23日目の秘密(1)

今回のテーマは新婚さんです。(笑)





23日目の秘密(1)






「あやうく記録更新するところだった」
 第九に泊り込んで20日目。薪は疲れきった声で呟いた。

 ようやく、本当にようやく家に帰れる。
 この書類に判を押したら、今日は自宅でゆっくり休もう。この3日で2回も貧血を起こした。身体のほうも、いい加減限界だ。
 30歳を超えると、途端に徹夜仕事がきつくなってくる。20代の頃とは違うのだ。

「室長、所長から急ぎの捜査の依頼が」
 岡部の言葉に、思わず書類の上に突っ伏して耳を塞ぎたくなる。そこをぐっとこらえて、室長の威厳を保つ。
 書類を抱えた岡部が心配そうに薪の顔を覗き込んで言った。
「なんか涙目になってますけど。大丈夫ですか? 薪さん」

 ……保ててない。

 受け取った書類を見て、内容を確認する。連続強姦殺人―――― 被害者の数は6人。MRI該当者はそのうち4人。
「新記録達成か」
 結局、薪が家に帰れたのは3日後。第九に泊り込んで、実に23日目であった。


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23日目の秘密(2)

23日目の秘密(2)







 青木の運転する車の助手席では、疲労困憊した室長が死んだように眠っていた。

 危ないと解ってはいても、運転しながらちらちらとそちらを見てしまう。疲れ果てた室長の様子が、気になって仕方ない。
 赤信号を幸いと、青木は横を向いて室長の具合を確認する。
 青白い顔をして、浅い呼吸をしている。仕事中は厳しく吊り上げられている眉が、今は目蓋に合わせて自然なカーブを描き、その寝顔をひどく幼いものにしている。
 重なり合った睫毛の長さは、映画女優さながらだ。疲れの浮き出た頬にはいつもの張りはないが、その分白さが強調されて、車窓から差し込む朝の光に溶けてしまいそうだ。
 清廉で、淡い美貌―――― そのくせ口唇だけは妙につややかで、グロスを塗ったように光っている。これで化粧をしていないのだから、いっそこわい。

 きれいだな、と青木は思う。

 室長の寝顔は、なかなかじっくり見られるものでもない。つい見とれてしまっていると、後続車にクラクションを鳴らされた。いつの間にか青信号だ。室長の眠りを妨げないように、ゆっくりと車をスタートさせる。

 ずっと心配していたのだ。
 6月の終わりに起こった連続殺人事件を皮切りに、第九の捜査ラッシュが始まった。ピーク時は、一度に5件の事件をMRI捜査にかけていた。
 すべてが進行中の事件だったため、どの捜査も火急の対応が必要だった。一刻も早く犯人を検挙して、これ以上の犠牲者を増やしてはならない。職員全員が研究室に泊まりこみ、交代で仮眠を取りながら捜査に当たった。
 室長は、労働基準法を無視した勤務体制(シフト)を組んだ。
 第九は本来なら週休2日制だが、その表によると休日は10日に1度だけだ。それでも部下たちが何も不満を訴えないのは、事件の緊急性と捜査の重要性を知っているからだ。そして誰も室長を恨まない理由は、薪が休日どころか仮眠すらろくに取らないで捜査に打ち込むことを知っているからだ。

 今月の初めにも1度、薪は睡眠不足と貧血で倒れた。
 雪子と岡部の叱責をBGMに、ベッドの中でパンをかじっていた室長の姿は記憶に新しい。ただ、本人はあまり反省していないようで、彼の職務状態の改善は見られなかった。その後も倒れこそしなかったが、何度も貧血を起こしているのを青木は見ていた。
 ただでさえ細い身体なのだ。そんなに体力があるはずはない。
 それを言うと室長の不興を買うのがはっきりしているので誰も指摘しないが、薪は男にしては背も低く、体も小さい。抱えあげて仮眠室へ運んだことがあるが、5ヶ月前に別れた彼女よりもずっと軽かった。
 成人男性の平均身長が175cmを超えようという昨今、160cmをいくらも超えない薪の身長は、女性と変わらない。いや、青木の元カノや雪子に比べると、10cm以上も低い。体重も10キロくらい少ないような気がする。
 そんな薪が根性だけは誰にも負けなくて、常人を遥かに超えた気力でもってその脆弱な肉体を酷使するのを、第九の職員はみな心配しているのだ。

 もっと自分が室長の役に立てれば、と青木は不甲斐ない自分を叱咤する。
 青木はまだ、第九に入って半年。一人前にはなれていない。早く一人前になるために、室長命令で青木は今月、昇格試験を受けることになっている。
 その昔、青木のようなキャリア組には、昇任のための試験はなかった。
 一般の警察学校を卒業した警察官には昇任試験があり、その試験をパスしないと上の役職には就けない。しかし、有名大学を出て国家公務員Ⅰ種試験に合格して警察庁入りする俗にいうキャリア組は、入庁時の役職がすでに警部補、23歳で警部、25歳で警視という具合に自動的に昇任していき、45歳になれば警視長の役職が約束されていた。

 が、年々開いていく一方のノンキャリアとの格差が両者の間に対立を生み、捜査にまで支障をきたす様になった。本来ならば現場の者同士、話し合いで解決するべき問題だが、両者の価値観の相違がそれを許さなかった。
 ノンキャリアの者たちが特に不満に思っていたのは、試験も受けず特別な手柄を立てずとも、所轄と警察庁を行ったり来たりするだけでエスカレーター式に出世ができる、キャリア組にだけ許された昇任制度であった。
 そこで政府は、ノンキャリアの不満を少しでも解消するため、またその役職に相応しい人間を選考するためという理由で、キャリア組にも昇任のための試験を設けることを決定した。
 それが2045年―――― 薪が警察庁入りする2年前のことだ。

 キャリア組のために作られているだけあって、一般の警察官が受ける昇任試験より遥かに難しい。この問題を一般にも公開することによって、ノンキャリアとの差を明確にする。ひいてはキャリアの地位を確固たる物にするための制度なのだが、実際はそのあまりの難しさのために試験に合格できない者もいる。そのため、今はキャリアでも30歳で警部という役職も珍しくなくなった。
 この制度が採用される前に警察庁に入った者には、旧態の昇任制度が適用されている。いわば早い者勝ちで、田城や三田村はその口だ。一見不公平なようだがこれは当たり前のことで、今までの上下関係を突然ひっくり返してしまったら命令系統が混乱し、組織が壊滅してしまう。仕方のないことなのだ。

 このキャリア専用の昇任試験のことを一般の昇任試験と区別して『昇格試験』と呼び、毎年7月に実施されている。青木が受けようとしているのは、警部用の昇格試験である。
 しかし青木は、試験よりも薪について捜査を学びたい。
 実は今日から試験準備のための休暇を貰っていたのだが、そんな理由で第九に出てきてしまった。3日間の休暇を取った室長の代理を務める岡部にそれを指摘され、ついでに薪さんを送ってくれと頼まれた。
『人手がいると思うから、今日は薪さんを手伝ってやってくれ』
 家でも仕事をするつもりなのだろうか。第九の資料は殆どが対外秘なので、持ち出し厳禁のはずだ。だから捜査が混んでくると、第九に泊り込む羽目になるのだ。まあ何にせよ、室長の家に行って室長と一緒に過ごせるなら、どんなことでも大歓迎だが。

 ここだけの話、青木は薪に惚れている。

 上司としての薪を尊敬しているといったことではなく、もっと世俗的な意味合いで、つまり恋をしているのだ。
 好きな人の家で、好きなひとと一緒に過ごせる。青木の頬が自然に緩むのも無理はない。
 鼻歌でも歌いたい気分で、青木はハンドルを切った。



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23日目の秘密(3)

23日目の秘密(3)







 薪がやっとの思いで報告書を仕上げ、田城の許可を得て帰途についたのは、朝の9時だった。3週間以上家に帰っていないことを知ると、田城は薪に3日間の休暇をくれた。
 後の段取りを岡部に伝えて、溜まった洗濯物や家から持ってきた資料を段ボール箱に突っ込んで研究室を出ようとすると、岡部が車で送ってくれると言う。荷物もあることだし、何よりとても疲れていたので、素直に甘えることにした。
 車で待っててください、と言われて助手席に座った途端、どっと疲れが出て眠り込んでしまった。気が付いたら家の前だ。

 何故か青木に揺り起こされた。
 いつの間に、岡部から青木になったんだろう。確かこいつは、今日から試験のための休暇に入るんじゃなかったか。

 低血圧者特有の寝起きの悪さで、薪の機嫌はすこぶる悪い。頭は重いし、足元はふらふらする。起き抜けには真っ直ぐ歩けない。薪の血圧は、体調が良いときでも上が95。今は多分80を切っている。
 青木の腕が自分を支えてくれるが、それは室長のプライドをいたく刺激する。
 岡部ならまだしも、青木はまだ24歳だ。一回りも年下の若造に手を借りるのは、何だか面白くない。自分が両手でなければ持てなかった段ボール箱を、小脇に抱えているのも癪に障る。人間でかけりゃ良いってもんじゃないぞ、と青木には罪のないことでいちゃもんをつけておいて、階段を昇る。部屋は2階だ。

 このマンションは、セキュリティー重視で選んだ。玄関のロックは瞳孔センサー方式である。第九の室長には、様々な思惑からの嫌がらせも多いからだ。
「ご苦労だったな。ここまででいい」
「いえ、今日は薪さんの手伝いをするようにと岡部さんから言われてますから」
「なに言ってるんだ、おまえ。昇格試験の勉強はどうした。もう1週間もないんだぞ」
 青木を家に上げるつもりはさらさらない。予告してから来てくれれば別に構わないのだが、今日はだめだ。
「じゃ、この荷物だけでも。かなり重いですよね、これ」
 それは確かに苦労しそうだったが。

「……玄関開けるから、息止めてろよ。間違っても鼻で呼吸するな」
「はあ?」
 大きく息を吸い込んで肺の中に溜め、鼻と口にハンカチを当てて、薪は玄関の扉を開けた。


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23日目の秘密(4)

23日目の秘密(4







 青木は、胸をドキドキさせていた。
 室長の家に来るのは、これが初めてだ。住所は名簿からチェック済みだったが、外から確認したことがあるだけで、中に入れてもらったことはない。
 薪の清らかなイメージに合わせたような、白い清潔な建物だった。そう大きくはないのだが、外から見た限り一軒一軒の間取りは広そうだった。防犯のためかベランダはない。窓にはブラインドが降りていて、中の様子は見えなかった。

 室長の机は、日中どれだけ書類が山積みになっていても帰りには必ずきちんと整頓してあるから、きっと自宅もきれいにしているに違いない。先日雪子から聞いた話でも、薪はきれい好きということだった。
 きっとモデルルームのように掃除も行き届いていて、絵画とか観葉植物が飾ってあって、男の一人暮らしとは思えないような、そんな部屋を青木はイメージしていた。薪の外見から推し量ろうとすると、どうしてもそうなるのだ。
 が、息を止めていろ、と意味不明の指令とともに玄関の扉が開けられた瞬間。
 青木は吐きそうになった。

「なっ、なんですか、この部屋。臭っ!!」
 青木の悲鳴を無視して薪は窓に突進し、ブラインドを上げて窓を開けた。首を外に出して、口で息をしている。
「この季節に3週間以上も家を空けてみろ! おまえの部屋だって、絶対こうなる!」
 振り向いて怒鳴られた。
 6月の終わりから7月の半ばまで。薪の主張は間違ってはいない。が、とにかく臭い。
 段ボール箱は玄関口に置いて、薪に倣って窓の外に首を出す。外は直射日光がガンガン当たって目が回りそうな暑さだが、この悪臭よりはましだ。

「何がこんなに臭うんですか?」
「まあ、いろいろ」
 窓を開けたまま、薪は部屋の片付けにかかる。
 2LDKの1人暮らしにしては広い部屋。
 見ると、部屋の中はそう散らかっているわけではない。衣服が脱ぎ散らかされているとか、コンビニ弁当の残りが腐っているとかそういうことではなく、単に空気の入れ替えができなかったことによる悪臭、という事らしかった。

 インテリアは備え付けのものらしく、アイボリー系で統一してある。とても明るい部屋だ。
 ただ、家具は極端に少ない。背の高い本棚と机に回転椅子。大型の液晶テレビと来客用のソファ。広いリビングに置いてある家具はたったそれだけで、作り付けのサイドボードの中は殆ど空っぽだった。
 そのサイドボードの上に、写真立てと枯れた百合の花が置いてある。もちろん3週間前はきれいに咲いていたのだろうが、今は無残にも枯れ果てて、花瓶に残った水はヘドロのようになっている。これが悪臭の原因のひとつだ。

 花瓶を取る振りをして、薪がさりげなく写真立てを引き出しに隠したのを、青木は見逃さなかった。きっと他人に見られたくないのだ。
 もしかしたら、彼女の写真かもしれない。気になるが、隠そうとしているものを訊くわけにもいかない。

 薪は百合の花をゴミ袋に入れて、台所へ向かう。花瓶を洗うためだ。
「あ、オレやります」
「いいから、おまえは帰って勉強しろ」
「でも、岡部さんが薪さんの手伝いをしろって」
「僕は今日は仕事はしない。部屋の掃除をして寝るだけだ。いや、その前に」
 薪はそこできれいな顔を歪めて、亜麻色の頭をがりがりと掻いた。
「とりあえず風呂だな。もう3日も入ってないんだ。臭うだろ」
「そんなことないですよ。薪さんは良い匂いです」
「おまえ、耳鼻科に行ったほうがいいぞ」
 狭い車中で一緒だったが、べつに気にはならなかった。そういえば、少し甘い匂いがしたような。が、不快な匂いではなかった。

 風呂の準備のためにバスルームに行った薪が、すぐに飛び出してくる。窓に駆け寄って、大きく深呼吸。
 ……風呂場も臭いのか。
 バスルームも白を基調としたユニット式で、かなり大きな湯船が置いてある。薪なら楽々と手足がのばせるサイズだ。そのバスタブの中で、3週間前はただの水だったものが何か別の液体に変わり果てている。排水溝から流れて出してはいるものの、すさまじい臭気である。
「薪さん。風呂場が下水道みたいな臭いなんですけど」
「朝、風呂に入ってそのままだったんだ。急に岡部が迎えに来て、まさかこんなに帰れないとは思わなかったから」
 換気扇の目盛りを強にして、青木はその場を離れる。掃除をするにしても、もう少し臭いが抜けてからだ。

 リビングに戻ると、薪が窓枠にもたれてへたばっていた。先刻、眠っていた時より顔が青白い。
「大丈夫ですか?」
「昔から臭いがキツイの、ダメなんだ。気持ち悪い……」
「腐乱死体の臭いは平気だったじゃないですか」
「仕事だと思えば大丈夫なんだ。でも、うう……」
 そんなものだろうか。
 今日は体調も関係しているのだろう。極限まで疲れ果てた身体が食物を受け付けなくなるように、臭いや刺激にも弱くなるのかもしれない。

「オレ、掃除してきますよ。風呂場」
「……いいのか?」
 目が期待している。そんな室長はかわいくて、つい笑ってしまう。
「掃除はわりと得意なんです」
 軽い足取りでバスルームへ入ると、半月以上締め切っていた湿潤空間は、天井にまでびっしりカビが生えている。これを落とすのは一苦労だ。岡部の言っていた『人手』の意味がようやく解った。
 カビ取り用の洗剤を吹き付けておいて、青木は一旦風呂場を出る。背の高い青木は、実家でもちょくちょく窓拭きや電灯や風呂場の掃除をやらされていたから、要領は踏まえている。

 カビ取り剤が浸透する間に薪に冷たい水を持って行ってやろうと思い立って、青木は台所へ向かった。
 流し台は綺麗に掃除してある。が、食卓の上には食べかけの朝食が、これまたひどい状態になっていて、特に野菜サラダの変貌と言ったら新種の微生物が誕生してしまいそうだった。
 カビだらけのトーストと泥沼のようなサラダの残骸をゴミ袋に入れて、周りを見る。コーヒーメーカーの蓋を開けると、やはりカビの生えたコーヒーが入ったままで、それも捨てる。コーヒーのドリッパーと皿は漂白剤につけて、殺菌しておく。
 思いついて冷蔵庫を開けてみると、案の定魔窟になっている。無事なのはペットボトルの水と缶ビールくらいのものだ。特に野菜室は全滅だ。レタスもトマトもどろどろに溶けている。ものすごく、クサイ。

「知らなかった。野菜って溶けるんだ」
 青木はきれい好きという程ではないが、ここまでにしたことはない。そういえば、炊飯器にごはんを入れたまま半年ほど置くとカビが侵食して内釜に穴が開くそうだが、本当だろうか。
「三好先生……話が違います」
 冷蔵庫の中のものを次々とゴミ袋に入れながら、青木は筋違いの非難を呟かずにはいられなかった。


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23日目の秘密(5)

23日目の秘密(5)






「はあ。23日ぶりの風呂だ」
 生き返ったような心地よさに浸りながら、一人呟く。薪は風呂好きだ。広いバスタブに両手両足を伸ばして、まったりするのが彼の至福のときである。
 季節柄汗をかくので、職場でシャワーは使っていたが、あれはどうにもいただけない。湯船に浸からないと風呂に入った気がしないのだ。時間さえ許せば、朝からでもゆっくりお湯に浸かりたい。

 青木が掃除をしてくれたので、白い浴室は天井までぴかぴかだ。薪の顔が映るくらいに磨かれている。背が高いというのは便利なものだ。
 掃除はわりと得意なんです、と自分で言うだけあって、カビも水垢も残っていない。排水溝まできれいにしてある。先ほどのカビだらけの浴室と同じ場所とは思えない。もしかしたら、3週間前より清潔なくらいかもしれない。
 今年の新人は若いわりには気が利いて、薪に冷たいミネラルウォーターを勧めた後、風呂の用意をしてくれた。 こんなに丁寧に掃除をしてくれるとは思わなかったから、ろくに礼も言わずに「勉強しろ」と追い出してしまった。
 まあ、いい。あとで自宅宛に宅配ピザでも送ってやろう。

 湯船から上がって髪を洗う。この季節に3日も洗ってなかったから、べたべたしている。
 とにかく、最後の3日間は修羅場だった。風呂の時間も惜しんで徹夜で報告書をあげたのだ。最後に食事をしたのがいつだったかも覚えていない。雪子に知られたら、また雷が落ちそうだ。

 椅子に腰掛けて石鹸を泡立て、ボディ用のタオルで丹念に身体を洗うと一皮剥けたようにさっぱりとする。立ったままのシャワー室では洗いにくい足の裏や指の間をしっかりと洗って、ようやく人心地がついた。
 シャワーの勢いを強くして、一気に泡を洗い流す。身体に強くぶつかる温水が心地よい。その刺激の為か、ひと仕事終えた後の安堵感からか、下腹部が勃ちあがりかけているのに気付いた。
 そういえば、こちらも3週間振り……いや、確か2ヶ月くらい前だったような。

 我ながら枯れてるな、と思う。
 35歳という年齢を鑑みても、薪の性欲は薄いほうだ。昔からその方面にはさほど興味がない。
 セックスなんかしなくたって、人間死にはしない。誰かを誘うのも誘われるように仕向けるのも、面倒くさい。そんなヒマがあったら報告書の一枚でも仕上げたほうが良い。
 でもまあ、これは一応処理しておこう。その方がゆっくり眠れる。半端にしておいて、つまらない夢でも見たら最悪だ。
 石鹸の残る手で、そこを探る。床に両膝を折った姿勢で、握ってしごきはじめる。
「んっ……あ、はっ……!」
 いくらか呼吸が荒くなってくるが、至極あっさりしたもので、3分後にはすっきりした顔で残滓をシャワーで洗い流している。何とも淋しい性生活だが、無ければ無いで慣れてしまうもので、本人はこれで何ら困ることがないから、どうにかする気もない。30代でこれはさすがにマズイかとたまに思うが、やっぱり面倒くさい。

 もう一度ゆっくり湯船に浸かって、薪は上機嫌で風呂から上がった。
 サニタリーでは、独り暮らしには不釣り合いなほど大きな洗濯乾燥機が音を立てている。段ボール箱の中に入っていた洗濯物を、青木が入れておいてくれたらしい。
 バスタオルで身体を拭きながら、エアコンをかけておけば良かったと気付く。夏でも湯船には浸かりたい薪だが、その後が大変だ。冷たい風に当たらなければ、汗が止まらなくなってしまう。
 頭にバスタオルをかけて脱衣所を出ると、すでに部屋は冷やされていた。
 裸のまましばらく涼む。どうやら青木がエアコンをつけて行ってくれたらしい。本当に気配りのできるやつだ。宅配ピザはやめて、寿司を送ってやろう。

 水分補給をしようと髪を拭きながら台所に向かった薪は、冷蔵庫の前で何かやっている人影に気付いた。
 こいつ、まだいたのか。
「なにやってんだ、おまえ」
「あ、薪さん。冷蔵庫の掃除を」
 薪を見て、持っていた卵を取り落とす。ぐしゃりと潰れて床が汚れた。
「掃除してるのか汚してるのか、どっちなんだ」
 3週間の間に、冷蔵庫の中身はあらかた腐ってしまっただろう。せっかく旨い刺身を買っておいたのに、もったいないことをした。

「青木、水くれ」
 青木は何故か動かない。
「青木、みず!」
 怒鳴っても動かない。
 チッ、と舌打ちして自分で取りに行く。風呂から出たばかりなのだ、のどが渇いてたまらない。冷蔵庫の前の邪魔者を押しのけるように中を覗き込む。さっきの飲みかけがあったはずだが、どこにしまったかな。

 腐ったものはゴミの袋に移してくれたようで、冷蔵庫の中はほぼ空だ。野菜の汁やら魚の血やらで汚れた庫内を、除菌液で拭き上げていた最中らしい。
 ペットボトルを取り出して、飲み口から渇いたのどに流し込む。風呂でたっぷり汗をかいた身体に浸み通るようだ。
 本音では冷たいビールを飲みたいところだが、これからまだ部屋の掃除が残っている。買出しにも行かなくてはいけない。日常の雑務は地道に多いものだ。

 青木はまだ固まったままだ。疑問に思うが特に心当たりは……。
 あ、と思う。
 まさか、さっきの声聞かれたんじゃ。風呂場は声が反響するし。
 別に構うことはないか。こいつだって男だし、オナニーぐらいするだろう。
 しかし、薪の仮説は外れたらしい。

「服を着てくださいよ!」
 真っ赤になって叫んでいる。どうやら薪がハダカでいるのが気に入らないらしい。
「いいだろ、べつに。暑いんだ」
「オレがいるんですよ!」
 男の裸を見るのは不愉快だ、ということか。
「風呂から上がったらハダカで涼むだろ、普通」
「パンツくらい穿いてくださいよ!目のやり場が無いじゃないですか!」
「見なきゃ良いだろ!」
 何か言われたら倍返しが薪の基本である。すぐさま反論に出て、青木の抗議を封じ込める。新入りが室長に意見するなんて、十年早いのだ。
「じゃ、なにか? おまえ、自分の家でも風呂から上がったらすぐに服を着るのか? ここは僕の家だぞ、自分のうちで僕がどんな格好してようと僕の勝手だろ!」
 言い負かして胸を張る。が、たしかに裸の王様みたいで、それほど威厳のある姿ではないことに気付く。とりあえずバスタオルを腰に巻いて、それでもぶつぶつ言いながら、薪は下着を取りにクローゼットに向かった。

 クローゼットの中には、何着かのスーツと部屋着がかけてある。隅には小型のチェストが置いてあり、下着や靴下、ハンカチなど細々したものはその中だ。
「あ、しまった」
 3週間以上も泊り込んでいたせいで、下着の替えがない。全部職場へ持っていってしまったのだ。あの段ボール箱の中だ。
 取りに向かうが、箱の中身は既に空だった。資料の類は机の上に重ねてあるが、下着とワイシャツはどこにもない。そういえばさっき、洗濯機が回っていた。どうやら気の利く新人が、一枚残らず洗濯機に入れてしまったらしい。

「青木~」
 帰りの荷物をまとめる頃には意識が朦朧としていて、汚れ物もそうでないものもぐしゃぐしゃに突っ込んであったのだから青木が誤解するのも無理はないのだが、そんなことは考慮しないのが薪流である。
「青木、段ボールの中に僕の下着」
「いつまでそんな格好してるんですか? 早く服着てくださいよ」
「替えの下着がない」
「なんで」
「おまえが全部、洗濯機に入れちゃったからだろ!」
 自分が悪いくせに、そんなことは棚に上げるのは薪の得意技だ。
「替えの下着くらい家に置いてないんですか」
「泊り込みが長引いて全部持って行ってたんだから仕方ないだろ! じゃあ、おまえは30枚もパンツ持ってるのか!?」

「……薪さん。もしかして、オレの忍耐力、試してます?」

 この新人は時々、意味不明のことを言う。が、第九の室長の役職は伊達ではない。観察力と洞察力、そこから仮説を組み立てる速さなら誰にも負けない薪である。
「ああ、そうだな。もう11時か。腹減ったよな。朝食まだなんだろ?」
 そう言って、ダイニングの椅子の背に掛けてあったエプロンを裸の胸につけた。
「その卵、食べられそうか?」
「……ホント、もうカンベンしてくださいよ……」
「なに泣いてんだ。そんなに腹減ってるのか?」
 
 やっぱり良く分からない。
 世代の差だな、と見当違いの見解に達して、薪はクッキングヒーターの電源を入れた。



*****

 やっぱり新婚さんは、裸エプロンが基本ですよね♪(←変態)


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23日目の秘密(6)

23日目の秘密(6)








 青木の懇願で、薪はようやくパジャマを着てくれた。
 白い半袖のパジャマの上に水色のチェック柄のエプロン姿は、それはそれでやっぱり青木を平静ではいられなくしたが、裸にエプロンよりはなんぼかマシだ。
 ぜったいに、わざとだ。
 薪は自分の気持ちに気付いて、からかっているに違いない。ハダカにエプロンて、エプロンて……今夜は夢に見てしまいそうだ。

 湯上りの、全身が薄紅色に染まった薪の姿といったら、魂が抜けてしまうほどきれいだった。
 以前、第九のシャワー室で見てしまったものとは比較にならないくらい、色っぽくて扇情的で。それも今回は至近距離だ。青木に平静を保てという方が無理だ。
 青木の肩越しに、冷蔵庫の中からペットボトルを取っていった腕のしなやかさが、背中に当たっていた胸の体温が、青木を石にした。身体から石鹸の匂いがして、髪からはシャンプーの匂いがして、首筋に滴る水滴を弾く肌が桜色に染まって……女の子だったら、全力で口説いてる。
 よく痴漢で捕まった男が逆切れして「あんな短いスカートを穿いてるから悪い」などと見当外れの言い訳をしているのを聞いたことあるが、今は少しだけその男の気持ちが解ってしまう。こうして人は犯罪に堕ちていくのだろうか。

「野菜が全滅なんだよな。冷凍物しかないな」
 食事の準備を始めた薪に、青木は声を掛けた。
「手伝います」
「じゃ、このパンをトースターに。あとコーヒー頼む」
 コーヒー好きの薪らしく、専門店のブレンドを置いている。2人分の分量をきちんと量って、青木はコーヒーメーカーをセットした。さっき殺菌をしておいて良かった。
 薪は手際よく卵を割り、泡立て器でかき混ぜている。
 冷凍しておいた食パンに温野菜、ベイクドポテト。きれいな黄色に焼きあがった卵焼きは見た目にもふわふわで、とても美味しそうだ。
「有り合わせで悪いな。でも、コンビニとデリバリーはもうウンザリなんだ」
 確かに、コンビニの弁当は続くと飽き飽きする。青木もあまり好きではないが、研究所の食堂は昼時しか開いていないので、朝と夕食、そして夜食はいつもコンビニかデリバリー、もしくはテイクアウトの食事になってしまうのが実情だ。

 コーヒーの良い匂いがダイニングに立ち込める。トースターがチンと音を立てて、香ばしい匂いがする。実は青木は朝食は食べてきたのだが、美味しそうな匂いを嗅いだら急に腹が減ってきた。
「いただきます」
 さっそく薪のお手製の卵焼きを口に運んで、青木はびっくりする。今まで食べたことがないくらい、美味い。
「薪さん、料理上手なんですね」
「料理のうちに入らないだろ、こんなの」
 それは過少評価だと青木は思う。少なくとも青木にはできない。

 箸を扱う手がとても優雅だ。きっと躾がよかったのだろう。食べ方もきれいだ。
 そういえば、ちゃんと箸を使って食事をする薪を見るのはこれが初めてだ。いつも書類やモニターを見ながら、片手でつまめるものを食べているところしか見た覚えが無い。薪は昼休みはたいてい眠っているので、研究所の食堂でも一緒になったことがないのだ。
 小さな口唇がトーストをかじる。咀嚼して飲み込む。白い喉がこくりと動く。普通の食事風景なのに、どうしてこんなに目が離せないんだろう。
「……わかった。これ、やるから」
 青木のほうに、薪は二枚目のトーストをよこした。自分の注視の意味を取り違えたのだろう。捜査では勘違いなんかしたことがないくせに、と青木は心の中でぼやく。

「これ食ったら、帰って勉強しろよ」
「もう少し手伝います。奥の部屋の掃除が残ってますよね」
「あそこは寝室だから入るな」
 何か見られたくないものがあるのだろう。さっきリビングで、薪が引き出しに隠していた写真立てを思い出す。
 誰だって、夫婦の寝室に他人を入れるのは嫌なものだ。そういうことかもしれない。
 黙ってしまった青木を見て何を思ったのか、薪は軽蔑するような目で青木をねめつけると、箸を置いて腕を組んだ。
「言っとくが、僕はおまえの好きな雑誌やDVDは持ってないぞ」
 
……薪さん、誤解です……。

 かと言って、彼女の写真が置いてあるんでしょう、とも言えない。青木は黙ったまま3枚目のトーストをかじった。


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23日目の秘密(7)

23日目の秘密(7)







 朝食の後片付けを引き受けて、青木は食器洗いに精を出していた。
 食事をした後、薪はダイニングの椅子に腰掛けたまま眠ってしまった。2日間は徹夜だったらしいから、とうに限界だったのだろう。
 ベッドに寝せてやりたいが、寝室には入るなと言われたので、仕方なくリビングのソファに運んだ。
 薪を抱き上げて、また軽くなったな、と思う。無茶をするからこんなに細くなってしまうのだ。自宅ではさすがに防弾チョッキは着ていないから、その華奢な身体の線がはっきりわかる。

 相変わらず、きれいな寝顔だ。
 初めて会ったときも、室長は眠っていたっけ。あの時は驚いた。「泣く子も黙る法医第九研究室の鬼室長」とか「氷の警視正」とか、とにかく厳しい人だと言う噂を聞いていたから、その外見とのギャップに驚いたのだ。中身は噂以上にキツかったが。
 でも、実際に彼の下で仕事をしてみると、室長は鬼でも冷血でもない。どれだけ忙しくても、部下たちにはできるだけ仮眠と休暇を取らせるし、体調には気を使ってくれる。室長が冷酷なのは部下に対してではなく、むしろ自分に対してだ。

 なぜ、あんなに捜査に夢中になるのだろう。

 不眠不休で何度も貧血を起こして、自分の身体を苛め抜く。まるで何かの罰のように、聖職者が自分で自分を鞭打つように、室長の仕事ぶりは少し異常だ。
 初めは仕事に対する熱心さの表れだと思っていた。しかし、そんな単純なものではない。おそらくは、昨年のあの事件が尾を引いている―――― 夏のことだと記憶しているから、もう1年になるのだろうか。

 キッチンをきれいに片付けて、風呂を簡単に洗い、洗濯機を覗き込む。終了までの時間を示すタイマーが、残時間を20分と表示している。
 それにしても大きな洗濯機だ。
 よくコインランドリーに置いてあるような、業務用の洗濯乾燥機である。確かにまとめ洗いには便利だし、洗濯物もしわにならなくて良いが、普通の家にあるのは珍しい。

 リビングに戻ると、薪はまだ眠っていた。
 寝返りを打とうとしてソファの狭さに中断したのか、上着の裾がめくれあがって形の良い臍が見えている。何か掛けてやらないと寝冷えしてしまうかもしれない。
 あいにくリビングには毛布は置いてない。あるとしたら寝室だが、そこは立ち入り禁止区域だ。仕方なく脱衣所から乾いたバスタオルを持って来て、お腹の辺りに掛けてやろうとしたとき、薪が目を覚ました。

「―――― すずき?」
「いいえ。青木です」

 間違われるのは、これで何度目だろう。
 そんなによく似ているだろうか。写真を見た限りでは、それほど瓜二つと言うわけではないと思うのだが。
 共通しているのは、長身と黒髪くらい。岡部には、雰囲気が似ていると指摘されたことがある。が、その岡部に鈴木と間違われたことは一度も無い。

 薪はだるそうに身体を起こすと、すっかりきれいになった部屋を見回した。びっくりしたように、あちこちを見渡している起き抜けの薪の姿が可愛らしい。
 机や本棚に積もっていた埃はきれいに拭き取られ、木目が美しく磨き上げられている。薪が眠っている間に窓から電灯から床磨きまで、青木は掃除は得意なのだ。
「僕がやるよりきれいだな」
「薪さんの部屋は、物が少ないですから。やりやすいです。もともとそんなに汚れてなかったですし」
「気持ち悪くなるくらい臭かったけどな」
「あれは不可抗力です」
 その時、洗濯機のブザーが鳴って、ようやく薪は着替えることができた。
 休みの日なのでワイシャツにネクタイではなく、半袖のパーカーに膝丈のジーンズだ。ごく普通の服装なのだが、絶対に高校生にしか見えない。普段、きちんとスーツを着込んでいてさえ学生に間違われることがあるのだ。ブレザーにネクタイの制服は珍しくもない。

「ご苦労だったな」
「いえ。薪さん、買物に行くんですよね。オレ、荷物持ちしますよ」
 野菜や果物は結構重い。一人暮らしとはいえ、次の休みまでの1週間分を買い込むとなれば、かなりの量になるだろう。
「いいから帰って勉強」
 言いかけて止め、薪は何か思いついたように立って台所へ行く。後ろから着いていくと、米びつと戸棚を覗いて在庫のチェックをしているようだ。両方とも、ほぼ空である。

 公用車を個人の買い物に使ってよいのかどうか、迷うところだが。
「車、出してくれるか?」
「はい」
 青木はにっこり笑って、頷いた。



*****

 新婚さんは一緒にお買い物に行くものです。

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23日目の秘密(8)

23日目の秘密(8)






 薪は車を持っていない。
 免許はあるが、自宅からは駅が近いし、急ぎのときは岡部が迎えに来てくれる。あれば便利かもしれないが、維持費が大変だ。
 近くのショッピングモールまでは車で5分くらいだが、歩けば30分はかかる。この炎天下、往復1時間の道のりを、10キロの米袋を持って歩くのはさすがにきつい。

 平日のモールは、人出もそれほど多くない。午前中なので尚更だ。おかげでゆっくり商品が選べる。
 野菜に果物、パンにミネラルウォーター。精肉のコーナーは素通りして鮮魚の冷気の中で足を止める。薪の好物は魚だ。肉はもともと好きではないが、第九に入ってからはますます食べなくなってしまった。
 大好きな白身魚の刺身を前に、鯛にしようか平目にしようか迷っている。酒に合うのは平目だが、ごはんに合わせるなら旨みの強い鯛だ。結局二つともかごに入れる。迷ったときには両方買うのが薪の主義だ。

 後ろからカートを押して、青木がついて来る。
 カートには買い物かごが2つ。ひとつは青木のものだ。中にはレトルト食品やインスタント食品、スナック菓子の袋が目立つ。
「そんなものばっか食べてると、身体壊すぞ」
「食べるの忘れてぶっ倒れる人に言われたくありません」
「なんか言ったか?」
 薪が声のトーンを変えると、青木は慌てて首を振る。ちゃんと聞こえているぞ、と睨んでやると、苦笑して「作るの面倒なんですよね」と言い訳した。

「確かに、あの帰宅時間から自炊はきついか」
 ふと、薪の脳裏に、先日雪子と並んでベンチに腰掛けていた青木の姿が浮かぶ。夕食の材料を見繕いながら、薪は何気なさを装って訊いた。
「おまえ、彼女いないのか?」
「今はいません」
 よし、第一段階はクリアだ。
 心の中でガッツポーズをとりながら、薪は平静を装って青木を揶揄した。
「なんだ、情けない」
「第九に入って、1ヶ月で振られたんですよ。忙しくて、メールもできなくて」
「あのシフトじゃな」
「薪さんが組んだシフトじゃないですか」
「人のせいにするな。おまえの男としての魅力が足りなかっただけの話だ」

 青木が第九に入ったのは1月の末だから、前の彼女と別れて約半年。いいタイミングだ。そろそろ相手が欲しい頃だろう。
「そういう薪さんは、どうなんですか?」
「僕のことはいい」
 放っておいてくれ、と素っ気無く言って、薪は言葉を選んだ。
「おまえの……恋人の許容範囲って、どのくらいだ?」
 曖昧な質問に、きょとんとした顔をする。やっぱりハッキリ訊かなくてはだめか。
「12歳年上の恋人って、ありか? どう思う?」
 青木はまだ24歳。36歳の恋人を、果たして受け入れてくれるだろうか。他の面ではその辺の女には負けないと思うが、どうにもそこだけが心配だ。

 少し迷うようだったが、突然、何かに思い当たったように青木は頬を緩めた。微かに赤くなっているようだ。これはもしかすると、青木のほうも。
「はい。オレ、そのくらい年上の人のほうが好きです」
 よっしゃ! と心の中で喝采を叫びながらも、薪はポーカーフェイスを崩さない。こういうことは急いでは駄目だ。ゆっくりと懐柔しないと。
「そうか」
 まだ相手の名前を出すのは早すぎると判断して、薪は一旦会話を終わらせた。あとは雪子だ。あっちは青木のように単純ではないが、鈴木に似ている青木の事を、彼女が拒めるはずは無い。

 上機嫌で魚を選んでいる薪に、売り子の声が聞こえた。
「奥さん、今日は鯵のいいのが入ってるよ」
 周りを見るが、誰もいない。
 まさか自分のことじゃあるまいと思いたいが、魚屋の前掛けを締めた男は真っ直ぐに薪を見ている。
「新婚さん?仲良いねえ」
「ち、ちがっ……!」
 否定しようとする薪を遮って、さっと青木が前に出る。
 そうだ、こいつがいるから間違えられたんだ。おまえの責任において善処しろ。

「ありがとうございます。それ、いただきます」
 礼を言ってどうする!
「こんなきれいな奥さんがいて、羨ましいなあ。男冥利に尽きるねえ」
「ええ、まあ」
 否定しろ! 彼の誤解を解け!

 怒りが大きすぎて声も出ない薪の前で、2人の男は意気投合したように話している。
 その後も「恋愛結婚なの?」とか「ずいぶん若い奥さんだけど20歳は超えてるの?」とか、薪の神経を逆なでするようなことばかり言って、しまいには3割引のシールをカゴの中の刺身にまで貼ってくれた挙句。
「やさしい旦那さんでよかったね、奥さん。大事にしなよ」
 もう薪に残された道は、引き攣った笑いを浮かべてその場を離れることだけだった。


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23日目の秘密(9)

23日目の秘密(9)







「どうなってるんだ、あの男! 僕のどこが奥さ……笑うな、青木!」
 様々な冷凍食品が並ぶ棚の前で、薪は激しく憤っている。
「さっきから笑いすぎだろ、おまえ」
 青木は別に、薪が女の子に間違えられたことを嘲っているのではない。怒った薪の様子が可愛くて、つい頬が緩むのだ。
「僕とおまえは上司と部下だぞ? どこをどう見間違えたら『新婚さん』になるんだ!?」

 新婚さんはともかく、奥さんは無理の無い見解だ。
 この時間にスーパーに来られるのは専業主婦くらいのものだし、薪のカゴの中のものを見ればきちんと料理を作れることがわかる。丸のままの魚に、野菜にきのこ類。泥つきの牛蒡に里芋と、手をかけなくては食べられないものばかりだ。男の買い物で、こうも家庭料理の素材が並ぶことは少ない。
 しかも、今日の薪の愛らしさは半端ない。
 カーキ色のパーカーに半ズボン姿。パーカーは身体のラインを露にしないので、上半身だけでは男か女かわからない。暑さから袖を捲り上げているものだから華奢な肩がむき出しになっていて、その肩の細さとそれに続くしなやかな腕の白さは、断じて男のものではない。
 ましてや、素足にスニーカー履きのふくらはぎから踝のラインは、どうしても男には見えない。まず体毛がほとんどない。女の子のように脱毛しているわけでもあるまいが、うすい産毛しか生えていない。くわえて足首の細いこと。膝丈のジーンズから覗く膝の形までが美しい。
 直前の会話で何故か嬉しそうだった薪の様子が、「愛する夫と一緒に買い物をする幸せいっぱいの新婚の妻」に見えたとしても、なんら不思議ではない。

「それをおまえまでなんだ、あの親父と一緒になって!」
「でも、あそこで『この人は男の人です』なんて言ったら、それこそ店中の注目を集めちゃいますよ」
 青木のその意見には納得したようで、薪は一応、頷いた。
 それはまあ、と口の中で言って、アイスクリームを手に取る。ハーゲンダッツのアフォガード。薪のお気に入りのコーヒー味のアイスクリームだ。
「あれ?ジェラードじゃないんですか?」
 青木の言葉を無視して、薪はカゴにアイスを入れた。
「まずいですよ、ここはジェラードにしとかないと」
「? なんで?」
「薪さんはジェラードって決まってるんですよ」
「だから、なんで」
……どうしてだろう。何となく、そう言わないといけないような気が。

「どうして間違えられたのかな。服装のせいか? くっそ、スーツ着てくりゃよかった」
「いいじゃないですか。おかげで安く買えたんだし。そんなに怒ると、アイスクリーム溶けちゃいますよ」
 新鮮なものにまで3割引のシールを貼ってもらったので、だいぶ得をした。薪の不機嫌と引き換えだから、手放しでは喜べないのだが。
 最後に重い米を買って、レジを通る。買い物籠は3つになって、エコバックに入りきらない。調味料や重い野菜、果物は段ボール箱に入れてカートで車まで運ぶ。
 やっぱりついてきて良かった。これだけの荷物だ。タクシーを呼んだとしても、車まで運ぶのも大変だったろう。

 車をスタートさせながらも、青木はにやつきが止まらない。
「いつまでニヤニヤしてるんだ」
「いえ、べつに」
「このこと、誰かに言ったら承知しないぞ」
「はい」
 青木のやに下がった顔は、早とちりの魚屋のせいばかりではない。さっきの薪の意味深な言葉を思い出しているのだ。
 12歳年上の恋人をどう思う―――― 薪はそう言った。
 12歳年上、つまり36歳。薪の年齢だ。そういう意味合いで訊かれたのかも知れないと思うと、つい顔がほころんでしまうのだ。

 都合のいいように解釈しすぎかもしれないが、恋とはそういうものだ。
 相手の何気ない言葉に態度に、一喜一憂する。その視線に仕草に自分への好意を探して、気持ちを浮き立たせる。逆に少しでも冷たくされると、地の底に沈みこんでしまう。
 特に相手が薪のようなタイプだと、振り回されるほうは大変である。天国と地獄をジェットコースターで行き来するようなものだからだ。しかし、そんなところすら愛おしい―――― 惚れた弱みというやつだ。

「今日は悪かったな。大事な勉強の時間を無駄にさせて」
 無駄なんてとんでもない。
 青木にとって、こんなに有意義な日はないくらいだ。薪の家で2人きりで朝食をとって、まるで恋人同士のように買い物に出かけたりして、実際新婚夫婦に間違えられたりして。
「そんなことないです。色々とごちそうさまでした」
 さっきのスーパーで自分用に買ったものも、薪がお金を払ってくれた。独身貴族の強みか、薪は気前が良い。飲み会に誘っても顔を出してくれた事は無いが、上司として金だけは出すタイプだ。他に使うところもないのか、あまり金銭に執着がないようだ。

「完璧な掃除の礼に、今度はもっといい物を食わせてやる」
 これは、食事の誘いと受け取っていいのだろうか。
 薪と2人でレストランで食事なんて。だめだ、運転に集中できない。でも、もし本当に薪に誘われたら、親が危篤でも駆けつけてしまいそうだ。

 どうしてこんなに、オレはこのひとに惹かれてるんだろう。
 このひとのどこがそんなに好きなんだろう。
 その容姿か、明晰な頭脳か、優秀な捜査官としての能力か。
 どれもがそうであり、そうでないような気がする。

「薪さんて、恋人いないんですよね」
「なんだ、その決め付け方。これでも僕はモテるんだぞ」
「それは知ってますけど」
 薪のところには、頻繁にラブレターが届く。女性8割男性2割といったところで、男女問わずにもてるのは事実だ。
 が、それらはすべて薪に読まれることなく、シュレッターに直行だ。氷の警視正の名に恥じない冷酷っぷりである。
「でも、特定のひとはいないんですよね」
 第九の職員全員が、口を揃えてそう言っていた。先ほどの意味深な問いかけの効果もあって、青木は少し大胆になっている。
「まあ、いまのところは」
 語尾を濁す。
「好きな人はいるけどな」
 そう言って、窓の外を見る。
「……三好先生ですか?」
 雪子は否定していたが、やはり青木は気になっている。雪子の方にその気が無いとしても、薪のほうはどうなのだろう。
「いや。それだけはありえない」
 雪子も同じセリフで否定していた。本当に、この2人はよく似ている。

 もしかしたら、と青木は思ってしまう。
 それがどんなに可能性が低くても、期待せずにはいられない。薪の意中の人に自分がなれたら、と。

 途中、薪は花屋に寄った。
 一抱えの白百合の花を買い込む。百合は夏の花だ。薪の清廉な美貌に良く似合う。
 そういえば、薪は時々職場でも良い匂いをさせているが、あれは百合の匂いだ。
 香水ではなく移り香だったのか、と気付く。先刻も枯れた百合を片付けていた。薪は百合が好きらしい。何か機会があったら、百合の花束を贈ってやろう。

 薪のマンションへ帰り着き、地下の駐車場から大量の荷物を部屋まで運ぶ。生ものを冷蔵庫にしまい、自分のものは箱に入れる。会計は薪が一緒に払ってくれたので、荷物が混ざってしまっているのだ。
 青木が冷蔵庫の整理をしている間に、薪はダイニングテーブルの上で百合の花束を解き、そこから数本を取り分けた。抜き取った1本をサイドボードの上に飾り、さらに1本の花を持って寝室に入る。
 入ったまま、出てこない。
 20分ほど待ったが、やはり出てこない。
 寝室のドアをノックして外から声を掛けるが、反応は無かった。もしかすると眠ってしまったのかもしれない。

 そっとドアを開けてみると、案の定、薪はベッドで眠っていた。
 ブラインドの隙間から入る夏の日差しの中、真っ白なシーツの上で微かな寝息をたてている。枕元に備え付けの棚があるタイプのベッドで、サイズはセミダブル。
 枕元には何故か、目覚まし時計が3つも置いてある。それから、さっき持っていった百合の花が、透明な花瓶に挿してあった。

 薪の寝顔を覗き込んで、青木は驚く。
 涙の、あと。
 胸には大判の写真立てを抱いている。
 これは……。

 思いついて、青木はリビングに戻った。サイドボードの引き出しから、さっき薪が隠した写真を見つける。そこに写っていたのは長身に黒髪の、自分に良く似た人物。
 やはり、と青木は思った。
 思うと同時に、雪子の言葉が思い出される。
 『親友で、ライバルなの』

 つまり、薪の好きなひととは。

 サイドボードの前で百合の匂いに包まれながら、青木は写真を見つめて立ち尽くしていた。


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23日目の秘密(10)

23日目の秘密(10)








 薪が目を覚ましたのは夕方だった。
 片付けが途中だったのを思い出して寝室から出てみると、キッチンと冷蔵庫はきれいに片付いていて、青木はいなかった。寝室に花を活けていたら眠くなって、そのまま寝てしまったのだ。置き放しだった百合の花は、浴室のバケツに活けてあった。

 久しぶりに熟睡した。
 シャワーで寝汗を流そうと、リビングを横切って風呂場へ向かう。
 ふと、サイドボードの上の写真に気付いた。
 百合の隣に立ててある。先刻、確かにしまったはずだ。……青木か。
「なんだ、見たのか」

 それは、女性の写真ではなかった。
 仲の良い友達同士のツーショット。2人とも男だが、片方の男性は黒髪で背が高く、もうひとりは亜麻色の髪で線が細い。在りし日の薪と、その親友だった。
 鈴木がふざけて後ろから薪に抱きついている。
 第九の発足当時、これは雪子が撮ってくれた写真だ。昔から、シャッターチャンスは逃さないのが雪子の主義だ。それが原因で後々薪はひどい目に遭うのだが。それはここでは置いておこう。

 ふたりとも、極上の笑顔で写っている。
 特に薪の笑顔は最高で、それはもちろん彼の背後にいる人物が引き出したものだ。自分の首に回された鈴木の腕に華奢な両手をかけて、嬉しそうに笑っている。

 ひと目で。
 たった一瞥しただけで、薪の気持ちが分かってしまうような写真だった。

 しばらくの間、薪はその写真を手にとって見つめていたが、やがて元通りの位置に戻すと、百合の花に顔を寄せて匂いを嗅いだ。今日は、これから行きたいところがある。
 シャワーを浴びて、出掛ける準備をする。
 髪を梳かし、黒いスーツに黒いネクタイを締める。机の引き出しを開けて、奥のほうに隠すように置いてあった小箱を取り出し、中に入っていた指輪を左手の薬指にはめた。細い指にプラチナの輝きがよく似合う。
 その手に百合の花束を持って、薪は家を後にした。


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23日目の秘密(11)

23日目の秘密(11)






 大きな公園が見渡せるアパートの一室で、青木は参考書をめくっていた。
 試験勉強など久しぶりだ。警察大学では定期的に試験があったが、卒業して1年も経ってしまうと、勉強する習慣などすっかりなくなってしまった。集中力が取り戻せなくて、どうも調子が出ない。
 日没後の公園には、人影もまばらだ。元気に遊んでいた子供たちも、とっくに帰ってしまった。かといって、恋人たちがここを訪れるにはまだ間がある。今はちょうどその中間の時間帯なのだ。
 薪と一緒に見た桜の樹は、緑色の葉を生い茂らせ、静かに佇んでいる。また来年の自分の出番に向けて、養分を蓄えている最中なのだろう。

……勉強が捗らないのは、さっき見た写真のせいだ。

 親友に抱きしめられて、うれしそうに笑う薪の写真。ふたりともスーツ姿だったから、きっと職場で撮ったものだろう。
 あんな薪の笑顔は見たことがない。
 楽しそうで、幸せそうで、この上なくきれいで。その笑顔が、後ろから薪を抱きしめている背の高い男の存在に起因するものだと、青木にはひと目でわかった。

 鈴木克洋。
 雪子の元婚約者で、薪が射殺した男だ。

 きっと、薪は鈴木を殺したことで、彼を忘れられなくなったのだ。それが辛くてあんな無茶をするのだろう。笑顔も楽しみも封印して、ただひたすら鈴木との思い出の第九に縋り付いて。自らを傷めつけるような過酷な生き方を自分に課して。
 これでは、どっちが殺されたのかわからない。今の薪は、生きながら死んでいるようなものだ。
 何とかしてやりたいが、今の自分では力不足だ。もっと薪を支えられる人間にならないと。
 それには、今回の昇格試験も大切だ。階級が上がればこなせる職務も多くなる。そうしたら、今より室長の役に立てる。

 気合を入れ直して、がんばるか、と思ったところにチャイムが鳴った。
 玄関のドアを開ける前に薪のことがちらりと脳裏を掠めたが、それはない。果たして、ドアの外にいたのは寿司屋の出前持ちだった。
「特上1人前、お待たせしました。」
 頼んだ覚えはない。
「薪剛さんのお名前で、お代頂いてますけど」
 掃除の礼に、今度はもっといい物を食わせてやる―――― あれはこういう意味か。
 少しがっかりしてしまう。
 薪が届けてくれたのは銀座の有名な寿司屋のもので、普段はなかなか手が出ない代物だったが、青木には薪とふたりで食べた冷凍物だらけの朝食のほうがおいしかった。不思議なものだ。きっと薪と一緒なら、コンビニの弁当だって美味しく感じるのだ。
 それでも、薪の気持ちは伝わる。自分のことを気にかけてくれたのだ。

『がんばれよ、青木』
 厳しい叱咤とやさしい心遣い。薪はやはり、理想の上司だ。
「ごちそうさまでした、室長」
 空になった寿し桶の前で手を合わせる。現金なもので、食べたら俄然、やる気が出てきた。写真のことが気になって昼食を抜いてしまっていたのだが、集中できなかったのはそのせいかもしれない。

 薪に認められるためには、この試験をパスすることだ。
 再び参考書を広げる。次第に、その内容にのめりこんでいく。目前の公園には恋人たちの姿もちらほら現れ始めているが、青木にはもう、周りの音も聞こえない。 
 東大法卒の第九の新人は、持ち前の集中力と根気を遺憾なく発揮し始めた。



*****

 鈴木さんと雪子さんが婚約していた、と言うのは、創作上の勝手な設定です。
『コピーキャット』を読むまで、ふたりは婚約していたのだとばかり思っていました。4巻の葬儀のシーンで、雪子さんが親族席にいたから、てっきり。自殺未遂までしたみたいだし。本当は、おなかに鈴木さんの子供がいたのかな~、とそこまで思っていたのですが。鈴木さんが亡くなったショックで流産しちゃって、絶望して、みたいな。
 でも、今の雪子さん(2010.8月号)を見ると……オレのと違うなあ(BY倉石)


 

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23日目の秘密(12)

23日目の秘密(12)








 夏の夜の霊園は、淡い月明かりに照らされて、闇の中に沈んでいた。

 天空の霊園の名に相応しく、長い石の階段が果てしなく続く。その階段を、薪はゆっくりと昇っていく。亜麻色の短髪に夜目にも白い肌。痩身を喪服に包み、百合の花束を抱えている。
 時刻は夜の10時。
 こんな時間にこんな場所に来るものは、他には誰もいない。昔は子供たちの間で肝試しという風習があったらしいが、最近は見かけなくなった。幽霊や妖怪の類は時代が進むにつれてその居場所を無くし、2060年の現代では、子供たちの心の中にさえも住めなくなってしまったようだ。

 薪は、ほのかな明かりを頼りに目的の墓所へと進む。
 もうここへは何度も来ているのだろう。真っ直ぐに前を見て、迷いなく歩いていく。
 やがて薪は、ひとつの墓石の前で足を止めた。暫くの間立ち尽くす。
 夏の夜風が短い髪をなぶり、美しい額が顕わになった。

「また来ちゃったよ。ここに来たって、おまえに会えないのはわかってるのにな」

 そう呟いて花束を墓前に供える。その場に屈み込んで、手を合わせる。
 3分ほどで合掌を解いて、屈んだ姿勢のまま墓石を見つめた。
 鈴木家之墓、とある。薪が1年前に射殺した親友が眠る場所だ。
 自宅で写真に話しかけるように、薪は墓石に小さな声で語りかけた。
 
「雪子さんは元気だよ。お父さんとお母さんも。今、車の中から見てきたけど、元気そうだった。妹さんも来年成人式だってね。きれいになってたよ」

 今日は鈴木の命日ではない。
 もちろん間違えたわけではなく、鈴木の両親と顔を合わせたりしないように、わざとずらしたのだ。

 鈴木の両親とは、大学時代からの付き合いだった。自宅から大学に通っていた鈴木の家に、薪はよく遊びに行っていた。それは警察庁に入ってからも続いた。あの事件が起こるまで、実に15年もの交流があった。
 鈴木の両親は一人暮らしの薪を暖かく迎え、家族の団欒の中に混ぜてくれた。幼い頃にふた親を亡くした薪にとって、それは宝物のような時間だった。

 あの事件が起きたとき、鈴木の親は薪を責めなかった。
 それが逆に辛かった。
 糾弾して殴って欲しかった。刑法上の罪など関係なく、罵って欲しかった。
 覚悟していたのに、厳しい言葉は何もなかった。
 ただ、拒絶された。
『二度と顔を見せないでください』
 そう、頭を下げられた。
 薪は引き下がるしかなかった。

 本当は雪子のように、鈴木の遺体に取りすがって泣きたかった。しかし、薪にはそれは許されなかった。息子を殺した男が、息子の遺体に触ることを両親が許してくれるはずもなかった。
 だから薪は、鈴木の葬儀にも参列していない。
 棺に入った鈴木の姿を見ることも、最後のお別れも献花も何も―――― 本当に、何ひとつできなかった。最後に見たのは、病院で医師の必死の蘇生術を受ける鈴木の姿だった。

 鈴木の両親は2人ともとても優しい。だからあんなにやさしい息子が生まれたのだと薪は思う。薪のことを恨めば楽なのに、優しすぎてそれができない。逆に、恨みがましい気持ちに傾く自分たちを責めてしまうのだろう。そんな彼らにとって、薪の姿を見ることは苦痛以外の何ものでもない。
 これ以上、苦しめたくはない。
 四十九日も月命日も、こうして日をずらして、なるべく人のいない時間に訪れてきた。鈴木の好きだった百合の花を携えて、黒装束に身を包んで、長い石段を何度のぼってきただろう。

「1年たったな。鈴木」
 もう、1年なのか。
 ようやく、1年なのか。
 自分はあと何年、待てばいいのか……。
「僕は頑張ってるよ。がんばってるから」
 息が、つまる。
 鼻の奥が痛い。

「だから……早く迎えにこいよ。鈴木……」

 つらい。
 もう、たえられない。
 はやく、はやく、おまえのところへ行きたい。

 でも、殺人者にはそんな勝手は許されない。贖罪はまだ、終わってはいない。
 第九の地位が確実なものになるまで、雪子さんが幸せになるまで……まだ死ねない。

 涙は止めようがなかった。地べたに腰を落として、薪は泣いた。
 静まり返った霊園に、薪のすすり泣く声だけが、いつまでも響いていた。


 ―了―



(2008.9) 

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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
おかげさまで8歳になりました(^^♪
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