岡部警部の憂鬱(1)

 8月号、2回目読みました。

 ……………………。(再涙)  おかまき小説、UPします。


 べつに怒ってるわけじゃなくて。(笑)
 千堂大臣との会見中、ずっと岡部さんが薪さんを心配そうに見ていたのがツボにはまりまして。
 ああ、やっぱり岡部さん、好きです。青木さんとは違う、大きな愛を感じます。(てか、薪さんの気持ちに気付いてますよね。岡部さん、鋭いひとですから)
 決して肉欲に結びつかない愛なんですよね。騎士道精神に近い。ある意味、究極だと思います。

 そんなわけで、この話は「岡部さんと薪さんの馴れ初め」です。
 モトネタはもちろん、『A PIECE OF ILLUSION』です。設定とか、まんまです。
 あの状況で、もう少し岡部さんが薪さんに突っ込んでいく、みたいな話です。
 うちの薪さんなんで、めちゃめちゃに乱れちゃってますけど。そこはいつものように片目つむってご笑覧ください。





岡部警部の憂鬱(1)





 自覚がないというのは、時として困りものだ。
 それは自身の怠慢に対してだったり、ちょっとした悪心に対してだったりすることが多いのだが、自分の美点に対して自覚がないのも、周囲の人間を苛立たせてしまうものらしい。

「いいかげんにしてくださいよ!」
 朝日の差し込むダイニングに、青木の大きな声が響いた。
「室長は、ケーキもおでんも食べちゃダメなんですよ! でもって、赤い愛車に乗って女装して目隠しプレイして! それをなんですか。カップラーメンは食べるわ納豆は食べるわ、おまけに平気で人前で裸になるし、とにかく、オレの夢を壊さないでください!」
 取り乱した挙句にわけのわからないことを叫んで、第九の新人はリビングのほうへ歩いて行ってしまった。
 そのままガチャン、と玄関のドアが閉まる音がする。怒りながらも薪に頼まれた買い物に出たらしい。

「岡部……僕時々、あいつの言う事がよく分からないんだけど」
 不思議そうな表情で小首を傾げた薪に、なんと説明してよいものか。
 言葉に詰まった岡部は、無言で首を振った。

 薪のマンションのキッチンで、岡部は朝食の用意を手伝っている。

 昨夜はこの家で、青木と3人で飲んで、そのままリビングで雑魚寝した。以前は薪と2人でよく飲んでいたが、この頃はそこに青木が加わることが多くなった。
 主な酒の肴は、新しく導入されたシステムのことだ。
 このシステムが発売されたのは、昨年の春。
 時間短縮に役立つ新しい商品にすぐに目をつけた薪が、所長の田城を口説きにいったのは5月のことだ。あの時は、三田村のせいでうまく田城を丸め込む―――― もとい、説得することができずに諦めかけていたのだが、秋の初めに起きた水面下の事件がきっかけとなり、三田村が地方の所轄へ異動になったあと、田城のほうから声を掛けてきてくれた。
 薪の実力を高く評価してくれている田城のこと、三田村にひどい目に遭わされながらも耐え続けた薪への褒美と取ってもいいだろう。

 田城のおかげで追加予算が認められ、そのシステムが導入されてから、第九の勤務体制はいくらか人間らしくなった。
 週36時間労働が叫ばれている昨今、毎日のように残業続きの研究室は第九くらいのものだ。そのことを、所長の田城はちゃんと理解してくれている。

 仕事以外のことに使うべき余暇を、室長とのコミュニケーションに費やすのは本末転倒のような気もするが、こういうときには薪は、仕事の話はあまりしない。
 昨日も薪が欲しがっている新しいPCソフトの話や、岡部の母親が家庭菜園に凝っていること、車好きの青木が休みの日に行って来たサーキットの話など、仕事には関係のない話が多かった。

「ケーキはそんなに好きじゃないからいいけど、おでんは美味いよな。なんで食べちゃいけないんだ? そういえば、昨夜も僕がラーメン食ってたら怒ったよな」
 遅くまで喋っていたから小腹が空いて、手を掛けるのは面倒なので、お湯を注ぐだけのカップ麺を食べた。その時も、なんだか青木は似たようなことを言っていた。
「あいつ、自分だって食ったくせに。なんで僕が食うと怒るんだろう」
 見事な包丁捌きで味噌汁に入れる大根を刻みながら、第九の新人の謎の言動に薪は首をかしげている。何か自分に落ち度があったか、と己を振り返ってみる。が、
「自分ちのカップメン食って、どうしてあいつに怒られなきゃならないんだ」
 次の瞬間には、理不尽な非難への憤慨に変わる。薪の感情は変化が激しい。
「赤い愛車? 女装? ……目隠しって、なに?」
「薪さんは知らないほうが幸せです」

 それは冗談にしても、顔に似合わない行動が薪の得意技だと岡部も思っている。たしかに、薪の容姿に日本のこの伝統食はあまりにもそぐわない。
「ネギ買って来てくれって頼んだのが、そんなに嫌だったのかな。でも、納豆にはネギがないとな」
 青木が急に怒り出した原因を、あれこれと考えている。さまざまな仮説を立ててそれを検証するのは、もはや薪にとっては第2の本能のようなものだ。
「そうか、あいつ西日本の出身だっけ。きっと納豆が嫌いなんだ」
 第九の天才が自信たっぷりに言い切ったその説が的外れなことは知っていた岡部だったが、妙に納得した表情でしきりに頷く薪を見ていると、何も言えなくなってしまう。

「旨いのに。これが食べられないなんて、可哀想なやつ」
 本当の理由を知らない室長がカワイソウです。

 よく混ぜたほうが美味いんだよな、などと言いながら一生懸命箸で納豆をかき混ぜている。岡部の目には可愛らしく映るが、薪の容姿に惹かれて来たものにとってはイメージダウンもいいところだ。
「でも嫌いじゃ仕方ないな。卵焼きでも作っておいてやるか」
 ぶつくさ言いながらも冷蔵庫を開けて、卵を取り出す。文句は多いが手は良く動く。
「岡部も食べるか?」
「はい。ぜひ」
 薪が作る卵焼きは、とても美味しいのだ。

 岡部は何度か薪のマンションに泊まらせてもらって、その度に朝食をご馳走になっている。
 初めはこんなに気さくな人だとは思わなかったから驚いたが、薪は基本的に来客は歓迎するほうだ。これもまた見かけによらないことだが、料理も上手でよく気も利く。
 一人暮らしが長いせいだと本人は言っているが、こういうことは持って生まれた性格で、何年経っても気が利かない人間も中にはいる。得てして、美人ほどそういう傾向があるようだ。

 意識が自分に向いていて、周りに対して関心がない人間ほど気配りができないものだが、薪はそうではない。逆に自分には無頓着で、周りに気を使うほうだ。
 小さい頃に両親を亡くして叔母の家で育ったというから、年少の頃から周囲に気を配る生活を強いられてきたのだろう。その少年時代が、薪のこの不思議な性格を作り上げたのかもしれない。
 わがままで自分勝手なのに、気配り上手で人を喜ばせるツボを押さえている。矛盾だらけの性質は、岡部にとっては面白い。

 本当に、最初はこんな人だとは思わなかった。

 聞き及んでいた署内の噂も岡部の第一印象も、見事に裏切られた。最初に会った時には最悪だと思っていたのに、いまは一生このひとについていきたいと思っている。
 あの頃はまた、薪にとっても特別つらい時期だった。だからよけいに印象も悪かった。
 しかし、逆のことも言える。あの時期に知り合うことができたからこそ、今の岡部と薪の信頼関係があるのだ。

「もう、大丈夫みたいですね」
 心の中の思考に対する答えが、つい口に出た。
 なにが、と聞き返されると思ったが、薪は卵をかき混ぜる手を止めて苦笑した。
「誰かといるときはたいてい大丈夫なんだ。安心するのかな。ひとりだと、まだ3日に1度くらいは見ちゃうかな……」
 まだ、そんなに頻繁に見るのか。見掛けほど回復してはいないようだ。

 無理もない。
 あの頃の薪は、壊れかけていた。精神を病まなかったのが不思議なくらいだった。
 笑うどころか普通に泣くこともできずに、不安定な心であちらの世界と現実とを行ったりきたりしていた。

「でも、もう平気だぞ。だっていつも同じ内容だろ。昔の映画を何度も見てるようなもんだ。さすがに飽きてきたな」
 岡部の心配顔に気を使ってか、薪はことさら明るい調子で軽口をたたく。そんなことは微塵も思っていないくせに、こういうところは相変わらずだ。
「去年の夏は、半そでの服も着てただろ? 今年は水着も大丈夫だぞ、きっと」
 あの事件から1年半が過ぎた現在、薪はこうして冗談を言えるくらいには心の平穏を取り戻している。しかし未だ、昔の写真にあったような笑顔の薪を見ることはできない。
 もっと足繁く通ってやれればいいのだが、岡部は4年前に父親を亡くして、今は母親と2人暮らしだ。こちらに通い詰めると、今度は親が心配である。

「青木に頼んだらどうですか? あいつならヒマそうだし、朝食つけてやれば、二つ返事で引き受けてくれるんじゃないですか?」
 フライパンに卵を流し込み、器用に巻き込みながら、薪は岡部の提案を却下した。
「それはダメだ。青木は部下だし」
「俺も部下ですけど」
「おまえには初めから見られちゃってるからな。カッコイイ上司の役は諦めたんだ」
 かっこいい上司、という薪の言葉につい笑ってしまう。薪の発想は、ときどきとてもユニークだ。
「薪さんは十分、カッコイイ上司ですよ」
「そうか?」
 うれしそうだ。
 かわいい、と称されることが多い薪だが、中身は普通の男なので「カッコイイ」と言われると、単純に嬉しいらしい。そういうところが可愛らしさを助長していることに気付いていないのが、また薪らしい。

「僕のあんなところを知るのは、おまえだけで充分だ」
「なるべく、顔を出すようにしますよ」
「気を使わせて済まないな」
「いいえ。俺もここの朝メシは楽しみですから」
「おまえらの目的は結局それか。なんで僕の周りにはこう、食い意地の張ったやつらが多いのかな」
 ぶつぶつ言いながらもせっせと朝食を作ってくれる薪のきれいな横顔を見ながら、岡部は薪と出会ったばかりのことを思い出していた。



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岡部警部の憂鬱(2)

岡部警部の憂鬱(2)







 岡部が薪と初めて会ったのは、2年前の夏である。
 所轄での功績が認められ、憧れの捜査一課に配属になって、岡部は張り切って仕事に取り組んでいた。代々の課長をノンキャリアが努める慣習になっていることでも分かるように、捜査一課は完全な実力主義の世界。ここの水は、岡部にぴったりだった。
 その頃コンビを組んでいたのは、竹内という後輩だ。竹内は京大出のキャリアだったが、ノンキャリアの自分を見下すこともなく、よく慕ってくれていた。
 しかし、岡部が捜一にいられたのは、たったの4年。新設の第九研究室で起きたあの事件の直後、岡部は第九に引き抜かれたのだ。

 それは、警察組織全体を揺るがすような大事件だった。

 第九の室長の薪警視正が、部下の鈴木警視を勤務時間中に射殺した。
 2059年8月9日の早朝、鈴木警視は拳銃の保管庫から銃を強奪。第九の要であるMRIシステムを破壊した上、室長の薪警視正に2発の銃弾を発砲。鈴木警視には明らかな錯乱状態が認められ、身の危険を感じた薪警視正に拳銃で胸を撃ち抜かれる、といった光景が防犯カメラの映像にはっきりと残されており、薪の正当防衛が認められた。
 そんな大事件の当事者たる薪室長に降格人事はなく、たった3ヶ月の減俸処分で済んだのは、かねてからの彼の高い実績と、警察庁官房室室長の小野田聖司の力によるものだった、と岡部は聞いている。

 彼を第九の室長に抜擢した当時、小野田は官房長に昇任したばかりだった。その頃から目をかけていた薪を庇ってのことだったらしいが、岡部にはひどく甘い処分に思えた。
 正当防衛とはいえ、部下を撃ち殺したのだ。どう考えても、普通なら島流しだ。
 大きなミスをしたキャリアは出世街道から脱落し、外郭団体に左遷されたりして、二度と桧舞台に帰ってくることはできない。それは例え失敗をしても、小さな実績を積み重ねていけば再び返り咲くことができるノンキャリアよりも厳しい世界だ。
 それが降格人事すらないとは。

 警察は公正であるべきだ、と岡部は常々考えている。
 身内の交通違反を揉み消すことすら許せない、と思うくらいなのだ。それがこんな大事件を起こしておいて、なんのお咎めもなしとは、とうてい信じられない。

 薪は警察庁始まって以来の天才と謳われていて、警視正に昇任したのが、なんと27の時だという。
 普通、警視正に昇任できるのは最短ルートを辿ったとしても35歳。警視正の昇格試験を過去最高得点でパスしたというが、官房長の特別承認がなければありえない人事だ。
 それから、ロスに1年ほど海外研修に行っている。
 海外研修で箔をつけて、翌年には第九の準備室長に就任し、そのまま第九の正式な室長として在任―――― あの事件が起こるまでは、順風満帆の出世街道だったのだ。

 しかし、警察内部の多くのものが囁くように、筆記試験で捜査の実力が測れるものではない。むしろ、知識ばかりを詰め込んだ頭でっかちの現場を知らない捜査官など、実際の捜査では邪魔なだけだ。エリート集団の第九をまとめ上げるには試験の結果が物を言うのかもしれないが、ノンキャリアの岡部は、もちろんそういう連中に反感を持っている。
 現場を這いずり回るようにして証拠品を探し、風雨に耐えながら聞き込みを続けて、ようやく犯人を検挙する岡部たちにとって、現場の悲惨さも見ることなく、被害者遺族の嘆きも聞かず、血の匂いさえ嗅がずに捜一の捜査資料だけを奪っていって、モニターを見ることだけで事件を解決してしまう第九は、この世で一番憎らしい連中だ。室長といえば、その親玉だ。実際、捜一の中にはこの事件が起きた時、宿敵第九の窮地に祝杯を挙げた輩もいたほどだ。
 犬猿の仲の第九とはいえ、同じ警察官が亡くなっているのだから、岡部にはそこまでの非常識さはなかったが、これで第九が潰れてしまえばいい、と心の中で思っていたのは事実だ。

 その自分が第九へ――――!?

 警視総監の直々の人事異動とはいえ、岡部は嫌でたまらなかった。
 だいたい、自分はキャリアではないし、難しいMRIの機器操作などわからない。普通のPCでさえ苦手なのに、MRIシステムなどというPCのお化けのようなものを使って捜査をするなんて。
 しかも、人間の脳を見るというではないか。医者でも科学者でもない自分が、そんな人の道に外れるような真似をしなければならないなんて。

 しかし、警察というところは、上役の命令に逆らうことは許されない。
 どんな結果になるにせよ、一旦は第九に勤めなければならない。使い物にならないと思えば、室長のほうから異動を勧めてくるだろう。そうしたら捜一に帰ってくれば良い。課長もできるだけ、自分がここに戻ってこれるように手を打つ、と約束してくれた。

 同僚たちが開いてくれた送別会の席で、岡部は捜一の先輩から、新しい上司の情報をあれこれ仕入れることができた。
「とにかく嫌なやつだよ」
 捜査会議で何度か一緒になったことがあるという先輩の薪に対する評価は、それに尽きるようだった。

 薪は警大卒業後、最初から捜一に配属されるという異例人事だったらしい。
 捜一は警視庁の花形部署だ。普通、そう簡単に入れるところではない。
 警大での優秀な成績と、教官の強力な推薦と、本人のたっての希望だったらしいが、何年も所轄で地味な下積みを経てようやく捜一に行くことができた岡部とは、えらい違いだ。ここらへんも、なんだか面白くない。

 一般に、キャリアは入庁後、まずは警察大学に入学する。
 大学で身につけるのは、管理者としての知識だ。現場の警察官を養成する警察学校とは、学ぶことも求められることも、まるで違う。たとえば警察学校では柔道の初段が必須課題だが、大学ではそんな課題はない。現場に出て犯人を捕まえるのが、キャリアの仕事ではないからだ。
 警大を卒業すると、最初は地方の所轄に係長クラスの配属となり、6ヶ月の実地研修を経て、警察庁に戻る。内部勤務を経て、また所轄に出る。それを何年か繰り返すだけで自動的に階級が上がっていく―――― のは、薪が警察庁に入庁する2年前までの話だ。
 現在はキャリアにも、一般の警察官と同様、昇格試験という制度が導入されている。
 キャリアの昇格試験は、岡部たちの受ける一般の昇任試験より遥かに難しい。
 問題は一般にも公開されているが、警部用の一番簡単な昇格試験でさえ、岡部にはちんぷんかんぷんである。ましてや警視正用の昇格試験ともなると、異世界の話のようだ。次元が違う。それを薪は27の時に一発で、しかも最高得点記録というおまけまでつけてパスしている。
 ……ますます面白くない。

「頭は切れるのかもしれないけど、人間的にはちょっとな。試験のように現実の事件が解決できるなら、誰も苦労しないって。上の連中は、それを分かっていないんだ」
 普段は他人を悪く言う先輩ではないだけに、この人物評には信憑性があった。

 他の誰に聞いても、薪の評判はよくない。
 皮肉屋で嫌味ったらしくて気取り屋。傲岸不遜で傍若無人。
 仕事には熱心だが、部下の人権を一切認めず、自分の奴隷でもあるかのように扱う。室長の冷酷非道な仕打ちによる精神的な苦痛から、第九の職員たちは一様に痩せ衰えていくという。「中年太りを解消したけりゃ第九に行け」などという笑い話まであるくらいだ。

 薪の噂を聞けば聞くほど、岡部はこの異動が嫌になった。
 捜一の課長は自分と同じノンキャリアで、現場のことを良く分かってくれているし、岡部とはとても話が合う。
 せっかくいい上司と同僚に恵まれて、やりがいのある仕事をしていたというのに、これからは暗い部屋の中で岡部の嫌いなPCのお化けに囲まれて、学歴を鼻にかけた嫌味な上司の下で働かなくてはならないのか、と思うと泣けてくる。
 何事にも前向きな岡部だが、今回ばかりはため息が出てしまう。
 そんな岡部の表情を気にしてか、竹内が心配そうにやってきた。ビール瓶を傾け、岡部のグラスに注ぎながら、こちらもまたしょぼくれた顔をしている。
 
「岡部さん……行っちゃうんですね」
 竹内とは現場でコンビを組んでいる。竹内はキャリア組だが、素直で頑張り屋の後輩だ。
「岡部さんがいなくなったら、俺」
「大丈夫。薄井さんは俺より優秀だぞ」
「でも。俺は岡部さんとずっと一緒に仕事がしたかったです」
 岡部だとて、キャリアすべてに反感を持っているわけではない。こうして自分を慕ってくれれば、純粋に可愛いやつだと思える。

 泣きそうな顔をしている竹内に、『すぐに帰ってくる』と誓いを立てて、岡部は捜査一課を離れたのだった。



*****


 以前にも説明を入れた昇格試験ですが。
 これは、このお話だけの設定です。(現実のキャリアは自動昇任です)
 また、岡部さんはノンキャリアという設定で書いてます。(本当はエリートなんですよね) 
 勝手に設定を変えてしまってすみません。



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岡部警部の憂鬱(3)

岡部警部の憂鬱(3)








 嫌々ながらも研究所所長の田城に連れられて、室長の薪に挨拶に行った岡部は、そこでますます第九が嫌いになった。
 壁一面の巨大なスクリーン。わけの解らない難しそうな機械が、我が物顔に占拠する部屋。捜一の3倍は広い。
 窓のブラインドは、すべて下ろされている。モニターを見続ける仕事のため、日光は完全に遮断されている。明るい光が差し込み、外の風景を見ることができる捜一とはだいぶ違う。
 岡部のように、外の仕事が好きな人間は、それだけでげんなりする。この部屋でずっとPCの画面を見続けるなんて、まるで引きこもりのようだ。

 初めて会う室長は、徹夜明けの不機嫌な顔で、だらしなく着込んだワイシャツ一枚という格好で岡部を迎えた。
 その幼い顔に、岡部は心底びっくりした。
 自分より1歳年下だと聞いていたが、どう見ても高校生くらいにしか見えない。というか、男にも見えない。
 室内から出たことのない第九の室長らしく、真っ白な肌に貧弱な身体。亜麻色の髪と同じ色の瞳。えらく長い睫毛と、こじんまりした鼻。てかてかと光るくちびる。
 こいつ、男のクセに化粧してやがる―――― 真面目にそう思った。

 そのなよなよした外見からは想像もつかないような言葉が、小さな口から飛び出してきた時には、岡部は二度びっくりした。
「僕の部下は、前の捜査で全員死んだんです。だから今はたった一人の室長です」
 きれいな澄まし顔で、室長は他人事のように言った。
「まったく、情けないやつらです。画を見ただけで自殺なんて考えられない。精神的に脆い連中だったんですよ。まあ、一人は僕が撃ち殺したんですけど」
 なんて言い草だ。
 人間味のない男だという話は聞いていたが、一緒に仕事をしていた部下が死んだというのに、こいつにはひとの心がないのか。
 ましてや自分が射殺したのは、大学時代からの友人だというではないか。そのことに対する後悔すらないのか。
 現場で切羽詰った状況で、犯人に発砲しなければならない時ですら、人に凶器を向けることに躊躇いを感じる岡部には、想像もできない心理だ。
 
「だからあなたのことは歓迎しますよ、岡部警部。捜一のエースのあなたなら、そんなことはないでしょうから」
 冷たい微笑。氷のような、ぞっとするような笑顔だ。
「僕より強そうだし。僕に殺されることもないでしょう」

 岡部に薪の情報を教えてくれた先輩は、あれでも遠慮してくれていたのだ。これからその人でなしの下で働かなければならない岡部を気遣って「人間的にはちょっと」などという曖昧な表現に留めたのだ、と岡部は気付いた。
 見掛けはたしかにきれいだが、こいつは人間の皮を被った悪鬼だ。

 あの事件からまだ2週間しか経っていないというのに、平然とした顔で仕事をしている。
 正当防衛とはいえ、部下を殺しておいてそのまま室長の座に居座り続けるという無神経さも、岡部には理解できない。
 これがもし自分だったら、自ら責任を取って室長の役職を返上し、降格人事を求めたことだろう。なにかしら責めを負わなくては自分自身が許せないに違いない。それが人間というものだ。

 ひとりも部下がいないとの言葉通り、薪は自らコーヒーを淹れて、来客用の紙コップに注いで岡部に勧めた。
「大丈夫ですよ。毒なんか入ってませんから」
 いちいち勘に障る言い方だ。
 自分はいま、険悪な表情をしている。それは百も承知だったが、岡部にはどうすることもできなかった。
 相手はこれから一緒に仕事をする上司なのだ。これはまずい。まずいが、愛想笑いなどできない。岡部はそれほど器用な人間ではなかった。

 コーヒーを受け取ろうとしない岡部を、小馬鹿にしたように薪は言った。
「僕が怖いですか?」
 思わず、差し出されたコーヒーを振り払っていた。
 あっと思った時には遅かった。リノリウムの床にコーヒーがこぼれる。
 平静な顔のまま、第九の室長は両手を腰に当てて、岡部を睥睨した。気取った嫌味な口調で岡部に命令する。
「あなたの初仕事は床の掃除です。ちゃんと拭いておいてください。僕は部屋で寝ますから」
 岡部の返事を待たずに、室長室へ入っていってしまう。所長の田城とともに取り残される形になって、岡部は奥歯を噛み締めた。

 初めて会った人間を、こんなに憎らしく思ったことはない。捜査に先入観は禁物だからだ。
 しかし、この男は特別だ。何もかもが許せない。

「悪いね、岡部くん。薪くんはちょっと変わり者でね」
 雑巾で床を拭いている岡部に、所長が声を掛けてくる。
 所長の田城は、『仏の田城』の異名を持つくらいの人物で、薪のことも悪くは思っていないようだ。薪のことを「ちょっと変わり者」などという生易しい言葉で表現するものなど、署内では田城くらいのものだ。

「あんなふうだけど、薪くんは本当はそんなに残酷な人間じゃないから」
 田城には目がついていないのか。それともこの世に心の底から悪い人間などいない、とでも思っているのだろうか。
 岡部も基本的には性善説に賛同していたが、何事にも例外はある。薪は完全に『例外』のほうだ。
「そうなんですか? 俺にはとても」
「君、心配そうな顔をして薪くんを見てたろ。彼なりに君を心配させまいとして、あんな言い方をしたんだと思うよ」
 心配などしていない。自分の行く末が不安だっただけだ。
「どんだけ屈折してんですか」
「そういう人なんだよ。一緒に仕事すれば分かることだから初めに言っとくけど、薪くんは言ってることとやってることがまるで違うひとだから。あの口に騙されちゃだめだよ。あと、あの見かけにも。あれで柔道は2段だからね」
 それは初耳だ。あの貧相な身体で黒帯とは。

 警察学校を卒業した岡部はもちろん有段者だが、薪はキャリアだからその必要はなかったはずだ。
 自分で習得したということか。努力は認めるが、だからといって薪の人間性が変わるわけでもない。

 あれが第九の室長。あれが自分の新しい上司。
 人間的に尊敬のできない上司ほど、始末の悪いものはない。あんな人でなしの命令に従わなければならないなんて。

「ああ、捜一に帰りたい……」
 第九着任後、わずか30分で。
 早くも捜一にホームシックを感じる岡部であった。



*****

 うふふ。
 やさぐれ薪さん。かわいい

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岡部警部の憂鬱(4)

岡部警部の憂鬱(4)








 岡部が第九に着任した日の午後、早速最初の捜査が始まった。
 事件の概要説明にかかった室長は、捜一から回って来た『コンビニ店員殺傷事件』の捜査報告をメモひとつ見ずに流暢に行い、それがまた岡部を苛立たせた。
 岡部よりも年の若い小池と曽我は、ただ素直に驚いているようだったが、岡部には室長の行為は、自分の記憶力の良さを新しい部下たちに見せ付けるためのパフォーマンスとしか思えなかった。

 薪の説明が、上手すぎるのも気に入らない。
 この事件は捜一で岡部が調べていた事件だから、内容は岡部のほうが良く分かっている。
 しかし、薪の説明は微に入り細に入り、散文的な捜査資料から実に細かいニュアンスまで精確に読み取って説明している。まるで自分が現場に出て捜査をしたかのようだ。

「岡部警部。何か私の説明に追加することがあればお願いします」
 はっきり言って、ない。
 しかしそれは、表面上のことである。捜査資料に現れない影の部分―――― 聞き込みを行なった時の感触や、人間関係の微妙な部分は、その場に居合わせたものしか分からない感覚だ。こういうものが捜査には大事なことなのだ。
 が、それを説明し始めた岡部の言葉は、説明を求めたはずの人物に途中で遮られた。
「MRIを見たほうが早いし、明確です」
 それが薪の言い分だった。

 見せ付けられたMRIの画に、岡部は打ちのめされた。
 視覚者の主観が現れるMRIは、画の持ち主の感情をあからさまに映し出す。自分が好きだと思う人間は美しく、嫌いな人間は醜く映る。聞き込みで得られる確証のない感覚など入る余地がない。

 これが科学捜査というものか。
 こんなにはっきりとその人間の気持ちが分かってしまうものなのか。それではこれまで自分が、刑事としてのカンを研ぎ澄まそうと積み重ねてきた努力は、なんだったのか。

「ご納得いただけましたか? 岡部警部」
 あなたの今までのやり方はここでは通用しません―――― そう言いたげな薪の高慢な口調に、岡部は思わず薪を睨みつけた。
 凶悪犯でもびびると評判の岡部の視線に、しかし薪は動じなかった。
 腕を組んで胸を張り、平然とした顔で岡部を見ている。身長は岡部よりずっと低いくせに、その目線は明らかに上からのものだ。

 かわいくない。
 見掛けはきれいかもしれないが、中身は真っ黒だ。
 おまえの実力の程は解っている。ここでは自分の言うことを聞いていればいいんだ―――― そういう目で岡部を見ている。

 あまり人を嫌ったり疎んじたりしたことのない岡部だったが、こいつだけは特別だ。
 嫌いだ。
 だいっきらいだ。

 ここに来て、薪の印象は最悪のものとなった。これ以上は落ちようがない上司の評価がさらに失墜する出来事があったのは、その夜のことである。

 一刻も早く捜一に戻りたい岡部は、早々と異動願いを書き上げて室長に渡す機会を待っていた。他の2人が帰ってからでないとさすがにまずいと思い、定刻を過ぎても帰らずにモニタールームにいた岡部は、そこで捜一によく顔を出す三田村の来訪を受けた。
「やあ、岡部くん。災難だったね、こんなところに異動になって」
 三田村は警察庁の警務部長だが、刑事部長の池澤と仲が良く、捜一にもなじみが深い人物だ。しかし、岡部はこの男があまり好きではなかった。
 警務部長という立場上、警察庁内の人事権を掌握している三田村は、お定まりの裏取引やワイロといった汚いことに馴染んでいる。曲がったことが嫌いな岡部は、この男を心の底で軽蔑していた。

「薪室長は、君とは合わんだろう。あの男は最低の人間だからな」
 あんたといい勝負だ。
 口には出さなかったが、岡部の顔は不機嫌だった。嫌いな人間ににこやかにできるほど、岡部は器用ではない。
「君は捜一にいるべき人間だからな。早く帰りたいだろう。わしの力でなんとかしてやってもいいが」
 それは願ってもないことだが、こいつに頼むのは嫌だ。どうせワイロを要求されるに決まっている。異動願いを出せば、後は捜一の課長が何とかしてくれる。三田村の力など要らないのだ。

「これはお珍しい。何の御用です? 三田村部長」
 室長室から、書類の束を抱えて薪が出てくる。
 残っていた岡部を見てすこし驚いているようだったが、まずは三田村のほうが先決だと思ったらしく、挑戦的な口調で問いかけた。
「激励に来たんだ。あんなことの後で、さぞかし大変だろうと思ってね」
「それはどうも。用が済んだらお引取り願いますよ。外部の人間がいると仕事ができないもので」
 薪は手近な机に書類を置き、一列に並んだモニターを3つとも起動させた。退室時間を大分廻っているが、これからまだ仕事をするつもりらしい。

「たいそうな口をきくじゃないか。あれだけの不祥事を起こしておいて、自分の立場を解っているのかね? 薪警視正」
 三田村の不遠慮な言葉に、薪は無表情の沈黙で応えた。
 動揺する気配はない。見かけによらず、図太い男だ。
「あの事件は、警察組織全体に泥を塗ったんだ。本来なら警視正の役職になどいられないはずだよ。君に少しでも申し訳ないという気持ちがあるのなら、自分から降格を申し出るのが当たり前だと思うがね」
 三田村のことは嫌いだが、岡部も同じことを考えていた。あれだけの不祥事に責任を取るものがいないなど、世間も納得しないだろう。

「あれは正当防衛ですよ。なぜ私が責任を取らなくてはならないんです?」
 それを自分で言うのか。
 信じられない。どこまでふてぶてしい男なのだ。
「君も偉くなったな。君が小野田官房長に泣きついて処分を免れたという話は、どうやら本当らしいな。自分には官房長がバックについている、というわけか。」
 まことしやかに囁かれている薪のパトロンの話に、三田村は触れてきた。
 そこは岡部も確かめておきたいところだ。もし、裏取引で室長の役職に留まったのが事実なら、ここで働くのはまっぴらだ。
「文字通りの意味合いだという噂は本当かね?」
 それはもっと密やかに囁かれている噂だ。
 しかしこれは、薪の外観を揶揄したタチの悪い冗談だろう、と岡部は踏んでいる。官房長には娘が3人もいたはずだ。

「三田村部長。申し訳ありませんが、人手が足りなくて報告書の作成が滞っているんです。くだらない冗談で、これ以上仕事の邪魔をしないで下さい。お帰りいただけないようなら」
 薪の目がぎらりと光って、三田村の顔を睨みすえた。
 なるほど、ひどく冷たい瞳だ。『氷の室長』という渾名はここからきたのか。
「官房長に言いつけますよ。もちろん、ベッドの中で」
 しれっとした顔で恐ろしいことを言って、薪は不毛な会話を終わらせた。
 三田村は怒りに顔を紅潮させて、足音も高く研究室から出て行った。今回の鍔迫り合いは、薪の圧勝だ。

 三田村が出て行くと、薪はすぐさまMRIシステムを起動させた。
 幾枚もの書類を両隣の机中に広げて、キャスターつきの椅子を滑らせるようにして書類の間を行き来しながら、両手でキーボードを叩き始める。
 その速さに、岡部は度肝を抜かれる。タイピングが苦手な岡部には、まるで神技だ。

 薪は3つのモニターを使って、ひとつの事件を3人の視覚者の視点から捜査しているようだ。その仕事ぶりは見事なもので、山のようにあった書類の束が、見る見る処理済の箱の中に放り込まれていく。
「あなたはどうして残っているんです?」
 てきぱきと仕事を捌きながら、薪は岡部に背中を向けたまま、居残りの理由を尋ねた。
「あ、いや。その」
 こんなに忙しそうな室長の姿を見てしまうと、異動願いが出しづらい。
 あんな不祥事を起こしたばかりで、第九の信用は地に落ちている。そんな部署に来たがる物好きはいない。
 小池と曽我のふたりも、おそらくは上司の命令にいやいや従っているに違いない。そこに年長者の自分が異動願いなど出してしまったらあの2人にも影響して、室長はまたひとりきりになってしまうかもしれない。
 少しだけ、可哀想な気もする。

「俺、何か手伝えますか?」
「この事件は昔のもので、僕にしか分かりません」
 前の部下がひとりもいないということは、中途だった事件の報告書はすべて薪がひとりで作成しないといけないわけだ。それでこんなに仕事が溜まっていて、昨日も徹夜だったわけか。だから今朝は虫の居所が悪くて、あんな口を。

 岡部には、他人の行動をなるべく善意に解釈しようとする傾向がある。基本的にお人好しなのだ。
 が、それに対する室長の言葉は、果てしなく冷たかった。
 
「あなたにできることなどありません。あなたはまだMRIシステムの操作ができないでしょう。いても無駄ですよ」
 それは事実だが、もう少し言い方というものがあるだろう。こっちは気を使って手伝いを申し出たというのに、本当にひとの心のわからないやつだ。
 さっきの三田村との会話にも、岡部はかなり憤っている。岡部の薪に対する印象は悪くなる一方だ。

「邪魔です。帰ってください。仕事をしない人間が側にいると、イライラするんです」
 カチンときた。
 と、同時に許せなくなった。
 この男は人格的にも人間的にも、最低だ。それがどんなに無神経なことでも、ひとこと云ってやらなければ気がすまない。

「さっきの三田村部長の話ですけど」
「僕が官房長に泣きついたって話ですか? 事実ですよ。もちろんベッド云々は冗談ですけど。官房長に頼んで、僕の降格処分は取り消してもらったんです。警視正以上でないと、室長に就任できない決まりですから」
 そんなに室長の座に居座りたいのか。そんなに出世が大事なのか。
 出世欲にまみれたキャリアは、岡部がこの世で一番嫌いな人種だ。この男はまさにそれだ。一緒の部屋にいて、同じ空気を吸うのもいやだ。

 薪の細い背中に向かって、岡部は厳しい口調で問い質した。
「責任を取ろうとは思わなかったのですか? 例えば室長を辞任するとか」
「馬鹿馬鹿しい。なぜ僕が室長を辞めなくてはならないんです?」
「でも、実際に亡くなった人がいるわけだし」
「それはただの自己満足でしょう。僕が室長を降りたからといって、彼が生き返るわけじゃない」
 友人の命を奪ったというのに、この男には罪悪感がないのか。
 心の底まで腐りきっている。嫌いを通り越して、吐き気がするほどだ。
「万が一、生き返ってきたらそれはお化けですよ。昔、そんな映画がありましね。ゾンビには塩が効くんでしたっけ」
 せせら笑う口調でキーボードを叩きながら、薪は楽しげに言った。

 もう、我慢できない。

 友人を殺しておいて、死者を冒涜するようなことを平然と口にする人間など、岡部が逮捕してきた犯罪者の中にもいなかった。みな、自分のしてしまったことを悔やんでいた。
 上司に逆らうのは警察ではご法度だが、こんなやつの下で働くなど1秒たりとも我慢できない。この異動願いを叩きつけて、捜一に帰ろう。

 背中を向けている薪の横に回りこみ、ポケットから封筒を出そうとしたとき。
 岡部はそれに気付いた。

 薪の顔は、言葉通り笑っている。しかし――――。
「室長……」
「なんです?」
 岡部が薪の横顔から目が離せない様子に気付き、薪は頭をめぐらせて岡部のほうを向いた。
「僕の顔になにか」
 ぼたぼたっとキーボードの上に、透明な液体が滴り落ちる。
 薪ははっとして両手で顔を隠した。
 手で触って初めて自分の涙に気付いたらしく、ひどく狼狽している。

「……出てけ」
「室長」
「見るな!出ていけっ!」
 ワイヤレスのキーボードが、岡部に投げつけられる。その剣幕に押されて、岡部は後ずさった。その隙に、薪は室長室に駆け込んで行った。
 岡部が室長室のドアに耳をつけると、中からは激しい嗚咽が聞こえてきた。
 声を殺そうとしているようだが、なかなかうまくいかないらしく、ときおり口汚く自分を罵る声が聞こえてくる。

 自分が泣いていたのにも気付かずに、あんなふうに喋っていたのか。普通の精神状態では考えられない。
 これは総監が危惧していた通りかもしれない――――。

 4人の捜査員を狂わせた貝沼の狂気に、薪室長も感化されているのではないか。
 警視総監はそれを疑っていた。それで岡部を第九に送り込んだのだ。
 薪のことは大嫌いだし、精神的に不安定な状態で室長の職務を全うすることができるとも思えない。
 総監は、薪を辞めさせたがっていた。
 このことを総監に報告すれば、いかに官房長のお気に入りとはいえ、薪の降格処分はまず間違いない。うがった見方をすれば、官房長とは反対の派閥に属する警視総監が、将来官房長の右腕になりそうな優秀な人材を今のうちに葬り去ろうとしているともとれるのだが。
 どちらにせよ、今日はまだ初日だ。結論を出すのは早すぎる。もう少し様子を見るべきだ。

 それにしても、なんてひどい上司だ。
 皮肉屋で冷血漢で嫌味ったらしくて、おまけに狂いかけている。

 薪に渡せなかった異動願いの封筒を見て、岡部は大きなため息をついた。


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岡部警部の憂鬱(5)

岡部警部の憂鬱(5)








 そんな最悪のスタートを切った岡部だったが、薪の仕事ぶりを見るうちに、その高い実力を評価しないわけにはいかなくなってきた。
 捜査の過程を見たわけではないが、仕上がった報告書を読めば、MRI捜査がどれだけの確証に基づいてなされているのか、よくわかる。添付された写真や資料が充実していることは、岡部が捜一で作成してきた報告書の3倍も厚いファイルが物語っている。

 捜一からの事件概要説明書は、しごく簡単なものだ。
 岡部はしたことがないが、捜一の中には第九への悪感情から微細な情報をわざと表示しないものもいる。間違いは重要指摘となるが、足りないものに関しては必要ないと判断した、と言い訳が立つからだ。
 それを読み解いて仮説を立てて検証して、足りない部分は補い不必要な情報は削除し、完璧な報告書に仕上げるまでには、何十時間ものMRI画像の検証が必要となる。
 いい上司だ、とはまだとても思えなかったが、薪の仕事に対する真摯な姿勢だけは共感できるものがあった。岡部に続いて入ってきた小池と曽我も、噂よりも穏やかで、丁寧にMRIシステムの操作方法を教えてくれる室長に、好感を抱いているようだった。

 この調子で、なんとかうまくやっていけそうだ。
 新しいスタートを切ったばかりの第九には、まだ大した仕事も来ない。よほどの大事件でもなければ、回してこないだろう。今はまだ、大きく崩れてしまった地盤を固めなおす時期だ。
 薪は室長として立派に仕事をこなし、常に冷静に職務にあたっている。取り乱したのはあのときだけだ。
 しかし、あれは無理もない。
 三田村に生傷を抉られるようなことを言われたのだ。室長にも、いくらかは人間らしいところがあるのだ。
 とにかく、総監が心配していたような貝沼の影響は微塵も見られない。総監には、薪警視正は室長の役職にふさわしい人物だと報告しよう。

 しかし。
 ほどなく岡部は、薪の心に巣食う貝沼の狂気の深淵を覗くことになる。

 その時、薪は曽我の後ろからモニターを覗き込み、曽我の手に自分の手を重ねて、MRI専用マウスの使い方のコツを伝授していた。
「この部分を拡大するには……」
「室長?」
 薪はふいに黙り込んだ。
 と思うと次の瞬間、曽我の背中に負ぶさるように倒れこんできた。
「室長!」
 曽我の左肩に細いあごを載せて目を閉じている。重なり合った睫毛は至近距離で見るとびっくりするくらい長い。
 顔色は蒼白だが、呼吸は穏やかだ。規則正しく、くーくーと聞こえてくる。
 これは。
 
「岡部さ~ん……」
「完全に眠ってるな、こりゃ」
 徹夜続きで、とうとう限界を超えてしまったらしい。脈も少し弱くなっている。眠れば元気になると思うが、さてどうしたものか。
 とりあえず仮眠室のベッドに寝かせることにして、岡部は曽我の背中から薪の身体を譲り受けた。抱き上げてみるとひどく軽い。岡部の母親のほうが重いくらいだ。こんな細い身体でろくに睡眠もとらず、仕事を続けて大丈夫なのだろうか。
 
「病院に連れて行ったほうが、いいんでしょうか?」
 小池が心配そうな声で尋ねる。
「そうだな。単なる寝不足だとは思うが」
「あたしが診ます。ベッドまで運んでください」
 騒ぎの最中に入ってきたと見えて、その女性の来訪に気付くものはいなかった。
 長身に白衣を纏い、背筋をぴんと伸ばして立っている。短く切り揃えた黒髪に、気の強そうな黒い瞳。手にはピザの箱を3つも持っている。
「はじめまして。監察医の三好雪子です。薪くんとは大学のときからの友人なの」
 三好のことは岡部も知っていた。解剖所見を持って、何度か捜一に来たことがある。しかし、薪と友人だったとは知らなかった。

「胸と背中を診るから、ちょっと支えててもらえます?」
 薪をベッドに座らせてワイシャツを脱がせる。眩しいくらいの白い肌があらわになる。が、その肌には幾筋ものみみずばれがあり、岡部を驚かせた。
「この傷って」
「女の爪の跡でしょ。お盛んね」
 きわどい冗談でその場を誤魔化そうとするが、監察医の三好にその原因が分らないわけはない。
 岡部も傷の原因は爪だと思うが、これは女の爪痕ではない。傷がついている場所もおかしい。情事の爪痕なら、たいていは背中に付くはずだ。
 しかし薪の場合、身体の前側の部分―――― 腕や肩、胸やわき腹といった部分が多い。
 その中でも、左腕と左肩の傷が深い。この深さは爪ではない。もっと何か硬いもの―――― 刃物ではない、先の尖ったボールペンのようなもので抉った痕だ。
 明らかに、自傷行為だ。
 ズボンを脱がせればたぶん、足にも同じような傷が見つかることだろう。

「あーあー、また痩せて。これ以上ダイエットして、どうする気かしら」
 ほんとうに細い。
 薪は夏でもきっちりとスーツを着ていたから、ここまで細いとは思わなかった。
 ごつごつした肩と背中。あばら骨のくっきり浮いた薄いむね。下半身もこの調子で、骨と皮ばかりという状態なのかもしれない。体質なのか、顔にはその影響があまり現れていないから、ここまで疲弊しているとは見抜けなかった。

 聴診器で心臓と肺に異常がないことを確かめてから、女医は岡部に笑いかけた。
「心配しなくても大丈夫。いつもの睡眠不足と低血糖。ゆっくり眠って、ごはんを食べれば直るから」
「いつものって?」
「このひと、昔からこうなの。仕事に夢中になると、飲まず食わず眠らずになっちゃうのよ。びっくりさせてごめんなさいね」
 こんな言い方をするところをみると、三好は友人ではなく恋人なのかもしれない。薪よりだいぶ背は高いようだが、気の強そうなところは良く似ている。さぞかし痴話喧嘩は激しいことだろう。

「前は、鈴木くんが注意してくれてたんだけど……いなくなっちゃったから。あなたに頼むのは無理かしら、岡部靖文さん」
「なんで俺の名前を」
「有名だもの。捜査一課のエースが第九に引き抜かれたって。薪くんも喜んでたのよ。優秀な人材が第九に来てくれるって」
「俺は優秀なんかじゃないですよ。キャリアじゃないし」
「キャリアもノンキャリアも、薪くんの目から見たらそう変わらないと思うけど。頭の中、宇宙人みたいなひとだから」
 たしかに。
 薪のレベルになると、周りの人間はすべて自分より下に思えてしまうのかもしれない。キャリアもノンキャリアも、ひとくくりになってしまうというわけか。

 だが、薪が岡部のことを高く評価していたというのは眉唾だ。あの態度からは、それは微塵も感じられない。三好なりの気の使い方なのかもしれないが、あまり気持ちの良いものではない。
「お世辞は結構ですよ。俺はここに長くいる気はありませんから」
「あら、残念。薪くんは本当にあなたに期待してたのよ」
「まさか」
 けんもほろろな岡部の答えに、女医は肩を竦める仕草で横たわる友人を見やった。
「しょうがないひとね。誤解ばかりされて。まったく不器用なんだから」
 医者らしい優しい手で、三好は薪の亜麻色の髪を撫でた。薪を思う気持ちが伝わってくる。こんな人でなしにも恋人がいるとは驚きだ。

「無理強いはしないけど、できたら力になってあげて欲しいわ。このひと、自分にとっていちばん大事な人を亡くしたばかりなの」
「三好先生が力になってあげればいいじゃないですか」
 女医はゆっくりと首を左右に振って、岡部の提案を却下した。
「残念だけど、あたしじゃ余計に彼を傷つけるだけだから」
 そう言って、ひどく哀しい顔をする。
 岡部には2人の関係がいまひとつよく分からなかったが、聞き質すことも躊躇われた。

 複雑な表情をしている岡部にピザの箱を預けて、三好は去っていった。
 三好が薪を傷つけてしまう、その理由を岡部が知ったのは、ずっと後のことだった。



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岡部警部の憂鬱(6)

岡部警部の憂鬱(6)






「薪くんが起きたら、このピザでも口の中に突っ込んでやって」
 そう言い置いて、法一の女医が第九を去った後、岡部は昏々と眠る薪の寝顔を見ていた。
 白い顔。長い睫毛。いつもはきりっと吊り上った眉が、今はやさしいカーブを描いている。こうしてみると本当に幼くて、可愛らしい顔だ。
 初めて会ったとき、化粧をしていると思ったのは誤解だったようだが、これで素顔というほうが返ってびっくりだ。だいたい、これが男の肌か。肌理細やかで真っ白で、淡雪のように儚くて。

「岡部さん。室長、大丈夫ですか?」
 小池と曽我が、仮眠室へ入ってくる。やはり室長の様子が気になって、仕事が手につかないようだ。
「ああ。よく眠ってる」
 岡部に倣って薪の寝顔を覗き込む。思わず赤面してしまうのは、岡部と似たような感想を抱いたからに違いない。

 3人の視線に気付いたかのように、薪は目を覚ました。
 倒れてから1時間ほどしか経っていない。まだ休み足りないはずだが、薪はすぐに起き上がった。ベッドから降りようとするが、見た目にもまだふらふらしている。
「室長。大丈夫ですか」
「何をしてるんです」
 厳しい目で睨まれて、部下たちは驚く。べつに怒られるようなことはしていないはずだが、室長は明らかに立腹しているようだ。
「室長が心配だから、様子を見に来たんじゃないですか」
「見てどうするんです。医者でもないのに」
 自分を心配して来てくれた人に、なんて言い方をするんだろう。今後、薪が病気で入院しても、絶対に見舞いには行かない、と岡部は心に誓った。
「僕を思いやってくれるなら、1秒でも早くシステムの操作を覚えてください。そのほうがずっと嬉しいです」
 薪はベッドから降りて、モニタールームに行こうとした。どうやら休む気はないらしい。
 たしかに室長の机の上には書類が溢れかえっていたが、こんな状態で仕事をしても捗らないだろう。

「今日はもう自宅に戻られたほうが」
「神保町の誘拐事件の報告書だけは出さないと。それが済んだら帰ります」
「それなら俺たちで作りましたから」
 その事件は岡部たちが第九に入る前の出来事で、とっくに終わったものだった。報告書を残すのみとなっていたのだが、あの事件のせいで職員が誰もいなくなった為、室長自ら作成していたものだ。小池たちは気を利かせてその続きを作ってくれたのだ。
 さぞ感謝するかと思いきや、薪は小池から報告書のファイルを受け取ると、その場で書類をめくりながら内容の甘さを指摘しはじめた。
 やれ写真が足りないだの、略図を入れろだの地図をつけろだのと細かい指示をして、挙句の果てに「やりなおせ」と言って小池に報告書をつき返した。

「直したら室長室に持ってきてください」
 かわいそうに、小池はうなだれてしまっている。せっかく室長の負担を軽くしてやろうと頑張ったのに、その好意は受け取ってもらえなかった。がっかりして当然だ。
「それは明日でもいいでしょう」
 差し出がましいとは思ったが、岡部は口を挟まずにはいられなかった。思いやりの気持ちを踏みにじるような、室長の態度が許せなかった。
「報告書には期限があるんです」
「でも、所長から催促がきたことなんて、ないじゃないですか」
「捜一では催促されるまで報告書を提出しないんですか? 第九では報告書の提出は、期限の前日です。僕がチェックをする時間が必要ですから」

 仕事熱心も、ここまでくると可愛くない。
 岡部も他の2人も、慣れない機器操作に悩みながらも室長を休ませてやろうと頑張ったのに、これでは何にもならない。まったく、ひとの気持ちのわからない男だ。
「室長。こいつらはあんたのために、まだ不慣れなMRIで一生懸命それを作ったんですよ。その気持ちを考えてやったらどうですか」
「そんなものは仕事の上では、評価の対象になりません。捜一ではどうだったか知りませんが、第九では結果がすべてです。半端な書類には判を押せません」

 ……かわいくない。
 眠ってたときはあんなに可愛かったのに。いっそのこと、ずっと眠っていればいいのだ。

「そんな言い方はないでしょう。こいつらだって」
 モニタールームに入った薪の後を追いかけて、岡部は言い募った。岡部の言葉を無視して、薪はモニターの電源を入れる。と、机の上のピザの箱に気が付いた。
「それは三好先生が持ってきて下さったんです。室長が気付いたら、食べさせてくれって」
「僕はピザは嫌いです。みなさんで食べてください」
 幾枚かの写真をプリントすると、薪は室長室に入ってしまった。もちろん、ピザの箱はそのままだ。中身を見ようともしない。
 果てしなくひねくれている。恋人からの差し入れも食べられないなんて。

 小池と曽我は、顔を見合わせながらも室長の指示に従って、報告書の手直しを始めた。健気なやつらだ。こいつらのためにも、薪はもう少し自分の健康に気を配るべきだ。
 岡部はピザの箱を一つ持って、室長室へと入った。
「なにか食べたほうがいいって、三好先生も言ってましたよ」
「大丈夫ですから放っておいてください」
「睡眠不足と低血糖だそうですよ。ピザが嫌なら、パンでも買ってきますか?」
「……うるさいな」
 吐き捨てるように言われて、岡部はむっとした。
 こっちは心配してやってるのに、うるさいとはなんだ。こいつには、礼儀とか感謝とかいうものはないのか。

「あなたがそんなに世話好きだとは知りませんでした。でも」
 嫌味な言い方で、薪は岡部の好意を打ち返す。相手を気遣う気持ちを、ここまで否定されたのは初めてだ。
「僕はお節介が大嫌いです」
 さすがの岡部も、これにはキレた。
 三好の伝言を実行すべく、ピザの箱を開けると1片を手に取って薪の鼻先に突き出す。こうなったら力ずくでも食べさせてやる。

 ところが、薪は真っ青になって口を押さえ、床にへたり込んでしまった。
「室長?」
「……吐きそ……」
 慌ててゴミ箱を差し出してやって、背中をさすってやる。薪の細い背中は、まるで老人のように骨ばっている。
 ゴミ箱の中に吐き出されたのは、黄色い胃液だけで固形物は何もなかった。
 たぶん、何日もまともな食事を摂っていないのだ。だからピザの匂いを嗅いだだけで、気分が悪くなって。
 こんなヘビーなものが食べられるような状態ではないと、正直に言えばいいものを。どれだけ意地っ張りにできているのだろう。

「すみません……みっともないところを見せてしまって」
 突然謝られて、岡部はびっくりした。
 青白い顔をして、しょげたような表情をしている。失敗した、と思っているのがはっきりわかる顔だ。
 ……こっちが素顔なのか。
 だとしたら、ずいぶんと厚い化けの皮だ。被っているのはネコではなく、ライオンのようだが。
「送ります。家で休んでください」
「……はい」
 ようやく自分の限界を認めてくれたらしい。薪は汚れた口をハンカチで拭うと、岡部の申し出に小さく頷いた。

 定時はとっくに過ぎている。
 モニタールームの2人にセキュリティーをかけて帰るように頼んで、岡部は薪を自宅まで車で送り届けることにした。
 途中のコンビニで、牛乳とパンをいくつか買い込む。いちばん消化が良さそうなあんパンを薪に差し出すと、今度は素直に受け取ってモソモソと食べ始めた。紙パックの牛乳に顔をしかめているから、あまり好きではないのかもしれないが、栄養の面から言えば、これに勝る飲みものはないだろう。
 子供のおやつのような食事を薪が済ませる間に、車は目的地に到着した。薪の自宅は第九のすぐ近くだ。車なら10分もかからない。

 ところがそこで。
 岡部は、薪を取り巻く状況の厳しさを目の当たりにすることになる。

「なんですか、こりゃ」
 薪のマンションは、ひどい有様だった。
 ドアに大きく赤いペンキで「人殺し」と書いてある。他にも壁中に「死んじまえ」「覗き野郎」「人間のクズ」といったありとあらゆる中傷の言葉がスプレーで殴り書きされている。窓ガラスはすべて壊されているし、ドアは蹴り飛ばされて歪んでいる。
「一部の雑誌に、僕の実名と住所が載ってしまったので。帰るとこうなってるんです」
 肩を竦めて、他人事のように言う。どうやらこれが初めてではないらしい。

 さっき食べさせたパンが効いたのか、薪は軽い足取りで階段を上がってきた。
 研究室にいたときより顔色もいい。張り込みの必須アイテムは、やはり有効のようだ。
「薪さん。お帰りですか」
 薪の姿を目ざとく見つけて、初老の男が管理人室から出てくる。明らかな迷惑顔で、この酷い仕打ちを受けている薪に対する気遣いはないようだ。
「見てくださいよ、これ。困るんですよ、こっちも。早く出て行ってもらえませんかね」
「すみません。新しいマンションは見つけてきました。次の休みには荷物を運べるようにしますから。それまで我慢してください。この部屋の修繕費用は、私が全額払いますから」
「あなたが悪いひとじゃないのは、分かってるんですけどね。世間てのは、マスコミの言うことを鵜呑みにしがちだから」
 修理代を薪が持つと聞いて、管理人の態度が変わった。急に同情めいた表情を浮かべて、愛想笑いで薪の肩を持つようなことを言い出す。
「あなたも災難でしたよね。発砲してきたのは相手のほうなんでしょう?あなたは自分の身を守っただけだ。それなのに。理不尽なことをしてくる輩はいるんですよね」

 管理人の言葉に曖昧に頷いて、薪はドアの鍵を開けた。
 歪んだ扉は、開けるのに苦労する。貧血を起こしたばかりで力の出ない薪を見かねて、岡部は扉を開けてやった。

 部屋の中も悲惨だった。
 破られた窓から投げ込まれたらしいゴミや動物の死骸が、部屋中に散らばっている。夏のことで、その悪臭たるや、凄まじいものだった。とても人間の住める環境ではない。この部屋では、寝ることも座ることもできない。
 薪が世間からこれほどの迫害を受けていたとは。普段の冷静な仕事振りからは、想像も付かない。

「送ってくださって、ありがとうございました。それではおやすみなさい」
「いや、お寝みなさいって、これ」
 薪は土足のまま部屋に上がると、モップでゴミを一箇所に集め始めた。ゴミの袋に次々と、部屋に投げ込まれた悪意の塊を詰め込み始める。
「手伝いますよ」
「大丈夫です。慣れてますから。もう帰ってください」
「慣れてるんですか? これに?」
「ええ。ここ最近は、毎日これですから」
 薪の顔は穏やかなものだった。
 怒るでも泣くでもない。そのすべてを諦めてしまったかのような薪の態度は、かえって岡部の同情を誘った。

「ひどい臭いですね。ああ、でも夏だから窓がなくても大丈夫なんですね。しかし無用心だな。無くなったものとかはないんですか?」
「はい。部屋の中のものは、増える一方です。全部ゴミですけど」
 岡部は黙って床に散らばったゴミを拾い始めた。
 もともと第九は人権問題の観点から、世間の風当たりが強かった。第九の必要性をアピールするために、室長としてテレビに出たこともある薪は、世間やマスコミに顔が売れていた。それが今回は仇になった。
 「そのうち、人間の死体でも投げ込まれるんじゃないかと危惧しているんですけど。そしたらMRIで検証しないといけませんね」
 ……冗談のつもりなのだろうか。シュールすぎて笑えない。

 強烈な臭いの生ゴミをゴミ袋に放り込みつつ、岡部は扱いづらい上司をもてあましていた。



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岡部警部の憂鬱(7)

岡部警部の憂鬱(7)







 掃除が済んで、何とか人の住処らしくなった部屋で、岡部は薪と一緒に夕食を摂ることにした。
 近くのコンビニで弁当を買ってマンションに戻ると、薪は味噌汁を作っていた。窓に面していない台所と寝室は、被害を受けていない。不幸中の幸いである。
 薪の作った味噌汁は、岡部の母親のものより美味かった。
 岡部にはいくらか味が薄かったが、きちんと出汁をとった本格的な味噌汁だ。ひとは見かけによらないものだ。
「しばらく買い物もしていないので、簡単なものしか作れませんが」
「美味いです」
「そうですか」
 おなかが空いたので何か買ってきてほしい、と言った割に、薪は殆ど食べなかった。
 それどころか、弁当を膝の上に載せたまま、居眠りをしている。どうやら腹が減ったというのは、岡部を気遣ってのウソだったらしい。食べるよりも本当は眠りたかったのだろう。

「室長。ちゃんと布団で寝てくださいよ」
 薪の小さな手から割り箸と弁当を取り上げ、床の上に置く。揺り起こそうとしたが、薪はそのまま岡部のほうへ倒れこんできた。完全に眠ってしまったようだ。
「しょうがねえな」
 奥の寝室に薪を運び込み、ベッドに横たえる。ベッドからはなにかいい匂いがする。これは薪の体臭なのか――― 清冽な香りだ。
 と、不意に薪の細い腕が岡部の首に巻きついてきた。驚いてからだを離そうとするが、思いがけない強い力で縋りつかれて、岡部は硬直してしまった。

「すずきっ」
 誰かの名前を呼んでいる。寝ぼけているようだ。
「行くな……僕を置いて行くな、鈴木」
 どこかで聞いた名前だ。というか、日本で一番多い名だ。
 薪が射殺した同僚も、たしかそんな名前だった。

 岡部に抱きついたまま、薪は耳元で友人の名前を呼び続けた。夢を見ているのか、やけにはっきりした寝言だ。
 きつく抱きしめていた腕の力が緩み、すると今度は両手で頭をつかまれた。真正面から至近距離で、薪のきれいな顔を見せつけられる。
 亜麻色の目が大きく見開かれて、岡部の顔を映している。その眼は尋常ではない。
 狂った光―――― 薪の眼には岡部の姿は映っていない。彼が見ているのは、おそらく自分がその手で射殺した友人の姿だ。

「おまえがいない世界なんて興味ない!」
 悲鳴のような声で、薪は叫んだ。

「僕の気持ちを知ってるくせに……僕は、おまえがいなきゃだめなのに」
 寝言ではない。錯乱している。
「僕も連れて行け。早く、連れて行ってくれっ……!」
 振り絞るように叫び、薪はベッドに沈んだ。頬に伝う涙をハンカチで拭ってやりながら、岡部は薪の精神に不安を覚えた。

 このまま放っておいて、大丈夫だろうか。どう考えても薪の言動は普通ではない。単なる寝言とは思えない。内容が重過ぎる。

 しばらく様子を見ていると、薪は30分も経たないうちに、今度はひどくうなされ始めた。
「やめろっ、殺すな!」
 恐ろしい夢を見ているらしい。起こしたほうが良いと判断して、岡部は薪の肩をつかんで揺り動かした。
「室長、室長」
「やめろ!!」
 大きな叫び声を上げて、薪は跳ね起きた。
 岡部の姿を見て、反射的に身を引く。そのままベッドから転げ落ちるようにして床の上に座り込み、後ずさって壁に背中をつけた。

「来るな……」
 自分に言っているのかと思ったが、薪は岡部がいる方とはぜんぜん別のところを見ている。
 その亜麻色の瞳に何が映っているのかは不明だが、薪の恐怖は部屋の空気を淀んだものに変えて、岡部にその凄惨さを伝えてきた。
「あの時、ちゃんとおまえを捕まえていたら、こんなことにはならなかったのか? こんなにたくさんの人が死なずに済んだのか?」
 見えない誰かに、問い質している。その内容はひどく物騒なものだ。
「僕のせいだって云うのか? 僕のためにおまえは、あんなに沢山の人を殺したんだって―――― そうなのか?」
 薪を追いつめている人物に、岡部はようやく思い至った。

 貝沼清孝。
 例の28人殺しの犯人だ。4人もの捜査官を狂気の世界に追いやった、恐るべき脳の持ち主。その貝沼の幻覚が、薪には見えているのだ。
「違う! 僕のせいじゃない、僕が悪いんじゃない!」
 激しくかぶりを振って、薪は必死に自分を守ろうとする。
 しかし、薪のこの言葉はどういう意味だろう?
 まるで事件が起こる前から、貝沼とは知り合いだったかのような言い方だ。しかも、薪のせいで貝沼が殺人を犯さなくてはならなくなったような意味合いのことを口走っている。

「おまえはもう死んだんだ! 消えろっ!」
 薪は床の上を這いずり回って、貝沼の幻覚から逃げ惑う。壁づたいに回り込み、サイドボードに辿りつく。低い棚の上に置いてあったガラス製の花瓶を右手で摑むと、ボードに叩きつけて割り、その破片を使って自分の腕を切ろうとする。
「室長!」
 慌てて駆け寄って、細い身体を押さえつける。幻覚と現実を混同しているのか、薪は悲鳴を上げて岡部の腕を振り払った。
 ガラスの破片を小さな手から奪い取り、岡部は薪から離れた。今は近づかないほうが、薪を刺激しないで済む。
 薪は両手で自分を掻き抱くようにして、細い腕に爪を食い込ませる。あの蚯蚓腫れはこうしてできたものなのだろう。痛みでしか幻覚から逃れることができないのだ。だから薪の体には自分でつけた傷が、たくさんあるのだ。

 この夢は、毎晩のように薪を責め苛んでいる。
 寝室の中のいろいろな備品が壊れている様子が、岡部にそれを教えてくれた。
「室長、俺ですよ。岡部です。しっかりしてください」
「僕じゃない……僕がわるいんじゃ」
 うずくまった姿勢で自分のからだを掻き毟りながら、小さく小さく体を縮こめている。まるでこの世から消えてしまいたいとでも思っているかのように、肩を震わせて顔を伏せている。

「おまえも僕のせいだと思ってるのか? 僕のせいで30人もの人間が死んだって……そう思ってるのか?」
「違いますよ、室長のせいじゃありません」
 岡部には詳しい経緯はわからないが、今はこう云うしかない。
「だから僕に向かって発砲してきたのか? すべての元凶の僕を殺そうとして?」
 今度は射殺した親友と、岡部を取り違えているらしい。
「僕が、僕がぜんぶ……僕のせいで……」
 顔に両手を当てて、慟哭する。泣きながら、薪は亡き親友の名前を呼び続ける。
「鈴木……すずき……たすけて……」

 これがあの憎たらしい警視正なのか。
 他人の目に触れないところでは、こんなにも激しい罪悪感に責め悩まされていたのか。

 岡部が今まで見てきたどんな罪人よりも、その嘆きは深い。それはきっと、薪がなんの罪にも問われなかったからだ。罰を与えられなかったことで余計に深まってしまったのだ。
 罪を償う方法が示されるということは、罪人の気持ちを楽にしてくれる。刑に服したからといって自分がしてしまったことが帳消しになるわけではないが、それでも辛い思いをしたことで罪悪感は薄まるものだ。
 薪にはそれがない。
 どうやって自分の罪を償えばいいのか、誰も教えてくれない。これから自分がどうやって生きていけばいいのか、誰もその方向を示してはくれない。
 このまま以前の通りに過ごせるはずがない。でも、どうしたらいいのかわからない。
 今の薪はそんな状態で、泥沼のような悔恨にもがき苦しんでいるのだろう。

 冷血漢の仮面が剥がれ落ちてしまえば、そこにいるのはただの弱い人間だ。
 脆弱で矮小でちっぽけな存在。思えば岡部は昔、そんな存在を守ってやりたくて、警察官の道を選んだのだった。

 やがて薪の慟哭は、徐々に治まってきた。うつろだった目が正気を取り戻し、岡部を見てばつの悪そうな顔をする。自分が錯乱したのを覚えているようだ。
「すみません。ちょっと嫌な夢を見て」
 細い身体は、じっとりと寝汗で濡れている。寝室はエアコンのおかげで快適な温度に保たれているが、悪夢のせいでいやな汗をかいてしまったらしい。
 床の上に膝を抱えて乱れた呼吸を整えている薪の姿は、ひどく頼りない。いつもは厳しく吊りあがった眉が、弱気な形に垂れ下がっているせいかもしれない。冷徹な室長の顔はどこにもなく、ただ暗闇に怯える子供のようだ。

「大丈夫ですか?」
「平気です」
 とてもそうは見えない。
「俺でよかったら、ここに居ましょうか? きっと安心して眠れますよ」
 この状態の人間を置いて帰れるならば、岡部はもっと出世していたと思う。弱っている人間に甘いのが、岡部の欠点なのだ。
「余計なおせっかいは止めてください。子供じゃあるまいし。ちょっと悪い夢を見たくらいで大げさな」
「室長。そういうことは泣きながら言っても真実味がありません」
 岡部は苦笑して言った。薪が慌てて目をこする。
「もう大丈夫です。おやすみなさい」
 泣き顔を見られたのがよほど恥ずかしかったのか、薪はベッドに入り、頭から夏用の薄い布団を被ってしまった。
 疲れているのだろう。すぐに寝息が聞こえてくる。

 岡部はその場に腰を下ろした。
 何かあればすぐに対応できるように、座ったまま浅い眠りを取りつつ待機する。こんなことは捜一の人間なら朝飯前だ。

 案の定、1時間もしないうちに、薪はまたうなされはじめた。

 声を掛けて揺り起こす。岡部の姿を見ると安心したように眠りにつくが、再び悪夢に捕らわれる。苦しそうに泣きながら、親友の名前を、自殺した部下たちの名前を呼び続ける。
 それが幾度も繰り返されるうちに、夢と現実とがごちゃごちゃになってしまったようで、岡部のことを誰かと間違えては縋り付いてくる。
 まるで恋人を抱くように切なげな表情をしたかと思うと、次の瞬間には例の殺人犯と混同して激しく怯える。

 そんなことが一晩中続いて、薪がようやく眠りについたのは明け方のことだった。
 この錯乱は一時的なものだとは思うが、毎晩のようにこれが続いたのでは神経が参ってしまうだろう。
 白々と明けはじめた朝の淡い光の中で、目に涙を一杯に溜めたまま眠る薪を見て、岡部は田城や三好の言ったことを信じないわけにはいかなくなった。

 このひとは、こんな夜をずっと過ごしていたのか。
 平静に見せかけて、陰ではこんなにつらい思いをしていたのか。
 室長のこんな姿はだれも知らない。あの冷静であざやかな仕事ぶりからは、想像もつかない。

 こんなに脆い人だったのか。
 高慢ちきで皮肉屋で嫌味ったらしくて、やさしさのかけらもない冷血漢―――― 噂以上のヒトデナシだと他人に思わせることで、この人は自分の弱さを隠していたのか。

 岡部は、自分の進退について迷い始めていた。
 このひとは壊れかけている。
 このまま放っておけば、自滅するだろう。
 そうしたらきっと、第九は潰れる。自分は晴れて捜査一課に帰れる。
 あとは時間の問題だ。警視総監に報告するまでもない。自分は何もしなくていい。ただ、薪が自滅するのを待っていればいいのだ。
 可哀想だとは思うが、結局は自業自得だ。そもそもひとの脳を見るなどといった、倫理に反する捜査方法は、あってはならないものなのだ。だからこんな悲劇が起こった。第九はなくなったほうがいい。そのほうが薪も楽になれるはずだ。

 このまま何もしない。室長のことは見て見ぬふりをする。簡単で完璧な計画だ。
 しかし、岡部は自分の計画の欠陥に気付いていた。
「……それができれば、苦労しないんだよな」
 ハンカチで薪の涙を拭いてやりながら、岡部は呟いた。

 問題はただひとつ。
 それはお人好しで世話焼きの岡部が、この状態の薪を放っておけるかどうか、ということだった。



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岡部警部の憂鬱(8)

岡部警部の憂鬱(8)






 その夜、第九はVIPな客を迎えた。

 先日の薪の様子が気になって仕方がない岡部は、MRIシステムの機器操作を練習する振りをして、今日も居残りを決めていた。そのおかげで、普段なら口も聞けないような人物に会うことができた。
 その人物が、第九の自動ドアから気軽な調子で入ってきたとき、岡部は我が目を疑った。三田村も上層部の一員だが、今日の来客は格が違う。岡部は実物を見るのも初めてだった。
 署内報の写真でしか見たことのない顔が、人差し指を口の前に立てる。騒がないように、との合図だ。

 その人物は、モニターに釘付けになっている薪の背中にそうっと近づいていく。
 薪は、来訪者にはまったく気づいていない。MRI専用のマウスの上に小さな手を被せ、忙しく画面を切り替えては次のモニターに移動する。捜査に夢中で、周りが目に入らないようだ。
 突然、来訪者は薪の後ろから華奢な身体を抱きしめた。
 とっさに薪は腰を落として、背負い投げの体勢に持っていく。柔道は5段の岡部から見ても、それは見事な型で、薪が黒帯というのは嘘ではないらしい。
 しかし、この相手は投げ飛ばしてはまずい。

「室長! 官房長ですよ!」
「え!? ……うわわっ!」
 岡部の叫びに大きくバランスを崩して、薪は来客の下敷きになってしまった。
 図らずしも床にうつ伏せになった薪の上に、小野田がのしかかるような格好になって、岡部は思わず先日の薪のきわどい冗談を思い出してしまう。薪のきれいな顔と華奢な体つきを見ていると、ついついそういう噂を立てたくなる気持ちも解らなくはない。

「積極的なのはうれしいけど、部下の前ではまずいんじゃない?」
「だからそういう冗談はやめてくださいって、何度もお願いしたじゃないですか。小野田さんがそんなことばかり言うから、ヘンな噂が広まるんですよ」
「ぼくのせいじゃないよ。暇な連中が多すぎるんだよ」
 床の上に官房長が座り込み、どこかにぶつけてしまったらしい膝を擦っている。ひどいなあ、とぼやく小野田に「自業自得です」と素っ気無く応えを返して、薪は立ち上がった。

「今日は何の御用です?」
「きみを口説きにきたんだよ。ぼくのところへおいでよ。大事にするからさ」
「またそういう言い回しを」
 そこで薪は、岡部の様子に気づいた。
 官房室室長小野田聖司といえば、警察庁長官、次長に続く№3の実力者である。岡部のような一般の捜査官にしてみれば雲の上の人物だ。その小野田に気安い口をきいている薪に、岡部は目を丸くしている。

 薪は小野田に手を差し伸べて立たせると、官房長を室長室へと誘った。岡部の前で、室長室の扉が閉ざされる。
 小野田が薪のパトロンだという噂は本当らしい。ということは、三田村の話も事実ということか。薪本人も認めていた。
 だが、昨夜の惨状は―――― 薪の悔恨は本物だ。あれほどの罪悪感に悩まされながらも、出世はしたいということなのだろうか。

 気になる。
 これは捜査官のサガというやつだ。

 自分の道徳心には蓋をすることにして、岡部は室長室のドアに耳をつけた。薄い板張りのドアは遮音性が低く、こうすればかなり小さい声でも聞くことができる。
「きみが三田村のやつに苛められたって聞いてさ」
「三田村部長は、激励に来てくださったみたいですよ」
 もちろん皮肉である。その事は岡部も居合わせていたから知っているが、官房長は随分と早耳だ。

「だからさ、警察庁に戻してあげるって言ったじゃない。きみのために、参事官のポストまで用意したのに」
「僕が今いなくなったら、第九はどうなるんです? 僕しかMRIシステムを扱える者がいない状態なんですよ。誰かに役職を譲るにしても、今の状態では無理です。人材を育てないことには、第九は潰れてしまいます」
「ここの室長でいることで、きみがみんなに何て言われてるか知ってるの? きみだって逆に辛いはずだよ。鈴木君ときみは親友だったろ」
「鈴木はこの仕事が好きでした。僕は彼の愛した第九を守りたいんです。周りの人たちに、どう思われてもかまいません」

 そうか。
 ここに居続けるほうが、このひとにとっては辛いのだ。

 あんな事件の後、周り中に白い目で見られながら、自分が殺した親友の思い出がそこここに残る第九で、罪悪感に苛まれながら室長の重責に耐え続けることは、苦行に等しい筈だ。
 このひとは出世など望んでいない。
 ただ、第九を守りたいだけだ。
 降格処分を取り消してもらったのも、室長の座に居座り続けるのも、親友の遺志を継ぐためなのか。それがこのひとなりの贖罪なのか。

「ぼくはきみの悪口を聞くと、ものすごく頭にくるんだけど」
「僕の評判は、もともと良い方じゃありませんから。そう変わらないと思いますよ」
「そうかな。でもやっぱりムカつくよ。特に三田村。なにかあれば左遷(とば)してやるんだけど、あいつ官公庁に顔が利くんだよね。内閣官僚に同期がいるとか言ってさ。
 あーあ、残念だな。きみを引き抜くチャンスだと思ったのに。ぼくのところには来てくれないんだ」
「すみません。でも、小野田さんには感謝しています」
「言葉だけじゃね。態度で示して欲しいな」
「頬にキスでもしましょうか?」
「冗談キツイな。ぼくの娘は、相変わらずきみに夢中なんだけど」
 初耳だ。官房長の娘が薪に好意を抱いているとは。官房長が薪のバックについているのは、そういうわけか。

「冗談がきついのは小野田さんのほうです。警察庁官房室室長ともあろう方が、人殺しを娘婿にもらう気ですか?」
「あれは誰が見ても正当防衛だよ。あと20センチ右にずれてたら、きみは死んでたんだよ。まあ、きみの性格じゃ、気に病むなといっても無理だと思うけど」
「僕は彼の家族と婚約者の方には、一生をかけて償っていくつもりです。だから結婚もしません。自分が犯した罪に、誰も巻き込みたくないんです」

 岡部はドアから耳を離した。
 薪の言葉が本心だと言う証拠は、どこにもない。口ではなんとでも言えるものだし、官房長の前で善人ぶっているだけかもしれない。
 しかし、岡部は薪の言葉を信じたい気持ちになっていた。

 昨夜の薪の涙は、嘘ではない。嘘であんな泣き方はできない。
 涙を武器にしようとするものは、人前でそれを使う。そうでなければ意味がない。しかし薪の場合はまったく逆だ。
 罪の意識などないような振りをして、その実精神の均衡を乱すほどの罪悪感に苛まれていて―――― それを陰の部分に押し込めて、ひとりきりで歯を食いしばって耐え続けて。
 その懊悩を知ってしまった岡部には、今の薪の言葉を疑うことはできなかった。



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岡部警部の憂鬱(9)

岡部警部の憂鬱(9)







 それからしばらくして、官房長は室長室から出てきた。
 モニターに向かっていた岡部に、軽く手を上げる。岡部は立ち上がり、最敬礼でそれに応えた。
「岡部くんだったよね」
「はい」
 官房長が、自分の名前を覚えていてくれたとは驚きだ。室長から聞いたのだろうか。

「薪くんのこと、頼んでもいいかな。彼、きみのことは信頼してるみたいだから」
 困る。
 あんなのは手に負えない。
 そう言いたかったが、官房長相手にそれはまずい。
 岡部が返答に困っていると、小野田は笑って「そうだよね、薪くんの面倒は見きれないよね」と自分で自分の提案を却下した。
「なんで薪くんがきみのことを気に入ったのか、わかったよ。まあ、薪くんの相手は大変だと思うけど、仲良くしてやってよ。岡部靖文くん」
「はあ……」

 監察医の三好といい官房長といい、薪が自分を気に入っていると言うが、信じられない。
 自分は機器操作の覚えも悪いし、PCも報告書も苦手だ。室内で書類を作るより、現場で聞き込みをしていたほうが性に合っている。だから、ここにいるより捜一にいた方が警察の役に立てると思う。
 というより、第九ではお荷物になってしまう可能性のほうが高い。そんな自分が「第九の仕事は結果がすべてだ」と言い切るような室長に、評価されているとはとても思えないのだが。
 まあ、別に好かれる必要もない。
 こっちだって室長のことは大嫌いなのだ。お互い様というやつだ。

 小野田が帰ったあとも、薪はなかなか室長室から出てこなかった。モニターの電源は入ったままだから、まだ仕事を続けるつもりだとは思うが、何をしているのだろう。
 細くドアを開けて、中の様子を盗み見る。捜一のクセはなかなか抜けないものだ。

 薪は室長席に座って、一枚の写真を見つめていた。

 静かに涙を流している。まったく、人が見ていないところでは、このひとはとても泣き虫だ。
 官房長との話で、親友のことを思い出してしまったのだ、と容易に想像がつく。手に持っている写真には、その親友が写っているに違いない。

「室長。大丈夫ですか?」
 岡部が声を掛けると、薪は慌てふためいて涙を拭い、写真を机の引き出しに隠した。その慌てぶりが岡部の苦笑を誘う。
「まだ残ってたんですか? あなたにできることなどないと言ったでしょう」
「MRIマウスの練習ですよ。あの2人に負けていられませんから」
「無駄な努力だと思いますけど」
 辛辣な物言いが、何故か微笑ましい。何だかだんだん、この皮肉が可愛らしく思えてきた。自分もおかしくなり始めているのだろうか。

 岡部が笑っているのを見て、薪は亜麻色の小さな頭をゆるゆると振り、大きなため息をついた。
「僕はだめですね、やっぱり」
 ふっと肩の力を抜いて、哀しそうな微笑を浮かべる。気弱な室長の顔は、岡部の庇護欲を掻き立てる。
 それに気付いているのかいないのか―――― 薪は背中を丸めて机に頬杖をつき、長い睫毛を伏せた。
「岡部さんには第九にいて欲しかったんですけど、諦めます。いろいろとヘンなところも見られちゃったし。こんな情けない上司の下では、働けないですよね。なるべく早く捜一に戻れるように、僕のほうからも手を回しますから」
「クビですか? 俺」
「僕に気を使わなくていいです。持ってますよね、異動願い。
 本当は初日に出すつもりだったんでしょ?それでやることもないのに、ひとりで残ってたんですよね」

 MRIで視覚者の心情を読むように、薪は岡部の気持ちを読み解いていた。
 最初から、薪は岡部の第九への悪感情に気がついていた。
 岡部が捜一に戻りたがっていることも、第九の仕事を嫌がっていることも。そのくせ薪のことが心配で、それを言い出せなくなってしまっていることも。
 だからあんなに強がって、岡部に気を使わせないように、あの事件のことを気に病んでなどいないと、ウソを吐いた。

「出してください。受理しますから」
 異動願いは、確かに毎日持って来ている。今もズボンの右ポケットに入っている。
 岡部だって捜一に帰りたい。室長のほうから申し出てくれているのだ。ここは素直に従ったほうが得策だ。
 岡部はポケットから封筒を取り出し、薪に手渡した。何日も持って歩いていたせいで、だいぶくたびれてしまっている。表書きはない。
 薪は封筒を開けて、中に入っていた便箋を取り出し、内容を確認した。

「なんですか、これ」
 亜麻色の眼が大きくなって、岡部の顔を見る。きょとん、とした表情。このひとは不意をつくと、びっくりするくらい可愛らしい顔になる。

 白い便箋には中央に大きな文字で、『これからもよろしくお願いします』とだけ書いてある。異動願いには見えない。
 
「どういうつもりです? 捜一に戻りたいんじゃ」
「敬語はやめてください。俺はあなたの部下なんですから」
 長い睫毛がしばたかれ、薪はいぶかしげな表情で問い返した。
「いいんですか? 僕から離れられる最後のチャンスかもしれませんよ。僕はあなたを手放したくないんですから」
「だから、敬語はよしてくださいよ。俺はずっとあなたの部下でいいです。手始めに、床の掃除でもしましょうか?」
 どこかで聞いた岡部の言葉に、薪は思わずくすっと笑った。滅多に見られないその笑顔は、天然記念物並みの希少価値だ。文句なしにかわいい。

 こんなに可愛い顔をしているのに、どうしてあんなにきついことばかり言うのだろう。
 いや、この顔で室長の威厳を保つには、態度だけでも厳しくしないと、舐められてしまうのかもしれない。
 第九はとにかく、外部からの批判が多い。それに立ち向かい、ねじ伏せようとするには、時として、暴君のような厳しさが必要なのかもしれない。

「あなたが第九に残ってくれる気があるのなら、ひとつだけお願いがあります」
「なんですか?」
「僕が死んだら、僕の頭を潰してください」
 岡部はその命令に息を呑んだ。
 このひとはいきなり何を言い出すのだろう。

「これは、僕の一番の部下に、いつも頼んでいたことなんです。あなたの前は、鈴木がこの役目を僕に託されていた。どんな状況下にあっても必ず遂行してください」
「理由はなんですか」
「僕の脳には、公表されてはいけない秘密がたくさん詰まっています。これが公になったら日本中がひっくり返ってしまうような、トップシークレットがいくつも入ってるんです。だから僕の死後、誰もこの脳を見ることができないように。僕の頭を潰してください」
「死体損壊の罪に問われてもですか?」
「そうです。お願いします。これは僕の遺言だと思ってもらっても結構です。なんなら、一筆書きましょうか」

 第九の室長とは、こんな覚悟までしなければ務まらないのだろうか。
 既にこの人は、覚悟を決めている。女のような顔をしているくせに、なんて雄々しいのだろう。
 昂然と頭を上げて、きりりと眉を吊り上げる。一分の隙もない顔つきだ。

「わかりました」
 岡部が頷くと、薪は安心したように笑った。
 その笑顔の美しさに、岡部は思わず目を奪われる。
 なんだ、こんないい顔ができるんじゃないか。初めからこの顔を見せてくれれば、こんなに回り道をせずに済んだのに。

「無茶なお願いを聞き届けてもらったお礼に、MRIマウスの使い方のコツを教えましょうか、岡部さん」
 岡部は敢えて、返事をしない。
 薪の顔をじっと見て、にやりと笑う。薪はその笑いを受けて、いきなり口調を変えた。
「岡部、モニタールームに来い。今から特訓だ」
 どうやら伝わったらしい。
「はい、室長」

 先に立って歩き出した細い背中について、岡部はモニタールームに入った。


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岡部警部の憂鬱(10)

岡部警部の憂鬱(10)






 次の日曜日、岡部は再び薪のマンションを訪れていた。
 今日は引越しの日だ。
 夏だというのに、長袖のTシャツとジーパンという服装で、薪はせっせと段ボール箱に荷物を詰めている。

 私用だからという理由で、薪は最初岡部の申し出を固辞したが、日当は貰います、という岡部の言葉に折れた。
 もちろん目当ては現金ではなく、薪の手料理だ。薪は現金で済ませるつもりかもしれないが、そうはいかない。これだけの重労働だ。薪特製のちらし寿司に、味噌汁くらいつけてもらわないと、間尺に合わない。
 薪にしてみても、引越しの手伝いは警察関係者のほうが都合がいいのだ。
 薪の家には、MRIシステムが導入されたときの自己学習用の資料やら捜一時代のノートやら、事件記事のスクラップやらが山のようにある。正式な捜査資料でないとはいえ、やはり一般人の目に触れさせたくはない代物だ。

「悪いな、休みの日に」
「いえ。力仕事は得意ですから」
 20個ほどの段ボール箱の中身は、8割方が犯罪心理学の書籍である。
 その量たるや大学の研究室並みで、給料の殆どをこれにつぎ込んでいるに違いない。これがまことに重い。岡部でさえ1つずつしか持っていけない。薪の細腕では持ち上げることもできない。
 やはり煮物もつけてもらおう、と岡部は意地汚いことを考える。

「今日は顔色が良いみたいですね」
「うん。昨夜はおまえのおかげでゆっくり眠れたから」
 あれから毎日、岡部は薪の家に泊まりこんでいる。夕食をたかりに来ているわけではなく―――― 薪の作る料理はとても美味しくて、ついつい目的がすり替わりそうだったが―――― 薪の自傷行為を案じてのことだ。
 昨夜は岡部が買ってきた睡眠薬を薪に飲ませてみた。「とてもよく効く」という岡部の言葉を信じたのか、それとも眠れない夜が続いたせいで本能が恐怖に勝ったのか、昨夜は一度も目を覚まさずに、薪はぐっすりと眠った。

「よく効くな、あの睡眠薬。ちょっと酸っぱいけど」
 ……ばれている。
 実はただのビタミン剤だ。
 密かに精神安定剤を服用している薪に、副作用があってはいけないと、岡部なりに気を使ったのだが、このひとに小細工は通用しないようだ。

 新しいマンションは大部分の家具が作りつけなので、今まで使っていたものはあらかた処分してしまった。箱に詰めたのは衣服と調理器具、食器類、日用雑貨の品々で、わずか4つの箱に収まってしまった。
 しかし、馬鹿みたいに重い本の箱が10以上。それを運び出したら、このマンションにはさよならだ。
 本当は引越し業者に頼みたかったのだが、薪の名前と住所を出したら繁忙を理由に断られてしまった。新しいマンションも実は小野田の口利きだ。
 世間がこの事件を忘れてくれるのは、ことわざを信じるならあと2ヶ月ほど。それまではこの理不尽な仕打ちにも、我慢するしかない。

 岡部が友人から借りてきた2tトラックの荷台に段ボール箱を積んで、シートを被せる。新しいマンションまでは1時間ほどかかる。職場からは遠くなってしまうが、むしろその方がいいかもしれない。

 乗り心地の悪いトラックに揺られながら、薪は少し寂しそうな目で外を見ている。
 ここには警察庁に入庁した当時から住んでいたというから、いろいろと思い出もあるのだろう。親友だった鈴木も、他の第九の部下たちも、よくここに来ていたのかもしれない。

 もう二度と帰らない昔日に思いを馳せて、それでもひとは前に進んでいかなくてはいけない。薪の未来は新しい第九であり、新しい部下との出会いだ。その中にはもちろん、岡部も含まれている。

 やがて、薪の新しい拠点となるマンションが見えてくる。
 その真っ白な外壁は、薪のこれからの未来を思い通りに描けるよう、神様が用意してくれたキャンパスのようだった。


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岡部警部の憂鬱(11)

岡部警部の憂鬱(11)






 
 岡部が第九に残ることを決めてから、5日後。
 第九の新しいメンバーたちは、薪の真実の顔を知ることになった。

「なにをぐずぐずやってんだ!!」
 新しい事件が第九に回されてきた。
 明らかな連続殺人で、被害者は2人。犯人はまだ捕まっていない。新たな被害者が出る可能性が高く、捜査は火急を要した。
「いったいどこを見てたんだ!? おまえらの目は節穴か! 役に立たない穴なら泥でも詰めて塞いじまえ!!」
 穏やかで冷静な室長はどこへやら、部下のミスに怒鳴りまくるわ書類は投げつけるわ、まるで人が変わったようだ。
 
「し、室長。あの、もう12時過ぎてるんですけど」
 深夜の残業に、おそるおそる異議を申し立てようとした曽我は、薪に睨みつけられて途中で言葉を飲み込んだ。
「それがどうかしたのか」
 怒気を孕んだ低い声。背筋が寒くなるような迫力に、曽我は返事もできない。
 捜一の課長だって、こんなに怖くない。
 まったく、顔に似合わず剛毅な男だ。しかし岡部には、それが好ましく思えた。
「余裕だな、岡部」
 顔に出てしまっていたらしい。薪の目が岡部を見て、あの意地悪そうな笑みを浮かべる。
「2番目の被害者の半月分、全部見とけ。今夜中にだ」
「えっ! 今夜中ですか!?」
「この季節の夜明けは、4時半ごろだ。まだ4時間はあるぞ。それだけあれば十分だろう」

 画を見るのは可能だが、睡眠時間はない。
 まさか徹夜で仕事を命じられるとは。捜一ではなかったことだ。夜の張り込みは、交代で仮眠を取りながらするものだ。
 しかし第九では、これが当たり前のことらしい。その証拠に室長は元気一杯だ。

「いいか。僕たちの捜査が遅れれば、その分新しい被害者が出る可能性が高くなるんだ。事件が解決したら、20時間でも30時間でも眠らせてやる。それまでは寝るヒマなんかあると思うな!」
 第九の室長は鬼よりこわい―――― あの噂の真実はこれだったのか。

 岡部はあの時、薪の申し出を断ったことを心の底から後悔した……。


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岡部警部の憂鬱(12)

岡部警部の憂鬱(12)







「岡部、味見」
 薪の声に我に返ると、目の前に小皿に入った味噌汁があった。
 昆布と鰹節できちんと出汁をとった味噌汁は、その辺の料理屋のものより遥かに美味い。

「うまいです」
「味噌、足りなくないか?」
 薪の好みは少し薄めだ。付き合いが長くなってくると、そんなことも解ってくる。
「いや、このくらいでいいですよ」
 薪はいつも朝はパン食だが、今日は岡部の好みに合わせてご飯にしてくれた。濃い目の味付けを好む岡部のために、味噌汁の味も心持ち濃くしてある。
 まったく細やかな心遣いだ。口には出さないが、薪は岡部のことを、とても大切に思ってくれているのだ。
 今の薪からは想像もつかないが、あのときの薪は、本当に憎らしかった。こうして思い出してみても、やっぱり憎たらしい。
 人間変われば変わるものだ。いや、変わったのは俺のほうか。

「遠慮するなよ。僕も青木も朝はパンなんだ。今日はおまえの好みに合わせて和食にしたんだから、味付けもおまえの好みに」
「青木も朝はパンなんですか? よく知ってますね」
 岡部の鋭い突っ込みに、薪の頬が微かに赤くなる。お玉を握る手が硬直して、なんだかギクシャクとおかしな動き方をしている。
「いや、ちが……別にそういうわけじゃ、いつも一緒に食べてるわけじゃなくてこないだはたまたま」
 なにかモゴモゴ言っている。墓穴を掘っている気もするが、聞こえなかったふりをしてやろう。

 薪とってはいいタイミングで、玄関のチャイムが鳴った。青木が帰ってきたらしい。
 薪のマンションは瞳孔センサー式のオートロックなので、一旦外へ出ると、本人以外は中へ入れない。カメラで青木の姿を確認して、薪はそそくさと玄関に歩いていく。
 カチャリとドアを開ける音がして、玄関口の会話が聞こえてきた。
「コンビニにネギあったか?」
「はい。さっきはすいませんでした。なんか、のりうつられたみたいで」
「僕も知らなかったんだ。おまえがそんなに納豆が苦手だなんて」
「え? 俺、納豆食いますよ」
「……じゃあ、なんであんなに怒ったんだ?」
 思い込みのすれ違いが面白い。この2人は性格はまるで違うのに、思い込みが激しいところは同じだ。

 薪はひねくれものだが、青木は真っ直ぐだ。薪は複雑怪奇な思考回路をしているが、青木は単純だ。
 ふたりとも東大法卒のキャリアだから頭はいいのだが、それを鼻にかけるようなことはしない。薪は相手にもよるようだが、青木はしない。
 世田谷の遺族の家に脳を貰い受けに行ったあの一件以来、青木は薪のことを崇拝するようになって、それは岡部を喜ばせた。
 薪の本当の姿を知れば、こいつはもう大丈夫だ。自分がそうであるように、室長のためなら、どんなにつらい仕事でもこなすに違いない。
 青木も始めは、薪のことを誤解していた。いや、誤解ではなく見抜けなかったのだが、薪の場合、見抜くのは至難の技というか、気付かないほうが普通というか、その。

 でも、こいつはたいしたやつだ。
 自分のようなきっかけはなかったはずなのに、ちゃんと室長の内面に気が付いた。
 強そうに見せて、本当はひどく脆いところがあるこのひとの危うさに手を差し伸べたくて、必死に努力している。室長の役に立ちたいと、ただそれだけで昇格試験にも合格し、岡部には宇宙語のようなMRIの専門書の勉強も続けている。

「オレにも味見させてくださいよ」
「おまえに味見させると、鍋が空になるからいやだ」
「まだカレーのこと根に持ってるんですか?」
 味噌汁の鍋の前で、他愛ない冗談を交わしている。
 このごろ薪は、この新入りとこんな会話をするとき、妙に和んだ顔をしていることに岡部は気づいていた。
 岡部も青木のことは可愛い後輩だと思っているが、薪の気持ちはそれとは少し違うような気がする。青木がそういう目で薪を見ているのはとっくの昔に気付いていたが、薪のほうはそう単純でもないようだ。

 青木を見つめる亜麻色の目には、ときおり感傷が混じる。おそらく、誰かを重ねている。その誰かの影を青木の中に探している。
 しかし、青木がその誰かにはなれないことも、ちゃんと分っている。そんな不安定な感情の中で、それでも確実にふたりは惹かれあっている。
 自分の与り知らぬところでなにがあったのかは不明だが、そこまで関与する気はない。これ以上は本当にお節介になってしまう。馬に蹴られてなんとやら、だ。
 とりあえず、薪の平穏な顔を見ることができれば、岡部はそれで満足なのだ。

「いっただきまーす」
 食卓には3人分の和朝食が並んでいる。
 岡部と薪の前には食事に合わせて日本茶が湯気を立てているが、青木の前には冷たい牛乳が置いてある。あまり乳製品が好きではない薪が牛乳を常備しているということは、牛乳好きの誰かが頻繁にここに出入りしては食事をしていく、という推理が成り立つ。
 べつに誰とは云わないが。

「あっ、おまえいくつ卵焼き食べる気だ?俺の分もあるんだぞ」
「わかってますよ。半分ずつですよね」
「そうだな、4切れずつだな」
「……僕の分はないんだ」
 休日の朝に、同僚の顔を見ながら朝食を摂るなんてつまらない。休みの日は、家族や仕事の絡まない友人と共に過ごしたい―――― 普通はそう思うだろう。
 しかし、休日にも一緒にいたいと思える人間と仕事ができる自分は幸せだ。
 これまでにも、何度か薪と二人で休日の朝を迎えてきた岡部は、ずっとそう思っていた。
 しかし、これからは。

 美味そうに薪の作った卵焼きを頬張っている後輩と、それをやさしい目で見ている上司の姿に、岡部は若干の寂しさを覚える。
 そろそろ、自分の役目は終わるのかもしれない。

 薪はどんどん青木との距離を縮めている。自分の手を離れて、他の男に嫁ぐ娘を見送る父親のような気分だ。でも、それを選んだのが薪自身ならそれでいい。というか、他にどうしようもない。
 自分では薪を本当の意味で満たしてやることも、幸せにしてやることもできない。青木には、おそらくそれができるのだ。若さゆえの無知と無鉄砲さで、岡部には到底できないことも、平気でやってのけるにちがいない。
 たとえば先日、室長室で見てしまったようなこととか、それ以上のこととか。

 青木の父親が亡くなったばかりのとき、夜の室長室での出来事を、岡部は偶然目撃してしまった。
 驚いたが、得意の投げ技を決めるでもなく、相手の抱擁を受け入れている室長の様子を見ると、無理矢理というわけでもなかったことがわかって、岡部としてはなんとも複雑な気分だ。
 だが、あれは恋人同士のキスというより、薪の方からしてみれば泣いている子供を慰める母親のキスみたいだったが。
 まあ、それは当人たちの勝手だ。これから先ふたりの関係がどう変わっていくのかは、当人たちに任せるしかない。

 薪が、笑顔でいてくれればそれでいい。

 恋人が男だろうと12歳も年下だろうと、大きなお世話というものだ。本人たちが―――― いや、薪が幸せなら、それでいいではないか。
 その代わり、泣かせたらただじゃ済まさない。あばら骨の二、三本なんて生ぬるいことはしない。体中の骨を粉々に砕いてやる。
 覚悟しとけよ、青木、と心の中で勝手に約束を取り決めて、岡部はふたりの仲を認めてやることにした。

「岡部。いいのか?」
「俺はいいんですよ。薪さんさえ……え?」
 薪の問いかけに、頭の中で考えていたつもりが独り言でも言ってしまっていたかと焦るが、薪の表情を見ると、そんなことではないようだ。
「卵焼き、全部食われちゃったぞ」
「なっ!」
 慌てて皿を見るが、既にかけらも残っていない。
「いま半分ずつって約束したろうが!」
「すいません。あんまり美味しかったんで、つい」
「俺はまだ一切れしか食べてなかったんだぞ!」
「僕は一切れも食べてないぞ」
「薪さんはいいじゃないですか! いつでも食べられるんですから!」
「……おかしくないか? その理屈」

 やっぱりダメだ。
 こんな食欲の権化のような若造に、大切な薪を任せるわけにはいかない。食べ物の恨みは深いのだ。
 まだまだ自分の役目は終わらない。
 薪のことを支えられるしっかりした人間に、こいつをみっちり鍛え上げてやる。柔道も剣道も拳銃の腕前もだ。頭脳はかなわないが、警察官には武術も必要だ。特に薪を守っていくためには。

 岡部の恨みがましい視線から逃れるように、青木はコーヒーを淹れに席を立つ。
 新品のコーヒーメーカーは大型のもので、本格的なエスプレッソが淹れられる優れものらしい。あまり食べることにはこだわらない薪にしては珍しいが、第九のバリスタの出現で、コーヒー好きが高じてきたのかもしれない。
 しかし青木は、その高性能の機械は使わない。手動のミル挽きとドリッパーで、丁寧にコーヒーを淹れる。
 ほどなく、コーヒーのいい匂いがダイニングに立ち込めた。

「お酒の翌日はさっぱりと。コロンビアスプレモです」
 青木からコーヒーカップを手渡され、その香りを吸込んで薪は満足そうに目を閉じる。
 一口すすって、極上の笑顔になる。第九のバリスタは、また腕を上げたらしい。その仕事ぶりに薪はご満悦のようだ。

 穏やかな薪の微笑みに彩られて、冬の休日はゆっくりと始まった。


 ―了―



(2009.1)


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

岡部警部の憂鬱~あとがき~

 お付き合いくださって、ありがとうございました。
 あおまきすとの方々には、かなり退屈なお話だったと思います。青木くんがほとんど出てきませんからね。

 岡部さんが好きです。
 正直、青木さんよりも岡部さんのほうが好きです。
 以前よそさまのブログで拝読した「結婚するなら~」のバトン。わたしは断然、岡部さんです。だれがなんと言おうと、岡部さん。
 毎朝送り出すときに「今日も薪さんをしっかりサポートしてあげてね」と言って岡部さんを見送るの。うっとり。

 え?
 じゃあ、どうしてあおまき小説を書いてるのかって?
 仕方ないじゃん。
 薪さんが、青木くんじゃなきゃイヤだ、って言うんだもん(笑)



 ところで。

 リクエストですが、書いた次の日、激しく後悔しました。
 ラブラブのあおまきさんなんて、わたしに書けるわけないじゃん(自爆)
 絶対にR系とか、ギャグとか、女装ネタとか、ヘンタイネタとか、そういうイロモノが来ると思ってたのに。だって、このブログのカラーはR系ギャグですよ?

 やっぱりみなさん、あおまきすとなんですね。(しみじみ)
 ご期待に応えるべく、もっか奮闘中です。



 その間も在庫の恥さらしは続けますので、お付き合いいただけたら幸いです。


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2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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