ナルシストの掟(1)

 3000拍手のお礼SSです。

 このお話の時期は、2063年の3月。現在より、約1年先のお話です。
 この時点で、ふたりは恋人同士になってます。付き合い始めて約1年くらいです。
 付き合っていると言っても、うちのふたりですから、ラブラブカップルにもおしどり夫婦にも程遠く……あ、きっと誰も期待してませんね。そういう平和な展開は。(笑)



 こちらは最初、Kさまにリクエストをいただきました。
 後に投票フォームで最高票を獲得し(笑)、『薪さんのスナックで女装』話と相成りました。

 あまりにもわたしのツボにハマるお話だったため、またちょっと暴走しちゃいましたけど~、(^^;)
 みなさまにちょこっとでも、笑っていただけたらうれしいです。








ナルシストの掟(1)







 薪は自分の顔が大嫌いだ。
 幼い頃からあまり好きなタイプの顔立ちではないと思っていたが、年齢を重ねるに従って、ますます嫌になってきた。
 大きな眼も小さな鼻も、幼子のようにふっくらとした頬も。あごが尖っているのも唇がやたらと光って見えるのも気に入らない。
 特にイヤなのは、この邪魔くさい睫毛だ。
 子供の頃、長い睫毛をからかわれるのが嫌で、鋏で短く切ってしまったことがある。そしたら、次にはもっと濃くて太い睫毛が生えてきて。かえって逆効果だとわかって、それからは放っておくことにしたのだが、結果はこの有様だ。

 鏡の前で身支度を整えながら、薪は今日も自分の顔に向かって不満のため息を洩らす。
 もっと細くて、鋭い眼が良かった。鼻はもっと高くて、頬は削げていて。唇は薄くても良いから、自然な色がいい。身長だってせめて170は欲しかったし、肩幅も胸板も、もっともっと。

 キレイだとかカワイイとか、よく他人に言われるけれど、女の子じゃあるまいし。
 女の子にかわいいって言われた男の屈辱が、彼女たちにわかるもんか。好きでこんな顔に生まれたんじゃないのに、バカにしやがって。
 それでも、若い頃はまだ良かったのだ。20代前半までなら、「可愛い」も褒め言葉として取れないこともない。
 しかし、とうの昔に30を過ぎて、40に手が届こうというこの年齢になって、きれい、などと言われると、問答無用で相手を張り倒したくなる。

 実際、何日か前もその言葉を繰り返し、薪に殴り飛ばされた男がいる。
 何を隠そう薪の恋人なのだが、ベッドの中でそのセリフを3回も言ったものだから、我慢できなくなって思いっきり腹に拳を叩き込んでやった。そのまま、行為半ばの寝所から追い出して、それっきり口もきいていない。
 そろそろ反省した頃だろうから、今日あたりは家に上げてやってもいいが、もう一度禁句を吐いたら……今度は股間に蹴りを入れてやる。

 この乱暴な言動でわかるように、薪の現在の恋人は男性だ。薪より12歳も年下で、しかも自分の部下だったりする。他人に知られたら、かなりまずい関係だ。

 機械的にワイシャツを着てネクタイを締めながら、薪は今日の仕事の予定を頭の中で組み立てる。
 曽我の報告書の手直しと、裏付けの資料を追加するように指示をして。小池のやつがあの画像に引っかかってるみたいだから、軌道修正してやって。宇野の報告書には、ひとつでもいいから証言を載せるように注意して。青木が受け持ってる練馬の事件には被害者の友人の過去が絡んでるから、その画像を探すようにヒントを。
 仕事はたくさんあるが、それでも定時には終われるだろう。進行中の事件もなければ、会議の予定もない。
 今日は水曜日だし。
 室長会議用の資料を作ったら、久しぶりにあいつと一緒にレストランで食事をして、それからここで――― そこまで考えて、薪ははっと我に返る。

 朝っぱらからアフターの予定を組んでいる自分に驚いて、知らないうちに自分が、特別な日に締めるためのブランド物のネクタイを結んでいたことに、もっと驚く。

 ……重症だ。

 タイに合わせた翡翠のタイピンをつけて、薪は朝から二度目のため息を吐いた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ナルシストの掟(2)

ナルシストの掟(2)







 警視庁刑事部組織犯罪対策第5課は、主に銃器及び薬物を取り締まる部署である。
 対象となる事件には、当然、暴力団絡みのものが多くなるので、5課の課長の人選は代々コワモテの人間に限られてきた。現在の5課の課長、脇田耕作もその例に洩れず、鬼のようなご面相の持ち主であった。彼の前に『警察官or暴力団幹部』の二択が置かれたら、間違いなく後者に票が入りそうな感じだ。警視庁と警察庁が並ぶ霞ヶ関の巨大警察機構において、東の鬼瓦と称されるのがこの男なのだ。

 その脇田が、柔道4段の見事な体躯を丸めて、拝み倒すように口説いているのは、捜査一課のエース竹内誠警視である。
 竹内は脇田とは対照的な外見で、これが警察官か、と逆の意味で首を傾げたくなる風貌の持ち主だ。最近、テレビに良く出ているイケメン俳優に劣らない色男。職業を間違えたのは、ある意味彼の方かもしれない。

「頼む、頼むよ、竹内。お前なら、何とかなるだろう?」
「ムリですよ。俺があのひとに嫌われてるの、脇田さんだって知ってるじゃないですか」
「嫌われてるわけねえだろ。だってお前、あいつの命の恩人なんだろ? それで大怪我して、何ヶ月も入院してたんだろ?」
 脇田が言っているのは、1年ほど前、火災現場で竹内が薪を助けたときのことだ。

「その恩人の頼みを断るわけないだろう。なあ」
「それとこれとは、話が別なんですよ。薪室長は、そういうひとですから」
「かあ! 命を懸けて自分を助けてくれた相手の頼みも聞けないってのか。人間じゃねえな、あいつぁ。外道だな」
「だれが外道です」
 涼やかなアルトの声が響いて、ふたりに来訪者の存在を知らせる。
 この声は、脇田の部下ではない。ここにいるのは、潰れたダミ声の連中ばかりだからだ。

「お前さん、どうして」
「僕を呼んだのは、脇田課長じゃないですか」
「今忙しいって、話も聞かずに電話切ったじゃねえかよ」
「忙しいとは言いましたけど、お伺いできないとは言ってません」
 屁理屈をこね回すのが得意な第九の室長は、脇田の苦手なキャリアだ。
 しかも、本年度の警視長昇格試験で見事現役トップ合格を果たし、続く研修でも優秀な成績を修めたことから、4月には警視長昇任が確定している。今はまだ警視正で普通に口もきけるが、来月からは迂闊に声を掛けられなくなるかもしれないのだ。頼みごとができるのも、今しかない。

 一月後には上層部への仲間入りを果たす彼もまた、脇田と対照的――― というよりは、警察官にこれほど相応しくない相貌も存在しないのではないだろうか。

 さらさらした亜麻色の髪に小作りな顔。ばさばさと女優のように長い睫毛と、その奥の大きくてキラキラした瞳。真っ白い頬は幼い曲線を描いて、その華奢なからだとの相乗効果でもって、彼の年齢不詳を助長している。さらに、ちんまりと顔の中心におさまった形の良い鼻の下に、婀娜花のように艶めくくちびるの色気を感じれば、性別さえ分からなくなりそうだ。
 脇田と並んで西の鬼瓦と称される岡部靖文警部が、この男の部下だという事実が、未だに信じられない。

 身に着けているものもキャリアらしく、オーダーメイドの高級品だ。ブランドに詳しくない脇田でも知っている、有名なマークの透かしが入ったシルバータイに翡翠のタイピン。華奢な身体にフィットしたダークグレイのスーツとともに、彼の美貌を嫌というほど引き立てる。

 官給品のスーツが主な仕事着になっているわが身と比べると些少の嫉妬を禁じえないが、男としてこんな顔や体つきに生まれる不幸を考えたら、自分の鬼瓦のほうがなんぼかマシだ、と脇田は心の内で呟いた。

「で? 僕に話というのは?」
 どうも、この男は苦手だ。同僚と話すように普通に話をしていいものかどうか迷うし、この顔を見ていると喉が詰まるようで。
 刑事部屋に残っている連中も、皆ちらちらと薪のほうを見て、落ち着かない様子だ。何人かの職員に至っては、完全に手が止まっている。薪が自分の部署に来たら、顔を理由に転属させるしかない、としなくてもいい心配をしつつ、脇田は竹内を縋るような目で見た。

「潜入捜査を頼みたいんだそうです」
 脇田の視線を受けて、竹内が薪に脇田の意向を伝えてくれる。頼りになる後輩がいて、助かった。
「例の麻薬ルートですか?」
 薪はカンがいい。脇田からの電話だ、というだけでその可能性に気付いていたのだろう。
 それを第九の連中に聞かせたくないから、こうして足を運んできたのだ。それならそうと、電話口で言ってくれればいいのに。

「こないだ捕まえた売人からの情報で、滝渕という男が売人たちの統括者だ、ということが解ったんだ。今のところは泳がせてあるが」
「滝渕の上にいる人物に辿りつきたい、ということですね」
「そうだ。うまく取り入って聞き出せれば、トカゲの尻尾切りにならずに済む」
「お話はわかりました。でも、何故僕に? 5課の人間では面が割れている、というのは解りますが」
「滝渕は、表向き『彩』というスナックのオーナーでな。どうもそこでブツの売買が行なわれるらし……ちょっ、ちょっと待て!」
 脇田の口から「スナック」という言葉が出た途端、薪は出口に向かって歩き出していた。まったく、薪はカンがいい。

 大股に走って薪の前に回りこみ、その華奢な肩を押さえて引き止める。竹内もやってきて、ふたりで薪の退路を断った。
 脇田の顔の20cmほど下から、険悪な視線が挑みかかってくる。短刀のように尖った声で、薪は冷たく言い放った。
「急用を思い出しました。帰らせていただきます」
「まあ、話だけでも聞いてくれよ」
 話を聞くまでもなく、脇田が自分に何をさせたがっているのか、察しがついたらしい。この不機嫌な顔がその証拠だ。

「竹内さんに頼んでください。店に客として入って、情報を聞き出してもらったらいいじゃないですか。女の子をたらし込むのは得意でしょう」
 薪の皮肉に、竹内が困った顔をしている。
 自分の命の恩人に、こんな態度がとれるとは。犬でさえ3日飼えば恩を忘れないというのに。この薪という男は、見た目はきれいでも中身は畜生以下だ。

「そんなに口の軽い娘はいねえよ。自分の手が後ろに回るのが解ってるからな。なあ、薪。頼むよ。どうしても楽屋に入れる人間が必要なんだよ。お前さんならホステスとして、潜り込めるだろ?」
「脇田さん。薪室長は嫌がって」
 竹内は昔からいい奴だ。自分に対してこんな理不尽な態度を取る相手のことを、庇おうとしている。ひきかえ、薪は狭量だ。
「だから!! 僕は来年、40になるんですよ! その男を捕まえてホステスになれって、正気ですか!? すぐにバレるに決まってるじゃないですか!」
 この噛み付き方。
 相手の立場も状況も知ったことじゃない、と言いたげな表情だ。
 頼みごとをする立場とはいえ、相手にこんな態度を取られたら、こっちだってムキになるものだ。

「心配いらねえよ。ほら」
 机の上のパソコンを指差して、脇田は薪の抗議を軽くいなす。
 デスクトップに飾られている女性の写真を見て、薪の両膝がガクッと崩れた。とっさに竹内が手を回して、薪の身体を後ろから支える。

 パソコンの画面に映っているのは、亜麻色のロングソバージュが良く似合う絶世の美女。シースルーのキャミソールと黒地のタイトスカートが、そのモデルのような身体にぴったりとフィットしている。
 彼女は袖なしのキャミから伸びた華奢な右腕を曲げて、長い髪をかきあげている。髪の下から覗く小さな耳と白い首筋が、これでもかというほどに男を誘っている。
 これは3年前のおとり捜査の時の、薪の女装写真だ。誰かのイタズラで警察庁と警視庁中のパソコンにばら撒かれた、画像データだ。

 よほど驚いたのか、薪は竹内の腕に身体を預けたまま、呆然としている。
 亜麻色の小さな頭が竹内の胸に置かれ、細い指は自分の脇から前に交差した竹内の腕をしっかりと摑んでいる。後ろから自分を抱きしめる腕を抱きしめ返している、まるで恋人同士のような体勢だ。それでなくともこの二人が一緒にいると、ここが警察署だとは信じられなくなってくるというのに。

 竹内の映画俳優顔負けの美男子っぷりに加えて、薪の中性的な美貌。周りの人間がいかつい男ばかりだから、いっそのこと男装の麗人だと言われたほうが納得できるくらいだ。大きく開かれた目の周りを彩る睫毛は、男としてありえない長さだと思うし、グロスを塗ったように艶めくくちびるは、交通課の女の子よりはるかに色っぽい。

「ど、どうしてこれが? データは破壊したはず」
「データ破壊?」
 薪の小さな呟きを耳ざとく聞きとめたのは、竹内だった。薪は素早く口元を覆って、竹内の顔を見た。ふたりの視線が、しばし絡む。
 あの時、海外のサーバーをいくつも経由して、警察のネットワークにハッキングを掛けた人物がいた。
 その人物は何故か、特定の時間に配信されたメールだけを破壊し、他のシステムには手も触れずに出て行った。被害といえるほどの被害はなく、そのため捜査本部も設立されなかった。その代わり、新しいセキュリティシステムのプログラムを第九で開発しハッカーにの攻撃に備えることで、あの事件はカタが付いたのだが。

「なるほど。さすが第九には、いい部下が揃ってますね。薪室長」
 何の脈絡もなしに、竹内が薪の部下を褒めた。それを聞いた薪が真っ青になっている。
 脇田には薪の反応が、いまひとつわからない。自分の部下を褒められたのだから、青くなることはないと思うのだが。

「どう見ても、とびきりのイイ女だ。滝渕は面食いだって噂だからな。きっと食いついてくる」
 ひとりだけ事件の裏側を知らない脇田が、画面の美女を見て大きく頷いている。これをデスクトップに置く警察官というのも、いかがなものかと思うが。

 何故この画像がここに残っているのか、タネを明かせば簡単なことだ。ウィルスで破壊できるのは、ハードディスクのデータのみ。ハッカーがウィルスを送る前にCDかUSBメモリにでもデータを転送しておけば、画像は保護されるのだ。
 本人は知らないが、この画像はすでに幾枚もプリントされて、密かに陰で出回っていたりする。

 「頼むよ、薪。店の娘が、ヤクをやってる現場を押さえるだけでもいいから。そうすりゃニンドウ(任意同行)でも、滝渕を引っ張れるんだ」
「引き受けましょう。ただし、条件があります」
「条件?」
 薪のきれいな顔がぐっと近づいてきて、脇田は焦る。
 部署の特性として、風俗店にも馴染みが深い脇田だが、至近距離の薪の顔は心臓に悪い。ヘンにそわそわした気分になる。昔はそうでもなかったが、最近の薪はなんというかその・・・・・妙な色気が出てきたようで。

「この画像をすべて削除し、データを完全に消去すること。データは一切、残さないこと。もちろん、プリントも禁止です」
「ああ……じゃあ、後でやっとく」
「いまこの場で! やってください!」
「わかったよ。うるせえなあ。あーあ、峰岸の野郎に泣かれちまうな。こいつはお前さんのファン……い、いや、その」
 3月も半ばだというのに氷のような寒波が襲ってきて、脇田は必死で苦手なパソコンに向かう。太い指が削除キーを押すのを確認して、薪がその場から一歩下がると、脇田はようやく息がつけるようになった。

「僕が店に潜り込む手はずは?」
「ボーイをひとり、抱きこんである。そいつの紹介だって言えば大丈夫だ。もっともそのボーイも、お前さんが男だってことは知らんがな」
「わかりました。やってはみますけど、失敗する可能性が高いと思いますよ。僕も3年前に比べたら、格段に男らしくなってますから」
「「「「どこが?」」」」
「……なんでそこだけ全員一致なんですか」
 5課に残っていた職員全員の声が揃って、それは薪のプライドをいたく刺激した。
 なんて失礼な奴らだ。次に5課から無修正AVの確認作業が回ってきたら、絶対に断ってやる。

 全員を殴り飛ばすわけにもいかず、心の中でセコイ仕返しを誓って、薪は第九へ帰っていった。竹内を睨みつけて、例のことは誰にも喋るなよ、と釘を刺すのも忘れなかった。
「相変わらずおっかねえなあ。ツラは女みてえなのによ」
「ええ。本当に」
 そうですね、と言いながら、竹内はうれしそうだ。自然に頬が緩む感じで、薪の後姿を見送っている。

「ま、なんにせよ。引き受けてもらえて良かったよ。お前のおかげだ」
「俺は何もしてないですよ」
「いやいや。お前がいたから断りきれなかったんだろ。なんたって命の恩人だからな」
「そんなことはないです。女装が絡まなければ、もっと簡単に引き受けてくれましたよ。薪室長はそういうひとですから」
「まあな。あいつが意外と正義漢なのは知ってるよ」
「ええ。そうでもなければ」
「あの岡部が心酔するはずがない、だろ?」
 岡部を良く知る二人の男は、顔を見合わせてニヤリと笑った。あの岡部が薪のブリザード攻撃をくらって、ヒヤヒヤしている様子を思い浮かべると、笑わずにはいられない。

「竹内よ。もうひとつ頼みがあるんだが」
「薪室長のフォローですか?」
「ああ。あいつ、普段は冷静なくせに、たまに暴走することがあるからよ」
 5課の人間が店に入ったら、一発で捜査だとばれてしまう。その点、竹内なら警察官に見えないし、薪との呼吸もぴったりだ。
「いいですよ。喜んでやらせてもらいます」
「悪いな。一課の課長には、話を通しておくからよ」
 自分の仕事でもないのに、竹内は二つ返事で引き受けてくれた。本当にいいやつだ。文句タラタラのだれかさんとは、エライ違いだ。

「しっかし、あのひとは自覚ってもんがないのかね。男らしいなんてセリフが、よくあの口から出てくるよ」
「中身は男らしいんですけどね。潔いし、思い切りもいいし。意外と喧嘩っ早いし、気は強いし。
 薪室長は、ナルシストじゃないんですよ。特に容姿に関しては。逆に、コンプレックスがあるみたいですよ。顔とか、背丈とか」
「そうなのかい? やっぱり、仲いいんじゃねえか、お前ら」

 脇田は自分の席に戻って、引き出しを開けると1枚のCDを出した。それを先刻、デスクトップのデータを消去したパソコンに読み込ませる。程なく、画面にはいくつものアイコンが現れ、そのCDの中身を竹内に教えた。
「脇田さん」
 削除したばかりの画像が、再びデスクトップに飾られる。竹内の非難を余裕で受け止めて、脇田はヘラヘラと笑った。

「かてえこと言うなって。いいじゃねえか。この席のやつは、これで仕事する気が起きるんだから。部下のやる気を引き出すのは、上役の務めってな」
「いえ、その……俺にもコピーしてもらえますか?」
「お前にゃ必要ねえだろ。現実のオンナも本人も、手の届くところにいるじゃねえか」
「敵の弱味はいくつ握っておいても、無駄にはならないものですから」
「やっぱ仲悪いのか。お前ら」
 竹内は真面目な顔で頷き、宿敵ですから、と笑った。
 脇田は複雑な表情でマウスの右側をクリックし、コピーの文字を選択した。



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ナルシストの掟(3)

ナルシストの掟(3)






「それで? 協力することになったんですか?」
「仕方ないだろ。あのことをバラされたら、僕も宇野も減俸くらいじゃ済まない。僕の昇任話もお流れだ。あんなに苦労したのに。冗談じゃない」
 水曜日のいつもの流れで、青木は薪のマンションに来ている。
 青木がいるリビングに、薪の姿はない。クローゼットの扉の前と中で会話を交わしているところを見ると、薪はいま着替え中のようだ。

「潜入捜査って言っても、今回は証拠を押さえればいいわけですね? ホステスたちの控え室で恒常的に麻薬が配られてるから、それを確認すればいいと。その現場を見つけたら、すぐに連絡を入れる。すると5課の人たちが乗り込んでくる手筈になってると。危険なことは、何もないんですよね?」
「何回も同じことを聞くな。大丈夫だって、さっきから言ってるだろ」
 会話の間、ずっとクローゼットから出てこない。スーツを脱いで普段着に着替えているのだろうが、えらく長い。着物でも着ているのだろうか。

「薪さん。まだ着替えてるんですか? オレ、腹へって」
 痺れを切らした青木が控えめな抗議をしかけたとき、クローゼットのドアが開いて、薪が出てきた。
 その姿に、青木は目と口を大きく開けて、言葉もなく床に腰を落とした。

「どうだ? 女に見えるか?」
 真っ赤な生地に煌びやかなスパンコールが、あでやかな蝶の花を咲かせるチャイナドレス。右側の太ももの部分から、大きくスリットが入っている。布の間から見える白い足が、限りなく挑発的だ。
「やっぱりダメか? この肩幅が邪魔をするか」
 青木が二の句を継げないでいる様子をお得意のカンチガイで曲解して、薪は華奢な肩に自分の両手を載せる。そうやって胸を隠してしまうと、完全に女性にしか見えない。
「この頃、筋トレにも力いれてるからな」
 腕も足もすんなりと伸びて、しなやかな獣のようだ。よく撓りそうな腰の辺りから、男の下腹部を直撃するような色気がぷんぷん匂ってくる。

「この服なら詰襟だから、喉仏も隠れるし。なんとか誤魔化せるかと思ったんだけど」
「え、薪さんて、喉仏ありましたっけ?」
「バカにするな! 見た目に分からなくても、よーく触れば微かに出てるんだっ!」
 見た目に分からなければ、胸の空いた服でも同じだと思うが。

「大丈夫です。とてもお似合いです。てか、めちゃめちゃきれいです」
 キレイというNGワードに、薪の目が細められる。長い睫毛が重なって、その奥から宝玉のような瞳がぎろりと青木を見る。が、今の薪から青木に流れてくるのは彼の不興ではなく、淫靡な秘め事を予期させる甘い愁波だ。

 その静謐な美貌の持ち主は、包まれる衣装の違いで、魔性の生き物に変貌する。
 最高の快楽を保証してくれる官能的な肢体。背筋がゾクゾクするような流し目。誘われているとしか思えない。
 赤い布地の向こうから手招きしている細い足に、膝でにじり寄って手を伸ばす。いつも通りの滑らかな肌。割れたスカートの間から手を入れて片足を抱き寄せ、白い腿にくちづける。シルクのような肌から匂うのは、清冽な百合の香り―――。

「薪さ……痛ったい!」
 細い指が青木の髪を掴んで、力任せに引き剥がした。肩を蹴られて、床に尻餅をつく。
「今日はしない。不愉快なことがあった日は、僕は酒も飲まないしセックスもしない。知ってるだろ」
 そんな無体な。

 薪と肌を合わせられるチャンスは、一月に最大で6回。週末の土曜日と、2週間に1度の水曜日。それも事件だ出張だ研修だ、と様々な邪魔が入る上、薪の気まぐれな性格のせいで、実質は月に1度か2度がいいところだ。
 そのせいか、初めてからだを重ねた日から1年近く経つのに、まだ痛みが強いみたいで。
 もともと薪は、そちらの欲求が極端に薄い。3ヶ月に1回くらいがちょうどいい、とのたまわれた日には、青木は目の前が真っ暗になった。

 薪とは性格も好みもあまり合うとは言えないが、からだの相性は最悪に近い。リズムもサイクルもてんで合わないし、青木が欲しいと思うときは薪が疲れててダメとか、薪の方が欲しがるときは……いや、ない。薪の方から求めてくれたことなんて、一度もない。とにかく、薄いのだ。おかげで青木の欲求不満は、片思いだった頃とあまり変わらない。

 正直、相手に対する欲望の大きさの差は、愛情の大きさの違いか、とも思ってしまう。
 青木の方が、かなり一方的に薪のことが好きなのだ。薪はそれに応えようとしてくれているだけ。まだ薪の心の中には、あの男が住んでいる―――。

「青木?」
 床に座ったままの青木の前に、薪が膝をついて青木の顔を覗き込んでくる。
「悪い。そんなに痛かったか?」
 心配そうな亜麻色の瞳が、上目遣いに青木を見る。真紅のドレスの効果で、クラクラするくらいにかわいい。
「いいえ。平気です」
 にこりと笑って応えを返した青木に、ふっと頬を緩めて薪は微笑した。

 あ、あ、そんな……やさしい目で微笑まれたりしたら。

「薪さん!」
 飛びかかった青木の顔面に薪の拳が食い込んで、目の前に星が見えた。どさりと仰向けにひっくり返った青木の視界で、白い天井がスクリーンのように薪の微笑を映し出した。




*****


 付き合い始めて1年経ってないのに、すでにギスギスしてますね(笑)
 相性最悪とか言ってるし。(←ヒドイ)

 アツアツの新婚さんが読みたい方は、みひろさんの『晴れときどき秘密』へ、
 おしどり夫婦が読みたい方は、かのんさんの『この世界を愛したくて』へ、
 あま~い恋人関係が読みたい方は、ruruさんの『愛ってなんなのさ!』へ、ぜひどうぞ!

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ナルシストの掟(4)

ナルシストの掟(4)






 痛む拳をさすりながら、薪は床に転がった男の足を蹴り飛ばした。
 まったく、懲りない男だ。こいつは何度こんな目に遭っても、ところ構わず迫ってくる。薪が寝室以外ではその行為を嫌がるのを知っていて挑んでくるのだから、これはもう嫌がらせと解釈して間違いないだろう。

「下着が見えちゃいますね、それ」
 ひょいと腹筋で起き上がって、悪びれた様子もなくそんなことを言う。このパターンは何度も経験済みだから、今更気まずくなったりしない。

 足を上げたとき、スリットの間から下着が見えた、と青木は言った。立っていれば平気だが、座ったときには露わになってしまうだろう。

「ボクサーだと、どうしても見えるか。ビキニパンツだったらいけるかな」
「え? そんな下着、持ってたんですか?」
「もらいものだけど」
「もしかして、間宮部長がクリスマスの時に贈ってきたやつですか?」
 当たりだ。3ヶ月も前のことを、よく覚えているものだ。
 この記憶力があれば、警視の昇格試験も10位以内で合格できたはずだと思うが。まったく、肝心のところでダメな男だ。

「捨てるって言ってませんでしたっけ?」
 微かに咎めるような口調で言われて、薪は心の中で年下の恋人を嘲笑う。
 青木はけっこうなヤキモチ妬きで、とんちんかんな誤解が多い。周りの男がみんな薪のことを狙っている、という妄想に取りつかれている節がある。
「薪さんは隙だらけなんですから、気をつけてくださいね」などと注意を受けたが、38にもなる男にそういう目的で近寄ってくるバカは、こいつくらいのものだ。

「みんなの前では、そう言ってましたよね」
 言った。
 間宮が贈ってきたのはセクシーな黒いビキニで、こんなの穿けるか! と怒鳴った覚えがある。
 でも、べつにパンツに罪があるわけじゃなし。
 ……特別な日に穿いて、どこかのバカを喜ばしてやろうかな、なんて考えてたわけじゃない。断じて。

 バカは無視して、クローゼットに戻る。
 下着を替えて、姿見に自分を映してみる。
 これならしゃがんでも、下着は見えない。現場で捕り物になっても、男とバレずに動くことができそうだ。

 等身大の姿身に映る自分の姿に、薪はその日3度目のため息を吐く。
 服装を替えただけなのに、鏡の中の自分は他人のように見える。脇田課長に渡された黒髪のショートボブのカツラをつけなくても、充分女の子で通用する。

 薪は横を向いて、その画像を脳から消去しようと試みる。
 気持ち悪い。
 僕は男なのに。
 こんな格好をして、似合うとかきれいだとか言われて。化粧をしなくても不自然じゃないのが、気味悪い。

 イヤだイヤだ、女の出来損ないみたいなこんな顔。
 青木は好きだって言ってくれるけど、僕は大嫌いだ。

 乱暴に服を脱ぎ、パーカーとジーンズに着替える。眼の奥に居座る残像を振り払って、手で髪を整える。
 鏡に向かってイッと舌を出し、薪はリビングに戻った。





*****

 とうとう薪さんのオトメ化が最終段階へ……勝負下着まで用意して……こんな薪さん、イヤ。(笑)


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ナルシストの掟(5)

ナルシストの掟(5)






『彩』の控え室は、狭くて雑然としていた。
 ホステスたちは全員店に出た後で部屋には誰もいなかったが、あちこちに雑多なものが落ちていて、そこを使用している人間のだらしなさを慮らせた。ハンカチや髪留めなどはいい方で、ストッキングやガーターベルトや、果てはセクシーな下着まで。捜一の資料庫のほうがマシなくらいだ。

 一緒に部屋に入った薪が頬を赤くしているのを、竹内は微笑ましく思う。薪は年の割りには初心でびっくりするくらい純情だ、と岡部が言っていたが、どうやら本当らしい。
 床に落ちているフリルつきの黒いTバックをなるべく視界に入れないようにして、薪は化粧台の前に座った。手馴れた様子で化粧道具を取り出す。
 前髪をクリップで留めてから、化粧を始める。その手つきは鮮やかで淀みがない。

「馴れてますね」
 言ってしまってから、慌てて竹内は口を押さえる。
 思わず口から出てしまった。この手の発言は、薪の機嫌を損ねてしまうのに。
「もう、二桁近いですから……」
 竹内の失言に怒りを見せることもなく、薪は自嘲気味に言った。
 この3年の間に、そんなに女装してたのか。竹内が見たのは囮捜査のときの姿だけだが、他はどういうシチュエーションだったのだろう。見てみたかった。

 やがて、清楚な美女が出来上がる。
 透明感のある白い肌に、薄いブラウンのアイシャドウ。ピンク色の口紅と、小さな真珠のイヤリング。黒髪のストレートボブのカツラをつけて、髪の色に合わせた黒いカラーコンタクトを入れると、一見、薪とはわからない。

 化粧が済むと薪は立ち上がって、着ていたコートを脱いだ。
 薄緑色のスプリングコートのボタンを外すと、下から現れたのは盛り上がった胸にスパンコールの蝶を咲かせた緋色のチャイナドレス。深くスリットが入った、扇情的な衣装だ。
 たまらない曲線を描く肢体に、沸き起こる衝動を必死で抑える。
 これが男の身体だろうか。胸は作り物だとしても、なんなんだ、このウエストの細さは。腰の色っぽさは。ていうか、昔より女性に近い体つきになってないか? こんなに凹凸が強かったっけ?
 ああ、そうか。このひと、少し太ったんだ。腰の辺りの肉付きが良くなってる。ウエストのサイズは変わらないから、その落差で……。
 すいません、薪室長。俺はいま、完全にセクハラオヤジの目線になってました。

「その服だったら、化粧はもう少し派手にした方がいいです」
「そうですか?」
 竹内の言葉に、薪は化粧ブラシを手に取る。
 物事が決まるまではブツブツと文句が多い薪だが、いざ始まってしまえば作戦成功のための努力は惜しまない。あれほど嫌がっていた女装だって完璧に仕上げてくるし、化粧もきっと必要に迫られて練習したのだろう。
 ただ、こういう店には慣れていないから、ホステスの化粧がどういうものか解らなかったと見える。薪の今の顔は、夜の女の顔ではない。

「ピンク系かパープル系で、思いっきり色っぽく。アイシャドーとチークを重ねて。ああ、口紅も、もっと濃いほうがいいです」
 竹内が化粧に詳しいのは、昔の彼女がデパートの化粧品売り場に勤めていたからだ。女の話をよく聞いてやるのは、モテる男の条件のひとつだ。

「あ、そうじゃなくて。ブラシよりメイクスポンジ使ったほうが。ちょっと貸して下さい」
 薪はイスに腰掛け、竹内の方に顔を向けた。目を閉じて、じっとしている。

 その無防備な美態に、竹内は思わず見蕩れた。
 重なり合った睫毛がきれい過ぎる。ぷるんとしたピンク色のくちびるが、つんと突き出した細い顎が、白くて優雅な首筋が……だめだ、理性が飛びそうだ。
 こんな何もかもあなたにお任せします、みたいな顔を見せられたら、どんな男だって一発で落ちる。自分がおかしいんじゃない、薪の可愛らしさが異常なのだ。

 やわらかな頬にチークを載せて、スポンジと指先でぼかす。アイシャドウの色合いを紫に近いものに替え、銀のラメを刷く。眦に強めのアイラインを入れて眼力を強調し、くちびるには緋色のルージュを。たっぷりとグロスを塗って、限りなく妖艶に。
 もともと長い睫毛にマスカラを二度付けすると、まるで舞台用の化粧のように華やかだ。これは目を引く。この睫毛とくちびるだけで、9割の男が釣れるだろう。

 ……店に出すのが心配になって来た。
 オーナーが来るのは10時ごろだが、それまでに他の客につかれたりしたら。

 男なら誰だって、この美女を抱きしめたくなる。このくちびるを奪いたくなる。その華奢な身体を組み敷いて、豊満な胸に顔を埋めて。
 店の中で、そんなことになったらどうしよう。なるべく自分が側にいるつもりだが、指名が掛かればその客のところに行かないのは不自然だ。

 方法はひとつ。
 人数を集めて、薪の指名を独占するのだ。

 竹内は携帯電話を取り出し、目的の番号をプッシュした。
「青木。第九の人間何人か連れて、歌舞伎町の『彩』ってスナックに、え、来てる? なんで?」


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ナルシストの掟(6)

 ようやくお礼の部分まで来ました。
 前フリ長くてすいません~。





ナルシストの掟(6)





 カラン、とカウベルを鳴らして、青木は仲間の後に続いた。
 スナック『彩』は、ごくごく普通の店だった。
 カウンター席が7つ。ボックス席が8つ。規模はそれほど大きくないし、店内の設備も並。夜の店らしく、やや暗めの暖色照明。客の入りは3割程度だが、8時台のスナックではこんなものだろう。

 女の子のレベルは中の上くらい――― いや、ひとりだけ飛びぬけた美女がいる。深紅のチャイナドレスをその魅惑的な肢体にまとって、ボックス席でひとりの男と額を寄せ合っている。
 男のほうが青木たちに気付き、手を上げた。それに気付いてこちらに頭をめぐらせた彼女は、大きな目を一杯に開いて立ち上がった。

「なんでおまえらがここに」
 妖艶な化粧の下の顔を青くして、薪は口中で呟いた。

 一瞬のアイコンタクト。

 青木。おまえ、みんなに喋ったな!
 すいません、薪さんが心配だったんです。
 罰として、1ヶ月間僕のマンションに出入り禁止!
 えええ! そんなあ。

「俺が呼んだんです。俺ひとりでいるよりも、グループの方が目立たないし」
 険悪な空気を読んだのか、竹内が助け舟を出してくれる。
 竹内は本当にいい男だ。これで薪に惚れてさえいなかったら、竹内が第九に敵意を持っているという薪の誤解を解いてやることは、やぶさかではないのだが。
 薪のチャイナドレス姿を見て、竹内も青木と同じような危惧を抱いたのだろう。だから青木に電話をしてきたのだ。つまり、竹内は現在も薪にこころを奪われている、ということだ。それが解っていて竹内の弁護を買って出るほど、青木は自分の立場に自信がない。

「こんなにPM集めて、勘付かれたらどうするんです」
 PMとは、警察官という意味のスラングだ。隣の席に人はいないが、用心に越したことはない。
「大丈夫ですよ。第九の連中は、一課(うち)の奴らと違ってPMには見えませんから」
「第九(うち)にだって、あれ、岡部は?」
「岡部さんだけは、遠慮してもらいました。あのひとは顔が売れすぎてますから。連中の間じゃ、もはや伝説になってます」
 青木はこの珍事の裏側を知っているから、岡部にだけは事情を話しておいた。他の第九の仲間には潜入捜査であることは言わず、竹内の知り合いに頼まれて薪がスナックにヘルプに入ることになった、面白そうだから見に行きませんか、と適当な嘘を吐いておいた。

 半信半疑でついてきた彼らだったが、薪の姿を見れば口をつぐまざるを得ない。髪の色と瞳の色が違うから別人かとも思ったが、この氷のような雰囲気と声は間違いなく本人だ。
 薪の動揺をよそに、かれらはわらわらと席に着き、薪と竹内を中心に輪になった。竹内の隣には小池が座り、薪の隣には曽我が陣取った。
 青木は、薪からいちばん離れた席に座った。恋人同士になってからは、こんなところにも気をつけるようにしている。

「室長。ビール注いでください」
「いい度胸だな、小池。僕に命令か?」
「ここで男だってことがバレたら、まずいんでしょう? だったら、それらしくしないと」
「なっ!」
「小池君の言う通りです。お願いします」
 竹内が小声で囁く。確かに、薪の不自然な態度は計画の頓挫を招く。

 アイコンタンクト2。
 青木! おまえのせいだぞ!!
 仕方ないですよ。薪さん、今はホステスさんなんですから。
 うるさい! 1ヶ月間、アフターのデート禁止!!
 ええええ~~!!

 細い手が滑らかに動いて、ビール瓶を両手で持った。そこまでは良かったが、瓶の傾け方が乱暴だ。小池のグラスには泡しか入っていない。
 きっと立ち上がってテーブルを蹴り倒したいのだろう。前髪に隠れた眉毛がぎりぎりと怒りの形に吊りあがっている。表面上は大人しくしているものだから、第九のみんなはそれに気付かないらしい。
 いや、気付かないフリをしているのかも。日頃から薪に苛め抜かれている彼らのこと、仕返しのチャンスは今しかない、と思っているのかもしれない。
「人選を誤ったかな」
 大学時代の友人を連れてくるべきだったか。しかし、有事の際にはひとりでも多く、薪を守れる人間がいた方がいい。

「竹内さんの彼女って、ここにお勤めなんですか?」
「え? ……ああ、そうなんだ。風邪を拗らせちゃってさ。ヘルプ入れなきゃクビになるって泣きつかれて、どうしようもなくて。で、室長に頼んだんだ」
 阿吽の呼吸で、竹内が青木に話を合わせてくる。カンの良さと頭の回転の速さは、さすが捜一のエースだ。
「なるほど。竹内さんの彼女のためにも、今日はカンバンまでお付き合いしますよ」
「あはは。そりゃありがたい。さすがに面倒見なきゃ、とは思ったんだけど、室長とサシでいるのは辛くってさ。おまえに連絡入れたってわけだ」
「二人きりじゃ、お通夜状態でしょうからね」
 さりげなく辻褄合わせをして、第九の連中に事件のことを悟らせないようにする。薪が部下をこの件に巻き込みたくないと思っていることを、このふたりは知っているからだ。

 しかし、彼らにはそんな気遣いは無用だったようで、すっかり薪を囲んで盛り上がっている。薪にお酌をしてもらう機会なんて、これを逃したら一生ない。
 薪も諦めたらしい。
 唯々諾々と、第九の面々に酒を注いでいる。箸でオードブルを挟んで、曽我の口に入れてやったり、一枚のポテチを反対側から宇野とふたりで食べたりしている。ちょっとポテチはやりすぎだと思ったが、これが普通だ、と今井に丸め込まれている。
 薪は、こういう店にあまり出入りしたことがない。ホステスがどういうことをするのか、よく知らないのだ。
 よって、「ホステスは一枚のポテチをお客さんと一緒に食べる」と教えられたら、それが本当だと信じてしまったらしい。

「コップにお酒を入れたら、まずはグラスに唇をつけて、それからお客さんに渡すんですよ」
 そんな不衛生な飲食店は存在しません。
「お客さんが何かを食べたいって言ったら、相手の膝の上に座って、お箸で食べさせてあげるんですよ」
 重量級のホステスだったらどうするんですか。
「お絞りで口元を拭いてあげるのも、ホステスさんの役目です」
 それはお母さんの仕事です。
「ふうん。おまえら、よく知ってるな」
 小学生でもわかりそうなウソなんですけど!

 部下の言うことを鵜呑みにして、納得したように頷いている。
 まったく、このひとは頭がいいのか悪いのか。
「またまた、とぼけちゃって。女の子を100人も斬ってる薪さんが、知らないはずないでしょう?」
「も、もちろん。ちょっとおまえらを試しただけだ。常識だよな、うん」
 ……バカだ、このひと!!

「じゃあ、えっと……ん」
 薪が口にポテチを咥えて竹内の方を向いたのを見て、青木はソファから転げ落ちそうになる。
 どうしてそこで竹内なのだ。相変わらず、ピンポイントで地雷を踏むひとだ。
 竹内は涼しげな眼に一瞬の熱情を宿したが、さすがに自制したらしい。彼が遠慮がちに首を振ると、すかさず今井が横から薪の口先を齧っていった。

 ここは―― 今井でよかった、と思うところなのだろうか。とりあえず今井には明日、業務終了後に下剤入りのコーヒーを飲ませてやろう。

 それから薪は、曽我の膝に乗ってフライドチキンを食べさせてやって、ちゃんとグラスにキスをしてから小池にビールを渡し、宇野の口元についたケチャップをお絞りで拭きとった。

 帰り道、全員まとめて歩道橋の階段から突き落としてやる。

 間違った授業はどんどんエスカレートしていく。
 薪が信じ込んでいるのをいいことに、手を握ったり足を撫でたり、そのたびに「オレの薪さんにさわるなー!」と叫びたいのを必死で我慢していた青木だが、そろそろ臨界点を超えそうだ。

「え? そんなことまでするのか?」
「はい。みんなやってますよ」
 青木の心中も知らず、薪はまた何やら騙されている。このひと、どこまでバカなんだろう。
「ん~、じゃあ」
「ちょ、ちょっと!!」
 小池の頬にキスをしようとした薪を、青木は慌てて引き止めた。

 くそ! 小池だけは大型ダンプが通るところを見計らって、車道に落としてやる!!

 さらにアルコールが進んでくると、座もくだけてきて、話の方向も下卑たものになってくる。仕事の話はタブーだから、女性の話や経験談や、普段は薪の前で慎んでいる話題も続々と上がり、彼らのテーブルは大賑わいだった。
 口ばかりで実体験の伴わない薪は、具体的な女性のからだの話に、目をウロウロさせている。頬の赤みは化粧でわかりにくいが、耳が真っ赤だ。100人は斬ったと豪語する薪の女性遍歴がハッタリであることを第九のみんなは知っているから、これは完全なセクハラだ。

 薪が平静を装いつつも、水面下で焦りまくっている様子を存分に楽しんだあと、彼らは仕上げに入ることにした。
「さーて、そろそろ、アレ、始めようぜ」
「待ってました!」
「ほい、クジ」
 部下たちが取り出したものを見て、薪の顔が青くなった。
 棒の端に番号が振ってあり、そのうち1本には『王様』と書いてある。こういう席では欠かせないゲームの王道。

「ほらほら、引いて引いて」
「みんな、引いたか? じゃ、せーの」
「王様、だーれっ?」




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ナルシストの掟(7)

 ちょっと私信です。

 K24さん。
 あのネタ、使っちゃいました。事後承諾になりまして、ごめんなさい。
 でも、サプライズのほうが喜んでもらえるかと(^^
 お怒りでしたら幾重にも膝を折りますので、どうかお許しを。




ナルシストの掟(7)






「3番のひと。5番のひとの手にキスする!」
「4番! 6番のひとを肩車!」
「2番の人! 4番のひとを膝枕して、耳掃除をしてあげる!」
「5番! 1番のひとをお姫様抱っこして20回転!」
「4番のひと! 3番のひとの胸に顔を埋める。3番はそれを抱きしめる!」
「1番のひと! 2番の人とメリージェーンを踊って!」
「6番! テーブルの上で女豹のポーズ!」
「6番のひとは5番のひとの太腿にキスを」
「ちょっと待てえ!!」
 棒が引かれるたびに、何故かずっと同じ人物が奴隷になっている。

 曽我の手にキスをさせられて、青木に肩車をされて天井のライトに頭をぶつけた。
 小池の耳掃除をさせられて、腰の辺りを撫で回された。
 今井に抱き上げられてくるくると回り、アルコールの作用もあって一緒に床に倒れこんだ。
 宇野の頭を胸に抱きしめたら、何故だか鼻血を出されて、スパンコールの蝶が一部赤くなった。

 ぴったりと身体を合わせるチークダンスを竹内と踊りだすと、気を利かせた店のスタッフがミラーボールを回してくれた。おかげで店中の客に注目されてしまい、恥ずかしさに悶死しそうになったので、防衛本能に基づいてフェラガモの靴を5回くらいヒールの踵で踏んでやった。ザマーミロ。

 テーブルの上に四つん這いになって、背中を反らせるケモノのポーズをとらされたあと、小池にスカートの中に顔を突っ込まれそうになって、とうとう薪は叫んだ。

「なんで僕ばっかり!?」

 もちろん、この百発百中の指名には裏がある。
 あらかじめ、第九の全員で合図を決めておいたのだ。1を引いたら右の耳、2だったら左耳。3だったら鼻を触り、4だったら顎を触る。王様になった人間は、それらの情報をもとに薪の番号を推測する。部外者は竹内だけだからその確率は二分の一だが、彼の隣に座った小池がこっそりと竹内の番号を盗み見て、その番号に該当する場所を左手で示す。最終的には、薪にすべての指名が行くようになっているのだ。

「やった、俺、王様!」
「あんまりえげつないこと言うなよ、小池」
「酒の席は無礼講だろ。じゃあ2番のひと! 上半身ハダカになって!」
「えっ」
「あれ? もしかして、薪さん?」
「かわいそー。でも、これはゲームですから」
「そうそう。思い切って脱ぎましょう」
「だ、だって、脱いだらバレ……」
「上半身がイヤなら、下半身でもいいですよ」
「おまえら、いい加減に……!」

 カンのいい薪のこと、これくらいのカラクリはすでに見抜いているだろうが、自分の正体をバラすわけにはいかないから、こうして言いなりになっているのだろう。第九の面々にもそれは分かっているが、とりあえず今が楽しければいい。後でどれだけ苛められてもいいから、今までの恨みを晴らすことで、彼らの意向は一致したらしい。

 アイコンタクト3。
 青木。おまえもグルだったんだな。
 すいません。先輩たちに言われて、仕方なく。
 言い訳無用! おまえとは別れる!
 そ、それだけは~~~!!
 じゃあ、なんとかしろ!
 ムリですよ~~!

 ここに岡部がいれば、連中を諌めてくれたはずだが、ストッパーのない状態でアルコールの入った彼らを止めるのは、青木には不可能だ。

「薪室長。滝渕です」
 竹内の囁きに、薪は視線だけを店の入り口に走らせる。
 被疑者の確認は一瞬で済んだ。脇田から預かった資料の中の写真によって、薪の脳裏には、はっきりと彼の顔が焼き付けられている。街中の雑踏ですれ違っても見つけ出せるくらい、明瞭に。
 滝渕謙三は53歳。白髪交じりの頭髪は短く、額に斜めに走った傷がある。いかにもヤクザ者、といった顔つきだ。身体は大きく、かなり太め。ずんぐりむっくりとした体型で、狸を思わせる。
 滝渕は両側に女をはべらせて、ウイスキーをロックで飲み始めた。両手とも4本しかない太い指には、金無垢の角ばった指輪。毛深い手首には、これ見よがしのロレックス。スーツもネクタイもブランド物だが、着ている人間は三流どころか最下層だ。

「おまえら、そろそろ帰れ」
 突然、口調を変えて、薪は言った。眼つきが、捜査官のそれになっている。
「なに言ってんですか。脱ぐのが嫌だからって」
「手品師の常套手段くらい、僕が知らないとでも思ったのか?」
 ソファの背もたれに背中を預け、薪は優雅に足を組む。細い顎を上げて周りを睥睨し、冷たい声で言い放つ。周りの空気の温度を自在に下げるのは、薪の得意技だ。
 アイメイクによって強調された眼力が、第九の部下たちに襲い掛かり、彼らの酔いは一気に醒めた。

「ヤバイです。薪さん本気で怒ってます。これくらいにしておいた方がいいですよ」
 青木が怯えきった口調で、皆の恐怖を煽る。青木の怖さが伝染した形になって、第九の面々は次々に席を立った。
「そ、そうだな。ぼちぼち引き上げるか」
「じゃ、竹内さん。俺たち、これで」
 そそくさと席を立つメンバーを見送るために、薪は立ち上がって出口の方へ歩いていった。レジの隣に立ってこちらを向いている薪の眼が、じっと滝渕に注がれているのを見て、竹内は微かな不安を抱く。

「青木。みんなと帰る振りして、おまえだけこっそり戻ってきてくれ」
「はい。そのつもりです」
 素早い返答に顔を上げると、青木は竹内と同じものを見ていた。青木も、薪の視線の意味に気付いたらしい。やっぱり、こいつは捜一向きだ。

 表面上はにこやかに第九の職員たちを見送って、薪はもう一度、滝渕のほうを見る。それを竹内は見ていた。
竹内の視界で、女の肩を抱いた滝渕の目と薪の視線が一瞬だけ、絡んだ。





*****


 作中のメリージェーンは、K24さんのアイディアです。
 K24さん、ありがとうございました。(^^

 『スナック女装』と『王様ゲーム』はこれでおしまいです。お楽しみいただけましたでしょうか?
 次の章からは、しづのシュミに走らせてもらいます。
 ええ、うちのお話は、ハラハラドキドキしなきゃつまんないでしょう?(笑)



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ナルシストの掟(8)

 ご報告です。

 『最愛の秘密』のK24さんが、『ナルシストの掟』のイメージイラストを描いてくださいました~~!!!(〃∇〃)


 K24さん、ありがとうございました!
 メリージェーンのアイディアを使わせていただいた上に、イラストまで描いていただくなんて。
 盗人に追い銭とはこのことですね!(もう少しマシな例えはないのか(--;)


 K24さんの麗しいイラストは こちら です。是非、ぽちっと押して、ご覧になってください!

 K24さんには以前にも、竹内のイラストを描いていただきました。(こちら です)
 この章は、K24さんのイラストのイメージで読んでいただくと、こんな幼稚な文章でも色っぽく読めるかも、です。
 どうぞお試しあれ。(^^






ナルシストの掟(8)






 薄暗い廊下に、濃密なエロスの空気が漂っている。
 どこかでよろしくやっている連中がいるらしい。こういう雰囲気は、肌で感じるものだ。店内での情交はしないようにと、厳しく支配人には言ってあるのだが。

 滝渕謙三は化粧室に続く廊下で、そっとその気配を辿り、一組の男女を発見した。
 一定の間隔を置いて壁に灯されたライトの下で、ふたりは夢中で抱き合っていた。女のしなやかな足が男の足に絡んで、男の唇が女の首を這い回っている。

 男も女も、えらく美形だ。ホストクラブでもなかなかお眼にかかれない色男と、これまたモデル顔負けの美女。これまで見たこともないような、いいオンナだ。この容姿なら、銀座のクラブでも生き残っていけそうだ。
 服装からするに、さっき、レジのところに立っていたあの女か。いい身体をしているとは思ったが、遠目でよく顔が見えなかった。
 ボーイの島村が知り合いの女性をひとり雇って欲しいと言っていたが、あの女のことか。いったい、どこであんな美女を見つけてきたのか、ボーナスを弾んでやらにゃなるまい。金額は、あの女の味次第だが。

 女はたっぷりと情感を含んだ眼差しで空を見つめ、男の愛撫を受け入れていた。露わになった首筋から肩のラインが官能的に薄暗がりに映える。その肌は、滝渕が今まで手に入れてきたどの女よりも白かった。

「あん、ねえ、部屋に行ってからゆっくりしましょ。アレ、使って……ね?」
 チャイナドレスのスリットから、女の陰部をまさぐっていた男の手が止まり、胸に埋められていた顔が上がった。
「アレはもう、手に入らないんだ。俺の知り合いがパクられちまって」
「え!? うそ!」
 行為の続きに戻ろうとした男の手を摑んで、女は言い募った。切羽詰った表情だ。
 
「他の人からも買えるんでしょう? だったら」
「やめたほうがいい。サツもこの辺、締めてきたみたいだし。ここらが潮時だろ」
「冗談じゃないわよ! アレがなかったら、あたし……」
 自分の要求に男が応えてくれないと解ると、女は男の身体を乱暴に突き飛ばした。胸の前を合わせて、イライラした調子で爪を噛む。
「なんでそんなに焦ってるんだ? 俺はおまえをシャブ中にするほど、クスリを渡してなかったはずだぞ」

 豹変した女の態度に、男は訝しそうに首を傾げたが、すぐにひとつの可能性に気付いて、女の華奢な腕を摑んだ。
 腕の内側を確認するが、探していたものはない。まあ、そんな見えるような場所に打つバカはいない。足の指の間とか、腿の内側とか。

「なんだ、これ! こんなに痕になるほど、おまえ、いつの間に」
 女の内股にその証拠を見つけて、男の顔色が変わった。
 真っ赤な布地から覗く白い腿。滝渕は思わず、唾を飲み込んだ。

「どこから手に入れたんだ? どうやって? まさかおまえ、俺以外の男と!」
「だって」
「っざけんなよ、この淫売!」
「きゃっ!」
 パン! という音が響いて、女が床に倒れた。女の顔を殴るなんて、ひどい男だ。ブスの顔なら構わないが、美女の顔は許せない。
 うつ伏せに倒れた女の背後から、嫉妬に狂った男は襲いかかった。
「いやっ! 乱暴にしないで!」
 スカートをたくし上げ、無理矢理足を開かせようとしている。必死で抵抗するが、しょせんは女の力だ。いくらもがいても、男の腕力には勝てない。服ははだけていく一方だ。白い尻に食い込んだ黒い下着が、ちらりと滝渕の目を掠めた。
「だ、だれか! 助けてっ!」

「おれの店で、揉め事はよしてもらおうか」
 ドスのきいた声で滝渕が一喝すると、ふたりはびっくりして跳ね上がった。
 特に男の方は滝渕の風体に恐れをなしたらしく、立ち上がって逃げる素振りを見せた。女の腕を摑んで連れて行こうとしたが、女は嫌がって首を振った。滝渕を縋るような瞳で見て、声もなく哀願する。

「待ちな。その女は置いていきな」
「こ、この女は俺の」
「兄さん、悪いこたあ言わねえ。この店から無事に出たかったら、おれの言うとおりにしな」
 欠けた小指を見せ付けると、真っ当な人間は大抵びびる。後は額の傷を見せてやれば、脅しめいたことは何も言わずとも、相手が勝手に逃げていくという寸法だ。
「そのイカした面がありゃ、他の女がいくらだって寄ってくるさ。なあ」
 凄んだ顔で笑ってやると、男は尻尾を巻いて逃げていった。床に腰を落としたまま、女は着衣の乱れを直している。やがてよろよろと立ち上がり、滝渕に向かって頭を下げた。

「ありがとうございました」
「気にするな。店の女の子は大事な身内だ。守るのは当たり前よ」
 太い腕が女の身体に伸びて、細い腰を抱き寄せた。びくりと身体を強張らせるが、抵抗らしい抵抗はしてこない。とりあえず、今夜にでも味を見ておくとするか。

「あっ、いや」
 スカートの中に手を入れて、注射針の痕を探る。
 なるほど、ボツボツと痕がある。相当、のめり込んでるな、この女……。
「うちに来れば、いくらでもあるぜ」
「え?」
「欲しいんだろ。これ」
 すべすべした内股をさすりながら、クスリの存在をチラつかせると、女は一も二もなく飛びついてきた。

「あの、ここで欲しいんだけど」
「今は持ってねえ。家に行かなきゃ、ダメだ」
 微かな困惑が女の瞳を曇らせたが、すぐに腹は決まったようで、彼女は素直に滝渕の後をついてきた。袖なしのチャイナドレスから可愛らしく覗いた華奢な肩を抱き寄せて、滝渕は好色な笑いを洩らした。




*****




 店の裏口から出てきた二人の男女を見て、脇田は目を剥いた。
 体格のいい滝渕の陰に隠れるようにして歩いてくる女は、赤いチャイナドレスを着た、眼の覚めるような美女だ。
 二人は流しのタクシーを拾うと、後部座席に乗り込んで身体を密着させた。タクシーはすぐに発進し、渋谷方面に向かう。
「ちっ。薪の野郎、また勝手なことしやがって。おい、あのタクシー追え。1班、2班、渋谷方面だ。追って指示する」
 覆面パトカーの助手席で、脇田は苦く吐き捨てるように言い、無線で計画の変更を部下に告げた。



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ナルシストの掟(9)

ナルシストの掟(9)






 タクシーの後部座席で、腹の底から沸き起こる嫌悪感と戦いながら、薪は身を固くしていた。

 男の太くて短い指が、薪の太ももを撫でている。中心に触られたら女じゃないことがバレてしまうから、そこから奥へ入ってこないように両手でガードしている。タクシーの運転手の目があるから、胸には触ってこない。それだけでも命拾いしている。
 店で現場を取り押さえることはできなかったが、もっと大きな収穫が得られそうだ。滝渕の自宅まで行って証拠を押さえれば、自分の店舗で麻薬が使用されていたことによる管理者責任ではなく、滝渕本人の罪として逮捕することができる。任意ではなく、容疑者として取調べができるのだ。

 こんなにすんなり行くとは思わなかった。これは、竹内の功績だ。作戦を持ちかけたのは薪の方だが、竹内はよくやってくれた。芝居が真に迫っていたから、滝渕が引っ掛かったのだ。
 竹内とて、男の身体なんか触りたくもなかっただろうに。生理的な嫌悪感まで押さえ込んで、捜査のために自分の役目を果たしたのだ。そこは正当に評価しなくてはならない。女ったらしの遊び人だが、職務に対する情熱だけは一級品だ。岡部が仕込んだだけのことはある。

 それにしても、迫真の演技だった。
 首筋を舐められたときには、ちょっとゾクッときた。内股をまさぐられたときには、思わず腰が震えてしまった。後ろからのしかかられたときには、マジで焦った。
 あの場面を青木に見られたら、大変なことになっていた。芝居だと分かっていても、キレていただろう。青木はあれでけっこう、よくキレるのだ。この状況だって、青木が知ったら大騒ぎだ。連中と一緒に帰ってくれて良かった。

 店で第九のみんなと飲んでいたとき、青木はすでに恐慌状態だったのだが。相変わらずこういうことには、てんで鈍い薪である。

 滝渕と乗ったタクシーがAホテルの玄関に横付けになって、薪は心の中で舌打ちした。
 自宅ではない。もしかすると、勘付かれたか。
「本当にここにあるの? あなたのおうちじゃなくて?」
「ああ。家には妻がいるからな。おまえを連れて行くわけにはいかないだろう? ここは二つ目の家みたいなもんだ」
 滝渕に案内された部屋は、25階のスイート。クスリで吸い上げた金で、贅沢三昧というわけか。絶対に捕まえて、刑務所にぶち込んでやる。

 部屋に入ると同時に、丸太のような腕に抱き寄せられた。キスをしようとせまってきた顔を両手で押しのけて、薪はクスリの在り処を探ろうとした。
「先に、クスリを見せて」
「わかったよ。ほら」
 寝室のサイドテーブルの引き出しを引くと、中に小型の注射器とアンプルのセットがたくさん入っている。これで証拠品は充分だ。

 薪たちが乗ったタクシーの後ろから、覆面パトカーがついてきていたのは確認している。滝渕の隙をみて携帯を鳴らせば、脇田たちがここに雪崩れ込んでくる。滝渕に先にシャワーを使わせて、その間に連絡を取ればいい。さっさと終わらせて、家に帰ろう。
 無事に捕り物が終わったら、青木を呼んで、この前の続きをしてもいい。昨日は今日のことが気になっていてそれどころじゃなかったけど、すべて決着がついた後なら。べつに僕だって、あいつと夜を過ごすのがイヤってわけじゃないし。

 だけど。
 もう少しだけ、探りを入れてみようか。滝渕の上にいる人間の情報を、いくらかでも聞き出せたら。

「おれがこいつを見せたんだから、あんたもおれに本当のことを言いな」
 不穏な言葉に、薪の心臓が凍りついた。嫌な予感は的中し、滝渕はナイフを取り出して、薪の目の前に突き出した。

 もしかして、僕の正体に気づいたのか? だったら、どうしてここまで連れてきたんだ?

 太くて短い4本指が、黒髪に絡んだ。思い切り引っ張られる。まずい、と思ったときにはカツラをむしりとられて、チャイナドレスの胸を切り裂かれていた。
「やっぱり男か。匂いが違うと思ったぜ」
 くそ、ここまでだ。
 もう少し粘るつもりだったが、自分が男だとバレてしまったら、これ以上の情報を得るのは不可能だ。

「安心しな。ちゃんとクスリは分けてやるよ」
 滝渕の顔に、自分が騙されたことに対する怒りが浮かばないのを見て、薪は考えを改めた。そうだ、客の振りをすればいい。滝渕はまだ、薪のことを中毒者だと思っている。その筋から探ればいい。
「本当? 良かった、僕……わっ!」
 切り裂かれたドレスを脱がされそうになって、薪は焦って身を翻した。びっくりして、滝渕の顔を見る。

「おれは男も平気だぜ。ムショの中で、何回も抱いてる」
 ……何故この可能性に気づかなかったんだろう。暴力団や極道の世界では、よくあることなのに。
「おまえもそのつもりで付いて来たんだろ?」
「あ、う、うん」
 本当のことを言うわけにはいかない。でも、こんな展開は予想していなかった。男だとバレた時点で、アクションスタート、の計画だったのだ。

「ま、待って! これ、次に欲しくなったら、どうしたらいいの?」
 顔面5cmの距離に近付いた分厚い唇を避けて、薪は横を向いた。嫌がっているのを悟られないように甘えた声を出し、情報を引き出すために演技を重ねる。男のたるんだ頬に手を添えて、指先ですっと撫で上げ、上目遣いに微笑んで見せた。
「おまえが言えば、都合してやるよ」
「あなたが警察に捕まらないって保証は?」
 滝渕は、ちょっと嫌な顔になった。確かに失礼な聞き方だが、ゆっくり問い質している余裕はない。

「ごめんなさい。でも僕、本当に困るんだ。さっきの男もダメになっちゃったし。あなたの買い付け先を教えてくれたら、なんでもするから」
「わかったよ。教えてやる。その代わり、な」
「あっ、待って。先に教えて」
「こっちが先だ」
 くそ、固いな。
「お願い」
「ダメだ」
 そう都合よくはいかないか。
 どうしよう。もうちょっとで聞き出せそうなのに。

「わかった。じゃ、先にシャワー浴びるね」
 相手の要求に応じる振りをして、その場を離れる。このままじゃラチがあかない。
 洗面所兼脱衣所に逃げ込んで、必死で考えを巡らせる。何とかして、滝渕から情報を聞き出したい。いっそのこと、あのナイフを奪って脅してでも――――そのくらいで吐くようだったら、極道なんかやってないか。
 となると、残る手段は。

 ふと顔を上げると、洗面所の鏡に自分が映っている。
 派手な化粧にケバケバしい衣装。
 ものすごく無様な姿だ。

 とりあえず、このみっともない化粧だけは落とすことにして、薪は顔を洗い始めた。カラーコンタクトを外して、石鹸を泡立てる。
 化粧を落としてから自分の顔を見ると、今度は泣きそうな顔になっている。弱気な表情をして、むき出しの肩が微かに震えてる。

「くっそ……」
 なにを尻込みしてるんだ、このくらいのことで。
 この状況を利用すれば、組織の情報が手に入る。もう少し、もう少しだ。

 薪は服を脱ぎ始めた。
 浴室に入って、シャワーを浴びる。強めの水流で、臆病な自分を流してしまおうと試みる。

 滝渕と寝たら、青木が怒るだろうな。
 だけど、このまま放っておいたら、クスリの被害者は増える一方だ。ここで情報が得られれば、組織を壊滅できるかもしれない。
 そうしたら、何千人ものひとが助かるんだ。それを考えれば、こんなのは何でもないことだ。青木だって解ってくれるはず。あいつも警察官なんだし。ていうか、そんなことで怒るようだったら、こっちから引導を渡してやる。

 石鹸を塗った指を後ろから忍ばせて、その部分を清める。行為の前のこの準備は、薪にとってとても屈辱的なことだ。青木と会う前には必ず行なうのだが、ひどく恥ずかしくて、と同時に少しだけときめいたりして。
 でも、今は。
 これからあの男の手が自分に触れるのだ、と思うと、すぐにもこの場から逃げ出したくなる。そのことを想像すると、膝に震えが走る。
 そんな弱い自分に気付かない振りをして、薪はシャワー室から出た。

 鏡でもう一度、自分の顔を確認する。
 こんな怯えた顔じゃダメだ。冷静に。落ち着いて。
 大丈夫。これくらい、たいしたことじゃない。

 寝室に戻ると、滝渕が缶ビールを飲みながら薪を待っていた。薪の素顔を見て、驚いた顔をする。
「ほう。えらいベッピンじゃねえか。化粧なんか、しねえほうがいいぜ」
 親指と二本の指で顎を挟まれ、顔を上げさせられる。薪は臆せず、滝渕の顔をじっと見た。

 ここで目を閉じるのが自然だと思ったが、どうしてもイヤだった。すでに覚悟は決まっていたが、くちびるだけは許すまいとつまらないことを考えた。
 売春婦の中には、キスだけはお客と交わさない女がいるそうだ。それだけは本当に好きな人とする、と言う話を聞いた。身体を売ることを生業にしてるくせに、そんなことに何の意味があるんだろう、とそのときは思ったが、今は彼女たちの気持ちが少し分かるような気がする。

「あんた、名前は?」
「薪」
 名前なんか聞いて、どうするんだろう。
 ああ、そうか。顧客リストに名前を載せるのか。しまった、つい本名を……まあ、いいか。どうせあと数時間で、こいつはパトカーに乗ることになるんだ。

「あなたも、シャワーを」
「……ああ」
 滝渕がシャワー室に入ったのを確認し、薪は脇田に電話をかけた。
「部屋は2502。突入は1時間後。僕が合図にカーテンを開けますから」
『薪、大丈夫か? ムリしてんじゃねえのか?』
「大丈夫です」
 脇田はまだ何か言いたそうだったが、薪は電話を切った。それから、サイドテーブルの引き出しを開ける。そこにはアンプルと、小型の注射器が入っている。

 注射器を手にとってクスリを吸い上げ、薪は暗い瞳で注射針の先を見つめた。




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ナルシストの掟(10)

ナルシストの掟(10)






 滝渕が部屋に戻ると、今夜の恋人はバスローブ姿でベッドの端に腰掛けていた。

 長い睫毛に囲まれた亜麻色の瞳が半開きになり、その視線は空をさまよっている。ちいさな手に載せられた、注射器とアンプルの小瓶。瓶も注射器の中も空っぽで、その中身は彼の身体中を血液と共に巡っている最中らしい。
 隣に座って、華奢なからだをベッドに横たえる。バスローブの紐を解いて滑らかな肌に触れると、固く強張っている。まだクスリが回りきっていないのか、常習しすぎて1本では効かないのか。
 抵抗されたら厄介だ。事前に手を打つに限る。
 滝渕の懸念は、もうひとつある。どちらかというと、こちらの方がより重要だ。

「あっ、なにを」
 バスローブの紐で、手首を縛る。足を広げさせて、例の場所を確認する。
 ローブの下はなにもつけていないから、下腹部が丸見えだ。シミひとつない内腿と、やわらかそうな尻。その間にある、滝渕も見慣れたもの。

「やっぱりな。あんた、クスリなんかやっちゃいねえだろ」
 注射針の痕は、フェイクだ。
 触感にまで拘ったメイクを風呂場で落としてきちまうなんて、よっぽど動転していたに違いない。先刻からの不自然な態度といい、こいつは男の相手などしたことがないのだろう。さっきの男とのことも、芝居だったに違いない。

 びくっと細いからだが震えた次の瞬間、思いがけない素早さで、紐で結ばれた両手が滝渕の顔面めがけて繰り出された。すんでのところでそれを避け、手首を捉えてベッドに押しつける。
 明らかに訓練された者の動きだ。どうやら、悪い予感が当たってしまったらしい。
「あんた、サツの犬か? さっきの男もグルか」

 薪はギッとくちびるを噛んで、滝渕の顔を睨みつけた。亜麻色の大きな瞳が怒りに燃えて、熾烈な輝きを宿している。
 驚いた。
 今まで男は女の代用品という考えしかなかったが、こいつはそそる。恥辱に頬を染めている表情もクるし、手首の拘束を解こうと、もがくさまにも煽られる。

 こんな細っこいからだを押さえ込むのは、滝渕の体躯をもってすれば簡単なことだ。腹の上に跨って体重を乗せれば、相手はぴくりとも動けなくなる。
「どうして分かった?」
 観念したのか、薪は大人しくなった。抵抗するのをやめて、静かな瞳で滝渕を見上げる。
「下手な芝居だったか」
「いや。良い演技だったよ。ここに来てコンタクトを外すまでは、正直信じきってた」
「コンタクト?」
 眉をひそめて、薪は尋ねた。

「目がな」
 やわらかい頭髪に太い指を差し入れ、下方に梳く。さらさらと手触りのいい、極上の絹糸のようだ。
「キレイすぎるんだよ、あんたの眼は。ヤクをやってる人間の目ってのは、そんなに澄んじゃいねえんだ。おれはジャンキーを何人も見てるからな。分かるんだよ」
 ガラス玉のように透明な瞳が、じっと滝渕を見ている。その清涼感に、滝渕は焼かれるような苛立ちを覚えた。

「どんな小さな罪も、犯したことなんかないんだろ、あんた。キレイな顔に相応しい、おキレイな人生送ってきたわけだ」
 どす黒い感情が、滝渕を支配する。こいつとは、長い付き合いだ。こいつは、滝渕を今の地位まで押し上げてくれた。だから滝渕は、この感情を歓迎している。
「ガキみてえに、キラキラキラキラしやがって。おれはそういうの見ると、めちゃめちゃムカツクんだよ。ぐちゃぐちゃに踏み潰してやりたくなるんだよ。」
 感情のままに、薪の小さな頬を手の甲で張り飛ばす。指輪がぶつかったのか、薪の右頬には傷が付き、口元から血が流れた。

「男の相手だって、初めてなんだろ? ガチガチに緊張しちまって」
「何の罪もない、か」
 幼い顔に似つかわしくない、妙に老成した声が滝渕の耳に届いた。驚きとともに、滝渕は言葉を飲み込んだ。
「おまえの目は、節穴か」
 ふっと唇を歪めて、薪は苦く笑った。
 それは彼の容貌にはひどく不釣合いな、まるで人生の終盤にさしかかった老人のような乾いた笑いだった。

「僕は、40人殺してる。いや、40人じゃきかないか。被害者の遺族の中には、絶望から自殺した人間もいるし。僕が犯人を検挙したせいで失われた命も、たくさんある。数え切れないくらい多くの人々の平穏を奪ってきたし、踏みつけてきた」
 不穏当な発言とは裏腹に、どこまでも澄み切った瞳が滝渕の濁った眼を射抜く。長い間忘れていた感傷に囚われそうになって、滝渕は4本しかない指を握り締めた。
「直接手を下したのは一人だけだが、ひとの命を奪ってきた事実は変わらない。自分の手を汚さずに……おまえと一緒だ」

 だから。
 こんな罪に塗れた身体ひとつで、大勢の命が救えるなら。
 僕はためらったりしない。

 声に出さない薪の声が聞こえたような気がして、滝渕は固まった。
 優位に立っているのは、自分のはずなのに。この男の命を握っているのは、自分なのに。勝てる気がしない。

 ベッドの上で、上と下の位置関係で。ふたりの男は、しばし無言で睨み合った。




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ナルシストの掟(11)

ナルシストの掟(11)








「そのきれいごとが、いつまで続くかな。ここにあるヤクだけでも、全部打てば楽にあの世に逝けるぜ」
 薪の両手を革のベルトでベッドヘッドに固定して、滝渕は残忍な笑いを洩らした。
もがき続ける薪の足を1本ずつ縛る。足を曲げさせて広げさせ、足首と太ももとを繋ぐ拘束具で自由を奪う。こういうものが用意してあるところを見ると、ここは滝渕がそういう目的に使っていたところらしい。何人もの中毒者がクスリをチラつかされてここに引き込まれ、この男の餌食になってきたのだろう。
 手足を縛られては、いくら薪が黒帯でも反撃はできない。こうなったらネゴシエイトだ。

「外で5課が待機している。素直に投降すれば、おまえの罪もいくらかは軽くなるぞ」
「まあ、そうだろうな。潜入捜査がされるってことは、アミ(包囲網)も完璧だろう。おれも年貢の納め時ってことよ」
 滝渕は状況を冷静に把握している。末端の売人ではないから、それなりに頭も切れるのか。
「ムショに入る前に最後に抱くのが、男だってのはちょっと悲しいけどな。まあ、いいや。塀の中にはあんたみてえなシャン(美人)はいねえからな。せいぜい、楽しませてもらう」
 臍を噛む思いで薪が滝渕の様子を見ていると、滝渕はベッドの下から粉状のクスリを取り出した。水で溶いて注射器で吸い上げる。

 ……ちょっと待て。それ、致死量超えてないか?

「少し多すぎるんじゃないか? 楽しむだけなら、その100分の1くらいでよくないか?」
 1グラムの覚醒剤で、人間死ぬんだぞ。おまえもプロならわかってるだろ!?
「あの世に逝く瞬間の女の締まりは、最高なんだぜ。男で試すのは、あんたが初めてだが」
 そんなのなくても、僕のは締まりいいから! よすぎて最初、入らなかったくらいだから! 今でもけっこう苦労して、ってそんなこと言ってる場合か!

「僕を殺したら、極刑になるかもしれないぞ」
 心の中の焦燥を表に出さないよう注意して、薪は落ち着いた声で言った。ネゴシエイトは、相手に焦りを悟られたら負けだ。
「なに寝ぼけたこと言ってんだ。この世界、捕まったらゲームセットなんだよ」
 自棄になってる。当たり前か。
 どのみち、滝渕に未来はない。警察に捕まって刑務所に送り込まれた麻薬の売人がどんな末路を辿るか、薪だって知らないわけではない。五体満足では出て来れない。そして刑務所から出たら、組織の報復が待っている。薪に恨みを持つのは当然のことだ。

「そう悲観的になることはない。親元を教えてくれれば、その情報と引き換えに、おまえの身の安全は警察で保証する。おまえの協力次第で、情状酌量の余地も」
「サツに人生売るくれえなら、死んだ方がマシだ」
 だめか。
 どの世界でも、頑固者ってのは厄介だ。

 滝渕がこちらを振り返った。注射器の先端から、透明な液体がこぼれる。
 滝渕の眼は、冷徹な殺人者の眼だ。これは滝渕にとって、いつものゲームに過ぎないのだ。ゲームが終わってここに死体が転がったとしても、薬物に溺れた人間のひとりくらい、跡形もなく消してしまう。組織犯罪の恐ろしさを、薪は厭というほど知っている。

「やめろ! 打つな!」
 さすがに、冷静を保てなくなってきた。声が恐怖に裏返る。
「打っといたほうがいいぜ。初めてなんだろ? これがありゃあ、最初から天国に逝けるぜ」
「いや、大丈夫だから! 何度もイッたことあるから! 僕はもうベテランだから!」
 本当はこの1年の間に、まだ1回ぐらいしかそうなったことがないのだが、ここはこうとでも言わないと。
「あん? もしかして、あんたアンコなのか?」
「ま、まあ一応、その……今のところは」
「ふーん。純情そうな顔して、見かけによらねえな」
 納得はしてくれたようだが、手を止める気はないらしい。悪魔の液体をたっぷりと含んだ注射針の先が、薪の首に近付いてくる。
「よせ! やめろ!!」
 こんなところでこんな奴に犯り殺されるなんて。
 いくらなんでも、この死に方はあんまりだ。こんなことなら、こないだ青木に死ぬかと思うほどイかされたとき、素直に死んどきゃよかった、ってそうじゃなくて!!

 そのとき、2発の銃声が轟いて、ベッドの上のふたりは硬直した。間髪入れずにドアが蹴破られ、2人の男が入ってくる。
「滝渕! 無駄な抵抗は、ってこら! 青木!」
 名前を呼ばれた長身の男は、銃口を滝渕の頭に突きつけると、無言で注射器を払い落とした。首の部分を掴み、ベッドの下に投げ落とす。
 現場に踏み込んだときのセオリーは、犯人に投降を呼びかけてから、抵抗するようなら反撃し、犯人を確保する。決して警察側から先に手を出してはいけない。相手が凶器を所持しているようなら威嚇射撃も止むを得ない、とされる。
 なので、青木がいまやっていることは大間違いだ。丸腰の相手に銃を突きつけて、両手を上げた相手を乱暴に床に投げつけた。重大な職務規定違反である。始末書が5枚ばかり必要になりそうだ。

「わかった、大人しくするよ……ぎゃっ!!」
 犯人が降参の意を示したのに、銃身で殴った。しかも3発も。始末書はあと3枚、追加だ。
「おい青木、それくらいで」
 竹内が、ベッドの上に横たわっている薪に気づいて言葉を止めた。
 生まれたままの姿で、両手を拘束され頭上に結わえられている。革ベルトで両足を固定され、脚をMの字に開かされて。
 竹内は黙ってシーツを薪の身体に掛けると、床に転がった滝渕を青木と一緒になって蹴り始めた。始末書の山が出来そうだ。

「おまえら! 先に僕の拘束を解け!」
 警視正として室長として、部下の暴走を止めないといけない。
 薪は大声で叫んだ。

「僕にも殴らせろ!!」




*****


『アンコ』というのは、マルボー用語で受け役の男のひとのことです。
 ご存知の方、いらっしゃったかしら。


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ナルシストの掟(12)

 たった6日、ブログを離れただけなのに、気分はすっかり浦島太郎・・・・(@@)
 Mさんのところでは「SLIP」完結してるし、Yさんのところは「鳳仙花」あとがきに入ってるし~~。Kさんのところは「紅葉」のあとがきにリンク張ってもらった御礼もせずにいて・・・・うにゃああ、申し訳ないことだらけです(><)
(作品名を出した時点で、イニシャルの意味ない(笑))


 そして、K24さんがイラストを描いてくれたことも知りませんでした!
 遅ればせながら、リンクさせていただきます。(^^

 こちらからどうぞ!

 薪さんの色っぽーいおみ足が見られます(〃∇〃)

 モロ、三角関係の構図だし。(笑)
 こちらのイラストに文字を入れるとしたら。
 愛憎渦巻くサスペンス劇場『ナルシストの掟』~妖艶な美女をめぐって、二人の男が骨肉の争いを~  
 って昼メロ!?


 冗談は置いといて、お話のほうですが。
 ここからは、特定の方のお好みで、青木くんの鬼畜R系になってます。と言っても、激しいものではないので、子供が読んでも大丈夫です。(いや、子供はまずいか)
 でも、やさしい青木くんと彼に包まれて幸せそうな薪さんがお好みの方は読まないほうが無難です。それと、青木くんが薪さんより優位に立つのが嫌いな方も要注意です。

 では、大丈夫な方のみお進み下さい。






ナルシストの掟(12)






 自宅のドアを開けると同時に、薪の携帯が鳴った。
 春物のコートを脱ぎながら、薪は電話に出る。電話の相手は予期した通り、今夜の仕事の相棒だった。
「脇田課長。先程は申し訳ありませんでした。うちの職員が、とんでもないことを」
 薪は電話をしながら、思わず頭を下げた。脇田の姿が見えなくても、頭を低くせずにはいられない。常識では考えられないことをしでかしてくれた、バカな部下のせいだ。

 青木は第九の職員たちと別れた後、竹内と連絡を取って現場にやって来た。張り込んでいた現場の人間から薪が置かれた状況を知ると、作戦を聞こうともせずに即行で踏み込もうとしたらしい。それを止めようとした5課の職員を投げ飛ばし、さらには彼から拳銃を奪い取ってホテルの玄関に突っ込んでいったと聞いた時には、いっそあのまま滝渕にクスリを打たれていたほうがマシだったと思うくらい、絶望的な気分になった。

 竹内から事情を聞いた薪は、みんなの前で思い切り青木の頬を張り飛ばした。青木の勝手な行動で、作戦が台無しになるところだったのだ。
『薪室長。青木を責めないでやって下さい。元はと言えば、俺が』
 青木とは仲の良い竹内が、薪の二発目の拳を押さえた。
 竹内は青木を止めようと後を追ったが、青木が拳銃で部屋の鍵を壊したの見て、諦めたそうだ。脇田に合図を送り、青木と共に部屋に踏み込んだ。
 結果として薪は命拾いしたわけだが、上の命令に逆らうことは警察官にとって最大のタブーだ。指揮系統が乱れたら、組織は崩壊する。
 青木がやったことは、重大な背信行為だ。減俸処分くらいで済めばいいが、脇田にクレームをつけられて、査問会に掛けられたりしたら。

「無理は承知でお願いします。今回のことは、何とか穏便に」
『かかか! 第九にあんなはねっ返りがいたとはな! ちょっと見直したぜ』
 脇田の豪快な笑い声に、薪は胸を撫で下ろした。どうやら事なきを得そうだ。
「ありがとうございます。部下には、僕の方から厳しく言っておきますので」
『お前さんが言えた義理かい? 勝手な行動は、お前さんも得意だろうが』
 屈辱だ。青木(バカ)と一緒にしないでもらいたい。

「脇田課長。僕に何か用事だったんじゃ……え!? 自白した?」
 服を脱ぎかけた薪の手が止まる。
 一刻も早くこのボロボロの衣装を替えようと思っていたのだが、電話の内容は重大だ。こちらが先だ。
「滝渕が、組織のことを喋ったんですか?」
『おう。パトカーの中で、歌いまくったぜ。おかげでこっちはてんてこ舞いよ。今夜中にもガサ入れだ』

 意外だ。
 絶対に口を割りそうになかったのに。取調べは長引くと思ったからこそ、薪は自宅に戻ったのだ。
 青木に車を運転させて、Aホテルから帰ってきた。今日は疲れてるからゆっくり休んで、明日は滝渕の取調べに立ち会うつもりだった。

「どうして?」
『警察が自分の身を守ってくれる、と判断したんだろ』
 そうだろうか。
 とてもそんなことを考えているようには見えなかった。あのとき、滝渕は薪を殺そうとしたのだ。致死量を遥かに超える覚醒剤を投与しようとして。薪が死んでいたら、情状酌量も何もなかったはずだ。

『滝渕がお前さんに注射しようとしたクスリな。ただのブドウ糖だった』
「ブドウ糖?」
『お前さんを殺す気なんか、なかったんだよ。ちいっと脅してやっただけだ、って言ってたぞ。焦るお前さんの顔が面白かったって、笑ってた』

 ちょっと? あれがちょっと?
 冗談じゃない、本気で死を覚悟したのに。

『お前さんに礼を言っといてくれとさ。最後にいいもん拝ましてもらった、って』
「いいものって?」
『女装のことだろ』
「まさか」
『じゃあ、ハダカの方か』
「もっとありえません」
『ガラス玉だと思ったら、宝石だったって言ってたな』
「はあ?」
 さっぱりわからない。

「なんのことですか? それ」
『なんで俺に訊くんだよ。滝渕と交渉してたのは、お前さんだろ』
「僕にだって、見当もつきませんよ」
 他人が何を考えているのかなんて、ちっとも解らない。罪を犯すに到った心理はすらすら読み解く薪だが、こういうことはまた別だ。

 なぜ、滝渕は心変わりしたのだろう。いや、あの腐りきった男のことだ。ガセネタということも考えられる。警察に一泡、吹かせようとしているのかも。
 しかし、それが自分に何のメリットもないということは、滝渕もわかっているはずだ。あの男はバカではない。そうなると、残る可能性としては。

 あらゆる仮説を検討していた薪は、一緒に部屋に入った部下が、いつの間にか傍らに立っていることに気付かなかった。ひょいと身体を抱え上げられて、現実に戻ってくる。
「青木。後にしろ。今ちょっと考えて」
 相手をしてやらないわけではないが、シャワーを浴びて着替えてからだ。さっき滝渕にあちこち触られたままの身体なんて、こいつだってイヤだろう。

 薪の抗議を無視して、青木は寝室に入った。
 先月、買ったばかりのダブルベット。まだスプリングが少し硬い。
 そのベッドに、薪の身体を乱暴に押し付ける。硬いバネが薪の背中で、ギシッと音を立てた。

 さっきから青木は、一言も喋らない。
 むっつりと表情を消している。いつもは熱っぽく薪を見る眼鏡の奥の瞳が、モニターを見るときのように細く眇められている。その眼は、薪に何も語りかけてこない。
 青木がこうなったことは、今までにも何回かあった。
 ヤキモチだ。
 まったく、公私混同もいいところだ。今回のこれは職務で、仕方のないことだったのに。

「青木、あのな。今夜のことは、別に僕が自分から望んだわけじゃなくてだな。昨日話した通り、5課の課長に頼まれて。店では証拠を押さえられなかったから、あの男について行っただけで、おまえを裏切ろうとしたわけじゃない」
 薪の釈明を、青木は黙って聞いていた。しかし、彼は薪の肩を押さえつけたままで、薪を自由にしてくれる気は無いようだった。

「あの男とは、何もなかった。ちょっと足とか触られたくらいで、唇も許してない」
 不貞を働いていない事実を告げても、青木の表情は変わらなかった。
 今回の嫉妬は、大きそうだ。ここはひとつ、こいつが喜びそうなセリフを言って、機嫌を取ってやるとするか。

 薪は顔を横に向けて、瞼を伏せた。視線を自分の右肩に固定して、小さな声で呟く。
「その……おまえのために、守ったんだぞ。だから、機嫌直せ」
 これでこいつは、尻尾を振って懐いてくるはずだ。こいつを調子付かせると明日の朝が辛いから、あまりこういうことは言いたくないのだが。

 ところが、薪の読みは外れた。
 青木は薪の両手首を合わせ、自分の右手でその自由を奪うと、左手で破れたチャイナドレスの胸を更に引き裂いた。赤い布地に歯を立てて布目に沿って細く裂くと、急ごしらえの紐で薪の手首を縛った。
 人間、あまりにも意外な行動に出られると、思考が停止してしまうものらしい。薪はろくな抵抗もせず青木の狼藉を許し、その後、自失状態から復帰したときには、既に両手の自由を奪われていた。
 正気に返って、思わず叫ぶ。

「青木! ヤキモチも大概に―― 痛っ!」
 怒鳴りつけてやろうとしたら、手首を捻り上げられた。頭の上に押さえつけられて、肘がギリギリと痛んだ。
 なんなんだ。
 どうして1日に二度もこんな目に遭わなきゃならないんだ。しかも、こっちはプライベートなのに。
 こいつ、さっきの僕の格好見て、ヘンなことに目覚めちゃったんじゃないだろうな。

「ほどけ! 僕はそんな趣味は」
 ジャキ、という金属音に身を竦ませる。音がした方向を見ると、青木が右手に鋏を持っていた。
 ピカピカ光る裁縫用の裁ちバサミ。いつの間に持ち出してきたのだろう。
「あ、あおき……?」

 青木が自分の上から退いても、薪は用心深く動かずにいた。
 眼の色が、尋常じゃない。これは下手に動かないほうがいい。
 嫉妬に狂った男に鋏で刺されるなんて、そんな事件を起こしてたまるか。第九のみんなにも、僕たちのことを見逃してくれている小野田さんにも、申し訳が立たない。
 他にも、青木の親や親戚や友人や、雪子さんにだって。周りへの影響を考えると、滝渕に注射器を突きつけられたときよりも、こっちのほうが状況はより深刻だ。

 青木は鋏を操って、スリットが入っていない側の布地を切った。足を摑まれて、乱暴に開かされる。下着の上に尖った鋏の切っ先を当てられて、薪のからだの中心が縮みあがった。

 まさか、切り落とす気じゃないだろうな。これさえなければ浮気しないでしょう、とか言い出すんじゃないだろうな。いくらこいつがヤキモチ妬きだって、そこまでは。

 ジャキジャキと布を切る音がする。
 冷たい金属が尻肉に触れて、薪は身を固くする。動いたら大怪我しそうだ。

 下着を切られた。尻の辺りがスースーする。ビキニパンツはこれしか持ってないのに。3ヵ月後のこいつの誕生日のときに穿いてやる計画は、無期延期だ。ていうか、永久に棚上げだ。

「あっ、やっ、ちょっ……!」
 足を肩に担がれて、腰を持ち上げられる。スカートを捲し上げられて、切られた下着の隙間から熱を持った先端をあてがわれる。

 このまま?
 嘘だろ!

「いっ、痛うっ!!」
 めりりっと身体が割り裂かれて、薪は悲鳴を上げた。
「痛い! 痛いってば! 青木!!」
 痛いに決まってる。
 ほぐすどころかローションもなしで。まだ全然その気になってないのに、無理矢理ねじ込まれたら。

 薪は夢中で抵抗した。
 縛られたままの両手で、青木の胸をバンバン叩く。
「いやだ!」
 こいつとセックスするのが嫌なんじゃなくて。僕だって、今日はその気だったし。
 べつにやさしくして欲しいとか、いつもみたいに「愛してる」とかって言って欲しいわけじゃないけど。

「や、いやだ、これじゃまるで」
 悔しくて、涙が出てきた。

 こんなのは違う。
 セックスじゃない、これは僕たちのセックスじゃない。

 いつもはもっと、お互いが興奮して楽しくて。恥ずかしいけどうれしくて。
 ちょっと、いや、かなり痛いときもあるけど、それでも幸せで。青木が僕の中にいるのを感じて、僕の細胞が青木に溶け込むのが分かって。
 僕の中が青木に擦られるたびに、青木への愛情がどんどん膨れ上がっていく。それは痛みを遥かに凌駕する幸福感で。それがいつもの僕たちなのに。

「これじゃまるで、道具じゃないか!」
 こんな、局部だけを露出させて、その部分だけ使えればいいと言わんばかりに。
 今の僕は、ただの肉の塊だ。性欲処理のオモチャだ。人間として扱われていない。
 そんな非道なことを、こいつが僕にするなんて。

「これは薪さんが、今夜しようとしたことですよ」
「だから何もしてないって! キスも許さなかったって言っただろ! なに聞いてたんだ、おまえ」
 嫉妬のあまり、恋人の言うことも信じられないなんて。青木がこんなに狭量な男だとは思わなかった。

「やっぱりあなたは、何もわかってない」
 大きな手が、薪の頭頂部を摑んだ。ぎゅっと握られて、髪の毛が引っ張られる。
 ものすごく痛い。
 力入れすぎだ。禿げたらおまえのせいだぞ!

「オレが言ってるのは、そういうことじゃないです」
 痛みに上向いた薪の顔の前に、青木の顔が迫ってきた。とても怖い目をしている。こんな青木は……去年の夏の、あのとき以来だ。

「オレが怒ってるのは、あなたが自分の身体を道具にしようとしたからです」



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ナルシストの掟(13)

ナルシストの掟(13)






「オレが怒ってるのは、あなたが自分のからだを道具にしようとしたからです」

 薪は目を瞠った。
 だって、仕方なかった。自分のからだひとつで、大きな情報が得られるかもしれなかったのだ。捜査官なら、仕事にからだを張るのは当然だ。
 だいいち、そのことについて青木に怒られる筋合いはない。このからだは僕のものだ。優先順位は、僕にあるはずだ。

「僕の」
「自分の身体をどうしようと自分の勝手だ、なんてふざけたこと言ったら、このまま奥までぶち込みますよ」
 恐怖に舌の根が乾いた。
 冗談じゃない。そんなことされたら、明日は仕事にならない。

「オレたちは、恋人同士なんですよね?」
 青木は鋭い眼で薪の瞳を捕らえたまま、押し殺すような声で言った。脅しつけるような口調なのに、どこかしら哀しそうな響きだった。
「まあ、一応……」
「ですよね!?」
 キレてる。
 これ以上、怒らせないほうが身のためだ。

「うん、そうそう。おまえの言うとおり」
「だったら、お互いのからだは共有物でしょう? あなたのからだもオレの身体も、二人で一緒に大切にしていくものでしょう?」
 夫婦には共有財産という概念があるが、恋人の場合はそれはないはずだ。
 薪がそのことを控えめに主張すると、「夫婦も恋人も似たようなもんです」と断ち切られた。
 そんな曖昧なことでいいのか、法学部。

「オレが……オレひとりがいくら大事にしたって、あなた自身があなたを大事にしてくれなかったら、オレにはどうしようもないじゃないですか」
 長い両腕が切なく絡んで、薪の身体を抱きしめた。最近、憎らしいくらいに男らしく削げ落ちてきた頬が、薪のやわらかい頬に頬ずりする。
 滝渕に引っ叩かれた傷から微かに滲んだ血が、青木の頬についた。さっき薪が思い切り殴ってやったから、青木だって痛いはずだ。

「オレがこんなに大事にしてるのに」
 薪の顔の両側に肘を付いて、青木は薪の顔を見つめた。
 またこいつは、こんな傷ついたような顔をして。
 ひどい目に遭わされたのはこっちなのに、被害者面するなんて、ずるいやつだ。

「オレだけじゃないです。岡部さんだって第九のみんなだって、三好先生だって……竹内さんだって。みんな、あなたのことを大切にしてるじゃないですか。みんなが大事にしてるものを、あなたの勝手で壊す権利なんか、あなたにはないはずです」
 レンズの向こう側の黒い瞳が、懊悩を浮かべる。怒りと悲しみと、自分の無力さに対する苛立ちと。何よりも大事なものを傷つけられた痛みが、かれの目の縁に透明な液体を湧き上がらせる。

 でかいアホガキが、ベソかきやがって。
 怒るなら怒る、泣くなら泣くではっきりしてくれないと、こっちも対応に迷うのだが。
 てか、どうでもいいからこの手枷をはずせ。

 薪は無言で青木を睨みつけ、両手を前に突き出した。細い顎を右上に動かして、解放を命令する。
 青木はサイドボードの上から鋏を取り、薪の両手を自由にしてくれた。何度か手を握ったり開いたりして、感覚を取り戻す。

「薪さん、あの……ぐぎゃっ!」
 口を開きかけた男の頬に、強力な右ストレート。たしかな手ごたえと、手首に些少の痛み。このところ鍛錬をサボリ気味だからか、脇の締め方が甘かったらしい。二発目のパンチは諦めて、膝で青木の腹を蹴り上げる。
 どすん! という音が響いて、寝室の床が振動した。

「これでさっきのおまえの暴行未遂、チャラにしてやる」
「あ、ありがとう、ございます……」
 ベッドから転がり落ちて床の上に腰を落とし、青木は頬を押さえている。だいぶ痛かったらしい。

 当然だ。思いっきり殴ってやったんだから。
 僕にあんなことをするなんて。しかも、上司に説教するなんて。100年早いわ、クソガキが。

 果てしなく傲慢なことをこころの中で思いつつ、先刻の黒い瞳の輝きを想う。
 純粋で、一筋の曇りもない。真っ直ぐに自分を貫いた視線。

 薪は、ゆるゆると頭を振った。ベッドの上に胡坐をかいて、自分のこころに浮かんだセリフを相手に言うべきかどうか、逡巡する。
 ふっくらとした下唇を白い前歯が噛み、出かかった言葉を塞き止める。言いたいことは、たくさんあるのだ。

 薪は理屈をこねるのは得意だ。豊富な知識とボキャブラリで言葉を魔法のように操って、完膚なきまでに相手の持論を叩き潰すことができる。あんな青臭い意見に対する反駁なぞ、容易いことだ。単語だけだって、新聞紙一枚分の言葉を並べることができる。
 でも、それらをすべて口に出すのは間違いだ。本当に必要なことだけを言えばいい。人との会話というのは、そういうものだ。
 だから、一言だけ。

「悪かった」
 顔を横に背けて、ぼそりと小さな声で。

 悪びれた様子もなく、むしろふて腐れた不良少年のように。これで青木の怒りが治まると思っているのだから、薪の自信も相当なものだ。謝罪会見でこんなことをしたら、間違いなく世間の非難が集中するだろう。

「はい」
 青木はにっこりと笑って、薪の心のこもらない謝罪を受け入れる。
 そこで許してしまうからますます薪が増長するのだということが、青木にはわからないのだろうか。

「オレの方こそ、すみませんでした。あなたに乱暴なことをしてしまって。反省してます」
 おまえが謝ってどうする、と誰か突っ込んでやって欲しい。
「反省するなら許してやる」
「ありがとうございます」
 ……だめだ、こりゃ。
 まあ、このふたりはこれでいいのかもしれない。恋人同士、というよりは女王様と奴隷だが。それでも当人同士が幸せなら、だれもそこに口を挟む権利はない。

 薪は、ベッドの上から横柄な態度で青木を手招きする。
 手のひらを上に向け、犬でも呼ぶように指を自分の方に倒し、むっつりしたまま横目で青木を見る。
 実際に薪が犬を呼ぶときは、両手を広げてとびきりの笑顔になるから、これは犬より下の扱いだ。
 それでも。
 その目には、限りない色香が含まれていて。不機嫌に眇められているのではなく、誘われているのだと解釈できるのは、青木の才能のひとつだろう。そのどこまでも前向きな思考回路を、薪は密かに羨んでいる。

 青木はベッドに乗ってきて、薪の肩に両手を置いた。座ったまま、キスをする。
 始まりの合図のキスは、やがて先を促す激しい交歓に。口中を侵略するように貪っていった青木の舌から解放されて、薪は大きく息を吐く。

「あ、服」
「たまにはいいです、こういうのも。刺激があって」
 普通の服ならそれもいいかもしれないけれど、今、薪が着ているのは、深紅のチャイナドレスだ。これじゃカンペキにオカマさんだ。
「いやだ。こんなヘンタイみたいな格好」
 男同士でセックスしているのだから、紛れもないヘンタイなのだが。それは置いといて。

「どんな格好してたって、薪さんはきれいですよ」
「38になる男を捕まえて、きれいとかって言うな!」
「だって、仕方ないじゃないですか。オレにはそう見えるんですから。薪さんはこの世でいちばん可愛くてきれいな、オレの自慢の恋人です」
「バカにして、んっ!」
 感じやすい耳から首筋へ、青木の吐息とくちびるが、彼の飢えと火照りを伝えてくる。その熱は薪の皮膚から深部に浸透して、それと呼応する部分を共鳴させる。

「どこまでも純粋で、きれい」
 滝渕に切り裂かれた胸の布地をはだけられて、中の柔肌に恋人のくちびるが下りてくる。いつも通りのやさしいキスに、薪のからだがゆっくりと蕩けていく。
 スカートの中に手が入ってきて、もはや下着の機能を持たなくなった布を薪のからだから取りさろうとしている。薪は自分から腰を上げて、それに応じた。

 スカートを捲り上げられて、顕になったへその下方に濡れた舌が這い降りていく。やさしく腿を撫でられて、そっと開かされる。
「身体の芯まで、ほら。こんなにきれい……」

 身体の芯、てのは脊髄とかじゃないのか。そこは単なる生殖器官だろ。
 だいいち、それはキレイなんて形容詞が当てはまるようなシロモノじゃなくて。

 露を含んだ先端を、ひとさし指と中指でつつっと撫でられて、自分のそれと青木の指を、ねっとりと繋ぐ糸を想像する。恥ずかしさに身悶えする薪の足がさらに大きく広げられて、内腿に青木の硬い髪が触れる。
「あっ、あっ……!」
 青木が言う『きれい』の象徴が、彼のくちびるに挟まれて、やわらかい舌が絡んでくる。腰の辺りがジンジンしてきて、薪の理性に綻びが出始める。脳内では、様々な色のシグナルが点滅する。明確な誘導ができなくなって、あちこちで命令系統がトラブルを起こしているみたいだ。

 痺れていく脳髄の奥で、薪はせめてもの反駁を試みる。
 僕がきれいだって?

 反論の言葉なら、電話帳一冊分だって重ねることができる。1時間でも2時間でも、「38歳の男の身体がきれいだ」という青木の思い込みを砕く言葉を吐き続けることができるだろう。
 でも、口から出てくるのは、甘い吐息と濡れた声だけで。羞恥に頬を染めながらも、潤んだ亜麻色の瞳には、すでに愉悦の色しかなくて。

 ああ、もういいや。面倒だ。
 そうだとも。
 僕は世界一きれいで美しいんだ。

 おまえに愛されるときだけは、僕はナルシストになろう。
 大切なおまえの言うことは、全部肯定してやろう。

 僕を永遠に好きだと言う言葉も。
 死ぬまで一緒だという、バカげた妄想も。
 僕の心も身体もきれいだ、という間違いだらけの認識も。
 穢れてなんかいない、罪なんかないという、僕の過去を根底からひっくり返すような無謀な意見も、全部全部、肯定して。
 自分が、おまえに愛される価値のある人間だと思い込もう。
 せわしない呼気の中で、それをうれしく噛み締めよう。
 おまえを身体の奥に感じながら、この地上最後の天使みたいな純真バカが、未来永劫僕を愛してくれるんだ、と信じよう。

 今だけ。
 いま、このときだけ。
 それが僕の、ナルシストの掟。


 ―了―




(2009.9)


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ナルシストの掟~あとがき~

 この度は、うちの薪さんの潜入捜査にお付き合いくださいまして、ありがとうございました!

 このお話は、皆さんのリクエストから生まれました。リクエストに票を入れてくださった方々に、改めてお礼を申し上げます。

 最初にこのリクをくださったのは、コハルさんでしたが、(お許しをいただけたので、お名前を出させていただきます)それがすごく具体的なリクでして。
『スナックで女装して、第九のメンバーを接待する』
『王様ゲームでみんなの言いなりになる』
『浮気した薪さんが青木くんに責められる鬼畜R系』
(最初にいただいたときは、爆笑しました。コハルさん、ごめんなさい)

 真面目な話、最初の2つはいいとして、(いいの?)最後のひとつは無理だろう、と思いました。
 鬼畜Rはともかく(ともかく?)うちの薪さんに浮気は無理です。薪さん自身、不倫や浮気が大っ嫌いで。自分を愛してくれる恋人がいるのに、不誠実な言動を平気で取る人間には憎しみすら覚える、というひとですから。
 この薪さんにどうやって浮気させよう、と悩みました。(悩むなよ)

 で、うちの薪さんに相談を。
「薪さん。ちょっと浮気してみない?」
「しない」(即答。0.3秒)
「そんなこと言わないでさ。青木くんより相性のいいひとがいるかもよ?」
「他の人間とやりたかったら、別れてから正々堂々とやる」
 ああ、あんたはそういう人よね……不倫するくらいなら離婚してからやればいいんだ、とか、めちゃめちゃなこと言ってたもんね。

 どう説得してもOKしてくれないので、浮気じゃなくて、潜入捜査で身体を張る形に持っていくことにしました。
 うちの薪さんなら、「たくさんの命が救えるなら、自分の身など惜しくない」と思うだろうと。


 このお話、非常にわたしのツボに嵌りまして。
 最近、ここまでわたしがノッたお話はないです。

 以前はお話を書いている間は、疲れも感じないし眠くもならない、お腹も空かない、という状態で取りつかれたようになっていたのですが、(←キチガイ)このところはすっかり落ち着いてしまいまして。
 皆様の素晴らしい創作を読ませていただいて、すっかり満足してしまったので、これなら自分が書かなくてもいいやー、とか思ってたんですね。当たり前ですけど、展開がわかってる自分の話より、ひと様の書かれた話のほうが面白いし。

 そのせいか、お話は浮かんでも没頭できないというか、キャラが動かないというか……書いていても、いまひとつ夢中になれなかったのです。おかげでボツになったエピソードが、10個くらいありますねえ。(苦笑)

 でも、このお話は夢中で書きました。
 構想1日、執筆3日というスピードでした。
 推敲には時間をかけましたが、書き上がりは異常に早かったです。すごくすごく楽しくて、幸せでした。


 白状しますと、このお話で一番楽しんでいたのはわたしです。
 今回は、読んでくださってありがとうございました、の他に、書かせていただいてありがとうございました、という気持ちでいっぱいです。

 具体的にリクエストをくださった、コハルさんのおかげです。
 手間をかけて投票してくださった、みなさまのおかげです。

 本当に、ありがとうございました!!



運命のひと(1)

 こちらは4000拍手のお礼です。
 内容は、『薪さんに猛烈アタックをする男が現れる』というリクエストでございました。
(リクエストいただいたSさま、大変お待たせ致しました。ご希望の脳科学者です。)

 初めに謝っちゃいます。
 ごめんなさいっ! これ、全然リクエストの内容と違う~~、すみません、書けませんでした!(><)
 頑張ったんですけど、猛烈アタックになりませんでした。間宮以上のキャラはできそうにありません。(え)
 すみません、どうか広いお心でお願いします。






運命のひと(1)








 澄んだ空の青さが、目に沁みるような朝だった。

 温暖化が進んだこの時代、雲ひとつない晴天なんて滅多にお目にかかれない。いつも霞のように都会の空を覆っている光化学スモッグすら風に払われて、まるで映画で見た昔の空みたいだ。
 折りしも梅雨の最中、久方ぶりの爽やかな空気に誘われるように、薪は目的より3つほど手前の駅で途中下車した。こんな日に地下鉄に乗って通勤するなんて、それは人生の楽しみ方を知らない者のすることだ。
 
 足取りも軽く、剪定の行き届いたプラタナス並木の通りを歩きながら、天気がいいと気分が浮き立つのは何故だろう、などと理由の見つからない命題について考える。
 いや。今朝の高揚感は、天気のせいばかりではないのかもしれない。
 昨夜は……うまくいった。
 ちゃんと最後までできたし、気持ちいいとまではいかなかったけど、微かに痛み以外のものも得られたような気がするし。なにより、青木がすごく喜んでくれた。
 汗まみれの薪の身体を抱きしめながら、『最高に幸せです』と笑った若い恋人の締まりのない顔を思い出し、自然と頬が緩む。それを通りすがりのOLに笑われたような気がして、薪はくっと口元を引き締めた。

 今日は、何かいいことがありそうな気がする。
 そんな根拠のない予感を胸に抱いて歩き続ける薪の視界の端を、不意に小さな人影が横切った。薪の残像の中で、紺色のブレザーを着て、肩から斜めに黄色のショルダーを下げた幼稚園児らしき男の子は、通り沿いのコンビニから車道に向かって真っ直ぐに走っていった。
 薪が振り返るより早く、子供は通勤ラッシュの車道に立っていた。道の真ん中に落ちていた小さなゴム製のボールを拾い上げ、満足げに笑っている。
 派手なクラクションとブレーキの音が鳴り響き、子供がきょとんとした顔で前を見た。瞬間、驚愕に変わる幼子の顔。はっと息を呑む通勤途中のサラリーマンたち。

 考えるより早く、身体が動いていた。
 金属製の柵をひらりと越えて、薪は車道に飛び出した。子供を横抱きに抱えて、身を翻し、前に飛ぶ。そこに走ってきたスクーターに衝突しそうになって、思わず目を閉じた。
 キキイッ、という甲高いブレーキ音に続き、ガシャン! という激突音。
 おそるおそる目を開けると、スクーターがコンビニの前に置かれたリサイクルボックスに突っ込んでいた。ボックスが倒れて空のペットボトルが山になり、その中からニョキッと生えたジーンズの足が見えた。

「すみません、大丈夫ですか?」
 子供を地面に立たせ、運転手の上に積み重なったペットボトルを退かす。子供は泣きじゃくっていたが、こちらの怪我の方が心配だ。
「うん。平気」
 ペットボトルに埋まったままの爪先が軽く上げ下げされ、緊張感のない声が聞こえた。
 無事らしい。薪はホッと胸を撫で下ろした。

 子供の不在にようやく気付いた親がコンビニから出てきて、泣いている子供を抱きしめた。まったく、最近の親は自分の子供の面倒ひとつ見られないのか。
 見た所、まだこの母親は20代前半だ。ひとの親とは思えない若者の化粧をしている。両手にビニール袋いっぱいの商品を持っているところから、自分の買い物に夢中になって子供から目を離したため、先ほどの危険を招いたものと推測された。
 
「お母さん。この子は車道に出ていたんですよ。もう少しで死ぬところだった。あなたは何をやってたんです」
 すみません、と泣きながら謝る若い母親に、薪は苛立ちを覚える。
「これからは気をつけてくださいね。あなたの不注意でお子さんに何かあったら、あなたご自身が一生苦しむことに」
「いくら注意したって、人間、死ぬときは死ぬよ」
 薪の後方から、明るい声が響いた。現況と内容にそぐわない軽い口調だった。
「ひとの生き死には、運命だから」
「運命?」
 薪は、男の方に向き直った。
 
 改めて見て、薪は男の容貌に、どこか懐かしいものを感じた。
 くしゃくしゃと額にかかったクセの強い黒髪。ひとの良さそうな弓形の眉。やさしげに細められた黒い瞳。細く通った高い鼻。面長な顔の輪郭に、こけた頬。手足は棒のように細く長く、病を感じさせるほど白い。
 男は地面に座ったまま、自分を見舞った災難に腹を立てる様子もなく、ニコニコと笑っていた。こいつ、少し頭が弱いんじゃないのか―――そう思わせるくらい、邪気のない笑顔だった。

 男は立ち上がり、薪の顔をまじまじと覗き込んだ。黒い瞳は細められた目蓋の奥で、子供が新しいオモチャを見つけたときのように輝いていた。
「そう。人生に起こるすべてのことは、すでに定められていたこと。例えば、君と僕がこうして出会うことも」
 ……ナンパ?
 気のせいかもしれないが、最近、周りにこういう男が増えたような。青木と特別な仲になってからだ。ラブレターの比率も、男女が逆転しそうな具合だし。くそ、世の中どうなってんだ。

「やっと会えた。僕の運命のひと」
「は?」
 左に小首を傾げた小さな顔の下の部位で、訝しげに開かれたつやめいたくちびるが、素早く男の口唇で覆われた。
 一瞬の硬直。
 薪はすぐさま両手で男の薄い胸を突き飛ばし、腹に蹴りを入れた。男はもんどりうって倒れ、再びリサイクルボックスに突っ込んだ。男の細い身体の上に、今度は空き缶の山が築かれる。

 朝の通勤者で溢れる歩道のド真ん中で、どっかのオヤジにキスされたぞ!?
 ある意味、車道に飛び出したときより大ピンチだ。誰か知り合いにでも見られたら!
 
 コンビニの客が、唖然としてこちらを見ている。薪の勇気ある行動を褒めようと集まってきていた通行人の顔が、言葉を失くしたまま何とも言えない表情になっている。
 なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。もう、子供もその親もどうでもいい。一刻も早くこの場を立ち去りたい。

 薪の目が、歩道の上を素早く動く。さっき走り出すときに、咄嗟に下に落とした鞄はどこへいっただろう。
「どういう関係なんですか? あの男」
 不愉快な声と共に右後ろから目的のものが差し出されて、薪は自分の不運を呪う。
 この気取った声は、薪の大嫌いな男の声だ。
 竹内誠警視。第九とは敵対関係にある捜査一課のエースで、薪の天敵だ。
「知りません。今が初対面です」
 なんでこいつはいつも間の悪いときに。こないだも電車の中でチカンに遭ったとき、図らずもこいつに助けられて。
「竹内さん。今見たことは、他言無用ですからね」
 特に、青木には絶対に言わないでほしい。
 知られたら、また夜通し……ああ、考えるのも恐ろしい。

 弱味を見せないように厳しい顔を崩さず、薪は脅しめいた言葉を放つ。ぎろりと睨みつけてやると、竹内は気弱に眉を下げ、困ったような微笑を浮かべた。
 最近、竹内は薪に、こんな態度を取ることが多くなった。ようやく僕の怖さがわかったか、と得意の勘違いループに頭から突っ込んで、竹内の手から乱暴に鞄をひったくる。
「市民の保護をお願いします」
 空き缶の山から生えたデニムシャツの腕を指差し、薪は命令口調で言った。役職をかさにきるつもりはないが、今だけは警視長の肩書きを利用させてもらう。

 竹内は素直に頷くと、たくさんの缶の下敷きになっている人物を助け起こした。缶を退ける際に、わざといくつか男の頭にぶつけているように見えたが、気のせいだろうか。
「あ、あの。ありがとうございました」
 歩き去ろうとした薪の背中に、若い母親が感謝の言葉を掛けてきた。先刻の非日常的な光景に、親子ともども涙が止まってしまったようだ。
「これからは気をつけてくださいね。それじゃ」
 助けたはずの親子からの視線に感謝以外の微妙なものを感じつつ、薪は早足にその場を離れた。

 予感なんて当てにならない。天気の良さと運の良さには、何の関連性もない。いや、どちらかというと反比例しているような気さえする。
 今日はきっと、厄日だ。
 雲ひとつない空を見上げて、薪は大きなため息を吐いた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(2)

 こんにちは。

 脳科学は難しくて、よく解りませんでした。
 突っ込まれても対応できません。ばかですみません。(じゃあ、書くなよ)
 いろいろ間違ってると思いますけど、どうか広いお心で。よろしくお願いします。





運命のひと(2)






 薪の予測通り、その日はロクな一日ではなかった。
 朝のミーティングが終わって直ぐに官房長室へ呼び出された薪は、そこで再び、自分の不運に悪態を吐く羽目になったのだ。

「なんであなたがここに……」
 くしゃくしゃの黒い巻き毛。屈託のない笑顔。ひょろっとした長身に、病的なほど白い肌と長い手足。
 1時間ほど前、空き缶に埋もれていた変質者だ。

「あれ? もう対面済み?」
「いいえ! 初めてお目にかかります」
 何か言いかけた男の声を強い口調で遮って、彼の口を塞ぐ。喋ったらコロスぞ、と目にありったけの殺意を込めて、とらえどころのないヒョウロク玉のような男の顔を睨む。さっきこいつは、他人に知れたら都合の悪いことを薪にしてくれたばかりなのだ。

「じゃあ紹介するね、薪くん。彼は二階堂潤也」
 薪の険悪な雰囲気に気付かない小野田ではないが、そういうところは見事にスルーしてくれる。小野田のこういうさりげない気遣いに、薪はいつも助けられている。
「彼は、ぼくの甥っ子でね」
「甥ごさん、ですか」
 出会った時になんとなく気になったのは、そのせいか。小野田に雰囲気が似ていたのだ。
 
「潤也は学者の端くれなんだけど」
「これは御見それしました。で、おエライ学者先生が第九に何のご用件で?」
 官房室の事務員が持ってきてくれたコーヒーとチーズケーキを挟んで、二度と拝みたくなかった男の顔と向き合う。小野田の身内では無下に扱うことはできないが、かといって先刻のことを水に流せるほど、薪は心の広い人間ではない。

 薪の皮肉に満ちた口調に、叔父と甥は小さな声で囁きあった。
「潤也。薪くんに『きれいな顔』とか言った?」
「言ってません。でもさっき、キスを―――もががっ!」
 さらっとシークレット情報を暴露しそうになった男の口に、チーズケーキを手づかみで突っ込んで、最高機密の漏洩を防ぐ。喉につまって窒息しかけたようだが、知ったことか。
 目を白黒させながら、コーヒーでケーキの塊を流して、二階堂は大きく息を吐いた。骨ばった背中を丸めて、薄い胸をとんとん叩いている。
 そのひ弱な身体に、筋肉はほとんどない。薪より細いくらいだ。反射的に、『モヤシ』というあだ名で呼ばれる学生時代の男の姿が脳裏に浮かび、陰で囁かれている自分の不名誉な呼び名とどちらがマシだろうと考える。

 ようやく落ち着いて、モヤシは口を開いた。
「僕の研究に、協力していただきたいんです」
「研究? MRIの画を見て、論文でも書くつもりですか」
 小野田の甥とはいえ、彼は一般人だ。重要機密を扱う第九に関係者以外を入室させるなんて。おいそれと許すわけにはいかない。
「ここは犯罪捜査をするための部署です。科学者の研究室じゃない」
「科学警察研究所、でしょ?」
 ……そうだった。ここは、研究所なのだ。

「しかし、僕たちがやってるのは殺人事件の捜査ですよ。それを一般人に見せるというのは」
「見せていただきたいのは、MRIの画像ではありません。僕は犯罪捜査には興味がない」
「あなたに見る気がなくたって、モニタールームに来れば嫌でも目に入ってしまいますよ。第九のメインスクリーンは、壁一面の大きさで」
「薪くん。ぼくからもお願いするよ。そんなに長い間じゃない。ほんの10日ほどだ」
 けんもほろろに断られそうになった哀れな甥に、小野田が助け舟を出した。
「小野田さん。でも」
「頼むよ。ぼくが責任持つからさ」
 小野田に頼まれては、薪も頷かないわけにはいかない。薪が現在警察機構に身を置いていられるのも、みんな小野田のおかげだし、薪の秘密の恋人のことも見逃してもらっている状態なのだ。
「わかりました。小野田さんがそこまで仰るなら」
 しぶしぶではあるが、薪はひとまず、矛を収めることにした。
「ありがとう。みんなに迷惑かけないように、気をつけるんだよ。潤也」
「はい。聖司おじさん」
 仲のいい叔父と甥らしく、にっこりと微笑み合う。そのひとの良さそうな笑顔は、やっぱりよく似ている。

「二階堂先生のご専門は?」
「潤也と呼んでください。ストックホルムの研究室では、みんなにそう呼ばれてましたから」
「ご専門は何ですか、と伺ったんです。二階堂先生」
 薪が険しい表情を崩さないので、二階堂はまた小野田と顔を見合わせた。小野田は苦笑して、こちらに意味深な視線を送ってきたが、薪はそれを黙殺した。
 いくら小野田の身内だからって。自分にあんなことをしてきた男と、馴れ合ってたまるか。

「A10神経系とノルアドレナリン作動性神経系の相互作用について、研究を進めてます」
 天気の話でもするように、二階堂は言った。
 第九に論文の材料を求めるくらいだから、その関係だろうと見当はつけていたが、やはりそうか。
 この男は、脳科学者だ。
 それなら素直に、「脳の研究をしています」と言えばいいのに。
 
 出し抜けに専門用語を振りかざして薪の肝を冷やそうという腹積もりだろうが、そうはいかない。第九の室長として、薪も一応、大脳辺縁系や小脳を始めとする基本的な脳部位の知識は押さえている。
 A10神経系は、ドーパミンを分泌する部位だ。ドーパミンは人間の快感神経系のスイッチを入れる。つまり、快楽を司る神経伝達物質だ。
 ノルアドレナリン作動性神経系は、A10神経系と相互に連絡しあって、片方が興奮状態に入ると、もう一方もスイッチが入る仕組みになっている。ノルアドレナリンは、人がストレスを感じたときに分泌される。このホルモンによって、人は闘争か逃避かの体勢に入り、ストレスからの回避行動を取るようになる。
 簡単に言うと、人がストレスを感じると、ノルアドレナリン作動神経系の働きでA10神経系から快楽ホルモンが分泌され、そのストレスを和らげるように働く、ということだ。
 ただ、このストレスが長期的・破壊的なものだと、ノルアドレナリン濃度が下がり、A10神経系に作用することもなくなり、ストレスを和らげることもできなくなる。結果、ストレスを回避する行動がとれなくなり、薬物中毒患者のように自棄的になったり、廃人同様に身体を蝕まれていくことになる。
 
「他人の脳を見るという最大のストレスが、ノルアドレナリン濃度をどのように上げ、どこまでドーパミンの過剰消費を促すか、というテーマですか」
「合わせてGABA神経系の作用もね」
 まるで薪が専門用語で答えを返してくるのが当たり前のように、二階堂は話を続けた。
「第九に脳内オピオイドを過剰発生させている職員がいるとでも?」
「いたら面白いね」
「面白い?」
  聞き捨てならない。
 オピオイドというのはGABA神経系から分泌される脳内麻薬の総称だ。中にはβエンドルフィンなどの性的快楽物質も含まれるが、ストレスがテーマなら、これはそんな平和な話じゃない。
 回避不能の強烈なストレスに長期間晒された人間は、この物質を大量に分泌することで生きることを放棄する。完全な降伏と受身の態勢になり、静かに死に向かって進んでいく。いわば、回避不可能の深刻なストレスに晒された生物の「最期の救い」として分泌されるのがオピオイドなのだ。
 
「おっと。そんなに怖い顔をしないで。今のは言葉のアヤですよ」
 いけ好かないやつだ。
「そんなに警戒しないでよ、薪くん。第九にだって、メリットはあるんだよ。潤也は脳の専門家だ。第九のみんなに脳科学の講義をすることだってできるよ。脳について基本的な知識を得ることは、第九にとってマイナスにはならないはずだよ」
 薪が二階堂に送る凶悪な視線をいなすように、小野田がいつもののんびりした声で場を取り繕う。小野田は大抵は薪の味方についてくれるが、今回ばかりは血縁者を優先したようだ。少し、面白くない。

「うちの職員たちは警察官ですよ。そんな小難しい専門用語を使って説明されても」
「相手がきみじゃなきゃ、潤也だってこんな話し方はしないよ。ぼくにはもっと分かり易く説明してくれたもの」
「脳の仕組みを理解することはMRI捜査をする上で重要なことかもしれませんが、僕はそこまでの専門知識は不要だと考えています。脳の仕組みそのものよりも、人間の心の動きに注目すべきだと」
「人の心の動きを作るのは、脳ですよ。脳内の電気信号が人間の行動のすべてです」
 にこにこと笑顔を絶やさず、二階堂は薪に反論した。薪の氷の視線にも辛辣な皮肉にも、動じる気配がない。
 さすが小野田の甥だ。図太い神経をしている。
 
「電気信号を操ることができれば、好意も悪意も思いのまま。突き詰めれば根っからの悪人を改心させることもできるし、逆に神父に殺人を犯させることもできる」
 なんて嫌な例えだろう。笑顔とまるで噛み合わない。
「脳を極めれば、事件の捜査なんて簡単なことです」
「それなら警察なんか要りませんね。脳科学者さえいれば、社会の平和は保たれるわけだ」
「社会の平和はまた別問題ですよ。事件は解明できるけど、犯罪を未然に防ぐことはできませんから」
 それじゃ意味がないだろう。
 警察が犯人検挙率に拘るのは、それが犯罪の抑制につながるからだ。
 まあ、学者というのは、こういうものかもしれない。視野が狭く、自分のものさしで世の中すべてを推し量ろうとする。自分の研究は万能だと思い込み、どんなものにでも適用できると考える。

「つまりあなたは、第九の職員たちをモルモットに論文を書こうと? 彼らに電極でもつけて、MRI捜査によって乱される脳波の測定でもしようと考えているのですか?」
「いいね、それ。僕が考えていた視覚前後の血液検査より面白そうだ」
「馬鹿げてますね。第九の職員が受ける特殊なストレスを題材にしようなんて。そんな特異ケースの検証が現実社会において何の役に立つんです」
 だいたい、学者なんて地に足の着いていない人間ばかりで、どこかズレているものが殆どだ。薪はそういう現実から逃避しているような人間を、心の底で軽蔑している。
 
 脳に携わる仕事をする者として、脳に関する論文にはざっと目を通すことにしているが、どうも学説と言うのは現実を踏まえないものが多くて、辟易させられる。今の科学あるいは医学では到底実現不可能な論文が、声高に叫ばれていたりするからだ。
 先日読んだ科学誌でも、脳幹から発信される脳内物質の特定をするための装置についての論文に高い評価がされていたが、その装置を作るのには6億円もかかるという。
 ああいうのを利口バカと言うのだ。6億もかけて脳内物質の特定をして、それが一体何の役に立つのだろう。たしかにその装置の仕組みや考え方は斬新で素晴らしかったが、実現できなければ子供の戯言と一緒だ。

「大切なのは、研究成果を社会に還元することでしょう。それなくしては、科学者の存在意義はない」
「社会還元? どんな風に?」
 これまで読んだ脳に関する論文の中で、感銘を受けたものはいくつかあった。その中で一番記憶に残っているのは、薪がまだ第九の準備室長をしている頃に読んだものだ。7,8年前の話だから細かいところは忘れてしまったが、たしか脳内快楽物質についての論文で、その物質を電気刺激によって分泌させて痛みを抑えたり病気の治癒に役立てる、という内容だった。
「僕がずっと昔に読んだ論文ですけど」
 薪は、その感銘を受けた論文の大まかな内容を二階堂に話して聞かせた。
「あなたも少し、彼を見習うと良い。机上でしか成り立たない論文なんか、子供の落書きほどの価値もない」
 話しているうちに、だんだん思い出してきた。
 たしか、この論文を書いたのは日本人だ。名前はええと……ジュンヤ……ニカイドウ……。
 
「あ、あれ?」
「ありがとう。僕の論文を読んでくれて。同業者でもない君がそこまで理解してくれているっていうのは、すごくうれしい」
 釈迦に説法、キリストに聖書の読み聞かせ、ムハンマドにコーランの、ああああ! とにかく恥ずかしいっ!!
 穴があったら入りたい。もう、小野田の背中に隠れてしまいたいくらいだ!

「ただ、少し解釈の相違があるみたいだね。論文の中で触れていた前頭葉のGABA抑制機能のことだけど」
 あの論文を書いた本人だったのか。って、確か写真も見た記憶があるけど、こんな顔だったか?
 もっと健康的で、肌も黒かった気がする。肩幅もがっちりしていて、かなり太っていたような。第一、この男はどう見ても30歳くらいだ。7年前となると、22,3であれを書いたことになる。
 俄かには信じがたいが、説明の内容を聞いていると本人に間違いない。実験の細かい経緯まで、明確に覚えている。これは本人でなければ分からないはずだ。
 実力は確かなようだ。そこだけは潔く認めて、薪は小野田の顔を立てることにした。

「わかりました。では、レクチャーと引き換えに全職員の血液を提供しましょう」
「ありがとう。感謝します」
 素直に頭を下げられて、薪は自分の大人気ない態度がいささか恥ずかしくなる。この男が見かけどおりの年だとすると、自分より大分年下だ。
 譲歩の意味を込めて、薪は検査の追加を申し出た。
「恒常的なストレスによるノルアドレナリンの濃度測定でしたら、尿検査も必要ですね」
「さすが、解ってらっしゃる」
 にこりと微笑んでやると、二階堂は嬉しそうに右手を出してきた。

「よろしくね、ツヨシ」
 いきなり下の名前を呼び捨てか。馴れ馴れしいやつだ。
「ファーストネームでは呼ばないでください。僕のことは、薪と」
 小野田の手前、その手を取ったものの、この男につけ入らせるスキを与えるつもりはない。
「だって、向こうの研究室ではみんな」
「ここは日本です」
「潤也。郷に入っては郷に従え。第九に入っては薪くんに従え、だよ」
「はあい」
 憎めない笑顔で頭を掻く。
 厄介な闖入者に、薪は心の中でため息を吐いた。



テーマ : 二次創作(BL)
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運命のひと(3)

運命のひと(3)







 シュッと軽い音を立てて、モニタールームの自動ドアが開いた。
 入ってきたのは二人の男性。室長の薪と、白衣姿のひょろ長い男だった。
「みんな。ちょっと注目してくれ」
 検証中の画にストッパーを挟み、全員が薪の方を見る。薪の隣で物珍しそうに周囲を見ている男に、みんなの視線が集まった。

「かれは」
 薪が口を開きかけたとき、電話が鳴った。近くにいた宇野が受話器を取って、薪に声をかける。
「室長。一課の竹内さんからですけど」
「……今忙しいと言え」
 不機嫌な顔で吐き捨てて、電話に出ようともしない。口もききたくないらしい。相変わらず竹内のことは、蛇蝎のように嫌っている。
「すいません、竹内さん。室長は今ちょっと手が放せなくて、え? 室長の携帯電話を?」
 携帯電話と聞いて、薪はジャケットのポケットを探る。
 ない。あの場に落としたのか。気が付かなかった。

「これから届けてくださるんですか? ありがとうござ」
「いま! そちらに伺いますからっ! ここへは来ないでください!」
 宇野から受話器をひったくって、大慌てで喚く。
 冗談じゃない。ここに竹内が来たら、この男と朝の話になってしまう。この男にくちびるを奪われたことが、みんなに知れ渡ってしまうではないか。
 それだけじゃない、携帯には青木からのメールも入ってるし。ふたりで撮った他人には見せられない写真も……。
 あああ!
 ふたりして裸でベッドにいるところなんか、撮らせるんじゃなかった!
 いくら青木が警視の昇格試験に受かったお祝いだからって、甘い顔した僕がバカだった! それを携帯にわざわざ保存しておくなんて、おまえは世界一のアホかって、ほっといてくれ!!

 ポーカーフェイスの裏側で絶叫しつつ、薪は二階堂に声を掛けた。
「二階堂先生。先にみんなに自己紹介をしておいてください」
 皆には聞こえないように小さな声で、しかもスウェーデン語で、鋭く囁く。
「今朝のこと、誰かに喋ったら……今度は鉛玉を口に突っ込みますからね」
 ギロッと凶悪な目つきで男を睨むと、薪はモニタールームを出て行った。

 残された第九の職員たちは、呆気に取られた顔で白衣姿の男を見る。優秀な捜査官でもある彼らのこと、その視線は自然と観察者のそれになる。
 この男は何者だろう。
 白衣を着ている。よって、新しい捜査官ではない。首からプレートを下げていないところを見ると、特別許可を受けた一般人でもない。しかし、部外者でもない。薪が部外者をモニタールームに入れるはずがない。

「白衣ってことは、監察医かな」
「違います。彼、少し爪が伸びてます。あれじゃあ、手術用の手袋が破れてしまう」
 曽我が示唆した可能性を、青木が否定する。こいつも少しはやるようになった。
 ほんとだ。よく気が付いたな。ま、法一の彼女を持ってりゃ当たり前か」
「だから、オレは三好先生とは何も」
 私語に発展しそうな二人の会話を一瞥で止めて、副室長の岡部が前に出る。
 
「初めまして、二階堂先生。副室長の岡部です」
「あなたが岡部さんですか。セイジから聞いてます」
 セイジ、というのは官房長の下の名だ。さっき、薪は小野田に呼び出されていた。ということは、この男は小野田の関係者か。
 
「二階堂です。よろしく」
 にっこり笑うと目じりが下がって、なるほど小野田に似ている。感じのいい笑顔だ。無邪気で、まるで子供のようだ。
 しかし、彼の次の言葉に、第九の全員はフリーズすることになる。
「僕のツヨシがお世話になってます」






***

 とうとう世界一のアホになってしまいました。
 なにやってんの、このひとは。(笑)


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運命のひと(4)

運命のひと(4)






 薪は、急ぎ足で地下通路を歩いている。

 竹内から携帯を受け取って、第九へ帰る途中だ。もしも携帯の中身を見られていたら、完全犯罪のプランを練らなければならないところだったが、その必要はなかったようだ。相手のどこにも不自然な態度は見られなかったし、保存データを見るためにパスワードを間違えて入力した形跡も残っていなかった。
 薪としてはなるべく顔を合わせたくないのだが、捜一の宿敵とは何かと縁があって、なんのかんのとしょっちゅう会っているような気がする。下手をすると、この頃あまり第九に来てくれなくなった雪子より多いかもしれない。

 雪子は今、法一の副室長になる話が持ち上がっている。そのためにいくつかの論文と研究結果を提示しなくてはならないそうで、だいぶ忙しいらしい。
 というのは建前で、自分に会いたくないと思っているのかも。もっとはっきり言うと、自分が青木と一緒にいるところを見たくないのかもしれない。雪子さんは、本当はまだ青木のこと……。
 すぐにそんなことを考えてしまうマイナス思考の回路が強化された自分の脳に、薪は嫌気が差している。一度でいいから、薪の恋人の能天気な脳みそと取り替えてみたい、と思うくらいだ。
 
 第九の自動ドアの前に立ち、薪は頭を切り替える。
 仕事にプライベートは持ち込まない。これは薪のずっと昔からのポリシーだ。

 踏み出した一歩で自動ドアが開き、薪はその場に棒立ちになった。
「なんだ!?」
 いつもはスパコンの冷却ファンの音と、ハードディスクの唸る音しかしないモニタールームに、テレビでよく聞く歌声が流れている。たったそれだけのことで、執務室が喫茶コーナーにでもなったかのようだ。
 業務内容に相応しくないこの音の出所は、一台のパソコンだ。専用のスピーカーをつなげてあるところを見ると、これは計画的犯行だ。

 岡部が困った顔をしてこちらを見ている。岡部の睨みが利かない部下はここにはいないから、これは部外者の仕業、などと考えるまでもない。こんな常識知らずのことをする輩は、警察庁の職員にはいない。
「二階堂先生。この騒音を止めてください」
「騒音だなんてひどいよ、ツヨシ。僕は彼らの歌声が大好きなのに」
「仕事の邪魔をしないでください!」
「MRIには音がないんだから。仕事の邪魔にはならないだろう?」
 たしかにMRIには音声が伴わないが、こんなチャラチャラした曲が流れていたら、集中力を削がれるに決まっている。

「捜査官の気が散ります」
「そんなことないよ。ほら、ウシにモーツァルトの音楽を聴かせると、お乳の出が良くなるって言うじゃない」
 うちの部下をウシと一緒にするな!
 ていうか、あれは高周波によって脳の活性化を促すものじゃなかったか? 男性ボーカルの声では低すぎるだろう。最適なのは2000~8000ヘルツ位の、ええと、どの楽器だったっけ。
「彼らの歌声はバイオリン以上の効果があるんだよ」
 そうだ、バイオリンが一番効果が高いと証明されたんだった。さすがによく知ってる、なんて感心すると思ったら大間違いだ。

「あのですね、僕たちは殺人事件の捜査をしてるんですよ? そういう画を見ながらこういう音楽を聴くって」
「僕、音がないと仕事ができないタイプなんだよ。音によって脳を活性化させてるんだ」
「この雑音のどこが高周波なんですか?」
「仕方ない。ツヨシがそこまで言うなら、モーツァルトにするか」
「そうしてくださ、って違います! 第九では音楽は禁止です!」
「もう。わがままだなあ、ツヨシは」
「△×◎~~~~!!!」
 何なんだ、この男!
 会話にならない!
 なんて扱いづらい。まるでわがままな小野田さんと話してるみたいだ。軽くいなされて、はぐらかされて、相手のペースにはまってしまう。

 酸素濃度の低い水の中の魚のように、口をパクパクさせて青くなっている薪の後ろで、部下たちが何事か囁きあっている。
「おい。薪さん、今なんて言ったんだ?」
「言葉にならないほど、頭に来たんじゃないですか?」
「あ~~、こっちにとばっちり来ないだろうな」
 なにやら、期待されているらしい。かわいい部下の希望だ。ぜひ叶えてやろう。
 とりあえず今週末に全員参加でMRIのメンテナンス作業を入れてやるか、と心に決めて、薪は実力行使に踏み切った。
 物も言わずにパソコンの音楽を止めて、リーダーからCDを取り出し、二階堂の前に差し出す。
 
「僕のことを名前で呼ばないように、と言ったはずです。これ以上、勝手な真似をされるなら、あなたとの約束は撤回させていただきます」
「約束!? 薪さん、二階堂先生の申し出を受けたんですか!」
 モニタールームが騒然となった。
 大げさな連中だ。血液と尿の提供くらいでそんなに騒がなくても。
「ああ。みんなには事後承諾になったが。……なんでそんなに青い顔してんだ、おまえら」
 血液を採られるのがそんなに怖いのだろうか。採血は確かに気持ちがいいものではないが、ここまで怯えることもあるまいに。情けない連中だ。

「健康診断だと思えば、って、こら! なんだ、青木。放せ!」
 顔をこわばらせた青木が、薪の首を腕で捕らえて室長室に引きずり込んだ。後ろ手に鍵をかける。
「青木、職務中だぞ。みんなになんて思われるか」
 頭上26センチの高さから見下ろす部下の目が、妙に鋭い。
 青木の乱暴な振る舞いに、薪はイヤな予感を覚える。こいつが自分にこういう態度を取るときは、大抵がヤキモチだ。もしかしてあの男、今朝のことをみんなに喋ったんじゃ。

「薪さん。あの男の言ったことは、本当なんですか?」
 間違いない。どうしてくれよう、あの男。
「いや、なんて言うかその……不可抗力だったんだ」
 いきなり、あんなところであんなことをされるとは思わなかった。あれは薪じゃなくても、防げなかっただろう。
「言い訳は聞きたくないです。あの男の申し出を受けたと言うのは本当ですか? オレやみんなに一言の断りもなく」
 あ、なんだ、そっちか。助かった。
「勝手に決めて悪かった。小野田さんに頼まれて、無下に断ることもできなかったんだ」
「だからって、こんな大事なこと! オレに一言もないって、どういうことですか!?」
「なんでおまえに相談しなきゃならないんだ?」
 何を思いあがってるんだ、こいつ。仕事の相談を持ちかけるなら、相手は青木ではない。副室長の岡部が適任だろう。

「外国へ移住する話があるのに、相談もしてくれないんですか?」
「相談するとしたら岡部にするのが自然、ちょっと待て。いま、なんて言った? 外国がなんだって?」
「二階堂先生が、薪さんは近いうちに日本を離れることになるって」
 ……へっ?
「薪さんと結婚して、ストックホルムに永住するって」
 ……結婚?
「もう、とっくに心も身体も結ばれてるって」
 はあ!?
「薪さん。ホントにあの男と寝たんですか?」

 最後の言葉にぶち切れて、力いっぱい青木の腹に蹴りを入れてやったら、思ったよりも弾みがついて室長室のドアにぶつかった。蝶番が弱っていたのか、薄いドアが青木の重みに耐えられなかったのかは不明だが、大柄な部下はドアごとモニタールームの床に倒れ込んだ。
 青木は痛そうに顔を顰めていたが、当然の報いだ! 僕を疑うなんて!
 付き合い始めて1年のお祝いだと思って、2ヶ月前、あんなことをしてやったばかりなのに。あの行為が僕にとって、どれだけ勇気がいることだったか分かってないのか。あんなことを他の男ともしていたと疑われたなんて。
 てか、なんで信じるんだ!? 僕がそんなこと、するはずないだろ! 騙されやすいのも大概にしろ、このスットンキョー!!

 青木の腹の上を踏んづけて、二階堂につめよる。嘘八百並べ立てやがって、それを信じるバカも救いがたいが、一番悪いのはこいつだ。

「いい加減なことを部下に吹き込まないで下さい! 僕がいつあなたとセックスしたんですか!」
「そんなこと言ってないよ。彼がどう解釈したかは知らないけれど、僕とツヨシの人生は密接に関わってる、って言っただけだよ。僕はツヨシのすべてを知ってる。心も体も、ツヨシのことなら何でも分かるって」
 単細胞の上に妄想狂の青木にそんなことを言ったら、誤解するに決まってる。青木はいつ自分の恋敵が現れるかと、戦々恐々なのだ。ただでさえニトログリセリンみたいに危険な奴を、これ以上刺激しないで欲しい。
「誤解を招くような言い方しないでください! 僕たち、今日が初対面じゃないですか。僕はあなたのことを何も知らないし、あなただって僕のことを何も知らないはずだ」
「知ってる。ずーっと前から。君に会うために、僕は今まで生きてきた」
 朝もそんなことを言ってた。ナンパの続きをここで始めようというのなら、今度は膨大な事件ファイルの下敷きにしてやる。

「君の舌がとても甘いことも知ってるよ」
「ウソです! ちょっと唇が触れただけで、っ!!」
 慌てて口を塞ぐが、出てしまった言葉は戻せない。せめて誰にも聞かれなかったことを祈るが、今までこういうことで薪に都合よく運んだことは一度もない。
「……したんだ」
「舌は入れられなかったけど、キスはしたんだ」
 ああああ! また自分の首を絞めてしまった!
 
 冗談だ、と言おうとしたが、既に耳まで真っ赤になってしまった。ちらりと岡部を見ると、肩を竦めて首を振られた。もう、何を言ってもムダだ、ということだ。
「ほら、俺の勝ち」
「やっぱり今井さん、こういうのは強いな」
「くっそー。薪さん信じた俺がバカだった」
「へへへ。今井さんの言うこと聞いておいて良かったあ」
「おい、青木。おまえ百万賭けてもいいって言ってたよな」
「あははは! 可哀想ですよ、今井さん。みんなと同じ、千円にまけといてやってくださいよ」
 
「今井。小池」
 千円札を何枚か受け取った二人の部下の背後に、氷点下の空気が押し寄せてきた。恐る恐る振り返ると、額に青筋を立てた上司の姿。
「おまえら今期一杯、MRIの起動時点検係!」
「ええええ!」
 上司を賭け事の対象にするなんて、ていうか、警察官は賭け事は禁止だ。今週の土日は、全員強制出勤だ。徹夜でバックアップ取らせてやる!

 怒りを静めるために何回か深呼吸をし、薪はようやくその重い空気に気付いた。
 背後からのおどろおどろしい視線。恐ろしくて振り返れない。
 何か理由をつけて残業して、今日は家に帰らないようにしよう。そうでもしないと、間違いなく朝まで……。

 頭痛の種が2つになって、薪は今日が厄日であることを確信する。
 タネの片方は、にこにこと薪に笑いかけ、もうひとつは不機嫌な顔をして薪の後頭部を見つめている。
 ふたりの男の両極端な表情の狭間で、薪はがっくりと肩を落とした。




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運命のひと(5)

運命のひと(5)






 音楽が止まり、騒ぎが落ち着いたところで、薪は二階堂の本来の目的を皆に説明した。

 第九の職員たちは、誰もその真実を知らされていなかった。二階堂は自分が脳科学者だと言うことも、論文のために第九を訪れたことも言わなかったらしい。
 じゃあ一体何を話したんだ、と岡部に訊ねたら、『本当に聞きたいですか?』と返された。岡部の目つきから察するに、薪にとって相当不愉快な話だったようだ。
 ここは知らないままでいよう。でないと、あのモヤシの首をへし折ってしまいそうだ。

「さて。音楽の効果でリラックスした今の状態で、血液の採取をさせていただきましょうか」
 ミーティングルームには既に女性の看護師が待機していて、音楽はふざけていたのではなく、このためだったのだと知る。職員たちの精神状態を、モニターを見る前の状態に近づけたかったわけだ。

「あ、ツヨシはダメ」
 採血の列に並ぼうとした薪を、二階堂が引き止めた。
 こいつには耳がないのか。下の名前で呼ぶのを止めろと何度言ったらわかるんだ。
「ノルアドレナリンが過剰分泌されてる。平静でないと意味がない」
 だれのせいだ、だれの。
 
「それから君もダメ。全然、緊張感が取れてない」
 もうひとりダメだしを食らったのは、第九で一番からだの大きな部下だった。
 そのとき青木が二階堂に向けていたのは、招かざる客に対する不躾な視線。
 青木は普段は人当たりのいい男だが、昔から薪を傷つける輩には容赦しなかった。近頃はその攻撃対象に、薪に恋愛感情を持って近付いてくる人間が加わった。実際に、二階堂にくちびるを奪われている事実を知られたとなると、ここはフォローを入れておいた方がいい。そうしておかないと、自分の身が危うい。

 不可を付けられたのをいいことに、みなより先にモニタールームに戻る。秘密の恋人とふたりになって、薪はこっそりと青木に耳打ちした。
「青木。さっきのキスの話だけど、僕は別におまえのことを裏切ったわけじゃなくて」
「職場ではプライベートの話はやめましょう」
 口が酸っぱくなるほど青木に言い聞かせてきたそのセリフを返されて、薪は困惑する。たしかに公私混同はいけないけれど、このままじゃこいつだって精神的に不安定になって、仕事に身が入らないだろう。

 青木は自分の席に座り、検証作業の続きに戻った。黙りこくってモニターを見つめる。
 薪はさっと周囲に目を配り、誰もいないのを確認すると、素早く青木のそばに寄って彼の頭を両手で掴んだ。ぐいと引き寄せて、掠めるようにキスをする。
「ほら。おまえだって避け切れなかっただろ」
 ポカンとした顔で薪を見ている部下のバカ面に向かって、得意気に言い放つ。これでもう、こいつは僕のことを責められないはずだ。
「不可抗力だ。信じ」
 決め台詞は、最後まで言わせてもらえなかった。

 飢えたようなくちびるが覆いかぶさってきて、薪の声を奪った。薪の口腔内を知り尽くした男の舌が、その中を蹂躙していく。絡み合う快感を覚えた薪の舌が、反射的にそれに応じる。
 深いくちづけは、薪に昨夜のことを思い出させる。
 ベッドの上で、お互いの汗のにおいの中で。こんな風に何度もキスをした―――。

「釈明は、今夜ゆっくり部屋で聞かせてもらいますから」
「今夜って……昨夜しただろ。2日続けてなんて、僕にはムリだぞ」
「昨夜はすごくいい思いさせてもらいましたから。今日は薪さんにお返しします」
 いらない、と言おうとしたが、まだ青木の目が完全に笑っていないことに気付いて、薪は口を閉ざした。
「楽しみにしててくださいね」
 にっこり笑った青木の後ろに、大鎌を持った黒マントの骸骨が見えた。

 明日の朝まで命あるかな、僕。
 くちづけの余韻にいくらかぼうっとした頭で、今夜の夕食は最後の晩餐になるかもしれない、と本気で心配している薪だった。


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運命のひと(6)

運命のひと(6)









 その事件の被害者の死因は、餓死だった。
 誘拐され、閉じ込められ、水も食料も与えられず、そのまま放置された。彼女が死ぬまでの20日間。犯人は、それをずっと見ていた。ただ見ていた。
 命乞いをする若い女性の姿を。助けてくれるなら自分を自由にしてもいいと、からだまで投げ出そうとした彼女を、見ているだけだった。
 鉄格子の間から細い腕を伸ばし、泣きながら助けを求める彼女を、何日も何日も犯人は見続けた。日に日に弱っていく彼女は、口数も少なくなり、次第に眠る時間が多くなっていった。それでも犯人は、水の一滴も彼女に与えようとはしなかった。

「どこまで残酷なことをしやがる……!」
 脱水によって腫れあがった唇と舌で、彼女が最期に何を言ったのか。第九で一番読唇術に秀でた小池ですら、読むことが出来なかった。
「こいつ、人間じゃないですよ。ひとが死んでいく様子をずっと見ているなんて」
「自殺した犯人は、学者だったそうだ。これは実験だと」
 供述書をめくりながら、薪が事件の背景を説明する。その声は事務的で、流れる言葉は雅やかな音楽のように淀みない。
「ひとが何日で死ぬかの実験だったと、供述したそうだ。自殺した理由も実に明白だ。『刑務所に入ったら、もう実験ができない。それでは生きている意味がない』 犯人が残した遺書だ」
 留置所の中で自分のベルトで首を吊って、犯人は自殺した。送検前の被疑者に自殺されるという警察の失態に焦った上層部から、大急ぎで脳を見るようにと指示を受けていた。
「サイコ野郎が」
 岡部が低い声でぼそりと呟く。叩き上げの岡部は、少々言葉が悪い。
 
「可哀相に。何も悪いことをしていないのに、こんな目に遭って」
「まだ19ですよ。成人式の着物も用意してたって、捜査メモにありました。辛いでしょうね、ご両親」
「余計な事を書くなよ、曽我。報告書にその記述は必要ない」
 素っ気無い口調に、曽我は顔を上げて室長のきれいな横顔を見た。
 いつも通りの冷静な顔。どんな惨たらしい画にも表情を変えない。薪が氷の室長と噂される所以である。
 しかし。
 机の上に置かれた薪の左手が握り締められ、微かに震えていることに、曽我は最初から気付いていた。

「仕方ないよ。それが彼女の運命だったんだ」
 聞きなれない言葉に驚いて振り向くと、白衣の脳科学者が薪の後ろに立っていた。
 モニタールームで仕事をする職員の状態を観察する、という名目で、二階堂は機密情報満載の第九に居座り続けていた。よくこんなことを室長が許したものだと最初は思ったが、小野田の圧力が掛かっているのを知って納得した。
 彼が相手では、断ることもできなかったのだろう。他の重役ならともかく、小野田は薪の恩人だ。そもそも薪を引き上げてくれたのも小野田だし、薪が警視長の階級にありながら第九の室長を務めていられるのも、みんな彼のおかげなのだ。

「モニターは見ないでくださいと、お願いしたはずですが」
「ツヨシ。手が震えてる」
 骨ばった手が、小さな拳を覆った。刹那、火傷でもしたようにそれを払いのけ、薪は二階堂に向き直った。
 二階堂は、自分の手が払われたことを気にする様子もなかった。それどころか微笑さえ浮かべて、ムッと眉を顰めた薪の顔を見る。

「きみが心を痛めることはない。これは彼女の運命で、きみには何の責任もないんだ」
「運命?」
 第九の中に、こんな考え方をするものはいない。
 否、警察中探しても運命論者はいないのではないか。なんでも運命だと諦めていたら、殺人事件の捜査などできないだろう。

「これが運命だとでも言うんですか」
 射るような瞳で、薪は第九の異邦人を見た。彼を包んでいた静謐なオーラが、一気に緋色に燃え上がる。
 薪の冷静さは上辺だけのものだということを、第九の職員たちはみんな知っている。どんな残酷な画にも顔色ひとつ変えない酷薄さは仮面のようなもので、その下には滾ったマグマのような熱い情熱が渦巻いている。今だって、薪の心の中は熱帯性低気圧のように荒れ狂っている。被害者への哀悼と、犯人への怒りと。
 それが分かっているから、職員たちは何も言わない。この男のように余計なことを言って、必死で自分を抑えている薪の苦労を無駄にすることなど、絶対にしないのだ。

「こんな風に、理不尽に殺されることが? 人生を強制的に誰かに終了させられることが?」
 言葉が重なるほどに、激していく声。普段は低く抑えられているアルトの音程が、少しずつメゾソプラノに近付いていく。
 薪の本来の声は、中高音のアルトだ。いつもはできるだけ低い声で喋るように心掛けているのだが、興奮するとそれを忘れてしまう。薪の声のトーンが上がってきたら、避難勧告発令だ。部下たちは我が身可愛さに、うつむいて自分の仕事に没頭する。
 
「じわじわと死を待つしかなかった彼女の気持ちが、あなたに解るとでも言うんですか!?」
 部屋中の空気がビリビリと振動するほどの怒気を放って、薪の声が響いた。部下の中でこの薪に言い返せるものは誰もいない。こうなってしまった薪には、岡部でさえ近寄らない。
 誰もが自分の席から動こうとしない中、いちばん近くにいた曽我がわが身の不運を嘆きつつ、丸い坊主頭を縮こめた。

「そうだね。可哀相だね、とても」
 のんびりと応えを返した二階堂に、全員が驚嘆の眼差しを向ける。
 この状態の薪を前に、平然としている。
 まともじゃない。こいつには、怖いという感覚がないのか。
「でも、やっぱり運命なんだよ」
 しかも、自分の持論を曲げようとしない。捜査官モード全開の薪に、そんなことを言おうものなら。

「研究に協力するとは言いましたが、捜査に口を出していいとは言ってません」
 言わんこっちゃない。(いや、誰も口に出してはいないが)急に口調が静かになるのは、薪の雪嵐攻撃開始の合図なのだ。
「そんなつもりはないよ。ただ、君があんまり辛そうだったから」
 尖った氷柱のような目線で、薪は二階堂を拒絶した。薪を包む空気は、液体窒素並みの超低温。触ったら間違いなく凍傷になる。
 冷凍庫に限りなく近付いた室温に、部下たちは身震いする。哀れにもブリザードの直撃を受けた曽我は、すっかり凍り付いている。
「邪魔です。出て行ってください」
 すっと腕を真横に上げて、出口を指差す。
 薪が本気で怒っているのがようやく分かったのか、二階堂は素直に引き下がった。

 薪は、二階堂が出て行った後もしばらくドアを睨みすえていたが、帰ってくる様子がないのを見ると、やっと肩の緊張を解いた。
「曽我。報告書には人間の脱水症状についての注記を入れておけ」
「はい。あの、期限は」
「決まってるだろ。今日中だ」
 怒ってる。もう、めちゃくちゃ怒っている。
 とばっちりを受けた曽我はいい迷惑だが、これは確実に全員に飛び火する。
「おまえらが抱えてる案件も、全部今日中に片付けろ! いいな!」
 ああ、やっぱり!

「よかった、昨日上げておいて」
「小池。おまえはMRIのリーディングテストだ」
「えええ!」
 薪の八つ当たりが始まった。何か面白くないことがあると、いつもこの調子なのだ。まったく、横暴な上司を持つと苦労する。
 心の中でぶつくさと文句を垂れる部下たちの中にひとり、薪に近付いていく男がいる。右手にコーヒーを載せた盆を持ち、手馴れた仕草でそれを薪の前に差し出した。

「薪さん。ずるいですよ。わざと残業作ったでしょう」
 薪は黙ってコーヒーを飲む。細い肩のラインが、コーヒーの芳香に溶けるように弛緩していく。
「いいですけどね。今日の取調べが明日に延びるだけですから」
 リラックスしていた肩が、ぎくり、と強張った。カップを持つ手が止まっている。
「延びた分、利子がつきますからね。覚悟しといてくださいよ」
 右手の微かな震えが、黒茶色の液体の表面を波立たせる。華奢な肩は竦みあがって、優雅な首が縮こまった。

「ああ、明日は土曜日なんですね。朝までどころか、一昼夜でも平気か」
「そ、曽我!」
 上ずったアルトの声が響いた。その慌てふためいた口調に、職員たちが一斉に振り返る。
「報告書は月曜でいいから! 他のものも、今日は残業なし! 定時で帰れよ、いいな!?」
 突然、残業命令を撤回した上司に驚きつつ、今日のアフターの予定をキャンセルせずに済むことになった幸運に感謝して、職員たちはその快挙を成し遂げた後輩をそっと誉めそやした。
 
「すっげー、青木。薪さんになんて言ったんだよ」
「コーヒーに人間の性格が良くなるクスリでも入れたのか?」
「企業秘密です」
 にっこりと笑って、謙虚な後輩は全員分のコーヒーを淹れるために給湯室へ歩いていった。





*****

 どんだけ怖いんでしょう。
 うちの薪さん、エッチ嫌いだからなあ。(笑)



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運命のひと(7)

 今日はバレンタインデーですね♪

 学生の頃はたくさんチョコをもらったんですけど(すみません、共学なのにもらってました)、独身の頃もいくつかはもらってたんですけど(後輩とか飲み友達とかから)、結婚してからはぱったりともらえなくなりました。やっぱり結婚しちゃうとダメなんですね。哀しい。


 バレンタインにちなんで(?)、ここはRです。
 青木くんが何やら悩んでますけど、これは3部に入ってからの事情が絡んでるので、スルーしてくださいね(^^
(言い忘れましたが、このお話はふたりが恋人同士になって、1年2ヶ月くらいのエピソードです)





運命のひと(7)











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運命のひと(8)

運命のひと(8)







「ツヨシ。デートしようよ」
「しません」
「映画なんてどう?」
「見ません」
「休みの日にさ、遊園地とか、植物園とか。まだ薔薇も見頃だし」
「おひとりでどうぞ」
「そんなつれないこと言わないでさ」
「仕事の邪魔です!」 
 机に叩きつけられたファイルが、バン! と派手な音を響かせた。自分が怒られたわけでもないのに、職員たちが一斉に首を縮込める。今日も室長の機嫌は低空飛行だ。
 薪のイライラの原因は解っている。招かざる客人のせいだ。
 
 初日から旋風を巻き起こした脳科学者は、翌週も第九に居座り続けた。
 第一印象が最悪だったせいか、薪は二階堂と打ち解けることはなかったが、約1名を除いて、部下たちには意外なくらい評判が良かった。彼の脳に関するレクチャーは分かりやすく面白い、と皮肉屋の小池までが褒めていた。
 
「何故ここにいるんです!? あなたにはちゃんと部屋を提供したでしょう!」
 ディスカッションを行なうときに使用する小会議室が、彼の仕事場に当てられた。モニタールームをうろうろされると仕事に差し支えるから、というのは建前で、彼に神経を逆撫でされた室長の八つ当たりが怖いから、というのが職員たちの本音である。
「これも仕事だよ。みんなの様子を観察したいんだ」
 みんなではなく、薪の様子だろう、と全員が心の中で呟く。二階堂は朝からずっと薪の隣に座って、薪のことを見ているのだ。
 薪にとってはハタ迷惑な話だが、この男が自分に好意を持っているのは本当らしい。その瞳にはありったけの憧憬と愛情が湛えられているように見受けられたし、薪に向けられる笑顔は一点の曇りもない幸せそうなものだった。

「あなたがここにいたら、みんなの気が散って仕事になりません。室長室を提供しますから。職員の観察は、そのドアからお願いします」
「君の部屋を? いいの?」
「机や椅子は使っていいですけど、報告書や僕のPCに絶対に手を触れないと約束してください」
「うん。約束する。ありがとう、ツヨシ」
「だから! ファーストネームでは呼ばないでくださいってば!」
 今週に入ってから、ずっとこの調子だ。
 
「二階堂先生の粘り勝ちかあ。あの根性は見習わないとな」
 薪は一日の半分を室長室で過ごす。部下たちには見せられない人事書類や、ひとりで作成しなければならない特別な仕事も抱えているせいだ。よって、室長室へ入り浸ることができれば、薪と一緒にいられる時間は多くなる。
 薪の性格を考えれば、職員たちに被害が及ぶより自分のところで始末を付けようとすることは予想がついたが、二階堂はまだ本当の薪を知らないはずだ。二階堂の戦法は薪の行動を見越してのことではなかったと、誰もが思っていた。

 二週目の木曜日。
 昨夜の疲れが抜けきらない薪が室長室へ入ると、二階堂がカウチに座って資料をめくっていた。
「やあ、ツヨシ。この椅子は座り心地がいいね」
 ファーストネームで呼ぶな、というセリフも言い厭きた。聞き慣れたせいか、それほど腹も立たない。
 正直に言うと、さんざん青木に責め立てられて、立腹する元気もないのだ。
 この男が第九に来てからというもの、何を心配しているのか、青木がベッドの中でやたらめったらしつこくなった。週末は言うに及ばず、昨夜だって約束の日じゃなかったのに。今週の土曜日は遠出する予定だから前倒しでお願いします、とかって、わけのわからない理屈で丸め込まれて。

「血液、ありがとうね」
 初日、不可を出された2名の採血は、月曜の朝一番で行なわれた。
 脳科学者に対して敵意丸出しだった部下のひとりは、何故か月曜日は上機嫌で、二階堂の求めに素直に応じた。現金なやつだ、と薪はこっそり青木に囁いたが、その率直さを愛おしい、と思ってしまったことは言わないでおいた。
 二階堂が今見ているのは、追加のふたりのものだ。つまり、3日前に採ったばかりの採血データだ。
「もう結果が出たんですか?」
「うん。セイジが手配してくれたスタッフは優秀だね」
 小野田はよほど、この甥が可愛いとみえる。官房長の愛人との噂が立つほど彼には目を掛けてもらっている薪だが、やっぱり肉親には勝てないらしい。

「ねえ、ツヨシ。今日のお昼、ランチデートしようよ」
「しません」
 顔を合わせるたびにデートしようデートしようって、バカの一つ覚えみたいに。何べん断ってもめげないところは、昔の誰かを彷彿とさせる。あいつもしつこかったっけ。
 まあ、最終的には僕もほだされちゃって、現在に到るわけだけど。

「つれないなあ。一回くらい付き合ってくれたって」
 口の中でブツブツ言いながら、二階堂はさして凹んだ様子もなく、嬉しそうな目で薪を見ている。溢れる好意を隠そうともしない。
 ひとからの好意をこんな風に感じてはいけないのかもしれないが、こいつは男だし。純粋に、迷惑だ。

「ところでツヨシ。君の脳波、取らせてもらえない?」
 いつ言い出すかと思っていたが、やっときたか。
 最終的には脳波の測定資料を付けないと、論文は完成しない。言い換えれば、この測定が終われば、第九はこの男の観察から開放される。二階堂の滞在予定は10日ほどだと言っていたから、タイムリミットも迫っているのだろう。
「わかりました。職務の前と後の比較を取るなら、夕方と、翌朝は業務に入る前に行なったほうがいいでしょうね。測定の予定日はいつですか? みんなに1時間ほど早出するように、通達しておきます」
「いや。通達は必要ない。君だけでいい」
「僕だけ? 何故ですか」
「ノルアドレナリンの濃度が、被験者の中で一番濃いから」
 不愉快な鑑定結果が出てしまった。まあ、予想はついていたが。

「驚かないね」
「僕は室長ですから。一番ストレスが多くて当たり前です。他に、検査結果が問題になるような職員はいましたか?」
「いや。君以外は大丈夫。セラピーも必要ないと思うよ。みんな、ガス抜きの仕方が上手いんだね」
 検査結果に、薪は胸を撫で下ろす。
 連中の精神的負担は、数値に表れるほどではなかったらしい。脳内オピオイドが異常発生している部下がいたらどうしよう、と半ば本気で心配していたのだ。
「すいませんね、不器用で」
「うん。その攻撃的な態度は間違いなく、ノルアドレナリンの過剰によるものだね」
 二階堂の無邪気な皮肉に、薪は口を閉ざした。
 攻撃的で狭窄的な態度がこのホルモンの特徴だ。それを指摘されるのは面白くない。

「明日の帰りに、この病院に寄ってくれる? 測定機器を借りる約束をしてるんだ」
 二階堂は一枚の名刺を薪に差し出した。病院の事務長の名前と、裏に簡単な地図が記載されている。病院嫌いの薪でも知っている大きな総合病院だ。
 この病院を紹介したのも、小野田だろう。至れり尽くせり、そんなにこの男がお気に入りなら、娘の結婚相手に彼を選べば良かったのに。
「わかりました」
 机から必要な書類を取り出すと、薪はモニタールームに戻った。室長室でも仕事はできるが、あの男とふたりにはなりたくない。

 ヤキモチ妬きの恋人については、昨夜たっぷり相手をしてやったから、二階堂とふたりでいるところを見られても平気だと思うが、危ない橋は渡りたくない。今朝だって、起きるのが大変だったのだ。昨夜のアレが今夜も繰り返されたら、明日は完全に半身不随だ。トイレに行くにも、床を這っていかなくちゃならない。
 明日病院に行くときにも、青木に一緒に来てもらおう。その方があいつも安心するだろうし、遅くなるようだったら、そのまま家に泊まればいい。
 
 明後日は土曜日。
 今週の予定は車好きの恋人の希望で、幕張で行なわれる自動車の展示会に付き合わされることになっている。薪は車には興味がないが、イベントコンパニオンは美人ぞろいだし、ミニスカートから伸びる彼女たちの足には多大な魅力を感じる。薪好みの、小柄でぽっちゃり系のかわいい娘がいるといいのだが。
 そんなことを思いつつも、未来のコンセプトカーを見る恋人の笑顔に釘付けになってしまう自分の姿が簡単に想像できて、薪は自嘲する。
 具合の悪いことに、病状は進んでいる。女の子の生足よりもヤローの笑顔が楽しみだなんて、正常な男の考えることじゃない。以前なら、こんな考えが浮かぶたびに落ち込んでいたのだが、あまりにも回数が多すぎて、この頃は諦めモードに入ってきた。

 自分の中の良識という説教者に、薪は捨て鉢に宣言する。
 ほっといてくれ。
 僕は青木が好きなんだ。
 好きなひとの笑顔が楽しみで、何が悪いんだ。

 予備の席に陣取ってモニターを起動させる間に、だるい身体に喝を入れ、重い頭を一振りする。しゃんと背筋を伸ばし、キッと眉毛を吊り上げて、薪は報告書の検証に取り掛かった。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(9)

運命のひと(9)






「二階堂先生、また眠ってる」
 自分の捜査に行き詰まりを感じ、上司に相談をするために室長室へ入っていった小池が、呆れたような声を出した。どうやら薪は不在で、代わりに脳科学者が惰眠をむさぼっていたらしい。
「室長を部屋から追い出しといて、いい度胸だよな」
「薪さんもよく黙ってるな」
「仕方ないだろ。官房長と三好先生にだけは、薪さん頭が上がらないんだから」
「他の人間に対しては、20階建てのビルの屋上から見下すような態度だけどな」
「ひとをひととも思わないってか」
「どうせ俺たちのことなんか、ドレイだと思ってんだよ、あのひとは。何か面白くないことがあるたびに、バックアップだリーディングテストだって。先週だって、青木がうまいこと言わなかったら」

「そんなこと、思ってない」
 涼やかなアルトの声が背後から響いて、小池は自分が探していた人物が、同じモニタールームにいたことを知る。
 薪は身体が小さいから、大型のモニターやうず高く積まれた書類の山に、いとも簡単に埋もれてしまう。しかも職務中は無駄口を叩かないので、居るか居ないかわからない。

「大事な部下を奴隷だなんて。僕がそんなこと、思うはずないじゃないか」
 薪がてっぺんに来ているとき特有の猫なで声。この声が出たら、警報発令だ。命が惜しかったら、一目散に逃げ出すことだ。
「おまえらは奴隷なんかじゃない。でも」
 小池以外の職員たちは、素早く机の下に潜る。スケープゴードになった小池には気の毒だが、全員が一度にこの被害に遭ったら、第九は機能停止に陥ってしまう。
「証拠を見つけられない役立たずは家畜以下だ! さっさと仕事しろ!!」
 ……人間ですらない。
 道理で人権を認めてもらえないわけだ。

「僕の人間性を非難するヒマがあったら、モニターを見ろ! おまえに預けた事件はどうした? 一体、いつまでかかるんだ。検証期間はたった3か月だぞ」
「さ、3か月分を一人で見るには、2週間は掛かります」
「全部見ろって言ってないだろ。事件に関係するところだけ見ればいいんだ。いつも言ってるだろ、捜査資料を読んで当たりを付けろって」
「それがその、いくつか仮説は立てたんですが、どれも見当違いだったみたいで」
「どれ、見せてみろ」
 おずおずと小池が差し出した捜査メモに、薪はさっと目を走らせた。亜麻色の瞳が、限りない侮蔑の光を宿す。

「おまえの頭には何が入ってるんだ? 廃油か、ヘドロか。ゾウリムシが頭の中で繁殖してるのか? アメーバーだってもう少しマトモな説を立てるぞ、この原生動物が!!」
 小池が立てた仮説が書かれたメモを見て、薪は部下の説明も聞かず、一方的にがなり立てた。まったく、ひどい上司だ。
 言葉にするのも憚られるような罵詈雑言が聞こえてくる。薪のきれいな顔と声で、面と向かってあんなことを言われたら。
 普通の人間では、神経がもたない。可哀想に。小池は午後から仕事にならないだろう。
「わかったな。今日中に見つけろよ。できなかったら週末どころか、盆休みもないと思え」

 現在、地球上で一番気温が低いのはこの部屋ではないのか。
 薪が小池の前から離れて、もといた席に戻ると、ようやく溶け始めた氷の中で、職員たちはそうっと地表に顔を出した。
「だ、大丈夫か? 小池」
「平気……原虫には心なんかないから……」
 崩壊している。
 職員たちは同僚に哀れみの眼差しを向けたが、長くそちらを見ていると自分にもとばっちりが来ると考え、仕方なく自分の仕事に戻った。

 ぼうっとしている小池の前に、再び小さな、しかし凶悪な人影が差し、幾枚かの紙片を突きつけた。小池の目が、反射的にその紙に記された文字を追う。
「え? これって」
 小池はにわかに目を光らせると、MRIマウスを操作した。キーボードを素早く打ち込み、1時間ほどで目的の画を探し当てた。その間、薪はずっと小池のそばにいて、何も言わずに小池がサーチする画像を見ていた。

「これ、ここです!」
 興奮した声を嘲るでもなく、かと言って過剰に反応するでもなく、薪は静かに応えを返した。
「見つかったじゃないか」
「……室長のおかげです」
「ちがう。おまえはちゃんと気付いてたんだ。だからこれだけのヒントで、その画に辿りついた。あと一歩、いや、数ミリのところまで来てたんだ」
 先刻と同じ涼やかな、しかし限りない慈しみを感じさせる声。ふっと微笑みかけた笑顔の美しさに、小池の心臓がさっきとは別の意味で跳ねる。
「いいか、小池。おまえに足りないのはこの感覚だ。常識に捕らわれていては、異常な犯罪心理には近づけない。あり得ない、と思い込んで可能性を切り捨てるな。とはいえ、この反射鏡に気が付いたのはさすがだな」
 華奢な手を小池の肩に置いて、その顔を間近に覗き込み。にっこりと笑って、しかし言葉は辛辣に。
「よくやった。奴隷に格上げしてやる」
「はい! ありがとうございます!」
 喜ぶところか!?
 一度、強制的に自己崩壊させられた小池には、常識が解らなくなってしまったらしい。

 薪がその場を離れると、部下たちはわらわらと小池の側に寄ってきて、口々にその手腕を褒めた。事件の重要な手がかりを発見した同僚に温かい言葉をかけ、励まし、彼の努力を認めてねぎらう。
「すげえじゃん、小池。薪さんにあんなに褒められるなんて」
「滅多に出ないぞ、あの顔は」
「うひゃあ、これは難しいよ。ってか、普通は気付かないだろ、こんなの」
「これ見つけられたら、薪さんも褒めるしかないだろな」
 奴隷に格上げする、というのが褒め言葉かどうかはかなり疑問が残るところだが。とにもかくにも、小池のテンションは上がったようで、上機嫌でパソコンのキーボードを叩き始めた。

 それを確認して、薪は室長室へ入る。
 小池の事件は片がつきそうだ。あと懸念があるのは宇野の案件だ。自分のパソコンに、あの事件のデータは転送しておいた。宇野に気付かれないように、目を通しておこう。
 週末を安心して過ごせるように、なるべく今日明日で仕上げておきたい。青木とのデートの最中、部下から掛かってくる電話ほど薪の気を削ぐものはないからだ。

 室長室の寝椅子には、怠惰な脳科学者が長々と手足を伸ばしていた。
 二階堂は、薪に負けず劣らずよく昼寝をしている。薪とは理由が違うが、夜はろくに眠っていないのだろう。
 薪が席についてPCを立ち上げたとき、ゆらりと人の動く気配がして、二階堂が目を覚ました。
「どうせなら、仮眠室を使ったらいかがです?」
 寝ぼけ眼の脳科学者に皮肉をぶつけて、薪は自分の不満を解消する。
 薪だって、時間があれば眠りたい。ヤキモチ妬きの恋人のせいで、最近ずっと寝不足気味なのだ。いや、もともとの原因はこいつじゃないか。

「なるほど。みんなのノルアドレナリン濃度は、君が調整しているわけだ」
 眠っていたはずの脳科学者は、寝椅子に寝転がったまま、訳のわからないことを言い出した。
「相手の自尊心を傷つけないように、さりげなくヒントを出してあげてるの?」
「……何のことですか」
「昨日ツヨシの机にあったメモと、さっきモニタールームから聞こえてきた言葉が同じだったのは、偶然?」
 捜査には首を突っ込むな、とあれほど言ったのに。懲りない男だ。

「二階堂先生。勝手に資料を読まれては」
「そうやって、部下に気を使い上司に気を使い。君はいったい、いつ休むの?」
「僕はひとに気を使ったりしませんよ。そういうのは苦手なんです」
「苦手と言いながら、君は僕にも気を使ってる。僕が休めるように、わざとモニタールームで仕事をしてくれてるんだろう?」
「あなたと一緒にいたくないだけです」
 なにを自惚れてるんだ、こいつ。
「やれやれ。嫌われちゃった」
 ため息混じりに、二階堂は半身を起こした。困った顔で、薪の方を見る。

「あんなことをするからですよ」
「ただの挨拶だったのに。研究室では、あれが普通だよ」
 たしかに。
 薪もロスにいた頃は、男からも女からも、半強制的にキスをされてた。特に事件が解決したときには、みんなテンションが上がりまくってて大変だった。服を脱がされて、とんでもないところにキスを……これも青木に知られたら、地獄を見ることになりそうだ。
「ここは日本です」
「反省してるよ。もう、しない。ごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げた二階堂に、薪は思わず苦笑した。
 今まで青木の手前、随分がんばってきたが、そろそろ限界らしい。小野田の血縁だけあって、どうもこの男は憎めないのだ。
 二階堂の謝罪は、これまでにも何回も受けている。素直に謝ってくる相手をいつまでも無視し続けるというのも、存外難しいものだ。
 
「どうして最初の日、みんなにあんなことを言ったんです?」
「セイジが、いつもこういう冗談を言ってるって。みんなに早く馴染むには、この手に限るって」
 黒幕は小野田さんか。
 なるほど、それでセクハラジョークだったのか。まったく、自分が急がしくて嫌がらせにこれないからって、甥を使うなんて。
 二階堂から状況報告を受けて爆笑する小野田の顔が脳裏に浮かぶ。今度会ったら、つまづいた振りをして小股払いを掛けてやる。

「論文のほうは、順調ですか?」
「うん。おかげさまで。君の協力のおかげだよ。ありがとう、ツヨシ」
 率直な感謝の言葉に、屈託のない笑顔。
 昔、薪の傍にはいつも。
 こんな風に自分に微笑みかける、大切な人がいた……。

「あなたのように笑う男を知ってます」
 意識せず、そんな言葉が口をついて出た。薪は自分でも驚き、次いで何故この男にそんなことを言ってしまったのだろう、と考えた。
「僕に似ているの? 会ってみたいな」
「いえその……彼はもう、この世にはいません」
 薪がその事実を告げると、二階堂は少し戸惑った表情になった。
「すみません、不愉快なことを。死んだ人間を引き合いに出したりして」
「いや。大事なひとだったの?」
「ええ。とても」
「そうか。それで君の扁桃体は人の死に対して過剰な反応をするのか。ますます持って、君はこの仕事に向かないな」

 畑違いの科学者から適性不合を指摘されて、薪はむっと眉を顰めた。上司に諭されるならともかく、警察の仕事を知りもしない学者に言われる筋合いはない。
「強い喪失体験を経験すると、人はその事象に対して過敏になる。つまり、君は普通の人間より人の死に対するストレスに弱い、ということだよ」
 室長の資質に欠ける、と言いたいのか。失礼な。
「たしかに、僕はそんなに強い人間じゃありませんけど。でも、室長の椅子に座って10年になります。それなりの実績は上げてきましたし、それほど不向きだとも思いませんが」
「うん。君はこの仕事に誇りを持ってる。それはよくわかるよ。けど、君が受けるストレスは深刻なものだ。プライベートで君のストレスを上手く解消してくれるものはある?」
「今のところ、風呂と日本酒ですね」
 実は恋人がいるが、それは秘密中の秘密だ。話すわけにはいかない。
「友だちとか、いないの?」
「この仕事についてから、疎遠になりまして」
「じゃあ、恋人の青木くんだけが君の安らぎってわけか」
「いや、あいつは安らぐって言うよりは振り回されてるっていうか、頭痛の種っていうか、えっ!?」
 薪の手から数枚の書類が落ちて、彼の周りに散らばった。振り返りざまに落としたものだから、そのうちの何枚かは二階堂の足元に落ち、骨ばった手がそれを拾い上げた。

「何をバカなことを」
「あれ? 青木くんが言ったんだよ。オレの薪さんに手を出さないでください、って」
 あ、あ、あ、あの、バカ!!!
「なんだ。青木くんの片思いってことか」
「違います。それは青木の冗談です。こういうジョークが流行ってるんですよ」
 何気なさを装って、薪は床に落ちた書類を集めた。ここで狼狽したら、それを肯定することになってしまう。
 ポーカーフェイスの影では、浅はかな恋人に対するこの世のものとも思えぬ罵りの言葉が次々と湧いてくる。沸点に達する怒りに、からだが熱くなってきた。頬が赤くなってしまっているかもしれない。
 薪は書類で顔を隠すようにして、室長室を出ようとした。

「ツヨシ。書類」
 二階堂の手に残った3枚の書類。宇野の事件の捜査資料の一部だ。
 薪は大股に彼に近付き、白衣から突き出た枯れ木のような手から書類をひったくった。
「ツヨシ。明日の夜、デートしようよ」
 二階堂のデートしようよ、は挨拶の代わりと言ってもいいくらい、頻繁に聞いている。まったく、懲りない男だ。
「脳波検査の後にさ。食事して、映画見て、軽くお酒飲んで。扁桃体とモノアミン神経伝達物資の関係について話してあげるから」
 だれが食事中にそんなこと聞きたがるんだ。てか、そんな誘いに僕が乗るとでも思っているのか。

「お断りします」
「あ、そう。じゃ、青木君が言ったこと、みんなに喋っちゃおうかな」
「あれは冗談だと」
「冗談なら構わないだろ? 青木君がこんな面白いこと言ってたよって」
 まずい。
 いや、本気にするバカはいないと思うが、万が一ということもあるし。
「……食事だけなら」
「ダメ。映画とお酒も」
「映画までです。お酒は、緊急の事件があったときに困るので」
 というのはタテマエで。
 青木は、自分の目が届かないところで薪が酒を飲むのをひどく嫌がる。薪は全然記憶にないのだが、昔、薪が酔って前後不覚になったおかげで、青木はとても不愉快な思いをしたのだという。詳細については話してくれないが、あの単純な男が根に持っているくらいだから、さぞかし酷いことをしたのだろう。そうなると、薪も知りたくない。

「わかった。ああ、明日が楽しみだな」
 誰が二人きりでデートなんかするか。青木と打ち合わせて、適当なところで電話で呼び出してもらおう。二階堂の言うことを聞かなければならなくなったのは青木のせいなのだから、少しは役に立ってもらわないと。
 ニコニコと嬉しそうに笑っている二階堂を見ていると、僅かに心が痛んだ。
 本来なら正直に恋人がいることを話して、自分のことは諦めてくれと頼むのが筋なのだが。男の恋人ってのは、こんなことでも苦労する……。

 重苦しい気持ちで室長室を出た薪だが、結局、二階堂とのデートはキャンセルされた。
 それは、翌日薪の身に訪れた思いもかけない出来事の余波と、二階堂自身の都合によるものだったのだが。
 後に、薪はその夜の自分の行動をとても後悔することになる。しかし、それは致し方のないことだった。

 人間には。
 未来に何が待っているか、知ることはできない。他人の心の奥底に眠る秘密を、透かして見ることもできない。
 二階堂が何を考え、何を思って薪にあんなことをしたのか。
 その真実を薪が知ったのは、すべてが終わった後だった。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(10)

運命のひと(10)







 金曜日の午後。
 大きな身体を二つに折って、青木は自分のデスクの脇にかがみこんでいた。
 携帯電話に向かって、何事か喋っている。声は低いが、明らかに憤った声だ。第九の職員たちはまだ、彼のこんな声を聞いたことがない。
「どうしてあんなものを送って来るんだよ。しかも職場に!」
『受取拒否で送り返されてきたからよ。中身も見ないなんて、あんまりじゃない』
 1ヶ月ほど前、実家から自宅に送られてきたのは、和服姿の若い女性の写真だった。要するに、見合い写真だ。それから何度か送られてきたのだが、2度目からは封筒の上からでもそれと解ると、封を切らずに運送会社に返却していた。

「要らないって言ってんだろ! オレにだって」
 恋人はいる。とことん惚れ抜いている相手がいるのだ。
 だけどそれは秘密の恋人で、口にしてはいけない。

「結婚相手くらい、自分で探すから。見合い写真はもう送ってこないでくれ」
『母さんはいいけど、俊幸さんがね。あなたは長男なんだから、結婚して家を継がないとってうるさいのよ』
 俊幸というのは父の弟で、ひとの家のことに何かを首を突っ込んでくるお節介なひとだ。見合いを強制するなんて母にしてはおかしいと思っていたが、あの叔父が絡んでいたのか。
『それでね、週末に写真のお嬢さんとの会食を取り付けちゃったのよ。会うだけでも会ってくれないと、俊幸さんの面目が立たないって』
「なに勝手なこと言ってんだよ! そっちが勝手にやったことだろ!? なんでオレが見ず知らずのひとと食事しなきゃいけないんだよ!」
 冗談じゃない。
 週末は、薪とふたりで過ごせるチャンスだ。そのために生きていると言っても過言ではないくらい、大切な大切な時間なのだ。邪魔されてたまるか。

「オレは行かないから、母さんのほうで」
 するっと携帯を手から抜かれて、青木は自分の声が高くなっていたことに気付いた。しゃがんだまま振り向くと、薪が青木の携帯を持って立っている。冷たい目で青木を見下ろしている。仕事中の私用電話を咎めているのだ。
「すみません、室長。すぐに切りますから」
「もしもし。室長の薪です」
 何を思ったか、薪は青木の携帯に向かって話しかけた。
「ええ。息子さんはとてもよく頑張ってますよ」
 青木の母親と、喋り始めてしまった。どういう気だろう。
「分かりました。必ず、そちらに向かわせます。僕がお約束します」
 何を約束するって?
「相手の方と、うまく行くといいですね。それでは」
 ぱたりと携帯を閉じて、青木の方へ返して寄越す。小さな手から受け取った薄い通信機器が、何故かとても重く感じる。

 薪の視線は下方をさまよっている。青木の顔を見ようともせず、黙って室長室へ入っていく。当たり前のように後を追いかけて、青木は薪の部屋へ入った。今の寸劇の説明を請わなければ。
「室長。母と何を」
「土曜日の11時。博多駅近くのKホテルだ。遅刻するなよ」
「なんですか、それ」
「封筒の中に相手の写真と、ホテルの地図も入ってるって言ってたぞ。ちゃんと確認しとけよ」
 椅子に腰掛けて、いつものように書類を手に取る。左手でPCを操りながら、報告書の内容と画面を見比べて、不明瞭な個所に付箋を付けていく。
「女性が喜びそうな褒め言葉のひとつやふたつ、あらかじめ考えていけよ。こういうことは、下準備が大切」
 ばん! と青木が机を叩くと、薪は口を閉ざした。
 不愉快なお喋りは止まっても、こちらを見ようとはしない。この件はすでに薪の中では決定事項で、話し合う気はないらしい。
 恋人に見合いを勧めるなんて。これでは相手の愛情を疑うな、と言うほうが無理だ。

「見合いしたからって、その相手と結婚しなきゃならないわけじゃないだろ。いい機会だから、今度の週末は親孝行してこい。おまえ、今年になって一回も実家へ帰ってないだろう」
 実家へ帰ったのは、父親の1周忌が最後だ。薪と一緒に新年を迎えたくて、法事が終わったその日のうちに帰ってきてしまった。
「実家へ顔を出すのはいいですけど、見合いはしません。相手のひとにだって失礼でしょう。オレが愛してるのは」
 亜麻色のキツイ眼に、ぎろっと睨まれた。それ以上喋るな、と薪の瞳が言っている。

「最初に言っただろ? 僕がおまえにやれるのは、身体だけだって」
 たしかにそう言われた。だけど、あれは。
「わかってるだろ。僕たちは、ずっと一緒にはいられない。おまえだっていつかは結婚して、家庭を持つんだ。準備はしておいても無駄にはならない」
「本気で言ってるんですか」
「僕はいつだって本気だ」
 薪は冷静だった。冷静に、自分との未来を切り捨てようとしていた。

 青木は、自分が立っている地面が揺れるような錯覚を覚える。
 結局は、自分の片思いなのだ。
 週末を一緒に過ごすようになっても、薪の部屋に泊るようになっても、同じベッドで朝を迎えるようになってさえ。
 青木の胸を締め付ける想いは、3年前から変わっていない。それと同じように、薪の心も変わらないのか。

「今日は半休扱いにしてやる。さっさと飛行機の手配をしろ」
 そのとき青木を包み込んだのは、絶望か怒りか。
 名称の付け難い感情に支配されて、青木は叫んだ。
「わかりましたよ。行きますよ、行けばいいんでしょう!」




*****

 この二人、この調子でいつもケンカばっかりしてる~。
 ちょっとはよそ様のあおまきさんを見習えよ、おまえら。(--;



追記 訂正しました。
 作中の駅名を訂正いたしました。
『福岡駅』→『博多駅』に直しました。
『福岡駅』って、福岡県にはないんですって。(教えていただいて、ありがとうございました)
 福岡県の駅は福岡駅だと思ってました。(←バカ)
 九州なんて20年くらい前に1回行ったきりだからなあ。(じゃあ路線図を調べろって、反省します、はい)
 わたしは色んな知識や常識が欠落しているので、こんなふうに教えていただけると、とてもありがたいです。これからも何か気付いた点がありましたら、教えていただけると嬉しいです。よろしくお願いします。
 

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(11)

 拍手のお礼なのにすみませんー。
 絶賛ケンカ中です☆



運命のひと(11)







 室長室から聞こえてきた怒鳴り声に、第九の職員たちは度肝を抜かれた。
 青木がここへ来て3年になるが、彼のこんな声を聞いたのは初めてだった。しかもその怒号が、彼の敬愛する室長に向けられるとは。去年の夏に薪と衝突して、青木が第九を辞めると言い出したときでさえ、こんな大声は出さなかった。
 
 部屋から出てきた青木は、力任せにドアを閉めた。ドアが叩き割れるような音がして、モニタールームが振動したような錯覚すら覚えた。
「あ、青木。どこ行くんだ?」
「コーヒー豆、買ってきます」
 コーヒー豆の在庫は週始めに補充したばかりだ、と誰も声にする者はいなかった。モニタールームを出て行く広い背中は、一切のものを拒絶していた。
 自動ドアの向こうに青木の姿が消えると、職員たちは何となく、青木が怒りに任せて閉めたドアを見つめた。昨日、直したばかりのドアは、大男のバカ力によって早くも歪んでしまったようだ。

 そのドアの向こうでは、薪が頬杖をついて、憂鬱な顔をしていた。
 まったく、あいつときたら。聞き分けのない子供のように癇癪を起こして職場を抜けるなんて、社会人にあるまじき行為だ。戻ってきたら説教だ。
 部下の行動に対して怒りを感じているはずの室長の表情は、なぜかとても哀しげで。苦しそうに歪められた瞳から透明な液体が湧き上がるのを、必死で抑えているようにも見えた。

 だって、仕方ないじゃないか。
 僕があいつの子供を産んでやれるわけじゃなし。結婚どころか、付き合ってることだって誰にも知られちゃいけない。そんな間柄なのに。青木の縁談話に口を出すことなんか、できるわけがない。
 青木の親が僕との関係を知ったら、どんなに悲しむだろう。何食わぬ顔で話をしたけれど、本当は怖くて膝が震えてた。
『いつも一行がお世話になっています』と彼女は礼を言った。彼女にとって僕は、息子を誘惑して人の道から外れさせた悪魔にも等しいのに。謝らなくちゃいけないことをしているのに、それを告白する勇気は無くて……せめて、息子の顔を見せてやりたいと思った。
 こんな、世間から非難されるだけの関係なんて、青木にとっても僕にとってもマイナスになるばかりだ。早く清算したほうがいいに決まってる。
 でも。
 僕からは、とてもできない。あの手を放すことはできない。
 だってこんなに……。
 青木の方から、言い出してくれるのを待つしかない。覚悟はできている。みっともなく追い縋ることだけは、すまい。

 ぽたりと報告書の上に水粒が滴り落ちて、薪は慌てて目の縁を拭う。
 しっかりしなければ。今は仕事中だ。泣くのは後だ。
 ていうか、この泣き虫のクセもどうにかしないと。

「泣きたいときは泣いた方がいいんだよ、ツヨシ」
 後ろから声をかけられて、薪は文字通り椅子の上で飛び上がった。
 なんでこいつがここにいるんだ!?
「知ってるだろ? 涙を流すと、GABA神経系からエンドルフィンが分泌される。鎮静効果も高いし、免疫力の向上にも貢献する」
 二階堂は、寝椅子の背もたれに腕を掛け、こちらを見ていた。どうやら今まで横になっていたらしく、髪がいつも以上にくしゃくしゃになっている。
 
「いつからそこに居たんですか!?」
「モニタールームにいると邪魔だから室長室に篭ってろって言ったの、ツヨシじゃなかった?」
 相手に言われて思い出した。
 昨日、第九に回ってきた事件の被害者は現職の都議会議員で、通常以上に個人情報の流出には気を付けるよう念を押された。二階堂には室長室を提供するから、被験者のモニタリングはドアから覗くだけにして、モニタールームには絶対入ってくるな、と命令したのだった。

「今の話を」
「聞くつもりはなかったけど。聞こえちゃった」
 寝椅子はドアに背を向ける形で置かれているから、背もたれに隠れて彼の姿は見えなかった。平常なら人の気配に気がついたと思うが、さっきはふたりとも動転していて・・・・これは非常にまずい。
 今度は冗談では通じない。誰がどう聞いても、恋人同士の痴話ゲンカだ。
「ひとに喋ったら殺しますからね」
「ツヨシ。それは脅しじゃないの? 警察官がそんなことしていいの?」
「警官ですから。隠蔽工作はお手の物ですよ」
「あはは。完全犯罪成立だね」
 軽い調子で流されて、薪は心の中で舌打ちする。
 二階堂には、薪の眼力が効かない。暴力団対策課の捜査官たちにさえ、薪のブリザード攻撃は有効なのに。小野田家の血のなせる業か。

「ツヨシ。今日の帰り、忘れないでね。僕は先に病院に行ってるから」
 なんだっけ、と思いかけて、昨日の会話を思い出す。
 脳波の検査を受けてくれと頼まれたのだった。気乗りしないが仕方ない。約束は約束だ。
 わかりました、と頷いて、薪は席を立った。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(12)

運命のひと(12)









 思い出したように痛み始めた足腰を引き摺るようにして、薪が病院に着いたのは夜の8時ごろだった。
 今日の定例会は、脳波検査を理由に断った。本当はあの電話の一件で、酒を飲む気分ではなくなってしまったからなのだが、岡部に余計な心配を掛けたくない。

 二階堂から預かった名刺を夜間の受付に出すと、検査室へ案内された。つん、と鼻をつく消毒薬の匂い。その香りを纏った黒髪の女性のことを思い出して、薪は自分の失敗に気づく。
 そうだ、あいつには雪子さんがいたんだ。見合いなんか勧めて、失敗した。
 ヤケクソになって見合いしたからって、相手の女性の気持ちも考えずに行動するような男じゃないけど。このことを雪子が知ったら、やはり不愉快だろう。
 青木は無神経なところがあるから、悪気はなくても喋ってしまうかもしれない。雪子に見合いの話は黙っているように、注意しておかないと。

 暗い気分に拍車をかけるように憂鬱なことを思い出して、薪の足取りがさらに重くなる。先に立って案内をしてくれていた受付の女性が薪の方を振り返り、「おかげんが悪いのですか?」と声をかけてきた。初対面の相手にそんな心配をさせたことを知って初めて、薪は自分がひどく落ち込んでいることに気付いた。
「大丈夫です。ちょっと寝不足で」
 せめて、にっこりと笑ってみせる。どんな心境でも笑顔を作れる訓練をしておいてよかった、と薪は思う。

「よく来てくれたね、ツヨシ。そこに座って」
 広い検査室の中、見たことの無い機械に囲まれて、二階堂は薪を待っていた。
 どこかで聞いた曲が流れている。題名は知らないが、二階堂が初日に第九で流していたあの曲だ。
 脳波検査をするのに音楽を流すなんて、おかしなことをする。平常の状態で測定しなければ意味がないと思うが、何を考えているのだろう。
「カバンはそこの籠に入れて。上着脱いで。ネクタイも取った方がいいな。ワイシャツのボタンも外したら」
 ネクタイは取れるけれど、シャツのボタンは外せない。首の付け根に残った痣が見えてしまう。
 
 電極がたくさんついた機械の隣に、歯医者で使うようなリクライニングチェアが置いてある。その上に横たわって、薪は薄いベージュ色の天井を見た。
 額から後頭部まで、6つの電極が取り付けられる。
「えらく簡易的じゃないですか? 標準は21個じゃありませんでしたっけ」
「よく知ってるね。脳全体を多角的に見るときには60個くらい付けるんだけど、これはただのモニタリングだから。見るところも決まってるし」
 電極の具合を確かめるために、二階堂は薪の頭を抱えるようにして後ろ首から後頭部を触っている。白衣の下で、二階堂の貧弱な胸が動いているのが見える。骨ばった男の手が自分の首に触れるのを、不快に思う。青木に触られると気持ちいいのに、これはどういった現象なんだろう。

「じゃあ、始めるよ。リラックスしてね」
 二階堂はいくつかのスイッチを解除し、レバーを下げた。ヴォン、とハードディスクがうなる音がして、チカチカとモニターの画面が点滅する。モニターに映っているのは、脳の略画だ。全体的には緑色だが、ところどころに赤や黄色が分布している。
「ふうん。とても落ち着いてて理想的な脳だね。あの濃度でこの状態は意外だな」
 どういう意味だ。脳全体が迷彩色にでもなってるとでも思ってたのか。
「ツヨシ。ちょっとこの問題、考えみて」
 簡単な積数の計算問題。これを解けということだろうか。
「√2/3。52。3.8562」
「ちょっと待って。暗算でいけちゃうの? それ」
 答えを言わなくても良かったのか。それならそうと言ってくれればいいのに。
「しかも、殆ど稼動してない……いや、早すぎて視認できないのか。数字にはちゃんと表れてる」
 プリンターから打ち出される数字と記号の羅列は、薪にも理解不能だ。ここまでくると、さすがについていけない。
 
「すごいよ、ツヨシ。きみの脳は人類の宝だ。学問の道に進むべきだよ。どうして警察官なんて職業を選んだんだい?」
「小さい頃からの夢だったんです。ずっと警官に憧れてました」
「親が警官だったとか?」
「僕の両親は、小学校に上がる前に交通事故で亡くなったんですけど。そのときに僕の面倒を見てくれた巡査が、とても親身になってくれて。子供心に感激して、将来は絶対に警察官になろうと」
「そうなんだ」
 何故、こんなことを喋っているのだろう。
 こんな話、誰にも―――いや。鈴木には話したっけ。なぜ警察官になりたかったのか、どうして官僚を目指すようになったのか。何を目的として警察機構に身を投じたのか。
 
 鈴木とは、すべてを語り合った。お互いの夢の話を、一晩中でも喋り続けた。
 そのうち、鈴木は弁護士希望だった自分の夢を薪の夢に揃えてきて。一緒の部署に配属されたら最高のコンビになるな、と頷きあって。
 その夢は叶ったけれど。
 鈴木はもう、いない。

「ご両親のこと、思い出しちゃった? 前頭前野が動いてる」
「いえ。亡くなった親友のことを」
 二階堂は、はっと息を呑んだ。小野田から事件の顛末を聞いているのだろう。
「君の親友か。さぞ、いい男だったんだろうね」
 自分を実験体にしている男が、彼特有の暢気な口調を崩さずにいてくれたことに感謝して、薪は口を開いた。
「鈴木は……僕の親友はすごくやさしい男で。僕が何をしても怒ったことなんかなくて、全部許してくれて」
 そう。
 僕に命を奪われてさえ、鈴木は僕を愛してくれた。僕に生きることを望んでくれた。
 昔はとてもそんな風には考えられなかったけど、今はそう思える。あいつのおかげだ。あいつが、鈴木の真実を僕に見せてくれたから。

「彼のことが、とても好きだったんだね」
「ええ。大好きでした。だからとても辛くて。この世界と引き換えにしてもいいと思うくらい、彼に帰ってきて欲しかった」
 薪の脳の片隅で、微かな光が点滅した。
 おかしい。
 どうして自分は、こんなことを二階堂に喋っているのだろう。
 こんなプライベートのことを、両親や鈴木のことを。青木にだって喋ったことがないのに、どうして?

「ああ。彼を愛してた?」
「ええ。ずっと長いこと彼に恋をしていて」
 ちょっと待て。
 どうしてこんなことまで喋ってるんだ、僕は?
 喋ってるというか、喋らされてる。操られてる。

 薪は、官房室で二階堂とした会話を思い出す。
『ひとのこころの動きを作るのは、脳ですよ。脳内の電気信号が人間の行動のすべてです』
『その電気信号を操ることができれば、好意も悪意も思いのまま』
 ……まさか、こいつ!

 頭についた電極をむしりとろうとした。右手でコードを掴んで、自分を操る電波の糸をなぎ払ったつもりだった。
「その信号はブロックしてある。動かせないよ」
 突拍子もない仮説が的を得ていたことを知って、薪は驚愕する。
 外部的な刺激を脳に送り込んで、その人間の感情すらも支配する――こんなことが可能なのか。
「僕をどうするつもりですか」
 身体が動かせないのだから、何をされても抵抗できない。
 例えばこの場でレイプされても、悲鳴を上げることすらできない。それどころか、悦びの声を上げてヨガらされる可能性も……。

「君をどうこうしようなんて思ってないよ。たしかに、電気刺激でβエンドルフィンを分泌させて君をインフォマニアに仕立て上げることはできるけど。そんな下らないことには興味がない」
 こんなことをされているのに、怒りは湧いてこない。怒りを抑えるホルモンを分泌させる電気信号が送り込まれているのだろう。
「こうやって脳の状態を見れば、君が考えることは何でも分かる。好きなものもキライなものも、欲しいものもそうでないものも」
 分かるだけでなく、操ることもできる。
 マイナスの考えはプラスに。暗い思考は明るく前向きに。
 それは精神科医のセラピーを機械化したような技術で、非道と言われれば否定はできないけれど、現実に効果が上がればこれから普及するかもしれない。
「僕なら、君の望むままの快楽を与えてやれる。もちろん性的な快楽だって。快楽中枢に直接刺激を与えてやれば、肉体的な負担もないし。昨日みたいに、足を引き摺って歩かなくてもよくなるよ」
 マッサージで身体の疲れを取るのも、脳に電気刺激を与えてストレスを解消するのも、大きな差はない、と言いたいのか。学者らしい極端な考え方だ。
 
 頭の中で皮肉を言いながらも、薪の心は凪いでいく。
 こんな穏やかな気持ちを味わうのは、何年ぶりだろう。

「でも、君が本当に欲しいのは、こういう時間だ。安らぎが欲しい、と願っているはずだよ」
 その通りだ。
 穏やかで満ち足りた時間。
 第九の仕事でささくれ立った心を癒してくれる、至福のとき。充実した人生を送るために必要なのは、激しい恋愛感情ではない。そんなものは疲れるだけだ。
「君に必要なのは、そういう相手だよ。彼では、無理だ。彼を選んだのは、君の間違いだ。彼との関係は、君を追い詰めるだけだ」
 二階堂の指す人物が脳裏に浮かんで、薪は苦笑した。顔の筋肉は動かなかったが。

 間違い。
 そうかもしれない。あいつとは、趣味も性格も合わなくて。

 出会ってからずっと、すれ違いや誤解ばかり重ね合ってきた。
 傷ついたり傷つけられたりして、心から血を流し続けてきた青木との関係。
 僕を完璧に理解してくれる相手となら、そんなことはないのだろう。言葉も要らないし、その不足を身体で補うなんて下らない真似もしなくていい。
 何も言わなくても、思いが通じる。
 欲しいと口に出さなくても、それが目の前に差し出される。本当はこうして欲しいのに、と苛立つこともなく、恥ずかしさに身を捩ることもなく、この男は僕に望むままの快楽をくれるのだろう。
 脳が震えるほどの楽しさや、指先までしびれるような快感や、薪が求めてやまない永遠すらも。
 快適で、満ち足りて、欲しいものは何でも手に入るこの世の天国。

 それはひどく魅力的で。
 そして。
 なんてつまらない世界だろう。

「つまんないです、そんなの」
 時計の短針が9の文字に近付く頃、頭に取り付けられた電極を外してくれた二階堂に、薪は笑いながら言った。

 

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(13)

運命のひと(13)






「つまらない?」
 電極に塗ったワックスの汚れを、薪の額から拭き取っていた手が止まる。怪訝な表情で、二階堂は薪の顔を覗き込んだ。
「自分の思い通りにならない連中を、何とかしてねじ伏せるところが楽しいんです。何もかも叶ってしまったら、きっと退屈ですよ」
「残念ながら、きみの望みをすべて叶えてあげられるのは、プライベートのときだけだ。仕事を続ける限りは退屈になんかならないよ」
 手慣れた動作で機械を片付けながら、二階堂はのんびりと喋る。この話し方に知らず知らず癒されている自分を感じて、薪は電気療法の効果を改めて認識する。

「きみが不愉快な思いをするのは仕事だけで充分だ、と言ってるんだよ。あれだけのストレスだ。プライベートがよほど快適でないと釣り合わないだろ? きみの脳を今の状態まで癒してくれる相手を選ぶべきだ」
 それが自分だと言いたいのか。脳から攻めてくるなんて、脳科学者ならではのアプローチだ。
 しかし、二階堂の真意は違った。
「僕は別に、自分を君の恋人として売り込むつもりはないよ。君には彼より、相応しい人がいると言いたいだけだ。第一、君の脳には同性愛者の特徴が見られない。君は女性と恋をしたほうが、安らぎを感じられるはずだよ」
「そうかもしれませんね」
 素直に頷いて、にこりと笑う。
 ひねくれ者の仮面を外せば、そこにあるのは愛され上手の天使のような笑顔。

「こんなに落ち着いた気持ちは久しぶりです。鈴木が死んでからは、一度もこんな気持ちになったことがなかった」
 いつもいつも、誰かに責められているような気がして。毎晩のように悪夢を見て。
 青木と付き合いだしてから、いくらかはマシになったけど。ここまで癒されたことは一度もない。あいつに抱かれて、その腕の中で眠りにつくときでさえ。罪を重ねているという事実から逃れることはできない。
 僕たちの関係は、紛れもない罪だから。
 きっと今も、誰かを悲しませている。
 大切なひとの泣き顔を思い浮かべながらも、相手を求めずにはいられない現実。罪に罪を重ねるように、僕たちは秘密を重ね続ける。
 深まっていく業に、堕ちていく身体。
 すべてを理解した上で、なお。

「でも、ダメです。相手が彼じゃないと、ワクワクしない」
「わくわく?」
「ええ。ワクワクもドキドキも、何もない。胸がぎゅうっと押しつぶされるほど辛いこともない代わりに、背筋がゾクゾクするほど嬉しいこともない」
「そういうのが疲れるって、思ってなかったかい?」
「疲れます。あいつには振り回されてばかりで、正直身が持ちません」
 メンタルな面だけでなく、肉体的にも青木とは釣り合わない。年が違いすぎるし、身体の相性も悪い。
 それでも。
 あいつの手は拒めない。

「だからって、僕がそれを望んでいないと、どうして言い切れるんです? すれ違いばかりの滑稽な喜悲劇を、僕が楽しんでいないとでも?」
「だってきみは、泣いてただろ」
「誰かのために泣けるって、幸せなことでしょう?」
「それは自己陶酔だ」
 たしかに。二階堂の言うことは正しい。
「そうですね。とても愚かな感情です」
「感情だけの問題じゃないだろう? 彼との関係は不毛で無意味で、互いの人生にトラブルばかりを持ち込む。無駄なことばかりだ」
「人生に無駄がいけないなんて、誰が決めたんです? 仕事じゃあるまいし、無駄なことは多ければ多いほど人生は楽しいですよ」

 時刻は9時を回った。
 気分もいいし、今夜は久しぶりに鈴木と飲もうかな、と薪は思う。
「わからないな。どうしてきみほどの優秀な脳が、あの男にそこまで肩入れするのかな」
「わかりませんか?」
 椅子から降りて上着を手に取り、ネクタイをポケットにしまう。
 ふと思いついてシャツのボタンを外し、青木に愛された証を二階堂に見せ付ける。
 鎖骨の下部にうっすらと残った赤い刻印。完全に消えないうちに重ねられることが多いから、そのうち本物の痣になってしまいそうだ。
 愛おしそうにその徴を指でなぞり、薪は夢見るように微笑んだ。

「僕は、恋をしてるんです」
「恋? きみは彼に恋をしている、と?」
「ええ。僕はいま、青木に夢中なんです」
「ツヨシ。それは一時の感情で」
「はい、わかってます。一時的なものです。そう長く続くものじゃない。だからここは、一生を安穏に添い遂げられる誰かを選ぶのが正しい選択なんでしょう」
 電極と枕で乱れた髪を、さっと右手で整えて、薪はゆっくり立ち上がった。

「だけど、先生。
 正しいことと、ひとの幸福とは一致しないんですよ。
 正しいことをしてさえいれば、幸せになれるとは限らない。それはあなたが一番良く知ってるんじゃないですか?」
 メインスイッチを落とそうとした手を止めて、二階堂は薪をじっと見た。
 薪の真っ直ぐな視線に出会って、彼は苦笑した。肩を竦めて機械に目線を戻すと、パチリと電源を落とした。
「口惜しいよ。青木くんが羨ましい」
 薪の本音を知って、脳科学者はとうとう敗北を宣言した。
「僕だって。時間さえあれば」

 薪は上着に袖を通して、シャツのボタンを閉め直した。カバンを脇に抱え、脳科学者に背を向ける。
「来週、お帰りになるんでしたね。先生のご活躍を祈ってますよ」
「ツヨシ!」
 薪の背中に、男の声がかかった。
 それは初めて耳にする、二階堂の強い口調だった。
「僕だってね、時間さえあればこんなことはしなかったよ。強制的に感情を操るなんて。人の道に外れることだって、ちゃんとわかってるよ」
 二階堂は、薪が初めて見る表情をしていた。
 細い眉が苦しげに寄せられていた。黒い瞳が苦悩の色を宿していた。薄い唇がぎゅっと結ばれ、骨ばった拳が握り締められていた。

「別に怒ってないです。あなたが僕に何をくれようとしたのか、理解したつもりです」
 二階堂は、自分を元気付けてくれようとしただけだ。
 薪の身体の自由を奪っておきながら、指一本触れなかった。彼に邪心はなかった。
 その方法は、明らかに間違っていたけれど。彼には時間がなかった。もうすぐ、二階堂は自分の研究室へ帰るのだ。
 検査室のドア口で、薪は二階堂に向き直った。お礼までは言えませんけど、と付け足して、にこりと笑う。

「……許してくれてありがとう。ついでに、もうひとつ懺悔しとこうかな」
「はい?」
「青木くんが、君に手を出さないでって僕に言ったって話。あれ、嘘だったんだ」
「嘘?」
 やっぱり、嘘だったのか。いくら青木がバカでも、ありえないだろうと思っていた。青木ならやりかねない、と思ったのも事実だが。
 しかし、これでデートの約束をなかったことにできる。
「卑劣ですね。そんな嘘でひとを騙して」
「ごめん。謝るよ」
「ごめんで済めば警察は要らないんですよ」
 実はそれほど頭にきているわけではなかったのだが、怒ったフリをして薪は二階堂に背を向けた。

「当然食事はキャンセルですからね。失礼します」
「ああ、待って。彼も連れて帰ってくれないか」
「は?」
 検査室の奥の扉を開けると、そこは仮眠室になっていて、薪の部下が寝息を立てていた。
 どうしてこいつがこんなところに。
 てか、実家に帰ったんじゃなかったのか。あれから姿を見なかったから、てっきり薪の勧めに従ったのだと思っていた。

「二階堂先生。青木になにを」
「だいぶ煮詰まってたみたいだったから。電気刺激でセロトニンを分泌させてあげたんだよ。青木くん、起きて」
 二階堂が広い肩に手を掛けてゆさゆさと揺すると、億劫そうに青木の目蓋が開かれた。
 目をこすりながら身を起こし、背伸びをしながら大きな欠伸をひとつ。
「気分はどう? 青木くん」
「とてもすっきりしました。落ち着いた気分です」
 驚いた。
 青木は二階堂に反発心を抱いていたはずなのに、いつの間に懐柔したのだろう。

「あれ? 薪さん」
 最悪の展開になった。
 二階堂と二人きりでいたことが、こいつにバレてしまった。
 昨日、脳波検査に同意したときは、青木に付いてきてもらおうと思っていたのだ。そうすればおかしな誤解を受けずに済むし、二階堂も下手なことはできまい。だけど、あの電話のおかげで、そんなことは言い出せなくなった。仕方なくひとりで来たのだが。
 
「薪さんも二階堂先生の脳マッサージを?」
「脳マッサージ?」
 なるほど、そういう言い方をしたのか。微妙だが、的外れでもない。
「ええ。すっごく快適ですよ。頭の中ぐちゃぐちゃだったのが、きれいに整理された感じです」
 脳幹の縫線核だの網様体だのセロトニンだのと、青木に専門用語を使っても、意味が通じないだろう。ちゃっかりとデータは収集したに違いないが、青木の機嫌を直してくれたことには感謝しよう。

「これ、商売にしたら当たりますよ」
「これだけの機械を自費で揃えようと思ったら、1回当たりの料金を100万円くらいに設定しないと」
「それは高いです。って、これ、お金取るんですか!?」
「特別割引で、80万にしてあげるよ」
「えええ~~!」
「月賦でもいいよ」
 すっかり打ち解けている。
 二階堂に対する好意を増量する電気信号でも送り込んだのだろうか。もともと騙されやすい青木のことだ。電極なんかなくたって、5円玉ひとつで言いなりになりそうだ。今度、青木がヤキモチを妬いたときに試してみよう。催眠術でヤキモチが静まるかどうか。

 病院側との約束は9時までだから、と二階堂は二人を追い出し、自分は病院の中に戻っていった。論文作成のため、今日は泊り込むと言う。ご苦労なことだ。
 救急の出入り口から中庭に出て、駅の方向へふたりで歩く。今夜は曇っていて、月も出ていない。
 所々に立てられた水銀灯の明かりで、駐車場から歩いてくる人影が見える。急に熱を出した子供や、思いがけぬ怪我をしたひとたち。夜の病院は、けっこう人が多いものだ。

「おまえ、今夜中に帰らなくていいのか? 明日、間に合うのか?」
「会食は断りました」
「断った? お母さんに叱られなかったか?」
「落ち着いて話したら、納得してくれました。こっちが苛立ってたら相手も苛立っちゃう、って二階堂先生に言われました。先生に脳マッサージをしてもらってから話をしたら、母もすんなりオレの言い分を聞いてくれて」
 青木の話に、薪は驚いて立ち止まった。
 二階堂が、青木にそんなアドバイスを?

「なんて言ったんだ? お母さんに」
「死ぬほど好きな人がいるからって」
 なんてバカなことを。
 薪はジャケットのポケットから携帯電話を取り出し、10桁の数字を押した。部下の実家の電話番号くらい、上司なら暗記していて当たり前だ。
「夜分にすみません。室長の薪です。あの、昼間お約束したことですけど、その」
 なんと謝罪したらいいものか、言葉が出てこない。自分が責任を持って青木を帰らせる、と約束したのに。
 薪が口ごもると、青木の母親は『お気になさらないでください』と明るく笑った。
 すみません、と頭を下げると、室長さんに言うことじゃないんですけど、と前置きして、彼女は嬉しそうに話した。

『あの子ったら、ようやく白状したんですよ。好きなひとがいるって』
 弾んだ声が聞こえてくる。本当のことを知らないから出せる、悪意のない声。
『一行が、自分の我を通すなんて初めてなんですよ。今までは当たり障りのない相手を選んでたっていうか、親の顔色を伺っていたっていうか。
 やっと本当の恋をしたのねえ』
 自分の息子に訪れた恋を喜ぶ親に、その真実を告げたときの衝撃を想像して。絶望に嘆き悲しむであろう彼女の姿を、まざまざと思い描きながらも。
 薪の胸を満たすのは、歓喜。
 本当の恋をしていると、彼を育て上げた母親ですら認めた青木の想いが自分に向けられていることに、体中が震えるような喜びを感じている。

 僕は、どんどんひどい人間になっていく。
 だれかが悲しむことが解っているのに、この事実に狂喜している。
 僕の中にはもう、良識や道徳なんかカケラも残っていないんだろう。残酷で身勝手で、表面上はどう取り繕っても、自分さえ幸せなら他人がどうなっても構わない、と心の底では思っているのだろう。

 穏やかな声で「失礼します」と挨拶して、薪は電話を切った。
 通話の間中、黙って自分を見つめていた男に、一歩近付く。

 ヒトデナシはヒトデナシらしく。他人のことなんか、気にしない。

 水銀灯に照らされた病院の中庭で、病気の子供を抱いて走ってくる母親を横目に。
 薪は背伸びをして恋人にキスをした。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(14)

運命のひと(14)







 蛍光灯が輝く明るいキッチンに、コーヒー豆を挽く音が響く。
 ふわっと広がる薪の大好きな香り。この匂いは薪を幸せにしてくれる。

「薪さんはあの病院で何を?」
 薪のマンションで遅い夕食を摂ったあと、青木は今夜の薪の行動に探りを入れてきた。どこまでも心配性の恋人を心の中で嗤いながら、薪は短く答えた。
「脳波検査」
「二階堂先生とは、どんな話を?」
 さりげなさを装いながらも、コーヒーカップを差し出す手が強張っている。仕方のないやつだ。
「GABA神経系と脳内オピオイド受容体の関連について聞きたいのか?」
 専属バリスタからカップを受け取って、薪は適当な用語を口にした。青木の質問を断つには、これが一番だ。
「いいです……オレには理解不能です……」
「だろうな。僕と彼が話すことでおまえに解ることなんか、何もないだろうな」

 芳しい香りを吸い込みつつ、白いカップにくちづける。
 たちまち口中を満たす苦味と微かな酸味。さらっと切れる爽やかな後味。夜だから薄めに淹れてあるが、薪の好みは外さない。

「どうせオレは二階堂先生とは頭のレベルが違いますから。薪さんと対等な会話なんかできませんよ」
 自分のカップを持って、薪の向かいの席に腰を下ろした恋人は、僻みっぽい口調で不満げに言った。必要以上に尖らせた唇で、わざとらしくコーヒーの湯気を吹き飛ばす。
 子供じみた仕草に、またしても心をくすぐられて、薪の背筋がぞくりと震えた。

「おまえの口は、喋るしか能がないのか? 喋るよりも得意なことがあるんじゃないのか?」
 ダイニングテーブルに肘をつき、細い指を組み合わせて、その上に尖った顎を載せる。左に小首を傾げるポーズを取って、上目遣いに拗ねた男の顔を見る。
 目に力を入れて、瞬きをゆっくりと二回。微笑みの形に口端を吊り上げて、目を細める。
「あ、はい。オレ、みかん丸ごと一口でいけます!」
「……ホントに低レベルだよな、おまえって。頭いたくなってきた」

 組んでいた指をほどいて、そのまま髪に埋める。なんでこいつはこんなに鈍いんだ。
 今日は泊っていけって、こっちから言ってやったのに。ちゃんと風呂も使って、後は寝るだけなのに。
 まあ、いい。
 気持ちを伝えるのは、言葉だけではない。
 薪はそっと手を伸ばす。青木の大きな手に自分の手を重ねて、長い睫毛を伏せた。

「薪さん、もしかして」
 ようやく通じたらしい。
 普段、伝わることが少ないから、こうして気持ちが伝わったときはむちゃくちゃうれしくて。これが日常になってしまったら、たったこれだけのことでこんなに感動することもなくなってしまうのだろう。それはやっぱり、つまらない。
 
「みかん、食べたかったんですね? ごめんなさい。全部食べちゃいました」
 ……。

 ふたつのコーヒーカップが置かれたダイニングテーブルの下で。
 鈍い男の向こう脛を、薪は思い切り蹴り飛ばした。




*****



 明かりを落とした寝室に、衣擦れの音がひそやかに流れている。
 組み合わさったふたつの手が、ベッドの上で立てる音。絡み合った足が、シーツの間で擦れる音。
 薪は、残された片手で相手の背中に縋る。

 右手に引き続き、くちびるも舌も奪われて、侵略されていく心と身体。刻み込まれる征服の証。
 相手に隷属化することの屈辱と、ほの暗い悦び。様々な感情が綯い交ぜになった薪の中で、揺るぎなく佇む一本の柱が樹立される。
 すべての感情はそこに集約され、愛戯の最中で同化する。やがてはひとつの純化した想いだけが、薪のすべてを支配する。

 ―――僕は青木が好き。

「薪さん。オレたちがこうなるのって、運命だったような気がしませんか?」
 後ろから青木の声が、薪の左耳に吹き込まれる。ゾクゾクと粟立つ背中と、自然に竦み上がる華奢な肩。自分を抱く腕に添えた両手を握り締めて、その感覚をやり過ごす。
「運命? バカじゃないのか、おまえ」
 呆れた顔を取り繕いながらも、薪はこころの中で驚愕する。天才脳科学者とバカのセリフがかぶるなんて、これだから青木はこわい。

「くだらないドラマばっかり見てるから、そんな突拍子もないこと言い出すんだな」
「薪さんだって。二時間ものの推理ドラマが大好きなくせに。あれこそ下らないでしょ」
「だって面白いだろ、あれ。ありえないトリックを貫いちゃうところとか、目の前に証拠があるのにわざとそれを見逃す鑑識とか。とりあえず、3人死ぬまでは推理を始めない探偵とか」
「……楽しみ方、間違ってます」
 つつっと後ろ首を舐められて、びくりと背中が反り返る。最近、首がすごく弱くなってきた。他にも背中とか、膝の裏とか。回数を重ねるほどに、ウィークポイントが増えていく。慣れるほど弱点が多くなるなんて、理不尽な話だ。

「韓流ドラマ見て泣いてるおまえのほうが、男として間違ってるだろ」
「ひととして間違ってるよりは、マシだと思いますけど」
「あん? それは誰のことだ?」
「あ、自覚あるんで、痛い! 痛いです!」
 後ろから回されていた青木の腕に、容赦なく前歯を立てて、暴言に対する報復を果たす。こういうことは身体に覚えこませるのが、一番効果があるのだ。
「もう。薪さん、噛むの好きですよね。こないだもオレの肩、思いっきり噛んでましたもんね」
 あれとこれとは違うだろう。
 あの時は、どうしても声が抑えられなくて、それが恥ずかしくて。こいつには、そのニュアンスの違いも判らないのだろうか。

「いいですか?」
 まだ早い。
 今日は、濃い前戯が欲しい。いつかのように、舌で舐め溶かして欲しい。
 でも、そんなことは口が裂けても言えないから、薪は黙って頷くしかない。
「あくっ! ~~~っ!」
 やっぱり、こいつとの相性はとことん悪い。
 タイミングは合わないし、欲しいところにはこないし。ちっとも良くないし、とにかく痛い!

「青木っ、まだか!」
「すいません、もう少し」
「あと何往復だ!?」
「えっと、30回くらい」
「僕を殺す気か! 10回で済ませろ!」
「せ、せめて20回」
「ムリだ、死ぬ! 痛すぎるっ!!」

 まったく、滑稽だ。
 こんなカエルがひっくり返ったみたいな無様な格好で、12歳も年下の男の下になって。そこに快楽のオマケでも付いてりゃ理由のひとつもできるけれど、僕にはそれすらなくて。
 それでも幸せでたまらない、なんて。扁桃体が異常をきたしているに違いない。

「薪さんっ、好きです、大好きっ……!」
 突き上げられるたびに局部はもちろん、下半身が全部痛い。膝まで走る痛みと、内臓を押される圧迫感。口から胃の中身が出てきそうだ。
 それなのに。
 悲鳴を殺すために歯を食いしばらなければならないような痛みが、青木の単純な言葉でごまかされてしまう。好きだって言ってもらえるだけで、もうどうなってもいいと思ってしまう。この苦痛が朝まで続いても構わない、なんて正気じゃ考えられないようなことまで頭に浮かんでしまう。

「オレ、こんな気持ちになったの、薪さんが初めてなんです。あなたのためなら、何を失っても惜しくないって」
 身体の奥に注ぎ込まれる灼弾を感じながら、耳に流し込まれる麻薬のような言葉に酔い痴れる。青木の腰に足を絡ませて、もっと深いところにおまえの精が欲しいと身体でねだる。
「愛してます」
 始めと終わりは必ずやさしいキスで。耳にタコができるほど聞かされたセリフを、飽きもせずに繰り返して。
 それを聞くたび、ジンと震える心と身体。
 二階堂は全人類の宝だなんて大げさな評価をしてくれたけど、自分の脳も大したことはない。同じセリフを何度聞いてもこんなに嬉しくなるなんて、学習機能がない証拠だ。

「オレの運命の人は、やっぱりあなたしかいません」
 運命のひと。
 結ばれるべく定められた運命のふたり。
 
「違うな。おまえとは、そういうんじゃない」
「違いませんよ。薪さん以外のひとなんて、考えられません」
「ちがう。おまえの運命のひとは、きっと他にいる」
「薪さんがなんて言おうと。オレは信じてます」
 強情なやつだ。
 青木は思い込みが激しくて、時々ひどく頑固だ。ひとの意見を聞こうとしない。特に薪のことに関しては、絶対に自分の意見を曲げない。
 例えば、未来永劫、薪への気持ちは変わらないと主張する。そんなこと、あるはずがないのに。
 
 きっと、僕たちはお互い、運命の相手じゃない。
 好みも性格もまるで違うし、僕とおまえの意見はことごとく合わないし。出会った瞬間に何かを感じるどころか、思い切り人違いしてたし。
 おまえに告られる前から惹かれてた、なんてロマンチックな馴れ初めでもなかった。僕はずっと長いこと、昔の恋人の面影をおまえに重ねてて。そこまでは許されるとしても、からだの関係ができてからもそれが続いて、何度かベッドの中で間違えてしまったりして。
 こんなヒドイ運命の相手が、いるわけない。

 僕たちの人生は、ほんの一部分が交差しているだけで、いずれは離れていく。添い遂げられる関係じゃないし、そんなことは望んでいない。
 望めるわけがない。
 二階堂が言うとおり、この関係は不毛で無意味で、厄介ごとばかりを互いの人生に持ち込む疫病神みたいなものだ。
 なるべく早く清算しなくてはいけないと思いつつも、そこから抜けられないのは……。
 痛みを幸せと感じるほどに、僕の脳がイカれてしまっているから。

 
 ちくしょう、ムカつく。
 ああ、そうだよ。
 僕はとっくにおまえにメロメロだよ。




*****



「42回だぞ、42回! おまえはまともに数も数えられないのか!」
 大きな声を出すと傷に響く。それを堪えてでも、ここは怒るところだ。
「数えてたんですか?」
「数えたさ。あと何回我慢したら終わりだ、って自分に言い聞かせて。それなのにおまえときたら!」
「すいません」
 しょげた恋人の情けない顔を見ると、薪の気分は上向きになる。青木の困った表情は、薪のA10神経系を刺激する。

「で?」
「はい?」
 何のことだか、分からないのか。まったくイライラする。
「その……よかったか?」
「はい!」
 こういうことを口にするのが、どれだけ恥ずかしいか。薪の気持ちに、青木はちっとも気付かない。
「薪さんも気持ちよくなりたいですか?」
「もう疲れた。眠らせてくれ」
 本当はちょっとだけして欲しい。でも、そんなことは言えない。
 青木は残念そうな顔をして、寝室を出て行った。やがて開け放したドアから、シャワーの音が聞こえてくる。

 こいつは何もわからない。僕が欲しいものも、したいことも。
 僕がこんなにもおまえに参ってるってことすら、わかってないんだろう。
 だけど。

 わからなくていい。
 わからないほうが面白い。

 痛みの残る秘部を庇ってうつ伏せになり、青木が寝ていた枕を抱える。微かな汗の匂い。その湿気が愛おしい。
 青木の残り香に顔を埋めて、薪はアーモンド形の扁桃体がシナプスのハンモックで昼寝をしている夢を見た。




*****


 拍手のお礼はここまでです。(またこんな姑息な手を)
 結局はらぶらぶなのね、ということで。

 続きはちょっぴり切ないので、明るいお話がお好みの方にはごめんなさいです。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(15)

運命のひと(15)






 室長会議終了後、薪は小野田のところへ顔を出すことにしている。
 定例報告と銘打っているが、事件の報告書はその都度所長に提出してあるので、大した報告事項はない。つまりこれは、小野田がかわいい秘蔵っ子の顔を見たがっているのだ。

「おはようございます、緑川さん」
 官房長付けの秘書にぺこりと頭を下げて、にっこりと微笑む。
 ここへはしょっちゅう来ているから、秘書とも顔なじみだ。薪が甘いケーキが苦手なことも知っているし、コーヒーには砂糖やミルクを入れないことも承知している。
「あれ? 小野田さん、電話中ですね」
 秘書の机の上の電話の外線ランプが点滅しているのを見て、薪は小野田が個人的な電話をしていることに気づく。
 官房室の外線は5つ。5つ目のラインは、小野田のホットラインだ。この番号は薪も知らない。
「電話は奥さまからですから。甥御さんのことみたいですよ。薪室長なら、入っても大丈夫だと思いますけど」
 小野田の甥と言われて、薪は豆台風のように自分の職場を掻き回して行った脳科学者のことを、苦笑と共に思い出す。

 二階堂が居なくなって、半年が過ぎた。
 季節は冬になり、2063年も暮れようとしている。
 第九にも平穏な日々が戻ってきて、仕事や日常の煩雑さの中に紛れ、彼のことも忘れかけていた。そういえば、論文は完成したのだろうか。あれほど協力してやったのだから、論文が出来上がったら連絡を寄越すのが当たり前だと思うが。
 まあ、学者なんてそんなものか。あの男に常識を期待しても無駄だ。

 薪はファイルを両手で持つと、秘書に向かってそれを差し出した。
「いえ。この報告書を渡しに来ただけなので。緑川さんから、渡しておいていただけますか」
 肉親からの電話なら、職務に関する機密事項ではない。しかし、小野田のプライベートに立ち入るのも気が引ける。
「あら。それは困ります。せっかく薪くんが来たのに、どうして帰しちゃったんだい、って叱られちゃいます」
 小野田の口調をそっくり真似て、彼女は片目をつむって見せた。さすが小野田の秘書だ。茶目っ気がある。
「直接お渡しになられたほうが、よろしいかと」
 少し迷ったが、時計を見て秘書の勧めに従うことにした。今朝は会議が長引いて、時刻は10時近い。早く第九に行って、仕事の指示をしなければ。

 天然木材を使用した重厚なドアをノックする。さすが、官房室長。第九の室長室のドアの倍は厚みがある。防音効果も高く、これなら大声を出しても隣室には聞こえないだろうと思われる。
 ドアを開くまで、小野田の声は全く聞こえなかった。通話ランプに気付かなかったら、電話をしていたことは分からなかった。
 ましてや通話の内容が、薪も知っている人物に関する重大なことだという事実も。

 知るはずがなかった。いや、知らなくて良かった。
 その人物は、彼にこの事実を知られることを望んではいなかった。

「そう……やっぱり、手術することにしたんだ。月曜日? ちょっと待って」
 ついぞ聞いたことのない小野田の深刻な声に、薪は足を止めた。
「困ったな。ぼくはその日はどうしても外せないんだ。君が立会いに行ってくれる? うん、頼むよ」
 手術、と小野田は言った。
 その手前の会話は、よく聞き取れなかった。聞き覚えのある名前が小野田の口から出たような気がしたが、自分の聞き間違いだと思った。
「潤也には、今夜にでも会いに行くよ。多分、これが最後だろうからね。姉さんたちも覚悟はできてるみたいだし。潤也も、これでようやく楽になれると思うしかないって、泣いてたけどね……。
 今夜、君も一緒に来る? うん、ぼくは潤也の顔見たら、一足先に日本に帰って」

 バサッと耳障りな音がした。
 小野田が大事な電話をしているのに、なんて無神経な、と腹が立ったが、その音の原因は自分が持っていたファイルが床に落ちたからだと分かって、薪は自分の手がひどく震えていることを知った。手の震えは指先だけのものではなく、身体全体が戦慄いた余波によるものだったと気付くころには、まともな呼吸ができなくなっていた。
 小野田は薪の姿を目に留めて、電話を切った。
「ごくろうさま。できたら、そのファイルは床じゃなくて机の上に置いてくれないかな」
 いつものように呑気な口調で薪に話しかける小野田には、電話をしていたときの沈痛な表情はなく、薪は一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思った。

 提出用のファイルを拾うでもなく、呆然とその場に立ち尽くしている薪を見て、小野田は軽く肩を揺すった。席を立って薪の足元にかがみ、自ら床に散乱した紙片とファイルを拾い集めた。
「いつもながら、君の報告書は解りやすいね」
 上司に床の書類を拾わせた無作法な部下の態度に怒るでもなく、小野田はにこにこして薪の提出物に及第点をくれた。ありがとうございます、と言おうとして、薪は自分のくちびるが動かないことに焦った。

「……小野田さん」
 細くて、かすかに震えている情けない声。
「行っていいよ」
「小野田さん!」
 薪が声を荒げると、小野田はとても困った顔をした。
 その顔は、半年前は頭痛の種だったモヤシのような風貌の男に似て、薪の心臓をぎゅっと締め付けた。

「ああ、潤也が怒るだろうな。君には絶対に知られないようにしてくれって、あれほど念を押されてたのに」
「知られないようにって、どういうことですか? 事故か何かに遭われたんじゃないんですか?」
「ちがう。潤也はね、脳腫瘍を患ってたんだ」
「脳……腫瘍……」
「うん。脳幹に出来た腫瘍で、手術は不可能だと医者に言われた」
 脳幹は脳と脊髄をつなぐ場所にあり、大脳と自律神経の制御を行なっている。脳幹が壊れれば自律神経が失調し、呼吸も心臓も停止してしまう。人間の生命維持そのものに関わる器官なのだ。
 深いところにあるから、脳を掻き分けるようにして手術をしなくてはならないし、髪の毛ひとすじのミスも許されない。ミスは患者の死に直結する。ミスをせずに手術を終えたとしても、植物状態になる可能性が9割を超えるという。初めから悲惨な結果が分かっているような手術を、執刀してくれる医者を探すこと自体が難しい。
 脳幹は、脳外科医にとって禁忌の領域なのだ。

「きみが潤也に初めて会ったときに話してた論文。あれが潤也の最後の論文だったんだよ。あのあと、すぐに療養生活に入ったんだ。ストックホルムの脳専門の病院でね。薬物治療しか道がなかったから、潤也は8年もそこで過ごすしかなかった」
 8年。
 その月日が、彼の風貌を変えたのか。
 病院で過ごす日々が、毎日投与される薬品が、彼を白く細く作り変えていった。機関紙に掲載された写真と似ても似つかぬ姿になっていたのは、そのせいだったのか。
「一時期は効いた薬も、だんだん効かなくなって。何度も薬を変えたけど、やっぱりダメで。病巣は広がる一方で、もう長くないことは解ってたんだ。だから思い切って日本に来たんだ」
 いよいよ自分の命が終わりに近づいたとき、故郷の地が踏みたくなった。そういうことか。
 それが最初からわかっていれば、乱暴なことはしなかったのに。

「そうだったんですか。彼は、自分が生まれた国で最期のときを過ごそうと……」
「ちがうよ。潤也は君に会いに来たんだよ」
「は? 何でそこに、僕が出てくるんですか?」
 相変わらず自覚のない子だね、と意味不明の前置きをして、小野田は薪が知らなかった叔父と甥のプライベートを教えてくれた。
「ぼくがいつも話して聞かせる君の武勇伝が、潤也は大好きだった。君が関わった事件のことは、全部かれに話してやったんだ」

 小野田が甥の慰みにと、面白おかしく話したという事件の数々。個人情報や残虐な部分はオブラートに包み、薪の活躍を大げさに装飾して、心躍る冒険活劇のように語って聞かせたのだろう。
「潤也は君に憧れてた」
 警察庁の要職に居る叔父の口から聞かされる、現実的で痛快な物語。その主人公に会いたくて、二階堂は第九に来たがったのか。
「潤也はね、すごく喜んでたよ。きみがあの論文を今でも覚えてくれてて。8年前も喜んでたけど、こないだはもっと嬉しかったと思うよ」
 やっと思い出した。
 あの当時、脳に関する論文に目を通すようにと薪に科学雑誌を与えたのは、小野田だった。その論文について小野田と議論を交わした覚えはないが、何がしかの感想は述べたような気がする。それを彼に伝えたのか。

「ツヨシとは運命的なものを感じる。そう言ってたよ」
「……戻ります。失礼します」
 短い退室の挨拶を口の中で呟いて、薪は官房長室を出た。
 秘書が「お帰りですか」と笑いかけてきたが、笑みを返すことができなかった。
 廊下に出て、薪は右手で顔を覆った。
 こみ上げてくる感傷を奥歯で噛み殺して、薪は警察庁の長い廊下を歩いていった。



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運命のひと(16)

運命のひと(16)







「あれ? なんだっけ、このCD」
 ラベルもシールも貼付されていないCDを予備の机の奥から見つけて、宇野は首を傾げた。
 捜査中は一刻も早く証拠の画を見つけ出すことが優先されるから、参考にした資料やそのコピーの整理などは二の次三の次で、あちこちに放りっぱなしのメディアが散乱する状態になる。繁忙時期には仕方のないことだと思うのだが、室長に見つかると雷が落ちるので、とりあえず予備の机の引き出しに突っ込んでおいて、暇なときにまとめて片付けるのだ。

「聞いたことないメーカーだな」
 CDの片面に入っている透かし文字は、英語ではないようだ。CDにウィルスが入っている危険性も考えて、宇野は自分のノートPCにそのCDを入れてみた。
 オートローディングが働き、自動的にプログラムが選択される。どうやら音楽CDらしい。
「音楽が関与した事件なんて、あったっけ?」
 再生ボタンを押すと、一昔前に流行ったホップスが流れ始めた。宇野は音楽にはまるで興味がないが、その彼でさえどこかで聞いた声だと思った。

「めずらしいな。宇野がS×××なんて」
 流行には詳しい今井が、歌い手の名前を教えてくれる。有名な歌手なのだろうが、宇野には初耳だ。
「へえ。そんな名前なんだ、このグループ」
「グループじゃなくて2人組。っておまえ、そんなことも知らないでCD買ったのか」
「だってこれ、俺のじゃないもん」
「じゃ、誰のなんだよ」
「さあ?」
「二階堂先生のじゃないか?」
 2つ隣の席で同じように資料の整理をしていた小池が、思い出したように言った。
「あ、そうだよ。それで聞き覚えあったんだ」
「そういえばあのひと、初日にこれ流して、薪さんに大目玉食らってたっけ」
 その日のことを思い出して、小池がにやりとする。
 あの時は笑ったっけ。二階堂に軽くあしらわれる薪の壊れっぷりが、とても愉快だった。

「こうして聞くと、いい曲だな」
「うん。俺もこいつら好き、って、室長!」
「すいませんっ! あの、CDの中身を確認して、あ、いや、片付けを怠っていたわけじゃなくって、たまたま」
 どんどん墓穴を掘っていく様子は、部下は上司の背中を見て育つという格言を実行に移しているかのようだ。
「すぐに破棄しますからっ!」
「捨てるなら、僕にくれ」
 薪が狂った。
 いや、こちらの耳がおかしくなったのか。
 仕事の鬼の室長が、職務時間中の音楽を聞きとがめることもなく、CDが欲しいと?

「貰ってくぞ」
 宇野のPCからCDを抜くと、薪は本当にそれを持って行ってしまった。
「どーしたんだよ、薪さん」
「ヘンだ……おかしいよ」
 一様に首を捻る部下たちを尻目に、薪は室長室へ入った。

 自分のPCにCDをセットして、ヘッドホンを付ける。再生ボタンを押して、二階堂が好んだリスニングサウンドに耳を傾ける。
 恋の歌。
 将来を共に生きていこうと決めた恋人へのラブソングだ。
 ――でもさ きみは運命のひとだから 強く手を握るよ――
 そんな歌詞が繰り返されて、二階堂の口説き文句のルーツを教える。
 軽薄なやつだ。
 小野田の電話を聞く前だったら、そう思っただろうに。

 初めて彼に会ったとき、第九で非業な死を遂げた被害者のMRIを見たとき、二階堂は長閑な口調でこう言った。
『仕方ないよ。ひとの生き死には、運命だから』
 運命。
 自分の死を目前にして、彼はそう言うしかなかったのか。

『じわじわと死を待つしかなかった彼女の気持ちが、あなたに解るとでも言うんですか』
 僕のあのセリフを、かれはいったい、どんな気持ちで聞いたんだろう。
 自分の命の期限を運命だと受け入れるしかなかった彼が、明日が来ることを当たり前だと思っている幸せな人間の叱責を、どんな気持ちで受け止めたのだろう。あの笑顔の裏に、どれほどの涙を隠していたのだろう。

 ――走る 遥か この星の果てまで 君を乗せていく――
 曲がサビの部分にかかると、ボーカルの声が美しく響いた。澄んだ歌声が、切々と主人公の恋心を歌い上げた。
 ロマンチックな歌詞。現実にこんなことを言ったら笑われるだろうが、メロディがつくとすんなり聞けるから不思議だ。
 この音楽の流れる部屋で、二階堂とした最後の会話を思い出す。

『僕だって、時間さえあればこんなことはしなかったよ』
 日本に滞在できる時間が限られている―――てっきり、そういう意味だと思っていた。二階堂の命にタイムリミットが切られていたなんて、思いもしなかった。
『口惜しいよ。青木くんが羨ましい』
『僕だって、時間さえあれば』
 あれはちがう。
 あれは、僕をものにできなかったことが口惜しいと言ったんじゃない。そんなことじゃない、そんな悠長な話じゃなかったんだ。

 口惜しいよ。
 僕だって。
 もっと、生きたいよ。
 
 そう、言いたかったんじゃないのか。

 薪は両手で顔を覆った。
 ヘッドホンから流れてくる明るい音楽が、まるで鎮魂曲のように薪の頭の中で鳴り響いた。

 二階堂は。
 生きることを諦めてなんかいなかった。諦められるはずがなかった。すべてを諦観して、受け入れることなんかできなかったんだ。
 周りの人間を羨み、無為に生きる人々に腹を立てることもあっただろうに、そんなことはおくびにも出さず、運命という一言ですべてを切り捨てて。
 そう口では言いながらも、自分に残された僅かな時間と成し切れなかった膨大な夢たちの亡骸に苦しめられて。
 どれだけ自分の不運を嘆いたのだろう。
 どれだけ神さまを呪ったのだろう。

 あいつは自分の意志で僕に会いに来た。小野田さんから僕のことを聞いて、写真を見て、僕を探しに来たんだ。もちろん、あいつの気持ちに応えてやることはできなかったけど。
 あんなに素気なくすることもなかった。
 ちゃんと話を聞いてやればよかった。何もかも運命だ、という言葉の裏側に隠れた彼の気持ちを、もっと考えてやればよかった。

「ふ……くっ……」
 警察庁の廊下でやり過ごしたはずの感傷は、大きさを増して薪の胸に還ってきた。
 今度は我慢ができなかった。
 細い指の隙間から、後悔の雫が滴り落ちてきた。とめどなく溢れ落ちるそれは、白い手の甲を伝って、ワイシャツの袖口に吸い込まれていった。



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運命のひと(17)

運命のひと(17)







「薪さん。これ、ものすごくしょっぱいんですけど」
 いい加減に盛り付けられた煮物を一口つまんで、青木は顔をしかめた。
 食卓の上に並んだ薪の手によるものとは思えない哀れな料理。味付けも盛り付けもめちゃめちゃだし、ところどころ焦げてるし。キャベツの千切りはつながってるし、味噌汁に至ってはウインナーが入っている。
 だいたい、煮物と生野菜の夕食って微妙じゃないか? いつもだったらこれに、唐揚げとかハンバーグとか、メインディッシュの品がついてくるのに。

「文句言うな。食ったら帰れ。僕は今日はその気になれないから」
「帰れって……スキーに行くんですよ? 今から」
 スキー場へは夜中に出発するのがセオリーだ。3時ごろ家を出て、明け方にゲレンデに着くよう時間を調整する。雪山の夜明けは、背中に震えが走るほど美しい。必ず薪の気に入るはずだ。
「それはキャンセルだ」
「えええ! ゲレンデで朝を迎えて、スキー場で薪さんの誕生日のお祝いをしましょうって約束したじゃないですか」
「スキー場は寒いからイヤだ」
「だったら誘ったときにそう言ってくださいよ」
 先月このプランを話したときには、そんなことは一言も言わなかった。「晴れるといいな」などと笑みまで浮かべて、けっこう乗り気のようにも見えたのだが。

「その時は行くつもりだったんだ。急に行きたくなくなった」
「なんでそんなに勝手なんですか!?」
「うるさいな。文句があるなら、いつだって別れてやるぞ」
「あっ、あっ、またそんなこと言って……はああ、なんでこんな人を好きになっちゃったんだろ」
 後悔しても遅い。この人は、こういう人なのだ。
 青木の方が一方的に薪のことが好きで、デートもベッドも拝み倒して付き合ってもらっている状態だから、何も言い返せないのだが。
 薪は基本的にノーマルな男だから、本当は女の子と交際したいと思っていることも知っている。何ヶ月か前に行った自動車の展示会でも、あからさまにコンパニオンの足ばかり見てたし。青木のお気に入りのメーカーのブースは、スタッフの女の子がパンツスーツだったという理由で、クソミソに貶されてたし。
 それでも、やっぱり好きだから。
 青木は、顔の筋肉をムリヤリ動かして笑顔を作る。

「月曜日のディナーは大丈夫ですよね? 今年こそ、山水亭ですよ」
 12月24日は薪の誕生日。青木にとっては神の降誕祭ではなく、大切な恋人がこの世に生まれた記念すべき日だ。
「それもキャンセルしとけ。僕は明日から、スウェーデンだ」
「は!?」
「岡部に留守を頼んである。水曜には帰るから」
「仕事ですか?」
「ちがう。プライベートだ」
 仕事の鬼が、休暇をとって海外旅行?
 赤い雪どころか、レインボーカラーの雪が降ってきても不思議じゃない。

「プライベートで海外へ? お一人でですか?」
 一応は恋人として付き合っているはずの自分に一言の相談もなく、4日も日本を離れると言う。
 しかも、クリスマスに。
 何故だかこの日は昔からツキがなくて。クリスマスデートの申込みはこれで4回目だが、1年目は青木の父親が倒れ、2年目は薪が余計な気を回して雪子と食事をする羽目になり、3年目は突発の捜査が入って料亭から第九に直行し、4年目の今年は海を隔てて離れ離れ。何かの力が働いているとしか思えない。
「なぜ、スウェーデンなんですか?」
「北欧の雪が見たくなった」

 寒いからスキーはイヤだって言っといて、なんなんですか、それっ!

 怒鳴りたいのを必死で堪える。ここで感情を爆発させてしまったら、薪は機嫌を悪くする。薪が日本を離れる日数の10倍くらいは、徹底的に無視されるだろう。
「もういいです。今日は帰ります」
 薪の気まぐれには付いていけない。
 こういうときに話し合いを持とうとすると、修復不可能なケンカにまで発展してしまう可能性が高い。今まで何度もそんなことがあった。薪は絶対に自分から謝ろうとはしないし、青木の方がキレてしまったら、二人の関係はいとも簡単に破綻する。少し頭が冷えてから話をした方がいい。

 青木は黙って食事の後片付けをして、キッチンの掃除をする。それを手伝おうともせず、薪はリビングでテレビを見ている。騒がしいバラエティ番組の音。薪はこういう番組は嫌いだったはずだが、ソファの上に両膝を抱えて画面に見入っているところをみると、それほどの嫌悪感はないらしい。
「じゃあ、失礼します」
 声をかけるが、振り向いてもくれない。薪の背中はとても冷たくて、青木は悲しくなる。今夜の薪は、自分の恋人になる前の薪に戻ってしまったようだ。

 こんなに勝手なひとなのに、どうして嫌いになれないんだろう。
 青木は今まで、相手の人間性を重要視して交際相手を選んできたつもりだ。ところが、薪は恋人としては最低の部類で、やさしくもないし可愛くもない。見かけ以外はいいところがまるでない。たまにしおらしいことをするかと思えば、それは青木を焚きつけて事件を早期解決させるためだったりする。そんな計算高い人間に惹かれることなど、これまでは無かったはずだ。
 精一杯の純真を掌の上で転がされて、いいように使われている。こういうの、なんて言うんだっけ。都合のいい男――ミツグくんとか、アッシーくんとか――いや、奴隷か。

 地下駐車場の隅に停めた車に乗り込んで、不要になってしまった後部座席の荷物を振り返る。昨夜この荷物を詰めたときは、あんなに浮き浮きした気持ちだったのに。
「せっかく予約取ったのに」
 4WDのレンタカーも用意したし、スキーウェアだって新調したのに。山水亭の予約だって、何ヶ月も前から。
 みんなみんな薪の為なのに。薪はちっとも自分の苦労をわかってくれない。
 今に始まったことではないが、やっぱり薪と付き合うのは試練の連続だ。すれ違いは多いし、気持ちのズレはもっと多い。
 喜びも大きいが、ため息も深い。浮き沈みが激しいと言うか、良いときと悪いときの差が大きいと言うか。いつかこの気持ちが通じると、ずっと信じて頑張ってきたが、時々心が挫けそうになる。

「薪さん、オレのこと、本当にセフレだと思ってるのかなあ」
 自分のことをどう思っているのか、と薪に聞いたら、しれっとした顔でそう言われたことがある。もちろん、薪のいつものシュールな冗談だとその場は流したが、案外本気だったのかもしれない。
 過去に、女性に対してそうした愛のない行為をしたことをとても悔やんでいた薪だが、青木は男だし。女性と違って傷がつく、と言うわけではないから、悪いとは思わないのかもしれない。第一、青木の方から頼み込んでセックスしてもらってるわけだし。

 「薪さんのバカ」



*****

 って、またケンカかよ。 
 いい加減にしろよ、おまえら。←さも他人の仕業のように。


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運命のひと(18)

運命のひと(18)







 「薪さんのバカ」

 本人の前ではとても言えないセリフをレンタカーのハンドルにぶつけて、その夜は帰途に付いた青木だが、週明けの第九に薪の姿がないのを確認すると、途端に寂しくなった。
 薪に対する怒りなど、翌朝にはもう消えていて。薪の携帯に電話を入れたが、留守番電話に切り替わるだけで、何度掛けても薪の声は聞けなかった。
 水曜日には帰国する予定だったから第九で待っていたのだが、夜の8時を回っても薪は姿を現さなかった。自宅にいるかもしれないと吉祥寺まで足を伸ばしたが、薪の部屋には明かりが点いていなかった。
 もしかすると、帰国が延びたのかも。岡部なら何か聞いているかもしれない、と考えたが、それを岡部に確かめるのも何だか業腹だった。恋人としてのプライドというか、男の見栄のようなものがあって、薪のことを何も知らない自分が哀れだと思った。

 吉祥寺の駅に着いたときに、コートのポケットで携帯が震えた。慌てて確認すると、それは待ちに待ったひとからの電話だった。
「薪さん。お帰りなさい。日本に着いたんですね?」
『青木。今から出てこれるか』
「はい。今、薪さんのお家の近くにいるんですよ。薪さんから管理人さんに電話してくれれば、いつかみたいに食事とお風呂の用意をしておきます」
『要らない。おまえが僕のところまで来い。空港近くのNホテルにいるから』
 時刻は9時を回っている。これから千葉まで行くとなると、帰りは確実に真夜中過ぎだ。
「はい。すぐに行きます」

 相手の都合などまるで考えてない薪の我侭な呼び出しに、青木は弾んだ声で応える。
 薪から、しかもホテルへの呼び出しだ。嬉しくないはずがない。
 恋人から遠く離れて、異国の地でたった一人の休日を楽しんだはいいが、独りはやっぱり淋しいと、しみじみ感じたに違いない。
 おまえと一緒に行けばよかった、なんて、縋ってこられたらどうしよう。4日ぶりということもあるし、仲直りの意味もあるし。そんなこんなで、一晩中ぶっ通しで鳴かせてしまいそうだ。

 Nホテルに到着し、連絡のあった部屋のチャイムを押すと、予想どおりバスローブ姿の薪が青木を迎えた。何も言わずに、抱きついてくる。石鹸の香りがする濡れた髪に鼻先を埋めて、青木は恋人の身体を抱きしめた。
 薪は青木のジャケットを脱がせ、ワイシャツのボタンを外した。インナーをめくり上げて、裸の胸に頬を寄せてくる。青木の背中に小さな手が回り、ぎゅっと力がこもった。
 ドアの側に立ったままの性急な誘惑に、青木は軽いデジャビュを覚える。
「スウェーデンの中学生に、自慢話でもされたんですか?」
 昔のことを揶揄して、ちょっと意地悪をしてやる。怒るかな、と思ったが、薪は青木にしっかりと抱きついたまま、身じろぎもしなかった。
 これはよっぽど淋しかったのかな、と青木は心の中でヤニ下がる。たまには、距離を置くのもいいものだ。再会のテンションは、否が応にも上がろうというもの。

 細い身体を抱き上げて、ベッドに運ぶ。
 清潔なシーツの上に押し倒して、バスローブを脱がせる。薪は少しだけ抵抗したが、すぐに大人しくなった。目を閉じてじっとしている。
 シャツを脱いで肌を合わせる。キスをして、髪を撫でる。首に絡んでくる薪の腕をやさしく取って、シーツの上に押し付ける。抱きつかれるのは嬉しいが、これでは動けない。
 青木の舌先は器用に動いて、薪が悦ぶ首筋から、鎖骨を通って胸の突起へ辿り着く。腰やわき腹の辺りを擦り、薪の熱を高めようと試みる。

「青木……んっ……」
 薪のそこはまだ慎ましいままで、でも、このひとの反応が遅いのはいつものことだ。特に今日は長時間のフライトで、体力も消耗しているだろうから、時間が掛かるかもしれない。それでも、念入りに愛してやれば大丈夫。薪の急所は押さえている。
「あっ、ああ」
 可愛い声も上がってる。薪は最初の頃、声を殺してしまうことが多いのだが、今日は早い段階から声を出してくれている。感じたがっているのだ。
 しかし、青木の予想を裏切って、薪の身体は愛撫に応えようとはしなかった。薪の蕾は固いままで、青木の指に綻ぶこともなく、いつぞやのように蜜を滴らせることもなかった。

「青木。大丈夫だから」
「でも」
「ローション多めに使えば、ちゃんとできるから」
 言い訳がましく言葉を重ねる彼の亜麻色の瞳には、涙が滲んでいたけれど。その涙は、いつもの快楽の涙ではない。
「だから……」
 ぎゅっと自分の首に抱きついてくる薪の仕草に、青木はようやく気付いた。
 この人は、セックスがしたくて自分をここに呼んだのではなかったのだ。ただ、抱きしめて欲しかったのだ。
 性的な意味ではなく、一刻も早く、抱いて温めて欲しかった。
 だけど、青木がどれだけ薪のことを欲しがっているか知っているから、そうとも言えなくて。何もせずに裸の薪を抱きしめていることが、青木を苦しめることだと分かっているから、黙って為されるがまま、出したくもない声を上げて。

「今日みたいな寒い日は、こうやって抱き合ってるの、気持ちいいですよね」
 掛け布団を羽織り、はだかの薪を胸に抱きこむ。枕の上で擦られながら自然に乾いた髪は少しクセがついて、青木の指に絡んだ。
「あったかくなりました?」
「……うん」
 薪のくちびるは、素直じゃない。
 憎まれ口や意地悪はぽんぽん出てくるくせに、大事なことは何も言わない。自分が本当に欲しいものは、絶対に口にしない。それを分かってやれるほど青木は大人ではないから、いつも盛大にすれ違ってしまうけど。
 少しずつ、少しずつ、すれ違う距離を縮めていければいい。こうしてゆっくりと、薪の本音に近づいていこう。

 側臥した姿勢で抱き合い、薪はほっと息を洩らした。
 小動物のように青木の胸に額をこすりつけ、前半身を合わせ、足を絡めてくる。細い肩から首から薪の匂いが立ち上ってきて、青木の理性を翻弄する。やっぱり、この状態は生き地獄だ。
 その時、サイドテーブルの上で、薪の携帯が震えた。
 びくっと肩を震わせて、怖いものでも見るように薪がそちらを振り返る。顔をこわばらせ、青木の腕の中から抜け出して、薪は電話に出た。
 
「はい。薪です」
 敬語を使ったところを見ると、相手は目上の人間か。小野田か、田城か、あるいは青木の知らない誰かか。
「そうですか」
 小さな声で呟くと、後は何も言わずに電話を切った。目上の相手に、きちんと挨拶もしないなんて、薪らしくないと思った。

 立ち尽くした背中が、とても頼りなく見えた。薄暗い闇の中に、溶けていってしまいそうだった。
 静寂の後、裸のまま床に崩折れて、静かに薪は泣き始めた。
 何があったのか見当もつかなかったが、それが悲しみの涙であることだけはわかった。何も聞かず、青木は裸の薪を後ろから抱きしめた。




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ジャンル : 小説・文学

運命のひと(19)

運命のひと(19)







 薪以外の第九の職員が、二階堂の訃報を知ることはなかった。
 小野田も薪も、それに関しては故人の遺志を尊重した。かれは、自分の為に誰かが悲しむことを望んではいなかった。

 手術のあと、彼の意識はとうとう戻らなかった。
 薪は時間の許す限り病院に詰めていたが、彼がICUから出ることはなかった。後ろ髪を引かれる思いで、日本に帰ってきた。
 その夜。
 ひとりでいるのがどうしても耐え難くて、無理やり恋人を呼び出した。無分別な行動だと解っていたが、薪の手は勝手に携帯のボタンを押し、くちびるは深夜の逢瀬を強要した。
 薪にはどこまでも甘い恋人が、自分の欲望を殺して薪に安らぎをくれたとき、その報せは届いた。

 青木は何も聞かなかった。
 ただ、抱きしめてくれた。薪の心の中は何ひとつ知らないくせに、青木は薪の欲しいものをくれた―――。

「薪くん。これ、潤也から君に。ラブレターだってさ」
 定例報告に訪れた薪に、小野田は1通の封書を手渡した。
 短い手紙を、薪は5分もかけて読んだ。
 その文字を、文章を、指でなぞって何度も読んだ。
 くちびるをぎゅっと噛んで、声を上げまいと拳を握り締めた。肉親の小野田が我慢しているのに、自分が崩れるわけにはいかない、と気張った。

「薪くん。泣いてもいいよ。みんなには黙っててあげるから」
「大丈夫です」
 ふっと息を吐いて、薪は天井を見上げた。照明器具の光がぼんやりと滲んでいるのは、疲れ目のせいだと思うことにした。
 上司の前で上を向いた姿勢というのも考えものだが、小野田はその日も薪の無礼を見逃してくれた。



*****



 ツヨシ。
 元気でやってる? 君が元気でいてくれると、僕はすごくうれしいよ。
 
 まさか、手術の前に君がストックホルムまで来てくれるなんて、夢にも思わなかったから。僕は心底驚いて、これはどうやら手術を受ける前に発作が起きて死んでしまって、いつの間にか天国に来ていたのか、と真面目に考えたよ。(天国では相手の生死に関わらず、好きなひとに会えるらしいよ)
 本当は君に言いたいことがたくさんあるんだけど、クスリが効いてて、長い文が書けないんだ。モルヒネのせいで、正気でいられる時間が短くなってる。

 いま、一番気がかりなのは、君のことだよ、ツヨシ。

 僕が死んだら、君は泣くのかな。
 哀しい思いをさせてしまうのかな。僕は、君を苦しめてしまうのかな。
 そのことが、とても心配だ。

 僕は幸せだったよ。
 君の存在が、僕に自分の人生を幸せなものだったと思わせてくれたんだよ。
 君に会った最初の日、狂った学者が「研究ができない」という理由で自殺したと君は話していたね。あの場では言えなかったけど、僕にはその気持ちが良く解ったよ。
 この病気が発覚したとき、僕も同じことを考えたから。
 これ以上、研究ができないなら、僕がこの世に生きている意味はないって。
 僕が死んだら、母や友人が悲しむだろうなんて、そんな当たり前のことすら頭に浮かばなかった。科学者なんて、みんな少し狂っているのかもしれないね。

 だけど、セイジから君の話を聞いて。
 新しい捜査の可能性を拓くために、懸命に努力する君の姿をメディアで見て、もうしばらく君のことを見ていたいと思った。
 セイジから君の話を聞くのが、君の活躍した新聞記事を読むのが、君の写真を見るのが。僕の唯一の楽しみだった。生きる支えだった、と言い直してもいい。

 8年もの間、僕は君に命をもらってたんだ。
 君は知らなかったと思うけど、僕はずっとずっと、君が好きだったんだよ。

 ほんの少しの間だったけど、君に会うことができて、最高に楽しかった。
 今まで生きてきて、本当に良かったと思った。この時ばかりは抗癌剤に感謝したよ。(しかし、あの抗癌剤の副作用ってのはどうにかならないのかね。君には生涯不要であることを願うよ)
 夢中で捜査をする君は、とても輝いてた。素敵だったよ。
 だから、いつまでも見ていたかった。少しでも長く、君と一緒にいたかった。

 憧れの君が目の前で動いて喋って、怒って怒って怒って……ああ、本当に君は怒ってばっかりだったね。
 でも、最後は笑ってくれた。
 僕の手を握って、「元気になったら、僕とデートしましょう」って、言ってくれたよね。その日が来ないことは分かっていたけど、僕はとってもうれしかった。

 ありがとう。

 何かお礼がしたいけど、僕にはもう、祈ることしかできないから。
 願わくば、これからの君の人生に、百万もの幸せが訪れますように。

                                                    潤也




―了―




(2009.10)


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運命のひと~あとがき~

 読んでくださってありがとうございました。
 
 拍手のお礼SSなのに暗い結末になってしまい、申し訳ありませんでした。
「猛烈アタック」のリクにも応じきれず、リクをいただいた方にはがっかりされてしまったかしら、と反省しております。
 次の機会にはぜひ明るくてハジケたヘンタイを!! ってこれ以上ヘンタイ比率増やしてどうするんだ。

 当たり前ですが、脳科学についてはド素人なので、色々間違ってるところも荒唐無稽なところも、たくさんありました。にも関わらず、揚げ足を取ることもなく、広いお心で流してくださったみなさまに、心よりお礼申し上げます。
 どうもありがとうございました。

 途中でコハルさんに気付いてもらったんですけど、作中に出てくる曲は15年位前に流行ったスピッツの『運命のひと』という曲です。題名もそこから取りました。
 ちなみに、青木くんのイメージソングは、20年くらい前に流行った鈴木雅之さんの『恋人』という曲です。
 あの歌詞の中の、
『あなたをただ見つめてる この先ずっと』とか、 
『どうして 困らせるほど募る想いが』とか、 
『ただ誰より 瞳きれいな恋人』とか、
 イメージにぴったりなんですよね。あのストーカーまがいの暑苦しい感じも(笑)

 

 えっとですね、あとがきでも何でもないんですけど、お礼を言いたいことがありまして。
 先月、とってもうれしいコメをいただきました。
「登場人物たちにあたたかい視線を注いでいるのがわかる」「作品から薪さんや他のキャラに対する愛情が感じられる」と仰っていただいて、これが本当に嬉しかったです。

 わたしは薪さんが大好きですし、第九のみんなも大好きです。だから、みんな幸せになってもらいたいです。
 でも、いざ書きだすと何故か、ヘンタイに襲われそうになったり火事に巻き込まれたりビルから飛び降りて骨を折ったり雪山で死に掛けたり泣いたり叫んだり夢で殺されたりetc.etc。(改めて列記するとすげえな(@@))
 いや、自業自得なんですけど、読む方だって、こんなドS展開満載のお話から愛情を感じ取れと言われても困るだろうなー、と自分で思っていたものですから。ああ、伝わってよかった、とうれしく思いました。
 




 はい、次のお話は明るく、と思ったら、4000リクが「薪さんが鈴木さんに振られる話」だったですね。
 これは~~、さすがに明るくはできないので、あ、でも、そんなに痛くないと思う。わたし的には暗い話ではないと思うのですが、うーん、どうだろう。やっぱり暗いかなあ。
 暗い話ばっかり続くとめげるので、間にこないだ書いたギャグを入れますね。
『恋人のセオリー』というショートショートなんですけど、うちの薪さんは本当にエッチが嫌いなんですよ、というお話です。
 笑っていただけるとうれしいです。
 
 

 

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QED(1)

 今回はラブコメです。
 ええ、わたしがラブコメを書くとこんな感じに。あははは。

 時系列では『ナルシストの掟』の次、『運命のひと』の前になります。
 ちょびっとRなので、苦手な方にはごめんなさいです。

 よろしくお願いします。





QED(1)






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QED(2)

 うちはミクロサイズの土木会社を営んでいるのですが。
 今年はめっちゃ暑いし、でもみんな頑張ってるし、ちょっとフンパツして、先週の土曜日の夜、行きつけの小さなスナックを借り切って、社員一同で暑気払いをしました。

 始まって1時間後。
 アルコールも回ったみたいで、義弟(♂)が酔っ払って、次々と周りの社員(もちろん♂)にキスを。 ←ほっぺとかオデコでしたけど。
 店内は悲鳴を上げる社員たちで阿鼻叫喚の地獄絵図。
 まさに『ビアガーデン』状態でした(笑)


 男同士の飲み会って、こんな風にハチャメチャになることが多いですよね。(うちの会社だけかな?)
 ズボンの上から股間を揉むなんて、アルコールが入らなくても当たり前にやってるしー。 揉まれた方は「ああんっ、感じちゃうっ!」とか女声を上げるし。(←みんなノリがいい。 うちだけ?)
 そんな光景をいつも見ているので、わたしの話はこんなに下品なんですね(^^;
 

 ところで、義弟にはひとり、超お気に入りの男の子(外見は眼鏡を掛けた曽我さん)がいまして。
 しょっちゅう自宅に泊らせるし、飲みに行くのも一緒だし。
 その男の子にマイクで何度も「K!!愛してるぞー!」と叫んでおりました。(←もちろん冗談で、周りからのブーイングで笑いを取る)
 ちなみに、年下のKくん(27)が攻め、義弟(36)の方が受けだそうです。

 ということで、今月の義弟の誕生日プレゼントは、ローションにしようと思います☆





QED(2)


 
  

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QED(3)

QED(3)





 第九のモニタールームに、張りのあるアルトの声が響いている。
 衆目の中、メインスクリーンの前に毅然と立った室長は、いつもの通りメモを見ることも無く、流麗な口調で事件の概要を説明していた。
 2週間ぶりに会う室長は、長い研修に疲れた様子もなく、被疑者未確定の事件の際に見せる行き過ぎた熱心さで部下たちを鼓舞する。
「いいか。今、この瞬間に第3の犠牲者が出ないとも限らない。捜査は一刻を争う。一秒でも早く犯人を見つけるんだ!」
「はい!」
 時刻は10時を回っていた。今日は確実に真夜中を越えそうだ。
 しかし、第九にはこれが当たり前のことだ。事件の見通しがつくまで、不眠不休の捜査が続く。

 普段は「健康管理は社会人の基本だ」などと職員たちの夜遊びを叱る室長が、事件が起こるや否や、180度言うことが変わる。
 いわく、『2、3日寝なくても人間は死なん』
 ……死ななければいい、というものでもないと思うが。

 睡眠不足は確実に仕事の能率を落とす。集中力の欠如は、大きなミスに繋がる。結果的には捜査を混迷させる結果になりかねないのだが、そこは気力で何とかしろと言うのが室長の厳命である。
 集中が削がれる原因は、睡眠不足ばかりではない。空腹や疲労、悩み事など精神的なことも大きな要因だ。その兆候が現れているひとりの捜査官に、薪はそっと話しかけた。

「青木」
「はい」
 表面上は平静を装っているが、その眼には僅かばかりの不満が表れている。
 あの状況で呼び出されたのでは無理もない。2週間ぶりのご馳走に待ったを掛けられ、お預けを食った犬状態。青木はまだ25歳という若さで、他の職員に比べると精神的にも未熟だ。取り上げられたご馳走に意識が向いて、いつもの能力を発揮できないかもしれない。
 この部下の操縦法は解っている。ここはフォローを入れておくところだ。

 薪は声を落として、青木の耳にだけ入るように囁いた。
「さっきは、残念だった」
 自分だって辛かった、という気持ちを伏せた睫毛の震えで表現する。青木はたちまち嬉しそうな顔になって、薪に微笑を返してきた。
 これだけで充分だとは思うが、念のためにもう一押し。この一言で、青木は実力以上の力を発揮する。
「おまえがこのヤマのホシ挙げたら、埋め合わせに朝まで付き合ってやるから」
「本当ですか!」
「男に二言は無い」
「岡部さん! 最初のガイシャ、オレに任せてください!!」
 青木のやる気を引き出すことは、薪にとっては赤子の手を捻るより容易い。

 デスクを二つ占領して捜査資料を広げ、捜査官の目になってモニターを見始めた青木の様子に、他の職員たちが驚いている。青木は普段から仕事熱心な男だが、ここまでの気迫を感じることはめずらしい。
「むちゃくちゃ張り切ってないか? 青木」
「鬼気迫るもんがあるな」
 たしかに。
 身体の一部が差し迫っている。
「青木なりに考えてんだろ。薪さんが警視長になって初めての事件だ。ここで事件の解決にもたついてみろ。警察庁の仕事と第九の室長を兼任するなんてわがまま、通らなくなるぞ」
 青木が考えているのはそういうことではない。

「岡部さんの言うとおりだ。俺たちも青木に負けないように、頑張ろうぜ」
「いいです、皆さんは普通にしててください。でないとオレのご馳走がなくなっちゃいます」
「はあ?」
 青木の言うことは時々よくわからない。
 この現象は何年も前から続いていることだから、いまさら誰も突っ込む者もいないが。

「見つけましたっ!! この男です!」
 気合が能力を水増ししたのか、最初に決定的な画を発見したのは、周囲から浮きあがるほど張り切っていた捜査官だった。
 青木のモニターを見て、薪が満足げな笑みを浮かべる。自分が育てた捜査官の実力が確実に伸びていることを認識するのは、上司の醍醐味というものだ。
 こいつが本当に集中したときのカンの良さは、岡部に匹敵する。サーチの能力も、宇野に近付いてきている。少し精神的にムラが多いのが難点だが、スキルは確実に伸びている。
 これは、褒賞の価値がある。

「よくやった! 約束どおり朝まで付き合ってやるぞ!」
 薪の宣言に、青木はびっくりする。
 そんなに大きな声で、みんなに聞かれてしまう。まさかカミングアウトするつもりじゃ。
 もちろん青木に異存はない。薪が自分とそういう仲だと公言してくれたら、どんなに嬉しいだろう――――― なんて、甘い夢だった。
 
「みんな、事件解決の祝い酒だ! 朝まで飲むぞ!!」
「やった!」 
「朝までってそういう意味……?」
「今日は僕のおごりだ。おまえらジャンジャン飲め!」
「ごちそうさまです!」
 ……詐欺だ。

 盛り上がる同僚たちを尻目に、青木は深いため息を吐く。
「まあ、予想はしてたけど」
 青木は何回か、このパターンで騙されている。何度引っ掛かっても次の時にはまた騙される。その度に、この次は絶対に騙されないぞ、と心に誓うが、やっぱり乗せられてしまう。滅多に見せない薪のしおらしい態度や、上目遣いのクラクラする可愛らしさに、コロッといってしまう。
「どうしたんだ、青木? おまえが功労賞だぞ」
「はい。もうヤケクソです。ビール樽ごと持ってきてください」
「なんでヤケ酒?」
 これが飲まずにいられるか。

 捜査データを保存してプロテクトを掛け、みなが帰り支度を始めた時だった。
 直通電話がルルルと鳴り、近くにいた岡部が電話に出た。
「室長! 捜一から緊急の協力要請です!」
 連続の捜査要請。
 薪は瞬時に厳しい室長の顔に戻り、澄んだアルトの声を張り上げた。

「祝賀会は延期だ。続けて検証に入る。おまえら、根性見せろよ!」
「はい!」
 室長の気迫に、職員たちが力を込めた返事で応える。

 第九研究室の明かりは朝まで消えず、「朝まで付き合う」と言った薪の言葉は現実のものとなったのだった。



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QED(4)

QED(4)





 信号が青に変わって、青木は車をスタートさせた。
 街並みはすっかり春の風景に変わり、道行く人々は薄手のコートやブラウスに身を包んでいる。桜並木も見ごろになっていたが、それをゆっくりと楽しむ余裕は青木にはなかった。

「参ったな。何とかしてあの女性から、話を聞けないものかな」
 後部座席で捜査資料を捲りながら、薪が思案顔で舌打ちする。彼の不興の原因は、先刻の事情聴取の失敗によるものだ。
 捜査中の事件の関係者に話を聞きに行ったところ、取り付く島もなく追い帰されてしまった。とにかく自分は何も知らないの一点張りで、有益な情報どころかまともな会話すらできなかった。
 彼女が重要な情報提供者になり得ることは間違いない。事件現場のすぐ近くにいたことが目撃されているし、被疑者と面識があったことも確認されている。要は、犯人と目される男が犯行時刻に現場にいた、という証言を彼女から引き出すことができれば、この事件は片がつくのだ。

「犯人からの報復を恐れて、口を噤んでいるんでしょうか」
 下手に証言をして、犯人に逆恨みされるのが怖いとか、面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだとかいう保身的な理由から、情報提供を拒む人間はたくさんいる。自分の身を守る術のない一般人には、仕方のないことかもしれない。
 青木はそう考えていたが、上司は他の可能性を見出しているようだった。

「あるいは、言いたくない理由があるのか」
「言いたくない理由?」
「事件現場は銀座のアートビル。43歳の主婦が夜の10時頃歩くには、似つかわしくない場所だと思わないか」
 なるほど。すぐ近くにホテル街がある。薪が言いたいのはそういうことか。

「夜の10時じゃ、スーパーのタイムセールは終わってますね」
 とぼけた返事を上司に返して、青木は彼女の口を軽くする手段を考える。まずはラブホテルの聞き込みからだ。
「その時間に営業していた店舗を当たってみます」
「うん。5課のバッジを借りるといい」
「わかりました」
 捜査5課は、暴力団や風俗店の取り締まりに当たっている。ラブホテルもそれに関連する商売だから、5課の人間には頭が上がらない。5課の捜査官である証のバッジを付けていけば、相手は驚くほど素直に質問に答えてくれるのだ。

「青木。帰りに僕の家に寄ってくれ。着替えを取りに行きたいんだ」
 はい、と返事をして、青木は左の車線に進路を変更した。
「室長。一日くらい休んでくださいよ。もう2週間もぶっ続けじゃないですか」
 警視長の研修を終えた日から2週間。火急の捜査は続いている。薪はいつものように第九に泊まり込んで、不眠不休で捜査に当たっている。
「僕は大丈夫だ」
 何年か前にもこんなことがあった。あのときは確か、23日間という泊り込みの新記録を樹立してしまった。今回、記録が更新されないことを祈るばかりだ。
「やばいのはうちの冷蔵庫だ。きっとまた魔窟になってる」
 ああなっちゃうと掃除が大変なんだよな、とぶつぶつ言いながら、捜査資料の確認に余念がない。もう2日くらい眠っていないはずなのに、相変わらず仕事中の室長は、限りなく自分に厳しい。

「薪さん。来週の月曜日、何の日だか覚えてます?」
「部長会議だろ。それまでにはカタをつける」
 やっぱり覚えてない。
 2ヶ月も前から、この日は薪と特別な夜を過ごそうと約束していたのに。

 4月中旬の忘れられない日。1年前の同じ日に、薪は初めて青木を受け入れると言ってくれた。
 思えば薪と出会った最初の年、春に芽生えた恋心を彼に告げたのは秋の半ば。
 薪に好きだと言った後、室長室で初めてのキス―――― 事実を端的に並べると元から両想いだったように見えるが、実際はひどかった。
 告白した直後、『僕はそういうジョークは嫌いだ』と恋心自体を否定されてしまったし、キスのお返しには往復ビンタと正拳突きが飛んできた。頭からコーヒーをぶっかけられ、最終的には室長室から蹴り出されたのだ。
 それから何回、薪に好きだと言っただろう。そのたびに断られて、雪子との交際を勧められ、僕のことは諦めろと突き放されて。

 あれから2年。
 薪はようやく自分の想いに応えてくれた。
 恋人同士になって、初めての記念日。青木はその日をとても楽しみにしていたのだ。

 しかし。
 捜査官モードに入ってしまった薪は、青木との約束など1億光年の彼方に追いやってしまう。薪はとても頭がいいくせに、自分に都合の悪いことはきれいに忘れる、という特技を持っている。
 薪が忘れるのは、デートの予定ばかりではない。
 青木がまだ25歳の若い男だということも、自分がその愛情と欲望を受け止める唯一の人間であることも、完全に忘れ去っているにちがいない。仕事中の薪の態度を見ていると、そうとしか思えない。
 今だってせっかくふたりきりでいるのだから、少しくらい甘い雰囲気になってもいいのに。例えばデートのときのように助手席に座ってくれるとか、信号待ちの間は手を握らせてくれるとか。マンションの地下駐車場に入って周囲から遮断されたら、キスを許してくれるとか。

 青木の期待を無視して、薪はクローゼットの中で着替えを用意している。ハンガーに掛かったワイシャツを何枚かとスーツを2組。クロークから何本かのネクタイを引き抜いて、それらをすべて青木に手渡した。運べ、ということだ。
 次に薪はチェストを探る。チェストには下着と靴下が入っている。
「これだけじゃ足りないかな」
 5、6枚の清潔な下着を手にして、枚数の不足を気にしている。いったい、あと何日泊り込む気でいるのだろう。

「奥のほうに新しいのがあったかな」
 薪は床に両膝をついて、両手を引き出しの奥に伸ばした。
 四つん這いになって腰を高く上げた後姿に、青木は思わず唾を飲み込む。
 このポーズは……ヤバい。
 お尻を突き出したその体勢は、薪のかわいいヒップを強調する。薪のそれはキュッと上向きで程よく肉がついていて、プリッと丸い。うつ伏せに寝ていると、頬ずりせずにはいられない愛らしさだ。
 それが青木の前で、もぞもぞと動いている。手を前に伸ばすたびに、色っぽくしなる腰。その奥に自分を埋めたときの快楽を思い出して、青木の下腹部が熱を持った。

「……何をする」
 無意識に、青木の腕は薪に渡された衣服を床に落とした。その代わりに服を着る本人を後ろから抱きすくめていた。
 青木の腕に、薪のからだの感触が伝わる。しっかりとした肉の感触。しなやかでバネの強い身体。このスーツの下に隠れた美しさを、青木は知っている。
「お願いします。一度だけでいいですから」
「なにトチ狂ってんだ、バカ。捜査状況、解って言ってんのか。容疑者が確定できない状態なんだぞ?」
 それは解っているが、殺人事件の捜査中にセックスをしてはいけないという決まりはないはずだ。でなければ、捜一の人間の家庭には子供ができないことになる。

「だってもう1ヶ月も。薪さんは淡白だから平気でしょうけど、オレは限界なんです」
 研修期間中は、顔を見ることもできなかった。帰ってきたと思ったら、緊急捜査で呼び出された。それもあんな中途半端なところで。
 それから捜査が始まって2週間。青木は薪の身体に指一本触れていない。計算してみると、薪と最後に愛を交わしたのは1ヶ月以上も前のことだ。欲しくなって当たり前だ。
 
「お願いします。1時間だけ、いえ、30分でもいいですからオレに時間をください」
「1時間と言わず、一晩中でもくれてやる」
 薪は低い声で呟くと、青木の顔を見上げた。
 亜麻色の眼が氷のように冷たい。めちゃくちゃ怒っている。軽蔑しきった目で睥睨されて、青木は何も言えなくなった。
「そんなに抜きたきゃ、ソープへでも行って抜いてこい」

 あんまりだ。
 相手が薪だから我慢しきれないのに。まるで性欲処理の目的だけで迫ったみたいな言い方をされて。
 この人のこういう言い方には、ものすごく傷つく。デリカシーがないというか相手の気持ちを考えないというか。
 もともと自分勝手な人なのだ。
 ベッドの中でも、薪は自分だけ満足したら眠ってしまう。薪の仕事がどれだけハードなものか青木は知っているし、年齢的なこともあったりするから、無理に起こして続きを強要したことはないが、こんな酷いことを言われてしまうとそういうことも思い出されて、つい恨みがましい気持ちになってしまう。素直に謝れない心境だ。

 黙り込んだ青木を、薪はぎろりとねめつけた。それは間違っても恋人に対する視線ではない。愛情も真心も感じられない。薪が仕事にプライベートを持ち込まない主義なのは解っているが、ふたりきりのときまでこんなに厳しくしなくたって。

 帰りの車中で、薪は口もきいてくれなかった。
 ルームミラーに映ったきれいな顔は冷徹な捜査官の顔で、薪は事件のことで頭がいっぱいなのだと解った。
 薪はいつもこの調子だ。
 仕事が1番、第九が2番。3番が雪子で、4番目が……鈴木のことだ。自分は薪の何番目なのだろう。せめてベスト10に入っていることを祈りたい。

 薪が書類を読みやすいようブレーキのかけ具合に注意しながら、青木は小さくため息をついた。



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QED(5)

QED(5)





 事件が解決したのは、翌週のことだった。
 青木が聞き込んだラブホテルの従業員からの情報が、証人の気持ちを動かした。手のひらを返したように協力的になった証人のおかげで容疑者は確定され、木曜日の夜に犯人は逮捕された。
 そこで第九の捜査ラッシュは途切れ、薪の泊まり込みは15日間という数字で終わった。事件解決の祝い酒はまた今度の機会に譲って、その週の第九は休日を返上して、連日の捜査に関する膨大な報告書の作成に追われていた。

 明けて、月曜日の夕方。
 薪は珍しく定時で研究室を出た。
 日比谷公園を横切って、日比谷駅から山手線に乗る。銀座で降りて、晴海通りを歩く。ソニービルの1階の有名なパティスリーに寄って、ケーキの箱を持って出てくる。
 マキシムド・パリのミルフィーユは、だれかさんの大好物だ。この大きさであの値段だからかなりの贅沢品だが、今日くらいは奮発してもいい。

 今日は、特別な日だから。

 せっかく銀座まで出たのだからと、薪はもうひとつの贅沢を自分にも許してやろうと思う。銀座には、薪の大好きな吟醸酒を売っている店がある。京都伏見の『綾紫』。限定品で、東京ではここでしか手に入らない。
 コンビニの角を左に曲がり、歩くこと数分。
 薪は人ごみの中に、周囲より頭ひとつ分高い部下の姿を発見した。

「あ」
 声を掛けようとして、思い留まる。
 青木がこの道を歩いているということは、たぶん目的地は薪と同じだ。薪のお気に入りの酒を手土産に、マンションに来る気でいるのだろう。
 まったく、薪の機嫌を取ることに関しては仕事より熱心だ。吟醸酒くらいで、薪が平日に最後まで許すとでも思っているのだろうか。

 ……でも、今日は特別な日だし。
 1ヶ月ぶりのデートだし。こないだのエッチはめちゃめちゃ中途半端だったし。僕だって絶対にイヤだってわけじゃないし、あいつが土下座して頼むなら考えてやっても。
 果てしなく傲慢なことを考えていた薪は、次の瞬間、息を呑んだ。

「え……?」
 青木の隣を、女の子が歩いている。20歳前後の若い娘だ。長い髪とスタイルの良さが人目を引く美人だ。二人は歩きながら、親密そうに顔を寄せて話をしている。

 誰だろう。少なくとも青木が以前見せてくれたアルバムの中に、この女性はいなかった。
 まさかと思うが、浮気?
 ないない。あのヘタレにそんな勇気があるもんか。万が一にも僕に嫌われる可能性のあることを、あいつがするわけがない。たしかにこの近くにはホテル街があるけど、まだそこへ行くと決まったわけじゃ……。
 薪の予想を裏切って、ふたりはだんだん問題の通りに近付いていく。角を曲がって通りに入り、やがて一軒のホテルに入っていった。

 嘘だ。
 なんかの間違いだ。
 きっとこれには訳があって、そういう目的じゃない何かで青木はあの娘とここへ入ったんだ。だからすぐに出てくる。5分もしないうちに出てくるはずだ。それから僕へのプレゼントを買って、僕のところへ来る。
 僕はあいつを信じてるから、ここで待ち伏せるなんて真似はしない。ただちょっと歩き疲れたから、立ったまま休みたいだけだ。

 30分経っても、青木は出てこなかった。
 馬鹿馬鹿しくなって、薪はその場を離れた。吟醸酒を買うのを忘れたな、と電車の中でぼんやりと思った。家に帰ってからケーキの箱を開けてみると、ドライアイスが切れて温度が上がったせいか、飾りの生クリームが溶けていた。これぐらいなら食べられると思ったけれど、何故かそれが許せなくて、ゴミ箱に叩き込んだ。
 それから薪は、冷蔵庫を開けた。
 その中には今夜のために昨日から仕込んでおいた料理がぎっしりと詰まっていたが、薪は片っ端からそれらを取り出して、トレーごとゴミ袋に突っ込んだ。

 ふざけやがって。
 なにが『来週の月曜日は何の日か覚えてますか?』だ。
 僕を誰だと思ってんだ。警視長試験トップ合格者の薪剛だぞ。覚えてないわけないだろうが。

 聞かれたときにそのことを言わなかったのは、仕事中だったから。職務中にするのは仕事の話だけ。プライベートの話はそれ以外の時間にするべきだ。僕がそういうポリシーを持っていることくらい、とっくに解ってると思ってたのに。
 あの会話で、青木は今日の約束はキャンセルだと思い込んだのだろう。それであの娘と。

 冷蔵庫の扉を開けたまま、薪は冷気の前に座り込んでいる。
 冷蔵庫が空になったら、自分の心まで空っぽになってしまったような気がする。勢いで全部捨ててしまったけれど、これじゃ自分の夕飯もない。

「なにやってんだ、僕」
 自分の短気に、頭を抱える。
 いいじゃないか、べつに。たまに女の子と遊ぶくらい。
 本音を言えば薪だって、時々は女の子と寝たいと思っている。これは男である以上、当たり前のことで。あいつが泣くと思ったからしなかっただけで、あっちもやってるんだから、これからは自由にできるということだ。ラッキーじゃないか。

 青木の隣を歩いていた、髪の長い女の子を思い出す。
 37歳のオヤジと20歳の女の子。
 どう考えても勝ち目がない。ていうか、薪だってそっちがいい。
 1年経って痛みはだいぶ薄らいできたけど、やっぱりセックスは女のほうが気持ちいい。だいたい、なんで僕ばっかり痛い思いしなきゃいけないんだ。そりゃ、たまにはうまくできることもあるけど、ほとんどは我慢してるだけだ。早く終わって欲しいって、そればっかり考えてる。

 もしかしなくても、僕とのセックスは、楽しくないのかもしれない。
 男の場合、感じてるかどうかなんて見た目ですぐに解っちゃうし、どうしてもダメなときは途中で強制終了だし。
 痛がってばかりいる相手とのセックスなんか、面白いわけがない。僕だって、そんな女の子と寝たくない。
 でも、青木は僕のことが好きだから。
 だから、土下座して頼むほど僕のことを欲しがって……。

 薪は呆然と床を見つめた。
 木目の美しい床の上に、正座して頭を下げる大男の幻が見えた。





*****

 ラブコメラブコメ♪
 って、世間一般の定義と若干のズレがあるような。(笑)


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QED(6)

QED(6)




 室内にチャイムの音が響き、薪は顔を上げた。

 もしかして、青木が来たのか?
 ……もう遅い。料理もケーキも、全部ゴミ箱の中だ。

「薪さん。オレです、開けてください」
 知るか。
「早く開けてくださいよ。お酒が温くなっちゃいますよ」
 カメラを確認すると、百合の花束と例の酒屋の袋を持った長身の男が、うれしそうな顔をして立っている。ものすごく幸せそうに、薪がドアを開けるのを待っている。

 別に、こいつの愛情を疑っているわけじゃない。ずっと許さなかったのは僕だし。
 あれは単なる生理現象だ。僕だってあのくらいの年齢には月に何回か。だからこのことは、気付かなかった振りをしてやり過ごすのが大人の関係というものだ。年上の恋人らしく、見て見ぬ振りをしてやろう。
 もとより、僕はこいつの要求にはとても応えきれない。12歳も年が違うんだから、当然と言えば当然だ。月日が経つほどに、その差は広がっていくだろう。
 遅かれ早かれ、こいつは僕から離れていく。それは1ヶ月後かもしれないし、明日かもしれない。きっとあまり時間は残されていない。だからつまらないことでケンカなんかしないで、限られた時間を楽しく過ごしたほうがいい。
 そう心に決めて、ドアを開けたはずなのに。

「さわるな!」
 自分を抱きしめようとした手を、薪は反射的に振り払っていた。
「他の人間を抱いた手で、僕にさわるな! 裏切り者!」
 相手を責める言葉が、勝手に口から飛び出していく。こんなことを言うつもりはなかったのに。鉄の自制心はどこへ行ったんだ。
「僕以外の人とはできないって言ったくせに! 嘘つき!」
 これじゃ鈴木のときと同じだ。醜い嫉妬に苛まれて、みっともなく取り乱して。
 相手のこういう態度に、男はウンザリする生き物だ。行き過ぎた嫉妬心は相手を白けさせるだけだと解っているのに、どうしてこんなことを言ってしまうのだろう。

「あの、なんのことですか?」
 玄関口に立ったまま、青木は訝しげな顔をして、薪に説明を求めてきた。素直に謝ってくるならともかく、とぼけられると本当に腹が立つ。
「とぼけたって無駄だ。銀座のラブオールっていうラブホで」
 そこまで言いかけて、薪はあのホテル街からの情報が先日の事件の証人の協力を得るきっかけとなったことを思い出す。
 ラブホテルの情報を元に脅しまがいのことをして証人を喋らせたわけだから、当然報告書にはそのことは載らない。あのときは頭に血が昇っていてその可能性に思い至らなかったけど、もしかしたら捜査の一環で?
 いやいや、あの事件は木曜には完全に終結を見たはずだ。もう、あのホテルから聞き出すことは何もない。

 薪の剣幕に怯むこともなく、青木は靴を脱いで部屋に上がってきた。薪の前を通り過ぎ、リビングのローテーブルに買ってきた花束と吟醸酒を置く。
「オレはあなたを裏切ったりしてないです。あの娘は捜査に協力してくれただけです。あのホテルは、彼女の叔母さんの持ち物なんですよ。そこにCCDをちょっとね。
 本当はもっと早くに回収に行かなくちゃいけなかったんですけど、報告書をまとめてたら遅くなっちゃいまして」
「盗撮したのか? ていうか、証人を脅したのか? それ、違法捜査だろ」
「オレは何枚かの写真を提示しただけです。あとは向こうが勝手に喋ったんです」
 なんてやつだ。
 こいつをこんな、狡すっからい真似をする捜査官に育てた覚えはない。……まあ、自分も似たような方法を考えていたが。

 自分の貞節を疑われたというのに、青木は何故か笑みを浮かべている。ひとの気も知らないで、なにがおかしいんだ。
「うれしいです。薪さんがヤキモチ妬いてくれるなんて」
「ヤキモチなんかじゃない! 僕は昔っから不倫とか浮気とか許せないんだ。不倫するくらいなら、離婚してからやればいいんだ」
「それは色々と事情が。子供のこととかあるし」
「だったらやらなきゃいいだろ」
「みんながみんな、薪さんみたいに自制心の強い人間じゃないんですよ。オレだって昔はあなたが結婚したら諦めようと思ってましたけど、今は例えあなたが誰かの父親になっても諦められるかどうか。自信ないです」
「なに調子いいこと言ってんだ。あの娘と寝たくせに」

 青木の態度はとても誠実で、たった今恋人を裏切って他の女性と楽しい時間を過ごしてきた男にはとても見えなかった。薪はその言葉を信じたい気持ちでいっぱいになっていたが、憎まれ口のほうは止まってくれなかった。
「僕は裏切り者は一生許さない。もう二度と僕の身体にさわるな!」
 言ってしまってから、薪はすぐに後悔した。
 こんな決定的な決別の言葉まで口にするつもりはなかったのに。ここまで言ってしまったら、こいつだって後に引けなくなってしまう。

 謝ったほうがいいと思ったが、薪の口は開いてくれなかった。
 肝心なときに限って、自分の気持ちと反対のことばかり出てくる。これまで何度、この性質のせいで失敗してきたことだろう。
 気持ちの制御を失ったとき、人は大切なものも一緒に失くしてしまう。長い間かけて培ってきた、信頼とか絆とか、そういったかけがえのないものを一瞬で壊してしまう。
 決してそんなことを望んでいるわけじゃないのに。どうして僕はいつもいつも、素直になれないんだろう。

 薪の葛藤をよそに、青木はいつもの穏やかな顔を崩さなかった。苦笑しつつ、大きな手で薪の両手を包み、
「なんでそんなに自分勝手なんですか? こないだオレに、ソープ行けとか言いませんでした?」
 言った。というか、怒鳴りつけた。
「だって、進行中の事件の最中におまえがヘンなこと言い出すから」
「捜査中は禁止ってことですか?」
「そんなことをしている間に被害者が増えたりしたら、僕は自分を許せなくなる。きっと、おまえのことも恨みがましく思ってしまう。だから」

 自分の考えが一般的でないことは、薪にも解っていた。それとこれとは別だと考えるのが普通だ。自分で思い込むのは勝手だが、それを相手にも強要しようなんて。しかも相手の男の事情まで封じてしまおうなんて。
 我ながら、どこまで身勝手なんだろう。

 自分がやっていることの愚かさに気付いて、薪はうなだれた。
 それでも自分には、こうすることしかできない。自分が犯した罪を償うためにも、できる限りの人々を救いたい。が、それに青木を巻き込むのは筋違いだ。
 悪かった、と言おうとしたとき、ふいに抱きすくめられた。

「意地悪言って、すみませんでした」
 ひと月ぶりの温かさに、薪はうっとりと目を細める。おずおずと背中に手を回して、そのぬくもりを抱き返した。
「オレは薪さんのそういうところに惹かれたんです」
 どこまでもやさしい青木。
 こいつは僕のことを好きでいてくれる。大切なのは気持ちだ。他の女と寝たか寝ないかなんて、どうでも――――。
 ……………。
 やっぱり面白くない。

 そんなに簡単に割り切れるものじゃないけど、でも今は我慢しよう。せっかくこうして、自分に会いに来てくれたのだから。この時間を大切にしなければ。
 薪は目を閉じて、愛しい恋人の香りを吸い込んだ。




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QED(7)

 ここはRかな? ギャグかな?
 じゃあ、大人のギャグってことで。 18歳未満の方はご遠慮ください☆





QED(7)





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ロジックゲーム(1)

 こんにちは。
 寒くなりましたね~。 みなさん、お風邪など召されていないとよろしいのですが。


 先日『クッキング』というお話を書き上げまして。
 わたしにしては珍しく、ホント赤い雪が降りそうなくらい珍しい、男女のラブコメでございます。 うちの男女のカップリングと言うと雪子さんと竹内しかおりませんので、これはその二人の馴れ初め話です。
 なんでこんなの書きたくなったのかというと、『君に届け』に嵌りまして。
 あのお話、すっごくいいですよね~。 いっぱい泣いて、いっぱい笑いました。 爽子ちゃん、かわいいです。 誰かにすっごくよく似てる。 あの奥ゆかしすぎる考え方が、誰かに。(笑)

 上記のSSは公開する気がないのでそれはどうでもいいのですけど、(だって誰も読みたくないだろうし) このお話でページ数が2000を超えたのですよ。 なので、ご報告をと思いまして。

 
 いつもご訪問、ありがとうございます。
 読んでくださる方々がいらっしゃるから、書き続けられるのだと思います。
 昔、ブログを開く前は、薪さんが好きで好きで書いてたんですけど、今はどうだろう。 もちろん薪さんが好きなことに変わりはないのですが、書くこと自体が楽しいのと、読んでくださる方がいる、と思えることが、より大きな原動力になっているような気がします。
 の、割には相変わらず独りよがりなお話ばっかりですけどね。(^^;


 引き続き、お付き合いくださいますよう。
 これからもよろしくお願いいたします。
  




 こちら、本編に戻りまして、ついでに時間も巻き戻りまして、2063年10月頃のお話です。 セカンドインパクトの前に前振りを入れておきたくて、後から書き足しました。
 甘いお話になったと思います。 てか、何も起きなくてつまんない?
 すったもんだは次の『スキャンダル』をお楽しみに。 うけけっ!(←アクマ)

 




ロジックゲーム(1)





調査報告書1

『ターゲットMに関する報告書(抜粋)』

 生真面目で職務に忠実。職務遂行中は常に冷静沈着だが、その反面、部下に対する指導は厳しく、行き過ぎた暴言もしばしば。部下の評判、極めて悪し。
 皮肉屋、冷血漢、高慢等の悪評多数。下階級のものには恐れられ、上階級のものには疎ましがられている。総じて、人付き合いは苦手。
 捜査に於ける推理能力は正に天才的。が、内容によっては上層部に反抗的な態度を見せることもあり、大いに問題視されている。その鋭敏さは警察機構に置いては諸刃の剣。


『ターゲットAに関する報告書(抜粋)』

 真面目で職務に忠実。上司の命令には無条件に従う従順さを持つ。大人しく、粘り強い性格である。
 明朗快活、温厚、気配り上手など、同僚の評判はすこぶる良い。人懐こく、年上に可愛がられるタイプ。友人は男女を問わず多数。
 争いを好まない平和主義者。気弱そうに見えるが、時に大胆。無謀ともいえる捜査方法で、周囲を唖然とさせた経歴あり。捜査能力に光るものはあるが、未だ未知数。


『MとAの関係に関する報告書(抜粋)』

 AはMのマンションを週2~3回の割合で訪問している。週末には泊ることもあるが、それは同じ部署の先輩Oと一緒のときであり、単独でMのマンションに泊まることは極めて稀である。
 職務中は、厳しい上司に従順な部下。それ以外の気配は読み取れない。プライベイト時にもふたりがそれらしき行動を取ったことはない。彼らの会話からは、少し砕けた友人同士以外のものは聞き取れなかった。観察中に身体的な接触を持ったことは一度もない。
 よって、ふたりの関係はすでに解消されているか、冷めている可能性が高い。



*****




「だから、大丈夫だって」
 受話器から聞こえる親友の心配そうな声音に、中園は少しだけうんざりしながら応えを返した。
『なにが大丈夫なんだよ』
 海を隔てた故郷にいる親友の声が、僅かに尖る。中園の声に含まれた面倒そうな響きを感じ取ったのかもしれない。鋭いやつだ。

『半年後にはぼくの憂いはなくなってるだろう、って言ったのはどこの誰だい。1年経っても、彼らの関係は続いてるよ。どうしてくれるんだ』
 どうしてくれる、と言われても。
「ちょっと待てよ。彼らが別れないのは僕のせいだって言うのか?」
『だっておまえが言ったんだよ。男同士のカップルなんか自然に冷めるのが当たり前だから、放っておいても大丈夫だって。全然大丈夫じゃないよ、なんとかしなさいよ』
「なんとかって」
 なんてあからさまな言いがかりだろう。手術前の医者の励ましの言葉を言質にとって裁判を起こす連中よりひどい。
 それでも、彼は中園の上司だ。上司に忠誠を尽くすのは警察官のさだめだ。

「じゃあ、僕がそっちで動けるように便宜を払って」
『それはできない。職務以外のことで人事を動かすわけにはいかない』
 相変わらず無茶苦茶な要求をするやつだ。
 現在、中園がいるのはロンドン。親友の憂いが存在するのは日本。互いの位置関係はそのままに、自分の憂いを払えと言う。

「小野田。僕は魔法使いじゃないんだよ?」
『おまえならどうにかできるだろ。調査報告書も何枚か、上がってる頃じゃないのか』
 まったく鋭いやつだ。ふたりにマークをつけていたことが、もうバレている。
 エージェントの手配をして、まだ1ヶ月ほどしか経っていない。しかも彼らはプロなのに。そのくらいでなければ、彼の役職は務まらないが。

「恐れ入りました。官房長のご慧眼、誠に素晴らしい」
 たっぷりと皮肉を含んだ口調で中園が言うと、小野田はいつものように無言で笑った。電話だから相手の顔は見えないが、中園には分かるのだ。
「お察しの通り、1回目の報告書が上がってきたところだ。報告書によると、彼らは冷めた関係になりつつある。放っておいても自然に別れるよ」

『本当かい? ぼくの眼には、そうは見えないけどなあ』
「おまえはこっちの方面は素人だから、彼らの実情が理解できないんだよ」
『でもさ、薪くんがとっても生き生きしてるんだよ。笑い顔も多くなったし、穏やかになったし。これって、恋人とうまく行ってる証拠じゃないのか』
「10年前の薪くんも、生き生きしてたよ。あの頃は、特定の恋人はいなかったはずだろ。恋人なんかいなくたって、友人と仕事で充分に満たされる。彼は昔からそういう子なんだろうよ」
『そうかなあ』
 調査報告書の中には、詳しい会話の記述もあった。職場でのものらしかったが、その中の薪のセリフは、ミスをした部下を必要以上に叱責する意地悪上司以外の何者でもなかった。
 どんなに公私混同をしない人間でも、意中の相手にはいくらか点が甘くなるものだ。ましてや恋人ともなれば、例え部下の手前厳しい言葉をぶつけたとしても、必ずフォローがあって然るべきだ。この報告書の記載が正しければ、フォローどころかトドメだ。青木くんとやらは、良く我慢している。

 時間の問題だろう、と中園は考えている。
 青木は若い。最初は年上の魅力にクラクラときても、やがて現実を知る。12歳も年上の男、趣味も合わないだろうし、セックスだって満たされないはずだ。年上の強みと言えば、大人の包容力と年長者ゆえの優しさだが、肝心の薪がこの調子では。青木の忍耐が切れるのも、そう遠くないだろう。
 
 中園は報告書に添付された2枚の写真のうち、1枚を取り上げて目の前にかざす。亜麻色の大きな瞳、意志の強そうなきりりとした眉。丸く幼げな頬とつややかに光るくちびる。10年前とまるで変わらない。
 この写真には驚いたが、中身は間違いなく38歳の男だ。肌の張りも身体の機能も、20代の青木が満足できるとは思えない。

 大丈夫だよ、と言いかけて、中園は報告書に記載された最後の一文を目に留めた。
『但し、これはあくまで観察可能な屋外における彼らの行動から推察される結果であり、密室の中の彼らの行動を視認したものではない』
 それからもう一度薪の写真を見て、諦めたように言った。

「おまえがそんなに心配なら、ちょっとだけ動いてみるよ」



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ロジックゲーム(2)

 最近、過去作品に拍手をありがとうございました。
 バラバラの作品だったので複数の方だと思うのですが、どうもありがとうございます。
 拍手とコメントは、ブロガーの栄養剤でございます。 特にコメントはうれしいです、お喋り大好きなので。 そのくせ、絡みづらいお話ばっかりで~~、すみません。(^^;







ロジックゲーム(2)






 郵便物を満載したワゴンを押して、今年の庶務課の新人が朝の第九を訪れた。
 彼と二言三言、朝の挨拶とおまけの会話を交わし、青木は受け取った封書の束を確認する。その中の一つ、室長宛に届いた人事部からの親展の文字に、どきりと心臓を竦み上がらせた。

 今日は9月の第一月曜日。
 そろそろ来る頃だと思っていた。自分の努力に対する結果が、ここには記載されているのだ。それは二つに一つ。努力賞はない。つまり、試験の合否通知だ。

 試験の結果を一番最初に知るのは、受験者ではなく、彼らの直属の上司だ。結果通知はまとめて部署の責任者に届き、当該者に通知されることになる。
 人事部は、どうして本人に結果通知を送ってくれないのだろう。室長に知られる前に、心の準備をしたいのに。
 咄嗟に内容を確認したい欲求と、そっとシュレッター行の箱に紛れさせたい誘惑に駆られて、青木の動きが止まる。
 他人宛の郵便物を覗くなんてさもしい真似はしたことがないが、今回ばかりは宛名の人物よりも先に内容を知りたい。そんな思いから、青木は蛍光灯の明かりに封書をかざしてみた。

「人事部の封筒は二重だって、前にも言っただろ。学習しないやつだな」
 ぎくっと190センチの長身が強張る。恐る恐る振り向いて、青木は執務室の入り口に涼やかに佇んでいる人影に気付いた。
「おはようございます、室長」
「おはよう」
 平静を装って挨拶を交わしつつも、青木の胸は高鳴っている。それは自分が手紙の中身を透かして見ようとしていたところを上司に見つかってしまったという焦りからではなく、今日も彼の元気な姿を目にすることができたことの喜び。毎朝こうして彼に会うたびに、心が騒ぐのを止められない。

 不思議なものだと青木は思う。
 彼は自分の上司で、職場で毎日顔を合わせている。しかもプライベイトでは自分の恋人。他の誰よりも長い時間を彼と共有しているはずなのに、一日の始まりに彼の顔を見る、ただそれだけのことに、こんなにときめくなんて。薪の言うとおり、自分には学習機能がないのかもしれない。

 薪は青木の手からさっと封書を掠め取り、躊躇なく封を切ろうとした。慌てて青木は、一時の猶予を申し出る。
「待ってください、室長。心の準備をさせてください」
「そんなもの、してもしなくても通知結果は変わらないぞ」
「1分でいいですから。お願いします」
「じゃあ、これは室長室で開けることにする。昼飯の直前に結果を教えてやるから、3時間ばかり神さまに祈ってろ」
「……それって生殺しじゃ」
 相変わらず、薪は意地悪だ。

「それが嫌なら覚悟決めろ。男だろ」
 下方から上方にいる相手を見下す、という器用な目線を青木にくれる上司の姿に、青木は困り果てる。
 薪がニヤニヤと意地悪そうに笑う、それは彼の心が元気な証拠だから青木にとっては歓迎すべきことなのだが、今回はさすがにその余裕がない。青木には後がないのだ。

「分かりました。結果を教えてください」
 細い首が縦に振られ、優雅な指先がペーパーナイフで封を切った。中の紙が取り出され、それを見た亜麻色の瞳が、ゆっくりと瞬いた。


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ロジックゲーム(3)

 こんにちは。

 最近、過去作品にたくさん拍手をいただいてて、とってもうれしいです。 ありがとうございます。
 『ラストカット』以前、まだふたりが恋人同士じゃなかった頃のお話は、自分でも読み返すと、拙いながらに微笑ましくなります。 
 彼らがだんだんに惹かれあっていく過程は、初々しく、一生懸命で。
 だけどもどかしく、なかなか先に進まなくてイライラして、時間ばっかりくいやがって、もうホント腹立つ。(あれ?)

 でも、くっつくまでが楽しいんですよね~。
 原作もその過程だと思えば、楽しめ……ああ、きつ過ぎ★





ロジックゲーム(3)




「幹部候補生の選抜試験を受けろ」
 薪のマンションで、夕飯をごちそうになっている最中のことだった。しゃぶしゃぶの肉を鍋から上げるのも忘れて、青木は呆然と薪の顔を見た。
「幹部候補生? オレがですか?」
 幹部候補生というのは、警察内部にだけ通用するネームバリューで、30歳未満の若手のうち特別優秀な警察官に与えられる称号だ。毎年、若い警視たちの間から選ばれるが、その枠はたったの5人。ペーパーテストだけでなく、実技試験(仮想事件をモデルに、実際に指揮を取る)、監査官による面接、素行調査もされる。もちろん、警視の昇格試験よりも難しい。

「昇格試験で10位以内に入れなかったペナルティだ」
「ペナルティって……だって薪さん、こないだは良くやったって褒めてくれましたよね?」
「褒めてない。おまえにしては良くやった、って言ったんだ」
 夏に受けた警視の昇格試験の際、薪から『10位以内に入れ。できなかったらおまえとは別れる』と宣言された。薪が作ってくれたノートや参考書をフルに活用して受験に備えたが、いかんせん、準備期間が短すぎた。
 結果は25位。試験には受かったものの、薪の望むベスト10には入れなかった。
 25位という結果に、薪は怒らなかった。それどころか、「おまえにしては頑張ったほうだ。良くやった」などと、やさしい言葉を掛けてくれたりしたのだ。そのときは。
 それから5ヶ月も経ってから、何を考えたのか、薪は突然その話を蒸し返してきた。

「おまえはバカなんだから、努力を怠るな。努力して、やっと人並みなんだから」
 煮えすぎて固くなった肉をひょいと箸で掬い上げて自分の椀に落とし、新しい肉を鍋に泳がせてから青木の椀に入れてくれる。とってもやさしいことをしてくれているのだが、言葉は目一杯きつい。
「前にも言っただろ。僕はバカは嫌いだ」
 またそんな無茶苦茶なことを、と言いかけて青木は、昇格試験の結果が出た時のことを思い出した。
 あれは9月。夏に起きた事件の波紋が、ふたりの仲をギクシャクさせていた頃のことだ。

『僕の恋人なら、それくらいできて当たり前だ』
 試験前、薪はそう言った。でも、試験の結果が帰って来た頃には、恋人という関係自体が破綻しそうだった。だから怒らなかったのだ。
 自分から離れていきそうな恋人の機嫌を取りたかったのではなく、恋人でないならその必要はないと、実は切り捨てられそうになっていたのだと、薪のやさしい言葉の裏側を初めて知って、青木は肝を冷やしつつ、首を縦に振った。

「分かりました」
 薪が厳しい要求をしてくるのは、自分を恋人として認めてくれている証だと思えば、頷かざるを得ない。
 しかし、幹部候補生選抜とは。
 薪の手前、弱気を表に出すこともできず、青木は心の中でため息をついた。
「受けるからには落ちるなよ? 落ちたら今度こそ別れるからな」
「……やっぱり……」
 やわらかく煮えた肉と一緒に椀の中に放り込まれた薄切りの人参を見て、青木は喜びと苦悩を深める。意地悪とやさしさが混在する薪との会話は、時々すごく疲れる。
 だけどこの人はものすごくずるい人で。青木に無理難題を押し付けたときには、必ずと言っていいくらい、かわいいことをしてくれる。

 その日も冬のお約束というか、薪はちゃんとバレンタイン仕様のチョコトリュフを作ってくれていて、しかもそれを口移しに食べさせてくれたりなんかして、さらには極上の笑顔つきで「頑張れよ。おまえなら受かると信じてるからな」なんて励まされた日には、「必ずご期待に応えます!」とついつい断言してしまって、「そうか。じゃあ、今日から勉強しよう」てな具合にベッドの約束をはぐらかされて、結局は薪の都合のいいように……ああっ、何度引っ掛かったら学習するんだ、オレ!!

 そんなこんなで、選抜試験を受けたのが5月。
 昇格試験のための猛勉強が記憶に新しかったせいか、一次のペーパーテストは思ったよりも上位で通過できた。問題は2ヵ月後の二次試験だ。

 課題は、殺人事件の陣頭指揮だった。
 現場検証は済んでいるから、まずは捜査官たちに事件の概要を説明する。いつも職場で尊敬する上司がするように、淀みなく解りやすく、そう心掛けたが3箇所ばかりつまづいた。
 次に現場写真と報告書を見直し、犯人像のプロファイリングを行う。この試験は指揮官としての実力を見るものだから、これは専門のものに任せても良いのだが、もちろん自分で正確なプロファイリングができれば評価は高くなる。外せば逆に減点になるが、年がら年中モニター画像を見ている自分が画から何も読み取れないのでは、第九の名折れだ。

 殺人事件の現場となった廃屋には、異常なくらいの血痕が残っていた。あちこちにベタベタとついた痕跡は、まるで子供が悪戯にぶちまけた赤インクのようにも見えた。被害者の男性は頭部と両手を切断され、持ち去られていたことから、受験者の中には快楽殺人を疑う者もいたようだったが、青木は違うと思った。

 後に試験官にその理由を聞かれて、青木はこう答えた。
『現場写真が健全だったので』

 殺人事件の現場を健全というのはおかしな表現だが、青木が普段見ているMRIの画に比べたら、まるで毒が足りない。猟奇殺人者の現場と言うのはこんなものではない。見た瞬間に息苦しくなり、自分が闇の中に堕ちていくような感覚に囚われる。その失墜感がない画は、たいてい普通の人間が止むに止まれず起こしてしまった事件だ。
 頭部と両手を持ち去ったのは、被害者の身元を隠すための手段に過ぎないと青木は判断した。現場に残された、犯人が自分を誇示するかに見えた多くの痕跡は、パニックに陥った人間が慌ててつけてしまったものだと思った。何故ならいくつかの血の手形は、布のようなもので擦られていた。拭き取ろうとして、それを為しきれなかったのだろう。快楽殺人者なら、そんなことはしない。

 加えて、足跡の写真を大きく拡大してみると、僅かに左足のほうが深かった。つまり犯人は左利きの可能性が高い。左手で被害者の遺体の一部が入った鞄を持ったと考えられるからだ。
 足の大きさと歩幅から見て、犯人は若い男性。壁に残された手形からも男だと判別はついたが、人間の頭部を持った上でのこの歩幅は、20代から40代前半だろうと思われた。
 この辺の事実はもちろん鑑識で確認されることだが、これは試験なので敢えて記載されていなかった。現場写真から情報を読み取る能力も、試験対象になっているのだ。

 最終的に青木は、周辺の聞き込みと目撃者の捜索、被害者が身につけていた衣類等からの身元の洗い出しなどなど、総勢40名の捜査計画を立てた。これが第九だと、岡部と今井、曽我と自分あたりで殆ど調べてきてしまうのだが、あれはMRIあってこその実地検分だ。一般の捜査では、そうはいかない。
 
 そんな調子でそこそこ上手く行ったように思われた二次試験だったが、解答内容を薪に話した途端、青木は自分の不合格を予感した。
「なんだ、その行き当たりばったりな捜査計画は。そんなんでホシが挙がるか、バカ」



*****


 一応注記しておきますが、幹部候補生制度というのは、警察にはありません。 自衛隊とかにはあるみたいですけど、現在の警察にはないんです。 
 でもほらっ、これは未来のお話だから! できるかもしれないじゃん!
 ウソばっかり吐いてごめんなさい。(←きっとロクな死に方しない)



 

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ロジックゲーム(4)

 こんにちは~。

 前回の記事に、たくさんのお祝いコメントありがとうございましたっ!(嬉)
 また、初めてコメをくださった方々、過去作から読んできてくださったとのお話、とっても嬉しかったです!
 なのに、コメレス遅れててすみません。(←罰当たり(><)

 12月9日及び10日に下水道の検査がありまして、その準備に入ってます。 
 なので、こちらの記事以降、10日まではブログはお休みということで、
 誠に申し訳ありませんが、コメレスも、それまでお待ちいただけると、
 すいませんっ、不義理ですみません、どうか見放さないでください。(平謝)






ロジックゲーム(4)





「なんだ、その行き当たりばったりな捜査計画は。そんなんでホシが挙がるか、バカ」
 日曜日の昼。昼食のオムライスを作りながら、薪は厳しく言った。

「何故犯人は、この廃屋に被害者を呼び出したんだ? なにか所縁があったのかもしれないし、土地勘があったのかもしれない。建物のことも調べるよう、指示をしないと」
 軽快な音を立てて玉ねぎを刻みながら、薪は青木の解答の不備項目をチェックする。喋りながらも手は止まらず、料理はスムーズに進む。
「この日は午後から雨が降り出したんだったな? 犯行時刻が夕方なら、犯人が雨具を途中で調達した可能性も考えられる。犯人にしてみれば不本意だったろうけど、ずぶ濡れで歩いていたらよけい人目につくから――――― 付近のコンビニや商店の聞き込みで、雨具を買った人物をチェックする。雨が絡む現場では当たり前のことだ。
 それと、遺体の近くに被害者以外の血液がついていないか、調べるように指示したか? 何故って、犯人の血液が残ってるかもしれないだろ。初めは殺す気がなかったとするおまえの推理が正しいなら、切断には廃屋にあった刃物を使用したかもしれない。何年も放置されて錆付いた刃物で、慣れない作業を異常な精神状態で行ったんだぞ。怪我のひとつもしそうなものじゃないか。
 現実の捜査では鑑識の仕事かもしれないが、これは試験だぞ。及第点を狙うなら、そういうところにも言及しなきゃ駄目だ」

 フライパンが器用に返されて、チキンライスが宙を舞う。カラリと仕上がったチキンライスを周りに寄せて中心にケチャップを入れる。こうしてケチャップの水分を飛ばすのが薪流だ。
「被害者の身元だが、手術痕と骨折痕は調べたのか? 身体的な特徴についての調査の指示は? それから」
 薪の指摘事項が増えるにつれ、青木は目の前が真っ暗になってきた。いくつもの捜査項目について確認されたが、その殆どが不完全だった。自分のミスにも気付かない、一番ダメなパターンだ。
 
 チキンライスを皿に盛り付けて形を整え、薪はにこりと笑った。
「結果が楽しみだな? 青木」

 人からすべての希望を奪っておいて、この嬉しそうな表情。意地悪の試験があったら、間違いなく薪はトップで……いや、他の試験でも同じか。警視長の昇格試験も当たり前みたいにトップ通過だったし。
「いい経験になっただろ。選抜は毎年やってるから、また来年頑張れ」
 再びフライパンを加熱して、青木が溶いておいた卵を入れると、プロ顔負けの手つきで手早く丸め、薪はこともなげに言った。

 合否通知も来ていないのに来年の話をされて、さすがの青木も腹を立てる。薪の眼からすれば落第かもしれないが、試験官の所見は異なるかもしれない。
「まだ落ちたって決まったわけじゃないでしょう」
「ムリムリ。僕が試験官なら絶対に落としてる」
「じゃあ、もしも合格してたらどうします?」
 薪はちょっと考えて、
「人参抜きのオムライスを作ってやる」

 フライパンを軽く揺すり、チキンライスの上にトロトロのオムレツを載せて、薪は意地悪そうに笑う。
「その代わり、落ちたら別れるからな」
 それから青木の方に向き直り、下方から上目遣いにめちゃめちゃ可愛い顔で彼を覗き込んで、
「僕を抱けるのも、あと何回かな?」
「もう! なんでそんなに意地悪なんですかっ」
 薪の冗談はシュールすぎて、青木には笑えない。青木が怒ると、薪はアハハと声を立てて笑った。

 その晩は意地悪のお返しに、薪が泣くまで攻め立ててやったが、青木の気は晴れなかった。
 薪といると、自分の能力の低さをまざまざと実感させられる。身長以外で薪より上回るものなんか、自分には何もない。あの薪がこんな自分と1年以上も恋人関係でいてくれる、そのことが不思議に思えてきた。
 せめて幹部候補生選抜に残ることができたら、薪の恋人として胸を張れるのに。たとえ秘密の恋人でも、彼に相応しい男に一歩近付けたと思えるのに。
 
 そんな理由から、薪にダメ出しをされても、青木は一縷の希望にすがりたかった。青木を担当した試験官は薪ほど点が辛くないかも、という何とも情けない望みだったが、結果待ちの身として、他にどんな時間の過ごし方があっただろうか。
 ずっと頭の隅にあった不安の種、その結果が今判明する。果たして、タネは花開くのか、それとも芽吹くことなく朽ちてしまったのか。
 ゆっくり瞬きした後、薪は大きなため息をついた。

「まったく、嘆かわしい限りだ」
 ――――― ああ、やっぱりダメだったか。

 薪の憤懣たる態度に青木は肩を落とし、すみませんと頭を下げた。
「薪さんの期待に応えられず、申し訳ありません。また来年頑張りますから、どうか今回だけは」
 すっと目の前に突き出されたA4サイズの事務用箋、そこに記された文字に青木の言葉が止まる。受験者欄に自分の名前と、合格の文字。順位欄には2という数字が書いてあった。
「どうなってんだ、あの程度の解答で合格なんて。しかも次席? 今年の受験者は、よほど程度が低いのか? こんな連中が幹部になったら警察の未来は真っ暗、うおっ!?」
 きれいな顔で毒のある言葉を吐く可憐な生き物を、青木は思わず抱きしめていた。

「こ、こら! 職場だぞ、誰か来たらどうするんだっ」
 小さいながらも鋭い薪の叱責が終わらぬうちに、
「何やってんだ、青木」
 後ろから声をかけられて、ふたりは飛び上がった。
「あ、宇野さん。おはようございます、ステキな朝ですねっ!」
 青木はパッと薪から離れると、今度は宇野に抱きついた。

「ななな、なんだ!?」
「通りました、二次試験!」
「おお、そうか。良かったな!」
 ぽんぽんと青木の大きな背中を叩き、宇野は素直に後輩の快挙を喜ぶ。けっこう皮肉屋で毒舌家の宇野だが、薪に比べればまだまだ甘い。
 ありがとうございます、と礼を言いながら、青木は薪から受け取った合格通知を大事に胸ポケットにしまいこんだ。



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ジャンル : 小説・文学

ロジックゲーム(5)

 すんません、マジすんません。
 昨日、下水の検査は終わったんですけど。 
 その後、12時まで別の現場の書類をやらされて、今日は朝からずーっと測量に駆り出され……鬼だよ、オット! 仕事になると鬼!!
 今も絶賛仕事中ですっ、明日ももちろん仕事ですっ!(←やけくそ)
 
 オットはね、普段はやさしいんですけど。 てか、殆どわたしの言いなりなんですけど。
 仕事のときは、あんなんでも一応社長だからね。 逆らえないのね。

 以上、コメのお返事遅れてることの言い訳でした。 ←見苦しい。


 ごめんなさい、明日は必ず!!
 メールくださった方も、待っててくださいねっ!!





ロジックゲーム(5)





 程なく他の職員たちも出勤してきて、青木の吉報は皆の知るところとなった。
 第九の職員たちは青木のことをとても可愛がっているから、執務室はちょっとしたお祭り騒ぎになった。普段ならそれを諌める立場の室長も、今日は何も言わなかった。部下の栄誉を祝う気持ちは、室長も同じだ。

「二次試験に受かれば、後は面接だけだよな? 青木は第一印象いいから、有利だな」
 面接でどんなことを訊かれるのか、事前に探りを入れておきたいところだ。そう思っていると、今井から四つ折りにした2枚の紙片を青木に手渡された。
「おまえなら受かると思ってたよ。これ、俺の友達が選抜試験受けたときの面接の質問内容」
 他の受験生にはナイショだぞ、とスマートに片目をつむる先輩に、青木は涙が出そうになるくらい感激する。第九の先輩たちはやさしいひとばかりで、自分はいつもみんなに助けられている。意地悪が売り物の室長とは大違いだ。

「今井さんのお友だちも、幹部候補生なんですか?」
「いや。そいつ、素行調査で落ちたんだ。キャバクラ通いがバレちゃってさ。おまえも今のうち、水商売の女とは手を切っとけよ」
「えっ!?」
 思いもかけない今井の言葉に、青木は驚く。素行調査と言っても、家族や親族に犯罪者がいないか、それくらいの調査だと思っていた。それが、アフターや休日の自由行動までが対象になっていると聞き、青木は不安になった。

「素行調査って、そんなことまで調べられるんですか?」
「当たり前だろ。監査課だぞ。交友関係は徹底的に洗い出されるさ」
「そんな」
「なに焦ってんだよ。身に覚えでもあるのか?」
 風俗店になど行ったことはない、いくら調べられても大丈夫だ。しかし。
 大学時代からの友人たちにさえ秘密の恋人のことを調べ上げられたりしたら、大変なことになる。
 そっと薪の方を伺うと、こちらの話は聞いていない振りで、署内報をめくっていた。が、亜麻色の瞳は一点に据えられ、次の記事に進む様子がないところを見ると、彼の心中も穏やかではないのだろう。

「あ、もしかしてあの女のことか?」
 重くなりかけた空気を破るように、小池の声が響いた。もちろん、小池の言う『女』に心当たりはない。
「ちょっ、小池さん。おかしな冗談言わないでくださいよ」
 チラッと薪の方を見て、青木が懸命に小池の言葉を遮る。薪はとても頭がいいくせに、時々とんでもないカンチガイをするから油断がならないのだ。
「隠すな隠すな。おまえ、今でも時々背中に爪痕と噛み傷つけてくるじゃないか。相手の女、ただものじゃない思ってたけど、やっぱりお水系……はっ!」
 ザーッと音を立てて小池の周辺気温が下がり、小池は寒さに身震いした。夏の最中でもこうして、第九は冷房が不要になる瞬間がある。

「小池。今夜から2日間、MRIのシステムチェック」
「なんでっ!?」

 誰もが嫌がる徹夜作業を唐突に小池に命じると、薪は執務室を出て行った。副室長の岡部に仕事の指示を2,3言い置いて、スタスタと歩いていく。
 自動ドアの向こうに室長の姿が消える直前、彼の行き先を気にする青木の視界の隅で、薪の肩がゆるやかに落とされた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ロジックゲーム(6)

 昨日、一昨日と、過去作品に拍手をありがとうございました。
 男爵カテゴリの作品と『折れない翼』を読んでいただけたみたいで、うれしいです。 

 あれを全部読むとですね、トータルのページ数が約140P。
 きゃー、さぞお疲れになったことでしょう! ありがとうございました、目薬さして休んでくださいねっ!





ロジックゲーム(6)





「まさか通るとは思わなかったなあ」
 マホガニーの執務机の上に肘をつき、小野田聖司は憂鬱そうに呟いた。

「しかも次席とは」
『なるほど。親バカってのは、子供の恋人の実力を実際よりも低く見る傾向があるんだな。次からは、それを計算に入れることにするよ』
 携帯電話の受話口から聞こえてくるからかいを含んだ男の声に、小野田は軽く舌打ちする。それから子供が親に言い訳するような口調で、
「だってさ、彼は総務から第九へ行ったんだよ。MRI捜査はプロでも、通常の殺人事件の捜査は一度も経験がないんだ。そんな人間が次席って。ありえないだろ、普通」
 読んでいた報告書をポイと投げ捨て、小野田はムッと唇を尖らせた。忌々しそうな口調を隠そうともせず、送話口に向かって無遠慮に吐き捨てる。

「何処に目を付けてるのかね、今年の試験官は」
『試験官は正しいよ。この解答を落とすなら、他の連中の殆どを落とさなきゃならなくなる』
「何言ってんだい、抜けてるところはたくさんあるよ? 被害者の身元確認も、凶器も、プロファイリングだって完璧じゃない」
『おまえは文句ばかりつけるけどね。現場写真から犯人が左利きの可能性を指摘したのは、彼だけだぜ。さすが第九のキャリアだよ。しかも剣道は初段だろ。頭も良くて腕も立つ人材は、貴重だよ』
 ロンドンにいる電話相手のところにも、資料は送っておいた。標的の実力を測ることで、作戦の一助になればと思ってのことだ。彼への賞賛が欲しかったのではない。小野田はカッとなって言い返した。

「中園。おまえは誰の味方なんだ?」
『もちろん、あなた様でございますよ。小野田官房長どの』
 慇懃無礼を絵に描いたような言い回しをして、中園は笑った。小野田はため息混じりに執務椅子にもたれかかり、投げやりに言った。
「わかった、認める。ぼくが甘かったよ」
『もともと無理なんだよ。幹部候補生選抜を青木くんに受けさせて、その結果、薪くんが彼に幻滅するように仕向けようなんて。
 試験に落ちたからって、彼の能力の低さに嫌気が差して熱が冷める、なんてことあるわけないだろ。デキの悪い子ほど可愛いもんなんだから』
「そうかな。ぼくはデキの良い子のほうが好きだけど」
 小野田が正直に言うと、中園は噴き出すように笑った。
『薪くんだって、決して『良い子』じゃないだろ。4年前の事件のことを除いても、彼、スキャンダルまみれじゃないか』
「彼は潔白だよ。周りの連中の目が節穴なんだ」
『本人が潔白かどうかなんて、大した意味はない。知ってるだろ』
「……まあね」
 しばしの逡巡の後に小野田が頷いたとき、卓上の電話がピーと鳴った。受話器を耳に当てると、秘書の柔らかい声が聞こえてきた。

『薪室長がお見えです』
「いいよ、通して」と秘書に答えてから、急いで携帯を口元にあてて、小野田は電話を切ろうとした。が、中園はそれを押し留め、このままの状態で薪との会話を聞きたい、と要求してきた。
「盗み聞きなんて、ちょっと悪趣味じゃない?」
『どうもおまえの印象とエージェントの報告書の間には隔たりがあってね。その辺りを自分の耳で確認したいんだ』
 中園の言い分は分かるが、薪の前であまり卑怯な真似はしたくない。少し迷ったが、これも薪のためと思い直し、小野田は携帯を開いたままデスクの下に隠した。

 軽いノックの音と共に、小野田の大事な跡継ぎは姿を現した。いつものように背筋をしゃきっと伸ばし、細い腕にファイルを抱えている。定例報告を装っているが、彼が話したいのは別のことだ。小野田にはちゃんと分かっている。
「定例報告に参りました」
 涼やかな声。生気に満ちたその声音を、小野田の耳は心地よく捉える。
「ご苦労さま」と受け取って、小野田は彼の顔を見つめる。うれしいことに、彼は充実した日々を送っているらしい。亜麻色の瞳はお日さまみたいにキラキラしているし、頬は薔薇色に輝いている。

「ずい分機嫌が良さそうだね。何かいいことでもあったの?」
「いいことって程じゃありませんけど。一応、ご報告を」
 そう言って、薪は眼の輝きを一段階高めた。
「青木が二次試験に通りました。次点と言う好成績でした」
 平静な口ぶりながら、そこには隠しきれない誇らしさが見え隠れしている。

「へえ、大したもんだ」
 小野田が頷くと、薪は冷静な顔つきのまま、でもその行動は明らかに勢いを得て、
「去年の昇格試験では小野田さんのご期待に応えられませんでしたが、彼は努力を続けています。もちろん、僕も。つまり、その、僕たちは」
 薪はそこで口ごもる。
 右手を口元に当てて固まる彼の姿は、とても希少だ。職務中には、まずお眼にかかれない。 
 その素直な困惑を好ましいと思う気持ちと、あの男だけが彼をこんな風に愛らしく変える事実を認めたくないという苛立ち。後者を抑えつつ、小野田は笑顔を作った。

「そうだね。以前、言ったことは取り消そう。きみは、いや、きみたちは堕落なんかしてない」
 小野田の言葉に、薪はうれしそうに笑う。
 本当に、近頃の薪は笑顔が多くなった。昔の快活さを取り戻しつつある証拠だ。
 これもあの男の功績だというのか?
 いやいや、そんなことはない。時が彼の傷を癒してくれた、それだけのことだ。

「だから監査課による素行調査も、恐れることはない。そうだよね?」

 びくっと細い肩が上がって、穏やかだった薪の表情が強張った。真っ直ぐに小野田を見ていた亜麻色の瞳が、急に落ち着きを失くして部屋のあちこちをさ迷い始める。ポーカーフェイスが十八番の第九の室長は、仕事以外のことになると結構分かりやすい。

「彼とは、他人に後ろ指を差されるようなことはしてない。そうだろ?」
 プレッシャーを掛ける言い方で小野田が追撃をすると、薪はぎゅっと拳を握り締めて、応戦する意志を見せた。

「僕たちは、他人に恥じなければいけないようなことはしていません」



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ジャンル : 小説・文学

ロジックゲーム(7)

ロジックゲーム(7)





「僕たちは、他人に恥じなければいけないようなことはしていません」
 その言い方があまりにもキッパリとして、まるで自分たちの関係に誇りすら持っているように感じられて、小野田はいたく心を害する。真剣に愛し合っているだけだ、と言わんばかりの彼の強い瞳に、失望を禁じえない。

 この子は何もわかっていない。少し、お灸を据えておくか。

 小野田はふわりと背もたれに身体を預け、顎を上げて薪を見上げた。
「それを聞いて安心したよ。何たって幹部候補生の素行調査は、きみが受けた特別承認の調査より、ずっと厳しいからね」
「えっ!?」
 薪は一瞬で真っ青になった。
「あれよりすごいんですか?!」

 上ずったアルトの声を聞きながら、小野田はポーカーフェイスの下に込み上げる笑いを封じ込める。
 そんなわけはない。あれは特別調査だ。薪を自分の娘の婿にしたい小野田の意を汲んで、中園が異常なまでに細かく調べ上げたのだ。
 不安そうに眉根を寄せる薪を安心させようと、小野田はにっこりと、それこそ神さまのように笑って、
「当たり前だよ」と言った。

「調査期間も候補者確定までの2ヶ月間と長いし、親類関係も友人関係もばっちり調べられる。アフターも休日も、監査官が後ろにいると思って間違いない」
「そんな……」
「心配することはないだろう? 君たちは、恥知らずな真似はしていないんだろ?」
「恥知らずな真似はしてませんが、恥ずかしいことはいっぱいされちゃって、いや、あのその」
 パニックになってるらしい。聞き流しておこう。

「どんな優秀な調査官だって、無いことは見つけられないよ」
「……分かりました」
 薪は数秒でパニックを抑えて、静かな表情を取り戻した。微かに震える小さな拳が、彼の感情の乱れを物語っていたが、口調はしごく平静なものだった。
「小野田さんの信頼に背くようなことはしません」

 彼との関係自体が、ぼくの信頼を裏切ってるんだよ。
 そう言ってやりたかったが、堪えた。薪の悪感情を自分に向けさせることは、得策ではない。

 薪は頭を深く下げて、官房室を出て行った。彼の姿が見えなくなり、さらに2分の猶予を置いて、小野田は再び携帯電話を耳に当てた。
『ホントに甘いね、おまえは』
 小野田を見下すように、官房室付参事官は舌打ちした。上司に対する態度ではないが、小野田も中園を部下だとは思っていない。
『あれで牽制したつもりか?』
「あのくらいにしておいた方がいいんだよ。薪くんはキレると、とんでもない暴挙に出るんだから」
『いっそのこと暴露して別れさせちゃえば? おまえのところには『切り札』があるんだろ』
「だからあれは使えないって、前にも言っただろ。あれが公になったら、薪くんは自分を犠牲にしてでも彼を救おうとするだろうよ」
『得意技は自爆、ってか。面倒な子だな』
 普段の冷静な貌からは想像もつかないような激しさを、薪はその心に隠し持っている。それが職務上のことで発揮される分には後押しを辞さない小野田だが、あの男を守るために発現することには我慢がならない。

「虚偽の事件調書なんか、正式な調べが入ったら簡単に分かっちゃうしね」
『それでも、ひとを葬ることはできる』
 中園の言葉が事実であることを、小野田は知っている。
『ターゲットの性格、性癖、行動パターンをインプットして、標的が自らはまり込んでくれるような舞台を用意する。入力データさえ正確なら、僕の計算に狂いは無い』
 警察庁の出世道は百鬼夜行の世界。嘘に塗り込められた真実が、そこ此処で細い悲鳴を上げる。
 実力だけでは這い上がれないこの世界では、敵対者を葬るために偽の醜聞を使うこともあるし、ミスをでっち上げることもある。小野田が官房長の椅子を手に入れるまでに行ってきた数々の暗い策略。その殆どを立案し遂行してきた中園の言葉は、彼の体験をもって重く響いた。

「とりあえず、青木くんの素行調査は通り一遍で済ますように手を回しておくことにするよ」
 よっぽど表立ったことをしていなければ露呈することは無いと思うが、一応念のためだ。
 素行調査で重点的にチェックする項目は、風俗店の出入りと暴力団とのつながり。アフターに上司のマンションに出入りしても、別に問題にはならない。上司の酒の相手を部下が務めるのは良くあることだ。

「ああ言っておけば、2ヶ月間は恋人としての付き合いは避けるだろうし。その間に少しでも、熱が冷めてくれることを期待するよ」
『バカか、おまえは。そんなことくらいで熱愛中の恋人同士が会うのをやめるもんか。止められたとしたら、それこそ気持ちが冷めてる証拠だ』
「やめるさ。薪くんの性格は良く分かってる。万が一監査に引っ掛かったら、青木くんの将来に響く。どれだけ耐え難くても、距離を置くさ」
『かりそめの恋人に、そこまで気を使うかね』
「かりそめなんかじゃない。だから困ってるんじゃないか」

 俄かには信じがたい、と中園は呻る。
 男同士の関係は実に即物的で、一時の快楽にのみ互いの合意を得るものだ、と言うのが中園の持論で、その間に男女間のような崇高な気持ちが生まれることはない、と彼は声高に主張する。
 家族にもなれず、子孫も残せない不毛の関係。そんなものが長く続く方がおかしいと、言われてみれば納得するものの、彼らを見ているとどうしてもそうは思えない。

「薪くんの声、聞いただろ?  あのうれしそうな言い方」
『神経質になりすぎなんじゃないのか? 薪くんは冷静に報告してたじゃないか。途中、ちょっとコケてたみたいだったけど』
「実際に彼を見れば分かるよ。薪くんは正直だから、顔に出るんだ。自慢げに胸張っちゃってさ。『僕の青木が次席になりました。すごいでしょう』って、翻訳が付きそうだったよ」
 やっかみにしか聞こえないセリフを、小野田が聞かせるのは世界に一人だけ。小野田が本音を語れる相手は、後にも先にも彼だけだ。
 
 頑固で我儘な老人のような小野田の言葉に中園はクスクス笑い、いつものシニカルな口調で合議を切り上げた。

『わかったわかった。官房長殿の我慢も限界のようですし。データ収集がてら、ちょっと揺さぶってみますか』




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ジャンル : 小説・文学

ロジックゲーム(8)

ロジックゲーム(8)





「2ヶ月!?」
 室長会議用に作成したレジュメをディスプレイ上で確認していた青木は、宣告された期間の長さに思わず声を上げた。

「そんなに長い間、薪さんと会えないんですか?」
 同僚たちが退室した後の職場にふたり、会議資料を作りながら、こっそりと秘密の会話をする恋人同士。そんな甘いシチュエーションの中、薪の冷淡な声が響く。
「会えなくなるわけじゃないだろ。職場が一緒なんだから」
 カシャカシャとキィを叩く音を途切れさせないまま、薪はこともなげに言葉を継いだ。

「月曜から金曜まではここで会える。顔も見られるし、話もできる。休日とアフターを一緒に過ごすことができないってだけで」
 そこが重要なのに!

 青木の不満顔に気付いて、薪がタイピングの手を止める。華奢な両手を机の上に置いて、諫めるように青木を見た。
「調査期間は、それで乗り切るしかないだろ」
「そこまで警戒しなきゃいけないんですか? これまでみたいに頻繁には行けないとしても、せめて週に一度くらいは。オレは薪さんの部下なんだし、部下が上司のマンションを訪ねるのは不自然なことじゃないでしょう。オレに調査官が付いていたとしても、家に入ってしまえば、中で何をしているかまでは分からないんだし」
「いいや、分かる」
 キッパリと断言して、薪は資料を手に取った。左上端をホチキスで留めて、青木の方へ差し出す。

「いつだったか竹内が言ってただろ? あいつら、みんな諜報部員なんだから」
 あれは竹内の冗談だったと青木は思うのだが、薪はすっかり信じ込んでいるらしい。何を根拠にしているのか、薪の中でそれは確定事項のようだった。

「先週の水曜日、もしもおまえに調査官がついていたとしたら、おまえが僕の家に来て、夕飯にきのこスパゲティを食べたことも、野菜スープに入ってた人参を残したことも、みんな報告書に記載されるんだ。風呂の中まで覗かれて、ホクロの数まで数えられて、それから」
 そこで薪は不意に口をつぐみ、考えを巡らすときのように口元に右手を当てた。大きな瞳があちこちに彷徨うのと、すべらかな頬に微かに昇った朱色に、薪の最大の懸念を知る。
 どうやら、過去の経験が彼を慎重にさせているらしい。

「と、とにかく! 念には念を入れた方がいい。今日から2ヶ月間、僕たちはただの上司と部下に戻る。職場の外では絶対に会わない。これは命令だ」
「そんなあ……」
 傲慢に言い放った形の良いくちびるを、青木は恨めしそうに見上げる。
 プライベートのかわいい薪の姿を見られなくなる、それは青木にとっては死活問題だ。その状態が長く続くことで、無気力、倦怠感といった謂わば一種の中毒症状を呈する。

 恋人としての時間を過ごせない2ヶ月間を想像するだけで、足元がぐらつきそうになっている青木に比べて、薪は憎らしいくらいに冷静だった。淀みなく動く指先はショパンの調べのようにキィを叩き続け、亜麻色の瞳はディスプレイに据えられたまま、青木のほうを見ようともしない。
 薪は平気なのかもしれない。もともと恋愛には興味の薄いひとだし。
 青木には分かっている。自分は薪の恋人だけど、その自分が彼の心を占めている割合なんて、せいぜい3%くらいのものだ。仕事が9割、残りの1割は人間関係に向けるが、それも仕事関連の人間が優先されて、青木の順番はずっと後。例外は雪子だけだ。

 親に叱られてしょぼくれる子供のように肩を落とした青木に薪は、慰めにしては軽すぎる口調で、
「2ヶ月なんて、あっという間だろ。それに、会えないのは休日だけだ。2ヶ月のうち休日なんて、10日あるかないかだろ」

 オレはその10日のために生きてるんですっ!

 そう言ってやりたかったが、我慢した。
 ここで下手に逆らって、そんな聞き分けのないことを言うなら別れる、と叱られるのも困るが、万が一、調査官によってふたりの関係が露呈し、薪に迷惑を掛けることになるのはもっと困る。

「わかりました」
 重いため息と共に青木は頷き、薪が確認して寄越したレジュメを受け取った。



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ロジックゲーム(9)

 お知らせです。

 新しいサイトさまをリンクさせていただきました。
『擒』(とりこ)という素敵なイラストサイトです。
『秘密』世界のメインはアツアツのすずまきさんです。
 ぜひ、リンクからどうぞ(^^

 
 うちのブログがAサイトになってから、リンクは遠慮してたんですけど~、(相手のブログさまに申し訳ないので)
えあこ様が快く承諾してくださいまして、相互リンクを張らせていただきました。

 えあこ様、ありがとうございました。(^^


 えあこ様の絵柄はキレイ系だと思うのですけど、わたしの目にはえあこ様の描かれる薪さんも鈴木さんも、非常に可愛らしく映ります。 
 なんかね、お互い一生懸命に相手のことが好きなんだな~、って。 
 そして、ギャグがドツボです(笑)
 みぎゃー!(笑笑)
 R系のギャグって楽しいですよね~~♪






ロジックゲーム(9)





 青木がその少年と知り合ったのは、10月も半ばを過ぎた肌寒い夜のことだった。
 
 スケジュール表の空白がやるせない土曜の夜、久しぶりに大学時代の悪友たちと飲んで、二次会のカラオケボックスに行く途中、青木の警察官の耳が本能的にその叫びを捉えた。
「泥棒っ!」
 声がした方向を振り向くと、まだ高校生くらいの少年から、リュックをひったくって逃げる男の姿が見えた。男はこちらに走ってくる。咄嗟のことに周りの友人たちが呆気に取られる中、訓練を積んだ青木の身体は自然に動き、盗品を抱えた男の身体を路上に押さえつけていた。

 腕をねじり上げ、リュックを取り上げる。男はどうやら浮浪者のようで、薄汚れた衣服と、ぼうぼうに伸びた埃まみれの髪と髭が見苦しかった。
 こちらに走ってきた被害者の男の子にリュックを返し、さて、どうしたものかと押さえつけた窃盗犯を見やる。ちょうどそこにパトロール中の巡査が通りかかり、渡りに船とばかりに青木は彼に犯人を引き渡した。
「ご協力、ありがとうございました」と敬礼する巡査に自分の身分は明かさず、あくまで一市民として対応する。巡査が差し出した手帳に書いたのは住所と名前のみ。ここで身分証を提示して、彼に余計な気を使わせるのは可哀相だと思った。

「あの、ありがとうございました」
 リュックを抱いた少年が、ぺこりと頭を下げた。色白で、とても綺麗な子だった。
 少し垂れ気味の、潤んだような瞳が印象的だった。周りを縁取る睫毛は濃く、女のように美しくカーブしていた。形の良い鼻と、ふっくらした唇。幼い顔立ちは、夜の華やかな明かりの中では妙にコケティッシュに見える。
「きみ、いくつ? 高校生じゃないの?こんな時間にこんな場所で何をしてるの。ご両親、心配してるよ」
 ついついお節介を焼いてしまうのは、職業病か、生まれ持った性格か。
 青木が尋ねると、少年は決まり悪そうに俯き、小さく唇を突き出した。前髪に隠れた細い眉毛が下がり、長い睫毛が伏せられる。11時過ぎに繁華街を歩いていても、不良少年というわけではないらしい。反抗的でもないし、乱暴な言葉を吐くでもない。

「早く家に帰りなさ、痛ってっ!!」
 いきなり後ろから背中を叩かれて、青木は振り返った。遅れて追いついてきた悪友たちの仕業だった。
「おお~! やるじゃん、青木」
「へえ。あのトロかったおまえがねえ」
「そうそう、テニスの試合のときにさ、おまえってば器用にもネットに絡まって」
 それを皮切りに、友人たちは大学時代の青木の失敗を次々と喋りだした。昔は武道の心得もなく、なまった身体のせいでスポーツは全般的に不得手だった。
「昔のことはいいだろ」
 彼らの話を聞いて、少年がクスッと笑ったのを見て、青木は悪友たちのお喋りを止めた。引ったくりからバックを取り返してやって、せっかく尊敬されていたのに。これ以上ボロが出ると、お説教の効き目が悪くなる。

「じゃあ、オレはこの子を家まで送っていくから」
「え? カラオケは?」
「仕方ないだろ。高校生をこんなところに置いていけないよ。おまえらみたいなタチの悪い酔っ払いに絡まれないとも限らないし。後で合流するから、先に行っててくれよ」
 悪友たちを追いやると、青木は少年の方へ向き直った。

「さて、送っていくよ。家はどこだい?」
 それには答えず、少年はじいっと青木を見つめていた。
「大丈夫。怪しいもんじゃないから」
「……警察のひと?」
 青木が内ポケットから身分証を出すと、少年は目を丸くした。素直な驚き方が愛らしかった。
「さ、行こう」
 促すも、少年の足は動かなかった。リュックを抱きしめ、青木を見つめ、ただそこに佇んでいた。

「きみ?」
「足が動かない。びっくりしちゃって……今ごろ怖くなってきて」
 恐怖で動悸がするのか、少年はシャツのボタンを1つ外した。胸元から、細い金色のネックレスが見えた。その肌はびっくりするくらい白かった。
「大丈夫?」
 無理もない。青木だって初心な高校生の頃、こんな目に遭ったら足が竦んで動けなくなるに違いない。

「きみ、家は遠いの?」
「いいえ。ここから10分くらい歩いたところです。すみません、腕を貸してもらえますか」
 昔の彼女がしてきたように、親しげに自分の右腕に回された彼の手をやさしく解き、青木は彼の前に背中を見せて膝をついた。
「いいよ、乗って」
「え。いや、おんぶはちょっと、絵的に色気がないっていうか、その」
 イロケ?
 おかしな表現をする子だ。背負われるのは恥ずかしいのかもしれないが、正直言うと、こちらも急ぎたい。未成年が外出するにはかなり遅い時間だし、悪友たちも青木を待っていることだろう。

「大丈夫だよ。周りは酔っ払いばっかりだ。こっちを見ているひとなんか、だれもいないよ」
 ほらほら、と催促すると、少年はおずおずと青木の首に腕を回し、背中に乗った。ひょい、と揺すりあげて、さっさと歩き出す。道すがら、青木は少年がどうしてこんな時間に独りで街をうろついていたのか、事情を訊いた。
「さしずめ、お父さんかお母さんとケンカでもした?」
「いいえ、両親はいません。小さい頃に亡くなって。ぼく、ひとり暮らしなんです」
 意外だった。そんなに寂しい人生を送っている子には見えなかった。

「友だちはいるけど、一晩中一緒にいてくれるわけじゃないし。だからぼく、寂しくなるとああやって夜の街に出るんです。その、話し相手を探して」
 右背後から聞こえる少年の声は、とても悲しげだった。
 彼には彼なりの事情があって、街をうろついていたわけだ。それは確かに同情すべき身の上だが、警察官としては未成年の夜歩きに賛同するわけには行かない。
「気持ちは分かるけど、夜の街はやっぱり危ないから。なるべく家にいたほうがいいよ」
「でも、独りでいると寂しくて……今夜はなんだか、死んじゃいたいくらい寂しかったんです。助けてもらった上に送ってもらってるのに、こんなこと言って申し訳ないんですけど、これからあの暗い部屋に帰るのかと思うと……」

 独り暮らしの侘しさを一番に感じるのは、真っ暗な部屋に帰った瞬間だ。青木もその気持ちは理解できる。自分の家に誰かがいて、「おかえり」と声をかけてくれる。それはとても幸せなことだったのだと、東京に出てきたばかりのころ痛切に思った。
 だから青木は、お茶を一杯だけ、と懇願する少年を退けることができなかった。

「ぼく、上条ハルって言います」




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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
メロディ6月号、読みました。
一言感想 「どひゃー……」
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