ウィークポイント(4)

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 ノックの音がして、ロッカールームに岡部が入って来た。手には青木が持って行ってしまったはずの、大判のタオルが握られている。
「なんでおまえがこれを持ってるんだ?青木は?」
 頭にワイシャツを被って、裸のまま室長は問い質す。べつに恥ずかしがる様子もなく、裸身を隠そうともしない。

 華奢な肩、滑らかな背中―――― 男とは思えない、白くて細い肢体。腰の辺りに漂う色香。小さな尻から形の良い足がすんなりと伸びて、まるで人形のようだ。

「半泣きになってましたよ。あんまり苛めないでやってくださいよ」
「僕は何もしてない」
 タオルで身体を拭きながら、憤慨したように薪が反論する。

 優雅な腕。薄い筋肉が覆う胸。引き締まった腹。たしかに女の身体ではないが、男の身体でもない。自分たちとは別の種類の生き物のようだ。
 きれい、という素直な表現が一番ふさわしい。

 こんなものを見せられたら、普通の男だってどぎまぎしてしまう。ましてや、青木は室長に憧れてこの第九に入ってきたのだ。理性を失ってしまうのも無理はない。襲い掛からなかっただけでも褒めてやりたいくらいだ。
 しかし困ったことに、薪は自分がどんなふうに他人の目に映るのか、まったく自覚がない。
「あいつが勝手にパニクって飛び出して行ったんだぞ。おかげで見ろ、このワイシャツ。床は水浸しだし。後で掃除しておくように、青木に言っといてくれ」
「まあ、だいたい想像はつきますけどね」
 室長のほうを見ないように、顔を上に向けて会話をつなぐ。岡部はノーマルな男だが、これは礼儀というものだ。
「最近の若いもんはよく分からんな。10以上も違うと、世代の差ってやつかな」
 髪を拭きながら年寄りじみた意見を言う。まったく顔に似合わない。

「なあ岡部。ここ、ユニットバスに改造したいと思わないか? ちゃんとした湯船のあるやつ。脱衣所と洗濯機と、ああ、アイロンもいるな」
「薪さん、ここに住むつもりですか?」
「田城さん、予算組んでくれないかな」
「難しいんじゃないですか」
 そんな雑談を交わしながら、着替えを終えた室長は、真っ直ぐモニタールームに向かう。
 きちんとスーツを着ると、先刻の危ういような美貌は消えて、静謐ないつもの顔に戻る。硬質な色香を含んだその顔を、岡部はいちばん好ましいと思っている。

 前を歩いている、生気溢れる背中。
 室長という重責を、その苦悩を微塵も感じさせない頼もしい背中。この小さな背中を守って、ずっと着いて行く。岡部は生涯、薪の下で働くつもりだった。

「薪さん、この画なんですけど」
「室長、6月28日の画像出ました」
「さっきの女の件ですけど」
 モニタールームに入るや否や、我先にと部下たちが捜査状況を報告する。薪は、それぞれの報告にそれぞれの捜査の方向を示しながら、次々と推理を展開させていく。
 やはり、うちの室長はすごい。エリート集団第九の頂点を極める男なのだ。

 その明晰な頭脳に、ずばぬけた実力に、何よりも捜査のため―――― ひいては市民を犯罪の魔手から救うため―― 自分のすべてを捧げるその潔さに、憧れずにはいられない。男が男に惚れるとはこういうことだ。
 青木の奴は、少し勘違いしているみたいだが。

 岡部は青木の薪に対する執心に、少しだけ異質なものを感じている。あの外見だから、初めはみんな多少はそんな感情を抱いてしまうのかもしれない。
 見た目は確かに幼げでなよやかで、つい見とれてしまうほどきれいな顔をしているが、中身はそこいらの男よりも数段男らしい。そのうち青木にも分かるだろう。薪の芯の強さは、捜一の出世頭だった岡部が舌を巻くほどなのだ。
 それに気付けば、おかしな気持ちは消えてなくなる。そういう対象として見ること自体が彼に対する冒涜だ。
 室長は、ただ真っ直ぐに事件と向き合い、職務にそのすべてを懸けているだけだ。だから今回のようなことが起こる。押さえつけてでもベッドで休ませたいが、無駄なことだと岡部には分かっている。
 だから薪が倒れるまで、岡部は口を挟まない。室長のプライドを優先して、手出しもしない。その代わり、室長の考えに従ってひたすら捜査を続ける。それが部下の役割だとわきまえている。

 しかし。
 薪の過去に何があったか、岡部はそれも知っている。
 そのせいで、まるで憑かれたように仕事に没頭する室長を見るに耐えないこともある。
 ぎりぎりのところで持ちこたえている薪の精神状態を、危うい均衡を、放ってはおけない。が、自分では彼の内側に入り込めないことも承知している。自分の過去に、殺してしまった親友とのことに、他人が口を挟むのを薪は何より嫌うからだ。
 自分では、薪の背負った十字架を取り除いてやることはできない。自分は少し大人になりすぎて、分別を持ちすぎた。
 逆に、青木のような若輩者ゆえの無鉄砲さが、案外薪を救ってくれるかもしれない。下手に突いて薪を怒らせてしまう可能性のほうが遥かに大きいが。
 
 若い青木の可能性に、ほんの少しだけ嫉妬を覚える。
 それでも室長がいつか、心の底から笑ってくれたら―――― そう願わずにはいられない。そのためなら、青木の後押しも辞さない。
 
「岡部。この建物の2階の窓に」
「はい、調べてあります」
「さすがだな。で、映っていたか?」
「いや、残念ながらありませんでした」
「そうか。じゃ、次の可能性としてはこちらのビルの」
 小さな頭の中で、あらゆる仮説が瞬時に立てられ、打ち消され、再構築される。岡部には真似のできない早業である。
 エスカレートしていく薪の推理に引き込まれるように、岡部もまた捜査に夢中になっていく。これが室長と仕事をする醍醐味だ。

 俺の役割は、これでいい。
 ずっとこうして、このひとと捜査がしたい。

 その日、第九の灯りはとうとう朝まで消えなかった。



 ―了―




(2008.8)


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ウィークポイント(3)

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「アタマいた……あんなにガミガミ怒鳴らなくたって」
 耳元でサラウンドで騒ぎ立てられて頭痛がする、と室長はぼやいた。睡眠不足のせいだとは考えない薪である。全然、反省の色がない。
 
「薪さんが悪いんですよ。みんな心配してるんですからね」
「小言は聞き飽きた」
 言い捨てて、ベッドから降りる。横になっていたせいで、ワイシャツはしわくちゃになっている。着替えが必要だ。
「どこいくんです? 今日はもう仕事は」
「汗かいて気持ち悪い」
 心配そうな顔つきで自分を見る新米捜査官に、わざとつっけんどんな返事でその先を言わせない。岡部や雪子ならともかく、こんな若造にまで小言を言われる筋合いは無い。
 が、青木の本当に心配そうな顔つきを見ていると、それも大人気ないかと思ってしまう。青木はとても正直な男で、心の中がそのまま表情に表れる。見せ掛けの心配顔ではないと分かるから、突き放すのも気が引けるのだ。

「シャワーを浴びたら、ここに戻って寝る。それならいいだろう」
「……本当ですね?」
 素直に信じてもらえない。
 無理もない、青木はこのパターンで何回か騙されている。
「岡部さんに薪さんを見張るように言われてるんですけど」
「バカ! そんなことしてるヒマがあったら、捜査を進めろ!」
「今はオレの仮眠の時間です」
「だったらここで寝ろ」
「平気です。一日くらい寝なくたって」
「睡眠も摂らずにMRIを見続けたらどうなるか、分かってるのか?幻覚や幻聴に悩まされて、捜査が手につかなくなるのがオチだ」
「……今の薪さんには言われたくないです」
 たしかに説得力がない。
 しかし、上司のプライドは崩れない。
「僕は大丈夫だ。慣れてるからな。おまえみたいな半人前と一緒にするな」

 冷たく言い放って仮眠室を後にする。青木は黙って薪の後ろを着いてきた。大人しいくせに、意外と頑固なのだ。
 軽く舌打ちしてシャワー室へ向かう。本当はこのままモニタールームへ行こうと思っていたのだが、舌の根も乾かぬうちにと言うのはさすがに拙い。貧血を起こした時の冷や汗が背中を濡らしていて、気持ちが悪いのも事実だ。

 脱衣所代わりのロッカールームで、薪は服を脱いだ。
 どうせだったら、シャワー室じゃなくてユニットバスが欲しい。脱衣所と洗濯機も置けば完璧だ。第九に何日でも泊り込める。
 洗濯しなければならないワイシャツはロッカーの床に丸めてズボンを脱ぐ。恥ずかしげも無く下着も取って全裸になる。そのまますたすたと歩いて、シャワー室へ入っていく。
「何やってるんだ、青木。僕を見張るんじゃなかったのか?」
 何故か後ろを向いてしまった青木に、薪が声を掛ける。長身が硬直している。ワイシャツの襟足からわずかに覗く首と耳が真っ赤だ。

「いえ、あの……すいません、オレ、見てませんから」
「? 何言ってるんだ? 男同士だろ。おまえと同じ身体だぞ」
「同じじゃないです」
「べつにヘンなものは付いてないぞ? おかしな奴だな」
 最近の若いものの考えは良く分からん―――― オヤジくさいことを心の中で呟いて、シャワー室へ入る。温かい水滴の飛沫が心地よい。でもやっぱり湯船が欲しいよな、と風呂好きの薪は思う。
 髪と体をきれいに洗いあげて、気分は上々だ。これで仕事の能率も上がる。仮眠室に戻って休むと青木に約束したことは、薪の記憶から早くも消去されたようだ。

 シャワーを止めてふと気づく。しまった、タオルを忘れてきた。
「青木、タオル取ってくれ。僕のロッカーに入ってるから」
「はい」
 返事は聞こえたものの、青木はなかなかこちらへ来ない。しびれを切らして、薪はシャワー室のドアを開けた。

「青木、まだか? そうだそれ、こっちへ持って……どこへ行く!?」
「すいませんっ!」
「ちょっと待て、タオル!」
 薪の制止を振り切って、青木は走り去ってしまった。
 びしょ濡れのままではここから出られない。が、タオルは青木が持って行ってしまった。仕方なく水滴をたらしながらロッカーまで歩いて、さっき脱いだワイシャツで髪を拭く。
「まったく、最近の新入りは……うう、ぜんぜん拭き取れない……」
 吸水性の悪い布に四苦八苦しながら、新人の謎の行動に首を傾げる室長だった。



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ウィークポイント(2)

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「飲まず食わず眠らずでどれだけ仕事ができるか、ギネスにでも挑戦する気?」
 忙しい最中突然呼び出されて、法一の女医はおかんむりだ。
 このパターンは既に何度も経験済みだ。どれだけ注意しても一向に改善しようとしない聞き分けの無い患者に、彼女はうんざりしていた。

「コーヒーは飲んでたんですけど」
 不真面目な患者が、言い訳にもならないことを口の中で呟く。まるで医者に酒を止められた酒好きの患者が、「ビールは酒に入らないよな」とバカ丸出しの言い訳をしているようなものだ。
「コーヒーを完全栄養食みたいに言わないでくださいよ!だいいち薪さん、ブラックコーヒーしか飲まないじゃないですか!」
 雪子の怒りを代弁して、岡部が薪を叱り飛ばす。いつもなら考えられない光景だが、自分のせいで皆に迷惑をかけてしまったと反省しているのか、薪は神妙な表情でおとなしく岡部の叱責を受けていた。
「みんなが迷惑するんですよ、薪さん。自覚してくださいよ。自分のことをロボットだとでも思ってるんですか?」
 岡部の心配9割、怒り1割の小言を聞きながら、薪はベッドの中でもそもそとあんぱんを食べている。牛乳じゃなくてコーヒーが欲しいなと思うが、とても要求できる雰囲気ではない。
 そこに絶妙のタイミングで、青木がコーヒーを淹れてきた。薪はさっさと牛乳パックを置いて、コーヒーカップを受け取った。実は薪は牛乳が苦手なのだ。

「いったい、いつから食べてないわけ?」
 薪の昏倒の原因は、睡眠不足と低血糖による貧血と分かってはいても、一応は医者に診せておいたほうが安心である。しかし、救急車を呼ぶほどでもない。眠ってまともな食事を摂れば元に戻ることが明らかだからだ。
 だからこんなときは、いつも雪子にお呼びがかかる。まったくいい迷惑だわ、とぷりぷりしながらも、薪のこととなると駆けつけてくれる。雪子は薪の数少ない友人なのだ。

「――― 指折り数えなきゃわかんないようなほど前からなの!?」
 自分が最後にちゃんとした食事を摂ったのがいつなのか、記憶を探り始めた薪の様子に、雪子は思わず声を荒げた。
 薪はこれ以上雪子の機嫌を損ねないよう、必死で言い訳を考える。彼女を怒らせると、得意の一本背負いを決められてしまう。あれはとても痛い。
「たしか、2日、いや、3日……青木、雪子さんがサンドイッチ差し入れてくれたのって、いつだ?」
 青木は雪子のお気に入りだ。彼女の怒りの矛先を逸らしてくれるよう、うまいフォローを期待したつもりだった。
「薪さん。それは4日前です」

「―――― 薪くん!」
「薪さん!!」
 2倍になった小言の嵐に、薪は人選を誤ったことを悟った。


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ウィークポイント(1)

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 スパコンのファンが、勢い良く回っている。季節は夏である。
 モニターからの放熱が不快だ。外では強い日差しがアスファルトを焼いて、今年の最高気温を記録している。こんな日は、プールにでも行きたい。いや、のんびりとクーラーの効いた部屋の中で眠りたい。
 しかし、第九の休みはコンビニより少ない。

「過労死しないのが不思議だよな……」

 誰かがぼやいた。
 このところの暑さが影響しているのか、連続した凶悪犯罪のせいで、第九は目の回るような忙しさだった。全員が既に3日、自宅に帰っていない。交代で仮眠を取り、MRIの画像と現場検証の資料に埋もれている状態だ。
「一度に事件が5件て……脳みそ、混ざっちゃいますよ」
「俺たちはまだいいだろ。それぞれ1件ずつ、個別にかかってる。薪さんは1人で5件分の資料に目を通してるんだぞ」
「あの人は特別です。頭の中、四次元空間みたいな人ですから」

 室長室のドアが開いて、噂の当人が顔を出した。両腕にたくさんの資料を抱えている。
「曽我、仮眠の時間だぞ。切りのいいところで仮眠室へ行って寝ろ」
 それぞれの事件を担当している部下のところへ資料の束を配りながらモニターを覗き込み、各々の捜査の経過報告を受ける。メモは取らない。すべて頭の中に書き留める。首の上に異次元がある―――― まんざら的外れでもない、超人的な記憶力である。

「今井、この男の6月28日の行動を調べてくれ。多分、朝のうちの行動に鍵がある」
 ただ満遍なくMRIを見ていれば、事件が解決できるわけではない。まずは捜一からあがって来る捜査資料から推理を組み立てて、事件の鍵となる画像がどこにあるか予想する。その上でポイントを絞って画像に目を通す。そうしなければ時間ばかり掛かって仕方ないし、重要な場面を見落としてしまう原因にもなる。
 薪はその聡明な頭脳で、いつも最短距離で真実に辿り着く。誰もが室長のようにスムーズに事件を解明できたらと憧れるが、なかなかそうは行かないのが現実だ。
 だから今回のように事件が立て込んでしまったときは、薪がすべての捜査資料を読む。自分の推理と部下の推理を抱き合わせにして、モニターを見るのだ。
 よって、室長は現在5件の捜査を抱えている。5件分の被害者の数20人余り。その膨大な数の画像を資料を、人の心の動きを、観て読んで捉えて推理する。室長が天才と言われる所以である。

 しかし。
 その天才にも弱点はあった。

「宇野、6月20日のこの男の行動だが」
「はい」
 話しかけられた宇野が返事を返したところで、室長は突然黙り込んだ。
 不自然に長い沈黙。宇野が訝しげに声を掛ける。
「薪さん?」
「―――― 西新宿の駅から自宅までの帰宅の間に、何かなかったか確認してくれ」
 名前を呼ばれて、我に返ったように応えを返す。その後は何事も無く曽我のところへ行って指示を出す。
 その様子を見ていた岡部が、そっと青木の傍に来た。
「そろそろだな」
「そうですね」
「用意しといてくれ、青木」
「はい」
 岡部の曖昧な指示に、青木は席を立ってどこかへ歩いていく。その間にも室長は、てきぱきと資料を配って歩いて、捜査を絞込むポイントを明らかにしていく。
「小池、この女性の勤め先に」
 そこまで言って、また黙り込む。またもや長い沈黙。
 と、ふいに亜麻色の瞳が焦点を失って、長い睫毛が重なり合った。
「おっと」
 室長から資料を受け取ろうと小池が差し出した手の中に、ふわりと薪は倒れこんできた。青ざめた美貌、冷たい頬―――― 意識は混濁している様子である。

「岡部さーん、薪さん、いっちゃいましたー」
「ああ、青木がいま支度してるから。仮眠室に運んどいてくれ」
「はーい」と間延びした返事をして、小池は薪の細い体を抱き上げた。
 室長が倒れたというのに、ここでは誰も騒がない。小池以外の職員は、自分のモニターから目を離しもしない。それが当然のように、平然と作業を続けている。
「まーったく。限界まで仕事して急にぶっ倒れるクセ、どうにかならないんですかね。こっちの身が持ちませんよ」
 薪の憔悴しきった寝顔を見ながら、小池がぼやいた。

 実は、第九の面々にはこの光景は慣れっこであった。
 仕事が混んでくると、薪は眠るのも食べるのも忘れてしまう。何かに追い立てられるように、捜査に没頭してしまうのだ。今まで何回こんなことがあっただろう。
 始めのうちこそ岡部が口を酸っぱくして注意していたのだが、やがて諦めた。どれだけ注意しても、次の時にはやっぱり同じことを繰り返すし、無理やり仮眠室に閉じ込めても携帯電話で指示を出してくるのだ。これではやりようがない。

 天才の弱点―――― それは、切れすぎる頭脳と人間離れした気力に普通の人間の体力がついていけない、というバランスの悪さであった。




*****

 やっぱり、お姫様だっこは基本ですよね。
 うちの薪さんは、第九の姫なので。
 オヤジ姫。ぷぷぷ。

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オフタイム(5)

オフタイム(5)







 翌日の昼休み、青木は研究所の近くの珈琲問屋を訪れた。

 天心天の酢豚とエビチリで手に入れた雪子からの情報によると、薪はコーヒーが好きらしい。他にもいくつか薪の好みは聞いたのだが、職場で用意できるものといったら飲み物と菓子ぐらいしかない。甘いものはそれほど好きではないというから、せめて美味しいコーヒーを飲ませてやろうと、こうして豆から選ぶことにしたのだ。
 青木もコーヒーは飲むが、コーヒー好きという程でもない。コーヒーとビールが並んでいたら、間違いなく後者を手に取る。

 店の中に一歩足を踏み入れると、コーヒーのいい匂いが立ち込めていた。思わず鼻をひくひくさせてしまう。
 ガーッという音がして、その音の方から強い香りが漂ってくる。コーヒー豆を挽く時にこんなに良い香りがするとは知らなかった。コーヒーメーカーでコーヒーを落としている時より、何倍も強い匂いだ。コーヒー好きにとってはたまらない匂いだろう。薪にも嗅がせてやりたいものだ。
 店員のお勧めというキリマンジャロを買って、早速コーヒーメーカーで淹れてみる。なるほど、研究所の購買部で買うコーヒーとは香りが違うような気がする。値段のほうも倍くらい違うが。

 落としたてのコーヒーを持って、室長室を訪れる。薪には、研究所内のカフェテリアや街の食堂でランチを摂る習慣がない。この時間は室長室で昼寝をしているはずだ。
 が、お目当ての寝椅子に薪の姿はなかった。
 視線を巡らせて、思いがけない場所に薪の姿を発見し、青木は思わず大きな声をあげた。
「室長! なにしてるんですか?」

 窓枠の上にこちら側を向いて不安定な格好で立ち、左手で窓の上辺を持って自分の体重を支えている。胸から上の部分は完全に窓の外に乗り出しており、右手を窓の上部に伸ばして、外壁から何かを取ろうとしている。
 窓の外にベランダはない。ここは3階だ。落ちたら確実に怪我をする。
「ああ……鳥ですね?」
 ばさばさと、翼をはためかせる音がしている。どうやら小鳥が換気扇の隙間に挟まってもがいているらしい。それを助けようとしているのだ。
「うるさくて昼寝ができん」
 口ではそんなことを言うが、本当はやさしいのだ。ひとに言われたままを信じてしまうことが多い青木にも、それくらいは分かる。
「オレがやりますよ」
 換気扇は窓よりだいぶ高いところにあって、薪の身長では爪先立ってもなかなか手が届かないようだ。危なっかしくて見ていられない。万が一落ちても受け止められるように、両腕を薪の足の周りに差し伸べる。

「大丈夫だ」
「でも、薪さんの身長じゃ届かないんじゃ」
「バカにするな。僕だってこれくらい―――― わっ!」
 言ってるそばから体勢を崩して、薪は足を踏み外した。構えていた青木の腕の中に落ちてくる。とっさに抱きとめて墜落を防ぐ。
 仰け反った背中を右手で支え、左手で腰を支える。抱きかかえるようにして部屋の中に華奢な身体を下ろす。小さな手が、青木のワイシャツを握り締めている。
「大丈夫ですか?」
 少し、顔が青くなっている。怖かったらしい。
 その様子があまりに可愛らしくて、つい抱きしめてしまった。はた、と気づいて慌てて身体を離す。早く離れないと、また投げ飛ばされてしまう。

 薪を寝椅子に座らせて、青木はひょいと窓枠に乗り、換気扇に挟まっていた鳥を開放してやった。こいつに罪はないが、もう少しで大切なひとが怪我をするところだった。思わず鳥を睨みつけてしまう。

 薪はまだ青白い顔をしている。亜麻色の瞳は、涙で潤んでいるようにも見える。そんなに怖かったのだろうか。
「これ、飲んでみてください。きっと落ち着きますよ」
 青木が差し出したコーヒーを受け取って、しかし口にしようとはしない。じっと青木の顔を見つめている。その目はいつもの冷静な瞳ではなく、熱に浮かされたような情を含んだ眼で……。
 これはもしかして、「つり橋効果」というやつかもしれない。
 生命の危険を感じて心拍が上がった現象を恋のときめきと勘違いする、というあれだ。青木には思いがけない僥倖である。あの小鳥に感謝しなくては。

……睨まれたり感謝されたり。小鳥のほうも災難である。

「薪さん。そのコーヒーはキリマンジャロのストレートなんですよ。購買部のブレンドとは違いますから、試してみてください」
 コーヒーにかこつけて、ぐっと顔を近づける。薪に接近できるチャンスは、何が何でも逃したくない。
 薪はびくりと肩を上げて、後ろへと身を引く。寝椅子の背もたれに当たって、これ以上は下がれないところで青木の視線を受け止める。いくらか頬が紅潮してきて、つややかなくちびるが何事か言いたげに小さく開かれた。

「……出て行け」
 薪は不意に横を向くと、手付かずのコーヒーカップを青木に突き返した。
「僕は昼寝をしたいんだ。コーヒーはいらない。出て行け」
「……すみません」
 それもそうだ。薪は昼休みにはいつも昼寝をしているのだから、コーヒーのカフェインは邪魔になるだけだ。うっかりしていた。
「じゃ、明日の朝お持ちしますね。楽しみにしててください」

 薪の都合を考えなかった自分が悪い。青木は素直に室長室を出ると、モニタールームに戻った。せっかくのコーヒーが無駄になってしまってがっかりだが、捨ててしまうのも勿体ないので自分で飲むことにする。
 珈琲問屋で嗅いだあの匂いに比べると、コーヒーカップの中の液体は気の抜けたような匂いだ。抽出してしまうとこんなものなのかな、と少し残念に思う青木である。
 冷たく黒い液体を飲みながら、青木は帰りに珈琲問屋に寄って美味しいコーヒーを淹れるコツを教えてもらおうと考えていた。




*****




 室長室にひとり、薪は寝椅子の上にうずくまっている。
 両膝を抱えて、踵を椅子の上に乗せている。薪は考え事をするとき、無意識のうちにこの格好をしている。

 心臓が、まだどきどきしている。
 窓から落ちそうになったくらいで、こんなに動揺したりしない。これまで何回も鳥を助けているし、何回も足を滑らせて落ちかけては窓枠に掴まって、事なきを得ている。

 この胸のざわめきは……青木のせいだ。

 初めて会った時から気になっていた。ずっと目が離せなかった。
 長身に黒い髪。やさしそうな黒い瞳。素直で真っ直ぐな心根。正直で嘘のつけない性格。裏表のない明るい笑顔。
 似てる。
 鈴木にそっくりだ。
 鈴木が生き返ったのかと思った。

 僕の心を奪ったまま雪子さんと恋に落ちて、挙句の果てに僕の人生に絶望だけを残していなくなってしまった僕の親友。僕がこの手で殺したかけがえのない友。彼が再び僕の人生に帰って来たのかと……そんなことがあるわけはないと分かっているのに、でもそうとしか思えなくて。

 今のちょっとしたハプニングにしてもそうだ。
 以前にも、これと同じことがあった。
 あの時も鳥を助けようとして足を滑らせて、鈴木に受け止めてもらった。鈴木はよほど驚いたのか、僕をしばらくの間ぎゅうっと抱きしめていた。
「びっくりさせるなよ」
 鈴木の心臓はすごい速さで打っていて、僕もどきどきが止まらなくて。いけないとは思ったけど、両腕が勝手に鈴木の背中を抱き返してしまった。そんなふうに触れ合ってしまったら、20歳の頃に時が戻ったようでたまらなく切なくなって……。
 そのとき鈴木から離れるには、ありったけの理性を総動員しなければならなかった。表情もうまく取り繕えていたかどうか、自信がない。
「大丈夫だよ。大げさだな」
 素っ気無く聞こえるように努力はしたつもりだったけど、声が震えてしまったような気もするし……細部のことは、よく覚えていない。
 ただ、鈴木の大きな手の感触だけが僕の背中にいつまでも残って……今でも……。

 1時のチャイムが鳴って、薪を追憶から引き戻した。

 薪は、すっと室長の冷静な顔に戻る。
 仕事とプライベートの境界線は、はっきりと引くのが薪の主義だ。いまは仕事の時間だ。どんなに心が乱れても、それは職務には関係のないことだ。事件の被害者にはもっと関係がない。集中力を欠いて良い理由にはならない。
 寝椅子から立ち上がり、執務席に着く。しゃんと背筋を伸ばして、両足をきっちり床につける。
 デスクの上の書類に手を伸ばす。捜一からの協力要請が来ている。元になる捜査資料の内容を頭に叩き込み、概要説明の草案を組み立てる。
 その厳しい瞳に、先刻の憂いは微塵もない。薪を仕事へと駆り立てる強い力―――― それは公僕としての自覚であり、室長としての責任感である。
 一切の感情も感傷も切り捨てて、第九の室長の横顔は、今日も氷のようだった。




 ―了―




(2008.11)

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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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法医第十研究室へようこそ!
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