プレゼント(1)

 このお話では、薪さんがテレビ出演します。
 お正月の特別番組です。
 始まりは1月の頭からなので、ちょうど青木くんが実家に帰っているときです。
 薪さんはこの時点ではまだ、青木くんがもう帰ってこないのでは、と思い込んでいます。前作の終わりと時間的に前後していますので、ご了承ください。






プレゼント(1)







 第九にも正月は来る。
 合理性重視の室長ではあるが、新たな年のスタートを新たな気持ちで切りたいという職員の希望に応じて、仕事始めの日だけは定時で仕事を切り上げて、研究室でお神酒を上げる。
 もちろん緊急の捜査がないというのが条件だが、忘年会も新年会も出席しない室長と一緒に酒が飲めるのは、1年のうちでこの日だけである。といっても付き合うのは最初の1杯だけで、あとは自由にやってくれ、といつものように軍資金を岡部に託して帰途についてしまうのだが。

 だいたい「あけましておめでとう」の意味が分からない。
 明けない夜はないし、太陽が昇らない朝もない。1月1日のこの日だけが特別なわけではない。そもそも地球が太陽の周りを1回転する期間を便宜的に1年と定めているに過ぎない。一周回って元に戻ったことが、国を挙げて祝うほどのことだろうか。
 それなのに、12月31日から1月1日に日付が変わっただけのことで、みんなどうしてこんなに浮かれた気分になれるのか、その心理が薪には理解できない。年が変わったからといって犯罪が減るわけでも、社会が平和になるわけでもない。なにがめでたいのか、さっぱりわからない。

 以前、親友にそんな話をしたら、めいっぱい呆れた顔をされた挙句、おまえの冗談は笑えない、と言われてしまった。別に冗談を言ったつもりではなかったのだが、やはり薪の考え方は周囲の人々と若干のズレがあるらしい。

 この時期、特に気が重いのは、署内の新年会や祈願行事に出席しなくてはならないことだ。
 普段あまり話したこともない2課や3課の課長連中や、仲の悪い捜査一課の課長と上辺だけでもにこやかに話をしなければならないのは、薪にとって苦行に等しい。これは相手も同じ気持ちだろうから、痛み分けといったところなのだろうが。
 神社への祈願にしても、薪は神も仏も信じないし、お札はただの木片としか思えない。いるかどうかもわからないものに一生懸命祈るなんて馬鹿らしいし、木の板に紙を巻いただけの代物に何万円も払うなんて、それこそ税金の無駄遣いだ。そんなお金があるのなら、MRIのメンテナンス費用に回して欲しい。

 神様が聞いていたら天罰が下りそうなことを考えて、薪は今日も壁の花を決め込んでいる。右手に冷酒のグラスを持って、なるべく人目につかないところでじっとしている。

 警察庁科学研究所管理棟の中にある大ホールを使っての賀正の宴には、警察庁長官を始めとした高官がずらりと顔を揃える。料理も酒もそれなりのものが用意されて、お堅い警察の行事にしては華やかな宴席だ。
 この会に出席できるのは、警視正以上の階級に限られていてる。
 出世を望む職員にとって、上層部と交流できるこの宴席は自分の顔を売る絶好のチャンスなのだが、薪にはこの上なく無駄な時間だ。薪は出世には興味がないし、騒がしい酒宴は嫌いである。会場の壁にもたれて立っているだけの2時間余りは、退屈極まりない。

 エリート街道を進む同僚たちは自己アピールに余念がないようだが、薪には必要のないことだ。以前から出世にはそれほど興味がなかったが、一昨年の事件以来、爪のさきほどの魅力も感じられなくなってしまった。
 あれだけの醜聞(スキャンダル)だ。どうせ自分には、出世の道など閉ざされている。

 本当は早く帰りたいのだが、最後に警察庁長官の退席を全員で見送るという強制参加のイベントが用意されている。自分ひとりくらい欠けても分からないだろうと思って、何年か前に帰ってしまったことがあるのだが、次の日、次長に呼び出されてこっぴどく怒られた。
 まったくもって、上層部の考えることは分からない。百人の見送りが99人になったからといって、どうなるわけでもないと思うが。

 それに、今年はまた特別だ。
 現在警察庁長官の席に座っているのは柏崎という男で、11月の末に前任者から業務を引き継いだばかりだ。この新年会は、新しい長官のお披露目という目的もある。そんな大事な宴席を中途で退座したら、次長に怒られるくらいでは済まないかもしれない。

「薪くん。今年も壁の花?」
 シャンパンのグラスを2つ持って、熟年の紳士が声を掛けてくる。ひとつを薪に差し出して左手に持たせ、グラスをかちりと触れ合わせた。
「小野田さん。あけましておめでとうごさいます」
「おめでとう。って何がおめでたいのかよくわからないけどね」
 自分と似たようなことを言っている。薪は思わず苦笑した。
 小野田は、薪が上層部の中で尊敬している数少ない上司の一人である。役職は警察庁官房室室長。警察庁長官、次長に続く警察機構で上から3番目の高官だ。
 薪を第九の室長に抜擢したのはこの男だ。
 9年前の特別承認の時から、ずっと薪のことを気に掛けてくれている。その態度は、あの事件があった後も変わらなかった。あまり表面には出さないが、薪は心の中で小野田にはいつも感謝している。

「だめだよ、こんなところで油売ってちゃ。あそこに局長がいるだろ。しっかり顔を売っておいで」
「いいですよ、僕は」
「よくないよ。おいで。紹介してあげるから」
 小野田が薪の将来を考えてくれているのは分かるのだが、薪にとってはありがた迷惑だ。相手が小野田でなかったらはっきりそう言う所だが、さすがに官房長相手にその言い方はできない。
「苦手なんですよ。エライ人って」
「きみも将来は偉くなるんだよ」
「なりませんよ。僕は一生このままでいいです」
「なに言ってんの。きみほどのキャリアが万年警視正なんて」
 実は何年か前から、特別承認の申請を出すように言われている。薪は警視正になってから9年。次の役職に上がるための試験を受けるためにはあと1年の経験年数が必要だが、所長の特別承認を得れば、それを待たずして警視長の昇格試験を受けることが可能だ。
 しかし、警視長に昇任したら間違いなく警察庁本部に呼び戻されてしまう。このまま第九の室長を務めることはできなくなる。それは薪には、本末転倒ともいえる結果だ。

「僕は第九の室長を辞める気はありませんから」
「またそんなこと言って。きみはぼくのプロポーズを、いつになったら受けてくれるのかな」
「百年後くらいですかね」
 冗談には冗談で返す。薪の返答は素早い。
「……きみの冗談て、ほんとに笑えないね」
 むかし、誰かにも言われた気がする。

 抱いていってあげようか、と脅しをかけられて、仕方なく薪は小野田の後ろに着いていく。
 幾人かの幹部と顔合わせをし、新年の挨拶を交わして頭を下げる。自分たちがその場を離れた後、何人かはひそひそと囁きあっている。決して好意的な感じではない。
『あれが官房長のお気に入りの坊やだよ』
『美人は得だね。大した実力もないくせに』
『官房長が骨抜きになるくらいだ。ベッドの中の実力は、さぞ凄いんだろう』
 聞こえるはずはないのだが、薪の耳にはそんな声が入ってくる。

「……なんか僕、めちゃくちゃムカついてきたんですけど」
「言わせときなさいよ。そのうちみんな、君の力にひれ伏すときがくるから」
 小野田の耳にもその手の噂は入ってきている。
 小野田としては、薪に早く警視長の昇格試験を受けてもらって、その結果で外野を黙らせて欲しいのだが、本人が首を縦に振らないことにはどうにもならない。
「僕は別に気にしませんけど。でも、小野田さんの立場だってあるでしょう。こういった公の場で、あまり僕に関わらない方がいいんじゃないですか?」
「だから警視長の試験受けて、僕の事務次官になりなよ。そうすればみんな何も言えなくなるんだよ。次官への中傷は、官房室室長への言葉と同じだからね」
「いやです」
 僕には無理です、ではなく『いやです』と答えるところがいかにも薪らしい。相変わらず、不遜なまでの自信家だ。

「冷たいなあ。昨夜はあんなに激しかったのに」
「……これ以上、僕の神経逆撫でしないでもらえます? それじゃなくても今年は、部下の実家で不幸があったばかりで、こういう席には出たくなかったんですから」
「ああ。青木くんの。お父さん、気の毒だったね。まだ若かったのに」
「ええ」
 薪はその話題になると、ひどく沈痛な顔つきになった。自分の部下が死んだわけでもあるまいに、そこまで暗くなることもないと思うのだが。あの事件以降、薪は人の死に敏感になったような気がする。
 
「青木くんの実家ってどこだっけ?」
「福岡です」
「遠いねえ」
「はい」
「気落ちしてるだろうから、君がしっかりフォロー……と、ごめん、薪くん。ここで待っててくれるかな」
 長官の姿を見つけて、小野田はそちらのほうへ歩いていく。
 いくら小野田でも、警察庁最高責任者の前に、一介の警視正である薪を伴っていくわけにはいかない。
 殺伐とした警察庁の中にあって、不思議とひとを和ませる笑顔で、小野田は長官と話をしている。話の内容は聞こえないが、互いの柔和な表情から、少なくとも事件の話ではないようだ。

 薪はそっとその場を離れる。
 元の位置に戻って腕を組み、再び壁の花になる。
 終了予定時刻まで、あと1時間。その時間を埋めるため、薪は頭の中で第九の新しい勤務体制を組み立てることにした。

 今年の第九は、もしかしたらひとり人員が減るかもしれない。新しい人員が補充されるまでの間、臨時の勤務表が必要だ。
 しかし、薪の心は何故かざわざわと乱れて、職員のローテーションに集中できない。周りが煩いせいだろうか。
だが、毎年こうして何かしら考え事をして、この手持ち無沙汰な時間を乗り切ってきたのだ。今年に限ってそれができないなんて、自分はどうしてしまったのだろう。
 青木の空いた穴に、他の誰かを少しずつ入れていけばいいだけの話だ。そんな簡単な作業ができないなんて……。
 いや、そうじゃない。
 考えたくないのかもしれない。
 もう、青木が第九へ帰ってこないかもしれないと、顔を見ることもできなくなってしまうかもしれない、などと思いたくないのかも。

 かぶりを振って、その馬鹿げた考えを頭の中から追い払う。
 すでに福岡県警への異動届は作成済みだし、推薦状も添付してある。あとは本人の了承を得るだけに書類を整えたのは、他の誰でもない薪自身だ。それなのに新しいシフトが組めないなんて、矛盾している。
 でも、頭の中に青木の名前のない勤務表が映し出されると、足元が崩れていくような感覚を覚える。ひどく不安で心配で、暗い闇の中に置き去りにされた子供のように、怯えることしかできない自分がそこにいて。

 本当に、僕はどうしてしまったんだろう――――。

「薪くん。どうしていなくなっちゃうんだい? せっかく長官に紹介しようとしたのに」
 咎めるような小野田の声に、薪は我に返った。
 今度はカクテルグラスを差し出されて、薪は苦笑とともにそれを受け取る。薄緑色の液体を一気に飲み干し、にこりと笑って見せる。小野田の機嫌はこれで直るはずだ。
「どうしたの? 誰かに苛められた?」
「はい?」
「目が潤んでるよ」
 はっとして目元に手をやると、たしかに目のふちに濡れた感触がある。その事実に薪は愕然となる。
 こんなところでこんな……自分は何をやっているのだろう。

「飲みすぎちゃったみたいです」
「日本酒なんか飲んでるからだよ。もっと軽いお酒にしときなさい」
「はい」
 薪の手からカクテルグラスを取り上げて、小野田は薪の言い訳に騙された振りをしてくれた。その気遣いがありがたい。

「あ、長官が帰るみたいだね。やれやれ、やっと家に帰れる。じゃあね、薪くん」
「お疲れ様です」
 大ホールの中央に敷かれた赤い絨毯の両側に出席者全員が並び、恒例の儀式は幕を閉じようとしていた。
 整列の順番は、役職の高いほうから順に出口の方へ下りていく形である。小野田は長官の席に一番近い位置で次長の向かいに立ち、警視正の薪は末席だ。警視監以上は敬礼で見送り、警視長から下は最敬礼で見送る。
 最敬礼というのは警察官の場合、30度に腰を折ったお辞儀のことだ。よって薪は長官の顔を見ることもできない。べつに見たくもないが。

「薪警視正?」
 足を止めた最高責任者に自分の名前を呼ばれ、薪は驚いて顔を上げる。
 新しい長官が、なぜ自分の名を知っているのだろう?
「君が第九研究室の室長かい」
「はい」
 警察庁長官というのは、実は警察官ではない。
 もちろん警察庁の出身者から選ばれるのだが、所属は内閣である。警察庁を一旦離れて政府の人間となり、何年かの政務を経て再び警察庁に長官となって帰ってくる。だから次長や局長など側近の顔は覚えても、末端の人間の顔は知らないのが普通だ。
「私をご存知でしたか?」
「いや。一番小さい男がそうだって、小野田君が言ってたから」
 あんまりだ。
 小野田としては解りやすいように、一番の特徴を説明しただけなのだろうが、薪にとっては最大級の侮辱だ。この次小野田がふざけてじゃれついてきたときには、相手の正体に気付かなかった振りをして一本背負いを決めてやる。

「君が小野田君の秘蔵っ子か。なるほど、小野田君が好みそうな貌だ」
 どういう意味だろう。まさか長官までもがおかしな噂を信じているわけではあるまい。
 柔和な笑いは心からのものか上辺だけのものか、判断がつかない。小野田もタヌキだが、この男もいい勝負だ。
「彼はああ見えて青臭いからな。君もそういうタイプだろう」
 なんと答えたものか、迷ってしまう。自分だけのことならともかく、下手な応答は小野田の減点に繋がる。薪は黙って頭を下げた。
「第九には私も期待している。がんばってくれたまえ」
「ありがとうございます」

 顔を上げてマスコミ対策用の完璧な笑顔を浮かべ、薪は長官の顔を真っ直ぐに見た。
 社交辞令でも長官の言葉だ。第九の株が上がるなら、ここは笑顔だ。
 薪の笑顔に長官もにっこりと笑って、薪の肩をぽんぽんと叩いた。警視正以上がすべて顔を並べる賀宴でのその行為は、長官が第九を認めていることを全員にアピールしたことになる。
 しかし、またこれで敵が増えるな、と薪は心の中でため息をつく。
 短い会話でも、周りの嫉妬を買うには十分だ。薪が官房長のお気に入りというだけでもかなりのブーイングがあるのに、長官のお声掛かりなどというよけいな尾ひれが付いたらまた……その証拠に、隣の2課の課長が薪のことを睨んでいる。

 今年もどうやらロクなことがない。

 薪の2061年は、陰鬱な予感から始まった。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

プレゼント(2)

プレゼント(2)







 その予感が的中したのは、3日後のことだった。
 仕事始めの月曜日。薪は所長の田城に呼び出されて所長室へ赴いた。

「こちらは三浦さん。N○Kのディレクターさんだよ」
 色つきの眼鏡をかけた若い男は、薪に名刺を差し出して礼儀正しく頭を下げた。
「はじめまして。三浦です」
 名刺を受け取って相手の身分を確認する。日本放送局とある。
 この若さでディレクターとは大したものだが、第九の仕事にテレビは関係ない。仕事始めの忙しい日に、いったい何の用だろう。
「第九の薪です。テレビ局の方が、私に何の用件です?」
「実は、新春企画でMRI捜査の特集を組むことになりまして。いろいろとご協力いただきたいんです」
 悪い話ではない。
 MRI捜査についての正しい知識を世間に広められるチャンスだ。

 この捜査方法は何かと誤解をされることが多くて、中でもプライバシーの問題については、これまでもありとあらゆる非難を受けてきた。
 MRI捜査には確かに視覚者の脳が必要だが、データを抽出した後は速やかに遺体に戻される。それを世間では、第九の地下には今までMRIにかけられた脳がホルマリン漬けになって保管されている、などとまことしとやかに囁かれている。
 他にも、MRIで見ることができる画像はせいぜい5年前のものまでだが、世間では生まれてから死ぬまでのすべてが見られてしまうと思われていたりする。
 視覚者本人の目が閉じているときの画はもちろん見ることができないし、自分自身の姿は見えないから、鏡にでも映っていない限り、トイレや風呂の様子が盗撮ビデオのように映し出されるわけではない。
 ベッドの中のことにしても、大抵は薄暗いところで行う行為だし、相手の姿は映っても自分の姿は映らない。それがまるでAVのように局部がアップになったり、カメラアングルを変えて映されたものが職員に見られていると誤解されている。
 事件に関連性がなければそんなものは見ないし、見たいと思えば刑事局の5課から押収品の裏モノを借りてきたほうがよっぽど見ごたえがある。あれもあまり続けて見ると吐き気がしてくるが。

 国営のテレビ番組なら、そういった諸々のくだらない誤解を解く絶好の舞台である。室長として協力は惜しまない。薪は自分の名刺を出して、承諾の意を示した。
「わかりました。僕にできるだけのことはしましょう」
 応接セットに腰を下ろし、膝を突き合わせて打ち合わせに入る。三浦はノートにメモを取りながら、薪の説明にいちいち頷いて見せた。
「一般の方向けに、簡単にMRI捜査の概要を説明したレジュメがありますから、それを使っていただいて。あと、ぜひお願いしたいのは、世間で誤解を受けているMRIの画像についての説明をシステムの専門家に」
「それは室長のほうからお願いします」
「僕が?」
 システムの説明はできるが、番組に出演するとなると話は別だ。
 第九の準備期間中は必要にかられて、仕方なくテレビや新聞のインタビューに応じていたが、そのせいで顔が売れてしまったため、あの事件のときマンションを引っ越す羽目になったのだ。

「僕は、番組には出ないほうがいいと思います。そちらにも迷惑がかかります」
「そうはいきません。番組のメインは第九研究室室長と弁護士の大山氏の対談ですから。薪室長には何が何でもご出演いただきませんと、番組になりません」
「大山? 大山稔弁護士ですか」
 大山というのは、人権派の有名な弁護士だ。
 人権問題に関する著書も多く、擁護団体の旗印にも掲げられている。弁護士のタイプとしては、物証や論理に基くよりも裁判官の同情心に訴えかけて、情状酌量を求めるのが得意な人情派である。
 薪が一番嫌いな種類の弁護士だ。対談などすれば、争いになるのが目に見えている。

 薪は一昨年の夏、警察庁始まって以来の大スキャンダルを起こした張本人だ。
 相手は当然、そこをついてくるだろう。自然と世間は、人情派の弁護士に方へ付くことになる。理屈よりも人の心、犯罪防止よりも人権(プライバシー)―――― この国はそういう国だ。
 この国で唯一の国営放送局は、視聴率の低迷から経営が難航しており、視聴者の獲得に躍起になっていると聞く。第九が人権派の弁護士にこてんぱんにやっつけられるところを全国ネットで放映する―――― 薪の役割は、明らかに客寄せパンダだ。
 
「ではお断りです。世間にMRI捜査の正しい姿を知らしめるためなら協力は惜しみませんが、その対談の目的は別のところにあるのでしょう」
「しかし、長官の柏崎さんには承諾を得ていますが」
「長官に?」
 三浦の意外な言葉に、薪は訝しげな声を出し、次いで田城のほうを見た。田城は困惑顔で頷き、控えめに三浦の言葉を肯定した。
「三浦さんは、柏崎長官の甥御さんにあたるそうでね」
 絡め手か。
 だが、それは出演を強制する理由にはならない。
 
「それとこれとは」
「実はこの話は、長官のほうから三浦さんに持ちかけたみたいなんだ」
「はい!?」
 薪は再度、びっくりする。あのタヌキはいったい何を考えているのだろう。
「それは内緒だって言ったじゃないですか」
 三浦が田城の言葉を認める。まったく年寄りの考えることは分からない。
「なんでそんなこと」
「薪くん。きみ、こないだの新年会で長官と会っただろう」
「会ったって……同じ会場にいただけですよ」
「親しく話してただろ?」
「話なんかしてませんよ。最後にちょっと声をかけられたくらいで、それだけですよ」
 本当にそれだけだ。
 柏崎は警察庁長官として第九の室長を労い、薪は室長として当たり障りなく応えた。べつに親しくなどしていない。

「長官が『あの顔は警察庁の宣伝になる』って言ってたって」
「顔って。僕はタレントじゃないですよ」
「第九の室長はルックスで選んだって、世間じゃ有名ですけど」
 三浦の不躾な発言に、薪の目がぎらりと光る。三浦は慌てて口を閉ざし、助けを求めるように田城のほうに視線を走らせた。

「薪くん。君の気持ちは分かるけど、長官が絡んでるとなると」
「お話はよくわかりました。引き受けましょう」
 その瞳に凄烈な怒りを宿したまま、薪は立ち上がった。
 そっちがその気なら、受けて立ってやる。
 放送局の経営状態など知ったことか。思い通りにはさせない。第九を誹謗するものは許さない。
「来週末の土曜、10時にそちらへ伺えばいいんですね。僕が用意するものはMRIシステムの概要書と、他に何かありますか」
 座ったままの三浦を上から睥睨する。
 冷たい目を向けられて、三浦は言葉が出ないようだ。ぶるぶると首を振る。
「では仕事がありますので。失礼」

 薪が出て行った後の所長室で、年若いディレクターは詰めていた息を大きく吐き出した。
「こわ~……」
「だから言葉には気を付けてくださいって言ったでしょう」
「ちゃんと気を付けてましたよ。きれいな顔とか女の子みたいとか、言わなかったでしょ」
「それ言ってたら、睨まれるくらいじゃ済まなかったよ」
 ブリザードのような迫力を持った薪の凄絶な無表情を思い出すだけで、田城は背筋が寒くなる。あれは見た者にしかわからない怖さだ。

「あの、ひとつ聞きたいんですけど」
 さほど悪びれた様子もなく、三浦は田城に質問を投げかける。若者は立ち直りも早い。
「さっき室長が、自分が番組に出ることで局に迷惑が掛かるようなことを言ってましたけど、どういう意味なんですか?」
 薪は、少しこの青年の思惑を誤解している。
 この青年は、あの事件を知らない。というか、覚えていないのだ。
 1年も経てば、どんなに大きな事件でも忘れられてしまう。その事件に深く関わったものでなければ、日常の中に埋もれてしまう。世間などそんなものだ。

 三浦はべつに、第九を糾弾しようとか薪の過去の汚点を暴こうとか、そういったつもりでこの企画を立ち上げたわけではない。第九の室長は警察官にしておくのがもったいないようなルックスの持ち主だと伯父から聞いて、なんとか番組に引っ張れないものかと、情報源の伯父に相談してみたのだ。
 大山弁護士は人権派の弁護士で、公明正大な人柄だ。卑怯な戦法や言葉の暴力は用いない。
 人権擁護団体の代弁者にもなっている大山と第九の室長が和やかに話をすれば、それは世間で叫ばれる第九への非難を緩和することに繋がる。柏崎の算段はそういうことだ。いわば薪の味方だ。
 にも拘らず、あんな冷たい眼で見られて、三浦は番組の先行きが今から不安になっている。
 薪が収録中に、もしあのような態度を取れば、大山のほうも頑なにならざるを得ないだろう。対談はぎすぎすしたものとなり、第九の心証はまた悪くなる。それは柏崎の本意ではない。自分の首を絞めるような真似を、あの抜け目ない伯父がするものか。

「それにしても怖いなあ。噂には聞いてたけど」
「薪くん、最近ちょっと機嫌が悪いんだよ」
「なにかあったんですか?」
「部下の父親が亡くなってね。美味いコーヒーが飲めないんだそうだ」
「はあ?」
 第九の裏事情はよくわからない。
 わからないが、このままいくと伯父の不興を買うことになりそうだ。警察庁長官の伯父には、何かと世話になっている。機嫌を損ねるのは非常にまずい。
 熟考の末、来週末の土曜には薪のために美味いコーヒーを用意することにして、若いディレクターは所長室を後にした。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

プレゼント(3)

プレゼント(3)








 2週間後の土曜日。
 第九の室長は終始穏やかな微笑を見せて、三浦の懸念を払拭した。
 先週の始めから、今日までの間にいったい何があったのか、所長室で三浦を睥睨した彼とはまるで別人のようだ。

 MRIシステムについて淀みなく説明をする薪の美貌に、番組のスタッフがそっとため息をついている。
 まったく、警察官などという無粋な職業に就かせておくのがもったいない。黙って座っているだけでも、いつの間にかスタジオ中の視線を集めてしまう。今日の薪はなんだかとても華やかで、内面から輝くように美しい。
 先日会ったときは、ここまで美しいとは思わなかった。どちらかというと硬質な美貌の持ち主だと思ったのだが、スタジオ特製の強烈な照明のせいだろうか。
 
「紹介のときにめいっぱい寄っちゃって。どれだけ大写しになっても、あれなら大丈夫だ」
 カメラマンに指示を出す。この商品価値を利用しない手はない。
「ほんと、きれいな顔してますね。整いすぎて怖いくらいですよ」
「それ聞かれたらブリザードが来るぞ」
「あはは、禁句でしたっけ。でも、どんな角度から見てもきれいなひとって実際は少ないんですよ。俺、この仕事20年やってますけど、360度きれいなひとは珍しいです」

 事前の打ち合わせの中で、薪はMRIシステムについての質問を共演者側からしてくれるように、自ら脚本をしたためていた。
 世間で誤解を受けているMRIの画像について、5年前の画までしか遡れないこと、事件に関係のない脳データは検証しないこと、事件解決後、脳データは破棄され特別な場合を除いては保管されないことなどを、共演者からの質問に薪が答える形でわかりやすく説明していく。
 この上なく美しい笑顔を添えての流暢な解説は、見るものすべてを虜にする。その言葉を疑うことなど、思いもよらない。

「じゃあ、脳はデータを取り出した後は遺体に戻されるんですね?」
「はい。第九の地下にホルマリン漬けになっているというのは、都市伝説みたいなものです。私どももそんな職場じゃ、怖くて仕事ができませんよ」
 悪戯っぽく笑って、肩をすくめる。
 そんな風に笑うと完璧な美貌は幼さを加えて、ますます魅力的になる。計算された仕草ではないだろうが、思わず目を奪われる。奪われたが最後、彼から目が離せなくなる。これなら番組の途中でチャンネルを変える者はいないはずだ。

 それから幾つかの質問に薪が答えて、前半のMRIシステムについての質問コーナーは終了だ。いくらか修正しなければならない箇所もあるが、概ねこのままで行けるだろう。
 次は問題の対談だが、果たして大丈夫だろうか。

 後半の収録に入る前の休憩時間に、対談する二人を引き合わせておく。番組の中では初対面となる二人だが、そこはお約束というやつだ。
 薪はそこでも完璧な笑顔で、社会の公僕たる謙虚な態度を崩さなかった。
 ただ、心からの笑顔というわけにはいかない。相手は宿敵とも云える人権擁護派の弁護士なのだ。ここは薪の心をほぐさなくてはならない。でないと、表面づらだけの薄い対談になってしまう。

「こりゃ、美味いコーヒーですな」
 薪のために用意したブルーマウンテンの味に先に気付いたのは、弁護士のほうだった。
「薪室長がコーヒーがお好きだと聞いたもので、特別に用意したんです。ブルマンですよ」
 わざわざコーヒーの専門店まで足を運んで手に入れてきた、最高級の豆だ。なんと100gで3千円もしたのだ。1袋6千円のコーヒーなど、三浦はまだ飲んだことがない。
「ちょっと贔屓じゃないですか。三浦君は美人に弱いからなあ」
 それは禁句だ。
 大山は、この番組には何度も出演している。三浦ともすっかり顔なじみだ。硬い雰囲気の共演者をリラックスさせようとわざと言っているのは解るが、薪の場合逆効果だ。

「コーヒーくらい良いじゃないですか。先生は民間の方だからギャラが出ますけど、薪室長は公務員だからノーギャラなんですよ」
「そりゃまた気の毒だな。わしの分も飲みますか?」
 大山の冗談に薪はくすりと微笑み、自分のコーヒーに口をつけた。
 さぞ感激してくれるだろうと期待していたのだが、薪はさほど感動している様子もなく、静かにコーヒーを啜っている。薪の反応の薄さに、三浦は少々がっかりした。

「薪室長。お味のほうはいかがですか?」
「美味しいです」
「どんな風に? コーヒーにもアロマとかボディとか、いろいろあるんでしょう?」
「さあ。僕はべつにコーヒー通というわけではないので」
 そうなのか。6千円が無駄になった。

「ただ、僕の部下が」
 薪はふっと和んだ表情をみせて、なんとも幸せそうに微笑んだ。

「僕のために、コーヒーの勉強をしてくれてまして。僕としてはそんなことをしているヒマがあったら、業務の習得に力を注いで欲しいんですけど……困ったやつです」
 困ったやつだと言いながら、薪はひどく嬉しそうな顔をしている。自慢の息子を謙遜している父親、という感じだ。
「所長さんから聞きました。お気の毒にお父さんを亡くされたとか。それで実家に帰ってしまって、薪室長は美味いコーヒーが飲めなくなってしまったそうですね」
 それで薪の機嫌が悪い、という情報も聞き及んでいたのだが、そこまで言うとまた氷河期が来る。
「ええ。でも、彼は帰ってきました。先週の夜に」
 薪はそこで、なぜか顔を赤らめた。
 MRIシステムの説明をしていたときは頼りがいのある室長の顔つきだったのに、今はなんだか女の子めいて見える。
「僕のところへ、ちゃんと帰ってきました。だから美味いコーヒーには不自由してません」

 どうやら、薪の穏やかな笑顔の理由はこれらしい。
 お気に入りの部下が、自分のところへ帰ってきたことが、よっぽど嬉しかったのだろう。
 きっと優秀で、仕事もできる部下なのだ。美味いコーヒーが飲みたかったら、高い豆を買ってくればいいだけの話だ。コーヒーの話はカモフラージュで、本当はとても大事な部下だったのだろう。

「そんなことより対談の内容ですが。大山先生は人権擁護の立場から、MRI捜査を否定されるわけですよね」
 亜麻色の瞳がすっと細められて、鋭い刃物のような眼になる。
 どうして刑事というのは、こうも目つきが悪いのだろう。薪はこの容姿だからそうは見えないが、これでガタイが良くて顔がいかつかったら間違いなくヤクザだ。
「そのほうが面白いでしょうな。番組としては」
 お互いが言いたいことを言いながら、良い雰囲気を作り上げていくのがベストだ。
 それには、互いの意見を擦り合わせていかなくてはならない。たった1時間ほどの番組を撮るのに何時間もかけて収録し、後で編集する。番組はそうして作るものだ。

「どうぞお手柔らかに」
「室長。これは対談であって討論じゃないですからね」
「わかってます」
 本当にわかっているのだろうか。
 薪のあの冷たい目を出されたら、お茶の間が凍りついてしまう。そうなったら編集で何とかするしかない。最悪、薪の商品価値(ルックス)は捨てて、遠目のアングルで通すしかない。

「しかしなあ……死んじまったら、人権もクソもないと思うがなあ」
 大山がぼそりと漏らした本音に、三浦はびっくりした。薪も大きな目をぱちくりさせている。幼い顔だ。プロフィールの年齢欄を修正したいくらいだ。
「だってそうでしょう。生きているからこそ人権が大事なんでしょう。犯罪者の人権に関することならそれは譲れないが、死者の人権を議論しろと言われてもねえ。あ、これは擁護団体には内緒ですよ」
 大山の正直な言い分に、薪は苦笑した。刺々しい雰囲気が消えて、柔和な空気が戻ってくる。
「僕たちが見るのは、被害者や犯罪者の視覚ですから。亡くなった人が見たものが、そのままそっくり映し出されるんです。だから事件に関係すること以外も見えてしまいます。データの漏洩には特に気を使っていますが、僕たちの記憶を操作することができない以上、完全に個人の秘密が守られるというわけにはいきませんからね」
 人権擁護団体の言い分は尤もだ、と逆に薪のほうが認めてしまった。なんだか雲行きがおかしい。

「しかし、MRIは確かにすごい。捜査一課が総出で1ヶ月かかるところを、5日でやってのけるそうじゃないですか。そのおかげでスピーディな犯人逮捕が可能になっている、と一課の人間が言ってましたよ」
「一課の? いったいだれが?」
 よほど驚いたらしく、薪は亜麻色の目を丸くした。一課の人間がMRI捜査を賞賛するのは、それほど意外なことなのだろうか。
「名前は絶対に言わないように念を押されてるんですよ。なんでも、それがバレたら吊るし上げを食うそうで」
「でしょうね」
 くすっと笑って薪はコーヒーを飲み干し、三浦のほうを見た。薪の視線を受けて、三浦は休憩中のスタッフを呼び集める。
「薪室長、お願いします」
「はい」
 後半の収録が始まった。

 2人のプロフィールから入って、現在の薪の役職、第九が解決した主な事件。
 大山が属する人権擁護団体の活動と、勝訴した裁判。それらをざっと説明し、いよいよ本題に入る。
 司会者が薪に、MRIについての問題点を投げかける。
 人権問題の他にも費用の問題、情報の流出に対する懸念など、MRI捜査にはまだまだ非難の要素も多い。薪はそれらに解りやすい言葉で答えていく。司会者は薪の答えを受けて、大山に意見を求める。
「まあ。MRIのメンテナンスには、そんなにお金がかかるんですか」
「申し訳なく思っています。皆さんの税金を使わせていただいてるわけですから」
「大山先生、どう思われます?」
「それは仕方ないでしょう。手入れをしなけりゃ、車も電化製品も動かないでしょう。何より、ひとの命がかかってますからな」
「そう言っていただけると、私どもも気が楽になります」
「さすが人権派の大山先生ですね。人命最優先ですよね」

 司会の女子アナも、いい味を出している。こういう役は女の子に限る。
 司会者というワンクッションをおくことで、対談の雰囲気を和らげようとした三浦の計画は当たったようだ。
 それから、MRIが事件解決の決め手となったいくつかの事件の話や、MRI捜査ならではの画像による証拠物件の提出など、MRIの変遷ともいえる裁判の判例の話題に移る。
 人情派の弁護士にはMRIシステムの専門的な知識はないから、いわば世間一般の人々の代弁者となって様々な疑問を薪にぶつけてくる。薪は真摯にその言葉を受け止め、MRIの限界は素直に認め、可能性は主張し、今現在できうる限りの力で捜査をしていることを力説する。

 情報流出防止対策について薪の専門的な説明の後、対談の焦点は最大の問題点に移った。
「やはり一番の問題点は、プライバシーの侵害だと思うのですが」
「ええ。そのことに関しては、私達も心を痛めています。私は……」
 言い淀んで少しの間、顔を伏せる。しかしすぐ、思い切ったように顔を上げて、薪は強い口調で語り始めた。
「僕は皆さんの前で、嘘はつきたくありません。だから、プライバシーを侵害するような捜査はしていないとは言えません。
 事件に関係する画を捜す中で、亡くなった方の秘密を知ってしまうこともあります。手紙やメールや―――― 秘めた想いまで、そのひとの視線を追うことですべてがわかってしまう。
 でも、信じて欲しいんです。僕たちは決して興味本位で視覚者の脳を見ているわけじゃありません。
 ただ、犯罪を防ぎたい。平和な社会を築きたい。皆さんが安心して生きられるような社会を創るための、礎になりたいんです」
 カメラのズームが絞られて、薪の顔が大きくモニターに映される。その美貌がふっと曇り、長い睫毛が軽く伏せられた。

「僕の部下が以前、こんなことを言ってました。
 MRI捜査は、とても哀しい捜査方法だと。互いを信じ合って、すべてを語り合える社会には必要のないシステムだと。僕もそれが理想だと思います。でも」
 薪はそこでぱっと目を見開いた。
 亜麻色の大きな瞳が叡智にきらめく。その圧倒的な求心力。
「人間は秘密を手放すことはできません。嘘も吐かずには生きられません。その上で信じあうのは難しいことかもしれない。しかしその可能性はゼロではない。
 僕たちは信じています。いつかMRIが無用の長物になって、平和な社会が訪れることを」
 つややかなくちびるから、涼やかな声が聞こえてくる。
 硬い言葉なのに音楽のような響きを持って、聞くものの耳を心地よく満たす美しい声。
「その日まではMRIの驚異的な解明力が、犯罪の抑止策になってくれるでしょう。
 僕たちがMRI捜査を続けることで、犯罪者は犯罪の隠匿が不可能なことを知る。必ず露呈すると解ってなお犯罪に手を染めるものは、減少するはずです。MRIが平和な社会を創るというのはそういうことです」
 薪の頬がうっすらと紅潮する。口調が熱くなる。冷静な室長というのは表向きの顔で、こちらが彼の素顔なのかもしれない。

「皆さんには、それを解って欲しいんです。僕の部下たちはみな、社会正義のために身を粉にして働いています。彼らの努力には頭が下がります。僕はとても感謝している。
 どうかご理解ください。皆さんの理解が、MRI捜査を容易なものにする。理解して頂くことで僕たちも頑張れる。
 MRI捜査はプライバシーを侵害するものではなく、起こってしまった犯罪を解明し、新たな犯罪を抑止するものです」
 そう結んで、薪は口を閉ざした。
 誰かがほおっと息をつく。どこからともなく自然に拍手が湧いて、薪はにっこりと笑った。
 非の打ち所のない完璧な笑顔。最初見たときは人形のようだと思ったが、今はそうは思わない。

 ほんの少しだが、三浦は薪という人がわかってきたような気がする。怒ると少しだけ怖いが、本当はきっと部下思いのやさしい人なのだ。
 人権問題にも心を痛めていて、他人の秘密を知ってしまうことに罪の意識を感じている。世間で叫ばれる非難の声を謙虚な姿勢で受け止め、無理解を嘆いたり憤ったりすることもなくただ誠実に理解を求めて努力を続ける。
 素晴らしい人格者だ。このひとの部下は幸せものだ。

 ―――― 三浦は薪の本当の姿を知らない。
 第九の部下に、人権はない。
 人権どころか寝る暇もない。食事の時間まで削られて、家にも帰してもらえない。無茶苦茶なシフトのせいで恋人とは別れさせられ、友人とは疎遠になり、寂しい人生設計を余儀なくされる。ひとえに室長の横暴によるものである。
 そのうえ、室長の針のような皮肉と嫌味に苛め抜かれ、捜査ミスをすれば『バカヤロウ!』と怒鳴りつけられ―――― 部下たちがこのVTRを見たら、現実の薪との落差に言葉を失ってしまうに違いない。

「ありがとうございました。おかげでいい番組になりました。VTRが出来たら、研究室のほうへお持ちします」
「よろしくお願いします」
「この後、みんなで打ち上げ行きますけど。薪室長もよろしかったらいかがですか?」
「いえ、僕は帰ります」
「室長にはギャラもお払いしないんですから、食事くらい奢らせて下さい」
「……家で待ってるひとがいるので」
 薪はまだ独身だったはずだ。ということは恋人だろうか。これだけのルックスだ。恋人がいないほうがおかしい。

「じゃあ、せめてこの豆、持っていってください」
「いいんですか?」
「ギャラにしちゃ安すぎますけど」
 薪はにっこりと微笑んだ。
 この笑顔が6千円なら安いものだ。VTRを持っていくときにも良い豆を買って行ってやろう。きっと喜んでくれるに違いない。もしかしたら、自慢の部下のコーヒーを振舞ってくれるかもしれない。
 とにかく収録は無事に済んだ。この内容なら伯父も納得してくれるだろう。

 大きな誤解を残したまま、三浦は番組の出来栄えに満足していた。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

プレゼント(4)

プレゼント(4)







「お帰りなさ……どうしたんですか? その顔」
 冬の短い日がとっぷりと暮れた頃、自宅に帰ってきた室長の顔は、明らかに不自然だった。
 眼は笑ってないのに口元だけが引き伸ばされたような、ちぐはぐな笑顔というか引き攣った作り笑いというか。
 「固まって元に戻らないんだ。ずっと営業用の顔してたから」
この顔で電車に乗ってきたのだろうか。不審者通報されなかったのが奇跡だ。
 もっとも、それは薪の皮肉な笑顔を見慣れている第九の部下ならではの感想で、普通の人には十分に美しい笑顔に見えるのだが。

「あー、疲れた。ほんと疲れた。24時間ぶっ続けでMRI見たときより疲れた」
「お疲れ様でした。風呂、沸いてますよ」
「おっ、気が利くな」
 風呂と聞いて目を輝かせる。室長の風呂好きは、第九職員なら常識だ。
「でも、その前にコーヒー淹れてくれるか」
 風呂より他のものを優先させるなんて、珍しいこともあるものだ。首をかしげる部下に、薪は出演料の代わりだというコーヒー豆の袋を差し出した。

「僕の今日の日当は、この豆と記念品の饅頭だ。まったく割に合わない」
「すごい。Sクラスのブルマンじゃないですか。これ、高くて手が出なかったんですよ」
「そんなに高い豆なのか?」
「1袋5千円じゃ買えないです」
「ふうん。そんなに美味いとも思えなかったけどな」
「せっかくだから、贅沢してストレートでいきましょうね」
「おまえに任せる」
 ゴリゴリというミル引きの音が、ダイニングから聞こえてくる。コーヒーのいい匂いが、リビングにまで漂ってくる。魂を揺さぶられるような魅惑的な香りにつられて、薪はダイニングに移動した。
 コーヒーを淹れる部下の大きな手を見つめる。
 ドリッパーに細引きしたコーヒーを移し、サーバーにセットする。しゅんしゅんという薬缶の音がおさまって、しばらく時間を置いてから、ゆっくりと湯を落とす。
 ふわあっとダイニングいっぱいに広がるかぐわしい薫り。もう、たまらない。

「ああ、やっぱりおまえが淹れたのは美味いな」
 一口すすって、薪は満足そうに上を向いて目を閉じる。口中を満たす苦味と酸味のバランスの良さ。微かな甘み。さっと切れる後味。なるほど、これならあの値段も頷ける。
「なんでかな。あっちで飲んだときはこんなに香りも良くなかったし、もっと苦みも強くて、口の中に渋さが残ったような感じがしたけど」
「コーヒーメーカー使っちゃうと、蓋をした状態で抽出することになるので、香りは抑えられちゃうんです。コーヒーはやっぱりドリッパーでないとダメですね。お湯の温度が高すぎると苦味は強く出るし、後味が悪かったのは最後の部分に残った雑味が混ざってしまったんだと思います。水も違ったのかもしれませんね。軟水じゃなくて、硬水使ったとか。硬水だと苦味がはっきり出るから」
「おまえ、職業間違えたんじゃないのか」

 上層部から室長会まで新年会のラッシュが一段落した頃、第九の新人はのうのうと帰ってきて、薪がやっとの思いで組んだ勤務表は無駄になった。
 それがよほど腹立たしかったのか、帰ってくるならもっと早くに連絡をよこせだの、僕の苦労を返せだのと、言いたい放題言われてしまった。
 年末に入れた電話で、あと10日ぐらいしたら帰ると話をしてあったし、休暇願いも先週末まで出してあったのだから怒られる筋合いはないはずなのだが、薪のこういう理不尽な攻撃にはすっかり慣れっこになってしまって、今更言い訳をする気にもなれない青木である。
 捜査では見込み違いなどあった試しがない室長は、仕事以外のことになると不思議なほど思い込みも勘違いも多くて、それによって引き起こされる結果に対しては、決して自分の非を認めない。
 まったくもって、困った上司である。

「あれ? 岡部、帰っちゃったのか?」
「岡部さんは買い物に出てます。夕食に何か食べるものと、あと薪さんの好きな吟醸酒買ってくるって」
「じゃあ帰ってくるんだな。助かった。マッサージ頼もうと思ってたんだ」
 薪はストレスが溜まると肩が凝る体質で、岡部の超絶技巧のマッサージが大のお気に入りだ。
 慣れないことをしたせいで、受けたストレスも大きかったのだろう。かなり痛いらしく、右肩を回しては顔をしかめている。

「今のうちに、風呂使ったらどうですか? 上がる頃には帰ってくると思いますよ」
「うん、そうする。昨日は夜中までかかったからな。今日は早く休みたい。おまえも家に帰りたいんじゃないのか」
 今日の収録のために、昨日から岡部と二人で薪の家に泊まりこんで、作戦会議を行っていた。
 あらゆる質問を想定して、あらかじめ回答を用意しておく。法学部の知識に物を言わせ、青木は法律の面から人権問題のポイントを絞り、岡部は長い経験から様々な事例を出して、MRI捜査の利点を説いた。
 対談相手の大山弁護士のことは、青木もよく知っている。穏健派の立派な人格者だ。青木がそのことを薪に告げると、薪は意外そうに首をかしげてみせた。

「おまえ、所轄の経験がないくせに、どうして弁護士に詳しいんだ?」
 岡部が最もな質問をしてくる。
 刑事告訴に関係のない部署を渡ってきた青木には、弁護士との接点はないはずだ。
「大山先生の講演会は、大学の頃、何度も聞きに行きましたから」
「なんで弁護士の講演会なんか」
「オレ、昔は弁護士希望だったんですよ。それで法学部に入ったんです」
「おまえの性格じゃ、弁護士のほうが合ってたかもしれないな。どうして希望を変えたんだ? 司法試験に落ちたからか?」
「司法試験は受かりましたよ」
「もったいないだろ、それ」
「実は、大学時代に薪さんの新聞記事を読んだんです。27歳で警視正で室長なんてスゴイなあって思って、それからずっと見てて、薪さんに憧れて、それで警察庁に希望を変えたんです」
 青木の賞賛が照れくさかったのか、薪はぷいとそっぽを向いて黙り込んだ。
 なにやら複雑な顔をしていたが、すぐに気持ちを切り替えて作戦会議の続きに戻った。作戦会議は夜半過ぎまでかかり、青木は岡部と一緒に薪の家に泊まった。

 予期せぬ質問が来ることを想定して、ふたりはそのまま薪の家に待機することにした。
 ここなら、専門書や法律関係の蔵書が研究室並みに揃っている。薪が長年書き溜めたMRI捜査の個人的な学習ノートもある。薪からの連絡が入れば即座に調べをつけて、正しい回答を薪に教えることができる。
 そこまで用意をしておいたのだが、蓋を開けてみれば薪から連絡が入ったのは「収録が終わったからこれから帰る」という一報だけだった。一昨年の事件を蒸し返されて責められたら、と薪の身を案じていたふたりだったが、どうやら杞憂に終わったようだ。

「夕飯食べたら、帰ります」
「岡部が来たら先に食べちゃってていいぞ。今日はのんびり入りたいんだ」
 風呂好きの薪は、入浴にかける時間も長い。1時間くらいは余裕だ。本を持ち込んだりする様子もないので、中で何をやっているのか不思議だが、薪が一日のうちでぼーっとできる時間といえば風呂の中くらいのものなのだろう。

 ところがその日、薪は10分もしないうちに風呂から上がって来た。
「右腕が上がらなくて、頭も身体も洗えないんだ」
 さすがに冬は寒いと見えて、バスローブを着込んでいる。これが夏なら素っ裸で出てくるところだ。
 薪はそういうことにはまるで無頓着で、男同士なのだからべつに恥ずかしがることはないと思っているらしい。
「岡部はまだ帰ってこないのか?」
「オレで良かったら揉みましょうか」
「そうか? じゃ、頼む」
 よほど切羽詰まっているらしい。
 薪は青木の申し出に一も二もなく飛びつくと、ソファに腰掛けて背中を青木のほうに向けた。
 白いバスローブの襟足から、うなじが露わになる。薪は警察官らしく襟足を短く揃えているので、後ろ首の部分が長く見える。普段はワイシャツの襟に隠れて見えない部位だから、その白さといったら目に沁みるほどだ。

 小さな肩をそっと掴む。薪の肩は男のものとは思えないくらい華奢で薄い。ちょっと力を入れたら、簡単に壊れてしまいそうだ。
「もうちょっと強く」
「こうですか?」
「そこじゃなくてもっと下。硬くなってるだろ」
「ここですか?」
「違う。背骨に近いとこ」
 背骨といわれても、タオル地のバスローブの上からでは探るのが難しい。
 薪の体を触り慣れている岡部なら、マッサージのツボも一発で解るのだろうが、青木はマッサージなどしたことがない。せいぜい母親の肩を揉んだことがあるくらいで、背中や腰はどこを押したらいいのか見当もつかない。
「背骨ですか? えっと……」
 青木が戸惑っていると、薪はするりとバスローブの紐を解き、両肩を出してきれいな背中をむき出しにした。

 青木の目に、はだかの背中が飛び込んでくる。
 淡く発光するかのような白い肌。麗しい首筋から肩へのライン。滑らかな背中は、男の固さも女の柔らかさも持ち合わせないかわりに、限りなくしなやかで優美で――――。
「これでわかるだろ?」
 ……本来の目的がわからなくなりそうだ。
 なんてきれいな背中だろう。なんてかわいい肩だろう。
 くびれたウエストの下には何もつけていないらしく、腰の骨が覗いている。

「背骨の、ちょっと右辺りが痛いんだ。肩甲骨との間の」
 薪の言葉が耳に入らない。
 袖口と腰に残ったバスローブの隙間から漂ってくる、強烈な色香。目眩がしそうだ。
「そんなに下のほうじゃない。肩甲骨だ」
 湯上りの柔らかい肌。湿り気を帯びて、匂い立つような艶っぽさを添えて――――。

 もう、我慢できない。
 さわりたい。キスしたい。押し倒したい。

 何度も夢の中に出てきた薪の裸身が、いま目の前にある。それに自分は触れている。
 毎晩のように見てしまう夢の中で、薪はいつも年上らしく、自分を導いてくれる。頬を紅潮させて、でもそれほど乱れることなく、穏やかに自分を受け入れてくれる。

「そっちじゃない。背骨だって言ってるだろ」
 夢よりも切実な男の事情で青木の脳裏に浮かぶ薪は、もっと大胆に様々なことをしてくれる。
 そのつややかなくちびるとやわらかい舌でもって青木の体中を愛撫して、やがて自身を貫くそれを小さい口唇に含んで、愛おしそうに舐め上げてくれて。
 愛していると耳元で囁きながら青木の上になって、青木を自分の中に収める。切なそうに眉根を寄せて、ほそい腰を上下に動かしてくれる。吐息のような愉悦の声が、そのくちびるから洩れて――――。

「……どこ触ってんだ?おまえ」
 無意識のうちに、薪の腰の辺りにたぐめられたバスローブの中に入り込もうとしていた手を阻まれて、青木は我に返った。
「肩は痛いけど、腰は凝ってない。てか、さわるな」
 青木の手をつかんだまま、身体をひねってこちらを向く。青木の顔を見て、亜麻色の瞳が訝しげに眇められた。
「おまえ、顔がヘンだぞ。意識が朦朧とするほど腹減ってるのか?」
 魅惑的なくちびるが動いて、何か言っているが聞き取れない。聞こえないわけはないのだが、理解できない。

 あのくちびるが、自分を狂わせる。
 長い睫毛が亜麻色の瞳が、自分を平静でいられなくする。

「青木?」
 つい先日、味わったばかりの甘い舌の味が思い出される。薪は「二度としない」と言っていたが、もう一度味わいたい。いま、したい。

 戒めを受けていないほうの手ですべらかな背中を抱き、身体ごと引き寄せる。
 バスローブがずれて、腰の部分が露わになる。たまらない色香を発している首筋にキスをする。甘やかな肌。いっそのこと食べてしまいたい――――。

 どすっ! と腹に蹴りが入って、青木はソファから転がり落ちた。その衝撃で正気に戻り、瞬時に青ざめる。
 まずい。やってしまった。
 薪はバスローブの前をかき合わせると、ソファから立ち上がった。めちゃくちゃに怒っているに違いない。
 どうやってフォローしよう……。
 自分の失態に目の前が真っ暗になっている青木の鼻先に、ぬっと何かが突き出された。
 箱に入った饅頭だ。『ご出演記念、N○K』と書いてある。

「これでも食ってろ。僕を食べるな」
「……はい」
 薪の勘違いは、時として青木を救ってくれる。
 青木は素直に箱を受け取って、包みを開けた。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

プレゼント(5)

プレゼント(5)








 岡部が買ってきた寿司折で夕食を済ませ、ふたりの部下が帰ったあと、薪はゆっくりと風呂に入った。
 湯船につかって両腕を頭の上に伸ばし、大きく背中を反らす。暖かいお湯の中に、疲れもストレスも溶けていく。これだから風呂はやめられない。
 岡部のマッサージが効いて、肩はすっかり軽くなった。夕食の寿司も美味かった。疲れてはいるものの、薪の機嫌はすこぶる良い。
 湯当たりする一歩手前まで温まって、風呂から上がる。
 はだかのままダイニングに行って、冷蔵庫から水を出す。他人が居なければ、やっぱり風呂上りは素っ裸がいちばんだ。肌についた湿気が飛ぶし、冷たい空気の心地よさといったら、もうこたえられない。

 最近、薪のマンションのダイニングには、新しい電化製品が増えた。
 大型のコーヒーメーカーで、エスプレッソも淹れられる本格式のものだ。部下からの預かり物なのだが、保管料として薪が自由に使う権利を認められている。

「遅くなっちゃいましたけど、これ受け取ってください」
 ひと抱えの百合と一緒にそれを第九のバリスタが持ってきたのは、先週のことである。
「こういうものは受け取れない。持って帰れ」
 そのとき薪は、常識はずれの新人に懇々と説教した。
「青木。警察官ていうのはな、上司へのお歳暮や付け届けは禁止されてるんだ。あげたほうも貰ったほうも、規定違反になるんだ」
「これ、お歳暮じゃなくてバースディプレゼントですよ」
「同じことだ」
 青木があまりにがっかりした顔をするので、つき返すのも可哀想になってくる。しかし、決まりは決まりだ。
 
「本当は花もいけないんだけど、まあ、これは消えてしまうものだから」
「食べ物とかなら良かったんですか?」
 論旨がずれている。こいつ、ひとの話を聞いているのか。
「だめだ。もう、花も買ってくるな」
「……もう、ここへ来ちゃダメってことですか?」
 泣きそうな顔になっている。こいつには先日、目の前で大泣きされたばかりだ。あんなのは二度とごめんだ。
 薪は慌てて、青木の早飲み込みを否定した。
「そんなこと言ってないだろ。何も持ってくるなと言ってるんだ。手ぶらで来ればいい」
 薪の言葉に、ぱっと顔を輝かせる。まったく正直な男だ。
「オレが来ても、迷惑じゃないんですね?」

 青木は、秋ごろからちょくちょく薪の家を訪れるようになった。
 大抵は岡部と一緒なのだが、たまにひとりで来ることもある。そんなときはピザやフライドチキンなど、自分の夕食はちゃんと持って来る。が、冷蔵庫に残り物があったりするとそっちを食べて、自分が持ち込んだ食料には手をつけないことが多い。
 また、薪のほうから夕食に誘うこともある。
 最もこれは、室長会議の資料を作る手伝いを青木にさせているからその見返りというわけなのだが、帰宅途中の料理屋のちゃんとした食事より、青木は薪の素人料理を食べたがる。外食は続くと飽きるものだから、その気持ちはわからないでもない。
 そんなこんなで、青木は岡部と共に薪の家の常連客になりつつある。大食漢がふたりになって、薪の家計のエンゲル係数は増える一方だ。
 
「おまえがいると重宝する。生ゴミが減るから」
「……残飯整理ですか?」
「環境にやさしいだろ」
「オレにもやさしくしてくださいよ」
「男にやさしくしてどうするんだ」
 青木は薪の言葉に笑って、薄緑色の包装紙に包まれた大きな箱を開けた。中身を取り出して、薪に差し出す。
「だからダメだって」
「オレの家のキッチン、狭くて置けないんです。ここで預かってもらえませんか?」
 中身は大型のコーヒーメーカーだった。
「これ、新型で抽出温度が選択できるんですよ。苦味を強くしたいときは高めに、和らげたいときは80℃くらいで設定するんです」
 頼みもしないのに製品の機能を説明しながら、勝手にダイニングへ機械を運び入れる。青木はこのところ、ずいぶん図太くなった。
「ミルも付いてるし、エスプレッソも淹れられるんですよ。まあ、所詮はメーカーですからドリッパーほどの香りは出ませんけど、挽き立てのコーヒーが飲めますよ」
 挽き立てのコーヒーと聞いて、薪の表情が変わる。
「どうぞ」
 新品のメーカーで淹れたコーヒーを鼻先に出され、薪は思わず香りを吸い込んだ。
 味わってみると、確かに自分の家のメーカーより美味い。余分な苦味がなく、コクがあり、それでいてさっぱりとした後味だ。

「どうですか? 預かってもらえますか?」
 預かるだけなら確かに違反にはならないが、それは詭弁というもので。
「預けるだけです。薪さんにあげるわけじゃありません。お願いします。もちろん保管料の代わりに、自由に使ってもらって結構ですから」
 屈託のない笑顔でそう言われてしまうと、どうにも逆らえない。
 青木のこういうところは恐ろしいくらい誰かに似ていて、薪の心をざわざわさせる。
「こういうのを、法の網をかいくぐるって言うんだ」
「オレ、法学部ですから」
「だめだろ、それ。悪用じゃないか」
 あはは、と笑って青木はコーヒーサーバーを洗い始めた――――。

 そんなふうにして薪のキッチンの居候となったコーヒーメーカーは、その持ち主が来ると不要品となるという矛盾した機械である。いかに最新式とはいえ、やはりバリスタの手によるミル引きとドリッパーにはかなわないからだ。

 水を飲み終えて脱衣所に戻る。
 髪を乾かす前に、もうひとりの新しい住人の上に乗り、その数値を確かめる。
「46.5。よかった、爆発はないな」
 これは特別なヘルスメーターで、薪にそれを贈ってくれた人の言葉を信じるなら、45キロを下回ると自動的に爆発するそうだ。その言葉は品物に添えられたメッセージカードに書いてあったのだが、スパイ映画の好きな雪子らしい文面である。
 主治医代わりというわけではないが、雪子は薪の健康にとても気を配ってくれていて、それが今回のバースデープレゼントの目的だ。これに毎日乗って、雪子の言うギリギリの数字を下回らないように管理することを強制されている。
 岡部は岡部で、週に一度のマッサージを確約してくれた。
 青木と違って薪の性格を心得ている岡部は、品物を贈って薪を困らせるようなことはしない。しかし、気持ちは雪子や青木に劣るものではない。というか、薪にとっては一番嬉しいプレゼントだ。

 まったく、薪の周りにはお節介が多い。しかもみんな、よく食べる。
『お礼は薪さんのビーフシチューがいいです』
『薪くんが焼いたパンプキンパイが食べたいのよね』
『今度、ちらし寿司つくるときは呼んでください』
 薪が礼を言った後に返ってきたセリフがこれだ。いつか自分の家はこいつらに食いつぶされるんじゃないか、と不安を覚えた薪である。

 ドライヤーで髪を乾かしながら、そんなことを思い出して、つい頬が緩んでしまった薪だったが、次の瞬間、鏡に映った自分の姿にぎょっとして目を見張った。
 肩から首筋にかけて、赤い痣がいくつもある。

 さっき、青木がつけた――――。

 急いでバスローブを着込んでそれを隠す。人目に触れるわけではないが、自分がそれを見るのが耐えられない。
 鏡の前から逃げるように寝室へ入る。今日はもう、寝てしまうに限る。

「ち、ちがうぞ、鈴木」
 枕元に置いてある写真の人物に、薪は必死で言い訳する。
 「あれは違うんだ。あんまり肩が痛くて我慢できなかったんだ。僕が誘ったわけじゃない。あっちもそんなつもりじゃなくて、ただ腹が減ってただけで」
 薪は俯いて、くちびるを噛んだ。
 いくら言い訳をしても、この痣は消えない。ここは素直に謝るべきだ。
 
「ごめん。油断してたんだ。これから気をつけるから」
 優しい笑顔が、薪の謝罪を快く受け入れてくれる。鈴木は薪には甘いのだ。
「おやすみ、鈴木。愛してるよ」
 いつものように愛の言葉とともに写真にキスをして、薪は眠りに就いた。




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ジャンル : 小説・文学

プレゼント(6)

 Rです。 痛いです。
 お嫌いな方、薪さんの眠りを妨げたくないと言う優しい淑女のみなさまは、いつも通りスルーしてください。







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プレゼント(7)

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 VTRの編集が終わったのは、翌週の火曜日だった。
 三浦はダビングしたDVDとタンザニア産のキリマンジャロを持って、法医第九研究室を訪れた。今回は自費で購入したのでブルマンというわけにはいかなかったが、それでも三浦がいつも飲んでいるコーヒーに比べたら倍の値段の豆だ。

 まずは先に、所長の田城に挨拶に行く。ちょうど居合わせた第九の職員だという背の高い男にDVDを差し出し、室長に渡してくれるようにと頼んだ。
「先日は、室長がお世話になりました」
「こちらこそ。おかげさまでいい作品になりました」
「そうだ。コーヒーとお饅頭、ごちそうさまでした」
 薪に渡したはずだが、この男の口にも入ったのだろうか。
 部下思いの室長のことだ。職場に持ってきて、部下たちに分けたのかもしれない。

 出演者の承諾なしには放映できない事情を話すと、第九の職員は快く頷き、感じのよい笑顔を見せて「さっそく見てもらいます」と言って所長室を出て行った。
 さすがは薪の部下だ。明るくて礼儀正しい。よく教育されている。
「やっぱりエリートは違いますね。すごく感じがいいや」
「あれが青木君だよ。コーヒーを淹れるのがとても上手なんだ」
「そうなんですか? お父さんを亡くされたっていう?」
「そう。来月、法要で実家に帰るからって、わざわざ私のところまで挨拶に来たんだよ。何日も休暇を貰って申し訳ないってお土産まで持ってきて。身内の法事なんだから、堂々と休めばいいのに。律儀な男だから」
 福岡銘菓と書かれた菓子折りを指して、田城はこれまた人の良い微笑を見せた。この第九の職員は、どうやら田城にとっても好ましい人物らしい。

 三浦は、田城に収録に協力してくれた礼を言い、スタジオでの薪の様子を報告した。
「薪室長は、部下思いの立派な方ですね。やりがいのある仕事に素晴らしい上司。いやあ、第九の皆さんはさぞ幸せでしょうね」
「そ、そうかな……だといいね……うん、きっとそうだね……」
 なんだかはっきりしない言い方だ。

「薪室長にお会いして、ぜひお礼を言いたいんですけど」
「今は進行中の事件を抱えているから、時間が取れないと思うよ」
「ちょっとでいいんです。こちらから第九に伺いますから」
 仕事中の薪を、一目見ておきたい。
 きっとあの穏やかできれいな顔で、優雅に職務を遂行しているに違いない。
 番組のスタッフにMRIの説明をしていたように、部下の質問には丁寧に答え、ミスにはいくらか眉根を寄せるが、それでも寛大に許し「この次からは気をつけろ」と、とびきりの笑顔を添えて励ましの言葉を掛ける。そんな姿が目に浮かぶようだ。
「それはできないよ。第九の捜査は重要機密だから。一般人は入れない」
「じゃあ、廊下で待ってますから。もうすぐお昼だし、休み時間くらいあるでしょう?」
「あるかなあ」
 渋る田城に無理やり頼み込んで、第九の建物に連れて行ってもらう。口には出さなくとも伯父の影響力は強い。

 広いエントランスからモニタールームまでの長い廊下の途中で、三浦は田城が薪を連れてきてくれるのを待つことにした。
 研究室の中は、職員以外立ち入り禁止である。三浦が入れるのはここまでだ。
 田城が自動ドアの前に立ち、ドアが開いた瞬間。
「なにやってんだ、バカヤロー!!」
 およそエリート集団の職場には相応しくない怒号が聞こえてきた。

「おまえらには脳みそがないのか! なんでこの可能性に気づかないんだ!」
 薪の声だ。
 信じたくないが、たしかに薪の声だ。

「この役立たず! このくらいのサーチ、2分でできなくてどうする!」
 すいません、という声が聞こえてくるが、薪の怒鳴り声は落ち着く気配もない。
「どこ見てんだ、ボケ! 役に立たない眼なら、くりぬいて代わりに飴玉でも詰めとけ!」
 ……うちの局長だって、こんなに怖くない。
 その後もさんざん、バカだのヘチマだのといった、いい大人が叱責に使う言葉ではないセリフを喚き散らす薪の声が聞こえてきた。
 三浦の頭の中で、薪の穏やかな天使の微笑がガラガラと音を立てて崩れ去っていく。

 やがて田城が、首を振りながら戻ってきた。
 ドアが閉まったので中の声は聞こえなくなったが、いったん耳についた罵声は三浦の頭の中でぐるぐると回り続けている。
「今日はやめておいたほうがいいみたいだよ」
「……はい」
 あまりにショックが大きすぎて、しばらくは何もしたくない。三浦はエントランスの椅子に腰掛けて、しばし休息をとることにした。

 三浦が座っている椅子の前を、数名の職員が急ぎ足で通り過ぎていく。ここを通るということは、第九の職員だろう。
「30分で戻れって。職員食堂まで行ってたら間に合わないよな」
「売店で弁当買うしかないだろ。あれなら待ち時間なしだ」
「寒いのに冷たい弁当かよ。ああ~、鍋焼きうどんが食いたかったのに」
「時間に遅れたら、室長の回し蹴りが来るぞ。容赦ないぞ、あのひとの蹴りは」
「命がけだよな。薪さんの部下でいるのって」
 そんな会話を交わしながら、第九の職員たちは去っていった。
 昼にうどんも食べられないなんて、なんて哀れなんだろう。うちのADだってここまで酷い扱いは受けていない。

「あれ? さっきの。三浦さんでしたよね」
 声のした方向に顔を向けると、背の高い眼鏡をかけた男が、エントランスの自販機で緑茶のペットボトルを買っていた。
「すみません。緊急の事件が入ってしまって。まだ例のDVDは、室長に見てもらってないんです」
「いや、いいです。ちょっと直さなきゃいけないところもあるみたいですし」
 薪が部下に感謝を述べた箇所は、修正が必要だ。この国で唯一の国営放送として、嘘は放映できない。すでにADには連絡を入れてある。局の編集室でVTRをセットして、自分を待っているはずだ。
 叔父もタヌキだが、薪の猫かぶりはその上を行く。もう、警察官なんて信じられない。

「青木さんは、皆さんと一緒に食事に行かないんですか?」
「オレ、弁当なんです。今日は何かなあ」
 めちゃくちゃにやけた顔をしている。これは間違いなく愛妻弁当だ。
 左手の薬指には何もしていないからまだ独身らしいが、きっと恋人が作ってくれているのだろう。

「その袋って珈琲問屋のですよね。三浦さんもコーヒーお好きなんですか」
 せっかく薪に買ってきた豆だが、とても渡す気になれない。この前あげた豆も返してもらいたいくらいだ。
「うちの室長もコーヒーが大好きで。オレが淹れたコーヒーを、とても美味そうに飲んでくれるんですよ」
「あんな怖いひとのために、コーヒーの勉強をしてるんですか?」
「薪さんは怖くないです。本当はすごくやさしいんですよ」
「やさしい人が、あんな風に怒鳴るんですか?」
 青木が不思議そうな顔をする。三浦にモニタールームの内情を知られていることを訝しく思ったのだろう。
「田城さんがドアを開けてたときに、中の声が聞こえてきたんです。皆さん一生懸命やってるのに、怒鳴られてばかりなんて。やってられないですよね」
 三浦が職員たちに同情すると、青木はにっこりと笑って「それは違います」と言った。
「今日は進行中の事件があって、早く犯人を見つけないと被害者が増えてしまう可能性が高いので、躍起になってるんです。これ以上の犠牲者を出さないために、自分の身を削って捜査を続けるんですよ、あのひとは。
 今もそうです。みんなには休憩をあげたけど、自分は食事もしないでモニターを見てます。たぶん、今日も徹夜です。みんなには仮眠を取らせるけど、自分は限界まで眠らないんです。
 だからいつも、突然倒れちゃうんですよ。あの癖だけは直して欲しいんですけど」
 本当だろうか。警察官は信じられない。

「オレ、心の底から室長を尊敬してます。みんなもそうですよ。口ではなんのかんのと文句を言ってますけど、みんな室長のことが好きなんです」
 熱っぽい口調だ。この男は心からそう思っているのだろうか。
「バカとかカスとか言われてもですか?」
「オレ、室長にラッパって言われたことあります。意味わかんないですよね」
「ほんと。どういう意味なんでしょうね」

 この青木という男は不思議だ。
 なんとなくひとを、やさしい気持ちにさせる。くつろがせる。落ち着かせる。
 その誠実そうな外見のせいか。それとも包容力のありそうな大きな体躯のせいだろうか。

「これ、室長へのお礼です。青木さんから渡しておいて貰えますか?」
「ありがとうございます。タンザニアのキリマンジャロ・キボーですか。これ、美味しいですよね。酸味が少し強めなんですけど、その分後味が良くて」
 さすがに詳しい。キリマンにも種類があるのか。

「薪さん、喜ぶだろうな」
 その時の青木の顔は、猜疑心に固まっていた三浦の心をさっと溶かした。

 大切な人の幸せを願って浮かべる、崇高な微笑。
 母親が子供の幸せを、夫が妻の幸せを願うときのような私欲のない微笑。

 この男は、本当に室長のことが好きなのだ。室長はこの誠実な男に、心からの尊敬と献身を受けているのだ。
 第九の職員は、やはり幸せなのかもしれない。少なくともこの男は幸せそうだ。

 きちんと頭を下げて三浦に礼を言うと、青木はモニタールームに戻っていった。
 その大きな背中を見送ってから、三浦は立ち上がった。
 思いついて携帯を取り出す。リダイヤルボタンを押すと3コールでADが出た。
「さっきのVTRだけど、そのままで行くから。編集なしで」
 せっかく用意したのに、と不平を言う声が聞こえる。普段ならそれがADの仕事だろ、と素っ気無く言うところだが、今日はちゃんと謝ることにした。
「うん。悪かった。すまん」
 ADはびっくりしたらしく、いえこちらこそすいません、などと聞きなれない言葉を返してくる。三浦はエントランスを抜けて屋外に出ると、第九の建物を見上げた。

 無機質な飾り気のない建物の中で、薪はモニターを見ているのだろう。
 あの忠実な部下と共に、一心不乱に捜査をしているのだろう。薪の言ったようにMRIが無用の長物となる日まで、彼らの努力は淀みなく続けられるのだろう。

 自分が贈ったコーヒーを美味そうに飲む薪の姿を想像しながら、三浦は放送局への道を歩き始めた。


 ―了―




(2009.1)


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

プレゼント あとがきに代えて ~心からお礼申し上げます~

 作中では、新しい年が始まりました。
 本当に季節感ないですね。リアリティも文章力もありませんけど。
 あるのは薪さんへの愛だけですね。(はっ。疑われてる……?)


 ところで。

 以前のあとがきにも書いたんですが、拍手していただいた数がすごく多くて、本人、感激してます。
 もう、めちゃめちゃうれしくて。(カウンタが壊れてるんじゃないか、という可能性にはあえて目をつむります)

 こんな規格外のお話、載せてもだれも読んでくれる人いないだろーな、と自嘲しつつ、みなさまの端っこに加わりたくて始めたブログですから、拍手をいただけるなんて夢にも思いませんでした。
 それもこんなにたくさん。
 このお話は全部で26話あるのですが、それをすべてUPしたとして、100拍手もいただけたら上等だ、と不遜ながらも密かに野望を抱いておりました。

 それがまだ、開設して1ヶ月も経たないのに。
 わたしは幸せ者です。マジ泣き入ってます。
 で、拙作を読んでくださったみなさまに、なんとかしてお礼がしたい、と思いました。

 こんなとき、他のサイトさまは、きれいな画を載せてらっしゃるんですよね。
 わたしも画が描ければいいんですけど……そっちはからっきしダメなので。

 わたしに操れるのは文章だけなので、(かなり不自由ですが)おこがましいとは思いましたが、また、こんなのがお礼になるのかどうか、だいぶあやしいのですが、
 SSのリクエストがあれば、お受けしたいと考えております。

 500拍手の記念に、特別編ということで、と目論んでおりますので、こんな話を見てみたい、という奇特な方がいらっしゃったら、コメをいただけると嬉しいです。
(あおまき、すずまき、おかまき、ゆきまき……はちょっとパスです。
 ラブラブ、ほのぼの、ギャグ、ケンカ、真面目に事件、三角関係、イタグロ、R……は、ええと、グロイですよ?)
 薪さん女性化以外なら、なんでもお受けします。(主人公が女になった途端、何も書けなくなるわたし)

 もちろん、スルーOKです。
 よけいなものを書かずに、さっさと先をUPしろ、というご意見でも、それはそれでうれしいです。
 とにかく、みなさまへの感謝を形にしたいだけなので。

 ご意見、お待ちしております。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

岡部警部の憂鬱(1)

 8月号、2回目読みました。

 ……………………。(再涙)  おかまき小説、UPします。


 べつに怒ってるわけじゃなくて。(笑)
 千堂大臣との会見中、ずっと岡部さんが薪さんを心配そうに見ていたのがツボにはまりまして。
 ああ、やっぱり岡部さん、好きです。青木さんとは違う、大きな愛を感じます。(てか、薪さんの気持ちに気付いてますよね。岡部さん、鋭いひとですから)
 決して肉欲に結びつかない愛なんですよね。騎士道精神に近い。ある意味、究極だと思います。

 そんなわけで、この話は「岡部さんと薪さんの馴れ初め」です。
 モトネタはもちろん、『A PIECE OF ILLUSION』です。設定とか、まんまです。
 あの状況で、もう少し岡部さんが薪さんに突っ込んでいく、みたいな話です。
 うちの薪さんなんで、めちゃめちゃに乱れちゃってますけど。そこはいつものように片目つむってご笑覧ください。





岡部警部の憂鬱(1)





 自覚がないというのは、時として困りものだ。
 それは自身の怠慢に対してだったり、ちょっとした悪心に対してだったりすることが多いのだが、自分の美点に対して自覚がないのも、周囲の人間を苛立たせてしまうものらしい。

「いいかげんにしてくださいよ!」
 朝日の差し込むダイニングに、青木の大きな声が響いた。
「室長は、ケーキもおでんも食べちゃダメなんですよ! でもって、赤い愛車に乗って女装して目隠しプレイして! それをなんですか。カップラーメンは食べるわ納豆は食べるわ、おまけに平気で人前で裸になるし、とにかく、オレの夢を壊さないでください!」
 取り乱した挙句にわけのわからないことを叫んで、第九の新人はリビングのほうへ歩いて行ってしまった。
 そのままガチャン、と玄関のドアが閉まる音がする。怒りながらも薪に頼まれた買い物に出たらしい。

「岡部……僕時々、あいつの言う事がよく分からないんだけど」
 不思議そうな表情で小首を傾げた薪に、なんと説明してよいものか。
 言葉に詰まった岡部は、無言で首を振った。

 薪のマンションのキッチンで、岡部は朝食の用意を手伝っている。

 昨夜はこの家で、青木と3人で飲んで、そのままリビングで雑魚寝した。以前は薪と2人でよく飲んでいたが、この頃はそこに青木が加わることが多くなった。
 主な酒の肴は、新しく導入されたシステムのことだ。
 このシステムが発売されたのは、昨年の春。
 時間短縮に役立つ新しい商品にすぐに目をつけた薪が、所長の田城を口説きにいったのは5月のことだ。あの時は、三田村のせいでうまく田城を丸め込む―――― もとい、説得することができずに諦めかけていたのだが、秋の初めに起きた水面下の事件がきっかけとなり、三田村が地方の所轄へ異動になったあと、田城のほうから声を掛けてきてくれた。
 薪の実力を高く評価してくれている田城のこと、三田村にひどい目に遭わされながらも耐え続けた薪への褒美と取ってもいいだろう。

 田城のおかげで追加予算が認められ、そのシステムが導入されてから、第九の勤務体制はいくらか人間らしくなった。
 週36時間労働が叫ばれている昨今、毎日のように残業続きの研究室は第九くらいのものだ。そのことを、所長の田城はちゃんと理解してくれている。

 仕事以外のことに使うべき余暇を、室長とのコミュニケーションに費やすのは本末転倒のような気もするが、こういうときには薪は、仕事の話はあまりしない。
 昨日も薪が欲しがっている新しいPCソフトの話や、岡部の母親が家庭菜園に凝っていること、車好きの青木が休みの日に行って来たサーキットの話など、仕事には関係のない話が多かった。

「ケーキはそんなに好きじゃないからいいけど、おでんは美味いよな。なんで食べちゃいけないんだ? そういえば、昨夜も僕がラーメン食ってたら怒ったよな」
 遅くまで喋っていたから小腹が空いて、手を掛けるのは面倒なので、お湯を注ぐだけのカップ麺を食べた。その時も、なんだか青木は似たようなことを言っていた。
「あいつ、自分だって食ったくせに。なんで僕が食うと怒るんだろう」
 見事な包丁捌きで味噌汁に入れる大根を刻みながら、第九の新人の謎の言動に薪は首をかしげている。何か自分に落ち度があったか、と己を振り返ってみる。が、
「自分ちのカップメン食って、どうしてあいつに怒られなきゃならないんだ」
 次の瞬間には、理不尽な非難への憤慨に変わる。薪の感情は変化が激しい。
「赤い愛車? 女装? ……目隠しって、なに?」
「薪さんは知らないほうが幸せです」

 それは冗談にしても、顔に似合わない行動が薪の得意技だと岡部も思っている。たしかに、薪の容姿に日本のこの伝統食はあまりにもそぐわない。
「ネギ買って来てくれって頼んだのが、そんなに嫌だったのかな。でも、納豆にはネギがないとな」
 青木が急に怒り出した原因を、あれこれと考えている。さまざまな仮説を立ててそれを検証するのは、もはや薪にとっては第2の本能のようなものだ。
「そうか、あいつ西日本の出身だっけ。きっと納豆が嫌いなんだ」
 第九の天才が自信たっぷりに言い切ったその説が的外れなことは知っていた岡部だったが、妙に納得した表情でしきりに頷く薪を見ていると、何も言えなくなってしまう。

「旨いのに。これが食べられないなんて、可哀想なやつ」
 本当の理由を知らない室長がカワイソウです。

 よく混ぜたほうが美味いんだよな、などと言いながら一生懸命箸で納豆をかき混ぜている。岡部の目には可愛らしく映るが、薪の容姿に惹かれて来たものにとってはイメージダウンもいいところだ。
「でも嫌いじゃ仕方ないな。卵焼きでも作っておいてやるか」
 ぶつくさ言いながらも冷蔵庫を開けて、卵を取り出す。文句は多いが手は良く動く。
「岡部も食べるか?」
「はい。ぜひ」
 薪が作る卵焼きは、とても美味しいのだ。

 岡部は何度か薪のマンションに泊まらせてもらって、その度に朝食をご馳走になっている。
 初めはこんなに気さくな人だとは思わなかったから驚いたが、薪は基本的に来客は歓迎するほうだ。これもまた見かけによらないことだが、料理も上手でよく気も利く。
 一人暮らしが長いせいだと本人は言っているが、こういうことは持って生まれた性格で、何年経っても気が利かない人間も中にはいる。得てして、美人ほどそういう傾向があるようだ。

 意識が自分に向いていて、周りに対して関心がない人間ほど気配りができないものだが、薪はそうではない。逆に自分には無頓着で、周りに気を使うほうだ。
 小さい頃に両親を亡くして叔母の家で育ったというから、年少の頃から周囲に気を配る生活を強いられてきたのだろう。その少年時代が、薪のこの不思議な性格を作り上げたのかもしれない。
 わがままで自分勝手なのに、気配り上手で人を喜ばせるツボを押さえている。矛盾だらけの性質は、岡部にとっては面白い。

 本当に、最初はこんな人だとは思わなかった。

 聞き及んでいた署内の噂も岡部の第一印象も、見事に裏切られた。最初に会った時には最悪だと思っていたのに、いまは一生このひとについていきたいと思っている。
 あの頃はまた、薪にとっても特別つらい時期だった。だからよけいに印象も悪かった。
 しかし、逆のことも言える。あの時期に知り合うことができたからこそ、今の岡部と薪の信頼関係があるのだ。

「もう、大丈夫みたいですね」
 心の中の思考に対する答えが、つい口に出た。
 なにが、と聞き返されると思ったが、薪は卵をかき混ぜる手を止めて苦笑した。
「誰かといるときはたいてい大丈夫なんだ。安心するのかな。ひとりだと、まだ3日に1度くらいは見ちゃうかな……」
 まだ、そんなに頻繁に見るのか。見掛けほど回復してはいないようだ。

 無理もない。
 あの頃の薪は、壊れかけていた。精神を病まなかったのが不思議なくらいだった。
 笑うどころか普通に泣くこともできずに、不安定な心であちらの世界と現実とを行ったりきたりしていた。

「でも、もう平気だぞ。だっていつも同じ内容だろ。昔の映画を何度も見てるようなもんだ。さすがに飽きてきたな」
 岡部の心配顔に気を使ってか、薪はことさら明るい調子で軽口をたたく。そんなことは微塵も思っていないくせに、こういうところは相変わらずだ。
「去年の夏は、半そでの服も着てただろ? 今年は水着も大丈夫だぞ、きっと」
 あの事件から1年半が過ぎた現在、薪はこうして冗談を言えるくらいには心の平穏を取り戻している。しかし未だ、昔の写真にあったような笑顔の薪を見ることはできない。
 もっと足繁く通ってやれればいいのだが、岡部は4年前に父親を亡くして、今は母親と2人暮らしだ。こちらに通い詰めると、今度は親が心配である。

「青木に頼んだらどうですか? あいつならヒマそうだし、朝食つけてやれば、二つ返事で引き受けてくれるんじゃないですか?」
 フライパンに卵を流し込み、器用に巻き込みながら、薪は岡部の提案を却下した。
「それはダメだ。青木は部下だし」
「俺も部下ですけど」
「おまえには初めから見られちゃってるからな。カッコイイ上司の役は諦めたんだ」
 かっこいい上司、という薪の言葉につい笑ってしまう。薪の発想は、ときどきとてもユニークだ。
「薪さんは十分、カッコイイ上司ですよ」
「そうか?」
 うれしそうだ。
 かわいい、と称されることが多い薪だが、中身は普通の男なので「カッコイイ」と言われると、単純に嬉しいらしい。そういうところが可愛らしさを助長していることに気付いていないのが、また薪らしい。

「僕のあんなところを知るのは、おまえだけで充分だ」
「なるべく、顔を出すようにしますよ」
「気を使わせて済まないな」
「いいえ。俺もここの朝メシは楽しみですから」
「おまえらの目的は結局それか。なんで僕の周りにはこう、食い意地の張ったやつらが多いのかな」
 ぶつぶつ言いながらもせっせと朝食を作ってくれる薪のきれいな横顔を見ながら、岡部は薪と出会ったばかりのことを思い出していた。



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岡部警部の憂鬱(2)

岡部警部の憂鬱(2)







 岡部が薪と初めて会ったのは、2年前の夏である。
 所轄での功績が認められ、憧れの捜査一課に配属になって、岡部は張り切って仕事に取り組んでいた。代々の課長をノンキャリアが努める慣習になっていることでも分かるように、捜査一課は完全な実力主義の世界。ここの水は、岡部にぴったりだった。
 その頃コンビを組んでいたのは、竹内という後輩だ。竹内は京大出のキャリアだったが、ノンキャリアの自分を見下すこともなく、よく慕ってくれていた。
 しかし、岡部が捜一にいられたのは、たったの4年。新設の第九研究室で起きたあの事件の直後、岡部は第九に引き抜かれたのだ。

 それは、警察組織全体を揺るがすような大事件だった。

 第九の室長の薪警視正が、部下の鈴木警視を勤務時間中に射殺した。
 2059年8月9日の早朝、鈴木警視は拳銃の保管庫から銃を強奪。第九の要であるMRIシステムを破壊した上、室長の薪警視正に2発の銃弾を発砲。鈴木警視には明らかな錯乱状態が認められ、身の危険を感じた薪警視正に拳銃で胸を撃ち抜かれる、といった光景が防犯カメラの映像にはっきりと残されており、薪の正当防衛が認められた。
 そんな大事件の当事者たる薪室長に降格人事はなく、たった3ヶ月の減俸処分で済んだのは、かねてからの彼の高い実績と、警察庁官房室室長の小野田聖司の力によるものだった、と岡部は聞いている。

 彼を第九の室長に抜擢した当時、小野田は官房長に昇任したばかりだった。その頃から目をかけていた薪を庇ってのことだったらしいが、岡部にはひどく甘い処分に思えた。
 正当防衛とはいえ、部下を撃ち殺したのだ。どう考えても、普通なら島流しだ。
 大きなミスをしたキャリアは出世街道から脱落し、外郭団体に左遷されたりして、二度と桧舞台に帰ってくることはできない。それは例え失敗をしても、小さな実績を積み重ねていけば再び返り咲くことができるノンキャリアよりも厳しい世界だ。
 それが降格人事すらないとは。

 警察は公正であるべきだ、と岡部は常々考えている。
 身内の交通違反を揉み消すことすら許せない、と思うくらいなのだ。それがこんな大事件を起こしておいて、なんのお咎めもなしとは、とうてい信じられない。

 薪は警察庁始まって以来の天才と謳われていて、警視正に昇任したのが、なんと27の時だという。
 普通、警視正に昇任できるのは最短ルートを辿ったとしても35歳。警視正の昇格試験を過去最高得点でパスしたというが、官房長の特別承認がなければありえない人事だ。
 それから、ロスに1年ほど海外研修に行っている。
 海外研修で箔をつけて、翌年には第九の準備室長に就任し、そのまま第九の正式な室長として在任―――― あの事件が起こるまでは、順風満帆の出世街道だったのだ。

 しかし、警察内部の多くのものが囁くように、筆記試験で捜査の実力が測れるものではない。むしろ、知識ばかりを詰め込んだ頭でっかちの現場を知らない捜査官など、実際の捜査では邪魔なだけだ。エリート集団の第九をまとめ上げるには試験の結果が物を言うのかもしれないが、ノンキャリアの岡部は、もちろんそういう連中に反感を持っている。
 現場を這いずり回るようにして証拠品を探し、風雨に耐えながら聞き込みを続けて、ようやく犯人を検挙する岡部たちにとって、現場の悲惨さも見ることなく、被害者遺族の嘆きも聞かず、血の匂いさえ嗅がずに捜一の捜査資料だけを奪っていって、モニターを見ることだけで事件を解決してしまう第九は、この世で一番憎らしい連中だ。室長といえば、その親玉だ。実際、捜一の中にはこの事件が起きた時、宿敵第九の窮地に祝杯を挙げた輩もいたほどだ。
 犬猿の仲の第九とはいえ、同じ警察官が亡くなっているのだから、岡部にはそこまでの非常識さはなかったが、これで第九が潰れてしまえばいい、と心の中で思っていたのは事実だ。

 その自分が第九へ――――!?

 警視総監の直々の人事異動とはいえ、岡部は嫌でたまらなかった。
 だいたい、自分はキャリアではないし、難しいMRIの機器操作などわからない。普通のPCでさえ苦手なのに、MRIシステムなどというPCのお化けのようなものを使って捜査をするなんて。
 しかも、人間の脳を見るというではないか。医者でも科学者でもない自分が、そんな人の道に外れるような真似をしなければならないなんて。

 しかし、警察というところは、上役の命令に逆らうことは許されない。
 どんな結果になるにせよ、一旦は第九に勤めなければならない。使い物にならないと思えば、室長のほうから異動を勧めてくるだろう。そうしたら捜一に帰ってくれば良い。課長もできるだけ、自分がここに戻ってこれるように手を打つ、と約束してくれた。

 同僚たちが開いてくれた送別会の席で、岡部は捜一の先輩から、新しい上司の情報をあれこれ仕入れることができた。
「とにかく嫌なやつだよ」
 捜査会議で何度か一緒になったことがあるという先輩の薪に対する評価は、それに尽きるようだった。

 薪は警大卒業後、最初から捜一に配属されるという異例人事だったらしい。
 捜一は警視庁の花形部署だ。普通、そう簡単に入れるところではない。
 警大での優秀な成績と、教官の強力な推薦と、本人のたっての希望だったらしいが、何年も所轄で地味な下積みを経てようやく捜一に行くことができた岡部とは、えらい違いだ。ここらへんも、なんだか面白くない。

 一般に、キャリアは入庁後、まずは警察大学に入学する。
 大学で身につけるのは、管理者としての知識だ。現場の警察官を養成する警察学校とは、学ぶことも求められることも、まるで違う。たとえば警察学校では柔道の初段が必須課題だが、大学ではそんな課題はない。現場に出て犯人を捕まえるのが、キャリアの仕事ではないからだ。
 警大を卒業すると、最初は地方の所轄に係長クラスの配属となり、6ヶ月の実地研修を経て、警察庁に戻る。内部勤務を経て、また所轄に出る。それを何年か繰り返すだけで自動的に階級が上がっていく―――― のは、薪が警察庁に入庁する2年前までの話だ。
 現在はキャリアにも、一般の警察官と同様、昇格試験という制度が導入されている。
 キャリアの昇格試験は、岡部たちの受ける一般の昇任試験より遥かに難しい。
 問題は一般にも公開されているが、警部用の一番簡単な昇格試験でさえ、岡部にはちんぷんかんぷんである。ましてや警視正用の昇格試験ともなると、異世界の話のようだ。次元が違う。それを薪は27の時に一発で、しかも最高得点記録というおまけまでつけてパスしている。
 ……ますます面白くない。

「頭は切れるのかもしれないけど、人間的にはちょっとな。試験のように現実の事件が解決できるなら、誰も苦労しないって。上の連中は、それを分かっていないんだ」
 普段は他人を悪く言う先輩ではないだけに、この人物評には信憑性があった。

 他の誰に聞いても、薪の評判はよくない。
 皮肉屋で嫌味ったらしくて気取り屋。傲岸不遜で傍若無人。
 仕事には熱心だが、部下の人権を一切認めず、自分の奴隷でもあるかのように扱う。室長の冷酷非道な仕打ちによる精神的な苦痛から、第九の職員たちは一様に痩せ衰えていくという。「中年太りを解消したけりゃ第九に行け」などという笑い話まであるくらいだ。

 薪の噂を聞けば聞くほど、岡部はこの異動が嫌になった。
 捜一の課長は自分と同じノンキャリアで、現場のことを良く分かってくれているし、岡部とはとても話が合う。
 せっかくいい上司と同僚に恵まれて、やりがいのある仕事をしていたというのに、これからは暗い部屋の中で岡部の嫌いなPCのお化けに囲まれて、学歴を鼻にかけた嫌味な上司の下で働かなくてはならないのか、と思うと泣けてくる。
 何事にも前向きな岡部だが、今回ばかりはため息が出てしまう。
 そんな岡部の表情を気にしてか、竹内が心配そうにやってきた。ビール瓶を傾け、岡部のグラスに注ぎながら、こちらもまたしょぼくれた顔をしている。
 
「岡部さん……行っちゃうんですね」
 竹内とは現場でコンビを組んでいる。竹内はキャリア組だが、素直で頑張り屋の後輩だ。
「岡部さんがいなくなったら、俺」
「大丈夫。薄井さんは俺より優秀だぞ」
「でも。俺は岡部さんとずっと一緒に仕事がしたかったです」
 岡部だとて、キャリアすべてに反感を持っているわけではない。こうして自分を慕ってくれれば、純粋に可愛いやつだと思える。

 泣きそうな顔をしている竹内に、『すぐに帰ってくる』と誓いを立てて、岡部は捜査一課を離れたのだった。



*****


 以前にも説明を入れた昇格試験ですが。
 これは、このお話だけの設定です。(現実のキャリアは自動昇任です)
 また、岡部さんはノンキャリアという設定で書いてます。(本当はエリートなんですよね) 
 勝手に設定を変えてしまってすみません。



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岡部警部の憂鬱(3)

岡部警部の憂鬱(3)








 嫌々ながらも研究所所長の田城に連れられて、室長の薪に挨拶に行った岡部は、そこでますます第九が嫌いになった。
 壁一面の巨大なスクリーン。わけの解らない難しそうな機械が、我が物顔に占拠する部屋。捜一の3倍は広い。
 窓のブラインドは、すべて下ろされている。モニターを見続ける仕事のため、日光は完全に遮断されている。明るい光が差し込み、外の風景を見ることができる捜一とはだいぶ違う。
 岡部のように、外の仕事が好きな人間は、それだけでげんなりする。この部屋でずっとPCの画面を見続けるなんて、まるで引きこもりのようだ。

 初めて会う室長は、徹夜明けの不機嫌な顔で、だらしなく着込んだワイシャツ一枚という格好で岡部を迎えた。
 その幼い顔に、岡部は心底びっくりした。
 自分より1歳年下だと聞いていたが、どう見ても高校生くらいにしか見えない。というか、男にも見えない。
 室内から出たことのない第九の室長らしく、真っ白な肌に貧弱な身体。亜麻色の髪と同じ色の瞳。えらく長い睫毛と、こじんまりした鼻。てかてかと光るくちびる。
 こいつ、男のクセに化粧してやがる―――― 真面目にそう思った。

 そのなよなよした外見からは想像もつかないような言葉が、小さな口から飛び出してきた時には、岡部は二度びっくりした。
「僕の部下は、前の捜査で全員死んだんです。だから今はたった一人の室長です」
 きれいな澄まし顔で、室長は他人事のように言った。
「まったく、情けないやつらです。画を見ただけで自殺なんて考えられない。精神的に脆い連中だったんですよ。まあ、一人は僕が撃ち殺したんですけど」
 なんて言い草だ。
 人間味のない男だという話は聞いていたが、一緒に仕事をしていた部下が死んだというのに、こいつにはひとの心がないのか。
 ましてや自分が射殺したのは、大学時代からの友人だというではないか。そのことに対する後悔すらないのか。
 現場で切羽詰った状況で、犯人に発砲しなければならない時ですら、人に凶器を向けることに躊躇いを感じる岡部には、想像もできない心理だ。
 
「だからあなたのことは歓迎しますよ、岡部警部。捜一のエースのあなたなら、そんなことはないでしょうから」
 冷たい微笑。氷のような、ぞっとするような笑顔だ。
「僕より強そうだし。僕に殺されることもないでしょう」

 岡部に薪の情報を教えてくれた先輩は、あれでも遠慮してくれていたのだ。これからその人でなしの下で働かなければならない岡部を気遣って「人間的にはちょっと」などという曖昧な表現に留めたのだ、と岡部は気付いた。
 見掛けはたしかにきれいだが、こいつは人間の皮を被った悪鬼だ。

 あの事件からまだ2週間しか経っていないというのに、平然とした顔で仕事をしている。
 正当防衛とはいえ、部下を殺しておいてそのまま室長の座に居座り続けるという無神経さも、岡部には理解できない。
 これがもし自分だったら、自ら責任を取って室長の役職を返上し、降格人事を求めたことだろう。なにかしら責めを負わなくては自分自身が許せないに違いない。それが人間というものだ。

 ひとりも部下がいないとの言葉通り、薪は自らコーヒーを淹れて、来客用の紙コップに注いで岡部に勧めた。
「大丈夫ですよ。毒なんか入ってませんから」
 いちいち勘に障る言い方だ。
 自分はいま、険悪な表情をしている。それは百も承知だったが、岡部にはどうすることもできなかった。
 相手はこれから一緒に仕事をする上司なのだ。これはまずい。まずいが、愛想笑いなどできない。岡部はそれほど器用な人間ではなかった。

 コーヒーを受け取ろうとしない岡部を、小馬鹿にしたように薪は言った。
「僕が怖いですか?」
 思わず、差し出されたコーヒーを振り払っていた。
 あっと思った時には遅かった。リノリウムの床にコーヒーがこぼれる。
 平静な顔のまま、第九の室長は両手を腰に当てて、岡部を睥睨した。気取った嫌味な口調で岡部に命令する。
「あなたの初仕事は床の掃除です。ちゃんと拭いておいてください。僕は部屋で寝ますから」
 岡部の返事を待たずに、室長室へ入っていってしまう。所長の田城とともに取り残される形になって、岡部は奥歯を噛み締めた。

 初めて会った人間を、こんなに憎らしく思ったことはない。捜査に先入観は禁物だからだ。
 しかし、この男は特別だ。何もかもが許せない。

「悪いね、岡部くん。薪くんはちょっと変わり者でね」
 雑巾で床を拭いている岡部に、所長が声を掛けてくる。
 所長の田城は、『仏の田城』の異名を持つくらいの人物で、薪のことも悪くは思っていないようだ。薪のことを「ちょっと変わり者」などという生易しい言葉で表現するものなど、署内では田城くらいのものだ。

「あんなふうだけど、薪くんは本当はそんなに残酷な人間じゃないから」
 田城には目がついていないのか。それともこの世に心の底から悪い人間などいない、とでも思っているのだろうか。
 岡部も基本的には性善説に賛同していたが、何事にも例外はある。薪は完全に『例外』のほうだ。
「そうなんですか? 俺にはとても」
「君、心配そうな顔をして薪くんを見てたろ。彼なりに君を心配させまいとして、あんな言い方をしたんだと思うよ」
 心配などしていない。自分の行く末が不安だっただけだ。
「どんだけ屈折してんですか」
「そういう人なんだよ。一緒に仕事すれば分かることだから初めに言っとくけど、薪くんは言ってることとやってることがまるで違うひとだから。あの口に騙されちゃだめだよ。あと、あの見かけにも。あれで柔道は2段だからね」
 それは初耳だ。あの貧相な身体で黒帯とは。

 警察学校を卒業した岡部はもちろん有段者だが、薪はキャリアだからその必要はなかったはずだ。
 自分で習得したということか。努力は認めるが、だからといって薪の人間性が変わるわけでもない。

 あれが第九の室長。あれが自分の新しい上司。
 人間的に尊敬のできない上司ほど、始末の悪いものはない。あんな人でなしの命令に従わなければならないなんて。

「ああ、捜一に帰りたい……」
 第九着任後、わずか30分で。
 早くも捜一にホームシックを感じる岡部であった。



*****

 うふふ。
 やさぐれ薪さん。かわいい

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

岡部警部の憂鬱(4)

岡部警部の憂鬱(4)








 岡部が第九に着任した日の午後、早速最初の捜査が始まった。
 事件の概要説明にかかった室長は、捜一から回って来た『コンビニ店員殺傷事件』の捜査報告をメモひとつ見ずに流暢に行い、それがまた岡部を苛立たせた。
 岡部よりも年の若い小池と曽我は、ただ素直に驚いているようだったが、岡部には室長の行為は、自分の記憶力の良さを新しい部下たちに見せ付けるためのパフォーマンスとしか思えなかった。

 薪の説明が、上手すぎるのも気に入らない。
 この事件は捜一で岡部が調べていた事件だから、内容は岡部のほうが良く分かっている。
 しかし、薪の説明は微に入り細に入り、散文的な捜査資料から実に細かいニュアンスまで精確に読み取って説明している。まるで自分が現場に出て捜査をしたかのようだ。

「岡部警部。何か私の説明に追加することがあればお願いします」
 はっきり言って、ない。
 しかしそれは、表面上のことである。捜査資料に現れない影の部分―――― 聞き込みを行なった時の感触や、人間関係の微妙な部分は、その場に居合わせたものしか分からない感覚だ。こういうものが捜査には大事なことなのだ。
 が、それを説明し始めた岡部の言葉は、説明を求めたはずの人物に途中で遮られた。
「MRIを見たほうが早いし、明確です」
 それが薪の言い分だった。

 見せ付けられたMRIの画に、岡部は打ちのめされた。
 視覚者の主観が現れるMRIは、画の持ち主の感情をあからさまに映し出す。自分が好きだと思う人間は美しく、嫌いな人間は醜く映る。聞き込みで得られる確証のない感覚など入る余地がない。

 これが科学捜査というものか。
 こんなにはっきりとその人間の気持ちが分かってしまうものなのか。それではこれまで自分が、刑事としてのカンを研ぎ澄まそうと積み重ねてきた努力は、なんだったのか。

「ご納得いただけましたか? 岡部警部」
 あなたの今までのやり方はここでは通用しません―――― そう言いたげな薪の高慢な口調に、岡部は思わず薪を睨みつけた。
 凶悪犯でもびびると評判の岡部の視線に、しかし薪は動じなかった。
 腕を組んで胸を張り、平然とした顔で岡部を見ている。身長は岡部よりずっと低いくせに、その目線は明らかに上からのものだ。

 かわいくない。
 見掛けはきれいかもしれないが、中身は真っ黒だ。
 おまえの実力の程は解っている。ここでは自分の言うことを聞いていればいいんだ―――― そういう目で岡部を見ている。

 あまり人を嫌ったり疎んじたりしたことのない岡部だったが、こいつだけは特別だ。
 嫌いだ。
 だいっきらいだ。

 ここに来て、薪の印象は最悪のものとなった。これ以上は落ちようがない上司の評価がさらに失墜する出来事があったのは、その夜のことである。

 一刻も早く捜一に戻りたい岡部は、早々と異動願いを書き上げて室長に渡す機会を待っていた。他の2人が帰ってからでないとさすがにまずいと思い、定刻を過ぎても帰らずにモニタールームにいた岡部は、そこで捜一によく顔を出す三田村の来訪を受けた。
「やあ、岡部くん。災難だったね、こんなところに異動になって」
 三田村は警察庁の警務部長だが、刑事部長の池澤と仲が良く、捜一にもなじみが深い人物だ。しかし、岡部はこの男があまり好きではなかった。
 警務部長という立場上、警察庁内の人事権を掌握している三田村は、お定まりの裏取引やワイロといった汚いことに馴染んでいる。曲がったことが嫌いな岡部は、この男を心の底で軽蔑していた。

「薪室長は、君とは合わんだろう。あの男は最低の人間だからな」
 あんたといい勝負だ。
 口には出さなかったが、岡部の顔は不機嫌だった。嫌いな人間ににこやかにできるほど、岡部は器用ではない。
「君は捜一にいるべき人間だからな。早く帰りたいだろう。わしの力でなんとかしてやってもいいが」
 それは願ってもないことだが、こいつに頼むのは嫌だ。どうせワイロを要求されるに決まっている。異動願いを出せば、後は捜一の課長が何とかしてくれる。三田村の力など要らないのだ。

「これはお珍しい。何の御用です? 三田村部長」
 室長室から、書類の束を抱えて薪が出てくる。
 残っていた岡部を見てすこし驚いているようだったが、まずは三田村のほうが先決だと思ったらしく、挑戦的な口調で問いかけた。
「激励に来たんだ。あんなことの後で、さぞかし大変だろうと思ってね」
「それはどうも。用が済んだらお引取り願いますよ。外部の人間がいると仕事ができないもので」
 薪は手近な机に書類を置き、一列に並んだモニターを3つとも起動させた。退室時間を大分廻っているが、これからまだ仕事をするつもりらしい。

「たいそうな口をきくじゃないか。あれだけの不祥事を起こしておいて、自分の立場を解っているのかね? 薪警視正」
 三田村の不遠慮な言葉に、薪は無表情の沈黙で応えた。
 動揺する気配はない。見かけによらず、図太い男だ。
「あの事件は、警察組織全体に泥を塗ったんだ。本来なら警視正の役職になどいられないはずだよ。君に少しでも申し訳ないという気持ちがあるのなら、自分から降格を申し出るのが当たり前だと思うがね」
 三田村のことは嫌いだが、岡部も同じことを考えていた。あれだけの不祥事に責任を取るものがいないなど、世間も納得しないだろう。

「あれは正当防衛ですよ。なぜ私が責任を取らなくてはならないんです?」
 それを自分で言うのか。
 信じられない。どこまでふてぶてしい男なのだ。
「君も偉くなったな。君が小野田官房長に泣きついて処分を免れたという話は、どうやら本当らしいな。自分には官房長がバックについている、というわけか。」
 まことしやかに囁かれている薪のパトロンの話に、三田村は触れてきた。
 そこは岡部も確かめておきたいところだ。もし、裏取引で室長の役職に留まったのが事実なら、ここで働くのはまっぴらだ。
「文字通りの意味合いだという噂は本当かね?」
 それはもっと密やかに囁かれている噂だ。
 しかしこれは、薪の外観を揶揄したタチの悪い冗談だろう、と岡部は踏んでいる。官房長には娘が3人もいたはずだ。

「三田村部長。申し訳ありませんが、人手が足りなくて報告書の作成が滞っているんです。くだらない冗談で、これ以上仕事の邪魔をしないで下さい。お帰りいただけないようなら」
 薪の目がぎらりと光って、三田村の顔を睨みすえた。
 なるほど、ひどく冷たい瞳だ。『氷の室長』という渾名はここからきたのか。
「官房長に言いつけますよ。もちろん、ベッドの中で」
 しれっとした顔で恐ろしいことを言って、薪は不毛な会話を終わらせた。
 三田村は怒りに顔を紅潮させて、足音も高く研究室から出て行った。今回の鍔迫り合いは、薪の圧勝だ。

 三田村が出て行くと、薪はすぐさまMRIシステムを起動させた。
 幾枚もの書類を両隣の机中に広げて、キャスターつきの椅子を滑らせるようにして書類の間を行き来しながら、両手でキーボードを叩き始める。
 その速さに、岡部は度肝を抜かれる。タイピングが苦手な岡部には、まるで神技だ。

 薪は3つのモニターを使って、ひとつの事件を3人の視覚者の視点から捜査しているようだ。その仕事ぶりは見事なもので、山のようにあった書類の束が、見る見る処理済の箱の中に放り込まれていく。
「あなたはどうして残っているんです?」
 てきぱきと仕事を捌きながら、薪は岡部に背中を向けたまま、居残りの理由を尋ねた。
「あ、いや。その」
 こんなに忙しそうな室長の姿を見てしまうと、異動願いが出しづらい。
 あんな不祥事を起こしたばかりで、第九の信用は地に落ちている。そんな部署に来たがる物好きはいない。
 小池と曽我のふたりも、おそらくは上司の命令にいやいや従っているに違いない。そこに年長者の自分が異動願いなど出してしまったらあの2人にも影響して、室長はまたひとりきりになってしまうかもしれない。
 少しだけ、可哀想な気もする。

「俺、何か手伝えますか?」
「この事件は昔のもので、僕にしか分かりません」
 前の部下がひとりもいないということは、中途だった事件の報告書はすべて薪がひとりで作成しないといけないわけだ。それでこんなに仕事が溜まっていて、昨日も徹夜だったわけか。だから今朝は虫の居所が悪くて、あんな口を。

 岡部には、他人の行動をなるべく善意に解釈しようとする傾向がある。基本的にお人好しなのだ。
 が、それに対する室長の言葉は、果てしなく冷たかった。
 
「あなたにできることなどありません。あなたはまだMRIシステムの操作ができないでしょう。いても無駄ですよ」
 それは事実だが、もう少し言い方というものがあるだろう。こっちは気を使って手伝いを申し出たというのに、本当にひとの心のわからないやつだ。
 さっきの三田村との会話にも、岡部はかなり憤っている。岡部の薪に対する印象は悪くなる一方だ。

「邪魔です。帰ってください。仕事をしない人間が側にいると、イライラするんです」
 カチンときた。
 と、同時に許せなくなった。
 この男は人格的にも人間的にも、最低だ。それがどんなに無神経なことでも、ひとこと云ってやらなければ気がすまない。

「さっきの三田村部長の話ですけど」
「僕が官房長に泣きついたって話ですか? 事実ですよ。もちろんベッド云々は冗談ですけど。官房長に頼んで、僕の降格処分は取り消してもらったんです。警視正以上でないと、室長に就任できない決まりですから」
 そんなに室長の座に居座りたいのか。そんなに出世が大事なのか。
 出世欲にまみれたキャリアは、岡部がこの世で一番嫌いな人種だ。この男はまさにそれだ。一緒の部屋にいて、同じ空気を吸うのもいやだ。

 薪の細い背中に向かって、岡部は厳しい口調で問い質した。
「責任を取ろうとは思わなかったのですか? 例えば室長を辞任するとか」
「馬鹿馬鹿しい。なぜ僕が室長を辞めなくてはならないんです?」
「でも、実際に亡くなった人がいるわけだし」
「それはただの自己満足でしょう。僕が室長を降りたからといって、彼が生き返るわけじゃない」
 友人の命を奪ったというのに、この男には罪悪感がないのか。
 心の底まで腐りきっている。嫌いを通り越して、吐き気がするほどだ。
「万が一、生き返ってきたらそれはお化けですよ。昔、そんな映画がありましね。ゾンビには塩が効くんでしたっけ」
 せせら笑う口調でキーボードを叩きながら、薪は楽しげに言った。

 もう、我慢できない。

 友人を殺しておいて、死者を冒涜するようなことを平然と口にする人間など、岡部が逮捕してきた犯罪者の中にもいなかった。みな、自分のしてしまったことを悔やんでいた。
 上司に逆らうのは警察ではご法度だが、こんなやつの下で働くなど1秒たりとも我慢できない。この異動願いを叩きつけて、捜一に帰ろう。

 背中を向けている薪の横に回りこみ、ポケットから封筒を出そうとしたとき。
 岡部はそれに気付いた。

 薪の顔は、言葉通り笑っている。しかし――――。
「室長……」
「なんです?」
 岡部が薪の横顔から目が離せない様子に気付き、薪は頭をめぐらせて岡部のほうを向いた。
「僕の顔になにか」
 ぼたぼたっとキーボードの上に、透明な液体が滴り落ちる。
 薪ははっとして両手で顔を隠した。
 手で触って初めて自分の涙に気付いたらしく、ひどく狼狽している。

「……出てけ」
「室長」
「見るな!出ていけっ!」
 ワイヤレスのキーボードが、岡部に投げつけられる。その剣幕に押されて、岡部は後ずさった。その隙に、薪は室長室に駆け込んで行った。
 岡部が室長室のドアに耳をつけると、中からは激しい嗚咽が聞こえてきた。
 声を殺そうとしているようだが、なかなかうまくいかないらしく、ときおり口汚く自分を罵る声が聞こえてくる。

 自分が泣いていたのにも気付かずに、あんなふうに喋っていたのか。普通の精神状態では考えられない。
 これは総監が危惧していた通りかもしれない――――。

 4人の捜査員を狂わせた貝沼の狂気に、薪室長も感化されているのではないか。
 警視総監はそれを疑っていた。それで岡部を第九に送り込んだのだ。
 薪のことは大嫌いだし、精神的に不安定な状態で室長の職務を全うすることができるとも思えない。
 総監は、薪を辞めさせたがっていた。
 このことを総監に報告すれば、いかに官房長のお気に入りとはいえ、薪の降格処分はまず間違いない。うがった見方をすれば、官房長とは反対の派閥に属する警視総監が、将来官房長の右腕になりそうな優秀な人材を今のうちに葬り去ろうとしているともとれるのだが。
 どちらにせよ、今日はまだ初日だ。結論を出すのは早すぎる。もう少し様子を見るべきだ。

 それにしても、なんてひどい上司だ。
 皮肉屋で冷血漢で嫌味ったらしくて、おまけに狂いかけている。

 薪に渡せなかった異動願いの封筒を見て、岡部は大きなため息をついた。


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岡部警部の憂鬱(5)

岡部警部の憂鬱(5)








 そんな最悪のスタートを切った岡部だったが、薪の仕事ぶりを見るうちに、その高い実力を評価しないわけにはいかなくなってきた。
 捜査の過程を見たわけではないが、仕上がった報告書を読めば、MRI捜査がどれだけの確証に基づいてなされているのか、よくわかる。添付された写真や資料が充実していることは、岡部が捜一で作成してきた報告書の3倍も厚いファイルが物語っている。

 捜一からの事件概要説明書は、しごく簡単なものだ。
 岡部はしたことがないが、捜一の中には第九への悪感情から微細な情報をわざと表示しないものもいる。間違いは重要指摘となるが、足りないものに関しては必要ないと判断した、と言い訳が立つからだ。
 それを読み解いて仮説を立てて検証して、足りない部分は補い不必要な情報は削除し、完璧な報告書に仕上げるまでには、何十時間ものMRI画像の検証が必要となる。
 いい上司だ、とはまだとても思えなかったが、薪の仕事に対する真摯な姿勢だけは共感できるものがあった。岡部に続いて入ってきた小池と曽我も、噂よりも穏やかで、丁寧にMRIシステムの操作方法を教えてくれる室長に、好感を抱いているようだった。

 この調子で、なんとかうまくやっていけそうだ。
 新しいスタートを切ったばかりの第九には、まだ大した仕事も来ない。よほどの大事件でもなければ、回してこないだろう。今はまだ、大きく崩れてしまった地盤を固めなおす時期だ。
 薪は室長として立派に仕事をこなし、常に冷静に職務にあたっている。取り乱したのはあのときだけだ。
 しかし、あれは無理もない。
 三田村に生傷を抉られるようなことを言われたのだ。室長にも、いくらかは人間らしいところがあるのだ。
 とにかく、総監が心配していたような貝沼の影響は微塵も見られない。総監には、薪警視正は室長の役職にふさわしい人物だと報告しよう。

 しかし。
 ほどなく岡部は、薪の心に巣食う貝沼の狂気の深淵を覗くことになる。

 その時、薪は曽我の後ろからモニターを覗き込み、曽我の手に自分の手を重ねて、MRI専用マウスの使い方のコツを伝授していた。
「この部分を拡大するには……」
「室長?」
 薪はふいに黙り込んだ。
 と思うと次の瞬間、曽我の背中に負ぶさるように倒れこんできた。
「室長!」
 曽我の左肩に細いあごを載せて目を閉じている。重なり合った睫毛は至近距離で見るとびっくりするくらい長い。
 顔色は蒼白だが、呼吸は穏やかだ。規則正しく、くーくーと聞こえてくる。
 これは。
 
「岡部さ~ん……」
「完全に眠ってるな、こりゃ」
 徹夜続きで、とうとう限界を超えてしまったらしい。脈も少し弱くなっている。眠れば元気になると思うが、さてどうしたものか。
 とりあえず仮眠室のベッドに寝かせることにして、岡部は曽我の背中から薪の身体を譲り受けた。抱き上げてみるとひどく軽い。岡部の母親のほうが重いくらいだ。こんな細い身体でろくに睡眠もとらず、仕事を続けて大丈夫なのだろうか。
 
「病院に連れて行ったほうが、いいんでしょうか?」
 小池が心配そうな声で尋ねる。
「そうだな。単なる寝不足だとは思うが」
「あたしが診ます。ベッドまで運んでください」
 騒ぎの最中に入ってきたと見えて、その女性の来訪に気付くものはいなかった。
 長身に白衣を纏い、背筋をぴんと伸ばして立っている。短く切り揃えた黒髪に、気の強そうな黒い瞳。手にはピザの箱を3つも持っている。
「はじめまして。監察医の三好雪子です。薪くんとは大学のときからの友人なの」
 三好のことは岡部も知っていた。解剖所見を持って、何度か捜一に来たことがある。しかし、薪と友人だったとは知らなかった。

「胸と背中を診るから、ちょっと支えててもらえます?」
 薪をベッドに座らせてワイシャツを脱がせる。眩しいくらいの白い肌があらわになる。が、その肌には幾筋ものみみずばれがあり、岡部を驚かせた。
「この傷って」
「女の爪の跡でしょ。お盛んね」
 きわどい冗談でその場を誤魔化そうとするが、監察医の三好にその原因が分らないわけはない。
 岡部も傷の原因は爪だと思うが、これは女の爪痕ではない。傷がついている場所もおかしい。情事の爪痕なら、たいていは背中に付くはずだ。
 しかし薪の場合、身体の前側の部分―――― 腕や肩、胸やわき腹といった部分が多い。
 その中でも、左腕と左肩の傷が深い。この深さは爪ではない。もっと何か硬いもの―――― 刃物ではない、先の尖ったボールペンのようなもので抉った痕だ。
 明らかに、自傷行為だ。
 ズボンを脱がせればたぶん、足にも同じような傷が見つかることだろう。

「あーあー、また痩せて。これ以上ダイエットして、どうする気かしら」
 ほんとうに細い。
 薪は夏でもきっちりとスーツを着ていたから、ここまで細いとは思わなかった。
 ごつごつした肩と背中。あばら骨のくっきり浮いた薄いむね。下半身もこの調子で、骨と皮ばかりという状態なのかもしれない。体質なのか、顔にはその影響があまり現れていないから、ここまで疲弊しているとは見抜けなかった。

 聴診器で心臓と肺に異常がないことを確かめてから、女医は岡部に笑いかけた。
「心配しなくても大丈夫。いつもの睡眠不足と低血糖。ゆっくり眠って、ごはんを食べれば直るから」
「いつものって?」
「このひと、昔からこうなの。仕事に夢中になると、飲まず食わず眠らずになっちゃうのよ。びっくりさせてごめんなさいね」
 こんな言い方をするところをみると、三好は友人ではなく恋人なのかもしれない。薪よりだいぶ背は高いようだが、気の強そうなところは良く似ている。さぞかし痴話喧嘩は激しいことだろう。

「前は、鈴木くんが注意してくれてたんだけど……いなくなっちゃったから。あなたに頼むのは無理かしら、岡部靖文さん」
「なんで俺の名前を」
「有名だもの。捜査一課のエースが第九に引き抜かれたって。薪くんも喜んでたのよ。優秀な人材が第九に来てくれるって」
「俺は優秀なんかじゃないですよ。キャリアじゃないし」
「キャリアもノンキャリアも、薪くんの目から見たらそう変わらないと思うけど。頭の中、宇宙人みたいなひとだから」
 たしかに。
 薪のレベルになると、周りの人間はすべて自分より下に思えてしまうのかもしれない。キャリアもノンキャリアも、ひとくくりになってしまうというわけか。

 だが、薪が岡部のことを高く評価していたというのは眉唾だ。あの態度からは、それは微塵も感じられない。三好なりの気の使い方なのかもしれないが、あまり気持ちの良いものではない。
「お世辞は結構ですよ。俺はここに長くいる気はありませんから」
「あら、残念。薪くんは本当にあなたに期待してたのよ」
「まさか」
 けんもほろろな岡部の答えに、女医は肩を竦める仕草で横たわる友人を見やった。
「しょうがないひとね。誤解ばかりされて。まったく不器用なんだから」
 医者らしい優しい手で、三好は薪の亜麻色の髪を撫でた。薪を思う気持ちが伝わってくる。こんな人でなしにも恋人がいるとは驚きだ。

「無理強いはしないけど、できたら力になってあげて欲しいわ。このひと、自分にとっていちばん大事な人を亡くしたばかりなの」
「三好先生が力になってあげればいいじゃないですか」
 女医はゆっくりと首を左右に振って、岡部の提案を却下した。
「残念だけど、あたしじゃ余計に彼を傷つけるだけだから」
 そう言って、ひどく哀しい顔をする。
 岡部には2人の関係がいまひとつよく分からなかったが、聞き質すことも躊躇われた。

 複雑な表情をしている岡部にピザの箱を預けて、三好は去っていった。
 三好が薪を傷つけてしまう、その理由を岡部が知ったのは、ずっと後のことだった。



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岡部警部の憂鬱(6)

岡部警部の憂鬱(6)






「薪くんが起きたら、このピザでも口の中に突っ込んでやって」
 そう言い置いて、法一の女医が第九を去った後、岡部は昏々と眠る薪の寝顔を見ていた。
 白い顔。長い睫毛。いつもはきりっと吊り上った眉が、今はやさしいカーブを描いている。こうしてみると本当に幼くて、可愛らしい顔だ。
 初めて会ったとき、化粧をしていると思ったのは誤解だったようだが、これで素顔というほうが返ってびっくりだ。だいたい、これが男の肌か。肌理細やかで真っ白で、淡雪のように儚くて。

「岡部さん。室長、大丈夫ですか?」
 小池と曽我が、仮眠室へ入ってくる。やはり室長の様子が気になって、仕事が手につかないようだ。
「ああ。よく眠ってる」
 岡部に倣って薪の寝顔を覗き込む。思わず赤面してしまうのは、岡部と似たような感想を抱いたからに違いない。

 3人の視線に気付いたかのように、薪は目を覚ました。
 倒れてから1時間ほどしか経っていない。まだ休み足りないはずだが、薪はすぐに起き上がった。ベッドから降りようとするが、見た目にもまだふらふらしている。
「室長。大丈夫ですか」
「何をしてるんです」
 厳しい目で睨まれて、部下たちは驚く。べつに怒られるようなことはしていないはずだが、室長は明らかに立腹しているようだ。
「室長が心配だから、様子を見に来たんじゃないですか」
「見てどうするんです。医者でもないのに」
 自分を心配して来てくれた人に、なんて言い方をするんだろう。今後、薪が病気で入院しても、絶対に見舞いには行かない、と岡部は心に誓った。
「僕を思いやってくれるなら、1秒でも早くシステムの操作を覚えてください。そのほうがずっと嬉しいです」
 薪はベッドから降りて、モニタールームに行こうとした。どうやら休む気はないらしい。
 たしかに室長の机の上には書類が溢れかえっていたが、こんな状態で仕事をしても捗らないだろう。

「今日はもう自宅に戻られたほうが」
「神保町の誘拐事件の報告書だけは出さないと。それが済んだら帰ります」
「それなら俺たちで作りましたから」
 その事件は岡部たちが第九に入る前の出来事で、とっくに終わったものだった。報告書を残すのみとなっていたのだが、あの事件のせいで職員が誰もいなくなった為、室長自ら作成していたものだ。小池たちは気を利かせてその続きを作ってくれたのだ。
 さぞ感謝するかと思いきや、薪は小池から報告書のファイルを受け取ると、その場で書類をめくりながら内容の甘さを指摘しはじめた。
 やれ写真が足りないだの、略図を入れろだの地図をつけろだのと細かい指示をして、挙句の果てに「やりなおせ」と言って小池に報告書をつき返した。

「直したら室長室に持ってきてください」
 かわいそうに、小池はうなだれてしまっている。せっかく室長の負担を軽くしてやろうと頑張ったのに、その好意は受け取ってもらえなかった。がっかりして当然だ。
「それは明日でもいいでしょう」
 差し出がましいとは思ったが、岡部は口を挟まずにはいられなかった。思いやりの気持ちを踏みにじるような、室長の態度が許せなかった。
「報告書には期限があるんです」
「でも、所長から催促がきたことなんて、ないじゃないですか」
「捜一では催促されるまで報告書を提出しないんですか? 第九では報告書の提出は、期限の前日です。僕がチェックをする時間が必要ですから」

 仕事熱心も、ここまでくると可愛くない。
 岡部も他の2人も、慣れない機器操作に悩みながらも室長を休ませてやろうと頑張ったのに、これでは何にもならない。まったく、ひとの気持ちのわからない男だ。
「室長。こいつらはあんたのために、まだ不慣れなMRIで一生懸命それを作ったんですよ。その気持ちを考えてやったらどうですか」
「そんなものは仕事の上では、評価の対象になりません。捜一ではどうだったか知りませんが、第九では結果がすべてです。半端な書類には判を押せません」

 ……かわいくない。
 眠ってたときはあんなに可愛かったのに。いっそのこと、ずっと眠っていればいいのだ。

「そんな言い方はないでしょう。こいつらだって」
 モニタールームに入った薪の後を追いかけて、岡部は言い募った。岡部の言葉を無視して、薪はモニターの電源を入れる。と、机の上のピザの箱に気が付いた。
「それは三好先生が持ってきて下さったんです。室長が気付いたら、食べさせてくれって」
「僕はピザは嫌いです。みなさんで食べてください」
 幾枚かの写真をプリントすると、薪は室長室に入ってしまった。もちろん、ピザの箱はそのままだ。中身を見ようともしない。
 果てしなくひねくれている。恋人からの差し入れも食べられないなんて。

 小池と曽我は、顔を見合わせながらも室長の指示に従って、報告書の手直しを始めた。健気なやつらだ。こいつらのためにも、薪はもう少し自分の健康に気を配るべきだ。
 岡部はピザの箱を一つ持って、室長室へと入った。
「なにか食べたほうがいいって、三好先生も言ってましたよ」
「大丈夫ですから放っておいてください」
「睡眠不足と低血糖だそうですよ。ピザが嫌なら、パンでも買ってきますか?」
「……うるさいな」
 吐き捨てるように言われて、岡部はむっとした。
 こっちは心配してやってるのに、うるさいとはなんだ。こいつには、礼儀とか感謝とかいうものはないのか。

「あなたがそんなに世話好きだとは知りませんでした。でも」
 嫌味な言い方で、薪は岡部の好意を打ち返す。相手を気遣う気持ちを、ここまで否定されたのは初めてだ。
「僕はお節介が大嫌いです」
 さすがの岡部も、これにはキレた。
 三好の伝言を実行すべく、ピザの箱を開けると1片を手に取って薪の鼻先に突き出す。こうなったら力ずくでも食べさせてやる。

 ところが、薪は真っ青になって口を押さえ、床にへたり込んでしまった。
「室長?」
「……吐きそ……」
 慌ててゴミ箱を差し出してやって、背中をさすってやる。薪の細い背中は、まるで老人のように骨ばっている。
 ゴミ箱の中に吐き出されたのは、黄色い胃液だけで固形物は何もなかった。
 たぶん、何日もまともな食事を摂っていないのだ。だからピザの匂いを嗅いだだけで、気分が悪くなって。
 こんなヘビーなものが食べられるような状態ではないと、正直に言えばいいものを。どれだけ意地っ張りにできているのだろう。

「すみません……みっともないところを見せてしまって」
 突然謝られて、岡部はびっくりした。
 青白い顔をして、しょげたような表情をしている。失敗した、と思っているのがはっきりわかる顔だ。
 ……こっちが素顔なのか。
 だとしたら、ずいぶんと厚い化けの皮だ。被っているのはネコではなく、ライオンのようだが。
「送ります。家で休んでください」
「……はい」
 ようやく自分の限界を認めてくれたらしい。薪は汚れた口をハンカチで拭うと、岡部の申し出に小さく頷いた。

 定時はとっくに過ぎている。
 モニタールームの2人にセキュリティーをかけて帰るように頼んで、岡部は薪を自宅まで車で送り届けることにした。
 途中のコンビニで、牛乳とパンをいくつか買い込む。いちばん消化が良さそうなあんパンを薪に差し出すと、今度は素直に受け取ってモソモソと食べ始めた。紙パックの牛乳に顔をしかめているから、あまり好きではないのかもしれないが、栄養の面から言えば、これに勝る飲みものはないだろう。
 子供のおやつのような食事を薪が済ませる間に、車は目的地に到着した。薪の自宅は第九のすぐ近くだ。車なら10分もかからない。

 ところがそこで。
 岡部は、薪を取り巻く状況の厳しさを目の当たりにすることになる。

「なんですか、こりゃ」
 薪のマンションは、ひどい有様だった。
 ドアに大きく赤いペンキで「人殺し」と書いてある。他にも壁中に「死んじまえ」「覗き野郎」「人間のクズ」といったありとあらゆる中傷の言葉がスプレーで殴り書きされている。窓ガラスはすべて壊されているし、ドアは蹴り飛ばされて歪んでいる。
「一部の雑誌に、僕の実名と住所が載ってしまったので。帰るとこうなってるんです」
 肩を竦めて、他人事のように言う。どうやらこれが初めてではないらしい。

 さっき食べさせたパンが効いたのか、薪は軽い足取りで階段を上がってきた。
 研究室にいたときより顔色もいい。張り込みの必須アイテムは、やはり有効のようだ。
「薪さん。お帰りですか」
 薪の姿を目ざとく見つけて、初老の男が管理人室から出てくる。明らかな迷惑顔で、この酷い仕打ちを受けている薪に対する気遣いはないようだ。
「見てくださいよ、これ。困るんですよ、こっちも。早く出て行ってもらえませんかね」
「すみません。新しいマンションは見つけてきました。次の休みには荷物を運べるようにしますから。それまで我慢してください。この部屋の修繕費用は、私が全額払いますから」
「あなたが悪いひとじゃないのは、分かってるんですけどね。世間てのは、マスコミの言うことを鵜呑みにしがちだから」
 修理代を薪が持つと聞いて、管理人の態度が変わった。急に同情めいた表情を浮かべて、愛想笑いで薪の肩を持つようなことを言い出す。
「あなたも災難でしたよね。発砲してきたのは相手のほうなんでしょう?あなたは自分の身を守っただけだ。それなのに。理不尽なことをしてくる輩はいるんですよね」

 管理人の言葉に曖昧に頷いて、薪はドアの鍵を開けた。
 歪んだ扉は、開けるのに苦労する。貧血を起こしたばかりで力の出ない薪を見かねて、岡部は扉を開けてやった。

 部屋の中も悲惨だった。
 破られた窓から投げ込まれたらしいゴミや動物の死骸が、部屋中に散らばっている。夏のことで、その悪臭たるや、凄まじいものだった。とても人間の住める環境ではない。この部屋では、寝ることも座ることもできない。
 薪が世間からこれほどの迫害を受けていたとは。普段の冷静な仕事振りからは、想像も付かない。

「送ってくださって、ありがとうございました。それではおやすみなさい」
「いや、お寝みなさいって、これ」
 薪は土足のまま部屋に上がると、モップでゴミを一箇所に集め始めた。ゴミの袋に次々と、部屋に投げ込まれた悪意の塊を詰め込み始める。
「手伝いますよ」
「大丈夫です。慣れてますから。もう帰ってください」
「慣れてるんですか? これに?」
「ええ。ここ最近は、毎日これですから」
 薪の顔は穏やかなものだった。
 怒るでも泣くでもない。そのすべてを諦めてしまったかのような薪の態度は、かえって岡部の同情を誘った。

「ひどい臭いですね。ああ、でも夏だから窓がなくても大丈夫なんですね。しかし無用心だな。無くなったものとかはないんですか?」
「はい。部屋の中のものは、増える一方です。全部ゴミですけど」
 岡部は黙って床に散らばったゴミを拾い始めた。
 もともと第九は人権問題の観点から、世間の風当たりが強かった。第九の必要性をアピールするために、室長としてテレビに出たこともある薪は、世間やマスコミに顔が売れていた。それが今回は仇になった。
 「そのうち、人間の死体でも投げ込まれるんじゃないかと危惧しているんですけど。そしたらMRIで検証しないといけませんね」
 ……冗談のつもりなのだろうか。シュールすぎて笑えない。

 強烈な臭いの生ゴミをゴミ袋に放り込みつつ、岡部は扱いづらい上司をもてあましていた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

岡部警部の憂鬱(7)

岡部警部の憂鬱(7)







 掃除が済んで、何とか人の住処らしくなった部屋で、岡部は薪と一緒に夕食を摂ることにした。
 近くのコンビニで弁当を買ってマンションに戻ると、薪は味噌汁を作っていた。窓に面していない台所と寝室は、被害を受けていない。不幸中の幸いである。
 薪の作った味噌汁は、岡部の母親のものより美味かった。
 岡部にはいくらか味が薄かったが、きちんと出汁をとった本格的な味噌汁だ。ひとは見かけによらないものだ。
「しばらく買い物もしていないので、簡単なものしか作れませんが」
「美味いです」
「そうですか」
 おなかが空いたので何か買ってきてほしい、と言った割に、薪は殆ど食べなかった。
 それどころか、弁当を膝の上に載せたまま、居眠りをしている。どうやら腹が減ったというのは、岡部を気遣ってのウソだったらしい。食べるよりも本当は眠りたかったのだろう。

「室長。ちゃんと布団で寝てくださいよ」
 薪の小さな手から割り箸と弁当を取り上げ、床の上に置く。揺り起こそうとしたが、薪はそのまま岡部のほうへ倒れこんできた。完全に眠ってしまったようだ。
「しょうがねえな」
 奥の寝室に薪を運び込み、ベッドに横たえる。ベッドからはなにかいい匂いがする。これは薪の体臭なのか――― 清冽な香りだ。
 と、不意に薪の細い腕が岡部の首に巻きついてきた。驚いてからだを離そうとするが、思いがけない強い力で縋りつかれて、岡部は硬直してしまった。

「すずきっ」
 誰かの名前を呼んでいる。寝ぼけているようだ。
「行くな……僕を置いて行くな、鈴木」
 どこかで聞いた名前だ。というか、日本で一番多い名だ。
 薪が射殺した同僚も、たしかそんな名前だった。

 岡部に抱きついたまま、薪は耳元で友人の名前を呼び続けた。夢を見ているのか、やけにはっきりした寝言だ。
 きつく抱きしめていた腕の力が緩み、すると今度は両手で頭をつかまれた。真正面から至近距離で、薪のきれいな顔を見せつけられる。
 亜麻色の目が大きく見開かれて、岡部の顔を映している。その眼は尋常ではない。
 狂った光―――― 薪の眼には岡部の姿は映っていない。彼が見ているのは、おそらく自分がその手で射殺した友人の姿だ。

「おまえがいない世界なんて興味ない!」
 悲鳴のような声で、薪は叫んだ。

「僕の気持ちを知ってるくせに……僕は、おまえがいなきゃだめなのに」
 寝言ではない。錯乱している。
「僕も連れて行け。早く、連れて行ってくれっ……!」
 振り絞るように叫び、薪はベッドに沈んだ。頬に伝う涙をハンカチで拭ってやりながら、岡部は薪の精神に不安を覚えた。

 このまま放っておいて、大丈夫だろうか。どう考えても薪の言動は普通ではない。単なる寝言とは思えない。内容が重過ぎる。

 しばらく様子を見ていると、薪は30分も経たないうちに、今度はひどくうなされ始めた。
「やめろっ、殺すな!」
 恐ろしい夢を見ているらしい。起こしたほうが良いと判断して、岡部は薪の肩をつかんで揺り動かした。
「室長、室長」
「やめろ!!」
 大きな叫び声を上げて、薪は跳ね起きた。
 岡部の姿を見て、反射的に身を引く。そのままベッドから転げ落ちるようにして床の上に座り込み、後ずさって壁に背中をつけた。

「来るな……」
 自分に言っているのかと思ったが、薪は岡部がいる方とはぜんぜん別のところを見ている。
 その亜麻色の瞳に何が映っているのかは不明だが、薪の恐怖は部屋の空気を淀んだものに変えて、岡部にその凄惨さを伝えてきた。
「あの時、ちゃんとおまえを捕まえていたら、こんなことにはならなかったのか? こんなにたくさんの人が死なずに済んだのか?」
 見えない誰かに、問い質している。その内容はひどく物騒なものだ。
「僕のせいだって云うのか? 僕のためにおまえは、あんなに沢山の人を殺したんだって―――― そうなのか?」
 薪を追いつめている人物に、岡部はようやく思い至った。

 貝沼清孝。
 例の28人殺しの犯人だ。4人もの捜査官を狂気の世界に追いやった、恐るべき脳の持ち主。その貝沼の幻覚が、薪には見えているのだ。
「違う! 僕のせいじゃない、僕が悪いんじゃない!」
 激しくかぶりを振って、薪は必死に自分を守ろうとする。
 しかし、薪のこの言葉はどういう意味だろう?
 まるで事件が起こる前から、貝沼とは知り合いだったかのような言い方だ。しかも、薪のせいで貝沼が殺人を犯さなくてはならなくなったような意味合いのことを口走っている。

「おまえはもう死んだんだ! 消えろっ!」
 薪は床の上を這いずり回って、貝沼の幻覚から逃げ惑う。壁づたいに回り込み、サイドボードに辿りつく。低い棚の上に置いてあったガラス製の花瓶を右手で摑むと、ボードに叩きつけて割り、その破片を使って自分の腕を切ろうとする。
「室長!」
 慌てて駆け寄って、細い身体を押さえつける。幻覚と現実を混同しているのか、薪は悲鳴を上げて岡部の腕を振り払った。
 ガラスの破片を小さな手から奪い取り、岡部は薪から離れた。今は近づかないほうが、薪を刺激しないで済む。
 薪は両手で自分を掻き抱くようにして、細い腕に爪を食い込ませる。あの蚯蚓腫れはこうしてできたものなのだろう。痛みでしか幻覚から逃れることができないのだ。だから薪の体には自分でつけた傷が、たくさんあるのだ。

 この夢は、毎晩のように薪を責め苛んでいる。
 寝室の中のいろいろな備品が壊れている様子が、岡部にそれを教えてくれた。
「室長、俺ですよ。岡部です。しっかりしてください」
「僕じゃない……僕がわるいんじゃ」
 うずくまった姿勢で自分のからだを掻き毟りながら、小さく小さく体を縮こめている。まるでこの世から消えてしまいたいとでも思っているかのように、肩を震わせて顔を伏せている。

「おまえも僕のせいだと思ってるのか? 僕のせいで30人もの人間が死んだって……そう思ってるのか?」
「違いますよ、室長のせいじゃありません」
 岡部には詳しい経緯はわからないが、今はこう云うしかない。
「だから僕に向かって発砲してきたのか? すべての元凶の僕を殺そうとして?」
 今度は射殺した親友と、岡部を取り違えているらしい。
「僕が、僕がぜんぶ……僕のせいで……」
 顔に両手を当てて、慟哭する。泣きながら、薪は亡き親友の名前を呼び続ける。
「鈴木……すずき……たすけて……」

 これがあの憎たらしい警視正なのか。
 他人の目に触れないところでは、こんなにも激しい罪悪感に責め悩まされていたのか。

 岡部が今まで見てきたどんな罪人よりも、その嘆きは深い。それはきっと、薪がなんの罪にも問われなかったからだ。罰を与えられなかったことで余計に深まってしまったのだ。
 罪を償う方法が示されるということは、罪人の気持ちを楽にしてくれる。刑に服したからといって自分がしてしまったことが帳消しになるわけではないが、それでも辛い思いをしたことで罪悪感は薄まるものだ。
 薪にはそれがない。
 どうやって自分の罪を償えばいいのか、誰も教えてくれない。これから自分がどうやって生きていけばいいのか、誰もその方向を示してはくれない。
 このまま以前の通りに過ごせるはずがない。でも、どうしたらいいのかわからない。
 今の薪はそんな状態で、泥沼のような悔恨にもがき苦しんでいるのだろう。

 冷血漢の仮面が剥がれ落ちてしまえば、そこにいるのはただの弱い人間だ。
 脆弱で矮小でちっぽけな存在。思えば岡部は昔、そんな存在を守ってやりたくて、警察官の道を選んだのだった。

 やがて薪の慟哭は、徐々に治まってきた。うつろだった目が正気を取り戻し、岡部を見てばつの悪そうな顔をする。自分が錯乱したのを覚えているようだ。
「すみません。ちょっと嫌な夢を見て」
 細い身体は、じっとりと寝汗で濡れている。寝室はエアコンのおかげで快適な温度に保たれているが、悪夢のせいでいやな汗をかいてしまったらしい。
 床の上に膝を抱えて乱れた呼吸を整えている薪の姿は、ひどく頼りない。いつもは厳しく吊りあがった眉が、弱気な形に垂れ下がっているせいかもしれない。冷徹な室長の顔はどこにもなく、ただ暗闇に怯える子供のようだ。

「大丈夫ですか?」
「平気です」
 とてもそうは見えない。
「俺でよかったら、ここに居ましょうか? きっと安心して眠れますよ」
 この状態の人間を置いて帰れるならば、岡部はもっと出世していたと思う。弱っている人間に甘いのが、岡部の欠点なのだ。
「余計なおせっかいは止めてください。子供じゃあるまいし。ちょっと悪い夢を見たくらいで大げさな」
「室長。そういうことは泣きながら言っても真実味がありません」
 岡部は苦笑して言った。薪が慌てて目をこする。
「もう大丈夫です。おやすみなさい」
 泣き顔を見られたのがよほど恥ずかしかったのか、薪はベッドに入り、頭から夏用の薄い布団を被ってしまった。
 疲れているのだろう。すぐに寝息が聞こえてくる。

 岡部はその場に腰を下ろした。
 何かあればすぐに対応できるように、座ったまま浅い眠りを取りつつ待機する。こんなことは捜一の人間なら朝飯前だ。

 案の定、1時間もしないうちに、薪はまたうなされはじめた。

 声を掛けて揺り起こす。岡部の姿を見ると安心したように眠りにつくが、再び悪夢に捕らわれる。苦しそうに泣きながら、親友の名前を、自殺した部下たちの名前を呼び続ける。
 それが幾度も繰り返されるうちに、夢と現実とがごちゃごちゃになってしまったようで、岡部のことを誰かと間違えては縋り付いてくる。
 まるで恋人を抱くように切なげな表情をしたかと思うと、次の瞬間には例の殺人犯と混同して激しく怯える。

 そんなことが一晩中続いて、薪がようやく眠りについたのは明け方のことだった。
 この錯乱は一時的なものだとは思うが、毎晩のようにこれが続いたのでは神経が参ってしまうだろう。
 白々と明けはじめた朝の淡い光の中で、目に涙を一杯に溜めたまま眠る薪を見て、岡部は田城や三好の言ったことを信じないわけにはいかなくなった。

 このひとは、こんな夜をずっと過ごしていたのか。
 平静に見せかけて、陰ではこんなにつらい思いをしていたのか。
 室長のこんな姿はだれも知らない。あの冷静であざやかな仕事ぶりからは、想像もつかない。

 こんなに脆い人だったのか。
 高慢ちきで皮肉屋で嫌味ったらしくて、やさしさのかけらもない冷血漢―――― 噂以上のヒトデナシだと他人に思わせることで、この人は自分の弱さを隠していたのか。

 岡部は、自分の進退について迷い始めていた。
 このひとは壊れかけている。
 このまま放っておけば、自滅するだろう。
 そうしたらきっと、第九は潰れる。自分は晴れて捜査一課に帰れる。
 あとは時間の問題だ。警視総監に報告するまでもない。自分は何もしなくていい。ただ、薪が自滅するのを待っていればいいのだ。
 可哀想だとは思うが、結局は自業自得だ。そもそもひとの脳を見るなどといった、倫理に反する捜査方法は、あってはならないものなのだ。だからこんな悲劇が起こった。第九はなくなったほうがいい。そのほうが薪も楽になれるはずだ。

 このまま何もしない。室長のことは見て見ぬふりをする。簡単で完璧な計画だ。
 しかし、岡部は自分の計画の欠陥に気付いていた。
「……それができれば、苦労しないんだよな」
 ハンカチで薪の涙を拭いてやりながら、岡部は呟いた。

 問題はただひとつ。
 それはお人好しで世話焼きの岡部が、この状態の薪を放っておけるかどうか、ということだった。



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岡部警部の憂鬱(8)

岡部警部の憂鬱(8)






 その夜、第九はVIPな客を迎えた。

 先日の薪の様子が気になって仕方がない岡部は、MRIシステムの機器操作を練習する振りをして、今日も居残りを決めていた。そのおかげで、普段なら口も聞けないような人物に会うことができた。
 その人物が、第九の自動ドアから気軽な調子で入ってきたとき、岡部は我が目を疑った。三田村も上層部の一員だが、今日の来客は格が違う。岡部は実物を見るのも初めてだった。
 署内報の写真でしか見たことのない顔が、人差し指を口の前に立てる。騒がないように、との合図だ。

 その人物は、モニターに釘付けになっている薪の背中にそうっと近づいていく。
 薪は、来訪者にはまったく気づいていない。MRI専用のマウスの上に小さな手を被せ、忙しく画面を切り替えては次のモニターに移動する。捜査に夢中で、周りが目に入らないようだ。
 突然、来訪者は薪の後ろから華奢な身体を抱きしめた。
 とっさに薪は腰を落として、背負い投げの体勢に持っていく。柔道は5段の岡部から見ても、それは見事な型で、薪が黒帯というのは嘘ではないらしい。
 しかし、この相手は投げ飛ばしてはまずい。

「室長! 官房長ですよ!」
「え!? ……うわわっ!」
 岡部の叫びに大きくバランスを崩して、薪は来客の下敷きになってしまった。
 図らずしも床にうつ伏せになった薪の上に、小野田がのしかかるような格好になって、岡部は思わず先日の薪のきわどい冗談を思い出してしまう。薪のきれいな顔と華奢な体つきを見ていると、ついついそういう噂を立てたくなる気持ちも解らなくはない。

「積極的なのはうれしいけど、部下の前ではまずいんじゃない?」
「だからそういう冗談はやめてくださいって、何度もお願いしたじゃないですか。小野田さんがそんなことばかり言うから、ヘンな噂が広まるんですよ」
「ぼくのせいじゃないよ。暇な連中が多すぎるんだよ」
 床の上に官房長が座り込み、どこかにぶつけてしまったらしい膝を擦っている。ひどいなあ、とぼやく小野田に「自業自得です」と素っ気無く応えを返して、薪は立ち上がった。

「今日は何の御用です?」
「きみを口説きにきたんだよ。ぼくのところへおいでよ。大事にするからさ」
「またそういう言い回しを」
 そこで薪は、岡部の様子に気づいた。
 官房室室長小野田聖司といえば、警察庁長官、次長に続く№3の実力者である。岡部のような一般の捜査官にしてみれば雲の上の人物だ。その小野田に気安い口をきいている薪に、岡部は目を丸くしている。

 薪は小野田に手を差し伸べて立たせると、官房長を室長室へと誘った。岡部の前で、室長室の扉が閉ざされる。
 小野田が薪のパトロンだという噂は本当らしい。ということは、三田村の話も事実ということか。薪本人も認めていた。
 だが、昨夜の惨状は―――― 薪の悔恨は本物だ。あれほどの罪悪感に悩まされながらも、出世はしたいということなのだろうか。

 気になる。
 これは捜査官のサガというやつだ。

 自分の道徳心には蓋をすることにして、岡部は室長室のドアに耳をつけた。薄い板張りのドアは遮音性が低く、こうすればかなり小さい声でも聞くことができる。
「きみが三田村のやつに苛められたって聞いてさ」
「三田村部長は、激励に来てくださったみたいですよ」
 もちろん皮肉である。その事は岡部も居合わせていたから知っているが、官房長は随分と早耳だ。

「だからさ、警察庁に戻してあげるって言ったじゃない。きみのために、参事官のポストまで用意したのに」
「僕が今いなくなったら、第九はどうなるんです? 僕しかMRIシステムを扱える者がいない状態なんですよ。誰かに役職を譲るにしても、今の状態では無理です。人材を育てないことには、第九は潰れてしまいます」
「ここの室長でいることで、きみがみんなに何て言われてるか知ってるの? きみだって逆に辛いはずだよ。鈴木君ときみは親友だったろ」
「鈴木はこの仕事が好きでした。僕は彼の愛した第九を守りたいんです。周りの人たちに、どう思われてもかまいません」

 そうか。
 ここに居続けるほうが、このひとにとっては辛いのだ。

 あんな事件の後、周り中に白い目で見られながら、自分が殺した親友の思い出がそこここに残る第九で、罪悪感に苛まれながら室長の重責に耐え続けることは、苦行に等しい筈だ。
 このひとは出世など望んでいない。
 ただ、第九を守りたいだけだ。
 降格処分を取り消してもらったのも、室長の座に居座り続けるのも、親友の遺志を継ぐためなのか。それがこのひとなりの贖罪なのか。

「ぼくはきみの悪口を聞くと、ものすごく頭にくるんだけど」
「僕の評判は、もともと良い方じゃありませんから。そう変わらないと思いますよ」
「そうかな。でもやっぱりムカつくよ。特に三田村。なにかあれば左遷(とば)してやるんだけど、あいつ官公庁に顔が利くんだよね。内閣官僚に同期がいるとか言ってさ。
 あーあ、残念だな。きみを引き抜くチャンスだと思ったのに。ぼくのところには来てくれないんだ」
「すみません。でも、小野田さんには感謝しています」
「言葉だけじゃね。態度で示して欲しいな」
「頬にキスでもしましょうか?」
「冗談キツイな。ぼくの娘は、相変わらずきみに夢中なんだけど」
 初耳だ。官房長の娘が薪に好意を抱いているとは。官房長が薪のバックについているのは、そういうわけか。

「冗談がきついのは小野田さんのほうです。警察庁官房室室長ともあろう方が、人殺しを娘婿にもらう気ですか?」
「あれは誰が見ても正当防衛だよ。あと20センチ右にずれてたら、きみは死んでたんだよ。まあ、きみの性格じゃ、気に病むなといっても無理だと思うけど」
「僕は彼の家族と婚約者の方には、一生をかけて償っていくつもりです。だから結婚もしません。自分が犯した罪に、誰も巻き込みたくないんです」

 岡部はドアから耳を離した。
 薪の言葉が本心だと言う証拠は、どこにもない。口ではなんとでも言えるものだし、官房長の前で善人ぶっているだけかもしれない。
 しかし、岡部は薪の言葉を信じたい気持ちになっていた。

 昨夜の薪の涙は、嘘ではない。嘘であんな泣き方はできない。
 涙を武器にしようとするものは、人前でそれを使う。そうでなければ意味がない。しかし薪の場合はまったく逆だ。
 罪の意識などないような振りをして、その実精神の均衡を乱すほどの罪悪感に苛まれていて―――― それを陰の部分に押し込めて、ひとりきりで歯を食いしばって耐え続けて。
 その懊悩を知ってしまった岡部には、今の薪の言葉を疑うことはできなかった。



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岡部警部の憂鬱(9)

岡部警部の憂鬱(9)







 それからしばらくして、官房長は室長室から出てきた。
 モニターに向かっていた岡部に、軽く手を上げる。岡部は立ち上がり、最敬礼でそれに応えた。
「岡部くんだったよね」
「はい」
 官房長が、自分の名前を覚えていてくれたとは驚きだ。室長から聞いたのだろうか。

「薪くんのこと、頼んでもいいかな。彼、きみのことは信頼してるみたいだから」
 困る。
 あんなのは手に負えない。
 そう言いたかったが、官房長相手にそれはまずい。
 岡部が返答に困っていると、小野田は笑って「そうだよね、薪くんの面倒は見きれないよね」と自分で自分の提案を却下した。
「なんで薪くんがきみのことを気に入ったのか、わかったよ。まあ、薪くんの相手は大変だと思うけど、仲良くしてやってよ。岡部靖文くん」
「はあ……」

 監察医の三好といい官房長といい、薪が自分を気に入っていると言うが、信じられない。
 自分は機器操作の覚えも悪いし、PCも報告書も苦手だ。室内で書類を作るより、現場で聞き込みをしていたほうが性に合っている。だから、ここにいるより捜一にいた方が警察の役に立てると思う。
 というより、第九ではお荷物になってしまう可能性のほうが高い。そんな自分が「第九の仕事は結果がすべてだ」と言い切るような室長に、評価されているとはとても思えないのだが。
 まあ、別に好かれる必要もない。
 こっちだって室長のことは大嫌いなのだ。お互い様というやつだ。

 小野田が帰ったあとも、薪はなかなか室長室から出てこなかった。モニターの電源は入ったままだから、まだ仕事を続けるつもりだとは思うが、何をしているのだろう。
 細くドアを開けて、中の様子を盗み見る。捜一のクセはなかなか抜けないものだ。

 薪は室長席に座って、一枚の写真を見つめていた。

 静かに涙を流している。まったく、人が見ていないところでは、このひとはとても泣き虫だ。
 官房長との話で、親友のことを思い出してしまったのだ、と容易に想像がつく。手に持っている写真には、その親友が写っているに違いない。

「室長。大丈夫ですか?」
 岡部が声を掛けると、薪は慌てふためいて涙を拭い、写真を机の引き出しに隠した。その慌てぶりが岡部の苦笑を誘う。
「まだ残ってたんですか? あなたにできることなどないと言ったでしょう」
「MRIマウスの練習ですよ。あの2人に負けていられませんから」
「無駄な努力だと思いますけど」
 辛辣な物言いが、何故か微笑ましい。何だかだんだん、この皮肉が可愛らしく思えてきた。自分もおかしくなり始めているのだろうか。

 岡部が笑っているのを見て、薪は亜麻色の小さな頭をゆるゆると振り、大きなため息をついた。
「僕はだめですね、やっぱり」
 ふっと肩の力を抜いて、哀しそうな微笑を浮かべる。気弱な室長の顔は、岡部の庇護欲を掻き立てる。
 それに気付いているのかいないのか―――― 薪は背中を丸めて机に頬杖をつき、長い睫毛を伏せた。
「岡部さんには第九にいて欲しかったんですけど、諦めます。いろいろとヘンなところも見られちゃったし。こんな情けない上司の下では、働けないですよね。なるべく早く捜一に戻れるように、僕のほうからも手を回しますから」
「クビですか? 俺」
「僕に気を使わなくていいです。持ってますよね、異動願い。
 本当は初日に出すつもりだったんでしょ?それでやることもないのに、ひとりで残ってたんですよね」

 MRIで視覚者の心情を読むように、薪は岡部の気持ちを読み解いていた。
 最初から、薪は岡部の第九への悪感情に気がついていた。
 岡部が捜一に戻りたがっていることも、第九の仕事を嫌がっていることも。そのくせ薪のことが心配で、それを言い出せなくなってしまっていることも。
 だからあんなに強がって、岡部に気を使わせないように、あの事件のことを気に病んでなどいないと、ウソを吐いた。

「出してください。受理しますから」
 異動願いは、確かに毎日持って来ている。今もズボンの右ポケットに入っている。
 岡部だって捜一に帰りたい。室長のほうから申し出てくれているのだ。ここは素直に従ったほうが得策だ。
 岡部はポケットから封筒を取り出し、薪に手渡した。何日も持って歩いていたせいで、だいぶくたびれてしまっている。表書きはない。
 薪は封筒を開けて、中に入っていた便箋を取り出し、内容を確認した。

「なんですか、これ」
 亜麻色の眼が大きくなって、岡部の顔を見る。きょとん、とした表情。このひとは不意をつくと、びっくりするくらい可愛らしい顔になる。

 白い便箋には中央に大きな文字で、『これからもよろしくお願いします』とだけ書いてある。異動願いには見えない。
 
「どういうつもりです? 捜一に戻りたいんじゃ」
「敬語はやめてください。俺はあなたの部下なんですから」
 長い睫毛がしばたかれ、薪はいぶかしげな表情で問い返した。
「いいんですか? 僕から離れられる最後のチャンスかもしれませんよ。僕はあなたを手放したくないんですから」
「だから、敬語はよしてくださいよ。俺はずっとあなたの部下でいいです。手始めに、床の掃除でもしましょうか?」
 どこかで聞いた岡部の言葉に、薪は思わずくすっと笑った。滅多に見られないその笑顔は、天然記念物並みの希少価値だ。文句なしにかわいい。

 こんなに可愛い顔をしているのに、どうしてあんなにきついことばかり言うのだろう。
 いや、この顔で室長の威厳を保つには、態度だけでも厳しくしないと、舐められてしまうのかもしれない。
 第九はとにかく、外部からの批判が多い。それに立ち向かい、ねじ伏せようとするには、時として、暴君のような厳しさが必要なのかもしれない。

「あなたが第九に残ってくれる気があるのなら、ひとつだけお願いがあります」
「なんですか?」
「僕が死んだら、僕の頭を潰してください」
 岡部はその命令に息を呑んだ。
 このひとはいきなり何を言い出すのだろう。

「これは、僕の一番の部下に、いつも頼んでいたことなんです。あなたの前は、鈴木がこの役目を僕に託されていた。どんな状況下にあっても必ず遂行してください」
「理由はなんですか」
「僕の脳には、公表されてはいけない秘密がたくさん詰まっています。これが公になったら日本中がひっくり返ってしまうような、トップシークレットがいくつも入ってるんです。だから僕の死後、誰もこの脳を見ることができないように。僕の頭を潰してください」
「死体損壊の罪に問われてもですか?」
「そうです。お願いします。これは僕の遺言だと思ってもらっても結構です。なんなら、一筆書きましょうか」

 第九の室長とは、こんな覚悟までしなければ務まらないのだろうか。
 既にこの人は、覚悟を決めている。女のような顔をしているくせに、なんて雄々しいのだろう。
 昂然と頭を上げて、きりりと眉を吊り上げる。一分の隙もない顔つきだ。

「わかりました」
 岡部が頷くと、薪は安心したように笑った。
 その笑顔の美しさに、岡部は思わず目を奪われる。
 なんだ、こんないい顔ができるんじゃないか。初めからこの顔を見せてくれれば、こんなに回り道をせずに済んだのに。

「無茶なお願いを聞き届けてもらったお礼に、MRIマウスの使い方のコツを教えましょうか、岡部さん」
 岡部は敢えて、返事をしない。
 薪の顔をじっと見て、にやりと笑う。薪はその笑いを受けて、いきなり口調を変えた。
「岡部、モニタールームに来い。今から特訓だ」
 どうやら伝わったらしい。
「はい、室長」

 先に立って歩き出した細い背中について、岡部はモニタールームに入った。


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岡部警部の憂鬱(10)

岡部警部の憂鬱(10)






 次の日曜日、岡部は再び薪のマンションを訪れていた。
 今日は引越しの日だ。
 夏だというのに、長袖のTシャツとジーパンという服装で、薪はせっせと段ボール箱に荷物を詰めている。

 私用だからという理由で、薪は最初岡部の申し出を固辞したが、日当は貰います、という岡部の言葉に折れた。
 もちろん目当ては現金ではなく、薪の手料理だ。薪は現金で済ませるつもりかもしれないが、そうはいかない。これだけの重労働だ。薪特製のちらし寿司に、味噌汁くらいつけてもらわないと、間尺に合わない。
 薪にしてみても、引越しの手伝いは警察関係者のほうが都合がいいのだ。
 薪の家には、MRIシステムが導入されたときの自己学習用の資料やら捜一時代のノートやら、事件記事のスクラップやらが山のようにある。正式な捜査資料でないとはいえ、やはり一般人の目に触れさせたくはない代物だ。

「悪いな、休みの日に」
「いえ。力仕事は得意ですから」
 20個ほどの段ボール箱の中身は、8割方が犯罪心理学の書籍である。
 その量たるや大学の研究室並みで、給料の殆どをこれにつぎ込んでいるに違いない。これがまことに重い。岡部でさえ1つずつしか持っていけない。薪の細腕では持ち上げることもできない。
 やはり煮物もつけてもらおう、と岡部は意地汚いことを考える。

「今日は顔色が良いみたいですね」
「うん。昨夜はおまえのおかげでゆっくり眠れたから」
 あれから毎日、岡部は薪の家に泊まりこんでいる。夕食をたかりに来ているわけではなく―――― 薪の作る料理はとても美味しくて、ついつい目的がすり替わりそうだったが―――― 薪の自傷行為を案じてのことだ。
 昨夜は岡部が買ってきた睡眠薬を薪に飲ませてみた。「とてもよく効く」という岡部の言葉を信じたのか、それとも眠れない夜が続いたせいで本能が恐怖に勝ったのか、昨夜は一度も目を覚まさずに、薪はぐっすりと眠った。

「よく効くな、あの睡眠薬。ちょっと酸っぱいけど」
 ……ばれている。
 実はただのビタミン剤だ。
 密かに精神安定剤を服用している薪に、副作用があってはいけないと、岡部なりに気を使ったのだが、このひとに小細工は通用しないようだ。

 新しいマンションは大部分の家具が作りつけなので、今まで使っていたものはあらかた処分してしまった。箱に詰めたのは衣服と調理器具、食器類、日用雑貨の品々で、わずか4つの箱に収まってしまった。
 しかし、馬鹿みたいに重い本の箱が10以上。それを運び出したら、このマンションにはさよならだ。
 本当は引越し業者に頼みたかったのだが、薪の名前と住所を出したら繁忙を理由に断られてしまった。新しいマンションも実は小野田の口利きだ。
 世間がこの事件を忘れてくれるのは、ことわざを信じるならあと2ヶ月ほど。それまではこの理不尽な仕打ちにも、我慢するしかない。

 岡部が友人から借りてきた2tトラックの荷台に段ボール箱を積んで、シートを被せる。新しいマンションまでは1時間ほどかかる。職場からは遠くなってしまうが、むしろその方がいいかもしれない。

 乗り心地の悪いトラックに揺られながら、薪は少し寂しそうな目で外を見ている。
 ここには警察庁に入庁した当時から住んでいたというから、いろいろと思い出もあるのだろう。親友だった鈴木も、他の第九の部下たちも、よくここに来ていたのかもしれない。

 もう二度と帰らない昔日に思いを馳せて、それでもひとは前に進んでいかなくてはいけない。薪の未来は新しい第九であり、新しい部下との出会いだ。その中にはもちろん、岡部も含まれている。

 やがて、薪の新しい拠点となるマンションが見えてくる。
 その真っ白な外壁は、薪のこれからの未来を思い通りに描けるよう、神様が用意してくれたキャンパスのようだった。


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岡部警部の憂鬱(11)

岡部警部の憂鬱(11)






 
 岡部が第九に残ることを決めてから、5日後。
 第九の新しいメンバーたちは、薪の真実の顔を知ることになった。

「なにをぐずぐずやってんだ!!」
 新しい事件が第九に回されてきた。
 明らかな連続殺人で、被害者は2人。犯人はまだ捕まっていない。新たな被害者が出る可能性が高く、捜査は火急を要した。
「いったいどこを見てたんだ!? おまえらの目は節穴か! 役に立たない穴なら泥でも詰めて塞いじまえ!!」
 穏やかで冷静な室長はどこへやら、部下のミスに怒鳴りまくるわ書類は投げつけるわ、まるで人が変わったようだ。
 
「し、室長。あの、もう12時過ぎてるんですけど」
 深夜の残業に、おそるおそる異議を申し立てようとした曽我は、薪に睨みつけられて途中で言葉を飲み込んだ。
「それがどうかしたのか」
 怒気を孕んだ低い声。背筋が寒くなるような迫力に、曽我は返事もできない。
 捜一の課長だって、こんなに怖くない。
 まったく、顔に似合わず剛毅な男だ。しかし岡部には、それが好ましく思えた。
「余裕だな、岡部」
 顔に出てしまっていたらしい。薪の目が岡部を見て、あの意地悪そうな笑みを浮かべる。
「2番目の被害者の半月分、全部見とけ。今夜中にだ」
「えっ! 今夜中ですか!?」
「この季節の夜明けは、4時半ごろだ。まだ4時間はあるぞ。それだけあれば十分だろう」

 画を見るのは可能だが、睡眠時間はない。
 まさか徹夜で仕事を命じられるとは。捜一ではなかったことだ。夜の張り込みは、交代で仮眠を取りながらするものだ。
 しかし第九では、これが当たり前のことらしい。その証拠に室長は元気一杯だ。

「いいか。僕たちの捜査が遅れれば、その分新しい被害者が出る可能性が高くなるんだ。事件が解決したら、20時間でも30時間でも眠らせてやる。それまでは寝るヒマなんかあると思うな!」
 第九の室長は鬼よりこわい―――― あの噂の真実はこれだったのか。

 岡部はあの時、薪の申し出を断ったことを心の底から後悔した……。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

岡部警部の憂鬱(12)

岡部警部の憂鬱(12)







「岡部、味見」
 薪の声に我に返ると、目の前に小皿に入った味噌汁があった。
 昆布と鰹節できちんと出汁をとった味噌汁は、その辺の料理屋のものより遥かに美味い。

「うまいです」
「味噌、足りなくないか?」
 薪の好みは少し薄めだ。付き合いが長くなってくると、そんなことも解ってくる。
「いや、このくらいでいいですよ」
 薪はいつも朝はパン食だが、今日は岡部の好みに合わせてご飯にしてくれた。濃い目の味付けを好む岡部のために、味噌汁の味も心持ち濃くしてある。
 まったく細やかな心遣いだ。口には出さないが、薪は岡部のことを、とても大切に思ってくれているのだ。
 今の薪からは想像もつかないが、あのときの薪は、本当に憎らしかった。こうして思い出してみても、やっぱり憎たらしい。
 人間変われば変わるものだ。いや、変わったのは俺のほうか。

「遠慮するなよ。僕も青木も朝はパンなんだ。今日はおまえの好みに合わせて和食にしたんだから、味付けもおまえの好みに」
「青木も朝はパンなんですか? よく知ってますね」
 岡部の鋭い突っ込みに、薪の頬が微かに赤くなる。お玉を握る手が硬直して、なんだかギクシャクとおかしな動き方をしている。
「いや、ちが……別にそういうわけじゃ、いつも一緒に食べてるわけじゃなくてこないだはたまたま」
 なにかモゴモゴ言っている。墓穴を掘っている気もするが、聞こえなかったふりをしてやろう。

 薪とってはいいタイミングで、玄関のチャイムが鳴った。青木が帰ってきたらしい。
 薪のマンションは瞳孔センサー式のオートロックなので、一旦外へ出ると、本人以外は中へ入れない。カメラで青木の姿を確認して、薪はそそくさと玄関に歩いていく。
 カチャリとドアを開ける音がして、玄関口の会話が聞こえてきた。
「コンビニにネギあったか?」
「はい。さっきはすいませんでした。なんか、のりうつられたみたいで」
「僕も知らなかったんだ。おまえがそんなに納豆が苦手だなんて」
「え? 俺、納豆食いますよ」
「……じゃあ、なんであんなに怒ったんだ?」
 思い込みのすれ違いが面白い。この2人は性格はまるで違うのに、思い込みが激しいところは同じだ。

 薪はひねくれものだが、青木は真っ直ぐだ。薪は複雑怪奇な思考回路をしているが、青木は単純だ。
 ふたりとも東大法卒のキャリアだから頭はいいのだが、それを鼻にかけるようなことはしない。薪は相手にもよるようだが、青木はしない。
 世田谷の遺族の家に脳を貰い受けに行ったあの一件以来、青木は薪のことを崇拝するようになって、それは岡部を喜ばせた。
 薪の本当の姿を知れば、こいつはもう大丈夫だ。自分がそうであるように、室長のためなら、どんなにつらい仕事でもこなすに違いない。
 青木も始めは、薪のことを誤解していた。いや、誤解ではなく見抜けなかったのだが、薪の場合、見抜くのは至難の技というか、気付かないほうが普通というか、その。

 でも、こいつはたいしたやつだ。
 自分のようなきっかけはなかったはずなのに、ちゃんと室長の内面に気が付いた。
 強そうに見せて、本当はひどく脆いところがあるこのひとの危うさに手を差し伸べたくて、必死に努力している。室長の役に立ちたいと、ただそれだけで昇格試験にも合格し、岡部には宇宙語のようなMRIの専門書の勉強も続けている。

「オレにも味見させてくださいよ」
「おまえに味見させると、鍋が空になるからいやだ」
「まだカレーのこと根に持ってるんですか?」
 味噌汁の鍋の前で、他愛ない冗談を交わしている。
 このごろ薪は、この新入りとこんな会話をするとき、妙に和んだ顔をしていることに岡部は気づいていた。
 岡部も青木のことは可愛い後輩だと思っているが、薪の気持ちはそれとは少し違うような気がする。青木がそういう目で薪を見ているのはとっくの昔に気付いていたが、薪のほうはそう単純でもないようだ。

 青木を見つめる亜麻色の目には、ときおり感傷が混じる。おそらく、誰かを重ねている。その誰かの影を青木の中に探している。
 しかし、青木がその誰かにはなれないことも、ちゃんと分っている。そんな不安定な感情の中で、それでも確実にふたりは惹かれあっている。
 自分の与り知らぬところでなにがあったのかは不明だが、そこまで関与する気はない。これ以上は本当にお節介になってしまう。馬に蹴られてなんとやら、だ。
 とりあえず、薪の平穏な顔を見ることができれば、岡部はそれで満足なのだ。

「いっただきまーす」
 食卓には3人分の和朝食が並んでいる。
 岡部と薪の前には食事に合わせて日本茶が湯気を立てているが、青木の前には冷たい牛乳が置いてある。あまり乳製品が好きではない薪が牛乳を常備しているということは、牛乳好きの誰かが頻繁にここに出入りしては食事をしていく、という推理が成り立つ。
 べつに誰とは云わないが。

「あっ、おまえいくつ卵焼き食べる気だ?俺の分もあるんだぞ」
「わかってますよ。半分ずつですよね」
「そうだな、4切れずつだな」
「……僕の分はないんだ」
 休日の朝に、同僚の顔を見ながら朝食を摂るなんてつまらない。休みの日は、家族や仕事の絡まない友人と共に過ごしたい―――― 普通はそう思うだろう。
 しかし、休日にも一緒にいたいと思える人間と仕事ができる自分は幸せだ。
 これまでにも、何度か薪と二人で休日の朝を迎えてきた岡部は、ずっとそう思っていた。
 しかし、これからは。

 美味そうに薪の作った卵焼きを頬張っている後輩と、それをやさしい目で見ている上司の姿に、岡部は若干の寂しさを覚える。
 そろそろ、自分の役目は終わるのかもしれない。

 薪はどんどん青木との距離を縮めている。自分の手を離れて、他の男に嫁ぐ娘を見送る父親のような気分だ。でも、それを選んだのが薪自身ならそれでいい。というか、他にどうしようもない。
 自分では薪を本当の意味で満たしてやることも、幸せにしてやることもできない。青木には、おそらくそれができるのだ。若さゆえの無知と無鉄砲さで、岡部には到底できないことも、平気でやってのけるにちがいない。
 たとえば先日、室長室で見てしまったようなこととか、それ以上のこととか。

 青木の父親が亡くなったばかりのとき、夜の室長室での出来事を、岡部は偶然目撃してしまった。
 驚いたが、得意の投げ技を決めるでもなく、相手の抱擁を受け入れている室長の様子を見ると、無理矢理というわけでもなかったことがわかって、岡部としてはなんとも複雑な気分だ。
 だが、あれは恋人同士のキスというより、薪の方からしてみれば泣いている子供を慰める母親のキスみたいだったが。
 まあ、それは当人たちの勝手だ。これから先ふたりの関係がどう変わっていくのかは、当人たちに任せるしかない。

 薪が、笑顔でいてくれればそれでいい。

 恋人が男だろうと12歳も年下だろうと、大きなお世話というものだ。本人たちが―――― いや、薪が幸せなら、それでいいではないか。
 その代わり、泣かせたらただじゃ済まさない。あばら骨の二、三本なんて生ぬるいことはしない。体中の骨を粉々に砕いてやる。
 覚悟しとけよ、青木、と心の中で勝手に約束を取り決めて、岡部はふたりの仲を認めてやることにした。

「岡部。いいのか?」
「俺はいいんですよ。薪さんさえ……え?」
 薪の問いかけに、頭の中で考えていたつもりが独り言でも言ってしまっていたかと焦るが、薪の表情を見ると、そんなことではないようだ。
「卵焼き、全部食われちゃったぞ」
「なっ!」
 慌てて皿を見るが、既にかけらも残っていない。
「いま半分ずつって約束したろうが!」
「すいません。あんまり美味しかったんで、つい」
「俺はまだ一切れしか食べてなかったんだぞ!」
「僕は一切れも食べてないぞ」
「薪さんはいいじゃないですか! いつでも食べられるんですから!」
「……おかしくないか? その理屈」

 やっぱりダメだ。
 こんな食欲の権化のような若造に、大切な薪を任せるわけにはいかない。食べ物の恨みは深いのだ。
 まだまだ自分の役目は終わらない。
 薪のことを支えられるしっかりした人間に、こいつをみっちり鍛え上げてやる。柔道も剣道も拳銃の腕前もだ。頭脳はかなわないが、警察官には武術も必要だ。特に薪を守っていくためには。

 岡部の恨みがましい視線から逃れるように、青木はコーヒーを淹れに席を立つ。
 新品のコーヒーメーカーは大型のもので、本格的なエスプレッソが淹れられる優れものらしい。あまり食べることにはこだわらない薪にしては珍しいが、第九のバリスタの出現で、コーヒー好きが高じてきたのかもしれない。
 しかし青木は、その高性能の機械は使わない。手動のミル挽きとドリッパーで、丁寧にコーヒーを淹れる。
 ほどなく、コーヒーのいい匂いがダイニングに立ち込めた。

「お酒の翌日はさっぱりと。コロンビアスプレモです」
 青木からコーヒーカップを手渡され、その香りを吸込んで薪は満足そうに目を閉じる。
 一口すすって、極上の笑顔になる。第九のバリスタは、また腕を上げたらしい。その仕事ぶりに薪はご満悦のようだ。

 穏やかな薪の微笑みに彩られて、冬の休日はゆっくりと始まった。


 ―了―



(2009.1)


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岡部警部の憂鬱~あとがき~

 お付き合いくださって、ありがとうございました。
 あおまきすとの方々には、かなり退屈なお話だったと思います。青木くんがほとんど出てきませんからね。

 岡部さんが好きです。
 正直、青木さんよりも岡部さんのほうが好きです。
 以前よそさまのブログで拝読した「結婚するなら~」のバトン。わたしは断然、岡部さんです。だれがなんと言おうと、岡部さん。
 毎朝送り出すときに「今日も薪さんをしっかりサポートしてあげてね」と言って岡部さんを見送るの。うっとり。

 え?
 じゃあ、どうしてあおまき小説を書いてるのかって?
 仕方ないじゃん。
 薪さんが、青木くんじゃなきゃイヤだ、って言うんだもん(笑)



 ところで。

 リクエストですが、書いた次の日、激しく後悔しました。
 ラブラブのあおまきさんなんて、わたしに書けるわけないじゃん(自爆)
 絶対にR系とか、ギャグとか、女装ネタとか、ヘンタイネタとか、そういうイロモノが来ると思ってたのに。だって、このブログのカラーはR系ギャグですよ?

 やっぱりみなさん、あおまきすとなんですね。(しみじみ)
 ご期待に応えるべく、もっか奮闘中です。



 その間も在庫の恥さらしは続けますので、お付き合いいただけたら幸いです。


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官房長の娘(1)

官房長の娘(1)






 第九のシャワールームがユニットバスに改造されたのは、一年でいちばん寒い2月の半ばのことだった。

 室長は大の風呂好きで、以前からこのシャワールームを湯船のついた風呂場に改造するという野望を持っており、何度か予算の申請をしていたのだが、当然のように棄却され続けてきた。
 国税でまかなわれている国の施設に、バスルームが備え付けられるかどうかなど常識で考えれば分りそうなことだが、第九の場合は他の研究室とは少し事情が違う。職員の人数不足と捜査の特殊性のため、研究室への泊り込みを余儀なくされる場合が非常に多いのだ。それも一日二日の話ではなく、1週間単位での篭城となる。
 中でも責任者の室長は寝泊りの期間が長く、最高記録はなんと23日間である。20日以上もシャワーだけで過ごさなければならなかった室長は、いつか必ずこの予算を通してやると心に決めていたのだ。

 そのチャンスが訪れたのは、2月の初め。
 薪のパトロンと陰で囁かれる小野田官房長が第九にやって来て、いつものきわどいジョークで第九の職員をドギマギさせた後、室長室で薪に個人的な頼みごとをしていった。このユニットバスは、その見返りというわけだ。

「よく予算が下りましたね。どうやって所長を説得したんですか?」
 工事の騒音が響く中、事情を知らない岡部が不思議そうに尋ねる。薪は机の上を整理しながら、悪びれもせずに裏取引の事実を教えてやった。
「小野田さんから言ってもらったんだ。鶴の一声ってやつだな」
「官房長には、借りを作りたくなかったんじゃないんですか?」
「これからその借りを返しに行くところだ」
 帰り支度を整えて、薪は立ち上がった。
 まだ、定時を10分しか過ぎていない。室長にしてはひどく早い退室時刻だ。

「後は頼んだぞ」
「はい。あの、どちらに?」
 薪のプライベートにまで口を出す気はないが、緊急の連絡先を聞いておいたほうがいい。岡部はそれくらいの気持ちで行き先を訊いただけなのだが、薪の返事は第九の職員たちを驚愕させた。
「官房長の娘さんとデートなんだ。くだらない用事で、携帯に電話してくるなよ」

 パープルグレイのトレンチコートを着込んだ室長がモニタールームから出て行った後、研究室はえらい騒ぎになった。
 浮いた噂ひとつなかった室長が、女の子とデート。しかも相手は官房長の娘だという。
 もらったラブレターを読みもせずに捨ててしまう冷血漢が、さては相手の父親の後ろ盾が目当てか、と薪をよく知らない人間なら思ってしまうかもしれない。
 しかし、薪に限ってそんなことはない。
 将を射んと欲すればまず馬を、などと回りくどいことをせずともとっくに官房長は薪の味方だし、薪は出世には興味はない。恋愛にはもっと興味がない。薪が興味があるのは事件のことだけだ。つまらない男である。
 研究室の面々は室長のことをずっとそう思ってきたのだが、どうやらそれは、相手を選んでいただけのことであったらしい。室長のおめがねに適うにはやはり、それ相応の地位を約束してくれる女性でなければならなかった、ということか。

「でも、あのひとが女の子と腕組んでる姿なんて、全然イメージできないんだけど」
「電話をしてくるなってことは、邪魔するなってことだよな」
「そういう方向へ持っていく気なのかな」
「室長が? ありえないだろ」
「この時間からデートするんだから、不自然じゃないだろ」
「……無理。想像できない」
 人の恋路の心配をする前に、自分のことを心配すべきだ。薪がこの場にいたら、きっとそう言っただろう。
 第九の職員の中で恋人がいるのは今井ただ一人で、他のものはみんな女性に縁がない。デートに割ける時間がない勤務体制のせいもあるが、警察官というのはもともと出会いが少ないのだ。特に世間から白い目で見られることが多い第九では、合コンの設定もままならない。エリート中のエリートばかりが集まった第九の職員たちが揃いも揃って独り者というのには、このハンディキャップが大きく影響している。

 薪のデートの行方をあれこれ想像する職員たちを遠巻きにして、ひとりだけいつもと変わらぬ穏やかさで仕事を続けている男がいた。
 職員の中でいちばん若くて背が高い。しかし、この男はだれよりも薪に心酔していたはずだ。
 薪に対するセクハラすれすれの小野田の冗談を真に受けて、この男がめまいを起こしている姿を職員たちは何度も目にしている。その反応が面白いとばかりに小野田の冗談の内容はエスカレートする一方だったが、毎回毎回その冗談に引っかかる方も引っかかるほうだ。
 そんな男が室長の恋話に無関心なんて、絶対におかしい。

「青木。おまえ、ずいぶん平気な顔してるけど。気にならないのか? 室長のこと」
「薪さんはそんなことしませんよ」
 隣の席の曽我が尋ねても、青木に動揺の気配はない。モニターから目を離しもせず、余裕たっぷりに言い返す。どこから湧いてくるのか、その自信の出所は不明だ。
「薪さんだって立派な男だぞ」
「大丈夫です。薪さんは犯罪者になるような真似はしません」
 キーボードの上を淀みなく長い指が滑っていく。室長ほどではないが、青木のタイピングの腕前はなかなかのものだ。
「犯罪って……そりゃレイプしたら犯罪だけど、合意の上なら別に」
「合意の上でもダメです。だって」
 エンターキーを叩き、マウスをクリックする。レーザープリンターから仕上がった書類が吐き出される。青木の今日の仕事はこれでおしまいだ。
「官房長の娘さんは、まだ中学生ですから」

 書類をホチキス止めにして、青木は席を立った。
 呆気にとられる先輩たちを尻目に、室長室へ書類を持っていく。備え付けのキャビネットの中の閲覧待ちの棚にその書類を入れると、振り返って部屋の中を見回した。
 部屋の主との昨夜の会話を思い出して、青木は思わずにやついてしまう。

「官房長の娘さんとはいえ、薪さんとデートできるなんて羨ましいです」
 大人気ない嫉妬心を恥ずかしげもなく口にする青木に、呆れたように室長は言った。
「一緒に食事するだけだ」
「本当に、食事だけですか?」
「相手は中学生だぞ。それ以上、何しろって言うんだ」
 それでも、やっぱり面白くない。
 クリスマスの山水亭がお流れになって、結局のところ薪とふたりでディナーを食べる計画は、実行に移されていない。

「知らないんですか? 最近の中学生は進んでて、性経験のある女子は50%を超えてるんですよ。薪さんみたいに押しに弱いひとは、反対に食われちゃいますよ」
「それ、僕に犯罪者になれって言ってるのか」
 たしかに、青少年保護条例違反である。
 それでもまだぶつぶつ言っている青木に、薪はある提案をしてきた。
「じゃあ、食後のコーヒーはここで飲むから」
 どうせ仕事も残っていることだし、食事が済んだら真っ直ぐ第九に戻ってくる。帰ってきた時間でデートの内容を判断すればいいだろう、というわけだ。

 あと2時間くらいで、薪はここに帰ってくる。薪のためにとびきり美味いコーヒーを淹れてやろう。
 それまでにユニットバスの工事が終わるといいのだが。あの派手な音が響いていては、せっかくのコーヒーが台無しだ。

 青木は室長室を出ると、モニタールームにいる先輩たちに声を掛けて外出することにした。
 今朝方、珈琲問屋に時間指定で頼んでおいたキリマンジャロAAの豆の焙煎が出来上がっている頃だ。今夜のディナーはフレンチだと言っていたから、この酸味のきいたコーヒーはこってりした後味を流してくれるだろう。

「中学生だってよ。薪さんてロリコンだったのか」
「いや、仕込む気かもしれないぞ。紫の上みたいに」
「光源氏かよ」
 いまだに室長の恋愛談義に花を咲かせている先輩たちに苦笑して、青木は研究室を後にする。
 2月の厳寒の空に、星がとてもきれいな夜だった。


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官房長の娘(2)

官房長の娘(2)







 豪華なシャンデリアの掛かった瀟洒なレストラン。白いナフキンにピカピカ光る銀食器。目にも美しいオマール海老の前菜の皿を前に、しかし少女は不満そうだった。
 
「剛さんと二人きりでって言ったのに、お父様の嘘つき」
 小さな声で、隣の熟年の男性に話しかける。かわいい唇を尖らせているさまが、いかにも甘やかされて育った最近の子供らしい。
「仕方ないだろう。薪くんがぼくも一緒じゃなきゃだめだって言い張るんだから」
「これじゃデートじゃなくて、ただの食事会じゃない」
 ちらちらと向かいの若い男性を見て、少女は密かにため息をつく。
 今日は2月10日。少し早めのバレンタインデートなのに、父親はその辺のことを解っているのだろうか。

 薪に夢中になっているという官房長の末娘は、今年で14歳になる。
 3人姉妹の末っ子で、名前は小野田香。2人の姉たちは父親を疎んじる年齢に差し掛かると自然に母親についてしまったが、香だけはこの年になっても父親にべったりで、小野田は目に入れても痛くないくらいこの少女を可愛がっている。
 小野田が薪との縁談を勧めている相手は、もちろんこの少女ではない。
 いくらなんでも22歳の年齢差はちょっと厳しい。よって官房長のお勧めは、一番上の26歳になる娘だ。10歳くらいなら、何とか許容範囲だろう。
 しかし、当人同士がうんと言わないことにはどうしようもない。娘のほうはそう嫌がっている様子もないが、問題は薪のほうだ。以前、この縁談を勧めたときには、にべもなく断られてしまった。別に結婚しろと命令したわけではない。会ってみるだけでもと言ったのだが、それすら断られた。そのときの断り文句がまた傑作であった。
『僕、好きな人がいますから』
 ……普通、官房長相手にこういうことは言わない。というか、こんな良縁を断るほうがおかしい。
 のっぴきならない事情があったにしても、若輩者ですから、とか私にはもったいないお話ですから、などと言ってやわらかく断るものだ。それがストレートに『好きな人がいるからあんたの娘とは付き合えない』と言ってのけた。思わず笑ってしまった小野田だった。
 それはさておき、香のことだ。
 
「香ちゃん。最近、学校のほうはどう? 楽しい?」
 薪もさすがに子供相手に皮肉は言わない。にっこりと微笑んで香に話しかける。
 整いすぎた微笑は明らかに対マスコミ用の笑顔だが、香にはそんなことはわからない。薪の美しい笑顔に、うっとりと見とれているようだ。不憫な娘である。
「ええ。剛さんは? お仕事楽しい?」
「うん、楽しいよ」
 あれが楽しいというのも、また問題だろう。

 自宅にいるときと打って変わって明るい笑顔で薪と会話を交わす愛娘の姿を見て、小野田は少々複雑な気持ちになる。
 あんな笑顔をぼくに向けてくれたのは何歳までだったかな。女の子は親よりも男を選ぶからな、と既に気分は花嫁の父である。

 この少女は14歳という多感なお年頃で、近頃反抗期というやつらしい。
 小野田にはそうでもないが、母親には反発しまくっているらしく「香を叱ってください」という妻のセリフを頻繁に聞くようになった。学校の成績は悪くなかった香だが、情緒不安定な精神が学業に影響したものか、最近目立って試験の順位は右肩下がりになっている。親としては次の期末試験では頑張って欲しいところだが、親の言うことなど聞く耳を持たないのがこの年頃の特徴である。
 そこで、小野田は娘をエサで釣ることにした。

『期末試験で20番以内に入ったら、薪くんとのデートを取り付けてやる』

 薪本人の承諾もなしに勝手に行われた約束は、恐ろしいまでの集中力で試験の順位を50番以上上げてきた末娘の努力によって、履行せざるを得なくなった。我が娘ながら見事なものだ。目的が明確になったときのがむしゃらな行動は周りの人間を瞠目させる。これは間違いなく自分の子供だ。
 しかし困った。
 薪を説得するのは一筋縄ではいかないはずだ。薪は仕事の邪魔をされるのを何よりも嫌うし、中学生の女の子とデートしてくれと言っても冷たい眼で見られて、『嫌です』と直球で断られるに違いない。
 思案顔の小野田に、昨年第九に入ってきたばかりの新人がコーヒーを持ってきたのはそんなときだ。この新人はこの1年で驚くほどに成長した。最近では、報告書にも彼の名前がよく載るという。報告書に名前が記載されるということは、それだけの功績を挙げているということだ。
『薪くんに頼みたいことがあるんだ。絶対に嫌がられそうなんだけど、どうしても引き受けて欲しいんだ。どうしたらいいと思う?』
 仕事上のことではなくプライベートなことで、薪本人が被害を受けるようなことはないと小野田が保証すると、第九の新人は薪が何度も申請しては却下されているシャワールームの改造を承認してやったらどうか、という裏取引を持ちかけてきた。
 冷暖房完備の研究室だが、コンピューター最優先の温度に設定してあるため、室温は一年を通して20~22℃。シャワーだけしか使えないとなると、夏はいいが冬は少し寒い。冬は第九の閑散期だから差し支えはないと思われるが、室長だけは一年を通して繁忙である。冬の最中にシャワーだけ、というのは風呂好きの薪にとっては耐え難いことなのだ。
 薪が風呂好きだということも、小野田にとっては初耳だ。薪のことはいつも気にかけているつもりだが、やはり一緒に仕事をしている研究室の仲間にはかなわない。
 新人がくれた情報は確かで、ユニットバスのことをチラつかせると薪は二つ返事で乗ってきた。けっこう現金な男である。
 しかし、これはあくまでポーズだ。普段から世話になっている小野田の頼みごとを、薪が無下に断るわけがない。小野田もそれは分っていて、第九の室長として気苦労の絶えない薪に何かご褒美をあげようとしているだけだ。

 捜査の特殊性から秘密にしなければならないことが多い第九の室長だが、去年の秋の麻薬がらみの事件は、特に大きな秘め事になった。
 あの麻薬売買のリストを薪が官房室に持ち込んできたときには、さすがの小野田も度肝を抜かれた。小野田なら正義を貫いてくれるかもしれない――薪はそう思って官房室を訪ねたに違いなかったが、残念ながら小野田にもそれは難しかった。
『このリストは有効に使うから。公表は諦めなさい』
『……小野田さんを信じます』
 それだけ言うと、薪は官房室を出て行った。
 それが公表できないことは、薪にも分かっている。しかし、自分の中の正義感がそれを許さない。薪の性格をよく知っている小野田には、その心情が読めた。

 表面では冷徹な皮肉屋を装っているが、中身はびっくりするくらい純情で真っ直ぐだ。自分自身を責めて責めて、今頃はきっと地の底まで落ち込んでいるに違いない。
 あの真っ直ぐなところが薪の魅力なのだが、管理者としては大きな欠点だ。あのままでは自分の後を任せることはできない。薪にはもう少し大人になってもらわなければ。
 薪はまだ36だ。あと10年もすれば清濁併せ呑むようになるだろう。自分が築いたものはそっくり薪に譲ってやるつもりだ。それまでは自分もこの椅子を守らねばならない。そのためにこのリストは有効に使わせてもらう。

 自分を信じると言った薪には可哀想だが、こういうことを避けては警察庁№3の椅子は守れない。汚い裏事情だが、現実問題として権力を持たなければ正義は貫けない。
 警察は大きな組織だ。いくら声高に正義を叫ぼうと、ピラミッドの底辺にいては何もできない。だから小野田は官房長の椅子にかじりついて離れない。
 薪が自分のように割り切って必要悪を認め、自分の正義を貫くためには上層部に食い込むしかない、と悟るのはいつのことなのか。小野田はその日を首を長くして待っているのだ。
 しかし、薪は今のところ出世に興味はないようである。

『僕はこのままでいいです。これ以上は望みません』
 警視長の昇格試験は確かに難しいが、薪の頭脳なら努力しだいで合格できるはずだ。特別承認の話も、小野田の方から持ちかけてやったというのに、断られてしまった。
 だがその理由は、試験に通る自信がないから、などという奥ゆかしいものではなかった。
『警視長になってしまったら、警察庁に戻らなくてはいけないでしょう? 警察庁の仕事は書類に判を押すだけで、つまらないですから』
 試験を受けたら受かってしまう、と言わんばかりである。自惚れが強いと誤解されがちだが、薪自身は自分の頭脳が他人より優れていることを自慢に思ってはいない。
 頭が良いのはある程度生まれつきのもので、足が速かったり手先が器用だったりするのと変わらない能力のひとつだとしか考えていない。大したことだとは思っていないから、謙遜する気もない。そこがまた周囲の反感を買ってしまうのだが。
 別に試験がよくできたからといって、何が偉いわけでもない。薪は警視正の昇格試験の最高得点記録保持者だが、本人にとっては紙切れに過ぎない表彰状よりも、第九の備品のひとつでも増やしてもらったほうが遥かにありがたい。まったく、かわいくない男である。

『僕は第九を離れたくないんです』
 薪の本音は、実はこっちだ。
 親友の愛した第九を守りたいんです――あの事件のすぐ後に、小野田は薪を警察庁に呼び戻そうとした。それを断った理由がこれだ。
 まだ、薪の傷は癒えていないらしい。第九を離れたがらないのはその証拠だ。
 いつになったら薪はあの事件の影から抜け出せるのだろう。小野田としてはそこが一番の心配の種なのだ。

 丸いテーブルの隣の席で優雅にナイフを取り上げた美貌が、小野田の複雑な眼差しを受けて小首を傾げた。
 小野田はにこりと笑って、前菜の皿に視線を戻した。




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官房長の娘(3)

官房長の娘(3)








「剛さん。ちょっと早いけど、これ」
 薄いブルーの包装紙に、鮮やかな青いリボンの掛かった四角い箱。赤いハートマークのシールが貼られている。ロゴはもちろんSt.VDだ。
「バレンタインデーのチョコレート。本命チョコだからね」
「ありがとう」
 おませな香の真心を、薪は笑顔で受け取った。
 毎年その日には沢山のチョコレートが薪に届くそうだが、中身を見ることもなく捨ててしまうと職員の誰かが言っていた。あまり甘いものは好きではないらしい。

「あれ? 香。ぼくには?」
「冷蔵庫に失敗しちゃったのがたくさんあるから、食べたかったらどうぞ」
 ひどい。娘なんてつまらない。
「官房長も、娘さんの前では形無しなんですね」
「君もひとの親になればわかるよ」
 小野田の言葉に曖昧に微笑んで、薪は前菜の海老にナイフを入れた。
 薪の好みは和食だと聞いたが、ナイフとフォークの扱いも優雅できれいだ。食べ方も上品で洗練されている。とても幼い頃に二親を喪って、親戚の家で育てられた苦労人とは思えない。薪を育ててくれた叔父と叔母に、厳しく躾けられたのかもしれない。

「美味しい。さすが小野田さんの行きつけの店ですね」
「しょっちゅう来てるわけじゃないよ。破産しちゃうよ」
「そんなに高いんですか? ここ」
 こっそりと一人前のフルコースの値段を耳打ちすると、薪は目を丸くした。
「ちょっと無理だな」
「なにが?」
「お父様は黙っててよ。わたしが剛さんとお話するんだから」
 敵意むき出しで、香が父親を牽制する。恋する少女の前には父親すらも恋敵というわけか。

「剛さんが結婚したい女性ってどんなタイプ?やさしいとか、料理がうまいとか」
 無邪気な質問に戸惑いつつも、薪は誠実に答えを返そうと考えているようだった。薪の好みの女性なら、小野田もぜひ知りたい。

「親を大事にする人かな」
 薪の答えに小野田は噴き出し、香は頬を赤らめた。
「わたし、別にお父様を邪険にしてるわけじゃ」
「僕は小さいときに両親を亡くしてるから。結婚するとしたら、相手の親と一緒に住みたいんだ。だから、自分の親を大切にする女性がいいな」
 なるほど、うまい言い方だ。
 例え本人が腹の底でどう思っていようと、一応の理屈は通っている。さすが第九の室長だ。マスコミ相手の答弁に慣れているだけのことはある。

「……お父様のチョコは、明日ちゃんと作るから」
「うん。楽しみにしてるよ」
 照れたように笑う娘の姿に、小野田の頬が緩む。末っ子というのは本当に可愛いものだ。

「剛さん。今年も剛さんだけだからね、チョコレートの相手」
「そうなの? 学校の男の子とかに配らないの?」
「うん。わたし、剛さん一筋なの。本気よ」
 薪は苦笑して香の話を聞いていたが、香のその言葉を聞くと初めて困惑の表情を浮かべた。言い難そうに、しかし香の目を見てはっきりと告げる。
「ごめんなさい。お父さんには言ったけど、僕には好きな人がいるんだ。だから香ちゃんがいくら僕のことを想ってくれても、応えられないんだ」
 たとえ相手が子供でも、真剣な気持ちには真剣な態度で返す。薪のこういうところを、小野田は気に入っている。
「うん、聞いてる。でも好きなの」
「僕のどこがそんなにいいの? 僕は君より22歳も年上で、ただのおじさんだよ?」
「大丈夫。見た目は3つくらいしか変わんないから」
 他の誰かがこのセリフを言ったら、薪お得意の氷のような冷たい眼で睨まれるところだが、相手が香ではさすがにそれはできない。中学生に言われたくないよ、と横を向いてぶつぶつ言って、自分の中の憤りをなんとか押さえ込んでいるようだ。

「剛さんは、その辺の男の人とはぜんぜん違うもん。やさしくて頭が良くて、スマートで優雅で―――― わたしの理想のひとだわ」
「それは買いかぶりだよ。僕は普通の男だよ」
「そんなことない。剛さんには、汚いところなんかこれっぽっちもないのよ。心の底から清らかで、それが表面に滲み出てるの。だから男の人なのに、そんなにきれいなんだわ」
 香のうっとりとした表情に、薪は白旗を揚げた。眼で小野田に助けを求めてくる。小野田に同席を求めた薪の真意が、ようやく解った。
 この年頃の女の子の『白馬の王子様』幻想を、仕事以外では口下手な薪が止められるはずがない。しかし、小野田にもそれは不可能だ。ここで「薪くんが困ってるからやめなさい」などと言った暁には、自分の家での村八分を最低1ヶ月は覚悟しなければならない。

「剛さんの好きなひとって、どんなひと? 教えて」
「だめなんだ。他の人に迷惑が掛かっちゃうし、僕の勝手な片思いだから」
「信じられない。剛さんみたいな人が片思いだなんて。相手の人には言ってみたの?」
「うん。でも振られちゃったんだ。だけど、まだ好きなんだ」
 どこまで真実なのだろう。
 長い睫毛を伏せて、薪はとても哀しそうだ。香を納得させるための嘘だと思っていたが、薪はこういう嘘はあまり上手ではない。案外全部本当のことかもしれない。

「ふうん。他の人じゃだめなの?」
「うん。他の人じゃだめだ」
「望みがなくても?」
「うん。だから今は誰とも付き合えないんだ」
 22歳も年下の女の子と真面目に恋愛の話をしている。香が薪に夢中なのは、こうして真剣に話をしてくれるからかもしれない。薪は香を子ども扱いはしない。それが嬉しいのだろう。

「あたしねえ」
 香の一人称が変わる。本音が出た証拠だ。
「剛さんのそういうところが好きなのかもしれない」
 香は健気に笑って、薪の肩を軽く叩いた。薪がきょとんとした顔になる。薪のその貌はとても幼くて、香の言うとおり3つくらいの年の差にしか見えない。
「大丈夫よ。剛さんのことすごく好きになってくれて、剛さんもそのひとのことを大好きになれるような相手がきっと見つかるわよ」
 快活でおしゃまな少女。これが本来の香だ。
「22歳も年下の女の子に慰められるとは思わなかったよ」
 薪の感想はもっともだが、ここは香の一本勝ちだ。

 和やかな雰囲気の中、ディナーは順調に進み、デザートのオーダーをシェフが聞きに来た。料理を褒めた後、小野田と香は季節のフルーツタルトとコーヒーを注文したが、薪は断った。薪の小食ぶりは相変わらずのようだ。
「コーヒーだけでも飲んだら? きみ、コーヒー好きだったろ」
「今日は遠慮します。ここで失礼してもいいですか?」
「え? 剛さん、帰っちゃうの?」
「ごめんね。まだ仕事が残ってるんだ」
「今日くらいはいいんじゃないの?」
「部下を待たせてるんです。きっと今頃」
 何を想像しているのか、薪の顔が自然にほころぶ。その笑みは香に向けていた商売用の笑顔とは種類が違う。意識してのものではなく心の中が顔に出てしまったという感じで、いくらか甘いものも混じっているようである。

「なんかアヤシイ。あんなこと言っといて、ほんとは恋人とデートなんでしょ」
 14歳とはいえ、香はさすがに女だ。薪の微妙な変化を目ざとく見つけて鋭く突っ込む。ストレートに聞いてしまうあたり、まだまだ子供だが。
「ち、違うよ。本当に仕事なんだ」
 まるで奥さんに浮気を見つかった亭主の言い訳のようである。気の利いたことも言えず、しどろもどろになっている。
「冗談なのに。剛さん、かわいい」
 女子中学生に遊ばれている。鬼の室長の面目丸潰れである。

「もしかして青木くん?」
 あてずっぽうに第九の新人の名前を出してみる。薪は一瞬目を丸くしたが、はいと頷いた。
「大丈夫だよ、香。青木くんは薪くんとこの新人でね。すごく仕事熱心な男なんだ」
「ふうん」
 何事か含んだような納得の仕方をして、香は「お仕事がんばってね」と薪に笑いかけた。
「ごちそうさまでした。おやすみなさい」
 じゃあね、と香に手を振って薪は店を出て行った。

「忙しいのね」
「そうだね。薪くんがヒマそうにしてるところなんて見たことないな」
「そんなに仕事が好きなのかしら」
「香も仕事をするようになれば解るよ」
 やがて、パティシエ自ら自慢のデザートを運んできた。
 香は、食べるのがもったいないような美しいデザートに目を輝かせる。ここのデザートはとても美味しい。どんなにおなかがいっぱいでも、それを断るなんて香には考えられない。
「ん~、美味し~い」
「ぼくのも食べる?」
「うん!」
 久々に子供らしい笑顔の娘を見て、小野田は嬉しくなる。次の試験もこの手でいくか、と密かに計画を企てる小野田だった。




*****


 実は、小野田さんが好きです。
 セクハラオヤジみたいなことばかりしてますけど、現実はノーマルなひとで、薪さんを陰で守ってくれてます。薪さんもそのことを分かっていて、いつも心の中では感謝と尊敬の念を抱いています。
 でも、自分の娘と薪さんを結婚させたがってますから~、あおまきすとには敵ですね(笑)


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

官房長の娘(4)

官房長の娘(4)







「どうしたんですか? その格好」
 夜の8時ごろ第九に帰ってきた室長の姿に、青木はひどく驚いた。
 この2月の寒さの中、上から下までびしょ濡れである。雨でも降ったのかと思ったがそうではない。第九の上空には先刻と同様、きれいな星空が広がっている。

「あの業者、誰が連れてきたんだ」
「ユニットバスの施工業者ですか?」
「お湯を出そうとしたら蛇口が壊れて、水が噴き出してきたんだ! おかげでこの有様、っくしゅ!!」
 薪の行動はだいたい読めた。
 第九に帰ってきて研究室に入る前に、シャワー室の工事が終わったかどうか確認に行ったのだろう。出来上がった風呂を見て、入りたくなってしまったに違いない。湯船にお湯を溜めようと新設の蛇口をひねったとたん、何故か蛇口が壊れて水を被ってしまったというわけだ。

「とりあえずオレ、水止めてきますね」
 水を止めるための止水栓は、建物の外にある。それを止めてしまうと建物全体の水が止まってしまうが、やむをえない。このままでは研究室中が水浸しになってしまう。
「大丈夫だ。バルブ回して来た」
「え、その格好で外に出たんですか?」
「仕方ないだろ。あのまま放っておいたらMRIシステムが浸水して大変なことに、ふえっくしゅ!!」
 もう一度大きなくしゃみをして、薪は寒そうに自分の肩を抱いた。
 薪の顔色は青ざめて、唇は紫色になっている。この季節に頭から冷たい水を被ったのだから無理はない。

「そのままじゃ風邪ひいちゃいますよ。どこかで暖まって服を着替えないと」
「どこかって、うちへ帰るしかないだろ。これじゃ電車には乗れないから、車のキーを取りに来たんだ」
「でも薪さんのマンションて、車だとここから1時間くらいかかりますよね。早く着替えないと。ロッカーに着替え置いてないんですか?」
「冬はあまり泊まり込みにならないから、下着くらいしか置いてないんだ」
 着替えたらよけい寒そうだ。
「そうだ。オレのアパートなら近いですよ。風呂使ってください」
 青木のアパートは第九から徒歩で20分。車なら3分くらいだ。
 しかし薪は何を思ったのか、首を縦に振ろうとしない。遠慮しているのだろうか。

「……おまえ、まさか僕を……」
「はい?」
「いや、なんでもない。大丈夫だ。キーをくれ」
「ダメですよ。服を脱いでこの毛布を着てください。オレが運転しますから」
 仮眠室から毛布を持ってきて、薪に差し出す。何を躊躇しているのか、薪は毛布を受け取ろうとしない。
「いい。平気だ」
 平気なはずがない。歯の根が合わないほど震えているではないか。
「わがまま言わないでください。行きますよ。早く脱いでください」
 しかし薪は動こうとしない。眉根を寄せて、困惑した表情を浮かべている。
 青木がいくら言っても聞こうとせず、薪はとうとう濡れた服の上から毛布を被ってしまった。
「なんで脱がないんです? 本当に風邪引いちゃいますよ」
 恥ずかしがっているのだろうか。いや、それはない。
 このひとは人前でも平気で裸になる。男同士だろ、と当然のようにシャワーの後は素っ裸でロッカールームを歩いていたはずだ。それに、薪の裸は何度も見ている。今更恥ずかしがることもないと思うが。

 まあ、無理やり脱がせるわけにもいかない。
 仕方なくそのまま車に乗せて、自分のアパートへ直行する。隣で薪が「道が違う!」「僕のマンションへはこっちじゃない!」とくしゃみを交えながらわめき散らしていたが、聞こえない振りでやりすごす。
 
「どうぞ。散らかってますけど」
 5分後にはアパートに着いて、青木は玄関のドアを開けた。しかし、今度はドアの前に立って中へ入ろうとしない。
 薪らしくない。なにをこんなに迷っているのだろう。
「どうしたんですか? 今日はなんかおかしいですよ、薪さん」
「ヘンなこと、考えてないよな?」
 …………。
「なんですか? ヘンなことって」
 わざと解らない振りをしてやると、薪は視線を逸らせて口の中で何事か呟いた。
「何もしませんよ。ってかできませんよ。薪さんのほうがオレより強いじゃないですか」
 そうなのだ。
 薪は柔道は黒帯だ。自分の倍近い体重の青木を軽々と投げ飛ばすだけの実力を、このほそいからだは持っている。だからそんなことを心配する道理はないのだ。

「なんでそんなに不安そうなんですか?」
「別に不安がってなんか、―――― っくしゅ!」
「ほら、早く中へ入ってください」
 毛布のお化けみたいになっている薪を強引に中に引き込む。こうなったら実力行使だ。
 部屋の暖房を最強にセットする。玄関の上がり口に立ったままの薪の腕を掴んで部屋に上がらせ、温風が当たる位置に座らせた。
 薪はカーペットの上に小さくうずくまって、物珍しげに周囲を見渡している。
 そういえば、ここに薪を連れてきたのは初めてだ。趣味の車のパーツや雑誌の類が乱雑に置かれている様子を見て、今ばかりは色を失った唇がそれでも皮肉を忘れない。

「掃除は得意なんじゃなかったのか?」
「自分の部屋なんて、こんなもんです」
 べつに掃除が好きなわけではない。これだって男の一人暮らしの部屋にしては、マシなほうだと思うが。
 薪の部屋はたしかにいつもきれいだが、あれは極端に物が少ないからできる芸当で、青木のように、勉強もしたいし趣味も捨てられない人間には無理だ。

「濡れたままだとよけいに寒いですよ。脱いでください」
 睨みつけられる。
 ここが研究室なら引き下がるところだが、今は仕事中ではない。
「なに恥ずかしがってんですか? 男同士でしょ。オレと同じ体なんでしょ。別にヘンなものはついてないんでしょ?」
 むかし、薪に言われたセリフをそっくりそのまま返してやる。薪がむっと眉をひそめた。

 以前は平気で自分の前を、はだかでうろちょろしていたくせに。どういった心境の変化なのだろう。
 そこで青木は、薪の変化の原因に思い当たる。
 この間のことか。
 薪の家でマッサージを頼まれたとき、その後ろ姿のあまりの美しさに、つい抱きしめて首にキスをしてしまった。
 あれは失敗だった。薪お得意の勘違いでその場は凌げたように思ったが、やはり気にしていたのか。

「はいはい、解りました。じゃあオレは風呂の用意をしてきますから。その間に着替えてください。オレの服で良かったら、そこのクローゼットに入ってますから」
 薪を部屋に残してバスルームに向かう。給湯器のスイッチを入れれば他にすることもないのだが、部屋に戻れば薪が嫌がるからここにいるしかない。
 薪には、はっきりと自分の気持ちを伝えてある。あれから4ヶ月。返事はまだもらってない。駆け引きには長すぎる時間だ。返事などしてくれる気はないのかもしれない。
 というか、そのときに実はきっぱり断られている。それでも食い下がって諦めない、と言ったのは青木のほうなのだ。
 薪には好きな人がいる。それは自分ではない。
 しかし、諦めることはない。その人物は、すでにこの世にはいないのだから。

 ピーピーという電子音が鳴って、風呂の準備が出来たことを報せた。湯加減を確認して、部屋へ薪を呼びに行く。
「薪さん、風呂の用意できましたよ。―――― あれ?」
 薪の姿はどこにもなかった。
「薪さん?」
 窓から外を見ると、表に停めておいたはずの車がない。
 薪が風呂に入っている間に彼の体格に合う着替えを調達してくるつもりだったから、車のキーは玄関に置いたままだった。それを持ち出して、自分で運転して帰ったということか。

 あの濡れた服はどうしたのだろう。服だけでも着替えて行ってくれただろうか。
 クローゼットの中を確認してみるが、青木の服で無くなっているものはなく、薪はあのびしょぬれの格好のまま自宅へ帰ってしまったものと思われた。
「そんなに警戒しなくたって」

 ふと、ジャケットの列が乱れているのに気付く。

 収納スペースをフルに使うため、ジャケットを吊るすためのバーは最上段に設置してある。きちんと並んだジャケットの中に一枚だけ、小さなジャケットが斜めになっている。
 手前が低く、奥が高い状態―――― つまり、背の低い人物が、背伸びをしてこの上着を引っ張って取ろうしたということだ。

「あ……しまった」
 薪は、この上着に気付いたのだ。
「まずいな。怒ったかな」
 自分がしてしまった行為に対して、自責の念が沸いてくる。
 薪にしてみたら、裏切られたような気分になっているのかもしれない。薪のことを好きだと言っておきながら、こんなことをしているなんて。
「怒るよな。気分悪いもんな、こういうの」
 薪の携帯は案の定、留守番電話だった。やはり怒っている。

 明日謝るしかないが、何と言おう。
 確かに嫌われても仕方のないことを、自分はしているのだ。しかし薪には悪いが、この上着は自分にとってはとても大切なものだ。絶対に捨てることなどできない。

 自分の上着と比べるとひどく小さなジャケットをきちんとバーに掛け直して、青木は薪への言い訳を考え始めた。


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官房長の娘(5)

官房長の娘(5)








 車のヒーターを全開にして、薪は自宅への道を急いでいた。
「へくしゅっ!!」
 何回目のくしゃみだか、もう数え切れない。背中や腰も痛くなってきた。熱が出るのかもしれない。一刻も早く風呂に入って温まらないと。

 くしゃみをするたびにハンドルが振れてしまうので、傍目から見たら酔っ払い運転のように思われるかもしれない。警官に見つからないことを祈るだけだ。
 実は今日は、免許証を持っていない。慌てていて、鞄ごとロッカールームに忘れてきた。携帯電話も財布もだ。自宅の鍵が瞳孔センサーでよかった。

 今ごろ青木は自分がいないことに気付いて、驚いているだろう。なぜ急に帰ってしまったのか、首を傾げているに違いない。
「青木のやつ」
 薪は思い切りアクセルを踏み込む。今夜の運転は少し乱暴だ。
「……ふざけやがって!」
 イラついた気分そのままに、十分な減速もせずにカーブを曲がる。タイヤがキキイッと高い音を立てる。その耳障りな音に、ますます薪の苛立ちは高まった。

『クローゼットの中にオレの服がありますから、着替えてください』
 そう言って、青木が風呂の用意をしに行った後のことである。
 ひとりになった薪が始めにしたことは、部屋の中を観察することだった。

 青木の自宅を訪れたのは、これが初めてだ。
 薪のマンションよりはだいぶ狭いが、それでも部屋数は同じ2LDKのアパートで、薪が通されたのは居間兼住居スペースだ。
 掃除が得意だと言った割にはけっこう散らかった部屋で、なんだか薪が見たこともないようなものがいろいろ置いてある。車好きの青木らしく、レーシングカーの大きなポスターが壁に掛かっている。
 窓に向けて置かれた机の上には、PC工学の専門書が積まれている。机に作り付けの本棚には犯罪心理学の関連書や、薪が薦めている犯罪時録が置いてある。自宅でもよく勉強しているとみえる。専門書に負けないくらい、車の雑誌も並んでいるようだが。

「くしゃんっ!」
 やはり、濡れたままでは体が冷える。
 部屋の観察は切り上げて、クローゼットの中を覗いてみる。
 中にはたくさんの衣服が置いてあったが、どれもこれも薪には大きすぎる。青木は薪より30センチちかく身長が高いし、体重は30キロも違う。のしかかられたら身動きできない。しかし、喧嘩は薪のほうがずっと強い。日ごろの鍛錬によるものだ。

 いくらかでも小さめの服を物色していた薪は、ハンガーにかけられている黒っぽい上着に気付いた。
 それは、10枚ほど吊り下げてある大きなジャケットに隠されるようにかかっていた。
 明らかに青木のものではない。サイズが小さすぎる。
 手にとってよく見ようとするが、上着の掛かったハンガーは薪の遥か頭上だ。背伸びをしても届かない。引っ張って落としてやろうかとも考えたが、元に戻せない。手に取ることは諦めて、薪は捜査官の目でそのジャケットを見直した。

 雪子の白衣より小さいような気がする。ということは、女物だろうか。
 つまり。
 青木の家に来て上着を忘れていった女性がいる、という推測が成り立つ。

 姉がいることは知っていたが、大阪に嫁いでいて盆と正月くらいしか会えないと言っていた。今年の正月は青木家で不幸があったため、実家で過ごしていたはずだから姉のものではない。
 この上着は、色合いからして秋冬物だ。よって、最近ここに忘れていった可能性が高い。

「なんだ。ちゃんとそういう相手がいるんじゃないか」
 別に自分には関係ない。
 部下の交際相手まで把握しようとは思わないし、そこまで口を出す気はない。不倫や風俗は警察官にはご法度だから、そこだけ気をつけてくれれば上司として言うことはない。
 この上着の色やデザインから察するに、持ち主は普通の女性だと思われる。どちらかというと地味なタイプかもしれない。触ってみると、生地はいいものを使っているから金銭的にも余裕のある女性と見受けられる。風俗嬢や人妻が身につける服ではないようだ。
 道理で薪が雪子との交際をいくら勧めても、首を縦に振らないはずだ。だったらそう言えばいいのに。

 薪はクローゼットの扉を閉めた。そのまま青木の家を出て、車中の人となった。
 自宅に帰り着くと、薪は速攻で風呂に入った。
 とにかく寒くてたまらない。車内のヒーターは強力にかけていたのだが、からだの芯が冷え切ってしまっている。特に頭が冷たくて、なんだか頭痛がする。
 熱いお湯の中にとっぷりとつかって、ようやく人間の体温が戻ってくる。もう少しで冷凍人間になるところだった。

「ああ~、この世の天国だ~」
 現在のところ薪の『幸せランキング』は、1位「風呂」2位「岡部のマッサージ」3位「青木のコーヒー」という順番になっている。ベスト3に自分がランクインしていることを知れば青木は狂喜するだろうが、もちろんそんなことは口が裂けても言わない。

 脳に血が上ってくると、先ほどの上着のことが思い出される。
 途端に幸せな気分が吹き飛ぶ。代わりに車中で味わった、あの苛々した嫌な気分が戻ってくる。
「あいつ、僕のこと好きだとか言ったくせに」
 まあ、男なんてこんなもんだ。
 気持ちと体がバラバラなのは男の生理だから、その事情は薪にも良く分かる。
 髪の毛一本に至るまで誰かに捧げてしまっている薪だが、セックスは女としたい。男は痛いし固いし汚ないし。女のほうが断然、気持ちいい。
 心の中はだれかへの愛で一杯になっていても、女の裸体を前にすればちゃんとそういう状態になる。それが男というものだ。そうでなくては人類は滅んでしまう。

 だからといって、不倫や浮気は許せない。
 鈴木とそういう関係だったときに、薪も一度だけやられた。
 ものすごく頭にきて、くやしくてくやしくて。泣き喚いて責め立てて、鈴木は二度としないと誓ってくれたけど。
 でも、いま思うと無理もなかった。
 あの頃の自分は、とても性的に未熟で、なかなか行為に慣れることができなくて。一度するとその傷が治るまで、何日も間を空けなくてはならなかった。そんな使い物にならない恋人に、鈴木はよく1年も我慢したものだ。

 ……いやなことを思い出してしまった。
 青木の場合は、べつに浮気でもなんでもない。青木はただの部下だ。こんなにイライラする理由はないはずだ。

「あいつ、いつの間に」
 青木がおかしなことを言ってきたのは、たしか10月。あれからまだ4ヶ月しか経っていない。
 いや。
 若い青木にとっては、もう4ヶ月も前のことなのか。
 しかもきっちり振ってある。永遠に応えられない、とまで言い切った。青木が恋人を作っていても不思議じゃない。というか、それが当たり前だ。
 それなのに、僕はあいつがまだ僕のことを好きなんだと勘違いして、ヘンなことに気を回して、濡れた服を脱ぐのも躊躇ったりして……。

「うわぁ……ばかみたいだ、僕」
 というか、バカだ。
 恥ずかしい。穴があったら入りたい。さぞかし滑稽に映ったことだろう。

 ―――― 告白されたのは秋だった。
 青木は、室長室に報告書を持ってきたときに、急にそんなことを言い出して。
 そのときに不覚にもくちびるを奪われたことを思い出して、薪の気分はますます悪くなる。
 お返しに往復ビンタと正拳突きと中段蹴りをお見舞しているから、ひどい目に遭ったのは青木のほうなのだが、とどめに踵落としも決めてやればよかった、と薪は自分の甘さを後悔している。そこまでやったら確実に傷害罪だが。
 詳しい経緯は忘れてしまったが、とにかくきっぱり断ったはずだ。なんだかずいぶん喚き散らしたような気もするが、実はよく覚えていない。

 こっちがきちんと断ったのに、青木は諦めないと言った。
 答えは保留で良いと、薪の都合が良いときに処理してくれと言ったはずだ。
 それからは開き直ったのか、岡部と一緒にちょくちょく薪の家に来るようになった。さすがに岡部の前では、そんなことがあったなどという素振りはおくびにも出さなかったし、3人でわいわい酒を飲むのはとても楽しかった。

「あれ?」
 こう考えてみると、しばらく前から青木とは、仲の良い同僚という関係になっていたような気がする。
 そういえばあのあと、青木に好きだって言われたことあったっけ?
 ……いや、ない。
 そう取れなくはないことを何度か言われたかもしれないが、『好きだ』とは言われてない。

 そもそも、と薪はもう一度記憶を探る。
 初めのキス以外で、青木のほうから何かしてきたことってあったか?
 ……ない。何にもない。
 あいつ、口ばっかりで何もしてこなかったんじゃないか。

 青木は今年になってからは入り浸りと言ってもいいくらい僕の家に来てて、二人で食事したり酒飲んだり、だからその気があればそれらしい行動をとったはずだ。
 いや待て、この間、首にキスされたと思ったけど。まさか本当に腹が減ってただけだったのか?
 たしかに、あのあと青木は、普通に饅頭食って寿司折を3人前平らげて、前の晩の残りのすき焼き鍋までさらって帰って行ったけど、マジで?

 あいつは僕に憧れて警察官になったと言っていた。
 新聞やマスコミに作られた僕の偶像を信じて、本来の希望だった弁護士ではなくこの道を選んだ。その僕と一緒の職場で働くことができるようになって、一時的に舞い上がってしまったのだろう。

 整理するとこういうことだ。
 若さゆえの未熟さで、憧れと恋愛感情がごっちゃになって男の上司に告ってしまったものの、付き合いが深まるうちにその気の迷いはきれいに消えて、現在はちゃんと女の子の恋人がいる。それもアパートに上着を忘れていくような関係だ。

「……だったらそう言えよ! 言わなきゃわかんないだろ!」
 新しい恋人ができた時点で、そう言ってくれればよかったのだ。
 知っていれば、あんな真似はしなかった。親を亡くしたばかりの青木を慰めようと、キスをするなんて馬鹿なことは。
「どうしてくれるんだよ! 僕がセクハラしたみたいになっちゃったじゃないか!」

 こんな気分の悪い風呂は初めてだ。
 精神的な意味合いではなく、本当に吐き気がする。胃の辺りがむかむかして、我慢できそうにもない。
 結局、トイレに流してしまった。
 もったいない。3万5千円のフルコースだったのに。
 せっかく小野田がご馳走してくれたのだからと、無理に全部食べたのがまずかった。乳製品があまり好きではない薪は、バターや生クリームをたっぷりと使ったフレンチはもともと苦手だ。食べなれない料理を大量に食べたものだから、胃がびっくりしてひっくり返ってしまったのかもしれない。

 ようやくの思いでドライヤーで髪の毛を乾かして、薪はベッドに横になった。背中を寒気が這い上がってきたが、無視して目を閉じる。
 翌朝、薪の気分は近年まれにみる最悪のものとなっていた。



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官房長の娘(6)

官房長の娘(6)






 その日、法一の女医にかかってきた朝一番の緊急呼出は、捜査一課ではなく第九だった。
「なに? なにがあったの?」
 電話の向こうのただならぬ曽我の声に、取るものも取り合えず第九に駆けつけた雪子は、すぐさま研究室の不穏な空気に気が付いた。この重い、じっとりとした空気は前にも感じたことがある。
 この空気の発信源はあそこだ。
 長方形のドアが、重苦しい空気のせいで歪んで見える。いや、実際にいくらか傾いでいる。誰かが思い切りドアを蹴り飛ばしたらしい。

 そうっと室長室のドアを開けてみる。
 その部屋だけ暖房が効いていないかのような、冷たい空気。その原因はもちろんこの部屋の主だ。
 書類の向こうから、亜麻色の冷たい目がぎろりと雪子を睨む。いつもなら雪子に対してだけは優しさと気遣いを含むはずのその瞳は、今日に限っては氷のようだ。
 これは……回れ右だ。

「三好先生、なんとかしてくださいよ」
「無理無理無理。あれはあたしじゃムリ」
「こないだはケーキでうまくいったじゃないですか。ケーキ買ってきましょうか」
「だから、こないだは怒ってたんじゃなかったんだってば」
 雪子は白衣の肩を両手で抱いて、ぶるっと身を震わせた。
「あんなメデューサ状態の薪くん、久しぶりに見たわ。だれかよっぽど凄いことやらかしたのね」
「誰も何もしてませんよ」
 第九の職員たちが、室長相手に何ができるというのだろう。頭も喧嘩も権力も、薪はここにいるだれよりも強いのだ。

「あたし、2,3日ここへは近寄らないから。がんばってね」
「三好先生! 見捨てないでくださいよ!」
 部下たちの必死の叫びを白衣の背中で聞いて、雪子は本当に研究室を出て行ってしまった。
「逃げた……」
「三好先生が逃げたよ」
 雪子が当てにならないとなれば、次点の策だ。第九のバリスタの出番である。
 
「青木、おまえ行って来いよ。得意のコーヒーで室長の機嫌直してくれよ。このままじゃ、おっかなくて仕事にならないよ」
 いくら薪が怖くてもめげずに話ができる図太い新人は、しかし何故か二の足を踏んでいるようだ。いつもと違う薪の様子に、尻込みしているのかもしれない。
 ガミガミと職員を怒鳴りつけているときの薪は、あれでいて機嫌はいいのだ。とてもそうは見えないが、付き合いの長い第九の職員にはそれが分かっている。
 むしろ、黙って室長室にこもってしまうときのほうが問題だ。人権擁護団体から第九にクレームが来たり、捜査一課とケンカになったり、週刊誌に第九の悪口を書かれたりしたときには、そうなることが多い。そんなときには青木のコーヒーも役に立つし、それなりの効果を発揮してきたのだが、今回の空気の淀み方は今までとは比べ物にならない。

「いや、今日はちょっと。もしかすると薪さんの機嫌が悪い原因、オレかもしれないんです」
「じゃあ余計におまえが行けよ! 責任取れ!」
 厳しいが、尤もな意見である。
 小池と曽我と今井の3人がかりで、室長室に押し込まれてしまう。下っ端の青木には、先輩の命令に背く権利は認められていない。
「室長、コーヒーです」
「いらん」
 地を這うような声だ。いつもの涼やかなアルトの声とは別人のようである。
 青木のほうを見ようともしない。一切のものを受け付けない、拒絶のオーラが薪を包んでいる。
 この中に入っていくのは、至難の業だ。普通の神経を持った人間にはまず無理だ。鋼のような精神力の持ち主でないと、薪の心に辿りつくまでにぼろぼろにされてしまうだろう。
 それでもなんとか自分を奮い立たせて、青木は話題を探した。

「南青山の放火事件の報告書、キャビネットに入れといたんですけど」
「見た」
 斧で断ち切るように、青木の言葉を遮る。そのあと言葉を継ぐのはとても勇気がいる。
「写真はあれでよろしかったですか」
「ああ」
 室長は、仮面のような無表情で書類に目を落とし、冷静に仕事を続けている。会話はしてくれているが、声には抑揚がない。まるで機械と話をしているみたいだ。
 もう、これは素直に謝ってしまうべきだ。下手に言い訳などしないほうがいい。
 
「あの、上着のことですけど」
「何の話だ」
 あの上着に薪が気付いているのは間違いない。しかし、知らないふりをするということは、弁明させてくれる気もないらしい。
「すみません、薪さんの気持ちも考えずに。やっぱり、気分悪いですよね」
 薪のほうに聞く気がなくても、不愉快な思いをさせてしまったのは事実なのだから、謝っておかなければ気が済まない。青木は誠意を込めて頭を下げた。

「何のことか解らない」
 室長は静かな口調を崩さない。
 しかし、その姿は怒鳴りまくっているときの室長より遥かに怖い。口うるさく部下のミスをあげつらうときの薪は確かに怖いのだが、そこには薪の方からこちらへ流れてくる何かがある。
 おまえはもっとできるはずだ、ここさえ気をつければもっとうまくいく、おまえの本当の力はこんなもんじゃないだろう―――― あれだけ辛辣に貶されているのに、そう励まされているような気分になるから薪の叱責は不思議だ。

 でも、今は違う。
 睨んでもくれない。怒ってもくれない。
 静かな拒絶だけがそこにはあって、見捨てられたような気分になる。

「用件はそれだけか? だったら出て行け」
 はい、と頷くしかなかった。
 青木は無駄になってしまったコーヒーの盆を持って、室長室を出た。
 ドアの側には青木を室長室に送り込んだ3人が、しゃがんだままの体勢で固まっている。中の会話を盗み聞きしていたらしい。申し訳なさそうに頭を下げる青木を責めるものは、今度はいなかった。

 こうなったら最終兵器だ。
「岡部さ~ん……」
「おまえらなあ」
 最後にはやっぱりここにくるのだ。
 薪が一番信頼しているのは、腹心の部下、岡部である。あの事件が起きた直後の昨年の夏、第九の氷河期をともに乗り越えてきたのだ。その絆はだれよりも強い。
 
「ったく、しょうがねえな。俺だってあの薪さんは苦手なんだぞ」
 ぶつぶつ言いながらも腰を上げる。
 三田村部長がいなくなったから、今度は警視総監とでもやりあったかな、と大方の予想をつけて、岡部は室長室のドアを開けた。
「室長。いい加減にしてくださいよ。連中、浮き足立ってますよ。あれじゃ仕事になりませ――」
 薪は室長席にいなかった。
 寝椅子にもいない。室長室のドアはひとつだけだから、どこへも行くはずがない。
「室長?」
 大して広くもない部屋をぐるりと見回してみる。と、寝椅子の影から細い腕が見えた。

「薪さん!」
 キャビネットの前の床に、薪は倒れていた。慌てて走りよって身を起こすと、ひどく体が熱い。呼吸も荒い。首に手を当てると、焼け付くようだ。
「……おかべ。なんか、うごけないんだ」
「大丈夫ですか? こりゃ、病院に行かなきゃダメですよ。おい、あお」
「青木は呼ぶな」
「は? しかし」
 岡部は副室長のような役割を持っているから、薪がいないときはその代役を務めなければならない。他のものたちはみな単独で事件を抱えている。
 青木はまだひとりで事件を任せられるほどの力量がないため、他の捜査官と一緒にいずれかの事件を捜査している。よって、突発的に第九を離れても、仕事に支障がないのは青木だけなのだ。その事情は、室長の薪が一番良く分かっているはずなのだが。

「あいつはいやだ」
 何があったのかは知らないが、室長命令では仕方がない。岡部は自分の仕事を中断して、薪を病院へ運ぶことにした。
「どうしたんですか!?」
「大丈夫ですか、室長」
「少し熱が高いんだ。病院に連れて行くから、おまえら後を頼んだぞ」
「岡部さん。岡部さんの案件の報告書、今日までですよね。俺が連れて行きましょうか。俺のは昨日のうちに提出しましたから」
「悪いな、今井。そうしてくれるか」
 今井の腕に薪の体を託し、岡部は自分の机に戻る。早く報告書を上げて、病院へ様子を見に行かねば。薪はいつも無理をしすぎるのだ。

「こないだは栄養失調で今度は発熱かよ。いい加減にして欲しいよ」
「そのくせ『健康管理は社会人の基本だ』とかって俺たちには言うんだよな」
「ひとにそういうこと言う前に、倒れるまで仕事するクセ、どうにかしろってんだよ」
「まったくだよ。どれだけ他人に迷惑かけたら気が済むんだか」
 室長のいなくなった研究室では、口々に薪の困ったクセを非難している。言葉はかなり厳しい。薪のこのクセには、みな本当に頭にきているのだ。

 辛辣な陰口が出尽くした後、帰りにみんなで薪の家に寄って『健康管理は社会人の基本ですよ』という皮肉を言ってやろう、ということに意見が一致した。常日頃から聞かされている室長の嫌味は、こんなときでもなければ返せない。
 オニのいぬ間の定時退室を目指して、第九のエリートたちは目を瞠る集中力で捜査に取り組み始めた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

官房長の娘(7)

官房長の娘(7)






 薪に皮肉を返す計画は、残念ながらお流れになった。
 病院についていった今井から、薪の病状は思ったよりも深刻で、2、3日は入院しなければならない、という報告が入ったためだ。
「病名はただの風邪なんですけど、胃も弱ってるみたいで。水も薬も吐いちゃうんですよ。脱水状態になってるから、点滴で栄養剤と抗生物質を投与するそうです」
 そんな具合では、皆で病室に押しかけたりしたら返って迷惑だ。岡部が代表で帰りに見舞いに行くことにして、定時退室を励行した第九である。

 見舞いに行きたがる青木を、病院側から面会はひとりだけと念を押された、という尤もらしいウソで騙して、岡部は病室を訪れた。
 病院の飾り気のない白いベッドで、薪はよく眠っていた。点滴のおかげか、昼間より顔色もいいようだ。
 点滴がなくなりかけていたので、ナースコールを押して看護師を呼ぶ。すぐに追加の点滴を持って、看護師がやってきた。
 頭を下げる岡部を見て、なんとも複雑な顔をする。泣き笑いのような、なにか言いたいのを我慢しているような。
 
「その花とおまえが似合わないんだ」
 点滴を替える音に目を覚ました薪が、開口一番にそんなことを言う。
「あの看護師、きっと今ごろナースセンターで爆笑してるぞ」
 減らず口が叩けるようになったらしい。回復してきている証拠だ。
「なんで百合の花なんか持ってきたんだ? らしくない」
「これは青木からです。こっちはみんなから」
 棚の上に置いた果物篭を指差す。先ほどから花瓶を探しているのだが、見当たらないようだ。花をことづかったのに、花瓶までは気が回らなかった。
「ナースセンターにでも持っていってくれ。ここには花瓶もないし」
「花瓶なら俺が買ってきます。青木のやつが言ってましたよ。百合は薪さんが好きな花だからって」
「百合は匂いが強いから、病室には合わないだろ」

 どうもおかしい。
 薪が百合の花が好きなことは、岡部も知っている。薪の家には年中この花が飾られているし、薪の身体から百合の移り香が漂うこともしばしばある。確かに病室には強い香かも知れないが、個室なら問題はなかろうと思われる。

「薪さん。青木と何かありました?」
「べつに」
 動揺する気配はない。
 しかし、返事が速過ぎる。岡部の質問を予測していたようだ。
 じっと薪の目を見ると、薪は目を逸らして窓の方向を見た。やはりなにかある。
 薪のほうから言い出すのを待って、岡部は沈黙を守る。長い沈黙にやがて薪は折れて、ぽつぽつと自分の考えを語り始めた。
 
「青木とは……もう少し、上司と部下のけじめをつけようと思って」
 何をどう考えてこういう見解を出したのだろう。薪の思考は、ときに突拍子もない結論に行き着いてしまうことがある。
「けじめ、ですか?」
「あいつ、しょっちゅう僕の家に来てるだろ。やっぱり、ああいうのはマズイかなって。青木のことだけ特別扱いしてるみたいだろ? 他の連中の目もあるし」
「あいつら、そんなこと気にしてませんよ」
 薪には内緒だが、室長のお守り役がひとり増えた、と喜んでいるのが実情である。
 それに、薪は仕事とプライベートはきっちりと分けている。いつも一緒に酒を飲んでいる岡部ですら、仕事で甘い点をつけてくれるなどということはまずない。ましてや、新人の青木の未熟さに第九の誰よりも厳しいのは、他ならぬ室長である。
 
「仕事にそれを持ち込むようじゃ困りますけど、青木はそんなやつじゃないですよ」
「うん。でも、新入りが室長にべったりっていうのもおかしな話だろ」
「そうですかね。青木は薪さんに憧れて第九に来たって言ってましたから、無理もないと思いますけど」
 それは、第九の人間全員が知っていることだ。青木が薪に心酔しているということも。

「とにかく、あいつはもう僕の家に連れてこないでくれ」
「どうしてですか」
「青木はおまえとは違うから」
「俺だって部下ですよ?」
「おまえはいいんだ」
 薪は目を閉じた。長い睫毛が重なって、眼下に影を落とす。
「僕だって、一人くらいおまえみたいなのがいなきゃ、やってられないんだよ」

 疲れが出たのか、ほどなく薪は眠ってしまった。
 2、3日はここに寝ているしかないが、ちょうどいい機会だ。この際ゆっくり休めばいい。室長には休日が少なすぎるのだ。
 それにしても、問題は青木のやつが薪に何をしたのかだ。
 薪が原因もなしに、こんな風に考え込むはずがない。昨日までは普通だったのだ。
 そもそも、薪が風邪を引くこと自体めずらしい。貧血と低血糖でよく倒れてはいるが、病弱というわけではない。普段から鍛えているから、こんな細い体でも体力はけっこうあるのだ。
 筋力はそれほどでもないが、瞬発力と持久力はなかなかのものだ。10キロくらいは走れるし、腕立て伏せや腹筋も50回くらいならいける。デスクワークばかりの仕事についている割には立派な数字だ。

 そういえば、昨日は官房長の娘とデートだと言っていたが。そのことと何か関係があるのだろうか。あと変わったことといえば、シャワー室の工事が入ったことか。
 今朝早く、青木は昨日の業者を呼んで何事か指示していたようだったが。人当たりの良い青木にしては、珍しく厳しい顔をしていた。なにか工事の不手際でもあったのだろうか。
 証拠もないのに、考えても仕方ない。
 この件に関しては後で直接青木に問い質すことにして、岡部は病室を出た。花瓶をどこかで調達してこなければならない。薪はああ言ったが、青木が可哀想だ。

 病院内の売店はもう閉まっているため、外に出なければ手に入らない。駅前のホームセンターなら、まだ開いているはずだ。
 階段を下りて、夜間専用の出入り口に向かった岡部は、見覚えのある長身を待合室の隅に発見した。救急の診察待ちの患者に混じって、壁にもたれて立っている。
 ぼうっと空を見つめて、何事か考え込んでいるらしく、岡部がすぐ側に来ても気がつかないようだ。警察官としては失格である。
 
「室長ならもう心配ないぞ」
「岡部さん」
 室長のことが心配で、じっとしていられなかったのか。こいつの室長への忠臣ぶりは呆れるほど実直だ。
「そうですか。よかった」
 青木は手にビニール袋を持っている。岡部が今から行こうとしていたホームセンターの名前入りのものだ。半透明の袋の中には緩衝材に包まれた筒状のものが入っていた。
「おまえ、それもしかして」
「あ、花瓶です。病室にありました?」
「いや。ちょうど買いに行こうとしてたんだ」
 薪が以前、青木は最近の若い者にしては気が利くと褒めていたが、その見立ては正しいようだ。
 他にも色々と青木の評価は聞かされている。
 真面目で勤勉で努力家。粘り強く、意志が固い。そこまでは褒め言葉だが、同じくらい悪い評価もある。かなりの頑固者で自分の意見に固執する。普段はおとなしいくせに、切れるととんでもないことをやらかす。
 その『とんでもないこと』と、室長の風邪は関係があるのだろうか。

「青木。おまえ、薪さんとなにかあったのか?」
「どうしてですか」
「なんか室長の様子がおかしいからさ。なにかあったのかなと思って」
「あった、と言うか……していたのがバレたと言うか……」
 歯切れの悪い言い方だ。
「オレが悪いんですけど。薪さんの気持ちも考えずにあんなこと」
 まさかこいつ、薪にあれ以上のことを迫ったのか?

 あれ、というのはアレだ。先月の初めに、岡部は夜の室長室での出来事を目撃している。そのことは誰にも言っていないが、やはり青木には釘を刺しておくべきだったか。
 しかし、それはないな、と岡部はすぐに考え直す。
 そんなことをしたら、今ここに入院してるのは青木のほうだ。薪は見かけによらず強い。青木が体躯の割りに弱すぎるのだが。薪を守れる男になれるように、現在青木は岡部のもとで特訓中だ。

「そんなつもりはなかったんですけど、結果的に裏切ってしまったというか。傷つけてしまったらしくて、謝ろうとしたんですけど、薪さんはぜんぜん聞いてくれなくて」
 今朝のメデューサ化の原因はこいつか。
 この問題が解決するまで、あの現象が続くのか。このままでは、職務に支障をきたしかねない。第九のクオリティを守るには、室長の心の平穏が必須要素なのだ。

「すみません。オレ、帰ります。この花瓶、使ってください」
 青木が差し出した包みを、岡部は受け取ろうとしなかった。腕を組んでしばし黙り込む。あとで薪さんに怒られるんだろうな、と思いつつ岡部は言った。

「薪さんの部屋は、312号室だ」
「岡部さん」
「早く行かないと、せっかくの花が枯れちまうぞ」
 青木はうれしそうに笑って、岡部にぺこりと頭を下げた。
 階段のほうへ駆け出して、通りかかった看護師に「走らないで」と注意されている。その場は静かに歩いた青木だったが、すぐに階段を駆け上る足音が聞こえてきた。

 おそらく、青木は何も悪いことはしていない。薪に首ったけのこいつが、薪を傷つけるような真似をするとは思えない。行き違いか誤解が生じているだけではあるまいか。
 一途な後輩に後を託して、岡部は帰途についた。



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官房長の娘(8)

官房長の娘(8)






 カチャカチャという金属音で、薪は目を覚ました。
 看護師が、点滴の容器を掛け替えている。腕時計を見ながら速度を調節し、管が外れていないことを確認する。
 薪が起きたことに気付いて、気分はいかがですか?と微笑を添えて尋ねてくる。夜勤の看護師は人手不足で大変だという話を聞いていたが、この看護師はとても親切で、笑顔がチャーミングだ。
「大丈夫です。ありがとう」
 優しい人には優しさを返すのが、薪のポリシーである。部下が見たらびっくりしそうな笑顔で、丁寧に礼を言う。

「毛布でも持ってきましょうか?」
「平気です。暖房が効いてますから」
「いえ、あの、こちらの方の分です」
 看護師の言葉にベッドの反対側を見ると、見舞い客用の椅子に、腰掛けたまま居眠りをしている男がいる。

「会社の方ですか?」
「……部下です」
 赤っ恥もいいところだ。上司の見舞いに来て居眠りをしている部下など、不届千万だ。
「すみません。面会時間は過ぎてますよね。すぐに帰らせますから」
「個室ですから別に構いませんけど。この方、2時間も前にいらしたんですよ。消灯時間は過ぎてますけど、少しくらいならお話されても大丈夫ですよ」
 何かあったら呼んでください、と言って看護師は病室から出て行った。

 看護師がいなくなると、薪は身を起こした。ベッドの上に胡坐をかいて、少々行儀悪く頬杖をつく。
 眠っている男の顔をじろりと睨んで、視線で覚醒させようと試みる。が、部下の眠りは深いらしい。まったく、ふざけたやつだ。
「岡部のやつ。よけいなことを」
 サイドボードの上に、百合の花が活けてある。どこからか花瓶を調達してきたらしい。
 透明でシンプルなデザイン。岡部にしては趣味がいい。
 岡部はああ見えて、わりとアニマル柄とか小花柄とかが好きだから、そういうものを買って来られるかとびくついていたのだが。

 看護師の話では、花の贈り主は2時間も前からここにいたという。
 長い手足を組んで背もたれに長身をあずけ、安らかな寝息を立てている。よく椅子の上なんかで眠れるものだ、と薪は以前、自分が地下鉄の中で立ったまま眠ってしまったことを棚に上げて、部下の無神経さに呆れてみる。

 ……こいつが僕を大事に思ってくれているのは本当だ、と薪は思う。

 だったらそれ以上のものは必要ない。いま、青木の心が誰のところにあろうと、それは自分には関係のないことだ。自分たちの関係はただの上司と部下でしかないのだから。
 こいつが自分に憧れのようなものを抱いていたとしても、それは昔の話だ。告白されたときにキッパリ振っておいて、そいつに新しい恋人ができたからと言ってそれを責めるなんて、無茶苦茶だ。
 こっちだってその方が都合がいいはずだ。余計な気を使わずに済むし、これからも自分の心は変わらないのだし。

 鈴木のこと以外は……もう、愛せない。

 恋人ができてよかったな、と言ってやろう。心から祝福してやろう。
 昨日は突然のことで少し驚いてしまって、自分がやってしまったあれやこれやに動揺していただけだ。自分の失敗に気付いて、それであんな嫌な気分になったのだ。

「青木。起きろ」
 2、3度声を掛けるが、一向に目覚める気配がない。業を煮やして薪は、部下の顔面めがけて枕を投げつけた。「ダメです、薪さん! そんなところ触っちゃ……あれ?」
「……どんな夢を見てたんだ」
 薪を見て、ほっとした顔をする。いつもの満面の笑顔になって、こちらへ身を乗り出してくる。
「顔色、良くなったみたいですね。心配してたんですよ」
「夢の中でか?」
「昨日、眠れなかったんですよ。あの後すぐに携帯に電話入れたのに、薪さん出てくれないから」
 昨日、携帯は第九に忘れてきた。レストランに着いたとき、携帯電話は鞄の中に入れてクロークに預けるように、と小野田から強制されたのだ。そのまま鞄に入れっぱなしだった。そのおかげで浸水を免れたのだが。

「怒ってるのかなって不安で」
「怒ってない」
「じゃ、なんで帰っちゃったんですか?」
「急用を思い出して」
「あのジャケットに気付いたからじゃないんですか?」
「ちがう」
「ハンガーが曲がってましたよ。薪さんが引っ張ったんじゃ」
「ちがうって言ってるだろ!」
 自分でもびっくりするくらい、大きな声が出てしまった。病院の中でこれはまずい。

「僕はもう寝る。帰れ」
 乱暴に毛布を引っつかんで横になる。青木が困惑した表情をしていたが、知ったことか。
「帰ります。おやすみなさい」
 薪が背を向けて黙り込んでしまったので、青木はそうするしかなかった。
 2時間も狭いパイプ椅子の上で待っていて、その挙句にこんな冷淡な扱いを受けて、それでも穏やかに「早く元気になってくださいね」と言って帰って行った。

 あれ?
 どうしてこうなるんだろう。
 よかったなって言ってやるんじゃなかったのか?
 彼女とうまくやれよって。仕事をおろそかにするようでは困るから、その辺はけじめをつけるように釘を刺して。でも大切にしてやれよって。
 そう言ってやらないとこいつは困るはずだ。警察というところは、結婚するにも上司の承諾がいる。滅多なことでは異を唱えたりはしないが、相手の女性の身辺調査はしっかりと行う。親類に犯罪者がいたり、新興宗教にはまっているような両親だったりしたときには、上司命令で破談にした例も実際にあるのだ。
 だから今の薪の正しい行動は、祝福の言葉を述べたあと相手の女性のことを聞きだし、結婚の話が出ているようなら密かに調査を行い、なにも問題がなければよし、あったらその旨を青木に伝えて『出世したけりゃ別れろ』と言うか、どちらかなのだ。間違っても布団を被って寝ている場合ではない。

 おかしい。
 今までもそうしてきたはずだ。
 今の第九の連中は、あまり女との付き合いがないようだが、旧第九のメンバーにはそれぞれ恋人がいたから、その相手のことは秘密裏に調べをつけておいた。犯罪者の娘などと結婚されたら、こっちの立場まで危なくなる。
 それがどうして訊けないんだろう。それどころか、その話題まで知らない振りで避けてしまうなんて。

「どうしちゃったんだ、僕……」
 なぜこんなに腹が立つのだろう。そしてどうして感情のままに、大人げない態度をとってしまうのだろう。熱のせいで、冷静な判断がつかなくなっているのだろうか。

 あいつがあんまりやさしいからだ。

 僕のことをただの上司としか思っていないくせに、やさしすぎるからだ。
 今だって僕があんな態度をとったのに、ちっとも怒らない。口に出さなくても感情を害すれば、それは自然に伝わるものだ。それを苦笑するだけで許してくれて。
 まるで鈴木みたいだ。
 鈴木はいつも、僕のわがままや子供っぽい癇癪の癖を、笑って許してくれた。
 だから、僕はずっと鈴木への想いを断ち切れなくて。雪子さんに悪いと思いながらも、鈴木を見つめることをやめられなくて。

 常夜灯の明かりだけの薄暗い病室で、薪は再びベッドの上に身を起こす。薬が切れてきたのか、体の節々が痛い。また熱が出るのかもしれない。今夜も寝苦しい夜になりそうだ。
 ふと見ると、青木が座っていた椅子の上にA4サイズの紙袋が置いてある。忘れ物かと思って中を覗いてみると、薪がいつも昼寝のときに抱いている洋書と、ステンレスのポットが入っていた。ポットの中には温かいコーヒーが入っていて、どうやら薪のために淹れて持ってきてくれたらしい。が、薪の機嫌が悪かったので言い出せなかったのだろう。

「カゼひいて熱があるのにコーヒーなんて、気の利かないやつ」
 憎まれ口をたたきながら、薪は少しだけコーヒーを飲んでみる。淹れてから時間がたっているせいか、第九で飲むときよりだいぶ味が落ちるが、缶コーヒーよりはずっとマシだ。残りは明日の朝のお楽しみにして、薪は分厚い洋書を手に取った。
 ぱらぱらとページをめくると、中から1枚の写真が出てくる。ベッドの頭に備え付けてある明かりを点けて、写真の男の顔をじっと見つめる。

「僕にはおまえがいるもんな」

 親友はいつものように、薪に笑いかけてくれる。
 やさしく、薪のすべてを許してくれる微笑。
 この笑顔が大好きだった。他の誰にも見せたくないくらい、好きで好きで。でもそれは許されないことで。

 鈴木は雪子さんを愛していて、僕はただの友だちで。あのふたりはお人好しだから、僕がまだ鈴木を好きなことを知ったらきっといつまでも結婚しないから、必死で忘れた振りをした。
 でも今は、僕が鈴木を好きだと言っても誰も困らない。この恋を一生貫いても、誰も傷つかない。もう鈴木はこの世にいないのだから。

「おまえだけだ……僕は一生、おまえだけのものでいるから」
 写真を元通り本に挟みこみ、抱きかかえるようにして、薪は眠りについた。



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官房長の娘(9)

官房長の娘(9)






 薪の退院は、2日後の夜だった。
 医師からの許可が下りたわけではなく、脱走に近い状態で病院から出てきた。熱さえ下がれば医者にも薬にも用はない。薪は薬が嫌いだし、病院はもっと嫌いだ。今回は不覚を取ったが、風邪なんか気合で治すものだ。本来は病院になどかかる必要はなかったのだ。

 岡部のやつが大げさに騒ぎ立てるから、と3日前は立つこともできなかった自分をきれいに忘れて、薪は部下の心配性に肩を竦める。おかげで大分仕事が遅れてしまった。
 自分がいない間に、連中はたるみきっているに違いない。明日からはビシビシ行かなくては、と第九の面々が聞いたら泣き出しそうな決意を胸に秘めて、薪は病院から真っ直ぐに職場へと向かった。

 セキュリティが掛かっている時刻だが、10桁の解除コードは暗記している。
 青木が担当していた南青山の放火事件の報告書は、明日が提出期限だ。今日のうちにあれだけは所見をつけなければ。でないと、期限より3日も早く報告書をまとめた青木の苦労が無駄になる。それに、明日は定例会議もある。その資料も作成しなくてはならない。悠長に休んでいるヒマなどないのだ。

 とっくに誰もいないと思っていたのに、第九には明かりが点いていた。
 背の高い新人が、昔の捜査資料を紐解いている。
 熱心なのはいいが、せっかく早く帰れるチャンスを自主学習に使うなんてバカなやつだ。それとも、今日は彼女のほうの都合がつかなかったのか。だとしたら不幸なやつだ。
 自分が職場に復帰したらそんな時間はない。MRIのラーニングテストをしてバックアップを録って。進行中の事件がなくても、やることは山ほどある。

「室長。身体のほうはもういいんですか?」
 薪の姿を見て、びっくりしたように声を掛けてくる。3日前の薪の陰険な態度に対する、わだかまりはないようだ。
「3日も寝てたら頭がボケそうでな。逃げ出してきた」
「え、勝手に出てきちゃったんですか?」
「自主退院だ。お金はちゃんと払ってきたぞ」
 まったく無茶ばっかりして、とぶつぶつ言い始める青木の肩越しに、資料を覗き込む。
 右手の下のメモを見ると、いくつかの事件を抜粋して統計を取っているらしい。PCの画面には誘拐事件のファイルが開かれている。自主学習にしてはずいぶん細かいところまできっちりと調べ上げている。なんだか会議用の資料のような。

「なにやってんだ、おまえ」
「明日の定例会議に、これ使えませんか」
「べつにこんなこと頼んでないだろ」
「はい。でも、作っておけば役に立つかと思って」
 自分の仕事でもないのに物好きなやつだ。
 岡部といいこいつといい、どうして余計なことばかりするんだ。こっちが頼みもしないことを押し付けがましく。
 でも、まあまあ良くできている。使えないこともない。
 少しは役に立つようになったな、と心の中で褒めてやって、しかし表面はいつもの冷たい無表情だ。その貌から薪の褒め言葉を読み取ることは不可能に近い。

「薪さん。オレ、あれから色々考えたんですけど」
「なにをだ」
「上着のことです」
 またその話か。
「あれ、どうしても捨てなくちゃダメですか?」
 どうして僕に訊くんだろう。べつに捨てろなんて言ってない。子供じゃないんだから、上着どころか下着があってもおかしくない。それを責める気もないし、責める権利もない。だから薪は返事ができない。

 薪の沈黙をどう取ったのか、青木はがっくりと肩を落とした。
「分かりました。あれは捨てます。でも、オレにはどうしてもできませんから、薪さんが捨ててください」
 青木は自分の机の引き出しから紙袋を取り出した。中に問題のジャケットが入っている。
「そう言われるかと思って、持ってきてたんです」
「なんで僕がおまえのゴミの始末をしなきゃいけないんだ」
 薪の尤もな言い分を聞こうともせず、青木は俯いてなにやら呟き始めた。この新人は落ち込みだすと、ひとりで納得するようにぶつぶつ言うクセがある。

「そうですよね。オレだって、同じことされたら気味が悪いです」
 気味が悪い? 気分が悪いの間違いじゃないのか―――― そう言いかけて薪は口を閉ざす。
 自分は気分を害してなどいない。青木に彼女ができたからって、気分が悪くなる理由がない。それじゃまるでヤキモ……ないないない。それはない。

「ゾッとしますよね。気持ち悪いですもんね」
 ……なんか、ニュアンスがちがう。今時の若いもんは、日本語もまともに使えないのか。
「ゾッとする? なんでだ?」
「なんでって、捨てたはずの自分の服を誰かがずっと持ってたら、ゾッとするでしょ」
 彼女が捨てていったものだったのか。しかしまだ新しいものに見えたが。

「他人が持ってたらそうかもしれないが、彼女の服ならべつに構わないだろ」
「はあ? 彼女?」
 青木は素っ頓狂な声を上げた。
 眼鏡の奥の黒い眼を何度もしばたかせ、不思議そうな顔をしている。素直に認めればいいものを、なんて白々しい。また腹が立ってきた。
 
「わかった、僕も正直に言おう。確かに僕はその上着に気付いてた。でも、おまえがきちんと報告をして来ないのが悪いんだ。だから、おまえが僕にされたことは全部忘れろ」
「忘れろって」
「特に先月のアレだ。悪かった。だけど知らなかったから」
 そこで薪は突然、キレた。
「だって言わなきゃわかんないだろ! 僕はずっとそう思い込んでたんだから!」
「言うって、何をですか?」
「おまえが本当は、その上着の持ち主が好きだってことをだ!」
「はい。大好きですけど」
 こいつ抜け抜けと……!
 報告しろと言ったのは自分だが、言われたら言われたでやっぱり腹が立つ。半人前のクセに、やることやりやがって!

 怒りを抑えて薪は相手のことを聞きだしにかかった。これも室長の仕事だ。
「いつからだ」
「ええと、気になりだしたのは、4月の始めくらいでした」
「そんなに前からか!?」
 青木の答えに驚いて、付けたばかりの冷静な室長の仮面は落ちてしまった。
 それでは自分に告白するより半年も前に、彼女に恋をしていたということではないか。そして秋物のジャケットが必要な季節には、家に出入りする仲になっていたということだ。順調に進展しているじゃないか。

「じゃあなんで僕にあんなこと言ったんだ? おまえ、僕をからかってたのか!?」
 騙された。自分は恋愛経験が少ないから、冗談を真に受けてしまったのだ。こんな12歳も年下の若造の戯言に振り回されて!
「ッざけんな! 僕がどれだけ悩んだと思ってんだ!」
 声を抑えることなどできなかった。
 耳を劈くような金切り声で、薪はがなりたてた。
 
「最近の若いもんはみんなこうなのか? 好きな女がいるのに、他の人間を口説いたりできるのか? 好きでもないやつとキスしても平気なのか? 僕なんか」
 鈴木だけで手一杯なのに。頭のてっぺんから爪の先まで、全部捧げてしまっているのに。

「ちょっと待ってください。薪さん、さっきからなんかおかしいです」
「おかしいのはおまえの頭だ!!」
 許せない。
 薪は昔から、不倫や二股といった不誠実な行為が大嫌いだ。男でも女でも、そういうことをする人間を心の底から軽蔑している。風俗嬢はいい。あれは商売だ。客のほうも、ちゃんとそれを心得ている。
 でも、妻や恋人がいるのならそういうことは絶対だめだ。相手の純心を踏みにじって、それでも自分の欲望を満たそうとする人間には、憎しみすら覚える。

「彼女に悪いと思わなかったのか!」
「……誰の?」
「おまえの彼女に決まってるだろ!」
「オレ、彼女とは1年前に別れましたけど」
 青木がまたとぼけたことを言い出す。ごまかされてたまるか。物証(ネタ)は上がっているのだ。
「それからは、ずっと薪さん一筋ですよ」
 この期に及んでまだ言うか。もう騙されない。

「おまえ今、この上着の持ち主が大好きだって言ったじゃないか」
「言いましたけど」
 悪びれていない。理解できない。
「何様のつもりだ! 僕とこの上着の持ち主と、2人とも好きだとか言うつもりじゃないだろな!」

 薪の言葉に、青木は目を丸くした。すぐに納得したような顔になって「また得意の勘違いですか」などと失礼なことをほざいた挙句、問題のジャケットを両手で持ち上げて顔の前で広げ、しげしげと眺めた。
「ジャケット一枚で、なんでこんな騒ぎになるかなあ……」
 ダークグレイの三つボタン。間近で見るとなかなかいい品だ。品があってスマートだ。青木の彼女は趣味がいい。
 
「これ、薪さんのですよ」
 青木の釈明に、薪は目眩を覚えた。
 バカだ、こいつ。
 現物が目の前にあるのに、こんな嘘を吐くなんて。
 浮気したら一発でバレるタイプだ。そんでもってつまらない嘘をついて余計に怒らせて、一気に離婚まで進むパターンだ。

「見え透いた嘘をつくな。僕はこんなに小さくな……」
 青木は、無言でジャケットを薪の肩にかけた。
 細身のダークグレイのジャケットは、あつらえたように薪の身体にぴったりだった。
「あれ?」
 よくよく見れば細身ではあるが、男物だ。周囲にあった青木のジャケットがあまりにも大きすぎて、錯覚で実際より小さく見えたらしい。
 
「こないだの異動願いといいこのジャケットといい、どうして勝手に思い込むんですか? オレのことで何かあったら、今度からは直接オレに訊いてください。オレ、薪さんには絶対にウソなんかつきませんから」
 薪はジャケットの裏を見て、ネームを確認する。確かに自分のものだ。しかし、自分が青木の家に行ったのはあれが初めてだ。忘れ物などできるはずがない。
「おまえ、これどうやって手に入れたんだ?」
「覚えてませんか? 昔オレが、ゲロ吐いて汚しちゃったジャケットです」
「ゲロ?」
 ……思い出した。
 たしかこいつがまだ第九に入って半年くらいの頃、現場に連れて行って腐乱死体を見せたことがある。青木の様子が死体に近づく前からやばそうだったから、後ろで上着を構えていた。
 鑑識の仕事も済んでいない現場に、無関係な人間の吐瀉物なんか落とせない。ましてや岡部の後輩に無理を言って、管轄外の現場に入らせてもらったのだ。それ以上の迷惑を掛けるわけにはいかなかった。

「これ、おまえのゲロ……!」
 その時の状況を思い出し、薪は慌てて肩を揺すってジャケットを振り落とした。
「汚くないですよ。ちゃんとクリーニングかかってますから」
「それは……クリーニング屋もそうとう迷惑だったんじゃ」
「自分で洗ってからクリーニングに出したんですけど。やっぱり臭かったみたいで、嫌な顔されちゃいました」
 もう半年以上も前のことだ。とっくに忘れていた。

「なんで捨てなかったんだ? そんな汚いもの」
「捨てられないです。オレはあのとき、薪さんに大切なことを教えてもらいました。オレが警察官としてこれからやっていくために、一番重要なことです。その時の大切な記念の品なんです。だからどうしても捨てられなくて」
 床に落ちたジャケットを拾い上げて、青木は自嘲混じりに懺悔した。
「あのとき薪さんは、オレに話してくれましたよね。自分の倫理観や創るべき社会のあり方や、守るべき人々を深く愛して感謝する心や―――― ああ、カッコイイなあと思って。オレ、あの時から薪さんにぞっこんなんです」
 自分の言葉に照れたように笑う。その笑顔は、やはり薪の心を騒がせる。

「でも、やっぱり気持ち悪いですよね。自分の服を他人がずっと持ってるなんて。まるでストーカーみたいですもんね。ほんとうに、すみませんでした」
 青木は深く頭を下げて、ジャケットを薪に差し出した。


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ジャンル : 小説・文学

官房長の娘(10)

官房長の娘(10)






「それにしても、どうしてオレに彼女ができたなんて思ったんですか? オレ、そんな誤解を受けるような真似しましたか?」
「……おまえに告られてから、4ヶ月も経ってるし」
「そのあと何回も薪さんが好きだって言ったじゃないですか」
「聞いてない」
「言いましたよ」
「そんな風に取れば取れなくもないことは言われたけど、好きだとは言われてない」
 青木が呆気に取られた顔をしている。ひとをバカにしたような表情に、薪はむっと眉をひそめる。
「どんだけ鈍いんですか」
 ぼそっと呟いた青木の言葉を、薪はしっかり聞いている。こと自分の悪口に関しては、薪は地獄耳だ。

「わかりました。オレが悪かったです。薪さんには曖昧な言い方じゃ通じないんですよね。はっきり言わなかったオレの責任です。今度からは、ちゃんと言いますね」
 薪の両肩に、青木の大きな手が置かれる。真剣な眼差しが、薪の瞳を捕らえて離さない。
「愛してます。薪さんのことが大好きです。あなたの夢を毎晩見ます。オレの気持ち、分かってくれました?」
 薪はジャケットを受け取ってしばし呆然とする。
 この自分がこんな大きな勘違いをするなんて。思い込みは捜査官のタブーなのに、証拠固めもせずに、有罪だと決め付けたりして。

 その事実にも驚いたが、もっとびっくりしているのは今の自分の感情だ。
 自分のジャケットを青木が大切に持っていて、こいつはそのジャケットの持ち主が大好きだと言った。僕のことが好きだと―――― 確かにそう言った。
 それを聞いたら何だか……ヘンだ。
 背筋がぞくぞくして胃の下の辺りがきゅうっとなって、風邪がぶり返すのかな、と思ったけれど悪寒とはまるで違う感覚で。心臓がばくばくいって、鼻の奥がつんとなって。

 4ヶ月前に同じことを言われたときは、こんな感じにはならなかった。あのときはただ、びっくりして困惑して、面倒なことになったと思っただけだった。
 それが今は――――。

「これからは、もっと頻繁に好きだって言いますね。忘れられちゃうといやですから」
「言わなくていい」
 薪は慌てて自分の感情にセーブをかける。上司と部下のけじめをつけると誓ったばかりだ。室長の貌を崩すわけにはいかない。もう手遅れという気もするが。
「二度と忘れない。その代わり、好きな人ができたらちゃんと報告しろよ」
「ありえません。オレ、薪さん以外は見えませんから」
「それはさぞ不自由だろう」
 そういう意味じゃないんですけど、と青木は口の中でぶつぶつ言っている。こういう言い方じゃ通じないんだ、と薪の言語能力に対する評価は最低ランクに落ち込んだようだ。

「あの。ひとつだけ確認いいですか?」
 やたらとにやけたツラで、青木が聞いてくる。嫌な予感がするので、とりあえず聞こえない振りをする。
「薪さんが怒ってたのって、あれをオレの彼女の上着だと思ったからなんですよね?」
 次の展開を予想して、薪は拳を固める。右の手をぐっと握って腹の底に力を入れる。
「それってもしかしてヤキ」
 青木のセリフは、顔のすぐ横に猛スピードで打ち込まれた拳によって遮られた。小さい拳だが、風圧で髪の毛が揺らめくほどの勢いである。
「それ以上よけいなことを言ってみろ。顔面に叩き込むぞ」
「……はい」
 捜一時代に鍛えた取調室仕様の迫力のある顔つきと声で、相手の気持ちを挫く。
 こうやって、何人もの容疑者を落としてきたのだ。坊ちゃん育ちの青二才を黙らせることなど、朝飯前だ。

 青くなって口を閉ざした部下に一瞥をくれて、薪はつんと横を向いた。頬が赤くなっていないことを祈りつつ、左手のジャケットに目を落とす。

 さて、これはどうしたものか。
 薪はこれを6月に捨てた。それを他人が拾っていたということは、拾得物扱いだ。半年を経過しているから、権利はすでに拾得者に移っている。つまりこれは法的には青木のものだ。警察官なら法に基づいて行動するべきだ。

 騒動の元となったジャケットを、薪は汚いものを持つ手つきでつまみあげ、青木の頭に乱暴に放る。これは不用品だ。こんなものを返されてもゴミになるだけだ。
「おまえのゲロがついたジャケットなんか着られるか。触るのも嫌だから、ここに捨てていく」
 青木がバカ面をさらしている。バカがますますバカに見える。
「貰っていいんですか?」
「それはもう捨てたものだから、それをだれが拾ってどうしようと僕には関係ない」
 くるりと背を向けて、薪は室長室へ歩き出す。ここへは仕事をしに来たのだ。このバカとくだらない話をするためじゃない。

「本当にいいんですか?」
「だからもう僕には関係ないって」
 不意に、後ろから抱きすくめられた。バクバクいいっぱなしの心臓が止まりそうになる。
 次の瞬間、薪の左肘が背後の大男の腹にのめりこんでいた。
「調子に乗るな」
「すいません……イタタ……」
 咄嗟だったから、手加減できずに思いっきり入ってしまった。青木の腹には大きな痣ができていることだろう。いい気味だ。さんざんひとを悩ませた罰だ。
 自分の勘違いで勝手に悩んでいただけなのだが、薪に反省の色はない。まぎらわしいことをした青木のほうが悪い、と決め付けている。
 とりあえず、青木が悪い。今年もこの路線で行く気らしい。

「青木。その資料をプリントして部屋へ持って来い。あと、コーヒー頼む」
「はい」
 時間外の仕事も、快く引き受けてくれる。元気な返事と笑顔までつけて。
 当たり前だ。

 こいつは僕のことが好きなんだから。僕の役に立ちたくて、堪らないんだから。

 後ろ手にドアを閉めて、そのままドアにもたれかかる。
 ここに鏡がなくて良かった。あったら、今の自分の顔がわかってしまう。
 いくら我慢しても緩んでしまう頬と口元が、喜びにきらめく瞳が、自分の気持ちを目に見えるものとして薪の前に差し出すだろう。それはまだ、薪には認められないことだ。

 が、薪の笑みは次の瞬間、消し飛んだ。
 デスクの上に、今まで見たこともないくらいの書類の山が築かれている。薪がいない間にも第九の部下たちは、真面目に仕事をしていたらしい。これも普段の室長の指導によるものだ。
 しかし、この量は。

「熱が出そうだ……」
 病み上がりの身体に徹夜作業を強いる書類の山に、薪は大きなため息をついた。



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官房長の娘(11)

官房長の娘(11)







 翌日、第九には段ボール箱いっぱいのプレゼントが届けられた。
 職員たちはみな、ウンザリした顔をしている。毎年クリスマスとバレンタインには、薪の真実の姿を知らない民間人や所内の女子職員から、大量のプレゼントが贈られてくるのだ。
 
「なんですか、この量」
 大きな書類整理箱に山になったカラフルな包装紙の箱に、青木が驚いている。初めてこれを見るものは、みんなびっくりするのだ。
「あれ、おまえ見るの初めてだっけ? 毎年クリスマスとバレンタインはこれだぞ」
「去年の2月はPC工学の研修に行ってて、12月は実家に帰ってましたから」
「それにしても今年は多いなあ。去年の倍はあるぞ」
「1年経ったしな。世間があの事件を忘れてくれてる証拠だよ」
 甘いものが嫌いな薪は、中身を見もしないで捨ててしまう。普段からちらほら舞い込んで来るラブレターも面倒臭がって読んだことのない薪が、ダンボールいっぱいの贈り物をいちいち開封する、などという手間のかかる作業に時間を割くはずがない。
 必然的に、この大量の郵便物の確認作業は、部下たちに回ってくる。箱の中身はほとんどがチョコレートだが、中にはネクタイや財布などの実用的なものもあって、すべての処分は職員たちに一任されている。

「仕方ない。やるか。今井、まずは危険物のチェックを頼む」
「はい」
 今井は爆発物処理班にいたことがある。危険物の専門家で薬物にも詳しい。
 民間から届けられるものはセキュリティーを通ってくるが、署内間のメールに関しては爆発物のチェックはない。よって室長宛の荷物は、今井がすべてチェックしている。
 薪は署内にも敵が多い。命までとはいわなくても、骨の一本でも折ればいいと思っている輩は大勢いる。
 実際に、ガラスの破片やナイフの切っ先などは、毎年紛れ込んでいる。薪には報せたくない事実だが、たぶん薪は知っている。知っていて知らない振りをしている。だから今井も何も言わない。

 室長室から空のマグカップを片手に、薪が出てくる。
 机の上に広げられた大量の箱に一瞥をくれると、薪はしれっとした口調で言い放った。
「進んでるか? ゴミの始末」
 女性の真心を『ゴミ』と言い切る非道さがすごい。
 マスコミ対策用の薪の笑顔に騙されている民間の女性たちが、このセリフを聞いたらどれほどのショックを受けるだろう。ここまで来ると、詐欺罪が適用されるのではないだろうか。

「やってもやっても終わりません」
「なんか毎年、増えてませんか」
「こないだテレビに出たばかりだからな」
 新年の特別番組で、どこかの弁護士と対談を組まされた。
 メディアに出るのは嫌だが、第九の必要性を世間にアピールするチャンスでもある。弁護士は人権問題を引き合いに第九を糾弾するつもりだったらしいが、思いっきり言い負かしてやった。もちろん世間の反感を買わないように、マスコミ対策用の笑顔つきで。
 室長としてマスコミの対応も長いから、その芝居も俳優並みの演技力を誇るようになってしまった。プライバシー問題にかかったときの辛そうな表情などは、薪の本音を知っているはずの第九の職員たちが、思わず同情したくなってしまうほど見事なものだった。
 あれだけは、どんな言い逃れもできない。だから「こちらとしても辛いんです」という姿勢で、同情票を買うしかない。

「まったく。いい迷惑だ」
「好意の証じゃないですか」
「好意? ただの嫌がらせだろ」
 これが本音だ。
「こんなもん、まとめて火をつけて燃やしちまえばいいんだ」
 薪には言えないが、本当に爆発物が紛れ込んでいたら大変なので、それはできない。やはり、こうしてひとつずつチェックしなくてはならない。
「だいたい、僕は甘いものはそんなに好きじゃないんだ。それを毎年こんなに積み上げられてみろ。もう見るのもいやだ」
 人の好意を素直に受け取れない人間ほど傲慢なものはない。薪の性格の悪さは年々磨きがかかって、その捻じ曲がり方はまるで知恵の輪のようだ。

「これって受け取り拒否できないのか」
「一般のものはともかく、署内は禁止されてるはずなんですけど。それでもやっぱり来ちゃってますね。女ってこういうイベントになると、怖いものなしですからね」
「小野田さんに頼んで、禁止条例出してもらおうかな。破ったら減俸とかさ」
「ていうか、官房長からも届いてますけど」
「なに考えてんだ、あのひと」
 小野田からの包みを開けてみると、中身は薪の好きな吟醸酒だ。添えられたメッセージカードには『昨夜のきみはとても情熱的だった』という意味不明の文章が手書きで書かれている。

「相変わらず、こういう冗談好きだよな」
「青木が見たらまた貧血起こすぞ。あいつ、純情だから」
「呼びました?」
 自分の名前を呼ばれたと勘違いした長身の新人が、薪の後ろから顔を覗かせる。気を使ってさりげなくカードを隠そうとした曽我の手が、華奢な手に阻まれる。
 意味深なメッセージカードを添えて、薪は空のカップを第九のバリスタに差し出した。
「コーヒーのおかわり頼む」
 カードの刺激的な内容に、青木は真っ赤になっている。可哀想に、意地悪で薪の右に出るものはいない。
 また泣きそうな顔になるかと思いきや、何故か今日は嬉しそうだ。周囲の職員たちが一様に訝しげな表情になる。
 
「皆さんの分も淹れてきますね」
 どういう心境の変化なのか、メッセージカードを胸のポケットに収めて、足取りも軽く給湯室へ入っていく。
「どうしたんだろ、青木のやつ」
「大人になっちゃったのかな。つまんないな」
 職員たちと同じように怪訝な顔をしていた薪は、何事かに気付いたらしく、慌てて青木の後を追って、給湯室のほうへ歩いていった。

「ちがうぞ、それはおまえのことじゃなくて」
「え? オレが昨夜、あなたに言ったことの返事じゃないんで」
 そのあとにパパン! という景気のいい音と、ガシャン! という何かがぶつかる音がして、給湯室は静かになった。
 
「なんだろ?」
「さあ?」
「おまえら、さっさと片付けないと今日は夜中までかかるぞ」
「は~い」
 岡部に言われて作業に戻る。手紙は小池のところに回されて、当たり障りのない礼状が小池お得意の流麗な文章で作成される。品物は種類ごとに分けられて、それぞれ箱に分別される。チョコレートの大部分は雪子のいる法一に、財布や名刺入れは希望者に配布する。
 今年の危険物含有率は20%程度だった。昨年はこれが半数近くを占めていたから、ずいぶん改善されている。

 やがて、いい匂いを漂わせて第九のバリスタがコーヒーを持ってくる。
「今日は特別です。ロマンスロースト―――― チョコレートフレーバーのコーヒーです」
 何故か頬が腫れあがっているようだが、すこぶる機嫌は良いらしく、室長専用の高い豆をみんなに振舞ってくれると言う。
「室長。青木のやつ、なにかあったんですか?」
「なにもない!」
 反射的に怒鳴られて、曽我がびっくりしている。
 これまたどうしてか顔を赤らめて、薪は逃げるように室長室へ入っていってしまった。自分のコーヒーを忘れている。室長らしくない粗忽ぶりだ。
 薪の愛用のマグカップを取り上げて、青木が室長室へ持って行く。ノックとともにドアが開けられ、青木の姿が消える。中の会話は聞こえないが、その雰囲気は3日前とは違ってとても和やかだ。

 大量の手紙を書く小池を除いた第九の職員たちは、仕分け作業を終えて本来の仕事に戻る。日常を取り戻した第九に、冬の一日は穏やかに過ぎていった。


 ―了―




(2009.2)


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深夜のバレンタイン(1)

 こちら「官房長の娘」のエピローグです。

 もともとひとつのお話だったんですけど、カラーが違うので分けてみました。
 素直に自分の気持ちを認められない薪さんのモノローグです。 よろしくお願いします。
 





深夜のバレンタイン(1)






 研究室で伝票の整理をしながら、青木は時計を気にしている。

 医者嫌いの上司が、風邪を引いて入院した病院を自主退院してきた。自宅でゆっくり休むならともかく、仕事中毒の彼は、夜の職場に出て来てしまった。
 ここに来てから2時間近く経つのに、まだ室長室から出てこない。時刻は10時を回った。病み上がりの身体には休息が必要な時間だ。
「室長。まだ帰らないんですか」
「やってもやっても終わらないんだ」
 机の上に山と積まれた書類は、半分は第九の職員の努力で、半分は室長への意地悪だ。
 この機会を逃すなとばかりに、昔の捜査の書類点検から何から、至急扱いではないものもだいぶ紛れ込んでいる。いつかは処理をしなければならないものだが、べつに今でなくとも良いものだ。
「普段から少しずつやっとけって、いつも言ってるのに」
 あいつらこんなに溜め込みやがって、とぶつぶつ言いながらも、室長の手は淀みなく動く。3日間の強制的な休暇が、薪の体を元気にしてくれたらしい。が、病み上がりの事実に変わりはない。この辺で休ませないと、また風邪がぶり返してしまうかもしれない。

「急ぎの書類はないって、岡部さんが言ってましたよ。放火事件の所見は岡部さんが代理で付けてくれましたし。それより室長」
 薪を吊るエサは用意してある。青木の読みが正しければ、一も二もなく飛びついてくるはずだ。
「風呂に入りたいんじゃないですか? 病院では入れなかったんでしょ?」
 薪が病院から第九に直行してきたことは、服装ですぐにわかった。室長という立場上、身だしなみには気を使う薪が、3日前と同じネクタイをつけていたからだ。

 青木の提案に薪の手が止まる。右手を口元に当てて少し考え込む。
 頭の中で、書類と風呂が天秤にかかっているに違いない。ここでもうひと押し。
「一番は室長に入ってもらおうと思って、まだ誰も使ってないんですよ」
「そうか、僕が入らないとみんなが遠慮して使えないのか。仕方ない。入ってやるか」
 ひねくれた言い方だが、ひどく嬉しそうだ。
 自分が好きだと告げたときも、このくらいうれしそうな顔をしてくれたらいいのに、とユニットバスに嫉妬してしまった青木である。

「お湯を溜めないとな。蛇口は直ったんだろうな?」
「はい。もう沸かしてありますよ」
 スキップでもしそうなほど軽いフットワークで、薪は室長室から出て行った。
 薪は本当に風呂好きだ。温泉にでも連れて行ってやりたいくらいだ。だめもとで一度、誘ってみようか。断られる確率が高いが、山水亭のような例もある。あとで雪子に相談してみよう。

 3日前とは別人のように元気な足取りで研究室を出て行く上司の背中を見ながら、青木は先刻の薪のうれしい勘違いを思い出している。

 青木のアパートに来た薪が、クローゼットに入っていた薪の上着を青木の彼女のものだと誤解して、なんとヤキモチを妬いてくれた。同情でキスをしてくれるより、ずっとうれしい出来事だった。
 仕事はとてもデキるのに、捜査以外では勘違いや思い込みが多く、とんちんかんな誤解ばかりして自分を振り回す困った上司のことを、青木は微笑ましいと思っている。

 薪に告白してから4ヶ月。
 返事は保留のままだが、少しずつでも自分のことを好きになってくれているのだろうか。

「そろそろ、答えてくれないかな」
 薪の気持ちを確かめたい。自分のことをどう思っているのか、はっきりと聞いてみたい。
 返事はいつでも良いとは言ったものの、薪の場合このまま永久に棚上げという可能性もある。とにかく勝手な人なのだ。

 青木は苦笑して机の上の伝票を片付け、車のキーを手にした。
 薪が風呂から上がったら、車で自宅まで送り届けなくては。湯冷めでもして、また風邪を引いたりしたら大変だ。

 久しぶりに見た薪の嬉しそうな笑顔を思い出して、青木は誰もいない研究室でひとり幸せそうに微笑んでいた。


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深夜のバレンタイン(2)

深夜のバレンタイン(2)






 3日ぶりに自宅に帰った薪が一番にしたことは、花瓶の水を取り替えることだった。

 何年か振りに、風邪なんてつまらない病気で寝込んでしまった。しかも、入院なんて大げさなことになってしまって。おかげで書類が山のように溜まってしまった。
 あれをやっつけるには、1週間は掛かる。来週いっぱいは、深夜の帰宅が続きそうだ。

 リビングのサイドボードの上と寝室の枕元。それぞれに花瓶に差した白百合が飾ってあって、親友の写真が置いてある。
「ただいま、鈴木。僕がいなくて寂しかったか?」
 部下にはついぞ見せたことのない、蕩けそうな笑顔で親友に笑いかける。それからそっと写真にキスをする。これは部下たちには絶対に見せられない。

 第九に新設されたユニットバスで風呂は済ませてきたから、あとはもう寝るだけだ。パジャマに着替えて、ベッドに寝転がる。枕もとの棚に置いてある写真を手にとって、薪は恒例の報告業務を遂行する。
 毎日こうして、薪は親友に語りかけている。薪の1日は『おはよう鈴木』で始まり『おやすみ鈴木』で終わるのだ。

 薪は写真に向かって独りで語り始める。他人が見たらかなりイタイ光景だが、本人はこの時間をとても大切にしている。
「あの花は、青木がくれたんだ。あいつ、僕がこの花が好きだと思い込んでるんだ。百合はおまえが好きな花なのにな」
 小野田父娘と食事をしたこと、第九にユニットバスが設置されたこと。風邪を引いて入院した病室に、岡部が顔に似合わない百合の花を持ってきて、看護師に笑われたことまで事細かく報告して「3日も僕に会えなくて、さびしかっただろ」と笑った。
「そうだ、鈴木。ちょっと待ってろ」
 写真なのだから待っているに決まっている。
 しかし、毎日この独り芝居を続けるうちに、こういう言い回しがクセになってしまった。半分あちらの世界に足を突っ込んでいるとしか思えないが、薪はこうすることによって、ようやく心の均衡を保っている。

 鞄の中からきれいにラッピングされた平たい箱を取り出し、鈴木の写真に供える。ピンクのハートマークのシールつき―――― もちろん、中身はチョコレートだ。
「ごめんな、鈴木。手抜きしちゃって。今年は寝込んじゃったから作ってる暇がなくてさ。でも、愛情だけはたっぷりこもってるから。許してくれよな」
 これを買うときだって恥ずかしかったんだぞ、と薪は自分の苦労を親友に訴える。もてない男が見栄を張るために、自分でチョコを購入することがあるらしいが、薪にはそれは無縁の行為だ。

 毎年この日は鈴木にせがまれて、チョコレートケーキを焼いていた。
 雪子の分も合わせて2つずつ、どうして男の自分がと思いながらも、食い意地の張った男女に両側からねだられて、半ば強制的に作らされていたのだ。
 昨年からは、その必要はなくなった。
 誰に言われたわけでもないが、薪は自発的にケーキを焼いて、翌日雪子に渡した。「雪子さんの分も焼いたから」と、それで聡明な彼女は薪の行動を理解したようだった。

「チョコレートっていえば参っちゃったよ。香ちゃんがさ」
 香の『白馬の王子様』論を辟易した口調で語りながら、薪は自分で包みを開ける。中に入っているのは、鈴木が好きだったマキシムドパリのダークチョコレートだ。
「妬くなよ。相手は中学生だぞ。青木のバカじゃあるまいし」
 ひと欠片のチョコレートを折り取って、自分の口に放り込む。甘いものはそれほど好きではないが、今日だけは特別だ。いつもこうして鈴木に付き合って、一緒にケーキを食べた。甘いものが大好きな鈴木は、ケーキが大好物だった。
「そういえば青木のやつさ」
 ジャケットの話をしようかどうか、少し迷うが敢えて報告しないことにする。
 鈴木の気持ちを考えたら、言わないほうがいい。

「あっちはもう少し経てば収まりそうだから、安心してくれ。前にも言ったけど、僕はおまえだけのものだから」
 ぎゅうっと胸が押しつぶされそうになる。声が詰まって、鼻の奥が痛い。

 好きだと思うたびに、どうしてこんなに哀しくなるのだろう。
 鈴木が生きていたときも、この世からいなくなった今も、ちっとも変わらない。どちらにせよ鈴木は僕の手の届かない処にいて。僕を抱きしめてくれないことに変わりはなくて。

 時々、耐えられないほど淋しくなることがある。
 それこそ相手かまわずベッドに誘って、人肌のぬくもりを確かめたくなる。鈴木を裏切るような真似はしたくないから、そんな夜はつい、鈴木のことを想って自分を慰めてしまう。
 幸せだったあの頃のことを思い出して。夢中で求め合った夜を思い出して。
 鈴木の手が自分にしてくれたように、自分の手で自分自身を愛して……そのあとはよけい淋しくなると分かっていても、やっぱり止められなくて。

「いいだろ。僕はおまえだけなんだから。たまには思い出してもいいだろ。おまえには迷惑かもしれないけど、僕にはおまえしかいないんだから」
 ありったけの想いを込めて、物言わぬ恋人にくちづける。
 ガラスの冷たい感触。暖かい口唇にくちづけたいと思うことは、許されない。
「愛してる……髪の毛1本まで、全部鈴木のものだよ」
 いつの間にか、頬に涙が伝い落ちている。
 鈴木のことを想うだけで、こんなに泣ける。泣けることが嬉しくもある。哀しみに浸るのはいっそ気分がいい。自分はまだこんなにも深く鈴木の事を愛しているのだと、誇らしくさえある。

 忙しさに取り紛れて、鈴木のことを忘れていくのではないかという不安を、薪はいつも抱いている。鈴木への想いを、自分の罪を、過去に埋もれされてはいけないと、必死で自分に言い聞かせている。

 青木が自分の前に現れてから、いくらか自分は変わってしまった。

 青木はその真っ直ぐな心根で、薪の気持ちを掻き乱す。鈴木と同じ顔をして、でもぜんぜん違うアプローチで、自分との距離を縮めてくる。
 最初は鈴木に似ているあいつの中に、ずっと鈴木の影を探していた。けれどもこの頃は、あまり鈴木と重なることはなくなってきて。やっぱりこいつは鈴木とは別の人間なんだ、と思うようになって。
 鈴木の面影に惹かれてあいつを見ていたはずなのに、いつの間にか鈴木にはなかったあいつの無鉄砲さとかに目を奪われて。

 それまで片時も忘れたことなどなかった鈴木のことを、最近ほんの少しだけ失念してしまうことがある。
 例えばあの冬の休日とか、先月のアレとか。今回だってあの上着のことで、さんざん腹を立てて、でも持ち主が自分だと分かって、うれしかっ……。

 薪は慌てて頭の中からその考えを追い払う。それは認めてはいけない感情だ。
「大丈夫だよ、鈴木」
 溢れ落ちる涙を拭おうともせず、薪は恋人を安心させようと力強く言い切る。
「僕はおまえしか愛せないし、あいつはもうすぐ目を覚ますから」

 青木がなぜ自分にあんな感情を抱いたのか、やっとその理由がわかった。
 青木は自分のことを誤解している。いや、自分に騙されている。
 素直で他人の言うことを何でも本気にする青木は、以前警察官になったばかりの新人に公僕としての心構えを説いた、薪の高説を本気にしているのだ。
 あれは違う。
 口から出任せというわけではないが、自分がいま第九の仕事に夢中になっている理由の8割は、私情によるものだ。
 それを勘違いして、薪のことを社会正義のために自分を捧げている高潔な人間だと思い込んでいる。その尊敬の念が、青木の中にもともとあった薪への憧憬を、あんなおかしな感情へと育て上げてしまったのだろう。
 薪のことを聖人君子のような人格者だと思い込み、警察官の鑑のような人物だと信じている。つまり、青木の気持ちは大部分が精神的(プラトニック)なものだ。小野田のきわどいジョークに、過敏に反応してしまうのはそのせいだ。

 だから―――― あれはもう、時間の問題だ。

 同じ職場で仕事をしていれば、相手の人となりは自然にわかってくるものだ。そのうち青木にも、自分がそんな大層な人間ではないことが分かって、幻滅して、そうしたらあんな気持ちは消えてなくなる。
 しかし、自分はすでに青木の前ではかなりの醜態をさらしているような気がするが。
 目の前でぼろぼろ泣いてしまったこともあったし、今日だって青木に冤罪をかけた挙句に取り乱して、女のヒステリーみたいに喚き散らして……まあ、青木はバカだから。気付くのに時間がかかるのだろう。

 青木が正気に返ったら、今度こそ雪子のとの仲を取り持ってやろう。それでみんな丸く収まる。
 雪子さんは青木と幸せになって、そうしたら鈴木は永遠に僕だけのものだ。僕は鈴木さえ手に入ればいい。他は何もいらない。
 未来も命も、全部いらない。

 この世で自分がしなくてはいけないことは2つだけ、と薪は肝に銘じている。
 第九の地位を確立させることと、雪子の幸せを見届けること。

 第九のほうは、大分落ち着いてきている。短い期間なら岡部で十分室長の役割が務まるようになってきたし、他の職員も腕を上げてきて、薪がいなくともいい仕事をするようになった。薪がいなかったこの3日間に上がって来た書類に、その進歩ははっきりと顕れている。
 あとは雪子のことだが、これは青木に任せれば大丈夫だ。
 青木はまだ若いが、一途に人を愛する心を持っている。あの性格は一生変わるまい。
 いったん雪子の魅力に気付けば、惹かれていくに決まっている。鈴木の恋人でなかったら、自分だって好きになっていたかもしれないくらい、素晴らしい女性なのだから。

 その2つの仕事が片付いたら。

「逢いに行くからな、鈴木」
 ぼたぼたとガラスケースに水滴がしたたり落ちる。
 理由の分からない涙は、あとからあとから湧いてきて、薪はもう鈴木の顔がぼんやりとしか見えない。
「おまえがいつまでも迎えに来てくれないから。こっちから行くしかないだろ」

 迎えに来てくれるまで、待とうと思っていた。
 でも、もう待てない。
 待ち続けることがこんなに辛いとは思わなかった。いや、何より自分の気持ちが変化していこうとは、予想もつかなかった。

 僕は……青木に惹かれ始めて……。
 ちがう、そうじゃない。

 でも、たしかにあいつと過ごす時間が増えて、鈴木のことを考える時間が減って。
 このままでは、僕は鈴木を忘れていく。
 そんなことは許されない。ぜったいに許せない。
 まだこうして鈴木を想って泣けるうちに、自分の心を止めてしまわなくては。心を止められないなら―――― 強制終了するまでだ。

 そんなに長く生きようとも思わないし、幸せな人生などすでに望んではいない。
 ただ、自分が殺した親友の思い残したことを成し遂げたい。それが済むまでの時間だけをもらって、薪はこの世に生きている。薪の人生はそれだけのために存在している。
 その自分が。
 鈴木以外の他の誰かに心を奪われるなんて。ほんの少しでもその誰かと過ごすことで、幸せな気分になるなんて。

 鈴木はどう思うだろう。
 鈴木だって雪子さんとの結婚が年内には決まっていて、幸せの絶頂だったのに。それを奪った人間がその事実を忘れて、他の誰かと幸せを育んだりしたら。
 僕だったら呪い殺してる。自分を殺した人間もその相手も、皆殺しだ。
 だって許せない。

 自分だけ冷たい地面の下で、ひとりぼっちで、痛くて辛くて淋しくて。
 なのに、自分を殺した相手はのうのうと恋人まで作って、この世の春を謳歌してるなんて。

 薪には寛容の心がない。
 他人のことも許せないし、自分のことも同じように許せない。許せないことが多すぎて、正直生きるのがつらい。
「待っててくれるよな。もう少しだからな」

 薪は、自分の気持ちをまだ完全には把握しきれていない。
 生涯の恋人と心に決めたひとを想って流しているはずのこの涙は、諦めなければならない新しい想いを葬り去ることへの涙なのかもしれない、という可能性には気づいていない。
 それは薪にとっては、決して認めてはいけないことだから。
 認めてしまったら―――― 明日を生きる資格もなくなってしまう。

 だから、薪は自分の心をリライトする。
 わずかに生まれた光には気付かない振りをして、心の中を鈴木のことでいっぱいに満たして。鈴木の夢が見られるよう、祈りながら眠りにつく。

 薪の夢は今日も、切ない。




 ―了―



(2009.2)


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冬の七夕(1)

 500拍手のお礼です。

 ラブラブのあおまき小説、というテーマで書きました。ええ、そのつもりで書きましたよ。
 書いたんですけどね。
 人間、意気込みと努力だけではどうにもならないことって、あるんですね。あはは。(乾いた笑)







冬の七夕(1)







 警察官という職業は、とてもストレスの溜まる職種だ。
 規制されることが多いし、公僕として市民の手本として、常に人目を気にして行動しなければならない。しかし、彼らもまた普通の人間であり、普通の男だ。よって、そのストレスを発散する方法が必要になる。

 ストレス解消の有効な手段は色々あるが、その中でも小旅行というのは、かなり上位にランクインする選択ではないだろうか。
 日常を離れ、いつもと違う環境に身を置く。それだけでかなりの解放感を味わえるものだし、そこに美しい自然や美味しい食べ物や地酒が加われば、日頃のストレスなど吹っ飛ぶ。翌日からの職員たちの勤労意欲も、いや増そうというものだ。

 そんなわけで第九でも毎年、閑散期である冬季の土日を利用して、慰安旅行のプランが立てられる。
 大抵は1月か2月。正月明けで宿の値段も落ち着いた頃を見計らい、小型バスに乗って他県の温泉に1泊するのが慣例だ。
 今年は、富士山が見える河口湖沿いの温泉宿に決まった。




*****




「なんで冬に七夕……?」
 メガネの奥の黒い目を瞬かせ、青木は首を傾げた。
『河口湖・冬の七夕祭』のポスターが、ホテルの入り口に飾られている。七夕というのは、夏の風物詩のはずだ。
 不思議に思って仲居に聞いてみると、湖畔の大石公園で毎年開催される行事だと言う。大型の吹き流しや笹竹が設置され、短冊や絵馬に願をかける人々で賑わうそうだ。

 行ってみたいと思ったが、新入りに自由行動は認められないのが職場の慰安旅行というものだ。先輩たちに風呂に誘われれば笑顔でついていくのが後輩の宿命だし、風呂から上がったら冷たいビールを勧めるのが新入りの役目だ。
 第九の先輩たちはとてもやさしいが、だからと言って後輩の仕事をおろそかにしていいわけはない。むしろ日頃お世話になっているのだから、こんなときにこそ感謝を行動にしなければ。

 小池たちと一緒に風呂に入ったり、売店を冷やかしたり、同じホテルに泊まっている女の子のチェックをしたり。旅先というのは下らないことでも楽しく感じられて、時間が経つのがびっくりするくらい早い。気がつくと、もう夕食の時間である。
 小さな宴会場にしつらえられた夕食の席に青木たちが向かったのは、夕方の6時。
 予定時刻を聞いたときには早いと思ったが、冬の日の短さから、外はすっかり夜の帳が下りている。
 足のついた会席膳の前に敷かれた座布団に腰を下ろして、全員が揃うのを待つ。薪と岡部は、既に上座に並んで座っていた。

 初めて見る薪の浴衣姿に、ドキッとする。

 薪の亜麻色の短髪に、和服がこんなに似合うとは思わなかった。
 いつもは見えない首が浴衣の襟からのびて、腕を上げると袖から肘がのぞいて。その細さと白さに、ドギマギしてしまう。薪のはだかは何回か見ているのに、同じ男性だとはまだ信じきれない。

 最後に来た今井の着席を待って、室長が口を開く。仕事ならば遅刻など絶対に許さないが、こういうときは何も言わない。オンとオフの境界線は、かっきりと引くのが薪のポリシーだ。
「みんな。去年はご苦労だった。今年も力の限り職務に励んで欲しい」
 薪は長い挨拶はしない。
 必要なことすら言わないときがある。実は、酔っ払うとホラ吹きオヤジに変身するのだが、それは腹心の部下と飲み友達の新人だけが知っている、室長の裏の顔だ。

 宴会開始の挨拶にそれだけ言うと、薪は席を立って座敷の中央に進んだ。全員がそれに倣って、その周りに集まる。
 岡部が乾杯用のコップとビールを持って、薪の隣に立つ。薪のコップにビールを注ぎ、次いで全員のコップを満たした。
「今年も元気でいい仕事ができるように。乾杯!」
「かんぱ~い!」
 岡部が乾杯の音頭を取って、何度もグラスが音を立てる。職員たちとグラスを触れ合わせてにこりと笑い、薪はビールを飲み干した。



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冬の七夕(2)

冬の七夕(2)








 職場を遠く離れ、室長の眼の届かない酒宴の席で、第九の職員たちははしゃぎまくっていた。
 浴衣の前をはだけて、大声で歌いまくる。仲居の手を取って、無理矢理ダンスに誘う。とても第九の職員の言動とは思えない。研究室でのエリート顔は、霞ヶ関に置いてきたらしい。
 酒宴が乱れる職業ベスト3といえば、警察官・教師・銀行員だが、その栄冠(?)に恥じない乱れっぷりである。

 開始後、30分足らずで薪は自室に引き取った。
 自分がいては職員たちが羽目を外せまい、との気遣いからか、単にうるさいのが苦手なのか。もちろん、部下たちの多数決は後者のほうだ。

 室長の退室から30分後に部屋に入ってきた、宴席には欠かせない、若くて可愛いコンパニオンが2人。本人たちはふたりとも19歳だと申告したが、その真実は闇の中だ。
「ねえねえ、葵ちゃんの好みは? この中で言ったら、だれ?」
「だれって言われても。みなさん、素敵です」
「じゃさ、このひとになら抱かれてもいいって思える男、いる?」
「ええー。そんなこと、言えませんよお」
「こっそり俺にだけ教えて」
「あ、こら! そんなにくっつくなよ。抜け駆けだぞ」
「おまえだってさっき、裕美ちゃんの手を握ってただろーが!」
 争うように彼女たちを囲んで、あれやこれやの猥雑な話で盛り上がる。やっぱり酒の席に女の子がいるのといないのとでは、楽しさがぜんぜん違うらしい。

 そのノリについていけない、経験の浅い社会人がひとり。
 隣に座ったコンパニオンの強い香水の匂いに、辟易する。職業に偏見を持っているわけではないが、どうもホステスの類は苦手だ。

 トイレに行く振りをして、部屋を抜け出す。酔い覚ましに廊下を歩いた。
 窓から外を眺めると、とてもきれいな月が出ていた。湖の方角が、明るく光っているのが見える。ホテルの裏手のほうだ。

 青木は昼間、仲居から得た情報を思い出す。
 夜の10時まで、七夕飾りはライトアップされてますよ―― あれはきっと、その明かりだ。

 窓から見えるということは、そう遠くない。宴会が終わるまでに、行って帰って来れるかもしれない。
 慰安旅行とはいえ、下っ端の自分が先輩たちの世話をせずに自由に動けるのは、コンパニオンがついていてくれる今の時間だけだろう。どうせこの後は、部屋で朝まで飲み会だろうし。明日の朝の見物は諦めるが懸命だ。

 一旦部屋に戻って、コートを羽織る。
 湖側に一番近いガラス張りの出口から外に出ると、外は凍るような冷たさだった。アルコールで火照った身体には心地よい刺激だ、と思ったのは束の間。
 公園に行き着かないうちに、青木は早くも自分の行動を後悔した。
「さむっ!」
 寒い、というより痛い。
 ホテルの裏手から公園に通じる道を使えば、徒歩で5分ほどだとフロントの男性に聞いてきた。外灯が設置されているし、一本道だからすぐにわかりますよ、と初老の親切そうな受付係は教えてくれた。
 この寒さについても教えてくれると、もっとありがたかった。
 地元のひとに「この寒さの中に出るのはよしたほうがいい」と忠告を受ければ、こんな無謀な夜歩きはしなかったのに。
 それでもせっかく出てきたのだから、ひと目見るくらいは、と我慢して足を進める。
 しかし、ほどなく。
 青木は受付係の初老の男性が、不親切で自分の行動を止めなかったわけではなかったことを知った。

「うわ」
 河口湖畔をバックに、数十本の吹き流しや大きな笹竹がひしめき合うその光景は、寒さを耐えて足を運ぶのに充分な美しさだった。
 仮設のやぐらの上から吊り下げられた明かりと、下方からの強力な照明でライトアップされた、3メートル近い高さの吹き流し。ピンクや赤といった明るい色が多く、とても華やかだ。笹竹には短冊のほかにも、紙衣や千羽鶴、投網など紙で作られた飾りが、たくさんぶら下がっている。残念ながら富士山は闇の中に沈んでしまっているが、ライトと月明かりで湖面は煌いている。さながら、夢の中の風景のような美しさだ。

 珍しいオブジェを見られたことに満足し、青木が踵を返そうとしたとき。
 明かりから少し離れた笹竹の下に、ぼんやり佇む小さな人影を見つけた。
 宿の浴衣に半纏姿という薄着で、七夕飾りを見上げている。
 寒くないのだろうか。
 もともと自分の身体を酷使することに抵抗がないひとだが、暑いだの寒いだのといった本能まで押さえ込んでしまうところがすごい。

「室長」
 近くまで歩いていって、声をかける。青木の声に気付いて、薪は振り返った。

 月の光に照らされたその姿は、揺らめき、かそけく。
 ときどきこの人は、こんな風に幻想めいて見えることがある。ふたりで初めて夜桜を見に行ったときにも、こんな感覚を味わった。
 現実離れした浮遊感。夢の結晶で形作られたかのような、その造詣のうるわしさ。
 薪自身が夢の世界の住人であるかのような、生身の肉を持たないかのような、静謐で不思議な美貌。
 目を離したら消えてしまう―― 青木は不安に駆られて、平常心を失いそうになる。

「そんな薄着で。また風邪引きますよ」
 青木は自分のコートを脱ごうとした。薪に着せてやろうと思った。
 が、その手は止められた。
 目線と沈黙で青木の行動を縛る。青木は動けなくなった。

 片袖を脱ぎかけた青木のコートの中に、薪は自分からその身を滑り込ませてきた。
 冷え切ったからだが青木の体温を奪っていくが、そんなことは気にもならない。
 胸がどきどきする。
 ひとつのコートにふたりで入るなんて、まるで恋人同士みたいだ。
「部下に風邪を引かせるわけにはいかん」
 薪の言葉に、少しだけがっかりする。おかげでいくらか冷静さが戻ってきた。
 薪の行動の基本はいつもこれだ。とにかく、仕事最優先のひとなのだ。

 月の光が波に反射して、哀しくきらめく。
 薪の匂いと、風が吹流しを揺らす音。笹の葉の、さわさわというお喋り。冷たい風が、髪の毛を弄るように吹き抜けていく。
「すごくきれいだけど……なんか、寂しいですね」
 まつ毛の先まで冷たくなって、薪はここで何を考えていたのだろう。
 先日、終わったばかりの事件のことだろうか。それとも。

「ひとりで見るには、寂しすぎる風景だと思いますけど」
「風呂でのぼせたから、冷ましてただけだ」
「ちょっと、冷めすぎなんじゃ」
 半纏の肩に手を掛けると、さっと振り払われた。
 思わず心が挫けそうになるが、薪はコートの中から出て行こうとはしなかった。
 このへんは微妙なところで、薪の感覚としては、コートに一緒に入るのは友だちでもすること。肩を抱くのは友だちより親しい関係。そういう線引きらしい。

「おまえ、宴会は?」
「抜けてきちゃいました。あのノリについていけなくて」
「せっかく可愛い女の子、二人もつけたのに。あの娘たち、スーパーなんだぞ」
「え? スーパーってなんですか?」
「……本当に、お子様だな。おまえは」
 意味がわからない。普通のコンパニオンと、どう違うのだろう。

 笹竹の近くには木の箱が設置されていて、引き出しに短冊と絵馬とペンが入っていた。木箱の上部には細長い穴が開いていて、短冊200円、絵馬300円と書いてある。お金は観光客の良心に任せられているらしい。
「薪さん。短冊にお願い事、書きました?」
 薪はそれには答えず、黙って小銭を箱に入れると、青木に一枚の短冊を差し出した。
 礼を言って受け取るが、何を願っていいものか迷ってしまう。

「なんて書こうかな。急に言われても思いつきませんね」
「雪子さんと結婚できますように、って書けばいい」
 またそんな意地悪を言う。
 自分の気持ちを知っているくせに、何回否定したら諦めてくれるのだろう。
「お願い事くらい、自分で考えます」
『薪さんと恋人同士になれますように』と書きたいが、それをしたら多分殴られる。湖に突き落とされるかもしれない。
 しばらく考えたが、それ以外の願い事が思いつかない。青木は何も書かずに、短冊をポケットにしまった。
「今夜ゆっくり考えて、明日の朝掛けに来ます」
 薪の見ていないところで、そっと掛けておこう。それなら生命の危険はない。

「戻る」
「はい」
 短い命令に、短い答え。
 ぶっきらぼうな喋り方だが、べつに冷たい感じはしない。言葉は固いが、薪の雰囲気はやわらかい。

 行きはあんなに寒く感じた道のりが、帰りは暖かかった。
 自分のコートに入った小さな体温。その暖房効果は見かけによらず大きくて、青木を芯から温めてくれる。
 無口な薪らしく一言も喋らないが、このひとにとって沈黙は不興ではない。昔はこの空気を重苦しく感じていたが、この頃は慣れた。沈黙を楽しむのも、薪と過ごす方法のひとつだと知った。

 歩く度に揺れる長い睫毛を見下ろして、青木は幸せな気分になる。
 帰りの道は、行きの倍もあればいいのに。短冊にそう書けばよかった、と微かな後悔を抱く青木だった。



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冬の七夕(3)

冬の七夕(3)







 建物の中に入ると、外の寒さが嘘のようだった。
 もうコートはいらない。薪と密着できる理由もなくなって、ちょっとだけ残念だ。このままもう少し話がしたいところだが、もう自室に引き取ってしまうのだろう。
 ところが。

「寄っていかないか」
 薪がそう言って立ち止まったのは、大浴場の前。
「体が冷えただろ。温まっておいたほうがいいぞ」
 男湯と書かれた藍染の暖簾をくぐって、薪は中へ入っていく。脱衣所には数人の泊り客がいて、中には薪の顔を訝しそうに見ている者もちらほら。
 薪のはだかは見たいけれど、他人には見せたくない。

「部屋で入ったらどうですか? 薪さんの部屋って、露天風呂がありましたよね」
 薪の部屋は、露天風呂付きの個室だ。
 他のものは3人ずつに分かれての普通の客室だが、1年に1回の慰安旅行。重責に身を置く室長に、このくらいの贅沢をさせてやりたいではないか。
 薪の風呂好きは、第九の職員なら今やだれもが知っていることだから、そのことに文句を言うものはいない。

「あそこじゃ体が洗えないんだ。内風呂も付いてるけど、狭いし」
 薪が浴衣の帯を解きはじめたの見て、青木は慌てて目を逸らす。
 青木の視界ギリギリの位置で、薪はさっさと浴衣を脱ぎ、脱衣篭に入れる。周囲の目などまったく意に介さない。
 普通に考えれば男同士なのだから当たり前なのだが、薪は自分の気持ちを知っているはずだ。
 無神経というか、気にしないというか。それとも、薪の中では、あれはもう済んだことなのだろうか。
 あれからずいぶん経つのに、一向に返事をくれないし……。

 ぼうっと考えている間に、薪は摺りガラスの向こうに消えていた。
 我に返って、服を脱ぐ。時計とメガネを浴衣の下に隠して、タオルを手に薪の後を追いかけた。

 青木の近視は、かなり強い。
 メガネを取ると、物の輪郭がぼやけて見える。不便だが入浴のときだけは仕方がない。メガネを掛けていたら曇ってしまって、視界は真っ白になる。逆になにも見えない。
 大浴場には、数人の人影。顔が見えないので、薪を探すのは厄介かと思われたが。

 何故だか、一目でわかった。

 周囲から、薪が浮き上がって見える。
 これはどういう作用なのだろう。突然、視力が良くなったみたいだ。
 立ってシャワーを浴びている。華奢な手がシャワーヘッドを掴んで、水流が体についた泡を落としていく。

 白い肌。繻子のように光る産毛。
 しなやかな背中は、麗しさに満ちて限りなく清らかに。
 男にしてはくびれの強いウエスト。丸みを帯びた尻から伸びる、理想的な形の足。太腿からふくらはぎのラインが、例えようもなく美しい。
 まぶしい、というか、神々しい。とても迂闊に触れられる雰囲気ではない。
 いや、触れてしまったら。大変なことになりそうな気がする……。

 青木はわざと薪から離れた場所で体を洗い、湯船に浸かった。
 髪を洗い終えた薪が青木の姿を見つけて、こちらへ歩いてくる。さすがに公共の浴場だから腰にタオルを巻いているが、見えない分だけ扇情的だと思うのは青木だけだろうか。

「ああ、気持ちいい。大きい風呂って、いいよな」
 このひとが素直に笑うのは、風呂に入っているときと、大好きな吟醸酒を飲んでいるときだけだ。仕事中には絶対にこんな顔は見られない。
「両手両足を伸ばしても、壁に触らないのがいいんだ」
 言葉の通りに、手足を思い切り伸ばして見せる。両腕を広げて微笑んでいる姿は、まるで青木を誘っているようだ。

 胸が苦しい。息が上手くできない。

 どうしてこんなにきれいなのだろう。
 男の人なのに、どうしてこんなにも自分の心を掻き乱すのか。

 濡れた髪から、桜色に染まった首筋から、無意識に発せられるかすかな色香。
 それは、男に愛された経験からくるものなのだろうか。かつての親友との遠い過去から―――― それとも未だにかれを想い続けている、薪の恋心のせいなのか。

 夢の中や想像の中なら、乱れさせることもできるのに。恥ずかしい行為をさせることもできるのに。
 目の前にしてしまったら……何もできない。
 美しすぎて、眩しすぎて、手が出ない。

「青木」
 このひとは、本当に人間なんだろうか。
 天使とか、神様とか、そういう世界に生まれたはずが、何かの間違いでここに来てしまったのじゃないだろうか。
「青木」
 このひとの存在こそが奇跡だ。
 人生の中で、たとえ今の瞬間だけだとしても、このひとの人生に交われたことに感謝する。幾ばくかのときを共に過ごせたことだけでも、自分は幸せだ――――。
「おい、あお…」
 亜麻色の瞳の誘惑に、眩暈がする。
 意識が遠のきそうだ。
 薪の姿が、次第に霞んでいく。湯煙に溶け込むように、白く白くほどけていって……。

 やがて、薪は完全に湯気の中に消えてしまった。何も見えなくなって、青木の視界は不意に暗転した。

 生ぬるい液体が口から頬に伝う感触に、青木は目を覚ました。
 ぼんやりとした視界に飛び込んできたのは、びっくりするくらい長くてきれいな睫毛。口唇に当たっている感触は、やわらかくて甘い、濡れた果実のような薪の。
「お、気がついたか?」
 青木が目を開けると、薪はさっと身体を離し、脱衣所の床に腰を下ろした。髪は濡れたままだが、きちんと浴衣を着ている。
 木板を張った天井が見える。蛍光灯の明かりが、現実の薪をはっきりと映し出している。幻想の世界から現実世界に戻ってきたようだ。

「ったく、おまえときたら。どんだけ僕に迷惑掛ければ気が済むんだ。自分の体重、考えて湯あたりしろ」
 湯船に沈んでしまった自分を、一緒にいた宿泊客と薪が引きあげてくれたらしい。重くて重くて、4人がかりだったんだぞ、と薪は言った。
 礼を言いたかったが、他の客たちは引き上げてしまったらしい。新たに入ってくる客もいないようで、熱気のこもった脱衣所には、薪の他にひとはいなかった。
「ほら。あとは自分で飲めよ」
 冷たいペットボトルを渡される。薪がこれを口移しに飲ませてくれたのだと分かって、青木は頬が熱くなるのを感じた。
 
「青木。僕の部屋で寝るか?」
「え!?」
 ドライヤーで髪を乾かしながら、薪は何でもないことのように言った。
 青木の心臓が、ドキドキと騒ぎ始める。
 自分の気持ちを知りながら部屋に誘ってくれるなんて、もしかしたら。

「ここに来る時、ずっと運転してたから疲れたんだろ。だから湯あたりしたんだ。あいつらは部屋でも夜通し飲むから、眠れたもんじゃないぞ。僕の部屋なら個室だから」
 なんだ、そういう意味か。まあ、そんなことだとは思ったが。
 でも、浴衣姿の薪と部屋でふたりきりなんて。それは別の意味で眠れなくなりそうだ。

「大丈夫です」
「明日はみんな二日酔いだろうから、帰りもおまえが運転だぞ。眠っておいたほうがいい」
「でも」
「月曜日の業務に差し支えるだろ。これは室長命令だ」
 それを出されてしまっては、頷くしかない。
 青木は複雑な気持ちを押し殺して、はい、と返事をした。



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冬の七夕(4)

冬の七夕(4)






 イグサの匂いも新しい8畳間で、二組並べた布団のかたわらで。
 薪は細い背中を青木に見せて、肩を震わせている。きれいなうなじが浴衣の後ろ襟から覗いて、たまらない色気を感じさせる。
 よく見ると、耳が赤くなっている。向こう側に向けた頬の紅潮が予想されるその色合いは、青木の心をときめかせる。

「オレの足が布団から出てるのが、そんなにおかしいですか?」
「だって、おまえ……ぷくくく」
 にやにやと意地の悪い笑いを浮かべて、薪がこちらに寝返りを打った。
「大きくても損することって、あるんだな」
「たくさんありますよ。服はなかなか見つからないし、尾行や張り込みには不向きだし。学生の頃なんかいくら下を向いてても、先生に指されました」

 ワンランク上の料金を取るだけあって、薪の部屋は青木たちの部屋よりも広かった。
 ドアを開けると狭いながらに板の間があり、その奥に襖がある。襖を開けると、八畳間がふたつ。障子に遮られたベランダに露天風呂。風呂からはもちろん、湖が見える。
 風呂好きの薪には、こたえられない部屋だろう。道理で宿に入って、部屋から一歩も出てこないと思った。

「でも、スポーツは有利だったろ。バスケとか」
「そうですね。いつもセンターでしたね」
「僕はガードばっかりでさ。シュートの命中率なら負けなかったのに」
 薪が見かけによらずスポーツマンで、運動神経がいいのは知っている。捜一時代は同僚たちと、昼休みにゲームに興じることもあったかもしれない。
「薪さんは、目端は利くし動きも素早いから、きっといいポイントガードだったでしょうね。そうだ。今度先輩たちと昼休みにでも、って、寝てるし」
 突然の墜落睡眠は、薪の特技の一つだ。
 今の今まで普通に喋っていたのに、次の瞬間には眠りの中にいる。天才というものは、眠り方まで普通の人間と違うらしい。

 お喋りをしていたつもりが、いつの間にか独り言になっていたことに苦笑して、青木は薪の寝顔を覗き込む。
 薪の寝顔はいつもきれいでかわいいけれど、今日は特にかわいいような気がする。笑ったまま眠ってしまったみたいな、嬉しそうな寝顔をしている。

 岡部と一緒に薪の家に泊まるようになって知ったのだが、薪は時々、夜中にうなされることがある。悪夢の原因は予想がつくから、それに気付いても青木は何もできない。薪を落ち着かせるのは岡部の役目だ。
 自分の顔では―――― 余計に怖がらせてしまう。
 薪に言わせると、「親友に瓜二つ」な自分の顔。どうしてこんな顔に生まれてしまったのだろうと悩んだこともあるが、逆にこの顔のおかげで薪に接近できた、という役得もある。
 喜ぶべきか、悲しむべきか。まだ青木の中で、判断はつかない。

 青木はそっと布団を抜け出して、部屋の明かりを消した。
 コートを持って、薪の部屋を出る。並びの部屋では予想通り、第九の先輩たちが宴会の続きをしている。見つからないように足を忍ばせて、青木はホテルの外に出た。
 寒さに身を竦めながら、公園への道を再び辿る。
 コートの中にいた小さな温もりを思い出して、青木は足を早めた。

 ライトアップ終了、10分前。
 こんな時間にこんな気温の中で、公園を訪れる酔狂な客はひとりもいない。
 青木は薪が立っていた笹竹の下で、彼の文字を探した。
 なんと書いてあるのか、少し見るのが怖い。
『鈴木に会いたい』などと書かれていたら、という危惧は拭えない。
 でも、知りたい。
 薪がなにを望んでいるのか。

「あ、あった」
 薪の文字は見ればすぐにわかる。几帳面で、いくらか右肩上がり。際立って上手いというわけではないが、とても読みやすい文字だ。
「あれ? こっちにも……これも?」
 見慣れた筆跡で書かれた短冊は、全部で6枚もあった。薪がこんなに欲張りだとは思わなかった。
 一枚一枚、手にとって確認してみる。
 その内容に、青木は顔をほころばせた。

『岡部。警視昇任』
『今井。彼女と結婚』
『宇野。メンテナンス時間の短縮』
『小池。彼女とよりが戻る。一言多いクセが直る』
『曽我。KY矯正』
『青木―-―――-早く立派な捜査官になれるように』

 青木の分だけ書き損じたのか、サインペンで黒く塗りつぶした部分がある。明かりに透かしてもそれは読み取れず、薪が最初に何を書こうとしたのかは、謎だ。
 
「ったく。自分の願い事がないじゃないですか」
 青木は苦笑して、ポケットの短冊を探った。
 木箱の上で願い事を書く。
 欲張りなだれかさんと違って、青木の願いはひとつだけだ。青木は謙虚な男なのだ。
 長身にものを言わせて、高いところに短冊を結ぶ。
 折からの風に、青い短冊がくるくる回った。
 
「よろしくお願いします」
 神社ではないのだから手を合わせるのはおかしいのだが、青木は拍手まで打って、笹に祈りを捧げた。


 青木が去ったすぐ後に、ライトアップの照明は自動的に切れた。
 湖畔には月明かりだけが残されて、笹の葉が風にそよぐ音だけが響いた。
 月の光が、新しく掛けられた短冊を照らす。
 かっきりとした四角い文字で記された、その日の最後の願い。
 それはおそらく、彼の永遠の願い。


『安らかな眠りが、毎夜あのひとに訪れますように』




 ―了―



(2009.7)





*****




 ぜんぜんラブくなってませんね。(笑)
 すみません×10。
 現在のうちのふたりじゃ、これが限界です。(ってか、わたしが限界?)

 リクエストいただいた、『青木くんが薪さんの美貌にクラクラ』と『薪さんが幸せに包まれる』を入れようとしたんですけど。
 何故か『青木くんが風呂でのぼせてクラクラ』と『薪さんが布団に包まれて幸せ』になってしまいました。

 このあと、青木くんはお約束通り、小池さんたちに捕まって朝まで飲まされます。完璧二日酔い状態で、帰りの運転は薪さんです。
「くそ! なんだって僕がこんなこと!」(笑笑)

 ホントは七夕に合わせてUPしようと思ってたんですけど。間に合いませんでした。
 夏は第九が忙しいし、薪さんの精神が不安定になる時期なので、わざと季節を外して冬の七夕にしてみました。きっとあの時期の薪さんは七夕どころじゃなくて、こんな機会は二度とない、と思ってたくさん願いごと書いちゃったんですよ☆

 冬の七夕は、河口湖畔の大石公園で実際に行われてるみたいですけど、わたしはもちろん行った事ありません。
 富士山も5年位前に1度だけ。もう、忘れちゃいました(脳みそツルツル) だから風景描写がいい加減……脳内で補完作業お願いします。





 追記

 貸し切り露天風呂は、ぜひKさまのおふたりで。
 秘技、リクエスト返し~~!\(^▽^)/



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官房長の娘~あとがき~

 自分でも、こじつけがましい話だと思ってました。(笑)
 薪さんにヤキモチを妬いてもらいたかっただけなんですけど、青木くんがどーしても、他の女の子と接近するのはイヤだっていうから、薪さんにコケてもらいました。
 薪さんの天才性が疑われる状況が発生したことを、深くお詫び申し上げます。

 とりあえず、仕事以外の彼はとても勘違いが多くて、思い込みが激しい、と思ってください。
 そんなんでまともな捜査ができるのかどうか、甚だ疑問ですけど☆ 冤罪とかたくさん生まれちゃいそうですね。(笑……えねえ)


 さて、次はお仕事の話です。
 題名は『二年目の桜』です。
 アホ疑惑を掛けられた薪さんの、名誉挽回を狙ってます。(←手遅れ)
 わたしの低レベルな頭でちゃんとした事件なんて書けるわけないので、そのへんはスルーしてくださいね☆




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二年目の桜(1)

 このお話は、次の話と時期的に絡んでいます。
 当初はひとつのお話だったのですが、長すぎるのとカラーが違いすぎるので、分けてみました。
 その為、途中、脈絡のない会話が混じったりしますが、たいして意味のない会話なのでスルーしてください。

 真面目にお仕事のお話です。
 でもやっぱりR系ギャグは外せません(笑)





二年目の桜(1)






 モニタールームの椅子に座って頬杖をつき、薪はモニターを見つめている。
 凄まじい勢いでアスファルトの道路が迫ってきて、ふいに画面が暗転する。犯人がビルから飛び降りて、その生涯を終えたのだ。
「くそっ」
 思わず舌打ちして、薪はマウスをクリックする。最初の画がモニターに映し出される。さっきから何度この場面を見ているだろう。

 3月の初めに起こった殺人事件で、犯人の女性は自殺し事件は片が付いているのだが、どうしても動機が見つからない。捜一の捜査でも、犯人と被害者の接点は何も浮かばなかった。そこで第九に犯人の脳が送られてきた。
 ところが加害者の女性は、ビルの屋上から飛び降り自殺をした為、脳の大半が潰れてしまっている。そのせいで、途切れ途切れの画像しか手に入れることができない。
 第九に脳が届いて3日目。色々やってみたが、これ以上のデータは取れそうにもない。
 この映画の宣伝のような継ぎ接ぎの画を組み合わせて、事件の骨子を組み立てなくてはいけない。その中から争点となっている、犯行の動機を探り当てなければならないのだが。

「室長の眼でもダメですか?」
 この事件を担当している曽我が、がっかりしたような声を出す。いつもなら諦めるな、と叱り飛ばすところだが、今回ばかりはさすがの薪もグロッキー気味だ。
「がむしゃらに画を見続けても駄目だ。情報を整理して仮説を組み立てないと」
「でも、見ることができる画がこれだけじゃあ」
 曽我の言う通りだ。今回は情報が少なすぎる。仮説を立てようにも、材料が足りない。

 半分潰れた脳に残されているのは、事件に関係のない場面ばかりだ。
 朝起きて食事をして、会社へ行き仕事をする。家に帰って夕飯を摂り、風呂に入って床に付く。なんの変哲もない日常の風景。そこからあの陰惨な事件が起こった理由を探し出さねばならない。

 この事件の被害者は、若い男だった。
 犯人の女性は30代の独身OL。大手の商社に勤めるキャリアウーマンだった。被害者の男はいわゆるニートで、日がな一日ネットサーフィンをして時間を潰していたらしい。住む場所も世界もまるで違う。ふたりの間には恋愛関係どころか、何一つ接点は見つからなかった。

 被害者の男は惨い殺され方をしていた。アイスピックで体中刺されていて、その数なんと100箇所以上。特に顔はひどかった。両目は完全に潰されて、頬や額にも無数の穴が開いていた。
 一流企業に勤めるOLが、縁もゆかりもない青年をメッタ突きにして惨殺する。その憎悪と殺意は、いったいどこから来たのか。

「いくら画を見ても、被害者の男が出てくるのは犯行の場面だけだ。潰れてしまった脳の中に動機となる画があるとしたら……お手上げだな」
「MRIに解明できない事件はないと思ってましたけど」
 粘り強さが取り得の青木は、もっと多くの脳データを取り出せないかと、様々なアプローチを重ねている。専門書の研究にも余念のないこの新人は、特殊な機器操作をいくつか習得していて、いまはそれをひとつひとつ試しているところらしい。
「肝心の脳が潰れてしまっていてはな。MRIシステムがいかに優れていても、所詮は機械だ。人間の心まではわからん。人間の心が理解できるのは、人間だけだ」

 薪は、捜一から回ってきた資料にもう一度目を通した。
 ごくごく普通の家庭に育ってきた真面目な娘。結婚を約束した恋人もいた。
 事件の1週間前に突然別れているが、それは彼女から言い出したことで、理由はどうしても話してくれなかったと相手の男は証言した。職場でも仕事熱心で、上司の評判も同僚の評判もいい。誰に聞いても、あのような事件を起こすような人間ではないと言う。

 そんな人間が、あれだけのことをしたのだ。何かしら理由があったに違いないのに。
 このままではこの女性は、突然発狂してたまたまこの被害者の家に入り、犯行に及んだ後ビルから飛び降り自殺をしたことになってしまう。32年間も真面目に生きてきて、そんな人生の結末は可哀相すぎる。
「理解してやりたいな。この女性の気持ちを」
 しかし、接点が見つからないことには……。

 薪は手の平で目を揉む。朝から何時間もモニターを睨んでいたから、目が痛い。肩もバリバリに凝っている。
「室長。気分転換なさったらいかがですか?」
 目薬を点している薪に、第九の新人がそんな提案をしてくる。
 煮詰まってしまっては柔軟な発想は生まれてこない。中庭の散歩かプールでのひと泳ぎか、どちらにしようか迷っていた薪に、彼は第3の選択肢を提示してきた。
「風呂、沸いてますよ」
 風呂と聞いて、亜麻色の目が俄かに輝く。薪は大の風呂好きだ。

 第九には最近、ちゃんとしたユニットバスがついた。
 手足がゆっくりと伸ばせる湯船に、広い洗い場とシャワー。湯船の底にはバブルバスと、背もたれにはジャグジーまで付いている。このジャグジーがめちゃめちゃ気持ちいい。
 これは薪の高熱を伴う3日間の苦痛と引き換えの、言わば戦利品のようなものだ。だから薪には、これを優先的に使う権利がある。
 しかし、それはある事情で今は取り外され、第九の地下倉庫の片隅にひっそりと眠っている。今後も目覚めることはないだろう。

「青木。まだジャグジー直らないのか?」
 故障を理由に、薪のお気に入りのマッサージ器具を湯船から取り外して行ったのは、第九の新人である。薪は修理品が返ってくるのを信じて、ずっと待っているのだ。
「メーカー修理は時間がかかりますから」
 もちろん嘘だ。が、薪は青木の言葉を疑わない。
 こういうときには、普段の信用がモノを言う。この新人は室長には絶対の忠誠を誓っていて、決して命令には逆らわないし、職務にはとても誠実だ。周りの職員からも、お人好しとバカ正直のレッテルを貼られており、犯人との駆け引きが必要な捜査官という職業には向いていないのではないか、と将来を心配されているくらいだ。
 しかし。
 こと薪の不利益になることに関してだけは、青木は鮮やかなペテン師になる。

「あれ、気持ちよかったんだよな。自腹でここにつけようかな。そういえばおまえ、業者に値段訊いといてくれたか?」
「200万円だそうです」
「そんなに高いのか? 僕の給料じゃ無理だな」
 200万もあったら、ジャグジーどころか大理石の立派な浴室ができてしまう。
 だいたい、クレームのお詫びにと業者がおまけで付けてくれた備品なのだ。そんなに高価な品物のはずがない。常識で考えれば分かりそうなことだが、事件の捜査に関係のないことについては、薪はびっくりするくらい疎い。

「まあいいか。じゃ、ちょっと入ってくるから」
「どうぞごゆっくり」
 ちょっと、というが薪は長風呂だ。1時間くらいは出てこない。捜査に夢中になると食事も仮眠も取らなくなってしまう薪を休ませるには、風呂に入れるしかない。

 薪がいなくなったモニタールームでは、曽我がひとり残ってまだモニターを見続けていた。
「室長でも見つけられないとなると、お宮かなあ」
 一般に『お宮』と言えば犯人を検挙できない事件のことだが、この場合はそうではない。犯人は判っているし、犯行の手口も現場検証から判明している。ただ、動機だけが解らない。これ以上被害は拡大しないが、犯行動機は闇の中に埋もれたままだ。
 第九の迷宮入りとは、完全な報告書が作成できない事件を指す。人間の脳から直接事件の画を抽出し、真相を解明する第九にとって、これは甚だ不名誉なことだ。
「MRIの限界ですか」
 MRIシステムは神様ではない。すべてを見通せるわけではないのだ。

 事件が迷宮入りとなった際の薪の気持ちを考えると、青木はとても歯がゆい気分になる。薪は負けず嫌いでプライドが高い。この不名誉な結果に塞ぎこんでしまうことだろう。
 その薪に元気を出してもらえるなら、地下倉庫に隠してあるアイテムに、もう一度日の目を見せてやってもいい。ただし、それを使っている薪を見るのは自分だけ、という条件の下にだ。

「曽我さん。オレ、昼の弁当買ってきます」
「青木。俺のもついでに頼む」
「岡部さんもですか? 岡部さんの案件て、もう報告書だけって言ってませんでした?」
 自分の仕事に余裕があるのなら、モニタールームで冷たい弁当を食べることはない。職員食堂の炊き立てのごはんと、揚げたてのフライのほうがずっと美味しい。
「何人もの眼で見れば、また違うものが見えてくるかもしれないだろ」
「岡部さん。ありがとうございます」
 岡部のありがたい申し出に、曽我と青木は素直に礼を言った。

 岡部はコワモテだが、中身は面倒見がよくてとてもやさしい。
 第九に入ったばかりでこの職場に慣れない頃、岡部にはどれだけ助けられたか。岡部がいなかったら、きっと青木は第九を辞めてしまっていた。
 そうしたら……あのひとを好きになることもなかった。自分を取り巻く世界が、こんなに輝き始めることもなかっただろう。

「から揚げとスタミナ弁当ですね。行って来ます」
「悪いな」
「いえ、これはオレの仕事ですから」
 新人の青木にとって、買出しやお茶汲みは立派な仕事である。
 梅の季節も終わり、暖かい日が寒い日を上回るようになってきたこの季節、買出しの仕事は決して不快ではない。薪のコーヒーも切れる頃だし、青木の机に常備してある非常食(シリアルバー)も底を尽いて来た。今日は街まで足を延ばして、品川屋の弁当を買ってきてやろう。

 外に出ると、どこからか鶯の鳴き声が聞こえる。
「もう春だなあ」
 2年目の春は、そこまで来ていた。

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二年目の桜(2)

二年目の桜(2)





 茶色の革靴のつま先が、苛立たしげに上げ下げされている。
 美貌の室長は、細い指でモニターを指差し、急き立てるように部下に問いかけている。
「宇野。おまえでも駄目か? 側頭部は? 前頭野は?」
「どっちも手のつけようがありません。完全に潰れちゃってます」
 システムに一番詳しい部下の判断を聞いて、つややかな唇がぎりっと噛み締められる。「八方塞がりか。ちくしょう!」

 捜査開始から4日目。新しい情報は得られず、薪は焦りの色を濃くしている。
 その焦燥に、青木は若干の疑念を持っている。
 室長の指示で、曽我も青木も昨夜は第九に泊まりこみだった。自分たちは12時から5時間の睡眠を取っているが、薪は寝ていない。
 捜査に没頭すると、飲まず食わず眠らずになってしまう薪の困ったクセは健在のようだが、今回は進行中の事件ではない。犯人は死亡しているし、被害者がこれ以上増える心配もない。証拠品も押収済みで、あとは動機の問題だけという案件だ。室長がこれほど根を詰める必要はないはずだ。
 被害拡大の恐れがないのだからのんびりやればいいとは言わないが、徹夜してまで捜査を続ける案件でもないように思う。なにより室長の身体が心配だ。薪はいつも体力の限界まで仕事をして、突然倒れてしまう。その度にこちらは、どれだけ冷や冷やさせられることか。

「くそ!」
 薪は手近な椅子に乱暴に腰を下ろし、亜麻色の髪に両手を埋めた。
 確かに、このままでは『お宮入り』という不名誉な結果になりかねない。それゆえの焦燥なのだろうが、これ以上無理が続くと、薪はまた倒れてしまう。
「室長。そんなに焦っても、捜査は捗りませんよ」
 ささくれ立った薪の気持ちを和らげようと、青木は努めてなごやかな口調で言った。
「今回の事件はもう終わったものなんですから、そんなに焦らなくてもいいじゃないですか。ゆっくり仮眠を取って、それから散歩にでも行って来たらどうですか? 日比谷公園の桜も咲き始めましたよ。暖かくなってきたし、鶯の声も聞こえたりして。気分転換にはもってこいですよ」
 気持ちにゆとりを持てば仕事の能率も上がるし、薪の健康にもいいはずだ。もう3日も2、3時間の仮眠だけで働いているのだから、今日は半日くらいゆっくり休むべきだ。

「青木。薪さんはな」
 曽我が何か言いかけたとき、いつも閉じられっぱなしのブラインドがさっと開かれ、眩しい春の光がモニタールームに差し込んできた。
 青木は思わず目を細める。
 光の影響で、すべての液晶画面は鮮明さを失った。ぼんやりとした輪郭が、発光する画面の中で踊っている。
「青木の言う通りだ。今日はこんなにいい天気だし、部屋の中にいるのはもったいないな」
 やわらかい陽光を背に、春の女神のような淡い美貌が青木に微笑みかける。
 なんてきれいな微笑だろう。光に溶けていきそうだ。

「青木。僕とデートしよう。いいところに連れてってやる」
 どんなときも仕事最優先の室長がそんなことを言い出して、第九の部下たちは、みな目を丸くしている。この新人はたしかに薪のお気に入りだが、仕事中に薪がそれを表面に出したことは一度もない。

 他の職員たちの前で、自分を特別扱いしてくれたことが嬉しくて、青木は舞い上がりそうな気分になる。
 去年の秋ごろから、青木は薪との距離を徐々に縮めていて、すでにただの上司と部下の関係ではない。ここだけの話、キスもしている。まだ恋人というわけではないが、いつかそうなれたら、と青木は思っている。

 モカブラウンのスーツ姿を追いかけて、室長に贔屓されている幸せな新人は、嬉しそうにモニタールームを出て行く。その大きな背中を見送って、残された第九の職員たちは、みな一様に複雑な表情を浮かべた。
「とうとう薪さんの『デート』が出ちゃったよ」
「青木も1年経ったからな。そろそろ大丈夫だと思ったんだろ」
「アレはきついんだよな。俺、あの後、1週間くらい立ち直れなかったよ」
「俺もやられたとき、泣きそうになった」
「俺は我慢できなくて泣いちゃいました。室長の前で」
「あそこまでやるのが薪さんだ。だから俺は薪さんの部下でいるんだ」
 口々に薪とのデートの思い出を語る職員たちに、室長の留守を託された岡部が誇りを噛み締めるような口調で言った。

「優秀な捜査官としての能力や、天才的な推理力も充分尊敬に値するけど。俺が一番尊敬してるのは、薪さんのああいうところだ」
「俺もです。でなけりゃ、あの性格にはついていけませんよ」
「まったくですよ。薪さんが意地悪と皮肉だけの人だったら、とっくにあのひとの部下なんか辞めてます」
「割合から言うと、9対1ってところなんだけどな」
「その1割が、俺たちをこの仕事にのめり込ませたんだろ」
 最初こそ上からの異動命令でいやいや集まった職員たちは、室長の仕事に対する姿勢に感化されて、この職場に愛情を抱くまでになっている。室長を介して職員同士が繋がりあい、仲間意識が芽生えて、強い連帯感が生まれている。

「よし、曽我。メインスクリーンに加害者の画を映し出せ。全員の目で、もう一度検証してみよう」
「はい!」
 岡部の指示に、全員が力強く頷く。
 再生から1年半。
 新しい第九の結束は日々を追うごとに深まって、旧第九を凌ぐ力を手に入れつつあった。



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二年目の桜(3)

二年目の桜(3)





 外は今日もすこぶるいい天気で、最高のデート日和だった。
 職務中にこんなことをするのは気が引けるが、薪のほうから誘ってくれたのだし、青木にはそれを断るなど思いもよらない。欠勤扱いにされて、ボーナスの査定が低くなっても文句は言わない。青木にとって薪との時間は、最優先最重要項目だ。

「どこへ行くんですか? 公園はこっちですけど」
「せっかく出てきたんだ。そんな近場で済ませないで、少し遠出しよう」
 薪のうれしい提案に、青木は満面の笑顔になる。
 薪がこんなふうに、自分との外出を楽しんでくれるなんて。

 なんでもない周りの風景が、輝いて見える。きっと薪が一緒だからだ。
 道の両側には民家があり、庭には樹木や花が植えられている。T字路を左に曲がったところの家では、遅咲きの白梅が満開だ。
 長い塀の上に、猫が昼寝をしている。可愛らしく体を丸めた小動物の姿に、酔っ払って座布団を抱いて寝ている薪の姿を重ね合わせて、青木は思わず微笑んだ。

 薪は、さっさと青木の前を歩いていく。
 もっとゆっくり散策して、春めいてきた周りの風景を楽しめばいいのにと思うが、薪はもともと早足なのだ。足の長さはだいぶ違うのに、歩く速度は青木とたいして変わらない。

 やがて十字路に差し掛かり、薪は迷わずに右の道を選んだ。次の三叉路では左の道に足を進める。どうやら薪には目的地があって、そこに向かって歩いているようだ。
「薪さん? どこへ向かってるんですか?」
 それには答えず、薪は無言のまま先を歩いていく。華奢な背中が会話を拒否している。デートと自分で言っておきながら、とてもそんな雰囲気ではない。

 やがて薪は、一軒の家の前で足を止めた。
「な……なんですか、この家」
 思いがけない薪の誘いに舞い上がっていた青木だが、ここに至ってようやく真の目的に気付いた。薪は、これを青木に見せたかったのだ。
「ここって、もしかして」
「前川美佐子の自宅だ」
 やはりそうか。
 ここは、あの事件の加害者の家なのだ。

「ひどい……」
 ブロック塀に囲まれた、ごく普通の一軒家。よくあるタイプの2階建ての建売住宅で、ベージュ色の外壁に洋式の出窓が数箇所突き出ている。その出窓はすべてダンボールで塞がれており、割れた窓ガラスがそのまま放置されていた。
 ブロック塀には『人殺しの家』『キチガイ娘』などという中傷が、スプレーで殴り書きされている。庭には石ころや生ゴミが散乱しており、これらがこの家に向かって外から投げ込まれたものであることは明白だった。
 生ゴミを漁りに、幾羽ものカラスが庭に舞い降りてくる。ギャアギャアと鳴くその黒い不吉な鳥は、この家に突然降りかかった不幸の象徴のようだった。

「わかったか。事件は終わってなんかいないんだ」
「どうしてこんな」
「殺人事件の加害者家族は、多かれ少なかれ世間の迫害を受ける。今回みたいに突然気が狂って被害者を惨殺したと風評が立った場合、家族が受ける弾圧は想像するも恐ろしいものになる。それに耐え切れず、自ら命を絶つ者も少なくない」
「そんなの、周りの人たちの方がおかしいですよ。だって、いまここにいる人たちは、何の罪も犯していないじゃないですか」
 青木の理屈は正しい。が、現状はこの通りだ。
 群集の行動は理屈が通用しない。団体の中に生まれた思想(エネルギー)は、個人の理性や道徳心を粉砕してしまう威力を持っている。

「彼らを非難することは出来ない。彼らだって怖いんだ。自分と違うことをするものが、怖い。だからしゃにむに攻撃することで自分を守るんだ。群集心理も働いてるけど、大本の要因は恐怖だ。おまえだって、隣の家の主人がいきなり殺人者になってみろ。今までみたいに気軽に訪ねて行けるか?」
「うちの隣のご主人は、温厚なひとです。そんなことはありえません」
「この家の娘も、真面目ないい子だったんだ。それが突然あんな事件を起こして、自分たちの見てきたものが信じられなくなる。自分たちの日常を守るために、彼らはこんな馬鹿げたことをしてしまうんだ」
「ちょっと待ってください」

 加害者の家族が世間から白い目で見られて、迫害を受けるのはよくあることだと薪は言う。しかし、その犯人を検挙したのは自分たち警察ではないか。
「オレたち警察は、罪を犯したひとを捕まえるのが仕事ですよね。でもそれは、こんな不幸な加害者家族を作ることにも繋がっているってことですか」
「そうだ」
 青木の言葉を、薪はあっさりと肯定した。
 それは逃れようのない真実だった。自分たちが犯人逮捕の祝杯を挙げる裏側で、この悲劇は確実に繰り返されている。
「じゃあ、オレたちの苦労ってなんなんです? 何日も徹夜して犯人を見つけ出して、被害者遺族の無念を晴らすことはできても、その影で結局は不幸な人を増やしてるってことですか?」

 青木は所轄の経験がない。その手で犯人に手錠を掛けたことはない。しかし、今まで何件かの事件をMRIで解明に導いている。
 自分が事件を解明したことで、こんなに悲惨な目に遭っている人がいたなんて。被害者の無念を晴らすことが、加害者の家族を地獄に突き落とすことになるなんて。

「犯人を突き止めても、死んだ人間は帰ってこない。被害者の遺族は嘆き続け、加害者の家族は地獄を味わう」
 薪は、淡々と救いのない現実を青木に突きつける。その中には一筋の光もない。
「それでも、僕たちは捜査を続けるんだ。それが僕たちの仕事だ」
「その仕事に意味はあるんですか? こんな―――― こんな可哀想な人たちを作ってまで」
「だから僕たちは、何が何でも真相を突き止めるんだ!」

 華奢な両手が青木のネクタイを摑み、青木はぐいっと下方に引き寄せられた。
 亜麻色の大きな瞳が、燃えるようにきらめいている。強い光が青木の瞳を捕らえ、その輝きを焼き付ける。
「僕たちが、この人たちを助けるんだ。娘さんが被害者を殺さなければならなくなった理由を探し出して、狂気に駆られて衝動的に殺人を犯したわけではなく、やむにやまれぬ事情がそこにあったと解れば、いくらかは世間の目も違ってくる。場合によっては同情も集まるかもしれない。それがこの家の人たちを救う唯一の方法なんだ」

 青木は、自分の甘さを思い知らされる。
 薪は、ここまで考えを巡らせていたのだ。被害者側のことだけでなく、加害者側の悲劇にまで思いを寄せて。不幸な人間をこれ以上作り出すまいと、自分のからだに鞭打って。

 このひとは、どこまで深い愛を持っているのだろう。
 その小さな手で、どれだけの人々の幸せを守っていきたいと考えているのだろう。

「はい……はい!」
 このひとの部下であることを誇りに思う。この人になら一生を捧げても悔いはない。
「早く第九へ帰りましょう」
「ちょ、ちょっと待て。何も走らなくても」
 普段なら青木よりもずっと早いスピードで走る薪だが、睡眠不足と栄養失調で足が前に出ないらしい。青木は途中のコンビニでおむすびをひとつ買い込むと、後ろから追いついてきた薪に、それを放り投げた

「室長。この仕事は体力勝負ですよ! 食べなきゃ駄目です!」
 おかかのおむすびを受け取った薪が、呆れた顔で青木を見ている。その可愛らしい顔に笑いかけて、青木は先を急いだ。
「先に行きます。薪さんは、それ食べて少し休んでください。風呂沸かしておきますから!」

 薪の目が、自分の背中を見ているのが分かる。
 いつも見守ってくれている。自分に手を差し延べてくれる。
 こっちへ来い、この方向を目指せ、と捜査に向かう薪の真摯な姿勢が、青木を導いてくれる。ぐいぐいと引き寄せられる。

 この想いはもう、誰にも止められない。

「やっぱり薪さんは、オレの神さまです」
 口の中で呟いてひとり微笑み、青木は第九の門を走り抜けた。



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二年目の桜(4)

二年目の桜(4)






 湯の張られたバスタブの中に、きれいな足がゆっくりと沈んでいく。
 踵から爪先まで真っ白で、小指の爪の形まで美しい。きゅっと締まった足首から、理想的な形のふくらはぎ。かわいらしい膝頭。細すぎるきらいはあるが、充分に優美な太もも。それが徐々に曲げられて、思わず手を伸ばしたくなるような、魅力的なヒップが現れる。

 右の尻の下、太ももの付け根のところに黒子がある。
 これはきっと本人も知るまい。ベッドを共にした相手なら、知っているかもしれないが。

 下着のCMモデルのような下半身が湯の中に沈んで、細いウエストから続く白い背中が見えてくる。この背中がまた素晴らしい。華奢な肩と肩甲骨のラインがたまらない。この背中が自分の下でビクビクと蠢く様子を想像すると、身体の芯が熱くなってくる。
「まったく。あの爺さんにはもったいないな」
 間宮隆二はPCの画面にそんな光景を映し出して、ひとり悦に入っている。PCのマウスをクリックすると画像が切り替わり、今度は前方からのアングルが映し出された。

 画面に映っているのは、現在間宮が目を付けている青年だ。
 亜麻色の短髪に幼げな顔立ち。小さな鼻とつややかなくちびる。
 これで36になるというから驚きだ。どう見ても高校生くらいにしか見えない。どんな秘薬で、その若さと美しさを保っているのか。謎としか言いようがない。

 彼の名前は薪剛。階級は警視正で、第九の室長を務めている。
 警察官という職業も室長という立場も、その外見からは想像もつかない。
 女性の嫉妬を掻き立てそうな美貌の青年は、とっぷりと首まで湯につかって、気持ち良さそうに目を閉じている。見られているとは気付いてないから、その姿はとても自然でのびのびしている。

 薪が湯船から上がるのを見て、間宮は画面に目を近づけた。
 いつもの手順通り、薪は髪を洗い始めた。シャワーで髪を下方に流している。白いうなじが眩しい。男でありながらここまできれいなうなじを持っているものは見たことがない。
 髪の次は体を洗う。腕を上げて脇の下や横腹を洗い、足を上げて膝の裏や足の裏を洗う。ひとりで風呂に入っているわけだから、タオルで腰を隠すなんて真似はしない。だから薪の美しい身体のすべてが見える。

 その身体にはいっさいの無駄な肉はなく、控えめではあるが筋肉もそれなりについている。しかし、それは決して薪のたおやかなイメージを損なうものではない。あくまで優美でほっそりとして、しなやかで限りなく色っぽい。
 きれいな鎖骨やピンク色の乳首。形のいい臍やそれからもっと下のほうの部分まで、何もかもが間宮の理想だ。
淡い繁みも好みだし、その下の男の部分も可愛らしい。官房長の愛人の噂があることからも、薪は男に愛される側の人間らしく、そこはまだ経験のない少年のようなきれいな色をしている。
 それをきゅうきゅうと自分の口で扱いてやったら、この美人はどんなよがり声を上げてくれるだろう。やわらかい尻の奥を指で犯しながら絶頂に導いてやったら……。
 きっと堪らなくなって、自分から尻を差し出してくるに違いない。

「そろそろ見せてくれてもいいのになあ」
 このCCDカメラを第九のバスルームに設置したときから、間宮はずっとあることを期待してきた。それが見たくて、こんなものを仕掛けたと言っても過言ではない。
 いま、薪は職場に泊まり込んで捜査に当たっていると聞いた。それは本当のことらしく、間宮は連日薪の入浴シーンを楽しんでいる。
 今日で4日目。年齢的に言っても、一度くらいはやりそうなものだ。

 薪がどんなに仕事熱心な人間でも、男には男の事情というものがある。特に下半身の事情はどうにもならない。仕事が忙しくてそのヒマがなければ、必ずひとりきりになれる場所で解消するはずだ。風呂場は、正にうってつけだと思われるのだが。
 あの冷静を絵に描いたような室長が、その時にはどんな顔をするのか、どうしても確かめたい。普段取り澄ましている人間ほど、そういうときには激しく乱れるものだ。

 男とセックスする場合、ビギナーはいただけない。ある程度行為に慣れていないとこちらも痛い。
 これが、局部を緩めたり締めたりが自由にできるくらいのベテランになると、経験の浅い若い女より遥かにいい。その点薪なら、10年も前から官房長の相手を務めているらしいから、テクニックのほうも大いに期待できる。
 あんな幼げな顔をして、ベッドの中ではきっと娼婦のようになるのだ。そうでなくては10年もの間、ひとりの男を自分に夢中にさせておくことなどできまい。

 やがて薪は立ち上がり、シャワーで自分の体についた泡を流し始めた。
 磨き上げられた肌は、思わず性別を疑ってしまうほどきれいだ。
 あの白い肌を吸い上げて、赤く印をつけてやりたい。自分のものだという証拠を体中に刻んでやりたい。表面だけではなく、からだの奥にまでその標を打ち込んでやりたい。

 石鹸の泡を流し終えるとさっぱりした顔になって、薪はシャワーを元の位置に戻した。今日のお楽しみはこれでお終いだ。
 浴室を出て行く色っぽい後ろ姿を見ながら、間宮は頑なな麗人を陥落させる手立てをあれこれ考えている。

 顔から身体から、薪はパーフェクトだ。何としても欲しい。
 一目見たときから、絶対に落としてやろうと決めていた。何度か粉を掛けたのだが、どうしてもあの氷のような鎧を溶かすことができない。部屋に呼び出せば必ず部下と一緒に来るし、会議の後に捕まえようとすると、第九の部下や捜一の人間が邪魔をする。
 そういえば、会議の時にはいつも薪に引っ付いている捜一の竹内という男も、かなりのハンサムだ。薪のように美しいというタイプではないが、俳優のような甘いマスクで男の色気をぷんぷんさせている。
 しかしあれは女好きする顔立ちだ。好みではない。自分の好みはあくまで薪のような麗しいタイプだ。

 薪が官房長の愛人でなかったら、とっくの昔に無理矢理にでも抱いてしまっていたのに。今回ばかりは相手が悪い。
 官房長の恨みを買うのは、いかに間宮が警務部長とはいえ避けたい事態だ。小野田は警察庁内で大きな力を持っている。たしかな実績と実力に加え、どこから手に入れてきたのか、政財界の大物の命運を左右する秘密のリストを所持しているという噂だ。だから間宮の後ろ盾である次長も、迂闊に手を出せない。

 しかし、間宮にしてみれば、こんなに長いこと目的の美肉にありつけない、というのは初めてだ。我慢も限界だ。もともと気が長いほうではない。
 どんな手を使ってもいい。とにかく1度抱いてしまえば、こっちのものなのだ。あとは薪のほうから摺り寄って来るはずだ。薪のほうから来る分には、小野田も文句は言えまい。結婚しているわけでもなし、恋愛は自由だと言い切ってしまえばいいのだ。
 今までずっとそうだった。初めは抵抗しても、次の時には「お願い」と自分から身を投げ出してくる。自分のテクニックに夢中にならない人間などいない。

 おめでたいことに、間宮はそう信じている。
 間宮は警察庁次長の娘婿だ。つまり、寄って来る人間にはそれなりの下心があるのだ。

 自惚れが強くて、相手の言動を自分の都合のいいように解釈するのが得意な間宮は、今日もまた薪を口説く手段を考えている。
 仕事が混んでいて、小野田との逢引の時間がとれない今がチャンスだ。きっと欲求が溜まっているはずだ。そこをつけば――――。

「最終手段はこれか」
 小さく呟いて、机の引き出しから茶色の薬瓶を出す。

 要は薪のほうから、「抱いて欲しい」と言わせればいいのだ。これさえ飲ませることができれば、それが可能になる。が、薪にこれを飲ませるには、いくつかの下準備が必要だ。
 間宮はその準備のひとつのため、携帯電話を取り出した。愛人のひとりと今夜会う約束を取り付けて、電話を切る。
 電話の相手は自分の虜になっている。ということは、薪をこの手に抱く日も近いということだ。

 PCのフォルダに今日の貴重な映像を保存して、間宮は下卑た笑いを浮かべた。




*****


 くははは!
 間宮サイコー、書いてて楽しい!
 ドヘンタイもここまでくると、いっそ清清しいと思いませんか?(と言い残して逃げる)


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二年目の桜(5)

二年目の桜(5)





 シュッと自動ドアの音がして、VIPな客が現れた。モニタールームの全員が立ち上がって敬礼する。

「どうしたの。暗い顔して」
 飄々とした雰囲気をまとい、のんびりと歩いてくる熟年の紳士。薪のパトロンと陰で噂される、小野田官房長その人である。
「ははあ。さては例の事件、動機が出てこないんだね」
「ご明察です」
 岡部が小野田の言葉に答える。薪がいないときは岡部が室長の代わりだ。
「今日はどのようなご用件で?」
「決まってるじゃない。愛する薪くんの顔を見に来たんだよ」
 小野田はこういう色モノジョークが大好きだ。薪本人がそれを聞いて厭な顔をするのも楽しいし、第九の新人が焦りまくるのを見るのは、もっと楽しい。

「室長なら、いま風呂に入ってますよ。官房長のおかげでちゃんとした風呂がついたもんだから、喜んじゃって。ほとんど室長専用の風呂になってます」
「そっか。じゃあ邪魔しちゃ悪いね」
「仕事のことなら、俺が代わりに伺いましょうか」
「いや。仕事のことじゃなくて。ちょっと薪くんに確かめたいことがあったんだ」
 小野田は少し困った顔をしていたが、コーヒーを持ってきた新人の姿を見ると、思い出したように言った。
「そうだ。青木くんて薪くんのこと詳しかったよね。もしかしたらきみ、知ってるんじゃないかな」
「何をですか?」
「薪くんのお尻に、ホクロがあるかどうか」
 がしゃん! という音がして、小野田のコーヒーは床に飲まれた。第九の新人が純情なのは知っていたが、ここまで過敏に反応しなくてもいいのに。

「そんなこと知るわけないじゃないですか!」
「そうだよねえ」
 顔を真っ赤にしている新人を心の中で笑いながら、小野田は肩を落としてみせた。
 やはり本人でないと無理か。あまり本人には聞かせたくないのだが。

 そんな小野田のジレンマを解消してくれたのは、第九のベテラン捜査官だった。
「ああ。ありますね」
「本当かい? 岡部くん」
 さすがは腹心の部下である。薪のことなら何でも知っているらしい。
「右側の尻だったよな、曽我」
「そうでしたっけ? ホクロはたしかにありましたけど」
「岡部さんの言う通り、右側だよ。間違いない」
「俺も覚えてる。足の付け根のところだろ」
「そうそう。前かがみになるとよく見えるんだよな」
 話を聞いていた第九の職員たちが、口を揃えて証言する。薪の体の特徴を知っているのは、岡部だけではないらしい。慰安旅行で、温泉にでも行ったことがあるのだろうか。

「なんでみんな知ってんですか!? 前かがみってなんですか!?」
 小野田の疑問を代わりに口にしてくれたのは、一人だけその事実を知らなかった第九の新人だった。

「なんでって。薪さん、風呂から上がったらいつもすっぽんぽんだろうが」
「パンツ穿くとき、前にかがむだろ。その時に見えるんだよ」
 小野田には初耳だった。
 風呂上りの薪が、そんなオヤジのように裸でうろうろしているなんて。しかもここは職場ではないか。
「そうなの? あの薪くんが?」
「はい。肌が湿っているうちに服を着るのは気持ち悪いって、いつもロッカールームで裸のまんまうろちょろしてます。青木だって何度も見てるだろ?」
「オレにはとても直視できません」
 純情な新人は、同性の裸を見るのも恥ずかしいらしい。今は共同浴場に入れない若い男が増えているそうだが、この新人もそのクチだろうか。

「だって、あの顔だろ。つい見ちゃうよな」
 薪は顔だけ見たら、女優が裸足で逃げ出しそうな美貌の持ち主だ。その人間がはだかで歩いていたら、目を奪われるのが当たり前だ。
「そんでもって下のほうを見てさ、ああやっぱり付いてんだなって思って、そこで現実に戻って来るんだよな」
「オレはもう戻れないです」
「ん? なんか言ったか?青木」
「いえ。何でもないです」

 多少、意味不明の会話はあったものの、小野田の疑問は解消された。が、これによってもうひとつの疑問が首をもたげてくる。
「岡部くん。ちょっといい?」
 小野田は岡部にだけは事情を説明することにした。主不在の室長室に連れ立って入り、薪がいつもベッドの代わりにしている寝椅子に腰をおろす。
 岡部は薪がいちばん信頼している部下だ。プライベートでもよく一緒に飲みに行くし、自宅の出入りも自由だ。誠実で温厚な人柄に加え、体格もよく力も強い。しかも柔道5段剣道3段という武道の達人でもある。薪のボディーガードには最適の人物だ。

「薪さんの尻にホクロがあると、何かまずいんですか?」
「間宮が知ってるんだよ。薪くんのホクロのこと。不思議だろ?」
「間宮って警務部長の?」
 間宮の名前を聞くと、岡部は顔をしかめた。
 この下半身に節操がない警務部長が、薪を執拗に狙っていることは、岡部も知っている。
 警務部には決して薪をひとりでは行かせないようにしているし、第九の人間が参加できない会議のときには、捜一の後輩や友人にそれとなく気を使ってくれるように配慮している。
ただ、薪本人はそれほどの危機感は持っておらず、自分のほうが強いから平気だ、と岡部の心配性を笑い飛ばしている。薪が柔道2段の腕前とはいえ、体は間宮のほうがずっと大きいのだし、自由を奪う手段は何も腕力だけとは限らない。薪の考えは甘いのだ。

「なんで間宮とそんな話になったんです?」
「あいつ、ぼくのところの事務員に手を出したんだ。あんまり見境がないから、ひとこと言ってやろうと思ってね」
 見目麗しい者を見れば、男女の見境なくベッドに連れ込むと評判の男だが、官房長のテリトリーの者まで毒牙に掛けるとは。いい度胸というか、バカというか。
「本当にケダモノみたいなやつですね」
「猿並みだけど知恵もあるんだよ。その事務員、ぼくがいない間にぼくの机をごそごそ嗅ぎまわっていたから」
「……例のリストですか」
 岡部は、もと捜一のエースだ。勘もいいし頭も切れる。学歴ばかり高くて現場慣れしていないキャリアより、よほど優秀だ。
 
「もちろん、そんなところには置いておかないから。事務員は来月付けで異動にすることにしたし、そっちは済んだんだ。問題は薪くんのほうだよ。薪くんがいくらシャワーのあと裸でうろうろしてるって言っても、警察庁内を歩き回ってるわけじゃないだろ?」
 それでは露出狂である。

「当たり前です。第九のロッカールームの中だけのことですよ」
「じゃあ、間宮はいったいどこでそれを見たんだろ」
「薪さんの話は、どこからでてきたんですか?」
「ぼくも事務員のことで頭に来たからさ。正式な妻と子供がありながら次々と他の人間と関係するのは、警察官として如何なものかと注意してやったんだよ。そしたら、僕と薪くんの噂を引き合いに出してきてさ」
 もちろんその噂は根も葉もないデマだ。薪の早すぎる出世をやっかむ者たちによる、陰湿な陰口である。
「失礼なやつですね。あんな噂を真に受けて」
「いいんだよ。ああいう輩を牽制するために、敢えて否定しないでいるんだから」
「それで、小野田さんはなんて答えたんです?」
「ぼくは君みたいに目移りしないで、薪くん一筋だからいいんだって言ってやった」

 それは敢えて否定しないというよりは、噂に尾ひれをつけているような。薪が聞いたら、青筋を立てて怒りまくるに違いない。
 しかし、間宮のような男に、本当のことを言っても無駄かもしれない。
 色欲抜きの好意というものが、あの男の思考には存在しないのだ。捜査官としての薪の才能に惚れているとか、高潔な人柄に惹かれて彼の後押しをしている、と言ってもどうせ信じないだろう。
 
「そうしたら間宮のやつ、よっぽど頭にきたらしくて。薪くんの身体はそんなにいいんですか、とか始まっちゃってさ。
 細いけど、腰周りの筋肉はけっこう発達してるから、さぞ腰の使い方は上手なんでしょうとか。男にしてはウエストのくびれが強いのは頻繁にその運動をするからでしょうとか。そんなことを言い出すから見たことがあるのかって聞いたら、『右のお尻の下にホクロがあるでしょう』って」
 不思議だ。
 間宮は第九に来たことはないし、薪の自宅にも行ったことがないはずだ。他に薪が下着を脱ぐ場所といえば、トイレくらいのものだが。

「あと考えられるのは、警視庁のプールかな」
「いえ。あそこではちゃんと、腰にタオルを巻いて着替えてますよ。あのジムはいろんな人が利用しますから」
 薪は羞恥心がないわけでも、常識がないわけでもない。ただ薪にとって、第九はもはや自分の家と同じで部下たちは身内同然だから、気を使う必要もないと思っているのだろう。
「まあ、どこかで見たんでしょう。そんなに気にすることはないですよ。薪さんのことは、俺ががっちりガードしてますから」
 間宮が薪に接触した事実はない。そんなことがあれば、薪は必ず岡部に言うはずだし、室長室のキャビネットはとっくに蹴り壊されているはずである。

「それがね、ぼくも咄嗟に言われたもんだから言葉に詰まっちゃってさ。そしたらあいつ、そんなことだけはめっぽう勘が働くみたいで。薪くんとぼくの間には何もないって分かっちゃったらしいんだ」
 実際に何もないのだから、それでいいではないか。ひとりでも誤解する人間が減れば、薪は喜ぶだろう。
「真実を理解してもらえて、良かったじゃないですか」
「良くないよ。薪くんがぼくの愛人じゃないって分かったら、間宮のやつはもう遠慮しないよ。これまではぼくに気兼ねして、薪くんに手を出さなかったんだから。あいつがその気になったら、力づくでも脅しでも何でもやるよ。拳銃を突きつけられて辱められた女子職員もいるって噂だよ」
 本当だろうか。警察署内でそんなことが。
「犯罪じゃないですか、それ。なんで放っておくんですか」
「レイプは申告罪だからね。被害者からの届出がなければどうしようもないんだよ。とりあえず間宮には『薪くんは自分が上になるのが好きだから、僕は知らなかった』って言い訳しといたけど」
 たしかにその体位だと、尻の下は見えないが。薪に聞かれたら大変なことになりそうだ。

「とにかく、間宮には気を付けるように、薪くんに言っといてくれる?」
「わかりました。俺もそのつもりでいますから」
「頼んだよ、岡部くん」
 目の回るような忙しさを調整して、小野田は薪に忠告に来てくれたのだろう。岡部に薪のことを託すと、すぐに第九を出て行った。

 残された岡部は、間宮が何処で薪のからだの特徴を知ったのか、もう一度考えてみた。
 接点のない人間が、その人の秘密を知りえるとしたら。
「まさか」
 ある考えが浮かび、岡部はそれを確かめるために、警視庁の鑑識課に出向いた。
 鑑識課には、岡部が捜一時代に仲の良かった係員がいる。彼に頼んで、岡部はその機械を調達してきた。
 箱型の小さな機械を手に、バスルームへ向かう。薪は風呂から上がったようだ。
 まだ温かさの残る浴室で機械のスイッチを入れると、ピピピピという電子音が岡部の推理を裏付けた。

「いつの間に」
 機械の針が大きく振れるのを確認して、岡部はその周辺に目を凝らす。果たして、洗い場に付けられた鏡の縁に、わずか1センチほどのレンズが設置されているのを発見した。それは鏡を壁に取り付ける金具にとても巧妙にカモフラージュされており、岡部のように疑って探査機でも用いなければ見つけることはまず不可能だった。

 どこまで性根の腐った男なのだ。薪にはこの事実は教えられない。自分が覗きの被害にあっていたなどと知ったら、どれだけ傷つくことか。

 全部で3つも取り付けられていたCCDカメラをそっと回収し、岡部は研究室へ戻った。自動ドアをくぐると、薪が夢中になってメインスクリーンを見ている。画像はもちろん、例の事件の加害者のものだ。
 岡部が薪の隣に立つと、薪はスクリーンに顔を向けたまま、唐突に喋りだした。

「覗かれてたんじゃないかと思うんだ」
 なんと。
 薪はCCDカメラの存在に気付いていたのか。その上で放置しておいたと?

「青木が気付いたんだ。僕のケツにホクロがあるかって話で」
「青木! おまえ、何てことを薪さんに言ったんだ!」
 なんて無神経な男だ。それを聞いた薪がどんな気持ちになるか、考えなかったのか。
「二人の間に接点がないなら、そういう可能性もありかと思いまして」
 青木の推理は正しい。
 しかし、何もそれを本人に話すことはない。このままそっとしておけば、薪は嫌な思いをせずに済んだのに。

「だからって何も、薪さんに言わなくてもいいだろう」
「え? でも、気付いたことを室長に報告するのは、部下の義務だと思いますけど」
「事と次第によるだろう。自分が風呂に入るところをずっと誰かに覗かれてたなんて、薪さんが知ったらどれだけのショックを受けるか考えなかったのか!?」
 岡部の糾弾に、青木と薪が揃って岡部の顔を見る。ふたりとも、ひどく訝しげな表情だ。
 
「おまえ、何の話をしてるんだ?」
「覗かれてたって、誰が?」
「……あれ?」
 ふたりの言葉に、岡部は自分のとんでもない間違いに気付いた。

「ああ! 事件の加害者が覗きの被害に遭っていたかもしれないってことですね? なるほど、それなら加害者の脳に被害者の画がなくても、殺意を抱く理由になりますね。
 いやあ、青木。おまえ、いいところに目を付けたな。やるようになったじゃないか! 薪さん、青木も成長しましたよね。褒めてやってくださいよ。わっはっは……」
 上ずった声で喋り続ける岡部を、薪が冷たい眼で見据えている。腕を組んで相手を睥睨し、無言のプレッシャーを掛ける得意の戦術。
 
「はは……は……」
 厳しい追求者の瞳に、岡部は自白を余儀なくされたのだった。




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二年目の桜(6)

二年目の桜(6)





「第九の風呂場にCCDカメラがついてた!?」
 岡部のしぶしぶの供述に、青木が素っ頓狂な声をあげる。
 このど素人が、小野田の最初の質問だけで自分と同じ結論に辿りついたなどと、どうして考えてしまったのだろう。

「それじゃ、誰かに薪さんの風呂が覗かれてたってことですか?」
 正確には薪の風呂だけでなく、全員の風呂が覗かれていたわけだが、青木にとってそちらはどうでもいいことらしい。
「許せないですよ! オレだって背中しか見てないのに!!」
 青木は論点がずれている。
「誰なんですか、その覗き野郎は!」
「わからん」
 カメラを仕掛けた犯人は99%の確率で間宮だが、それは青木には言わないほうがいい。
 青木は、普段はとても穏やかで大人しい男なのに、薪のことになると理性を失う。以前にも、薪を人身御供にしようとした三田村という警務部長を、締め上げてしまった前科がある。今回もこの事実を知ったら、何をしでかすか判らない。ここは自分の胸に仕舞っておいたほうが賢明だ。

 薪はショックを受けているらしく、さっきから押し黙ったままだ。身じろぎすることも出来ず、メインスクリーンの前に立ち尽くしている。
「薪さん。お気持ちは分かりますが、もうカメラは取り外しましたし、あまり気に病まず」
「第九の風呂なんかどうでもいい。問題は加害者の家の風呂だ」
 青木がこの仮説を立てたのは、小野田の質問がきっかけだった。
 薪のホクロの事実を、自分ひとりだけが知らなかったことにショックを受けた青木は、第九の職員たちの前で裸でうろちょろするクセを直してくれるよう、薪に直談判したのだ。

「風呂上がりには、せめて腰にタオルを巻いてください!」
「どうしたんだ、急に」
「薪さんのお尻の下にホクロがあることまでみんなに知られてるんですよ。恥ずかしくないんですか?」
「ケツの下にホクロ? 僕ってそんなところにホクロがあったのか」
「知らなかったんですか? 自分のことなのに」
「だってこんなところ、鏡でも使わなきゃ見れないだろ」
「そういえばそうですね。自分じゃ見れないですよね。でも、それって余計恥ずかしくないですか?意識してないところを、いつの間にか見られてるなんて」
 そこで、この可能性に気付いた。

 加害者は、覗きの被害にあっていたのではないか。
 覗いていたのは被害者のほうで、おそらくは手に入れた映像を会社やネットに流すなどと脅されて、殺害に及んだのではないか。それならば、犯行時に初めて被害者に会ったという理由も頷ける。
「見つけたぞ! 曽我、3秒戻せ!」
 薪の指示に従って、曽我がMRIの画を操作する。薪の言うとおり右側の上方を拡大すると、換気扇の隅にレンズの光が確認された。
「よし、あとは現場検証だ。前川美佐子の自宅に行くぞ。曽我、捜一から令状借りて来い。岡部、その探知機借りるぞ。青木、車用意しとけ」

 令状がないと家には入れない。曽我が捜一から戻ってくるのを待つ間、第九の風呂から回収した鉛筆の太さほどの盗撮器具を細い指先で弄びながら、薪は何事か考え込んでいた。
 平静を装っているが、やはり薪は傷ついているのだ。覗きなどという卑劣な辱めを受けて、傷つかない人間などいるはずがない。

「薪さん。済んでしまったことは仕方がありません。この件はもう忘れて」 
「間抜けなやつもいたもんだな。カメラを仕掛ける部署の人員構成も調べないなんて」
「は?」
「だって、うちには女の子がいないんだぞ。僕や岡部の風呂を覗いて、いったいどうするんだ?」
 それは薪が岡部と同じような容姿だったら、の話だ。しかしそれを言うと、薪は確実に機嫌を悪くする。青木も岡部と同意見だったらしく、口の中で何やらもごもご言っている。
「岡部さんのはどうしようもないでしょうけど、薪さんのはいろいろと使い途が」
 どんな使い途だか、聞くのが怖いような気がする。

「使うとしたら第九への中傷か。……宇野。このカメラの信号に、ウイルス入れられるか?」
「映像の破壊ウイルスですね。いま作ってます」
 CCDカメラは特定のPCにその映像を送るため、固有の信号を発信する。その電気信号にウイルスを混ぜ込み、保存先のPCを叩こうという作戦である。それにはもう一度カメラを設置し、人物を感知させて映像をピーピングトムのPCに送る必要がある。
 問題はその設置場所だが。

「警視庁の男子トイレの個室にでもつけといてやれ」
「薪さん……エゲツナイです……」
 やられたことは3倍にして返す。
 この上なく美しく微笑んで、美貌の警視正は部下に報復を命じたのだった。



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二年目の桜(7)

二年目の桜(7)






 現場検証の結果、青木の仮説は裏付けられた。
 加害者前川美佐子の家の風呂場の換気扇と反対側の天井の壁から、2台のCCDカメラが発見されたのだ。
 この事実から、捜査一課は被害者西田聡史の自宅の家宅捜索を行なった。
 西田はこれまでにも何人かの女性の家から、同じ方法で盗撮映像を入手していた。その映像を種に、被害に遭った女性たちに、金品や肉体関係を迫っていたらしい。その証拠となる写真や写真を相手に送りつける際に使われたと思われる封筒などが発見され、それは青木の仮説を強く支持するものだった。

 だが、前川美佐子に関しては、覗き行為を行なっていたという事実は判明しなかった。おそらくは殺害時に壊されたパソコンの中に確証となるデータが保存されていたと考えられるが、PCのハードは粉々に粉砕されており、データの抽出は絶望的であった。
 PCの固定番号から辿った西田のネット遍歴には、多くの盗撮HPがヒットしており、自分自身何度かネットに盗撮ビデオを流していることが判明した。西田によって以前ネットに公開された映像は、前川美佐子のものではなく、他の女性のものだった。

 自分の仮説を証明するため、青木は西田聡史の脳を見ることを主張した。
 このような猟奇的な事件の場合、当局からの指示で2週間は被害者の脳が冷凍保存されることになっている。被害者はアイスピックで目を潰されているが、後頭部は無事だ。西田の脳を見ることは充分可能だった。
「両目が潰されている時点で、この可能性に気付くべきだった。今回はおまえの手柄だ。よくやったな、青木」
「ありがとうございます」
 尊敬する室長に褒められて、青木は頬を紅潮させている。よくやった、とたった一言ではあるが、薪のきれいな微笑が、青木にとってはなによりの褒美だ。
「でも室長。まだ確たる証拠はありません。西田の脳に、前川美佐子の盗撮画像が残っていることを確認しないと」
「そのことなんだが」

 室長席の回転椅子をくるりと回して、薪は左手のPCに向かった。
 神業のような速度でキーボードを叩き、目的のHPを開く。読んだばかりの捜査報告書に記載されたHPのURLをすでに暗記している辺り、やはり神レベルだ。青木にはとても真似できない。
「動機が薄すぎると思わないか」
 HPには、様々な場所で盗み撮りされた人々の秘め事が、赤裸々に公開されている。
 風呂やトイレは言うに及ばず、ラブホテルや夫婦の寝室までが、不特定多数の無遠慮な視線に晒されている。

「風呂を覗かれてその映像をネットに流すと脅されて、犯行に及んだ。でも、そのくらいのことでひとを殺すだろうか」
 顔にモザイクがかけてあるのは良心的なほうで、殆どが素顔のままだ。HPのアクセス件数は10万件を超えている。ピーピングという卑劣な行為の犠牲となった不幸な羊たちが、どれだけ多くの人々にその秘密を知られてしまっているのか、本人が知ったらその嘆きはいかばかりだろう。
「第九の風呂にもカメラが仕掛けられてて、僕やおまえの裸の映像も誰かが持っているはずだけど。それをネットに流すって言われたくらいで、その相手を殺そうとするか? 僕だったら勝手にどうぞって感じだけどな」
「それはオレたちが男だからですよ。女の人はそうはいきません。ましてや前川美佐子には、結婚を約束した相手がいたんですよ。そんな映像がネットに流れたら、結婚話までダメになっちゃうじゃないですか」

 前川美佐子は32歳。この辺で落ち着きたいと思っていたはずだ。
 西田聡史による金品の脅迫と肉体関係の強要。それが婚約者に知られたら、すべてがお終いだ。会社だってクビになるかもしれない。殺害の動機には充分だ。
 しかし、薪にはまだ納得がいかないようである。
「前川美佐子の家の風呂場に仕掛けられたカメラは、換気扇と天井の隙間だ。遠すぎて局部までは映らない。第九のカメラみたいに、洗い場の鏡とかに設置してあれば話は別だけど、あれじゃ全体像しか映らない。そんなぼやけた映像をネットに公開されたくらいで、どうってことはないと思うんだがな。ほら、これだ」

 薪がHP上で捜していたのは、脅しに屈しなかった女性の盗撮映像を、西田が見せしめとばかりにネットに公開したものだった。
 たしかにその画は不鮮明で、女性の顔は判別できるが肝心の身体は輪郭がぼんやりして、この程度ならそれほど屈辱的なものとは思えない。しかし、それは青木が男だから言える事であって、前川美佐子にとっては死んでも見せたくない画だったのかもしれない。

「カメラの性能と仕掛けられた位置から、前川美佐子の映像もこの程度のものだったと推察される。それから婚約者のことだが、美佐子は事件の1週間前に自分のほうから別れを切り出している。これは犯行を決意してのことなのか、それとも何か別の理由があったのか。別の理由だとしたらそれはなんなのか」
「どちらにせよ、西田の脳を見ればはっきりしますよ。西田の脳を第九に送ってくれるよう、所長に申請書を提出してください」
 確実な証拠となる画を添付した報告書を提出するためには、それ以外に方法はない。青木の嘆願は当然受け入れられるものと思っていた。

 ところがその2日後。
 薪は青木の予想を裏切って、とんでもないことを言い出した。

 西田の脳はいつ届くのかと聞いた青木に、薪は『西田の脳は検証しない』と宣言したのだ。そればかりか、これ以上の捜査は打ち切るという。
「僕はこの件は、このまま捜一に返そうと思ってる」
「どうしてですか!?」
「捜一の公式発表で、前川家の人々に対する世間の迫害は止むはずだ。これ以上の何を望むんだ?」
 先日の家宅捜索の結果から、捜一はこの事件についての公式発表を行った。
 前川美佐子は西田聡史によって覗きの被害に遭い、金品やからだの関係を迫られて、已む無く被害者を殺害するに至った、というのがその内容だった。

「そんなことしたら、全部捜一の手柄になっちゃいますよ!」
 薪が5日も不眠不休で頑張ったのに。全員で泊り込んでモニターを見続けたのに。
 目を閉じると、前川美佐子のMRIが始めから終りまですべて思い出せるくらい、何度も何度も繰り返し。その自分たちの苦労は何処に行くのだ。捜一に事件を返すということは、あの苦労をすべて水の泡にするということだ。

「手柄? おまえは何のために警察官になったんだ」
 亜麻色の瞳が厳しい光を宿す。
 厳格な上司の目になって、薪は青木を睨み据えた。
「おまえは何のために、この仕事をしてるんだ? 第九の名誉のためか、実績のためか。違うだろう。前川家の人々のような、弱い立場の人たちを守る為にやってるんじゃないのか。MRI捜査は、社会を平和にするための捜査だ。もう死んでしまっている人の恥辱を遺族に突きつけるための捜査じゃない。そんな捜査は必要ない」
「でも! 西田の脳を検証して報告書をつけなかったら、第九としてはお宮入りじゃないですか。室長の失点になるんですよ!」
 青木は、激しい口調で薪の翻意を促そうとした。
 この判断は絶対に自分が正しい。第九の人間なら、第九の実績を上げることを最大の目標にするべきだ。
 しかし、薪は首を縦には振らなかった。

「せっかくのおまえの金星を捜一にくれてやるのは僕だって業腹だけど、これ以上の捜査は藪から蛇を出すようなものなんだ。前川美佐子が人を殺し、自分も死んでまで守ろうとした秘密だぞ。それを暴き立ててどうする気だ」
「オレは別に自分の仮説に拘ってるわけじゃないです! 手柄が欲しいわけでもない。真実が知りたいんです」
「思い上がるな! おまえの好奇心を満たすために捜査をしてるわけじゃない!」
 そんなつもりはない。
 でもこれは、つい先日薪が自分に言ったことだ。
「事件はまだ終わってない、何が何でも真相を突き止めると言ったのは薪さんですよ。それなのにどうして」
「あの時とは事情が変わったんだ。いま西田の脳を見ても誰も救われない」
「それはどういう意味ですか」
「これは僕の判断だ。おまえが知る必要はない」

 青木には、薪の気持ちがまるで理解できなかった。
 部下たちの苦労を水泡に帰しても、加害者の秘密を守ると薪は言う。
 その加害者の秘密とは、どうやら入浴を盗撮されたという単純なことではないらしい。だったらその真実を追究するのが、捜査官の仕事ではないのか。そのためのMRIではないのか。真相の解明以外に重要視しなければならないことが、第九の捜査官にあっていいのか。
 
「納得できません」
「この事件の担当は曽我だ。曽我と僕とで決めたことだ。おまえにはこの事件に関して、意見をする権利はない! さっさと持ち場に戻れ!」
 険しい表情で、青木は室長室を退室した。
 そのままモニタールームを素通りして、研究室の外へ出て行ってしまう。青木のことだから少し頭が冷えたら帰ってくるだろうが、こんな風に薪に逆らうことは滅多にないだけに、仲間たちは一様に眉根を寄せた。

 青木がいなくなった室長室に、二人のやり取りを心配そうに聞いていた曽我が、コーヒーを持ってきた。薪にマグカップを差し出し、おずおずと進言する。
「室長。あのこと、青木に言ったほうがいいんじゃないですか? 青木だって子供じゃないんですから。事情を説明すれば、青木も必ず室長の考えに賛同しますよ」
「青木には黙ってろ」
 愛用のマグカップを受け取って、薪は一口だけコーヒーを啜る。相変わらず、曽我のコーヒーは味が一定しない。今日は妙に味が薄い。
「確証が取れたわけじゃない。下衆の勘繰りってやつかもしれない」

 青木が淹れたコーヒーが飲みたい。
 あいつのコーヒーは、香りが良くてコクがあって後味がすっきりして。口中に広がる深みのある苦さが、薪を恍惚とさせてくれる。あれは青木以外の部下には出せない味だ。

「青木には……まだ早い」
 薄くて苦味ばかりが強いコーヒーを飲みながら、薪は小さくため息をついた。



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二年目の桜(8)

二年目の桜(8)






 青木は憤っていた。
 薪は青木の進言を無視して、この事件から第九は手を引くと、正式に報告してしまった。
 所長に提出した報告書には、前川美佐子の脳に残っていた自宅風呂場のCCDカメラの映像だけが添付され、なんとも曖昧なまま事件は捜一に返された。そのためこの事件については、すべて捜一が捜査をしたものとして記録に残されることになった。
 警察内部のことでありながら、それはたちまち世間の知るところとなり、『MRIの限界・捜一が第九に勝つ』などと週刊誌に書きたてられてしまった。

 この事件の加害者と被害者の関係を暴きだしたのは、第九だったはずだ。
 それなのに、第九はモニターばかりを見ていて人間を見ることができないとか、人間味のないエリート集団は人の心を忘れてしまった、などと職員の人間性を否定するようなことまで書かれて。
 青木は、こんなに腹が立ったのは生まれて初めてだった。

 週刊誌に第九の悪評を書かれる度に塞ぎこんでしまう室長は、今回ばかりは普段通りの冷静な態度で職務に当たっていた。他の部下たちは室長の機嫌が悪くないことを素直に喜んでいるようだが、青木にはその冷静さが返って頭にくる。こうなることが分かっていて、薪は事件を捜一に返したのだ。
「ちょっと、買い物に行ってきます」
 青木は研究室の外に出て、少し頭を冷やすことにした。頭に血が上ったこの状態では、とても仕事にならない。

 目に付いたコンビニで、非常食代わりのシリアルバーを買い込む。前川美佐子事件の泊まり込みのせいで、ストックが底を尽いていたのだ。
 好みのチーズとナッツ入りのものを選んで、カゴに入れる。食べることが大好きな青木は、大抵これで気分が良くなるのだが、今回ばかりは効き目がない。気分は最悪のまま、浮上の気配は認められない。

 薪の言うことはさっぱり分からない。
 こないだは真相の究明こそが前川家の人々を救うと言ったくせに、今度はこれ以上の捜査は打ち切るという。矛盾だらけだ。
 西田の脳に残されているはずの前川美佐子の秘密にこだわっているようだったが、例えそれがどんなにきわどい画像だったとしても、美佐子の動機を強くするだけのことであって、事件そのものの骨子は変わらない。だとしたらMRIの検証をして報告書を作成すれば、これは第九の実績になる。それをみすみす捜一に渡すなんて。
 手柄に執着するわけではないが、初めての自分の金星を消されたのはやはり頭に来る。
 ちゃんと理由を説明してくれるならまだしも、この事件に口を挟む権利はない、なんて酷いことを言われてしまった。自分はたしかに未だ半人前だが、それでも今回の事件に関しては、それなりの働きもしたはずだ。それなのに、薪の言い分はひどすぎる。

「あれ。いつの間にかここに来ちゃった」
 怒りに任せて歩いていた青木が辿りついたのは、前川家の前だった。
 薪の言うとおり捜一の公式発表がなされて、前川家は一応の平穏を取り戻したらしい。ブロック塀の落書きは塗りつぶされ、庭の生ゴミは消えていた。割れた窓ガラスは相変わらずだったが、今日はベランダに洗濯物も干してある。

「刑事さん。まだ何か?」
 青木が家の様子を見ていることに気付いて、家の中から父親が出てくる。
 前川美佐子の父親は温厚そうな男で、白髪交じりのふさふさとした髪をふわりと後ろに流している。家宅捜索に立ち会った際も思ったが、母親が老けて見えるのに比べて、父親はとても若々しい。
「いえ。特に用というわけじゃないんですけど」
「先日の件なら、こちらの意見は変わりませんよ」
 父親の言う『先日の件』に心当たりがない青木が訝しげな顔をしていると、彼は少し迷惑そうな顔で言った。
「あなたは第九の方でしょう? こないだも室長だと仰る方が見えましたよ。でももう、うちのことは放っておいてください。これ以上娘の恥を……」
 父親の言から察するに、どうやら薪は何日か前にここに来たらしい。しかし、ここでの捜査はすべて終了したはずだ。捜査を続ける気のなかった薪に、ここに来る理由があるとは思えないが。

「あなた。そんなところで立ち話なんて。中に入ってください。刑事さんもどうぞ」
 たしかに道端でする話でもない。
 家の中から声を掛けてくれた母親の勧めに従って、青木は前川家の門をくぐった。
「すみません、散らかってて」
 散らかしたのは前川家の人間ではない。警察である。
 家宅捜索の後、家の中はぐちゃぐちゃになる。手当たり次第に引き出しや戸棚を開けて中のものをぶちまけて証拠を探す様子は、強盗犯が金品を探すのとなんら変わりない。警察が市民に歓迎されないはずだ。

 それでも前川家の両親は、青木には親切だった。応接間に通してくれて、お茶を出して貰った。
 応接間のサイドボードには、娘の写真がたくさん飾ってあった。どれも父親とふたりで写っているものばかりで、この家ではカメラマンは母親の役目らしい。

「うちの室長が伺ったそうですね」
「ええ。あんなことをしでかした娘に、とても同情してくれて。お嬢さんのお気持ちは分かりますと仰って、わたしどもを慰めてくれました」
 青木にだって、美佐子の気持ちは分かる。同じ覗きの被害に遭ったもの同士だ。
「優しい方ですね。これ以上娘の秘密を暴いて欲しくない、と言ったわたしどもの勝手なお願いを聞き届けてくださいました」
 なるほど。
 薪はこのふたりと話して、西田の脳を検証しないことに決めたのだ。両親の意見を尊重して。ということは、このふたりを説得することができれば、西田の脳をMRIに掛けられるということか。

「そのことなんですけど。私はむしろ、美佐子さんの画を西田の脳から抽出して、美佐子さんがどれだけの屈辱を味わったのかを知るべきだと思うんです。なにも世間にその画を公表するわけじゃありません。ただ、美佐子さんの口惜しい気持ちを、私たちだけでも理解してあげたい。そうすることで美佐子さんも浮かばれると」
「駄目だ!!」
 雷のような声が轟いて、青木は思わず肩を竦めた。
 今の今まで温厚そうに微笑んでいた父親の顔が、まるで修羅のごとく憤怒の表情に歪められている。その豹変振りは1世紀前のロンドンに住むマッドサイエンティストのようだ。

「絶対に許さん! 娘の秘密を暴くことは、誰にもさせん!」
 突如として鬼のように怒り出した父親をなだめることは難しく、青木はほうほうの体で前川家を辞することになった。怒りをあらわにした父親とは対照的に、母親のほうは青木を門まで見送ってくれて、主人の非礼を詫びてくれた。
「あのひとは、昔から娘のことをとても可愛がっていたんです。本当に仲の良い父娘で。わたしはいつも仲間はずれでした」
 母親の言葉におかしなニュアンスを感じて、青木は首を傾げた。
 なんだか、この家族は不自然だ。夫婦はなんとなくギクシャクしているし、父親は娘のこととなると妙にむきになる。

 ふと、青木は思う。
 薪は昨日ここでこの夫婦を見て、何を考えたのだろう。あのサイドボードの写真を見て、どんな家族の肖像を思い描いたのだろう。
 美佐子の秘密。それがとても重大な秘密だとしたら。
 温厚な父親が我を失うほどに。
 婚約者と別れなければならないほどに、恐ろしい秘密。

 自分の心の底にゆらりと湧き上がった疑念に、青木は思わず身震いする。
 薪は―――― 薪は、どうしてここに来たのだろう。

 美佐子の母親は、白髪が目立つ小さな頭を丁寧に下げた。
「わたしも主人と同じ考えです。このままそっとしておいて欲しい。娘が命を賭けてまで守った秘密も……わたしたちのことも」
 震える足を踏みしめて、第九のへ道を辿る。
 三叉路を戻り、十字路を左へ曲がる。塀の上で今日も猫が昼寝をしているのが目に入ったが、先日のように青木を微笑ませてはくれない。

 T字路まで続く長い塀の角から、モカブラウンのスーツの肩が覗いている。青木が歩いてくるのに気付いて、人影は美貌の警視正にその姿を変えた。
 小柄な上司と向かい合って、青木はしばし黙り込む。
 言葉がみつからない。笑うこともできない。
 そんな青木の様子を見て取れば、どんな小さな情報からでも見事な推理を組み立ててしまう薪のこと、この経験の浅い新米捜査官に何があったかはお見通しに違いない。そして青木が自分の中に沸き起こった疑念に、尻込みしていることも。

『だからおまえが知る必要はないと言っただろう。ばかもんが』
 つややかなくちびるが開きかけたとき、青木はそこからそんな言葉が出てくるものと思っていた。が、薪が言ったのはまったく別のことだった。

「日比谷公園の桜が見ごろだ」
 それだけ言うと、薪は先に立って歩き出した。



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二年目の桜(9)

二年目の桜(9)






 ピンポン、という電子音は間宮のお楽しみの合図だ。

 にんまりと笑って、自分のPCに注目する。第九に仕掛けたCCDの画像が、自動的に転送されてきている。必ずしも薪が映っているとは限らないが、今の時間帯ならまず間違いはない。昼間から風呂に入っているのは、薪くらいのものだ。
 薪の白い裸体が脳裏に浮かぶ。
 あのきれいな肌、細い首、魅惑的な背中―――― 思い出すだけでぞくぞくする。
 ところが。

「げっ!!」
 PCの画面に映ったグロテスクな画に、思わず間宮は椅子から転がり落ちた。
 それは中年のいかつい男がトイレの個室で用を足している光景で――――。

 なんでこんなものが俺のPCに送られて来るんだ!?

 慌てて画像を消すが、見てしまったものの記憶は消せない。毛むくじゃらの足やら気持ち悪い3段腹やら、黒ずんだ男の……。
「うあああ、目が腐る!」
 しかも場所はトイレの個室だ。当然、それも見てしまった。間宮にはスカトロ趣味はない。対象が薪だったらひたすらあの可愛い顔を楽しむという手もあるが、どこかのオヤジのそんなシーンを見てどうしろというのだ。
 何の間違いだかは知らないが、早くこの画像を消去しなくては。PCが汚染されてしまう。

 間宮は画像フォルダを右クリックし、今の画像を消去した。
 その途端。
「あ、あれ!?」
 画面に意味不明の英文字が並び、凄まじい勢いでスクロールしたかと思うと勝手にPCが動き始めた。次々と画像フォルダを選択し、削除していく。
「ちょっと待て! それは薪警視正の!」
 いくらマウスをクリックしてもESCを押しても、PCは止まらない。あれよあれよという間にフォルダは画面から消えて、間宮が大事に保存しておいた薪の入浴シーンの画像は全部なくなってしまった。
「そんな……なんでだ?」
 がっくりと肩を落として、間宮はことの真相を考え始めた。
 間宮は決して馬鹿ではない。色事に関してはキチガイだが、仕事はできる。46歳で警視長というのは、誰でも手に入れられる階級ではない。

「小野田だな」
 間宮が薪のからだの特徴を知っていたことから、小野田はこのことを察知し、第九からCCDカメラを撤去したのだ。そしてどこかの男子トイレに仕掛けた。今のPCの暴走もハッキングによるものだ。カメラからの情報がPCに到達する際に起動するよう、ウイルスを仕込んでおいたに違いない。
 見かけによらずなんて陰険な男だ。自分は薪と楽しい夜を過ごしているくせに、間宮には見ることも許さないつもりか。

 が、間宮が出した結論は間違っていた。
 小野田が、こんな手の込んだことをするはずがない。もし、CCDカメラを見つけたのが小野田だったら、カメラをゴミ箱に捨てて、後は知らぬ振りを決め込むだろう。
 カメラをトイレに仕掛けたのは、第九の職員のひとりである。PCのデータを破壊したのは、もちろん宇野の仕業だ。どちらも薪の指示によるものだ。こんな意地の悪いことを考え付くのは、警察庁中探しても薪しかいない。
 そんなこととはつゆ知らぬ間宮は、小野田への怒りに顔を赤らめている。

 こうなったらもう容赦しない。小野田から薪を奪い取ってやる。

 小野田が薪の尻のホクロを知らなかったことから、もしかするとこのふたりの間には肉体関係はないのかと間宮は思った。しかし、あの時も間宮への牽制球は鋭かったし、こんな恨みがましいことをしてくるところをみると、やはり小野田と薪はできている。そうでなければ特別承認や異例人事など、そうそうあるものではない。ましてや、相手はあの薪だ。例えノーマルな男でも、一緒にいれば自然とそういう誘惑に駆られるに違いない。

 予てからの計画を実行に移す時が来た。
 どんな形でもいい。一度抱いてしまえば、薪は自分の言いなりになる。
 自分に夢中になった薪に別れ話を告げられて、哀れっぽく若い恋人に取り縋る小野田の姿が見えるようだ。
 間宮は携帯電話を取り出し、計画の1歩を踏み出した。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

二年目の桜(10)

二年目の桜(10)





「なんだ、ぜんぜん咲いてないじゃないか」

 日比谷公園の桜は、まだ蕾が膨らみかけたところで、見頃というには早すぎる。自分が『見頃だ』と言ったくせに、花のない桜に薪はくちびるを尖らせている。まったく勝手な人だ。
「おまえがここの桜が咲き始めたって言ったんだぞ」
 今度は人のせいだ。始末に終えない。
「ここは北側ですから。南側に行けば、何本か咲き始めの桜が見られますよ」
 本当だな、と念を押して薪は遊歩道へ足を進めた。
 反対側に移動するなら、公園の中を横切れば早いのに、わざわざ遠回りして外周の遊歩道を通るつもりらしい。
 つまりそれは、薪のいつもの不器用な気の使い方だ。

 薪はゆっくりと、青木の右隣を歩いてくれる。その歩幅と速度が、言葉には表れない薪のやさしさを青木に教えてくれる。

 研究室を出たきり帰って来ない青木の行動を見抜き、薪はあの道で待っていてくれたのだ。前川家で青木が真相に辿りつくことも、その真実の重さに打ちのめされるであろうことも、予想がついていた。
 このひとに、見通せないことなどないのだ。
 
 一本だけぽつぽつと花をつけた桜の前に立ち、薪は両手をズボンのポケットに入れてその見事な枝振りを見上げた。青木に背を向けたまま、静かに尋ねる。
「前川美佐子の父親と話したのか」
「はい」
「……そうか」
 薪の声はひどく憂鬱そうで、その背中は何かに耐えているようにも見えた。
 前川美佐子の悲しい人生を思っているのか、それとも。

「薪さんは……知ってたんですか」
 黙ったまま、薪はゆっくりと振り返った。その亜麻色の瞳に湛えられた、どうにもならないやりきれなさ。

 青木の脳裏にその光景が浮かぶ。
 CCDカメラが仕掛けられた風呂の中で、父親に犯される娘の姿を。それをPCで見ている西田の姿を。
 薪には始めから分かっていた。
 青木が考え付いたようなことは、最初から仮説の一つに入っていた。それを確かめるために、前川家に行ったのだ。父親と娘の話をすることで、彼の心情を読み解いたのだろう。そして結論を出した。前川美佐子の秘密は秘密のままにしておくことに決めたのだ。

 やはり薪はとてもやさしい。
 そのやさしさは、事件の被害者やその遺族だけでなく、加害者やその家族にまで注がれる。それを可能にしているのは、薪の優れた推理力だ。
 あらゆる仮説を瞬時に導き出せる明晰な頭脳。数限りない可能性の中から真実を選び出す洞察力。誰よりも早く真相に辿りつくから、その先のフォローができる。
 どれだけ真剣にこの仕事に向き合えば、薪のようにすべてを見通せるようになるのだろう。
 起こってしまった悲劇に、その渦中で苦しむ者達が、それ以上傷つかずに済むように泣かずに済むように、どこまで強くなればすべてを守れるようになるのだろう。
 薪もきっとそれを願って、だからあんなに捜査に没頭するのだ。自分の身を削って、凄絶なまでの真摯な態度で。

「薪さんがやってることは犯罪です」
 青木の非難に薪は少しだけ怯み、肩を竦めた。
「そうかもしれない。証拠隠蔽といえば言えないこともない。前川美佐子が父親との関係を望んでいたとは思えないからな。強姦罪が成立する可能性は充分ある。でも」
「違います。ドロボーです」
 長い睫毛がぱちぱちとしばたく。わけがわからない、という顔だ。めちゃめちゃかわいい。
「ドロボーというより、強盗ですかね」
 盗まれる、などという生易しいものではない。いまの青木の心理状態には、強奪という表現がぴったりだ。

 このひとは、自分からどれだけのものを奪えば気が済むのだろう。
 こころもからだも魂も、何もかも持っていかれてしまった。
 すべての日常は薪に埋め尽くされて、未来を自由に思い描くこともできない。これから先、薪以外の人間の下で働くことなど想像もつかない。薪の側を離れることなど考えられない。
 もう自分には何も残っていない。あるのはこの想いだけだ。

 また、惚れ直してしまった。

 去年の春、薪のきれいな横顔にときめいて、薪から目が離せなくなって。
 あれから1年。
 色々なことがあって、なおさら薪のことが好きになってしまった。
 こんなに長く片恋が続いたのは初めてだ。こんなに激しい片思いも、初めてだ。

「おまえ、残りの本数ちゃんと数えてたのか」
「は?」
「シリアルバーだろ? おまえの机にたくさん入ってるやつ。昼飯代わりに食べてたんだ。買って返すつもりだったんだけど」
 ……ぜんぜん気がつかなかった。そういえばここのところ、やけに減りが早かったような。


「わかった。『一乃房』で寿司奢ってやる。それで水に流せ」
「はい」
 勘違いの名人は盗み食いの罪を認め、素直に詫びを入れる代わりにランチの提案をしてきた。和解案は成立し、ふたりは公園の出口に向かって歩き始めた。

 薪は青木の前を歩く。青木は薪の背を見ながら、その後ろについて歩く。
 先日と同じように自分を導いてくれる、その背中。青木の半分くらいしかない細い背中なのに、女のような華奢な肩なのに、どうしてこんなに頼もしく見えるのだろう。

 その背中が、公園の門の前で立ち止まった。ひとりの女性が薪を呼び止めたのだ。
「官房室の。松永さんでしたか?」
 薪は1度見た人の顔は忘れない。人間離れした記憶力は、こんなところでも役に立つ。
「官房長から伝言を預かってきました」
 その女性は、薪にメモを渡して去って行った。メモには『Pホテルで待ってるよ』と書かれている。どうやらランチの誘いらしい。

「悪いな、青木。小野田さんからデートのお誘いだ」
 相手が官房長では仕方ない。薪とふたりきりのランチは次回に持ち越しだ。このまま永久に持ち越されてしまう可能性のほうが高いが。

 第九とは反対の銀座方面に向かって歩いていく薪の後姿を見送り、青木は自分の非常食(シリアルバー)のラインナップに、薪の好きなオレンジピールを追加することを決めた。


 ―了―





(2009.2)


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

二年目の桜~あとがき~

 青木くんが薪さんを好きになって、1年経ちました。
 本当にちんたらやってますね。1年もかかって、キスしかしてませんからね。それも、同情のキスって。絶望的な展開ですね。(笑笑)

 このお話の主旨は、ヘンタイ間宮が書きたかった
 1年経って、また思いを新たに薪さんに惚れ直す青木くんの、学習しないアホさ加減を書きたかっただけです。 あんなに振られまくったのに。ちっとも懲りてません。
 それがなんでこんな後味の悪い事件を持ち出して、長ったらしくなったかといいますと、やっぱり ヘンタイ間宮を 筆者の力量不足というより他はありません。
 ご不快になられた方には、こころからお詫び申し上げます。
 って、わたし、どんだけ間宮のこと、気に入ってるんでしょうね。でも、あーゆー突き抜けたキャラは書いてて楽しいんですよ。やっちゃえやっちゃえ! ってカンジです☆

 このお話の中の薪さんがやってることは、本当はいけないことだし、実際にはありえません。いちいち加害者側のことまで気にしてたら、仕事にならないです。
 でも、薪さんなら。
 行動に表さなくても、きっとそのことに思いを巡らせて、心を痛めてるんじゃないかな、と思ったんです。二次創作の中でくらい、それを行動に出させてあげてもいいかな、と。

 わたし的には、カッコイイ上司の薪さんが大好きなんです。 Yさんとこの薪さんとか。惚れてます。

 あおまきすととしては邪道かもしれませんけど、薪さんの美しさよりも、他の追随を許さない圧倒的な推理力に惹かれます。
 薪さんの天才性も、神さまのような洞察力も、もっともっとカッコよく書いてあげたかった。
 書いてる最中は楽しいんですけど、振り返ると後悔ばかりが残ります。自分の才能と知識の不足が、口惜しいです。



 さて、次のお話は、だれかさんの期待通り、ほんのりピンク色です。
 全体的に、鍵付きにしたほうがいいような内容です。

 あ、待てよ。
 あおまきのRネタって、初めてじゃないか? ……初めてで、あんなん?
 自分の無謀さに、脱力……。

 いつものように、無駄に長いお話ですが、のんびりお付き合いくださるとうれしいです。




*****




 どうでもいいことですけど、今日は美容院に行ってきます。
 わたし、20年以上ロングヘア、もしくはセミロングだったんですけど、薪さん愛が高じて、今年の3月に薪さんヘアにしました。(>▽<)
 ↑バカですね。
 でも自分では、40年の人生の中で、いちばん気に入ってます。(←究極の自己満足)

 薪さんヘアは、意外と手間がかかります。
 前髪をキープするのに、男性用のワックスが欠かせません。薪さんはワックスは使わないと思いますけど、現実的には前髪が目に刺さるので。
(昔のイラストには、ワックス使わないと不可能な髪形とかもありましたね。現在は前髪長いままですけど)
 ワックスを選ぶときも、薪さんもこーゆーの、遊びに行くときは使うかな、とか、バカなことを考えてます。果てしないです。もう、救いようがないです。
 自分でも呆れますが、なんでしょうね、この幸福感は。(爆)



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しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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