官房長の娘(1)

官房長の娘(1)






 第九のシャワールームがユニットバスに改造されたのは、一年でいちばん寒い2月の半ばのことだった。

 室長は大の風呂好きで、以前からこのシャワールームを湯船のついた風呂場に改造するという野望を持っており、何度か予算の申請をしていたのだが、当然のように棄却され続けてきた。
 国税でまかなわれている国の施設に、バスルームが備え付けられるかどうかなど常識で考えれば分りそうなことだが、第九の場合は他の研究室とは少し事情が違う。職員の人数不足と捜査の特殊性のため、研究室への泊り込みを余儀なくされる場合が非常に多いのだ。それも一日二日の話ではなく、1週間単位での篭城となる。
 中でも責任者の室長は寝泊りの期間が長く、最高記録はなんと23日間である。20日以上もシャワーだけで過ごさなければならなかった室長は、いつか必ずこの予算を通してやると心に決めていたのだ。

 そのチャンスが訪れたのは、2月の初め。
 薪のパトロンと陰で囁かれる小野田官房長が第九にやって来て、いつものきわどいジョークで第九の職員をドギマギさせた後、室長室で薪に個人的な頼みごとをしていった。このユニットバスは、その見返りというわけだ。

「よく予算が下りましたね。どうやって所長を説得したんですか?」
 工事の騒音が響く中、事情を知らない岡部が不思議そうに尋ねる。薪は机の上を整理しながら、悪びれもせずに裏取引の事実を教えてやった。
「小野田さんから言ってもらったんだ。鶴の一声ってやつだな」
「官房長には、借りを作りたくなかったんじゃないんですか?」
「これからその借りを返しに行くところだ」
 帰り支度を整えて、薪は立ち上がった。
 まだ、定時を10分しか過ぎていない。室長にしてはひどく早い退室時刻だ。

「後は頼んだぞ」
「はい。あの、どちらに?」
 薪のプライベートにまで口を出す気はないが、緊急の連絡先を聞いておいたほうがいい。岡部はそれくらいの気持ちで行き先を訊いただけなのだが、薪の返事は第九の職員たちを驚愕させた。
「官房長の娘さんとデートなんだ。くだらない用事で、携帯に電話してくるなよ」

 パープルグレイのトレンチコートを着込んだ室長がモニタールームから出て行った後、研究室はえらい騒ぎになった。
 浮いた噂ひとつなかった室長が、女の子とデート。しかも相手は官房長の娘だという。
 もらったラブレターを読みもせずに捨ててしまう冷血漢が、さては相手の父親の後ろ盾が目当てか、と薪をよく知らない人間なら思ってしまうかもしれない。
 しかし、薪に限ってそんなことはない。
 将を射んと欲すればまず馬を、などと回りくどいことをせずともとっくに官房長は薪の味方だし、薪は出世には興味はない。恋愛にはもっと興味がない。薪が興味があるのは事件のことだけだ。つまらない男である。
 研究室の面々は室長のことをずっとそう思ってきたのだが、どうやらそれは、相手を選んでいただけのことであったらしい。室長のおめがねに適うにはやはり、それ相応の地位を約束してくれる女性でなければならなかった、ということか。

「でも、あのひとが女の子と腕組んでる姿なんて、全然イメージできないんだけど」
「電話をしてくるなってことは、邪魔するなってことだよな」
「そういう方向へ持っていく気なのかな」
「室長が? ありえないだろ」
「この時間からデートするんだから、不自然じゃないだろ」
「……無理。想像できない」
 人の恋路の心配をする前に、自分のことを心配すべきだ。薪がこの場にいたら、きっとそう言っただろう。
 第九の職員の中で恋人がいるのは今井ただ一人で、他のものはみんな女性に縁がない。デートに割ける時間がない勤務体制のせいもあるが、警察官というのはもともと出会いが少ないのだ。特に世間から白い目で見られることが多い第九では、合コンの設定もままならない。エリート中のエリートばかりが集まった第九の職員たちが揃いも揃って独り者というのには、このハンディキャップが大きく影響している。

 薪のデートの行方をあれこれ想像する職員たちを遠巻きにして、ひとりだけいつもと変わらぬ穏やかさで仕事を続けている男がいた。
 職員の中でいちばん若くて背が高い。しかし、この男はだれよりも薪に心酔していたはずだ。
 薪に対するセクハラすれすれの小野田の冗談を真に受けて、この男がめまいを起こしている姿を職員たちは何度も目にしている。その反応が面白いとばかりに小野田の冗談の内容はエスカレートする一方だったが、毎回毎回その冗談に引っかかる方も引っかかるほうだ。
 そんな男が室長の恋話に無関心なんて、絶対におかしい。

「青木。おまえ、ずいぶん平気な顔してるけど。気にならないのか? 室長のこと」
「薪さんはそんなことしませんよ」
 隣の席の曽我が尋ねても、青木に動揺の気配はない。モニターから目を離しもせず、余裕たっぷりに言い返す。どこから湧いてくるのか、その自信の出所は不明だ。
「薪さんだって立派な男だぞ」
「大丈夫です。薪さんは犯罪者になるような真似はしません」
 キーボードの上を淀みなく長い指が滑っていく。室長ほどではないが、青木のタイピングの腕前はなかなかのものだ。
「犯罪って……そりゃレイプしたら犯罪だけど、合意の上なら別に」
「合意の上でもダメです。だって」
 エンターキーを叩き、マウスをクリックする。レーザープリンターから仕上がった書類が吐き出される。青木の今日の仕事はこれでおしまいだ。
「官房長の娘さんは、まだ中学生ですから」

 書類をホチキス止めにして、青木は席を立った。
 呆気にとられる先輩たちを尻目に、室長室へ書類を持っていく。備え付けのキャビネットの中の閲覧待ちの棚にその書類を入れると、振り返って部屋の中を見回した。
 部屋の主との昨夜の会話を思い出して、青木は思わずにやついてしまう。

「官房長の娘さんとはいえ、薪さんとデートできるなんて羨ましいです」
 大人気ない嫉妬心を恥ずかしげもなく口にする青木に、呆れたように室長は言った。
「一緒に食事するだけだ」
「本当に、食事だけですか?」
「相手は中学生だぞ。それ以上、何しろって言うんだ」
 それでも、やっぱり面白くない。
 クリスマスの山水亭がお流れになって、結局のところ薪とふたりでディナーを食べる計画は、実行に移されていない。

「知らないんですか? 最近の中学生は進んでて、性経験のある女子は50%を超えてるんですよ。薪さんみたいに押しに弱いひとは、反対に食われちゃいますよ」
「それ、僕に犯罪者になれって言ってるのか」
 たしかに、青少年保護条例違反である。
 それでもまだぶつぶつ言っている青木に、薪はある提案をしてきた。
「じゃあ、食後のコーヒーはここで飲むから」
 どうせ仕事も残っていることだし、食事が済んだら真っ直ぐ第九に戻ってくる。帰ってきた時間でデートの内容を判断すればいいだろう、というわけだ。

 あと2時間くらいで、薪はここに帰ってくる。薪のためにとびきり美味いコーヒーを淹れてやろう。
 それまでにユニットバスの工事が終わるといいのだが。あの派手な音が響いていては、せっかくのコーヒーが台無しだ。

 青木は室長室を出ると、モニタールームにいる先輩たちに声を掛けて外出することにした。
 今朝方、珈琲問屋に時間指定で頼んでおいたキリマンジャロAAの豆の焙煎が出来上がっている頃だ。今夜のディナーはフレンチだと言っていたから、この酸味のきいたコーヒーはこってりした後味を流してくれるだろう。

「中学生だってよ。薪さんてロリコンだったのか」
「いや、仕込む気かもしれないぞ。紫の上みたいに」
「光源氏かよ」
 いまだに室長の恋愛談義に花を咲かせている先輩たちに苦笑して、青木は研究室を後にする。
 2月の厳寒の空に、星がとてもきれいな夜だった。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

官房長の娘(2)

官房長の娘(2)







 豪華なシャンデリアの掛かった瀟洒なレストラン。白いナフキンにピカピカ光る銀食器。目にも美しいオマール海老の前菜の皿を前に、しかし少女は不満そうだった。
 
「剛さんと二人きりでって言ったのに、お父様の嘘つき」
 小さな声で、隣の熟年の男性に話しかける。かわいい唇を尖らせているさまが、いかにも甘やかされて育った最近の子供らしい。
「仕方ないだろう。薪くんがぼくも一緒じゃなきゃだめだって言い張るんだから」
「これじゃデートじゃなくて、ただの食事会じゃない」
 ちらちらと向かいの若い男性を見て、少女は密かにため息をつく。
 今日は2月10日。少し早めのバレンタインデートなのに、父親はその辺のことを解っているのだろうか。

 薪に夢中になっているという官房長の末娘は、今年で14歳になる。
 3人姉妹の末っ子で、名前は小野田香。2人の姉たちは父親を疎んじる年齢に差し掛かると自然に母親についてしまったが、香だけはこの年になっても父親にべったりで、小野田は目に入れても痛くないくらいこの少女を可愛がっている。
 小野田が薪との縁談を勧めている相手は、もちろんこの少女ではない。
 いくらなんでも22歳の年齢差はちょっと厳しい。よって官房長のお勧めは、一番上の26歳になる娘だ。10歳くらいなら、何とか許容範囲だろう。
 しかし、当人同士がうんと言わないことにはどうしようもない。娘のほうはそう嫌がっている様子もないが、問題は薪のほうだ。以前、この縁談を勧めたときには、にべもなく断られてしまった。別に結婚しろと命令したわけではない。会ってみるだけでもと言ったのだが、それすら断られた。そのときの断り文句がまた傑作であった。
『僕、好きな人がいますから』
 ……普通、官房長相手にこういうことは言わない。というか、こんな良縁を断るほうがおかしい。
 のっぴきならない事情があったにしても、若輩者ですから、とか私にはもったいないお話ですから、などと言ってやわらかく断るものだ。それがストレートに『好きな人がいるからあんたの娘とは付き合えない』と言ってのけた。思わず笑ってしまった小野田だった。
 それはさておき、香のことだ。
 
「香ちゃん。最近、学校のほうはどう? 楽しい?」
 薪もさすがに子供相手に皮肉は言わない。にっこりと微笑んで香に話しかける。
 整いすぎた微笑は明らかに対マスコミ用の笑顔だが、香にはそんなことはわからない。薪の美しい笑顔に、うっとりと見とれているようだ。不憫な娘である。
「ええ。剛さんは? お仕事楽しい?」
「うん、楽しいよ」
 あれが楽しいというのも、また問題だろう。

 自宅にいるときと打って変わって明るい笑顔で薪と会話を交わす愛娘の姿を見て、小野田は少々複雑な気持ちになる。
 あんな笑顔をぼくに向けてくれたのは何歳までだったかな。女の子は親よりも男を選ぶからな、と既に気分は花嫁の父である。

 この少女は14歳という多感なお年頃で、近頃反抗期というやつらしい。
 小野田にはそうでもないが、母親には反発しまくっているらしく「香を叱ってください」という妻のセリフを頻繁に聞くようになった。学校の成績は悪くなかった香だが、情緒不安定な精神が学業に影響したものか、最近目立って試験の順位は右肩下がりになっている。親としては次の期末試験では頑張って欲しいところだが、親の言うことなど聞く耳を持たないのがこの年頃の特徴である。
 そこで、小野田は娘をエサで釣ることにした。

『期末試験で20番以内に入ったら、薪くんとのデートを取り付けてやる』

 薪本人の承諾もなしに勝手に行われた約束は、恐ろしいまでの集中力で試験の順位を50番以上上げてきた末娘の努力によって、履行せざるを得なくなった。我が娘ながら見事なものだ。目的が明確になったときのがむしゃらな行動は周りの人間を瞠目させる。これは間違いなく自分の子供だ。
 しかし困った。
 薪を説得するのは一筋縄ではいかないはずだ。薪は仕事の邪魔をされるのを何よりも嫌うし、中学生の女の子とデートしてくれと言っても冷たい眼で見られて、『嫌です』と直球で断られるに違いない。
 思案顔の小野田に、昨年第九に入ってきたばかりの新人がコーヒーを持ってきたのはそんなときだ。この新人はこの1年で驚くほどに成長した。最近では、報告書にも彼の名前がよく載るという。報告書に名前が記載されるということは、それだけの功績を挙げているということだ。
『薪くんに頼みたいことがあるんだ。絶対に嫌がられそうなんだけど、どうしても引き受けて欲しいんだ。どうしたらいいと思う?』
 仕事上のことではなくプライベートなことで、薪本人が被害を受けるようなことはないと小野田が保証すると、第九の新人は薪が何度も申請しては却下されているシャワールームの改造を承認してやったらどうか、という裏取引を持ちかけてきた。
 冷暖房完備の研究室だが、コンピューター最優先の温度に設定してあるため、室温は一年を通して20~22℃。シャワーだけしか使えないとなると、夏はいいが冬は少し寒い。冬は第九の閑散期だから差し支えはないと思われるが、室長だけは一年を通して繁忙である。冬の最中にシャワーだけ、というのは風呂好きの薪にとっては耐え難いことなのだ。
 薪が風呂好きだということも、小野田にとっては初耳だ。薪のことはいつも気にかけているつもりだが、やはり一緒に仕事をしている研究室の仲間にはかなわない。
 新人がくれた情報は確かで、ユニットバスのことをチラつかせると薪は二つ返事で乗ってきた。けっこう現金な男である。
 しかし、これはあくまでポーズだ。普段から世話になっている小野田の頼みごとを、薪が無下に断るわけがない。小野田もそれは分っていて、第九の室長として気苦労の絶えない薪に何かご褒美をあげようとしているだけだ。

 捜査の特殊性から秘密にしなければならないことが多い第九の室長だが、去年の秋の麻薬がらみの事件は、特に大きな秘め事になった。
 あの麻薬売買のリストを薪が官房室に持ち込んできたときには、さすがの小野田も度肝を抜かれた。小野田なら正義を貫いてくれるかもしれない――薪はそう思って官房室を訪ねたに違いなかったが、残念ながら小野田にもそれは難しかった。
『このリストは有効に使うから。公表は諦めなさい』
『……小野田さんを信じます』
 それだけ言うと、薪は官房室を出て行った。
 それが公表できないことは、薪にも分かっている。しかし、自分の中の正義感がそれを許さない。薪の性格をよく知っている小野田には、その心情が読めた。

 表面では冷徹な皮肉屋を装っているが、中身はびっくりするくらい純情で真っ直ぐだ。自分自身を責めて責めて、今頃はきっと地の底まで落ち込んでいるに違いない。
 あの真っ直ぐなところが薪の魅力なのだが、管理者としては大きな欠点だ。あのままでは自分の後を任せることはできない。薪にはもう少し大人になってもらわなければ。
 薪はまだ36だ。あと10年もすれば清濁併せ呑むようになるだろう。自分が築いたものはそっくり薪に譲ってやるつもりだ。それまでは自分もこの椅子を守らねばならない。そのためにこのリストは有効に使わせてもらう。

 自分を信じると言った薪には可哀想だが、こういうことを避けては警察庁№3の椅子は守れない。汚い裏事情だが、現実問題として権力を持たなければ正義は貫けない。
 警察は大きな組織だ。いくら声高に正義を叫ぼうと、ピラミッドの底辺にいては何もできない。だから小野田は官房長の椅子にかじりついて離れない。
 薪が自分のように割り切って必要悪を認め、自分の正義を貫くためには上層部に食い込むしかない、と悟るのはいつのことなのか。小野田はその日を首を長くして待っているのだ。
 しかし、薪は今のところ出世に興味はないようである。

『僕はこのままでいいです。これ以上は望みません』
 警視長の昇格試験は確かに難しいが、薪の頭脳なら努力しだいで合格できるはずだ。特別承認の話も、小野田の方から持ちかけてやったというのに、断られてしまった。
 だがその理由は、試験に通る自信がないから、などという奥ゆかしいものではなかった。
『警視長になってしまったら、警察庁に戻らなくてはいけないでしょう? 警察庁の仕事は書類に判を押すだけで、つまらないですから』
 試験を受けたら受かってしまう、と言わんばかりである。自惚れが強いと誤解されがちだが、薪自身は自分の頭脳が他人より優れていることを自慢に思ってはいない。
 頭が良いのはある程度生まれつきのもので、足が速かったり手先が器用だったりするのと変わらない能力のひとつだとしか考えていない。大したことだとは思っていないから、謙遜する気もない。そこがまた周囲の反感を買ってしまうのだが。
 別に試験がよくできたからといって、何が偉いわけでもない。薪は警視正の昇格試験の最高得点記録保持者だが、本人にとっては紙切れに過ぎない表彰状よりも、第九の備品のひとつでも増やしてもらったほうが遥かにありがたい。まったく、かわいくない男である。

『僕は第九を離れたくないんです』
 薪の本音は、実はこっちだ。
 親友の愛した第九を守りたいんです――あの事件のすぐ後に、小野田は薪を警察庁に呼び戻そうとした。それを断った理由がこれだ。
 まだ、薪の傷は癒えていないらしい。第九を離れたがらないのはその証拠だ。
 いつになったら薪はあの事件の影から抜け出せるのだろう。小野田としてはそこが一番の心配の種なのだ。

 丸いテーブルの隣の席で優雅にナイフを取り上げた美貌が、小野田の複雑な眼差しを受けて小首を傾げた。
 小野田はにこりと笑って、前菜の皿に視線を戻した。




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官房長の娘(3)

官房長の娘(3)








「剛さん。ちょっと早いけど、これ」
 薄いブルーの包装紙に、鮮やかな青いリボンの掛かった四角い箱。赤いハートマークのシールが貼られている。ロゴはもちろんSt.VDだ。
「バレンタインデーのチョコレート。本命チョコだからね」
「ありがとう」
 おませな香の真心を、薪は笑顔で受け取った。
 毎年その日には沢山のチョコレートが薪に届くそうだが、中身を見ることもなく捨ててしまうと職員の誰かが言っていた。あまり甘いものは好きではないらしい。

「あれ? 香。ぼくには?」
「冷蔵庫に失敗しちゃったのがたくさんあるから、食べたかったらどうぞ」
 ひどい。娘なんてつまらない。
「官房長も、娘さんの前では形無しなんですね」
「君もひとの親になればわかるよ」
 小野田の言葉に曖昧に微笑んで、薪は前菜の海老にナイフを入れた。
 薪の好みは和食だと聞いたが、ナイフとフォークの扱いも優雅できれいだ。食べ方も上品で洗練されている。とても幼い頃に二親を喪って、親戚の家で育てられた苦労人とは思えない。薪を育ててくれた叔父と叔母に、厳しく躾けられたのかもしれない。

「美味しい。さすが小野田さんの行きつけの店ですね」
「しょっちゅう来てるわけじゃないよ。破産しちゃうよ」
「そんなに高いんですか? ここ」
 こっそりと一人前のフルコースの値段を耳打ちすると、薪は目を丸くした。
「ちょっと無理だな」
「なにが?」
「お父様は黙っててよ。わたしが剛さんとお話するんだから」
 敵意むき出しで、香が父親を牽制する。恋する少女の前には父親すらも恋敵というわけか。

「剛さんが結婚したい女性ってどんなタイプ?やさしいとか、料理がうまいとか」
 無邪気な質問に戸惑いつつも、薪は誠実に答えを返そうと考えているようだった。薪の好みの女性なら、小野田もぜひ知りたい。

「親を大事にする人かな」
 薪の答えに小野田は噴き出し、香は頬を赤らめた。
「わたし、別にお父様を邪険にしてるわけじゃ」
「僕は小さいときに両親を亡くしてるから。結婚するとしたら、相手の親と一緒に住みたいんだ。だから、自分の親を大切にする女性がいいな」
 なるほど、うまい言い方だ。
 例え本人が腹の底でどう思っていようと、一応の理屈は通っている。さすが第九の室長だ。マスコミ相手の答弁に慣れているだけのことはある。

「……お父様のチョコは、明日ちゃんと作るから」
「うん。楽しみにしてるよ」
 照れたように笑う娘の姿に、小野田の頬が緩む。末っ子というのは本当に可愛いものだ。

「剛さん。今年も剛さんだけだからね、チョコレートの相手」
「そうなの? 学校の男の子とかに配らないの?」
「うん。わたし、剛さん一筋なの。本気よ」
 薪は苦笑して香の話を聞いていたが、香のその言葉を聞くと初めて困惑の表情を浮かべた。言い難そうに、しかし香の目を見てはっきりと告げる。
「ごめんなさい。お父さんには言ったけど、僕には好きな人がいるんだ。だから香ちゃんがいくら僕のことを想ってくれても、応えられないんだ」
 たとえ相手が子供でも、真剣な気持ちには真剣な態度で返す。薪のこういうところを、小野田は気に入っている。
「うん、聞いてる。でも好きなの」
「僕のどこがそんなにいいの? 僕は君より22歳も年上で、ただのおじさんだよ?」
「大丈夫。見た目は3つくらいしか変わんないから」
 他の誰かがこのセリフを言ったら、薪お得意の氷のような冷たい眼で睨まれるところだが、相手が香ではさすがにそれはできない。中学生に言われたくないよ、と横を向いてぶつぶつ言って、自分の中の憤りをなんとか押さえ込んでいるようだ。

「剛さんは、その辺の男の人とはぜんぜん違うもん。やさしくて頭が良くて、スマートで優雅で―――― わたしの理想のひとだわ」
「それは買いかぶりだよ。僕は普通の男だよ」
「そんなことない。剛さんには、汚いところなんかこれっぽっちもないのよ。心の底から清らかで、それが表面に滲み出てるの。だから男の人なのに、そんなにきれいなんだわ」
 香のうっとりとした表情に、薪は白旗を揚げた。眼で小野田に助けを求めてくる。小野田に同席を求めた薪の真意が、ようやく解った。
 この年頃の女の子の『白馬の王子様』幻想を、仕事以外では口下手な薪が止められるはずがない。しかし、小野田にもそれは不可能だ。ここで「薪くんが困ってるからやめなさい」などと言った暁には、自分の家での村八分を最低1ヶ月は覚悟しなければならない。

「剛さんの好きなひとって、どんなひと? 教えて」
「だめなんだ。他の人に迷惑が掛かっちゃうし、僕の勝手な片思いだから」
「信じられない。剛さんみたいな人が片思いだなんて。相手の人には言ってみたの?」
「うん。でも振られちゃったんだ。だけど、まだ好きなんだ」
 どこまで真実なのだろう。
 長い睫毛を伏せて、薪はとても哀しそうだ。香を納得させるための嘘だと思っていたが、薪はこういう嘘はあまり上手ではない。案外全部本当のことかもしれない。

「ふうん。他の人じゃだめなの?」
「うん。他の人じゃだめだ」
「望みがなくても?」
「うん。だから今は誰とも付き合えないんだ」
 22歳も年下の女の子と真面目に恋愛の話をしている。香が薪に夢中なのは、こうして真剣に話をしてくれるからかもしれない。薪は香を子ども扱いはしない。それが嬉しいのだろう。

「あたしねえ」
 香の一人称が変わる。本音が出た証拠だ。
「剛さんのそういうところが好きなのかもしれない」
 香は健気に笑って、薪の肩を軽く叩いた。薪がきょとんとした顔になる。薪のその貌はとても幼くて、香の言うとおり3つくらいの年の差にしか見えない。
「大丈夫よ。剛さんのことすごく好きになってくれて、剛さんもそのひとのことを大好きになれるような相手がきっと見つかるわよ」
 快活でおしゃまな少女。これが本来の香だ。
「22歳も年下の女の子に慰められるとは思わなかったよ」
 薪の感想はもっともだが、ここは香の一本勝ちだ。

 和やかな雰囲気の中、ディナーは順調に進み、デザートのオーダーをシェフが聞きに来た。料理を褒めた後、小野田と香は季節のフルーツタルトとコーヒーを注文したが、薪は断った。薪の小食ぶりは相変わらずのようだ。
「コーヒーだけでも飲んだら? きみ、コーヒー好きだったろ」
「今日は遠慮します。ここで失礼してもいいですか?」
「え? 剛さん、帰っちゃうの?」
「ごめんね。まだ仕事が残ってるんだ」
「今日くらいはいいんじゃないの?」
「部下を待たせてるんです。きっと今頃」
 何を想像しているのか、薪の顔が自然にほころぶ。その笑みは香に向けていた商売用の笑顔とは種類が違う。意識してのものではなく心の中が顔に出てしまったという感じで、いくらか甘いものも混じっているようである。

「なんかアヤシイ。あんなこと言っといて、ほんとは恋人とデートなんでしょ」
 14歳とはいえ、香はさすがに女だ。薪の微妙な変化を目ざとく見つけて鋭く突っ込む。ストレートに聞いてしまうあたり、まだまだ子供だが。
「ち、違うよ。本当に仕事なんだ」
 まるで奥さんに浮気を見つかった亭主の言い訳のようである。気の利いたことも言えず、しどろもどろになっている。
「冗談なのに。剛さん、かわいい」
 女子中学生に遊ばれている。鬼の室長の面目丸潰れである。

「もしかして青木くん?」
 あてずっぽうに第九の新人の名前を出してみる。薪は一瞬目を丸くしたが、はいと頷いた。
「大丈夫だよ、香。青木くんは薪くんとこの新人でね。すごく仕事熱心な男なんだ」
「ふうん」
 何事か含んだような納得の仕方をして、香は「お仕事がんばってね」と薪に笑いかけた。
「ごちそうさまでした。おやすみなさい」
 じゃあね、と香に手を振って薪は店を出て行った。

「忙しいのね」
「そうだね。薪くんがヒマそうにしてるところなんて見たことないな」
「そんなに仕事が好きなのかしら」
「香も仕事をするようになれば解るよ」
 やがて、パティシエ自ら自慢のデザートを運んできた。
 香は、食べるのがもったいないような美しいデザートに目を輝かせる。ここのデザートはとても美味しい。どんなにおなかがいっぱいでも、それを断るなんて香には考えられない。
「ん~、美味し~い」
「ぼくのも食べる?」
「うん!」
 久々に子供らしい笑顔の娘を見て、小野田は嬉しくなる。次の試験もこの手でいくか、と密かに計画を企てる小野田だった。




*****


 実は、小野田さんが好きです。
 セクハラオヤジみたいなことばかりしてますけど、現実はノーマルなひとで、薪さんを陰で守ってくれてます。薪さんもそのことを分かっていて、いつも心の中では感謝と尊敬の念を抱いています。
 でも、自分の娘と薪さんを結婚させたがってますから~、あおまきすとには敵ですね(笑)


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ジャンル : 小説・文学

官房長の娘(4)

官房長の娘(4)







「どうしたんですか? その格好」
 夜の8時ごろ第九に帰ってきた室長の姿に、青木はひどく驚いた。
 この2月の寒さの中、上から下までびしょ濡れである。雨でも降ったのかと思ったがそうではない。第九の上空には先刻と同様、きれいな星空が広がっている。

「あの業者、誰が連れてきたんだ」
「ユニットバスの施工業者ですか?」
「お湯を出そうとしたら蛇口が壊れて、水が噴き出してきたんだ! おかげでこの有様、っくしゅ!!」
 薪の行動はだいたい読めた。
 第九に帰ってきて研究室に入る前に、シャワー室の工事が終わったかどうか確認に行ったのだろう。出来上がった風呂を見て、入りたくなってしまったに違いない。湯船にお湯を溜めようと新設の蛇口をひねったとたん、何故か蛇口が壊れて水を被ってしまったというわけだ。

「とりあえずオレ、水止めてきますね」
 水を止めるための止水栓は、建物の外にある。それを止めてしまうと建物全体の水が止まってしまうが、やむをえない。このままでは研究室中が水浸しになってしまう。
「大丈夫だ。バルブ回して来た」
「え、その格好で外に出たんですか?」
「仕方ないだろ。あのまま放っておいたらMRIシステムが浸水して大変なことに、ふえっくしゅ!!」
 もう一度大きなくしゃみをして、薪は寒そうに自分の肩を抱いた。
 薪の顔色は青ざめて、唇は紫色になっている。この季節に頭から冷たい水を被ったのだから無理はない。

「そのままじゃ風邪ひいちゃいますよ。どこかで暖まって服を着替えないと」
「どこかって、うちへ帰るしかないだろ。これじゃ電車には乗れないから、車のキーを取りに来たんだ」
「でも薪さんのマンションて、車だとここから1時間くらいかかりますよね。早く着替えないと。ロッカーに着替え置いてないんですか?」
「冬はあまり泊まり込みにならないから、下着くらいしか置いてないんだ」
 着替えたらよけい寒そうだ。
「そうだ。オレのアパートなら近いですよ。風呂使ってください」
 青木のアパートは第九から徒歩で20分。車なら3分くらいだ。
 しかし薪は何を思ったのか、首を縦に振ろうとしない。遠慮しているのだろうか。

「……おまえ、まさか僕を……」
「はい?」
「いや、なんでもない。大丈夫だ。キーをくれ」
「ダメですよ。服を脱いでこの毛布を着てください。オレが運転しますから」
 仮眠室から毛布を持ってきて、薪に差し出す。何を躊躇しているのか、薪は毛布を受け取ろうとしない。
「いい。平気だ」
 平気なはずがない。歯の根が合わないほど震えているではないか。
「わがまま言わないでください。行きますよ。早く脱いでください」
 しかし薪は動こうとしない。眉根を寄せて、困惑した表情を浮かべている。
 青木がいくら言っても聞こうとせず、薪はとうとう濡れた服の上から毛布を被ってしまった。
「なんで脱がないんです? 本当に風邪引いちゃいますよ」
 恥ずかしがっているのだろうか。いや、それはない。
 このひとは人前でも平気で裸になる。男同士だろ、と当然のようにシャワーの後は素っ裸でロッカールームを歩いていたはずだ。それに、薪の裸は何度も見ている。今更恥ずかしがることもないと思うが。

 まあ、無理やり脱がせるわけにもいかない。
 仕方なくそのまま車に乗せて、自分のアパートへ直行する。隣で薪が「道が違う!」「僕のマンションへはこっちじゃない!」とくしゃみを交えながらわめき散らしていたが、聞こえない振りでやりすごす。
 
「どうぞ。散らかってますけど」
 5分後にはアパートに着いて、青木は玄関のドアを開けた。しかし、今度はドアの前に立って中へ入ろうとしない。
 薪らしくない。なにをこんなに迷っているのだろう。
「どうしたんですか? 今日はなんかおかしいですよ、薪さん」
「ヘンなこと、考えてないよな?」
 …………。
「なんですか? ヘンなことって」
 わざと解らない振りをしてやると、薪は視線を逸らせて口の中で何事か呟いた。
「何もしませんよ。ってかできませんよ。薪さんのほうがオレより強いじゃないですか」
 そうなのだ。
 薪は柔道は黒帯だ。自分の倍近い体重の青木を軽々と投げ飛ばすだけの実力を、このほそいからだは持っている。だからそんなことを心配する道理はないのだ。

「なんでそんなに不安そうなんですか?」
「別に不安がってなんか、―――― っくしゅ!」
「ほら、早く中へ入ってください」
 毛布のお化けみたいになっている薪を強引に中に引き込む。こうなったら実力行使だ。
 部屋の暖房を最強にセットする。玄関の上がり口に立ったままの薪の腕を掴んで部屋に上がらせ、温風が当たる位置に座らせた。
 薪はカーペットの上に小さくうずくまって、物珍しげに周囲を見渡している。
 そういえば、ここに薪を連れてきたのは初めてだ。趣味の車のパーツや雑誌の類が乱雑に置かれている様子を見て、今ばかりは色を失った唇がそれでも皮肉を忘れない。

「掃除は得意なんじゃなかったのか?」
「自分の部屋なんて、こんなもんです」
 べつに掃除が好きなわけではない。これだって男の一人暮らしの部屋にしては、マシなほうだと思うが。
 薪の部屋はたしかにいつもきれいだが、あれは極端に物が少ないからできる芸当で、青木のように、勉強もしたいし趣味も捨てられない人間には無理だ。

「濡れたままだとよけいに寒いですよ。脱いでください」
 睨みつけられる。
 ここが研究室なら引き下がるところだが、今は仕事中ではない。
「なに恥ずかしがってんですか? 男同士でしょ。オレと同じ体なんでしょ。別にヘンなものはついてないんでしょ?」
 むかし、薪に言われたセリフをそっくりそのまま返してやる。薪がむっと眉をひそめた。

 以前は平気で自分の前を、はだかでうろちょろしていたくせに。どういった心境の変化なのだろう。
 そこで青木は、薪の変化の原因に思い当たる。
 この間のことか。
 薪の家でマッサージを頼まれたとき、その後ろ姿のあまりの美しさに、つい抱きしめて首にキスをしてしまった。
 あれは失敗だった。薪お得意の勘違いでその場は凌げたように思ったが、やはり気にしていたのか。

「はいはい、解りました。じゃあオレは風呂の用意をしてきますから。その間に着替えてください。オレの服で良かったら、そこのクローゼットに入ってますから」
 薪を部屋に残してバスルームに向かう。給湯器のスイッチを入れれば他にすることもないのだが、部屋に戻れば薪が嫌がるからここにいるしかない。
 薪には、はっきりと自分の気持ちを伝えてある。あれから4ヶ月。返事はまだもらってない。駆け引きには長すぎる時間だ。返事などしてくれる気はないのかもしれない。
 というか、そのときに実はきっぱり断られている。それでも食い下がって諦めない、と言ったのは青木のほうなのだ。
 薪には好きな人がいる。それは自分ではない。
 しかし、諦めることはない。その人物は、すでにこの世にはいないのだから。

 ピーピーという電子音が鳴って、風呂の準備が出来たことを報せた。湯加減を確認して、部屋へ薪を呼びに行く。
「薪さん、風呂の用意できましたよ。―――― あれ?」
 薪の姿はどこにもなかった。
「薪さん?」
 窓から外を見ると、表に停めておいたはずの車がない。
 薪が風呂に入っている間に彼の体格に合う着替えを調達してくるつもりだったから、車のキーは玄関に置いたままだった。それを持ち出して、自分で運転して帰ったということか。

 あの濡れた服はどうしたのだろう。服だけでも着替えて行ってくれただろうか。
 クローゼットの中を確認してみるが、青木の服で無くなっているものはなく、薪はあのびしょぬれの格好のまま自宅へ帰ってしまったものと思われた。
「そんなに警戒しなくたって」

 ふと、ジャケットの列が乱れているのに気付く。

 収納スペースをフルに使うため、ジャケットを吊るすためのバーは最上段に設置してある。きちんと並んだジャケットの中に一枚だけ、小さなジャケットが斜めになっている。
 手前が低く、奥が高い状態―――― つまり、背の低い人物が、背伸びをしてこの上着を引っ張って取ろうしたということだ。

「あ……しまった」
 薪は、この上着に気付いたのだ。
「まずいな。怒ったかな」
 自分がしてしまった行為に対して、自責の念が沸いてくる。
 薪にしてみたら、裏切られたような気分になっているのかもしれない。薪のことを好きだと言っておきながら、こんなことをしているなんて。
「怒るよな。気分悪いもんな、こういうの」
 薪の携帯は案の定、留守番電話だった。やはり怒っている。

 明日謝るしかないが、何と言おう。
 確かに嫌われても仕方のないことを、自分はしているのだ。しかし薪には悪いが、この上着は自分にとってはとても大切なものだ。絶対に捨てることなどできない。

 自分の上着と比べるとひどく小さなジャケットをきちんとバーに掛け直して、青木は薪への言い訳を考え始めた。


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ジャンル : 小説・文学

官房長の娘(5)

官房長の娘(5)








 車のヒーターを全開にして、薪は自宅への道を急いでいた。
「へくしゅっ!!」
 何回目のくしゃみだか、もう数え切れない。背中や腰も痛くなってきた。熱が出るのかもしれない。一刻も早く風呂に入って温まらないと。

 くしゃみをするたびにハンドルが振れてしまうので、傍目から見たら酔っ払い運転のように思われるかもしれない。警官に見つからないことを祈るだけだ。
 実は今日は、免許証を持っていない。慌てていて、鞄ごとロッカールームに忘れてきた。携帯電話も財布もだ。自宅の鍵が瞳孔センサーでよかった。

 今ごろ青木は自分がいないことに気付いて、驚いているだろう。なぜ急に帰ってしまったのか、首を傾げているに違いない。
「青木のやつ」
 薪は思い切りアクセルを踏み込む。今夜の運転は少し乱暴だ。
「……ふざけやがって!」
 イラついた気分そのままに、十分な減速もせずにカーブを曲がる。タイヤがキキイッと高い音を立てる。その耳障りな音に、ますます薪の苛立ちは高まった。

『クローゼットの中にオレの服がありますから、着替えてください』
 そう言って、青木が風呂の用意をしに行った後のことである。
 ひとりになった薪が始めにしたことは、部屋の中を観察することだった。

 青木の自宅を訪れたのは、これが初めてだ。
 薪のマンションよりはだいぶ狭いが、それでも部屋数は同じ2LDKのアパートで、薪が通されたのは居間兼住居スペースだ。
 掃除が得意だと言った割にはけっこう散らかった部屋で、なんだか薪が見たこともないようなものがいろいろ置いてある。車好きの青木らしく、レーシングカーの大きなポスターが壁に掛かっている。
 窓に向けて置かれた机の上には、PC工学の専門書が積まれている。机に作り付けの本棚には犯罪心理学の関連書や、薪が薦めている犯罪時録が置いてある。自宅でもよく勉強しているとみえる。専門書に負けないくらい、車の雑誌も並んでいるようだが。

「くしゃんっ!」
 やはり、濡れたままでは体が冷える。
 部屋の観察は切り上げて、クローゼットの中を覗いてみる。
 中にはたくさんの衣服が置いてあったが、どれもこれも薪には大きすぎる。青木は薪より30センチちかく身長が高いし、体重は30キロも違う。のしかかられたら身動きできない。しかし、喧嘩は薪のほうがずっと強い。日ごろの鍛錬によるものだ。

 いくらかでも小さめの服を物色していた薪は、ハンガーにかけられている黒っぽい上着に気付いた。
 それは、10枚ほど吊り下げてある大きなジャケットに隠されるようにかかっていた。
 明らかに青木のものではない。サイズが小さすぎる。
 手にとってよく見ようとするが、上着の掛かったハンガーは薪の遥か頭上だ。背伸びをしても届かない。引っ張って落としてやろうかとも考えたが、元に戻せない。手に取ることは諦めて、薪は捜査官の目でそのジャケットを見直した。

 雪子の白衣より小さいような気がする。ということは、女物だろうか。
 つまり。
 青木の家に来て上着を忘れていった女性がいる、という推測が成り立つ。

 姉がいることは知っていたが、大阪に嫁いでいて盆と正月くらいしか会えないと言っていた。今年の正月は青木家で不幸があったため、実家で過ごしていたはずだから姉のものではない。
 この上着は、色合いからして秋冬物だ。よって、最近ここに忘れていった可能性が高い。

「なんだ。ちゃんとそういう相手がいるんじゃないか」
 別に自分には関係ない。
 部下の交際相手まで把握しようとは思わないし、そこまで口を出す気はない。不倫や風俗は警察官にはご法度だから、そこだけ気をつけてくれれば上司として言うことはない。
 この上着の色やデザインから察するに、持ち主は普通の女性だと思われる。どちらかというと地味なタイプかもしれない。触ってみると、生地はいいものを使っているから金銭的にも余裕のある女性と見受けられる。風俗嬢や人妻が身につける服ではないようだ。
 道理で薪が雪子との交際をいくら勧めても、首を縦に振らないはずだ。だったらそう言えばいいのに。

 薪はクローゼットの扉を閉めた。そのまま青木の家を出て、車中の人となった。
 自宅に帰り着くと、薪は速攻で風呂に入った。
 とにかく寒くてたまらない。車内のヒーターは強力にかけていたのだが、からだの芯が冷え切ってしまっている。特に頭が冷たくて、なんだか頭痛がする。
 熱いお湯の中にとっぷりとつかって、ようやく人間の体温が戻ってくる。もう少しで冷凍人間になるところだった。

「ああ~、この世の天国だ~」
 現在のところ薪の『幸せランキング』は、1位「風呂」2位「岡部のマッサージ」3位「青木のコーヒー」という順番になっている。ベスト3に自分がランクインしていることを知れば青木は狂喜するだろうが、もちろんそんなことは口が裂けても言わない。

 脳に血が上ってくると、先ほどの上着のことが思い出される。
 途端に幸せな気分が吹き飛ぶ。代わりに車中で味わった、あの苛々した嫌な気分が戻ってくる。
「あいつ、僕のこと好きだとか言ったくせに」
 まあ、男なんてこんなもんだ。
 気持ちと体がバラバラなのは男の生理だから、その事情は薪にも良く分かる。
 髪の毛一本に至るまで誰かに捧げてしまっている薪だが、セックスは女としたい。男は痛いし固いし汚ないし。女のほうが断然、気持ちいい。
 心の中はだれかへの愛で一杯になっていても、女の裸体を前にすればちゃんとそういう状態になる。それが男というものだ。そうでなくては人類は滅んでしまう。

 だからといって、不倫や浮気は許せない。
 鈴木とそういう関係だったときに、薪も一度だけやられた。
 ものすごく頭にきて、くやしくてくやしくて。泣き喚いて責め立てて、鈴木は二度としないと誓ってくれたけど。
 でも、いま思うと無理もなかった。
 あの頃の自分は、とても性的に未熟で、なかなか行為に慣れることができなくて。一度するとその傷が治るまで、何日も間を空けなくてはならなかった。そんな使い物にならない恋人に、鈴木はよく1年も我慢したものだ。

 ……いやなことを思い出してしまった。
 青木の場合は、べつに浮気でもなんでもない。青木はただの部下だ。こんなにイライラする理由はないはずだ。

「あいつ、いつの間に」
 青木がおかしなことを言ってきたのは、たしか10月。あれからまだ4ヶ月しか経っていない。
 いや。
 若い青木にとっては、もう4ヶ月も前のことなのか。
 しかもきっちり振ってある。永遠に応えられない、とまで言い切った。青木が恋人を作っていても不思議じゃない。というか、それが当たり前だ。
 それなのに、僕はあいつがまだ僕のことを好きなんだと勘違いして、ヘンなことに気を回して、濡れた服を脱ぐのも躊躇ったりして……。

「うわぁ……ばかみたいだ、僕」
 というか、バカだ。
 恥ずかしい。穴があったら入りたい。さぞかし滑稽に映ったことだろう。

 ―――― 告白されたのは秋だった。
 青木は、室長室に報告書を持ってきたときに、急にそんなことを言い出して。
 そのときに不覚にもくちびるを奪われたことを思い出して、薪の気分はますます悪くなる。
 お返しに往復ビンタと正拳突きと中段蹴りをお見舞しているから、ひどい目に遭ったのは青木のほうなのだが、とどめに踵落としも決めてやればよかった、と薪は自分の甘さを後悔している。そこまでやったら確実に傷害罪だが。
 詳しい経緯は忘れてしまったが、とにかくきっぱり断ったはずだ。なんだかずいぶん喚き散らしたような気もするが、実はよく覚えていない。

 こっちがきちんと断ったのに、青木は諦めないと言った。
 答えは保留で良いと、薪の都合が良いときに処理してくれと言ったはずだ。
 それからは開き直ったのか、岡部と一緒にちょくちょく薪の家に来るようになった。さすがに岡部の前では、そんなことがあったなどという素振りはおくびにも出さなかったし、3人でわいわい酒を飲むのはとても楽しかった。

「あれ?」
 こう考えてみると、しばらく前から青木とは、仲の良い同僚という関係になっていたような気がする。
 そういえばあのあと、青木に好きだって言われたことあったっけ?
 ……いや、ない。
 そう取れなくはないことを何度か言われたかもしれないが、『好きだ』とは言われてない。

 そもそも、と薪はもう一度記憶を探る。
 初めのキス以外で、青木のほうから何かしてきたことってあったか?
 ……ない。何にもない。
 あいつ、口ばっかりで何もしてこなかったんじゃないか。

 青木は今年になってからは入り浸りと言ってもいいくらい僕の家に来てて、二人で食事したり酒飲んだり、だからその気があればそれらしい行動をとったはずだ。
 いや待て、この間、首にキスされたと思ったけど。まさか本当に腹が減ってただけだったのか?
 たしかに、あのあと青木は、普通に饅頭食って寿司折を3人前平らげて、前の晩の残りのすき焼き鍋までさらって帰って行ったけど、マジで?

 あいつは僕に憧れて警察官になったと言っていた。
 新聞やマスコミに作られた僕の偶像を信じて、本来の希望だった弁護士ではなくこの道を選んだ。その僕と一緒の職場で働くことができるようになって、一時的に舞い上がってしまったのだろう。

 整理するとこういうことだ。
 若さゆえの未熟さで、憧れと恋愛感情がごっちゃになって男の上司に告ってしまったものの、付き合いが深まるうちにその気の迷いはきれいに消えて、現在はちゃんと女の子の恋人がいる。それもアパートに上着を忘れていくような関係だ。

「……だったらそう言えよ! 言わなきゃわかんないだろ!」
 新しい恋人ができた時点で、そう言ってくれればよかったのだ。
 知っていれば、あんな真似はしなかった。親を亡くしたばかりの青木を慰めようと、キスをするなんて馬鹿なことは。
「どうしてくれるんだよ! 僕がセクハラしたみたいになっちゃったじゃないか!」

 こんな気分の悪い風呂は初めてだ。
 精神的な意味合いではなく、本当に吐き気がする。胃の辺りがむかむかして、我慢できそうにもない。
 結局、トイレに流してしまった。
 もったいない。3万5千円のフルコースだったのに。
 せっかく小野田がご馳走してくれたのだからと、無理に全部食べたのがまずかった。乳製品があまり好きではない薪は、バターや生クリームをたっぷりと使ったフレンチはもともと苦手だ。食べなれない料理を大量に食べたものだから、胃がびっくりしてひっくり返ってしまったのかもしれない。

 ようやくの思いでドライヤーで髪の毛を乾かして、薪はベッドに横になった。背中を寒気が這い上がってきたが、無視して目を閉じる。
 翌朝、薪の気分は近年まれにみる最悪のものとなっていた。



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官房長の娘(6)

官房長の娘(6)






 その日、法一の女医にかかってきた朝一番の緊急呼出は、捜査一課ではなく第九だった。
「なに? なにがあったの?」
 電話の向こうのただならぬ曽我の声に、取るものも取り合えず第九に駆けつけた雪子は、すぐさま研究室の不穏な空気に気が付いた。この重い、じっとりとした空気は前にも感じたことがある。
 この空気の発信源はあそこだ。
 長方形のドアが、重苦しい空気のせいで歪んで見える。いや、実際にいくらか傾いでいる。誰かが思い切りドアを蹴り飛ばしたらしい。

 そうっと室長室のドアを開けてみる。
 その部屋だけ暖房が効いていないかのような、冷たい空気。その原因はもちろんこの部屋の主だ。
 書類の向こうから、亜麻色の冷たい目がぎろりと雪子を睨む。いつもなら雪子に対してだけは優しさと気遣いを含むはずのその瞳は、今日に限っては氷のようだ。
 これは……回れ右だ。

「三好先生、なんとかしてくださいよ」
「無理無理無理。あれはあたしじゃムリ」
「こないだはケーキでうまくいったじゃないですか。ケーキ買ってきましょうか」
「だから、こないだは怒ってたんじゃなかったんだってば」
 雪子は白衣の肩を両手で抱いて、ぶるっと身を震わせた。
「あんなメデューサ状態の薪くん、久しぶりに見たわ。だれかよっぽど凄いことやらかしたのね」
「誰も何もしてませんよ」
 第九の職員たちが、室長相手に何ができるというのだろう。頭も喧嘩も権力も、薪はここにいるだれよりも強いのだ。

「あたし、2,3日ここへは近寄らないから。がんばってね」
「三好先生! 見捨てないでくださいよ!」
 部下たちの必死の叫びを白衣の背中で聞いて、雪子は本当に研究室を出て行ってしまった。
「逃げた……」
「三好先生が逃げたよ」
 雪子が当てにならないとなれば、次点の策だ。第九のバリスタの出番である。
 
「青木、おまえ行って来いよ。得意のコーヒーで室長の機嫌直してくれよ。このままじゃ、おっかなくて仕事にならないよ」
 いくら薪が怖くてもめげずに話ができる図太い新人は、しかし何故か二の足を踏んでいるようだ。いつもと違う薪の様子に、尻込みしているのかもしれない。
 ガミガミと職員を怒鳴りつけているときの薪は、あれでいて機嫌はいいのだ。とてもそうは見えないが、付き合いの長い第九の職員にはそれが分かっている。
 むしろ、黙って室長室にこもってしまうときのほうが問題だ。人権擁護団体から第九にクレームが来たり、捜査一課とケンカになったり、週刊誌に第九の悪口を書かれたりしたときには、そうなることが多い。そんなときには青木のコーヒーも役に立つし、それなりの効果を発揮してきたのだが、今回の空気の淀み方は今までとは比べ物にならない。

「いや、今日はちょっと。もしかすると薪さんの機嫌が悪い原因、オレかもしれないんです」
「じゃあ余計におまえが行けよ! 責任取れ!」
 厳しいが、尤もな意見である。
 小池と曽我と今井の3人がかりで、室長室に押し込まれてしまう。下っ端の青木には、先輩の命令に背く権利は認められていない。
「室長、コーヒーです」
「いらん」
 地を這うような声だ。いつもの涼やかなアルトの声とは別人のようである。
 青木のほうを見ようともしない。一切のものを受け付けない、拒絶のオーラが薪を包んでいる。
 この中に入っていくのは、至難の業だ。普通の神経を持った人間にはまず無理だ。鋼のような精神力の持ち主でないと、薪の心に辿りつくまでにぼろぼろにされてしまうだろう。
 それでもなんとか自分を奮い立たせて、青木は話題を探した。

「南青山の放火事件の報告書、キャビネットに入れといたんですけど」
「見た」
 斧で断ち切るように、青木の言葉を遮る。そのあと言葉を継ぐのはとても勇気がいる。
「写真はあれでよろしかったですか」
「ああ」
 室長は、仮面のような無表情で書類に目を落とし、冷静に仕事を続けている。会話はしてくれているが、声には抑揚がない。まるで機械と話をしているみたいだ。
 もう、これは素直に謝ってしまうべきだ。下手に言い訳などしないほうがいい。
 
「あの、上着のことですけど」
「何の話だ」
 あの上着に薪が気付いているのは間違いない。しかし、知らないふりをするということは、弁明させてくれる気もないらしい。
「すみません、薪さんの気持ちも考えずに。やっぱり、気分悪いですよね」
 薪のほうに聞く気がなくても、不愉快な思いをさせてしまったのは事実なのだから、謝っておかなければ気が済まない。青木は誠意を込めて頭を下げた。

「何のことか解らない」
 室長は静かな口調を崩さない。
 しかし、その姿は怒鳴りまくっているときの室長より遥かに怖い。口うるさく部下のミスをあげつらうときの薪は確かに怖いのだが、そこには薪の方からこちらへ流れてくる何かがある。
 おまえはもっとできるはずだ、ここさえ気をつければもっとうまくいく、おまえの本当の力はこんなもんじゃないだろう―――― あれだけ辛辣に貶されているのに、そう励まされているような気分になるから薪の叱責は不思議だ。

 でも、今は違う。
 睨んでもくれない。怒ってもくれない。
 静かな拒絶だけがそこにはあって、見捨てられたような気分になる。

「用件はそれだけか? だったら出て行け」
 はい、と頷くしかなかった。
 青木は無駄になってしまったコーヒーの盆を持って、室長室を出た。
 ドアの側には青木を室長室に送り込んだ3人が、しゃがんだままの体勢で固まっている。中の会話を盗み聞きしていたらしい。申し訳なさそうに頭を下げる青木を責めるものは、今度はいなかった。

 こうなったら最終兵器だ。
「岡部さ~ん……」
「おまえらなあ」
 最後にはやっぱりここにくるのだ。
 薪が一番信頼しているのは、腹心の部下、岡部である。あの事件が起きた直後の昨年の夏、第九の氷河期をともに乗り越えてきたのだ。その絆はだれよりも強い。
 
「ったく、しょうがねえな。俺だってあの薪さんは苦手なんだぞ」
 ぶつぶつ言いながらも腰を上げる。
 三田村部長がいなくなったから、今度は警視総監とでもやりあったかな、と大方の予想をつけて、岡部は室長室のドアを開けた。
「室長。いい加減にしてくださいよ。連中、浮き足立ってますよ。あれじゃ仕事になりませ――」
 薪は室長席にいなかった。
 寝椅子にもいない。室長室のドアはひとつだけだから、どこへも行くはずがない。
「室長?」
 大して広くもない部屋をぐるりと見回してみる。と、寝椅子の影から細い腕が見えた。

「薪さん!」
 キャビネットの前の床に、薪は倒れていた。慌てて走りよって身を起こすと、ひどく体が熱い。呼吸も荒い。首に手を当てると、焼け付くようだ。
「……おかべ。なんか、うごけないんだ」
「大丈夫ですか? こりゃ、病院に行かなきゃダメですよ。おい、あお」
「青木は呼ぶな」
「は? しかし」
 岡部は副室長のような役割を持っているから、薪がいないときはその代役を務めなければならない。他のものたちはみな単独で事件を抱えている。
 青木はまだひとりで事件を任せられるほどの力量がないため、他の捜査官と一緒にいずれかの事件を捜査している。よって、突発的に第九を離れても、仕事に支障がないのは青木だけなのだ。その事情は、室長の薪が一番良く分かっているはずなのだが。

「あいつはいやだ」
 何があったのかは知らないが、室長命令では仕方がない。岡部は自分の仕事を中断して、薪を病院へ運ぶことにした。
「どうしたんですか!?」
「大丈夫ですか、室長」
「少し熱が高いんだ。病院に連れて行くから、おまえら後を頼んだぞ」
「岡部さん。岡部さんの案件の報告書、今日までですよね。俺が連れて行きましょうか。俺のは昨日のうちに提出しましたから」
「悪いな、今井。そうしてくれるか」
 今井の腕に薪の体を託し、岡部は自分の机に戻る。早く報告書を上げて、病院へ様子を見に行かねば。薪はいつも無理をしすぎるのだ。

「こないだは栄養失調で今度は発熱かよ。いい加減にして欲しいよ」
「そのくせ『健康管理は社会人の基本だ』とかって俺たちには言うんだよな」
「ひとにそういうこと言う前に、倒れるまで仕事するクセ、どうにかしろってんだよ」
「まったくだよ。どれだけ他人に迷惑かけたら気が済むんだか」
 室長のいなくなった研究室では、口々に薪の困ったクセを非難している。言葉はかなり厳しい。薪のこのクセには、みな本当に頭にきているのだ。

 辛辣な陰口が出尽くした後、帰りにみんなで薪の家に寄って『健康管理は社会人の基本ですよ』という皮肉を言ってやろう、ということに意見が一致した。常日頃から聞かされている室長の嫌味は、こんなときでもなければ返せない。
 オニのいぬ間の定時退室を目指して、第九のエリートたちは目を瞠る集中力で捜査に取り組み始めた。



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官房長の娘(7)

官房長の娘(7)






 薪に皮肉を返す計画は、残念ながらお流れになった。
 病院についていった今井から、薪の病状は思ったよりも深刻で、2、3日は入院しなければならない、という報告が入ったためだ。
「病名はただの風邪なんですけど、胃も弱ってるみたいで。水も薬も吐いちゃうんですよ。脱水状態になってるから、点滴で栄養剤と抗生物質を投与するそうです」
 そんな具合では、皆で病室に押しかけたりしたら返って迷惑だ。岡部が代表で帰りに見舞いに行くことにして、定時退室を励行した第九である。

 見舞いに行きたがる青木を、病院側から面会はひとりだけと念を押された、という尤もらしいウソで騙して、岡部は病室を訪れた。
 病院の飾り気のない白いベッドで、薪はよく眠っていた。点滴のおかげか、昼間より顔色もいいようだ。
 点滴がなくなりかけていたので、ナースコールを押して看護師を呼ぶ。すぐに追加の点滴を持って、看護師がやってきた。
 頭を下げる岡部を見て、なんとも複雑な顔をする。泣き笑いのような、なにか言いたいのを我慢しているような。
 
「その花とおまえが似合わないんだ」
 点滴を替える音に目を覚ました薪が、開口一番にそんなことを言う。
「あの看護師、きっと今ごろナースセンターで爆笑してるぞ」
 減らず口が叩けるようになったらしい。回復してきている証拠だ。
「なんで百合の花なんか持ってきたんだ? らしくない」
「これは青木からです。こっちはみんなから」
 棚の上に置いた果物篭を指差す。先ほどから花瓶を探しているのだが、見当たらないようだ。花をことづかったのに、花瓶までは気が回らなかった。
「ナースセンターにでも持っていってくれ。ここには花瓶もないし」
「花瓶なら俺が買ってきます。青木のやつが言ってましたよ。百合は薪さんが好きな花だからって」
「百合は匂いが強いから、病室には合わないだろ」

 どうもおかしい。
 薪が百合の花が好きなことは、岡部も知っている。薪の家には年中この花が飾られているし、薪の身体から百合の移り香が漂うこともしばしばある。確かに病室には強い香かも知れないが、個室なら問題はなかろうと思われる。

「薪さん。青木と何かありました?」
「べつに」
 動揺する気配はない。
 しかし、返事が速過ぎる。岡部の質問を予測していたようだ。
 じっと薪の目を見ると、薪は目を逸らして窓の方向を見た。やはりなにかある。
 薪のほうから言い出すのを待って、岡部は沈黙を守る。長い沈黙にやがて薪は折れて、ぽつぽつと自分の考えを語り始めた。
 
「青木とは……もう少し、上司と部下のけじめをつけようと思って」
 何をどう考えてこういう見解を出したのだろう。薪の思考は、ときに突拍子もない結論に行き着いてしまうことがある。
「けじめ、ですか?」
「あいつ、しょっちゅう僕の家に来てるだろ。やっぱり、ああいうのはマズイかなって。青木のことだけ特別扱いしてるみたいだろ? 他の連中の目もあるし」
「あいつら、そんなこと気にしてませんよ」
 薪には内緒だが、室長のお守り役がひとり増えた、と喜んでいるのが実情である。
 それに、薪は仕事とプライベートはきっちりと分けている。いつも一緒に酒を飲んでいる岡部ですら、仕事で甘い点をつけてくれるなどということはまずない。ましてや、新人の青木の未熟さに第九の誰よりも厳しいのは、他ならぬ室長である。
 
「仕事にそれを持ち込むようじゃ困りますけど、青木はそんなやつじゃないですよ」
「うん。でも、新入りが室長にべったりっていうのもおかしな話だろ」
「そうですかね。青木は薪さんに憧れて第九に来たって言ってましたから、無理もないと思いますけど」
 それは、第九の人間全員が知っていることだ。青木が薪に心酔しているということも。

「とにかく、あいつはもう僕の家に連れてこないでくれ」
「どうしてですか」
「青木はおまえとは違うから」
「俺だって部下ですよ?」
「おまえはいいんだ」
 薪は目を閉じた。長い睫毛が重なって、眼下に影を落とす。
「僕だって、一人くらいおまえみたいなのがいなきゃ、やってられないんだよ」

 疲れが出たのか、ほどなく薪は眠ってしまった。
 2、3日はここに寝ているしかないが、ちょうどいい機会だ。この際ゆっくり休めばいい。室長には休日が少なすぎるのだ。
 それにしても、問題は青木のやつが薪に何をしたのかだ。
 薪が原因もなしに、こんな風に考え込むはずがない。昨日までは普通だったのだ。
 そもそも、薪が風邪を引くこと自体めずらしい。貧血と低血糖でよく倒れてはいるが、病弱というわけではない。普段から鍛えているから、こんな細い体でも体力はけっこうあるのだ。
 筋力はそれほどでもないが、瞬発力と持久力はなかなかのものだ。10キロくらいは走れるし、腕立て伏せや腹筋も50回くらいならいける。デスクワークばかりの仕事についている割には立派な数字だ。

 そういえば、昨日は官房長の娘とデートだと言っていたが。そのことと何か関係があるのだろうか。あと変わったことといえば、シャワー室の工事が入ったことか。
 今朝早く、青木は昨日の業者を呼んで何事か指示していたようだったが。人当たりの良い青木にしては、珍しく厳しい顔をしていた。なにか工事の不手際でもあったのだろうか。
 証拠もないのに、考えても仕方ない。
 この件に関しては後で直接青木に問い質すことにして、岡部は病室を出た。花瓶をどこかで調達してこなければならない。薪はああ言ったが、青木が可哀想だ。

 病院内の売店はもう閉まっているため、外に出なければ手に入らない。駅前のホームセンターなら、まだ開いているはずだ。
 階段を下りて、夜間専用の出入り口に向かった岡部は、見覚えのある長身を待合室の隅に発見した。救急の診察待ちの患者に混じって、壁にもたれて立っている。
 ぼうっと空を見つめて、何事か考え込んでいるらしく、岡部がすぐ側に来ても気がつかないようだ。警察官としては失格である。
 
「室長ならもう心配ないぞ」
「岡部さん」
 室長のことが心配で、じっとしていられなかったのか。こいつの室長への忠臣ぶりは呆れるほど実直だ。
「そうですか。よかった」
 青木は手にビニール袋を持っている。岡部が今から行こうとしていたホームセンターの名前入りのものだ。半透明の袋の中には緩衝材に包まれた筒状のものが入っていた。
「おまえ、それもしかして」
「あ、花瓶です。病室にありました?」
「いや。ちょうど買いに行こうとしてたんだ」
 薪が以前、青木は最近の若い者にしては気が利くと褒めていたが、その見立ては正しいようだ。
 他にも色々と青木の評価は聞かされている。
 真面目で勤勉で努力家。粘り強く、意志が固い。そこまでは褒め言葉だが、同じくらい悪い評価もある。かなりの頑固者で自分の意見に固執する。普段はおとなしいくせに、切れるととんでもないことをやらかす。
 その『とんでもないこと』と、室長の風邪は関係があるのだろうか。

「青木。おまえ、薪さんとなにかあったのか?」
「どうしてですか」
「なんか室長の様子がおかしいからさ。なにかあったのかなと思って」
「あった、と言うか……していたのがバレたと言うか……」
 歯切れの悪い言い方だ。
「オレが悪いんですけど。薪さんの気持ちも考えずにあんなこと」
 まさかこいつ、薪にあれ以上のことを迫ったのか?

 あれ、というのはアレだ。先月の初めに、岡部は夜の室長室での出来事を目撃している。そのことは誰にも言っていないが、やはり青木には釘を刺しておくべきだったか。
 しかし、それはないな、と岡部はすぐに考え直す。
 そんなことをしたら、今ここに入院してるのは青木のほうだ。薪は見かけによらず強い。青木が体躯の割りに弱すぎるのだが。薪を守れる男になれるように、現在青木は岡部のもとで特訓中だ。

「そんなつもりはなかったんですけど、結果的に裏切ってしまったというか。傷つけてしまったらしくて、謝ろうとしたんですけど、薪さんはぜんぜん聞いてくれなくて」
 今朝のメデューサ化の原因はこいつか。
 この問題が解決するまで、あの現象が続くのか。このままでは、職務に支障をきたしかねない。第九のクオリティを守るには、室長の心の平穏が必須要素なのだ。

「すみません。オレ、帰ります。この花瓶、使ってください」
 青木が差し出した包みを、岡部は受け取ろうとしなかった。腕を組んでしばし黙り込む。あとで薪さんに怒られるんだろうな、と思いつつ岡部は言った。

「薪さんの部屋は、312号室だ」
「岡部さん」
「早く行かないと、せっかくの花が枯れちまうぞ」
 青木はうれしそうに笑って、岡部にぺこりと頭を下げた。
 階段のほうへ駆け出して、通りかかった看護師に「走らないで」と注意されている。その場は静かに歩いた青木だったが、すぐに階段を駆け上る足音が聞こえてきた。

 おそらく、青木は何も悪いことはしていない。薪に首ったけのこいつが、薪を傷つけるような真似をするとは思えない。行き違いか誤解が生じているだけではあるまいか。
 一途な後輩に後を託して、岡部は帰途についた。



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官房長の娘(8)

官房長の娘(8)






 カチャカチャという金属音で、薪は目を覚ました。
 看護師が、点滴の容器を掛け替えている。腕時計を見ながら速度を調節し、管が外れていないことを確認する。
 薪が起きたことに気付いて、気分はいかがですか?と微笑を添えて尋ねてくる。夜勤の看護師は人手不足で大変だという話を聞いていたが、この看護師はとても親切で、笑顔がチャーミングだ。
「大丈夫です。ありがとう」
 優しい人には優しさを返すのが、薪のポリシーである。部下が見たらびっくりしそうな笑顔で、丁寧に礼を言う。

「毛布でも持ってきましょうか?」
「平気です。暖房が効いてますから」
「いえ、あの、こちらの方の分です」
 看護師の言葉にベッドの反対側を見ると、見舞い客用の椅子に、腰掛けたまま居眠りをしている男がいる。

「会社の方ですか?」
「……部下です」
 赤っ恥もいいところだ。上司の見舞いに来て居眠りをしている部下など、不届千万だ。
「すみません。面会時間は過ぎてますよね。すぐに帰らせますから」
「個室ですから別に構いませんけど。この方、2時間も前にいらしたんですよ。消灯時間は過ぎてますけど、少しくらいならお話されても大丈夫ですよ」
 何かあったら呼んでください、と言って看護師は病室から出て行った。

 看護師がいなくなると、薪は身を起こした。ベッドの上に胡坐をかいて、少々行儀悪く頬杖をつく。
 眠っている男の顔をじろりと睨んで、視線で覚醒させようと試みる。が、部下の眠りは深いらしい。まったく、ふざけたやつだ。
「岡部のやつ。よけいなことを」
 サイドボードの上に、百合の花が活けてある。どこからか花瓶を調達してきたらしい。
 透明でシンプルなデザイン。岡部にしては趣味がいい。
 岡部はああ見えて、わりとアニマル柄とか小花柄とかが好きだから、そういうものを買って来られるかとびくついていたのだが。

 看護師の話では、花の贈り主は2時間も前からここにいたという。
 長い手足を組んで背もたれに長身をあずけ、安らかな寝息を立てている。よく椅子の上なんかで眠れるものだ、と薪は以前、自分が地下鉄の中で立ったまま眠ってしまったことを棚に上げて、部下の無神経さに呆れてみる。

 ……こいつが僕を大事に思ってくれているのは本当だ、と薪は思う。

 だったらそれ以上のものは必要ない。いま、青木の心が誰のところにあろうと、それは自分には関係のないことだ。自分たちの関係はただの上司と部下でしかないのだから。
 こいつが自分に憧れのようなものを抱いていたとしても、それは昔の話だ。告白されたときにキッパリ振っておいて、そいつに新しい恋人ができたからと言ってそれを責めるなんて、無茶苦茶だ。
 こっちだってその方が都合がいいはずだ。余計な気を使わずに済むし、これからも自分の心は変わらないのだし。

 鈴木のこと以外は……もう、愛せない。

 恋人ができてよかったな、と言ってやろう。心から祝福してやろう。
 昨日は突然のことで少し驚いてしまって、自分がやってしまったあれやこれやに動揺していただけだ。自分の失敗に気付いて、それであんな嫌な気分になったのだ。

「青木。起きろ」
 2、3度声を掛けるが、一向に目覚める気配がない。業を煮やして薪は、部下の顔面めがけて枕を投げつけた。「ダメです、薪さん! そんなところ触っちゃ……あれ?」
「……どんな夢を見てたんだ」
 薪を見て、ほっとした顔をする。いつもの満面の笑顔になって、こちらへ身を乗り出してくる。
「顔色、良くなったみたいですね。心配してたんですよ」
「夢の中でか?」
「昨日、眠れなかったんですよ。あの後すぐに携帯に電話入れたのに、薪さん出てくれないから」
 昨日、携帯は第九に忘れてきた。レストランに着いたとき、携帯電話は鞄の中に入れてクロークに預けるように、と小野田から強制されたのだ。そのまま鞄に入れっぱなしだった。そのおかげで浸水を免れたのだが。

「怒ってるのかなって不安で」
「怒ってない」
「じゃ、なんで帰っちゃったんですか?」
「急用を思い出して」
「あのジャケットに気付いたからじゃないんですか?」
「ちがう」
「ハンガーが曲がってましたよ。薪さんが引っ張ったんじゃ」
「ちがうって言ってるだろ!」
 自分でもびっくりするくらい、大きな声が出てしまった。病院の中でこれはまずい。

「僕はもう寝る。帰れ」
 乱暴に毛布を引っつかんで横になる。青木が困惑した表情をしていたが、知ったことか。
「帰ります。おやすみなさい」
 薪が背を向けて黙り込んでしまったので、青木はそうするしかなかった。
 2時間も狭いパイプ椅子の上で待っていて、その挙句にこんな冷淡な扱いを受けて、それでも穏やかに「早く元気になってくださいね」と言って帰って行った。

 あれ?
 どうしてこうなるんだろう。
 よかったなって言ってやるんじゃなかったのか?
 彼女とうまくやれよって。仕事をおろそかにするようでは困るから、その辺はけじめをつけるように釘を刺して。でも大切にしてやれよって。
 そう言ってやらないとこいつは困るはずだ。警察というところは、結婚するにも上司の承諾がいる。滅多なことでは異を唱えたりはしないが、相手の女性の身辺調査はしっかりと行う。親類に犯罪者がいたり、新興宗教にはまっているような両親だったりしたときには、上司命令で破談にした例も実際にあるのだ。
 だから今の薪の正しい行動は、祝福の言葉を述べたあと相手の女性のことを聞きだし、結婚の話が出ているようなら密かに調査を行い、なにも問題がなければよし、あったらその旨を青木に伝えて『出世したけりゃ別れろ』と言うか、どちらかなのだ。間違っても布団を被って寝ている場合ではない。

 おかしい。
 今までもそうしてきたはずだ。
 今の第九の連中は、あまり女との付き合いがないようだが、旧第九のメンバーにはそれぞれ恋人がいたから、その相手のことは秘密裏に調べをつけておいた。犯罪者の娘などと結婚されたら、こっちの立場まで危なくなる。
 それがどうして訊けないんだろう。それどころか、その話題まで知らない振りで避けてしまうなんて。

「どうしちゃったんだ、僕……」
 なぜこんなに腹が立つのだろう。そしてどうして感情のままに、大人げない態度をとってしまうのだろう。熱のせいで、冷静な判断がつかなくなっているのだろうか。

 あいつがあんまりやさしいからだ。

 僕のことをただの上司としか思っていないくせに、やさしすぎるからだ。
 今だって僕があんな態度をとったのに、ちっとも怒らない。口に出さなくても感情を害すれば、それは自然に伝わるものだ。それを苦笑するだけで許してくれて。
 まるで鈴木みたいだ。
 鈴木はいつも、僕のわがままや子供っぽい癇癪の癖を、笑って許してくれた。
 だから、僕はずっと鈴木への想いを断ち切れなくて。雪子さんに悪いと思いながらも、鈴木を見つめることをやめられなくて。

 常夜灯の明かりだけの薄暗い病室で、薪は再びベッドの上に身を起こす。薬が切れてきたのか、体の節々が痛い。また熱が出るのかもしれない。今夜も寝苦しい夜になりそうだ。
 ふと見ると、青木が座っていた椅子の上にA4サイズの紙袋が置いてある。忘れ物かと思って中を覗いてみると、薪がいつも昼寝のときに抱いている洋書と、ステンレスのポットが入っていた。ポットの中には温かいコーヒーが入っていて、どうやら薪のために淹れて持ってきてくれたらしい。が、薪の機嫌が悪かったので言い出せなかったのだろう。

「カゼひいて熱があるのにコーヒーなんて、気の利かないやつ」
 憎まれ口をたたきながら、薪は少しだけコーヒーを飲んでみる。淹れてから時間がたっているせいか、第九で飲むときよりだいぶ味が落ちるが、缶コーヒーよりはずっとマシだ。残りは明日の朝のお楽しみにして、薪は分厚い洋書を手に取った。
 ぱらぱらとページをめくると、中から1枚の写真が出てくる。ベッドの頭に備え付けてある明かりを点けて、写真の男の顔をじっと見つめる。

「僕にはおまえがいるもんな」

 親友はいつものように、薪に笑いかけてくれる。
 やさしく、薪のすべてを許してくれる微笑。
 この笑顔が大好きだった。他の誰にも見せたくないくらい、好きで好きで。でもそれは許されないことで。

 鈴木は雪子さんを愛していて、僕はただの友だちで。あのふたりはお人好しだから、僕がまだ鈴木を好きなことを知ったらきっといつまでも結婚しないから、必死で忘れた振りをした。
 でも今は、僕が鈴木を好きだと言っても誰も困らない。この恋を一生貫いても、誰も傷つかない。もう鈴木はこの世にいないのだから。

「おまえだけだ……僕は一生、おまえだけのものでいるから」
 写真を元通り本に挟みこみ、抱きかかえるようにして、薪は眠りについた。



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官房長の娘(9)

官房長の娘(9)






 薪の退院は、2日後の夜だった。
 医師からの許可が下りたわけではなく、脱走に近い状態で病院から出てきた。熱さえ下がれば医者にも薬にも用はない。薪は薬が嫌いだし、病院はもっと嫌いだ。今回は不覚を取ったが、風邪なんか気合で治すものだ。本来は病院になどかかる必要はなかったのだ。

 岡部のやつが大げさに騒ぎ立てるから、と3日前は立つこともできなかった自分をきれいに忘れて、薪は部下の心配性に肩を竦める。おかげで大分仕事が遅れてしまった。
 自分がいない間に、連中はたるみきっているに違いない。明日からはビシビシ行かなくては、と第九の面々が聞いたら泣き出しそうな決意を胸に秘めて、薪は病院から真っ直ぐに職場へと向かった。

 セキュリティが掛かっている時刻だが、10桁の解除コードは暗記している。
 青木が担当していた南青山の放火事件の報告書は、明日が提出期限だ。今日のうちにあれだけは所見をつけなければ。でないと、期限より3日も早く報告書をまとめた青木の苦労が無駄になる。それに、明日は定例会議もある。その資料も作成しなくてはならない。悠長に休んでいるヒマなどないのだ。

 とっくに誰もいないと思っていたのに、第九には明かりが点いていた。
 背の高い新人が、昔の捜査資料を紐解いている。
 熱心なのはいいが、せっかく早く帰れるチャンスを自主学習に使うなんてバカなやつだ。それとも、今日は彼女のほうの都合がつかなかったのか。だとしたら不幸なやつだ。
 自分が職場に復帰したらそんな時間はない。MRIのラーニングテストをしてバックアップを録って。進行中の事件がなくても、やることは山ほどある。

「室長。身体のほうはもういいんですか?」
 薪の姿を見て、びっくりしたように声を掛けてくる。3日前の薪の陰険な態度に対する、わだかまりはないようだ。
「3日も寝てたら頭がボケそうでな。逃げ出してきた」
「え、勝手に出てきちゃったんですか?」
「自主退院だ。お金はちゃんと払ってきたぞ」
 まったく無茶ばっかりして、とぶつぶつ言い始める青木の肩越しに、資料を覗き込む。
 右手の下のメモを見ると、いくつかの事件を抜粋して統計を取っているらしい。PCの画面には誘拐事件のファイルが開かれている。自主学習にしてはずいぶん細かいところまできっちりと調べ上げている。なんだか会議用の資料のような。

「なにやってんだ、おまえ」
「明日の定例会議に、これ使えませんか」
「べつにこんなこと頼んでないだろ」
「はい。でも、作っておけば役に立つかと思って」
 自分の仕事でもないのに物好きなやつだ。
 岡部といいこいつといい、どうして余計なことばかりするんだ。こっちが頼みもしないことを押し付けがましく。
 でも、まあまあ良くできている。使えないこともない。
 少しは役に立つようになったな、と心の中で褒めてやって、しかし表面はいつもの冷たい無表情だ。その貌から薪の褒め言葉を読み取ることは不可能に近い。

「薪さん。オレ、あれから色々考えたんですけど」
「なにをだ」
「上着のことです」
 またその話か。
「あれ、どうしても捨てなくちゃダメですか?」
 どうして僕に訊くんだろう。べつに捨てろなんて言ってない。子供じゃないんだから、上着どころか下着があってもおかしくない。それを責める気もないし、責める権利もない。だから薪は返事ができない。

 薪の沈黙をどう取ったのか、青木はがっくりと肩を落とした。
「分かりました。あれは捨てます。でも、オレにはどうしてもできませんから、薪さんが捨ててください」
 青木は自分の机の引き出しから紙袋を取り出した。中に問題のジャケットが入っている。
「そう言われるかと思って、持ってきてたんです」
「なんで僕がおまえのゴミの始末をしなきゃいけないんだ」
 薪の尤もな言い分を聞こうともせず、青木は俯いてなにやら呟き始めた。この新人は落ち込みだすと、ひとりで納得するようにぶつぶつ言うクセがある。

「そうですよね。オレだって、同じことされたら気味が悪いです」
 気味が悪い? 気分が悪いの間違いじゃないのか―――― そう言いかけて薪は口を閉ざす。
 自分は気分を害してなどいない。青木に彼女ができたからって、気分が悪くなる理由がない。それじゃまるでヤキモ……ないないない。それはない。

「ゾッとしますよね。気持ち悪いですもんね」
 ……なんか、ニュアンスがちがう。今時の若いもんは、日本語もまともに使えないのか。
「ゾッとする? なんでだ?」
「なんでって、捨てたはずの自分の服を誰かがずっと持ってたら、ゾッとするでしょ」
 彼女が捨てていったものだったのか。しかしまだ新しいものに見えたが。

「他人が持ってたらそうかもしれないが、彼女の服ならべつに構わないだろ」
「はあ? 彼女?」
 青木は素っ頓狂な声を上げた。
 眼鏡の奥の黒い眼を何度もしばたかせ、不思議そうな顔をしている。素直に認めればいいものを、なんて白々しい。また腹が立ってきた。
 
「わかった、僕も正直に言おう。確かに僕はその上着に気付いてた。でも、おまえがきちんと報告をして来ないのが悪いんだ。だから、おまえが僕にされたことは全部忘れろ」
「忘れろって」
「特に先月のアレだ。悪かった。だけど知らなかったから」
 そこで薪は突然、キレた。
「だって言わなきゃわかんないだろ! 僕はずっとそう思い込んでたんだから!」
「言うって、何をですか?」
「おまえが本当は、その上着の持ち主が好きだってことをだ!」
「はい。大好きですけど」
 こいつ抜け抜けと……!
 報告しろと言ったのは自分だが、言われたら言われたでやっぱり腹が立つ。半人前のクセに、やることやりやがって!

 怒りを抑えて薪は相手のことを聞きだしにかかった。これも室長の仕事だ。
「いつからだ」
「ええと、気になりだしたのは、4月の始めくらいでした」
「そんなに前からか!?」
 青木の答えに驚いて、付けたばかりの冷静な室長の仮面は落ちてしまった。
 それでは自分に告白するより半年も前に、彼女に恋をしていたということではないか。そして秋物のジャケットが必要な季節には、家に出入りする仲になっていたということだ。順調に進展しているじゃないか。

「じゃあなんで僕にあんなこと言ったんだ? おまえ、僕をからかってたのか!?」
 騙された。自分は恋愛経験が少ないから、冗談を真に受けてしまったのだ。こんな12歳も年下の若造の戯言に振り回されて!
「ッざけんな! 僕がどれだけ悩んだと思ってんだ!」
 声を抑えることなどできなかった。
 耳を劈くような金切り声で、薪はがなりたてた。
 
「最近の若いもんはみんなこうなのか? 好きな女がいるのに、他の人間を口説いたりできるのか? 好きでもないやつとキスしても平気なのか? 僕なんか」
 鈴木だけで手一杯なのに。頭のてっぺんから爪の先まで、全部捧げてしまっているのに。

「ちょっと待ってください。薪さん、さっきからなんかおかしいです」
「おかしいのはおまえの頭だ!!」
 許せない。
 薪は昔から、不倫や二股といった不誠実な行為が大嫌いだ。男でも女でも、そういうことをする人間を心の底から軽蔑している。風俗嬢はいい。あれは商売だ。客のほうも、ちゃんとそれを心得ている。
 でも、妻や恋人がいるのならそういうことは絶対だめだ。相手の純心を踏みにじって、それでも自分の欲望を満たそうとする人間には、憎しみすら覚える。

「彼女に悪いと思わなかったのか!」
「……誰の?」
「おまえの彼女に決まってるだろ!」
「オレ、彼女とは1年前に別れましたけど」
 青木がまたとぼけたことを言い出す。ごまかされてたまるか。物証(ネタ)は上がっているのだ。
「それからは、ずっと薪さん一筋ですよ」
 この期に及んでまだ言うか。もう騙されない。

「おまえ今、この上着の持ち主が大好きだって言ったじゃないか」
「言いましたけど」
 悪びれていない。理解できない。
「何様のつもりだ! 僕とこの上着の持ち主と、2人とも好きだとか言うつもりじゃないだろな!」

 薪の言葉に、青木は目を丸くした。すぐに納得したような顔になって「また得意の勘違いですか」などと失礼なことをほざいた挙句、問題のジャケットを両手で持ち上げて顔の前で広げ、しげしげと眺めた。
「ジャケット一枚で、なんでこんな騒ぎになるかなあ……」
 ダークグレイの三つボタン。間近で見るとなかなかいい品だ。品があってスマートだ。青木の彼女は趣味がいい。
 
「これ、薪さんのですよ」
 青木の釈明に、薪は目眩を覚えた。
 バカだ、こいつ。
 現物が目の前にあるのに、こんな嘘を吐くなんて。
 浮気したら一発でバレるタイプだ。そんでもってつまらない嘘をついて余計に怒らせて、一気に離婚まで進むパターンだ。

「見え透いた嘘をつくな。僕はこんなに小さくな……」
 青木は、無言でジャケットを薪の肩にかけた。
 細身のダークグレイのジャケットは、あつらえたように薪の身体にぴったりだった。
「あれ?」
 よくよく見れば細身ではあるが、男物だ。周囲にあった青木のジャケットがあまりにも大きすぎて、錯覚で実際より小さく見えたらしい。
 
「こないだの異動願いといいこのジャケットといい、どうして勝手に思い込むんですか? オレのことで何かあったら、今度からは直接オレに訊いてください。オレ、薪さんには絶対にウソなんかつきませんから」
 薪はジャケットの裏を見て、ネームを確認する。確かに自分のものだ。しかし、自分が青木の家に行ったのはあれが初めてだ。忘れ物などできるはずがない。
「おまえ、これどうやって手に入れたんだ?」
「覚えてませんか? 昔オレが、ゲロ吐いて汚しちゃったジャケットです」
「ゲロ?」
 ……思い出した。
 たしかこいつがまだ第九に入って半年くらいの頃、現場に連れて行って腐乱死体を見せたことがある。青木の様子が死体に近づく前からやばそうだったから、後ろで上着を構えていた。
 鑑識の仕事も済んでいない現場に、無関係な人間の吐瀉物なんか落とせない。ましてや岡部の後輩に無理を言って、管轄外の現場に入らせてもらったのだ。それ以上の迷惑を掛けるわけにはいかなかった。

「これ、おまえのゲロ……!」
 その時の状況を思い出し、薪は慌てて肩を揺すってジャケットを振り落とした。
「汚くないですよ。ちゃんとクリーニングかかってますから」
「それは……クリーニング屋もそうとう迷惑だったんじゃ」
「自分で洗ってからクリーニングに出したんですけど。やっぱり臭かったみたいで、嫌な顔されちゃいました」
 もう半年以上も前のことだ。とっくに忘れていた。

「なんで捨てなかったんだ? そんな汚いもの」
「捨てられないです。オレはあのとき、薪さんに大切なことを教えてもらいました。オレが警察官としてこれからやっていくために、一番重要なことです。その時の大切な記念の品なんです。だからどうしても捨てられなくて」
 床に落ちたジャケットを拾い上げて、青木は自嘲混じりに懺悔した。
「あのとき薪さんは、オレに話してくれましたよね。自分の倫理観や創るべき社会のあり方や、守るべき人々を深く愛して感謝する心や―――― ああ、カッコイイなあと思って。オレ、あの時から薪さんにぞっこんなんです」
 自分の言葉に照れたように笑う。その笑顔は、やはり薪の心を騒がせる。

「でも、やっぱり気持ち悪いですよね。自分の服を他人がずっと持ってるなんて。まるでストーカーみたいですもんね。ほんとうに、すみませんでした」
 青木は深く頭を下げて、ジャケットを薪に差し出した。


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官房長の娘(10)

官房長の娘(10)






「それにしても、どうしてオレに彼女ができたなんて思ったんですか? オレ、そんな誤解を受けるような真似しましたか?」
「……おまえに告られてから、4ヶ月も経ってるし」
「そのあと何回も薪さんが好きだって言ったじゃないですか」
「聞いてない」
「言いましたよ」
「そんな風に取れば取れなくもないことは言われたけど、好きだとは言われてない」
 青木が呆気に取られた顔をしている。ひとをバカにしたような表情に、薪はむっと眉をひそめる。
「どんだけ鈍いんですか」
 ぼそっと呟いた青木の言葉を、薪はしっかり聞いている。こと自分の悪口に関しては、薪は地獄耳だ。

「わかりました。オレが悪かったです。薪さんには曖昧な言い方じゃ通じないんですよね。はっきり言わなかったオレの責任です。今度からは、ちゃんと言いますね」
 薪の両肩に、青木の大きな手が置かれる。真剣な眼差しが、薪の瞳を捕らえて離さない。
「愛してます。薪さんのことが大好きです。あなたの夢を毎晩見ます。オレの気持ち、分かってくれました?」
 薪はジャケットを受け取ってしばし呆然とする。
 この自分がこんな大きな勘違いをするなんて。思い込みは捜査官のタブーなのに、証拠固めもせずに、有罪だと決め付けたりして。

 その事実にも驚いたが、もっとびっくりしているのは今の自分の感情だ。
 自分のジャケットを青木が大切に持っていて、こいつはそのジャケットの持ち主が大好きだと言った。僕のことが好きだと―――― 確かにそう言った。
 それを聞いたら何だか……ヘンだ。
 背筋がぞくぞくして胃の下の辺りがきゅうっとなって、風邪がぶり返すのかな、と思ったけれど悪寒とはまるで違う感覚で。心臓がばくばくいって、鼻の奥がつんとなって。

 4ヶ月前に同じことを言われたときは、こんな感じにはならなかった。あのときはただ、びっくりして困惑して、面倒なことになったと思っただけだった。
 それが今は――――。

「これからは、もっと頻繁に好きだって言いますね。忘れられちゃうといやですから」
「言わなくていい」
 薪は慌てて自分の感情にセーブをかける。上司と部下のけじめをつけると誓ったばかりだ。室長の貌を崩すわけにはいかない。もう手遅れという気もするが。
「二度と忘れない。その代わり、好きな人ができたらちゃんと報告しろよ」
「ありえません。オレ、薪さん以外は見えませんから」
「それはさぞ不自由だろう」
 そういう意味じゃないんですけど、と青木は口の中でぶつぶつ言っている。こういう言い方じゃ通じないんだ、と薪の言語能力に対する評価は最低ランクに落ち込んだようだ。

「あの。ひとつだけ確認いいですか?」
 やたらとにやけたツラで、青木が聞いてくる。嫌な予感がするので、とりあえず聞こえない振りをする。
「薪さんが怒ってたのって、あれをオレの彼女の上着だと思ったからなんですよね?」
 次の展開を予想して、薪は拳を固める。右の手をぐっと握って腹の底に力を入れる。
「それってもしかしてヤキ」
 青木のセリフは、顔のすぐ横に猛スピードで打ち込まれた拳によって遮られた。小さい拳だが、風圧で髪の毛が揺らめくほどの勢いである。
「それ以上よけいなことを言ってみろ。顔面に叩き込むぞ」
「……はい」
 捜一時代に鍛えた取調室仕様の迫力のある顔つきと声で、相手の気持ちを挫く。
 こうやって、何人もの容疑者を落としてきたのだ。坊ちゃん育ちの青二才を黙らせることなど、朝飯前だ。

 青くなって口を閉ざした部下に一瞥をくれて、薪はつんと横を向いた。頬が赤くなっていないことを祈りつつ、左手のジャケットに目を落とす。

 さて、これはどうしたものか。
 薪はこれを6月に捨てた。それを他人が拾っていたということは、拾得物扱いだ。半年を経過しているから、権利はすでに拾得者に移っている。つまりこれは法的には青木のものだ。警察官なら法に基づいて行動するべきだ。

 騒動の元となったジャケットを、薪は汚いものを持つ手つきでつまみあげ、青木の頭に乱暴に放る。これは不用品だ。こんなものを返されてもゴミになるだけだ。
「おまえのゲロがついたジャケットなんか着られるか。触るのも嫌だから、ここに捨てていく」
 青木がバカ面をさらしている。バカがますますバカに見える。
「貰っていいんですか?」
「それはもう捨てたものだから、それをだれが拾ってどうしようと僕には関係ない」
 くるりと背を向けて、薪は室長室へ歩き出す。ここへは仕事をしに来たのだ。このバカとくだらない話をするためじゃない。

「本当にいいんですか?」
「だからもう僕には関係ないって」
 不意に、後ろから抱きすくめられた。バクバクいいっぱなしの心臓が止まりそうになる。
 次の瞬間、薪の左肘が背後の大男の腹にのめりこんでいた。
「調子に乗るな」
「すいません……イタタ……」
 咄嗟だったから、手加減できずに思いっきり入ってしまった。青木の腹には大きな痣ができていることだろう。いい気味だ。さんざんひとを悩ませた罰だ。
 自分の勘違いで勝手に悩んでいただけなのだが、薪に反省の色はない。まぎらわしいことをした青木のほうが悪い、と決め付けている。
 とりあえず、青木が悪い。今年もこの路線で行く気らしい。

「青木。その資料をプリントして部屋へ持って来い。あと、コーヒー頼む」
「はい」
 時間外の仕事も、快く引き受けてくれる。元気な返事と笑顔までつけて。
 当たり前だ。

 こいつは僕のことが好きなんだから。僕の役に立ちたくて、堪らないんだから。

 後ろ手にドアを閉めて、そのままドアにもたれかかる。
 ここに鏡がなくて良かった。あったら、今の自分の顔がわかってしまう。
 いくら我慢しても緩んでしまう頬と口元が、喜びにきらめく瞳が、自分の気持ちを目に見えるものとして薪の前に差し出すだろう。それはまだ、薪には認められないことだ。

 が、薪の笑みは次の瞬間、消し飛んだ。
 デスクの上に、今まで見たこともないくらいの書類の山が築かれている。薪がいない間にも第九の部下たちは、真面目に仕事をしていたらしい。これも普段の室長の指導によるものだ。
 しかし、この量は。

「熱が出そうだ……」
 病み上がりの身体に徹夜作業を強いる書類の山に、薪は大きなため息をついた。



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官房長の娘(11)

官房長の娘(11)







 翌日、第九には段ボール箱いっぱいのプレゼントが届けられた。
 職員たちはみな、ウンザリした顔をしている。毎年クリスマスとバレンタインには、薪の真実の姿を知らない民間人や所内の女子職員から、大量のプレゼントが贈られてくるのだ。
 
「なんですか、この量」
 大きな書類整理箱に山になったカラフルな包装紙の箱に、青木が驚いている。初めてこれを見るものは、みんなびっくりするのだ。
「あれ、おまえ見るの初めてだっけ? 毎年クリスマスとバレンタインはこれだぞ」
「去年の2月はPC工学の研修に行ってて、12月は実家に帰ってましたから」
「それにしても今年は多いなあ。去年の倍はあるぞ」
「1年経ったしな。世間があの事件を忘れてくれてる証拠だよ」
 甘いものが嫌いな薪は、中身を見もしないで捨ててしまう。普段からちらほら舞い込んで来るラブレターも面倒臭がって読んだことのない薪が、ダンボールいっぱいの贈り物をいちいち開封する、などという手間のかかる作業に時間を割くはずがない。
 必然的に、この大量の郵便物の確認作業は、部下たちに回ってくる。箱の中身はほとんどがチョコレートだが、中にはネクタイや財布などの実用的なものもあって、すべての処分は職員たちに一任されている。

「仕方ない。やるか。今井、まずは危険物のチェックを頼む」
「はい」
 今井は爆発物処理班にいたことがある。危険物の専門家で薬物にも詳しい。
 民間から届けられるものはセキュリティーを通ってくるが、署内間のメールに関しては爆発物のチェックはない。よって室長宛の荷物は、今井がすべてチェックしている。
 薪は署内にも敵が多い。命までとはいわなくても、骨の一本でも折ればいいと思っている輩は大勢いる。
 実際に、ガラスの破片やナイフの切っ先などは、毎年紛れ込んでいる。薪には報せたくない事実だが、たぶん薪は知っている。知っていて知らない振りをしている。だから今井も何も言わない。

 室長室から空のマグカップを片手に、薪が出てくる。
 机の上に広げられた大量の箱に一瞥をくれると、薪はしれっとした口調で言い放った。
「進んでるか? ゴミの始末」
 女性の真心を『ゴミ』と言い切る非道さがすごい。
 マスコミ対策用の薪の笑顔に騙されている民間の女性たちが、このセリフを聞いたらどれほどのショックを受けるだろう。ここまで来ると、詐欺罪が適用されるのではないだろうか。

「やってもやっても終わりません」
「なんか毎年、増えてませんか」
「こないだテレビに出たばかりだからな」
 新年の特別番組で、どこかの弁護士と対談を組まされた。
 メディアに出るのは嫌だが、第九の必要性を世間にアピールするチャンスでもある。弁護士は人権問題を引き合いに第九を糾弾するつもりだったらしいが、思いっきり言い負かしてやった。もちろん世間の反感を買わないように、マスコミ対策用の笑顔つきで。
 室長としてマスコミの対応も長いから、その芝居も俳優並みの演技力を誇るようになってしまった。プライバシー問題にかかったときの辛そうな表情などは、薪の本音を知っているはずの第九の職員たちが、思わず同情したくなってしまうほど見事なものだった。
 あれだけは、どんな言い逃れもできない。だから「こちらとしても辛いんです」という姿勢で、同情票を買うしかない。

「まったく。いい迷惑だ」
「好意の証じゃないですか」
「好意? ただの嫌がらせだろ」
 これが本音だ。
「こんなもん、まとめて火をつけて燃やしちまえばいいんだ」
 薪には言えないが、本当に爆発物が紛れ込んでいたら大変なので、それはできない。やはり、こうしてひとつずつチェックしなくてはならない。
「だいたい、僕は甘いものはそんなに好きじゃないんだ。それを毎年こんなに積み上げられてみろ。もう見るのもいやだ」
 人の好意を素直に受け取れない人間ほど傲慢なものはない。薪の性格の悪さは年々磨きがかかって、その捻じ曲がり方はまるで知恵の輪のようだ。

「これって受け取り拒否できないのか」
「一般のものはともかく、署内は禁止されてるはずなんですけど。それでもやっぱり来ちゃってますね。女ってこういうイベントになると、怖いものなしですからね」
「小野田さんに頼んで、禁止条例出してもらおうかな。破ったら減俸とかさ」
「ていうか、官房長からも届いてますけど」
「なに考えてんだ、あのひと」
 小野田からの包みを開けてみると、中身は薪の好きな吟醸酒だ。添えられたメッセージカードには『昨夜のきみはとても情熱的だった』という意味不明の文章が手書きで書かれている。

「相変わらず、こういう冗談好きだよな」
「青木が見たらまた貧血起こすぞ。あいつ、純情だから」
「呼びました?」
 自分の名前を呼ばれたと勘違いした長身の新人が、薪の後ろから顔を覗かせる。気を使ってさりげなくカードを隠そうとした曽我の手が、華奢な手に阻まれる。
 意味深なメッセージカードを添えて、薪は空のカップを第九のバリスタに差し出した。
「コーヒーのおかわり頼む」
 カードの刺激的な内容に、青木は真っ赤になっている。可哀想に、意地悪で薪の右に出るものはいない。
 また泣きそうな顔になるかと思いきや、何故か今日は嬉しそうだ。周囲の職員たちが一様に訝しげな表情になる。
 
「皆さんの分も淹れてきますね」
 どういう心境の変化なのか、メッセージカードを胸のポケットに収めて、足取りも軽く給湯室へ入っていく。
「どうしたんだろ、青木のやつ」
「大人になっちゃったのかな。つまんないな」
 職員たちと同じように怪訝な顔をしていた薪は、何事かに気付いたらしく、慌てて青木の後を追って、給湯室のほうへ歩いていった。

「ちがうぞ、それはおまえのことじゃなくて」
「え? オレが昨夜、あなたに言ったことの返事じゃないんで」
 そのあとにパパン! という景気のいい音と、ガシャン! という何かがぶつかる音がして、給湯室は静かになった。
 
「なんだろ?」
「さあ?」
「おまえら、さっさと片付けないと今日は夜中までかかるぞ」
「は~い」
 岡部に言われて作業に戻る。手紙は小池のところに回されて、当たり障りのない礼状が小池お得意の流麗な文章で作成される。品物は種類ごとに分けられて、それぞれ箱に分別される。チョコレートの大部分は雪子のいる法一に、財布や名刺入れは希望者に配布する。
 今年の危険物含有率は20%程度だった。昨年はこれが半数近くを占めていたから、ずいぶん改善されている。

 やがて、いい匂いを漂わせて第九のバリスタがコーヒーを持ってくる。
「今日は特別です。ロマンスロースト―――― チョコレートフレーバーのコーヒーです」
 何故か頬が腫れあがっているようだが、すこぶる機嫌は良いらしく、室長専用の高い豆をみんなに振舞ってくれると言う。
「室長。青木のやつ、なにかあったんですか?」
「なにもない!」
 反射的に怒鳴られて、曽我がびっくりしている。
 これまたどうしてか顔を赤らめて、薪は逃げるように室長室へ入っていってしまった。自分のコーヒーを忘れている。室長らしくない粗忽ぶりだ。
 薪の愛用のマグカップを取り上げて、青木が室長室へ持って行く。ノックとともにドアが開けられ、青木の姿が消える。中の会話は聞こえないが、その雰囲気は3日前とは違ってとても和やかだ。

 大量の手紙を書く小池を除いた第九の職員たちは、仕分け作業を終えて本来の仕事に戻る。日常を取り戻した第九に、冬の一日は穏やかに過ぎていった。


 ―了―




(2009.2)


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

官房長の娘~あとがき~

 自分でも、こじつけがましい話だと思ってました。(笑)
 薪さんにヤキモチを妬いてもらいたかっただけなんですけど、青木くんがどーしても、他の女の子と接近するのはイヤだっていうから、薪さんにコケてもらいました。
 薪さんの天才性が疑われる状況が発生したことを、深くお詫び申し上げます。

 とりあえず、仕事以外の彼はとても勘違いが多くて、思い込みが激しい、と思ってください。
 そんなんでまともな捜査ができるのかどうか、甚だ疑問ですけど☆ 冤罪とかたくさん生まれちゃいそうですね。(笑……えねえ)


 さて、次はお仕事の話です。
 題名は『二年目の桜』です。
 アホ疑惑を掛けられた薪さんの、名誉挽回を狙ってます。(←手遅れ)
 わたしの低レベルな頭でちゃんとした事件なんて書けるわけないので、そのへんはスルーしてくださいね☆




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Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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メロディ6月号、読みました。
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