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オフタイム(1)

 薪さんのプライベートのお話です。
 薪さんには似合わない発言があります。
 原作のイメージを大切にしたい方は、ご遠慮ください。





オフタイム(1)







 それは第九の新人の、素朴な疑問から始まった。

「室長って休みの日、何してるんですかね?」

 第九の職員ご用達の居酒屋『どんてん』の指定席で、今井を除く5人の面子が1週間のストレスを解消しようと、ビールジョッキを片手に笑い合っている。
 酒の肴は仕事以外のことなら何でもいいのだが、特に多く話題に上るのは、やはり彼らの最大のストレスの原因となっている直属の上司のことだ。
「なにって、休みの日に仕事はしないだろ」
「わかんないですよ。仕事中毒ですからね、うちの室長は」
「ああいうのをワーカホリックっていうんだ。一番嫌な上司のタイプだよな」
「他にやることないんですかね。あの性格じゃ恋人はおろか、一緒に遊ぶ友達もいないんでしょうね」
「淋しい人生だよな」
「ああはなりたくないよな」
 云いたい放題である。
 アルコールが入っているせいもあるが、彼らがこの厳しい上司に常日頃からどれだけ虐げられているか、誰もフォローする者がいないことでも察しがつく。

「まあ、誰かが休日出勤するときには必ず出てくるな」
「そうですね。俺、先週出たとき、室長がメシ奢ってくれました」
 笹で作ったような頼りない助け舟を出したのは宇野である。
 宇野は、第九の誰よりもMRIシステムに精通している。年に何回か行わねばならないシステムチェックの間は他の操作ができないので、その作業は休日に行なうことが多い。そのため、休日出勤が一番多いのは宇野である。
「俺は水曜日に代休取ったけど、室長は取らないんですよね。あのひと結局、2週間休みなしですよ」
「別に、出てきてくれって頼んでないのにな」
 宇野の出した助け舟は、小池の意見によってあっさり波間に沈められた。その上から石を投げ込むように、小池は引き続き室長の欠点をあげつらう。
「あのひとって、自分以外誰も信じられないんだよ。報告書一つにしてもめちゃめちゃ細かい所までチェック入れてさ。元のデータから全部見直してんだぜ、あれ。毎日毎日、遅くまで残業してるのはそのせいだよ」
 だから突然倒れたりするんだよ、と吐き捨てるように言ってジョッキを呷った。

「部下に仕事を任せられないってやつ? ちいさい男だね」
「小さい小さい。背丈なんか小学生並だもんな」
「うちのおふくろより小さいよ。でもって細いったら」
「青木と並ぶと大人と子供みたいだよな」
「おまえ、年の割りに老けて見えるからさ、お父さんと子供ってカンジ?」
 話を振られて、背の高い新人は曖昧に笑って見せた。

 先輩たちはひどく室長のことをけなすが、この新人は室長に憧れて第九に入ってきたという変り種だ。初めのうちこそ室長の厳しいイジメ、もとい指導に心が折れそうになっていたが、いろいろあって、今は室長を心の底から尊敬している。
 夢中で敬愛していると言い替えてもいい。むしろ、崇めている。
 室長のためなら、どんなことでもできる。あのひとの役に立ちたくてたまらない。あのひとに褒めてもらいたくて、あの優しい微笑を見たくて。いつも一緒にいたくて、片時もそばを離れたくなくて。

 つまり、恋をしている。

 青木は最近、現場で警察官の心得を室長から叩き込まれたばかりだ。
 青木にそれを教えてくれたときの薪の高潔な心に、冷静な仮面の裏の熱い正義感に、とうとう魂ごと持っていかれてしまった。
 その前から少しずつ惹かれてはいたのだが、ずっと迷い続けていた。
 いくら見かけがきれいでも、室長は男の人だし、自分より12歳も年上だし。いくら想いつめても叶うはずもないし、叶ってしまっても困るし。
 しかし、今はもうそんな段階ではなくなってしまった。
 迷いなどない。
 真っ直ぐに薪のことだけを見ている。

 薪の強さを、潔さを清廉さを、見れば見るほどきれいで透明で、どんどんのめり込んでいく自分を感じている。
 時々は引き返したほうがいいのかなと思うのだが、研究室で顔を合わせてしまうと、そんな考えは瞬時に消滅する。捜査に没頭する薪のひたむきな姿を見ていると、世間的な不利益を考えて自分の気持ちに嘘を吐こうとしている自分がひどくいやらしく思えて、迷わなくてもいいのだと確信してしまう。
 だからこうして、薪の悪口を聞いているのは、正直つらい。
 どうして先輩たちは室長の素晴らしさが分からないんだろう。そう思うが、新人の立場では先輩に意見することもできない。辛辣な陰口にも曖昧に笑うしかない。

「明日は多分、井之頭公園だな」
 薪のシンパだと噂される岡部が、独り言のように呟く。
 岡部は薪の味方のはずなのに、なぜ先輩たちに注意をしてくれないのだろう、と青木は思う。
 一番の年長者で実力も高い岡部の言うことなら、みなも素直に聞き入れてくれるに違いないのに。せっかくみんなが気分良く飲んでいるのに、水を差したくないということだろうか。気配り上手の岡部らしいが、青木には少し不満だ。

「公園ですか? ……もしかして、デートとか」
 薪は青木より一回り年上だから、今年で36歳になるはずだ。結婚を約束した恋人がいてもおかしくない。
 青木にとってはけっこうしんどい予想だったが、岡部はその可能性を笑い飛ばした。岡部だけではない。第九の職員たちはみな、青木の言葉にいっせいに噴き出し、畳の上に転がって笑いこけている。
 なんだろう、この反応は。
「でっ、デートって、おまえ……!」
「デート、あのひとが女の子とデート! ないない、ありえない!」
「どこにそんな勇気のある女がいるんだよ!」
「生きてる女に興味ないぞ、室長は」
 ひどい言われ方だ。薪みたいないい男に、恋人がいないとは考えにくいのだが。

「室長ってモテるじゃないですか。しょっちゅうラブレターが届いてますよね」
「ありゃ、半分は中傷だ。第九は警察内部でも風当たりが強いからな」
「……そうなんですか」
 去年の夏に起きた事件以来、非難の手紙が薪のところに届けられるようになった。
 いかにもそれらしく装ったピンクの封筒を開けてみると、便箋に『警察庁の面汚し』と書いてあったりする。他にも『人殺しは警察を辞めろ』『警視正の資格なし』『第九は閉鎖しろ』などと非難の言葉は限りない。

 どんなひどい言葉にも、平気な顔で中身を確認してはゴミ箱に捨てていた薪だったが、一通だけ薪の顔色を変えさせた手紙があった。

 『私の憧れだった鈴木さんを返して』

 その手紙には、女の文字でそう書いてあった。
 それから薪は、自分宛に届く私信の封を二度と切らなくなった。今では読みもせずにシュレッダーに直行である。それはそれでひどい話だ。

「青木。あのひとの彼女いない歴、何年だか知ってるのか? 間違いなく35年だぞ」
「室長みたいなエリートが? まさか」
「いくらエリートだって、あの性格じゃ。皮肉屋で陰険で意地悪で、その上お天気屋で癇癪持ちだぞ。相手の女性がノイローゼになっちまうよ」
 そこまで言うか。

「じゃあ、何をしに公園へ?」
「来ればわかる。動きやすい格好で7時ごろ来てみろ。珍しいもんが見られるぞ」
 岡部は事情を知っているようだが、詳しいことは教えてくれなかった。
 休日の朝7時とは、ずいぶん早い時間だ。しかし、薪に会えるのなら早起きするだけの価値はある。
 朝の公園なら散歩か。犬でも飼っているのだろうか。
 薪には、マルチーズのような小型犬が似合うだろう。いくら薪が偏屈でも、自分の愛犬にはきっと笑顔を見せるに違いない。岡部の言う『珍しいもの』というのは、きっとそういうことだ。

 薪の明るい笑顔を想像して、明日の朝が今から楽しみな青木だった。



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オフタイム(2)

オフタイム(2)





 吉祥寺にある井之頭公園は、森林浴のスポットとして有名である。
 広い敷地には遊歩道が整備されていて、ジョギングコースやちょっとしたアスレチック施設もある。季節の花や植物が美しく配置され、公園を訪れた人々の目を楽しませてくれる。恋人同士の散策には、もってこいの公園だ。

 こんな美しい公園を、薪とふたりで歩いたらどんなに幸せな気分だろう、と青木は考えている。
 薪の物静かな佇まいには、緑色の樹木が良く似合う。薪はそれほど活動的なタイプではないから、さんさんと照りつける太陽の下より、こういった静かな雰囲気がぴったりだ。
 遊歩道をゆっくりと歩く白百合のような美貌に、青木は声を掛ける。
『室長。散歩ですか?お供します』
 薪は青木の姿を見て少し驚くが、にっこりと微笑んで隣を歩くことを許してくれる。あまり口数が多くない薪のこと、取り立てて会話はないが、それでもこうして連れ立って歩いていると恋人同士のような甘い雰囲気に……。
―――― などと、中学生のような青臭い妄想をたくましくしていた青木だったが。

「も、もうだめです。限界です」
 現実の青木は、芝生の上に四つん這いになってゼイゼイと息を弾ませていた。
「限界って、おまえまだ2キロも走ってないだろ」
 確かに隣には薪の姿があるのだが、それは青木が想像していたものとはまるで違う。白地に黒の線が入ったトレーニングウェア姿。ジョギングシューズにスポーツタオル。今日の室長はめいっぱいアクティブないでたちである。
 そんな服装をしていると、とても青木より年上には見えない。きっちりとスーツを着ていてすら30代というのが信じられないのだ。ジャージ姿なんて間違いなく高校生だ。

 薪はその場で足踏みをしながら少しの間待っていてくれたようだったが、青木がもう立てそうにないことを見て取ると、大仰に肩を竦めて見せた。
「だらしないな。最近の若いもんは」
 まったくもって顔に似合わないセリフを吐いて、薪はジョギングの続きに戻る。セリフも似合わないが、室長の学者然とした雰囲気に、スポーツはもっと似合わない。

「こんなに走ったの、何年ぶりだろ」
 芝生の上に座り込んで、青木は息を整える。薪は走る速度を上げて前を行く岡部に追いつき、何事か話しかけている。たぶん、青木のヘタレっぷりを嗤っているのだろう。
「まさかジョギングなんて」

 薪は亜麻色の短髪を上下させながら、1周2キロのジョギングコースをひた走る。細い身体のどこにそんな体力があるのか、岡部と一緒のペースで早3週目である。
「青木、これ持ってろ」
 側を通り過ぎるときに、上着を投げられた。ウェアの下は半袖のTシャツを着ている。なんの変哲もない白いTシャツだが、薪が着ているとブランド品のように見えるから不思議だ。
 上着からは、甘やかで清冽な香りがする。これは薪の体臭なのだろうか。以前も薪はこの匂いを纏っていた。あのときは香水かと思ったが、どうやら違うようだ。

 5周目を回り終えた時点で、薪は走るのを止めた。息を弾ませながら青木のところへ歩いてくる。両膝に手を置いて前に屈み込み、荒い呼吸を繰り返している。
「青木、水くれ」
「あ、これオレのですから」
 新しいの買って来ます、という前に横取りされて、ペットボトルに半分ほど残っていたミネラルウォーターは薪の口の中に注ぎ込まれた。薪がこういうことに無頓着なのは知っているが、それでもやはりドギマギしてしまう。
 ごくごくと、白い喉が動いている。額や首筋に汗が流れていて、それが何故か妙にきれいだ。普通、男が汗にまみれるともっと汚らしく見えるものだが、やはり惚れた欲目なのだろうか。
 しなやかな腕。仰け反った細い首。汗でシャツが身体に張り付いているため、反り返った後頭部から背中のラインがはっきりとわかる。そのフォルムは、とても男のものとは思えない。肩も背中も華奢で頼りない。ウエストは青木の元カノより確実に細い。
 思わず見とれてしまう。やっぱりきれいだ。

 青木の視線の意味をどう捉えたのか、薪は秀麗な眉を寄せて軽く舌打ちした。
「……わかった、買って返すから」
 水くらいでケチくさいやつだ、と空のペットボトルを放ってよこす。
 誤解です、と青木は心の中で言い返す。まだそれを口に出せるほど、室長とは近しい関係ではない。
「岡部さんは?」
「まだ走ってる。岡部にはかなわん」
 薪は芝の上に仰向けに寝転がって、目を閉じた。呼吸を整えようと大きく息をする。薄い胸が上下して額には汗が浮かんで、その姿は見るものに蠱惑を与える。
 まるでそういう行為の後のような……あの艶めいたくちびるのせいだろうか。

「おまえ、もう少し体を鍛えたほうがいいぞ。この仕事は体力勝負だからな」
「室長はよく走ってるんですか?」
「まあな。毎朝5キロは走るぞ。平日は警視庁の中のジムでトレーニングするんだ。朝早いうちは誰もいないから」
 知らなかった。室長がこんなに体力づくりに熱心な人だったなんて。
 物静かでなよやかなイメージとはかけ離れた薪の習慣に、青木はびっくりしている。ジムでトレーニングなんて、想像もつかない。

 20キロを完走して、岡部がこちらへやってくる。冷たい水が入ったペットボトルを2本、手に下げている。片方を薪に渡して青木の隣に腰を下ろすが、表情はまだまだ余裕のようだ。岡部の体力は底なしらしい。
「岡部さん。知ってました?室長がジムでトレーニングしてるって」
 もちろん、という顔で岡部は頷いた。薪のことなら何でも知っていると言いたげだ。青木は微かな嫉妬を覚える。岡部と薪の信頼関係が、ひどく羨ましい。

 「ジムで竹内に会うそうですね」
 「あのバカ、ああ見えてよくトレーニングしてるんだ」
 ひょいと腹筋で起き上がり、薪は芝生の上に胡坐をかいた。
 男の人だから自然な座り方なのだが、やっぱり顔に似合わない。薪には、椅子の上でスマートに足を組んでいて欲しい。が、実際は職場でも足を組んでいることはあまりない。背筋をピシッと伸ばして、きっちりと両足を床に着けているのがいつものスタイルだ。
「竹内さんて、捜一の?」
 竹内という人物は捜査一課のエースで、薪とはあまり仲が良くない。青木もまだ、竹内のことは噂でしか知らない。何でも署内モテる男№1で、俳優のような色男だという。
「細く見えるけど、あいつ僕より筋肉あるんだ」
 その事実は室長にとって、面白くないらしい。いくらか顰められた眉と、尖らせたつややかな口唇が薪の不満を表している。
「バカのクセに、生意気なんだよな」
 竹内は確か京大出のエリートだ。それをバカと言い切ってしまうところがすごい。
「竹内はキャリアですよ」
「キャリアだって、バカはバカだ。おまえはキャリアじゃないけど、竹内よりずっと話が通じる。竹内の頭には、毛虫程度の脳みそしか入ってないんだ」
 薪は岡部にだけはこんなふうに、砕けた口調で話をする。表情も研究室にいるときとは大分ちがう。決してにこやかではないが、無表情ではない。

「それ、竹内が聞いたら泣きますよ」
「あいつが泣くようなタマか。そもそもあいつに涙なんかあるのか? 親が死んでも泣かないぞ、きっと」
「どんだけ嫌ってんですか」
「世界で3番目にきらいだ」
「ベスト1と2は誰ですか?」
「2番目は三田村のバカだ。1番は」
 そこで薪は、ちらりと青木の顔を見る。まさか自分じゃないですよね、と不安になってしまう青木である。そこまで嫌われることはしていないと思うが、いや……。

 やはり、あれだろうか。

 第九に来たばかりの頃、無神経にも鈴木の脳を薪に見せた。あのことで、自分を恨んでいるのだろうか。
 一度、きちんと謝っておいたほうがいいのかもしれない。しかし、もしも違っていたら、また余計なことを蒸し返してしまう。

 ふと、青木は自分の膝に微震を感じた。預かっていた薪の上着のポケットで、携帯電話が震えている。薪がすぐに気が付いて上着を取り上げ、電話に出た。
 「はい、薪。……分かりました。すぐに伺います」
 簡潔な会話の後、薪は慌しく上着を着込んだ。所長からの呼び出しらしい。休日だというのに、室長は本当に忙しい。
「俺も行きましょうか」
「いや。僕ひとりで十分だ」
 岡部の申し出を断ってすっくと立ち上がると、薪は封を切っていないペットボトルを青木に放ってよこした。
「あんまりケチくさいこと言ってると、女にもてないぞ」
 だから誤解ですったら。
 どう言ったらいいものか困惑顔の青木に意地悪な笑みをくれて、室長は歩き去った。
 薪の眼に、自分はどう映っているのだろう。出来の悪い手のかかる新人―――― 残念ながら、まだそんなところだろう。

「薪さんの朝メシ、食い損ねたな」
「はい?」
「いつもなら、これから薪さんちで朝メシ食うんだ。あのひとの料理は美味いぞ」
「え!? 室長、料理なんかするんですか」
 意外だ。これもまた想像がつかない。
「卵焼きなんかプロはだしだぞ。味噌汁もちゃんと出汁をとってな」
 岡部は、薪の自宅にもよく遊びに行くと聞いた。休みの前日などはふたりで飲みに行くことも多いという。
「岡部さんて、本当に室長と仲がいいんですね」
「仲がいいっていうか、危なくてひとりにしておけないっていうか」
「は?」
「まあ、あの人とは年も近いし。経験した部署も同じだから、話が合うのかもな」

 岡部は薪よりひとつ年上。第九の中で唯一、薪の先達である。
 階級は下でも、警察官としての経験年数なら18年にもなる。長い下積み期間を経て捜査一課に配属になった岡部は、そこで水を得た魚のごとくめきめきと頭角を顕し、たちまち捜一のエースとなった。犯人検挙率トップの座を守り続けて4年。その実力を買われてキャリア限定の第九へ特別に異動となったわけだが、それは警視総監じきじきの人事だったと聞いている。薪が頼りにするわけだ。

 あと10年早く生まれたかった。そうしたら。
 岡部ほどではなくとも、もう少し薪と親しくなれたかもしれない。いかんせん、12歳の年の差は厳しい。
 羨望の眼差しで頼りがいのある先輩を見ながら、青木は自分の若さを嘆いていた。




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オフタイム(3)

オフタイム(3)








 岡部のおかげで薪の意外な一面を知ることができた青木だったが、翌週には更に大きく薪のイメージを変える出来事があった。
『青木くん。面白いもの見せてあげるから、道場に来なさい』
 一日の職務を終えての帰り道、法一の女医からそんな電話が入ったのだ。

「法医第一研究室の女薪」と称される彼女は、腕利きの監察医である。第九にもちょくちょく解剖所見と差し入れを持って来てくれるのだが、それはカモフラージュで、本当の目的はたぶん薪だ。
 こんな言い方をすると恋愛関係かと思われがちだが、雪子の方はそれをきっぱりと否定している。
 雪子は、薪が射殺した鈴木の婚約者だった。それを青木は、本人の口から聞かされたばかりだ。
『婚約者を殺した男と、恋仲にはなれないわ』
 青木の邪推を、雪子はそんな言葉でばっさりと切り捨てた。その上、青木の薪に対する気持ちまであっさりと看破して見せた。現在、雪子は青木の恋の相談相手である。

 ただ、薪の方はどう思っているのかわからない。

 薪は雪子に対してだけはいつもにこやかで優しくて、どう見てもただの女友達に対する態度とは思えない。もしかしたら、鈴木が生きていたころから雪子に想いを寄せていて、でも親友の彼女だから遠慮していたのかもしれない。それがあの事件のせいで、余計に愛してはいけない女になってしまった。だが、諦めきれない―――― ふたりの関係は、そんなふうにも取れるのだ。
『親友でライバルなの』
 雪子は、薪との関係をそう定義づけた。
 親友は分かるが、ライバルというのは意味不明だ。仕事の上で張り合っている、ということだろうか。犬猿の仲である捜査一課と違って、第九と法一はそれほど対立することはないのだが。

 さておき。
 雪子が指定した道場は警視庁の中にある。
 警察官にとって、武道の修練は大切な仕事のひとつだ。特に現場に出る一般の警察官には、警察学校を卒業する際に柔道あるいは剣道の初段習得が義務付けられている。しかし、青木のようなキャリア組には、そのような義務付けはない。キャリアは基本的に現場には出ないからだ。警大で柔道の基本だけは学んだが、実戦経験はないに等しい。道場に行くのも、これが初めてだ。
 ましてや監察医の雪子にとっては、道場などまったく関係のない場所と思われるが、いったい何事だろう?

 道場の扉を開けて中に入った青木は、思わず我が目を疑ってしまった。
 自主稽古に余念のない多くの職員に混じって、青木の見知った顔がある。雪子と薪と岡部の3人だ。
 薪が似合わない柔道着姿で雪子と向かい合っている。まさか組み手をしようとしているわけではあるまいが、この状況はそれ以外に説明のつけようがない。
 お互い真面目な顔をして腰を低くし、相手の道着を取りに行く。雪子の足が外側から薪の足首を払い、見事な大外刈りが決まった。
「痛ッ!!」
 なるほど、面白いものとはこのことか。

 薪の醜態に、青木は思わず噴き出してしまう。いくら自分より体が大きいとはいえ、女の雪子にこうも簡単に倒されてしまうとは。
 しかし、そこがまた可愛らしい。薪の弱さは青木の庇護欲をかき立てる。守ってあげたいという気持ちになるのだ。
「いま、受身取るヒマなかっ……手加減してくださいよ、雪子さん」
「ムリよ。薪くん相手に手加減できるほど、あたし強くないもの」
「よく言いますよ。いたた」
 畳の上に座り込んで、薪は左の腰の辺りを押さえている。薪の柔道の実力は、大したことはないらしい。それも当たり前のことだ。薪は青木と同じキャリア組。武術など必要ない。

 青木の姿に気づいて、雪子がこちらに歩いてきた。女だてらに道着姿がばっちり決まっているのは、薪より10cm以上も高い身長の為せる業だ。
「青木くん。見てた? あたしの勇姿」
「すごいんですね、三好先生」
「まあね」
「引き換え、うちの室長は」
 薪はまだ座ったままだ。よほど痛かったらしい。
 これまた道着姿が板についた岡部が、薪に手を貸して立たせようとしている。岡部に比べると、薪の道着姿はまるで中学生くらいの子供のようで、それだけで笑えてしまう。

「あら。薪くんは強いわよ」
「だって、いま」
 薪が振り返って青木のほうを見る。青木の表情を見て取って、自分が笑われているのが分かったらしい。ジロりと凶悪な目をして、それから何を思ったのかニヤリと笑った。
「青木。ちょうどいい。練習相手になってくれ。雪子さんも岡部も僕とは実力が違いすぎて、痣が増えるばかりなんだ」
「いいですけど」
 青木も柔道は授業で習った程度だが、この体格差である。負けるとは思えない。それどころか、下手をしたら怪我をさせてしまうかもしれない。
 青木は岡部に道着の上だけを借りて、紐を締めた。雪子がそっと青木の袖を引いて、アドバイスをしてくれた。
「寝技に持ち込めば、勝てるかもしれないわよ」
 青木の気持ちを知っている雪子ならではの、きわどいアドバイスだ。その時、青木はそう思っていた。

 薪と向き合って礼をする。顔を上げて相手の目を見る。重心を低くして、構えを取る。
 薪がこちらに踏み込んできた。意外と素早い。あっと思ったときには道着の襟を摑まれて、下に潜り込まれていた。体勢を崩したところに足払いを掛けられてたたらを踏む。何とか踏みとどまるが、けっこうきつい蹴りだ。
 小さいくせに生意気な、と細い腕に手をかける。これだけの体重差があるのだ。押さえ込んでしまえばこっちのものだ。
 ところが。

 薪はさっと身を翻すと、青木が伸ばした腕を自分の肩にかけ、前方に引っ張った。そのまま思いがけない力で引き摺られ、周りの風景が一回転したかと思うと、次の瞬間畳の上に仰向けに倒されていた。
「おまえ、弱すぎ」
 きれいな顔で厳しい意見を吐いて、薪は腕を組んだ。
「うそ……」
 薪との身長差は、30cm近くある。体重は30キロ以上違うはずだ。それなのに、自分を投げ飛ばすなんて。

「だから寝技に持ち込めって言ったのに。体重かけちゃえば、身動き取れないんだから」
「大丈夫か? 青木」
 仰向けになったままの青木に、岡部が屈んで話しかけてくる。
「岡部さん。室長って柔道やってたんですか?」
「知らなかったのか? 薪さんは柔道と空手、どっちも2段だぞ」
「えっ!? あんなちっこいのに?」
 途端、道場の空気がビシッと凍りついた。
「バカおまえ、それ言ったら……!」

「青木。警察官は日頃の鍛錬が大切なんだ。僕がたっぷり稽古つけてやる」
 バキボキと華奢な手を鳴らして、薪はにっこりと微笑んだ。こういう時、薪は本当にきれいに笑う。笑いかけられたほうは、めちゃめちゃ怖いが。
「いえあの、今日はちょっと用事が、痛たたたたッ!!」
 左の肘に関節技を決められて、青木が悲鳴を上げた。
「あらあら。仲のいいこと」
 他人事だと思って、雪子は呑気なことを言っている。こっちは本当に痛いのだ。
 と、腕にかけられた力が不意に消えた。さっと手を離して、薪は岡部のほうに歩いていく。

「雪子さん、こいつの手当てお願いします」
 雪子にそれだけ言うと、後はもう青木の方を見もしない。
「岡部。今日、一杯飲まないか?」
「いいですよ。『瑞樹』にしますか?」
「うん」
 そんな羨ましい会話を交わしながら、2人の上司は連れ立って道場を出て行った。残された青木は、ひどく寂しい気分になる。

「いいなあ……岡部さん」
「妬かない妬かない。これからよ」
 雪子は元気付けてくれるが、青木には自信がない。捜査官としても男としても、自分はまだまだ未熟だ。岡部のように薪に頼ってもらうには、あと何年かかることか。
「あたしに任せなさい。最短コースで薪くんの心に入らせてあげるから」
「ほんとですか」
「あたしが何年薪くんの親友やってると思ってるの? 薪くんのことなら、職場のだれより詳しいわよ」
 まったく、雪子は青木にとっては女神のような存在だ。いつもこうして青木のことを励ましてくれる。迷ったときも悩んだときも、その強気な瞳で青木を導いてくれる。

「三好先生。夕飯、何がいいですか?」
 下心みえみえの青木の誘いに、道着姿の美女は嫣然と微笑んだ。





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オフタイム(4)

オフタイム(4)







 美濃部焼きのぐいのみを細い指が傾けて、透明な甘露をつややかなくちびるへと運ぶ。芳醇な味と鼻に抜ける吟醸酒独特の香りに目を細め、薪は満足そうにため息をついた。
「くーっ、酒は日本酒に限るよな」
 親父くさいセリフに思わず笑ってしまう。まるで顔に合っていない。

 外見とのギャップが激しいのが薪の特徴だ、と岡部は最近ようやく理解してきた。
 女のような顔をして、中身は本当に普通の男だ。付き合いを重ねてみれば、べつに気取ってもいないし上品でもない。今も岡部の前で胡坐をかいて、炙ったするめを齧っている。
 もちろん第九の室長として重鎮との会合の席には慣れているから、その気になれば優雅に振舞えるのだが、薪が本当に好きなのは、こういう静かな店でゆっくり飲む日本酒だ。
 
「それにしても、最近の若いもんは情けないな」
 その年寄りくさいセリフは、もう3回目だ。酔っ払いは繰り返す、というのは本当なのだ。
「まあ、仕方ないでしょう。青木はキャリアですから」
「関係ないだろ。竹内のバカもキャリアだけど、あんなにトレーニングしてる。うちの連中だって柔道はともかく、2キロも走れないやつなんていないぞ」
「竹内は一課の人間ですし、うちの連中はみんな所轄を経験してますからね。青木はまだ警大を出て1年足らずなんですから、そう言っちゃ可哀相ですよ」
「でも、僕があいつの年にはもっと」
 岡部の酌を受けながら、薪は新人の不甲斐なさを嘆いている。そう見せかけてその実、薪が青木のことをひどく心配していることに、岡部は気付いていた。
 あの新人が入ってきてから、薪はずっと彼のことを気にしている。
 いつも心配そうに見ているし、岡部にもしょっちゅう青木のことを聞いてくる。初めの2ヶ月くらいは、青木も慣れない職場に悪戦苦闘しているようだったから岡部も心配していたのだが、「役立たずは第九にはいらん」と言い切ってしまう薪にしては珍しい傾向だ。

「まあ、この頃は少しがんばってるみたいだけどな」
 薪の言葉は、ずい分と控えめな評価だ。
 4月頃から青木は、誰に言われたわけでもないのに、自主的に訓練を始めた。毎日遅くまで残って、機器操作の練習や専門書の解読に打ち込むようになったのだ。
 MRIシステムの操作の難しさは半端ではない。岡部たちも第九に入った当初は、連日のように薪から特訓を受けた。
 岡部が第九に来たのは去年の夏。例の事件の直後だった。
 当時、ほとんど機能停止状態の第九に異動になって初めて薪に会い、その複雑怪奇な人格に驚きながらも、捜査官としての類まれなる能力に魅せられて今に至っている。
 あの頃の第九は、あの事件のせいで開店休業状態だったから、操作訓練の時間はいくらでもあった。なにより、室長の他にMRIシステムを扱えるものがいなかったのだ。職務時間を全部練習に当ててでも、岡部たちには操作を習得する必要があった。
 青木が入ってきたのは、それから5ヵ月後のことだ。
 失地回復とまでは行かなかったが、それでも氷河期のような時期は乗り越えて、ようやく平常業務に戻れたころだ。だから青木には岡部たちほど緊急に操作方法を覚える必要もなく、自主訓練は日中の業務を終わらせてからということになり、習得に時間がかかっているのは仕方のないことと思われた。

「青木は努力家だし、飲み込みもいいですよ。さすが薪さんの後輩です」
「学歴なんか、クソの役にも立たないぞ。東大出の人間が今まで何人第九を辞めていったか、岡部だって知ってるだろ」
 辞めていったというか薪に辞めさせられたというか、その辺は敢えて曖昧にすることにして、岡部は上司のぐいのみに酒を注いだ。
「ろくな実力もないくせにプライドばっかり高くて、使いづらいったら。おまえたちのほうがよっぽど役に立つ」
「青木は大丈夫ですよ。素直で単純で、かわいいやつです」
 岡部も学歴を鼻にかけるキャリアは嫌いだが、青木にはまるでそういうところがない。キャリア組にしては珍しいタイプだ。
「だから危ないんだ。ああいうタイプは持っていかれやすい。それじゃなくてもあいつは一度、あれを見てるから……」
 言いかけて、薪は口を閉ざした。亜麻色の頭を左右に軽く振って、岡部の訝しげな視線をいなす。
「いや、なんでもない」

 捜査一課で数多の嘘を見抜いてきた岡部には、以前から薪が何か自分に隠し事をしていることが分かっていた。室長としての立場でしか知りえない秘密も多い薪のこと、岡部に言えないこともあって当たり前なのだが、どうもこれは捜査上の秘密というわけではないようだ。
 これまでにも薪は、何度も岡部にそれを言い出そうとしては途中で止めている。上層部から口止めされた機密情報の類いなら、薪は最初から話す素振りなどみせないはずだ。何かしら含むところがあるのだろうが、先のことを考えすぎて、結局なにも言えなくなってしまうのは薪の悪いクセだ。

 腹の中に溜め込んだものをアルコールで流してしまおうとするかのように、その夜の薪は早いピッチでしたたかに飲んだ。
「薪さん。飲みすぎですよ」
「うるさいな。自分がちょっと酒に強いからっていい気になるなよ。僕だってその気になれば酒の一升や二升……う~ん……なんで岡部が2人いるんだ?」
 座卓に突っ伏してくだを巻いている室長など、滅多と見られるものではない。雪子がここにいたら、間違いなくカメラに収めているだろう。

 腰が立たなくなってしまった薪を背負って、岡部は店を出た。薪と酒を飲むと、3回に1回はこのパターンだ。たいして強くもないくせに、岡部のペースに合わせようとするからこうなるのだ。
 酒は強いほうが男らしいと思い込んでいるらしい。男らしさを強調したいのだったら、薪の場合は根本的な解決策が必要だ。例えば整形手術とか。
 タクシーを捕まえて一緒に乗り込む。マンションに着いても、一人では部屋まで歩けないだろう。薪の部屋は2階だから、そこまではまた背負っていかねばならない。まったく手のかかる上司だ。
「ん~、田城さん……追加予算、ありがとうごさいます」
 岡部の苦労も知らずに、薪は半分夢の中にいる。
 しょうがねえな、と口では言うが、こんなふうに頼られるのはまんざら悪い気分ではない。職場では鬼の室長だの氷の警視正だのと称される薪が、自分の前ではこんなに無防備な姿を見せてくれる。それは岡部と薪が共有する、ある秘密のせいかもしれない。

 信号待ちの間、何気なく窓の外を見ていた岡部は、道行く人々の中に見覚えのある長身の男を発見した。第九の新人である。
 一軒の中華飯店から出てきたところで、しかしひとりではない。隣にこれまた見覚えのある黒髪の美女―――― 雪子だ。
 薪のセリフではないが、最近の若いもんは仕事は半人前のくせにこういうことだけは素早いらしい。しかし雪子に誘いをかけるとは、青木はなかなか勇気がある。

「仕事の手も、あれくらい早けりゃな」
 いつの間にか目を覚ました薪が、早速辛辣な意見を述べる。しかしこの件に関しては、岡部も薪の意見に全面的に賛成だ。
「でも、いい雰囲気だな。あのふたり」
「そうですか? 俺にはそうは見えませんけど」
 恋人同士というよりは、何だか姉と弟のようである。12歳という年齢差のせいか、何となく色気が足りないのだ。
「おまえはこういうことには疎いからな。僕にはわかるんだ」
 自分ではそう言うが、薪も恋愛にはかなり疎遠なほうだと岡部は思っている。
 その秀麗な容姿から男女問わず好意を寄せられている薪だが、女気の無さなら岡部とあまり変わらない。金曜の夜に、自分と酒を飲んでいるくらいだ。第九の部下たちの陰口の通り、彼女いない歴35年はけっこう的を射ているのではないかと思う岡部である。

 知らないうちに逢瀬の事実を上司に見られてしまった青木だが、店の前で二言三言、言葉を交わしただけで雪子とは別れてしまった。軽く手を振って去っていく雪子に、青木は頭を下げている。やっぱり恋人同士には見えない。
「あ、何やってんだ、あいつ。ここで帰しちゃダメだろう」
「三好先生だから心配ないと思いますけど。一応、送るべきでしょうね」
「なに言ってんだ。ちょっと歩けばホテル街があるだろ」
「あれはそういうんじゃないと思いますけど」
 青木は相手を見送るわけでもなく、さっさと踵を返して駅のほうに歩いていく。どう見ても、雪子に恋心を抱いているようには思えない。
「情けないやつ。ここで決めなきゃ男じゃないだろ」
「だから違うと思いますよ」
「女なんかやっちゃえばこっちのもんなのに」
 女のような顔をして、世界中の女性を敵に回すようなことを言っている。本気でそう思っているわけではないだろうが、まったく外見にそぐわない。
「三好先生に聞かれたら、肩車くらいますよ」
「コワイこと言うなよ」
 岡部の冗談に、薪はぎょっとした顔になる。絶対に内緒だぞ、と口の前に人差し指を立てて、大げさに身震いしてみせる。
 実際、薪は雪子にだけは頭が上がらない。この力関係は、大学生の頃には既に確立されていたというから、10年以上も続いていることになる。もう、一生このままかもしれない。

 信号が変わって車がスタートし、流れる景色の中に青木の姿も消えた。車中の話題は、自然と青木のことになる。
「青木はさ、鈴木によく似てるから。雪子さんもきっと気に入ると思ってたんだ」
「まあ、仲は良いようですね」
「青木も」
 言いかけて、止める。
 薪の隠し事は、どうやらこの新人に関することらしい。

「それにしても、ほんとに似てるよな。まるで鈴木の生まれ変わりみたいだ」
「そんなに似てますかね?」
「似てるさ。おまえは鈴木のことを写真でしか知らないから分からないんだ。顔も性格も考え方も……10年以上も親友やってた僕が言うんだ。間違いない」
 自信たっぷりに言い切るが、岡部にはそこまで似ているようには見えない。たしかに雰囲気は似ているかもしれないが、生まれ変わりというのは大袈裟だと思う。
 岡部は写真だけでなく、現実の鈴木も見ている。それほど親しかったわけではないが、いつもにこにこしていて、エリート然としたイメージの強い第九の人間とは思えないくらい人当たりの良い人物だったと記憶している。

 鈴木は、室長の薪のそばに常に寄り添っていて、二人の仲の良さは署内でも有名だった。
 だが、彼らの性格はまるで正反対で『仏の鈴木・鬼の薪』となどと揶揄され、このふたりが何故こうも仲がよいのか、ひとえに鈴木の忍耐によるものと噂では囁かれていたが、それは違うと岡部は確信している。
 薪と鈴木が二人で写っている写真を、岡部は見たことがある。ふたりの笑顔を見れば、お互いを大切に思い合っていることがはっきりと伝わってくる。本当に仲の良い親友同士だったのだ。

 それが、どうしてあんなことになってしまったのか―――――。

 昨年の悲劇は、薪からあの笑顔を永遠に奪い去った。
 この世から姿を消した薪の親友が、持っていってしまった。いつになったら返してもらえるものか、見当もつかない。
 薪が青木のことをやたらと気に掛けるのは、青木がその親友に似ているからだ。かれを思い出させる青木を、ついつい目で追ってしまうのだろう。青木が第九に入ったばかりの頃は、それが特に顕著だった。
 あの頃は青木自身もかなり精神的に参っていた時期だったから、余計に心配だったのだろう。早く異動させないと精神を病んでしまうかもしれないと危惧して、しきりと異動届を出すように促していたようだった。単純な青木は、それを自分が薪に疎まれているものと誤解していたらしいが、薪はそんな狭量な男ではない。少なくとも、仕事に私情は挟まない。岡部は薪のそういうところを尊敬している。

「女性の好みも似てるはずだ。問題は年の差だよな。12歳は厳しいかなあ」
「青木にはもったいないんじゃないですか?」
「そうだけどさ、大切なのは雪子さんの気持ちだから」
 青木の気持ちはどうでもいいらしい。
 薪は雪子のことをとても大事にしている。頭が上がらないのも事実だが、それ以上に友人として―――― 本音を言ってしまえば、自分が殺した親友の婚約者に対する贖罪の気持ちから、雪子の幸せを切望している。
 雪子が望むなら、薪は大抵のことは叶えてやる。
 雪子は聡明な女性だから、薪の気持ちを利用するようなことはしない。図に乗ったりもしない。雪子自身やはり薪のことを大切に思っていて、岡部は最初この二人は恋人同士なのかと誤解していたくらいだ。

「僕が取り持ってやろうかな」
「余計なことしないほうがいいと思いますよ。男と女なんて、周りがどう騒いでも、結局は本人たち次第なんですから。かえってギクシャクさせるだけですよ」
 恋愛の機微に疎い薪が何かしようものなら、熱愛中の恋人同士でさえまぜっかえしてしまうに違いない。あの2人はそういう関係ではないが、どちらにせよここは抑えなければ。

「そんなもんかな」
「そうですよ」
「まあ、確かに。誰かに言われたからって、その人を好きになるわけじゃないものな」
 なにかを思い出したかのように切ない目になって、薪は独り言のように呟く。
「理屈じゃないんだよな。好きになっちゃいけないひとを好きになっちゃったりしてさ。自分でもどうにもならなくなって……でも、好きでいるのを止めることもできなくて。キツイんだよな、あれって」
 薪にも、辛い恋の記憶があるらしい。30年以上生きていれば、そんな経験のひとつやふたつ、あって当たり前だ。
 
「それじゃなくても女と付き合うのって疲れるよな。面倒だし」
「室長だってまだ若いんですから。恋人ぐらい作ったらどうですか」
「僕はいいんだ。一生だれとも結婚する気ないから」
 なんとも寂しいことをさらりと口にして、薪は話題を変えた。
「それよりもさ、小池のやつ、最近彼女と別れたんだって?」
「何でも月に2回しかデートできなかったとかで。上司命令で仕方ないんだって彼女に言ったら、『じゃあ上司と結婚すれば』って怒鳴られたみたいですよ」
「そうすると、残る彼女持ちは今井だけか」
 薪はお得意の意地悪そうな笑いを浮かべて、さもおかしそうに言った。

「今井のシフト組み直して、2ヶ月くらい休み無しにしてやろうかな」
 やりかねない。
 こういう意地悪を考えるとき、薪はとても楽しそうだ。困った上司である。
「MRIのメンテとバックアップ、週末ごとに入れてやりましょうか」
「よし。決まりだな」
 本人が聞いたら確実に泣き出しそうな冗談を言って、第九の室長とその腹心の部下はニヤニヤと笑う。岡部もすっかりエスプリの利いた冗談に慣れてしまって、単純なネタではそう簡単に笑えなくなってしまった。上司の影響というのは恐ろしい。

 薪のマンションまでの車中で四方山話をしながら、岡部は薪が抱えている秘密について考えている。どうやら薪は、今日もその打ち明け話を岡部にしてくれるつもりはないらしい。
 ここで突っ込んで訊けないところが俺のダメなところだな、と岡部は思う。
 岡部は慎重派だ。相手の気持ちを尊重しようとすると、どうしても自分の行動にブレーキがかかる。自制心も人一倍、強いほうだ。
 薪を本当の意味で救ってやれるのは自分ではない。自分はただ、薪の表面に噴き出した血を拭いてやれるだけで、奥深くに刻まれた傷を癒してやることはできない。それには薪の心の奥まで入っていかなくてはならないし、自分にはそれは無理だ。
 薪の心に入ろうとすれば、そこで大きな抵抗にあう。自分はその時点で諦めざるを得ない。自分の性格ではそれ以上は進めない。薪を救うには無理やりにでも薪の心に入っていって、力づくでも過去の妄執から引き摺り出すくらいの強引さが不可欠だが、岡部にはそれはない。

 薪の過去は、薪のものでしかない。
 結局は自分自身で立ち直るしかないのだが、薪のような場合はきっと誰かの助けが必要で、その誰かは自分ではない。自分は薪を見守ることしかできない。部下として、友人として、そばにいてやることしかできないのだ。
 その誰かが薪をしっかりと支えてくれる日が来るまで、岡部は薪を見守るつもりでいる。が、本人がこの調子ではまだ先は長い。薪は今のところ仕事以外には興味を示さないし、仕事では薪の支えにはならない。

 薪のマンションに到着したのは、11時を回った頃だった。
「ひとりで大丈夫ですか?」
「平気だ。じゃあ、また明日な」
「おやすみなさい」
 どうやら酩酊状態からは抜け出したらしい。
 薪は車を降りてマンションの自動ドアをくぐり、エントランスを通って奥の階段の方へ歩いていく。その様子を岡部は、車の中からじっと見ている。

「お客さんはどちらまで?」
「もう少し待ってくれ」
 階段を上っていく薪の姿が見えなくなり、しばらくすると二階の部屋に明かりが点った。
 偏光ガラスを使用しているので中の様子はまったく見えないが、ここまで自分の目で確かめなければ安心できない。店の前であっさり別れた男女とは対照的だ。
「新橋2丁目まで頼む」
「はい」
 薪の安らかな眠りを祈って、岡部はようやく帰途についた。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

オフタイム(5)

オフタイム(5)







 翌日の昼休み、青木は研究所の近くの珈琲問屋を訪れた。

 天心天の酢豚とエビチリで手に入れた雪子からの情報によると、薪はコーヒーが好きらしい。他にもいくつか薪の好みは聞いたのだが、職場で用意できるものといったら飲み物と菓子ぐらいしかない。甘いものはそれほど好きではないというから、せめて美味しいコーヒーを飲ませてやろうと、こうして豆から選ぶことにしたのだ。
 青木もコーヒーは飲むが、コーヒー好きという程でもない。コーヒーとビールが並んでいたら、間違いなく後者を手に取る。

 店の中に一歩足を踏み入れると、コーヒーのいい匂いが立ち込めていた。思わず鼻をひくひくさせてしまう。
 ガーッという音がして、その音の方から強い香りが漂ってくる。コーヒー豆を挽く時にこんなに良い香りがするとは知らなかった。コーヒーメーカーでコーヒーを落としている時より、何倍も強い匂いだ。コーヒー好きにとってはたまらない匂いだろう。薪にも嗅がせてやりたいものだ。
 店員のお勧めというキリマンジャロを買って、早速コーヒーメーカーで淹れてみる。なるほど、研究所の購買部で買うコーヒーとは香りが違うような気がする。値段のほうも倍くらい違うが。

 落としたてのコーヒーを持って、室長室を訪れる。薪には、研究所内のカフェテリアや街の食堂でランチを摂る習慣がない。この時間は室長室で昼寝をしているはずだ。
 が、お目当ての寝椅子に薪の姿はなかった。
 視線を巡らせて、思いがけない場所に薪の姿を発見し、青木は思わず大きな声をあげた。
「室長! なにしてるんですか?」

 窓枠の上にこちら側を向いて不安定な格好で立ち、左手で窓の上辺を持って自分の体重を支えている。胸から上の部分は完全に窓の外に乗り出しており、右手を窓の上部に伸ばして、外壁から何かを取ろうとしている。
 窓の外にベランダはない。ここは3階だ。落ちたら確実に怪我をする。
「ああ……鳥ですね?」
 ばさばさと、翼をはためかせる音がしている。どうやら小鳥が換気扇の隙間に挟まってもがいているらしい。それを助けようとしているのだ。
「うるさくて昼寝ができん」
 口ではそんなことを言うが、本当はやさしいのだ。ひとに言われたままを信じてしまうことが多い青木にも、それくらいは分かる。
「オレがやりますよ」
 換気扇は窓よりだいぶ高いところにあって、薪の身長では爪先立ってもなかなか手が届かないようだ。危なっかしくて見ていられない。万が一落ちても受け止められるように、両腕を薪の足の周りに差し伸べる。

「大丈夫だ」
「でも、薪さんの身長じゃ届かないんじゃ」
「バカにするな。僕だってこれくらい―――― わっ!」
 言ってるそばから体勢を崩して、薪は足を踏み外した。構えていた青木の腕の中に落ちてくる。とっさに抱きとめて墜落を防ぐ。
 仰け反った背中を右手で支え、左手で腰を支える。抱きかかえるようにして部屋の中に華奢な身体を下ろす。小さな手が、青木のワイシャツを握り締めている。
「大丈夫ですか?」
 少し、顔が青くなっている。怖かったらしい。
 その様子があまりに可愛らしくて、つい抱きしめてしまった。はた、と気づいて慌てて身体を離す。早く離れないと、また投げ飛ばされてしまう。

 薪を寝椅子に座らせて、青木はひょいと窓枠に乗り、換気扇に挟まっていた鳥を開放してやった。こいつに罪はないが、もう少しで大切なひとが怪我をするところだった。思わず鳥を睨みつけてしまう。

 薪はまだ青白い顔をしている。亜麻色の瞳は、涙で潤んでいるようにも見える。そんなに怖かったのだろうか。
「これ、飲んでみてください。きっと落ち着きますよ」
 青木が差し出したコーヒーを受け取って、しかし口にしようとはしない。じっと青木の顔を見つめている。その目はいつもの冷静な瞳ではなく、熱に浮かされたような情を含んだ眼で……。
 これはもしかして、「つり橋効果」というやつかもしれない。
 生命の危険を感じて心拍が上がった現象を恋のときめきと勘違いする、というあれだ。青木には思いがけない僥倖である。あの小鳥に感謝しなくては。

……睨まれたり感謝されたり。小鳥のほうも災難である。

「薪さん。そのコーヒーはキリマンジャロのストレートなんですよ。購買部のブレンドとは違いますから、試してみてください」
 コーヒーにかこつけて、ぐっと顔を近づける。薪に接近できるチャンスは、何が何でも逃したくない。
 薪はびくりと肩を上げて、後ろへと身を引く。寝椅子の背もたれに当たって、これ以上は下がれないところで青木の視線を受け止める。いくらか頬が紅潮してきて、つややかなくちびるが何事か言いたげに小さく開かれた。

「……出て行け」
 薪は不意に横を向くと、手付かずのコーヒーカップを青木に突き返した。
「僕は昼寝をしたいんだ。コーヒーはいらない。出て行け」
「……すみません」
 それもそうだ。薪は昼休みにはいつも昼寝をしているのだから、コーヒーのカフェインは邪魔になるだけだ。うっかりしていた。
「じゃ、明日の朝お持ちしますね。楽しみにしててください」

 薪の都合を考えなかった自分が悪い。青木は素直に室長室を出ると、モニタールームに戻った。せっかくのコーヒーが無駄になってしまってがっかりだが、捨ててしまうのも勿体ないので自分で飲むことにする。
 珈琲問屋で嗅いだあの匂いに比べると、コーヒーカップの中の液体は気の抜けたような匂いだ。抽出してしまうとこんなものなのかな、と少し残念に思う青木である。
 冷たく黒い液体を飲みながら、青木は帰りに珈琲問屋に寄って美味しいコーヒーを淹れるコツを教えてもらおうと考えていた。




*****




 室長室にひとり、薪は寝椅子の上にうずくまっている。
 両膝を抱えて、踵を椅子の上に乗せている。薪は考え事をするとき、無意識のうちにこの格好をしている。

 心臓が、まだどきどきしている。
 窓から落ちそうになったくらいで、こんなに動揺したりしない。これまで何回も鳥を助けているし、何回も足を滑らせて落ちかけては窓枠に掴まって、事なきを得ている。

 この胸のざわめきは……青木のせいだ。

 初めて会った時から気になっていた。ずっと目が離せなかった。
 長身に黒い髪。やさしそうな黒い瞳。素直で真っ直ぐな心根。正直で嘘のつけない性格。裏表のない明るい笑顔。
 似てる。
 鈴木にそっくりだ。
 鈴木が生き返ったのかと思った。

 僕の心を奪ったまま雪子さんと恋に落ちて、挙句の果てに僕の人生に絶望だけを残していなくなってしまった僕の親友。僕がこの手で殺したかけがえのない友。彼が再び僕の人生に帰って来たのかと……そんなことがあるわけはないと分かっているのに、でもそうとしか思えなくて。

 今のちょっとしたハプニングにしてもそうだ。
 以前にも、これと同じことがあった。
 あの時も鳥を助けようとして足を滑らせて、鈴木に受け止めてもらった。鈴木はよほど驚いたのか、僕をしばらくの間ぎゅうっと抱きしめていた。
「びっくりさせるなよ」
 鈴木の心臓はすごい速さで打っていて、僕もどきどきが止まらなくて。いけないとは思ったけど、両腕が勝手に鈴木の背中を抱き返してしまった。そんなふうに触れ合ってしまったら、20歳の頃に時が戻ったようでたまらなく切なくなって……。
 そのとき鈴木から離れるには、ありったけの理性を総動員しなければならなかった。表情もうまく取り繕えていたかどうか、自信がない。
「大丈夫だよ。大げさだな」
 素っ気無く聞こえるように努力はしたつもりだったけど、声が震えてしまったような気もするし……細部のことは、よく覚えていない。
 ただ、鈴木の大きな手の感触だけが僕の背中にいつまでも残って……今でも……。

 1時のチャイムが鳴って、薪を追憶から引き戻した。

 薪は、すっと室長の冷静な顔に戻る。
 仕事とプライベートの境界線は、はっきりと引くのが薪の主義だ。いまは仕事の時間だ。どんなに心が乱れても、それは職務には関係のないことだ。事件の被害者にはもっと関係がない。集中力を欠いて良い理由にはならない。
 寝椅子から立ち上がり、執務席に着く。しゃんと背筋を伸ばして、両足をきっちり床につける。
 デスクの上の書類に手を伸ばす。捜一からの協力要請が来ている。元になる捜査資料の内容を頭に叩き込み、概要説明の草案を組み立てる。
 その厳しい瞳に、先刻の憂いは微塵もない。薪を仕事へと駆り立てる強い力―――― それは公僕としての自覚であり、室長としての責任感である。
 一切の感情も感傷も切り捨てて、第九の室長の横顔は、今日も氷のようだった。




 ―了―




(2008.11)

テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

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おかげさまで8歳になりました(^^♪
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