運命のひと(1)

 こちらは4000拍手のお礼です。
 内容は、『薪さんに猛烈アタックをする男が現れる』というリクエストでございました。
(リクエストいただいたSさま、大変お待たせ致しました。ご希望の脳科学者です。)

 初めに謝っちゃいます。
 ごめんなさいっ! これ、全然リクエストの内容と違う~~、すみません、書けませんでした!(><)
 頑張ったんですけど、猛烈アタックになりませんでした。間宮以上のキャラはできそうにありません。(え)
 すみません、どうか広いお心でお願いします。






運命のひと(1)








 澄んだ空の青さが、目に沁みるような朝だった。

 温暖化が進んだこの時代、雲ひとつない晴天なんて滅多にお目にかかれない。いつも霞のように都会の空を覆っている光化学スモッグすら風に払われて、まるで映画で見た昔の空みたいだ。
 折りしも梅雨の最中、久方ぶりの爽やかな空気に誘われるように、薪は目的より3つほど手前の駅で途中下車した。こんな日に地下鉄に乗って通勤するなんて、それは人生の楽しみ方を知らない者のすることだ。
 
 足取りも軽く、剪定の行き届いたプラタナス並木の通りを歩きながら、天気がいいと気分が浮き立つのは何故だろう、などと理由の見つからない命題について考える。
 いや。今朝の高揚感は、天気のせいばかりではないのかもしれない。
 昨夜は……うまくいった。
 ちゃんと最後までできたし、気持ちいいとまではいかなかったけど、微かに痛み以外のものも得られたような気がするし。なにより、青木がすごく喜んでくれた。
 汗まみれの薪の身体を抱きしめながら、『最高に幸せです』と笑った若い恋人の締まりのない顔を思い出し、自然と頬が緩む。それを通りすがりのOLに笑われたような気がして、薪はくっと口元を引き締めた。

 今日は、何かいいことがありそうな気がする。
 そんな根拠のない予感を胸に抱いて歩き続ける薪の視界の端を、不意に小さな人影が横切った。薪の残像の中で、紺色のブレザーを着て、肩から斜めに黄色のショルダーを下げた幼稚園児らしき男の子は、通り沿いのコンビニから車道に向かって真っ直ぐに走っていった。
 薪が振り返るより早く、子供は通勤ラッシュの車道に立っていた。道の真ん中に落ちていた小さなゴム製のボールを拾い上げ、満足げに笑っている。
 派手なクラクションとブレーキの音が鳴り響き、子供がきょとんとした顔で前を見た。瞬間、驚愕に変わる幼子の顔。はっと息を呑む通勤途中のサラリーマンたち。

 考えるより早く、身体が動いていた。
 金属製の柵をひらりと越えて、薪は車道に飛び出した。子供を横抱きに抱えて、身を翻し、前に飛ぶ。そこに走ってきたスクーターに衝突しそうになって、思わず目を閉じた。
 キキイッ、という甲高いブレーキ音に続き、ガシャン! という激突音。
 おそるおそる目を開けると、スクーターがコンビニの前に置かれたリサイクルボックスに突っ込んでいた。ボックスが倒れて空のペットボトルが山になり、その中からニョキッと生えたジーンズの足が見えた。

「すみません、大丈夫ですか?」
 子供を地面に立たせ、運転手の上に積み重なったペットボトルを退かす。子供は泣きじゃくっていたが、こちらの怪我の方が心配だ。
「うん。平気」
 ペットボトルに埋まったままの爪先が軽く上げ下げされ、緊張感のない声が聞こえた。
 無事らしい。薪はホッと胸を撫で下ろした。

 子供の不在にようやく気付いた親がコンビニから出てきて、泣いている子供を抱きしめた。まったく、最近の親は自分の子供の面倒ひとつ見られないのか。
 見た所、まだこの母親は20代前半だ。ひとの親とは思えない若者の化粧をしている。両手にビニール袋いっぱいの商品を持っているところから、自分の買い物に夢中になって子供から目を離したため、先ほどの危険を招いたものと推測された。
 
「お母さん。この子は車道に出ていたんですよ。もう少しで死ぬところだった。あなたは何をやってたんです」
 すみません、と泣きながら謝る若い母親に、薪は苛立ちを覚える。
「これからは気をつけてくださいね。あなたの不注意でお子さんに何かあったら、あなたご自身が一生苦しむことに」
「いくら注意したって、人間、死ぬときは死ぬよ」
 薪の後方から、明るい声が響いた。現況と内容にそぐわない軽い口調だった。
「ひとの生き死には、運命だから」
「運命?」
 薪は、男の方に向き直った。
 
 改めて見て、薪は男の容貌に、どこか懐かしいものを感じた。
 くしゃくしゃと額にかかったクセの強い黒髪。ひとの良さそうな弓形の眉。やさしげに細められた黒い瞳。細く通った高い鼻。面長な顔の輪郭に、こけた頬。手足は棒のように細く長く、病を感じさせるほど白い。
 男は地面に座ったまま、自分を見舞った災難に腹を立てる様子もなく、ニコニコと笑っていた。こいつ、少し頭が弱いんじゃないのか―――そう思わせるくらい、邪気のない笑顔だった。

 男は立ち上がり、薪の顔をまじまじと覗き込んだ。黒い瞳は細められた目蓋の奥で、子供が新しいオモチャを見つけたときのように輝いていた。
「そう。人生に起こるすべてのことは、すでに定められていたこと。例えば、君と僕がこうして出会うことも」
 ……ナンパ?
 気のせいかもしれないが、最近、周りにこういう男が増えたような。青木と特別な仲になってからだ。ラブレターの比率も、男女が逆転しそうな具合だし。くそ、世の中どうなってんだ。

「やっと会えた。僕の運命のひと」
「は?」
 左に小首を傾げた小さな顔の下の部位で、訝しげに開かれたつやめいたくちびるが、素早く男の口唇で覆われた。
 一瞬の硬直。
 薪はすぐさま両手で男の薄い胸を突き飛ばし、腹に蹴りを入れた。男はもんどりうって倒れ、再びリサイクルボックスに突っ込んだ。男の細い身体の上に、今度は空き缶の山が築かれる。

 朝の通勤者で溢れる歩道のド真ん中で、どっかのオヤジにキスされたぞ!?
 ある意味、車道に飛び出したときより大ピンチだ。誰か知り合いにでも見られたら!
 
 コンビニの客が、唖然としてこちらを見ている。薪の勇気ある行動を褒めようと集まってきていた通行人の顔が、言葉を失くしたまま何とも言えない表情になっている。
 なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。もう、子供もその親もどうでもいい。一刻も早くこの場を立ち去りたい。

 薪の目が、歩道の上を素早く動く。さっき走り出すときに、咄嗟に下に落とした鞄はどこへいっただろう。
「どういう関係なんですか? あの男」
 不愉快な声と共に右後ろから目的のものが差し出されて、薪は自分の不運を呪う。
 この気取った声は、薪の大嫌いな男の声だ。
 竹内誠警視。第九とは敵対関係にある捜査一課のエースで、薪の天敵だ。
「知りません。今が初対面です」
 なんでこいつはいつも間の悪いときに。こないだも電車の中でチカンに遭ったとき、図らずもこいつに助けられて。
「竹内さん。今見たことは、他言無用ですからね」
 特に、青木には絶対に言わないでほしい。
 知られたら、また夜通し……ああ、考えるのも恐ろしい。

 弱味を見せないように厳しい顔を崩さず、薪は脅しめいた言葉を放つ。ぎろりと睨みつけてやると、竹内は気弱に眉を下げ、困ったような微笑を浮かべた。
 最近、竹内は薪に、こんな態度を取ることが多くなった。ようやく僕の怖さがわかったか、と得意の勘違いループに頭から突っ込んで、竹内の手から乱暴に鞄をひったくる。
「市民の保護をお願いします」
 空き缶の山から生えたデニムシャツの腕を指差し、薪は命令口調で言った。役職をかさにきるつもりはないが、今だけは警視長の肩書きを利用させてもらう。

 竹内は素直に頷くと、たくさんの缶の下敷きになっている人物を助け起こした。缶を退ける際に、わざといくつか男の頭にぶつけているように見えたが、気のせいだろうか。
「あ、あの。ありがとうございました」
 歩き去ろうとした薪の背中に、若い母親が感謝の言葉を掛けてきた。先刻の非日常的な光景に、親子ともども涙が止まってしまったようだ。
「これからは気をつけてくださいね。それじゃ」
 助けたはずの親子からの視線に感謝以外の微妙なものを感じつつ、薪は早足にその場を離れた。

 予感なんて当てにならない。天気の良さと運の良さには、何の関連性もない。いや、どちらかというと反比例しているような気さえする。
 今日はきっと、厄日だ。
 雲ひとつない空を見上げて、薪は大きなため息を吐いた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(2)

 こんにちは。

 脳科学は難しくて、よく解りませんでした。
 突っ込まれても対応できません。ばかですみません。(じゃあ、書くなよ)
 いろいろ間違ってると思いますけど、どうか広いお心で。よろしくお願いします。





運命のひと(2)






 薪の予測通り、その日はロクな一日ではなかった。
 朝のミーティングが終わって直ぐに官房長室へ呼び出された薪は、そこで再び、自分の不運に悪態を吐く羽目になったのだ。

「なんであなたがここに……」
 くしゃくしゃの黒い巻き毛。屈託のない笑顔。ひょろっとした長身に、病的なほど白い肌と長い手足。
 1時間ほど前、空き缶に埋もれていた変質者だ。

「あれ? もう対面済み?」
「いいえ! 初めてお目にかかります」
 何か言いかけた男の声を強い口調で遮って、彼の口を塞ぐ。喋ったらコロスぞ、と目にありったけの殺意を込めて、とらえどころのないヒョウロク玉のような男の顔を睨む。さっきこいつは、他人に知れたら都合の悪いことを薪にしてくれたばかりなのだ。

「じゃあ紹介するね、薪くん。彼は二階堂潤也」
 薪の険悪な雰囲気に気付かない小野田ではないが、そういうところは見事にスルーしてくれる。小野田のこういうさりげない気遣いに、薪はいつも助けられている。
「彼は、ぼくの甥っ子でね」
「甥ごさん、ですか」
 出会った時になんとなく気になったのは、そのせいか。小野田に雰囲気が似ていたのだ。
 
「潤也は学者の端くれなんだけど」
「これは御見それしました。で、おエライ学者先生が第九に何のご用件で?」
 官房室の事務員が持ってきてくれたコーヒーとチーズケーキを挟んで、二度と拝みたくなかった男の顔と向き合う。小野田の身内では無下に扱うことはできないが、かといって先刻のことを水に流せるほど、薪は心の広い人間ではない。

 薪の皮肉に満ちた口調に、叔父と甥は小さな声で囁きあった。
「潤也。薪くんに『きれいな顔』とか言った?」
「言ってません。でもさっき、キスを―――もががっ!」
 さらっとシークレット情報を暴露しそうになった男の口に、チーズケーキを手づかみで突っ込んで、最高機密の漏洩を防ぐ。喉につまって窒息しかけたようだが、知ったことか。
 目を白黒させながら、コーヒーでケーキの塊を流して、二階堂は大きく息を吐いた。骨ばった背中を丸めて、薄い胸をとんとん叩いている。
 そのひ弱な身体に、筋肉はほとんどない。薪より細いくらいだ。反射的に、『モヤシ』というあだ名で呼ばれる学生時代の男の姿が脳裏に浮かび、陰で囁かれている自分の不名誉な呼び名とどちらがマシだろうと考える。

 ようやく落ち着いて、モヤシは口を開いた。
「僕の研究に、協力していただきたいんです」
「研究? MRIの画を見て、論文でも書くつもりですか」
 小野田の甥とはいえ、彼は一般人だ。重要機密を扱う第九に関係者以外を入室させるなんて。おいそれと許すわけにはいかない。
「ここは犯罪捜査をするための部署です。科学者の研究室じゃない」
「科学警察研究所、でしょ?」
 ……そうだった。ここは、研究所なのだ。

「しかし、僕たちがやってるのは殺人事件の捜査ですよ。それを一般人に見せるというのは」
「見せていただきたいのは、MRIの画像ではありません。僕は犯罪捜査には興味がない」
「あなたに見る気がなくたって、モニタールームに来れば嫌でも目に入ってしまいますよ。第九のメインスクリーンは、壁一面の大きさで」
「薪くん。ぼくからもお願いするよ。そんなに長い間じゃない。ほんの10日ほどだ」
 けんもほろろに断られそうになった哀れな甥に、小野田が助け舟を出した。
「小野田さん。でも」
「頼むよ。ぼくが責任持つからさ」
 小野田に頼まれては、薪も頷かないわけにはいかない。薪が現在警察機構に身を置いていられるのも、みんな小野田のおかげだし、薪の秘密の恋人のことも見逃してもらっている状態なのだ。
「わかりました。小野田さんがそこまで仰るなら」
 しぶしぶではあるが、薪はひとまず、矛を収めることにした。
「ありがとう。みんなに迷惑かけないように、気をつけるんだよ。潤也」
「はい。聖司おじさん」
 仲のいい叔父と甥らしく、にっこりと微笑み合う。そのひとの良さそうな笑顔は、やっぱりよく似ている。

「二階堂先生のご専門は?」
「潤也と呼んでください。ストックホルムの研究室では、みんなにそう呼ばれてましたから」
「ご専門は何ですか、と伺ったんです。二階堂先生」
 薪が険しい表情を崩さないので、二階堂はまた小野田と顔を見合わせた。小野田は苦笑して、こちらに意味深な視線を送ってきたが、薪はそれを黙殺した。
 いくら小野田の身内だからって。自分にあんなことをしてきた男と、馴れ合ってたまるか。

「A10神経系とノルアドレナリン作動性神経系の相互作用について、研究を進めてます」
 天気の話でもするように、二階堂は言った。
 第九に論文の材料を求めるくらいだから、その関係だろうと見当はつけていたが、やはりそうか。
 この男は、脳科学者だ。
 それなら素直に、「脳の研究をしています」と言えばいいのに。
 
 出し抜けに専門用語を振りかざして薪の肝を冷やそうという腹積もりだろうが、そうはいかない。第九の室長として、薪も一応、大脳辺縁系や小脳を始めとする基本的な脳部位の知識は押さえている。
 A10神経系は、ドーパミンを分泌する部位だ。ドーパミンは人間の快感神経系のスイッチを入れる。つまり、快楽を司る神経伝達物質だ。
 ノルアドレナリン作動性神経系は、A10神経系と相互に連絡しあって、片方が興奮状態に入ると、もう一方もスイッチが入る仕組みになっている。ノルアドレナリンは、人がストレスを感じたときに分泌される。このホルモンによって、人は闘争か逃避かの体勢に入り、ストレスからの回避行動を取るようになる。
 簡単に言うと、人がストレスを感じると、ノルアドレナリン作動神経系の働きでA10神経系から快楽ホルモンが分泌され、そのストレスを和らげるように働く、ということだ。
 ただ、このストレスが長期的・破壊的なものだと、ノルアドレナリン濃度が下がり、A10神経系に作用することもなくなり、ストレスを和らげることもできなくなる。結果、ストレスを回避する行動がとれなくなり、薬物中毒患者のように自棄的になったり、廃人同様に身体を蝕まれていくことになる。
 
「他人の脳を見るという最大のストレスが、ノルアドレナリン濃度をどのように上げ、どこまでドーパミンの過剰消費を促すか、というテーマですか」
「合わせてGABA神経系の作用もね」
 まるで薪が専門用語で答えを返してくるのが当たり前のように、二階堂は話を続けた。
「第九に脳内オピオイドを過剰発生させている職員がいるとでも?」
「いたら面白いね」
「面白い?」
  聞き捨てならない。
 オピオイドというのはGABA神経系から分泌される脳内麻薬の総称だ。中にはβエンドルフィンなどの性的快楽物質も含まれるが、ストレスがテーマなら、これはそんな平和な話じゃない。
 回避不能の強烈なストレスに長期間晒された人間は、この物質を大量に分泌することで生きることを放棄する。完全な降伏と受身の態勢になり、静かに死に向かって進んでいく。いわば、回避不可能の深刻なストレスに晒された生物の「最期の救い」として分泌されるのがオピオイドなのだ。
 
「おっと。そんなに怖い顔をしないで。今のは言葉のアヤですよ」
 いけ好かないやつだ。
「そんなに警戒しないでよ、薪くん。第九にだって、メリットはあるんだよ。潤也は脳の専門家だ。第九のみんなに脳科学の講義をすることだってできるよ。脳について基本的な知識を得ることは、第九にとってマイナスにはならないはずだよ」
 薪が二階堂に送る凶悪な視線をいなすように、小野田がいつもののんびりした声で場を取り繕う。小野田は大抵は薪の味方についてくれるが、今回ばかりは血縁者を優先したようだ。少し、面白くない。

「うちの職員たちは警察官ですよ。そんな小難しい専門用語を使って説明されても」
「相手がきみじゃなきゃ、潤也だってこんな話し方はしないよ。ぼくにはもっと分かり易く説明してくれたもの」
「脳の仕組みを理解することはMRI捜査をする上で重要なことかもしれませんが、僕はそこまでの専門知識は不要だと考えています。脳の仕組みそのものよりも、人間の心の動きに注目すべきだと」
「人の心の動きを作るのは、脳ですよ。脳内の電気信号が人間の行動のすべてです」
 にこにこと笑顔を絶やさず、二階堂は薪に反論した。薪の氷の視線にも辛辣な皮肉にも、動じる気配がない。
 さすが小野田の甥だ。図太い神経をしている。
 
「電気信号を操ることができれば、好意も悪意も思いのまま。突き詰めれば根っからの悪人を改心させることもできるし、逆に神父に殺人を犯させることもできる」
 なんて嫌な例えだろう。笑顔とまるで噛み合わない。
「脳を極めれば、事件の捜査なんて簡単なことです」
「それなら警察なんか要りませんね。脳科学者さえいれば、社会の平和は保たれるわけだ」
「社会の平和はまた別問題ですよ。事件は解明できるけど、犯罪を未然に防ぐことはできませんから」
 それじゃ意味がないだろう。
 警察が犯人検挙率に拘るのは、それが犯罪の抑制につながるからだ。
 まあ、学者というのは、こういうものかもしれない。視野が狭く、自分のものさしで世の中すべてを推し量ろうとする。自分の研究は万能だと思い込み、どんなものにでも適用できると考える。

「つまりあなたは、第九の職員たちをモルモットに論文を書こうと? 彼らに電極でもつけて、MRI捜査によって乱される脳波の測定でもしようと考えているのですか?」
「いいね、それ。僕が考えていた視覚前後の血液検査より面白そうだ」
「馬鹿げてますね。第九の職員が受ける特殊なストレスを題材にしようなんて。そんな特異ケースの検証が現実社会において何の役に立つんです」
 だいたい、学者なんて地に足の着いていない人間ばかりで、どこかズレているものが殆どだ。薪はそういう現実から逃避しているような人間を、心の底で軽蔑している。
 
 脳に携わる仕事をする者として、脳に関する論文にはざっと目を通すことにしているが、どうも学説と言うのは現実を踏まえないものが多くて、辟易させられる。今の科学あるいは医学では到底実現不可能な論文が、声高に叫ばれていたりするからだ。
 先日読んだ科学誌でも、脳幹から発信される脳内物質の特定をするための装置についての論文に高い評価がされていたが、その装置を作るのには6億円もかかるという。
 ああいうのを利口バカと言うのだ。6億もかけて脳内物質の特定をして、それが一体何の役に立つのだろう。たしかにその装置の仕組みや考え方は斬新で素晴らしかったが、実現できなければ子供の戯言と一緒だ。

「大切なのは、研究成果を社会に還元することでしょう。それなくしては、科学者の存在意義はない」
「社会還元? どんな風に?」
 これまで読んだ脳に関する論文の中で、感銘を受けたものはいくつかあった。その中で一番記憶に残っているのは、薪がまだ第九の準備室長をしている頃に読んだものだ。7,8年前の話だから細かいところは忘れてしまったが、たしか脳内快楽物質についての論文で、その物質を電気刺激によって分泌させて痛みを抑えたり病気の治癒に役立てる、という内容だった。
「僕がずっと昔に読んだ論文ですけど」
 薪は、その感銘を受けた論文の大まかな内容を二階堂に話して聞かせた。
「あなたも少し、彼を見習うと良い。机上でしか成り立たない論文なんか、子供の落書きほどの価値もない」
 話しているうちに、だんだん思い出してきた。
 たしか、この論文を書いたのは日本人だ。名前はええと……ジュンヤ……ニカイドウ……。
 
「あ、あれ?」
「ありがとう。僕の論文を読んでくれて。同業者でもない君がそこまで理解してくれているっていうのは、すごくうれしい」
 釈迦に説法、キリストに聖書の読み聞かせ、ムハンマドにコーランの、ああああ! とにかく恥ずかしいっ!!
 穴があったら入りたい。もう、小野田の背中に隠れてしまいたいくらいだ!

「ただ、少し解釈の相違があるみたいだね。論文の中で触れていた前頭葉のGABA抑制機能のことだけど」
 あの論文を書いた本人だったのか。って、確か写真も見た記憶があるけど、こんな顔だったか?
 もっと健康的で、肌も黒かった気がする。肩幅もがっちりしていて、かなり太っていたような。第一、この男はどう見ても30歳くらいだ。7年前となると、22,3であれを書いたことになる。
 俄かには信じがたいが、説明の内容を聞いていると本人に間違いない。実験の細かい経緯まで、明確に覚えている。これは本人でなければ分からないはずだ。
 実力は確かなようだ。そこだけは潔く認めて、薪は小野田の顔を立てることにした。

「わかりました。では、レクチャーと引き換えに全職員の血液を提供しましょう」
「ありがとう。感謝します」
 素直に頭を下げられて、薪は自分の大人気ない態度がいささか恥ずかしくなる。この男が見かけどおりの年だとすると、自分より大分年下だ。
 譲歩の意味を込めて、薪は検査の追加を申し出た。
「恒常的なストレスによるノルアドレナリンの濃度測定でしたら、尿検査も必要ですね」
「さすが、解ってらっしゃる」
 にこりと微笑んでやると、二階堂は嬉しそうに右手を出してきた。

「よろしくね、ツヨシ」
 いきなり下の名前を呼び捨てか。馴れ馴れしいやつだ。
「ファーストネームでは呼ばないでください。僕のことは、薪と」
 小野田の手前、その手を取ったものの、この男につけ入らせるスキを与えるつもりはない。
「だって、向こうの研究室ではみんな」
「ここは日本です」
「潤也。郷に入っては郷に従え。第九に入っては薪くんに従え、だよ」
「はあい」
 憎めない笑顔で頭を掻く。
 厄介な闖入者に、薪は心の中でため息を吐いた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(3)

運命のひと(3)







 シュッと軽い音を立てて、モニタールームの自動ドアが開いた。
 入ってきたのは二人の男性。室長の薪と、白衣姿のひょろ長い男だった。
「みんな。ちょっと注目してくれ」
 検証中の画にストッパーを挟み、全員が薪の方を見る。薪の隣で物珍しそうに周囲を見ている男に、みんなの視線が集まった。

「かれは」
 薪が口を開きかけたとき、電話が鳴った。近くにいた宇野が受話器を取って、薪に声をかける。
「室長。一課の竹内さんからですけど」
「……今忙しいと言え」
 不機嫌な顔で吐き捨てて、電話に出ようともしない。口もききたくないらしい。相変わらず竹内のことは、蛇蝎のように嫌っている。
「すいません、竹内さん。室長は今ちょっと手が放せなくて、え? 室長の携帯電話を?」
 携帯電話と聞いて、薪はジャケットのポケットを探る。
 ない。あの場に落としたのか。気が付かなかった。

「これから届けてくださるんですか? ありがとうござ」
「いま! そちらに伺いますからっ! ここへは来ないでください!」
 宇野から受話器をひったくって、大慌てで喚く。
 冗談じゃない。ここに竹内が来たら、この男と朝の話になってしまう。この男にくちびるを奪われたことが、みんなに知れ渡ってしまうではないか。
 それだけじゃない、携帯には青木からのメールも入ってるし。ふたりで撮った他人には見せられない写真も……。
 あああ!
 ふたりして裸でベッドにいるところなんか、撮らせるんじゃなかった!
 いくら青木が警視の昇格試験に受かったお祝いだからって、甘い顔した僕がバカだった! それを携帯にわざわざ保存しておくなんて、おまえは世界一のアホかって、ほっといてくれ!!

 ポーカーフェイスの裏側で絶叫しつつ、薪は二階堂に声を掛けた。
「二階堂先生。先にみんなに自己紹介をしておいてください」
 皆には聞こえないように小さな声で、しかもスウェーデン語で、鋭く囁く。
「今朝のこと、誰かに喋ったら……今度は鉛玉を口に突っ込みますからね」
 ギロッと凶悪な目つきで男を睨むと、薪はモニタールームを出て行った。

 残された第九の職員たちは、呆気に取られた顔で白衣姿の男を見る。優秀な捜査官でもある彼らのこと、その視線は自然と観察者のそれになる。
 この男は何者だろう。
 白衣を着ている。よって、新しい捜査官ではない。首からプレートを下げていないところを見ると、特別許可を受けた一般人でもない。しかし、部外者でもない。薪が部外者をモニタールームに入れるはずがない。

「白衣ってことは、監察医かな」
「違います。彼、少し爪が伸びてます。あれじゃあ、手術用の手袋が破れてしまう」
 曽我が示唆した可能性を、青木が否定する。こいつも少しはやるようになった。
 ほんとだ。よく気が付いたな。ま、法一の彼女を持ってりゃ当たり前か」
「だから、オレは三好先生とは何も」
 私語に発展しそうな二人の会話を一瞥で止めて、副室長の岡部が前に出る。
 
「初めまして、二階堂先生。副室長の岡部です」
「あなたが岡部さんですか。セイジから聞いてます」
 セイジ、というのは官房長の下の名だ。さっき、薪は小野田に呼び出されていた。ということは、この男は小野田の関係者か。
 
「二階堂です。よろしく」
 にっこり笑うと目じりが下がって、なるほど小野田に似ている。感じのいい笑顔だ。無邪気で、まるで子供のようだ。
 しかし、彼の次の言葉に、第九の全員はフリーズすることになる。
「僕のツヨシがお世話になってます」






***

 とうとう世界一のアホになってしまいました。
 なにやってんの、このひとは。(笑)


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(4)

運命のひと(4)






 薪は、急ぎ足で地下通路を歩いている。

 竹内から携帯を受け取って、第九へ帰る途中だ。もしも携帯の中身を見られていたら、完全犯罪のプランを練らなければならないところだったが、その必要はなかったようだ。相手のどこにも不自然な態度は見られなかったし、保存データを見るためにパスワードを間違えて入力した形跡も残っていなかった。
 薪としてはなるべく顔を合わせたくないのだが、捜一の宿敵とは何かと縁があって、なんのかんのとしょっちゅう会っているような気がする。下手をすると、この頃あまり第九に来てくれなくなった雪子より多いかもしれない。

 雪子は今、法一の副室長になる話が持ち上がっている。そのためにいくつかの論文と研究結果を提示しなくてはならないそうで、だいぶ忙しいらしい。
 というのは建前で、自分に会いたくないと思っているのかも。もっとはっきり言うと、自分が青木と一緒にいるところを見たくないのかもしれない。雪子さんは、本当はまだ青木のこと……。
 すぐにそんなことを考えてしまうマイナス思考の回路が強化された自分の脳に、薪は嫌気が差している。一度でいいから、薪の恋人の能天気な脳みそと取り替えてみたい、と思うくらいだ。
 
 第九の自動ドアの前に立ち、薪は頭を切り替える。
 仕事にプライベートは持ち込まない。これは薪のずっと昔からのポリシーだ。

 踏み出した一歩で自動ドアが開き、薪はその場に棒立ちになった。
「なんだ!?」
 いつもはスパコンの冷却ファンの音と、ハードディスクの唸る音しかしないモニタールームに、テレビでよく聞く歌声が流れている。たったそれだけのことで、執務室が喫茶コーナーにでもなったかのようだ。
 業務内容に相応しくないこの音の出所は、一台のパソコンだ。専用のスピーカーをつなげてあるところを見ると、これは計画的犯行だ。

 岡部が困った顔をしてこちらを見ている。岡部の睨みが利かない部下はここにはいないから、これは部外者の仕業、などと考えるまでもない。こんな常識知らずのことをする輩は、警察庁の職員にはいない。
「二階堂先生。この騒音を止めてください」
「騒音だなんてひどいよ、ツヨシ。僕は彼らの歌声が大好きなのに」
「仕事の邪魔をしないでください!」
「MRIには音がないんだから。仕事の邪魔にはならないだろう?」
 たしかにMRIには音声が伴わないが、こんなチャラチャラした曲が流れていたら、集中力を削がれるに決まっている。

「捜査官の気が散ります」
「そんなことないよ。ほら、ウシにモーツァルトの音楽を聴かせると、お乳の出が良くなるって言うじゃない」
 うちの部下をウシと一緒にするな!
 ていうか、あれは高周波によって脳の活性化を促すものじゃなかったか? 男性ボーカルの声では低すぎるだろう。最適なのは2000~8000ヘルツ位の、ええと、どの楽器だったっけ。
「彼らの歌声はバイオリン以上の効果があるんだよ」
 そうだ、バイオリンが一番効果が高いと証明されたんだった。さすがによく知ってる、なんて感心すると思ったら大間違いだ。

「あのですね、僕たちは殺人事件の捜査をしてるんですよ? そういう画を見ながらこういう音楽を聴くって」
「僕、音がないと仕事ができないタイプなんだよ。音によって脳を活性化させてるんだ」
「この雑音のどこが高周波なんですか?」
「仕方ない。ツヨシがそこまで言うなら、モーツァルトにするか」
「そうしてくださ、って違います! 第九では音楽は禁止です!」
「もう。わがままだなあ、ツヨシは」
「△×◎~~~~!!!」
 何なんだ、この男!
 会話にならない!
 なんて扱いづらい。まるでわがままな小野田さんと話してるみたいだ。軽くいなされて、はぐらかされて、相手のペースにはまってしまう。

 酸素濃度の低い水の中の魚のように、口をパクパクさせて青くなっている薪の後ろで、部下たちが何事か囁きあっている。
「おい。薪さん、今なんて言ったんだ?」
「言葉にならないほど、頭に来たんじゃないですか?」
「あ~~、こっちにとばっちり来ないだろうな」
 なにやら、期待されているらしい。かわいい部下の希望だ。ぜひ叶えてやろう。
 とりあえず今週末に全員参加でMRIのメンテナンス作業を入れてやるか、と心に決めて、薪は実力行使に踏み切った。
 物も言わずにパソコンの音楽を止めて、リーダーからCDを取り出し、二階堂の前に差し出す。
 
「僕のことを名前で呼ばないように、と言ったはずです。これ以上、勝手な真似をされるなら、あなたとの約束は撤回させていただきます」
「約束!? 薪さん、二階堂先生の申し出を受けたんですか!」
 モニタールームが騒然となった。
 大げさな連中だ。血液と尿の提供くらいでそんなに騒がなくても。
「ああ。みんなには事後承諾になったが。……なんでそんなに青い顔してんだ、おまえら」
 血液を採られるのがそんなに怖いのだろうか。採血は確かに気持ちがいいものではないが、ここまで怯えることもあるまいに。情けない連中だ。

「健康診断だと思えば、って、こら! なんだ、青木。放せ!」
 顔をこわばらせた青木が、薪の首を腕で捕らえて室長室に引きずり込んだ。後ろ手に鍵をかける。
「青木、職務中だぞ。みんなになんて思われるか」
 頭上26センチの高さから見下ろす部下の目が、妙に鋭い。
 青木の乱暴な振る舞いに、薪はイヤな予感を覚える。こいつが自分にこういう態度を取るときは、大抵がヤキモチだ。もしかしてあの男、今朝のことをみんなに喋ったんじゃ。

「薪さん。あの男の言ったことは、本当なんですか?」
 間違いない。どうしてくれよう、あの男。
「いや、なんて言うかその……不可抗力だったんだ」
 いきなり、あんなところであんなことをされるとは思わなかった。あれは薪じゃなくても、防げなかっただろう。
「言い訳は聞きたくないです。あの男の申し出を受けたと言うのは本当ですか? オレやみんなに一言の断りもなく」
 あ、なんだ、そっちか。助かった。
「勝手に決めて悪かった。小野田さんに頼まれて、無下に断ることもできなかったんだ」
「だからって、こんな大事なこと! オレに一言もないって、どういうことですか!?」
「なんでおまえに相談しなきゃならないんだ?」
 何を思いあがってるんだ、こいつ。仕事の相談を持ちかけるなら、相手は青木ではない。副室長の岡部が適任だろう。

「外国へ移住する話があるのに、相談もしてくれないんですか?」
「相談するとしたら岡部にするのが自然、ちょっと待て。いま、なんて言った? 外国がなんだって?」
「二階堂先生が、薪さんは近いうちに日本を離れることになるって」
 ……へっ?
「薪さんと結婚して、ストックホルムに永住するって」
 ……結婚?
「もう、とっくに心も身体も結ばれてるって」
 はあ!?
「薪さん。ホントにあの男と寝たんですか?」

 最後の言葉にぶち切れて、力いっぱい青木の腹に蹴りを入れてやったら、思ったよりも弾みがついて室長室のドアにぶつかった。蝶番が弱っていたのか、薄いドアが青木の重みに耐えられなかったのかは不明だが、大柄な部下はドアごとモニタールームの床に倒れ込んだ。
 青木は痛そうに顔を顰めていたが、当然の報いだ! 僕を疑うなんて!
 付き合い始めて1年のお祝いだと思って、2ヶ月前、あんなことをしてやったばかりなのに。あの行為が僕にとって、どれだけ勇気がいることだったか分かってないのか。あんなことを他の男ともしていたと疑われたなんて。
 てか、なんで信じるんだ!? 僕がそんなこと、するはずないだろ! 騙されやすいのも大概にしろ、このスットンキョー!!

 青木の腹の上を踏んづけて、二階堂につめよる。嘘八百並べ立てやがって、それを信じるバカも救いがたいが、一番悪いのはこいつだ。

「いい加減なことを部下に吹き込まないで下さい! 僕がいつあなたとセックスしたんですか!」
「そんなこと言ってないよ。彼がどう解釈したかは知らないけれど、僕とツヨシの人生は密接に関わってる、って言っただけだよ。僕はツヨシのすべてを知ってる。心も体も、ツヨシのことなら何でも分かるって」
 単細胞の上に妄想狂の青木にそんなことを言ったら、誤解するに決まってる。青木はいつ自分の恋敵が現れるかと、戦々恐々なのだ。ただでさえニトログリセリンみたいに危険な奴を、これ以上刺激しないで欲しい。
「誤解を招くような言い方しないでください! 僕たち、今日が初対面じゃないですか。僕はあなたのことを何も知らないし、あなただって僕のことを何も知らないはずだ」
「知ってる。ずーっと前から。君に会うために、僕は今まで生きてきた」
 朝もそんなことを言ってた。ナンパの続きをここで始めようというのなら、今度は膨大な事件ファイルの下敷きにしてやる。

「君の舌がとても甘いことも知ってるよ」
「ウソです! ちょっと唇が触れただけで、っ!!」
 慌てて口を塞ぐが、出てしまった言葉は戻せない。せめて誰にも聞かれなかったことを祈るが、今までこういうことで薪に都合よく運んだことは一度もない。
「……したんだ」
「舌は入れられなかったけど、キスはしたんだ」
 ああああ! また自分の首を絞めてしまった!
 
 冗談だ、と言おうとしたが、既に耳まで真っ赤になってしまった。ちらりと岡部を見ると、肩を竦めて首を振られた。もう、何を言ってもムダだ、ということだ。
「ほら、俺の勝ち」
「やっぱり今井さん、こういうのは強いな」
「くっそー。薪さん信じた俺がバカだった」
「へへへ。今井さんの言うこと聞いておいて良かったあ」
「おい、青木。おまえ百万賭けてもいいって言ってたよな」
「あははは! 可哀想ですよ、今井さん。みんなと同じ、千円にまけといてやってくださいよ」
 
「今井。小池」
 千円札を何枚か受け取った二人の部下の背後に、氷点下の空気が押し寄せてきた。恐る恐る振り返ると、額に青筋を立てた上司の姿。
「おまえら今期一杯、MRIの起動時点検係!」
「ええええ!」
 上司を賭け事の対象にするなんて、ていうか、警察官は賭け事は禁止だ。今週の土日は、全員強制出勤だ。徹夜でバックアップ取らせてやる!

 怒りを静めるために何回か深呼吸をし、薪はようやくその重い空気に気付いた。
 背後からのおどろおどろしい視線。恐ろしくて振り返れない。
 何か理由をつけて残業して、今日は家に帰らないようにしよう。そうでもしないと、間違いなく朝まで……。

 頭痛の種が2つになって、薪は今日が厄日であることを確信する。
 タネの片方は、にこにこと薪に笑いかけ、もうひとつは不機嫌な顔をして薪の後頭部を見つめている。
 ふたりの男の両極端な表情の狭間で、薪はがっくりと肩を落とした。




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ジャンル : 小説・文学

運命のひと(5)

運命のひと(5)






 音楽が止まり、騒ぎが落ち着いたところで、薪は二階堂の本来の目的を皆に説明した。

 第九の職員たちは、誰もその真実を知らされていなかった。二階堂は自分が脳科学者だと言うことも、論文のために第九を訪れたことも言わなかったらしい。
 じゃあ一体何を話したんだ、と岡部に訊ねたら、『本当に聞きたいですか?』と返された。岡部の目つきから察するに、薪にとって相当不愉快な話だったようだ。
 ここは知らないままでいよう。でないと、あのモヤシの首をへし折ってしまいそうだ。

「さて。音楽の効果でリラックスした今の状態で、血液の採取をさせていただきましょうか」
 ミーティングルームには既に女性の看護師が待機していて、音楽はふざけていたのではなく、このためだったのだと知る。職員たちの精神状態を、モニターを見る前の状態に近づけたかったわけだ。

「あ、ツヨシはダメ」
 採血の列に並ぼうとした薪を、二階堂が引き止めた。
 こいつには耳がないのか。下の名前で呼ぶのを止めろと何度言ったらわかるんだ。
「ノルアドレナリンが過剰分泌されてる。平静でないと意味がない」
 だれのせいだ、だれの。
 
「それから君もダメ。全然、緊張感が取れてない」
 もうひとりダメだしを食らったのは、第九で一番からだの大きな部下だった。
 そのとき青木が二階堂に向けていたのは、招かざる客に対する不躾な視線。
 青木は普段は人当たりのいい男だが、昔から薪を傷つける輩には容赦しなかった。近頃はその攻撃対象に、薪に恋愛感情を持って近付いてくる人間が加わった。実際に、二階堂にくちびるを奪われている事実を知られたとなると、ここはフォローを入れておいた方がいい。そうしておかないと、自分の身が危うい。

 不可を付けられたのをいいことに、みなより先にモニタールームに戻る。秘密の恋人とふたりになって、薪はこっそりと青木に耳打ちした。
「青木。さっきのキスの話だけど、僕は別におまえのことを裏切ったわけじゃなくて」
「職場ではプライベートの話はやめましょう」
 口が酸っぱくなるほど青木に言い聞かせてきたそのセリフを返されて、薪は困惑する。たしかに公私混同はいけないけれど、このままじゃこいつだって精神的に不安定になって、仕事に身が入らないだろう。

 青木は自分の席に座り、検証作業の続きに戻った。黙りこくってモニターを見つめる。
 薪はさっと周囲に目を配り、誰もいないのを確認すると、素早く青木のそばに寄って彼の頭を両手で掴んだ。ぐいと引き寄せて、掠めるようにキスをする。
「ほら。おまえだって避け切れなかっただろ」
 ポカンとした顔で薪を見ている部下のバカ面に向かって、得意気に言い放つ。これでもう、こいつは僕のことを責められないはずだ。
「不可抗力だ。信じ」
 決め台詞は、最後まで言わせてもらえなかった。

 飢えたようなくちびるが覆いかぶさってきて、薪の声を奪った。薪の口腔内を知り尽くした男の舌が、その中を蹂躙していく。絡み合う快感を覚えた薪の舌が、反射的にそれに応じる。
 深いくちづけは、薪に昨夜のことを思い出させる。
 ベッドの上で、お互いの汗のにおいの中で。こんな風に何度もキスをした―――。

「釈明は、今夜ゆっくり部屋で聞かせてもらいますから」
「今夜って……昨夜しただろ。2日続けてなんて、僕にはムリだぞ」
「昨夜はすごくいい思いさせてもらいましたから。今日は薪さんにお返しします」
 いらない、と言おうとしたが、まだ青木の目が完全に笑っていないことに気付いて、薪は口を閉ざした。
「楽しみにしててくださいね」
 にっこり笑った青木の後ろに、大鎌を持った黒マントの骸骨が見えた。

 明日の朝まで命あるかな、僕。
 くちづけの余韻にいくらかぼうっとした頭で、今夜の夕食は最後の晩餐になるかもしれない、と本気で心配している薪だった。


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運命のひと(6)

運命のひと(6)









 その事件の被害者の死因は、餓死だった。
 誘拐され、閉じ込められ、水も食料も与えられず、そのまま放置された。彼女が死ぬまでの20日間。犯人は、それをずっと見ていた。ただ見ていた。
 命乞いをする若い女性の姿を。助けてくれるなら自分を自由にしてもいいと、からだまで投げ出そうとした彼女を、見ているだけだった。
 鉄格子の間から細い腕を伸ばし、泣きながら助けを求める彼女を、何日も何日も犯人は見続けた。日に日に弱っていく彼女は、口数も少なくなり、次第に眠る時間が多くなっていった。それでも犯人は、水の一滴も彼女に与えようとはしなかった。

「どこまで残酷なことをしやがる……!」
 脱水によって腫れあがった唇と舌で、彼女が最期に何を言ったのか。第九で一番読唇術に秀でた小池ですら、読むことが出来なかった。
「こいつ、人間じゃないですよ。ひとが死んでいく様子をずっと見ているなんて」
「自殺した犯人は、学者だったそうだ。これは実験だと」
 供述書をめくりながら、薪が事件の背景を説明する。その声は事務的で、流れる言葉は雅やかな音楽のように淀みない。
「ひとが何日で死ぬかの実験だったと、供述したそうだ。自殺した理由も実に明白だ。『刑務所に入ったら、もう実験ができない。それでは生きている意味がない』 犯人が残した遺書だ」
 留置所の中で自分のベルトで首を吊って、犯人は自殺した。送検前の被疑者に自殺されるという警察の失態に焦った上層部から、大急ぎで脳を見るようにと指示を受けていた。
「サイコ野郎が」
 岡部が低い声でぼそりと呟く。叩き上げの岡部は、少々言葉が悪い。
 
「可哀相に。何も悪いことをしていないのに、こんな目に遭って」
「まだ19ですよ。成人式の着物も用意してたって、捜査メモにありました。辛いでしょうね、ご両親」
「余計な事を書くなよ、曽我。報告書にその記述は必要ない」
 素っ気無い口調に、曽我は顔を上げて室長のきれいな横顔を見た。
 いつも通りの冷静な顔。どんな惨たらしい画にも表情を変えない。薪が氷の室長と噂される所以である。
 しかし。
 机の上に置かれた薪の左手が握り締められ、微かに震えていることに、曽我は最初から気付いていた。

「仕方ないよ。それが彼女の運命だったんだ」
 聞きなれない言葉に驚いて振り向くと、白衣の脳科学者が薪の後ろに立っていた。
 モニタールームで仕事をする職員の状態を観察する、という名目で、二階堂は機密情報満載の第九に居座り続けていた。よくこんなことを室長が許したものだと最初は思ったが、小野田の圧力が掛かっているのを知って納得した。
 彼が相手では、断ることもできなかったのだろう。他の重役ならともかく、小野田は薪の恩人だ。そもそも薪を引き上げてくれたのも小野田だし、薪が警視長の階級にありながら第九の室長を務めていられるのも、みんな彼のおかげなのだ。

「モニターは見ないでくださいと、お願いしたはずですが」
「ツヨシ。手が震えてる」
 骨ばった手が、小さな拳を覆った。刹那、火傷でもしたようにそれを払いのけ、薪は二階堂に向き直った。
 二階堂は、自分の手が払われたことを気にする様子もなかった。それどころか微笑さえ浮かべて、ムッと眉を顰めた薪の顔を見る。

「きみが心を痛めることはない。これは彼女の運命で、きみには何の責任もないんだ」
「運命?」
 第九の中に、こんな考え方をするものはいない。
 否、警察中探しても運命論者はいないのではないか。なんでも運命だと諦めていたら、殺人事件の捜査などできないだろう。

「これが運命だとでも言うんですか」
 射るような瞳で、薪は第九の異邦人を見た。彼を包んでいた静謐なオーラが、一気に緋色に燃え上がる。
 薪の冷静さは上辺だけのものだということを、第九の職員たちはみんな知っている。どんな残酷な画にも顔色ひとつ変えない酷薄さは仮面のようなもので、その下には滾ったマグマのような熱い情熱が渦巻いている。今だって、薪の心の中は熱帯性低気圧のように荒れ狂っている。被害者への哀悼と、犯人への怒りと。
 それが分かっているから、職員たちは何も言わない。この男のように余計なことを言って、必死で自分を抑えている薪の苦労を無駄にすることなど、絶対にしないのだ。

「こんな風に、理不尽に殺されることが? 人生を強制的に誰かに終了させられることが?」
 言葉が重なるほどに、激していく声。普段は低く抑えられているアルトの音程が、少しずつメゾソプラノに近付いていく。
 薪の本来の声は、中高音のアルトだ。いつもはできるだけ低い声で喋るように心掛けているのだが、興奮するとそれを忘れてしまう。薪の声のトーンが上がってきたら、避難勧告発令だ。部下たちは我が身可愛さに、うつむいて自分の仕事に没頭する。
 
「じわじわと死を待つしかなかった彼女の気持ちが、あなたに解るとでも言うんですか!?」
 部屋中の空気がビリビリと振動するほどの怒気を放って、薪の声が響いた。部下の中でこの薪に言い返せるものは誰もいない。こうなってしまった薪には、岡部でさえ近寄らない。
 誰もが自分の席から動こうとしない中、いちばん近くにいた曽我がわが身の不運を嘆きつつ、丸い坊主頭を縮こめた。

「そうだね。可哀相だね、とても」
 のんびりと応えを返した二階堂に、全員が驚嘆の眼差しを向ける。
 この状態の薪を前に、平然としている。
 まともじゃない。こいつには、怖いという感覚がないのか。
「でも、やっぱり運命なんだよ」
 しかも、自分の持論を曲げようとしない。捜査官モード全開の薪に、そんなことを言おうものなら。

「研究に協力するとは言いましたが、捜査に口を出していいとは言ってません」
 言わんこっちゃない。(いや、誰も口に出してはいないが)急に口調が静かになるのは、薪の雪嵐攻撃開始の合図なのだ。
「そんなつもりはないよ。ただ、君があんまり辛そうだったから」
 尖った氷柱のような目線で、薪は二階堂を拒絶した。薪を包む空気は、液体窒素並みの超低温。触ったら間違いなく凍傷になる。
 冷凍庫に限りなく近付いた室温に、部下たちは身震いする。哀れにもブリザードの直撃を受けた曽我は、すっかり凍り付いている。
「邪魔です。出て行ってください」
 すっと腕を真横に上げて、出口を指差す。
 薪が本気で怒っているのがようやく分かったのか、二階堂は素直に引き下がった。

 薪は、二階堂が出て行った後もしばらくドアを睨みすえていたが、帰ってくる様子がないのを見ると、やっと肩の緊張を解いた。
「曽我。報告書には人間の脱水症状についての注記を入れておけ」
「はい。あの、期限は」
「決まってるだろ。今日中だ」
 怒ってる。もう、めちゃくちゃ怒っている。
 とばっちりを受けた曽我はいい迷惑だが、これは確実に全員に飛び火する。
「おまえらが抱えてる案件も、全部今日中に片付けろ! いいな!」
 ああ、やっぱり!

「よかった、昨日上げておいて」
「小池。おまえはMRIのリーディングテストだ」
「えええ!」
 薪の八つ当たりが始まった。何か面白くないことがあると、いつもこの調子なのだ。まったく、横暴な上司を持つと苦労する。
 心の中でぶつくさと文句を垂れる部下たちの中にひとり、薪に近付いていく男がいる。右手にコーヒーを載せた盆を持ち、手馴れた仕草でそれを薪の前に差し出した。

「薪さん。ずるいですよ。わざと残業作ったでしょう」
 薪は黙ってコーヒーを飲む。細い肩のラインが、コーヒーの芳香に溶けるように弛緩していく。
「いいですけどね。今日の取調べが明日に延びるだけですから」
 リラックスしていた肩が、ぎくり、と強張った。カップを持つ手が止まっている。
「延びた分、利子がつきますからね。覚悟しといてくださいよ」
 右手の微かな震えが、黒茶色の液体の表面を波立たせる。華奢な肩は竦みあがって、優雅な首が縮こまった。

「ああ、明日は土曜日なんですね。朝までどころか、一昼夜でも平気か」
「そ、曽我!」
 上ずったアルトの声が響いた。その慌てふためいた口調に、職員たちが一斉に振り返る。
「報告書は月曜でいいから! 他のものも、今日は残業なし! 定時で帰れよ、いいな!?」
 突然、残業命令を撤回した上司に驚きつつ、今日のアフターの予定をキャンセルせずに済むことになった幸運に感謝して、職員たちはその快挙を成し遂げた後輩をそっと誉めそやした。
 
「すっげー、青木。薪さんになんて言ったんだよ」
「コーヒーに人間の性格が良くなるクスリでも入れたのか?」
「企業秘密です」
 にっこりと笑って、謙虚な後輩は全員分のコーヒーを淹れるために給湯室へ歩いていった。





*****

 どんだけ怖いんでしょう。
 うちの薪さん、エッチ嫌いだからなあ。(笑)



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運命のひと(7)

 今日はバレンタインデーですね♪

 学生の頃はたくさんチョコをもらったんですけど(すみません、共学なのにもらってました)、独身の頃もいくつかはもらってたんですけど(後輩とか飲み友達とかから)、結婚してからはぱったりともらえなくなりました。やっぱり結婚しちゃうとダメなんですね。哀しい。


 バレンタインにちなんで(?)、ここはRです。
 青木くんが何やら悩んでますけど、これは3部に入ってからの事情が絡んでるので、スルーしてくださいね(^^
(言い忘れましたが、このお話はふたりが恋人同士になって、1年2ヶ月くらいのエピソードです)





運命のひと(7)











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運命のひと(8)

運命のひと(8)







「ツヨシ。デートしようよ」
「しません」
「映画なんてどう?」
「見ません」
「休みの日にさ、遊園地とか、植物園とか。まだ薔薇も見頃だし」
「おひとりでどうぞ」
「そんなつれないこと言わないでさ」
「仕事の邪魔です!」 
 机に叩きつけられたファイルが、バン! と派手な音を響かせた。自分が怒られたわけでもないのに、職員たちが一斉に首を縮込める。今日も室長の機嫌は低空飛行だ。
 薪のイライラの原因は解っている。招かざる客人のせいだ。
 
 初日から旋風を巻き起こした脳科学者は、翌週も第九に居座り続けた。
 第一印象が最悪だったせいか、薪は二階堂と打ち解けることはなかったが、約1名を除いて、部下たちには意外なくらい評判が良かった。彼の脳に関するレクチャーは分かりやすく面白い、と皮肉屋の小池までが褒めていた。
 
「何故ここにいるんです!? あなたにはちゃんと部屋を提供したでしょう!」
 ディスカッションを行なうときに使用する小会議室が、彼の仕事場に当てられた。モニタールームをうろうろされると仕事に差し支えるから、というのは建前で、彼に神経を逆撫でされた室長の八つ当たりが怖いから、というのが職員たちの本音である。
「これも仕事だよ。みんなの様子を観察したいんだ」
 みんなではなく、薪の様子だろう、と全員が心の中で呟く。二階堂は朝からずっと薪の隣に座って、薪のことを見ているのだ。
 薪にとってはハタ迷惑な話だが、この男が自分に好意を持っているのは本当らしい。その瞳にはありったけの憧憬と愛情が湛えられているように見受けられたし、薪に向けられる笑顔は一点の曇りもない幸せそうなものだった。

「あなたがここにいたら、みんなの気が散って仕事になりません。室長室を提供しますから。職員の観察は、そのドアからお願いします」
「君の部屋を? いいの?」
「机や椅子は使っていいですけど、報告書や僕のPCに絶対に手を触れないと約束してください」
「うん。約束する。ありがとう、ツヨシ」
「だから! ファーストネームでは呼ばないでくださいってば!」
 今週に入ってから、ずっとこの調子だ。
 
「二階堂先生の粘り勝ちかあ。あの根性は見習わないとな」
 薪は一日の半分を室長室で過ごす。部下たちには見せられない人事書類や、ひとりで作成しなければならない特別な仕事も抱えているせいだ。よって、室長室へ入り浸ることができれば、薪と一緒にいられる時間は多くなる。
 薪の性格を考えれば、職員たちに被害が及ぶより自分のところで始末を付けようとすることは予想がついたが、二階堂はまだ本当の薪を知らないはずだ。二階堂の戦法は薪の行動を見越してのことではなかったと、誰もが思っていた。

 二週目の木曜日。
 昨夜の疲れが抜けきらない薪が室長室へ入ると、二階堂がカウチに座って資料をめくっていた。
「やあ、ツヨシ。この椅子は座り心地がいいね」
 ファーストネームで呼ぶな、というセリフも言い厭きた。聞き慣れたせいか、それほど腹も立たない。
 正直に言うと、さんざん青木に責め立てられて、立腹する元気もないのだ。
 この男が第九に来てからというもの、何を心配しているのか、青木がベッドの中でやたらめったらしつこくなった。週末は言うに及ばず、昨夜だって約束の日じゃなかったのに。今週の土曜日は遠出する予定だから前倒しでお願いします、とかって、わけのわからない理屈で丸め込まれて。

「血液、ありがとうね」
 初日、不可を出された2名の採血は、月曜の朝一番で行なわれた。
 脳科学者に対して敵意丸出しだった部下のひとりは、何故か月曜日は上機嫌で、二階堂の求めに素直に応じた。現金なやつだ、と薪はこっそり青木に囁いたが、その率直さを愛おしい、と思ってしまったことは言わないでおいた。
 二階堂が今見ているのは、追加のふたりのものだ。つまり、3日前に採ったばかりの採血データだ。
「もう結果が出たんですか?」
「うん。セイジが手配してくれたスタッフは優秀だね」
 小野田はよほど、この甥が可愛いとみえる。官房長の愛人との噂が立つほど彼には目を掛けてもらっている薪だが、やっぱり肉親には勝てないらしい。

「ねえ、ツヨシ。今日のお昼、ランチデートしようよ」
「しません」
 顔を合わせるたびにデートしようデートしようって、バカの一つ覚えみたいに。何べん断ってもめげないところは、昔の誰かを彷彿とさせる。あいつもしつこかったっけ。
 まあ、最終的には僕もほだされちゃって、現在に到るわけだけど。

「つれないなあ。一回くらい付き合ってくれたって」
 口の中でブツブツ言いながら、二階堂はさして凹んだ様子もなく、嬉しそうな目で薪を見ている。溢れる好意を隠そうともしない。
 ひとからの好意をこんな風に感じてはいけないのかもしれないが、こいつは男だし。純粋に、迷惑だ。

「ところでツヨシ。君の脳波、取らせてもらえない?」
 いつ言い出すかと思っていたが、やっときたか。
 最終的には脳波の測定資料を付けないと、論文は完成しない。言い換えれば、この測定が終われば、第九はこの男の観察から開放される。二階堂の滞在予定は10日ほどだと言っていたから、タイムリミットも迫っているのだろう。
「わかりました。職務の前と後の比較を取るなら、夕方と、翌朝は業務に入る前に行なったほうがいいでしょうね。測定の予定日はいつですか? みんなに1時間ほど早出するように、通達しておきます」
「いや。通達は必要ない。君だけでいい」
「僕だけ? 何故ですか」
「ノルアドレナリンの濃度が、被験者の中で一番濃いから」
 不愉快な鑑定結果が出てしまった。まあ、予想はついていたが。

「驚かないね」
「僕は室長ですから。一番ストレスが多くて当たり前です。他に、検査結果が問題になるような職員はいましたか?」
「いや。君以外は大丈夫。セラピーも必要ないと思うよ。みんな、ガス抜きの仕方が上手いんだね」
 検査結果に、薪は胸を撫で下ろす。
 連中の精神的負担は、数値に表れるほどではなかったらしい。脳内オピオイドが異常発生している部下がいたらどうしよう、と半ば本気で心配していたのだ。
「すいませんね、不器用で」
「うん。その攻撃的な態度は間違いなく、ノルアドレナリンの過剰によるものだね」
 二階堂の無邪気な皮肉に、薪は口を閉ざした。
 攻撃的で狭窄的な態度がこのホルモンの特徴だ。それを指摘されるのは面白くない。

「明日の帰りに、この病院に寄ってくれる? 測定機器を借りる約束をしてるんだ」
 二階堂は一枚の名刺を薪に差し出した。病院の事務長の名前と、裏に簡単な地図が記載されている。病院嫌いの薪でも知っている大きな総合病院だ。
 この病院を紹介したのも、小野田だろう。至れり尽くせり、そんなにこの男がお気に入りなら、娘の結婚相手に彼を選べば良かったのに。
「わかりました」
 机から必要な書類を取り出すと、薪はモニタールームに戻った。室長室でも仕事はできるが、あの男とふたりにはなりたくない。

 ヤキモチ妬きの恋人については、昨夜たっぷり相手をしてやったから、二階堂とふたりでいるところを見られても平気だと思うが、危ない橋は渡りたくない。今朝だって、起きるのが大変だったのだ。昨夜のアレが今夜も繰り返されたら、明日は完全に半身不随だ。トイレに行くにも、床を這っていかなくちゃならない。
 明日病院に行くときにも、青木に一緒に来てもらおう。その方があいつも安心するだろうし、遅くなるようだったら、そのまま家に泊まればいい。
 
 明後日は土曜日。
 今週の予定は車好きの恋人の希望で、幕張で行なわれる自動車の展示会に付き合わされることになっている。薪は車には興味がないが、イベントコンパニオンは美人ぞろいだし、ミニスカートから伸びる彼女たちの足には多大な魅力を感じる。薪好みの、小柄でぽっちゃり系のかわいい娘がいるといいのだが。
 そんなことを思いつつも、未来のコンセプトカーを見る恋人の笑顔に釘付けになってしまう自分の姿が簡単に想像できて、薪は自嘲する。
 具合の悪いことに、病状は進んでいる。女の子の生足よりもヤローの笑顔が楽しみだなんて、正常な男の考えることじゃない。以前なら、こんな考えが浮かぶたびに落ち込んでいたのだが、あまりにも回数が多すぎて、この頃は諦めモードに入ってきた。

 自分の中の良識という説教者に、薪は捨て鉢に宣言する。
 ほっといてくれ。
 僕は青木が好きなんだ。
 好きなひとの笑顔が楽しみで、何が悪いんだ。

 予備の席に陣取ってモニターを起動させる間に、だるい身体に喝を入れ、重い頭を一振りする。しゃんと背筋を伸ばし、キッと眉毛を吊り上げて、薪は報告書の検証に取り掛かった。



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運命のひと(9)

運命のひと(9)






「二階堂先生、また眠ってる」
 自分の捜査に行き詰まりを感じ、上司に相談をするために室長室へ入っていった小池が、呆れたような声を出した。どうやら薪は不在で、代わりに脳科学者が惰眠をむさぼっていたらしい。
「室長を部屋から追い出しといて、いい度胸だよな」
「薪さんもよく黙ってるな」
「仕方ないだろ。官房長と三好先生にだけは、薪さん頭が上がらないんだから」
「他の人間に対しては、20階建てのビルの屋上から見下すような態度だけどな」
「ひとをひととも思わないってか」
「どうせ俺たちのことなんか、ドレイだと思ってんだよ、あのひとは。何か面白くないことがあるたびに、バックアップだリーディングテストだって。先週だって、青木がうまいこと言わなかったら」

「そんなこと、思ってない」
 涼やかなアルトの声が背後から響いて、小池は自分が探していた人物が、同じモニタールームにいたことを知る。
 薪は身体が小さいから、大型のモニターやうず高く積まれた書類の山に、いとも簡単に埋もれてしまう。しかも職務中は無駄口を叩かないので、居るか居ないかわからない。

「大事な部下を奴隷だなんて。僕がそんなこと、思うはずないじゃないか」
 薪がてっぺんに来ているとき特有の猫なで声。この声が出たら、警報発令だ。命が惜しかったら、一目散に逃げ出すことだ。
「おまえらは奴隷なんかじゃない。でも」
 小池以外の職員たちは、素早く机の下に潜る。スケープゴードになった小池には気の毒だが、全員が一度にこの被害に遭ったら、第九は機能停止に陥ってしまう。
「証拠を見つけられない役立たずは家畜以下だ! さっさと仕事しろ!!」
 ……人間ですらない。
 道理で人権を認めてもらえないわけだ。

「僕の人間性を非難するヒマがあったら、モニターを見ろ! おまえに預けた事件はどうした? 一体、いつまでかかるんだ。検証期間はたった3か月だぞ」
「さ、3か月分を一人で見るには、2週間は掛かります」
「全部見ろって言ってないだろ。事件に関係するところだけ見ればいいんだ。いつも言ってるだろ、捜査資料を読んで当たりを付けろって」
「それがその、いくつか仮説は立てたんですが、どれも見当違いだったみたいで」
「どれ、見せてみろ」
 おずおずと小池が差し出した捜査メモに、薪はさっと目を走らせた。亜麻色の瞳が、限りない侮蔑の光を宿す。

「おまえの頭には何が入ってるんだ? 廃油か、ヘドロか。ゾウリムシが頭の中で繁殖してるのか? アメーバーだってもう少しマトモな説を立てるぞ、この原生動物が!!」
 小池が立てた仮説が書かれたメモを見て、薪は部下の説明も聞かず、一方的にがなり立てた。まったく、ひどい上司だ。
 言葉にするのも憚られるような罵詈雑言が聞こえてくる。薪のきれいな顔と声で、面と向かってあんなことを言われたら。
 普通の人間では、神経がもたない。可哀想に。小池は午後から仕事にならないだろう。
「わかったな。今日中に見つけろよ。できなかったら週末どころか、盆休みもないと思え」

 現在、地球上で一番気温が低いのはこの部屋ではないのか。
 薪が小池の前から離れて、もといた席に戻ると、ようやく溶け始めた氷の中で、職員たちはそうっと地表に顔を出した。
「だ、大丈夫か? 小池」
「平気……原虫には心なんかないから……」
 崩壊している。
 職員たちは同僚に哀れみの眼差しを向けたが、長くそちらを見ていると自分にもとばっちりが来ると考え、仕方なく自分の仕事に戻った。

 ぼうっとしている小池の前に、再び小さな、しかし凶悪な人影が差し、幾枚かの紙片を突きつけた。小池の目が、反射的にその紙に記された文字を追う。
「え? これって」
 小池はにわかに目を光らせると、MRIマウスを操作した。キーボードを素早く打ち込み、1時間ほどで目的の画を探し当てた。その間、薪はずっと小池のそばにいて、何も言わずに小池がサーチする画像を見ていた。

「これ、ここです!」
 興奮した声を嘲るでもなく、かと言って過剰に反応するでもなく、薪は静かに応えを返した。
「見つかったじゃないか」
「……室長のおかげです」
「ちがう。おまえはちゃんと気付いてたんだ。だからこれだけのヒントで、その画に辿りついた。あと一歩、いや、数ミリのところまで来てたんだ」
 先刻と同じ涼やかな、しかし限りない慈しみを感じさせる声。ふっと微笑みかけた笑顔の美しさに、小池の心臓がさっきとは別の意味で跳ねる。
「いいか、小池。おまえに足りないのはこの感覚だ。常識に捕らわれていては、異常な犯罪心理には近づけない。あり得ない、と思い込んで可能性を切り捨てるな。とはいえ、この反射鏡に気が付いたのはさすがだな」
 華奢な手を小池の肩に置いて、その顔を間近に覗き込み。にっこりと笑って、しかし言葉は辛辣に。
「よくやった。奴隷に格上げしてやる」
「はい! ありがとうございます!」
 喜ぶところか!?
 一度、強制的に自己崩壊させられた小池には、常識が解らなくなってしまったらしい。

 薪がその場を離れると、部下たちはわらわらと小池の側に寄ってきて、口々にその手腕を褒めた。事件の重要な手がかりを発見した同僚に温かい言葉をかけ、励まし、彼の努力を認めてねぎらう。
「すげえじゃん、小池。薪さんにあんなに褒められるなんて」
「滅多に出ないぞ、あの顔は」
「うひゃあ、これは難しいよ。ってか、普通は気付かないだろ、こんなの」
「これ見つけられたら、薪さんも褒めるしかないだろな」
 奴隷に格上げする、というのが褒め言葉かどうかはかなり疑問が残るところだが。とにもかくにも、小池のテンションは上がったようで、上機嫌でパソコンのキーボードを叩き始めた。

 それを確認して、薪は室長室へ入る。
 小池の事件は片がつきそうだ。あと懸念があるのは宇野の案件だ。自分のパソコンに、あの事件のデータは転送しておいた。宇野に気付かれないように、目を通しておこう。
 週末を安心して過ごせるように、なるべく今日明日で仕上げておきたい。青木とのデートの最中、部下から掛かってくる電話ほど薪の気を削ぐものはないからだ。

 室長室の寝椅子には、怠惰な脳科学者が長々と手足を伸ばしていた。
 二階堂は、薪に負けず劣らずよく昼寝をしている。薪とは理由が違うが、夜はろくに眠っていないのだろう。
 薪が席についてPCを立ち上げたとき、ゆらりと人の動く気配がして、二階堂が目を覚ました。
「どうせなら、仮眠室を使ったらいかがです?」
 寝ぼけ眼の脳科学者に皮肉をぶつけて、薪は自分の不満を解消する。
 薪だって、時間があれば眠りたい。ヤキモチ妬きの恋人のせいで、最近ずっと寝不足気味なのだ。いや、もともとの原因はこいつじゃないか。

「なるほど。みんなのノルアドレナリン濃度は、君が調整しているわけだ」
 眠っていたはずの脳科学者は、寝椅子に寝転がったまま、訳のわからないことを言い出した。
「相手の自尊心を傷つけないように、さりげなくヒントを出してあげてるの?」
「……何のことですか」
「昨日ツヨシの机にあったメモと、さっきモニタールームから聞こえてきた言葉が同じだったのは、偶然?」
 捜査には首を突っ込むな、とあれほど言ったのに。懲りない男だ。

「二階堂先生。勝手に資料を読まれては」
「そうやって、部下に気を使い上司に気を使い。君はいったい、いつ休むの?」
「僕はひとに気を使ったりしませんよ。そういうのは苦手なんです」
「苦手と言いながら、君は僕にも気を使ってる。僕が休めるように、わざとモニタールームで仕事をしてくれてるんだろう?」
「あなたと一緒にいたくないだけです」
 なにを自惚れてるんだ、こいつ。
「やれやれ。嫌われちゃった」
 ため息混じりに、二階堂は半身を起こした。困った顔で、薪の方を見る。

「あんなことをするからですよ」
「ただの挨拶だったのに。研究室では、あれが普通だよ」
 たしかに。
 薪もロスにいた頃は、男からも女からも、半強制的にキスをされてた。特に事件が解決したときには、みんなテンションが上がりまくってて大変だった。服を脱がされて、とんでもないところにキスを……これも青木に知られたら、地獄を見ることになりそうだ。
「ここは日本です」
「反省してるよ。もう、しない。ごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げた二階堂に、薪は思わず苦笑した。
 今まで青木の手前、随分がんばってきたが、そろそろ限界らしい。小野田の血縁だけあって、どうもこの男は憎めないのだ。
 二階堂の謝罪は、これまでにも何回も受けている。素直に謝ってくる相手をいつまでも無視し続けるというのも、存外難しいものだ。
 
「どうして最初の日、みんなにあんなことを言ったんです?」
「セイジが、いつもこういう冗談を言ってるって。みんなに早く馴染むには、この手に限るって」
 黒幕は小野田さんか。
 なるほど、それでセクハラジョークだったのか。まったく、自分が急がしくて嫌がらせにこれないからって、甥を使うなんて。
 二階堂から状況報告を受けて爆笑する小野田の顔が脳裏に浮かぶ。今度会ったら、つまづいた振りをして小股払いを掛けてやる。

「論文のほうは、順調ですか?」
「うん。おかげさまで。君の協力のおかげだよ。ありがとう、ツヨシ」
 率直な感謝の言葉に、屈託のない笑顔。
 昔、薪の傍にはいつも。
 こんな風に自分に微笑みかける、大切な人がいた……。

「あなたのように笑う男を知ってます」
 意識せず、そんな言葉が口をついて出た。薪は自分でも驚き、次いで何故この男にそんなことを言ってしまったのだろう、と考えた。
「僕に似ているの? 会ってみたいな」
「いえその……彼はもう、この世にはいません」
 薪がその事実を告げると、二階堂は少し戸惑った表情になった。
「すみません、不愉快なことを。死んだ人間を引き合いに出したりして」
「いや。大事なひとだったの?」
「ええ。とても」
「そうか。それで君の扁桃体は人の死に対して過剰な反応をするのか。ますます持って、君はこの仕事に向かないな」

 畑違いの科学者から適性不合を指摘されて、薪はむっと眉を顰めた。上司に諭されるならともかく、警察の仕事を知りもしない学者に言われる筋合いはない。
「強い喪失体験を経験すると、人はその事象に対して過敏になる。つまり、君は普通の人間より人の死に対するストレスに弱い、ということだよ」
 室長の資質に欠ける、と言いたいのか。失礼な。
「たしかに、僕はそんなに強い人間じゃありませんけど。でも、室長の椅子に座って10年になります。それなりの実績は上げてきましたし、それほど不向きだとも思いませんが」
「うん。君はこの仕事に誇りを持ってる。それはよくわかるよ。けど、君が受けるストレスは深刻なものだ。プライベートで君のストレスを上手く解消してくれるものはある?」
「今のところ、風呂と日本酒ですね」
 実は恋人がいるが、それは秘密中の秘密だ。話すわけにはいかない。
「友だちとか、いないの?」
「この仕事についてから、疎遠になりまして」
「じゃあ、恋人の青木くんだけが君の安らぎってわけか」
「いや、あいつは安らぐって言うよりは振り回されてるっていうか、頭痛の種っていうか、えっ!?」
 薪の手から数枚の書類が落ちて、彼の周りに散らばった。振り返りざまに落としたものだから、そのうちの何枚かは二階堂の足元に落ち、骨ばった手がそれを拾い上げた。

「何をバカなことを」
「あれ? 青木くんが言ったんだよ。オレの薪さんに手を出さないでください、って」
 あ、あ、あ、あの、バカ!!!
「なんだ。青木くんの片思いってことか」
「違います。それは青木の冗談です。こういうジョークが流行ってるんですよ」
 何気なさを装って、薪は床に落ちた書類を集めた。ここで狼狽したら、それを肯定することになってしまう。
 ポーカーフェイスの影では、浅はかな恋人に対するこの世のものとも思えぬ罵りの言葉が次々と湧いてくる。沸点に達する怒りに、からだが熱くなってきた。頬が赤くなってしまっているかもしれない。
 薪は書類で顔を隠すようにして、室長室を出ようとした。

「ツヨシ。書類」
 二階堂の手に残った3枚の書類。宇野の事件の捜査資料の一部だ。
 薪は大股に彼に近付き、白衣から突き出た枯れ木のような手から書類をひったくった。
「ツヨシ。明日の夜、デートしようよ」
 二階堂のデートしようよ、は挨拶の代わりと言ってもいいくらい、頻繁に聞いている。まったく、懲りない男だ。
「脳波検査の後にさ。食事して、映画見て、軽くお酒飲んで。扁桃体とモノアミン神経伝達物資の関係について話してあげるから」
 だれが食事中にそんなこと聞きたがるんだ。てか、そんな誘いに僕が乗るとでも思っているのか。

「お断りします」
「あ、そう。じゃ、青木君が言ったこと、みんなに喋っちゃおうかな」
「あれは冗談だと」
「冗談なら構わないだろ? 青木君がこんな面白いこと言ってたよって」
 まずい。
 いや、本気にするバカはいないと思うが、万が一ということもあるし。
「……食事だけなら」
「ダメ。映画とお酒も」
「映画までです。お酒は、緊急の事件があったときに困るので」
 というのはタテマエで。
 青木は、自分の目が届かないところで薪が酒を飲むのをひどく嫌がる。薪は全然記憶にないのだが、昔、薪が酔って前後不覚になったおかげで、青木はとても不愉快な思いをしたのだという。詳細については話してくれないが、あの単純な男が根に持っているくらいだから、さぞかし酷いことをしたのだろう。そうなると、薪も知りたくない。

「わかった。ああ、明日が楽しみだな」
 誰が二人きりでデートなんかするか。青木と打ち合わせて、適当なところで電話で呼び出してもらおう。二階堂の言うことを聞かなければならなくなったのは青木のせいなのだから、少しは役に立ってもらわないと。
 ニコニコと嬉しそうに笑っている二階堂を見ていると、僅かに心が痛んだ。
 本来なら正直に恋人がいることを話して、自分のことは諦めてくれと頼むのが筋なのだが。男の恋人ってのは、こんなことでも苦労する……。

 重苦しい気持ちで室長室を出た薪だが、結局、二階堂とのデートはキャンセルされた。
 それは、翌日薪の身に訪れた思いもかけない出来事の余波と、二階堂自身の都合によるものだったのだが。
 後に、薪はその夜の自分の行動をとても後悔することになる。しかし、それは致し方のないことだった。

 人間には。
 未来に何が待っているか、知ることはできない。他人の心の奥底に眠る秘密を、透かして見ることもできない。
 二階堂が何を考え、何を思って薪にあんなことをしたのか。
 その真実を薪が知ったのは、すべてが終わった後だった。




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運命のひと(10)

運命のひと(10)







 金曜日の午後。
 大きな身体を二つに折って、青木は自分のデスクの脇にかがみこんでいた。
 携帯電話に向かって、何事か喋っている。声は低いが、明らかに憤った声だ。第九の職員たちはまだ、彼のこんな声を聞いたことがない。
「どうしてあんなものを送って来るんだよ。しかも職場に!」
『受取拒否で送り返されてきたからよ。中身も見ないなんて、あんまりじゃない』
 1ヶ月ほど前、実家から自宅に送られてきたのは、和服姿の若い女性の写真だった。要するに、見合い写真だ。それから何度か送られてきたのだが、2度目からは封筒の上からでもそれと解ると、封を切らずに運送会社に返却していた。

「要らないって言ってんだろ! オレにだって」
 恋人はいる。とことん惚れ抜いている相手がいるのだ。
 だけどそれは秘密の恋人で、口にしてはいけない。

「結婚相手くらい、自分で探すから。見合い写真はもう送ってこないでくれ」
『母さんはいいけど、俊幸さんがね。あなたは長男なんだから、結婚して家を継がないとってうるさいのよ』
 俊幸というのは父の弟で、ひとの家のことに何かを首を突っ込んでくるお節介なひとだ。見合いを強制するなんて母にしてはおかしいと思っていたが、あの叔父が絡んでいたのか。
『それでね、週末に写真のお嬢さんとの会食を取り付けちゃったのよ。会うだけでも会ってくれないと、俊幸さんの面目が立たないって』
「なに勝手なこと言ってんだよ! そっちが勝手にやったことだろ!? なんでオレが見ず知らずのひとと食事しなきゃいけないんだよ!」
 冗談じゃない。
 週末は、薪とふたりで過ごせるチャンスだ。そのために生きていると言っても過言ではないくらい、大切な大切な時間なのだ。邪魔されてたまるか。

「オレは行かないから、母さんのほうで」
 するっと携帯を手から抜かれて、青木は自分の声が高くなっていたことに気付いた。しゃがんだまま振り向くと、薪が青木の携帯を持って立っている。冷たい目で青木を見下ろしている。仕事中の私用電話を咎めているのだ。
「すみません、室長。すぐに切りますから」
「もしもし。室長の薪です」
 何を思ったか、薪は青木の携帯に向かって話しかけた。
「ええ。息子さんはとてもよく頑張ってますよ」
 青木の母親と、喋り始めてしまった。どういう気だろう。
「分かりました。必ず、そちらに向かわせます。僕がお約束します」
 何を約束するって?
「相手の方と、うまく行くといいですね。それでは」
 ぱたりと携帯を閉じて、青木の方へ返して寄越す。小さな手から受け取った薄い通信機器が、何故かとても重く感じる。

 薪の視線は下方をさまよっている。青木の顔を見ようともせず、黙って室長室へ入っていく。当たり前のように後を追いかけて、青木は薪の部屋へ入った。今の寸劇の説明を請わなければ。
「室長。母と何を」
「土曜日の11時。博多駅近くのKホテルだ。遅刻するなよ」
「なんですか、それ」
「封筒の中に相手の写真と、ホテルの地図も入ってるって言ってたぞ。ちゃんと確認しとけよ」
 椅子に腰掛けて、いつものように書類を手に取る。左手でPCを操りながら、報告書の内容と画面を見比べて、不明瞭な個所に付箋を付けていく。
「女性が喜びそうな褒め言葉のひとつやふたつ、あらかじめ考えていけよ。こういうことは、下準備が大切」
 ばん! と青木が机を叩くと、薪は口を閉ざした。
 不愉快なお喋りは止まっても、こちらを見ようとはしない。この件はすでに薪の中では決定事項で、話し合う気はないらしい。
 恋人に見合いを勧めるなんて。これでは相手の愛情を疑うな、と言うほうが無理だ。

「見合いしたからって、その相手と結婚しなきゃならないわけじゃないだろ。いい機会だから、今度の週末は親孝行してこい。おまえ、今年になって一回も実家へ帰ってないだろう」
 実家へ帰ったのは、父親の1周忌が最後だ。薪と一緒に新年を迎えたくて、法事が終わったその日のうちに帰ってきてしまった。
「実家へ顔を出すのはいいですけど、見合いはしません。相手のひとにだって失礼でしょう。オレが愛してるのは」
 亜麻色のキツイ眼に、ぎろっと睨まれた。それ以上喋るな、と薪の瞳が言っている。

「最初に言っただろ? 僕がおまえにやれるのは、身体だけだって」
 たしかにそう言われた。だけど、あれは。
「わかってるだろ。僕たちは、ずっと一緒にはいられない。おまえだっていつかは結婚して、家庭を持つんだ。準備はしておいても無駄にはならない」
「本気で言ってるんですか」
「僕はいつだって本気だ」
 薪は冷静だった。冷静に、自分との未来を切り捨てようとしていた。

 青木は、自分が立っている地面が揺れるような錯覚を覚える。
 結局は、自分の片思いなのだ。
 週末を一緒に過ごすようになっても、薪の部屋に泊るようになっても、同じベッドで朝を迎えるようになってさえ。
 青木の胸を締め付ける想いは、3年前から変わっていない。それと同じように、薪の心も変わらないのか。

「今日は半休扱いにしてやる。さっさと飛行機の手配をしろ」
 そのとき青木を包み込んだのは、絶望か怒りか。
 名称の付け難い感情に支配されて、青木は叫んだ。
「わかりましたよ。行きますよ、行けばいいんでしょう!」




*****

 この二人、この調子でいつもケンカばっかりしてる~。
 ちょっとはよそ様のあおまきさんを見習えよ、おまえら。(--;



追記 訂正しました。
 作中の駅名を訂正いたしました。
『福岡駅』→『博多駅』に直しました。
『福岡駅』って、福岡県にはないんですって。(教えていただいて、ありがとうございました)
 福岡県の駅は福岡駅だと思ってました。(←バカ)
 九州なんて20年くらい前に1回行ったきりだからなあ。(じゃあ路線図を調べろって、反省します、はい)
 わたしは色んな知識や常識が欠落しているので、こんなふうに教えていただけると、とてもありがたいです。これからも何か気付いた点がありましたら、教えていただけると嬉しいです。よろしくお願いします。
 

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ジャンル : 小説・文学

運命のひと(11)

 拍手のお礼なのにすみませんー。
 絶賛ケンカ中です☆



運命のひと(11)







 室長室から聞こえてきた怒鳴り声に、第九の職員たちは度肝を抜かれた。
 青木がここへ来て3年になるが、彼のこんな声を聞いたのは初めてだった。しかもその怒号が、彼の敬愛する室長に向けられるとは。去年の夏に薪と衝突して、青木が第九を辞めると言い出したときでさえ、こんな大声は出さなかった。
 
 部屋から出てきた青木は、力任せにドアを閉めた。ドアが叩き割れるような音がして、モニタールームが振動したような錯覚すら覚えた。
「あ、青木。どこ行くんだ?」
「コーヒー豆、買ってきます」
 コーヒー豆の在庫は週始めに補充したばかりだ、と誰も声にする者はいなかった。モニタールームを出て行く広い背中は、一切のものを拒絶していた。
 自動ドアの向こうに青木の姿が消えると、職員たちは何となく、青木が怒りに任せて閉めたドアを見つめた。昨日、直したばかりのドアは、大男のバカ力によって早くも歪んでしまったようだ。

 そのドアの向こうでは、薪が頬杖をついて、憂鬱な顔をしていた。
 まったく、あいつときたら。聞き分けのない子供のように癇癪を起こして職場を抜けるなんて、社会人にあるまじき行為だ。戻ってきたら説教だ。
 部下の行動に対して怒りを感じているはずの室長の表情は、なぜかとても哀しげで。苦しそうに歪められた瞳から透明な液体が湧き上がるのを、必死で抑えているようにも見えた。

 だって、仕方ないじゃないか。
 僕があいつの子供を産んでやれるわけじゃなし。結婚どころか、付き合ってることだって誰にも知られちゃいけない。そんな間柄なのに。青木の縁談話に口を出すことなんか、できるわけがない。
 青木の親が僕との関係を知ったら、どんなに悲しむだろう。何食わぬ顔で話をしたけれど、本当は怖くて膝が震えてた。
『いつも一行がお世話になっています』と彼女は礼を言った。彼女にとって僕は、息子を誘惑して人の道から外れさせた悪魔にも等しいのに。謝らなくちゃいけないことをしているのに、それを告白する勇気は無くて……せめて、息子の顔を見せてやりたいと思った。
 こんな、世間から非難されるだけの関係なんて、青木にとっても僕にとってもマイナスになるばかりだ。早く清算したほうがいいに決まってる。
 でも。
 僕からは、とてもできない。あの手を放すことはできない。
 だってこんなに……。
 青木の方から、言い出してくれるのを待つしかない。覚悟はできている。みっともなく追い縋ることだけは、すまい。

 ぽたりと報告書の上に水粒が滴り落ちて、薪は慌てて目の縁を拭う。
 しっかりしなければ。今は仕事中だ。泣くのは後だ。
 ていうか、この泣き虫のクセもどうにかしないと。

「泣きたいときは泣いた方がいいんだよ、ツヨシ」
 後ろから声をかけられて、薪は文字通り椅子の上で飛び上がった。
 なんでこいつがここにいるんだ!?
「知ってるだろ? 涙を流すと、GABA神経系からエンドルフィンが分泌される。鎮静効果も高いし、免疫力の向上にも貢献する」
 二階堂は、寝椅子の背もたれに腕を掛け、こちらを見ていた。どうやら今まで横になっていたらしく、髪がいつも以上にくしゃくしゃになっている。
 
「いつからそこに居たんですか!?」
「モニタールームにいると邪魔だから室長室に篭ってろって言ったの、ツヨシじゃなかった?」
 相手に言われて思い出した。
 昨日、第九に回ってきた事件の被害者は現職の都議会議員で、通常以上に個人情報の流出には気を付けるよう念を押された。二階堂には室長室を提供するから、被験者のモニタリングはドアから覗くだけにして、モニタールームには絶対入ってくるな、と命令したのだった。

「今の話を」
「聞くつもりはなかったけど。聞こえちゃった」
 寝椅子はドアに背を向ける形で置かれているから、背もたれに隠れて彼の姿は見えなかった。平常なら人の気配に気がついたと思うが、さっきはふたりとも動転していて・・・・これは非常にまずい。
 今度は冗談では通じない。誰がどう聞いても、恋人同士の痴話ゲンカだ。
「ひとに喋ったら殺しますからね」
「ツヨシ。それは脅しじゃないの? 警察官がそんなことしていいの?」
「警官ですから。隠蔽工作はお手の物ですよ」
「あはは。完全犯罪成立だね」
 軽い調子で流されて、薪は心の中で舌打ちする。
 二階堂には、薪の眼力が効かない。暴力団対策課の捜査官たちにさえ、薪のブリザード攻撃は有効なのに。小野田家の血のなせる業か。

「ツヨシ。今日の帰り、忘れないでね。僕は先に病院に行ってるから」
 なんだっけ、と思いかけて、昨日の会話を思い出す。
 脳波の検査を受けてくれと頼まれたのだった。気乗りしないが仕方ない。約束は約束だ。
 わかりました、と頷いて、薪は席を立った。



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運命のひと(12)

運命のひと(12)









 思い出したように痛み始めた足腰を引き摺るようにして、薪が病院に着いたのは夜の8時ごろだった。
 今日の定例会は、脳波検査を理由に断った。本当はあの電話の一件で、酒を飲む気分ではなくなってしまったからなのだが、岡部に余計な心配を掛けたくない。

 二階堂から預かった名刺を夜間の受付に出すと、検査室へ案内された。つん、と鼻をつく消毒薬の匂い。その香りを纏った黒髪の女性のことを思い出して、薪は自分の失敗に気づく。
 そうだ、あいつには雪子さんがいたんだ。見合いなんか勧めて、失敗した。
 ヤケクソになって見合いしたからって、相手の女性の気持ちも考えずに行動するような男じゃないけど。このことを雪子が知ったら、やはり不愉快だろう。
 青木は無神経なところがあるから、悪気はなくても喋ってしまうかもしれない。雪子に見合いの話は黙っているように、注意しておかないと。

 暗い気分に拍車をかけるように憂鬱なことを思い出して、薪の足取りがさらに重くなる。先に立って案内をしてくれていた受付の女性が薪の方を振り返り、「おかげんが悪いのですか?」と声をかけてきた。初対面の相手にそんな心配をさせたことを知って初めて、薪は自分がひどく落ち込んでいることに気付いた。
「大丈夫です。ちょっと寝不足で」
 せめて、にっこりと笑ってみせる。どんな心境でも笑顔を作れる訓練をしておいてよかった、と薪は思う。

「よく来てくれたね、ツヨシ。そこに座って」
 広い検査室の中、見たことの無い機械に囲まれて、二階堂は薪を待っていた。
 どこかで聞いた曲が流れている。題名は知らないが、二階堂が初日に第九で流していたあの曲だ。
 脳波検査をするのに音楽を流すなんて、おかしなことをする。平常の状態で測定しなければ意味がないと思うが、何を考えているのだろう。
「カバンはそこの籠に入れて。上着脱いで。ネクタイも取った方がいいな。ワイシャツのボタンも外したら」
 ネクタイは取れるけれど、シャツのボタンは外せない。首の付け根に残った痣が見えてしまう。
 
 電極がたくさんついた機械の隣に、歯医者で使うようなリクライニングチェアが置いてある。その上に横たわって、薪は薄いベージュ色の天井を見た。
 額から後頭部まで、6つの電極が取り付けられる。
「えらく簡易的じゃないですか? 標準は21個じゃありませんでしたっけ」
「よく知ってるね。脳全体を多角的に見るときには60個くらい付けるんだけど、これはただのモニタリングだから。見るところも決まってるし」
 電極の具合を確かめるために、二階堂は薪の頭を抱えるようにして後ろ首から後頭部を触っている。白衣の下で、二階堂の貧弱な胸が動いているのが見える。骨ばった男の手が自分の首に触れるのを、不快に思う。青木に触られると気持ちいいのに、これはどういった現象なんだろう。

「じゃあ、始めるよ。リラックスしてね」
 二階堂はいくつかのスイッチを解除し、レバーを下げた。ヴォン、とハードディスクがうなる音がして、チカチカとモニターの画面が点滅する。モニターに映っているのは、脳の略画だ。全体的には緑色だが、ところどころに赤や黄色が分布している。
「ふうん。とても落ち着いてて理想的な脳だね。あの濃度でこの状態は意外だな」
 どういう意味だ。脳全体が迷彩色にでもなってるとでも思ってたのか。
「ツヨシ。ちょっとこの問題、考えみて」
 簡単な積数の計算問題。これを解けということだろうか。
「√2/3。52。3.8562」
「ちょっと待って。暗算でいけちゃうの? それ」
 答えを言わなくても良かったのか。それならそうと言ってくれればいいのに。
「しかも、殆ど稼動してない……いや、早すぎて視認できないのか。数字にはちゃんと表れてる」
 プリンターから打ち出される数字と記号の羅列は、薪にも理解不能だ。ここまでくると、さすがについていけない。
 
「すごいよ、ツヨシ。きみの脳は人類の宝だ。学問の道に進むべきだよ。どうして警察官なんて職業を選んだんだい?」
「小さい頃からの夢だったんです。ずっと警官に憧れてました」
「親が警官だったとか?」
「僕の両親は、小学校に上がる前に交通事故で亡くなったんですけど。そのときに僕の面倒を見てくれた巡査が、とても親身になってくれて。子供心に感激して、将来は絶対に警察官になろうと」
「そうなんだ」
 何故、こんなことを喋っているのだろう。
 こんな話、誰にも―――いや。鈴木には話したっけ。なぜ警察官になりたかったのか、どうして官僚を目指すようになったのか。何を目的として警察機構に身を投じたのか。
 
 鈴木とは、すべてを語り合った。お互いの夢の話を、一晩中でも喋り続けた。
 そのうち、鈴木は弁護士希望だった自分の夢を薪の夢に揃えてきて。一緒の部署に配属されたら最高のコンビになるな、と頷きあって。
 その夢は叶ったけれど。
 鈴木はもう、いない。

「ご両親のこと、思い出しちゃった? 前頭前野が動いてる」
「いえ。亡くなった親友のことを」
 二階堂は、はっと息を呑んだ。小野田から事件の顛末を聞いているのだろう。
「君の親友か。さぞ、いい男だったんだろうね」
 自分を実験体にしている男が、彼特有の暢気な口調を崩さずにいてくれたことに感謝して、薪は口を開いた。
「鈴木は……僕の親友はすごくやさしい男で。僕が何をしても怒ったことなんかなくて、全部許してくれて」
 そう。
 僕に命を奪われてさえ、鈴木は僕を愛してくれた。僕に生きることを望んでくれた。
 昔はとてもそんな風には考えられなかったけど、今はそう思える。あいつのおかげだ。あいつが、鈴木の真実を僕に見せてくれたから。

「彼のことが、とても好きだったんだね」
「ええ。大好きでした。だからとても辛くて。この世界と引き換えにしてもいいと思うくらい、彼に帰ってきて欲しかった」
 薪の脳の片隅で、微かな光が点滅した。
 おかしい。
 どうして自分は、こんなことを二階堂に喋っているのだろう。
 こんなプライベートのことを、両親や鈴木のことを。青木にだって喋ったことがないのに、どうして?

「ああ。彼を愛してた?」
「ええ。ずっと長いこと彼に恋をしていて」
 ちょっと待て。
 どうしてこんなことまで喋ってるんだ、僕は?
 喋ってるというか、喋らされてる。操られてる。

 薪は、官房室で二階堂とした会話を思い出す。
『ひとのこころの動きを作るのは、脳ですよ。脳内の電気信号が人間の行動のすべてです』
『その電気信号を操ることができれば、好意も悪意も思いのまま』
 ……まさか、こいつ!

 頭についた電極をむしりとろうとした。右手でコードを掴んで、自分を操る電波の糸をなぎ払ったつもりだった。
「その信号はブロックしてある。動かせないよ」
 突拍子もない仮説が的を得ていたことを知って、薪は驚愕する。
 外部的な刺激を脳に送り込んで、その人間の感情すらも支配する――こんなことが可能なのか。
「僕をどうするつもりですか」
 身体が動かせないのだから、何をされても抵抗できない。
 例えばこの場でレイプされても、悲鳴を上げることすらできない。それどころか、悦びの声を上げてヨガらされる可能性も……。

「君をどうこうしようなんて思ってないよ。たしかに、電気刺激でβエンドルフィンを分泌させて君をインフォマニアに仕立て上げることはできるけど。そんな下らないことには興味がない」
 こんなことをされているのに、怒りは湧いてこない。怒りを抑えるホルモンを分泌させる電気信号が送り込まれているのだろう。
「こうやって脳の状態を見れば、君が考えることは何でも分かる。好きなものもキライなものも、欲しいものもそうでないものも」
 分かるだけでなく、操ることもできる。
 マイナスの考えはプラスに。暗い思考は明るく前向きに。
 それは精神科医のセラピーを機械化したような技術で、非道と言われれば否定はできないけれど、現実に効果が上がればこれから普及するかもしれない。
「僕なら、君の望むままの快楽を与えてやれる。もちろん性的な快楽だって。快楽中枢に直接刺激を与えてやれば、肉体的な負担もないし。昨日みたいに、足を引き摺って歩かなくてもよくなるよ」
 マッサージで身体の疲れを取るのも、脳に電気刺激を与えてストレスを解消するのも、大きな差はない、と言いたいのか。学者らしい極端な考え方だ。
 
 頭の中で皮肉を言いながらも、薪の心は凪いでいく。
 こんな穏やかな気持ちを味わうのは、何年ぶりだろう。

「でも、君が本当に欲しいのは、こういう時間だ。安らぎが欲しい、と願っているはずだよ」
 その通りだ。
 穏やかで満ち足りた時間。
 第九の仕事でささくれ立った心を癒してくれる、至福のとき。充実した人生を送るために必要なのは、激しい恋愛感情ではない。そんなものは疲れるだけだ。
「君に必要なのは、そういう相手だよ。彼では、無理だ。彼を選んだのは、君の間違いだ。彼との関係は、君を追い詰めるだけだ」
 二階堂の指す人物が脳裏に浮かんで、薪は苦笑した。顔の筋肉は動かなかったが。

 間違い。
 そうかもしれない。あいつとは、趣味も性格も合わなくて。

 出会ってからずっと、すれ違いや誤解ばかり重ね合ってきた。
 傷ついたり傷つけられたりして、心から血を流し続けてきた青木との関係。
 僕を完璧に理解してくれる相手となら、そんなことはないのだろう。言葉も要らないし、その不足を身体で補うなんて下らない真似もしなくていい。
 何も言わなくても、思いが通じる。
 欲しいと口に出さなくても、それが目の前に差し出される。本当はこうして欲しいのに、と苛立つこともなく、恥ずかしさに身を捩ることもなく、この男は僕に望むままの快楽をくれるのだろう。
 脳が震えるほどの楽しさや、指先までしびれるような快感や、薪が求めてやまない永遠すらも。
 快適で、満ち足りて、欲しいものは何でも手に入るこの世の天国。

 それはひどく魅力的で。
 そして。
 なんてつまらない世界だろう。

「つまんないです、そんなの」
 時計の短針が9の文字に近付く頃、頭に取り付けられた電極を外してくれた二階堂に、薪は笑いながら言った。

 

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(13)

運命のひと(13)






「つまらない?」
 電極に塗ったワックスの汚れを、薪の額から拭き取っていた手が止まる。怪訝な表情で、二階堂は薪の顔を覗き込んだ。
「自分の思い通りにならない連中を、何とかしてねじ伏せるところが楽しいんです。何もかも叶ってしまったら、きっと退屈ですよ」
「残念ながら、きみの望みをすべて叶えてあげられるのは、プライベートのときだけだ。仕事を続ける限りは退屈になんかならないよ」
 手慣れた動作で機械を片付けながら、二階堂はのんびりと喋る。この話し方に知らず知らず癒されている自分を感じて、薪は電気療法の効果を改めて認識する。

「きみが不愉快な思いをするのは仕事だけで充分だ、と言ってるんだよ。あれだけのストレスだ。プライベートがよほど快適でないと釣り合わないだろ? きみの脳を今の状態まで癒してくれる相手を選ぶべきだ」
 それが自分だと言いたいのか。脳から攻めてくるなんて、脳科学者ならではのアプローチだ。
 しかし、二階堂の真意は違った。
「僕は別に、自分を君の恋人として売り込むつもりはないよ。君には彼より、相応しい人がいると言いたいだけだ。第一、君の脳には同性愛者の特徴が見られない。君は女性と恋をしたほうが、安らぎを感じられるはずだよ」
「そうかもしれませんね」
 素直に頷いて、にこりと笑う。
 ひねくれ者の仮面を外せば、そこにあるのは愛され上手の天使のような笑顔。

「こんなに落ち着いた気持ちは久しぶりです。鈴木が死んでからは、一度もこんな気持ちになったことがなかった」
 いつもいつも、誰かに責められているような気がして。毎晩のように悪夢を見て。
 青木と付き合いだしてから、いくらかはマシになったけど。ここまで癒されたことは一度もない。あいつに抱かれて、その腕の中で眠りにつくときでさえ。罪を重ねているという事実から逃れることはできない。
 僕たちの関係は、紛れもない罪だから。
 きっと今も、誰かを悲しませている。
 大切なひとの泣き顔を思い浮かべながらも、相手を求めずにはいられない現実。罪に罪を重ねるように、僕たちは秘密を重ね続ける。
 深まっていく業に、堕ちていく身体。
 すべてを理解した上で、なお。

「でも、ダメです。相手が彼じゃないと、ワクワクしない」
「わくわく?」
「ええ。ワクワクもドキドキも、何もない。胸がぎゅうっと押しつぶされるほど辛いこともない代わりに、背筋がゾクゾクするほど嬉しいこともない」
「そういうのが疲れるって、思ってなかったかい?」
「疲れます。あいつには振り回されてばかりで、正直身が持ちません」
 メンタルな面だけでなく、肉体的にも青木とは釣り合わない。年が違いすぎるし、身体の相性も悪い。
 それでも。
 あいつの手は拒めない。

「だからって、僕がそれを望んでいないと、どうして言い切れるんです? すれ違いばかりの滑稽な喜悲劇を、僕が楽しんでいないとでも?」
「だってきみは、泣いてただろ」
「誰かのために泣けるって、幸せなことでしょう?」
「それは自己陶酔だ」
 たしかに。二階堂の言うことは正しい。
「そうですね。とても愚かな感情です」
「感情だけの問題じゃないだろう? 彼との関係は不毛で無意味で、互いの人生にトラブルばかりを持ち込む。無駄なことばかりだ」
「人生に無駄がいけないなんて、誰が決めたんです? 仕事じゃあるまいし、無駄なことは多ければ多いほど人生は楽しいですよ」

 時刻は9時を回った。
 気分もいいし、今夜は久しぶりに鈴木と飲もうかな、と薪は思う。
「わからないな。どうしてきみほどの優秀な脳が、あの男にそこまで肩入れするのかな」
「わかりませんか?」
 椅子から降りて上着を手に取り、ネクタイをポケットにしまう。
 ふと思いついてシャツのボタンを外し、青木に愛された証を二階堂に見せ付ける。
 鎖骨の下部にうっすらと残った赤い刻印。完全に消えないうちに重ねられることが多いから、そのうち本物の痣になってしまいそうだ。
 愛おしそうにその徴を指でなぞり、薪は夢見るように微笑んだ。

「僕は、恋をしてるんです」
「恋? きみは彼に恋をしている、と?」
「ええ。僕はいま、青木に夢中なんです」
「ツヨシ。それは一時の感情で」
「はい、わかってます。一時的なものです。そう長く続くものじゃない。だからここは、一生を安穏に添い遂げられる誰かを選ぶのが正しい選択なんでしょう」
 電極と枕で乱れた髪を、さっと右手で整えて、薪はゆっくり立ち上がった。

「だけど、先生。
 正しいことと、ひとの幸福とは一致しないんですよ。
 正しいことをしてさえいれば、幸せになれるとは限らない。それはあなたが一番良く知ってるんじゃないですか?」
 メインスイッチを落とそうとした手を止めて、二階堂は薪をじっと見た。
 薪の真っ直ぐな視線に出会って、彼は苦笑した。肩を竦めて機械に目線を戻すと、パチリと電源を落とした。
「口惜しいよ。青木くんが羨ましい」
 薪の本音を知って、脳科学者はとうとう敗北を宣言した。
「僕だって。時間さえあれば」

 薪は上着に袖を通して、シャツのボタンを閉め直した。カバンを脇に抱え、脳科学者に背を向ける。
「来週、お帰りになるんでしたね。先生のご活躍を祈ってますよ」
「ツヨシ!」
 薪の背中に、男の声がかかった。
 それは初めて耳にする、二階堂の強い口調だった。
「僕だってね、時間さえあればこんなことはしなかったよ。強制的に感情を操るなんて。人の道に外れることだって、ちゃんとわかってるよ」
 二階堂は、薪が初めて見る表情をしていた。
 細い眉が苦しげに寄せられていた。黒い瞳が苦悩の色を宿していた。薄い唇がぎゅっと結ばれ、骨ばった拳が握り締められていた。

「別に怒ってないです。あなたが僕に何をくれようとしたのか、理解したつもりです」
 二階堂は、自分を元気付けてくれようとしただけだ。
 薪の身体の自由を奪っておきながら、指一本触れなかった。彼に邪心はなかった。
 その方法は、明らかに間違っていたけれど。彼には時間がなかった。もうすぐ、二階堂は自分の研究室へ帰るのだ。
 検査室のドア口で、薪は二階堂に向き直った。お礼までは言えませんけど、と付け足して、にこりと笑う。

「……許してくれてありがとう。ついでに、もうひとつ懺悔しとこうかな」
「はい?」
「青木くんが、君に手を出さないでって僕に言ったって話。あれ、嘘だったんだ」
「嘘?」
 やっぱり、嘘だったのか。いくら青木がバカでも、ありえないだろうと思っていた。青木ならやりかねない、と思ったのも事実だが。
 しかし、これでデートの約束をなかったことにできる。
「卑劣ですね。そんな嘘でひとを騙して」
「ごめん。謝るよ」
「ごめんで済めば警察は要らないんですよ」
 実はそれほど頭にきているわけではなかったのだが、怒ったフリをして薪は二階堂に背を向けた。

「当然食事はキャンセルですからね。失礼します」
「ああ、待って。彼も連れて帰ってくれないか」
「は?」
 検査室の奥の扉を開けると、そこは仮眠室になっていて、薪の部下が寝息を立てていた。
 どうしてこいつがこんなところに。
 てか、実家に帰ったんじゃなかったのか。あれから姿を見なかったから、てっきり薪の勧めに従ったのだと思っていた。

「二階堂先生。青木になにを」
「だいぶ煮詰まってたみたいだったから。電気刺激でセロトニンを分泌させてあげたんだよ。青木くん、起きて」
 二階堂が広い肩に手を掛けてゆさゆさと揺すると、億劫そうに青木の目蓋が開かれた。
 目をこすりながら身を起こし、背伸びをしながら大きな欠伸をひとつ。
「気分はどう? 青木くん」
「とてもすっきりしました。落ち着いた気分です」
 驚いた。
 青木は二階堂に反発心を抱いていたはずなのに、いつの間に懐柔したのだろう。

「あれ? 薪さん」
 最悪の展開になった。
 二階堂と二人きりでいたことが、こいつにバレてしまった。
 昨日、脳波検査に同意したときは、青木に付いてきてもらおうと思っていたのだ。そうすればおかしな誤解を受けずに済むし、二階堂も下手なことはできまい。だけど、あの電話のおかげで、そんなことは言い出せなくなった。仕方なくひとりで来たのだが。
 
「薪さんも二階堂先生の脳マッサージを?」
「脳マッサージ?」
 なるほど、そういう言い方をしたのか。微妙だが、的外れでもない。
「ええ。すっごく快適ですよ。頭の中ぐちゃぐちゃだったのが、きれいに整理された感じです」
 脳幹の縫線核だの網様体だのセロトニンだのと、青木に専門用語を使っても、意味が通じないだろう。ちゃっかりとデータは収集したに違いないが、青木の機嫌を直してくれたことには感謝しよう。

「これ、商売にしたら当たりますよ」
「これだけの機械を自費で揃えようと思ったら、1回当たりの料金を100万円くらいに設定しないと」
「それは高いです。って、これ、お金取るんですか!?」
「特別割引で、80万にしてあげるよ」
「えええ~~!」
「月賦でもいいよ」
 すっかり打ち解けている。
 二階堂に対する好意を増量する電気信号でも送り込んだのだろうか。もともと騙されやすい青木のことだ。電極なんかなくたって、5円玉ひとつで言いなりになりそうだ。今度、青木がヤキモチを妬いたときに試してみよう。催眠術でヤキモチが静まるかどうか。

 病院側との約束は9時までだから、と二階堂は二人を追い出し、自分は病院の中に戻っていった。論文作成のため、今日は泊り込むと言う。ご苦労なことだ。
 救急の出入り口から中庭に出て、駅の方向へふたりで歩く。今夜は曇っていて、月も出ていない。
 所々に立てられた水銀灯の明かりで、駐車場から歩いてくる人影が見える。急に熱を出した子供や、思いがけぬ怪我をしたひとたち。夜の病院は、けっこう人が多いものだ。

「おまえ、今夜中に帰らなくていいのか? 明日、間に合うのか?」
「会食は断りました」
「断った? お母さんに叱られなかったか?」
「落ち着いて話したら、納得してくれました。こっちが苛立ってたら相手も苛立っちゃう、って二階堂先生に言われました。先生に脳マッサージをしてもらってから話をしたら、母もすんなりオレの言い分を聞いてくれて」
 青木の話に、薪は驚いて立ち止まった。
 二階堂が、青木にそんなアドバイスを?

「なんて言ったんだ? お母さんに」
「死ぬほど好きな人がいるからって」
 なんてバカなことを。
 薪はジャケットのポケットから携帯電話を取り出し、10桁の数字を押した。部下の実家の電話番号くらい、上司なら暗記していて当たり前だ。
「夜分にすみません。室長の薪です。あの、昼間お約束したことですけど、その」
 なんと謝罪したらいいものか、言葉が出てこない。自分が責任を持って青木を帰らせる、と約束したのに。
 薪が口ごもると、青木の母親は『お気になさらないでください』と明るく笑った。
 すみません、と頭を下げると、室長さんに言うことじゃないんですけど、と前置きして、彼女は嬉しそうに話した。

『あの子ったら、ようやく白状したんですよ。好きなひとがいるって』
 弾んだ声が聞こえてくる。本当のことを知らないから出せる、悪意のない声。
『一行が、自分の我を通すなんて初めてなんですよ。今までは当たり障りのない相手を選んでたっていうか、親の顔色を伺っていたっていうか。
 やっと本当の恋をしたのねえ』
 自分の息子に訪れた恋を喜ぶ親に、その真実を告げたときの衝撃を想像して。絶望に嘆き悲しむであろう彼女の姿を、まざまざと思い描きながらも。
 薪の胸を満たすのは、歓喜。
 本当の恋をしていると、彼を育て上げた母親ですら認めた青木の想いが自分に向けられていることに、体中が震えるような喜びを感じている。

 僕は、どんどんひどい人間になっていく。
 だれかが悲しむことが解っているのに、この事実に狂喜している。
 僕の中にはもう、良識や道徳なんかカケラも残っていないんだろう。残酷で身勝手で、表面上はどう取り繕っても、自分さえ幸せなら他人がどうなっても構わない、と心の底では思っているのだろう。

 穏やかな声で「失礼します」と挨拶して、薪は電話を切った。
 通話の間中、黙って自分を見つめていた男に、一歩近付く。

 ヒトデナシはヒトデナシらしく。他人のことなんか、気にしない。

 水銀灯に照らされた病院の中庭で、病気の子供を抱いて走ってくる母親を横目に。
 薪は背伸びをして恋人にキスをした。



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運命のひと(14)

運命のひと(14)







 蛍光灯が輝く明るいキッチンに、コーヒー豆を挽く音が響く。
 ふわっと広がる薪の大好きな香り。この匂いは薪を幸せにしてくれる。

「薪さんはあの病院で何を?」
 薪のマンションで遅い夕食を摂ったあと、青木は今夜の薪の行動に探りを入れてきた。どこまでも心配性の恋人を心の中で嗤いながら、薪は短く答えた。
「脳波検査」
「二階堂先生とは、どんな話を?」
 さりげなさを装いながらも、コーヒーカップを差し出す手が強張っている。仕方のないやつだ。
「GABA神経系と脳内オピオイド受容体の関連について聞きたいのか?」
 専属バリスタからカップを受け取って、薪は適当な用語を口にした。青木の質問を断つには、これが一番だ。
「いいです……オレには理解不能です……」
「だろうな。僕と彼が話すことでおまえに解ることなんか、何もないだろうな」

 芳しい香りを吸い込みつつ、白いカップにくちづける。
 たちまち口中を満たす苦味と微かな酸味。さらっと切れる爽やかな後味。夜だから薄めに淹れてあるが、薪の好みは外さない。

「どうせオレは二階堂先生とは頭のレベルが違いますから。薪さんと対等な会話なんかできませんよ」
 自分のカップを持って、薪の向かいの席に腰を下ろした恋人は、僻みっぽい口調で不満げに言った。必要以上に尖らせた唇で、わざとらしくコーヒーの湯気を吹き飛ばす。
 子供じみた仕草に、またしても心をくすぐられて、薪の背筋がぞくりと震えた。

「おまえの口は、喋るしか能がないのか? 喋るよりも得意なことがあるんじゃないのか?」
 ダイニングテーブルに肘をつき、細い指を組み合わせて、その上に尖った顎を載せる。左に小首を傾げるポーズを取って、上目遣いに拗ねた男の顔を見る。
 目に力を入れて、瞬きをゆっくりと二回。微笑みの形に口端を吊り上げて、目を細める。
「あ、はい。オレ、みかん丸ごと一口でいけます!」
「……ホントに低レベルだよな、おまえって。頭いたくなってきた」

 組んでいた指をほどいて、そのまま髪に埋める。なんでこいつはこんなに鈍いんだ。
 今日は泊っていけって、こっちから言ってやったのに。ちゃんと風呂も使って、後は寝るだけなのに。
 まあ、いい。
 気持ちを伝えるのは、言葉だけではない。
 薪はそっと手を伸ばす。青木の大きな手に自分の手を重ねて、長い睫毛を伏せた。

「薪さん、もしかして」
 ようやく通じたらしい。
 普段、伝わることが少ないから、こうして気持ちが伝わったときはむちゃくちゃうれしくて。これが日常になってしまったら、たったこれだけのことでこんなに感動することもなくなってしまうのだろう。それはやっぱり、つまらない。
 
「みかん、食べたかったんですね? ごめんなさい。全部食べちゃいました」
 ……。

 ふたつのコーヒーカップが置かれたダイニングテーブルの下で。
 鈍い男の向こう脛を、薪は思い切り蹴り飛ばした。




*****



 明かりを落とした寝室に、衣擦れの音がひそやかに流れている。
 組み合わさったふたつの手が、ベッドの上で立てる音。絡み合った足が、シーツの間で擦れる音。
 薪は、残された片手で相手の背中に縋る。

 右手に引き続き、くちびるも舌も奪われて、侵略されていく心と身体。刻み込まれる征服の証。
 相手に隷属化することの屈辱と、ほの暗い悦び。様々な感情が綯い交ぜになった薪の中で、揺るぎなく佇む一本の柱が樹立される。
 すべての感情はそこに集約され、愛戯の最中で同化する。やがてはひとつの純化した想いだけが、薪のすべてを支配する。

 ―――僕は青木が好き。

「薪さん。オレたちがこうなるのって、運命だったような気がしませんか?」
 後ろから青木の声が、薪の左耳に吹き込まれる。ゾクゾクと粟立つ背中と、自然に竦み上がる華奢な肩。自分を抱く腕に添えた両手を握り締めて、その感覚をやり過ごす。
「運命? バカじゃないのか、おまえ」
 呆れた顔を取り繕いながらも、薪はこころの中で驚愕する。天才脳科学者とバカのセリフがかぶるなんて、これだから青木はこわい。

「くだらないドラマばっかり見てるから、そんな突拍子もないこと言い出すんだな」
「薪さんだって。二時間ものの推理ドラマが大好きなくせに。あれこそ下らないでしょ」
「だって面白いだろ、あれ。ありえないトリックを貫いちゃうところとか、目の前に証拠があるのにわざとそれを見逃す鑑識とか。とりあえず、3人死ぬまでは推理を始めない探偵とか」
「……楽しみ方、間違ってます」
 つつっと後ろ首を舐められて、びくりと背中が反り返る。最近、首がすごく弱くなってきた。他にも背中とか、膝の裏とか。回数を重ねるほどに、ウィークポイントが増えていく。慣れるほど弱点が多くなるなんて、理不尽な話だ。

「韓流ドラマ見て泣いてるおまえのほうが、男として間違ってるだろ」
「ひととして間違ってるよりは、マシだと思いますけど」
「あん? それは誰のことだ?」
「あ、自覚あるんで、痛い! 痛いです!」
 後ろから回されていた青木の腕に、容赦なく前歯を立てて、暴言に対する報復を果たす。こういうことは身体に覚えこませるのが、一番効果があるのだ。
「もう。薪さん、噛むの好きですよね。こないだもオレの肩、思いっきり噛んでましたもんね」
 あれとこれとは違うだろう。
 あの時は、どうしても声が抑えられなくて、それが恥ずかしくて。こいつには、そのニュアンスの違いも判らないのだろうか。

「いいですか?」
 まだ早い。
 今日は、濃い前戯が欲しい。いつかのように、舌で舐め溶かして欲しい。
 でも、そんなことは口が裂けても言えないから、薪は黙って頷くしかない。
「あくっ! ~~~っ!」
 やっぱり、こいつとの相性はとことん悪い。
 タイミングは合わないし、欲しいところにはこないし。ちっとも良くないし、とにかく痛い!

「青木っ、まだか!」
「すいません、もう少し」
「あと何往復だ!?」
「えっと、30回くらい」
「僕を殺す気か! 10回で済ませろ!」
「せ、せめて20回」
「ムリだ、死ぬ! 痛すぎるっ!!」

 まったく、滑稽だ。
 こんなカエルがひっくり返ったみたいな無様な格好で、12歳も年下の男の下になって。そこに快楽のオマケでも付いてりゃ理由のひとつもできるけれど、僕にはそれすらなくて。
 それでも幸せでたまらない、なんて。扁桃体が異常をきたしているに違いない。

「薪さんっ、好きです、大好きっ……!」
 突き上げられるたびに局部はもちろん、下半身が全部痛い。膝まで走る痛みと、内臓を押される圧迫感。口から胃の中身が出てきそうだ。
 それなのに。
 悲鳴を殺すために歯を食いしばらなければならないような痛みが、青木の単純な言葉でごまかされてしまう。好きだって言ってもらえるだけで、もうどうなってもいいと思ってしまう。この苦痛が朝まで続いても構わない、なんて正気じゃ考えられないようなことまで頭に浮かんでしまう。

「オレ、こんな気持ちになったの、薪さんが初めてなんです。あなたのためなら、何を失っても惜しくないって」
 身体の奥に注ぎ込まれる灼弾を感じながら、耳に流し込まれる麻薬のような言葉に酔い痴れる。青木の腰に足を絡ませて、もっと深いところにおまえの精が欲しいと身体でねだる。
「愛してます」
 始めと終わりは必ずやさしいキスで。耳にタコができるほど聞かされたセリフを、飽きもせずに繰り返して。
 それを聞くたび、ジンと震える心と身体。
 二階堂は全人類の宝だなんて大げさな評価をしてくれたけど、自分の脳も大したことはない。同じセリフを何度聞いてもこんなに嬉しくなるなんて、学習機能がない証拠だ。

「オレの運命の人は、やっぱりあなたしかいません」
 運命のひと。
 結ばれるべく定められた運命のふたり。
 
「違うな。おまえとは、そういうんじゃない」
「違いませんよ。薪さん以外のひとなんて、考えられません」
「ちがう。おまえの運命のひとは、きっと他にいる」
「薪さんがなんて言おうと。オレは信じてます」
 強情なやつだ。
 青木は思い込みが激しくて、時々ひどく頑固だ。ひとの意見を聞こうとしない。特に薪のことに関しては、絶対に自分の意見を曲げない。
 例えば、未来永劫、薪への気持ちは変わらないと主張する。そんなこと、あるはずがないのに。
 
 きっと、僕たちはお互い、運命の相手じゃない。
 好みも性格もまるで違うし、僕とおまえの意見はことごとく合わないし。出会った瞬間に何かを感じるどころか、思い切り人違いしてたし。
 おまえに告られる前から惹かれてた、なんてロマンチックな馴れ初めでもなかった。僕はずっと長いこと、昔の恋人の面影をおまえに重ねてて。そこまでは許されるとしても、からだの関係ができてからもそれが続いて、何度かベッドの中で間違えてしまったりして。
 こんなヒドイ運命の相手が、いるわけない。

 僕たちの人生は、ほんの一部分が交差しているだけで、いずれは離れていく。添い遂げられる関係じゃないし、そんなことは望んでいない。
 望めるわけがない。
 二階堂が言うとおり、この関係は不毛で無意味で、厄介ごとばかりを互いの人生に持ち込む疫病神みたいなものだ。
 なるべく早く清算しなくてはいけないと思いつつも、そこから抜けられないのは……。
 痛みを幸せと感じるほどに、僕の脳がイカれてしまっているから。

 
 ちくしょう、ムカつく。
 ああ、そうだよ。
 僕はとっくにおまえにメロメロだよ。




*****



「42回だぞ、42回! おまえはまともに数も数えられないのか!」
 大きな声を出すと傷に響く。それを堪えてでも、ここは怒るところだ。
「数えてたんですか?」
「数えたさ。あと何回我慢したら終わりだ、って自分に言い聞かせて。それなのにおまえときたら!」
「すいません」
 しょげた恋人の情けない顔を見ると、薪の気分は上向きになる。青木の困った表情は、薪のA10神経系を刺激する。

「で?」
「はい?」
 何のことだか、分からないのか。まったくイライラする。
「その……よかったか?」
「はい!」
 こういうことを口にするのが、どれだけ恥ずかしいか。薪の気持ちに、青木はちっとも気付かない。
「薪さんも気持ちよくなりたいですか?」
「もう疲れた。眠らせてくれ」
 本当はちょっとだけして欲しい。でも、そんなことは言えない。
 青木は残念そうな顔をして、寝室を出て行った。やがて開け放したドアから、シャワーの音が聞こえてくる。

 こいつは何もわからない。僕が欲しいものも、したいことも。
 僕がこんなにもおまえに参ってるってことすら、わかってないんだろう。
 だけど。

 わからなくていい。
 わからないほうが面白い。

 痛みの残る秘部を庇ってうつ伏せになり、青木が寝ていた枕を抱える。微かな汗の匂い。その湿気が愛おしい。
 青木の残り香に顔を埋めて、薪はアーモンド形の扁桃体がシナプスのハンモックで昼寝をしている夢を見た。




*****


 拍手のお礼はここまでです。(またこんな姑息な手を)
 結局はらぶらぶなのね、ということで。

 続きはちょっぴり切ないので、明るいお話がお好みの方にはごめんなさいです。



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運命のひと(15)

運命のひと(15)






 室長会議終了後、薪は小野田のところへ顔を出すことにしている。
 定例報告と銘打っているが、事件の報告書はその都度所長に提出してあるので、大した報告事項はない。つまりこれは、小野田がかわいい秘蔵っ子の顔を見たがっているのだ。

「おはようございます、緑川さん」
 官房長付けの秘書にぺこりと頭を下げて、にっこりと微笑む。
 ここへはしょっちゅう来ているから、秘書とも顔なじみだ。薪が甘いケーキが苦手なことも知っているし、コーヒーには砂糖やミルクを入れないことも承知している。
「あれ? 小野田さん、電話中ですね」
 秘書の机の上の電話の外線ランプが点滅しているのを見て、薪は小野田が個人的な電話をしていることに気づく。
 官房室の外線は5つ。5つ目のラインは、小野田のホットラインだ。この番号は薪も知らない。
「電話は奥さまからですから。甥御さんのことみたいですよ。薪室長なら、入っても大丈夫だと思いますけど」
 小野田の甥と言われて、薪は豆台風のように自分の職場を掻き回して行った脳科学者のことを、苦笑と共に思い出す。

 二階堂が居なくなって、半年が過ぎた。
 季節は冬になり、2063年も暮れようとしている。
 第九にも平穏な日々が戻ってきて、仕事や日常の煩雑さの中に紛れ、彼のことも忘れかけていた。そういえば、論文は完成したのだろうか。あれほど協力してやったのだから、論文が出来上がったら連絡を寄越すのが当たり前だと思うが。
 まあ、学者なんてそんなものか。あの男に常識を期待しても無駄だ。

 薪はファイルを両手で持つと、秘書に向かってそれを差し出した。
「いえ。この報告書を渡しに来ただけなので。緑川さんから、渡しておいていただけますか」
 肉親からの電話なら、職務に関する機密事項ではない。しかし、小野田のプライベートに立ち入るのも気が引ける。
「あら。それは困ります。せっかく薪くんが来たのに、どうして帰しちゃったんだい、って叱られちゃいます」
 小野田の口調をそっくり真似て、彼女は片目をつむって見せた。さすが小野田の秘書だ。茶目っ気がある。
「直接お渡しになられたほうが、よろしいかと」
 少し迷ったが、時計を見て秘書の勧めに従うことにした。今朝は会議が長引いて、時刻は10時近い。早く第九に行って、仕事の指示をしなければ。

 天然木材を使用した重厚なドアをノックする。さすが、官房室長。第九の室長室のドアの倍は厚みがある。防音効果も高く、これなら大声を出しても隣室には聞こえないだろうと思われる。
 ドアを開くまで、小野田の声は全く聞こえなかった。通話ランプに気付かなかったら、電話をしていたことは分からなかった。
 ましてや通話の内容が、薪も知っている人物に関する重大なことだという事実も。

 知るはずがなかった。いや、知らなくて良かった。
 その人物は、彼にこの事実を知られることを望んではいなかった。

「そう……やっぱり、手術することにしたんだ。月曜日? ちょっと待って」
 ついぞ聞いたことのない小野田の深刻な声に、薪は足を止めた。
「困ったな。ぼくはその日はどうしても外せないんだ。君が立会いに行ってくれる? うん、頼むよ」
 手術、と小野田は言った。
 その手前の会話は、よく聞き取れなかった。聞き覚えのある名前が小野田の口から出たような気がしたが、自分の聞き間違いだと思った。
「潤也には、今夜にでも会いに行くよ。多分、これが最後だろうからね。姉さんたちも覚悟はできてるみたいだし。潤也も、これでようやく楽になれると思うしかないって、泣いてたけどね……。
 今夜、君も一緒に来る? うん、ぼくは潤也の顔見たら、一足先に日本に帰って」

 バサッと耳障りな音がした。
 小野田が大事な電話をしているのに、なんて無神経な、と腹が立ったが、その音の原因は自分が持っていたファイルが床に落ちたからだと分かって、薪は自分の手がひどく震えていることを知った。手の震えは指先だけのものではなく、身体全体が戦慄いた余波によるものだったと気付くころには、まともな呼吸ができなくなっていた。
 小野田は薪の姿を目に留めて、電話を切った。
「ごくろうさま。できたら、そのファイルは床じゃなくて机の上に置いてくれないかな」
 いつものように呑気な口調で薪に話しかける小野田には、電話をしていたときの沈痛な表情はなく、薪は一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思った。

 提出用のファイルを拾うでもなく、呆然とその場に立ち尽くしている薪を見て、小野田は軽く肩を揺すった。席を立って薪の足元にかがみ、自ら床に散乱した紙片とファイルを拾い集めた。
「いつもながら、君の報告書は解りやすいね」
 上司に床の書類を拾わせた無作法な部下の態度に怒るでもなく、小野田はにこにこして薪の提出物に及第点をくれた。ありがとうございます、と言おうとして、薪は自分のくちびるが動かないことに焦った。

「……小野田さん」
 細くて、かすかに震えている情けない声。
「行っていいよ」
「小野田さん!」
 薪が声を荒げると、小野田はとても困った顔をした。
 その顔は、半年前は頭痛の種だったモヤシのような風貌の男に似て、薪の心臓をぎゅっと締め付けた。

「ああ、潤也が怒るだろうな。君には絶対に知られないようにしてくれって、あれほど念を押されてたのに」
「知られないようにって、どういうことですか? 事故か何かに遭われたんじゃないんですか?」
「ちがう。潤也はね、脳腫瘍を患ってたんだ」
「脳……腫瘍……」
「うん。脳幹に出来た腫瘍で、手術は不可能だと医者に言われた」
 脳幹は脳と脊髄をつなぐ場所にあり、大脳と自律神経の制御を行なっている。脳幹が壊れれば自律神経が失調し、呼吸も心臓も停止してしまう。人間の生命維持そのものに関わる器官なのだ。
 深いところにあるから、脳を掻き分けるようにして手術をしなくてはならないし、髪の毛ひとすじのミスも許されない。ミスは患者の死に直結する。ミスをせずに手術を終えたとしても、植物状態になる可能性が9割を超えるという。初めから悲惨な結果が分かっているような手術を、執刀してくれる医者を探すこと自体が難しい。
 脳幹は、脳外科医にとって禁忌の領域なのだ。

「きみが潤也に初めて会ったときに話してた論文。あれが潤也の最後の論文だったんだよ。あのあと、すぐに療養生活に入ったんだ。ストックホルムの脳専門の病院でね。薬物治療しか道がなかったから、潤也は8年もそこで過ごすしかなかった」
 8年。
 その月日が、彼の風貌を変えたのか。
 病院で過ごす日々が、毎日投与される薬品が、彼を白く細く作り変えていった。機関紙に掲載された写真と似ても似つかぬ姿になっていたのは、そのせいだったのか。
「一時期は効いた薬も、だんだん効かなくなって。何度も薬を変えたけど、やっぱりダメで。病巣は広がる一方で、もう長くないことは解ってたんだ。だから思い切って日本に来たんだ」
 いよいよ自分の命が終わりに近づいたとき、故郷の地が踏みたくなった。そういうことか。
 それが最初からわかっていれば、乱暴なことはしなかったのに。

「そうだったんですか。彼は、自分が生まれた国で最期のときを過ごそうと……」
「ちがうよ。潤也は君に会いに来たんだよ」
「は? 何でそこに、僕が出てくるんですか?」
 相変わらず自覚のない子だね、と意味不明の前置きをして、小野田は薪が知らなかった叔父と甥のプライベートを教えてくれた。
「ぼくがいつも話して聞かせる君の武勇伝が、潤也は大好きだった。君が関わった事件のことは、全部かれに話してやったんだ」

 小野田が甥の慰みにと、面白おかしく話したという事件の数々。個人情報や残虐な部分はオブラートに包み、薪の活躍を大げさに装飾して、心躍る冒険活劇のように語って聞かせたのだろう。
「潤也は君に憧れてた」
 警察庁の要職に居る叔父の口から聞かされる、現実的で痛快な物語。その主人公に会いたくて、二階堂は第九に来たがったのか。
「潤也はね、すごく喜んでたよ。きみがあの論文を今でも覚えてくれてて。8年前も喜んでたけど、こないだはもっと嬉しかったと思うよ」
 やっと思い出した。
 あの当時、脳に関する論文に目を通すようにと薪に科学雑誌を与えたのは、小野田だった。その論文について小野田と議論を交わした覚えはないが、何がしかの感想は述べたような気がする。それを彼に伝えたのか。

「ツヨシとは運命的なものを感じる。そう言ってたよ」
「……戻ります。失礼します」
 短い退室の挨拶を口の中で呟いて、薪は官房長室を出た。
 秘書が「お帰りですか」と笑いかけてきたが、笑みを返すことができなかった。
 廊下に出て、薪は右手で顔を覆った。
 こみ上げてくる感傷を奥歯で噛み殺して、薪は警察庁の長い廊下を歩いていった。



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ジャンル : 小説・文学

運命のひと(16)

運命のひと(16)







「あれ? なんだっけ、このCD」
 ラベルもシールも貼付されていないCDを予備の机の奥から見つけて、宇野は首を傾げた。
 捜査中は一刻も早く証拠の画を見つけ出すことが優先されるから、参考にした資料やそのコピーの整理などは二の次三の次で、あちこちに放りっぱなしのメディアが散乱する状態になる。繁忙時期には仕方のないことだと思うのだが、室長に見つかると雷が落ちるので、とりあえず予備の机の引き出しに突っ込んでおいて、暇なときにまとめて片付けるのだ。

「聞いたことないメーカーだな」
 CDの片面に入っている透かし文字は、英語ではないようだ。CDにウィルスが入っている危険性も考えて、宇野は自分のノートPCにそのCDを入れてみた。
 オートローディングが働き、自動的にプログラムが選択される。どうやら音楽CDらしい。
「音楽が関与した事件なんて、あったっけ?」
 再生ボタンを押すと、一昔前に流行ったホップスが流れ始めた。宇野は音楽にはまるで興味がないが、その彼でさえどこかで聞いた声だと思った。

「めずらしいな。宇野がS×××なんて」
 流行には詳しい今井が、歌い手の名前を教えてくれる。有名な歌手なのだろうが、宇野には初耳だ。
「へえ。そんな名前なんだ、このグループ」
「グループじゃなくて2人組。っておまえ、そんなことも知らないでCD買ったのか」
「だってこれ、俺のじゃないもん」
「じゃ、誰のなんだよ」
「さあ?」
「二階堂先生のじゃないか?」
 2つ隣の席で同じように資料の整理をしていた小池が、思い出したように言った。
「あ、そうだよ。それで聞き覚えあったんだ」
「そういえばあのひと、初日にこれ流して、薪さんに大目玉食らってたっけ」
 その日のことを思い出して、小池がにやりとする。
 あの時は笑ったっけ。二階堂に軽くあしらわれる薪の壊れっぷりが、とても愉快だった。

「こうして聞くと、いい曲だな」
「うん。俺もこいつら好き、って、室長!」
「すいませんっ! あの、CDの中身を確認して、あ、いや、片付けを怠っていたわけじゃなくって、たまたま」
 どんどん墓穴を掘っていく様子は、部下は上司の背中を見て育つという格言を実行に移しているかのようだ。
「すぐに破棄しますからっ!」
「捨てるなら、僕にくれ」
 薪が狂った。
 いや、こちらの耳がおかしくなったのか。
 仕事の鬼の室長が、職務時間中の音楽を聞きとがめることもなく、CDが欲しいと?

「貰ってくぞ」
 宇野のPCからCDを抜くと、薪は本当にそれを持って行ってしまった。
「どーしたんだよ、薪さん」
「ヘンだ……おかしいよ」
 一様に首を捻る部下たちを尻目に、薪は室長室へ入った。

 自分のPCにCDをセットして、ヘッドホンを付ける。再生ボタンを押して、二階堂が好んだリスニングサウンドに耳を傾ける。
 恋の歌。
 将来を共に生きていこうと決めた恋人へのラブソングだ。
 ――でもさ きみは運命のひとだから 強く手を握るよ――
 そんな歌詞が繰り返されて、二階堂の口説き文句のルーツを教える。
 軽薄なやつだ。
 小野田の電話を聞く前だったら、そう思っただろうに。

 初めて彼に会ったとき、第九で非業な死を遂げた被害者のMRIを見たとき、二階堂は長閑な口調でこう言った。
『仕方ないよ。ひとの生き死には、運命だから』
 運命。
 自分の死を目前にして、彼はそう言うしかなかったのか。

『じわじわと死を待つしかなかった彼女の気持ちが、あなたに解るとでも言うんですか』
 僕のあのセリフを、かれはいったい、どんな気持ちで聞いたんだろう。
 自分の命の期限を運命だと受け入れるしかなかった彼が、明日が来ることを当たり前だと思っている幸せな人間の叱責を、どんな気持ちで受け止めたのだろう。あの笑顔の裏に、どれほどの涙を隠していたのだろう。

 ――走る 遥か この星の果てまで 君を乗せていく――
 曲がサビの部分にかかると、ボーカルの声が美しく響いた。澄んだ歌声が、切々と主人公の恋心を歌い上げた。
 ロマンチックな歌詞。現実にこんなことを言ったら笑われるだろうが、メロディがつくとすんなり聞けるから不思議だ。
 この音楽の流れる部屋で、二階堂とした最後の会話を思い出す。

『僕だって、時間さえあればこんなことはしなかったよ』
 日本に滞在できる時間が限られている―――てっきり、そういう意味だと思っていた。二階堂の命にタイムリミットが切られていたなんて、思いもしなかった。
『口惜しいよ。青木くんが羨ましい』
『僕だって、時間さえあれば』
 あれはちがう。
 あれは、僕をものにできなかったことが口惜しいと言ったんじゃない。そんなことじゃない、そんな悠長な話じゃなかったんだ。

 口惜しいよ。
 僕だって。
 もっと、生きたいよ。
 
 そう、言いたかったんじゃないのか。

 薪は両手で顔を覆った。
 ヘッドホンから流れてくる明るい音楽が、まるで鎮魂曲のように薪の頭の中で鳴り響いた。

 二階堂は。
 生きることを諦めてなんかいなかった。諦められるはずがなかった。すべてを諦観して、受け入れることなんかできなかったんだ。
 周りの人間を羨み、無為に生きる人々に腹を立てることもあっただろうに、そんなことはおくびにも出さず、運命という一言ですべてを切り捨てて。
 そう口では言いながらも、自分に残された僅かな時間と成し切れなかった膨大な夢たちの亡骸に苦しめられて。
 どれだけ自分の不運を嘆いたのだろう。
 どれだけ神さまを呪ったのだろう。

 あいつは自分の意志で僕に会いに来た。小野田さんから僕のことを聞いて、写真を見て、僕を探しに来たんだ。もちろん、あいつの気持ちに応えてやることはできなかったけど。
 あんなに素気なくすることもなかった。
 ちゃんと話を聞いてやればよかった。何もかも運命だ、という言葉の裏側に隠れた彼の気持ちを、もっと考えてやればよかった。

「ふ……くっ……」
 警察庁の廊下でやり過ごしたはずの感傷は、大きさを増して薪の胸に還ってきた。
 今度は我慢ができなかった。
 細い指の隙間から、後悔の雫が滴り落ちてきた。とめどなく溢れ落ちるそれは、白い手の甲を伝って、ワイシャツの袖口に吸い込まれていった。



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運命のひと(17)

運命のひと(17)







「薪さん。これ、ものすごくしょっぱいんですけど」
 いい加減に盛り付けられた煮物を一口つまんで、青木は顔をしかめた。
 食卓の上に並んだ薪の手によるものとは思えない哀れな料理。味付けも盛り付けもめちゃめちゃだし、ところどころ焦げてるし。キャベツの千切りはつながってるし、味噌汁に至ってはウインナーが入っている。
 だいたい、煮物と生野菜の夕食って微妙じゃないか? いつもだったらこれに、唐揚げとかハンバーグとか、メインディッシュの品がついてくるのに。

「文句言うな。食ったら帰れ。僕は今日はその気になれないから」
「帰れって……スキーに行くんですよ? 今から」
 スキー場へは夜中に出発するのがセオリーだ。3時ごろ家を出て、明け方にゲレンデに着くよう時間を調整する。雪山の夜明けは、背中に震えが走るほど美しい。必ず薪の気に入るはずだ。
「それはキャンセルだ」
「えええ! ゲレンデで朝を迎えて、スキー場で薪さんの誕生日のお祝いをしましょうって約束したじゃないですか」
「スキー場は寒いからイヤだ」
「だったら誘ったときにそう言ってくださいよ」
 先月このプランを話したときには、そんなことは一言も言わなかった。「晴れるといいな」などと笑みまで浮かべて、けっこう乗り気のようにも見えたのだが。

「その時は行くつもりだったんだ。急に行きたくなくなった」
「なんでそんなに勝手なんですか!?」
「うるさいな。文句があるなら、いつだって別れてやるぞ」
「あっ、あっ、またそんなこと言って……はああ、なんでこんな人を好きになっちゃったんだろ」
 後悔しても遅い。この人は、こういう人なのだ。
 青木の方が一方的に薪のことが好きで、デートもベッドも拝み倒して付き合ってもらっている状態だから、何も言い返せないのだが。
 薪は基本的にノーマルな男だから、本当は女の子と交際したいと思っていることも知っている。何ヶ月か前に行った自動車の展示会でも、あからさまにコンパニオンの足ばかり見てたし。青木のお気に入りのメーカーのブースは、スタッフの女の子がパンツスーツだったという理由で、クソミソに貶されてたし。
 それでも、やっぱり好きだから。
 青木は、顔の筋肉をムリヤリ動かして笑顔を作る。

「月曜日のディナーは大丈夫ですよね? 今年こそ、山水亭ですよ」
 12月24日は薪の誕生日。青木にとっては神の降誕祭ではなく、大切な恋人がこの世に生まれた記念すべき日だ。
「それもキャンセルしとけ。僕は明日から、スウェーデンだ」
「は!?」
「岡部に留守を頼んである。水曜には帰るから」
「仕事ですか?」
「ちがう。プライベートだ」
 仕事の鬼が、休暇をとって海外旅行?
 赤い雪どころか、レインボーカラーの雪が降ってきても不思議じゃない。

「プライベートで海外へ? お一人でですか?」
 一応は恋人として付き合っているはずの自分に一言の相談もなく、4日も日本を離れると言う。
 しかも、クリスマスに。
 何故だかこの日は昔からツキがなくて。クリスマスデートの申込みはこれで4回目だが、1年目は青木の父親が倒れ、2年目は薪が余計な気を回して雪子と食事をする羽目になり、3年目は突発の捜査が入って料亭から第九に直行し、4年目の今年は海を隔てて離れ離れ。何かの力が働いているとしか思えない。
「なぜ、スウェーデンなんですか?」
「北欧の雪が見たくなった」

 寒いからスキーはイヤだって言っといて、なんなんですか、それっ!

 怒鳴りたいのを必死で堪える。ここで感情を爆発させてしまったら、薪は機嫌を悪くする。薪が日本を離れる日数の10倍くらいは、徹底的に無視されるだろう。
「もういいです。今日は帰ります」
 薪の気まぐれには付いていけない。
 こういうときに話し合いを持とうとすると、修復不可能なケンカにまで発展してしまう可能性が高い。今まで何度もそんなことがあった。薪は絶対に自分から謝ろうとはしないし、青木の方がキレてしまったら、二人の関係はいとも簡単に破綻する。少し頭が冷えてから話をした方がいい。

 青木は黙って食事の後片付けをして、キッチンの掃除をする。それを手伝おうともせず、薪はリビングでテレビを見ている。騒がしいバラエティ番組の音。薪はこういう番組は嫌いだったはずだが、ソファの上に両膝を抱えて画面に見入っているところをみると、それほどの嫌悪感はないらしい。
「じゃあ、失礼します」
 声をかけるが、振り向いてもくれない。薪の背中はとても冷たくて、青木は悲しくなる。今夜の薪は、自分の恋人になる前の薪に戻ってしまったようだ。

 こんなに勝手なひとなのに、どうして嫌いになれないんだろう。
 青木は今まで、相手の人間性を重要視して交際相手を選んできたつもりだ。ところが、薪は恋人としては最低の部類で、やさしくもないし可愛くもない。見かけ以外はいいところがまるでない。たまにしおらしいことをするかと思えば、それは青木を焚きつけて事件を早期解決させるためだったりする。そんな計算高い人間に惹かれることなど、これまでは無かったはずだ。
 精一杯の純真を掌の上で転がされて、いいように使われている。こういうの、なんて言うんだっけ。都合のいい男――ミツグくんとか、アッシーくんとか――いや、奴隷か。

 地下駐車場の隅に停めた車に乗り込んで、不要になってしまった後部座席の荷物を振り返る。昨夜この荷物を詰めたときは、あんなに浮き浮きした気持ちだったのに。
「せっかく予約取ったのに」
 4WDのレンタカーも用意したし、スキーウェアだって新調したのに。山水亭の予約だって、何ヶ月も前から。
 みんなみんな薪の為なのに。薪はちっとも自分の苦労をわかってくれない。
 今に始まったことではないが、やっぱり薪と付き合うのは試練の連続だ。すれ違いは多いし、気持ちのズレはもっと多い。
 喜びも大きいが、ため息も深い。浮き沈みが激しいと言うか、良いときと悪いときの差が大きいと言うか。いつかこの気持ちが通じると、ずっと信じて頑張ってきたが、時々心が挫けそうになる。

「薪さん、オレのこと、本当にセフレだと思ってるのかなあ」
 自分のことをどう思っているのか、と薪に聞いたら、しれっとした顔でそう言われたことがある。もちろん、薪のいつものシュールな冗談だとその場は流したが、案外本気だったのかもしれない。
 過去に、女性に対してそうした愛のない行為をしたことをとても悔やんでいた薪だが、青木は男だし。女性と違って傷がつく、と言うわけではないから、悪いとは思わないのかもしれない。第一、青木の方から頼み込んでセックスしてもらってるわけだし。

 「薪さんのバカ」



*****

 って、またケンカかよ。 
 いい加減にしろよ、おまえら。←さも他人の仕業のように。


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運命のひと(18)

運命のひと(18)







 「薪さんのバカ」

 本人の前ではとても言えないセリフをレンタカーのハンドルにぶつけて、その夜は帰途に付いた青木だが、週明けの第九に薪の姿がないのを確認すると、途端に寂しくなった。
 薪に対する怒りなど、翌朝にはもう消えていて。薪の携帯に電話を入れたが、留守番電話に切り替わるだけで、何度掛けても薪の声は聞けなかった。
 水曜日には帰国する予定だったから第九で待っていたのだが、夜の8時を回っても薪は姿を現さなかった。自宅にいるかもしれないと吉祥寺まで足を伸ばしたが、薪の部屋には明かりが点いていなかった。
 もしかすると、帰国が延びたのかも。岡部なら何か聞いているかもしれない、と考えたが、それを岡部に確かめるのも何だか業腹だった。恋人としてのプライドというか、男の見栄のようなものがあって、薪のことを何も知らない自分が哀れだと思った。

 吉祥寺の駅に着いたときに、コートのポケットで携帯が震えた。慌てて確認すると、それは待ちに待ったひとからの電話だった。
「薪さん。お帰りなさい。日本に着いたんですね?」
『青木。今から出てこれるか』
「はい。今、薪さんのお家の近くにいるんですよ。薪さんから管理人さんに電話してくれれば、いつかみたいに食事とお風呂の用意をしておきます」
『要らない。おまえが僕のところまで来い。空港近くのNホテルにいるから』
 時刻は9時を回っている。これから千葉まで行くとなると、帰りは確実に真夜中過ぎだ。
「はい。すぐに行きます」

 相手の都合などまるで考えてない薪の我侭な呼び出しに、青木は弾んだ声で応える。
 薪から、しかもホテルへの呼び出しだ。嬉しくないはずがない。
 恋人から遠く離れて、異国の地でたった一人の休日を楽しんだはいいが、独りはやっぱり淋しいと、しみじみ感じたに違いない。
 おまえと一緒に行けばよかった、なんて、縋ってこられたらどうしよう。4日ぶりということもあるし、仲直りの意味もあるし。そんなこんなで、一晩中ぶっ通しで鳴かせてしまいそうだ。

 Nホテルに到着し、連絡のあった部屋のチャイムを押すと、予想どおりバスローブ姿の薪が青木を迎えた。何も言わずに、抱きついてくる。石鹸の香りがする濡れた髪に鼻先を埋めて、青木は恋人の身体を抱きしめた。
 薪は青木のジャケットを脱がせ、ワイシャツのボタンを外した。インナーをめくり上げて、裸の胸に頬を寄せてくる。青木の背中に小さな手が回り、ぎゅっと力がこもった。
 ドアの側に立ったままの性急な誘惑に、青木は軽いデジャビュを覚える。
「スウェーデンの中学生に、自慢話でもされたんですか?」
 昔のことを揶揄して、ちょっと意地悪をしてやる。怒るかな、と思ったが、薪は青木にしっかりと抱きついたまま、身じろぎもしなかった。
 これはよっぽど淋しかったのかな、と青木は心の中でヤニ下がる。たまには、距離を置くのもいいものだ。再会のテンションは、否が応にも上がろうというもの。

 細い身体を抱き上げて、ベッドに運ぶ。
 清潔なシーツの上に押し倒して、バスローブを脱がせる。薪は少しだけ抵抗したが、すぐに大人しくなった。目を閉じてじっとしている。
 シャツを脱いで肌を合わせる。キスをして、髪を撫でる。首に絡んでくる薪の腕をやさしく取って、シーツの上に押し付ける。抱きつかれるのは嬉しいが、これでは動けない。
 青木の舌先は器用に動いて、薪が悦ぶ首筋から、鎖骨を通って胸の突起へ辿り着く。腰やわき腹の辺りを擦り、薪の熱を高めようと試みる。

「青木……んっ……」
 薪のそこはまだ慎ましいままで、でも、このひとの反応が遅いのはいつものことだ。特に今日は長時間のフライトで、体力も消耗しているだろうから、時間が掛かるかもしれない。それでも、念入りに愛してやれば大丈夫。薪の急所は押さえている。
「あっ、ああ」
 可愛い声も上がってる。薪は最初の頃、声を殺してしまうことが多いのだが、今日は早い段階から声を出してくれている。感じたがっているのだ。
 しかし、青木の予想を裏切って、薪の身体は愛撫に応えようとはしなかった。薪の蕾は固いままで、青木の指に綻ぶこともなく、いつぞやのように蜜を滴らせることもなかった。

「青木。大丈夫だから」
「でも」
「ローション多めに使えば、ちゃんとできるから」
 言い訳がましく言葉を重ねる彼の亜麻色の瞳には、涙が滲んでいたけれど。その涙は、いつもの快楽の涙ではない。
「だから……」
 ぎゅっと自分の首に抱きついてくる薪の仕草に、青木はようやく気付いた。
 この人は、セックスがしたくて自分をここに呼んだのではなかったのだ。ただ、抱きしめて欲しかったのだ。
 性的な意味ではなく、一刻も早く、抱いて温めて欲しかった。
 だけど、青木がどれだけ薪のことを欲しがっているか知っているから、そうとも言えなくて。何もせずに裸の薪を抱きしめていることが、青木を苦しめることだと分かっているから、黙って為されるがまま、出したくもない声を上げて。

「今日みたいな寒い日は、こうやって抱き合ってるの、気持ちいいですよね」
 掛け布団を羽織り、はだかの薪を胸に抱きこむ。枕の上で擦られながら自然に乾いた髪は少しクセがついて、青木の指に絡んだ。
「あったかくなりました?」
「……うん」
 薪のくちびるは、素直じゃない。
 憎まれ口や意地悪はぽんぽん出てくるくせに、大事なことは何も言わない。自分が本当に欲しいものは、絶対に口にしない。それを分かってやれるほど青木は大人ではないから、いつも盛大にすれ違ってしまうけど。
 少しずつ、少しずつ、すれ違う距離を縮めていければいい。こうしてゆっくりと、薪の本音に近づいていこう。

 側臥した姿勢で抱き合い、薪はほっと息を洩らした。
 小動物のように青木の胸に額をこすりつけ、前半身を合わせ、足を絡めてくる。細い肩から首から薪の匂いが立ち上ってきて、青木の理性を翻弄する。やっぱり、この状態は生き地獄だ。
 その時、サイドテーブルの上で、薪の携帯が震えた。
 びくっと肩を震わせて、怖いものでも見るように薪がそちらを振り返る。顔をこわばらせ、青木の腕の中から抜け出して、薪は電話に出た。
 
「はい。薪です」
 敬語を使ったところを見ると、相手は目上の人間か。小野田か、田城か、あるいは青木の知らない誰かか。
「そうですか」
 小さな声で呟くと、後は何も言わずに電話を切った。目上の相手に、きちんと挨拶もしないなんて、薪らしくないと思った。

 立ち尽くした背中が、とても頼りなく見えた。薄暗い闇の中に、溶けていってしまいそうだった。
 静寂の後、裸のまま床に崩折れて、静かに薪は泣き始めた。
 何があったのか見当もつかなかったが、それが悲しみの涙であることだけはわかった。何も聞かず、青木は裸の薪を後ろから抱きしめた。




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運命のひと(19)

運命のひと(19)







 薪以外の第九の職員が、二階堂の訃報を知ることはなかった。
 小野田も薪も、それに関しては故人の遺志を尊重した。かれは、自分の為に誰かが悲しむことを望んではいなかった。

 手術のあと、彼の意識はとうとう戻らなかった。
 薪は時間の許す限り病院に詰めていたが、彼がICUから出ることはなかった。後ろ髪を引かれる思いで、日本に帰ってきた。
 その夜。
 ひとりでいるのがどうしても耐え難くて、無理やり恋人を呼び出した。無分別な行動だと解っていたが、薪の手は勝手に携帯のボタンを押し、くちびるは深夜の逢瀬を強要した。
 薪にはどこまでも甘い恋人が、自分の欲望を殺して薪に安らぎをくれたとき、その報せは届いた。

 青木は何も聞かなかった。
 ただ、抱きしめてくれた。薪の心の中は何ひとつ知らないくせに、青木は薪の欲しいものをくれた―――。

「薪くん。これ、潤也から君に。ラブレターだってさ」
 定例報告に訪れた薪に、小野田は1通の封書を手渡した。
 短い手紙を、薪は5分もかけて読んだ。
 その文字を、文章を、指でなぞって何度も読んだ。
 くちびるをぎゅっと噛んで、声を上げまいと拳を握り締めた。肉親の小野田が我慢しているのに、自分が崩れるわけにはいかない、と気張った。

「薪くん。泣いてもいいよ。みんなには黙っててあげるから」
「大丈夫です」
 ふっと息を吐いて、薪は天井を見上げた。照明器具の光がぼんやりと滲んでいるのは、疲れ目のせいだと思うことにした。
 上司の前で上を向いた姿勢というのも考えものだが、小野田はその日も薪の無礼を見逃してくれた。



*****



 ツヨシ。
 元気でやってる? 君が元気でいてくれると、僕はすごくうれしいよ。
 
 まさか、手術の前に君がストックホルムまで来てくれるなんて、夢にも思わなかったから。僕は心底驚いて、これはどうやら手術を受ける前に発作が起きて死んでしまって、いつの間にか天国に来ていたのか、と真面目に考えたよ。(天国では相手の生死に関わらず、好きなひとに会えるらしいよ)
 本当は君に言いたいことがたくさんあるんだけど、クスリが効いてて、長い文が書けないんだ。モルヒネのせいで、正気でいられる時間が短くなってる。

 いま、一番気がかりなのは、君のことだよ、ツヨシ。

 僕が死んだら、君は泣くのかな。
 哀しい思いをさせてしまうのかな。僕は、君を苦しめてしまうのかな。
 そのことが、とても心配だ。

 僕は幸せだったよ。
 君の存在が、僕に自分の人生を幸せなものだったと思わせてくれたんだよ。
 君に会った最初の日、狂った学者が「研究ができない」という理由で自殺したと君は話していたね。あの場では言えなかったけど、僕にはその気持ちが良く解ったよ。
 この病気が発覚したとき、僕も同じことを考えたから。
 これ以上、研究ができないなら、僕がこの世に生きている意味はないって。
 僕が死んだら、母や友人が悲しむだろうなんて、そんな当たり前のことすら頭に浮かばなかった。科学者なんて、みんな少し狂っているのかもしれないね。

 だけど、セイジから君の話を聞いて。
 新しい捜査の可能性を拓くために、懸命に努力する君の姿をメディアで見て、もうしばらく君のことを見ていたいと思った。
 セイジから君の話を聞くのが、君の活躍した新聞記事を読むのが、君の写真を見るのが。僕の唯一の楽しみだった。生きる支えだった、と言い直してもいい。

 8年もの間、僕は君に命をもらってたんだ。
 君は知らなかったと思うけど、僕はずっとずっと、君が好きだったんだよ。

 ほんの少しの間だったけど、君に会うことができて、最高に楽しかった。
 今まで生きてきて、本当に良かったと思った。この時ばかりは抗癌剤に感謝したよ。(しかし、あの抗癌剤の副作用ってのはどうにかならないのかね。君には生涯不要であることを願うよ)
 夢中で捜査をする君は、とても輝いてた。素敵だったよ。
 だから、いつまでも見ていたかった。少しでも長く、君と一緒にいたかった。

 憧れの君が目の前で動いて喋って、怒って怒って怒って……ああ、本当に君は怒ってばっかりだったね。
 でも、最後は笑ってくれた。
 僕の手を握って、「元気になったら、僕とデートしましょう」って、言ってくれたよね。その日が来ないことは分かっていたけど、僕はとってもうれしかった。

 ありがとう。

 何かお礼がしたいけど、僕にはもう、祈ることしかできないから。
 願わくば、これからの君の人生に、百万もの幸せが訪れますように。

                                                    潤也




―了―




(2009.10)


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運命のひと~あとがき~

 読んでくださってありがとうございました。
 
 拍手のお礼SSなのに暗い結末になってしまい、申し訳ありませんでした。
「猛烈アタック」のリクにも応じきれず、リクをいただいた方にはがっかりされてしまったかしら、と反省しております。
 次の機会にはぜひ明るくてハジケたヘンタイを!! ってこれ以上ヘンタイ比率増やしてどうするんだ。

 当たり前ですが、脳科学についてはド素人なので、色々間違ってるところも荒唐無稽なところも、たくさんありました。にも関わらず、揚げ足を取ることもなく、広いお心で流してくださったみなさまに、心よりお礼申し上げます。
 どうもありがとうございました。

 途中でコハルさんに気付いてもらったんですけど、作中に出てくる曲は15年位前に流行ったスピッツの『運命のひと』という曲です。題名もそこから取りました。
 ちなみに、青木くんのイメージソングは、20年くらい前に流行った鈴木雅之さんの『恋人』という曲です。
 あの歌詞の中の、
『あなたをただ見つめてる この先ずっと』とか、 
『どうして 困らせるほど募る想いが』とか、 
『ただ誰より 瞳きれいな恋人』とか、
 イメージにぴったりなんですよね。あのストーカーまがいの暑苦しい感じも(笑)

 

 えっとですね、あとがきでも何でもないんですけど、お礼を言いたいことがありまして。
 先月、とってもうれしいコメをいただきました。
「登場人物たちにあたたかい視線を注いでいるのがわかる」「作品から薪さんや他のキャラに対する愛情が感じられる」と仰っていただいて、これが本当に嬉しかったです。

 わたしは薪さんが大好きですし、第九のみんなも大好きです。だから、みんな幸せになってもらいたいです。
 でも、いざ書きだすと何故か、ヘンタイに襲われそうになったり火事に巻き込まれたりビルから飛び降りて骨を折ったり雪山で死に掛けたり泣いたり叫んだり夢で殺されたりetc.etc。(改めて列記するとすげえな(@@))
 いや、自業自得なんですけど、読む方だって、こんなドS展開満載のお話から愛情を感じ取れと言われても困るだろうなー、と自分で思っていたものですから。ああ、伝わってよかった、とうれしく思いました。
 




 はい、次のお話は明るく、と思ったら、4000リクが「薪さんが鈴木さんに振られる話」だったですね。
 これは~~、さすがに明るくはできないので、あ、でも、そんなに痛くないと思う。わたし的には暗い話ではないと思うのですが、うーん、どうだろう。やっぱり暗いかなあ。
 暗い話ばっかり続くとめげるので、間にこないだ書いたギャグを入れますね。
『恋人のセオリー』というショートショートなんですけど、うちの薪さんは本当にエッチが嫌いなんですよ、というお話です。
 笑っていただけるとうれしいです。
 
 

 

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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
おかげさまで8歳になりました(^^♪
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