デート(8)
デート(8)
ぽっかりと空いた休日に、薪はふて寝を決め込んでいる。
血に汚れたシーツを洗濯機に入れて、新しいものと取り替え、風呂に入ったら、もうやることは何もない。
今日は家から一歩も出ない。一日中、鈴木と一緒だ。
今までは、ずっとこうだった。
休みの日には、部屋の掃除と洗濯をして。たまに朝トレで岡部に会うと、朝食に誘ったりしたけれど、基本的にはいつも独りだった。
「独りじゃないか。おまえがいるもんな」
ベッドの頭部から親友の写真を取り、枕の端に載せる。
鈴木と恋人同士だった頃は、目が覚めたらこうして鈴木の寝顔を見つめていた。
寝ても覚めても鈴木と一緒にいられることが、幸せで幸せで。鈴木と一緒なら、いつ死んでもいいと思ってた。
あんな恋は、もう二度とできない。
「大好きだよ。鈴木」
写真立てを寝せておいて、薪はそこに覆いかぶさってキスをする。むかし隣で眠っていた恋人にしたように、これは朝の挨拶だ。
恋人同士の熱いキスの最中に、無粋にもチャイムが鳴って、薪は時計を見た。
まだ8時前だ。日曜のこんな時間に他人の家を訪問するような礼儀知らずは、シカトするに限る。どうせロクなやつじゃない。新聞の勧誘とか、きっとそんなんだ。
薪は来客を無視して、鈴木とのキスを続行する。しかし、訪問者はしつこかった。
チャイムは鳴り続け、薪は癇癪を起こしてベッドから飛び降りた。
まったく、常識を知らない最近の連中は頭にくる。
リビングに走っていき、インターホンを取り上げる。カメラも見ずに、薪は来訪者を怒鳴りつけた。
「うるさい! 新聞なんかいらん!」
『新聞? それは買ってきませんでしたけど』
聞きなれた部下の声に、驚いてカメラの映像を確認する。メガネをかけた黒髪の男が、百合の花束を抱えて立っている。
びっくりしたら、身体が勝手に動いてしまった。気がついたときには、薪の手はドアのロックを外していて、早朝の来訪者の入室を許してしまっていた。
「あ、やっぱりカゼひいちゃったんですね? 早起きの薪さんが、今頃までパジャマでいるわけありませんものね」
薪は、自分の目が信じられない。
なんでこいつがここにいるんだ? 今さっき、約束をキャンセルしたばかりなのに。
「これ、お見舞いです。そこのコンビニのプリンですけど」
まだどこの店も開いてなくて、と青木は言って、薪にコンビニの袋を手渡した。
「この花は昨日から用意しておいたんです。公園の花壇から盗んできたんじゃありませんよ」
薪の注視の理由を花の調達先のことだと勘違いして、青木は必要のない言い訳をする。
「少し顔が赤いみたいですね。熱があるんじゃないですか?」
大きな手が、薪の額に触れる。
右手で邪険に振り払う。青木の手に薪の手が当たって、パシッと音を立てた。
心配してくれている相手に、こんな態度を取るのは良くないが、薪にはこうすることしかできない。あの夢が二晩続いたら、明日は仕事にならない。
手を振り払われたのがカンに障ったのか、青木はくるりと薪に背を向けた。
そのまま、薪から離れていこうとする。その後姿が、夢で薪を見捨てた背中と重なった。
「あ……」
夢を現実にトレースしたように、青木は白い百合を胸に抱いていた。夢では孔雀だったけれど、色は同じだ。今とそっくりに薪に背中を向けて、薪がどんなに叫んでも戻ってきてくれなかった。
薪は夢中で手を伸ばした。
現実には、薪を阻む鉄格子はない。一歩足を踏み出せば薪の腕は、青木を後ろから抱きしめることができた。
しっかりした肉の感触が腕に伝わってくる。
―――― 行くなっ!
大きな背中に顔を埋めて、夢で叫んだように心の中で叫ぶ。口には出せない激しい想いが、薪の中で渦を巻く。
薪の手に、大きな手が重なった。
「どこへも行きません。花を活けてくるだけですよ」
青木の言葉は、薪を驚かせる。
心で思ったことに返事をしてくるなんて、こいつの耳はどうなってるんだ。
薄いシャツの背中は、ダイレクトに相手の体温を感じさせる。暖かくて、とても安心する。
「よかったあ。薪さん、オレと行くのが嫌になっちゃったのかと思いました。ちゃんと楽しみにしてくれてたんですね」
唐突な話の展開に、薪は目を開ける。
見ると、青木の視線はリビングのローテーブルに注がれている。
そこには、今日着て行こうと思っていた洋服と、シルバーのバングルが置いてある。隣にはショルダーバックと水族館のパンフレット。完璧な証拠品だ。
青木が何を根拠にそんなことを言い出したのかが分かって、見る見る薪の顔が赤くなる。顔が見えない位置関係で助かった。
「やっぱり来月、行きましょうよ。オレとふたりなのがマズイなら、岡部さんとか三好先生とか、誘えばいいじゃないですか」
またこいつは、心にもないことを。
こいつは僕のことが好きなんだから、ふたりだけの方がいいに決まっている。ふたりきりで過ごして、あわよくばそういう関係に持ち込みたい、と思っているはずだ。
青木の背に顔を伏せたまま、薪は小さな声で訊いた。
「それでいいのか?」
「はい。薪さんが昨日みたいに笑ってくれるなら、オレはそれでもいいです」
青木は薪の手を握ったまま、明るく言った。
「何なら、第九のみんなで行きましょうか? 署内レクリエーションみたく、予定組んじゃいましょうよ」
冗談のように言うが、案外本気かもしれない。
大の男が7人も揃って水族館をぞろぞろと歩いたら、それはきっと水族館の方もいい迷惑だろう。特に岡部のことは、小さい子供が見たら、泣き出しそうだ。
薪は青木から手を放した。
ベル式の目覚まし時計を見て、時刻を確認する。7時56分。
「薪さん?」
薪はローテーブルの衣服を持って、クローゼットに向かう。
用意しておいた半袖のシャツの代わりに、長袖のTシャツを着る。バングルはやめて、チョーカーをつける。昨日のように髪を整える時間がないから、ウエットワックスで前髪だけ流して、キャップをかぶることにする。
「行くぞ」
「え? あの、風邪は?」
「だれが風邪ひいたなんて言った」
「でも、あの」
「早くしろ! ショーの時間に間に合わなくなっちゃうだろ!」
「はい!」
怒号一発で、部下は上司の言いなりになるものだ。
青木は急いで花をバケツに活け、プリンを冷蔵庫にしまった。嬉しそうに薪の鞄を持つと、スニーカーを履いて玄関を出る。
薪は出掛けに鏡を覗いて、身だしなみのチェックをする。
チョーカーの飾りが中心にくるように位置を調整し、キャップのつばを動かして、一番オシャレに見える角度に合わせる。
鏡の中の薪は、とても勇ましい顔をしている。強い目をして、眉をきりりと上げている。
薪は、覚悟を決めた。
例え今夜の悪夢が、僕の心臓を止めても。
……シャチのショーが見たい。
「行ってくるよ、鈴木」
玄関の靴箱の上に飾られた写真にキスをして、薪は家を出た。
―了―
(2009.4)
ぽっかりと空いた休日に、薪はふて寝を決め込んでいる。
血に汚れたシーツを洗濯機に入れて、新しいものと取り替え、風呂に入ったら、もうやることは何もない。
今日は家から一歩も出ない。一日中、鈴木と一緒だ。
今までは、ずっとこうだった。
休みの日には、部屋の掃除と洗濯をして。たまに朝トレで岡部に会うと、朝食に誘ったりしたけれど、基本的にはいつも独りだった。
「独りじゃないか。おまえがいるもんな」
ベッドの頭部から親友の写真を取り、枕の端に載せる。
鈴木と恋人同士だった頃は、目が覚めたらこうして鈴木の寝顔を見つめていた。
寝ても覚めても鈴木と一緒にいられることが、幸せで幸せで。鈴木と一緒なら、いつ死んでもいいと思ってた。
あんな恋は、もう二度とできない。
「大好きだよ。鈴木」
写真立てを寝せておいて、薪はそこに覆いかぶさってキスをする。むかし隣で眠っていた恋人にしたように、これは朝の挨拶だ。
恋人同士の熱いキスの最中に、無粋にもチャイムが鳴って、薪は時計を見た。
まだ8時前だ。日曜のこんな時間に他人の家を訪問するような礼儀知らずは、シカトするに限る。どうせロクなやつじゃない。新聞の勧誘とか、きっとそんなんだ。
薪は来客を無視して、鈴木とのキスを続行する。しかし、訪問者はしつこかった。
チャイムは鳴り続け、薪は癇癪を起こしてベッドから飛び降りた。
まったく、常識を知らない最近の連中は頭にくる。
リビングに走っていき、インターホンを取り上げる。カメラも見ずに、薪は来訪者を怒鳴りつけた。
「うるさい! 新聞なんかいらん!」
『新聞? それは買ってきませんでしたけど』
聞きなれた部下の声に、驚いてカメラの映像を確認する。メガネをかけた黒髪の男が、百合の花束を抱えて立っている。
びっくりしたら、身体が勝手に動いてしまった。気がついたときには、薪の手はドアのロックを外していて、早朝の来訪者の入室を許してしまっていた。
「あ、やっぱりカゼひいちゃったんですね? 早起きの薪さんが、今頃までパジャマでいるわけありませんものね」
薪は、自分の目が信じられない。
なんでこいつがここにいるんだ? 今さっき、約束をキャンセルしたばかりなのに。
「これ、お見舞いです。そこのコンビニのプリンですけど」
まだどこの店も開いてなくて、と青木は言って、薪にコンビニの袋を手渡した。
「この花は昨日から用意しておいたんです。公園の花壇から盗んできたんじゃありませんよ」
薪の注視の理由を花の調達先のことだと勘違いして、青木は必要のない言い訳をする。
「少し顔が赤いみたいですね。熱があるんじゃないですか?」
大きな手が、薪の額に触れる。
右手で邪険に振り払う。青木の手に薪の手が当たって、パシッと音を立てた。
心配してくれている相手に、こんな態度を取るのは良くないが、薪にはこうすることしかできない。あの夢が二晩続いたら、明日は仕事にならない。
手を振り払われたのがカンに障ったのか、青木はくるりと薪に背を向けた。
そのまま、薪から離れていこうとする。その後姿が、夢で薪を見捨てた背中と重なった。
「あ……」
夢を現実にトレースしたように、青木は白い百合を胸に抱いていた。夢では孔雀だったけれど、色は同じだ。今とそっくりに薪に背中を向けて、薪がどんなに叫んでも戻ってきてくれなかった。
薪は夢中で手を伸ばした。
現実には、薪を阻む鉄格子はない。一歩足を踏み出せば薪の腕は、青木を後ろから抱きしめることができた。
しっかりした肉の感触が腕に伝わってくる。
―――― 行くなっ!
大きな背中に顔を埋めて、夢で叫んだように心の中で叫ぶ。口には出せない激しい想いが、薪の中で渦を巻く。
薪の手に、大きな手が重なった。
「どこへも行きません。花を活けてくるだけですよ」
青木の言葉は、薪を驚かせる。
心で思ったことに返事をしてくるなんて、こいつの耳はどうなってるんだ。
薄いシャツの背中は、ダイレクトに相手の体温を感じさせる。暖かくて、とても安心する。
「よかったあ。薪さん、オレと行くのが嫌になっちゃったのかと思いました。ちゃんと楽しみにしてくれてたんですね」
唐突な話の展開に、薪は目を開ける。
見ると、青木の視線はリビングのローテーブルに注がれている。
そこには、今日着て行こうと思っていた洋服と、シルバーのバングルが置いてある。隣にはショルダーバックと水族館のパンフレット。完璧な証拠品だ。
青木が何を根拠にそんなことを言い出したのかが分かって、見る見る薪の顔が赤くなる。顔が見えない位置関係で助かった。
「やっぱり来月、行きましょうよ。オレとふたりなのがマズイなら、岡部さんとか三好先生とか、誘えばいいじゃないですか」
またこいつは、心にもないことを。
こいつは僕のことが好きなんだから、ふたりだけの方がいいに決まっている。ふたりきりで過ごして、あわよくばそういう関係に持ち込みたい、と思っているはずだ。
青木の背に顔を伏せたまま、薪は小さな声で訊いた。
「それでいいのか?」
「はい。薪さんが昨日みたいに笑ってくれるなら、オレはそれでもいいです」
青木は薪の手を握ったまま、明るく言った。
「何なら、第九のみんなで行きましょうか? 署内レクリエーションみたく、予定組んじゃいましょうよ」
冗談のように言うが、案外本気かもしれない。
大の男が7人も揃って水族館をぞろぞろと歩いたら、それはきっと水族館の方もいい迷惑だろう。特に岡部のことは、小さい子供が見たら、泣き出しそうだ。
薪は青木から手を放した。
ベル式の目覚まし時計を見て、時刻を確認する。7時56分。
「薪さん?」
薪はローテーブルの衣服を持って、クローゼットに向かう。
用意しておいた半袖のシャツの代わりに、長袖のTシャツを着る。バングルはやめて、チョーカーをつける。昨日のように髪を整える時間がないから、ウエットワックスで前髪だけ流して、キャップをかぶることにする。
「行くぞ」
「え? あの、風邪は?」
「だれが風邪ひいたなんて言った」
「でも、あの」
「早くしろ! ショーの時間に間に合わなくなっちゃうだろ!」
「はい!」
怒号一発で、部下は上司の言いなりになるものだ。
青木は急いで花をバケツに活け、プリンを冷蔵庫にしまった。嬉しそうに薪の鞄を持つと、スニーカーを履いて玄関を出る。
薪は出掛けに鏡を覗いて、身だしなみのチェックをする。
チョーカーの飾りが中心にくるように位置を調整し、キャップのつばを動かして、一番オシャレに見える角度に合わせる。
鏡の中の薪は、とても勇ましい顔をしている。強い目をして、眉をきりりと上げている。
薪は、覚悟を決めた。
例え今夜の悪夢が、僕の心臓を止めても。
……シャチのショーが見たい。
「行ってくるよ、鈴木」
玄関の靴箱の上に飾られた写真にキスをして、薪は家を出た。
―了―
(2009.4)