エピソード・ゼロ(1)
こちらは、鈴木さんが亡くなった直後の薪さんのお話です。
悲しい薪さんが苦手な方は、ご遠慮願います。
イタグロが苦手な方も、ご遠慮願います。
内容は薪×雪に近いです。 あおまき・すずまき派の方は、スルーしてください。
……あ、すぎさんしか残ってない。(笑)
というわけで、すぎさんに捧げます。山本×薪のお礼です。
エピソード・ゼロ(1)
蒸し暑い夏の夜。
じめじめと不快な湿気が触手のように纏いつく空気の中を、薪は重い足取りで歩いていた。
彼の頼りない胸の内側のポケットには、一度返された香典袋。両腕には、部下が好きだった白い百合の花束。
薪が向かっているのは、死んだ部下の自宅だ。
先週、地区の斎場で行なわれた彼の葬儀に、薪は出席していない。
彼が亡くなった経緯はとてもセンセーショナルなもので、様々なメディアに取り沙汰された。事件の当事者である薪は、日夜マスコミの襲撃を受けていた。その事情を知る当家がマスコミに葬儀を妨げられるのを警戒し、薪の参列を拒否した。
そんな事情でもなければ、ありえないことだった。
親友の葬儀に参列できないなんて。
ブロックの上に白い柵が回された塀の前で、薪は足を止めた。ごくごく普通の、二階建ての住宅。窓からは、部屋の明かりが漏れている。
おずおずと、細い指が呼び鈴を押す。
家人が出てくるまでの間が、ひどく長く感じられる。
インターホンからは、何の音も聞こえない。家の人にドアを開けてもらえないなら仕方ない、今日はこのまま帰ろうか、と卑怯者が囁く誘惑に、薪は必死で耳を塞ぐ。
薪がここに来るのは、ほぼ10日ぶり。
そうだ、たった10日前だ。自宅療養中の鈴木を見舞い、彼の母親と話をしたのは。
精神的に参っている状態だから、気をつけてあげてください、と言った薪に、鈴木の母親は気丈にも笑顔で答えた。
「大丈夫よ。今夜は克洋の好きな煮込みハンバーグを作ったから。明日は元気になって、仕事に行けるわ」
多分、あの画像を見た後でハンバーグは食べられないだろうと思いはしたものの、それを口にすることはできず、薪は曖昧に微笑んだ。
「だから薪くん。克洋の仕事を残しておいてね」
彼女の笑顔は、掃除したての蛍光灯より周囲を明るくする効果があった。その笑顔でいつも家族を元気付けている彼女は、自分の肉親にするのと同じように薪に笑いかけてくれた。
「鈴木の仕事は僕が引き受けますから。ゆっくり休ませてやってください」
「そんなのダメよ。薪くんの方が倒れちゃうわ。あなた、また痩せたみたいじゃない」
その時の彼女は強引に、薪の手にハンバーグの入ったタッパを持たせ、玄関口まで薪を見送ってくれた。
「薪くんも身体に気をつけてね。あなたはわたしたちの子供も同然なんだから」
「ありがとうございます。塔子さん」
無理をしてでも、食べておけば良かった。多分、彼女の手料理は、これから先は食べられないだろう。
カチャリ、と金属製の音がして、玄関のドアが開いた。
息子を亡くした母親が、無言で出てきた。
彼女は、薪の顔を見ようとしなかった。ひたすら俯いて、足元に視線を落としていた。
10日前とは別人のように憔悴して老け込んだ彼女の姿に、薪は胸を衝かれた。
きちんと挨拶をしなければ、詫びの言葉を述べなければ、と思ったが、声を出すことができなかった。
「お母さん。だれかお客さん?」
押し黙った二人の耳に、若い女性の声が聞こえた。声の主は、廊下の奥の方から玄関に向かって歩いてくる途中だった。
母親の向こうに薪の姿を認めて、凍りついたように足を止める。
「薪兄……」
薪のことを兄と呼ぶのは、この少女だけだ。
彼女の名前は千夏。鈴木の妹だ。
千夏のことは、ヨチヨチ歩きの頃から知っている。鈴木とはずい分年が離れていて、薪が鈴木の家を始めて訪れたとき、彼女はまだ3歳だった。薪はその頃から、料理修行と称して頻繁に鈴木の家に出入りしていた。
幼児期の彼女に刷り込まれたのは、2人の兄の存在。もちろん、鈴木のほうが実の兄妹である分、結びつきは強かっただろうが、薪のこともよく慕ってくれていた。
「千夏ちゃん」
言いかけて、薪は言葉を止めた。
千夏は、薪が初めて見る表情をしていた。
「なんで? どうして薪兄が、洋兄を?」
玄関口に立つ薪の顔をじっと見て、千夏のアーモンド形の瞳が音にならない呪詛を吐く。
あんなに仲良しだったのに、どうして?
どうしてお兄ちゃんを殺したの?
返して、返して、返して。
お兄ちゃんを返して。
「止しなさい、千夏!」
塔子に厳しく叱責され、千夏は目にいっぱいに涙を溜めて、バタバタと自分の部屋へ駆け込んで行った。
「ごめんなさい、薪くん」
「いえ……千夏ちゃんの態度は当然だと……」
「ごめんなさい」
塔子の様子がおかしいことに気付いて、薪は口を閉ざした。
ちがう。
この「ごめんなさい」は、娘の無礼に対する謝罪の言葉ではない。
ごめんなさい。
わたしたちは――。
あなたを憎むことを止められないの。
ごめんなさい、あなたが悪いわけじゃないことは、ちゃんと解っているの。それでも、心の中が荒れ狂って、あなたを責めたくなる自分をとめられないの。
――― 責めてください。僕はそれだけのことをしました。
いいえ、いいえ。
あなたに責任があるとかないとか、もう関係ないの。
あなたを気遣ってるんじゃない。わたしたちには、そんな余裕はないの。
ただ、克洋が泣くから。
あなたを責めたら、わたしの中のあの子が泣くから。それがつらくて、でも、自分を抑えるのもつらいの。
だから……二度とここへは来ないで。
その会話は、一言も声にはならなかった。この先も、二人の口から洩れることはないだろう。
やさしいひとたちだから。
僕に向けるべき刃で、自分自身を抉っていく。そんなひとたちだから。
もう、二度と会えない。
本当の息子のように可愛がってくれた、慈しんでくれた。
兄のように慕ってくれた、笑いかけてくれた。
ずっと憧れていた家庭の温もり。それを与えてくれた彼らを、僕が不幸のどん底に突き落とした―――。
「わかりました。……鈴木さん」
乾いた声で、薪は言った。
それが鈴木の母親との、最後の会話だった。
悲しい薪さんが苦手な方は、ご遠慮願います。
イタグロが苦手な方も、ご遠慮願います。
内容は薪×雪に近いです。 あおまき・すずまき派の方は、スルーしてください。
……あ、すぎさんしか残ってない。(笑)
というわけで、すぎさんに捧げます。山本×薪のお礼です。
エピソード・ゼロ(1)
蒸し暑い夏の夜。
じめじめと不快な湿気が触手のように纏いつく空気の中を、薪は重い足取りで歩いていた。
彼の頼りない胸の内側のポケットには、一度返された香典袋。両腕には、部下が好きだった白い百合の花束。
薪が向かっているのは、死んだ部下の自宅だ。
先週、地区の斎場で行なわれた彼の葬儀に、薪は出席していない。
彼が亡くなった経緯はとてもセンセーショナルなもので、様々なメディアに取り沙汰された。事件の当事者である薪は、日夜マスコミの襲撃を受けていた。その事情を知る当家がマスコミに葬儀を妨げられるのを警戒し、薪の参列を拒否した。
そんな事情でもなければ、ありえないことだった。
親友の葬儀に参列できないなんて。
ブロックの上に白い柵が回された塀の前で、薪は足を止めた。ごくごく普通の、二階建ての住宅。窓からは、部屋の明かりが漏れている。
おずおずと、細い指が呼び鈴を押す。
家人が出てくるまでの間が、ひどく長く感じられる。
インターホンからは、何の音も聞こえない。家の人にドアを開けてもらえないなら仕方ない、今日はこのまま帰ろうか、と卑怯者が囁く誘惑に、薪は必死で耳を塞ぐ。
薪がここに来るのは、ほぼ10日ぶり。
そうだ、たった10日前だ。自宅療養中の鈴木を見舞い、彼の母親と話をしたのは。
精神的に参っている状態だから、気をつけてあげてください、と言った薪に、鈴木の母親は気丈にも笑顔で答えた。
「大丈夫よ。今夜は克洋の好きな煮込みハンバーグを作ったから。明日は元気になって、仕事に行けるわ」
多分、あの画像を見た後でハンバーグは食べられないだろうと思いはしたものの、それを口にすることはできず、薪は曖昧に微笑んだ。
「だから薪くん。克洋の仕事を残しておいてね」
彼女の笑顔は、掃除したての蛍光灯より周囲を明るくする効果があった。その笑顔でいつも家族を元気付けている彼女は、自分の肉親にするのと同じように薪に笑いかけてくれた。
「鈴木の仕事は僕が引き受けますから。ゆっくり休ませてやってください」
「そんなのダメよ。薪くんの方が倒れちゃうわ。あなた、また痩せたみたいじゃない」
その時の彼女は強引に、薪の手にハンバーグの入ったタッパを持たせ、玄関口まで薪を見送ってくれた。
「薪くんも身体に気をつけてね。あなたはわたしたちの子供も同然なんだから」
「ありがとうございます。塔子さん」
無理をしてでも、食べておけば良かった。多分、彼女の手料理は、これから先は食べられないだろう。
カチャリ、と金属製の音がして、玄関のドアが開いた。
息子を亡くした母親が、無言で出てきた。
彼女は、薪の顔を見ようとしなかった。ひたすら俯いて、足元に視線を落としていた。
10日前とは別人のように憔悴して老け込んだ彼女の姿に、薪は胸を衝かれた。
きちんと挨拶をしなければ、詫びの言葉を述べなければ、と思ったが、声を出すことができなかった。
「お母さん。だれかお客さん?」
押し黙った二人の耳に、若い女性の声が聞こえた。声の主は、廊下の奥の方から玄関に向かって歩いてくる途中だった。
母親の向こうに薪の姿を認めて、凍りついたように足を止める。
「薪兄……」
薪のことを兄と呼ぶのは、この少女だけだ。
彼女の名前は千夏。鈴木の妹だ。
千夏のことは、ヨチヨチ歩きの頃から知っている。鈴木とはずい分年が離れていて、薪が鈴木の家を始めて訪れたとき、彼女はまだ3歳だった。薪はその頃から、料理修行と称して頻繁に鈴木の家に出入りしていた。
幼児期の彼女に刷り込まれたのは、2人の兄の存在。もちろん、鈴木のほうが実の兄妹である分、結びつきは強かっただろうが、薪のこともよく慕ってくれていた。
「千夏ちゃん」
言いかけて、薪は言葉を止めた。
千夏は、薪が初めて見る表情をしていた。
「なんで? どうして薪兄が、洋兄を?」
玄関口に立つ薪の顔をじっと見て、千夏のアーモンド形の瞳が音にならない呪詛を吐く。
あんなに仲良しだったのに、どうして?
どうしてお兄ちゃんを殺したの?
返して、返して、返して。
お兄ちゃんを返して。
「止しなさい、千夏!」
塔子に厳しく叱責され、千夏は目にいっぱいに涙を溜めて、バタバタと自分の部屋へ駆け込んで行った。
「ごめんなさい、薪くん」
「いえ……千夏ちゃんの態度は当然だと……」
「ごめんなさい」
塔子の様子がおかしいことに気付いて、薪は口を閉ざした。
ちがう。
この「ごめんなさい」は、娘の無礼に対する謝罪の言葉ではない。
ごめんなさい。
わたしたちは――。
あなたを憎むことを止められないの。
ごめんなさい、あなたが悪いわけじゃないことは、ちゃんと解っているの。それでも、心の中が荒れ狂って、あなたを責めたくなる自分をとめられないの。
――― 責めてください。僕はそれだけのことをしました。
いいえ、いいえ。
あなたに責任があるとかないとか、もう関係ないの。
あなたを気遣ってるんじゃない。わたしたちには、そんな余裕はないの。
ただ、克洋が泣くから。
あなたを責めたら、わたしの中のあの子が泣くから。それがつらくて、でも、自分を抑えるのもつらいの。
だから……二度とここへは来ないで。
その会話は、一言も声にはならなかった。この先も、二人の口から洩れることはないだろう。
やさしいひとたちだから。
僕に向けるべき刃で、自分自身を抉っていく。そんなひとたちだから。
もう、二度と会えない。
本当の息子のように可愛がってくれた、慈しんでくれた。
兄のように慕ってくれた、笑いかけてくれた。
ずっと憧れていた家庭の温もり。それを与えてくれた彼らを、僕が不幸のどん底に突き落とした―――。
「わかりました。……鈴木さん」
乾いた声で、薪は言った。
それが鈴木の母親との、最後の会話だった。