消せない罪(1)

 こんにちは。

 こちらは 『秘密のたまご』 のみちゅうさんの創作 『Angel’s court』 (未読の方はぜひぽちっと飛んでください) を拝読しまして、いつものように、おおお、みちゅうさんは素晴らしい! と惚れ直しまして。

 で、思ったんですけど、うちの薪さんは、どうして鈴木さんを撃ったんだろうなーって。(直球ですみません)
 だって、大好きだったのに。 あんなにあんなに、愛してたのに。 いくら咄嗟のことだからって、ありえなくね?
 うちの場合は、昔のこととはいえ身体の関係もあった恋人同士で、振られてからもずーっと彼への想いを引き摺り続けてたわけですから、あの状況でも撃つのは不自然じゃないかなって。

 原作がそうなってるから、と言うのは答えにならないので、とりあえず書いてみました。


 書いたのは5月なんですけどね。
 あの日も近いし、時期的にもよろしいので、この辺で。


 内容は、あおまきさんが一緒に寝て起きて、一緒にお風呂に入って、最後にえっちするお話です。(テーマと内容があってなくてすみません) 


 よろしくお願いします。





消せない罪(1)





 見てはいけない、知ってはいけない。それはパンドラの函。そこには恐ろしい魔物が棲んでいる。
 その魔物は、僕を破滅に導く。
 掘り起こしてはいけない、僕の奥底に眠る、この秘密を。



*****



 あの時のことは憶えていない。
 自分が何をしたかは憶えている、でもどうしてそれを為したのか、説明することはできない。その時の自分の感情を、僕は思い出すことができない。
 これまで一度も、それを試みたことはなかった。どんな心の動きから、この右手が引き金を引いたのか、自分の深層を探ろうとしたことはなかった。

 正当防衛が認められた事件で、加害者が被害者を殺した理由に焦点が当てられることはなかった。誰にも尋ねられないのをいいことに、僕はそこから目を背けた。僕は本能的に悟っていたのかもしれない。自分の深淵に潜む、恐ろしい怪物の存在を。
 何人もの捜査員を死に至らしめた、貝沼清孝の脳。その画を見続けた者が、彼の狂気にまったく影響を受けないなど、考えられない。自分もまた彼の影響を受けているはず、にも関わらず正気を保っている、あるいは保っていると周囲の人間に信じ込ませることができた、それは何故か。

 僕には、貝沼の気持ちが理解できたから。
 貝沼の凶行は、愛情から派生した行為だと理解したから。

 貝沼は、犠牲になった少年たちをゆっくりと死に至らしめながら、彼らにずっと愛の言葉を囁き続けた。
『きれいだよ』『愛しているよ』『とても可愛いよ』
 そんな甘い台詞と共に、彼らを犯し、その背中にナイフを突き立てた。
 第九の捜査員たちは、貝沼の行動は矛盾の極地であり、明らかに狂った人間の所業だと報告書に記載した。それに承認印を押しながらも、僕はその報告に心から納得していたわけではなかった。愛するひとの命をこの手で終わらせたいと望むのは、それほど異常なことではないような気がした。

 この世で一番欲しいものが手に入らなかったら、どうする?
 諦めなければいけないと、何度も何度も自分に言い聞かせて、何年も何年も自分の感情を殺し続けて、それでも思い切ることができないほどに恋焦がれていたら?

 そこまで思った相手は、この春、10年以上付き合った恋人と婚約し、今年中には彼女と結婚して、名実共に彼女のものになる。そんな状況下で。
 この指を手前に引くだけで、かれが他のひとのものになるのを見ないですむ、そんな夢のような話が突然舞い込んできたら?その誘惑に耐え切れるか?

 殺意はあった。たしかにあった。
 僕は鈴木を殺すつもりで、彼の心臓を撃ち抜いた。

 僕は今宵もあの日の夢を見る。あの刹那、彼が確実に僕のものに、僕だけのものになったあの瞬間。僕は彼の頭をこの胸に抱き、彼の最期の息をくちびるで吸い取る。彼がこの世に残した最後の一呼吸、それは僕の細胞に取り込まれ、彼と僕はひとつになる。めくるめくような歓喜が僕を包み、僕はうれしさのあまり涙を流し、彼に取り縋り、底知れぬ官能に身を焼かれる。
 これで彼は僕のもの。生涯ずっと、ぼくだけのもの。

 かれはぼくのもの、カレハボクノモノカレハボクノ、ボクノボクノ……。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

消せない罪(2)

消せない罪(2)






「あああああっ!!」

 悲鳴と同時に細いからだが大きく震えて、薪の背中をベッドから引き離した。髪の毛を引き毟るように両手で摑み、陸に上がったばかりの人魚のように乱れた呼吸でひりつく喉をこじ開ける。
 ヒューヒューと掠れた声が喉奥から洩れ、空気を取り込むことに困難を覚えて、彼は生命の危機を感じる。呼吸の方法を思い出すために、彼はいつもの儀式を自分に施そうとする。薄い爪を腕に立て、力を入れて下方に引く。痛みによる刺激だけが薪に平常を連れてきてくれる、何年か前まではそれが彼の日常だった。

 だれかの手が薪の手を取り、その指先を導いた。手に触れたあたたかい肌に、薪は遠慮なく爪を立てる。爪で肉を抉る感触、削り取られた皮膚と血が爪の間から溢れる感覚。薪の顔は弾力のある板のようなものに押し当てられて、頬を流れ落ちる涙がその物体との間に冷たい水の膜を作った。

「ちがうっ、僕はそんな……ちがうちがうちが……」

 だれに対する釈明なのか、自分でもよく分からない。それ以前に、何が違うのかもはっきりしない。でもその言葉を外に出さなかったら、身体が破裂してしまいそうで怖い。今自分の中を満たしている正体不明の恐怖感、それを払拭しようと薪は同じ言葉を繰り返し、悪魔を調伏する呪文のごとく唱え続けた。
 息をするのも忘れたように吐き続けた呪文は、やがて彼に肉体的な疲労とそれに伴う緩心を連れてくる。時間の経過と共にガチガチに強張っていた肩と背中の力が抜け、白い腕がだらりと落ちた。

「落ち着きました?」
 上から、低い男の声が聞こえた。耳に親しんだテノール。いつも穏やかで、荒ぶるときは滅多とない。特に薪には徹底的に甘いその声。
 この声を聞くと安心する。と同時に、大きな手が自分の髪を撫でていたことにも気付く。
「手を拭きましょう。シーツが汚れちゃいます」
 見ると、薪の爪先は血に塗れている。自分の手足を見るが、傷はない。顔を上げると、背中の傷を隠すように素早くローブをまとう恋人の姿が亜麻色の瞳に映った。

 寝室から出て行く長身の後姿に、薪は慌てて取り縋ろうとする。今はひとりになりたくない。
だけど、血に汚れた自分の手を見れば、焦燥のままに彼を止めることもできない。この手で誰かに触れることは許されない。
 
 やがて帰ってきた恋人に、湯気の立つ蒸しタオルを渡されて両手を拭い、それで表面の汚れは落ちるけれど、骨の髄に沁みこんだ穢れは消えない。薪が本当に浄化したいのはこちらのほうだ。もしも肉を裂き骨を出し、直接それを拭き取ることが可能なら迷わずにそうする。

 詮無いことを考えて、薪は苦く笑う。
 そんなことをしても、罪は消えない。消してはいけない。

「眠れないときにはホットミルクがいいんですけど。薪さん、牛乳嫌いだから」
 そう言って、大きな手から渡されたマグカップには熱いレモネード。薪の好きなレモンの香りと甘酸っぱい味わいが、彼の心を切なくさせる。
 空になったカップをベッドシェルフの上に置き、薪は隣に座った男のローブの紐を緩める。布地の隙間から手を入れて、あたたかい胸に頬を押し付け、一定のリズムで刻まれるトクトクという音を聞く。

「青木。今日は」
「薪さん、オレ今夜泊まってもいいですか?」
 言おうとした言葉を相手から先に言ってもらえる、なんて愛情に溢れた、だけどそれは見透かされた会話。この状況なら青木は、きっとそう言ってくれるだろうと思っていた。浅ましく計算高い自分。薪は自嘲の形にくちびるを歪める。
 平日に上司の家に泊まって夜中に何度も起こされて、その上翌朝はいつもより早く起きて自宅に帰って出勤の準備。それでも仕事には100%の力を注げと、彼の睡眠時間を削った本人は主張する。その命令に彼が甘んじて従うだろうということも、薪には分かっている。どこまでも身勝手な自分とやさしい青木。彼の愛情を温床にして、僕はどんどん醜く育つ。

 裸のまま、再びベッドに横になって、互いの背中に手を回す。眠りに就く前とは違う穏やかな抱擁が薪を包み、その安らぎに彼の心は痛みを覚える。

 僕の罪は死んでも消えない。

 鈴木の命を奪ったこの右手を切り落としたって、身体中バラバラに切り裂いたって、この穢れは消えない。多分、死んでも消えない。そんな汚れきった自分がなおも、残された人生を共に歩むだれかを求めてしまうという傲慢なまでの脆弱さ。自分だけが穢れているのが耐えられないのか、共に堕ちてくれる犠牲者を欲しているのか。
 罪に罪を重ねるように毎日を過ごして、きっと僕はそのうち地獄に落ちるのだろう。一緒に落ちて欲しいと頼んだら、青木はつきあってくれるだろうか。それとも、青木らしい大胆さで僕を天国に押し上げようとするだろうか。自分を身代わりにと閻魔に頼み込んで、僕の気持ちなんかきれいに無視して、かつて鈴木が僕を救おうとその身を犠牲にしたように、僕が望んでもいない自己犠牲を押し付けてくるのだろうか。

「ごめんな。背中、痛かったろ」
 感情も籠めずに謝って、彼の自己犠牲の証を指でなぞる。こんなことをしてもらっても、嬉しくもないし申し訳なくも思わない、僕がそんな冷酷な人間だと青木は知らない。

 僕は犠牲なんか望まない。守ってなんか欲しくなかった、鈴木が死ぬなら僕も死にたかった。自分の命まで差し出したのに、それを向けられた僕はありがたいとも思わない、そんなに僕を大事に思ってくれて、と感動もしない。そんな人間のために鈴木は死んだ。親友の鈴木でさえ分からなかった僕の非情さを、青木が分かるとも思えない。

「大丈夫ですよ、背中はしょっちゅう薪さんに引っかかれてますから。噛まれるより痛くないです」
 常ならば傷口をつねってやるところだが、今はそんな気にならない。天井の送風口から送られてくる涼やかな風と青木の胸の温度差が、薪の気持ちをなだらかにする。このまま眠ったら、さぞ気持ちがいいだろう。
 でも今夜はダメだ。多分、またすぐうなされる。ひとりではいたくないけれど、青木に負担をかけるのもいやだ。
 黙って目を閉じて身じろぎもせず、眠った振りをして神経を尖らせ、薪は必死で睡魔に抵抗する。
 青木が眠ったら、寝顔を見てやろう。いつも自分の方が先に眠ってしまうから、たまには逆の立場になって、口の周りにヒゲでも描いてやろう。

「ちょっとお喋りしましょうか。薪さん、眠くないんでしょう?」
 不意に提案されて、薪は驚く。じっとしていたのに、どうして起きてるってわかったんだろう。
「オレもなんか、目が冴えちゃって。せっかくだから、週末の予定を決めましょうよ。海とプール、どっちがいいですか?」
「なんで両方水系なんだ」
「夏ですから。夏にしかできないことをしましょうよ」
 ずっと昔、夏が大好きだった頃の自分のように、青木はウキウキした口調で言った。大人になってからは、夏の到来を心待ちにすることはなくなった。ギラギラと無遠慮に照り付ける太陽、ゆらゆらと立ち上るアスファルトの陽炎、湿度が高く不快な熱帯夜――― 今では嫌悪さえ感じる。どうして子供の頃はこの季節が嬉しかったのか、不思議だ。
 それとも。

 鈴木を殺したのが冬だったら、僕は冬が嫌いになったのだろうか。潔くピンと張った朝の空気が、凍てつく夜の魂を奪われるような星空が、真っ白な雪の美しさが、嫌悪すべきものとして感じられたのだろうか。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

消せない罪(3)

消せない罪(3)




「夏は、あまり外に出たくないんだ。暑いから」
 目を閉じて額を青木の胸につけたままの姿勢で、薪は一般的な言い訳を口にした。青木も薪を腕の中におさめたまま、応えを返す。
「薪さん、暑さには強いんじゃなかったんですか?」
「日焼けすると痛いし」
「プールなら大丈夫ですよ。室内ですから」
「夏は……楽しむ気分になれないんだ」
 どんなにフォローしたってムダだ、この季節には僕は何もできない。

 だって、夏のすべてが僕にあのことを思い出させる。入道雲の浮いた空を見れば、あの日の太陽も眩しかったと、背中に汗が伝えば、あの日もとても暑い日だったと。蝉時雨も野鳥のさえずりも、夕立も夏祭りも花火も蛍もみんなみんな、鈴木との最後の季節を思い起こさせる。

 正直に言うことで、青木に嫌な思いをさせてしまうという危惧はあった。でも、これ以上喋りたくない。今はただこうしていたい、言葉は欲しくない。
 薪の予想通り、青木は黙り込んだ。そりゃそうだ、掛ける言葉なんか見つからないだろう。青木は僕の過去を知っている。
 どんな言葉で取り繕っても、僕が人を殺した事実は消えない。鈴木は僕を守ろうとあんなことをした、貝沼の犯行は僕が指示したわけじゃない、僕のせいじゃない、僕はむしろ被害者だ。弁護側の主張はしかし、この右手を見た途端あっさりと覆る。血に染まった自分の手、彼の命を奪った右手。どんなに優秀な弁護士もたちどころに声を失う、決定的な物的証拠。この右手は、彼の命を奪った一連の所作を細胞に刻み込んでいる。その記憶は久遠のものだ。

「楽しむ気分になれないんじゃなくて、楽しんじゃいけないと思ってるんじゃないですか」

 ぎくりと背中を強張らせて、薪は肩を竦めた。青木はやさしいくせに、時々ものすごく鋭いことを言う。普通の人間なら気を使って言わないようなことをあっさり口にする、それは彼の恋人としての優越なのか、それとも。
「夏は毎年来るんですよ。薪さんがいくらがんばったって、無くすことも止めることもできないんです。その度にそんなに落ち込んで暗くなる気なんですか? こっちもいい迷惑なんですけど」
「頼んでないだろ!」
 カッとして薪は叫んだ。
「だれもおまえに慰めてくれなんて頼んでない! 放っときゃいいだろ、僕のことなんか」

 両の手で青木の腕を押し、身体を離そうとするが、大きな男の身体はビクともしない。自分の非力を思い知らされて、こめかみの辺りがかあっと熱くなるのを感じて、薪はめちゃくちゃに青木の腕を叩いた。
「それができれば、オレも苦労しないんですけど」
「苦労かけて悪かったな。わかった、今すぐ別れてやる。僕とおまえは今から他人だ」
「もともと他人でしょ、オレたち」
 思いがけない青木の言葉に、薪は咄嗟に息を飲んだ。

 たしかに。何年付き合ったって、僕たちは夫婦にはなれないし。
 青木は腕を緩め、薪の身体を離した。逃げるなら今がチャンスだ。が、薪は動くことができない。いつもの脅し文句に返ってきた、いつもとは違う言葉。その冷たさが、薪の心臓を凍りつかせた。

 青木のことだからきっと、「そんなこと言わないでください、オレ、薪さんと別れたら生きていけないです」とか、僕に自信を持たせる言葉を言ってくれると期待していた。それなのに、売り言葉に買い言葉みたいなことを。
 もしかして、青木は本当に僕のことがイヤになっちゃったのかな。我が儘が過ぎたかな。それとも、いつまでも犯してしまった過ちに拘ってウジウジしてる弱虫に呆れたかな。
 弱気になった亜麻色の瞳が、ウロウロと青木の胸の上をさまよう。厚い胸板に添えた自分の手の甲を見て、その小ささに哀しくなった。

 青木の広い胸に比べて、この手はなんて小さいんだろう。彼との人間性の差がそのまま現れているようで、ひどく自分が嫌になる。
 あらゆるものを受け入れて自分の糧にしていく青木と、自分が決めた枠組みの中でしか生きられない僕。閉じられた世界に生きる僕には、これ以上の成長は望むべくもなく。やがて青木は僕を見捨てる。共に過ごす時間が長くなるほどに偶像は崩れて、彼の理想だった僕はどこにもいなくなる。そうしたら、青木は僕を置いて先に進むだろう。

 僕の手、赤子のようなこの手は握ることしか知らなくて、だから何も新しいものを掴むことができない。曲げられた指を開けば、ようやくの思いで留めているものまで零れ落ちていってしまうような気がして。永遠に失ったかれの、わずかに僕に残された一滴まで失くしてしまいそうで。
 頑ななまでの強さで握り締められた拳は、僕が過去から抜け出せないことの証拠だ。この手を開かない限りだれの手も摑むことができない、それが分かっているのに指を伸ばすことができない。
 両手を使えばたくさんの金貨が掬えると分かっているのに、握り締めたたった一枚の金貨を失くすことが怖くて手を開けない愚鈍な子供のように。その手のひらの金貨はいつの間にか土くれに変わってしまっているかもしれないのに、それを確認することすらできずにいる。目の前にいたら蹴り飛ばしてやりたい、蒙昧な子供。

 握られたままの小さな手は、しかし、すぐに大きな手に包まれてやさしく撫でられた。薪がおずおずと顔を上げると、羽毛みたいにやわらかなキスが降りてきた。
「他人で良かったですよね。親兄弟と、こんなことできませんもんね」

 うっすらと、薪の視界に水の膜が掛かる。光の屈折のせいで、青木の輪郭がぼやけて見える。いつものように穏やかに笑って、薪の髪を撫でる寛大な恋人。
 青木はやさしい。
 いくらでも甘やかしてくれるし、どんな我が儘もきいてくれる。こんな親に育てられた子供はきっと、手のつけられない不良に育つのだろう。ていうか、僕の性格がどんどん悪くなっていくのは、みんなこいつのせいだ。こいつがやさしすぎるから悪いんだ。
 でも。
 青木の限りないやさしさは、薪の心に活力をくれる。自分が何を言っても、どんな態度を取っても、こいつは僕を嫌いにならない。そんな自惚れを与えてくれる青木の熱っぽい瞳が、薪のネガティブな考えを打ち消してくれる。
 
 薪の心を満たしていた切なさは、いつしか甘い疼きに変わって、薪は思わず青木の頭を抱きしめる。若く張った頬に頬ずりし、深く唇を重ね合わせた。
 薪の頬を伝う涙が口の端について流れ込み、ふたりの舌に吸い込まれた。塩辛い、だけど幸せなキスだった。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

消せない罪(4)

消せない罪(4)





 温めのお湯に、薪はゆっくりと身を沈めた。
 ほっと息をついて、手足を伸ばす。安心しきったように彼が背中を預けたのはバスタブの冷たい壁ではなく、暖かい恋人の胸だった。
 青木は薪の後ろにいて、彼を軽く抱くように腕を回した。薪が首を傾けて、その腕に甘えてくる。怖い夢を見て弱気になっているのだろう、薪には悪いが、青木はうれしい。彼の愛情を疑っているわけではないが、薪は意地っ張りでプライドが高く、素直に青木に甘えてくれることなど滅多にないのだ。

 浮力でいつもの何倍も軽い薪の身体を持ち上げて、自分の左腿の上に座らせ、濡れたくちびるにやさしくキスをする。洗い立ての亜麻色の髪からは柑橘系のシャンプーの香りがして、甘酸っぱい切なさを青木の胸に生じさせる。
「他人じゃなかったら、薪さんの恋人にはなれませんでした。血がつながってなくて、本当に良かったです」
「男同士だけどな」
 薪に皮肉な口調が戻っていることに、青木は安心する。意地悪と皮肉は、薪の元気のバロメーターだ。

「僕かおまえのどっちかが女だったら、本当に良かったって言い切れるかもしれないけど」
「さあ、どうでしょう? オレが女だったら、きっと薪さんには見向きもされなかったでしょうし、薪さんが女性だったら容姿的にも年齢的にもとっくに誰かのものになってて、結局オレの恋人にはなってくれなかったんじゃないですかね。
 だからきっと、男で良かったんですよ」
「おまえって、ほんとポジティブだな。おめでたい奴だ」
 鼻で笑う口調で言って、薪はくるりと青木に背を向ける。再び青木にもたれかかって、細い首を左に倒し、青木の左腕を両手で抱いた。夢のように美しく伸びた後ろ首に、青木はそっとくちびるをつけた。

「なんで僕なんか選んだんだ。ゲイでもないくせに」
 お湯を指で弾いてパチャパチャと青木の腕にかけながら、薪は独り言のように言った。
「僕は男だし、やさしくもないし可愛くもないぞ。我が儘だし自分勝手だし、年上のクセにエッチは下手だし、って悪かったな!!」
 薪らしくなってきた。一人ツッコミが入ったら、それは本来の明るさとユーモアを持った彼が水面に顔を出し始めた証拠だ。

「自分で言って逆切れしないでくださいよ」
 わざと閉口した口調を作って、青木は薪の身体を両腕で抱く。小さな貝殻みたいな耳に口づけて、
「薪さんは、やさしいですよ」
 単純な言葉で、青木は薪の自己評価を否定する。言葉を飾る必要は無い。だってそれは本当のことだから。薪は本当にやさしいのだ。表面に表れないだけで。

「どこが?」
「さっき、オレの背中を気遣ってくださいました」
「心配したわけじゃない、社交辞令みたいなもんだ。てか、ああいうことはするな」
 ぐい、と青木の頭を押しのけて、薪は身体の向きを変えた。青木の顔をじっと見て、キッと眉毛を吊り上げる。
「前にも言っただろ。僕は僕のために誰も傷ついて欲しくないって。忘れたのか?」
 亜麻色の瞳が、強く光る。薪の強さは青木の憧れだ。最初青木は、薪のこの強さに惹かれたのだ。
 強い人に釣り合うように、強い男になりたいと思った。その後で、薪の抱えた傷の深さを知り、もっと強くなりたいと思った。彼をこの手で守りたいと、努力して努力して、だから今の青木があるのだ。

「言ったでしょ、何度でも同じことをするって。忘れちゃったんですか?」
「それはダメだって言っただろ」
「承諾した覚えはありません」
「じゃあ、この場で承諾しろ。でなけりゃ、おまえとはこれきりだ」
「どっちも聞けませんね。オレは、あなたを守ると決めてますから。いくらあなたの頼みでも、それだけは譲れません」
 瞬間、薪は心の底から哀しそうな表情になった。伏せた睫毛が湯気に濡れて、いつもより黒々と見える。

「おまえは親切のつもりなのかもしれないけど、僕には迷惑なんだ。頼むから、僕を庇って自分を傷つけるのはやめてくれ」
 薪は再び後ろを向いて、湯の中から立ち上がった。薄紅色に染まった肌が、匂い立つような色香を添えて青木の目の前にある。こんな会話をしていなければ、襲い掛かっているところだ。

「僕には……誰かに守ってもらう資格なんて……」

 薪は湯から上がり、湯船の縁に腰掛けて、自分の足元に視線を落とした。丸められた背中が、とても小さく見える。青木がもっと強くなりたいと願うのは、薪のこの背中を知っているからだ。
「そんなものは必要ありません。オレがやりたくてすることですから、このさい薪さんの人間性は関係ありません。それに」
 薪の懇願は、今宵彼を苦しめた悪夢の内容と深く関わっている。5年の歳月を経過してなお薪を苦しめる悪魔を打ち倒す術を、青木は未だ見つけ出すことができない。それはおそらく、薪自身にしか見つけられないものなのだろう。だからと言って、指を咥えて見ているのは青木の性に合わない。自分にできることが、何かしらあるはずだ。

「人間は、みんな支えあって生きてくもんだと思いますよ。守り守られて、慈しみあって愛しあって、人としての生を全うして死んでいく。オレたち警察官はそういう社会を創るためにいるんだって、薪さんがオレに教えてくれたんじゃないですか」
「そのコミュニティに、僕は含まれない。僕は……罪深い人間だから」
 搾り出すように、薪は言った。
「やさしくされる資格も、大事にされる資格もない。ましてや、だれかと愛を育むなんて。本当は、一番やっちゃいけないことなんだ」

 薪が愛すること、愛されることに臆病なのは、あの殺人鬼が遺した傷が、まだ治りきっていない証拠だ。貝沼は薪を愛して、だから沢山の少年たちが犠牲になった。鈴木も薪のことを大事に想って、そのせいで命を落とした。
 それは残酷な事実だった。薪に刑法上の罪があるかどうかではなく、自分に向けられた愛情を発端として多くの死体が築かれた、その事実が薪をひとの愛から遠ざけた。

「この世に、罪のない人間なんかいません」
 青木は、敢えてそう言った。ここで正当防衛や殺人教唆の定義を説いても、何の救いにもならない。
「たとえ刑法上の罪に科せられなくても、人間は過ちを犯す生き物です。だけど、どんな過ちを犯したとしても、ひとは幸せになる権利があると思います」
「おまえの言うとおりだ。一度罪を犯した人間は幸せになっちゃいけない、なんてことは僕だって思ってない。僕が言ってるのは、そういうことじゃないんだ。僕は」

 言いかけて止め、薪はきゅ、とくちびるを噛んだ。
 バスタブの縁に置かれた手が震えているのに気付き、青木がその手をそっと握る。青木の手のひらの下で薪の手が動き、ぎゅっと握り返してくる。しかしそこには、恋人の手を握るときの甘さもなければやさしさもなく、まるで崖から落ちかけた人間が差し出された手を夢中で掴む、そんな必死さだけがあって、青木の胸をつまらせた。

「怖いんだ」
 囁くように、薪が言った。

「分からないんだ……あのとき、鈴木を殺したとき。僕は本当に、彼を殺すつもりがなかったのかどうか。
 自分が自覚していなかっただけで、心の底では鈴木に殺意を抱いていたんじゃないのか。いくら恋焦がれても自分のものになってくれない彼を憎んでいた、あるいは、この手で殺すことで彼を独占したいと思っていた。
 貝沼の脳を見た捜査官は、全員狂った。みんな優秀な捜査官だった、残酷な画にも免疫がついていたはずだった、それなのに。貝沼の画には、残虐性以上の何かがあったんだ。人間の心の闇を増幅する何かが。
 僕だって、貝沼の脳を見ているんだ。僕だけが全く影響を受けなかったはずはない。ずっと心の底に押し込めていた、諦めたつもりでいた鈴木への想いが、貝沼に感化されて増幅したのかもしれない。
 それがはっきりしない以上、また同じことを繰り返すかもしれない。その状況に陥ったら、無意識のうちに同じことを……怖いんだ」

 妙に抑揚のない声で、薪は早口に捲くし立てた。記憶した文章を暗誦するように、それは今までに何回も彼の頭の中で繰り返し組み立てられたに違いない、自分を追い詰める検察側の弁証だった。
 大きく振られた亜麻色の髪から、冷たい水滴が飛び散った。ついさっきまで温かい湯の中にいたはずなのに、薪の顔色は紙のように白くなっていた。

「だから……僕はもう、誰も愛さない」



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

消せない罪(5)

消せない罪(5)






 亜麻色の瞳に、白い手が映っている。
 指の長いきれいな手だ。細く、優雅で苦労を知らない手。

 なんておぞましい、と薪は思う。
 どうしてこの右手は、引き金を引くことができたのか。
 反射的に? 防衛本能が働いて?
 一生涯の親友だと思っていたはずなのに。鈴木のいない人生なんか、僕にとっては何の意味もないと知っていたのに。
 あんなに、あんなに愛していたのに。
 なぜ。


「どっちでもいいんじゃないですか」
「えっ?」
 聞き間違いかと思った。
 大きく広げた目と口で振り返ると、青木はもう一度同じ言葉を繰り返した。

「いいですよ、どっちだって。殺意があろうがなかろうが、何も変わりませんよ」
「な……! いいわけないだろ、殺意があったかどうかは正当防衛と殺人罪の分かれ目っ、うわわっ!!」
「大丈夫ですか?」
 興奮して身を乗り出したら、手が滑って湯船の中に落ちてしまった。すぐに青木が救いあげてくれたが、口に入った湯が気管に流れ込んだらしく、激しい咳が止まらない。ゲホゲホと咳き込みつつ、誰のせいだ、と心の中で毒づいた。

 いくら青木がバカでも、そんな突拍子もないことを言ってくるとは思わなかった。それでも警察官か、と怒鳴りつけてやりたい。上司として説教してやる、この咳が落ち着いたら浴室の床に正座だ。
 咳のせいで不規則に波打つ薪の背中を撫でながら、青木は静かに言った。
「考えても無駄ですよ、そんなの。仮に殺意が証明、あるいは否定されたとしても、現状は何も変わらないでしょう」
 ずい分、きついことを言う。
 たしかに、それは青木の言う通りだけど。今更そんなことを明らかにしても鈴木は帰ってこない、それは事実だけど。他人に言われると、ずっしりと重い。無様に咳き込みつつ、薪はじくじくと痛む胸を押さえた。
 
「あなたは安心したいんですよ。どうにかして自分には殺意はなかったと証明して、あれは事故だったと思いたい。でも、そんなの無意味です。一部の隙もない証明が為されたとしても、どうせあなたはそれを否定する要因を必死で探すに決まってます。
 第一、人間が衝動的にしてしまったことに、理由なんかありません。その時の感情なんか、きちんと追えるわけないですよ」
「そんなことはない」
 ようやく息を整えて、薪は濡れた髪を掻きあげた。前髪を後ろに撫で付け、頭から落ちてくる水滴を後方に流す。両手でぐいっと顔を拭くと、バスタブの壁に打ち付けたらしく、右の額にコブができているのに気付いた。触ると痛い。

「長い間の鬱屈した感情が咄嗟の行動に出る。行動心理学の基本だろ」
「それはあくまで学説です。実際には、説明がつかないことだってたくさんあります。例えば」
 青木は何かを思い出すように視線を右上に泳がせ、次いで薪の顔を見て、
「これは実際に起きた事故です。池で溺れている子供がいて、咄嗟に飛び込んだ男が実はカナヅチで、子供は助かったけれど自分は死んでしまった。もちろん、子供と男は赤の他人です。さあ、彼の矛盾した行動の心理を説明してください」
 
 例題を提示して青木は湯船から上がり、薪の腋下に両手を入れて立たせた。洗い場の椅子に薪を座らせ、薪の背後に陣取ってボディタオルに石鹸をこすり付ける。
「目の前で子供が溺れていたら、助けるのが当然だろ」
「だけど、このひとはカナヅチです。池に入ったら自分の命が危険だと分かっていたはずです。それなのに、なぜ?」
「咄嗟のことで、冷静な判断を欠いたんだ。よくある」
  薪は言葉を止めた。危うく、青木の口車に乗せられるところだった。

「その男は普段から子供好きで」
「いいえ。子供に接する機会も、子供と遊んだこともない、どちらかというとアウトロー的なひとでした。恐喝の前科もありました」
 事件の背景を説明しながら、青木は薪の身体を洗い始める。寝汗をかいた背中に、きめ細かい泡とざらついた布の感触が心地よい。
「……それは仮の姿で、本当はとっても子供が好きだったんだ。いつも物陰から子供たちを見守っていて、恐喝で稼いだ金銭は全国の経営難の保育園に寄付を」
「薪さん。それ本気で言ってます?」
 本気のわけないだろ、バカ。

 薪がむっつりした顔で黙り込むと、青木はクスクスと笑いながら、またもやとんでもないことを言い出した。
「突発的な行動に感情面から理由をつけるなんて、不可能なんですよ。オレだって、一昨年の夏にあなたをレイプしたときの理由を説明しろと言われてもできません」
「レイプ? レイプなんかじゃないだろ、あれは。おまえが怒って当然のことを、僕がしたから……」
 弱々しい声音で、最後の頃は殆ど消え入りそうに言って、薪は視線を下方に落とした。
 思い出したくない過去を持ち出されて、薪はますます立つ瀬がなくなる。
 本当に僕って、青木に迷惑をかけてばっかりだ。

「いいえ。あれはレイプです。オレはあなたをレイプしました。これは事実です。
 でも、そうしようと思ってあなたのところへ行ったんじゃありません。それは信じてくれますよね?」
 とりあえず、頷く。
 薪はあのとき、自分がレイプされている意識はなかったし、今でも思ってはいないが、反論は青木の意見を全部聞いてからだ。
「あなたの言う、普段からの鬱屈した感情は確かにありました。オレは鈴木さんに嫉妬して、気が狂いそうだった。だけど、あの時あなたの家に行ったのは、あなたが自分の身体を傷つけているのを知って、それを止めさせたいと思ったんです。助けたいと思って行った筈なのに、逆にあんなことをしてしまった。何故、と言われても説明はできないです」
 青木は薪の腕と胴体を後ろから洗い、それから薪の身体を自分の方に向けさせると、右足を取って洗い始めた。白くて人形のように形のよい足を、真っ白な泡が埋めていく。膝の裏側にタオルが当たると、こそばゆい感じがした。

「あなたの理論で行くと、オレは常日頃からあなたを虐待したいという欲求を心の奥底に秘めていて、それが咄嗟の行動に現れたことになりますけど、そういう解釈でいいですか?」
「いいわけないだろ」
 虐待の対象となる人間の足の指を洗いながら、そんな理屈を吐かれても。
 青木がどれだけ自分を想ってくれているか、薪は分かっている。もう何年も前から青木は僕を―――― 僕のことだけを見つめ、僕のことだけ考えて、僕のためだけに行動してきた。彼の献身と愛情を養分に、僕はここまで生きてこれた。

「オレはあなたが大好きです。あなたも鈴木さんが大好きだった。条件は同じですよね。だから、あなたが自分を罪人だと言い張るなら、オレも罪人です。それで満足ですか?」
「……いや」
 右足が済んだら、次は左だ。薪は自分から足を差し出して、青木の手に乗せた。

「おまえって、やさしそうに見えてけっこうきついよな。こういう場合、殺意なんか無かったって否定してくれるのが普通じゃないのか」
「あなたが自分で自分を疑っている限り、オレが何を言ったって無駄でしょう」
 鋭い。
 薪は黙るしかなかった。

「オレにも罪はあります。あなたが訴えを起こさない限り刑法では裁かれませんけど、あなたを傷つけた罪は極刑に値すると思っています」
 薪の身体をすべて洗い終わると、青木はシャワーの温度を調整して、細い首から肩にかけた。温かい水流が、薪の身体についた泡を落としていく。
「オレの罪は一生消えません。だから、一生かけて償います。あなたを愛して、あなたを傷つけるものから守ります」
「そう思うんなら、一晩中フルスロットルで撃ちまくるのはやめてくれ」
 プロポーズのような青木の言葉を、おそらくはそのつもりで熱をこめたセリフを、薪は冗談ではぐらかした。青木はちょっと眉を寄せて、でもすぐに苦笑してくれた。

 すっかりきれいになった身体を見下ろして、薪は椅子から立ち上がった。浴室から出て、バスタオルで身体を拭き、鏡の前に立つ。ドライヤーで髪を乾かし、櫛を入れて軽く整える。
 遅れて出てきた恋人が、鏡の中で身体についた水滴を拭き取っている。短い黒髪をタオルでガシガシとこすり、前髪を垂らしたその姿は亡き親友にそっくりで、薪の胸はぎゅっと押し潰されたみたいに苦しくなる。
 だから薪はそっと目線を鏡から外して、彼を見ない振りで脱衣所を出ようとする。

「おこがましいとは思ってますよ。オレなんかが、あなたを守りたいなんて」
 ドアノブに掛かった手が、青木の言葉で止まる。身を固くしたまま、薪は動けなくなった。
「でも、オレはあなたを守りたくて、これまで必死にやってきたんです。オレが何年もかけて培ってきた努力を、あなたは否定するんですか?」
「それは、自分のために使ったらいい。あるいは、他の大切な誰かを見つけて、そのひとのために」
「他の誰かじゃダメなんです」
 薪の言葉が終わらぬうちに、青木は言葉を重ねた。彼らしくない性急さだった。

 濡れた髪をそのままに、腰にバスタオルを巻いただけの格好で、青木は薪が見つめているドアに両手をついた。 大きな2つの手が薪の左右の動きを封じ、薪は青木がドアとの間に作り出した空間に閉じ込められた。
 真剣に、真っ直ぐに、青木はいつも真っ向勝負を挑んでくる。警察機構で10余年の時を過ごし、強要される隠蔽工作や汚い裏取引にまみれるうち、薪が無くしてしまった高潔な魂。それを持ち続けている彼が眩しくて、薪は長い睫毛を伏せる。
「今のオレがあるのは、全部あなたのおかげです。どうか、今のオレを否定しないでください」

 それは違う。
 僕は何もしていない、青木が勝手に誤解してるだけで、僕は彼の尊敬を受けられるような人間じゃない。卑怯で汚くて意気地無しで……彼のような純粋さが僕の中にひと欠片でも残っていれば、僕だってもう少し自分を信じられるかもしれないのに。

「薪さん。こっち向いてください」
 できない、振り向けない。今は青木を見たくない。
 こんなふうに、自分が世界中の誰よりも卑小な存在だと思い知らされる夜に、僕の偶像を信じている男と向き合いたくない。彼の中の自分と現実の自分のギャップに、目眩がしそうだ。薪はぎゅっと拳を握り締め、歯を食いしばって足を踏ん張った。

「オレはもともと、格闘技は苦手だったんです。柔道も剣道も好きじゃなかった。でも、あなたを守るためには必要だと思ったから。だから続けてこれたんです。
 仕事だって同じです、昇格試験だって。あなたがオレの能力を引き上げた。あなたがいなかったら、幹部候補生の選抜に残った青木警視はこの世に存在しませんでした」
 耳孔に流れ込む熱い言葉。
 青木がこれまで続けてきた懸命な努力も、周りが目を瞠るような成長も、全部薪がいたからだと言い張る彼の口調の激しさに、薪は反論を封じられる。ちゃんと諭してやらなければと思うが、まともに喋れそうにない。今夜はどうも涙腺が緩くて、ちょっとのことで目の前がぼやけて困る。

「感謝してます」
 青木はその言葉を神の福音のように薪に告げ、髪にキスをした。かすかに触れただけのそれは、頭上から温かい雨のように身体中に広がり、末端の指先まで行き渡ると、静脈から還る血液のように薪の胸に戻ってきた。握り締めていたはずの拳は、いつの間にか開いていた。
 
 薪はやおらに青木を振り向くと、彼の顔をじっと見た。
 僕が殺した親友にとてもよく似ている、だけどこれは青木だ、青木一行。僕の現在の恋人だ。

「週末の予定だけど」
 深く息を吸い、腹の底に力を込めて、薪は努めて落ち着いた声を出した。急な話題の転換に目をパチパチさせつつも、青木は話を合わせる。
「あ、はい。海ですか、プールですか」
「ビキニの女の子が沢山いるほうがいい」
「……なんかフクザツなんですけど、その選択基準」
 ムッと尖らせた青木の唇に、薪は背伸びをしてキスをする。青木の首に両手で掴まれば、自然に青木の腕が薪の身体を抱き上げる。そのままベッドまで運んで、替えたばかりの清潔なシーツの上に寝せてくれる。
 朝まで、まだ時間がある。今夜は眠らないつもりだったが、少しでも睡眠を摂りたいと今の薪は思う。

「そうだ、やっぱり海がいい。波がきたらポロリもありえるだろ」
「……ほんっとに、エロオヤジなんだから」
「男なら当然だろ? エロオヤジ抱いて喜んでるおまえの方がおかしいんだ」
「そういうこと言うから、泣かせたくなっちゃうんですよ。覚悟してください」
「こ、こら! 昨夜しただろ、月2回の約束だぞ」
「自業自得です」
「なんでだ! あっ、あっ!」
 結局、睡眠時間はなくなってしまった。今日は一日、地獄だ。

 シーツをぎゅっと握り締め、打ち込まれる熱情を窮屈に折り曲げられたからだで受けつつ、薪は思う。
 僕は、存在していてもいいのですか、と神さまに訊いたら、否という答えが返ってくるのかも知れない。でも、ここに僕を必要としてくれるひとがいる。僕の存在こそが自分の存在意義だとまで言い切るカンチガイヤローだけど、でも彼は神の祝福を受けるべき人間だ。清らかで美しく一点の曇りもない、地上にいながら天上人の魂を持ち続けている。

 その彼が、望むなら。
 僕は、彼の望みを叶えたい。

 彼が信じる美しい僕、強く穢れない偶像。その姿に一歩でも近付きたい。
 彼のために、僕自身のために。
 きっとそれが僕たちの別れを遠いものにしてくれると信じて。

 薪はシーツを手放した。腕を伸ばして、自分を抱く男の背中に手を回す。指をいっぱいに広げて、汗ばんだ皮膚に押し付ける。
 白い背中を仰け反らせ、薪は青木の背中に思い切り爪を立てた。


 ―了―


(2010.5)



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

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Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
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