桜(5)

桜(5)







 その夜の夢は、悪夢ではなかった。

 緑一面の草原のような場所に、ひとりの女性が立っている。ノースリーブの白いワンピース姿。可憐という言葉がぴったりの、愛らしい少女だった。
 風が吹いて亜麻色の髪がさんざめく。そっとスカートを押さえながら、伏せた長い睫がとてもきれいだ。

 寝る前に桜を見たはずなのに、どうして草原の風景なんだろう。
 多少の違和感は、夢特有のいい加減さに紛れてすぐに消えた。遠くに立っているはずの少女の顔がこうもはっきり見えるのも、本来なら矛盾しているのだ。

 誰だろう。あの少女は。どこかで見たような。

 男なら誰もが理想の女性像を持っている。
 そんな女性に巡り会える可能性は限りなく低いし、理想とはまったく違った女性と恋に落ちる男も多いのだが、心の奥底に必ず息づいているものだ。
 きっとこれは自分の理想の女性なのだ、と青木は思った。

 だって、こんなに胸が苦しい。顔を見ているだけで動悸が激しくなる。その髪に、やわらかそうな頬にさわりたい。そばに駆け寄って抱きしめたい。

 夢とは都合のいいもので、次の瞬間には彼女は自分の腕の中にいる。
 豊満とは言いがたい、華奢な肢体。髪はさらさらと心地よく、頬は思ったとおりにやわらかい。
 幼げな相貌。大きな二重の眼。こじんまりした鼻。つややかに、濡れたように光る口唇だけが成熟した色香を漂わせている。

 そのくちびるに引き寄せられるように、自然にくちびるが重なる。
 軽く、触れ合わせるだけの儀式めいたキス。彼女の亜麻色の瞳の中に、自分がいる。思わず強く抱きしめる。白いのどがのけぞって、赤いくちびるが青木の名前を呼ぶ。

『青木』
……このシチュエーションで、苗字呼び捨てって。
『報告書はできたのか?』
……はい?

 聞きなれた声に度肝を抜かれて、慌てて体を離す。どこから聞こえてきたのかと周りを見渡すが、誰もいない。いまさっき、青木と接吻を交わしたばかりの少女が、胸の前で腕を組んで軽く舌打ちした。

『さっさとしろ。この役立たずが』
――――― !!

 声にならない叫びを上げて、青木は飛び起きた。
 心臓が早鐘を打っている。夢で良かった、と心底思う。なんでこんな夢を見たんだろう。ある意味、悪夢よりタチが悪い。
「うそだ。なんかの間違いだ」
 自分に言い聞かせて、頭を振る。とんでもない夢のせいで早く目が覚めてしまったが、不思議と気分は悪くない。

 はっきりと覚えている、夢の中の美しい少女の顔。
 あれは、室長の顔だ。
 昨夜、公園で見た室長の微笑みだった。
 確かに、あれは本当にきれいだった。でも、夢にまで見るなんて。

「よっぽどびっくりしたんだな、オレ」
 このことは、室長には絶対に秘密だ。
 こんな夢を見たことがバレたら、書類を投げつけられるくらいでは済まないだろう。早く忘れることだ。自分は考えていることが顔に出やすいらしい。あの聡明な室長に、すぐに気付かれてしまう。

 とはいうものの。

「……キスまでしちゃったよ」
 夢を忘れるには、時間がかかりそうだった。



*****




 その日も青木は、第九の正門の前で自分の職場を見上げていた。
 お決まりの姿勢で、お決まりの台詞。

「よし、今日も頑張るぞ!」

 いつもと違うのは、その台詞が自分を励ますためのカラ元気ではなく、心の底から湧き上がってくる意欲によるものである、ということだ。
 今日はまた別の意味で室長と顔を合わせづらいのだが、それはやはり昨日までとは違う、ほのかな甘さの混じった気まずさだ。

 あのひとに認められたい。あのひとに褒めてもらいたい。
 ……あの微笑を、もう一度見たい。

 青木は大きく一歩を踏み出して、第九の門をくぐった。




 ―了―






 ―― 後日談 ――

「岡部さん。この睡眠薬のメーカー、教えてもらえます? 室長にもらったんですけど、飲みきってしまったので。新しいの欲しいんですけど」
「なんで俺に訊くんだ? 室長に訊いたらいいだろう」
「以前、室長が岡部さんに貰ったものだから岡部さんに訊けって」
「室長に睡眠薬なんて差し上げたことはないぞ」
「そんなはずは。だって、室長が」
「ああ。これか」
「すごくよく効きますよね、これ。他のクスリと違って寝覚めもいいし」
「……酸っぱくなかったか? それ」
「そういえば、変わった味ですよね。まるでビタミンCの錠剤みたいな……え? あれ? えええ――!?」

 それから現在に至るまで。
 青木の枕元には、室長の写真とビタミンCが置かれている。



 (2008.9)


テーマ : 二次創作
ジャンル : 小説・文学

桜(4)

桜(4)








 青木は、真っ赤な血の海の中にいた。

 手や足に纏わりつく紐のようなもの―――― それは、人間の腸だった。
 これはいつもの悪夢だと分かっていても、青木の恐怖は本物だった。払っても払っても追いかけてくる生きた内臓に、夢の中でも嘔吐を覚える。だれか助けて、と叫ぼうとしたが、口の中にまで入ってくる臓物がそれを許さない。

 そのとき、助けを求めて伸ばした青木の手に何かが触れた。
 やわらくて、あたたかい、小さな手。
 それは地獄のような悪夢の中で、不思議と信じられる力強さを持っていた。

 青木の手を、誰かの手が握ってくれている。
 これは、夢ではない。いや、やっぱり夢かも知れない。どちらにせよ、そのぬくもりが青木を底なし沼のような夢から引っ張りあげてくれたのは確かだった。

 それから夕方まで。
 青木は、2ヶ月ぶりにぐっすりと眠った。



*****




 目が覚めると、モニタールームには誰もいなかった。時刻は7時を回っていた。
 本当に、よく効く睡眠薬だ。夢にうなされずに眠れたのは久しぶりだった。

 室長室には、まだ明かりがついていた。
 先刻の自分の無様な姿を思い出すと室長と顔を合わせるのは気が重いが、勤務時間中にこんなに長い時間熟睡してしまったことへの謝罪と、睡眠薬のお礼も言うべきだろう。

「室長。すみません、オレこんな時間まで」
 見ると室長の机はきれいに片付いている。
 左の角にきちんとファイルが重ねてあるのは、青木が小池と担当していた事件だ。どうやら、先輩が不甲斐ない後輩の分も仕事をしてくれたらしい。
 申し訳ない気持ちで一杯になる。室長だって今日は、急ぎの仕事があったわけではない。自分を待っていてくれたのだ。

 ゆっくり眠って冴えた頭で周りを見れば、そんなことも分かってくる。この2ヶ月、自分がどんなに余裕を無くしていたか、そのせいで人の思いやりに気付かずに過ごしてきたのか―――― 青木は素直に、先刻の岡部の言葉を信じることにした。

「よく眠れたか?」
「はい。あの薬、よく効きますね」
「そうだろう。以前、岡部が僕にくれた薬でな。僕もそれから眠れないときは使ってるんだ」
 室長でも、眠れない夜があるのか。
 ……当たり前だ。この人は、誰よりも重い過去を背負っている。

「おまえには、特によく効くと思ったんだ」
 鞄を持って立ち上がり、帰るぞ、と声を掛けてくれる。いつもは鬼のようだと思っていた室長が、今はやさしく見える。
 
 玄関口までの長い廊下を室長と2人で歩く。
 今までなら胃が痛くなりそうな状況だが、不思議と緊張感はない。室長の雰囲気が、仕事のときとはうってかわって穏やかなものだからだろうか。

 本当は、こんなひとなのかもしれない。
 ただ単純に仕事に厳しいだけで、嫌がらせをしたり、意地悪をしているわけではないのかもしれない。

「悪夢を見ないで済むコツは、対象となりそうなものを眠る前に自分の中で別のものに変換しておくことだ」
 廊下を歩きながら、唐突に薪は話し始めた。脈絡も話の筋も突然すぎて、青木には一瞬薪の言葉が理解できなかった。

「例えばさっきおまえは、内臓が自分に絡みつく夢を見ていただろう」
 なんで夢の内容を知っているのだろう?
 いくら室長が切れ者だからといって、他人の夢の内容まで解るなんて。

 もしかして、自分がうなされている様子を見ていたのだろうか。
 ならば、さっきのあのやさしい手は……。

「それは、その前に見たMRIの画像のせいだ。あれを人間のものと思わずに、牛や豚のものと置き換える。きれいに洗ってパック詰めされたものを思い浮かべてみろ」
「そういえばオレ、モツなべ大好きなんですよね。出身が福岡だから」
「いや、別に食べなくても……まあいい。でも、気持ち悪くなくなっただろう?」
「はい」
 普段の無愛想な室長とは別人のように、安眠のための秘策を教えてくれる。
 青木は、嬉しかった。
 やはり岡部の言葉は本当だ。自分は室長に嫌われているわけではない。

「それから、寝る前には何か自分の好きなものを見るんだ」
「好きなもの、ですか?」
「彼女の写真とか画集とか、星が綺麗な夜ならそれでもいい」
 彼女とは別れたばかりだ。うなされそうだ。
「じゃあ、今日は公園の桜を見ます。オレの家の前に公園があって、そこの桜が今すっごくきれいなんですよ」
「桜か。そういえば、今年はまだ見てないな」
「え? だめですよ。日本人なら桜を見なくちゃ。すぐに散っちゃうんですから。よかったら観に来ませんか? ここから20分くらい歩きますけど」

 玄関を出て正門をくぐる。駅に行くなら青木のアパートとは反対の方角だ。
 薪は、立ち止まって逡巡する。無意識に手を口にあてて、小首をかしげる。仕事が絡まないとこんなに無防備な顔をするのか、と青木は薪から目が離せない。

「そんなにきれいなのか?」
 自信たっぷりに頷いて、青木は歩き出した。




*****




 青木のお勧めのスポットは、かなり大きな公園だった。

 園内に30本はあろうかという桜の樹が、満開に咲き誇っている。
 薄いピンク色の花びらが群生して、闇の中に幻想的な風景を描く。嫋嫋たる美しさ、秘められた艶かしさ。朧月に映えて、桜はその魅力を余すところなく曝け出している。桜の名所でもなければなかなかお目にかかれないような、実に見事な眺めだ。

 薪は大きく目を瞠り、息を呑んだ。
 小さな口唇をすぼめて、わずかに開く。いつもはきりりと吊り上がった眉が、今は驚きの形に変わって緩やかなカーブを描いている。
 その表情の愛くるしさ。
 桜より、この室長の顔のほうがよっぽど希少価値だ。

「すごいな」
 桜を見上げて、薪はうっとりと微笑んだ。
 その微笑に青木の目は釘付けになる。
 こんなにきれいに微笑むひとを、いままで見たことがない―――――。

「花のような」とか「天使のような」とか、世の中には美しい笑顔を表現する言葉はいくらでもある。
 しかし、これは。
 次元がちがう。すべての美辞麗句が陳腐な響きに成り下がるようで、何も言えない。
 ただ素直に、きれいだ、と青木は思った。

 夜風が亜麻色の短い髪を揺らす。桜の花びらが薪の周りを戯れるように舞って、まるで桜の精のような―――。

 あれ? と青木は首を傾げる。
 このひとは、本当に室長なのか? こんなにきれいなひとだったか? こんなに愛らしい顔をしていたか?
 きちんとスーツを着てネクタイを締めているのに、なんで桜の化身みたいに見えるんだ?

 夜桜の魔力か。十六夜月の悪戯か。

 ゆっくり歩いて、夜桜の中を散策する。桜の樹の陰に隠れるたびに、薪が消えてしまうのではないかと不安になる。
 あちこちに視線をめぐらせる薪の姿から、目が離せない。桜を見に来たはずなのに、自分は室長ばかりを見ている。

 儚げでたおやかで、限りなく清楚で―――― それは、青木の理想の女性を具現化したような姿だった。
 青木の心臓がとくんと脈打って、息苦しさを覚える。が、それは今までの気まずさゆえのものではなく、もっと甘い痛みを伴うものだ。

 このひとは男のひとだ。いったい自分は何を考えてるんだ?

「いいものを見せてもらった。今夜は僕もよく眠れそうだ」
 公園をぐるりと一周して、薪は帰途についた。駅まで送りますと申し出たが、女子供じゃあるまいし、と断られた。
 遠ざかっていく細い背中を見えなくなるまで見送って、青木は自宅への道を歩き始めた。


テーマ : 二次創作
ジャンル : 小説・文学

桜(3)

桜(3)








 法医第九研究室には、今日もとびきりの凶悪犯罪を映した脳が送られてくる。

 今回の事件は俗に言うバラバラ殺人で、死体を解体する画像が映し出されている。
 一般のバラバラ殺人は、死体の処分に困り果てた末、運びやすいように手や足を切ったり、身元を分からなくするために首を切り落としたりするものだが、第九に送られてくるものはまったく種類が違う。
 誤って人を殺してしまって仕方なく切り落とすのではなく、人間を切り刻みたいがために殺人を犯す――― 動機からして一般の事件とは違うのだ。よってその犯人の脳も、普通の人間に理解が及ぶものではない。普通の人間が、ひとを殺さないと眠れないなどとは思わないからだ。
 
 内臓の飛び出た死体。胃や腸を切り開いて、中身を全部ぶちまけた、もはや人間の原型をとどめなくなった肉の塊。そんな、グロテスクな狂った画像ばかりを見せられる。しかもそこから事件の全容を把握し、報告書にまとめあげなくてはいけない。
 並の神経では勤まらない。下手をすれば、こっちが狂う。よって、第九では強靭な精神力だけが武器になる。

「小池。4人目の被害者(ガイシャ)の画は出たか」
「はい、ここからです」
 モニターに映し出される、恐怖に引き攣った被害者の顔。震えながら助けを乞い、壁にへばりついている。
 すぐに真っ赤に染まる画面。崩折れていく若い女性。それから悪魔の宴が始まる。ナイフで耳をそぎ、鼻を切り落とし、目をひきずり出し、のどを縦に切り開いて、気管と食道を手で引きずり出す。
 筆舌に尽くせないような、凄惨な画像である。

 その凶行を行った犯人も、それを顔色ひとつ変えずに見つめる第九の捜査官も、まともではない。しかし、両者の間には天と地ほどの隔たりがある。
 第九の職員は、みな良識のある警察官である。平和な社会を望み、その為に役に立ちたいとこの職業を選んだ。神経をすり減らしながらもMRI捜査の必要性を認め、厳しい室長の下で勤務時間を超過して働くことを厭わない、気高い精神を持っている。そこが決定的な違いだ。
 
 今なお、MRI捜査に対する世間の風当たりは強い。その非難の嵐から自分たちを守ってくれているのは他ならぬ室長だと、第九の人間なら誰もが知っている。だから現在第九に残っている部下たちは、みな薪を慕っている。意地悪で皮肉屋で自分勝手で、しかも怒るとめちゃめちゃ怖い。だが、信頼している。
 MRI捜査への偏見が、逆に第九を一枚岩にしている。そうでなくては、こんなつらい仕事は続けられない。

「青木はどうした? この件は青木と2人で係ってるはずだろう」
 新入りの姿が見えないことに気づいた室長が、小池に尋ねる。小池は少し言い淀んで、しかし正直に答えた。
「青木ならその……トイレで吐いてます」
「またか」
 室長の舌打ちが聞こえる。せっかく自分になついている後輩を庇おうと、小池は青木の弁護にかかった。
「しかし、よく続いてますよ。1週間で辞めるクチかと思ってましたけど、見掛けより根性あるじゃないですか」
「だが、こうも慣れなくてはな。体のほうが保たないだろう」
「生理的に受け付けない奴もいますからね。でも、あいつは頑張ってますよ。室長のイジメにもよく耐えてるし……いや、その、あの……」

 突如として黙り込み、室長はじっと小池の顔を見つめた。
 MRIの凄惨な画像に顔色も変えなかった小池が、青くなって口をパクパクさせるのを見てから、思い切り意地悪そうな笑みを浮かべる。楽しそうだ。
 「そうか小池。この事件だけじゃ仕事が足りないんだな。西新宿の誘拐事件の方も担当してもらうか」
 
 この性格だから新人が居つかないんだよな、と思うが、もちろん言葉には出せない。
 ボールペンを首に突きつけられて、上から目線での厳しい命令調に、小池はたじたじとなる。殺人の画像よりよっぽどこわい。
「今日中に報告書、上げとけよ」
「……はい」
 ひとこと多いのは自分の悪い癖だ、とわかってはいるが、なかなか直らないものである。

 小池は薪に言いつけられた報告書に取り掛かるため、事件の資料を読み直し始めた。



*****



 今朝食べたトーストと目玉焼き、レタスのサラダ。他にはもう吐けるものなどないはずなのに、吐き気は一向に治まらない。トイレの床に座り込んで、便座にもたれかかる。衛生面に気を配る余裕はない。

「大丈夫か?」
 誰かが背中をさすってくれる。
 しまった、せっぱつまってトイレのドアを閉め忘れていた。吐いたものの臭いが凄いはずなのに、ここの先輩はやさしい。あの陰険な室長の下で働いていて、よくこんなに他人に親切にできるものだと感心してしまう。
 岡部さんかな、と青木は直感で思った。岡部は見かけによらず、とても気配りが上手い。でも、それにしては手が小さい……。

「ほら、水」
 コップに入った水が差し出される。その人の腕から、なんだかいい匂いがする。
 フローラル系の香水のような、そんなお洒落な人が第九にいたかな、と思いながら受け取って、口の中を漱ぐ。いくらか気分が良くなった。
「すいませ……しっ、室長!」
 親切な先輩に礼を言おうと振り向いて、青木は青い顔を一層、青くした。

 いま、一番会いたくないひとがそこにいた。トイレの床にしゃがんで、自分の膝にひじを当てて、頬杖をついた姿勢で青木の方を窺っている。
 青木が言葉を無くしていると、立ち上がってトイレの水洗レバーを押し、吐瀉物を流してくれた。……いっそ、気絶してしまいたい。

「おまえ、夜眠れてないんだろう。これ飲んで仮眠室で寝ろ」
「いっ、いいえ! 大丈夫です!」
「無理をするな。休むのも仕事のうちだ」
 青木の手に錠剤のシートを握らせて、室長は去っていった。

 あんまりびっくりしたからか、吐き気も吹き飛んでしまった。手洗い場で顔を洗い、置いてあったタオルで水滴を拭き取る。これも室長が置いて行ってくれたものだ。
 こんな醜態を曝したのに、今日は何故かいつものセリフを言われなかった。それどころか、あんなにやさしく介抱してくれて。
 いったい、どうしたんだろう。室長は自分を嫌っているはずなのに。

「大丈夫か? 青木」
 岡部がトイレに入ってくる。
「すみません、先輩。もう大丈夫ですから」
「おまえ、少し仮眠室で休め。薪さんに言われた。昨夜、よく眠れなかったんだろう?」
 昨夜だけではない。
 第九に入ってからは、ずっとだ。悪夢にうなされて、睡眠時間は4時間を切っている。それが続いては、青木がいくら若くても体力が持たない。嘔吐は日課のようになっているし、この2ヶ月で7キロも痩せた。

「ただでさえ室長に嫌われてるのに、これ以上気に障るような真似するわけには」
「だれが?」
 岡部が驚いた顔をする。
 岡部は室長の腹心の部下だ。きっと、自分に対する不満を室長から聞かされているに違いない。白々しい言い草に腹が立つ。

「オレがいくら鈍くたってわかりますよ。あんなに露骨に嫌がらせされれば」
 つい、口調が荒くなる。岡部に罪はないのに、疲れが溜まっているせいでイライラしているのかもしれない。
「薪さんが、おまえに? 嫌がらせ? バカかおまえ」
 室長の部下らしく、口が悪い。薪に比べればかわいいものだが。

「あのひとは、そんなつまらん真似はせんぞ」
「だって、いっつも睨みつけられて、毎日毎日怒られて、二言目には異動願いを出せって。オレをここから追い出したいんでしょ」
 とうとう口に出してしまった。
 この件は、岡部から室長に伝わってしまうだろう。後悔するが、もう遅い。

「それならとっくに室長権限で異動させてるさ」
「それはできませんよ。本人の希望か、大きな失敗でもない限りは。人事規定に定めてありますからね」
「規定がどうだろうと、あのひとが自分の気に入らないやつと一緒に大人しく仕事するようなタマかよ。失敗なんか、いくらでも捏造できるだろ」
……鬼だ。

「薪さんは、ここに自分が嫌いな人間は置かない。室長がおまえのこと、いつも睨んでるって? 俺には心配してるようにしか見えないけどな」
『岡部さんは室長派だから』と小池が言っていたが、本当に薪に心酔しているらしい。あの険しい目つきのどこが、心配しているというのだ。

「薪さんは、いつもおまえのことを気にしているよ。青木はちゃんと飯が食えてるのか、睡眠は取れているのか、疲れている様子はないか。一日に何回も俺に聞くよ。まあ、俺はおまえの指導員だからな。業務内容の習得具合を室長に報告する義務があるが、どっちかっていうと健康状態を聞かれることのほうが多いな」
「本当ですか?」
「嘘ついてどうするんだよ。こんなこと」
 自分が薪に嫌われていないという岡部の言葉を信じたいが、それはやはり難しい。このひとは嘘はつかないひとだと思うが、思いやりの嘘はきっと上手なのだろう。

「なあ青木。どうして室長が新入りに辛くあたるか、わかるか」
 それはあのひとが意地悪だからでしょう。
 心の中で応えを返して、青木は岡部の言葉を待つ。室長のあの陰険な態度にどんな理屈をつけて正当化するつもりなのか、室長派先鋒の見せ所だ。

「この仕事は、精神を病むんだ。毎日毎日あんな画を見続けて、精神的に強くない人間は参ってしまう。今のおまえみたいにな。強い人間じゃないと勤まらないんだ。本当の病気になっちまう。
 去年、そうやって室長は自分の部下を4人も失ってる。二の舞は踏みたくない。人にきつい言葉を投げつけられたくらいで耐えられなくなってしまうような人間は、ここでは生き残れないんだよ。もっと図太くないと。だからそうなる前に……あれは、室長なりのやさしさなんだ」
 とてもそうは思えません。岡部さんは、室長に心酔するあまり現実が見えなくなっているんです。
 そう言ってやりたかったが、言葉にはできなかった。やはり青木はこの先輩を尊敬しているし、好ましくも思っていたからだ。

「信じるかどうかはおまえの勝手だがな。ただ、リーダーを信じられない人間がやっていけるほど、ここの仕事は甘くないぞ」
 じゃあ仮眠室で寝てろよ、と会話を閉めて、岡部はモニタールームへ戻っていった。
 
 先輩の指示通りに仮眠室へ向かう。横になる前に室長に貰った薬を飲む。なんだか、やたらとすっぱい睡眠薬だった。
 が、効き目は確かで、ベッドに横になるとすぐに眠気が襲ってきた。岡部に言われたことを反芻しながら青木は眠りに就いた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

桜(2)

桜(2)






 通勤ラッシュの波に揉まれて、霞ヶ関の雑踏を歩く。
 青木のアパートから勤務先までは徒歩20分程度の距離で、いつもなら歩いてくるのだが今日は地下鉄を使った。
 別に、寝坊したわけではない。アパートの前の公園を通りかかったときに見かけた桜があまりにもきれいで、つい見とれてしまった。気が付いたら出勤時間ぎりぎりになっていた。

 日本という国が美しいのは四季があるからだ、と青木は思う。
 春爛漫。
 青木の一番好きな季節だ。冬の寒さに耐えた後、あちらこちらに春の花が咲き始めて新しい生活が始まる。なんとなく気分もうきうきする。
 しかし、この気分も第九の門をくぐるまでだ。職場に近づくにつれ、青木の足取りは重くなる。

 今年の1月に念願の第九に配属になって、2ヶ月。
 まさか、あんなところだとは思わなかった。

 毎日毎日、見せられるのは殺人の画ばかり。それも修正がかけられたものではなく、現実の生々しい画像である。これがビデオ撮影されたものならまだましなのだが、殺された被害者のものとなると、その恐怖と衝撃のために現実よりおどろおどろしいものになっている。
 目に見えるものを見ずに隠された真実を見抜け――先輩はそうアドバイスをくれるのだが、実際に見てしまうとどうしてもそれに引きずられてしまう。2ヶ月経っても一向に慣れない。

 自分には向かないのかもしれない、と青木は思い始めている。

 何より気が重いのは、室長のことだ。
 毎日のように叱られて、二言目には異動願いを出せ、と言われる。
 単に自分のことが気に入らないのか、あのときの出すぎた真似を怒っているのか。

 第九に入って1週間もしないうちに、青木は室長の過去の傷を抉るような真似をしてしまった。
 あの時は、そうすることが室長の重荷を軽くする唯一の方法だと信じていたのだが、果たして正しかったのか。そのあとの室長の態度を見ていると、間違っていたような気がしてならない。
 新参者の自分が、室長のいちばん深い傷に触れてしまった。癒してやれたわけでもなく、ただ残酷に真実を見せつけただけだ。

 あれを見て、室長の苦悩はますます深まったのではないか―――― そう思うと、いたたまれない。
 自分は、薪室長に憧れて第九に転属願いを出したのだ。その自分が、室長の苦しみを増大させるような真似をしてしまった。そんな後悔が青木の頭から離れない。

 室長は、本当は自分の顔を見るのも嫌なのではないか。
 この頃は、そんなことまで考えてしまう。
 そこに追い討ちをかけるように『おまえに第九は勤まらない』『異動願を出せ』と言われると、青木は地の底まで落ち込んでしまう。

 一番つらいのは、こんなに冷たくされているのに室長を嫌いになれないことだ。
 相手を恨むことができればいっそ楽なのだが、あいにく青木の中で室長に対する憧れは色褪せないどころか、ますます大きくなっている。
 とにかく、凄いのだ。
 あんなひとは見たことがない。小説の中に出てくる名探偵のように、ずばずば犯人を言い当てる。捜一からの資料で犯人の動機を推理して、MRIは検証に使うだけ、ということも多々ある。

 天才の呼び名も高い第九の室長、薪剛警視正。
 その仕事ぶりを間近で見て、卓越した推理能力を見せつけられて、魅了されない捜査官などいない。みな、彼のように鮮やかに事件を解決することを切望しているのだ。

 室長との才能の差があまりに大きすぎて、自信を喪失してしまう者もいる。
 第九に入ってくるのは、殆どが東大・京大卒のエリートばかり。言い換えれば、自分の頭脳に自信を持った人間ばかりだ。それが室長の前に出ると、まるで中学生が大学生と一緒に仕事をしているような、絶対的な実力の差を思い知らされる。
 それは彼らには耐え難い屈辱で、そのために第九を去る者も多い。実際、青木が第九に来てから2ヶ月の間に、2人の新人が辞めていった。

 しかし、室長の方にも大いに問題はある。

 室長は仕事のこととなると、とにかく厳しい。
 相手のプライドなど考えずに皆の前で叱りつけるし、バカとか無能とか役立たずとか、およそエリートが今まで言われたことのないような言葉で怒鳴りつけたりもする。
 加えて、あの無愛想な顔。いつも眉を険しく上げて、睨むような目でひとを見る。
 せっかくきれいな顔をしているのに、怒ってばかりでは美人が台無しだ。室長の笑顔など見た事がない、と先輩たちも言っていた。

 室長が笑うとすれば、何か意地悪なことを考えて、誰かをやり込めてやろうとするときだけだ。基本的に、意地の悪いひとなのだ。もちろんそのときの笑顔は、口の端だけを歪めたような陰険な笑みで、好ましいものではない。
 捜査官としての薪はともかく、人間としての薪はとても好きになれそうにない。だが、薪の明晰な推理能力には、どうしようもなく惹きつけられてしまう。

 青木が警察官になろうと思ったきっかけも、大学時代に薪のことを書いた新聞記事を読んだからだ。
 青木はもともと弁護士を目指していた。それで東大の法学部に入った。
 それが、在学中に見た新聞記事で、弱冠27歳で警視正に昇任したエリートが、新設された科学警察研究所法医第九研究室の室長に任命されたことを知った。それからの彼のめざましい活躍を知るにつれ、青木は自分も第九で働きたいと思うようになったのだ。
 
 そこまで憧れて、薪のもとに来たのだ。ちょっとやそっとのことではこの思いは消えない。だから青木は第九を去れない。
 それに、一応青木にも東大法卒のプライドがある。第九を辞めるにしても、今の役立たずのままではまるで負け犬だ。少しでも自分を室長に認めさせてから異動願を出して、惜しかった、と後悔させてやりたい。

 正門の前に立ち、自分の職場を見上げて青木はため息をつく。
「よし。今日も頑張るか」
 言葉に出して、自分を鼓舞する。そうでもしないと気力が萎えてしまいそうだ。
 
 青木はゆっくりと、第九の門をくぐった。



テーマ : 二次創作
ジャンル : 小説・文学

桜(1)

桜(1)







 人事異動の季節になると、第九にも新人が入ってくる。
 新人の面倒を見るのは青木の役目だ。自分が先輩にしてもらったことを、後輩に伝える。そうして後輩と一緒に成長していくのだ。

「青木さん。おれ、夜、眠れないんです。気持ち悪い夢ばかり見て」

 後輩の悩みを聞いてやるのも、先輩の仕事のひとつだ。
 自分も新人の頃はそうだった。あまりに凄惨なMRIの画像を夢に見て、眠れない日々が続く中で、次第に余裕を無くして憔悴していった。自分のことで手一杯になって、周りが見えなくなって、素直な気持ちを失っていった。
 今となっては苦い思い出である。

 が、そのとき青木には、これからの人生を大きく変える出来事が訪れた。だから今も第九にいられる。この仕事を続けている。

「オレもそうだったよ。そのうち慣れるさ」
「先輩は悪夢を見ないんですか?」
「コツがあるんだ。寝る前にな」
 数年前に、青木を救ってくれたひとに教えてもらった技を伝授する。しかし、うまくいくとは限らない。何人かに伝えたが、個人差があるようで、まったく効果のなかった者もいた。

「わかりました。やってみます」
 後輩は、素直に礼を言った。
 こいつはオレよりまだマシだ。あの頃、オレは素直に礼を言う余裕もなかった。

 その頃のことを思い出して、青木は自嘲した。でも、そんな状態だったからこそ、あのひとがオレに手を差し延べてくれたのかもしれない。

「今井。世田谷の放火殺人の件だが」

 室長室から資料を抱えて、薪が出てくる。今井の机に資料を置き、モニターを覗き込む。きりりと吊り上った眉。真剣な瞳。今日も室長は捜査に夢中だ。
 春のやわらかな日差しが、ブラインド越しにその清廉な美貌を包み込む。淡い光に溶けていくような儚さに、つい目を奪われる。

 あのときの室長もとてもきれいだったな――。

 記憶の連鎖で、青木はその当時の出来事を思い出していた。




テーマ : 二次創作
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
毎日たくさんの拍手をありがとうございます。励まされてます。
おかげさまで、しづは元気で仕事してます。(10/28)
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