遠い空に(2)
あら?
おかしいわ……年末年始休みが7日もあったはずなのに、どうしてコメントのお返事が30通も溜まってるのかしら……。←毎年言ってる。
今年もやっちゃいました、お返事の年越し(^^;) 失敗から学ばないやつですみません。
今年は、お天気に恵まれたお正月でしたね。みなさん、楽しく過ごされたことと思います。
うちはちょっとお義母さんが調子悪くなっちゃって。実家のお祖母ちゃんも入院しちゃったし、わたしは腰を痛めるしで、今までで一番忙しいお正月でした。見事に休みが無かったww
むしろ、休みの日の方が忙しかった気がする……休暇が終わって平常運転に戻りましたので、コメントのお返事も少しずつお返しして行けると思います。よろしくお願いします。
ということで、弊社は今日から仕事です。
元気に現場に行ってまいります!
遠い空に(2)
それから3時間後。青木が決定的な画を発見し、事件は解決した。
薪の睨んだ通り犯人は近所に住む従兄弟で、視覚者の脳には、彼が被害者を刺し殺す場面がはっきりと残っていた。視覚者(被害者の兄)は溺愛していた妹が殺される現場を目撃したショックで自らの記憶を封印、本人もまったく気付かずに日々を過ごしていたが、脳にはその時の記憶が残り、それが夢として現れたのだった。そのため本人も自分が殺人を犯したものと思い込み、あんな遺書を書いてしまった。
「岡部、一課に連絡を。僕は少し休む」
事件が解決して気が緩んだのか、薪は、ひどい疲労を感じた。座っているのが辛いくらいだ。たまらず、ソファに横になった。
目を閉じた薪の耳に、青木の心配そうな声が聞こえた。
「大丈夫ですか? 無理しないでください。昨日も徹夜だったんですから」
昨日も徹夜。そうだったか。
青木の言う昨日の事件の概要を、薪は思い出せない。徹夜で捜査をするくらいだから重大かつ火急を要する事件だったはずだ。そんな大きな事件を、その片鱗すら何故思い出せないのか――。
「仮眠室に行きましょう」
誘いの言葉と一緒に、背中に青木の腕が入ってきた。何をする、と青木の手を払おうとしたが、腕が持ち上がらない。まるで他人のそれのように身体が重かった。
とても動かせないと薪が感じたその身体を、青木は軽々と抱き上げ、すたすたと歩いた。彼の胸は厚くて逞しかった。ロクな現場経験もないくせに、鍛えられた身体をしているのが不思議だった。
「気分はどうですか? お水、持って来ましょうか」
薪をベッドに寝せて、青木はこまごまと薪の世話を焼いた。ゆっくり眠れるようにとパジャマに着替えさせ、喉が乾いたら飲んでくださいと冷たいイオン飲料を枕元に置いた。
薪はその間、されるがままになっていた。青木にすべてを預けると、なんだか妙に安心した気分になった。
足元に回って、薪の足から靴下を脱がせている青木に、薪は訊いた。
「おまえ、どうしてそんなに僕によくしてくれるんだ」
親友の鈴木ならともかく、青木は部下だ。ここまでする義理はないはずなのに、と薪が首を傾げれば、青木は薪の枕元に顔を寄せ、
「実はオレ、薪さんのことが好きなんです」と、とんでもないことを言い出したから、薪の心拍数はたちまちのうちに跳ね上がる。
「そ、それは上司としてって意味だよな?」
「なに白々しいこと言ってんですか。恋愛感情に決まってるじゃないですか。男爵じゃあるまいし、分からないなんて言わせませんよ」
「そ、そんなこといきなり言われても、てか男爵ってなに!?」
薪が激しく抗議すると、青木はあははと屈託なく笑った。告白の直後に笑ったのだから、やっぱりジョークだったのかと片付けることもできたはず、なのにその笑顔に薪の心拍数は倍増する。
なんてあったかい笑顔なんだろう。いつまでも見ていたいと思うのは何故なんだろう。
戸惑う薪に夏用の薄い毛布を掛け、青木は薪に背中を向けた。
「青木」
思わず呼び止めた。用事なんかないのに。
青木はすぐに気付いて、こちらに戻ってきた。薪の額に手を置き、前髪を上げるとそこに自分の額を押し付けた。
顔が近づいたら当然のようにキスされた。フレンチではなく、濃厚なキスだった。
自然に舌を返していた。続きをねだるように、自分から彼の太い首に抱きついた。
「休んでてくださいね。晩ごはん作ってきますから」
職場で夕飯を作るなんて妙なことを言うと思ったけれど、キスが終わると同時に眠くなってしまった。考えることが億劫になり、薪はその疑問を放置して睡魔に身を委ねたのだった。
*****
「いつもこの調子なのか」
ええまあ、と曖昧に頷いて、青木はコーヒーカップをテーブルに置いた。武骨な手がそれを取り上げ、無精ひげに囲まれた口へと運ばれる。
「やっぱりおまえのコーヒーは美味いな。薪さんほどじゃないが、おれたちはみんなおまえのコーヒーを楽しみにしてたんだぞ。まあ、おまえは薪さん専属のコーヒー職人でいたかったんだろうが」
岡部は青木のコーヒーをひとしきり褒めた後、やや唐突に話題を戻した。
「薪さんがこうなって、もう2年か」
しんみりとした口調で、コーヒーカップに溜息を落とす。岡部の肩が自然と落ちる、その余波がカップに伝わって、黒い液体がとぷりと揺れた。
「分からんもんだな。あんなに頭のいい人が、認知症とは」
「頭の良し悪しは関係ないそうですよ。仕事してればボケないって言う人もいるけど、お医者さまの話だと、実際はそうとも限らないみたいです」
薪が眠ることで魔法は解ける。ここは研究室ではない。薪の自宅マンションだ。
薪が鋭く分析していた捜査資料は何も書いていないただの紙であり、3人が熱心に見ていたモニターはスイッチの入っていないテレビであった。亡くなった鈴木はもとより、青木以外の部下たちが現れないのは当然のことだった。
定年退職したのち、天下りを嫌って仕事に就かなかったのがよくなかったのか、青木が仕事に出ている間ずっと一人で過ごしていたのが悪かったのか、彼の頭脳は60代前半から変調をきたした。物忘れがひどくなり、年だな、などと笑っているうちに冗談事ではなくなっていた。
日付を勘違いすることが増え、二人はそれを勤めに出ていないせいだと軽く考えていたが、念のために病院へ行ってみたら認知症だと診断された。天才と言われる頭脳の持ち主だっただけにショックも大きかろうと、青木は診察室で胸の潰れる思いだったが、本人は意外とケロッとしていて、どことなく自分の変調を面白がるようでさえあった。
年を取っても衰えない薪の気の強さには感服したが、診断が下りたその日、老人ホームのパンフレットを取り寄せられたのには参った。おまえに迷惑を掛けるわけにはいかないと、20年以上連れ添った相手から言われたらそちらの方がショックだった。
青木は薪の勇み足を全力で止めた。彼を思い留まらせることには成功したものの、病状の進行は止められなかった。記憶の抜け落ちは著しく増加し、遂には青木の留守中に不安からパニックを起こして部屋を荒らすようになった。
これ以上一人にしておくと、若い頃の自傷癖が再発するかもしれない。青木は潔く警察を辞めた。定年には8年ほど早かったし、薪も強く反対したが、青木の決意は揺らがなかった。
青木には、迷う余地もなかった。仕事よりも薪の身体の方が大事に決まっている。もともと青木は薪に憧れて警察に入庁したのだ。警察の仕事が好きだったのではない、薪のことが好きだったのだ。
そんな青木にとって、今の状況は不幸一色ではなかった。「大変だろう」と言う岡部の言葉に「幸せです」と返した青木の答えは、決して強がりではなかった。
「ただ時々、鈴木さんと間違えられちゃうのがちょっと。オレになんか目もくれないくらい鈴木さんのことが好きなくせに、どうして間違うかなあ」
冗談めかして言うも、本当はそれが手酷く青木を傷つけるのだと、岡部には分かったのだろう。白目がちの三白眼に同情心をいっぱいに浮かべた岡部に、青木は苦笑して、
「楽しいこともあるんですよ」
自分のコーヒーカップを持ち上げて一口すすると、青木はクスッと思い出し笑いをした。
「今の薪さんにとってオレはまだ第九に入ったばかりの新人で、薪さんのハートは鈴木さんががっちり掴んでるわけですけど」
青木は、岡部には理解しがたいであろう薪の現在の人間関係――それはもちろん、薪の変調をきたした脳が作り出した妄想に過ぎないのだが――をざっと説明した。
先刻のことからも分かるように、薪は鈴木にベタ惚れだが、だからと言って鈴木と恋人関係にあるわけではない。鈴木は雪子と結婚して幸せに暮らしており、薪はあくまで親友と言うポジションで、つまり薪の現在の恋人は仕事だ。妄想の世界に生きるようになってさえ鈴木への想いを叶えられないあたり、傍から見れば切な過ぎて泣けてくるが、本人はこの状況に至極満足している。
残念なことに、青木と将来を誓い合い、伴侶として20年以上も過ごしてきたことは忘れてしまっている。しかしそれ故に、青木には別の楽しみも生まれた。
「薪さんね、オレが『薪さんのことが好きです』て言うたびにビックリして焦りまくるんですよ。それが毎回かわいいのなんのって」
青木が惚気ると、岡部は嫌な顔をした。それも当然、青木は今年で53歳、薪は65歳になる。シルバーカップルのお惚気なんか男同士じゃなくても気持ち悪いだろう。
「悪趣味だな、おまえ」
「まあ、翌日には忘れちゃってるんですけどね。おかげでまた、次の口説き文句を考える楽しみが生まれるわけで」
薪の記憶から恋人としての自分が消えた時、青木がどんなに辛かったかどれだけ泣いたか。そんなことは微塵も感じさせない笑顔で青木は軽口を叩いた。
相手の記憶から自分が消えると言うことは、死ぬことに等しい。薪の中に恋人の青木一行がいなくなるのだから、死んだと同じことだ。薪のために、20年間積み重ねてきた献身も思い出もみんな消えてしまうのだ。その喪失感は計り知れない。
陰で流した青木の涙を、慮れないような岡部ではなかった。そしてまた岡部は、それを口にして青木を困らせるような愚かな真似もしなかった。青木が望んだとおりの辟易した貌をつくろい、「あー、コーヒーが美味い」とわざと下品な音を立ててコーヒーを啜った。
「てかあの人、なんで見た目変わんないの?」
岡部の指摘はもっともで、この年になっても薪の美貌はまったく衰えていなかった。一緒に暮らしている青木にも理由は分からない、と言うか医者が不思議がっていた。医者に不思議がられるってそれだけで人に自慢できるんじゃなかろうか。
「まるでオレの方が年上みたいになっちゃって。額、ヤバいし」
「やっぱオールバックがマズかったんじゃないの。あれ、頭皮に負担掛かるみたいよ」
「額だけじゃなくて、おなか周りもヤバくて。あと5センチでメタボです」
「おまえ、40歳頃から太りだしたよな」
「若い頃と同じに食べてたら自然に。薪さんの料理が美味し過ぎるからいけないんですよ……。ところで岡部さんとこはどうなんですか? 雛子さんと」
恋人の責任転嫁のクセが伝染ったのか、青木は自分の体形の変化にそんな理由を付けると、青木よりも10歳以上も年上なのに一向寂しくなる気配のない岡部の頭部への腹いせでもあるのか、岡部家の複雑な事情に嘴を突っ込んだ。ちなみに岡部は退職後、警備員の仕事に就き、母親と飼い猫と3人で平穏な日々を送っている。
「うちは相変わらずだよ。変わるわけねえだろ」
「ニニさん、まだ元気なんですよね」
「そうなんだよ。あのエイリアン、あと10年くらいしか生きないとか言っといて嘘ばっか。しかもあいつさあ、能力回復してきて色んなことできるようになってやがんの。瞬間移動とか、手を使わずにドアを開けたりとか。このまま行くと遠からず、本物の化け猫になるね」
「今度、連れてきてくださいよ。薪さんも喜びますから」
「喜ぶかあ? むちゃくちゃ仲悪かったじゃねえか」
「え。そうでしたっけ」
岡部家の飼い猫と薪の因縁には青木も関わっていたが、遠い昔の話だ。薪も自分もさんざんな目に遭ったけれど、今となれば笑い話になるだろうと思った。
それから半時間ほど、気ままなおしゃべりを楽しんだ後、岡部は席を立った。見送りに外へ出ると、夕方になっていた。
エントランスで岡部に手を振り、後姿に頭を下げた。薪と二人、警察を離れて何年にもなるのに、こうして気にかけて見舞いに来てくれる岡部のやさしさに、感謝の気持ちでいっぱいになった。
黙礼する青木の首筋を、微風が撫でていく。マンションの中庭の灌木で短い生を奏でる蜩の声が聞こえる。夕暮れ時のわずかな清涼感に頬を緩めて、青木は朱く染まった空を見上げた。
昔、第九の屋上で。
薪と一緒に眺めた夕焼けと、美しさは少しも変わらず。
その不変性に込み上げる気持ちは懐古か感傷か。泣きたいような気もしたけれど、その涙は今流すべきではないとも思った。むしろここは男として。
青木は両手を腰に当て、不敵に笑って呟いた。
「さて。明日はなんて言って薪さんを口説こうかな」
おかしいわ……年末年始休みが7日もあったはずなのに、どうしてコメントのお返事が30通も溜まってるのかしら……。←毎年言ってる。
今年もやっちゃいました、お返事の年越し(^^;) 失敗から学ばないやつですみません。
今年は、お天気に恵まれたお正月でしたね。みなさん、楽しく過ごされたことと思います。
うちはちょっとお義母さんが調子悪くなっちゃって。実家のお祖母ちゃんも入院しちゃったし、わたしは腰を痛めるしで、今までで一番忙しいお正月でした。見事に休みが無かったww
むしろ、休みの日の方が忙しかった気がする……休暇が終わって平常運転に戻りましたので、コメントのお返事も少しずつお返しして行けると思います。よろしくお願いします。
ということで、弊社は今日から仕事です。
元気に現場に行ってまいります!
遠い空に(2)
それから3時間後。青木が決定的な画を発見し、事件は解決した。
薪の睨んだ通り犯人は近所に住む従兄弟で、視覚者の脳には、彼が被害者を刺し殺す場面がはっきりと残っていた。視覚者(被害者の兄)は溺愛していた妹が殺される現場を目撃したショックで自らの記憶を封印、本人もまったく気付かずに日々を過ごしていたが、脳にはその時の記憶が残り、それが夢として現れたのだった。そのため本人も自分が殺人を犯したものと思い込み、あんな遺書を書いてしまった。
「岡部、一課に連絡を。僕は少し休む」
事件が解決して気が緩んだのか、薪は、ひどい疲労を感じた。座っているのが辛いくらいだ。たまらず、ソファに横になった。
目を閉じた薪の耳に、青木の心配そうな声が聞こえた。
「大丈夫ですか? 無理しないでください。昨日も徹夜だったんですから」
昨日も徹夜。そうだったか。
青木の言う昨日の事件の概要を、薪は思い出せない。徹夜で捜査をするくらいだから重大かつ火急を要する事件だったはずだ。そんな大きな事件を、その片鱗すら何故思い出せないのか――。
「仮眠室に行きましょう」
誘いの言葉と一緒に、背中に青木の腕が入ってきた。何をする、と青木の手を払おうとしたが、腕が持ち上がらない。まるで他人のそれのように身体が重かった。
とても動かせないと薪が感じたその身体を、青木は軽々と抱き上げ、すたすたと歩いた。彼の胸は厚くて逞しかった。ロクな現場経験もないくせに、鍛えられた身体をしているのが不思議だった。
「気分はどうですか? お水、持って来ましょうか」
薪をベッドに寝せて、青木はこまごまと薪の世話を焼いた。ゆっくり眠れるようにとパジャマに着替えさせ、喉が乾いたら飲んでくださいと冷たいイオン飲料を枕元に置いた。
薪はその間、されるがままになっていた。青木にすべてを預けると、なんだか妙に安心した気分になった。
足元に回って、薪の足から靴下を脱がせている青木に、薪は訊いた。
「おまえ、どうしてそんなに僕によくしてくれるんだ」
親友の鈴木ならともかく、青木は部下だ。ここまでする義理はないはずなのに、と薪が首を傾げれば、青木は薪の枕元に顔を寄せ、
「実はオレ、薪さんのことが好きなんです」と、とんでもないことを言い出したから、薪の心拍数はたちまちのうちに跳ね上がる。
「そ、それは上司としてって意味だよな?」
「なに白々しいこと言ってんですか。恋愛感情に決まってるじゃないですか。男爵じゃあるまいし、分からないなんて言わせませんよ」
「そ、そんなこといきなり言われても、てか男爵ってなに!?」
薪が激しく抗議すると、青木はあははと屈託なく笑った。告白の直後に笑ったのだから、やっぱりジョークだったのかと片付けることもできたはず、なのにその笑顔に薪の心拍数は倍増する。
なんてあったかい笑顔なんだろう。いつまでも見ていたいと思うのは何故なんだろう。
戸惑う薪に夏用の薄い毛布を掛け、青木は薪に背中を向けた。
「青木」
思わず呼び止めた。用事なんかないのに。
青木はすぐに気付いて、こちらに戻ってきた。薪の額に手を置き、前髪を上げるとそこに自分の額を押し付けた。
顔が近づいたら当然のようにキスされた。フレンチではなく、濃厚なキスだった。
自然に舌を返していた。続きをねだるように、自分から彼の太い首に抱きついた。
「休んでてくださいね。晩ごはん作ってきますから」
職場で夕飯を作るなんて妙なことを言うと思ったけれど、キスが終わると同時に眠くなってしまった。考えることが億劫になり、薪はその疑問を放置して睡魔に身を委ねたのだった。
*****
「いつもこの調子なのか」
ええまあ、と曖昧に頷いて、青木はコーヒーカップをテーブルに置いた。武骨な手がそれを取り上げ、無精ひげに囲まれた口へと運ばれる。
「やっぱりおまえのコーヒーは美味いな。薪さんほどじゃないが、おれたちはみんなおまえのコーヒーを楽しみにしてたんだぞ。まあ、おまえは薪さん専属のコーヒー職人でいたかったんだろうが」
岡部は青木のコーヒーをひとしきり褒めた後、やや唐突に話題を戻した。
「薪さんがこうなって、もう2年か」
しんみりとした口調で、コーヒーカップに溜息を落とす。岡部の肩が自然と落ちる、その余波がカップに伝わって、黒い液体がとぷりと揺れた。
「分からんもんだな。あんなに頭のいい人が、認知症とは」
「頭の良し悪しは関係ないそうですよ。仕事してればボケないって言う人もいるけど、お医者さまの話だと、実際はそうとも限らないみたいです」
薪が眠ることで魔法は解ける。ここは研究室ではない。薪の自宅マンションだ。
薪が鋭く分析していた捜査資料は何も書いていないただの紙であり、3人が熱心に見ていたモニターはスイッチの入っていないテレビであった。亡くなった鈴木はもとより、青木以外の部下たちが現れないのは当然のことだった。
定年退職したのち、天下りを嫌って仕事に就かなかったのがよくなかったのか、青木が仕事に出ている間ずっと一人で過ごしていたのが悪かったのか、彼の頭脳は60代前半から変調をきたした。物忘れがひどくなり、年だな、などと笑っているうちに冗談事ではなくなっていた。
日付を勘違いすることが増え、二人はそれを勤めに出ていないせいだと軽く考えていたが、念のために病院へ行ってみたら認知症だと診断された。天才と言われる頭脳の持ち主だっただけにショックも大きかろうと、青木は診察室で胸の潰れる思いだったが、本人は意外とケロッとしていて、どことなく自分の変調を面白がるようでさえあった。
年を取っても衰えない薪の気の強さには感服したが、診断が下りたその日、老人ホームのパンフレットを取り寄せられたのには参った。おまえに迷惑を掛けるわけにはいかないと、20年以上連れ添った相手から言われたらそちらの方がショックだった。
青木は薪の勇み足を全力で止めた。彼を思い留まらせることには成功したものの、病状の進行は止められなかった。記憶の抜け落ちは著しく増加し、遂には青木の留守中に不安からパニックを起こして部屋を荒らすようになった。
これ以上一人にしておくと、若い頃の自傷癖が再発するかもしれない。青木は潔く警察を辞めた。定年には8年ほど早かったし、薪も強く反対したが、青木の決意は揺らがなかった。
青木には、迷う余地もなかった。仕事よりも薪の身体の方が大事に決まっている。もともと青木は薪に憧れて警察に入庁したのだ。警察の仕事が好きだったのではない、薪のことが好きだったのだ。
そんな青木にとって、今の状況は不幸一色ではなかった。「大変だろう」と言う岡部の言葉に「幸せです」と返した青木の答えは、決して強がりではなかった。
「ただ時々、鈴木さんと間違えられちゃうのがちょっと。オレになんか目もくれないくらい鈴木さんのことが好きなくせに、どうして間違うかなあ」
冗談めかして言うも、本当はそれが手酷く青木を傷つけるのだと、岡部には分かったのだろう。白目がちの三白眼に同情心をいっぱいに浮かべた岡部に、青木は苦笑して、
「楽しいこともあるんですよ」
自分のコーヒーカップを持ち上げて一口すすると、青木はクスッと思い出し笑いをした。
「今の薪さんにとってオレはまだ第九に入ったばかりの新人で、薪さんのハートは鈴木さんががっちり掴んでるわけですけど」
青木は、岡部には理解しがたいであろう薪の現在の人間関係――それはもちろん、薪の変調をきたした脳が作り出した妄想に過ぎないのだが――をざっと説明した。
先刻のことからも分かるように、薪は鈴木にベタ惚れだが、だからと言って鈴木と恋人関係にあるわけではない。鈴木は雪子と結婚して幸せに暮らしており、薪はあくまで親友と言うポジションで、つまり薪の現在の恋人は仕事だ。妄想の世界に生きるようになってさえ鈴木への想いを叶えられないあたり、傍から見れば切な過ぎて泣けてくるが、本人はこの状況に至極満足している。
残念なことに、青木と将来を誓い合い、伴侶として20年以上も過ごしてきたことは忘れてしまっている。しかしそれ故に、青木には別の楽しみも生まれた。
「薪さんね、オレが『薪さんのことが好きです』て言うたびにビックリして焦りまくるんですよ。それが毎回かわいいのなんのって」
青木が惚気ると、岡部は嫌な顔をした。それも当然、青木は今年で53歳、薪は65歳になる。シルバーカップルのお惚気なんか男同士じゃなくても気持ち悪いだろう。
「悪趣味だな、おまえ」
「まあ、翌日には忘れちゃってるんですけどね。おかげでまた、次の口説き文句を考える楽しみが生まれるわけで」
薪の記憶から恋人としての自分が消えた時、青木がどんなに辛かったかどれだけ泣いたか。そんなことは微塵も感じさせない笑顔で青木は軽口を叩いた。
相手の記憶から自分が消えると言うことは、死ぬことに等しい。薪の中に恋人の青木一行がいなくなるのだから、死んだと同じことだ。薪のために、20年間積み重ねてきた献身も思い出もみんな消えてしまうのだ。その喪失感は計り知れない。
陰で流した青木の涙を、慮れないような岡部ではなかった。そしてまた岡部は、それを口にして青木を困らせるような愚かな真似もしなかった。青木が望んだとおりの辟易した貌をつくろい、「あー、コーヒーが美味い」とわざと下品な音を立ててコーヒーを啜った。
「てかあの人、なんで見た目変わんないの?」
岡部の指摘はもっともで、この年になっても薪の美貌はまったく衰えていなかった。一緒に暮らしている青木にも理由は分からない、と言うか医者が不思議がっていた。医者に不思議がられるってそれだけで人に自慢できるんじゃなかろうか。
「まるでオレの方が年上みたいになっちゃって。額、ヤバいし」
「やっぱオールバックがマズかったんじゃないの。あれ、頭皮に負担掛かるみたいよ」
「額だけじゃなくて、おなか周りもヤバくて。あと5センチでメタボです」
「おまえ、40歳頃から太りだしたよな」
「若い頃と同じに食べてたら自然に。薪さんの料理が美味し過ぎるからいけないんですよ……。ところで岡部さんとこはどうなんですか? 雛子さんと」
恋人の責任転嫁のクセが伝染ったのか、青木は自分の体形の変化にそんな理由を付けると、青木よりも10歳以上も年上なのに一向寂しくなる気配のない岡部の頭部への腹いせでもあるのか、岡部家の複雑な事情に嘴を突っ込んだ。ちなみに岡部は退職後、警備員の仕事に就き、母親と飼い猫と3人で平穏な日々を送っている。
「うちは相変わらずだよ。変わるわけねえだろ」
「ニニさん、まだ元気なんですよね」
「そうなんだよ。あのエイリアン、あと10年くらいしか生きないとか言っといて嘘ばっか。しかもあいつさあ、能力回復してきて色んなことできるようになってやがんの。瞬間移動とか、手を使わずにドアを開けたりとか。このまま行くと遠からず、本物の化け猫になるね」
「今度、連れてきてくださいよ。薪さんも喜びますから」
「喜ぶかあ? むちゃくちゃ仲悪かったじゃねえか」
「え。そうでしたっけ」
岡部家の飼い猫と薪の因縁には青木も関わっていたが、遠い昔の話だ。薪も自分もさんざんな目に遭ったけれど、今となれば笑い話になるだろうと思った。
それから半時間ほど、気ままなおしゃべりを楽しんだ後、岡部は席を立った。見送りに外へ出ると、夕方になっていた。
エントランスで岡部に手を振り、後姿に頭を下げた。薪と二人、警察を離れて何年にもなるのに、こうして気にかけて見舞いに来てくれる岡部のやさしさに、感謝の気持ちでいっぱいになった。
黙礼する青木の首筋を、微風が撫でていく。マンションの中庭の灌木で短い生を奏でる蜩の声が聞こえる。夕暮れ時のわずかな清涼感に頬を緩めて、青木は朱く染まった空を見上げた。
昔、第九の屋上で。
薪と一緒に眺めた夕焼けと、美しさは少しも変わらず。
その不変性に込み上げる気持ちは懐古か感傷か。泣きたいような気もしたけれど、その涙は今流すべきではないとも思った。むしろここは男として。
青木は両手を腰に当て、不敵に笑って呟いた。
「さて。明日はなんて言って薪さんを口説こうかな」