ラストカット 前編(1)
第2部、最後のお話です。
事件も起きない割に、ひたすら長いです。
このお話の時期は、2061年の10月。
『岡部警部の憂鬱Ⅱ』の後に入るお話です。
なので、薪さんの気持ちがバックしてます。この時点では、まだふたりは恋人同士ではありません。
この後に、『鋼のこころ』の後半が入り、『ラストクリスマス』が入り、『竹内警視の受難』が入るわけです。その後、ラストカットの後編に続きます。
前編と後編の間が半年くらい空いているので、そういう流れになります。
ご了承ください。
ラストカット 前編(1)
真白い風花が白銀色の空から落ちてきたのは、ホテルの遅い朝食を摂り終えたころだった。
今年初めて見る雪は、日本という国の湿度の高さを証明するかのような大きな牡丹雪で、ふわりふわりと花びらのように、至極ゆっくりと落ちてきた。
食後のコーヒーを飲みながら、青木は珍しい風景を楽しんでいる。
季節のうちでは春が一番好きな青木だが、冬は冬にしかない美しさがある。雪や霜や氷の世界などは、この時期でなければ見ることができない。いま目前に広がる雪景色は、ことのほか美しく見える。
それは向かいの席でコーヒーを飲んでいる、きれいな横顔のおかげだ。
亜麻色の大きな瞳に、舞い落ちる雪のかけらを取り込んで、うっとりと微笑む美貌のひと。
人間を相手にするときは皮肉な形に歪められることが多いつややかなくちびるは、自然の美しさに対しては素直な賞賛の笑みを浮かべる。今まで彼の賞賛を受ける僥倖に浴したのものは、咲き乱れる夜桜であったり、すべてを金色に染め替える夕陽であったりしたが、今日はこの雪景色にその幸運が訪れたようだ。
舞い落ちてくる雪にも負けない白い肌が清雅に映えるそのひとは、名を薪という。
青木が勤める研究室の室長で、直属の上司に当たる。下の名前は剛。顔も身体も小作りで華奢で儚くて、名前負けの見本のような外見をしているが、一皮むけば泣く子も黙る鬼の室長と職員たちから恐れられている。
国家公務員Ⅰ種試験を優秀な成績で合格したキャリアで、階級は警視正。まったく見かけからは想像もつかない。外見と中身のギャップが激しいのが薪の特徴である。
その落差は警視正という肩書きや、他に追随を許さない優秀な推理能力といった仕事関係のことだけにおさまらない。性格や習慣や食べ物の好みまで、とにかく自分の華人たる外見を裏切ることに全てをかけているかのような薪の言動は、青木を思わず微笑ませる。
今だってそうだ。
空を見上げて、亜麻色の頭をあちこちに動かしている。手元がお留守になっているから、コーヒーカップが傾いて中身がこぼれそうだ。
しかしここで「雪が珍しいんですか?」とか「コーヒーがこぼれそうですよ」などと、相手の子供っぽい仕草を揶揄するようなことを言ったら、大変なことになる。表に降っている静かな牡丹雪など比較にならない、雪嵐(ブリザード)が青木を襲うことになる。
薪の機嫌は、秋の空のようにころころ変わる。天候を崩さない為には、細心の注意が必要なのだ。
こういう場合の薪の取り扱いは、下記の通りだ。
「わあ。降ってきましたね。雪っていいですよね。なんかワクワクしちゃいますよね」
青木がわざと弾んだ声を出すと、薪はバカにしたような顔で大人の意見を吐く。
「雪ぐらいでなんだ。子供か、おまえは」
ことさら冷たい口調で青木を嗜めるが、薪の目は外の風景に釘付けだ。尻のすわりも悪く、椅子の上でもぞもぞしている。外に出たいのだ。
「滅多と見られないじゃないですか。こういうのは楽しまないと損ですよ。これ、飲み終わったら外に行きましょうよ」
「この雪の中をか? バカじゃないのか」
「オレ、九州の生まれだから、あまり雪を見たことがないんです」
嘘である。
たしかに青木は九州の生まれだが、福岡は北九州なので雪は珍しくない。都市化が進んだ東京よりも多いくらいだ。しかし、尤もらしい理由をつけると、薪は納得しやすくなる。だからこれは嘘も方便というやつで、きっと神様も許してくれる。
「お願いです。付き合ってください」
「ったく、お子様はこれだから。しょうがないな」
面倒くさいな、寒いのは苦手なんだよな、と言いつつ、薪はすでにマフラーと手袋を身につけている。行く気マンマンである。
さも雪に興味がある振りをして、薪よりも自分のほうが精神的に子供であることをさりげなくアピールする。そうすると薪は自分が青木よりも大人だという優越感を味わいつつ、年下の我儘に仕方なく付き合うというポーズをとることができる。
とにかく、薪が優位に立てるように場の雰囲気を持っていくことが、このひとの機嫌を損ねないコツなのだ。まったくもって疲れる上司である。
「行くならさっさとしろ。僕は読みたい本があるんだ」
「はい」
雪の中を薪について歩き出す。
厚いコートのフードを被って弾むように歩く薪の姿は、まるで少年のようだ。本当にかわいらしい。
仕事中のあの冷徹な室長と、同一人物とは思えない。この二面性がまた、青木にとってはたまらない魅力なのだが。
そしてもちろん、この怜悧な頭脳も薪の大きな魅力である。
「青木。気がついてるか?」
「はい。着いてきてますね」
ふたりがホテルの庭に出ると、ひとりの男が後ろから同じ方向に歩いてくる。青木たちと同じように雪に誘われて出てきたような素振りをしているが、視線は雪ではなくこちらに向けられたままだ。
「やっぱりマークされてるみたいだな。情報が洩れたかな」
「だから夫婦ってことで、カモフラージュしときゃよかったんですよ」
「絶対にいやだ。もう女装はこりごりだ」
女装などしなくても、ユニセックスな服を着て女言葉さえ使えば完璧なのに、と喉まで出かかった言葉をぐっと堪える。不用意にそんなことを言おうものなら―――― 想像するも恐ろしい。
「でも、薪さんとオレとじゃ全然似てないし。兄弟はムリですよ」
「そんなことないだろ。年の離れた兄弟ってことで。もちろん、僕のほうが兄貴だぞ」
「そこがいちばん不自然なんですよね」
「なんか言ったか?」
「いえ」
当たり前のことだが、ここへは仕事で来ている。
長野で起こった殺人事件のMRI捜査のために遺体を引き取りに来たのだが、遺族のたっての望みで、ふたりが第九の職員であることを隠している。遺体から脳を抜き取るなど、死者を冒涜する行為だと周囲の人々から責められる、というのがその理由である。
世間ではまだまだMRI捜査に対する偏見が多い。田舎に行くほどその傾向は顕著に現れるようだ。この地方にはまだ遺体を土葬する習慣が残っていて、亡骸を焼いてお骨にすることは死者の怒りに触れる行為だと信じられている。そんな風習の残る地方でMRI捜査に協力してくれた老夫婦の理解の陰には、薪の熱心な説得があった。
昨日の午後。
薪は部下の今井と共に車で老夫婦の家を訪問し、当然のように門前払いを食らわされた。
その時点で今井を帰らせ、薪は単身で説得に当たることにした。矢面に立つのは室長である自分の仕事だし、第九は万年人手不足だ。
『後は僕に任せろ。手筈が整ったら、青木をヘリでここに寄越せ。一刻を争うことになるかもしれない』
土葬の風習が残る地方だから遺体が焼かれてしまうことはないが、MRI捜査にかけるには死亡から4日以内に脳を取り出すか、冷凍保存をかけておく必要がある。被害者は死亡から既に2日が経過している。あと2日以内に病院で処置をしなければ、情報を得ることはできなくなる。
説得が成功したとしても、この村落には脳を抜き取る手術ができる病院がない。遺体ごと東京までヘリで運んで手術を施し、脳データを取得後遺体を返却する。そのための書類を整えるよう今井に指示をして、薪は長野に残った。
青木は航空機免許を持っている。民間の運転手を雇うより経費はかからなくて済むし、遺体の搬送も手伝わせることができる。この局面には便利な部下だ。
薪の熱意のこもった説得に老夫婦は折れ、MRI捜査への協力を承諾してくれた。ただし、周囲の人々に第九に脳を提供したことが分からないように、というのがその条件だった。
薪は自分たちの身分を隠すことを約束し、ヘリも周囲の住民に気付かれないよう、この村落から30キロほど離れた市立病院に着陸させることにした。
青木が薪の泊まっているホテルに到着したのは、今から1時間ほど前のことである。
朝一番で警視庁機動隊のヘリを借り受け、安曇市立病院の中庭に降り立った。遺体の運搬のため病院のバンを借りて、2人分の白衣も用意してきている。遺体を運び出す際に、病院関係者を装うためだ。
いま、ふたりの後をついてきているのはホテルの従業員だ。
この時期、この地方は大勢訪れるスキー客と観光客とでなかなかの賑わいを見せる。その客数に対応するため、ホテルは臨時雇いの従業員を多数募集する。その臨時職員の中には、老夫婦の住む村落出身者もいる。薪が老夫婦の家に行ったことは、すでに村中に知れ渡っている。田舎の噂話の伝播速度は、テレビのニュース速報並みだ。
都会に出て行った娘が殺されるという悲劇に見舞われた老夫婦の元に、テレビでも見たことのないような美しい青年が訪ねてきた。いったい、どういう関係なのだろう。娘の会社の同僚か、それとも恋人だろうか。
田舎の楽しみは噂話。薪はここに来てからずっとだれかに見られている。
別に悪意を持たれている訳ではなく、単なる好奇心なのだが、それでも自分たちの身分を明らかにするわけにはいかない。雪見にかこつけてホテルを出てきたのはそのためだ。
後ろの男はまだ着いて来る。ここはもう一芝居必要らしい。青木はわざと声を張り上げて、薪の背中に話しかけた。
「ホテルの人に聞いたんですけど、ここから5キロくらいの奥平ってところに、猿が来る温泉があるみたいですよ」
「本当か? それは是非、行ってみないとな」
「そういうと思って。車のキーを持ってきました」
「よし、でかした! さあ、行くぞ!」
温泉にはしゃぐ振りをして、薪が雪の中を走り始める。青木が慌ててその後を追う。
「そんなに走らなくても温泉は逃げませんよ」
「温泉は逃げなくても、猿は逃げるかもしれないだろ」
なんだかおかしな理屈だが、もちろん尾行者を撒くためだ。
ホテルから駐車場までは約3キロの距離がある。フロントに言えばホテルの車で送ってくれるのだが、この外出はお忍びである。徒歩で行くしかないのだ。
薪は陸上選手のように走っている。そのスピードに青木はついていけない。後方の男は尾行を諦めたようだ。
すっかり息のあがってしまった青木を、一足先に駐車場に着いた薪が待っている。手に腰を当てて、余裕綽々といった表情だ。相変わらずの持久力である。
「す、すいません。遅くなって」
「ふん。3キロは走れるようになったみたいだな」
以前、薪と一緒にジョギングをしたとき、青木は2キロも走らずにへばってしまった。その時に体を鍛えるよう薪に言われて、青木も少しずつではあるがトレーニングを始めていた。薪や岡部のようにハイペースというわけにはいかないが、なんとか10キロを完走できるようになった。薪には内緒だが、岡部について柔道も習っている。どういう理由からか、岡部は青木を心身ともに鍛えたがっているようだ。
車に乗り込み、目的の家を地図で確認する。この辺りはナビも役に立たない。とにかく田舎なのだ。携帯も圏外だし、インターネットも使えない。原始的だが、ここでは地図に頼るしかない。
その村落までは、20キロほどの道のりだ。薪は一度説得のために目的の家を訪れているが、運転していたのは今井である。ろくに目印もない田舎道で道順を覚えているとは思えない。だから半分ほど進んだところで、薪がルートに異議を唱えてきたとき、青木はとても驚いた。
「おまえ、道が違うんじゃないのか」
「え? 薪さん、道わかるんですか?」
「これは安曇村に向かう道だろ」
覚えているらしい。薪の記憶力は、相変わらず人間離れしている。
「第一、とっくに5キロは過ぎてるぞ」
「は? 5キロってなんですか?」
「なんですかって、猿の温泉に行くんじゃなかったのか?」
……本気にしてたんですか?
薪は青木の膝の上から地図を取り、ナビゲート役を買って出た。
「次の分かれ道を左に曲がれば奥平に行けるぞ。ほら、あのお地蔵様の先だ」
田舎道でよく見かける石地蔵を指差して、薪は明らかにうきうきしている。
……しまった。
風呂好きの薪に温泉という言葉は、サルにバナナをチラつかせるようなものだ。
そのバナナが皮だけで中身がなかったら、騙されたと知った猿は、間違いなく青木に襲い掛かってくるだろう。
いかにして薪を怒らせずにこの場を切り抜けるか―――― 第九の捜査官になって2年。青木はいま、最大の難問に頭を悩ませていた。
事件も起きない割に、ひたすら長いです。
このお話の時期は、2061年の10月。
『岡部警部の憂鬱Ⅱ』の後に入るお話です。
なので、薪さんの気持ちがバックしてます。この時点では、まだふたりは恋人同士ではありません。
この後に、『鋼のこころ』の後半が入り、『ラストクリスマス』が入り、『竹内警視の受難』が入るわけです。その後、ラストカットの後編に続きます。
前編と後編の間が半年くらい空いているので、そういう流れになります。
ご了承ください。
ラストカット 前編(1)
真白い風花が白銀色の空から落ちてきたのは、ホテルの遅い朝食を摂り終えたころだった。
今年初めて見る雪は、日本という国の湿度の高さを証明するかのような大きな牡丹雪で、ふわりふわりと花びらのように、至極ゆっくりと落ちてきた。
食後のコーヒーを飲みながら、青木は珍しい風景を楽しんでいる。
季節のうちでは春が一番好きな青木だが、冬は冬にしかない美しさがある。雪や霜や氷の世界などは、この時期でなければ見ることができない。いま目前に広がる雪景色は、ことのほか美しく見える。
それは向かいの席でコーヒーを飲んでいる、きれいな横顔のおかげだ。
亜麻色の大きな瞳に、舞い落ちる雪のかけらを取り込んで、うっとりと微笑む美貌のひと。
人間を相手にするときは皮肉な形に歪められることが多いつややかなくちびるは、自然の美しさに対しては素直な賞賛の笑みを浮かべる。今まで彼の賞賛を受ける僥倖に浴したのものは、咲き乱れる夜桜であったり、すべてを金色に染め替える夕陽であったりしたが、今日はこの雪景色にその幸運が訪れたようだ。
舞い落ちてくる雪にも負けない白い肌が清雅に映えるそのひとは、名を薪という。
青木が勤める研究室の室長で、直属の上司に当たる。下の名前は剛。顔も身体も小作りで華奢で儚くて、名前負けの見本のような外見をしているが、一皮むけば泣く子も黙る鬼の室長と職員たちから恐れられている。
国家公務員Ⅰ種試験を優秀な成績で合格したキャリアで、階級は警視正。まったく見かけからは想像もつかない。外見と中身のギャップが激しいのが薪の特徴である。
その落差は警視正という肩書きや、他に追随を許さない優秀な推理能力といった仕事関係のことだけにおさまらない。性格や習慣や食べ物の好みまで、とにかく自分の華人たる外見を裏切ることに全てをかけているかのような薪の言動は、青木を思わず微笑ませる。
今だってそうだ。
空を見上げて、亜麻色の頭をあちこちに動かしている。手元がお留守になっているから、コーヒーカップが傾いて中身がこぼれそうだ。
しかしここで「雪が珍しいんですか?」とか「コーヒーがこぼれそうですよ」などと、相手の子供っぽい仕草を揶揄するようなことを言ったら、大変なことになる。表に降っている静かな牡丹雪など比較にならない、雪嵐(ブリザード)が青木を襲うことになる。
薪の機嫌は、秋の空のようにころころ変わる。天候を崩さない為には、細心の注意が必要なのだ。
こういう場合の薪の取り扱いは、下記の通りだ。
「わあ。降ってきましたね。雪っていいですよね。なんかワクワクしちゃいますよね」
青木がわざと弾んだ声を出すと、薪はバカにしたような顔で大人の意見を吐く。
「雪ぐらいでなんだ。子供か、おまえは」
ことさら冷たい口調で青木を嗜めるが、薪の目は外の風景に釘付けだ。尻のすわりも悪く、椅子の上でもぞもぞしている。外に出たいのだ。
「滅多と見られないじゃないですか。こういうのは楽しまないと損ですよ。これ、飲み終わったら外に行きましょうよ」
「この雪の中をか? バカじゃないのか」
「オレ、九州の生まれだから、あまり雪を見たことがないんです」
嘘である。
たしかに青木は九州の生まれだが、福岡は北九州なので雪は珍しくない。都市化が進んだ東京よりも多いくらいだ。しかし、尤もらしい理由をつけると、薪は納得しやすくなる。だからこれは嘘も方便というやつで、きっと神様も許してくれる。
「お願いです。付き合ってください」
「ったく、お子様はこれだから。しょうがないな」
面倒くさいな、寒いのは苦手なんだよな、と言いつつ、薪はすでにマフラーと手袋を身につけている。行く気マンマンである。
さも雪に興味がある振りをして、薪よりも自分のほうが精神的に子供であることをさりげなくアピールする。そうすると薪は自分が青木よりも大人だという優越感を味わいつつ、年下の我儘に仕方なく付き合うというポーズをとることができる。
とにかく、薪が優位に立てるように場の雰囲気を持っていくことが、このひとの機嫌を損ねないコツなのだ。まったくもって疲れる上司である。
「行くならさっさとしろ。僕は読みたい本があるんだ」
「はい」
雪の中を薪について歩き出す。
厚いコートのフードを被って弾むように歩く薪の姿は、まるで少年のようだ。本当にかわいらしい。
仕事中のあの冷徹な室長と、同一人物とは思えない。この二面性がまた、青木にとってはたまらない魅力なのだが。
そしてもちろん、この怜悧な頭脳も薪の大きな魅力である。
「青木。気がついてるか?」
「はい。着いてきてますね」
ふたりがホテルの庭に出ると、ひとりの男が後ろから同じ方向に歩いてくる。青木たちと同じように雪に誘われて出てきたような素振りをしているが、視線は雪ではなくこちらに向けられたままだ。
「やっぱりマークされてるみたいだな。情報が洩れたかな」
「だから夫婦ってことで、カモフラージュしときゃよかったんですよ」
「絶対にいやだ。もう女装はこりごりだ」
女装などしなくても、ユニセックスな服を着て女言葉さえ使えば完璧なのに、と喉まで出かかった言葉をぐっと堪える。不用意にそんなことを言おうものなら―――― 想像するも恐ろしい。
「でも、薪さんとオレとじゃ全然似てないし。兄弟はムリですよ」
「そんなことないだろ。年の離れた兄弟ってことで。もちろん、僕のほうが兄貴だぞ」
「そこがいちばん不自然なんですよね」
「なんか言ったか?」
「いえ」
当たり前のことだが、ここへは仕事で来ている。
長野で起こった殺人事件のMRI捜査のために遺体を引き取りに来たのだが、遺族のたっての望みで、ふたりが第九の職員であることを隠している。遺体から脳を抜き取るなど、死者を冒涜する行為だと周囲の人々から責められる、というのがその理由である。
世間ではまだまだMRI捜査に対する偏見が多い。田舎に行くほどその傾向は顕著に現れるようだ。この地方にはまだ遺体を土葬する習慣が残っていて、亡骸を焼いてお骨にすることは死者の怒りに触れる行為だと信じられている。そんな風習の残る地方でMRI捜査に協力してくれた老夫婦の理解の陰には、薪の熱心な説得があった。
昨日の午後。
薪は部下の今井と共に車で老夫婦の家を訪問し、当然のように門前払いを食らわされた。
その時点で今井を帰らせ、薪は単身で説得に当たることにした。矢面に立つのは室長である自分の仕事だし、第九は万年人手不足だ。
『後は僕に任せろ。手筈が整ったら、青木をヘリでここに寄越せ。一刻を争うことになるかもしれない』
土葬の風習が残る地方だから遺体が焼かれてしまうことはないが、MRI捜査にかけるには死亡から4日以内に脳を取り出すか、冷凍保存をかけておく必要がある。被害者は死亡から既に2日が経過している。あと2日以内に病院で処置をしなければ、情報を得ることはできなくなる。
説得が成功したとしても、この村落には脳を抜き取る手術ができる病院がない。遺体ごと東京までヘリで運んで手術を施し、脳データを取得後遺体を返却する。そのための書類を整えるよう今井に指示をして、薪は長野に残った。
青木は航空機免許を持っている。民間の運転手を雇うより経費はかからなくて済むし、遺体の搬送も手伝わせることができる。この局面には便利な部下だ。
薪の熱意のこもった説得に老夫婦は折れ、MRI捜査への協力を承諾してくれた。ただし、周囲の人々に第九に脳を提供したことが分からないように、というのがその条件だった。
薪は自分たちの身分を隠すことを約束し、ヘリも周囲の住民に気付かれないよう、この村落から30キロほど離れた市立病院に着陸させることにした。
青木が薪の泊まっているホテルに到着したのは、今から1時間ほど前のことである。
朝一番で警視庁機動隊のヘリを借り受け、安曇市立病院の中庭に降り立った。遺体の運搬のため病院のバンを借りて、2人分の白衣も用意してきている。遺体を運び出す際に、病院関係者を装うためだ。
いま、ふたりの後をついてきているのはホテルの従業員だ。
この時期、この地方は大勢訪れるスキー客と観光客とでなかなかの賑わいを見せる。その客数に対応するため、ホテルは臨時雇いの従業員を多数募集する。その臨時職員の中には、老夫婦の住む村落出身者もいる。薪が老夫婦の家に行ったことは、すでに村中に知れ渡っている。田舎の噂話の伝播速度は、テレビのニュース速報並みだ。
都会に出て行った娘が殺されるという悲劇に見舞われた老夫婦の元に、テレビでも見たことのないような美しい青年が訪ねてきた。いったい、どういう関係なのだろう。娘の会社の同僚か、それとも恋人だろうか。
田舎の楽しみは噂話。薪はここに来てからずっとだれかに見られている。
別に悪意を持たれている訳ではなく、単なる好奇心なのだが、それでも自分たちの身分を明らかにするわけにはいかない。雪見にかこつけてホテルを出てきたのはそのためだ。
後ろの男はまだ着いて来る。ここはもう一芝居必要らしい。青木はわざと声を張り上げて、薪の背中に話しかけた。
「ホテルの人に聞いたんですけど、ここから5キロくらいの奥平ってところに、猿が来る温泉があるみたいですよ」
「本当か? それは是非、行ってみないとな」
「そういうと思って。車のキーを持ってきました」
「よし、でかした! さあ、行くぞ!」
温泉にはしゃぐ振りをして、薪が雪の中を走り始める。青木が慌ててその後を追う。
「そんなに走らなくても温泉は逃げませんよ」
「温泉は逃げなくても、猿は逃げるかもしれないだろ」
なんだかおかしな理屈だが、もちろん尾行者を撒くためだ。
ホテルから駐車場までは約3キロの距離がある。フロントに言えばホテルの車で送ってくれるのだが、この外出はお忍びである。徒歩で行くしかないのだ。
薪は陸上選手のように走っている。そのスピードに青木はついていけない。後方の男は尾行を諦めたようだ。
すっかり息のあがってしまった青木を、一足先に駐車場に着いた薪が待っている。手に腰を当てて、余裕綽々といった表情だ。相変わらずの持久力である。
「す、すいません。遅くなって」
「ふん。3キロは走れるようになったみたいだな」
以前、薪と一緒にジョギングをしたとき、青木は2キロも走らずにへばってしまった。その時に体を鍛えるよう薪に言われて、青木も少しずつではあるがトレーニングを始めていた。薪や岡部のようにハイペースというわけにはいかないが、なんとか10キロを完走できるようになった。薪には内緒だが、岡部について柔道も習っている。どういう理由からか、岡部は青木を心身ともに鍛えたがっているようだ。
車に乗り込み、目的の家を地図で確認する。この辺りはナビも役に立たない。とにかく田舎なのだ。携帯も圏外だし、インターネットも使えない。原始的だが、ここでは地図に頼るしかない。
その村落までは、20キロほどの道のりだ。薪は一度説得のために目的の家を訪れているが、運転していたのは今井である。ろくに目印もない田舎道で道順を覚えているとは思えない。だから半分ほど進んだところで、薪がルートに異議を唱えてきたとき、青木はとても驚いた。
「おまえ、道が違うんじゃないのか」
「え? 薪さん、道わかるんですか?」
「これは安曇村に向かう道だろ」
覚えているらしい。薪の記憶力は、相変わらず人間離れしている。
「第一、とっくに5キロは過ぎてるぞ」
「は? 5キロってなんですか?」
「なんですかって、猿の温泉に行くんじゃなかったのか?」
……本気にしてたんですか?
薪は青木の膝の上から地図を取り、ナビゲート役を買って出た。
「次の分かれ道を左に曲がれば奥平に行けるぞ。ほら、あのお地蔵様の先だ」
田舎道でよく見かける石地蔵を指差して、薪は明らかにうきうきしている。
……しまった。
風呂好きの薪に温泉という言葉は、サルにバナナをチラつかせるようなものだ。
そのバナナが皮だけで中身がなかったら、騙されたと知った猿は、間違いなく青木に襲い掛かってくるだろう。
いかにして薪を怒らせずにこの場を切り抜けるか―――― 第九の捜査官になって2年。青木はいま、最大の難問に頭を悩ませていた。
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