤジに……青木くん、ピンチ?(笑)


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ジャンル : 小説・文学

ラストカット 後編(4)

ラストカット 後編(4)





 薪は、お湯の中を滑るようにして青木に近付いてくると、華奢な手をこちらに伸ばしてきた。ためらいもなく、青木の胸に触れてくる。無邪気な触り方は、性をまったく意識していない。
「いつの間にこんなに筋肉ついたんだ? 2キロも走れないやつが、どうしてカチカチの足をしてるんだ?」
「ちょっ、さわらないで下さいよ」
 上半身はともかく、下半身はヤバイ。薪の手は遠慮というものを知らないのか、腰につけたタオルの中にまで入ってきそうな調子である。
 
「薪さんがオレに身体を鍛えろって言ったんですよ。それから少しずつ、トレーニングしてたんです」
「おまえって、どんだけ素直なんだ」
「おかげで10キロ走れるようになったんですよ。薪さんのハイペースには、まだついていけませんけど」
「2年くらいで、そんなに筋肉つくのか」
 走り込みもしているが、岡部について柔道と剣道も習っている。背の高い青木は柔道が苦手だが、剣道のほうはなかなか筋が良いと褒められた。
 
 薪には絶対に秘密だが、捜一の竹内に射撃も教えてもらっている。岡部が口をきいてくれて、竹内も快諾してくれた。竹内の射撃の腕前は全国レベルだ。
 竹内は、意外なほど面倒見が良くて親切で、頭もいいから話も面白い。これで薪に惚れてさえいなければ、心の底から友人になれるのだが。
 薪はそんな竹内のことを、何故か毛虫のように嫌っている。機会があれば薪の誤解を解いてやりたいところだが、それは竹内が薪のことを完全に諦めて、他の誰かに心を移すのを確認してからだ。恋敵に塩を送るほどの余裕は、青木にはない。

「ふん。ずるいやつ」
「な、なんのことですか?」
 心を読まれたのかと焦るが、薪の憤慨はまったく別のことだった。
「なんで僕は筋肉がつかないんだ? あんなに努力してるのに」
 薪はたしかによくトレーニングをしているが、捜査が混んできてしまったときはそんな時間はない。休日も休み時間も仮眠すら取らないのだから、合間を見て警視庁のジムを利用することもできない。使わない筋肉はどんどん落ちていくものだが、薪の場合、一番の原因は食事を摂らなくなってしまうことだ。

「ちゃんと食べないからですよ。筋肉を作る材料が身体の中にないと、いくらトレーニングをしても筋肉はつきません」
「そうなのか?」
「それだけじゃありませんよ。食事を抜くと生命維持に必要なエネルギーを得るために、身体は筋肉を分解して糖を作り出すんです。だから薪さんの身体には、筋肉がなくなっちゃうんですよ」
「おまえ、よくそんなこと知ってるな」
「三好先生の受け売りです」
 雪子には、効率よく筋肉をつけるための食事指導をしてもらっている。それにかこつけて、色々と薪のことを教えてもらっている。大学時代のことや捜一にいたころのことなど、ロスに研修に行っていた話も雪子から聞いたのだ。

「だから捜査に夢中になっても、食事を抜くのはやめてください」
「詰めのときはダメだ。食べると緊張感がなくなる。せっかく積み上げた推理が崩れてしまうんだ」
「そういうもんですかね。オレなんか腹減ってると、考える気にもなりませんけど。どっちかっていうと、おなかいっぱいのときのほうが、いいアイディアが浮かびますよ」
 脳の栄養源は糖質だけなのだから、これは青木の意見が理論的には正しいはずだ。勉強疲れのときは甘いものを食べろ、というではないか。しかし、頑固な上司は自分の困ったクセを矯正する気はないようだった。

「おまえは胃袋でものを考えるタイプだからな」
「なんですか、それ。オレが食欲だけで生きてるみたいじゃないですか」
「おまえ、ひょっとして胃袋の中に脳みそがあるんじゃないのか?」
「めちゃくちゃ言ってくれますね。胃液で溶けちゃうじゃないですか」
「いくらかでも溶け残ってるといいけどな」
 青木が怒った顔をすると、薪は楽しそうに笑ってくれた。
 もう、むちゃくちゃかわいい。本気で脳が溶けそうだ。
 
「雪見風呂に雪見酒かあ。これで隣に美人のお酌がついたら最高だな」
 薪は吟醸酒の盆に手を伸ばし手元に引寄せると、青木の肩を背もたれ代わりにして寄りかかってきた。温泉で温まった背中が腕に当たって華奢な両肩が目の前に来て……もしかしてこれは、忍耐力のテストだろうか。
「こんなところに、美人なんか来ませんよ」
「仕方ない。おまえで我慢するか」
 猪口を青木の方に差し出す。桜色に染まった細い腕。

「サルにでもお酌してもらってください」
 素っ気無く言って、青木はお湯から上がった。
 まだ体は充分に温まっていないが、我慢の限界だ。ここで無理やり襲ってしまって薪に投げ飛ばされるか、風邪を引くかの二者択一。これからのことも考えて、青木は後者を選ぶことにした。
 
 着替えを済ませて浴場に戻ると、薪は岩の上に座っていた。のぼせてしまったのか、顔が赤い。
 さすがに腰にタオルを置いているが、見えない分よけいに扇情的だ。腰の辺りから、ふるいつきたくなるような色香が立ち上っている。とても直視できない。これが水着だといくらかは落ち着いて見られるのだが。露出度はそう変わらないのに、不思議なものだ。

 薪のほうを見ないようにして、冷たいミネラルウォーターを渡してやる。コクコクと水を飲む音がする。
「そろそろ帰りましょうか?」
「うん。……もう、帰らないとダメか? ヘリのレンタル料とか、嵩んじゃうのか?」
「それは大丈夫ですよ。ヘリは明日の夜までに返せば、料金は同じです」
「じゃあさ、今日はここに泊まっていかないか?」
「え!?」
 デートプランを念入りに計画していた青木は、もちろんそのつもりで宿の予約もしてあった。薪にそれをどう切り出すかで頭を悩ませていたのだ。都合の良いことに、それを薪のほうから申し出てくれた。
 
 どういうつもりだろう。
 自分の気持ちに応えてくれる気でいるのか、それとも――。
 「そうしたら、明日もここに来れるだろ」
 ……単に温泉に入りたいだけなんですね。

 このひとはこういう人だ。自分の都合しか考えない。
 青木の気持ちなど、ちっとも考えてくれないのだ。どうしてこんな自分勝手なひとを好きになってしまったのだろう。
 今ここで、このピンク色に上気したからだを組み敷いてやりたい。柔道の技では負けても、腕力では負けない。力任せに奪おうと思えばできないことはないはずだ。
 でも、それをやってしまったら、永遠にこのひとを失ってしまう。せっかく縮めた距離が、また遠くなってしまう。だから何もできない。
 多分、薪は自分のそんな気持ちを見抜いている。だから自分の前で平気ではだかになれるのだ。襲うだけの勇気もないと思われているのだろう。くやしいが、事実だから仕方がない。

「わかりました。じゃ、2、3軒、宿を当たってみますね」
 本当はもう予約を入れてあるのだが、ここはこう言っておいた方がいい。あくまで薪のほうから誘った形をとっておかないと、後でまた何を言われるかわからない。
「当てがあるのか?」
「車に住宅地図と電話帳がつんでありましたから。電話してみます」
 青木はそれを理由に、その場を離れた。

 肩越しに振り返ると薪はまだ岩の上にいて、両手を後ろにつき、胸を反らせていた。
 片足を立てて目を閉じている。吐く息が白い。その姿は雪の化身のように白く清廉で、生身の人間とは思えないくらいきれいで――。
 どうしてこんなにきれいなんだろう。
 傷つけることなどできない。無理やり穢すことなどできない。
 少しだけでもいいから、汚いところがあればいいのに。そうしたら、こんなに躊躇わない。
 
 どこから見ても何をしていても、薪の美しさは損なわれることはない。惚れた欲目ではあるのかもしれないが、薪が泥酔してくだを巻いていたときでさえ、可愛くて仕方なかった。
 ラーメン食べても納豆食べても可愛かったし、自分の目はおかしくなってしまったのだろうか。このまま病状が進行すると、例え目の前でゲロを吐かれても可愛いと思うようになってしまうのかもしれない。
 ……人間を辞めたくなってきた。

 薪を口説くのは命賭けだが、もう自分でも抜けられない。
 近付けば近付くほど好きになって、薪に想いを告げた一昨年の秋よりも、今のほうが青木の熱は上がっている。この熱を冷ますのは、雪女にも不可能だ。
 
 とにかく、今夜が勝負だ。
 絶対に、返事をもらうのだ。
 決意を胸に、青木は車を置いてきた場所へと歩き始めた。



*****


 次はお泊りですね♪
 ベタな展開だなあ(笑)




 私信です。

 わんすけさん&コハルさんへ。
 正解は4番の『青木くんをなめきってるから』でした!
 ……すみません、ふざけすぎました。怒らないで。


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ラストカット 後編(5)

ラストカット 後編(5)





 獅子嚇しが響く雪景色の中庭は、松の木や石灯篭といった日本特有のオブジェに彩られて、宿泊客の目を楽しませている。
 国際化が進んだ今の世でも、からだに流れる血には大和民族の名残があるのか、こういう風景を見ると懐かしいような気がする。

 和風の静かな温泉宿を、薪はとても気に入ってくれたようだ。
 建物の中を見回す目がきらきらと輝いている。薪の目は、言葉よりも雄弁だ。
 その外見にそぐわず、薪は日本のものが大好きで、だから青木はここを選んだ。
 純日本風の建物、畳と障子と襖の部屋。窓を開ければベランダに露天風呂があって、中庭の雪景色が楽しめる。薪の好みにあったこの宿は、彼の笑顔を増やしてくれるに違いない。

 客室に露天風呂が付いているのを見つけた薪は、部屋係が挨拶に来る前に風呂に入ってしまった。さっきも雪山の温泉に入ってきたばかりなのに、そんなにお湯につかっていたら身体がふやけてしまうのではないだろうか。

 やがて、客室係が挨拶に来た。
 畳の上に正座して丁寧にお辞儀をし、お茶を淹れてくれた。定番の温泉饅頭をお茶請けに用意して、客がひとりしかいないことに気付いた彼女は、首をかしげた。

「ものすごく風呂が好きなひとで。もう、そこの風呂に入ってます」
「まあ。これを選んで頂こうと思ったんですけど」
 年配の人の良さそうな仲居が差し出したのは、何枚かの浴衣だった。
 模様はそれぞれ違う。水玉や小花柄、朝顔に金魚。渋めのものでは竹や梅。無地のものはピンクや水色、浅葱色に薄紫。
 しかし、これは当然女物だが。
 
「あの?」
「女性の方には浴衣をサービスしております。後ほど、お連れ様がいらっしゃるときに、またお伺いいたします」
「いや、それは困ります」
 受付の時、薪は青木の後ろにいて、一言も喋らなかった。ロビーに飾られた豪華な生花や、小さな橋の下に小川に見立てた水路がある様を、目を輝かせて見ていた。
 そんな子供っぽい表情のせいか、温泉に入ったせいで髪が濡れて前髪が額を隠していたためか、体型を隠すロングコートのせいか、薪は完全に女性に間違われているようだ。

 この事実を薪が知ったら、確実に怒り出す。絶対に帰ると言い出すに違いない。
 ここまで漕ぎ着けておいて、それはない。なんとしても避けたい事態である。
 薪が男だということをこの仲居に告げるべきか。しかしそれを言うと、また注目を集めてしまう。誤解させておいた方が、薪の機嫌を損ねないかもしれない。
 こういう田舎では、薪のようなタイプの男性は皆無に等しい。東京でも薪ほどの美貌には滅多と出会えないが、都会の人々はさりげなく見るだけだ。田舎の人は悪気はなくても、露骨に指を差してきたりするから困るのだ。

「じゃあ、旦那さまが選んで下さいますか?」
 青木の迷いをどうとったのか、仲居はくすくすと笑い、青木に浴衣を選んでくれるように頼んできた。
 
 青木はとりあえず、一番地味な浅葱色の浴衣を手にする。
 しかし、仲居は断然こちらの色が似合う、と薄紫の浴衣を推してきた。たしかにこちらのほうが薪のイメージだが、薪がこれを着ることはないだろう。
 
「奥様は肌がとても白くていらっしゃるから、こちらのほうがお似合いになると思いますよ。ほんと、おきれいな方ですよねえ」
「えっ。いや、奥様って」
「帯はこちらをお使い下さい。旦那さまにはこちらの浴衣を。これ以上、大きな浴衣はございませんので」
「はあ。ありがとうございます」
「夕食のお時間まで、お邪魔は致しませんので。ごゆっくりお寛ぎください」
 ……なにやら誤解されたらしい。
 客室係の再度の来訪を青木が断った意味を、そっちの方に取ったのか。
 彼女が仲居部屋に帰って仲間内でどんな話をするのか、薪には絶対に聞かせられない。

 猿と一緒にのぼせるほど温泉につかっていた風呂好きの奥様は、さすがに飽きたのか、ほどなく部屋に入ってきた。
 一応、腰にバスタオルを巻いている。ここは旅館だから、人の出入りもあるかもしれないと思っているのだろう。これが自宅だったら間違いなく素っ裸だ。
 
「どうでした? 露天風呂」
「サイコーだぞ。中庭の景色がきれいでさ」
 今日の薪はにやけっぱなしだ。温泉三昧のフルコースに、笑いが止まらないらしい。

 薪はキョロキョロと目を動かして、何かを探しているようだ。風呂上りに探すものと言ったらビールか着替えだ。
 やがて亜麻色の瞳が、薄紫色の浴衣の上で止まった。

「これ、まさかと思うけど僕のか」
 しまった、薪のサイズの男物の浴衣を用意してもらうのを忘れていた。
「そ、それはその、旅館の人が間違えて」
 何を間違えたのか、目的語を濁すところがポイントである。ここを明確にしてしまうと、雪嵐警報が発令されてしまう。
「いま、フロントに」
「まあいいか」
 よほど機嫌がいいらしく、薪は薄紫色の浴衣を素肌に纏うと、濃紫の幅広の帯をぎゅっと締めた。
 びっくりするくらい良く似合う。仲居の見立ては大したものだ。
 女の子のように帯の形を作ったりはしないが、それでもやはり浴衣姿というものは、男をクラクラさせる。めちゃめちゃ色っぽい。

「じゃあ、僕は大浴場に行ってくるから」
 ……まだ入るんですか。
 
 いや、だめだ。この状態のこのひとを男湯に入れたら、大変なことになる。
 露天風呂で温まった薪のからだは、柔らかそうな薄ピンクに色づいて、さっき飲んだ吟醸酒が目元を艶っぽく染め上げて――これでは襲ってくださいと叫んでいるようなものだ。警察官が犯罪者を増やすような真似をするわけにはいかない。
 
「そんなに続けて入ったら、湯疲れしちゃいますよ。もう少し休んでからにしませんか?」
「何度入ったって宿泊代は変わらないんだから。入らなきゃ損だろ」
 湯疲れして体調を崩すほうが、よっぽど損だと思うが。
 もとより、青木の言うことなど聞く耳を持たない薪である。こうなったら自分が付いていって、薪の身を守るしかない。
 そう決心して1階の大浴場まで下りていったのだが、薪は不意に庭に出たいと言い出した。いつもの気まぐれである。






テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ラストカット 後編(6)

 みなさまにいただいた拍手が、6000を超えました(〃∇〃)
 ありがとうございますっ、とっても嬉しいですっ!

 読んでくださるだけでもありえないくらい幸せだと思いますのに、(いや、ここがよそ様のように、ロマンチックでラブラブなあおまきさんならそこまで卑下することもないと思うのですが、置いてあるものがモノだけに。原作のイメージぶち壊してすみません(^^;)
 ひと手間かけてぽちっと押していただける。そこに、励ましや共感のお気持ちを感じて、じーんとします。
 心が温かくなって、元気が出ます。


 うちは本当に、細かい文字ばっかりずららっと並んでる地味なブログで。
 しかも拙い小説しか置いてなくて、レビューとか考察とか、人様に喜んでいただけるような記事もなくて、こんなんでブログやってていいのかしら、と思いかけたこともありましたが。
 みなさまの励ましのお陰で、ここまで続けてこれました。
 とてもとても、感謝しております。

 これからもよろしくお願いします!

(あとでちゃんと、お礼記事書きます。リクエストの投票フォームも設置しますので、よろしかったらご参加ください)



 お礼の気持ちを込めまして。
 と、思ったらなんかビミョーな展開だな。(笑)





ラストカット 後編(6)





 雪に彩られた日本庭園はたしかに美しくて、自然が作り出す芸術を好む薪の心を捕らえるに充分な魅力を持っていた。

 1歩外へ出ると、当たり前だが気温は低い。こんなに雪が積もっているのだ。
「さむ」
 大浴場までだから、と薪は半纏を着てこなかった。青木が自分の半纏を着せてやろうとすると、おまえが寒いだろ、と手を止められた。
「オレは平気ですよ」
「部下に風邪を引かせるわけにはいかん」
「それじゃ戻りましょう。薪さんが風邪を引いちゃいますよ」
「いやだ。あそこの獅子脅しが見たいんだ」
 獅子脅しは中庭の奥のほうだ。けっこう距離がある。

「こうすればいいんだ」
 青木の半纏の片袖だけを脱がせると、薪はからだをぴったりと寄せてきた。
「な? あったかいだろ」
 亜麻色の髪から立ち上ってくる甘やかな香り。温泉のいい匂いがして、きめ細かな肌がとてもきれいで――人目もはばからず、抱きしめてしまいそうだ。

 理性を働かせるために、自分の半纏の中の人物から目をそらせた青木は、中庭に面した廊下に、さきほど部屋に来た仲居の姿を見つけた。
 ひとつの半纏にふたりで入って、中庭の散歩をする。
 これはどこからどう見ても、仲の良い夫婦か恋人同士だ。仲居の誤解はますます深まったことだろう。もう薪が男だということは、隠し通さないとヤバイ状況になってきた。

 雪の中をゆっくりと歩いて、薪は幸せそうな笑みを浮かべる。
 青木に対してこんな風に微笑んでくれたことはないが、美しい風景や動物などにはやさしそうに微笑む薪である。その十分の一でも第九の職員に分け与えて欲しいところだ。

 獅子脅しを見たいという薪の好奇心を満たしているうちに、ふたりの体はすっかり冷えてしまった。急ぎ足で館内に戻り、大浴場に直行する。
 大浴場は、意外なくらい空いていた。青木たちの他には、2,3人の客がいるだけである。この宿は全室に露天風呂が付いているから、1階にあってあまり眺めの良くない大浴場は人気がないのかもしれない。
 掛け湯を使ってから、まずは体を洗う。サルの温泉とは違うから、ここではきちんとルールを守らなければならない。薪もちゃんとタオルを腰につけている。薪は常識がないわけではなく、仲間同士というカテゴリーの中ではあまり羞恥心が働かないだけなのだ。

「背中、流してあげましょうか?」
「うん」
 薪の背中は細くて小さい。真っ白ですべすべしている。男にしてはウエストのくびれが強くて、きれいな腰骨へと滑らかな曲線を描いている。
 これを部屋の中で見せられたら飛びかかってしまいそうだが、明るい風呂場で周りに人もいる状態だと理性もきちんと働くようで、昼間のようにタオルを取ったらヤバイという現象は起きずに済んでいる。

「もういいぞ。今度は僕が、ってこれ、どう考えても僕のほうが損だろ」
 青木の背中を洗いながら、なにかぶつぶつ言っている。
 人間でかけりゃいいってもんじゃないとか、男はガタイじゃなくて中身だとか、これが薪でなかったら「たかが背中を流してもらうくらいのことで四の五言われる筋合いはない」と断るところなのだが。
 薪に背中を流してもらえるなんて、青木は天にも昇りそうな気持ちである。何日もかかってデートプランを組んだ甲斐があった。

「ほら、終わり」
「わ!」
 ざばっと頭から、盥のお湯を掛けられた。
 眼鏡も髪も、びしょびしょになってしまった。手櫛で前髪を上げ、眼鏡を外す。
 ひどいですよ、と振り返ると薪は意地悪そうに笑っている。
 ――はずだった。

「薪さん?」
 薪は、びっくりしたような眼で青木を見ていた。
 亜麻色の瞳が感傷を含む。切なげに寄せられた眉根。小さく開かれたくちびる。
「そんなに鈴木さんに似てますか?」
 はっとしたような顔になって、薪は横を向いた。黙って湯船のほうへ歩いていく。つまり、それは肯定の意味だ。
 青木はわざとその後を追わずに、髪を洗い始めた。洗髪を済ませて顔を上げると、鏡の中から青木のほうを見ている薪の顔が見えた。
 眼鏡をしていないので、表情はわからない。でも予想はつく。きっと誰かを思い出して、切なそうな顔をしているのだ。
 
 広い湯船をいいことに、青木は薪と離れて湯につかった。
 薪がちらちらとこっちを見ている。甘さと愁派を含んだ視線。
 青木は、薪の視線に気づかない振りをする。薪が今見ているのは自分ではない。だからここは知らない振りだ。

 ときどき、薪はこんな眼で自分を見る。
 死んだ親友に生き写しだと、何度も言われた。昼寝から覚めたときには、100%間違えられる。それはもはや、間違いとは言わない。
 薪は、彼に恋をしていた。いまでも夢中で恋焦がれている。
 薪が自分を突き放さないのは、その彼に顔が似ているからだ。だから薪の前で、眼鏡は取りたくなかったのに。

 青木は曇りを覚悟して眼鏡をかけ、前髪をきちんと後ろへ撫で付けた。鈴木との印象を違えるためにも、眼鏡は必需品だ。
 そのうち冷静さを取り戻したのか、薪は青木の方へ寄ってきた。
「悪い」
 俯いて、小さな声。このひとが謝るなんて、転変地異の前触れではないか。
 
「何がです? あ、まさか薪さん、オレの分もお饅頭食べちゃったんですか?」
 本当は、わかっている。
 薪は自分の気持ちを知っている。鈴木と間違えられる度に傷ついている青木の心を、わかってくれているのだ。
 でも、鈴木と自分が重ねられていることに青木が気づいていることを認めてしまうと、薪がまた自分自身を責めてしまう。

「おまえじゃあるまいし。って、ひとつしか残ってなかったじゃないか」
「あれは2人で1個なんです」
「じゃあ僕は中身のアンコで、おまえは皮だけだな」
 青木のとぼけた会話に乗ってくれる。エスプリのきいた意地悪が、薪の会話の基本である。
「ずるいですよ、平等に分けましょうよ。あのお饅頭、皮は薄くてアンコがたっぷりなんです。甘さを抑えた漉し餡で、皮には味噌の風味が」
「なんで中身知ってんだ?」
「あ」
「何が平等だ! やっぱ、食ってんじゃないか!」
 ざばざばとお湯を掛けられる。青木はもう一度眼鏡を外すが、薪の表情が変わることはなかった。

「夕飯、楽しみですね」
「おまえはホントに食うことばっかだな。色気より食い気か。子供だな」
「ここは山の中ですから、国産マツタケの土瓶蒸しが名物料理みたいですよ」
「マジでか!? よし、早く食べに行こう!」
「ひとのこと言えませんよね」
 
 薪はさっさとお湯から上がって、浴室を出て行った。
 からりと引き戸を開けたとき、すれ違った中年の男が驚いたような顔で薪を見た。浴室の入口に立ったまま、男は薪の裸を目で追っている。
「……ちっ」
 青木は舌打ちして湯船から上がり、薪の後を追いかけた。



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ラストカット 後編(7)

ラストカット 後編(7)





 懐石風の夕食に、薪は満足してくれたようだった。
 この宿は、料理も良いが酒もいい。特に地酒の種類が豊富だ。
 薪好みの口当たりの良いやや甘めの地酒を選んで出してもらったのだが、昼間だいぶ飲んだとみえて、薪は口をつけなかった。

 料理を運んできた客室係に、お風呂はいかがでしたか、と尋ねられて、薪はにっこりと笑う。
 薪は、初対面の人には愛想がいい。とりあえず笑顔で相手を油断させておいて、腹の中を探ろうとする。第九の室長として様々な団体との交渉ごとを行なっている薪にとって、この行動はもはや本能である。

「先ほど中庭を散歩されてましたね」
「ええ。素敵なお庭ですね。獅子脅しは、今では珍しくなりましたよね」
 ビール党の青木は、当然冷たいビールを飲んでいる。珍しいことに、薪がお酌をしてくれる。
「旦那さまと仲がよろしくて。羨ましいですわ」
 仲居の不用意な発言に、青木は思わず噎せ込んだ。ビールが鼻から出てきそうだ。
「大丈夫ですか?」
 あなたが大丈夫ですか、と叫びたい。薪の氷のような目つきと、礫のような言葉の暴力が始まってしまう。

「新婚なんです」
「は!?」
「まあ、そうなんですか。おめでとうごさいます」
「まだ指輪もくれないんですよ、このひと」
「あらあら。それはいけませんね」
 何を思ってか、薪は仲居の勘違いに付き合うことにしたようだ。

「仕事が忙しくって。このひとの上司がとても怖い人で、休日出勤も残業も断れなくて。あんまり家にも帰ってこないんです。今日の休みも3週間ぶり。ひどいでしょう?」
 怖い上司が怖いことを言い出した。この仲居がいなくなったら、自分は殺されるのかもしれない。
「だから今日は、思い切り甘えさせてもらおうと思って」
 ふたりの女性は、揃って青木の顔を見た。意味ありげな視線を向けてくる。
「……マツタケの網焼き、追加で」
 薪とその共犯者は、楽しそうに手を打ち合わせた。

 最後の汁物と鯛めしを置いて仲居が部屋から出て行くと、薪は足を崩して浴衣の裾を割り、いつもの胡坐の姿勢になった。正座をしていたため足が痺れたのか、手で揉んでいる。
「薪さん。あの、今のは」
「浴衣がおいてある時点で、間違えられてるのは解ってた。だから話を合わせただけだ」
「いいんですか? 誤解を解かなくて」
「今日はいいんだ」
 いつもはあんなに怒るくせに、いったいどうしたのだろう。
 もしかすると、薪も自分と同じように、この夜を大切なものにしたいと思ってくれているのだろうか。つまらないことで怒ったりして、せっかくの夜を台無しにしたくないと考えてくれているのだとしたら――。

「ここの露天風呂は気に入ったから」
 ……結局それなんですね。

「ああ、もうおなかいっぱいだ。旅館の食事って、なんでこんなに大量なんだろうな。絶対に3人分はあるよな」
 普段から薪は食が細い。定食屋でも一人前を完食する事は稀だし、今日だって皿が空になったのはマツタケの土瓶蒸しと追加の網焼き、刺身くらいのもので後は半分ずつくらいしか食べていない。信州和牛の陶板焼きに至っては、まだ生肉のままである。
「そうですか? オレにはちょうどいいですけど」
 青木は薪の食べ残しの皿を引き寄せて、当然のように食べ始める。しばらく前から青木は、どこへ行っても一人前を食べきれない薪のディスポイザーと化している。

「ひとの分まで食っといて、なにがちょうどいいんだ」
「残したら旅館のひとに悪いじゃないですか。この牛だってゴミ箱に入るより、人間の胃に入りたいに決まってますよ」
「……昔の事件でさ、牛の胃袋の中から人間の頭部が出てきたことがあったんだ」
 意地悪そうな笑みを浮かべて、薪はこと細かく発見の状況を語り始めた。
「顔中の皮膚が胃液でどろどろに溶けててさ。神経とか血管とかぐずぐずになってて。髪の毛は残ってたんだけど、頭皮が溶けちゃってるから簾みたいになって」
「やめてくださいよ! 食べられなくなっちゃうじゃないですか」
「食いすぎなんだ、おまえは」
「薪さんは少し飲みすぎですよ」
 仲居がいなくなった直後から、薪は地酒を飲んでいた。さっきは女の振りをしていたから、酒を控えていたのだ。2合瓶がすでに空である。

「この酒、美味いな。ちょっと柚子の風味があって、いくらでも飲めそうだ」
 四つん這いになって電話のところまで行き、酒の追加を注文する。きっと厨房では、青木が飲むと思われているのだ。
「蒼山をもう1本と、寒椿、それから」
 なんと3本も追加を入れている。
 仲居がすぐに注文品を部屋に運んできた。地酒の瓶が2本と生ビールが1杯。変わり身の早い薪は、正座してお茶を飲むフリをしている。
 仲居がいなくなると、早速瓶に手を伸ばす。大して強くもないくせにやたらと飲みたがる。そのあとは周りの人間が大変な思いをするのだ。

「ダメですよ、薪さん。昼間も1本空けてるんですから」
「いいだろ、旅行のときぐらい。ほら、おまえもじゃんじゃん飲め」
「オレはこれだけでいいです」
 自分まで酔ってしまったら、薪の世話をする者がいなくなる。
 このひとは多分このまま眠ってしまう。自分で布団に入ることもできない。青木が運んでやらなくてはならないのだ。

「ケチケチするな。おまえの分の宿泊代も、僕が払ってやるから」
「お金の問題じゃありません。オレは薪さんの体を心配して」
「カラダ?」
 薪はそこで、軽蔑したような顔で青木を見た。

 


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ラストカット 後編(8)

ラストカット 後編(8) 





 薪はそこで、軽蔑したような顔で青木を見た。

「おまえ、ヤラシイこと考えてるだろ」
「はい!?」
「飲みすぎると、役に立たなくなるとか思ってんだろ」
 亜麻色の目は据わりきっている。完全に酔っ払いの目だ。

「何をバカなこと言ってんですか」
「だっておまえ、僕のこと好きなんだろ。今夜はチャンスだとか思ってんじゃないのか」
 チャンスだとは思っている。でも、それはからだの関係を持つチャンスだと考えているわけではない。
 青木は、保留中の答えを聞きたいだけだ。いくらかでも自分を好きになってくれているのか、それとも恋愛の対象にはなりえないのか。きちんと答えて欲しいだけだ。

「思ってませんよ」
「嘘つけ。この旅館だって、計画済みだったくせに」
「妙なことを言いますね。ここに泊まることは、急に決まったんじゃありませんか。第一、泊まるって言い出したのは薪さんのほうですよ」
「じゃあ聞くけど。この宿の予約、どうやって取ったんだ?」
「どうって、電話で」
「あの山の中のどこに電話があったんだ?」
「何言ってんですか。携帯があるじゃないですか」
「携帯電話ね」
 薪は腕を組んで顎を反らし、青木を睥睨した。
 亜麻色の瞳が煌いている。これは確たる証拠を掴み、今から容疑者(青木)を自白させ(イジメ)ようとするときの薪の表情だ。それを見て、青木は誘導尋問に引っ掛かったことに気付いた。
 ……あそこは圏外だ。

「おまえの携帯は便利だなあ。アンテナがなくても使えるのか」
 薪の嫌味が始まった。
 酒の席だし、ここは明るく冗談で返すことにしよう。
「いやあ。オレのは特別で、海の底でも宇宙でも使えるんで、――っ!」
 軽口を叩き終わる前に、薪の拳が飛んできた。顔面3センチのところで止まっている。華奢な手だが速度が速いので、急所を殴られるとかなり痛い。
「あの世でも使えるかもしれんな。試してみるか?」
「……すみません」
 さすが薪だ。
 青木の計画など、最初からお見通しというわけか。
 でもそうすると、それを解っていて自分についてきてくれたことになるが、その辺はどう解釈すればいいのだろう。もしかして薪もその心算で……いや、温泉に入りたかっただけだ、このひとは。

「僕は、おまえの思い通りにはならないからな。おまえなんかにいいようにされるくらいなら、サルと寝たほうがマシだ」
 ひどい。サル以下だ。
「オレはそんなことは考えてません。薪さんがちゃんとオレのこと好きなってくれるまで、そういうことはしません」
「おまえ最初、僕に無理矢理キスしてきたじゃないか」
 薪に初めて想いを告げたとき、薪は青木の気持ちをジョークにしてしまおうとした。それは決して青木の心を踏みにじったわけでも茶化したわけでもなかったのだが、恋情を募らせていた青木にはひどく冷酷な仕打ちに思えた。
 自分が本気だということを薪にわかってもらいたくて、行動に出てしまったというのがキスの理由だ。

「あのときのことは謝ります。でも、それからは無理強いしたことはなかったと」
「その後もあったろ。おまえが実家から帰ってきたときとか」
「あれは薪さんのほうから」
「僕はおまえの涙を拭いてやっただけだ。おまえが押さえつけたんじゃないか」
 ……そうだっけ? 舌を絡めてきたのは薪のほうだったと思うが。
「こないだも車の中で、僕が眠ってるときに盗んだだろ」
 だってあんまりかわいくて、つい……これは男の本能というやつで、どうにも逆らいがたいものなんです。
「すみません」
「すみませんで済んだら、第九は要らないんだよ」

 決まり文句を吐いて、薪は2本目の瓶の封を切った。手酌でコップに注ぐ。
 薪は飲むピッチが早い。少量しか入らない猪口は面倒なので使わない。いつもぐい飲みかコップである。
 
「キス以上のこともしたいとか思ってんだろ」
「思ってませんよ」
 本当は、力いっぱい思っている。
 夢の中でも頭の中でも、薪との情事は何度も繰り返されている。そこに出てくる薪は妖艶で淫らで、男を悦ばせる術を知っている。そのくせ夢のようにきれいで可愛くて。実際夢なのだが、それが現実になったらどんなに幸せだろうといつも思っている。
 しかし、いまは言いたくない。素面のときならともかく、この状態の薪に何を言っても無駄だ。明日の朝にはきれいさっぱり忘れている。

「おまえがいくらとぼけたって、僕にはわかるんだぞ」
 自分の夢の内容を知られているとしたら、殺されても文句は言えない。
 昨日の夜は今日の旅行が楽しみで、薪が温泉に入っているところを想像しながら眠った。
 当然のように夢を見て、薪は露天風呂の中から裸で青木を手招きした。誰か来るかもしれない野外のスリル満点の風呂で、薪は恥ずかしがりながらも切ないよがり声を上げて、青木を受け入れてくれた。
 しかし、それを薪が知っているはずがない。ここは地の果てまでシラを切りとおすところだ。ハッタリに引っ掛かって迂闊なことを喋ったら命はない。

「何のことだか分かりませんけど」
 青木が素知らぬふりでジョッキを呷ると、薪は両手を畳について、内緒話でもするように青木の方へきれいな顔を近づけてきた。
「おまえ、今日僕に欲情してたろ」
 咄嗟に否定できなかったのは、身に覚えがあるからだ。
「昼間、岩場の温泉にふたりで入ってたとき、やばくなってただろ」
 ……ばれていたのか。

 しかし、そのことで青木の邪心を疑うのはあんまりだ。
 嫌がる青木を無理やり風呂に入れて、あちこち触ってきたのは薪のほうだ。自分の気持ちを知っているくせに、あんな誘うような真似をして。応えてくれる気なんかないくせに、あれで青木が我慢できなくて襲いかかっていたら、きっと岩の上に投げ飛ばされていたのだ。このひとはそういうひとだ。

「タオルの下で、ここが」
 薪の白い手が、青木の太腿に置かれる。小さな手は青木の浴衣の裾を割り、迷うことなくその中に入ってくる。その手は膝から内腿へ滑っていき――――。
「こ……」
 亜麻色の頭が不意に落ちてきて、青木の下腹にぶつかった。
 足の間から、すくーっという音が聞こえる。薪の眠りはいつも唐突だ。
 
「薪さん……これはセクハラです」
 やわらかい頬がそこに当たっている。ちょっとでも動いたら、薪のくちびるが下着の上からそこに触れそうだ。
 まずい。これは昼間の状況よりやばい。
 薪の体勢は、畳に両膝をついて腰を上げ、顔を青木の股間に埋めている形だ。何をしているところか、100人中100人が間違った答えを出しそうだ。

「お待たせいたしました。蒼山をぬる燗でお持ちいたし――!」
 ……絶対にこうなると思った。

 仲居は床の上に静かに盆を下ろし、優雅にお辞儀をしてゆっくりドアを閉めた。
 旅館の仲居というものは、時に第九の室長をも上回るポーカーフェイスを持ちうるらしい。現況の理解は100%間違っていたにしても、青木にそれをどうしろというのだ。
「もう二度とここへは来れないな……」
 せっかく見つけた薪好みの宿を、一軒失ってしまった青木だった。




*****


 R系のギャグって、ほんっとに楽しいです!(ロマンチックはどこへ行った?)


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ラストカット 後編(9)

ラストカット 後編(9)





 夕食の膳を片付けてもらったのは、それから1時間後のことだった。
 手際よく食器を運び出す仲居の顔には、先刻の誤解の片鱗もなかったが、彼女が仲居部屋でどんな話をしたのかは判らない。薪には何があっても、その誤解の内容は教えられない。

 部屋を出る際に、仲居はにっこりと微笑んで青木に話しかけてきた。
「青木さま。当店はご高齢の方も多くいらっしゃいまして。皆様テレビの音を大きくされますから、防音設備も整えてございます。かなり大きな音でも隣の方には聞こえませんので、テレビのボリュームを絞る必要はございません」
 突然の宿自慢に、青木は心の中でがっくりと肩を落とす。
 絞らなくていいのはテレビのボリュームではなくて、つまり。

「明日の朝は7時から9時の間に、1階の朱雀の間でバイキング形式の朝食をご用意しております。こちらに手前どもが伺うことはございませんので」
 完璧に誤解されている。もう言い訳する気もなくなってきた。旅の恥はかき捨てだ。
「ではごゆっくりおやすみ下さいませ」
「……ありがとうございます」

 彼女の誤解を助長させた張本人は、とっくに布団の中である。青木の苦労も知らず、健やかな寝息を立てている。
 その寝顔は、やっぱりかわいい。見ているだけで幸せな気分になれる。これだからどんな目に遭わされても、青木は薪から離れられない。
 
 畳の上に布団で寝るのは、学生のときに仲間と一緒に旅行に行ったとき以来だ。清潔な寝具とイグサの香り。枕が変わると眠れない人間もこの世にはいるらしいが、もともと寝つきが良い青木はものの2分で眠りに落ちた。

 その眠りが破られたのは、夜半過ぎのことだった。
 どこからか泣き声が聞こえたような気がして、青木は目を覚ました。
 横を向くと、薪の姿がない。さてはまた風呂か、とベランダのほうを見ると、小さな影が部屋の隅っこにうずくまっている。
「何やってるんですか、薪さん」
 部屋が暗くてよくわからないが、薪は膝を抱えて座っているようだ。なぜ布団から出たのだろう。
「座敷わらしかと思いましたよ。早く布団に戻って」
 近付いてみて、驚いた。
 薪は瘧のように震えている。歯の根が合わないほどにガタガタと揺れ動いて、それを止めようと両肩を手で押さえている。
「薪さん? どうしたんですか?」
 怖い夢でも見たのだろうか。それにしては雰囲気が異様だ。

 薪を安心させようと、青木は部屋の明かりを点けた。震える薪の姿が、明るい照明の下にさらされる。
 亜麻色の瞳が、涙に濡れている。
 普通の泣き方ではない。滂沱、という感じだ。
 その目が青木の姿を捉える。大きな瞳に青木の顔が映っている。しかし、その眼はいつもの冷静な眼ではない。これは……狂気を孕んだ眼だ。

「迎えに来てくれたのか? 鈴木」
 寝ぼけているときは必ず間違えられる男の名を聞いて、青木は言葉を失う。普段なら違います、と否定するところだが、今の薪にそれを言ったら大変なことになりそうな気がする。
「ずっと待ってた……早く連れて行って」
 両手で青木の浴衣の前をつかみ、薪は自分の身を寄せてくる。薪が自分から近付いてくるのは、青木を死んだ親友と間違えているときだけだ。

「おまえが満足するまで、僕を好きなようにしていいから」
 抱きつかれて、耳元でそんなことを囁かれる。涙に濡れた頬を青木の頬に擦り付けて、愛してる、と繰り返す。
 今日の寝ぼけ方は強烈だ。
 鈴木の夢でも見たのだろうか。それで恋しくなってしまって、泣いていたのだろうか。
 なにもわざわざこんな日にそんな夢を見なくたって、と心無い薪の行動を非難したくなってしまう。
 しかし、青木の夢占いは外れたようだった。

「血の一滴までおまえにやるから。何回でも殺していいから」
 愛の言葉が物騒な話に替わって、青木は思わず身を離す。
 これは、早く正気に戻したほうがいいかもしれない。薪はとんでもない悪夢を見たのかもしれない。

「薪さん、オレです。青木です。しっかりしてください」
 華奢な肩をつかんで揺する。亜麻色の髪が揺れ、瞳も揺れた。
「心配いりません。ただの夢ですよ。だれもあなたを傷つけるものはいません」
 ややあって亜麻色の瞳に焦点が戻り、薪は自分を取り戻したようだった。
 ぺたんと畳に尻を落として、背中を丸める。普段のきりりとした室長の顔からは想像もつかない、弱々しい表情。それを隠すために両手で顔を覆っている。

「大丈夫ですか?」
 このひとは、まだあの事件の夢を見るのだろうか。あれから2年も経ったというのに、まだその衝撃を忘れられないのだろうか。
「いつも、こうなんだ」
 ほそい指の隙間から、透明な雫が垂れてくる。薪が泣き虫なのはもう分かっているが、その涙を止めてやりたいとこれほど強く思ったのは初めてだった。

「楽しいことがあると、決まってその日の夢は凄くキツイんだ」
 薪はまだ震えている。抱きしめてやりたいが、余計に怖がらせてしまいそうだ。青木の顔は薪にとって、自分が殺した男の顔なのだ。
「わかってるんだ。なんでこんな夢を見るのか。鈴木が僕を嗜めてるんだ」
 親友を殺してしまった悔恨。愛する人をその手にかけた痛み。青木には想像もつかない、深い慙愧の念。
 それは薪の精神をゆっくりと蝕んで、時に幻覚となって薪の前に姿を現す。先刻の狂気のように、薪のこころをずたずたに切り裂いて。

「ひとを殺しておいて、なんでそんなに楽しそうにできるんだって。人殺しのクセに、なにヘラヘラ笑ってんだって」
「鈴木さんはそんなこと思ってません。オレ、言ったじゃないですか。薪さんの命は鈴木さんが守ってくれた命だって。薪さんの人生は鈴木さんが守ってくれた人生なんですよ。楽しく笑ってていいんです」
 鈴木はとてもやさしい男だった、と誰に聞いても同じ答えが返ってくる。薪の親友をやっていたくらいだから、ちょっとやそっとのことでは怒らない性格だったのだろう。
 
「鈴木さんはそれを望んでます。鈴木さんがそういう人だって薪さんが一番良く知ってるはずでしょう」
「うん、知ってる。でも、どうにもならないんだ。夢の内容までは制御できない」
 それはきっと、薪の心が見せる悪夢だ。
 自分のせいで大勢の人が死んだと思い込み、自分自身を許すことができない。薪の誰よりも強い正義感が、薪自身を苦しめている。
「今日は……今日はとっても楽しかったから、絶対に来ると思ってた。誰かと一緒なら大丈夫だと思ったんだけど」
 それで泊まろうと言い出したのか。ひとり寝が怖い子供のように、だれでもいいから傍にいて欲しかったのか。
「オレがついてますよ。ずっとここにいますから」
 今のこのひとは、子供と同じだ。だれかの庇護が必要なのだ。

「おまえ、僕を守ってくれるって言ったよな」
「はい」
「じゃあ、この夢からも守ってくれるか?」
 弱気な瞳が、青木に縋り付いてくる。
 果てしなく繰り返される悪夢は、薪の精神の均衡を崩していく。2年以上もこの夢に悩まされて、薪は藁をもつかみたい状態になっている。

「もう、忘れたい……何もかも、忘れてしまいたいんだ」
 薪は立ち上がり、自分から浴衣の帯を解いた。
 合わせを広げて肩を出す。畳の上に浴衣を落とし、下着も取って生まれたままの一番美しい姿に還った。

 青木は決意を固めた。
 薪を救うには、やはりこの方法しかない。それは青木にとっては甚だ不本意な手段だ。確実に嫌われてしまうし、薪が自分を好きになってくれる望みもなくなる。
 だが、いちばん大切なのは薪の幸せだ。自分と薪がうまくいくことではなく、薪が幸せになることだ。薪の幸せに自分の幸福は関係ない。

「……何も……考えられないように」
 薪の手が青木の浴衣の帯をほどく。浴衣を脱がせて半身を露わにする。
 白い腕が青木の頭を抱いた。耳に甘やかな吐息がかかる。やさしい肩が薄い胸が、青木の肌に触れ、擦り合わされる。
 
「夢なんか見ないくらいに……」
 青木は目を閉じて、愛しいひとの身体を抱きしめた。




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ジャンル : 小説・文学

ラストカット 後編(10)

ラストカット 後編(10)





『薪さん。愛してます。大好きですよ』
 半分夢の中にいるようなゆったりとしたまどろみの中、耳元で繰り返し囁かれるその言葉は、とても心地好い響きを持っていた。
 逞しい腕が自分を抱き上げて、まだぬくもりの残る夜具の中に入れてくれた。すぐに暖かい体温を持ったはだかの胸に抱きこまれる。
 薪は、手を伸ばして相手の背中を抱きしめた。ぴったりと密着すると、心の底から安心感が湧き上がってくる。

 こうなるかもしれないと予想はしていた。青木が予め宿を用意していたことは、気が付いていた。
 山中の温泉で青木は電話を掛けたと言っていたが、あの場所は圏外で携帯電話は使えない。しかし、宿の予約は取れていた。つまり、事前に予約がしてあったということだ。知っていて、着いてきた。

 だって、こいつと過ごす時間はとても楽しくて。時を忘れてしまうくらい楽しくて楽しくて。
 もっと一緒にいたいと……今日だって帰りたくなくて、こいつと離れるのがいやで。
 でも、そうやって楽しい時間を過ごした後の悪夢は、決まって凄まじいものになる。心に刻まれた幸せな気持ちを帳消しにしようとするかのように、悪夢は繰り返され、眠れない夜は増えていく。

 人殺しが人生を楽しもうなんて、それじゃ殺された人間はどうなるんだ?
 こんな不平等な話があっていいのか?

 薪の心の底で、通奏低音のように鳴り続けているその責め言葉は、永遠にそこの住人になった親友の弾劾なのか、それとも罪の意識から逃れられない薪の弱さなのか。薪にはもう、判断がつかない。

 できることなら忘れてしまいたい。忘れて楽になりたい。
 鈴木のところに行けば、楽になれると思っていた。鈴木はいつだって、僕が必要とするものをくれたから。きっと今度も、くれるに違いない。僕が切望する、この罪に相応しい罰を。
 それさえ与えられれば、僕はもう苦しまない。何も考えず、彼に身を任せていればいい。もっとも、あの夢の内容じゃ、なにか考えてる余裕はないだろうけど。
 
 この世でしなければならないいくつかのことを済ませたら、鈴木のところへ行ける。きっと鈴木が迎えに来てくれる。自分はそれを心待ちにしていたはずだ。
 第九のことも目途がついてきて、その日も近いというのに。今の僕はこいつとの時間を失いたくなくて、刑の執行を先延ばしにしようとしている卑怯者になってしまった。
 そんな僕を、鈴木は見破っている。あの男が好きなんだろう、あの男に抱かれたいんだろう、と冷たい眼で責められた。
 それは違うと必死で言い訳したけれど。……本当は、自信がない。

 こいつに告られる前から、僕はずっとこいつのことを見てて。
 それは鈴木の面影を探していたつもりだったけれど、今となってはどこから気持ちが変化したのか、よくわからない。けど、今でも鈴木と見間違うこともあって、こんなどっちつかずの自分は浮気者みたいで嫌だけれど、たしかに僕はこいつと一緒にいるのが楽しくて。

 その証拠に、さわられても鳥肌が立たない。
 抱きしめられてもぞわぞわしない。
 キスはうっとりするくらい気持ちいい。

 そうやってこいつと触れ合うたびに、鈴木を忘れていく自分を感じていた。それが自分で許せなくて、僕は鈴木のことだけを愛していくのだと自分に言い聞かせて……言い訳だと分かっていても、僕にはそうすることしかできなかった。

 薪の髪を撫でていた大きな手が、背中に下りていく。腰の辺りをまさぐられて、薪は思わず肩を竦める。
 腕をとられて仰向けに寝かされる。くちびるにやさしいキスが降りてくる。耳元に熱い息がかかる。ぞくりと背筋を嫌悪感ではない何かが這い上がってくる。

 こいつに抱かれてしまえば、何か変わるのだろうか。
 こんな夢を見なくなるのだろうか。鈴木のことを忘れられるのだろうか。
 ……忘れていいのだろうか。
 
 鈴木のことを忘れて、新しい恋人と新しい人生をやり直す。そんなことが許されるのだろうか。
 それができれば、どんなにか楽だろう。
 身体の関係ができてしまえば、そうなっていくのだろうか。鈴木とのときもそうだった。寝たら、ますます鈴木のことが好きになって。
 関係を結ぶのは簡単だ。このまま目を閉じていればいい。こいつが勝手にやるだろう。
 
 久しぶりに触れる人肌はあたたかくて心地よくて、薪を安心させてくれる。
 このぬくもりが、ずっと欲しかった。
 鈴木が教えてくれて、でも途中で放り出されて。放置プレイの末にとうとう顔も見せてもらえなくなってしまった、非情な恋人。
 そんな冷たい恋人とは別れて、自分を熱愛してくれる新しい恋人と幸せになる。それのどこがいけないんだ。

 ……そんなことが許されないのは、分かっている。
 でも、一晩くらい。
 僕だって一晩くらい夢が見たい。幸せな夢が見たいんだ。
 
 僕を愛してくれる恋人と愛戯を交わす幸福な一夜。今夜だけでいいから、目を瞑っていて欲しい。
 明日になったらまた、鈴木の恋人に戻るから。鈴木に永遠の片恋をし続ける、いつもの僕に戻るから。
 今夜だけは……。

 薪は心に蓋をする。
 鈴木の声が聞こえない世界に、薪は自分の身を投げ出した。



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ラストカット 後編(11)

ラストカット 後編(11)





 スズメの声で、薪は目を覚ました。
 なんだかすごい夢を見たような気がする。
 青木が出てきた。どこかの温泉宿にふたりで泊まって同じ部屋で寝て。いやな夢を見て、あいつに抱きついたらそんな気分になって、自分から服を脱いで関係を迫ったような―――。

「……っ!?」
 目の前に誰かの裸の胸がある。残念ながら男の胸だ。薪より広くてとても逞しい。羨ましい、ってそんなこと思ってる場合か!
 慌てて起き上がってみると、裸だったのは相手だけじゃない。相手はまだ下着を着けているけど、自分はパンツも穿いてない。

「しまった~、やっちゃったか~」
 薪は、真っ青になって頭を抱え込んだ。
 夢じゃなかった。ここは長野の温泉宿だ。昨日は青木とお地蔵様を祀りに来て、ここに泊まったのだ。
 
 昨夜のことはよく覚えていないが、状況証拠から有罪は決まったようなものだ。なにをどうした記憶はないが、ひとつの布団でハダカで抱き合って寝ていれば、それはもう。
 男同士だけど、青木は自分に惚れている。これが他の部下だったら何もないと思えるけど、いや、パンツ脱いでたら相手が誰でもアウトか。

 急いで浴衣に袖を通し、帯を締める。別に寒くはなかったが半纏も着込んで、薪は眠っている男から離れた位置に座った。
 鈴木と初めてしたときは、翌朝は動けないくらい痛かったが、今回は大丈夫だ。長いこと使ってなくてずい分狭くなってしまったように思っていたけれど、一度経験したことは身体のほうが覚えているらしい。どこにも痛みはない。きっと上手くできたのだ。
 青木の寝顔はとても幸せそうで、満ち足りているように見える。好きな人と結ばれた翌朝は、あんな顔になるのかもしれない。
 
 けっこう、いい男になってきたような気がする。
 鈴木と顔が同じなんだから、もともとの造作は悪くないのだ。ただ、いままでは甘ちゃんというか学生くささが抜けないというか、カッコイイとは思えなかったのだが、この寝顔は悪くない。頬のラインも男っぽくなってきた。以前はやさしさが前面に押し出された顔立ちだったが、武道に親しんだせいか、このところは精悍さを加えてきた。
 
 眼鏡を取ると、男っぽい眉が目立つ。目は切れ長の二重。高い鼻。口はいくらか大きめだ。
 この口唇と、昨夜キスをした。
 このくちびるが僕の肌に触れてきた。耳から首から胸、それからもっと下のほうへ。大きな手がそうっと背中や腰を撫でてくれて……こいつの愛撫はとてもやさしくて気持ちよくて。
 でも、薪が覚えているのはそこまでだ。後は夢中になってしまったのかもしれない。
 鈴木との時もそうだった。翌朝覚えていたのは幸せだったことと痛かったことだけで、自分がどんな風に鈴木に迫ったのかもよく覚えていなかった。

 薪は、自分の困った性癖に頭を抱える。
 あの時も酔っ払ってた。きっと自分は、酒で失敗するタイプだ。
 気が付いたら女の子が裸で隣に寝てて、責任取らされて結婚までいくパターンだ。こいつが男で良かったのかもしれない。これからは気をつけないと。

 微動だにしなかった睫毛がぴくぴくと動いて、ぱちっと黒い目が開いた。ゆるゆると上半身を起こして、青木は盛大な伸びをする。長い両腕を上に上げて背中を反り返らせ、ぎゅっと眉根を寄せた。
 薪の嫉妬を掻き立てずにはおかない筋肉質の上半身。
 昔は図体ばかりでかくて根性も持久力も無くて、道場で組み合ったときには1分もしないうちに投げ飛ばしてやった。今だってできないことはないと思うが、それほど簡単にはいかないかもしれない。特にあの腕力は厄介だ。道着をつかまれて力任せに投げられたら終わりだし、引き倒されて押さえつけられたら身動きできない。

「おはようございます。早いですね」
 薪の姿を見つけて、屈託無く笑う。この笑顔を曇らせてしまうのは忍びないが、昨夜のことは忘れて貰わないと困る。なんて言えば――。
 そうだ、遊びだったことにしよう。旅先のアバンチュールってやつだ。あっちは真面目だったのかもしれないけど、でもそれを受け入れるわけにはいかない。
 何と言っても僕たちは上司と部下だし、雪子さんのこともある。誰かに喋ったりしないように口止めしておかないと。監査課にでも知れたら二人とも左遷だ。

「青木。昨夜のことだけど」
「昨夜? なにかありました?」
 なかったことにしてくれるつもりなのか。それはそれで好都合だが。
 薪の困惑に気付かないのか、青木は自分の浴衣を着て帯を締めた。日本人らしいその衣装は、黒髪に長身の男を2割増しで好男子に見せてくれる。

 こいつ、こんなにいい男だっけ。
 一度そういう関係になってしまうと、情が沸くのかもしれない。こいつを傷つけるようなことはしたくない。「昨夜のことはただの遊びだ。おまえも早く忘れろ」なんて、言わなくて済むものなら言いたくない。

「薪さん。ビッフェに行きましょう」
 何事もなかったように話しかけてくる。青木があまりに自然な態度を取るから、本当に夢だったのかと勘違いしてしまいそうだ。
「いま起きたばっかりだろ。起き抜けでメシが食えるのか?」
「だってオレ、腹減って目が覚めたんです」
「昨夜あれだけ食っといてか!? おまえの胃袋って」
 旅館の朝食はバイキング形式だと仲居が言っていた。つまり、食べ放題だ。こいつより後に食堂に行ったら、何も残っていないかもしれない。

 薪は戸棚を開いて、昨日着ていた服を出した。下着は旅館の売店で買えたが、服はなかった。同じシャツを2日着るのは抵抗があるが、着替えを持ってこなかったから仕方がない。
「あれ? 着替えちゃうんですか?」
「この格好、動きづらいんだ。ビッフェだったら自分で取ってこなくちゃならないだろ」
「ああ、そうですよね。バイキングは戦いですもんね。オレも着替えようっと」
 青木はバイキングの意味を取り違えている。

 バカは放っておいて、薪は洗顔と歯磨きをする。青木は薪の後ろで髭剃りを始めた。鏡の中から澄んだ亜麻色の目が、背後にいる男を見ている。
「昨夜はよく眠れたみたいですね」
「まあな」
 歯ブラシを口に入れたまま、もごもごと返事をする。
 こいつのおかげでよく眠れたのは確かだ。こいつは悪夢から僕を守ってくれたのだ。
 
 青木は嘘を吐かない。
 きっとこれから、こいつは僕よりも強くなるのだろう。強くなって、僕を守ってくれるのだろう。
 余計なお世話だが、青木はそういう気持ちでいるのだろう。

 青木に気持ちを打ち明けられてから、もう1年半だ。
 その間、きちんとした返事もせずに、終始あやふやな態度を取って。他の女性と青木をくっつけようとしたり、自分は女性にしか興味がないふりをしてみたり、かと思うと自分からキスしたり、青木に彼女ができたと勘違いしてやきもちを焼いてみたり。
 自分でも何をやっているのか、よくわからない。青木にはもっと理解できないだろう。

 そろそろ返事をしてやらなくてはいけない。きっちり断らないと。
 そうしないと、こいつはずっと僕に恋をしたままだ。そのうち冷めると思っていたのに、1年経ってもこの調子だ。
 自分の愚かな行動に、バカはなかなか気付かない。だから、僕のほうから教えてやらなくてはいけない。
 昨夜したことはただの遊びで、おまえの恋人になる気はない、とはっきり宣言しなくてはならない。それがこいつのためだ。

 いま、僕を生かしているこいつとの楽しい時間。
 それを失いたくなくて、答えをずるずる引き延ばしてきたけれど、こいつにこれ以上無駄な努力をさせるのは忍びない。
 
 青木の努力が実ったとしても、結果はこういうことになる。
 仕事中はただの上司と部下。プライベートでは友だち。僕がさびしい夜には必ずそばにいてくれて、キスをしたり抱きしめてくれたり、そういう気分になれば昨夜みたいなこともしてくれる相手。
 言い換えれば都合のいい相手。呼び名をつければセックスフレンド。
 恋人にはなれない。僕には鈴木がいるから。
 そんな悲しい役目を、こいつにさせたくはない。でも、こいつを受け入れるとしたら、そんな受け入れ方しかできないだろう。
 だから僕のことは早く諦めさせなければ。このやさしい男に、悲しい思いはさせたくない。

「青木。ちょっと話を」
「薪さん、早く着替えて下さい。オレ、飢え死にしそうです」
「……できるもんならやってみろ」
 食事に行くときと薪のそばに来るときだけは、誰よりも素早い青木である。頭からつま先まですっかり身支度を整えて、薪が来るのを待っている。
 空腹時の青木に何を言っても無駄だ。こいつは腹が減ると、小学生の算数の問題もまともに解けなくなるのだ。早く空腹を満たしてやらないと、人間の肉でも食いかねない。以前、首の肉を食べられそうになった。

 食事を済ませたら部屋に戻ってくる。そうしたら、ちゃんと話をしよう。昨夜のことも含めて、こいつが納得するまで諭してやろう。
 薪はそう心に決めて、浴衣の帯を解き始めた。



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ラストカット 後編(12)

 年の瀬のご挨拶です。
 今年、当ブログにお越しいただいたすべての方に、こころからお礼申し上げます。
 ひと手間かけて拍手を押してくださった方、更にはお時間を割いてコメントを入れてくださった方、本当にありがとうございました。

 つたないSSしか置いてない殺風景なブログではありますが、どうかお見捨てなきよう。
 来年もよろしくお願い致します。

 それではみなさま。
 よいお年をお迎えください。






ラストカット 後編(12)






 濃紫の帯が解かれ、浴衣が畳の上にぱさりと落ちる。
 昨夜と同じ光景だが、夜の人工的な明かりと朝の清々しい光の中とでは、その美しさの種類が違う。昨夜の妖艶でなよやかな雰囲気は、今朝の薪にはない。痛いくらいに清冽で、眩しいくらいきれいだ。
 それは見るものを驚かせるほどの美しさだったが、青木が目を瞠ったのはもっと別のことだった。
 
「防弾チョッキ、脱いでくれたんですか?」

 薪は白い素肌の上に、直に薄緑色のシャツを着た。休みの日らしく、ボタンの一番上は留めずに、両の手で襟を直す。
「なんだ。今頃気が付いたのか」
 そういえば、薪は昨日から防弾チョッキを着ていなかった。
 山中の温泉で、岩の上に脱ぎ散らかされた薪の衣服の中に防弾チョッキはなかった。部屋の露天風呂から出た後、薪は素肌に直接浴衣を着ていた。

「おまえと一緒のときは、僕はもう防弾チョッキを着ない。おまえが守ってくれるんだろ?」
 薪のその言葉は、青木にとって最高の名誉だ。薪の信頼を、自分は勝ち得たのだ。
「はい……はい!」
 心の底から喜びが湧き上がってくる。この信頼に応えたいと、体中の細胞が叫びだす。今なら岡部にも勝てそうだ。
「オレの命に代えても守ります」
 嘘偽りのない言葉が、勝手に飛び出してくる。
 以前、薪に注意を受けたかもしれないが、この気持ちは本物だ。そのときになったら自然に身体が動いてしまう。どんなに薪に叱られても、自分は身を挺して薪を守ろうとするだろう。

「それはダメだ。何度も同じことを言わせるな」
 ……やっぱり怒られた。

 薪はシャツの上にジャケットは着ず、薄手のストールを羽織ると青木のほうへ歩いてきた。ストールは明らかに性別詐称策だ。旅館の売店で下着と一緒に購入したものだ。
「約束しろ。おまえは僕より先に絶対に死ぬな。何があってもだ」
 亜麻色の瞳が、強い光を宿す。
 今の薪の顔は厳しい上司の顔だ。青木がいちばん尊敬している警察官の顔だ。
「返事は」
 命令に逆らうことなど考えられない。縦割り社会に生きる警察官にとって上司の命令は死守すべきものだが、青木にとって薪の指示は神のお告げにも等しい。

「はい。絶対に死にません」
「簡単に言うな!」
 ……どう言えというのだろう。
「何があってもだぞ。車の事故でもヘリが墜落しても、絶対に死んじゃだめなんだぞ!」
「え。いや、ちょっとヘリはムリかも」
 乗ったヘリが落ちて生きていたら、それはもう人間ではない。
「ダメだ、死ぬな。おまえは絶対に死ぬな」
 青木のジャケットをつかんで、顔を寄せてくる。至近距離からの強い視線と、青木の視線が絡む。第九で捜査に夢中になっているときのような口調で、薪は言い募った。
「僕に拳銃で胸を撃たれても、おまえは生きるんだ! それができなきゃ僕の恋人とは認めない!」
 
 それは無理です。撃たれたら普通死にます。
 しかし、いまはつまらない揚げ足を取っている場合ではない。
 突っ込むところはそこではない。薪が言った最後のセリフだ。

「薪さん、今……恋人って」
 亜麻色の目が、まん丸になる。長い睫毛が何度もしばたかれる。
 大きな瞳があちこちに動いているのは、記憶を探るときの薪のクセだ。自分がいま言ったことを思い出しているのだ。
 「いや、ちが、こ、……」
 目を伏せて視線を泳がせる。下を向いて右手で口を覆う。薪のことをずっと見てきた青木には、その行動が何を意味するか分かっている。
 考えている。
 なにか上手い言い逃れを考えているのだ。こういうとき、薪の次のセリフは確実に笑えるものになる。

「恋人じゃない。交尾相手って言ったんだ!」
 きた。予想通りきた。
「なんですか、交尾相手って」
「セフレの日本語だろ」
「なんでわざわざ日本語に直したんです?」
「僕は日本人だからだ!」
 ここで吹き出してはいけない。ちゃんと会話をつなげてやらないと、薪の機嫌は最悪になる。コーヒーのセットがあれば回復も可能だが、ここには豆もドリッパーもない。

「セフレって言われても。オレ、昨夜なにもしてませんけど」
「え!?」
 素っ頓狂な声を上げた薪の反応に、青木は自分の予想が当たったことを知る。
 やっぱり、薪は何も覚えていない。
「だって……朝起きたらあんな格好で」
 眠りを妨げたくなかったから、服を着せなかっただけだ。と言うのは建前で、本当は薪のきれいな裸体をずっと見ていたかったからだが。

「だから、お酒はほどほどにしてくださいって言ったじゃないですか。薪さん、酔っ払ってヘンな夢見て裸になっちゃったんですよ」
「……僕、なんかヘンなこと言わなかったか?」
「言ってましたよ。金髪美人がどうとか、僕のテクニックがあれば女なんかイチコロだとか。一回僕と寝た女は僕を忘れられなくなるんだ、とか。挙句の果てにオレを女と間違えて抱きついてきて、終いにはオレの服まで剥ぎ取ったんじゃないですか」
 全部口からでまかせだが、薪は自分の弱いところを青木に知られたくないはずだ。
 青木はもともと嘘が苦手だが、薪に付き合っているうちに、こういうウソが得意になってしまった。ウソで隠さなければいけない真実もあるし、ウソで伝わるやさしさもあるのだ。

「本当に何にもしてないのか? セーフなのか、僕たち」
 セーフとアウトの概念がわからない。12歳という年の差のせいだろうか。
「はい」
「なんだ……何にもなかったんだ。道理でどこも痛くないと思った」
 よかった、と薪は自分の胸を撫で下ろしている。明らかにほっとした表情だ。昨夜の青木の忍耐力に感謝して欲しい。
 
 夢に見るほど欲しかったものを目の前に出されて我慢できる人間というのは、この世にどれくらいいるのだろう。
 風呂に入っている姿を見ただけでもそういう状態になってしまったくらい、欲しくて欲しくて堪らなかったのだ。悪夢を見た直後の薪の感情が、一時的に乱れているだけだと分かっていても、とても我慢できないと思った。
 自分からはだかになって、身を寄せてきたのだ。青木の服を脱がせて「忘れさせて欲しい、何も考えられないようにして欲しい」と言いながら抱きついてきた。青木の耳元や首につややかなくちびるを押し付けてきて、小さな手が青木の背中に絡みついてきて――。

 我ながら、見事な忍耐力だった。雪子の厳しい意見が聞こえてきそうだ。
『この、ヘタレ! あんたそれでも男!?』
 雪子にこの話をしたら、絶対にこう言われる。前にも同じようなことがあったのだ。
『それ、完璧に据え膳じゃん。なんで食べないのよ?』
 だって三好先生。
『だってじゃないわよ! 薪くんのほうから食べてくださいってきてるのに』
 薪さん、ずっと泣いてたんですよ。
『……』
 青木の頭の中で、赤い唇が沈黙した。
 雪子は薪のことを大切に思っている。青木の行動が正しかった、と認めてくれたのだ。




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ラストカット 後編(13)

 あけましておめでとうございます。
 昨年中は、うちのあおまきさんにお付き合いいただいて、ありがとうございました。
 今年もお暇がありましたら、是非ふたりの様子を覗いていただきたく、お願い申し上げます。


 えーと、ご挨拶の記事を別に上げるべきなんでしょうけど、ちょっとそういうのは苦手で。
 なのでこの下はいつも通り、この前の続きで、すみません。

 どうかよろしくお願いします。






ラストカット 後編(13)





 泣き続けるひとの弱さにつけこんでどうこうするなんて、青木にはできない。たとえ下着の中で自分の分身が、男泣きするくらい痛かったとしても、である。

 裸の薪を自分の胸に抱きこんで、青木は薪の頭を撫でてやった。布団の中でも、これは儀式だ。薪が元気になれるよう、鈴木が薪に残してくれた大切なジンクスなのだ。
 しかし、薪の震えはなかなか止まらなかった。子供をあやすように背中を撫でてやっても、薪は泣くのをやめなかった。
 そこで青木は、むかし薪が自分の涙を止めるためにしてくれたことを思い出した。
 同じことをしたら、止まるかもしれない。
 この涙は、泣くだけ泣いてすっきりする類の涙ではない。止められるものならどんな犠牲を払ってもいいから、止めてやりたい涙だ。
 小さな顔を上げさせようとしたが、薪はしっかりと青木の背中にしがみついていた。
 やむを得ず、からだごとくるりと回して薪を仰向けにし、くちびるにキスをした。薪の手が青木の背から離れないので、上から覆いかぶさる形になってしまったが、薪は逆らわなかった。
 甘い舌を味わったらつい夢中になって、首筋や腰の辺りまでキスをしてしまった。腰骨の辺りを舐めたとき、薪のからだがびくびくっと震えて、青木は我に返った。

「すいません。ちょっと、てっぺん越えちゃいました」
 薪の涙は止まったようだ。青木の顔に笑顔が戻る。
「このまま朝まで抱いててあげますから」
 安心して眠ってください、と青木が口にしかけた時には、薪はすでに眠っていた。
 くーくーという可愛らしい寝息は、安眠している証拠だ。やはり先刻の行動は、悪夢による一時的な錯乱だったのだろう。そうでもなければ、薪のほうからあんなことをしてくれるはずがない。

 結局、正気ではなかったのだ。そんな精神状態で関係を持っても、あとで後悔するだけだ。自分はいいが、そのときの薪の苦悩を思うと、これ以上先には進めない。
 夢中で恋をしている相手が、一糸纏わぬ姿で自分の腕の中にいる。据膳食わぬは男の恥だが、食べることはできない。
 薪には滅多と訪れない幸せな眠り。それを奪うことは、もっとできない。

 生き地獄のような状況だが、薪を好きになってからというもの、こんなことは恒常化している青木である。これまで、何度寸止めされてきたことか。さすがに慣れてきた。
 小さな子供のように眠る愛しいひとの体を抱いて、青木は目を閉じた――。
 これが、昨夜あったことのすべてである。

「それならそうと早く言えよ。余計な心配させやがって」
 青木との間に何もなかったと分かった途端、薪はいつものように横柄な口をききはじめた。さっきまではいくらか控えめで、可愛らしかったのに。もう少し誤解をさせたままにしておけばよかった。
 
「どんな心配ですか? さっきの恋人ってセリフに関係ありますか?」
「恋人? なんの話だ」
 しゃあしゃあと言ってのける。
「だって何にもなかったんだろ? だったら、おまえはただの部下だ。それ以上でもそれ以下でもない」
 しまった。
 薪が落ち着くのを待っていたせいで、冷静さを取り戻す時間を与えてしまったらしい。

「じゃあ、何を心配してたんですか?」
「決まってるだろ」
 薪はそこで、いつもの意地悪そうな微笑を浮かべる。
 この笑顔がでてしまったら、もうどこから攻めても無駄だ。薪の心が難攻不落の要塞になった証拠なのだ。
「どうやって完全犯罪を成立させようかなって」
「え?」
「とりあえず頭は潰して、死体はサルの温泉にでも浮かべておこうかと」
「そんなことしたら、薪さんが真っ先に疑われるじゃないですか」
「僕がおまえとここにいることは誰も知らないし、旅館の人間はおまえが女連れだったと証言するだろ。男の僕に嫌疑がかかる可能性はまずない」
 薪の意地悪は限りない。これでは自分におかしなことをしたら殺すぞ、と遠まわしに言われているのと同じだ。

「良かったな、青木。本能に負けなくて。負けてたら」
 薪は華奢な指をピストルの形にし、青木の顎の下に人差し指を当てた。
「今朝の食事が、最後の食事になっていたところだ」
「……肝に銘じておきます」
 冷や汗をかきながら青木がそう言うと、薪はふふん、と鼻で笑った。他の人間があんなふうに笑ったらとても高慢な印象を与えるのに、薪がするとかわいく思えるのは何故だろう。
 それは青木の感想であって、世間一般のひとが受ける印象とはだいぶ違うが、恋は盲目ということで説明がつく現象である。厄介なことに、これはどんな名医でも治せない病気で、青木の場合は最近ますます悪化する傾向にあるようだ。

「さあ、メシだメシ」
「バイキングって楽しいですよね。美味しそうなものが沢山並んでて、好きなものを好きなだけ食べられるんですよね」
「おまえが通った後は、何も残らないんだろうな」
「器は残りますよ」
「他の宿泊客が来たときのことも考えろよ」
「そうですね。空になった器って、何が入ってたんだろうって気になるんですよね。そうだ、器ごとテーブルに持って来ちゃえばいいんですよ」
「……一緒の席に座るなよ。恥ずかしいから」

 いつものように、くだらなくて楽しい馬鹿話をしながら、青木は隣の美しい微笑をうれしく思う。
 そして、願う。
 昨夜の自分の決心が、この微笑を消し去ることのないように。大切なひとの安らかな眠りを、妨げることのないように。再びあの写真のような、全開の笑顔を取り戻せるようにと。

 決行は今夜。
 青木には、2つのプランがある。青木としては最初のプランで終わりにしたいが、そちらはあまり自信がない。昨夜の薪の様子では、たぶん無理だと思う。
 もうひとつのプランは最終兵器だ。できれば実行したくないが。

 でも、それは今夜。まだ、薪と過ごすことができる楽しい時間は残されている。
 その後は口もきいてくれなくなるか、もしかすると本当に脳を潰されてしまうかもしれない。あれを自分が見たことを、薪が知ることになる。その事実を、薪は決して許してはくれないだろう。

「青木? 腹減って歩けないのか?」
 大広間の入口で、薪がこちらを振り返っている。歩みの遅くなった青木を、不思議そうな眼で見て小首をかしげている。……なんて可愛いんだろう。
「もう、めまいがしそうです」
「一食でも抜いたら確実に死ぬな、おまえは」
 目眩を覚えたのは、薪の可愛らしさに対してなのだが。ここはそのままにしておこう。
 呆れ顔の薪に笑いかけて、青木は広間に入った。




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ラストカット 後編(14)

ラストカット 後編(14)





 最高に楽しい休日になった4月の連休。
 とっぷりと日が暮れた頃、二人は長野から帰ってきた。
 今日も朝から温泉三昧で、さすがに湯疲れしたのか、薪はヘリに乗ってすぐに眠ってしまった。気がついたら横浜だった。
 せっかくの風景を見損ねたことを青木に訴えると、まだレンタルの時間があるという。それなら時間いっぱいまで飛べ、と命じて遠回りさせた。青木の宿泊代も払ってやったのだから、これぐらいしてもらってもいいはずだ。

 空からの夜景は素晴らしかった。
 俗物と言われても否定できないが、レインボーブリッジやお台場の辺りは七色の光がきらきらしていて、男の薪ですら思わずため息が出た。
 これが女の子だったら、間違いなく落ちる。青木がその目的のために航空機免許を取ったというのは、あながち冗談ではなかったのかもしれない。

「すごいな。これ、全部人間が造ったんだよな」
「そうですよ。人間が創り出した芸術も、なかなかでしょう?」
「うん」
 いつもなら捻りのきいた皮肉の一つも返すところだが、この光景を見てしまってはとてもそんな気になれない。きらめく夜景は、人の心を素直にする力を持っているのかもしれない。

 夜の空中散歩を楽しんだ後、薪はもうひとつのお楽しみに出向くことにした。
 夜桜見物である。

 場所は、青木のアパートの正面に位置する公園。
 ここの桜は見事なもので、昼間はたくさんの花見客が訪れていた。しかし、日曜の夜ともなれば明日の仕事のことも視野に入れて、人出はぐっと少なくなるはずだ。薪の狙い目はそこだ。
 読みは当たり、ざっと見た限りでは煩い酔っ払いはいないようだ。人影もちらほらといったところで、ベンチに座って桜を見上げている男女が何組かいるだけだ。桜並木を散策しているものはおらず、薪はゆっくりと夜桜を楽しむことができた。

「ああ、もう桜も終りですねえ」
 隣を歩く背の高い男が、桜の木を見上げながら寂しげに言う。食い気ばかりのこの男に、行く春を惜しむ気持ちがあるとは驚きだ。
 青木の言うとおり、桜は時おり吹いてくる弱い風にも花びらを散らしている。その光景は先刻の夜景に負けず劣らず美しくて、薪の顔をうっとりとした微笑に変える。

「薪さん。憶えてます? 2年前も一緒に、ここで夜桜を見ましたよね」
 青木は突然、昔話を始めた。
 ああ、と適当に相槌を打って、薪は桜に意識を向ける。こんなにきれいな桜に、人間の声は似合わない。薪の花見は、沈黙がセオリーだ。
 しかし青木は喋り続ける。
「あのとき、薪さんはオレのことを助けてくれましたよね。第九に入ったばかりで、MRIの画に慣れることができなくて、不眠症だったオレに睡眠薬をくれました」
 先刻の夜景を見ていたときには奥床しく口数の少なかった男が、突然饒舌になっている。なにか、話したいことがあるのだろう。
 薪は自分のセオリーを、少しだけ緩めることにした。
「ああ、あの酸っぱいの」
「よく効きましたよ。今でも眠れないときは飲んでます」
「単純バカにはよく効くんだ、あれは」
 その薬の正体が、ただのビタミンCであることは、青木にも分かっているはずだ。今でも飲んでいると言うならば、同じものを探して自分で買い足したのだろうから。

「それから、安眠できる方法をオレに教えてくれて。あれからオレ、よく眠れるようになったんです」
 悪夢防止策として、眠る前に好きなものを見るといい、と青木に勧めたことがある。それくらいで安眠できるとは、羨ましいくらい単純な男だ。
「おまえ、寝る前になに見てるんだ?」
 薪の問いかけに、青木は返事をしない。無視しているのではなく、言おうか言うまいか迷っているようだ。
「わかった。食べ物の写真だろ。ごはんのおかず100選、とか」
「まあ、オカズといえばオカズですかね……」
「意地汚いやつ。ここに、こんなにきれいなものがあるのに」
 ひときわ美しい桜の前で、薪は足を止める。上を向いて、陶然と微笑む。
 
「ええ。本当にきれいです」
「なんで僕の顔見てんだ。花を見にきたんだろ」
 ひとと話をするときは相手の顔を見ろ、と部下に指導している薪だが、こういうときはまた別だ。応用の利かないやつだ。

「一昨年も薪さんはここで足を止めて、この桜を見上げてました」
 2年も前のことを、よく憶えているものだ。薪に苛められたことはすぐに忘れて、またそばに寄ってくるくせに。
「その横顔がとてもきれいで。オレはあなたから目が離せなくなった」
 いつになく真剣な青木の声音に、薪は肩を強張らせる。
 頭を巡らせると、青木の視線は真っ直ぐこちらに向けられている。
 
「オレは、あの時からあなたに恋をしました」



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ジャンル : 小説・文学

ラストカット 後編(15)

ラストカット 後編(15)





 やさしい風が、桜の枝と薪の髪を揺らす。薄紅色の花びらが、薪の肩にふわりと落ちる。
 2年前と同じ場所。同じ桜。
 同じ人間なのに、ふたりの関係だけは2年前とはまるで違っていて。
 それは正にここから始まったと、自分にとってはここがスタート地点だったのだと、青木は言った。
 薪には初耳だ。そんなに前から自分を見ていたなんて、夢にも思わなかった。

「あなたを好きになって、2年経ちました」
 いろいろなことがあった2年だった。
 事件の爪痕も生々しい薪には、辛い日々だった。その中で、この新人と過ごす時間は、薪にとっては唯一の光だった。
 
「答えを、聞かせてもらえますか?」
 この時間を失ってしまうのは、薪にすべての楽しみを捨てろというのと、もはや同義語だ。
 なんの喜びも見出せない人生に戻る―――ただ、鈴木が迎えに来てくれるのを待つだけの人生を再び歩き出すことは、身を裂かれるような思いだ。

 知らないうちは、それでも良かった。青木が自分に近付いてくる前は、鈴木のことだけを考えて一日を過ごすことに、何の不満もなかった。
 それがこいつに押しかけられたり連れ回されたりして、始めは迷惑していたはずなのに、薪はいつの間にかそれを心待ちにするようになっていた。
 映画を見たり食事をしたり、ただ街をぶらついてみたり。そんな当たり前の友達付き合いが、楽しくて楽しくて。
 本当はこの小旅行だって、前の晩は眠れないくらい楽しみだったのだ。

 あのワクワクもドキドキも、ぜんぶ無くなる。
 それはもう、生きているとは言わない。

 青木の視線を受け止めて、薪は腹の底に力を込める。しっかりと相手を見て、はっきりと答えを告げる。
「僕の気持ちは変わらない」

 つややかなくちびるが動いて、淀みなく言葉が出てくる。
 何度も言おうとして言えなかった答え。分かりきっていた答えなのに、言葉にしてしまったらこの関係は消えてなくなる。居心地のよいこのポジションは、誰か他のひとに取って代わられる。それが怖くて、言い出せなかった。

「僕には鈴木がいる。おまえの気持ちには、永遠に応えられない」

 ……言えた。
 最後まで、ちゃんと言えた。
 これで終わった。きっちりと片が付いた。
 2年もかけて口説いたのに、振り向きもしなかった冷たい男の事なんか早く忘れて、新しいひとを見つけて欲しい。

 薪の最終通告に、青木は何故か微笑みで応えた。
「じゃあ、オレも諦めなくていいんですね」
 ……こいつ、耳がおかしいのか。
「ダメだって言っただろ。僕には鈴木が」
「鈴木さんはもういません」
 分かってる。
 でも。

「いる。ちゃんといる。僕のこころの中に、鈴木は生きてる」
「それは生きてるとは言いません」
 青木の言い分が正しい。たしかにこういうのは、生きているとは言わない。
 でも。
「鈴木さんは死んだんです」
 知ってる。僕が殺したんだから。
 でも!
「生きてても死んでても関係ない! 僕は鈴木のものなんだ。髪の毛1本まで、ぜんぶ鈴木のものなんだ!」
「関係なくないでしょう。死んだ人と、どうやって恋愛するんです? キスは? セックスは? ぜんぶ薪さんの想像でしょう? そんなひとりよがりの恋愛、鈴木さんだって迷惑ですよ」
 そんなことは分かってる。
 でも、ひとにそれを言われると腹が立つ!

「うるさい!!」
 薪の大声に驚いたカップルが、そそくさと席を立つ。これでは昨日の酔っ払いと変わらないが、薪には声を抑えることができなかった。
「自分のすべてを鈴木さんに捧げるってことですか? 鈴木さんは薪さんに、そんなこと望んでません」
「おまえに何がわかるんだ!? 鈴木と会ったこともないくせに。僕は鈴木の親友を15年もやってたんだぞ。鈴木のことなら、自分のことのようにわかるんだ!」
 青木は額に手を当てて上を向き、これ見よがしに大きなため息をついた。
「本当に何にも分かってないんですね。勘違いの天才ですものね、薪さんは」
 なんて失礼なやつだ。
 確かに長野では、笑われても仕方のない勘違いをしてしまったけれど。

「薪さんは何も分かってません。鈴木さんの気持ちも、自分のことも。思い込んで解ったような気になってるだけです。鈴木さんとは親友だったって言ってるけど、それも怪しくなってきましたね。薪さんがそう思ってただけじゃないんですか?」
「なんだって!?」
 そこまで言われる筋合いはない。
 たしかに僕は思い込みが激しいのかもしれないけれど、だからってなんでこいつに鈴木との友情まで疑われなきゃならないんだ。
 
「僕と鈴木は本当に仲が良かったんだ。お互い、かけがえのない友だちだったんだ」
「それは認めます。おふたりの友情は本物でした。でも、鈴木さんの薪さんに対する気持ちは、薪さんが考えているのと少し違ってたみたいですけど」
 まるで鈴木に会って、彼の気持ちを聞いてきたかのような口ぶりだ。その根拠はどこから来るのか、薪には見当もつかない。
 
 青木は、確たる証拠も無くこんなことを言う男ではない。何の目的も無く、ひとを傷つける言葉を使う男ではない。
 青木のやさしさは、薪がいちばん良く知っている。想いを告げられてからの1年半――いや、一昨年の春からの2年。薪はずっと、そのやさしさに包まれてきたのだ。

「なにか、知ってるのか」
 薪の問いかけに、青木は哀しそうな眼で薪を見た。
 まるで、傷つけられたのは自分だとでも言いたげな表情。言いたい放題言ったくせに、なんでこっちが加害者意識を味あわなければならないのだ。
 
「着いてきてください。鈴木さんの本当の気持ちを見せてあげます」
「鈴木の……?」
 薪の返事も聞かず、青木は薪に背を向けて歩き出した。



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ラストカット 後編(16)

ラストカット 後編(16)





 彼らが行きついた先は、ふたりの職場だった。
 科学警察研究所法医第九研究室。
 ふたりはここで出会って、ゆっくりとその距離を縮めてきた。ふたりが一緒にいる時間は、此処でのものがいちばん多かった。
 顔見知りの守衛が正門の鍵を開けてくれて、ふたりは休日の研究所へと足を進めた。他の研究室には物好きな、あるいは已むに已まれぬ事情をもった研究員たちがいるらしく、明かりのついているフロアもあったが、日曜の夜の第九に人影はなかった。

 モニタールームに入り、青木はMRIシステムの電源を入れた。自分のモニターを起動させ、12桁のパスワードを淀みなく打ち込む。
 10桁以上のパスは、特定の脳データにアクセスするときのものだ。暗記しているところを見ると、青木は今までに何度もその脳を見てきたと思われる。
 キーボードの上を滑る青木の指はかなり速かったが、薪の優れた動体視力はその動きを見逃さなかった。

「そのパスワードは、鈴木の」
「はい。鈴木さんの本当の気持ちは、もうここでしか見られませんから」
「鈴木の脳は前にも見た。おまえが見せてくれたんじゃないか」
 また同じものを見せる気でいるのだろうか。
 鈴木が、薪の罪を隠蔽しようとしてくれたことは分かっている。それ以上の秘密が、あの画像には隠されていたとでも言うのだろうか。

 モニター画面にデータの転送状態が、棒グラフとパーセンテージで表示される。
 転送速度が、ひどく遅い。データが膨大だとこうなるのだが、そんなに大量のデータを鈴木の脳から引き出して、何をする気なのだろう。
 薪は、青木の隣の席に座った。データの抽出は長引きそうだ。
 青木は席を立って、給湯室へ向かった。ほどなくコーヒーを持って帰ってくる。差し出された飲み物を、薪は断った。飲んだり食べたりできる心境ではない。

「薪さん。オレの質問に正直に答えてくれますか」
「それは質問の内容による。僕は室長だ。捜査上の秘密は、部下にも言えないことがある」
「大丈夫です。仕事のことじゃありません」
 青木は苦笑した。ここに来て、初めて見せた笑い顔だった。あの公園から、青木はずっと哀しい顔をしていたのだ。
 しかし、その笑みはすぐに消えた。また辛そうな表情になって、薪の顔をじっと見つめる。

「鈴木さんは、薪さんのことを恨んでると思いますか?」
「……わからない」
「鈴木さんのことなら、何でもわかるんじゃなかったんですか?」
 青木の言葉に、薪はくちびるを噛んだ。
 本当は、分かっている。でも、それを言葉にはしたくない。
 言葉にしたら、その事実が確定してしまう。そうしたら自分は平静ではいられない。こころが乱れて、またこいつの前で醜態をさらしてしまうだろう。
 青木はそれを理解しているはずだ。解っていてこんな――こいつはこんなに意地の悪いやつだったか。

「薪さんてほんと、口ばっかりなんだから」
 ……言えばいいんだろ、言えば。
「恨んでるさ」
「どうしてそう思うんです?」
 青木の質問に、薪はムッと眉をひそめる。
 自分で仕向けておいて、『どうして』もないものだ。
「どうしてって、当たり前だろ。自分を殺した相手を憎まずにいられるような人間が、この世にいると思うか?」

 ずきりと胸が痛む。
 傷口が開くのがわかる。
 言葉の刃は薪の胸に突き刺さって、じわりと見えない血を流す。

「オレならあの状況であなたに殺されても、あなたを恨んだりしません。例え薪さんが撃たなくても、鈴木さんは誰かに射殺されてた可能性が高いです。
 鈴木さんは拳銃を保管庫から強奪して、職員を3人も傷つけてます。明らかに錯乱状態でした。薪さんは知らなかったかもしれませんけど、他の職員の人命を最優先に考えて、射殺許可が出されていました」
 知らなかった。
 あの時は拳銃の携帯許可が出て、薪は信じられない思いで田城から拳銃を受け取った。
 研究所長では、射殺許可は出せない。出せるとしたら、上層部か警視総監だ。
 しかし、青木が警察庁に勤務し始めたのは2年前の10月からだ。あの事件が起きたのは8月。青木が、その当時のことを知っているはずがない。
 
「なんで僕が知らないことをおまえが知ってんだ。おまえ、そのときはまだ警大にいたはずだろう」
「竹内さんに聞きました。正確には、許可待ちの状態だったらしいですけど。でも、許可は時間の問題だったろうって言ってました」
 捜査一課の竹内と青木は仲がいい。バカはバカ同士で、話が合うのかもしれない。

「他のひとに殺されるくらいなら、あなたの手にかかって死にたい。オレだったらそう考えると思います」
「それは、おまえが僕に特別な感情を抱いているからだ。好きな人と心中するんだったら話は別だけど、この場合はそうじゃない。室長の僕が、部下の鈴木を撃ち殺したんだ」
「心中?」
 薪の例え話が可笑しかったのか、青木はひどく驚いたような顔をした。
「それは気が付かなかったな……そうかもしれませんね。無理心中だったのかも」
「なんのことだ?」
 青木の言うことが意味不明なのは今に始まったことではないが、今回は分かるまで説明してもらわなければならない。鈴木のことだけは、おざなりにするわけにはいかない。

「鈴木さんも、オレと同じ気持ちだったとしたら?」
 あまりの馬鹿馬鹿しさに、笑い出したくなる。
 こいつは何も知らないのだ。鈴木の本当の気持ちを教える、なんてただのはったりだったのだ。
「おまえのくだらない当て推量を聞きにきたわけじゃない。そんなことなら、僕は帰る」
「当て推量じゃありません。それに、オレは話を聞かせたくてあなたを第九に連れてきたわけじゃありません。見せたいものがあったから」

 モニターのゲージがやっと100%になって、画が映し出された。
 それは、このモニタールームの画だった。職員がモニターを覗き込んで捜査をしている。職員は旧第九のメンバーだ。つまり、これは鈴木の画だ。
 右の奥に、薪の姿がある。他の職員たちが背景の一部に紛れてしまっているのに比べて、薪だけは輪郭がくっきりと映っている。ちょうど薪に焦点を合わせた、カメラアングルのような具合だ。
 きりっとした横顔は、厳しい捜査官の顔つきだ。しかしそれは、殊のほか美しくて――周囲の空気が微光を発しているかのように、淡く輝いて見える。

「長野で遭難しかかったときに、あなたより先に眠ってしまったはずのオレが、どうして目を覚ましたのか。不思議がってましたよね」
 青木の話は、あちこちに飛ぶ。
 こんな風に報告書を上げてきたら、目の前でびりびりに破り捨ててやるところだ。
「薪さんは、どういう解釈をつけましたか?」
 薪も一応、仮説は立ててみた。だが、それはあまりにも現実離れしていて、口にするのは憚られた。

「鈴木さんが助けてくれたんだ、と思いませんでしたか?」
「おまえもそう思うか?」
 青木の意見が自分と同じだと解って、薪は自分の仮説に自信を持った。あまりに非科学的なので、言葉にすることを躊躇っていたのだ。
「あのとき鈴木に頼んだんだ。おまえだけは助けてくれって。やっぱり、鈴木がおまえのことを起こしてくれて」
「なにバカなこと言ってんですか。第九の室長ともあろうものが、オカルト話を真に受けてどうするんです」
 自分で言い出しておいて、青木は薪の仮説を鼻で笑い飛ばした。なんてムカツクやつだ。

「おまえが今」
「オレ、あのとき本当は起きてたんです」
「……起きてた?」
「もちろん、身体は動きませんでした。でも、薪さんが言ってることは全部聞こえてたんです」
 聞かれていた?
 夢中だったから何を言ったか憶えてはいないが、とにかく青木を助けてくれと頼んだ。自分のことはいいから、こいつだけはと。

「オレ、実を言うと、本当にあそこで薪さんと一緒に死んでもいいと思ってたんです。ちょっと他の人から言われたこともあったりして、けっこう思いつめてたんで。薪さんと一緒になれるとしたら、この方法しかないのかもしれない、なんて……。そんな風に思ってたら、どうしても生き抜いてやるって気力が萎えてしまって」
 あんな暢気な顔をして、そんなことを考えていたのか。ひとの心というものは、他人からは解らないものだ。
「でも、薪さんの言葉を聞いて、このままこのひとを死なせるわけにはいかないって思ったんです」
 薪は、そのときの自分の言葉を思い出そうとした。
 自分は何を言ったのだろう。青木を助けること以外、何か鈴木に頼んだだろうか。

「オレ、ずっと不思議だったんです。どうして鈴木さんは薪さんに発砲したんだろうって」
 また話が飛ぶ。
 いい加減、厭になってきた。

「僕を殺したかったからだろ」




*****



 お話の中の『鈴木さんが拳銃を強奪した』というくだりは、原作とは違います。
 原作では第九には独自に捜査権が与えられており、拳銃も装備している、という設定ですよね。
 勝手に原作を曲げてすみません。鈴木さんの罪を増やしてすみません。
 その他にも、なんかすみません……。


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ラストカット 後編(17)

ラストカット 後編(17)





「僕を殺したかったからだろ」
 投げやりな調子で、薪は言った。青木はいったい何が言いたいのだろう。
 
「オレもその意見には賛成です。錯乱して発砲したことになってますけど、怪我をした他の職員は正確に足を撃たれています。薪さんに対する銃弾だけが頭部を狙ったものだった。これは明らかに殺意を感じます」
「貝沼の脳を見て、僕がすべての元凶だと解って。鈴木は僕を殺そうとしたんだ」
「違います。鈴木さんは薪さんに、自分の脳を撃ってくれって言ってましたよね。鈴木さんは、薪さんの手にかかって死にたかったんです」
「それで僕が恐怖から引き金を引くように、威嚇射撃を?」
 だから薪さんは悪くありません――そう慰めようと思っているのだろうか。
 そんなことは気休めにもならない。鈴木を殺した事実は消えない。

「オレも始めはそう思いました。でも、威嚇射撃にしては、急所に近すぎました。あと20cm右にずれてたら、薪さんは頭を撃ち抜かれて死んでました」
 そのほうが良かった。
 そうしたらきっと今頃は、あの世で鈴木と一緒にいられたのだ。
「薪さんの言う通りかもしれません。あれは心中だったのかも」
「心中?」

「鈴木さんに伝染したのは貝沼の狂気じゃなく、恋情だったんです。鈴木さんはずっと薪さんのことが好きだったんです。
 心の底に押し込めていたその気持ちが、貝沼の異常なまでに強いあなたへの想いを見たことで、抑えられなくなってしまった。それで薪さんを殺して自分も死にたいという思いに囚われてしまった。もちろん、貝沼の狂気に感化されて、正気ではなかったでしょう。
 だけど鈴木さんは、そんな自分の中の狂気と戦おうとした。それで自殺しようとしたんです。薪さんを傷つけないうちに、自ら命を絶とうとした。そこにあなたが来てしまった。
 あなたを見てしまったら、もう我慢できなくなってしまったんです。それで発砲してしまった。
 そうじゃなきゃ、説明が付かないんです。だって、オレも見てるんですよ。鈴木さんの脳を通して、貝沼の悪魔のような所業のすべてを。貝沼の動機が薪さんを自分のものにするためだったことも、全部。条件は鈴木さんと同じだったはずです。けど、オレは薪さんを殺そうとはしなかった。あの頃のオレは、薪さんに恋をしていなかったからです」

 青木の仮説を、薪は黙って聞いていた。
 鈴木と同じ画を見た青木が、彼と同じ行動を取らなかった理由を説明したつもりらしいが、人間というのは個人差があるものだ。青い色を見て空を連想する人もいれば、海を想像する人もいる。それと同じことだ。
 青木の仮説には、決定的な欠陥がある。
 鈴木は当時、雪子と婚約したばかりだった。青木はそれを知らない。薪と鈴木との間に、そんな感情は断じてなかった。鈴木はそんな不誠実な男ではなかった。
 薪が鈴木と恋人同士だったのは、事件が起きる14年も前の話だ。それも別れようと言い出したのは、鈴木のほうだった。鈴木は雪子に出会って心を移して、薪を捨てた。青木はそのことも知らないはずだ。

「鈴木とはずっといい友だちで、それ以上の感情は鈴木にはなかった。僕が一方的に好きだったんだ。だから、おまえの仮説は成り立たない」
「そうでしょうか」
「鈴木の気持ちを証明できない以上、おまえの話は仮説の域を出ない。こんなMRIの画をいくら見たって無駄だ。鈴木が死ぬ5年前までの画に、それを証明するものなんて絶対に出てこない」
 それは確実だ。
 鈴木が薪を愛してくれたのは、15年も昔。1年にも満たない短い期間だった。5年前までしか遡れないMRIに、現れるはずがない。

「この、モニタールームの画ですけど。鈴木さんの目から見た薪さんは、他の人に比べてとてもきれいに映っていると思いませんか?それに、ずっと薪さんのことを見てます。ほら、薪さんが部屋のどこに移動しても、そこに焦点が合わされている」
 仕事中の研究室で、鈴木は薪を目で追っている。しかしこれは、青木が主張するような邪な気持ちからの行動ではない。上司というのは、常に部下に見られているものだ。
「仕事のことで相談したいことがあって、話しかけるチャンスをうかがっていた。そんなところだろ」
「じゃあこれは?」
 芝生の上に寝転んで、安らかな寝息を立てている薪の姿が映る。周りの建物の様子から見て、場所は研究所の中庭だ。
「眠ってる薪さんを、ずっと見てますよね」
「天気がいい日は外で昼メシ食って、代わりばんこに昼寝をしてたんだ。僕は低血圧で寝起きが悪いから、起こすタイミングを見計らってたんだろ」
 簡単に説明がつくことばかりだ。
 こんな希薄な状況証拠から、そんな仮説を導き出すなんて。こいつがしていることは、捜査官の仕事じゃない。ただのホラ吹きだ。

 青木は両肘を机の上について、頭を抱えた。
「なんでそんなに鈍いかなあ」と失礼なことをほざいて、薪のほうに顔を向ける。
「これ、できれば言いたくなかったんですけど。薪さんがそんなふうに言い張るなら、やっぱり言わなきゃダメですね」
 青木は肩を落として、ため息混じりに言った。
 言いたくないなら言わなければいい。こっちだって、もうたくさんだ。
「オレ、薪さんと鈴木さんが、昔そういう関係だったの知ってます」

 青木の爆弾のような言葉に、薪は思わず腰を浮かした。
 そんなはずはない。こいつが知っているわけはない。これはブラフだ。
「馬鹿馬鹿しい。何を根拠に」
「鈴木さんの脳に残ってました。もう一度、見たんです。今度は貝沼の事件は飛ばして、鈴木さんの日常を5年分、全部」
「見え透いた嘘を吐くな!」
 5年の間に、そんなことはしていない。青木が見られるわけがない。

「鈴木さんの最後の画は、薪さんでした」
「当たり前だ。僕が鈴木を殺したんだ。最期に僕の画が映っていて当然だ」
 僕が人殺しになった瞬間を、こいつは見たのだ。
「いえ、そうじゃなくて」
 青木はそこで椅子ごと薪のほうに向き直り、薪の目をしっかりと見据えた。
「ラストカットです」
 
「……ラスト……カット?」

 ラストカットは、新皮質に残る微細なデータだ。ここ数ヶ月、青木が宇野について学んでいたのは、このデータの検出方法だったのか。
 殺人事件の捜査で、その作業が必要になることはない。何故なら、ラストカットには通常、視覚者の人生の中でいちばん幸せだったことが映し出されるからだ。そこに自分を殺した犯人が映ることは、まずない。
 普通の捜査では必要ないから、当然その手順も簡略化されていない。膨大なデータを網羅して、その中から拾い集めていくしかない。気の遠くなるような作業だし、とても難しい作業だ。システムのエキスパートの宇野でさえ、実際に行ったことはない。

「鈴木さんのラストカットは薪さんでした」
 青木の言葉の衝撃に、薪の仮面は剥がれ落ちた。
 弱気な形に眉尻を下げ、大きく目を開いている。その瞳は疑惑と不安とで震えていた。
 生命の最後に見る、その人の人生の中でいちばん幸せだったときの光景。鈴木のそこに自分の姿があったと?
「鈴木さんの腕に抱かれてる、裸の薪さんでした。とってもきれいでしたよ」
「そんな……嘘だ。だって僕は……鈴木は、雪子さんを」

 薪の頭の中は、パニック状態だった。何度も同じ言葉が繰り返される。
 そんなはずはない。そんなことはありえない。

「はい。鈴木さんは三好先生のことも、ちゃんと愛してたと思います。鈴木さんの脳に残っていた三好先生は、とっても女らしくてかわいくて、びっくりしました。でも、魂の深いところでいちばん大切に思っていたのは、薪さんだったんです」
 うそだ。
 こいつは嘘をついている。
「だからあのとき、貝沼の秘密を墓場まで持っていこうと――システムを破壊して自分の脳を撃ってまで、薪さんを守ろうとしたんです。鈴木さんは、薪さんのことを愛してたんです。
 これこそ、トップシークレットですよ。三好先生には絶対に内緒です」

 言葉も出なくなってしまった薪に、青木は一枚のDVDを差し出した。
 目を大きく開いたまま、気を失ってしまったかのように身じろぎひとつできないでいる薪の手に、プラスチック製のCDケースが握らされた。
「MRI捜査の基本は、仮説と検証です。報告書には証拠となるデータの添付が必要です」
 それは薪が、まだ新人だった青木に教えたことだ。新人は、いつの間にか立派な第九の捜査官になっていた。
「これが証拠です」
 青木は薪の腕を掴んで立たせると、室長室へ引き摺るようにして連れて行った。
「それは薪さんひとりで見てください。オレは」
 薪を残し、青木は部屋を出て行こうとした。室長室のドアを閉めるとき、青木は泣きそうな顔になって言った。
「オレはもう二度と、あなたと鈴木さんの邪魔はしません」

 両手にDVDを持って、薪は呆然と立ち尽くした。
 そのまましばらく自失していたが、やがて我に返って、DVDとドアを交互に見た。それから室長席に近付くと、パソコンの電源をオンにした。



*****



 書いちゃった後でなんなんですけど。
 わたしの原作に対する解釈と、二次創作は全然別物です。二次創作はあくまでもお話なので、この方が面白そうだ、と思われる方向に合わせて人物像は変えていきます。なので、これはわたしの鈴木さん像ではありません。ていうか、こんな鈴木さん、イヤ。(笑)
 原作の鈴木さんは、純粋に雪子さんを愛していたと思います。薪さんとの間に恋愛感情はなく、あったとしても薪さんからの一方通行だったと思います。恋愛の要素が皆無でも、友人のために死ぬ男はたくさんいますから。(←少年漫画ばっかり読んでるとこういう偏見が)

 でも、実際のところはどうだったのでしょうね。
 原作に描かれていないので、想像するしかないんですけど。やっぱり謎ですね。そこがまた、鈴木さんというひとの魅力を増しているのでしょうね。


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ラストカット 後編(18)

ラストカット 後編(18)






 室長室のPCモニターは、32インチという大型のものである。
 薪のパソコンは、MRIシステムの端末としても利用できる。そのため、ディスプレイもこのサイズのものが使われている。
 
 その液晶画面に。
 一昨年の11月以来の、無修正AV画像が映し出されていた。

「……うそだ」
 5課の要請で、裏AVの確認作業を手伝っていたときとは別人のように、薪はその映像に慌てふためいていた。
 画面の中では、2人の男が裸で抱き合っている。無修正のホモポルノだ。思わず椅子ごと机から離れるが、画面から目を離すことはできない。
 出演者の2人は、自分が良く知っている人物だ。ひとりは自分の親友だし、もうひとりは自分自身だ。まったく身に覚えのない映像を目の当たりにして、薪は青木の馬鹿げた仮説のルーツを知る。 

 青木が言ったことは嘘ではなかった。でも、これはラストカットではない。
 ラストカットは、ほんの十秒くらいだ。こんなに長く続くものではない。
 これはたぶん鈴木の想像か、でなければ夢のどちらかだ。現実ではない。画の中に、鈴木自身が映っているからだ。鈴木は昔の情事を思い出していただけだ。
 それだけのことで、あんな極端な仮説を捏ね上げるとは。青木は、捜査官より小説家になったほうがいい。このDVDを見終わったら転職を勧めてやろう。

 ディスプレイの中の薪は、ベッドの上にうつ伏せになって尻を高く上げている。そこに鈴木が後ろから覆いかぶさってくる。羞恥に頬を染めて、それを受け入れる。
 激しく突き上げられるうちに、薪の表情が変わってくる。恥ずかしそうな表情から、快楽に喘ぐ淫らな貌に。やがては自分から、夢中になって腰を動かし始める。
 たしかに、これは鈴木と自分に間違いない。
 でも、こんなにすごかったっけ? これじゃ、まるで……。

 読唇術の心得がある薪は、画の中に映る自分のくちびるを、おっかなびっくり読んでみる。
「言ってない! 僕はこんなこと言ってないぞ!」
 PCの画面に思わず突っ込みが入るほど、モニターの中の自分は淫らなことを叫んでいた。気持ちいいとかもっと深くとか、それから……とても言葉にできない。
 やってることも凄い。
 このDVDはのっけからセックスシーンだったが、様々に体位を変えて、その度にふたりは興奮を高めているようだった。薪の色欲に溺れた顔が鈴木の欲望に近付いていって、愛しそうにそれを口に含む場面もあった。今は薪が鈴木の上になって、からだを仰け反らせながら腰をくねらせている。

「やってない! 僕はこんなことまでしてない!!」
 こ、これを青木が見たのか!?
 あいつ、これが鈴木の想像だって解ってるよな? あいつの観察力は当てにならないから……不安だ……。

「鈴木……いったい、僕をどうゆう目で見てたんだよ……」
 あまりにも現実と違う画像に、薪は両手で頭を抱え込んだ。憂鬱な気持ちで、当時のことを振り返る。
 セックスが上手にできたことなんか、数えるほどしかなかった。
 相手とひとつになる幸福感と、肉の快楽はまた別のものだ。幸せだったけど、その行為には必ず痛みがセットになっていて。正直な話、鈴木が終わるのをひたすら待ってるときのほうが多かった。
 それでも、回数を重ねるごとに痛みはだんだん薄くなって。半年以上かかって、ようやく痛み以外のものも感じられるようになったけど。うまくすると鈴木を受け入れたまま、射精できることもあったけど。でも、それはほんの数回のことで。まぐれと言ってもいいくらいの確率でしか、訪れてはくれなかった。
 そのまぐれですら、こんなふうに感じられたことは1度も……きっと僕は、そっちの才能がないんだ。

 鈴木のことは好きだったけど、セックスは女の子のほうがずっと気持ちよかった。
 男はとにかく痛くて汚い。きれいでしたよ、と青木は言ったけど、そんなはずはない。あれは、見たら吐き気がするほど汚い光景だ。

 鈴木に恋をしていると自覚したころ、もしかしたら自分は女の子より男のほうが好きなのかと悩んで、そういう系統の雑誌やネットを見てみたことがある。それまで女の子にもいまひとつ本気になれなかったのはそのせいか、とも思った。でも実際に見たら、気持ち悪くて吐きそうになった。
 結局、僕は女の子も男も本気で愛せない、愛情の欠落した人間だということが分かった。それが何故か、鈴木だけは特別で。
 これが恋の魔法というやつなんだな、と自分でもびっくりするくらい、やさしい気持ちや相手を大切に思う気持ちが自然に沸き上がってきて。
 こんな冷血な自分でも、やさしい人間になれる。暖かい血の通った人間になれる。それがうれしくて、僕はますます鈴木のことを好きになった。

 画面は遷り変って、スーツ姿の薪が現れる。場所は室長室のようだ。
 ほっとして薪は画面に近付く。
 室長室の窓から外が見えた。雪が降っている。季節は冬だ。
 キーボードを叩きながら、薪は何かぶつぶつ言っている。これは現実の画らしい。画の中に鈴木の姿がなく、薪だけが映っているからだ。

 また場面が変わって、テーブルの上に置かれた美しい和懐石の膳が映る。それを美味そうに食べている自分の姿が見える。
 これは、山水亭だ。
 画面の中の薪はとても楽しそうに笑い、次の瞬間にはくちびるを尖らせ、その次にはまた笑っている。その美貌が、こちらにぐいと近付いてくる。目を閉じて口を大きく開く。10分前の画像では男の欲望を咥え込んでいたつややかなくちびるに、今度は大粒のイチゴが投入される。薪はリスのように頬を膨らませている。

 鈴木の前では、自分はこんなにやりたい放題だったのか。笑って怒って甘えて……そうだ、僕がこんなふうに自分を出せる相手は鈴木だけだったんだ。

 唐突に、画面の中の薪の顔が悲しげな翳りを見せる。が、それは一瞬で消え、穏やかな微笑を取り戻す。しかし、それはさっきまでの無邪気な笑顔ではない。薪は明らかに自分の心を隠している。

 思い出した。これは、鈴木が死ぬ前のクリスマスイブの夜だ。




*****


 鈴木さんと過ごした最後のクリスマスイブの様子は、カテゴリADの『聖夜』というお話に書いてあります。
 興味のある方はどうぞ。


テーマ : 二次創作(BL)
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ラストカット 後編(19)

 ヌルイRありです。 苦手な方はご注意ください。





ラストカット 後編(19)





 雪子が仕事でデートの相手にあぶれた鈴木は、薪を誘ってきた。そこで雪子との結婚話を告げられた。これはそのときの画像だ。
 自分もこのときは頑張った。動揺を表に出さないように、自分の感情を見事に抑え込んだ。
 この夜はたしか鈴木が部屋に飲みに来て、そのまま泊まって行ったのだ。図々しく薪のベッドを占領した鈴木は、雪子と間違えて自分にキスを――ほら、ここだ。
 鈴木にベッドに引き込まれて、赤い顔をした薪が映っている。リビングに行こうとそっとベッドを抜け出すが、鈴木の寝顔につい見蕩れて誘惑に負けそうになる。慌ててかぶりを振って、己を戒めている。困惑した薪の顔が急に近づいてきて、その亜麻色の目が大きく開かれて画面いっぱいに広がり、不意に暗転する。鈴木が目を閉じたのだ。

「あれ?」
 この画は少しおかしい。
 あのとき、薪はてっきり鈴木が自分と雪子を間違えたのだと思い込んでいたが、それならここには雪子が映っていないとおかしい。これは鈴木の脳の画だから、鈴木が見間違いをしていれば、現実とは違う画が映るはずなのだ。

 くちびるが離れた後の画にも、はっきりと薪の姿が映っている。これだと鈴木は、相手が薪だと分かっていながらキスをしたことになるが。まあ、寝ぼけていたのかもしれない。
 人騒がせな話だ。あの後、薪は千々に乱れたこころを抱えてリビングに逃げ込んだのだ。ソファの上で毛布にくるまって、さんざん泣いた。鈴木を忘れることができない弱い自分が、情けなくて口惜しくて。

 しかし、次の画は間違いでは済まなかった。
 ソファで丸くなって眠っている薪が、だんだんこちらに近づいて来る。鈴木のほうが薪へ向かって歩いているのだが、鈴木の視覚で見るとそうなるのだ。
 そして。

「何してるんだ、鈴木……?」
 薪の頬は涙で濡れていた。それを鈴木のくちびるが吸い、愛しげにくちびるにキスをした。
 それから鈴木は、長いこと薪の寝顔を見ていた。窓の外が白むまで、ずっと。
「嘘だ……こんな……だって……」

 それから再び、薪は娼婦のようになって画面の中に現れた。
 今度は室長室だ。薪の身に憶えはないから、これは完全に鈴木の想像だ。
 最初のころ、薪の体に透けて部屋の天井みたいなものが映っていたから、仰向けになった姿勢でこれを想像していたと思われる。
 これは男なら誰でもやることで、薪にも経験がある。つまり自慰行為だ。
 男が自慰をするときに、だれかとの情事を想像する。それはよくあることだけど、ただの友達だと思っている相手にすることじゃない。

 薪は立ったまま白いワイシャツを袖の部分に落とし、上半身をさらけ出している。鈴木を見て、嬉しそうに微笑んでいる。鈴木の手が薪のベルトを外し、ズボンを足元に落とす。そのまま薪の下腹部を口で愛撫しだした。
 立っているのが辛くなった薪は、執務机に手を伸ばす。机の縁に捕まって、快感に身悶えする。充分に潤った薪のからだを机の上に載せると、鈴木は自身を薪のそこに埋めてくる。薪はびくびくと震えながら鈴木を受け入れる。
 そのつややかなくちびるが、また叫びだす。しかし、今度のセリフは薪にも憶えがあった。
『すずき、だいすきっ!』
 大きく足を開いて男を受け入れながら、相手を抱きしめて、その耳元で何度も叫んでいる。
『愛してる、愛してるっ! すごくしあわせっ……!』
 鈴木のくちびるも、薪と同じ動きを繰り返している。

 男同士のセックスなんて、端から見たら吐き気がするほど汚い光景だけど、でも。
 でも、鈴木の脳に残されたその画はきれいで――青木が言う通り、確かにとてもきれいで。

 これは現実じゃない。鈴木の脳が作り出した画だ。
 だけど。
 鈴木には――鈴木の目にはこんなふうに見えていたと。
 僕と同じように、繰り返し繰り返し夢に見たと……あのころのことを思い出して、僕との情事を想像して、眠れぬ夜を過ごしたと。
 想いは通じ合っていたのだと――。

 画面の中の薪の眼には、うっすらと快楽の涙が浮かんでいる。それを映し出す亜麻色の瞳からもまた、涙が零れ落ちていた。
「鈴木……」

 もう、迷わない。
 おまえのまがい物に、惑わされたりしない。
 おまえはここにいる。ちゃんとここにいたんだ。

 僕の夢の中で、僕を抱いてくれたおまえが真実だった。
 僕に、夜な夜な逢いに来てくれていたんだ。僕の捻じ曲がったこころがおまえの愛情を信じられなくて、夢は悪夢に変わってしまったりしたけれど。鈴木は僕に逢いたくて、ただそれだけで。
 そうだ。鈴木はそういうやつだった。
 僕には限りなく甘くて、僕のすべてを許してくれて。

 薪は自分の手でベルトを外した。
 華奢な手が、ズボンの中に滑り込む。画の中の自分が鈴木にされているように、自分自身を愛しはじめる。
 触る前から薪のそこは痛いくらいに膨らんでいて、それはこの画像が、薪のからだの奥に眠った情事の記憶を引き出した結果だった。
「あっ、あっ、鈴木っ……!」
 昔の恋人を思い出しての手淫は何度も経験済みだが、今日は画像付きだ。頭の中の空想と視覚では、与えられる刺激に格段の差がある。その強烈な刺激は、薪の時計を一気に15年前に巻き戻した。

 独りよがりじゃなかった。
 鈴木は僕を愛してくれてた。もちろん雪子さんのことも愛してたけど、ちゃんと僕のことも愛してくれていたんだ。
 不誠実とか二股とか、部外者は勝手にほざけばいい。鈴木を知らない人間に鈴木の気持ちが解るわけがない。鈴木は雪子さんにも誠実で、僕のことも本気だった。

 興奮が高まるにつれて、体に纏いつく衣服が邪魔になる。夢中でズボンと下着を下ろし、床の上に脱ぎ捨てる。両手が自由に動くようになって、薪の快楽はいっそう深くなる。
 両膝を折り、椅子のふちに腰掛けて、画の中の自分と同じように大きく足を広げる。腰を浮かせて鈴木を受け入れている部分に自分の指を忍ばせ、画の自分と同じ愉悦を味わう。
 音のないMRIの代わりに、薪は大きなよがり声を上げる。堪らなくなって、ありったけの声で叫ぶ。
「すずきっ、すずきっ! 愛してるっ! あああ!」

 ひときわ大きな喘ぎと震えのあと、薪はぐったりと背もたれに寄りかかった。
 荒い呼吸を整えて、目蓋の裏の恋人に微笑みかける。汚れた手をティッシュでぬぐい、涙を拭く。床に脱ぎ散らかしたズボンを拾い上げ、身につける。
 再びディスプレイの前に座って、薪は画面に向き合う。頬杖をつき両手で口許を覆って、愛撫の余韻を味わいながら、自分たちの愛し合う姿を切ない瞳で見つめる。

 あのとき、僕が取った行動は間違っていた。
 鈴木を撃ち殺した後、僕がしなければならなかったことは、所長に連絡して救護班を回してもらうことではなく、雪子さんの携帯に連絡を入れることでもなかった。

 その場で自分の頭を打ち抜くことだったんだ。

 それが判ったいま――僕は鈴木に会いに行ってもいいんだ。
 きっと、鈴木は僕のことを待ってくれている。バカな僕が思い違いをして、鈴木にこんなに長いこと待ちぼうけを食わせてしまった。

「ごめん、鈴木……ごめんな」
 でも、明日は逢える。鈴木に逢いに行けるんだ。



*****


 なんか、すっかりすずまき小説に。
 が、がんばれ、青木くん!


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ラストカット 後編(20)

ラストカット 後編(20)





「明日が待ち切れないよ……」
 朝一番で、所長に適当な申請書を上げて拳銃の携帯許可を貰おう、と薪は考えている。

 どんな死に方でも、頭さえ潰れてくれれば文句はない。だから首吊りとか服毒自殺とかは論外だ。しかし、ビルの屋上から飛び降りると後始末が大変だし、電車に飛び込むのはもっと多くの人々の手を煩わせなければならない。しかも、必ず頭が潰れるとは限らない。銃で頭部を打ち抜くのが一番確実なのだ。
 誰もいないところへ行ったほうがいいのだろうが、それをすると自分の死体を見つけるまで、第九のお人好したちが探し回るだろう。後始末のことを考えるとここで死ぬのはためらわれるが、死体というのは腐ったら物凄く臭いし、早期発見の上さっさと焼いてもらったほうが良い。銃を撃つときに脳漿が飛び散らないよう、上着で頭を包めば壁紙を張り替えるくらいで済むだろう。

 そうだ、やりかけの書類があった。あれだけは処理していかないと岡部が困る。
 薪は引き出しの鍵を開けて、目的の書類を取り出した。スチール製の事務机の上に数枚の紙を広げる。
 左手のPCの画面では、もうひとりの自分がまだ快楽に喘いでいる。まったく鈴木ときたら、いったい何十分こんなこと――。

「僕はそんなに長くはもたないよ、鈴木」
 高級そうなマホガニーの机の上で、足を相手の腰に絡みつかせて鈴木を受け入れる自分を、先刻までの興奮とはかけ離れた冷静な目で見る。男の生理など、一度抜いてしまえばこんなものだ。もともと薪は、そちらの方面には興味がない。

「うん?」
 書類を見たせいか、薪の目が熟練した捜査官の目になる。
 マホガニーの机。画面の端に映った飾り棚。これは室長室ではない。
 これは鈴木の想像の画だから、現実と多少の食い違いがあってもおかしくは無いが、それにしてはやたらとはっきり部屋の様子が映っている。しかも薪には見覚えがある。

 官房長室。
 これは官房室長の部屋だ。
 じゃあ、鈴木は官房長になった僕とセックスしてるのか?
 想像とはいえ、なんてやつだ。おとなしそうな顔をして、どれだけの野心をその羊の皮の下に隠していたのか。

 そういえば、と薪は何年か前に鈴木と交わした、たわいも無い冗談を思い出す。
 鈴木の脳にも残っていた、あの事件の前のクリスマスイブ。雪子との結婚が決まったことを聞いた薪は、自分がそれにショックを受けていないことをアピールするために、冗談で官房長の娘との結婚話を口にした。そのときに自分が官房室室長、鈴木が首席参事官になって、などと言った憶えがある。
 鈴木はその冗談を本気にしていたのだろうか。

 画面の右下に、ダークグレイのジャケットが落ちている。大きさからして薪のものだ。その胸に着いている襟章。警視正の襟章より白い線が何本か多い。階級が上がるほどにこの線は増えていくものだから、これはきっと官房長の――。
 
 ちがう。
 官房長の襟章はこれじゃない。これは……この線の数は――。

 薪は画面に顔を近づけて、その部分を凝視する。画面右下。ジャケットについた小さな襟章。これが鈴木の望んだ画だとしたら。
 鈴木は、自分と一緒に死ぬことを望んでいたのではないかもしれない。
 
 あの事件の時の鈴木の行動は、明らかに貝沼の影響を受けていた。そうでもなければあのやさしい鈴木が、銃を強奪して他人を傷つけるなんて事をするはずがない。薪に発砲してきたことも、いわば貝沼に操られてのことだ。貝沼の狂気は鈴木のこころの底に潜めていた小さな願望を増幅されて、それが鈴木をあんな凶行に走らせた。
 あれが鈴木の本心だったとは思いがたい。

 画像の違和感に、薪はいつもの冷涼な頭脳を取り戻す。さっきまで薪の身体を支配していた感傷も肉欲も消えて、そこにはただ冷静な捜査官の顔がある。

 このDVDは、青木が編集したものだ。
 その目的は、鈴木が薪を憎んでいないことを薪に解らせることだった。つまりこのDVDには、鈴木が薪に好意を持っていたことを示唆する画ばかりを集めてあるはずだ。
 鈴木だって薪のことを見るたびに、こんなことばかり考えていたわけじゃない。親友として上司として、友情と尊敬を感じていたはずだ。それは共に第九で過ごしてきた薪が、一番良く分かっている。
 
 これと同じ位、いや、きっとこれより遥かに多く、雪子を愛している証拠となる画が鈴木の脳には残されていたはずだ。そこには現実のセックスも映っていただろうし、感動的なプロポーズのシーンもあっただろう。そのときの雪子は、この画以上にきれいだったはずだ。
 それを意図的に抜いた青木の行為は、べつに薪を騙そうとしたわけではない。青木はただ、鈴木の本当の気持ちを薪に伝えたかっただけだ。

 プレーヤーを一時停止にして画像を止め、薪は必死で目を凝らす。なるべく襟章が大きく写るシーンを選んで範囲を指定し、拡大をかける。

 だめだ。このモニターじゃ、解像度が荒くて確認できない。
 画を止めるとブレが出て、拡大したら線がぼやけてしまって、余計にわからない。逆に普通に流したほうがよく見えるくらいだ。停止画像の白線はどう見ても20本以上はある。こんな襟章は存在しない。

 官房長の部屋で鈴木に抱かれる自分と、自分のジャケットにつけられたありえない襟章。
 この矛盾は検証する必要がある。

 ――――メインスクリーンなら、見られる。
 この画像が、あの壁いっぱいのスクリーンに映し出されるのはちょっと、いやかなり恥ずかしい。
 しかし、確かめたい。鈴木が本当は自分に何を望んでいたのか。

 DVDをPCから取り出して、薪は立ち上がった。迷いもなくモニタールームに向かう。室長室のドアを開けると、そこにはこのDVDを編集した職員が座り込んでいた。
「あお……!」
 思いがけない事態に、薪の顔が真っ赤になる。
 こいつ、帰ったんじゃなかったのか。しかも、どうして自分の席ではなく、こんなドアの側に青木はいたのだろう。まるで中の様子をうかがうように。

 ああ、そうか、と薪は思う。
 青木は、薪が自殺するのではないかと危惧していたのだ。
 自分の推理の中で、鈴木が薪に無理心中を仕掛けた可能性を指摘した青木は、それを薪が実行するかもしれないと後から気付いたのだろう。でも、室長室であの画像を見る薪の邪魔はできない。あれは他人と一緒に見るものではない。 だから、何事かあったらすぐに対応できるように、ここで待機していたのだ。

 少し考えれば分かったはずなのに、あの時はそんなことは頭の隅にも浮かばなかった。鈴木が想像する情事に同調してしまって、夢中で。
 自分の恥ずかしい声は、こいつに丸聞こえだったに違いない。その証拠に青木の頬が赤い。薪の顔を見ようとしない。
 気まずすぎる状態だが、こうなったらもう開き直るしかない。
 どうせ、この画を見られているのだ。淫乱な人間だと思われていることだろう。構うものか。この検証の結果によっては、本当にそうせざるを得なくなるかもしれない。

「青木。これ、メインスクリーンに映せるか」
「はい!?」
 びっくりしている。当たり前だが。
 
 こいつの中の自分の偶像を、きれいなままで残してやれなかったことに罪悪感はあるが、もともとこいつの勝手な思い込みだ。この際、そんなものは木っ端微塵に砕いてやったほうがいい。そうすれば新しい恋を見つけることもできるだろう。能うなら、相手は雪子にして欲しいが。

「やればできますけど」
「頼む。カウンター40601から始めてくれ」
「……はい」
 青木は渋りながらも薪の命令に従って、DVDをセットした。いくつかの作業をしてパスワードを打ち込む。
 メインスクリーンに薪の痴態が大写しになる。青木は下を向いて、その画像から目を逸らせた。

 薪は食い入るように画面を見つめる。ジャケットが映るはずの、スクリーンの右端で待機する。やがて問題の場面が映し出される。
 それはやはり、官房長の襟章ではない。これは――。

「果てしなく大それたやつだな」
 薪の声に、青木は顔を上げた。スクリーンの中の人物とは別人のように落ち着き払った薪が、腕を組んで立っている。自分の浅ましい姿を冷めた目で見つめている。
 その横顔は、いつもの冷静な室長の顔だ。スクリーンの中で、男に抱かれてよがる人物と同じ人間にはとても思えない。

 やがて画面では、光の点滅が始まった。
 すべての背景は消え、光に飲み込まれるように画面が輝きだす。ラストカットの始まりだ。

 メインスクリーンに、ゆっくりと浮かび上がる人物の顔。
 それは薪の極上の笑顔だった。

 うれしそうに、この上なく幸せそうに微笑む美しい顔。壁一面のスクリーンに引き伸ばされてさえ、きめ細かさを失わない白い肌。
 裸の肩が見えて、男の腕が回されているから情事の際の画かもしれない。亜麻色の髪に乱れがないから、これから鈴木に抱かれようとしているのかもしれない。

 青木の言葉は嘘ではなかった。鈴木は自分のラストカットに、薪を残していた。
 愛されていた。
 現実の恋人にはなれなかったけれど、自分は鈴木に愛されていた。

 青木が、心配そうな目でこちらを見ている。薪は青木のほうを向いて、その視線をきちんと受け止めた。
「安心しろ。僕は自殺したりしない」
 薪は力強い声で、きっぱりと言った。
 
 MRIで脳を見たからと言って、そのひとのこころがすべて分かるわけではないけれど。鈴木が取った行動の真実を見抜くことができたとは思わないけれど。
 それでも、長年の経験から言える確かなことはある。

 ラストカットに残した人物に、自殺することを望む人間などいない。
 鈴木は僕に、生きろと言っている。



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ラストカット 後編(21)

ラストカット 後編(21)




 ラストカットに残した人物に、自殺することを望む人間などいない。
 鈴木は僕に、生きろと言っている。


「僕は警視長の昇格試験を受ける」
 つややかなくちびるが、薪の決心を言葉にする。
 新しい目標に向かって邁進しようとする意欲的な瞳。その前向きな気持ちが、薪の美貌を輝かせている。
「僕は上に行く。おまえもついてこい」
「はい!」
 青木は、即座に薪の命令に服従する。
 見るものすべてを虜にする強いオーラ。その絶対的な求心力。黄色い嘴の取れない若造を言いなりにすることなど、朝飯前だ。

 鈴木が僕に何を望んでいたのか、やっと解った。
 あの襟章。あれは警察庁長官の襟章だ。
 つまり、鈴木は警察庁のトップになった僕とセックスしてたんだ。憶測だが、官房長室は鈴木の部屋だったのかもしれない。まったく恐ろしいやつだ。虫も殺さないような顔をして、ものすごいことを考えていたものだ。
 でも、それが鈴木の望みなら。
 僕は精一杯、それに応えよう。僕のありったけの力で、鈴木の願いを叶えよう。

「鈴木。見ててくれよな」
 メインスクリーンがシャットダウンされて、システム保存の静止画面になる。そこには薪の、とびきりの笑顔が映っている。
 青木は、呆然とそれを見ている。魂ごと持っていかれている状態だ。
 ピピッと電子音が鳴って、MRIシステムが安全に終了されたことを告げる。不意に画面が暗くなり、その画像は実在のうつし身に姿を変えた。

「青木。おまえ、まだ僕のこと好きか」
「はい」
「あんな姿を見てもか」
「はい」
 青木の答えに迷いはなかった。
 オールバックのきちんとした頭を両手でつかみ、薪は背をかがめた。目を閉じて顔を近づける。
 自分からくちびるを重ねて、相手の口に舌を忍ばせる。絡みつかせて吸い、引き込み捉え――やがて相手も、薪の口中を自分の舌で愛撫してくる。相手が満足するまで、薪は苦しい呼吸の下でそれに応える。逞しい腕が、薪の身体をぎゅうっと抱きしめてくる。

「これは、鈴木の本心を見せてくれた礼だ」
 ようやく開放されたときには、薪の息はだいぶ上がってしまっていたが、平静を装って事務的な口調で告げる。
「保留中の例の件だが、この場で処理をしよう」
 相手の目を見る。ここからが大切なところだ。
「僕は官房長の娘さんとの縁談を受ける。結婚して小野田さんの跡を継ぐ」

 薪の爆弾宣言に、青木はびっくりした顔をする。
 相変わらず正直なやつだ。心の中がそのまま顔に出る。

「薪さんに愛のない結婚なんか、できるわけないじゃないですか。そんなことができるくらいなら、とっくに鈴木さんのことを忘れられたはずです」
「できる」
 自分はもう子供ではない。青木のように素直な性格でもない。目的のために自分の心を殺すことも、好意を装うこともできるくらい大人なのだ。
「恋愛感情がなくても結婚はできる。夫婦生活も子供も作れる」
 鈴木の遺志を継ぐためだったら、僕はなんでもする。なんでもできる。そのために生きると決めたのだ。

「おまえは僕のことを諦めろ。ちゃんと女性に恋をするんだ」
「無理です。薪さんがその女性を好きになって、結婚するんなら諦めます。でも、会ったこともない女性と結婚するから諦めろって言われても納得できません。官房長の娘さんだって可哀想です。薪さんはこれからも、鈴木さんのことだけを思い続けていくんですよね?」
 それは間違いない。自分の気持ちは、これからも一生変わらない。
 たったいま、鈴木の愛を見せられてそのことに自信が持てたところだ。これからはもう、迷わない。

「夫の愛が一生得られない妻の苦しみ、考えたことがありますか?」
 薪は、はっとして目を伏せた。
 たしかに、それは青木の言う通りだ。薪は自分のことだけを考えていた。
 自分の都合のために不幸な女性を作るなど、鈴木はきっと喜ばない。

「わかった。結婚は諦める。僕は鈴木以外は愛せない」
「オレもです。薪さん以外は考えられません」
「それはダメだ」
 自分はこのまま一生独り者でかまわないが、青木は駄目だ。青木には親も姉もいる。彼女たちを悲しませるような真似を、させるわけにはいかない。



*****


 ますますマズい展開に。
 本当に恋人同士になるのかしら、このふたり(笑)


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ラストカット 後編(22)

ラストカット 後編(22)


 



「どうしたらいいんだ? 僕が何をしたら諦めてくれるんだ。僕がおまえに抱かれれば満足するのか」
「気持ちが入らない薪さんなんか、いりません」
「心はやれない」
 この心だけは鈴木のものだ。今までもこれからも、ずっとずっと鈴木だけのものだ。

「僕がおまえにやれるのは身体だけだ。もう手段は選ばない。この身体も道具の一つとして有効に使う。今までは鈴木のものだったけど、これからはただの道具だ。必要とあらば、間宮にだってくれてやる」
 結婚を諦めるなら、他の手段でのし上がるしかない。娘との縁談を拒否すれば、小野田の後ろ盾はもう得られないだろう。他のバックが必要になる。間宮は次長の娘婿で、将来的には確実に次長の椅子に座る男だ。味方につけておいて損はない。幸い、間宮は自分に執着を見せている。これを利用しない手はない。

 薪は強い目で青木を睨む。青木の哀しそうな視線が返ってくる。
 幻滅すれば良い。なりふりかまっていられない。今の立場から出世競争に参戦しようと思ったら、意地もプライドも捨てるしかない。

「他の誰かに奪われるくらいなら、オレが先にもらいます」
 しばしの沈黙のあと、青木は低い声で言った。
 言うが早いか、飛びかかってくる。不意を衝かれて、薪はモニタールームの床に組み敷かれた。冷たいリノリウムの床に仰向けにされて、肩を押さえつけられる。
 薪の心臓が跳ね上がる。こんな展開になるとは思わなかった。
 でも。

 鈴木以外の男で、薪の身体に触れたものはいない。女の子もずっとご無沙汰で、正直な話、10年以上も人肌のぬくもりに触れていない状態だ。
 その行為がスムーズにできるかどうかも、自信がない。特にあそこは使ってないから狭くなってしまって、初めは苦労しそうだ。
 だから最初は、少しでも心を通わせた相手のほうがいい。
 こいつならやさしいし、未熟な性技でも文句は言わないだろう。それに――。

 とことん利用すると決めたからには誰とでも寝てやるつもりだが、一度くらいは……好きな相手と、したい。
 鈴木ほど好きになったわけではないが、心が揺れたのは確かなのだ。まだ他の人間に汚されないうちに、こいつにあげられるものなら捧げてしまいたい。

 今朝の青木の嘘に、薪は気付いていた。
 たしかに途中から記憶はなかったが、それでも何もなかったと言うのは、青木が薪を思いやって吐いてくれた嘘だ。
 ちゃんと憶えている。
 愛してますと耳元で囁く声と、やさしい愛撫。蕩けそうな甘いキス。首筋から胸に、それからもっと下のほうに降りていった口唇。腰の辺りから這い上がってきた、ぞくぞくするような感覚。

 こいつは僕が欲しくて堪らなかったくせに、それでも僕のことを考えて我慢して、朝まではだかの僕を抱きしめていた。あのまま奪おうと思えば簡単だったはずなのに、自分の欲望よりも僕の安眠を優先してくれた。
 やさしい青木。
 僕がおまえにしてやれるのは、これだけだ。たぶん、これが最初で最後の……。

 薪は目を閉じた。
 自分で服を脱ごうとするが、青木は薪に自由にさせてくれる気はないようだった。それどころか、引きちぎるような勢いでシャツの前を開かれた。ボタンがいくつか弾け飛ぶ。乱暴に乳首を捻られ、むしゃぶりつかれる。
「――ッ!」

 急にされたら、痛い。
 いつもはあんなにやさしいくせに、こんなときに乱暴になるなんて。
 でも、仕方がないかもしれない。身体だけの関係だと明言してこちらから誘ったのだ。それに自分は男だ。やさしくされるのは女の特権だ。鈴木はとても優しかったけど、かれは特別だ。

 ベルトを外されて、下着ごとズボンを下ろされる。足を肩の上に載せられて、からだをふたつに折り曲げられる。ジャケットは着たたまま靴は履いたまま、ズボンと下着は膝のところまで下ろされて、乱暴に秘部をさわられる。
性急で暴力的な行為。固い床が背中に響いてとても痛い。
 ムードや甘い言葉など期待してはいなかったが、これは少し、いや、かなり……。
 ひどい。
 というか――――こわい!!

「いやだああっ!」
 気がついたときには、声の限りに叫んでいた。
 この恐怖は、薪が今まで味わったものとは種類が違う。
 殴られたら痛いとか怪我をするかもしれないとか、生命の危険に関する恐怖ではない。それだったら意志の力でねじ伏せることができる。捜査一課で現場の捕り物の経験もある薪は、そういった鍛錬も積んでいる。
 だが、これは違う。
 これは人間の尊厳を根こそぎ奪われる恐怖だ。これを許してしまったら、自分はひとではなく、ただの肉の塊になってしまう。もう人間としては生きられない。そんな恐怖が薪を怯えさせる。

 体が勝手に助けを求めて動き出す。大声を上げてかぶりを振り、自分の上になった男を撥ね退けようとする。だが、大きなからだはびくともしない。
「いやだいやだいやだっ……!」
 力では敵わない。薪にはこの巨体から逃れる術はない。これほど激しいパニックに陥ってしまっては、得意の武術も発揮できない。

 薪の声は涙声になっている。自分では気づいていないが、両眼からは大粒の涙がぼろぼろと溢れ落ちている。
「助けて……鈴木、鈴木っ……」
 ずっと前にもこんなことがあった。
 鈴木に振られて自暴自棄になって――あのときは雪子が助けてくれた。
 ダメだ。あの頃から自分は何も成長していない。
 こんなに弱くて子供で。これくらいのことに耐えることもできないなんて。

「ほら。やっぱり無理でしょう? 薪さんにそんなこと、できるわけないんです」
 苦笑と共に、薪の上から重みが消えた。
「オレだからここで止まれますけど、他の男だったらきっと許してくれませんよ。言い出しっぺは薪さんのほうなんですから」
 大きなジャケットがはだかのからだに掛けられる。ジャケットからはコーヒーの匂いがする。薪にやすらぎを与えてくれる香りだ。
「すみませんでした。二度とこんなことはしません。オレはもう、薪さんには指一本触れませんから。安心してください」

 ジャケットの下で、薪は懸命に嗚咽を止めようとする。
 みっともない。恥ずかしい。
 自分から誘っておいて、いざとなったら怖くてできないなんて。

 青木は薪を置いて、モニタールームを出た。
 大きなジャケットにくるまって、薪は床の上で小さくからだを丸める。深く呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせる。



*****

 次でラストです。
 大丈夫かー、おまえたちー。(笑)


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ラストカット 後編(23)

 これまでお付き合いくださいまして、誠にありがとうございました。
 終章です。




ラストカット 後編(23)





 薪の嗚咽が収まったころに、青木は戻ってきた。ジャケットの下で思わず身構える。
 しかし、青木は薪に近づこうとはしなかった。床に盆ごとコーヒーを置いて、黙って離れて行く。薪の顔を見ようともしなかった。なんだかひどく傷ついたような顔をしていた。
 冗談じゃない。レイプまがいのことをされて、傷ついたのはこっちのほうだ。

 芳しい香りが漂ってくる。この香りは薪を落ち着かせてくれる。自分を暴力的に犯そうとした男が淹れたものであっても、コーヒーに罪はない。第一、誘ったのはこっちのほうだ。それを責める気はない。
 でも、あんなに乱暴にしなくたって。
 もっとやさしくしてくれれば、何とかなったかもしれないのに。昨夜みたいに甘いキスから始まって、愛していると耳元で囁いてくれれば、僕だって少しは……。
 そこで薪は気づいた。

 わざとだ。
 こいつ、わざと乱暴にして僕の本音を引きずり出したんだ。

 このコーヒーの味がその証拠だ。
 繊細で薫り高くて、薪の好みにぴったりと合わせた苦味と酸味のバランス。コクがあって後味は爽やかで。気持ちが入らなかったらこんな味は出せない。自分のことを大切に思ってくれていなかったら、このコーヒーは淹れられない。

 薪はジャケットに身を包んだまま立ち上がった。モニタールームの自分の席に座っている男に、空のコーヒーカップを差し出す。
「お代わり」
 青木は複雑な顔で席を立った。
 個人用のモニターに電源が入っている。何かの画像を読み込んでいるようだ。読み込みのゲージが100%を指し、やがて画が映し出された。

 亜麻色の髪を揺らして、笑い転げる青年。
 大きな亜麻色の瞳を輝かせて、ほそい足を子供のようにばたつかせて、こちらを指差しながら―――― 鈴木の脳に残っていた、薪の全開の笑顔だった。
「鈴木さんが望んでたことって、オレはむしろこっちだと思います」
 青木がコーヒーを持って、後ろに立っている。マグカップを机の上に置き、薪のほうを見ずに離れていく。

「出世も望んでたかもしれませんけど、鈴木さんの性格を考えるとこっちかなって。鈴木さんはきっと、薪さんがいつもこんなふうに笑っていてくれることを願っていたと思います。だからラストカットに」
 青木は言葉を切って、首を振った。
「すみません。また関係ないのに出しゃばっちゃいました。わかるわけないですよね、オレなんかに。オレは鈴木さんと会ったこともないのに」
 関係がないと言ったのは、薪のほうだ。あのときはそう思っていた。
 でも、今は。

「青木。僕は……がんばるから」
「はい。出世のことはともかく、警視長の試験を受けることは大賛成です。オレもできるだけ協力します。そうだ、母に言って大学時代の法規の参考書とか、送ってもらいますね。ポイントが書き出してあるから少しは役に立つかもしれません」
「いや、そうじゃなくて」
 それも頑張るつもりではいるけれど、もっとがんばりたいことがある。

「そうですよね、オレと薪さんとじゃ頭のレベルが違いすぎますもんね。役に立つわけないか」
「だからそうじゃ」
 青木は薪のことを、思い込みが激しいだの勘違いの天才だのと、さんざん言ってくれたが、自分だって人のことは言えない。薪が言いたいことを、まるでわかっていない。

「警視長の試験がうまくいくように、おまじないしてくれるか?」
 メインスクリーンの側に立っているやさしい男に、薪は近付いていく。
 が、青木は胸の前に両手を上げ、薪を押しとどめる仕草をした。
「オレには、そんな資格ないです」
 言っている意味が解らない。急に、どうしたのだろう。

「無理やり暴力であなたを奪おうとして、傷つけて」
 こいつは、そんなことはしていない。
 青木は薪に、自分の本心をわからせてくれようとしただけだ。薪を傷つけるような真似は死んでもしたくないくせに、薪のために敢えて乱暴に振舞った。
 しかし、それを言葉にしてしまうと、その真実はたちまち言い訳に変わる。だから青木はそんなことは言わない。男は、言い訳をしない生き物だからだ。

「オレ、自分のしたことには責任持ちますから。もう二度とあなたには近付きません」
 それは願ってもないことだ。
 しかし、『おまじない』はしてもらわないと試験に落ちてしまうかもしれない。不名誉な結果は、薪のプライドが許さない。

 自分の身体に触れることを躊躇う青木の胸に、薪は自分から額をつけた。
 たくましいからだに両手を回す。目を閉じてコーヒーの香りを吸い込む。
 青木の手が、おずおずと薪のからだに触れる。さっきはあんなに乱暴だったくせに、と薪は思わず笑い出しそうになる。

 …………こいつは僕のことを、一番に考えてくれる。

 自分の優しい心を殺してまで、僕に大切なことを教えてくれようとした。 
 僕のことが大好きでたまらないくせに、僕に嫌われるかもしれない嫌な役目を自分から選んで。僕が他の男に抱かれてる画を見るのは、心がずたずたになるほど辛かったろうに。僕の重荷を軽くするために、きっと泣きながらあのDVDを編集したのだろう。

 大きな手が亜麻色の頭を撫でる。細い背中を抱きしめる。いつも鈴木が薪にしてくれた、大切なジンクス。
 でも、鈴木はもういない。

「違うだろ。手を抜くな」
「はい?」
 両手で相手の頬を挟む。背伸びをして顔を近づける。
 そっとくちびるにキスをする。眼鏡の奥の黒い目が、子犬のようにまん丸になった。
「おまえが言ったんだぞ。この次は自分がしてやるから、いつでも言えって」

 これは僕の人生だ。
 これからは鈴木に頼らずに生きていく。
 ちゃんと自分の力で、自分の意志で。鈴木の遺志を継ぐのはもちろんだけど、そう決めたのは自分だ。

 だから。
 ジンクスもここで新しいものにしよう。

「これでおしまいか? 僕はもう少しちゃんとしたものを、おまえにしてやったと思っ」
 薪の言葉は、途中で相手のくちびるに吸い取られた。
 激しいキスに、心ごと奪われる。その強さと濃密さ。息もできない。吸い上げられる舌が痛いほどだ。でも、今度は恐怖はない。激しく求められるのがいっそ心地好い。
 呼吸を整える余裕はない。乱れた吐息の合間に囁かれる声。愛してます、と繰り返し繰り返し―――― それは薪を生まれ変わらせる魔法の言葉だ。

「青木。僕はがんばるから」
 やっとくちびるが離れて、薪はさっき伝え損ねた言葉を今度ははっきりと告げる。
「おまえのこと、恋人として受け入れられるようにがんばってみるから」
 青木は、ぽかんと口を開けて薪を見る。
 息を呑んだまま、動かない。呼吸が止まっている。もしかしたら心臓も止まってしまったのかもしれない。

「だけど、僕は鈴木のことは一生忘れられないと思うし、忘れる気もない。それでもおまえが僕を好きでいてくれるなら、僕もそれに応えられるように努力してみるから」
 勝手な言い分だとは思うが、今の薪にはこれが精一杯だ。
 
 鈴木のことは、これからも忘れられない。
 それでも、誰かと未来を形作っていくことができるなら。
 その誰かは、こいつしかいないと思う。僕が鈴木にすべてを捧げているのを知ってなお、僕のことだけを愛してくれるバカなやつなんて、他にはいない。

「すぐには無理かもしれないけど。でも、頑張るから」
「本当ですか」
 こくりと薪が頷くと、もの凄い力で抱きしめられた。
「痛い痛い!」
 本気で背骨がぼきぼき音を立てている。
「うれしいです。オレ、いつまでも待ちますから」
「いや、たぶん今死ぬかもっ……」

 早まったかな、と薪は思う。
 こいつのしつこさは半端じゃない。この1年、本当に何を言われても諦めなかった。
 こいつを諦めさせる、これが最後のチャンスだったのかもしれない。こいつはさっき僕を傷つけた責任を取って、自分から遠ざかろうとしてたんだから。

 力加減の分からない大男に抱きしめられながら、薪は自分が言ったことをほんの少しだけ後悔していた。


 ―了―





(2009.3)



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ラストカット~あとがき~

 長々とお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました!

 ということで、ビミョーな結末でこざいましたね。
 2年もかかって最終的にもらった言葉が、『努力してみる』ですからね。ひどいですねー。(すみません……いいです、もう。あおまきすと失格で)



 このお話を最後として、わたしのあおまきさんは一旦閉めたいと思います。

 
 わたしが書きたかったのは、実はここまでの二人なのです。
 わたしはあおまきすとですけど、この創作の目的は二人が恋人同士になることではなく。薪さんに、前向きに生きる決意をしてもらうことでした。
 原作の薪さんの何が哀しかったって、「あのひとの笑顔なんか見たことない」と言われるほどに、周囲との間に壁を築いてしまっていることでした。
 1巻の写真の薪さんは、あんなに屈託なく笑っていたのに。コピーキャットでも、旧第九のメンバーとは笑い合っていたのに。まるで、自分には誰とも笑い合ったり心を交わしたり、そんなことは許されない、自分は彼を殺したのだから罪人に相応しい人生を歩んでいかなければならない、と本来の自分を檻の中に閉じ込めているように見えて。
 わたしはそんな薪さんに、笑って欲しかったんです。それだけです。
 
 ここまで書くことができて、幸せでした。
 読んでいただいて、ありがとうございました。いっぱい励ましていただいて、ありがとうございました。
 みなさまに、ありったけの感謝を捧げます!



 この後は第3部に入りますが、そちらはもう、目的を達成した後の蛇足的なものでして。
 『秘密』の二次創作と言えるかどうかもあやしく。なんか、薪さんと青木くんでなくても、この話できるじゃん? みたいな。ただのBL小説としか思えないので、自分でもあまり公開は乗り気ではなかったのですが。
 実は、ラストカットの最初の頃は、第3部は公開しないつもりだったので、最終話です、と書いたんです。 
 が、水面下で色々ありまして、公開することになりました。
 とても奥ゆかしい方なので、お名前の明記は控えさせていただきますが、ある方に説得されました。説得、というか、おねだり? ううーん、かわいい女の子にはとことん弱いです。 


 そんなわけで第3部は、薪さんと青木くんの名前を冠しただけの、下品でつまんないBL小説になっちゃってます。きっとがっかりされちゃうと、
 はい? 今までもそんなものだったろうって? だれも期待してない?
 なるほど、そうですねっ!!
 引き続き、お付き合いいただけると嬉しいですっ!(開き直った)



 さて、次のお話は、4000拍手のお礼です。
『運命のひと』というお話です。
 長いです!ラストカットの後編より長いです。70ページあります!!(すみません~~~(><))
 ああ、どうして短編が書けないの、わたし。(;;)

 
 どうかゆっくりお付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

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しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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