深夜のバレンタイン(1)
こちら「官房長の娘」のエピローグです。
もともとひとつのお話だったんですけど、カラーが違うので分けてみました。
素直に自分の気持ちを認められない薪さんのモノローグです。 よろしくお願いします。
深夜のバレンタイン(1)
研究室で伝票の整理をしながら、青木は時計を気にしている。
医者嫌いの上司が、風邪を引いて入院した病院を自主退院してきた。自宅でゆっくり休むならともかく、仕事中毒の彼は、夜の職場に出て来てしまった。
ここに来てから2時間近く経つのに、まだ室長室から出てこない。時刻は10時を回った。病み上がりの身体には休息が必要な時間だ。
「室長。まだ帰らないんですか」
「やってもやっても終わらないんだ」
机の上に山と積まれた書類は、半分は第九の職員の努力で、半分は室長への意地悪だ。
この機会を逃すなとばかりに、昔の捜査の書類点検から何から、至急扱いではないものもだいぶ紛れ込んでいる。いつかは処理をしなければならないものだが、べつに今でなくとも良いものだ。
「普段から少しずつやっとけって、いつも言ってるのに」
あいつらこんなに溜め込みやがって、とぶつぶつ言いながらも、室長の手は淀みなく動く。3日間の強制的な休暇が、薪の体を元気にしてくれたらしい。が、病み上がりの事実に変わりはない。この辺で休ませないと、また風邪がぶり返してしまうかもしれない。
「急ぎの書類はないって、岡部さんが言ってましたよ。放火事件の所見は岡部さんが代理で付けてくれましたし。それより室長」
薪を吊るエサは用意してある。青木の読みが正しければ、一も二もなく飛びついてくるはずだ。
「風呂に入りたいんじゃないですか? 病院では入れなかったんでしょ?」
薪が病院から第九に直行してきたことは、服装ですぐにわかった。室長という立場上、身だしなみには気を使う薪が、3日前と同じネクタイをつけていたからだ。
青木の提案に薪の手が止まる。右手を口元に当てて少し考え込む。
頭の中で、書類と風呂が天秤にかかっているに違いない。ここでもうひと押し。
「一番は室長に入ってもらおうと思って、まだ誰も使ってないんですよ」
「そうか、僕が入らないとみんなが遠慮して使えないのか。仕方ない。入ってやるか」
ひねくれた言い方だが、ひどく嬉しそうだ。
自分が好きだと告げたときも、このくらいうれしそうな顔をしてくれたらいいのに、とユニットバスに嫉妬してしまった青木である。
「お湯を溜めないとな。蛇口は直ったんだろうな?」
「はい。もう沸かしてありますよ」
スキップでもしそうなほど軽いフットワークで、薪は室長室から出て行った。
薪は本当に風呂好きだ。温泉にでも連れて行ってやりたいくらいだ。だめもとで一度、誘ってみようか。断られる確率が高いが、山水亭のような例もある。あとで雪子に相談してみよう。
3日前とは別人のように元気な足取りで研究室を出て行く上司の背中を見ながら、青木は先刻の薪のうれしい勘違いを思い出している。
青木のアパートに来た薪が、クローゼットに入っていた薪の上着を青木の彼女のものだと誤解して、なんとヤキモチを妬いてくれた。同情でキスをしてくれるより、ずっとうれしい出来事だった。
仕事はとてもデキるのに、捜査以外では勘違いや思い込みが多く、とんちんかんな誤解ばかりして自分を振り回す困った上司のことを、青木は微笑ましいと思っている。
薪に告白してから4ヶ月。
返事は保留のままだが、少しずつでも自分のことを好きになってくれているのだろうか。
「そろそろ、答えてくれないかな」
薪の気持ちを確かめたい。自分のことをどう思っているのか、はっきりと聞いてみたい。
返事はいつでも良いとは言ったものの、薪の場合このまま永久に棚上げという可能性もある。とにかく勝手な人なのだ。
青木は苦笑して机の上の伝票を片付け、車のキーを手にした。
薪が風呂から上がったら、車で自宅まで送り届けなくては。湯冷めでもして、また風邪を引いたりしたら大変だ。
久しぶりに見た薪の嬉しそうな笑顔を思い出して、青木は誰もいない研究室でひとり幸せそうに微笑んでいた。
もともとひとつのお話だったんですけど、カラーが違うので分けてみました。
素直に自分の気持ちを認められない薪さんのモノローグです。 よろしくお願いします。
深夜のバレンタイン(1)
研究室で伝票の整理をしながら、青木は時計を気にしている。
医者嫌いの上司が、風邪を引いて入院した病院を自主退院してきた。自宅でゆっくり休むならともかく、仕事中毒の彼は、夜の職場に出て来てしまった。
ここに来てから2時間近く経つのに、まだ室長室から出てこない。時刻は10時を回った。病み上がりの身体には休息が必要な時間だ。
「室長。まだ帰らないんですか」
「やってもやっても終わらないんだ」
机の上に山と積まれた書類は、半分は第九の職員の努力で、半分は室長への意地悪だ。
この機会を逃すなとばかりに、昔の捜査の書類点検から何から、至急扱いではないものもだいぶ紛れ込んでいる。いつかは処理をしなければならないものだが、べつに今でなくとも良いものだ。
「普段から少しずつやっとけって、いつも言ってるのに」
あいつらこんなに溜め込みやがって、とぶつぶつ言いながらも、室長の手は淀みなく動く。3日間の強制的な休暇が、薪の体を元気にしてくれたらしい。が、病み上がりの事実に変わりはない。この辺で休ませないと、また風邪がぶり返してしまうかもしれない。
「急ぎの書類はないって、岡部さんが言ってましたよ。放火事件の所見は岡部さんが代理で付けてくれましたし。それより室長」
薪を吊るエサは用意してある。青木の読みが正しければ、一も二もなく飛びついてくるはずだ。
「風呂に入りたいんじゃないですか? 病院では入れなかったんでしょ?」
薪が病院から第九に直行してきたことは、服装ですぐにわかった。室長という立場上、身だしなみには気を使う薪が、3日前と同じネクタイをつけていたからだ。
青木の提案に薪の手が止まる。右手を口元に当てて少し考え込む。
頭の中で、書類と風呂が天秤にかかっているに違いない。ここでもうひと押し。
「一番は室長に入ってもらおうと思って、まだ誰も使ってないんですよ」
「そうか、僕が入らないとみんなが遠慮して使えないのか。仕方ない。入ってやるか」
ひねくれた言い方だが、ひどく嬉しそうだ。
自分が好きだと告げたときも、このくらいうれしそうな顔をしてくれたらいいのに、とユニットバスに嫉妬してしまった青木である。
「お湯を溜めないとな。蛇口は直ったんだろうな?」
「はい。もう沸かしてありますよ」
スキップでもしそうなほど軽いフットワークで、薪は室長室から出て行った。
薪は本当に風呂好きだ。温泉にでも連れて行ってやりたいくらいだ。だめもとで一度、誘ってみようか。断られる確率が高いが、山水亭のような例もある。あとで雪子に相談してみよう。
3日前とは別人のように元気な足取りで研究室を出て行く上司の背中を見ながら、青木は先刻の薪のうれしい勘違いを思い出している。
青木のアパートに来た薪が、クローゼットに入っていた薪の上着を青木の彼女のものだと誤解して、なんとヤキモチを妬いてくれた。同情でキスをしてくれるより、ずっとうれしい出来事だった。
仕事はとてもデキるのに、捜査以外では勘違いや思い込みが多く、とんちんかんな誤解ばかりして自分を振り回す困った上司のことを、青木は微笑ましいと思っている。
薪に告白してから4ヶ月。
返事は保留のままだが、少しずつでも自分のことを好きになってくれているのだろうか。
「そろそろ、答えてくれないかな」
薪の気持ちを確かめたい。自分のことをどう思っているのか、はっきりと聞いてみたい。
返事はいつでも良いとは言ったものの、薪の場合このまま永久に棚上げという可能性もある。とにかく勝手な人なのだ。
青木は苦笑して机の上の伝票を片付け、車のキーを手にした。
薪が風呂から上がったら、車で自宅まで送り届けなくては。湯冷めでもして、また風邪を引いたりしたら大変だ。
久しぶりに見た薪の嬉しそうな笑顔を思い出して、青木は誰もいない研究室でひとり幸せそうに微笑んでいた。
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