室長の災難(1)

 このお話は、わたしが最初に書いたお話です。
 なので、かなり構成がめちゃくちゃになってますが、一応時系列的にこの辺に位置するものなので、載せておきます。
 UPにあたって文章もできるだけ直しましたが、やりようがないところはそのままにしてしまいました。ていうか、直しようが無かった……。
 
 テーマはずばり、薪さんの女装ネタです。アニメの室長を語る上で、女装は欠かせませんよね(笑)
 女装に抵抗のない方のみ、ご笑覧ください。






室長の災難(1)





「おとり捜査、ですか?」
 形の良い眉を困惑にひそめて、薪は問い返した。
「現場の捜査は、捜一の仕事でしょう。捜一からクレームがきますよ」
「その捜一からの依頼なんだ」
 田城の言葉にますます不可解な顔つきになって、薪は口を閉ざした。
 夏の名残の日差しが眩しい、九月の午後のことだった。



*****



「おとり捜査? 第九が? まさか」
 思わず大声が出てしまった。
 もともと素直な性格で、人も良いからすぐに騙される。またもや先輩の冗談にひっかかってしまったか、と青木は思った。
 しかし、今回は違ったらしい。
 情報を仕入れてきた小池に次いで、宇野が事情を説明してくれた。
「ほら、例の美女ばかり狙った連続殺人。あの容疑者が固まったらしいんだけど、証拠がどうしても掴めないそうだ」
「ああ。被害者はみんな頭部を潰されてて、脳が見られなかったんですよね」

 8月の上旬から起こった連続殺人は、既に5人もの被害者を出していた。
 被害者はいずれも20代の女性で、背後から鈍器で殴られて気絶させられ、犯されたうえに惨殺されている。捜一の捜査上に、被害者の共通点は未だ浮かんでこない。あるとすれば、みな非常に美しい女性ということだけだった。

「面食いの強姦魔ってことなんだろうけど」
「それでおとり捜査ですか。どうなんでしょうね、それって。いや、でもうちは関係ないでしょう。第一、おとりになるっていっても、うちに女の人なんていないじゃないですか」
「……いるだろ、ひとり。女性じゃないけど」
「そう。普通の女性よりはるかにきれいな顔した人が」
「え? それって……いや、ないですよ! それは絶対にないです!!」
 ここに到って、鈍い青木もようやく理解した。捜査一課のご指名が誰なのか。
 しかし、青木はその人物に以前「第九の人間が囮捜査や尾行をするようになったらおしまいだ」と言われたことがある。当の本人がそれを承諾するとは、到底思えなかった。

「薪さんがそんなこと承知するはずないです。きっと断ってますよ」
 自信たっぷりに言い切った青木だったが、正式な捜査協力をそう簡単に断れない事情もよく知っていた。
 昨年の夏に起きた警察組織の根幹を揺るがすような不祥事の舞台となった第九は、未だその汚名を返上しきれていない。それは事件の張本人の薪が室長の座に居座り続けていることも大きな要因になっているのだが、薪以外にこの職務をこなせるものが存在しない以上、仕方のないことだ。
 もし、薪が室長の座を追われるようなことになったら、おそらく第九は崩壊する。それを望んでいる輩も大勢いるのだが、第九の職員たちは一丸となって彼らに立ち向かうつもりでいる。
 しかし、現実に弱い立場であることには変わりない。
 警視庁の花形部署、捜査一課と比べるとその評価は雲泥の差だ。その捜一からの協力要請は、実質的な捜査命令だ。命令には逆らえないのが組織というもので、それは室長といえども例外ではない。

 青木が悶々と考え込んでいると、目の前にぬっと何かが突き出された。
「はい?」
 栗色のロングヘアと金髪のパーマヘア。もちろん女物のウイッグだ。
「おまえ、どっちにする?」
「はあ!?」
「薪さんひとりに危ない役目を押し付ける気じゃないだろ」
 つまりそれって……。

「ぜったい、ムリです!!」


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室長の災難(2)

室長の災難(2)







「気は確かなんですか? 捜一は。それとも、捜査が行き詰ってしまって自棄になってるんですか?」
「まあ、薪くん。少し冷静になって」
「田城さん、僕は男ですよ。レイプ事件の囮になんてなれませんよ。いくら暗がりでも犯人が間違えるわけないでしょう。一体だれが言い出したんですか、こんな馬鹿げたこと!」
 いつもの冷静な仮面をかなぐり捨てて、薪は上司の机を勢いよく叩いた。
 怒りに血が上っているのか、頬がいくらか紅潮している。本人の主張とは裏腹に、確かにこの美しさなら美女で通るのではないか、と田城は心の中で呟いた。
 亜麻色のさらさらとした髪。肌理の整った白い肌。瞬きするのに邪魔ではないかと心配になるほどに長い睫。鼻梁はあくまで細く、すっきりと通っている。雄弁だが小さい口唇は、まるで紅を差したかのようにつややかで肉感的である。きりりとした意志の強そうな眉がもう少し優しげなら、女性と言われても頷いてしまいそうだ。
 もちろん、口に出しては言わない。言葉にしたが最後、この青年の重戦車級の攻撃に遭ってしまうからだ。

「私ですよ、薪室長」
 隣の部屋に続くドアが開いて、背の高いすらっとした体つきの男が現れた。薪と同い年くらいで、俳優のような色男である。女性にはもてそうだ。
 竹内誠。
 階級は警視。捜一のリーダー的存在で、第九排斥組の先鋒である。
 その男を見る薪の目が、すっと細められる。敵を見る猛禽類のような険しい眼差し―――― が、それは一瞬のうちにかき消され、敵に前にしたときの無表情な顔になる。相手には聞こえないように舌打ちした唇が、皮肉な笑みを浮かべた。

「あなたでしたか。それなら納得です。さすがに捜一のエースは違いますね。感服しますよ。常識の欠片でもあれば考え付かないような作戦です」
「いやいや。私どもがいくら頭をひねっても、第九のエリート集団にはかないませんよ。なんたって室内に引きこもったまま、覗きのような真似をするだけで犯人を捕まえてしまうんですから。大したものです」
 竹内の第九批判に、薪の目が凶悪な光を宿す。
 引きこもりだの覗き野郎だのといった中傷を陰でされているのは知っているが、面と向かって言ってくるのはこいつくらいのものだ。

「その引きこもりに囮になれと?」
「もちろん、うちの方でも手は尽くしているんです。しかし、ご存知のとおり行き詰っていましてね。もうこれは、警察庁始まって以来の天才との噂も高い薪室長に助けていただくより他はないと」
 薪の皮肉が10倍になって返って来る。この男との会話は、いつもこの調子だ。
「べつに僕は天才なんかじゃありません」
「警視正の昇格試験を、過去最高得点でパスされたんでしょう?」
「女装してのおとり捜査に、試験の結果が関係あるんですか?」
「ありますとも。幅広い知識、とっさの判断力、卓抜した捜査能力。薪警視正をおいて他にこの大役が務まる人間がいるとは思えません」
 馬鹿丁寧な言葉の裏に隠されたこの男の本心を、薪は知っている。
 いやがらせだ。
 この男は薪を徹底的に嫌っている。薪のほうも虫唾が走るほどに嫌っているから、そこはお互い様なのだが。

「女子職員を使うことも考えたのですが、非常に危険な任務なので躊躇しましてね。尾行をつけると囮になりませんから、発信機を使います。しかし、強姦殺人ですから。駆けつけたときには犯人に孕まされてた、なんてことになったら大変でしょう。
 その点、あなたなら心配ないでしょう?」
「確かに、僕は何をされても妊娠はしませんけどね」
 大きくため息をついて肩をすくめ、言葉にするのも馬鹿馬鹿しいという口調で薪は吐き捨てた。
「強姦殺人ですよ。被害者は妙齢の女性ばかり。しかも、えらく面食いな犯人だそうじゃないですか」
「わかってますよ。だから薪室長にお願いしてるんじゃないですか。減るもんじゃなし、犯人を検挙するためです。スカートくらい穿いてくださいよ」
「スカート穿いたからって、僕が女に見えると思いますか!?」
「それは大丈夫」「大丈夫」
 ぴきっ、と何かが引きつる音が聞こえたような気がした。

「……田城さん。いま、セリフかぶってませんでした?」


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室長の災難(3)

室長の災難(3)







 いつもより三割増しの速さで、薪は第九への通路を歩いていた。
 所長室から退室する際に、竹内に言われた言葉が薪から冷静さを奪っている。

『官房長をたらしこんだ色香で、犯人も引っ掛けてくださいよ』
 所長の田城に聞こえないように薪に耳打ちされたそのセリフは、署内のあちこちで嘲笑とともに囁かれているらしい。その噂は、薪が27のときに官房長直々の特別承認を受けて警視正に昇任し、第九の室長に抜擢されたことに端を発しているようだが、もちろん事実無根だ。アホらしくて否定する気にもなれない。
 それにしても、田城まであんなことを言うなんて。まったくひとを馬鹿にしている。自分のどこが女に見えると言うのだ。確かに少し背は低いかもしれないが。
 163cmという身長が、薪の唯一のコンプレックスだった。
 こればかりはどうにもならない。その他は十分男らしいのに、とまあ自分のことは見えないものである。

 自動ドアが開き、見慣れた第九の風景が薪の目に映る。
 コンピューターだらけの部屋。壁一面の巨大なスクリーン。素人にはどう扱って良いか見当もつかないであろう、専門用語だらけの操作機器。
 ここがいちばん落ち着く。が、この日ばかりは違った。

「あ、室長がコケた」
「めずらしいですね」
「大丈夫ですか?」
「こっちの台詞だ!」
 薪にしては珍しい失態だった。
 腰砕けになって床に座ったまま、怒鳴り返した声はいつものアルトよりオクターブ高く、完全に裏返ってしまっている。
「おまえら、どう、どう……!!!」
 顔色もいつもの白さを通り越して、蒼い。
 無理もない。
 見慣れた部下たちが全員化粧をしてカツラを被り、女装していたのである。

「おまえらみんなして二丁目でバイトでもする気か! なんなんだ、その格好は!」
「いや、なんか、室長が囮になるって聞いたから」
 栗色のロングヘアの190cm近い大女。……青木だ。まだ着替えは済んでいないらしく、ネクタイをしたままだ。いや、青木の体に合う女物の服が無かったのか。
 小池は金髪のショートへアにピンクのワンピース。宇野と曽我は、黒髪のワンレングスにブラウスとスカートといういでたちで、準備万端である。

「だからって、なんでおまえらがそんな格好してるんだ」
「薪さんにだけ危険なことさせられませんよ」
 喜ぶべきことなのだろう。
 上司を思いやってくれる部下の気持ち。確かにありがたいことだ。
 しかし。
「おまえら、捜一の捜査を潰す気か!」
 どんなに好意的に解釈しても、受け入れられない現実というものはあるのだ。

「しかし薪さん」
「ひぇえ!」
 反射的に、薪の体が3mほど飛びのいた。
「ひええって」
「おっ、岡部!? お化けかと思った」
 確かに、こわい。
 岡部はもともと精悍な顔立ちで、ひげも濃く男くさい男なのだ。しかし、誰よりも薪のことを思い、その身を案じて心配しているのはこの男である。薪のために一肌脱ぐとあっては、男のプライドもなんのその。
 でも、こわい。

「オバケはひどいですよ」
「ひどいのはおまえの顔だ。とにかく、おとりは僕ひとりで十分だ」
「受けたんですか?」
 青木が驚きの声を上げる。少し非難めいているようにも聞こえる声音だった。
 それに対して薪は弁解がましいことは何も言わず、ただ頷いた。
「捜一に恩を売っておくのも悪くない。それに、無料奉仕(タダ)じゃない」
「タダじゃない?」
「今回のおとり捜査が功を奏して犯人を逮捕した暁には、正式発表は、捜一と第九の合同捜査であることを明言してもらう」

 ほっそりした指に挟まれた一枚の紙。
 誓約書、とある。竹内誠・田城良治の署名入りだ。
「捜一のバカ(竹内)は、どうせうまくいくはずがないと思ってサインしたんだろうが、約束は守ってもらうぞ。おまえら、早く着替えて仕事に戻れ」
 いつもの冷静さを取り戻して、薪は室長室に入っていく。ほっそりした背中に、冷たい怒りが燃えているようだった。

「相変わらず捜一とは仲悪いですよね」
「正反対の部署だからな。捜一にしてみりゃ、現場にも出ない聞き込みもしない、そんな捜査方法を認めるわけにはいかないんだろうよ。俺も昔そうだったしな」
「しかし、合同捜査であることを世間にアピールするって……室長、総監賞でも狙ってるんですかね?」
 小池が不思議がるのも無理はない。薪がこんなことを言い出したのは初めてだ。
 薪は出世には興味がない。興味があるのは事件のことだけだ。誰もがそう思っていた。それが世俗的な条件と引き換えに、今回の件を引き受けてきたと言う。

「俺たちのためだろ」
 薪の心を誰よりも知っている岡部が、即答する。
「薪さんは自分の出世には無関心だ。だが、部下である俺たちまでそうなることはないと思ってる。第九を守り、俺たちを守るためには、世間で叫ばれている第九への非難の声を少しでも抑えなくてはいけない。第九の有能さを世間にアピールすることは、必要なことなんだ」
 あまり表には出さないが、薪は確かに第九という職場を愛していた。自分についてきてくれる部下たちのことも。
 自分はいつも矢面に立って、一番いやな役はいつも自分で引き受けて。そんなことはおくびにも出さず、冷静な仮面をつけて仕事をこなす。
 やっぱり室長は、第九職員全員の憧れだった。


 

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室長の災難(4)

室長の災難(4)






 白衣を翻し、彼女は第九への通路を急いでいた。
 背筋をぴんと伸ばし、颯爽と歩く。気の強そうな顔には、何やらいたずらっ子のような表情が浮かんでいる。

「三好先生。解剖所見、わざわざ先生が持ってきてくれたんですか?」
 法医第一研究室の三好雪子女史だ。彼女と仲の良い青木が、席を立って書類を受け取りに行く。
「こっちはついで。見物に来たのよ。あとこれ、差し入れね」
 ハンバーガーの入った大きな紙袋を青木に預けて、にやーっと笑う。
「薪くん、女装するんですって?」
「やっぱり。あんまりからかわないで下さいよ。ただでさえピリピリしてるんですから」
「こんな面白いもの見逃せません、監察医として」
「監察医、関係ないでしょう」
 笑いながら室長室へ入っていく。そこでは薪が化粧の最中だった。

「薪くーん、陣中見舞いよー。って、キャ―――!!」
 悲鳴と同時に飛び上がる。その声は明らかな恐怖で満たされていた。
「なに? なんなの!? お化け屋敷のバイト!?」
「え……岡部と同レベル?」
 監察医という仕事柄、恐ろしいものを見慣れているはずの彼女をこれほどまでに驚愕させたのは、薪の変わり果てた姿だった。

「まあね、化粧の上手い男なんて、気持ち悪いけどね。」
 化粧品の数々―――― 男にとっては、未知の世界だ。どの順番で何を使って良いのか分からず、いい加減に塗っているうちに原型を留めなくなってしまったらしい。
「とにかく、それ落として。石鹸じゃ駄目よ、クレンジング使って。って、パック塗ってどうすんのよ。違う、それ除光液!」
 見るに見かねて、雪子はクレンジングとコットンを手に取った。

「女の人って、毎日こんなことしてるんですか? 朝の忙しい時間帯に?」
「そうよ。尊敬しなさい」
「はい」
 コットンに化粧が移っていくに従って、薪の美しい素顔が現れる。
 やわらかい肌、長い睫。睫毛の上にマッチ棒が3本乗るのが自慢の友人がいたけど、こちらはマッチが箱ごと乗りそうだわ、と心の中で舌打ちする。女性には少々、複雑な気持ちを起こさせる美貌である。
 幼な子のような透明感のある白い肌。しみひとつない。あまり外に出ない職業柄かもしれないが、それにしてもこれが男の肌とは。
「薪くん、洗顔料なに使ってるの?」
「メンズビ○レです」
 聞くだけ無駄だったようだ。雪子が使っている洗顔料の10分の1の値段で買える量販品で誰もがこの肌になれるのなら、エステは商売として成り立たない。

「初めに化粧水、乳液、下地クリーム。頬に赤みをのせたければオレンジの顔料、逆に白くしたければ緑色の顔料……聞いてる?薪くん」
「すいません。どれが化粧水で、どれがえっと、乳剤?」
「顔に塗ったら面白いでしょうね」
(乳剤=道路の舗装材の下に撒くどろどろの黒いタールのような液体)

 結局、基礎化粧からやってあげることになる。まあ、薪くんの化粧した顔を一番最初に見られるものね、とまんざらでもない雪子である。元来姉御肌で面倒見が良い彼女のこと、口で言うほど怒ってはいない。
 白い肌に、すうっと化粧水がなじむ。乳液も下地クリームも、びっくりするくらい良くのびる。本当に、子供のような肌をしている。化粧のノリはすこぶる良い。
 このまま肌の色に補正の必要はないと判断して、ファンデーションをのせる。ごく薄くしないと、せっかくの透明感が損なわれてしまいそうだ。

「アイシャドウは何色にする? 髪の色に合わせて、ブラウン系でまとめようか」
「お任せします」
「つけまつげは必要ないわね。マスカラだけでいけそう。チークはピンク系かオレンジ系か。ん~、薪くん、口紅塗るから動かないで……はい、できたわよ」
 さっきの失敗を思い出してか、薪はおそるおそる目を開けた。

 鏡の中には、自分によく似た女性が映っている。どこから見ても立派な女性だ。
「雪子さん会心の出来だわ。楽しいわね、人に化粧するのって」
 じっと見ても女にしか見えない。自分でもこんなになるとは思わなかった。どうしてこんなに線が細く……?
「っ、眉……雪子さん! 僕の眉毛!」
「あ、剃ったわよ。薪くん、眉毛だけはいくらか男らしいから」
「冗談じゃないですよ! これじゃまるっきり女の子……!」
「だって、女装しておとり捜査でしょ? 女の子に見えなきゃ困るんじゃないの?」
 いや、それは確かにそうだけれど、でもしかし、ここまで女性そのものにならなくても……!!

 往生際悪く、しばらく何か言い返そうと口をパクパクしていた薪だったが、やがてがっくりと肩を落とした。
「こうなったら、何が何でも捕まえてやる。眉毛の恨み、思い知らせてやる」
「あたし、なんかマズイことした?」
 凶悪犯罪に対する義憤や正義感。そこに逆恨みが加わって、薪のやる気は臨界点を超えそうだった。


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ジャンル : 小説・文学

室長の災難(5)

室長の災難(5)







 室長室から聞こえていた喚き声が途切れて、静かにドアが開いた。
 雪子に続いて、室長室から美しい女性が出てくる。
 ワイシャツ姿に亜麻色の短髪。耳元のイヤリングと、白い首筋が眩しいくらいだ。
 形の良いやさしげな眉。長い睫に縁取られた大きな二重の眼。頬はほんのりと色づき、明るい雰囲気をかもし出している。あどけなさを残す唇は赤く縁取られ、グロスのおかげでより一層つややかに、むしろ妖艶でさえある。
 街を歩けば、十人のうち十人が振り返りそうな美女であった。

「ま、薪さん?」
「うわあ、見事に……」
 短髪の美女が、きつい目でこちらを睨む。睨まれたほうがクラクラしそうなほど美しい。
「それ以上、言うなよ。3日くらい徹夜で仕事させられるぞ」
 岡部が曽我にそっと呟く。賢明な第九の職員たちは、みな一斉に口を閉ざした。

 そこに、手提げ袋を持った青木が現れた。ぽかんと口を開いたまま動かない。
「見とれてるわね」
「分かりやすいですね」
 呆れたように雪子が言うと、曽我が相槌を打つ。ワイシャツ姿の美女は動かない青木に近づき、手提げ袋に手を掛けた。自失していた青木が我に返る。

「着替えはこれか」
 おとり捜査用の衣装を捜一から受け取ってくるよう命じられたことを思い出して、青木は慌てて手提げ袋を薪に差し出す。渡そうとして、急にかぶりを振る。
「やっぱり駄目です。室長、襲われちゃいますよ」
「襲われないと、おとりにならないだろう」
「駄目ですってば! 強姦魔ですよ!」
「平気だ。僕は男だ」
「平気じゃないですよ! 男だって安全ってわけじゃ」
「妊娠はしない」
「いや、その前の段階があるでしょう」
「うるさいな! ケツの穴のひとつやふたつ、ガタガタ言うな! 眉毛のほうが大問題だ!」
「ケッ……まゆ……? はあ?」
「よっぽど眉毛、大事だったのね……」

 きれいな顔にそぐわない会話で、呆然とした青木から手提げ袋を奪い取る。躊躇なく袋の中身を取り出した薪の顔が、しかし瞬時に青ざめた。
「まあ。かわいいキャミとミニスカ」と、雪子の声。
 絶句。
 きっと似合いますよ、なんて思っても言えない。言ったらブリザードが吹き荒れそうだ。

 固まった空気を破るように、薪は突然、室長室に駆け込んだ。
 どかん! と何かを蹴飛ばす音と、がしゃん! と何かを投げる音。続いて「くっそー! あのやろー!」と口汚く罵る声が聞こえる。
 モニタールームの空気がますます重くなった。
 ふと、静かになる。
 しばらくして、室長室のドアが開いた。

「雪子さん。これ、どうやって着るんですか?」
 薪はパットの入ったブラを持っている。雪子は上を向いて、大きなため息をついた。





*****



 「3体連続解剖より疲れたわ」
 第九の応接用テーブルに両肘をついて、雪子は頭を抱えた。第九の新人がコーヒーを淹れてきてくれる。その味と香りに、雪子は目を丸くした。
 「美味しい。喫茶店のコーヒーみたい」
 「ありがとうございます」

 コーヒー好きの薪のために、青木は日々精進を重ねている。
 この頃はブレンドの楽しさも覚えて、今日はモカをベースにマンデリンとブラジルを1割ほど。香りが良くてコクがあり、ボディが強くて後味が良い、薪の好みにぴったりのブレンドをただいま模索中だ。
 「助かりました、三好先生。女の子の服なんて、みんなよくわからないから」
 「詳しかったら怖いわよ」

 捜一が用意したのは、シースルーのキャミソールとタイトのミニスカートだった。
 派手ではあるが、趣味は悪くない。ただ、男に女装させるというシチュエーションでは、嫌がらせ以外の何ものでもなかった。
 嫌がる薪に、女物の下着をつけさせるのは骨が折れた。上はともかく、問題は下だ。
 あのスカートの短さでは、屈んだときに間違いなく下着が見えてしまう。だから見せるための下着が一緒に入っていたのだが、それをつけるのはかなりの屈辱だったようで、さんざん煩悶した挙句に室長室のキャビネットをぼこぼこにして、竹内への呪いの言葉を吐き散らしながら、薪はやっと着替えを終えたのだ。

 「薪くんは?」
 「捜一の竹内さんのところへ、打ち合わせに行きました」
 「そうなの?見に行かなくっちゃ」
 「先生、どんだけヒマなんですか」
 「だってあたしも竹内のヤロー、嫌いだもん。あの薪くんを見てどういう反応するか、あいつの間抜けたツラ、見たいじゃない?」




*****


 すみません、すみません、すみません・・・・・。
 うちの薪さんはホントに口が悪くて・・・・・育て方を間違えたみたいです(^^;





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室長の災難(6)

室長の災難(6)







 竹内誠は、目の前の美しい女性に見とれていた。
 肩にかかる亜麻色の髪を、鬱陶しそうにかきあげる。ちらりと見える白いうなじが、たまらなく艶かしい。
 形の良い耳たぶにプラチナのイヤリング。今時ピアスでないのは少し不自然だが、華やかさを演出するには充分だ。
 花のようなかんばせ―――― 一番先に目に付くのが、つややかな唇である。
 男の支配欲を直撃するような、その濡れ方。
 果実のような口唇は、思わずふるいつきたくなるような強力な引力をもって男を誘う。この女性と差し向かいでグラスを傾けたら、そのまま彼女を家に帰せる男が、果たしてこの世にいるだろうか。

「聞いてます? 竹内さん」
「はっ。え?」
「人員の配置はここに1名、それから向かいの角に1名ですね?」
「はい。いや、1名じゃ足りないでしょう。5名ずつに増やしましょう」
「はあ? それじゃ目立ちすぎでしょう。犯人どころか誰も寄ってきませんよ」
「え? あ、はあ、そうですね」
 なんとも間抜けな受け答えである。

 どうしてこんなことになったんだろう、と竹内はつい先刻までの自分を思い出す。
 先刻まで、確かついさっきまで、部下の大友と「あの憎たらしい第九の室長の泣きっ面を肴に、今夜は一杯飲もう」と笑い合っていたはずだ。
 どうせあの衣装を見て、ムリですと詫びを入れてくるか逆ギレしてくるか、万が一それを着てくれば思いっきり嘲笑ってやれる。いずれにしても、笑える展開になるはずだった。
 ところが。

 この美しい女性は何者だ?
 この女性が現れてから竹内はいつもの冷静さを欠き、しどろもどろに的外れなことしか言えなくなったのだ。
 こんな展開は、ない。こんな可能性は微塵も考えてなかった。
 いくら顔が女みたいだからといっても、体は男のはずだ。いくら華奢でもこんな女物の、しかもMサイズの衣装が着られるか、普通?

「よく着られましたね。それ」
「自分で用意しておいて、それはどういう……」
「いや、サイズの話です」
「少し大きかったです。肩紐は簡単に落ちるし、スカートは緩いです。ほら」
 言葉の通り、肩を傾けると肩紐が外れ胸元が覗く。パット入りの下着を着けているだけで実際に乳房があるわけではないと理性では分かっていても、つい眼を逸らしてしまう。肌の白さが眩しい。
 ウエストが緩いのも本当らしい。よく見なければ分からないが、タックを寄せて安全ピンで留めてある。どうやら第九にも、女性の協力者がいるようだ。化粧もやたらとうまいが、おそらくその協力者の仕事だろう。
「でも、大きいほうが動きやすいし、キツイよりは良いですから。女性の服でも、こんなに大きいサイズもあるんですね」
 標準サイズであることは黙っていよう、と竹内は思った。

 しかし、困った。
 ここまで美しい女性に化けてこられたら、おとり捜査を断念する理由がない。正式な捜査依頼をしたものの、絶対に断ってくると踏んでいた。そうしたら、第九の非協力的な態度を非難してやろうと思っていたのだ。
 第九との合同捜査など、とんでもない。手柄は捜一のものだ。現場は捜一の舞台なのだ。
 いや、何より、これでは本当に襲われてしまう。
 竹内は、薪にそこまで危険なことをさせるつもりはなかった。薪のことは大嫌いだが、別に怪我をさせてやろうとか、しばらく動けなくなってしまえばいいとまでは思っていない。ただほんの少し、その生意気な口を黙らせて悔しがらせてやればいい―――― その程度の意地悪だったのだ。

「じゃ、発信機は2基、イヤリングと髪飾りに仕込みます。作戦の開始は20(フタゼロ):00(マルマル)。吉祥寺の前坂交差点付近の例の店で。よろしくお願いします」
 慣れない長髪を後ろに払って、彼女は立ち上がった。小道具のバックを持って部屋を出て行こうとする。遠巻きに見守っていたギャラリーが、一斉に道を空けた。

 やはり、止めるべきだ。竹内は、彼女のすらりとしたきれいな足に視線を釘付けにしながら決心した。
 もし彼女の身に何かあったら、自分の責任問題だ。うん、ここは男らしく俺の方で折れてやろう。
「あっ、ちょ、ちょっと」
「なにか」
「やっぱり止めましょう。危険すぎます」
「なに言ってんですか、いまさら」
「いや、でも、危ないですって。本当に」
「正式な捜査協力依頼ですよね?」
「あれは取り消します。取り消しますから」
「はあ?」

 つかつかとヒールの音を響かせて、彼女は竹内のそばに戻ってきた。
 ジルコニアの花のネイルアートが施された華奢な手が、竹内のネクタイを掴もうとした。が、長い付け爪が邪魔をして、力が入らない。
 どうやら襟元をつかんで引っ張りあげる、というのをやりたかったらしいが、それはこの身長差では爪がなくても無理だろう、と竹内は思った。
 彼女の方もそれは諦めたようだ。チッと舌打ちして「邪魔だな」と爪を見て、それから竹内にぐっと顔を近づけてきた。
「取り消しなんか、利くわけないでしょう」

 きつい眼光。捜査会議のときに、時折見せる猛禽類のような鋭い眼差し。あの眼で睨まれると泣く子も黙ってしまう、と評判の氷のような眼。
 しかし、今は違う。
 扇情的というか、誘われてるというか……間近に見ても、女性にしか見えない。もとい、女性だ。これはあの憎たらしい第九の室長じゃない。自分たちの苦労の上前をはねて、結果を出したもの勝ちだと言いたげに現場の人間をせせら笑う、あの男とは別人だ。

「人にこんな格好までさせといて、冗談じゃ済みませんよ。おおかた公約のことが不安になったんでしょうが、約束は守ってもらいます。警察官が嘘ついたらお終いでしょう」
 あの蠱惑的な口唇が一個の生き物のように動いて、何か言っているが理解できない。こんなに至近距離に来られては、冷静になどなれない。
 沈黙を了解と取ったのか「それじゃ、よろしく」と言って踵を返し、今度こそ本当に彼女は部屋を出て行ってしまった。華奢な後姿は細いながらにしなやかで、モデルのような美しい足にはハイヒールが嫌というほど似合っている。

 呆然と見送る竹内に、部下の大友がこっそりささやいた。
「どうすんですか、竹内さん」
「どうしよう」
「やばいでしょ、あれ」
「そうだよな、ぜったい標的になるよな。どうしよう。彼女になにかあったら、俺」
「……あんたのほうがやばいよ」
 
 とりあえず、今日の飲み会は中止だ。
 居酒屋の予約を取り消すために、大友は携帯電話を取り出した。


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室長の災難(7)

室長の災難(7)





 研究室に戻るや否や薪は現場の地図を広げ、部下たちを呼び集めた。
「作戦を説明しておく。被害者のうち2人が吉祥寺の『K』という店で、容疑者と話しているところを目撃されている」
 きらきらと光る花をあしらった長い爪が、一枚の写真を指し示す。写真の男は、年の頃25、6の、人気俳優の誰とかによく似た美男子だった。
「僕はこの店に午後8時に入る。8時半に小池、僕の携帯に電話を、っておまえら聞いてんのか!?」

 怒鳴りつけられて、部下たちは我に返った。
 しかし、この状態で仕事に集中しろと言うほうが無理な注文だ。
 もともと警察官には出会いが少ない。女性に対する免疫が少ないのだ。しかも、第九に妻帯者はいない。目の前の美しい女性に気をとられるなと言われても。エリートの彼らにも、男の本能はあるのだ。

「岡部」
 腹心の部下に、地図上の地点をいくつか示し、指示を与える。
「被害者の遺体が発見された場所だ。おそらく、この近辺で事件は起きている。被害者には激しく抵抗した痕跡が残っていることから、音の漏れない場所、逃げ回れるスペースがある場所、人の来ない場所―――― 倉庫か廃ビル等。今からでは間に合わないかも知れないが、あたってみてくれ。こういう捜査はおまえが一番早い」
「わかりました」
 手早く手帳に地図を書き取り、元捜一のエースは頷いた。できれば室長の護衛の方を担当したかったが、仕方ない。

「小池はここで連絡係だ。8時半に僕の携帯に連絡をくれ。それから携帯はずっと繋いでおく。なるべく犯人との会話の中に場所を指す言葉を入れるようにするから、岡部に連絡して捜査範囲を絞れるようにしてくれ。おまえが一番、会話を読むのが上手い」
 文系出身の小池は、捜査二課で詐欺事件を主に担当していた。何気ない会話の裏側を読むのは得意中の得意だ。
「曽我はここのコンビニで張り込みだ。私服に着替えて9時頃に来てくれ。この店から大通りに出るには、必ずここを通る。尾行はおまえの得意分野だろう?」
 曽我はやはり二課で窃盗事件を担当していた。特に電車内のスリの現行犯逮捕の実績はだれよりも高く、目立たない容姿が尾行に最適であることが大きな武器になったようだ。
「宇野は被害者の脳を見て、無事な部分から何とか情報が引き出せないか、やってみてくれ。新皮質が潰れてしまっていても、島皮質のほうに何か映っているかもしれない」
「外側溝ですか? 時間がかかりますよ」
「だからおまえに頼むんだ。機器操作の速さ、正確さでおまえの右に出るものはいない」
 宇野は情報処理の専門家で、MRIシステムに誰よりも精通している。もともとは所轄にいたのだが、宇野の経歴を見た薪が第九に引き抜いたのだ。

「捜一のバカどもはあてにならん。僕のサポートはおまえたちに任せる。みんな、頼んだぞ」
「はい!」
 部下たちが張り切って持ち場に散らばる。
 滅多に人を褒めない室長に少しでも褒めてもらえれば、俄然やる気も沸いてくる。人に頼らない性格の室長に頼られれば、死んでも守ろうと思えてくる。ここぞというときに部下のやる気を引き出す、薪は優れた上司だった。

「あの、室長。オレは?」
 一人だけ指示を与えられなかった青木が、不安そうに室長を見る。まさか、自分だけ外されたのか、と心配になったようだ。
「おまえは僕と一緒だ。ちょっと来い」
 薪は室長室に入り、自分の机から小さな電卓のようなものを取り出した。
「おまえにはこれを預ける」
 手のひらに収まる、小型のモニター。発信機の受信装置である。

「犯人側は拉致する前に発信機や盗聴器の確認をしてくるだろう。今は発信機を感知する機械が市販されているからな。でも、電波を発しない状態なら感知はされない。だから、拉致されてからこの発信機の電源を入れる。大丈夫、その場では殺されない。捜一が用意した発信機が取り上げられたら、おまえだけが僕の居場所を知ることになる」
 澄んだ双眸が、青木を映す。
「今日はこの服のせいで、防弾チョッキが着られない。だから」
 その眼に、迷いも恐れも、ない。
「僕の背中はおまえが守れ」
「はい!」
「発信機の電源が入るまでは岡部を手伝え。二手に分かれて捜査を進めろ」
「わかりました」

 強い人だ、と青木は思う。その名の通り、剛い。
 みんな女の子のような見かけに騙されるが、薪は実に男らしい。
 頭が良くて決断力があって、仕事ができて正義感が強い。浮いた噂がないのは世間の非難の的である第九の室長という立場と、キツイ性格のせいだ。

 モニタールームに戻ると、法一に帰ったはずの雪子が再び第九を訪れていた。
 5人目の被害者を解剖してきたところだという。そこで見つけた新たな情報を、薪にこっそり教えに来たのだ。
 今までも彼女は、こうして何かと情報を隠したがる捜一の目を盗んでは、有益な情報を第九にもたらしてきた。薪が彼女に頭が上がらない一因である。

「ドラック?」
「そ。ドラック。今回は、被害者の発見が早かったから体内に残ってた。このタイプは一日で体から抜ける。ドラックの効果は、一時的な手足の麻痺と性的な興奮状態の維持。早い話、これ飲んだら一時間後には効いてきて、4時間は天国に行きっぱなしってこと」
 まだ22、3の若さで、そんな目に遭って死んでいった彼女たちが不憫でならない。表情には出さないが、薪の心は義憤に猛っていた。

「それと、犯人は一人じゃないわよ」
「え!?」
「被害者の体内に残された精液は、何人かのものが混じってた。血液型だけで分けても3人。もしかするともっと多いかもしれない。DNA鑑定にはもう少しかかるわ」
「聞いてませんよ、そんな話。やっぱり危険すぎますよ」
 心配そうに眉を寄せる青木を横目に、薪は冷静な態度を崩さない。それどころか、静かな怒りがますます彼を美しくしているようだった。
「いまさら後に退けない」
「薪さん」
「退く気もない」
 言いよどむ青木の前に、雪子がぬっと手を出した。

「これ、飲んでみる? ドラックの作用を打ち消す薬。まだ試薬段階だけど」
「雪子さん」
「副作用は人によるけど、頭痛、眠気、倦怠感、吐き気。でも、本当の天国へ行くよりはましでしょ」
「ありがとうごさいます」
 素直に礼を言って、薪は微笑んだ。本当に彼女には助けられてばかりだ。
「あたしだって女よ。こいつらのこと、絶対に許せない。頑張ってね、薪くん」
「はい」
 複雑な表情で二人を見ていた青木は、やがて嘆息して岡部の応援に回ることにした。
 もう、それほど時間はない。作戦開始まであと2時間弱。

「あ、雪子さん。もうひとつ聞きたいことがあるんですけど」
「なに?」
「男の引っ掛け方っていうか、逆ナンの仕方っていうか」
「……それ、あたしにはムリだわ」
「やっぱり?」
 薪はもう一度、容疑者の写真を見る。この男にうまく近づかなくてはならない。しかし自慢にもならないが、30年以上生きてきて、自分から初対面の相手にそういう目的で声を掛けたことなど一度もない。

「捜査官に、ナンパの技術が必要だとは思いませんでした」
「監察医にも要らないわよ、普通」
 恋愛ゲームに疎い2人の男女は、一緒にため息をついた。



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室長の災難(8)

室長の災難(8)







 田崎良彦は、その女が店に入ってきたときから目を付けていた。
 ふんわりとウェーブがかかった亜麻色の長い髪。同じ色のやさしげな細い眉。二重の大きな双眸はやはり亜麻色で、純粋な日本人ではないようだ。
 形の良い小さい鼻。肌は透き通るように白い。赤いルージュをひいた唇をすぼめ、ストローを咥える。そんな当たり前の仕草が驚くほど艶っぽい。

 ちらちらと彼女の方を見ているのは、自分だけではないようだ。が、ラッキーなことに自分の席からは彼女がよく見える。
 さっきから彼女は、何度も時計を見ている。どうやら待ち合わせらしい。耳元のイヤリングや念入りな化粧から、相手は男だろうと推測する。
 しかし、相手は時間に遅れているようだ。こんないい女を待たせるなんて、不届きな奴もいたものだ。
 コーヒーのグラスが空になり、彼女は明らかに苛立ち始めた。時間の確認はもう6回目だ。
 今なら、ものにできるかもしれない。

「待ち合わせですか?」
 いきなり前の席に座った不躾な男に、彼女の視線は冷たかった。
「失礼ですが、ずいぶん待たされてますよね。彼が来るまでの間だけでも、僕とおしゃべりしません? あんまりきれいな人なんで、ずっと気になってたんですよ」
「あの」
 彼女が何か言おうとしたときに、携帯電話が鳴った。
「もしもし、小池くん? どうしたの……え、残業? またなの? はいはい、あなたのとこの上司が怖いのは知ってるわよ。でも、これで何回目だと思ってるのよ。3回に1回くらいは断れないの? 今月に入ってデートしたの、2回だけよね。
 ……わかった、もういいわ。立派なお仕事、頑張ってください。映画は一人で観に行きます。おっかない上司によろしく! ていうか、その上司と結婚すれば!? バイバイ!」
 目の前に他人がいるのを忘れていたのか、電話を切ってから気まずそうな顔になる。さっきの怒った顔は非常に魅力的だったが、困った顔は一変して可愛らしい。

「ごめん。なんか、タイミング悪かったみたいだね」
 彼女は黙ったままうつむいている。伏せられた睫毛が驚くほど長い。
「忙しいんだね、彼」
「いつもこうなの。すっごい、意地悪な上司なんだって」
「いっそのこと、浮気しちゃう?」
「え?」
 冗談だよ、とにっこり笑う。
 相手の反応は悪くない。恋人とケンカして、自棄になっている若い女。簡単だ。
「映画は一人じゃつまんないでしょ。オレで良かったら付き合うよ。ってか、付き合わせてください」
「ぷっ。素直なナンパね」
「男なら見逃せないでしょ、こんな美人。行こうか?」
 まだ少し迷っているようだったが、ここは押すべきだ。ネイルが映える華奢な手を掴んで、立ち上がらせる。

 自分の伝票と合わせて彼女の分も払い、連れ立って店を出る。店でちらちらと彼女を見ていた連中の歯噛みが聞こえるようで、いい気持ちだった。





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室長の災難(9)

室長の災難(9)







 誘い出すところまではうまくいった。
 途中のコンビニで、計画通り曽我が立ち読みをする振りをして待機している。後ろに一人、捜一の刑事が尾いている。今のところ計画に支障はない。
 田崎はだんだん、人気のない方へ歩いていく。
 馴れ馴れしく肩を抱いてくるのが気持ち悪いが、仕方ない。このまま騙された振りをして、仲間のところへ連れて行ってもらわなくては。

 いつの間にか寂しい通りに出ていた。通りには誰もいない。
 住居表示に「幸町3丁目」とある。目星を付けていた倉庫街の場所だ。
 突然、田崎は立ち止まった。慣れないハイヒールのせいで急には止まれず、体勢を崩した薪の体を、田崎は抱きしめた。
 反射的に蹴り上げようとした足をどうにか意思の力で抑えつけ、薪は身を固くした。田崎が唇を寄せてくる。もう、このまま適当に罪をでっち上げて捕まえてしまおうか、と思いながらも必死で逆らう。

「純情なんだ。今時、珍しいなあ。なんか、本気になっちゃいそうだ」
 鳥肌が立つ。女の子なら喜ぶのかもしれないが、自分は男だ。純粋に気持ち悪い。
「俺の部屋に来ない? 大丈夫。変なことしないから」
 きた。そこに仲間がいるのかもしれない。
「そこで何をしている?」
 唐突に厳しい声が響いて、現れたのはパトロール中の巡査であった。
「嫌がってるじゃないか。やめなさい!」
 ……まずい。
「いや、別にそんなんじゃないですよ」
「お嬢さん。この男とは前からの知り合いですか?この頃、この辺りで殺人事件があったんですよ。被害者はちょうど貴女くらいの年頃の方です」
 余計なことを。これでは、この男について行きづらい。
「このお嬢さんは私が送ります。家はどこですか」
 結局、田崎はその警官に追い払われてしまった。
 作戦失敗である。
 がっくりと肩を落として、薪はため息をついた。

「ご自宅はどちらですか?」
「大丈夫です。一人で帰れますから」
 この警官に罪はない。知らなかったのだ。若い女性が無理に迫られているのを見かけ、親切心で声を掛けた。それは警察官として正しい行動だ。しかし、計画を台無しにされたことに変わりはない。薪の口調が厳しくなるのも無理はなかった。
「いえ、送ります。あなたを一人にはさせられません」
「結構です」
 ハイヒールのせいで足も痛い。曽我が後ろにいるはずだから、車を呼んで第九に戻ろう。

 さっさと歩いて角を曲がる。ここにも人はいない。
「そうは行きませんよ、美人の刑事さん」
 背中にかかった言葉に、薪は驚愕した。 
 この警官、僕が警察関係者だと気づいている?

 驚いて振り返った。いや、振り返ったつもりだった。
 後ろから殴打され、薪はその場に崩折れた。
 警官が仲間――――!?
 
 角を曲がったばかりで、今ほんのわずかな間だけ、尾行の目は届かない。しかし、手馴れた猟師にはそのわずかな時間で充分であった。



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室長の災難(10)

室長の災難(10)




 
「見失った!?」
『すみません。角を曲がって1分も経ってなかったんですけど、どこにもいなくて』
「見失ったのはどの辺だ?」
『幸町の』
 尾行に付けた刑事から聞いた住所を調べ、竹内は地図に丸をつけた。
「一番近いのは、西山倉庫街か。おい、発信機の状況は?」
「西山倉庫の方へ動いています」
「よし、西山倉庫だ! 行くぞ!」
 捜一は俄かに慌しくなった。



*****



『岡部さん。薪さん、幸町で連絡途切れました!』
「なにい!?」
 小池からの連絡で薪の身に何かあったことを知った岡部は、激しい焦燥感に駆られた。
 いても立ってもいられない。どうにかしなくては。

「曽我が後を尾行ているはずだ。連絡を取って俺に報告してくれ。それから、宇野の解析はどうした?」
『少し、復旧できたみたいです。警官が映ってたって言ってました』
「警官?」
『パトロール中の巡査だそうです。ミニパトに乗ってます。攫われる直前に会ってるんですよ。皮肉なもんですね』
「……それ、どこの交番だ? ミニパトに名前、書いてあるだろ」
『えっと、あれ? 岬町? 幸町じゃなくて?』
 幸町に一番近いのは西山倉庫街である。しかし、岬町なら反対方向だ。該当する建物は、黒咲ビルか、丸ビルか。

 これまでの情報では、目撃証言はない。捜一が虱潰しにあたっているはずだから、今までの捜査範囲ではないということだ。
「黒咲ビルか」
 捜査一課の元エースは、携帯電話を切ると脱兎のごとく駆け出した。



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室長の災難(11)

室長の災難(11)





 口から零れた水が首筋を伝う感触に、薪は目を覚ました。
 後頭部が痛む。かなり強く殴られている。

「お目覚め? 刑事さん」
 やはり、田崎だった。
「よく警察関係者だと判ったな」
「2つも発信機付けてればね。おとりだってすぐにわかるよ」
「やっぱりばれてたのか」
「ま、コンビニに停まってた軽トラックの荷台に放り込んどいたけど」
 捜一はそっちに行くのだろうな、と薪は心の中で呟いた。
 後ろ手に手錠を掛けられていて、身動きができない。とりあえず付け爪に仕込んだ発信機のスイッチを入れたら、後は待つしかなかった。
 時間を稼がなくては。
 
「どうして囮だと分かっていて、のってきた?」
「俺が気が付いたわけじゃないよ。こんな美人が警察官だなんて、思わなかったもん。気づいたのは、こっち。こいつ、そういうのやたら詳しいから」
 警官の格好をした共犯者。薪を昏倒させた張本人である。
 にせ警官かと思ったが、制服は本物そっくりだ。バッジから襟章まで、偽物とは思えない。
 
「本物の警察官だよ、こいつ。あんたのご同業」
「なっ……!」
「警官にも色々いるんだよ」
「ふざけるな! いやしくも公僕の身でっ!」
 薪の中の正義感に火が点る。薪は自分にも厳しい分、他人にも厳しい。自分には厳しく他人には優しいのが美徳かもしれないが、薪はそういう性格ではなかった。

「なんか男みたいな喋り方だね。女刑事なんかやってると、そうなっちゃうの?」
 しまった、自分の今の格好を忘れていた。
 はっとして見直すと、スカートがめくれあがっていて、みっともない。自然に開いていた膝を閉じ、頭をめぐらせる。
 敵は2人。なんとかなる。

「警察官にこんなことしたら、ただじゃ済まないわよ」
「刑事だって、一皮剥けばただの女じゃん。楽しまない手はないでしょ」
「か弱い女に2人がかりね……わかったわ、降参するから手錠を外して」
「ずいぶん素直だね」
「刑事だって女よ。男2人にかなうわけないでしょ。余計な怪我はしたくないの」
「2人じゃ足りないでしょ。刑事さん、オトコ好きそうだから」
 心の中の罵詈雑言が表に出ないように、薪は唇を噛んだ。
「もうちょっと待ってよ。ああ、来た来た」

 入り口のドアから、いかにもまともな職業ではなさそうな連中がやってくる。
 5人、6人……全部で8人。さすがにこれは。
 
「いつもはさ、かわりばんこに3人くらいで犯ってたんだ。でも、今回とびっきりの上玉だからってみんな呼んじゃった。俺たちケーサツ大ッ嫌いだしね」
「おー、すげー。今迄で一番じゃね?」
「こんな刑事いるのかよ。俺が知ってる刑事なんて、ブスばっかだぜ」
「御託はいいから早く始めようぜ。誰から犯る?」
 これは、自分の性別がばれたら速攻で殺されるな……薪は天を仰いだ。



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室長の災難(12)

室長の災難(12)






 捜一の5名が発信機の信号に従って踏み込んだのは、郊外の農家であった。
 収穫したキャベツに埋もれて、薪の付けていた片方のイヤリングと髪飾りが発見された。まんまと敵に裏をかかれた竹内は、怒り、青ざめながらも田城に連絡を取った。

「それ投げ込んだの、あの人じゃないのかしら」
 小太りの農家の妻が、思い出したように言った。
「滅多なことを言うもんじゃないよ」
「だって、荷台にはちゃんとシートが掛かってたのよ。中に入れようとしたら、シートの隙間からこうやって入れないと。あの人、なんかやってたんだってば」
「どんな人でした? 顔を見ましたか? この男では?」
 竹内は慌てて田崎の写真を取り出した。しかし、違うと言う。

「顔は良く見えなかったけど、こんなにいい男じゃなかったわね」
「良く見えなかったって……ああ、夜ですもんね」
「コンビニの駐車場だから明るかったんだけど、帽子かぶってたから」
 そこに夫が割って入った。
「いや、刑事さん。こいつの話はいいです。その人がうちの車に何かしていたって、それは悪いことのはずがありません。わしも見ました。
 でも、おまわりさんなんですよ、それ。おまわりさんが悪いことするはずないでしょう」

 農家を辞して、車の中から竹内は大友に指示を出した。
「岬町のコンビニだ。店員から話を聞け。立ち寄りの当番になっている巡査の名前を聞き出すんだ。それから、その巡査の警備担当区域も!」
 間に合ってくれよ―――― 竹内は心の中で、薪の生意気な美貌を思い浮かべていた。



*****



「もう、ほんとやばいです。岡部さん、早く来てくださいよ!」
『いま向かってる!それまで何とかしろ、曽我!』
 捜一の尾行が撒かれた後、しかし曽我はきっちりと後を尾行(つけ)ていた。

 確かにあの角で、曽我も薪を見失った。捜一の2人が発信機の後を追うために早々にその場を離れたのち、しばらく曽我はその場にいたのだ。
 人間が急に消えるわけはない。しかも警官も一緒だったのだ。何者かに襲撃されたとしても警笛くらい鳴らすはずだ。警官ならそれくらいの訓練は受けている。
 近くに潜んでいるのではないか……そう思って周辺をうろうろしていたのである。
 曽我の読みは当たった。二人は確かにいた。しかし、潜んでいたのではなく堂々と民家の中から出てきたのだ。

 警官が犯人――。

「道端にこの人が倒れていたが、お宅の娘さんではないですか?」と、警察官が入ってきたので「違います」と答えると「少し休ませてあげてくれませんか」と言われたので、しばらく部屋を貸した――人の良さそうな老夫婦はそう教えてくれた。
 急いで後を追い、ミニパトの後を車で尾行てここまで来たのだ。
 岬町5-2-5、黒咲ビル。橋口三郎巡査の警備担当の廃ビルだ。一連の凶行は、ここで行われていたらしい。

「さっき、また2人入っていったんですよ。全部で8人ですよ! 捜一の応援はまだなんですか!? 薪さん、殺されちゃいますよ!」
『なんとかしろ!』
「なんとかったって」
 曽我も薪のことは怖いが、好きだ。怖いが、尊敬している。傷ついて欲しくはない。
「頭脳労働専門なのにな」
 ぼやきながらも周辺に人がいないことを確かめ、曽我はビルの中に入っていった。




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室長の災難(13)

室長の災難(13)







 35年間の人生の中で、間違いなく窮地ベスト3に入る状況だった。
 相手が2、3人なら、助けが来なくてもなんとかなる。そのはずだった。
「雪子さん、話が違います……」
 情報を流してくれた監察医を恨むのは筋違いだが、愚痴のひとつも言わずにはいられない。

 田崎が近づいてきて、薪の手錠を外した。
 もちろん逃がしてくれるわけではない。これから鬼ごっこが始まるのだ。1対8の。
「さあ、始めよっか。このビルは4階まである。階段しか使えないけど、どの階に逃げてもいいよ。10数えたら追いかけるからね、みんなで」
 外への道は塞がれている。この中で永遠に逃げ切れるわけがない。絶望の中で、それでも被害者たちは走ったのだろう。彼女たちの体中に残った擦過傷が、その恐怖を物語っていた。

 なんて残酷なことを。こいつら、全員逃がさない。

 しかし、今は自分の身が危ない。
 薪は走り出した。高いヒールのせいで、足がもつれる。何度も階段で転げそうになる。
 2階の部屋の入り口の陰で、薪は追跡者を待ち伏せることにした。
 どうせ逃げても逃げ切れない。4階まで走ったら、多分それだけでかなりの体力を削られる。正直なところ、もう足が痛くて走れない。
 ここなら1人ずつしか通れない。と言うことは、1人ずつ倒していける。
 
「刑事さーん、どこー?逮捕してー」
 下品に笑いながら8人の悪魔が階段を上がってくる。若い女の子が、どれだけの恐怖を味わっていたのだろう。やっぱり2、3発は殴らないと気が済まない。
 狩人たちは3つの班に分かれて、獲物を追いかけることに決めたようだ。
 2階に2人、3階に2人、4階に3人。
 やはり、なるべく遠くまで逃げる被害者が一番多かったのだろう。今までの経験からの人員配置ということか。1人はちゃんと外への出入り口に置いている辺り、バカではないらしい。

 入ってきたのは、比較的体の小さい男だった。
 みぞおちに、思い切り手刀を叩き込む。前のめりに倒れたところを、膝と肘で頭を挟むように殴る。うずくまった男の後ろから、もう一人の男が現れる。状況を見て取った男の表情が歪んだ。
「この女……!」
 飛び掛ってくる男の襟元を掴み、体を下に潜らせて投げ飛ばす。
 あまり力はない薪だが、相手の力を利用する投げ技は得意だ。柔道も空手も有段者である。
 失神した2人をその場に放置し、次の階に移動する。
 ハイヒールは脱ぎたいところだが、地面には割れたガラス片も散乱している。裸足では歩けそうにもない。
 3階の2人が、今度は部屋から出て来るところを狙う。
 1人をみぞおちに蹴りを入れて気絶させ、もう1人を手刀で仕留める。残るは4階の3人。1階の1人。

「やるねー、さっすが刑事。強い強い。おい、あいつら起こせ」
 階下の物音に気づいたのか、4階の3人が戻って来た。狭い踊り場で、囲まれる形になって、後ずさる。これは何とか1階の1人を殴り飛ばして逃げるしかない。

「おお、いてえ。よくもこの女」
「だらしねーな、おまえら」
 3階の2人が起き上がってきて、薪は5人の男に囲まれる羽目になった。
「強い女って、いいよね。憧れちゃうなあ。全然、泣かないし、悲鳴も上げない。でもさ、そんな女が犯されて泣くときって、たまんなくいい声で鳴くんだよね」
「……ゲス野郎」
「口が悪いなあ。でも、その顔とのギャップがいいんだよな、刑事さん」
「期待に添えなくて悪いな。僕は男だ」

 5人とも、きょとんとした顔になる。
「なに言ってんの。そんな顔した男がいるわけないじゃん」
「これはメイクだ」
「いや、メイクにも限界あるから」
 誰も信じない。
 えらく腹が立ったが、雪子のメイクはプロ並みだと思うことにして、男としてのプライドを保つ。

「カツラのせいだろう。ほら」
 長いウェーブヘアのカツラを取り、薪は素顔を晒した。いいかげん、蒸れて暑い。それに、髪は短いほうが戦いやすい。
「やっぱ女じゃん」
「女だよな」
 …………雪子さんのメイク技術はSFX級だ。そうなんだ。

 カツラを大きく振り回して、5人の輪に隙を作る。その間隙から飛び出して、薪は一直線に1階へと続く階段に向かった。
 が、足を取られる。前のめりに倒れそうになったところを、下から上がってきた男に抱きとめられた。
 振りほどいて走り出そうとする。が、足が動かない。……動けない。
 動けないどころか、薪はその場にぺたんと座り込んでしまった。
「……?」
 立ち上がろうとするが、体に力が入らない。いきなり手足が作り物になってしまったかのようだ。
「刑事さん、特異体質かと思ったよ。なかなかクスリ効かないんだもん」

 しまった、雪子が言っていたドラックだ。解毒剤はバックの中だ。
 しかし、いつ―――― そうだ、目を覚ましたとき、あれはただの水ではなかったのだ。どうして気づかなかったのか。せっかく雪子から情報をもらっていたのに。

「これでようやく、パーティが始められそうだね」





*****


 ここが書きたかったの~。
 アニメの室長がカツラを取った瞬間。あのシーンが好きなんです。
 カツラ被ってたときより、きれいになってるんだもん(笑)別の意味で襲われそうです(腐)


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室長の災難(14)

室長の災難(14)







 階下の3人が加わって、8人全員が揃った。
 男たちは薪の身体を4階まで運び、その目的の部屋に運び入れた。中央にちゃんとベッドが用意してある。
 薪は、男たちが滑稽でならなかった。
 こいつらはまだ、自分が女だと信じているのだ。

「さっきも言ったが、僕は男だ。こんなところに連れてきたって、なにもできないぞ」
「男だっていいよ。そんだけきれいなら。全然、大丈夫」
「俺も、どっちでもOK」
「オレも挑戦する。こんだけ色っぽけりゃ、イケそうな気がするし」
 ……最近の若いものの言うことは理解できない。というより、頭が理解することを拒否している。

 田崎が懐から小さなナイフを取り出し、キャミソールの真ん中を縦に切り裂いた。パット入りのブラをナイフではじく。伸縮性のある布地の下から現れたのは、平らな、しかし象牙のように美しい胸だった。
「ほんとだ、男だよ」
「うわ―、いるんだ、こういうひと」
「性別間違って生まれてきちゃったんだろうな」
 勝手なことを言っている。股間に蹴りを入れてやりたいところだが、クスリのせいで体が言うことをきかない。
「すっげー。肌、きれー。こないだの女よりきれいじゃね?」
「すっべすべー」
「ウエスト細いなあ。60センチくらい?」
 胸に首筋に太腿に、何人もの手が伸びてくる。嫌悪感に吐きそうだ。

「触るな、気色悪い! おまえら変態か!」
「もしかして、刑事さん、バックバージン?」
「えー? はじめてー? この顔でー?」
「どーゆー意味だ!」
「刑事さん、本当にクスリの効きが悪いね。体質かな」
 クスリなら嫌というほど効いている。そのせいで動けないのだ。でなければ、あと2、3人は殴り倒している。

 首筋を指で撫でられる。止めろ、と叫ぼうとしたが、声にならない。
 なんだか、おかしい。からだがヘンに熱い。クスリの作用って確か……。
 
「んっ……ふっ!」
 わき腹を撫で上げられて、勝手に背中が反り返る。
 自分の声にありえない響きを感じ取って、体の奥底から羞恥心が湧き上がった。
「ちょっ、やめ、ひゃっ!?」
「おっ、効いてきた? これから4時間は天国へ行けるよ、刑事さん。その後で本当の天国に送ってあげるけどね」
 殺されるのは仕方がないか、とも思う。どうせ自分はロクな死に方はできない。頭を潰してくれるらしいから、それはOKだ。しかし、この状況は。
 断固、NGだ。
 
「やめろ、はなせっ!」
 動かない手足を気力で動かす。目前に迫っていた男の顔面に、長い付け爪がヒットした。
「いて!」
「やっぱ、縛っとこうか」
「そうだな、押さえつけてないとできなそうだな。一回やっちゃえば平気だと思うんだけど。うーん、クスリが足りなかったのかな。追加するか」
 2人の男に右手と左手を封じ込められ、抵抗する術を奪われた。男の舌が首筋から胸元に這い下りて、小ぶりな乳首にしゃぶりついた。
 何とか声は殺すが、体の反応は止められない。びくびくっと震えた下半身から、背筋を伝って電流が遡ってくる。

「じゃ、連れてきたやつの特権てことで。オレが一番でいいかな」
 田崎がのしかかってくる。射殺さんばかりの眼で、薪は若い美男子を睨みつけた。
「大丈夫、やさしくするからさ」
 スカートの中に手が入ってくる。うち腿を撫で上げられて、理性が切れた。
「い、いやだああっっ!!」
 もう、なりふりかまっている余裕はなかった。女のような悲鳴でも何でも、叫ばずにはいられない。
「ん~、いい声。もっと鳴かせてあげるよ」
「や、やめっ……あっ、んっ、んふっ……っ!」
 嫌悪感でいっぱいの心を裏切る、自分の身体が信じられない。
 普段ならありえない色香を含んだ吐息は追い詰められたように性急で、合間に混じる声は途切れ途切れに愉悦をにじませる。

 舌噛んで死んだほうがましだ、と思った瞬間。
 ボン! と大きな音がして、もくもくと煙が上がった。視界がふいに真っ暗になる。
 上に載っていた男の重みがなくなり、誰かに抱き上げられた。突然のことで、なにがどうしたのか理解できない。
 そのまま部屋の外へ連れ出された。階段を下り、煙のないところまで運ばれて床に降ろされる。吸い込んでしまった煙のせいで激しく咳き込む。
 流れている涙は煙のせいなのか、その前からのものなのか、判断がつかない。

「大丈夫ですか? 薪さん」
 大きな手が、薪のむき出しの肩に置かれた。それはあの悪鬼のような連中とは違う、やさしいぬくもりを薪に伝えてきた。



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室長の災難(15)

室長の災難(15)







 警官隊の突入は、午後11時丁度であった。
 竹内誠警視率いる捜査一課は、先に潜入していた第九の曽我警部の手引きで、目的のビルを速やかに包囲した。秘密裏にことを進めるために拡声器による呼びかけはせず、ブレーカー操作による一時的な停電と発煙筒によるパニックで犯人グループを混乱させ、全員を逮捕することに成功した。

 犯人グループの中に現職の警察官がいたことに、竹内は驚きの色を隠せなかった。
 なるほど、いくら聞き込みをしてもこれでは出て来ない。パトカーが止まっているビルの中でそんなことが行われているなんて、誰も思わない。しかも、ビルの入り口にはよく見かける顔の巡査が立って警備にあたっていたのだから。

「竹内さん、犯人グループ8名全員確保しました! やりましたね!」
「ご苦労。こちらの被害状況は?」
「ありません。先に潜入していた第九の職員が、中の詳しい映像を送ってきてくれてましたから。おかげで細かい突入計画が立てられました。
 今回だけは第九のお手柄ですかね。あ、いや、その」
 竹内の第九嫌いを良く知っている大友は、慌てて口を閉ざした。苦笑いしながら、竹内は気配り名人の部下に言った。
「そうだな。今回だけはな。……おとりはどうした? 無事か?」
「さっき、下の階に第九の職員が連れて行きましたよ。あの背の高い、何ていいましたっけ。メガネ掛けたボーっとした奴」

 犯人グループの搬送を大友に任せ、竹内は1階の部屋へ急いだ。彼の無事な姿を、なんとしても自分の目で確認しておかなければ。
 そうだ、自分はこの作戦の発案者なのだ。おとりになってくれた協力者の無事を確認するのは当然の義務だ。
 まるで年頃の娘を心配する男親のような心境で、竹内は我知らず走っていた。
 なんだろう、この焦燥感は。
 彼の身に何かあったら、俺はどう責任を取ればいいんだろう。

 捜査員や鑑識でごった返している1階の部屋の隅に、竹内の探す人物はいた。
 正座に近い形でぺたんと床に腰を落としているのは、タイトスカートの制約のせいだ。破られて服の役目をしなくなった上着の前を合わせ、両の手で自分の肩をかき抱くようにしてその身を震わせながら、前にいる背の高い男に何事か訴えている。

「おそいっっ!!」
「すみません。でも、信号は無かったんです。ここには、小池さんからの連絡で駆けつけたんですよ」
「そんなはずは」
 不審に思って、付け爪に仕掛けた発信機を確認する。暴行の中でいくつかの偽爪は剥がれ落ちていたが、目的の爪は残っていた。
 が、飾り花の中に仕込んでおいたはずの超小型発信機はない。どうやら拉致された際に、仕掛けを抜かれていたらしい。あの変に盗聴器の類に詳しいと言っていた警官の仕業だろう。
 これでは青木の到着が遅れたのも無理はなかった。
 無理はなかったのだが。

「……おまえが悪い」
「いや、あの、ですから」
「おまえがわるいっ! おまえが早く僕のところへ来ないから、あんなやつらにあんなこと、あっ……――――っ、全部おまえがわるい!!」
 怒鳴り散らしながら、薪は大粒の涙をこぼしている。
 うつむいて歯を食いしばり、必死に嗚咽を抑えようとしてか、肩を抱いた両手の爪が白い肌に食い込んでいる。
「はい、すみません」
「……っ、うっ……」
「オレが悪かったです。怖い思いさせて、すみませんでした」
 青木が大きな手で、亜麻色の小さな頭を撫でる。その手には限りないやさしさと愛情が含まれている。

 薪の細い両手が、目の前のジャケットを掴んで引き寄せる。ジャケットで泣き顔を隠すようにしてしゃくりあげる薪の様子を、竹内は遠くから見ていた。
 やがて落ち着いたのか、薪は泣くのをやめて手を離した。青木のジャケットは落ちた化粧と涙の跡で、クリーニングが必要だった。
 差し出されたタオルで顔を拭き、次に眼を開けたときには、もういつもの取り澄ました表情だ。それを確認してから竹内は、華奢な後姿に声を掛けた。

「無事でなによりです、室長」
 挑むような美貌が振り返る。しかし、まだその眼は真っ赤で、涙の跡を隠しきれていない。それでも気丈に薪は言い放った。
「竹内警視。今回の犯人確保は、第九の協力があればこそです。ここのビルを見つけたのもうちの手柄です。あなたのところの尾行は撒かれたのに、曽我の尾行は成功した。これからは、第九は覗き趣味の引きこもりだなんて言わせませ……」
 薪の毒舌は、途中で止まった。
 竹内が自分のジャケットを脱いで、薪のむき出しの肩に掛けてくれたのだ。宿敵の意外な行動に思わず黙り込んだ薪に、竹内は敬礼した。
「薪室長。第九のみなさんの協力のおかげで、今回の事件は解決できました。ありがとうございました。詳しい報告は明日にして、今日は帰って休んでください」
 この車をお使いください、と自動車の鍵を渡し、竹内はその場を離れた。

 あの室長が、あんなに感情をむき出しにしてぶつかれる相手。自分ではあの中には入れない。第九の仲間の絆というやつか。ならば傷ついた彼を休ませるのは、自分の役目ではない。
 なんだか少し、悔しいような気がする。

 竹内はビルを出た。
 長月のきれいな月夜を、大量の赤ランプが台無しにしている。
 パトカーに犯人たちを押し込んでいた大友が、竹内を見つけて走りよってきた。
「竹内さん。事情聴取、どうします?」
「もちろんこれから徹夜でやっつける! 大事な身内をあんなに傷つけやがって。ギタギタにしてやるからな、あいつら」
「なんか、めちゃめちゃ気合入ってません?」
「拘留期間に休む暇があると思うな~、23日間、目いっぱい使ってやる。死んだほうがましだと思うまで責め立ててやる。取調室は密室だ! 治外法権だ!」
「いや、大使館じゃないですから。いいのかな、こういう発言」
 なにやら心境の変化があったらしい先輩の後に続いて、大友は警視庁へ向かった。



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室長の災難(16)

室長の災難(16)







 思いもかけない天敵の好意を今回だけはありがたく受けることにして、薪は一旦、自宅へ戻ることにした。
 早くシャワーを浴びて、あの連中の手の感触を洗い流してしまいたい。そうしたら着替えをして、取調べに立ち会わなくては。
「行きましょうか、薪さん」
 頷いて立ち上がろうとする。が、やっぱり腰が立たない。まだクスリが効いているらしい。解毒剤が必要だった。
 青木に事情を話して、バックを探させる。しかし、なかなか見つからない。拉致された場所に置いてきたか、いや、証拠を残すような真似はすまい。となると、ここに来る途中どこかに捨てられてしまったか。
 腰が立たないだけならまだ良かったのだが、別の効果も現れてきてしまったようで薪は焦った。何もしていないのに、身体が勝手に震え始める。残った理性をかき集め、爪を腕に食い込ませて痛みで劣情を抑えこむ。そうでもしていないと、誰彼かまわず押し倒してしまいそうだ。

「ありましたよ、薪さん。これですよね」
 助かった。もう少しでケダモノになるところだ。
「水、探してきますね」
「いらん」
 そんな余裕はない。
 青木の手から奪った錠剤を、薪は噛み砕いた。
 途端に口を押さえて背中を丸める。きれいな顔は苦痛にゆがんでいる。
「大丈夫ですか?」
「これっ、めちゃめちゃ苦っ……!」
「やっぱり水いりますね」

 ペットボトルの水を持って青木が帰ってきたときには、薪の様子はだいぶ落ち着いていた。周りに岡部と曽我がいて、事件の話をしている。薪に尾行の成功を褒められたらしく、曽我はうれしそうに坊主頭を掻いていた。
「岡部。先に捜一に顔を出しておいてくれ。僕も着替えたらすぐに行く」
「はい。でも、薪さんは今日はもう、休まれたほうが」
「大丈夫だ。曽我は帰れ。ああ、小池と宇野にも、帰るように伝えてくれ。報告書は明日でいい。ご苦労だった」
 さっきまでの乱れた様子は、もうない。さすが三好先生だと感心しながら、いつもの落ち着いた室長の姿に安堵する。

「水です、薪さん」
 ボトルを受け取ってすぐさま呷る。白いのどが動いて、コクコクと飲み込む音がした。よっぽど苦い薬だったらしい。
「青木、薪さんを家までお送りしてくれ」
「はい」
「薪さん、歩けないから運んでやってくれ」
「あれ? 解毒剤効かないんですか?」
「歩けないだろ、あの足じゃ」
 見ると、白い足は血まみれだった。
 慣れないハイヒールで格闘したせいだ。見るも無残な様子に、青木は顔をしかめた。

「うわあ。よくあれで歩いてましたね」
「我慢強いのも考えもんだな。ほどほどにしないと大きな怪我をする。俺は、あの人の強さが心配だよ」
 青木にだけ聞こえるように、岡部がこっそりと囁いた。
 岡部と薪の付き合いは、深い。青木の知らない薪を、この頼れる先輩はきっとたくさん知っていて、それゆえに心配も絶えないのだろう。
「頼んだぞ」
「はい、岡部さん」

 先輩を見送ってから、青木は車のキーを取り出した。今日はもう休んでくれるように室長を説得してみよう。岡部の言うとおり、室長には休息が必要だ。
「薪さん、失礼します」
 背中と膝に腕を回して抱き上げる。さっきも思ったが、男とは思えないくらい軽い。
「降ろせ、歩ける」
「無理ですよ。血だらけじゃないですか」
「平気だ、これくらい。みっともないから降ろせ」
「みっともなくないです。みんな、自分の仕事で手一杯です。こっちを見てる人なんていませんよ」
 青木が強く主張すると、薪は子供がむくれるようにくちびるを尖らせて黙り込んだ。
 痛くないはずがないのだ。それでも強がりを言うところが、薪の男としてのプライドの高さを証明している。薪は女のように扱われることが大嫌いなのだ。
 しかし、気持ちに体がついていかないのも薪の特徴である。疲れもピークに達していたのだろう。青木の腕の中で、ほどなく薪は眠ってしまった。緊張の糸が切れたのか、それとも解毒剤の副作用か。

 こわれものを扱うように、その華奢なからだを車の後部座席にそっと横たえる。
 室長の眠りを妨げないよう、青木は細心の注意を払って車をスタートさせた。



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室長の災難(17)

室長の災難(17)







「着きましたよ、薪さん。起きてください」
 薪のマンションに帰り着き、青木は薪に声をかけた。せっかく良く眠っている薪を起こすのは忍びなかったが、仕方ない。
 薪の部屋は2階である。運ぶのはわけはないが、薪のマンションの鍵は瞳孔センサー方式だ。他人では、部屋の鍵を開けることができない。

 呼びかけると、薪はすぐに眼を覚ました。寝ぼけながらも暗証番号を押す。小さなカメラが現れて薪の瞳を確認し、ドアのロックが外れた。
 玄関の叩き口に薪を座らせる。濡れタオルで足を拭いてやり、汚れを落とす。血は止まったようだ。仕事熱心な上司が眠っているのを良いことに、途中の薬局で血止めのスプレーを買って塗っておいたのが功を奏したらしい。
もう一度スプレーを吹き付けて、抱えあげる。ソファに座らせて、青木は部屋の中を見回した。

「薪さん。今日はもう休んでください。パジャマ、どこですか?」
 寝ぼけているのか、薪の様子がおかしい。
 だいたい、されるがままになっているのがヘンだ。普段なら他人に足を拭かせたりしない。薪は世話を焼かれるのを嫌う性格なのだ。
「薪さん?大丈夫ですか?」
 顔を覗き込むと、薪は青木を見てうっとりと微笑んだ。

「うふっ」
 ……うふっ?

 いまだかつて、この厳しい上司がこんな風に微笑むのを見たことがない。それはまさに蕩けるような微笑だったが、青木には違和感のほうが大きかった。
 借り物の背広を脱ぎ、すでに服の役目をしていなかったキャミソールを脱ぎ捨てる。同性の裸体ではあるが、個人的な事情でとても直視できない。
 眼を逸らした青木の頬に、華奢な手が伸びてくる。そのまま頭を掴まれて、引き寄せられる。その力はやはり女のものではない。
 半開きになった唇が近づいてくる。いつも思わず目を奪われるつややかな唇は、今日に限っては妖艶な娼婦のようで、男の欲望を直撃する。
 
「ま、薪さん? どうしたんですか? ちょ、ちょっと」
 噛み付くような、キス。
「ん……っふ……」
 扇情的な喘ぎを織り交ぜながら、ねっとりと舌を絡めてくる。激しく性急で追い詰められているかのように、それはあまりにも甘い媚薬だった。
 しかし。

 悲しいかな、これはクスリのせいだということも青木には分かっていた。そして、この夢が覚めたら間違いなく薪の怒りを買うであろうことも。理不尽だが、それは確実だった。

 最大級の努力でもって薪の身体を引き離し、青木は携帯電話を取り出した。まだ起きていてくれるといいが。
『はい三好。青木くん? どうしたの』
「三好先生、助けてください――――! 薪さんがヘンなんです!」




*****





 雪子はまだ仕事中だった。昼間解剖した5人目の被害者の解剖所見を纏めていたのだ。
「ヘンて?」
 電話の向こうでは、青木がパニクった声を出している。何事かあったようだ。

『発情期の動物みたいなんですよ! これ、あのドラックのせいですよね? どうしたらいいですか?』
「解毒剤は?」
『現場で飲みました。でも、家に帰ってきてからまたおかしくなったんですよ。現場では落ち着いてたんですけど……ちょ、ちょっと薪さん、やめてください! そんなとこ触っちゃ駄目ですってば!』
「なんか楽しそうね」
 今から車で薪の家まで行って、見物したいくらいだ。
「そこは薪くんの家なの? 周りには誰もいない? じゃあベッドに縛り付けておけば大丈夫よ。そのドラックは副作用がないから。せいぜい残っても頭痛と倦怠感。一晩寝れば元に戻るわ」
『そんなことできませんよ! できる状況じゃないんです、わあっ!』
 おもしろい。テレビ電話じゃないのが残念だわ、と雪子は思った。

「でもヘンね。一旦は効いたんでしょ。まあ試薬段階だからね、いまいち効き目が不安定なのかしらね」
『そんな無責任な。なんとかしてくださいよ、お願いします。オレ、もう理性が蒸発しそうなんですよ!』
「いいじゃん。やっちゃえば?」
 そうなのだ。青木は、薪にぞっこん参っている。雪子は青木の気持ちを知っていて、薪とは古い友人であることからいろいろと相談にも乗ってやっていたのだ。
『嫌ですよ、こんな不自然な。だってクスリでラリってる相手をどうにかするなんて、それじゃあいつらと一緒じゃないですか』
「なに贅沢言ってんのよ。薪くんのほうからなんて、こんなチャンスあと十年待ったって来ないわよ。今やらなかったら、あんた一生できないわよ」
『そこまで望み無いんですか、オレ』

「やらないで後悔するより、やって開き直りなさい。じゃ、がんばって」
 言いたい放題言って、雪子は一方的に電話を切った。自然に顔がにやけてくる。
「明日が楽しみね」
 鼻歌交じりに、雪子は解剖所見の作成に戻った。


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室長の災難(18)

室長の災難(18)







「もしもしっ! 先生、三好先生!?」
 ツー、ツー、と無機質な音が耳に残る。
「切ったよ、あのひと……」

 雪子の無責任は今に始まったことではないが、いまそれを非難しているヒマはない。
 電話の間も俄か仕立てのインフォマニアはこまごまと仕事をしていて、青木が身に着けているものは既に下着だけだ。
「電話、終わった?」
 青木の腹の上にまたがり、無邪気な様子で尋ねる。舌ったらずの甘い声。めったに聞けるものではないけれど、ドラックのせいとあってはうれしくもない。

 すでに、薪はそのからだに何もつけていない。
 これまでも薪の裸は何度か目にしている青木だったが、そのときとは状況がまるで違う。こんな雰囲気でソファに横たわった自分の上になって……これで我慢しろと?
 それでもここは堪えなければ。でないと、確実に室長権限で異動させられる。薪の顔を見ることもできなくなってしまうかもしれない。それは困る。

 なんとか状況を打破しようと、青木は起き上がった。
「薪さん、ちょっと落ち着きましょう。ね?」
「ん~、ふっふっふ」
 抱きついてくる細いからだ。
 その肌はやはり女のものではない。沈み込むような、どこまでもやわらかい女の肌とは違うしっかりした筋肉の感触。しかし、明らかに自分のものとは異質のすべらかさ。
 雪子の指示どおり引き剥がしてベッドに縛り付ける、なんてことはとてもできない。抱きしめ返さないように自分を抑えるので精一杯なのだ。

「僕のこと、好き?」
 耳元で囁かれて、目の前が真っ赤になる。
「薪さん……」
「好き?」
 かわいらしい顔。無邪気で色っぽくて、凄まじい引力で自分を惹きつける。
 ……だめだ。逆らえない。

「はい。大好きです」
 にっこり笑って、もう一度激しいキス。
 歯茎の裏側から舌の下部まで、ベルベットのような舌がまさぐっていく。小さな手は忙しく動いて、胸元から腹、下腹部へと移動し下着の中に滑り込んだ。
「薪さん!」
 華奢な身体を抱きしめて、ソファの上に押し倒す。こうなったらもう止まらない。
「オレ、ずっとずっと好きでしたっ! いいんですよね?」

 目の前にさらけ出された美貌に、青木は眩暈すら覚える。
 信じられない。同性のからだが、こんなにも自分の欲望を掻き立てるなんて。

 たしかに自分と同じ身体なのだが、でもやっぱりまるで違う。細くて白くていい匂いがして、どこもかしこも透き通るようにきれいで。
 夢でいるうちはきれいだったものが、現実になったら幻滅してしまうかもしれないと密かに危惧していた青木だったが、それは杞憂に過ぎなかったようだ。夢より現実のほうが遥かにきれいだ。
 前から食べてみたかった耳たぶは、柔らかくて甘かった。白さが眩しい首筋に舌を這わせ、強く吸う。先のことなど考えられない。
 きれいな鎖骨。小ぶりな乳頭は混じりけのないピンク色で、経験の少なさを感じさせる。
 口に含み、舌先で転がすように愛撫する。クスリのせいで敏感になったからだは、甘い声を上げてよがり―――
―。
「薪さん、薪さんっ……あれ? 薪さん?」
 ……返事がない。
「え? あれ?」

 薪は目を閉じていた。
 長い睫が重なり合って眼下に濃い影を落とす。口唇はかすかに開き、その間からは「く――」という音が。
「えええええ―――!?」
 解毒剤の副作用は、頭痛に眠気。
 
「ちょっと、薪さん? ひどいですよ、ここで眠るって……ええ―――っ?」
 たしかにムゴイ。雪子が見ていたら腹を抱えて転げまわりそうだ。
「いくらオレがヘタレだって、さすがに止まりませんよ! もう意識がなくたって、やっちゃいますよ!? 誘ったの、そっちなんですからね!」
 誘ったわけではなくラリってただけなのだが、そこは目をつぶって欲しい。
 我慢に我慢を重ねて、その挙句に懲戒免職まで考えて、殺されるときにはきっと脳を潰されるんだろうな、とそこまで覚悟して押し倒したのだ。いまさら後に退けない。というか男の事情でそれは無理だ。すっかり戦闘態勢に入っているのだ。

 意識のない身体を自由にすることに後ろめたさを感じてはいたが、もうまともな思考ができる状態ではない。すんなり伸びた足を開かせて、太腿に手を這わせる。小さい尻を揉みしだき、目的の場所を探り当てる。
 痛い思いをさせるのは嫌だな、とわずかな理性の隅で考える。が、指の動きを止めることはできない。
 力を入れているはずはないのに、そこは狭く固い。
 とても行為に慣れたからだとは思えない。その証拠に、深い眠りの中にいる美貌が不機嫌そうに顔をしかめた。
 細く目を開けて、ぼんやりと青木を見る。自分の愛撫に目覚めてくれたのなら、それにこしたことはない。やはり眠っている相手をどうこうというのは、男として最低だ。

「薪さん、好きです。大好きです」
 青木がそう告げると、優しい微笑が返ってくる。青木の首に両腕をまわし、すべらかな頬をすりつけてくる。
「僕も、だいすきだ」
 耳元に甘い吐息がかかる。愛おしさが募る。堪らずに、渾身の力で抱きしめてしまう。
 やさしい声が、いとしい相手の名を呼ぶ。

「鈴木……だいすきだ……すずき……」


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室長の災難(19)

室長の災難(19)







 昨日から徹夜で取り調べ、もとい容疑者イジメに夢中になっていた竹内は、仮眠もとらないうちに一課の課長に呼び出された。
 いつも苦虫を潰したような顔をしている課長は、めでたく事件が解決したと言うのに、何故か今日はより一層機嫌が悪そうである。
 デスクの上に、自分が書き上げた報告書が置いてある。どうやらその内容に課長の不機嫌の原因があるようだ。

「竹内。なんだ、この報告書は」
「何か間違いがありましたか?」
「今回の事件は、うちの単独捜査だ。第九は関係ない」
 やっぱりそんなことか。
「今回の作戦の発案者はおまえだろう。第九はちょっと協力しただけだ。報告書にわざわざ載せるまでもない」
「しかし今度のヤマは、本当に第九の協力がなければ解決しなかったんです。
 薪室長がおとりになってくれなかったら、犯人グループを一斉に検挙することはできませんでした。室長だけじゃありません。曽我警部が尾行を完遂しなかったら、岡部警部が橋口巡査の線からあのビルを探り当てなかったら。たぶん薪室長は、今頃この世にいません。そしたら責任を取らされて、俺も課長もここにはいられないでしょう。それを考えたら、第九の功績を認めることくらい何でもないでしょう」
 凶悪犯もびびる強面の課長は、訝しげな眼で竹内を見上げた。反第九派の部下が、こんなことを言い出すなんて。
 不思議がられても仕方ない。昨日までは自分は、高らかに『打倒、第九』を訴えていたのだ。

「確かに尾行は撒かれたかもしれんが、発信機の線からこっちも橋口巡査の件には辿りついていた。第九のほうが現場への到着が早かっただけのことだ。時間の問題だ。第九なんかいなくても、うちだけで犯人を逮捕できたんだ。だいたい第九の連中だけじゃ、突入もできなかっただろう。あのいまいましい小僧を救ってやったのは、結局うちじゃないか」
「現場の詳しい情報をくれたのは第九の人間です。だから突入もあんなにうまく行ったんです。時間の問題とおっしゃいますが、突入がもう少しでも遅れていたら、薪室長は無傷では済んでいません」
 険悪な雰囲気を察して、一課の中が静まり返る。竹内が課長に反抗するなど、滅多にないことなのだ。
 
「失礼」
 涼やかな声が、重くるしい空気を破った。
「打ち合わせ中とは伺ったんですが、僕もけっこう忙しいもので」
 昨日の美女が、ダークグレイのスーツ姿で竹内の後ろに立っている。今の話を聞いていたのか、と課長の顔がますます苦くなる。
 自分より15も年下のクセに、肩書きは同じ警視正。課長は薪のことが大嫌いだった。
 異様に若く見える外見も女のような顔も、とにかく気に食わない。こんなのが刑事をやってていいのか、と疑問に思う。
「昨日お借りしたものを返しに来ました。ありがとうございました」
 それだけ言って竹内に紙袋を押し付けると、踵を返して去っていく。足を怪我しているのか、いくらかびっこを引いているようだ。昨日のことが原因かもしれない。いい気味だ。
 
「とにかく、書き直せよ、竹内」
 課長が薪の後姿から視線を元に戻したときには、捜一のエースは既にいなくなっていた。


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室長の災難(20)

室長の災難(20)







 警視庁の階段の踊り場で、竹内は薪を捕まえた。
「薪室長。待ってください」
 呼び止められて、迷惑そうに振り向く。亜麻色の短髪が、かえってその美貌を引き立たせる。やっぱり薪には短髪のほうが良く似合うな、と竹内は思った。
 薪が足を引きずっているのは、盛大な靴擦れのせいだ。竹内にはそれがわかっていた。
 本当は肩を貸してやりたいのだが、薪が嫌がるだろう。もっと本音を言えば抱きかかえて行きたいくらいなのだが、いやその。
 
「わざわざ、ありがとうございました」
「いえ。ちゃんとクリーニングかかってますから」
「え。そのままでよかったのに。こんな安物」
 そんな話をしたいわけではない。
 しかし、言い難いことだった。あの頑固な課長を説得できる自信は、竹内にはない。

「あの、今回のことなんですけど」
 言い淀む。薪の真っ直ぐな視線が痛い。
 自分にできるだけのことはする―――― そんな言い方で、今回の事件解決の功労者を誤魔化すのは嫌だった。
「課長のことは気にしないで下さい。オレは約束を果たします」
 とにかく、掛け合ってみよう。それでもダメなら記者会見でマイクをかっさらえばいい。課長のメンツなんか、知ったことか。
 
「公式発表の件なら、別にいいです。僕は初めから期待してません」
「え? だって、誓約書まで書かせて」
「あれはもう捨てました」
 薪の目的がわからなくなった。
 第九を世間に認めさせるのが、彼の目的ではなかったのか? このまま捜一の手柄になってしまったら、何のために体を張ってまで協力したのかわからない。

「何のため? 犯人を捕まえて、これ以上の犠牲者を出さない。僕たちの目的は決まってるじゃないですか」
 いつもの皮肉屋なポーズとは裏腹の、真っ直ぐな答え。
 当たり前のことを聞くな、と言いたげに少し尖らせた唇。化粧などせずともその魅力は変わらない。昨日と同じに―――― いや、それ以上に惹きつけられる。
「じゃあ、なんで誓約書なんか」
「僕はあなた方に知って欲しかったんです。僕の部下たちの有能さを。
 彼らは確かにあなた方みたいに、現場に出で捜査をすることはない。聞き込みで靴をすり減らすことも、犯人確保のために危険な目に遭ったり、現場で殉職したりすることもない。でも、彼らもあなた方と同じように、犯罪を無くそうと必死で頑張っているんです」

 捜査会議で己の優秀さを見せ付けるように話す室長を、竹内はこれまでに何度も見てきた。薪の論説は何処となく偉そうで上から目線で、どうしてこんなことが分からないのか、と他人を侮蔑するニュアンスまで含まれていて、自分はこの男を天地がひっくり返っても好きになれないと思っていた。でも。

「第九の職員は、靴は減らなくても神経は減ります。あなたも一度MRIの画像を見てみるといい。普通の神経では耐えられない。慣れないうちは、毎日何度も嘔吐します。食事なんかのどを通りません。ほとんどの者が1週間で不眠症になり、2週間で身体を壊します。でも、彼らはそれを乗り越えてきたんです。並大抵の努力じゃない。
 徹夜なんかしょっちゅうだし、忙しいときは3日も家に帰れないこともあります。事件が起これば盆も正月もないのはあなた方と一緒です。
 あなた方より、彼らの仕事が楽だとは思えない。彼らの努力も苦しみも何も知らないくせに、覗き趣味の引きこもりなどど、彼らを侮辱するのは許せません!」

 こんなに雄弁に喋れるのか、と竹内は思った。
 氷の警視正と異名を取り、冷静さを看板にしている薪が、大事なものを守るためにはこんなに猛々しくなれるのか。どれだけ部下たちを、第九を大切に思っているのか。

 竹内はようやく薪の室長たる所以を理解した。うちの室長は鬼より怖いと言いつつも、第九の職員が薪を助けようと必死になっていた理由も。

「わかりました。よく、わかりました」
 素直に頷いた竹内をひと睨みして、薪は踵を返した。とたん、体勢を崩して階段から転げ落ちそうになる。慌てて伸ばした竹内の両腕の中に、薪は倒れこんできた。
 華奢な肢体。ふわりと香る清冽な香り。香水とはまた違う、これは薪の体臭なのだろうか。亜麻色の髪からも、いい匂いがする。
 薪の体を後ろから抱きしめるような形になっていた竹内は、白いワイシャツの下の硬い感触に気付いた。
 これは―――― 防弾チョッキだ。
 事情を訊きたかったが、たぶん薪は教えてくれないだろう。
 普段からこれを着ていたのか。それで服のサイズを見誤ったのだな、とひとり納得する。

 薪は、振り払うようにして竹内の腕から離れると、危なっかしい足取りで去っていった。竹内の腕に、清廉な残り香を置き土産にして。



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室長の災難(21)

室長の災難(21)




 


「このっ、ヘタレ!」
 赤く彩られた唇が、厳しい意見を吐いた。

「あんたみたいなヘタレ、見たことないわ。
 なに? 結局やってないわけ? あんだけ大騒ぎしといてやってないって、どーゆーこと?」
「だって、ムリですよ」
 向かいに座った大男は、がっくりと肩を落として両手で額を押さえている。せっかくの体躯が台無しの情けないポーズだ。
「何がムリ? それでも男? そんなに薪くんが怖いの?」
「薪さんは怖いですけど、そういうわけじゃ」
「じゃ、なに」
 いい加減、イライラしてきた。こっちだってヒマじゃないのだ。
 どうしても話を聞いてほしいと青木が言うから、第一研究室の自分の部屋に呼んだのだ。てっきりノロケ話を聞かされると思いきや、地面に沈み込みそうなほどへこんでいる。どうやら昨日は雪子の予想とは違う展開になってしまったようだ。

「薪さん、めちゃめちゃラリっててすごく色っぽくて、自分からキスまでしてきたんですよ。それなのに……途中で眠っちゃったんです」
 解毒剤の副作用が出たらしい。でも、そんなことくらいで諦める男がおかしい。
「なんでそこでやめちゃうわけ? やってるうちに起きるわよ。やっちゃったもん勝ちなのよ、あのクスリ。4時間は天国にいきっぱなしだって言ったでしょ」
「続けようとしましたよ。でも」
 青木はそこで、机に突っ伏してしまった。顔を伏せたまま、情けない声で訴える。
「薪さんてば、鈴木さんの名前を呼んだんですよ……オレ、もう萎えちゃって……」

 なるほど。
 それはありうる。
 薪がそう簡単に鈴木のことを忘れられるとは思わなかった。自分が彼を忘れられないように、きっと薪も。

「なによ、そのくらいのことで情けない。あんたそれでも男?」
「ショックで目の前、真っ暗になっちゃいましたよ。だって、キスも笑顔もだいすきって言葉も、全部鈴木さんに向けられたものだったって分かったら……もう、何もできませんよ。ううう」
 とうとう泣き出してしまった。
 は――っ、と大きなため息をついて、雪子は大きな子供の背中をポンポンと叩いてやる。
 皮肉なことに、青木は鈴木に顔立ちや体つきが良く似ている。クスリのせいで正常な判断ができなかったであろう薪が、見間違えるのも無理はない。
「しょうがないでしょ。克洋くんはあんたの3倍はいい男だったんだから」
 青木のことは放っておくしかない。そのうち泣き止むだろう。

 それにしても、解せないことがある。
 解毒剤の効果の現れ方だ。いままで、こんな風にドラックの症状がぶり返した被験者はいなかった。個人差と言ってしまえばそれまでだが、実に不自然だ。
 現場から押収されたドラックのひとつを目の前にかざし、雪子は考え込んでいた。
 無色透明の液体。500mlのペットボトルに入っている。無味無臭で、ただの水となんら変わりない。しかしこれは悪魔の水だ。

「三好先生。それ、もらってもいいですか」
 水分補給しないと、と青木が手を出す。飲ませたら面白そうだが、これは今から分析に回さないといけない。被害者の血液から発見されたドラックと、照合を行うのである。
「飲んでもいいけど、これ例のドラックよ」
「え? 水じゃないんですか?」
「見た目は水にしか見えないし、味もないけどね」
「そのパッケージって、もしかして昨日の?」
「そう。現場から押収したものの1本。……どうしたの? なんか、顔青いわよ」
 顔を引き攣らせながら、新米の捜査官は懺悔した。
 
「……飲ませちゃいました、オレ。解毒剤がすごく苦くって、薪さんが水を欲しがってて 。てっきり水だと思って、それ」
「あんた、犯罪者じゃん」
 またひとつ、薪に言えない秘密ができてしまった雪子であった。


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ジャンル : 小説・文学

室長の災難(22)

室長の災難(22)







 昨日の記憶はない。
 正確に言えば、青木に抱き上げられてからの記憶がない。
 あれから警視庁に顔を出すつもりだったから、着替えに帰るだけだったはずなのだが、どうやら朝まで眠ってしまったらしい。ドアロックを外したり寝巻に着替えたりしているのだが、全然覚えていない。これもクスリの影響か、と頭痛の残る頭で薪は考えた。

 鑑識から青木が帰ってくる。
 いつも薪の前ではおどおどしている青木だが、今日は特にひどいようだ。そういえば、昨日はこいつに送ってもらったはずだ。記憶にはないが、腹いせに2、3発殴ってしまったのかもしれない。
「青木、分析の結果は出たのか。よこせ」
「は、はい」
 書類を持ってこちらへやって来る。が、薪の顔を見ようとしない。A3サイズの茶封筒を置いて、逃げるように自分の机に戻っていく。これは、5、6発、殴ったのかもしれない。もしかすると、蹴りも入ったかも。

「青木。ちょっと来い」
 室長室へいざなう。一応、フォローしておくのが上司の役目だ。
 何を心配しているのか、いっそう青ざめた顔をしてギクシャクしながら歩いてくる。最近の若い者の考えていることはよくわからない。
「昨夜はなぜ起こさなかったんだ? 僕は、ここに戻ると言っていただろう」
 そう水を向けると、驚いた顔をして「覚えてないんですか?」と言う。
「なにをだ。僕は眠ってしまったのだろう? それとも、おまえに何かしたか?」
「いいえ! 薪さんはよく眠ってました!」
 明らかに、あやしい。
 じっと見つめると、汗をだらだらと流してさかんに目を泳がせている。ウソのつけない男なのだ。
 まあ、仕方がない。こっちは何も覚えていないのだから。青木の方から何か言ってこない限り、謝りようがない。
 別に謝る必要もない。自分はここに戻ると言っていたのに、起こさなかった青木も悪いのだ。
 
「この次からは、ちゃんと起こせ」
「……はい」
 なにやら憔悴しきって、青木は出て行った。

 入れ替わりに岡部が入ってくる。捜一の取調べの様子を見に行かせたのだ。
 岡部は1年前まで、捜一のエースだった。一課には親しい後輩もいる。遥か昔に捜一を離れた自分より、ずっと顔が利くのだ。
「あいつら、ヘラヘラ笑いながら供述してるらしいですよ」
 正義感の強い岡部は、義憤に駆られた顔をしている。
 それは昨日、薪も思っていた。
 とにかく、軽いのだ。
 あんな重大な犯罪を犯しているとは思えないような、普通のノリの良い若者たちだった。
 明るく笑いながら女を犯し、嬲り殺す。正気の沙汰とは思えない。その快活さが、薄ら寒い。

「まったく最近の若いもんは。善悪の区別がつかない連中が多すぎるんだ」
 苦渋に満ちた顔つきで、岡部が低く呟く。
「病んでいるのかもな。この時代は」
 いつになく感傷的な声音で、薪は呟いた。
 だから、自分たちのような特殊な捜査をするものたちが必要になる。被害者の声なき声を聞くために。

 デスクの上の電話が鳴る。
 田城からだ。つまり、新しい仕事だ。薪の目は、すぐさま有能な捜査官の眼になる。
「わかりました。すぐに行きます」
 立ち上がり、しっかりとした足取りで歩き出す。いつまでも靴擦れなどにかまっていられない。
 室長室のドアを勢いよく開ける。部下たちが一斉にこちらを見る。
「みんな、事件だ。モニター準備!」
 第九の日常が、再び始まった。                    



 ―了―




(2008.8)

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ごめんなさいごめんなさい・・。

 こんな世界の最果てまでお付き合いくださって、感謝にたえません。

 大変申し訳ありませんでした。
 UPしてる途中で、何度も降ろそうと思ったんですけど、なんか、途中まで拍手してくださった方がいらっしゃってて……は、早すぎる……。

 完成度の低い作品を出してしまって、すみませんでした。いや、他のも似たかよったかなんですけど。
 やっぱり最初に書いただけあって、ひでえもんです。読むのがツライ(^^;
 個人的には初のあおまき小説ということで、思い入れの深い作品なのですが、冷静に読み返してみるとアラが目立ちます。警察内部のこともロクに調べてなかったし。
 その時には、これ以上のものは書くつもりがなかったので、青木はもっと先のことまでやっちゃってたんですよね。もう、ほんとにここで止めるか、みたいな。
 今回は遥か先まで続くお話に変わったので、中途半端なところで萎えてもらいました。ご愁傷様です。


 このお話に出てくる竹内警視は完全なオリキャラですが、これからもちょくちょく出てきます。
 やっぱり、恋のライバルは現実にもいたほうが面白いので。(原作でも、薪さんに横恋慕するひとが出てきたら、青木さんの気持ちも傾くと思うんだけどなあ)

 ありがとうございました。
 これに懲りずに、またお付き合いくださいませ。


 と・こ・ろ・で。


 メロディの発売まで、あと1週間ですね。
 どんな展開が待ってるのかなあ……修羅場はイヤだなあ。みんなが幸せになる方法って、ないのかなあ。
 わたし的にいい展開だったら、先の話をひとつUPしようと思ってます。ふたりが恋人同士になってからのお話を。
 逆に、わたし的に青木さんが許せないお話だったら、鈴木さんネタをUPしようかな、と。
 どっちになるかは8月号の青木さん次第。

 がんばれよ、青木さん。薪さんを泣かせるな。


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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
メロディ6月号、読みました。
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