恋人のセオリー その1

 こんにちは。
 先日、みなさまに押していただいた拍手の数が7000を超えました。
 どうもありがとうございます!! 
 本当に、いつもいつも気遣っていただいて、そのお気持ちがうれしいです。

 7千のお礼は、次点の『楽園にて』です。
 バカオロカなわたしのミスで、6千のお礼より先に公開することになると思います。(ううう、ホントにごめんなさい)
 すずまきさんのRなので、苦手な方にはごめんなさいです。
 よろしくお願いします。
 



 それで、こちらのお話ですが。
『運命のひと』のあとには『言えない理由』というお話を公開する予定だったのですが、内容的に暗いお話が続くとめげるので、間に息抜きしていただこうかと。
 
 最近書いたお話で、本編からは少しズレた話になってます。
 そのため、『男爵の華麗なる日々』(笑)というカテゴリを作ってみました。こちら、うちの薪さんのカンチガイが全開のR系ギャグになっております。
 なんですかね、暗い話を書いた後というのは、ギャグが書きたくなるんですよ。で、その後はまた痛い話が書きたくなると。その繰り返しです。
 つまり、うちのお話はギャグとSの連鎖ってことですね!(なんて邪道なSS……)
 

 すみません、どうかよしなにお願いします。






恋人のセオリー その1








 まだ科学捜査というものが存在しない時代、推理だけで犯人を追い詰める名探偵という存在が脚光を浴びていた。
 それは主に小説や映画の中のことだったが、彼らの快刀乱麻の活躍ぶりは読者の胸をスカッとさせ、現実にはありえないと解っていても手に汗を握り、狡猾な犯人と探偵の知恵比べを楽しんだものだ。
 206X年の現代においてもその人気は根強く、レンタルショップにはずらりと推理活劇のDVDが並ぶ。科学捜査をまったく無視した犯罪捜査は、専門知識を持たないものでも楽しめる、という利点もある。逆に、科学捜査に詳しい人間の目には、完全なファンタジーとして映るのだ。

 そんなわけで、ここにもコアな名探偵ファンがひとり。
 今夜の主役は灰色の脳細胞を持った小柄な紳士。英国の偉大なる女流作家が生み出した、お洒落なヒゲがチャームポイントの名探偵だ。
 秋の夜長のお供にと淹れてきたコーヒーをローテーブルの上に置いて、青木は恋人の隣に腰を降ろす。リモコンを片手に青木が来るのを待っていた恋人は、何故かさっと席を立った。
 
 菓子でも取りに行くつもりだろうか、と彼の様子を見ていると、空いている方の手でマグカップを持ち、青木の膝の上にストンと腰を降ろした。
「……あの?」
 なんだろう。
 新しい嫌がらせか?視聴のジャマをしたいのか?それとも、自分の重さで青木の足を痺れさせようという魂胆だろうか。

「何してるんですか?」
 青木が聞くと、薪はふふんと笑って、子供が新しく得た知識を母親に披露する時のような自慢げな顔つきになった。
「恋人同士ってのは、テレビを見るときはこうするもんだろ?」

 呆気に取られる青木の上で、薪はリモコンの再生ボタンを押した。
 こんな都合のいい法則をいったい誰に教わったんだろう、と考えるまでもない。40年近い人生の中で、薪がこれまでに恋人と呼んだのはたったひとり。そのひとに刷り込まれたに違いない。
 でも、薪の方からくっついてくれるのはとても嬉しいから、その間違いを正すのも惜しい。だから青木は、黙って後ろから薪を抱きしめる。百合の香がほのかに漂う首筋に鼻先を埋め、短い髪の先端がさらさらと目蓋をくすぐる感触を楽しむ。

「おまえ、それで画面が見えるのか?」
 小さな貝殻のような外耳の形に添ってくちびるを運び、耳朶を軽く挟む。くすぐったそうに肩を竦めて、薪は後ろを振り向いた。
「やめろ。集中できない」
 そんなことを言われても。
 こうやって密着していたら、自然にそうなってしまうと思うが、鈴木とは違ったのだろうか。
「ったく、おまえって」
 ムッとくちびるを尖らせていた薪の顔が、不意に驚きの表情に変わった。青木の腕を振りほどいて、跳ぶように立ち上がる。
 青木の身体の一部分の変化に目を瞠ると、薪は心底不思議そうな表情で叫んだ。
 
「なんでそんなことになってんだ!?」
 だって……薪さんとくっついてたら、自然に……。

「僕、やっぱりおまえとは付き合えないかもしれない」
「どうしてですか!?」
「だって、テレビを見るたびにそんなことになってたら、とても身体がもたない。僕はもう若くないし」
「大丈夫です、我慢しますから」
「我慢させるのもイヤなんだよな」
 どうしろというのだろう。生理現象を理性で抑え込め、というのだろうか。それとも自分と会う前には5回くらいヌイてこいと? ……例えそれが役に立たなくても、薪のからだに触れたら平静でいられる自信がない自分が悲しい。

 というか、テレビを見るときには恋人に後ろから抱きしめてもらう(あるいは抱きしめる)、という思い込みのほうが間違っているのだが。しかし、それを指摘しても多分、無駄だ。「青二才はこれだから」とか、尤もらしい顔で頷かれた挙句、鈴木とのノロケ話を聞かされるのがオチだ。その話は青木にとってとても不愉快だ。できうる限り避けたい。
「じゃあ、こうしましょう。薪さんのセオリーをちょっと曲げてもらって、テレビを見るときには手をつなぐ、ってことで。それならオレだってやばくならないし」
「手をつなぐのは眠るときだろ?」
 ……鈴木さんとは手をつないで寝てたんだ。ふうーん……。
 いや、めげない。今の恋人は自分だ。

「でも、泊まれることって滅多とないから」
 そんな理由に基づく青木の提案を、薪は軽く頭を振って受け入れてくれた。
 薪は、青木がこの部屋に泊ることを許してくれない。何か特別な日――例えば、誕生日とか記念日とか、そういうときでもないと、朝まで一緒にいさせてくれない。
 人生の中心に仕事がある薪の考え方は、プライベートは明日の職務に響かないように、というのが基本だ。よって、平日のデートは10時まで。まるで高校生だ。

 恋人として過ごすことに決めている土曜の夜も、付き合い始めの数ヶ月は翌日薪の世話をするために泊り込んでいたのだが、あの夏以来泊らせてくれなくなった。薪はその理由を、「頻繁に相手の家に泊るなんて。そんなけじめのつかない付き合いは嫌だ」とこじつけていたが。
 薪が何を心配して自分に帰れと言うのかは、ちゃんと分かっている。「タクシー代は僕が出してやるから、さっさと帰れ」という憎まれ口の裏に隠れた薪の懸念を思うと、それ以上は食い下がれない。

 夢の中まではコントロールできない。そういうことだ。

 しかし、薪に関しては独占欲の塊のような青木が、「死んだひとには勝てない」と素直に白旗を上げるとでも思ったら大間違いだ。
 それは辛い現実だが、こうして薪と過ごしている自分も確かな現実だ。夢の中でしか薪を抱けない男になんか、負けてたまるか。
 鈴木の時とは違うセオリーを、これからふたりで作って行きたい。これはその第一歩だ。

「次からはそうすることにして……すみません、今日のこれだけは、処理してもらっていいですか?」
 薪は秀麗な眉を顰めると、右手を額に当てて、これ見よがしにため息を吐いた。



 *****




 薪が鈴木に教え込まれた恋人のセオリーは、他にもたくさんある。
 20年近い年月が流れた今でも、それを細かく覚えているのは、薪が彼のことをどれだけ愛していたかの証明だ。青木にとって、その事実はとても腹立たしい。

 特に、ベッドの中のことは頭に来る。
 青木が何かするたびに、「鈴木はそんなことしなかった」「鈴木はこうだった」と言われると、ものすごく哀しくなる。もちろん、薪はいちいち鈴木の名前を冠したりはせず、一般論として言うのだが、薪の過去を知る身にはそういう風に聞こえてしまう。
 例えば、寝室以外の場所で行為に及ぼうとしたとき。体位もあまり変わったものは好まず、立位や騎馬位は断固拒否。もっと細かく言うと、前戯の際に行うあれやこれや。とにかく、薪は不平が多い。

 薪がベッドの中で発する一番多い台詞といったら、これだ。
『普通はそんなことしない』
 普通って、なんですか?
 鈴木さんとのセックスを基準にオレを否定するの、やめてもらえないですか?

 何度も口まで出かかった言葉を、青木は今日も飲み込む。飲み込んで、聞こえないフリで行為に没頭する。
 しかし、青木がいくら愛撫に熱を込めても、薪の反応は薄かった。
 嫌だとも止めろとも言わないが、薪が今夜の交歓を望んでいないことは分かる。白く浮かび上がるような肌から伝わってくるのは、諦観とため息。
 青木はまるで、人形を抱いているような気分になる。

「そんなに嫌ですか?」
 穏やかに目を閉じた薪の静かさに、青木の胸が冷たくなる。からだはこんなに熱くなっているのに、心臓だけが凍ってしまったようだ。
「薪さん、オレとこういうことするの、そんなに嫌ですか?」
 気乗りしない薪の様子が、そのまま彼の本音を現しているような気がして、青木は激しい不安に駆られる。
 薪は今は自分の恋人だけど、心の底ではまだ鈴木のことを想っているのかもしれない。自宅の机の引き出しの奥に鈴木の写真をこっそりと忍ばせていることも、それを薪が夜中に見ていることも、青木は知っている。

「そんなことないけど」
 薪は目を開けて、青木の顔を亜麻色の瞳に映した。青木の困惑が伝染したかのように、薪の穏やかだった顔に不安が浮かぶ。
 薪さんの反応が薄いのは、オレのこと好きじゃないからですか? 相手が鈴木さんなら、ちゃんと感じるんですか?
 そう言いたいのを堪えて、青木は言葉を選んだ。

「これまでオレの誘いを断ったこと、一度もないですよね。でも、年齢的なことを考えても仕事のことを考えても、薪さんだってしたくないときはあるはずでしょう? 実際、ぜんぜんダメなときだってありましたよね。
 今夜だって、本当は嫌だったんでしょう?」
「だって、恋人だから」
 恋人はベッドの誘いを断わらない、というセオリーがあったとみえる。

 薪はうつむいて、申し訳なさそうに目蓋を伏せる。弱気に眉を下げて、長い睫毛を震わせる。つややかなくちびるをきゅっと噛み、今にも泣き出しそうだ。
 ベッドの中で、恋人にこんな表情をさせてしまうなんて。青木は自分の身勝手な行動を恥じ、それを埋め合わせようとにっこり笑った。

「体調が悪いときとか、その気にならないときは、正直に言ってくれていいんですよ。オレだって、無理強いしてるみたいで嫌だし」
「そうなのか?」
 薪はぱっと顔を上げると、驚いたように青木を見た。
 青木が頷くと、幼い顔に笑顔を浮かべ、子供が母親におやつをねだるような口調で言った。

「じゃあ、3ヶ月に1ぺんくらいでいいか?」
「えっ!?」
「僕にはそれくらいが丁度いいんだ」
 3ヶ月に1ぺんて……季節ごとのタンスの整理じゃあるまいし……。
「この次は1月13日だな? 忘れないように、手帳に書いておくから」
 いや、そんな仕事の予定みたいに。
「ああ、これから夜が楽しくなるな。今までは夕方になると憂鬱でさ。そうだ、今度から土曜の夜はナイトサファリに行こう。ライオンとかトラとか、夜行性の動物が活動してるところが見られるぞ。楽しみだなっ」

 ……忘れてた。
 薪は極端に性欲が薄いのだ。きっと若い頃からこの調子だったのだろう。鈴木の作ったセオリーは、自分から求めてくれない淡白な恋人に対する苦肉の策だったに違いない。
 「じゃ、今日の分はさっさと終わらせて、映画のつづきを観よう。ショートで頼むぞ」
 本当にエッチが嫌いなんですね……。
 目を閉じて横を向く薪のきれいな顔が、憎らしくて愛しくて、青木は薪の細い首筋に、しっかりと痕が残るようなキスをした。




 教訓。
 先人の知恵に学べ、もとい、鈴木のセオリーに従え。
 青木は、自分が墓穴を掘ってしまったことを知り、昔の薪の恋人の苦労を垣間見る。
 リビングの机の奥で、鈴木の写真がニヤリと笑ったような気がした。


 (おしまい)




(2009.12)


 

テーマ : 二次創作(BL)
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恋人のセオリー その2

 すみません、これ実は3作ありまして。
 ええ、とってもくだらないお話なんですけど、わたしはこういうグダグダな感じが大好きでして。
 R系のギャグって、癒されるなあって。
 あ、わたしだけですか? すみません。


 その2です、よろしくお願いします。
 薪さんの言動がその1と矛盾してますけど、気にしないでください。
 設定甘くてすみません。 ギャグなんで、大目に見てください。





恋人のセオリー その2







 薪さんはとても不思議な人だ。
 普段はあれだけ我が儘で自己中心的な態度を取るくせに、ベッドの中では一切の不満を口にしない。逆に、どういう風にして欲しいかも言わないから、青木は彼が何を望んでいるのかよくわからない。

 その日、後ろから重なる形で薪の中で動いていた青木は、薪の背中の筋肉が異様に強張っていることに気付いた。ぐっと歯を食いしばり、薪は声ひとつ上げないで耐えているが、それは羞恥心から快楽を抑えると言うよりは、純粋に苦痛に耐えているように感じられた。
「薪さん。もしかして、後ろからされるの、嫌ですか?」
「……正直に言うと、ちょっと」
 やっぱり。好みの体位ではなかったのか。それならそうと、早く言えばいいのに。

「なんで最初に言わないんですか?」
「だって、恋人だから」
 ベッドの中では恋人に逆らわない、というセオリーがあったらしい。

 青木にとってそれは実に都合の良い決まりだったが、このセオリーは薪の昔の恋人が作ったものだ。薪がそんな決まりに従う道理はないし、青木としても新しいセオリーは、薪と話し合ってふたりで作って行きたい。
「嫌だったら、そう言ってくれていいんですよ。なるべく薪さんのご希望に副うようにしますから」
「そうなのか!?」
 薪の驚きに満ちた顔に、青木は嫌な予感を覚える。なんだか、前にもこんなことがあったような。

「じゃあ、僕のセックスの理想を言ってもいいか?」
「理想?」
「抱き合ってキスして、さわって入れる」
 なんてつまらない……いや、シンプルなエッチだろう。

「ここにキスしたりとかは?」
「キスは首から上」
「じゃあ、ここを舐めたりとかは?」
「汚いだろ、そんなことしたら」
「体位は?」
「正常位に限る。でもって、トータルの時間は30分以内、挿入時間は5分以内で」
 時間制限まで?! てか、はやっ!!

「ああ、よかった。これからAVみたいな真似をさせられずに済むんだな。嫌でたまらなかったんだ」
 ほんっとうに、エッチが嫌いなんですね……。
「えっと、今日の分は終わったから、次の予定は4月15日だな」
 やっぱり3ヵ月後なんですね。てか、手帳に書くの、止めてもらえませんか。
 しかも、どうして印が赤十字なんですか? ボランティア?
 
「人事異動で忙しい時期だな。5月に延期してもいいか?」
 ……鈴木さん、助けてください……。
「いや、待てよ。5月は官房室の慰安旅行が……あー、もう、面倒だな。いっそ、盆と正月に限定しないか? それぞれ2回ずつで、1年のトータル数は同じってことで」
 うわああああん!!!

「青木、どうした? おなか痛いのか?」
 ベッドに突っ伏して泣きじゃくる青木の横で、薪はきょとんとした顔で首を傾げた。



 教訓。
 鈴木さんは正しいよ! 何ひとつ間違ってないよ!!


(おしまい)





(2010.1)



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

恋人のセオリー その3

 こんにちは。
 くだらないお話は、これで最後です。

 えっと、わんすけさん。
 このお話、あれです。薪さんがソープ嬢になるお話です。
 わんすけさんにもらったコメに爆笑して、これ、何とかして書けないかしら、と思って書いてみました。
 なので、わんすけさんに捧げます。(^^







恋人のセオリー その3







 夏の昼下がり、青木は腕が痺れるほどの荷物を持って炎天下を歩いていた。

 休日を利用して、薪の家の近くのショッピングモールに買い物に来た。両手いっぱいの荷物は、殆どが薪のものだ。 野菜に果物、肉に魚に調味料。米やミネラルウォーターまで入っている。重いわけだ。
 薪はといえば、青木に荷物を持たせて、自分は小脇に何冊かの本を抱え、悠々と前を歩いている。青木の奴隷生活は今に始まったことではないが、こういう扱いをされると、ちょっとだけ哀しい。薪に荷物を持たせるつもりは毛頭ないが、「大丈夫か」とか「重くないか」とか、気遣うフリくらいして欲しいものだ。
 ちらりとそんなことを思っていると、薪はふと立ち止まり、振り返って青木を見た。

「青木。荷物、重くないか?」
 願望が現実になって、青木は度肝を抜かれる。
 薪はとても優れた捜査官で、これまで幾度となく事件関係者の心情をズバリと言い当ててきた。今も青木の表情や態度から、不満を読んだに違いない。
「大丈夫です、全然平気です」
「そっか」
 青木が快活に返答すると、薪は小首を傾げてにっこりと笑った。
 ああっ、相変わらず天使のように可愛らしい!

 薪のこの笑顔が拝めるなら、腕が痺れるくらいなんでもない。いっそ、薪を背負って歩いてもいい。
「じゃ、これも頼む」
「はい?」
 青木が肩から提げたエコバックの中に自分が抱えていた本の袋を入れると、身軽になった薪は、軽快に走って行ってしまった。さっさと家に帰って、涼む気なのだろう。
 また騙された、と青木が自分の単純さに目眩を感じて俯いているうちに、薪の姿は見えなくなってしまった。せめて一緒に歩いてくれたっていいのに。本当に勝手なんだから、と思いつつも、青木の頬は苦笑に緩む。先刻の薪の笑顔が効いているのだ。

「おまえ、歩くの速いな」
 青木が急ぎ足で歩いていると、後ろから声を掛けられた。自分を置いていったはずの薪の声だ。びっくりして後ろを向くと、薪が両手に百合の花を抱えて立っていた。
 ああ、そういうことか。

「いい匂いですね」
 うん、と薪は軽く頭を振って、その香りがよく解るように青木の鼻先に花束を突き出した。
「百合もいい匂いですけど。薪さんからも、とってもいい匂いがしますよ」
「そんなわけないだろ。こんなに汗かいてるのに。おまえ、一度耳鼻科に診てもらえ」
 薪からは、百合の香がする。最初は百合の移り香だと思っていたが、これはどうやら体臭らしい。普段は嗅ぎ取れないくらい薄いものだが、汗をかいたり興奮したりすると、この匂いが強くなる。

「そうですね、オレも汗だくだし。帰ったら、一緒にシャワー浴びましょうか」
 横断歩道の信号待ちで、隣にいた女子高校生たちに聞こえないよう、青木がこっそりと囁けば、薪は信号のストップランプみたいに赤くなって、百合の花びらに顔を埋めるように、こっくりと頷いた。
 ……かわいいっ。肩車して走って行きたいくらいだっ!

 信号が青に変わり、それに背中を押されるように歩き出す人波の中、周りの誰よりも急く心を抱えて、秘密の恋人たちは静かに白と黒の橋を渡っていった。




*****



 青木が先にシャワーを浴びていると、すりガラスの押し戸を開く音がした。すぐに薪が入ってくるかと思いきや、一向にその気配がない。
 不審に思って振り向けば、薪が入り口に立ったままでモジモジしている。視線を下方に泳がせ、タオルで前を隠している。

 何を躊躇っているのだろう?
 薪と一緒に風呂に入るのは、これが初めてではない。第九の慰安旅行のときも、温泉スパに行ったときも、ふたりで旅行に行ったときも、何度もふたりきりで風呂に入っているのに。

 それに、何だかやけに赤い顔をしている。昼間だから恥ずかしがっているのだろうか。
 いや、そんなはずはない。このひとはいつも、風呂から上がったら素っ裸で部屋の中を歩いている。第一、自分たちは恋人同士だ。明るいところで愛し合ったことも一度や二度ではないのだから、今更恥ずかしがることはないはずだ。
 それなのに。

「薪さん。シャワー空きましたよ。使ってください」
 青木が声を掛けると、薪はぎゅっとくちびるを引き結び、何かを決意したときの形に眉を吊り上げて、青木からシャワーを受け取った。立ったまま身体に温水を浴びると、ボディシャンプーを自分の胸で泡立てた。
 洗い場の椅子はひとつしかないので、それを薪に譲ろうと腰を浮かせた青木は、次の瞬間、心臓が口から飛び出るかと思うほどびっくりした。

 自分の背中にあてがわれた、温かくて心地よいもの。石鹸でぬるぬると滑る彼の胸は、男の欲望をたまらなく煽り立てる動き方で、押し殺された吐息と共に上下の動きを繰り返した。背後から青木の首に絡みついた細い腕は、手のひらに泡立てた石鹸を青木の胸や腹に擦り付けようと忙しく動き、恋人の前半身は青木の背中に密着して淫らに揺れた。
 これは、いわゆるソープごっこ?

 こんなことを薪の方からしてくれたら、じっとしてなんかいられない。青木は薪の腕をほどくと彼の方に向き直り、そのからだを自分の膝の上に抱え上げた。
「あっ、いやだ……」
 薪が寝室以外での行為を嫌がるのは知っているが、今日は薪から仕掛けてきたのだ。いやだ、と言うのは口先だけのことで、本当は待っているに違いない。
 それを証明するように、薪はイヤだと言いながらも青木の首や腰の辺りを手のひらで擦っている。抱きついて、胸と胸を擦り合わせ、ベッドの中でするように膝を使って上下に動いている。
 
 すごくウレシイことをしてくれているのだが、薪の顔が……なんでだろう。ものすごく困っている。自分からしてきたくせに、これはどういうことなのだろう。
「なんか、嫌がってません?」
「正直に言うと、すっごくイヤだ」
 やっぱり。薪の性格からして、絶対に好んでやるとは思わなかった。

「じゃ、どうしてこんなことを?」
「だって、恋人だから」
 風呂の中ではソープ嬢になる、というセオリーが、って、このひとに何を教えてんですか、鈴木さんっ!!!

 薪が恋愛方面に疎いのを良いことに、 自分に都合のいいことばかり教え込んで。あのプライドの高い薪にソープ嬢の真似事をさせるなんて、まったく、羨まし・・・いやいや、見下げ果てたひとだ。
 自分はそんなことはしない。薪の意志を尊重し、薪がいつも笑顔でいられるように、彼が喜ぶセオリーで、これからの未来を自分たちの色に塗り替えていくのだ。

「オレを悦ばせようとしてくれるのは、とってもうれしいですけど。無理しなくてもいいんですよ」
「本当に?」
「ええ。オレは、あなたのその気持ちだけで充分幸せです」
「そうなのか!?」
 パッと笑顔になった薪の顔つきに、青木は嫌な予感を覚える。このパターンって、前にもあったような。

「じゃあ、夏の間は半径1m以内に近付かないでくれるか?」
「はっ!?」
「この季節って、肌が汗ばんでじっとりしてるだろ? 触るのも触られるのも、気持ち悪くってさ」
 ……忘れてた。
 このひとは、こういうひとだった。お互いの汗の匂いで興奮するとか、そういう扇情的なシチュに縁のない人なのだ。

「あのう……1m以内に近づけないということは、手をつなぐのもキスも禁止ということで?」
「別に問題ないだろ? 次の赤十字の予定は11月だし」
 セックスするとき以外、さわれないってこと? てか、やっぱり3ヶ月後!? しかも、赤十字ってなに!?
 完全にボランティア活動になってるよ!!

「ああ、よかった。これで夏の間も快適に過ごせる」
 オレにとっては地獄なんですけど!
 きっと鈴木も似たようなことを言われて、せめて風呂の中くらいは薪とじゃれ合いたくて、こんな無茶苦茶なセオリーを考えたに違いない。

「よおし、これでジャンジャン出かけられるぞ。動物園に水族館に、海もいいなあ。いいよな。1m以上離れてるなら、人目を避ける必要ないもんな」
 1mも離れてたら、間にジャンジャン人が入ってくるんですけど! 人目を避けるどころか、確実にあなたを見失いそうなんですけど!
「はぐれたら困るだろうって? そんなの時間決めて、車で落ち合えばいいだろ」
 もはやそれ、デートって言いませんよね!? ただのドライブですよね!?
「そうだ、岡部も誘おう。雪子さんも。どうせなら、みんなで行った方が楽しいし」
 うええええーーーん!!

「青木、どうした? またおなか痛いのか?」
 大きなからだを丸めてしゃがみ込み、膝に顔を伏せて涙を流す青木を見て、薪は不思議そうに首を傾げた。


 教訓。
  もう二度と、鈴木さんのセオリーには逆らいません。
  悪口言ってごめんなさい、鈴木さん……。



(おしまい)







(2010.1)


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

天国と地獄1 (1)

 9千拍手のお礼です。

 こちら男爵シリーズです。 ギャグです。
 薪さんのカンチガイは最強、青木くんの受難はMAXになってます。 青木さんファンの方にはごめんなさいです。

 なお、こちらのふたりは恋人同士ではありません。 
 青木くん、まだ告白すらできてません。

 本編で言うと『告』以前の状態がずーっと続いてる感じです。 天然薪さんが青木くんを振り回してた、あの辺りですね。 
 思い返せば、あのころが一番楽しかったような。
 丁度、原作の3巻辺りが一番萌えたように、いえその。(^^;

 よろしくお願いします。


 

 



天国と地獄1 (1) 







 ひと目会ったときから、オレは薪さんに恋をした。
 初めはそうとは気付かなかったけれど、後から考えるに、きっとそういうことだったんだろうと思う。

 初めて会ったとき、薪さんは室長室のソファで眠ってた。
 警察に入って、当然のようにむさくるしい男ばっかり見てきたオレにとって、その姿は衝撃的だった。
 抱き枕よろしく分厚い本を抱えて、あどけない顔で眠っていた彼。警視正という肩書きから、自分より10は年上のはずなのに、その寝顔はまるで少年のようで。
 女っぽいとは感じなかったけれど、男のひとだとも思えなかった。

 彼を起こしてくれ、と所長の田城さんに言われたので、オレは恐る恐る薪さんの肩に手を掛けて、彼の身体を揺すった。薪さんの肩はとても華奢で小さくて、オレの手のひらにすっぽりと納まってしまうその頼りなさは、やっぱり男のひととは思えなかった。
 薪さんは目を覚ますと、いきなりオレの手首をびっくりするくらい強く握り締めた。

 大きく瞠った亜麻色の瞳でオレの顔を見て、「ずっと後悔していた」などと意味不明の言葉を重ねた挙句、オレの手首を摑んだまま再び眠ってしまった。
 眠りに戻る直前、長い睫毛の縁に光るものがあったように見えたのは、錯覚だったかもしれない。だけど、歪められた彼の瞳には間違いなく苦悩の色があり、原因は分からなかったが、その苦悩が彼をひどく痛めつけていることだけは理解できた。
 だから、薪さんが新入りのオレに辛く当たった時、この酷薄な言動は彼の本当の気持ちではなく、彼の懊悩が言わせる苦痛の叫びなのだと思った。

 眠りながら涙を浮かべるほどつらいことがあるのに、冷静さを装って職務をこなす。
 彼が必死になればなるほど、その姿は痛々しかった。猟奇犯罪が起きるたびに、自分を追い詰めるように非人間的なスケジュールで事件に挑む彼を見て、いつかぽっきりと折れてしまうのではないかと不安になった。

 オレは、そんな薪さんのことが気になって仕方なかった。不安が募るほどに、薪さんから目が離せなくなった。
 毎日毎日、彼のことを見続けた。彼を見ることができない日は、いまいちやる気がでなかった。お陰で周りの先輩たちからは、「室長がいないと青木はしぼんだ風船のようだ」とからかわれた。

 自分でもおかしいと思っていた。

 どうしてこんなにあのひとのことが気になるのか、その理由がさっぱりわからなかった。まさか男のひとに恋をするなんて、そんな馬鹿げたことが自分の身の上に起こるとは、夢にも思わなかった。あのひとが自分にとって、こんなに重要なひとになるなんて、その頃は予想だにしなかった。

 現在、オレは人生のパートナーを得て、毎日の職務に邁進している。充実した日々を過ごしながらも、当時の出来事は鮮明さを失わず、あの頃を思い出すたびに甘い痛みを覚える。

 これは、そんなオレの昔話だ。



*****



 まとめ上げた報告書をフォルダに保存し、青木は大きく伸びをした。

 昨日の仕事はきつかった。
 回されてきた脳は若い女性ばかりを狙った連続殺人犯のものだったが、怨嗟と狂気のフィルターを何重にも施され、さらに幻覚のラッピングまでされたSクラスの画だった。つまり、最悪ということだ。
 この事件には共犯者の存在が確認され、その画が犯人の脳に残っていた。プリントした共犯者と思しき人物の画を捜査一課に送ったのが、1時間前のことだ。

 徹夜明け、もう何日も寝ていない薪を自宅まで送るように言われて、青木は岡部の顔を見上げた。あの薪が、共犯者の逮捕を待たずに家に帰るなんて、よほど体力の限界にきているのだろうか。
「今、眠ってるから。そーっと運んで自宅のベッドの中に放り込んで来い」
 それは……午睡中のトラをオリに戻せということで?
 たしかに、そうでもしないと薪は休暇を取らない。猟奇事件の続くこの季節、薪の生活空間は、第九の仮眠室と室長室だ。仮眠室で睡眠をとり、仕事をしながら簡単な食事を摂る。そんな毎日がひと月近く続いている。

「あの、途中でもし、薪さんが目を覚まされたら?」
「そのときは、運が悪かったと思って歯を食いしばれ。俺を恨むなよ」
「ええ~……」
 青木がこの役目を仰せつかったのには、理由がある。
 青木は岡部と共に薪の飲み仲間で、彼の自宅への出入りを許されている。薪のマンションの鍵は瞳孔センサー方式で、本人がいないときは管理人に鍵を開けてもらうしか入る手立てがないのだが、この2人なら管理人とも顔なじみなので、事情を話せば鍵を開けてもらえるのだ。

 岡部に促されて室長室へ入ると、薪が執務机に突っ伏して眠っている。頬の下で書類が皺になっており、つまりこれは突発的な眠りだ。薪はいつも限界を超えるまで無理を重ねてしまうから、彼の意思とは関係なく生命維持機能が働いて、身体のほうが勝手に睡眠をとるようになったらしい。
「失礼しまーす」
 一応、声をかけてから薪の身体を持ち上げる。捜査中は食事をしなくなってしまうという困った癖が抜けない薪の身体は、びっくりするくらい軽い。

 薪を抱いてモニタールームを抜けるとき、今井がご苦労さま、と苦笑いした。この複雑な笑みの裏には、何日か前も青木がこうして薪を仮眠室に運ぼうとして、目を覚ました薪に「余計なことをするな」と怒鳴りつけられていた、という目撃事項が関与している。
 同じく徹夜明けで腫れぼったい目をした今井に、青木からはにっこりと笑いかけて、「眠り姫が起きないように祈っていてください」と冗談を言った。

 薪のマンションまでは、車で1時間ほど。
 昔はもっと職場に近いところに住居を構えていたそうだが、あの事件の後、こちらに引っ越したと聞いた。薪が昔どんなところに住んでいたのか、青木は知らない。

 マンションに着いて、再度薪の身体を持ち上げる。今日の眠りは深いらしく、薪はピクリとも動かない。
 管理人に訳を話してドアを開けてもらい、部屋の中に入ると、予想通り悪臭が立ち込めている。黴臭く、饐えた匂い。まったく、何日家に帰ってなかったことやら。

 息を詰めたまま薪を寝室に運んで、ベッドの上に下ろす。ジャケットを脱がし、ネクタイを取ってワイシャツのボタンを二つほど外してやる。ベルトを抜き、靴下を脱がせ、夏用の薄い布団を掛けてやる。
 それから家中の窓を開けて換気をし、リビングと台所の換気扇も回す。キッチンはきれいに片付いていたが、多分、冷蔵庫の中はまた魔窟になっている。時間があれば掃除をしてやりたいところだが、自分はこれから職場に帰らねばならない。
 枯れて腐っていた百合の花の始末をし、青木は薪の様子を見るために寝室へ戻った。

 薪はよく眠っている。
 初めて会ったときにも薪さんは眠っていたな、と昔の記憶が戻ってきて、青木は頬を緩めた。

 その時、ポケットの携帯電話が振動した。着信を見ると、岡部からだ。
 リビングに移動して、携帯電話を耳に当てると、果たして共犯者逮捕の吉報だった。これで幻覚だらけの犯人の脳に、報告書に記載できるような説明が付けられる。
『おまえも今日は休んでいいぞ。そのまま車で家へ帰れ』
 ありがとうございます、お言葉に甘えます、と礼を言った青木は、しかし自分の家に帰る気はさらさらなかった。

「さて、まずは冷蔵庫の掃除だな」



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天国と地獄1 (2)

天国と地獄1 (2)








 薪が目を覚ましたのは、夕方の6時過ぎだった。
 青木がキッチンで夕食を作っているところに、クシャクシャのワイシャツ姿で朦朧としながら歩いてきた。自分がどうしてここにいるのか解っていないような顔つきの薪の第一声は、「ハラへった」だった。

「今、お味噌汁できますから。あ、お風呂も沸いてますよ」
「飢え死にしそうだ。メシが先」
 珍しいこともあるものだ。薪が風呂より食事を優先するなんて。
 ……何日食べてなかったんだろう。

 薪のところで夕食をごちそうになるたびに料理を手伝わされているので、青木も簡単なものなら作れるようになった。
 今日の献立はスズキの刺身と南瓜の煮物。きゅうりとワカメの酢の物に、味噌汁は小松菜と玉ねぎと油揚げ。刺身には、すりおろした生姜がたっぷりと添えてある。薪はワサビが苦手なのだ。

「あ~、五臓六腑に染み渡る。味噌汁は日本人の魂だよな」
 顔に似合わない薪の台詞に、青木は思わず噴き出してしまう。
「なにが可笑しいんだ」
「いえ、別に」
 ビスクドールみたいな顔をして、そんなことを言われても。

 刺身に箸をつける薪に、青木は岡部からの伝言を報せる。事件のことが気になっているだろうと思ったのだが、薪は既にその情報を得ていた。
「携帯にメールが入ってた」
 なるほど。夕方まで寝ていたわけだ。
 事件が片付けば食欲も起こるらしく、薪は二杯目のごはんを茶碗によそった。

「共犯者は、やっぱり女性だったんですね」
「うん。相手が女性だと思えば、気を許してついていくのも無理はないからな」
「薪さんが睨んだ通りでしたね」
「ていうか、おまえ以外の全員が解ってたぞ?」
 事件が絡むと、薪の口は途端に辛辣になる。
「若い女性が、あんな中年オヤジに騙されるのは不自然だろ。連れ込まれるときに抵抗した痕跡がないんだから、共犯者が誘い込んでた、と考えるのが当たり前だ。気付かないおまえがバカだ」
「……食事のときに、仕事の話は止しましょうよ」
 せっかくの薪と二人きりの食事が、不味くなってしまう。
 青木がおずおずと、しかしパッキリと話の腰を折ると、薪は酢の物の酸っぱさに顔をしかめる振りをして、苦笑してくれた。

 それからは仕事の話はせずに、定例会の時のように取るに足らない四方山話に興じた。
 小池が彼女と縁りを戻そうとして見事失敗した話や、宇野が開発しためちゃめちゃ重い負荷テスト用のプログラムのこと、岡部の弁当に入っていたケシズミのような卵焼きのことなど、どうでもいいことをルーズな口調でうだうだと話した。
 そうこうするうちに、料理の皿がほぼ空になり、薪は箸を置いた。ごちそうさま、と言って席を立つと、リビングに行ってソファに仰向けにひっくり返る。
「うー、ちょっと食べ過ぎたかな」とぼやく声が聞こえる。人間、食べ溜めはできないんですよ、と教えてやりたくなる。

 跡片付けと洗い物を手早く済ませ、コーヒーを淹れてリビングに持っていく。コーヒーの匂いを嗅ぐと、薪はゆるゆると身を起こし、マグカップを青木の手から受け取った。
「どの料理が一番美味しかったですか?」
「刺身とごはん」
「それは料理って言わないですよね」
 青木が複雑な顔をすると、薪はイジワルそうに笑った。

 青木は薪の隣に腰を下ろして、テレビのリモコンを手に取った。ニュース番組にチャンネルを合わせ、第九に回されそうな事件が起こっていないかチェックする。
 交通事故や芸能ニュースで埋められたラインアップを見て、青木はほっと息をつく。今のところ、夜中に呼び出されるような事件はなさそうだ。今夜はゆっくり、自宅で過ごすことができるだろう。

 ほうっと嘆息する声が聞こえて、青木はテレビの画面から隣に視線を移す。
 薪は片膝を立てて背中を丸め、コーヒーを啜っている。ソファの座面に片足を載せるその体勢は、限られた人間の前でしか見せないくだけた姿だ。
 尖らせたくちびるをカップに近づけ、目蓋を伏せてふっと息を吐く。立ち上る湯気と香気に頬を緩めて、薪は唇の両端を吊り上げた。

「これだけは、誰もおまえに敵わない」
 マグカップを掲げ、青木の仕事を褒めてくれる。

 そうっとカップの縁に唇をつけ、薪はゆっくりとコーヒーを飲む。カップの底で顔の中心を隠すようにして一滴残さず飲み干すと、ふわっとやわらかい笑みを見せた。
「あー、美味い」
 職場にいるときとは別人のように穏やかなその様子に、彼の安寧のひとつに自分が関与していることに、青木は踊りだしたいくらい嬉しくなる。

 事件が収束を見せた安堵感からか、久方ぶりの自宅という開放感からか、薪はすっかりくつろいでいる。自然で素のままのかれは、本来の健やかで伸び伸びとした美貌を意識せずしてさらけ出す。
 モニターを見るときにはいつもキッと吊り上げられている眉が前髪の奥で緩やかに開かれ、厳しい光を放つ亜麻色の瞳は慈愛に満ちた聖女のような静かさをたたえ、長い睫毛に隠されながらも春の光にきらめく水面のような輝きを見せる。
 温かい食事と飲み物のおかげでほんのりと染まった頬は、触ったら溶けてしまいそうに甘そうで、その味を試したくなる。そんな幼げな相貌の中で、アンバランスとも言えそうな、それゆえに最大級の引力で青木を惹きつける色めいたくちびるが、見事な三日月の形にほころんでいる。

 ……くどくどした言い回しはどうでもいい。
 つまりは、めちゃくちゃ可愛いってことだ!

 単純な言葉を心の中で叫んだら、想いが一気に溢れ出すようで。
 思いがけず溢れた気持ちはとてつもなく巨大で、青木は制御が利かなくなる。我知らず伸ばした右手で薪の頬を包み、もう一方の手を背中に回し、細い身体を抱き寄せた。





*****


 はー、初々しい、懐かしい。
 またこういうの書きたいなあ。 ←Aサイトが今更(笑)



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天国と地獄1 (3)

天国と地獄1 (3)







「なにやってんだ?」
 胸の中に抱き込んだ亜麻色の頭から不思議そうな声が聞こえて、青木はハッと我に返る。

 しまった。
 あんまりかわいくって、我慢できなくて、つい……。
 
 怒られると思ったが、薪は案外落ち着いていて、やんわりと青木の腕をほどいた。悪戯っ子のような表情で、亜麻色の瞳を宝石みたいにくるめかせると、
「もしかして、溜まってる?」と聞いた。

 溜まってるって、何が?

 こういう状況だからそういう意味だと思うが、薪のきれいな顔にはあまりにもそぐわない言葉なので、青木の頭は一瞬真っ白になる。
 青木の沈黙を肯定と取ったのか、薪は鷹揚に頷いて、ひょいと立ち上がった。
「よし、僕に任せろ」
 ……任せろって、どういう意味だろう。

「用意するから、ちょっと待ってろ」
 点目になった青木の視界で、薪は真っ直ぐにバスルームに向かった。

 え? え?
 えええええ!!???
 バスルーム直行、ということは、そういうこと!?

 いやいやいや、だってまだ告白もしてないのに。想いを告げてもいないのに、身体の関係を結ぶなんて、そんなふしだらな。

「ど、どうしよう……」
 何度も夢に見て、繰り返された妄想の回数は3桁にも及ぶ青木だが、いざその状況になると、どうしようもない焦燥感に襲われた。
 薪は自分と違って大人だから、こういうのもありなのか。
 大人の恋愛ってそういうものなのかもしれないけれど、でもやっぱり青木としては、告白して、お互いの気持ちを確かめ合って、何回かデートも重ねてからそういう関係になりたい。まどろっこしいかもしれないけれど、それが恋愛というものだと思う。
 好きだという言葉も聞けないうちからこんな、これじゃまるでセフレみたいで。

 それに、夢や想像の中でイメージトレーニングは充分といえども、実際に男のひととこういう行為に及ぶのは初めてだ。現実の知識は皆無といっていいくらい、ない。果たして上手くできるだろうか。
 そこまで思案を巡らせて、青木は重要なことに気付く。
 
 どっちが女の子になるんだ?

 想像の中では当然薪が女の子だったが、現実は薪の方が年上だし上司だしケンカも強い。『任せろ』との言葉からも察せられるように、こちらの経験も豊富らしい薪が男役を務めることになったらどうしよう。

 ……逃げ出したくなってきた。

 このまま帰っちゃおうかな、とソファから腰を浮かしかけたとき、薪がリビングに入ってきた。腰にバスタオルを巻いただけの格好で、もう、やる気マンマンという感じだ。
 その引き締まった裸体を見せ付けるように青木の前を過ぎって、キッチンへ入っていく。水分補給に行ったらしい。

 ……まむしドリンクとか飲んでたらどうしよう……!

 薪がタオル一丁の姿で手を腰に当て、強壮ドリンクをオヤジ飲みしているところを想像して、青木は気を失いそうになった。

「青木、どうした?」
 グラグラする頭を抱えていた青木は、涼やかな声に顔を上げた。
 至近距離に、薪の顔。腰を折って身を乗り出し、青木の体調を心配する素振りだ。

「い、いえ、あの」
 シャワーを浴びたばかりの瑞々しい肢体に、青木は声を失う。
「もしかして、おまえ、初めて?」
 見抜かれた。
「そっか、それで緊張してたんだな。大丈夫、おまえはじっとしてればいいから」
 じっとしてればって、やっぱりオレが女の子!?
「そ、それは嫌です!!」
 嫌です、と言い切ってしまったが、これは考えてみるとすごく勝手な言い分だ。
 自分が嫌なことは、薪も嫌なはずだ。見掛けはどうあれ、薪は普通の男の人なのだから。しかし、薪はクスリと笑って、青木の我儘を許してくれた。
「おまえの好きにしたらいい」

 その笑った顔が、目を疑うほどきれいで。
 潤った素肌が部屋の明かりを反射して、拭いきれていない水滴がキラキラと輝いて。青木がいつも真っ先に目を奪われるつややかなくちびるは、口にしたばかりのミネラルウォーターに濡れて、一層あでやかに艶めいて。

 青木は思わず目を閉じた。
 薪のこんな姿を見ていたら、後先考えずに男の本能に負けてしまいそうだ。

 やっぱり、こういうのはよくない。ちゃんと心を通じ合わせてから。
 でもでもでも、こんなチャンスは二度と訪れないかもしれない。
 薪も「好きにしたらいい」と言ってくれたし、自分からシャワーを浴びて準備をしてくれたということは、決して青木を嫌っているわけではない、ということだ。
 そうだ。今この場で、告白すればいいんだ。
 鋭い薪のこと、青木の気持ちにはとっくの昔に気付いていて、もしかしたら薪の方も自分のことを、という可能性もあるんじゃないか? きっとそうだ、そうに違いない、そうでありますように!

「薪さん! オレ、ずっと前から薪さんのこと好きでした!」
 叫ぶように言って目を開けると、そこには誰もいなかった。
 ローテーブルの上に置かれた鈴木の写真に告白する形になってしまった青木は、その事実に眉をしかめる。

「なにか言ったか?」
 カチャリとドアを開けて出てきた薪の姿を見て、青木はあんぐりと口を開けた。
 紫色の開襟シャツにダークなジャケット。上着に合わせた黒っぽいスラックスは細身のシルエットで、薪の足をすらりと見せる。ウエストを緩く飾るベルトのバックルに、さりげなく入っているのは有名ブランドのマーク。多分、胸につけた金のネックレスと同じブランドだ。
 この姿の彼を見て、警察官だと思うものはいないだろう。
 軟派で派手で、そこに薪のきれいな顔が乗ったら、完全にホストだ。間違いなくナンバー1だ。

「行くぞ」
「行くって、どこへ?」
「男の天国」
 顎を反らせて嘲るような笑みを浮かべると、薪は玄関のドアを開けた。



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天国と地獄1 (4)

天国と地獄1 (4)








 青木が連れてこられたのは、蛍光ピンクのネオン看板が眩しい、×××町のお風呂屋さんだった。
「ここの店長とは古い付き合いでさ。情が厚くてかわいい娘を付けてくれるように、口きいてやるから」

 もう、言葉も出ない。
 好きなひとに欲情したら、その足で風俗店に案内された、なんて笑えない経験をした男って、この世に何人くらいいるんだろう。何だか世界で自分がいちばん不幸な人間になった気がしてきた。

 引き摺られるままに店内に入り、女の子の写真がずらりと並んだ壁の前に立つ。
「この店は女の子のレベル高いし、病気もしっかり管理してるから安心だぞ。この娘なんかどうだ?」
 薪のお勧めの娘は、黒髪の短髪に大きな黒い瞳。誰を意識しているのか、丸分かりだ。

「あの、薪さんは誤解してらっしゃいます。オレは三好先生とは何も」
「あ、茅場さん」
 青木の主張に耳を貸す気はないらしく、薪は、店の奥から出てきた顎髭を蓄えた男に気安く声を掛けた。
 ご無沙汰してます、などと世間一般の会話をした後、青木の方に顔を向けて、「こいつ、筆降ろしなんですよ」と見当違いのことを言った。

「そんなわけで、面倒見のいい娘お願いしたいんですけど」
「へえ。いい男なのに、機会がなかったんだねえ」
 10年近くも前に済ませました、などと本当のことは言えず、青木は引き攣った笑いを浮かべた。
「青木。がんばれよ、初体験」
 他人に励まされて、こんなに落ち込んだことはない。
 たしかに風俗店は初めてだが。というか、一生経験しなくても良かったのだが。
 青木は、心が伴わないセックスは好きではない。青木も男だから、身体だけの衝動に駆られるときがないとは言わないが、それでも心を通わせた相手以外と行為に及んだことはない。気持ちを伴わない行為がどんなに虚しいものか、想像すると萎えてしまうのだ。

 薪と店長は、まるで息子の見合い相手を品定めする両親のように、女の子の写真とプロフィール(自称何歳とか、どういう技が得意だとか)が記載されたファイルを広げて、青木の今夜の相手を見繕っている。ずい分ガタイがいいけど、あっちのほうはどうなの? と聞かれて、僕よりは小さいと思いますけど、なんて下品な答えを薪が返すのを耳にして、青木は泣きたくなった。
 
「青木。この黒髪の娘は、今接客中だって。終わるまで待てるか?」
「ですから、オレは別に黒髪が好きってわけじゃ」
「なんだ、相手を選ぶ余裕もないほど切羽詰ってんのか。じゃ、とりあえず空いてる娘で」
 ……もういやだ、このひと!

「剛君は、どの娘にする?」
 店長が薪にファイルを差し出す様子に、青木はすうっと下腹の辺りが冷えるのを感じた。
 薪さんだって普通の男なんだから、女を抱くだろう。青木にそれを非難する権利はない。
 でも……何だか、ものすごくいやだ。

 自身の身勝手な腹立ちに拳を握り締めた青木の横で、薪は両手を胸の前に出し、そのファイルを退けた。
「僕は今日はいいです」
「あれ? 彼女でもできたの?」
「昨日ナンパした女の子がすごくって。朝まで放してくれなかったんですよ」
 すごかったのはMRIの画像だ。幻覚が多くて、解析に朝までかかった。

「じゃあな、青木。僕は向かいのバーで飲んでるから。終わったら寄れよ」
 方向音痴のおまえを一人で歩かせたら、絶対に迷うから、と皮肉を言って片手を上げ、薪は店から出て行った。
「じゃ、きみ。今空いてるのはこの3人だけど、どの娘にする? 初めてならちょっと年は行ってるけど、アユミちゃんあたりがいいと思うよ」
「……薪さんが贔屓にしてる娘をお願いします」
 捻じ曲がった感情だと分かってはいたが、薪が抱いた娘を見てみたい。その娘の肌に薪の手が触れ、その乳房に薪がくちづけたのだと思えば、彼の残像を追って彼女を抱くことができるかもしれない。

「ヒトミちゃんなら、とっくに辞めたよ。この商売、そう長く続けられるもんじゃないからね」
 今はその日の気分で相手を選んでいる、ということか。
「それじゃ、薪さんと最近寝た娘を。すごく上手だったって言ってましたから」
 あまりしつこく薪の名前を出すと、おかしく思われるかもしれないと危惧して、青木は小さな嘘を吐いた。が、店長は渋い顔になるとチッと舌打ちして、あからさまな不快感を削げた頬に浮かべた。
「それ、うちの娘じゃないよ。剛君がここを利用してたのって、もう10年も前だもの」
「え?」

「『監査課に脅されても口を割らなかったのはここだけです、恩にきます』とか言っといて。他の店を利用してうちには来ないなんて、ひどいよな。まあ、友だちには宣伝してくれてるみたいだけど。きみの他にも何人か連れてきてくれてるし」
 店長の言っていることは今ひとつ分からないが、とにかく薪は、現在この店の常連客ということではないらしい。
「とにかくどの娘か選んで、ちょっと、きみ!」
 ファイルを広げる店主を無視して、青木は店から走り出た。

 けばけばしいネオンに彩られた街路に、優雅なシルエットを探す。どんな場所にいても、どんな服装をしていても、ひと目でわかる薪の静謐なオーラ。深海の底に降り積もる雪のような、そのわずかな波動を辿れば彼に行き着く。
「薪さん!」
 横断歩道で信号待ちをしていた薪を、大きな声で呼んだ。隣で腕を組んでいたカップルが、びくりと跳ね上がったのを横目に、青木は駆け出した。
 薪はきょとんとした顔をして、こちらを振り返った。信号が青になり、周囲の人々が一斉に動き出す中、薪はひとり立ち止まって青木を待っていてくれた。

「どうしたんだ?」
「何故あんな嘘を吐いたんですか?」
 薪の質問に別の質問をぶつけて、青木は呼吸を整える。
「昨日は確かに徹夜でしたけど、昼間ゆっくり休んで今は元気なはずでしょう」
 青木の質問の意味を理解して、薪のくちびるが苦く笑った。

「僕はもう、こういうことはしないんだ」
「付き合ってる女性がいるからですか」
 髪の毛一本ほどの可能性もないと思ったが、店主が言っていたことを繰り返してみる。まるで見当違いの質問をするのは、尋問のテクニックのひとつだ。
 思ったとおり薪は首を左右に振って、そんなひとはいない、と言った。
「あの店に、好みの娘がいなかったんですか。それとも、監査が怖いから?」
 的外れな質問を重ねると、今度は可笑しそうに笑って、薪はもう一度首を振った。

「僕は誰とも寝ない。これからもずっと」
「どうして?」
「この身体は、僕のものじゃないから」

 薪の言葉の意味は、よくわからなかった。どういう意味ですか、と聞こうとして、青木は声を飲み込んだ。
 無遠慮に訊くには、薪の顔があまりにも淋しそうで。これは触れてはいけないことだ、と青木の中の何かが警鐘を鳴らしていた。

 憂いを秘めたその姿を、夜の街を淫靡に飾る色とりどりの電飾が照らしている。胸をはだけたホステスを魅力的に映し出すその明かりは、しかし、薪の清廉な美貌にかかれば、教会のステンドグラスのように荘厳な雰囲気を醸し出す。
 このひとは、なんてきれいなんだろう。
 そう感じるのは、決して惚れた欲目ではない。青木のほかにも、歩きながらも振り返っていく者が何人もいる。

「僕がしないからって、おまえが遠慮することはないんだぞ。これは僕の個人的な事情だから」
「オレもいいです。好きな人がいますから」
「え? だれだ?」
 あなたです、と口から出そうになった言葉を、隣に立った女性の影が止めてくれた。

「雪子さんか? 雪子さんしかいないよな。雪子さんだろ、そうだろ」
 薪は、畳み掛けるように雪子の名前を連呼した。両手を握り、腕を曲げて胸の前に寄せ、ぐっと力を込める。
「ようやくおまえも自分の気持ちを認める気になったか。よーし、あとは雪子さんの方だな。僕に任せとけ、絶対にくっつけてやるから」
 男女を結婚させることが生きがいの仲人おばさんみたいな表情で、薪は息巻いた。
 誤解を解きたいと思う反面、雪子のことがなかったら、薪はこんなに自分に構ってくれなくなる、というずるい考えが浮かぶ。どんな立場でもいいからこのひとの隣に居たい、と願うのは愚かなことだろうか。

「そうと決まれば作戦会議だ。雪子さんの好みの花とか食べ物とか、色々教えてやるから」
 歩行者用の信号が点滅しだしたのに気付いて、薪は青木の手首を掴んだ。
「ここの信号、やたらと長いんだ。走るぞ」
 引き摺られて青木が走り出すと、薪は手を放した。さっきも走ってきた青木は、息が上がりそうだ。もともと体力には自信がない。
 
 遅れ気味の青木の手を、再び薪の手が捕らえた。力強く、引かれる。
 心臓がドクドクと脈を打つ。前を走る薪の亜麻色の髪が、街灯に反射してきらめいている。

 華奢な肩が、しなやかな腕が、細い背中が。青木の前で、サバンナの野生動物のように躍動する。そこに青木は、彼の真意を探そうと試みる。これほど生命力に溢れているのに、だれとも愛を交わさないと言った、思い通りに動くのに、この身体は自分のものではないと言ったその理由を。
 反対側の歩道について、息を切らす青木の横で、薪は乱れた髪を手ぐしで整えている。少し伸びすぎた前髪をうっとおしそうにかき上げると、たった2分の全力疾走に根を上げている青木に、そんなことじゃ雪子さんの相手は務まらないぞ、と余計なお節介をくれた。



*****



 3杯のカティサークにあっけなく潰れてしまった薪を背負って、青木は夜道を歩いている。タクシーが拾える大通りまでの短い距離だが、周りには似たようなドランカーが多数いて、男が男を担いでいるという状況がそれほど目立たないことに安堵する。

 薪はぐったりと青木の背中に自分のからだを預け、泥酔者らしく普段より高い寝息を立てている。青木の耳元に掛かる息はアルコールの匂いが強く、いつものように青木をうっとりさせることはなかったが、背中に感じる温もりは、常と同じに青木の心を暖める。
 荷物よろしく動く気配のなかった薪の身体がピクリと震え、ううん、と微かに呻く声が聞こえた。その後に続いた、呻きよりもひそやかな囀り。
 
「……すずき」

 またか、と青木は思う。
 薪の寝言で一番多いのは、彼の名前。それはつまり、彼が薪の心の大部分を占めているということだ。

 今はひとの記憶の中にしか残らない、かれ。
 薪の夢の中に入れるのは、かつての親友だけ。薪から幸せそうな笑顔を引き出せるのも、彼だけだ。
 
 薄っぺらい紙切れの上でしか見られない笑顔。たったそれだけで薪を独り占めできる鈴木という男が、青木はとても羨ましかった。



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天国と地獄1 (5)

天国と地獄1 (5)








 オレはあの頃、とにかく鈴木さんのことが羨ましかった。
 いや、羨ましいなんてきれいなもんじゃない。憎らしかった。死んだ人間が、いつまでも薪さんを捉えていることが許せなかった。

 もちろん、現在はそんなことは思っていない。薪さんというひとを形作る上で、鈴木さんの存在はなくてはならないものだった、と分かったからだ。
 同じ意味であの事件も、今の薪さんを形成する重要なキーだったと言える。おそらく、あの事件がなかったら薪さんの性格は今と違っていたと思うし、オレは薪さんを好きにならなかった。
 オレは薪さんを好きになったことを後悔する気はないから、鈴木さんが生きてたらどんなに薪さんは幸せだっただろう、と彼の死を悼みつつも、心のどこかで死んでくれてよかった、と思ってしまう。そんな自分に、激しい罪悪感を覚える。オレがこんなことを考えてしまう冷酷な人間だと知ったら、薪さんはオレを嫌いになるだろうか。

 物思いに耽っていたオレを、誰かの声が引き戻した。
 窓の外から聞こえてくるのは、オレの大好きなアルトの声。「早く!」と急き立てる口調に、声の主と買い物に行く約束をしていたことを思い出す。

 オレが人生のパートナーに選んだ相手はとても気の短いひとで、その上気まぐれで自分勝手で、自分はよく寝過ごしてデートの時間に遅れるくせに、オレが1分でも待たせると大変なことになる。
 コートに袖を通して、急いで階段を駆け下りる。すみません、と謝ると、声の主は予想通り目を三角にして怒っていて、不機嫌な顔のままこちらに背を向けると、ずんずんと苛立った歩調で歩き始めた。オレは慌てて小さな背中を追いかける。

「そんなに怒らないでくださいよ。お待たせした分、今夜のマッサージ延長しますから」
「そうじゃない。雪子さんの出産祝いなんか、選びたくないだけだ!」
 ばっと勢いよく振り返って、まるでその原因がオレにあると言わんばかりに噛み付いてくる。三好先生が竹内さんと結婚したのはオレのせいじゃないのに、まったく八つ当たりもいいところだ。

「相手が他の男ならともかく、竹内の子供なんて! 雪子さんが竹内なんかに何回もやられちゃって、しかも子供まで産まされるのかと思うと、ああっ、夜も眠れないくらい口惜しい!」
「だってあの二人は夫婦で」
「竹内のやつ、嫌がる雪子さんに無理矢理迫ったんだ。そうに違いない! 可哀相に雪子さん、きっと泣きながら耐えてるんだ」
 そうかもしれない。竹内はかつて捜一の光源氏と異名を取るくらいのプレイボーイだったから、女の子の扱いは相当慣れている。涙の意味は違っても、ベッドの中で泣いていることに変わりないかも。
 竹内の名誉のために言っておくと、彼らは1年半前に結婚して以降、周囲が羨ましがるくらい仲睦まじく暮らしている。無理矢理云々というのは、このひとの妄想だ。

「くっそー、こんなことなら羽佐間さんに言われたとおり、僕がさっさと押し倒しとくんだった」
「また、できもしないことを」
「ああん!?」
「すみません……」
 惚れた弱味とは言え、一言も返せない自分を情けなく思うと同時に、このひとがこんな我が儘をぶつけてくるのは自分だけだ、と浮き立つ気持ちにもなる。そんな訳でこのひとといる限り、これからも一生退屈はしないだろう。

「だけど、『赤ちゃんが生まれました』のお知らせの葉書の3人は、とっても幸せそうでしたよね」
 オレがそう言うと、世界で一番三好先生の幸せを願っている彼は、不承不承頷いた。ふたりの仲を認めてはいるものの、面白くないのだ。要は、花嫁の父親の心境だ。

「でも、これからもそうとは限らない。あの竹内が大人しくしてるはずがない。絶対、いつか浮気する」
「未来のことは分かりませんけど。好きな人と一緒にいられるのが、一番の幸せだと思いますよ」
 言葉に詰まった彼が、花の蕾のようなくちびるをムッと尖らすのを見て、オレはまた笑い出したくなる。
「オレは幸せですよ。大好きなあなたと一緒にいられて」
 こっそり囁くと、彼は微かに頬を染めながらも、不機嫌な表情を崩さない。

「薪さんは?」
「言わなくたって、わかってるだろ」
「聞きたいです」
「言いたくない」
「あんまり長い間言ってくれないと、オレ、輪っか使いたくなっちゃうんですけど」
「あれはやめろ!!」
 きれいな顔を紙のように白くして、ムキになって叫ぶ。よっぽどイヤなのか。……楽しいのに。

「言葉を強要するのって、愚行だと思わないか?」
「だって、好きな人に好きって言われたらうれしいじゃないですか。薪さんだって、オレに好きって言われて、今うれしいと思ったでしょ?」
「べつに。もう、聞き飽きたし」
「じゃあ、むかし鈴木さんに言われたときは?」
「……ポッ」
「なんですか、それ! なんでオレのが『聞き飽きた』で、鈴木さんが『ポッ』なんですか!?」
「なんでって、テレテレ」
「~~~!!!」
 ほんっと、鈴木さんが死んでてくれてよかった!!(もう、悪魔と呼んでくれ)

 オレが口をパクパクさせて怒っていると、彼はいつものようにイジワルく笑った。
「マッサージ延長、1時間だからな。忘れるなよ」
「え、そんなに待ちました?」
 支度をして下りてくるまでに掛かった時間は、10分弱だったと思うが。
「待ってる時間てのは長いんだ」
 またそんなむちゃくちゃな理屈を。
 でも、首を横に振れない自分が哀しくも愛しい。

「わかりましたよ。じゃあ、マッサージの後のご褒美も3割増しにしてくださいね」
 何かに躓いたように小さな靴がたたらを踏んで、細い肩がびくっと上がった。腰を屈めて覗き込むと、むくれていた顔が赤く染まっていく。

「バカ」

 コートから伸びたオレの足を、薪さんは容赦なく蹴り飛ばした。


(おしまい)



(2009.12)


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ハプニング(1)

 1万拍手のお礼です。
 あおまきさん入れ替わりという突拍子もないお話なのと、本編の薪さんなら絶対にしないことをしちゃうので、カテゴリは男爵でお願いします。 でも、カンチガイはそれほどひどくは、あ、やっぱりするかも(笑)

 拍手のお礼なので、Rはありません。
 笑えるお話に仕上げたつもりです。
 楽しんでいただけたら幸いです。





ハプニング(1)




「青木、知ってるか?」
 ぴん、と長い指を一本立てて、彼は得意げに言った。
 
「心霊現象の多くは、磁気の乱れによって側頭葉のニューロンが活性化し、過去の記憶が無作為に呼び起こされ、その結果脳内に幻覚を生じることが原因なんだ」
 行儀悪くデスクに腰掛け、長い足を組み、椅子に座った華奢な青年を見下ろす。彼の言葉を受けた青年は、きちんと揃えた膝の上に小さな手を載せ、大きな亜麻色の瞳で彼を見上げた。

「はい、聞いたことがあります。でも薪さん、あの」
「断層地帯とか、あと鉄橋にも多いんだ。落雷で鉄橋が磁力を帯びるんだ」
「ええ、知ってます。それで薪さん、あの」
 澄んだアルトの声を幾度も遮って、彼は心霊現象と磁力の関係について滔滔と自分の意見を述べる。彼のバステノールの声は自信に満ちて、気弱そうなアルトの声とは対照的に力強い響きを持っていた。

「MRIシステムは、強い磁力を発生させる。ほら、何年か前にも二人で一緒に同じ幻覚を見たことがあっただろう? 僕の言いたいことはわかるな」
「ええ、解ります。でも薪さん、あの後MRIシステムはリニューアルされて、第一電源入ってなかったし、だから今のこの状況は幻覚ではないと」
「それ以上言うなあああ!!!」

 突然テノールの声が裏返り、悲痛な叫びに変わった。
 乱れた黒髪に両の手が差し入れられ、長い指が頭部を押さえる。その様子を見て青年は、形の良い眉を困惑に寄せ、つややかなくちびるでため息を吐いた。

「どうしてこんなことになっちゃったんですかね、オレたち」
「知るか、僕だってパニクってんだ!」
 さっきまでの落ち着いた態度は何処へやら、黒髪の大男は立ち上がって部屋の中をうろうろと歩き始めた。
 
「きっと神聖な職場であんなことしたから、MRIの神さまが怒って……青木、おまえのせいだぞ!!」
「薪さんがあんまり激しく動くから、椅子のコマが壊れて引っくり返ったんじゃないですか。そのせいですよ、きっと」
「僕のせいじゃないっ、おまえがあんなに突き上げるから、つい……だ、だって今夜のおまえ、すごかったんだもん」
「すみません、薪さんからそういうセリフが聞けるのはすごく美味しいシチュエーションなんですけど、視覚的に自分がその台詞を言って真っ赤になるのは見るに耐えません」
「僕だってまっぴらだ! 妙に下から目線の自分と会話するなんて!!」

 本当に、どうしてこんなことになってしまったのだろう、と青木はいつものクセで眼鏡に手をやろうとし、何もないことに気付く。裸眼でこんなにクッキリと周りのものが見えたのはいつのことだったろう、と懐かしい思いに駆られるが、今はそんなことを思い出している場合ではない。

 今日は久しぶりのデートで、いつもみたいに食事の後薪のマンションへ行こうとしたら、薪が第九に忘れ物をしたと言いだして、仕方なくここに戻ってきた。忘れ物はすぐに見つかったのだが、ここから薪のマンションまでは1時間も掛かる。薪のセオリーで平日のデートは10時までと決められていて、マンションに着いた時点でタイムアウトだ。数週間のお預けは若い青木の身には非常に厳しく、殴られるのを覚悟で薪を抱きしめた。
 意外なことに、薪は抵抗しなかった。
 黙って青木の腕に抱かれて、するがままに任せた。くちびるを合わせ、舌を絡めあい、息を弾ませてもう一度しっかり抱き合った。ネクタイを外したのは薪の方が先だった。恥ずかしそうにうつむいて、それでも大胆に肩を出し、青木を扇情的な瞳で見上げた。

 それからは自然の成り行きというか、薪に誘い込まれたというか、まあ行くとこまで行ってしまったわけだが。
 職場で、椅子の上で愛し合うなんて初めてのことだったから、ふたりとも異様に興奮していたかもしれない。薪の乱れ方もすごかった。激しく揺さぶるうちに動きが大きくなり、負荷が掛かって椅子のコマが壊れた。バランスを崩してふたりは倒れ、抱き合ったまま床に転がった。
 倒れる瞬間、薪の方が下になる、何とかしないと怪我をさせてしまう、と思ったのを覚えている。しかし、咄嗟のことでどうしようもなかった。
 どうしようもなかったはずなのに、倒れたときには青木は薪の下敷きになっていた。自分の背中が床について、上に誰かの重みがあるとわかったときは、薪に痛い思いをさせずに済んだとホッとしかけたが、すぐに押しつぶされそうな重みに悲鳴を上げた。

「ま、薪さん、重いですっ、退いてくださ……?!」
 おかしい、薪がそんなに重いはずがない。それに、自分のこの声は? 喋ったのは自分なのに、何故薪の声が聞こえるのだ?
「痛つ……今、どこかから女の声が」
 薪の声は張り上げると中高音のアルトで、男にしてはかなり高いほうだ。女の声に聞こえないこともない。しかし、いま喋ったのは青木だが。
「えっ!?」
 驚愕の響きを含ませた低音に目を開けると、そこにいたのは―――。

「……青木。この鏡、何処から持ってきたんだ」
「鏡なんかないですよ。まさか・・・・」
「青木。そのマスク、すごく精巧にできてるな。いつの間に作ったんだ?」
「マスクなんかつけてません。薪さん、これは」
「落ち着け、とにかく服を着よう」
「薪さん。パンツは頭に被るものじゃなくて穿くものです」

 うつろな目で腰にネクタイを巻き始める自分の姿を見て、青木は頭を抱えた。現実主義者の薪は、こういう科学で説明のつかない状況にはひどく弱いのだ。秘密だが、同じ理由でお化けの類も苦手だ。
 青木とて、どうしてこんなことが起きたのかは理解できないが、薪と自分の身体が入れ替わってしまったことは事実だ。若くて発想も柔軟な青木は、薪のようにこの現象に姑息な説明を付けようとはせず、冷静に理由を究明しようと努めた。

「入れ替わりは事実みたいですね。どうやったら元に戻れるか、考えないと」
「入れ替わりだと!? そんなこと、あるわけないだろ!」
「いや、だって現実に」
「これは夢だ!! 一晩寝て明日になったら元に戻ってる、絶対にそうだ!」
「そんな。それじゃ何の解決にもならな……ちょっと薪さん、どこ行くんですか」
「10時だ、帰る。また明日な!」
「待ってくださいよ、帰ったって家の鍵が開きませんよ。薪さんのところ、瞳孔センサーでしょう」
 自動ドアへ向かった青木、いや薪が、がっくりと肩を落として帰ってくる。大きな背中を丸めて、しょぼくれると自分はこんなに情けない顔になるのか、薪が自分を苛めたがるわけが分かった、と青木はまた妙なことを考えた。

 その夜は、第九の仮眠室で休むことにした。
 翌朝になれば元に戻るのではないかという、薪の根拠のない希望はもちろん叶わなかった。こんな状況でも深い眠りに就いた青木は、朝練の時間にすっきりと目を覚まし、窓から差し込む爽やかな朝日の中で、昨夜は徹夜だったに違いない真っ赤な眼をして憔悴しきった自分の姿を見たのだった。






テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ハプニング(2)

ハプニング(2)





 木曜日の朝、岡部は道場で後輩を待っていた。
 これは何年も前からの習慣で、火曜日と木曜日の朝7時から、自分の得意分野である柔道と剣道について、後輩に指導をしてやっている。キャリア組でありながら肉体の鍛錬に熱心な後輩の名を、青木一行という。
 青木は職務上の理由ではなく、目一杯私的な事情から強い男になりたいと欲していて、この早朝訓練もその為だ。その目的は決して純粋な向上心ではないが、修行のきっかけが何であれ、大事なのは継続と努力だ。その点、青木はとても優秀な生徒だった。

「遅いな」
 準備体操を済ませ、壁に掛かった時計を見た岡部は、口中で小さく呟いた。
 青木は真面目で、いつもなら岡部より先に道場に到着している。まだ約束の時間から5分しか過ぎていないが、それでも青木にしては珍しいことだ。
 相手が来ないのでは仕方ない、岡部は独りで柔軟体操をして、腹筋を始めた。52回目に上体を起こしたとき、道場の入り口から背の高い後輩が姿を現した。

「おう、青木。こっちだ」
 軽く手を上げて後輩の名前を呼ぶと、彼はすぐに気がついて、こちらに歩いてきた。自分たちと同じように自己研鑽に励む職員たちの間を通って、岡部の傍に立った青木は、なにやら物珍しそうに周りを見回した。
「へえ……結構ひとがいるんだな」
 ヘンだ。
 岡部の顔を見て真っ先に挨拶をしないのも、時間に遅れた詫びを言わないのも青木らしくない。青木はとても礼儀正しい男の筈だが。

「おまえ、竹刀は? 忘れたのか?」
 今日は木曜日だから、剣道の日だ。竹刀を忘れるなんて、青木らしくない。
「あ、いやその、昨日は第九に泊って、ていうか、ちょっと困ったことに」
「仕方ないな、今日は柔道に変更だ。さっさと柔軟始めろ」
 ぼうっと突っ立っている後輩を座らせ、前屈運動の体勢を取らせる。何やらゴチャゴチャ言っていたようだが、遅れた言い訳なんか聞かんぞ。昨日は水曜日、おおよその察しはついている。

「違うんだ、岡部。ちょっと話を……いっ、いたたた!!」
 足を開かせて座らせ、背中にぐっと体重をかけてやると、青木が情けない悲鳴を上げた。
「なんだ、この身体! 固い!」
 おまえの身体だろうが。
「最初の頃は前屈マイナス30センチだった男が、今更なに言ってんだ」
 腰にキタか? と余計なことを言いかけて、岡部は心の中で不満のため息を洩らす。青木のやつ、若さに任せて薪さんの身体に負担を掛けていないだろうな。

 ……今日の重点項目は、受身の取り方にしよう。1本背負い、ガンガン決めてやる。

「マイナス30? 性格と柔軟性が一致しないやつだな……いや、そんなことはどうでもいい、あのな、岡部。聞いて欲しい話が」
「ほら、次! 腹筋と腕立て、100回ずつ! 早くしないと組み手まで行き着かんぞ」
 どうも今日の青木は私語が多いな。
 ん? なんか今、呼び捨てにされたような気がするが、気のせいだよな、きっと。

「ひゃ、100回!?」
「何をそんなに驚いてるんだ。いつもやってるだろう」
「いつも? あのヘタレが?」
「何を他人事みたいに言ってるんだ。薪さんを守りたいから強くなりたい、って言い出したのはおまえの方だろう」
 何年か前に目の前の男が言ったセリフをそのまま返してやると、何故か青木は赤くなってプイとそっぽを向いた。その仕草は照れくささを隠すときの誰かにそっくりで、恋人同士と言うのはだんだん似てくるものなのか、と岡部は自分まで恥ずかしいような気分になった。

 ……今日の仕上げは、痛みの強い関節技にしよう。

 それから青木は黙って腕立て伏せを始め、岡部のスペシャルメニューを黙々とこなした。寡黙に真剣にトレーニングに打ち込む後輩を見て、ようやくいつもの青木らしくなったと岡部は思い、続く一本背負い10連発で些少の違和感を忘れ去った。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ハプニング(3)

ハプニング(3)





 木曜早朝の合同会議の席に、竹内誠は目当ての人物の姿を見つけ、彼の姿が目に入る位置に自分の席を定めた。真正面ではなく、3席ほどずれた斜め前。このくらいの位置が彼と自分の関係には相応しいと、竹内は考えている。

 席に着いてレジュメをめくりつつ、そっと横目で彼を見る。
 亜麻色の髪が朝日にきらめき、長い睫毛が影を落とし、白い肌が真珠のように淡く光っている。つやつやとした薄ピンク色のくちびるを僅かに開いて物憂げに息をつく、その姿はまるで一枚の絵のようで。
 相変わらず綺麗だな、と今日も竹内は胸をときめかせる。

 竹内の目を捕らえて放さない彼は、第九研究室の室長。捜一のエースとして1課を代表する竹内とは敵対関係にある部署の最高責任者だ。部署同士の対立そのままに、数年前までは親の仇のようにいがみ合っていたのだが、ある事件をきっかけに、竹内の彼を見る目は180度方向転換した。それからは、誠意をもって彼に接しているつもりだ。彼の方は相変わらずだが。

 竹内の視界の隅で、薪は細い指をレジュメに伸ばし、紙をめくって内容を読み始めた。天才と名高い彼は、書類を読むのも他人の何倍も速く、いつもあっという間に読み終えてしまうのだが、今日は何故か妙にゆっくりと内容を確認しているようだ。
 きれいな睫毛を伏せて、亜麻色の瞳を左右に動かし、ロマンチックな詩を読むように穏やかな表情で書類を眺める。桜貝のような爪が愛らしさを強調する指先を、オーケストラの指揮でもするように華麗に動かして、その流れるような彼の所作に竹内はいつも、無機質で飾り気のない官公庁の会議室が優雅なサロンでもあるかのような錯覚を覚える。
 ……はずなのだが。

「?」
 何だか今日の薪は、妙にぎこちない動きをしている。書類の捲り方もオーバーリアクションだし、キョトキョトと周りを気にしてばかりいるし。一番、彼らしくないのはその姿勢だ。薪はいつも背筋をピンと伸ばして椅子に深くかけているのに、今日の彼は猫背になっていて、しかも緊張しているとはっきり分かる形に肩をこわばらせて、まるで借りてきたネコのようだ。
 何かあったのだろうか、と老婆心を止められない竹内がなおも薪を見ていると、亜麻色の瞳と視線がぶつかった。瞬間、竹内は薪がプイと横を向く姿を予想した。薪から発せられる『捜一は第九の敵』オーラはとてもあからさまで、顔を見るのもイヤだと思われていることを竹内は知っているからだ。
 ところが。

 薪は竹内の顔を見るとパッと笑顔になって席を立ち、こちらに歩いてきた。
「おはようございます、竹内さん。竹内さんもこの会議のメンバーだったんですか」
 ものすごい強烈なイヤミがきた。もう何度も顔を合わせている定例会議なのに、今までおまえの顔なんか目に入らなかったぞ、というわけだ。
「ええ、一応」
 まあ、このひとの皮肉と嫌味には慣れている。どんな内容でも、薪に話しかけてもらえるのは嬉しいし。皮肉を思いついたときの意地悪な笑みだとしても、薪の笑顔はとても可愛い……なんか、本当に可愛いんだけど。

 思わず、竹内の目は薪の顔に釘付けになる。
 いつもの片頬を吊り上げるような笑みではなく、自然に、長年の友人に笑いかけるような素直な笑顔。このひとがこんな風に、自分に笑いかけてくれるなんて。いつも彼の周りを取りまいている氷のオーラも感じられない。やわらかくて暖かく、夢幻のように美しい――― 春の女神が地上に降りたら、こんな感じだろうか。

「隣に座ってもいいですか?」
 親しげな中にも奥ゆかしさを潜めた、明るい響きの美声。薪がこんなにやさしく自分に話しかけてくれたのは初めてだ。
「あ……どうぞ」
 ようやくそれだけ言うと、竹内は薪の顔から視線を外した。あのまま見ていたら、場所柄もわきまえず惚けてしまいそうだ。

 薪は体重を感じさせない身のこなしで竹内の隣にすとん、と座って、小さな声で言った。
「よかった、知らない人ばかりで緊張しちゃって」
 薪らしい皮肉だ。『知らない人』というのは派閥違いの人間のことだ。官房長の秘蔵っ子である薪は、当然次長の派閥とは敵対している。その連中に囲まれているよりは、自分の方がまだマシということか。

「あの、竹内さん。ここに書いてあるこれって、どういう意味ですか?」
「え?」
 レジュメにある略語を差して、薪は竹内の顔を覗き込んでいる。これはあれだな、この略語の説明をさせて、それが少しでも違っていたら皮肉ってやろうという計画だな。
 それが分かっていても、この上目遣いの愛らしい表情を見せられては、彼を無視するなんてことは竹内にはできない。

「DARPA……米国国防総省高等研究計画局、だと思いましたけど」
「へえ。何をするところなんですか?」
「国防省の機関ですから。軍事に関する新技術の開発とか」
 一般常識の範囲を超えない竹内の解答に、薪は感心したように頷いた。
「よくご存知ですね。さすが竹内さんだなあ」
 薪の素直な賞賛に、竹内は椅子から転げ落ちそうになる。薪の方から話題を振ってきたのだ、自分の知識の豊富さをひけらかすように捲くし立ててくると思ったのに。
「見習わなきゃ」
 独り言みたいに呟く薪の姿に、竹内は開いた口がふさがらない。

 いったい、今日はどうしたんだろう? 自分の前でこんな態度を取るなんて、彼に何が起こったのだろう?
 熱でもあるのだろうか。そういえば、ちょっとダルそうだ。動きも緩慢だし、目つきも……うわ、やばい、すっごくかわいい。

 会議の間中、竹内は隣の薪のことが気になって仕方なかった。眉毛が穏やかに垂れていると、本当にやさしそうに見える。時々目が合うと、にこっと微笑んでくる。もしかしたら、俺はまだ夢を見ているのかな。夢の中で、今朝の会議に出席しているのかな。夢なら醒めないで欲しい……。

 いっそ永遠に続けばいいと竹内が願った会議が終り、薪は席を立った。
 失礼します、と礼儀正しく挨拶をして、竹内から離れていく。生返事を返しつつ、夢の余韻の中で竹内は彼の背中を追いかける。

「薪くん。これ、頼まれてた資料」
 細い背中に声が掛かり、薪は足を止めた。会議室を出て行こうとした薪を呼び止めたのは、警務部長の間宮だった。
 竹内はすっと表情を引き締め、さりげなく二人に近付いた。間宮の動向には気をつけてくれ、と岡部にも頼まれているし、竹内自身、ふたりの接近には心穏やかならぬものを感じている。
 
 間宮という男は多情な男で、すでに何人もの愛人を持っているにも関わらず、薪を狙っているらしい。清廉な薪をそんな目で見るなんて、それ自体許せない話だ。間宮の毒牙に掛かるくらいならいっそのこと自分が、いやその……。
 薪も、自分が彼にどんな目で見られているか分かっているから、その警戒心たるや見事なものだ。間宮が半径1m以内に近付いただけで、絶対拒絶のオーラを出しまくり、剣呑な目つきで相手を睨み―――――。

「間宮部長。いつもお世話になってます」
 睨み……あれ?

 おかしい、薪が間宮に普通に挨拶している。いつもの薪なら無愛想に「どうも」が関の山なのに。
 薪のガードが甘いものだから、間宮はさっさと薪の肩を抱き、部屋の隅に連れて行って何やら話し始めた。

「今日も色っぽいね。昨夜、デートだった?」
「ど、どうしてそれを、ひゃ!」
 薪のスーツの裾がもぞもぞと蠢いて、間宮の手が見え隠れしている。助けてやりたいが、それは余計なお世話だ。見かけによらず薪は強いし喧嘩っ早い。5秒もしない内に蹴り飛ばされるのがいつものパターンだ。
 が、その日に限って薪は身を固くして、じっと間宮の仕打ちに耐えるふうだった。どうしたのだろう。大人しくしていれば止めてくれる、そんな生易しい相手じゃないことくらい分かっているだろうに。

「薪室長! 官房長がお呼びですよ」
 見かねて、竹内は助け舟を出した。余計なことを、と後で薪に怒られるのは承知の上だ。
 間宮より高い階級にいる薪の守護者の名前を出して、いやらしい手から薪の身体をひったくるように庇うと、間宮は一瞬、蛇のような目で竹内を睨み、しかしすぐにいつもの余裕を持ったプレイボーイの貌に戻って、「じゃあまたね、薪くん」と右手を上げて去っていった。

「大丈夫ですか、薪室長」
 薪は真っ青になって、小刻みに身体を震わせている。A4サイズの封筒を胸に抱きしめるようにして肩を竦ませ、寒さに震える小鳥のように。
 どうしたのだろう、今日の薪は本当におかしい。いつもなら顔に似合わない悪態を吐くか、腹立ち紛れに近くの椅子を蹴り飛ばすかしているところだ。
 しかし、傷心を表面に出した彼の、なんて庇護欲をそそることだろう。守ってあげたい、抱きしめて慰めてあげたい、と心の奥底から湧き上がってきた彼への気持ちを、竹内は必死で抑えた。

「気持ち悪い……」
 ぽつり、と薪は言った。
「知りませんでした、こんなにおぞましいものだったなんて……何だか、自分が汚れたような気がします……」
 潔癖な薪には、耐え難い屈辱なのだろう。清く美しい彼、その彼をこんなに傷つけて、どうしてくれよう、間宮のやつ。
 とりあえず、間宮の愛人(女性に限るが)を何人かモノにして口惜しがらせてやるか、と捜一の光源氏の異名を持つ竹内は下賎な仕返しを思いつくが、このところ女性キラーの才能もすっかり錆付いてしまって、というのも薪に恋をしてからというもの、軽い恋愛ができなくなってしまった彼は、現在振られ記録を更新中である。

 それにしても、泣き寝入りとは薪らしくない。抵抗しなかったのは、胸に抱えた資料と何か関係があるのだろうか。
「大丈夫ですよ、薪室長は汚れてなんかいません」
 そう言って細い肩を叩いてやると、薪はホッとしたように竹内を見上げて、「もちろんです」と笑い、ぺこっと頭を下げて会議室を出て行った。その姿はやっぱり普段の彼よりずっと頼りなくて、しばらくの間竹内は、薪の後姿から目を離せなかった。


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ジャンル : 小説・文学

ハプニング(4)

 こんにちは。
 現場に出始めてから、体重と体脂肪が自然に落ちたのは嬉しいんですけど、ときどき意識がオチそうになります(@◇@
 ネットもオチぎみですみません~。 みなさんのところへも、行けなくてすみません~~。
 今日は雨なんですけど、現場は休みでも、挨拶回りとか材料の搬入とか立会いの書類とか、あれやこれやの雑用が。
 現場が上がる予定の10月末まで、亀更新&不義理をお許しください。

 




ハプニング(4)





「青木、おまえ顔色悪いけど大丈夫か? 身体の調子でも悪いのか」
「いや、平気だ。……です。それより曽我、さん。この窓の隅に映ってるの、犯人の車じゃないのかありませんかですでしょうか」
 「……大丈夫か? 青木。ちょっと休むか?」
 不自然な会話を交わしているふたりの様子を見て、室長は宇野に「青木を室長室に」と声を掛けた。時刻は定時の10分過ぎ。急ぎの案件もないし、他のものは退室するように、と言い於いて、先に室長室へ入る。

「青木、帰る前に室長室だってよ」
「きっとお説教だぞ。おまえ、今日一日おかしかったから。コーヒーの味は冴えないし」
「そうそう。資料探すのも、やたら時間がかかるし」
「買出しだって、俺の嫌いな鶏肉避けるの忘れてるし」
「……すみませんでした」
 
 そんな会話が聞こえてくる。それから帰り支度をする音と、MRIの終了確認のブザーが鳴り、お先に失礼します、と職員たちに挨拶をされ、思わず反射的に下げようとした頭をすんでのところで止める。身に付いた習性は、咄嗟のときに出てしまうものだ。
 
 居残りを命じられた青木が室長室に来ると、薪は部屋に鍵を掛けた。青木はふらふらと歩いて室長席に座り、デスクの上に両肘をついて頭を抱えた。相当キているらしい。
「薪さん、大丈夫で」
「大丈夫じゃない!!」
 ばん! と机を叩き、その威力にびっくりしたように目を瞠る。自分の手の大きさと力の強さが何倍にもなっていることに、彼はまだ実感がない。

「もう、どうしていいかわからん! 何がなんだか……てか、何でおまえってあんなに仕事が多いんだ? 捜査に割く時間がないじゃないか。みんなしていいように使いやがって」
 苛立った声で、自分が自分に詰め寄ってくる。何とも不思議な光景だ。
「何がコーヒーの味が冴えない、だ! 文句があるなら自分で淹れろ、バカヤロー! 5年も前の新聞記事なんか、そんなに早く見つかるかっ、てか、あいつらの好き嫌いまで僕が知ったことか! イヤなら食うな!!」
 あの沈黙の間に頭の中で叫ばれたに違いないセリフを音声にしてスッキリしたのか、薪はどさっと椅子の背にもたれ、優雅に足を組んだ。
 
「あんな大量の雑用、よくひとりでこなしてたな」
 普段、青木に言いつけられる雑用は薪からのものがダントツに多いのだから、今日はそれほどでもないはずだ。しかし、それを言うと張り飛ばされるかもしれない。痛いのも嫌だが、薪の身体に傷をつけたくない。
「朝練もきついし。腕立て伏せと腹筋100回って、おまえプロレスラーにでもなるつもりか?」
 岡部が決めた特訓メニューは、特殊班並みの厳しさだ。薪は実際に不特定多数の団体から命を狙われているのだから、彼を守ろうと思ったら、いくら鍛えても足りないくらいだと言われた。
「岡部は全然容赦しないし。投げ飛ばされて、あちこちアザだらけだ。おまけに先週の木曜、僕がだるそうにしてたけどあれはおまえのせいだろう、って言われて何度も関節技決められて、痛いのなんのって」
「岡部さんはそれだけ、薪さんのことを大事に思ってるんですよ」
「どうしてその報いを僕が受けなきゃならないんだ! 理不尽じゃないか!」
「すみません……」
「僕の顔して謝るなっ! なんかむちゃくちゃ腹立つぞ!」
 どうしろと言うのだろう。
 薪の中にも明確な答えがあるわけではなく、現況の不満を事情の通じる青木にぶつけたい、それだけらしい。

「おまえの方はどうだ。会議とか、おかしな発言してないだろうな」
「発言どころか、話してる内容が良く分かりません」
「それでいい。何を聞かれてもその場での即答は避けて、僕に指示を仰げ。特に、第九の権限を侵そうとする捜一には、甘い顔するんじゃないぞ」
 眼鏡の奥から切れ長の黒い眼が、ぎろりと青木を睨んでいる。見慣れた自分の顔のはずなのに、何故だかすごくこわい。オレって、こんなコワイ顔できたんだ。

「会議と言えば、これ。間宮部長から預かりました」
「お、早いな」
 今朝の会議の際、間宮に渡された封筒を差し出すと、薪はすぐに中の書類を検めた。細かい文字がぎっしりと並んだそれを一瞬で読み下し、満足そうに頷くと、
「バカとヘンタイは使いようだな」
 と、有名な格言をもじった。間宮の用意した書類は、薪を満足させたらしい。
「それって、二課の課長の身上調査ですよね?」
「なんだ、見たのか。他言無用だぞ」
「もしかして、こないだ小池さんにイチャモン付けてきた件ですか?」
 
 二課の課長は警視総監の息が掛かった男で、昔から薪とは仲が悪かったのだが、二課に在籍して詐欺事件を担当し、見事な検挙率を誇っていた小池が第九に引き抜かれてからというもの、薪を目の仇にしていた。今回の件も言い掛かりに近く、以前小池が担当した事件の犯人に余罪が出てきて、その責任の在りかを明確にするとか何とか。
 確かに自分が担当した事件ではあるが、何年も前の事件を持ち出されても、と小池も困っていた。

「イチャモンじゃなくて、引抜きだ。二課は小池が欲しくてたまらないんだ。小池は生まれつき、言葉に対する感覚が優れている。微妙なニュアンスを読み取るのが上手いんだ。詐欺事件を洗うのに、これ以上強い武器はないからな」
 一言多いのが欠点の第九の失言王子は、裏を返せばそれだけ優秀な言語能力を持っているということ。薪もその点は高く評価している。
「でも、おいそれと渡すわけにはいかん。第九にとっても小池の読唇術は貴重なんだ」
 面と向かって言葉にしたことはないが、薪が部下たちを大切に思っていることはよく解っている。今度のことだって、二課の課長に対抗するために、反りの合わない警務部長に頼んでこの資料を……。

「どうした?」
 急に顔色の曇った青木に気付いて、薪が首を傾げる。この動作を薪がするとアッパーカットに似た衝撃が来て、青木はいつも頭がクラクラするのだが、自分がやると何と言うかその……アホっぽい。
「いえ。それを受け取るときに、お尻さわられたの思い出して……」
 青木が嫌悪と共にそのことを告白すると、薪は烈火のごとく怒り出した。無理もない、さわられたのは薪の身体なのだ。

「間宮には隙を見せるなって、あれほど言っただろ! 顔見たらとりあえずグーパンチで一発行っとけって、僕のアドバイスを実行しなかったのか」
「できませんよ、そんな乱暴なこと。仮にも相手は警視長ですよ」
「僕だって警視長だ」
 そういう問題ではないと思うが。
「でも、この資料欲しかったんでしょう?」
「大丈夫だ。殴ったくらいじゃ、間宮は懲りないから」
 間宮と薪の関係がよく分からない。ある意味、彼を信頼しているのだろうか、それとも限りなくバカにしているのだろうか。
「いいか、この次からケツ触られたら腹に蹴り、揉まれたら股間に蹴りだ。でないと、その場でズボン降ろされて突っ込まれるぞ」
 どこまで危険人物、いや、ヘンタイだと思われているのだろう。少し可哀相になってきた。この資料だって、薪の頼みだから用意してくれたのだろうに。

「いくら何でも過剰防衛じゃないんですか」
「うるさい、誰のために守ってやってると思ってんだ」
 言ってしまってから、ぱっと頬を赤らめて口元を手で覆う。薪は興奮すると口が滑るタイプだから、こういう可愛らしい失言はけっこう多くて、その度に青木は彼を抱きしめたくなるのだが。

「……そそらない……」
 いくら人間見た目じゃないと言っても、あれはやっぱりタテマエだ。しかもそれが自分の姿とくれば、また別の意味で歯止めが掛かる。

「そうだ、岡部さんには事情を話してくれたんですよね?」
 思いついて、青木は確認する。
 入れ替わりの事実は、みんなには秘密にしておくことに決めた。そんな非科学的なことを誰が信じるか、というのが一番の理由だが、実はもうひとつ、大きな危惧がある。
 入れ替わったときの状況だ。
 何故あんな時間にふたりきりで職場にいたのか、何をしていたのか、何が原因でこの珍現象が起きたのか(これは当人たちも知りたいが)それらを追求されたら、ふたりの秘密の関係が公になってしまう。これが職務に関することなら鉄壁のポーカーフェイスで撥ね退ける薪だが、こういうことになると途端にヘタってしまうのがこのひとの特徴で、下手をすると青木より分かりやすい。第九の職員たちの嵐のような尋問に、耐え切れるとは思えない。
 岡部だけはふたりの特別な関係を知っているから、協力してもらおうということで話が決まったのだが。

「いや、それが……なんか、上手く言えなくて。言わないほうがいいような気もするし」
「岡部さんにだけは本当のことを話してフォローしてもらおうって言ったの、薪さんじゃないですか」
「だって、あんなこと言われたら気恥ずかしくて! 元はと言えば、おまえが悪いんじゃないか!」
 また人のせいにして。それは薪の専売特許だが、あれは薪がやるから可愛いんであって、自分がやったら可愛くも何ともない、てかムカツク。
 それでも中身はやっぱり薪で、照れたときのクセで横を向いて口元を覆う仕草を見れば、何となく彼の面影をそこに重ねて青木は心をざわつかせる。
 一刻も早く、元に戻りたい。可愛い薪を見たい。

「あの、今日一日、元に戻る方法をネットで調べてみたんですけどね」
「おまえ、仕事もしないでそんなことやってたのか」
 ボロが出るといけないから、不機嫌を装って室長室に閉じこもっていろと命令したのは薪だったはずだが。
「一番多いのが、入れ替わったときと同じシチュエーションで同等級の衝撃を与える、というパターンみたいです」
「同じシチュって、おまえ」
 薪の、いや青木の顔が歪んだ。何を考えたのかすぐに解ったが、それは自分でも無理だと思っていた。自分相手に欲情なんかできないし、自分に抱かれるなんてありえない!

「いや、それは不可能ですから。ええもう色んな意味で」
「だよな。僕、男のハダカ見ても勃たないし」
 そうなのだ、このひとは普通に女性の身体に反応するのだ。昔、ただの友だちだったころには一緒にAVを見たこともあるし、歌舞伎町のお風呂屋さんに連れて行かれたこともある。女の子の裸体を見て、薪はちゃんと反応していた。あのとき青木は、真面目に性転換を考えた。

「椅子から転がり落ちる、というのだけ試してみましょうか。場所も関係してるかもしれませんから、そちらのモニタールームで」
 少々の痛い思いは仕方ない。事態は急を要するのだ。
 今はまだ凶悪事件が起きていないから仕事も何とかなっているが、何かしらあればそこでアウトだ。薪が室長として動けなかったら、第九は機能しない。職務上の失態は許されない。ひとの命に関わることだし、第九の失墜を狙っているものはたくさんいる。その者たちに付け込まれる隙を与えてはならない。

 薪と第九を守らなければ。
 青木は強く心に誓い、室長室の扉を開けた。


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ジャンル : 小説・文学

ハプニング(5)

 最近、キーボードを変えたのですよ。

『FILCO』 というメーカーのキーボードなんですけど、これがすっごく打ちやすい!!
 わたしはもともとメカニカルキーボードの感触が好きで、今まではサンワの製品を使っていました。 
 前のキーボードは壊れたわけではないのですが、キーの文字が掠れて見えなくなってしまって。 その消えた文字というのが、
『A、M、O、K、I、U、N』
……わはははは!!! (掠れた理由に心当たりがありすぎて、笑うしかない)

 別に文字は見えなくてもタイピングに差し支えはないのですが、オットに勧められて事務所のキーボードを FILCO に替えてみましたら。
 これがしっくりと指に馴染むようで~~、今もキーを叩きながら恍惚としております♪
 好みもあると思いますけど、値段的にも千円くらいの差だったら、わたしは絶対にこっちですね。

「すっごくいい!」と褒めまくったら、気を良くしたのか、オットが自宅のPCの分も買ってくれました。 というわけで、現在わたしはキーボードを叩くのがとても楽しいのでした~~♪
 と言っても、現場に出なきゃなので、なかなか事務所にいられないんですけどね☆
 でも、今日と明日は現場がお休みなので、更新したいと思います。 よろしくお願いします(^^








ハプニング(5)





 青木の提案で、ふたりはモニタールームで実験を試みることにした。青木はどこからか大判のマットを用意してきて、昨夜自分たちが倒れこんだ辺りに置いた。元に戻れても大怪我をしたら何にもならない。椅子から転がり落ちるだけとはいえ、打ち所によっては脳障害も起こりうる、その危険性は二人とも承知していた。
 あの時と同じように青木の席で、向かい合わせに抱き合って青木の膝に薪が腰を降ろす。それで準備は完了だ。

 自分の腿に座った身体に、薪は納得できない気持ちになる。
 自分はこんなに小さかっただろうか。手も足も情けないほど細くて弱々しくて、青木の立派な体躯に比べたら寸足らずの人形のようだ。青木はいったい、こんな身体のどこが良くてあんなに僕を欲しがるのだろう?

「昨夜と同じ体勢になったほうが、成功率が高いと思われます。薪さんが足で床を蹴って、イチニイサンでマットの上に倒れましょう。いいですか? 1、2」
「ちょっ、ちょっと待て。僕、そんなに足開いてたか?」
 薪の足は身長に比例してそれほど長くはないから、青木の体型に合わせると大きく広がる形になってしまう。自分の姿は自分には見えないし、その最中は夢中だから自分がどんな格好をしているか気にする余裕はなかったが、頭が冷静な状態で相手の目から改めて見ると、その姿はひどくはしたない。服を着ていてこれだから、これが裸になった暁には……ダメだ、脳内映像にモザイクがかかった。

「いえ、実際はこんな具合にオレの腰に絡んで、薪さん自身はこんな風に上下に動いて」
「うそだ! そんなことしてないぞ!!」
「してましたよ。昨夜の薪さん、すごかったんですから」
「僕が動いたんじゃない! おまえがこんな感じでガンガン突き上げてきたから、だから自然に」
 はた、と薪の顔、いや青木の顔が固まった。おずおずと自分の足の間に目を落とす。

「あれ? なんか……反応しちゃったんだけど……」
「雰囲気なんか何にもなくたって、物理刺激で反応しますからね。木の枝に擦り付けたってイケますものね。男って悲しい生き物ですよね」
「木の枝ってなんだ、どーゆープレイだ!」
 若い頃から淡白だった薪には、思春期の頃にも劣情を持て余した覚えはない。すべての能力を頭脳と美貌に使い果たして、こちらの方面には残り滓しかない、薪は正にその典型だった。
 昔からそういう気分が盛り上がらないと身体も反応しない、例え反応しても自己処理をすればそれで満足で、特に相手を必要としなかった。だから本当は女性経験も5本の指に余るのだが、それは青木には秘密だ。12歳も年上の自分の方が経験が少ないなんて、男の沽券に関わるからだ。

「どんだけ溜まってんだ、エロガキが」
「だって、薪さんなかなかOKしてくれないし、昨夜だって途中で……1ヶ月に2回じゃ足りないんですよ」
 薪にしてみればそれだって多いくらいなのに。若いってのは面倒だ。

「まあ、昨日のオレもその状態だったわけだから、いいんじゃないですか。じゃ、行きますよ」
 数を3つ数えて、薪は思い切り床を蹴った。鍛え上げられた脚力は薪の想像を遥かに超えて、思ったより軽々と二人の身体は宙に浮いた。と思うと、自然の法則で下方に落下し、青木が用意したマットの上に右肩から突っ込んだ。

 どすん。

 マットのおかげで大した痛みはない。しかし、彼らが期待した奇跡も起きなかった。
「……もう一度、試してみますか?」
「そうだな」
 何度か繰り返してみるが、一向に奇跡は訪れない。二人とも柔道を習得しているから、きちんと受身は取れているのだが、逆にそれが失敗の原因かとも思い、敢えて受身を取らずに試してみるが、やっぱりうまく行かない。
 大した期待はしていなかったが、所詮青木の考えることなんかこの程度だ。

「どうしましょう。これからオレたち」
 失意にうなだれる小さな人影。心なしか、声も震えている。
 マットの上に正座して呆然と視線を浮遊させる、自分の丸まった背中をぱしんと叩き、薪はすっくと立ち上がった。
「大丈夫だ、僕に任せとけ。必ず元に戻れる方法を探し出す」
 昨夜のパニックが嘘のように、薪は毅然とした口調で言い切った。勝算があるわけではないが、部下の不安を取除くのは上司の役目だ。
 一日過ごして、これが夢でも幻でもないことが分かった。現実なら受け入れるしかない。その覚悟ができれば、薪は強い。

「それまで、僕はおまえの務めを果たすから。おまえは僕になりきれ」
「そんな、無茶ですよ。オレに室長の仕事なんて!」
 甲高く裏返った情けない声で、青木は叫んだ。無理もない、自分だって入れ替わった相手が小野田あたりの高官で、明日からその仕事をこなせと言われたらパニックになってしまうだろう。
 青木がオタオタする様子はいつもなら笑えるのだが、それが自分の姿をしているとなると笑うどころかしっかりしろと怒鳴りつけたくなる。しかし、これの中身は若干25歳の青木一行で、その年の自分がまだ一課の一職員で大した責任も担っていなかったことを考え合わせると、充分に同情の余地はある。
 そこで薪は青木の目線に合わせて長身を折り、細い膝に置いた小さな手をじっと見つめている青木を安心させるよう、しっかりした声音で言った。
 
「安心しろ、僕がフォローしてやる。上手い具合に、てのは語弊があるけど、おまえの次の仕事、特捜(すでに刑が執行された死刑囚の脳を起訴内容と照合する捜査)だろ?」
「ああ、昨日刑が執行されたんでしたね」
 猟奇事件の死刑囚の脳は、処刑当日に第九に回される。それはすでに慣例になっており、職員のシフトの都合上、事前に担当者を決めることにしている。特捜は通常の捜査に比べて精神的な負担が大きいから、ひとりに集中しないよう、なるべく公平に当たるようにしている。今回は青木の番なのだ。
「昨日の夕方に脳が届いてたから、明日にでも捜査にかかれる。そのサポートに僕が入ることにすれば、職務時間中は二人きりでいても不自然じゃない。休日も休み時間も、なるべく一緒に」
 薪が、ふたりが一緒にいるのが自然に見える方法をあれこれ考えていると、青木はそれまで不安そうに揺らしていた亜麻色の瞳に暖かいものを湛え、薪の顔を見てふわっと笑った。自分の顔だが、それはなかなかにかわいいと不覚にも薪は思い、青木が自分を可愛いと言うたびに殴り倒していたことを思い出して、軽いジレンマに陥った。

「なんで笑ってんだ、おまえ」
「薪さんと一緒にいられる時間が増えるのはうれしいです」
「呑気なこと言ってる場合か!」
 青木のKYを嗜めるが、彼の気持ちが上向きになってくれたのは嬉しい。ここからは、ふたりのチームプレイが鍵になる。

 薪は右手の拳を握って青木の前に出した。気付いて、青木が自分の拳を合わせてくる。
 亜麻色の瞳を見つめて、薪は削げた頬に好戦的な笑みを浮かべた。


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ハプニング(6)

ハプニング(6)




「青木、ちょっと来い」
 名前を呼ばれて、彼は机の上を拭く手を止めた。声のした方を振り向くと、大きな背中が部屋の隅っこで何かしている。資料用キャビネットの整理をしているらしい。手伝え、という意味だろうと思ってそこに駆け寄った彼は、大きな目を細めて呆れ果てた声を出した。

「なんですか、これ」
 半開きになった亜麻色の瞳がかろうじて映しているのは、キャビネットの一番上の棚に置かれた一対の榊と、小皿に盛られた塩と米。
「見れば解るだろ。神棚だ」
 こともなげに答えて長身の男は、薄い和紙に包まれた四合瓶をお神酒に捧げ、パンパンと拍手を打つ。

「あの、薪さん。これは一体……」
「あんまり大っぴらに飾るわけにもいかないだろ? だから中身の整理をして、キャビネットの中にスペースを作ったんだ。元に戻れるように、これから毎日拝めよ」
 資料を探すのは新人の仕事だから、この扉を開けるのはこれを設置した本人だけ、とそれは納得のいく場所のチョイスだったが、彼が聞きたいのはそういうことではない。
 
「元に戻れるようにって、まさか、本気でMRIの神さまが、オレたちを入れ替えたと思ってるんですか?」
「今のところ、それ以外の理由が思いつかない」
 美貌の青年は何事か言いかけたが、すぐに細い首を振って諦めたように息を吐き、再度上方を見上げた。小柄な彼がそれを見るには、首を思い切り反らせる必要があった。

「……なんでご神体が鈴木さんの写真なんですか?」
 ヘンに抑揚のない調子で質問を投げた彼に、長身の男は平然と答える。
「第九の神様的存在って言ったら、鈴木しかいないだろう?」
「神さまなんだ……勝てないわけだ……」
 意味不明の呟きを洩らすと、青年は投げやりに小さな手を2回打ち鳴らした。青年が神棚に向かってお辞儀を終えたのを確認して、大柄な男はキャビネットを閉じ、鍵を掛けた。
 それから時計を確認して、青年に室長室へ行くよう指示をする。そろそろ職員たちが出勤してくる頃だ。ここで一緒に掃除をしていたら、みなにおかしく思われる。

「おはようございます!」
 朝の掃除をしているところに入ってきた小池に、陽気に挨拶をする。入れ替わって3日目、部下相手の敬語にもやっと慣れてきた。
「おはよう。おまえはいつも元気でいいなあ。悩みとかないんだろ」
「失礼な。ありますよ、オレだって悩みくらい。今日の昼メシ、何にしようかなあとか」
「ははっ、青木らしい」
 ざっとこんなもんだ。だれも中身が薪だとは気付くまい。

 青木一行という自分とは正反対のキャラクターを演じながら、薪はこの状況を密かに楽しんでいる自分を見つける。
 不謹慎だが、これは正直な気持ちだ。というのも、青木の身体は思ったよりずっと快適なのだ。
 まず、身長が高いから周りの人間を見下ろすことができる。常に他人のつむじが見えるという優越感を、薪は生まれて初めて味わった。中々に気分がいい。
 更にうれしいのは、セクハラの被害を心配しなくていいということだ。電車に乗っても痴漢に遭わないし、間宮の姿を見かけても遠回りしなくて済む。第九の連中の人使いの荒さは室長命令で減少しているし、キライな会議には出なくていいし。いいこと尽くめだ。

 薪の楽天的な心境には、理由がある。
 不安の要素は多々あるが、どうせこれは一時的なものに過ぎないと薪は踏んでいる。科学的に説明が付かないことは、長続きしないものだ。長期的かつ多発的な現象なら、とっくに学説が確立されているはずだ。それがないということは、研究に足るほどの期間、この珍現象は続かないということだ。
 長くても1週間と言ったところだろう。だったら、楽しんだほうが得だ。

 引き換え、青木の方は大変らしい。
 謙虚さが身に染み付いている青木は、どうしても部下である職員たちに上司らしく振舞うことができない。部下なんか家畜と一緒だ、とまで言い切る薪の暴君振りを模倣することはおろか、タメ口さえあやしい。
 おかげで薪は大忙しだ。
『さん』付けで呼ばれて青ざめていた宇野には、「薪さんが新しい嫌がらせを開発したみたいですね」と嘘を吐き、付箋が付いた報告書を「お願いします」と渡されて卒倒しそうになっていた曽我には、「嫌味な言い方ですねえ」とフォローを入れておいた。それで部下たちに納得されてしまう自分の上司像が少々、いやかなり腑に落ちなかったが、事態が発覚するよりはマシだ。本当は岡部にだけは事情を話そうと思っていたのだが、なんかもう、今更言えないって感じだ。

 日中、ふたりは特捜にかこつけて第四モニター室に篭り、画の確認のほうは青木に任せ、薪は上がってきた報告書の精査をする。指摘箇所に付箋をつけ、青木に持っていかせる。これで第九のほうは何とかなる。問題は部署外の仕事だ。
 薪がフォローできるのは、あくまで室長と部下が行動を共にできる範囲だ。室長のみが参加を許された会合や、人権擁護団体役員相手の接待等には同席できない。青木からトラブルの報告は受けていないが、自分の目の届かない所はどうも心配だ。

「薪さん、新しい方法を見つけたんですけど」
 第四モニター室で薪が買って来た昼食を摂りながら、青木が言う。この3日で、このセリフを聞くのは何度目だろう。
「雷に打たれて入れ替わった話があるみたいです」
「……却下」
「滝つぼに落ちたら、元に戻ったって話も」
「意識が戻らない確率の方が高くないか?」
 無謀な提案を打ち捨てるように没ると、青木は主に叱られた子犬のようにうなだれた。青木の気持ちは分からなくはない。早く元に戻りたいのだ。青木の生活は快適だ。薪の生活よりずっと楽しい。

「薪さんの方は、何か収穫ありましたか?」
「うん。調べてはいるけど。おまえの案と似たようなもんだ」
 そうですか、とため息を吐いて箸をしまう。弁当の中身は半分も減っていない。
「青木、それ残すのか? 食っていいか?」
「あ、どうぞ」
 とにかく、この身体は腹が減る。自分でもびっくりするくらいたくさん食べられるのだ。この身体でいるうちに山水亭に行って、フルコースを食べ切ることができたら、一生の思い出になるに違いない。

「おまえの身体って快適だな。食事は旨いし、夜はよく眠れて。思いっきり仕事しても疲れないし」
 楽しそうに食事をする薪とは対照的に、青木は深いため息を吐くと、モニター室を出て行った。程なく、2人分のコーヒーを持って帰ってくる。薪の姿で頻繁にコーヒーを淹れていたら怪しまれるから、研究室に職員がいないこの時間帯だけが青木のコーヒーを飲めるチャンスなのだ。

「お、サンキュ。う~ん、いい香りだ」
 鼻孔をつくコーヒーの香は、自分が淹れたものとはまるで違う。魂を揺さぶるような、深みのある馨だ。
「そうだ、後でコーヒーの淹れ方教えてくれ。これさえマスターすれば、僕は完璧な青木一行だ。いっそのこと、このまま青木一行として人生やり直そうかな」
 薪がおどけると青木は微笑して、「薪さんは」と言った。気楽でいいですね、と言われるのかと思ったが、青木はそんな嫌味は言わなかった。

「薪さんは、本当に大変な毎日を送ってらしたんですね」
 青木は自分のコーヒーカップを机の上に置き、軽く握った手を右目の下に添えた。それは彼がいつもしている眼鏡を押し上げる動作だったが、曲げた中指に触るものはなく、そのことに気付いて青木は苦笑した。
「オレはずっとあなたを見てきたつもりでした。だけど、全然わかっていなかった。仕事量が多いのは覚悟してましたけど、何よりも針の筵みたいな他部署との会議や擁護団体との会合や……あなたの偉大さを改めて知りました」

 湯気で曇るレンズの向こうに見える彼は、打ちひしがれて弱りきっていて、この入れ替わり生活にほとほと嫌気が差しているようだった。無理もない、青木は元々、他人と諍うことが苦手な平和主義者だ。面と向かって非難されることには慣れていない。その心痛は、察して余りある。
 しかし青木は、ぱあっと太陽みたいに笑って、
「もしかしたら、これは神さまが薪さんに与えてくださった休暇なのかもしれません。オレなんかの身体で申し訳ないですけど、あなたが少しでも楽しい思いをしてくださってるなら、オレ、このままがんばりますから」

 もう何年もこんなふうに笑ったことのない自分の笑顔を見るのはとても違和感があって、薪の胸がざわざわと騒ぐのはそのせいだ。青木のこういうところに僕は心底参ってる、とか今更思ってるわけじゃない。
 思ってるわけじゃないけど……本当に、こいつにはかなわない。

「そうだな。神さまってのは、ちゃんといるのかもしれないな。この健康で大きな身体は、そのご褒美ってわけだ」
「ええ。きっと薪さんの頑張りを見て」
 バカ、神さまにご褒美をもらってるのはおまえの方だ。僕のひねこびた性格には、チンケで貧弱な身体がお似合いってことだ。
 きれいで真っ直ぐな青木。その伸びやかな魂。その器に、矮小な肉体は相応しくない。

「もう一度、試してみようか」
「はい?」
「モニタールームで、おまえの席で。なんか、今なら戻れそうな気がする」
 急な話の展開についていけず、きょとんとする青木の腕を引いて立ち上がらせ、モニタールームに向かう。昼休みで誰もいない職務室で、ふたりはあの夜の体勢を取る。

「マットの用意がありませんけど」
「試すのは1回だけだ。ちゃんと受身取れよ」
「オレの身体、反応してないけど平気ですかね」
「それは関係ないだろ。いくぞ」
 左足で床を蹴って、椅子ごと右側に倒れる。ガシャン!という大きな音がして、リノリウムの床が振動した。

「て、痛って……やっぱ、マットが無いときつい」
「そうですね」
 薪は痛めた右肩をさすりながら、上体を起こした。同じように左足を擦っている相手を見る。薪の視線に気付くと、青木は少しだけ困ったように笑った。
「痛み損でしたね」
「そうだな」

 気持ちの問題ではないらしい。
 衝撃、タイミング、元の身体に戻ろうとする強い意志。そんなものとは関わりの無いところで、このハプニングは起きたということだろうか?
 認めたくはないが、人智を越えた何かが関与しているとなると、じたばたしてもムダ、ということになるが。

「手の出しようが無いか」
 神棚を設えてみたりしたけれど、薪は基本的に神の存在など認めてはいない。あれは、何というかシャレ的なもので、だって青木があんまり不安そうだったから。何かしら拠り所を作ってやろうと思って。
「自然に任せるしかないかもしれないな」
 薪がため息混じりに呟くと、青木は神妙な顔つきになり、はい、と頷いた。


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ハプニング(7)

ハプニング(7)





 正午を告げるチャイムを聞くと同時に、曽我は席を立った。隣の席で小池が、うーん、と唸りながら背伸びをしている。
「小池、今日の昼メシ、銀洋亭のランチにしようぜ」
「おう。薪さんが特捜に掛かってる間くらい、外へ食いに行かなきゃな」
 悲しいことに彼らは、「仕事最優先、食事は単なるエネルギー補給に過ぎない」という自論を部下にまで押し付ける室長のせいで、しばしば食の楽しみを奪われている。室長の目が届かないときくらい、昼休みを満喫したいと思うのは当然の心理だ。

「青木はどうする?」
「そうだな。一応、声掛けてみるか」
 小池は携帯電話を取り出し、後輩のアドレスに手早くメールを打った。
 青木は現在、室長とふたりきりで特捜に掛かるという、第九職員にとってこれ以上はないくらい不幸な境遇にある。あの状態は、例えるなら地獄の最下層だ。せめて昼休みくらい、哀れな亡者から人間に戻してやりたい。

「あ、でもどうだろう。あの事件て、あれだろ? かなりグロイ画を見てるはずだけど、青木のやつ食欲残ってるかな」
 特捜に掛けられた事件の概要は、小池たちも知っている。
 不倫の果ての一家惨殺事件の犯人、世間から魔女と罵られた女性が今回の捜査のターゲットだ。不倫関係にあった男とその妻、子供2人を殺して逮捕された。死刑が求刑されたのは4人もの人を殺した罪の重さもさることながら、その遺体に加えられた残酷な仕打ちも大きな要因を占めていた。
 殺された4人の被害者は、顔の皮を剥がされていた。
 男も妻も子供たちも、剥き出しの筋繊維と神経を晒し、初動捜査に当たった警察官たちを戦慄させた。その惨状から『魔女』という流言も生まれたのだ。
 犯人の脳には当然、皮を剥ぐ様子も映っている。グロテスクな画が苦手な青木には、かなり厳しいはずだ。

「そうだなあ。青木が行くって言ったら銀洋亭のハンバーグは諦めて、三笠屋の天ぷらにするか」
「天ぷらもきついだろ。松乃の蕎麦にしといてやれよ」
「えー、蕎麦じゃ夕方まで持たないよ。3時には腹が減っちまう」
 そんなことを話しながら、特捜が行なわれている部屋へ向かう。

 第九には、モニター室が4つある。第一モニター室には巨大なメインスクリーンがあり、ここが普段の捜査に使われている。第二から第四は特捜など、担当者以外の者が情報を得ることはできない極秘捜査のための個室になっている。
 その第四モニター室から、おぼつかない足取りで出てきた人影を見て、ふたりは首を傾げた。

 廊下の壁にもたれるようにしてよろよろと歩く姿は、間違いなく鬼上司のものだったが、彼のこんな頼りない背中はこれまで一度も目にしたことがない。第九では連続の徹夜作業も珍しくもないが、徹夜明け屍累々といった有様の中、薪だけはシャキッと背筋を伸ばして昂然と頭を上げているのが常である。
 かといって、薪が人並みはずれてタフかというと、そうでもない。年を重ねても一向に衰えない美貌からサイボーグ説まで浮上している薪だが、実際はその細い体躯に見合った体力しか持っていない。結果、薪の身体は、限界を超えると同時に意識を失い自動的に体力回復を図るという荒業をやってのけるようになった。その生命維持機能が働いて突然倒れる直前ですら、彼の背筋はきれいに伸ばされているのに。
 これは只事ではない。

「大丈夫ですか、室長」
「俺に摑まってください、仮眠室へ」
 曽我の腕にすがった室長は、真っ青な顔をして右手で口元を押さえている。ぎゅ、と目をつむって、とても辛そうだ。
「仮眠室の前にトイレだ。……ですね」
 モニター室から現れたもうひとりの男が、冷めた口調で言った。曽我の腕から薪の身体を引き取り、荷物でも扱うように自分の肩に担ぎ上げた。

「薪さん、体調悪いのか?」
「いや。けっこうキツイ画だったんで、そのせいですよ」
「そんなわけないだろ。あの薪さんが画に酔うなんて」
 青木はそれに答えず、黙って洗面所がある方向へ大股に歩いて行った。

「あ、今日は銀洋亭ですよね。ちょっと待っててくださいね、これ運んだら直ぐに行きますから」
 思いついたように振り返ると、ふたりに声をかけて、青木は廊下の角を曲がった。廊下に立ったまま、小池と曽我はまたもや首を傾げる。
「コレ?」
「運ぶ?」
 青木が薪に心酔していることは、すでに第九の中では朝太陽が昇ることと同じくらい当たり前のことだった。薪が倒れたりしたら青くなって飛んできて、大事そうに抱えてベッドへ運び、薪が眠っている間も何度も仮眠室へ様子を見に行く。眠って食べれば元気になるのが分かっていても、平静ではいられないらしい。
 その青木が、薪の身体をモノ扱いするなんて。

「何かあったのかな、青木のやつ」
 細い目を一層細めて、小池は思慮深げに腕を組んだ。
「ここ最近、どうもヘンなんだよな。何日か前もさ、青木に『おまえ悩みなんかないだろう』って言ったんだよ。そしたら『失礼な、悩みくらいある。今日の昼飯のこととか』みたいな返事が返ってきて」
「はは、青木らしいな」
 坊主頭を掻いて、曽我はひとの良さそうな笑みを浮かべる。陽気で朗らかで、自分とは正反対の友人の性格を、小池は少しだけ羨ましいと思っている。
 
「内容はな。でも青木なら、最初の一言は言わないと思う」
 小池が指摘すると、曽我はきょとんとした顔になって、ああ、と頷いた。
「咄嗟の一言って、人間性が出るんだよな。あれは青木には相応しくない言葉だ」
「そうだな。でもまあ、青木もここに来て3年だろ? いつまでも新人じゃないし、喋り方もくだけてきて当たり前じゃないのか」
「馴れ馴れしいのとは、また違うんだよな。なんかこう、ニュアンスが」
 そこで小池は言葉を切った。青木の姿が廊下に現れたからだ。

「お待たせしました、早く行きましょう」
「薪さんは?」
「仮眠室に寝せてきました。まだ気持ち悪いって」
「おまえ、ついてなくていいの?」
「え? どうしてですか?」
「どうしてって」
 それはこっちが聞きたい。

「早く行かないと、昼休み無くなっちゃいますよ」
 先に立って歩き始める青木に、またふたりは違和感を感じる。青木はいつも、ふたりの後を付いて来ていたのに、自分が先頭に立つなんて。
「小池さん、曽我さん。どうかしました?」
 ふたりの歩みの遅さを不審がったのか、青木が振り向いた。いくらか眉を寄せたその顔つきは、中々に精悍で男らしい。最近、女子職員の間で青木の人気が鰻登りだという眉唾物の噂は、1%の真実を内包しているのかもしれない。
「いや。早く行こうぜ」
 曽我が青木の横に並び、ふたりは小池の前を歩き始めた。青木はちらりと不審がる顔を見せたが、すぐにいつものように笑って、曽我と他愛ない話を始めた。
 
 青木の大きな背中を見ながら小池は、こいつも逞しくなったもんだ、と感慨深いものを抱く。
 第九に入ったばかりの頃は甘ったれたツラして、図体はでかいが威圧感は感じなかった。取っ組み合いのケンカになっても、勝つ自信があった。
 現在の青木は、柔剣道共に岡部に仕込まれて、身体も引き締まったし武道の実力も上がった。精神面も強くなり、凄惨な画も正視できるようになった。こいつはずっと、努力してきた。その自信がようやく表に出てきた、そういうことなのかもしれない。
 そんな理屈で小池は、自分の中に生まれた僅かな疑念に折り合いをつけ、同僚の後を追いかけた。




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ハプニング(8)

ハプニング(8)




「おーい、青木くん!」
 昼の弁当の買出しに行く途中の廊下で、聞き覚えのある声に呼び止められた。
 青木と呼ばれて、自然に振り返る。青木の身体に入って1週間、名前を呼ばれると反射的に身体が反応するようになった。

「雪子さ……三好先生。こんにちは」
 白衣の裾を蹴立てるようにして駆けてくる女性に、薪はにっこりと笑いかける。薪が世界で一番幸せになって欲しい女性、それが彼女だ。
 三好雪子は薪の親友で、将来は青木の奥さんになるかもしれない女性だ。矛盾極まりない話だが、青木と恋人関係にありながら、薪は彼女と青木が結ばれてくれることを期待している。
 自分には決して与えてやれない青木の幸せがあることを、薪は知っている。それは女性にしかできない、つまり彼の妻となり、彼の子供を産むこと。
 青木が子供好きなことは周知の事実だ。青木は今のところ薪に夢中で、そんなことは頭の片隅にもないのかもしれないが、将来的にはきっと出てくる問題だ。そうなったときには、自分は身を引かないと。青木の幸せを妨げるようなことだけはしたくない。そして彼の子供を産む幸せな女性は、できれば雪子であって欲しい。
 雪子なら、諦めがつく。彼女には逆立ちしたって勝てない。

 ヒールの音をカンカン響かせて薪の傍に立ち、雪子は薪を見上げた。黒いキラキラした瞳に上目遣いに見られて、薪はときめいている自分を自覚する。
 驚いた、上から見ると雪子さんは可愛い。ゴージャスな美人というイメージが強かったのに、自分の身体が大きくなったせいか、雪子が華奢に見える。それでいて盛り上がった胸の魅惑的なことと言ったら。
 それが目に入った途端、こめかみの辺りがカッと熱くなる。これは、青木の身体が反応しているのだろうか。男として当たり前の、女性に対する本能的な欲求。青木はいつもそれを雪子に感じているのだろうか。
 
 胸の中でざわりと蠢いた不愉快な感覚に気付かない振りをして、薪は「何かご用ですか」と雪子に尋ねた。真っ赤な口紅を塗った魅力的な唇が開いて、歯切れの良いアルトの声が響く。彼女のきっぱりと潔い話し方を、薪は好ましく思っている。
 
「こないだのあれ、試してみた? うまくいった?」
「あれってなんですか」
「帆掛け舟。図解してあげたでしょう?」
 ふね? 図解?
 さっぱり解らないが、おかげさまで、と答えておく。青木と入れ替わっていることは、もちろん雪子には内緒だ。お祭り好きの雪子にこの事実を知られたら、想像を絶する騒ぎになるに違いない。当たり障りのない会話を心掛けて、この場を凌がないと。

「次はツバメ返し、行ってみる? 薪くん、身体柔らかいからイケルと思うんだけど」
 ツバメ返しは知っている、柔道技の一つだ。が、雪子の言う「身体が柔らかいからいける」の意味がわからない。柔道のツバメ返しは、相手の足払いを避けて逆に足払いをかける技だ。相手の柔軟性に左右される技ではない。
 あと思い当たるのは剣術。宮本武蔵のライバル佐々木小次郎の技だ。じゃあ、これは剣道の話か。しかし、剣道に柔軟性が必要なのか? そもそも、どんな技だっけ?

「薪さんには無理ですよ。経験もないのに」
 薪は、剣道はやったことがない。身体の柔らかさには自信があるが、いきなり高等剣術を要求されても。
「あら、大丈夫よ、試してみなさいよ。あんた初めは信じなかったけど、×××の×××スポットだって、あたしが言ったとおりだったでしょう?」
「はっ!?」

 女性の口から信じられない言葉、というか放送禁止完全アウトの用語を聞いて、薪は目が点になる。雪子とは15年来の付き合いになるが、彼女の口からこんな言葉を聞いたことはただの一度もない。強く気高く美しい、雪子は薪にとって女神のような存在だったのだ。その女神がこんな下品な言葉を発するなんて。
 驚きの後に思いついたのは、あれを青木に教えたのが雪子だったという事実。青木は20歳年上の恋人に教えてもらった、と言っていたが、本当は雪子に教わったのか? もしかしなくても、実践で?

 一瞬、自分の恋人と友人の女性の情事が脳裏に浮かんで、薪は絶望的な気分になる。
 足元が、周りの風景が。
 砂になって崩れていく感覚。信じていたものがすべて風化して――――― きっと何も残らない、今、青木が僕から去ったら、僕には何も残らない。だって急すぎる。先日あんなに激しく愛し合ったばかりなのに、今日こんな事実を知らされても。
 できれば、この事実は青木の口から聞きたかった。もう少し、心の準備をさせて欲しかった。
 青木の子供を産むのは雪子さんであって欲しい、などと口では言いながら、いざそれが現実になると心は千々にも乱れて……ああ、僕は相変わらず口ばっかりだ。心の底から二人の幸せを願うのは、口で言うほど楽じゃない。

 薪の胸中を露ほども知らず、雪子はカラカラと笑って、
「まあ、これからも彩華からノウハウ聞いて、あんたに伝授してあげるわよ。本当はあんたが直接彩華に教わるのが、一番手っ取り早くていいんだけどね」
 シナプスの連結が所々切れてしまったかのような壊れた脳細胞で、薪は雪子の言葉を理解しようと努める。
 彩華って誰だろう。雪子の友人だろうか。
 いや、直接教わってはマズイだろう。雪子の友人とも、なんてどんだけ乱れた関係だ。本気ではないのだろうが、それを口に出す雪子も雪子だ。

「オレは、そんな軽い男じゃありません」
 つらいセリフだが、こう言っておかないと。ふたりの関係を壊すわけにはいかない。
『薪さんとは、ちゃんと別れます。オレが愛してるのは貴女だけです』
 何とかしてその言葉を口にしようと呼吸を整えている薪の耳に、雪子の声が聞こえてきた。

「言葉と図解だけってのは、限界があるのよ。彩華も身体で覚えるのが一番いいって言ってたじゃない。ウケを経験した男って、いいタチになれるって話よ。頑張ってみたら?」
 ……何だか話がおかしい。青木にホモの女役を勧めているように聞こえるが、気のせいだろうか。
「薪くんを愛してるんでしょう? あたしだって薪くんには幸せでいて欲しいんだから。がんばってよ」
 そう言った雪子の顔は、心からのやさしさに満ちて。一瞬でも二人の仲を疑った自分を、薪は激しく後悔する。
 雪子さんも青木も、そんな人間じゃない。何食わぬ顔で友人を裏切り続ける、そんなことができるほど器用じゃない。青木と雪子さんが知り合って3年、その間に男女の関係が一度もなかったとは言い切れないけれど、現在はないと信じよう。

「それとね、これも彩華に聞いたんだけど、×××を××するときには、直線的に動かすより回転させて、ぴーぴーぴー」(放送禁止コード底触)
 …………ないな、この二人は絶対にそういう関係になったことないな。ちょっとでも色気があれば、こんな話をするとは思えない。ていうか、雪子さんは本当に青木のことが好きなのか? だんだん自信なくなってきた……。
 
「ツバメ返しの体位はね、肩に乗せた相手の足の引き具合がポイントで、左右に動かすことでぴーがぴーしてぴーーーーー」(放送不能)
 ツバメ返しって、セックスの体位なのか?! てか、なんでそんなに詳しいんだ!? あああ、僕の女神が穢れていく!!

「雪子さ、いえ、三好先生! やめてください、女性の口からそんなっ」
 聞くに堪えない卑猥な言葉を連呼されて、薪は真っ赤になって叫ぶ。もともと猥談の類が苦手な薪は、そういう言葉に慣れていない。
「何よ。あんたが薪くんを悦ばせてやりたいって言うから、色々調べてやってんじゃない」
 僕の女神に何をやらせてんだ、あいつはっ!!

 声にならない叫びを体内中に駆け巡らせる薪の前で雪子は、白衣のポケットに手を入れ、ゴソゴソと中を探った。
「あ、そうだこれ。薪くんの反応が薄いときには使いなさい」
 チューブに入った塗り薬のようなものを渡される。薬品らしいが、名称も成分表示も見当たらない。しかし、雪子のにやーっと崩れた表情から察するに。
「これで楽しい夜が増えるわよ」
「い、いりませんよ、こんなもの」
「だって、薪くんが薄くて1度しかできないって不満がってたじゃない。これがあれば2回目もいけるわよ。薪くんの×××に塗り込めば、バッチリだから」
「うわ―――んっ!!」
 雪子にクスリをつき返して、泣きながらその場を走り去る。
 ひどい、あんまりだっ、そんなことまで雪子さんに話すなんて!! あいつ絶交だっ!!!

「……ヘンな青木くん」
 一人残された白衣の美女は長い首を傾げると、短い黒髪を一振りして自分の庁舎に帰っていった。


*****

 あおまきさんの入れ替わりを考えたとき、一番最初に思いついたのがこのネタでした。
 あー、楽しかった♪

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ハプニング(9)

ハプニング(9)





「室長。特捜の報告書、見てもらえますか」
 十数枚に渡る緻密な報告書の束を持って、青木は恐る恐る言った。
 何があったか不明だが、今日の薪の機嫌は地面スレスレの低空飛行。二人きりの特捜だというのに朝から一言も喋らないし、にこりともしない。
 
「あの……?」
 長方形の角だけが丸みを帯びたレンズの向こうから、ぎろりと凶悪な視線が青木を見据える。ふん、と鼻を鳴らして青木の手から書類をひったくり、乱暴に頁をめくり始める。イライラしたときのクセでつま先を上げ下げし、時折、やりきれないというようにハッと強く息を吐く。そんな薪と二人きりで部屋にいる青木はたまったものではない。
「ツバメも真っ青の超低空飛行だ……どわっ!!」
 ぼそりと呟いた陰口に、ワイヤレスキーボードが飛んできた。青木の身体になっても、薪の手の早さは変わらない。
「危ないですよ」と青木が思わず言うのに、
「僕はあんなこと絶対にやらないぞ!!」と真っ赤になって叫んだ。相変わらず、薪の思考回路は理解不能だ。

 尚も不機嫌な顔つきで報告書を読んでいた薪の顔が、急に真顔に戻った。口元に手を当ててじっと考え込むようだったが、やがて、
「青木。この最後の文は不要だ。削っとけ」とぶっきらぼうに言った。
「死刑囚に同情してどうする。何の罪もない女性と、更には子供を2人も殺した女だぞ」
「そうなんですけど。彼女、ずっと辛い人生を送ってきていたから」

 先日刑が執行された西園冴子(38)は、8年前に不倫相手とその家族、1家4人を惨殺して死刑が確定した。 捜査の過程で不倫相手に騙されての交際だったことが判明し、彼女に僅かな同情が集まったものの、そのあまりにも残酷な殺害方法が人々の同情心を遠ざけ、彼女は稀代の魔女として世間を震撼させた。
 更に、誌面を賑わせた彼女の美しい顔が作り物だったことを知るや、世論はますます彼女に辛いものとなった。
 冴子は、何度も整形手術を繰り返していた。元からそれ程、醜い顔だったわけではない。しかし何かに取り付かれたように、彼女は自分の顔を変え続けた。

「人間関係に躓くたびに、整形を繰り返していたように思うんです。外見が変わることで、何かが改善する――― そんな思いに取り付かれていたんじゃないかと。彼女の整形歴は15年にも及びますから、過去のことは推測でしかありませんが。
 彼女の母親はシングルマザーで、不倫の末に彼女を産んだそうです。母親はすぐに新しい男を作って冴子を置き去りにし、彼女は祖母に育てられたんですが、彼女の顔は母親にそっくりで、そのことをいつも祖母に責められながら育った、との証言が冴子の幼馴染みから取れてます。
 こんなことを身内から言われたら、きついですよね」
 青木は取調べ調書の該当頁をさぐり、その一行を指で指した。細い指の先の、桜貝のような爪が触れた一文を、眼鏡の奥の黒い眼がさっと読む。

『おまえみたいな顔の女は、他人様のものを盗む泥棒猫になる』

「だから彼女は整形を繰り返して、母親の呪縛から逃れようとしたんじゃないでしょうか。なのに、この男に騙されて関係を持って、結局はお祖母さんから言われたとおりに。真実を知ったときの彼女の絶望は、とても深かったと思います。だから」
 青木はもう一度ページを繰り、冴子自身の供述調書にある一文を示した。

『幸せそうな家族を見ていたら、気が狂ったみたいになって、自分が止められなかった』

 それから、モニターに被害者となった一家の画を呼び出した。
 ごく普通の、当たり前の4人家族。何と言うことはない、ただ一緒に夕飯を摂っているだけの画だ。取り立てて賑やかでもなく、笑い合っているわけでもなく、テレビはついたままだし会話をしている様子もない。ギスギスしているわけではないが、愛情一杯という様子もない、こんな家庭が今は普通だ。
 しかし、西園冴子というフィルターを通した途端、その光景は光り輝いた。
 4人の間に流れる愛情のパルスが、光の奔流のように溢れていた。表面に現れるものはなくとも、彼らの間にはしっかりと繋がった糸がある。
 それはきっと、彼女が求めて止まなかったもの。死ぬまで手に入れることの叶わなかったもの。

「こんな平凡な家庭が、彼女にはこんなに眩しかったんですね。彼女の犯行は許されることじゃありませんけど、ひとかけらの同情の余地もないとは」
「ない」
 青木の熱意に冷水を浴びせるように、薪はにべもなく言い捨てた。薪はやさしいひとだと思うが、時々こんなふうにひどく冷たい言い方をする。
「同情の余地はない。いくら何でもやりすぎだ。普通なら、騙した男に平手打ちのひとつでもして、不倫の事実を奥さんにばらして、夫婦喧嘩でオチがつく話だろ」
「これを見てください」
 青木はマウスを操作して、犯行現場をモニターに映した。そこには、包丁で滅多突きにされた男の死体と、同じく喉を裂かれて息絶えた妻が台所の床に転がっていた。

「……っ!」
 モニターを見た薪が、思わず息を飲む。
 部屋中に飛び散った大量の血液は、平凡なキッチンを地獄絵図に変えていた。ダイニングテーブルの上に置かれた四人分のポークソテーにと、大きな器に盛りつけられたポテトサラダが血に染まっている。冷蔵庫の扉に貼られた子供向けのアニメキャラのシールに赤い飛沫が飛んでいる。木目の床に、血溜りができている。血の池に顔を伏せるようにして息絶えている、子供の後頭部が見える。
 凄惨な画の中で冴子は、手にした包丁で女の死体から顔の皮を剥いでいた。身に付けた白いワンピースを返り血で真っ赤に染め、血の池に膝を着いて被害者に覆いかぶさるその姿は、魔女の称号に相応しかった。

 包丁を立てて切っ先を使い、顔の周りをぐるりと切り取る。眼窩に人差し指を入れ、親指の爪でこめかみの皮を剥く。女の皮の下にびっしりと付いた黄色い脂肪と真っ赤な血が、冴子の爪の間から溢れ落ちる。
 慎重な手つきで冴子は悪鬼のような作業を進め、やがて女の顔は赤黒く潰れた石榴のようになった。冴子はそれを一瞥し、すぐに自分が切り取った皮膚を見つめた。
 彼女の戦利品ともいえるそれは、人間の肌の色をして、ぐにょぐにょと布のように波打つ。冴子はそれを食卓の上に置くと、指で丁寧に広げ、布巾で汚れを拭き取った。額の部分を両手の人差し指と親指で挟むように持ち上げ、自分の目の前にかざす。

 徐々に近付いてくる皮膚の内側がモニター画面を満たし、薪は不覚にも腰が引けた。生皮の仮面に開いた二つの穴を通して再び部屋の中の光景が映ったとき、まるで自分の顔に他人の生皮が張り付いたような錯覚を覚えた。
 体温を失った人の皮膚の、ひやりとした感触。生理的な嫌悪感に、背筋がゾッと粟立つ。刹那、床に落ちていくかと思われた両膝が何かに引っかかって止まり、薪は自分の腰にさりげなく添えられた小さな手に気付く。
 ぐっと足を踏ん張って、薪は冷静な口調で言った。

「これが本物のデスマスクってやつだな」
「室長はさすがですね。オレはここで吐きました」
 苦笑して、青木は大きな眼で薪を見た。亜麻色の瞳の中に、強張った男の顔が映っている。

「この後、西園冴子は自分の姿を鏡に映します」
 サニタリーに備え付けられた手洗い用の鏡に、不気味な仮面をつけた女が写っている。しかし仮面はすぐに剥がされ、その下から美しい女の顔が現れた。所々、血に汚れた凄惨な美貌。額の真ん中から長い黒髪を両脇に垂らし、一見儚そうに見える彼女の眼は、絶望と狂気に濁っていた。
「それから彼女は、この作業を残りの3人に施し、やはり同じように剥いだ皮を自分の顔に当て、鏡に写すことを繰り返します。最後に当てたのは、自分が愛した男の皮でした。
 それを外したとき、彼女は初めて涙を零しました」

 鏡の前で、彼女は男の皮を頬に当て、身も世もなく泣いた。それは自分が犯した罪の重さに気付いての悔恨なのか、愛した男を永遠に失ったことへの悲しみなのか。
「どちらでもないと思うんです。室長も、同じ考えですよね」
「顔だけ変えたって、別の人間にはなれない。やっとそのことに気付いたんだろ。バカな女だ」
 冷酷な薪の言葉に、青木は自分の立場を忘れる。室長の薪に対する反論の言葉が、自然に口をついて出た。

「変身願望は誰にでもあります」
 不幸な子供時代を過ごして、近しい人からの非難を恒常的に受け、深い闇を抱えることを余儀なくされた挙句に過ちを犯してしまった彼女を馬鹿な女と言い捨てる、その酷薄な態度に憤りを覚える。
「西園冴子の場合、子供の頃に受けた祖母からの刷り込みによってその願望が異常なまでに大きくなり、その結果この凶行に到ったものと思われます。なので、検察側の起訴内容にある『自分を騙した不倫相手への恨みと、その家族への嫉妬心から顔の皮を剥いだ』という記述には、疑問があると」
「その疑問は不要だ」
 断定的な口調で、薪は青木の言を遮った。

「青木、特捜は犯行の事実だけを確認すればいいんだ。死刑囚の動機まで追うことはない。情状酌量の可能性があったとしても、彼女はもう死んでいる。無駄なことだ」
 青木にも、それは分かっている。特捜は、犯人の罪状に誤りがないか、余罪がないかを調査するものだ。犯行の動機や犯罪に至った心情を掘り起こすものではない。
 しかし、今回の件はあまりにも世間の誤解が酷い。このままではこの女性は、冷酷非道で血も涙もない魔女の烙印を押されたままになってしまう。

「でも」
「自分を認めることができなくて、整形手術を繰り返す。そこが既にバカだろ。外見だけ変えたって、中身が変わらなきゃ意味がない」
「彼女だって、変わりたかったんです。整形はきっかけにしたかっただけだと思います。でも、変われなかった。持って生まれた性質を変えるのはとても難しいし、今まで積み重ねてきた過去を消すのはもっと難しいからです」
 青木も時々、自分のこの愚鈍さを何とかしたいと思うときがある。おおらかと言えば聞こえはいいが、要は鈍いのだ。早い展開には付いていけなくて、目から鼻に抜けるタイプの薪をしばしば苛立たせる。

「他人を変えるのは大変だけど、自分を変えるのは簡単だ。努力次第でどうにでもなる。なりたい自分になればいい」
 それは薪が、生まれつき優れた能力を持っているからだ。あれだけの頭脳と運動神経、さらにその美貌を持ってすれば、努力で叶わないことなんかこの世にないだろう。でも、普通の人間はそうじゃない。いくら努力しても手に入らないものがあることを、幾度も思い知らされて大人になるのだ。
「そりゃ、薪さんくらいの地力があれば」
「顔を変えたくらいで、自分の過去が消せるもんか。そんなことをしなくたって、いくらでも人生をやり直すチャンスはあったのに。この女はバカだ」
 ぎゅ、と唇を噛む薪の仕草に、青木はようやく彼の本音に気づく。

 自分の感情を素直に出せない薪は、偽りの言葉で自分の本心を幾重にもガードする。中心に収められたそれが、ひどく脆いものだと自分でも分かっているからだ。常ならば、亜麻色の瞳を見れば彼の気持ちが伝わってくる、しかし今、薪の心は眼鏡の奥の黒い瞳に隠されてしまっている。小さくて色素の濃いその瞳は、情感を表すには単調すぎる。

 自分の人生をやり直したい、過去を抹消したい。
 夜毎、自分の罪に恐れ慄く薪が、夢で幾度も自分の親友に殺される薪が。
 それを思わないわけがない。

「そうですね」
 やっとの思いでそれだけ搾り出し、青木は薪を見つめた。他に、どう言っていいか分からなかった。
 青木は黙って報告書の訂正に取り掛かった。重い沈黙がふたりの間に落ち、部屋の中には紙を捲る音と青木が叩くキーボードの音だけが響いた。

「……僕は、思ってない」
 やがて薪は、静かに言った。
「別の人生を歩みたいなんて、僕は思わない。これは、僕の道だ」
 青木が振り向くと薪は、強い意志を宿した黒い瞳で、じっと空を睨んでいた。





テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ハプニング(10)

ハプニング(10)




 特捜が終了し、第九に日常の風景が戻ってきた。研究室で青木が忙しく雑用をこなし、薪は室長室で職務に励む。
 入れ替わり生活も10日を過ぎた。
 青木の仕事の煩雑さと守備範囲の広さに初めは戸惑った薪だが、持ち前の器用さを存分に発揮して、程なく職員たちの期待に応えられるようになった。コーヒーの味だけは、青木のようには行かなかったが。
 責任の軽い数多くの仕事は熟考を要せず、すべてを片付けた後にはスポーツにも似た爽快感を味わえる。その感覚を楽しむことすら覚え始めている自分の順応性に呆れつつも、一日の終わりに飲むビールは最高に美味い。昔、捜一で羽佐間の下にいた頃は、毎日がこんな感じだったな、と懐かしさに駆られたりもしている。
 そんな具合に、薪の方は新人だった頃のことを思い出したりして楽しくやっているが、青木の方はそろそろ限界だろう。夜もよく眠れないらしく、日に日に顔色が悪くなっている。
 
「薪さん、最近顔色が優れないみたいですけど。いっぺん、医者に診てもらったらいかがですか」
 モニタールームで職員たちの捜査の様子を見回っていた薪に、岡部が声を掛ける。岡部のお節介が始まった、と薪は横目で彼らの様子を見やった。
 心配かけてすみません、と青木が頭を下げかけるのを眼力をぶつけて制し、らしく振舞え、と無言のプレッシャーをかける。
「いや、大丈夫だ」
「しかし」
「僕の身体のことは、僕が一番よくわかってる。余計な気遣いは無用だ」
 よしよし、なかなかいい受け答えだ。もうちょっと険のある声が出せれば満点なんだが。

 すげなくされて口を噤む岡部に、室長はにこりと笑って、
「岡部。心配してくれてありがとう」
 こら、それは余計だ! 岡部がびっくりして腰砕けになってるじゃないか。隣の宇野まで巻き込んで、床に椅子ごと倒れこんだぞ。こいつらまで入れ替わったらどうするつもりだ。

「本当におかしいですよ、室長。絶対に病院に行かなきゃダメですって!」
「熱でもあるんじゃないですか?」
 室長と一緒にモニターを覗いていた今井が、回転椅子を回して薪の額に手を伸ばす。払いのけろ、と目で指令を下すが、青木はじっとしたまま、と思ったら。
 細い膝が不意に崩れ、薪の身体が今井に向かって倒れた。

「やっぱり……調子悪かったんじゃないですか。無理するから」
 今井は薪の身体を支えて、青木の方を見た。少しの間青木の顔を見ていたが、やがて不思議そうに首を傾げると、薪の身体を抱き上げて椅子から立ち上がった。腕の中の青白い顔に眉をひそめ、仮眠室へと歩き出す。
 自分の身体が誰かに抱き上げられているのを見るのは、何だかフクザツな気分だ。青木に抱かれてるところは見たことがあるが、ていうか強制的に見せられたのだが、つまり鏡の前でムニャムニャ……。

「何やってんだ、青木。早くしろ」
「は?」
 早くしろ、と言われたが、別に今井から時間制限のある仕事を預かった覚えはない。
「ベッドの用意だよ。てか、薪さんが倒れたのにおまえが泡くって走ってこないって、おまえもどっか具合悪いのか?」
 ……バカか、あいつは! そんなあからさまな態度を取るなんて、僕たちの関係に気付かれたらどうするんだっ!

 頬が熱くなるのを感じながら、薪は仮眠室の扉を開け、ベッドを整えた。シーツを伸ばし、今井がそうっと寝かせた細い身体の上に、さっと毛布を掛ける。
 今井は腕を組んで、じっと室長の寝顔を見つめている。
 そんなに心配することはない、これは寝不足によるただの貧血だ。1、2時間も眠れば回復する。薪の身体は、薪が一番良く分かっている。
 さっさと仕事に戻れ、と言いたいのを我慢して、薪は仮眠室を出ようとする。自分の寝顔を見ているのも、気恥ずかしいものだ。

「青木、おまえがついてろよ。俺はやりかけの捜査があるんだから」
「ただの貧血でしょ? 付き添いなんて、大げさですよ」
「……薪さんとケンカでもしたのか?」
 踏み込んでいいものかどうか、逡巡が見える口調で今井は尋ねた。スマートで人付き合いの上手い、今井らしい気の回し方だった。薪が曖昧に頷くと今井はクスッと微笑を洩らして、組んだ腕を解き、右手を腰に当てた。

「大方、特捜の意見が合わなかったんだろ。あの死刑囚の生い立ちは俺も知ってる。おまえの性格なら、同情するだろうと思ってたよ」
 さすが今井。青木のヘタレを見抜いている。
「薪さんはああいう性格だから。凶悪犯には同情の余地無し、とでも言われたんだろ」
 ……僕の性格も見抜かれてるのか。
「でも、あのひとの口の悪さは今に始まったことじゃないし。薪さんの正義感の強さと、誰よりも犯罪を憎む気持ちの根底に何があるのか、おまえだって知ってるだろ?」
 今井は光の加減によっては青みがかっても見える魅惑を秘めた瞳で、青木の顔を射るように見た。鋭い眼だった。
「今日の薪さん、元気なかったぞ。目が覚めたら、美味いコーヒーでも淹れてやれ」
 そう言って、今井はモニタールームに戻っていった。

 取り残されて仕方なく、薪は自分の寝顔と向き合う。背もたれのない丸椅子に腰を降ろし、その座り心地の悪さと青木の体格とのアンバランスさに驚きつつ、こんな不快な環境で無為な時間を過ごすことへの苛立ちと焦燥を覚えながら、薪は広い肩を竦めた。
 いつ目覚めるかわからない他人の寝顔を見ているだけなんて、薪には考えられないくらい無意義な行為だ。見ていたからと言って、回復が早まるわけでもないだろう。無駄だ。

 そういえば。
 薪が目を覚ますと、たいてい誰かが側にいた。その誰かはほぼ100%の確率で、薪に叱られた。
『こんなところで何をしている。早く仕事に戻れ』
 何度叱り付けても次の時にはやっぱり誰かいて、どうしてこいつらは学習しないんだ、副室長なら僕がいない間はしっかり部下を見張っておけ、と岡部に当り散らしたこともある。岡部は素直にすみません、と頭を下げたが、その状況が改善されることはなかった。結局、薪が自分で貧血を起こさないように、仕事のペース配分を考え直さなくてはならなくなったのだ。

「青木。薪さん、大丈夫か?」
 仮眠室のドアを静かに開けて、宇野がこっそり入ってくる。「大丈夫です」と応えを返し、薪は席を立った。何か後輩に頼みたい用事があって来たのだろうと思い、指示を待つ。しかし宇野は後輩の顔さえ見ずに、懇々と眠り続ける室長を見ていた。
「うん。さっきより、顔色よくなってきたみたいだな」
 頬を緩ませて、微笑する。宇野のこんな顔は、あまり見たことがない。小池の影に隠れて目立たないが、宇野はけっこう辛辣で辛口批評が得意だ。素直に人を褒めないタイプだし、だからこそ宇野が勧める映画や本にはハズレがないのだが。
「薪さん、食が細いからな。青木、昼休みに薪さんの好きなハーゲンダッツのアフォガード買ってこいよ。その間、俺が見ててやるから」
 そう言って、宇野は仮眠室を出て行った。

 ……今、代わってくれるんじゃないのか? てか、自分で買ってくればいいだろう。今井も宇野も、なんで青木にばっかり僕の面倒を頼むんだ。コーヒーだのアイスだの、僕のために買ってこいって言うけど、僕の口には入らないんだぞ? 美味しい思いができるのは青木で、しかも青木はアフォガードよりクッキーアンドクリームが好きだし、ああ、なんか納得できない!

「青木。薪さん、どうした?」
 今度は曽我と小池のコンビだった。
 こいつら、僕がいないと本気でサボリやがって。全員、地獄のシステムチェック48時間ぶっ通しコースに叩き込んでやろうか。
「寝顔だけは可愛いよな。ずっと眠ってりゃいいのに」
 小池、チェックメンバー確定。
「薪さん、また少し痩せたか?」
「そうだなあ。青木、ちゃんと薪さんにメシ食わせてるのか?」
 なんだ、その質問は! 青木は僕の保護者か!!
 冗談じゃない、いつもこっちが作って食わせてやってるのに。なのにどうして、まるで僕の方が世話になってるみたいな言い方をされなきゃならないんだ!?

 憮然とした気持ちが表に出てしまったのか、曽我は少し怯んで、それでもいつもののんびりした口調で言った。
「薪さんさあ、おまえが一緒だと良く食べるんだろ? きっとおまえの食欲に釣られるんだって、岡部さんが言ってたぞ」
 岡部のやつ、余計なことを。
 
 その後、なんだかんだとどうでもいい雑談を交わして、ふたりは出て行った。まったく、何をしに来たのかさっぱりわからない。



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ジャンル : 小説・文学

ハプニング(11)

 最近ですね、アクセスしてくださる方が増えたみたいなのですよ。
 とっても嬉しいのですけど、間違って来ちゃった方が多いのかな、って不安も大きかったりして(^^;
 で、検索キーワードを確認してみたら、殆どの方が『法医第10研究室』で来てくださってるみたいで安心しました。 
 一部、『警視庁 昇任試験』『一本背負いのコツ』で来て下さった方、スミマセン☆
 

 そうそう、一番面白かったキーワードは『一糸まとわぬ捜査官』
 どんな捜査官だよっ! と突っ込みたくなりましたが、身に覚えがありすぎて……自爆★





ハプニング(11)





 3度目にドアが開いたとき、薪はもう驚かなかった。
「青木。薪さんの具合、どうだ?」
 副室長までこの始末だ。小1時間の間に入れ替わり立ち替わり、第九はいつからそんなに暇な部署になったんだ。

「おまえ、薪さんに無理させてるんじゃないのか?」
「どういう意味ですか」
「おまえの若さと体力で押しまくったら、薪さんはこうなっちまうってことだ」
 岡部の誤解に眩暈を覚えながら、薪は首を振った。入れ替わってから10日以上、セックスどころかキスもしていない。自分相手にそんなことができるほど、ふたりとも自己愛が強くない。

「いいえ。薪さん、ちょっと風邪気味なんですよ。そのせいだと思います」
 適当な嘘を吐き、岡部の邪推を撥ね返すと、薪はせいぜい青木らしく笑って見せた。岡部は鋭いから、他の職員たちよりも注意が必要だ。
 薪が最も信頼している第九の副室長は、いくらか思案する素振りを見せたが、それ以上は追求しなかった。岡部はお節介だが、プライベートに立ち入り過ぎない大人の分別を持っている。
 
「それじゃ、今週の定例会もお流れだな」
 先週は特捜の最中だから、という理由で定例会は中止した。2週続けてのキャンセルに、岡部は少々がっかりするようだった。
「仕方ないですね。また来週ということで」
「来週はダメだ。室長会の暑気払いがある」
 そうだった。予定では、海辺のホテルに一泊して高級バイキング食べ放題……考えただけでヨダレが出そうだ。

「楽しみですね、バイキング」
「ははは、おまえも早く出世して室長になれば、参加できるかもな」
 このままだと青木が参加することになるのに気付き、宴席は体調不良を理由にキャンセルさせた方がいいか、と薪は考える。しかし、それまでに戻れれば自分が参加できるのだ。今の薪は、ホテルのディナーバイキングを逃すことには大いに不満がある。
 だって、海沿いのホテルだぞ。刺身の鮮度はバツグンだろうし、オプションで平目の活け造りとか食べられちゃうかもしれない。その機会を棒に振るなんて。
 食欲本能が突き抜けた青木の身体にいるうちに、薪はすっかり意地汚くなってしまった。売店のおにぎり一個で昼食を済ませ、昼休みの殆どを睡眠時間に充てていた昔の自分が信じられない。
 
 岡部がいなくなった後、仮眠室に二人きりになって、薪は見るともなく自分の顔を見る。
 連中は、何が楽しくてこんな顔を覗きに来たんだろう、と薪は思う。眠ってるわけだから変化もないし、面白いこともない。寝てる間に普段の仕返しをされるのかと思えば、そんなことはなかったし。

 我ながら可愛くないな、と薪は自分を嘲笑う。だけど、自分にはこんな考え方しかできない。

 だって。
 この身体の持ち主は、他者の愛情を受けるに値しない人間だから。

 それなりの地位と権力は持っている、仕事の面では部下を絶対服従させることができる。でも、それはあくまで仕事上のことだけだ。みんなに心配してもらえるような、そんな価値のある人間じゃないんだ。
 上司への義務的な見舞いならともかく、こんな意識が無い状態のときに見舞われて、起きたらあれを食べさせろだの、身体に気をつけてやれだのと親身な言葉を掛けられて。心配で堪らない眼で見られて、頬に赤みが差しただけで嬉しそうに微笑まれて。
 あいつらは、どうして学習しないんだ。なんで僕なんかに、そんなに――――。

「……ちくしょ。あいつら、まとめて減俸だ」
 思いがけず溢れてきた涙は、とても甘く。口汚く罵りながらも、薪はそれを止めることはできない。

 昔、青木にも言われたっけ。
『みんながあなたを大切にしてるんです。それを壊す権利は、あなたにはありません』
 あのときは、何を言ってるんだ、自分の身体をどう使おうと自分の勝手だと思ったけれど。今こうして青木の言葉の裏側に隠された真実を見せられれば、自身の安全を省みない薪の捜査方法に対する青木の怒りにも納得がいって、改めてあの時の自分は愚かだったと自省する。
 自分のことは世界一嫌いな薪だが、自分の大切な人たちがこんなに愛してくれるものを、そんなに嫌っては申し訳ないか、とほんの少しだけ思えるのは、流した涙の甘さに酩酊した扁桃体のミスか。

 大きな手が枕の上に散らばった亜麻色の髪に触れ、やさしく梳いた。サラサラとした手ざわり、青木が薪の髪を撫でるのが大好きだったことを思い出す。
 自分が今、この亜麻色の髪を、その持ち主を好ましいと思っているのは、青木の手の細胞に僕を愛した記憶があるからなのか。撫でられた僕の身体が喜びを覚えていると確信できるのは、僕の髪の細胞に彼のぬくもりが刻まれているからなのか。
 自分を慈しむ気持ちなんて、死ぬまで持てない、持っちゃいけないと思っていたのに。僕にそんな権利はないと、ずっと思っていたのに。
 彼らに愛されている自分を、誇らしく思うこの気持ちを捨てることができない。

 青木の眼から零れ落ちた薪の涙が、ふっくらと丸い頬に落ち、長い睫毛が微かに震えた。薪の見守る中で、類稀なる美貌が目を開けた。その亜麻色の瞳は果てしなく澄んで、夜空に輝く冬の星座のよう静謐だった。
「薪さん……どうなさったんですか?」
 急いで指で涙を拭くが、メガネが邪魔だった。慌てたものだから、耳から外れて床に落ちてしまった。床に屈んで眼鏡を拾う薪に、心配そうなアルトの声が降ってきた。
「大丈夫ですか?」
「こっちのセリフだ。いきなり倒れやがって」
 何とか平常心を取り戻して、薪は小さな椅子にどっかりと腰を下ろし、途端バランスを失って転びそうになった。仮眠室の椅子はもっと大きなものに取り替えるよう、総務に申請を出しておこう。

「オレ、倒れたんですか? はあ……貧血なんか、生まれて初めてです。吐き気がするんですね。知らなかった」
 青木にしてみれば、慣れないことの連続だ。薪には新人だった頃の記憶があるが、青木に室長の経験はないのだ。実際に室長の仕事をさせているわけではないが、その立場にいるだけでも気疲れして当然だ。
「色々、他人に言われることもあると思うけど、そんなに気にするな。あいつらはおまえに言ってるんじゃなくて、僕に言ってるんだ。聞き流しておけばいい」
「違います、彼らは薪さんに言ってるんじゃありません。第九の室長に言ってるんです。薪さん個人に対してあんなことを言われたら、オレ、とっくにキレてます。
 薪さんの方は大丈夫ですか? どこか、痛むんじゃありませんか?」
 相変わらずお人好しの青木は、心労で自分が倒れたというのにひとの心配ばかりする。

「人のことはいいから、まずはその青白い顔を何とかしろ。食欲がなくても、ちゃんと食べなきゃダメだ」
 岡部から耳にタコができるほど聞かされているセリフを自分が口にする滑稽さに、思わず笑いが込み上げてくる。ここで甘い顔を見せては駄目だと自分に言い聞かせ、薪は口元を引き締めた。
「すみません、ご迷惑かけました。岡部さんにも心配掛けちゃって」
「岡部に礼なんか言うことないんだ」
 そうだ、ここはきちんと言っておかないと。後で大変なことになる。
「あいつは本当にお節介なんだから。こないだなんか、ちょっと胃が痛いって言っただけで胃カメラ飲まされたんだぞ? あいつの言うことを全部実行してたら、病院の検査予約でスケジュール表が埋まっちまう。仕事してるヒマなんて無くなるぞ」

「岡部さんは、本当に薪さんのことが心配なんですよ」
 ……知ってる。
「岡部さんだけじゃなくて、みんなも」
 そう言って彼は、とても幸せそうに笑った。薪の身体で薪の顔で、薪がとうに忘れてしまった無垢な笑顔で。
 その笑顔を守りたいと思うこの気持ちは、一体何処から湧いてくるのだろう。

「……分かってるなら、僕の身体で貧血なんか起こすな。業務が停滞する」
 薪は、素っ気無く言い捨てて席を立った。
「弁当とアイス買って来てやる。それまで寝てろ」
 努めて不機嫌な態度を崩さずに、薪は部屋を出た。束の間、その場に立ち尽くす。
 仮眠室のドアを背に佇む薪の胸の中には、先刻の自分の笑顔が鮮明に残って、彼を微笑ませた。



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ジャンル : 小説・文学

ハプニング(12)

 こんにちは~。
 えらく間が空いてしまって、すみません~~。


 ブログ開設以来、お話の間が20日も空いたのは初めてです。
 もうなんの話だったか、書いてる本人も忘れそうなお話にお付き合いくださる女神さまが、この世に何人くらいいらっしゃるのかしら。
 しかも、あおまきすとさんに叱られそうな展開になってきて……。(^^;)(←またか)

 どうか広いお心でお願いします。 




ハプニング(12)





 最近の薪の楽しみは、アフターの焼肉屋だ。
 この身体になってから、やたらと肉が食べたくなるのだ。しかも大量に。その割にすぐお腹が空くし、まったく燃費の悪い身体だ。

「すいません、カルビ3人前とビール追加!」
「よく食うなあ、おまえ」
「若いですから、オレ」
 小池に曽我、宇野の3人が呆れ顔で見守る中、薪は10皿目のオーダーを入れた。
 第九の仲間たちとワイワイやりながら、ビールを片手に肉を焼く。室長という立場になってからは、こういうコミュニケーションからすっかり遠ざかってしまっていたが、こうしていると捜一の頃に戻ったみたいで、とても楽しい。室長の重責で苦しんでいる青木に悪いという気持ちもあるが、これまで通り仲間たちとの付き合いもこなしておかないと、元に戻ったときに青木も困るだろう、と自分を納得させて、アフターの時間を思い切りエンジョイしている。

「そういえば小池。二課の課長、あれからどうした?」
「ああ。なんか、諦めたみたいだ。何も言ってこなくなった」
 曽我と小池のやり取りを聞いて、薪は密かに安堵する。間宮にもらった資料を基に、差出人不明のメールを送っておいたのだが、どうやら効いたらしい。
「薪さんが裏から手を回してくれたのかな」
「まさか。俺、薪さんには何にも言ってないし」
 直接相談を受けなくても、部下の身に何が起こっているのか把握するのは室長の役目だ。職務上のことはもちろん、プライベートにおいても最低限のことは知っておく必要がある。どんな友だちと付き合っているか、結婚を予定している相手はいるか。警察官という立場上、切らなければならない付き合いもある。監査課あたりにすっぱ抜かれるまで部下の素行不良に気付かなかったら、室長の職を辞さなければならなくなる。

「薪さんに言ったところでさ、また嫌味言われるのがオチだしな」
「そうかあ? ちゃんと相談すれば、きちんと答えてくれるだろ」
「答えはくれるんだけどさ、言い方がきついんだよ。とにかく、あのひとの言葉ってグッサリ胸に刺さるんだよな」
 酒が入ると話題に上るのが、女の子の話と自分の話、つまり室長の陰口だ。
 こういう席での上司のこき下ろしは当たり前のことだし、薪は心が広いから何を言われても平気だが、とりあえずはいつ誰が何を言ったか、すべて記憶しておくことにしている。別に100倍にして返してやろうと決意しているわけではない。一応、念のためだ。

「こないだ射撃か柔道の訓練のコースに参加してみろって言われて、今のところ業務に使わないからって断ったら、薪さんに何て言われたと思う?」
 口火を切るのは大抵小池だ。……今度の土日のメンテ当番は小池に変更するよう、青木に指示しておこう。
「『向上心を持たない生き物を、僕は人間とは認めない』。こうだぜ」
「うわ、ひっでー」
「きっついなー」
 ……そんなこと言ったっけ?

「本当にそんなことを?」
「本当だよ。まあ、青木は俺たちの目から見ても努力してるからな。言われたことないだろうけど」
 あ、思い出した。たしかその後に、おまえなんかサル以下だ、って言った覚えがある。それは敢えて省いたのか、それとも忘れたのか。
「バカとかマヌケとかは、しょっちゅうですけどね」
 だって本当にバカなんだもん、こいつ。
 
「そうそう、一日に一回は『バカ!』って言われてるよな。……あれ? でもこの頃聞かないな」
「そうなんだよ。薪さん、近頃何となく元気ないんだよ」
「こないだも貧血起こしたしな。疲れが溜まってるのかな」
 彼らが倒れた自分を心配して代わる代わる仮眠室に訪れてくれたことを知っている薪は、気恥ずかしさにうつむいた。同情されるのではなく、もちろん義理立てでもなく、純粋に気遣われるのは、照れくさいようなこそばゆいような、不思議な気分だ。

「青木とやってた特捜のときも、気分悪くなってたろ? あの人が画に酔うわきゃないから、風邪でも引いてるのかと思ったんだけど」
 青木のヤツが未熟なんだ、と真実を口にすることもできず、薪は黙って箸を動かし続けた。
「最近は仕事も落ち着いてるし、薪さんも定時で帰ってるみたいだから、特に疲弊する要因は無いはずなんだけど。以前みたいな溌溂さがなくなったっていうか」

「仕事は暇でも、アフターが忙しかったりして」
 情報通の小池が、意味ありげな口調で思わせぶりなことを言う。
「アフター? もしかして、昇格試験の勉強でもしてるのか」
「ちがうちがう。もっと色っぽい話」
 小池の言葉に、周りの3人は顔を見合わせる。どの顔も、信じられないという表情だ。
 薪と艶話の取り合わせは、ありそうでないものの代名詞だ。
 あの容姿から推し量るに、さぞ豊富な恋愛経験を積んでいるかと思いきや、いざ蓋を開けてみると薪は第九の誰よりもオクテだったりする。もともと恋愛には興味がなく、どんなときでも仕事最優先。プライベートの時間が皆無に近い室長と恋をしようと思ったら、MRIのモニター画面にでも住み着くしかない。

「薪さん最近、色んな女の子と付き合ってるみたいだぜ」

 ……だれが!?
 その場の誰もが驚きの声を発する中、誰よりも驚いている薪本人は、声も出せずにいた。

「へえ? あの唐変木が?」
 覚えとくぞ、宇野。
「相手は生きてる女の子か?」
 どういう意味だ、曽我!
「似合わないよな、あのひとに女の子なんて――― 痛って! 青木、レモン目に飛んだぞ!」
 小池の細い目にヒットするとはナイスコントロールだ、ってそれどころじゃない!

「まさか。室長がそんなことするはずがないですよ」
 おかしな噂を立てられたら、戻ったときに苦労するのはこっちだ。ここは否定しておかないと。
 薪が保身から無責任な噂話を否定すると、3人の部下は苦笑して、
「青木の室長びいきが始まったよ」
 まずい、ここで庇うとやぶへびだ。
 それ以上、否定することもできず、事情を話すことはもっとできず、薪は自分の醜聞を聞く羽目になった。

 小池の話では、薪が女性と会っている姿が何度も目撃されているそうだ。その手の噂には尾ひれが付くものだから、この情報は当てにならないが、建物の陰で抱き合っていたとか、エレベーターの中でキスをしていたとか、中庭の茂みの中でその先の行為に及んでいたとか、僕がそんなことするかっ、間宮じゃあるまいし!
 職場だぞ!? 神聖な職場でそんなこと―――― したから、こうなったんだっけ……。

「小池、それくらいにしてやれよ。青木は純情なんだから」
 曽我の言葉に薪は一瞬、何もかも暴露してやりたい誘惑に駆られる。
 青木が純情だって?
 冗談じゃない、ベッドの中ではいやらしいことばかり言ってくるし、時と場所を選ばないし、以前なんか真っ昼間から台所で……明るいところであんな格好にされて……。
 
「真っ赤になっちゃって、カワイイねえ、青木くん。でもちょっと、知り合いの艶聞は生々し過ぎるよな」
 赤面の理由を取り違えた宇野と曽我が、からかう口調で小池のお喋りを止める。よし、おまえらボーナス査定プラス1だ。小池はマイナス1。
「毎日見てる顔だからな。想像してんだろ、このスケベ」
 想像じゃなくて、思い出してるんだ。

 あれからもう半月。この若い身体は渇きを覚えていて、そういう話題には敏感になっている。
 青木の身体は薪には理解しがたい構造になっていて、聖職者の暮らしが3日ともたない。オスの機能が一番盛んな10代ですら、その現象が週に1度くらいだった薪には、毎朝のように暴れる身体の中の問題児にどう対応して良いのかわからない。仕方ないので処理はするのだが、これがけっこう時間が掛かって、自分なら清掃込みで5分で済むのに面倒なやつだと、やっかみ半分でヤケクソに手を動かしている。
 これだけ欲求が強ければ、デートの度に求めてくるのは当然かと思い当たるが、そこを納得してしまうと自分が地獄を見るので、敢えて改善策は提示しないことにした。元に戻っても今までどおり、原則1ヶ月に2回のベースライン、後は臨機応変=仕事の状況と薪の体力に合わせる、ということで。
 そこまで考えて、薪はふと不安になる。

 噂を聞いた直後は、青木本人に確かめるのも馬鹿馬鹿しいと思ったが、自分の身体に入った青木が、以前と同じ貪欲さを持っているとしたら?
 性的な欲求には精神面が強く影響するから、可能性がなくはない。そこまでバカではないと思うが、引っ叩いても蹴り倒してもしつこく求めてくる青木を思い出すと、そして最終的には9割の確率で青木が目的を遂げている事実を鑑みると、嫌でも不安が募る。

 まさか青木のヤツ、言い寄ってくるのをいいことに、片っ端から食ってるのか? 外見は40のオヤジだけど、中身は28歳の男だ、それはやりたい盛りだろう、でも僕の身体だぞ!?
 僕だっておまえの身体を手に入れて、これなら栄光の5人斬りも夢じゃないと思ったけど、必死で堪えたんだぞ!

 いつ元に戻れるチャンスがあるかわからないから、なるべくふたりきりでいる時間を作ろうと最初は思ったものの、現実はこうして薪は青木の交友関係をこなし、青木は薪の義理を果たしている。青木は今日は田城所長と一緒に市民団体の会合に参加しているはずだ。予定では、あと2時間ほどでマンションに帰ってくるはず。それまではここで時間を調整しないと。この身体では自分の家に入れないのだ。
 戻った後のこと、そして想像したくはないが戻れなかったときのことを考えると、人間関係の保持は大切だ。さらには、不自然なまでにふたりきりだと、あらぬ疑いを掛けられる。そこに真実が含まれているとなると、これはもう完全なやぶ蛇だ。
 話し合いの上、3週目に入ってからはお互いに距離を取っていたのだが、こんな噂が出てくるなんて。

 青木に限って、そんなことはないと思うけど。好きな相手とじゃないとできない、って言ってたし。
 ……でも。

 一応本人に質しておくか、と心に決めて、薪は11皿目の牛カルビを追加した。




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ハプニング(13)

ハプニング(13)




「お先に失礼します」
「ご苦労」
 上司と部下の挨拶を交わして、薪は小池たちと一緒にモニタールームを出た。金曜日だし、軽く飲んでいくか、と誘われるのを大学時代の架空の友だちの協力で断り、みなが帰ったのを確かめてから研究室に戻る。
 噂の真偽を確かめるためだ。

 昨夜は思いのほか会合が長引き、青木が疲弊しているようだったから見送った。今朝は室長会議があって、慌しかった。電話やメールも考えたが、こういうことは面と向かって、いきなり切り出さないと相手は尻尾を出さないものだ。昔鈴木に浮気されたことがあるから良く分かって……ああ、くそ! 今思い出しても腹が立つ!
 鈴木だって決していい加減な男じゃなかったけど、男って浮気する生き物なんだ。心と下半身は別っていうか。
 僕だって青木の恋人やってるけど、視覚的に興奮するのは女性の裸体だし。本能的に、男が女を求めるのは仕方のないことだ。男の視床下部には、女性を求めるための細胞がつまってるんだから。
 
 だけど、人間は本能だけでは動かないから。本能的な衝動をも上回る、もっと強い情感があるから。
 それを伴うセックスは、本能だけで行うそれとは比較にならない快感があり、比較しようもない幸福感がある。青木の身体も僕の身体も、それを知っているはずだ。
 そう思うと訊くことも躊躇われるが、やはり青木の口からはっきりとした否定の言葉が欲しい。

『オレが愛してるのはあなただけです』
 考えてみたらこのセリフ、もう何日言われてないんだろう。

 研究室に戻ってみると、宇野が一人でMRIモニターとにらめっこをしていた。画面に映像ではなく英数字が並んでいるところを見ると、プログラムで遊んでいるのだろう。宇野はこうして新しいプログラムを開発しては、MRIを進化させている。いわば、MRIシステムの母親的存在だ。MRIも宇野に一番なついているようだし。
「どうした、青木」
「あ、室長知りませんか」
「薪さんならさっき出てったけど。鞄持ってなかったから、外の空気でも吸いに行ったんじゃないか?」
 どうやらすれ違いらしい。宇野に礼を言って、薪は第九を出た。

 広い研究所内で、自分の姿を探す。
 青木のイメージから、まずは職員食堂、次にティーラウンジ、さらには売店の自販機コーナーまで当たってみたが、どこにもいない。以前なら、このどこかに必ずいたものだが。
「あ、そうか」
 探索を終えてから、薪はようやく気付く。今日は、室長会の暑気払いの日だ。今からパーティでご馳走を食べる人間が、食べ物関連の施設に用事があるはずがない。同じ理由で、ジムや道場に行くはずもない。
 残るは、中庭の散歩か。

 中庭と言っても、これが広い。あちこち探し回って、ようやく自分の姿を見つけたときには、一年で一番長い6月の日が暮れかける頃だった。
 その光景を見て、薪は咄嗟に立ち木の後ろに隠れた。
 黒い瞳に映っているのは、自分と見知らぬ女性。ショートカットの可愛らしいぽっちゃり系で、薪の好みのタイプだ。向き合って立ったまま、何か話しているようだが良く聞こえない。青木の耳は、薪ほど性能が良くない。
 尚も様子を見ていると、ふたりはその距離を縮め、抱擁を交わした。

「な……」
 何やってんだ、僕の身体で! そりゃ、その娘は僕の好みだけど、彼女のやわらかい感触を味わってるのは青木じゃないか。納得できない!
 すぐに離れるならまだしも、青木は彼女を放そうとしなかった。つまり、双方の合意の上にこの抱擁はなされているということだ。
 まさかこの二人、すでに関係を持ってるのか? いや、小池の話では『色んな女性と』ということだった。その気になれば、薪は相手には不自由しない。真剣に付き合いたいという相手も、アソビの関係を持ちたいという相手も、向こうから押し寄せてくるのだ。選び放題だ。不自由なのは、薪の下半身だ。って、やかましい!!!

 亜麻色の頭が女性の肩から離れて、その大きな瞳が薪の方を見た。遠くて表情は良く分からないが、はっきりとした動揺が伝わってくる。女性の方はうっとりと目を閉じて、全く気付かない様子だが、青木は間違いなく薪に気付いている。
 その証拠に青木は彼女を放すと、なにやら言って聞かせ、穏やかに別れた。「また後で」とでも言ったのだろうか。

 一人になった自分の身体に向かって、薪は大股に近付いた。上から彼を見下ろして、厳しい眼で相手を威嚇した。
「どういうつもりだ。僕の身体で何をしているんだ!」
 恨みがましい声が出た。
 当然だ、怒ってるんだ。声を抑える理性も蒸発するほど。

 冗談じゃない。
 青木と特別な関係になってからだって、誘惑はたくさんあった。正直、僕の好みド真ん中のぽっちゃり系の小柄な娘だって何人かいたんだ、1度だけって言葉に乗っかりそうになる自分の中の雄を必死で抑えたことだって、何度もあったんだぞ。
 女性だけじゃない、どこかのオヤジにいきなりトイレの個室に連れ込まれそうになったり、若い男に物陰に引き摺って行かれそうになったり……。
 誰のために必死で守ってきたと思ってんだ!! それを当の青木にこんな!

 それよりなにより。

 僕が念願の5人斬りをやらなかったのは、元に戻った後のこととか青木の経歴に瑕がつくとか、そういうことも考えたけど一番の理由は。
 青木の身体を、誰にも触らせたくなかったから。

 だってこれは僕のものだ、今青木は僕の恋人なんだから、僕だけのものだ。だから誰にもさわらせたくない、僕以外のひとに触れて欲しくない。それが青木の意志じゃなかったとしても、絶対に嫌だと思った。
 青木も同じ気持ちだと思っていたのに。それは僕の勝手な思い込みだったのだろうか。

「薪さん、ごめんなさい。勝手なことをして」
 青木はあっさりと、浮気の事実を認めた。

 ちょっと待て、白状するの早すぎるだろう。言い逃れする気ないのか、おまえ。それはなにか、このまま僕と切れてもいいということか?
 いや、彼女たちと会うことは内緒にしていたのだから、別れるつもりはないのだろう。これはあくまで浮気だ。男の本能が理性に勝っただけだ、ただの生理現象だ。自分がAV見てヌクのと一緒だ、と薪は懸命に自分に言い聞かせ、努めて冷静な口調で言った。

「どうして、こんなことをしたんだ」
「不安で……どうしても、我慢できなかったんです」
 精神的な不安を一時の快楽で紛らわせていた、ということか。今の薪が相手をするわけにはいかないから、声を掛けてくる女性たちを相手に。
「元に戻ったとき、トラブルの元になるようなことはやめてくれ」
「そんなことにはなりません。ていうか、オレ……このままでもいいかなって」

 青木の言葉に、薪は驚愕する。
『このままでもいい』とはどういうことだ、元に戻れなくてもいい、ということか? このまま、薪剛としての人生を歩んでもいいと?
 たしかに、もう元に戻れない可能性もある。その身体は永久に青木のものになるのかもしれない。だったらどう使おうと自分の勝手、というわけか。
 元に戻れなかったら、僕たちはもう愛し合えない。気持ちだけでつながってたわけじゃない僕たちには、肉体関係のない恋人同士としてやり直すことは難しいだろうし、相手を愛しいと思うのは、その姿形もひっくるめて愛しいのだ。自分の姿をした人間に恋心を抱くなんて、僕にはできない。

 薪は劣等感が強い。自己評価も極端に低い。いくら中身は青木だと自分に言い聞かせても、自分の姿を目にした途端、咄嗟に嫌悪感を抱いてしまう。

 ――――― 自分なんて、愛せない。

「もういい! おまえがそのつもりなら、おまえとはこれで終わりだ」
 突然張り上げた大声に、亜麻色の瞳が大きく見開かれた。急変した薪の態度をどう受け止めていいのかわからないと言いたげに、つややかなくちびるが驚きの形に開かれる。
 呆然としている自分の身体に背を向けて、薪は急ぎ足でその場所から遠ざかった。慌てて青木が後ろから追いかけてくる。
「待ってください、薪さん。なんか誤解してます。オレは何も」
「うるさい!」
 掴まれた手を思い切り払ったら、薪の身体がびっくりするくらい遠くに吹っ飛んだ。自分から2mも離れた地べたにみっともなく突っ伏したその姿を、薪は臍を噛む思いで見つめた。

 なんて軽くて手ごたえの無い身体なんだろう。青木が本気になったら、僕なんか相手にもならない。
 青木はいつも、壊れ物を扱うみたいにやさしく僕を抱く。本能的な衝動に押し流されるときでさえ、彼の手が僕への気遣いを忘れたことはない。

「乱暴は止してください。これは薪さんの身体なんですから。怪我でもしたらどうするんです」
 起き上がってスーツについた土を払いながら、青木は悲しそうに言った。
 お人好しめ、いま痛いのはおまえだろうが。

「軽い打ち身だけですね。よかった」
 青木は愛おしそうに自分の身体を自分で触り、怪我のないことを確かめると、ふっと微笑した。
 その様子に、早とちりだったかも知れない、と薪は思った。
 はっきり「他の女と寝た」と言われたわけじゃない。ごめんなさいと謝られたから、てっきりやったんだと思ったけど、別のことで謝ったのかもしれない。抱擁の事実はこの目で見たけど、ホテルに入るところを見たわけでもないし、マンションに連れ込む様子を目撃したのでもない。証拠としては弱い。
 何より、こんなに僕の身体を大事にしてくれる青木が、一時の快楽のために僕の身体を使ったりするだろうか。
 いや、待てよ、逆かもしれないぞ。薪さんの身体にキモチイイコトしてやろう、なんてトンチンカンなことを思ってるのかもしれない。だってこいつってベッドの中じゃものすごくしつこくて、もうカンベンしてくれって何度も訴えてるのに「薪さんたら、まだ欲しいんですか」とか真逆のこと言ってくるし。
 そりゃ身体は反応してるけど、僕は本当に嫌なんだ! 一晩に何度も何度も、頼むから一回で済ませてくれ!

「薪さんの許可もなく、勝手なことをしたのは謝ります。これがオレの我儘だってことも分かってます。だけどオレ、どうしても我慢できなくて」
「薪さん、探しましたよ!」
 青木の供述を遮ったのは、第九研究室の副室長だった。緊急の事件かと身構えるが、岡部の手に握られているのは薪の鞄だ。
「みなさん、お待ちかねですよ。バスを待たせてるんですから、急いでください」
 今年の懇親会は、海の見えるホテルに1泊しての宴会だった。残念だ、今のこの身体で参加できたら、ホテルの豪華バイキングをたらふく味わえるのに。

 青木は岡部の手前を取り繕って冷静な表情を作ると、「話の続きは帰ってから」と薪に向かってきっぱり言い、いつも薪がするようにくるりとこちらに背を向けた。
「行ってらっしゃい。お気をつけて」
 薪は二人の背中に頭を垂れ、青木がここで言うであろう言葉を口にし、じっと自分の爪先を見つめた。



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ハプニング(14)

 メロディ発売前に、こちらのお話を終わりにしようと思ったんですけど。 現場の中間検査が27日の午後に決まりまして、ちょっと難しいです。
 みなさんが12月号の衝撃で大変な時期に(←なぜ衝撃的な内容だと決めつける?) ちんたら更新するハメになりそうです。 
 KYですみません。(^^;





ハプニング(14)




 ―――― あなたなら、分かってくれるわよね?

 聞き覚えのない、女の声が聞こえる。

 ―――― 分かってくれるでしょう? わたしの気持ちが分かるでしょう?

 知らない女の声だ。記憶の片鱗にもない。
 否。
 何処かで……?

 薪はその声をどこで聞いたか思い出し、確信を持って目を開いた。果たして、薪の前には人皮のデスマスクを付けた女が、血まみれの包丁を持って立っていた。MRIの画と同じく、白いワンピースが返り血で真っ赤に染まっている。
 周囲の風景に、薪は見覚えがある。4人掛けのダイニングテーブルに、アニメのシールが貼られた冷蔵庫の扉。これは事件の現場だ。しかし、床に血溜りは無く、4つの死体もない。木目が美しく輝く明るいキッチン。それは彼女の憧れの象徴とも言える場所なのか。

「僕になんの用だ」
 恐ろしい女の姿に怯みもせず、薪は強気に言い放った。
「あなたとは、話が合うと思ったの」
「警察官の僕と死刑囚のおまえがか? 笑わせるな」
「でもあなたなら、わたしの気持ちを分かってくれるでしょう」
「あいにくだな。僕は犯罪者には同情しないタイプだ。話を聞いて欲しいなら、青木のところにでも出るんだな。もっとも、鈍いあいつにおまえの姿は見えないだろうが」
 幽霊相手でも、意地悪な性格は変わらない。いや、これは幽霊でもなければ生きた人間でもない。だから平気でいられるのだ。

 実は薪は、幽霊の類は苦手だ。部下たちには絶対に内緒だが、科学では説明の付かない心霊現象とは、あまりお近付きになりたくない。あいつらには理屈が通用しない、だから怖いのだ。
 なので、これが本当の幽霊だったらこんなに落ち着いてはいられないのだが、長い経験から薪には、この状態がMRIを見た後に良く起こる『引き込まれ』に過ぎないと分かっている。これは自分が作り出した幻だ。彼女の脳に影響を受けた自分の脳がその情報を整理しようとしている、それだけのことだ。

「分かるはずだわ。誰よりも、自分の過去を消したいと思っているあなたなら。過去に囚われて一歩も前に進めずにいるあなたなら」
「僕はおまえとは違う。過去を消したいなんて」
「考えなかった? 一度も?」
 いきなり目の前に死仮面が迫って、薪は大きく目を瞠る。さっきまで、3mくらい離れていたのに。この女は人外の速さを持っているのか。

「彼を失わなかった人生を考えたことはない?」

 古傷を抉られて、薪のガードにひびが入る。否定しなくては、と思いつつも、これは薪のアキレス腱だ。咄嗟には言葉が出てこない。
「鈴木さんが今でも生きていたら。あなたの親友として、ここにいたら。或いは……恋人だったら」
「やめろ、その口で鈴木の名前を呼ぶな」
 つややかなくちびるから零れたのは、押し殺したアルトの声。乱れた心を隠しきれないその響きを聞いて、彼女は嘲るように言った。
「考えないわけないわよね」
 彼女の言葉を否定できず、薪は目を逸らした。

 彼女の言うとおりだ、思わなかった日はない。あの日、この右手が引き金を引かなかったら、せめて急所を外れていたら。
 過去は消せない、変えられないと分かっていても、考えずにはいられない。

「そうやって、毎日毎晩、おんなじことを繰り返し考えてるくせに」
「想像したことがないとは言わない。でも、僕は君みたいに直ぐに逃げ出したりしない」
 薪は反論を開始した。赤の他人に好き放題言われて、黙って引き下がるほど穏やかな性格ではない。
「君が人間関係で辛い思いをしたのは、お祖母さんに罵られながら育ったからじゃない。それは確かに君の心に傷を残しただろう。でも、そんな人間は世の中にはたくさんいるんだ。もっと酷い虐待を受けて育つひとだって。彼らが全員社会に適合できないかというとそうじゃない。辛い子供時代をバネにして大きな成功を収める人だって、大勢いるじゃないか。
 君が周りと上手く行かなかったのは、君の力が足りなかっただけだ。周りの人間と和を持つ努力をしたのか? 自分から彼らに働きかけたか? 1度や2度冷たくあしらわれても、好意と誠意を相手に与え続ける、人間関係はそうやって自分で作るもんだ。
 上手く行かないことがあるたびに整形を繰り返すなんて、愚の骨頂だ。外見を変えたって、中身が変わらなきゃ一緒だ。君はバカだ」

 薪の反駁が終わると、彼女はゆっくりとデスマスクを外した。美しく作られた細面の顔。赤くて薄い唇が、アルカイックに釣りあがった。
「ずいぶん、偉そうだこと」
 自分のことを棚にあげて、と彼女は皮肉な口調で言い、薪を侮蔑の表情で見据えた。

「努力次第でなりたい自分になれる? よく言えたものね」
 にやりと笑って、冴子は大きな姿見をかざす。そこには薪の本当の姿が映っている。
 自分自身ですら実年齢を疑いたくなる少年めいた顔。色素の薄い日本人離れした肌の色と華奢な体つき。薪が憧れる男らしさとは無縁の姿だ。

「それがあなたの望んだ姿? あなたが歩みたかった人生?」
 この外見のせいで、色々といやな目に遭ってきた。軽んじられたり、謂れのない中傷を受けたり、おかしな男に目をつけられたり。思い出したくないことばかりだ。
「誰よりも、自分を捨てたいと思ってるくせに」
「……思ってない。僕は今の自分に満足してる」
「うそ。成り代わりたいと思ってるでしょ? あの、女医先生に」
 予想外のことを言われて、薪は眉根を寄せる。一瞬にして幼くなった自分の顔に、疑念と不安が浮かんでいる。

「なに……?」
「彼女はあなたの憧れですものね、強くて気高くて美しい。その上、愛するひとの想い人」
 とんでもない言いがかりだ、僕が雪子さんを妬んでいるとでも言うのか。
 侮辱を受けた怒りに、薪の拳が固く握り締められる。雪子の幸せを願う気持ちは、薪の中で一番純粋な思いだ。それをこんなふうに穢すことは許さない。

「そんなことは思っていない。僕は彼女の幸せを心から願っている」
「嘘おっしゃい。自分の大事なひとを奪っていく彼女が、憎くてたまらないくせに」
「昔はそうだったけど、今は違う。青木は僕のことを」
「アハハハハハ!!」
 薪が言いかけると、冴子はけたたましく笑った。耳を劈くような不快な哄笑に、咄嗟に耳を塞ぐ。

「必死になっちゃって、ああ、おかしい。
 わかってるんでしょ? 自分じゃ一生彼の側にいることはできないって。
 男のあなたには結婚もできない、子供も産めない。あなたは所詮、一時の恋人」

 冴子は軽快に爪先を運び、薪の周囲を歩き回った。右手に包丁を握ったまま、手を後ろに組んでいる。刃物の切っ先から、血の雫が滴る。どこから沸いてくるのか、包丁から流れる血は一向に止まらず、薪の周りには血の輪ができた。

「彼の人生のパートナーにはなれない」

 耳に当てられた細い指が、そのまま亜麻色の髪に絡んだ。ぐしゃりと髪を摑んで、歪んだ顔を下に向ける。キッチンの床に土足で立っている自分の革靴の紐が、幾重にもダブって見える。美しく磨かれた木目に、透明な雫が零れ落ちた。

 いつも。
 いつも自分で思っていることを他人に言われるのは、こんなに衝撃的なものか。反射的に涙が零れるほどに、それを止められないほどに。
 
「彼女が羨ましいでしょう? 彼女になって、彼に愛されたい、彼の子供が産みたいと思うでしょう。彼と確かに愛し合った証を、彼との間に残したいと思うでしょう」
 薪は夢中でかぶりを振った。床に幾つもの水滴が落ちる。
「思ってない。僕は本当に雪子さんと青木がそうなってくれたらいいと」
 冴子に向かって一歩踏み出した薪の足が、何かにぶつかった。下を見ると、女の死体だ。冴子が殺した不倫相手の妻の―――― ちがう、これは……。
 白衣が真っ赤に染まって、短い黒髪が血溜りの中に散らばって、顔は分からない、皮を剥がれていて判別が付かない。だけどこの女性は、ちがう、ちがう、これは現実じゃない――――。

「自分の姿を見るといいわ」
 嘲笑と共に投げつけられた言葉に、薪は顔を上げた。

 鏡に映っていたのは、右手に血に濡れた包丁を握り、雪子のデスマスクを被った自分の姿だった。






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ハプニング(15)

 こんにちは。
 メロディ、発売されましたね。
 ふふふ……さすが清水先生だと思いました。 本当に容赦ないデス。


 ちょっと私信です。

 Mさま。
 そうです、ご指摘のアニメの主題歌です。(笑)
 これ書いた頃から再放送してて、今、翔陽戦が終わったところかな。
 うちの話の題名って、曲名から取ってるの多いんです~。
「桜」とか「鋼のこころ」(ハガレン)とか「運命のひと」とか「消せない罪」(これもハガレン)とか「天国と地獄」とか「ジャイアントキリング」とか。(最後のはまだ公開してませんが)
 曲のイメージからお話を作ることも多いです。 何を聴いてもあおまきさん、あるいはすずまきさんに自動変換されるので。(←人として終わってる)

 それと、言い忘れましたが。
 読んだら削除してくださいねっ!!! ぜったいですよっ!!


  
 


ハプニング(15)





 鏡の虚像を打ち壊そうと大きく振り回した手が、何かに当たって痛みを覚えた。カシャン、という音に目を開けてみると、薄暗がりの中、ベッドシェルフの遥か上に伸ばされた大きな手が見えた。
 続いて見慣れない天井と照明器具が目に入り、薪は一瞬、自分の居場所に不安を覚える。ここは事件のあった家の寝室で、今にもあのドアを開けて西園冴子が姿を現すのはではないかと愚にもつかない妄想が頭を過ぎるが、続いて辺りを見回せば、目に付いた車のポスターがその惑いを消してくれる。
 ここは青木の部屋だ。
 今日は室長会の懇親会で、薪の身体は海辺のホテルにいるはずだ。酒が入るからホテルに泊まって、軽く観光を交えて、明日の夕方帰ってくる。薪の眼がないと自宅には入れないから、今日は青木の部屋で寝ることにしたのだ。

 シェルフに置いたリモコンで、薪は部屋の明かりを点けた。夢を見た後は、部屋を明るくしないと落ち着かない。闇の中には悪夢の根源が潜んでいるような気がして、身体の震えが止まらない。
 入れ替わってから一人で夜を過ごすのは初めてだ。それで不安になって、こんな夢を見たのか。相変わらず、情けない男だ。
 そう、青木の姿になっても、何も変わらない。僕は僕でしかない。
 
 いつもするように、薪はベッドの上で自分の身体をぎゅっと抱いた。膝を抱え込もうとして、その長さに戸惑う。大きすぎるのも考え物だ。
 うずくまって視線を下に落とせば、床には先ほど自分の手が払い落としたフォトスタンドがある。薪は腕を伸ばしてそれを取り上げ、苦笑混じりにひとりごちた。

「ったく、こんなもの飾って。誰かに見られたらどうするつもりだ」
 亜麻色の髪の青年が、陽だまりの中で笑っている。白いシャツを着て、細い腕を前髪の上で交差させ、蕩けるような笑みを見せている。
 青木の前でこんな表情をしたことはないし、こんな写真を撮らせた覚えもないから、これはおそらく薪の昔の写真で、雪子から青木の手に渡ったものだろう。

 自分のこの笑顔の先に必ずいたひとのことを思い出して、薪の胸がずきりと痛んだ。 
 彼がいなくなった今、自分は二度とこんなふうに笑うことはできない――――。

 落としたはずみに写真の位置がずれて、その裏に隠された二枚目の写真の角が見えている。自分もこうして、鈴木がひとりで写っている写真の裏に二人で撮った写真を入れていたから、青木も同じようにしているのかもしれない。そう思って覗いてみると、そこに現れたのは。

「……あのバカ」
 いつだったか、ふたりでベッドに入っているときに撮った写真だ。警視昇任のお祝いに何が欲しいか聞いたら、薪と一緒に写真を撮りたいと言った。天気が良かったから近くの公園に出かけて普通の写真も撮ったのだが、その夜、ベッドの写真も欲しいと言い出して。哀れっぽく土下座までして頼むから、仕方なく撮らせてやったのだ。
 写真の中で青木は、薪の後ろに座って薪の身体に左腕を回し、右手を伸ばしていた。フレームアウトした右手の先には、カメラがあるのだ。
 薪は赤い顔をして、青木の腕の中にすっぽりと納まっていた。腰から下には毛布がかかっているが、この下はもちろん裸だ。

 レンズから目をそらした自分の顔を見て、薪は意外に思う。
 笑ってる。
 嬉し恥ずかしって感じで、笑ってるじゃないか。

 あの時、僕はこんな顔をしていたのか。青木が携帯に送ってきた写真は小さかったし、恥ずかしくてロクに見ていないから気付かなかった。
 二枚の写真を見比べて、薪は少し頬を赤らめると、元通りにしまってベッドシェルフに立てた。それから床に散らばった雑誌を本棚にしまおうと、拾い上げる。ついでに何か拝借してベッドで読もう。今夜はもう眠れそうにない。
 自分がシェルフから落としてしまった本は、薪にはまったく興味の無い雑誌だ。青木が眠る前に見ているのだろう数冊の車専門誌。それを薪は本棚に戻そうとして、頁の間に挟まれた薄い冊子に気付いた。

「なんだ、これ」
 それは一冊のノートだった。表紙に、『研究書 極秘扱』と書いてある。

 極秘などと言われたら読みたくなるのが人情というものだ。それに、研究書というからにはMRI捜査に関することに違いない。室長として、部下の業務レベルを確認するのは当たり前のことだ。
 薪は勝手な理屈をつけて、本棚の前に立ったままノートを開いてみた。そこには青木のかっきりした四角い文字が並んでいて、日付順に記載されているところから日記かと思い、咄嗟に読むのを止めようとしたのだが、そこに何度も自分の名前が出てくるのを見て、好奇心が抑えられなくなった。

「こんなに細かく……」
 ざっと目を通して、薪は思わず呻いた。
 それは日記ではなかった。まさに極秘の研究書だった。


*****

 2060年6月×日。薪さんがコーヒー好きだと三好先生に教わった。珈琲問屋でキリマンジャロAAを購入。淹れてみるが店で嗅いだほどの香りは感じられない。淹れ方の問題か?

*****

 2060年9月×日。今日のコーヒーは上手くできた。薪さんは一口飲んで、ちょっと目を見開いて、再度香りを確かめるように湯気を吸い込んで、少しだけ笑ってくれた。オレのコーヒーであのひとの笑顔が見れるなんて、サイコーの気分!

*****

 2060年12月×日。とうとう、薪さんの好みにぴったりのブレンドを編み出した。BM10、M10、JR5、B40、C35。これを飲んだとき、薪さんの顔がふわっと笑ったんだ! やった!!

*****

 2061年4月×日。須崎の前で、オレのコーヒーが飲みたいと薪さんが言ってくれた。胸がスカッとした。キリマンジャロのストレート。明日からは、薪さんの好きなブレンドを用意しよう。

*****
 
 2061年5月×日。今日は記念すべき日。なんと、薪さんがオレを専属のバリスタに任命してくれた!! これは世界的な祝祭日にすべきだ!!! ヤッホー!!!

*****

 試行錯誤と結果が連綿と記され、それに対する薪の反応が事細かに書かれたその記録は、つい最近の日付まで記されていて、青木の研究は現在も続いていることを示していた。

「……バッカじゃないのか、あいつ」
 これが、東大法卒の男の研究書か。なにが極秘だ、アホらしい。

 呆れ果てた口調で吐き捨ながら、薪はそのノートを見つめる。ふと、本棚のガラスカバーに映っている自分の顔が綻んでいるのに気付いて、慌てて厳しい表情を作った。鏡面の自分を指差して、
「職務の習得に割くべき余暇をこんな無駄なことに使って。次に顔を見たらソッコーで説教だ。覚悟しとけよ、青木」
 そして本棚にノートを戻そうとして躊躇い、だれが見ているわけでもないのにコソコソとそのノートを胸に押し付けるように抱いて、ベッドに戻った。

 今夜はあんな夢を見てしまって、もう眠りは諦めていたのに、布団の中に入って青木の匂いに包まれるとまた眠気が差してきた。
 ノートを傍らに置き、その上にそれを書いたであろう手を載せて、薪は眠りに落ちた。




*****

 原作の青木さんが大変なのに、呑気なことやっててすみません。(^^;


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ハプニング(16)

ハプニング(16)




 再び夢の中に戻って、薪は先刻と同じ場所に立っている。眠ったら、ここに来ることは分かっていた。悪夢とはそういうものだ。
 
 目覚める直前の光景は、既にそこには無かった。床の血溜りはきれいに拭かれ、雪子の死体は消え失せて、そうしてみればごくごく普通の、どこの家にもある風景だ。時間が来れば家族が集まってきて一緒に食事を摂る、当たり前で普遍的なコミュニケーションの発祥地。
 じっくりと観察すれば、食器棚にある子供用の食器や、夫婦揃いの茶碗や湯飲みが置いてある。電子レンジの横には炊飯器と電気ポット、そのいずれにもアニメのシールが貼られていて、両親はどうやら末の娘に甘いらしい。

「おかえり」
 声を掛けられて、薪は振り向く。別に驚いてはいない。予測していたことだ。
「まだなんか用か」
 ダイニングの椅子を引いて、薪はどっかりと腰を落ち着けた。長い黒髪の美しい女性を、ギッと睨み据える。
 弱みなんか見せない、引く気もない。さっきは不覚を取ったが、今度は負けない。自分で作り出した虚像の戯言なんかに惑わされてたまるか。

「ケンカなら買ってやるぞ」
 薪の強気な態度に怯んだか、冴子は苦笑して肩を竦めた。その仕草は彼女の肢体を包むフェミニンなワンピースとの相乗効果で、彼女を可憐に見せた。
 彼女は、整形を受ける前の顔に戻っていた。どこにもメスを入れる必要なんかない、かなりの美人だ。きれいな額と、美しい眉をしている。目はいくらか垂れて、長い睫毛と潤んだような瞳が印象的だ。鼻筋は細く通り、長卵形の輪郭から受ける儚い印象を崩さずに、奥ゆかしく顔の中心に収まっている。唇は小さく、ぽってりとした朱色。

「それ、なあに?」
 彼女が目で示したのは、薪の右手に握られたままの研究書だった。そのつもりは無かったが、持ってきてしまったらしい。
「何が書いてあるの?」
「おまえには関係ない」
「見せて」
「いやだ」
 冴子はすうっと空を滑ってきて薪の傍らに立つと、手を使わずに薪の右手から薄いノートを奪った。

「返せ!」
「いいじゃない。ちょっと貸してよ」
 冴子は薪の手を逃れて、天井へ逃げた。後を追いかけようとして、薪は自分の体が浮き上がらないことに驚いた。冴子は飛べるのに、自分はダメなのか。ここは自分の夢なのだから、自分に有利な設定になってもいいのに。

「降りてこい、卑怯者!」
「えーっと、なになに? 『今日、誰よりも早く事件の鍵になる画を見つけて薪さんに報告したら、薪さんがオレに笑いかけてくれた。春の女神みたいにきれいだった』……ポエム?」
「声に出して読むなあああ!!」
「『勇気を出して、昼休みが終わる10分前に薪さんを起こしてみた。出すぎた真似を咎められるかと思いきや、おまえが起こしにきてくれるなら安心して昼寝ができる、と言ってくれた。これで毎日、薪さんの寝顔が見れる。(はーとまーく)』……なにこれ、恥っずい!」
「やかましい!!」
 怒鳴り返したものの、確かに恥ずかしい。帰ったらこのノートは灰にしてやろうと、薪は固く決意する。

「『今日は初めて薪さんの方からキスを……』」
「ぎゃ―――!!!」
 なんだ、この羞恥プレイは!! 僕に恥をかかせやがって、これを書いた本人ごと燃やしてやるうぅ!!

「あらら、ここからはちょっと口に出せないわ」
 口に出せないって、どういうことだ? ぱらっと見ただけだから気付かなかったけど、まさか!?
「まー、すごい。へー、こんなことまで。ひゃー、一晩に5回も? あなたよく身体もってるわねえ」
 何を書いてんだ、あいつはっ!!!

 初めの毅然とした態度はどこへやら、薪はダイニングテーブルの下に隠れるように身を潜ませていた。
 もう恥ずかしくて恥ずかしくて、顔を上げていられない。床下収納庫に閉じこもりたいくらいだ。

「ああ、面白かった。はい、返すわ」
 真っ赤な顔をしてうずくまり、羞恥のあまり涙目になった薪に、冴子は青木の研究書を差し出した。ひったくるように受け取って、すぐさま破り捨てようとした薪の手を摑んで、冴子はクスクスと笑った。
「愛されてるわねえ」
 薪の目線の高さに合わせて自分も屈み、冴子はしんみりと言った。思わず、薪は真顔になって冴子を見た。
 彼女の黒い瞳は追憶の憂いを湛え、失くしたものを、もう取り返しのつかないそれらを悼み、静かに耐えるように震えるように、哀しみに満ちてそこにあった。短い人生の中で彼女が望んで止まなかったもの、それがこのノートには詰まっている。

「……知ってる」
 薪はぼそりと呟いた。
 そのことを、心から喜ぶ気にはなれなかった。切ないような、悲しいような、かすかな罪悪感を伴ったその感情は、彼女の不幸な人生に対する同情からか、それとも彼女に言われたように、これがかりそめの幸せだと分かっているからか。

「それなら、もう過去に囚われるのはやめなさい」
 彼女の言う過去が何を指しているか理解して、薪は心を強くしようと腹の底に力を込める。そこを突いてくる気なら、僕は負けない。鈴木のラストカットまで浚ってくれた、青木の努力を無駄にはしない。
「囚われてなんかいない。僕はちゃんと自分の人生を全うしようと思ってる。だから、青木のことも受け入れたんだ。彼を愛してる」
「じゃあ、どうして彼にそれを言ってあげないの?」
「それは」
「いつでも彼と別れられる準備をしているのは何故? これは一時の夢だと、自分に言い聞かせ続けているのは何故?」

 畳み掛けるように訊かれて、薪は口ごもる。出世のこととか相手の親のこととか、薪なりに理由はちゃんとある、だがそれを彼女に分かりやすく説明するのは難しい。
 言いあぐねる薪に、冴子は自分の意見を述べた。
「自分は幸せになっちゃいけないって、今でも思ってるからじゃないの?」
「ちがう。男同士ってのは、色々と難しいんだ。世間的なこととか、将来のこととか。僕は青木のためを思って」
「嘘」
 短い断定の言葉で、彼女は議論を打ち切った。さっと立ち上がり、スカートの皺を直すように手で整える。その仕草はとても女らしく、彼女本来のしおらしさを偲ばせた。

「あなたはとっても嘘が上手だけど、わたしには通用しないわ。あなた自身を騙せても、わたしは騙せない。だって」
 彼女は急に悪戯っ子のような表情になると、テーブルの陰に座ったままの薪を見下して言った。
「わたしは――――MRIの神さまだもの」

 聞き覚え、いや、言った覚えのあるたわ言に、薪は目を丸くした。
 あの夜、既に彼女の脳は第九に送られてきていた。見られていた、ということか?それはそれでめちゃめちゃ恥ずかしいが、彼女が敢えてその名詞を自分に冠した理由は?

「……まさか、おまえ!!」
「ぴんぽーん。入れ替えてみました」
 マジでか!?

「どうしてそんなことを」
「面白そうだったから」
「……死にたいか、こら」
 捜一時代に培った凄みを総動員して脅しをかけたつもりなのに、冴子は平気な顔でからからと笑い続けた。
「わたし、もう死んでるし」
 そうだった、幽霊相手にこの脅しは無意味だ。じゃあ、除霊か、お札か。いや、いま成仏されたら大変だ、元に戻れなくなる。

「戻せっ!! おまえがやったんなら、僕たちを元に戻せるだろう!」
 詰め寄ってくる薪の手をひらりとかわして、自称MRIの神さまは足を使わずに移動した。それはたしかに人外の移動手段だったが、こいつの場合は明らかに魔のほうだ。
 ああっ、くそ、こんなやつがMRIの神さまの正体だと解ってたら、お供えなんかするんじゃなかった! 僕の綾紫、返せ!!

「それはあなた次第。努力すれば自分が望む自分になれるんでしょう? わたしを納得させてみてよ。そうしたらわたしが間違っていたことを認めて、あなたたちを元に戻してあげる」
「この入れ替わったままの身体でか!? 無理に決まってるだろ、そんなの!!」
「ひとは外見じゃないんでしょ?」
 なんて意地悪な幽霊だ、さすがは僕の夢だ。意地悪が見る夢はやっぱり意地悪、ってなんでだ! てか誰に突っ込んでるんだ、僕は!!
 お定まりの独りツッコミでいくらか冷静さを取り戻した薪は、空いた左手を腰に当て、上空にいる女性を見上げた。

「もっと早くに出てくれば良かったのに。このアザ、どうしてくれるんだ」
 何度も床に倒れたものだから、自分たちの身体に傷がついた、と薪は主張した。そのほとんどは岡部との早朝訓練でこしらえたものだったが、自分が痛い思いをする原因になったのはこいつだ。責任の所在はこいつにあるはずだ。

「あなたがひとりになる機会を狙っていたの。それと、今までは場所が悪かったから」
「場所?」
「職場でもあなたの家でも、彼が目を光らせてるんだもの。怖くて近寄れなかったの」
「……彼って?」
 冴子は鼻で笑う素振りで、その問いに答えなかった。
 ムッときたが、実は薪もよく部下の前ではそういう顔をしている。わかりきったことを聞くな、と声にするのも面倒なほど、明確な事実に対する質問を受けたときにする顔だ。

「たしかに。ここには彼の写真はないな」
 薪が答えを出すと、冴子はそれに満足したのか、にっこり笑った。彼女の笑顔はあたたかかった。

「魔女の称号は、返上だな」
「あら。わたしはけっこう気に入ってたんだけど」
「性格は良くないけど、そんな顔ができるなら、友だちなんか直ぐに作れただろう」
「仕方ないわよ。こんな顔ができるようになったのは、死刑が決まってからだもの」
 自分は自分。他の何ものにもなれないと、やっと解ったから。
 だから自分を認められなかったら、誰も自分を愛してくれない。自分の中に、他人に愛される要素をたくさん植えて育ててやれるのは自分だけだと理解して初めて、彼女はこんなふうに笑えるようになった。生まれたままの素顔で。

「さて、そろそろ時間切れかしら。夜が明けるわ」
 静かに微笑んだ彼女の姿は、静謐に美しく。色素が徐々に抜けるように、その輪郭を曖昧にしていく。
 だんだんに薄くなっていく彼女の最後の声が、薪の耳に届いた。

「あなたはいつだって守られてる。そのことを知るべきよ」
 
 彼女の姿が完全に消えて、薪は目を開けた。朝の清浄な光の中、恋人の部屋の天井が見える。
 恋人のベッドで彼の匂いに包まれながら、薪はぽつりと呟いた。

「知ってるよ」



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ハプニング(17)

ハプニング(17)




 日曜日の第九研究室は、ひっそりと静まり返っていた。
 MRIの電源が落とされているため、ハードディスクの音もファンの回転音もない。青木の釈明を聞く場所として薪がここを選んだのは、他人の耳を気にしたのと、彼なりの考えがあってのことだった。

 モニタールームに入って薪が真っ先にしたのは、キャビネットの中に設えた簡易式の神棚から鈴木の写真を下ろすことだった。それを室長室に持って行き、すぐにモニタールームに戻ってくる。
「室長室じゃなくていいんですか?」
 てっきり室長室で話をするものと思っていた青木は、意外そうな顔で疑問を口にした。モニタールームは廊下のドアから直結だから、間にドアがある室長室のほうがより安全と言える。彼の意見は尤もだと思われたが。
「室長室はダメだ」
 薪の机の一番下の引き出しには、鈴木のアルバムが隠されている。彼の目があるところには、彼女は出て来れない。

 青木の席に座り、薪はぎこちなく足を組む。慣れない長足を、薪は少々もてあましている。
「で? 言い訳があるなら聞こうか」
 あのノートを見た今では、薪の中に青木の不実を疑う気持ちは残っていなかった。青木は、自分を裏切るような真似はしない。

「あの。怒らないで聞いてもらえます?」
 ……怒られるようなことなのか?
 こいつやっぱり、いやまさか、だけどああでもっ。

 ぐるぐると渦巻く疑問詞が頭の中から漏れ出ないように懸命に自分を抑えて、薪は拳を握り締めた。事と次第によっては、殴るぞ。
「内容による」
 薪が冷たく返すと、青木は俯いてため息を吐き、細い膝に乗せた小さな手を組み合わせた。それから恐る恐る顔を上げ、薪のほうを見て「本当のことを言いますから、怒っても殴らないでくださいね」と取引を持ちかけてきた。第九に入って3年、交渉術も達者になった。
 わかった、と頷いて薪が了承の意を示すと、青木は安心したように話し始めた。

「薪さんて、すごくモテるじゃないですか。薪さんから声を掛けたら、みんなホイホイついてきますよね。その、大人の付き合いまで了承の上で」
 それは決してお世辞でも尾ひれの付いた武勇伝でもなく、純粋な事実だった。青木が薪の口で誘いをかけた相手は、見事百発百中、約束の場所に来た。男も女も、独身者も既婚者も、呆れるくらい簡単だった。薪の性質がここまで淡白でなかったら、彼の人生はもっと華やかな恋愛関係に彩られていたことだろう。
「大人の付き合いって……まさかおまえ、僕の身体で軽はずみなことを」
「いえ、逆です。いくら想ってくれても無駄だから、二度と手紙は送ってこないでくださいって言っちゃいました」
 呼び出した人々に、青木はきっちりと引導を渡しておいた。薪本人の口からはっきりと、将来を誓い合ったひとがいる、と彼らに伝えたのだ。相手の名前は濁すしかなかったが。

「なんでこないだ、そう言わなかったんだ? 僕はてっきりあの娘とおまえが、その」
「え? 話の内容を聞いてなかったんですか? あの距離なら、聞き取れたはずですけど……そうか。オレの耳じゃ聞こえないんですね」
 初めてそこに気付いた、というように、青木は軽く手を打ち合わせた。
「本当に、薪さんは目も耳も特別製ですね。よっぽど神さまに愛されて生まれてきたんですねえ」
 青木はそれをとても嬉しそうな口調で言い、「さすがはオレの薪さんです」とわけのわからない自慢をした。

「僕があそこにいるの、解ってたのか」
「薪さんが木の後ろに隠れたときから、全部見えてました。オレの身体は大きいから、あの木じゃ目隠しにはなりません」
「知ってて、彼女と抱き合ったのか?」
「あー、すみません。一度だけ抱きしめてくれたら諦めるって言われて。キスを求められたら断リましたけど……あのとき、薪さん黙って見てたじゃないですか。オレは薪さんに話が聞こえてると思ってたから、口を挟んでこないって事はさっさと済ませて彼女を追い払えってことなんだろうと思って」
 ショックで動けなかったんだ! それくらい解れよ!

「すみません、勝手なことして」
 なるほど、それで怒らないでください、か。
 他人に来たラブレターの相手を呼び出して、本人の意向も聞かずにその返事をしたのだ。本人に無断で、広がるかもしれなかったパラダイスをぶち壊したのだ、怒られて当然だ。
 が、それは普通の男の場合だ。せっかくお膳立てしてもらっても、その関係を維持できる体力も時間も薪にはないし、その気もない。ラブレターに関しては、数も多いし返事をするのも面倒で、ほったらかしていたのだ。きちんと断ってくれて良かったくらいだ。それに、青木は自分の恋人だ。全く権利が無いとも言いきれない。
 しかし。

「どうしてそんなことを」
 青木は、薪が自分宛てのラブレターを読み捨てているのは知っているはずだ。読んだ後の手紙をシュレッターに掛けるのは、青木の仕事だからだ。なのに、どうしてそんな面倒なことをしたのだろう。

「オレ、正直言うと心配でたまらなかったんです。薪さんにラブレターを送ってくる人たちの中には、オレなんかより素敵なひとは沢山いたし。ていうか、薪さん本当は女性の方がお好きでしょう? だから、陰でこっそり浮気してるんじゃないかって」
「ば……っかじゃないのか! 僕がそんなことするはずないだろ!」
「だって、薪さん異様に薄いから。もしかしてオレ以外の人ともしてて、だから欲しがらないのかなって」
「ちがう! 僕は根っから薄いんだ。若い頃から3ヶ月に1ぺんくらいしかその気にならなくて、だから女の子も本当は2,3人しか」
 しまった、口が滑った。青木があんまり馬鹿なことを言うから、トサカに来て、つい。

「そうなんですか?」
 ええい、こうなりゃヤケだ。

「風俗入れても3人しか知らない。一人は僕の初めての女性で、名前も知らない。もう一人は、おまえと一緒に行ったソープに昔勤めてた人で、風俗はこの二人。普通の女性で身体の関係まで持ったのは一人だけ。でも、彼女はもう、この世にいない」
 青木は、その彼女のことを雪子から聞いている。鈴木と別れた後に、寂しさを埋めるためだけに付き合っていた。薪がそのことを、とても後悔していることも。

「疑ってすみませんでした。あなたの身体に入って、あなたの美しさを改めて知って、オレなんかが薪さんを独占できるわけはないって、そう思っちゃったんです。
 だから、戻れなくてもいいって、チラッと考えてしまいました。だって、オレがこの身体に入っていれば、そんなことは防げる。完全にあなたの行動を掌握できる、独占できる」
 バカなやつだ。僕はとっくにおまえのものなのに。でなきゃ、この僕が男とあんなことするか。基本が解ってないんだ、こいつは。まあ、そこが可愛いんだけど。

「それだけじゃない。オレの思うままに、どんなことでもさせられるし……」
「どんなことでもって」
「あ、だからその、薪さんが絶対にしてくれないこととか、あるじゃないですか。色っぽい下着をつけてくれるとか、スケスケのナイトウェアを着てくれるとか。そういうことを鏡の前で」
 人の体で何してくれてんだ!! このドヘンタイっっ!!
「色目を使いながら服を脱いでくれるとか、エロいポーズで誘ってくれるとか」
 青木との約束も忘れて、薪は咄嗟に拳を握り締めた。
 鉄拳制裁、性犯罪被害者の怒りを思い知れ!!

「オレのこと、愛してるって言ってくれるとか」

 顔面5センチのところで、大きな拳が止まった。呆れ果てたため息と共に薪は拳を開き、椅子にどっかりと腰を下ろした。
「虚しくなかったか、それ」
「ええ、まあ。興奮が冷めると、ガックリきました」
「バカ」
「……反省してます」
 とりあえず、青木の釈明は済んだ。
 これで今日ここに来た目的の半分は達成された。ここからが、本当の勝負だ。

 西園冴子との決着。
 彼女の脳データはMRIシステムに保存されている。だから薪はこの場所を選んだのだ。
 彼女の要求どおり、ここで薪が『理想の自分』になって見せれば、元に戻れるかもしれない。可能性は低い、というか、そもそもあれは夢だ。だから、これは自分の身体を取り戻すための試行錯誤のひとつというよりは、自分自身に決着を付けたいだけかもしれない。
 正直に言うと、MRIの神さまを騙ったあの死刑囚が求める解答がどんなものかは分からない。それでも、自分の理想に近付く努力は怠ってはならない。日々精進するのが人間の在り方だ。

 自分のなりたい自分になる、そのために必要なのは勇気と理想に近付く努力。
 薪の理想は、強く、たくましく、男らしく。大事なひとを守れる力、しっかりと身体に通した信念。努力に努力を重ねて手に入れてきたそれらを、これからもっとレベルアップする気でいる。

 そして自分に欠けているのは。
 前へと進む勇気。

「これはおまえの口であって、僕の口じゃない。だから、僕から聞いたことにはならないかもしれないけど」

 細い膝の上に置かれた小さな手を握る。青木の半分ほどしかない、薪の手。細くて女のように繊細で、でもその手に託されたものの何という重みだろう。今までこの手が支えてきた重みを、薪は誇りに思う。
 
「僕はおまえが好きだから。誰よりも好きだから」

 薪は青木を、自分の顔をじっと見る。
 亜麻色の大きな瞳、その澄み切った美しさ。この瞳を曇らさないように、清浄を保てるように、僕は精一杯の努力をする。鈴木が僕に遺してくれた僕の純真、僕が心から笑うために必要な僕の中核。それを守れるのは僕しかいないのだから。

「だから、自分に戻りたい。おまえが愛してくれる僕に戻って、おまえに愛されたい。おまえを愛してる僕に戻って、おまえを愛したい」

 冴子が自分と青木を入れ替えた本当の理由に、薪はひとつの答えを出していた。それはこの珍現象に納得の行く説明をつけて、冴子という特殊な要因がなければこんなことは二度と起きない、そう信じたい薪のこじつけに過ぎなかったが。
 彼女は、僕に脳を見て欲しかった。だから、自分の脳を見ることに決まっていた青木の身体に僕を入れたんだ。
 あれだけの大罪を犯してやっと学んだ彼女なりの真理を、僕に伝えたかった。自分と同じように過去に囚われてもがいている僕に、後ろばかり見て今目の前にある大事なものを見失おうとしている僕に、一番大切なのは何かを気付かせたかった。
 でっかいお世話だ、超ド級のお節介め。てか、死刑囚の脳に心配されるって、どんだけだ。

 目の前の小作りな美貌が、ふわりと微笑む。周りのすべての生物を癒すような、そのやわらかさとあたたかさ。
 よく覚えておいてくれ、僕の細胞たち。僕がその身体に戻っても、こんなふうに微笑めるように。

「今の、戻ったらもう一度言ってくれます?」
「やなこった」
「お願いします、薪さんの声で聞きたいんです」
「自分で言ったらいいだろ。鏡の前で」
「ええ~……」
「いいから、目つぶれ」
 ふっくらとした頬に両手を添えて上向かせ、薪は咲き初めの薔薇みたいに開きかけた彼のくちびるに、自分のくちびるを重ねた。小さな舌を捕らえて吸い、突き、角度を変えてさらに深く。

 吐息と共にくちびるを離して、薪は呟く。
「なんか、ヘンな感じだ。自分で自分にキスしたみたい」
「オレもです」
 額を合わせて手を握り、指と指を絡める。ぎゅ、と握り合ってもう一度キスをした。

 そして――――。



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ハプニング(18)

ハプニング(18)




「何をやってんだ、おまえら!! 」
 ほぼ一月ぶりに響いた室長の怒号は、第九全体を揺るがすような威力だった。

「今井、宇野! 何処に目をつけてるんだ!! モニターは四角形だぞ、三角形のつもりで見てるのか? だからこんな見落としをするのか?」
「小池、おまえの頭の中には何が入ってるんだ、豆腐か? 耳から熱湯注ぎ込んで頭ン中湯豆腐にされたくなかったら、さっさと証拠を見つけろ!」
「青木、それっぽっちの書類を作るのに、よくそれだけの時間を費やせるな? 文字を一つ一つドット画で書いてるのか? 10分以内に提出、できなかったらドット画のゲームキャラにおまえの顔をビジュアル変更してやるぞ、この拳で!」
「曽我、いつまで同じ画を見てるんだ、面で見ろ、面で! なに? できない? 人間ならできるはずだ。昆虫以下か、おまえの頭は!」

 溜まりに溜まったストレスを一気に発散させるかのように、薪の暴君ぶりは凄まじく、主にその被害を受けるはずの後輩は何故か今日は集中攻撃を免れて、室長の罵詈雑言は全職員に平等に降り注いだ。
「うひゃー、薪さん全開だな」
「ここんとこ静かだったのに。やっぱり平和は長く続かなかったか」
「だからずっと眠ってりゃいいんだよ、あのひとは」
「聞こえてるぞ、曽我、小池!」
 怒鳴りつけられて、二人はヒッと首をすくめる。室長の地獄耳を舐めるなよ!
 
 薪の激励に煽られた彼らは、いつもの数倍の熱心さで与えられた仕事に取り組む。死に物狂いで職務に励む部下を見るのは気持ちがいい。顔色が紙のように白いことと眼が血走っていることを除けば、なんて理想的な職場だろう。仕事意欲に溢れている。
 熱心さでは引けを取らないが、ひとりだけ普通の顔をしている部下がいる。副室長の岡部だ。岡部には、どうも薪の睨みが効きにくい。裏の顔を色々と知られているせいだ。ここは攻撃の方向を変える必要がある。

「岡部。昇任試験の勉強はしてるんだろうな?」
「は、はい! やってますとも!」
「じゃ、これ。僕が作った模擬テスト。やってみろ」
「ひ―――っ!!」
「なんだ、その情けない悲鳴は」

 数式の並んだテスト用紙を見た途端、部屋の誰よりも青い顔になってだらだらと汗をかき始める岡部を見て、薪は我慢しきれずにクスクス笑い始めた。
 薪の笑いに気付いて、他の職員たちもこちらを見ている。コワモテで警察官の経験も長く、滅多なことでは動じない岡部のうろたえる姿に、悪気のない失笑が洩れた。
 薪はしばらくの間、笑いながら岡部の様子を見ていたが、やがてきれいな手を問題用紙の上に被せて、やさしく言った。
「それは宿題だ。家に帰ってからゆっくり考えろ」

 岡部の顔がほっと緩み、次いで嬉しそうに破顔した。
 それは今、苦手な数式から解放されたことによる単純な喜びではなく。薪が薪らしく、元気でパワフルに職務に邁進する姿を久しぶりに見ることができた、それに対する心からの喜び。他の連中も、きっと同じ気持ちだと薪は確信する。

 僕は僕のまま、ここにいていいんだ。

 ふと目を落としたPC画面の右下の時刻表示を見て、薪は時計を確認した。18時20分。
「岡部、晩メシ食いに行かないか。銀洋亭のスペシャルディナーなんかどうだ」
「珍しいですね、薪さんが洋食なんて」
「たまにはいいだろ。僕が奢るから。おまえらもどうだ?」
 振り向いて、全員に声を掛ける。付いてくるのは青木ぐらいだと解ってはいたが、平等に誘わないと不自然だからな。
 しかし。

「やった、薪さんの奢りっ!」
「お供します!」
「ご馳走さまです!」
 俄かに活気付くモニタールームの空気に、誘った薪の方が怯んでしまう。なんだ、この食いつき方。
「オレ、2人前食べてもいいですか?」
「ずるいぞ、青木。じゃ、俺、デザートにマンゴープリンいいですか?」
「フルーツパフェ食ってもいいですか?」
 半分、ノリで言ってみただけなのに、奢りと聞いたらこいつら。

 薪を中心に、わいわいと喋りながらエントランスを出た第九職員たちは、正門の手前で一人の男に呼び止められた。焦げ茶色の髪をお洒落に流した警視庁きってのモテ男、竹内警視だ。天敵であるはずの薪ににこやかに笑いかけながら、こちらに向かってスマートに足を運んでくる。
「室長。これ、DARPAの資料です。あれから色々調べてみたんですよ、この施設の研究内容とか。良かったらどうぞ」
 薪に向かってA3サイズの封筒を手渡す。かなり厚みがあって、重かった。
「DARPA?」
 竹内がどうしてそんなものを持ってきたのか、薪は見当もつかなかった。
 押し付けられた封筒の中身の頭だけを引き出して確認し、その枚数にちょっとびっくりする。これだけの資料を集めるのは大変だっただろう。こんなムダなことをしているヒマがあったら、指名手配犯のひとりでも捕まえたらどうなんだ。

「何の嫌がらせですか?」
「え。いや、こないだ興味がありそうだったから」
 こないだ、と聞いて青木に目を走らせる。眼鏡の奥の眼がウロウロしている。なにか、やらかしてくれたらしい。後でとっちめてやる。
「ダーパでしょう? 最先端科学を速やかに軍事技術に転用する目的で創設されながら、国費を使って空想に近い研究ばっかりやってるトンデモ施設ですよね。国費を浪費している、第九と同じだって言いたいんですか?」
「ち、違います! 確かにここはユニークな研究をしてますけど、俺は決してそんなつもりでは」
「失礼。これから部下たちと食事に行くので」
 威嚇するような低めの声と氷の壁で竹内の言葉を遮って、薪は仲間の輪の中に戻る。残された竹内は、呆然と立ち尽くすしかない。

「……やっぱりあれは夢だったのかな」
「すみません、竹内さん。本当にごめんなさい!」
 謝罪の声に気付いて竹内が我に返ると、第九の新人が頭を下げている。
「なんでおまえが謝ってんの?」
 おかしなやつだ、と竹内は思い、「置いてかれちまうぞ」と彼を急かして仲間の元へ走らせた。青木の大きな背中が第九の輪に溶け込むのを何となく見ていた竹内は、自分と同じ目的で彼らを呼び止めたもうひとりの男に気付いた。

「薪くん。こないだの資料、役に立った?」
 警務部長の意味ありげな視線に、薪はすっと仲間から離れて間宮の側に寄って行った。その様子を見て、竹内は薪の身を案じる。岡部が睨みを利かせているから間宮も滅多なことはしないと思うが、それでも心配だ。
 ふたりはコソコソと秘密めいた会話をしていたが、やがて間宮が大きく頷き、薪の腰に手を伸ばした。以前の薪なら5秒で蹴り飛ばしていたが、こないだの薪は辛そうに震えていた。あんな薪を見るくらいなら、査問会覚悟で間宮をぶっとばしても―――。

「そっか、上手く行ったんだ。じゃ、ご褒美に、ぎゃんっ!」
 ……3秒だった。

「さすが室長、素早い反撃だな」
「蹴りが鋭くなったよな」
「間宮部長も可哀相に」
「そうかあ。ああすればよかったんだ……」
 ひとりだけズレた会話をしている仲間たちの中に薪がようやく収まって、彼らは歩き始める。室長を中心としたその輪は、活気と明るさに満ちて、梅雨空を吹き飛ばすかのように楽しげだった。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ハプニング(19)

 ラストです。
 ここまで読んでいただいて、誠にありがとうございました。




ハプニング(19)




 食事の後、軽く飲みに行くという小池たちと別れて、薪と青木の二人は帰途についた。
 自分たちから疑いを招くような真似は決してしない彼らだが、今日は岡部が「青木、悪いが薪さんを送ってやってくれ」とさりげないフォローを入れてくれて、心の中で照れながらも、それに甘えた。
 真実こそわかっていないが、二人の間に何かがあったことは、おそらく第九の全員が気付いている。だから薪が元の溌剌さを取り戻した今日は、お祝いに付き合ってくれたのだろう。

「ったく、あいつら。奢りと聞いた途端に群がってきやがって」
「またそんな言い方して」
 お得意の皮肉で仲間の好意を否定する薪を嗜めようとして青木は、滅多に見られない彼の表情を見て口をつぐむ。
 幸せそうな、素直な笑顔。薪にもちゃんと分かっているのだ。

 辺りはすっかり夜の帳が落ちて、街灯や店の明かりが眩しく輝いている。通り過ぎる車のライトに目を細めて青木は、先日の出来事を思い出していた。

 日曜日のモニタールームで、二人は初めて自分の身体とキスを交わした。互いの指を絡ませた両手を肩の横に置き、何度も角度を変えて重ね合わせた。
 しっかりと絡んだ舌の甘さに酔いしれたとき、それが起きた。ジンと頭が痺れるような感覚がふたりを襲い、ライトに照らされたように辺りが明るくなった。目を開けたら、互いの姿が見えた。
 ふたりとも、何故か驚かなかった。それを不思議とも思わなかった。
 ああ、戻ってきた、と思っただけだった。

「これで鏡を見なくても、あなたに会える」
 薪は珍しく、うん、と素直に頷き、ふたりはもう一度、甘いキスを交わした。

 薪の舌の甘さと濡れたくちびるの感触を思い出し、青木は彼が欲しいと思う気持ちを止められなくなる。幸い、周りには誰もいない。信号待ちで立ち止まった彼の小さな耳にくちびるを寄せ、青木はこっそりささやいた。
「あの。今夜、いいですか?」
「ダメだ」
「オレ、もう1月もお預け食ってるんですけど」
 即決で返ってきた拒絶に、青木はつい非難めいた口調になる。
 短い間とはいえ青木の身体で生きてきた薪には、彼の気持ちも逼迫した状況も良く分かっていたが、ここはもう少し我慢させないといけない。薪にも考えがあってのことだ。理由は言えないが。

「どうしてですか? せっかく元に戻れたのに。昨日も、もう少しだけ待てって。いつまで待てばいいんですか」
「7月29日の午後14時34分22秒までだ」
「……なんでそんなに明確なんですか?」
 この日時の49日前に、彼女の死亡が確認されたからだ。

 あれは自分の脳が作り出した幻だったと、薪は確信を持っているが、それでも念には念を入れておくべきだ。
 青木には言えない。彼女と交わした会話は、青木には秘密だ。
 だから薪は、また小さなウソを吐く。

「キスで元に戻ったんだぞ? セックスなんかしたら、また入れ替わっちゃうかもしれないだろ。この不安定な細胞が全部生まれ替わるまで、おあずけだ」
「そ、そんなあ……」
 青木警視の苦悩の日々は、つづく。




―了―




(2010.6)




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天国と地獄2 (1)

 こちら、男爵シリーズ『天国と地獄』の続編でございます。
 書いたのは、10ヶ月ほど前です。(お古ばっかですみません)

『天国と地獄1』を未読の方にご説明いたしますと、
 このお話では、あおまきさんは恋人同士ではありません。
 薪さんは完全ノーマル設定で、原作の青木さんのように、男が男に恋をする感覚が理解できません。 当然、鈴木さんと恋人同士だった過去もありません。(←ここを外すのは迷いました) 
 青木くんはがっつりヘンタイで薪さんにメロメロですが、(←ここだけは外せません) ノンケの薪さんは彼の気持ちに気付いてくれません。 
 そのあたりのすれ違いやとんちんかんな言動に焦点を当てた、ギャグ小説です。

 うちの話で、青木くんが告ったときに実力行使しなかったらこうなってたかも的なパラレルとして書いてみました。
 男爵カテゴリなので、薪さんのカンチガイっぷりはMAXになっております。 いっそバカと言ったほうが、いえその。


 どうか、広いお心で。


 





天国と地獄2 (1)


「お疲れ様でした」
 ゴール地点から500m程の位置にある選手たちの休憩スペースに入ってきた上司の姿を見つけて、岡部は彼に声をかけた。
 薪は片手を上げて岡部に応え、しかし言葉を発することは能わずに、息を弾ませながら岡部の隣に腰を下ろした。休憩スペースといっても、研究所の中庭をロープで区切っただけのもの。薪が座ったのは、当然芝面の上だ。
 袖なしのランニングシャツから覗いた華奢な肩が、大きく上下に動いている。その動きは彼の肺の激しい収縮から伝わる余波で、のけぞった顎から首に流れる汗は、彼の懸命の努力を証明する。
 上を向いて、薪はハアッと大きく息を吐いた。芝生の上に仰向けに寝ころがり、両手を太陽にかざして、悔しそうに叫ぶ。
「ああっ、くっそー! 青木なんかに負けた!」
 その雄叫びの原因がひとりの男に由来するものだと理解して、岡部は思わず吹き出した。

 抜けるような青空が広がるも、凍てつく空気の冷たさに外出が躊躇われるような2月の日曜日。警視庁警察庁合同の持久走大会が開催された。
 基本的に参加は自由で、コースは皇居と日比谷公園周囲の道路。距離は約20キロ。
 身体を鍛えることは警察官の責務だ、と認識している岡部と薪は毎年参加しているのだが、3年前から第九の若い捜査官がそのメンバーに加わった。薪が負けた、と口惜しがっているのは、その彼のことだ。

「岡部、僕はもうダメだ。人間としてお終いだ」
「持久走で負けたくらいで大げさな」
「だって、相手は青木だぞ?」
「無理ないですよ。青木のやつ、スタミナ付きましたからね。今年は俺だって冷や冷やしましたよ」
「青木のくせに生意気な。2年前は2キロも走れなかったのに、いつの間にあんな」
 ぴたりと口を閉ざして、薪は冷ややかな視線を前方に送った。
 話題の後輩が、10人くらいの女子職員に囲まれている。彼女たちは青木の周りに群がり、色とりどりのタオルやスポーツドリンクなどで自分をアピールしようと躍起になっている。

「モテるようになりましたよね、あいつ。男らしくなったし。やっぱり武道に親しむと、一本芯が通りますからね」
「どこが男らしいんだ。ニヤニヤしやがって。軟派ヤローが」
 薪の辛辣な言葉は、現況にまるで合っていない。青木はニヤけてなどいないし、どちらかというと迷惑そうな素振りさえ見える。
 次々と差し出されるタオルも、自分のがあるから、と断っているし、スポーツドリンクにも手を伸ばさない。笑みを浮かべながらも固い態度は崩さずに、挙句の果てには「すみません。休ませてもらえますか」とかなりキツイ一言を放って、彼女たちを追い払った。
 それを見ていた薪は、ふん、と鼻を鳴らすと、
「硬派気取りか。本当は嬉しいくせに」
「……どっちにせよ、気に入らないんですね」
 薪は、自分より女の子にモテる男が好きではない。捜査一課の竹内のことを嫌っているのも、彼が自分より女性に人気があるから、という要因がかなりのウエイトを占めていることを岡部は知っている。

 ベスト10に食い込んだ岡部の後輩は、俯いて嘆息すると、肩の力を抜いてその広い背中を開いた。よく知らない女子職員に集団で来られて、大分緊張していたらしい。
 ふと頭を巡らせた青木が、岡部の姿を捉えた。
 軽い微笑を浮かべた青木の目が、次の瞬間キラキラと輝き出すのを見て、岡部は彼が自分の隣で胡坐をかいてそっぽを向いている上司の姿に気付いたことを知る。岡部たちの周りには走り終えたばかりの走者が大勢いて、彼らの中に埋もれてしまう小さな姿を見つけるのは困難と思われたが、青木の目は特別製らしい。

「薪さん!」
 青木は弾んだ声で薪の名を呼ぶと、さんざん悪口を言われていた本人のところへ、満面の笑顔で駈けてきた。先刻の女の子たちに向けていた態度とは雲泥の差だ。
「薪さん、ベスト10に入りました! 約束、覚えてくれてますよね」
「知らん」
「えええ!? ひどいですよ! 10位までに入ったら、デートしてくれるって、鼻の骨が折れそうですけど薪さんにされることなら平気ですっ」
 薪が勢いよく青木の顔面にめり込ませたプラスチックの容器から、甘酸っぱい匂いがする。どうやら中身はレモンの蜂蜜漬けらしい。

「もう、乱暴なんだから……ん、美味しいです。薪さん、今日のお弁当なんですか?」
「おまえのなんかあるわけないだろ。岡部と僕の分だけだ」
「ええ! だって、今日は楽しみにしてろって、耳が千切れそうに痛いですけど薪さんの指がオレの身体に触ってくれるのは嬉しいですっ!!」
 目的のためには手段を選ばない薪の人並み外れた行動力のおかげで、会話を始めて2分も経たないうちに青木の顔にはいくつもの傷がついている。自分がいると、それがさらに増えていきそうな予感がして、岡部は小さな嘘を吐く。

「俺はいいです。お袋が作ってくれましたから」
「そうなのか?なんだ。じゃあ、犬にでも食わせるか」
「意地悪ばっかり言わないで、オレに食わせてくださいよ。なんでそんなにつんけんしてるんですか?」
「薪さん、ヤキモチ妬いてんだよ。おまえが女の子に囲まれてたもんだから」
「え?本当ですか。薪さんが、ヤキモチ?」
 背の高い後輩の耳元で、こっそり真相を教えてやると、青木は何故か嬉しそうに笑って、ぐっとガッツポーズを取った。
「ヤキモチだなんて……くっ! 薪さんて、本当にかわいい……!」
「違うと思うぞ、青木」

 ベスト10に入ったことより遥かに満足そうな青木の様子に、岡部は呆れながらもお約束の突っ込みを入れる。 青木の勘違いに苦笑する傍ら、そのいたいけな気持ちを応援してやりたいと、お人好しの岡部は思う。
 だから岡部は顔見知り程度の捜一の後輩に声をかけ、その男と一緒に昼食を摂りたいと薪に頼み込む。自然の流れで中庭に歩いていくふたりの後姿を、岡部は苦笑交じりに見守った。



*****



「薪さん、何位でした?」
「……26位」
 少し口惜しそうに唇を尖らせて、ぼそりと薪は白状した。
 参加した人数は200人を超えているし、現役の警察官ばかりの大会だから、それだって立派な数字だ。青木が初めて参加した3年前なんて、順位は三桁だった。

「年々、順位が下がってる。やっぱり年には勝てないな」
 薪の顔に似合わぬ台詞にはすっかり慣れて、今更突っ込む気も起こらない。実年齢に合った発言でも、このひとの場合は外見が外見だけに、耳にした者は失笑を禁じえないのだが、薪に対する特別な感情からか青木はまた受け取り方が違って、まるで小さな子供が大人の真似をしてオマセなことを言っているような可愛らしい印象を受けてしまう。だからついつい微笑んでしまって、それが薪の不興を買うのだ。
「僕はもともと、スプリンターなんだ」
 確かに、薪のスタートダッシュは猛烈だ。400m走では勝てた試しがない。

「それで薪さん。来週の日曜日、幕張メッセで自動車の展示会が」
 薪のお手製のミートボールを口に入れて、そのやさしい味わいに目を細めつつ、青木は自分が考えたデートプランを薪に説明する。薪は自然のものが好きだから、帰りに海沿いのH公園に寄って、それから磯料理が自慢の店で夕食をとって、それからそれから、できれば友人から脱却するためにそういう雰囲気を作って、今度こそ告白を。
「仕事が入らなきゃな」
 熱心な青木とは対照的に、薪の言葉は素っ気無い。なんだか少し、機嫌が悪いような気がする。

「ていうか、僕なんかよりさっきの娘たちの中から、誰か誘った方がいいんじゃないのか?」
「どうしてそんなこと」
「おまえが純情で女の子に声を掛けられないのは知ってるけど、いつまでもそんなことじゃ困るだろ」
「オレが他の女の子とデートしても、薪さんは平気なんですか」
「いや。それは僕だって、心中穏やかじゃないけど」
 薪の素直な言葉を聞いて、青木は嬉しくなる。さっきもヤキモチを妬いて、と岡部が言っていた。嫉妬という感情は、好意があってこそだ。

「雪子さんのことを考えるとな。なあ、青木。もう一度、彼女のこと考えてみてくれないか?」
 ……こっちですか。

 途端に口の中のミートボールの味が分からなくなって、青木は力なく箸を持った右手を膝の上に載せる。薪は青木の気持ちには全然気付いてくれないばかりか、雪子と自分をくっつけたがっている。
 親友の恋人だった彼女に、薪はどうしても幸せになってもらいたい。そう思って、自分が見込んだ将来有望な恋人候補の男性を次々と雪子に紹介しているのだが、雪子の方はかなり迷惑している。薪の気持ちを思うと無碍にもできないが、正直これ以上のお節介は止めてもらいたい。雪子が青木のことをはっきりと薪に断らない裏側には、彼女のこんな本音が隠されている。「青木くんとのことをきちんと考えたいから、友人の紹介は中断して」という雪子の言い訳を真に受けて、青木のことをかき口説いているというわけだ。

「オレにはその気はないです」
「だけど、よく考えてみろ。おまえが女性の中で、唯一平気で話せるのは雪子さんだけだろ? 彼女以外の女性と付き合うより、ずっとスムーズに行くと思わないか」
 別に、女性が苦手なわけではない。薪に余計な誤解をされたくないから、喋らないようにしているだけだ。
 年長者ぶった薪の説得に、青木は心の中で反論する。口に出してはいけない想いが、青木の心とくちびるを固く凍りつかせる。

「たしかに彼女はおまえより12歳も年上だけど、女性の方が平均寿命は長いんだぞ。若い娘の方がいいっていうおまえの気持ちもわかるけどな」
 そんなこと、一言も言ってないじゃないですか。オレは12歳年上のあなたが好きなのに。
「広い心を持った年上の女性を妻にしたほうが利口だぞ。この職業についた男にとって、家庭は安らげる場所じゃないとな」
 そんなもの、いらないです。オレはいつでもあなたと一緒にいたい、切なくても苦しくてもいいから、あなたがいいんです。

「オレのことより、薪さんはどうなんですか? 見合い話、片っ端から断っちゃって。ひとに結婚を勧めるなら、まずはご自分が実践されたらいかがです?」
 実行して欲しいとは露ほども思っていないが、とにかくこの話を終わらせたくて、青木は薪に自省を促した。素直に頷かれても困ってしまうが、しかし青木には、薪が次に何と答えるか、解っていた。

「僕はいいんだ」
「じゃあ、オレもいいです」
「そんなわけにいくか。あのな、青木。警察官僚ってのは40までに結婚しないと出世に響く」
「オレは、女の人といるよりもあなたといた方が楽しいんです」
 あ、しまった、口に出ちゃった。
「まあ、気持ちは解るけどな。何のかんのいっても、男同士の方が気楽だよな。気取りも見栄もいらないから、落ち着くし」
 いえ、今も心臓バクバクいってるんですけど。
 ていうか、今のセリフで気付かないって、この人どんだけ鈍いんだっ!

 薪にはどうも、男が男を性愛の対象として好きになる、という感覚が理解できないらしい。薪に言わせると「そんなことはありえない」ことで、「そういう気持ちを持つのは特殊な人種だけ」だそうだ。偏見に満ちた薪の定義は納得できないこともない。青木も薪に恋をする前は、全く同じことを思っていたからだ。
 だからはっきりと、「オレは薪さんが好きです」と言ったとしても、それは友人としての好きとしか受け取ってもらえない。言葉で理解してもらえないなら行動で示したいところだが、きちんと意思が伝わらないうちにそんなことを仕掛けるのはためらわれるし、嫌われる要因になりかねない。薪は「特殊な人種とはお近づきになりたくない」と明言しているからだ。

 男なら誰でもいいわけではなく、というか、薪以外の男なんか気持ち悪い、だけど薪とだけはそういう関係になりたい。
 青木のこの複雑な心情を薪が理解してくれるのは、遥か先のことと思われた。



*****


 恋人同士になる前の二人を書くのは、とっても楽しいです。
 青木くんがひたすら薪さんのことを追いかけている様子が、3巻までの彼らを彷彿とさせるからです。 
 ……よくぞ帰ってきた、青木。(感涙)


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天国と地獄2 (2)

 みなさん、連休いかがおすごしですか? 楽しまれてますか?
 
 昨日は、16回目の結婚記念日でして。
 連休中はそのお祝いも兼ねて、毎年オットと小旅行に出かけていたのですけど、今年は余震が続いているので、家に一人お義母さんを残すのが怖くて、旅行はやめました。

 その代わり、一昨日、サファリパークに行って来ました♪ 
 自分のペースで動ける動物園と違って、あまり長く同じ場所に留まれないのが難点ですが、(←ひとつの柵の前に20分は居座るやつ)
 動物達が自由に動き回っているところがいいですね~。 
 水鳥と鹿が仲良く遊んでいたり、ラマとアルパカが並んで歩いていたり。 動物の種類ごとに柵を区切ってしまう園では見られない光景に、癒されまくりました。

 朝早く出かけたので、かなり時間が余りまして、それから牧場を回ったんですけど。
 馬に乗りまして、(←周りが子供ばっかりでかなり恥ずかしいのを我慢すれば楽しい、てか乗ったらやみつき)
 ロバと戯れまして、(←なつこい。 岩になった気分でじっとしてると肩に頭を付けてくる)
 ヤギと羊にもみくちゃにされました。(←エサに突進してくる)

 動物系のテーマパークは、うちのあおまきさんの定番デートコースなので、きっとこんな感じなんだろうなー、と微妙にずれたことを考えつつ、お休みを満喫してきました。
 気持ちが残っているうちに、あおまきさんの楽しいデートの様子でも書こうかな。

 でも、公開中のお話はこんなん↓(笑)




天国と地獄2 (2)




「聞いてくださいよ、岡部さん。薪さんたらヒドイんです」

 週の最初のアフターから後輩の愚痴に付き合わされて、岡部はげんなりしていた。
 後輩が持ち込んでくる相談といえば、仕事のことか職場の人間関係についての悩みと相場が決まっているのだが、この後輩に関しては、ほぼ100%特定の人物との人間関係だ。それは確かに彼らの共通の上司のことだったが、仕事とも職場とも、何の関係もない。実にプライベートなことだった。

「オレ、すっごく楽しみにしてたんですよ、昨日のデート。それなのに」
 上司と二人で出かけることを『デート』と表現していることからも解るように、青木は何年も前から薪に惚れている。仕事上の悩みなら一緒に解決策を模索することもできるが、恋愛問題、しかも成功確率マイナス値の恋となれば、これはもう、どうやって諦めさせるかに尽きる。

「電車の中では前の席に座った女の子の胸元、じーっと見てるし、モーターショーの会場ではコンパニオンの生足に釘付けだし」
「だから前にも言っただろ? 薪さんは見てくれはああだけど、中身は普通の男だって」
 何度も諦めろと忠告したのだが、この男は見かけによらず頑固者で、一向に岡部の忠告に耳を貸さない。男同士ということもあるが、それ以上に薪という男には、色々と問題があるのだ。

「わかってます、それだけならオレだって泣き言は言いませんよ。でも薪さんたら、イベントコンパニオンのコスチュームに刺激されたみたいで、帰りにイメクラ寄って行こうって……あんまりです!!」
 薪の性格を知っている岡部には、それが純情な年若い部下を揶揄しての冗談だと分かったが、青木にしてみれば恋をしている相手に風俗店に誘われるなんて、大きなショックだろう。しかも自分とのデート中に。
「どーしてホテルじゃなくてイメクラなんですか!?」
「いや、そこでホテルもおかしいだろ」
「おかしくないです。ホテルによってはサービスで、色んな制服を置いてるところも」
「……おまえが着るのか、それ」
 外見と中身の離反が激しい薪が、女物の衣装に身を包むことなどあるはずがない。それくらいは心得ていたのか、青木はウィスキーのグラスを持ったまま固まった。

 肘をついて掲げたグラスより下に頭を下げて、青木はテーブルの上にため息を落とした。青木の息が掛かった場所から、どろどろと淀んだ空気が漂ってくる。
「だから、あのひとは止めとけって言っただろうが」
「そんなこと言われたって……好きなんですよぉ。自分でも、どうにもならないんです、薪さんは男のひとだって分かってても、諦めきれないんですぅ……」
「問題はそこじゃないだろ、あのひとの場合」
 相手が同性だという理由だけで、青木の恋にストップをかけてきたわけではない。岡部は、そんな了見の狭い男ではない。
 時代が進み、同性間の恋愛についても理解が増して、その感情を昔ほどひた隠しにしなくても良くなっている現代、薪のように「普通の男は男に恋なんかしない」と思っている方が時代遅れなのだ。

「あのひとの頭の中に、おまえが恋愛の対象として自分を見ているっていう意識がカケラもないのが一番のネックなんじゃないか。まずはそこからだろ。もっと、恋愛感情を表に出してだな」
「これ以上、どうやって表現しろって言うんですか? オレ、あのひとに好きだって何回も言いましたよ。でも軽く受け流されるばかりで、しかもそのたびに仕事が増えていくし」
 自分を好きだと言う部下に対して、「そうか。じゃ、これ頼む」と書類を押し付ける薪の姿が簡単に想像できて、岡部は引き攣り笑いを浮かべた。
 薪らしい、らしすぎる。上司として尊敬されていると信じて疑っていないのだ。

「言葉がダメなら、行動で表したらどうだ。デートに誘うとか」
「その結果がイメクラでした」
 そうだ、青木はちゃんと行動もしているのだ。
「じゃあ、もう一押し。抱きしめてみるとか」
「やりました。2秒で投げ飛ばされました」
 薪は柔道の有段者だ。素人の青木を投げ飛ばすくらい朝飯前だ。柔よく剛を制す、この武術に体格差は関係ない。

「『柔道の稽古をつけて欲しいのか』とか言われて、その後、道場で1時間もしばき倒されて」
「ああ、面倒臭えなあ。いっそのこと、唇でも奪っちまえば」
「それはイヤです。気持ちも伝わっていないうちに、そういうことはしたくないです」
 それぐらいやらないと、薪には伝わらないのに。薪も薪だが、青木も青木だ。ふたりとも、自分のポリシーに執着するタイプなのだ。

 青木はしばらく考え込んでいたが、やがて意を決したように、岡部を真剣な眼で見た。
「岡部さんから、言ってもらえないですか?」
「俺が?」
「はっきり伝えなくていいんです、匂わせてくれるだけで。岡部さんに言われれば、薪さんだって真面目に考えてくれると思うし、そうなればオレの言葉も正確に伝わるはずです」
「どうだかなあ」
 正直、あまり自信がない。どんなに複雑に絡み合った人間関係でも、それが事件の背後にある限り、瞬く間に看破してみせる薪だが、我が身に降りかかると途端に鈍くなるのが彼の特徴だ。相手が女性ですら中々気付いてもらえないのに、同性ともなれば言わずもがな。

「お願いします。岡部さんが最後の希望なんです」
 それでも、こうして頭を下げられれば嫌とも言えない。あんまり期待するなよ、と渋く承諾してやると、青木は頭を上げて、その日初めての笑顔を見せた。




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天国と地獄2 (3)

天国と地獄2 (3)




 翌日の夕刻。
 部下たちが帰宅した後、岡部は室長室へ向かった。気乗りはしないが仕方がない。最後の希望とまで言われては、何のアクションも起こさずにいるわけにはいかない。

「薪さん。ちょっといいですか」
 執務席に向かって熱心に書類を読む薪に、岡部は控えめに声をかけた。薪が顔を上げて、岡部に微笑みかける。進行中の事件がないときの薪は、比較的穏やかだ。
「どうした?」
「青木のことなんですけど」
「あいつ、またなんかミスったのか?」
 すぐに仕事に結びつく。薪にとって、青木はまず部下だ。そこから切り離さなくては。

「いえ、違います。その……仕事は抜きにして、薪さんは、青木のことをどう思ってらっしゃるんですか?」
 鋭い人間なら、このセリフで察するものだが。まあ、薪には無理だろう。
 予想通り、薪は色事とは無縁の快活な笑いを浮かべ、
「あいつ、世界びっくり人間ショーとか中国雑技団とか、いけるんじゃないか」
「はあ?」
 予想もしない答えを返してきた。

「こないだ、熱いコーヒーが足にかかってるのに、まるで平気だったんだ。熱さを感じないらしい」
「それは、どういう状況で?」
「風呂から上がって、キッチンに水を取りにいったんだ。そしたらそこで、青木が自分の足にコーヒーを注いでた」
 風呂から上がったら、薪はいつも素っ裸だ。青木はそれに見蕩れていたに違いない。
「寒いのも感じないみたいだぞ? いつだったか雪山でコート脱いで、僕に着せて」(←『ラストカット』)
 あれはあなたを助けようとしたんでしょうがっ!!
 報われない後輩の境遇に、涙が出そうになる。青木、このひとだけは止めた方がいいぞ、と岡部は、無駄なアドバイスを胸中で呟かずにはいられなかった。

「もしかしたら、ナイフとか飲めるかも」
 止めてください! 青木はあなたの命令なら本気でナイフ飲みますよっ!!
「口から火を吹く大技もマスターできるかもしれないな」
「青木は不器用ですからね。自分が火だるまになっちまうんじゃないですか?」
「火だるまか。あいつ、背が高いからな。見ごたえありそうだなっ」
 そんな、サーカスを観にきた子供じゃないんですから、目をキラキラさせないでくださいよ……。 

 このひとだけは絶対に止めた方がいい、命にかかわるぞ青木、と心の中でもう一度忠告してから、岡部は青木との約束を果たそうと言葉を継いだ。
「青木の特技はともかく、仕事は頑張ってるでしょう? 日曜出勤とか残業とか、全然嫌がらないし。毎日遅くまでモニタールームに残って自主学習してるし。何故だと思います?」
「何故って。一生懸命に仕事をするのは当然のことだろ?」
「それはそうですけど。でも一番の理由は、あなたに認めて欲しいからです」
「まあ、人事査定は僕の仕事だからな」
「違いますよ!」
 岡部は思わず、声を荒げた。あの努力を査定のためと誤解されたら、青木があまりにも可哀想だ。

「そんないやらしい気持ちじゃないですよ。青木は薪さんのことが好きなんです」
 しまった、匂わすだけでいい、と言われていたのに、ハッキリと口に出してしまった。この言葉は自分で告げたかっただろうに、悪いことをしてしまった。
 何とかフォローが効かないかと、岡部が薪の様子を伺うと、薪は赤くなることも照れることもなく、平然とした顔で読み終わった書類を揃えていた。

「驚かないんですか?」
「驚く? なんで?」
「なんでって……普通はびっくりしませんか? 好きとか言われたら」
「そんなの当たり前だろ。僕はあいつの直属の上司なんだから」
 いや、青木の気持ちが当たり前だったら、人類はとっくに滅びてますから。生物学的に。
「僕だって、捜一にいた頃は羽佐間さんのこと大好きだったし、今だって直属の上司ってわけじゃないけど、小野田さんのことは尊敬してるし、大好きだぞ」
 ……よかったですね、いい上役に恵まれて。理想の上下関係ですね

「岡部だって、僕のこと好きだろ?」
「いや、違います。あのですね」
「え、違う? 岡部、僕のこと好きじゃないのか」
 青木が薪のことを好きだ、と告げたときより、ずっと驚いた顔をして、薪は岡部を見た。哀しそうに眉尻を下げて、ひどく沈んだ顔になる。

「他の職員には嫌われても仕方ないと思ってきたけど、岡部までそんな……おまえにだけは、本音で話してきたつもりなのに」
「いや、そうじゃなくて! 好きですよ、俺は薪さんのこと尊敬してます!」
 薪の様子に焦りまくり、岡部は当初の目的から遥かに遠ざかったセリフを叫んだ。それは青木に頼まれたこととは激しく食い違っていたが、彼を責めるのは酷というものだ。薪の幼げな美貌を向けられて、亜麻色の大きな瞳をうるうるさせて、思い詰めた表情で見られたりしたら、地獄の閻魔だって彼を慰めずにはいられないだろう。

「本当に?」
「本当ですよ。俺がおべんちゃら苦手なの知ってるでしょ。でも、青木のやつは、俺とは違った意味であなたのことを」
 岡部が誤解を解こうと普段は言わない本音を吐くと、薪はぱあっと笑顔になった。
「よかった。岡部にだけは嫌われたくないと思ってたんだ」

 普段はあれだけ皮肉屋でへそ曲がりなくせに、どうしてときどき豹変するんだろう。これは青木じゃなくても持っていかれる。ガチガチノーマル派の岡部には効かないが。
 青木のような感情を持ち合わせていなくても、薪のこの笑顔を誰よりも望んできたのは岡部だ。薪が笑ってくれると、岡部は本当に嬉しいのだ。

「じゃ、今日はもう帰っていいぞ。お疲れさん」
「はい、失礼します」
 薪の笑顔に釣られるようにニコリと笑って、岡部が部屋から出て行った後、薪は書類に向かって呟いた。
「ん? 青木が何とか言ってたような気がするけど……ま、いいか」

 薪の笑顔にいなされて岡部が室長室を出ると、すぐさま青木が駆け寄ってきた。岡部が持ち帰る成果を楽しみにしていたであろう彼は、期待に目を輝かせて、せっつくような口調で岡部に問いかけてきた。
「岡部さん、どうでした?薪さん、オレのこと意識してくれそうですか?」
「世界人間びっくりショーを目指して修行に励めとさ」
「????」

 疑問符の渦に飲み込まれた青木を置き去りにして、岡部は帰り支度をする。
 青木には悪いが、このままにしておいたほうが、薪は幸せかもしれない。青木の気持ちを知らないからこそ、あんなふうに楽しくやっていられるのだ。知ってしまったら態度も変わるだろうし、悩みも増えるに違いない。
「青木、あの人のこと諦める気は」
 振り返ると、今いたはずの場所に青木の姿はなかった。ぐるりと頭をめぐらせて、その長身を室長室の戸口に見つける。
 室長室から出てきた薪と、何か話している。若く張った頬を紅潮させて、黒い瞳を恋をするもの特有の熱っぽさにきらめかせて、口元をだらしなく緩ませて。
 ……何を言ってもムダか。

「岡部さん、薪さんが3人で食事に行きましょうって」
 本体から離脱して空中を舞う青木の魂が見える。食事に誘われたくらいで、そんなに嬉しいのか。
 痛々しいまでに純朴な後輩の様子を見ていると、岡部はまた迷ってしまう。薪に悩みを増やすのは不本意だが、こいつの気持ちも何とかしてやりたい。
「俺は今夜は遠慮します。おふくろを食事に連れて行く約束してるんですよ」
 意味ありげに青木に視線をくれてやると、青木は岡部の気遣いを悟ったらしい。ぺこりと頭を下げて、胸の前でぐっと拳を握って見せた。

「そっか、残念だな。じゃ、青木。『瑞樹』でいいか?」
「はい! オレ、薪さんとならどこでもいいです!」
 薪が一緒なら、コンビニの握り飯を公園のベンチで食べたって、青木には最高のごちそうなのだろう。こんなにひたむきに思われているのに、薪ときたら。可哀相に、青木のやつ。

「そうだ、青木。メシが済んだら、日曜日に行けなかった所、今夜行こう」
「……イメクラですか?」
 連れ立って廊下を歩きながら、隣で交わされる会話に、岡部は思わず涙ぐみそうになる。青木、どこまで不憫なやつなんだ。
「違う、海の見える公園。帰りに車から見えて、寄りたかったけど時間がなくて諦めただろ?あそこの夜景はきっと、すっごくきれいだぞ。おまえとふたりで見たいと思ってたんだ」
 ……薪さん、計算してます? それはいわゆる、ツンデレってやつですよね?
 
 というか、薪の気持ちがいまひとつ分からない。普通、夜景を見るのに男を誘うか?しかも、『おまえとふたりで見たかった』とか平気で言ってるし。自覚はないけど、青木のこと好きなんじゃないのか、このひと。
 青木が女の子に囲まれてたときも不機嫌になってたけど、あれは自分よりモテる男に嫉妬したんじゃなくて……て、まさかな。

「あれからずっと楽しみにしてて……何してるんだ?青木」
 男相手に恋愛が成立するはずがないと信じ込んでいる薪には、青木がどうして壁に突進して額をコンクリートに打ち付けているのか分からない。
「もしかして、新しい芸か? 額から血が吹き出てるのに、痛くないのか? スゴイな、おまえ!」
 だから、その期待に満ちた目で青木を見るのは止しなさいよ! 青木がどんどんおかしな方向へ突っ走って行くじゃないですか!

 口元をむずむずさせて、薪は青木を見上げた。長い睫毛をゆっくりと瞬かせて、青木に投げたのは一撃必殺の上目遣い。
「青木。おまえ、火吹ける?」
「はい!」
「止めろ、青木。死ぬぞ」
「ナイフ飲める?」
「はい!」
「止めろ、青木。本当に死ぬぞ」
 この先、薪に恋心が伝わったとして、果たして青木は五体満足でいるのだろうか。
「こういう場合って、労災になるのかな……」
 近い将来必要になるかもしれない厄介な事務手続きを憂いて、第九の副室長は深いため息を吐いた。


(おしまい)



(2010.7)



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天国と地獄3 (1)

 こんにちは。

 こちら、『天国と地獄』シリーズで書いたんですけど、なぜか内容が岡部さんの話に……。
 実は本編の方で、岡部さんの好きなひとについて幾つか伏線を張っておいたのですが、(『仮面の告白』とか『ファイヤーウォール』あたり) 回収しきれなくなりまして。(^^;  
 暴露しますと、回収しようにもあまりに絶望的な恋路なので、本編では絶対に悲恋になる、ので、ハッピーエンド主義者の筆者には荷が重く。 苦し紛れに、何でもありのこちらで回収を目論んでみました。
 
 男爵カテゴリにしても悲恋に違いはないのですけど、こちらはギャグなので~、
 笑っていただけるとうれしいです。(^^ 


 あ、それと、こちらリハビリ第2作目で、文章がかなりぎこちないです。 ストーリーもギャグもいまいち☆
 どうか、広いお心で。


 


天国と地獄3 (1)





 地球温暖化の影響かオゾン層の破壊か、とにかくあまり慶ばしくない環境問題が原因であろうと察せられる暴力的なまでの集中豪雨。『ゲリラ豪雨』という名称も聞き慣れて久しいが、その名のごとく、こちらに準備をする間も与えず突然襲い掛かってくるのが特徴だ。

 慌てて逃げ込んだ店舗の軒下で、岡部靖文は恨めしそうに空を見上げていた。
 人間相手なら怖いものなど無い岡部だが、自然現象には勝てない。自分ひとりならともかく、連れを雨に濡らすのは避けたかった。
 彼は岡部の横で、同じように空を見上げている。こんなところで時間を無駄にしているのが腹立たしいのか、一向に弱まる気配のない雨脚に軽く舌打ちして、
「最初の雨粒が地面に落ちて、3分もしないうちにずぶ濡れなんて。ここまでくると自然現象というよりは、兵器だな」
 積乱雲に突拍子もない言いがかりをつけているのは、岡部の直属の上司だ。仕事が引けて、一杯飲みに行こうと目当ての小料理屋への道すがら、この集中豪雨に見舞われて雨宿り中、というわけだ。

「確かに、ここまで勢いがつくと雨粒も痛いですね」
 苦笑しつつも上司の意見を否定することはせずに、岡部は相槌に近い言葉を返す。
「相変わらず、面白いこと考えますね」
「できないことじゃないだろ? ヨウ化銀やドライアイスを用いて、人工的に雨を降らせることは可能だ。ヒートアイランド化している都市の上空に限定してばら撒けば、簡単にこの現象を起こせるはずだ」
「だれがやってるんですか、そんなこと」
「ロケ○ト団あたりじゃないか?」
 岡部が子供の頃に流行ったアニメの悪役の名称が出て、岡部はそこでやっとそれが薪の冗談だったことに気付く。このひとは真面目な顔で小難しい冗談を言うから、本気と冗談の区別が付き難いのだ。
「見てたんですか? ポケ○ン」
「あはは、やっぱり岡部は話が通じるな。こないだ青木に言ったら、ぜんぜん通じないんだ。12歳も違うと、思い出のアニメも違うんだな」
 苦笑いをして下を向き、華奢な肩を竦める。細い首を左右に振ると、亜麻色の髪から水滴が飛び散った。

 薪の向こう側で同じように雨宿りをしているサラリーマンの2人組が、ちらちらとその様子を見ている。片方の男が、もう一人の男にそっと目配せしたのに気付いた岡部は、雨の中を一歩踏み出した。
「いや~、お互い参りましたね、この雨で……」
「ええ、まったくですな」
 隣の男に声を掛けられたことに気付いた薪が顔を上げるより早く、岡部は薪とその男の間に滑り込んだ。薪の代わりに至近距離で応えを返してやると、2人組はじりじりと後ずさり、何を思ったかゲリラ豪雨の中を走って行ってしまった。

「ひゃー、本物のヤクザ、初めて見たよ! やっぱ迫力あるな」
「あの娘、清純そうな顔してヤクザの情婦かよ。人は見かけによらないな」
 ちょっと待て、禁句を発して消えるのはやめてくれ! とばっちりはこっちに来るんだぞ!

 先刻、人間相手なら怖いものはない、と岡部は言ったが、ひとつだけ例外がある。この上司だ。
 先ほどの2人組が勘違いしたように、彼の見てくれはスーツを着ていてすら女性に間違われてナンパされるほどの優男だが、中身は猛禽獣だ。怒るととてつもなくコワイ。本気で怒った薪に見据えられると、岡部は身体が動かなくなる。
 そして、彼の最も危険な逆鱗が『女性に間違われること』なのだ。

 恐る恐る振り返ると、意外なことに薪は平気な顔をしていた。不思議そうに首を傾げて、
「どうしたんだ? あの二人」
 どうやら、彼らの捨て台詞が聞き取れなかったらしい。雨音のおかげで命拾いした。
「この雨の中を、あんなに急いで」
「さあ。ポケ○ンの再放送でもあるんじゃないですか?」
 薪の疑問を、岡部は冗談で煙に巻く。真実は言えない。岡部だって、まだ命が惜しい。

「あのう」
 控え目な声掛けに、岡部は再び焦燥する。
 一難去ってまた一難、続いて薪に声を掛けてきたのは、さっきまで岡部の隣にいた大学生風の若い男だ。
「よかったらこのタオルを使っ、ひいっ!!」
「ありがとうございます、使わせていただきます」
 再び薪の前に回り込み、男子学生からタオルを奪い取る。顔を近づけ、相手の目を見てきちんと礼を言い、取調室で鍛えた低く野太い声で、
「洗濯してお返ししますから、ご住所とお名前を」
「か、返さなくて結構ですからっ!!」
 お化けでも見たような真っ青な顔になって、男子学生は雨の中へ消えて行った。消え去る間際に言い残した言葉が、
「やべー、美人局って本当にあるんだー」
 とうとう犯罪者だ。

「……あの人も、ポケ○ン見に帰ったのか?」
「ええ。そうらしいですね」
 白々しい岡部の言葉に、クスクスと笑い出す薪を見て、彼らの間違いは彼らだけの咎ではないと岡部は改めて思う。
 雨に濡れた薪は扇情的だ。
 つやつやした亜麻色の髪から滴る水滴が、真珠色の頬を流れ落ちる。その水玉たちが行き着くのは細い首筋、それからボタンを外した胸元だ。広げた襟から、きれいな鎖骨が覗いている。蒸し暑い夏の夕暮れ、ネクタイを取ってしまっているのも、彼が女性に間違われる要因のひとつになっている。
 さらに、仕事中はギンギンに張り詰めている人を寄せ付けないオーラが、プライベイトの薪には感じられない。特に岡部や自分の部下たちと共に過ごすときには、和んだやさしい雰囲気になる。その分、他人からも声を掛けられやすくなるのだ。

 きりがない、と岡部は思った。
 今のところ薪は、自分が連続で女性に間違われていることに気付いていないようだが、いずれ本当のことを知るだろう。が、その怒りは間違いを犯した彼らには向かない。薪は警察官だから、一般市民に対して危害を加えるような真似は絶対にしないのだ。
 しかし、彼の怒りが消えるわけではない。どこかで発散しなければならない。
 こういう場合、ほぼ100%の確率で怒りの捌け口となるのは、自分たち部下だ。

「冗談じゃねえぞ」
 非常事態だ、と岡部は思う。
 雨が小止みになって、目的の小料理屋に行ったとしよう。薪が暖簾をくぐった途端店中の注目を集めて、その抜きん出た容姿でもって彼らの視線を固定し、さらには絶世の美女と自分のような無骨な男との関係を面白おかしく推測されて、それを薪が耳にしようものなら、明日の太陽が拝めるかどうか。
 きちんとスーツを着たいつもの薪ならそこまでの心配は要らないが、今日の薪はそうなる確率が大きい。雨が止んだら飲みに行くのは諦めて、家に帰らせよう。

 命の危険を感じている岡部の隣で、薪は濡れた前髪をかき上げた。
 それは、鼻先に落ちかかる水滴を後ろに流そうとしているだけのことなのに、何を思ったか隣の店舗で雨宿りをしていた連中がこちらの軒下に移ってきて……。

 雨が止むのを待っている猶予はない、早いところ薪を人目に付かないところに避難させないと。
 いったいどこへ、と考えて、岡部は一番最初に自分の家を思い浮かべ、直ぐにその案を却下した。家には母がいる。彼女を薪に会わせるわけにはいかない。
 しかしそこで岡部は今朝、母親と交わした会話を思い出す。彼女は今夜、同窓会で遅くなると言っていた。ならば、薪を自宅に招いても何の問題も起きないはずだ。

「薪さん、俺の家に来ませんか。ここから走って3分くらいです」
「え?」
 苦し紛れの岡部の提案に、薪はきょとんと眼を丸くして、
 ちょっ、ダメですってば、あなたがそんな顔するもんだから、向かいの店舗の連中までこっちに走ってきたじゃないですか。

「いや、濡れたままだと風邪引きますから」
「ありがとう、岡部。シャワーを貸してもらえると助かる。雨でシャツが張り付いて、気持ち悪かったんだ」
 あー、ほらほら、そんな、湖から出てきた女神様みたいに微笑んだりしちゃダメですって。斜向かいの店舗の連中までどよめいてるじゃないですか。てか、シャワーに反応して薪の横で鼻血出した男の顔、警視庁のブラックリストに追加決定。

「じゃ、行きますか」
 二人はひょいと鞄を横にしてそれぞれの頭の上に乗せると、斜向かいの店舗から走ってくる男たちを尻目に、未だ弱まらない雨の中を駆け出した。




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天国と地獄3 (2)

天国と地獄3 (2)





 新橋駅から歩いて10分の築8年になるマンションの5階。岡部はここに、母親と二人で住んでいる。はずだった。

「…………えっ?」
 予想もしない事態に、薪は固まる。目と口をポカンと開けたまま、蝋人形のように硬直してしまった。
 7年前に警察官であった父親を亡くし、独りになってしまった母親の面倒を見ている、と薪の人事ファイルには記してある。だから、間違っているのは自分の眼のほうだ、と薪は思った。雨に打たれて熱でも出たらしい、幻覚を見ているんだ、きっと。

「あらあら、靖文さんたらびしょ濡れですのね。まあ、そちらの方も。どうぞ、お風呂を使ってくださいな」
 準備万端に整えていたらしいタオルと温かい風呂で彼らを迎えたのは、年の頃20代後半、フワフワした薄茶色の髪を少女のように背中に流した、あどけなささえ残る女性だった。

「岡部。このファンシー系の美女はどちらさま?」
「なんでいるんですか!?」
 大きな声で薪の質問を遮った岡部は、その厳しい詰問口調とは正反対のやさしい手つきで彼女からタオルを受け取り、ひとつを薪の頭に、もうひとつを自分の頭に載せた。髪を拭きながら靴を脱いで部屋に上がり、薪の眼から彼女を隠すように、彼女を一番手前の右側の部屋に引っ張っていった。

 玄関口に立ち尽くしたまま、薪はショックで動けなかった。
 あれが岡部の恋人か。なんてことだ、めちゃくちゃ可愛いじゃないか。端から見たら美女と野獣だが、しっかりファーストネーム呼びしてるし、それに、お風呂を使ってください、なんて言葉が出てくるところを見ると、彼女はかなり頻繁にこの家に出入りしている。もしかして、結婚も近いんじゃないか?
 岡部のやつ、それならそうと言ってくれないと、新婚旅行のときとかシフト組むのが大変なのに、いやいや、そんなことよりどうして僕に一言の相談もなくこんな。

 少なくとも、薪は岡部のことを友人だと思っていた。でも、岡部は……自分が思っているほど、岡部は自分のことを友人だとは思っていなかった、ということか。
 そのことに軽いショックを受けて、薪は俯く。
 第九の室長と副室長として、何年もコンビを組んできて、他の職員には鬼の室長と敬遠されても、岡部のことだけは頼りにし、心を開いてきたつもりだったのに。

 やがて彼らの間で交わされる会話が、薪の耳に自然と入ってきた。
 岡部が彼女を連れ込んだ部屋にドアはなく、間仕切りは入り口に下げてある小花柄の暖簾で為されていたおかげで、中の会話はハッキリと聞こえてきた。もともと地声が大きい岡部は、ナイショ話が不得手なのだ。
「どうしてここにいるんです。今夜は同窓会だって、今朝言ってたじゃないですか」
 今朝? 今朝も一緒だったのか? もしかしなくても昨夜から? な、なんてうらやまし、いや、ふしだらな。
「わたくしだって、楽しみにしていたんですのよ。それが急な頭痛で」
「……雨で出かけるのが面倒になったんですね?」
 岡部が決め付けるような言い方をしたその後、わずかに沈黙が降りて、続いて岡部の呆れたようなため息が聞こえた。
「ったく、あなたって人は。雨くらいでドタキャンなんて、同窓会を取りまとめてる幹事さんの身にもなりなさい。料理の手配とか席順とか、急に欠席者が出ると大変なんですから」

 オヤジ臭く説教を始めた岡部に、薪は少しハラハラする。
 そんなきついことを言って、嫌われちゃうぞ、岡部。いくら結婚を約束した相手だからって、今から亭主風吹かすのはまずいだろう。

 心配になって薪は、初めて訪れた他人の家に家主の承諾も得ずに上がりこむという暴挙に出た。
 この眼で様子を見て、険悪になるようだったら止めなければいけない。岡部の幸せのためだ。遠洋訓練中の海軍兵士並みに女性に縁のない岡部のこと、彼女を逃したら生涯独身だと断言できる。

 薪は短い廊下を進み、岡部たちが姿を消した右側の部屋の前に立った。ファンシーな暖簾の隙間から中を伺う。
 そこは、ごくありふれた家庭のリビングだった。ソファに並べてある濃桃色のクッションや窓辺に飾られたクマの人形など、居住者の年齢を考慮するとかなり違和感があったが、母親の趣味なのかもしれない。
 フリル付きのカバーに包まれたソファの前で、二人は立ったまま向き合っていた。岡部の恋人は小柄で痩せていて、大柄な岡部と比べると、一層幼く見えた。

「ごめんなさい。でもね」
 岡部の叱責に素直に謝罪し、彼女は床に屈んだ。直ぐに立ち上がって岡部を見上げた彼女の腕には、小さな猫。貧相にやせ細って、首輪もついてないし、雑種のノラのようだ。
「下まで降りたら、この子がずぶ濡れになって泣いていたものですから」
 彼女の弁護をするように、子猫が『にゃ~ん』と愛くるしく鳴いた。
「何度言ったら分かるんです、うちでは猫は飼えません」
 今の時点で彼が持ち得る最大の武器であろうそれを存分に発揮して挑んできた子猫に、岡部は冷たかった。彼の言葉と態度から、彼女との間でこの類の会話が交わされるのは初めてではないことがわかった。
「捨ててきなさい」
「そんな。まだ、こんなに小さいのに」
「俺は猫の面倒が見られるほど、暇じゃないんですよ。あなただって、お店があるでしょう? 世話もできない人間にペットを飼う資格はないんです」

 ずい分、厳しい言い方だ。
 子供を叱ってるわけじゃあるまいし、もうちょっとソフトにしないと。「なんてやさしいんだ、君は女神のようだ。でも僕たちには猫の世話は無理だから、残念だけど」とか言っとかないと、今夜のベッドは断られちゃうぞ?
 その台詞を口にしたら世の中の女性の9割はドン引く、という事実を恋愛経験の少ない薪は知らない。

「岡部」
 岡部の楽しい夜を守るために僕が一肌脱ごう、と決意し、薪は部屋の中へと一歩を踏み出した。
「さっきから聞いてれば、言いすぎじゃないのか? こんな美人相手にそんな言い方」
 とりあえず、褒めとけ。
 自分の恋人を褒められれば男は悪い気はしないから、岡部もきっと態度を軟化させると思った。しかし、岡部は厳しい顔つきのまま薪の方を見て、
「美人は関係ないでしょう」
「なに言ってんだ、彼女に失礼じゃないか。胸がちょっと寂しいから僕の好みじゃないけど、顔はかなりのハイレベルだぞ? ここで逃したら一生後悔す……いやその」
 まずい、本音が。

「その人とどういう関係なのか知らないけれど、岡部にとって『大切な人』なんだろう?」
 薪が確認の意味で尋ねると、岡部はらしくもなく頬を赤くして、
「ち、違います! いや、違わないですけど違います、ていうか、そこは違わないといけないところなんです!!」
「おまえ、日本語が崩壊してるぞ?」
 おーおー、かわいいな、照れちゃって。

「あらあら。わたくしったら、靖文さんのお友だちにご挨拶もせずに。失礼いたしました」
 引き換え、彼女の方は冷静だった。
 部下の未来の妻になるであろう彼女の沈着に、薪は好感と安心感を抱く。彼女なら、第九のハードな業務をこなす夫を労わり、安らがせ、癒してくれるに違いない。充実した家庭生活は、クオリティの高い仕事を為すための必須要件だ。室長として、ふたりのことは全面的に応援しよう。何なら、明日岡部は昼出勤にしてやっても。

 100万回馬に蹴られても済まないような究極のお節介を薪が申し出ようとしたとき、彼女はすっと薪にその頭を下げ、未婚女性にしてはひどく落ち着いた口調で、薪を恐慌の渦に叩き込んだ。

「初めまして。靖文の母でございます」






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天国と地獄3 (3)

 こんにちは。

 お話の途中で2日ほど落ちちゃいました。
 コメントのお返事も遅くなりまして、すみませんでした。

 で、しばらくぶりに戻りましたら、 

 いつの間にやら4万ヒット!  
 みなさまのおかげです、ありがとうございます!!
(3,4日前だったのかな、気付かなくてすみません~。 お礼言うの遅れちった)

 文字ばっかりで退屈なブログに、今日もようこそおいでくださいました!
 感謝の気持ちを込めて、お話のつづきです。
 本日もバカバカしくってすみません……。







天国と地獄3 (3)




「………………………………………………………………………………お母さん?」

 長すぎる間は、彼女の言葉を理解するのにそれだけの時を要した、ということだ。
 薪の頭脳に搭載された超高性能ハードディスクは、網膜から入力されたデータと耳介から飛び込んできた言語の間に存在する乖離の大きさに、一瞬でクラッシュした。仕事用の頭脳が働かなくなった彼に残されたのは、ズレまくってる、とかつて何度も親友の失笑をかったプライベイト用のIC。それは時に常識を軽々と超えて、人々を驚嘆させる結論を導き出す。

 ――――― 彼女が岡部の母親?
 ありえない。10代で岡部を産んだとしても、岡部は現在38、ならば母親は50代後半のはずだ。
 色眼鏡の強度を割り増ししていくら年嵩に見ても、彼女は30代後半。それ以上は無理だ。でないと、己の常識が崩壊する。これが50代後半の肌だったら、彼女は人間じゃない。
 ……もしかして、魔女?
 夜な夜な若い娘の生き血を絞ったバスタブに身を沈めて、『わたくしに永遠の若さを』とかやってる? 岡部は彼女の魔力で操られてて、生贄の調達をさせられ――。

「ぼ、僕は男ですから! 僕の血に効き目はないと思います!」
「はあ?」
 緑がかった目とピンク色の唇をポカンと開けて、薪に相対した美女は返された言葉に呆然とする。
 彼女が点目になるのも無理はない。急に青冷めて、突然叫んだ薪の思考経路を読める者がいたとしたら、それは神さまかテレパシストか。
 いやいや、岡部副室長その人だ。

「お母さん。風呂を使いますから、着替えを用意しておいてくれますか?」
 岡部は薪の思考があさっての方向へ暴走しているらしいことを悟ると、機転を利かせて彼女をその場から去らせた。こんなスットンキョーなことを考え付く変人の下で自分が働いていると分かったら、彼女に要らぬ心配をさせてしまう。
 彼女が岡部の部屋に着替えを取りに行ったのを確認して、岡部は上司のあり得ない誤解を解きにかかった。

「薪さん、安心してください。おふくろは普通の人間です」
「嘘だ! あんな50代が存在してたまるか。いくら女性が化粧で化けるからって、実年齢より20歳は若く見えるぞ? 人間業じゃない」
「いや、あなたには言われたくないです」
 実年齢より20歳若く見えるのはお互いさま、ちがう、彼女は普通の人間だ。異常なのは薪だけだ。
「彼女は実の母親じゃありません。年齢は俺より下です」
 嫌々ながらも岡部家の事情を白状すると、薪は亜麻色の瞳を小さく引き絞って、「ああ、なるほど」と軽く手を合わせて頷いた。

「そうか、思いもよらなかった。事実は小説よりも奇なりというやつか」
「見た瞬間に分かるはずなんですけどね。全然似ていないし」
「そんなことはない、共通点はあるぞ。眼が二つで鼻が一つで口が」
「仕事が絡まないとその程度の顔認識能力しか発揮されないんですね……」
 不思議な人だ、仕事の時は顔認証システム真っ青の記憶力なのに。この人の頭の中ってどうなってるんだろう。

「なるほど、義理のお母さんか。て、おまえ、あんな美人とふたりきりで暮らしてたのか?!」
 言われると思った。だから会わせたくなかったのだ。
 彼女は今夜、同窓会の予定が入っていて、ここにはいないはずだった。だから薪を連れてきたのに、この雨と猫のせいで思惑が外れてしまった。彼女は雨に濡れるのが大嫌いで、可愛いものに目がないのだ。
 岡部が今の段階で取れる最上の策は、一刻も早く薪を家から追い出すことだ。余計なことを悟られないうちに。

「そんなことはどうでもいいでしょう。とにかく、早く風呂に入って身体を温めてください。夏とはいえ、風邪を引きますよ」
 この会話を打ち切りたい気持ちもあったが、それ以上に岡部は薪の身体を心配して、彼に風呂を勧めた。それなのに薪は、岡部の言葉に頷くこともせずに、
「よく理性保ってるなー」
 このっ、スットンキョー男爵がっっ!!

「なに言い出すんですか! 母親ですよっ!」
 西の鬼瓦と称されてマル暴関係者にも恐れられる鬼警部の恫喝に、薪は顔色ひとつ変えずに平然と嘯いて、
「彼女の名前は? なんていうんだ?」
「雛子ですけど」
「ふうん。ヒナコさん、て呼んでるのか?」
「…………風呂はあちらです」
 恐ろしい眼で薪を睨んだまま、岡部はバスルームの方向を指し示した。岡部は本気で怒っていたが、薪はニヤニヤ笑いを浮かべたまま、足取りも軽くリビングを出て行った。

 何だか、一番タチの悪いひとに秘密を知られたような気がする。
 薪は一旦思い込んだら、ちょっとやそっとのことでは考えを変えない。勘違いが得意なくせに、自分の間違いを認めようとしない。現実との辻褄が合わなくなれば、思惑に合うように事実を曲げて解釈するのが得意だ。
 あれでどうして百発百中の推理が展開できるんだろう。本当に不思議な人だ。

「靖文さん」
 薪と入れ替わりに、年下の母親がリビングに入ってきた。彼女は両手に岡部の寝巻きを持っており、それを岡部に差し出しながら、常になくしおらしい口調で不安げに尋ねた。
「もしかして、わたくし、お邪魔でした?」
「まあ、会わせたくはなかったですね」
 少々無愛想に彼女から着替えを受け取り、ワイシャツを脱ごうとして躊躇する。このひとの前で着替えるのは、まずいか。

 岡部が着替えのために自分の部屋に戻ろうとすると、彼女は頬に片手を当て、ひどく後悔する様子で、
「やっぱりそうでしたの。ごめんなさい、気が利かなくて。わたくし、自分の部屋でじっとしておりますから、どうかお気になさらず。ええ、それはもう、息も殺しておりますから。もちろん、靖文さんのお部屋の様子を伺ったり、夜中に突然ドアを開けたりしませんから、どうぞ朝までごゆっくり」
 ここにもスットンキョー男爵が!!

「ちょっと待ってください!! 何を誤解してるんですか、あなたはっ!」
「いいんですのよ。靖文さんも、いつまでも子供じゃありませんもの」
「あのひとは男ですよ!! 俺の上司です!」
「えっ?」
 岡部が事実を端的に告げると、彼女は自分の思い違いを恥じるように頬を染めた。薪のことを完璧に女性だと思いこんでいたらしい彼女は、まあ、と軽い驚きの声を洩らすと、
「わかりましたわ、靖文さん。気をしっかり持ってくださいね。世間の目になんか負けちゃ駄目。一番大事なのは、お互いの気持ちですからね。お母さんは、いつでも靖文さんの味方ですよ」
 ブルータス、おまえもかっ!!!

「いやですわ、靖文さんたら。母親が息子の恋を応援するのは当たり前のことですのに。感激のあまり、涙なんて」
「カンベンしてくださいよ……」
 勘違いの大玉ころがしは薪だけで間に合ってる、ていうか、持て余してるのに!

 誤解を解く気力を振り絞ろうにも、雨に打たれてブルーになった身体と薪に秘密を知られてしまったショックで、岡部の心は麻痺寸前だった。何だか膝の力まで抜けてきて、この場に座り込んでしまいそうだ。
 がっくりと俯くと、自分の身体から落ちた雨の雫が、リビングの床に敷かれた夏用のイグサで編まれたカーペットに染みを作っているのに気付いた。これはまずい、早く着替えてこないと母親の仕事を増やしてしまう。
「俺は部屋で着替えてきます。すみませんが、バスルームに薪さん用の着替えを」
「あ、それなら脱衣所に置いておきましたわ」
 さすが母親、きめ細かな気配りはお手の物だ。
 ありがとうございます、と礼を言ってその場を去りかけた岡部は、ある可能性に気付いて立ち止まった。短い髪から拭き取り切れていない水滴が飛び散るのを気にする余裕もなく、バッと後ろを振り返って、
「どんな服を?」
「わたくしのワンピースを」

 その言葉を聞き終える前に、岡部が猛スピードで脱衣所へ走ったのは言うまでもない。




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天国と地獄3 (4)

天国と地獄3 (4)




 桜色に上気した素肌に借り物のパジャマを着て、薪はリビングに戻ってきた。白地に緑色の線が入った開襟のシャツは、彼の涼やかな佇まいになかなか良く似合っていたが。
 その裾から伸びた百合の茎のようにしなやかな曲線の、なんてきれいなことだろう。膝上10センチの奇跡。これを青木に見せたら大変なことになるな、と岡部は冷静に判断を下しつつ、素朴な疑問を薪に投げかけた。
「なんで上しか着てないんですか?」
「おまえの服は、僕には大きすぎる」
 尤もな疑問に尤もな答えが返ってきて、岡部はぽりぽりと頭を掻く。一つや二つのサイズ違いなら何とかなるが、Sサイズの薪が3Lサイズのパジャマを着たら、ズボンが落ちてしまうのだろう。

 母親のミスに気がついて、慌てて自分の持っていたものと差し替えたので、他の服を用意するヒマがなかった。 男のSサイズは女性のMサイズと同じくらいだから母親の服でぴったりなのだが、いかんせん、彼女はユニセックスな服は一枚も持っていない。フリルや小花や愛らしい動物などなど、どれも薪の怒りを買いそうなものばかりだ。
「服が乾くまでの間ですから。それで我慢してください」
「うん、これで充分だ」
 薪はソファに腰掛けて、そうするとますます女の子めいて見える。立っていても膝上まである上着は、座ると膝を覆い隠して、これは立派なワンピースだ。これを青木が見たら、以下略。

「悪いな、世話をかけて……ん?」
 薪は、何かに驚いたように声を上げた。見ると、彼の素足に身を擦り付けるようにしてじゃれる小動物の姿が。どさくさ紛れになって、捨ててくるのを忘れていた。
「うわ。ちいさいな、こいつ」
 薪の小さな両手でもすっぽりと包める子猫の身体を抱き上げて、薪はやさしく微笑んだ。薪は動物が大好きだ。一番好きなのは犬だと聞いた覚えがあるが、ネコも好きなのだろう。瞳が蕩けている。
 亜麻色の瞳を愛おしさに潤ませて、薪はソファのクッションにもたれかかり、至近距離で子猫と相対した。濃ピンクのクッションは薪の肌の白さを引き立てて、さすがの岡部も一瞬、彼の性別を忘れそうになる。

「岡部。こいつ、ここで飼えないのか?」
「無理です。俺もお袋も仕事を持ってるんですから」
「彼女、何処に勤めてるんだ?」
「近くの花屋です。パートタイマーですけど」
「パートなら、彼女に世話を頼めるんじゃないのか?」
 薪の言うとおり、その気になれば飼えないことはないのだが。いざ飼うとなると、部屋が無人になった際のことが心配だ。帰ってきて、壁が爪跡だらけになっているのも困るし、引っくり返した花瓶の水で床が水浸しになっていたらもっと困る。

 岡部がペットを飼いたくない理由を言うと、薪はなおも食い下がって、
「ちゃんと躾ければ大丈夫だろ。キャットツリーとか置いて、そこで遊ばせればいいんだ」
「俺にはネコの躾をする余裕はありません」
「彼女にやってもらえばいいじゃないか」
「無理ですよ。厳しいことの言えないひとなんですから」
 雛子が怒ったところを、岡部は見たことがない。人に何を言われても、何をされても、揶揄は親しみに受け取り、悪意はさらりと流して、まるで夢の世界に生きているようなひとなのだ。だから心配で、岡部は彼女を独りにできない。

「これくらい小さい頃から躾ければ、そんなに大変じゃないって聞いたぞ?」
 引かない薪に、岡部は違和感を覚える。薪は頑固だが、ひとに面倒を押し付けることはしない。この強力な勧誘には、裏があるはずだ。
「どうしてそんなに俺にこいつを飼わせたがるんですか?」
「おまえがいない間、雛子さんが寂しがってるんじゃないかと思ってさ。猫でもいれば、気が紛れるだろう?」
 …………まだ続いてたんですか、そのカンチガイ。

「いいのか? 彼女の心のスキマを他の男に埋められちゃっても」
「あのですね!!」
 岡部が薪の誤解を解こうと声を張り上げたとき、冷たい麦茶を持って雛子が現れた。風呂上りで喉が渇いていた薪は、ありがとうございます、とにこやかに笑って、子猫を膝に下し、それを美味そうに飲んだ。
 薪の膝の上で、子猫は大人しく蹲っている。雛子が手を伸ばし、その小さな頭を2本の指でやさしく撫でた。事情を知らない人間が見たら、仲の良い姉妹が一匹の子猫を可愛がっているようにしか見えないだろう。

「靖文さんも、お風呂に入ってきてくださいな」
「俺はいいです。自然に乾いちまいました」
 正確には自然に乾いたんじゃなくて、あんたらが俺の血圧を上げたからですけどねっ!
「大丈夫ですよ、室長さんのお話し相手なら、わたくしがさせていただきますから」
 ふと岡部は、自分がここからいなくなった後、彼女と薪の間で交わされるであろう会話を想像して青くなる。
 この二人は互いに互いを、岡部の想い人だと思い込んでいるのだ。二人きりになんかしたら、どこまで誤解が転がっていくか分かったものではない。

「いや、薪さんの相手は俺がします。お母さんはどうぞ、大好きなDVDでも見ててください」
「DVD? どういったものがお好みなんですか?」
 母親を自分の部屋に引き取らせようとする岡部に反して、薪は雛子を質問で引き止めた。
「この年になってお恥ずかしいんですけど。実は、ネズミーアニメが大好きで」
「あれはとても良くできたアニメだと思いますよ。キャラクターも魅力的ですし」
「そうなんですの。特に、『クマのぺー』シリーズに眼がなくて」
「ああ、なるほど。クマつながりなんですね」
「は? それはどういう」
 雛子が不思議そうに首を傾げると、薪はにっこりと笑って彼女の追及を封じた。相手が笑えば笑みを返すのが流儀の雛子もまたおっとりと微笑んで、そうしていると○姉妹真っ青の華やかさだ。
 美女2人に可愛い子猫のスリーショット。それが自宅のリビングで見られるというのは、男として喜ばしいことかもしれない。片方は自分の母親で、もう片方は同性の上司だという事実にさえ目を塞ぐ事ができれば。

 ふっ、と原因不明の虚脱感から岡部が乾いた笑いを洩らしたとき、災厄は訪れた。

「室長さん。よろしかったら、お夕食をいかがですか?」
「え。いいんですか」
 !!! しまった、薪に注意をしておくのを忘れていた!

「お母さん! 実は、薪さんと俺は外で済ませてきて」
 母親が恐ろしいことを言い出したので、岡部は焦って嘘を吐く。薪が不思議そうな顔でこちらを見ているが、説明している時間はない。

「あら、そう」
「お母さんの手料理が食べられないのは、非常に残念なんですが」
 ぐう、と二人の男の腹の虫が同時に鳴いた。嘘のつけない岡部と、身体だけは正直な薪らしい反応だった。
「まあ、靖文さんたら。自分の家で遠慮なんかするものじゃありませんわ。さ、室長さんもこちらにいらして。あ、猫は置いてきてくださいね」
 地獄の門が大きく開け放たれたことを悟ってがっくりと肩を落とす岡部を、薪と子猫が不思議そうに見ていた。



*****

 
 今頃かよ、と突っ込まれそうですが、
 こちらはアレです、8巻の表紙になった『借り物のパジャマを着て、ピンクのクッションの上で猫と戯れる薪さん』です。
 あのイラストを見たとき、すぐにこの設定が浮かびました♪(←パジャマが岡部さんのって。どうした、あおまきすと)



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天国と地獄3 (5)

 こんにちは~。

 過去作品を読んでくださってる方へ。
 毎日拍手をありがとうございます。 とってもうれしいです♪
 でも時々、ものすごい時間に拍手が入ってる事があって、(朝の2時から4時とか)この方、ちゃんと眠ってらっしゃるのかしら、と不安になったりします。(^^;
 10時から深夜2時までの間はシンデレラタイムと言って、お肌をすべすべにするホルモン (要は成長ホルモンなんですけど) が分泌される時間帯なんだそうですよ。 美容のためにも、夜は早めにお休みくださいね☆☆☆





天国と地獄3 (5)





「うっ……」

 テーブルの上に並んだシュールな物体に、薪は思わず息を呑んだ。
 なんで煮炊きしたはずの食材が、こんな不気味な色になるんだろう。どの皿からも劇薬のような匂いがするが、これはいったいなんだろう。どうやったらこんなものが一般家庭の台所で製造できるのだろう。まるで生物兵器の研究機関みたいだ。
「何もありませんけど、どうぞ召し上がってくださいな。見た眼はアレでも、お味はなかなかですのよ」
 ニコニコと給仕をする彼女の楽しそうな様子を見ていると、食事を断ることはとてもできなくて、仕方なく薪は箸を取る。岡部に到っては、すでに諦めたようだ。黙って味噌汁を啜っている。

「い、いただきます」
 家人に倣って汁椀を取り上げ、薪は再び固まった。
 この味噌汁、工業用水と廃油で汚染された沼の表面みたいな色なんだけど。飲んでも大丈夫なのか? ていうか、この具は!?
(岡部っ、味噌汁にゼリービーンズが浮いてるぞ!?)
(俺のお袋は料理下手だって、前から言ってあったじゃないですか)
(上手い下手以前の問題だろ!)
 雪子だって、ここまで独創的な料理は作らない。彼女は料理本の通りに食材を集め、料理をし、最終的には食べられないものを作り上げるという特技を持っているが、参考書を使っているため、基本から逸脱した食材は選ばない。

(これはなんだ? なめくじを炒めたみたいなビジュアルだけど)
(家庭菜園で採れた野菜の末路です。元になった野菜の種類は俺にも判別つきません)
(原材料はなんだ? 石油か、ゴムか?)
(だから野菜ですってば)
 嘘だ! この食感は野菜じゃないぞ、ゴムを噛んでるみたいに噛み切れないぞ?!

 恐ろしい。
 彼女は一般家庭に備え付けられた調理器具を使って、野菜という有機物を咀嚼することすらできない無機物に変えることができるのか。世界中の科学者よ、彼女にひれ伏して教えを請うがいい。

「いかがかしら、室長さん。お口に合いまして?」
「は、はい! とってもオイシイですっ。まるで口の中でN2爆弾が暴発したような、この刺激的な辛さがなんとも!!」
「まあ、うれしい。でも、お手柄はわたくしの料理の腕前じゃなくて、素材の持つ生命力だと思いますわ。旬菜に勝る美味はありませんもの」
 素材の持ち味をここまで殺せるとは、見事なクラッシャー精神だ。生でおいしく食べられるキュウリやトマトまで、油でベトベトの素揚げにされて。
 それを平気で口に運んでいる彼女の神経が分からない。ナメクジみたいな色合いの炒め物を噛み締めて、「やっぱりお茄子は味噌炒めに限りますわ」ってあれは茄子だったのか? どうやってあそこまで茄子の硬度を高めたんだ、魔法か!?

(おい、彼女の味覚はどうなってるんだ!?)
(俺だって知りませんよ)
(なんで分からないんだ、母親だろう?)
(彼女の遺伝子は、俺の中には入ってません。俺を産んでくれたお袋は、普通のお袋だったんです)
 たしかに彼女は普通の女性じゃない。天は二物を与えずというが、ここまで惨たらしく彼女の味覚を奪わなくてもいいのに。下手をすると、岡部の命に関わる。
 岡部は慣れているのか、自分に盛り分けられたおかずを黙々と食べている。が、薪はもう限界だ。特別にグルメな舌をしているわけではないが、そこいらの料理人よりずっと美味しいものが作れる彼は、不味いものを我慢して食べる訓練を積んでいない。

「あら。室長さんはずい分小食ですのね? だからそんなにスマートでいらっしゃるのかしら」
「あ、や、その、な、夏バテでちょっと」
 薪が苦しい言い訳をすると、岡部が彼の窮地を救うべく、
「お母さん。薪さんのスーツは乾きましたか?」
「ええ、もう少し。続きをしてきますわね」
 自分の分をさっさと食べ終えた彼女は、使った食器を食洗機に入れると、「ごゆっくり」と薪に声を掛けてダイニングルームを出て行った。

 彼女の姿が見えなくなると、薪はテーブルの上に突っ伏し、
「ううう……口の中が焼け爛れてる感じだ……」
 食感も凄かったが、味付けはその上を行く。どれだけ唐辛子が入っていたんだ、あのナメクジ料理。
「薪さん、これをどうぞ」
 岡部が冷蔵庫から、小鉢に盛られた漬物を持ってくる。きれいな紫色の、なんて美しいんだ、これだ、これが茄子という食物だ!

「美味い!」
 今まで食べたものがひどすぎたから、その比較で美味しく感じられるのかと思ったが、そうではない。口の中を麦茶で洗い流し、改めて味わってみたが、これには薪もシャッポを脱いだ。
「うちのおふくろ、糠漬けだけは上手いんです」
「今度おまえの家で夕飯をご馳走になるときは、糠漬けとお茶漬けをリクエストする」
「そうしてください」
 笑いながら立ち上がって、岡部はこれまた愛らしいウサギの絵が描いてある缶の蓋を開けた。ふわっといい匂いがして、中にはコーヒーが入っていたらしい。
 青木には敵いませんが、などと言いながら、コーヒーメーカーを使って薪のためにコーヒーを淹れてくれる。皿の上に載ったおぞましい物体の匂いを、コーヒーの香りが包み込んで消してくれた。

 テーブルの上をきれいに片付け、汚れた食器を食洗器にセットする。薪に振り分けられたノルマの殆どはディスポイザーが食べることになってしまったが、岡部はきれいに平らげていた。さすが岡部だ、胃袋も鋼鉄でできている。
「薪さんの服は、コーヒーを飲んでる間に乾くと思いますよ。お袋の家事能力はなかなかですから。――― 料理以外は」
 たしかに、部屋の中は掃除が行き届いているし、薪が借りているパジャマも毎日洗濯しているのだろう、せっけんの香りがする。思い出してみれば、岡部のワイシャツはいつも真っ白で、パリッとアイロンが掛けられていた。
「おまえが料理を覚えればいいんだ。そうしたら、みんな上手くいく」
「どうして俺が? あのひとが自分で身につけなきゃいけないことでしょう」
「別にいいんじゃないか? 男が料理をしちゃいけないって法律はないんだし。どっちかがやれば」

 岡部は二人分のコーヒーを両手に持って、テーブルに戻ってきた。片方を薪の前に置き、自分は立ったまま一口啜って、
「あのひとの再婚相手が、そういう考えの持ち主であってくれたらいいんですけどね」
「再婚? そういう話があるのか」
「いや、今のところは」
 岡部が正直に答えると、薪は何やら満足そうに頷いて、
「じゃあ、おまえは早いとこ料理上手になるべきだ。恋人は胃袋で捕まえろ、って言うだろ」
「あのですね、この際ハッキリ言っておきますが、たとえ薪さんの邪推が的中していたとしても、俺と彼女は結婚できません。どうやっても無理なんです」
「735条か」
 一度でも親子の関係になった男女が夫婦になることを、この国は許していない。これはモラルの問題で、血の繋がりは関係ない。薪だって知っているはずだ。なのに、
「大事なのは法律より、お互いの気持ちだと思うけどな」
 などと遵法者とも思えないことを言うから、岡部だってムキになる。

「いい加減にしてくださいよ。小説の世界じゃあるまいし、そんなことあるわけないでしょう」
 厳しく眉を吊り上げて、自分の怒りがダイレクトに薪に伝わるように、岡部は語気荒く言い放った。しかし薪はそれを恐れるどころか、じいっと岡部の目を見つめ返してきた。
 亜麻色の瞳は清冽に輝いて、どんな異変も見逃さない。わずかな違和感、些細な相違、そのすべてを見透かす天才の瞳。吸い込まれそうな、底知れぬ琥珀。
 脳髄の裏側まで読まれそうな気分になって、岡部は眼を逸らせた。

「俺は、彼女が新しい伴侶を見つけるまでの間、息子としてあのひとを守りたいだけです」


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天国と地獄3 (6)

天国と地獄3 (6)




「俺は、彼女が新しい伴侶を見つけるまでの間、息子としてあのひとを守りたいだけです」

 岡部はカップを持って、テーブルの反対側に回った。薪の向かいに座って、黙ってコーヒーを飲むことに専念した。
「じゃあ、僕がモーション掛けてもいいのか?」
 驚いて顔を上げると、薪はコーヒーカップで顔の下半分を隠して、岡部を見据えていた。まだ、あの瞳をしている。岡部は用心深く応えを返した。

「胸の小さな女性は、好みじゃなかったんじゃないんですか?」
「それはベッドを楽しむとしたら、って意味だ。結婚相手はまた別だ」
「結婚?」
「彼女は朗らかで可愛くて、見ているだけで癒される。それでいて、突発的な事故にも動じない強い精神力を持っている。警察官にとって、理想の妻だ」
 薪の言う通りだ。彼女が警察官の妻としてどれだけ素晴らしい資質を秘めているか、岡部は嫌というほど知っている。ずっと見せ付けられてきたのだ。身に沁みて分かっている。

「もちろん、料理は僕が受け持つ。悪くないカップリングだと思うが?」
「駄目です」
 薪の提案を、岡部は即座に否定する。ふっと笑みを浮かべた薪に、釘を刺すようにきつい口調で、
「言っておきますけど、薪さんが考えているような意味合いじゃありませんよ」
 薪に嘘は通じないと悟って、岡部は本音を喋ることにした。ここで嘘を吐いたら、ますます誤解されるだけだ。

「俺は、あのひとを二度と警察官の妻にはしたくないんです」
 薪の瞳を見返して、岡部はキッパリと言った。

「俺の父は殉職です。強盗犯を追いかけて、犯人に射殺されました。そのとき、あのひとがどれだけ泣いたか。俺はもう二度と、彼女のあんな顔は見たくない」
 岡部が口を結ぶと、薪は少し考え込む様子だった。長い睫毛を下方に伏せてカップの縁に唇を寄せる様は、第九で年若い捜査官が淹れたコーヒーを片手に捜査報告書に記された事案を検証するときのように厳かだった。

「彼女はおまえが思っているより、ずっと強いひとかもしれないぞ」
 やがて薪はぽつりと言った。先刻までのからかうような調子は、失せていた。
「そうかもしれませんね。本当は、彼女は一人で自由に暮らしたいのかもしれない。女の一人暮らしは無用心だし、男手があった方が何かと助かると思っていたんですけど……俺のお節介に過ぎないのかもしれません」
 自分がいないほうが彼女の未来は拓けるかもしれないと、思いながらも目先の心配が先に立って、ずっと否定してきたもう一つの道を、岡部は自嘲気味に口にした。良かれと思ってしている事が、相手の可能性を奪っている。それもまた事実だと、岡部には分かっている。

「そういう意味じゃない」
 岡部の逡巡を切り捨てるように、薪はさっくりと言い、残りのコーヒーを飲み干した。空になったコーヒーカップをテーブルに置くと、卓上に肘をついて身を乗り出し、
「彼女は、なんて?」
「俺の嫁さんが見つかるまでは、母親として俺の世話をする、だそうです」
 父親の初七日が済んで、雛子とこれからのことについて話し合ったとき、彼女は岡部にそう言った。
『靖文さんに可愛いお嫁さんが来るまでは、わたくしが靖文さんのお世話係です』
 そう言われた。世話係なんかじゃない、あなたは俺のたった一人の母親です、と言ったら、涙ぐんでいた。彼女は岡部の本当の母親になりたがっていたから、その言葉が嬉しかったのだろう。

「ふふ。やっぱり強いな」
「何がですか?」
 薪が下した『強い』という評価が何に対して為されたものか皆目見当がつかず、岡部は戸惑った。岡部が不思議そうに聞き返すと、薪はゆっくりと首を横に振り、
「岡部。こういうことは、他人から教えられたんじゃ駄目なんだ。自分たちで進んでいかないと」
 と言って、教えてくれなかった。薪の思考は展開が速くて付いていけないときがある。今回もそういうことだろうか。

 二人の会話が途切れたタイミングを見計らったように、雛子が薪のスーツを抱えてダイニングに入ってきた。サニタリーの鏡を借りて着替えを済ませ、薪は腕時計を確認する。
 午後9時15分。初めて訪れた家を辞するには、遅すぎる時間だ。

「お世話になりました」
 母親にきちんと頭を下げて、玄関先に出る。雛子が手渡してくれた靴べらを使って靴を履いていると、岡部が薄手のジャケットを着て、薪を追いかけてきた。
「送りますよ」
「大丈夫だ。そろそろ迎えが来るはずだから」
 薪はポケットから携帯を出し、メール画面を岡部の顔の前に突き出した。小さな液晶画面に、業務連絡としか思えない文章が打ち出されている。

『岡部のマンションにいる。迎えに来い』

 いつもながらに素っ気無い、でもこれを受け取った人物にとっては、発信人の欄に薪の名前があるだけで、世界に名だたる文豪の傑作よりも感動するのだろう。
「どうして青木に迎えを?」
「あいつ、今日は代休で休みだろ。どうせやることなくて、ヒマしてるに決まってるんだから」
 青木はあなたからのメールだったら、地球の裏側からだって吹っ飛んできますよ。てか、薪さん、今日一日、何となく元気がありませんでしたよね? あいつの顔が見られなかったからじゃないんですか?
 雛子とのことを構われた腹いせに、そう言ってやろうかと岡部は思ったが、結局何も言わなかった。
 そう、薪の言うとおり。こういうことは、他人から教えられたのでは駄目だ。

「室長さん。またいらしてくださいね。今度はご馳走作って待ってますから」
「じっ、実は僕、糠漬けとお茶漬けが大好物なんですっ。次の機会がありましたら、ぜひそれでお願いしますっ!!」
「まあ、シンプルなお好みですのね。でもわたくし、こう見えてイタリアンが得意ですのよ。自慢のラザニア、室長さんに召し上がっていただきたいわ」
 眼で訊いてきた薪に、岡部は無言で首を振る。彼女のラザニアは、ボロネーゼソースに大量の唐辛子を入れてあり、ベシャメルソースにはたっぷりと砂糖が入っている。それをカチカチのラザニアに挟んで真っ黒になるまで焼き上げれば、高い殺傷力をもつ劇薬が出来上がる。あれは岡部でもヤバイ。

「すすすすみませんっ、僕、親の遺言でイタリアンは食べられないんですっ!!」
「まあ、お可哀想に。あんな美味しいものが食べられないなんて」
「お母さん。すみませんが、このシャツ明日着たいんです。アイロン掛けておいてもらえますか」
 はい、と襟衣を受け取って、雛子は薪に頭を下げ、奥の部屋に姿を消した。残された二人の男がホッと胸を撫で下ろしたとき、玄関のチャイムが鳴った。
 
 こんばんは、と青木の声がして、ちょうど三和土に立っていた薪がドアを開けた。
 薪の姿を認めた瞬間、青木はとても嬉しそうな顔をして、それはどう見ても休日の夜に上司に呼び出されて、彼の送り迎えを言いつけられた部下の顔ではない。分かりやすいやつだ。恋焦がれている相手に会えた、そう顔に書いてある。
 そして薪もまた。
 青木の方を向いているから、顔は見えない。見えないが、その背中はピンと潔く伸びて、肩は若々しく張っている。今日は感じられなかった躍動感が、身体中から迸るようじゃないか?

「じゃあ、岡部。明日研究室でな」
「はい。おやすみなさい。青木、薪さんを頼んだぞ」
「はい!」
 家まで送り届けるだけなのに、海外へバカンスに行くみたいにはしゃいじゃって。この世の春だな、青木。

「青木、岡部と飲みに行く予定がぽしゃったんだ。おまえ付き合え」
「えっ。オレ、車で来ちゃいました」
「なんで」
「いや、だって平日だし。迎えって言われたら普通は」
「うるさい、僕は飲みたい気分なんだ。おまえは横で見てろ」
「ええ~~~」

 いつものように青木に優しくない会話を交わしながら、二人はドアの向こうに消えていった。玄関に鍵を掛け、岡部が部屋に戻ろうとして振り向くと、リビング入口の暖簾に隠れるようにこちらを伺っていた雛子と目が合った。
 彼女は岡部に走りより、細い両手で岡部の無骨な手をぎゅっと握って、
「靖文さん。わたくしはあなたの味方ですけど、戦況を正確に把握することは必要だと思いますの。これからの作戦を立てる上で」
 …………こっちもまだ続いてたのか。

「ショックだと思いますけど、よおく聞いてくださいましね。あの、薪さんとおっしゃる方は、いま迎えに来られた男の方を」
「あー、いいです、聞かなくても分かってますから」
 やっぱりそう見えるか。まあ、こちらの方面にはとんと縁のない自分でさえ何となく感じるくらいなのだから、ロマンチック街道のド真ん中を行く彼女には、瞬時に分かるものなのだろう。
 岡部が両手を振って作戦参謀の提案を断ると、雛子は気の毒そうな顔になって、しかし力強く、
「だからって、諦めることはありませんのよ。ご自分に自信を持ってくださいな。靖文さんは、誰よりもステキですもの」
「……俺がですか?」
「ええ。靖男さんの息子ですもの」

 そう言って微笑した彼女の美しさは、初めて出会ったときと少しも変わらず。父に、新しい母だと言って彼女を紹介されたあの日、岡部の心に住み着いたその姿のまま、多分これからも色褪せることはない。
 そう。俺はあなたの息子です。出会ったときから、死ぬまでずっと。

「これからわたくしが、薪さんのハートを射止める作戦を考えて差し上げますから。靖文さんは、どうかそれを参考になさって」
 雛子は両手に恋愛小説と少女マンガを山ほど抱えて、どうやらそれが彼女の作戦のベースになるらしい。
「ほら、例えばこんな演出とか」
 彼女は多数の指南書の中から一冊の雑誌を取り出し、顔の半分が目玉という人類とは思えない顔をした少女が、海岸で性別不詳の人間(というのも、その人物には体毛が無くて男か女か岡部には判断が付かない)と一緒に砂山を作っている場面を指差した。誌面に広がる点描とハートの世界に、岡部は辟易しながら、
「それは青木に授けてやってください。薪さんのことは大事ですけど、俺と青木の感情は種類が違いますから」
「……そうなんですか?」
「はい。一度もそういう目で見たことはありません」
 岡部がキッパリと否定すると、雛子は複雑な顔になってマンガ雑誌を閉じ、それをぎゅっと胸に抱いて、
「まあ、残念。靖文さんの恋の応援ができると思ったのに」

 応援されても困ります、と岡部は心の中で呟き、天真爛漫な母親にそっとため息を吐く。彼女が鈍いおかげで自分はずいぶん助かっている、と岡部は思い、直ぐにそれを否定する。
 雛子は鈍くない。その証拠に、薪たちの微妙な関係を一発で見抜いたではないか。でも彼女は良識のある女性だから、思いもよらないだけなのだ。薪のような突拍子もないカンチガイは、彼女はしない。

「今夜は薪さんと、お酒を飲まれる予定だったんですね?」
「あなたが同窓会に出かけてると思ってましたんで」
「わたくしが代わりにお付き合いしましょうか?」
「!! い、いや、明日は平日ですし、お母さんの相手は土曜の夜にでもゆっくり」
「遠慮なさらないで。飲みたい気分なんでしょう? 今夜はわたくしに甘えてくださいな」
 青冷める岡部の前で、雛子はマンガ雑誌を一升瓶に持ち替えて、にっこりと笑った。



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天国と地獄3 (7)

 こんにちは。

 ラストです。
 お付き合いいただきまして、ありがとうございました。(^^





天国と地獄3 (7)




「ううう……もう酒ヤメル……」
「その台詞、50回くらい聞いたような気がしますけど……アツツ……」
 亜麻色の頭を抱えるようにして薪は執務机にだらしなく突っ伏し、その傍らで岡部も喉元を押さえている。第九の室長と副室長ともあろうものたちが、揃いも揃って二日酔いとは、まったく嘆かわしい限りだ。

 ぐわんぐわんと頭の中で半鐘が鳴り響くような痛みに耐えかねて、岡部はこめかみを押さえた。右手のファイルを差し出そうとするが、どうにも身体が言うことをきかない。
「なんだ、岡部も二日酔いか?」
「すいません、実はあれからお袋と。朝方までつき合わされまして、潰されました」
「えっ、あのお母さんと飲んだのか?」
 おそらく、あれは息子の恋の絶望的な未来予想に裏打ちされた彼女なりの激励会のつもりだったのだろうが、本気で勘弁して欲しい。明け方まで粘られてとうとう、岡部の意中の人は他にいて、それはれっきとした女性だ、ということまで白状させられてしまった。これからどうやって彼女の追及を避わしていけばいいのか、正直者で不器用な岡部には見当もつかない。
「しかもおまえが潰され? すごいな、彼女」
「ははは。色々と規格外なんですよ、うちのお袋は」
 見かけによらず、雛子の内臓は異常に強い。そうでなければあの料理を食べて、病院の厄介にならずにいられるわけがない。

「まあ、がんばれ」
 薪の励ましに勤労意欲の向上以外の含みを感じて、岡部は悪心に曲げた顔を更に歪める。
「薪さん。まだ誤解してるわけじゃないですよね?」
「僕は誤解なんかしてない。案外、誤解してるのはおまえの方なんじゃないのか?」
 クスッと笑ったら、それが頭に響いたらしく、言葉にならない声を上げて薪は再び頭を抱えた。言い返そうとして岡部も、喉の奥から込み上げてくるものを必死で抑える。

「おはようございま、うっわ、何ですかこの部屋。ものすごくお酒臭いですよ!」
 朝のコーヒーを持ってきた青木が、慌てて窓を開ける。八月の熱い空気は朝から身体にまとわりつくようで、嘔気を増進させる。
 今だけはエコロジーに背を向けて、岡部はエアコンの温度を2度ほど下げた。壁のパネルを操作する岡部の視界の隅で、薪がアイスコーヒーのグラスを持ち上げ、ストローを咥えることなく自分の額に押し当てる。

「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない。おまえのせいでこんな、ううう」
「ええ~、オレ、もうやめた方がいいって何度も言いましたよね?」
「口で言われたくらいで止まれるなら、二日酔いに苦しむ人間なんかいないんだよ」
「じゃあ、どうしたらよかったんですか?」
「物理的、かつ強制的にアルコールから引き離して、ベッドに押さえつけてくれ。そうしたら僕は2分で眠るって、前に鈴木が言ってた」
「えっ!! そんなことしちゃっていいんですか!?」
「大きな声を出すな、頭に響くっ……僕が許す。次は頼むぞ」
「ま、薪さんの身体を強制的にベッド押し付けっ、ぐふぅっ!!」

 いつものように意識することなく青木の心を弄びながら、薪の一日が始まる。
 すべてこの世はこともなし。
 その平和な風景の連想から、すでに昨夜のアルコールを分解し終え、今時分は片付け物も終えて子猫に餌でもやっているであろう雛子の姿を想像して、岡部は帰りにキャットツリーを買っていこうと考えた。



(おしまい)



(2011.4)


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天国と地獄4 (1)

 こんにちは~。

 天国と地獄シリーズ4作目、しかし書いたのはつい最近で、何を隠そうリハビリ第1作目でございます。
 日本語に不自由な人が目的もなく文字を綴ったかのような駄文になってしまったのは、そのためだと信じたい。

 わははー、1ヶ月ちょい休んだだけで、こんなに書けなくなるもんかー。
 ホント、使わない機能はどんどん衰えるんだねー。 おばさんはびっくりしたよー。(@◇@)
 

 日本語レベル低くてすみません、(あ、いつも?)
 その上、中途半端な内容ですみません、(これもいつも?)
 どうか大目に見てください。

 


 


天国と地獄4 (1)





 小さな町の住民がそっくり移動してきたのではないか、と疑いたくなるくらい大勢の人々に混じって、青木は右隣の人物の顔をこっそりと見た。
 青木の左で順番を待っている女子高校生らしき少女といくらも変わらない体つきの彼は、つばに英文字の刺繍が入った帽子を目深にかぶっていて、この位置関係だと口元しか見えない。よって青木の眼に映るのは彼の、普段通りつややかできれいなくちびるだけだが、いつもより少しだけ口角が緩んでいるように見えるのは、都合の良い錯覚だろうか。

 C県にある有名なアミューズメントパーク。その入場門の外に設えられた大きな広場は、見渡す限り人の頭で埋め尽くされている。親子連れ、恋人同士、友だち同士、みんな楽しそうに入場門へと歩いていく。
 尋常な数ではないから、その歩みはひどくゆっくりだ。気の短い彼が今にも怒り出すのではないかと、さっきから青木は冷や冷やしている。
 下調べが甘かった。正直、ここまで混むとは思わなかった。
 今日のデートは、申し込み6回目でOKしてもらったのだ。掛かった期間は約1ヶ月。入園前に終了したのでは哀しすぎる。

 遅々として進まない列に並び、少しでも早く順番が来るよう祈りながら、青木は彼に話しかけた。
「すごい人出ですね」
「ああ」
「いいお天気になってよかったですね」
「うん」
 二文字の返事しか返ってこないのはイエローカードだ、と青木は焦る。機嫌が良ければ、「そうだな」くらい付けてくれるはずだ。
 2文字が6文字になったところで変わらないと他人は言うかもしれないけれど、このひとに限っては天と地ほどの開きがある。とにかく、難しいひとなのだ。
「……すみません、お待たせして」
 とりあえず謝っておこう。何事も先手必勝だ。
「なんでおまえが謝るんだ?」
 おかしなやつだな、と皮肉に笑われて、青木はほっと胸を撫で下ろす。それほど怒っているわけではないらしい。

 ストリート系のファッションを楽しむ男子が好みそうなファンキーな帽子は、実年齢より常に20歳ほど若く見られる彼によく似合っているけれど、できれば外して欲しいと青木は思う。
 帽子のせいで、薪の表情がよく見えない。だから、彼のご機嫌が今ひとつ解らない。彼がまとう空気は、いつもより張り詰めていない。でもそれは今がプライベートだからで、この状況をどれくらい不快に思っているのか、微妙な判断がつかない。
 今日のデートだって、自分でも呆れるくらいしつこくしつこく誘ったから、断るのが面倒になって応じてくれたのか、「絶対に楽しいですから!」と青木が力説したのが効を奏して幾らかでも楽しみにしてくれていたのか、その辺もできれば確認したい。
 訊いても答えてはくれないだろうが、彼の瞳を見れば何となく分かる。基本的に彼は無口だけれど、その瞳は誰よりも雄弁で、見つめることさえ許してもらえれば、そこに様々な感情を読み取ることができる。
 でも、肝心の眼を隠されてしまったら。青木には何もわからない。

「薪さん、チケットです」
 自分たちの順番が近づいて来たので、青木はセカンドバックから入場券を取り出し、彼に手渡した。黙って受け取る彼の手はやさしかったけれど、
「後で清算するから。レンタカー代と合わせて、計算しておけよ」
 そんな風に言われてしまうと、まるで仕事で出張に来たみたいで、少々悲しくなる。
 青木はデートのつもりだが、薪にはそんな気はないのだろうな、と、それは分かっているはずなのに、やっぱりちょっとだけ胸が痛い。

 青木が何回好きだと言っても、薪は青木の言うことを信じてくれない。いや、信じないのではなく、理解できないのか。上司として、人間として好意を抱いていると、そんな意味合いだと思っているのだ。
 男が男に恋をするなんてありえない、と薪は頭から決め付けていて、同性に恋愛感情を抱くのは一部の特例だけだ、と断言する。その特例にしても彼のイメージは2世紀くらい前の遺物で、そういう方々は化粧をしてスカートを穿いているものだ、と訳知り顔で青木に教えてくれるから困る。
 自分が女になりたいとか男性に愛されたいとかじゃなくて、あまりにも相手のことが好きで、性別なんかどうでもよくなってしまう。そういう恋が存在することを、薪は認めてくれないのだ。
 そんな彼との関係は、膠着状態を絵に描いたようで。
 上司と部下の関係は超えて、友だちになったはいいけれど、この1年、そこから先には一歩も進まない。でも青木は諦めない。
 今はまだ、道の途中。そう思うことにしている。

 入場口の係員にチケットを渡して、スタンプを押してもらう。定員1名の金属製のバーを順繰りに回して、青木は薪の後ろから園内に入った。
 花で飾られた大きな噴水が、青木たちを出迎えてくれる。
 噴水の周りは広場になっていて、グループになった人々がさざめいている。その周りには二階建ての洋館がずらりと建ち並び、奥の通路へと続いている。園内の奥へと足を進めると、歩道には中世の時代を照らしたようなガス灯が等間隔に立ち、アミューズメントパークの売店とはいえ、ここまで造りに拘れば、それは立派な芸術だと青木は思う。

 素直に賞賛する青木に引き換え、薪はひねくれものだ。
 こんなものが何の役に立つんだとか、電飾パレードは電気の無駄だとか地球温暖化対策の敵だとか、絶対に言うだろうと思った。薪は理屈っぽいし、人の揚げ足を取りたがる性格なのだ。

「へえ。すごいな」
 いつ薪の毒舌が炸裂するのかと身構えていた青木は、その言葉に耳を疑った。
 目深にかぶっていた帽子のつばを上げ、額を覆った前髪の下から薪は、眼を大きく開いて装飾過多な通りを見ている。
「よく造ったもんだ」
 やっと見ることができた亜麻色の瞳は生き生きと輝いて、彼が今の状況を決して不快には思っていないことを青木に教えてくれる。ヨーゼフと遊んでいたときほどではないが、それなりに楽しそうだ。
 今度こそ青木は心底ホッとして、ガチガチに固まっていた肩の力を抜いた。

 大勢の人々に混じり、並んで歩く二人の間を、後ろから来た子供たちの集団が歓声と共に走り抜けていく。無遠慮に薪との間を割っていく彼らを、しかし青木は怒らなかった。あの薪が褒めるくらいだ。子供たちが夢中になるのも無理はない。
 子供たちの元気な背中を見送っていると、今度は真向かいから、しっかりと腕を組んだカップルがやってきた。蹴り飛ばしても離れそうになかったので、仕方なく薪と距離を取って、彼らを通してやった。
 カップルが通り過ぎたとき、薪はその場にいなかった。
「あ、あれっ? 薪さん!?」
「ここだ」
 気が付くと、薪は向かいの通りにいた。
「なんでそっちのほうに」
「人の波に乗ってたら、いつの間にかここへ」
 ほんの一瞬離れただけなのに。恐るべし、ネズミーパーク。

 身体の小さい薪は、簡単に人ごみに紛れてしまう。他人より頭ひとつ分高い青木を薪が見つけるのは容易いが、青木が小柄な薪を見つけるのは至難の業だ。解決策としては離れないようにするのが一番だが、その具体的な方法と言うと、言ったら殴られるかなあ、でも言っちゃお。
「あの……手をつなぎません?」
 迷子防止の一般的な予防策を提案した青木に、薪は予想通りの冷たい一瞥をくれた。
「べ、別にいやらしい気持ちじゃないんですよ。ここではぐれちゃったら、探すの大変だと思うから」
 そりゃ、オレは薪さんの手に触れたら嬉しいですけど。
 
 本音を言えば、さっきのカップルみたいに腕を組んで歩きたい。薪とそんな風に過ごせたら、死んでもいい。
 できることならその華奢な肩を抱き寄せて、自分の胸の中に囲い込むようにして歩きたい。薪が嫌がるからしないけれど、本当はいつも、彼の身体に触りたいと思っている。さわるだけじゃなくて、あんなことやこんなこと、薪が許してくれるならもっと先のことまで、ってそれはここではちょっと無理、てか誰も見てないところでも無理だけど……ネバーギブアップ! いつかきっと!

「それは歩き辛いと思うぞ」
「そうですね。足がぶつかっちゃいそ、えっ!?」
 頭の中の妄想に異を唱えられて、青木は焦る。
 なんで薪が自分の思考に答えるのだ? もしかして、いつの間にか脳内思考が駄々洩れに!?
「こ、声に出てました?」
 青木が心配そうに自分の失態を確認すると、薪は意地悪そうに嘲笑って、
「最後のは、聞かなかったことにしておく」
 最後ってどこ!? どこまで言っちゃってたんですか、オレ!?

「ほら」
 促す声に顔を上げると、薪の小さな手が差し出されていた。
 やらかしたばかりの失敗も忘れて、青木は舞い上がるような心持ちでその手を握った。細くて小さくて女のように華奢な手。でも、しっかりとした骨の感触と高い体温が、彼の性別を強調する。

 人前で手を握ったりして、これは一歩前進したと思ってもいいんじゃないか?

 薪に友情以上の気持ちがないことはわかっているけれど、こうしてつないだ手のぬくもりは、ランド名物の電飾パレードより遥かに青木の心を浮き立たせてくれる。
 嬉しくて、青木はぎゅっと手に力を入れた。
 向かいから来た高校生の集団が、二人の両脇を鰯の群れのように抜けていった。




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天国と地獄4 (2)

天国と地獄4 (2)





「なんだ。俺の勘違いか」
 カラン、とオンザロックの氷が立てる音で、青木は我に返った。
「よかったな、楽しく過ごせて。あの人も、きっと楽しかったんだろうよ。今日は機嫌がいいみたいだったぞ」

 公私共に頼りにしている同じ部署の先輩刑事が、無精ひげに見せかけた顎鬚を手でさすって、手入れの時期を計っている。今日一日、淀んだ空気を引き摺って仕事をしていた青木を気遣ってアフターの誘いをかけてくれた彼は、青木の話を聞いて、心配無用と判断したのだろう。
 そう、滑り出しは絶好調だったのだ。
 薪と並んで歩いて、手なんかつないじゃって、一緒にゴーカートなんか乗っちゃったりして。
 でも、二人で観覧車に乗ろうとしたとき。青木は悪魔に会ったのだ。

 幸せなデートから一転、地獄に突き落とされた時のことを思い出して、青木は今朝の陰鬱な表情に戻る。テーブルの上で組み合わせた自分の両手をじっと見つめて、日本海溝より深いため息をついた。
「薪さんの機嫌がよかったのは、オレの力じゃないです。彼女のおかげです」
「彼女?」
「元カノに会ったんです。薪さんの」
 薪の元カノと聞いて、岡部は黙り込んだ。普通にしていてさえ白目の多い三白眼の瞳をさらに小さく引き絞り、そのいかつい顔は驚きの表情に固まる。
「大学の頃、付き合ってたらしくて……薪さんの好みドンピシャで、小さくてかわいくて胸の大きい、うううう」

 思い出しただけで泣けてくる。
 観覧車乗り場で、二人は殆ど同時に互いの姿に気付いた。あの人ごみの中から、運命みたいに互いを探し出した。
 別れてから15年も経っているのに、一目でそれと気付く。それだけ付き合いが深かったのだろう、と青木は考えて、足元を掬われるような感覚に陥った。
 目の前が暗くなるほどのショックを受けた青木とは対照的に、岡部は「そんなことか」と言いたげな口調で、
「薪さんが大学の頃って、何年前の話だよ。とっくに別の男ができてるだろう」
「特定の相手はいないそうです。昨日も、女友だちと来てました」
 確かに、そう言っていた。
「あなたの方は?」と訊かれて薪は、「僕もまだ独り。仕事が忙しくて」と平凡な答えを返していた。

「観覧車の中で薪さんに聞いたんですけど。他に好きな人ができたとか、ケンカ別れしたとかじゃなくて、就職して忙しくなって、自然に離れちゃったみたいなんです。だからお互い未練があったみたいで、楽しそうにメアドの交換を……うああああんんっ!!」
「泣くことないだろう」
「だって薪さんがあの女とぉ……もしかしたら、結婚しちゃうかも……」
「メールくらいで、大げさな」
「メアドを交換したってことは、今度ふたりで会おうってことじゃないですか! 焼けぼっくいぼうぼうじゃないですか!!」
 岡部に危機感がないのは、仕方のないことだ。岡部は当事者ではないし、二人が再会した場面を目撃したわけでもない。何より、薪に特別な感情を持っている青木とは違うから、薪が女性と付き合うことになっても平気なのだ。

 善意で青木の愚痴を聞いてくれる岡部に当り散らすなんて、恩を仇で返すもいいところだと思ったが、青木には他に不安をぶつける相手がいなかった。
 何だか自分が情けなくなって、長い長い片恋の行方も絶望的なものに思われてきて、青木はテーブルの上に突っ伏してしまった。尊敬する先輩相手に非礼を重ねてしまいそうで、顔を上げる事ができなかった。




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天国と地獄4 (3)

天国と地獄4 (3)




 グラスの氷がもう一度音を立てて、が、今度は青木は動かなかった。
 うつ伏せたままの後輩の大きな背中を軽く叩き、岡部はため息混じりに彼を慰める。
「まだそうと決まったわけじゃないだろう。だいたい、俺のカンでは薪さんは」
 思わず口から出かかった言葉を、岡部は飲み込んだ。青木は真剣なのだ。軽はずみなことを言うべきではない。
 ……しかし。
 どう見てもあれは、と岡部は休日前の室長とのやり取りを思い出す。

『岡部。ネズミーランドって、行ったことあるか?』
 遠足前の子供のような瞳をして、薪はそう訊いてきた。第九の室長室という場所にそぐわしくない話題と顔つきだった。
「おふくろにせがまれて、何回か」
「雛子さん、かわいいもの好きだもんな。絶対に行ってると思ってた」
 意味ありげに微笑まれて、岡部は焦った。
 先日、ゲリラ豪雨に見舞われた薪を自宅に避難させた。もちろん、薪と母親を会わせる心算はなかった。その日、彼女には同窓会の予定が入っていた。だから自宅に連れてきたのだ。それが、出かけようとしたところにこの雨で、もともと雨に濡れるのが嫌いな彼女は突然の発熱による欠席を余儀なくされたらしい。
 人数を取りまとめる幹事の身にもなりなさい、と彼女を叱っているところを見ていた薪だったが、あの日を境に、岡部が母親のことを口にする度に、ニヤニヤ笑うようになった。

「どうして急に、ネズミーランドなんですか?」
「青木に誘われたんだ」
 あっけらかんとした口調で薪が言うのに、岡部はなるほど、と心の中で頷いた。それで遠足前の子供みたいな顔をしていたのか。
「僕、ネズミー初めてだから。楽しみでさ」
 初めての場所に浮かれているわけじゃないでしょう。青木が誘ってくれるなら、何処だって楽しみなんじゃないですか?
 彼女とのことをからかわれたお返しに、そう言ってやろうかと思ったが、やめた。
 薪にはまだ自覚がない。外野からつつくのは反則だ。

「どんなところなんだ?」
「でっかい遊園地みたいなもんですよ」
「ふうん。面白かったか?」
「おふくろは楽しそうにしてましたね」
 リピーターの中には年間パスポートを購入して、仕事が定時で終わったらパレードに間に合うように駆けつける、というツワモノまでいると聞く。ネズミーファンにとっては、そうまでして行きたい夢の国らしいが、正直なところ、何が面白いのか岡部にはよく分からない。
 いつ訪れても物凄く混んでいて、人気のアトラクションは2時間並んで乗車は5分、それを当たり前だと思う人々の神経が理解できない。ランドの中だけではなく、その近辺は常に混雑している。電車は鮨詰め状態だし、みやげ物で荷物が膨れる帰りはラッシュ時の満員電車より厳しい。
 が、まあ、あのひとの笑顔が見られるなら、自分は何処へでも行くが。

「電車で行くなら、早い時間に行かれることをお勧めしますよ」
「いや、車で行こうと思う」
「車は大変ですよ。渋滞が半端じゃないです。駐車場待ちの時間を考えたら、電車の方が早いですよ」
 遠方から来るのでなければ、電車の方が絶対にいい。時間帯によっては1時間以上も流れない地獄の交通渋滞より、電車は動くだけマシだ。

「でもあいつ、車の運転好きだから」
 経験から来る岡部のアドバイスを、薪は断った。青木の車好きは岡部も知っているが、あの渋滞に巻き込まれたら、どんなに気の長い人間でもうんざりするはずだ。
 ましてや薪だ。この気の短い人が、あの交通渋滞に怒り出さないはずがない。
「いや、普通じゃ考えられない渋滞なんですよ。朝は早く出てくれば平気かも知れませんが、帰りはみんな閉演のパレードと花火を見てから帰るから、一緒になっちゃって。1時間以上、進まないことだって」
「問題ない」
「失礼を承知で言いますけど。警察庁のエレベーターも待ちきれなくて、毎度毎度8階の官房室まで階段を駆け上がってる薪さんが、どうやって渋滞を乗り切るお心算で? まさか、高速道路を歩いて帰ってくる気じゃないでしょうね?」
「そんなことするわけないだろ。高速道路を歩くのは交通違反だぞ」
 薪は可笑しそうに笑って、こともなげに、
「大丈夫だ。青木が同じ車に乗ってるんだから」

 ……それは……渋滞しようが軽快に飛ばそうが、青木と一緒にいることには変わりないから、という意味ですよね? そこまで口にしておいて、どうして自覚しないんですか? 頭悪いんじゃないですか?
 馬に蹴られたくないから、言いませんけどね。

「気に入りのCDと、飲み物は用意していくといいですよ。あと、車に乗る前に必ずトイレを済ませておくこと」
「うん、わかった。雛子さんにお土産買ってくるから。黄色いクマの、なんてやつだっけ?」
 薪が買ってきてくれたクマのぬいぐるみは、岡部の車に積んである。
 彼女はアレが大好きなのだが、岡部にはさっぱり理解できない。あの間抜け面のどこがいいのか、だいいち、どうして熊が黄色? 突然変異にしても、黄色はありえないだろう。
 そういえば、彼女の気に入りのネズミーキャラクターを薪が知ったとき『クマつながりだな』と言っていたが、あれはどういう意味……。

「いいえ、確定です。薪さん、彼女と話してるとき、赤くなってたし」
 後輩の淀んだ声に、岡部の思考は現在に帰る。
「薪さんが?」
 女性と話をして頬を染める、そんな初々しいひとでもないと思ったが。
「若い頃の失敗談でも蒸し返されてたんじゃないのか」
「話の内容を聞いたわけじゃありませんけど。嬉しそうに、照れ臭そうに笑ってて」
 職場では付いたことのない頬杖を付いて、青木はやるせなく訴える。その時の薪の表情を思い出しているのか、遠い目をして、
「オレ、薪さんのあんな顔見たの初めてでした。やっぱり、男のオレじゃダメなのかなあ……」
 そうは思えない。
 土産の人形を受け取ったとき、「ランドは楽しかったですか?」と訊いた岡部に、薪は「あれは子供の行く所だな」とシビアに返し、でも、「だから今度はシーの方へ行こう、って青木に言ったんだ」と、それはそれは楽しそうに答えたのだ。

「そんなに悲観的になることもないんじゃないのか? その女と薪さんの間に、まだ何かあったってわけでもないのに」
「励ましてくださってありがとうございます。でも、いいんです。薪さんは、見た目はああだけどノーマルで、男のひとには興味ないって、初めに岡部さんに言われましたものね」
 くすん、と鼻を鳴らして、未練いっぱいの顔をして、それでも青木は気丈に言った。
「薪さんがあの人と付き合いたいなら、オレの気持ちは迷惑なだけですから。きっぱり諦めます」
「おい、青木」

 どうしたものか、この展開は。
 岡部のカンでは、このふたりはお互いに特別な感情を抱いている。でも、薪の方はまだ自分の気持ちに自覚がない状態だし、青木は薪のそんな心情に全く気付いていない。このまま放っておけば、自然に消滅する可能性が高い。
 正直なところ、岡部は二人の仲が進展することには反対だ。青木の愚痴を聞いてやるのはやぶさかではないが、上司と部下が男同士で恋仲なんて、そんなフクザツな環境で仕事をしたくない。だから岡部は素知らぬ振りで、日和ったアドバイスをするしかない。

「まあ、相手の出方次第だな。早まるなよ」
 当たり障りのないことしか言えずに、その日は家に戻った岡部だったが、玄関のドアを開けて自分を迎えてくれた若すぎる母親に、薪からの土産だと言ってありえない毛色のクマのぬいぐるみを差し出したとき、それを受け取った彼女の笑顔を見て、自分の間違いに気付いた。
 彼らよりも遥かに許されない恋をしている自分ですら、好きなひとの笑顔を見られるのがこんなに嬉しい。
 男同士が何だ、上司と部下がなんだ。全身が震えるような歓喜、この幸福感を味わってこそ、生きる価値があるというもの。彼らはふたりとも、岡部の大事な友人だ。だったら、彼らの喜びを応援するのは人として当たり前のことではないか。

 小さなピンク色のくちびるを窄めて、のほほんとしたクマの鼻先にキスをしている年下の母親を横目に、岡部は上司の携帯に電話を掛けた。
「俺です。土産をありがとうございました。おふくろ、すっごく喜んでました」
『そうか。よかった』
「それでですね、おふくろが礼に、ネズミーシーのチケットをどうですかって。商店街の福引の景品で、ペアチケットをゲットしたんだそうです。薪さん、行きたがってましたよね?」
『気持ちだけ貰っておく。息子さんと二人でどうぞ、って伝えてくれ』
「それが、ペアチケットは2組ありまして。1組は誰かに譲る気だったんですよ」
『そうなのか? じゃあ、ありがたく貰うよ』

 電話を切ると、母親がイタズラっぽい眼で岡部を見ていた。
「まあ、ネズミーシーのペアチケットを2組も。わたしって、福引の天才ですのね?」
「……すいません」
 無断で彼女をダシに使ったことを岡部が素直に謝ると、雛子は薪にもらったクマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、
「ふふっ。上手く行くといいですねえ、薪さんと青木さん」
「さあ、どうですかね」
 そんな未来のことまで考えてはいない。ただ、好きなひとの笑顔が見られればうれしいだろうと、そんな単純な思い付きから出た余計なお節介だ。お節介は岡部の悪い癖だが、これがなかなか治らない。あの手のかかるひとが自分の上司でいるうちは、快癒は望めないかもしれない。

「それより、腹ペコです。今夜はなんですか?」
「靖文さんの食べたがってた鯛めしにチャレンジしてみました」
 雛子がとびきりの明るい笑顔でパカンと炊飯器の蓋を開けると、中にはぐずぐずに崩れた鯛の身と、ところどころ黒くなったごはん。炊飯器でごはんを焦がせるのは、彼女の類まれなる才能のひとつだ。

 岡部が先日、料理番組で見た鯛めしとは大分違うが、一応は鯛が入っているのだし、味はいいかも、なんて甘かった。
「猫の餌みたいですね」
 てか、鯛の骨が刺さって口の中血だらけなんですけど。
「そうですねえ。こういうものなんでしょう」
 標準とは少々異なった味覚を持っている彼女は平気のようだが、岡部は焦げたごはんは苦手だ。内臓もウロコも全部混じってるみたいだけど、これって取ったほうが美味いんじゃないかな。やたらと生臭いし、ウロコはジャリジャリ言うし……。

「テレビでは、内臓とウロコは除いてあった気がしますけど」
「ええ、そこは工夫したんですのよ。内臓のおかげでごはんにコクと、鯛の鱗の心地よい歯ごたえが加わりましたでしょう? 狙い通りですわ」
「……そうですか」
 少なくとも、骨はごはんに混ぜないほうが安全だと思うけど。
「栄養面にも気を配りましたの。靖文さんのお仕事は、ストレスが多いでしょう? ストレスの緩和にはカルシウムを摂るといいんですって。だから骨ごと食べられるように長時間熱を加えて、そうしたらごはんがこんな風におこげ状態になりましたの」
 ごはんのおこげというのは表面がキツネ色の段階のものを言うんじゃないのかな。これは単なる炭じゃないのかな。苦いし。

 悶々と胸のうちで疑問符を重ねる岡部に、彼女は自慢そうに、
「初めて作りましたけど、なかなか美味しくできたでしょう?」
「…………はい」
 にっこり微笑まれたら、何も言えない。
 ごはんに混ざった無数の小骨を噛み締めながら、岡部は今度の定例会では薪に鯛めしをリクエストしようと心に決めた。




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天国と地獄4 (4)

 こんにちはっ!!

 数日前から過去作品に拍手くださってる方々、ありがとうございますっ。
 毎日たくさんポチポチしてくださって、とってもうれしいです!

 お礼と同時に申し上げたいのは、
 こんなものを一気読みされてしまってご気分を悪くされてないかと……。
 大丈夫ですかー! 精神崩壊してないですかー! 貝沼脳になってませんかー!? (←読んでくださった方の精神的苦痛を慮らなきゃいけないようなものを、どうして書くかな)



 さてさて、お話の方は、
 この章でおしまいです。 
(えっ、こんな半端で? って声が聞こえる)

 ここまでお読みくださって……すみませんでしたっ。(>_<;)






天国と地獄4 (4)




 薪が携帯電話の画面に向かって微笑する、それはとても珍しい光景だった。
 仕上がった報告書を提出するために室長室を訪れた青木は、その様子を見た瞬間、薪のメールの相手を悟って暗鬱な気持ちになった。薪の笑みは、先週の日曜日、昔の恋人と運命的な再会を果たした彼が、彼女と楽しげに話をしていたときと酷似していた。

 青木が報告書を薪の机に置いて、黙って出て行こうとすると、澄んだアルトの声が青木を呼び止めた。早くも訂正箇所が、と冷や汗混じりに振り返ると、薪は携帯電話を持ったまま、
「日曜日、ネズミーシーに行くから6時に起きろ」
 え、と頓狂な声を発して固まって、青木は眼を瞠る。
「ちょっと早いけど、7時くらいの電車に乗って行った方がいいって岡部が」
 薪が何事か言っていたけれど、疑問符が渦を巻いている青木の頭には入ってこなくて、さもあらん、青木のキャパシティは自分の疑問を解決することだけでとっくに振り切れている。
 幸せそうに微笑んでメールを確認して、それは彼女と連絡が取れたからではないのか。なのに、どうして自分を誘ってくるのだろう。

「どうして?」
「車で行ったら、ビールが飲めないだろ?」
 いや、交通手段じゃなくて。
「どうしてオレなんですか?」
 携帯電話の画面を見つめていた薪の眼は、デート前の男の眼だ。青木にはわかる、薪に会う前夜、鏡の中の自分はいつもそんな表情をしている。傍から見たら危ない人に思われると分かっていても、抑え切れない口角の緩み。相手に会うのが楽しみで楽しみで、自然に頬が緩んでしまう。
 そんな表情をしておいて、どうしてオレ?

 もしかしたら、と青木は何百回目かの期待を胸に抱く。
 運命のように再会した彼女よりも、薪は自分を選んでくれた? 彼女と過ごした美しい日々よりも、今現在自分の心を占めているのは目の前にいるおまえだと、そう言ってくれるのだろうか?

「1ヶ月に数日しかない貴重な休日に暇を持て余している人間の心当たりが、おまえ以外なかった」
 ……期待したオレがバカでした。
「オレだって別に、暇を持て余してるわけじゃ」
「見栄を張るな。ヒマなんだろ? だから休みのたび、僕を誘って来るんだろ?」
「ヒマだから誘ってるんじゃありませんよっ!」
 青木が滅多に出さない大声を出したものだから、薪はとても驚いたようだったが、それをフォローする余裕は青木にはなかった。

 だって、と青木は心の中で我が侭な子供にように主張する。
 同期の飲み会どころか同窓会までキャンセルして、薪に休暇を合わせているのに。薪と同じ日に休暇を取るために、これまで青木が何回曽我と小池の残業を肩代わりしたか、数え切れないくらいなのに。
 そんな影の努力を知って欲しいなんて思わないけれど、でもだからって『ヒマ』の一言で片付けられるのは我慢できない。

 大きな声で全力否定する青木を、薪は不思議そうに見た。それから右手を口元に持っていき、長い睫毛を伏せる。それは薪が考え事をするときのポーズ。
 薪にとって、青木の言動は不可解なのだろう。一言言えば尻尾を振って付いてきたはずの部下が突然それを渋ったりしたら、面食らって当然だ。

「なんでオレなんですか?」
 彼女と行けばいいじゃないですか、と言いたいのをぐっと堪えて、青木は静かに訊いた。彼女の都合がつかなかったとか、どうせそういうことだろうと思った。薪がそう言ったら、身代わりはごめんです、と言い返してやろうと思っていた。
 でも。
 さらりと左に流れる前髪の下、寄せられた眉の更に下、青木の大好きな亜麻色の瞳に宿った微かな翳りを見て、青木は自分のとんでもない思い上がりに気付いた。
 
 薪の憂いを、今、正に自分が作っている。それは許されないことだ。

 ここはひとつ、薪の気持ちになって考えよう。薪は青木の気持ちを知らないのだ。正確には、何度告っても理解してもらえない、というのが正しい状況だが、それは置いといて。
 仲が良いと思っていた友人に誘いを掛けたら、手ひどく断られた。どうしてだろう、何か彼を怒らせるようなことを自分はしたかな、などとしなくてもいい自省を薪にさせている。その原因が自分にあるなんて、青木的に、ありえないことベスト3に入る失態だ。

 結論を出すより早く、青木は執務机に駆け寄っていた。きちんと積み上げられたレターファイルの左脇に手を付いて、
「すみません、薪さん。よろこんでお供しま」
「おまえと一緒にいると楽しい」

 せっかくの改心を遮られて、でも青木とってそれは福音。
 福音の発信者をまじまじと凝視すれば、彼はひとさし指を唇に当てたまま、軽く首を振った。
「て、それじゃおまえの休日を奪う正当な理由にならないよな。待ってろ、今ちゃんとした理由を考えるから」
 今度は腕を組んで背もたれにもたれ、苦手な牛乳を前にしたときのように唇を尖らせ、でも結局、さっきと同じように首を振った。
「ダメだ、思いつかない。明日まで待ってくれれば、きちんとした事由書を800字以内にまとめて」
「あのっ!」
 相手の言葉を遮ったのは、今度は青木の方だった。

「オレ、薪さんが好きです。すごくすごく、好きなんです」
 それは何十回目かの告白で、あらかじめ用意されたものではないから花束も豪華なディナーもなくて、第一、室長室なんかで告ったってこのひとには絶対に伝わらないという確信があったけれど、青木は言わずにいられなかった。
 そして薪は青木の予想通り、ホッとしたように微笑んで、
「じゃあ、これ頼む」
 さらさらとペンを走らせて、メモ用紙をピッと切り取る。細い指に挟まれた紙片には、食材の名称がずらりと並んでいた。

「そこにあるもの、買ってきてくれ」
「尾頭付きの鯛? 何かお祝いですか?」
「岡部からメールで、今日の定例会は鯛めしが食べたいって。酒は、岡部が出張先で地酒を調達したそうだ。僕は先に帰って、土鍋を探さなきゃならないから」
「土鍋?」
「鯛めしは、土鍋で炊いたほうが美味いんだ。でも土鍋なんか滅多に使わないから、クローゼットの中をひっくり返さないと」

 さっきのメールは岡部からだったのか。
 薪が上機嫌だったのは、岡部の出張が思ったより早く引けて、薪の好きな日本酒を土産に買ってきてくれることが分かったから。そんなことだったのか。
 それを、デートを楽しみにしている男の表情だ、なんて。自分の眼も当てにならない。

「福引きのお礼だからな。雛子さんの分も作って、土産に持たせてやらないと」
「雛子さんて、誰ですか? 福引きって?」
「おまえには関係ない。さっさと買い物してこい」
 しっしっ、と犬でも払うような調子で追い出された青木の、大きな背中がドアの向こうに消えてから、薪はもう一度携帯電話を開く。そこには岡部から、副室長としての連絡事項と、友人としての短い手紙が記されている。

『チケットが届きましたので、今日の定例会でお渡しします』

 くふっと笑って携帯を閉じ、薪は執務机を片付け始めた。



(おしまい)



(2011.4)



 きゃー、お見苦しいものをすみませんでしたー!
 もう、どんだけつっかえながら書いたんだ、てカンジですね。(^^;
 あまりにも書けないものだから、強制終了させたなってのがありありと分かって。 
 次の話は去年の7月に書いたものなので、もうちょっとマシだと……あ、あれ? あんまり変わらないかも? 
 それもなんだかなあ。(笑)



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天国と地獄5 (1)

 こんにちは。

 天国と地獄シリーズも、ターニングポイントを迎えました。
 こっちのあおまきさんも最終的には恋人同士になるのでね、そろそろこういう話題も必要かなって。 
 でも、大人な内容、というよりか、オヤジな内容?
 仕方ないじゃん、男爵だもん。(笑)





天国と地獄5 (1)





「青木。いいもん見せてやろうか」
 薄いCDケースを人差し指と中指の間に挟んで、薪は意味ありげに青木を見た。下方からの目線、しかし見下されていると感じるのは、その目つきの悪さのせいか。
 なんですか?と応じると、薪はケースを青木に差し出し、デッキにセットするよう促した。DVDの裏面は真っ白で、ラベルも文字もない。
 それでも上司の命令だ。別に違法なものではないだろうと判断して、テレビの下に据え付けれたデッキにメディアを挿入する。

「うわっ!?」
 屈んだ姿勢のまま、何気なく画面を見ていた青木の身体が仰け反って、大きな身体が後方に引かれた。咄嗟についた両手も間に合わず、青木はその場に尻もちをついた。
「なんなんですか、これ!」

 42インチの液晶画面に映し出されたのは、大人しか見てはいけないヒメゴトの画。それもモザイクなしの無修正ものだ。
「見るの初めてか?」
「そうじゃないですけど……これ、違法ビデオですよね。どこからこんなもの」
「脇田課長が貸してくれたんだ。僕好みの娘が出てるからって」
 なんて不愉快なことをしてくれるんだ、あの鬼瓦は。巨大ハンマーで粉々にして、ガレキの塊にしてやりたい気分だ。

「本当だ、むっちゃ僕好みだ。やっぱり女の子はちょっとくらいぽっちゃりしてた方が……青木?」
 興味津々の顔つきで身を乗り出してくる上司の姿に、青木は思わず涙ぐむ。いくら外見がきれいでも、中身は普通の男。正常な男なら、これが当たり前の反応だ。なのに、その様子を見てると涙が出てくるのは何故だろう。
「感激して泣いてるのか?」
 ストーリー皆無のエロビデオの何処に感動の涙を流せと!?
「たしかに、この胸は感涙ものかもしれないな」
 ああ、涙が止まらない……。
「はあ、可愛いなあ。特にこの、太ももとお尻のむっちり感が」
 エロオヤジ全開の薪の発言が、青木の精神を蝕んでいく。どうしてこのひとは、顔と中身のギャップがこんなに激しいんだっ!

 キレそうな勢いで頭を巡らせた青木は、幼い美貌が微笑んでいる様子にたちまち骨抜きになる。
 青木の隣に正座して画面を凝視しているその横顔は、テレビのスピーカーから妖しげな音が響くこんな状況にあってもやっぱり可愛くて。どんな理由からでも、彼が笑ってくれることは嬉しい。仕事中は常に厳しく吊り上げられた彼の眉に、これほどやさしいカーブを描かせてくれるなら、画面の中の彼女をご苦労さまと労いたいくらいだ。彼の笑顔が増えるなら、それでいいじゃないか。
 
 と、天使のような考えを持てたのはほんの数分。
 可愛らしい顔でとんでもないものを見ていた薪は、ビデオが進むにつれ、次第にソワソワしだした。これは、多分あれだ。男特有の現象が起こりかけているのだ。
 薪はちらっと青木の方を見て、青木が平然としているのに眉を顰め、少し頬を染めて前を向いた。
 昔の青木だったら彼と同じことになっていたと思うが、薪に恋をした今では、画面の向こうの女性を一夜限りの恋人にする気は全然起きない。メリハリのきいた彼女のボディも、正直、肉の塊にしか見えない。
 
 画面に視線を戻した薪は、緩んでいた口元を引き締め、MRIでも見るような表情を取り繕った。年下の青木が平静を保っているのに、自分が興奮しているのがプライドに障ったのかもしれない。面倒なひとだ。
 しかし、薪が抑えようとしているのは謂わば生理現象。仕事の時ならともかく、オフタイムの彼に御しきれるはずがない。仕事モードの薪は人間の5大感性まで見事に押さえ込んで見せるが、プライベートモードの彼は基本のポーカーフェイスすら危ういのだ。

「……どちらへ?」
 黙って席を立った薪に、青木はやっかみ半分に問いかける。訊くのは野暮だと分かっていても、知らないふりはできなかった。

 だって、くやしい。
 当たり前だけど、薪は自分の裸体を見ても興奮してくれない。女の子の身体を持っているというだけで、実際に触れもしない映像だけで彼をこんな気分にすることができる彼女たちが、めちゃめちゃ羨ましい。
 もしも自分が女の子だったら、少しは可能性があっただろうか。器量よしでなくともいい、女性でありさえすれば、女の武器は備わっているはず。少なくとも『あなたが好きです』という言葉の意味は、正しく捉えてもらえたはずだ。
 ……真面目に性転換しちゃおうかな……。

「ちょっと、その」
 青木に呼び止められた薪は、その場に立ち尽くした。頬を赤くして、右手で口元を覆っている。恥じらいの理由はエロビデオによる男の事情という身も蓋も無いものなのに、なんでこんなにかわいいんだ、これは詐欺じゃないのか。
 パーカーの裾を引っ張って、ズボンの前を隠している。隠さなければいけない状況になっていると白状しているようなものだ。

 薪のその状態が自然に頭に浮かんで、途端に青木の下腹部は熱を持つ。
 夢の中で想像の中で、幾度も繰り返された薪の痴態。自分の下になって悶える夢の恋人と現実の薪が、ほんの少しだけ重なった。

「すぐ戻るから」
「薪さん、待ってください」
 くるりと翻った細い背中を、青木はもう一度呼び止めた。肩越しに顔だけ振り向いた薪に、恐々と申し出る。
「あの、良かったら……お手伝いしましょうか」

 言葉にした直後、青木は後悔した。薪の顔がひどく歪んだからだ。
「手伝うって、どういう意味だ?」
 プライベートのときにはついぞ聞いたことのない、冷たい声音。嫌悪感でいっぱいの表情。あまりにも明確な拒絶に、青木は声も出せなかった。

 気まずい沈黙が下りて、青木は俯いた。膝の上に置いた自分の手をじっと見る。女優のはしたない声が、空々しく響いている。
 薪はリモコンでビデオを止めると、スタスタと歩いてビデオデッキからDVDを取り出した。元通りケースに入れると、それを青木の前に置き、
「これ、貸してやるから。今日は帰れ」
 固く強張った背中で、薪は書斎に入ってしまった。追いかけて謝らなければ、と思ったが身体が動かなかった。
 どうしていいか分からず、狼狽えるばかりの青木の頭の中で、薪の冷たい亜麻色の瞳が悲しげに伏せられた。




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天国と地獄5 (2)

天国と地獄5 (2)





 シュッと衣擦れの音をさせて、水色のネクタイが引き抜かれた。ワイシャツの一番上のボタンが外され、優雅な首がのぞく。ほのかに漂う香水のような魅惑的な香りと、ベルトに掛けられた細い指。ためらいがちにベルトを抜いて、スラックスのフックを外そうとしている。もうちょっとで、あの麗しい脚線美が―――。

「……アホくさ」
 脇田耕作は口中で呟くと、視線を前に戻した。
 状況だけ説明されると思わず生唾を飲みたくなるようなシーンだが、別におかしな場面ではない。ただの男子更衣室だ。道場で一汗かいて、仕事に戻ろうと着替えていたら、知り合いの男が来て隣で着替え始めた。それだけのことだ。

「こんにちは、脇田課長。上がりですか?」
 にこやかに脇田に声を掛けてきた男は、右手に鞄を持っていた。どうやら今日はもう仕事上がりで、帰りに道場に寄ったらしい。
「いんや、これから課に戻ってもうひと踏ん張りだ。今のヤマ、思うようにネタが上がらなくて、長引いててよ。で、うちの連中にちいと気合入れてやろうと思ってな。その前に、自分に気合入れに来たのよ」
「ご苦労さまです。課長の仕事とはいえ、部下のモチベーションをあげるのは大変ですよね。怒鳴りたくなんかないのに、怒らなきゃいけないときもあるし。僕だって、できることなら穏やかに毎日を過ごしたいですよ」
 ワイシャツのボタンがもう一つ外され、露わになった胸元の白さに驚いて、脇田は思わず彼を凝視する。ついつい目を奪われてしまうが、こいつは男だ。脇田の好きなロケットのような胸はない。見てもムダだ。

 隣で道着に着替えようとしているのは、第九研究室の室長。男ばかりのむさくるしい職場で毎日を過ごさなければならない部下たちの間で、女神というかアイドルというか、そんな役回りをさせられている不幸な男だ。
 薪はミスユニバースが尻尾を巻いて逃げそうな美貌の持ち主だが、それは彼の人生において何のプラスにもなっていない、と脇田は確信している。自分の部下たちがこの男のことをどんな眼で見ているか、知っているからだ。自分がこの男の立場に立たされたら……迷わず整形手術する。

「あ、そうだ。脇田課長、これ、ありがとうございました」
 ワイシャツ一枚の半端な格好で、薪が鞄から取り出したのは、先日貸してやった無修正もののポルノビデオ。薪の外見に騙された脇田の部下たちは女神だなんだと騒いでいるが、中身はしっかり野郎だ。
 押収品の中の一枚だが、これを薪に回してやったのは、脇田なりの感謝の印だ。先日の麻薬組織摘発の際、薪には囮になってもらった。本人が嫌がるのを無理に頼み込んで女装してもらい、結果組織の幹部に辿りつくことができた。違法捜査ギリギリの手段だったから、表立って薪が褒章を与えられることはなかったが、彼の功績は大きい。何か礼を、と脇田が申し出るのに、魅惑的な美女のまま「じゃあ、ヌケるビデオでも貸してください」とカラッと言って、その場に居合わせた部下たちの精神を崩壊させていた。

 更衣室内の他の連中に気付かれないように、DVDケースをこっそりと手渡され、脇田は相好を崩した。にやりと下卑た笑いを浮かべると、
「どうだ、ヌケたか?」と小さな声で訊いた。
「そのはずだったんですけど」
「ありゃ。好み、外してたか?」
 その情報は、薪の部下で脇田の友人でもある岡部靖文警部から仕入れた。薪の好みは『背の低い、ぽっちゃり系のカワイコちゃんタイプ』と聞いていたが、はてさて。

「いえ、ばっちり僕好みの娘でした。××××なんか××××状態で、モロ僕の×××を刺激してくれて」
 女のように小さくてつややかなくちびるから零れだしたのは、深夜のスナックで話すにしても、もっとトーンを抑えるであろう卑猥な言葉の数々。サラサラした亜麻色の髪と長い睫毛に囲まれた大きな瞳を煌かせて、顔だけ見ているとどこかで誰かが吹き替えでもしていて、これはいわゆるドッキリかとまで疑いたくなる。
 これを薪に憧れている脇田の部下たちが聞いたら、外見とのあまりのギャップに、泣いて転げまわるに違いない。曲がりなりにも脇田は課長だから薪との付き合いも深いが、部下たちはロクに口を利いたこともないのだ。薪の真実を知るものは少ない。

「じゃあ、なんで」
 脇田が不発の理由を聞くと、薪は眉尻を下げて、亜麻色の瞳に果てしない困惑を浮かべた。
 幼げな美貌の彼にワイシャツ一枚の姿でそんな表情をされると、ガチンコノーマルの脇田でさえ、ちょっとクる。ここにうちのバカどもがいたら大変な騒ぎになるな、と想像して、脇田はその場に座り込みたくなるような脱力感を覚えた。

「一緒に見てた部下が、突然ヘンなこと言い出して」
 プライベートの薪と一緒にこんなものを見る可能性がある彼の部下というと、心当たりはふたり。副室長の岡部と、第九最年少の青木だ。しかし、岡部はこういうものにあまり興味がないから、おそらくは青木のほうだ。
「女の好みにケチでもつけられたか?」
「そうじゃなくて。見てるうちに、あの娘の××××で××××してもらえたら堪んないだろうな、って思ったら×××が××××しちゃいまして」
 まあ、正常な男ならそうなるだろう。しかし、薪を胸のない女性(どうやったらそんな思い込みができるのか、脇田には良く分からない)と信じて疑わない部下たちが聞いたら、その記憶を消去しようと、壁に頭を打ち付けるものが後を絶たないだろう。
「××××しちゃったものは仕方ないから、××××しに席を外そうとしたら」
 部下たちが聞いたら、以下略。
「……お手伝いしましょうか、って」
 淀みなく放送禁止用語を連発していた薪が口ごもり、躊躇しつつ言ったのは、『お手伝い』という子供でも知っている言葉だった。

「まさかと思うけど、あいつ」
 綺麗な横顔に浮かんだ嫌悪感と疑惑を、それを向けられたであろう男のことを思って、脇田は胸を痛める。
 青木のことは脇田も知っている。岡部が特別研修に行っている間、柔道の個人レッスンを頼まれていた。とても熱心で、素直ないい若者だった。キャリア組でありながら何故武道に情熱を注ぐのか、と本人に尋ねたところ、意外な答えが返ってきた。

『室長を守りたい』

 きっぱりと言い切った青木の黒い瞳は、夢を追いかける子供のように純粋に輝いて、そこまで慕われているこいつの上司は幸せだと思うと同時に、それだけではないだろう、という邪推もあった。それは薪の容姿に寄与する部分もあったし、薪のことを語る青木の口調の熱っぽさにもよった。
 だから脇田は、好ましい若者の窮地を救うべく、彼に助け舟を出す。あんなに薪のことを思っている彼が、それだけの理由で遠ざけられるのはあまりにも可哀想だ。

「薪、そいつはお前さんのカンチガイだ」
「カンチガイ?」
 小鳥のように小首をかしげた仕草に、脇田は青木が哀れになる。この男はこうして、自分でも意識しないうちに相手をその気にさせてしまう媚態を持っている。脇田のように年も経験も重ねた男には効力は薄いが、若い部下たちにとっては覿面だろう。それを公私に渡り見せられている青木にいたっては、もはや中毒症状を呈しているに違いない。

「体育会系の部活ではな、そういう『お手伝い』は珍しいことじゃねえんだ」
「えっ!!?」
「先輩がエロ本眺めてる間、後輩が手○○するわけよ」
「そうなんですか!?」
 眼と口を大きく開いて、薪は純粋に驚いている。ヒネクレ者との評判が高い薪だが、本来は素直で正直な男だ。被疑者の取調べ以外で、他人の言葉をまず疑ってかかる、などということはしない。
「おうよ。だからって、そいつらが全員ホモってわけじゃねえぞ。そこには先輩を尊敬する気持ちがあってだな、謂わば奉仕の心ってわけよ」
「へえ。そんな慣習があるんですか。知りませんでした」
 これが捜査に関することなら、もっと慎重に脇田の言葉を検証するだろう。しかし、今はオフタイム。オフの彼ほど騙しやすい男を、脇田は知らない。

「悪いことしたな……謝らなきゃ」
 こそっと口中で洩らした呟き声を拾って、脇田は自分の首尾に満足する。他人ができるのはここまでだ。
「お前さんのこと、よっぽど想ってるんだろうよ。いい部下持って幸せだな、薪」
 脇田が止めの一言を添えると、薪は気恥ずかしそうに頬を染めて、
「脇田課長。教えていただいて、ありがとうございました。ビデオの件と合わせて、今度一杯奢らせてください」
「いいってことよ。ビデオはもともと、こないだの礼だしな」
 酒のお誘いは嬉しいが、薪とふたりで飲みに行ったりしたら5課内でストライキが起こる。社会的な破滅と酒を天秤にかければ、脇田には当然仕事の方が重い。しかし、相手の好意を断るのも申し訳ない。

「でも、せっかくだしな。お前さんにその気があるんなら、どうだい。今、この場に座ってみちゃくれねえか」
 訝しがる様子もなく、薪は脇田の言に従い、床に腰を下ろした。薪は本当に面白いやつだ。仕事中はあんなに厳格で、自分の部下にさえつけいる隙を見せないくせに。プライベートになった途端、薪のガードは薄くなる。特に自分の味方だと思っている人間に対しては、無条件に相手を信じる傾向がある。
「正座して、ケツっぺた床に落として……そうそう。でもって、眼だけ上見て、ちょっと涙ぐんでみてくれ。あ、ワイシャツのボタンはもう一つ外してな」
「こうですか?」
 涙ぐめだのボタンを外せだの、どう聞いてもおかしなセリフだが、プライベートになった途端、薪のガードは、以下略。

 臙脂色のネクタイをタイピンで止めて、ジャケットを右手に持つと、脇田はにやりと笑った。
「よーし、OKだ。これで今追ってるヤマも、カタがつきそうだぜ。ありがとうな、薪」
「???」

 狐につままれたみたいな顔をしている薪に軽く手を上げて、脇田は彼に背を向けた。部屋にいた連中が、着替え途中のみっともない格好のまま部屋の隅に一塊になっているのに失笑しつつ、更衣室を出る。
 脇田が自分の部署に帰ると、長い膠着状態に疲弊している部下たちが、重い空気の中で腹ごしらえをしていた。もちろん、脇田の分も机の上に置いてある。ペットボトルのお茶が汗をかいていないところを見ると、用意されていくらも経っていない。これは美味そうだ。
 揚げ物の香ばしい匂いに食欲を刺激されつつも、脇田のいかつい手が最初につかんだのは、机の上に置かれた自分の分の弁当ではなく、PCのマウスだった。
 職業柄、常にタイピンに仕込んである超小型カメラで写したばかりの映像データを、PCに伝送する。画面を開き、目的のファイルに範囲指定をかけて印刷する。全体像の3分の1がA3サイズの紙面に現れ、プリンターから吐き出された。

「野郎ども、これを見ろ!」
「「「「「「「おおおおお!?」」」」」」」
 短い髪をさらりと左に流し、大きな亜麻色の瞳を潤ませてこちらを見ている美女。白いシャツのボタンは大胆に外され、白く眩しい胸元が見えかかっている。正にそこで画像は途切れ、いやでも男たちの妄想を掻き立てた。

「ああ、室長、ダメッす。そんなうるんだ瞳で見つめられたら」「このくちびるが俺を狂わせる」「鎖骨がきれいすぎる」「この肌に触れたら、死んでもいい」
 
 写真に群がって口々に被写体への賛辞を述べる部下たちを見て、脇田はどうしようもない虚脱感を味わう。それは自分の計画通りの展開だったのだが、何もここまでハマらなくたって。いつの間に5課は、あいつのファンクラブになったんだ。マトモなやつは残ってないのか。こないだのスナック潜入捜査の折、やつのチャイナドレス姿を見て拍車が掛かったらしいが、嘆かわしい限りだ。

「課長! どうしたんですか、この写真!」
「おまえらが捜査に行き詰まり、疲れていると話をしたら、室長が『みなさんを元気付けて差し上げたい』と仰ってな。自らこの写真を」
「なんてやさしい人だ。やっぱりあのひとは俺たちの女神だ……!!」
 うん。それは思想の自由というやつだな。
「今現在、俺に送られてきている映像はここまでだが、実はこの全体像もあるらしい。事件が解決した暁には、それを贈ると言ってくださってる」
「ぜ、全体像?」
「ワイシャツのボタンをここまで外してくれてるだけでも、充分刺激的なのに」
「も、もしかして、胸の谷間とか」
 
 自分の部下たちがいつになったら薪の性別を正しく把握するのか、という命題は棚上げにして、脇田は課長としての職務を全うする。つまり、部下たちのやる気を引き出すことだ。

「ちなみに、ワイシャツの下は裸だそうだ」
「「「「「「「「「いよっしゃーーー!!!!」」」」」」」」

 警視庁全体を揺るがすかと思われるような野太い咆哮が響き、脇田は思わず耳を塞いだ。横を見ると、窓ガラスにヒビが入っている。……老朽化してたんだな、きっと。

「よし! 5課の根性を見せてやろうぜ!!」(何としても室長の写真が見たい)
「××町のスナック、もう一度聞き込み行くぞ!」(できれば室長の声も聞きたい)
「罪状なんか何でもいいから引っ張って来い! 命に代えても吐かせてみせる!!」(実物を見れたら死んでもいい!)
 仕事意欲満々の部下たちのセリフに被る、この副音声はどこから聞こえてくるのだろう。

「おまえら、テンション上げすぎだろ……」
 野郎の裸ワイシャツでこんなに盛り上がれるなんて、うちのバカどもはまったく。
 
 ぼやきながら自分のPC画面を見て、脇田は部下たちが命を懸けてまで見たいと熱望する薪の全体像を眺める。うるんだ瞳に長い睫毛に小さく開かれた口元。左にかしげた華奢な首の細さと白さと、襟元から覗く鎖骨のむしゃぶりつきたくなるような色っぽ……いやいや、これは男だ、自分と同じ野郎の写真だ。
 白いワイシャツの裾から伸びた魅惑的な太腿。程よく肉がついて、すべすべしてて柔らかそうで。なんて綺麗な足だ、こんなの見たことねえ。可愛らしく内股座りになって、恥じらうようにワイシャツの合わせを両手でつかんで。膝がかわいい、めっちゃかわいい。くるぶしがそそる、めっちゃエロい。

「…………やべえ」
 ぼそりと呟き、脇田はファイルを閉じた。



*****

 一度は書いてみたかった、薪さんの裸ワイシャツ♪♪
 絶対にかわいいと思うの、きれいだと思うの、売れると思うの。(え)

 あ、それと、余談ですが、
 こちらの薪さんはうちの薪さんなので、原作に合わせてません。 一応の区別として、髪の分け目が逆です。 (原作の薪さんは、前髪を右に流してますよね)
 男爵シリーズはあまりにも原作との乖離が大きいので、(←本編と変わらんとか言わないでください) 
 良心の呵責から、 (←おまえにそんなものがあったのかとか言わないでください)
 明確な違いを作ってみました。
 だから、読んでも怒っちゃいやん☆


 6/23 追記

 こちらの話に出てくる裸ワイシャツの薪さんのイラストを、『晴れときどき秘密』のみひろさんが描いてくださいましたーー!!

 こちらから見られます。 ぜひどうぞ → 裸ワイシャツ薪さん


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天国と地獄5 (3)

 こんにちは。

 超久しぶりに、小説カテゴリの作品を書いてます。
 やっと落ち着いてきましたのでね、少々ぎこちなくはありますが、ストーリーを組み立ててみました。
 
 今まではリハビリ代わりに、雑文ばっかり書いてました。 (雑文は、きちんとした主題がないお話です。 事件も起こらず、あおまきさんの関係に進展もなく、気付きもなく目覚めもなく、「それがどうしたの?」ってカンジの話。 けっこう書いてるんですけど、つまんないので公開しません)
 小説を書くのは震災以降初めてなのですが、とってもとっても楽しいです♪ 
 ストーリーがあるから筆が止まらないし、薪さんを追い詰めるのは萌えるし。<オイ。
 やっぱり、雑文よりも小説の方が、書くのは楽しい♪


 で、現在公開中のこちらですが。
 途中になってたんでしたね、すみませんでした。(^^;
 コメのお返事も見事に遅れまして、申し訳ありません~~! 近日中に必ず!!
 忘れてたわけじゃないんですけど、なかなかあっちの世界から帰ってこれなくて~~~。 (←誰にも理解してもらえない言い訳)

 それにしても、男爵は平和でいいねえ。 本編はしっちゃかめっちゃかになってるよ~。 ああ、楽しいな~、どうやってまとめようかな~。 (←あっという間に意識が向こう側へ……!!)

 男爵シリーズその5は、これでおしまいです。
 その6で一応、あおまきさん成立になってます。 (あれを成ったと言ってよいものかどうか)
 お楽しみに~♪





天国と地獄5 (3)




「青木、あとどれくらい掛かりそうだ?」
 帰ったと思った薪が研究室に戻ってきて、にっこり笑って青木に声をかけたとき、青木は何か不思議な力が働いて、1週間ほど時間が巻き戻されたのかと思った。

 先週の日曜日、薪のマンションを追い出されてから、薪はずっと口を利いてくれなかった。プライベートは仕事に持ち込まない人だから、職務は滞りなくこなしていたが、常に無表情に室長の仮面をつけて、青木から仕事以外の話題が出ることを避けていた。
 自分が致命的な失敗をしたという自覚があった青木は、薪の信用を取り戻すため、いつも以上に熱心に仕事に打ち込んでいたのだが、その努力も虚しく、仕事以外では目も合わせてくれない日々が続いていたのだ。それが急に、どうしたのだろう。

「いいえ、これは急ぎの仕事ではないので。何か仕事があれば、そちらを優先します」
「急がなくていいんだな? じゃあ、一緒に夕飯食べないか?」
「えっ」
 驚きと共に、青木は椅子から立ち上がった。
 何があったのか知らないが、薪の機嫌が直っている。自分の努力を認めてくれたのか、と思いかけるが、そうではないだろう。

「何がいい? おまえの好きなもの、なんでも奢ってやるぞ」
 ここであなたが食べたいです、って言ったら、怒られるだろうな。反省してないのか、って殴られるかも、ってそんなアホなことを考えている場合じゃなくて。
 突然の状況変化についていけない青木が何も喋れないでいると、薪は自分から謝罪と和解を切り出してきた。

「こないだは悪かった、おまえの気も知らずに。おまえがあの時、どんな気持ちで僕を手伝うって言ったのか、脇田課長に教えてもらったんだ」
 脇田課長が?
 もしかして、自分が薪に恋をしていることを見抜いて、薪に気持ちを伝えてくれたのか?
 いや、それはないだろう。あんなに深い信頼関係にある岡部から言ってもらってもダメだったのに、課長同士の付き合いくらいしかない脇田の言葉の方が正確に伝わるなんてこと、あるわけが……。
 待てよ、身近な岡部や青木当人から言われるよりも、第三者的な立場にある脇田の言の方が、聞かされる身には重いのかもしれない。利害関係が何も絡まない脇田が冷静に観察した結果、青木の恋心に気づいたのなら、それは本物だと考えてくれたのかも。

「おまえの気持ちは、すごく嬉しかった。ありがとう」
 呆然と、青木はその場に立ち尽くした。

 やっと……やっと伝わった。長かった、ここまでものすごく長い道のりだった。ようやく薪が、自分の本当の気持ちに気付いてくれた。その上、とても嬉しいと言ってくれた。
 じわじわと、喜びが心の奥底から湧き上がってくる。言葉の通り、薪はとてもうれしそうな顔をしている。
 決めるならここだ、彼を抱きしめて愛してます、と言うのだ。

「僕、学生の頃、部活動やってなかったから。そんな慣習のことなんか、ちっとも知らなくて。そこまで部下に想われるなんて、って脇田課長に羨ましがられちゃってさ。ちょっと照れくさかったけど、本当に嬉しかったんだ」
 伸ばしかけた手が止まる。
 部活動ってなに? ……なんか、いやな予感がするんですけど。

「尊敬する先輩に対する奉仕の心なんだってな」
 奉仕の心? なに? その安手のヒューマンドラマみたいな劣情の昇華方法は。
「おまえがそんなに僕を尊敬してくれてたなんて。ちょっと感動した」
 あああ、やっぱり!!
「おまえにはいやらしい気持ちなんか、これっぽっちも無かったのに」
 ありましたよ!! てか、そのことしか考えてませんでしたよ!
「ごめんな、ヘンな誤解しちゃって」
 薪さん、文法違います。過去形じゃなくて、現在進行形です。今まさに誤解してる最中です。
「あるわけないよな。僕もおまえも男だもんな」
 ……結局そこに落ちるんですね……。

 同性間の恋愛は成り立たない、という薪の固定観念がますます堅固になってしまった。これじゃこの先なにをやっても、奉仕としか受け取ってもらえなくなるかもしれない。ただでさえ鈍くって伝わりにくい相手なのに、どうしてくれるんだ、あの鬼瓦!
 怒髪天を突く勢いの脇田に対する青木の怒りは、しかし次の瞬間失せた。
「おまえは大事な友だちだし、こんなことで失いたくなかったから」

 そう言って、薪はびっくりするくらい明るく笑った。どんな形にせよ、脇田が彼のわだかまりを解いてくれたから、青木はこの笑顔を見ることができたのだ。
 そんなふうに、屈託無く笑う愛しいひとの姿を見れば、このまま自分の気持ちを知らずにいたほうがこの人は幸せなのかもしれない、などと切ない考えまで浮かんできて、青木は思わず泣き出しそうになる。
 だけど薪が笑ってくれるのは、やっぱりどうしようもないくらい嬉しくて、彼の笑顔を守るためなら自分の恋心でさえどうでもいいもののように思えてきて。
 
 絶対にこの笑顔を失いたくない、曇らせたくない。
 彼の笑顔よりも価値あるものなどこの世にないと思うなら、友だちを失いたくない、という彼の言葉に自分は喜んで従おう。

「薪さんの作ったオムライスが食べたいです」
「よし、じゃあ帰りにスーパーだな」
 広げた資料の片付けに、薪が手を貸してくれる。青木の半分くらいしかない手は、青木の倍の速度で動いて、それは薪の優れた動体視力のなせる技。さらには、一瞬で資料の内容を理解する頭脳があってこそのスピードだ。
セキュリティをかけて、研究室を出る。エントランスへの長い廊下で、ふたりはいつもの下らなくて楽しい無駄話に興じる。

「オムライスの材料は鶏肉と玉ねぎと……人参、たっぷり入れてやるからな」
「えええ~~」
 久しぶりに薪の意地悪そうな声を聞いて、それに自分の心が浮き立つのを感じる。優しい言葉を掛けてもらえるならともかく、意地悪されて嬉しくなるなんて、末期症状だな、と自分でも思う。
「遠慮するな。おまえの大好きな人参スティック、たくさん食わしてやるから」
「パワハラじゃないですか、それ」
「失礼な。人参はビタミンAの宝庫なんだぞ。僕はおまえの健康を考えてだな」
「よく言いますよ。いつも無理矢理口に押し込むくせに」

 ぶちぶちと文句をつける青木を見て、薪が楽しそうに笑う。
 彼が笑ってくれるならこのままでもいいかな、と青木は思う。
 現状維持というぬるま湯の中にどっぷりと浸かりつつ、青木は自分に向けられた薪の笑顔を大脳に焼き付けた。


(おしまい)




(2010.7)


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天国と地獄6 (1)

 こんにちは~。

 昨日、当ブログは2周年を迎えました!
 管理人がどれだけSに走ろうと、ギャグで薪さんのイメージを壊そうと、(←自重しようね) お見限りなく訪問してくださるみなさまのおかげです。 心から御礼申し上げます。
 どうか、これからもよろしくお願いします。

 なんて、しおらしく言ってますけどこの女、
 昨日、Mさまからコメントいただかなかったら気付かなかっ……すみませんーー!
 SSにかまけるのも大概にしないと、人間としての基本を失くしてしまいます。(2周年のお礼も申し上げないなんて!)
 これから気をつけますっ!!
 

 ブログの方も、すっかり更新が空いてしまいまして、15日の時点で3個目の記事って、仕事が暇なこの時期にはあり得ない数字っすね☆
 わたしの場合、書き溜めたものを公開しているだけなので、続きが書けなくて更新が空くことはなくて、つまり、間が空くときは只の怠ky……すみません……。
 なんか今日は、謝ってばっかりだわ☆★☆


 はい、こちらで男爵シリーズ、一旦終了です。
 その7には鈴木さんが出てくるので、お盆に公開したいと思います。
 よろしくお願いします。


 

天国と地獄6 (1)




 蒸し暑い夏の夜というのは、それだけでビールの味を高めるものだ。喉越しのよさと爽快感、身体に染み渡る苦味。そのすべてが大人を魅了して止まない。
 第九研究室の飲み会が行われたのは、そんな夜だった。 
 重大事件を解決し、所長から特別報奨が出たぞ、と室長が告げた次の瞬間、曽我が居酒屋をネット検索していた。小池が袋を持って会費を徴収し始めた。第九メンズは仕事も早いが、遊びの段取りも早い。

「室長はどうされますか?」
 薪は役職柄時間外の仕事が多い。飲み会は大好きなのだが、なかなか参加できないのが実情だ。が、その日は運よくフリーだったらしい。小池が差し出した袋に報奨金と他の職員の会費の2倍の額を入れると、「僕が行かなきゃ始まらないだろ」と高慢に笑って見せた。

「曽我、薪さん来るって! フグ刺しのある店探せ!」
「やった! じゃ、ジャンルを高級海鮮に変えて」
「居酒屋じゃなくて、いっそのこと寿司屋にするか?」
「ちょっ、ちょっと待て。僕今月新しいPC買っちゃって、クレジットカードの限度枠がいっぱいで」
 盛り上がった室内が静まり、一斉に薪を見る。その期待に満ちた瞳。

「……カードはもう一枚あるから」
「さすが薪さん、太っ腹!」
「男の中の男っ」
「カッコイイ上司を持って、俺たち幸せです」
「男の中の男……カッコイイ上司……よし、今日は『一乃房』に繰り出すぞ!」
「「「「やった――――っ!!」」」」
 たった3つのセリフで、いつもの居酒屋が寿司屋になった。残高254円の警視正キャリアの通帳は、こうして作られるのだった。


*****


 宴会が始まって1時間後。
 何杯ものジョッキが空になり、宴もたけなわと言ったところ。

「曽我孝から始まるっ! 古今東西!」
「「「「イエーッ!!」」」」

 いきなり立ち上がった曽我が右手に持った箸をタクトのように振って、皆の喚起を煽る。お祭り好きのメンバーは、直ぐにそれに乗って声を張り上げた。
 こういう宴席において一番に座を盛り上げるのは、やっぱりムードメーカーの曽我だ。第九の宴会部長の名は伊達ではない。
 本来ならこれは一番年下の青木の役目なのだが、青木は曽我のように自分が騒いで場を盛り上げる性格ではない。細やかな気配りで皆が気分よく過ごせるよう、卒なく宴席をまとめるほうだ。
 
 掛け声の後に続く手拍子。リズムに合わせて曽我は、元気良くテーマを発表した。
「巷で噂になってる室長の恋人!」
「えっ!?」
 上座の席で岡部と差しで飲んでいた薪が、自分の名前に驚いてこちらを振り返る。目元がうっすらと桜色に染まっているほかは何の変化もない、いつものきれいな顔。職務中とは打って変わって穏やかに開かれた彼の眉目を見て、青木はとても幸せな気分になる。
 凪いだ春の海のように和んだ青木の気分を破って、悪ふざけ100%の題目に答える同僚の声が響いた。

「小野田官房長!」(小池の答え)
「ち、ちがう! あれは小野田さんの冗談だから!」
「中園参事官」(今井の答え)
「いや、あのひとは男の子好きだけど、ターゲットは20代前半までだって」(←既にアラフォー)
「捜一の竹内さんですとか」(山本の答え)
「なんでだ!?」
「えーっと、後はええと、間宮警務部長!」(宇野の答え)
「殺すぞ!! てか、どうして全員男なんだっ!!」
「……じゃあ、三好先生」(青木の答え)
「「「「「ダウトオッッ!!!」」」」」
「なんでっ!?」

 全員の突っ込みに声を荒げる薪を横目で見ながら、青木は敗北の証に両手を挙げた。
 まあ、そうだと思ったが。薪まで順番を回すよりは、自分が罰ゲームを受けた方がいいだろう、と考えたまでだ。こういう席での罰ゲームは決まっている。中ジョッキの一気飲みだ。薪だって飲めないことはないだろうが、あまりビールが好きでない彼には可哀想だ。

「罰ゲームは何にしようかな~~」
 え? 一気飲みじゃないの?
「そうだなあ。室長のほっぺにキスってのは?」
 !!! ナイス、宇野さんっ!
「宇野、それヤバすぎ! 命かかってる!」
 ……確かに五体満足の保証はない。

 人事だと思って次々に突拍子もないことを言い始める先輩たちに苦笑し、青木はジョッキを傾ける。身体に合わせて肝臓も大きい青木は、これぐらいの酒では素面と変わりない。

「青木! なんで雪子さんがダウトなんだ!」
「は? いや、ダウトを叫んだのはオレじゃなくて」
「あんなステキな女性、他にいないぞ?」
 畳の上を四足でさかさかと近付いてきた薪の亜麻色の瞳を見て、青木は初めて薪の今の状態を知る。
 まずい。べろんべろんに酔っ払ってる。でも、まだビールしか飲んでないはずなのに何故、と思ったらテーブルの下に吟醸酒の4号瓶が2本も! 岡部の身体に隠れて見えなかったらしい。

「薪さん、青木の罰ゲーム、キスでいいですか?」
「よし、僕が許す!」
 雪子さんにキスして来い、と青木にだけ聞こえるように耳元に顔を寄せ、小さな声で囁く。周りの皆は、てっきり薪が酒の座興に乗っかっていると思い込み、やんやと囃し立てた。
 頼みの綱の岡部を見ると、携帯に呼び出しが掛かったらしく、電話を手に持って部屋を出て行くところだった。

 困った、岡部以外に酔っ払った薪を宥められるものはいないのに、というか他の皆は面白がって薪の暴走を逆に煽るから性質が悪い。
 そして一番性質が悪いのは、やっぱりこのひとだ。
 身長差を埋めるため、薪は青木の膝の上に乗って首に腕を回し、右肩に顎を乗せている。薪は顔に酔いが出ない体質だから、真面目に青木に迫っているように見えるが実際は違う。酔っていて身体がだるいから、相手の耳元にくちびるを寄せようとすると、この体勢が一番楽なのだ。

 そのつややかなくちびるが何を言っているのかと思えば、キスに持っていくまでのムード作りや、どのタイミングで好きだと言えば女が落ちるのかとか、青木にはまるで必要のないアドバイスだったりするのだが、言葉の内容はともかく、薪とこれだけ接近して耳元で囁かれるというシチュエーションは充分に青木を興奮させる。ふたりきりでいるときだって、こんなに密着したことはない。
 折りしも季節は夏の盛り。薪は当然ワイシャツ一枚の姿で、アルコールのせいで普段より高い体温が薄い布を通して伝わってくる。耳に掛かる薪の吐息は、どんな美酒よりも甘く。場所もわきまえずに青木は、フルーティな吟醸酒の香りに酔い、彼の香りに酩酊する。

「なんだおまえ、キスくらいで真っ赤になって。男がそんなことでどうする」
「薪さん、見本見せてくださいよっ」
「よぉし! 僕に任せとけ!」
 ノリにノッた先輩と上司が、馬鹿なことを言っている。と思ったら、薪の小さな両手が青木の頬を強く挟んで。
 気付いたときには長い睫毛が目の前にあった。


*****


 携帯電話に届いたメールは、母親からのものだった。
『お帰りは何時ごろになりそうですか? できれば猫の餌を買ってきてください』
 まったく、仕方のないひとだ。今日は祝賀会で遅くなるから先に休んでくださいと連絡を入れておいたはず。それなのにこの文面を見ると、起きて待っている気マンマンだ。

「帰宅時間は未定。猫の餌は調達します。早く寝なさい、睡眠不足は美容の敵ですよ。あなたの目の下にクマができたら、俺は悲しいです」とメールを返して岡部は苦笑する。
 今の岡部の顔を同僚が見たら、きっとびっくりするだろう。東の鬼瓦と称されるコワモテ刑事の代表格、岡部靖文警部のこんな穏やかな微笑など、同僚たちには想像もつかないはずだ。

 廊下を歩いて中座した宴会場に戻り、いくらか気を引き締めて襖を開けて、しかし岡部はその直後、あんぐりと口を開けてその場に立ち尽くす羽目になった。
 
 畳の上に胡坐をかいた青木の膝に乗って、薪が青木の唇にキスしている。二人の唇はすぐに離れ、「雪子さんにキスなんかさせるか、バーカ」というわけの分からない言葉を呟いて、薪はくにゃりと青木の胸に倒れこんだ。そのまま青木の腕の中で、安らかな寝息を立て始める。
 何がどうしてこういうことになったのかさっぱり分からなかったが、とにかくこれが薪にとってマズイ状況だということは理解できた。そして、青木にとっても。

「……オレ、もー、死んでもいいデス……」
 しっかりしろっ、人生終わるぞ青木!

 二人を取り巻いた同僚たちの間には白くて微妙な空気が漂い、ぽかんと口を開けた曽我と小池、不自然な体勢のまま固まっている山本と今井の横で、何故か一人だけ平然とビールを飲んでいる宇野の姿があった。
 柱時計の秒針がカチコチと響く中、やがてポツリと宴会部長の声が。

「曽我孝から始まる古今東西……薪さんの本当の恋人……」
「「「「「…………青木?」」」」」
 ダウトだっ!!



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天国と地獄6 (2)

天国と地獄6 (2)




「僕が? 青木とキス? まさか」

 岡部の前で美濃部焼きのぐい飲みを傾けながら薪は、笑えない冗談はやめろ、とばかりに細い手をひらひらと振った。
 狂乱の一夜が明けて、一人残らず重度の二日酔いに悩まされても、3日も経てばその辛さを忘れる。人間の脳は、目先の快楽に弱くできているのだ。
 そんな都合のいい脳に踊らされて、今日はいつものように薪と二人、馴染みの小料理屋で静かに杯を傾けている岡部である。

「いくら酔ってたとはいえ、僕がそんなことするわけないだろ」
「第九の全員が証人ですよ」
 薪に先日の出来事を事実として認識させようと、岡部はできるだけ重い口調で言った。
「薪さん。そろそろ自覚されたらどうですか?」
 いくら酔っていたとはいえ、好きでもない相手にキスはしない。相手が女の子ならともかく、男相手にはしない。普通の男なら絶対にしない。
 薪は普通の男だ。だから、あのキスは座興のノリではなくて、きっとこういうことだ。
「昨日のあなたの行動は、酔って制御を失って、いつもは抑制していた感情が表面に表れたとしか」
「分かってるさ、自分のことくらい。おまえに言われなくても」
 岡部が薪の行動に説明をつけようとすると、薪はぱっと頬を赤らめて、恥ずかしそうに横を向いた。

 この反応は、もしかして。
 薪は、自分の中に芽生えた青木への気持ちを認めたのか。

 事前に打ち明けてはもらえなかったことは残念だが、薪が自分の恋情に気付いたのは嬉しい限りだ。青木がどんなにか喜ぶことだろう。
 恋に一途な後輩の喜びに輝く笑顔を想像して岡部は、自分でも驚くほど優しい気持ちになり、早くそれが現実のものになることを願う。
「そうですか。じゃあ、早いとこ青木のやつに伝えてやったほうがいいですよ」
「……いやだ」
 くちびるを尖らせてぼそりと呟く、そんな薪の様子を見れば彼の恥じらいは嫌でも伝わってきて。12歳も年下の自分の部下を好きになってしまったなんて、それは確かに薪にとっては他人にも相手にも知られたくないことだと察せられるが、ほんの少しの勇気で幸せになれる人間が二人、確実に増えるのだ。ここは自分が薪の背中を押してやらなくては。

「照れくさいのは分かりますが、青木もあなたと同じ気持ちでいると思いますから」
「まあ、そうだろうな。あいつも女には縁がなさそうだし」
「そうですとも。……はあ?」
 なんだか、微妙なニュアンスの違いを感じる。女に縁がない、つまり、薪は青木のことをゲイだと思っているのだろうか。青木は女を愛せないのではなく、薪のことが好きでたまらないだけなのだが。

「昔、特別承認を受けたとき監察に引っかかっちゃってさ。その時は厳重注意で済んだけど、それからそういう店に出入りできなくなっちゃって。だから何年もご無沙汰でさ」
 遠くの空に暗雲が見えたような気がして、岡部は顔を引き締める。忌まわしい黒雲からはバチバチと電気のはぜる音がして、それが地表に落ちてくるときには必ずと言っていいくらい、岡部を虚脱状態に陥らせるのだ。

「欲求不満が高じて、酔ったはずみにそんなことをしちゃったんだな」
 ほーら、落ちてきた落ちてきた。予想はしてたけど、あー、タルイ。

「青木には悪いことした。男にキスなんかされて、凹んでるだろうな。謝らなきゃ」
「いや、止めたほうがいいです。薪さんに謝られたら、一気に凹みます」
 宴席の戯言とはいえ、薪にキスしてもらえたのが嬉しくて地に足が着いていない状態の青木に薪の今のセリフを聞かせたら、地球のコアまで落ちていきそうだ。
「だよな、思い出すのも苦痛だろうな。そっとしておいた方がいいか」
 真面目に青木の身を案じる薪の様子を見て、岡部は何とかして薪に自分の本心を悟らせたいと思う。青木は薪のことが大好きで、薪だって自覚はないけど彼のことが好きで、だったらこのままでいい訳がない。それに、酒宴の席のこととはいえキスまでしておいて進展ゼロなんて、いくらなんでも青木が可哀相だ。

「そうじゃなくてですね、青木は薪さんのことを」
「よく覚えてないけど、いよいよ末期症状だな。きっとそのときは、青木が女の子に見えたんだろうな」
 あ、なんか一気に虚脱感が……青木の巨体が女に見えるようだったら、それは完全に脳の病気だと思いますけど。
「でも僕はもう、そういうことしないって決めてるし。仕方ない、また脇田課長に頼むか」
 薪はさっさと液晶画面の向こう側の恋人の算段をすると、携帯電話を取り出して、5課の課長に連絡を取った。

「すみません、脇田課長。明日、あのビデオ貸してもらえます? そうそう、僕好みの可愛い女の子が色んな男に×××されちゃうやつ。え、もっとスゴイのがある? ……え! そんなことまで、しかも電車の中で?!」
 ああ……そんな目的でも薪さんの瞳はキラキラと子供のように輝くんですね。途中から正座して、きちんと背筋を伸ばして会話をされているのはどういう心理状態なんですか……?
「い、今から借りに行ってもいいですか?」
 涙出てきた……。
「じゃあな、岡部!僕、急用ができたから!!」
 …………すまん、青木。不甲斐ない先輩を許してくれ。



*****



 翌日、出勤してきた室長の顔を見て、岡部は思わずその場に膝を付きそうになった。
 目は赤く、腫れぼったく、頬は心なしか削げて青い。朝シャワーを浴びる時間がなかったと見えて、いつもなら眩しいくらいにきらめく天使の輪が、徹夜明けの鈍い輝きになっている。
 彼の後を追って室長室へ入り、ミーティングにかこつけて、岡部は呆れた声で言った。

「薪さん……高校生じゃないんですから」
 脇田が貸してくれたビデオがどれだけ好みの内容だったか知らないが、何もこんなに憔悴するまでしなくたって。
「僕の寝不足の理由は、おまえが考えてるような単純なものじゃないぞ」
 不機嫌な声で返されて、岡部は改めて薪を見た。
 薪はとても難しい顔をしていた。何か仕事上のトラブルでも起きたのだろうか。
「何かあったんですか?」
「あったって言うか、できなかったって言うか」
「できなかった?」
「……岡部。僕、ちょっとおかしいのかも。医者に行ったほうがいいのかな」
 途切れ途切れの言葉と、薪の落ち込んだ様子から推察するに、どうやら昨夜、せっかく借りたビデオが役に立たなかったらしい。いや、役に立たなかったのは薪のほうか。

「そんな、医者なんて大袈裟な。よくあることでしょう」
「ええええっ!!??」
 驚きの声を上げながら薪は、慌てて自分の口を両手で押さえる。室長室のドアを見て、そこから誰も入ってこないのを確認すると、今度は声を潜めて、
「そ、そうなのか? 岡部にもそんな経験があるのか?」
 そんなに驚くことだろうか。40近い男なら、誰もが経験していることだと思うが。
「ありますよ、もちろん。あんまり人に言えた話じゃないですけどね」
 内容が内容だけに、岡部はさすがに照れて笑った。
「だけど、そんなに気にすることはないですよ。ちゃんと休養をとれば、すぐに元に戻りますから」
「そうか、そうなんだ。別に珍しい話じゃないのか」
 岡部が一般的な解決方法を述べると、薪はホッと安堵の表情を浮かべて、青白かった頬に僅かばかりの朱色を刷いた。この年になるまで役に立たなかった経験がないなんて、薪は外見も若いが、中身も若いらしい。しかし見かけによらないな、と岡部は思った。あまり浮いた話を聞かないから、てっきり淡白な人だと思っていた。

「よかった、安心した。×××するときに男のことなんか考えたの、生まれて初めてだったから」
「ええ、よくある話……はっ!?」
 今なんて!?
「そっかー。岡部も経験あるのかー」
 ないです! 断じて!!
「ちょ、ちょっと待ってください。男って、だれの」
 言いかけて岡部は、薪がそんな気分のときに思い浮かべる可能性のある男はこの世にひとりしかいないことに気付き、口を噤む。案の条、薪は恥ずかしそうに俯いて、相手の名前を躊躇いつつも口にした。

「だって青木が悪いんだ。こないだ一緒にAV見て、僕がそうなったときに『お手伝いしましょうか』なんて言うから。つい、想像しちゃって」
「そんな失礼なことを言ったんですか!? 青木のやつ」
 責める口調で言ってしまって、しかし岡部は直ぐに思いなおした。薪が自分の前でそんな状態になれば、青木も平静ではいられなかっただろう。その状況を我が身に当てはめてみれば岡部だって健康な男、青木の気持ちは痛いくらい解って、だから岡部は青木のことをフォローしようと彼の信用を回復するプレゼンテーションを必死で考える。そんな岡部の心中を知ってか知らずか、薪は自慢げに言った。

「なんだ、知らないのか、岡部。体育会系の部活動では、先輩の×××のお手伝いは当たり前のことなんだぞ」
 ……誰に教わったんですか、そんな三流BL本の中にも存在しないような常識。
「って、僕も脇田課長からの受け売りだけど」
 あの鬼瓦か。次の武闘大会で息の根止めてやる。しかし、どうしてこのひとって、事件以外のことだとこんなに簡単に騙されるんだろう。
「そんなことも厭わないくらい、僕のこと尊敬してくれてる証拠だって」
 なんだろう、涙が出てきた。薪も青木も、なんだかすごくカワイソウなひとに見える。
「そうか、よくある話か。あんなにかわいい娘が×××してるのに、全然その気にならなくて、なのに青木の『お手伝い』を想像したら急に……だから僕、異常なんじゃないかって不安になって。
 あーあ、悩んで損した。昨夜は一睡もできなくてさ。昨夜のうちに、おまえに相談すればよかった」
 そしたら俺も一睡もできなかったでしょうね……。

「ところで岡部」
 ふと気付いたように、薪は右手の拳を口元に持って行き、上目遣いのくりっとした瞳で岡部を見上げた。青木だったらここで宙を舞うんだろうな、と思いつつ、なんですか、と目で尋ねる。
「おまえが思い浮かべた男って誰?まさか僕じゃないよな?」
「……カンベンしてください……」
 今夜は一睡もできなくなりそうな岡部だった。




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天国と地獄6 (3)

 こんにちは。

 コメレスも更新も、滞ってすみません。 
 でも今回は怠けていたのではなくて、ある方の二次創作でダークなお話を読んだらがっつり落ちてしまいまして……虚無感と喪失感が半端なく、食欲不振と極度の不眠症に悩まされ、それ以外のことを考える余裕がなくて、管理画面に向かえませんでした。   
 どなたの、とは申しませんが、とりあえず、みちゅうさんは天才だと思う!!! (←言ってる。 しかも個人攻撃になってる? そんなつもりは~~(^^;)

 秘密の二次創作の多くは非常に文学的水準が高くて、それは時に原作の感動を超えるときすらある。 その感動をもって原作を読むと、さらに薪さんへの愛が深くなる。 原作に描かれない陰のエピソードや心理を想像して彼の人間性を補完する、それもひとつの愛し方だと思います。
 そんな風に、原作をより深く愛せるような素晴らしいお話を創り出してくれる二次創作者さんたちの作品を自由に楽しめる現在の自分の幸福を、しみじみと感じています。


(そして我が身を振り返る) 
 ……少しはマトモな話を書こうね、しづ!!! (←結果として墓穴になった)


 で、お話の続きです。
 ………………墓穴まっしぐら。(笑) 




天国と地獄6 (3)




 昼休み、中庭のベンチでお喋りに興じる男女の姿を見つけた。
 親しげに顔を寄せる二人は、どちらも薪の友人だ。ひとりは同い年の女性、もうひとりは一回りの年下の男。女性は白衣を着た監察医で、男の方は薪の部下だ。

 個人的に、このふたりが仲良くしてくれると薪はうれしい。
 一回り年下の部下は薪が誤って殺してしまった親友にとてもよく似ていて、その親友は彼女の恋人だったりして、だから彼らのこんな姿を見ると、亡くなった親友が帰って来たような気がして、彼女が再び幸せを取り戻してくれたかのような錯覚に陥って、薪は幸せな気分になるのだ。
 立ち木の陰からこっそりとふたりの様子を伺うと、青木は頬を紅潮させて、何事か雪子に話している。雪子はそれに応じて頷き、青木に負けないくらい嬉しそうで魅力的な微笑を見せる。
 よしよし、いい感じだぞ。青木、がんばれ、と薪は心の中で日の丸の付いた扇子を振ってふたりを応援した。

 その扇子を握る手首の返しが止まったのは、風に払われて落ちてきた紅葉の葉っぱが雪子の白衣の肩に止まり、それに気付いた青木が彼女の肩を抱くようにしてそれを取ってやったときだった。
 それは一瞬のことだったが、薪の目に鮮明に焼きついた。
 青木の大きな手が雪子の左肩を覆っていた。それほど密着していたわけではないが、薪の位置からだと青木が雪子を抱いているような構図だった。普段は自分よりも大きくて、威風堂々としている雪子が、青木の腕の中にいると、とても女の子らしく華奢に見えた。すごくお似合いだと思った。

 途端、のしっと胸が重くなった。
 息ができないような苦しさに見舞われた。

 これはあれだ、3人という数の友人関係にはよくあることだ。鈴木が生きてた頃にも、何回か味わった。自分に黙って他のふたりが仲良くしているのを知ったときの、あの淋しさだ。
 鈴木と雪子が恋愛関係にあることは承知していたから、そんな時には自分も同じ大学の彼女に連絡を取って楽しくやっていたのだが。あの頃と違って、今は相手もいないし。
 だから、こんなに胸が痛いのは、あの頃と比べ物にならないくらい痛いのは、きっとそのせいだ。間に飛び込んで行ってふたりを引き剥がしたい衝動に駆られるのは、モテない男の僻みだ。幸せそうな彼らをやっかんでいるだけだ。

 街でいちゃついてるカップルを見ても何とも思わないのに、それがあのふたりになると冷静でいられなくなる。その事実には目を背けて、ついでに現実の目も背けて、薪はその場を離れた。
 モヤモヤしたものが胸の辺りにわだかまって、これはなんなんだろうと懸命に考えるが、その答えはとうとう出なかった。


*****



「薪さん、この書類に判を」
 帰り際、明後日行なわれる予定の会議の出席者の欄に捺印をもらおうと室長室を訪れて、岡部は薪がまた朝の鬱状態に戻っていることに気付いた。

「どうしたんですか? また何か心配事ですか?」
「うん……僕、やっぱりおかしいのかな」
 岡部が差し出した書類に印を押しながら、薪はぼそぼそと呟いた。
「今朝のこと、まだ気にしてるんですか?」
 プライベートに何があっても、仕事中はポーカーフェイスを崩さない。それが薪のポリシーだ。私生活のゴタゴタは捜査に持ち込まない、どんな衝撃も彼の職務を乱さない。鈴木が死んだ直後でさえ、静かな熱意で淡々と職務をこなしていた薪を岡部は知っている。

「なんか、胸が苦しいんだ。病気なのかな」
「心臓ですか?」
 薪は何度かショックで気を失ったことがある。満足な食事も摂らずに激務をこなし続けていたせいで、心拍停止に陥ったこともあった。それからは気をつけていたのだが、やはり後遺症が残っていたのだろうか。
「狭心症の痛みじゃなくて。なんかこう、重苦しくて、ときどきチクっと刺す感じで」
「それは医者に行ったほうがいいですね。ちなみに、いつ頃から痛み始めたんですか?」
「今日の午後1時15分32秒から」
「……どうしてそんなに明確なんですか?」
「昼休みに、青木が雪子さんと一緒にいるのを見て、そしたらこうなった」

 それでこの複雑そうな憂い顔か。ふたりの姿に嫉妬を覚えて、ようやく自分の気持ちに気付いたというわけだ。当然だ、それで気付かなかったらただのバカだ。

「それは多分、医者に行っても治らないと思いますよ」
 頑なに信じていた男性同士の恋愛は成立しないという黄金ルールを自ら破ることになって、ショックを受けているであろう薪を気遣って、岡部はできるだけやさしく言った。
「僕、もしかして、自分でも知らないうちに好きになってたのかな」
 恋愛なんてそんなもんです。俺だって、いつの間にかあの女性から目を離せなくなってました、と岡部は心の中で薪の独白のような呟きに答える。

「ずっと友だちだと思ってたのに」
「友情が恋愛に変わるのは、良くあることです。それに、ご自分じゃ気付かれなかったみたいですけど、俺の眼から見るに、それらしき態度は以前から表れてましたよ」
「まさか。嘘だろ。僕自身、その可能性に気付いたのは今さっきだぞ?」
「いいえ。薪さんはよく熱っぽい目で、あいつをじっと見つめてましたよ」
「え! 僕、雪子さんをそんな目で見てたのか?」
 …………そっちか――――!!!

 さすが薪だ、自分のルールを曲げないためには自分の気持ちを誤魔化すことなんか簡単にやってのけるのか。
「そっか、以前から僕は雪子さんが好きだったのか。全然知らなかった」
 俺だって知りませんよ!
 てか、もうやだ、このひと! ただのバカじゃなくて、キングオブバカだっ!!

 耐え切れず、岡部はその場に膝を折った。朝は何とか我慢できたが、今度は限界を超えたようだ。
 もうダメだ、自分の気持ちには自分で気付くのが一番いいとか、男同士の恋愛には抵抗がある薪が他人からこんなことを言われたら傷つくだろうとか、そんな悠長なことを考慮している余裕はない。お節介かもしれないが、誰かがハッキリ言ってやらないと、このひとは自分の本心に永遠に気付かないかもしれない。
「ちがいますよ、薪さん。薪さんは、青木のことが好きなんですよ」
「ぶふっ! 何言い出すんだ、岡部。青木は男だぞ?」
 男というだけで恋愛対象から外れる、それは確かに普通の男の反応だけど、だからと言って普通の男が男に恋をしないことの保証にはならない。運命のイタズラとか神さまの気まぐれとか、この世界はそんなもので満ち溢れているのだから。

 岡部は立ち上がり、大きな執務机を挟んで薪と向かい合い、職務と同じ真剣さで彼に言った。
「想像してみてください。青木が三好先生とキスしてるところ」
「うっ。胸がイタイ、すっごくイタイ」
 わざとらしく胸の中心を押さえながら、大袈裟に顔を顰めてみせる。薪は冗談のつもりなのだろうが、岡部はもう、冗談に紛らせるつもりはない。
「じゃあ、今度は三好先生が鈴木さんとキスをしているところ。痛いですか?」
「いや。それは実際見たことあるし」
「次に青木が受付の美代ちゃんとキスしてるところ」
「ううっ、イタタ。……あれ?」
 ふと、薪は真顔になった。
 自分の胸に手を当てて、その痛みが本物であることを確認すると、しばし自失茫然として、
「…………なんで?」

「それはご自分で考えてください」
 岡部はニッと笑うと、整った書類を持って室長室を出て行こうとした。その背中に、薪の声が掛かる。
「だからって」
 足を止め、岡部は身体を半分だけ捻るようにして薪を見る。捜査に行き詰ったときのように、薪はデスクに両肘をついて拳を合わせ、その上にくちびるを当ててじっと空を睨んでいた。
「だからって、僕には何もできない。だって、雪子さんは青木のこと」

 薪の後ろ向きな発言を聞き、岡部は踵を返して部屋の中に向き直った。気弱に睫毛を伏せた上司に、先刻第九で仕入れたばかりの情報を提示してやる。
「あれ、知らなかったんですか? 三好先生、法一の上司にプロポーズされたみたいですよ」
「えっ!?」
 この話を誰も薪にしなかったのは、決して仲間外れにしたのではなく、薪に対する思いやりだ。薪は彼女の親友を自負している。それなのに、彼女に関する重要な情報を部下に教えてもらうなんて、薪が傷つくと思ったからだ。

「多分結婚することになるだろうって。青木が今日の昼、本人から聞いたそうです」
 雪子が薪に直接話をせず、青木経由で知らせようとした理由も、岡部には何となく解る。薪はこれまで、青木を含む十人以上の知り合いを婿候補として雪子に紹介している。その中の誰でもなく、別の人を選ぶことになってしまって、いくら親友といえども引け目を感じたのだろう。

「大変じゃないか、青木のやつ。それでどうしたんだ?」
「どうもしませんよ。青木の思い人は他にいますから」
「……だれだ?」
 さすが薪さん。この期に及んで、それを訊きますか。

「本人に聞いてくださいよ!」
 笑いながら言って、岡部は室長室のドアを閉めた。




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天国と地獄6 (4)

天国と地獄6 (4)





 金曜日の夜、薪の自宅で行なわれる定例会に、岡部は出席しなかった。
 母親と約束がある、とのことだったが、もしかしたらそれは嘘かもしれない。薪に不参加の理由を述べたあと岡部は、「今夜が勝負だぞ」と小さな声で青木に言った。「思い切ってぶつかってみろ」と囁かれて、青木は不思議そうに首を傾げた。
 週末の夜をふたりで過ごすなんてチャンスには違いないが、あの薪が相手では期待はできない。例え一緒のベッドで夜を明かしてさえも、薪が青木を意識してくれることはない。青木が男だからだ。
 その事実を岡部は知っているはずなのに、どうしてそんな叶いもしない期待を抱かせるようなことを言うのだろう?

 その疑問は、二人で作った青椒肉絲がふたりの胃袋の中に綺麗に収まった後、解消する兆しを見せた。
 食後、いつものように青木が薪専属のバリスタに変身すると、薪は今日に限ってダイニングの椅子に座ったまま、頬杖をついて青木のする様を見つめていた。いつもならさっさとリビングに移動してしまうのに、今日はどうしたのだろう。
 やがてコーヒーのいい香りがキッチンに立ち込め、白いマグカップに注がれた青木の真心が薪の手に渡された。
「はい、どうぞ」
 
 マグカップを両手で受け取って、薪は青木の顔をじっと見た。薪のつややかなくちびるは何かを言おうとして開かれ、しかし言葉を発せず、代わりにコーヒーを含んで閉じられた。
 薪がその場でコーヒーを飲んでいるので、青木も向かいの席に座って自分のコーヒーを飲み始めた。香気と湯気の向こうに、薪の整った顔が見える。蛍光灯の白い光に照らされて輝く亜麻色の髪と、伏せられた長い睫毛。きれいだな、と青木は思い、こうして彼を見ることができる、その幸せをしみじみと噛み締める。

「岡部に聞いたんだけど」
 唐突に、薪は切り出した。空になったマグカップを両手で弄び、瞳はカップに据えられたまま、握ったり傾けたりしている。
「こないだの宴会のとき、僕、おまえにキスしたんだって?」
「え。岡部さんが言ったんですか?」
 薪が気にするからナイショにしておこうって仲間内で決まったのに、それを副室長が破るなんて。ていうか、岡部らしくない。薪の憂いを増やすことを一番嫌がるのは彼なのに。

「悪かったな。酒の席のこととはいえ、ヘンな真似して」
「いいえ!」
 ヘンな真似なんかじゃない。薪にとってはそうかもしれないけど、青木にとっては3億円の宝くじが前後賞付で当選するよりラッキーな出来事だった。
「オレ、すっごく嬉しかったです。何度も言いましたけど、オレはあなたが好きですから。だから薪さんにキスしてもらえて、すごくうれしかったです」
「そこが理解できないんだけど。男にキスされて、うれしいのか」
「はい。相手が薪さんでしたから」
 薪の質問にストレートに答えるなら、答えは否となる。青木だってその辺の男にキスされたら、おぞましさに卒倒するだろう。でも、相手が薪だったから。性別なんか関係ない、この世でたったひとり、青木を狂わせるひとだから。

「青木、おまえ」
 率直に返ってきた青木の言葉に、薪は目を瞠る。マグカップを弄ぶのをやめて、両手をテーブルの上に置き、すっと背筋を伸ばした。
「今まで気が付かなくて悪かった、おまえ本当は」
 そうです、そうなんです。
 オレはずっとずっと前からあなたが好きで、性別だとか年齢だとかそんなものはどうでもよくなるくらいにあなたが好きで。でも何度その気持ちを訴えてもあなたは真面目に取り合ってくれなくて、だけどそんな仕打ちすらもあなたを愛しく思う要因のひとつになるほどに――――― オレはあなたに夢中なんです。
 青木の真剣な眼差しに応えるように、薪は職務中に負けない真面目な顔で重々しく言った。

「女の子だったのか」
 ………………。

「身体が大きいから、その可能性に気付かなかった。悪かったな、酔ったはずみとはいえキスなんかして」
「もういやだ―――!!!」
 テーブルに突っ伏してオイオイ泣く青木に、笑いを含んだアルトの声が降ってきた。
「冗談だって。本気で泣くなよ」
 冗談に取れないんですけど! 今までの経歴が輝かしすぎて、全然冗談に思えないんですけど!

 シュールすぎて笑えない冗談を飛ばした後、薪は神妙な顔つきになって、テーブルの上で両手を握り合わせた。細い手首と小さな両の拳に、ぐっと力が入っている。それからしっかりした声で、青木の目を真っ直ぐに見て、薪は言った。
「僕の主張は撤回する。同性間にも恋愛は成り立つと認める」
 薪の言葉は青木の聴覚を経由して、彼の脳にゆっくりと沁み込んだ。何度打ち砕かれたか数え切れない青木の告白たち、でも彼らの犠牲は決して無駄ではなかったと、そして薪のことを思い続けてよかったと、青木は心の中でそっと過去の自分を褒め称えた。

「やっと、オレの気持ちをわかってくれたんですね」
「そうじゃなくて」
 まだ納得しないのか、てかここから理論を覆すつもりか。いったいどんなウルトラQが来るのかと身構えた青木の耳に、薪の諦めたような声が聞こえた。
「僕、おまえのこと好きみたいだ。友だちとしてじゃなく」
「ほえっ!?」
「……あんまり間の抜けた声を出すなよ。本当のバカに見えるから」
 いや、だって!
 今、何て言いました!?

 自分の耳が信じられない。脳がフリーズして、言葉の解析ができない。喋るどころか、まともに声も出せない。
 喉の奥に緩衝材の塊がつまったみたいになって、空気は微かに通るけれど充分ではなく、だから呼吸もかなり苦しい。心臓はバクバクいってるし、こめかみはドクドク脈打ってるし、てか、血管切れそうなんですけど!マラソン大会のラストスパートよりしんどいんですけど!

「あ、あのっ。薪さん、あのっ……!」
 声がつまる。言葉が出てこない。

 オレも好きです、ずっと前から大好きです。
 心臓が爆発しそうにドキドキしつつも、これまではちゃんと言えたのに、どうしてこの大切な局面で舌がもつれてしまうのだろう。あんなに恋焦がれ続けたものがこの手に入るかもしれない、いざとなったらそのとてつもない幸福に臆してしまったのだろうか。

 絶対に諦めない、諦めきれないと思いつつも、心のどこかで諦めていたのかもしれない。
 見かけはアレだけど薪はノンケで、男の自分を恋愛対象として見てくれる事はないと分かっていた。プライベート時の勘違いと思い込みは凄まじいけれど、薪は自分とは比べ物にならないくらいレベルの高い人間だと知っていた。彼の仕事ぶりは天才の称号に相応しく、彼が成し遂げた偉大な功績に対する当然の帰結として数々の最年少記録を更新中。加えて、他の追随を許さないこの美貌。そんなすごい人が自分のことを唯一無二の相手として求めてくれるなんて、夢に見ることはあっても現実になるとは思っていなかったのかもしれない。
 それをいきなり目の前に差し出されて、青木の言動は空回りを繰り返す。薪が自分の気持ちに応えてくれる場面をあれだけ空想していたのに、だけどそれはあくまでも妄想に過ぎなくて、きちんと計画を立てていたわけではないから、どう動いていいのか分からない。

 強烈な戸惑いから金縛り状態にある青木に比べて、薪は冷静だった。この辺は、度量の差か。過緊張の経験は、マスコミにも慣れている薪の方がずっと上だ。
 滑らかな動作ですっくと立ち上がり、テーブルを迂回して青木の方へ歩いてくる。テーブルの上に置いた拳を握り締めたまま身体の向きを変えることもできず、眼だけで薪の姿を追って青木は、自分の横に立った薪と不自然な形で見つめ合った。
「今も、おまえとキスしたい、って思ってる。こないだみたいな戯事じゃなくて、ちゃんとしたやつ」
 大きな拳に、ほっそりした手が置かれる。片方の拳を両手で覆われ、前方を向いたままの青木の顔に合わせるように、類稀なる美貌が目前に回り込んできた。

「恋人のキスがしたい。おまえと」
 青木の手を包んでいた薪の手が離れ、青木の後頭部に回された。薪の動きは素早く、先日と同じように気がついたら唇を奪われていた。薪の長い睫毛が視認できないほど近くにあって、青木に見えるのは首を傾けた薪の左の眉と青みがかった目蓋。やわらかいくちびるの感触と、薪の匂い。
 アルコールの匂い以外は、先日の酒宴と変わりなく。だけど。
 ふたりのくちびるは、今日はいつまでも離れなかった。




(おしまい)



*****


 ということで、二人はめでたく恋人同士に。
 本編もこれくらいお気楽だったらよかったのにね~。(^^;


 この下はオマケです。
 ええ、男爵ですから……あ、ロマンチックなお話がお好みの方はご遠慮ください。




*****


 オレが自分を取り戻したのは、数十分後。
「おまえも入ってくれば?」と肩を叩かれて、ハッと振り向いたら薪さんが風呂上り定番の腰タオル姿で立っていた。

 いつもと変わらない薪さんの態度に、今のはやっぱり夢だったのか、妄想と現実の区別がつかなくなってるのか、そろそろ精神科医の門を潜るべきかなどと考えつつ、心の隅に安堵を覚える。でも薪さんはタオルで髪を拭きながら、自分の腕で顔を隠すようにして、
「ベッドで待ってるから」
 細い腕の隙間から薪さんの顔を見れば、いつものポーカーフェイスはどこへやら、大きな瞳をウロウロさせて柔らかそうな頬を赤くして、戸惑って緊張しているのは自分だけじゃない、薪さんだってテンパッているんだと分かって、そうしたら何だかすっと気持ちが楽になった。

 風呂に入って温かいお湯の中で、これからのことを考えた。
「恋人のキスがしたい」と薪さんは言ったが、中学生じゃあるまいし。大人にはこの続きが許されていることを、薪さんもオレも知っている。

 約束どおり、薪さんはベッドでオレを待っていてくれた。
 オレの姿を認めると同時に、薪さんはぎこちなく笑った。身体には毛布が掛かっていたけれど、薄ピンク色の肩がむき出しになっていて、その下の姿が想像できた。
 ベッドの上に起き上がり、腰の辺りを毛布で隠した薪さんからは、ぴりぴりとした緊張感が感じられ、それを懐柔するためにオレは彼を抱きしめて、亜麻色の頭髪に頬ずりした。

 湯上りのやわらかく湿った薪さんの肌に触れて、その体温を感じたら愛おしさが込み上げてきた。薪さんの背中はすべすべしてしなやかで。皮膚の下にしっかりとした筋肉は感じられるものの、それは不快ではなく。これが現実のものだと悟らせて、オレの気持ちを昂ぶらせた。
 薪さんがしたがっていた恋人のキスを、今度はオレのほうから仕掛けて、その甘い感覚に酔いしれる。何度も繰り返すうちに早くなってくる互いの呼吸と、自然に相手の身体をまさぐる男の本能に導かれた手。
 薪さんもオレも男だから、どちらも受け身ではいられない。女性にする方法しか知らないオレたちは、二本の手を動かして互いの肌を擦りあった。

 オレはあのときのことを、今でも忘れていない。
 それは初めて薪さんのすべてを見たという感激と、心に深く深く刻まれたその直後の体験のせいだ。

「先に進んでもいいですか?」
「……うん」

 オレはバスローブを脱いで床に落とし、薪さんの細腰にまとわりついている邪魔な毛布を取り払った。
 お互い下肢を顕にし、昂ぶりを確認し。
 確認し―――――。
 ―――――――――――――――― ………………。

「薪さん?」
「グロッ! キショ!! やっぱムリ!!」
 それを見た瞬間、薪さんはオレに枕を投げつけると、部屋を飛び出していった。

「…………薪さんの嘘吐き……」
 薪さんの恋人になるには、まだ先は長そうだった。



(本当におしまいです)




(2010.8)



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ジャンル : 小説・文学

天国と地獄7 (1)

 こんにちは!

 お話の途中ですが、毎年恒例の鈴木さんフェアの時期なので、こちらのお話を挟ませていただきます。

 去年、あずきさんのブログ 『竜の果実』 に公開された『帰ってきた男』というお話を拝読しまして、これがめちゃめちゃ笑えるお話で~~、だって鈴木さんが~~~!! 
(こちらから飛べますので、未読の方はどうぞ) 

 『帰ってきた男』

 他の記事やSSから推察するに、あずきさんはとても真面目で心優しい方だと思うのですけど、ギャグを書かれるときにはすみません、お人柄変わりますよね!(←褒めてます!) 
 もしもまだチェックがお済みでない方は、ぜひ!! 半端ないっていうか容赦ないっていうか、台風みたいなギャグです。 とにかく強烈です。 ギャグ好きのわたしには堪りません☆ 

 で、去年、『帰ってきた男』のコメ欄でですね、あずきさんに『じゃあわたしが鈴木さんのリベンジ話を書きましょう』とお約束してできたのがこの話です。 だから書いたのは去年の9月なんですけど、公開はお盆に合わせて、ということで、やっと約束を果たすことができました。
 みんなに笑ってもらえるといいなっ。

 鈴木さんが幽霊になって出てくる話なので、カテゴリは男爵でお願いします。
 ストーリー的には『天国と地獄6』の続きになってます。 「グロッ、キショッ、やっぱムリ!」の数日後です。
 あ、それと、うちの鈴木さんは黒いです。 お含みおきください。

 よろしくお願いします。

 



天国と地獄7 (1)





 家に帰ると、鈴木さんがいた。

「おかえり」
「ただいま戻りました」
「薪は?」
「あ、直ぐに来ると思います。今そこで、管理人さんと立ち話を……………はいいっ!?」

 鈴木さんはソファでくつろいでいた。
 雑誌やら小説やらがローテーブルの上に置かれていて、勝手に冷蔵庫を物色したのか、ビールの空き缶と数枚の小皿がテーブルの片隅に寄せられていた。

 この怪異現象に、どんな説明をつけたら良いのだろう。

 薪さんは毎日鈴木さんの写真を見て、話しかけたりキスしたり、そんなに彼のことを思っているのなら、いつか彼が見る幻は実体を持つかもしれないと考えたりもした。だけど、それが現実になるなんてバカなことが?
 そうか、これは幻だ。この頃仕事が忙しかったから。こんな時間に帰れたのも3週間ぶりくらいだし。疲れて幻覚を見ているんだ、きっと。
 例え幻覚でも、鈴木さんは第九の大先輩だ。ちゃんと挨拶をしておこう。

「鈴木さん、ですよね? 初めまして。オレ、薪さんの部下で青木一行と」
 オレが礼儀正しく挨拶をしようとすると、鈴木さんはいかにも『堅苦しい挨拶は抜きにして、一緒に飲もうぜ』とでも言うように、心安い笑顔で飲みかけの缶ビールを顔の高さに持ち上げ、
「知ってる。薪に惚れてる変態だろ」
 それが初対面の相手に言う言葉!?

 あまりの無礼に開いた口が塞がらないオレに向かって、鈴木さんはにっこり笑いかけると、
「茫然自失時間約3分。状況対応遅いな、おまえ。よくそんなんで第九の捜査官やってられるな? 薪の足を引っ張るのもいい加減にしろよ、トンチキヤロー」
 なんだこのひと! 言葉と表情が合ってないっ! さわやかな5月の風のような笑顔なのに、この容赦ない言葉選びは何事!?

 オレが絶句しながらも相手の非常識な態度を咎めるような顔をすると、鈴木さんは改まって床に正座をし、オレを見上げた。彼は慈愛に満ちた表情をしていた。彼ほどやさしい瞳を持った人物を、オレは今まで見たことがなかった。
 どうやら、今のはオレの聞き間違いだったようだ。こんな聖職者のように穏やかな顔つきのひとが、他人と諍いを起こすようなことを言うはずが―――。
「自宅の出入りを許されてるからって、良い気になるなよ。あくまでおまえは薪の部下兼ボディガードなんだからな。オレの薪に手ェ出したら、トリコロスぞ?」
 敵意むき出しだよ! 『オレの薪』とか言ってるし!!

 言葉どころか意識まで失いそうな酩酊感に襲われ、玄関口に立ち尽くしたオレの後ろでドアが勢いよく開き、オレの背中にヒットした。前のめりに突っ込んで床の感触を頬で味わっていたオレの耳に、薪さんの「あっ」と言う可愛い声が響いた。

「鈴木!!」
 ザッツ、アウトオブ眼中オレ! (予想はしてたけどねっ!)

 リビングの奥に置かれたソファセットに座っている鈴木さんより、上がり口に倒れているオレのほうが薪さんの目には入りやすいはずだとか、そんな理屈が通用しないことは百も承知だ。
 だって、鈴木さんだもの。薪さんが一日千秋の思いで待ち続けている人だもの。

 床に倒れたオレの背中をぴょんと飛び越えて、薪さんは鈴木さんに飛びついた。まるで犬が大好きなご主人様にじゃれつくような勢いだった。
「今年も来てくれたんだねっ、うれしい!」
「当たり前だろ」
「15日までは、ここにいられるの?」
「ああ、その日が限界だ。本音ではずっと薪の傍にいたいんだけどな」
 なに? この会話。常識が崩れそうなんですけど。

 今年もってことは、鈴木さんはお盆になると毎年薪さんのところに化けて出る、もとい帰ってくるのか。
しかし、化けて出るのか帰ってくるのかは、実際微妙なところだと思う。
 あれは確かに正当防衛、というか事故に近いものだったとオレは思っているけど、薪さんが鈴木さんの命を奪ってしまったことは事実なのだから、そこにはやっぱりわだかまりがあって当然だと―――――。

「も~、なんで鈴木ってば、幽霊なんかになっちゃったんだよ~。僕が淋しいじゃん」
「何言ってんだよ、こいつう。おまえが殺ったくせに~」
「てへっ、そうでした~」
 30過ぎのいい大人が、高校生カップルみたいな語尾を伸ばした喋り方やめてもらえます?
 てか、口調と話の内容に凄まじい違和感を感じるんですけど、オレの感性がおかしいんですか?

「ごめんね、あのとき撃っちゃって」
「いいっていいって。オレが頼んだんだし。気にすんなよ」
 軽っ! このふたりの会話、軽っ!!
「ありがと。やっぱり鈴木はやさしいね」
「惚れ直した?」
「も~、やだ、鈴木ったらあ」
 なに、このバカップル丸出しの会話!!
 夜中に夢で魘されてボロボロになってるどっかの誰かさんがバカに見えてきたよ!

「ところで薪。今夜のごはんは?」
「鈴木が来るかもしれないと思ったから、ちゃんと買い物してきたよ」
 そこで薪さんは、初めてオレのことを見た。
「青木。夕飯作るから手伝え」
 態度違いすぎません? 声のトーンが1オクターブくらい低いんですけど、しかも、なんでいきなり命令口調なんですか? 薪さんは今まで、職務時間外に上司風吹かせたこと無かったのに。鈴木さんの前だから?

「鈴木の好きなチラシ寿司つくるからね。ウナギの載ったやつ」
「そりゃ楽しみだな」
 薪さんは当たり前みたいに鈴木さんの頬にキスをすると、スキップでも踏みそうな軽い足取りでクローゼットに入っていった。普段着に着替えてくるのだろう。
 頬にキスなんて、オレはしてもらったことがない。
 薪さんにとってハグとキスまでは友だちの範囲内で、そこに特別な感情はないと知っているけれど。以前薪さんはオレに、鈴木さんに対する恋愛感情はなかった、とはっきり言ったけど、本当のところはどうなんだろう。

「そんなん決まってんじゃん。薪はオレに惚れてんの」
「でも、薪さんは」
 反論しようとして気付く。
 口に出さない疑惑に、どうして鈴木さんが答えを返してきたのだろう。もしかして鈴木さんは、オレの心が読める? いや、まさかそんな。
「オレは第九の神さまだぜ? おまえの考えてることなんかお見通しだよ」
 第九の神さまって……さすが親友。薪さんと考えることが一緒だ。

「オレが早くいなくなればいいと思ってんだろ。お生憎さま。オレは3日後にはいなくなるけど、これからも薪の心の中にずーっと」
「なんだ、ウソだったんですね? 本当に心が読めるのかと思っちゃいました」
「ん?」
 全く、性質の悪い冗談を言う人だ。心の中で薪さんに邪な願望を抱いたりしたら、その場で薪さんにバラされて、半殺しの目に遭わされるかも、なんて心配して損した。

「鈴木さんには、できればずっとここにいて欲しいです。薪さんのあんな幸せそうな顔、初めて見ました」
 あのひとのあんな顔が見られるなら、オレは何にもいらない。
 オレはずっとずっと、あの写真にあるような笑顔で薪さんが笑ってくれることを願っていた。それが今、叶えられたのだ。これ以上の喜びはない。

「……ヤなやつだなー、おまえ」
「え? なんか気に障りました?」
「オレ、天使くん苦手なんだよな」
 鈴木さんは意味の分からない言葉をブツブツ呟くと、身軽に立ち上がって台所へと歩いていった。オレも慌てて後を追う。夕食の手伝いをしないと、ごはんを食べさせてもらえなくなる。
 買ってきた肉や魚を冷蔵庫にしまい、葉物野菜は濡らした新聞紙に包んで、ビニル袋に入れて収納。毎日帰りが遅くて自炊ができないときのことを考えると、ひと手間掛けてもこうして長持ちするようにしてあげないと。

「おまえ、そんなことまでやらされてんの?」
「この食材の殆どは、オレの胃袋に入るものですから」
「ふうん。薪が他人にここまで踏み込ませるとはな」
「はい? 何か仰いました?」
 よく聞こえなかったから聞き返したけど、鈴木さんは答えてくれなかった。きっと大したことではなかったのだろう。

「手伝ってやるよ」
「あ、すみません。ありがとうございます」
 礼は言ったものの、あれだけ飲み食いしたのだから当然だとも思った。オレが毎回楽しみに、少しずつ食べていた薪さんお手製の牛肉そぼろを一気食いしちゃって、それはちょっと頭に来たけど、鈴木さんが相手じゃ仕方がない。きっと薪さんは、鈴木さんにこそ食べて欲しくて料理の腕を磨いたのだろうから。



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天国と地獄7 (2)

 お話の途中ですが、 
 今年は実家が初盆なので、3日ほどお休みをいただきます。
 15日には再開できると思いますので、よろしくお願いします。




天国と地獄7 (2)




「鈴木。何してるの?」
 いつもより幾分高い薪さんの声がして、オレと鈴木さんはそちらを振り向いた。振り向いて、うわあ、とオレは思わず小さな声を上げた。
 薪さんのエプロン姿はいつも魅力的だけど、今日はめちゃくちゃかわいい。喫茶店のボーイがしてるみたいな、腰から下の黒いエプロン。着ている服も普段のTシャツにジーパンじゃなくて、襟の立った半袖のプリーツシャツに蝶ネクタイをして、黒いスリムなスラックスを穿いている。レストランのホールスタッフみたいだ。

「相変わらずかわいいなあ、薪は」
「え~、やめてよ~、恥ずかしいよ~」
 なんすか、その嬉しそうな態度。前にオレがそのセリフ言ったら、薪さん怒りましたよね? バカにするな、とかってソッコー蹴り飛ばしましたよね?

「鈴木、そんなことしなくていいんだよ。こいつがやるから」
「でも青木が『あれだけ飲み食いしたんだから、少しは働いてください』って」
 言ってない!! いや、ちょっとは思ったけど、口には出してません!
「青木。鈴木はおまえの大先輩だぞ。もっと敬意を払え」
「オレはそんなこと一言も……っ!?」
 何かに首を絞められたような具合に息が止まって、オレは目を瞠った。嫌な予感がして鈴木さんを見ると、にっこりと天使の笑いを浮かべつつ、両手をスリーパーホールドの型に決めて、ってマジだよ! このひと、オレの息の根止める気だよ!

「鈴木。青木の言うことなんか気にしないで。鈴木は幽霊なんだから、働きすぎは身体に良くないよ」
 幽霊の健康に気を使う前に、オレの命の心配してくださいっ!
「薪、青木も悪気があったわけじゃないんだ。オレが飲み食いしたのは本当だし」
「もう、鈴木は本当にお人好しなんだから。そんなとこが好きなんだけど、あ、言っちゃった。(テレッ)」
「おいおい、部下の前でそんなこと言っていいのか? 明日、職場で噂になっちゃうぞ」
 オレに明日が来ればねっ!!

 窒息一歩手前で、鈴木さんは手を緩めてくれた。というか、自分のセリフに照れる薪さんが鈴木さんの胸に抱きついたせいで、ホールドが解けただけみたいだけど。
 薪さんはしばし鈴木さんの身体の感触を味わい、それに満足すると、右手の人差し指を立たせ、指の先で鈴木さんの胸をつんつんと突いた。嬉し恥ずかしといった表情で、
「噂になってもいいよ。鈴木となら」
「オレも」
 ……デキてるよね、これ。絶対にデキてるよね、このふたり。

 鈴木さんに対する気持ちは純粋な友情だったとか、普通の男同士に恋愛感情は生まれないとか、薪さんが今までさんざん言ってきたことは、オレの好意を受け入れられない彼の、単なる言い訳に過ぎなかったと知って、オレは泣きたくなった。
 でも、幸せそうに鈴木さんの胸に額を預ける薪さんを見ていると、それに水を差すような真似はできなくて。オレは仕方なく料理に専念する振りで、二人の姿を見ないようにした。

 その夜、食卓に並んだ薪さんの手料理は、いつにも増して見事なものだった。鰻ちらしにハマグリの吸い物、茄子のおろし煮に春雨のサラダ。仕事から帰ってきて後は寝るだけのいつもなら、ちらし寿司とインスタントの吸い物だけなのに、てか、オレはそれで充分だし不満に思ったことなんか一度もないけど、こうも差がつくと何かフクザツ。
 しかも、ダイニングテーブルで鈴木さんの隣に腰を下ろした薪さんは、
「はい、鈴木。あーん」
 やると思った、絶対にやると思った。
 なんてコテコテな人たちだろう。今時新婚二日目の夫婦だってやらないぞ。

「うん、美味い。相変わらず、薪の料理は絶品だな」
「本当? うれしい」
「ほんとほんと。ほら、お返し。あーん」
 ちょっと、やめてもらえます? テーブルひっくり返したくなっちゃうんですけど。
 オレはとりあえず頭の中で、鈴木さんがテーブルの下敷きになっているところを想像して苛立ちを解消しようとした。でも次の瞬間、鈴木さんは薪さんに助け出されて、何故かオレがテーブルの下敷きになり、さらには二人がオレの上に座って仲良く食事を始め……ああ、オレって自分の想像の中ですらピエロなんだ。

「はあ、この料理が毎日食べられたら幸せだろうなあ。そうだ、薪。オレのところに嫁にこない?」
「っ、げほっ、ごほっ!!」
 鈴木さんの言葉に、思い切りむせる。
 オレのところって何処ですか!?
 プロポーズは生きてるうちにっ! この世にいるうちにお願いします!
「うん、行く」
 即答だよ!
 行ったら帰って来れませんよ!! てか、関係ないんですよねっ、分かってますとも!

「でも僕、結婚しても仕事は辞めないからね。鈴木の所から、第九に通える?」
 世界一の遠距離通勤でしょうね……。
「それは無理だな。仕方ない、しばらくの間は単身赴任てことで」
 ふたりはチラッと目線を交わし、くすくすと笑い出した。
 なんだろう、よくわからない。この二人の間では、今のやり取りが笑えることなのだろうか。年が離れているせいか、笑いのツボがつかめない。

 その後も、薪さんと鈴木さんはオレにわからない昔の話をしていて、オレはずっと蚊帳の外だった。でもそれは仕方がない。鈴木さんには、現在の話は分からないのだから。
 そんな扱いを受けて、オレが悲しかったかというとそうでもない。何故かというと。

「そうだよ、あの時の鈴木ったら」
 鈴木さんの肩を軽く小突きながら、あはは、と子供みたいに無邪気に笑う薪さんの姿がそこにある。
 ずっと、こんな風に笑う彼が見たかった。鈴木さんのおかげだ。ああ、本当に鈴木さんがここに来てくれて良かった。
 食事の間中、オレは幸せそうな薪さんを満喫して、今日は人生最良の日だと思った。




*****




「あー、美味かった~。お腹いっぱいだ」
 満足そうに自分のお腹を撫でる鈴木さんの横で、オレは空になった皿を片付けた。重ねてシンクに運び、後片付けを始める。
 テーブルの上を拭いていた薪さんが、見事に盛り上がった鈴木さんのお腹に耳を当て、
「あ、今動いた」
「わかりますか~、パパでしゅよ~」
 それから顔を見合わせて、ケラケラ笑う。
 何がそんなにおかしいのかオレにはさっぱり分からないが、薪さんの笑い声がこんなにたくさん聞ける日は滅多とないので、なるべく二人の邪魔をしないように、こっそり手早く皿を洗った。

「青木、コーヒー淹れてくれ」
 寿司桶と汁椀を運んできた薪さんが、業務連絡みたいに素っ気無く命令だけを残して鈴木さんのところへ帰って行く。はい、と返事をしながら、ちょっとだけ寂しいな、と思い、それでも薪さんの瞳がキラキラ輝いているのを見ると、やっぱり嬉しい。

 眠りながら涙を浮かべていたあの人が。明かりの消えたモニタールームで頭を抱えていたあの人が、今宵はこんなに楽しげに。
 オレが薪さんに望んだのは、おこがましくも与えたいと思ったのは、正にこんな時間。第九の室長という重責を担い、心休まるときのない彼を癒したいと、たとえひと時でもいいから心から安らげる時間を持って欲しいと、だから彼の恋人になりたいと、この手で彼を幸せと安寧に包み込みたいと。
 だけど、それを彼にもたらすのはオレじゃなくてもいい。誰が為すかは重要ではなく、彼がそれを享受することが大切なのだ。

「鈴木。こいつ、コーヒー淹れるのだけは上手いんだ。飲んでみて」
「本当だ、美味い」
「でしょ?」
 オレが風呂の支度をしてリビングに戻ると、ふたりはソファに並んで座っていた。大学時代に通った喫茶店の話が一区切り付くのを待って、オレは風呂の用意ができたと告げた。

「鈴木、お風呂に入ったら?」
「薪も一緒に入る?」
「うん!」
 ……一緒に入るんだ。ふーん……。

「背中、流しっこしようね」
「背中だけじゃなくて、身体中洗いっこしようぜ」
「やだ、鈴木ってば~、えっちー」
 あんたたち、オレの存在忘れてるだろ。

 薪さんと鈴木さんは仲良く風呂に入っていき、さすがに心穏やかではいられないオレの耳に、やがて浴室から聞こえてきたのはふたりの笑い声。
『うひゃひゃひゃ! 鈴木、くすぐったい!!』
『遠慮なさらないで~、サービスいたしますわよ~~』
『よしよし、チップは弾むからよろしく頼むよ、って、きゃはははっ!!』
 ……なにやってんだか。

 サービスやチップなんて言葉が出るところをみると、これはあれだ。薪さんの大好きな歌舞伎町のお風呂屋さんの真似事だ。ホントにきわどい冗談が好きなんだ、このひとたち。
 
 きゃらきゃらという薪さんの明るい笑い声と、あははは、という鈴木さんのやさしそうな笑い声が止むと、ふたりは浴室から出てきた。夏だからドライヤーで髪を乾かすのが辛いらしく、濡れた髪をタオルで拭きながらエアコンの吹き出し口の前に並んで立っている。
 オレが心配した、というか下劣にも想像したような展開にはならなかったみたいで、ひとまずホッとした。
 もしかしたらオレの思いすごしで、今までのも全部彼らの冗談で、このふたりは本当にただの友だちだったのかもしれない。薪さんは決してオレに嘘を吐いていたわけではなくて、オレと知り合う前は本気で同性間の恋愛は成り立たない、と信じていたのかも。

「鈴木、そろそろ休もうか」
「ああ」
「ベッド、一緒でいいよね?」
「オレはいいけど。でも、薪の身体のこと考えるとな。今夜はよした方がいいんじゃないのか?」
 …………やっぱデキてんじゃん!!!

 先日、ついほんの数日前、「おまえと恋人のキスがしたい」とか自分から言い出しておきながら、キスまではいいけどその先はいやだ、と勝手きわまりない言い分で最後の一線を拒否している薪さんは、相手が鈴木さんなら地の果てまで許せるらしい。
 グロイだのキショイだの、さんざん言ってくれたけど、あれは結局ただの言い訳に過ぎなくて。そこまで許すほどオレのことを好きにはなれない薪さんの、拒否する理由のひとつに過ぎなかったと知った。

「明日の仕事に差し支えるかもしれないし」
 仕事に差し支えるって、どんだけやる気なんですか!?
 まあ、一年ぶりで楽しみなのはわかりますけど。

 それはきっとものすごく悲しいことで、だからオレはこの場合嘆くべきなのだと思ったけれど、悲しくも腹立たしくもならなかった。恋人として当たり前の反応をするには、オレはもう、薪さんを愛しすぎていた。あまりにも長い期間、夢中で彼の幸せを望んでいたせいか、それ以外のことはどうでもいいと思うようになってしまっていたらしい。
 薪さんがそれを望むなら。それはオレの望みでもあるんだ。

「オレ、今日は帰りますから。明日の朝、お迎えに上がります」
 ふたりが気兼ねしなくて済むように、オレは潔く鞄を持って立ち上がった。
「そうか? じゃ、気をつけてな」
 薪さんはあっさりと頷いて、鈴木さんはひらひらと手を振った。
 オレにとっても3週間ぶりの薪さんとの夜だったけど、このふたりにとっては一年ぶりの夜。もっと早くに、ふたりきりにしてやればよかった。

「あ、青木」
 玄関口で靴を履いているオレを、薪さんは呼び止めた。明日の迎えの時間を聞いてなかったことに気付いて、はい、と振り返る。
 ネクタイを掴まれて、ぐいっと下方に引かれ、視界がぶれると同時に唇をふさがれた。



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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
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