ジンクス(1)

 Rです。(しょっぱなから(^^;)
 18歳未満の方と苦手な方はご遠慮ください。




ジンクス(1)

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テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ジンクス(2)

ジンクス(2)







 法医第九研究室の室長席には、今日もうずたかく書類の山が築かれている。
 机の上には、かぐわしい香りの黒い液体が入った白いマグカップが置かれている。コーヒー好きの室長のために、青木は毎朝挽きたてのコーヒーを淹れる。
「今朝はキリマンジャロAAです」
 軽く頷いて室長は左手でカップを持ち上げ、その香りに酔うかのように目を閉じる。長い睫毛が今日もきれいだ。

 さりげなく薪に見惚れていて、青木は気付いた。いつもならてきぱきと仕事を捌く室長が、今日に限ってはその仕事ぶりに冴えがない。普段は眼にも留まらない速さでキーボードを叩く手が、今日は緩慢に動いているような気がする。それでも充分人並み以上の早さだが、薪にしては遅い。
「青木。岡部を呼んでくれ」
 モニタールームに帰りぎわ、そう頼まれた。岡部は室長の腹心だ。何かにつけては呼ばれることが多い。
 室長の信頼を得ている岡部が、少し羨ましい。
 青木はまだ、警察官としてのキャリアも1年と少し。第九に来たのはたった8ヶ月前だ。捜査官として18年を経ている岡部とは比べ物にならない。
 キャリア組の青木は、7月の昇格試験の合格通知を貰ったばかりだから、正式な辞令が出れば肩書きだけは岡部と同じ警部なのだが、経験と実力は雲泥の差だ。
 第九では実力のあるものが上に行く。役職は関係ない。室長の方針は厳格な実力主義だ。
 だからもし、自分より実力のあるものがいれば室長はその役職を潔く降りて、その人物に室長の椅子を譲り渡すだろう。室長はそういうひとだ。エリート集団第九の頂点に立って天才の名を欲しいままにする薪剛警視正以上の切れ者がもしもいたら、の話だが。

 青木と入れ違いに、岡部が室長室に入っていく。
 岡部に対する室長の態度は、新参者の青木に対するそれと格段の違いがある。気安い口調と微笑み。年が近いせいもあるのだろう。見た目は青木のほうが同年代に見えるのだが。

「岡部。今日、僕の家に来ないか」
「何か御用ですか?」
「カレー作りすぎちゃってさ。ひとりじゃ食べきれないから、食いに来いよ」
 机に両肘を突いて両手の指を組み合わせ、その上に細いあごを乗せて、上目遣いに少し甘えるような声音で部下を誘う。青木だったら腰砕けになってしまう媚態に、しかし岡部は冷静だった。
「本当の目的は、なんなんですか?」
「ばれたか」
 ちろりと赤い舌を出す。つややかな唇が、たまらなく魅力的だ。

「身体が疼いてどうにもならない。また頼めないかな」
「もうですか? こないだやってあげたのって、先週ですよ」
「だって、我慢できないんだ」
「ここでやってあげましょうか」
「ここではちょっと。職場だし、誰かに見られたら恥ずかしいから」
「自然なことだと思いますけどね」
「落ち着かないから、やっぱり家でしてくれないか」
「分かりました。じゃ、8時ごろ伺います」
「悪いな。頼んだぞ」

…………。

 室長室の入り口に立って、聞くとはなしに聞いてしまった。青木の頭の中には疑問符が渦を巻いている。
 なんなんだろう、この会話は。
 カラダガウズクって……ガマンデキナイって……。
 まさか?
 室長はあの外見だし、鈴木さんのこともあったりするから可能性はあるけれど、岡部さんはそういうこととは無縁の人だと思っていたのに。
 仲がいいとは思っていたけれど、まさかそういう関係じゃ。

「なにボーっとしてんだ、青木」
 ドア口に立ったまま呆然自失の態を晒していた青木に、室長室を退室した岡部が声を掛けてくる。あんな会話の後に、よくこんなに落ち着いていられるものだ。
「岡部さん。今日、室長のお宅へ行かれるんですか?」
「ああ。おまえも来るか?」
「え!? それは室長に、むちゃくちゃ怒られるんじゃ」
「なんで怒られるんだ?カレー食いに行くだけだぞ」
「いやその……ご迷惑じゃ」
「大丈夫だろ。あの人は割とそういうの気にしないから」
「じゃあ、ご一緒させて頂きます」
 素直な言葉とは裏腹に、どうしても険のある目つきになってしまう。無骨な見かけによらず人の心の機微に敏感な先輩は、不思議そうな顔をしたが何も言わなかった。



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ジャンル : 小説・文学

ジンクス(3)

ジンクス(3)







 青木はこの頃、どうもおかしい。
 仕事はきちんとこなしているのだが、心ここにあらずといった感じで、集中力を欠いているように思える。上がってくる報告書や書類にそれはまだ顕れてはいないが、フォローの必要性を室長は認識していた。
 
「8ヶ月、か」
「青木ですか?」
 脈絡のない呟きに、岡部が応えを返す。少し驚くが、岡部との会話では珍しいことではない。端的な言葉から人の真意を汲み取る能力は、さすが捜一のもとエースだ。
「あいつ、このごろ少しヘンじゃないか?さっきもドアのところにボーっと突っ立ってたろ。疲れてるんじゃないのかな」

 白いマグカップに顔を近づけて、薪はその香りに目を細める。
 薪は夏でも、涼しい室内では熱いコーヒーを選ぶ。この香りはアイスでは楽しめない。好みはもちろんブラックコーヒーだ。胃には良くないのかも知れないが、砂糖やミルクはせっかくのコーヒーの味と香りを濁らせてしまう。
 今日のコーヒーはキリマンジャロAA。
 薪は食べることにはあまり興味がないが、コーヒーだけは好きで、よく飲んでいる。別に職場で飲むのだからインスタントでも文句は言わないが、数少ない室長の好物だからと部下のほうが気を使って、近くの珈琲問屋から焙煎したてのものを買ってきてくれる。その好意は素直に嬉しい。

「あのくらいの頃って、普通じゃ考え付かないようなミスをしてくれるんだよな。なんでそうなるんだ、ってカンジの。だから、大学出たての新人はあまり欲しくなかったんだ」
「まあ、誰もが通ってきた道ですから」
「そうそう。僕も警視庁で半年くらいの時にすごいポカやって、課長にえらい迷惑掛けた」
「何をやったんです?」
 みんなには内緒だぞ、と前置きして、薪は過去の失敗を岡部にだけ打ち明けた。
「現場で押収した証拠品を失くしちゃったんだ。同じ日にあった別の事件の分とごっちゃになっちゃって、最後には見つかったんだけど、鑑識から預かったはずの証拠品が手元にないと分かったときのあの焦燥感って言ったら……いま思い出しても胃が痛くなる」
「室長でも、そんな時代がありましたか」
「あったさ。岡部は、そういうのなかったのか?」
 秘密を共有する共犯者の笑顔で、岡部はそれに答えた。
「やりましたよ。それも室長みたいな、そんな可愛いもんじゃありませんよ。俺なんか」

 岡部の失敗談に耳を傾けようとした薪の耳に、モニタールームからの叫び声が聞こえた。
『なにやってんだ、青木――――!!』
 今井の声だ。
 思わず室長室の2人は顔を見合わせる。穏やかな性格の今井が、こんな声を出すことは滅多にない。
「……やってくれたか?」
「そうらしいですね」
「はあ。聞きたくないな」
「そうもいかんでしょう」
 ひょいと肩を竦めて、室長はモニタールームへと歩いていく。
 その顔はいつもどおり冷静で、先刻の後ろ向きの台詞はただのポーズだったと分かる。部下のミスを拭うのは室長の仕事だ。薪はそれを自分の責務だと心得ている。

「どうした」
「あ、室長。その……」
 モニターを見ると、画面が完全にバグっている。操作の途中でデータを破壊する何かを行ってしまったときに起こる現象だ。
「見事に消してくれたな。復旧にはどれくらいかかりそうだ?」
 青くなってしまっている青木を横目に、いつもの少し皮肉な口調で室長が問う。
「システム自体はリスタートかければ済みますけど、元のデータのほうが」
「元データ? なんでだ? スパコンが破壊されたわけじゃあるまい」
 言い渋る今井に、今度は岡部が尋ねる。
 他の職員たちの表情からミスの大きさが予測される。嫌な予感がした。
 青木はうつむいてしまって、何も言えないでいる。こういうときには下手に慰めないほうがいい。

「これは脳の画像じゃありません。CDです」
「CD? まさか」
「その、まさかです」
 消してしまったデータの重要性に気付いた岡部は、思わず今井を怒鳴りつけた。
「なんでバックアップ取っておかないんだ、ばかやろう!」
「バックアップの最中に、青木が電源落としちゃったんですよ。MRIシステム専用の信号に切り替えしている途中で切れちゃったもんだから、情報流出防止の自動プログラムが働いて、メインシステムはおろかCDのハードにまでバグが回って……結局データがオシャカです」

 MRIシステムにかけられる情報は極秘扱いのものが殆どで、その情報が外部に洩れないようにするために二重三重のガードが施されている。その機能のひとつに今井が言った情報流出防止プログラムがあり、セオリーから大きく外れた操作をした場合には自動的にこのプログラムが働くようになっている。
 要はMRIシステムに詳しくない外部のものが簡単に情報を引き出せないようにするためのプログラムなのだが、このようなことも起こりうるとは。これだから新人は怖いのだ。

「なにやってんだ!」
 怒りに青くなっている岡部に、室長の静かな声が聞こえた。
「岡部、もういい。データの控が厚生労働省に残っているはずだ。もう一度、取り寄せてもらえば済む話だ」
「いや、取り寄せるって、薪さん、これ」
「黙れ」

 岡部がCD一枚のことで大騒ぎしているのには、もちろん理由がある。
 現在捜査中の連続放火事件。
 厚生労働省の官僚の自宅ばかりが、4件続けて被害に遭っている。明らかに厚生省に遺恨を持つものの仕業と考えられる。
 これから被害に遭うかもしれない家宅の予測をつけるため、官僚の住所データがぜひとも欲しいところだが、お役所仕事はとにかく時間が掛かる。何枚もの書類を提出して何度も厚生省と警察庁を行ったり来たりして、ようやく情報を入手したときにはリストに載っている家は全部焼けてしまった後、と言う笑えない話になりかねない。
 そこで、所長の田城を通じて、厚生省にいる三田村警務部長の同期から正規の手順を踏まずにリストを回して貰った。人の命が係っている以上、こんな方法でも取らざるを得ないこともある。
 ところが、三田村は薪をひどく嫌っていて、このリストもさんざん嫌味を言われた挙句に渡してもらったのだ。それを誤って消してしまったのでもう一度ください、とはとても言えない。しかし、このリストがないとこの事件は捜査ができない。
 青木はまだ新人で、室長の人間関係や確執には理解が及んでいないが、他の職員たちは警察庁の勤務自体が長いから、その辺のこともよく解っている。だからこんなに青くなっているのだ。

「青木、大丈夫だ。心配するな。システムの復旧をしておけ」
「すみません、室長」
 申し訳なくて室長の顔が見られないらしく、青木はうつむいたまま低い声で謝罪した。
「気にするな。大したミスじゃない。みんな、仕事に戻れ」
 落ち着いた声で部下の動揺を収めると、室長は研究室を出て行った。
 その優美な後ろ姿には、苛立ちも焦燥も表れてはいない。いつもの通り、華奢ではあるが頼れる背中だ。
 
「青木。後で薪さんにもう一度よく謝っておけよ。なんたって」
「今井。もういい」
「岡部さん。でも」
「薪さんがいいと言うんだから、もういいんだ。さ、仕事仕事」
 室長の意向を尊重して、岡部は新人捜査官の広い肩を元気付けるように叩いた。


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ジンクス(4)

ジンクス(4)








「申し訳ありません」
 明るい日差しが差し込む捜査一課の応接室で、薪は何度目かの謝罪の言葉を口にした。
 薪の謝罪を受けて革張りのソファにふんぞり返っているのは、もちろん三田村部長だ。太い腕を組み、突き出した腹の上に乗せている。小さな藪睨みの眼が、深く頭を垂れる薪の姿をじっと見据えている。

 あの後薪は、第九から所長室に直行し、データを消去してしまった旨を田城に説明して三田村に連絡を取ってもらった。所長と共に謝罪をして、データの再取得を頼もうと考えていたのだが、当の三田村に捜一の応接室に一人で来るよう命じられた。
 応接室といっても、捜査一課の部屋の一角に応接ソファを置いただけの代物である。薪の謝罪の様子は、捜一の面々から丸見えだ。要は、生意気な第九の室長が滅多に下げない頭を下げる場面を晒し者にしてやろう、と言う三田村の趣向なのだ。

 そもそも、第九と捜査一課は仲が悪い。
 昔は薪も捜一の人間だったのだが、その頃とはすっかり人が入れ替わってしまって、薪の顔見知りは一人もいない。いるのは全体会議でいつも険悪な雰囲気になる課長の池沢と、顔を合わせれば嫌味の応酬になる捜一の現在のエース竹内警視とその一派である。
 つまりここは、薪にとって四面楚歌―――― できれば立ち入りたくない場所だ。
 三田村は警察庁の人間なのだから、なにも捜査一課で薪の話を聞く必要はない。が、三田村と刑事部長の池上は仲がよく、その関係で捜一にもよく出入りしている。
 第九排斥派の捜一と三田村は話が合う。両者にとって、薪は『共通の敵』というわけだ。

「えらいことをしてくれたな。あのデータを友人から回してもらうのに、わしがどれだけ苦労したと思っとるんだ」
 頭を下げた姿勢のままの薪を傍らに立たせておいて、三田村は先刻からずっと非難の言葉を繰り返している。
薪には返す言葉もない。今回のことは、確かにこちらのミスだ。
 しかし、薪は頭を下げながらも別のことを考えている。何かと風当たりの強い第九の室長ならではの特殊能力だ。

―――― そういえば、今朝のコーヒーは美味かった。
 キリマンジャロAAって言ってたな。香りが良くて後味がすっきりしてて、朝にぴったりのコーヒーだったのに、まだ半分も飲んでなかった。もったいないことをしたな。
 それにしても、青木が淹れるコーヒーは美味いな。他のやつらが淹れてくれるのより遥かに美味いし、もしかしたら喫茶店のコーヒーよりも上かもしれない。第九のバリスタと呼んでやったら、どんな顔をするかな。
 そうだ、あいつ昇格試験に合格したんだっけ。岡部に言って、簡単な祝賀会の席を……。

 神妙な顔でそんなことを考えている。まったく、不遜な男である。が、三田村のほうもかなり陰険だ。その私情に偏った叱責を、真面目に聞くこともない。どっちもどっち、ということになるだろうか。
「本当に申し訳ありません」
「どうも君の謝罪には心がこもっていないな」
 それはそうだろう。込めた覚えもない。

……薪は人間として、少し道を間違えている。かつての親友がここにいたら、そう諭してくれるだろう。

「君は心の中で、周りの人間をバカにしとるだろう。自分が人より多少早く出世したからといって、それが自分ひとりの功績だとでも思っているのかね」
 周りの人間を見下したことなどない。バカだと思っているのは、あんたのことだけだ。
「そんなつもりは。お気に障ったのでしたら謝ります」
 言葉だけは丁寧に謝罪を繰り返すが、こういうことは何となく相手に伝わってしまうものだ。その証拠に三田村の怒りは、薪が謝れば謝るほど大きくなっていく。
「だいたい横柄なんだ、君は。謝罪というのは相手の目の高さより下に自分の頭を持ってくるものじゃないかね」
 低いソファにふんぞり返っている三田村より頭を低くしようとしたら、床に膝を着くしかない。土下座して謝れ、ということか。

 なるほど。
 第九の室長が土下座するところなど、そうそう見られるものではない。それで捜一を舞台に選んだというわけか。ここならそれを喜ぶものこそあれ、止めるものなどいない。
 三田村の子供じみた嫌がらせに、反吐が出そうになる。こんなやつが警視長だなんて世も末だ。やはり昇格試験が導入される以前のエスカレーター式の昇任制度には問題がある。
 周囲の視線もあからさまなもので、中には伸び上ってこちらを覗いている者までいる。捜査一課の人間なんて、ろくなもんじゃない。少なくとも第九には他人の困惑を喜ぶような、こんな卑しい人間はいない。

 軽く嘆息すると、薪は呆れるほど素直に膝を折った。それはとても優雅な動作で、まるで日本舞踊の舞のような麗しい姿だった。
 床に額づいても、凛とした雰囲気は変わらない。屈辱に身を震わせる薪の姿を期待していたであろう三田村が、苦い顔をする。周囲の人間も呆気に取られた表情をしており、ここまでやらなくてもいいだろう、という小さな呟きも聞こえてきている。
 薪にとっては、土下座なんか何でもない。今回のように形だけの土下座で潰れてしまうほど、薪のプライドはやわではない。
 長いこと第九の室長をやっていれば、こんなことはいくらでもある。
 何ヶ月か前、MRI捜査に偏見を持った遺族から脳を貰い受けたときなど、地面に土下座した上にバケツで水を掛けられた。それでもなお、地べたに頭をこすりつけて被害者の脳を預からせてもらったのだ。あらかじめ遺族に了承は取ってあるのだが、実際に現場に行ってみるとそういうことは珍しくない。
 だからといって慣れるものでもないが、騒ぐほどのことでもない。薪もすでに、人生の修羅場はくぐってきている。その凄惨さは、並みの人間には計り知れない。

「どうか、もう一度だけ。お願いします」
 亜麻色の短髪が下方に流れて、普段は見ることのできない襟足がのぞく。
 その白さと、ぞくりとするような色香。三田村は、新しい計略を思いついてほくそ笑んだ。

「今夜、その友人に会うのだが、君も来たまえ」
 床に膝を着いたまま、薪は顔を上げた。
 その友人、というのは厚生省にいる三田村の同期のことだろう。当然、薪とは面識がない。
「私がですか?」
「直接、君が彼に頼むんだ。君の口から事情を説明して、彼に謝罪したまえ。もちろん、わしも一緒に行ってやる」
 おかしな注文だが、それでことが済むなら薪に異存はない。相手は厚生省の役人だから料亭くらいは押さえなくてはならないだろうが、経費で落ちるだろうか。
「わかりました。会食の席はどちらに?」
「いや。これは友人としての付き合いだから、余計な気遣いは無用だ。8時に麻布の『寂洸』という料理屋で待っている」
 接待費と言う名目で自分の娯楽費用を賄う警察官僚が多い中、公私にきちんと区別をつける三田村を、薪はほんの少し見直した。
「では8時に」
 膝を着いたときと同じくらい優雅に立ち上がって、三田村に再度一礼すると、薪は捜査一課を後にした。

 今夜、8時。麻布の寂洸。
 岡部の約束と、見事にブッキングしてしまった。仕方がない。岡部のほうは明日にしてもらおう。カレーが腐らないといいのだが。
 なんなら今日は、青木の合格祝いをやってやればいい。おそらくこのミスのことでへこんでいるだろうから、元気付ける意味でも一石二鳥だ。

 褒賞金用の新札はあったかな、と考えながら薪は捜査一課のドアをくぐる。
 その背中を見送る険悪な瞳。現在の捜一のエース、竹内警視である。

「麻布の寂洸って……やばくないですか?」
 現場でいつもコンビを組んでいる部下の大友が、ためらいがちに呟く。お人好しの部下は、あの生意気な室長を心配しているらしい。
「別にいいだろ。そうと決まったわけじゃないし」
 部下の老婆心を笑いつつ、しかし竹内の心境もまた複雑だった。
 竹内は、薪が第九へ行った2年後に捜査一課に配属になった。ノンキャリアの先輩たちは、キャリアの竹内を敵視しており、初めの頃はかなりのイジメにあった。
 第九の室長として捜一から転属した薪も当然キャリアのはずだが、彼の才能はあまりにもずば抜けていたため、妬みの対象にもならなかったと言う。薪の偉業をさんざん聞かされ、同じキャリアでもずい分ちがうとか、キャリアならあのくらいやってみせろとか、ことあるごとに比べられて、すっかり薪のことが嫌いになった。

 先輩の中でただひとり、竹内を薪と比べなかったのが岡部靖文警部だ。
 岡部は、薪が第九へ行った1年後に捜査一課に配属された。懐の大きな男で、自分がノンキャリアであるにも関わらず、竹内のことを後輩として可愛がってくれた。捜一の中で唯一、尊敬できる先輩だった。
 それが昨年のあのセンセーショナルな事件の直後、岡部は第九に引き抜かれた。最初本人は嫌がっていて、竹内にはすぐに捜一に戻ってくると言っていた。
 ところが、第九に入って1月も経たないうちに、どんな手管を使ったものか、岡部は薪に取り込まれてしまった。1年を経た今では、第九の室長の懐刀とまで呼ばれている。
 キャリアのプライドをズタズタにされて、たったひとりの敬愛する先輩を奪い取られて、竹内の薪に対する憎しみは膨らむ一方だった。

 だが、竹内には、岡部に教えてもらった大切なことがあった。
 警察官としての心だ。
 キャリアもノンキャリアも、同じ警察官であることには変わりない。正義を貫く心。市民を守る心。公僕たるものの責務を全うすること。岡部と一緒に捜査ができなくなっても、それは竹内の中に確かに息づいている。

 先刻の三田村の子供じみた振舞いは、竹内の目にも苦々しく映った。
 薪のことは大嫌いだが、別にあんな姿を見たところで溜飲が下るわけでもない。だいたい、薪はちっとも悔しがってなどいなかった。髪の毛ひとすじ乱さずに、優雅に土下座してみせた。あれでは三田村の狭量さが強調されただけだ。
 それはきっと、当の三田村にも解っていたに違いない。だから『寂洸』なのだ。
 あそこは見かけは高級料亭だが、そういう目的の場所だ。必ずしもそうとは限らないが、可能性は高いと思われた。
 しかし、だからと言って三田村に逆らってまで薪のことを案じる義理はない。汚いやり方だと思うが、別に実害があるわけでもないだろう。とりあえず、何をされても子供はできない。女のような顔をしているくらいだから、もしかすると薪もまんざらではないかもしれないし。
 でも、そうすると逆に今度は、あの生意気な室長の弱点を握ることができる。そういった趣好を持っているとしたら充分脅しのネタになるし、写真でも撮っておけば一生飼い殺しにできるだろう。
 まさか、そこまではしないと思うが……わからない。

「どうなってもいいさ、あんなやつ」
 苛立ちも迷いも投げやりな言葉と一緒に吐き捨てて、竹内は書きかけの報告書に視線を戻した。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ジンクス(5)

ジンクス(5)






「薪さん、捜一で土下座させられたみたいだぜ」
 早耳の小池が、ひそひそと囁いた。
 昼時のカフェテリアは混みあっていて、ざわめきの中に秘密の会話を紛れさせてくれる。

「えげつないよな、三田村って。なんであんなのが警視長なんだろな」
「いくら薪さんが天才でも、上役には逆らえないもんな」
「それって、オレのせいですよね」
 小池に曽我に青木。第九の3人組は、一緒にランチをとることが多い。
 時には街に出て行列のできる洋食屋に並んでみたいと思うが、時間の制約もあって、大抵は研究所内の職員食堂を利用することになる。特に豪華なメニューは置いてないが、ここの定食は野菜をたっぷり使っていて栄養バランスもいい。しかも安くておいしい。社会人1年生の青木には嬉しい食事処だ。
 いつもなら2人前をぺろりと平らげる青木が、今日ばかりは食事にほとんど箸をつけていない。あのミスのせいで、青木はすっかりしょげているようだ。
 
「まあ、気にすんなって。そのうち薪さんが警視長に昇任して、三田村と同じ階級になるまでの我慢さ」
 小池が青木の背中を叩いて、ことさら明るく笑う。
 シニカルな外見によらず、青木のことをいつも気遣ってくれる。いい先輩なのだ。
「あと何年だっけ。薪さんが警視長の昇格試験、受けられるの」
 青木が今回警部の昇格試験を受けたように、薪も警視正から警視長に昇任するためには、警視長用の昇格試験を受けなければならない。それは警部用の試験より何倍も範囲が広く、さらに専門的な知識も要求される。
 法規、実務、裁判の判例。世界情勢や果ては医学部門まで幅広い分野から出題される試験は司法試験より遥かに難しく、その合格率は1%に満たない。何を考えてここまで難しいものを作ったのか不明だが、その試験を1回でパスした者はまだいない。

「薪さんて確か27のときに特例で警視正になってるから、10年の実務経験を足して37。あと2年か。って、40前の警視長かよ。すげえな、それ」
 警視長に昇任できるのは旧態の自動昇任制度の場合、最短でも45歳以上である。
 もちろん、昇格試験導入以前に入庁したキャリアたちも、薪のように特別承認を受けて試験に合格すれば昇任できるのだが、まだそういった方法で警視長に昇任したものはいない。
 何ヶ月も徹夜で勉強しなければ受からないような試験を受けずとも、一定の年齢になれば自動的に昇任できるのだ。努力しようとするものは少ない。が、その安心感から来る怠慢こそが旧態のキャリアと薪たちのような新しいキャリアの実力に格差をつけていることに、上層部は気付いているのだろうか。
 本人が出世には興味がないのにも関わらず、薪は警察庁に入った当初からすこぶる順調に出世してきている。警部も警視も最短の年数で昇任しているし、警視正の昇任に至っては官房長直々の特例措置で普通の人事より8年も早く、翌年には新設予定の第九の準備室長に任命されている。警察庁中の妬みを買うのも無理はない。

「薪さんなら特別承認、所長に出せば通るんじゃないの? 警視正のときもそうだったわけだし。これだけ実績上げてりゃさ」
 薪が警視正に昇任する際に取られた特例措置も、官房長宛に特別承認願を提出する形で行われている。
 警視正の昇格試験の受験資格のひとつに、警視になってから10年の実務経験があげられる。しかし、薪のように迷宮入りの事件をいくつも解決するなど多大な実績を上げた者には、直属の上司の推薦を貰うことで特別に許可が下りる。しかしそれは、せいぜい1、2年程度の経験年数の短縮であり、薪のように8年も短縮された上、室長という役職まで約束されたのは異例中の異例なのだ。

「あのひと、出世には興味ないからなあ。もったいねえ」
「出世に興味がないのに、なんで土下座なんか。そんなにあのデータが重要なものだったんでしょうか」
 あのプライドの高い室長が自分のせいで膝を折ったかと思うと、地面に埋まってしまいたくなる青木である。どうしてこんなに、室長の足を引っ張ってばかりなのだろう。自己嫌悪の泥沼に嵌りそうだ。
 が、小池はそれは違う、ときっぱり言い切った。
「データは確かに必要だけどさ。要は、三田村が警務部長だからだろ」
 警務部は、警察庁の福利厚生や研修教育等を担当する部門である。一般の会社の人事部がここに該当する。三田村は、この部門の最高責任者なのだ。警察庁の人事権を掌握している、と言っても過言ではない。
 しかし、青木には初耳だ。
 第九の新人はまだ仕事を覚えるのにいっぱいいっぱいで、警察庁内の役職の顔と名前など、全然わからない。

「あいつに逆らったら、室長ともども俺たちまで左遷されるってわけ」
「それじゃまるで人質じゃないですか」
「そ。人質だよ」
 曽我があっさりと肯定する。そんなことが本当にまかり通っているのだろうか。
「何でそんな人が警務部長なんかやってるんですか?」
 後輩の素朴な疑問に、2人の先輩は顔を見合わせる。
「なんでってなあ」
「きっと向こうも同じことを思ってるんだよ。なんでこんな若造が、第九の室長なんかやってるんだってさ」
「若くたって当たり前じゃないですか。薪さんほどの捜査官は、日本中探したっていませんよ」
 この新人の薪への傾倒ぶりは、聞いていて笑ってしまうくらいだ。もともと青木は室長に憧れて第九に来たのだから、無理もないのだが。
 
「おまえはまだ警察機構の恐ろしさがわかってないんだよ。完全な縦割り社会なんだぞ、ここは。上役には絶対服従だし、官僚に逆らったりしたら一生日の目を見れないぞ」
「でも、薪さんはそんなこと一度も」
 警察官僚とは、警視正以上の役職のことだ。ここからは現場ではなく、管理者の責務を負うことになる。つまり、薪は管理者の端くれというわけだ。
「あのひとは特別だよ。役職なんか気にしないし、徹底的な実力主義だからな。試験に受かりゃいいってもんじゃないから、ある意味こっちのほうが厳しいよな」
「青木は初めから第九に配属されたから、他の部署を知らないんだよ。第九みたいに、先輩後輩が厳しくない課なんてないぞ。薪さんの方針で、おまえもちゃんとした捜査官の仕事を与えてもらえているけど、普通はもっと下積みの期間が長いんだ。俺なんか二課で1年も伝票の整理しかやらせてもらえなかったんだぞ」
 知らなかった。
 伝票の整理は確かに新人の仕事で青木もやってはいるが、MRIの捜査が入ればそれは後回しにしていいことになっている。そのせいで経理課に提出する締め日に間に合わないときには、皆で分担して片付けてくれる。それが第九特有の制度であり、室長の方針によるものだとは気付かなかった。

「まあ、室長があそこまで怖い課もないけどな」
「そうだな」
「そんなに怖くないですよ。薪さんは本当はやさしいひとですから」
 ムキになって否定する。まったくこの新人は、薪にぞっこんだ。初めはそうでもなかったように思うが、この頃は室長派の先鋒役を岡部から譲り受けそうな勢いだ。
「わかってるよ、バカ」
「俺たちのほうが薪さんとの付き合いは長いんだぜ、新人よ」
「すいません」
 室長への親しみを込めた冗談だったことに気付いて、青木は苦笑する。どうも自分は、ひとの言葉を額面通りに受け止めすぎる。

 それにしても、三田村と言う男は許せない。
 あのプライドの塊のような薪が、捜査一課の人々の前で土下座などと屈辱的なことをさせられて、どれだけ悔しい想いをしたことか。怒鳴り込んでやりたいところだが、それはかえって薪に迷惑を掛けることになる。

「しかし、土下座かあ。これは久しぶりに、室長の平手打ちが出るかもな」
「覚悟してます」
 そうしてくれたほうが気が楽なのだが、室長はそういう八つ当たりはしない。それを分かっていての冗談なのだと、今度は青木も気付くことができた。
「とにかくオレ、もう一度きちんと謝ってきます」
「一緒に行ってやろうか」
「大丈夫です」
 昼食にほとんど箸をつけないまま、青木は席を立った。心配顔の先輩たちに笑って手を振ると、ごった返す人の波をすり抜けて職員食堂を後にした。

「大丈夫かな、青木のやつ」
「ああいうミスって、尾を引くと連続するんだよな。気持ちの切り替えができないと、連鎖に嵌るっていうかさ」
「薪さんがうまくフォローしてくれるといいけどな」
「岡部さんならともかく、あのひとにそれはムリだろ」
「……やっぱり?」
 人より頭一つ分高い新人の後姿を見送って、2人のやさしい先輩は後輩の身を案じていた。




*****


 補足説明させていただきます。
 現行の昇任制度と、作中の昇任制度は一致しておりません。
 正しくは、22歳で警部補、23歳で警部、25歳で警視、33歳半年で警視正(だから原作の薪さんの階級は年齢と実績からして当然なんですね)40歳で警視長、44歳で警視監となっております。

 作中の設定としては、薪さんの敵を多く作るため(笑)昇格制度を作り、警視正を35歳、警視長を45歳、警視監を50歳、とさせていただいてます。ちなみに定年は55歳です。

 とりあえず、薪さんは天才でめちゃめちゃ出世が早いため敵も多い、と理解していただきたいと思います。

テーマ : 二次創作(BL)
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ジンクス(6)

ジンクス(6)






 室長には、ゆっくりランチを摂る習慣がない。
 いいところ売店のおむすびか、それも面倒なときには非常食用に研究室においてあるクッキーやビスケットなどをつまんで済ませてしまう。
 以前、青木は室長に「レトルト品とかインスタントものばかり食べていると体を壊すぞ」と注意されたことがあるが、薪にだけは言われたくないと思う。室長の小言には、自分を省みないものが存外多いのだ。

 この時間、薪はたいてい昼寝をしている。
 食べることに時間を割くより、そのぶん眠っていたいらしい。室長室の寝椅子か、この季節なら研究所の芝生の上か。薪のお気に入りの寝床はいくつか心当たりがある。
 今日は雲ひとつない秋晴れ。こんな日はきっとあそこだ。
 果たして、薪はそこに仰向けになっていた。
 第九の建物が見える大きな樹の下で、例の分厚い洋書を胸の上に乗せて、安らかな寝息を立てている。
 白いワイシャツ姿で、片方の手は広げられもう片方の手は洋書に置かれ、足はのびのびと伸ばされている。カウチだと足が伸ばせないので、気候さえ良ければ芝生のほうが気持ちがいいのかもしれない。

 その隣に正座して、青木は薪が目覚めるのを待つことにした。
 重い洋書を乗せた胸が、ゆっくりと上下している。顔に直接日が当たっているが、まぶしくないのだろうか。
 そこには、三田村に強制されたという屈辱的な行為に対しての悔恨も恥辱も表れてはいない。清廉で誇りたかく、ただただ美しい、いつもの静かできれいな寝顔。
 青木は、自分の夢が恥ずかしくなる。
 夢の内容は自分でも制御不能だ。しかし、室長のこんなに清らかな姿を見てしまうと、このひとを辱めるような真似をしてしまったという罪悪感が青木を苦しめる。そのくせ青木の手は、唇は、目の前のきれいな生き物に触れたい、キスをしたいと自然に求めてしまう。二律背反というやつだ。

 それにしても、ほんとうにきれいな寝顔だ。
 まるで人間じゃないみたいだ。ほんのわずかな欲さえ持っていないように見える。食欲も性欲も、世俗的な出世欲も、そこには片鱗すら見えない。まあ、睡眠欲だけは人一倍あるようだが。

 室長の寝顔をじっくりと見られる幸運に、青木は感謝している。できればずっと見ていたいくらいだが、そろそろ時間だ。
「室長。10分前ですよ」
 小さな呼びかけに、薪は眉根を寄せた。長い睫毛がゆっくりと開く。
「……すずき?」
 幸せそうな微笑。まだ半分、夢の中にいるようだ。
「いいえ、青木です」

 小さな手の甲を瞼の上に乗せ、軽くこする。ゆるゆると上半身を起こし、両手を斜下方に開いて、胸を反らす。力を入れた両の腕がしなやかに反り返って、大きな欠伸とともに、それはどうやら伸びのしぐさであるらしい。
 薪は仕事時間と自由時間の切り替えがはっきりしていて、今は冷血な室長の表情はどこにもない。子供が昼寝から醒めてぼうっとしているときのように、寝ぼけまなこで首を振る様子がとても可愛らしい。
 
「どうした。なにか用か」
「室長。先ほどは本当にすみませんでした」
「なんだ、まだ気にしてたのか」
 芝の上の胡坐をかいて、薪はこともなげに言った。
 平手打ちは冗談にしても、皮肉屋の室長のこと、剃刀のような嫌味のひとつやふたつは覚悟していたのだが、薪は何も言わなかった。三田村の前で自分がさせられたことを思えば、その原因を作った青木に腹いせをしてきてもおかしくはないのに、そんなことはおくびにも出さない。
 考えてみれば、薪が怒るのは捜査ミスやそれに繋がる画の見落としをしたときだけだ。それ以外のことで怒鳴りつけられた覚えはないし、暴力行為を受けたこともない。
 もっとも、薪に大声で叱られるときよりも、氷のような冷たい目で見られるほうが青木にはよほど堪えるのだが。

「青木。おまえ、なにか悩みでもあるのか」
 室長は唐突にそんなことを聞いてくる。表面には出さないつもりでいたが、自分の内面の葛藤を見抜かれていたのだろうか。だとしたら、嘘をついても仕方がない。
「……あります」
「どんなことだ。僕に話してみろ」
「仕事のことじゃありませんから」
「いいから、話せ」
「……薪さんには言いたくないです」
 というか、絶対に言えない。言ったら確実に殺される。

 薪は俯いてしまった青木の顔をじっと見ていたが、口を割りそうにもないと判断してか、話題を変えた。
「今朝の件だが、何故あんな初歩的なミスをしてしまったのか、自分でわかるか?」
 何故、と改まって聞かれると、こうだ、という理由は意外と出てこないものだ。うっかりしていたとしか言いようがないが、それでは答えにならないだろう。
「ああいった本人にも原因の解らないミスはヒューマンエラーといって、仕事に慣れないうちは誰にでも起こることなんだ。僕だって昔はやったさ」
 室長がミスをするところなど想像もつかない。青木の目には、室長は何事においても完璧なひとに見える。
 が、それはあくまで仕事のときであって、職場を離れた日常生活ではそうでもないことを青木は知っている。捜査以外のことでは、勘違いも思い込みも激しいのが薪の特徴である。
 先日薪の家に行ったときには、薪のいろいろな顔が見られて楽しかったが、大変なこともあった。あの薪の裸体が頭から離れないせいで、あんな邪な夢を見た挙句、こんなつまらないミスをしてしまったのかもしれない。

「どんなに努力を重ねても、人間である限りは集中力が切れる空隙が必ずくる。ヒューマンエラーはそういう時に起こる。それを防ぐには普段からの心のケアが大切なんだ。悩みがあったり、嫌なことがあったりしたら集中力を持続させるのは難しい。いつも自分を平静な状態に置いておかないと、あの手のミスはなくならない」
 青木にもそれは解っている。
 分かっていても、他人に話せることではない。
「言葉に出すことで悩みは軽くなる。おまえにも誰かしらいるだろう。友達とか先輩とか、信じられる相手が。そういう相手に話を聞いてもらえ」
 話せる相手といわれても、現段階ではひとりしか思いつかない。しかも、女性だ。こんな話題を振っていいものかどうか、大いに疑問である。

「たちの悪いことに、あの手のミスは連鎖するんだ。おまえみたいにミスしたことを引き摺っていると、必ずまた同じようなミスを起こす。だから気持ちの切り替えが必要なんだ。
 おまえには何か、ジンクスのようなものはないのか?これをすると必ずうまくいく、みたいな。ネクタイとか、ジャケットとか、時計とか」
「特にはないです」
「じゃあ作れ。儀式みたいなもんだから、何でもいいんだ」
「室長はどうしたんですか? その、昔のミスのとき」
 青木の問いに、薪は目を丸くした。青木が大好きな子供っぽい表情になって、かすかに頬を赤らめる。
「僕は……いいだろ、僕のことは」
「室長と同じものだったら、効き目があると思うんですけど」
 控えめに、だがしぶとく言い募る青木に、薪はしばらく考え込んでいたが、やがて胡坐を解いて立ち膝の姿勢になった。そのまま膝で青木の傍に寄って来て、片方の手を青木の肩に置き、もう片方の手で青木の頭をやさしく撫でた。

……なるほど。これは効きそうだ。

「女の子にやってもらうと良く効くんだがな」
 オレには室長のほうが効くと思います。
 室長は、誰にやってもらってたんですか――?
 その台詞はふたつとも、言葉にできなかった。一つ目は言ってはいけないことだったし、二つ目は答えを聞きたくないことだった。

 1時の鐘が鳴って、薪は仕上げとばかりに青木の頭をくしゃくしゃと掻き回し、脱ぎ捨ててあったジャケットに袖を通して立ち上がった。
「じゃあ、誰かに相談しろよ。これは室長命令だからな」
「はい」
 小さな背中の後に着いて、青木は歩き出す。室長に乱された髪はこのままにしておきたいところだが、そうもいかない。手櫛でさっと整えて、そこに薪の手のぬくもりを探す。さっきの室長の小さな手の感触を思い出せば、もう何でもできるような気がする。
 落ち込んだ気持ちが嘘のように、仕事に対する意欲が湧いてくる。それが室長のためにもなると思うと、なおさら頑張ろうという気持ちになる。
 このひとのためなら何でもできる。

 華奢な背中を見つめながら、青木は心の中で大きく膨らんでいく薪への思いを感じていた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ジンクス(7)

ジンクス(7)






 三田村の指定した料亭の前で、薪がタクシーから降りたのは約束の30分前だった。
 しかし、既に客人は席に着いているという。これはまた嫌味のネタを提供してしまったなと思いながら、案内の仲居について板張りの廊下を歩く。
 通されたのは一番奥の部屋だった。密談に使う料亭らしく廊下側の仕切りは障子ではなく、部屋の内部が見えない襖だ。

「お連れ様がお見えになりました」
 仲居が声を掛けてから襖を開けてくれる。薪は廊下に正座して頭を下げた。中には三田村と、その友人であるという男が座卓を挟んで酒を飲んでいる。
「申し訳ありません。遅くなりました」
「いやいや。こっちが早く着いたんだ。君に会えると聞いて、楽しみでね」
 厚生省の役人だという男は、三田村の同期という話だがもっと年上に見えた。髪は既に白く、銀縁の眼鏡をかけている。どちらかというと痩せ型で神経質そうで、でっぷりした三田村とは対照的だ。
「はじめまして。法医第九研究室室長の薪と申します。この度は多大なご迷惑をお掛けしまして、誠に申し訳ありません」
 部屋の中に入って襖をきちんと閉め、薪はもう一度頭を下げた。
「堅苦しい挨拶はいいよ。今日は公式の席ではないのだからな。腹が空いとるだろう。ここの料理はなかなかだぞ」
「ありがとうございます」

 高級料亭という割にどこかしら下卑た感じのする店舗に微かな違和感を感じつつ、薪は末席に着いた。
 この部屋は日本間なのに、間接照明を使っている。その暖色系の明かりのせいか、床の間の掛け軸も違い棚に飾られた皿も、なんだか品が悪い。料理も薪の好きな山水亭の本格的な日本懐石とは違って、洋食の要素を取り入れた和風懐石という感じだ。箸をつけたものの、この面子では食べる気がしない。
 これから延々と2人がかりで嫌味を言われるのかと思うと気が重いが、まあ、頭の中で先日読んだミステリー小説のストーリーでもなぞっていればそのうち終わるだろう。平日だし、午前0時を越えることもあるまい。

「三田村部長。データの件ですが」
「まあ、焦るな。ちゃんと持ってきてもらってるさ。な、工藤」
 三田村の言葉に頷いて、相手の男は自分の胸の辺りを軽く叩いた。
「ここにちゃんと持ってきているよ。かさばるからメモリーにしたんだ」
「ありがとうございます」
「三田村、おまえのもちゃんとあるからな」
 データさえ手に入れば、こいつらに用はない。このままメディアを奪って逃げたいくらいだが、さすがにそれはまずいだろう。
「酌をしてくれるかな?」
「はい」
 コンパニオンくらい雇えばいいのだが、これは非公式の会合だ。部外者の同席はなるべく避けたほうがいい。
 若輩者の自分が酌をするのは仕方のないことだと割り切って、薪は徳利を手に取った。膝を進めて工藤の右隣に正座し、素直に酌を始める。

「どうだ、工藤。薪くんは美人だろう」
「ああ、写真より実物のほうがずっといいな」
 おかしな会話だ。
 しかし、薪を糾弾する気配はない。この工藤という男は、三田村の友人にしては話のわかる男なのかもしれない。三田村も友人の前では、薪にあからさまな攻撃を仕掛けてくることはないようだ。これは上手くすると、1時間くらいで解放してもらえるかもしれない。
 岡部との約束をキャンセルするんじゃなかったな、と後悔しながら、薪は優雅な手つきで酌を続けた。
 と、突然、工藤の手が薪の手を押さえ、手の甲をさすった。
「女のような手だな」
 そのまま薪の手を握って、自分の口元へ持っていこうとする。思わず振り払って、薪は身を引いた。
 眼鏡の奥の目が、薪に愁派を送ってくる。ぞっとするようなねちっこい視線――――。
 まさか、こいつ……。
 
「あの」
 三田村に目をやると、にやにやしながら酒を飲んでいる。
「なんでもっと早く紹介してくれなかったんだ?こんな美人」
「おまえは10代専門だって言ってただろう。薪くんは30過ぎだぞ。いいのか?」
「とてもそうは見えんな。この肌なら18くらいで通るだろう」
 手首をつかまれ引き寄せられて、頬を触られる。背中に鳥肌が立った。
「やめてくださ……!」

 すたん、と襖の開く音がして、奥の部屋の様子が薪の目に飛び込んできた。
 襖を開いたのは三田村だ。その大きな腹の向こうに、日本間に敷かれた大きめの布団。枕が2つ並んで置いてある。
 なんだ、この料亭は――――?
 あまりのことに開いた口が塞がらない。声も出ない。
 冗談じゃない。いくらなんでもこれはないだろう。

「君も初めてじゃないだろう?」
 どういう意味だ! 三田村のバカはいったいどんな紹介の仕方をしたんだ!?

 まったくもって馬鹿馬鹿しい。あのデータのためにここまですることはない。大きく息を吸って呼吸を整えると、薪はできうる限りの侮蔑を込めた目で工藤を睨んだ。
「君もいい大人だろう。相手をしてやりたまえよ」
「そんな話は聞いてません。帰らせていただきます」
 三田村の指示をきっぱりと断って、気色の悪い男の手を乱暴に振り払う。やっぱりバカの友達だ。ろくなもんじゃない。
「データはいらんのか?」
「けっこうです」
 田城から正式に厚生省に申し入れて、きちんとした手順を踏めばデータの入手は可能だろう。ただ、改竄されないとは限らないし、データが来るのは早くて半年後。捜査には間に合わない。だからといってこの要求を呑むのは……。
 いや、いざとなれば宇野に命じて、厚生省のシステムにハッキングかけてやる。どっちにしろ違法捜査には変わりないわけだし。

「もうすぐ昇任人事の時期だろう。君のところの新人、警部の内示が出ていたが、彼はどこの部署に行きたいだろうね?」
 席を立とうとした薪に、三田村の声が飛ぶ。
 汚い男だ。こんな汚いやり口に屈してたまるか。
 しかし、迷うところではある。
 せっかく第九に慣れてきた青木を失いたくはない。あいつはこのまま育てば、いい捜査官になれる。今が一番、大切な時期だ。下手な部署に飛ばされてしまったら、あの真っ直ぐな正義感が潰されてしまうかもしれない。
 警察というところは、綺麗ごとでは動かない。政治がらみの汚いことも、上層部が絡んだ隠蔽工作もたくさんある。青木もキャリアで入庁した以上、いずれはそういうことも知っていくことになるのだろうが、今はまだ早い。

「公安の4課なんか、どうかね」
 隠蔽工作の専門部署だ。新人が配置されるところではないが、三田村ならやりかねない。
「お互い子供じゃないんだ。わしは席を外すから、君も楽しみたまえよ」
 工藤の手が肩を抱く。ネクタイを緩められ、ジャケットを脱がされる。顔が近づいてきて、首筋に息がかかる。
 気持ち悪い。吐きそうだ。
 だが、青木のことを思うと、ここは……。

 せいぜい1時間くらいの我慢だ。たしかに自分は初めてでもないし、子供でもない。
 込み上げてくるおぞましさと懸命に戦いながら、薪は目を閉じた。



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ジャンル : 小説・文学

ジンクス(8)

ジンクス(8)







 生ビールのジョッキがいくつも合わさって、鈍い音を立てた。真っ白な泡が黄金色の冷たい液体の上で、クリームのように揺れる。
 ここは第九の職員の行きつけの店で、美味い地ビールが置いてある。

「試験合格、おめでとう」
「ありがとうございます」

 霞ヶ関にあるこの居酒屋は、裏通りという立地の関係もあって都心の店の割に値段は手頃だ。酒の種類も豊富だし、料理もボリュームがあってそこそこ美味い。
 ジョッキは冷凍庫でキンキンに冷やされていて、周りに付いた霜がビールの味を引き立てる。ビール好きの青木には嬉しい心遣いだ。
「よかったな、青木」
「皆さんのおかげです。いろいろとアドバイスしてくださってありがとうございました」
 にこにこと笑って素直に礼を言う。いつもの元気な青木を見て、先輩たちは密かに安堵している。
 昼休みの間に、室長にきちんとした謝罪ができてすっきりしたらしく、青木は午後からいつもの集中力を取り戻した。この調子ならミスの連鎖に嵌ることもないだろう。

「薪さんから金一封、出てるぞ」
「へえ。こんな制度があったんですか」
「そんなわけないだろ。俺たちは国税で動いてるんだぞ。これは薪さんのポケットマネーだ」
 ここの勘定も室長持ちだという。警視正の給料はさぞ高いのだろうが、それにしても薪は気前がいい。顔を出してくれるともっと嬉しいのだが。
「たまには来てくれればいいのに、室長も」
「あのひとは騒がしいのが苦手だから。てか、気取り屋?」
「居酒屋なんか来ないだろ。フランス料理にワインてイメージだし」
「小洒落たカフェバーとかだったら来るかもな。うわあ、飲んだ気しねえな、そういう処」
 酒の席で、その場にいない者は言われ放題だ。軍資金を出しているはずの室長とて例外ではない。

「気を使ってるんだろ。上司の前じゃ、俺たちが楽しめないだろうって」
 そうかもしれない。
 仕事中は唯我独尊を地で行く薪だが、その陰では気配りの名人であることを第九の職員はみな知っている。
「まあ、飲んだら上司の悪口ってのはお決まりだからな」
 第九には、上司の悪口を言うものはいない。言ったとしても、そこには親しみがある。どんな辛辣な言葉も本気ではない。基本的に薪のことが好きでなければ、第九の仕事は勤まらない。
「薪さん、気にしすぎですよね。そんなことないのに」
「あのひとらしいだろ。それに、今日は接待だとさ。三田村部長のご友人とやらに会うらしい」
 薪との約束がキャンセルになって、岡部は少し機嫌が悪いようだ。なにも室長が行かなくても、などとぶつぶつ言っている。

「じゃあ、今頃はきっと料亭で豪華な会席料理ですね。いいなあ」
「三田村と一緒だぞ。食った気しないだろ」
 岡部の言葉にみんなが頷く。たしかに、まずいメシになりそうだ。
「こっちの料理のほうが美味そうですね。赤坂の仙岳とかなら別かもしれませんけど」
 仙岳は日本料理の名店だ。毎年、日本料理店№1の称号を獲得している。が、料金のほうも№1で、一般人にはなかなか手が出ない。
「違うな。寂洸、とか言ってたな」
「寂洸? まさか、麻布のじゃないですよね」
「よく知ってるな」
 今井が箸にエビフライを挟んだまま、固まっている。心なしか顔が青いようだ。
「麻布だとなんかまずいのか?」
「麻布の寂洸っていったら、連れ込み宿ですよ。高級料亭の看板はあげてますけど、中にそういう部屋があって、目的はどっちかっていうとそっちのほうです」
 今井の情報に全員が押し黙る。薪の容姿ならその可能性もなくはないが、三田村にその気はなかったはずだ。でなければ、あれほど薪と仲が悪いわけはない。

「まさか。三田村の女好きは有名だぞ」
「その友人の名前って、なんていいましたっけ」
 岡部もそこまでは聞いていない。黙って首を振ると、宇野がノートパソコンを取り出して、キーボードを叩き始めた。
 いくつかのサーバーを経由して、警視庁の裏ファイルに侵入する。滅多なことではやらないが、宇野はとびきりのハッカーだ。
「いましたよ、やっぱり。工藤幸一、52歳。2年前に猥褻行為で訴えられてます。相手は17歳の男子高校生です」
「なんでそんなやつが厚生省の役人なんかやってられるんだ?」
「三田村が揉み消したんですよ。人事部長の圧力かけて。高校生の親は所轄の巡査長で、たいした功績もなしに2階級も特進になってます。親も親ですね」
 岡部は腕の時計を見た。時刻は8時を回っている。会食は8時からだと言っていたから、どちらにせよ今からでは……。

「青木?どこ行くんだ!?」
 曽我の声に顔を上げると、青木が外へ駆け出していくところだった。
「待て、青木! 室長に迷惑がかかるんだぞ!」
 岡部の制止も耳に入らないらしく、後ろを振り返りもしない。テーブルの上に飲みかけの生ビールと室長からの金一封、鞄まで置き去りにして、青木は店を出て行ってしまった。

「行っちゃいましたね」
「あ~あ、青木は薪さんの性格、知らないから」
「あんなデータくらいで言うこと聞くひとじゃないですよね」
「でも主役がいないんじゃ、今日はお開きですね」
 青木の合格祝いはまたの機会に譲ることにして、割り勘で居酒屋の料金を払うと、第九の面々は思い思いに散って行った。あまり室長の身を案じているようでもないが、心中は複雑だ。薪のことだから上手く切り抜けたとは思うが、万が一。
 岡部は薪の携帯に電話を入れてみた。接待なのだから当たり前の礼儀だが、電源は切られており、薪は電話には出なかった。
 なんだか、いやな感じだ。
 しかし自分にはどうにもできない。青木が無茶なことをして、室長の立場をこれ以上悪くしないことを祈るだけである。
 後先考えずに行動できる青木が、少しだけ羨ましい。

「明日は室長のカレーが食えるかな」
 誰にともなく呟いて、岡部は帰途についた。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ジンクス(9)

ジンクス(9)






 タクシーの運転手を脅すようにして、青木は問題の料亭に乗りつけた。
 玄関口に出てきた仲居に三田村たちがいるはずの部屋を聞くが、当然案内はしてもらえない。こういうところで秘密が守られなかったら、店は潰れてしまうだろう。それは百も承知だが、青木の方もおいそれと引き下がるわけには行かない。
 これは警察手帳を出すしかないか、と覚悟を決めたとき、背後から聞きなれない声がした。
「こんばんは、雅子さん。重光さんに頼まれたんですけど、これ、部屋に届けてもらっていいですか?」

 振り向くと30歳くらいのすらりとした好男子が、にっこり微笑んで立っていた。青木より背は低いが、かなりの男前である。
 彼は、仲居と押し問答をしている青木の後ろから、ぬっと紙袋を出して仲居に手渡した。仲居は青木に対するときと打って変わって、愛想よくその袋を受け取った。
 袋を持って、仲居は建物の中に入ってしまった。それを押しとどめようとした青木の腕をつかみ、見知らぬ男は低い声で囁いた。
 
「君は第九の人間か?」
「……警察の方ですか?」
「俺は一課の竹内だ。来い。こっちだ」
 竹内と名乗った男は、懐からモバイルを取り出して蓋を開けた。電源が入ると同時に、点滅する赤いマークが画面に現れる。発信機だ。
「それ、もしかしてさっきの袋の中に?」
「重光さんてのは三田村部長のことなんだ。隠語ってやつだ。俺はここには何回か三田村のお供で来てるから。あの仲居とも顔見知りだ」
 一課の人間だという竹内が何故ここにいるのか不思議だったが、青木は薪のことが心配でそのことを尋ねる余裕もなかった。

「どうやらこの部屋だな」
 樹木の茂った裏庭を抜けて、発信機の示す場所に出る。庭と廊下の間は開け放してあり、直接部屋に入ることが可能だった。
「さて、どうするか……って、おい!」
 腕組みをした竹内を尻目に、青木は靴のまま廊下に上がり部屋に突進した。襖を開け放ち、中に駆け込んでいく。しかし、部屋には誰もいない。仲居が持ってきたらしい紙袋は廊下に置いてある。ここで間違いはないはずだ。
 奥にもうひとつ部屋がある。きっとここに薪が――――。

 青木が襖を開けると、そこには信じられない光景があった。
「薪さん!?」
 二つの枕が並べられた布団の上で、ワイシャツの前をはだけた姿で男の上に馬乗りになり、薪が相手の股間をまさぐっている。青木の姿を見て驚くが、男から離れる様子はない。

「なにやってんですか!?」
 淫猥な室長の姿に、目の前が真っ暗になる。こんな室長の姿を見たくはなかった。無理強いをされているならともかく、自分から積極的に上になって。
「ひどいですよ! 薪さんて、そんな人だったんですか!」
「青木。おまえには悪いことをしたかも知れないが、ついその」
「ついってなんですか? 相手は誰でもよかったんですか? 岡部さんのほうがまだましでしたよ! なんでオレじゃダメなんですか!?」
 余計なことまで口走ってしまったが、青木は完全にパニック状態で、それに気付く余裕はない。

「……なに言ってんだ? おまえ」
「なにって、あれ?」

 薪の冷静な口調に青木はいくらか落ち着き、改めて二人を見た。
 よく見ると、ワイシャツのボタンは外れているが、薪はきちんとズボンを履いている。ベルトも外した様子はない。相手の男は仰向けになって、目を閉じたままぴくりとも動かない。どうやら気を失っているようだが、この場合容疑者は一人しかいない。

「あった、あった。こんなとこに隠しやがって。汚いな。使えるかな、これ」
 男の下着の中から目的のものを発見し、親指と人差し指で摘み上げる。USBメモリーだ。どうやらこれが欲しくて男の体を探っていたらしい。
「あれ? もうひとつある。バックアップかな」
 2つのメモリーフラッシュを指の先だけで持ち上げて、ハンカチに包む。気持ち悪そうに顔をしかめて、枕元にあったおしぼりで手を拭いた。
「これはもうゴミだな」
 苦々しく言って、おしぼりをゴミ箱に投げ入れる。嫌悪の表情を隠そうともしない。

「よくここがわかったな」
「岡部さんに聞いて……今井さんが、この店のことを知っていて」
 ワイシャツのボタンを留めて、ネクタイを締めなおす。青木のほうを見て何か言いかけるが、途中で思いとどまって薪は口を閉ざした。
「オレ、いてもたってもいられなくなって……すみませんでした」
「なんでこの部屋だとわかった? おまえ、まさか手帳使ったんじゃ」
「いえ、捜査一課の」
「工藤!!」
 青木の言葉を遮って、三田村の野太い声が響いた。
 三田村に届け物を頼まれた仲居が、別の部屋にいた彼を呼んできたらしい。気絶した友人と、身支度を整えた薪の姿を交互に見る。ここでなにがあったかは一目瞭然だった。

「青木。おまえはもう帰れ」
 薪が小さな声で青木に命令する。しかしこの状況では、薪に不利な結果になるのは目に見えていた。

「よくもわしの友人を。覚悟するんだな!」
 毛むくじゃらの太い手が薪の襟元をつかみ、華奢な身体を引き摺り上げた。もう一方の手が振り上げられる。  一、二発、殴られるくらいなんでもない。薪は観念して目を閉じ、奥歯を噛み締めた。
 しかし、頬に与えられるはずの痛みはなかなか襲ってこない。不審に思って目を開けると、三田村の太い手首は青木の大きな手にがっちりと押さえられていた。
「なにをする!わしは警視長だぞ!」
 ぎりぎりと音がするほど強く手首を握り、青木は三田村の腕をねじ上げる。薪には見せたことのない凶悪な表情で、青木は右手を振り上げた。
「青木、よせ!」
 薪の制止に青木の手が止まる。が、その憤怒は収まらない。
 長身にものを言わせ、三田村が薪にしたのと同じように、両手で三田村の首元を摑んでその太った身体を持ち上げる。薪の倍はあろうかという巨体は、青木の強い腕力によって宙に浮いていた。

「青木!やめろ!」
「オレの室長に手を出すな!」

 二人の声が重なる。
 青木の台詞に、薪は軽いデジャビュを覚える。どこかで聞いたような……。
 それに思い至って、薪は目を瞠る。そういえば、あの時もこうして彼は相手のことを持ち上げていたっけ。

「オレの、じゃなくて『うちの』だろ」
「……すみません。間違えました」
 首が絞まって、三田村は意識を失いかけている。この状況をどうやって収めたらよいものか、見当もつかない。
「もういい。降ろしてやれ」
「はい」
 薪にだけは素直に従うが、納得していないのはその顔つきでわかった。
 伸びてしまった三田村とその友人を並べて布団に寝かせて、この後のことを考える。が、もうここまでしてしまったらフォローのしようがない。どうやら身の振り方を考えなければならないようだ。
「こいつらのことは放っておけ。僕はこのデータを持って第九に寄って帰るから、おまえも早く家に帰れ」
「薪さん……すみません、オレ……」
 自分だけの左遷で済むといいのだが、と心の中で思慮を重ねるが、その可能性は低い。おそらく青木にも、何らかの処罰があるに違いない。
 そうなったら自分の免職をかけてでも、こいつを守ってやらなければならない。こいつがこんなに怒ったのを見たのは初めてだ。大人しいこいつが我を忘れてこんなことをしでかしたのは、自分のためなのだ。

「心配するな。おまえのことは僕が守ってやる。大丈夫だ」
 今は考えても仕方がない。処分が決まってから打開策を打ち出すしかない。

 薪が廊下に出ると、そこにはまたもや会いたくない人物がいた。捜査一課の竹内だ。
「どうしてあなたがここに」
 険悪な眼で宿敵を睨みつける。が、何故か竹内は、今日だけは薪の悪意に苦笑で応えた。
「第九にも、無茶なやつがいるんですね」
「あいつはまだ新人で。警察がどういうところか解っていないんです」
「それにしても、部長にあそこまでするとは。勉強ばかりしてきたモヤシとは思えませんね。見所があるじゃないですか。第九をクビになったら、捜一で面倒見ますよ」
 それには答えず、薪は竹内に背を向けた。

 もうここにはいたくない。早く第九へ帰ろう。

 さんざんな夜だった。明日は田城に報告をしなければならない。……なんと言えばいいのだろう。
 タクシーに乗り込みながら、薪は田城への言い訳をあれこれ考えていた。



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ジンクス(10)

ジンクス(10)





 薪が帰った後には、第九の新人と捜一のエースが残された。

「さて。どうする?」
 憤懣やるかたない様子の青木を見て、竹内は言った。
 こいつはこの程度でこの2人を許す気はさらさら無いらしい。
 先刻、薪に言ったことはまんざら嘘でもない。竹内は青木を気に入った。大人しそうに見えてとんでもないことをする。竹内の周りにはいないタイプだ。

「竹内さん。これ、見てください」
 青木は部屋の隅に積まれた座布団に目をつけた。布団の敷いてある方向に向かって、小さなレンズが覗いている。座布団を取ると、果たしてビデオカメラが出てきた。
 ビデオモードに切り替えると、薪の可憐な姿が映っている。
 布団の上に座って、後ろから工藤に抱きつかれ、ワイシャツのボタンを外されるまでは大人しくしていたようだが、服の中に工藤の手が入ってきた途端、見事な背負落しが決まっていた。
 しまった、という顔で工藤を見るが、早々に諦めてメモリーを探し始める。切り替えの早さはさすがである。そこに青木が飛び込んで来た、という一部始終が映し出されていた。
「これで室長を撮る気だったんですよ。汚い真似を!」
 もしも薪が素直に要求を呑んでしまっていたら、ここにはその様子が映ったことになる。そんなものが公表されたら、薪はおしまいだ。

「やっぱりな。やりかねないと思ったよ」
「室長を潰す気だったんですね」
「それか、一生脅す気だったんだろ」
 眼鏡の奥の切れ長の目が、危険なものを孕む。こいつは怒ったほうが男前だ、と竹内は思う。

「どっちにせよ、許せないです。薪さんはああ言ったけど、オレは絶対にこいつらを許せません」
 ビデオの映像を消去して、青木は静かだが怒りのこもった声で言った。
「じゃあ、どうする?」
「もちろんリベンジです。薪さんの恥ずかしい姿を撮る気だったんですから、目には目を、です」
「面白い男だな、おまえ。手伝ってやるよ」
「ありがとうございます」

 竹内も三田村のことは、本当は大嫌いだった。薪のことはもっと嫌いだが、この男は気に入った。坊主が憎くても袈裟に罪はない。第九にも面白いやつがいるのだ。
 捜一と第九。本来なら相容れない二人の男は、共通の目的のために今だけは相棒になった。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ジンクス(11)

ジンクス(11)






 やっとの思いで手に入れたデータを携えて第九へ戻ると、何故か全員が顔を揃えていて、室長を驚かせた。時刻は9時を回っている。こんな時間まで仕事をするほど、今は忙しくないはずだ。

「どうしたんだ?おまえら」
「青木の祝賀会をやってたんですけど、主役がいなくなっちゃって。一旦はお開きにしたんですけど、なんとなくここに集まっちゃったんです」
 みな、薪の顔を見て安心したように笑う。そのことには何も触れてこないが、心配してくれていたらしい。
 薪の胸に暖かいものが広がる。
 しかしそこは室長らしく、緩もうとする頬を意思の力で引き締めて、平静な顔を崩さない。ここで感情に流されてしまったら、却ってこいつらに心配をかける。

「今井。これ、明日でいいからスパコンに移しといてくれ。どっちに入ってるか解らないから、内容を確認してからリーディングかけてくれ」
 二つのメモリーを今井に手渡す。はい、と受け取って、今井は鍵のかかる保管庫にメモリーを入れた。
「今度はちゃんとバックアップしてくれよ」
 皮肉っぽい口調。いつも通りの室長だ。
 今井はそれに苦笑で応える。皆も笑って、その夜は解散になった。

「岡部。ちょっといいか」
「はい」
 他の部下たちを帰してから、室長室に岡部を呼ぶ。今後の対策を練るためだ。
 岡部には事情を説明しなければならないが、どうにも言いづらい。が、言わなくては対策も立てられない。
 カウチに並んで腰掛けて、薪は重い口を開いた。
「1時間くらい、目をつむって羊の数でも数えてりゃ済んだんだが」
 後ろから抱きつかれて胸をまさぐられた瞬間。そのときの感触を思い出したのか、薪はきれいな顔を歪めた。
「投げ飛ばしたんですね」
 図星だ。さすがは岡部だ。

「こう、手が勝手に……ああ~、田城さんになんて言い訳しよう。左遷かなあ、やっぱり」
「しかし、今回のことは向こうにも非があるでしょう」
「僕だけの問題じゃないんだ。青木のやつがやってくれてさ」
 薪は、青木が三田村にしたことをかいつまんで話した。その内容の重大さに、さすがの岡部も青くなる。とっさには言葉が出ないようだ。
「相変わらず、キレると怖いやつですね」
「ほんと、ダイナマイトなやつだよな。―――― でも」
 そこで室長は、なんとも思わせぶりな微笑を見せる。何かを思い出しているようだ。

「まあ、室長のことを思えばこそだったんでしょうけどね。しかし、そこまでやってしまったら、腹くくるしかないでしょう」
「大丈夫ですよ」
 室長室のドアを開けて、噂の当人が入ってくる。なにやら上機嫌で、手にはプリントされた数枚の写真を持っている。
「青木。おまえ、これ店に忘れて行っただろ」
 岡部が青木の鞄を差し出す。やさしい先輩は後輩の忘れ物を預かっていてくれたようだ。
「すいません、岡部さん。室長、金一封ありがとうございました。これ、お礼です」
 手に持っていた写真を薪に手渡す。横から岡部がそれを覗き込んで、目を丸くした。
 「こりゃまた思い切ったなあ。おまえ」
「オレだってキレてましたから」

 写真には、三田村とその友人のあられもない姿が映っていた。
 ふたりともネクタイだけの素っ裸で、布団の上に横になっている。意識がないのをいいことに、色々とおかしなポーズを取らされて、中には2人が抱き合っている気色の悪いものもあって、見るものを辟易させた。

「お互いのために今夜のことは忘れましょうって、二人の携帯にこの画像と一緒に入れておきました」
 自信たっぷりに言い放つ青木に、慎重派の岡部は自分の不安を投げかける。
「おまえ、まずいだろ、それ。薪さんの仕業だと思われるんじゃ」
「あっ! そっか、そうですね……どうしましょう」
 ただでさえ三田村は、怒り心頭に発しているに違いない。そこにこんな写真を見せられたらどんな暴挙にでるか、想像するのも恐ろしい。
 青木は自分の思慮の足りなさを知って焦燥に駆られた。岡部も心配そうな表情になる。
 が、薪は肩を震わせて笑っていた。
 
「こっ、この格好っ、くくくくっ」
 とうとうこらえきれずに、腹を抱えて笑い出してしまった。カウチの上で足をばたつかせて、子供のように笑い転げている。こんな室長は初めて見た。
「あははははっ! 傑作だ、よくやった、青木!」
 滅多に見られない室長の笑顔に、ふたりの部下は顔を見合わせる。こんな薪の姿が見られるのなら、あの重量級の部長の服を脱がせるという苦労も、その汚い体に吐き気をこらえた痛苦も、無駄ではなかったと思える。
 
「いっそ、MRIの起動画面に入れておきますか」
 岡部がそんな冗談を言い出す。MRIのメインスクリーン一杯にこの画像が映し出される様子を想像してか、薪の笑いがますます高まった。
「システムが暴走しちゃいますよ」
「ちがいない!」
 薪は笑いすぎて、涙を拭いている。頬を紅潮させて、細い指を目に当てる。カウチの背もたれに突っ伏して笑いをおさめようとするが、すぐにまたぶり返してしまう。
 
「薪くん。なんの騒ぎかね?」
 いつの間にか、所長の田城がそこに立っていた。薪の笑顔が凍りつく。
 田城の目が、床の上にちらばった数枚の写真に留められた。いましがた、笑いすぎた薪が取り落としたものだ。
「やば」
「た、田城さん。これはその」
 薪が苦しい言い訳をするのを横目に、岡部と青木はそっと室長室を離れる。ここからは室長の仕事だ。
「あっ、おまえら、ずるっ……!」
「薪くん! これは何かね!?」
「いや、あの」
「ちゃんと説明したまえ!」
「……おぼえてろよ、青木~」

 いつもは穏やかな田城が鬼のようになって、言葉のつぶてが薪の上に降り注ぐ。薪はそれを受け流すことなく、真面目に受け止めた。
 田城は三田村とは違う。薪のことを考えて叱ってくれているのだ。
 そのことを薪は分かっているから、小言も叱責も素直に聞ける。今日だって薪を心配して、こんな時間まで研究所に残ってくれていたのだ。
 叱ってくれる人のいる嬉しさを、自分を心配してくれる人のいるありがたみを、薪はうつむきながらも噛み締めていた。


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ジンクス(12)

ジンクス(12)






「田城さんにあんなに怒られたの、初めてだ……」
 自宅のダイニングテーブルに肘をついて頭を抱え、薪は呟いた。

 キッチンには美味しそうなカレーの匂いが充満している。一人暮らしの食卓には不釣合いな、大きな寸胴鍋。中身は満タンで、10人分くらいはゆうにありそうだ。
「田城さんて、普段は穏やかなひとですものね」
「怒るときは怒るんだな。所長も」
「おまえら、僕を置いて逃げたくせに」
 薪の恨みがましいセリフはスルーして、青木は鍋の中身を木べらで混ぜた。
 秋の夜長とはこのことで、あれだけのことが起きたにもかかわらず、時刻はまだ10時前。少し遅めの夕食にありつこうと室長のマンションへやって来た3人である。

「ああ、いい匂い。重労働だったからもうお腹が空いて」
「そういえばおまえ、あれひとりでやったのか? 重かっただろ」
「一課の竹内さんて方が手伝ってくれたんですよ。あ、これは内緒ですけど」
「竹内が!?」
 青木の言葉に薪が大声を上げる。身体を青木のほうへ捻って、椅子から腰を浮かせている。よほど驚いたようだ。

「嘘だろ」
「本当ですよ。発信機を使ってあの部屋を突き止めてくれたのも竹内さんなんですよ」
 そのときのことを思い出したのか、嫌そうに顔を歪めて、薪は吐き捨てるように言った。
「おまえ、それ確実に後でなんか要求されるぞ」
「まさか」
「あいつは三田村の子分なんだぞ。なんの見返りもなしにそんなことするはずがない」
「だって、すごく楽しそうにやってましたよ」
 薪は椅子に座りなおして、テーブルの上に頬杖をつく。頬杖は薪の悪いくせだ。可愛らしい仕草だが、あまり行儀の良いものでない。
 
「いいや、絶対に裏がある。あいつはそういうやつだ。蛇みたいな男なんだぞ」
「そんな人には見えませんでしたけど」
「おまえは他人を信じすぎるんだ。もっと疑い深くなかったら捜査官は務まらないぞ」
「はあ」
 室長らしく居丈高に説教するが、自宅で私服に着替えた上に頬杖をついた姿勢では、いつもの威厳はない。チェック柄のシャツにジーンズ姿の室長は、青木の目にはなんとも可愛らしく映る。

 やがて夕食の準備が整った。
 テーブルの上には3人分のカレー皿と大盛りの野菜サラダ。青木の好きなサウザンドレッシングと岡部の好みなのかソースが出してある。
「美味しそうですね」
「薪さんのカレーは美味いぞ。俺のお袋が作るより美味い」
「いただきます」
 長い時間をかけて煮込んだらしいチキンカレーは、口に入れると鶏肉がほろほろと崩れて、スパイシーでまろやかな風味が最高だ。
「ほんとだ。すごく美味しいです。薪さんて、なんでこんなに料理上手いんですか?」
「カレーなんて誰が作っても同じだろ。市販のルーを使ってるんだから」
「そんなことないですよ。オレには絶対にムリです」

 色とりどりの野菜を自分の皿に取りながら、薪は首を傾げて言葉を継いだ。
「まあ、一人暮らしが長いからかな」
「オレだって大学に入ったときからだから、もう4、5年になりますけど」
「僕は20年だ」
 それはすごい。
「高一の時からだから。始めはレトルトばっかだったけど、あれって不味いし、外食はすぐに飽きるし」
「そうなんですよね。白いごはんと漬物だけでもいいから、家で食べたいときってありますよね」
「学生の頃はけっこう、手の込んだものも作ってたんだけど。フォンドボーから煮込んだりしてさ。ホワイトソースとかデミグラスソースとかも、市販のルーなんか使わないで……今はダメだな。時間がないし。一人分だと特に面倒で、味噌汁まで顆粒ダシ使うようになっちまった。日本人失格だな」
 その定義で言ったら、今の世の中、日本人は料亭の板前だけになってしまうだろう。

「岡部はいいよな。自宅だから。お袋さんのメシだもんな」
「いや~、うちのお袋、料理下手なんですよ。俺が作ったほうがましなくらいです」
「そうなのか? まあ、女の人の中にも料理が苦手ってひとはいるから。そういえば、雪子さんもすごいの作るんだよな」
「三好先生、料理上手なんですか?」
「一回、食わせてもらえ。まるで魔法みたいだぞ」
「そんなに美味しいんですか?」
 薪は大きく頷くと亜麻色の目を悪戯っ子のようにくるめかせて、茶目っ気たっぷりに雪子の料理についての解釈を述べた。
「雪子さんの場合、食えるものだけを鍋に入れていくのに、それが最終的には食えないものになるんだ。鍋の中で何が起きているのか、不思議で仕方ない」
 いかにも雪子らしい。

 親しい友人を肴に、三人で笑い合う。こういうのも気楽で楽しい。男三人というと華がないように感じるが、薪の微笑だけで充分おつりがくる。

「カレーとかって、たくさん作ったほうが美味いだろ。だからつい作りすぎちゃうんだよな。食べきれないの解ってるのに。て、おまえらどんだけ食うんだ」
 大鍋に煮てあったカレーは10皿分。恐ろしいことに殆ど残っていない。五合炊いたはずのご飯もあらかた空で、薪の2皿目は無いようだ。
「青木。おまえそれ、4杯目だろ。少しは遠慮しろよ」
 そういう岡部も3杯目だ。
「すいません。オレ、今日の昼メシ、あんまり食べられなくって」
 と言いつつ、おかわりをよそる。鍋を逆さまにしてきれいに底をさらう。炊飯器の中身も完全に空っぽだ。
「ありえないだろ、それ」
「早いもん勝ちですよ、こういうのは。めちゃめちゃ美味しいんですもん、これ」
「まあ、俺も若い頃はそのくらい食べたけどな」
「おまえらとメシ食うと、なんだか自分がすごく損してるような気がする」
 薪は頬杖をついて、青木が食べるのをじっと見つめている。不満げな言葉とは裏腹に、何やら嬉しそうだ。

「そうだ、岡部。この後、いいか?」
「はい。いいですよ」
「じゃ、僕は風呂に入ってくるから。ちょっと待っててくれ」
 なぜか青木が突然麦茶にむせ返っていたが、薪はこれからのお楽しみに夢中で気付きもしない。自分の食器を水に浸けると、足取りも軽く風呂のほうへ歩いていく。その後姿は、明らかにウキウキしている。

「……オレ、帰ったほうがいいですか?」
 青木がぼそりと呟く。地の底に沈みこみそうな声だ。
「あんだけ食っといて、後片付けぐらいしていけ。常識がないのか、おまえは」
「いや、そういう意味じゃなくて」
 岡部と青木が食器を洗っているうちに、薪がパジャマ姿で風呂から出てくる。風呂好きの薪にしてはえらく早い。よほど焦っているようだ。

「悪いな、青木。岡部を借りるぞ」
「リビングのソファでいいですか?」
「ソファは狭いから、ベッドに行こう」
 ガシャン、という派手な音がして、青木の大きな手から皿が床に落ちる。それは薪のお気に入りの皿だったが、見事に真っ二つに割れてしまった。
「怪我しなかったか? 青木」
 青ざめた顔をして、口をパクパク動かしている。割れた皿を気にしているのだろうか。
「青木、どうせ安物だ。気にするな。それより岡部、早く。僕はもう待てない」
「そんなに辛抱たまらんのですか?」
「今日、あんなことがあっただろ。もう限界、超えそうだ」
「薪さんも好きですよね」
「僕の年でこれが嫌いなやつなんか、この世にいないだろ」
「そうですかね」
 刺激的な会話を交わしながら、ふたりは寝室へ入っていってしまった。残された青木は、ただうろたえるばかりだ。

 やがて寝室から聞こえてくる、薪の色っぽいうめき声――――。
 青木は思わず寝室のドアに走りよって、耳をそばだてた。
「う……ん、イッ……岡部、もっと」
 薪のあられもない声に、青木は目の前が真っ赤になる。背中にはじっとりと嫌な汗が噴き出して、貧血を起こしそうだ。
「ここですか?」
「そ、そう、下の方……あ、そこっ」
 そこってどこ!?
「ああっ、い、いいっ」
「気持ちいいですか?薪さん」
「うん、もっと強く……あああっ……」
 嘘だ。これは何かの間違いだ。あのふたりがそんな。

 部屋の中がぐるぐると回りだし、青木は床にへたり込んでしまった。寝室の閨声は、無情にもまだ続いている。

「あっ、ダメだ、岡部っ……そこはまだ早い」
「いいから任せてください。ほら、こんなに固くなってるじゃないですか」
「だ、ダメっ……、あっ、あんんっ!」
「よくなってきたでしょ」
「う、うん、でも……や、やっぱりダメだ、それ以上は、ああっ、あっ、あっ」

 青木にとっては地獄のような時間が過ぎて、やがて薪はすっきりとした表情で寝室から出てきた。ドアのところに座り込んでいる青木の姿に気付くが、悪びれた様子もない。
「あ~、気持ちよかった~。ほんと、岡部はテクニシャンだな。僕、もうこれがないと生きていけないかもしれない」
 両腕を耳の後ろにつけて腕を上げ、大きく伸びをする。しなやかな体躯が反り返って、薄いパジャマの下でえもいわれぬ色香を醸し出す。

「よっぽど溜まってたんですね。すごく固くなってましたよ」
「今日はいろいろあったしな。って、青木。おまえ、なに泣いてんだ」
 ひとの気も知らないで、残酷なことを言う薪がうらめしい。とうとう抑えきれずに、青木は叫んでしまった。
「ひどいですよ! オレがいるのに、こんな!」
「なんだ、おまえも岡部にやってほしかったのか?」
 可愛い顔をして、恐ろしいことを言う。青木は絶句した。
 
「岡部、できるか? いくらおまえでも一晩にふたりはきついか?」
 薪の過激な発言に、青木は悶絶しそうだった。
 この世界のことはよく解らないが、薪の心境は理解できない。今さっき、自分の相手をしていた男が、続けて他の男と同じことをしても平気なのだろうか。
「平気ですよ。もう一人くらいなら」
「いりませんよ! そんなわけないじゃないですか!!」
 青木の剣幕に薪が鼻白む。岡部の背中に回って、小さな声で青木を非難した。

「なに怒ってんだ? あいつ」
「俺、なんとなくわかりました」
 何かに思い当たったらしく、岡部が苦笑する。が、青木を怒らせている元凶の薪には見当もつかないようだ。
「一人で皿洗いやらせたのがそんなに面白くなかったのかな」
「室長が面白いです……」
 きょとんとした顔つきで不思議がる薪は、この上なく可愛らしい。が、こんな可愛い顔であんなことをしていたのも許せないし、その後の発言も不誠実この上ない。
「室長にそんなこと言われたら岡部さんだって可哀想です。だいたい、人前ですることじゃないでしょう」
「だって仕方ないだろ。もう、腕も上がらない状態だったんだから」
「腕が上がらないくらいなんですか! ―――― は?」

 青木の想像と繋がらない薪の言葉に、はっとして二人の様子を観察する。
 薪はきちんとパジャマを着ている。パジャマはいくらかしわになっているが、寝乱れた様子は無い。髪の毛も整っている。
 岡部は岡部で、ネクタイを緩めた様子も無い。情事の後というのはもっとこう、艶っぽい雰囲気になるものだが。

「ストレス溜まると肩が凝るんだ。おまえも30過ぎれば、この辛さがわかるさ」
 ……そういえば今日、昼寝から醒めた室長は、腕を横に開いて伸びをしていたっけ。
「じゃあ、あの声って」
「声?」
 薪が岡部のほうに視線を泳がせると、岡部は何も言わずに首を横に振った。

「まぎらわしいことしないでくださいよ!」
 自分の勘違いにめずらしく逆ギレして、青木はキッチンへ逃げ出した。
 つい先刻『仏の田城』の異名を持つ所長に怒られ、大人しいだけが取り得の部下にまで怒鳴られた室長は、自分の無実を岡部に訴えるしかなかった。
「僕がなにをした? 何も悪い事してないだろ? まぎらわしいって、何が」
「薪さんは知らない方がいいです……」
 薪がいくら訊いても、岡部は教えてくれない。
 もとより、言えるはずもない。マッサージのときの室長の声はあえぎ声にしか聞こえません、などと当の本人に言えるわけがない。そして、薪にはもちろん自覚はない。

 かわいそうに、青木のやつ。

 岡部は純情で一途な後輩に、心の底から同情していた。


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ジンクス(13)

ジンクス(13)







 翌日、第九は天地をひっくり返したような大騒ぎになった。
 三田村部長から室長の左遷の辞令が出た―――― わけではない。

「薪さん! 大変です、ちょっとこれ、見てください!」

 室長の指示通り朝一でメモリーからデータを取り出していた今井が、血相を変えて室長室に飛び込んでくる。ノックを忘れたことなどないこの礼儀正しい部下に自分を失わせた原因―――― それは、昨夜薪が苦労して手に入れてきたメモリーであった。
 一つは確かに見覚えのある官僚の住所のデータだった。
 厚生省の官僚の自宅ばかりを狙った連続放火事件の捜査のために、このデータが必要だった。個人情報であるからには、外部に渡すデータは最低限のものにしなければならないという厚生省の言い分で、そのための抜き出し作業に時間がかかるという理由から、このデータは正規のルートではなかなか手に入らなかった。それを三田村に頼んで、裏から手に入れてもらったのだ。

 ところが、もうひとつは違った。
 薪がてっきりバックアップだと思って持ってきた二つ目のメモリーには、厚生労働省麻薬取締部の極秘データが入っていたのである。
 与党の高名な政治家。映画のスクリーンで世界的に有名な俳優。お茶の間の人気者のバラエティの司会者。若手のアイドルグループ―――― 誰もが一度は聞いたことのある名前がずらりと並び、その横に薬の種類と数量が書いてある。さらには金額と暴力団の名前が追記され、これが麻薬の売買データだということは誰の目にも明らかだった。

「これが公表されたら大変な騒ぎになりますよ、室長」
「とりあえず、現内閣は総辞職だな」
 麻薬犯罪の捜査は、警察庁刑事局組織犯罪対策課第5課の仕事である。しかし、それとは別に厚生労働省にも麻薬取締部があり、専門の麻薬捜査官が在籍している。
 そもそも5課は組織犯罪対策課と銘打たれるように、暴力団対策課の4課と生活安全部の銃器対策課及び薬物対策課が合併して設立されたもので、麻薬犯罪だけを取り扱っているわけではない。どちらかというと暴力団自体の犯罪検挙に力を注いでいる。対象とする犯罪の範囲が広いため、麻薬犯罪の検挙に関しては、それを専門とする麻薬取締部の実績に今一歩及ばないのが現状だ。同じ麻薬捜査をするもの同士仲良くすればいいと思うようだが、実際は手柄を奪い合っているようで、とても仲が悪い。
 このデータはその麻薬取締部のものだ。つまり、警察庁が未だ未検挙の麻薬犯罪が満載されているのだ。厚生労働省は国の機関だから、政治がらみの圧力は警察庁より大きい。だからもちろん、高名な政治家の検挙はしない。
 
「しかし、何故こんなものが」
 薪は首を傾げて昨夜の記憶を辿る。そしてすぐに工藤の台詞を思い出した。
 あの時、工藤は『三田村の分も』と言っていた。それがこの売買データだったわけだ。
 今までもこうして三田村は、あの友人からこういった秘密のデータを受け取っていたのだろう。その裏の功績により出世してきた、というわけだ。そしてその見返りには、金や今回の薪のような生贄が差し出されていたと想像がつく。
 
「なんでロクな実績もない三田村が警務部長になれたのか不思議だったが、このご友人のおかげってわけか。まったく反吐が出そうな関係だな」
 汚い駆け引きや裏取引が大嫌いな岡部が、顔を歪めて吐き捨てるように言った。
 言葉にはしないが、室長の眼にも厳しい光が宿っている。怒ったときのくせで、目を大きく開いて唇を引き結び、微かに頬を紅潮させている。

「どうします? こいつの裏を当たるよう、5課に要請入れますか?」
 興奮を隠しきれない今井の言葉に、しかし何故か室長は少し考え込むような素振りを見せた。
 その小さな頭の中で、このデータが公表された際のあらゆる可能性が試算されている。亜麻色の瞳がじっと空を睨んだ。
「僕が行く。今井、バックアップはとってあるな」
「もちろんです」
 今井から手渡されたメモリーを握り締め、薪は足早に研究室を出て行った。室長がいなくなった研究室では、興奮冷めやらぬ職員たちが、これから日本中を驚愕させるであろうセンセーショナルな事件の展開にあれこれと予想を立て始める。

「これで三田村も終わりですね。裏取引が公になるわけですから」
「室長、また出世しちゃいますね」
「これだけのでかいヤマ(事件)ですからね。2階級特進もありかも」
「それは無理だろ。巡査長が警部になるのとはわけが違う。でも、警視長昇任は間違いないな」
「次の試験を受けられるのは来年だから、警視長昇任は36歳かあ。さすがうちの室長ですね。また警察庁の歴史を塗り替えちゃいますね」
「警視長の試験て、すごく難しいって聞きましたけど。まだ誰も一発で合格した人はいないって話ですよね」
「薪さんだぞ。落ちるわけないだろ。あのひとトップで東大入ってトップのまま卒業してんだぞ。人間じゃないよ」
「そうでした」

 明るい見通しに浮かれる第九の面々に混ざらず、一人だけ難しい顔をしているものがいた。室長の腹心の部下、岡部である。
「そう、うまくはいかんと思うぞ」
「岡部さん?」
「薪さん逆に……」

 今回の事件は大きすぎる。
 本当に日本中がひっくり返ってしまう。そんな騒ぎを警察は好まない。警察が検挙したいのは国の根底を揺るがすような事件ではなく、世間がその解決を知って安心できるようなレベルのものなのだ。
 薪は第九の室長として、それをよく知っているはずだ。だから自らが足を運ぶことにした。行き先は5課ではなく、おそらく警視総監のところだろう。この件について直談判をしに行ったとしたら、上層部は秘密を守るために薪の権限を削ごうとするかも知れない。相手が例え警察幹部でも媚へつらわない薪は、ただでさえ上の連中に受けが悪いのだ。

 果たして、岡部の読みは当たっていた。
 朝一で出て行ったはずの室長は、どこまで行ったものか夕方になるまで帰ってこなかった。帰ってきたかと思えば、心配顔の部下たちには何の説明もせず、人形のように無表情な顔でシステムの端末に手を伸ばした。
「今井。データのバックアップはこれか」
 先刻のデータを確認すると、冷静な顔でそれを睥睨し、ためらう様子もなく削除のキーを押した。
「室長!」
「この件は終わりだ。放火事件の捜査に戻れ」

 冷たい目だった。
 すべての感情を殺した冷徹な室長の姿に、第九の部下たちは何があったのかを悟った。
 が、ひとりだけ、それを察することのできない人間がいた。新人という厄介な人種である。

「捜査権は5課に移ったんですか?」
「この件は終わりだと言ったんだ。捜査はしない」
「そんな! あれだけの事件を隠蔽するんですか!?」
「よせ、青木!」
 岡部の制止も耳に入らない。
 真っ直ぐな正義感が、青木の口調を強くしていた。普段なら室長の言うことに逆らったりはしない。が、今回だけは自分の言い分が正しいはずだ。

「このデータは不法なものだ。初めから存在しなかったんだ」
「あるじゃないですか、ここに!」
「青木、やめろ!」
 非難がましい青木の叫びに、しかし室長はどこまでも冷静さを失わない。いつも通りの静かな声音で、当たり前のように事件の隠蔽を指示する。
「もうない。おまえたちもこの件は他言無用だ。絶対に誰にも言うな」
「見損ないましたよ、室長はそんなひとだったんですか!? 上のひとに言われて事件を隠蔽するなんて……!」
「うるさい! 僕が終わりだと言ったら終わりなんだ! さっさと持ち場に戻れ、青木警部補!」

 凄まじい恫喝に青木が怯んだ隙に、薪は室長室へ入ってしまった。
 なおも追いかけようとする青木の腕を、がっしりとした岡部の手が捕まえる。その強い力に引き戻されて、青木は床に尻もちをついた。
「ばかやろう! 室長を責めてどうするんだ!」
「だって! オレ、室長は上の命令なんかに屈しないで、正しいことを貫けるひとだと信じてたのにっ!」
 尊敬の念が強すぎて、自分の理想と違うことをした時にはそのひとを許せなくなる。憧れゆえの思い込みは相手にとっては迷惑この上ないが、青木にしてみれば純粋な気持ちだ。岡部にもそれは分かる。

「薪さんだってやりたくてやってるわけないだろ。あのひとがそんな人間じゃないのは、おまえだって知ってるだろう」
「でも!」
「青木。警察ってとこはな、こんなことはよくあるんだ。仕方ないんだよ」
「納得できません。犯罪者を野放しにするんですか?」
「納得できようができまいが、おまえがこれからも警察機構に属する気なら、それを飲み込まなきゃいかん。それができなきゃ、辞表を出すんだな」
 青木は黙り込んだ。
 岡部にこんな厳しいことを言われたのは初めてだ。こんなに理不尽なことを言われたのも。
「室長はな、俺たちが知らないこともたくさん知ってるんだ。俺たち部下には言えないことも、秘密にしておかなきゃならないことも、山のように抱え込んでる。それが室長の責務ではあるけれど、あのひとの性格には辛い仕事だと思う」
 しかし、隠蔽の事実に変わりはない。どんな辛い気持ちでそれを為そうとも、事実の前にはただの言い訳に過ぎない。
 
「じゃあ辛い気持ちで人を殺したら、それは無罪になるんですか? 岡部さんが言ってるのってそういうことですよね」
「いい加減にしろ、青木。
 おまえ、あの人ほど真剣に捜査に取り組む捜査官を見たことがあるか? 被害者のために、遺族のために、自分の身を削ってまで捜査を続けるあのひとの正義を疑うのか? いったい、今まで室長の何を見てきたんだ」
 それは確かに、青木が惹かれた室長の姿だ。
 そんな室長だから好きになった。でも、今回のことだけは会得がいかない。清濁併せ呑むには、青木はまだ若すぎた。

「青木。おまえ、室長に守られすぎだよ」
 小池が意外なことを言い出す。何のことか分からず、青木は首を捻った。
「警察署内の隠蔽工作なんて日常茶飯事だ。おまえ、ここに来てもう8ヶ月だろ。他の部署なら1ヶ月で分かることだぞ。俺なんか二週間で分かった」
「おまえだけじゃない。俺たちだって、室長に守ってもらってるんだ。今回のことだって、この事実を知っているのは自分だけだと上層部に信じ込ませるために、室長がデータを持っていったんだ。俺たちに隠蔽工作の罪悪感を抱かせないために、バックアップの削除キーも自分の手で押した」

 守られている―――― それは感じていた。

 自分を庇護する優しい手を、いつも見守っていてくれる亜麻色の瞳を、進むべき方向を示してくれる小さな背中を、求めて追いかけてここまで来たのだ。
 薪の優しい微笑を思い出して、青木の心が沈みこむ。

 その通りだ。
 薪は保身のためにこんなことはしない。全部自分たちのためなのだ。

「青木。おまえの気性には、警察の水は合わないかもしれない。自分の人生だ。よく考えてこれからのことを決めろ」
 岡部の言葉が重くのしかかる。
 人生の岐路に立たされて、青木は床に座り込んだまま、立つことができなかった。


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ジンクス(14)

ジンクス(14)







 誰もいなくなったモニタールームに、青木はひとり端末のキーボードを叩いている。
 研究室の明かりは消えている。デスクランプの明かりだけを頼りに、青木は作業を続けていた。これは外部には秘密の作業だからだ。

 時計の針が7時を指し、室長室のドアが開いた。
 薪が足早に出てくる。と、青木に気付いて足を止めた。
「青木。何をしている」
 声には剣呑な空気が含まれている。どうやら先刻のことで、いま青木がしていることに疑念を持っているようだ。
「ログファイルの削除です。これであのデータは完全に無くなりました」

 驚いた表情で青木の机に近付いてくる。いくつかの操作をしてモニターを確認し、青木の言葉が本当だと知ると、その驚きはますます大きくなったようだ。
「おまえ、できるのか? 普通のPCじゃないんだぞ」
 PCでファイルを削除してもハードディスクにその断片が残るように、MRIシステムも一度リーディングしたデータを削除キーだけで完全に消し去ることはできない。これが普通のPCであれば読取防止のプログラムをダウンロードすることで消去が可能だが、MRIシステムの完全削除はそう簡単にはいかない。スパコンのハードディスクから残された断片のひとつひとつをすくい上げ、個別に消去していかなくてはならないのだ。
 MRIはシステム自体が非常に複雑なため、完全な消去作業はプロのエンジニアでなくては不可能だ。もちろん、薪にもできない。

「いつの間に覚えたんだ? こんな普段使わないような」
「難しい専門書、読んだことが役に立ってよかったです」
「明日、宇野に頼もうと思ってたんだ。そうか……おまえがやったのか……」
 消え入りそうな声で室長が呟く。すまなかった、という言葉が聞こえてきそうだ。謝ってもらう筋合いは無い。これは自分の意思でしたことだ。

「さっきはすみませんでした、室長」
「気にしなくていい。おまえは間違ってない」
「はい。オレもそう思います。でも室長も間違ってません。だから、すみませんでした」
 青木の謝罪を受け入れる気があるのかどうか、薪は黙ったままだ。モニターから視線を逸らさずに、じっと立ち尽くしている。
 デスクランプの白い光が、その美貌を照らし出す。いつもより憔悴した室長の横顔――――― 赤く滲んだ眼。おそらくは悔し涙にくれて……。
 他の職員たちが何故今日に限って早々と帰ってしまったのか、青木はようやく分かった。部下たちが退室しなければ自分の部屋から出てこないであろう室長を気遣ってのことだったのだ。それなのに、また自分は余計なことをしてしまった。が、今更どうしようもない。室長の涙の跡には気付かない振りをするしかない。

「キリマンジャロAA」
「は?」
「昨日も今日も、半分しか飲めなかったんだ」
 朝のコーヒーを飲んでいると今井の叫び声で中断させられ、その後大変なことになる。そんなことが2日も続いたら、明日はそのコーヒーを飲むのをためらってしまうだろう。
「相性が悪いのかな。あんなに美味いのに。いやなジンクスができちゃいそうだ」
「なんなら、今から淹れましょうか」
「……いいのか?」

 端末の電源を落として、メインスイッチを切ると青木は給湯室へ向かった。薪が後ろからついてくる。広い研究室に、独りにはなりたくないのかもしれない。
 給湯室はあまり広くはないが、小型の冷蔵庫や流し台、IHヒーター等が備え付けられている。ここは新人の青木にとって第二の仕事場だ。
 民間の会社ならお茶を汲むのは年の若い女子社員の仕事かもしれないが、第九は国税で動く警察関連の研究室なので、そんな贅沢は許されていない。すべて新人の青木にお鉢が廻ってくる。
 が、そこは第九特有のシステムが働いて、青木が捜査で忙しいときには誰でも良いから手の空いているものがお茶汲みやコピー取りなどの雑務をこなすようになっている。
 だれの手も空いていないときは、恐ろしいことに室長が自らコーヒーを淹れたりもする。室長の面子だとかこんなことは室長の仕事じゃないとか、薪はあまりそういうことは気にしない。しかし周りは気が気ではない。薪が給湯室にいると真っ青になって誰かが飛んでくるので、最近はあまり来ないようにしている。

 青木はIHヒーターの電源を入れると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、まずはお湯を沸かし始めた。
「この豆、オレも一度飲んでみたかったんですけど、いいですか?」
「自分で淹れてるのに、飲んだことないのか?」
「この豆は室長専用です。全員であの豆飲んでたら、経理の人に怒られちゃいますよ」
 職員たちのために普通のブレンドコーヒーやインスタントコーヒーなども置いてあるが、室長専用のコーヒー豆はちゃんと別に密封して閉ってある。それを戸棚から取り出して、少し多めに2人分の量を量る。コーヒーメーカーに付いているミルで豆を挽くと、ペーパーフィルターにセットして、お湯が沸くのをしばし待つ。

「コーヒーメーカーは使わないのか?」
「大人数のときとか、急ぐときはメーカー使ってます。でも、こっちのほうが口当たりが柔らかくて美味しいんですよ。時間がかかるから、朝くらいしかできませんけど」
「それでか。おまえが淹れたコーヒーは何か違うと思ってた」
 コーヒーポットとカップをお湯で温めてから、フィルターに湯を落とし始める。コーヒーのいい香りが狭い給湯室に広がる。コーヒー好きにはたまらない匂いだ。
「お湯の温度は90度くらい。最初は中央部分から、ゆっくり『の』の字を描くように。ちょうど点滴が落ちるくらいの速さで落とすんです」
 コーヒー専用の薬缶の細い注ぎ口から、ぼたぼたと湯が滴り落ちる。ペーパーフィルターの中で挽き立てのコーヒーが真ん丸く膨らんでいく。
「あ、丸くなった」
「焙煎の鮮度が新しいとこうなるそうですよ」
 へえ、と目を丸くしている室長が可愛らしくて、青木は手元が狂いそうだ。

「ん~、いい匂いだな」
 コーヒーの香りに酔いしれるように、薪は目を閉じる。実際、コーヒーは淹れている最中のほうが出来上がったものより香りが強い。
「お湯は3回に分けて注ぎます。2回目は初めより多く、3回目はもっと多く」
 3回目のお湯がドリッパーに半分ほど残った状態で青木はコーヒーポットを外し、ドリッパーを流し台に置く。薪が首を傾げて疑問を投げかけてくる。
「なんで途中で捨てちゃうんだ? もったいない」
「最後のところにコーヒーの雑味や余分な苦味が残るんです。ちょっと贅沢ですけど、豆もお湯も少し余分に入れて、こうして途中で取り出したほうが美味しいんですよ。
 はい、お待たせしました」
 暖めたカップにコーヒーを注いで薪に手渡す。ここには椅子もないが、さんざん匂いを嗅がされて、薪は待ちきれない様子だ。

 冷蔵庫の扉に行儀悪くもたれかかり、薪はカップに口をつけた。
 満足げな微笑。青木が一番、見たかった顔だ。
 
「ああ、美味いな」
「ありがとうございます」
「もう、今井は来ないよな」
 薪の冗談はシュールすぎて時々笑えないが、このかぐわしい液体がかれの心をほぐしてくれたのは間違いないようだ。
「本当に美味いな。うん、おまえに『第九のバリスタ』の称号を与えてやろう」
 青木をからかうように、意地悪そうな笑みを浮かべる。素直に笑う薪など見たことがない。
 初めの頃はこの笑みをとても好きになれそうもないと思っていたはずなのに、今はたまらなく愛らしいと思う。薪の本当の姿がわかってくるにつれ、嫌っていたはずの振る舞いが、行動が、好ましいものに思えてくる。恋とは不思議なものだ。

「オレは薪さんの専属のバリスタになりたいです」
「僕の専属? おまえ、僕が1日に何杯コーヒー飲むか知ってるのか? 休みの前の日なんか夜中でも飲むんだぞ」
 やはり、こんな回りくどい言い方では薪には伝わらないようだ。薪はこういうことにはひどく鈍い。が、そこがまた可愛いと思ってしまうのだから、青木も救いようがない。
「おまえ、コーヒーハウスでバイトでもしてたのか?」
「違いますよ。室長がお好きだと聞いたので、いろいろ研究したんです」
 青木は正直に答えた。少し照れくさいが、本当のことだ。薪に好かれるためだったら努力は惜しまない。
「言ったでしょ。室長に憧れてここに来たって」
「……悪かったな。幻滅させて」
「幻滅なんかしてません」
 自分のカップにコーヒーを注ぎ終えて、青木は室長の眼を見る。自分の言葉に嘘がないことを知って欲しかった。

「薪さんはオレが思った以上のひとでした。仕事ができるだけじゃなくて、強くてやさしくて。オレが未熟で、さっきはそれに気付けなかっただけです。本当にすみませんでした」
 亜麻色の瞳に翳りが差す。自分はそんな立派な人間じゃない―――― そう言いたげな表情で、薪は顔を伏せた。
 そのまま黙ってコーヒーを飲む。何事か考え込んでいるらしく、無意識のうちにマグカップを両手で持っている。まるで子供のようなしぐさに、青木はあることを試してみようと思いつく。
 殴られるかもしれないが、そのときはそのときだ。

 空になったマグカップを薪の手から取り上げ、うつむいたままの亜麻色の頭にそっと手を置く。薪は一瞬、肩を強張らせたが、青木の手を振り払わなかった。
「オレじゃ効かないかもしれませんけど」
 さらさらした髪を撫でる。亜麻色の頭は青木の大きな手にすっぽりと収まって、そのコンパクトさが男の庇護欲を駆り立てる。

「……ちがう」

 低い声で、薪が呟く。
 予想はしていたが、やはり自分ではだめか。
 
「すみません。やっぱオレじゃダメですよね」
 引こうとした青木の手を押さえて、薪は首を振った。
「そうじゃなくて……昨日のは、本当は違うんだ。手はこう……」
 青木の手を引き、自分の後ろに回す。頭上に置いた手は後頭部に、もう一方の手はその背中に置いて、薪は青木の胸に頭をもたせかけてきた。
 これは……抱きしめてしまってもいいんだろうか。というか、その先までいってしまいそうなのだが。
 
「……っ、ぐっ」
 亜麻色の髪が揺れて、肩が震え始める。その震えを止めてやりたくて、青木は背中に回した腕に力をこめ、髪を撫でた。
「ひうっ……ふッ……!」
 両手の拳を白くなるほど握り締め、薪の嗚咽は激しくなった。涙が床に滴り落ちる。
「くやっし……いっ、ちっくしょ……!」

 今回のことがどれだけ薪の心を傷つけたのか、青木には想像もつかない。
 衆目の中で三田村に土下座をさせられたときでさえ平然としていた室長が、新人の自分の前で涙を流している。くやしい、と臆面もなく訴えている。
 自分の信じる正義を自ら裏切らねばならない現実―――― 薪のプライドを傷つけるのは、それだけなのかもしれない。

 狭い給湯室の壁に薪の嗚咽だけがいつまでも響いて、研究室の夜は更けていった。


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ジャンル : 小説・文学

ジンクス(15)

ジンクス(15)







 その翌日。第九にはいつも通り、室長の痛烈な罵声が轟いていた。

「なにやってんだ、おまえら! どうしてこの画に気付かないんだ? ちょっと考えたらわかることだろう。頭を使え、頭を。第九にバカはいらん!!」
 放火事件のMRIを見ていた今井と曽我が、激しい口調で怒鳴りつけられている。
 がっくりと肩を落とす二人を尻目に、今度は小池と青木のほうへやってくる。手には先日提出したばかりの誘拐事件のファイルが握られている。
「やり直しだ。写真の解像度が足らん。不明確で、初めて見るものにはわけがわからん。こんなもので給料貰ったら泥棒といっしょだ。窃盗罪で告発されたくなかったら2時間以内に作り直せ」
「に、2時間ですか?」
「昼メシが食えるかどうかは、おまえらの努力次第というわけだ」
 ファイルを叩きつけるように机に置いて、戦々恐々とする部下たちをぐるりと見回す。ぎりっと吊り上げられた眉と固く結ばれた唇が、次の標的を探している。
 
「岡部、あの会社の裏はあたったのか?」
「あ、いえ、まだ……」
「何をぐずぐずやってる! 指示したのは3日も前だぞ!」
「い、行ってきます」
「情報取れるまで帰ってくるな!」
 岡部が慌てて外に出て行く。今日は雨が降っているが、この部屋の中で室長の怒号を聞いているよりずっとましに違いない。

「宇野、データのバックアップ、できたのか」
「も、もうちょっとなんですけど」
「……僕の目には、あと3時間はかかるように見えるが。まあ、システムの専門家のおまえが言うことだ。ちょっとと言うからにはちょっとなんだろうな。ちなみに時間の感覚で『ちょっと』と言った場合は、30分以内のことを指すそうだ」
「す、すいません……」
「別に謝ることじゃないだろう? もうちょっとで出来るんだろう? 待たせてもらおうか。僕はここにあと何分、立っていればいいんだ?」
 ほんの少しの言葉尻を捕らえられて、長々と皮肉を言われる。可哀想に、宇野は涙目になっている。反対に室長はとても楽しそうだ。

 部下たちをさんざんいたぶって気が済んだのか、足取りも軽くモニタールームを出て行く。やがて給湯室からいい匂いが漂ってきて、焦った小池が慌てて走っていった。
「室長、俺がやります」
「ついでに淹れたから、配ってやってくれ」
「すいません」
「コーヒーメーカーだけどな。うちのバリスタみたいにはいかん」
「はい?」
 小池には意味不明の言葉を残し、自分のマグカップを持って室長室へ入っていく。研究室の職員たちから、ほーっというため息が漏れた。
「今日の薪さんて、なんか……」
 小池がコーヒーを配るのを手伝いながら、青木はぼやいた。
 今日の薪は怖い。いつも怖いけれど、今日は全開という感じだ。

「ああ、機嫌いいよな」
「はあ!? あ、皮肉ですか」
「ちがうって。室長、機嫌が悪いときは黙り込むタイプだぜ。しかも無表情。怖いのなんのって。部屋にこもって出て来ない時あるだろ。あれは機嫌が悪いんだ」
 わからない。ここの感覚は、世間一般の常識が通用しないようだ。
「薪さん、今日は生き生きしてるよな」
「いいことでもあったんですかね。あ、三田村が左遷されたとか」
 その噂は警察庁中で、まことしやかに囁かれている。耳の早い小池が聞き込んできて、穏やかな性格のおかげで友人の多い今井がその出所を辿ると、どうやら上層部発祥のものらしい。これはほぼ決まりと思って間違いないだろう。
「でも、室長は噂とか興味ないから。なんか別のことだと思うけど」
「そうですね。自分の噂にも関心無いみたいですからね」

 室長が淹れてくれたコーヒーを口にして、青木はそれが昨夜飲んだ豆と同じものであることに気付く。気前の良い室長は、自分専用の高いコーヒーを部下たちに振舞ってくれたらしい。
「やっぱり、普通のブレンドとは違いますよね」
「いつものコーヒーじゃないのか? これ」
「違うだろ、明らかに」
 味覚には個人差があって、中には違いの分からないものもいるようだが、室長が淹れてくれたと思うとそれだけで美味しい。きっとインスタントでも美味しく感じるのだろうな、と青木は思う。

「そういえば室長、バリスタが何とかってさっき言ってたけど。バリスタってなんだっけ?」
「あれじゃないのか。コーヒー屋でコーヒー豆のブレンドとかするやつ」
「コーヒーのソムリエみたいなもんか」
「……なに笑ってんだ、青木」
「いえ、なんでもないです」
 昨夜のことを思い出すと、つい頬が緩んでしまう。
 実は、今日の薪の不機嫌の原因は自分か、と内心びくびくしていたのだが、それもどうやら誤解だったらしく、素直に昨夜のことを喜ぶことができる。

 自分の胸の中で涙にくれていた薪の姿を―――― きっと、まだここにいる誰も見たことがない室長の姿を、自分は知っている。薪が、自分の前で弱い部分を見せてくれたことが、純粋にうれしい。
 声を抑えた嗚咽が止まり、泣くのを止めて自分から離れていった室長の恥ずかしそうな横顔が、とても可愛かった。
 このひとを守りたい、と痛切に思った。

 元はといえば、自分のつまらないミスが原因でこの大騒動は起こったのだ。結果、室長をあんなに苦しめることになってしまった。だからもう、今回のようなミスを二度と起こしてはならない。それには室長のアドバイスの通り、自分の心を強くしなければ。
 雪子に話を聞いてもらおう、と青木は決心した。
 女の人にこんなことを相談するのは気が引けるが、話せる相手は彼女しかいない。悩みを抱えたまま守りきれるほど、第九の室長の背中は小さいものではない。

 青木は皆から、飲み終わったコーヒーカップ受け取って給湯室へ運ぶ。カップとコーヒーメーカーを洗いながら、昨夜ここで立ったままコーヒーを飲んでいた薪の姿を思い出す。
 冷蔵庫のドアにもたれて子供のように両手でカップを持って、満足そうに微笑んでいた。あのきれいな微笑を、今度は自分の仕事を見て浮かべてもらいたい。
 多忙な法一の女医に時間を割いてもらうために、青木は携帯電話を取り出した。


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ジャンル : 小説・文学

ジンクス(16)

ジンクス(16)








 第九の室長室には、今日もまだ明かりが点っていた。
 部屋の中では、大きなスチール製の事務机の上で、室長が書類と格闘している。
 さすがというか馬鹿正直というか、第九の部下たちは室長の言ったことを素直に実行して、その結果大量の報告書を上げてきた。ちょっと調子に乗りすぎたか、と自分の発言を悔やんだ室長である。
 部下が作成した報告書に室長所見を添付して、所長に提出するのが薪の仕事だ。つまり、部下の尻を叩けば叩くほど自分の仕事が増えるのだ。

 この2日ばかりは仕事にならなかった。
 そのせいで溜め込んでしまっていた報告書の山が、昼間の鬼のような仕事ぶりでさらに大きくなってしまった。
 が、今日は大丈夫だ。仕事の妨げになるようなことは何もなかったし、岡部のマッサージのおかげで肩の調子もすこぶる良い。おかげで普段の倍も仕事がはかどった。
 明日また少し踏ん張れば、書類の山はすっかりきれいに片付きそうだ。
 今日はこのくらいにして帰ろうと、残りの書類を鍵付きのキャビネットにしまう。出来上がった報告書は田城のところへ所内メールで送るため、配送用のボックスに入れて鍵をかける。ボックスからはみ出しそうな報告書の量に、明日田城がこれを見たらどんな顔をするだろうと意地の悪いことを考えて、にやりとしてしまう。薪の意地悪は細胞レベルだ。

 革張りの椅子の上で、大きく伸びをする。両手の指を交差して両腕を耳につけ、思い切り上に伸ばす。一昨日はこの腕が肩より上に上がらないほど痛かった。岡部のマッサージはたいしたものだ。
 ついつい岡部には甘えてしまうが、あまり頻繁にやらせては悪いので、次のボーナスが出たらマッサージ機を買おうかと真面目に検討している。部屋が狭くなるので見送っていたのだが、最近どうにもならなくなってきた。今年で薪も36。四捨五入すれば40だ。肩こりと縁のなかった20代が懐かしい。

 時刻は九時を回った。
 たくさん仕事をしたからか、珍しく空腹を覚えている。今日はちゃんとしたものを夕食に食べたい気分だ。久しぶりに『瑞樹』に行って旬の秋刀魚で一杯飲むか、などと浮かれたことを考える。
 戸締りを確認しようと窓辺に寄った薪の目に、庭のベンチに腰掛けている2人の男女の姿が映った。
 青木と―――― あれは雪子だ。

 ふいに。

 薪は心臓をわしづかみにされたようなショックを覚えて、その場に立ち尽くした。
 今までの浮かれた気分が嘘のように醒めて、暗鬱な気持ちが戻ってくる。
 二人が何を話しているかは察しがついた。昨日の今日だ。青木は自分の悩みを彼女に打ち明けているのだろう。
 しかしなぜ、雪子なのか。
 一緒に仕事をしている第九の人間ではなく、大学の友人でも警察庁の同期でもなく、法一の監察医という謂わば部外者に過ぎないはずの雪子が、どうして青木の相談相手になっているのだろう。
 薪には話せない、と言った青木の『信じられるひと』が雪子なのか。

 そして、どうして自分はこんな気持ちになっているのだろう。
 いたたまれない焦燥感。胸を焦がすチリチリとした痛み。去年まではおなじみだったマイナスの感情だ。
 前にも二人で話しているところは見たことがあるし、あの二人がけっこう仲が良いことも知っている。お似合いだとさえ思っていたはずだ。
 でも、こんな気持ちになったことはない。この気持ちはまるで、鈴木と雪子を見ていたときの、あの身を切られるようなせつなさ……。

 これは―――― 嫉妬だ。

 青木はあまりにも似すぎている。何から何まで、鈴木の生まれ変わりとしか思えない。
 鈴木の脳を見ているから? 鈴木の霊が青木にのりうつって?
 馬鹿な。そんなことはありえない。
 あり得ないけれど、あの時のセリフまで一緒だった――――。

 あれは薪がまだ鈴木と関係を持つ前のことだ。
 自分が鈴木に恋をしていることは自覚していたが、さすがに言い出せなくて悶々としていた頃、サークルのコンパで薪は嫌な目にあった。
 普段はコンパなどに顔を出さないのだが、鈴木のことばかり考えてしまう自分に少しうんざりして、別の付き合いも広げてみればいくらかは気持ちも紛れるかと思って参加してみた。そのときはそんな目的もあったから、わざと鈴木の隣は避けて他の友人の隣に座った。

 酒が回ってゲームも盛り上がって、それなりに楽しかったのだが、酔っ払った友人の一人が薪に絡んできた。特別、仲が良いわけでも悪いわけでもない友達だったのだが、何故か薪に抱きついてきてキスをしようとしてきた。今なら投げ飛ばすところだが、その頃は柔道も空手も習っていなかったし、力もなかったから簡単に押さえつけられてしまった。
 あれは多分、ただ単にふざけていただけだと思うのだが、鈴木の前だということもあって薪は必死で抵抗してしまった。
 やめろ、よせ、と叫ぼうとしたときに、鈴木が助けてくれた。そのときのセリフが、
『オレの薪に手を出すな!』だった。

 普段は怒ったことなどない鈴木が、薪には見せたことのない怖い顔をして、その友人の首根っこを摑んで宙に持ち上げた。部屋中の人間が目を丸くしていた。みんな鈴木がこんなに怒ったのを見たのは初めてだと後で言っていた。
 そのときはまだ、ただの親友だったから『オレの親友の薪に手を出すな』の言い間違いに過ぎなかったのだろうが、既に鈴木への恋心を自覚していた薪にとっては、一気にその想いを募らせるきっかけになってしまった。

 あれで完全に持っていかれたんだよな、と薪はその当時のことを振り返る。
 そのセリフともろにかぶった、一昨日の青木のセリフ。
『オレの室長に手を出すな!』
 これも『うちの室長に』の間違いだ。言い間違いまで似ているなんて反則だ、と薪は思う。

 加えて昨夜のジンクス。

 薪は同性愛者ではないから、男に抱きしめられて喜ぶ趣味はない。ただ、鈴木だけは例外なのだ。
 警察庁に勤め始めて最初の大失敗をやらかしたとき、上司と喧嘩になったとき、どうしても証拠を挙げることができず確実にクロだと思っていた容疑者を送検できなかったとき―――― 落ち込むと鈴木のところに行って、あの『おまじない』をしてもらった。薪が涙を流せるのは、鈴木の前だけだった。
 鈴木は薪のすべてを知っている。弱いところも、脆いところも、性感帯まで知り尽くしているのだから、いまさら恥ずかしいことなど何もない。だから何でも言えた。思い切り泣けた。
 第九の室長を務めるようになると、鈴木にも言えない秘密が出来てしまったが、ジンクスは続いた。鈴木に抱きしめてもらってありったけの声で泣き喚くと、不思議とすっきりして元気になり、次の日の仕事は最高にうまくいくのだ。
 昨日は相手が青木だったから嗚咽に抑えたが、あれが鈴木だったら研究室中に響き渡るような大声で泣き喚いていた。さすがに部下の前でそれは出来ない。いや、鈴木以外の人間の前では、そんな自分を見せられない。薪は第九の室長なのだ。
 本来は青木の前で泣いてしまったことも削除したいのだが、あれは不意をつかれた。やってしまったことはどうしようもない。他人にぺらぺら喋ったりしないやつだからその辺は心配ないが、どうにも顔が合わせづらい。

 青木は、鈴木に似すぎている。
 だからこんなに胸が苦しくなるのだ。それ以外、理由が考え付かない。

 ブラインドを閉めて、室長室の明かりを消す。いつの間にか涙ぐんでいる自分に気がついて、思わずその場にしゃがみこんだ。
 嗚咽が込み上げてくる。これは鈴木への涙だ。

「鈴木……やっぱりおまえじゃなきゃ、効かないみたいだな」

 誰もおまえの代わりになんかなれない。
 はやくはやく迎えに来い。
 僕はここで待ってる。ずっと待ってる。
 いつまで待たせる? いつまで待てばいい?

「1年も頑張ったんだぞ。おまえのおまじないもなしで、おまえの顔も見られない世界で、1年も……もう、いいだろ。勘弁してくれよ……」

 だれもいない部屋。だれもいない世界。
 明かりの消えた室長室に、薪の嗚咽がひっそりと響く。

 秋の夜の冴えた月だけが、薪の涙を見ていた。


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ジンクス(17)

ジンクス(17)







「で? なに。結局、ノロケ?」
 午前中の雨が幻だったかのように晴れたその日の夜、青木は研究所の庭のベンチで雪子と一緒にピザを食べていた。Lサイズのガーリックミートとダブルチーズのこってりしたピザは、雪子のリクエストだ。

「違いますよ、なに聞いてたんですか」
「あんたの顔見てると、悩んでるように見えないんだけど」
 赤く縁取られた大きな口がピザにかぶりつく。すでに3ピース目だ。薪もこれくらい食べてくれるといいのだが、と青木は思う。
「いや、本当に悩んでるんですよ。あの夢のせいで室長の顔をまともに見られないし、仕事でも大きなミスして、結局あのひとに迷惑掛けて。今回なんか人身御供に出されるところだったんですから、シャレにならないです」
「薪くんならではってカンジだけど。でも薪くんは強いわよ。見かけによらず」
「はい。見事な背負落しでした」
「そのはずよ。大学の頃からあたしが仕込んだんだから」
「そうだったんですか」
 雪子は柔道4段の腕前である。
 薪もあの小さな身体で黒帯だというから初めは驚いたが、組み合ってみて簡単に投げ飛ばされてしまったことがある。あまり力はないので寝技に持ち込んでしまえば勝機はあると雪子にはアドバイスを受けたが、寝技は別の意味でとてもできない。青木も警察大学で基本だけは習ったが、6ヶ月程度でものになるわけもなく、当然白帯のままだ。

「べつに悩むことなんてないじゃない。すこぶる正常よ。好きな人とはセックスしたくなって当然でしょ」
 ズバッと言って、4枚目のピースを口に運ぶ。女性と話しているとは思えない会話だ。
「でも、薪さんは男のひとで」
「男の身体のまま夢にでてきたって?」
「はい」
「で、最後までやっちゃったんだ」
「はい」
「じゃあ、あとは実践だけね」
「はい。……いいえっ!」
 なんでもない調子で恐ろしいことを言う。こういうところが少し、薪に似ている。

「何事も、イメージトレーニングは大事よ」
 ペットボトルのウーロン茶をごくごくと飲み干し、サイドメニューのフライドポテトに取り掛かる。その食べっぷりは見事としか言いようがない。
「前にも言ったでしょ。男か女かなんて、些細な事だって。薪くんもまんざらじゃないみたいだし、思い切って告ってみたら?」
「え!? 無理ですよ。それこそ投げ飛ばされます」
「薪くんが人前で泣くなんて、本来ならありえないわよ。大学の時に1回見たことあるけど、あたしが見たのはそれっきり。克洋くんが亡くなった時にも、人前では泣かなかった。さんざん泣いた目だったけどね」
 早い者勝ちとばかりに5ピース目のピザに手をつける。もしかしたら、1枚では足りなかったかもしれない。

「青木くんに心を許してる証拠よ」
「……ジンクスのおかげだと思います」
「え?」
 雪子の疑問に、青木は答えることができなかった。
 薪のあのジンクスは、多分―――― いや、間違いなく、雪子の元婚約者にしてもらっていたことだからだ。それを雪子に告げるのは酷というものだ。

「薪さんが泣いたところなんて初めて見たから、驚いちゃいました。でも、すごく可愛かったんですよ。子供みたいになっちゃって……ああ、守ってあげなきゃ、ってオレ……」
「やっぱノロケじゃん」
「違いますよ」
「あー、月がきれいね。今夜、十五夜なんですって」
「そうなんですか?」
 ふたりが座っているベンチからは、第九の建物が見える。室長室にはまだ明かりが点いているようだったが、薪は知っているだろうか。この月を見ただろうか。

「三好先生に聞いてもらえてすっきりしました。オレ、やっぱり薪さんのことが好きです。でも、それを伝えるのはもう少し先のほうがいいと思います。オレがもっと仕事ができるようになって、薪さんに信頼してもらえるようになって、そうしたら……」
「決めるのは自分だからね。悩んだらいつでも言いなさい。聞いてあげるから」
「ありがとうございます。って三好先生、どんだけ食うんですか? オレ、まだ1切れ目なんですけど」
「あら。もう一枚追加するなら手伝うけど?」
 きれいにマニキュアを塗った手で携帯電話を取り出す。近くのピザショップの番号は、既に入力済みである。
「もしもし。科警研の三好ですけど。ダブルミートピザのLサイズを一枚とイタリアンバジルのMサイズを。コーラとウーロン茶もお願いします。急いでね」
 呆気に取られる青木に、研究所の門のところでピザを受け取るように命じると、雪子は優雅に足を組んだ。

 青木がその場を離れた間に、雪子は薪のことを考える。
 薪が自分の婚約者を好きだったのは知っている。
 鈴木は自分と知り合う前から薪とは親友という間柄で、多分、身体の関係も含めた恋人同士だった。周囲から見れば、他人より抜きん出ている薪に鈴木がくっついているように見えたが、本当は逆だ。薪は彼に夢中だった。それを自分が奪ったのだ。
 正確には鈴木のほうから雪子に近づいてきたのだが、薪に最初に会ったときのあの目は忘れられない。視線で人が殺せるものなら殺してやりたい―――― そう言いたげな瞳だった。

 あれから15年。
 薪との付き合いも、そんなになるのだ。もはや他人とは思えない。手のかかる弟のようなものだ。

 15年経って、警察庁の歴史を塗り替えるような数々の輝かしい功績を立てて、第九の室長の役職も板について、薪はすっかり大人の顔をしている。それでも根っこの部分は変わらない。わがままで自分勝手で頑固で、そのくせ寂しがりやの子供―――― そのすべてを許して薪を安らがせてくれた鈴木は、もういない。誰も代わりにはなれない。鈴木のようなお人好しは二人といない。
 薪がこれからも警察でやっていこうと思うなら、誰か別の人を見つけるしかない。
 薪は見た目ほど強くない。強そうに見えて、本当はひどく脆い。支えてくれる人がいなかったら、室長の重責に、抱え込んだ秘密の大きさに、押しつぶされてしまうだろう。

「悠長なこと言ってたら、薪くんのほうが先にダメになっちゃうと思うけどな」
 雪子は本気で薪のことを心配している。
 我ながらおかしな関係だと思う。薪は自分の婚約者を殺した男なのだ。しかも彼の、元恋人でもある。絶対に仲良くはなれないはずなのに、自分は薪が嫌いではない。
 薪は自分にとても気を使うが、それは罪の意識がなせる業で、嫌われているわけではないと思う。昔はよく鈴木と3人で遊びに出かけたものだ。
 薪と2人で鈴木のために料理を作ったり、クリスマスのプレゼントを選んだりしたこともある。そんな時、薪は少しだけ辛そうにしていたけれど、決して雪子の誘いを断らなかった。鈴木を忘れる努力をしていたのだと思う。
 鈴木から聞いた話だが、雪子との結婚を決めたことを薪に告げたときも、割と平気な顔だったという。あの事件さえなければ、雪子が鈴木と結婚していたら、今頃は薪にも可愛い恋人ができていたかもしれない。―――― あまり想像はつかないが。

 あの事件があって、薪は鈴木(支え)を失った。
 あれから1年。
 その間にも薪の肩にかかる重荷はどんどん増えて、とっくに限界を過ぎている。薪には誰かが必要なのだ。

 青木には見所がある。
 薪が言うほど鈴木に似ているとは思えない。薪は、青木の中に鈴木を探しているからそっくりに見えるのだ。
 むしろ鈴木にはなかった無鉄砲さこそが、青木の魅力ではないかと思う。
 鈴木はやさしいひとだった。優しすぎて、結局なにも捨てることができなかった。
 貝沼の脳を見た他の捜査員が精神に異常をきたしていたことから、そのすべてを見たら狂うかもしれないことは、鈴木は充分に承知していたはずだ。それでも彼は薪のために、それを見続けた。
 雪子との人生を選ぶことも、薪のことを見捨てることも、どちらもできずに結局自分自身を捨てたのだ。
 青木はそういうタイプではない。
 薪のためなら何でもできるというが、自分を犠牲にするような真似は結局相手のためにならないことを知っている。鈴木がキレたのは見たことがないが、青木は結構、よくキレる。そして思い切った行動に出る。それこそが薪を悔恨の泥沼から救い出す原動力になると、雪子は確信している。

 ピザの箱を両手に抱えて駆けてくる第九の新人に、雪子は心の中でエールを送った。

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ジンクス(18)

ジンクス(18)








 薪は、ブラインドの隙間から月を見ている。
 ひどく寂しい月だ。見ていると泣けてくるような寒々とした気分になる。
 今日はなんだか、自分の部屋に帰りたくない。仕事も残っていることだし、いっそここに泊まろうか。
 一時の感傷が治まってそんなことを考える。と、突然、室長室のドアが開いた。

「あれ? 室長、帰っちゃいました?」
 青木だ。何しに来た。
「あ、いるじゃないですか。セキュリティーかけてないから変だと思いましたよ。なんで電気消してるんですか?」
「つけるな!」
 叫びは間に合わず、蛍光灯の白い明かりが窓の下にうずくまった薪の姿を照らし出した。青木が息を呑むのがわかる。こんなみっともない姿を部下には見せられない。薪は慌てて立ち上がり、青木に背を向けた。

「なにか用か」
「室長、夕飯まだですよね。ピザ食べませんか?」
 無神経を装って、こちらへ歩いてくる。手にはピザの箱を2つと、ドリンクのカップを2つ持っている。
「オレもまだ食ってないんです。一緒に食べませんか」
「だっておまえ、さっき」
 雪子と一緒に食べていただろう、と言おうとしたが、それでは自分がふたりをここから見ていたことが解ってしまう。薪は口を閉ざした。
 
「三好先生にもらったんですけど、ひとりじゃ食べきれなくて」
「いらない。食欲がない」
 そう言った途端に、薪の腹が盛大な音を立てた。
 あまりのタイミングのよさに、思わず青木が噴き出す。気恥ずかしさに薪の顔が赤くなる。
「室長にも腹の虫っていたんですね」
「おまえだって腹が減れば鳴るだろうが」
 涙と一緒に流れ落ちてしまった、と思っていた空腹感が戻ってくる。
 きっと腹ぺこには堪らないピザの匂いのせいだ、と薪は自分に言い聞かせる。別に青木がここへ来たから、へこんだ気分が直ったわけじゃない。

「仕方ないから手伝ってやる。でも、僕はピザはそんなに好きじゃな……」
 箱を開けてみると、薪の大好きなイタリアンバジルのクリスピータイプだ。思わず目が輝いてしまう。
 それを見た青木がまた笑い出そうとしたので、思い切り睨んでやる。青木は薪の険悪な視線に気付いて目を逸らしたが、必死に笑いを堪えているのがありありと分かって、いたくプライドを傷付けられた室長である。

「ドリンクはコーラとウーロン、どっちがいいですか?」
「コーヒーがいい」
 とりあえず、逆らってみる。
「……淹れてきます」
「ピザが冷めちゃうから、今日はインスタントでいい。僕が淹れてくる」
「オレがやりますよ」
「いい、自分でやる」
 給湯室へ向かおうとした青木を押し留めて、薪はさっさと歩き出した。室長室のドアのところで振り返りざま、笑われた仕返しに嫌味をひとこと。
「バリスタさまにインスタントコーヒーなんか淹れさせたら、バチがあたるからな」
「なんですか、それ」
「皮肉だ」

 給湯室で、インスタントコーヒーを紙コップに淹れる。
 コーヒーは好きだが、別にこだわりがあるわけではない。自宅でも夜中に飲みたくなったときは後片付けが楽なインスタントを選ぶ。この時間から青木に洗い物をさせるのは気の毒だ。―――― そう思うのだったらセットのドリンクで我慢すればいいのに、こういうところがいかにも薪らしい。
 薪が室長室へ戻ると、青木が何やらガタガタやっていた。カウチの向きを反対にして、窓の外が見えるように位置を調整しているようだ。
 
「今夜は十五夜なんですって。知ってました?」
「そうなのか?」
 ブラインドを上げて窓を開け、青木が月を見上げる。
 さっき見た時はずいぶん寂しい月だと思ったが、そう聞くときれいに見える。秋の澄んだ夜空にくっきりと浮かんだ月を、今宵は何人の人間が見上げているのだろうか。
「月見だったらピザとコーヒーじゃなくて、団子と日本酒でしたね。」
「団子と日本酒は合わないだろ。あれは中に甘酒が入ってるんだ」
「そうなんですか? いろんなことよく知ってますね」
「うそだ。バカ」
 膝の上に箱を置いて、カウチに腰掛けてピザを食べる。久しぶりに食べるピザはパリパリのアツアツで、とても美味しかった。
 
「薪さんの、一枚もらっていいですか?」
 頷いて箱を差し出す。どうせ半分くらいしか食べられない。
「ありがとうございます。こっちのも食べてみます?」
 黙って首を振る。ミートピザは苦手だし、Lサイズは1ピースが薪には大きすぎる。
 熱いコーヒーに口をつけるが、やっぱりピザには冷たい飲み物のほうが合う。しかし自分で言いだした手前、やっぱりそっちがいいなどと子供のようなことは言えない。
 心の中で失敗したなと思っていると、それを読んだかのように、青木が目の前に冷たいウーロン茶を差し出した。無言で受け取って口をつけると、青木はにこにこと笑う。
 
「気持ち悪いやつだな。何をにやにやしてるんだ?」
「いえ、別に」
「……何かいいことでもあったのか」
「はい」
 素直なやつだ。
 そうか、今まで雪子と一緒だったのだから機嫌が良くて当たり前か、と薪は思う。
 まあ、それもいいだろう。今はとにかくピザが美味い。

 コーヒーのほうは青木が引き取ってくれた。飲んでもいいですか、と聞くので頷いてやる。自分の分はもう食べ終わっているから、青木にとっては食後のコーヒーだ。それならいけるはずだ。
「あ、やっぱり薪さんが淹れれば、インスタントでも美味しいんだ」
 さっきの嫌味が10倍になって返って来た。
「めずらしいな。おまえが皮肉を言うなんて」
「え? 皮肉じゃないですよ」
 青木が慌てて首を振る。
「本当に、美味しいですよ。インスタントもいけますね」
 そう言われると飲んでみたくなる。我ながら大人気ないなと反省するが、飲んでみますか?とカップを差し出されたら、一応口をつけるのが礼儀というものだ。
 ピザとドリンクで両手が塞がっているので、首を伸ばしてカップに口をつける。青木がうまくカップを傾けてコーヒーを飲ませてくれる。が、所詮インスタントはインスタントだ。確かにそれほどまずくはないが、香りも味も深みも、まるで足りない。
「そうか?おまえ、味覚おかしいぞ」
 薪の正直な感想に青木が苦笑する。この味覚であんなに美味いコーヒーが淹れられるのだから、不思議なやつだ。

 結局6枚切のピザが2枚残って、それも青木が平らげる。青木が食べていたピザは薪のものより一回り大きかったが、初めから2ピースほど欠けていた。きっと雪子が食べたのだ。雪子はミート系のピザが好物だった。
 薪も今日はMサイズのピザを3ピースも食べたのだから頑張ったほうなのだが、こいつの前では自慢にならない。何故か薪の周りには大食らいが多いのだ。
 
「よく食うな、おまえ」
「オレは普通です。薪さんが小食なんですよ」
「おまえが普通だったら、とっくの昔に人類は死に絶えてるぞ。食糧不足で」
 あはは、と青木が声を立てて笑う。
 その横顔に、つい見とれている自分に気付く。
 今夜は少しおかしい。心の振れ幅が大きすぎる。浮かれたり落ち込んだり、泣いたり笑ったり、こんなに感情が大きく揺れ動くことは、あまりないのだが。十五夜だという月のせいか。
 また、なにを非科学的なことを。第九の室長ともあろうものが、月の魔力などというまじないじみたものに惑わされていいはずがない。薪は自分を戒めた。

「ああ、ほんとにきれいですよね」
 青木はカウチから立って窓辺に寄り、コーヒーを飲みながら月を見ている。薪は月を見る振りをしながら、その背中をぼんやり見ている。
「こっちのほうが良く見えますよ」
「……ここでいい」
 薪の素っ気ない返事に青木は微笑して、再び窓の外へ向き直った。

 ここのほうがいい。横に立ってしまうより、ここのほうが青木がよく見える。
 広い肩が、大きな背中が、長い手足が鈴木を思い出させる。
 でも、やっぱり違う。これは青木だ。
 鈴木は薪といるときに、背を向けたりしなかった。こういうときは自分が薪のほうへ来るか、薪をむりやり自分の横に連れて行くかで、決して自分だけでは行動しなかった。
 違う人間なのだから当たり前なのだが、そこに違和感を感じてしまう自分に、薪は驚いている。しかし、その違和感は不快なものではない。
 鈴木に似ていなくても、青木のことは嫌いではない。嫌いな人間とは一緒に仕事はしない。仕事のモチベーションを高くするひとつの方法だ。現実にはなかなかそうも行かないが。

 青木は月を見ている。
 薪は、その背中を見ている。

 長月の夜の冴えた月だけが、室長室のふたりを見ていた。


          

 ―了―




(2008.10)

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ジンクス あとがき代わりのお礼と言い訳

 ここまでお付き合いくださって、誠にありがとうございました。
 こんな長くてダラダラした話を読みきれる方は、薪さんの名前さえ出ていれば電話帳でも読める方だと思います。
 読んでくださった方々には、こころから敬服しております。
 書いた本人が推敲中に眠くなるくらい、長い長い。しかも固いわタルイわで。ガマン大会かっての。
 眠れない夜にぜひどうぞ。3分で睡魔が襲ってきますってなカンジです。

 長くなるのは文章力のない証拠。なんでもかんでも詰め込めばいいってもんじゃない、と叱られたこともありましたが……。
 正直なところ、岡部さんのマッサージとかカレー食べるところとか、最後のピザのところなんか、ないほうが話が締まるのは解ってるんですよ。
 でも、薪さんが絡むと、削りたくなくなっちゃうんです。どんなエピソードも大切に思えて。
 やっぱりわたしは薪さんのことが大好きなんです。……じゃあ、どうしてあんなに僕を泣かせちゃうんでしょう(笑)

 
 わたしの薪さんが言葉が悪かったり、ケンカが強かったりするのは、アニメの影響もあります。
 アニメでは結構「バカヤロー」とか言ってるし、柔道の心得もあるみたいでしたよね。その傾向が強まっていってしまった、というか。

 この調子で、これからもうちの薪さんは下品です。しかも、長い話ばっかりです。
 飛ばし読みで充分ですので、お付き合いいただけたらこれ以上の幸せはございません。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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