消せない罪(1)

 こんにちは。

 こちらは 『秘密のたまご』 のみちゅうさんの創作 『Angel’s court』 (未読の方はぜひぽちっと飛んでください) を拝読しまして、いつものように、おおお、みちゅうさんは素晴らしい! と惚れ直しまして。

 で、思ったんですけど、うちの薪さんは、どうして鈴木さんを撃ったんだろうなーって。(直球ですみません)
 だって、大好きだったのに。 あんなにあんなに、愛してたのに。 いくら咄嗟のことだからって、ありえなくね?
 うちの場合は、昔のこととはいえ身体の関係もあった恋人同士で、振られてからもずーっと彼への想いを引き摺り続けてたわけですから、あの状況でも撃つのは不自然じゃないかなって。

 原作がそうなってるから、と言うのは答えにならないので、とりあえず書いてみました。


 書いたのは5月なんですけどね。
 あの日も近いし、時期的にもよろしいので、この辺で。


 内容は、あおまきさんが一緒に寝て起きて、一緒にお風呂に入って、最後にえっちするお話です。(テーマと内容があってなくてすみません) 


 よろしくお願いします。





消せない罪(1)





 見てはいけない、知ってはいけない。それはパンドラの函。そこには恐ろしい魔物が棲んでいる。
 その魔物は、僕を破滅に導く。
 掘り起こしてはいけない、僕の奥底に眠る、この秘密を。



*****



 あの時のことは憶えていない。
 自分が何をしたかは憶えている、でもどうしてそれを為したのか、説明することはできない。その時の自分の感情を、僕は思い出すことができない。
 これまで一度も、それを試みたことはなかった。どんな心の動きから、この右手が引き金を引いたのか、自分の深層を探ろうとしたことはなかった。

 正当防衛が認められた事件で、加害者が被害者を殺した理由に焦点が当てられることはなかった。誰にも尋ねられないのをいいことに、僕はそこから目を背けた。僕は本能的に悟っていたのかもしれない。自分の深淵に潜む、恐ろしい怪物の存在を。
 何人もの捜査員を死に至らしめた、貝沼清孝の脳。その画を見続けた者が、彼の狂気にまったく影響を受けないなど、考えられない。自分もまた彼の影響を受けているはず、にも関わらず正気を保っている、あるいは保っていると周囲の人間に信じ込ませることができた、それは何故か。

 僕には、貝沼の気持ちが理解できたから。
 貝沼の凶行は、愛情から派生した行為だと理解したから。

 貝沼は、犠牲になった少年たちをゆっくりと死に至らしめながら、彼らにずっと愛の言葉を囁き続けた。
『きれいだよ』『愛しているよ』『とても可愛いよ』
 そんな甘い台詞と共に、彼らを犯し、その背中にナイフを突き立てた。
 第九の捜査員たちは、貝沼の行動は矛盾の極地であり、明らかに狂った人間の所業だと報告書に記載した。それに承認印を押しながらも、僕はその報告に心から納得していたわけではなかった。愛するひとの命をこの手で終わらせたいと望むのは、それほど異常なことではないような気がした。

 この世で一番欲しいものが手に入らなかったら、どうする?
 諦めなければいけないと、何度も何度も自分に言い聞かせて、何年も何年も自分の感情を殺し続けて、それでも思い切ることができないほどに恋焦がれていたら?

 そこまで思った相手は、この春、10年以上付き合った恋人と婚約し、今年中には彼女と結婚して、名実共に彼女のものになる。そんな状況下で。
 この指を手前に引くだけで、かれが他のひとのものになるのを見ないですむ、そんな夢のような話が突然舞い込んできたら?その誘惑に耐え切れるか?

 殺意はあった。たしかにあった。
 僕は鈴木を殺すつもりで、彼の心臓を撃ち抜いた。

 僕は今宵もあの日の夢を見る。あの刹那、彼が確実に僕のものに、僕だけのものになったあの瞬間。僕は彼の頭をこの胸に抱き、彼の最期の息をくちびるで吸い取る。彼がこの世に残した最後の一呼吸、それは僕の細胞に取り込まれ、彼と僕はひとつになる。めくるめくような歓喜が僕を包み、僕はうれしさのあまり涙を流し、彼に取り縋り、底知れぬ官能に身を焼かれる。
 これで彼は僕のもの。生涯ずっと、ぼくだけのもの。

 かれはぼくのもの、カレハボクノモノカレハボクノ、ボクノボクノ……。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

消せない罪(2)

消せない罪(2)






「あああああっ!!」

 悲鳴と同時に細いからだが大きく震えて、薪の背中をベッドから引き離した。髪の毛を引き毟るように両手で摑み、陸に上がったばかりの人魚のように乱れた呼吸でひりつく喉をこじ開ける。
 ヒューヒューと掠れた声が喉奥から洩れ、空気を取り込むことに困難を覚えて、彼は生命の危機を感じる。呼吸の方法を思い出すために、彼はいつもの儀式を自分に施そうとする。薄い爪を腕に立て、力を入れて下方に引く。痛みによる刺激だけが薪に平常を連れてきてくれる、何年か前まではそれが彼の日常だった。

 だれかの手が薪の手を取り、その指先を導いた。手に触れたあたたかい肌に、薪は遠慮なく爪を立てる。爪で肉を抉る感触、削り取られた皮膚と血が爪の間から溢れる感覚。薪の顔は弾力のある板のようなものに押し当てられて、頬を流れ落ちる涙がその物体との間に冷たい水の膜を作った。

「ちがうっ、僕はそんな……ちがうちがうちが……」

 だれに対する釈明なのか、自分でもよく分からない。それ以前に、何が違うのかもはっきりしない。でもその言葉を外に出さなかったら、身体が破裂してしまいそうで怖い。今自分の中を満たしている正体不明の恐怖感、それを払拭しようと薪は同じ言葉を繰り返し、悪魔を調伏する呪文のごとく唱え続けた。
 息をするのも忘れたように吐き続けた呪文は、やがて彼に肉体的な疲労とそれに伴う緩心を連れてくる。時間の経過と共にガチガチに強張っていた肩と背中の力が抜け、白い腕がだらりと落ちた。

「落ち着きました?」
 上から、低い男の声が聞こえた。耳に親しんだテノール。いつも穏やかで、荒ぶるときは滅多とない。特に薪には徹底的に甘いその声。
 この声を聞くと安心する。と同時に、大きな手が自分の髪を撫でていたことにも気付く。
「手を拭きましょう。シーツが汚れちゃいます」
 見ると、薪の爪先は血に塗れている。自分の手足を見るが、傷はない。顔を上げると、背中の傷を隠すように素早くローブをまとう恋人の姿が亜麻色の瞳に映った。

 寝室から出て行く長身の後姿に、薪は慌てて取り縋ろうとする。今はひとりになりたくない。
だけど、血に汚れた自分の手を見れば、焦燥のままに彼を止めることもできない。この手で誰かに触れることは許されない。
 
 やがて帰ってきた恋人に、湯気の立つ蒸しタオルを渡されて両手を拭い、それで表面の汚れは落ちるけれど、骨の髄に沁みこんだ穢れは消えない。薪が本当に浄化したいのはこちらのほうだ。もしも肉を裂き骨を出し、直接それを拭き取ることが可能なら迷わずにそうする。

 詮無いことを考えて、薪は苦く笑う。
 そんなことをしても、罪は消えない。消してはいけない。

「眠れないときにはホットミルクがいいんですけど。薪さん、牛乳嫌いだから」
 そう言って、大きな手から渡されたマグカップには熱いレモネード。薪の好きなレモンの香りと甘酸っぱい味わいが、彼の心を切なくさせる。
 空になったカップをベッドシェルフの上に置き、薪は隣に座った男のローブの紐を緩める。布地の隙間から手を入れて、あたたかい胸に頬を押し付け、一定のリズムで刻まれるトクトクという音を聞く。

「青木。今日は」
「薪さん、オレ今夜泊まってもいいですか?」
 言おうとした言葉を相手から先に言ってもらえる、なんて愛情に溢れた、だけどそれは見透かされた会話。この状況なら青木は、きっとそう言ってくれるだろうと思っていた。浅ましく計算高い自分。薪は自嘲の形にくちびるを歪める。
 平日に上司の家に泊まって夜中に何度も起こされて、その上翌朝はいつもより早く起きて自宅に帰って出勤の準備。それでも仕事には100%の力を注げと、彼の睡眠時間を削った本人は主張する。その命令に彼が甘んじて従うだろうということも、薪には分かっている。どこまでも身勝手な自分とやさしい青木。彼の愛情を温床にして、僕はどんどん醜く育つ。

 裸のまま、再びベッドに横になって、互いの背中に手を回す。眠りに就く前とは違う穏やかな抱擁が薪を包み、その安らぎに彼の心は痛みを覚える。

 僕の罪は死んでも消えない。

 鈴木の命を奪ったこの右手を切り落としたって、身体中バラバラに切り裂いたって、この穢れは消えない。多分、死んでも消えない。そんな汚れきった自分がなおも、残された人生を共に歩むだれかを求めてしまうという傲慢なまでの脆弱さ。自分だけが穢れているのが耐えられないのか、共に堕ちてくれる犠牲者を欲しているのか。
 罪に罪を重ねるように毎日を過ごして、きっと僕はそのうち地獄に落ちるのだろう。一緒に落ちて欲しいと頼んだら、青木はつきあってくれるだろうか。それとも、青木らしい大胆さで僕を天国に押し上げようとするだろうか。自分を身代わりにと閻魔に頼み込んで、僕の気持ちなんかきれいに無視して、かつて鈴木が僕を救おうとその身を犠牲にしたように、僕が望んでもいない自己犠牲を押し付けてくるのだろうか。

「ごめんな。背中、痛かったろ」
 感情も籠めずに謝って、彼の自己犠牲の証を指でなぞる。こんなことをしてもらっても、嬉しくもないし申し訳なくも思わない、僕がそんな冷酷な人間だと青木は知らない。

 僕は犠牲なんか望まない。守ってなんか欲しくなかった、鈴木が死ぬなら僕も死にたかった。自分の命まで差し出したのに、それを向けられた僕はありがたいとも思わない、そんなに僕を大事に思ってくれて、と感動もしない。そんな人間のために鈴木は死んだ。親友の鈴木でさえ分からなかった僕の非情さを、青木が分かるとも思えない。

「大丈夫ですよ、背中はしょっちゅう薪さんに引っかかれてますから。噛まれるより痛くないです」
 常ならば傷口をつねってやるところだが、今はそんな気にならない。天井の送風口から送られてくる涼やかな風と青木の胸の温度差が、薪の気持ちをなだらかにする。このまま眠ったら、さぞ気持ちがいいだろう。
 でも今夜はダメだ。多分、またすぐうなされる。ひとりではいたくないけれど、青木に負担をかけるのもいやだ。
 黙って目を閉じて身じろぎもせず、眠った振りをして神経を尖らせ、薪は必死で睡魔に抵抗する。
 青木が眠ったら、寝顔を見てやろう。いつも自分の方が先に眠ってしまうから、たまには逆の立場になって、口の周りにヒゲでも描いてやろう。

「ちょっとお喋りしましょうか。薪さん、眠くないんでしょう?」
 不意に提案されて、薪は驚く。じっとしていたのに、どうして起きてるってわかったんだろう。
「オレもなんか、目が冴えちゃって。せっかくだから、週末の予定を決めましょうよ。海とプール、どっちがいいですか?」
「なんで両方水系なんだ」
「夏ですから。夏にしかできないことをしましょうよ」
 ずっと昔、夏が大好きだった頃の自分のように、青木はウキウキした口調で言った。大人になってからは、夏の到来を心待ちにすることはなくなった。ギラギラと無遠慮に照り付ける太陽、ゆらゆらと立ち上るアスファルトの陽炎、湿度が高く不快な熱帯夜――― 今では嫌悪さえ感じる。どうして子供の頃はこの季節が嬉しかったのか、不思議だ。
 それとも。

 鈴木を殺したのが冬だったら、僕は冬が嫌いになったのだろうか。潔くピンと張った朝の空気が、凍てつく夜の魂を奪われるような星空が、真っ白な雪の美しさが、嫌悪すべきものとして感じられたのだろうか。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

消せない罪(3)

消せない罪(3)




「夏は、あまり外に出たくないんだ。暑いから」
 目を閉じて額を青木の胸につけたままの姿勢で、薪は一般的な言い訳を口にした。青木も薪を腕の中におさめたまま、応えを返す。
「薪さん、暑さには強いんじゃなかったんですか?」
「日焼けすると痛いし」
「プールなら大丈夫ですよ。室内ですから」
「夏は……楽しむ気分になれないんだ」
 どんなにフォローしたってムダだ、この季節には僕は何もできない。

 だって、夏のすべてが僕にあのことを思い出させる。入道雲の浮いた空を見れば、あの日の太陽も眩しかったと、背中に汗が伝えば、あの日もとても暑い日だったと。蝉時雨も野鳥のさえずりも、夕立も夏祭りも花火も蛍もみんなみんな、鈴木との最後の季節を思い起こさせる。

 正直に言うことで、青木に嫌な思いをさせてしまうという危惧はあった。でも、これ以上喋りたくない。今はただこうしていたい、言葉は欲しくない。
 薪の予想通り、青木は黙り込んだ。そりゃそうだ、掛ける言葉なんか見つからないだろう。青木は僕の過去を知っている。
 どんな言葉で取り繕っても、僕が人を殺した事実は消えない。鈴木は僕を守ろうとあんなことをした、貝沼の犯行は僕が指示したわけじゃない、僕のせいじゃない、僕はむしろ被害者だ。弁護側の主張はしかし、この右手を見た途端あっさりと覆る。血に染まった自分の手、彼の命を奪った右手。どんなに優秀な弁護士もたちどころに声を失う、決定的な物的証拠。この右手は、彼の命を奪った一連の所作を細胞に刻み込んでいる。その記憶は久遠のものだ。

「楽しむ気分になれないんじゃなくて、楽しんじゃいけないと思ってるんじゃないですか」

 ぎくりと背中を強張らせて、薪は肩を竦めた。青木はやさしいくせに、時々ものすごく鋭いことを言う。普通の人間なら気を使って言わないようなことをあっさり口にする、それは彼の恋人としての優越なのか、それとも。
「夏は毎年来るんですよ。薪さんがいくらがんばったって、無くすことも止めることもできないんです。その度にそんなに落ち込んで暗くなる気なんですか? こっちもいい迷惑なんですけど」
「頼んでないだろ!」
 カッとして薪は叫んだ。
「だれもおまえに慰めてくれなんて頼んでない! 放っときゃいいだろ、僕のことなんか」

 両の手で青木の腕を押し、身体を離そうとするが、大きな男の身体はビクともしない。自分の非力を思い知らされて、こめかみの辺りがかあっと熱くなるのを感じて、薪はめちゃくちゃに青木の腕を叩いた。
「それができれば、オレも苦労しないんですけど」
「苦労かけて悪かったな。わかった、今すぐ別れてやる。僕とおまえは今から他人だ」
「もともと他人でしょ、オレたち」
 思いがけない青木の言葉に、薪は咄嗟に息を飲んだ。

 たしかに。何年付き合ったって、僕たちは夫婦にはなれないし。
 青木は腕を緩め、薪の身体を離した。逃げるなら今がチャンスだ。が、薪は動くことができない。いつもの脅し文句に返ってきた、いつもとは違う言葉。その冷たさが、薪の心臓を凍りつかせた。

 青木のことだからきっと、「そんなこと言わないでください、オレ、薪さんと別れたら生きていけないです」とか、僕に自信を持たせる言葉を言ってくれると期待していた。それなのに、売り言葉に買い言葉みたいなことを。
 もしかして、青木は本当に僕のことがイヤになっちゃったのかな。我が儘が過ぎたかな。それとも、いつまでも犯してしまった過ちに拘ってウジウジしてる弱虫に呆れたかな。
 弱気になった亜麻色の瞳が、ウロウロと青木の胸の上をさまよう。厚い胸板に添えた自分の手の甲を見て、その小ささに哀しくなった。

 青木の広い胸に比べて、この手はなんて小さいんだろう。彼との人間性の差がそのまま現れているようで、ひどく自分が嫌になる。
 あらゆるものを受け入れて自分の糧にしていく青木と、自分が決めた枠組みの中でしか生きられない僕。閉じられた世界に生きる僕には、これ以上の成長は望むべくもなく。やがて青木は僕を見捨てる。共に過ごす時間が長くなるほどに偶像は崩れて、彼の理想だった僕はどこにもいなくなる。そうしたら、青木は僕を置いて先に進むだろう。

 僕の手、赤子のようなこの手は握ることしか知らなくて、だから何も新しいものを掴むことができない。曲げられた指を開けば、ようやくの思いで留めているものまで零れ落ちていってしまうような気がして。永遠に失ったかれの、わずかに僕に残された一滴まで失くしてしまいそうで。
 頑ななまでの強さで握り締められた拳は、僕が過去から抜け出せないことの証拠だ。この手を開かない限りだれの手も摑むことができない、それが分かっているのに指を伸ばすことができない。
 両手を使えばたくさんの金貨が掬えると分かっているのに、握り締めたたった一枚の金貨を失くすことが怖くて手を開けない愚鈍な子供のように。その手のひらの金貨はいつの間にか土くれに変わってしまっているかもしれないのに、それを確認することすらできずにいる。目の前にいたら蹴り飛ばしてやりたい、蒙昧な子供。

 握られたままの小さな手は、しかし、すぐに大きな手に包まれてやさしく撫でられた。薪がおずおずと顔を上げると、羽毛みたいにやわらかなキスが降りてきた。
「他人で良かったですよね。親兄弟と、こんなことできませんもんね」

 うっすらと、薪の視界に水の膜が掛かる。光の屈折のせいで、青木の輪郭がぼやけて見える。いつものように穏やかに笑って、薪の髪を撫でる寛大な恋人。
 青木はやさしい。
 いくらでも甘やかしてくれるし、どんな我が儘もきいてくれる。こんな親に育てられた子供はきっと、手のつけられない不良に育つのだろう。ていうか、僕の性格がどんどん悪くなっていくのは、みんなこいつのせいだ。こいつがやさしすぎるから悪いんだ。
 でも。
 青木の限りないやさしさは、薪の心に活力をくれる。自分が何を言っても、どんな態度を取っても、こいつは僕を嫌いにならない。そんな自惚れを与えてくれる青木の熱っぽい瞳が、薪のネガティブな考えを打ち消してくれる。
 
 薪の心を満たしていた切なさは、いつしか甘い疼きに変わって、薪は思わず青木の頭を抱きしめる。若く張った頬に頬ずりし、深く唇を重ね合わせた。
 薪の頬を伝う涙が口の端について流れ込み、ふたりの舌に吸い込まれた。塩辛い、だけど幸せなキスだった。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

消せない罪(4)

消せない罪(4)





 温めのお湯に、薪はゆっくりと身を沈めた。
 ほっと息をついて、手足を伸ばす。安心しきったように彼が背中を預けたのはバスタブの冷たい壁ではなく、暖かい恋人の胸だった。
 青木は薪の後ろにいて、彼を軽く抱くように腕を回した。薪が首を傾けて、その腕に甘えてくる。怖い夢を見て弱気になっているのだろう、薪には悪いが、青木はうれしい。彼の愛情を疑っているわけではないが、薪は意地っ張りでプライドが高く、素直に青木に甘えてくれることなど滅多にないのだ。

 浮力でいつもの何倍も軽い薪の身体を持ち上げて、自分の左腿の上に座らせ、濡れたくちびるにやさしくキスをする。洗い立ての亜麻色の髪からは柑橘系のシャンプーの香りがして、甘酸っぱい切なさを青木の胸に生じさせる。
「他人じゃなかったら、薪さんの恋人にはなれませんでした。血がつながってなくて、本当に良かったです」
「男同士だけどな」
 薪に皮肉な口調が戻っていることに、青木は安心する。意地悪と皮肉は、薪の元気のバロメーターだ。

「僕かおまえのどっちかが女だったら、本当に良かったって言い切れるかもしれないけど」
「さあ、どうでしょう? オレが女だったら、きっと薪さんには見向きもされなかったでしょうし、薪さんが女性だったら容姿的にも年齢的にもとっくに誰かのものになってて、結局オレの恋人にはなってくれなかったんじゃないですかね。
 だからきっと、男で良かったんですよ」
「おまえって、ほんとポジティブだな。おめでたい奴だ」
 鼻で笑う口調で言って、薪はくるりと青木に背を向ける。再び青木にもたれかかって、細い首を左に倒し、青木の左腕を両手で抱いた。夢のように美しく伸びた後ろ首に、青木はそっとくちびるをつけた。

「なんで僕なんか選んだんだ。ゲイでもないくせに」
 お湯を指で弾いてパチャパチャと青木の腕にかけながら、薪は独り言のように言った。
「僕は男だし、やさしくもないし可愛くもないぞ。我が儘だし自分勝手だし、年上のクセにエッチは下手だし、って悪かったな!!」
 薪らしくなってきた。一人ツッコミが入ったら、それは本来の明るさとユーモアを持った彼が水面に顔を出し始めた証拠だ。

「自分で言って逆切れしないでくださいよ」
 わざと閉口した口調を作って、青木は薪の身体を両腕で抱く。小さな貝殻みたいな耳に口づけて、
「薪さんは、やさしいですよ」
 単純な言葉で、青木は薪の自己評価を否定する。言葉を飾る必要は無い。だってそれは本当のことだから。薪は本当にやさしいのだ。表面に表れないだけで。

「どこが?」
「さっき、オレの背中を気遣ってくださいました」
「心配したわけじゃない、社交辞令みたいなもんだ。てか、ああいうことはするな」
 ぐい、と青木の頭を押しのけて、薪は身体の向きを変えた。青木の顔をじっと見て、キッと眉毛を吊り上げる。
「前にも言っただろ。僕は僕のために誰も傷ついて欲しくないって。忘れたのか?」
 亜麻色の瞳が、強く光る。薪の強さは青木の憧れだ。最初青木は、薪のこの強さに惹かれたのだ。
 強い人に釣り合うように、強い男になりたいと思った。その後で、薪の抱えた傷の深さを知り、もっと強くなりたいと思った。彼をこの手で守りたいと、努力して努力して、だから今の青木があるのだ。

「言ったでしょ、何度でも同じことをするって。忘れちゃったんですか?」
「それはダメだって言っただろ」
「承諾した覚えはありません」
「じゃあ、この場で承諾しろ。でなけりゃ、おまえとはこれきりだ」
「どっちも聞けませんね。オレは、あなたを守ると決めてますから。いくらあなたの頼みでも、それだけは譲れません」
 瞬間、薪は心の底から哀しそうな表情になった。伏せた睫毛が湯気に濡れて、いつもより黒々と見える。

「おまえは親切のつもりなのかもしれないけど、僕には迷惑なんだ。頼むから、僕を庇って自分を傷つけるのはやめてくれ」
 薪は再び後ろを向いて、湯の中から立ち上がった。薄紅色に染まった肌が、匂い立つような色香を添えて青木の目の前にある。こんな会話をしていなければ、襲い掛かっているところだ。

「僕には……誰かに守ってもらう資格なんて……」

 薪は湯から上がり、湯船の縁に腰掛けて、自分の足元に視線を落とした。丸められた背中が、とても小さく見える。青木がもっと強くなりたいと願うのは、薪のこの背中を知っているからだ。
「そんなものは必要ありません。オレがやりたくてすることですから、このさい薪さんの人間性は関係ありません。それに」
 薪の懇願は、今宵彼を苦しめた悪夢の内容と深く関わっている。5年の歳月を経過してなお薪を苦しめる悪魔を打ち倒す術を、青木は未だ見つけ出すことができない。それはおそらく、薪自身にしか見つけられないものなのだろう。だからと言って、指を咥えて見ているのは青木の性に合わない。自分にできることが、何かしらあるはずだ。

「人間は、みんな支えあって生きてくもんだと思いますよ。守り守られて、慈しみあって愛しあって、人としての生を全うして死んでいく。オレたち警察官はそういう社会を創るためにいるんだって、薪さんがオレに教えてくれたんじゃないですか」
「そのコミュニティに、僕は含まれない。僕は……罪深い人間だから」
 搾り出すように、薪は言った。
「やさしくされる資格も、大事にされる資格もない。ましてや、だれかと愛を育むなんて。本当は、一番やっちゃいけないことなんだ」

 薪が愛すること、愛されることに臆病なのは、あの殺人鬼が遺した傷が、まだ治りきっていない証拠だ。貝沼は薪を愛して、だから沢山の少年たちが犠牲になった。鈴木も薪のことを大事に想って、そのせいで命を落とした。
 それは残酷な事実だった。薪に刑法上の罪があるかどうかではなく、自分に向けられた愛情を発端として多くの死体が築かれた、その事実が薪をひとの愛から遠ざけた。

「この世に、罪のない人間なんかいません」
 青木は、敢えてそう言った。ここで正当防衛や殺人教唆の定義を説いても、何の救いにもならない。
「たとえ刑法上の罪に科せられなくても、人間は過ちを犯す生き物です。だけど、どんな過ちを犯したとしても、ひとは幸せになる権利があると思います」
「おまえの言うとおりだ。一度罪を犯した人間は幸せになっちゃいけない、なんてことは僕だって思ってない。僕が言ってるのは、そういうことじゃないんだ。僕は」

 言いかけて止め、薪はきゅ、とくちびるを噛んだ。
 バスタブの縁に置かれた手が震えているのに気付き、青木がその手をそっと握る。青木の手のひらの下で薪の手が動き、ぎゅっと握り返してくる。しかしそこには、恋人の手を握るときの甘さもなければやさしさもなく、まるで崖から落ちかけた人間が差し出された手を夢中で掴む、そんな必死さだけがあって、青木の胸をつまらせた。

「怖いんだ」
 囁くように、薪が言った。

「分からないんだ……あのとき、鈴木を殺したとき。僕は本当に、彼を殺すつもりがなかったのかどうか。
 自分が自覚していなかっただけで、心の底では鈴木に殺意を抱いていたんじゃないのか。いくら恋焦がれても自分のものになってくれない彼を憎んでいた、あるいは、この手で殺すことで彼を独占したいと思っていた。
 貝沼の脳を見た捜査官は、全員狂った。みんな優秀な捜査官だった、残酷な画にも免疫がついていたはずだった、それなのに。貝沼の画には、残虐性以上の何かがあったんだ。人間の心の闇を増幅する何かが。
 僕だって、貝沼の脳を見ているんだ。僕だけが全く影響を受けなかったはずはない。ずっと心の底に押し込めていた、諦めたつもりでいた鈴木への想いが、貝沼に感化されて増幅したのかもしれない。
 それがはっきりしない以上、また同じことを繰り返すかもしれない。その状況に陥ったら、無意識のうちに同じことを……怖いんだ」

 妙に抑揚のない声で、薪は早口に捲くし立てた。記憶した文章を暗誦するように、それは今までに何回も彼の頭の中で繰り返し組み立てられたに違いない、自分を追い詰める検察側の弁証だった。
 大きく振られた亜麻色の髪から、冷たい水滴が飛び散った。ついさっきまで温かい湯の中にいたはずなのに、薪の顔色は紙のように白くなっていた。

「だから……僕はもう、誰も愛さない」



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

消せない罪(5)

消せない罪(5)






 亜麻色の瞳に、白い手が映っている。
 指の長いきれいな手だ。細く、優雅で苦労を知らない手。

 なんておぞましい、と薪は思う。
 どうしてこの右手は、引き金を引くことができたのか。
 反射的に? 防衛本能が働いて?
 一生涯の親友だと思っていたはずなのに。鈴木のいない人生なんか、僕にとっては何の意味もないと知っていたのに。
 あんなに、あんなに愛していたのに。
 なぜ。


「どっちでもいいんじゃないですか」
「えっ?」
 聞き間違いかと思った。
 大きく広げた目と口で振り返ると、青木はもう一度同じ言葉を繰り返した。

「いいですよ、どっちだって。殺意があろうがなかろうが、何も変わりませんよ」
「な……! いいわけないだろ、殺意があったかどうかは正当防衛と殺人罪の分かれ目っ、うわわっ!!」
「大丈夫ですか?」
 興奮して身を乗り出したら、手が滑って湯船の中に落ちてしまった。すぐに青木が救いあげてくれたが、口に入った湯が気管に流れ込んだらしく、激しい咳が止まらない。ゲホゲホと咳き込みつつ、誰のせいだ、と心の中で毒づいた。

 いくら青木がバカでも、そんな突拍子もないことを言ってくるとは思わなかった。それでも警察官か、と怒鳴りつけてやりたい。上司として説教してやる、この咳が落ち着いたら浴室の床に正座だ。
 咳のせいで不規則に波打つ薪の背中を撫でながら、青木は静かに言った。
「考えても無駄ですよ、そんなの。仮に殺意が証明、あるいは否定されたとしても、現状は何も変わらないでしょう」
 ずい分、きついことを言う。
 たしかに、それは青木の言う通りだけど。今更そんなことを明らかにしても鈴木は帰ってこない、それは事実だけど。他人に言われると、ずっしりと重い。無様に咳き込みつつ、薪はじくじくと痛む胸を押さえた。
 
「あなたは安心したいんですよ。どうにかして自分には殺意はなかったと証明して、あれは事故だったと思いたい。でも、そんなの無意味です。一部の隙もない証明が為されたとしても、どうせあなたはそれを否定する要因を必死で探すに決まってます。
 第一、人間が衝動的にしてしまったことに、理由なんかありません。その時の感情なんか、きちんと追えるわけないですよ」
「そんなことはない」
 ようやく息を整えて、薪は濡れた髪を掻きあげた。前髪を後ろに撫で付け、頭から落ちてくる水滴を後方に流す。両手でぐいっと顔を拭くと、バスタブの壁に打ち付けたらしく、右の額にコブができているのに気付いた。触ると痛い。

「長い間の鬱屈した感情が咄嗟の行動に出る。行動心理学の基本だろ」
「それはあくまで学説です。実際には、説明がつかないことだってたくさんあります。例えば」
 青木は何かを思い出すように視線を右上に泳がせ、次いで薪の顔を見て、
「これは実際に起きた事故です。池で溺れている子供がいて、咄嗟に飛び込んだ男が実はカナヅチで、子供は助かったけれど自分は死んでしまった。もちろん、子供と男は赤の他人です。さあ、彼の矛盾した行動の心理を説明してください」
 
 例題を提示して青木は湯船から上がり、薪の腋下に両手を入れて立たせた。洗い場の椅子に薪を座らせ、薪の背後に陣取ってボディタオルに石鹸をこすり付ける。
「目の前で子供が溺れていたら、助けるのが当然だろ」
「だけど、このひとはカナヅチです。池に入ったら自分の命が危険だと分かっていたはずです。それなのに、なぜ?」
「咄嗟のことで、冷静な判断を欠いたんだ。よくある」
  薪は言葉を止めた。危うく、青木の口車に乗せられるところだった。

「その男は普段から子供好きで」
「いいえ。子供に接する機会も、子供と遊んだこともない、どちらかというとアウトロー的なひとでした。恐喝の前科もありました」
 事件の背景を説明しながら、青木は薪の身体を洗い始める。寝汗をかいた背中に、きめ細かい泡とざらついた布の感触が心地よい。
「……それは仮の姿で、本当はとっても子供が好きだったんだ。いつも物陰から子供たちを見守っていて、恐喝で稼いだ金銭は全国の経営難の保育園に寄付を」
「薪さん。それ本気で言ってます?」
 本気のわけないだろ、バカ。

 薪がむっつりした顔で黙り込むと、青木はクスクスと笑いながら、またもやとんでもないことを言い出した。
「突発的な行動に感情面から理由をつけるなんて、不可能なんですよ。オレだって、一昨年の夏にあなたをレイプしたときの理由を説明しろと言われてもできません」
「レイプ? レイプなんかじゃないだろ、あれは。おまえが怒って当然のことを、僕がしたから……」
 弱々しい声音で、最後の頃は殆ど消え入りそうに言って、薪は視線を下方に落とした。
 思い出したくない過去を持ち出されて、薪はますます立つ瀬がなくなる。
 本当に僕って、青木に迷惑をかけてばっかりだ。

「いいえ。あれはレイプです。オレはあなたをレイプしました。これは事実です。
 でも、そうしようと思ってあなたのところへ行ったんじゃありません。それは信じてくれますよね?」
 とりあえず、頷く。
 薪はあのとき、自分がレイプされている意識はなかったし、今でも思ってはいないが、反論は青木の意見を全部聞いてからだ。
「あなたの言う、普段からの鬱屈した感情は確かにありました。オレは鈴木さんに嫉妬して、気が狂いそうだった。だけど、あの時あなたの家に行ったのは、あなたが自分の身体を傷つけているのを知って、それを止めさせたいと思ったんです。助けたいと思って行った筈なのに、逆にあんなことをしてしまった。何故、と言われても説明はできないです」
 青木は薪の腕と胴体を後ろから洗い、それから薪の身体を自分の方に向けさせると、右足を取って洗い始めた。白くて人形のように形のよい足を、真っ白な泡が埋めていく。膝の裏側にタオルが当たると、こそばゆい感じがした。

「あなたの理論で行くと、オレは常日頃からあなたを虐待したいという欲求を心の奥底に秘めていて、それが咄嗟の行動に現れたことになりますけど、そういう解釈でいいですか?」
「いいわけないだろ」
 虐待の対象となる人間の足の指を洗いながら、そんな理屈を吐かれても。
 青木がどれだけ自分を想ってくれているか、薪は分かっている。もう何年も前から青木は僕を―――― 僕のことだけを見つめ、僕のことだけ考えて、僕のためだけに行動してきた。彼の献身と愛情を養分に、僕はここまで生きてこれた。

「オレはあなたが大好きです。あなたも鈴木さんが大好きだった。条件は同じですよね。だから、あなたが自分を罪人だと言い張るなら、オレも罪人です。それで満足ですか?」
「……いや」
 右足が済んだら、次は左だ。薪は自分から足を差し出して、青木の手に乗せた。

「おまえって、やさしそうに見えてけっこうきついよな。こういう場合、殺意なんか無かったって否定してくれるのが普通じゃないのか」
「あなたが自分で自分を疑っている限り、オレが何を言ったって無駄でしょう」
 鋭い。
 薪は黙るしかなかった。

「オレにも罪はあります。あなたが訴えを起こさない限り刑法では裁かれませんけど、あなたを傷つけた罪は極刑に値すると思っています」
 薪の身体をすべて洗い終わると、青木はシャワーの温度を調整して、細い首から肩にかけた。温かい水流が、薪の身体についた泡を落としていく。
「オレの罪は一生消えません。だから、一生かけて償います。あなたを愛して、あなたを傷つけるものから守ります」
「そう思うんなら、一晩中フルスロットルで撃ちまくるのはやめてくれ」
 プロポーズのような青木の言葉を、おそらくはそのつもりで熱をこめたセリフを、薪は冗談ではぐらかした。青木はちょっと眉を寄せて、でもすぐに苦笑してくれた。

 すっかりきれいになった身体を見下ろして、薪は椅子から立ち上がった。浴室から出て、バスタオルで身体を拭き、鏡の前に立つ。ドライヤーで髪を乾かし、櫛を入れて軽く整える。
 遅れて出てきた恋人が、鏡の中で身体についた水滴を拭き取っている。短い黒髪をタオルでガシガシとこすり、前髪を垂らしたその姿は亡き親友にそっくりで、薪の胸はぎゅっと押し潰されたみたいに苦しくなる。
 だから薪はそっと目線を鏡から外して、彼を見ない振りで脱衣所を出ようとする。

「おこがましいとは思ってますよ。オレなんかが、あなたを守りたいなんて」
 ドアノブに掛かった手が、青木の言葉で止まる。身を固くしたまま、薪は動けなくなった。
「でも、オレはあなたを守りたくて、これまで必死にやってきたんです。オレが何年もかけて培ってきた努力を、あなたは否定するんですか?」
「それは、自分のために使ったらいい。あるいは、他の大切な誰かを見つけて、そのひとのために」
「他の誰かじゃダメなんです」
 薪の言葉が終わらぬうちに、青木は言葉を重ねた。彼らしくない性急さだった。

 濡れた髪をそのままに、腰にバスタオルを巻いただけの格好で、青木は薪が見つめているドアに両手をついた。 大きな2つの手が薪の左右の動きを封じ、薪は青木がドアとの間に作り出した空間に閉じ込められた。
 真剣に、真っ直ぐに、青木はいつも真っ向勝負を挑んでくる。警察機構で10余年の時を過ごし、強要される隠蔽工作や汚い裏取引にまみれるうち、薪が無くしてしまった高潔な魂。それを持ち続けている彼が眩しくて、薪は長い睫毛を伏せる。
「今のオレがあるのは、全部あなたのおかげです。どうか、今のオレを否定しないでください」

 それは違う。
 僕は何もしていない、青木が勝手に誤解してるだけで、僕は彼の尊敬を受けられるような人間じゃない。卑怯で汚くて意気地無しで……彼のような純粋さが僕の中にひと欠片でも残っていれば、僕だってもう少し自分を信じられるかもしれないのに。

「薪さん。こっち向いてください」
 できない、振り向けない。今は青木を見たくない。
 こんなふうに、自分が世界中の誰よりも卑小な存在だと思い知らされる夜に、僕の偶像を信じている男と向き合いたくない。彼の中の自分と現実の自分のギャップに、目眩がしそうだ。薪はぎゅっと拳を握り締め、歯を食いしばって足を踏ん張った。

「オレはもともと、格闘技は苦手だったんです。柔道も剣道も好きじゃなかった。でも、あなたを守るためには必要だと思ったから。だから続けてこれたんです。
 仕事だって同じです、昇格試験だって。あなたがオレの能力を引き上げた。あなたがいなかったら、幹部候補生の選抜に残った青木警視はこの世に存在しませんでした」
 耳孔に流れ込む熱い言葉。
 青木がこれまで続けてきた懸命な努力も、周りが目を瞠るような成長も、全部薪がいたからだと言い張る彼の口調の激しさに、薪は反論を封じられる。ちゃんと諭してやらなければと思うが、まともに喋れそうにない。今夜はどうも涙腺が緩くて、ちょっとのことで目の前がぼやけて困る。

「感謝してます」
 青木はその言葉を神の福音のように薪に告げ、髪にキスをした。かすかに触れただけのそれは、頭上から温かい雨のように身体中に広がり、末端の指先まで行き渡ると、静脈から還る血液のように薪の胸に戻ってきた。握り締めていたはずの拳は、いつの間にか開いていた。
 
 薪はやおらに青木を振り向くと、彼の顔をじっと見た。
 僕が殺した親友にとてもよく似ている、だけどこれは青木だ、青木一行。僕の現在の恋人だ。

「週末の予定だけど」
 深く息を吸い、腹の底に力を込めて、薪は努めて落ち着いた声を出した。急な話題の転換に目をパチパチさせつつも、青木は話を合わせる。
「あ、はい。海ですか、プールですか」
「ビキニの女の子が沢山いるほうがいい」
「……なんかフクザツなんですけど、その選択基準」
 ムッと尖らせた青木の唇に、薪は背伸びをしてキスをする。青木の首に両手で掴まれば、自然に青木の腕が薪の身体を抱き上げる。そのままベッドまで運んで、替えたばかりの清潔なシーツの上に寝せてくれる。
 朝まで、まだ時間がある。今夜は眠らないつもりだったが、少しでも睡眠を摂りたいと今の薪は思う。

「そうだ、やっぱり海がいい。波がきたらポロリもありえるだろ」
「……ほんっとに、エロオヤジなんだから」
「男なら当然だろ? エロオヤジ抱いて喜んでるおまえの方がおかしいんだ」
「そういうこと言うから、泣かせたくなっちゃうんですよ。覚悟してください」
「こ、こら! 昨夜しただろ、月2回の約束だぞ」
「自業自得です」
「なんでだ! あっ、あっ!」
 結局、睡眠時間はなくなってしまった。今日は一日、地獄だ。

 シーツをぎゅっと握り締め、打ち込まれる熱情を窮屈に折り曲げられたからだで受けつつ、薪は思う。
 僕は、存在していてもいいのですか、と神さまに訊いたら、否という答えが返ってくるのかも知れない。でも、ここに僕を必要としてくれるひとがいる。僕の存在こそが自分の存在意義だとまで言い切るカンチガイヤローだけど、でも彼は神の祝福を受けるべき人間だ。清らかで美しく一点の曇りもない、地上にいながら天上人の魂を持ち続けている。

 その彼が、望むなら。
 僕は、彼の望みを叶えたい。

 彼が信じる美しい僕、強く穢れない偶像。その姿に一歩でも近付きたい。
 彼のために、僕自身のために。
 きっとそれが僕たちの別れを遠いものにしてくれると信じて。

 薪はシーツを手放した。腕を伸ばして、自分を抱く男の背中に手を回す。指をいっぱいに広げて、汗ばんだ皮膚に押し付ける。
 白い背中を仰け反らせ、薪は青木の背中に思い切り爪を立てた。


 ―了―


(2010.5)



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 こんにちはっ!

 みなさまにいただいた『がんばれコール』が10000を超えました! 
 どんどんぱんぱん!! (←脳内で花火が上がった音)

 本当に、本当に、本当にありがとうございます!!!
 このブログに足をお運びいただき、拙作を読んでくださるみなさまに、ありったけの感謝を捧げます!!

 こんなありきたりの言葉じゃなくて、もっと気の利いたお礼を申し上げたいのですけど、すみません、ボキャ貧で。
 せめて作品でお礼を。


 1万拍手のお礼は、
『ハプニング』というお話にしたいと思います。
 以前、コハルさんからリクエストいただいたお話で、あおまきさん入れ替わりのドタバタコメディです。ただ、長いんですよね、これが。(^^;) 64Pだから20章くらいかな。
 なので、推敲に少し時間をくださいね。



 そんなわけで、先にこちらのお話を。

 このお話は新しいです。 
 2010年の3月に書きました、って5ヶ月も経ってるじゃん!
 いやー、年を取ると月日の流れが速いこと。(笑)


 時系列で行くと、『運命のひと』の後に入ります。
『運命のひと』でKさんに「ふたりのすれ違いが悲しい」って泣かれちゃったので、ちょっとその辺を掘り下げてみました。
 泣き止んでくれるかな~、余計に泣かしちゃうかな~、書きあがってみるまで作者にも分かりません☆


 どうか広いお心でお願いします。





サインα(1)


 







 2年目の恋人同士というのは、微妙な時期だ。
 相手以外なにも見えない蜜月を過ぎて、のぼせ上がった頭も冷えてきて。相手とのふれあいにも日常性を見出すようになり、余裕と同時に我が出てくる。そんな頃合だ。
 自分の腕を枕にして仰向けになり、くーくーと寝息を立てている恋人の顔を見て、青木はそんなことを思う。

 青木の場合は相手が相手だったから、最初の頃の緊張たるや心臓が止まるかと思ったほどだった。
 エリート集団第九の頂点に立つ男、薪剛警視正。
 だれよりも美しくて、だれよりも気高くて。まごうことなき天才で、周囲の憧憬を一身に集めてしまう魅力的なひと。大学生の頃から憧れ続けて、その人を追って警察機構に身を投じた。薪は青木にとって、高嶺の花どころか雲の上の人だった。

 彼が、自分を受け入れると言ってくれた時の感激。あの時のことを思い出すと、今でも背筋に震えが走る。
 薪の言葉に嘘はなく、青木のために恥らいながらも身体を開いてくれて。大の男が泣き叫ぶような苦痛にも健気に耐えてくれて。
 長いブランクのためにすっかり硬くなってしまった薪の身体をほぐすのは存外時間がかかり、ようやく結ばれたのは付き合いだしてから3ヶ月も経ってからだった。たった一度の成功でも、青木はすごくうれしかった。翌日薪が「うれしかった」と言ってくれたことが、青木に自信をくれた。
 薪は徐々に、自分のことを好きになってくれている。そう信じていた。

 相手の好意を信じられれば、ベッドの中でも大胆になれる。そのときの薪は、とてもかわいくて。
 普段は凛々しい捜査官の顔つきで次々と難事件を解決する薪が、自分の愛撫に震えて追い詰められて、シーツをぎゅうっと握り締め、欲望を迸らせる。いつもは強気で意地悪そうな亜麻色の瞳が、切なげな色を湛えて青木を見る。そのギャップがたまらなかった。
 
 他人に劣ることなど何一つない薪だが、これだけは苦手らしく、最初のうちはマグロどころか冷凍マグロ状態だった。それらしい雰囲気も反応もロクになく、感度は低いわ持ちは悪いわ、ベッドの相手としては今までで一番未熟だった。しかも青木を受け入れてくれるはずの場所は、信じられないほど狭くてきつくて。指をほんの少し入れただけでも痛みを感じるほどの固さだった。
 こんな状態では、いつになったらまともなセックスができるかわからない。青木はネットや雑誌やアドバイザーから情報を得て、薪の性感を開発すべく懸命に努力を重ねた。その成果が少しずつ現れて、次第に薪はかわいらしい声で青木の愛撫に応えてくれるようになった。
 
 外見からは想像もつかないが、薪の喘ぎ声は悲鳴系だ。最初のうちはずっと声を殺していたから、てっきり吐息系だと思っていた。しかし本気で感じてくると、たまらなく色っぽい声で叫び始める。
 初めてこの声を聞いたのは、まだ付き合い始める前だった。薪が誤って催淫剤を飲んでしまって、解毒剤がないことから仕方なく青木が手伝った。そのときの薪は体裁を取り繕う余裕もなく、辛そうで可哀相で。と思いつつも、そこは男の哀しい本能で、青木の方もめちゃめちゃ辛かった。よく我慢したものだと自分でも思う。
 
 子供のように両の手のひらを顔の脇に置き、取り澄ました顔で目を閉じている恋人にそのときのことを重ねて、青木は苦笑する。本当に薪とは、こうなる前から色々あったのだ。ドラックでラリッたこともあったし、悪夢にうなされて、夢と現実がわからなくなってしまったこともある。その他にも、あれやこれやそれや……重なるごとに青木は、我慢の限界値を広げてきた。忍耐強くなかったら、薪とは付き合えない。

 記憶の糸を手繰っていた青木は、やがて自分の中に残って疼き続ける傷跡に辿り着く。
 付き合いだしてから、初めて薪がそんな風に我を失ったのは、蒸し暑い夏の夜。今も耳に残っている、この腕に抱かれながら自分以外の男の名を呼んだ恋人の声。
 どんなに理不尽な振る舞いでも、薪がすることなら何でも許せてしまう青木だが、正直あれだけは二度としないで欲しい。ベッドの中でお互いの興奮が高まって夢中で相手を求め合っているときに、恋人が別の男の名前を呼ぶというシチュエーションは、もの凄くきつい。『鈴木、愛してる!』と叫ばれて射精されたときには、本気で殴ってやろうかと思った。

 でも、できなかった。
 そのときの薪は、青木が見たこともないくらい幸せそうで。彼の幸せを奪いたくなかった。
 
 自分の卑屈な行動にそんな理由をつけ、しかしすぐその偽善性に気付いて、否、と青木は思い直す。彼が幸せならそれでよかったなどと、決してキレイな気持ちばかりではなかった。そんな惨めな立場に立たされてさえ、薪と別れたくなかった。だから何も言えなかったのだ。

 理性を失くした自分が取り返しのつかない失敗をしたことを知って、薪はそれからしばらくの間、ベッドの中で自分の快感を抑えるようになった。それは何ヶ月も続いた。だから、一番濃密になるはずのこの1年に薪と身体をつなげた回数は、実は10回にも満たないのだ。
 あの当時、青木自身もこのままではいけないと思い悩む日々が続いていたが、何ヶ月かしてから、突然薪は自分のことを恋人だと認めてくれて、その日を境に再び薪と愛し合えるようになった。あの時の薪の心理は、未だにわからない。解らなくとも青木としては、『僕の恋人はおまえだけだ』と言ってくれた薪の言葉を信じるしかない。

 そう言ってはくれたものの、薪はまだ鈴木のことを忘れていない。行為の最中に鈴木とダブることがあるのか、たまに間違われる。
 鈴木の名を口走ったのはあの一回だけだが、こういうことは何となく分かるものだ。もちろん、薪もわざとやっているわけではない。意識的に、始めから終わりまで彼を重ねているわけではなく、身体に与えられる刺激や感覚に触発され、ふとしたはずみに彼のことを思い出してしまうらしい。
 それを青木は肌で感じ取る。そして薪は、そんな青木を鋭く見抜く。
 自然とお互い動きがぎこちなくなって、結果、薪は痛み以外のものを感じることができず、行為を中断する羽目になる。

 セックスしている最中に、恋人に他の男を重ねるなんてものすごく不誠実だ。もともと不実な行為が許せない薪は、当然自分のことも許せない。身勝手なくせに自分を責めるのが得意な薪の落ち込み方は、端で見ているのが辛くなるくらいだ。薪を責めることはできない。青木にできるのは、薪の気持ちの整理がつくのを待つことだけだ。
 しかし、本音ではかなり辛い。

『オレは鈴木さんじゃありません!』と叫びたくなるのを堪えるのがどれだけの忍耐力を要するか、言葉ではとても言い表せない。でも、薪に泣かれるのはもっとつらい。だからと言って慰めるのもおかしな話だ。仕方がないので、青木は何も言わずに薪を抱きしめることにしている。
 そうやって薪が眠るまで、黙って頭や背中を撫でてやる。薪は礼も詫びも言わず、眠りに就く。そのことには触れないようにして、昨夜のことは忘れた振りをして、翌日から再び恋人同士に戻るために、その沈黙は必要なのだ。

「恋人、か」
 青木は自嘲気味に、小さく呟く。
 薪も自分も、嘘を吐いている。相手のことも自分のことも、騙し続けている。その嘘がなかったら、この関係はとっくに崩壊している。
 嘘で塗り固めた関係。それを恋人と、果たして呼べるものかどうか。

 青白く見える目蓋の奥に、今は隠された亜麻色の瞳。その瞳に、誰かと重ねることなく青木だけを映してくれる日が、いつか来るのだろうか。安らかな寝息を立てるつややかなくちびるが、迷うことなく自分の名前を呼んでくれる時が訪れるのだろうか。

「一度でいいから……好きだって言ってくださいよ」
 どんなに焦がれても。薪は自分を愛さない。
「オレのこと愛してるって。ウソでもいいから、言ってくださいよ」
 愛さない。

 薪が愛しているのは、自分が殺した親友だけだ。殺されることで薪に愛されるなら、いっそ殺されてみたいと思ってしまう。それで薪が狂おうが死のうが、知ったことか。こっちはとっくに狂わされているのだ。もう、何年も前から。

 青木はひっそりとため息を吐き、そっとベッドを抜け出す。そろそろここを出ないと、終電に間に合わなくなる。薪は、青木が無断で家に泊まるのを許してくれない。そんなけじめのつかないことをするなら別れる、と宣言されている。
 その冷たい言葉の裏に隠されている薪の気遣いを思うと、青木は薪のルールに従わざるを得ない。つまり、夢の中では誰のものになるのか、薪にも自信がないのだ。意識の届かない深い部分、魂の根底で薪が求めているのは……。

「あー、止めた。オレらしくない」
 青木は大きく息を吸い、自分のマイナス思考を止めた。
 ウジウジ悩んだところで、薪が自分を好きになってくれるわけではない。悩んでもしょうがないことは悩まない。これは青木のポリシーだ。今日はせっかく恋人と楽しいときを過ごしたのだから、彼の夢が見られるよう、頭の中はかわいらしい薪の笑顔で満たしておこう。

 青木一行という男は、生来の楽天家だ。恋人との関係がこんな状況にありながらも、いつかは薪も自分のことだけを見てくれる、と普段は信じている。
 が、鬱屈した想いを抱えていることも事実だ。平生は心の底に押し込めているその想いが、不意に噴出す可能性もないとは限らない。何といっても、青木はまだ27歳。年上の恋人に合わせようと背伸びをしていても、内実は年相応に未熟な部分も多い。

 そして、何度目かの偽りの夜。
 それはとうとう、形を伴ってふたりの前に姿を現した。


*****


 あ、やっぱり泣かれちゃったかな? てか、トドメ?
 これから盛り返しますから!
 ええ、多分。



 

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「いいですよ、無理しなくて」
 自分の下で固く強張る細い背中を、青木は押しのけるようにして自分から引き剥がした。
 行為の途中で急に引き抜かれて、ベッドに突き飛ばされた薪は、恋人の乱暴な仕打ちに驚いた顔で振り向いた。
「薪さん、本当はしたくないんでしょう?」
 薪と愛し合っているときに、青木がこんな真似をしたことは今までに一度もない。しかし、幾度も幾度もその衝動は青木の中で湧き上がり、意志の力でずっと抑えられてきた。それがついに、表面に噴き出した。
 それは2年目の冬。ここまでよく続いた、というべきか。

「今日は、ちょっと疲れてて」
 薪はすまなそうに言い訳をすると、でも大丈夫だから、と青木に続きを促した。生まれつき淡白な薪とのセックスは、青木の方が一方的に欲望を満たすことも多い。外見と性的年齢の隔たりが50歳くらいありそうな薪に合わせていたら、青木は気が狂ってしまう。だからこれは、円滑な恋人関係を保つための妥協案で。薪の「大丈夫」は、そういう意味だ。

 これまではそうしてきた。だけど、その夜の青木は妥協したくなかった。
 たしかに、青木ひとりの欲望でも行為はできるけど。それは恋人のセックスじゃない。

「青木?」
 いつになく不貞腐れた様子の青木に、薪が不安そうに声をかける。常ならその台詞で自分に挑んでくる青木が一向に動こうとしないので、訝しく思ったのだろう。
 だけど、今日はどうしても我慢ができない。ずっと心の底に押し込めていた憤懣が一気に堰を破ったかのように、青木はひどく好戦的な気分になっていた。と同時に、目の前の何も知らない無垢で残酷な彼を、思い切り傷つけたくなった。
「誰だって好きでもない人と、こんなことしたくないですよね」

 このひとは、何も知らない。
 オレが今までどんな気持ちで、他のひとを想い続けるあなたを見てきたか。恋人とは名ばかりで、彼の身代わりに過ぎない自分の立場にどんなに苦しんできたか。何ひとつ分かっていないのだ。

「なにを言って」
 薪の言葉を遮って、青木は言葉を重ねた。言いたくても言えずにいたこと、飲み込んできた数々の言葉が奔流になって出てきた。
「好きな人が裸で目の前にいたら、普通欲しくなるでしょう? したくなって当たり前ですよね。でも、薪さんはいっぺんもそんな風になったことがない。いつもいつもオレの方からばっかり、オレばっかりあなたが欲しくて」
 言い出したら、止まらなくなってしまった。言葉はどんどんエスカレートして、薪の表情は泣き出しそうな困り顔になった。
 いつもならそこで青木は慌てて謝るのだが、その日は彼を困惑させて申し訳ないと思う気持ちは湧いてこなかった。
 少しくらい、苦しめばいいと思った。何年も悩み続けている自分のために、一度くらい涙を流してくれたってバチは当たらないと思った。

「だいたいおかしいですよ。オレたち、付き合い始めてもうすぐ2年ですよ。それなのに、まだ慣れないなんて。気持ちが入らないから感じないんですよ。オレのこと、好きじゃないから!」
 なかなか成長しない薪のセックスの理由を愛情の欠如だと決め付けた青木の言葉に、薪は大きく目を見開き、次いでくちびるを開いた。
「僕がどんな思いで」

 ええ、聞かせてください。
 薪さんがどんな気持ちで、オレの恋人でいるのか。オレのこと、本当はどう思っているのか、ちゃんと薪さんの口から聞かせてください。

 青木は心の底から切望したが、その後の言葉は聞けなかった。薪はそれきり口を閉ざし、下を向いてしまった。 つまり、青木の言を認めたということだ。

 青木は黙って寝室を出た。
 どうして何も言ってくれないのだろうと、冷たい恋人に腹が立った。
 本当は、言って欲しかった。
『そんなことはない、おまえが好きだ』
 薪の口からその言葉さえ聞けたら、すべての迷いを捨てることができるのに。薪がその手の台詞が苦手なのは知っているが、自分たちは恋人同士だ。恋人に好きと言ってもらいたい、その望みはそんなに大それたことだろうか。
 それとも、嘘は吐けないということか? 嫌いではないが好きでもない、求められれば応じるけれど、自分から進んで取りに行くほどのものでもない。その程度の思いだと?

 やっぱり、無理なのかもしれない。薪の心を自分に向けさせることなど、できないのかもしれない。
 結局、自分はずっと鈴木の代わりで。薪への想いは一方通行のまま。

 裸の恋人を放ったまま、青木は薪のマンションを出た。家に帰るのも何だかシャクだ。いっそのこと、浮気でもしてやろうかと思う。
 折りしも歓楽街が賑わう時間帯、駅前通りには腕を組んで歩いている男女が大勢いて、中にはいかにもその道の女性らしき相手を連れている男も何人かいたが。女性たちはみなキレイに化粧をして、魅惑的なボディラインを強調する衣装をまとっていたけれど。

 ……ダメだ、薪以外の人なんて。ぜんぜんその気にならない。

 どんなに理不尽な扱いを受けても、薪と別れることなんかできない。薪のマンションに取って帰して懸命に謝れば、薪はきっと青木の暴言を許してくれる。薪は決して狭量ではないし、青木も別れましょうと言ったわけではない。ただのケンカだ。悲しいことに、こんなケンカはしょっちゅうやっている。
 でも今のままでは、遅かれ早かれ破局はくる。

 どうにもならない気持ちをもてあまして、青木は携帯電話を取り出す。この頃、めっきり顔を見なくなった女性の名前を選んで、電話を耳に当てた。
 5回目のコールで電話に出た相手に、挨拶も無しに青木は言った。
「三好先生、今から会えますか?」



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 騒がしい居酒屋のボックス席で、青木は2杯目の生ビールのジョッキを一気に呷った。
 ひと息に飲み干して、はあっとため息を吐く。向かいの席で、雪子が呆れ顔でこちらを見ている。無茶な飲み方だとわかっているが、酒でも飲まなきゃやっていられない。
「ちょっと。お腹に何か入れないと、胃に響くわよ」
「食事は済ませました。さっき薪さんの家で」
「じゃ、なんであたしを呼んだわけ?」
 青木が電話した時、雪子が研究室にいなかったのは少し意外だった。周りが騒がしいからおかしいと思って訊くと、渋谷の居酒屋にいると言う。誰かと一緒ですか、と聞いたら一人だと言うので、店の名と場所を教えてもらって合流した。

「聞いて欲しい話があったんです」
 店はとても混んでいたが、雪子はボックス席をひとりで占領していた。テーブルの上には、食べかけの料理の皿がいくつもあった。もしかすると、誰かと一緒にここに来ていたのかもしれない。さっきの電話は、青木を気遣った嘘だったのかも。雪子の性格なら充分に考えられる。
「無理言ってすみません。でもオレ、三好先生以外に相談に乗ってくれる人いないから」
「薪くんのこと?」
 察しのいい雪子は、直ぐに青木の悩みを見抜いた。尤も、雪子に薪の事以外で相談を持ちかけたことは無いから、分かって当たり前かもしれない。

 薪に恋をした4年前から、青木はずっと雪子に頼ってきた。恋人同士になる前は、薪と親密になるにはどうしたらいいかアドバイスをしてくれて、念願叶って恋人になってからは、薪の冷たい態度に挫けそうになるたびに勇気付けてくれた。
 彼女には、薪との間に起きたトラブルは全部話した。元婚約者の鈴木のことだけは言うべきではないと考えたが、やっぱり話してしまった。よって、雪子は何もかも承知の上で、いま青木の泣き言を聞いているのだ。

「薪さん、ちっともオレのこと好きって言ってくれないし、どう思ってるかって訊いたら『セフレ』って言い切られちゃうし」
「だからそれは前にも言ったでしょ。薪くんは、好きでもない人とそういうことできるタイプじゃないって。天然記念物指定が付くくらい、純粋なひとなんだから」
「三好先生の買い被りじゃないんですか。薪さん、今でも鈴木さんのこと忘れてないですよ。オレには分かります。それでも、オレとの関係を断とうとはしない。それって純粋な人のやることなんですか?」
 雪子は聞き上手でおだて上手で、頭がいいから問題点の理解もその対策を立てるのも早い。対策と言っても、青木が薪を思い切ることなど絶対にできないことが解っているから、どうやって関係を修復するか、あるいは青木の考え方をいかにポジティブに持っていくか、ということに限られるが。
「いつまでもオレの一方通行なのかなって思ったら、辛くなっちゃって。今日もベッドの途中で出てきちゃったんです」

 雪子は、青木が何を言ってほしいのか、どんな風に勇気付けて欲しいのか、それもちゃんと心得ている。今日も青木は期待していた。
『薪くんは照れ屋だから。表に出さないだけで、心の中では青木くんのこと大好きなのよ。親友のあたしが言うんだから、間違いないって』
 薪の口から聞けなかった台詞を彼の友人の口から聞いて、それで何とか自分をなだめようと思った。雪子に甘えてばかりで申し訳ないと思ったが、自分ひとりで抱え込むには、今日のマイナス感情は強すぎた。
 雪子なら、きっとそんな風に慰めてくれる。一時的にでも、自分はそれで元気になれる。今までずっとそうしてきたのだ。今回だって、立て直せる。
 ところが。

「あんたたち、もう別れた方がいいかもね」
 常になく深刻な表情の雪子が口にした一言は、青木を驚愕させた。
「こんな最低の男と付き合ったって、いいことなんか何もないわ。別れた方が賢明よ」
 固い表情を崩さないまま、雪子は鳥の唐揚げを一口で食べた。それをビールで流し込み、焼きそばの皿を手に取る。黙々と食べ物を詰め込む彼女の態度に、青木は不安を感じた。雪子は機嫌が悪そうだ。もしかしたら、友だちと楽しくやっていたところを邪魔してしまったのかもしれない。

「いや、あの、薪さんは確かにヒドイ恋人ですけど、最低って程じゃ。いいとこもたくさんあってですね、本当に時々ですけど、優しい言葉もかけてくれるし」
 半年にいっぺんくらいですけど、と心の中で付け加えて、青木は雪子の次の言葉を待つ。雪子は空になった皿をテーブルの上に置いて、半開きの据わった目で青木を見た。

「サイテー野郎はあんたのほう」
 青木は絶句した。
 この件に関して、自分に落ち度はない。不実が疑われるのは薪の方だ。それなのに、どうして自分が責められなければならないのだ。

「なに言ってんの、いまさら」
 柔道の試合のときのように鋭い目で、雪子は青木を睨んだ。その黒い瞳には本物の怒りが宿っており、彼女が本気で青木に腹を立てていることが分かった。しかし、納得できない。自分は被害者なのに。
「あのとき訊いたでしょ? 他のひとを愛し続ける彼を、一生愛せるかって。あんた、納得して薪くんを追いかけたんじゃない」
 それはあの夏の日。
 あの時は、そう思った。あの気持ちは嘘ではなかった。だけど。

「三好先生には分かりませんよ。誰かの身代わりにされてるかもしれないって、そんなこと考えながら付き合わなきゃいけない気持ちなんて」
 こんな心境のときにそのことを持ち出されても、ああそうでした、と得心する気にはなれない。いま青木が欲しいのは叱咤激励ではなく、気分を上向きにしてくれる耳に心地よい言葉だ。恋人からそれを得られないから、雪子に相談したのに。

「ヘタレだヘタレだと思ってきたけど、ここまで最低の男だとは思わなかったわ」
 雪子の手の中で、割り箸がバキリと音を立てて折れた。料理はまだ沢山残っていたが、雪子は席を立った。
「あんたみたいな男のために泣いて、損したわ!」
 テーブルの上に料理を残したまま去る彼女を見たのは、初めてだった。これは只事ではない。雪子を怒らせたら、薪と本当に別れることになってしまうかもしれない。薪は雪子の言うことなら何でも聞く。職務に関する事以外で彼女の望みを叶えなかったことは、ただの一度もないのだ。

 青木は慌てて雪子の後を追いかけた。レジで清算をする彼女に追いつき、自分が払いますと申し出たが無視された。いくら話しかけても謝っても、何も答えずにずんずん歩いていく。青木は必死に彼女の後をついていく。
「三好先生、すみませんでした。もう弱音は吐きませんから、薪さんのこと信じますから」
「無理することないわよ。あたしから薪くんに別れるように言ってあげるわ」
 それを言われたら本気で終わる! 薪が優先する人間の順番はとても明確に決まっていて、雪子は青木の遥か上だ。

「違うんです、別に薪さんのことがイヤになったわけじゃなくて! オレがあのひとのこと、嫌いになれるわけがないじゃないですか」
「どうせ口先だけでしょ」
 雪子にこんなことを言われたのは初めてだ。雪子はいつでも青木の味方だった。姉のように母親のように、青木を癒し励まし、導いてくれたのだ。

「あんたみたいな男に薪くんを任せたあたしがバカだったわ」
「ちょっと待ってくださいよ。オレはちゃんと薪さんのこと愛してます! 信じてくださいよ」
 思わず声が大きくなって、通りすがりの酔っ払いに冷やかされた。下卑た笑い声と共に、「兄ちゃん、がんばりな!」と声が掛かる。言われなくてもそうする。雪子が敵に回ったら、薪との仲は絶対に上手くいかなくなる。

「じゃあ、身体で証明しなさい。そしたら信じてあげる」
「は?」
 夢中で追っていた背中が止まって、青木はほっと息をつき、しかし次の瞬間驚きに目を瞠った。後方の酔っ払いが何をがんばれと言ったのか、何故彼らが笑っていたのか、青木はやっと理解した。
 雪子が立ち止まったのは、ラブホテルの前だった。



*****


 何かを期待してる方、するだけ無駄ですからネ(笑)



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

サインα(4)

サインα(4)






「あの、三好先生? こんなところで何をしようと」
 いや、この建物の目的はよく分かっているし、青木も何度も利用したことがあるから使用方法についても熟知しているが。
 そういえば、薪とはまだ入ったことがない。薪のマンション以外で、行為に及んだことはない。一度誘ってみようか。新鮮な気分になれば、薪の反応も変わってくるかもしれない。

 青木が呑気なことを考えているうちに、雪子はさっさと中に入ってしまった。一体、どういうつもりだろう。
 薪を愛していることを、身体で証明する? ラブホテルで、雪子の前で?
 もしかして、薪とここでセックスしなさい、と言う気だろうか。それはいくら雪子の命令でも……いや、薪は雪子の言うことなら何でも聞く。これはいけるかもしれない、むしろブラボー!
 見ると、雪子は携帯電話を耳に当てている。間違いない、薪を呼び出しているのだ。

「すぐに来るから。部屋で待ってましょ」
 雪子は部屋のキーを持って、先に立って歩き出した。青木はその後ろをいそいそと着いて行く。誰かに見られたら確実に誤解を受けるが、これ以上のカモフラージュはない。後からひとりでホテルに入る薪と、女連れで先に入った自分を結びつける者はいないだろう。そこまで気を回すとは、さすが雪子だ。
 部屋で待っていると、30分も経たないうちにノックの音がした。中途半端なベッドに悶々としていた青木の胸が、期待にトクンと高鳴る。

「あの、三好先生。オレたち、二人きりにしてもらえますか?」
 申し訳ないが、雪子にはここで退場願おう。薪は恥ずかしがり屋だ。明るいところで抱き合うのも嫌がるのに、人前でなどできるわけがない。
「いいの? あたしがいなくなっても」
 ここまで来れば、薪だって覚悟を決めるだろう。いつもと違うシチュエーションに、気分も盛り上がるに違いない。
「大丈夫です。ちゃんとオレがリードしますから」
「へえ。ずい分自信あるのね。あんた、初めてじゃないの?」
 青木はドアを開け、訪問客を迎え入れた。

「何を言って……どえええっ!?」
 彼は部屋に入るなり、青木に抱きついてきた。きつい香水の匂い、それより強いオスの臭い。
「あ~ん、お久しぶりぃ、一行ちゃん!」
 ドスの利いた低い声で名前をちゃん付けで呼ばれて、青木は総毛立つ。厚く塗ったファンデーションと真っピンクの口紅。つけ睫毛とマスカラに囲まれた眼は狐のように釣りあがって、大きな口はうれしそうに笑みを刻む。
 野太い声と目の周りを強調したメイク。男でも女でもないこの生命体をカテゴリに分類するとしたら―― 妖怪?
「ほ、本間さ、いえ、彩華さん!?」

 本名本間竜太郎、38歳、性別♂。しかし、源氏名の『彩華』で呼ばないと返事をしないことからも分かるように、意識はしっかり女性だ。雪子の友人で、青木のアドバイザー。つまり、そちらの方面の先生というわけだ。
「逢いたかったわぁ」
 間近に顔を覗き込まれて、青木は引っくり返りそうなる胃を根性で押さえ込む。どこから見ても立派な男性の彼が、厚化粧と身体にぴったりとしたスパンコールつきのミニワンピに身を包むと、その破壊力はすさまじい。視覚刺激で脳髄が焼き切れそうだ。

「ちょっ、顔近付けないでください、心臓に悪いです」
「まあ、一行ちゃんたら。それは恋のときめきってこと?」
 ……コロシタイ。

 彼女に初めて会ったのは、2年前の春。男同士のセックスのことなど何も分からない青木は、薪との最初の夜、派手な失敗をしてしまった。それから少しずつ勉強し始めたのだが、こういうことは書物を読むより経験者に体験談を聞いたほうがよく分かる。何かうまく行かないことがあるたびに、プロの彼女に電話で相談してアドバイスを受けていた。
 髭剃り跡の濃い顔を近づけられ、青木は仰け反って彼女を避ける。逃げるほどに彼女は接近してきて、青木はベッドまで追い詰められた。

「じゃあ、後はよろしくね、彩華。彼、あなたと二人きりになりたいみたいだから」
「ちがいますっ! てっきり薪さんが来ると思ったから! 行かないでください、みよしせんせえええ!!」
「バカじゃないの、あんた。薪くんがこんなところに来るわけないでしょ」
 冷静に考えたら、雪子の言うとおりだ。もし雪子が、「いま青木くんとホテルにいるの」と報せたら、つねづね結婚するなら雪子としろ、と青木に刷り込んでいる薪のこと、「お幸せに」と言って電話を切ってしまうだろう。 未だに雪子の結婚相手として自分を視野に入れている、それもまた、薪の愛情を疑う要因のひとつであるのだが。

 彩華は青木をベッドに押さえつけ、慣れた手つきでネクタイを外した。抵抗しようとしたが、音を立てて首を吸われて力が抜けてしまった。相手は自分より小さくて非力なはずなのに、撥ね退けることができない。嫌悪感と吐き気に襲われて、身体に力が入らない。なんかもう、妖術にでもかかってる気分だ。
「三好先生っ、助けてっ、助けてください!!」
 どんな部門でもプロと言うのは大したもので、彩華は素早く青木のシャツを脱がし、はだかの胸に頬をこすりつけた。
「あぁ~ん、たくましい胸。若い肌っていいわね~」
「ひええええ!!!」
 ヒゲがジョリジョリする! ありえない、気持ち悪いっ! 嫌悪感に気を失いそうだ。ある意味、雪山で死にかけたときより危険な状況だ。

「遠慮しないで、ズドンとやっちゃいなさい」
 青木の悲鳴に、雪子はつかつかとベッドの側まで寄ってきて、しかし友人の暴挙を止めようとはせず、腕を組んで睥睨した。どうやら傍観者の立場を決め込むつもりらしい。雪子がお祭り好きなのは知っているが、いくらなんでもこれはヒドイ。
「いや、ムリです! オレ、薪さん以外の男じゃ勃たな……!!!」
 ズボンの上からそこを撫でられて、青木は声を失った。おぞましさに眩暈がする。
「大丈夫、あたしたちはリバーシブルが基本だから。うふふ、新しい世界を教えてあげるわ」
「うぎゃああああ!!!!」
 
 ついに切れて、青木は彩華の身体を思い切り突き飛ばした。黒帯に近い実力をつけてきている青木の突きに、武道をたしなまない彩華の体は軽々と吹っ飛び、雪子に受け止められた。
「いやですっ、男にやられるなんて! オレは女じゃありません!」
 その言い方は彩華の職業を侮辱するかもしれないと微かに思ったが、言葉を止めることはできなかった。

「薪くんは?」
 思いもかけない方向からの質問に、青木の眼が点になる。どうしてここに薪の名前がでてくるのだ?
「あんた、薪くんに散々やっといて、よくそんなことが言えるわね? 薪くんだって男なのよ。ゲイじゃないって言ったでしょ」
「だ、だって、薪さんは……鈴木さんと、その」
「過去にそういうことがあったのは事実だけど、薪くんはゲイじゃないわ。男の人を見て欲情したりしないもの。あんたに欲情しないって、そういうことでしょ? ほら、彩華はちゃんと勃ってるわよ」
 ミニスカートを捲られて、その事実を強制的に視認させられる。眼が腐り落ちそうだ。

「いっぺん、薪くんの立場を体験するといいわ。そしたら彼の気持ちが解るでしょ」
「いや、だって、薪さんとオレは恋人同士なんだし、それは当たり前のことで」
「じゃあ、あんたが薪くんに抱かれてみる? それはありなわけ?」
 考えたこともなかった。
 薪は「青木のハダカを見ても勃たないから」という理由で、最初から受ける方を選んだ。鈴木のことがあったから、それが当然だとそのときは思ったが、考えてみれば16年も昔の話だ。自分の身体が傷つくことも承知の上で、薪は青木に身体を開いてくれようとしたのだ。
 
 初めて自分が薪の下になって彼に犯されることを考えてみて、いくら薪が相手でもそれはイヤだと心の底で叫ぶ声に気付いて、青木は驚く。愛し合うことが目的なら、どちらが男役でもいいはずだ。だけど、理屈では割り切れない絶対的な嫌悪感が存在する。それは本能的なもので、男である以上仕方のないことだ。
 ……じゃあ、薪は?

「ノンケの男が男に身を任せるのが、どういうことだか解った? 半端な覚悟でできることじゃないでしょ。あんた、そんなことも分からないで薪くんのこと抱いてたの?」
 青木は、言葉を返すことができなかった。
 苦痛に耐える覚悟を決めてくれた薪に感謝はしたが、自分が女として扱われることに対する彼のプライドについては、何も考えなかった。
 薪のプライドの高さは折り紙つきだ。自分が女に間違われたり、同性からそういう眼で見られることを何よりも嫌がるのだ。そんな彼が、青木と愛し合うときには自分から女性の役割を引き受けてくれる。それはつまり。

「必死で頑張ってるのに、それを理解するどころか愛情まで疑われて。あーあ、薪くん、かわいそう。やっぱりこんな男とは切れた方がいいわ。この次はかわいい女の子見つけるでしょうから。その方が薪くんのためだわ、うん」
 青木は起き上がり、シャツのボタンを止めた。彩華に取られたネクタイを床から拾い、ポケットにしまう。
「三好先生」
 ハンガーに掛けておいたジャケットを着て、雪子とその友人に向き直る。ふたりに向かって、最敬礼の角度に頭を下げた。
「ありがとうございました」
 青木が礼を言うと、雪子はにやっと笑った。今宵、初めての笑顔だった。

「あたしはいいけど、この子が納得しないみたいだから。キスでもしてやって」
「すいません、勘弁してください」
 彩華にも感謝している。彼女は雪子に頼まれて、店を抜け出してきたのだ。服装が営業用のそれだった。しかし、その感謝をキスで表すわけにはいかない。
「オレ、夢中で恋してる相手がいますから」

 精一杯の感謝を笑みで表した青木に、彩華はフンと鼻を鳴らし、
「あ、また『オレは世界一の幸せ者だ』って顔してる。雪子、この子、殺っちゃっていい?」
「そうね、協力するわ」
 ふたりの魅力的な女性が揃ってポキポキと指を鳴らし、戦闘の合図をする。青木は大慌てでホテルの部屋を飛び出した。
「失礼しますっ!」
 ガタイばかり良くて実情は情けない長身の男がいなくなると、部屋に残された二人の女性は顔を見合わせて笑った。

「あ~、楽しかった。あの子、面白すぎ。雪子、また呼んでね」
「機会があればね。彩華、これからお店に戻る?」
「せっかくだから、ここでお仕事してくわ。ホテル代、儲けさせてもらう」
「はいはい、がんばって」
「あんたも頑張りなさいよ。アタシたち、もう40になるのよ。早くいいひと見つけなさい」
 ギラギラにコーティングされた携帯電話を取り出して、彩華は客のひとりに商売を始める。その様子を見ながら、あんなにたくさんのストラップがついていたら、電話をするのにも収納にも邪魔なのではないかとお節介なことを思う。

「あんたに言われたくないわ」
 自分も1本の電話を済ませると、雪子は出口に向かった。後ろから、彩華の声がかかる。
「雪子。いつまでも死んだ人に操立ててたって、彼は喜ばないわよ」
 雪子はびくりと足を止めたが、振り返らずに部屋を出て行った。その背中はピンと筋が通って、潔く、美しかった。



*****


 ああっ、楽しい!
 次は彩華さんのスピンオフを書こう(笑)


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ジャンル : 小説・文学

サインα(5)

サインα(5)





 薪のマンションのチャイムを鳴らす前に、青木は時計を確認した。
 時刻は10時半。仕事最優先の薪の主張で、平日のデートは10時までという決まりがあるから、この時間ではドアを開けてもらえないかもしれない。そうしたら、インターホンで謝罪だけして、ドアの前で土下座して、今日は一旦引き上げよう。
 
 そんな頭があったから、ボタンを押すと同時にドアが開いたことに青木は驚いた。扉の向こうで青木を見上げている亜麻色の瞳が、哀しそうな色を湛えている。先刻の自分の行動が薪をひどく傷つけたことを知って、青木は申し訳ない気持ちで一杯になった。

「ごめんなさい、薪さん。今日みたいなことは二度としませんから、許してください」
 亜麻色の頭がこくりと頷いて、青木はもう一度びっくりする。あの意地悪な薪が、こんなに簡単に青木のことを許してくれるなんて。今までもこんなケンカは日常茶飯だったのだが、その度に薪は陰険に青木のことを苛めて、一度の謝罪で許してくれたことなど記憶にない。心の中では許していても、必ず二言三言は皮肉を言って、ネチネチと青木をいたぶって楽しむのが薪のスタンダードな仲直りの仕方なのだ。

「雪子さんから電話があった。今日だけは、おまえのこと許してやれって」
 なるほど、雪子が口添えをしてくれたのか。さすが雪子だ、ナイスフォローだ。
 薪はソファに腰を下ろすと、じっと足元を見つめた。うなだれた可憐な姿に、彼が寂しさを感じていることを知る。きっと薪は今、自分に側にいて欲しいと思っている。
 隣に座って彼を抱きしめる。胸の中に抱き込んで、サラサラした髪に頬ずりした。
「薪さ……えっ?」

 くちびるを寄せていた前髪の不自然な震えに気付いて、青木は身体を離した。見ると、丸みを帯びたやわらかな頬を涙が濡らしている。
「薪さん。あの」
「気にしなくていいから」
 こんなに泣くほど傷ついているとは思わなかった。もしかして、これまでに何回かあったケンカのたびに、薪はこんなふうに泣いていたのだろうか。自分が知らなかっただけで、このひとは陰でたくさんの涙を流していたのだろうか。

「僕がいつまでも未熟なのが悪いんだから、僕におまえを止める権利なんか無いんだ。子供じゃないんだし、知らない振りしようとしたんだけど……でも、やっぱり悔しくて、情けなくて」
「なにがですか?」
「雪子さんにも許してやれって言われたし、自分でも大人気ないと思うけど、でも。おまえが僕以外の誰かを抱いたんだと思ったら、涙が勝手に」
「はい!?」
 わからないっ、薪の思考経路はぜんぜん解らない! 雪子から「許してやれ」と電話があっただけで、なぜ浮気と結びつく!?

「おまえの気持ちを疑ってるわけじゃないんだ。僕も男だから、事情はわかるし。だから、気に病まなくていい」
「誤解ですよ。三好先生は、オレが薪さんとケンカしたまま家を出ちゃったことを許してやって、って言ったんです。オレはそれ以外、薪さんに謝らなきゃいけないようなことはしてません」
「隠さなくていい。わざわざ雪子さんが電話をしてきたんだ。いつものケンカとは違うことが起こったんだって、すぐにわかった」
 三好先生、余計なことしないでください!

 感謝の気持ちは5分もしないうちに翻って、青木は非難の言葉を胸で叫んだ。
 雪子にしてみれば、彼らがこんなケンカを頻繁にしているとは知る由もないのだから、これは気配りだ。それを非難されたら立場がない。
 しかし、電話があったくらいで浮気を決め付けるなんて、短絡的過ぎる。薪はもともと思い込みが激しいところがあるが、これは酷すぎる。青木にも失礼だ。

「オレがそんなこと、するはずないでしょう? 薪さん以外のひとなんか眼に入らないって、いつも言ってるじゃないですか」
 薪は両腕を伸ばし、青木の胸をとんと突いた。自分と恋人の間に距離を作って、浮気の証拠を次々と提示し始める。
「だっておまえ、すっごい香水臭いし」
 しまった、彩華の香水だ。鼻が慣れてしまって、自分では気付かなかった。
「首にはキスマークがついてるし、ワイシャツには口紅がべったりだし」
「ち、違うんです。これはその」
 青木はその先を続けることができなかった。オカマに押し倒されたなんて、薪には知られたくない。いや、浮気とかじゃなくて、単純に恥ずかしい。
「もしかしたら雪子さんと、って思ったんだけど。この茶色くて長い髪は、雪子さんのじゃないだろ? 雪子さん、ピンクの口紅なんてつけないし」
 人差し指と親指でつまんだ髪の毛を青木の前で振り、ワイシャツの襟についた口紅の痕を顎で指す。数々の物的証拠を挙げて、どうだ、と薪は挑戦的な眼で青木を睨んだ。

「察するに、おまえはこの髪の持ち主と」
「ちがいますっ! この髪の人物とは、死んでも関係したくありません!」
 青木の剣幕に怯みつつも、くっと細い顎を引き、肩を引き上げるように首を竦めて、薪はフェミニストを気取った。
「死んでもって。おまえ、それは相手の娘に失礼じゃないか?」
 青木にとっては心からの叫びだったのだが、事情を知らない薪には外見による蔑視に聞こえたらしい。青木も相手が本物の女性ならこんなことは言わないが、しかし。

「いろいろと方法はあるだろ。部屋を真っ暗にするとか、顔に紙袋を被せるとか」
 紙袋ってなに!? どんなプレイ!?
「薪さんの方がよっぽど失礼ですよ、てか、紙袋が米倉○子のマスクでもダメです。あのムダ毛が気持ち悪くって」
「ムダ毛の処理を怠ってるのか? それはちょっと引くな。だけど、毛深い女は情も深いって言うぞ。いろんなサービスしてくれるかも」
 薪は一旦言葉を止め、顔に似合わない猥談をするときの眼で、うぷぷと笑った。
「そっか、してもらったんだな。よかったな」
「されてません!! 逃げてきたんですよ!」
「逃げた? そんなおまえ、もったいないことを。いや、ウソつかなくていいぞ、僕は大人だから。気にしないから」
「信じてくださいったら!」
「わかったわかった、安心しろ。そういうことにしておいてやるから」
「しておいてやるじゃなくて! 本当に何もしてませんよ!!」

 青木は薪に掛けられた容疑を晴らそうと躍起になって、いつの間にか彼が、普段の意地悪な口調を取り戻していることにも気付かない。青木の様子を見れば鋭い薪のこと、純朴でウソのつけない彼が無実であることはすぐにわかった。だから、これはもういつもの言葉遊びなのだが、青木の方は大真面目だ。それがますますイタズラ心を刺激して、薪の演技は迫真を極める。
「いいんだ、僕に気を使ってウソをついてくれなくても。隠される方が、よっぽど悲しい……」
 両手で顔を覆って肩を震わせる。手のひらに当たる顔の筋肉は、もちろん笑っている。
 オロオロする青木の顔が、とてつもなく面白い。腹を抱えて笑いたいが、それではこの楽しい遊びの時間が終わってしまう。薪は必死に笑いを噛み殺した。

 肩の震えを激しくする薪を見て、いよいよ窮した青木が携帯電話を取り出した。薪が青木の勇み足を止める間もなく、リダイヤルのボタンを押す。
「三好先生っ、彩華さん連れて薪さんのマンションに来てください! オレの無実を証明してください!!」




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サインα(6)

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 結局、騒動の結末は酒宴の席になだれ込んだ。
 薪の部屋のリビングで、2人の男性と2人の女性が膝を突き合わせて、一見すると合コンに見えないこともないのだが、内実はそんな平和なものではない。青木にしてみれば、正妻(?)と浮気相手(??)が同席している状態なのだ。

 初めて彩華を見た薪は目を丸くしたが、青木のようにパニックに陥ることもなく、にこりと笑って深夜の訪問客を迎え、手早く酒の支度をして彼女たちをもてなした。冷蔵庫の在庫品を上手に使った酒のつまみは、彼女たちに大好評だった。
「まあ、この卵焼きおいしい。お料理上手ね」
「ありがとうごさいます。ビールもう1本、いかがですか?」

 初対面の二人は青木を挟んだ恋のライバルであるはずなのだが、何故か和やかに笑い合っている。その様子を見て、青木は薪の誤解が解けたと思い込む。彩華の突き抜けた容姿のおかげかもしれない。無理を言って来てもらってよかった。
 本当は雪子に電話をする前に薪の誤解は解けていたのだが、青木は自分が遊ばれていることにも気付かない。その鈍さを薪が愛しいと思っていることには、もっと気付かない。

「サラダもおいしい。このソース、お手製よね。サツマイモの甘煮も、え、このパイも? すごいわ、警察なんかに置いとくのもったいない」
「まあね。薪くんの料理はそんじょそこらの店には負けないわよ」
 焼きおにぎりと大好物のパンプキンパイを両手に持って、雪子は成長期の少年のように食べている。居酒屋で胃に収めた料理は、とっくに消化したらしい。

「なんで雪子が威張るのよ。ちょっとは見習いなさいよ、あんたアタシよりお料理下手くそじゃない」
「なに言ってんのよ、真っ黒焦げの卵焼きしか作れないくせに」
「あんただって似たようなもんでしょ。たまには殻が入ってない卵焼き作れないの?」
「あれでもできるだけ取り除いてるのよ。どうして卵ってあんなに割れやすくできてるのかしら」
「そうよね、持っただけで割れちゃう時あるものね」
「あ、彩華も? あたしもなのよ」
 彼女たちに料理を教えようと思ったら、卵の割り方から入らなくてはならないらしい。彼女たちにとって美味しい卵焼きまでの道のりは、眩暈がするほど遠い。

 薪はクスクス笑いながら、ふたりのやり取りを聞いている。この家の主は楽しそうだが、青木はこの宴席が早く終わって欲しいと願っている。薪の誤解さえ解けたら、もう彼女たちに用は無い。さっさと帰って、薪と二人きりにして欲しい。青木は薪以外の人間にはけっこうシビアだ。
 しかし、事態は青木の思惑とは真逆の方向に進んでいった。どの辺のフィーリングがマッチしたのか、薪が彩華と意気投合してしまったのだ。

「青木がすっかりお世話になったみたいで」
「そうなのよ~、一行ちゃんたらアタシに夢中で」
 はよ帰らんかい、この地球外生命体がっ!!
「ていうか、男はみんなアタシに惚れちゃうってカンジ? おかげでアタシの周りって、ケンカが絶えないのよ、アタシを奪い合って。美しすぎるのって罪よね。オーホッホッホ」
 それはお互い、あなたを他人に押し付けようとしてるんじゃ? いわば生存本能に基づいた行動で、カルネアデスの板が逆さになった状況じゃ?

「あなたも割とそんな感じ?」
「いいえ。僕は彩華さんみたいに人目を引く容姿じゃありませんから」
 マスコミの答弁に慣れている薪は、さすがにうまい言い方をする。確かに彩華は他人の視線を釘付けにする。つまりあれだ、怖いもの見たさだ。お化け屋敷に入るときの心理だ。
「あら、そんなに捨てたもんじゃないわよ。そりゃアタシのレベルに達するためには、長年の努力が必要だけど」
 努力? それは精神修行ですか? 自己暗示能力を極限まで高めるために、ナイアガラの滝にでも打たれてたんですか?
 
「彩華さんの顔は魔界レベルですよね」
 青木がぼそりと呟くと、彩華は青木の方に近付き、青木にだけ聞こえる声で、
「もう、一行ちゃんたら。恋人の前で他の女性を褒めちゃダメでしょ。オンナはそういうの、とっても傷つくのよ」
 頭の中身まで魔界レベルか、この低級使い魔が。
「ツヨシくん。オンナはね、磨き方次第なの。あんただってちゃんとお化粧してかわいいワンピースでも着れば、そこそこ見られるわよ」
 すみません、魔界の美的基準を薪さんに適用しないでもらえますか。
 
 何を思い出したのか、薪はゲホゲホとビールにむせると、必要以上に力を込めて、
「いや、僕は男なんで! ワンピースなんか着ませんからっ。ミニスカートも着物もチャイナドレスもゴスロリもメイド服も、絶対に着ません!!」
「まあ、豊富なバリエーションだこと。なかなかやるわね」
「だから着ませんよ! 二度とごめんですっ!」
「二度とってことは、1回は着てるのね」
 意外と冷静な彩華に突っ込まれて、薪は頭を抱える。墓穴掘りは薪の得意技だが、その様子はとてもかわいい。

「はあ。仕方ないわね。蓼食う虫も好きずきって言うし。あなたから一行ちゃん取り上げちゃったら、もう二度と男が寄ってこないかもしれないものね。相手に不自由してないアタシの方が譲ってあげるべきよね」
 何を言い出すんだ、失礼なっ!  薪に群れるたくさんの虫を払うのに、どれだけ苦労していると思ってるんだ!
「ちがいます、僕は女の子の方が好きなんです! あ、いや、こいつのことはその、つまり、ええと、あううう」
 最後の頃は何を言っているのか解らなくなってしまった薪の言葉を無視して、彩華はガッチリと筋肉の浮き出た肩を竦めた。憂いを含んだ顔つきになり、削げた頬に骨っぽい手を当てて、ほうっとため息を吐く。
 ……吐いた息の中から小さな妖怪が生まれてきそうだ、いっそ呼吸を止めてやりたい。薪がやったら抱き寄せて髪を撫でてやりたくなる仕草なのに、人間見た目じゃないって、あれ絶対にウソだ。

「嘘だと思われるかもしれないけど、アタシだってそんなにもてる方じゃないのよ」
 嘘だなんて思いません。それはあなたが自覚してることの中で、おそらく唯一の真実だと思います。
「まあ、アタシくらいのオンナになっちゃうと、みんな高嶺の花だと思うのよね」
 そうでしょうそうでしょう。ぜひ高いところで、いっそ成層圏辺りで咲き乱れちゃってください。そして宇宙の塵になれ。
「美しいからって、幸せになれるとは限らない。あなたくらいの容姿の方が、幸せをつかみやすいものよ。よかったわね、そこそこの顔に生まれて」
 だから、自分より薪の方が容姿的に下みたいに言うな!
 美しいと褒められることがあまり好きではない薪は平気らしいが、青木は我慢できない。薪はこの世で一番きれいでかわいいのだ。

「三好先生、あのひと何とかしてくださいよ。てか、連れて帰ってください」
「ムリ。彩華にアルコールが入ったら、もう朝まで付き合うしか道はないのよ」
 なんて迷惑な生き物なんだ! だれが連れてきたんだ、こんな粗大ゴミ! ……あ、オレが呼んだのか。
「いいわ、諦めてあげる。一行ちゃん。あなたもアタシのことは忘れてね」
 はい、多分明日の朝まで覚えてないです。人間、精神の安定のために、辛すぎる記憶にはロックが掛かるようにできてるんです。
「あなたの気持ちはうれしいけど。あなたたちの幸せのために、アタシは身を引くわ」
 引いてください、地球の裏側まで! マッハの速度で引きまくっちゃってください!
「最後の思い出に、キスしてあげるから」
 オレを自殺に追い込む気ですか!? それとも、あなたの人生に幕を引いてあげましょうか!?

 ホテルでの悪夢に再び襲われて、青木は尻で後ずさる。彩華が手馴れた狩人の動きで青木を追い、薪と雪子は腹を抱えて笑った。

「薪さん、面白がってないで止めてくださいよっ!」
「いいじゃないか、キスくらい。減るもんじゃなし」
「いやですっ!! オレは薪さん以外の男のひとは気持ち悪っ、な、なにするんですか!?」
 
 薪と雪子は一瞬目を合わせたかと思うと、素早く青木の背後に回った。仕事も遊びも容赦なく、がモットーの雪子に関節技を決められて、青木は上半身を封じられる。女とは言え柔道4段の雪子の技は、青木ごときが簡単に返せるものではない。そのまま床に座らされて、薪の両手が青木の頭を押さえつけた。


*****


 青木くん、ぴーんち!
 あー、楽しい♪♪


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サインα(7)

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「さ、彩華さん。どうぞ、ご遠慮なく」
 分厚い唇が目前に迫ってきて、青木は眩暈と共に観念した。白粉を塗った頬のところどころから短いヒゲが生えている彩華の不自然なアップを見るに耐えず、思わず目を閉じる。次の瞬間、くちびると鼻を同時に塞がれて、青木は窒息しそうになった。

 オカマのキスって、こんなに苦しいのか!? 息ができない、マジで死ぬ! 自分の口の大きさを考えろ、殺人未遂で逮捕してやる!
 あれ? でもなんか、いい匂いがする。それに全然、ベトベトしない。さらっとした肌触りでやわらかい、これはくちびるじゃなくて人間の手だ。それも、青木のよく知っている手だ。

 目を開けると、思ったとおり薪の両手が青木の口を塞いでいた。細い手の甲に、べったりとピンクの口紅がついている。
 瞳を動かして薪の顔を見ると、フクザツそうな表情で頬を染め、
「やっぱりダメ」と小さな声で呟いた。
 雪子も彩華も、呆れた顔をしている。もちろん、青木も。

 アホらしい、と言って彩華が立ち上がり、イタズラに失敗した雪子が投げやりに技を解いた。ふたりの女性が「なんか飲み足りないわね」などと話しながらこちらに一瞥もくれずに部屋を出て行く様子を見て、青木は薪の手を自分の口から外し、そのまま胸の前に持ってきた。自然に引き寄せられ、負ぶさるような格好になって、薪は青木の肩に顔を埋める。ほのかに香る、アルコールに混じった薪のにおい。

「守ってくださって、ありがとうございました」
「……うん」
「お礼のキスをしてもいいですか?」
 赤い顔をしている恋人が可愛くて愛しくて、青木は薪に守られたくちびるを、感謝を込めて彼に捧げたいと申し出る。薪は黙って目を閉じて、顔を上げてくれた。

 じっとくちづけを待つ仕草に、彼の望みを垣間見る。伏せられた睫毛は期待に震え、小さなくちびるは青木に応えるためにやわらかく結ばれている。
 そうっと触れればそれは自然に開いて、青木を中に受け入れる。真珠の連なりの向こうに隠れていた甘美な実は、軽くつつくだけで自分から青木の舌の上に落ちてきて、それは彼がこの行為を望んでいる証拠。
 存分に味わってから彼を解放し、青木は薪を注意深く観察する。蛍光灯が照らす亜麻色の髪、その絹のような輝きに包まれた薪の顔。雪子に言われたことを思い出してよくよく見れば、そのきれいな顔には言葉にならない彼の想いが溢れていて。
 亜麻色の瞳の中に微かに点滅するシグナルを認めて、自分の髪に絡む指に確信を深める。迷いを捨てればこんなにもはっきり見えてくる、かれが求めているもの。

 どうして気付かなかったのだろう。
 薪はこんなに自分への愛を叫んでいたのに。

 ほら、亜麻色の瞳が熱っぽく潤んでる。
 青木の髪に絡んだ細い指が、愛しいと言ってる。この黒い髪が、その持ち主が、僕は好きでたまらないと叫んでいる。

 これまでだって、彼はずっと言い続けていたのだ。青木に会うたび、青木の腕に抱かれるたびに。言葉以外のすべてを使って、語りかけていた。素直に開かれる足が、愛撫に震えるつま先が。仰け反る背中が、乱れる髪が、声が吐息が。全部全部、青木への愛を訴えていたのに。

 突き上げるような愛しさに、青木は薪の身体をぎゅうっと抱きしめる。
 見ようとしなかったのは、自分のほうだ。言葉は重要だけど、でももっと大事なのは薪の心、それを解ろうとする意識だ。
 思えば恋人になる前は、薪の考えていることがすぐにわかった。それはいつも薪のことを最優先に考えて、彼が何を望んでいるか知ろうと努力していたからだ。その中から自分への好意を見つけ出そうと、必死だった。
 恋人同士になってから、その努力は次第におろそかになっていった。恋人なのだから、言葉にして手渡してくれるのが当たり前だと思っていた。薪は悪くなかった。自分が思い上がっていただけだ。
 純粋に薪のことだけを考えれば、彼の気持ちはちゃんと解るのに。彼に好かれたいとか、自分だけを見て欲しいとか、我欲に捉われているときにはそれが見えない。薪は何も変わっていない、自分が傲慢になっていたのだと初めて気付いた。

 一番大事なことは、と青木は初心を思い出す。

 大事なのは、薪の笑顔を守ること。
 薪がいつも幸せそうに笑ってくれること。安らかに眠ってくれること。楽しそうに未来の予定を話してくれること。オレはそれを成し遂げたくて、このひとの恋人になりたいと思ったんじゃないのか。

 いつの間にか一番重要な命題を忘れて、自分を世界一好きだと言ってくれない彼に不満を抱いていたなんて。その言葉を聞けないというだけで、彼の中にあるいじらしさに気付こうともしなかった。
 相手の好意を信じることで、見えてくる色々なもの、逆に見えなくなってしまうもの。それは同じ比率で存在するのかもしれないが、青木には前者だけあればいい。薪の場合は、それが彼の人生と交わる人間にとっての必要条件なのだから。
 だから自分は今のこの気持ちを、胸の真ん中に据え置こう。魂の核の部分に刻んで、二度と揺るがないように、その周りを何重にも薪への想いで保護しよう。

 薪がいつも笑顔でいられるように。それが行動の基準点。

 身体の芯に通した新たな誓いに、青木は自分の存在がどっしりと質感を増すのを感じる。自分の存在意義を見出すのは、いつだって自分だ。他人から与えられた役割は、他人に左右される。そんなものに振り回されるなんてまっぴらだ。だからもう、薪の言葉なんかに惑わされない。
 自分ことは自分で判断する。薪の愛情も、自分で測る。

 薪が何も言わなくても、方法はいくらでもある。彼の何気ない仕草から、声の調子から、衣服の布地の動きからさえ読み取ってみせる。薪が何ひとつ隠し事のできないようになるまで、スキャニング能力を高めてやる。自分は薪のことなら何でもわかる、そう言えるくらいのエキスパートになってやる。
 恋人の間には、知らない方がいいことも沢山あることは承知している。でも、もう逃げない。オレが逃げていたらこのひとは、決して幸せになれない。手段は選ばない、大事なのは薪が笑ってくれること。それだけを望む、望める人間になってみせよう。

 だから、と青木は思う。
 薪が鈴木に会いたがっているときは、彼の写真を見れるように席を外そう。声を聞きたいと思っているときは、夢で鈴木に会えるように彼の思い出話に付き合おう。ベッドの中で鈴木を思い出したときは、自分は鈴木になって彼を愛してやろう。
 それは決して一方通行じゃない、青木の自己犠牲でもない。相手の好意を信じて為す分には、愛情の一形態に過ぎない。
 
 薪の愛を信じるに足る証拠? そんなものは、わざわざ探すまでもない。
 こうして自分の前で目を閉じてくれることが、青木の求めに応じてくれることが、薪から発せられる大切なサイン。形を持たなくても情欲を伴わなくても、薪にとっては精一杯のアイシテル。
 彼が自分の側にいてくれる。それが何よりの証拠じゃないか。

「薪さん。オレ、腹決めましたから。覚悟してくださいね」
 もう絶対に離れません、と独り決めした青木の言葉は、薪の耳に届くことはなかった。腕を緩めると、細い身体はくたりと青木の方に倒れてくる。彩華に勧められたアルコールのおかげで、薪はとっくに夢の中だった。
 苦笑して彼を抱き上げ、ベッドに運ぶ。トレーナーはそのまま、ジーパンだけパジャマに穿き替えさせて布団を被せる。穏やかな寝顔に安堵して、彼の夢が一晩中楽しいものであることを願う。

 薪のくちびるが微かに動く。その口が自分の名前を形取らないかと、つい期待してしまう己を戒め、青木はくちびるを薪の額に寄せた。
「ん~、彩華さん」
 どうやら彩華の夢を見ているらしい。無理もない、彼女のインパクトは水爆クラスだ。が、薪の寝顔は穏やかなままだ。彼女が夢に出てきたら、青木なら確実にうなされるが、薪は平気らしい。

「おやすみなさい。いい夢を」
 秀麗な額にキスをして、酒宴の片付けのためにリビングへ向かう。閉ざされたドアのこちら側で、まどろみのカーテンが降りた部屋の中で、誰の耳にも届かない小さな呟きが洩れる。
「ダメです……青木は僕の」

 その後は聞こえない。
 枕に吸い込まれたその言葉は、この世のだれも知らない、本人の耳にさえ感知されない。それは無為な空気の波動に過ぎない。
 しかし、その震えは甘く。部屋中を満たす白百合の香りに混じって、薪に安寧を連れてくる。

 3年目の春は、そこまで来ていた。




 ―了―



(2010.3)



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 こんにちは~。

 メロディ10月号、発売されましたね。
 読む前は怖かったんですけど、思ったより落ちませんでした。
 わたし的に、うれしいシーンもありましたし。
 こちらはまた後ほど。



 で、今回のお話なんですけど。

 ああ~、これ、どうしようかなあ。
 とってもエゲツナイお話なんですよね。 期間限定公開にしようかなあ。
 だけど、この時期にこれ入れないと、セカンドインパクトに間に合わないし。(←またそんな理由。『バースディ』も『スロースロースロー』もファーストインパクトのために書いたんだったりして)


 18歳未満の方は、ご遠慮願います。
 グロイRの苦手な方も、ごめんなさいです。
 



 

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 薪は言葉が足りない。
 捜査会議の時には過不足なく出てくる言葉が、ある特定の状況下に置かれると同じ人間だと思えないくらい不器用になる。

 それは主に、彼のプライベートタイムにしばしば現れる。だからと言って、彼が仕事のとき以外は口下手でつまらない男だという意味ではない。友だちみたいに楽しく喋っている場面では豊富なボキャブラリから捻りを利かせたジョークを発したりして、むしろ話し上手なほうだと思う。

 でも、これが恋人の時間になると壊滅的にヘタる。

 青木は自分の気持ちを言葉にすることにさほど抵抗はないが、薪は違う。嫌味や意地悪はぽんぽん出てくるくせに、肝心のことは言わない。甘い言葉どころか、して欲しいこと、本当は嫌なことも口にしない。
『愛してます』と囁けば目を伏せて黙り込んでしまうし、気分をほぐそうと少し下世話なジョークを言っても答えてくれない。女の子の猥談には喜んで乗ってくるくせに、我が身に降りかかると薪は究極の恥ずかしがり屋になる。

 特にあの時は苦労する。
 無言になってしまうのはもちろん、固く強張ってしまう身体をほぐすのに手間のかかること。
 しかし、それを面倒だと思ったことはない。恥じらいながらも薪のからだがゆっくりと快楽に満たされていく様子はものすごく可愛いし、苦労した分喜びも大きい。彼が恥ずかしがれば恥ずかしがるほど、もっと恥ずかしがらせてやりたくなる。ついついエスカレートして、本気で怒らせてしまったことも何回か。あとでゴキゲンを取るのが大変だった。
 
 生まれつきこちらの能力はあまり高くないのか、薪の身体はこの行為にさほどの興味を覚えないらしく、巷で漏れ聞くようなキスをしただけでそんな状態になったとか、自分から服を脱いで迫ってきたとか、脱がしたときにはもう爆発寸前だったとか、そういう彼にはお目にかかったことがない。
 一度でいいから見てみたいとは思うが、その希望は叶えられそうにない。というのも、薪はもともと性欲が薄くてなかなかベッドの誘いに応じてくれない上に、セックスの快感も薄いみたいで。なければない方がいい、と考えているのがミエミエだったからだ。

 青木の悲観的予測は、薪がバックの快感を得られないことに因る。感度が悪いわけではなく、もっと物理的な理由だ。つまり……薪のその部分は、小さすぎるのだ。指なら平気だが、というかすごく悦んでくれるのだが、肝心要の行為になると許容限界を超えてしまうらしい。特に最初の頃は痛みが酷くて、何度も中断を余儀なくされた。

 初めて身体を重ねた日から丸二年が経とうとしている現在、中断こそなくなったものの、青木の方が一方的に、ということは多い。欲望の大きさに隔たりがありすぎる恋人とのセックスに、若い身体は物足りなさを感じることもあったが、年齢的にも仕方のない現象だと諦めていた。精神的には充分に満ち足りていたし、青木は薪のそんな性癖を不満に思ったことはなかった。例え日常の激務に疲弊している薪が途中で眠ってしまっても、苦笑と共に許すのが常だった。
 めくるめくような官能の世界に憧れないこともなかったが、まあ、現実はこんなもんだ。そんなものがなくたって、薪と一緒にいられるだけで自分は幸せだし。

 すれ違いだらけの恋人とのベッドの内情を、青木はそんなふうに思っていた。



*****


 以下、メロディ10月号のネタバレです~。
 レビューではありませんが、わたし的にうれしかったところ、でございます。



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 こんにちは。

 今日は人間ドックなのですよ。
 イヤだなあ、バリウム嫌いなんですよね。(^^;

 
 え、胃を診てもらうより頭の中を診てもらえ?
 ……ごもっとも。




 ここからRです~。
 申し訳ありませんが、18歳未満の方はご遠慮くださいm(_ _)m




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 続いててすみません~~~。

 Rです。 キツイです。
 18歳未満の方、Rが苦手な方はご遠慮ください。




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 すみませんすみませんっ、最後ですからっ。

 Rです、きついです。
 18歳未満の方と苦手な方はご遠慮願います。





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 ラストです。
 しつこくてすみませんでした~~。(>_<;)





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 一息ついて身体を休めたあと、青木は薪を抱えて温めのお湯に身を横たえた。薪の胸や腹をやさしく撫でて、その肌を慈しむ。
「薪さん、ごめんなさい。無理させちゃって」
「べつに。そうでもない」
 薪のセリフは強がりではない。たしかに、いつもより元気に見える。終わった後の薪はたいてい青息吐息の状態で、気絶するように眠ってしまうことも多いのだが、今日はこうして普通に会話もできるし、指一本動かすのもかったるい、という有様ではない。

 高音湿潤状態の浴室での後背座位は、受ける側にとっては決して楽ではなかったはずだ。普段のベッドでの正常位に比べたら肉体的な疲労も大きかろうし、今日はいつもより時間も長かったのに。不思議なものだ。
 疲労感にはメンタル面が深く関係するから、時間の問題ではなかったのかもしれない。仕事で疲れている薪に負担を掛けたくない気持ちも手伝って、行為に掛ける時間は30分程度に抑えるようにしてきたのだが、こうして時間を掛けて彼の快楽を追及した方が、逆に薪の負担は減ったのかも。

「まさか、ここで最後までするとは思わなかったけど」
「薪さんに好きって言ってもらえて、とっても嬉しかったんです。だから、止められなくなっちゃって」
 ばしゃん、とお湯を蹴立てて、薪が身を起こした。びっくり眼の可愛らしい顔で、青木の方を振り返る。

「ちょっと待て。僕、そんなこと言ってないぞ」
「はい?」
「言うわけないだろ、そんな心にもないこと」
「え、だって確かに」
「言ってない。それはおまえの聞き間違いだ」
 照れているのかと思いきや、薪の頬は白いままだ。首筋も耳も、赤くなっていない。ということは、本当に記憶がないのだ。
 酒を飲んでも記憶を失くす人だが、セックスでも記憶が飛ぶのか。このひとの脳は天才かもしれないけれど、重大な欠陥も持っている。それでようやく人間のカテゴリに収まっているのかもしれない。

「じゃあ、初めてバックでイケたことも忘れちゃってるんですね」
 びくぅっと薪の身体が固くなった。首から上どころか、全身が薄赤く染まっていく。ユデダコみたいだ。
「あれは僕じゃない!!」
 薪でなかったら誰だと言うのだろう。
 無茶苦茶な応えを返してくる薪に吹きつつ、青木はハイハイと頷いた。覚えているならいいのだ。コツは摑んだ。この次は、ベッドの上で追い込んでやる。

「夢だ、あれは夢だったんだ、きっと。あんなことがあってたまるか、僕はヘンタイじゃない、普通の男なんだ、女の子が好きなんだ……」
 念仏を唱えるがごとくブツブツと口の中で繰り返し、薪は自分に暗示をかけているようだった。どうもプライドに触ったらしい。
「今日の薪さんは、とっても素敵でした。オレの人生で最高のセックスでした」
 ありがとうございました、とお湯の中で抱きしめれば、薪の亜麻色の瞳が嬉しそうにくるめいて、抑え切れない微笑がその口元に刻まれる。

「……本当に?」
「はい」
 青木の腕を振りほどき、薪はざばっとお湯から上がると、スタスタ歩いて浴室を出て行った。後戯が好きな青木としては、もう少しイチャイチャしていたかったが仕方ない。薪は醒めるのが早いのだ。
 彼を追いかけて脱衣所に出ると、早くも身体を拭き終えてサニタリーを出るところだった。バスタオルを腰に巻いて、このまま水分補給のためにキッチンへ直行するのだろう。青木の方を見ることもなく、ドアが閉ざされる。
 
 ドアのこちら側では青木が苦笑しつつも、今夜は泊まらせてもらえるかな、と希望的観測を抱き、向こう側では薪がリビングを横切りつつ独り言を洩らす。
 恋人の前では決して見せなかった素直な微笑みに、亜麻色の瞳を細めて一言。

「じゃあ、夢じゃなくてもいいや」


 ―了―


(2010.2)



*****


 もともと『サイン』はこういう話になるはずだったんですよね。
 それが、彩華さんが出てきた途端、ギャグに突っ走って行っちゃって、修正が効かなくなっちゃって。
 強烈過ぎるキャラクターは、時に話を暴走させるものですね。(--;

 αとβ、わたしはαのほうが好きですけど、皆さんのお好みはどちらかしら??



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クッキング(1)

 新しい年が始まりました。
 本年もよろしくお願い致します。
(失礼ながら、実は昨年、近しいひとを亡くしておりまして、個人的に新年のご挨拶は控えさせていただきます)



 さて、こちらのお話は、当ブログ初のスピンオフ、雪子さんと竹内のラブストーリーでございます。
 男女の恋愛ものを書くのは久しぶりです。
 ええ、ざっと……中学校以来ですね(笑)
 大人になってから男女の恋愛ストーリーを組み立てたのは、マジで初めてですね。
 と言っても、わたしが書くものですからね。 結局はギャグにしかならないんですけどね☆


 一応注記しておきますと、
 雪子さんのお相手は、当ブログオリジナルキャラの竹内誠という男性です。なので、
 原作のイメージを大切になさりたい方、
 青×雪派及び鈴×雪派または薪×雪派の方は、ご遠慮ください。

 よろしくお願いします。





クッキング(1)




『三好先生。晩飯、付き合ってもらえませんか』
 携帯電話から聞こえてきた陰鬱な声に、雪子は内心のため息を隠して、「いいけど」と気乗りしないニュアンスを含んだ言葉を返した。

 電話の相手が待ち合わせ場所に指定してきた渋谷駅に赴き、彼を探す。
 水曜日の午後8時、駅は夜の街に繰り出そうとする人の群れでごった返している。しかし、彼を見つけるのは簡単だ。若い女の子たちがこそこそと、少し頬を赤くしながら視線を送る先にいる人物、それが彼、竹内誠警視だ。
 ハチ公像の傍、街路樹にもたれかかって腕を組み、遠い目をしている。焦げ茶色の髪は無造作に流れ、長めの襟足にふわりと落ちかかっている。眉はすっと伸びて、その下の瞳は涼やかな秋風のように澄みきって、それでいて暖かを感じさせる茶系色。鼻は高く、口元はきりっと締まっていて、顎は細い。
 何処から見ても文句のつけようがないハンサムな顔が、細身の長身に載っていれば、女の子の目線が集中するのも仕方のないことだ。それは本人の咎ではない。
 しかし。

「先生」
 竹内は雪子を見つけると、親しげに手を振って微笑みかけてきた。途端に自分に向けられた敵意ある視線の数の多さに、雪子は彼の誘いに応じたことを早速後悔する。
 もし竹内が雪子の恋人で、今自分は女性たちの嫉妬を一身に集めているというのなら、そこに優越感を抱いて自分を鼓舞することもできるかもしれない。が、この男と自分は何の関係もない。なのに、こんな陰険な目つきで見られて、しかも『なに、あの女。オバサンじゃん』『きっとお金よ。お金で言うこと聞かせてるのよ、いやらしい』って、聞こえてるわよ、そこの小娘っ!!

「何が食べたいですか?」
「チャーシューメンとギョーザ。もしくは吉×家の牛丼、特盛」
「あははっ、安く上がって助かります。でも、できればもう少し落ち着いたところで」
 落ち着きたくないからこそのリクエストだったのに。鈍い男だ。
 彼の話題は分かっている。彼の服装を見れば解る、今日はデートだったのだ。夜を待たずして自分が呼び出されたということは、つまり。

「また振られたんだ」
 駅に近い居酒屋のボックス席に落ち着いて、開口一番に核心に切り込む。無駄な時間は使いたくない。2月のこんな寒い夜は、早いところ家に戻って、ワインでも飲みながら007の続きが見たい。
「……聞いてくださいよ! 俺、別に黒髪のワンレングスが嫌いだって言ったわけじゃないんですよ」

 隣の席のOLが、こちらを見てひそひそ話をしている。店員の女性が、通り際に竹内のコップにだけ水を足していく。
「あの女」「釣りあわない」「身の程知らず」などという単語が途切れ途切れに聞こえてきて、雪子は心の中でため息を吐いた。
 だからこの男と食事に来るのは嫌なのだ。ったく、割りに合わない。男女関係のダの字もないのに、どうしてこんな見ず知らずの女性たちに陰口を叩かれなくてはならないのだろう。

「どんな髪型が好みかって聞かれたから、亜麻色のショートカットが一番好きだって言っただけなんですよ。なのに、彼女はそれをおかしな風に誤解して、亜麻色のショートカットの娘と浮気してるんでしょう、とか始まって」
 水割りのグラスを片手に、竹内はまくし立てた。浮気を疑われたのが、よっぽど口惜しかったらしい。
「それができれば苦労しな、いやそうじゃなくて。そもそも、あっちが何とかなるようなら最初からあの娘とは付き合わな、違う違う……」
 次々と運ばれてくる料理に箸をつけながら、雪子はふんふんと話を聞いてやる。
 別に自分はこの男の友人でもないし、姉でもない。彼を親身になって励ましてやる義理はないのだ。しかし、そこは性分というもので、嘆いている人間がいれば慰めたくなるし、泣いていれば涙を拭ってやりたくなる。姐御肌で面倒見がいい、だから余計に男が寄り付かない、と助手の女の子は言うが、持って生まれた性質はなかなか直らない。

「せめて黒髪のショートカットって言えばよかったじゃない。なんで彼女の髪の色にしなかったのよ」
「亜麻色が、一番きれいだと思うから」
 竹内の言う亜麻色が、特定の人物を指している事を雪子は知っている。竹内が心に隠した思い人は、雪子の友人だ。竹内は知られていないつもりでいるが、雪子にはとっくにお見通しだ。
「そう?」
「きれいです。日の光が当たるとキラキラして、宝石みたいに光るんです」
「ふーん。でもさ、髪は長いほうがきれいなんじゃないの」
「髪が短いと、ちょっと動くだけで髪の毛全体が動くでしょ? 光が飛び跳ねるみたいに輝くんです。毛先から、小粒のダイヤモンドが零れてきそうな感じで。その躍動感がたまらないっていうか」
 うっとりと夢見るような目つきになった竹内に、雪子は頭を抱える。彼女の前でこの賛辞を並べ立てたら、振られて当たり前だ。

 竹内は、何年か前から雪子の友人に心を奪われていて、そのために付き合っている女性から振られ続ける、という悲劇に見舞われている。雪子に言わせれば、自業自得だ。気になっている相手がいるのに、他の女性と付き合おうというスタンスが間違っているのだ。
 このルックスだから、大抵の女性は口説けば落ちる。しかし、問題はその後だ。口説いておきながら、いざデートの時になると、竹内は目の前の女性のことでなく、別の誰かのことを考えてしまう。いつの間にやら上の空、意識してやっているわけではないのだろうが、相手の女性にしてみれば不愉快この上ない。

「亜麻色のショートカットなんだ。あんたの好きな人」
 ぎくっと顔を強張らせ、竹内はそっぽを向いた。落ち着こうとしてか水割りを口に含み、むせそうになっている。
 竹内には、自分の思い人を雪子に知られたくないわけがある。雪子の友人であることも一つの要因だが、もっと大きな理由は、そのひとが竹内と同じ男性だからだ。
 しかし、雪子以外に『警視庁モテ男№1の竹内誠警視』が次々と女に振られまくっている事実を知っている者はいない。そんな情けない真実を広めたくない竹内としては、泣き言を聞いてもらえる相手は雪子しかいないのだ。

「詮索はしない約束だから、これ以上は追及しないけど」
 雪子は大根サラダを食べながら、空っとぼけて言葉を継ぐ。
「あんたさ。そんなに好きな相手がいるなら、他の女の子と付き合うのやめれば」
「いやですよ! 俺から女の子を取ったら、キャラ的に何が残るんですか?」
「『捜査一課のエース』が残るでしょうが」
「いりませんよ、そんな野暮ったい渾名。俺は『捜査一課の光源氏』でいたいんです。クールでスマートなプレイボーイのイメージを崩したくないんですよ」
「あんたねえ」

 呆れ果てたように雪子が肩を落とすと、竹内は、あはは、と快活に笑った。




 

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クッキング(2)

 こんにちは。
 
 うちの看板は『R系BLギャグ小説』、しかもFC2お墨付きのAサイト指定なのに、(なんて穢れたブログ)
 健全な男女のラブコメ、しかも雪子さんとオリキャラなんて、コメいただいた何人かのウルトラマニアックな方々(失礼)しか読んでくれないだろーなー、と思っていたんですけど、
 なんと拍手が17も!

 どうもありがとうございます。
 みなさん、付き合い良いですねえ。(笑)

 
 
 



クッキング(2)





「いつもすみません、三好先生。でも、なんか先生に愚痴を聞いてもらうと、元気になるんですよね」
 
 竹内の好きな人には、恋人がいる。そのことも雪子は知っている。それは周りには知られてはいけない恋で、もちろん竹内はその事実を知らない。
 雪子の立場としては、友人の恋を守ってやりたい。だから、竹内が次の恋人を見つけられるように、こうして彼が振られるたびに彼を元気付ける役目を引き受けてきたのだが。

「まあ、あたしは美味しい物が食べられればいいけど。あんたのその癖は、何とかしないとね。自分が悪いのよ? デート中に目の前の彼女に集中するって、最低限の礼儀でしょう」
「分かってます。俺だって最初は気を引き締めてかかるんですよ。相手の顔を良く見て、褒められそうなところを探したりして。でも、どうしても考えちゃうんです」
 両手を組み合わせ、そこに自分の鼻先をつける。眼を閉じて、はあ、とため息を吐く。ひとつひとつのポーズが絵になる。ファッション雑誌の写真みたいだ。どうしてこんな男が刑事をやっているのだろう。本当に、職業を間違えたとしか思えない。

「例えば、彼女の口紅の色がこの冬の新色で、『きれいだね、よく似合ってるよ』って言おうと思うでしょ。そうすると、自然にあのひとのくちびるが浮かんできて。何もつけてないのに艶めいてて、蠱惑的で、でもちょっとあどけないところも残ってたりして、なんて魅力的なんだろうって考えてるうちに、彼女が怒り出すんです」
 過去の出来事を思い出している人間の多くが右上方を見るように、竹内もまた茶色の瞳を上方に動かし、すると完璧に整っていた俳優顔が僅かに崩れて、でも雪子はそんな竹内の顔をかわいいと思う。
 そう、割と可愛らしい顔もするのだ、この男は。

「彼女が赤いコートを着てくれば、あのひとには白が似合いそうだな、とか思ったり。香水を変えれば、あのひとからは百合の匂いがしたな、とか」
 いけ好かないカッコつけ野郎だとずっと思っていたが、こうして近くで見る機会があると、大多数の女性の意見は正しい、と改めて思う。砕けて話をしてみれば、性格もそう悪くない。
「とにかく、何を見ても聞いても、あのひとのことを思い出しちゃうんですよ。しかも、あのひとの方がずっと素敵だと思ってしまって」
「はあ。絶世の美女を探してくるしかないわね、こりゃ」
 今までの相手も、モデルだとか女優の卵だとかで、美人ぞろいだったはずだが。見慣れてしまって美的水準が上がってしまっているのか、竹内の中の『あのひと』が美しすぎるのか。

 たしかに、と雪子は友人の姿を思い出す。
 彼はとびきりの美人だ。そんじょそこらの女性では、彼に太刀打ちできない。
 白百合の花のような、可憐な佇まい。線が細いから一見大人しそうな印象を受けるが、中身はとんでもなく激しい。年を取って少しは穏やかになったようだが、本質は変わっていない。我儘で頑固で自分勝手。好きになったひとにはとことんやさしいが、嫌いな人間には果てしなく冷たい。
 竹内は捜査一課に在籍していることからも、後者のカテゴリに分類されている。その彼を好きになってしまったなんて、この男もたいがい面倒な男だ。

「無駄だと思います。実は、元ミスユニバースと付き合ったこともあるんですけど。やっぱりダメでした」
「もういっそ、精神科に診てもらえば? 催眠術かけてもらうとか」
 雪子の冗談に竹内は笑って、雪子と同じ皿から大根サラダを自分の箸で取った。
「造作的に彼女が負けてるわけじゃないんです。どっちに心を惹かれるか、なんですよね。容姿にだけ惹かれてるわけじゃないから、だからあのひとの方が好ましく見えてしまうんでしょうね。
 仕事してるときとか、男友達とつるんでるときは平気なんですよ。女性を見ると、連想されちゃうみたいで」
「ふうん。厄介な症状ね」
「まったく、これじゃ誰とも」
 そう言いかけて、竹内はふと気付いたように、
「あれ? そういえば、先生といるときは、あのひとのこと考えてないです」

「はあ? なに言ってんの。たった今、『あのひと』について力説してたじゃない」
「そうじゃなくて。先生とあのひとを比べてみたことはないな、って。なんでだろう?」
 その理由は、すぐにわかった。だが、口に出すのはためらわれた。屈辱的な理由だったからだ。
 しかし、目の前で考え込む人間がいて、自分がその解答を知っていれば、教えてやらずにはいられないのが雪子の性格だ。墓穴だと知りつつも、雪子は言った。

「……それって、あたしを男友達だと思ってるってことじゃないの?」
「ああ、そうか。なるほど」

 なるほどじゃねえよっ!!
 軽く手を合わせて素直に納得する竹内に、雪子はあからさまに舌打ちする。「すいません、チューハイ追加!」と大きな声で店員を呼んで、さらに堅焼きそばとエビチリと肉じゃがを追加注文した。
「相変わらず見事な胃袋ですね。俺にもイモください」
 上品に箸でつまんで、取り皿に分ける。一緒に食事をするたびに思うのだが、竹内は、箸の使い方がとてもきれいだ。親のしつけが良かったのだろう。
 じゃが芋と絹さや、人参を2切れ確保し、竹内の箸はそこで止まった。

「なに見てんのよ」
「いや。一生懸命だなあって思って」
 ふわっと笑って、竹内は雪子を見つめた。反射的に早くなる心臓の鼓動を意識して、雪子の肩が強張る。
 竹内に、一度もときめいたことがないと言えば嘘になる。ハンサムな男の人がいれば自然に目が行くのが女の本能。その男に笑い掛けられたり接近されたりすれば、ドキドキして当たり前だ。愛とか恋とか、そんな高尚なものではなくて、これはもっと原始的なものだ。

「先生みたいに一生懸命に食べる女の人、俺の周りにはいないから。めずらしくて」
「仕方ないでしょ。あたし、これ以外楽しみないんだから」
「どうしてですか? 先生は大食らいで色気はないけど、見た目はそんなに悪くないし。うまく騙せば、恋人くらいできますよ。俺の友人は紹介できませんけどね、恨まれちゃいますから」
 竹内のリップサービスは、女の子限定だ。雪子はその対象外。本音でズバズバ切り込まれる。菅井の男版、と言ったところだ。

「あたしが恋人作ったら、あんたの愚痴は聞いてあげられなくなるけど?」
「あ、それは困ります。先生はやっぱり、仕事と食事に生きてください」
「言われなくてもそうする、てか、それ以外できないわよっ、どうせ!」
 雪子が逆切れすると、竹内は机に突っ伏して笑った。よっぽど可笑しかったのか、ひーひー言っている。捜一の光源氏が聞いて呆れる、クールなプレイボーイはどこへ行ったのやら。

「ちょっと、あんた笑いすぎ」
「先生見てると、安心するんですよ。ほら、失恋すると落ち込むじゃないですか。でも、世の中にはこんなに寂しい人生送ってる人もいる、俺なんかまだまだ幸せな方だって」
「捜一の光源氏のお役に立てて光栄ですことっ! オホホホホ!!」
 竹内が本当は誰に惚れているのか、署内に怪文書で回してやろうかしら。

「でも俺、本当に先生には感謝してるんですよ」
 美味しそうに煮えたじゃが芋を箸で割って口に運びながら、竹内は急に真面目な口調になった。



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クッキング(3)

クッキング(3)





「先生にこうして話を聞いてもらうようになって、3年くらい経ちますけど。ずい分、慰めてもらったなあって」
 
 竹内はエリートで、仕事もできるし女性にもモテる。彼のような人間は、中々他人に弱音を吐く事ができないものだ。
 そんな彼が、雪子を相手に失恋の憂さを晴らすようになったきっかけは、3年前のクリスマスイブ。
 ある男性と食事をしていたら、その男性は雪子を置いてレストランを出て行ってしまった。実際は雪子がそうしろと言ったのだが、傍目から見れば、『クリスマスイブに男に振られた可哀相な女』の構図だ。人からどう見られようとさほど気にならない雪子だが、たまたま同じレストランに竹内がいて、一部始終を目撃されてしまった。

 嫌なやつに見られた、と雪子は思ったが、竹内も彼女に振られた直後だと言う。そんな理由でその晩は意気投合して、一緒に食事をした後、助手の女の子にもらったコンサートのチケットを捨てるのももったいないから、とイブの夜を共有したのだ。
 クリスマスイブというロマンチックな夜に、しかし話題は失恋話。それも竹内の失敗談を延々と聞かされた。
 自分の前で情けなく愚痴る男を、なんだかどこかで見たような光景だわ、と思いつつ、面倒見のよい雪子は相槌を打ちながら彼の話を聞いてやったのだ。

 自分の愚痴を誰かが親身になって聞いてくれるという癒し。それに味をしめたのか、それからは彼女と別れるたびに、雪子を呼び出しては一緒に食事をする、というパターンが定着していた。途中、竹内が火災による事故で大怪我をして何ヶ月も入院したり、という中断はあったものの、この秘密の会合は多いときで1月に2回、間が空くときで3月に1回くらいの割合で繰り返されてきたのだ。

「先生に話聞いてもらうと、元気出るんですよね。先生、俺の愚痴、一生聞いてくださいね」
「いいわよ。その代わり、食事はあんた持ちね。3回に1回は中華にして。ラーメン屋でもいいから」
「あはは、ラーメン屋って中華料理に入るんですか?」
「あたしの中では立派な中華料理よ」
 雪子の庶民的な主張に竹内はひとしきり笑って、
「俺、一人っ子なんですよ。だからずーっと、こんな風に相談できる兄貴が欲しくて」
「ちょっと、兄貴ってなによ。あんた本気であたしの性別間違ってんじゃないの!?」
「あ、すいません。つい本音が。俺って嘘のつけない性格で」
 形の良い唇から、次から次へと出てくる軽口を聞いて、雪子は彼の心が元気になったことを知る。
 これで今夜の自分の役目は終わった。後はこの料理を平らげて家に帰ろうと思った矢先、竹内が妙なことを言い出した。

「先生。今度の日曜日、俺と遊びに行きません? 遊園地なんかどうですか?」
「なんで? 土曜の夜に振られる予定でもあるの?」
 雪子の切り返しにアハハと笑って、竹内はテーブルの上に身を乗り出す。腕を組んで、雪子の顔を下から覗きこむように、
「この2ヶ月で5人もの女の子と付き合ったら、ちょっと疲れちゃって。久々に男友達と過ごしたい気分なんですよね」
 ……この男、本気であたしの性別誤解してるんじゃ。

「じゃあ、男友達を誘えばいいでしょ」
「ダメですよ、休日に男を誘うなんて。『光源氏』の名折れです。その点、三好先生は生物学的には一応女性ですから」
「あたしを女性だと認識するのに、生物学からのアプローチが必要なわけ?」
 引き攣った笑顔で唐揚げを頬張る雪子を見て楽しげに、竹内は水割りを飲み干す。グラスを上げて店員を呼び、お代わりを頼むついでに雪子にもオーダーの確認をする。言うことは失礼極まりないが、よく気がつくし、けっこう優しい。

「三好先生って、見た目はイケルでしょ。俺の眼から見ても、ぎりぎり合格ラインだと思いますよ」
 どうだろう、この傲慢な言い方。ギリギリで悪かったわね、と返す間もなく、竹内は次の攻撃を繰り出してきた。
「でも、ぜんっぜん口説く気にならないんですよね。つまり、俺にとっては女じゃないんですよ」
 女じゃないってどういうことよ! 生理はまだ上がってないわよっ!!
 さすがにそのセリフは飲み込んで、もう少し婉曲な言い回しを考える。要は、自分が女だということをこの男に分からせればいいのだ。脱いで見せるという方法はダメだ、生物学的見解では雪子のプライドは治まらない。

「三好先生が女らしいことをしてるところが想像つかないっていうか……例えば料理とか。先生、できないでしょう?」
「できるわよ、料理くらい」
 反射的に口から出たウソを、雪子は後悔しない。できないでしょう、と決め付けられて、『はい、できません』なんて言えるほど可愛らしい性格はしていない。

「本当ですか? じゃ、日曜日、お弁当作ってきてくれます?」
 ……オベントウってどんな生き物だっけ。尻尾は何本だっけ、空は飛べるんだっけ。
「任せて。リクエストはある?」
 できればカップラーメンかレトルトカレーで……。
「三好先生の得意なものでいいです。食べ物の好き嫌いはありませんから」
「そう言われると迷っちゃうわ。和食も洋食も中華も、何でも得意だから」
 傷つけられたプライドが言わせるのか、女の意地か。見栄のために二枚目の舌を使ったことなどなかったのに。

「楽しみだなあ」
 両手で頬杖をついて、竹内は無邪気に笑った。
 にかっと子供みたいに笑う、それは雪子だけが知っている彼の顔。男友達は知っているだろうけど、きっと女の子たちは知らない。
 スマートで都会的で、女性なら誰もが酔わされる甘いマスク。洗練された会話にお洒落な演出。女性の前ではそのスタイルを崩さない竹内の舞台裏は、普通の女性では見ることができない。

 今、感じているこの気持ちは、なんだろう。
 優越? それとも、女性扱いしてもらえないことに対する落胆?

 どちらも自分が感じる必要のないものだと考えて、しかしざわめく気持ちを抑えることができない。
 ハッキリしないのは苦手だ、曖昧なものからは誤解や錯誤が起こる。だけどハッキリさせるのも何故か怖いような気がして、雪子はいつもその感情を気づかない振りでやり過ごす。

「先生。携帯鳴ってますよ」
 竹内に言われてバックを見ると、中の携帯が震えていた。マナーモードにしておいたのに、刑事の眼は鋭い。
 電話に出てみると、12歳年下の第九職員だった。
「どうしたの? 何か急用?」
 公衆電話のある位置に移動しながら、雪子は小声で尋ねた。この男が自分に連絡してくるときは、恋人、つまり竹内の想い人とのトラブルと相場が決まっている。内容を竹内に聞かせるわけにはいかない。

『三好先生、今から会えますか?』
 しばらくぶりで聞く彼の声は、落胆を滲ませた涙声。自分の感情に素直な彼の声を、雪子の耳は心地よく聞く。自分の気持ちをストレートに表に出せるのは、彼の一種の才能だと思う。

「悪い、竹内。ちょっと友達がトラブっちゃって」
 席に戻ってみると、竹内は帰り支度を整えていた。テーブルの端に置かれていた伝票もなくなっている。敏いというか、気が回るというか。薪といい勝負だ。
「俺、そろそろ帰ります。明日も仕事なもんで」
 相手に気遣わせない細やかな心配り。これくらい気働きが出来ないと、光源氏は務まらないのかもしれない。

 じゃあまた、と手を上げて去っていく竹内の後姿を見ながら、雪子は数十分後にここに来るであろう男のことを考える。

 トラブルの原因は分からないが、どうせまたつまらないことに決まっている。なんのかんの言ったって、あのふたり、相思相愛なんだから。放っておいても元鞘に収まるだろう。自分は少し、口と手を貸すだけ。
 そうでなくては、困る。
 去年の夏、久しぶりに悔し涙以外の涙を流した。あの涙が無駄になる。

 テーブルの上に残っている料理を眺め、ふと雪子は思う。
 竹内が食べたのは、肉じゃがと鮪の生姜煮と揚げだし豆腐。大根サラダに卵焼き。エビチリや堅焼そばには箸をつけなかった。これまでの傾向からも察するに、彼の好みは和食か。
 そんなことを思って、雪子は自嘲する。日曜日の遊園地なんて、あれはその場のノリというやつだ。その証拠に、約束の場所も時間も決めなかった。だから彼の好みをリサーチする必要はない。

 やがて電話の相手が現れて、雪子の前に腰を下ろした。ビール好きの彼は店員に中ジョッキを注文し、ハイペースで飲み始める。
 190近い長身の、黒髪に黒い瞳。スクエアなチタンフレームの眼鏡にオールバックの落ち着いた髪型。竹内とは正反対のタイプだが、十人並みの容姿は軽く超えている。

「すいません、チューハイお代わり」
 通りかかった店の女の子に声をかけるが、あからさまに無視された。隣の席のOL集団が、ひそひそと「ちょっと、別の男よ?」「うっそ、二股? ありえない。しかもカッコイイ」「何様よ、あのオバサン」だから聞こえてるっつーの!!

「聞いてくださいよ、三好先生。薪さんたらひどいんです!」
 
 いつものように愚痴り始めた男の言葉を聞きながら、雪子は大儀そうに腕を組んで椅子の背もたれに寄りかかった。


*****

 このときの薪さんと青木くんのケンカの顛末は、『サインα』というお話に書いてあります。
 よろしかったらどうぞ(^^



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クッキング(4)

 こんにちは。

 うちのお話はですね、薪さんに幸せになって欲しい、と願うひとりのオババが、原作から彼の障害をひとつひとつ取り除いて出来上がったものなんですけど。

 例えば、
 薪さんが青木さんへの恋に悩むなら、青木さんの方から薪さんに恋をすることにしよう。
 薪さんが雪子さんへの罪の意識に苦しむなら、雪子さんと薪さんは親友で、お互いを大事に思い合っていることにしよう。
 薪さんが雪子さんに気兼ねして、青木さんへの気持ちを殺そうとするなら、雪子さんには別の相手を用意しよう。

 他にも、
 薪さんが孤独を感じるなら、第九の皆が薪さんを好ましく思っていることにしよう。
 薪さんが職務上の重責を一人で負わなければならないなら、岡部さんとの間に強い絆を作ろう。
 薪さんが警視総監に責を問われるなら、強い権力を持った庇護者を作ろう。

 てな調子で、どんどん彼に都合の良い設定を作っていったわけです。
 だから、うちの薪さんは瞬く間に幸せになれるはずで、おやあ?
 いや、この設定を有効に使えない男爵が悪いんであって、わたしは悪くな……すみません……。
 
 とにかく。
 竹内は最初から、雪子さんのお相手として作ったキャラなんですけど。
 原作にもこんなふうに、雪子さんをさらってくれるキャラがいたら、薪さんももっとスムーズに雪子さんの婚約を祝う事ができただろうに、と思、あれっ!?
 うちの薪さん、バリバリ引っ掛かってんじゃん!!
 薪さんが二人の障害になってんじゃん!(『女神たちのブライダル』参照)
 
 仲が良すぎてもダメなんですね。(笑)
 





クッキング(4)





 朝のミーティングの30分前、法一の自席で雪子は頭を抱えていた。
 机の上には死体検案書の山が築かれており、片肘を付いて手のひらを額に当てる彼女の姿は、他人からは徹夜仕事に疲れたキャリアウーマンの姿にも見えたが。

「お疲れのようですね。また徹夜されたんですか?」
 執務机の上に置かれたコーヒーに礼を言おうとして、それを差し出したのが助手の女の子の手ではないことに気付く。これは男性の手だ。白くて清潔な、医療に携わるものの手。
「ええ、まあ」
 眼を上げると予想通り、白衣に身を包んだ男性の姿があった。
「仕事熱心なのはいいけど、あんまり無理しないでくださいね。徹夜は肌によくないですよ」

 雪子の憔悴の原因を仕事だと決め付けて疑わないお人好しの彼は、法一の同僚で風間という。雪子と同じ監察医で、3班のチーフを務めている。1班のチーフを務める雪子とは同じ責任者同士、何かと接触の多い人物だ。
 風間の家は代々医者の家系だそうで、彼もそれに相応しく品の良いインテリと言った風情だ。実際、育ちもよいらしく、実家の資産も相当あるとかで出世競争にあくせくする様子はない。おっとりした性格で丁寧な研究をする、少々せっかちな雪子には学ぶところが多い尊敬すべき人柄だ。
 広く秀でた額と銀縁の眼鏡が、いかにも賢そうに見える彼に微笑みかけて、雪子は素直に礼を言った。

「ありがとうございます。気をつけますわ」
 こういう人物と相対すると、こちらも自然と身を正してしまう。同僚とはいえ彼は雪子より5歳年上、職場では目上のものに敬意を払い、丁寧な物言いをするのが当然だ。
「でも、実は今日は」
「おはようございまーす」
 ドア口から明るく響いた挨拶の声で、雪子の言葉は遮られた。声の主は雪子の助手の菅井祥子。彼女はいつも元気だ。

 菅井の姿を認めると、風間は雪子ににこりと笑いかけて部屋を出て行った。3班の部屋に戻るのだろう。
「おはようございます、雪子先生。風間先生がお見えでしたけど、なにか用事……」
 入れ替わりに雪子に近付いてきた菅井は、風間とはまるで反対の態度で、
「うっわ、先生、お酒臭い。サイテーですね、二日酔いで酒臭い30女なんて」
 いつにも増して辛辣な助手の攻撃にも、反撃する気力が起こらない。菅井の見解が事実だったことと、二日酔いによる頭痛が半端なかったこと、さらには彼女の暴言などどうでもいいくらいの深刻な悩みを、その時の雪子が抱えていたからだ。

 その電話はついさっき、雪子が法一のドアをくぐったときに掛かってきた。
『先生、昨夜はどうも』
 彼の声を聞いて、雪子はひどい疲労感に襲われた。昨夜の出来事が、走馬灯のように脳裏に甦ってきたからだ。
 昨夜はめっぽう忙しかった。
 竹内と居酒屋で飲んで、次に青木に会って彼をホテルに連れ込んで、彩華を呼び出して青木にお灸を据えて、それから薪の家に行って飲み会をやって、最終的には彩華と二人、自宅マンションで朝まで飲んだ。登場人物のうち女性は雪子ひとりで、状況説明だけ聞くとイケイケの発展家みたいだが、現実には色気のイの字もない。一夜が明けて雪子に残されたのは、二日酔いの苦しみだけだった。

 電話は、一番最初に会った男からだった。
『日曜日のことなんですけど。先生さえ良かったら、×××園に行きませんか?』
 咄嗟に断りの言葉が出てこなかったのは、止まらない吐き気のせいか、じりじりと焼ける胃のせいか。
 雪子が口ごもっていると、電話の向こうから『はい、今行きます』という彼の声がして、すぐに慌てた口調で、
『チケットは俺が用意します。10時に正門の前で待ってますから。お弁当、楽しみにしてますね』
 言いたいことだけ言って切ってしまう彼は、捜査一課のエース。おそらく、事件のことで課長にでも呼ばれたのだろう。仕事ができる人間ほど忙しい、警察はそういうところだ。

「ひっどい顔ですねえ。ちょっと来てください、目の下のクマだけでも隠さないと。死体と間違われて解剖されちゃいますよ」
 動くのが億劫でたまらない雪子の腕を無理矢理に引っ張って、菅井は化粧室へ雪子を連れ込む。体つきは小さいが、力はあるらしい。「ある」と言い切れないのは彼女が、実験に使う液体窒素のボンべ(40キロ)は軽々と運ぶのに、男性の前では重い荷物が持てなくなるという特性を持っているからだ。

「先生。30過ぎたらお化粧に手を抜いちゃダメですよ。女が身だしなみを忘れたら、オバサン一直線ですからね」
 自称恋愛マスターの菅井は、毎日のように雪子にこんな説教をくれる。余計なお世話だと思うが、菅井が本気で自分の身を案じてくれていることは知っているから、黙って聞くことにしている。
「それじゃなくても先生は、女らしいこと何にもできないんですから、せめて見た目くらい取り繕わないと。ますます男が寄り付かなくなっちゃいますよ」
 自分で言うだけあって、菅井は女としては上等の部類に入る。少し前に流行った言葉で、「ステキ女子」というやつだ。常にメイクは完璧だし、寝癖をつけたまま出勤してきたこともない。外見だけでなく、内面の努力も怠らない。仕事をきっちりこなした上で、料理や生花も習っているし、着物の着付けもできる。女を磨くことに関しては、雪子よりも遥かに努力家なのだ。

「スガちゃん、ちょっと頼みがあるんだけど」
 助手の有能さを認めて、雪子は遠慮しながら申し出る。日曜日の一件は、自分だけの力では解決できない。誰か助っ人を頼まないと。
「なんですか?」
「料理を」
 言いかけて、雪子は菅井がどんな反応を示すか考える。
 日曜日に、竹内と一緒に出かけることになって、お弁当を作らなきゃいけない。内情はどうあれ、竹内は署内1のモテ男だ。そんなことを不用意に菅井の前で言おうものなら、どんな騒ぎになるか。

「久しぶりにスガちゃんと一緒に作った料理が食べたいなあ、なんて。今週の土曜の夕飯とか、日曜日の朝食とか、どうかな?」
「無理に決まってるじゃないですか、土日なんて」
 チークとファンデーションを重ねて上手に目の下の黒ずみをカバーしながら、そのやさしい手つきとは掛け離れた冷たい口調で、菅井は雪子の頼みを一刀両断にした。
「だって、今日はもう木曜日ですよ? 今日の時点で週末の夜に予定のない女なんて、世界中探しても雪子先生だけですよ。先生って本当に、独りで年老いて誰にも知られずに死んで3年も発見されずに屍蝋化した老人よりも孤独な人生送ってますよね」
 ちょっと待って、あたしをどこまで孤独な女にすれば気が済むの、この娘。

 そこまで言われたら、とても頼みごとをする気になれない。百歩譲って頼んだとして、雪子が2人分の弁当を作らなければならない理由を追求されたら、隠しきれるかどうか不安だ。仕事のことならいざ知らず、菅井はこういうことには鼻が利くのだ。
「あ、ところで、風間先生の用事ってなんだったんですか?」
「あー、なんだろう。特に何も言われなかったけど……ぶらっと寄ったんじゃないの」
「そんなヒマなひとは法一にはいません。きっと何か頼みたい仕事があったのに、雪子先生がお化けみたいな顔してるから言い出せなかったんですよ」
 ここまで言われて頭を下げたら、本当のバカだ。

 菅井に頼れないとなれば、雪子の知る限りで料理の達人はあと一人しかいない。昨夜も彼の手料理をご馳走になったが、恒常的に料理をふるまう相手ができたせいか益々腕を上げて、この料理が毎日食べられるのなら彼の家の飼い犬になってもいいと、思わず人間の尊厳を忘れそうになった雪子である。
 ただ、これもまた複雑な事情の絡む人物で、竹内と一緒に出かけることを打ち明けるわけにはいかない。彼は竹内の思い人そのひとなのだ。
 しかし、彼は竹内の想いにはまるで気付いていないどころか、竹内のことを蛇蝎のように嫌っている。友人である雪子が竹内と共に休日を過ごすことを知ったら、凄まじい勢いで怒り出し、竹内のところに怒鳴り込むに違いない。
 
 トラブルに発展する危険性はあるものの、縋る糸は一本しかない。それに、彼は雪子にはいつもやさしいし、詮索好きでもないから、雪子が頼めば詳しい事情を聞かずとも協力してくれそうだ。彼はとても忙しい男だから頼むのも気が引けるのだが、口頭でもいいから教授してもらえればその場でレシピを作成して、あとは自分で何とかしよう。
 彼の仕事が落ち着く時間まで待って、雪子は第九研究室を訪れた。彼はここの室長を務めている。

「作り直せ! 何年この仕事をしてるんだっ!!」
 自動ドアをくぐると同時に聞こえてきた罵声に、雪子は足を止める。折りも悪く、鬼の室長が糸目の部下の顔に書類を投げつけたところだった。
 どうやら仕事の真っ最中だったらしい。研究所が定めた退室時刻は1時間前に過ぎているが、ここでは薪が法律だ。第九の労働基準法は薪の匙加減で左右され、それに逆らうことは許されない。
 これはまずい。出直してこないと。

「あ、三好先生、こんにちは!」
 そっと後ずさりする雪子を目ざとく見つけた曽我が、必要以上に大きな声で雪子の存在をアピールした。ハッとしてこちらを見た薪の顔が、厳しい室長の顔から大切な友人に向けられるやさしい顔になる。雪子にだけは甘い薪の特性を、咄嗟に同僚の救済に利用するとは、曽我はけっこうちゃっかりしている。

「提出は明日まででいい。犯行の動機について、もう少し詳しく頼む」
 先刻とは別人としか思えない穏やかな口調で小池に言うと、薪はにっこりと微笑みまで浮かべてこちらへ歩いてきた。
「雪子さん、昨夜はどうも。僕に何かご用ですか?」
「うん、ごめんね、薪くん。忙しいところ悪いんだけど、ちょっとお願いがあって」
「僕にできることなら何でも」
 内容を聞く前から承諾を約束するのは、薪が雪子に絶対の信頼を寄せているからだ。雪子のおかげで今日の自分があるとまで思っている薪は、彼女のためなら自分の立場が危うくなることまでしかねないが、雪子は決して薪の負担になるような頼みごとはしない。そして雪子もまた、薪の信頼を裏切ったことは一度もなかった。

 薪にいざなわれて室長室へ入り、カウチに腰を下ろす。隣に腰掛けた薪の顔は、完璧に整ったマスコミ仕様の笑顔ではなく、心を許した一握りのひとにだけ向けられる特別な笑顔だ。相も変わらず、妬ましくなるくらいかわいい。
 時を置かず、曽我が室長室へ紅茶を持って入ってくる。香りでわかる、F&Mのダージリン。この頃すっかり第九とは疎遠になってしまっていたのに、まだ雪子の好みの銘柄の紅茶を置いてくれている、その事実に胸が暖かくなる。一番若手の青木にではなく、曽我に紅茶を運ばせたのだって薪の指示だろう。薪は自分に気を使っている。

 薪は昔からそうだった。
 表向きは暴君ともいえるくらい我儘で自分勝手なのに、裏では色々と気を使って手を回して。心から大切に思う人々を守るための努力は、決して怠らない。薪がどんなに彼らを愛しているか、雪子は知っている。
 それなのに、薪が一番大切に思っている肝心要の男は、つまらない嫉妬心にいつまでも囚われて。あんまりふざけたことを言うから頭に来て、昨夜はキツクお灸を据えてやった。あれで眼を醒ましてくれると良いのだが。

「それで、雪子さん。僕に頼みって?」
「あ、うん。その……」
 薪に訊ねられて、雪子はここを訪れた本来の目的を思い出す。
 思い出して、柄にもなく緊張している自分を自覚し、気持ちを静めるために曽我が淹れてくれた紅茶を飲み干した。



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クッキング(5)

クッキング(5)




 長年の友人である女性の口元を、薪は訝しげに見つめていた。
 質問が聞こえなかったのかと思うほど、雪子の取った間は長かった。紅茶を飲み干し、更には空になったカップを弄り回している。

「雪子さん?」
 再度、薪が声を掛けると、雪子はカップとソーサーをカシャンと触れ合わせ、その音にびっくりしたように短い髪を揺らした。赤いルージュを塗った唇が開く。

「お、お弁当が必要なの」
「お弁当?」
「日曜日に、友だちと遊園地に行くことになって、お弁当を持っていく約束をしちゃったの。で、薪くんに」
 なるほど、そういうことか。
 雪子は図々しく見えて、本当は気遣いのできる女性だ。必要に迫られて止む無く薪の手を借りたいと思っても、薪の忙しさは承知しているだけに言い出しづらかったのだろう。

「いいですよ。朝の何時までに、何人分用意しましょうか?」
「あ、そうじゃなくて、その」
 再び言葉を途切れさせる彼女の様子を、薪は不思議に思う。
 慎重な問題ならともかく、気風の良い姐御肌の彼女との日常会話が、こんなに詰まったことはない。いつも打てば響くようなのに。今日はどうしたことだろう。

「つ、作り方を教えて欲しいの。自分で作りたいから」
「えっ!?」

 作る? 雪子が、弁当を作る!?
 いや、そこまではいい。しかし、彼女が弁当を作るということは、日曜日に会う友人とやらは、それを食べさせられるわけだ。
 雪子の料理と言ったら、その破壊力は凄まじい。昔、鈴木に手料理を食べさせてやりたいという彼女に協力して、一緒に料理をしたときのことを思い出して、薪は身震いした。
 一口味見をしただけで、気絶しそうになった。何故限られた材料しか鍋に入っていないのにこんな味になるのか、見当もつかなかった。鍋の中で、なにかとてつもない化学反応が起こって、この世のものではない物質に変化している――――― そう確信した薪は、雪子のスキを見て足元の醤油瓶に躓いたふりで、危険物をディスポイザーに投入することに成功した。我ながらいい仕事だったと思う。

「えっと、雪子さんの得意料理の鍋と刺身は、どっちもお弁当には不向きでして。プチトマトとかブロッコリーとか、サラダ的なもので何とか」
 雪子のプライドを傷つけないように、薪は慎重に言葉を選んだ。しかし雪子は、薪のアドバイスを受け入れてくれる気はないようだった。
「和風のお弁当がいいかなって。魚の照り焼きとか、煮物とか、炊き込みご飯とか」
「えっ! 調味料が必要なものを作るんですか!?」
 死人がでる!!

「分量は2人分。法一の友だちと一緒だから」
 家族連れで賑わう日曜日の遊園地、そこに響き渡る救急車のサイレン。担架で運ばれる雪子の友人と、それに取り縋る雪子の姿が眼に浮かんだ。
 ……雪子に殺人の容疑がかかったらどうしよう。僕は彼女の無罪を証明できるだろうか。料理が一部でも残っていたらアウトだ、決定的な物証になる。

 頭の中に繰り返される光景と、どこからともなく聞こえてくる般若心経に眩暈を覚えながら、薪は必死に考えた。
 弁当箱にバイオハザードのシールを貼っても、この被害は防げないだろう。ここは自分が一緒にいて、悪魔の化学変化を防がなければ。

「作り方を教えてくれればいいの。ネットで料理本も読んだんだけど、よくわからなくて」
 医学書よりも料理本は難しいと、首を捻っていた昔の彼女を思い出して、薪は懐かしい思いに囚われた。と同時に、ある疑問が首をもたげる。
 女性が突然料理を作りたがるというのは、ある種の疑いを生じさせる。つまり、彼女はその料理を誰に食べて欲しいのか。その誰かというのは、特別な相手ではないのか?

「料理は実践あるのみですよ。よろしかったら、僕が直接お手伝いに伺います。日曜日は早いんですか?」
「10時に待ち合わせだから、9時には家を出ないと」
「じゃあ、朝の7時に雪子さんのところへ伺いますね。材料は、用意しておいてもらえますか?」
「うん。よろしくね」
 肩の荷が下りたというように頬を緩め、雪子は礼を言って室長室を出て行った。

 彼女を見送って、薪は執務机に頬杖をつき、しばし考えを巡らせる。
 雪子は、法一の同僚と一緒に遊園地に行くと言っていた。彼女が自分の手料理を食べさせたいと思う人間が、法一の中にいるということだろうか。
 もしもそうだったら。

 雪子には幸せになってもらいたい。が、薪はそれを彼女に伝えることはしない。その資格が、自分にはないことが分かっているからだ。
 彼女の婚約者を殺し、彼女の幸せのすべてを奪い、彼女の青木に対する気持ちを知りながら青木のことを受け入れた。青木とは充実した時を過ごしているけれど、ずっと罪悪感はある。僕たちがこうしていることで、きっと雪子さんは泣いている。
 昨夜だって、本当は辛かったのかもしれない。初めて会った雪子の友人の強烈なキャラクターに当てられて、ついつい当て付けるようなことをしてしまって。酒の席のこととはいえ、傷つけてしまったかもしれないと後で気付いた。

 そんな彼女にもしも、青木以外の思い人ができたなら。彼が雪子を愛しく思い、彼女を幸せにしてくれたなら。どんなにかうれしいことだろう。

 心の底で安堵している自分に気付いて、薪は羞恥に頬を染める。
 純粋に彼女の幸せを願うのではなく、自分の都合のいいように運べばいいと、恥知らずにも僕は思っている。万が一にも彼を奪られたくないと、そう思っている。

「ごめんなさい、雪子さん」
 眼を閉じて口中で呟き、薪はひっそりと誰にも届かない謝罪を繰り返した。



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クッキング(6)

 この章が山場ですね。
 だって、題名が『クッキング』ですからね。(^^




クッキング(6)




 日曜日、雪子は6時に目を覚ました。
 休日に6時起きなんて、何年ぶりだろう。鈴木と休日を過ごしていたころは早起きして出かけることもあったが、彼を失ってから、休日の朝を雪子と一緒に過ごしてくれる人はいなくなってしまった。
 
 洗顔を済ませてから台所へ向かう。いつもはゴミ屋敷のような台所も、今日はきれいに片付いている。季節外れの大掃除は、土曜日の朝から晩まで掛かった。
 昨日のうちに揃えておいた食材をテーブルの上に並べて、友人の到着を待つ。久しぶりに過熱面を現したクッキングヒーターに、お湯を沸かすという本来の役目を割り振ると、自分が物置ではないことを主張するかのように、ヒーターは勇んで過熱を始めた。

 薪が来る前に下準備をしておこうと思い立ち、雪子は食材を見渡した。
 今日、これを食べるであろう人物は、和食好きと見た。それに合わせてメニューを考えた。寒い季節に美味しくなるブリ、唐揚げ用の鶏肉、筑前煮に使う根菜ときのこ。調味料も一揃い買い求めた。家にあったものはコチコチに固まって、使い物にならなくなっていたからだ。
 まずは材料を洗おうと、シンクに水を溜めた。水を流しっぱなしにして洗い続けること10分。チャイムの音が鳴って、頼りになる友人が姿を現した。

「リクエストは和風のお弁当でしたよね。さあ、ちゃっちゃと作っちゃいましょう」
「ありがとう。材料は洗い上げておいたから」
 水気を切るためにザルに上げておいた食材を見て、腕まくりをする薪の手が止まった。彼のきれいな笑顔が、引きつったように見えたのは気のせいだろうか。

「あの、雪子さん。魚の切り身を洗うときは、タワシでゴシゴシ擦るんじゃなくて、手でやさしく洗ったほうが、より美味しくなるかと」
「やだ、そんなことするわけないじゃない。ちゃんと手で洗ったわよ」
「えっ。じゃあ、どうしてこんなに身がグズグズに? あっ、野菜も……葉物は全滅か。根菜類は何とか。えっと、あと無事な食材は」
 台風が直撃した畑を見舞うような深刻な表情で、食材を手にとって考えを巡らせる薪を見て、雪子は少しだけ不安になる。生の食材はみんなやわらかくて壊れやすくて、だから洗うと砕けてしまうのは当たり前だと思っていたけど、もしかしたら違ったのかも。

 雪子が心配そうに薪の様子を伺っていると、それに気付いた薪はニコッと笑って、
「いいんですよ、雪子さん! どうせ食べるときは一口サイズに切るんですから。初めから切ってあったほうが親切ですよね、小さめの方がお弁当箱には詰めやすいしっ」
 早口で、不自然に力の入った口振りで、薪は雪子の不安を払拭する。マイ包丁を片手に握り、素早く材料を刻み始めた友人に、雪子は頼もしさとありがたさを覚える。料理上手の友だちがいて助かった。

 薪の手は魔法のように動いて、次々と美味しそうな料理が仕上がっていく。そのままでは食べることのできない食材が見事な料理に生まれ変わる様子は、魔術か錬金術か。
 むかし、鈴木のために料理を覚えようと頑張ったこともあったが、何故か料理教室のほうから、月謝は返すからもう来ないで欲しいと頼まれた。それ以来、包丁を握ったことはない。
 若い頃は、包丁なんかなくてもメスがあるわ、と茶化すこともできたが、この年になるとそうもいかない。この機会に簡単な料理くらい、作れるようになっておかなくては。

「薪くん、あたしにも何か仕事ちょうだい」
「はい。じゃあ、ブリの水気をキッチンペーパーで拭き取ってもらえます? 照り焼きのたれは僕が」
『グシャッ』(雪子の手の中で魚が潰れる音)
「やっぱり僕がやります。牛蒡と人参を千切りにしておいてもらえますか?」
『どかん! ばこん!』(雪子の包丁の音)
「雪子さん、まな板は割らないで、あっ、それじゃ千切りじゃなくて乱切り……いいや、根菜の煮物にしよう。あとは僕がやりますねっ。唐揚げ用の鶏肉に塩を振っておいてください」
『ザザーッ』
「袋から直接!? ……脂の多いもも肉はやめて、サラダ用のささみ肉を使いましょう。健康が一番ですからねっ」
 雪子が手伝えば手伝うほど、薪の仕事が増えていくのは気のせいだろうか。

「かぼちゃは煮物にしましょうね。まずは半分に切ってください。硬いですから、レンジで2分くらい温めると包丁が入りやす」
『バゴッ』
「・…………素手で割れるんだ……」
 雪子の20年来の友人は、もともと白い顔を紙のように白くして、彼女を畏怖の眼差しで見つめた。


*****


 ああ、楽しかった♪
 料理はバトルですよね(笑)





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クッキング(7)

クッキング(7)




 バシャンと派手な水音を立てて、ゴムボートが1メートルほどの滝を滑り降りた。ボートのヘリに取り付けられた取っ手をぎゅっと掴み、雪子は衝撃に備える。盛大に立った水飛沫が、冬の陽光に照らされてキラキラときらめいた。

「きゃあ!」
 甲高い悲鳴は、もちろん雪子のものではない。偶然乗り合わせた女性たちの声だ。
『デッドリバー』と銘打たれたアトラクションのボートは6人乗りで、雪子と竹内が乗ったボートに居合わせたのは、カップルが一組、仲の良い友達同士の若い女の子が二人。カップルの女性に到っては、取っ手には摑まらず彼氏の胴体に抱きついたままだ。安全ベルトも勝手に外してしまっているし、見ているこっちがハラハラする。最近の若者は、係員の注意も満足に聞けないらしい。

「けっこう揺れますね、これ。濡れませんでした?」
「あたしは大丈夫だけど」
 座った場所が悪かったのか、竹内は左側の髪とダウンジャケットの肩が濡れている。夏ならともかく、今は冬だ。濡れたままでは震えてしまうだろう。
 バックからタオルを出そうとして、雪子の手は途中で止まる。

「あのう、良かったらこれ。使って下さい」
 竹内の隣に座った2人組みの若い女性が、イチゴ柄のタオルを差し出しているのを見て、雪子はバックの中でラルフローレンのハンドタオルを握り締めた。
 実情はどうあれ、一応は男と女が並んでいるのだ、どうして他の女性にタオルを差し出さなければならないのだろう。
 ふたりで人前に出るたびにこんな思いをするが、そこまで不釣合いかしら、と雪子は首を傾げる。なんだか芸能人とでも付き合っているような気分だ。

「いえ、結構です。すぐに乾きますから」
 ニコッと笑ってタオルを断ると、竹内は雪子の方へ向き直った。
「あ、やっぱり濡れてますよ、先生。ほら、ここ」
 右耳の下に、竹内が自分のハンカチを当ててくれる。彼の後ろで、女の子たちが複雑な表情になる。「シュミ悪いよね」とこっそり囁く声が聞こえる。心配しなくても大丈夫、あたしは彼の男友達から、と彼女たちに教えてやるべきだろうか。
 失礼な彼女たちの態度に対してもそんな余裕を持てるのは、多分竹内のおかげだ。日曜日の遊園地、若い女の子たちは大勢いて、イケメンの竹内は何処へ行っても彼女たちの熱いまなざしを一身に集めている。それなのに、彼は楽しそうに雪子と喋り、笑ったりふざけたりしている。

「かわいい娘たちだったわね。せっかく向こうから話し掛けてきたんだから、口説けばよかったのに」
 5分ほどのアトラクションが終わり、ボートから降りて雪子は、順番待ちに並ぶ人々を眺めながらゆっくり歩く。
 同じ速度で隣を歩く竹内が雪子の言葉にふっと笑い、ズケズケした口調で言うのに、
「言ったでしょ。『モテ男』はしばらく休業したい気分なんですよ。女の子に気を使うのは、けっこう疲れるんです」
「……あたしも女だけど?」
「ご安心ください。三好先生は同性だと思ってますから」
 ちょっと待って、いつの間に転換されたの、あたしの染色体っ!

 スカートを穿いている自分相手にどういう言いがかりだ、と腹を立てるが、竹内の思い人が止むを得ない事情で女装したときの姿を思い出し、あれが竹内の基準になってしまったとしたら、普通の女性のスカート姿など小学生の女児と変わるまいと確信する。どこまでも不憫な男だ。
 かくなる上は、もっとメンタルな部分で、女らしいとかセクシーだとか、そういう認識を――――― そこまで考えて、雪子は39年の人生の中で一度も他人にその評価をされたことがないことに気付いた。雪子に与えられるのはいつも、『勇ましい』『凛々しい』『カッコイイ』といった男性に相応しい形容詞ばかり。某歌劇団の男役ではあるまいに、そんな言葉が褒め言葉になるはずもない。

「不思議だなあ。あのひととは、まるで逆だ」
 相手が男だと分かっているのに自分の気持を止められない。そう言いたいのだろう。

 それは別に珍しいことでも何でもない、雪子の知り合いにだって、男しか愛せない男も女しか愛せない女も、何人かいる。が、次々と女性と関係を持っていることからも分かるように、竹内はノーマルな男だ。
 彼だけが特別。この男も、きっとそうなのだ。

『薪は特別なんだ』
「特別」というキーワードで、不意に甦ってきた昔の恋人の面影に、雪子はじりっと胸の奥が焦げるような感覚を覚える。
『薪さんは、特別なんです』
 恋人のやさしい笑顔は、若い第九の職員の顔に取って代わる。艱難辛苦を舐め尽した片思いの時期、幾度となく彼の相談に乗ってやった折、数え切れないくらい聞かされたその言葉。

 特別特別特別。
 たしかに彼は特殊だ。人から天才と称される頭脳を持ちながら、人間関係にはひどく不器用で。自分が幸せになることにはもっと不器用で、未だに恋人とのトラブルは絶えない。彼の恋人の相談役でもある雪子は、その殆どを知っている。


「先生、腹空きません? あの辺で昼にしましょうよ」
「えっ、なんで」
 竹内が屋外のフードコートを指差したことに、雪子は驚く。スタンドではホットドックやハンバーガー、焼きそばにラーメンにカレーといったものが売られていて、野外で食べるそれらの簡単な食事は妙に美味しいことを雪子も知ってはいたが。

「軽いものでいいでしょ? 夕飯はちゃんとしたものをご馳走しますから」
「そうじゃなくて。お弁当は?」
「え? 本当に作ってきてくれたんですか?」
 あんたが作れって言ったんでしょうが!

 竹内の勝手な言い草に、雪子はムッとして唇を尖らせる。慣れない包丁と格闘しながら、これでも精一杯頑張ったのだ。まあ、味付けは全部薪がしたのだけれど。
 というのも、何故か薪はすべての調味料を抱え込み、雪子には触れさせてもくれなかったのだ。彼とは20年近い付き合いになるが、未だによくわからないところがある。

 自販機でペットボトルの緑茶を買って、芝生の上にレジャーシートを敷く。周りを見ると、広場になった芝生には幾組もの家族連れやカップルがたむろして、手料理に舌鼓を打っている。
 平和で楽しい風景。その中に身を置くのは、心休まるひと時だ。殺伐とした職業に就いているからこそ、こういう時間は貴重だ。

「えっ!?」
 頓狂な声に驚いて振り向くと、竹内が弁当の蓋を開けて眼を丸くしている。
 弁当の中身は、一口大のブリの照り焼き、鳥ささ身のシソ巻き、かぼちゃの含煮に根菜の煮物にアスパラベーコン。海老の天ぷらに牛蒡と人参の掻き揚げ。海苔を巻いた俵型のおむすびは、じゃこと青菜の混ぜごはん。
 我ながら会心の出来、というか、さすが薪というか。実は雪子は材料を洗っただけ、作ったのは彼だ。

「食べれば?」
 ハッと我に返ったように、竹内は割り箸を割って、シソ巻きを口に入れた。雪子も同じものを食べてみる。うん、さすが薪くん。甘辛いたれが肉にしっかりと絡んで、でも青紫蘇の香りでさっぱりすっきり、ささみ肉もパサつかせないプロの腕。
 なのに竹内と来たら、
「あれ? あれえ?」
 何だか思惑と違った事が起きたようで、しきりに首を捻っている。竹内は知らないが、今彼は、自分の思い人の手料理を食べているのだ。もっと感動すればいいのに。
 
 本当のことを教えてあげたら、竹内は喜ぶだろう。でも、それをすると竹内がますます薪のことを好きになってしまう。あのふたりの仲を掻き乱したくない雪子としては、ここは唇にチャックだ。
「煮物の野菜はちゃんと面取りしてあるし、鳥ささみは湯引きしてある。これ、どこで買ってきたんですか?」
「どういう意味よ。全部作ったのよ」
 薪くんが、という言葉を心の中で付け加えて、雪子はおむすびを齧った。程よい固さに握られたおむすびは、口の中でふわりとほぐれ、食べる者の心をやさしい気持ちでいっぱいにする。おむすびくらいは雪子も自分で作って食べるが、いつも餅のようになってしまう。あれはどうしてなんだろう。

「本当ですか? ふうん……」
 なにもそこまで疑わなくたって。刑事と言うのは厄介な人種だ。
 尚も訝しがる様子を見せていた竹内だが、一度軽く肩を竦めると、そこからは軽快に箸を動かし始めた。
「美味しいです」
「そう。よかった」
「いや、驚きました。三好先生、料理上手なんですね」
 まあね、と雪子は竹内の方を見ずに頷く。罪悪感を覚えつつ、本当のことは言えない。最初は友だちに作ってもらったと白状しようかとも思ったが、あそこまで疑われたら言いたくなくなった。

 それに。
 上機嫌で弁当を平らげる彼を見ていたら、余計なことは言わない方がいいような気がした。これを作ったのが薪だと知ったら、彼はきっと苦しくなる。

 ちくりと胸が痛むのは、良心の呵責か。それとも。
 それとも――――― 他に何がある?

 痺れを防ぐために足の向きを変えようとして、雪子はスカートの裾を押さえる。中身が見えないように足を組み替えるのは、けっこう気を使う。
「そういえば。先生、今日は珍しくスカートなんですね」
 別に深い意味はない。定番のパンツルックをやめてスカートにしたのは、ただの気分だ。おかしな勘繰りをするようならとっちめてやる、と思ったが、竹内はそれ以上、何も言わなかった。
 
 言葉はなかったが、自分を見る竹内の眼がいつもとは違うような気がした。竹内は雪子の前ではいつも、澄んだ無邪気な瞳をしていた。
 この眼は、裏に色々と含んだ眼だ。相手の気持ちを探ったり、駆け引きをしたり。狡賢さと欲を秘めた眼だ。

「これ食べたら場所を変えましょうか。それとも、もう少し遊んでいきますか」
「なに甘いこと言ってんのよ。あたしは遊ぶわよ。フリーパス買ったんだから、元取らなくちゃ」
 雪子が息巻いて言うと、竹内は面食らったように表情を固めて、次いで噴き出した。
「あははっ、さすが三好先生。そうこなくちゃ」
 ケラケラと笑ってもう一度雪子を見る、その眼はいつもの無邪気な瞳。
 それに安心して雪子は、大きく口を開けて海老の天ぷらを一口で食べた。



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クッキング(8)

クッキング(8)






「先生、この書類に判を」
 言いかけて止まった可愛らしい声に、雪子は振り向いた。

「あ、すみません、風間先生とお話中でしたか。では、また後で伺います」
「大丈夫よ、緊急の打ち合わせじゃないから」
 急いでその場を立ち去ろうとする助手の背中に声をかけて彼女を留め、雪子は今まで会話をしていた人物に背を向ける。班長会議の後、先日彼と一緒に参加した最新医療のシンポジウムについて、ついつい話し込んでしまった。チーフ仲間の風間は専門も同じだから、研修内容も重なることが多いのだ。

「いえ、こちらこそ急ぎじゃないんです。どうぞごゆっくり」
「ゆっくりもしてられないでしょ、仕事中なんだから。どれ、貸して」
 菅井に渡された書類を確認する雪子の眼は、すぐさま冷静な監察医のそれになる。彼女が仲の良い同僚から仕事の鬼に切り替わったのを見て、風間は穏やかな表情で口を閉じた。

 じゃあまた、と手を上げて去っていく風間に雪子は会釈で応じ、菅井は、雪子には向けたことのないしおらしい態度でぺこりとお辞儀をして彼の後姿を見送った。
「けっこういいセン行ってますよね」
「いいえ、これでは不十分だわ。薬品投与から2時間後と6時間後のデータしか採らなかったの? 遺体が置かれていた現場の気温を考慮すると、最低でも12時間後のデータは必要になってくるはずよ」
「違いますよ、風間先生のことです。彼、雪子先生に気があるんじゃないですか?」
「はあ?」
 また始まった、菅井の悪い癖だ。男女が一緒にいるところを見ると、すぐに恋愛方面に発展させたがる。青木のときで懲りたかと思いきや、全然反省していない。

「風間先生はいい人ですよ。やさしいし、大人で包容力はあるし。顔だって、標準以上です」
「そお? 白衣効果ってやつじゃないの」
「先生。薪室長や青木さんを基準にしちゃダメですよ。そんなことしたら、世の中の9割の男性が醜男ってことになっちゃうじゃないですか」
 これもハンサムの弊害かしら、と雪子は自身の思い上がりを恥ずかしく思う。
 雪子のように、ハンサムな友人がたくさんいるというのはいいようでよくない。さすがに薪を基準にするつもりはないが、菅井が『かなりのイケメン』と評する青木は、雪子の感覚では普通だ。

 たぶん一番の原因は、竹内だ。
 遊園地に遊びに行ってから、休日の昼間、竹内に呼び出される事が多くなった。取り立ててしなければいけないこともなく、のんびりテレビを眺めていると彼から電話が掛かってくる。映画を観ないかとか、昼食を一緒にどうですか、とか、それに応じなければならない義理はないが「どうせヒマでしょ?」と言われると、嘘を吐いてまで彼の誘いを断る理由は見つからず、行けばけっこう楽しい事が分かっているから軽い気持ちで応じてきた。友だちと会うのと一緒だ。
 そんな具合に頻繁に会っているせいか、彼のビジュアルが標準に設定されつつある。慣れとは恐ろしいものだ。

「結婚が遅れたのだって、家や本人に問題があるわけじゃなくて、仕事が忙しかっただけでしょう。監察医なんて、本人が積極的に動かなかったら出会いもありませんしね」
 くりっとした愛らしい眼で大分下から雪子を見上げ、菅井はニコッと笑った。菅井は笑うとかわいい。彼女の笑みは、小動物を思わせる。庇護欲をそそるというか、守ってあげたくなるというか。このかわいい口からあんな毒のある言葉が出てくるなんて、男は誰も信じないだろう。

「確か今年で44。5つくらいの差なら許容範囲ですよ。雪子先生、彼にしておきましょうよ」
「何を勝手に決めてんのよ。バカなこと言ってないで、さっさと12時間後のデータを採ってちょうだい」
「はあい。うふ、照れちゃって。先生、可愛いんだから」
「あのねえ」
 疲れる、菅井のこういうところは本当に疲れる。立場も境遇もまるで違うが、竹内がしばらく恋愛から離れたい、という気持ちが分かるような気がする。

 腰に手を当ててギッと助手を睨むと、菅井は慌てて実験室へと戻っていった。プライベイトでは友だちでも、仕事中は上司と部下。睨みが利かないようでは困る。
 
 そんな具合に、菅井の言うことにはまるで取り合わなかった雪子だが、後に彼女は自称恋愛マスターの実力を知ることになる。
 風間が雪子に結婚を前提とした付き合いを申し込んできたのは、それから1ヵ月後のことだった。




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クッキング(9)

クッキング(9)





 第九にその噂が伝わってきたのは、桜の花が咲き誇る4月半ばのことだった。

「三好先生がプロポーズされた!? うっわ、勇気あるなあ、相手の男」
「無謀と言うよりは命知らずだな」
「いや、強度のマゾヒストかもしれな……はっ」
 言いたい放題の第九職員たちに降りかかる、絶対零度の雪嵐。外には桜が咲いているというのに、モニタールームは一気に季節が巻き戻されたかのようだ。

「小池、曽我、宇野。データのバックアップ、明日までに更新しておけ」
 いきなりの残業命令に、3人は一様に顔を歪める。薪にしてみれば大切な友人を侮辱されたのが気に障ったのだろうが、公私混同によるパワハラなんて。どうしてうちの室長はこんなに狭量なのかと泣きたくなるが、薪の雪子びいきは今に始まったことではない。これは自分たちの迂闊さが招いたことだと肩を竦めて、仮眠の順番を決めるためのじゃんけんを始める3人を尻目に、薪はしたり顔で室長室へ入った。

「バカだな、おまえら。室長の前で三好先生の悪口はNGだろ」
「冗談のつもりだったんですけど」
「室長はともかく、青木の前では言うなよ? 色々と複雑な心境だろうから」
「ああ。相手の男は法一の同僚だって話ですよね。部屋は別々みたいですけど、同じ職種ってことで話も合うだろうし、年も上だとか」
「青木は一回りも年下だからなあ。頼りがいっていう点では、不利だろうな」
「将来性と腕力は負けてないぞ。それに、身長は絶対に負けない」
「そうだな、身長だけは完全に青木の勝ちだろうな」
「オレの男としての魅力って、要約すると身長だけになるんですか?」
「おまえ、それ言っちゃお終いだろ、って青木!」
 いつの間にか話の輪に入っていた後輩の姿に、一斉に職員たちが引く。副室長にコピーを頼まれた書類を片手に、青木は不思議そうに訊いた。

「オレが誰に負けてないんですか?」
 どうやら噂を聞いていないらしい青木の翳りのない質問に、友情に篤い仲間たちが心からのエールを贈る。
「いやいやいや、青木。自信を持っていいぞ、おまえにもいいところは沢山あるから」
「そうそう、気は優しくて力持ち。科警研のウドの大木といったらおまえの、ゴホゴホッ」
「曽我の言うことなんか気にするな。おまえのいいところは優しくて、傷ついたひとを放っておけない情の篤さだ。それを行動に移す勇気もある。まあ、大抵は暴走しすぎて薪さんを怒らせ、ゲホゲホッ」
「おまえら、青木が可哀相じゃないか」

 正直すぎるのか褒め言葉が苦手なのか、次々と言葉の暴力を振るう仲間たちを咎めて、年長者の今井が彼らの長舌を遮る。ぽん、と青木の肩に手を置き、
「気にするな、青木。大丈夫、俺たちはみんなおまえの味方だからな。室長を除いて」
「ちょっと待ってください、なんで室長だけ?」
「そりゃあおまえ。薪さんは三好先生の幸せを一番に考えるから……あれ?」
「ひっでー」
「ひどいっすよ、今井さん」
「毒舌には自信ありましたけど、そこまで鬼にはなれないです、俺」

 彼らの会話が今ひとつ見えない青木は、雪子の名前が出た時点で書類のコピーに立つ振りをしてその場を離れた。
 第九の先輩たちが、自分と雪子の仲を誤解しているのは知っている。しかし、本当の恋人が誰なのか隠さなければいけない立場の青木は、その誤解を敢えて解かずにいた。
 今現在、雪子に関する噂といえば、きっとあれだ。それは署内の其処此処で囁かれていて、青木の耳にも届いている。青木には、喜びこそすれ反対する理由はない。雪子さえ幸せになってくれればそれでいい。青木の幸せは他にあるからだ。

 自分の幸せの存在を確かめたくなって、青木は用もないのに室長室へ赴く。先刻持っていったコーヒーが空になっている頃だろうから、カップを下げに来たとでも言い訳しておくか、などとかなり苦しい理由をつけて、青木は扉をノックした。
「失礼します。……薪さん、何をしてらっしゃるんですか?」
 ドアを開けて、青木は思わず立ち竦む。数え切れないほどの紙片を床に並べ、それを屈んで見下ろしている薪の姿がそこにあったからだ。

「こうすると、いっぺんに6枚ずつ読めるんだ。おまえも急ぎのときは試してみろ」
 いや、それはきっと薪さんにしかできない妖術だと思います。百目小僧の本領発揮ってやつですよね?
「何をそんなに熱心に」
 床に並べられた紙に打ち出されているのは、ある職員の個人情報だった。

 在籍部署、法医第一研究室第3班、通称「風間班」。そこのリーダーの男性の履歴書だ。
 入庁からの経歴、賞罰、習得資格。そこまでは室長のIDで引き出せるデータだが、次に並んでいるのは小学校からの経歴と成績、資格試験の合否の回数。同僚の評判に上層部の評価、ってそれは機密事項のはずだが。
 一番右側の書類に添付されている写真に、見るからに穏やかそうな紳士が写っている。きちんと整えた短髪に銀縁の眼鏡、秀でた額が学者然とした雰囲気を漂わせている。優秀な医師、もしくは大学教授といった印象を受ける好男子だ。

「このひと、もしかして三好先生の」
「ああ。弁当が効いたみたいだな」
「は? お弁当がどうかしましたか?」
 青木の質問はスルーして、薪は異様な速度で書類を読む。本当に集中しているときは、薪は周囲の音も聞こえなくなる。特に都合の悪いことは完全に聞こえない、但し自分の悪口だけは聞こえる。実に便利な耳をしている。

 薪が書類から眼を離すのを確認して、青木は恐る恐る訊いてみた。
「薪さん。まさかハッキングしたんじゃ」
「僕がそんなリスクの高いことをすると思うか。間宮に頼んで送ってもらったんだ」
「えっ、間宮部長にですか? よく情報を流してくれましたね」
「頼んだときに、ケツ触られたけどな」
 ハイリスク! それ、めちゃくちゃハイリスクですからっ!!
「そんなことはどうでもいい。彼は雪子さんの夫になるかもしれないんだぞ。しっかり見定めないと」
 普段、あれだけ間宮からのセクハラを嫌がっているくせに、雪子が絡むと『そんなこと』になるのか。

 間宮の情報は流石で、彼の私生活から嗜好から、高校時代に付き合っていた同級生の名前まで記載されていた。一体間宮は、何処からこういう情報を仕入れてくるのだろう。
「人格OK、将来性もある。女性関係もきれいなものだ。ちょっと気になるのは、潔癖症のきらいがあるというところだな。雪子さん、掃除が苦手だからな。結婚した後でうるさく言われたら可哀相だ。事前に誓約書を入れさせないと」
「ちょっと待ってください。三好先生がプロポーズされたって噂はオレも聞きましたけど、まだそれを受けると決まったわけじゃ」
「なにを呑気なことを。雪子さんにプロポーズする資格があるのは、最高ランクの男だけだ。少なくとも僕が認めた男でなければ、彼女と付き合うことも許さん」
 薪の勝手な理屈に、青木は呆れ果てる。自分には雪子の恋愛を制約する権利があると、彼は本気で思っているのだろうか。

「結婚となると、相手の母親のことは重要だな。その辺、もうちょっと探ってくるか」
 床の資料を片付けてシュレッダーにかけておくよう青木に言いつけて、薪は研究室を出て行った。間宮のところへ行くのだろうか、それはやめて欲しいと言いたかったが、薪が青木の言うことなど聞き入れてくれるはずもなく。余計な怒りを買うだけだと分かっていて、でもやっぱり納得できない。
 薪が雪子のことを大切に思っているのは知っているが、これが青木のことだったら、ここまで熱心になってくれたかどうか。薪は青木に見合いを勧めたこともある。薪は自分の恋人なのに、彼の言動から自分への愛情を感じ取るのは砂漠に落とした一本の針を見つけるよりも難しい。

 難しいけれど。
 現在、青木はその困難を励行中だ。2ヶ月ほど前、雪子に気付かせてもらった年上の恋人の奥ゆかしい健気さ。それを青木は確かに見たのだ。

 床に散らばった紙片を集め、マグカップを持って室長室を出る。カップを給湯室に置いてからシュレッダーに問題の紙片をセットし、自分の持ち場に戻ろうとして、青木は足を止めた。モニタールームの自動ドアから、捜査一課のエースが入ってくるのが見えたからだ。
「竹内さん」
 声をかけて歩み寄る。青木は竹内とは友人に近い付き合いをしている。何度か一緒に飲んだこともあるし、洋服を見立ててもらったこともある。

「こんにちは。捜査依頼ですか?」
「いや、そうじゃないんだ。実はその」
 珍しく歯切れの悪い竹内を不思議に思いながら、青木は彼が会いに来たであろう人物が何処にいるか教える。
「岡部さんなら、第四モニタールームで特捜に掛かってます。呼んで来ましょうか」
「いや、岡部さんじゃなくて、えっと」
「じゃあ、室長ですか? すぐに戻られると思いますので、どうぞお待ちになってください」
 少しだけ疼く心を隠して、青木は竹内に応接コーナーのソファを勧めた。竹内が薪に好意を抱いていることは知っている。感情では「今日はもう戻りません」と言いたいところだが、青木の理性はそこまで脆弱ではない。
 しかし、竹内のお目当ての人物は、青木の予想とは全くの別人だった。

「違うんだ。おまえに訊きたい事があって」
「オレに?」
 捜査に関することなら、竹内の実力から言って青木に示唆を求めることなどない。残るはプライベイトだが、忙しい竹内がわざわざ第九まで足を運んで直接話をしたがるとなると、飲み会や合コンの相談ではなさそうだ。
 竹内は青木の腕を掴んでモニタールームの外に出ると、さらに廊下の隅まで青木を引っ張って行き、声を潜めて切り出した。

「おまえ、三好先生と仲いいだろ。彼女、プロポーズされたって本当か?」
「ええ、本当みたいですけど。なんで竹内さんが三好先生のことを気にしてるんですか?」
「いや、気にしてるわけじゃないんだ。ちょっと小耳に挟んだもんだから」
 竹内は青木の疑問を似つかわしくない慌しさで否定して、しかし直ぐに更なる質問を繰り出してきた。よっぽど気になるらしい。

「で、相手は? どんなやつか知ってるか」


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クッキング(10)

クッキング(10)





「で、相手は? どんなやつか知ってるか」

「オレもよくは知りませんけど。法一の同僚で、班のリーダーになってて、年は三好先生より5歳上。人格、将来性ともに良好、女性関係も心配なし。敢えて欠点を挙げるとすれば、少しだけ潔癖症のきらいがあるみたいです。 両親共に健在で、四谷の1戸建てに親と一緒に住んでます。好きな食べ物はエビのチリソース、嫌いな食べ物はオクラや納豆のネバネバ系。お酒はウィスキーやバーボン等の洋酒が好みで」
「……めちゃめちゃ詳しいじゃん」
 やや呆れ顔の竹内は、やっぱり俳優みたいにかっこいい。どんな表情をしてもサマになる、ハンサムは得だ。

「そっか。同じ職場で、5歳年上……顔は? いい男か?」
 青木は自らがシュレッダーに掛けて極細に分断した男の顔を思い出す。白衣姿がよく似合う、穏やかな紳士だった。
「イケメンの部類に入ると思いますよ」
「完璧じゃないか」
 なにやら難しい表情になって、竹内は右手の拳を唇に当てる。この春の連ドラで売れっ子のイケメン俳優が名探偵の役をやっていたが、彼より遥かにカッコイイ。薪は男性には興味がないはずだが、ここまでカッコイイ男が自分を好きだと知ったら気持ちが揺れるかもしれない、などと意味のない仮定をして青木は焦る。
 本当に薪が男に興味がなくて良かっ……待って、それだとオレにも興味ないってことになるんじゃ? うう、凹みそう。

「先生、プロポーズ受ける気なのか?」
 さりげない仕草が青木の不安を煽っているのに気付かず、竹内はあからさまな野次馬根性で質問を重ねてくる。その浅ましさに1割、残りは完全なやっかみで、青木は彼の質問を素っ気無く跳ね除けた。
「知りませんよ」
「なんで知らないんだよ。おまえ、先生と仲いいだろ」
「悪くはないですけど、別にオレ、三好先生とは何でもないし。てか、竹内さんには関係ないじゃないですか。なんでそんなに気にするんですか?」
「だから気にしてるわけじゃないって。受けるかどうか、そこが知りたいだけなんだ」
 両者の違いが分からない。青木にはどちらも同じことのように聞こえるが、気のせいだろうか。

「どうしてそんなこと、オレに訊くんですか? そんなに知りたきゃ本人に訊いたらいいじゃないですか。知らない仲じゃないでしょう」
 竹内は捜査一課、雪子は監察医。それなりに仕事上の接点もある。顔見知り以上の間柄ではあるのだから、自分で聞けばいい。青木がその程度の気持ちで言ったことに対して竹内が返してきた言葉は、少なからず青木を驚かせた。
「な……ち、違うからな! あれはそういうんじゃない、そういう意味で付き合ってるわけじゃないんだ!!」
「は? 付き合ってる?」

 鸚鵡返しに尋ねて、尚も青木は自分の耳を疑う。
 竹内が雪子と?何がどうしてそんなことに??

 びっくり眼で固まった青木に今度は竹内が驚いて、強張った顔で詰め寄ってくる。形の良い唇から弾丸のように放たれる言葉は、不自然なくらい強い否定口調。
「付き合ってない! ただ一緒に食事したり、酒飲んだり、休みの日に遊園地とか映画館とか、あ、プラネタリウムも行った。それから先週は水族館でホウジロザメを」
「それ、普通に付き合ってません?」
「だから違うって言ってんだろ! 先生とは、男友達みたいな感覚で」
 たしかに雪子は性を感じさせない女性だ。男に媚びないというか、男を男とも思わないというか。青木も雪子とは数え切れないくらいのプライベイトを一緒に過ごしたが、そんな雰囲気は生まれなかった。
 まあ、雪子は自分よりも12歳も年上だし、そういう対象には見てもらえないだけかもしれな……だから待ってくれってば、薪さんもオレより12歳年上じゃないか。やっぱりオレのことなんか……ダメだ、泥沼だ。

「それに」
 虚ろな目になった青木に頓着せず、竹内は言葉を継ぐ。普段は気配り上手な彼だが、今は自分のことでいっぱいいっぱいらしい。
「先生も俺のこと、男として見てないし。何度か誘いを掛けたこともあったんだけど、うまくはぐらかされちゃって」
「あの」
 なんだか恋愛相談みたいになってきた会話に、青木は休符を挟んだ。薪の怒り狂う様子が目に浮かんだからだ。
 薪は竹内が大嫌いだ。彼を嫌悪する最大の理由は、竹内が警視庁一のプレイボーイだからだ。察するに、10年以上も同じひとを想い続けていた薪には、竹内の行動は不誠実さの象徴のように見えて、自分の不器用さを思い知らされるようで、耐えられないのだろう。
 その一方で、亡き妻の忘れ形見の一人娘を盲目的にかわいがる父親もかくやという状態で雪子を大切にしている。そんな薪が、彼らが付き合っているなんて知ったら何をしでかすか。青木には薪の暴走を止める自信はない。

「竹内さん。もしかして三好先生のことを?」
「それが……自分でもよく分からないんだ」
 分からない? 警視庁一のモテ男で、恋愛経験は星の数ほどあるはずの竹内が、自分の気持ちが恋愛感情かどうか分からないなんてことがあるのだろうか。

「ときめかないんだ、先生といても。幸せな気分になったり、ウキウキしたり、手を握りたいと思ったりキスしたいと思ったり、そういう風にならないんだ。だからこれは恋ではないんだな、と自分では割り切っていたんだけど」
 竹内の主張はもっともだ。ときめきのない恋なんか恋愛とは言えないだろう。
 青木なんか、薪と一緒にいるときには心臓がドキドキしっぱなしだ。次はどんな意地悪をされるんだろうとか、いきなり別れるって言い出されるんじゃないかとか、て、なんか、これも恋のときめきとは別物のような気が……ああ、泥沼に底が見えない。

「じゃあ、どうして一緒にプライベイトを過ごしてるんですか?」
「楽だから」
 そりゃーまた、明確な答えで。

「とにかく、先生が相手だと楽なんだ。何にも飾らなくていいし、わけのわからない女性ファッションの話を聞かされることもないし、話を合わせるために雑誌を買ってその情報を仕入れておく必要もない。相手のチャームポイントを探して褒めなくてもいいし、高級なレストランとか行かなくてもいいから、金もかからないし」
「プレイボーイって大変なんですね」
「毎日が緊張と気配りと勉強の連続だ」
 自分には無理だ、と思いかけて青木は、薪と接するときには自分もまた強制的に竹内と同じ状況に陥っていることに気付く。でも、あれは薪が相手だから頑張れるのだ。それが不特定多数を相手取るとなったら、とても続かない。やっぱり竹内はすごい。

「そんな調子だったから、今まで先生の男関係なんか気にしたことなかったんだ。でも、先生がプロポーズされたって聞いて、だれか他の男のものになるかもしれないって思ったら、何も手につかなくなって……確かめずにはいられなくて」
 竹内の話を聞いて、青木は複雑な気分になる。
 竹内のことは友人として好きだし、優秀な先輩刑事として尊敬してもいる。しかし、彼は何年も前から薪に恋をしていて、青木の立場からは目障りな男だった。薪が竹内のことを嫌っているのは分かっていたから頭痛の種というほどでもなかったのだが、喉に刺さった小骨くらいには邪魔だと思っていた。だから彼に好きな女性ができるのは喜ばしいことなのだが、相手が雪子となると、そう簡単に首を縦に振ることはできない。

 雪子に恋愛感情はないが、今までさんざん世話になった恩義がある。だから彼女には幸せな恋愛と結婚をしてもらいたい。それは薪が切望することでもあるし、青木も心からそう願っている。
 竹内は、自他共に認めるプレイボーイだ。恋愛は上手かもしれないが、平和な結婚生活は望めないだろう。友人として付き合うにはいいが、恋人や夫にするには不向きな男だ。彼の妻になった女性は、女性関係の心配を一生しなくてはならない。
 はっきり言って、お勧めできない。

「竹内さん。真剣な気持ちじゃないなら、余計な真似しないでくださいね」
「まだ手は出してない」
「まだって、今から出す気なんですか?」
「出せないんだよっ、この俺が! 初めてだ、こんなこと」
 竹内には珍しく逆ギレされて、青木は口を噤む。オシャレでスマートで軽い恋愛が得意な竹内らしくもない。

 迂闊に手を出せないのは雪子の武勇を恐れてのことか、あるいは。
 大切に思っているから、簡単に手が出せないのか。

「そうだ、おまえ、俺に嘘の情報教えただろ。三好先生、料理めちゃめちゃ上手かったぞ」
「えっ。そんなはずは」
 ない、と言い掛けて、青木はその情報が他人からの伝聞だったことに思い当たる。実際に彼女の手料理を食べたことはないのだ。あれはむかし薪から聞いたのだが、さては冗談だったのか。薪が雪子を悪く言うとは思えないが、その場のノリだったのかもしれない。

「俺が食べたのは和食の弁当だったけど。今まで食った差し入れの中で、一番美味かった。聞いたら料理は得意で、和洋中なんでもござれだって言ってたぞ」
「そうですか。すみませんでした」
「ったく、ガセネタはカンベンしてくれよ」
 イラついた表情で腕を組み、抑え切れないため息を吐く年上の友人を見やり、青木は困惑するばかりだった。



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クッキング(11)

 またもやあおまきすとにあるまじき発言なんですけど。
 わたし、雪子さんとスガちゃんのガールズトークが大好きなんです。 スガちゃん、言葉はキツイんですけど、きっと雪子さんのことが大好きで、ずっと彼女を支えてきたんだろうなあって。

 スガちゃん、これからも雪子さんをよろしくねっ!
 いま青木さん、それどころじゃないから。 もしかしたら、ずっとよろしくねっ! 未来永劫よろしくねっ!!(←わたしが今後の展開に何を期待してるのかとか、追求しないでください)  





クッキング(11)





「ぜ――ったいに逃しちゃダメですよ!」
 雪子の手首を万力のように締め付ける小さな手の持ち主は、耳にタコができるほど繰り返したセリフをまたもや口にした。
「雪子先生にプロポーズしてくれる男性なんか、あと百年待っても出てきませんからね」
 この娘はいったい、あたしが何年生きると思っているのだろう。

「あのね、スガちゃん。風間先生はプロポーズしてくれたわけじゃなくて、『結婚を前提としたお付き合いをしましょう』って言ってきただけよ? OKするかどうかも、あたしはまだ決めかねて」
「20代ならともかく、40に手が届く先生に迷う時間なんかあるわけないじゃないですか。ここで会ったが百年目です」
 なんだか親の仇みたいになってきた。

「だからって何も、勝負服まで用意しなくても。ただ一緒に食事しようって誘われただけよ? 返って引かれちゃうんじゃない?」
「甘いっ!!」
 ブティックの店内という場所柄も忘れて、菅井は大きな声で雪子を一喝する。プライベイトになると、菅井は雪子より優位に立つことが多いような気がする。

「甘いですよ、雪子先生。いいですか、白衣姿の先生しか見たことのない風間先生が、こういうフェミニンなワンピース姿の先生を見たら、どういう反応を示すと思います?」
 フワフワしたピンク色のワンピースを手に取り、菅井はそれを自分の身体にあてがう。童顔で華奢な彼女に、その服はとてもよく似合っていた。
「男はギャップに弱いんです。コロッと落ちますよ、わたしが保証します」
 言いながら、菅井は値札を確認する。まさか、この服を着て行けという気だろうか。ありえない、30超えてパステルピンクを着るくらいなら、雪子は迷彩服を選ぶ。

「まさかスガちゃん、あたしにそれ着ろっていうんじゃ」
「そんな社会的公害を引き起こすような真似はしません。雪子先生がこれを着て街を歩いたら、お年寄りなんかショック死しちゃうじゃないですか」
 失礼を通り越した菅井の切り捨て方に、咄嗟には上手い切り返しが浮かばない。この後輩相手に言語能力を競ったら、雪子の完敗だ。
「でも、形はいいから色違いで……これなんかどうですか? きれいなライトグリーンですよ」
 口惜しさに歯噛みする雪子の険悪な表情を意に介することもなく、菅井は同じ列にあった同型のワンピースを取り出す。さっと雪子の身体にあてがって、「なかなかいいじゃないですか、馬子にも衣装ですよ」と失礼を重ねた。

「こういう色合いのスーツなら持ってるわ。わざわざ新しいものを買わなくても」
「スーツなんかダメですよ。どうせ色気のないビジネススーツでしょ」
 鋭い。でも、30過ぎの女性が洋服を買う場合、公私共に使える服を選ぶのが普通だと思うが。
「男性に誘われたら、着飾って行くのが礼儀ですよ。ロクにオシャレもしないで行くってことは、相手を男性として意識していないってことでしょう? 失礼に当たります」
 そういうものだろうか。
 あまりゴテゴテとアクセサリーをつけたりする事が苦手な雪子は、鈴木とのデートのときもそれほど飾り立てたりはしなかった。現在も、青木や竹内とふたりで会うことはあるが、あれは友だち感覚だし。ていうか、この子に礼儀を諭されるとは。

「はー。ガラじゃないと思うけどなあ、こんなの」
 そうぼやきながらも、菅井に押し付けられたワンピースを試着室で着てみて、鏡の中の自分を覗き込む。スタイルの良い雪子は大抵の服は着こなせるが、ふんわりしたシルエットのスカートは生理的に受け付けないので、これまで穿いたことがなかった。

 初めて出会う自分の一面に、雪子は新鮮な驚きを覚える。
 悪くないかもしれない。
 服に着られている感じがしないでもないが、これはこれでありかも。

 菅井に勧められたワンピースを購入して、それに合わせた靴も買う。美容院へも行くんですよ、と命令口調で言う後輩に辟易して、雪子はため息を吐いた。
 自分のことでもないのに気張りすぎの後輩は、その情熱のすべてが雪子を思ってのことだと分かっているから無碍にもできない。

「よかった、先生を任せられる人が現れて。おかげで雪子先生の老後の面倒は、わたしが見なくても済みそうです」
「なんでスガちゃんがあたしの老後の世話をするのよ」
「だって、雪子先生を屍蝋化死体にするわけにはいかないじゃないですか。だからわたし、将来的には雪子先生をわたしの家庭に引き取ろうかと」
 いったい、どんな将来設計してたの、あんたは。

 口は悪いが、菅井は本当に雪子のことを心配してくれている。鈴木のことも、その後のことも知っている彼女は、雪子の傷を癒そうと懸命に働きかけてくれた。『男の傷は男で癒す』が持論の彼女の好意はありがた迷惑な部分も多大にあったが、それでもそこまで自分を案じてくれる誰かがいるということは、雪子にとって大きな支えとなってきたのだ。
 そんな彼女を喜ばせてあげたい気持ちは、雪子の中にもある。ましてや、こんなに楽しそうに雪子の服やアクセサリを選ばれたのでは、止めることもできない。
 結局は美容院まで菅井に連れて行かれて、彼女の指示で髪をカットされた上に色を染められた。もう、彼女の言うがまま。お洒落に関しては、雪子は菅井の足元にも及ばない。
 そうして仕立てられてみれば元は良い雪子のこと、何処に出しても恥ずかしくないシックな美女の出来上がりというわけだ。

 姿見の中の自分を見て、雪子は何だかこそばゆいような気分を覚える。
 最初は完全にありがた迷惑だと思っていたけれど、雪子だって女性だ、お洒落が楽しくないわけがない。特にこの髪形は気に入った。前髪を左から斜めに分けたショートカットは薪とスタイルが被るような気もするが、今までの真っ直ぐに切り揃えた髪型よりも軽やかで、季節に合っている。新しい服にもマッチして、「らしくない」と「悪くない」が半々くらいになった。
 
 菅井は自分のプロデュースに満足して何度も頷き、次いでいつもの命令的な口調で言った。
「いいですか。風間先生は仕事中の雪子先生しか知らないんですから、気を抜いちゃダメですよ。先生の本性がガサツで女らしさ皆無の干物女だってことがバレたら、この話はおじゃんですからね。お淑やかに振舞ってくださいよ」
 本音が出せないようでは付き合いも長くないだろうと思ったが、最初から全開というわけにもいかない。菅井の言葉は、ある程度は正しい。
「はいはい。せいぜい気をつけるわ」

 素直に賛同の意を示しながら、雪子はふと、この姿を竹内が見たら、それでも自分を男友達として扱うのだろうか、と詮無きことを考えた。



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クッキング(12)

クッキング(12)





『先生。夕飯一緒にどうですか?』
「あたし今日は胃袋がラーメンだけど、それでいい?」
 わかりました、と苦笑する声が聞こえて、電話が切れた。雪子は上機嫌で白衣を脱ぎ、仕事場を出る。春とはいえ、夜は冷える。温かい麺類が恋しいのだ。

 研究所の正門に出ると、既に電話の主は来ていて、彼がここから電話をしてきたことを知る。平日の呼び出しは久しぶりだが、何か聞いて欲しいことでもあるのだろう。竹内が話すことと言ったら、どうせ引っ掛けた女のことだろうが。
 そう思って、カウンター式のラーメン屋ではなく中華飯店のテーブル席にしたのだが、その夜に限って竹内は妙に静かだった。食事の前も後も、ロクな会話もなく、頬杖をついて雪子が食べる様子を見ていた。
 以前も「自分の周りにはこんなに良く食べる女性はいないから珍しい」と言っていたが、そんなに面白いのだろうか。自分が食べているところを自分で見たことはないが、そう変わった食べ方はしていないと思うが。

 食事を終えて、店を出る。歩道には多くの人々が楽しげに語らいながら歩いている。ふたりもまた夜の街を並んで歩く、それでも竹内は黙ったまま。話したがらない相手に口を開かせるのは雪子の流儀ではないが、さすがに沈黙が重くなってきた。
「ねえ。なんか話があったんじゃないの?」
 単に夕飯の相伴が欲しかっただけだったのだろうか。だったらラーメン専門店にしたのに。中華飯店と専門店では、味も値段も違う。専門店なら値段も安いし、トッピングとか脂の量とか、色々注文も付けられるし、替え玉だって、などと食べた後まで意地汚いことを考えていた雪子の耳に、竹内の歯切れの悪い声が届いた。

「なんで急に髪型変えたんですか」
「え? 特に理由もないけど。ヘン?」
「いえ、お似合いですけど。もしかして、誰か見せたいひとが」
「誠?」
 一旦通り過ぎた女性が立ち止まり、こちらを向かずに彼の名前を呼んだ。雪子が立ち止まると、ちょうど振り向いた相手と眼が合った。

 職業、モデル。そんな字幕が現れそうな女性だった。華やかでセンスが良くて、当たり前のように目鼻立ちがいい。
 十中八九、竹内の元カノだ。
 
 竹内の昔の女性に会うのは初めてではない。あれだけ多くの女性と付き合っていれば、出先で偶然遭遇する事だってあって当然だ。しかし、これまでは竹内の方が先に気付いて、彼女たちの目を逃れるようにさりげなく立ち位置を変えるとか、手荷物を顔の近くに持ってくるとか、非常手段としては雪子の後ろに隠れるとかして、彼女たちと顔を合わせないよう気遣ってきたのだが。夜ということもあって、今日はニアミスを許してしまったらしい。

「久しぶり。元気だった?」
「ああ。君も、元気そうで」
「そちらは? 新しい彼女?」
 否定しようと雪子が口を開ける前に、竹内がさっと彼女のほうへ歩み寄った。雪子の前に立ちふさがる形で、たぶん彼女の顔を見られたくないのだと思ったから、雪子は口を噤んで2,3歩下がった。

「うん。君は?」
「いいわね。あたしはまだ独りよ」
「どうして。蓉子ほどの女なら、引く手あまただろ?」
「誠以上の男なんか、そうそう見つかるもんじゃないわ」
「よく言うよ。君が俺を振ったくせに」
「振ってあげたのよ。あなたが別れたがってるの、解ったから」
 数歩離れた場所で、二人の会話を聞くともなく聞いている。彼女と話している竹内の瞳も声もやさしく甘く、雪子がついぞ見たこともなければ聞いたこともない、それは雪子が知らないもうひとりの彼。
 女性に対しては、彼はきっといつもこんなふうに接するのだ。心地よい言葉と涼やかな眼差しで、相手を夢心地にさせる。男友達の自分とはエライ違いだ。

 それからほんの僅かな時間、竹内と元彼女とは穏やかに話して穏やかに別れた。いい付き合い方と、きれいな別れ方をしていたのだろう。さすが捜一の光源氏。
「いいわけ? 彼女、絶対に誤解したわよ?」
「誤解? ああ、すみませんでした。つい」
『つい、先生の性別忘れちゃって。しまった、彼女に男に走ったと思われたかな』
 雪子はそんな軽口を期待して、でも竹内は何も言わなかった。つい、の後に続くセリフは、その後も彼の口から零れることはなかった。彼の唇が形作ったのは、人間が言い難いことを言うとき特有の、曖昧な空隙だった。

「あの……噂を聞いたんですけど。先生、同じ課の」
「あっ!! 竹内、アレは何っ!?」

 竹内の焦げ茶色の髪の向こうに、雪子は知り合いの姿を見つけて、彼の注意を別方向に向けるべくわざとらしく声を上げた。
 薪と青木だ。仕事帰りのようだったが、どこかに用事でもあるのか、研究所から直接駅へ向かわなかったらしい。

 食事の後、すぐに職場に変えるつもりだったから科警研の近くの店を選んだのだが、失敗した。青木はいいとしても、竹内と一緒にいるのを薪に見られたら、どんな騒ぎになるか。
 冷静なのは見た目だけ、薪はけっこうケンカっぱやい。『雪子さんを毒牙に掛ける気か!』などと見当違いの言い掛かりをつけるや否や、問答無用で飛び蹴りがきそうだ。そんなことになったら、捜一VS第九の全面戦争が勃発してしまう。

「アレって……あ、焼き芋屋じゃないですか? 珍しいですね、もう春なのに」
「そうよ、今シーズン最後の焼き芋屋よっ! 逃せないわ、行くわよ!」
「って、いまラーメン食ったばっかり、ちょっと先生!」
 反対車線の路肩をトロトロと走る軽トラック目掛けて、雪子は近くの歩道橋を駆け上がった。後ろから竹内が付いてくるのを確認して、胸を撫で下ろす。

 階段を駆け下りて、歩道をダッシュする。「おじさん、ちょっと待って!」と声を上げて、トラックを止める。
 何本買おうか思案していると、竹内が横から出てきて、大きい方の袋をひとつ、と言って札入れを出した。
「どうせ今からまた仕事なんでしょう?」
「ご明察」
 袋の中から一本取って、半分に割って雪子は嬉しそうに笑う。ヤキイモは雪子の大好物。満漢全席を食べた後でもこれなら食べられる。お義理で竹内に差し出すと、袋を片手に抱え直し、いただきます、と礼儀正しく断ってから受け取った。

 トラックの陰から向かいの歩道に視線を走らせ、問題の二人が歩き去っていくのを確かめる。彼らの様子を見て、無駄な労力を使ったかもしれない、と雪子は思った。
 なにやら楽しげに喋りながら、ちらちらと互いに視線を交し合って、その視線が長く絡み合うことはないけれど、それでもあれだけ頻繁に目を合わせていれば、周囲の人間の顔なんかロクに見ていないに違いない。
 人前では常に距離を置いている彼らだが、こうして知り合いがいないところでは、言葉以外の温かいものを通わせあっている。数ヶ月前、青木が『薪さんの気持ちが分からない』などと寝ぼけたことを言ってきたが、どうやらお灸が効いたようだ。

 あのふたり、わりと仲良くやってるじゃない、心配して損したわ、と雪子は自分の杞憂に憤慨し、でもその表情は明るく。大切な友人たちの幸せを心から望む彼女の瞳は、やさしい光に満ちている。

「俺、女の人とヤキイモ屋の追っかけやったの初めてです。ほんっと、先生って……ククククッ」
 突然噴き出すように笑われて、雪子は一緒にいる男の方に顔を向ける。竹内の身長は雪子より2,3センチ上といったところ、昔のように見上げる必要はない。
 何がそんなにおかしいのか、竹内はしばらく笑い続けていたが、やがて笑いを収めて上空のおぼろ月を見上げ、大きな独り言を言った。

「あー、やっとわかりました。すっきりした」
「なにが?」
 黄金のスローフードをかじりながら雪子がモゴモゴと訊くと、竹内は空に視線を固定したままで、
「俺が欲しかったのはイモじゃなくて、モチだったみたいです」

「えっ。あんたの田舎には、石焼モチってのがあるの? おいしいの、それ」
 食べたことはないが、どんな食べ物かは想像がつく。焼いた石を使って調理するのだろう。石焼だと遠赤外線効果で中身はふっくらやわらかく、外はこんがりと仕上がるから、味には期待できそうだ。
「ええ。そのうち先生にも、絶対に味わってもらいますから。それも大量に。覚悟しててくださいよ」

 竹内がいつもの無礼なお喋り男に戻ったのが嬉しくて、雪子は心が軽くなる。腰に手を当てて肩をそびやかせ、横目で彼を見下すように軽口を返した。
「ふん、あたしの胃袋舐めんじゃないわよ。鏡餅サイズで持ってきなさいよ」
「あははっ、さすが先生。頼もしいですね」
 当然、と豪語して雪子は大きく口を開け、ヤキイモを頬張った。



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クッキング(13)

クッキング(13)





 銀食器の優雅な光沢が慎ましく輝く店内で、雪子はフォークを操る手を止め、にっこりと向かいの男性に笑いかけた。流れるモーツァルトの調べに合わせたやわらかい声を心掛け、小さめに口を開く。

「ステキなお店ですね。よくこういうお店でお食事を?」
「いいえ、今日は特別です。雪子先生をお誘いしたんですから、おかしな店へはお連れできません」
 お腹いっぱい食べられればラーメン屋でも牛丼屋でも大歓迎だけど、と心の中で返しつつ、雪子はニコニコと微笑み続けた。
「うれしいわ。ありがとうございます」
 ドレスアップに注ぎ込まれた菅井の苦労を無にしないように、雪子は淑やかな言動を心掛ける。それほど得意ではないが、そこは年の功。こういう店の出入も慣れているし、ツラの皮も厚い。

「素敵なのは貴女のほうだ。今日は驚きましたよ。前から美しい人だとは思ってましたけど、こんなにきれいだったなんて。もったいないですよ、どうして普段からそういう格好をなさらないんですか?」
 これを毎日やってたら神経衰弱で入院だわ、と心の中で呟き、「おだてても何もでませんよ」とありきたりの応えを返す。
 美辞麗句は雪子の心を動かさない。人間の美醜は皮一枚、服一枚のことだとイヤになるほど分かっているからだ。
 むしろこんなときは菅井のように、『馬子どころか馬にも衣装ですよ!』などと無礼極まりない言葉を吐きながらもハシバミ色の瞳をキラキラさせる、そんな真実が雪子を喜ばせる。

 無礼つながりで思い出すのはやっぱりあの男のことで、彼なら何て言うだろう、と雪子はまたもや考える。暖かい茶色の瞳を無邪気に細めて、悪戯っ子みたいにニヤッと笑う。彼の口から出るのは、そう、きっとこんなセリフ。
『先生、女装似合うじゃないですか』
 クスッと笑って雪子は、桜色のテリーヌにナイフを入れる。季節に合わせて桜のソースをあしらった、上品な味わいの一品。食器を縁取るピンクの曲線が、春らしさと華やぎを演出している。

「なんですか? 思い出し笑い?」
「あ、ごめんなさい。ちょっと助手の女の子に言われたことを思い出して」
 後から思い浮かべたひとのことは内緒にして、菅井に言われたことを正直に話す。そうして菅井ひとりに罪を被せると、雪子は何食わぬ顔で風間と笑い合った。

 こんなふうに、自分の心と身体をバラバラに操る術を覚えたのは、いつの頃からだったろう。監察医の仕事は滅入ることが多くて、だけどそれを表に出したくない雪子は、人前で虚勢を張ることがいつしか当たり前になっていた。
 他人は口を揃えて自分のことを強い女性だと言うけれど、それは過大評価だ。自分は弱さも狡さも併せ持った、ただの女。でなかったら、あんなバカな真似はしなかった。

 4年前の夏。
 彼を喪って、自分の中に穿たれた底の見えない空虚に飲み込まれ、挙句の果てに自殺未遂。その傷は今も雪子の左手首に残っている。整形手術で消えないことはない。だけど、雪子はその傷をわざと残している。これは自分への戒めだ。もう二度と、弱さに溺れないように。

 わたしは強い女性。他人に頼らずとも生きていける。
 少なくとも、自分の気持ちを偽り続けることと寂しさの二者択一なら、後者を選ぶ。それくらいの強さはある。

「風間先生。先日のお話ですけど」
 コースがメインに移ったころ、雪子はそう切り出した。
「申し訳ありませんが。私には、もったいないお話だと」
「そんなに答えを急がなくてもいいじゃないですか。これからゆっくり付き合って、その上で僕が貴女の夫に相応しいかどうか、見極めてくれればいい。
 僕だって、貴女に投げ飛ばされるかもしれないと思いつつ、勇気を出して告白したんですよ。そのくらいの猶予は与えてください」

「投げ……どうして私の特技を知ってるんですか」
「菅井さんに聞きました。柔道のことだけじゃなくて、先生が本当はすごく気さくで、勇ましい方だということも。今度は、そんな貴女も見てみたい」
 風間から菅井との会話の内容を聞くと、雪子が家事全般が苦手なこと、特に料理は壊滅的なこと、痴漢を投げ飛ばして肋骨を折る重傷を負わせてしまい、裁判沙汰になりかけたことまで筒抜けだった。
 あたしにはお淑やかに振舞えとか言っておいて、自分がバラしてどういう気だ、と思いかけて雪子は、菅井が雪子のためにフォローを入れてくれていたのだとすぐに気付く。虚勢は張っても見栄っ張りな嘘は苦手なのだ。付き合い始めたらすぐにバレてしまう。

「菅井さんが言ってましたよ。先生は正義感が強くて、勇気があるって。その痴漢ていうのも、菅井さんに付きまとってたストーカーだったんでしょう? 彼女、すごく感謝してましたよ。
 それに、先生は努力家だから、料理も習い始めたら上手になる筈だって。メスを扱う監察医が包丁を使えないわけはないから、上達も早いでしょうって」

 ――――― 先生、がんばってくださいね。

 両の拳を胸の前でぎゅっと握り、小動物のような笑顔で自分を送り出してくれた後輩の顔を思い出す。彼女のエールが耳に届いて、雪子は何も言えなくなった。

 曖昧に微笑み、運ばれてきたメインディッシュを見る。雪子の好きなサーロイン。薄切りのレモンの上に載せられたバターが溶け出して、食欲をそそる匂いをさせている。
「僕はコレステロールが高いから、肉は控えてるんですけど。今夜は特別です。先生をダシに使わせていただきます」
「あら。じゃあ、私を誘った本当の目的はこれだったんですか?」
 顔を見合わせてクスクス笑う。ユーモアを交えた穏やかな会話は、最高のスパイスだ。美味しい食事がもっとおいしくなる。

 答えは今でなくともよいと風間に言われたことで、大分気持ちが楽になった。何も風間のことが嫌いなわけではないし、彼の言うことにも一理ある。
 自分の中に生まれかけている感情があることは認めるが、それが必ず育つとは、雪子自身はっきりと断定できないものだし、風間との間に同種の感情が芽生えないとも限らない。
 アラフォーの恋愛は日和見主義。鈴木に恋をした20代とは違うのだ。

 鈴木の恋人だった、あのころ。
 この人以外に考えられない、どんな立場でもいいからこの人の傍にいたいと思った。彼が心の奥底で一番大事にしているのが誰なのか、雪子は薄々感づいてはいたけれど、決してそれを表面に出すことはしなかった。大らかに許したと見せかけて、本音では鈴木を失うのが怖かった。それに、鈴木の愛情は贋物ではなかった。一番にはなれなくても、愛されていた。それで充分だった。

 雪子は右手のワイングラスに手を伸ばした。美しい赤色の液体が、芳醇な香りを漂わせる。グラスを空けたとき、彼女は初めて2つ向こうの席の人影に気付いた。

「……なんでいるわけ」
「はい?」
「あ、いえ。何でも」
 僅かに首を傾げた風間は、雪子の微笑に安心したように笑って、ボトルのワインを雪子のグラスに注いでくれた。テーブルに置いたワイングラスの足を押さえ、雪子はチラリと風間の先に視線を送る。

 見間違いであって欲しいとの願いは、虚しくも消えた。
 やっぱり竹内だ。あんな俳優顔が、そう多く存在しているはずがない。
 
 彼女と来たのかと思いきや、竹内はひとりだった。一人分の食器の前に、ひとりでぽつんと座って、それは彼の華やかな容姿にまるで相応しくなかった。
 いったい、いつからそこにいたのだろう。 
 雪子の疑問は、レストランのホールスタッフが彼のテーブルにメインディッシュを運んで行ったことで解決された。この店は夜はコース料理しか扱っていない、ということは、雪子たちのすぐ後に席に着いたのだ。

 竹内は品良くワインを飲みながら、嫌な目つきでこちらを見ている。まるで自分が犯人になって、彼に張り込みをされているような気分だ。
 いやだ、あんなにジロジロ見られたら、せっかくのステーキの味が台無しだ。ていうか、彼が同じ店にいると知った時点で、料理の味なんか分からなくなったんだけど。

「雪子先生? ステーキがミンチになっちゃいますよ?」
「え? あ」
 風間に指摘されて雪子は手元を見る。無意識のうちに、肉を切り刻んでしまった。しかも検査用に5ミリピッチで。習性とは恐ろしい。
「ちょっと、緊張してるみたいです」
「今になってですか? ユニークなひとですねえ、先生は」
 急にソワソワしだした雪子をどう思ったのか、風間は大人らしい落ち着きを見せているが、本心は分からない。申し訳なさでいっぱいになって、雪子は激しく自分を恥じる。
 風間は真面目な気持ちで交際を申し込んでくれて、それを承知の上で自分はここに来たのに、他の人が気になって彼の存在を忘れるなんて、最低だ。

 しかし、真の最低野郎は別にいた。
 そいつは礼儀知らずにも、食事の途中で席を立った。そして他人が食事をしているテーブルにつかつかと近寄ってきた。
 ナイフを持った女性の右手を出し抜けに掴み、威嚇するような声で、
「三好先生。行きましょう」
「……どこへ」
「ここじゃないとこなら何処でもいいですから。とにかく、出ましょう」
 あまりのことに唖然として、風間は声も出ない様子だった。周りの客はひたすら下を向いて、雪子たちの席を見ないふり。でも聞き耳はしっかり立てている。

「いやよ」
 当然、雪子は断った。当たり前だ、ここで応じたら自分もサイテー野郎の仲間入りだ。
「まだデザート食べてないもん」
 その理由はどうかと思われたが、雪子にはそれ以上の断り文句は浮かばなかった。
「コンビニでハーゲンダッツのトリュフショコラ買ってあげますから」
「ふざけないでよ」
 流石に頭にきて、雪子は強い口調で言い返した。

「レストランのデザートよ? せめてサーティワンにしてよ」




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クッキング(14)

クッキング(14)





 春の宵の街には、薄ぼんやりした灯りがよく似合う。霞が掛かって、まるでガス燈のように見えるLEDの光が、ロマンティックな夜の演出に一役買っていた。

 その街灯が照らす青山通りの歩道に、一組の男女が肩を並べて歩いていた。
 彼らとすれ違う人々は、だれもが思わず彼らに見惚れた。プラズマ画面の向こう側でしか見られないような、美男美女の組み合わせだったからだ。
 特に男の方は、芸能プロダクションに所属していること請け合いの美形で、だから隣の女性に向けられる同性の眼は厳しいものがあった。しかし彼女たちも結局は、ライトグリーンのワンピースに身を包んだ彼女の美しさを認めて、口を噤むのだった。

 傍目にもお似合いのふたりで、並んで歩いていることからも彼らは恋人同士だと思われたが。彼らの心中は、憤怨に満ちて荒々しく乱れていた。
「どうしてくれるのよ。あんたのせいでA5等級のサーロイン、味が全然分からなかったじゃないの」
 つんけんした態度で憤慨を口にして、雪子は忌々しそうに舌打ちした。フェミニンなワンピースが台無しだ。
「俺なんか、前菜の時点から分かりませんでしたよ」
 相手の男も相当怒っていて、肩を並べているふたりの間にはギスギスした空気が流れていた。

 雪子はこれ見よがしにため息をつき、ショルダーバックを肩に掛け直した。
 レストランが少し暑かったのか、頭に血が昇っているようだ。おかげで外気が心地よい。季節は春でも夜の空気はまだまだ冷たくて、レストランの空調以外の理由でも火照っている雪子の頬を冷ましてくれる。

「風間さん、って言うんでしたっけ。大人ですね、あのひと」
 いくらか気持ちが冷えたのか、竹内が静かに言った。
 レストランでの一幕を思い出し、雪子は自責の念に駆られる。自分たちの大人気ない振舞いを、風間は寛大にも許してくれた。

『僕は最初から気付いてましたよ。あなたが席に着いたときから、ずーっと睨まれてましたから。それに』
 何故レストランの場所が解ったのだろうと考えて、竹内の職業を思い出す。竹内は捜査一課のエース。尾行はお手の物だ。
『雪子先生もずっと、心ここに在らずでしたよね?』
『……ごめんなさい』
『いいえ。僕がお願いして来てもらったんですから、贅沢は言いませんよ。僕は充分楽しかった』
 そう言って笑うと、自分もデザートはキャンセルする、コレステロールの他に血糖値も高めだから、と片手を上げて、さっさと会計を済ませて堂々と店を出て行った。彼は本当の紳士だった。
 ひきかえ、この男ときたら。

「あんたがコドモなんでしょ」
「先生だって、アイスクリームに釣られて出てきたくせに」
 あんたはアホか、と怒鳴り返してやろうとして、雪子は口を大きく開く。が、隣を歩く未熟な男の玄妙な横顔に出会って口をつぐんだ。
 きっと、同じことを考えている。

 自分の感情を厳密に突き詰めることは、怖くてしんどい。曖昧な気持ちのまま友だち感覚で付き合っていたほうがずっと楽しい。認めてしまったら、この関係が終わってしまうかもしれない、そんなことを考えてしまうから。
 それは自分たちの勝手で、そのまま関係が途絶えるのも自然の摂理だと思うけれど、こんなふうに誰かを巻き込んで、負う必要のない傷を負わせていいわけがない。

 滅多に吐かないため息を吐いて、雪子が口を開こうとした、そのとき。
 一陣の風が、ふたりの間を吹き抜けた。
 軽い生地のスカートはふわりと舞い上がって、雪子は慌てて裾を押さえる。その仕草は女を感じさせて、通りすがりの男性のさりげない視線を集めた。

 竹内がじっとこちらを見ているのに気付き、次いでその目つきが険悪なことに気付く。まだ怒っているのか、この常識知らずは。
「分かってるわよ、ガラじゃないって言いたいんでしょ。どうせ似合わないわよ、こんなフワフワしたワンピース」
 これは菅井が選んでくれたのだ、自分の趣味ではない。でも鏡を見たとき、似合わないこともない、と少しだけ思った。思ったのに。

「似合わないです。ぜんっぜん似合ってない」
 ……そんなに力を込めて言わなくても。
 他人に100%の否定を食らうと、かなり凹む。竹内はセンスが良いから尚更だ。

「そんな、女みたいな服を着て、男の傍でニコニコ笑ってるだけの先生なんて。全然、似合ってません」
「女みたいって、生物学的には一応女なんだけど?」
 雪子が控えめに抗議を挟むと、竹内はくわっと眼を剥いて叫んだ。

「俺、頼んだじゃないですか! 先生は仕事と食事に生きてくださいって!」
「……はあ!?」

 竹内の主張を聞いて、雪子は思わず大声を上げる。わずかに間が空いたのは、一瞬、言葉の意味が解らなくなったからだ。なんて無茶苦茶なことを言う男だ。
 冗談じゃない、ひとの人生の貴重な瞬間を台無しにしただけでは飽き足らず、仕事と食事以外の楽しみをすべて諦めろと言う。どうしてそんなことをこの男に強制されなければならないのだ、少しでも心を揺らした自分がバカだった。

「あのねえ。あたしにだって恋愛の自由くらい」
 抗議の言葉は突然途絶えた。
 何が起きたのか、咄嗟にはわからなかった。鼻先に竹内の肩がぶつかってきて、あっと思う間もなく身体を拘束された。
 数年前までは婚約者がいたのだ、男に抱きしめられるのはもちろん初めてではない。
 だけど雪子が知っている抱擁はもっとやさしくてあたたかく、すっぽりと包み込まれるような感触で。まるで自分のオモチャを他所の子供に取られまいとするような身勝手で懸命な竹内の抱き方は、正に拘束という言葉が相応しかった。

 驚きのあまり硬直した雪子の耳に、男の情けない声が聞こえた。
「約束したじゃないですか。俺の泣き言、一生聞いてくれるって」

 それは、雪子が今まで聴いたことのない彼の声だった。
 男友達と喋る陽気な声でもない。女性に向けるやさしい声でもない。初めて聞く、だけど何故かそれとわかる、これが本当の彼の声。

「他の男の話なんか、聞かないでください。俺の話だけ聞いてください」
 自分にだけ聞かせてくれる、彼の真実。雪子の心がざわざわと騒ぎ出す。
 この気持ちは優越? それとも……。

 ―――――― 認めよう。これは恋だ。

「わかった。わかったから、放してよ。人が見るわ」
「本当に?」
 雪子の言葉は確かに聞こえたはずなのに、竹内は腕を緩めようとはしない。都合よく前者だけ聞いて、後者は無視するつもりか。まったく、自分勝手な男だ。

「約束ですよ」
 雪子の耳元を彼の声がくすぐる。春の夜にはぴったりの、ひそやかな囁き声。桜の花びらのようにふわりと雪子の耳に忍び込んできて、聴覚から脳髄を痺れされる。

「一生、俺の傍で。俺の泣き言聞いてください」




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クッキング(15)

 最終章です。
 読んでくださって、ありがとうございました。(^^





クッキング(15)





「そうだったんですかあ。そんなことが」
 雪子のマンションのリビングで、昔話を聞き終えた菅井が、感無量といったため息を吐いた。まではよかったが、その後がよろしくない。
「ほんっと竹内さん、気が狂ってたとしか思えませんね」
「そうね、この子ができたってことは、今も狂いっぱなしってことねっ!」
 新居へ訪ねて来て、『おふたりの馴れ初めを聞かせてください』と頼むから話してやったのに。なんて言い草だ。

「先生、怒っちゃだめですよ。胎教に悪いです。もっと穏やかな心持ちでいないと、短気で意地悪な子が生まれちゃいますよ」
「スガちゃんが黙っててくれると、優しい子になると思うんだけど」
 いつもの小競り合いを楽しんでいると、夫が紅茶を淹れてきてくれた。本来なら妻である自分の役目なのだが、最近つわりが始まって、動くのが億劫なのだ。

「先生。その昔話、ちょっと脚色しすぎじゃないですか? それじゃあ俺、ただの我儘小僧じゃないですか」
「そう? 客観的に語ったつもりだけど」
「いくらなんでもひどいですよ。カッコ悪すぎ」
 あたしはそういうあんたの方が好きだけど、と心の中で呟いて、夫が淹れてくれた紅茶を飲む。雪子のお気に入りの銘柄の茶葉を、好みの濃さで出してある。香りも味も、満点だ。

「風間先生にとっても良かったんじゃないですか? だって、雪子先生と上手く行ってたら、今の奥さんとは結婚できなかったんですから」
 あれから1年もしないうちに、風間は10歳も年下の女性と結婚した。お見合いだったらしいが、夫婦仲はうまく行っているようだ。
 風間に結婚のお祝いを言ったとき、『先生のおかげですよ。自分に自信が持てました。彼にもよろしく伝えてください』と耳打ちされた。皮肉を言うようなひとではないから本心だとは思うが、意味が良く分からなかったので彼には伝えていない。

「風間先生、命拾いしましたね」
「だからどういう意味よっ」
「怒っちゃダメですってば。胎教が」
 この娘が自分の友人でいる限り、優しい子供は望めそうもない。

 キッチンからは、軽快な包丁の音が聞こえてくる。ジュウジュウという油の音も聞こえて、雪子は久しぶりに食事が楽しみになる。
 つわりが始まってからは食欲がなくて、本音を言うとかなり参っていた。こういうときには母親の作った手料理が食べたくなるものだが、雪子の実家は青森だし。そこで、雪子がこの世で一番美味しいと絶賛する友人の手料理を作ってもらおうと、夫が彼に頼んでくれたのだ。

「はい、雪子さん。お待ちどうさまでした」
 雑談も一区切りついたころ、幾皿もの料理を友人の一人が運んできた。雪子たちが座っているリビングのテーブルの上に皿を置き、さあどうぞ、と箸を並べる。
 
 エプロン持参、食料持参で雪子のマンションに来てくれた彼は、警察庁の上層部に籍を置く警視長。来年あたりは警視監に昇進するとの、もっぱらの噂だ。
 そんな大層な肩書きとは掛け離れたその容姿。さらさらした亜麻色の短髪と、きれいな顔立ち。細い手足に小柄な身体。チェックのエプロンがここまで似合う41歳の男って、染色体の異常じゃないかしら。加えて、この肌の透明度。この人、大学のときから年を取ってないんじゃないかしら、と雪子は監察医にあるまじき非科学的なことを考える。

「たくさん食べてくださいね」
 笑いかける彼の笑顔は、雪子向けの特別仕様。その笑顔を瞬時に消して、彼は雪子の夫に話しかける。
「竹内さん、飲み物を持ってきてもらえますか? 大丈夫です、雪子さんの隣には僕が座って給仕しま」
「みなさん、飲み物麦茶でいいですよね?」
 もう一人の友人が麦茶のポットとコップを持ってきて、テーブルの上に置いた。菅井が素早く取り皿と箸を分け、麦茶をコップに注いでそれぞれの席の前に置く。
「ちっ。余計なことを。青木、後でオボエテロよ」
「はいはい」

 仕方なく菅井の向かいに腰を下ろした薪は、面白くなさそうに麦茶を飲んだ。その隣に青木が座って、雪子たちと彼らが相対する形になる。
 卓の上には、寿司桶に入ったちらし寿司、秋刀魚の青紫蘇揚げに定番の鳥唐揚げ。付け合せのマッシュポテトは固めて花の飾り切りを施し、ダシで煮た人参は季節に合わせて紅葉の形に整えてある。筑前煮と生野菜、口直しのサーモンマリネ。生野菜には雪子の好きなマッシュかぼちゃとさらし玉ねぎのマヨネーズ和えが添えてあった。

「わあ、すごい、美味しそう。薪室長って、本当に何でもできるんですね」
 菅井が素直に賞賛する。この素直さの10分の1でもいいから、直属の上司に向けて欲しいものだ。
 お口に合うかどうか、などと儀礼的な謙遜を菅井に返して、薪は雪子の顔を見る。
「雪子さんがつわりだって言うから、お寿司にしてみたんですけど。どうですか? 食べられそうですか?」
「ええ。ありがとう、薪くん」
 温かいご飯は匂いが辛い。友人の気遣いに微笑んで、雪子は礼を言った。

「食べたいものを言ってください、僕が……あ」
 薪が行動に移る前に、夫が雪子の好みのものを小皿に取り分けてくれた。寝食を共にしている彼よりも雪子の好みを知っているものは、ここにはいない。

「ううう~~、竹内のやつ~~~! 僕が取ってあげたかったのに!」
「仕方ないでしょ、ご夫婦なんですから」
 青木が取り皿に薪の好きな生野菜を彩りよく盛り付けて、不平タラタラの彼の前に置く。それで薪の気持ちを宥めようという目論見らしいが、そんなもので落ち着くほど彼の恨みは浅くない。
「おまえはそれでいいのか。口惜しくないのか。それでも男か、プライドないのか。ここで引いたら一生負け犬のままだぞ」
「はいはい、帰ったらゆっくり聞きますから」
 小声でなにやら言っているが、聞こえない振りをしておいた方が無難だろう。

「うん、すっごく美味しいです。さすが室長ですね」
 好物の筑前煮を口に入れて目を細める竹内に、薪はぶすっとそっぽを向いたまま、
『おまえに作ったんじゃない』
 と声を出さずに口だけ動かした。竹内は、見てみない振り。薪のこういう行動には慣れている。

「それにしても、最初に知ったときは驚いたなあ。室長にこんな特技があったなんて、ぜんぜん知りませんでした。さっき菅井さんに話してた遊園地の弁当も、室長が作ったんですよね」
「くっ。こいつが食べると分かってたら、手伝わなかったのに……!」
 罪人が懺悔をするような、苦悩に満ちた薪の声を掻き消すように、菅井が明るい声を響かせる。

「それより、雪子先生が料理作れないって知ったときの方が驚いたんじゃないですか?」
「ええ。プロ級だって母親に自慢しちゃったもんだから、大変だったのなんのって。あのときも室長に助けてもらったんですよね」
「本当は僕は手伝いたくなかったんだ、これで結婚が白紙になるかもしれないと期待してたのに。雪子さんがあんまり一生懸命だったから。ていうか、この話ってなにか? 結果的に僕の料理がふたりをくっつけたとか言うオチじゃないだろうな? 認めない、僕は絶対に認めないぞ」
 小さな声で暗示を掛けるように繰り返して、薪は黄色いパプリカを口に運ぶ。カラフルなピーマンの爽やかな甘さを、彼は気に入っている。

「結局、薪さんの料理がふたりを、グホッ!!」
「言葉にするな! 本当になっちゃうじゃないか!!」
 薪が乱暴に青木の背中を叩いても、この場にいるものは誰も止めない。青木が余計なことを言って薪に怒られるのは、このふたりのパターンだ。菅井がズバズバと雪子に物を言うように、これがふたりのコミュニケーションなのだ。放っておくに限る。

「うん、このサーモンマリネ、美味しい」
「あ、それ、オレが作ったんです。けっこう腕上がったでしょ?」
「へえ。青木くん、すごいじゃない。あ、このお吸い物も美味しい」
「それは俺が作ったんですよ。先生の好物でしょ? はまぐりの吸い物」
「そうなの? 二人ともすごいわね」
「雪子さん、僕は? 他は全部僕が作ったんですよ、美味しいですか?」
「あー、はいはい、おいしーおいしー」
「なんか僕だけ投げやりじゃないですか……?」

 むうっと膨れて、腹いせに青木の膝を蹴る。なんでオレに当たるんですか、と青木が抗議するのに、うるさい、と一喝。その様子があまりにも可愛らしくて、全員で笑い出してしまった。
 あの当時、雪子も竹内も大人気ない自分たちを恥じたものだが、薪には全然敵わない。

 夫が作ってくれた吸い物を飲み、雪子はほっと息をつく。
 見回すと、自分の周りには楽しげに食事をする友人たちの姿。隣には愛する夫がいて、お腹の中には新しい生命が宿っている。

 雪子は密かに左手の手首に触れ、かつてこの世で一番大切だったひとのことを思い出す。それから腹に手を当てて、生まれてくる子供のことを思う。

 ――――― 出産を終えたら、整形外科に行ってみようか。

 そうしたら再来年の夏は、半袖の服を買わなくちゃ、と雪子は思った。


―了―


(2010.11)

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 こちら、以前Iさんにリクエストいただいて不発に終わった「青木さんが岡部さんにヤキモチさん」のリベンジでございます。 今度はちゃんと妬けたと思う。 ←おかしな日本語。


 時期は2064年の秋、本編の順番は「消せない罪」の後、「スキャンダル」の前に入ります。
 まだ薪さんが別れる気マンマンで青木さんと付き合ってた頃ですね。 
 うちのあおまきさん、一緒に暮らし始めてからは全然ケンカしなくなっちゃうので、久し振りに痴話喧嘩が書けて楽しかったです♪







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 ――半円になった月の、あれは本当に月が欠けてるんじゃなくて、地球の影が映っているだけなのよ。

 その事実を青木が知ったのは、小学校2年生のとき。実際はあるのに陰になって見えないだけなのだと姉に教えられて、とても驚いた。だって見えないのに。

 ――見えなくてもちゃんとあるの。存在しているのよ。

 そう念を押されて、彼の長年の不安は氷解した。晴れ晴れとした表情で、彼は姉に言った。
「だったら安心だね。ぼく、ずっと心配してたんだ。月が無くなっちゃうとき、ウサギはどうしてるんだろうって」
 月の満ち欠けによって彼らが住む家を失うことはないのだと知って、少年は嬉しそうに笑った。呆れたような顔をした姉に、「その話、友だちにしないでね」ときつく口止めされたのは納得いかなかったが、大好きな姉の言うことだ、少年は素直に頷いた。
 その夜、青木少年は、眼には見えない月の上で楽しそうに跳ねるウサギの夢を見た。




*****





「フランス警察に協力を?」
 渡された資料から顔を上げて、薪は尋ねた。手元の薄いファイルには、『MRI捜査国際フォーラム』という題目の下に開催企画書(案)とある。つまりそれはまだ発案されたばかりの状態で、形にもなっていないと言うことだ。

 フランスの司法警察から声が上がった国際会議だが、フランスはMRI捜査に関しては導入して1年足らずの後進国だ。それはIT技術の遅れからではなく、古い秩序を重んじる国民性の現れと、フランス政府がアメリカ発祥の技術を導入するのに難色を示したからだ。
 21世紀早々に起きた中東の戦争に於けるアメリカとの意見の相違や、もっと身近な例えを挙げれば子供の躾け方に見られるように、両国の考え方は対照的とも言える。そんな彼らが自国でのフォーラム開催にあたりMRI捜査先進国に助力を乞うとなれば、自分たちと同じように秩序や礼節を重んじる日本を選ぶ。第九に白羽の矢が立ったのはそんな理由からだろう、と薪は想像した。

 MRI捜査が認められている国は今のところアメリカ、日本、イギリス、イタリア、フランスの五ヶ国。導入検討中の国はその3倍ほどあるが、未だ国民の同意を得るには到っていない。今回討論会に参加するのは、先の5ヶ国だ。
「つまり。新入生のフランス警察が、FBIとヤードとカラビニエリを招いてパーティを開きたいから、家に来てその準備を手伝って欲しいと」
「聞いただけでメンドクサそうだろ」
 小野田がおどけると、
「通勤するにはちょっと遠いですね」
 と、もっとふざけた答えが返ってきた。与えられたどんな仕事にも臆さない、薪の神経の太さを小野田は気に入っている。

「フォーラムでは、僕も自由に発言していいんですね?」
「もちろん。フランスにしてみりゃ勉強会だ。彼らの捜査は未だ討論の域じゃない」
 小野田が彼らの未熟を指摘すると、薪は少々憂鬱そうに亜麻色の瞳を曇らせた。導入して1年目は、第九も大変だった。反対派の声が強く、捜査に支障をきたすこともしばしばあった。フランスは現在その時期にあり、ならばこの会議は尚早だと思われた。反対派の中には過激な行動に出る者もいるかもしれない。だから小野田は提案したのだ。
「準備期間は半年。向こうのスタッフは優秀な人間を揃えるって話だけど、君も一人じゃ大変だと思うから、第九の中から誰か連れて行きなさい」
 半年間はフランスに行ったきりになる。パートナーは重要だし、便利に使える手元がいた方がいいだろう。彼の身の安全を守る上でも、それは必要な配慮だった。
「誰でもいいんですか?」
「ああ、君の好きに選んで、あ、いや、岡部くんは勘弁して。二人で抜けられるとさすがに心配だから」
「分かりました。岡部以外の部下から選ばせていただきます」
 原案に則って企画案を提出するように命じると、薪は「はい」と頷いた。既にいくつかは頭の中に浮かんでいるのだろう、頼もしい顔つきだった。

「この予定表に因ると、現地入りは来月早々ということになりますか」
「うん。慌しくてごめんね。引継ぎが大変だろうけど、何とか頼むよ」
「大丈夫です。今抱えてる仕事は全部岡部に押し付けますから」
 抜け抜けと言うが、薪にそんなことができるわけが無い。超特急で片付けますの間違いだろう、と小野田は思った。
 週末までには企画案を提出します、と薪は自らの仕事に期限を切って居室を出て行った。木曜の午後2時に命じられた仕事の期限を週末に定める辺り、どれだけ自分の能力に自信を持っているのか。まったくもって好ましい、と小野田は笑いを洩らした。

 薪がいなくなると、入れ替わりに男が現れた。ノックも無しに官房長室へ入ってくる人間なんて、警察庁中探してもこの男くらいだ。
 彼は官房室付首席参事官を務める警視長で、名前を中園紳一と言う。古くからの小野田の右腕で、旧第九が壊滅した際に泥を被って海外に飛ばされたのを、今年の春、やっとのことでロンドンから呼び戻した。彼の海外勤務は5年半。小野田の権力が回復するまでに、それだけの年月が必要だったのだ。

「ご英断お見事です。官房長殿」
 人を食ったような物言いに小野田が眉をしかめると、中園はニヤッと笑って書類の束を小野田の机の上に置いた。
「これで半年間、彼らは会えない。去年のように、職場で顔を見ることもできなくなるわけだ。今度こそ確実だよ」
「だといいけど」
 小野田は憂鬱そうに頬杖をつき、持っていたペンの先で机をコツコツと叩いた。

 仕事に関しては非の打ち所がない小野田の跡継ぎには、たった一つ、小野田を悩ませる疵がある。しごくプライベートな事だが、実は現在の彼の恋人は男性で、しかも直属の部下なのだ。薪を娘の婿に迎えたいとまで思っている小野田にしてみれば、相手の男は彼に引っ付いて離れないダニのようなものだ。
 去年の秋、中園のアドバイスに従って二人に距離を置かせたが、思うような成果は得られなかった。様子を見ろ、と言われてしばらく静観したが、それから1年経っても別れない。同じ研究室に在籍して毎日顔を合わせているのだから疎遠になる道理がないと考え、いっそのこと青木を他の部署へ異動させたらどうか、と中園に相談したら、そんなことをしたらムキになるだけだと言われた。何でも恋というやつは、障害が多いほどに燃え上がるのだそうだ。面倒なことだ。
 しかし、二人の間に遠大な距離を置くのは効果的な方法だ。職場が違っても同じ東京にいれば時間をやりくりして逢うことはできるが、フランスと日本となれば、その難易度は格段に上がる。今回のフランス警察からの要請は渡りに船だった。

「安心しろよ。フランスは恋の国だ。薪くんならきっと、ド・ゴール空港に着いたその日に新しい恋人ができるさ」
 中園の軽口に小野田は苦い顔をして、
「そんなことにならないように、彼にはSPを付けるつもりでいたのに。わざわざ第九から同伴者を選ばせるなんて」
「なんだよ。自分で保証しておいて心配なのか? 大丈夫、僕のデータにもちゃんと出てる。薪くんは青木くんを選んだりしないよ」
「分かってるさ。薪くんは公私混同はしない。絶対だ」
「そう、そこがこの作戦の要だ。大事なのは薪くんの意志で青木くん以外の職員を選ばせること、それを青木くんが認識することだ」
 中園は来客用のソファに腰を下ろすと背もたれに背中を預けた。座っていいなんて一言も言ってないのに、図々しい男だ。

「自分が薪くんに必要とされていないことが分かれば、彼は自分の立場に疑問を抱くはずだ。そこに会えない日が続けば、10年夫婦をやってる男女だって別れるさ」
 人の弱みに付け込む類の心理戦をやらせたら、この男の右に出る者はいない。小野田が官房長の地位に就いていることがその証拠だ。しかし今回の作戦はどうだろう。
「奥さんと青木くんじゃ、立場が違うだろ」
「同じだよ。この場合、選定対象に奥さんも入ってるんだから」
 中園はスマートに脚を組み、ソファにもたれかかった。彼の不遜に腹を立てながらも、小野田の中には懐かしさが込み上げる。子供のころ、よくこうやって二人で悪だくみをした。小野田が悪戯を思いつけばそれを実行する作戦を、困ったことが起きればその解決策を、中園が考え出すのだ。彼との関係は、学生の頃からずっと変らない。

「いくら仕事が絡むとは言え、そう簡単には納得できないはずだ。これは捜査協力じゃないしね。パーティの準備なら自分にもできない仕事じゃない、と青木くんは考えるだろう。彼、フランス語できるじゃない。身体も大きいし、ボディガードにはうってつけだ。でも、薪くんの性格からして絶対に青木くんのことは選ばない」
 たしかに、青木にもこなせる仕事だ。しかし薪は彼を選ばない。他人の眼もあるし、小野田への気兼ねもあるからだ。
「そうなると青木くんは自分に自信を失くして、自分から身を引くことになる。おまえの望むようにね」
「青木くんはそんな殊勝な男じゃないよ。ぼくがあれだけあからさまな態度を取っているのに、薪くんから離れないんだから」
 小野田は、来年の春には薪を官房室へ招くつもりでいる。その前に、彼には身辺整理を済ませて欲しい。具体的に言えば、彼の立場を危うくするしか能のない男の恋人とは別れて欲しいと言うことだ。それもできるだけ薪が傷つかない方法で。
 理想は、青木が身の程を思い知って自分から身を引くこと。
 そう仕向けようと、青木にはプレッシャーを掛けているつもりだが、手ごたえはない。ロクに仕事もできないくせに、図太い男だ。まったく薪ときたら、あんなイケ図々しくてドン臭い男のどこがよいのだろう。

「小野田。おまえの作戦が失敗するのは、青木くんをくだらない人間だと思ってることが原因だよ。彼は優秀で、しかも人格者だ。おまえのお気に入りの天使くんより、ずっとバランスが取れてる」
 自分が劣等生のレッテルを貼った人間を褒められて、しかも自分の評価が間違っていると指摘されて、小野田は不愉快になる。気持ちのまま、強い口調で言い返した。
「どこが。幹部候補生試験かい? あんなもの」
「優秀だよ。少なくとも、選定に落ちたことがプライドを傷つける程度には」
 中園の策謀は、ターゲットになった人物の分析から始まる。標的に関するデータを集めて入力し、相手がどういう考え方をするか、それによってどんな行動を取るか、予測を立てた上で最も効果的な舞台を用意する。
 中園の予測は、端で見ている小野田が驚くほど的中する。あまりにも彼の言う通りになるから、相手に金でも渡して芝居をさせているのかと疑ったことすらある。

「そこそこ頭が良くて、人の善い彼は考える。薪くんは自分を必要としていないのかもしれない。元より彼は自分の能力が薪くんに吊り合わないことを承知している。だから思う、彼には自分よりも相応しい人がいるはずだ、ならば自分は身を引くべきではないのか、ってね」
「そう上手く行くかね」
 悪友への信頼を口には出さず、小野田は懐疑的な言葉を返した。「君のすることに間違いはないだろう」なんて類の、薪が相手ならいくらでも出てくる励ましの言葉が、中園相手には決して出てこない。
「行くとも。僕がこの眼で二人を観察して、今回の作戦を立てたんだ。海の向こうで、おまえの偏りまくったデータしか入手できなかったときとは違うよ」
 自信たっぷりに言い切る中園に、小野田は顔を歪める。薪にあっては微笑ましいと思う傲慢が、中園だと腹立たしい。小野田は意地の悪い人間ではないが、この男の前だと自然にこうなってしまうのだ。それが彼に対する自分の甘えだと、分かっているからなおさら腹が立つ。

「問題があるとすれば薪くんの方だ。寂しさに耐えられなくなって、途中で帰ってきちゃったりして」
「あるわけないだろ。薪くんは、仕事を途中で投げ出したりしないよ」
 小野田が強く薪への信頼を示すと、中園はわざと大げさにため息をつき、
「親バカもいい加減にしないと、裏切られて泣くことになるぜ。子供なんて、どうせ最後は親より男を選ぶんだからな」
「加奈子ちゃんが赴任先のロンドンまで連れてきた彼氏が気に入らないからって、ぼくに八つ当たりするのはやめてくれ」
「だって、あいつら二人きりで来たんだぞ!」
 小野田が中園家の事情に言及すると、中園は冷静な策士の仮面をかなぐり捨て、一瞬で愚かな父親に変貌した。
「結婚前にお泊り旅行だぞ! 信じられるか!? あんなに可愛かった僕の加奈子が、いつの間にそんなふしだらな娘に、あああ」
「遺伝じゃないの。主におまえの」
 うぐぐ、と詰まって言葉も出ない悪友の苦虫を噛み潰したような顔を見て、小野田は僅かに溜飲を下げ、中園が持ってきた書類に判を押した。




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 失礼します、と声を掛けて室長室の扉を開けた青木は、その光景を見て反射的に軽い貧血に襲われ、先輩たちの忠告を無視したことを深く悔やんだ。ドアかまちに程近い高さの彼の眼に入ってきたのは、仮眠ベッド代わりのカウチにうつ伏せになった室長の上に跨っている副室長の姿だったからだ。
 二人寝には狭すぎる座面に彼らは折り重なるようにして、ゆっくりと上下運動を繰り返していた。時折、ギシッと寝椅子が軋む音がして、その度に下になった室長は気持ちよさそうに「ああ」とか「うう」とか、およそ職場には相応しくない声を上げていた。
 副室長の岡部は縦にも横にも大きいから、下になった薪はその姿の殆どを岡部の陰に隠してしまう。例外は脚で、そこから推察するに薪は岡部の下で腹ばいになって彼の奉仕を受けている。交差させた腕の中に顔を埋めている薪の表情はまったく見えないが、二人がしていることを見れば大凡の察しはつく。きっと、恍惚とした貌でいるのだ。

「室長。明日のミーティング用のレジュメです」
「もう出来たのか。おまえ、会議資料作るの早いな。大したもんだ」
 いささか残念なことに、青木を褒めてくれたのは書類を渡した相手ではなく、室長の上に乗った男の方だった。褒めて欲しかった相手はと言えば、青木の顔を見もせずに、
「そこに置いてけ」
 快楽の邪魔をされたのが面白くなかったのか、素っ気ない口調だった。それから、声の調子をがらりと変えて岡部に行為の続きをねだった。
「岡部、もう少し下の方を……うん、そこだ」
 青木が自分たちを見ていることなんか、薪は気に留める様子もなかった。居たたまれなくなって、青木は居室を出た。後ろ手に閉めたドアにもたれ、人生の終盤に差し掛かった老人のような重苦しいため息を吐く。

「だから行くなって言っただろ」
「お子ちゃまの青木には、あの画は刺激が強すぎるって」
 小池と曽我の二人が、モニタールームに戻ってきた青木をニヤニヤ笑いで迎える。ほら、と彼らが青木にくれたのは、資料作りに精を出していた間に新たに発見された証拠画像のコピーだ。青木はそれを注意深く観ることで、先刻の残像を脳内から追い出そうと試みた。
 そんな青木の努力を嘲笑うかのように、室長室から薪の声が響く。
『岡部、もっと奥まで入れてくれ』
『大丈夫ですか、こんなに深くして』
『そこの奥が疼いて仕方ないんだ。あっ、ああっ、いい』

「相変わらず室長のあの時の声って……おーい、青木ー、大丈夫かー。5課から生ビデオ借りてきてやろうかー」
 コピー用紙で耳を塞ぐようにしてその場にしゃがみ込んでしまった青木に、小池が手持ちの資料を筒型に丸め、メガホン代わりにして声を掛ける。心配しているのではなく、彼の純情をからかっているのだ。
「勘弁してやれよ、小池。青木は初心なんだから」
 フォローを入れてくれたのは気のいい曽我だ。彼は青木が落ち込むと、いつも親身になって慰めてくれる。青木は純粋に彼のやさしさに感謝していたが、実は曽我の親切には少々裏がある。曽我は仕事はできるが少しだけおっちょこちょいで、ケアレスミスが多い。注意さえ払えば防げるミスには特に厳しい薪に叱られる回数は、青木が来る前は一番多かった。だからこの後輩がいなくなるとまた自分に室長の叱責が降り注ぐことになるという危惧から、青木のフォローには気を使っている。謂わば自己防衛だ。

「まあ無理もないよ。童貞の青木じゃなくても、室長のこの声は妄想を掻き立てる」
 すみません曽我さん、多分初体験も曽我さんより早いし経験も多いです、と本当のことを青木が言わなかったのは、現在の恋人のことを誰にも知られたくないからだ。
「いっそ、ドアは開けておいた方がいいんじゃないか」
「見られるのは恥ずかしいって薪さんが」
 心神喪失状態の青木を見かねて解決策を講じてくれたのは、頼りになる先輩の今井だ。その建設的なプランに応じられない理由を青木が説明すると、今井は室長室から漏れ聞こえる薪の忙しない息遣いに耳を傾け、
「……声だけの方がよっぽどヤバいんだけど」
 それには青木も、というか第九職員全員がまったくの同意見だ。分かっていないのは薪だけだ。自覚の無さもここまでくると犯罪だ。

「事情を知らない人間がここに来たら、大変なことになるな」
「とんでもない噂が羽根を生やして庁舎中を飛び回るだろうな」
「組対5課が集団で岡部さんを血祭りに上げに来るぞ」
「あいつら見境ないからなー。押収したマシンガンとか持ち出してきそうだなー」
 宇野の言葉はもちろん冗談だったが、彼らなら本気でやりかねないと誰もが思った。ははは、と乾いた声で笑う彼らの耳に、聞こえてきたのは涼しげなテノール。

「どうしたんですか? みんなしてドアにへばりついて」
 捜査に使う資料を運んできてくれたらしい竹内警視は、書類整理箱を2つ重ねた台車をガラガラと押して、皆が集まっていたドアの前にやって来た。彼は捜一のエースで、資料運びなど部下にやらせておけばよい立場の人間だが、昔コンビを組んでいた岡部のことを大そう尊敬しており、こうして彼の意見を聞くために第九にちょくちょく顔を出すのだ。

「何でもないんですよ、竹内さん。単なる、むぐっ」
 余計なことを言うなと、曽我の手が青木の口を塞いだ。カモが来た、と小池の細い眼が意地悪そうに輝き、どうなることかと宇野の瞳が眼鏡の奥で嬉しそうに光る。表情を変えなかったのは今井だけだが、彼のポーカーフェイスの口元が、ほんのわずかに持ち上がっているのを青木は見逃さなかった。
 ……この人たちって。
 彼らの企てを青木が見破る間にも、ドアの向こう側からは薪の声が聞こえてくる。わざとらしく押し黙った彼らの団結が功を奏し、その声はやけにハッキリと響いた。
『ああ岡部、そこ……いい、すごくイイ。もっと深く入れて』

 次の瞬間、モニタールームに派手な金属音が轟いた。見れば、竹内が台車ごと前方につんのめっている。車輪のブレーキを掛けたまま思い切り台車を押してしまったのだろう、彼のハンサムな顔はぶちまけられた捜査資料の下敷きになっていた。
「竹内さん、大丈夫ですか」
「あ、いや、なんかその、あははー、昨夜捜査で寝てないから。疲れてるのかなー」
 おかしな幻聴が聞こえて、と誰よりも自分自身に言い訳する態で床に散らばった資料を揃える竹内に、第九職員たちは我れ先にと手を貸してやる。親切心ではなく、竹内の醜態を間近で見るためだ。本当にこの先輩たちはいい性格をしている。

『なんですかね? 今の音は』
 物音に気付いて岡部が、ドアの向こうで訝しげな声を出す。やれやれ、これで続きを聞かずに済む、と青木は胸を撫で下ろし、でもいつだって薪が絡むと運命は青木にやさしくない。
『ちょっと待っててください。様子を見て来ますから』
『待て、岡部。こんな中途半端なところで止めないで、最後までしてくれ』
『直ぐに帰ってきますよ』
『だめだ、一秒も待てない。疼いて堪らないんだ』
『仕方ないですねえ、じゃあ続きをしますか。何かあれば今井が報告に来るでしょう』
 もう一度入れますよ、と薪の要求に従う岡部の言葉が聞こえてきて、竹内は床に座ったまま、呆然と書類を握りしめた。圧力を掛けられた書類はくしゃくしゃになり、てか、無意識に何枚か破り捨ててますけど放っておいていいんですか?
 あの書類をセロテープで張り合わせる作業は自分に回ってくるのだろうな、と青木は心の中で溜息を吐く。
 さすがに青木は笑う気になれないが、小池と宇野は肩を小刻みに上げ下げし、今井は机の端を指が白くなるほどに掴んで衝動に耐えている。こらえ性のない曽我に到ってはしゃがみ込んで顔を腕に埋め、丸い身体を震わせている。ちょっと注意すれば気付きそうなものだが、竹内は引き続き短冊でも作っているかのように書類を裂いている。捜一のエースといえどもパニックに追い込んでしまえば案外ちょろい。

「青木。おまえさっき中に入った時、二人の邪魔しなかっただろうな?」
 深刻そうな今井の声に、青木は膝が抜けそうになった。第九の中でも優秀な彼は室長の信任も厚く、性格も穏やかな人格者なのだが、こういうイベントにはしっかり参加する。やっぱりこの人も第九メンズだな、と青木はやや投げやりに、
「してません。薪さんに資料を渡そうとしたらすごく無愛想に、そこに置いとけって言われました」
「バカ。それをジャマって言うんだよ」
「空気読めよ。薪さん、天国イク寸前だったろうが」
「お楽しみに水を差されて機嫌を損ねた薪さんが、『今夜はMRIシステムの精査をする』とか言い出したらどうするんだよ」
「それは岡部さんの腕に掛かってるだろうな。薪さんのカラダを満足させられるかどうか」
 小池がトドメのセリフを放つと、竹内はボロボロになった捜査資料を手にしたまま、ゆらりと立ち上がった。捜一に戻るつもりかもしれないが、このまま帰ったら仕事にならないだろう。全員が潮時と頷き合って、青木はやっと竹内のフォローに回ることができた。

「竹内さん。岡部さんに事件の相談に来られたんでしょう? どうぞ」
「あ、いや、いいよ。他の男なら撃ち殺してるけど、相手が岡部さんじゃ仕方ないから」
「撃ち殺すんだ」
「捜一、こえー」
 捜査一課が怖いんじゃありません、竹内さんが怖いんです。て言うか、彼をここまで追い詰めたのは誰ですか。
 竹内に自分たちの関係がバレたらこの胸を弾丸が貫くことになるのだろうか、と心臓の辺りに痛みを覚えながら、青木は室長室のドアをノックした。
「岡部さん。竹内さんがお見えです」



*****

 今日も元気だ楽しい第九。

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ランクS(3)

 今日は会社がお休みになったので、少し遠くの動物園に行ってきます。
 雨、降らないといいなあ。





ランクS(3)







「岡部さん。竹内さんがお見えです」

 内部にハッキリと聞こえるように、青木は声を張り上げる。部外者が来たとなれば、薪も我が儘は言わないはずだ。
「ちょ、青木、ヤバいだろ。こういうことを職場でするのはどうかと思うけど、そこはそっとしておいてやるべきだと」
 ノックの形に軽く握られた青木の手を掴み、竹内は青木の勇み足を止めた。彼の保守的な意見に、青木は従う気はなかった。竹内の虚ろな目を見れば分かる、彼をこのまま帰したら、午後からの取調室はさぞ荒れることだろう。いくら罪を犯したとは言え、こんな理由から厳しく当たられたら犯人が可哀想だ。
「本音は?」
「見たら反射的に撃っちゃうかも」
 荒れるどころか裁判抜きで極刑に処されそうだ。

 青木がさっとドアを開けると、二人の身体は既に離れていた。薪はカウチに座って気持ちよさ気に伸びをし、岡部は長時間負荷を掛けた指先を揉みほぐしていた。
 当たり前だけれど、二人ともちゃんと服は着ている。乱れた様子もないし、色っぽい雰囲気もない。色事に敏い竹内なら己が誤解に気付いただろうし、例え竹内なら誤解させたままでも妙な噂を広めたりはしないと思うが、念のために青木は言った。
「終わったんですか、マッサージ」
「マッサージ?」
 鸚鵡返しに訊いた竹内の声は引っくり返っている。只でさえ薪のあの声から真実に辿り着くのは難しいのに、第九メンズが総力でトラップを仕掛けたのだ。捜一のエースが騙されても恥ではない。

 裏で行われていた非道な遊びのことなど全く知らない薪は、後ろから前に両肩をグルグルと回しながら、
「岡部、いつも悪いな。おかげで肩が軽くなった」
「どういたしまして。遠慮はいりませんから、またいつでも言いつけてください」
「ありがとう」
 立ち上がり、傍らに掛けておいたジャケットを羽織ると、薪は襟を正した。それから自分の席に座り、青木が提出したレジュメを手に取る。書類の精査をしながら、彼は冷ややかな口調で、
「竹内さん。岡部は第九の副室長と言う重責に在ります。職務は多岐に渡り、非常に多忙です。あなたが先輩である岡部を慕い、頼りにする気持ちは分かりますが、彼の負担も考えていただきたい」
 その多忙な人に職務中マッサージをさせていたのは誰ですか。
 竹内はもちろん、そんなことは言わなかった。

「すみません、室長。この次から注意します」
 しおらしく謝って見せるが、この男、反省なんてカケラもしていないし、次どころか未来永劫遠慮する気なんてさらさらない。彼は現場で毎日凶悪犯を相手取っているのだ。図太くなければ生き残っていけない。
 長い付き合いになるから薪もそれを解っていて、だからこれは第九の室長としてポーズを付けているに過ぎない。彼自身、竹内が持ち込んでくる事件が気になって仕方ないのだ。その証拠に、亜麻色の瞳がキラキラしている。青木が作った会議用のレジュメには為し得ない仕事だ。

「で、どんな事件なんだ?」
「千駄ヶ谷の女子大生殺しなんですけどね」
「ああ、その事件なら起こったばかりの頃に室長と話したよ。捜査が難航するようだったら、第九に持ち込まれてもおかしくない事件だったからな。そうでしたよね、薪さん」
 無関心を装った薪が、二人の会話に聞き耳を立てている。岡部も竹内も薪のこういうところは心得ていて、だからさりげなく薪が会話に参加できるように話を振る。
「そうですか。室長もご存知で」
「一応は。風変わりな現場だったらしいですね」
「そんな生易しいもんじゃありませんよ。部屋中がクリスマスパーティみたいに飾られてて、被害者に到ってはツリーに見立てたものか、電飾が巻かれてたんですよ」
「それは面白い……あ、いや、失礼」
 失言に気付いて薪は口を右手で押さえ、素直に謝った。
 彼には、事件の謎を純粋に面白がる性質がある。事件の被害者や遺族の痛みを察せないほど心無い人間では決してないのに、彼の中には事件の絡繰りをクイズのように見てしまうパズラーが存在する。彼の優秀すぎる頭脳はいつもそのスペックをフルに使える機会を求めていて、謎めいた事件があると犬が骨に飛びつくように身体が動いてしまうのだ。

「しかし、その事件は被疑者が確定したのでは? 彼女に付きまとっていた、確か大学の講師でしたよね?」
「はい。彼が犯人で間違いないと思いますし、本人から自供も取れてます。でも俺は納得できないんですよ。どうにも尻の据わりが悪くて」
「被疑者の供述に疑問が?」
「ええ。これが供述書の写しなんですけどね」
 事件への関心が高まった薪は、急き立てられるように竹内の隣に席を移した。普段なら許されない位置関係だと思うが、今の薪は「事件の謎」というニンジンを鼻先にぶら下げられた馬状態。自分から竹内の方に身を乗り出して、どうやら青木が先刻持ってきた会議のレジュメの確認は後回しになりそうだ。

「一番納得いかないのが、彼が被害者の遺体を飾り付けた理由なんですけど」
 ふんふん、と首を縦に振りながら、薪は竹内の話に聞き入った。普段からあれだけ嫌っているのに、事件が絡むと薪はいつもこの調子だ。相手が反りの合わない公安や二課の職員でも同じ、事件用の頭脳が活動し始めると普段の悪感情はシャットアウトされるらしい。そして、好感情は更に遠くへ追いやられるのがこの人の特徴だ。
「なるほど、それは奇妙ですね。彼の交友関係から推し量るに、誰かを庇っているというわけでも無さそうだし――青木」
 自分の役目を終えて退室しようとした青木の背中に、薪の声が掛かる。青木は一瞬、「おまえならどう考える?」という問い掛けを期待したが、薪の口から出たのは「コーヒー持ってこい」と言う単純極まりない雑務命令だった。

「竹内さん、こういうのはどうですか。彼が子供の頃に通っていたと言う教会の」
「彼が教会に通っていたのは3歳の時ですよ? 幾らなんでも飛躍しすぎじゃ」
「いや、有り得るぞ。俺が昔扱った事件で」
 コーヒーを淹れている間に3人の会話はどの方向に向かったものか、再び室長室に戻った時には、青木には分からない話になっていた。青木は黙って3人の前にコーヒーを置き、部屋を出て行こうとした。
「青木、ちょっと待て。これ、明日のミーティングで使うから人数分コピーしといてくれ」
 岡部に引き留められて、足を止める。渡された資料を確認しながらチラッと横を見ると、まるで仲の良い友だちのように竹内と薪が額を寄せ合っていた。

「では、自分がされたことを被害者にやり返したと? となると、これは彼にとっては復讐の意味があった?」
「そうかもしれないし、逆かもしれない。彼は被害者を愛していたと主張している訳ですから……その辺はこの神父の事件調書を見ないと判断できませんね」
「分かりました。探しておきます」
「20年前の事件となると、資料は神奈川の倉庫棟ですよね。竹内さんは取り調べで忙しいでしょうから、僕の方で探しますよ。今夜にでも」
「そんな、申し訳ないですよ。室長のプライベートなお時間を、部署外の仕事に割いていただくなんて」
「いいですよ。面白そうですから、と、失礼」
 二度目の失言に薪はバツの悪そうな顔をし、竹内を苦笑させた。昔に比べたら、ずいぶん打ち解けたと思う。竹内が此処に出入りするようになった頃、薪は完璧な無表情で接していたのだ。

 捜一のエースと第九室長の関係は、なかなかに複雑だ。顔も見たくないと言いながら、刑事としての彼を薪は信用している。その証拠に、ここ一番という時に頼るのは必ず彼だ。捜査一課に竹内以外自分の頼みを聞いてくれそうな人間がいないことも事実だが、薪の階級は警視長、その気になれば役職にものを言わせて強制的に捜査員を動かすことも可能だ。一課との間に禍根を残したくないとの配慮からかもしれないがしかし、個人的に彼に頼るようなことをされると青木は穏やかでいられなくなる。竹内が薪のことを心の底でどう思っているか、知っているからだ。
「じゃあせめて、夜、神奈川までは俺の車で」
「結構です。青木に送らせますから」
 竹内の申し出を素っ気なく断って、薪は青木のアフターを奪った。竹内に憐れむような眼で見られたが、今更どうということもない。薪の身勝手には慣れている。

「では竹内さん、後は明日です。取調べの成果に期待してますよ」
 現段階で竹内から取れるだけの情報を取ってしまうと、薪はいつもの皮肉な顔つきに戻って来客に退出を促した。自分の席に戻り、話は終わりだと言わんばかりに報告書のファイルを開く。
 竹内はサッと立ち上がり、「よろしくお願いします」と頭を下げて出て行った。引き際の潔さは、青木の眼から見てもカッコいい。

「お出掛けは何時頃ですか?」
「そうだな。岡部、僕と青木、定時で上がってもいいか?」
「大丈夫ですよ。急ぎの案件は有りませんから、何ならこれから出ても」
「それは駄目だ。第九の業務じゃないんだ、個人の時間を使うべきだ」
 薪は規律に厳しい。岡部や他の部下たちに対する気兼ねもあるのだろう。それでいて青木の個人的な時間を搾取することには何の躊躇いもない辺り、青木が薪の犬と陰で嗤われるのも無理はない。

 定時上がりの予定に、青木は少々焦って室長室を後にした。今日中に作っておきたい書類がある。薪に頼まれた会議資料を優先してしまったから、本来の仕事が未だ残っているのだ。
「あ、青木」
 モニタールームに戻ると、忙しいはずの竹内が何故か青木を待ち構えていた。
「室長はああ言ったけど、やっぱり俺が送るよ。室長には捜一の捜査に協力してもらうんだし、それが筋ってもんだ」
「いいですよ。竹内さんには取調べと言う重要な仕事があるんですから」
「でもさ、おまえにだってアフターの予定とかあるだろ」
「いえ、大丈夫です。どうかお気遣いなく」
 竹内が善意で言ってくれているのは分かる。が、青木にとって薪の命令は絶対だ。それ以上に、この仕事を彼に譲りたくない事情もある。
「予定が無けりゃ、たまにはゆっくり休めよ。この件は俺が室長に持ち込んだ話で、おまえには関係ないんだから」
「薪さんに関係することでオレに関係ない事なんて何もないです」
 青木の強情な口調に怯み、竹内は一歩退いた。驚いた顔をしている。しまった、と思ったが遅かった。

「いいんすよ、竹内さん。青木は室長のイヌなんですから」
「そうそう。ご主人さまの傍が一番なんだよな、青木ぃ?」
 後輩をからかう素振りで、小池と曽我がフォローを入れてくれた。それから竹内に詰め寄り、
「「室長の送り迎えするヒマがあるんだったら、女の子紹介してくださいよっ」」
 眼が血走ってますけど、可愛い後輩の失言を庇うための演技ですよね?

「女の子なら、僕が紹介してやるぞ」
 突然耳元で囁かれた言葉に、二人は硬直する。足音なく標的に近付くのはこの人の得意技で、だから彼らが驚愕するのは無理もない。つい先刻まで期待に紅潮していた頬は青くなり、額には脂汗。竹内に向かって合わせた両手の、指先はぶるぶると震えている。
「「や、あのっ、し、室長にそんな」」
「遠慮するなよ。ほら、彼女だ」
 くい、と親指を立てて薪が指し示したのは、竹内が持ってきた段ボール箱だった。
「書類ケース2箱分のグラマラスボディだ。落とし甲斐があるだろう」
 今日中に中身を全部確認して概要書を提出しておけ、と二人に言い置くと、薪は給湯室へ足を向けた。手に空のカップを持っているから、片付けに来てくれたのかもしれない。階級が上がっても、薪のこういう所はあまり変化が無い。もともとがマメな性格なのだろう。

「室長。オレがやります」
「ほう? 大したものだな。あれだけの書類を今から処理して、定時に此処を出発する自信があるとは」
 善意を皮肉で返されるなんて、この人にあっては普通のことで、別に腹も立たない。それより驚いたのは、青木の仕事が時間的に厳しいことを薪が知っていたことだ。
 でも、すぐに思い直した。室長はいつだって、部下全員の仕事内容を把握している。
 それは薪にとっては当たり前のこと、個人の能力を過不足無く評価し、最大効率で仕事を割り振るためには必要なことだ。ちなみに第九の最大効率とは、評価数掛ける1.5である。当然、無駄口を叩いているヒマはない。仕事以外のことを話している職員は余裕がある、イコール、仕事が足りないと判断され、小池や曽我のように大量の仕事を命じられる羽目になる。

 基の値が低ければ、掛け算の答えは応じて低くなる。薪が空のマグカップを預けてくれなかったのはそういうことで、だから青木はひどく惨めな気分になる。

「余計なことに気を回さなくていいから、さっさと自分の仕事を片付けろ」
 青木の能力では定時までにあれだけの仕事をこなすのはギリギリ、薪にそう思われている。そしてそれは事実なのだ。
 自分の席に戻って積み重なった資料を開き、その煩雑さと己の知識不足に思わず零れそうになるため息を奥歯で噛み殺して、青木はペンを握った。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ランクS(4)

 土曜日、念願の那須どうぶつ王国へ行って参りました!
 もう何年も前から行きたくて~、でもさすがに遠いので日帰りはキツイと思ってたのですけど、那須高原SAまで高速道路で行けるようになって、なんと、
 家から2時間10分! で着きましたよ~。 ビバ! 高速道路♪

 朝の6時半に家を出て(当然オット運転、しづ爆睡)、9時の開園に余裕の到着。 一般道だと到着は10時ごろになります。 お金で時間を買うようでアレですけど、日帰りしか許されない身にはありがたいです。

 憧れの王国は最高でした~~~!
 さすが! キングダムってだけありますよ!
 広々とした空間に動物たちがのんびりまったり。 みんな人慣れしてて、近付いてもぜんぜん怖がらないんですよ。 カピバラとかアルパカとか、もう触り放題。 屈めばカンガルーが背中をジャンプで超えていくし、鳥の翼は髪の毛を掠めるように飛んでいくし、犬はガンガンキスしてくるの。 うちの薪さんが行ったら住みついちゃいそうですww。

 みなさんも機会がありましたら、ぜひ。(^^







ランクS(4)







 神奈川の資料倉庫は横浜の海岸通りにある。霞が関から高速を使えば約1時間、一般道を使っても2時間はかからない。
 定時ピッタリに第九を出て、二人が倉庫棟に着いたのは6時ジャスト。倉庫の中は灯りを点けても薄暗く、雑然としていて、目的の資料を探すのは骨が折れそうだった。

「第九の資料庫がこんな状態だったら、毎週土日は職員全員で倉庫整理だがな」
 部下が聞いたらショックで昏倒しそうなことを呟き、薪は青木の先に立つ。長身の青木が手を伸ばしても届かないくらい高いスチール製本棚の森を、迷いなく歩いて行く。
 図書室のように本棚に記号が書いてあるわけではない。が、入庁したての頃、薪は捜査一課に在籍していて、この倉庫にも何度か来たことがあるのだそうだ。
 薪のことだ。この広大な資料室の何処にどんな事件資料が保存されていたか、覚えているのだろう。よって事件の年代が分かれば大凡の場所が分かるのだ。

 程なく薪は目的の資料箱を見つけ出し、青木に声を掛けた。それは薪の遥か頭上、でも青木なら届かない高さではない、資料の重さに撓んだ棚に雑に置かれていた。
「気を付けろよ」
 棚は混み合っていて、目的の箱の周りは重ねられた書類袋やら他の事件の資料箱やらが占有しており、まずはそれを退かすことが先決だと青木は思った。箱の上に乗っていた薄い木箱を下に下ろすと、薪が苛立った口調で、
「整理に来たんじゃない。必要以外のものには触るな」
「でも。周辺を少し片付けないと、箱が取れません」
「周りを押さえて箱を引っこ抜きゃいいだろ」
 薪の短気の理由は分かっている。早く資料が見たいのだ。
 言われた通り、青木は右側の箱を押さえ、箱を引き抜こうとした。下敷きになった資料袋が落ちそうになったので、そちらを元に戻そうと手を伸ばした。隙に、右側の箱の下になっていた資料袋が滑り、箱が落下するのが見えた。

「うわ!」
 自分目掛けて資料袋と書類箱が落ちてくる。焦った薪は咄嗟に身を引き、後ろの本棚の柱にしたたか背中を打ちつけてしまった。
「気を付けろって言ったのに。おっちょこちょい」
 薪さんがそうしろって言ったんじゃないですか、なんて返す暇はなかった。青木は引き出しかけていた資料箱を一瞬で押し込み、薪の上に覆いかぶさった。
「な」
 青木のジャケットが視界を塞いだ直後、ドドドッと大きな音がして、地面が揺れた。ドスン、ボスッ、という重い段ボール箱同士が衝突する音が重なる。薪がぶつかった衝撃で後棚の資料箱が集団で落ちてきたのだ。

「お怪我はありませんか」
「大丈夫だ。おまえは?」
 オレは平気です、と微笑む青木の髪が、強風に煽られたように乱れている。ジャケットの肩口にも汚れが付いているし、幾つかぶつかったに違いない。
 もうもうと上がる埃の中、薪は青木の腕の下からそっと様子を伺い、その惨状を見た。倉庫整理をしに来たのではないが、乱したものは元通りにしていかなくてはいけない。薪は小さく呟いた。
「竹内を連れてくりゃよかったな」
 あいつに押し付けて、僕たちは食事に行けたのに。
 心の中で言って、薪は肩を竦めた。大丈夫だとは思うが、青木を医者に診せなくては。

「平気じゃないだろ。頭に箱がぶつかったんじゃないのか」
「ぶつかったのは書類袋だけです。箱は身体に当たってません」
「それは残念だ。おまえが人並みの頭になれるチャンスだったのに」
 ホッと胸を撫で下ろしながら、薪は皮肉を言った。眉を八の字に下げた年若い部下の情けない顔を想像したが、青木を凹ませたのは薪の意地悪ではなく、落ちた書類箱から飛び出して床を埋め尽くしている書類の束であった。

「これ、片付けてたら夜中になっちゃいますね」
 一つ一つ確認して分別して箱に戻す。簡単な作業だが、この分量では。
「大丈夫だ。僕に任せろ」
 呆然の態で固まっていた青木の下から這い出し、薪は手近な山に手を伸ばした。上からポイポイと適当な箱に入れていく。
「ダメですよ、薪さん。ちゃんと確認しないと」
 刑事にとって大事なのは犯人を捕まえること、書類は二の次三の次。現場に出ていた刑事にはありがちなことで、だから薪もそうなのだと思った。ところが。
 薪がいい加減に詰め込んだ箱をやり直そうと、青木が箱の中を出してみると、そこにあったのは同じ事件のもので、他の事件の書類は一枚も混じっていなかった。あの速さで仕分けして、こんなことが可能なのか。

「薪さん。ちゃんと読んで……」
「読んでない。眺めてるだけだ」
 眺めているようにも見えない。薪がやっているのは右から左に書類を投げているだけだ。この薄暗い部屋であの速度で動く書類の文字を確認するなんて、近眼の青木には、いや、眼が悪くなくても青木には絶対に無理だ。
「時間さえあればもっとよく読むんだけど。これなんか面白そうだし」
 と、薪は一瞬だけ手を止めて、
「でも、今日は早く此処を出たいから」
 2つ先の箱にそれを放り込んだ。青木が確認できたのは、「少女」という文字だけだった。少女が犠牲になった事件なのかもしれない。それを面白そうだなんて、この人は時々ひどく冷酷な言葉を口にする。

 道徳心はいざ知らず、薪の能力は人類の限界を振り切っている。あの人ホントに人間なのか、と部下たちにこっそり囁かれるくらい、それは青木にいつも誇らしさを与えてくれた。
 それが、今日に限っては。

「何してる。さっさと手を動かせ」
 分別の速度は落とさずに、薪が青木を咎めた。あの状態でこちらの様子まで見えるのか。一体どういう眼をしているのか、伊賀の里からスカウトが来そうだ。
「例の資料は第九に戻ってから読むことにする。早く片付けろ」
 追い立てられて自分を戒める。青木は気持ちを切り替え、散らばった資料束を拾い集めることに集中した。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

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 おかげさまで、4歳になりました。(*^^*)




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「海岸通りを抜けて、みなとみらいに出ろ」
 助手席でシートベルトを掛けながら、薪は唐突に言った。ナビに目的地を設定していた青木の手が止まる。
「高速乗った方が早いですよ」
「いいから。言われた通りにしろ」
 薪はぷいと横を向き、青木に形の良い後頭を見せて、こういうときは黙って命令に従うが得策だ。訊いても説明なんかしてもらえないし、うるさい、と怒鳴られるのがオチだ。

 みなとみらいへ向けて車を走らせていくと、フロントガラスの向こうに薪の目的が見えてきた。薪が仕事中にも関わらず助手席に座った理由は多分これだ。
 10月も半ばを過ぎた午後7時、辺りはとっぷりと暮れて、横浜名物のコスモクロックが七色に光っている。周辺の夜景も実に美しく、ちょっと気を抜くとナビの案内を聞き落としてしまいそうだ。
 薪は基本的に自然のものが好きだけど、人工物の美しさを否定するような頑固な自然礼賛者ではない。紛い物だらけのアミューズメントパークも楽しめるだけの許容を持っている。彼が細部まで拘るのは仕事だけだ。
 服の趣味も装飾品のブランドも、統一性はない。ヘアスタイルに至っては警視庁地下の散髪屋を贔屓にしているくらいだ。実情を知らない女子職員たちの間では、銀座の有名な美容室でカリスマ美容師の店長自ら特別に彼の髪を整えていることになっているらしい。知らぬが仏とはこのことだ。

「青木。腹減らないか」
 問いかけられて、青木は驚いた。推理に夢中になっているとき、薪は基本的に食事を摂らないからだ。神奈川くんだりまで足を運ぶ熱の入れようだから、てっきり推理モードに入っていると思っていた。珍しいこともあるものだ。
「了解です。コンビニでいいですか?」
 横目で隣を確認すると、薪は真っ直ぐ前を見たまま、その白い頬を夜景の青色照明で染め上げて、
「あのホテルでなんか食って行こう」と前を指差した。目前に見えているのは、半月型の造形が有名な横浜のシティホテルだ。
「わざわざホテルのレストラン使うんですか?」
 咄嗟にアクセルを踏み込みかけた己の右足を止めた、青木の抑制力に感謝して欲しい。それくらい驚いたのだ。
「たまにはいいだろ」
「……チェーン、積んでませんけど」
「あん?」
「雪が降るかも」
 青木の軽口にギロッと吊り上る亜麻色の瞳の怖いこと。でも本当にコワイのは、それを可愛いと思える青木の神経だ。
「うれしいです。薪さんとホテルで食事なんて」
 ふん、と鼻を鳴らして薪はそっぽを向く。食えりゃ何でもいいくせに、などと憎まれ口を叩く。それでも青木は嬉しくてたまらない、これから薪と一緒に楽しい時間を過ごせること。

 軽快に車を走らせて、ホテルの駐車場に滑り込ませる。自動ドアを潜ると、優雅で落ち着いた空間が広がっていた。ロビーは程よいざわめきに満たされて、平日のアフターに思わぬラッキーを拾って舞い上がり気味の青木に警戒心を取り戻させる。他県まで来ているから知り合いに会うことはないだろうけれど、あからさまにニヤついていたら不審がられるかもしれない。

 ここでも薪は青木の先に立ち、迷いなくエレベーターに乗った。細い指先が上から二番目のボタンに軽く触れ、箱は上昇を始める。
「え。上のレストランに行くんですか?」
 てっきり、地下のカフェレストランだと思っていた。高い場所にある店は値段も高いし、夜はディナーコースしか選択肢がない。コース料理となれば2時間近く掛かる。
「今夜は月がきれいだから。月の見えるところがいい」
「月、ですか」
 此処に来る途中、空にあったはずの月を青木は思い出せない。運転席からは角度的に見えなかったのか、夜景に気を取られて見ていなかったか。屋外の駐車場に車を停めたのだから目に入ったはずだと人は思うかも知れないがそんなもの、薪が隣にいたら見られるわけがない。彼と一緒に居ながら彼以外のものを見ることは、単細胞の青木にはとても難しいのだ。

 レストランに着くと、薪は受付係に自分の名前を告げ、すると窓際の席に案内された。「いつの間に予約を?」と訊くと、「さっき携帯メールで」と短い答えが返ってきた。青木は運転中もチラチラと薪を見てしまうのだが、メールを打っていることには気付かなかった。夜で車内が薄暗かったせいかもしれない。

 席に着いてオーダーを済ませ、料理が来るのを待つ間、青木は薪が見たがっていた月をいち早く確認した。
 コスモクロックの遥か上空に、上弦の月がくっきりと浮かんでいた。正中よりもやや西より、角度もいくらか傾いている。
「半月ですね」
「ああ」
 応じる声に視線を戻せば、真っ白なテーブルクロスよりも白く美しい肌をして、磨き上げられた銀食器よりも煌く瞳を上空に向けた薪の横顔が見えた。上向いた顎と首のラインが、とてもきれいだった。
 窓際に座って上を向いているのは自分たちだけで、他の客たちがみんな下を見ているのが何だか可笑しかった。いや、おかしいのは自分たちか。月は地表からでも見えるけれど、夜景は上空からしか見えないのだから。でも。
 こちらの方が薪らしい、と青木は思う。彼の、伏せた睫毛の美しさは例えようもないけれど、いつも高みを目指して挑み続ける、そんな彼には見上げる瞳が似合っている。

「青木。実は今日は話が」
「昔、子供の頃ですけど」
 薪の言葉を遮ったつもりはなかった。薪は視線を外に固定したまま小さな声で言ったので、青木には聞き取れなかったのだ。そのとき青木が、前菜の、トマトとカニをサンドイッチにして円柱型にした何とか言う料理にナイフを入れながら何を考えていたのかと言えば、小学生の頃、姉と交わした会話のことだ。
「半月は本当に月が欠けてるんじゃなくて、地球の陰で見えなくなってるだけだって姉に教えてもらって。あの時は驚いたなあ」
「……何でもそうだけど。初めて知ったときって、びっくりするよな」
 料理に合わせて選んだ白ワインのグラスを傾けながら、薪がクスッと笑いを洩らす。「昔からバカだったんだな」と言う答えを予想していた青木は少し戸惑った瞳で料理から薪に視線を移し、そして固まった。薪が、びっくりするくらいやさしく微笑んでいたから。

「僕も小学校の時、ユークリッド互除法の公式を知って驚いたよ。あれ、便利だよな。素因数分解も6桁以上になると結構面倒だから」
 どういう小学生ですか。
 我が身との格差に頭痛を起こしつつ、青木は応えを返した。
「オレがユークリッド幾何学を習ったのは、高校の時でしたけど」
「僕の時代は詰め込み学習で、おまえの時代はゆとり教育だったからな」
 詰め込みにも限度があると思います、と反論しようとして止めた。頭脳に限界を持たない人には通じない理屈だからだ。

「高校生の時には、もっとびっくりしたことがあった。クラスメイトに、女の子は花の中から生まれてくるんだって教えてもらって」
 優秀な学生であっただろう薪の友人に、それも高校生でそんな冗談を言う人間がいたことにびっくりだ。青木は失笑して、
「薪さん、それ、小学生の時の間違いじゃ」
「道理でいい匂いがするよなあ、女の子って」
 絶賛騙され中!?
 天才にありがちな失陥で、常識を知らないと言うか必要以外のことは覚えないと言うか、そんなわけで薪は時々ものすごくバカな男になる。
「頭いいのか悪いのか、どっちかに決めて欲しいんですけど」
「月のウサギと同じ。男のロマンだろ」
 月のウサギはメルヘンだと思うけど、女の子の匂いは何だかイヤラシイ。「どうせオレはいい匂いじゃありませんよ」と青木が拗ねたら、ニヤニヤと薪が意地悪そうに笑ったので、青木はやっと自分がからかわれていたことに気付いた。

「そう言えば、このホテルの形も半月型ですね」
「そうだな。ヨットの帆をイメージしたらしいけど、半月の方がロマンチックだな」
 確かに。半月の中から見上げる半月なんて、なかなかに洒落てる。
 薪は、使い終えたナイフとフォークを皿の右側によせて、再び右手の窓を見上げた。よっぽどここの眺めが気に入ったらしい。
「なんだか飲みたい気分だな。すみません、ワインリストを」

 ちょうどレンズ豆のスープを持ってきたウェイターに薪が声を掛けると、スープがいくらも冷めないうちにソムリエがやって来た。ホテルには珍しい、若い女性のソムリエだった。髪をきちんとまとめて、黒い制服を着ている。彼女がワインリストを差し出すと、薪はにっこり笑って、
「このあと予定があるので、あまり重くないものを選んでください」
 リストをロクに見もしないで、彼女にセレクションを丸投げする。薪は知ったかぶりをしない、と言うよりは覚える気がないのだ。
 利口な方法だと思う。ソムリエはワインの専門家、任せればちゃんと料理に合うものを選んでくれるし、値段も手頃なものを勧めてくれる。
 ソムリエールが用意してくれたティスティングワインは3種。薪は一番右側の白ワインを選んだ。

「ではそれをボトルで」
「大丈夫ですか? 薪さん、前にワインは身体に合わないから量は飲めないって」
 グラスか、せいぜいハーフボトルが適量だと思った。薪が自分で言ったように、この後は仕事が待っているのだ。
「飲めるだろ。二人で一本なら」
「オレは運転がありますから」
「……バカじゃないのか、おまえ」
 薪はテイスティングの残りを飲み干すと静かにグラスを置き、月に話しかけるように横を向いて呟いた。
「なんのためのホテルだよ」




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ランクS(6)

 最近、ツイッターの「ふなっしーとリヴァイの同棲bot」に癒されまくりです。 主にふなっしーとリヴァイの会話で構成されてて、とってもかわいいのー♪ ふなっしーはリヴァイに削がれたり梨汁ぶちまけたりしてますけど、基本的にラブラブです。
 青薪さんの同棲botもあればいいのにww。





ランクS(6)






 暖色照明が演出するロマンチックな非日常空間。ここは半月の丁度真ん中辺り、21階のツインルームである。
 歓楽街の店が営業を始める時間帯、窓に広がる夜景はますます豪奢に光り輝いている。それを眺めながら濡れた髪を拭いている、彼は白いバスローブ姿だ。白い肌はほんのりと桜色に染まって、首元からは石鹸のいい匂いがする。

「ホテルの風呂って狭いのが難点だけど、ここのはけっこう広いぞ」
 夜景を楽しむためにカーテンはホテルマンの手によって開けられていて、青木の位置からは黒い夜空が見える。漆黒の垂れ幕をバックに、彼の白い腕と、上気して赤くなったくちびるが交互に動く。
「二人で入るのは無理だけどな」
 含み笑いと共に吊り上がる口角が何とも艶かしくて、青木は思わず彼から目を逸らした。今は第九へ帰る途中、つまり仕事中だ。青木は自分を戒めた。
 以前仕事中に薪に欲情して、こっぴどく叱られたことがある。「そんなにやりたきゃソープへでも行け」と、ものすごく蔑んだ目で言われた。同じ失敗は繰り返したくない。
 部屋を取って飲み直そう、と言い出したのは薪だが、ここで青木が劣情に負けてオオカミになったら、窓から蹴り出されるに違いない。薪は身勝手で、さらに厄介なことに自分の媚態に自覚がないのだ。

「いいんですか、こんなにゆっくりしてて。第九に帰って、例の事件の資料を読むんでしょう?」
 すっかりくつろぎモードの薪に、青木は控えめに抗議した。保身の意味もあったが、本来の目的を思い出してもらおうとしたのだ。しかし薪は、いつものように無造作な手つきで髪を拭きながら、
「あれは明日でいい。曖昧な箇所を2,3確認するだけだ。5分で済む」
 え、と思わず頓狂な声を出して、青木は目を丸くした。

「あの事件資料は一度見たことがある。まだ捜一に居たとき」
 ぽかんと口を開けたままその場を動かない青木に、薪は使い終わったタオルを放り投げて、「それ、風呂場に戻しておいてくれ」と遠回しに青木にもバスを使うよう命じた。
「新人の頃、資料整理やらされてさ。当時資料室にあった捜査資料は一通り眼を通した。その中の一つだった。だから事件そのものは覚えてるんだけど、16年前の話だから。記憶違いがあったら拙いと思って」
 濡れたタオルをタオル掛けに掛けて部屋に戻ると、今度はバスローブを放られた。四の五言わずに入ってこい、と言わんばかりだ。

「そういうわけだから、おまえも早く」
「それなら、あの場で確認すれば済んだんじゃ」
 青木が言葉を遮ると、薪はやや不機嫌な形に眉をひそめて、
「自分用に持ってきたんじゃない。竹内に渡すんだ。どの資料にヒントがあるかなんて教えてやらないぞ。何日も徹夜で調べて、関係箇所を探すといい」
 ……鬼ですか。

 動かない青木の背中を、薪が実力行使とばかりに両手で押した。その手を掴み、青木は薪の名を悲しそうに呼ぶ。
「薪さん」
 何度も命令を拒否されて、薪の眉が本格的に吊り上がった。青木にとって薪の命令は公私の区別なく絶対で、でもどうしても今日は素直に聞くことができない。
「あのダンボールいっぱいの資料、全部覚えてるんですか」
「今、言っただろ。僕が整理したって」
 しかしそれは薪が新人だった頃、16年も前のことだ。事件に直接関わったわけでもなく、整理のために資料をざっと読んだだけ。それも、膨大な数の中の一つに過ぎないものを鮮明に覚えている。そんなことが可能な頭脳。

 改めて突きつけられた薪の天才性に、青木は絶望する。
 彼がただの上司だった時節、見せつけられる度に憧れを強めたそれは、彼と恋人という関係になってからは、我が身との格差を思い知らされる最大の要因になりつつあった。
 一度見たものは忘れない、聞いたことも忘れない。そういう特別な頭脳を持つ人間に、自分のような凡人はどう映るのだろう。
 何もできない、無益な人間。そんな自分が彼のために何かをしても、果たして彼に届くのだろうか。
 つまらない人間が為したつまらないこと。青木がどれだけ尽くしても、自分の献身はその程度のことではないのか。薪はやさしいから、子供の手伝いを褒める親のように大して役にも立たない青木の仕事を喜んでくれるが、実際は何もしていないのと同じではないのか。

 結果を出せていない――青木が自分に不信を抱き出したのは、今年の夏。
 毎年、薪は夏になると精神的に不安定になる。それは彼の過去を思えば仕方のないことだが、睡眠不足が彼の美貌を儚くする様子を昼間の彼に見つけるのは辛かったし、現実にうなされる薪を見るのはもっと辛かった。苦しい以上に、悲しかった。
 青木は、自分の存在が薪を安定させると、無意識に自惚れていたのだと思う。

 あの夏の夜。自分が上げた悲鳴に驚いて飛び起きて、夢中で縋りついた青木の背中を爪で抉りながら泣きじゃくった。彼の痛みは5年前からまるで変わっていない――その事実に、青木は慄然とした。
 自分の愛で彼に辛い過去を忘れさせてみせる。そう誓ったのに。
 結局自分は、彼の役に立っていないのではないか。彼に捧げた愛も献身も、青木の自己満足に過ぎなくて。薪には何も届いていないのでは?

「そんなことはどうでもいいから、早く風呂に入って月見酒と行こ」
 それほど強く払ったわけではないけれど、薪の手首と青木の手のひらで立てたパシッという音は、薪の唇を強制的に閉じさせた。青木が薪の手を払うなんて、よほど激昂しているときだけだ。薪が一瞬で怯んだのも無理はなかった。
「……青木?」
 薪の声に滲んだ気遣いは、青木に届かなかった。短い下睫毛の上で、今にも表面張力を振り切りそうになっている涙を零さないようにするだけで、彼は精一杯だったのだ。

「オレは岡部さんみたいに仕事で薪さんの右腕になれるわけじゃないし、竹内さんみたいに薪さんが興味を持ちそうな事件情報を持って来ることもできない。未だにオレ、第九で一番仕事できないし」
「どうしたんだ、急に」
「急じゃないです。ずっと考えてました。オレはちっとも薪さんの役に立ててない」
「おまえの役立たずなんて、今に始まったことじゃ……なにも泣くこと無いだろ」
 不安定な恋人の不安定な感情に嫌気が差したのか、薪は小さくため息を吐いた。

「役に立ってる。今夜だって」
 おまえと一緒で楽しかった、と薪は小さな声で、それは不器用な彼の精一杯の意思表示だったに違いないのに、今夜の青木の胸には全くと言っていいほど響かなかった。
 悲しみが心を鈍くする。今の青木は、陰になった月の半分を見ることができない。

「具体的に言ってください。オレ、何の役に立ってますか」
「……コーヒーが美味い」
「あとは?」
「高い所のものを取るとき便利だ」
「それから?」
「おまえを苛めるとストレス解消になる」
「その他は?」
 見えないものを得たいと強く願う青木は、言葉に頼ると言う愚かな行動に出る。薪のような人間相手には、最悪の方法だった。

 くだらない質問を延々と繰り返す青木に、薪はとうとう切れて舌打ちした。いい加減にしろ、と青木を一喝し、
「何を拘ってるのか知らないけど、おまえにはおまえの役割があって」
「つまんないことばっかりですよね。オレができることって」
 自分で言って、涙が出そうになった。言葉にしたら本当に自分が何の役にも立たない人間に思えて、もうそれはいっそ確証になって、青木を手酷く打ちのめした。
「もっと肝心なことで、あなたの役に立ちたいのに」
「仕事のことは仕方ないだろ。みんなおまえよりも先輩なんだから」
 仕事人間の薪は「肝心なこと」と言えば、すぐに仕事の話になる。青木が言いたいのはそういうことではない。薪に自分の考えが思うように伝わらないのはいつものことで、だけどこの日に限って、青木にはそれが許せなかった。

「おまえの価値は、その、主にプライベートで」
「オレは」
 こちらの方面の会話はひどく苦手な薪が、苦心して口にしてくれたのだと思うそれを、分かっていながら青木は遮った。言葉を止めることができなかった。
「オレは三好先生みたいに薪さんと大学時代の話もできません。岡部さんみたいに、子供の頃に見たアニメの話もできない。オレにはあなたと共有できるものが何もないんです。そんなつまらない人間とプライベートを過ごして、本当に楽しいですか?」
 そう尋ねると、薪は黙って青木を見据えた。睨まれるのではなく、見守られるではもっとなく、道端の石ころでも見るかのように何の感情も篭もっていない亜麻色の瞳。青木の腹の底がすうっと寒くなった。

「じゃあ、話すこともないな」
 吐き捨てるや否や、薪はバスローブを脱いだ。彼らしくもなく床に落としたそれを乱暴に踏みつけて、備え付けのクローゼットからさっき仕舞ったばかりの衣服を取り出す。
「帰る」
 2分もしないうちに身なりを整えた薪が短く予定を告げるのに、青木はようやくに自分の役目を思い出した。
「車、回してきます」
「けっこうだ。今夜はもう、おまえの顔見たくない」
 背を向けられて、青木は焦る。とんでもないことをしてしまった、という後悔が押し寄せる前に、薪の冷たい横顔を観ただけでパニックに襲われていた。
「待って、待ってください、薪さん。すみません、二度と言いませんから」
 見苦しく取り縋った。こういう行動は相手の気持ちを冷めさせるだけだと分かって、だけど青木はそうせずにはいられなかった。引き際の潔さは竹内に全く勝てない、と青木は思い、そうしたらますます自分が駄目な男になった気がした。

「ま」
 ばん、と青木の目の前でドアが閉まり、青木は言葉を失う。追い駆けろと心の奥で叫ぶ声があったが、その勇気が持てなかった。最後に見た薪の背中は、はっきりと青木を拒絶していた。追い駆けて、決定的な言葉を薪の口から告げられるのが怖かった。
 とぼとぼと戻って、ベッドに腰掛けた。ぼんやりと窓の外を眺めたけれど、その位置からは夜景も月も見えなかった。
 床に眼を落とすと、薪が脱ぎ捨てたバスローブが見えた。今宵の主を失くしたそれは冷ややかな空虚だけを抱いて、いつまでもそこに横たわっていた。




*****

 わーい、ケンカだケンカだww。←おい。

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ランクS(7)

 憧れのメロンさんとリンクしてもらいましたー。(^^)
 ご紹介するまでもないと思うので今回はパスです。 何言っても蛇足になる。 言語で絵の美しさを語るには限界があるのですよ。←語彙力貧困者の言い訳。
 Nさんじゃないけど本当に、アニメのキャラデザと作画、メロンさんがなさればよかったのに~。

 





ランクS(7)







 翌日の朝、青木は捜査1課を訪れた。昨日、入手してきた資料を竹内に渡して来いと薪に命じられたのだ。
「悪かったな、青木」
 捜一の仕事なのに、と竹内は済まなそうに箱を受け取り、心安い笑みを見せた。
「いえ。あと、室長から伝言です。この中に有力な手掛かりがあるから、よく確認してくださいって」
「え、どこに」
「それが……訊いても教えてくれなくて」
「徹夜して探せばいい」などと上司の意地悪をそのまま伝えるわけにも行かず、青木は口ごもった。何とか上手いフォローはないものかと考えるが、思いつくのは白々しい嘘ばかりで、余計に竹内を怒らせそうだった。

「はは、室長らしいな。ま、俺でもそうするけど」
 意外なリアクションを受けて、青木は眼を瞠る。薪の仕打ちは鬼だと思ったのに、常識人の竹内がその行動に賛同するなんて。
「だってそうだろ。犯人はあの男で間違いないし、これ以上被害が拡大することもない。あと必要なのは、本当の動機を見つけることだけだ。この事件が犯人の動機に深く関わっているのなら、細部に至るまでしっかり読み込んで理解すべきだ。それは事件担当者である俺の仕事だ」
 合理性や時短などが優先されがちな一課の仕事だが、警察の仕事で一番大切なのは犯罪を防ぐことだ。それには犯人の心を理解し、その上で彼らを送検することが重要だ。再犯防止は取調室から始まると言っても過言ではない。
 昔、捜査一課に在籍していた薪はそれを知っていて、だから竹内にはちゃんと彼の気持ちが伝わったのだ。単なる意地悪だと思った自分を、青木は峻烈に恥じた。

「青木。室長に礼言っといてくれ」
 よっ、と段ボール箱を持ち上げて踵を返そうとした竹内は、青木の顔色に気付いて足を止めた。カウンターに箱を戻して青木の顔を下から覗きこみ、「どうした?」と優しく聞いた。言い方が薪にそっくりだと思った。竹内は捜一のリーダー、部下の悩みを聞くことも多いのだろう。またひとつ、二人に共通する項目を見つけて、青木はジリジリと焦げ付くような痛みを覚えた。
「なんかおまえ、今日めちゃめちゃ元気なくない? ていうか、眼、赤くない?」
 薪とケンカしてしまったのだ。当たり前のように寝不足で、食欲もない。
「昨夜ちょっと寝不足で」
「なに。もしかして女?」
「……実は」

 話の内容を察して、竹内は青木を喫茶室に誘ってくれた。喫茶室と言っても自動販売機と吸引式灰皿が3台と古ぼけた3人掛けのソファが2つ置いてあるだけの部屋だが、始業前にここを利用するものは少ない。内緒話には適していた。
 そのとき青木が竹内に昨日のことを話してしまったのは、相談したかったわけじゃない。優越感を抱きたかっただけだ。
 竹内は薪のことが好きで、捜査官としての彼をとてもよく理解しているし通じるものも多いけれど、現実に薪の傍にいて彼と過ごしているのは自分なのだと、自分に言い聞かせたかった。もちろん薪の名前は伏せて、相手は交際中の彼女だと偽ったが、後から考えてみれば危ない橋を渡ったものだ。

「ふーん。仕事に付き合って欲しいって頼まれて、帰りにホテルのレストランに誘われて、彼女がもっとワインを飲みたいからって部屋を取ったと。おまえ、その状況で『これから仕事だったよね』て相手に言ったわけ? バカ?」
「だって最初からそういう約束で」
「それ、普通にホテルデートじゃん」
 ホテルデート? 薪が?
 ないない、と青木は首を振った。

「それは違います。そういうことしてくれる人じゃないんですよ」
「どう聞いてもそうとしか思えないけど。ちなみに何処のホテル?」
「横浜のPホテルですけど」
「ほら見ろ、確定だ。夜景が綺麗なことで有名なホテルじゃないか。しかもスカイレストランの窓際席なんて、飛び込みで取れるもんじゃないだろ。彼女、前々からおまえのために予約してあったんだよ」
 さすが竹内、デートスポットと女心には詳しい。が、この場合は当てはまらない。薪は男だからだ。

「昨日は火曜日でしたし、たまたま空きがあったんじゃないですか。本当に、夜景とかホテルデートとか、そういうロマンチックなシチュエーションに興味がない人なんですよ。基本、床に胡坐で家飲みだし」
「ふうん。いま流行のオヤジ系女子ってやつだな」
「オヤジ系というか、オヤジそのものというか」
「そんなにオヤジ化が進んだ女なのか? おまえも変わった趣味してんな。……まあ、俺も今のところ、人のこと言えないけど」
 竹内がそんなことを呟いたから、青木は内心、ひどく驚いた。竹内の彼女と言えばモデルとか女優の卵とか、とにかく人目を惹く美人と相場が決まっていたのに、現在はオヤジ系女子と付き合っているのか。興味はあったが、それを聞くと自分のことも話さなくてはいけなくなるので、聞こえなかった振りをした。

「どっちにせよ、女が『らしくない』行動を取るときってのは何かあるんだよ。そこを察して、彼女が胸のうちを曝け出せるようにしてやるのが恋人の役目だろ」
 なるほど、捜一の光源氏らしいポリシーだ。青木の相手は女の子ではないが、竹内の言うことにも一理ある。
 思い出してみれば、昨日は珍しいことの連発だった。薪は何か自分に話があったのかもしれない。それは重要なことで、それでホテルのレストランに誘ったのかも。

「昨日はオレ、ちょっと考えてたことがあって」
「だろうな。おまえ、少しヘンだったよ」
 竹内が薪を送ると言ったとき、ついムキになってつっけんどんな態度を取ってしまった。竹内が違和感を覚えたのはそのことだろう。
「言ってみろよ。恋愛相談なら仕事より得意だぜ」
 竹内が奢ってくれた缶コーヒーを弄びながら、青木は痛烈な自己嫌悪を味わっていた。竹内は親切心から忙しい時間を割いて青木の相談に乗ってくれているのに、自分の本心は彼に負けたくない気持ちでいっぱいだ。いつの間にこんなに嫌な人間になったのだろう。謙虚さとか素直さとか、若輩ゆえに手にしやすい美徳を、自分はどこで失くしてきてしまったのだろう。

「オレ、本当にダメだ……」
「そうだな。なに考えてたか知らないけど、自分の考えで頭いっぱいで、彼女のオトメ心にも気付いてやれないようじゃダメだな。……俺も人のこと言えないけど」
 竹内もオヤジ系女子に振り回されているらしい。敢えて聞かないが。
「ですよね。オレ、あの人に相応しくないのかも」
「なんでそう思うんだ」
「すごくレベルの高い人なんです。仕事もできるし、美人だし、年上だし。オレみたいに低スペックの年下と付き合うより、もっとあの人を幸せにしてあげられる人が沢山いるんじゃないかって」
「それはおまえが決めることじゃない。彼女が決めることだ」
 それはそうだと思った。薪が自分で選べばいい。青木が口を出すことじゃない。
 だけど、そう潔くはなれないのが恋の厄介なところで、青木のように直ぐに気持ちを切り替えられない男には、スマートな恋愛はなかなかに難しい。

「彼女に決めさせるんだ。おまえはおまえらしくしてりゃいい」
「竹内さんみたいに、自分が相手に選ばれる自信がある人はいいですけど」
「俺だって自信なんかないよ。ここ4年ほどで何人の女に振られたか知ってるのかよ」
「え。竹内さんでも振られることなんてあるんですか?」
 オブラートも被せずに聞き返してしまった。それほど驚いたのだ。竹内は一瞬固まり、缶コーヒーの小さな飲み口から中身が噴き出るほど強く缶底をテーブルに打ちつけながら、
「ああああああるわけないだろ! 俺を誰だと思ってんだ、捜一の光源氏だぞ!」
 意外と分かりやすい。
「他人にヘンなこと言うなよ?!」
「はいはい」
 青木が気のない返事を返すと、竹内はわざとらしく咳払いをして、「とにかく」と仕切り直しの言葉を発した。

「男なら、いつも余裕を持ちたいよな。お互い頑張ろうぜ、オヤジ女子の攻略」
 はい、と青木は頷いた。なんだか少し、肩が軽くなった気がした。





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 一昨日からたくさん拍手送ってくださってる方、どうもありがとうございますー。 更新、がんばりますです。(^^


 ところで、メロディ発売まで1週間になりましたね。 今度の話は特別編なんですよね。
 これまでの傾向を見ると、特別編は事件よりもキャラの心情に迫る話が多い気がするので、次の話はズバリ、
「すずまきさん心情編」
 だと思うの!!

 できれば舞台は旧第九希望。(←オヤジ好き♪)
 そして内容は隠蔽工作を強要されて苦悩する薪さんを抱きしめて慰める鈴木さん希望。

 最近、鈴薪さんの妄想ばっかりしてたせいか、超楽しみです。(〃▽〃)


 






ランクS(8)







 青木が帰った後、捜査1課は2人目の、それも同じ第九からの来客を迎えた。

「室長。どうしました?」
「箱に1冊入れ忘れまして。紛失したら大変なので、お持ちしました」
 驚いて駆け寄ってきた竹内に、薪は相変わらずの冷淡さで答えた。口振りはともかく、彼が竹内の仕事に協力してくれたことに変わりはない。竹内は素直に礼を言い、薪が差し出したファイルを受け取った。

「……なんか、眼、赤くないですか?」
 その理由はプライベートなことかもしれない。そう考えると聞くのも躊躇われたのだが、澄みきった彼の瞳が見られないのはとても残念で、ついつい竹内は要らぬお節介を焼く。予想通り彼からは、木で鼻を括ったような答えが返ってきた。
「あなたには関係ありません」
 不機嫌を露わにしたところを見ると触れて欲しくなかったらしいが、さすがにそれも大人げないと思ったのか、薪は小さな声で付け足した。
「昨夜、ちょっと寝不足で」
 どこかで聞いたような答えだ。

「あの、ちょっと訊きたいことがあるんですけど。いいですか?」
 それでは、と踵を返す薪を、ふと思いついて竹内は呼び止めた。薪なら知っているかもしれない、と考えたのだ。
「青木のことで」
 聞こえない振りで遠ざかろうとした薪の足が止まった。相変わらず、青木の名前には顕著に反応する。青木は薪のお気に入り、眼を掛けている部下の情報は公私に渡って仕入れておきたいのが上司の心情だ。竹内はそこに付け込むことにした。
「青木が交際してる人って、三好先生ですか?」
 そんな内容だとは予測しなかったのだろう、薪はやや充血した亜麻色の眼を丸くして、竹内の質問に答えをくれた。
「違う、ます、と思われますです」
 よほど動揺したのか、文法がとっちらかっている。珍しいこともあるものだ。
「そうですか」
 二人の共通の友人である薪が知らないのなら、やはり違ったのだろう。竹内はホッと胸を撫で下ろした。

 実は今年の春から、竹内は雪子と交際を始めた。が、いま一つ進展が思わしくない。今迄とは勝手が違うと言うか、雪子の反応が普通じゃないと言うか、平たく言えば、付き合って半年にもなるのにまだ男女の関係になれないでいる。これまでの竹内の歴史には無かったことだ。
 そんな折、青木から恋愛相談を受けた。青木の周りにいる女性で、「基本床に胡坐で家飲み、仕事ができて美人で年上」とくれば雪子以外に思いつかない。あの二人は友人だと思っていたが、違ったのかもしれない。一向に自分の前で女になってくれない雪子の態度を考え合わせると、竹内の疑いは無理からぬことであった。

「どうして青木の相手が雪子さんだと?」
「青木が言ったんですよ。オヤジ系女子と付き合ってるって」
「あのやろー……」
 薪は低い声で凶悪に呟き、一瞬竹内は彼の不機嫌の理由を友人である雪子をオヤジ系と称されたことに対する怒りかと思いかけた。が、薪は竹内の疑惑を力強く否定した。
「絶対に違います。だいたい雪子さんはオヤジ系女子じゃありません。やさしくて思いやりがあって一途で奥床しくて、日本撫子の鑑みたいな人です。オヤジだなんてとんでもない」
 それは俺が知ってる三好先生とは微妙に違う気がしますけど、と竹内は心の中で呟く。雪子は美人だがカラッとし過ぎていて、ロマンチックなムードに持っていくのが難しい。さらには竹内の心に、彼女のことだけは失いたくないと言う追い詰められるような感覚があって、それが彼女をベッドに誘えなくしているのも事実だ。

「いや、すみませんでした。美人で仕事ができて年上だって言うから、てっきり三好先生のことかと」
「他に何か言ってましたか? その、付き合っている女性について」
「相手があまりにもハイレベルだから、引け目を感じてるみたいでしたね」
「僕はどうしたらいいと思いますか?」
 は? と竹内が聞き返すと、薪はしどろもどろになって、
「いやあの、あくまで一般論で。恋人がそういうことを言ってきた場合、こちらはどう対処すべきかという意味で」
「引け目を感じることなんて無い、と言ってあげればいいんじゃないですか?」
「ちゃんと言いまし、あ、いや、言ってもダメなときは?」
「相手の長所を教えてあげるとか」
「言おうとしま、あ、えっと、言おうとしても聞いてもらえなくて、それでちょっとケンカになってしまっ……たと仮定した場合ですね」
 薪は言葉を切り、すっと息を吸い込んだ。一瞬だけ睫毛を伏せて呼吸を落ち着けると、ぱっと眼を開いて真剣な顔で竹内を見つめた。
「この後、どうするべきですか?」

 つっかえつっかえ話す薪の姿は、淀みなく話す彼しか見たことが無かった竹内にとってはひどく新鮮だった。彼の言う仮定上の恋人の眼には、こんな彼の姿も親しいのだろうと思うと、僅かばかりのジェラシーを感じる。男というのは身勝手な生き物だ。

「そんなの簡単ですよ」
 にこやかに笑って、竹内は言った。
「押し倒しちゃえばいいんですよ」
「……なるほど」
 相手が押し倒せるような相手ならね、と心の中で付け加える。
 納得したようなしないような顔で薪が帰って行った後、竹内は自分のデスクに戻って椅子を引き、机の下に潜り込んだ。大友が「なにやってんですか、竹内さん。一人防災訓練ですか」と声を掛けてきたから、椅子を蹴って彼の脚にぶつけてやった。
 大ショックだった。あの二人のことはずっと見てきたのに。

「ああ~、なんで今まで気が付かなかったんだろ……」
 同じ日に、二人から聞いた話があれだけ被ってて、しかも場所は捜一の資料倉庫に程近い横浜のホテル。これで気付かなかったら阿呆だ。
 薪が関心を示すのは青木の話題が出たときだけで、青木がムキになるのは薪が絡んだときだけ。思い起こしてみれば、あの時もあの時もあの時も。明々白々じゃないか。
 はあーっと大きくため息を吐いたら、猛烈に雪子に会いたくなった。
「もしもし先生。今夜、会えます?」
 携帯電話に左耳を預けながら、今のこの気持ちを受け止めてくれる相手がいることを、竹内はとても嬉しく思った。





*****

 バレたwww。

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ランクS(9)

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 薪が半年間のフランス勤務に就くことを青木が知ったのは、それから2日後の金曜日。アフターの居酒屋で3人で飲んでいる時、岡部と薪が話しているのを聞いたと小池が言いだしたのだ。

「半年も羽根が伸ばせるなんて。夢のようだ」
 ビールジョッキを合わせて、小池と曽我が降って湧いたような幸運を喜び合う。3人の中で一人だけ、青木はショックを隠せないでいた。
「薪さん、そんなこと一言も」
「自分がいなくなると分かったら、俺たちが喜ぶだろ。あの人のことだから、俺たちにいい思いさせたくなかったんだよ」
 小池が思ってもいない皮肉を口にすると、曽我があははと笑った。一緒に笑おうとして、青木は頬を強張らせた。声帯が麻痺したみたいで、声が出せなかった。
「岡部さんにだけは話さない訳に行かないからな」
 副室長という立場にある岡部は、薪の予定を誰よりも早く知ることができる。薪の口から直接、話してもらえる。恋人の自分よりも薪の予定に詳しい彼が、ひどく羨ましかった。

「ところで、今日は宇野、どうしたの?」
「残業。薪さんに捕まったらしい」
「システムのアップデートかな。ここんとこ、続いてるな。宇野も大変だ」
 MRIシステムの扱いにかけては、宇野の右に出る者はいない。青木も頑張ってはいるが、とても追いつけない。
 宇野はこれまでにもシステム向上のための改革案を多数考案してきたが、ことプログラミングに関して彼の発想は天才的ですらある。薪が彼に全幅の信頼を寄せるのも頷ける。
 そんな風に、薪に頼ってもらえる宇野が羨ましいと思った。

 あの夜から薪は見事に青木を避けて、青木は仕事以外の話を彼としていない。薪は頑固で、怒らせたら始末に負えない。下手に刺激すると彼の怒りは倍増する。すでに何度も経験済みだ。怒りが治まるまで待つしかないのだ。
 このまま遠ざけられてしまったらどうしよう、という不安を抱えていたところに、半年間ものフランス勤務だ。青木が絶望的な気分になったのも無理はなかった。

「どうした青木。身体の具合でも悪いのか」
「いえ。ちょっと寝不足で」
「そうなのか? じゃあ、今日は早く帰って寝ろ。明日そんな顔で研究室に来たら、薪さんに『役立たずは要らん』て怒鳴られるぞ」
 薪は実力主義で歯に衣着せぬ物言いをする。実際、それで辞めて行った部下も多い。それに腹を立てた薪が、「根性なしに仕事を教えるのは時間の無駄だから無暗に新人を寄越してくれるな」と警務部長に直談判したとか。それから青木の下には誰も入ってこなくなってしまった。と言うのも、既存の職員は第九の恐怖政治の噂を聞き及んでいるので、転属に難色を示すのだ。そこでまた薪が「仕事意欲のない者は使いものにならん」と切り捨ててしまうから、第九の労働条件はいっこうに改善されない。
 第九の人員不足による過剰労働は深刻な問題だが、今の青木にはもっと身に迫る心配事がある。薪のプライベートから自分が切り捨てられるのではないかと言う不安だ。

「そうですね。オレ、本当に役立たずで」
 青木は自嘲した。岡部や宇野のように、自分が薪にとって欠かせない人間だったらこんな気持ちにならなくて済むのに。色々なことが重なって、今の青木は自分にどんな価値も見い出せずにいた。
 いつもと違う後輩の雰囲気に気付いたのか、小池と曽我は顔を見合わせ、青木が欲している言葉を投げてくれた。
「何言ってんだよ。おまえは充分役に立ってるよ」
「どんな風に?」
「「薪さんのスケープゴート」」
 それは本人のお墨付きですが。
「薪さんにも言われました。オレを苛めるとストレス解消になるって」
「ほらほらやっぱり」
「おまえは第九には欠かせない男だ」
「ひどいなあ」
 苦笑して、ビールジョッキに口を付ける。ついぞ感じたことのない苦みが、青木の口の中を手酷く痛めつけた。大好きなビールが美味しくないなんて、よっぽどだと思った。

 こんな気分で飲んでいても楽しくないし、場を白けさせてしまうだろう。二人の気遣いに甘えて、今日は帰らせてもらおうと青木が膝を正したとき、小池が再び薪の話を始めた。
「それでさ。薪さんがフランスに行くとき、第九から誰か一人連れて行くって」
「え、マジで? 嫌だなあ、俺」
「おまえ、フランス語できないだろ。行くとしたら言葉に不自由しない今井さんか俺か、あ、青木、おまえもフランス語いけたよな」
「日常会話程度でしたら」
「じゃあ、おまえかもしれないな。今回は捜査協力じゃなくてフォーラム開催の準備だって話だし。会の内容を決めたりプログラムを作ったり。おまえ、第九に来るまえ総務に居たから、経験もあるだろ」

 自分の名が候補に挙げられたことで、青木はようやくその可能性に気付いた。連動して、竹内との会話が思い起こされる。
 もしかしたら薪はあの夜、この話をしたかったのではないか。
 薪の屈折した性格と分かりづらい優しさと、もっと分かりづらい可愛らしさを考え合わせれば、可能性は高いと思った。薪は照れ屋だからなかなか言いだせなくて、そこに自分が彼の気を萎えさせるようなことばかり言ったから、だからあんなことになってしまったのではないか。

「小池さん、今日オレに奢らせてください! すみません、追加オーダーお願いします!」
 店員に向かって声を張り上げた青木を見て、小池はぼそりと呟いた。
「分かりやすいよな、青木って」
「ホント」
 突然元気になった後輩の紅潮した頬を皮肉な眼で眺めつつ、小池と曽我は軽くジョッキを触れ合わせた。



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 薪の渡仏が正式に通達されたのは、翌週末のことだった。
 金曜の朝のミーティングで副室長の岡部の口から予定が告げられると、すでに情報を得ていた部下たちは余裕の表情でそれを受け止め、室長の薪を不機嫌にさせた。なんでみんな知ってんだ、と薪が岡部に小声で噛み付く様子を見て、部下たちは心の中で苦笑した。室長のこんな姿も、しばらくは見られなくなるのだ。

「フォーラムにはもう1名、第九から参加することになっている。その者には室長と一緒にフランスに行って、準備委員会に参加してもらう」
 薪の同伴者に話が及ぶと、青木はにわかに緊張した。心臓がどきどきする。薪からは何も聞いていないが、期待してもいいはずだ。その期待は、書類から顔を上げた岡部と眼が合ったとき確信に変わった。
 が、次の瞬間、岡部は青木から眼を逸らし、
「宇野。おまえに頼む」
 はい、と頷いた宇野の落ち着き払った声音から、事前に本人の了承を得ていたのだと分かった。
 考えてみたら当然だ。決まりを付けなければいけない仕事もあるし、パスポートの用意もある。先週から宇野は残業続きで、1度も青木たちのアフターに付き合わなかった。そこから察するべきだったのだ。

 朝礼が終わった時、青木は立っているのがやっとだった。
 半年間、薪と会えなくなる。顔を見ることもできない、声を聞くこともできない。
 半年は長い、長過ぎる。今の青木の心理状態では、半年どころか6日も持ちそうになかった。

 小池と曽我が自分たちの席に戻りながら、「宇野かあ」「意外だな」と囁き合うのが聞こえた。尤もだ、と青木は思った。語学の得意な小池や今井が選ばれるならともかく、宇野はフランス語に堪能な職員ではないからだ。
 システムプログラミングでは足元にも及ばないが、イベントの準備なら総務部の経験がある自分の方が絶対に役に立つはずだ。フランス語だって決して得意ではないが、全然喋れない宇野よりはマシだ。
 自分の方が薪の役に立てるのに、どうして。
 そう思ったら、矢も楯もたまらなかった。薪を追って室長室に入ろうとした岡部を強引に捕まえて、「岡部さん」と切羽詰まった声で彼の名を呼べば、岡部はそれだけで青木の気持ちを察して、無人のミーティングルームに青木を連れて行ってくれた。

「どうして宇野さんなんですか。フランス語、喋れないのに」
 単刀直入に聞いた。言葉を飾る余裕も、言い方を考慮する思いやりも持てなかった。
「薪さんが決めたことだ」
 直球の質問には、直球の答えが返ってきた。岡部は青木を憐れむような眼で見ていて、それは彼の優しい心根から来るものだと青木は重々承知して、でもその時はそれが無性に腹立たしかった。レベルの低い人間が高みにいる人間に見下ろされている気分、多分生まれて初めて味わうプライドが傷つく痛み。その壮絶さに、青木は我を忘れた。

「それはきっと薪さんの本心じゃありません。先週、薪さんはオレにこの話をしようとして、でもオレが余計なことを言ってあの人を怒らせてしまったから、それでつむじを曲げて」
「青木。おまえ、自分が何を言ってるか分かってるのか」
 岡部の声が尖って、彼の不快を青木に教えた。薪が仕事に私情を持ち込まない人間だと言うことは知っている。でも、それに拘るあまりフランス語ができる青木を候補から外すのはおかしい。小池や今井が選ばれたのなら納得も行くが、IT以外に取り得のない宇野では仕事の主旨に合わない。いっそ、青木への当てつけとしか思えないではないか。
「だって、半年ですよ? 半年も日本を離れるのに、薪さんがオレ以外の誰かを同伴者に選ぶなんて」
 パシッと青木の左頬で乾いた音がした。岡部の平手打ちは全然痛くなかった。痛みを与えるためではなく、黙らせるために叩いたのだと分かった。それ以上言ったら傷つくのは青木自身だと、彼は知っていたのだ。

「何があったか知らんが、今日のおまえは最低だ」
 三白眼を恐ろしく光らせ、岡部は低い声で言った。
「フォローしないあの人も悪いけど、今のおまえは酷すぎる。薪さんがおまえを同伴者に選んだら、俺が全力で潰してやるよ」
 やさしい岡部に、こんなことを言われたのは初めてだった。自分が岡部に甘えているのは自覚していた。本当は慰めてもらいたかったのだ。皆の前で正式に発表したのだから、この人事が覆ることはない。解っていて、だから吐き出さずにいられなかった。

「そんなにオレ、あの人に相応しくないですか?!」
 それを一番よく分かっているのは青木自身だ。薪の一番近くでいつも彼を見ている、その幸せと辛さを毎日味わっている。
「吊り合わないのは分かってます、でもオレだって必死で」
 頑張っても頑張っても届かない、人間には持って生まれた才覚と限界があって、それは努力だけではどうにもならない。器を満たすことはできてもそれ以上は溢れ落ちるだけで、際限なく器を広げて行けるのは薪のような選ばれた人間だけだ。それでも。

「あの人に相応しい人間になろうと、オレはずっと」
 無駄な努力を続けてきたのは彼の傍にいたかったから。認めて欲しかったから、褒めてもらいたかったから。
 人間的成長とか向上心とか、自分が善良で前向きな人間でいられるように飾り付けた薄っぺらな装飾を取り払ってみれば、現れるのは子供じみた欲求。認められたいと言う欲望は常に人の奥底にあって、それがなければ成長もないが目の当たりにするとその厭らしさに鼻白む。向き合うには覚悟がいる相手だ。

「何をしている。仕事中だぞ」
 その声は青木を硬直させた。どこから聞かれていたのかと思うと、振り返ることもできなかった。
「岡部。室長会の引継ぎのことだが」
 青木の黒い瞳には絶望と悲哀が浮かんでいたはずなのに、それは黙殺され、薪は青木に視線もくれず岡部に話しかけた。青木の胸がギリッと痛む。誰かに心臓を握られでもしたようだ。

 青木は黙って部屋を出た。
 薪の冷たい横顔が、目蓋の裏にずっと残っていた。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ランクS(11)

 発売日ですよっ!
 ネタバレ防ぐために昨日からネット見てません。
 前号泣ける話だったから特別編は明るいお話だと、勝手に思ってます。 楽しみだな~~。



ランクS(11)







 科警研の正門の前には、美しい銀杏並木が続いている。季節柄、黄色く染まったそれらを眺めつつ、青木は寒風に肩を竦めた。興奮状態で出てきたから、コートを持って来るのを忘れてしまったのだ。

「あれ。青木じゃないのか」
 とりあえず頭が冷えるまでと、行く宛てもなく歩いていたら誰かに呼び止められた。振り返ってみると竹内だった。彼は一人で、捜査なら一課の決まりで誰かと一緒のはずだと思いながらも聞いてみた。
「事件ですか」
「いや、これから例の女子大生のアパートに。現場百回、行き詰ったら出発点に戻れ、事件が終わったらもう一度戻れってね。岡部さんによく言われた」
 終わった事件の現場に、戻ると言うよりは被害者に報告に行くのだろう。ならば部下を伴うこともない。彼が単独で行動している訳に納得して、青木は深く頷いた。
 岡部らしい教えだ。そして、それがきちんと受け継がれていることの素晴らしさ。岡部が捜一で伝説になっている理由が分かった気がした。

「おまえは?」
「……コーヒー豆の買い出しに」
「こんな朝っぱらから?」
 咄嗟に吐いた嘘に、捜一のエースが疑問を持たない道理がない。青木は嘘が下手くそだ。つい口ごもってしまったし、眼も逸らしてしまった。だけど竹内はにこりと笑って、
「豆選びからおまえがやってんだ。美味いはずだよな」と話を合わせてくれた。鋭く真相を見抜く、だからこそ相手を気遣える。その優しさも岡部から受け継いだものなのか。二人の師弟関係に、青木は感動を覚えた。

「おまえのコーヒー、ほんと楽しみでさ。また今度、飲ませてくれよな」
「あんなつまらないものでよければ、いつでも」
「つまらないなんて言うなよ。あれがなかったらこの事件、こんなに早く送検できなかったかもしれないんだから」
 事件に貢献したのは薪の推理力で、自分は何もしていない。青木がそう言うと、竹内は「いいや」と片手で青木を制し、
「室長の推理を聞かせてもらえるようになったの、あれ、おまえのコーヒーのおかげだ」
「あはは、そんなわけないでしょ」
 たかがコーヒーだけどそれが室長を動かしていると竹内は言い、そんなものがなくても薪は事件解決のためには労を惜しまないはずだと言う青木の意見を否定した。
「少なくとも、昔はあんなに協力的じゃなかった」
 それからちょっと悪戯っぽく笑って、
「一口飲むたびに室長の顔がやさしくなるの、あれなに? ヤバいクスリでも入れてるのか?」
 そんな冗談を残して、竹内は地下鉄の入り口に消えた。背中が粟立つような風に嬲られながら、しばらくの間、青木はその場に立っていた。

「現場百回、か」
 捜一のエースと呼ばれるようなベテラン刑事になっても、先輩の教えを忘れず。彼は何度も何度も現場に足を運ぶ。
 でも岡部が竹内に教えたのは、現場に戻るという行動パターンそのものではない。もっと根本的なもの、行動の源泉となるもの。それは警察官の魂の柱。

 思い当たって、青木は地下鉄に乗った。2駅離れた地区にある児童公園を目指す。石造りの門柱、ブランコと滑り台、3段しかないジャングルジムと小さな砂場。一度しか訪れたことのない何の特徴もない公園を、青木はしっかりと覚えていた。
 何年前だったか、ここで初めて殺害された被害者の死体を見た。正確には見せられた。
「薪さんのジャケットにゲロ吐いたんだよな、オレ」
 当時のことを思い出すと、恥ずかしさに膝が折れそうになる。新人の頃は本当に何もできなくて、薪や岡部に迷惑を掛けてばかりいた。未熟な青木を、第九全員で育ててくれた。みんな惜しみなく自分の知識を青木に与えてくれた。
 仕事への理解が深まるほどに、その難しさと先輩たちの、特に薪の凄さが分かってきた。漠然とした尊敬は、具体的な畏怖に変わった。強烈な憧れと羨望と、だけど何処かしら危うい彼にどんどん惹かれて、青木は薪の擒になった。
 毎日毎日、薪の背中を追いかけた。その細い背中はいつも凛として、青木や他の部下たちを力強く導いてくれた。
 その背中から、青木は多くのものを受け取って来た。
 何を、と具体的には言い表せない、でも仕方がない。岡部が竹内に教えたものと同じで、それは言葉では伝わらないものなのだ。
 その大切なものを放り出して。自分は何をやっているのだろう。

「はあ……」
 今度こそ、青木はその場にしゃがみ込んで頭を抱えてしまった。傍から見たらリストラされてそれを家族に言えなくて公園で悩んでいるどこぞのお父さんみたいだ。
 屈んだら、あのとき背中に密着していた薪の温もりを思い出した。MRIのマウス操作を教えてくれた時の、小さな手のあたたかさも。

 いつも一番早く第九に来て、一番遅くに帰って。誰よりも忙しいのに誰よりも余裕があるような顔をして、だからみんな遠慮なく薪に仕事の相談ができる。そして薪も当たり前のように、自分の仕事より部下の相談を優先する。
 そんな彼に導かれることの、なんて大きな幸運。その彼の傍らで、恋人としての愛情を与えられることの奇蹟のような幸福。まるで世界中の幸せを独り占めしたみたいな気分に浸っていたあの頃の気持ちを、青木はようよう思い出す。

 神さまに運命に、自分をこの世に送り出してくれた父に母に、薪と自分を取り巻くすべての人々に、いくら感謝しても足りないと、そんな気持ちで一杯だった。なのに。
 いつの間にか思い上がって、いくら自分を戒めてもその癖は抜けなくて、それは付き合いが長くなれば普通のことかもしれないけれど、放置してはいけない。同じ間違いを何度繰り返しても、自分自身が諦めてしまっては負けなのだ。
 現状に満足してはいけないと、少しでも彼に近付こうと、努力に努力を重ねても、その距離は縮まるどころか開いていく一方で、でも。
 今日人生が終わるわけじゃない。今はまだ道の途中じゃないか。

 薪の背中をひたすらに追いかけて、まるで子供が親の作ってくれた道をそうとは知らずに歩いて行くように、自分がしていることはそれだけかもしれない。それでもこうして振り返れば、そこには自分の足の跡。
 自分が歩いた後ろにも、ちゃんと道はできるのだ。
 目的地までの最短ルートでなくてもいい、真っ直ぐでなくてもいい。時々は後戻りしてもいい、行き止まりに当たったら別の道を探せばいい。
 大切なのは歩みを止めないこと。止まらない限り道は伸びていく。

 青木は立ち上がった。薪を真似て、シャンと背筋を伸ばす。自然に顎が上がって、今までとは違った風景が見えた。
 昨日よりも一段高い場所。きっと薪も。

「朝のコーヒーが無いと仕事にならないって、小池さんに文句言われるな」
 急いで帰らなきゃ、と青木は軽く走り出した。走りながら青木は、帰りに珈琲問屋でとびきり美味しい豆を買って帰ろうと思った。





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ランクS(12)

 昨日の夜、メロディ読みました。 諸事情ありまして、読むのが遅くなりました。

 内容は、
 予想もしない話で驚きました!!
 まったく、わたしの秘密の次回予想は一度も当たったことないよ☆


 SSの下に感想書いてあります。
 ネタバレしてますので、コミックス派の方はご注意くださいね。





ランクS(12)







 その日、いつものように午後九時を回った頃に帰宅した薪は、マンションのエントランスに見慣れた長身を見つけた。しばらくは凹んで来れないかと思ってたのに、案外図太いやつだ。

「なにか用か」
「薪さんにお話があります」
 今さら何だ、と薪は不快感を顕わにする。顔も見たくない、と言ったのは言葉のあやじゃない。あの時は本気で怒っていたのだ。ちょっとやそっとで冷めるほど小さな怒りではない。薪は冷たく言い放った。
「話すことはないと言っただろ」
「まあまあ、そうおっしゃらず」
 ニコニコしながらも押しが強い。薪の冷たい視線に怯まない。好ましい青木の姿を久しぶりに見た気がした。
「薪さんの好きなお酒も用意しましたから」
 モノで釣ろうなんて自分も安く見られたものだと、思いつつも青木の手元に視線が吸い寄せられる。大好物の吟醸酒だった。
「……まあ上がれ」
 こちらの誘惑には悲しいくらいに弱い。オヤジと言う生き物の特徴を、青木はよく理解している。

 部屋に入った薪は、簡単な食事を用意した。自分と、多分未だ夕食を摂っていない青木のためだ。休みの日に作って冷凍しておいたキノコご飯をおにぎりにして、パーシャル室にあった鮭の切り身をピカタにする。マカロニサラダは昨夜の残り物だが、食べてみたら充分イケた。
 料理をリビングに運ぶのは青木の仕事で、それを取り分けるのは薪の仕事だ。打ち合せなんかしなくても、共同作業はスムーズに進む。言葉も要らなくなるほどに繰り返された日常に、薪の気持ちが少しずつ穏やかになって行く。

「どうぞ」と酒瓶を傾けられて、薪はぐい飲みを差し出した。美濃部焼のぐい飲みを満たした酒は、フルーティな香りを楽しめるギリギリの温度に冷やされていて、それは薪の好みの正鵠を射る。思わず頬が緩んだ。簡単には許すまいと自分に言い聞かせていたのに、どうにも旗色が悪くなってきた。
 理由は、青木の態度にある。
 あの夜以来、取りつく島もない薪に対して青木が取るであろうと、これまでの経験から打ち出された彼の行動パターンは2種類。土下座して謝るか、必死で薪のご機嫌取りをするかだ。ところが今夜の青木はそのどちらもしないから、調子が狂ってしまう。
 遠慮なくおにぎりを頬張る彼の姿は、いつもと変わらない。忙しく口を動かしながら笑う顔も、「とっても美味しいです」と言う単純な褒め言葉も、薪の心を元気にしてくれる。今回はこのまま誤魔化されてやるか、と薪は思い、勧められるままに杯を重ねた。

 食事の後、本格的に飲む前に風呂に入ろうと青木が言い出した。
「先に行って用意してますから」と青木がバスルームに向かったので、薪は吟醸酒と茎ワカメの酢の物を冷蔵庫にしまい、着替えを用意して青木の後を追った。脱衣所のドアを開くと何故か灯りが点いておらず、薪は驚いて立ち止った。
「青木?」
「中です。薪さん、入ってきてください」
 磨りガラスの向こうから、青木の声がした。脱衣籠には青木の服が置いてあるから、彼は普通に風呂に入っているらしい。でもどうして暗闇の中で?
「防災訓練か?」
 押し戸を開けると、中は意外にも明るかった。光源は、棚の上に3つほど並んだ蝋燭だ。小型の植木鉢みたいな入れ物に入っていて、近くで見るとカラフルでいい匂いがする。アロマキャンドルというやつだ。
「非常時を想定して日常生活の訓練を」
 真面目な顔で惚けたことを言う、青木とのこういう会話を薪はとても楽しみにしている。

 薪の風呂好きを、青木は心得ている。薪を楽しませようとあれこれ考えたのだろう。そんな時間があったらMRIシステムのアップロードの仕方でも覚えて欲しい。宇野がいない間、それは青木の仕事になるのだ。
 まったく無駄なことばかりして、と思いながらも青木と向かい合う形で湯船に身を浸し、眼を閉じる。心地良さに息を吐いて、唐突に薪は気付いた。自分のやり方が間違っていたのだ。

 先日、青木に話したいことがあってホテルデートを目論んだ。青木にはショッキングな内容だと思ったから気を使ったつもりだったが、それが間違いだった。
 平凡でいい、ありふれたものなら尚いい。そういったものにこそ自分が幸せを感じるように、青木も薪との日常を大切にしている。いつも通りこの家の中で、虚言を交えずに話をすればきっと彼は分かってくれたはずだ。自分は、余計なことをしたのだ。

 ゆらゆらと揺れるキャンドルの光が、青木の横顔を頼りなく照らす。眼鏡を外して前髪を下げた彼の顔はかつての親友に良く似ている、でも明らかに違う。これは僕の恋人の顔だ。
 キャンドルから熱気と共に漂ってくるラベンダーの香りを吸い込みながら、薪は言った。
「こないだは本当に頭にきた」
「すみません、反省してます。男らしく無かったです」
 悪びれた様子もなく、青木は謝った。
「もう二度と弱音は吐きません。あなたに一番に必要とされる人間になれるよう、努力します。時間は掛かるかもしれませんけど、頑張ります。それまでの間は、自分にできることを見つけてそれを一生懸命やります」
「うん……まあ、がんばれ」
 年齢差とか経験値の差とか、互いを想う気持ちだけでは渡れない川に掛ける橋の掛け方を、青木は自分なりに考えたのだろう。青木が出した結論なら、支持してやろうと思った。

「あの。オレ、また読み違えてます?」
 青木の声に不安が混じった。薪の声に含まれた微妙なニュアンスを読み取ったのだろう。先日とは打って変わった勘の良さに、焦りすら覚える。本当に、人間慣れないことはするもんじゃない。
 年上の恋人に相応しく、やさしく穏やかに話をしようと思ったけれど。それは本当の自分じゃない。本当の自分でなければ本当の気持ちは伝わらない。彼に誤解を受けたくないなら、大事なのはシチュエーションじゃない。自分を曝け出すことだ。

 薪はぱっと眼を開くと、厳しい口調で青木を責めた。
「女の腐ったのみたいにウジウジぐだぐだ言うおまえの態度も癇に障ったけど。一番頭に来たのはそれじゃない」
 言葉を切ると、青木が真剣に薪の話を聞いているのが空気で分かった。
「『つまんないことばっかり』」
 はっ、と青木が息を飲むのが聞こえた。何事か気付いたらしい彼に、しかし弁解の隙を与えず、薪はまくしたてた。
「おまえはそう言ったんだ、僕がこんなに大事にしてるもののこと。一番の楽しみにしてるのに。嫌な事があっても、それがあれば頑張れるのに。僕のエネルギー源を、おまえはつまらないって」
 ズケズケと薪は言った。いつも通り、歯に衣着せぬ言い方で。相手の気持ちなど考えずに、自分が言いたいことを言いたいように言った。
「僕が怒るの、当たり前だと思わないか」
 自分に非はないと、強く薪は言い切った。青木が嬉しそうに微笑む、薪の傲慢を喜んでいる。自分勝手で強情な態度、愛する人にそれを許してもらえる幸せ。これ以上の幸福がこの世にあるか?

「オレ、薪さんにとってはけっこう価値があるんですね」
 それなりにな、と薪は嘯いた。我ながら可愛くないと思う。それでも青木はニコニコと笑いながら、
「例えるとしたら、どれくらいですか?」
 と、愚にも付かない質問を繰り出した。
「そうだな」と薪は考える振りをして、お湯を肩に掛けながら目を閉じた。ぱちゃぱちゃと液体が跳ねる音がして、肩が一時温かくなる。
「Sクラスのダイヤモンドくらい」
「うれしいですっ!」
 思いがけない高評価にはしゃぐ青木に、薪は心の中で舌を出す。青木は本当にバカだ。

 そんなんでいいのか? ダイヤなんて、所詮は石ころだぞ?
 おまえの価値はそんなもんじゃない。
 あの時、スカイレストランの窓から半分に欠けた月を見上げながら、ずっと考えていた。
 僕にとっての青木は、見えない月の半分。月がその質量を失えば、月は地球の引力から解放されて衛星ではなくなる。結果、地軸にズレが生じて地球は壊滅するんだとさ。大仰なことだ。
 おまえを失うのは、それと同じくらい不安なこと。

 自分の心を見つめ直して、薪はゾッと背筋を寒くする。言い知れぬ恐怖が襲ってくる。自然に肌が粟立つのを、暗闇がひっそりと隠してくれた。

 依存している。まだ、こんなにも。
 いつまでもこんなことじゃいけない。青木との時間は有限なのに。
 薪は自分に言い聞かせる。青木はランクSのダイヤモンド。
 その辺まで、彼の価値を落さないといけない。必要に迫られれば差し出せる、自分の代わりにそれを持っていてくれる人が信頼できる人だったら嬉しい。その程度の大切さが、期間限定の恋人同士には相応しい。

「青木」
 薪はアロマキャンドルのフローラルな香りを、胸いっぱいに吸い込む。これを用意してくれた青木のやさしさが、勇気を与えてくれるような気がした。
「フランスへ連れて行けるのは一人だけだ」
 はい、と青木は頷いた。ミーティングで発表した際、部下の誰一人として驚く様子が無かったことから彼らは事前にその情報を得ていたものと薪は判断していた。情報源は耳の早い小池辺りか。彼が最近、妙に張り切って仕事をしているようだったのは自分が第九を離れることを知ったからだと分かって、薪は小池のシフトを頭の中で組み替える。自分がいない半年間、地獄を見せてやる。
「僕は、最も適した人間を選んだつもりだ」
 青木が身を強張らせたのが、湯の震えで分かった。浴室はシンと静まって、蝋燭の芯が燃える音が聞こえてきそうだった。
 しっかりと通る声で、薪は言った。

「フランスへは、宇野を連れて行く」

 はい、と青木は三たび頷いた。即行で返ってきた返事は、青木が薪の話の内容を予測していた証拠だった。
「宇野さんのシステム改善の実績は、国際的な舞台で称賛されるべき仕事だと思います」
「その通りだ」
 フランスの原案によるフォーラムの主旨は、MRI捜査の手法について捜査員側の立場から意見を述べ合い、その未来を模索しようと言うものだった。しかし、MRI捜査の成否はいかに被験者の脳情報を正確に緻密に読み取るかに係っていると言っても過言ではない。MRI捜査の未来を語るなら、ハード面の開発は絶対に欠かせない要素なのだ。
 会議内容にITテクノロジーのトピックを盛り込むためには、執行委員たちに第九のMRIシステムがどこまで進化しているのかを見せる必要がある。それには宇野の力が必要だ。

 人選もその理由も、青木は正しく薪の考えを読んでいた。理解されることの幸せ、小さな諍いのおかげで余計に貴重なものに思える。
「また拗ねるようだったら押し倒してやろうと思ったのに」
「はい?」
「何でもない」
 自分がオヤジ系女子にされたことをネタに、苛めてやろうと思ってやめた。今夜はもう充分に毒を吐いた。この後は甘く過ごしたい。
 吟醸酒は明日の楽しみに取っておいて、風呂から上がったら青木をベッドに誘おうと心に決めた。今夜は少しだけ大胆になろうと薪は思い、それが青木をどんなにか喜ばせるだろうと想像して弾むような気持ちになった。
 時間と共にアロマキャンドルの香りは浴室を満たして、薪を夢心地にさせる。安逸なほの暗さを、薪は心ゆくまで楽しんだ。

 そして1時間後。
「暗いと時間の感覚がズレるみたいで……すみません、立てません」
 脱衣所の床にうつ伏せになった大男の隣に屈み、薪は内側に曲げた拳に尖った顎を乗せた。
「僕は来週には日本を発つ。次に僕を抱けるのは半年後だけど、いいのか?」
「それはっ、――、うううう」
 起きようとして両腕を突っ張るまではよかったが、目眩に襲われたのだろう、青木は眼を閉じて再び床に沈んだ。再チャレンジするも結果は同じで、仰向けに寝返りを打つのがやっとだった。
 やれやれと薪は立ち上がり、洗面所の水で冷タオルを作って青木の額に当ててくれた。首筋と脇の下にも宛がって、のぼせた青木を介抱してくれた。世話を焼く彼の仕草は、どことなく楽しそうだった。
 それから彼は青木のために、冷蔵庫から冷たい水を持ってきてくれた。飲みやすいように青木の頭を自分の膝に乗せ、震える青木の手に自分の手を重ねてペットボトルを傾けた。風呂上りの彼からはとてもいい匂いがして、それが湯当たりからくる茫洋さと重なって、青木は自分が天国にいるような気がした。

「青木」
 やさしい声が春風のように青木の耳をなぶった。一足先に、春が来たみたいだと思った。
「すごく気持ちのいい風呂だった。またやろうな」
「はい」
 のぼせ上がって蕩けそうな瞳を細めて、青木は頷いた。




*****


 この下、メロディ8月号感想です。
 ネタバレしてますのでご注意ください。




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ランクS(13)

ランクS(13)





 それから半年後、MRI捜査国際フォーラムは大成功を収めた。
 MRI捜査に関しては後進国のフランスが堂々たるホスト役を務め上げたことについて、日本からのアドバイザーの力が大きかったことは言うまでもない。それは衆目が認めるところで、しかし決して日本代表の警視長はそのことに言及しなかった。日本人らしい奥床しさは、フランス警察の好意を得ることにつながった。フランス司法警察と日本警察は、この機会に友好な関係を築けたと言ってよかった。

 企画に寄与した事実の代わりに彼がフォーラムで発表したのは、自国が独自に開発を進めたテクノロジーに関する具体的な成果だった。モニター画面の分割やデータ伝送時間の短縮、情報過多による負荷への機械的な対応、オーバーフロー時の自動バックアップ機能など、捜査を効率的に進めるために不可欠な、それでいて往々にして縁の下に隠れがちなそれらに焦点を当てたトピックは、参加者たちの耳目を強力に引き付けた。
 彼の隣にはその開発に携わった技師の姿があり、質問は彼に集中した。日本代表である法医第九研究室室長は、その瞬間から優秀な通訳者になった。技師に質問の内容を伝え、質問者にはその国の言葉で解答を示した。解答は多くの専門用語を必要としたが、彼の答えは的確で、しかもとても分かりやすかった。

 彼らはその功績を、日本の専売特許にする心算はなかった。世界全体のMRI捜査の発展のために、プログラムとノウハウを無償で提供すると宣言した。それに伴うハードの開発はそれぞれの国に任せるより他なかったが、ソフト部分の協力は惜しまないと、徳人の態度を貫いた。
 結果、彼らはフォーラムに集った国々の賞賛を一身に浴びることになり、お株を奪われたフランスがへそを曲げるかと思いきや、フランスのMRI捜査関係者はすでに、揃いも揃って日本代表に骨抜きになっていた。会場に沸き起こった拍手の中で、最も強く手を叩いていたのは彼らだったのだ。

「ツヨシ! トレビアン!」
「メルシ、ちょ、ムッシュ、ヘンなとこ触らないでください」
 フォーラムが無事終了し、控え室に戻った薪を追いかけるようにしてやってきたフランス代表の中年男性が、賞賛の声と共に浴びせた熱い抱擁とベーゼをかいくぐり、薪は彼と距離を取った。姿勢を低くして身構える。この国は本当に、ちょっと気を抜くと大変なことになる。着いたその日に空港のトイレに2回も連れ込まれたなんて、青木に知られたらどんな目に遭わされるか。

「また投げられたいんですか、ジャン」
 綺麗なフランス語に無数の棘を含ませて、薪は彼のスキンシップを拒否した。男は薪とは対照的に砕いた母国語で、
「いいじゃない。久しぶりに会えて嬉しいんだよ」
 ジャンと呼ばれた男は悪気のない笑顔で薪を宥め、降参の印に小さく両手を上げた。

 執行委員長の彼とは、共に協力し合って準備を進めた。フランスの威信を掛けたコンベンションの責任者に抜擢されるだけあって、優秀な男だった。リーダーに相応しい人望と、他人を惹き付ける人間的な魅力を併せ持っていた。
 彼は語学に堪能で、各国のMRI捜査関係者とも連絡を取り合える立場にいた。よって、招待客とメンバーの調整は彼に任せて、薪は技術的な討議内容の雛型のみを作成すれば良かった。それは薪にとっては簡単で、他の委員たちには申し訳ないが退屈な仕事だった。

「準備期間半年の予定を3ヶ月で終わらせて帰国したときには、日本人はなんて人生の楽しみ方を知らない人種なんだろうと思ったよ」
「それは偏見です。仕事でも何でも、時間さえ掛ければいいってものじゃない。日本人は、限られた時間内で人生を楽しむ術を知っているんです。それに」
 感謝と親しみを込めて、薪は微笑んだ。
「僕は自分の国が好きなんです。あなたもそうでしょう?」
 フランス国民の誇り高さは知っている。彼らは何でも自国が一番にならないと気が済まない。彼らのヨーロッパ至上主義には辟易するが、その為に努力を惜しまない姿勢は称賛に値する。

「まさか、懇親会にも出ないで真っ直ぐ日本へ帰るとか言うんじゃないだろうね?」
「今日はお付き合いしますよ。日本から優秀なボディガードを連れて来てますから」
 薪は上着を脱いで、後ろにいた背の高い男に手渡した。振り返りもせず、男の顔を見ることもしなかった。
「彼は僕に触れる者を許しません。どうか御身を大切に」
「彼は君の?」
 青木とは初対面に近いのに、一瞬で自分たちの関係を見抜く彼らの恋愛スキルの高さには脱帽する。ジュティームだのアムールだのと日常的に口にできる国民性はどうしても馴染めないと思っていたが、あれは常日頃からその方面の鍛錬を積んでいるのかもしれない。

「oui」
 ジャンへの牽制もあって、薪は素直に彼の言うことを認めた。
「この事は他言無用です。日本はまだまだその手のことには保守的なんです」
「そうなのかい? 呆れた後進国だね。MRI捜査はあんなに進んでるのに」

 薪の背広をハンガーに掛ける青木の背中を薪が苦笑交じりに見やったとき、ドアが勢いよく開いて宇野が飛び込んできた。
「青木、通訳頼む。英語ならともかく、他はちんぷんかんぷんだ」
 天才技師として紹介された宇野は、他国の技術者の質問攻めにあったらしい。システムに関することで自分に答えられない質問はないと自負する宇野だが、質問の意味が分からなければ答えようがないだろう。
「日常会話なら何とかなりますけど、ITの専門用語になるとちょっと」
 自信が無さそうな青木の様子に、ならば僕が、と言い掛けた薪を制して、ジャンは一歩前に進んだ。薪と宇野の間に自分の身体を滑り込ませて、困難な役目を買って出た。

「ムッシュ宇野。通訳なら僕がやろう」
 ジャンは、参加国すべての言葉に精通している。彼が責任者に選ばれた理由も、その言語能力と交渉術を買われてのことだった。
「では、僕たちはレセプションパーティの準備の手伝いに」
「ノンノン! ツヨシ、この件に関しては君は遠慮してくれ。我が国のエクセレントな演出を、ジャパニーズ・OYAJIの感性でぶち壊されるのはごめんだ」
 強い口調で薪の協力を拒むと、ジャンはニヤッと笑って、
「パーティまでは2時間くらいある。限られた時間を有効に使って人生を楽しむ日本人の技ってのを、ぜひ見せて欲しいね」
 ウインクした片目にある種の情感を仄めかせ、ジャンは宇野の背中を押すようにして控室を出て行った。要は冷やかされたのだが、鈍い青木には伝わらなかったらしい。チッ、と舌打ちした薪を不思議そうに見ていたからだ。

「ジャパニーズオヤジの感性とか言われてましたけど。何かあったんですか?」
「レセプションパーティの演出プランについての会議でさ、日本の宴会の伝統芸を聞かれてドジョウ掬いを紹介したんだ。それ以来、何故かレセプション関係のミーティングには呼んでもらえなくなって」
 呆れた顔をする青木に、薪は言い訳がましく、
「腹踊りよりは品がいいと思ったんだ」と肩を竦めた。腕を回したら、肩がパキッと音を立てた。相当凝っている。自分ではそれほど意識していなかったが、かなりのストレスが掛かっていたらしい。

「そうですね。ドジョウ掬いは場が盛り上がりますしね。オレはいいと思いますよ」
「だろう?」
 軽く頷きながら、薪はソファに腰を下ろした。ネクタイを緩め、コーヒーを淹れてくれと言おうとした瞬間、
「薪さんはパーティまでの間に、人生を楽しまなくちゃいけないんですよね? オレは何をしましょうか?」
 急に後ろから抱きしめられて、薪は焦った。耳に掛かる青木の息が熱い。ジャンの言葉はパリっ子独特のスラングだらけのフランス語だったから彼には分からないと思っていたが、どうやら青木を見くびっていたらしい。

「じゃあ、まずは」
 右手を上から後ろに伸ばして、薪は青木の頭を捕らえた。そのまま後ろに仰のくと、青木はすぐに察して、薪の要求に応えた。
 異国の地で交わすキスは、フランスのデザートを煌びやかに飾るシュクレフィレの味がした。




*****

 言えないよ……この話、薪さんに「oui」て言わせたいがためだけにフランス警察を引っ張り込んだなんて言えないよ……。


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ランクS(14)

 最終章ですー。
 読んでくださってありがとうございました。(^^





ランクS(14)






「やっぱり途中で帰ってきちゃったか。薪くんにも困ったもんだねえ」
 ソファにふんぞり返って書類をめくりつつ、中園はヘラヘラと笑った。腹が立ったが、小野田はそれを飲み込んだ。過ぎたことを言い争っても仕方がない。

「僕の言った通りになっただろ」
 計画が失敗に終わったのに、どうしてこの男は満足そうなのだろう。小野田がこんなにがっかりしているのに、人の気持ちの分からない男だ。
「別に問題はないだろう。フォーラムは予想以上の成功を収めた。フランス警察からご丁寧な礼状も来ている。それに、薪くんは仕事を途中で放り出したわけじゃない。自分の仕事が全部終わって、やることが無くなったから帰ってきたんだ」
「結果的には同じことだろ」
「青木くんだって全然変わってないじゃない! 何が自分から身を引くだよ!」
 遂にキレて、小野田は叫んだ。中園の横柄な態度も危機感の無い表情も許せなかった。自分の立てた作戦が失敗したのに謝りもしないで、この男の辞書には反省と言う文字が無いのか。

「引くどころか押せ押せで、プロジェクトにまで手を出して。彼、フランス語ができない宇野君のために通訳をしてたんだよ。宇野君から送られてきた書類を翻訳してメールで送り返して、宇野君が作った意見書をフランス語に訳してメールして。その分、薪くんは自分の仕事に集中できた。予定が繰り上がるわけだよっ」
「それって悪いことなの?」
 中園の質問は尤もだと思うが素直に答えたくない、ていうか、そこは突っ込まないでくれよ!!

 計画が頓挫した根本的な理由はそこではない。スムーズに仕事が運び過ぎた、それ以前の問題だ。
「離れてたのはたったの3ヶ月。それも事件捜査じゃないから薪くんはヒマを持てあましてメールも電話もし放題、その上トゥーサンだの休戦記念日だのでチーム全体が休みになるもんだから週末ごとに帰国して、比べてみたら日本にいるときよりもデートの回数は増えたよねって、落語のオチじゃないんだよ?!」
 こんなことなら日本に、自分の手元に置いておけばよかった。その方がずっと彼らを牽制することができた。
「喚くなよ、みっともない。そんなに怒るなら、どうして国際フォーラムに青木くんの同行を許したんだよ」
「仕方ないだろ。薪くん、フランスに着いたその日に、知らない男に空港の個室トイレに2回も連れ込まれたって宇野くんが」
「……予想の遥か上を行くねえ」
 襲われキャラもここまで徹底すると見事だ。

「僕としては、バージョンアップのプログラムを各国に無償提供することの方が問題だと思うね。代価は求めるべきだよ。開発にだってそれなりの金が掛かってるんだ。どこかで回収しなきゃ」
「金なんかよりもっといいもので返ってくる。薪くんはそう思ってるみたいだよ」
「信用とか友好的な捜査協力とか? バカだな、外国からのそんなものを得るより、実質的に国益をあげて財務省に恩を売るほうがよっぽど」
「中園。それは警察の仕事じゃないよ」
 中園が小野田の答えに納得していないことは一目瞭然だったが、彼はひとまず口を噤んだ。公式発表してしまったことをとやかく言っても始まらない。彼の賢明さに満足を覚えながら、小野田は彼にだけ吐ける弱音を吐いた。

「問題はあの二人だよ。どうしたらいいものか」
「そんなに腐るなよ。この次はもっと上手く行くさ」
 嘯く中園を、小野田はじっとりと見つめた。小野田が目を細めると善人を絵に描いたような笑顔になるのだが、中園に対してだけは例外で、心の中と同じ不機嫌な顔になる。
「大丈夫だよ。薪くんのデータも青木くんのデータも、完璧だということが証明された。次は僕も本気を出すから」
 中園の瞳が冷たく光ったのを見て、小野田は嫌な予感に襲われた。かつて中園があの眼をした時、小野田の政敵たちは一人また一人と姿を消して行った。スキャンダルがマスコミを賑わせたり、過去のミスが取り沙汰されたり、家族の軽犯罪が暴かれたり。その度に小野田は権力の階段を一歩ずつ昇ってきた。彼らの失脚の形は様々で、発覚の仕方に共通点は無かった。その騒ぎの何処にも中園の姿はなかったが、薄々は気付いていた。
 でも、言わなかった。彼の暗躍なくして、自分が上に昇れないことは分かっていた。

「中園。薪くんは敵じゃないよ?」
「分かってるよ、そんなこと」
 何を今更、と中園は呆れたように笑い、読み終えた書類を抱えて席を立った。
「恐れながら官房長に進言いたします。この程度の書類にタイプミスが5箇所。あの秘書は替えたほうがよろしいかと」
「おまえに任せるよ」
 ありがとうございます、と中園は慇懃無礼に頭を下げ、官房室を出て行った。不利益になると判断すれば容赦なく切り捨てる。中園の人事評価の辛さは相変わらずだ。

 彼の評価基準は仕事ができるかできないかと言うよりも、小野田の役に立つか立たないかだ。小野田の足を引っ張ると判断すれば、例え相手が薪でも――。

 悪い予感を打ち消すように、小野田は首を振った。
 薪を自分の後継者にすることは、10年以上前からの決め事だ。旧第九が壊滅したことで遠回りせざるを得なかったが、この春ようやく、薪は官房室の一員になった。ここまで来てそれを壊すような真似は、いくら中園でもするまい。

 小野田の都合の良いように政敵が消え去ったとき、その疑惑を飲み込んだように。小野田は今回も沈黙を守ることにした。
 書類に目を戻した小野田の背後の窓の外では、2065年の春一番が吹き荒れていた。



―了―



(2013.4)



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

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