ラストカット 後編(1)
「もう一度、長野に行きませんか?」
青木の小旅行の誘いに、薪はしぶしぶ頷いた。その目的が、自分に深く関わっていたからだ。
半年ほど前、ふたりは長野の山中で猛吹雪に遭い、もう少しで死ぬところだった。
MRI捜査のための遺体を搬送中の出来事で、経過時間の関係から遺体を冷凍保存しなければならない状況に追い込まれた彼らは、雪の中に遺体を埋めるという非常手段に出た。その作業の最中、突風で飛ばされてきた巨木が車両に激突し、彼らは降りしきる雪の中で救助を待たなければならなくなった。
吹雪の中で意識を失い、死を覚悟した薪だったが、青木の機転により九死に一生を得た。青木は道端の石地蔵で車のリアガラスを割り、気絶した薪の体を棺の中に避難させたのだ。
壊してしまった石地蔵と同じものが出来上がったので、それを元の位置に祀って来るという。青木が勝手にやったことだが、自分を助けるために行ったことであるし、きちんと礼を述べて拝んでくるのが人間として正しい行動だろう。
せっかくの休日だが、仕方ない。人として部下の見本になるように努めるのも、上司の仕事だ。
季節は変わり、街はすっかり春の気配に包まれている。
桜前線も訪れて、先週第九でも職員総出で夜桜見物をしたばかりだ。もちろん薪は行かなかったが、場所は青木のアパートの正面にある例の公園だったと聞いている。あそこの桜は一昨年前から見ているが、実に見事なものだった。今年も1度くらいは見ておきたい。
そう思って、薪は青木の家まで出向くことにした。
約束の時間より早めに行って、公園をぶらつく。桜はすでに満開だ。
とても美しかったのだが、休日の公園は人出が多く、昼間だというのにすでに酩酊している輩もいて、ゆっくり散策を楽しむどころではなかった。
子供の金切り声と酔っ払いの笑い声に辟易しながら、薪は公園を素通りした。
いまここに、花を愛でているものなど存在するのだろうか。もっとも花見の目的は花だけではない。仲間と過ごす楽しい時間こそが、彼らの本当の目的なのだろう。青木のように、料理が目当てという意地汚い奴もいるが。
「おはようございます。今日はお付き合い頂いて、ありがとうございます」
「おはよう」
時間よりはだいぶ早かったのだが、青木は公園の出口で薪を待っていた。
青木の部屋からはこの公園が丸見えだ。窓から薪の姿に気が付いて、出てきたのだろう。
ふたりとも春の出立ちだが、手には冬のコートを持っている。
長野は春の訪れが遅い。特にあの地方は、まだ雪がたくさん残っている。荷物にはなるが、準備は必要である。
霞ヶ関の駅で、薪は青木から電車の切符を渡された。旅費は自分で出すつもりでいたが、律儀な部下は薪の分まであらかじめ切符を購入していたらしい。
しかし、その切符の目的地がいささかおかしい。
「なんで横浜なんだ?」
「ここが一番近いヘリポートなんです」
「ヘリポート?」
長野に行くために、わざわざヘリを調達したのだろうか。電車で充分用が足りるのに、それは無駄遣いというものだ。
「なんでヘリなんか借りたんだ? もったいない」
「今日はオレ、かけてますから」
「なにを?」
青木はにっこり笑って薪の口を封じる。この疑問に答えてくれる気はないようだ。
ここ最近、青木は少しおかしい。
長野から帰って来た頃からだ。口数が減った気がするし、いくらか元気がないようだ。
だが、仕事はこれまで以上に頑張っている。薪が帰ったあとも研究室に残って自己学習をしているようだし、宇野について特別なMRI画像の引き出し方なども学んでいるようだ。
さらには、身体的な鍛錬も積んでいるらしい。
よく岡部と一緒に道場へ行っているし、警視庁のジムも利用しているようだ。何故か薪には秘密にしたいらしいが、そんなことは先刻お見通しである。
青木の努力を、薪は見守るつもりでいる。
男というものは、こうしてがむしゃらに自分を鍛える時期があるものだ。
薪も捜一に入ったばかりの頃は、必死でトレーニングに明け暮れた。周りの体力についていけなかったからだ。柔道だけは雪子に習っていたから、現場ではまったくの役立たずというわけでもなかったのだが、負けず嫌いの薪は何事においても人より優位に立ちたかった。そのためには自分の能力を高めるしかない。薪はずっと陰で努力してきたのだ。
他人が言うように、自分は天才などではない。ただ、努力を続けられる才能があるだけだ。
薪自身はそんなふうに自分の能力を評価しているのだが、やはりその頭脳だけは生まれつき飛び抜けている。そこに努力が加わって、昇格試験の最高得点やら最年少警視正昇任やらの記録を塗り替えてきたのだが、今のところ薪の快進撃は停滞している。本人は打ち止めだとさえ思っているが、薪の実力を知る者たちは、こぞってその復活を願っている。
あれだけの才能を、埋もれさせるのはもったいない。
第九の職員をはじめ、所長の田城や官房長の小野田まで、薪に警視長の昇格試験を受けるよう説得を試みているのだが、本人はどうしても首を縦に振らない。
それはさておき、今日は絶好のフライト日和だった。
澄み渡った空に暖かい太陽。空からの眺めは素晴らしかった。
「薪さん、見えます? この下、オレのアパートですよ」
喧騒に気を削がれて、先刻は見る気にもならなかった桜が、ピンク色の絨毯のように眼下に広がっている。人々の姿はとても小さくて、まるで蟻のようだ。
「空から花見をするのは初めてだな」
「そこにクーラーボックスがあるでしょう? 中に薪さんの好きなものが入ってますよ」
「お、綾紫。わざわざ銀座まで買いに行ったのか?」
薪の一番好きな酒は、京都伏見の『綾紫』という吟醸酒である。一般の酒屋では取り扱いがない酒で、会員限定の通信販売か銀座の専門店まで行かないと手に入らない。値段もいいから薪も特別な日でないと開けないのだが、この素晴らしい眺望には相応しい酒だ。
クーラーボックスには保冷材がたくさん入っており、吟醸酒は薪の好みに良く冷えていた。つまみもちゃんと用意されていて、薪の好きな貝柱とあたりめ、ピーナツ抜きの柿の種。至れり尽くせりという感じだ。
薪は紙袋の中から柿の種だけを取り出すと、後は元に戻してクーラーボックスの蓋を閉めた。袋を開けてカリカリと食べ始める。
「あれ? 飲まないんですか?」
「だっておまえ、操縦で飲めないだろ?」
「オレはいいですよ。それは薪さんのために」
手を伸ばして、運転手の口にいくつか放り込んでやる。せっかくの美しい風景に、言葉は要らない。
薪の気持ちを察したのか、青木は黙ってヘリの操縦に集中した。