ファイヤーウォール(12)
ファイヤーウォール(12)
「本当ですか?」
岡部がもたらした朗報に、青木は満面の笑みを浮かべた。
「岡部さんと一緒なら家に来ても良いって、薪さんが言ったんですか?」
第九の新人の屈託のない笑顔は、薪の笑顔に負けず劣らず岡部の心を癒してくれる。
青木との会話は、薪との腹の探りあいのようなやり取りと比べるとひどく単純で、人間にとって本当に大切なものは優秀な頭脳でも特殊な才能でもなく、ただ心に感じたままを正直に表面に出すことのできる勇気なのだと教えてくれる。
青木は右手をぐっと握り締め、自分の胸元に引き寄せる。自然にガッツポーズが出るほど喜ぶなんて、こいつは本当に薪のことが好きなのだ。
「いいのか? そんなに簡単に許しちゃって。もう少し懲らしめてやっても良いんだぞ。なんていうか、仕事の上下関係とこういうことは別だろ?」
「薪さんは悪くないです。オレが悪いんです。あのひとが怒るの、当たり前です」
青木の反応も当たり前だと思うが。
「おまえ、男としてのプライドないのか」
「ありません」
言い切った。しかもコンマ1秒で返してきた。
まあ、そんなものが欠片でもあったら、薪と付き合いたいなどと思わないだろう。
「よかった。もう二度と薪さんのプライベートの顔が見れないと思ってたから。みんな岡部さんのおかげです。ありがとうございます」
男の尊厳を捨てた軟弱者は、若い頬を紅潮させて嬉しそうに笑う。プライドなんかなくても、人間は幸せになれるということか。
万が一、青木が薪への想いを遂げることになったとしても、こいつに待っているのは恋人としての日々ではない。相手のどんなわがままも無茶な要求も笑顔で聞いて、白を黒と言い右を左と言う。
不平も不満もこぼすことなく、常に相手の幸せを最優先に考える。見返りらしきものは何ひとつなく、献身的にその身を捧げ続ける。
それを一般に、下僕と言う。
「それでいいのか? 男としてそれでいいのか?」
「楽しみだなあ。今夜のごはん、何かなあ」
「……ダメだ、こいつ」
青木の未来に不安を抱いた岡部だったが、その夜早くもそれが現実のものとなった。
マンションのドアを開けた薪が、凶悪な眼で岡部の連れを睨みつけ、青木は不安そうな顔になって岡部に視線を縋らせてきた。
「ここへは二度と来るなと言ったはずだ」
「薪さん、青木は」
「岡部はちょっと黙っててくれ」
青木のネクタイを掴んでぐいっと自分のほうに引き寄せ、亜麻色の瞳を青木の視線にぶつける。つややかなくちびるを開き、薪は怒涛のように青木を責めた。
「いいか。僕はおまえにここに来てくれって頼んだことは一度もない。いつもおまえが押しかけて来るんだ。そうだよな」
岡部にはあれほど素直に頭を下げた薪が、青木には居丈高に言い募っている。自分のやったことを悪いと思っていないのだ。
「僕の迷惑も考えず、勝手に来てメシ食って酒飲んで。僕はやさしいから、おまえのそういう身勝手な行動を許してやってるんだ。僕に感謝しろ」
なんて傲慢な言い草だろう。いくら青木でも、これでは怒って帰ってしまう。
しかし、青木はにっこりと笑って、薪の非難を余裕で受け止めた。
「はい。感謝してます。ありがとうございます」
「わかればいい」
薪は軽く頷くと、さっさと家の中に入って行ってしまった。岡部は開いた口が塞がらない。
昨日薪は、青木とは友達でいたいと言った。しかし、こんな友人関係があるだろうか。
「なんなんだ? 今の会話は。薪さんは何が言いたかったんだ?」
「優位に立ちたいんです」
「あん?」
「オレより優位に立ちたいんですよ。可愛いなあ」
「可愛い? あれが?」
岡部にはとても理解できない。
「何やってんだ青木。おまえが一番よく食べるんだから、早く手伝え」
「はい!」
意地悪継母のような薪の言葉に、青木は元気に答えて袖をまくる。下僕というより、もはや奴隷だ。
青木とふたりでいるときは、きっと薪はいつもあの調子なのだろう。すべてを許してしまう青木のやさしさが、薪のわがままと女王様気質を増長させてしまったに違いない。
「……アホくせえ」
薪が青木に対して理不尽な言動を取る原因は、青木自身にあったらしい。
自分で薪のわがままを大きく育ててしまったのだ。責任は青木がとればいい。岡部ではとても付き合いきれない。
しかし、このまま薪の我儘がエスカレートして青木の忍耐力を超えるときが来てしまったら、薪はどうするのだろう。あの調子では引き止めることもできなそうだが。
岡部のそんな不安は、台所に立つふたりの姿を見た途端、きれいに消えた。
鍋の中を覗き込みながら、ふたりは何事か話している。
この匂いは煮込みハンバーグだ。デミグラスソースで野菜と一緒に煮込んだ荒挽きハンバーグは、薪の得意料理で、青木の大好物だ。薪はちゃんと青木の好物を作って待っていたのだ。
「ちょっとだけ味見させてください」
「仕方ないな。ほら」
薪は菜箸で鍋の中からハンバーグの端をちぎって、青木の口に入れてやる。美味しいです、と青木が褒めると、薪は「そうか?」と自慢げな顔になる。
これは、青木が思い込むのも無理はない。薪も自分を憎からず思ってくれていると、青木でなくとも信じてしまう。いや、実際憎からず思っているのだ。そうでなかったらあの笑顔は出ない。
返す返す、アホくせえ。
これは『犬も食わないなんとか』ではないのか。自分が懸命に薪を説得したのは、夫婦喧嘩の仲裁に、隣の家のオヤジがのこのこと出てきたようなものだったのではないか。
「何回味見すれば満足するんだ。岡部の分がなくなっちゃうだろ」
「じゃあ、人参だけは岡部さんの分ということで」
「ちょっと待て!」
鍋の中のハンバーグは既に4つしか残っていない。薪はいつもこのハンバーグを7個作るから、青木は3個も食べたことになる。ちなみにその内訳は、青木と岡部が3つで薪が残りの1つだ。
「おまえの皿には野菜だけ盛れよ」
「えー、ひどいですよ。このハンバーグ、ごはんにぴったりの味付けなのに」
「味見で3つも食っといて、ひどいのはどっちだ!」
「わかりました。じゃ、2つずつ分けましょう」
「仕方ねえな。我慢してやるか」
「あの、僕の分は?」
「野菜は余りますから」
「なんで僕は、いつも自分のうちで食いっぱぐれるんだ?」
いつものとぼけた会話に、ニヤニヤと笑う。
首をかしげながらも、ごはんをよそる薪の手がやさしい。
そんな風に楽しいときを過ごしても、薪は完全に青木を許したわけではなかった。
『ここに来るときは、必ず岡部と一緒に来い』
食事が終わって酒の用意に移ろうとしたときに、薪はきっぱりと言った。
それは青木のことを信用していない、と言外に言ったも同然だったが、それでも青木は「はい」と素直に頷いた。
無用な警戒令だと岡部は思ったが、意外にもその日々は1月近くも続いたのだった。
「本当ですか?」
岡部がもたらした朗報に、青木は満面の笑みを浮かべた。
「岡部さんと一緒なら家に来ても良いって、薪さんが言ったんですか?」
第九の新人の屈託のない笑顔は、薪の笑顔に負けず劣らず岡部の心を癒してくれる。
青木との会話は、薪との腹の探りあいのようなやり取りと比べるとひどく単純で、人間にとって本当に大切なものは優秀な頭脳でも特殊な才能でもなく、ただ心に感じたままを正直に表面に出すことのできる勇気なのだと教えてくれる。
青木は右手をぐっと握り締め、自分の胸元に引き寄せる。自然にガッツポーズが出るほど喜ぶなんて、こいつは本当に薪のことが好きなのだ。
「いいのか? そんなに簡単に許しちゃって。もう少し懲らしめてやっても良いんだぞ。なんていうか、仕事の上下関係とこういうことは別だろ?」
「薪さんは悪くないです。オレが悪いんです。あのひとが怒るの、当たり前です」
青木の反応も当たり前だと思うが。
「おまえ、男としてのプライドないのか」
「ありません」
言い切った。しかもコンマ1秒で返してきた。
まあ、そんなものが欠片でもあったら、薪と付き合いたいなどと思わないだろう。
「よかった。もう二度と薪さんのプライベートの顔が見れないと思ってたから。みんな岡部さんのおかげです。ありがとうございます」
男の尊厳を捨てた軟弱者は、若い頬を紅潮させて嬉しそうに笑う。プライドなんかなくても、人間は幸せになれるということか。
万が一、青木が薪への想いを遂げることになったとしても、こいつに待っているのは恋人としての日々ではない。相手のどんなわがままも無茶な要求も笑顔で聞いて、白を黒と言い右を左と言う。
不平も不満もこぼすことなく、常に相手の幸せを最優先に考える。見返りらしきものは何ひとつなく、献身的にその身を捧げ続ける。
それを一般に、下僕と言う。
「それでいいのか? 男としてそれでいいのか?」
「楽しみだなあ。今夜のごはん、何かなあ」
「……ダメだ、こいつ」
青木の未来に不安を抱いた岡部だったが、その夜早くもそれが現実のものとなった。
マンションのドアを開けた薪が、凶悪な眼で岡部の連れを睨みつけ、青木は不安そうな顔になって岡部に視線を縋らせてきた。
「ここへは二度と来るなと言ったはずだ」
「薪さん、青木は」
「岡部はちょっと黙っててくれ」
青木のネクタイを掴んでぐいっと自分のほうに引き寄せ、亜麻色の瞳を青木の視線にぶつける。つややかなくちびるを開き、薪は怒涛のように青木を責めた。
「いいか。僕はおまえにここに来てくれって頼んだことは一度もない。いつもおまえが押しかけて来るんだ。そうだよな」
岡部にはあれほど素直に頭を下げた薪が、青木には居丈高に言い募っている。自分のやったことを悪いと思っていないのだ。
「僕の迷惑も考えず、勝手に来てメシ食って酒飲んで。僕はやさしいから、おまえのそういう身勝手な行動を許してやってるんだ。僕に感謝しろ」
なんて傲慢な言い草だろう。いくら青木でも、これでは怒って帰ってしまう。
しかし、青木はにっこりと笑って、薪の非難を余裕で受け止めた。
「はい。感謝してます。ありがとうございます」
「わかればいい」
薪は軽く頷くと、さっさと家の中に入って行ってしまった。岡部は開いた口が塞がらない。
昨日薪は、青木とは友達でいたいと言った。しかし、こんな友人関係があるだろうか。
「なんなんだ? 今の会話は。薪さんは何が言いたかったんだ?」
「優位に立ちたいんです」
「あん?」
「オレより優位に立ちたいんですよ。可愛いなあ」
「可愛い? あれが?」
岡部にはとても理解できない。
「何やってんだ青木。おまえが一番よく食べるんだから、早く手伝え」
「はい!」
意地悪継母のような薪の言葉に、青木は元気に答えて袖をまくる。下僕というより、もはや奴隷だ。
青木とふたりでいるときは、きっと薪はいつもあの調子なのだろう。すべてを許してしまう青木のやさしさが、薪のわがままと女王様気質を増長させてしまったに違いない。
「……アホくせえ」
薪が青木に対して理不尽な言動を取る原因は、青木自身にあったらしい。
自分で薪のわがままを大きく育ててしまったのだ。責任は青木がとればいい。岡部ではとても付き合いきれない。
しかし、このまま薪の我儘がエスカレートして青木の忍耐力を超えるときが来てしまったら、薪はどうするのだろう。あの調子では引き止めることもできなそうだが。
岡部のそんな不安は、台所に立つふたりの姿を見た途端、きれいに消えた。
鍋の中を覗き込みながら、ふたりは何事か話している。
この匂いは煮込みハンバーグだ。デミグラスソースで野菜と一緒に煮込んだ荒挽きハンバーグは、薪の得意料理で、青木の大好物だ。薪はちゃんと青木の好物を作って待っていたのだ。
「ちょっとだけ味見させてください」
「仕方ないな。ほら」
薪は菜箸で鍋の中からハンバーグの端をちぎって、青木の口に入れてやる。美味しいです、と青木が褒めると、薪は「そうか?」と自慢げな顔になる。
これは、青木が思い込むのも無理はない。薪も自分を憎からず思ってくれていると、青木でなくとも信じてしまう。いや、実際憎からず思っているのだ。そうでなかったらあの笑顔は出ない。
返す返す、アホくせえ。
これは『犬も食わないなんとか』ではないのか。自分が懸命に薪を説得したのは、夫婦喧嘩の仲裁に、隣の家のオヤジがのこのこと出てきたようなものだったのではないか。
「何回味見すれば満足するんだ。岡部の分がなくなっちゃうだろ」
「じゃあ、人参だけは岡部さんの分ということで」
「ちょっと待て!」
鍋の中のハンバーグは既に4つしか残っていない。薪はいつもこのハンバーグを7個作るから、青木は3個も食べたことになる。ちなみにその内訳は、青木と岡部が3つで薪が残りの1つだ。
「おまえの皿には野菜だけ盛れよ」
「えー、ひどいですよ。このハンバーグ、ごはんにぴったりの味付けなのに」
「味見で3つも食っといて、ひどいのはどっちだ!」
「わかりました。じゃ、2つずつ分けましょう」
「仕方ねえな。我慢してやるか」
「あの、僕の分は?」
「野菜は余りますから」
「なんで僕は、いつも自分のうちで食いっぱぐれるんだ?」
いつものとぼけた会話に、ニヤニヤと笑う。
首をかしげながらも、ごはんをよそる薪の手がやさしい。
そんな風に楽しいときを過ごしても、薪は完全に青木を許したわけではなかった。
『ここに来るときは、必ず岡部と一緒に来い』
食事が終わって酒の用意に移ろうとしたときに、薪はきっぱりと言った。
それは青木のことを信用していない、と言外に言ったも同然だったが、それでも青木は「はい」と素直に頷いた。
無用な警戒令だと岡部は思ったが、意外にもその日々は1月近くも続いたのだった。