聖夜(1)

 こちらのカテゴリには、すずまきさんのお話が入れてあります。
 うちの薪さんは、とっても鈴木さんのことが好きなので、青木くんに対する時とは別人のように可愛らしいお姿になって、る、かなあ?




聖夜(1) 







 その日の街は、皆が浮き足立っているように思えた。

 赤と緑。洋服の柄にしたら絶対に趣味の悪い配色に街中が包まれて、さらに金銀のモールがこれでもかというほどに飾り付けられ、極めつけは眼がチカチカするような派手な電飾。街を歩けばそれがいやでも目に入る。
 2058年のクリスマスイブ。恋人たちにとっては年に一度の大切な日だ。
 しかしここ、法医第九研究室には関係のないことだ。
 特に、独善的で仕事の鬼と称される室長にとっては。

「なあ、頼むよ鈴木。今日のデートすっぽかしたら、本当にやばいんだよ。室長に、今日だけは定時退室できるように頼んでくれよ」
 第九の職員たちにぐるりと周りを取り囲まれて、鈴木は困った表情を浮かべた。
「なんでオレ?」
「室長はおまえの言うことだったら聞くだろう? 親友なんだろ、おまえら」
「無理だよ。仕事とプライベートはきっちり分けるやつだからな」

 断ろうとするが人のよい鈴木のこと、同僚に拝み倒されては無下にもできない。言ってはみるけど期待するなよ、とぼやきながらも室長室に入っていく。

 背の高い後姿を見送って、同僚たちは心の底から彼の健闘を祈った。



*****



「クリスマス? 仕事と何の関係があるんだ」
 細い指で鈴木の書いた報告書をめくりながら、室長は12月の外気より冷たい声で言った。
 鈴木は広い肩を竦める。予想通りの答えだ。
 仕事には厳しい親友のことだ。必ずこういう答えが返ってくると思っていた。
 しかし、いつもいつも厳しいばかりでは部下はついて来ない。室長と言う立場を考慮に入れても、薪と他の職員の間には、かなりの温度差があるように感じられる。
 ここは薪のためでもある。鈴木はもう一歩、説得を試みることにした。

「べつに急ぎの案件はないんだろ? 今日はみんな、約束があるんだよ」
「僕にはない」
 鈴木の気遣いをコンマ1秒で切り捨てて、華奢な手を左側のキーボードに伸ばす。手元を見もしないが、片手でも鈴木の操作より格段に早い。

「薪。おまえ、その性格すこしは直せよ」
「ここでは室長と呼べ。鈴木警視」
 PCの画面と報告書の内容を照合していた亜麻色の眼がぎらりと光って、鈴木を睨みつける。怒ったときには捜一の強面より怖いと評判の表情に、鈴木は苦笑で答えた。
「はい、室長」

 氷の室長と噂される親友は、回転椅子を回して左の机に置かれたパソコンに向きなおり、報告書に添付する室長所見を人間離れした速さで打ち込み始める。冷たい横顔には、はっきりとした拒絶が顕れている。取り付く島もない。
 薪とは大学時代からの長い付き合いだ。その頃から怒ると怖かったが、第九の室長という重責に身を置くようになってからは、さらに凄みが増したようだ。

「だいたい、今日はキリストの誕生日だろう。やつらは彼の友達なのか? 誕生パーティにでも呼ばれているのか? バカバカしい。エリート集団が聞いて呆れるな」
 皮肉で辛辣な物言いも、ますます磨きがかかっている。ある意味で成長している、と言えるのだろうか。
「どうせおまえも、雪子さんと約束があるんだろ」
「うちのキリストさまは急ぎの解剖が入って、予約したレストランが無駄になりそうなんだ。よかったら一緒に行きませんか? 室長」

 鈴木の誘いに、薪はキーボードを叩く手を止めた。
 亜麻色の大きな眼を丸くして鈴木を見る。きょとん、とした表情。
 薪は昔から、予想外のことに対してはとても無防備な貌になる。それはひどく可愛らしくて、普段の冷徹な室長の顔とは別人のようだ。

「……キャンセルすれば」
「予約に5万もかかったんだぜ。もったいないだろ」
 薪は小さな口唇にひとさし指をあてて、逡巡している。鈴木のタメ口に、今度は怒らない。
「どうせ雪子さんの好きなフレンチだろ。僕はフランス料理はあんまり好きじゃないから。他のやつを誘えよ」
 くちびるを尖らせて、子供のように拗ねた言い方をする。こういうところは変わらない。親友の鈴木にだけ、見せる表情だ。
「クリスマスに予定のないやつなんか、おまえくらいのもんだよ」
「予定がないって、なんで決め付けてんだよ!」
「あれ? あるのか?」
「……今日は、この報告書をまとめようかと」
 それはクリスマスの予定とは言わない。仕事の計画と言うのだ。
 が、ここで突っ込んではいけない。そんなことをしたら職員全員を巻き込んで、MRIのメンテナンスが始まってしまう。鈴木は言葉を選んだ。
 
「それ、明日でもいいだろ。付き合ってくれよ、薪」
 目が泳いでいる。もう一押しだ。
「……室長」
 なかなかしぶといが、もう網の中だ。声にも目にも、厳しさがない。
「付き合ってください、室長」
「……いやだ」
「どうして」
「男同士でクリスマスのレストランは――イタイだろ」

 たしかに。
 しかし、それは普通の34歳の男性同士だったらの話だ。
 薪は見た目が異常に若くて、鈴木と同い年にはとても見えない。服装によっては高校生で通るくらいだ。
 しかも、女のようなきれいな顔立ちをしている。
 完璧に整った卵型の輪郭。肌はぬきんでて白く、男にしてはふっくらとした柔らかそうな頬をしている。ばさばさと音を立てそうな長い睫毛。小さな鼻とちいさな頤(おとがい)。幼げな外見を何故かくちびるだけが裏切っていて、妙に色っぽくつやめいている。これできりりと吊り上った眉がもう少しやさしければ、スーツを着ていてさえ女性と間違われそうだ。もちろん、ユニセックスな格好をしたら100%女性に見える。
 その容姿ゆえに大学時代から男女問わずモテまくっていたが、本人は恋愛方面には一向に興味を示さず、鈴木が知っている限りでは彼女いない歴15年の強者である。まあ、誰も信じないだろうが。

「ぜんぜん大丈夫。おまえなら」
「どういう意味だよ」
 自分の外見に自覚がないところも変わらない。
 薪の口調がこなれてきたところで、鈴木は取って置きの切り札を出した。
 
「それに、今日は山水亭の懐石料理にしたから。個室だし」
「山水亭? 銀座の?」
 山水亭は薪のお気に入りの料亭だ。人気店で完全予約制、しかもクリスマスイブともなれば、特別メニューで料金は目の玉が飛び出るほど高い。
 きっと薪も、クリスマスの限定メニューは食べたことがないに違いない。これで落とせなかったら諦めるしかない。
 果たして、鈴木の読みは当たった。

「今日くらいは、定時退庁するか」
「はい、室長」
 鈴木は室長室のドアを開けると、モニタールームの同僚たちに向かってVサインを出して見せた。





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聖夜(2)

聖夜(2)












 目にも美しい日本料理は、もはや芸術品だ。

 九谷焼の鮮やかな色彩に負けない、品格ある料理の数々。前菜の段階から、薪はすこぶる上機嫌だ。
 純和風の部屋も、薪を喜ばせているようだ。周りを見回しては目を輝かせている。
 畳に障子、襖に欄干。床の間には掛け軸と美しい花が活けられている。繊細な料理の匂いを妨げないよう、控えめな香りの花だ。

 座布団の上に胡坐をかき、座卓を挟んで親友と熱燗の酒を酌み交わす。薪の好みは冷たい吟醸酒だが、こういうときはやはり熱燗だ。外の寒さに凍えた身体を温めてくれるし、せっかくふたりで来ているのだから、お互いに差しつ差されつしたいものだ。
 プライベートと仕事には、明確な線を引くのが薪の主義だ。よって先程とは打って変わって薪の表情は明るい。気を許せる親友と大好きな和懐石。しかも山水亭の特別メニューとくれば、少しくらいはしゃいでも無理はない。

「そうだ。今日のメシ代、半分払うよ」
「いいよ。オレが誘ったんだし」
 料亭の代金は、鈴木が予約のときに支払い済みだ。薪がいなければ無駄になるところだったのだから気遣いは無用なのだが、こういうところが薪らしい。
「でもさ」
「薪、今日誕生日だろ? お祝いってことで」
 亜麻色の眼が大きくなって、やがて嬉しそうな笑顔に変わる。この親友は、時々とても無邪気で愛らしい表情を見せる。
「じゃあ、ごちそうさま」
 素直に礼を言って、軽く頭を下げる。どういたしまして、と鈴木が返しながら薪の猪口に酒を注ぐ。小さい手が徳利を受け取って、すぐに鈴木の猪口にも返杯してくれる。

「さすが山水亭だよな。この土瓶蒸、めちゃめちゃ美味い」
「おまえってほんと、顔と好みが合ってないよな」
 亜麻色の髪に亜麻色の瞳。日本人離れした肌の白さとスタイル。どう見ても薪にはフランス料理に赤ワインのほうが似合うのだが、薪の好みは昔から日本食だ。
「だって僕、日本人だもん」
 仕事の時には絶対に見せない、全開の笑顔と気安い口調。薪の幼い外見には、こちらのほうが遥かにしっくりくる。

「オレだって日本人だけどさ。洋食のほうが好きだもんな」
「オムライスとかカレーとかハンバーグとか、そういうんだろ。鈴木の好みはお子ちゃまなんだよ。もっと大人になれよ」
 ジャケットを脱いでネクタイを外しているせいか、どう見ても高校生にしか見えない薪にそんなことを言われて、鈴木は笑うしかない。
「おまえに言われたくないよ」
「なんで」
「なんでっておまえ。鏡、見てみろよ」
「あっ、また僕が背が低いことバカにして」
「そうじゃなくて」
「どうせ僕は、雪子さんより背が低いよ」
 高けりゃ良いってもんでもないと思うけどな、とぶつぶつ言いながら、平目の刺身に箸をつける。子供のようにむくれた表情が、刺身を口に入れた途端ころっと笑顔になる。
 可愛らしくて目が離せない。これも昔からのことだ。

 揚げたての天ぷらが運ばれてきて、薪の目が嬉しそうにくるめく。新鮮な魚介と野菜の天ぷらは薪の好物だ。
「鈴木。天ぷらは好きだろ。やるよ」
「いいよ。おまえも好きじゃん」
「でも、これ全部食べたら、このあと何も食べられなくなるんだよな」
 昔から薪は食が細い。
 警察庁に入ってから大学時代よりは食べるようになったのだが、それでも鈴木の半分くらいだ。薪に言わせると、自分のほうが食べすぎだということだがそんなことはない。男なんだから2人前は基本だろう。

「やっぱり、海老だけ食わせて」
 一度は鈴木のほうに寄越したものを、物欲しそうな目で見ている。
 人が食べているのを見て、自分も食べたくなったらしい。本当に子供みたいなやつだ。
 かるく塩をつけて、顔の前に出してやる。つややかな口唇がそれをぱくりと咥える。満足げに微笑んで、うんうんと頷く。頭を撫でてやりたくなるくらい可愛い。

 この姿を第九の連中が見たらどう思うだろう。

 むしろ、こういうところを少し出したほうが良いのではないか、とも思う。薪は室長の威厳を保つことを重要視するあまり、自分の魅力を殺してしまっている。本当の薪はあんな評判を立てられるほど、冷血漢でも鬼でもないのに。
 室長として、設立したてで不安定な状態の第九を守るためには仕方のないことかも知れない。外部からも部下からも、なめられてはいけないと肝に銘じているのだろう。職場で薪が笑顔を見せることは滅多にない。親友の鈴木に対してはいくらか優しい顔をするが、こんな風に全開の笑顔ではない。

 本音を言うと、こんな薪を独占していることが嬉しくもある。
 他の誰にも見せない表情。誰にも聞かせない口調。誰にも触らせない髪も、鈴木が撫でるのだけは許してくれる。
「子供じゃないんだからさあ」
 そういいながらも、振り払わない。
 さらさらした短髪は実にさわり心地がいい。職場でこれをやったら殴られるが、今は大丈夫だ。

 金目鯛の煮つけと牛ヒレ肉の炭焼き、鴨鍋と締めの牡蠣飯が出て、会食は終わりに近づいた。牛ヒレ辺りから薪はひと口くらいずつしか食べられなくなってしまったようで、ほとんどは鈴木が平らげたのだが。
「いいなあ、鈴木は。いっぱい食べられて」
「これからケーキ出るぞ。クリスマスだから」
「げ。マジ?」
「オプションで頼んだんだ」
 コーヒーとケーキが運ばれてきて、これで最後だ。
 薪は当然のように、ケーキの皿を鈴木のほうによこしてきた。甘いものはそれほど好きではないのだ。が、実は薪は料理が得意で、ケーキも作れる。それがまた美味い。昔はよく食べさせてもらった。この頃はさすがに忙しくて、ケーキを焼くようなまとまった時間は取れないらしいが。

「鈴木。いちご」
 目を閉じて、あーん、と口を開く。食べさせろ、ということらしい。
 赤いイチゴをちいさな口に入れてやる。薪の口には少し大きかったようだが、美味しそうに目を細めている。
 自分のケーキについている苺を食べてみて、鈴木は首を傾げた。
「あれ? すっぱくないか、この苺」
「ケーキ用の苺は、わざとそうするんだ。生クリームの甘さを中和して、後味を良くするためなんだって。苺を最後に食べる人がいるけど、あれは理に適ってるんだ」
「なんでもよく知ってるな、おまえ」
「ケーキ好きの誰かさんのために、むかし研究したから」
 食後のコーヒーをブラックのまま飲みながら、薪は笑った。

 その笑顔に、鈴木は息苦しさを覚える。
 ……今日は初めから、薪を誘うつもりだった。
 鈴木は薪に告げたいことがあった。これを聞いても、薪はこの笑顔を自分に見せてくれるだろうか。

 コーヒーに砂糖を2杯も入れる自分を見て、また子供の味覚だと笑う親友に、鈴木はその言葉を口にするのを躊躇う。しかし、言わなければならない。
「あのさ、薪」
「ん?」
 暖かい部屋と程よいアルコールのおかげで、桜色に上気したきれいな顔が無邪気に微笑む。その微笑がこの告白によって消えないことを祈りつつ、鈴木はその言葉を口にした。

「オレ、雪子と結婚することにした」

 亜麻色の目が大きく見開かれて、コーヒーカップがガチャンと耳障りな音を立てた。その瞳に一瞬宿った哀しみを、鈴木は見逃さなかった。
 が、それは瞬時にかき消され、薪はにっこりと微笑んだ。
「そうなんだ。おめでとう」
「喜んでくれるか?」
「当然だろ。長い春だったよな、おまえら。いつ結婚するんだろうって、こっちがやきもきしてたよ」
 先刻までと変わらない笑顔。
 鈴木から眼を逸らしたりしない。コーヒーカップを持つ手に震えもない。
 一瞬の翳りは自分の見間違いだった―――― それもまた淋しいな、と鈴木は勝手なことを思う。

「よかった。おまえのことだけが心配でさ。おまえとはその……色々あったから」
 色々、という言葉で過去をごまかしてしまうのは、卑怯な気がした。
「ちょうど14年前の今日だよな。オレたち」
「いつの話してんだよ。もう忘れたよ」
 薪は、平然とコーヒーを飲んでいる。まるで他人事のような口ぶりだ。
言い出した鈴木のほうが言葉に詰まって、視線を自分のコーヒーカップに落としてしまう。

「あれは若気の至りっていうかさ。気の迷いみたいなもんじゃん? 酔ってたし、興味もあったし。ただのアソビだよ、あんなの。その証拠に、すぐに飽きちゃっただろ? やっぱり、セックスは女のほうが気持ちいいよな」
 薪もまた、曖昧な言葉に逃げたりはしない。過去は消せない。だからきちんと清算して、その上で乗り越えていかなくては自分たちに未来はない。

「僕も彼女作ろっかな。そんで、おまえらより早く結婚してやるよ」
「クリスマスに予定もないやつがよく言うよ」
「ばっか。僕がその気になれば、相手なんかわんさかいるんだぞ。官房長の娘だって僕に気があるって噂、おまえ知らないの?」
「マジで? すげえじゃん、それ」
 出所は不明確だが、そんな噂があるのは確かだ。しかし、あくまで噂である。だいたい、官房長の娘はまだ中学生だったはずだ。
「出世コースど真ン中だろ。狙っちゃおうかな、警察庁官房室室長」
「おまえなら行けそうなところが怖いよ」
 政略結婚なんかしなくても、薪の実力なら本当にいけそうだ。しかし、それにはもう少し、上役に媚を売ることを覚えなくてはならないが。
「僕が官房長になったら、おまえを首席参事官にしてやるよ」
「えー? オレ、一生おまえのお守り役かよ」
「あたりまえだろ? 結婚くらいで僕から逃げられると思うなよ」
 薪は声を上げて、あはは、と笑う。

 十余年の歳月は、人をこれほど成長させるのか。
 役職や仕事の面ではとうてい敵わないが、精神的な面では自分のほうが大人だと思っていたのに。いつの間にか置いていかれていたのは、自分の方だったらしい。

「は~。とんでもないやつと友達になっちゃったよな」
「そう言うなって。親友」
 薪が悪戯っぽい笑顔でコーヒーカップを突き出す。それに応えて、鈴木も同じように自分のカップを掲げた。
「じゃあ、未来の官房長に」
 かちん、とカップを触れ合わせる。
 やわらかい瀬戸物のぶつかる音が部屋に響いて、特別なディナーは終わりを告げた。




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聖夜(3)

聖夜(3)








 聖誕祭の夜、この街は不夜城に変わる。

 街中が浮かれているようで、ふたりともこのまま真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった。
「薪。これからどうする?」
「う~ん、なんか飲み足りないよな」
 2人で徳利を3本では確かに物足りないが、料亭で好きなだけ飲んだら勘定書きが恐ろしいことになる。
 結局、薪の家で飲みなおす事にして、途中の酒屋で好みの酒とつまみを買い込んだ。鈴木は実家から職場に通っているので、こういうときは自然と一人暮らしの薪のマンションに流れることになる。

 玄関の前で、薪は鈴木にストップをかけた。

「掃除してないから、ここで待ってて」
 強引に押し留めて先に中に入るが、1分もしないうちにまた出てくる。
「いいよ」
 部屋の中はきれいに片付いている。えらく早い掃除だ。
「どこ掃除したの?」
 それには答えずに、薪は台所へ行ってグラスとつまみを載せる皿を用意する。焼酎用のお湯と梅干。冷酒用のぐいのみ。鈴木が手伝いに来て、ついでに冷蔵庫を物色していく。

「お、美味そうな煮物。あ、卵焼きがある。薪、これ食っていい?」
「いいけど。でもおまえ、あれだけ食ってきてまだ食うのかよ」
「だって薪の卵焼き、絶品なんだもん」
 一切れつまんで、鈴木は満足そうに頷いた。
「なんでおまえの料理って、こんなに美味いんだろ。オレの好みドンピシャっていうか」
 その理由は簡単だ。
 このレシピは、鈴木の母親に習ったのだ。もちろん鈴木には内緒で、こっそりと教えてもらった。だから薪の料理は家庭的なものが多く、鈴木の好みの味付けなのだ。当然これは、鈴木の母親と薪だけの秘密である。

 場所をリビングに移して、2人は酒盛りを始めた。
 根菜の煮物と卵焼きを肴に、鈴木は焼酎のお湯割を飲んでいる。買ってきたサラミやチーズには手をつけていない。
「雪子もこのくらい料理が上手かったらなあ」
 ため息交じりに鈴木が愚痴る。雪子は料理が大の苦手なのだ。
「結婚したら料理は鈴木の担当だぞ、きっと」
「どうなんだろうな。包丁もろくに使えない監察医って」
「外科医じゃなくて良かったと思うしかないんじゃないか?」
 顔を見合わせて、くすくす笑う。いまごろきっと雪子はくしゃみをしているだろう。

 冷えた吟醸酒をぐいのみに注いで、薪はその芳醇な香りに目を細める。さりげなさを装って、気になって仕方のなかった話題を振ってみる。
「結婚式って、いつの予定なんだ?」
「まだ決まってない。結納は3月の予定だけど。そういや、婚約指輪とかも要るのか」
「なんだよ。指輪も買ってないのかよ」
「指輪っていえば―――― おまえ、昔オレがやった指輪、どうした?」
 どうした、と言われても咄嗟にはうまい言葉が見つからない。ここは冗談に紛らすことにして、薪はわざと冷たい顔を作った。
「鈴木。まさか使い回す気じゃ」
「無理無理。あれは細くて雪子の指には入らないよ。そうじゃなくてさ、まだおまえが持ってるのかなと思って」
 薪は眼を閉じて冷酒をすする。肩を竦めて投げやりな口調で、鈴木の問いに答えた。
 
「さあ。どっかいっちゃったよ」
「人から取り上げといて失くしちゃったのかよ? ひでえな」
「引越しとかしたからな」
「あれ、けっこう高かったんだぞ」
「いったん人にやったものを今更ぐずぐず言うなよ。セコイやつ」
「そういう問題じゃないだろ。大事に持っててくれるんならともかくさあ」
「いいから、結婚式の日取りだよ。仕事の都合とか、調整しなきゃならないだろ」
「まあ、来年中にはってカンジかな」
「……勤務表の組みようがないんだけど、それ」

 ずいぶんいい加減な話だ。結婚を決めたというだけで、まだ形になっていないらしい。
 それでも雪子とは両家ともに公認の仲だから、親のほうでいろいろと準備を進めてくれるのだろう。

「ほんと美味いなあ。この卵焼きだけでも雪子に教えてくんない?」
 結婚式の予定より、鈴木には卵焼きのほうが重要らしい。
「前に教えようとしたんだけどさ、雪子さんすごい不器用で。いくらやってもスクランブルエッグになっちゃうんだ。しかもカチカチのやつ」
「いいや。オレ、ここに朝メシ食いにくるから」
「僕のうちは定食屋じゃないぞ」
 そこで結婚の話題は途切れた。
 そこからは、大学時代の友達のことや警察庁の噂話や第九の七不思議、気に入らない上役のこきおろしまで話は弾み、聖なる夜は更けていった。
 薪は、鈴木と過ごすこういう時間が大好きだった。やっぱり男同士は気楽でいい。
 鈴木になら何を言っても安心だし、どんな言い方をしても自分の本意を汲み取ってくれる。薪がいちばん信頼し、心を許せる相手―――― それが鈴木だった。

「あれ、もうこんな時間か。薪、オレ、泊まってっていい?」
「いいよ」
 話に夢中で、終電が無くなったのにも気付かなかった。
 明日は平日だ。もうそろそろ休まないと、仕事に差し支える。
 薪は風呂の用意をして、食器を台所に運んだ。シンクに水を溜めて汚れた皿をつけておく。洗うのは明日の朝だ。今日はもう、風呂に入って眠りたい。
 
「鈴木。風呂は?」
「オレいい。面倒」
「汚いなあ。雪子さんに嫌われるぞ」
 アルコールが回ってしまうと、確かに少し面倒くさい。でも、薪は大の風呂好きだ。特に冬は必ず湯船につかりたい。

 風呂から上がると、鈴木の姿がない。てっきりソファで寝ているものと思っていたのに、用意してやった毛布ごとどこかへ行ってしまったようだ。
 まさかと思って寝室を覗いてみると、長身の男がちゃっかりとベッドに寝ている。
「鈴木。僕のベッドだぞ」
 肩をつかんで揺さぶり起こす。まったく図々しいやつだ。
「このベッド、セミダブルだろ。半分貸してくれよ」
「狭いよ。おまえ、ソファで寝ろよ」
「いいじゃん、クリスマスなんだし」
「それ、どっかで聞いた……」

 腕を掴まれて、ベッドに引きずり込まれる。広い胸に抱きこまれて、薪は身体を強張らせた。
「うわあ。薪、ほかほかしてる」
「風呂から出たばかりだから」
 他の男なら気持ち悪いけど、相手が鈴木だと心地よい。不思議なものだ。
「いい匂い。あったけー」
「僕は抱き枕じゃないぞ」
 鈴木はそのまま、眠りに戻ってしまった。

 ひとの気も知らないで呑気なものだ、と薪は思う。
 鈴木とこんなに密着していたら―――― とても平静ではいられない。

 先刻、料亭で僕はへまをしなかっただろうか。
 声は震えていなかったか? 涙は浮かんでいなかったか? 不自然にはしゃぎ過ぎなかったか? 座卓の下の膝は震えてしまっていたが、気取られずに済んだだろうか。
 僕の本心に、鈴木は気付かなかっただろうか。
 ―――― きっと大丈夫だ。
 薪には上手くできた自信があった。

 警察庁に入庁して12年。なかでも、第九の室長として5年を過ごした日々が、薪の心を強くしてくれた。
 どんなに心が乱れていようとも、冷静な表情を繕うことができる。相手をどれだけ不快に思っても、にこやかに笑うことができる。そうでなくては室長として、世間や警察庁内の迫害から第九を守ることなどできない。

 薪はそっと鈴木の腕の中から抜け出して、ベッドを降りた。
 これは自分がソファで寝るより仕方がない。鈴木と同じベッドで熟睡できるはずがない。

 そのまま振り返らずに、ベッドを離れればよかった。しかし、薪は不覚にも立ち止まってしまった。そして鈴木の寝顔を見てしまった。
 薄明かりの中、あの頃より大人びて色香を感じさせる―――― 男らしい寝顔。
 薪の心臓がとくんと高鳴って、息が苦しくなる。見えない力に引き寄せられるように、薪の顔が鈴木の寝顔に近づいていく。

 だめだ、しっかりしろ! また鈴木を困らせるつもりか!?

 激しくかぶりを振って、薪は奥歯をぎりっと噛み締めた。十余年の間に培ってきた理性が、薪を思いとどまらせてくれる。乱れた呼吸を整えて両の拳を握り締める。
 ところが、鈴木はどこまでも薪の心を揺さぶってくれた。
 
「む~……」
 何事か呟くと、薪の頭を掴んで自分のほうに引き寄せる。
 寝ぼけているとは思えない、深いくちづけ。

 時が―――― もどる。
 14年前の今日に。初めて鈴木とキスをした……初めて鈴木と結ばれた、僕が生涯で一番幸せだったあのときに。

 くちびるが離れて、鈴木は再び安らかな夢の世界へ降りていく。

 ……これ以上はとても無理だ。

 薪は足音を殺して、リビングへ逃げた。
 暖房の切れた居間はひどく寒い。持ってきた毛布にくるまって、薪はソファに蹲った。自分の両肩を抱くようにして、小さな身体を丸める。ふと思いついて、ローテーブルの引き出しから一枚の写真を取り出した。
 鈴木と二人で、第九の前で撮った写真。
 鈴木は薪の背後からふざけて薪に抱きついている。そのたくましい腕に両手を掛けて、薪が嬉しそうに笑っている。薪の気持ちがひと目で分かってしまうような、幸せそうな笑顔。

 さっきは掃除と偽ってこの写真を隠した。こんな写真を見られたら、自分の気持ちが一発でばれてしまう。鈴木が気にしていた指輪も、もちろん大事にしまってある。あの指輪は薪にとって大切な思い出の品だ。

 薪のきれいな顔が悲しみに歪んで、写真立てのガラスカバーに透明な液体が滴り落ちる。
 声を殺して、息を殺して、溢れ出す気持ちを押し殺して。
 いったい、いつまで――。
 いつになったら、この想いから解放されるのだろう。
 いつになったら、鈴木を忘れられるのだろう。
 こんな……こんなつらい、想い。
 もう10年以上も昔のことなのに、どうして。どうして、僕の中からこの感情は消えてくれないのだろう。

 仕事が一緒だから? 毎日、鈴木の顔を見ているから?

 結婚するって聞いただけでこの有様だ。こんなことで、ちゃんと自分の役目が果たせるのだろうか。
 友人として上司として、結婚式に出席して祝辞を述べて。誓いのキスに拍手をして。子供が生まれたらお祝いにベビーカーを贈って。
 幸せそうな3人を見て、笑うことができるのか? 狂わずにいられるのか?
 無理だ。僕には無理だ……。
 
「なんだよ、ちくしょう」
 僕は14年前から、まるで成長していない。
 鈴木の親友に相応しい男になろうと、頑張ってきたつもりなのに。雪子さんにどんどん引き離される。

 涙には終わりがない。後から後から溢れ出して、薪のすべらかな頬を濡らしていく。
 やがて泣き疲れて眠るまで―――― 薪の慟哭がおさまることはなかった。





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聖夜(4)

聖夜(4)







 静まり返ったリビングに、月の光が差し込んで彼のひとを照らしている。
 小さく折り曲げられた細い身体。やさしい美貌。長い睫毛は涙に濡れて、白い頬にはその痕跡がある。

 膝を折り、長身をかがめて、鈴木は薪の寝顔を見つめている。
 薪の上に流れた十余年の歳月は、その美貌を損なうどころか彼をますます美しくした。あの頃より今のほうが、幼さの中にも大人の色香を漂わせて鈴木の心を惹き付ける。

 ―――― オレがいちばん大切なのは、おまえだよ。

 亜麻色の髪を撫でて、そのさらさらとした手触りに、酔う。

 ―――― おまえが好きだよ、薪。
 でも、そのために何もかもを捨てることは、オレにはできない。
 雪子のことも、確かに愛している。親や恋人や自分の将来を捨てて、おまえだけを求めることはオレにはできない。オレにそこまでの勇気はない。

 それに。

 それはそのまま、おまえのすべてを奪うことにも繋がるから。第九の室長としての地位も名誉も、おまえの夢だった警察官の職も、全部おまえから奪うことになるから。

 だから、愛しているとは言わない。

 おまえの気持ちはあの頃と変わっていない。オレには分かってる。
 だからこそ言えない。
 オレがそれを口にしたら、大学の時と同じようになってしまいそうで、それが怖い。
 あの頃のように、恋に溺れてオレに溺れて、仕事も何も手につかなくなって。今のおまえは20歳の子供じゃなくて、自分自身を制御できるかもしれないけれど。

 でもやっぱりそれは、おまえの本当の幸せじゃない。

 せっかく神様が与えてくれた明晰な頭脳を、もっともっと上まで昇りつめられる可能性を捨ててしまうことが、おまえの幸せだとはどうしても思えない。
 もしも、オレとあの頃のように愛し合ってしまったら、正直なおまえのことだ。言葉に態度にその事実を露呈させてしまうだろう。我儘なおまえは偽装のための結婚なんか思いもよらないだろうし、本当はやさしいおまえが傷つけ合うだけの関係を他人に強いるわけがない。

 仮に関係を隠し通せたとしても、一生、日向には出られない。
 そんな悲しみをおまえに味あわせるぐらいなら、オレはこの言葉を飲み込んで墓場まで持っていく。生涯ただの親友として、おまえのことを見守っていく。

 薪の頬を濡らした液体を唇で吸い、万感の想いを込めて、そのつややかなくちびるにくちづける。

 薪―― 薪……愛してる。
 これは、オレのトップシークレットだ――――。






 そして、翌年の8月。
 貝沼事件の捜査が始まる。




 ―了―



(2008.9)


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エピソード・ゼロ(1)

 こちらは、鈴木さんが亡くなった直後の薪さんのお話です。

 悲しい薪さんが苦手な方は、ご遠慮願います。
 イタグロが苦手な方も、ご遠慮願います。
 内容は薪×雪に近いです。 あおまき・すずまき派の方は、スルーしてください。


 ……あ、すぎさんしか残ってない。(笑)
 というわけで、すぎさんに捧げます。山本×薪のお礼です。





エピソード・ゼロ(1)




 蒸し暑い夏の夜。
 じめじめと不快な湿気が触手のように纏いつく空気の中を、薪は重い足取りで歩いていた。
 彼の頼りない胸の内側のポケットには、一度返された香典袋。両腕には、部下が好きだった白い百合の花束。
 薪が向かっているのは、死んだ部下の自宅だ。

 先週、地区の斎場で行なわれた彼の葬儀に、薪は出席していない。
 彼が亡くなった経緯はとてもセンセーショナルなもので、様々なメディアに取り沙汰された。事件の当事者である薪は、日夜マスコミの襲撃を受けていた。その事情を知る当家がマスコミに葬儀を妨げられるのを警戒し、薪の参列を拒否した。

 そんな事情でもなければ、ありえないことだった。
 親友の葬儀に参列できないなんて。

 ブロックの上に白い柵が回された塀の前で、薪は足を止めた。ごくごく普通の、二階建ての住宅。窓からは、部屋の明かりが漏れている。
 おずおずと、細い指が呼び鈴を押す。
 家人が出てくるまでの間が、ひどく長く感じられる。
 インターホンからは、何の音も聞こえない。家の人にドアを開けてもらえないなら仕方ない、今日はこのまま帰ろうか、と卑怯者が囁く誘惑に、薪は必死で耳を塞ぐ。

 薪がここに来るのは、ほぼ10日ぶり。
 そうだ、たった10日前だ。自宅療養中の鈴木を見舞い、彼の母親と話をしたのは。

 精神的に参っている状態だから、気をつけてあげてください、と言った薪に、鈴木の母親は気丈にも笑顔で答えた。
「大丈夫よ。今夜は克洋の好きな煮込みハンバーグを作ったから。明日は元気になって、仕事に行けるわ」
 多分、あの画像を見た後でハンバーグは食べられないだろうと思いはしたものの、それを口にすることはできず、薪は曖昧に微笑んだ。
「だから薪くん。克洋の仕事を残しておいてね」
 彼女の笑顔は、掃除したての蛍光灯より周囲を明るくする効果があった。その笑顔でいつも家族を元気付けている彼女は、自分の肉親にするのと同じように薪に笑いかけてくれた。
「鈴木の仕事は僕が引き受けますから。ゆっくり休ませてやってください」
「そんなのダメよ。薪くんの方が倒れちゃうわ。あなた、また痩せたみたいじゃない」
 その時の彼女は強引に、薪の手にハンバーグの入ったタッパを持たせ、玄関口まで薪を見送ってくれた。
「薪くんも身体に気をつけてね。あなたはわたしたちの子供も同然なんだから」
「ありがとうございます。塔子さん」
 無理をしてでも、食べておけば良かった。多分、彼女の手料理は、これから先は食べられないだろう。

 カチャリ、と金属製の音がして、玄関のドアが開いた。
 息子を亡くした母親が、無言で出てきた。
 彼女は、薪の顔を見ようとしなかった。ひたすら俯いて、足元に視線を落としていた。
 10日前とは別人のように憔悴して老け込んだ彼女の姿に、薪は胸を衝かれた。
 きちんと挨拶をしなければ、詫びの言葉を述べなければ、と思ったが、声を出すことができなかった。

「お母さん。だれかお客さん?」
 押し黙った二人の耳に、若い女性の声が聞こえた。声の主は、廊下の奥の方から玄関に向かって歩いてくる途中だった。
 母親の向こうに薪の姿を認めて、凍りついたように足を止める。
「薪兄……」
 薪のことを兄と呼ぶのは、この少女だけだ。

 彼女の名前は千夏。鈴木の妹だ。
 千夏のことは、ヨチヨチ歩きの頃から知っている。鈴木とはずい分年が離れていて、薪が鈴木の家を始めて訪れたとき、彼女はまだ3歳だった。薪はその頃から、料理修行と称して頻繁に鈴木の家に出入りしていた。
 幼児期の彼女に刷り込まれたのは、2人の兄の存在。もちろん、鈴木のほうが実の兄妹である分、結びつきは強かっただろうが、薪のこともよく慕ってくれていた。

「千夏ちゃん」
 言いかけて、薪は言葉を止めた。
 千夏は、薪が初めて見る表情をしていた。

「なんで? どうして薪兄が、洋兄を?」
 玄関口に立つ薪の顔をじっと見て、千夏のアーモンド形の瞳が音にならない呪詛を吐く。

 あんなに仲良しだったのに、どうして?
 どうしてお兄ちゃんを殺したの?
 返して、返して、返して。
 お兄ちゃんを返して。

「止しなさい、千夏!」
 塔子に厳しく叱責され、千夏は目にいっぱいに涙を溜めて、バタバタと自分の部屋へ駆け込んで行った。
「ごめんなさい、薪くん」
「いえ……千夏ちゃんの態度は当然だと……」
「ごめんなさい」
 塔子の様子がおかしいことに気付いて、薪は口を閉ざした。

 ちがう。
 この「ごめんなさい」は、娘の無礼に対する謝罪の言葉ではない。

 ごめんなさい。
 わたしたちは――。
 あなたを憎むことを止められないの。
 ごめんなさい、あなたが悪いわけじゃないことは、ちゃんと解っているの。それでも、心の中が荒れ狂って、あなたを責めたくなる自分をとめられないの。

 ――― 責めてください。僕はそれだけのことをしました。

 いいえ、いいえ。
 あなたに責任があるとかないとか、もう関係ないの。
 あなたを気遣ってるんじゃない。わたしたちには、そんな余裕はないの。
 ただ、克洋が泣くから。
 あなたを責めたら、わたしの中のあの子が泣くから。それがつらくて、でも、自分を抑えるのもつらいの。
 だから……二度とここへは来ないで。

 その会話は、一言も声にはならなかった。この先も、二人の口から洩れることはないだろう。

 やさしいひとたちだから。
 僕に向けるべき刃で、自分自身を抉っていく。そんなひとたちだから。
 もう、二度と会えない。

 本当の息子のように可愛がってくれた、慈しんでくれた。
 兄のように慕ってくれた、笑いかけてくれた。
 ずっと憧れていた家庭の温もり。それを与えてくれた彼らを、僕が不幸のどん底に突き落とした―――。

「わかりました。……鈴木さん」
 乾いた声で、薪は言った。
 それが鈴木の母親との、最後の会話だった。



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エピソード・ゼロ(2)

 ご注意ください。
 暗黒系のお話です。


 カップリングは薪さんと雪子さんです。
 あおまき・すずまき派の方はスルーしてください。
 薪さんが雪子さんにフォールインラブしてます! って、冗談です。(冗談言えるような内容か、これ)








エピソード・ゼロ(2)




 薪のもとにその連絡が入ったのは、夜中の3時頃だった。
 連絡をくれたのは田城だった。携帯電話から聞こえてくる言葉に、薪は蒼白になって身を震わせた。

 雪子が自殺を図った。

 料理用の包丁で、自分の手首を深く切っていた。遺書も身辺の整理もしていなかったところを見ると、発作的な自殺だったようだ。
 発見が早かったため、命に別状はなかったが、あの強気な彼女が自殺しようとした、そのことが薪に激しいショックを与えた。

『ちょっと、手が滑っちゃって』
 病室を見舞う薪に、彼女は健気に笑って見せた。
『もう二度と料理はしないわ』
 薪は、雪子に笑い返すことができなかった。
 雪子に会うのは鈴木の葬儀のとき以来だが、彼女はずい分、小さくなっていた。血色の良かった頬は、かさついて張りがなかった。いつもきらきらと輝いていた黒い瞳は、死んだ魚のようにどろりと濁っていた。

 そんな雪子の様子を思い出しながら、薪は空を見上げていた。
 病院の屋上に立って、明け染める夏の空を見ていた。夜中降り続いた雨のせいで、屋上の床にはあちこちに水溜りができていた。
 足を引き摺るように歩いて、屋上の端まで行く。7階建ての天端から見る地上の風景は、濃い朝靄が立ち込めていて、飛び込んだらふわりと受け止めてくれそうだった。
 ここから落ちたら、楽になれる。その誘惑に負けそうになる。
 薪の足が、ふらりと踏み出された。

「なにやってんの」
 がしっ、と後ろから回された腕に、首を押さえられた。
 引っ張られて、後ろに尻もちをついた。雨に濡れたコンクリートから冷たさが伝わってきて、でも立つこともできなくて。
「しっかりしなさい!」
 薪の後ろから彼のからだを拘束している人物もまた、床の上に両膝をついていた。
 薪の首に巻きついたままの細い腕には、痛々しく包帯が巻かれていた。真新しい包帯の白さが目に沁みて、思わず泣きそうになった。

「って、あたしが言っても説得力ないわよね」
 自嘲する声が、薪の耳に届いた。弱々しい声だった。
 いつも自信たっぷりにハキハキとものを言う、薪の友人の声とは思えなかった。
 
「ごめんね、薪くん。あたし、自分のことばっかり考えちゃった」
 首に回された腕をほどくことも抱くこともせずに、薪は呆然としていた。
 雪子は、なにを謝っているのだろう。

「こんなことして、あなたがどれだけ傷つくか……そんなことも思い浮かばなかった。情けない。克洋くんに笑われちゃうわね」
 後ろを向いて、雪子を抱きしめて一緒に泣きたい、と思った。そうすれば、二人で痛みをわかちあえるかもしれない。自分の苦しみも雪子の悲しみも、半分になるかもしれない。
 でも。

 泣いてはいけない。
 僕にそんな権利はない。
 死んでもいけない。
 僕にそんな救済は許されない。
 
 泣くことも死ぬことも、僕にはかなわない。
 だから。

「誤解しないでください。死ぬ気なんかありませんから」
 お願いです。
「そんなバカな真似はしません。せっかく拾った命を捨てるなんて、もったいない。それに、正当防衛と認められた事件で僕が自殺したら、警察の隠蔽工作を疑われるじゃないですか」
 お願いですから、雪子さん。
「鈴木も困ったことをしてくれましたよね。あのくらいのことで狂うなんて、情けないったら。こんなことで、出世の邪魔をされちゃたまらないな」

 僕を憎んで。
 せめてあなただけでも、僕を憎んでください。

 なんでもいいから、僕に罰を。
 罵りの言葉を。
 あなたを一生許さない、と言ってください。

 首に巻かれた腕が、ゆっくりと解かれた。自由になった薪の体は、瞬間、その場に崩れそうになる。それを意思の力で留め、雪子の怨詛を受け止められるよう、しゃんと背筋を伸ばした。
 しかし、薪が期待した雪子の声は、聞くことができなかった。そのかわり、頭頂部に手のひらが置かれた。
 言葉ではなく力技か。雪子らしい。
 髪を掴まれてコンクリートの上を引き回されたら、気持ちいいかもしれない。雪子さんは優しいから、せいぜい僕を引き倒すくらいだろうけど。

「……何してるんですか」
 清潔でやさしい手が、薪の頭を撫でていた。
 頭頂部から後頭部にかけて、何度も何度も繰り返し、髪の上を滑っていく温かさに、薪の声が震える。
「克洋くんが。薪はこうしてやると落ち着くからって」
 虚脱感に襲われて、薪は背中を丸めた。
 敵わない。雪子には、とてもかなわない。
「馬鹿馬鹿しい」

 雪子の手を邪険に払いのけ、薪はさっと立ち上がった。
 いつの間にか辺りはすっかり明るくなり、ビルの谷間から上ってくる閃光が、強く薪の瞳を射た。眩しさに、思わず顔を背ける。
 床に跪いたままの雪子を見ないようにして、屋上のドアに向かう。ドアを開けて、背中で彼女の気配を探る。
 動きはない。雪子はまだ、あの冷たい床に座ったままだ。

「病人はさっさと病室に帰りなさい」
 雪子のからだが冷えてしまう。
 鈴木の愛した大切な女性のからだが、冷たくなってしまう。

「鈴木の後を追いたきゃ、止めませんけど」
 早く、立ち上がって。
 なおもあなたを傷つけようとするこの極悪人に、どうか裁きを。

「雪子さん」
 我慢比べに負けたのは、薪の方だった。
 薪がためらいつつも振り返ると、雪子は床に座ったまま、昇ってくる太陽をじっと見ていた。

 朝の清浄な光が、雪子を包んでいる。
 彼女はきちんと正座をし、太陽に向かって姿勢を正し。その姿は気高く、けがれなく。悲しみも苦しみも、朝の光に浄化されていくようで。
 こんなに美しい女性を今まで見たことがない、と薪は思った。
 
「きれいね」
 落ち着いて力強く、心地好く響くアルト。
 それはいつもの彼女の声だった。

 薪はドアを開けたまま、階段を下りた。カツカツと乾いた靴音が、静かな病院に木霊する。
 静まり返った廊下を、薪はひとりで歩いた。救急用の出口から外に出て、差し込んできた太陽に背を向ける。
 自分にはもう、光はいらない。

 もういい。
 雪子も鈴木の両親も、僕にそれを与えてくれないなら。
 僕は自分で自分を憎むしかない。

 罪人には罰を。
 その罪にふさわしい処罰を。
 殺人者には、未来永劫の苦しみを。夜毎の煉獄を。
 意識が途切れるほどの責め苦を。痛みを。絶望を。

 僕に必要なのは、それだけ。




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エピソード・ゼロ(3)

 ご注意ください、暗黒系です。

 薪さんが好きな人は読まないでください。
 お食事中の方は読まないでください。
 動物好きの方は読まないでください。
 それからえーっと、……もう、すぎさん以外、読まないでください……。





エピソード・ゼロ(3)





 ―――僕に罰を。

「薪くん。あんまり無理しちゃ駄目だよ。昨日も床で寝てただろう」
「僕をベッドまで運んでくれたの、田城さんだったんですか? ありがとうございました。ええ、大丈夫です。これからはちゃんと仮眠室で寝ますから」
 ―――誰か、僕に罰を。

「薪くん。ぼくのところへおいでよ。歓迎するからさ」
「ありがとうございます。小野田さんのお気持ちは、とても嬉しいです。だけど、僕は第九に残ります。僕が今ここを離れたら、第九は潰れてしまいますから」
 ―――罰を。

「薪警視正の行動は、完全な正当防衛であります。鈴木警視は重度の錯乱状態にあり、長年面倒を見てきた部下に2発の弾丸を発砲された薪警視正はむしろ、被害者であったと検察側は判断します」
 ―――誰でもいいから、僕に罰を。

「マスコミの言うことなんか、気にしないで。元気出してください。わたしたちは薪警視正の味方ですから」
「ありがとう。差し入れ、美味しかったです」

「お前は悪くないよ。そんなに思い詰めるなよ」
「うん。もう大丈夫だよ。心配かけて、悪かったな」

 他人のやさしさが。
 僕を思いやってくれるみんなのこころが、僕を包む。
 
 ――――死にそうだ、と薪は思った。
 
 真綿で首を絞められるように、段々、息ができなくなっていく。
 優しい言葉はいらない。いらないんだ。
 僕に必要なのは。



***



 暗闇の中で、薪は目を開けている。
 久しぶりに自宅に帰って床に入ったものの、一向に眠気は差してこない。
 もう、何日寝てないんだろう。
 研究所にいれば仕事があるから、時間をもてあますことはない。薪は何も考えず、機械的に仕事をしていればいい。限界を超えれば、からだの方が勝手に休息を取ってくれる。あれが薪にとっては、一番楽な時間の過ごし方なのだ。

 こんなふうにやることもなく、漫然と空を見ていると。
 ほら、出てきた。

 白いワイシャツが、ぼう、と浮かび上がり、男のからだになった。顔は闇に沈んで見えないが、背が高く、若く逞しい。どちらかというと貧弱な体つきの薪が羨望する、大柄な肉体。
 その左胸から、真っ赤な血が流れはじめる。
 最初は針で突いたような小さな点。みるみる広がって、やがてはシャツから滴り落ちるほど。
 泉のように湧き出る赤い液体は、細い川のごとく流れ、薪の足元に集まって小さな池を作る。

 次第に水かさを増す血の池に、薪は陶然と立ち竦む。
 その液体は生臭く鉄臭く、不快な臭気を発していたけれど、たしかに親友の匂いがして。だから薪は彼に包まれていくような感覚に、うっとりと目を閉じる。
 白いつま先が、踵が、くるぶしが。侵食される細胞が、歓喜を訴える。

 ふくらはぎの中間地点で、水位は止まった。
 見ると彼の肉体はなく、シャツだけが池に浮かんでいた。ワイシャツは血に染まることもなく白いままで、それは彼の清廉な人格の証。でも、肝心の彼はいない。
 薪は慌てて、地べたに手をついた。夢中で血溜まりの中を両手で探る。しかし、そこには固体らしきものはない。
 この中に、かれは溶けてしまったのだろうか。

 かれはどこにもいない。
 永遠に、僕の前から姿を消してしまった。

 薪を包んでいた赤い水は徐々に引いていき、最終的に薪は真っ白な空間に取り残された。上も下もない、空虚な世界。色もなく、音もない。自分のからだ以外、薪の目に入るものはない。
 膝の上に投げ出された、華奢な手が2本。それを薪は、異質な生き物のように見つめる。その二つには、僅かな相違点があった。
 手のひらでは分からなかったが、裏返すと片方だけ、爪の間に血が残っている。魚の内臓を引き出した後のように、爪と肉の間に深く深く染みこんだ朱。

 この手が。
 この右手が、僕の大事なひとを奪った。この世でたったひとりの、僕の親友を殺したんだ。

 左手が、まだ血に汚れていない自分の左手が、罪を犯した右手を強く握り締めた。爪が右手の甲を抉った。微かに滲む朱。
 心地よさに、薪はうっすらと微笑んだ。

 ―――もっと。

 起き上がり、おぼつかない足取りでふらふらと歩いて、サニタリーに入った。鏡の前には歯磨きセットと片刃のカミソリ。
 カミソリを左手で持って、右の手のひらにあてがう。すうっと刃を滑らせると、ゾクゾクするような美しい色が、白い手から流れ出した。

 ―――もっと、罰を。

 ふと目を上げると、鏡の中に薄ら笑いを浮かべた男の顔があった。
 寝乱れた亜麻色の髪。出来の悪い蝋人形のように艶のない頬。長い睫毛に囲まれた髪と同じ色の瞳の、ガラス玉のように無機質な光。

 薪は、その人物がだれかを理解する。
 これは、鈴木を殺した男だ。

(こいつがぼくのすずきをころした)
 刹那、激しい憎しみが薪の全身から沸き起こった。
 身体中の血が、沸騰するような怒りだった。脳の部分は特に熱く、細胞が焼き切れるかと思った。
 怒りに任せて、血にまみれた右手を思い切り鏡に叩きつけた。鏡には細かくひびが入り、それは薪の右手の4本の指を本人が望むより遥かに軽く傷つけたに過ぎなかった。

 しかし、薪にはそれで充分だった。
 憎むべき男の顔は、不均一に崩壊した鏡面に副うように醜く崩れた。

 ―――もっと、もっと。
 人殺しに、重い罰を。

 鋭く薄い刃が、ゆっくりと白い頬に押し当てられる。冷たい金属の感触。
 そのとき、静寂を破ってガシャンと何かが割れる音が響いた。
 音のした方向に行って見ると、大きな石が窓ガラスを破って部屋に投げ込まれていた。部屋の入り口に立ち尽くしていると、続いて何かが放り込まれ、どさりと鈍い音を立てて床に落ちた。次いで、急ぎ遠ざかっていく足音。

 薪は、その場に剃刀を落とした。
 薄暗い部屋の中に、足を踏み入れる。迷いなく進む優雅な足を、ガラスの破片が傷つけていく。
 夏の夜の外気が流れ込む窓辺に寄り、床に両膝をつく。月明かりでキラキラと輝くガラスの欠片に彩られたそれを、薪は両手で抱き上げた。
 持ち上げると、その痩せた腹からずるりと長い筒状のものがこぼれだした。どす黒く腐敗して、蛆が沸き始めている内臓。泥だらけの乾いた毛並み。
 薪にプレゼントされたのは、中型犬の死骸だった。

 凄まじい悪臭を放つ死体を抱いたまま、薪はゆっくりと床に身を横たえた。ガラスが薪のからだを数箇所傷つけたが、痛みは感じなかった。

 ありがとう。
 どこの誰かは知らないけど、僕の欲しかったものをくれて。

 犬の首に顔を埋め、死の匂いを肺腑いっぱいに吸い込んで、薪は4日ぶりの眠りについた。




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エピソード・ゼロ(4)

 ようやく後半です。
 短い話でも、暗黒系は長く感じますね。
 推敲のための読み直しが辛かった~~。(><)←だったら書くなよ。

 ここからは辛くないです。
 落としたら上げないと。
 しづのお話の目的は、薪さんを幸せにすることですもの。



 みなさまの拍手とコメに励まされてます。
 すぎさん以外だれも喜ばない話だな、と読み直したとき思いましたから。(書いてるときは何も考えてない)

 でも、うちの薪さんはこういうひとだからこそ、青木くんが必要なんです……。





エピソード・ゼロ(4)




「岡部。今日も僕の家に来る気か」
「迷惑ですか?」
「かなりな」
 ムッと膨れるいかつい男の顔に、薪は笑いを噛み殺す。
 岡部は正直だから、思っていることが顔に出る。容疑者との駆け引きの時には見事に心を偽ることができるが、プライベートでは素のままの彼が表に現われる。そんな彼の率直さを、薪は好ましいと思う。

「今日は久しぶりに、チラシ寿司作ろうかな」
 独り言みたいに呟いてやれば、それが薪からの歩み寄りだと、ちゃんと彼は分かってくれて、引き結んでいた唇を苦笑の形に変える。
「茶碗蒸しも付けてもらえます?」
「けっこう図々しいな、おまえ」
「あー、本の整理、手伝いますから」
「プラス、風呂と蛍光灯の掃除」
「了解です」
 交渉が成立し、ふたりは軽く拳を合わせる。捜一にいたものなら誰もが知っている、それは喜びを表現する儀式。

 事件から約三週間後。
 第九は新しい仲間を迎えた。

 彼らとの出会いは、薪に新しい生活を運んできてくれた。
 様々な嫌がらせを受け、同じマンションの住民からの苦情が殺到したため、住まいも変えた。新しいマンションは、小野田が紹介してくれたいくつかの物件の中から選ばせてもらった。ローンの残りを清算するために、貯金の殆どを叩く羽目になったが、今の薪には大した問題ではなかった。当座の生活費があれば、それでいい。欲しいものなど何もないし、そんなに長く生きる予定もない。
 初めはそう思っていたが、岡部や他の職員との交流が増えるにつれ、捨て鉢な考えは為りを潜めていった。特に岡部との絆は日々深まり、今では仕事だけでなくプライベートの時間も多く共有するようになっている。
 警察内部の第九に対する反感は厳しかったが、薪の熱心なファンもいて、時々差し入れをしてくれた。女の子らしく、薪の苦手なプリンやケーキなどの甘いものが多かったが、中には薪好みの野菜がたっぷり入ったサンドイッチやピザなど、夕食代わりになるものもあり、こちらは素直にありがたかった。

 その日も、会議室から帰ってきた薪をクリスピータイプのイタリアンバジルが待っていた。
「いい匂いがするな」
「あ、室長。お帰りなさい。これ、室長の分ですよ」
 モニタールームに入った途端、鼻をひくつかせて部下のところへやってきた薪は、差し出されたピザの箱から一切れつまみ、その場でパクリと噛み付いた。可愛らしくすぼまったくちびるから、溶けたチーズが糸を引く。
 その様子を横目で見ながら、小池と曽我のふたりも別の箱からミート系のピザを取り出す。こちらはLサイズと大きくて、しかも二種類のチーズがこってりと載っていた。

「室長。システムチェックのことなんですけど。どうしても上手く行かなくて」
「どの辺でエラーが出る?」
「どの辺もこの辺も、なんかもう最初っから」
「どれ、見せてみろ」
 3人とも、モニターを見ながらピザを頬張る。時刻は夕方の6時過ぎ。ちょうどお腹が空く時間だ。

「お前らが食ってるのって、ハンドトスタイプだよな」
 テストが軌道に乗って機械任せになると、薪は、かねてから少しだけ疑問に思っていたことを口にした。自動的にウィンドウが開いていくモニターを眺めながら、エラーの兆候に神経を尖らせつつ、疑問の続きをふたりの部下に投げかける。
「どうしていつも、このピザだけクリスピーなんだろう」
 ふたりは何も答えなかった。黙ってモニターに集中している。
「これを差し入れてくれるのって、いつも同じ娘だろ? どんな娘なんだ?」
 カリッと焼かれた薄い生地と火の通ったトマトの強い酸味は、薪の好みど真ん中だ。他の差し入れには見向きもしない薪だが、このピザだけは外したくない。
「奥ゆかしい娘だよな。僕のファンだって言いながら、いっぺんも顔を見せない」
 チーズは少なめ、トマトは多め。そんな細かいトッピングまで薪の好みに合わせてある。よほど入念に自分のことを調べたのだろう。薪の友人の誰かが、彼女に協力しているのかもしれない。
「一度くらい会って、お礼を」

 そこまで言って、薪は突然立ち上がった。
 ピザの箱を抱えて、モニタールームを出て行く。

「……ばれたかな」
「薪さんのことだから。遅かれ早かれ気付いたろうけど、おわっ!」
 二人の呟きは、大きなエラー音に掻き消された。ピーピーという機械音が、ふたりの新米職員を焦らせる。
「エ、エラー出たぞ! どうすんだ、これ」
「慌てるな。まずはええと、このボタンだ!」
 曽我が手元のボタンを押すと、音はビービーという更に大きな警告音に変わった。
「なんか、怒ってるみたいだぞ!?」
「間違えたかな。じゃあ、これ?」
「いい加減に押すなよ、曽我! このままにして室長に聞いた方が確実……あ」
 モニターに意味不明の英数が流れ、急速に画面が切り替わっていった。4つの目が見つめる中で、やがてMRIシステムは沈黙し、真っ暗なモニターに初期設定の画面が。

「……リセットかかっちゃった」
「1週間分の捜査資料、飛ばしちゃったってこと……?」
 不吉な沈黙の後、小池の悲鳴がモニタールームに響いた。
「うあああ! 室長に殺される!」
「ヤバイ、ヤバイよ~。どうにかしないと」
「そうだ。岡部さんがやったことにしよう。室長、岡部さんの操作ミスは怒らないから」
「よし、それで行こう!」
「なにがそれで行こうだ!!」

 野太い男の声に怒鳴られて、二人の若者は思わず肩を竦めた。恐る恐る振り返ると、今まさに濡れ衣を着せようとしていた相手が、憤怒の表情で仁王立ちになっている。
「うわ!岡部さん、いたんですか!?」
「今、捜一から帰ってきたんだ。まったく、おまえらときたら!」
「ままま、お一つどうぞ」
「まだ温かいですよ、これ」
「いらん! ピザなんかで誤魔化されるか!」
 年長者の威厳を見せて、岡部は一通りの説教をした後、Lサイズのピザを手に取り、3口で食べた。
「結局、食べるんだ」
 小池がぼそりとこぼすのを聞かぬ素振りで、2枚目に手を出す。半分近くを一度に口に押し込んで、殆ど噛まずに飲み込んだ。良く噛んで食べろ、といつも薪に注意されるのだが、捜一で鍛えた早食いのクセはなかなか直らない。

「中庭で室長を見たぞ。ピザの箱を持ってた」
「室長、どちらに向かわれてました?」
「北」
 3人は心の中で、同時に同じことを考えた。
 北側に建っている研究棟に配置されているのは、第一から第四までの研究室。その1階でメスを握っているであろう女性のことを。



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エピソード・ゼロ(5)

エピソード・ゼロ(5)




 法医第一研究室の入り口で、薪はピザの箱を持ったまま逡巡していた。

 顔を出して、いいものだろうか。
 いや、仕事の上では既に、何度も顔を合わせている。合同会議の席で、向かいに座ったこともある。
 あの時、終始うつむいていた僕を、雪子さんはどう思っただろう。一度も彼女の顔をまともに見なかった僕を、卑怯者だと軽蔑しただろうか。

 ……何をいまさら。
 軽蔑も何も、僕は彼女の婚約者を殺した人間だ。彼女には、僕を弾劾する権利がある。彼女がその権利を行使してくれるのを、僕は期待していたのではなかったのか。
 2ヶ月程前、市立病院の屋上で。
 雪子に憎まれたいと望んでいたのは、ただのポーズだったのか。悲劇の主人公を気取りたかっただけの、浅はかな絶望ごっこだったのか。
 僕は、彼女に罵られることを怖がっているのか。

 こんな風にドア口に立ったまま、やっぱり帰ろうかと迷っていたことが前にもあった。葬儀の後、鈴木の自宅を訪ねたときだ。
 あの時のじっとりとした空気が戻ってきたような気がして、薪は息をつめた。

「薪室長」
 不審者のような薪に声をかけてくれたのは、雪子の助手の女の子だった。名前は確か、菅井といったか。
「雪子先生にご用ですか? 今、呼んできますね」
「あ、いや、あの……ピザのお礼を言いたかっただけだから。君から伝えておいてもらえませんか」
 薪の言葉が終わるのを待たず、彼女は研究室に入ってしまった。雪子先生、と呼びかける声がする。

 雪子はすぐに出てきた。
 仕事のことだと思ったらしく、手にボールペンと手帳を持ち、その場でメモが取れる体勢を整えていた。
 ピザの箱を両手に持ったまま、雪子の顔を凝視している薪を見て、彼女は手帳を閉じた。沈んだ顔つきになると、ごめんなさい、と謝った。
「ごめんね。余計なことして。もう、しないから」
 彼女は、とても申し訳なさそうだった。
 自殺未遂で搬入された病院にいたときより、暗い表情だった。

 雪子が謝らなければいけないことなど、何もない。
 すべては僕の。

「次は、ハーゲンダッツのアフォガードがいいです」
 ピザの箱が潰れるくらい強く両の手に力を込めて、薪はリクエストした。
「雪子さんが、ご自分で持って来てください。もちろん、雪子さんの分も一緒に」
 僕は何を言ってるんだろう。
 言うべき言葉は、こんなものではない。でも、何を言えば彼女の気持ちが楽になるのか、薪にはそれがわからない。

 謝罪を?
 それとも、こんなことはやめて下さいと、お互い辛くなるだけでしょうと、差し伸べてくれた手を払いのけたらいいのだろうか。病院の屋上で、頭上から彼女の手を払ったように、あの行動をもう一度繰り返すべきなのだろうか。彼女のありったけの勇気とやさしさを踏みつけにして、自分の欲しいものを得ようとする、それは正しい行動だろうか。

「僕が、F&Mのダージリンティーを淹れますから」
 罵りの言葉は欲しいけれど、鈴木の両親と同じように、僕を憎むことで彼女が傷ついていくのなら。
 その役目は、彼女にはさせられない。

 この選択は、間違っているのかもしれない。
 彼女との友情は、ここで断ち切るのが正しいのかもしれない。
 これから僕たちは、傷つけ合うだけの関係になっていくのかもしれない。
 お互いの顔を見るたびに、僕たちの間にいた彼のことを、その痛ましい死を思い出して、傷を新たにしていくのかもしれない。
 だけど。

 僕は、彼女の笑顔が見たい。

「ダージリンは高いから。アッサムでいいわ」
「助かります。第九の予算も厳しくて。下半期には確実に削られそうだし」
「あらやだ、第九も? うちもよ。新型のスコープ、欲しかったのに。先送りだって。まったく、上の連中は現場の人間の苦労を分かってないのよね」
「分かります分かります。僕も、第九のシャワールームをユニットバスに改造して欲しくて、田城さんに5回も申請書を出したのに撥ねられちゃって。埒が明かないから、次は直談判に持ち込んでやろうかと」
「……上の人間には上の苦労があるのね」
「なんでいきなり達観してんですか?」
 
 田城所長もかわいそうに、と笑いだす彼女に、薪は涙ぐみそうになった。

 13年前のあの時も、薪は雪子の強さに助けられた。そして、現在も。
 まるで彼女は自分を導く女神のようだ、と薪は思った。



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エピソード・ゼロ(6)

 終章です。


 暗いお話を読んでくださった方、ありがとうございました。
 嫌な気持ちになってしまわれた方、申し訳ありませんでした。

 せめて最後はあおまきで。
 わたし、あおまきすとですから。





エピソード・ゼロ(6)




 耐え難い喪失感が襲ってきたのは、それからだった。
 雪子に許されて、鈴木の親には遠ざけられて、僕はこれからどんな理由で生きていけばいいのだろう。
 鈴木のいない、この世界で。
 すべての輝きを失った、灰色の空間で。
 目指すものもなく、励まし合う友もいない道を、どうやって歩いていけばいいのか見当もつかない。

 鈴木は、こんな僕をどう思っているんだろう。
 僕が殺した僕の親友は、僕に何を望むのだろう。

 生前の鈴木が望んでいたもの。それは、第九の仕事と―――愛しい婚約者。
 ならば答えは簡単だ。
 彼が命を懸けた職場を守り、彼の愛した女性の幸せに尽力し、僕の人生はそれだけのために。僕は鈴木が成したかったことを、必ず成し遂げてみせよう。

 考え抜いた末、やっと見つけた『自分がこの世に存在してもいい理由』。
 それを心に誓った日、薪はアルバムの中から鈴木の写真を幾枚か選び、部屋の中に飾った。写真の隣には、鈴木の好きだった白い百合を。

 朝に晩に、薪は写真に笑いかけ、話しかけ、キスをする。
 愛の言葉を語り、時には愛の行為すら。それは薪が取り戻した、15年ぶりの蜜月。

 僕は彼の囚われ人。
 鉄格子も拘束具もないけれど、この牢獄が僕の終いの住処。
 しなければならないいくつかのことを終えたら、きっと鈴木が迎えに来てくれる。


 

 そうして、新たに人生の目標を定め。
 粛々と人生の残務を消化する薪の前に、彼が現れた。
「青木一行です。よろしくお願いします」

 鈴木と同じ顔。
 同じ体躯、同じ性格、同じ魂。
 もしかしたら、と薪は思った。

 その予感は、青木が取った新人らしからぬ行動によって確信に変わった。
 彼こそ。
 天が使わした、執行人だ。
 躊躇なく、僕を煉獄の中に放り込んだ。僕の罪を暴き、知らしめ、確定させた。

 鈴木の脳を見てから始まった夜毎の悪夢を、薪は歓迎した。
 この断罪が続けられる限り、僕は生きていてもいい。

 待ち焦がれた処罰を受け入れたときの安堵感。自分の肌に爪を立てるときの安心感。一時の苦痛で、薪は暫しの平穏を得る。
 翌日、きちんと仕事ができるように、夜のうちにたっぷりと仕込んでおかなければならない。事前準備を念入りに行なうほど、明日はしっかりと立っていられる。
 だから、傷は深く、長く。
 いつまでもズキズキと疼くように、昨夜の傷跡の上を忠実に抉っていく。
 
 昼間は青木の顔を見る。そこに自分が殺した男の姿を重ねる。そうして薪は、自分の罪を毎日更新する。
 それは薪にとっては、生きていくうえで必要なこと。
 贖罪だけが、彼の生きる意味。




*****





 薪の穏やかな償いの日々が変化したのは、秋。
「オレが好きなのはあなたです」
 眇められた亜麻色の瞳が、目の前の男を訝しげに見た。

 執行人が?
 罪人に、好意を?
 バカバカしい。

 心の平常を取り戻すために、薪は書類に目を落とした。
「僕はそういうジョークは嫌いだ」
 
 不意に頭を掴まれて、上向かされた。声を上げる暇もなく、くちびるを押し付けられていた。
 口唇を閉じるのも間に合わなかった。無防備に開けられた口の中に、彼の舌が入ってきた。

 捕われる小さな舌と、驚きに瞠られた瞳。
 押しのけなければいけないのに、何故か動かない両手。
 心の奥で微かに蠢いた、あってはならない感情。

 神さま。
 これはなんの冗談ですか?


―了―





(2009.11)


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エピソード・ゼロ~あとがき~

 読んでくださって、ありがとうございました。


 どうして突然、こんな話を書いてしまったかというとですね、
 最近、みちゅうさんのところのダーク系を読んで、そのあまりの辛さにごはんが喉を通らなくなったからです。
あれは原作の薪さんの絶望、そのものだと思います。

 どっぷりと落ち込んだので、リハビリをすることにしました。それがこのお話です。
(どこが? って聞かれても、ええと、その)
 だから、鈴木さんを亡くした直後でも、うちの薪さんはけっこう幸せだった、というお話になってます。
 ……ますよね?(←自信ない)

『岡部警部の憂鬱』で書いたように、あの事件のすぐ後、岡部さんに会った薪さんは、彼によって救われます。最初の頃のやさぐれた態度は、誰でもいいから自分を糾弾して欲しいと願っていた薪さんの心情が影響したものだったと思われます。
 なので、当時薪さんが受けていた警察内部の敵や世間からの嫌がらせは、彼にとってはある意味救いだったわけです。薪さんが平気な顔をしていたのは、そういうことです。

 
 
 うちの薪さんと雪子さんは、異常に仲がいいです。
 ていうか、薪さんが雪子さんのことを大好きなんですね。ヘンなお話ですね。(^^;

 薪さんの幸せな世界を構築する上で、彼女は絶対に避けて通れない人物だと思います。完全にお話から閉め出す方法もありますが、わたしは逆に、取り込むことを考えました。何故かというと、4巻で薪さんが自宅に3人の写真を飾っていたからです。

 鈴木さんと2人で映っている写真ではなく、3人の写真であることから、
 この3人はきっと仲が良かったんだろうな、薪さんは雪子さんのことを嫌いではなかったんだろうな。だったら、雪子さんと仲良くできたら薪さんは喜ぶだろうな、と思ったからです。
 そして5巻に始まる暗黒で、自分の考えが大間違いだったことを知るわたし。考察力、ゼロ(笑)

 
 作中で薪さんは雪子さんのことを、
『こんなに美しい女性を今まで見たことがない』とか、
『まるで彼女は自分を導く女神のようだ』なんて思ってます。
 うちの薪さんて、雪子さんに惚れてたのか? と読み返してびっくりしましたが。(書いたそばから忘れていくので、何を書いたか覚えてない)
 どうやら、そういうことではないみたいです。(もちろん、読む方の解釈は自由ですが)
 
 恋愛感情ではないけれど、異性を大好きになることはありますよね。
 うちの薪さんと雪子さんは、そういう関係です。
 決して恋愛には発展しないけれど、お互いのことをすごく大事に思って、相手の幸せを願っています。わたしが理想とする人間関係です。

 雪子さんとそんな関係を作れたうちの薪さんは、やっぱりとても幸せなひとなのでした。

 それに加えて、うちの薪さんは、周囲の人々にとても愛されています。
 正直な話、ひとが幸せになるためには、恋人の存在よりもこちらの方がより大切だとわたしは思っています。
 人は一人では幸せになれないけれど、二人でも三人でもダメだと思います。たくさんの人々と支え合いながら、幸せになっていくものです。会社やってると、しみじみそう思います。
 だから、うちの薪さんは本当に幸せなひとなんです。(って、それじゃ青木くん要らないじゃん(笑))


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言えない理由 side A (1)

 5000拍手のお礼です。
 薪さんが鈴木さんに振られる話です。 暗いです。
 でも、読み直したら報告書みたいに書かれてたんで、そんなに辛くないと思います。(←突っ込んで書くのが辛かったらしい)

 そんなわけで、中途半端なお話で申し訳ないんですけど、
 リクエストをくださったドSの方々に捧げます☆






言えない理由 side A (1)







 後戯は恋人たちにとって、大切な時間だと青木は思う。
 激しい交歓のあと、お互いを慈しむように抱き合う時間。男というものは欲望が去ってしまうと愛情も冷めてしまうものだが、青木は違う。性欲に支配されがちなセックスの最中より、むしろこちらのほうがより強く相手を愛おしく感じることができる。
 しかし、青木の恋人はイヤになるほど男の特徴を持ったひとだった。それもそのはず、相手は12歳も年上の男性なのだ。

「ウザイ。離れろ」
 行為が終わった途端、口にしたセリフがこれである。ひどい、というよりいっそムゴイ。セックスの余韻を楽しむどころか、先刻までの情熱を消し去るような言い草だ。
「もうちょっと付き合ってもらえません?」
「いやだ。眠い」
 青木を受け入れたまま、そう言って大きな欠伸をしたかと思うと、ことりと横を向いて目を閉じてしまう。余韻も何もあったものではない。

「もう少しこのままでいたいです。お願いですから」
「うるさい、早く退け。もっとやりたきゃどっかの女に処理してもらえ」
 きれいな顔を歪めて、ぞんざいな口調で吐き捨てる。
 青木は穏やかで滅多に怒らない男だし、この恋人は2年もかかって口説き落とした相手で今もメロメロに惚れているし、しかも職場の上司だしで何を言われても口答えなどしたことがないのだが、さすがにこれには黙っていられなかった。

「薪さんて、オレのこと本当に好きなんですか?」
「さあ」
「さあって……オレのこと、なんだと思ってるんですか?」
「セフレ」
「そんなあ」
 このひとは平気でこういうことを言う。その無神経さが、青木をどれだけ深く傷つけているか知っているのだろうか。

 がっくりと肩を落として、情けない顔になった青木を、薪は心の中で嘲笑っている。
 青木のこういう顔を見ると、腹の底がぴくぴく震えてくるのは何故だろう。妙にハイな気分になって、笑い出したくなる。薪には自分が意地悪だという自覚はない。
 青木はため息混じりにベッドを出て、それでも薪にパジャマを着せてくれる。実際、薪は眠くて仕方がない。服を着る余裕もないのだ。
 正直な話、もともとこちらの方はあまり強くない。12歳も年下の男の欲望に付き合いきれるほどの体力も性欲もない。終わった後はぐったりしてしまって、指一本動かしたくないくらいだるい。

「シャワー借りますね」
 若い恋人が薪にキスをして寝室を出て行く頃には、薪はうとうとと夢の世界を彷徨い始めている。恋人に抱かれたすぐ後で、薪は昔の恋人を夢に見る。
 自分にベタ惚れの恋人をセフレと言い切ったり、ベッドの直後に昔の男のことを考えたりするなんて限りなく不実な行為だ。薪にも自覚はあるが、それを改めるつもりはない。

 だって、これは青木のためだから。

 付き合いはじめてもうすぐ1年。
 ちょうどこれぐらいの時期だった。鈴木との間がギクシャクし始めたのは。
 あの当時は分からなかったが、今の薪にはその原因が理解できる。自分の愚かさも、鈴木のやさしさも、雪子の愛情の深さも。
 今度はしくじらない。蒙昧だった幼い自分はもういない。

 深い眠りに落ちていきながら、薪は16年前の苦い日々を振り返っていた。




*****





 20歳の薪は、人生で最高の幸福期にいた。
 恋焦がれた相手が、自分の恋人になってくれた。自分の身に訪れた幸せが信じられなくて、毎日が夢のようだった。
 
 相手は同性の同級生で、薪は想いを打ち明けることもできずにいた。それまで男を好きになったことなどなかったから、そのうち冷めるだろうと自分でも思っていたのだが、彼を好きだという気持ちは薪の中でどんどん膨れ上がって、挙句の果てには我慢しきれず、無理やり彼にからだの関係を迫ってしまった。ずい分勝手な話だ。それなのに限りなくやさしい彼は、薪の気持ちに応えてくれて、薪のことを恋人として認めてくれた。

 この当時の薪は、文句なしに輝いていた。
 こころから愛した相手に自分も愛されているという自信が彼をきらめかせて、周囲の人間を虜にした。男女の別なく、引きも切らさず誘いが掛かった。
 しかし、薪が見ていたのは鈴木だけだった。他の人間など、眼中になかった。どうでもいい人間のことで、鈴木にあらぬ誤解を受けることのほうが怖かった。だから薪は、自分に寄せられた好意をことごとく跳ね除けた。そのせいで、薪の交友関係はひどく狭いものになっていった。

 鈴木によって開かれた薪の世界は、鈴木一色に塗りつぶされて収束しようとしていた。
 鈴木とただの親友だったころは付き合っていた他の友だちともゼミ仲間とも、プライベートでは一切関わらなくなった。いつも鈴木とふたりきりでいたかった。他の人間は必要なかった。

 僕の世界には、鈴木だけいればいい。
 薪は本気でそう思っていた。

 恋に溺れるというのは正にこういう状態を云うのだな、と後で分かったけれど、そのときはこんなにも深く愛せる相手と巡り会えた幸せに浸っていて、客観的に自分を見ることなどできなかった。
 思えば、それがよくなかった。あまりにも相手を愛しすぎた。大きすぎる愛情で相手を窒息させ、激しすぎる恋情で相手を焼き尽くしてしまった。

 鈴木との別れは薪に深い傷を残したが、薪には一生に一度の激しい恋だった。後にも先にも、あれほど強く誰かを欲したことはなかった。
 全世界と引き換えにしても、鈴木が欲しかった。命を捧げてもいいから、自分を愛して欲しかった。
 そんな身を滅ぼすような恋をしていた、あのころ。

 あの時代に戻りたいとは思わない。そこでなら鈴木が自分を愛してくれると解っていても、あんな愚かな自分に戻るのは嫌だった。どこまでも子供で果てしなく無知で、なにひとつ分かっていなかった20歳の自分。
 そんな嫌でたまらない過去の自分を、薪は鮮明に夢に見る。

 忘れてはいけない。
 恋をしたとき、自分がどれほど残酷な人間になるのか。自分の恋心だけに捕らわれて、相手をどれだけ傷つけてきたのか。
 あの過ちを二度と繰り返さないために、薪は幾度も辛い過去を思い出しては自分を戒める。

 薪の夢の中で20歳の自分が、またバカなことを考えている―――。



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言えない理由 side A (2)

 すみません、お願いです。

 しづはアタマ悪い上に家が貧乏で、大学に行ってないんです。なので、大学の授業のこととかゼミのこととか、よくわからないのです。(←だったら調べろ←調べたんだけど、よくわかんないの!)
 その辺、かなーりいい加減に書いてしまってるので、おかしいところがあったら教えてください。ストーリーに影響しない範囲で直しますので。
 よろしくお願いしますm(_ _)m








言えない理由 side A (2)






 ――昨夜の鈴木はすごかった。
 まだからだの奥がジンジンいってるみたいだ。セックスはそんなに好きじゃないけど、鈴木にしてもらうと愛されてるって気がして、すごく幸せな気分になる。
 今夜も会えるかな。……あ、だめだ。ゼミがあるんだっけ。面倒だな。
「薪くん」

 遅くなってもいいから、ちょっとだけでも逢えないかな。逢いたいな。キスだけでもいいから、したいな。
 机の下にこっそりと忍ばせた携帯で、鈴木にメールを打つ。
 ―――アイタイ。
「薪くん!」

 厳しい声に我に返って、僕は顔を上げた。
 いつも僕に目を掛けてくれる葛西教授が、渋い表情でこちらを見ていた。
「このレポート、書き直しだ。君がこんな完成度の低いものを持ってくるとは思わなかったよ。身体の調子でも悪いのか?」
「いえ」
 しおらしく答えながらも、僕はちょっと不満だった。
 今日の講義は終わって、ゼミ仲間はみんな近くの喫茶店で時間を潰してる。僕だってコーヒーぐらい飲みに行きたいのに、こうして教授に呼び出されてお説教なんて。

「この頃成績が落ちてるぞ。先月の定期試験、15位だったな。君がトップから落ちるなんて、何かあったのか」
「すみません。気をつけます」
 レポートの不可を食らったのも首席から落ちたのも初めてのことだったけど、そんなことはもうどうでもよかった。
 鈴木のことしか考えられない。他の事なんてどうだっていい。

 僕はただ、鈴木が喜んでくれることだけ、鈴木が僕を愛してくれることだけを考えていたい。鈴木のためなら何だってする。どんなことだって受け入れる。もしも鈴木が望むなら、大学を辞めたって平気だ。
 だいたい、勉強なんてもともとそんなに好きじゃない。他に面白いことがないからやってただけで、そんなつまらないことをしているヒマがあったら、鈴木の好きな料理の一つも鈴木のお母さんに習ったほうがいい。
 今夜のゼミだって、僕がいなきゃ進まないってわけじゃない。前回も休んじゃったから今週は出ようかと思ってたけど、やっぱり気が乗らない。

 てか、鈴木に会いたい。
 
 薄い携帯が手の中で震えて、メールの着信を知らせる。そこに彼の名前が表示されるだけで、無機質な金属の塊が、まるで宝石のようにキラキラして見えるのはどういう作用なんだろう。

「あの、教授。今日のゼミなんですけど、ちょっと用事があって。抜けちゃダメですか?」
 他の学生から非難の声が上がるほど僕に期待を掛けてくれていた教授が呆れた顔をしていたけど、そんなことは気にもならなかった。
 教授の承諾をもらう前に、僕は研究室から出た。教授は追いかけては来なかった。
 こんなことを繰り返していると見放されてしまうかもしれない、と頭の隅にちらりと浮かんだけれど、そのときの僕には今夜の夕食のメニューの方が大事だった。

 とにかく、鈴木に逢いたくてたまらない。
 今夜は鈴木の好きなハンバーグにしよう。ケチャップとソースで煮込んだやつ。鈴木の味覚は子供に近いから、ケチャップ多めが好きなんだ。人参は少なめに、玉ねぎは細かく、挽肉は潰しすぎないで荒く食感を残して。
 足取りも軽く夕食の買い物をし、鼻歌交じりで料理を作る。鈴木のために何かできることがうれしくて、ひとりでいても自然に笑顔になる。端から見たら、何をそんなに浮かれてるんだと呆れられそうだが、約束の時刻が迫るにつれて踊りだす心を止めることはできない。

 チャイムが鳴って、鈴木の声がする。
 走って行ってドアを開ける。ドアを閉めると同時に、玄関口で鈴木に抱きついてキスをねだる。鈴木はやさしくキスしてくれて、僕をぎゅっと抱きしめてくれる。その瞬間、僕は世界でいちばん幸せな男になる。

「鈴木。今日は何時ごろまでいられる?」
「おまえが泊めてくれるんなら、明日の朝まで」
「僕はいいけど、鈴木のうちのひとに怒られないか?」
「薪と一緒だって言えば大丈夫。薪は絶対の信用があるから。オレの言うことよりおまえの言うことを信じるもんな、うちの親」
 たしかに。
 鈴木とこうなる前は、鈴木が彼女と夜を過ごすときのカモフラージュに、僕は何度も利用されていた。僕が1本電話を掛ければ、鈴木は無罪放免になるらしかった。

 鈴木と朝まで過ごせるのが嬉しくて、僕は自分でも恥ずかしいくらいはしゃいだ気持ちになる。食事もそのあとのことも、すごく楽しみだ。
「あ、ダメだよ。料理が冷めちゃう」
 背中から下方に下りていく手に、僕はストップを掛けた。いくらなんでもこの場でなんて。まだ外が明るいのに。
「こっちが先。もう我慢の限界」
「なにが我慢だよ。昨夜あんなにしたくせに」
「そんなにしたっけ?」
「したよ。僕がイヤだって言ってるのに、3回も」
「おまえ、嫌だなんて云ってた?」
 言ってない。
 だってイヤじゃなかった。

 恋人同士になって10ヶ月。ようやくベッドの方も慣れてきて。痛み以外のものもそこはかとなく感じられるようになって。そんな状態で大好きな恋人が自分を求めてくれることが、嬉しくないはずがなかった。
 だから今の「ダメ」はただのポーズに過ぎなくて。一応、言ってみたというかお約束というか。鈴木もそれは解っているからこっちの言うことなんかお構いなしに、その場で僕の服を脱がせ始めた。
「や、やだよ、こんなところで。ベッドに行こうよ」
「相変わらずお堅いやつだな。明るいところでするエッチも楽しいぞ」
「いやだ。絶対に嫌だ」

 以前ネットで見た男同士のセックスの映像は、僕の中でかなりのトラウマになっていた。部屋を暗くしなかったら、あんなことはできない。自分の身体も相手の身体も、あまりよく見えないほうがいい。
 苦笑とともに鈴木は僕のわがままを聞いてくれて、寝室に移動してくれた。カーテンを閉め切って、明かりは点けない。薄暗い闇の中に、ふたつの影が蠢き始める。
 性急に抱きしめあい、求めあう。せわしなく手を動かして、互いに相手を快楽に導こうとする。ふたつの呼吸が激しさを増していき、二種類の声が互いの名を呼び合う。その声には溢れるほどの愉悦が滲んでいる。
 やがてふたつの影はぴったりと重なって、ひとつになった。

「鈴木、鈴木。ね、気持ちいい?」
「うん。おまえは?」
「僕もすごくいいよ」
「ウソつけ。痛いくせに」
「大丈夫だよ。最初のときに比べたらぜんぜん平気。だからもっと」
 本当は、まだかなり痛い。
 でも、鈴木が僕を求めてくれる。鈴木が僕を愛してくれる。
「あっ、あっ、すずきっ!」
 そのよろこびが、痛みを消してくれる。愛される幸せが、僕のすべてになる。
「大好き、大好きだよ。僕、鈴木の他は何にも要らない……いっ!」
「いたい?」
「平気。だから止めないで」
 僕は夢中で腰を振る。鈴木が悦んでくれるなら、この痛みさえも幸福感に変わる。
「もっと、もっと! 僕のこと愛してっ……!」

 最高に幸せな時間を共有したあと、僕たちは空腹に気付く。情事の余韻の中で身体をつなげたまま、ぐう、と鈴木の腹が鳴って、僕は思わず吹き出した。
「鈴木ってば、ムードが台無し!」
「やっぱ色気より食い気だな。オレの場合」
「まったく、お子ちゃまだよな。鈴木は」
 笑いながらベッドを出て、手探りで服をさがす。鈴木と早くひとつになりたくて床に脱ぎ散らかしてしまったから、下着を見つけるのも一苦労だ。

「あ!」
 床にしゃがんで下着を探していたら急に部屋が明るくなって、僕は慌てて床に落ちていたシャツでからだを隠した。鈴木は裸のままでも恥ずかしくないみたいだけど、僕はダメだ。鈴木とこうなる前は平気だったけど、今は恥ずかしい。
「鈴木! 電気消せよ!」
「だってこんなに暗くちゃ、何にも見えないだろ。おまえのパンツ間違えて穿いてっちゃったらどうすんだよ」
「鈴木が僕のパンツ穿いたら破れちゃうだろ。無駄にでかいんだから」
「無駄ってことはないだろ。そのうち、この大きさが良くなるって」
「なんの話だよ!」
 いやらしいことを言うから、顔めがけて下着を投げつけてやった。それは見事に鈴木の顔にヒットして、ふたりしてゲラゲラ笑った。
 笑ったらおなかが空いた。

 台所から居間に料理を運んでいくと、鈴木はなにやら難しい顔をして机に向かっていた。右の手に数枚のレポート用紙を持っている。その表紙には大きく赤い文字で『不可』と書かれている。あまり他人には見られたくない代物だ。
「薪でもレポートに不可なんてつくことあるんだな。あれ? これ提出期限、明日までじゃん。いいのか? こんなにのんびりしてて」
「いいよ。それ、そのまま出すから」
 昼間、葛西教授に返されたレポートだ。今夜書き直す予定だったが、鈴木が泊まれるって言うから、そっちはどうでもよくなってしまった。
「そのままって。不可ついてんぞ、これ」
「じゃあ、読んでみろよ。そんなにひどくないから」
 鈴木は素直にレポート用紙を繰り始めた。鈴木がレポートを読んでいる間に、僕は食事の準備をする。テーブルに湯気の立つ料理を並べ、缶ビールを開ける。季節はもうとっくに秋に入っていたけど、今日はとても天気が良くて昼間は暑いくらいだった。鈴木はこういう日にはビールを飲みたがる。

「本当だ。なんで不可なんだ? これくらい書けてりゃ、オレなら可だな」
「だろ? あの教授、意地悪なんだよ。いいよ。これこのまま出して、これ以上のものは僕にはムリですって突っぱねるから」
 鈴木はレポートの出来と評価の差に首を傾げていたが、思慮深げにうがった意見を述べた。
「でもさ、きっと教授はおまえならもっといいものが書けるって思って、わざと不可にしたんじゃ」
「買いかぶりだよ、そんなの。迷惑」
「もしかしたら、論文コンクールに出すつもりなんじゃないのか? おまえ、たしか去年はグランプリ獲っただろ? 葛西教授は今年もおまえに賞を取らせようと」
「要らないよ、あんなもの」

 大学連盟主催の学生論文コンクールのグランプリは、たいして魅力のある賞じゃなかった。もらえるものは、賞状と盾と報奨金。奨学生の僕にとって賞金は魅力だったけど、論文作成に費やす時間をバイトに当てたほうがずっと見返りは大きかった。
「僕は鈴木とこうしていられたら、何にもいらない」
 シラフのときに言うのはちょっと照れくさかったけど、僕は本音を白状した。こう言えば鈴木はきっと『かわいいやつ』とか言って、僕を抱きしめてくれるんじゃないかと思った。
 でも、鈴木はそうしてはくれなかった。
 
「それはちょっとまずいだろ。オレたち学生だぞ。本分は勉強だろ?」
 今からでも大学の図書館に行ってレポートの手直しをした方がいい、と言い出した鈴木を、僕は子供じみた不満顔で睨んだ。
「鈴木は僕との時間が減っても平気なのか? 僕はいやだ」
「そういうんじゃなくてさ」
「つまんない話はおわり。さ、ごはん食べよ。今日は鈴木の好きなケチャップ味の煮込みハンバーグだよ」
 鈴木の母親に習ったハンバーグはとても好評で、その夜はすごく楽しかった。食事のあとは当然のようにもう一度ベッドで愛し合って。一緒に眠りに就いて、一緒に朝を迎えて。
 寝ても覚めても鈴木と一緒にいられることの幸福感が、僕の愛情を膨らませていく。こうして鈴木に抱かれるたびに、同じベッドで朝を迎えるたびに強まっていく愛情を、僕はこころから歓迎した。

 翌日、僕はレポートをそのまま提出した。
 教授はため息を吐いたが、なにも言わずにそれを受け取った。彼はとても悲しそうな目をしていたが、そのときの僕にはその意味が解らなかった。



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言えない理由 side A (3)

言えない理由 side A (3)







 そんなに幸せだった僕たちの関係が壊れ始めたのは、その年の冬。
 鈴木の笑顔と口数が減って、ときどき黙り込むようになった。
 自分以外の人がその心の中に住み始めてる。僕はそう思った。

「あのさ、薪。オレたち」
「今日はビーフカレーだよ。昨日から煮込んでたんだぞ」
「薪、ちょっとオレのはなし聞けよ」
「話なんか後でいいだろ。僕、おなか空いたよ」
「……うん。食べよっか」
 鈴木は何度も別れ話を持ち出そうとした。そのたびに僕はそれを遮って、鈴木の逃げ道を閉ざした。
 話を聞く代わりに、新しく買ったアクセを見せて。別れを告げようとするくちびるをキスでふさいで。離れようとする身体をセックスの快楽でつなぎとめた。

 でも、僕がどんなに努力をしても、離れていく心はどうしようもなかった。心だけは縛りようがなかった。
 僕はそれが悲しくて苛立たしくて、次第に鈴木に当り散らすようになった。些細な言い争いも増えた。その度にやさしい鈴木は折れてくれて、僕の癇癪を許してくれたけれど、イライラは募る一方だった。

 こんなはずじゃなかった。
 その頃の僕は、いつもそう思っていた。

 こんな関係は僕が望んだものじゃない。これなら友だちだったときの方がずっと楽しかった。きっと鈴木もそうだ。少なくとも僕は、こんな嫌な人間じゃなかった。
 鈴木を好きになって、いつも一緒にいたくなって。誰よりも大好きで誰にも渡したくなくて。鈴木のやさしさにつけこんで無理やり関係して縛りつけて。気持ちを押し付けることでがんじがらめにして、鈴木はとうとう息もできなくなってしまった。

 だから鈴木は、他の女の処へ頻繁に出かけるようになった。
 ただの友だちだよ、と鈴木は言ったけれど、僕はその言葉をウソだと決めつけた。
 どこかの女と鈴木の噂が流れる度に、僕は派手に泣き喚いて鈴木を責めて。僕が怒ると鈴木はその女とは別れてくれたけど、すぐにまた新しい女を作って。

 鈴木が僕と別れたがっているのは分かってた。
 でも、絶対に嫌だった。鈴木の心がもう僕にないのは明らかだったけど、それでも嫌だった。
 当たり前だけど、一緒にいてもぜんぜん楽しくなかった。鈴木といるとあれほど世界がきらめいて見えたのに、その年の冬は以前よりもくすんでしまったみたいだった。

 そのうち鈴木は……雪子さんと出会ってしまった。
 雪子さんと知り合ってから、鈴木の心は加速度的に僕から離れていった。僕と話をしながら彼女のことを考えている、と思えることが何度もあった。
 その度に僕は鈴木の意識を自分に向けさせようと、セックスをねだった。僕のことを確かに愛してくれた日々を思い出してもらいたくて、必死だった。

「鈴木、僕のこと好き?」
 行為の最中に、僕は何度もそう訊いた。質問の形式を取っているけど、この状況では完全に強要だ。鈴木が口にできる解答は一つしかない。
「好きだよ。でも」
「僕も! だいすきっ!」
 訊いておきながら最後までは言わせずに、僕は言葉を重ねた。愛してる、と繰り返しながら無理矢理に身体を重ねた。そんなもので相手を繋ぎとめられるとでも思っていたのか、僕は哀しいくらいに愚かだった。

 そんな気持ちでするセックスは、すごく痛かった。心の中がカラカラに乾いていて、それが身体にも影響してくるみたいだった。心は拒んでも身体の方は行為に慣れて、というのが普通なのかもしれないけど、経験の不足からか僕の身体はそうならなかった。でも、それを鈴木に悟られるわけにはいかなかった。
 下手なセックスをしたら、鈴木に抱いてもらえなくなる。鈴木はますます僕から離れて行ってしまう。
 僕は懸命に演技した。甘い声を上げて、身体をくねらせてみせた。だけど、男の身体はとても正直で。僕のそこは射精どころか勃起もしなかった。

 そんな僕とのセックスを、鈴木は拒むようになった。
 初めて拒否されたとき、僕はものすごく悲しかった。おまえはもう要らない、と言われたような気がした。実は気のせいじゃなくて、とうに僕のことは要らなくなってたんだけど、それを認めるくらいなら死んだほうがましだった。
 雪子さんは僕みたいな下らないことは考えなかった。他の女とは違って、鈴木と簡単に寝たりしなかった。鈴木はどんどん雪子さんに惹かれていって……。

 そして破局が訪れた。



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言えない理由 side A (4)

言えない理由 side A (4)







 どうしてあんなひどいケンカになったのか、原因は忘れてしまった。
 僕はとにかく情緒不安定で、つまらないことにもイライラするようになっていたから、きっと些細なことだったんだろうと思う。
 いつもなら苦笑して僕の癇癪を許してくれるはずの鈴木は、その日に限って何故か狭量で、むっとした顔で僕のアパートを出て行こうとした。また他の女のところへ行こうとしてる、と思った僕は、ドアの前に立って鈴木を引き止めた。

 「雪子と約束してんだ」
 他の女ならともかく、あの女だけはいやだった。鈴木の心を僕から引き離すのは、あの女だけだ。
 「どこがいいんだよ、あんな女!」
 僕は鈴木から、彼女を友だちとして紹介されていた。鈴木はあの女と気が合うみたいだけど、僕は大嫌いだった。
 がさつで乱暴で、無神経で大雑把だった。女のクセに僕より背が高くてからだが大きくて、しかも柔道は2段の腕前だった。口も悪いし手も早いしで、女としての魅力には欠けていると最初は思った。
 彼女は鈴木がおかしな冗談を言う度に、鈴木の大きな背中や後頭部をバンバン叩いていた。優柔不断だとか八方美人だとか、そんな言い方で鈴木のことを貶した。
 僕は大事な鈴木に乱暴されるのが許せなくて、鈴木の悪口が許せなくて、彼女に食って掛かった。腕力では到底敵わなかったが、口喧嘩なら負けなかった。
 僕は心の底から彼女を憎んでて、彼女もきっと同じ気持ちだったと思うのに、鈴木は僕たちの仲がいい、と何故か勘違いしているらしかった。鈴木がどうしても、と言うから何回か3人で遊びに行ったのが誤解の原因だったのかもしれない。

 「雪子はそういうんじゃないんだよ。知ってるだろ?おまえも一緒に来ればいいじゃん」
 「冗談じゃないよ。顔も見たくない」
 僕にとって、雪子さんは僕から鈴木を奪う魔女だった。
 あの女のせいで鈴木とうまくいかなくなった、と僕は思っていた。僕と鈴木の間に亀裂が入ったのは鈴木が彼女と出会う前のことだったのだけれど、僕はなにもかもを彼女のせいにした。
 自分が悪いとは考えなかった。
 だって、僕はこころの底から鈴木を愛していて。
 わき目も振らずに鈴木だけを見ていた。こんなに愛してるのに、鈴木だって僕を愛してくれていたのに、僕たちのこころはしっかりと繋がっていたのだから、外部的な作用がなければ壊れるはずがないと信じ込んでいた。

 「あいつ、女のクセにスパイ映画が好きなんだよ。変わってるだろ?映画の時間に遅れちまうからさ、そこどいてくれよ」
 「・・・行かせない」
 「薪」
 「いやだ!」
 雪子さんの存在が、僕を平静でいられなくした。ここで鈴木を行かせてしまったら、僕のところには帰ってきてくれなくなる。僕はそう思い込んでいた。

 「・・・どうしたんだよ。おまえこの頃、少しおかしいぞ」
 「鈴木が悪いんだろ!?僕がいるのに他の女なんかと!」
 刺々しい口調は鈴木のこころを遠ざけるだけだと解っていても、僕はこういう風にしか喋れなくなっていた。もう、何ヶ月もこんなギスギスした会話ばかりしていた。僕自身、いやでたまらなかった。鈴木はもっと不愉快だったはずだ。

 「おまえ、オレに女友だちも持たせないつもりなのかよ」
 「僕は鈴木がいれば他のひとは要らない。友だちもサークル仲間も必要ない。なのに、なんで鈴木はそうじゃないんだよ!僕だけじゃどうしてダメなんだよ!」
 「いい加減にしろよ。ふたりだけで生きていけるわけないだろ?社会に出たらどうする気だよ。結婚もしないつもりなのか?」
 「・・・結婚?」
 僕はそんなことは、ぜんぜん考えていなかった。鈴木も同じ気持ちでいてくれてるとばかり思っていた。
 「じゃあ、僕とは卒業したら終わりってこと?」
 「そういう意味じゃないけどさ。よく考えてみろよ。おまえ、警察官僚目指してんだろ?男とこういう関係持ってたら、世間的にもまずいだろ」

 意外だった。
 鈴木がそんな現実的なことを考えているなんて。

 そのときの僕には、現実なんか何の意味も持たなかった。鈴木との関係を邪魔するものはすべてが悪で、僕の敵だった。子供のころからの憧れでさえも。
 「それなら警官になんかならなくたっていい。IT関連の企業からもオファーはあるし」
 卒業は来年の春だったけど、僕のところには既に幾つもの会社から誘いが掛かっていた。その中でいちばん条件のいいところを選んで就職するのは、べつに悪いことじゃないと思えた。
 しかし、鈴木は僕を非難するように眉をしかめた。僕が警官にならなくてもいい、と言ったことが腑に落ちなかったらしい。
 「なに言ってんだよ。警察官になるのが子供の頃からの夢だって言ってたじゃないか」
 「なんで分かってくれないんだよ、僕は鈴木さえいればいいんだよ!鈴木を失うくらいなら、何にも要らないよ!」
 それは僕の本心だった。僕は全身全霊をかけて鈴木を愛してた。だけど鈴木が僕に返してきたのは、さよならの言葉だった。

 「もうお終いにしよう、薪。オレたち、別れたほうがいい」
 ひどく悲しそうに、鈴木は僕に別れを切り出した。
 僕は鈴木に捨てられたくなくて、必死で首を振った。鈴木に抱きついて、関係を迫ろうとした。それは拒絶された。しばらく前から鈴木は僕のからだには、興味を持たなくなったみたいだった。
 
 「今のおまえは、オレが惚れた薪じゃない」
 なりふり構わず取り縋る僕に嫌気が差したのか、鈴木はとうとう冷たい声で言った。
 「オレが好きだったのは、警察官になってこの世から犯罪を完全撲滅してやるって息巻いてたおまえだよ。警察官僚になって警察機構を上から改革してやるんだって、エラそうに言ってたおまえだよ。オレはそんなおまえが好きだったんだよ。男に縋り付いて泣いてるおまえなんか、魅力もなにも感じない」

 僕は声も出せなかった。
 鈴木が、あのやさしい鈴木が。
 僕にこんなひどいことを言うなんて、信じられなかった。

 「さよならだよ。もう会わない」

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ジャンル : 小説・文学

言えない理由 side A (5)

言えない理由 side A (5)







「さよならだよ。もう会わない」

 そして、僕のアパートのドアは閉ざされた。
 それと一緒に、世界も僕の前で閉じていった。僕は再び独りぼっちになって、でも、今度はもう耐えられなかった。一旦は僕を受け入れてくれた世界にまた閉めだされるのは、我慢できなかった。
 死んだほうがマシだと思った。
 僕なんか、どうなってもいいと思った。

 どうやってアパートを出て、あんな場所を歩いていたのか覚えていない。気がついた時には、僕はホテルの一室でどこかのオヤジに抱かれようとしてた。
 我に返ったのは、行為の寸前で。
 目の前に知らない男の顔があって、僕は足を開かされて下腹部をまさぐられていた。男の指が僕の中に入ってきて、その痛みで僕は自分を取り戻した。

「放せ! 僕の身体に触れていいのは鈴木だけだ!」
 突然暴れだした僕に、相手の男はびっくりしてた。でも、途中で止めてくれる気はないみたいで、僕はベッドに押さえつけられた。
「いやだ! 鈴木、鈴木っ! たすけて!」
 必死で鈴木の名前を呼んだ。助けに来てくれるなんて都合のいいことは思わなかったけど、僕にはそれ以外、すがるものは何もなかった。
 だけど、助けは現れた。

「あたしの友だちに何すんのよ、このエロオヤジ!!」
 大きな女の声がして、太った中年男の身体が宙を舞った。とっさには何が起きたのか解らなかった。
「そいつは自分から服脱いだんだぞ! なんで俺が、ひっ!」
 黒いハイヒールの足が、備え付けのソファを蹴り飛ばした。ドガッという鈍い音がして、二人掛けのソファは床に転がった。
「窓から投げ落とされたい? それともこのソファの下敷きがいい?」
 彼女はめちゃめちゃ怖かった。男は服を抱えて、裸のまま逃げていった。
 
「あんたのせいで映画の指定券、無駄になったんだからね。後で弁償しなさいよ」
 僕に乱暴に服を投げつけて、彼女は後ろを向いた。僕から鈴木を奪った張本人に助けられるなんて、最悪だ。
「助けてくれなんて、頼んでない」
「よく言うわよ。泣きながら助けてって叫んでたくせに」
 かあっと目の前が赤く染まった。恋敵に自分の情けない姿を見られて、しかも窮地を救われて、とことんカッコ悪い自分を認めたくなくて、僕は自分に向けるべき怒りを彼女に突きつけた。

 ふざけるな。
 だれのせいでこうなったと思ってんだ。おまえが僕から鈴木を奪ったから。
 鈴木は僕のすべてだったのに!

 その時の僕は、心の底から腐っていた。助けてもらっておきながら、相手に感謝することもできなかった。それどころか彼女の顔を見た途端、憎しみが湧きあがってきて。僕はいとも簡単に、そのどす黒い感情に飲み込まれた。

 僕が。
 今までどれだけ僕が、おまえを恨んでいたか、知っているのか。
 作り笑いの裏側で、乾いた笑い声の奥で。
 いつもいつも、殺してやりたいと思っていた。
 鈴木と3人で仲良く肩を並べて歩きながら、ここに車が突っ込んできて、この女の命を奪ってくれればいいと思っていた。気の狂った男が刃物を持ってやって来て、この女を刺し殺してくれればいいと思っていた。
 その考えは普通じゃない、と自分でも解っていたけれど。僕にはその空想を止めることはできなかった。
 そうしなかったら、自分が崩れそうだった。
 だって、鈴木は僕にとっては、世界そのもので。それを僕から奪っていく彼女を憎むなと言われても。

 僕は雪子さんを憎んで憎んで、でも、その気持ちを鈴木に悟られるわけにはいかなかった。だから彼の前では、一所懸命に自分の感情を押し殺した。
 僕たちは鈴木を挟んで、ずっとライバルだった。雪子さんだって僕のことを決して快く思っていないはずなのに、それをおくびにも出さないところが狡猾だと思った。友だち面して親しげに話しかけてくるのが、許せなかった。
 今だって、僕のことなんか、どうでも良かったくせに。こうすれば自分の株が上がると計算して。鈴木を自分のものにするために、おためごかしの善意をひとに押し付けて。
 そんな捻じ曲がった考え方しか、僕にはできなくなっていた。他人の好意もやさしさも、何も信じられなくなっていた。
 自分自身を黒く塗りつぶした僕は、彼女に見当違いの非難を叫ばずにはいられなかった。

「僕なんかどうなったっていいんだよ! もう僕には何にもないんだから!」
 言い返したら、引っぱたかれた。しかも往復ビンタだった。ものすごく痛かった。
 他人に、それも女の子に顔を叩かれたのは初めてだった。
「あんた、鈴木くんの親友なんでしょ。だったら、彼に恥をかかせるようなことしないでよ」

 親友。
 鈴木の親友。
 恋人という甘い響きに釣られて、僕が捨てた宝物。思い返せば鈴木の恋人になったときより、親友だと言われたときの方がずっと嬉しかった。それこそが僕に相応しい、鈴木との関係だったんだ。
 そのポジションに戻れるなら。この1年をやり直すことができるなら。
 魔女に魂を売ってもいい。

「鈴木は……僕とはもう会わないって」
「あんたは? 会いたくないの?」
「会いたいけど。僕は鈴木に嫌われちゃったから」
 言葉にしたらそれが現実になって、鈴木に嫌われたって思ったらすごく悲しくなって。
 この女の前でなんか泣くもんか、と思っていたのに、涙はぼろぼろ溢れてきて。男のクセに泣くなんて情けないわね、とか蔑まれることを覚悟していたけど、雪子さんはそんなことは言わなかった。

「会いたいときに会えるのが親友。ほら、早く服着なさい」
「でも」
「鈴木くん、あんたのこと夢中で探してるわよ。待ち合わせに遅れてきたと思ったら、『薪を探してくれ!』って」
 雪子さんは何故自分がここに来たのか、事情を説明してくれた。鈴木がどんなに僕のことを心配してくれているのか、ということも。
「あんたとケンカして、頭が冷えてからアパートに戻ったら、鍵が開いてるのにあんたがいなくなってたって。ひどいことを言ったから、きっとどこかで泣いてる。早く見つけてやらないと大変なことになるかもしれないからって、すごい剣幕でまくし立てられたのよ。あんな鈴木くん、初めて見た」

 雪子さんの話を聞いて、僕は泣いた。
 鈴木はやっぱりとてもやさしくて。それが恋人に対する愛情ではないことは分かっていたけれど、でも嬉しくて。
 鈴木の親友に戻りたいと思った。
 だけど、今はできない。僕はあまりにも最低の人間に成り下がってしまっていて、もう一度自分を見つめなおす期間が必要だと考えた。

 僕が泣き止むまで、雪子さんは何も言わずに待っていてくれた。ただ黙って、僕に背中を向けていた。
 思い切り泣いたら、いくらかすっきりした。
 僕は顔を上げて、雪子さんの方を見た。凛として、しっかりと地に足をつけた立ち方だった。僕の頭の中で、数え切れないくらい駅のホームから線路に突き落とされていた女の後ろ姿は、僕の目に初めて美しく映った。

「鈴木に伝えて下さい。僕は大丈夫だって。心の整理をつけたら、ちゃんと会いに行くから心配しないでくれって」
「なに寝言言ってんの。行くわよ」
「今は、鈴木に会わせる顔がありません。もっと自分に自信が持てるようになったら、必ず鈴木の友だちに戻りますから」
 僕は自分の気持ちを正直に言ったのに、雪子さんは聞く耳を持たなかった。腕を引っ張られて部屋から引き摺りだされて、強制的に廊下を歩かされた。僕が渾身の力を込めても、抵抗しきれなかった。こいつは本当に女なのかと疑った。
「今はダメなんです。いま鈴木の顔を見たら、またひどいことを言ってしまうかもしれない。自分を抑えきれる自信がないんです。だから」
「あんたのそれは、ただの逃げ」

 彼女はぐいぐいと僕の腕を引いて、力ずくでホテルの外に連れ出した。傍から見たら、僕たちは修羅場のカップルに見えたかもしれない。この状況はどう見ても「浮気の現場を押さえられた男が彼女に引き摺られている画」だ。
「もっと自分に自信が持ててから?自分を抑えきれないかもしれない? なにその意味不明の言い訳。友だちの間にそんなもん必要ないでしょ」
 普通の友だちだったらそれでいいかもしれないけれど、僕たちはただの友だちじゃない。からだの関係まであった恋人同士で、その関係が破綻したから友だちに戻るなんて無謀なことをしようとしてるのに、何の計画もなしに動くなんてできない。

「違うんです、僕たちは」
「薪!」
 人ごみの中から、大声で名前を呼ばれた。顔を上げると鈴木が息を弾ませて、向こうから走ってくるところだった。
 雪子さんとのデートのためにおしゃれに整えた髪はぐしゃぐしゃで、冬なのに顔中汗まみれで。走るのが嫌いな鈴木がずい分走ったとみえて、まともに喋れないくらい呼吸が乱れていた。
「すずき……」
 僕は咄嗟に足元に視線を落とした。鈴木の顔が見られなかった。
 鈴木がここに来たということは、雪子さんから事情を聞いたということだ。僕がどこかのオヤジとホテルに入って何をしようとしたのか、知っているということだ。

 うつむいた僕の視界に、さっと影が差した。鈴木が僕に近付いてきた、と分かった。
 雪子さんみたいに僕をひっぱたく気かもしれない、と思った。そうされても仕方ないと思った。
 でも違った。
「よかったあ……無事だったんだ」
 広い胸に抱きこまれて、頭を撫でられた。僕は部屋着のままで外に出てきてしまっていたから、薄いシャツを通して鈴木の大きな手の暖かさがじわりと伝わってきて。

 その手は恋人の手じゃなかった。
 僕の性感を刺激しようと蠢く手じゃなくて、大切なものを慈しむ手だった。
「あんまり心配させないでくれよ。心臓に悪いよ」
 僕は鈴木に抱きついて、わあわあ泣いた。道端で、しかも場所はラブホテルの前で。
 道行く人たちが目を丸くして見ていただろうな、と後で気付いたけど、その時は人目を憚る余裕もなかった。ただ、雪子さんの凶悪な声が「なに見てんのよ!」「見せもんじゃないわよ!」「ブッ飛ばすわよ!」と怒鳴り散らしているのが聞こえてきただけだ。

 僕が落ち着くのを、ふたりはずっと待っていてくれた。雪子さんは自分の彼氏に抱きついて泣き続ける僕を不快に思ったはずなのに、何も言わなかった。
 鈴木は薄いシャツ一枚だった僕に、自分のダッフルコートを着せてくれた。雪子さんは首に巻いていたカシミヤのマフラーを貸してくれた。ふたつの防寒具は、僕を心地よく暖めてくれた。
 僕が泣きやむと、二人は携帯を取り出して何本もの電話を掛けた。

「あ、木村? うん、見つかった。ありがとな。今度メシ奢るから」
「麻子? うん、大丈夫だった。ありがとね。はいはい、ケーキバイキングね。OK」
 その調子で二人とも、10本以上の電話を掛けていた。サークル仲間やゼミのメンバー、クラスメイト。僕を探すのに二人がありったけの知り合いに声を掛けてくれて、みんなが僕のことを探してくれていたのだと知った。
 僕はその温かさを噛み締めていた。こんな大事なものを、今までずっと自分から捨ててきたのだと、ようやく分かった。

「走ったらハラ減った」
「あたしも。ちょっと暴れたから、おなかペコペコ。なんか食べに行きましょか」
 30人近い相手の飲食費をどう都合するか、二人はコソコソと相談しながら歩き始めた。割のいいバイトを探さないと、と言う雪子さんに、鈴木が肉体労働はイヤだ、とわがままを言って、後頭部をどつかれていた。
「三好さん」
 雪子さんは、ぎくっとした顔で振り返った。
 今まで鈴木に乱暴なことをすると、僕に怒られていたのを思い出したらしい。でも、僕にはもうそんな気はなかった。雪子さんの手に込められた溢れんばかりの愛情を、僕は自分の両頬で知っていた。

「助けてくれて、ありがとうございました」
 ぐっと奥歯を噛み締めて、腹の底に力を入れた。両足を踏ん張って、背筋を伸ばした。雪子さんの顔を見て、僕ははっきり言った。
「鈴木をよろしくお願いします」
 言ってから頭を下げた。それは僕の敗北宣言だった。

 雪子さんは、こっくりと頷いた。隣で鈴木が『だから雪子とはそういうんじゃないって』とか言い訳してたけど、僕は雪子さんと話してるんだ。鈴木の話は聞かない。
 もう涙は出てこなかった。さんざん泣いた後だったから、枯れてしまったのかもしれない。
 悲しみは僕を支配しなかった。それよりも肩の荷が下りた感じで、身体が軽かった。

「じゃ、『昇楽』の特盛りチャーハン食べに行くわよ」
「おっそろしい女だな。あれに挑戦するつもりなのか」
「こないだ、あと3口ってところだったの。今日はいける気がするわ」
「マジで? オレ、あれは諦めたのに」
 肩を並べて歩いていくふたりから、僕はそっと離れた。お似合いだな、と思ったらまた泣きたくなったけど、奥歯を噛んで我慢した。そして自分のアパートに帰るために、二人とは反対の方向に歩き出した。
 ところが、2,3歩歩いたところでぐいと後ろ襟を掴まれた。

「逃がさないわよ、薪くん」
 雪子さんが気を使ってくれてるのは分かっていたけど、仲の良いふたりを見るのはやはり僕には辛いことで。できればこのまま帰りたかったのに、彼女はそれを許してくれなかった。
「友だちでしょ。付き合いなさいよ」
「ともだち? 僕が?」
 恋人の元カノ(いや元カレ?)と友だちになろうなんて、僕が知っている女性の中にこんな考え方をするひとはいなかった。
「薪と友だちって……おまえ本気?」
「鈴木くんだけじゃ面倒見切れないでしょ。こんなの」
「そうだけどさ。薪の友だちは半端な根性じゃ務まんないぞ」
「わかってる。覚悟してるわよ」

 おかしな女だと思った。
 むちゃくちゃな女だと思った。
 ……とても敵わないと悟った。

「大変。早く行かないとランチタイム終わっちゃう。薪くん、早く!」
「三好さん」
「雪子でいいってば」
 大きな口を開けて屈託なく笑う彼女に、僕は心からの笑顔を返した。
「はい。雪子さん。お供します」



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言えない理由 side A (6)

言えない理由 side A (6)








 鈴木との苦い経験で、僕は学習した。
 誰かを好きになっても、その気持ちを全部相手に押し付けてはいけない。特に男同士は絶対にうまくいかなくなる。
 相手の100%を欲しがってもいけないし、自分のすべてを捧げようとするのも駄目だ。何故なら、そんなものを捧げられてもお互い責任が取れるわけではないからだ。僕たちは結婚もできないし、家庭も作れない。この関係は一時のものに過ぎない。
 その場限りというには長すぎるけれど、これはバカンスみたいなものだ。男同士で一生恋人でいることなんか、できない。それが良く分かった。

 男女の仲もそうだけれど、恋は一生続くものじゃない。ひとはそんなに強いものじゃないから、同じ感情を永遠に持ち続けることなんか不可能なんだ。でも、男と女の場合にはその間に夫婦という絆があったり子供という楔があったりで、それを支えに愛し合っていくことができる。激しい恋愛感情がなくなっても、もっと崇高でやさしい気持ちで相手を思いやる関係が作れるのだ。
 だけど、僕たちの関係はそうじゃない。
 なにも作れないし、なにも残せない。だからお互いの、いやどちらかの感情が冷めてしまったら、そこでお終いだ。鈴木と僕のように気持ちが通じ合っていてさえも、人間が感情の生物である限り、それは避けられない運命で。
 だから問題は、そこから後をどうフォローするかだ。

 鈴木とは、二度と会えなくなるところだった。
 フォローのしようがないくらい、僕が鈴木を傷つけてしまった。やさしい鈴木が僕に別れを告げるのに、僕に言葉の刃を向けるのに、自分自身をどれだけ深く傷つけたのか。あのころの僕は、そんなこともわからなかった。
 あの時は雪子さんがいてくれたから鈴木と僕は親友に戻れたけれど、青木とはそうじゃない。上司と部下の関係なんか、書類一枚で簡単に切れるつながりなんだ。

 今度は失敗しない。
 おまえを失いたくないから。
 避けられない別れを迎えたときに、傷つけあいたくないから。
 別れた後も、おまえの顔を見ることができるように。ただの上司と部下にいつでも戻れるように。その絆だけでも、僕に残しておいて欲しいから。

 だから、僕はおまえを好きだって言わない。
 おまえがその言葉を望んでいることは分かっているけど、これは二人のためだから。

 青木。
 おまえは知らなくていい。
 僕が、おまえの顔も見ることができないのなら死んだほうがマシだと思うほど、おまえのことを好きだなんて。仕事中だけでもいいから一緒に過ごせれば、それを支えに生きていけると思えるほどに、おまえの存在が大切だなんて。
 おまえは知らない方がいい。
 知ってしまったら、やさしいおまえは僕を捨てることを躊躇うはずだから。鈴木のように、僕を傷つけたくなくてずるずると別れを引き延ばして、それは結局おまえを苦しませることになるから。
 身体の関係だけだと思っていれば、そんなに苦しまずに済む。また新しいセフレを見つけるから大丈夫だ、と僕が笑ってみせれば、次の日から元の上司と部下に戻れるはずだ。僕たちの関係はそれでいい。

 でも、万が一。
 おまえが僕を好きでいてくれるうちに、幸運にも僕に死が訪れて、おまえが僕を看取ってくれるようなことがあれば、そのときは。
 そのときはちゃんと言葉にしよう。

 ずっと愛してる。心の底から、おまえだけを愛してる。

 その日が来るまでは。
 愛してるとは言わない。


 ―了―



(2008.11)



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言えない理由 side A ~あとがき~

 薪さんの失恋話にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。


 うう、ツラかったです。青木くんと別れる話は平気で書けるのに(??)鈴木さんが相手だと、ものすごくイタイです。
 だって、鈴木さんには未来がないから。
 どんな幸せな話を書いても死んじゃうのが分かってるから、思い出にしかならないから、だから何を書いても苦しいです。 それでこんな、表面的に流して書いちゃったんですね~。 根性なしですみません。
 
 この話はsideAで、当然sideBもあるんですけど、そっちは鈴木さんの視点からの別れ話なんですけど、あまりに辛くて書けません。もう、薪さんの殉職話とどっこいどっこいのキツさで、勘弁してくださいってカンジです。
 でもこれを書かないと、鈴木さんがどれだけ薪さんのことを想ってたのか、分からないんですよね。きっと薪さん以上に相手のことを大事に思っていたはずなんですけど。
 なんて思いつつ、大して好きじゃなかったらどうしよう。 薪さんの一方的な片思いで、鈴木さん他に彼女いたらどうしよう。 そんなのやだー。(@@) 書いてみるまで本当にわからないんですよね、わたしの場合(^^;
 春になって気力が充実したら、書いてみようと思います。
 
 
 最終章の、薪さんのモノローグですが。
 とっても後ろ向きな考え方をしてるんですけど、この頃はまだ付き合い始めて1年くらいなので、こんなもんなんですね。ずっとこのままでいるわけじゃないですから、ご安心を。
 何年か後には「僕のためにおまえの親を捨てろ」と言い切るほど前向きになりますから。(←ヒトデナシMAX)
 



 次のお話なんですけど。

 痛いすずまきさんのお口直しに、甘いすずまきさんを。
 7000拍手のお礼の『楽園にて』を公開します。

 って、読み返してみたら、Rキツっ! なんだ、これ!?
 甘いんじゃなくて、エロいんじゃん!?
 ????
 

 どうしてこんなの書いたんだろうとプロパティを調べたら、初書きが2008年の10月だから『若いってこわい』を書いた直後でした。 薪さんが痛い思いしてかわいそう、じゃあ次はキモチイイ薪さんを書いてあげよう、とでも思ったんですかね?(1年半も前のことなんか、記憶にない) 


 本当は3部の地獄の初夜(笑)を公開しようと思ってたんですけど、あれはあちこち修正しなきゃいけないので~、もう少し、お時間をいただきたいと思います。


 ではでは、すずまきすとのみなさま、よろしくお願いします。
 あおまきすとさんは、もう少々お待ちください。
 



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楽園にて(1)

 7000拍手のお礼です。

 エロエロすずまきさんです。(予告とちがう)
 18歳未満の方とRが苦手な方、及びあおまき派の方はご遠慮ください。
 って、こんなに禁止項目が多くて、お礼になるのか?



 このお話は1年半くらい前に書いたんですけど、そのときはうちの薪さんて、鈴木さんのことこんなに好きだったんですねえ。
 現在の薪さんは、筆者が引くほど青木くんのこと好きになっちゃってて、天国に行って鈴木さんに再会してもこんなことはしないだろうな、と思います。なので、これはパラレルということで。本編とは切り離して考えていただきたいです。
 よろしくお願いします。






楽園にて(1)

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楽園にて(2)

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楽園にて(3)

 ようやく18禁が外れました。
 と思ったら、これでおしまいだったりして。(笑)






楽園にて(3)








「とりあえず、ひとのせいかよ」
 裸のまま寝転んで、鈴木は薪のことを非難した。が、その眼は笑っている。しょうがないなあ、といつものように薪の頭に手を載せて、優しく撫でてくれる。

 鈴木はここで、薪のことを待っていてくれた。自ら輪廻の輪を外れる事を選んで、ひたすら薪のことを待ち続けていたのだ。
 うれしかった。
 夢中で抱きついてキスをした。
 ここがどこなのか、自分はどうなったのか、なぜ鈴木がここにいるのか――― それらの疑問を言葉にするより前に、薪は鈴木とからだを重ねていた。
 それから5年。ゆるやかに時は過ぎて、薪はすっかり穏やかな顔つきになった。

「下はクリスマスかあ。薪のかわいい部下たちは、なにやってるかな」
 鈴木は草の上にうつ伏せになって、両肘で上半身を起こす。ここの地面は必要なときにはベッドのように柔らかくなるから、裸でごろごろしているのがとても気持ちいい。
「仕事だろ。第九にクリスマスは関係ない」
「クリスマスと言えば第九だろ」
「……寒いよ」

 鈴木が下界の様子を見られるように、遮防壁を解除する。
 薪は慌ててワイシャツを着込んだ。下着をつけてズボンを穿く。本当は風呂に入ってからにしようと思っていたのだが、仕方がない。
 薪が服を着てしまったのが不満らしく、鈴木は少しつまらなそうに頬杖をついた。
「下からは見えないぜ」
 薪もそれは分かっているが、やっぱり恥ずかしい。こういうところは死んでも変わらないものだ。

 下の世界は相も変わらず、喧騒と騙し合いと傷つけあう人々で地獄のようだ。死んでから地獄に行くのではなく、今まで生きていた世界が地獄だったのではないか、とここに来た者はみな同じ気分を味わう。
 その中に、オアシスのように薪の心を和ませる一角がある。
 科学警察研究所法医第九研究室、通称『第九』。
 薪が生涯を捧げた職場だ。
 壁一面のモニターに大映しにされる凄惨な殺人の現場。モニターの前に立って事件の概要を説明しているのは、チタンフレームのメガネを掛けた真面目そうな男だ。黒髪で、とても背が高い。
 現在の研究室は、薪がいた頃よりも備品や捜査官の数が増えていて、薪の後を継いだ室長の努力が認められる。きっと彼の人当たりのよさと、しつこい性格のおかげだ。

「青木が室長とはね。第九のエリート集団説もあやしくなってきたな」
 実際、ノンキャリアの職員も増えている。
 第九は薪の頃から徹底した実力主義を貫いていて、他の部署とは違って役職に関係しない命令系統が築かれる。従ってノンキャリアに使われるキャリアも第九には存在している。キャリアのプライドから、その殆どは長続きしないようだが。
 そんな複雑な人間関係を室長の青木はうまくまとめて、第九のチームプレイは警察庁の中でも有名になりつつあった。なんといってもあの複雑怪奇な性格の薪を恋人にしていた男なのだ。これぐらいは朝飯前なのかもしれない。

「よくやってるじゃん。さすがおまえが一から仕込んだだけあるよ」
 鈴木の褒め言葉に、薪は素っ気無く肩をすくめる。自分の部下の成長を認めてもらえて本当はかなり嬉しいのだが、鈴木の前で青木のことを褒めるのは気が引ける。そんなことに拘るほど鈴木は小さい男ではないと思うが、やはり心配だ。
「それこそ手取り足取り、さ」
「なんか言い方が嫌味っぽいんだけど」
「わかる? ヤキモチ妬いてんの、オレ」
 どこまで本気なのか、分からない。にこにこしながらそんなことを言われても、まるで真実味がない。とりあえず、嫌味には嫌味で返すことにする。

「男のヤキモチなんか、みっともないぞ」
「おまえに言われたくないよ。オレがちょっと他のやつと話すだけで、じろじろ睨んでたくせに」
「あれは」
 これまで、鈴木が薪にヤキモチを妬いてくれたことなど一度もない。薪はいつも鈴木と他の人間のことを嫉妬していたが、逆はなかったと記憶している。
 膝を抱えて顔を伏せ、薪は拗ねた口調でぶちぶち言った。

「どうせ僕は嫉妬深いよ。僕ばっかり鈴木のことが好きだったんだよ。鈴木は僕にヤキモチ妬いてくれたことなんて、一度もなかったろ。僕の気持ちが少しは分かったか」
「オレ、おまえにキスしようとしたやつのこと、殴らなかったっけ?」
 そういえば、そんなことがあった。
 しかし、あれは恋人同士になる前のことだ。あの頃はまだ、ただの親友だったはずだ。
「自分でもびっくりするくらい腹が立ってさ。オレ、あんなに怒ったの初めてだった」
「でも、あれは――まだ僕が鈴木とこうなる前のことだったと……」
「気が付かなかったのか? オレ、最初に会ったときからおまえに惚れてたぞ」
 鈴木がこういうことを言ってくるときの魂胆は解っている。ちゃんと目的があるのだ。

「……今日は何が食べたいんだよ」
「オムライス!」
 やっぱりこんなことだ。
「はいはい。ケチャップ味とデミグラスソース、どっちがいい?」
「ケチャップがいい」
「相変わらずおこちゃまだな」

 薪が必要な材料と料理器具を思い浮かべると、それらは現実のものとなって現れた。本来なら出来上がったものを想像するのが正しいやり方なのだが、鈴木は薪が作ったものを食べたがるのだ。
 エプロンを掛けて包丁を手に取る。鮮やかな手つきで玉ねぎをみじん切りにする。小さく切った鶏肉と一緒に炒めて、大盛りのご飯を混ぜ込む。鈴木のリクエストのケチャップをたっぷりと入れて軽く塩コショウ――― その様子を鈴木が楽しそうに見ている。
「手伝えよ、鈴木。てか、服を着ろ」
 口ではそういったものの、鈴木の手伝いは期待していない。鈴木は青木と違って一人暮らしをしたことがない。台所に立ったことなどないのだ。

 ケチャップ味のチキンライスの上にやわらかいオムレツを載せて、ぺディナイフで裂け目を入れる。とろりと流れ出す半熟卵の黄色がケチャップの赤と美しいコントラストをなして、レストラン顔負けの出来栄えである。
 生野菜のサラダをたっぷりと付け合せて、鈴木の好きなマヨネーズを添え、薪は皿を差し出した。
「はい。野菜もちゃんと食べろよ」
 鈴木が満面の笑顔で、薪からオムライスの皿を受け取る。鼻をうごめかせて匂いを嗅ぐ。とても満足そうだ。
 ピクニックのように草の上に胡坐をかき、鈴木はスプーンを用意した。薪が冷たい飲み物とコンソメスープを出して、楽しい食事が始まる。
 結局、鈴木がしたのは服を着たこととスプーンを出したことだけだ。まったく役に立たない。しかし悪びれる様子はない。
「薪も一緒に食お」
「うん」
 本当は食事は必要ない。
 が、食べるのが楽しみの鈴木は、ここではいくら食べても太らないとばかりに毎日よく食べている。薪はあまり食事には興味がないので、ひとりのときはコーヒーだけで済ますが、鈴木と一緒のときはちゃんと食べることにしている。

 下界ではクリスマスイブだというのに、第九の職員たちがモニターに釘付けになっている。まったく、人間味のない連中だ。何が楽しくて生きているのだろう。
 どんな理由からか、室長は職員たちを怒鳴りつけている。あんなに大人しい男だったのに、青木は室長になってからとても怖い上司になってしまった。そんなところまで受け継がなくていいのに、とこれは第九の職員たちの総意である。
 青木の変貌が、薪には少し意外だ。青木の怒った顔など、共に過ごした10年のうちに数えるほどしか記憶がない。
「あんなに怖い顔して怒らなくたっていいのに」
「おまえが言うなよ」
「だって、あれじゃ部下に恐がられるだろ」
「おまえはあれの10倍はおっかなかったぞ」
「ウソだろ。僕ってそんなに怖かったのか?」
「……自覚なかったのかよ、おまえ」
 どこまでも自覚がないのが薪の特徴とはいえ、これはさすがにひどい。

「あいつ、まだ独り身なんだ。雪子さんは竹内と結婚しちゃったし。もう40近いのに、どうするつもりなんだろう」
「おまえのこと、忘れられないんだろ」
 自分の分を食べ終えて、薪の残したオムライスに手を伸ばしながら、鈴木はぼそりと言った。鈴木の分はずいぶん大きく作ったつもりだったが、やはり足りなかったらしい。
「そんなことないと思うけど」
 室長室に帰った青木は、机に向かってPCを操作している。室長所見を打ち込む手が、あの頃の自分に負けず劣らず速くなっている。努力家の青木らしい。

 ――― 年を取るほどに、青木は男前になる。
 真剣に画面を見つめる横顔は、薪がつい見とれてしまうほどだ。すっと通った鼻筋と、口唇から顎のラインがとてもセクシーだ。自分と恋仲だったときより、さらにいい男になったような気がする。さぞや女性にもてることだろう。
 一区切り付いたところで椅子の背もたれに寄りかかり、大きく伸びをする。左手で右の肩を揉んでいる。どうやら肩こりの辛さがわかるようになったらしい。
 眼鏡の奥の切れ長の目が、何を思ってかふっと和んだ。
 青木は机の一番下の引き出しから、薪の形見の分厚い洋書を取り出す。そこには以前、薪の親友の写真が挟んであったのだが、いま挟まれているのは薪本人の写真である。
 にっこりとこの上なく美しく微笑む美貌に、青木は何事か語りかけている。鈴木が防音壁を外すと、青木の声が聞こえてきた。

『薪さん。オレ、あなたに負けないくらいいい男になってそっちへ行きますからね。それまで待っててくださいね』
 誰も見ていないのをいいことに、写真の薪にくちづける。
 思わず、薪の顔が赤くなる。
 青木はまだ僕のことを想ってくれている――― 薪の心の奥のほうが、ざわりと蠢く。この気持ちは困惑か。それとも……。

「あんなこと言ってるぞ」
「……」
「あいつがこっちに来たら、おまえどっちを選ぶんだよ」
「どっちって」
 わからない。
 だって、ふたりが自分の前にいっぺんに現れたことなどない。
「答えろよ」
「じゃあ、日替わりってことで」
「! ――っ、ふざけんな!」
「冗談なのに……殴らなくたって」

 本当にいずれか片方を選ばなければならないとしたら、自分はどちらを選ぶのだろう。
 しかし、それはまだ先のことだ。
 青木だって雪子さんのように、これから新しい恋人を見つけるだろう。それこそ自分なんかより、素直で愛らしい相手を。きっと今度はかわいい女の子だ。

 やっぱり僕には鈴木しかいないな、と薪は結論付ける。
 未来のことは誰にも分からない。きっと神様にもわからない。

 鈴木の言うように青木がここへ来て、僕を2人で取り合ったら面白い見ものになるかもしれない。想像したら、顔がにやけてきた。
 隣に座っている親友の大きな肩にからだを預けて、薪はくすくすと笑った。


 ―了―


(2008.10)



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楽園にて~あとがきと近況報告です~

 ご無沙汰です、1週間ほどネ落ちしてました。
 コメントくださった方々、お返事が遅れてすみませんでした。m(_ _)m
 おかげさまで、突貫工事の書類のほうは何とか間に合わせまして。多分今日の夕方返って来て、土日で直して再提出してお終いです。
 後は自分の受け持ち現場の検査が2本残ってて、こいつをやっつけると今期の仕事は終わりです。3月一杯で組内の班長も終わるし、ひねもすのたりの日々が待っております。 
 そしたらネットやり放題。がんばれ自分。(←基本ダメ人間)
 

 
『楽園にて』は、1年半くらい前に書きました。
『若いってこわい』『聖夜』『楽園にて』の順番で書いたらしいです。2008年の10月というと、5巻でがっつり落ちてた頃なので、すずまきさんの方へ逃げてたのかもしれません。
 こちら元ネタは、はい、アニメの最終話ですね。だから題名が『楽園にて』なんですね。
 と言っても、わたしはハッピーエンド主義者なので、アニメは全滅エンドではないと思ってます。なのでエンディングから天国ネタに結びついたわけではなく。薪さんが草っ原で寝てたシーンからこの話ができたんですね。
 あのシーンで、どうして室長はこんなに胸元を開けてるんだろう、視聴者サービス? と思ったんですが、ああ、防弾チョッキを脱いだのね、と感動を覚えました。(アニメで感動したのって、ここだけだっだような(^^;)) かれが防弾チョッキを脱いだということは、自分の過去や苦悩にある程度の踏ん切りをつけた証拠だろうと嬉しくなりました。
 それで幸せな薪さんのお話になったんですね。いや、死んじゃってますけど、そこはスルーで。

 死んだ薪さんを思い続ける青木くんが可哀相、というコメをいただきました。
 ホントにねえ、それが薪さんにはあんまり通じてないところが、果てしなく鬼ですねえ。「これから恋人見つけるだろ」とか言ってますもんね。ひどいよ薪さん。
 わたし、この頃よっぽど青木さんが憎らしかったんですね。(笑)


 実はずーっと、原作の青木さんのこと苦手だったんですけど。
 青木さんて一言で表すと、真っ直ぐで正義感が強くて、それを素直に表面に現わせる好青年。わたしのようにヒネたオバサンには、彼はどうも眩しすぎるんですよね。で、苦手意識が強かったんですが。
 4月号の青木さんは好きです(〃∇〃)
 成長したな、いいオトコになったじゃん、青木さん!(←何様?)
 山本さんにウソ吐いてたところと、イヤラシイ作戦がポイント高かったです。わたし、嘘つき男も陰険男も大好きなんです。
 原作の青木さんが好きになったので、これからはきっとすずまきさんは書かないと思います。わたしの中で、ようやく薪さんの相手として認めてやってもいい、と思えたので。(←どんだけ女王様?) 今まではね~、どうしてこんな男がいいのよ、薪さん?? とこっそり思ってましたから。



 えっと、次のお話なんですけど。
 本編に戻りまして、ラストカットのつづきになります。

『土曜の夜に花束を』というSSなんですが、これ、題名はロマンチックなんですけど、中身はヒドイです。とりあえず最敬礼で謝っときます、すんません。
 わたしのお話はここから第3部に入るんですけど、以前も申し上げましたとおり、3部はかなーりRがキツクて、精神的にも痛い話が多いです。うちのふたりだから、全然らぶくないし。2部までと同じお話だと思えないくらい、カラーが違うかもです。すみません。
 もともとは公開しない予定だったので、飛ばしすぎちゃったところとかたくさんあって、現在、その修正をしてます。具体的にはRの削除ですねっ! 

 ということで、もう少々お待ちください。
 よろしくお願いします。 
 



 

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折れない翼(1)

 予告と違う作品ですみません。 
 ちょっと事情がありまして、こちら、急遽公開することにしました。

 このお話は、以前、わんすけさんにリクエストいただいた『捜一時代の薪さん』でございます。
 なので、わんすけさんに捧げます。
 今までのお礼と、これからもよろしくお願いします、の貢物(?)です。 
 拙いものではありますが、どうかお受け取りください。

 
 過去のお話なので、カテゴリはADです。
 薪さんが捜一にいたのは、わたしの勝手な設定です。 なので、オリキャラ100連発のお話になってます。
 ご了承ください。






折れない翼(1)





 3月の房総半島は、東京より大分暖かい。
 ここへ来る途中で見かけた花畑にはポピーが満開で、多くの観光客が花を摘んでいた。緑は柔らかでとても明るい色をして、色とりどりの花々をやさしく包んでいた。時間さえ許せばゆっくりと散策したいところだが、生憎ここへは遊びに来たのではない。

 K警察署の門をくぐり、3階建ての建物を見上げる。レトロなレンガ造りを模してあるが、中身はカチカチの鉄筋コンクリートだ。しかし、警察の建物にしては味がある方だ。少なくとも薪が勤めている研究所の建物よりは、ずっと市民に親しまれそうだ。
 門前で様子を伺っていると、定刻を過ぎた頃から何人かの職員が玄関に姿を見せ、やがて目的の人物が現れた。
白髪の目立つ五分刈の頭に、いかつい顔立ち。身体はがっちりと締まっており、肩幅が広い。骨太い手に、顔に似合わない可愛らしい花束を持っている。署の女の子が選んだらしい花束は、彼の破天荒な雰囲気を見事に裏切って、見るものをつい失笑させる。

「こんにちは、羽佐間さん。ご無沙汰してます」
 薪が声をかけると相手はすぐに気付いて、素直な驚きをその四角い顔に表した。署の外で待っていた薪の気配りに応えて、こちらへ歩いてくる。
「よお、薪坊」
 花束を持っていない方の手を上げて、薪の名を呼ぶ。懐かしい呼びかけは、薪の心の底に甘酸っぱい感覚を甦らせる。

「っと、呼び捨てにしちゃあいけねえな。薪警視長殿、とお呼びせんとな」
「やめてくださいよ。気持ち悪いです」
 薪は苦笑して、左の肩を少しだけ上げ、左側に細い首を倒した。好ましく思っている相手と対峙したときの薪の仕草は、とても可愛らしい。もちろん本人は気付いていないが。

「長い間、お疲れ様でした」
 心を込めた労いの言葉と共に、箱に入った日本酒を差し出す。羽佐間の好みが変わっていなければいいのだが。
「わざわざ千葉くんだりまで来たのか?天下の薪警視長が。それとも、部下の女子職員に手を出して、クビになったか」
 嬉しいときのクセで、羽佐間は両手をすり合わせると、薪から箱を受け取った。この贈り物に満足しているはずなのに、礼も言わないどころか憎まれ口を叩くところが彼らしい。
「残念ながら、第九に女子職員はいません」
「んじゃ、オトコか」
 ……ものすごく身に覚えがあるが、ここはシラを切らないと。
 薪は思い切り眉をしかめ、剣呑な表情を作った。

「相変わらず口が悪いですね。羽佐間さん」
「おめえに言われても、なんだかなあ」
 羽佐間は薪から受け取ったプレゼントと花束を門前の花壇に置き、苦笑混じりの声でぼやいた。日焼けしたいかつい顔がくしゃりと歪み、鋭い眼光が皺の間に埋もれると、羽佐間はびっくりするくらい優しい顔になった。
 そんな羽佐間を見て、薪は咄嗟に身構える。羽佐間がこういう顔をしたときは、ヤバイのだ。

 腰を落とした瞬間、定年退官する老人とは思えない動きで、羽佐間がつかみかかってきた。
 太くて短い指が、薪のスーツの襟を摑む。押されるままに後方へ身を引き、身長差を逆に利用して、薪は相手の下方へ潜り込んだ。先月仕立てたばかりのスーツが汚れるのも構わず地面に膝をつき、左足で羽佐間の足を払う。靴のままの蹴りだから相当痛かったかもしれないが、そこまで気遣う余裕はない。
 羽佐間は重心を失って、どう、と地面に仰向けに倒れた。それでも薪の襟は放さない。自然と引き摺られて、羽佐間の上に乗る格好になる。
 現場で接近戦になったら、犯人を逃がしたことはない。羽佐間の犯人逮捕にかける執念は健在のようだ。

「か弱い老人に、なんてことしやがる」
「よく言いますよ」
 無骨な手が仕立てのいいジャケットの襟から離れると、薪は身軽に立ち上がった。羽佐間は地面に寝転んだまま、ニヤニヤと笑っている。
「まあ、柔道の腕は落ちちゃいねえみてえだな。それに関しちゃ褒めてやる」
 ゆっくりと身を起こす羽佐間を見て、思わず差し伸べようとした手を止める。これは余計なことだ。
「ありがとうございます。実は、この前初めて雪子さんから1本取ったんですよ」
「ほう。あのユッコちゃんから? そりゃあ、たいしたもんだ。あの娘は元気かい」
「ええ」
「ありゃあ、いいオンナだったな。早くモノにしねえと、他の男に取られちまうぞ」
「……盗られちゃいました。先月結納が終わって、6月に結婚式だって」
 脳裏に浮かんだ男の顔に、薪は思い切り唾を吐いた。
 雪子のような素晴らしい女性が、どうしてあんな人間のクズと。悪夢としか思えない。

「あんなやつに雪子さんを持っていかれるなんて。一生の不覚です」
「かあ。変わんねえな、おめえ。女なんか押し倒して突っ込んじまえばこっちのもんだって、俺が教えてやっただろ」
 言葉だけはポンポン出てくるが、羽佐間の動きは遅い。時間をかけて立ち上がり、腰に付いた芝生を払う。
 その緩慢な動作に老いを感じて、薪は微かな淋しさを味わった。

「だって、雪子さんは僕より強いから」
「情けねえな。ま、この身体じゃ仕方ねえか」
「わっ、ちょっと羽佐間さん!」
 薪の脇の下に両手を入れて、羽佐間は薪を持ち上げた。地面から離れた薪の足が、じたばたと動く。

「おーおー、相変わらず軽い軽い」
「もう。40を超えた男を捕まえて、何するんですか」
「へ? おめえ、いくつだっけ」
「今年で42です」
「……警察庁の七不思議か」
「はい?」
「いや、なんでもねえよ」
 すとん、と薪を地面に降ろすと、羽佐間は薪の頭に手を置いて、親が子供の頭を撫でるようにくしゃくしゃと掻き回した。

「よく来てくれたな、薪」
「羽佐間さんには、お世話になりましたから」
「ああ、確かに。おめえを仕込むのは骨が折れた。とにかく軟弱で役立たずで、次から次へとヘマばっかりしやがって」
 羽佐間に乱された髪を整えながら、薪は神妙に首をすくめる。
 羽佐間の言ったことは本当だ。誰だって新人の頃はヘマをする。頭の良し悪しではなく、慣れの問題だ。

「すみません」
「すいませんで済みゃあ、警察は要らないんだよ」
 使い古されたセリフを吐いて豪快に笑うと、羽佐間は薪が整えたばかりの頭をもう一度くしゃくしゃに掻き回した。イタズラを繰り返す彼の手の温もりを、薪はうれしく思う。それが彼の親愛を現す仕草であることを、薪は知っている。

 羽佐間には、色々なことを教えてもらった。
 効果的な聞き込みの仕方から、尾行の極意(身体の小さい薪は、これだけは初めから及第点だった)現場検証のポイントや張り込みの心得。柔道や空手の手ほどきも受けた。柔道の基本は雪子に習ったが、薪を本当に鍛えてくれたのは羽佐間だった。
「今日は酒の一杯くらい、付き合ってくれるんだろ? もちろん、おめえの奢りで」
「ええ。お手柔らかにお願いします」
「ま、俺も昔ほど飲めるわけじゃねえからよ。20年も経ちゃあ、あちこちガタがきて当然だ」

 20年前。
 もう、そんなになるのだ。

 若かった頃の自分と羽佐間を思い出して、薪はあの頃と同じ、満面の笑みを浮かべた。





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折れない翼(2)

折れない翼(2)





『どうして捜一なんか希望したんだよ? 警察庁の内勤から始めるって、おまえそう言っただろ?』
 携帯電話から聞こえてくる親友の心配を含んだ声に、薪は頬をほころばせた。
「僕は早く出世したいんだよ。手柄を立てるなら、ここが一番手っ取り早いだろ」
『おまえが決めたことなら、仕方ないけどさ。でも、本当に大丈夫か、薪。危ない目に遭ったりしてないか? 』
「大丈夫だって」
 親友の言葉を遮るように、薪は言葉を重ねた。

「僕をだれだと思ってるんだ? 行く行くは、警察庁のトップに立つ男だぞ。捜一なんて、軽いよ」
『……おまえ、鼻っ柱折られて泣くなよ』
「鈴木こそ。所轄の人間に舐められるなよ。僕たちはキャリアなんだからな」
 わざと高慢なセリフで自分の弱気を隠し、薪は胸を張った。

 鈴木はいつも自分を気遣ってくれる。自分だって新しい職場に入ったばかりで気苦労も多いだろうに、こうして毎日のように連絡をくれる。
 薪はずっとその気持ちを嬉しく受け止めてきたし、彼に頼っても来た。しかし。
 いい加減、彼からは卒業しないといけない。でなかったら、いつまでも鈴木と対等な人間になれない。

 彼の親友に相応しい男になりたかった。
 捜査一課は刑事にとっては花形部署だが、仕事がきついことでも追随を許さないと聞いた。そこを職場に定めれば、嫌でも自分を鍛えられると思った。

 携帯を閉じて、薪はため息を吐く。
 学生の頃は滅多に吐かなかったのに、この頃はめっきり多くなった。社会人の苦労というやつが分かってきた証拠だ。
 今日のため息の原因は、昨日の現場での大失敗。自分のせいで犯人を取り逃がした。刑事にとって、これ以上のしくじりはない。

 先輩と一緒に強盗犯を追いかけて、狭い路地で挟み撃ちにした。犯人は自分が追い詰められたことを悟ると、迷うことなく薪の方に突進してきた。
 相手の勢いに押されながらも、薪は雪子に習ったことを思い出そうとした。走ってくる相手の左側に避けて、腕を決めて足払いをかけて……頭の中のシミュレーションは完璧だったのに、現実は厳しかった。
 相手の腕をつかむまではうまくいった。しかしその後、見事に引き摺られてしまった。足を踏ん張ろうとしたが無駄だった。強盗犯の太い腕が振り回され、薪はあっけなく吹っ飛ばされて塀に背中を打ちつけられた。胃が胸から飛び出るかと思った。よくも悪くも優等生だった薪に、コンクリートの塀に叩きつけられた経験などあるはずがなかった。
 薪が痛みに息を詰めている間に、犯人はいなくなっていた。地べたに座って背中をさする薪の前を走り抜けた人影から舌打ちが聞こえて、立ち上がろうとしたが、痛みが強くて動けなかった。
 薪の空けた穴から逃げた犯人は、先輩刑事の追走を振り切り、まんまと逃げおおせた。薪は指導員の先輩と共に課に戻った。薪の背中には大きな痣ができて、後頭部に擦過傷もあったが、薪に与えられたのは叱責だけだった。

 すみませんでした、と深く頭を下げた薪の背中に、不愉快な声が飛んできた。声の主は世良義之。同じ課の先輩の巡査部長だ。
「課長。こいつを現場に出したのが、そもそもの間違いなんですよ。勉強ばっかりしてきたモヤシ野郎なんか、足手まといになるに決まってるじゃないですか」
 自分がミスをしたことは分かっていたが、公衆の面前で自分が役立たずだと決め付けられて、薪はカッとなった。課長や指導員の先輩に叱られるのは仕方ないとしても、この事件とは何の関係もない別班の人間に侮辱を受ける謂われはないはずだ。
 言い返してやりたかったが、世良は羽佐間と並んで捜一のエースだ。今現在薪が彼に勝るものといったら、階級くらいしかなかった。使い勝手の良くない武器だとは思ったが、薪はそれを使うことを選んだ。
 このとき、薪は23歳。悲しいくらいに若かった。

「世良さん。警部補の僕にそんな口を利いて、後で後悔しま……っ!」
 精一杯の強がりですら、最後まで言わせてもらえなかった。
 世良に胸ぐらを掴まれて、身体を持ち上げられた。息が止まる。

「ここではホシを挙げたやつがチャンピオンなんだ。階級なんざ、何の役にも立たねえよ」
 世良の乱暴な振る舞いを咎めるものは、ひとりもいなかった。
 薪がキャリア入庁していることは、皆が知っている。そのことで疎まれていることも承知していた。ここでは自分の味方は誰もいない。薪は痛烈に孤独だった。

 床に投げ落とされて、傷めた背中がずきりと痛んだ。表情を隠すために、薪は俯いた。
 世良は薪を馬鹿にしたように鼻で笑うと、自分のデスクに戻って行った。口惜しかったが、腕力の差はどうにもならない。そしてここでは、頭脳よりも体力の方がものを言うのだ。
 証拠物件から犯人のプロファイリングを行ったら、大学で犯罪心理学を専攻していた薪の方が上かもしれない。しかし実際の捜査では、推理力が問われる場面は少ない。犯人が防犯カメラに映っていたり、目撃者や証拠が山ほど現場に残されていたりして、考えを巡らせる間もなく犯人の正体が分かってしまう。そんな事件が殆どなのだ。
 例え謎めいた事件が起こったとしても、それはベテラン刑事の仕事だ。新入りには、意見することすら認められない。執行部からの指令にひたすら従うだけだ。そこに必要なのは、体力と根性。薪のこれまでの人生には、どちらも必要のないものだった。

 背中に響かないように気をつけて、薪は立ち上がった。自分のデスクについて、始末書を書き始める。捜一に配属されてわずか1週間の間に、この書類はもう3枚目だ。
「おい、薪。俺の分も一緒に書いといてくれ。得意だろ?」
 ペンの上にわざわざ書類を落とされて、薪は苛立ちを奥歯でかみ殺す。自分が書くべき書類を薪に押し付けようとしているのは、羽佐間匡。先刻、薪と一緒に強盗犯を追いかけていた先輩だ。

 羽佐間は世良と同じ巡査部長で階級的には薪の下だが、彼は自分の指導員だ。逆らわないほうがいい。
 部屋の中では比較的穏やかな羽佐間だが、現場に出るとものすごく怖い。初めて羽佐間に怒鳴りつけられたときには、ショックで棒立ちになってしまった。幼い頃から優等生で通してきた薪は、他人からあんな風に怒鳴られたことはなかった。

「ついでに、異動願いも書いたらどうだ」
 冗談じゃない、1週間で異動なんて。
 キャリアの異動が多いのは常識だが、あれは昇任システムの関係から派生する人事であって、力不足で職務がこなせないから逃げるわけじゃない。何も為さないまま、逃げ出すなんて真っ平だ。推薦してもらった警大の教授にも合わせる顔がない。

「羽佐間さんにはご迷惑かもしれませんが、もう少しここで頑張りたいと思います。引き続き、ご指導ください」
「頑張るったって、おめえよ。人には向き不向きってもんがあらあな。怪我しねえうちに内勤に移った方が、てめえの為だと思うぜ」
 ひとの良い振りをしてやさしい言葉を掛けるが、羽佐間の本音は分かっている。デキの悪い新入りを追い払いたいのだ。
 だからと言って、羽佐間を冷たい人間だと詰る気はない。今日の捕り物の顛末からも分かるように、薪は羽佐間の足を引っ張ってばかりだ。指導員として薪とコンビを組む前の羽佐間は、逮捕数トップの座を世良と競っていたのだ。自分の成績が落ちる原因を取り除きたいと思うのは、当たり前のことだ。
 
 申し訳ない気持ちもあって、薪は俯くことしかできない。
 元々、薪は人前で自分の意見を言うのは苦手だ。研究発表のように資料があれば淀みなく喋れるが、普通の会話は苦手なのだ。仲の良い友だちになら気兼ねなく話せるが、それ程心を許していない相手にはどうしても寡黙になる傾向がある。
「また黙んまりか。ったく、扱いづれえなあ、キャリア様ってやつは。泣きもしねえ、笑いもしねえ。人形みてえに澄ました顔しやがって」
 羽佐間は肩を竦めて、机の前から離れた。

「俺あ、人形に仕事を教える気はねえからよ」
 羽佐間の広い背中から放たれたその一言が、薪の心に深く突き刺さった。

 自分がとてもつまらない人間に思える。これまでずっとエリートの道を歩いてきた薪は、誰かに足を引っ張られた事はあっても、逆の立場になったことはなかった。生まれて初めて味わう挫折感に、そのあまりの絶望感に萎縮して、本来の力を発揮できない。

 2065年の現在、天才との呼び名も高い警察庁の星、推理の神さまとまで讃えられる薪剛警視長の刑事人生のスタートは、その名声に相応しくない屈辱の幕開けで始まったのだった。



*****


 ぷぷぷ。
 劣等生の薪さん、かわいい♪(←鬼畜)



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折れない翼(3)

 こんにちは~。

 今日はちょっとだけ怒ってます。
 何故かと言うとですね、
 最近の若い人は、口の利き方がなってませんねっ!(←年寄りの得意のセリフ)

 昨日の交通誘導員さんとの会話。
「代理人さん、ちっちゃいですね~、身長いくつあるんですか?」
 ぐさっ!!
「……148センチです」
「うっわ、ちっさ!」
 ぐさぐさっ!!
 そのままフォローもなく去っていく誘導員。

 ひーどーいーよー!!
 誰がミジンコドチビだよーーー!!(←言ってない)

 女性に年と体重を尋ねないように、チビには身長を尋ねてはいけません。
 ぷんぷん。


 とか言いつつ、こちらは大分に失礼なお話で。あはは、ごめんなさい~~。

 





折れない翼(3)





 捜査一課の羽佐間班に新しい人員が加わって2週間が過ぎた頃、隣の世良班と合同で歓迎会が開かれた。
 捜査一課には約350人ほどの捜査員がいるが、7月の人事異動で捜査一課に配属されたニューフェイスは合計で20人ほど。全体の1割に満たない人数だ。そのほとんどが所轄からの栄転による者で、つまり現場の猛者たちである。その中で東大出身の23歳のキャリアは、どうしようもなく異色な存在だった。
 所轄と警視庁の違いはあるものの、他の新人たちには現場の経験がある。場所が変わっても捜査は捜査、基本的にやることは同じだ。飲み会ともなれば今まで手がけた事件の話に花が咲くが、現場経験のない新人キャリアは聞き役に徹するしかない。

 歓迎会が開かれた居酒屋の座敷で、20名ほどの膳が並べられたその末席にちんまりと座って、薪はひたすら沈黙を守っていた。他の者たちは現場の苦労話で盛り上がっているようだが、正直な話、薪には彼らの言っていることが良く分からない。警察官同士の会話には隠語が多く、まだこの職業について日の浅い薪にはちんぷんかんぷんだった。分からなかったら訊けばいいのだが、それも面倒くさく。また、わざわざ問い質してまで参加する価値のある会話とも思えなかった。
 というのも、
「でもって、捕まえたホシがエライいい女で。何とか見逃してくれってんで、仕方ねえから取調室で」
 下品な笑い声の混じるそんな話に加わるほど、自分は低俗な人間ではない、と当時の薪は思っていた。現場経験はないが、志の高さはここにいる誰にも負けない。自分は将来、彼らの上に立つ人間だと自負していた。

 世良班の新人の中に、佐藤という若い刑事がいた。薪より3つ年上の、がっちりとした筋肉質の男だった。
 彼は薪とは正反対で、その話を熱心に聞きたがった。彼の熱意をからかった先輩刑事が「佐藤は童貞か」と男ばかりのこういう席では当然のように出る笑い話に持ち込もうとすると、佐藤は真顔で、「実はそうなんです」と言ったものだから、年若い連中には次々とその質問が回ってくる羽目になった。
 座がその手の話題に遷り変るのを聞いて、咄嗟に薪は嫌悪感を抱いた。猥談の類は、聞くのも話すのも苦手なのだ。
 いっそのこと中座してしまおうか、と薪は思い、サークルのコンパと違ってこれは仕事の一環なのだからそれはよくないと考え直した。ただじっと身を固くして、時間が過ぎるのを待とうと思った。

「キャリアってのは酒の席でもすまし顔なんだな」
 すっと隣に指導員の羽佐間が座った。開けたばかりのビール瓶を薪の方に差し出して、
「先輩たちに酌でもして来いよ。それが新入りの務めだろ?」
「佐藤さんがやってるから、僕はいいでしょう」
 酒を注ぎまわりながら、よろしくお願いします、と頭を下げている。あれが普通の新人の姿なのだろう。それは薪にも分かっていたが、自分はキャリアだ。普通の警察官とは違う。

 そういうもんでもあるめえよ、と羽佐間は彼独特の言い回しで薪の態度を非難し、しかしすぐに翻って、
「まあ、強制はしねえけどよ。今は仕事中じゃねえからな」と矛を収めた。
 それから手に持っていたビールを、薪のコップに注いでくれた。世話になっている指導員の羽佐間には日頃の礼に酌をすべきだと思い、羽佐間の置いたビール瓶を取り上げ、彼のコップに差そうとしたところに、例の質問が回ってきた。

「次は薪だな。こら、白状しろ」
「僕もあんまり。でも一応は」
 当たり障りの無い答えを返そうとして、しかし次に浴びせられた言葉に、薪は絶句した。
「だれがおまえのオンナ経験なんか聞くかよ。オトコだよ、オトコ! 経験あんだろ?」
 ぎゃはは、とけたたましい笑い声が部屋中に響き、薪は一瞬でピエロになった。

 それは単なる酒の席の戯言で、その質問を発した先輩は別に薪に恨みを持っていたわけでもなんでもなかった。それどころか、どことなく周囲から浮いた存在の新人を場に馴染ませようと、そんな冗談を言い出したのかもしれなかった。しかし、それは若い薪にとっては決して許すことのできない侮辱だった。
 
 大切なひととの思い出を、嘲笑われたような気がした。

 言われたとおり、僕には男性との経験があるけれど、それをこんな風に茶化される筋合いは無い。
 あれは僕の初めての恋で、端から見たら浅はかな行動であったかもしれないけれど。あの頃の僕の精一杯を鈴木はちゃんと受け止めてくれて、たくさんたくさん僕に愛を返してくれて、それを貫き通すことはできなかったけれど、だけど僕には未だに一番大切な恋で。

「オンナは少なくても、オトコは多いだろ? 何人くらい知ってんだ? このスケベ! オトコ好き!」
 10年後の薪なら。
 酒に酔った振りをして彼に近付き、「いやだなあ、××さんたら! 僕は女の子100人は斬ってますよ!」と明るく笑いながら胸倉を掴んで張り倒し、関節技のひとつも決めているだろう。しかし、このときの薪はまだ23歳。生真面目さはそのまま固さにつながって、薪は純粋な怒りを感じた。

「おまえってそういう顔してるよな。大学ではさぞモテたんだろ、オトコに」
 無神経なこの男を殴りつけたいと思った。彼との大事な思い出を踏みにじられたようで、それは薪にとっては極刑に値する蛮行だった。
「おい、佐藤。なんなら薪に筆卸ししてもらえ!」
 狂ったような笑い声が部屋に溢れかえった。我慢ならなくなって、薪は席を立った。
 後ろで羽佐間が、「悪りい、ちいと飲ませすぎちまった」とフォローを入れてくれていたが、それに感謝する余裕も無かった。

 部屋中の人間が自分と鈴木の関係を知っていて、それを笑っているような気がした。これまで一度も考えたことがなかった、同性と愛を交わすことが他人に嘲笑される理由になるなんて。
 大っぴらに、ひとに自慢することはできない関係だということは分かっていた。だけど、それが侮蔑の対象になるなんて。僕たちはあんなに真剣に愛し合っていたのに、それが笑いものにされるなんて。

 ショックだった。
 悲しみと憤慨に掻き乱された心で、それでも薪は考えた。

 鈴木の耳に、こんな流言を入れちゃいけない。あからさまな蔑みの口調で囁かれる無責任な噂話は、きっと鈴木を悲しませる。
 鈴木は何も悪いことはしていない。彼に恋をしたのは僕、身体の関係を迫ったのも僕。やさしい鈴木はそれを拒めなかっただけ、僕を傷つけたくなかっただけ。だから鈴木が悲しい思いをするのは間違ってる。

 強くなりたいと思った。
 実力があれば、誰にも何も言わせない。鈴木に迷惑を掛ける心配もなくなる。だけど今の僕の力じゃ……。

 こんなにも、自分の非力を嘆いたのは生まれて初めてだった。
 口惜しかった。

 薪はその晩、捜査一課に入って初めての涙を流した。



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折れない翼(4)

 こんにちは。

 実は今日は、お義父さんの3回忌なのですよ。
 でも昨日は現場に出なきゃいけなくて、仕方ないからお寺の確認からお昼の予約確認まで、現場から携帯電話で。ローラーとASフィニッシャーの音がうるさくて、何度も聞きなおしながら☆

 帰ってから提灯とかお供え物とか祭壇とか作ったんですけど。
 いつもは一人でやるんですけど、今回は現場に出ていたせいで間に合わず~、義弟とオットに手伝わせちゃいました。お義母さんにはお掃除、義妹には買い物をしてきてもらって。楽しちゃった♪←長男の嫁のくせに。
 さらに、3回忌が終わったらオットと義弟と一緒に測量にGO! なのです。仕事に追われて、片付けどころじゃありません。 
 もう、長男の嫁というよりは息子のひとりと化していて。嫁失格かなあ。 
 こんな駄文を書いてる時点で、今更って気もするなあ(笑)  





折れない翼(4)




 張り込みというのはひどく退屈で、でも簡単な仕事だと薪は思っていた。
 同じ場所に何時間も居座り、犯人が現れるのを待ったり、容疑者の様子を見張ったりする。刑事ドラマでは時間の都合上、張り込んで数分で犯人が現れるが、現実はそうはいかない。一晩中神経を尖らせていても成果が得られないこともあるし、警察が目をつけた容疑者とは他の真犯人が出てきて、何日も続いた監視が空振りに終わったりする。
 それは薪も、重々承知していた。待つのは辛いかもしれないが、体力的には楽なはず。犯人の姿が見えたら羽佐間に無線で連絡をする、それだけの仕事だ。しくじる余地はないと思った。

 しかし、現実は。
 梅雨明けの太陽がギラギラと照りつける炎天下、電柱の陰に立ち続けるという仕事は、考えられないくらいきつかった。
 沸騰したお湯から湯気が出るような勢いで、アスファルトから陽炎が立ち上っている。靴底が熱い。生卵を落としたら、目玉焼きができそうだ。
 ドラマだと、ちゃんと冷房の効いた車の中で座って犯人を待つことができるのだが、現実には車を止められない道路の方が多い。罰金も高いし取り締まりも厳しいから、何時間も違法駐車をする車は少ない。そんな道路に堂々と車を停めておいたら、ここで見張っています、と犯人に大声で知らせているようなものだ。
「……刑事ドラマって、嘘ばっかり」
 あれが刑事の現実だったら、警察官は憧れの職業№1の座から退くことはなかっただろう。

 灼熱地獄に立ち尽くして2時間、薪は先刻から痛みだしたこめかみの辺りを押さえて、深いため息を吐いた。
 なんだか気持ち悪くなってきた。水分補給を小まめにするよう先輩に言われて、ペットボトルの水を飲んでいたのだが、それが全部出てきそうだ。
 容疑者は、まだ現れない。
 交代の時間まで、あと1時間。それまでは頑張ろうと目的の部屋を見つめる目に力を込めるが、直ぐに視界がぼんやりと霞んでくる。霞むくらいなら良かったのだが、次第にそれが暗く翳ってきて、薪の視界は急に狭くなった。

 狭い視界がぐらぐらと揺れ始めたときには、地震が起きたのかと思った。不安定に揺れる狭窄した世界に容疑者の姿が現れたのは、そのときだった。手にコンビニの袋を提げて、駅の方向からやってくる。きっと自分のアパートに帰ってきたのだ。
 やった、羽佐間さんに報告だ。
 自分の仕事はここまでだ後は羽佐間がここに来てから一緒に横田のアパートに踏み込んで逃げたら追って捕まえて手錠をこんどはぜったいににがさないようにてじょうをあいてにかじりついてでもひきとめててじょうを――。

 頭の中のシミュレーションは、無線の送信機をつかんだところで途絶えた。急に身体が軽くなって、足が宙に浮いたような気がした。目の前が真っ白になり、夏の日差しの眩しさに驚きを覚え、次いで暗転した。
 次に目を開けたときには、白い天井とフードのない蛍光灯が見えた。蛍光灯の基盤に貼り付けられた備品番号から、ここが捜一の仮眠室であることを知る。瞬間、自分がどうしてここにいるのかを悟って、薪は泣きたくなった。

 枕もとの携帯がピリリと音を立てて、薪の涙を止めた。深く息を吸って、電話に出る。
『薪? 大丈夫か? おまえ、現場で倒れたって』
「……なんで知ってるんだ?」
『さっき、おまえに電話したら羽佐間さんて人が電話に出て。熱中症だって? 大丈夫なのか?』
「熱中症? 大げさだな。ちょっと眩暈がしただけだよ。今張り込み中なんだ、切るよ」
 有無を言わせず電話を切ると、薪は肘を上げ、腕を目蓋の上にのせた。
 自分が情けなくて涙が出てくる。ここの仕事をこなすには、自分は絶望的に体力が足りない。もっと身体を鍛えておけばよかった。大学時代、痴漢対策にと雪子が柔道の基礎を教えてくれたが、荒くれ者相手にも通用するように、徹底的に仕込んでもらえばよかった。

「大丈夫か、おい」
 枕元で先輩の声がして、薪は慌てて涙を拭いた。これ以上、自分のヘタレ伝説に拍車を掛けたくない。ぐらつく頭を右手で押さえ、ベッドの上に身を起こした薪に、羽佐間は冷たいスポーツ飲料を差し出した。
「次からは水じゃなくて、こいつにしとけ」
 羽佐間が自分をここまで運んでくれたのだろう。どうして羽佐間には、自分が現場を放棄したことが分かったのだろう。連絡する前に気を失ってしまったし、交代の時間はまだ先だったはずだ。

「どうして僕が倒れてるってわかったんですか?」
「無線持たせたろ。あれでよ」
 ピー、とスイッチが入った直後にガガッという雑音が入り、薪の身に何かが起きたことを羽佐間に教えた。現場に駆けつけながら尚も無線に耳を澄ますと、『おい、大丈夫か。しっかりしろ』という男の声が聞こえた。
 現場に到着してみると、男の腕に頭部を支えられ、介抱されている後輩の姿があった。
 羽佐間は迷った。親切な行きずりの男に礼を言うのが先か、彼に手錠を掛けてからにするべきか。

「犯人に助けられる刑事って、おめえよ。マンガじゃねえんだからよ」
「すみません」
 薪が神妙に謝ると、羽佐間は嫌味に笑って、
「ま、ものは考えようだ。相手もまさか、おめえみてえな刑事がいるとは思わなかったんだろうぜ。おかげでホシは捕まえたし、怪我の功名ってとこだ。おめえの手柄と言えなくもねえ。ひ弱で良かったな?」
 ニヤニヤと笑っているが、これはもちろん褒め言葉ではない。果てしなく蔑まれているのだ。その証拠に、
「てなわけで、これ頼むな」
 羽佐間が薪の膝の上にぽんと置いたのは、2枚の始末書。

「僕はともかく、羽佐間さんはどうして? 横田は逮捕したんでしょう?」
「俺もちぃとばかり焦ってな。本部への連絡を忘れて突っ走っちまった」
 言うことはきついが、羽佐間は悪い男ではない。自分のことを心配してくれたのだ。電話の向こうの親友と同じように。

「あ、そうだ。おめえをここに運んでくれたのは、世良だ。後で礼を言っとけ」
「どうして世良さんが」
「おめえが役に立たなくなったのは察しがついたからよ、近くで聞き込みやってた世良に応援を頼んだのよ。俺が横田をしょっぴいてる間に、世良がおめえをここまで運んでくれたってわけだ」
 選りに選って嫌なやつに借りを作ってしまった。またネチネチ言われるだろう。羽佐間には悪いが、知らぬ振りをしてしまおうか。世良だって、自分と話すのは不愉快だろうし。

「羽佐間さん、ここにいたんすか。課長が呼んでますよ」
 などと卑怯なことを考えていたら、当の本人が顔を出した。やっぱり、ズルはだめか。
「お。気が付いたか、粗大ゴミ」
 人生で他人にゴミと呼ばれたのは初めてだ。
 複雑な胸中を表に出さないようにして、薪は世良に謝罪した。

「すみませんでした。ご迷惑かけました」
 世良の視線が痛い。相手の顔をなるべく見ないようにして、薪は頭を下げた。
「これで分かっただろ? 現場は、おまえみたいな軟弱者が出てくるところじゃねえんだよ。今回は無事に犯人が捕まったからいいようなものの、こないだみたいに取り逃がしたらどうするんだ? あれはケチなコンビニ強盗だったけど、それが連続殺人犯だったら?
 おまえのヘマのせいで新しい犠牲者が出たりしたら、おまえ責任取れるのか?」
 握り締めた自分の手をじっと見つめながら、薪は世良の言葉を聞いていた。世良は現在の捜一のエースだ。自分にも他人にも厳しい。

「キャリアはキャリアらしく、部屋の中でハンコ押してりゃいいんだよ」
「まあ、そう言うなよ、世良。こいつも反省してるからよ」
「ったく。羽佐間さんは甘いんだから……っと、課長ですよ、課長」
「うう、また説教か」
「早くしてくださいよ、俺が怒られちまう」
 捜一のツートップでも課長は怖いらしい。オタオタとうろたえるようにして、二人は部屋を出て行った。

 自分も仕事に戻らなくては、と薪は思い、足を床に下ろして立とうとした。が、膝に力が入らず、ぺたんとその場に腰を落としてしまった。手も足も、小刻みに震えている。
 熱中症になったのも初めてだ。どちらかというとインドア派の薪は、学生の頃も夏は冷房の効いた室内で過ごしていた。もう少し、耐性をつけておけば良かった。
「何やってんだ。まだ寝てなきゃ駄目じゃねえか」
 数分後、何故か戻ってきた羽佐間が床に座った薪を立たせて、再びベッドに寝せてくれた。「課長のお説教は終わったんですか」と聞くと、「フケてきた」と言う。不良学生のような言い草が、ほんの少しおかしかった。

「そら、飲め」
 寝たまま飲めるように、ペットボトルの口に蛇腹つきのストローが差してある。見た目に合わない細やかな心配りが意外だった。
「大丈夫です。構わないでください」
 先刻の世良の苦言も手伝って、素直にひとの好意を受けられない心理状態だった薪は、つっけんどんにペットボトルを押し返した。
「ただでさえ僕のせいで世良さんに差をつけられて、焦ってるんでしょう。さっさと横田の自供を取って、少しでも点を稼がないと」
 世良に対する憤りを世話になっている先輩刑事にぶつけるのはおかしいと自分でも思ったが、心の中で渦を巻く自己嫌悪と敵愾心が薪の口を動かした。
「何なら、僕の指導員から外れてくれても結構ですよ。僕は一人だって」
 一人でだって立派な刑事になって見せます、と言おうとして、さすがにそれは大言が過ぎると判断して、薪は口を噤んだ。羽佐間から顔を背けて壁を見つめ、下唇をぎゅっと噛み締める。

「薪よ。警大の天才だか何だか知らねえが、一人は所詮一人だ。出来ることにゃ限りがあらあな。警察の仕事ってのは、一人じゃどうにもならねえもんばっかだぜ?」
 分かっている。だけど、こんなに誰かの足を引っ張ってばかりいる自分なんて、誰かに損害を与え続ける自分なんて、認めたくない。
「いっぱしの刑事になるのには、何人もの人間に育ててもらわなきゃならねえ。俺もそうだった。俺がおめえの指導職を受けたのは、その先輩たちへの恩返しだ。要は俺の都合だからよ、おめえの我儘は聞かねえよ」

 羽佐間は冷たいペットボトルを横になった薪の顔の上にまともに載せると、さっと踵を返した。
「いいな。寝てろよ。俺はこれから横田の取調べだ。おめえのお守りはしてられねえからな」
 そう言いつつ、それから2時間の間に、羽佐間は3回も薪の様子を見に来た。4回目に来たときには、薪はそこにいなかった。
「なんだよ、挨拶もなしに帰っちまうたあ。最近のガキはまったく」
 薪は大分落ち込んでいたようだった。これはいよいよ異動か。

 しかし、それは羽佐間の早とちりだった。二枚置いていったはずの始末書が一枚に減っており、薪はそれを課長に提出に行ったものと思われた。そして、残されているのは羽佐間が書くべきだった始末書だ。
 薪はさすがに大卒のキャリアだ。書類はやつに任せておいて間違いない。羽佐間はこれに判を押すだけでいい。
「……ああん?」
 いつもなら小難しい漢字が並んでいるはずのその書類には、薪のきちんとした文字で、
『羽佐間さんは何も悪いことはしてません』
 とだけ書いてあった。

「…………ほんっと、使えねえやつだな」
 苦虫を潰したような顔で呟くと、羽佐間はその書類をポケットにしまって、クククと笑った。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

折れない翼(5)

折れない翼(5)





『薪、仕事きつくないか? ちゃんとメシ食ってる?』
「大丈夫だよ。心配しすぎなんだよ、鈴木は」
 もはや日課と化した鈴木からの電話は、その日も当たり前のように掛かってきた。
 相手の迷惑にならないよう、それはほんの数分間のつながりだったが、その当時の薪の心を癒してくれる唯一の時間だった。

『周りの先輩たちと、うまくやってるか? またヘンなクセ出してないだろうな?』
「なんだよ、ヘンなクセって」
『いくら背伸びしたって、本当の身長は変わらないってこと』
「あっ、またひとが気にしてることを」
『いや、そうじゃなくて』
「なんだよ、自分がデカイからって、いっつも僕の身長のことからかって。鈴木なんかドアかまちに頭ぶつけちゃえ!」
『だから違うって』
 親友の言葉に戯れを返していると、指導員の羽佐間がドア口からこちらを見ているのに気付いた。職務中の私用電話に腹を立てているのかもしれない。新人のクセに生意気だと思われているのかも。

「もう切るよ。これから捜査会議なんだ」
 先輩に対する気兼ねもあって、薪は電話を切った。羽佐間の視線に応えて、自分から声を掛ける。
「羽佐間さん、何か」
「おめえ、笑えるんだな」
「……すみません、仕事中に」
「資料室の整理なんざ、仕事のうちに入らねえよ」
 捜査資料の山に埋もれている薪に向かって、羽佐間はバカにしたような口調で言った。

 3週目に入り、始末書の枚数が10枚に達したとき、薪はとうとう課長に見限られた。現場から外され、資料室の整理をするように言い渡されてしまったのだ。
 課長からは、『大事なキャリアに怪我をさせるわけにはいかない』と言われた。資料室の整理は新人の仕事だし、しばらくはそれに専念しなさい、と諭された。が、その本音は、現場の足を引っ張る新人キャリアを資料室に閉じ込めて、やっぱり自分は内勤向きだと気付かせたい、というところだろうと薪は思っている。

 まとめ終った資料を書類棚に戻そうと席を立ち、薪は足腰に走った痛みに眉をしかめる。昨日はちょっと張り切りすぎた。
「おめえ、身体の調子でも悪いのか」
 薪の動きの鈍さに気付いたのか、羽佐間が不思議そうに尋ねる。やっぱり刑事の眼は鋭い。
「いえ。何でもありません」
 羽佐間は薪の傍に駆け寄るように寄ってきて、素早く薪のズボンの裾を捲り上げた。膝から下を露わにされ、薪は驚きの声を上げた。
「なにを」
「どうしたんだ、このアザ」
「転びました」
 薪がそう答えると、羽佐間はふんと鼻を鳴らして、ズボン裾を乱暴に戻した。

「現場に出なくても怪我すんのか、おめえは。ドンくせえやつだな」
「放っておいてください」
「まあ、一息入れろや」
 右手に持った紙コップを机の上に置いて、羽佐間は部屋を出て行った。嘲笑いに来たわけではなかったのか。

 自分は少し、ひねくれていたかもしれない、と薪は思った。課長も本気で自分のことを心配してくれての資料室だったのかも。
 焦っていたのかもしれない。
 自分が考えていたより、現実はずっと厳しくて。これまでどんなに甘やかされて生きてきたのか、学生と社会人の差を思い知らされた。社会は常に百零の世界。90点では駄目なのだ。結果がすべてで、その結果を出すためにいかなる苦労を重ねようと、そんなものは評価の対象にはならない。
 自分はキャリアなのだから、それなりの成績を修めなければならないと自ら目標を掲げていたのに、何一つ思い通りに運ばない。理想と現実のギャップにストレスを感じて、空回りの連鎖に陥っていたのかも。

 薪は机に戻って、コーヒーに口をつけた。ミルクと砂糖がたっぷり入ったコーヒーは、薪の好みではなかったが、とてもやさしい味がした。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

折れない翼(6)

 こんにちは。

 先日、どなた様か、過去作品に拍手をありがとうございました。
 懐かしいなあ、と思ってちらっと読み返してみたら、あんまりアホみたいなこと書いてて泣きたくな  とにかく、ありがとうございました。 うれしかったです。





折れない翼(6)





 薪はその日も定時で1課を出た。
 捜査に参加もさせてもらえない身としては、職場にいても仕方がないし、資料室の仕事は、残業してまで進めたいと思えるような魅力のあるものではないのだろう。

「お先に失礼します」ときちんと挨拶をして帰っていく薪を、羽佐間は目で追った。薪の姿がドアの向こうに消えると、席を立って彼の後を追いかけた。
 スタスタと歩いていく彼の後ろを、物陰に隠れながらそっと着いて行く。尾行はお手の物だが、相手も刑事だ。気取られないように、間隔は普段より多めにとることにした。

 尾行の理由は、薪の足の痣。
 それほど気になっているわけではないが、あれは明らかに打撲痕だ。誰かに殴られたか、強く打ち付けたのだ。本人は転んだと言っていたが、刑事を舐めてんのか、あいつは。誰がそんなミエミエの嘘に騙されるか。膝や前脛ならともかく、ふくらはぎの後ろや足首にまで複数の痣をつけるなんて、どんな器用な転び方だ。
 薪の不自然な動きから、打撲痕は足だけではなく、腰や背中にも付いている感じだった。もしかしたら署内の悪い連中に目をつけられて、恒常的に暴行を受けているのかも。

 思いかけて、羽佐間はその可能性を否定する。薪の歩き方は迫害を受けているもののそれではない。多少ヨロヨロしているが、ビクついてはいない。
 薪は警視庁の地下通路を通って、隣接する科学警察研究所の敷地に出た。
 捜査の関係で何回か足を運んだことがあるが、羽佐間はどうもここの雰囲気は苦手だ。ここにいるのは警察学校を出た警察官ではなく、研究を生業とする研究者たちだ。管理者の中には警察官もいるが、大半は研究所が直接採用した研究者である。学者のような風体の彼らに囲まれると、自分が異端者のようで落ち着かないのだ。

 羽佐間の前を歩く後輩は、中庭を過ぎって、大きな建物の裏手に出た。そこには広大なグラウンドがあり、テニスコートにバスケットゴール、バレーボール等のネットのポールが立ててあり、様々なスポーツを楽しむことができるようになっていた。その片隅には小さな道場があって、薪はその中に入っていった。
 羽佐間が窓から中を覗きこむと、中の畳は青々として美しく、強いいぐさの匂いから、最近取り替えたばかりだろうと思われた。研究者たちの待遇の良さに羽佐間は、自分たちが利用している警視庁の汚い道場の擦り切れた畳を思い出し、面白くない気分になったが、インドア派の研究員たちがそこを利用する確率は極めて低いことに思い至り、単なる使用頻度の問題かと考えを改めた。
 それにしても、研究所に道場だの運動場だのと、なんて無駄なものを、とその時羽佐間が思ったとおり、この道場と運動場は数年後に取り壊され、そこには9番目の研究所が建つことになる。

 やがてジャージ姿の薪が、道場の中に現れた。童顔も手伝って、スーツを着ていないと本物の高校生に見える。それも、入学したての年頃に。薪の顔を知らない5課辺りの荒っぽい連中が見たら、襟を摑み上げて施設内から放り出しそうだ。
 彼は道場を出て、グラウンドに向かった。薪の顔には似合わないと思ったが、道場へは着替えの為に寄っただけらしい。
 薪は見られていることには全然気付かないようで、羽佐間が隠れている茂みのまん前を通って運動場へと歩いていく。足の屈伸運動をしてから、トラックを走り始めた。

 なるほど、体力作りのためのジョギングをしていたのか。誰にも何も言わず、こいつはけっこう気合が入ってるじゃねえか。気合の入ったやつは嫌いじゃない。表情が乏しい人間は苦手だが、キャリアというのは大概そうだ。もしかしたら警大で、表情を殺す訓練を受けてきたのかもしれない。
 しかし、あの痣は? まさか、本当に転んだのか?
 だとしたら、どこまでドンくさいやつだ。とても面倒見切れねえ。

 羽佐間が頭を抱えていると、薪はトラックを走り終え、息を弾ませながら道場へ戻っていった。4週、つまり4キロで限界か。まあ大卒のキャリアなんか、そんなもんだろう。
 道場の更衣室で着替えて帰るのかと思いきや、薪は今度は道着姿になって出てきた。羽佐間が窓からその様子を見ていると、誰もいない道場で柔軟体操を始めた。
 薪はびっくりするくらい身体が柔らかかった。座位前屈は胸が床につくくらいだし、背筋は90度を超えそうだ。180度開脚もいけるんじゃないだろうか。が、その後に続く腕立て伏せと腹筋運動は、悲しいくらいお粗末だった。捜一の連中なら最低でも50回はできる。それが10回しか続かない。

 しかし、これは薪が悪いわけではないと、羽佐間には分かっていた。
 羽佐間たちのように警察学校を卒業したものは、そこで徹底的に鍛えられる。日常的なトレーニングは強制されるし、柔道または剣道の初段は必須資格で、受かるまで何度も挑戦させられる。学校というよりは軍隊。規律も厳しいし、それを犯したときの体罰もかなりきつい。ちょっと集合時間に遅れただけで、竹刀で殴る教官もいる。
 引き換え、薪が大学で学んできたのは管理者としての心得だ。体力訓練も体罰も、無縁のものだったろう。ノンキャリアの羽佐間にその内容は分からないが、人を支配する術を学んできたと思えば間違いない。
 言い方は悪いが、ノンキャリアは兵隊、キャリアは司令官だ。命令を下す側の人間は、前線には出ない。強靭な肉体も武術も必要ないのだ。その司令官が、訓練期間も置かずにいきなり前線に出ようというのだから。無理が生じて当たり前だ。

 黙々とトレーニングを続ける薪を見て、羽佐間はどうしてこいつは捜一に来たがったのだろう、と不思議になる。
 変わったやつだ。他のキャリアのように、所轄で判を押しながら試験で出世して行こうとは思わなかったのだろうか。
 今のキャリアの昇任制度は、警視正までなら試験だけで昇進できたはずだ。そこから先は何か褒章に値する手柄を立てないと進めないが、警視正といえば、ノンキャリアが退職までに望める最高のポストだ。勉強さえしていれば、苦労せずにそこまで進めるというのに、どうしてこんな苦しい道を選んだのだろう。
 課内であれほどみんなに煙たがられても、異動したがる様子はないし。こうして自主トレをしているということは、これからもこの人間関係も仕事内容もキツイ職場で耐える覚悟をしている、ということだ。

 後輩が頑張っているのなら、指導員として手を貸すべきかと羽佐間は思う。しかし、薪は自分に何の相談もしてこなかった。足の痣を見られても、姑息な嘘で隠そうとした。キャリアのプライドというやつかもしれない。それを傷つけていいものだろうか。
 
 薪以外は動くもののない道場に、やがてひとりの人物が現れた。道場の入口から入ってきて、トレーニングを続ける薪に手を振ったのは、短く切り揃えた黒髪と意志の強そうな黒い瞳が印象的な女性だった。
 薪が軽く手をあげて、彼女に微笑みかけた。羽佐間が見たこともないような、やわらかい笑い方だ。いや、昼間電話をしていたときにも、薪はこんな顔をしていたか。

 幾何学模様の赤い半袖シャツに黒いズボンという派手めの格好をした彼女は、しっかりと胸腰が張っていて、遠目にもかなりの美人だ。薪のやろう、こんな美人の彼女がいたのか。ヒヨコどころかたまごのクセに。なんて生意気なやつだ。

 しかし彼女は薪の所へは行かず、道場の奥に二つ並んだ右側の扉、つまり女子更衣室へと姿を消した。しばらくして、道着に着替えて出てくる。背が高いおかげで、胴着姿がビシッと決まっている。女三四郎ってやつだ。
 道場でデート?しかし、ふたりとも道着姿なのが気になるが。

 女三四郎は、軽く準備体操をすると、薪に声をかけた。何を言ったかは聞き取れなかったが、薪が彼女に近付き、礼をしたところをみると、打ち込み(技の形の反復動作をする稽古法)でもする気かもしれない。
 彼女と柔道の稽古?いや、それは個人の自由だが。

 ずい分変わったデートもあったもんだ、と呑気なことを思っている羽佐間の目の前で、薪の細い身体が床になぎ倒された。
 打ち込みなんて、やさしいもんじゃねえ。こりゃ、乱取りだ。

 大外刈り、払腰、浮き落とし、内股―― 女子に次々と技を掛けられる不甲斐ない後輩を見て、このふたりは本当に付き合っているんだろうか、と羽佐間は思う。いくら何でも容赦がなさ過ぎる。痣だらけになるわけだ。
 しかし、これで納得がいった。後輩の痣の原因は、自己鍛錬によるもの。どういう知り合いだか知らないが、薪は彼女に特訓を受けていたのだ。おそらく、現場を外されてからずっと。

 何度倒れても、薪は直ぐに立ち上がって彼女に向かっていく。明らかに実力の違う相手から、それでも何とか隙を見つけては技をかけようと足を伸ばす。が、薪の蹴りは弱く、技は悉く返される。でも、諦めない。
 嫌いじゃねえな、と羽佐間は思った。
 資料室の無表情な後輩はいけ好かないが、道場の彼には好感を持てる。一生懸命な人間には、誰だって手を貸したくなるものだ。

 閑職に追いやられて、キャリアのプライドは悲鳴を上げただろうに、誰を恨むわけでもなく、ひねこびるわけでもなく。こうして自分を磨く努力を続ける。キャリアってのは思ったよりも、根性の座った人種らしい。
 嫌いじゃねえな、と羽佐間はもう一度心の中で思い、だから署内に戻って、自分のロッカーに常備してある道着を手に持って、再び道場を訪れた。

「羽佐間さん」
 道着姿の羽佐間を見て、薪は、羽佐間が噴き出しそうな顔をした。子供が親に悪戯を見つかったときのような、何ともバツの悪い表情。しかしそれは、とても可愛らしかった。
「あ、紹介します。友人の三好雪子さん。こちらは僕の指導員の羽佐間匡さんです」
 初めまして、と挨拶をして、ぺこりと頭を下げる彼女に、羽佐間は好感を抱く。近くで見ると、ますますいい女だ。うちの山の神ほどじゃねえが。
 聞くと彼女は今年度大学を卒業する予定で、早々と内定を定め、研究所内の法医学教室で研修前のアルバイト中だと言った。

「友人? 恋人じゃねえのか」
「違います。雪子さんは、僕の友だちの恋人で」
「ダチの恋人? なんだなんだ、三角関係か」
「「違います!」」
 ふたりの声が見事にハモって、3人は顔を見合わせる。誰からともなく笑いを洩らすと、後は言葉は要らなくなった。
 
 その日から、薪の練習相手は二人に増えた。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

折れない翼(7)

折れない翼(7)





 羽佐間が薪の練習に付き合ってくれるようになった週の金曜日、ふたりは初めて一緒に酒を飲んだ。場所は羽佐間の行きつけの小料理屋で、焼き鳥と日本酒がお奨めの店らしい。
 座敷に上がって座卓を挟み、二人は料理と酒を注文した。直ぐに突き出しと徳利が出てくる。羽佐間の自慢の女房のこと、薪の大学時代からの友人のこと、四方山話をしながら杯を傾ける。酒が進むにつれ興が乗り、ふたりは楽しいときを過ごした。
 ここ何日かで、薪の印象はずい分変わった。と言っても、いけ好かないキャリアから、それほど嫌いでもないキャリアになっただけだが。

「なんで捜一(うち)になんか来たんだ?」
 薪の酌を受けつつ、羽佐間はずっと聞きたかったことを切り出した。
「キャリアには無用な苦労を、どうして自分から?」
「出世への早道だと考えまして」
 こいつ、俺がノンキャリアだと思って舐めてんな。
 しゃあしゃあと言ってのけた薪のセリフが全くの的外れだということを、そして薪がそのことを承知していることを、羽佐間は知っていた。
 捜査一課は、キャリアの出世コースの主要道路ではない。キャリアというのは警視正まではそれほど苦労せずとも誰もがなれる、しかしそこから先は限られたポストを争って熾烈な生存競争がなされる。そうなった時いかにして自分が生き残るか、それを考えたら捜査一課でノンキャリアと付き合うより、本庁で上層部キャリアの味方を増やしたほうがいい。

 しかし、ここは騙された振りをしてやろう、と羽佐間は思う。何か言いたくない事情があるのだろう。警視庁の道場を使わずに研究所の道場で鍛錬を重ねていることからも解るように、薪は秘密主義者だ。容疑者でもないやつから無理矢理自白を取るほど、羽佐間は公私を混同する男ではない。

「異動することは考えなかったのか?」
「足りない分は、自分が成長すればいいって。僕を推薦してくれた教授が言ってました」
「そりゃそうだけどよ。現場で何度も犯人に吹っ飛ばされて、よくイヤにならなかったな」
 薪の失敗の数々をあげつらって、羽佐間は豪快に笑った。嫌味を言われて機嫌を悪くするかと思えば、薪は穏やかに笑っていた。

「犯人は、みんな僕の姿を見て御し易しと踏んで、僕の方へ逃げてきます。それって裏を返せば、彼らに手錠を掛けられるチャンスが向こうから飛び込んでくるってことですよね?
 僕の外見は刑事としては致命的な欠陥だと他人に言われたこともありますが、こんな使い方もありだと思います」
 合理的だ。キャリアと言うのは、こういう考え方が身についているものなのか。
「現状は未だ不十分ですけど。今に必ず、皆さんに負けないくらい強い男になってみせます」
「けっ、坊ちゃんらしいぬるい考え方だな。現実はそんなに甘かねえぜ」
 後輩の強く輝く亜麻色の瞳に満足を覚えつつ、しかし言葉は辛辣だ。羽佐間は相手への情を言葉に変換して満足する類の男ではなかった。

 その日は機嫌よく飲んで帰途についた羽佐間だが、途中、大事なものを職場に忘れてきたことに気付いた。明日は奥方の誕生日。そのための贈り物を購入しておいたのだが、家に置いておくと当人に見つかってしまうと考えて、職場のロッカーにしまっておいたのだ。明日は非番だ、出てくるのも面倒くさい。
 舌打ちしながらも大事な女房のため、本音は忘れたら何を言われるかわからない恐怖感から、羽佐間は職場に戻ることにした。

 夜の十時、捜査一課にはまだ明かりがついていた。
 どこかの班が残業をしているのだろうか。それほど難航している現場はなかったように思うが。

 自分のロッカーから目的のものを回収し、羽佐間は帰り際にそっと部屋の中を覗いてみた。そこには羽佐間の上司である捜査一課の課長と、さっき別れたばかりの新人の姿があった。こんな時刻に夜の職場でふたりきり、薪が女だったらドアの隙間に張り付くところだが。
 課長は席に座って、報告書らしきものに目を通している。薪は課長席の後ろに置かれた書類棚の前に立って、束になった報告書を読みふけっていた。いや、読んでいるというよりは、めくっているだけのように見える。あの速度で紙をめくって内容が頭に入るなんて、それは人間じゃない。人間の形をしたスキャンマシンだ。

「ありがとうございました、課長」
 やがて薪はすべての報告書を読み終えて、後ろを振り向いた。もう終わったのか?と驚きの色を隠せない課長の声が聞こえる。
「ええ。例の、ホステス殺しは進展がありましたね。問題は犯人の潜伏先ですが。おそらく、幼少の頃を過ごした山陰の」
「黒崎と同じ考えだな。あいつの班のやつが、2人ほど飛んでるよ」
「あと未解決なのは、大曽根班の強盗事件ですか。防犯カメラに何も映っていなかったのが、まずはおかしいんですよね。犯人が事前に調べて死角を知っていたのか、あるいは被害者の資産状況を鑑みて……狂言」
「大曽根は後者だと睨んでる」
 報告書の内容について課長と話している薪を見て、羽佐間は自分の常識がぐらつくのを感じた。

 どうなってんだ、キャリアってのは目がカメラにでもなってるのか? そういう生き物なのか?

 報告書の束を元通り棚に戻して、薪は自分の席に戻った。挨拶をして課長に頭を下げ、鞄を持ってこちらに歩いて来る。羽佐間は慌ててロッカーの陰に隠れた。
 羽佐間が物陰に潜んでいることにはまるで気付かず、薪は階下へ降りて行った。現場での経験が皆無に近い彼に、張り込みに慣れた刑事を見つけることは至難の業だ。いくら優れた頭脳を持っていても、身体で覚えるスキルに関して薪は素人と一緒だ。

 薪との間に充分な時間を置いて、羽佐間は警視庁を出た。
 薪が読んでいたのは、今週課長のところへ上げられた事件経過の報告書だ。今現在、どんな事件が起きていて、どこまで捜査が進んでいるのかが記載されている。
 資料室に篭もっていたら、情報は入ってこない。だから、薪はいつでも現場に復帰できるよう、情報を仕入れていたのか。そういえば、料理屋で薪は殆ど飲まなかった。あまり強くないので、と言い訳していたが、こういう予定があったからなのか。
 ったく、陰に回ってこそこそと。でも。
 嫌いじゃねえ。決して嫌いじゃねえ、と羽佐間は心の中で繰り返した。

 初めこそカンベンしてくれと指導員に当てられた自分の不運を嘆いたが、日が経つに連れてどんどん印象が変わってくる。もしかしたら、自分はとてつもなく面白い男を指導しているのかもしれない、と羽佐間は思った。

 月曜日。
 いつものように出勤してきて行儀よく挨拶をし、自分の持ち場、つまり資料室へと入っていく薪を、羽佐間はじっと見つめていた。そんな羽佐間に気付いて、部下の一人が声を掛ける。
「羽佐間さん? 薪がどうかしましたか」
「ありゃあ、化けるかもしれねえなあ」
「そりゃキャリアですから、出世はするでしょうね。でも、おれ達には関係ないっすよ」
「そうじゃなくてよ。近い将来、うちのエースになるかもしれねえぜ」
「……すんません、もう一回お願いします。次は外さずに笑いますから」
「冗談じゃねえよ。今は坊だけどよ、そのうちきっと」
「坊? ぷぷっ、ぴったりっすね。ガキみたいな顔してるし」
「薪坊か。そうだな、あいつの呼び名はそれで行くか」
 部下と一緒ににやにやと笑って、羽佐間は今自分が追いかけているゲームセンター強盗殺人事件の捜査に戻った。




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折れない翼(8)

折れない翼(8)






 世良義之は自分の班の職員に号令を掛け、事件の概要が簡潔に書かれたホワイトボードの前に集合させた。現在捜査中の容疑者について、各々が持ち帰った成果を報告させる。
「で? 狩谷はなんて?」
「その場所には一度も行ったことがない、って言ってました。今のところ目撃者も出ませんし、最寄り駅の防犯カメラにも映ってません」
 部下の報告を受け、世良は太い眉毛を険しく寄せてボードを睨んだ。ボードには数枚の写真が貼り付けられ、事件関係者の相関図が書いてある。その中の一枚の写真に、五部刈頭の丸い顔に眼鏡を掛け、あごひげを生やした恰幅のよい男が映っていた。

「捜索範囲を広げるか。それとも、こっちの男の線を」
「嘘ですよ」
 捜査線上に浮かび上がった狩谷ともう一人の男、風間にターゲットを変更するべきかと言おうとした世良の声を遮って、涼やかなアルトの声が響いた。この部屋には相応しくない、気取った声。
 休憩に出てきたのか、右手に白いコーヒーカップを持っている。薄いグレーのスーツを着てモデルのように姿勢よく立った彼は、周りの空気がそこだけ浄化されたかのような清涼感を漂わせていた。

 初めて見た時から、世良はこの新人が気に食わなかった。男のクセに、女みたいな顔と細っこい体つき。こんなオカマみたいなやつが捜一の刑事だなんて、所轄に知られたらバカにされること請け合いだ。
 ていうか、こいつまだいたのか。
 課長に進言して資料室に追っ払ったと思ってたのに、そこまでされれば自分から異動願いを出すだろうと踏んでいたのに。意外と図太いやつだ。……少し、見直した。

「狩谷仁は嘘を吐いてます。任意同行して、調べるべきです」
「何で言いきれるんだ。いい加減なことぬかしてんじゃねえぞ」
「写真がありました。その」
 細い指がボードの写真を指差す。薪が示したのは、事件現場となったアパートを映したものだった。
「事件現場の周辺を映した写真と同じものが。そこに彼が写っていました。だから、その場所を一度も訪れたことがない、というのは明らかな嘘です」
「待てよ、おい! そんな写真をどこで」
 自分の仕事場、つまり資料室へと戻っていく薪を追いかけて、世良は部屋の中を横切った。同僚たちが呆然と見送る中、ふたりは奥の部屋へと入っていく。

 窓のない、息の詰まるような密閉された部屋に、ぽつんと机が置いてある。机上にはパソコンと何冊かのファイル。両脇には段ボール箱がいくつも重ねてあって、左に置かれたものにはきちんとラベルが貼ってあった。まだ朝の10時くらいなのに、もうあんなに終わったのか。まあ、資料整理なんか形だけで、事件発生の年数別に分けてラベルを貼って、神奈川の倉庫に送る分と手元に保存する分を分けるだけのことだから、箱の中をちらりと見て済ませているのだろうが。
 
 薪はコーヒーカップを机の上に置くと、更に部屋の奥へと進んだ。5列ほどある資料棚の2番目の列に入っていく。上を向いて一つの箱に手を伸ばすが、どうも微妙な高さだ。箱の底に背伸びをした薪の手がやっと届く、それくらいの高さで、ぎっしりと詰まった捜査資料が入っている箱がもしも落ちてきたら、さぞ見ものだろうと思った。
 思ったが、今は情報の方が大事だ。
「こいつか?」
「あ、すみません」
 ダンボールを床に降ろすと、薪は箱を開封して、中のファイルを探し始めた。けっこう、重かった。こいつの細腕では、かなりきつい作業だったろう。さっきからこいつの動きがぎこちないのは、もしかすると筋肉痛のせいかもしれない。

 周りを見ると、ラベルが貼られた箱がずらりと並んでいた。これはすべて検証済みということだろうか。
 黒い表紙の捜査ファイルを開くと、確かに事件現場は問題のアパートの直ぐ傍だ。目的の箱は、これで間違いないようだ。
 先刻、薪は迷う様子もなかったが、まさか中身を覚えているのか? 整理済みのダンボールは30個は下らない、中に入っている資料は最低でも10冊はあるはず。その内容を全部覚えて、ってそんな人間いるわけないか。いたらバケモンだ。

「確か、このファイルに」
 一冊のファイルを選び出すと、薪はそれを棚の上に置き、表紙を開いた。
 パラパラと中を見るのではなく、頁の端を指で弾いて枚数を数えている。まさか、その写真が添付してあったページ数まで覚えているのか?

「これです」
 薪に顔を寄せて、世良は資料を覗き込んだ。近付くと、薪はとてもいい匂いがした。
 細い指が示した写真には、事件現場に群がる野次馬が写されており、その中に容疑者の顔が鮮明に映っていた。髪型は今と違うが、間違いない。
「3年前に解決した事件の資料ですけど。揺さぶりの材料としては充分かと」
 事件の犯人は、事件現場に帰ってくるものだ。常識で考えても危険な行為だと犯人も分かっているはずなのに、何故かその確率は高い。犯人側のジンクスを逃すほど、警察は寛大ではない。肖像権の問題があるから表立っては映さないが、現状写真を撮るついでに、こうして必ず2,3枚は野次馬の写真を撮っておくのだ。

「おまえ、内容だけじゃなくて、どの頁に何が書いてあったかまで覚えてるのか?」
「ページ数は普通、覚えるでしょう? 覚えておかなかったら、続きから読もうと思ったとき不便だし。公式を探そうと思ったときにも」
「付箋とか栞が、何のためにあるか知ってるか?」
「あれは他人に該当箇所を知らせるためのものでしょう?」
 ……だからキャリアはキライなんだ。常識が通じない。

「まあ、本人は忘れてたって主張するでしょうけど、しょっぴくネタにはなると」
「ありがとな!」
 容疑者に迫ることができる、その単純な喜びに、世良はついつい普段の悪感情を忘れた。言ってしまってから失敗したと気付いて表情を戒めるが、言葉は戻せない。
 こいつはエリート意識剥き出しのキャリア野郎だ。礼なんか言ったら、図に乗ってキャリア風吹かされて、また嫌な思いをさせられるに決まってる。

「いいえ。お役に立てて嬉しいです」
 素直な言葉が素直な声音で帰ってきて、世良は驚いて下を見る。眼下、20センチの場所にあるいけ好かない新入りの顔は、あどけなく微笑んでいて。それが一瞬、7歳になる自分の目に入れても痛くないほど可愛い娘の笑顔と重なって、世良は自分の頭がおかしくなったのかと首をかしげた。

 世良はファイルを抱えて資料室を出た。ボードの前で待っていた部下たちに問題の写真を見せると、彼らは額を寄せ集めてそれを覗き込んだ。
「え、え? なんで? どうして3年も前の事件の現場写真に偶然写りこんでいただけの狩谷の写真を、3ヶ月前に捜一に来たあいつが見つけられるんですか?」
「資料室の整理をしてたからだろ」
「それって、整理した書類の内容を全部覚えてるってことですか? ありえないでしょ!」
「普通だろ」
「普通のわけないでしょ! しかもこんな群集の写真で、一瞬見ただけの容疑者を見つけるなんて。公安のベテランだって難しいんじゃ」
「難しかねえんだよ。あいつはキャリアなんだから。俺やおまえらとは、ここのデキが違うんだ」

 世良班の刑事たちは、一斉に口を閉ざした。
 班長の世良は今年の新人をことのほか嫌っていて、だからそれが嫌味な口調だったら、彼らはヘラヘラと追従の笑いを浮かべて、仕事に戻ったに違いない。しかし、その時の世良の口調は、自分に良く似た娘の写真を無理矢理同僚に見せて『世界一可愛いだろう』と自慢するときの口振りに果てしなく似通っていて、資料室に入る前の彼と同じ人間だとは思えなかった。
 もしかしたら資料室には魔女がいて、世良はそこで魔法にかけられたのかも。

「よし、早速この写真プリントして」
 世良の言葉が終わらぬうちに、捜査会議のテーブルに数枚の写真が差し出される。男とは思えないほっそりとした手を辿っていくと、資料室の魔女、もとい見るのもムカつく新入りだ。知り合って3ヶ月、碌な交流を持ったわけではないからこの男がどういう人間かは知らないが、決して自分たちの仲間ではない。キャリアはノンキャリアの敵だからだ。
「使ってください」
「おう。気が利くな」
 にこっと世良に笑いかける新人を見て、同僚たちは言葉を失う。さらにはそれを笑顔で受け取る自分たちのリーダーを見て、昨日までの記憶を失いそうになった。

「よし、行くぞ!」
 戸惑いの中、班長の号令が下って部屋を駆け出していく世良班を少し羨ましそうに見送って、捜一の新人は再び資料室に戻っていった。




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折れない翼(9)

折れない翼(9)





「薪坊、喜べ! 狩谷が自白ったぞ!」
 ばん! と資料室のドアを開けて、世良が飛び込んできた。
 反射的に、椅子の上で飛び上がろうとする身体を理性で押さえる。ただでさえ、なよっちいとかオカマくさい、とか陰で言われているのだ。自分は肝の据わった立派な男だ、というところを見せなければ。

「あの写真見せたら見る見る顔色が変わってよ、警察にはこういう写真が他にもあるってカマかけたら観念して……なんだ、嬉しくねえのか」
 キーボードを打つ手を止めて、世良の顔を見上げる。犯人が捕まったのは喜ばしいことだが、なぜそれをわざわざ言いに来たのだろう。自慢か、嫌味か?現場に出られない自分を嘲笑いに来たのか。
 1ヶ月前なら、そんなふうに考えていたかもしれないが。羽佐間が自分の鍛錬に力を貸してくれるようになった今では、自分はここにたった一人ではないのだと思えて、世良は単純に喜びを分かち合いたいと思って来たのだ、と自分を納得させることができる。
 ただひとつ、納得がいかないのは。

「いえ、事件が解決したのは喜ばしいことですけど。『坊』って、なんですか」
「知らねえのか? 小さい男の子のことを坊って」
「それは知ってます。僕が聞いてるのは、なんで僕がそんな子供みたいな呼び方されなきゃならないのかって」
「羽佐間さんがおまえのこと、そう呼んでるみてえだから」
 ……今日の訓練では、絶対に1本返してやる。この際、目潰しでも金的でも。
「うちの連中は姫って言ってるが。あっちの方がよかったか?」
 ……買出し当番のときに、世良班の弁当に下剤混ぜ込んでやる。
 姫ってなんだ、どういう意味だ、と考えるまでもない。完全にバカにされてる。くっそ、今に見てろよ、刑事は顔じゃない、と思うが、刑事に必要とされる体力も武術もまだ物にしていない。実力が伴っていればもっと強く言い返せるが、鍛錬はまだ始まったばかり。今の薪には、その不名誉な渾名を甘んじて受け入れることしかできなかった。

「今日は打ち上げだ。おまえも来いよ」
「どうして僕が」
「何言ってんだ。今回の功労賞はおまえじゃねえか」
「は? 僕は資料の整理をしてただけですよ? 犯人に手錠を掛けたのは、世良さんの班のひとでしょう」
「おまえがあの写真を見つけなかったら、もっと長引いてた。それは間違いねえ」
 驚いた。世良にこんなことを言ってもらえるとは思っていなかった。

「これは、おまえの手柄だ」
「……ありがとうございます。でも、今日は羽佐間さんと先約があって」
 約束しているのも本当だが、正直、反りの合わない世良班の連中とは飲みたくない。薪はあまりアルコールに強くないし、これ以上弱味を握られたくない。
 相手も社交辞令だったのだろう、無理強いはされなかった。じゃあ今度奢るから、と果たすつもりのない約束をして、部屋を出て行く。薪がPC画面に目を戻すと、世良は戸口のところで何かに気付いたように振り返って、
「そうだ。おまえのこと、現場に戻してもらえるように課長に頼んでおくからな」
 と、意外なことを言った。
「お気持ちは嬉しいですが。課長には、羽佐間さんが掛け合ってくれてますから」
 薪の指導員は羽佐間だ。薪の身の振り方のことで、世良に世話になる義理はない。
「あー、悪りい。おまえを資料室に閉じ込めろって課長に進言したの、俺なんだ。だから」
 決まり悪そうに頭を掻き、世良はその事実を告白した。世良は捜査一課のエースだ。発言力も強いし、同僚への影響力も大きい。課長も頷かざるを得なかった、というわけか。

「そうだ、これ使え。けっこう効くぞ」
 ひゅっと投げつけられたものを咄嗟には受け取れず、右の手のひらで弾くように止める。薪の手にぶつかったそれはキーボードを直撃し、PC画面の書類のレイアウトがピカソの絵のように崩れた。
 眉をひそめながら投げつけられたものを確認すると、筋肉痛用の塗り薬。キャップを外すと円形のスポンジが付いていて、薬液が染み出してくるタイプのものだ。
「僕が筋肉痛だって、よく分かったな」
 閉じられた資料室のドアに向かって、薪は呟くように言った。

 さすが刑事。みんな鋭い。階級は薪の下でも、実力は遥か上だ。
 その実力者が、自分を褒めてくれた。今回の白星は、自分の手柄だと言ってくれた。

 筒状の鎮痛薬を握り締めて、薪は世良の言葉を反芻し、踊りだしたくなるような気持ちになった。浮かれ気分の急くがまま、携帯電話を取り出す。
「鈴木? 今、大丈夫?」
『うん。どうした?』
「あのね、今日、先輩にお礼を言われた。僕が資料室で見つけた写真が、犯人逮捕の決め手になって」
 そこまで言いかけて、薪は鈴木に自分の現状を話していなかったことに気付いた。勇んで1課に来たものの、現場から外されて毎日資料の整理をしている、なんて言えなかった。恥ずかしかったし、鈴木に心配を掛けるのも嫌だった。

「えっと、とにかく、僕の手柄だって先輩に言われて」
 そこで薪は、また口ごもる。
 実際には、何の褒章を得たわけでもない。先輩にちょっと褒めてもらっただけだ。行く行くは警察庁のトップに立つ、なんて大言壮語を吐いていた人間が、それだけのことで電話をしてきたら訝しく思われるだろう。
 結局、薪は黙り込んだ。今まで鈴木に吐いてきた様々なウソを思い出すと、これ以上言葉を重ねることはやぶへびになる。

『よかったな、薪。初手柄、おめでと』
 素直な賞賛の言葉を聞いたとき、ああ、やっぱり鈴木だ、と薪は思った。
 鈴木は僕のことを、誰よりも理解してくれる。
 何を言っても、どんなことをしても、僕の本当の気持ちを分かってくれる。

 どきん、と薪の心臓が高鳴った。
 やっぱり、今でも僕は鈴木のことが……。

「ありがとう」
 切なさと嬉しさで一杯になりながら、薪は携帯を閉じた。




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折れない翼(10)

 こんにちは。

 新しい工事が決まりました。
 なんと、11月~3月までの夜間水道工事!! 1年で一番寒い時期の夜間工事! 
 がんばれ、オット! がんばれ、みんな!
 わたしは家でネットしてるからねっ!!(←非道)

 皆さん、今年は暖冬になるように祈っててください☆





折れない翼(10)





「どうだ、動いたか?」
「いえ」
 短く応えを返す後輩に、羽佐間はコンビニのビニール袋を手渡した。羽佐間の相棒は大きな瞳を前に向けたまま、ビニール袋を受け取り、中をゴソゴソと探った。
 羽佐間は助手席に乗り込むと、冷たい外気に痛みを覚えていた爪先を車のヒーターに当てて温め、ふう、と息をついた。もうすぐ年が変わろうかというこの季節、夜にはぐんと気温も下がって、路駐した車の中での張り込みも楽ではない。

「動くとしたら、真夜中だろうな。今のうち食っとけ」
 はい、と素直な返事が返ってきて、しかし後輩は一向に食べようとしない。見ると、牛乳パックを持った後輩の手が止まっている。
「どうした。食えよ」
「僕、牛乳キライで……」
「ああん!?」
「だって、臭いし」
「おおう!?」
「……いただきます」
 差し入れの食べ物にゴチャゴチャ言うなんざ、刑事のすることじゃない。こういうところはまだまだガキだ。

 ガガー、という雑音の後に無線で呼ばれて、羽佐間は送話器を手に取った。返事をすると、近くで強盗事件が発生したのでそちらの応援に1人回して欲しいとのことだった。
「おい、薪。おまえ行って、ってまだ食ってんのか?」
 何をやらせてもトロいやつだが、食うことまで遅いのか。羽佐間ならこんなもの、2分で完食だ。
 見れば、細い指が菓子パンを小さく千切っている。遅いわけだ。

「男のクセに、パンちぎってんじゃねえよ。かじれ」
「どんな食べ方しようと、僕の勝手じゃないですか」
「ったく、口だけはいっちょまえだな。ちゃんと見張ってろよ。ホシが動いたら、俺に連絡するんだぞ」
 多大な心配と共に未熟な後輩をそこに残して、羽佐間は強盗事件の現場付近のパトロールに向かった。
 
 張り込みをしていた場所から2キロほど離れて、路地の角を曲がったとき、鉢合わせた男の風体に羽佐間はピンと来た。無線の内容を思い返すまでもない、黒い帽子に黒いジャージ姿、夜だというのにサングラスをかけていればそれは絵に描いたような不審人物で、この状況で彼に声を掛けない刑事はいないだろう。
「この近くで強盗事件が発生しましてね。その鞄の中身、確認させてもらえますか?」
 相手の手を掴んでから手帳を出し、鞄を取り上げてから声を掛ける。少々順番が違うようだが、口より先に手が出てしまうのは江戸っ子のサガだ。何枚始末書を書こうとも、なかなか矯正できるものではない。
 鞄を取り上げられた時点で、男は逃げ出そうとした。その首根っこをがっちり掴み、羽佐間はその場に男を押さえつけた。足で男の身体を拘束し、鞄を開ける。中にはむき出しの紙幣がゴチャゴチャに入っていた。決まりだ。
「この鞄の中身の内容について、ちょっとお話を伺いたいんですがね?」
 そのとき、羽佐間の無線から後輩の声が聞こえた。

『羽佐間さん、中西が動きました』
 なんてタイミングの悪い。走っても10分は掛かる。
『ボストンバックを持ってます。身を隠すつもりかもしれません。聴取、行きますね』
「待て、薪。ひとりじゃ危ねえ。応援を呼べ」
『そんな余裕はないみたいです』
「おい、薪! 待っ」
 切りやがった。なんて勝手な野郎だ。

「あの野郎。道場で説教だ」
 羽佐間は男に手錠を嵌め、無線で強盗事件の容疑者を確保したと連絡を入れると、強盗犯を引き摺るようにして張り込みの場所に戻った。
 薪の姿はない。辺りを見回すが、どこにもいなかった。
「ちっ」
 強盗犯と駐車禁止の道路標識を手錠でつないで、羽佐間は手のかかる後輩を探しに出かけた。二人が張り込みをしていた中西には、連続殺人の容疑が掛かっている。こういう凶悪犯に対峙するときには、必ず二人以上で望むものだ。でないと。
 ――― こんなことになるからだ。

 羽佐間が横手の路地に二人を見つけた時、それは考えうる限りで最悪の状況だった。
 中西は左手に大きな鞄を持ち、右腕には羽佐間の後輩を抱えていた。薪の細い首にはナイフが突きつけられていた。
「何をやってんだ、このバカ」
「すみません」
「こいつの仲間か。逃走用の車と現金を用意しろ!」
 羽佐間を見て、中西が声を荒げる。

「だから待てって言っただろうが。なんで俺の言うこときかねえんだ」
「だって、逃げられちゃうと思って」
『車と現金だ、早く用意させろ!』
「それに、羽佐間さんの言いつけを守ったからこうなったんですよ」
「融通の利かねえやつだな。いいからさっさと片付けろ」
『おい、聞いてんのか?! くる』
 中西は、そこまでしか喋らせてもらえなかった。右足の甲に鋭い痛みが走り、呻いた瞬間世界が回っていた。気付いたときには綺麗な星空が見えたが、息も止まりそうな痛みが背中から襲ってきて、その美しさを楽しむ余裕は消え失せた。

 中西の手首に薪が手錠を掛けるのを横目で見ながら、羽佐間は呆れ返った口調で言った。
「いいんだよ。さっさと捕まえちまえば」
「だって、こないだこのパターンで始末書書かされたから」
「だからって人質になるこたねえだろうが」
「他にこの場に彼を引き止める方法を思いつかなかったんです」

 アパートから出てきた中西の前に廻りこみ、薪は高圧的に言った。
『中西だな? 諦めろ、おまえは既に包囲されている。あちらのビルには狙撃班も配置済だ』
 その言葉はもちろんブラフだった。連絡を入れる暇もなかったのだ。応援が来るわけがない。しかし、それによって容疑者が取るであろう態度は予想がついた。
 暗闇に紛れて見えないが、警官隊の包囲網を突破するのは至難の業だ。飛び道具でもあれば別かもしれないが、そんなものは持っていない。多勢に無勢だ、普通に逃げるのは不可能だ。そんな恐怖を味わい、次に自分にそれを告げた年若い刑事の外見を見て、犯人たちは一様に思う。
 こんな華奢で女みたいなやつ、簡単に押さえ込める。こいつを人質にして、逃走手段を確保すればいい。
 彼らの誤算はひとつ。見た目はひ弱そうに見えるこの青年が、鍛錬を積んだ警察官だということ。事実を知ったときには、その手に手錠が掛かっているという寸法だ。

 捜一に入って半年。薪はよく頑張っている。
 体力もついてきたし、柔道の腕も上がってきた。以前、自分で言っていたようにひ弱な外見を利用して犯人をおびき寄せ仕留める、という試みもまずまずの成功を収めている。まだ3割ほどは逃がしてしまうようだが、それでも新人には立派な数字だ。半年前は近年稀に見るほどのダメ新人だったのに、この成長振りは見事だ。
 何が彼をそんなに成長させたのだろうと羽佐間は考えて、しかし自分の指導力かと自惚れる気にはなれない。最初に一通りのセオリーは教えたが、指導と言えるような指導はしてこなかった。
 薪はひとに言われる前に自分で自分に必要なことを考え、それを得るために行動できる男だ。そして、普通だったら途中で放り出してしまいそうな、地道な努力を続けられる根性を持っている。諦めは、極めて悪い。

 中西と強盗犯を連行して署に戻ると、待ちかねた様子の世良が寄って来た。
「お疲れさまっす、薪坊借ります」
 羽佐間に一礼しつつ、薪の後ろ襟を掴む。そのままずるずると薪の身体を引き摺っていく。
「ちょっと世良さん。僕、これから中西の取調べが」
「面通しだけ。頼むわ」
 取調室に設置されたマジックミラーの裏側の部屋に薪を連れ込むと、世良は中を見るよう薪に促した。
 狭い部屋の中で世良の部下と向かい合っている容疑者の顔を見て、薪の瞳がきらりと輝く。強気な笑みを口元に浮かべて、世良の顔を見上げる生意気な後輩キャリアの憎らしいこと。

「ありがとうございます、世良さん。調べ直してくれたんですね」
 刑事らしからぬ幼い顔でにこっと微笑まれれば、今年8歳になる自分の娘にするように、抱き上げて頬を擦り付けたくなる。ったく、小憎らしいったらありゃしねえ。

 3ヶ月前まで強制的に資料室の整理をさせられていた薪は、現場に戻ってからも手の空いた時にその仕事を続け、ようやく最後の棚に行き着いた。そこには、迷宮入りを待つ未解決事件の資料が鎮座していた。それは捜査一課の、謂わば敗北の証だった。
 未解決の事件と知って、薪は貪るように資料を読んだ。かつての捜査本部の司令塔が諦めざるを得なかった事件、あるいは犯人の目星さえつかずに時間切れとなった事件。どれもこれも難解で、資料からは捜査が行き詰まる様子が読み取れた。
 しかし薪の眼には、その捜査は穴だらけに見えた。
 もっと調べるべきことが山のようにあると薪は思い、それを課長に進言した。
『犯人はおそらく被害者の甥です。調べ直してください』

 それを聞いた1課の刑事たちは、反乱軍の兵士たちのように怒号した。自分たちが汗水たらして捜査を続け、悔し涙と共に諦めざるを得なかった事件。その資料を読んだだけの新人にそんなことを言われたら、吼えずにいられないだろう。
 薪に詰め寄って彼の細い首を締め上げようとした十数人の捜査員たちを制止したのは、薪の指導員の羽佐間と、薪とは敵対していたはずの捜一のエース、世良義之だった。
『おまえ、ここに何人敵を作れば気が済むんだ』
 後ろ襟を掴んで、薪の身体を猫の子のように持ち上げ、世良はククッと笑った。
 未熟で口ばかり、頭でっかちではねっかえりの小僧。だが、そのポテンシャルは恐ろしいものがある。今はただの新入りだが、将来は大化けするかもしれない。

「課長に許可をもらえなかったから、諦めてました」
「例の借りを返そうと思ってよ」
 3月ほど前、薪の人間離れした記憶力のおかげで、世良班は難航していた事件を解決することができた。世良が言っているのはその件だ。
「貸しだなんて思ってません。それに、2回もお酒をごちそうになりましたし」
「酒ぐらいで消えるほど、小さな借りじゃあるめえよ」
 もちろん、それだけで課長の命に背いたわけではない。事件当初、世良もこの男に何かしら感じるものがあったのだ。しかし、彼のアリバイは確かなものだった。それを薪は捜査資料を読み返しただけで、彼の不在証明のわずかな矛盾点を見つけ出した。

「そう思っていただけるのは光栄ですけど、僕自身は何もしてませんよ。ただ、頭の中から記憶を引き出しただけです。だから、世良さんがそんな風に思われるのは的外れかと」
「相変わらずかわいくないね、おまえは」
「二十歳過ぎた男がかわいかったら、気持ち悪いでしょ」
「黙ってりゃ姫なのにな」
「なんか言いました?」
「いんや、べつに」
 自分より10歳も年下の、外見は20歳くらい若い後輩と軽口の応酬を楽しみながら、世良は薪が、あの当時の自分が崩せなかった犯人のアリバイをものの見事に看破した時の彼の顔を思い出す。その時も彼は、自慢もせず得意にもならず、どうしてこんなことに気付かないのか不思議でたまらないと言った表情をしていた。

『彼のアリバイを証明しているのは、自宅近くのコンビニの防犯カメラ。彼はここのコンビニで二時間近く立ち読みしてたってことになってますけど。
 この夜、この地域は事故のため、ほんの5分ばかりだが停電してる。店の自家発電に切り替わる間の1分間、暗闇のショットが防犯カメラのどこにもない。
 つまり、防犯カメラの映像は偽装工作』
 防犯カメラの映像で早々と容疑者から外れた彼は、当時の捜査網から見事に逃げおおせた。第一級の証拠品であるカメラ画像の真偽を疑うものはいなかった。
「意外と簡単にできるんですよ、PC接続型の防犯カメラの偽造って。店内の風景なんかそんなに変わるもんじゃないですからね。日付だけ操作してやればいいんです。もちろん、店員の中に協力者がいないと不可能ですけど」
「なんで別の日に写されたものだって気が付いたんだ?」
「僕が購読してる雑誌が写ってたんです。その雑誌の発売日は木曜日。事件当夜には、まだ店頭に並んでいないはずです」
「……カメラか、おまえの目は」
「僕は普通です。みなさんが節穴なんですよ」
「かー、絞め殺してやりてえ、このクソガキが」
 たまに羽佐間がするのを真似して、世良は薪の頭をくしゃくしゃと掻き回した。さらさらとした頭髪が指に心地よく絡む。

「おまえの愛読書って何よ?」
 キャリアの読むような本を自分が知っているとも思えなかったが、話の流れというやつだ。どうせ小難しい専門誌に違いない。それも世良が苦手なITなんとかとか、PCうんたらとか、横文字の。
「『ターザン』です」
 顔に似合わない雑誌名に、世良は思わず噴き出した。




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折れない翼(11)

折れない翼(11)






「薪坊! 藤堂が落ちたぞ!」
 吉報を持ってきた羽佐間に穏やかに微笑んで、薪はそれが当然のように頷いて見せた。
 入庁から1年が過ぎ、捜一の職務にも慣れ、本来の自信家の面が現れてきた後輩は、生意気さに拍車をかけると共に不思議な魅力を溢れさせていた。
「これで5つ目か? お宮から持ち出した事件は」
「そのうち『薪の前に迷宮なし』って言わせて見せますよ」
「抜かせ、この自信過剰の坊が!」
 怒鳴るように言って、羽佐間は薪の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
 他の人間がしたら反吐を吐きたくなるような高慢な態度が、何故だか許せる。最初の頃の澄ました優等生より、今の薪の方が羽佐間には数倍好ましい。

 未解決事件として葬られようとしていた事件を次々と解明し、その功績を認められた彼は、先日初めて班長職を任ぜられた。もちろん羽佐間がサポートに就くという条件の下であったが、入庁2年目の新人が班長を勤めるというのは異例のことだった。しかし、誰ひとりとしてその人事に異を唱えるものはいなかった。今の捜一に、彼の実力を認めないものはいなかった。
「おお、薪坊。またひと山当てたって?」
「よっ、捜査一課のシャーロックホームズ」
「やめろ。坊が図に乗る」
 他班の連中が囃し立てるのを抑え、羽佐間はニコニコと笑っている薪の横顔を見た。薪はどの班の人間にも請われれば自分の推理や知識を惜しみなく提供するから、他班との摩擦も減った。
 しかし、羽佐間以外の人間には、薪は軽口を叩かない。意外なくらい内向的で、心を許した人間以外には穏やかなポーカーフェイスを崩さない。向こうは薪と親しくなりたいようだが、薪は一定の距離を置きたがっているように見える。薪の真意がどこにあるのか、羽佐間には良く分からない。

「羽佐間。今日くらいは薪をお神輿に乗せてやれ」
 ワイワイと捜査に余裕のある連中が薪を囲んで騒いでいるのを咎めもせず、課長がこちらに歩いてきた。珍しいことに、いつも眉間に刻まれている縦皺が消えている。
「決まったぞ。警視総監賞」

 ぴたりと騒ぎが止み、次いでわっと歓声が上がった。
「僕にですか? どうして? だって僕は、実際に犯人を捕まえたわけじゃ、わ!」
 何本もの手が薪の身体に伸びた。男職場特有の荒っぽさで激励されあちこち小突かれ、もみくちゃにされて、でもそれは皆が彼の受賞を喜んでくれていることの証拠。普通は同僚が賞をもらったりすれば妬みが生まれて当然だが、薪の場合はそれはない。
 あまりにもレベルが違いすぎるのと、もうひとつ。
 彼らは、入庁したばかりの頃の薪の姿を知っている。平均より遥かに劣っていたはずの軟弱者の成長振りを見て、陰で行なわれたであろう彼の膨大な努力を察することのできない愚か者は、捜一にはいない。

 大きな手に次々と背中を叩かれて、薪は綺麗な顔をしかめていたが、その頬は紅潮し、大きな瞳はきらきらと輝いていた。



*****



『警視総監賞もらったんだって?』
「うん。今、同じ班の人たちがお祝いしてくれてる」
 行きつけの居酒屋で盛り上がる同僚たちの輪からこっそりと抜け出して、薪は鈴木からの電話に出た。歩きながら店の外に出る。秋口の宵は少し肌寒かったが、酔いの回った身体には心地よかった。
「だけど、あれは僕だけの手柄ってわけじゃないんだ。実際に捜査をしたのは捜一の先輩たちだし。僕は捜査資料を読んで、犯人の当たりをつけただけ。僕一人の力じゃ、何もできなかったよ」
『どうした、未来の警察庁長官が。えらくしおらしいじゃん』
 1年も前に言った自分の大言を返されて、薪は頬を赤らめる。あれは自分を鼓舞するための軽口だったのだが、きっと鈴木はそのことも知っている。

 鈴木には、薪の嘘は通用しない。強がりも泣き落としも効かない。薪が本当は何を望んでいるのか、幾重にも重ねた偽装工作をものともせず、鈴木は薪の本音をつかむ。

「鈴木のイジワル」
 拗ねた口調で薪が言うと、鈴木はクスクス笑って、
『でもさ、おまえの年で警視総監賞ってスゴイんじゃ?』
「1年以内に獲ろうと思ってたんだけど。予定を2ヶ月ほどオーバーしちゃったよ」
『あははっ、それでこそオレの薪だ』
 何気ない鈴木の言葉が、薪の胸を騒がせる。
 4年前にそのセリフを聞いたときは、ベッドの中で、彼は裸の僕を抱きしめていた……。
 キーワードに関連して脳内に甦った映像に、薪は慌ててかぶりを振った。こんなことをいつまでも考えてちゃダメだ、僕は鈴木の親友に相応しい男になるんだから。

『とにかく、おめでとう。オレも嬉しくてさ、所轄の連中に自慢しまくっちまった』
 受話器から聞こえてきた言葉に、亜麻色の瞳が大きく見開かれた。鈴木がそんなことをするとは思わなかった。自分のことを他人に話すなんて。
「本当に? 鈴木、僕のことを他人に自慢したのか?」
『あー、悪い。オレもちょっと舞い上がっちまって、つい』
「恥ずかしい奴だな。これから気をつけろよ」
 それだけ言って電話を切ると、薪は携帯のパネルをじっと見つめた。

 鈴木が、僕のことを他人に自慢した。僕が鈴木の自慢の種になった。

 うれしくてうれしくて、涙が出そうだった。やっと鈴木に相応しい人間になれた気がした。
 朗報をもたらしてくれた小さな通話機器に、薪はそっとキスをした。

「何やってんだ、主役がこんなところで」
 羽佐間に呼びかけられて、薪はびくっと背中を強張らせた。店の看板の陰に隠れて電話をしていたのに、本当に刑事というのは目敏い生き物だ。
「オンナか?」
「違います」
「嘘つけ、ニヤけた顔しやがって」
 
 本当に、刑事って生き物は。
 薪はぐっと顔を上げ、キッパリと言い切った。

「電話の相手は、僕の親友です」




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折れない翼(12)

折れない翼(12)





 久し振りに見る友人の姿に、鈴木は驚きを隠せないでいる。
 見た目は全然変わらない。刑事という職業が果てしなく似合わない幼い顔。スレンダーでモデルのような体つき。警察官というよりはアイドルスターと言ったほうがしっくりくる。
 その彼が一心不乱に食べているのは男メシの代表、カツ丼。それをかき込むようにパクパクと。薪が丼ものを食べるだけでも似合わないのに、このがっつき方。まるで、肉体労働者の昼食風景のようだ。

「ちがう。こんなの薪じゃない」
「ん?」
 鈴木の呟きを耳にして、薪が丼に突っ込んでいた顔を上げる。お約束で、丸いほっぺたにご飯粒がついている。きょん、と丸くなった大きな瞳と合わせて、もうむちゃくちゃ可愛かった。
「いや。おまえってそんなによく食べるやつだっけ?」
 子供みたいにすべらかな頬に手を伸ばして、いやしんぼの証を取ってやる。自然に自分の口に運ぼうとした自分の手を、鈴木は理性で止める。さすがにここではまずいか。

 警察庁に隣接された科学警察研究所管理棟内の職員食堂。警視庁にも警察庁にも食堂はあるのだが、食べ比べの結果、研究所の食堂が一番美味かった。食事を人生の楽しみと考える鈴木は、いつもここまで足を運んでいるのだ。
「食べなきゃ持たないんだよ。現場は体力勝負なんだから」
 強く主張して大きく口を開け、カツを頬張る。こないだ雪子と食事をしたときにも、同じことを言われた気がする。本当にこのふたりは良く似ている。

「鈴木の方はどうなの? 順調に行ってる?」
「ああ、対外的な仕事はあまりないし。課内の人間関係さえ無難にこなせば」
 入庁から1年半、鈴木は所轄から警察庁に帰ってきた。配属先は生活安全局の地域課。内勤中の内勤だ。
 薪のいる警視庁とは隣同士だ。これから毎日、親友と会える。仕事中はともかく、昼休みやアフターは一緒に過ごせる、と鈴木は思っていたのだが。

「ふぐ、はひ!」
 口いっぱいに頬張った食べ物の処理に焦りつつ、薪は無粋に鳴りだした携帯電話を耳に付ける。「わかりました、すぐに行きます!」と言う元気な返事と共に席を立ち、鈴木のほうへ自分のトレイを差し出した。
「鈴木、これあげる。じゃねっ!」
 気前良く鈴木に食事のお裾分けをくれると、薪はカフェテリアを駆け出して行った。
「あげるって……ごはん粒しか残ってないんだけど」
 片付けといて、の間違いじゃないのか。

 外見以上に変わっていない親友の身勝手に呆れて、鈴木は笑う。
 鈴木の親友は多忙を極め、定刻に昼食が摂れるときなんて滅多にないのに、その数少ないチャンスですら、こうして突発事件に奪われていく。知らず知らず吐いてしまう、重いため息。

 こうして薪が現場に出て行くたびに、鈴木は心配でたまらなくなる。荒っぽい犯罪者に怪我をさせられやしないか、キャリア嫌いのノンキャリアの同僚に妬まれて苛められていないか。鈴木がいくら言っても、捜一から離れようとしない。薪の肌に合うとはとても思えない部署なのに、なぜ。

「ほんと、変わらないよな」
 薪は独特の思考形態を持っていて、鈴木は彼の考えが読めた試しがない。ただ、何をして欲しがっているかはよく分かった。薪の亜麻色の瞳は、自分の欲望にいつも忠実だった。その欲望がどうして生まれたのかという理由は分からなかったが。

 鈴木はじっと薪が走って行った方角を見やる。
 人ごみの中に紛れてとうに見えなくなった薪の背中を、黒い瞳がいつまでも追いかけていた。



*****


 只今戻りました、とお決まりの挨拶を口にして捜一のドアを潜ったとき、薪は違和感を感じた。
 何となく、遠巻きにされている感覚。自分の机に戻るまでに、普段なら何人かの同僚に声を掛けられるのに、今日は誰も薪の顔を見ようとしなかった。
 不思議に思いながらも席に戻り、事件の報告書をまとめ始める。事務仕事の苦手な羽佐間に代わって、書類を作成するのはもっぱら薪の仕事だ。

 現在捜査中の事件に90%、目先の報告書に5%の思考を向けて、薪はリズミカルにキーボードを叩く。その指はほんの僅かな淀みもなく、まるで熟練したタイピストのようだった。
 残りの5%で、薪は1課に漂う違和感の正体を突き止める。それは世良班の佐藤がこっそりと自分の背中に回した一冊の週刊誌だった。

 薪は作成した報告書を課長席に届けると、その足で世良班の机に向かった。薪が属する羽佐間班とは隣同士、何かと便宜を図ることも多い関係だが、今日の佐藤は頑なに薪の視線を拒んだ。そのくせ口はいつも通り軽く、薪を揶揄する態度も変わらなかった。
「何か御用ですか、姫」
「背中に隠したものを見せてください」
「別になんも隠してねえよ」
「じゃあいいです、売店に行きますから。10月5日発売の週刊××ですよね?」
 人ならざるもののように鋭すぎる薪の眼は、それを見逃してはくれなかった。観念した佐藤が、ため息混じりに薪に雑誌を手渡す。

 表紙に、覚えのある男の名前が書いてあった。薪が迷宮から引き出して、真実を白日の下に晒した事件の犯人の名前だ。
 これはとても古い事件だった。時効制度があった頃なら司法の裁きから逃れられるところまで、あと1年を残すだけとなっていた。何食わぬ顔で市井の人々に紛れて暮らしていた彼の過去を、薪は暴き立てた。それが薪の仕事だったからだ。
 
 彼の名前の隣には、『残された家族が一家心中』と書かれていた。

 週刊誌を開くと、そこには犯人側に同情的な文章が記載されていた。『苦しみ続けた20年、その果てに家族を襲った悲劇』という、まるで警察の非道を責めるような書き立て方だった。それは、時効制度の廃止によって生まれた悲劇を取り上げて読者の同情を惹こうという週刊誌側の戦略に過ぎなかったが。薪の行動によってひとつの家族が崩壊し、未来ある子供の命までも奪うことになったことは事実だった。
 それは罪ではない。ただそこにある、厳然たる事実だった。
「気にすんな、薪」
 黙って記事を読む薪に、世良がそっと声をかけた。
「おまえは間違ったことはやっちゃいねえよ」
「べつに。気にしてませんよ。僕は何も悪いことはしてませんから」
 ぱん、と本を閉じ、「くだらない」と捨てゼリフを残して、薪は部屋を出て行った。彼の背中はしゃっきりと伸びて、それを曇らせるものは何もないように見えた。

「かわいくねえな、あいつあ」
「そんなことないですよ。顔色も青かったし、声も震えてたじゃないですか」
 ぼそっと呟く世良を、部下の佐藤が嗜めるように言った。佐藤は薪のことを気に入っている。自分の部下の殆どがあの生意気なキャリアにほだされてしまっている事実を、班長として認めていいものかどうか。
「だからかわいくねえって言ってんだよ。坊のくせに強がりやがって」

 苦虫を潰したような顔で毒づく世良の視界の隅で、薪の指導員が席を立った。薪の後を追って部屋を出て行く。
 その姿を見て世良は、1年前の自分の選択を少しだけ後悔する。課長に、新人キャリアの指導員を羽佐間か世良のどちらかに担当して欲しい、と持ちかけられたとき、世良はその役目を羽佐間に押し付けた。あの時は、毎日キャリアの顔を見て過ごすなんざ冗談じゃない、と思ったのだったが、さて。

 捜一のエースの座を争うライバルの背中を眼で追いつつ、世良は薪が置いていった週刊誌を乱暴にゴミ箱に叩き込んだ。




 

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折れない翼(13)

折れない翼(13)





「逢いたい」

 電話に出た相手を確かめもせず、自分の名前を名乗りもせず、唐突にそれだけ言って、薪は黙り込んだ。
 こんなことをしては駄目だ、と薪の中で警鐘を鳴らすのは、1年かけて培ってきた自立心。
 鈴木の親友に相応しい男になるために、ずっと努力してきたんじゃないのか。厳しい環境に身を置くことで強い精神力を養おうと思ったのは、彼に依存するのを止めて、一人の人間として対等に彼と付き合いたいと望んだからじゃないのか。

『いいよ。どこに行けばいい?』

 鈴木の声が聞こえて、薪の決心は脆くも崩れ去る。
 誰かに泣き言を言って慰めてもらおうなんて、男の考えることじゃない。かすかに聞こえた内なる声は、鈴木のやさしい声にかき消された。

 警視庁の裏庭で鈴木を待つ間、薪の中は相反する感情がせめぎ合っていた。
 鈴木に会いたい。彼にすべてを話して、慰めてもらいたい。だけど、それをしてしまったら、僕はまた鈴木に依存する駄目な男に戻ってしまう。
 後戻りしちゃいけない。ここが正念場だぞ、薪剛。
 呼び出した後で悪いけれど、鈴木には会わないで1課に戻ろう。捜査中の事件もあるし、気になっている未解決事件も―― そう思いながらも、薪の足は動かなかった。見えない楔で縫いとめられたように、約束の場所から離れることができなかった。

 執務時間中に職務を放棄しているという罪悪感からか、薪はふと、誰かに見られているような感覚に陥った。周りを見回すが、誰もいない。
 少し気になったが、鈴木が現れると同時に感覚は忘れ去られた。

 顔を見てしまったら、我慢できなかった。
 ここまで全速力で走ってきたらしい鈴木の紅潮した頬と弾んだ呼吸を感じれば、彼の胸に耳を当ててその事実を確かめずにはいられなかった。鈴木の顔を見た瞬間に亜麻色の瞳から溢れ出した感情の発露を隠すためにも、その行動は必要なことのように思えた。

 薪の両手は迷いもなく鈴木の背中を抱き、鈴木の大きな手は薪の背中と髪を撫でてくれた。
 鈴木の胸の温かさを肌で感じるのは、3年ぶりだった。

 あの頃とちっとも変わらない、広くて温かくて、僕を癒してくれる胸。限りなく甘えさせてくれて、我が儘を許してくれて、僕をどんどん弱くする。
 何があってもここへ逃げ込んでくればいい、ここにくれば僕は何度でも生まれ変わることができる、だけどそれは他の誰かのもの。
 でも思い切ることなんかできない、この気持ちを消すことはできない。

 彼とただの友だちに戻って一年、さらに一年。加えてこの一年は顔も見ないで過ごしたのに。想いは少しも変わらず、逢えなかった分だけ切なさを増して。
 放したくない、彼を放したくない。
 このままあの頃みたいに、僕を愛して欲しい。

 迸る涙と感情の渦に流されて、乱れた心がそれを求めたのは一瞬のことだったけれど。この一年の苦労は無駄だったと、薪に悟らせるのには充分だった。

 身体だけ離れても、何の効果もない。僕は今でも鈴木が好き。
 多分、永遠に彼が好き。




*****


 すずまき、さいこー。(あおまきすと??)


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折れない翼(14)

折れない翼(14)





 闇に紛れるようにして道路端に停めてある車の助手席で、羽佐間は一軒のアパートを見張っていた。
「島田のやつ、本当に来ますかね」
 運転席に座った後輩が、ぽつりと溢した。無理もない、この張り込みは4日目だ。羽佐間自身、読み違えたかと自分の勘に疑いを持ってきている。標的の島田という男には情婦が2人いて、羽佐間はこちらに賭けた。
 
 羽佐間班に入ったばかりの新人がコンビニの袋を持って走ってきて、後部座席に素早く乗り込んだ。この新人は所轄上がりで、運転席の後輩よりも年は行ってるが、階級はずっと下だ。
「お待たせしました、どうぞ。羽佐間さん、薪さん」
 袋ごと差し出された張り込みのアイテムを受け取り、薪は自分の膝の上にそれを置く。視線は前方に据えたまま、適度な緊張を保っている。

「やっぱり向こうの女の方へ行ったんじゃないですか?」
 先輩の作戦にケチをつけつつ、生意気な後輩はコンビニ袋を探って中からアンパンと牛乳を取り出した。それを羽佐間のほうへ寄越すと、自分もパンの袋を破り、小さな口を大きく開いて、パンに齧りついた。
「話を聞く分にはよ、島田は絶対にこっちの女に惚れてると思ったんだが」
「いえ、僕が島田なら、あっちへ行きますね」
 小動物のように頬を膨らませてパンを食べながら、紙パックの牛乳にストローを差す。その姿に昔の彼を重ねて、羽佐間は感慨深いものを覚えた。

「どうしてそう思うよ?」
「だって、あっちの女のほうが胸が大きかったですから」
「……おめえ、時々すっげえバカなこと言うのな」
「えっ、どうしてですか? 女の子はまず胸でしょう?」
「なるほど、犯人に付き合っている女が二人いるときには、胸の大きな女のほうを張りこむと」
「吉井、メモは取らんでいい。てか、こいつのバカの証拠を残さんでくれ」
 捜一に入って2年、その若さで警視総監賞を二度も受賞した薪は、所轄の間ではちょっとしたヒーローになっていた。この吉井も、薪に憧れているクチだ。

 薪自身はそれを口にしたことは一度も無かったが、署内報に取り上げられた薪の記事には、彼が国家公務員Ⅰ種試験の首席合格者であること、東大の法学部を首席で卒業したことなどが経歴として記され、ならばこいつは本物の天才だったかと、捜一の仲間たちは改めて彼の飛びぬけた才能を思い知らされた。
 捜一は徹底した実力主義だ。犯人を挙げたものが偉いのだ。よって、捜一の人間で薪を誹謗するものは、今は誰もいない。

「薪。そいつあ何だ」
「何って、牛乳ですけど」
「俺の眼には妙に茶色く見えるが?」
「暗がりだからそう見えるんですよ」
「えっ? 自分は、薪さんにはちゃんとコーヒー牛乳を買って来ましたが」
 ギロッと冷たい眼で薪が後ろを振り向くと、吉井は慌てて口を閉ざした。口止めしてやがったな、この野郎。
「薪、おめえ」
 張り込みの退屈を紛らわすように、どうでもいい小ネタを仕掛ける。長時間の張り込みの間には、こんなことでもなければやってられない。

「何度言ったら分かるんだ? 張り込みには牛乳だって」
「だってキライなんですよ。紙パックの牛乳は特に臭くって」
「なるほど、薪警部は牛乳が苦手と」
「だからメモを取るなって。薪、そんなこっちゃいつまで経っても一人前になれねえぞ」
「刑事としての成長と牛乳に、何の因果関係があるんですか? そもそも牛乳は牛の乳なんだから、本来は牛が飲むものでしょう。僕だって人間の女性のものなら喜んで飲みますよ」
「なるほど、薪警部は巨乳好き、と」
「「メモを取るな! てか言ってない!!」」
 ふたりが一斉に後ろを向き、声を合わせたとき、吉井の目に人影が映った。

「来ました、島田です」
 そっとドアを開けて目的の人物に忍び寄り、猫背に歩くその男の前に羽佐間が回り込む。
「島田敦だな? 向井秀夫さんが殺害された事件について、ちょっと話を」
 羽佐間が威圧的な声を出すと、島田はパッと身を翻し、勢い良く駆け出した。後ろで待機していた薪が素早く足払いを食らわせ、現場の捕り物に慣れた吉井が「21時34分、公務執行妨害で逮捕」と罪状を言いながら手錠を掛ける。じたばたともがいていた島田は、手錠のガチャリという音を聞くと、急に静かになった。

「羽佐間さんの読みが当たりましたね」
「よく言うよ。おめえにだって分かってたろ」
「いいえ。僕だったら、絶対に彼女のところには来ません。一番好きなひとに罪を犯した自分を見られるのも、彼女を厄介ごとに巻き込むのも。僕だったら耐えられない」
「ま、おめえならそうかもしれねえな。だけどよ、世の中そんなに強い人間ばっかじゃねえからよ」
 滅多に言わない賛辞を相棒に投げてやると、薪はそれを喜ぶどころか、困惑した表情になって言った。

「僕は弱い人間ですよ。とても弱い人間なんです」



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ジャンル : 小説・文学

折れない翼(15)

 薪さんの身体に女性が触るのは許せない党の方々は、(いつの間にそんな派閥が?)
 こちらはご遠慮くださって。

 広いお心でお願いします。




折れない翼(15)





 犯人逮捕の祝杯を班の連中と空けた後、羽佐間は薪だけを二次会に誘い、強引にタクシーに乗せた。
「後輩が出来たからには、おめえも一人前だ。俺が一人前の男が行く店に連れて行ってやる」
 なんだか嫌な予感がして、薪はその場を逃げ出そうとしたが、羽佐間の太い腕に首を決められて、行くか死ぬかどちらか選べと言われたら、先輩の顔を立てるしかない。

 ほらここだ、と羽佐間に引き摺られて入ったところは薪の予想通り、露出度の多い服を纏った若い女性たちがひしめく、男にとっては楽園のような場所だった。

 薪は、こういう店は初めてだった。
 街で大胆な服装の女の子を見かければ自然に目がそちらに向くが、こういう店には興味がなかったし、大学時代に本当の恋を知ってからは、ますます縁遠くなってしまった。
 席についてお絞りで手を拭き、店の女の子が付いてくれるのを待つ間、薪は物珍しそうに店内を見渡した。いくつかの席に中年の男性がいて、その傍に女性がついて、他愛ないお喋りに興じている。思ったよりも明るい雰囲気で、たまに女性の胸や太腿を触っている客がいたが、それほど濃度の高いものではなく、これくらいならサークルの合コンでも見かけたな、と安心して薪はソファに背中を預けた。

「こんばんは~、羽佐間さん」
「よお」
 驚いたことに、羽佐間の周りには何人もの女の子が寄ってきて、にこやかに笑いかけてきた。羽佐間が女性にモテるとは、事実は小説よりも何とやらだ。
「こいつ、俺の後輩。こういう店は初めてだろうから、サービスしてやってくれ」
 余計なことを、と思いつつ、薪はぺこりと彼女たちに頭を下げる。こういう店から聞き及んだ情報が捜査の局面を開くことが多々ある、その事実を知っている身には、彼女たちに無愛想な態度もとれない。
と思ったのは束の間。

「なに、この子! かっわいい!」
「うっそ、男の子? きっれーい」
「こら、高校生がこんな店に来ちゃダメだぞ」
 口々に叫ばれるNGワードの連発に、薪は不愉快そうに眉をしかめた。

「あのですね、成人男性に向かってそういう言い方は、っ!?」
 一人が薪のネクタイを取り去ったかと思うと、何人もの女の手が伸びて、ワイシャツのボタンを外し始めた。きらびやかなネイルアートが薪の目の前で器用に動き、薪はあっという間に上半身をシャンデリアの光の下に晒す羽目になった。
「きゃあ。顔もきれいだけど、身体もきれい」

 なんだ、この店は!? キャバ嬢じゃなくて客が脱がされるのか!?

 剥ぎ取られたワイシャツで身を隠したい衝動に駆られて薪は、しかしそれをぐっと抑える。男なら、これくらいの事で恥ずかしがってちゃだめだ。捜一に入って1年半、それなりに筋肉もついている。羽佐間の前だし、ここは男の余裕を見せないと。
「まあ、特別なことをしなくても、職業柄自然に鍛えられるって言うか」
 本当は柔道も空手も、吐くほど訓練してきたんだけど。それを言わないのが男のカッコよさってもんだ。

「華奢な肩、かわいい~」
「ウエストほっそーい」
 こいつらには思いやりってもんがないのかっ! 気が付いても言わないでくれるのがやさしさってもんだろ!

「お肌しろーい、すっべすべ~~」
「きゃーん、可愛い乳首~。ピンク色で赤ちゃんみたい~、キスしちゃお」
「ちょっ、やめ……!!」
 遠慮の無い手にベルトを抜かれて、スラックスのボタンを外された。細い女の手とはいえ、何人もの力が合わさると、それはやはり大きなエネルギーを生み出すものだ。薪の体を簡単に持ち上げ、下着一枚のみっともない格好にして、ソファの上に容易く転がすほどの。

「きれいな足~、モデルみたい~~」
「スネ毛ないのね。ちゃんと脱毛してるんだ」
「内股なんかすべすべよお。ほらほら、触ってみて」
 両足を押さえつけられて、膝から上を何人もの手が這い回り―― なんだ、このセクハラ軍団はっ!

「何するんですかっ、止めてください!!」
 必死で叫ぶが、薪の抗議の声などどこ吹く風。
「コレも脱がしちゃえ~~!」
「きゃー、かわいいお尻~、プリップリしてる~!」
「わ―――――っっ!!!」
 男の余裕はどこへやら、薪はとうとう悲鳴を上げた。必死で下着を押さえて、羽佐間に助けを求める。

「助けて、助けてください、羽佐間さんっ!!」
「いいじゃねえか、見せてやれよ。減るもんじゃなし」
「イヤです、僕はみなさんのオモチャじゃな、きゃ――――っ!!!」
 文字通り身ぐるみ剥がされて、したたかなキャバ嬢集団にさんざんオモチャにされ、やっと解放されたときには、薪にはプライドのカケラも残っていなかった。

「もうやだ……女の人、こわい……」
 二度とこういう店には来たくない。こんな辱めを受けるくらいなら、キャバクラもスナックも知らなくていいっ!
「てめえがヘンに恥ずかしがるから、構われるんだよ。シャツ脱がされたくらいで、頬染めてちゃダメなんだよ」
「僕なりに頑張ったんですけど」
「まあ、おめえは正直だからな。思ってることが直ぐに顔にでる。でもなあ、薪坊。俺たちの職業には、心を表に出さない訓練ってのが必要なんだよ。俺たちを騙くらかして罪を逃れようとする連中の相手をするんだ、真っ向勝負ばかりじゃ通用しねえ。因果な商売だよ」
「……羽佐間さん、説得力ないんですけど」
 キャバ嬢の胸もみながら、ニヤけたツラで諭されても。

 ソファの陰でコソコソと服装を整えて、もうこのまま帰るまでここに隠れていたいと言う思いと、かつて経験したことのない恥をかいたことに対する羞恥でうずくまったまま立ち直れない薪の肩に、気安く女の手が置かれた。
「ほらほら、マキちゃん。飲んで飲んで」
「あ、僕、あんまりお酒強くなくて」
「や~~ん、どこまでかわいいのお? もう、あたしの妹にならない?」
「そうね。フリフリのドレスとか、似合いそう」
「ゴスロリとか。ね、姉妹ルックでアタシと歩きましょうよ」
「飲みますっ! 日本酒ガンガン持ってきてください!」
 ここで飲まないとまた女の子扱いされて、この人たちに掛かったら次は衣装まで取り替えられてしまうかもしれない。性根を据えて飲もうとして、しかし先刻の居酒屋でも飲んできた薪はすぐに酩酊状態に陥って、半時もしない間に隣に座った女の子の膝枕で健やかな寝息を立てていた。

「かわいい寝顔。天使みたい」
「それでいて、イロケもあるのよね。不思議」
「ねえ、この子ってさ。絶対にあっちの経験、あるよね」
「ミキもそう思った? 何となく分かるのよね~、こういう雰囲気って」
「まあ、この容姿なら仕方ないんじゃない?」
「この子も本当は、男の方が好きだったりして」
「ていうか、すっごく似合うんだけど、それ! 萌える!」
「あんた、腐女子だったの?」
 女の子たちの姦しいお喋りを止めたのは、気に入りのキャバ嬢の太腿に手を置いた羽佐間だった。

「失礼なこと、言うんじゃねえよ」
 やわらかい肉から手を離し、卓上のウイスキーのグラスを手に取る。ロックの氷がいい具合に溶けて、羽佐間の口中を心地よく刺激した。
「昔のことは知らねえよ。でも、今のこいつは立派な男だ。俺が保証してやらあ」
 羽佐間が目を細めて笑うと、女たちは素直に口を結んだ。
 タフでやさしくて、何よりも自分たちを蔑視しないこの男を、彼女たちは信用していた。その信用は、接客業の彼女たちに時として背信行為を行わせるほどに大きなものだった。

「で、そろそろ本題だけどよ。この店に出入りしてる坂本って男のことだが」
 眠ってしまった後輩の横で、胸ポケットから出した写真をテーブルに置き、羽佐間は事件の情報を収集し始めた。



*****


 一度書いてみたかった、女の子の集団に弄ばれる薪さん。
 あー、楽しかった☆


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折れない翼(16)

折れない翼(16)






 情けなくも酔いつぶれた後輩を背負って、羽佐間は夜の歓楽街を歩いていた。最後の追い込みが効いたのだろう、何度揺すっても起きないから、仕方なく担いできたのだ。
 けばけばしいネオンが輝く通りで、キャバレーの呼び込みが声を張り上げ、看板娘が愛想を振りまいている、享楽的で猥雑な街並み。羽佐間の妻のような普通の女性には無縁の、汚らしささえ感じるであろうその場所を、しかし羽佐間はとても人間らしい空間だと認め、そこに生きる彼らを愛しいと思っている。
 
 羽佐間の背中で、後輩が「ううん」と唸り声を上げた。眼が覚めたらしいが、どうせ足に来て歩けまい。羽佐間はそのまま、薪を背負って駅への道を歩き続けた。
「薪坊。ちゃんとメシ食ってんのか? 店の女の子より軽いぜ」
「羽佐間さんの呼び出しがもう少し減ると、食事の時間も取れるんですけどね」
 背負ってもらっているくせに、口の減らないやつだ。
 羽佐間がそんなことを思っていると、薪は急に口調を改めて、羽佐間に礼を言った。

「羽佐間さん。さっきはありがとうございました」
「ああ?」
「立派な男だって言ってもらえて。嬉しかったです」
「なんだ、起きてやがったのか」
 狸寝入りだったのか。案外したたかなやつだ。
 そういえば、と羽佐間は薪が捜一に来たばかりの頃を思い出す。あの頃の薪は表情に乏しくて、人形みたいなやつだと思っていた。ポーカーフェイスも演技も、その場に応じて使えるやつなんだ。
 だた羽佐間の前では、特に職務以外では、もうそれは必要ないと、薪はそう思っているのだろう。

「おめえは見た目がそんなんだから、からかう連中も後を絶たねえだろうけどよ。気にするこたあねえ。言いたいやつには言わしときゃいい。それが男ってもんよ」
「いいえ、駄目です」
 捜一の中にも、薪の容姿を揶揄する輩はいる。軽い口調で言われるそれを、薪は全力で否定する。薪がむきになればなるほど相手はエスカレートして行くのだが、決して薪を蔑んでいるわけではない。むしろ親愛の情と言ったところだ。が、薪には我慢がならないらしい。

「僕のそんな噂を悲しむ人がいますから」
「オンナか?」
 お約束の言葉で冗談に紛らそうとして羽佐間は、背中に感じる薪の息苦しくなるような抑えた呼吸に、ここは逃げてはいけないところだと本能で察する。

「違うな。昔のオトコってとこか」
 あのクソのような週刊誌記事を読んだ後、薪が素の自分を曝け出した相手。一部始終を見ていた羽佐間には、薪の悪い噂を悲しむ人の正体が分かっていた。
「あいつか。背の高い、黒髪の……悪いな、立ち聞きと覗きは職業病でよ」
 薪は、羽佐間の言を否定しなかった。
 短い沈黙の後、控えめな声で、
「やっぱり羽佐間さんだったんですか。誰かの視線は感じてたんですけど……あの時は何かもう、どうでもよくなって」
 自嘲するように笑って一息つくと、羽佐間の背中に顔を埋めたまま、とつとつと語り始めた。

「彼を好きになったことを後悔するつもりはありません。でも、身体の関係は、持つべきじゃありませんでした」
 それは多分、ずっと昔のことなのだろう。少なくともこの一年、薪にそういう相手はいなかった。相手が男だろうと女だろうと、いれば分かる。好きな相手と一夜を過ごした翌日の人間の顔は、どこかしら満ち足りているものだ。

「同じように否定しても、身に覚えがあるのとないのでは、相手への伝わり方が違います。人の嘘を見抜くことに慣れている先輩方には、通用しないと分かっています」
「若いころのしょっぱい経験なんざ、誰にだってあらあな。若気の至りって言ってな」
「違います、そんな軽い気持ちで彼に抱かれたわけじゃない。先輩たちが言うような、いやらしい気持ちからでもありませんでした」
 静かな、でも強い口調で反駁されて、羽佐間は口を噤んだ。

「僕は真剣に彼を愛していて、彼のすべてが欲しかった。だから彼を抱きたかったんです。でもそれは僕の一方的な想いだったから。その気持ちを押し付けた上に、彼の身体まで傷つけるわけには行かなかった。だから受けるほうを選んだだけで、生まれつき男に抱かれるのが好きだったわけじゃありません」
 それは分かっていた。
 薪は基本的にはノーマルな男だ。羽佐間の知り合いにも何人か男しか愛せない男がいるが、薪と彼らは根本的に違う。薪は初心だが、女性の身体にはちゃんと興味を示す。同性愛者にはありえない反応だ。

「人に蔑まれるようなことをしたとは思ってません。それでも……彼とのことは、忘れなきゃいけないと思ってます」
「別にいいじゃねえか。何も忘れるこたあねえよ」
「彼とは今でも友だちなんです。おかしな噂が流れたら、彼にまで迷惑がかかる。それが辛いんです」
「かあ、見る目がねえなあ。それくれえのことでガタガタ抜かすような腑抜けなのか? おめえが惚れた男はよ」
 背中の後輩が、ハッと息を呑んだのがわかった。言葉を失くした後輩に、羽佐間はやさしく言った。
「おまえらは好き合ってねんごろになったんだろ。恥じることなんか、何にもねえよ」
 羽佐間はワイシャツの左の背に、温かい液体が染み込むのを感じた。ぎゅっと押し付けられた薪の顔が、微かに震えていた。





 数々の殊勲を立てて、羽佐間が新宿南署の強行犯課長として栄転になったのは、それから1年後のことだった。
 薪はそのとき25歳。何の障害もなく警視に昇任した薪は、羽佐間からの推薦と班全員の意向に副って羽佐間から班長を引き継ぎ、捜査一課第4班羽佐間班は、薪班へと名称を変えた。




*****


 うちの薪さんが男らしさに拘る理由って、結局これだったりして。
 鈴木さんに相応しくなりたいとか、迷惑掛けたくないとか、そんなことを考えて男らしくなろうと努力するうち、次第にそれがエスカレートして行って、現在のような暴力オヤジが出来上がったと☆
 薪さん、どんだけ鈴木さん好きなのよ?(笑)


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

折れない翼(17)

 ラストです。
 読んでくださったみなさま、ありがとうございました。




折れない翼(17)





 羽佐間が案内してくれた店は、K署に近い小料理屋で、刺身と日本酒が美味い店だった。さすが海を抱いた千葉県だ。刺身の鮮度は東京の比ではない。
「ほう。いけるようになったじゃねえか」
「羽佐間さんには敵わないです」
 何が昔ほど飲めるわけじゃない、だ。昔とちっとも変わってないじゃないか。
 羽佐間は相変わらずの酒豪だった。あの頃に比べたら酒宴の付き合いも増えた現在、自分もかなり飲めるほうになったと思っていたが、羽佐間の方が数段上だ。

「よし。じゃあ次は、カワイコちゃんのいる店に繰り出すか」
「す、すいません。一身上の理由で、羽佐間さんの好きなキャバクラはちょっと」
「なんだ。ユッコちゃんは、どっかの馬の骨に取られちまったんだろ?他に操を立てるような相手がいるのか」
 いる。
 しかも、ものすごくタチの悪い相手が。しかし、それはここでは言えない。

「実は警視監昇任の話があって。監査課にばれるとまずいんです」
 監査課に知れると拙いのは本当だが、薪が恐れているのはそこではない。薪の現在の恋人にバレたりしたら、ベッドの中でどんな目に遭わされるか。考えるだけで恐ろしい。
 こないだなんか、新しく第九に来た新人にMRIマウスの手ほどきをしてやっただけなのに、何を思ったのか朝までネチネチと……ワイシャツに口紅なんか付けて帰ったら、三日三晩やり倒されそうだ。

「ふーん。キャバクラくらい許せねえような了見の狭い相手なんざ、俺ならゴメンだが」
「すごくヤキモチ妬きなんですよ。僕がちょっとでも他の人間と、って、違いますよ! 監査の話をしてるんじゃないですか」
「ま、当人同士の問題だからな」
「違いますって!」
「薪。上に行きゃあ、嘘をつかなきゃならねえことも多くなるだろうから、教えといてやる。ウソ吐くときに、瞬きの数が多くなるんだよ、おめえは。ちょっと鋭いヤツにはすぐにバレるぞ」
「羽佐間さんが鋭すぎなんですよ……」

 その時、何度目かの着信が薪の胸ポケットを振るわせた。小池からだ。何か、新しい画が見つかったのかもしれない。
「薪だ。うん、じゃあ調べろ。前科者リストと照合するんだ」
『調べるって、全員ですか?』
「当たり前だろ。そこに共犯者が映り込んでるはずなんだから」
『だって500人は下らないですよ? 顔写真だけで照合するとなると、スキャンシステムを使っても、大変な作業で』
「なに寝言言ってんだ、バカヤロー! 1000人いようが2000人いようが、照合するんだ。さっさとやれ、今夜中にだ!!」
 ムリですよ~、という小池の泣き声が聞こえてくる。さすがに可哀想か。
 厳しくするばかりが指導ではない。アメとムチを上手く使わないと。
 よし。ここはひとつ、優しい声で激励してやろう。

「小池。おまえなら出来る。大丈夫だ、きっと見つかるから。おまえの実力なら、今夜中に報告書まで作れるんじゃないか?」
 突然聞こえた猫なで声に、電話口の相手が沈黙する。ここで、とどめだ。
「僕が帰ったときに出来上がってなかったら、どうなるか解ってるな?」
 がしゃん、と耳障りな音が聞こえた。小池が携帯を取り落としたのだ。
 真っ青になった部下の顔を想像して、薪はウキウキするような気持ちになる。小池を苛めるのは、けっこう楽しい。

『薪さん。あんまり意地悪しちゃダメですよ。小池さん、涙目になってましたよ』
「嬉し泣きだろ、きっと。やさしく励ましてやったから」
 小池の携帯電話から別の部下の声が聞こえてきて、薪は驚きつつも平然と答える。室長のお気に入りの部下に向かって、何とか取り成してくれ、と頼む小池の姿が目に浮かんだ。

『今夜は、そちらにお泊りになるんですか?』
「ああ」
 言いかけて、今日が金曜の夜だったことに気付く。明日は出張で大阪まで行かなくてはいけない。今週はもう、会えない。
「いや、帰る。遅くなるかもしれないけど、帰るから」
『わかりました。部屋でお待ちしてます』
「うん……」
 携帯電話に残る声の余韻を惜しむように、薪はフラップを閉じた。脳髄に木霊する、彼の声の甘さを感じる。多分今夜はどれだけ遅くなっても、青木は僕を待ってる。それからきっと、朝まで放してくれない。

「ヤキモチ妬きの恋人からか?」
 まずい。自然に口元が緩んでいたのを、羽佐間に見られただろうか。
 薪は咄嗟に室長の顔を取り繕った。
「違いますよ。部下です。捜査の進捗状況を連絡するように言ってあったんです」
「おまえの相手って、本当に自分の部下なのか。また、ヤバイ橋渡ってんなあ」
「違いますってば!」
 相変わらずひとの話を聞かない人だ。

「仕方ねえなあ、今日はここで引き上げるか。おまえも早く、帰りてえんだろ?」
「いえ。お付き合いしますよ」
「電話の相手が、部屋で待ってんだろ?」
「え!? なんで聞こえ……あっ」
 しまった。引っ掛かった。羽佐間お得意の誘導尋問だ。

 薪は白旗を掲げた。
 むかし、鈴木に思いを寄せていたことも、このひとには知られてしまっている。現在の薪の恋人が男だということも、第九の部下だということも、先刻の会話でわかってしまったのだろう。
 それでも、羽佐間の自分を見る目に変化はない。昔もそうだった。知られたらお終いだと思っていたのに、羽佐間との関係も捜一での薪の立場も、何も変わらなかった。
 羽佐間匡という男は、人間的にも捜査官としても、とても尊敬できる先輩だった。

 羽佐間の撤収命令に、薪は清算を済ませて店を出た。通りに向かって手を上げる。タイミングよく流れてきた一台のタクシーを停めて、羽佐間の身体を後部座席に乗せた。
「おめえは?」
「駅まで2,3分ですから。歩きます」
「そうか。じゃあ、ここでお別れだな」
「はい。羽佐間さん。色々ありがとうございました。今日は楽しかったです。また、一緒に飲みましょう」
「おうよ。今度はおまえのお気に入りの部下も、一緒にな」
「……はい」
 完全に、バレてる。

 薪の気まずそうな顔を見ながらニヤニヤと笑う、警察機構に一生を捧げた誇り高い男の退官を、薪は最敬礼で見送った。



―了―


(2010.8)



 冒頭にも書きましたが、このお話は、わんすけさんに捧げます。
 思ったよりも地味な話になってしまって、喜んでもらえたかどうか、かなーり不安なんですけど~(^^;
 すみません、感謝の気持ちだけでも受け取っていただけたらうれしいです。

 わんすけさん。
 今まで、たくさんの楽しい記事をありがとうございました。
 お腹痛くなるくらい、顔の筋肉が引き攣るくらい、いっぱいいっぱい、笑わせてもらいました。 

 これからも、コメント欄でお喋りしましょうね。
 よろしくお願いします。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

破壊のワルツ(1)

 こんにちは~。

 数日後には4月号のメロディが発売されようという、秘密ファンなら誰もがナーバスになるこの時期に、こういうものを公開していいのかどうか、悩むところですが書いちゃったし。 KYなブロガーですみません。

 えっと、滝沢さんの過去のお話です。
 暗いです、重いです、長いです。(←つまんない小説ベスト3の条件をすべて満たしている)
 筆者お勧めの見どころは、滝沢さんが鈴木さんをイジメルところ、です。(何を書いているのやら)


 最初にしっかり申し上げておきたいのですが、
 わたし、原作の滝沢さんは間違いなく薪さんの味方だと思っているのですよ。 しかも、かなりいいやつ。
 よって、この話に出てくる彼はあくまで二次創作で、話の進行上こういう役割を果たしていると思ってください。


 それと、この話、救いがないです。
 旧第九が壊滅するときのお話なので、救いの入れようがなかったんですけど。
 だから、後味もすっごく悪くて、なので、

 明るくて楽しいお話がお好きな方は、読んでも楽しくないと思います。
 それと、旧第九の話なので、あおまきすとさんにはつまらないと思います。
 すずまきさんは多少出てきますが、貝沼事件が絡むので、ラブラブしません。
 滝沢さんはメインですけど黒い役なので、彼を好きな人は読まないほうが、
 って、いったい誰が読んでくれるの、この話っ!?


 てな調子で、公開するのも気が引けるのですが。
 よろしかったらどうぞ~~。






破壊のワルツ(1)






 記憶の中の彼女は、いつも笑顔で手を振っている。

 それが最後に見た彼女の姿だからか、彼女を思い出すと一番最初にその映像が浮かぶのだ。それから遡って、彼女と過ごした最後の時間。半日にも満たない、ほんの僅かな時間。
 あれは、秋も終わりに近づいた日曜日。自分の車で彼女を空港まで送り、4泊5日の旅行にしては多すぎると感じられた荷物を運んでやった。搭乗手続きに付き添い、搭乗時刻までの時間つぶしに空港内のコーヒーショップで30分。やがてアナウンスが、彼女が乗る飛行機の目的地と便名を告げた。
 
 セキュリティチェックの入口に向かう彼女の背中を見送って男は、彼女の前では我慢していたため息を吐く。
 急な仕事さえ入らなければ、彼女の隣を歩いているはずだったのに。まったく刑事って職業は。

 何列にも並んだカウンターの向こうの通路で、彼女は大きく手を振り、彼の名を呼んだ。彼は周りの目を気にして、胸の前にこっそりと手を上げただけだった。

 自分も叫べばよかった。
 彼女の名を呼んで、愛していると言えばよかった。
 いつでも言えると思っていた、言えなくなる日が来るなんて思わなかった。

 彼女は、今日も男の記憶の中で手を振る。
 ひたすらに振り続ける。



*****



 執務机の上に左手で頬杖をついて、忌々しそうに薪は舌打ちした。
 不機嫌に眇められた亜麻色の瞳に映っているのは、赤マジックで大きくペケが付けられた勤務表。所長に提出する休日出勤の予定表の期限は今日中だが、それを書き直す気にもなれないでいる。
 
 GWから3週間後、週末のメンテナンス当番について、部下からクレームが来た。当番表では副室長の鈴木と滝沢だったのだが、鈴木はこの週末、大事な用事がある。だから代役に豊村を指名したら、用事なら自分にもある、と断られた。ムカついたが仕方ない、もう一人の若手の上野に話を持ちかけたら、親戚の法事だと言われた。
「何が『人間として最低限の休暇を取らせてください』だ、豊村のヤツ。親の死に目に会えないのが刑事って職業だろうが」
「いつの時代の話してんの、おまえ」
 苦々しく悪態をつく薪の耳に、親友の声が届いた。言葉面は嗜める意味合いだが、その口調は明らかに面白がっている。
 毎朝のミーティングの記録をファイルに整理している鈴木に向かって、薪は声を張り上げた。

「豊村はまだいい、正直だからな。上野の叔父さんに到っては10人目だぞ。何人兄妹なんだよ、あいつの親は」
「ウソと決め付けるのはよくない。地方じゃ7人兄妹とか、珍しくないって聞くぞ」
「おまえこそ、いつの時代だよ」
 少子化が進む昨今、7人も子供がいたら政府から報奨金が出そうだ。
 薪がそう憤慨すると、鈴木は苦笑して、
「今年はGWから捜査が入っちゃって、休みが全然取れなかったからな。誰だって1ヶ月ぶりの週末は逃したくないよ」
「そんなこと言ったって、ハードディスクの残量は待ってくれない。今週末にバックアップ取らなかったら、容量オーバーでデータが消える危険性がある。あいつらには危機感ってもんが無いんだ」
 最近の若い者には、仕事に対する飢餓感がない。根性も足りないし、やる気も今ひとつだし。そのくせ、文句だけは一人前だ。

 いや、文句は最近だ。
 この頃、急に増えたような気がする。それに、何となく意思の疎通がしにくくなったような。

 勿論、室長とその部下という関係なのだから、友人のようには行かない。時には厳しい指導も必要だし、自分でも冷酷だと意識してなお、その判断を下さなければならないときもある。それでも、同じ研究室の仲間として、以前はもっと彼らの存在を近しいものに感じていたはずだ。
 それが、いつの間にか―――――。

 薪は左手の頬杖を解き、右手の拳を口元に当てた。軽く握った親指にくちびるを付け、じっと考えを巡らせる。

 ―――――― あいつが第九に来てからだ。

「あのさ、薪。何だったら、雪子に言って延期しても」
「だめだよ、そんなの!」
 申し訳なさを含んだ鈴木の申し出に、薪はびっくりして思考を中断する。大きく首を振り、彼の提案を激しく拒んだ。
「雪子さんのご両親、青森から上京してくるんだろ? もうホテルも取っちゃっただろうし、飛行機の切符だって。第一、式の予約もしてあるのに」
「ご両親が来るのは土曜日だから、ホテルと飛行機はキャンセルしてもらってさ。式って言っても結納だから。来週に延ばしてもらえば済む話だ」
「そんな簡単に言うな。一生に一度のことなんだから」
 今週末、鈴木は雪子と正式に婚約する。結婚式の予約をしてある式場の一室で、結納の儀を交わすのだ。

「それに、こんなことで予定が延びたら、僕が雪子さんに殺される」
「雪子は大丈夫だよ。仕事だって言えば」
 何を呑気なことを、と薪は思う。男はこういうことを面倒だと思いがちだが、女性にとっては一生に一度の、それも最大のイベントだ。それを『仕事』で延ばせると思っているなんて、危機感の無さは部下たちといい勝負だ。
「おまえは雪子さんに投げ飛ばされたことがないから、そんな無謀なことが言えるんだよ。一度組み合ってみろ、この人には一生逆らうまいって思うぞ」
「雪子、柔道の試合のとき、めっちゃ怖いもんな」
「うん。羽佐間さんも自分の奥さんとどっちが怖いか、真剣に悩んでた」
 冗談に紛れさせて、薪は鈴木の不誠実を詰る。

 鈴木には、ちゃんとしてもらわないと困る。今だけは仕事よりも雪子のほうが大事だと、はっきり態度で示してもらいたい。でないと……。

 薪は机の上で両手を組み合わせ、真面目に言った。
「例え緊急の捜査が入っても、その時間は開ける。結婚式も。新婚旅行はどうなるか保証できないけど、なるべく協力するから」
 大切な友人たちの大切な儀式を、心から祝いたい。自分自身にけじめをつけるためにも、何らかの形で協力させて欲しい。
 鈴木はいつものように薪にやさしく笑いかけて、軽い口調でそれに応じた。
「ラッキィ、室長が親友だと心強いな。ていうか、ちょっとズルイかな、オレ」
「そんなことはない。結婚による1週間の慶弔休暇、親の葬儀の3日間の忌引休暇は職務規定に明記されているんだ。堂々と取得すればいい」
「規定に明記されてる一年に20日の有給休暇は、毎年繰り越しになってるけどな」
「それを言うなって。こないだも田城さんに叱られたばかりなんだから」

 九つある研究室の中で、年次有給休暇を一番消化しきれていないのが第九研究室だ。第九ではMRIのメンテナンス等による休日出勤も多いから、その代休も加算されて、平均取得日数マイナス15日という笑えない結果になっている。実際、職員にとっては笑い事ではない。豊村の言にも一理あるのだ。
 薪はワーカホリックを絵に描いたような人間だ。人生の最優先は仕事、そのスタイルに何の疑問も抱いていない。実にシンプルで、ある意味幸せな男だ。
 が、それを周りの人間にも求める傾向が強いのは問題だ。第九の室長から休暇を捥ぎ取ろうと思ったら、1ヶ月ごとに結婚式と葬式を繰り返すしかない、などという笑い話まであるくらいだ。
 その冗談の通り、去年までは薪が言い渡す残業や休日出勤に職員たちは唯々諾々と従ってきたのだが。今年になってから、徐々にそのシステムが崩れてきている。残業も3日続くと4日目には渋られるし、休日出勤もこの有様だ。

「とにかく、鈴木はきちんと自分の役割を果たして。相手のご両親を安心させてやれよ。大事な一人娘を貰うんだから」
「そうだなあ。親もそうだけど、オレ、義弟ができるんだな。妹しかいなかったから、楽しみだ」
「そうだね。……いいな。羨ましい」
 薪には家族がいない。幼い頃に両親を亡くして、兄弟もいない。近しい親類も無く、親代わりになって育ててくれた叔母夫婦は、今はアメリカのロサンゼルスに住んでいる。
 たったひとりの親友も結婚して、自分から離れていく。自分では隠していたつもりの寂しさが滲み出てしまったのか、鈴木の瞳が心配そうに薪を見た。

「薪だって、結婚したら両親も兄弟もできるさ」
「それもそうだな。官房長の末娘と結婚したら、両親と義姉が2人もできる。義弟よりも義姉の方が、数段魅力的な響きだ」
 昔の冗談を蒸し返して、薪は鈴木の心配顔を笑い飛ばした。薪の笑顔に釣られたように、鈴木がホッと目尻を下げる。
「おまえ、言い方がイヤラシイ」
「鈴木こそ。口元が緩んでるぞ」
 にこやかに笑いながら、羨ましいのは鈴木じゃないよ、と薪は心の中で呟く。

 羨ましいのは義弟の方だ。鈴木の弟になれる、一生涯鈴木とつながる絆ができる。それが羨ましい。
 でも、本当に羨ましいのは……。

 その先を言葉にはしたくなくて、薪は慌てて意識を書類に向けた。休日出勤の予定表を作らなければ。
「週末は僕と滝沢が出る」
「悪いな。後で何か奢るから」
「もう貰った。山水亭のクリスマスディナー。美味かった」
「そんな、半年も前のこと」
 鈴木が言いかけたとき、彼の携帯が震えて、ふたりの会話は中断された。相手は多分、彼の婚約者だ。

「ああ、大丈夫。薪が上手くやってくれた」
 鈴木は雪子に薪の尽力を伝えると、嬉しそうに笑った。薪はシッシッと片手で追い払う仕草で、彼を自分の部屋から追い出した。定時は過ぎている。婚約前の大事な時期、早く彼女の処へ行ってやったほうがいい。
「薪。次の薪のメンテ当番、オレが代わるから」
「いいよ、気にしなくて。早く帰れよ。雪子さん待ってるぞ」
 ドア口で振り向いた親友に、薪は苦笑する。
 パタンとドアが閉まって、途端にひっそりと静かになった室長室に、薪が叩くキーボードの音だけが響いた。

 本当に、鈴木は気にしなくていい。逆に、仕事をしていたほうが気が紛れていい。自宅に独りでいたら、色々と余計なことを考えてしまう。考えても仕方のないことばかり、繰り返し繰り返し。
 とうに終わりを告げた夢を。過ぎ去った昔を。
 鮮明に、生々しく、何度も何度も思い出す。最後は決まって涙が止まらなくなる、それが解っているのにメモリーは消去できない。

 予定表をメールで所長に送って、再び頬杖をつく。
 両手でやわらかい頬を包んで、薪は物憂げにため息を吐いた。



*****


 原作の鈴木さんと雪子さんは、婚約してません。
 これはうちのお話の勝手な設定なので、(てか、コピーキャットが本誌に載る前にすでに書いちゃってて。だって~、雪子さん、4巻のお葬式で親族席にいたじゃん! だからてっきり婚約者だったんだとばかり。 あれはたまたまお母さんに慰められてただけだったんですね)
 いろいろ原作と違っててすみません~。
 まあ、一番違うのは、薪さんの性格ですけど(笑)


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破壊のワルツ(2)

 私信です。

 Mさまへ。
 今日は寝坊しました。





破壊のワルツ(2)






 カタカタとキーボードを叩きながら、豊村は胸のうちに不安を抱え、鬱々と画面を見つめていた。
 短く刈り込んだ頭をガリガリと掻き、小さくて丸っこい目を手の甲で擦り、ディスプレイに並んだ文章を苛立たしげに消去する。太くて短い指が連続でバックスペースキーを押下し、やがて画面は白紙の状態に戻った。
 
 朝のミーティングで週末のメンテナンス当番の変更が発表され、それは豊村にとっては都合の良いシフトだった、にも関わらず、彼の気は晴れなかった。ひと月ぶりの週末を共に過ごす予定の彼女の顔を思い浮かべても、この焦燥感は収まらない。鈴木の代わりに自分が出る、と言ったときの室長の顔が頭に焼き付いて、その不機嫌そうな顔が豊村を怯えさせていた。
 彼は、昨日の自分の言を後悔していた。
 室長に向かって、あんな断り方をするんじゃなかった。今週末に会えなかったらお終いよ、と彼女に言われて切羽詰っていたこともあって、嫌味な言い方になってしまった。
 そんな彼に追い討ちを掛けるように、重大な新情報が同僚からもたらされた。

「鈴木副室長の用事って、結納らしい」
「えっ!?」
「本当に?」
 初めて聞く副室長のプライベイトに、隣の席の上野が身を乗り出してくる。自分より8歳年上の新人が仕入れてきた情報に豊村は焦り、彼の深刻な表情に、執務室の職員3人は額を着き合わせた。

「滝沢サン、昨日はただの私用だって言ってたじゃないすか」
 滝沢は第九に来て1年にもならない新人だが、年齢は34歳と、この研究室で最年長。階級も豊村より高い警視だ。自然と言葉は年長者に向けるそれになる。
「昨日、鈴木に直接訊いたときには、そう言ったんだ」
 鈴木から、その日は自分は都合が悪い、と告げられた滝沢は、当然その理由を訊いた。それを上野と豊村に伝えたのだ。
「副室長だけに特例を認めるなんてズルイから、断固反対したほうがいいって」
 滝沢に言われたときは尤もだと思ったのだ。それでなくとも室長と副室長は普段から仲が良くて、仕事中はもちろん、昼休みまでべったりだし。大学の頃からの親友だということは知っていたが、それでシフトを優遇するなんて、あってはならないことだと思った。
 しかし。

「結納なんて重要なことなら、交代を断ったりしなかった」
「昨日の時点では分からなかったんだ。結果的に嘘を伝えたことになってしまって、本当にすまない」
 素直に頭を下げる滝沢を、それ以上責めることはできなかった。

 彼が第九に来ることに決まったとき、鈴木副室長は2人の部下を前にこう言った。
『滝沢は優秀な捜査官で、以前の部署では部下を何人も使って仕事をしていた。それが研究室の一職員になって、下積みから始めるのはさぞ辛いだろう。彼が尊大な態度を取ったとしても、少しくらいは大目に見て欲しい。目に余るようだったら、オレに言ってくれ。こちらで対処するから』
 横暴な室長を抑え、研究室の調和を守る鈴木らしい言葉だった。彼の気遣いと思いやりには、いつも助けられている2人はそのとき、
『大丈夫です。尊大な態度は室長で慣れてます』
『そうですよ。室長の上を行くようだったら、とっくに島流しになってますよ』
 などと、軽口を叩くことで鈴木を安心させようとした。

 鈴木の布石のおかげで心の準備をしていた2人だったが、意外なことに滝沢は、自分の階級を鼻にかけることもなく、従順な後輩の態度を崩さなかった。捜査官としての経験が長いだけあって、捜査においては先輩達の上を行くこともしばしばあったが、そんなときでさえ彼は謙虚な姿勢を貫いていた。
 言葉遣いも、最初は敬語で話していたのだが、彼のような見た目も立派な偉丈夫に敬語を使われるとどうにも居心地が悪く、こちらから止めてくれるように頼んだのだ。すると滝沢は、
『室長や副室長を敬うのと同じくらい、俺は先輩方を尊敬している。先輩方に敬語を使わないなら、彼らにも使わない』
 と言って、本当に室長たちに敬語を使うのを止めてしまった。大らかな副室長は、年上なのだし、それで構わないと笑っていたが、室長は明らかに不満顔だった。
 優れた捜査能力を持ち、それでいて謙虚で、同僚は大事にするが上役には媚びない滝沢に、上野と豊村は好感を抱いていた。傲慢を絵に描いたような室長より、ずっと人間的に優れた人物だと思っていた。

「これはお節介かもしれないが、今からでも謝りに行った方がいい。副室長の事情を知らなかったと正直に話して……でないと、これからの待遇に響く可能性がある。薪は根に持つタイプだろ」
「そ、そうだな。謝った方がいいよ、豊村」
 薪が執念深い性格なのは、上野にも心当たりがある。半年も前のミスを蒸し返されて、同じ注意を何度も受けた。もうそんな間違いはしない自信があるのに、新しい捜査に掛かる前には今でも必ず繰り返されて。もう、うんざりしている。
 同時期に第九に入った上野に言われて、豊村は席を立った。昨日の言い草が言い草だっただけに顔を合わせづらいが、客観的に見て悪者は自分のほうだ。

「じゃ、鈴木さんに」
 こういう場合は、まず副室長に相談するのが第九の鉄板だ。気難し屋の室長を上手に操っているのが、女房役の副室長だ。室長に言いたい事があるときは必ず副室長を通して、謂わば鈴木は、雲の上の室長と部下とのパイプ役なのだ。
「副室長なら所長室だ。婚約の報告をしてたぞ」
 目で長身の副室長を探す豊村に、滝沢が彼の居場所を教えてくれた。
「俺も所長室に居たんだ、6ヶ月報告の件で。それで婚約のことを聞いたんだ」
 科警研に入って6ヶ月を経た職員は、所長宛に現況報告書を提出する。報告書と銘打っているが、これは所長に向けた一職員からの手紙のようなもので、主に新人の精神的なケアが目的だ。よって内容には、自分が携わっている職種、職場の人間関係、仕事に対するやりがいや抱負など、前向きな文章を連ねるのが模範解答だ。間違っても室長の悪口を書いてはいけない。

「副室長も副室長だよな。もっと早くに打ち明けてくれればいいのに。そうすりゃ豊村も、こんな後味の悪い思いをしなくて済んだのに」
 なあ、と同意を求めるように、上野は滝沢に顔を向ける。滝沢は新人らしく口を噤み、困ったように首を傾げて見せた。捜査のことならともかく、新参者の自分に職場の人間関係について口を挟む権利は無い、と思っているのだろう。
 でも、上野は彼の気持ちを知っている。以前、一緒に酒を飲んだとき、『上2人があんなにべったりなのは、組織の統括を考える上でマイナスだ』とこぼしていた。あくまで酒の席のことで、滝沢が職場でそれを態度に表したことは一度もなかったが、あれが彼の本音だろうと上野は思っていた。

「室長も秘密主義だけど、副室長も同じだ。あのふたり、お互いのことしか信用してない。そんな風に、俺には思える」
 上野の厳しい言葉に、滝沢は苦笑して、
「仕方ないさ。あのふたり、大学時代からの親友なんだろう?この研究室を立ち上げたのもあの2人だし……そんなことより、早く行った方がいいんじゃないか?」
 心の中では親密すぎるふたりの関係を忌々しく思っているはずなのに、こうして彼らを庇い、話題を逸らそうと豊村に行動を促す。滝沢の思いやりに上野は感動すら覚え、改めて彼を見直した。
 捜査官として地力がそうさせるのか、一見尊大な雰囲気を漂わせる第九の新人は、実は謙虚で、やさしさと気遣いに溢れている。アフターの居酒屋で、室長の悪口で盛り上がっているときも、黙って聞いていることが多い。
 
 しかし、滝沢は奥ゆかしいだけで、自分の意見が無いわけではない。意見を求めると、実に建設的な解答が返ってくる。
 第九の残業が多すぎること、他の研究室に比べて有給休暇の取得が少なすぎることについての不満を連ねていたら、その件については所長に相談してみたらどうか、と提案された。残業はともかく、年次休暇の消化に関しては、所長の管理能力も問われる部分だからだ。
 なるほど、と思い、こっそり所長室に赴いたのはGWに入る直前だったが、室長の暴君ぶりは相変わらずだ。所長ですら、薪には強く意見できないのかもしれない。
 何故なら、薪には強い後ろ盾が―――――。

「さあ。こういうことは、早いほうがいい」
 滝沢に背中を押されて、豊村は室長室の扉を叩いた。その後姿を、ふたりは心配そうに見守っていた。



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破壊のワルツ(3)

 こんにちは~。

 突然ですけど、薪さんのスーツの色って、基本は青なんですかね?
 コミックスの表紙もそうだし、以前のメロディの表紙も青でしたよね。 ベージュの事もありましたが、あれを画で表すとしたらあのスクリーントーンは貼らないだろうし。
 そっかー、青かー。 ちょっと残念ー。
 うちはチャコールグレイです。 黒に近いグレー。 春夏は薄いベージュ、もしくは薄いグレー。 控えめなストライプ可。 そしてネクタイは必需品。 おしゃれさんだから(笑)





破壊のワルツ(3)





「室長。昨日はすみませんでした」
 室長室に薪を訪ね、豊村は神妙に頭を下げた。薪は室長席に座ったまま、豊村が透明人間でもあるかのように黙って報告書のファイルに目を通している。
 
 重苦しい沈黙に、豊村は自分の早計さを悔やむ。室長にひとりで謝罪に来るなんて、無謀だった。やっぱり副室長の鈴木に相談すべきだった。
 それでも、切り出してしまったからには仕方ない。豊村は恐る恐る口を開いた。

「やっぱり、週末のメンテはおれが」
「けっこうだ」
 彼女と喧嘩する覚悟まで決めて、やっとの思いで申し出た譲歩を退けられて、豊村は口を噤む。薪の態度はあまりにも素っ気無くて、豊村の不安はますます大きくなる。
「僕が出るからいい。もう所長に予定表を上げてしまったし」
「すみません。おれ、鈴木さんが週末に結納するなんて知らなくて。そんな大事なことだと解ってたら、断ったりは」
「鈴木の私事は関係ない」
 事情を説明しようとした豊村の言を遮って、室長の冷徹な声が響く。ファイルから眼を上げようともせず、温かさの欠片も無い口調で、彼は豊村を詰った。

「問題なのは、おまえの仕事に対する姿勢のほうだ。ここに来て何年になるんだ。MRIシステムがハードディスクの容量を振り切ったらどうなるか、分かっているはずだろう。
 鈴木のプライベイトを知らなかったことより、自分の仕事に対する不徳を恥じるべきだ」
 誠心誠意の謝罪と精一杯の譲歩を素っ気無く返されて、豊村は憤る。薪が怒るのも無理はないが、それでもこんな言い方をしなくたって。
「お言葉ですけど。おれは仕事は真面目にやってるつもりですし、それなりの実績も上げてます」
 部下に言い返されたのが気に障ったのか、薪はパタンと見ていたファイルを閉じ、氷の微笑で豊村を見返した。
「あの程度でか?」
 鼻で笑う口調で言われて、豊村のプライドがささくれ立つ。
 室長の実力は分かっている、彼は確かに天才かもしれない。でも、自分だって小学生の頃から努力して一流大に入り、将来を嘱望されて第九に来たのだ。ミスをして諭されるならともかく、こんな風に馬鹿にされる筋合いはない。

「こないだの事件は、5日で報告書まで」
「新入りの滝沢に、あれこれ指摘されたおかげでな」
 ファイルを机の上に放り、腕を組んで背もたれに寄りかかる。ものすごく嫌な目つきで見られて、豊村は、以前滝沢に言われたことを思い出す。
「年は上でも、MRI捜査の経験ではおまえの方が1年以上も先輩なんだぞ。恥ずかしいと思え」
 恥ずかしい? 自分の存在が、第九の恥だと言うのか。
 捜査官としての経験は、滝沢の方が8年も上なのだ。自分の気付かないところに気付いて当然だ。それを能力不足と決め付けられたら、改善のしようがない。

「実績を上げてる、なんて言葉はな、鈴木くらいの腕になってから言え。口惜しかったら次の進行中の事件、解決して見せろ」
 鈴木の名前を出されて、豊村の心に冷たい何かが落ちた。室長が認めているのは、鈴木のことだけだ。自分と他の2人は眼中に無い。

 耐え切れず、豊村は無言で頭を下げて室長室を辞した。
 腹立ちを噛み殺すように唇を噛み、モニタールームへのドアを開けると、心配そうにこちらを見ていた上野と目が合った。
「おまえは第九の恥だって言われた」
 豊村が憎々しげに呟くと、上野は憤慨した様子で豊村に近付き、ひどいな、とストレートに室長を非難した。
「一人前の口を利くのは、副室長のレベルに達してからにしろとさ」
 室長の言葉を一字一句違わず再生したわけではないが、意味合いはこういうことだ。豊村は事実を正確に上野に伝えたつもりだった。
 上野は当然のように憤りを露わにし、同僚のプライドを守ろうとした。

「無茶苦茶だな。勤め上げてる年数が違うだろ。おれたちはたった2年、副室長は第九が準備室だった頃からここにいるんだから。3倍以上だ」
「前に滝沢が言ってた通りだ。室長は、副室長以外の部下を軽蔑してる」
 それがいつ囁かれたものか、はっきりとは覚えていない。
 カフェテリアで昼食を摂っているときだったか、3時のコーヒーブレイク中か、はたまた休日出勤が滝沢と重なったときだったかもしれない。とにかく、入ってきたばかりの滝沢に、『第九の室長』がどれほどすごい天才なのか、彼の偉業について説明していたときに言われたのだ。

「へえ。あの若さで警視総監賞を3回、長官賞を2回ですか。すごいですね」
「だろう? そんじょそこらの捜査官が束になったって、うちの室長には敵わないって」
「なるほど。それでわかりました。何故、室長が俺たちをあんな眼で見るのか。自分があまりにも優秀すぎて、周りの人間がみんな馬鹿に見えるんでしょうね」
 滝沢にしては珍しい、悪意のある言い方だった。豊村がびっくりしていると、彼はふっと哀しそうな顔になって、
「だからこの研究室には、仲間なら当然生まれるはずの友情や信頼関係が無いんですね。俺が以前いた部署は、上司と部下がもっと仲良かったんで。キャリアの集まりって言うのもあると思いますけど、ちょっと淋しいですね」
「おれたち、仲いいぜ? 精神的にきつい仕事だから長続きしないやつ多いけど、今いる4人は2年前からの仲間だ。みんなで力を合わせて頑張ってる」
「あ、そうでしたか。それは失礼しました」
 鋭い目を丸くして、滝沢は両手を胸の前に出した。言い訳をするときのように両手を小さく振って、失礼なことを言ってすみませんでした、と謝った。

「自分の目には、薪室長は鈴木副室長以外、誰も信用していないように見えたものですから」

 そのときは深く考えもせず彼の謝罪を受け入れた豊村だったが、滝沢の言葉は小さな棘のように心の隅に引っかかっていた。
 そう言われてみると、薪はプライベイトを自分たちと一緒に過ごさない。アフターの飲み会どころか、研究所全体の忘年会や暑気払いにも滅多に顔を出さない。室長会だけは付き合いをしているようだが、それは多分、
「自分より格下の人間とは、交流を持つ必要が無いと思ってるのかもしれませんね。出世のことを考えたら、上層部には顔を売っておかないといけないから」
 そうだ、これも滝沢が言ってたんだ。
「でも、副室長のことだけは信頼している。逆に言えば、彼以外は必要ないと考えている。それを副室長も、充分自覚している」
 
 室長に意見があるときは必ず自分を通すように、自分の立会いの元で意見するようにと鈴木副室長は言うでしょう? 自分がその場にいれば、薪室長は穏やかに話をするからです。でもそれは、豊村さんたちに気を使っているわけではない。鈴木さんに気を使っているのです。
 薪室長にとって、鈴木さん以外の人間はどうでもいい存在なんです。

「ちくしょう。馬鹿にしやがって」
「豊村?」
 3歳下の同僚が、常になく凶悪な目をしているのに気付いて、上野は焦燥する。豊村は、良くも悪くも単純な男だ。褒められれば有頂天になるし、叱られれば凹む。今回は絶対に後者だと思って慰めの言葉を用意していたのに、怒り心頭とは。

「おれ、第九辞める。上野も一緒に異動願い出そうぜ」



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破壊のワルツ(4)

 今日はメロディの発売日だと言うのに、わたしはどうしてこんなものをアップしているのでしょう。

 薪さーんっっ!
 今行くからねっ、待っててねーっ!
 あ、10時からか。








破壊のワルツ(4)




「おれ、第九辞める。上野も一緒に異動願い出そうぜ」

「えっ!? ちょっと待てよ、落ち着けって」
 上野はこの職場に、そこそこ満足している。確かに室長は横暴だし仕事はきついが、以前の上司から受けたような陰湿な苛めはない。仕事以外のことで叱られたことは一度も無いし、アフターの付き合いを強要することもない。何よりも、仕事熱心で真面目だ。それだけでも以前の上司よりはマシだと思っていた。
 豊村はまだ26で、薪以外の上司に長く仕えたことがない。他にはもっと酷い上役がいることを知らないのだ。上野のように、月に一回出張と称して愛人と公費で旅行に行く上司を持ってみれば、薪が良質な上司の部類に入ることが分かるだろう。

「もう我慢できない。室長の顔見るのも嫌だ」
「待てって! おまえ、昔は室長のことすっげえ尊敬してたじゃんよ。あの人は天才だって」
「その天才が鼻につくんだよ! 天才なら何を言ってもいいのかよ!!」
「うるさいっ!!」
 バン! とドアが開いて、部屋の主が姿を現した。扉の前で怒鳴っていたのだ。会話の内容は室長室に丸聞こえだ。

 亜麻色の瞳を怒りに吊り上げ、頬を紅潮させて薪は叫んだ。
「辞めるなら辞めろ! おまえなんかいなくても、ちっとも困らん。そんな風に同僚の足を引っ張るくらいなら、さっさと辞めちまえ!」
「ああ、望むところですよっ!」
「ちょ、ちょっと! 豊村も室長も落ち着いて」
 エスカレートする言い争いを止める術を持たず、上野はひたすらうろたえる。困惑して嫌な汗をかいた上野の耳に、天の声が聞こえてきた。

「何の騒ぎ?」
 ひょい、と3人の間に顔を出してきたのは、第九の副室長。職員の相談役であり、室長の暴走を止められる唯一の人物だ。
「豊村がっ!」
「室長がっ!」
 同時に喋り出したふたりを制して、鈴木は彼らを室長室へといざなった。それからこちらを振り返り、のん気な口調で、
「上野。コーヒー頼める?」
「あ、はい」
 ホッとしてその場を離れ、上野は給湯室へ向かった。コーヒーカップを3つ用意して、ふと気付く。そういえば、滝沢はどこへ行ったのだろう。

 室長室へコーヒーを運んでいくと、薪と豊村はソファに向かい合って座っていた。鈴木はふたりの中間に立ち、冷静に豊村の訴えを聞いている。
 そっとコーヒーをテーブルの上に置き、上野は部屋を出ようとした。そのとき、初めて鈴木が口を開いて、「薪が悪い」と言った。

「いくらなんでも言いすぎ。辞めたきゃ辞めろって、それは室長が言っていい言葉じゃない」
 恐ろしい目つきで鈴木を睨んで、室長は唇を噛んだ。怖い顔だった。普通より遥かに整っているだけに、その迫力はすごかった。
 が、鈴木は平気な顔で、
「いつも言ってるだろ。言葉は暴力にもなり得るんだから気をつけろって」
 さすが親友。鬼の室長の怒髪攻撃をものともしない。あの目つきで睨まれたら、上野なら竦み上がってしまう。
「でも、豊村もネガティブに受け取り過ぎだ。薪はおまえのことを第九の恥だなんて思ってないし、薪が周りの人間を軽蔑してるってのもおまえの思い込みだ。薪はそんなやつじゃないよ」
 鈴木は床に屈むと、豊村の顔に目の高さを合わせ、彼の顔を覗き込むようにして言った。薪に対する断定的な決め付け方とは、対照的だった。

 その態度に、上野は鈴木と薪の絆の強さを知る。
 このくらいで薪との友情は壊れない、そう信じているから取れる態度だ。確かにこの場を収めるには、薪に謝らせるのが一番いい。豊村だって、本気で第九を辞めたいと思っているわけではないのだ。室長が態度を改めてくれれば、これからも頑張れる。
「だから、薪が豊村に謝って、それでこの件はお終い。いいな?」
 問題は、あのプライドの高い室長が部下に頭を下げるかどうかだが。

「ほら、薪」
 鈴木は豊村にしたように、薪の顔を覗き込むと、ニコッと笑って彼を促した。いつも思うが、鈴木の笑顔は魅力的だ。彼の笑顔には、ひとをやさしい気持ちにする力がある。
 薪はしばらく鈴木の顔を睨みつけていたが、やがて諦めたように肩の力を抜いた。
「…………言い過ぎた。ごめんなさい」
 薪がそう言った途端、彼を除く3人は思わず噴き出した。
「な、なんで笑うんだ!? ちゃんと謝ったのにっ!!」
 膝に手を置き、ぺこりと頭を下げて、その所作にも驚いたが、もっとびっくりしたのは彼の言葉だ。おそらく周りの誰もが予測していた、大人が謝罪するときに使う「悪かった」というセリフを見事に裏切って、「ごめんなさい」ときた。普段の彼とのギャップに笑い出さないほうがおかしい。

「だって、子供じゃあるまいし。ゴメンナサイって、普通言うか?」
「仲間内で『申し訳ありませんでした』って言うのもおかしいだろ」
 笑いながら上司をからかう不届きな部下に、薪がその言葉を選んだ理由を告げる。彼には彼なりの考えがあったらしいが、やっぱり笑える。
 しかし豊村は、薪のその言葉で笑いを収め、向かいの席で少し頬を赤くしている薪をじっと見た。
「仲間……」
 口の中で薪の言った言葉を繰り返し、豊村は彼本来の明るい笑みを取り戻した。

「そうですよね、おれたち仲間ですよね」
「当たり前だろ。2年も一緒にやってて、今更なに言ってんだ」
 まだ笑い足りないのか、鈴木が呼吸を乱しながらも豊村に突っ込みを入れると、豊村は晴れ晴れと笑って、
「すみませんでした、室長。おれが間違ってました」
 かっこいいぞ、豊村、と上野は心の中で同僚にエールを送る。爽やかな、好感の持てる謝罪だ。少なくとも、謝り方だけは室長に勝ってるぞ。
「やっぱおれ、室長のこと尊敬します」
 もともと豊村は、室長に対する憧れが強かった。最近、何となく反発しているようだったが、これで反抗期も終了のようだ。

 薪は豊村の心境の変化についていけず、きょとんと眼を丸くしていたが、ニコニコと彼に笑いかけられて、自分も頬を緩めた。
「ありがとう、豊村。これからもよろしく頼む」
「はい!」
 豊村の元気な返事を耳に、上野は室長室を出た。

 ドアのすぐ近くに滝沢がいて、心配そうな眼で上野を見た。さっきは姿が見えないような気がしたが、それは自分の思い違いで、ずっと豊村のことを案じていたのだろう。
「大丈夫。鈴木さんが上手くまとめてくれた」
「……さすが」
 感嘆したように滝沢が言うのに、上野は大きく頷いて、
「あれだけ興奮してた2人を諌めて、簡単に仲直りさせちまうんだから。鈴木さんの仲裁能力はすごいよ」

 憂いが払われた顔で職務に戻った上野の後ろで、滝沢はそっと室長室のドアを細く開いた。中では鈴木の結納の話になっていて、3人がにこやかに笑い合っていた。
 滝沢の視線は豊村に注がれ、次いで薪に向けられた。それから残るひとりを注視すると、彼は口の中で低く呟いた。

「あいつ、邪魔だな」




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破壊のワルツ(5)

 メロディ4月号、読みました。
 青木さんが、とっても可哀想だと思いました。 
 お姉さん夫婦も、とっても可哀想だと思いました。
 青木さんのお母さんも、雪子さんも薪さんも、なんだかみんな可哀想になっていく。 
 ……秘密って、こんな話だっけ。

 とか言いながら、こんな話を書いてるわたし。(笑)


 それから9巻。
 …………あれっ!!?? 
 まさか、そんなところに修正が掛かるとは~~!!
 
 えー、でもそうしたらこの話、原作とのリンクが無くなっちゃうんですけど。 無謀に事件をでっち上げたみたいになっちゃうんですけど。(@@)
 だって~、9巻が発売される前に書いちゃったから……どうしよう、途中まで公開しちゃったし。
 すみません、二次創作ですのでね、気になさらないくださいねっ。(無敵の免罪符)
(コミックス派の方には、何が何だか分からない話ですね。 スルーしてくださいっ)


 広いお心でお願いしますっ!!
 


破壊のワルツ(5)





 記憶の中の彼女は、泣きながら手を振っている。
 笑っていたはずの彼女の顔が泣き顔になったのは、彼が古くからの友人に、2つの噂を聞いたのがきっかけだった。

「事故じゃなかった?」
 彼女の命を奪った飛行機事故の原因は、機体疲労によるエンジントラブルの可能性が高いと発表された。発見が遅れたのは、レーダーから機体が消失した地点と発見された場所に、常識では考えられないほどの隔たりがあったためと説明が付けられていた。

 そのときまで彼は、国交省の発表を疑いもしなかった。
 事故の原因など、どうでもよかった。
 もう彼女はこの世にいない。いくら詳しく事故の原因を知ったところで、彼女は戻らない。ならば、その行為に何の意味があるのか。
 自分が生きている意味すら分からなくなりそうだった彼には、事故の原因について聞くことも考えることも無意味に思えた。

「俺のダチが航空会社の社員でさ。航空会社には航空会社のネットワークがあって、問題の飛行機がどこの会社のものだか分かってたんだって。で、そいつが言うにはさ、確かにあの機体、疲労寿命は過ぎてたみたいだけど、そんなに簡単に壊れるものじゃないって」
 黙って強い酒を傾ける彼の横で、彼の恋人が死んだ飛行機事故について語る友人を、無神経だと責めることはできない。彼女との関係は、誰にも話していなかった。この記憶に新しい飛行機事故は、彼にしてみれば単なる酒の席の話題に過ぎなかった。

「機体の強度ってのは、疲労寿命の2倍の設定にするんだと。だから寿命は超えても機体はまだまだ元気で、実際バンバン飛ばしてるって。テレビで言ってる『機体疲労により隔壁が割れて作業油洩れを起こし、エンジントラブルにつながった』なんてことを起こす機体は寿命を2倍近く超えて飛んでる機体で、あの飛行機は、まだ寿命を100時間も超えてなかった。だから絶対におかしいって、会社の連中はみんな言ってるって」
 航空会社の友人から聞いた知識をひけらかすように、彼は喋り続けた。
「発見があんなに遅れたのも、普通はありえないって。いくらレーダーの消失地点と発見された島が100キロ以上も離れてたって言っても、この情報化時代に飛行機墜落の噂が伝わらないわけがない。だからさ」
 友人は、勿体つけるように言葉を区切り、彼の顔をじっと見て、機密事項でも話すようにこっそりと彼に耳打ちした。
「政府ぐるみで、事故を隠蔽したんじゃないかって」

 馬鹿馬鹿しいと思った。
 確かに、これだけ世間を騒がせた事故の詳細について、政府から発表された事項は不自然なくらい少なかった。たった一人の生存者の身元から辿って判明したはずの墜落機の便名やルート、航空会社の名前もすべて伏せられていた。
 だからと言って、隠蔽などと考えるほうがおかしい。百人以上もの人間が死んでいるのだ。隠しきれるわけがない。第一、事故を隠蔽することに何のメリットがある?

「なんで政府がそんなことをしなきゃならないんだ」
 彼が当たり前の疑問を口にすると、友人は身を乗り出し、「実は」とまたもや声を潜めて、
「あの飛行機には、テログループのリーダーが乗ってたんだ。そいつを抹殺するために、政府が乗客ごと飛行機を落としたんだよ」
「どこのスパイ映画だよ」
 突拍子もないオチに、彼は思わず失笑した。
 呆れた彼が、バーカウンターの椅子に背中をもたれさせると、友人は安心したように微笑んだ。
「お、ようやく笑ったな?」
 水割りのグラスを持って、自分も背もたれに寄りかかり、彼の顔を見ることなくぼそっとこぼした。
「おまえ、この頃元気なかったからさ。けっこう心配してたんだぜ」
 友人の少ない彼にとって、隣の男は大切な存在だった。多分、相手も同じだ。彼女と知り合う前、自分の一番大事な他人はこの友人だったことを、彼は思い出した。

「仕事のことでちょっとな。こないだから上司に、あんまり気の進まない部署への異動を打診されてるんだ」
 彼は、尤もらしい、でもたしかに彼の心を塞ぐ要因のひとつになっていた異動話を口にして、友人をミスリードする。彼女のことは、結婚が決まったら話そうと思っていたのだ。彼女が死んだ今になって打ち明け話をしても、友人を困らせるだけだ。
「仕事の選り好みなんておまえらしくないな。異動先はどこだ?」
「科警研」
「なるほどな。現場主義のおまえには物足りないってわけか。で、科警研の何処?」
「覗き部屋」
「げっ。第九かよ」
 第九の名前が出た途端、友人は盛大に顔をしかめた。2人とも、第九には反感を持っている。あれは真っ当な捜査ではない。死人の脳を見るなんて、正気の沙汰じゃないと言うか反則と言うか。少なくとも良識のある警察官なら、好き好んで就きたがる職務ではなかった。
「っちゃー。それは何て言ったらいいか……ご愁傷さま」
「拝むな、バカ」
 彼は笑いながら、グラスを空にした。たん、とカウンターに置いて、左手で頬杖をつく。

 彼にはもうひとつ、どうしても異動を拒みたい理由があった。
 この異動話を持ってきたのは彼の上司だったが、発生元はもっと上、それも警察庁№2という大物だった。
 何でも次長は、政敵である官房長が青写真を引いた第九の中に、自分の手駒を投入したいと思っているらしく、自分の忠実な僕である刑事局3課の課長、その部下である彼に白羽の矢が立ったというわけだ。
 仕事内容もさることながら、第九に行けば研究室の様子を逐一報告させられる。おそらく次長は、第九が官房長の名誉を上げることを快く思っていないから、妨害工作まがいのことも強要されるかもしれない。
 そんな、刑事の仕事から逸脱した真似はしたくない。

「行きたくねえなあ。警察辞めて、田舎に帰ろうかな」
「またまた、思ってもないくせに。物ごころ付いたころから俺たち、警官になろうって決めてただろ。俺たちの中には警官の血が流れてるんだよ。俺もおまえも、生まれたときから刑事で、死ぬまで刑事だ」
「どっかのドラマで言ってたな、そのセリフ」
 現職の警察官のクセに、嘘っぱちばかりの刑事ドラマが大好きな友人は、彼の突っ込みに憤慨してムッと唇を尖らせた。
「可愛くないね、おまえは。素直に感動しとけよ」
 彼は肩を揺すってくすくす笑い、心の中で友人に感謝した。彼女を亡くしてからの3ヶ月、こんな風に笑えたことなどなかった。まだ笑い方を覚えていたのだ、教えてくれてありがとう、と礼を言いたかった。

「そうだ。田舎に帰るって言えばさ」
 友人はポンと手を叩き、思い出したように話題を変えた。
「うちの部署が公安の下請みたいなことしてるの、知ってるだろ? でさ、公安に木梨って言う同期のやつがいたじゃん。ちょっと時代錯誤なヤツ」
「『命捨てます』の木梨か」
 そうそう、と友人が頷くのを見ながら、木梨という男の顔を思い出す。
 角刈りのいかつい、職務に人生のすべてを捧げている男だった。日本の平和を守るためなら命を投げ出す覚悟があると、公言して憚らない男だった。要するに、変わり者だ。

「あいつ、退職して田舎に帰ったんだって。で、いまは実家の八百屋手伝ってるんだって」
「……客は引くだろうな」
「うん。30m以内に、だーれも近寄ってこないってさ」
 友人のきつい冗談にニヤリと笑って、彼はバーテンに酒のお代わりを注文した。3杯目はストレートは止めて水割りにした。明日の仕事に差し支えては、と思った彼は、そんな自分に少し驚く。
 明日の仕事のことなど、考えたのは久しぶりだ。彼女がいなくなってから、朝が来なければいいと思いながら眠りについていたのだ。

「意外だよなあ。あいつ、絶対に公安に骨埋めると思ってたのに。よっぽど嫌なことあったのかな」
「第九への異動命令とか?」
「それだ、間違いない」
 友人のおかげで軽くなっていく心を、どこか後ろめたく感じながら、彼は最後の水割りを飲み干した。

「今度、からかいに行ってみるか。あいつの実家、どこだっけ?」
「茨城の田舎だって言ってたな。霞ヶ浦の近く」






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破壊のワルツ(6)

 こんにちは~。

 原作の鈴木さんは、瞳も髪も茶色だと思います。
 でも、うちは見た目が青木くんにそっくりで、だからこうなって、という話をいくつも書いちゃってるので、鈴木さんの髪と瞳は真っ黒ということで。 
 ご了承ください。





破壊のワルツ(6)






「素直に謝って、いい子でした」
「……殴るぞ」
 頭の上にポンと置かれた大きな手をわざと邪険に払いのけて、薪はむうっと膨れた。
 眼にありったけの怒りを込めて睨んでやるのに、鈴木はニコニコと笑ったまま。眼力の強さは自他共に認めるところなのに、鈴木にだけはちっとも効かない。だけどそれが、何故か嬉しい。

 薪は苦笑して、親友を見上げる。そこで出会うのは、どんなときも薪の気持ちを和やかにしてくれる彼の黒い瞳。感じるのは、喜びとほんの少しの切なさ。
 鈴木に心を読み取られないように、薪は横を向いてキーボードを叩き始めた。

「まあ、こういうことは鈴木の言う通りにしてれば間違いないから」
 薪は、自分が人から好まれない性格だと知っている。子供の頃からソツが無さ過ぎて可愛げがないと言われ続けてきた。学生の頃には同期の友人ができたが、それも卒業と同時に消えてしまうような希薄なものだった。
 そんな薪にとって、鈴木は初めてできた親友だった。
 ずっと自分の傍にいて欲しいと願い、そんなことが叶わないのは百も承知の上でなお願う。叶わないから終わらせることもできない、永遠の希求。

 鈴木は手近の椅子を引き寄せて、執務机の前に座った。長い足をスマートに組み、山になっている報告書の一番上のファイルに手を伸ばす。
「やけにしおらしいじゃん。さすがに豊村とケンカして凹んだか」
「凹んでなんかいない。この頃なんとなくギクシャクしてたから、逆に膿が出せて良かったと思う」
 報告書の見直しを手伝ってくれる鈴木に、薪はためらいがちに言葉を継いだ。豊村との諍いを経て薪は、ずっと前から思っていたことを彼に話すときが来たと感じていた。

「鈴木。僕、気になってることがあるんだけど」
 うん、と鈴木は報告書を読みながら、軽く頷いて薪に話の続きを促した。薪もタイプを打ちながら、それに応じる。
「豊村が反抗的になったのって、滝沢が来てからじゃないか?」

 鈴木が報告書から目を離し、顔を上げたのが視界の隅に映った。数箇所に付箋を付けた書類を机の上に置いて、彼は組んでいた足を解き、きちんと踵を床につけた。
「あいつ、もしかして豊村のこと焚きつけてるんじゃ」
「薪」
 親友の言葉を遮り、両膝に手を置き、こちらに身を乗り出してくる。薪の横顔をじっと見据えて、
「証拠も無いのに人を疑うのは良くない」
 ……言うと思った。

「滝沢は同じ研究室の仲間、オレたちの味方だ。信じ合えなかったら、一緒に仕事なんかできない」
 鈴木は昔、弁護士志望だっただけあって、本当に悪い人間なんかこの世にいないと思っている。彼の人間関係は、まず相手を信じるところから始まる。自分が相手を信じれば、相手も自分を信用してくれるようになる。薪とは正反対の考え方だ。
 刑事という職業がそうさせるのか、生まれ持った卑しさなのか、薪は他人を完全には信じきれない。いつ裏切るか分からない、自分に牙を向いてくるかもしれない、と考えてしまう。特に、海千山千の課長たちを相手にしているときは、雑談中でも気を抜くことができない。さすがに自分の部下たちにはそこまでの警戒心はないが、それでも幾ばくかの不信は残っている。それがこんなふうに、時折芽を吹くのだ。

 薪が無条件で信じられるのは、鈴木だけ。彼だけは、絶対に自分を裏切らない。

「まあ、今度の休日出勤、いい機会じゃないか。滝沢とも交流を図ってみろよ」
 鈴木がそう言うなら、努力してみようと薪は即座に思う。
 鈴木の意向には滑稽なくらい従順な自分を発見して、悔しいようなうれしいような、不思議な感覚に捕われる。
「ちゃんと話してみろよ。そんなに嫌なやつじゃないから」
「でも、滝沢ってちょっと苦手なんだよな。やたらと触ってくるし。肩とか手とか」

 馴れ馴れしく触れられるのも嫌だが、もっと嫌なのは自分を見る滝沢の目だ。
 ふと気がつくと、滝沢はいつも自分を見ている。彼が自分を見る目は、鈴木や他の部下たちのものとは最初から違っていた。
 心の中まで見透かしてやると言わんばかりの執拗な目つき。指の動き、足の運びからでも相手の心を読んでしまいそうなその鋭さは、なるほど現場の経験を積んだ捜査官ならではのものだったが、捜一で見慣れた眼とはまた種類が違っていた。湿気があるというかジメッとしているというか、まるで冷血動物みたいだ。
 滝沢の視線からは敵意さえ感じられるのに、薪に接するときの態度はフランクで、彼は矛盾だらけだ。薪には彼の気持ちが、今ひとつよく分からなかった。

「さわられるの、嫌なのか?」
「当たり前だろ。男の手なんかゾッとする」
 何気なく言ってしまってから、薪はふと気付いて鈴木の方をちらりと見る。危惧したとおり、彼はついさっき薪の頭を撫でて、邪険に払われた自分の手のひらを深刻な表情で見つめていた。

「……鈴木はトクベツ」
 照れ臭くって、とても彼の顔なんか見られないけれど、本気の嫌悪と受け取られて触れてくれなくなるのはもっと耐え難いから、薪は正直に告白する。
 微笑むわけでもなく頬を赤らめるわけでもない薪の横顔に、鈴木は彼の精一杯の強がりと本音を見つけ、ひょいと椅子から立ち上がった。もう一度彼の頭に手を伸ばして、亜麻色の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。

「そーかそーか、薪くんはオレにナデナデしてもらうと嬉しいか」
「ばっ、バカ鈴木っ!!」
 今度こそ薪は、真っ赤になって鈴木の手を振り払った。椅子ごと後ろに下がり、相手を威嚇するように腕を組む。
「鈴木克洋警視、夏のボーナス査定マイナス3。上司への態度悪すぎ」
「げっ、それだけはカンベンしてくれ。結婚式とか、いろいろ金かかるんだよ」
 鈴木が焦ってボーナスの目減りを防ごうとするのに、薪は穏やかに微笑んだ。再び横を向いて書類の作成に戻りつつ、「冗談だよ」と画面に向かって言った。

「式の打合せとか準備とか、これからも何かとあるんだろ。なるべく前もって言ってくれよな。シフト組み直すの面倒だから」
 うん、と頷いて、鈴木も仕事に戻る。見直し途中だった報告書を手に取り、付箋を付けた箇所から先を読み始めた。
「今回のことだって、鈴木がもっと早く婚約のことをオープンにしてたら、起きなくていい騒動だったんだぞ。日取りが決まったとき、僕がミーティングで発表してやるって言ったのに、おまえが嫌がるから」
「だって、恥ずかしいじゃん」
「女子高生か、おまえは」
 薪の気色悪い例えに、ふたりともしばし沈黙して、反射的に脳裏を過ぎった鈴木のセーラー服姿を慌てて頭の中から消去する。親友も長くやっていると、思考経路が似てくるものだ。

「結婚式ならともかく、結納はみんなに言わないのが普通だろ」
 1件目を終え、次の報告書を抜き取って、鈴木はペンを走らせる。『犯行の動機が弱い』と余白に書き込み、再調査の箱に入れた。
「滝沢には話しといたんだけどな。週末のメンテの相棒、変更になるって言ったとき」
 3件目の報告書に付箋を付ける手を止めて、鈴木は言った。
「てっきり、伝わってるかと思ってた」
 一瞬、滝沢は鈴木の立場を悪くするためにわざとそれを豊村たちに告げなかったのかと薪は思ったが、そのさもしい考えは鈴木の高尚な精神に打ち消された。
 さっき鈴木に言われたばかりじゃないか。滝沢は味方だ。

「プライベイトのことだからと思って、遠慮したのかな」
 薪は滝沢の奥床しさを前面に出して、そんな理由をつけた。やろうと思えば好意的な解釈だってできるのだ。考え付くのに、皮肉の3倍くらい時間はかかるが。
「だな。オレが言わないことを自分が言っちゃいけないと思ったのかもしれない。あいつ、あんな顔してけっこう気使うから」
「そうだな」
 もっともらしく頷きながら、薪はちっとも同意できていない自分にがっかりする。持って生まれた性質は、そう簡単には直らないものだ。

 滝沢を仲間として心から信じることができる、鈴木の美しい精神に憧れる。彼と一緒にいることで、自分もその高みに近付けるような気がする。
 例え鈴木が結婚しても。パパになっても。
 自分たちの関係は変わらないと、薪は固く信じていた。





テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

破壊のワルツ(7)

 こんにちは。
 今日はちょっとだけ、身内のバカ話をしてもいいですか? (興味のない方はスルーでお願いします)

 うちのオットって、本当にバカなんですよ。
 昨日の夜、わたしが4月号の表紙を見てニヤついておりましたら、
「さっきからずーっと見てるけど、そんなにその人がいいの?」
 と訊かれましたので、
「顔も身体もポーズも最高。 目の前にいたら襲う」
 と、正直に答えましたら。

 彼はおもむろにベッドに横たわり、
 薪さんと同じポーズを……  眩暈がしました。


 でもですね、
 オットは薪さんほど足が長くないので、 膝頭が二の腕に届かない のですよ。
 で、一生懸命に左膝を右腕に近付けようと足を上げて、そうすると自然に下の方が引っ張られて、結果、ズボンのお尻がぱっつんぱっつんに。
 大爆笑でございました。
 

 笑い転げるわたしに、オットいわく、
「その人だって、見えないところではこうなってるよ」
 …………。

 やっぱりあれは、薪さんご自身の左膝じゃなくて、ジャケットもしくは青木さんの(←限定) 足だったのでしょうか?
 みなさん、どう思われます?





破壊のワルツ(7)






『おかしいんだ、滝沢』

 受話器から流れる友人の声を聞いたとき、彼は友人が執務時間に電話してきたことに、まず驚いた。
 彼は自分が現在、MRIシステム習得のための研修中であることを知っている。だから、電話は必ず昼休みか定時過ぎ、どうしても話したいときにはメールに『電話をくれ』とメッセージを残していたのに。
 余程のことがあったのだと思った。自分が研修機関に缶詰になっていることを忘れるくらい衝撃的な何かがあって、それで矢も盾もたまらず電話をしてきた。
 彼は大きな事件を予感し、研修室から廊下に出て、そのまま歩いて庁舎の外に出た。

『出張で茨城に来たから、ついでだと思って木梨の実家に寄ったんだ』
「おう。木梨、元気だったか?」
 予想と違う答えに、彼は少々肩透かしを食いながらも応えを返した。
 てっきり大きなヤマをつかんだのだと思ったのに、さほど付き合いも無かった旧友に会いに行っていただけとは。しかも、それを仕事中にわざわざ電話で知らせてくるなんて。

『木梨はいなかった』
 せっかく会いに行ったのに、顔を見られなかったのが不満だったのか。それでわざわざ電話?
「そうか、残念だったな。また機会があるだろう」
 まあいいか、と彼は肩の力を抜き、中庭のベンチに腰を下ろした。

 2月に第九に異動になって半年、彼に義務付けられた研修のうちの講義部門はとっくに終了した。あとはMRI捜査の模擬訓練だけなのだが、これがどうにも憂鬱だ。システムの操作はやたらと難しいし、もともと部屋に閉じこもって作業するのは不得手なのだ。
 それに、この訓練で及第点を取ったら、第九に行かなくてはいけない。いつまでも引き伸ばせるとは思わないが、なるべく遅いほうがいい。研修室を抜けられるなら、どんなつまらない用事でも大歓迎だ。
 昔のように、職務に身を投じる気持ちは彼にはない。彼女を失った痛手は、彼の人生のすべてを虚しい色に塗り替えた。眼に映るものすべてが薄い灰色に見える、そんな日常を彼は送っていたのだ。

『ご両親は、木梨はまだ警察に勤めてるって思ってる。でも、木梨は確かに退職している。おまえも見ただろ?』
 友人に言われて、彼は友人と2人で人事課のデータベースで木梨のことを調べたことを思い出した。木梨の名前は退職者リストに載っていて、データはすでに抹消済みだった。仕方なく、実家の住所は大学の同期生名簿で調べたのだ。
「警察辞めたことを言い辛くて、実家に帰ってないとか」
『でも、ヘンなんだ。ご両親のところに、木梨から毎月手紙が届いてるんだ。警察で元気に仕事をしてるって』
「だからそれは、木梨が書いて」
『消印が、警視庁内の郵便局なんだ』
 その言葉に、彼の頭脳の一部分がピクリと反応した。刑事という生き物は、嘘に敏感だ。それは捜査官の本能であり、友人の言葉を借りれば刑事の血というやつだ。

『おかしいだろ。百歩譲って木梨が毎月警視庁に手紙を持ってきてるとしても、退職してから7,8通は届いてる。だったら噂になってもいいはずだ。あの有名人に、誰も気付かないなんて不自然だ』
「誰かに頼んでるとか」
『あいつにそんな友人がいたか? てか、そこまでして隠すか、普通』
 木梨の行動の不自然さは、彼も認めていた。しかし、ひとには事情と言うものがある。どうしてそこまでして自分の両親に退職の事実を隠さなければいけないのかは分からないが、木梨にも考えがあってのことだろうと彼は思った。

『それと、手紙を見せてもらったんだけど。ワープロ打ちなんだ』
 またもや彼の中の血が、ぴくぴくとざわめく。
 両親宛の手紙をワープロ打ちで?業務連絡ではあるまいし、親しい人への手紙をワープロで打つなんて、どちらかというと右翼的な考えを持つ彼が、そんな真似をするだろうか。
『そうなんだ、以前の手紙は全部手書きだった。それが、退職を境に活字に変わった。文面も何だか素っ気無くなったし』
 彼は直ぐに手紙の変化を説明できる理由を2,3考えて、(例えば利き手に怪我をしているとか)しかしどれもしっくりせず、友人の言葉を待った。
『実は、ご両親もおかしいって薄々思ってて、それで俺に手紙を見せてくれたんだ。それでさ』
 友人は言葉を切り、しばしの間沈黙した。彼が辛抱強く待っていると、やがて友人のためらうような声が聞こえてきた。

『息子は本当に生きてるんですか、って聞かれた』

 彼はハッと息を呑んだ。
 図らずもそれは、彼が一番に思いつき、飛躍しすぎだと即座に打ち消した疑惑だった。

 肉親の勘というのはバカにできない。長い間刑事をやっていると、いくら探しても見つからなかった死体の在り処を被害者の母親が夢に見て、などとオカルトのような事件にも遭遇したりする。それは極端な例だが、行方不明になった子供がいたとして、その親、特に母親たちが、自分の子供の生死をかなりの確率で予見することも事実だ。
『なあ、滝沢。もしかしてさ、木梨って本当は死んでて、それを何らかの理由で公安が隠してるんじゃ』
「まさか。死んだ理由を隠すのはよくあることだけど、死んだこと自体を隠すことは無いだろう」
 公安の中でもスパイ活動を行なっている職員が殉職した場合は、家族にも本当の死因は教えない。彼らの本当の職務は家族にも秘密だからだ。だから、銃で撃たれたとしてもその銃創を隠し、偽の死亡診断書を付け、交通事故で死んだことにする。それでも、遺族に遺体を返さないなんてことはしない。
 だいたい、木梨はスパイではない。本当のスパイは、毎日公安に出勤してこない。殆どが一般の企業に勤めて、偽りの名前と履歴書の下で職務を遂行しているのだ。

『だから余計に気になってさ。俺、ちょっと調べてみようと思うんだ』
「まあ聞けよ、西野。俺の推理はこうだ。木梨は何か、とてつもない失敗をやらかして、警察を免職になったんだ。それで両親に顔向けできなくて、実家にも戻れず、手紙で嘘を吐き続けている。手紙が機械打ちになったのは、大失敗のときに右手に怪我をしてだな」
 彼はこの、事件と呼ぶにはまだあまりにも些細な出来事の裏側にきな臭い匂いを感じ取って、友人の勇み足を止めるべく、思いつきの推理を喋った。その饒舌さは、普段口数が少ない彼が、どれ程の不安に駆られていたのかを物語るものだった。

『失敗って、例えばどんな』
「そうだなあ。組対5課の課長補佐の奥さんに手を出したとか」
『で、小指どころか手首ごと詰められたってか?』
 組対5課の課長補佐は脇田といって、コワモテの刑事が多い5課の中でも特に怖い顔をしている。何処からどう見てもヤの付く職業にしか見えない。

『とにかく、あいつがどうして警察を辞めたのか、調べてみるよ。あんなヤツでも一応は同期だろ。万が一、ご両親が心配してるようなことになってたら、骨だけでも届けてやりたいじゃないか』
 やさしくて面倒見の良い友人らしい言葉に、彼は苦笑した。
 ああ見えて、彼は頑固だ。自分が止めておけと忠告したくらいで、考え直すとも思えない。何よりも、彼は生まれたときからの刑事。真実の追究は、血の為せる業だ。

「慎重にやれよ。公安は秘密主義だからな。つつかれて良い顔はしないぞ」
『分かってる。まあ、おまえの言うとおり、何処かに女とシケ込んでるっていうオチかもしれない。そしたら二人で冷やかしに行ってやろうぜ』
 ああ、と笑って、彼は電話を切った。

 彼の友人が死体で発見されたのは、それから2週間後のことだった。




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破壊のワルツ(8)

破壊のワルツ(8)





 モニターに流れる膨大な英数字を眺めていた薪の前に、大きな人影が差した。気付いて、右手の机に積まれたファイルを取る。
「早いな、滝沢」
 部下の仕事をさりげなく褒めてやって、薪はファイルを広げ、中身をざっと確かめた。

 土曜日の休日出勤は新人の滝沢と2人きりで、始めは少し気が重かった。言葉にできるほど明確な理由があるわけでもないのだが、何となく彼のことは苦手だった。
 やたらと身体に触れてくるのも嫌だった。だからもし、彼が今日もそうしてくるようだったら、スキンシップは嫌いだから触らないで欲しい、とハッキリ言うつもりでいたのだが、2人きりになったら逆に遠ざかって、必要なとき以外は近付いてもこなかった。

「次はこれを頼む」
 ファイルを差し出して相手の顔を見ると、いつも新人とは思えないくらい落ち着いている滝沢の顔が、心なしか青い。トラブルの予感がして、薪は眉根を寄せた。
「どうした?」
「すみません、室長。データを破損してしまいました」
 うなだれて報告する滝沢に、薪は心のどこかでホッとしている自分に気付く。滝沢の業務習得能力は、これまでに薪が指導に当たった部下の誰よりも優れていた。捜査官としての能力も十二分にあった彼は、実際の捜査において第九の先輩たちを牛蒡抜きにし、結果1人の職員が本人の希望で辞めていった。
 出来過ぎの新人。良い人材を手に入れたと鈴木は単純に喜んでいたが、薪は鋭すぎる滝沢の仕事振りに、薄ら寒いものを感じていた。
 そんな彼でも、ミスはするのだ。ミスをしたことを気にしてか、普段は使わない敬語を使ったりして、かわいいところもあるじゃないか。

「どれ。見せてみろ」
 滝沢のモニターを見ると、画面に映っている報告書の写真の部分が黒く染まっていた。データを写そうとしている途中で、バグが起こったらしい。それに気付かず、元データの方を消去してしまった。これはもう、当該事件の報告書ファイルからスキャンして貼り付けるしかない。
「事件の日付は7ヶ月前か。千葉まで行くしかないな」
 当初、科学警察研究所が建てられていた場所は、現在では書類庫になっている。報告書等、紙ベースの書類は3ヶ月単位でそこに送られ、係員によって整理保管される。

「申し訳ない。月曜日、書類庫に行ってファイルを探してくる」
「書類庫の鍵なら僕が持ってる。これから行って、取ってくる。おまえは次のデータを」
「俺のミスだ。俺が行く」
 凄むような口振りに、薪は思わず怯んだ。
 現場に出ていた刑事なら、それ相応の怖さを身につけていて当たり前だが、滝沢のは捜一の先輩たちとは種類が違うような気がした。犯人を威嚇するための単純な怖さではなく、底の見えない闇のような恐ろしさを含んだ凄みだった。

「鍵を」
 ぬっと突き出された手に、びくりと身体が震えるのを理性で押し留める。自分は室長だ。部下に舐められてはいけない。

「悪いが滝沢。鍵は室長以外が使ってはいけないことになっている。どうしてもと言うなら、一緒に来い」
 椅子に座った滝沢を上から睨みつけるようにして、薪は彼の申し出を拒絶した。二人の間の空気は瞬く間に険悪なものになり、重い沈黙がモニタールームを包んだ。

「わかった」
 緊迫した空気を破って、滝沢が折れた。
 簡単に机の上を整理して、出かける用意をする。第九が無人になることを考えて、一旦は書類を保管庫にしまい、セキュリティも掛けて行くことにした。

 外に出ると、むっと暑かった。
 5月も、あと3日ほどで終わる。梅雨入り前のこの時期は、異常に暑かったり寒かったりで、気候が安定しない。
 滝沢が運転する車の後部座席で、薪は黙って外を見ていた。車窓に流れる風景は既に夏のそれで、道行く人々は揃って半袖を着ていた。国際会議で何度話し合っても、温暖化は進む一方だ。昨夜も暑かった。5月にクーラーがないと眠れないなんて、2062年に地球が終わるという伝説は本当じゃないかと疑いたくなる。

 薪、と呼びかけられて、前方に視線を戻した。運転席の滝沢の顔が見えるわけではないが、話かけられればそちらを見るのが普通だ。
「もしも、これが鈴木なら。鍵を渡したか?」
 先刻のモニタールームの一件を蒸し返されて、薪はいたく気分を害する。滝沢の粘り強い性格は捜査のときは長所だが、それ以外ではただの粘着気質だ。
「意味の無い仮定だ。考える気にもならない」
 すげなく滝沢の質問を切り捨てると、薪は再び窓の外に視線を移した。じりじりと焼けるアスファルトに陽炎が立っている。今夜も暑くなりそうだ。

「きちんと回答しないなら、渡すと解釈するが」
 自分が終わらせたつもりの会話を続けようとする滝沢に、薪は腹立ちを感じる。
 滝沢の質問の意図はよく解らないが、あまり良い印象は受けない。鈴木のことだけは特別扱いをするのだろう、と尋ねられているとしか思えない。
「もしも鈴木なら、こんなミスはしない。ちゃんとバックアップ後のデータを確認してから元データの消去を行う。だから、鍵が必要な状況にはならない。これでいいか?」
 薪が厳しい口調で言うと、滝沢は無言になった。薪から見えるのは、きれいに撫で付けられた彼の後頭部の一部分だけだったが、何故か異様に腹が立った。自分の胸のうちを見透かされて嘲笑われている、そんな気がした。

「この時間だと、今日は書類を取ってくるだけで精一杯だな」
 わざとらしく腕時計を確認して、薪はこれからの予定を告げた。滝沢がルームミラーでこちらの様子を伺っていることは先刻承知だ。だからずっと外を見ていたのだ。
「ファイルを見つけたら、僕は千葉から直帰する。電車で帰るから送らなくていい。おまえは書類を第九まで持って行け。キャビネットに保管したら帰っていい。残りは明日だ」
 不愉快だ。帰りは一緒の車で帰りたくない。

 つまらない感情で発した一言が、この後自分に降りかかる災厄の種になろうとは、その時の薪には想像もつかなかった。



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破壊のワルツ(9)

破壊のワルツ(9)





 公休日の書類庫は無人で、警備システムだけが黙々と仕事をしていた。入口にあるカードリーダーにIDを通し、建物の中に入ると、薪は滝沢の先に立って歩き始めた。
 空調の止まった建物は、蒸れた空気に包まれていた。二人は上着を脱ぎ、片手に持って廊下を歩いた。暑くて不快だが、書類を見つけるまでの我慢だ。冷房が建物全体に回る頃には、こちらは帰りの電車の中だ。

 建物の中に部屋はいくつもあるが、第九が保管庫として使っているのは地下の一室だ。元々、研究所の重要書類や現金を保管しておくための金庫だったところらしい。
 重犯罪の調書はそのすべてが署外に流失してはならないものだが、中でも第九の書類は特秘扱いだ。常にプライバシー問題を抱えるこの研究室から発祥したものは、メモ一枚でも世間に洩れてはならない。鉄壁の防御力を持ったこの部屋が第九に割り当てられたのは、当然の配慮と言えた。

「けっこう歩くんだな」
 2歩後ろを歩きながら、滝沢が独り言のように言った。
「薪に一緒に来てもらってよかった。俺一人では、迷ったかもしれん」
 滝沢は、この建物は初めてだ。月曜日で管理人が出勤していれば案内を請うこともできたかもしれないが、今日は休日。彼ひとりでは、どの部屋が目当ての部屋かも分からなかっただろう。

「迷路の類は苦手でな。昔、巨大迷路とか言うのが流行っただろう? 行ったことあるか?」
「ああ」
 そのアトラクションは知っている。薪も、鈴木と雪子と3人で遊びに行ったことがある。お喋りをしながら先の見えない通路をそぞろ歩き、行き止まりに当たったり元の場所に戻ってしまったり、みんなで迷子になる感覚を味わうのは大人でも楽しい。

「俺はいつもびりっけつだった。よく連れに怒られたよ」
「そうなのか?」
 エントリーすると、他の客とタイムを競うゲームができる。
 薪たちの作戦はこうだ。
 背の高い鈴木が角の櫓に登って指示を出し、薪が道を完璧に暗記してから鈴木を迎えに櫓まで走る。雪子は最終兵器で、タイムオーバーになりそうなときに壁をぶち破る係だった。もちろん、最終兵器を発動した時点で薪たちの失格は確定するわけだが、それがルールを知った上での冗談だったのか、遊びの常識に疎い薪が本気で提案したのかは、彼ら3人だけの秘密だ。

「おまえが迷子とはね」
 滝沢の昔話に、薪は少しだけ頬を緩める。
 友人と一緒にアトラクションを楽しむ、そんな時代がこの男にもあったのだ。若い頃の滝沢を想像して、その彼が行き止まりの壁に当たって焦っている様子を思い浮かべる。が、どうしても滝沢の幼い姿が上手くイメージできず、無理にその作業を進めた結果、薪の脳内には滝沢が蝶ネクタイに半ズボンの七五三セットを着こなしている姿が。

「ぶふっ! ゴホッ、ゴホッ!!」
「……おまえ、とんでもないものを想像してるだろう」
 今だけは自分の豊かな想像力を恨み、必死で頭の中の画像を打ち消すと、薪はゴホンと咳払いをして気持ちを切り替えた。

「おまえにも、子供の頃があったんだな」
「当然だ。まあ、巨大迷路はガキの頃に行ったわけじゃないんだが」
「まさかと思うが、彼女とか?」
「まあな」
「おまえ、彼女いるのか!?」
 こともなげに答えられて、薪は軽いパニックに陥る。この自分が10年以上も男女交際から遠ざかっているのに、どうしてコイツが!?
 現在の薪には、女の子の友だちと言えば大学からの友人の雪子くらい。でも彼女は親友の恋人で、そういう対象にはなり得ない。捜一時代に仲良くなったキャバクラの女の子たちとは疎遠になってしまったし、歌舞伎町のお風呂屋さんのヒトミちゃんとはもっとご無沙汰だ。
 
 あれだけの数のラブレターが舞い込むのに、どうして直接アタックしてくる娘がいないのか周りの人間には不思議がられるのだが、どうも自分は観賞用にされているらしい。薪が受け取るラブレターには、
「あなたの美しさに魅せられています」(美しさってなんだ、僕は男だ)
「遠くから、いつも見つめています」(それはストーカー行為だ、すぐにやめなさい)
「鈴木さんとお幸せに」(……???)
 と言った意味合いの事が書かれていて、「付き合ってください」という言葉は紙面の何処にもない事が多い。果たしてあれをラブレターと呼んでいいものかどうか。

「胸は何カップだ? 美人か? 何処で知り合った?」
「薪……その質問の順序はどうかと思うぞ、人として」
 そう言えば、昔鈴木にも忠告された気がする。女の子と付き合いたかったら、まず相手の顔より先に胸を見るクセを直さないと無理だとか何とか、ええい、余計なお世話だっ!

「結婚するのか?」
「死んだよ」
 薪は思わず立ち止まった。亜麻色の瞳を小さく引き絞って、滝沢の顔を凝視する。
「飛行機事故でな」
 咄嗟には言葉が出てこなかった。失言を悔やむ気持ちと、大切な人を亡くした男への憐憫が、薪の口を重くした。

「なんて顔をしてるんだ。おまえの恋人じゃないぞ?」
 滝沢は、いつもの尊大な態度と平気な口調を崩さないでくれた。それに感謝して、薪は軽く頭を下げた。
「悪かった。嫌なことを聞いて」
 薪の謝罪に、滝沢は無表情で答えた。
「Fカップだった」
「……うらやましい限りだ」
 ズレた会話を真面目な顔で交わしながら、鈴木が言ったことは正しかったかもしれない、と薪は思った。
 ちゃんと話せば、そんなに嫌なやつじゃない。

 それからは黙って目的の場所へ向かったが、車中のような気まずい雰囲気は生まれなかった。
 帰りは一緒の車で第九へ帰ってもいい、と薪は思い直し、それをどのタイミングで切り出すべきか迷っていた。

 やがてふたりは地下倉庫に着き、扉の前に並んで立った。
 銀行の大型金庫のような重厚な扉に、ダイヤル錠がついている。その扉の向こうには格子に組まれた鉄の扉があり、その鍵は薪が持っている。
 4つの数字と回転数を暗記している薪がダイヤルを回し、重い扉を開いた。上着の内ポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込み、格子扉を押し開く。
 重い扉を開けると、むっとするような熱い空気が漂ってきた。
 廊下側にあるスイッチを押し、照明を点ける。地下なので窓は無い。閉め切るとこの部屋は、鼻をつままれても分からないくらいの暗闇に包まれる。
 部屋の中にはたくさんの段ボール箱が整然と並んでいた。天井まで届きそうな整理棚は30近くもあり、その半分が埋まっている状態だった。

「7ヶ月前というと、この辺りだと思うが」
 整理棚の間をぐんぐん進み、薪は棚の一角を指差した。箱に、年月と事件名が書いてある。
「ほら、あれだ。脚立が必要だな」
 部屋の奥まで歩いて、壁に立て掛けられていた便利な道具を持って来る。背の低い薪には必需品とも言えるアイテムだ。
「滝沢。上から2段目の、左から5つ目の箱だ」
 滝沢が脚立に登り、逞しい腕で箱を下した。箱の中をざっと見て、薪は目的のファイルを取り出す。同じ箱に入っていたCDを見つけ、薪はこの事件を担当したのが自分の親友だったことを思い出す。
 さすが鈴木。万が一のデータ破損に備えて、予備CDまで用意していたのか。

 誇らしげな気分になって、薪はファイルとCDを手元に残し、箱の蓋を閉じた。
 月曜日、鈴木に会ったら『CDを残しておいてくれて助かった』と礼を言おう。事件の記録を保存するなら、印刷物をスキャンするよりデータの方が良いに決まっている。細部を拡大して見る事が可能だからだ。
 薪は滝沢にファイルとCDを渡し、自分は手ぶらで廊下に出た。部屋の中よりは廊下の方が、空気の動きがある分だけ涼しかった。

「滝沢。行くぞ」
 部屋の中に向かって声を掛け、薪は首を傾げる。
 箱を元の位置に戻し、脚立を片付けて、やることはそれだけのはずなのに、滝沢はなかなか部屋から出てこなかった。いったい中で何をしているのだろう。
「滝沢?」
 蒸し暑い室内に再び足を踏み入れ、薪は部下の姿を探した。先刻の棚を通り過ぎ、2列ほど奥に彼の姿を見つける。

 滝沢は熱心に、箱の外側に書かれた事件名を見ていた。
 そういえば、滝沢は研究室でも自分が入る前に起きた事件のデータを、時間外に見直していた。早く職務に慣れるための自己学習だと言っていたが、資料も見てみたいと考えているのだろうか。
「滝沢。研究熱心なのは認めるが、それは時間に余裕があるとき、いや、せめて空調が動いているときにしてくれ」
 薪が話しかけても、滝沢はこちらを見もしなかった。血走った眼で、一列に並んだ箱を凝視していた。

「あの事件の資料はどこだ?」
 ぞっとするような低い声が響いて、薪は背筋を粟立てた。さっきまでは「話してみるとけっこういいやつ」だった滝沢の心象が、一転して危険を孕む。モニタールームで味わった底知れぬ闇に呑まれそうな感覚がまたもや薪を襲い、薪は全神経を緊張させてそれに耐えた。
「あの事件?」
 彼が見ているのは、2057年の後期、つまり2057年10月から2058年3月までの事件資料が置かれた棚だった。

「いったい」
 何のことだ、と言いかけて、薪はその時期に起きた重大な事件のことを思い出す。
 あの事件の記録はどこにもない。書面もデータも、メモ一枚残さなかった。すべては自分の頭の中に封印したのだ。

「帰るぞ」
「待て、薪」
 引き止める滝沢に、薪は一切の感情を込めず、冷ややかに言い放った。
「真実を求める心は捜査官にとって必要なものだ。でも、過ぎた好奇心は身を滅ぼすぞ」
 刑事と言う職業に身を投じたものなら、誰もが真実と正義を貫きたいと願う。しかし、それを為せないのが現在の警察機構だ。薪も組織の一員として、数々の隠蔽工作に携わってきた。それは決して慣れることはできないが、飲み込まなくてはいけないものだということも分かってきた。

 外に出ようとして、薪は脚立が定位置に戻っていないことに気付いた。広い書類庫の中、箱の壁に遮られて視界が悪いこの部屋で、物を置く場所を定める事がどんなに大切か。次のときに備えて、薪は脚立を元に戻しに行った。
 西側の角に脚立を戻したとき、ガシャンという重い音が聞こえた。
「……えっ?」

 驚いて、薪は入り口に向かって走った。
 内側の格子扉は開いていたが、その向こうの重い金庫扉は完全に閉まっていた。ダイヤルロックが掛けられてしまったのだろう、押してもびくともしない。
「滝沢! ここを開けろ!!」
 廊下にいるはずの部下を大声で呼ぶが、返事もないし、ダイヤルを回す音もしない。おい、ともう一声掛けると、それを合図にしたように部屋の電気がいっぺんに消えた。入り口の外にあるスイッチを切られたのだ。
「ふざけてるのか!?おい、滝沢ッ!!」
 声を限りに叫んだが、扉が開けられることも電灯が点くこともなかった。タールを溶かしたような闇の中、薪は呆然と立ち尽くした。

 閉じ込められた。
 わざと?
 いや、まさか。滝沢は、自分がまだ中にいることに気付かなかっただけだ。脚立を戻しに行ったことを知らず、先に外に出たものと思って閉めてしまったのだろう。

 この扉は、中からは開かない。ダイヤルロックの暗証番号は、薪と所長と倉庫番しか知らない。滝沢が車に戻り、薪の不在に気付いても、直ぐにはここから出られない。
 こちらから連絡を取りたいところだが、地下にあって厚いコンクリートに囲まれているため、携帯電話の電波は届かない。滝沢が迎えに来るのを待つしかない。

「ったく。今日は厄日か」
 薪はその場に座り込んだ。入り口近くの壁にもたれて、だらしなく足を投げ出す。

 しかし、本当の災厄はこれからだった。



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破壊のワルツ(10)

 こんにちは~。

 この章は短いので、次の章も一緒に上げます。
 てか、ひとつの章にすればいいのかな? でも、場面が変わったら、やっぱり章は変えるよね? あ、でも、そうすると読むの面倒?
 てか、この話自体読むのタルイかも、ううーん。

 広いお心でお願いしますっ!(←結局これ)
 




破壊のワルツ(10)





『3日前から続いておりますこの暑さは、東シナ海上に発生した熱帯性低気圧の影響で……』
 カーラジオがニュースを伝えている。昨夜も熱帯夜だったが、今日も暑くなりそうだ。

「手こずっているようだな。彼らの結束は固いと見える」
 運転席に座ったまま、滝沢は後部座席の人物の話を聞いていた。後部座席には黒いフィルムが張ってあり、外部から彼の姿は見えない。
 滝沢が車を停めているTホテルの駐車場には、日曜日ということもあってか、高級車がずらりと停まっていた。その中で国産中級の自分の車は、悪目立ちするような気がした。

「もうちょっとで成果に結びつきそうだったんですけどね。邪魔が入りまして」
「何も大事件を起こせと言ってるわけじゃない。小さな事件でいいんだ。大きいのは逆に困る。こっちまで飛び火しかねない」
「№2の座を守るのも、楽じゃありませんな」
 冷房の効いた車内で、互いの顔を見ないまま、滝沢とその人物は会話を続けた。これは誰にも聞かれてはいけない会話だからだ。

「人権侵害に対する訴訟、職員同士の暴力事件。室長の職務違反なんか特にいいな。あの男が室長を指名したんだからな。直接の打撃になるはずだ」
 №2のクセに、考える事がセコイ。保身を念頭に置くから、思い切った真似ができないのだ。そういう点では、彼の言う『あの男』の方がずっと革新的だ。

 後部座席の男は、本来なら一介の警視である滝沢など、直接口を利くことも許されないほどの上級官僚だ。そんな彼にも悩みはあって、追われるものの苦しみと言うか、つまり、№3の小野田官房長にその地位を脅かされている。2つの権勢の差は徐々に狭まり、来年あたり、2人の上下関係は入れ替わるのではないか、との下馬評まで立っている。

 この噂の根拠には、滝沢の勤める法医第九研究室が深く関わっている。
 第九の設立が計画されたとき、警察庁は画期的な捜査法を支持する設立推進派と、人権問題からの糾弾を恐れた反対派の真っ二つに分かれた。保守派の次長は勿論反対派に回ったが、革新派の小野田は推進派だった。
 小野田派による様々な裏工作や政治的な圧力も加わり、結果的に反対派は押さえ込まれた。新しい施設の建築にIT設備の導入など、巨大な金が動くプロジェクトに大手ゼネコンと代議士が加わったら、その勢いは流れ落ちる滝の如しだ。小野田は自分の妻が大物政治家の娘であるというあからさまな人脈をフルに使って、第九の青写真を描いたのだ。軽蔑すべき男だ、と言うのが次長の理屈だった。

 その第九は発足してから3年足らずで多大な功績を挙げ、何度も長官賞や局長賞を受賞した。自然と小野田官房長の評判は上がる。長官賞授与式の折、「他の誰がやってもここまでの成果は望めなかっただろう」とまで警察庁長官に言わしめた現在の第九室長、その役職に薪を抜擢したのも彼だし、準備室設立の指揮を執ったのも彼だ。
 つまり、第九の手柄は官房長の手柄。第九の評判が上がれば、小野田の地位も上がるというわけだ。

「とにかく、第九がこのまま手柄を上げ続けることは避けなければならない。これ以上、あの男をのさばらすわけには」
 次長側の言い分を聞くと、小野田は政治的裏工作と金にまみれた悪徳官僚のようだが、滝沢の目から見るに、なかなかの人物だと思う。少なくとも、この次長よりは器が大きい。
 やり方はきれいとは言い難いが、きれいごとだけでは大事は為せないのが警察というところだ。きっと、彼には彼なりの正義があって、それを貫くためなら手段は選ばない。そういう人間だけが、此処で生き残っていけるのだ。

 そして。
 自分にも、正義はある。

「お任せください。必ずや次長の期待に応えてみせます。ですから次長も、どうか私との約束をお忘れなきよう」
「ああ。約束は守る。しかし、君も変わった男だな。あんなものに興味があるなんて」
「隠されると知りたくなる。刑事根性ってやつですよ」
「特殊任務に対する報酬が欲しいと言われたときには、機密費からいくら持ち出そうか思案したんだが」
「そちらは十分いただいてます。それに、派手に金を使ったら直ぐに目を付けられてしまうでしょう。使えない金なんて、あっても仕方ないですよ」
 全神経は後部座席の人物との会話に集中しながら、表向きはホテルから出てくる友人を車で待っている男を装って、運転席の窓から人待ち顔で外を眺めていた滝沢は、ホテルの正面玄関から出てきた客の中に、見知った長身を見つけて眉をしかめた。
 黒髪の短髪がよく似合う目鼻立ちのくっきりした美女と、彼女に良く似た年配の女性、それから立派な髭をたくわえた少し頑固そうな男性と4人で出てきた彼は、滝沢が務める研究室の副室長だった。

 彼の婚約者は青森の出身で、結納式のために上京してくると聞いていたが、このホテルに泊まったのか。なぜ娘の家に泊まらなかったのだろう、彼女は自宅マンションを所有していたはずだが、とゴシップ好きの中年女性のような好奇心を覚えて直ぐに、自分には関係のないことだとそれを諌める。

 彼女のことはどうでもいい、それよりも副室長だ。
 新しく家族になる予定の彼女とその両親に囲まれて、幸せいっぱいの彼。今が人生の最高期とばかりに、天真爛漫に笑って。
 大事な親友が、何処でどうなっているか知りもせず。

 知らず知らずのうちに頬に浮かべていた酷薄な笑いを、そうと気付いても消すことができず、滝沢はいっそ楽しげに言った。
「安心してください。次の手は打ってあります」
 
 熱せられたアスファルトから立ち上る暖気が陽炎になって、滝沢の視界を僅かに歪ませている。そのせいか、ホテルの玄関からタクシーに乗り込む4人の姿は、彼らが幸福な未来への準備を着々と進めているにも関わらず、儚い夢のように霞んで見えた。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

破壊のワルツ(11)

 本日、2個目の記事です。
 
 滝沢さんが主役の章だと、何の二次創作だかわからなくなってきますね。(笑)
 あー、萌えない。



破壊のワルツ(11)




 滝沢の友人は事故死だった。
 地方の、外灯の少ない夜の道端を歩いていて、トラックに跳ねられた。死体は何日も発見されなかった。土手の下に転がり、背の高い草が彼の死体を隠したのが原因だった。
 どうして彼がそんな場所で事故に遭ったのか、彼の同僚は皆不思議がったが、滝沢にだけは分かっていた。
 あそこは木梨の実家の近くだ。友人は、彼のことを調べていたのだ。

 友人が死ぬ前にしていた調査を、滝沢は引き継ごうと思った。そのことは誰にも言わなかった。滝沢は彼のように、本気で公安の隠蔽を疑っていたわけではなかったが、それでも刑事が最後に調べ残した仕事だ。完璧に調査して、墓前に報告してやりたかった。
 この研修が終わったら、思うように時間が取れないかもしれない。ならば、チャンスは今だ。

 官房長の後ろ盾で創られた第九は、様々な面で優遇を受けている。この、MRI捜査の技術習得のためだけに用意された研修施設もそのひとつだ。
 第九への異動を命じられた職員は、全員ここで規定の研修を受け、ノルマを達成しなければ第九に入ることはできない。彼らに与えられる期間は、3ヶ月から半年。3ヶ月までは全額、残る3ヶ月は6割の給与が支給される仕組みになっている。つまり、3ヶ月でMRIシステムを攻略しろ、と暗に命じているのだ。
 半年を超えると、人事部から打診が来る。そして3つの選択を強いられる。さっさと研修をクリアして第九へ行くか、他の部署に行って閑職に就くか、給与7割カットで研修を続けるかだ。
 滝沢が最初に狙っていたのは2番目の選択肢だったが、調査のためには3番目の選択がベストだった。1月もあれば充分だ。調べ物が終わったら、自分から人事部へ他部署に回してもらえるように申し出よう。

 友人を跳ねたトラックの運転手は、なかなか捕まらなかった。死体発見までに時間が経ちすぎて、雨風で証拠が流されてしまったことも、捜査を難航させる一因になっていた。
 管轄外の仕事にイライラしながらも事件の解決を待っていた滝沢に、やがて信じられない情報が入ってきた。
 ひき逃げ事件の調査は、打ち切りになった。捜査本部が設立されてから、1月も経っていなかった。
 ありえないと思った。彼は警察官だ、いわばこれは身内の仇討ち。面子を重んじる警察が、たった1ヶ月で事故とはいえ身内を殺めた犯人逮捕を諦めるなんて。
 しかし、部外者の滝沢に捜査に口を挟む権利は無かった。せめてもと思い、所轄にいた友人に頼んで捜査報告書を閲覧させてもらった。

 その内容の薄さに、滝沢は戦慄した。
 捜査報告書の紙面から伝わってくる、この希薄さはなんだ。一応の体裁は繕ってあるものの、捜査とは名ばかり。事情聴取した運送会社の名簿がつけてあるだけで、いつ、その会社の誰に話を聞いたのかも記載されていない。ただ名簿の下に一行、上記の会社に当該トラックは無し、と書き込まれているだけだった。これなら庶務課の女の子にも作れる。
 現場の写真も2枚しか綴じられていない。死体の検死報告書にいたっては、法医学教室で保存、と来た。

 これはさすがにおかしい、と思った。
 滝沢は所轄に勤めたことが無いから分からないだけかもしれないが、人が死んでいるのだ。こんな報告書で上が納得するわけがない。

 嫌な予感に駆られた滝沢は、木梨のことは余程慎重に動いたほうがいい、と考え直した。もしかしたら友人は、本当にでかいヤマに当たったのかもしれない。

 表向きはエリート集団第九への勤務に執着する振りで研修を続けながら、滝沢は自分のネットワークを使って、こっそりと木梨のことを調べ上げた。
 同期生や元部下たちが教えてくれたことによると、彼は評判どおり、いや、それ以上の男だった。国家を守るためなら、自分の命は惜しくない。また、国民はすべてそうあるべきとの極論の持ち主でもあった。
 彼は公安第2課の所属だったが、本人は外事3課に行きたがっていたと言う。外事3課は外国人によるテロ事件を主に扱う部署だ。彼の愛国心は、諸外国から日本を守るという思想の元に形作られたものだったらしい。

 そして彼が2057年11月の末、休暇を取っていたことを知ったとき。
 行きつけのバーで友人と交わした冗談が、滝沢の脳裏に甦った。

『あの飛行機には、テログループのリーダーが乗ってたんだ。そいつを抹殺するために、政府が乗客ごと飛行機を落としたんだよ』

 あの飛行機に、本当にテログループのリーダーが乗り合わせていたとしたら?
 国家組織ならそんなバカな真似はしない、だけど、妄信的な愛国心に囚われた男がそこに居合わせたら? 国の安泰のためには国民の犠牲はやむを得ないと公言する愚か者が、彼の信じる崇高な考えを行動に移すこともありえるのではないか。

『仕事一筋だった木梨が休暇を取るなんて、赤い雪が降るって騒ぎになったそうですよ。それも、えらく急だったそうで。その後すぐに退職して……』
 滝沢の突拍子もない仮説を後押しするように、木梨の退職前後の状況を教えてくれた元部下の言葉が、耳の中で木霊する。
『そういえば、休暇明けの木梨を見たってひと、いないなあ』

 突然の休暇取得。
 不可解な飛行機事故。
 帰ってこない息子。
 そして、彼を調べている最中に事故に遭った友人。

「……バカバカしい。俺こそ、スパイ映画の観すぎだ」
 何度も何度も否定しながら、滝沢の考えはそこに行き着く。

 もしも木梨がテロリスト抹殺のために乗客を道連れに死を選んだとしたら、それを知った公安は―――――。
 絶対に隠す。木梨は公安の正式な職員だ。その彼がそんな大事件を起こしたとしたら、前代未聞の不祥事だ。政府にも上層部にも、その強力なコネクションをフルに使って事件の隠蔽を強要するだろう。公安はその職務柄、取引材料には事欠かないはずだ。

 そこまで考えて、滝沢は大きくかぶりを振った。
 ありえない、いくら何でもそんなことはありえない。この妄想を消す手立てはないものか。

 滝沢は頭を抱えた。一番簡単なのは、墜落した飛行機の乗客名簿を調べることだ。その飛行機に木梨が乗っていなかったことが証明されれば、このくだらない妄想も消える。しかし、政府ぐるみの隠蔽工作がなされているとすれば、関係書類は確実に隠滅されて……。

 いや、ある。
 公安にも政府にも、予想外のことが起きたではないか。
 飛行機事故の、たった一人の生き残り。他の乗客を食べて生き残ったと今際の際に告白した、かの乗客の脳。それを調べた第九には、捜査資料が残っているはず。

 滝沢は決心した。
 くだらない権力争いに巻き込まれるのは真っ平だと思っていたが、これは運命かもしれない。あるいは、彼女が自分を導いているのかも。

 研修生に割り当てられてた狭い私室で、滝沢は机の引き出しから写真ケースを取り出した。左右に開くと、左手に若い女性。右に若い男性が映っていた。
「ゆかり……西野……」
 滝沢の呟きは、一人きりの部屋の中にひっそりと吸込まれ、空気に混じりこんで再び滝沢の中に返って来た。

 俺は、生きる意味を見つけた。

 次の日から、熱心にMRIシステムに向かう滝沢の姿があった。



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薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
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