ハプニング(1)

 1万拍手のお礼です。
 あおまきさん入れ替わりという突拍子もないお話なのと、本編の薪さんなら絶対にしないことをしちゃうので、カテゴリは男爵でお願いします。 でも、カンチガイはそれほどひどくは、あ、やっぱりするかも(笑)

 拍手のお礼なので、Rはありません。
 笑えるお話に仕上げたつもりです。
 楽しんでいただけたら幸いです。





ハプニング(1)




「青木、知ってるか?」
 ぴん、と長い指を一本立てて、彼は得意げに言った。
 
「心霊現象の多くは、磁気の乱れによって側頭葉のニューロンが活性化し、過去の記憶が無作為に呼び起こされ、その結果脳内に幻覚を生じることが原因なんだ」
 行儀悪くデスクに腰掛け、長い足を組み、椅子に座った華奢な青年を見下ろす。彼の言葉を受けた青年は、きちんと揃えた膝の上に小さな手を載せ、大きな亜麻色の瞳で彼を見上げた。

「はい、聞いたことがあります。でも薪さん、あの」
「断層地帯とか、あと鉄橋にも多いんだ。落雷で鉄橋が磁力を帯びるんだ」
「ええ、知ってます。それで薪さん、あの」
 澄んだアルトの声を幾度も遮って、彼は心霊現象と磁力の関係について滔滔と自分の意見を述べる。彼のバステノールの声は自信に満ちて、気弱そうなアルトの声とは対照的に力強い響きを持っていた。

「MRIシステムは、強い磁力を発生させる。ほら、何年か前にも二人で一緒に同じ幻覚を見たことがあっただろう? 僕の言いたいことはわかるな」
「ええ、解ります。でも薪さん、あの後MRIシステムはリニューアルされて、第一電源入ってなかったし、だから今のこの状況は幻覚ではないと」
「それ以上言うなあああ!!!」

 突然テノールの声が裏返り、悲痛な叫びに変わった。
 乱れた黒髪に両の手が差し入れられ、長い指が頭部を押さえる。その様子を見て青年は、形の良い眉を困惑に寄せ、つややかなくちびるでため息を吐いた。

「どうしてこんなことになっちゃったんですかね、オレたち」
「知るか、僕だってパニクってんだ!」
 さっきまでの落ち着いた態度は何処へやら、黒髪の大男は立ち上がって部屋の中をうろうろと歩き始めた。
 
「きっと神聖な職場であんなことしたから、MRIの神さまが怒って……青木、おまえのせいだぞ!!」
「薪さんがあんまり激しく動くから、椅子のコマが壊れて引っくり返ったんじゃないですか。そのせいですよ、きっと」
「僕のせいじゃないっ、おまえがあんなに突き上げるから、つい……だ、だって今夜のおまえ、すごかったんだもん」
「すみません、薪さんからそういうセリフが聞けるのはすごく美味しいシチュエーションなんですけど、視覚的に自分がその台詞を言って真っ赤になるのは見るに耐えません」
「僕だってまっぴらだ! 妙に下から目線の自分と会話するなんて!!」

 本当に、どうしてこんなことになってしまったのだろう、と青木はいつものクセで眼鏡に手をやろうとし、何もないことに気付く。裸眼でこんなにクッキリと周りのものが見えたのはいつのことだったろう、と懐かしい思いに駆られるが、今はそんなことを思い出している場合ではない。

 今日は久しぶりのデートで、いつもみたいに食事の後薪のマンションへ行こうとしたら、薪が第九に忘れ物をしたと言いだして、仕方なくここに戻ってきた。忘れ物はすぐに見つかったのだが、ここから薪のマンションまでは1時間も掛かる。薪のセオリーで平日のデートは10時までと決められていて、マンションに着いた時点でタイムアウトだ。数週間のお預けは若い青木の身には非常に厳しく、殴られるのを覚悟で薪を抱きしめた。
 意外なことに、薪は抵抗しなかった。
 黙って青木の腕に抱かれて、するがままに任せた。くちびるを合わせ、舌を絡めあい、息を弾ませてもう一度しっかり抱き合った。ネクタイを外したのは薪の方が先だった。恥ずかしそうにうつむいて、それでも大胆に肩を出し、青木を扇情的な瞳で見上げた。

 それからは自然の成り行きというか、薪に誘い込まれたというか、まあ行くとこまで行ってしまったわけだが。
 職場で、椅子の上で愛し合うなんて初めてのことだったから、ふたりとも異様に興奮していたかもしれない。薪の乱れ方もすごかった。激しく揺さぶるうちに動きが大きくなり、負荷が掛かって椅子のコマが壊れた。バランスを崩してふたりは倒れ、抱き合ったまま床に転がった。
 倒れる瞬間、薪の方が下になる、何とかしないと怪我をさせてしまう、と思ったのを覚えている。しかし、咄嗟のことでどうしようもなかった。
 どうしようもなかったはずなのに、倒れたときには青木は薪の下敷きになっていた。自分の背中が床について、上に誰かの重みがあるとわかったときは、薪に痛い思いをさせずに済んだとホッとしかけたが、すぐに押しつぶされそうな重みに悲鳴を上げた。

「ま、薪さん、重いですっ、退いてくださ……?!」
 おかしい、薪がそんなに重いはずがない。それに、自分のこの声は? 喋ったのは自分なのに、何故薪の声が聞こえるのだ?
「痛つ……今、どこかから女の声が」
 薪の声は張り上げると中高音のアルトで、男にしてはかなり高いほうだ。女の声に聞こえないこともない。しかし、いま喋ったのは青木だが。
「えっ!?」
 驚愕の響きを含ませた低音に目を開けると、そこにいたのは―――。

「……青木。この鏡、何処から持ってきたんだ」
「鏡なんかないですよ。まさか・・・・」
「青木。そのマスク、すごく精巧にできてるな。いつの間に作ったんだ?」
「マスクなんかつけてません。薪さん、これは」
「落ち着け、とにかく服を着よう」
「薪さん。パンツは頭に被るものじゃなくて穿くものです」

 うつろな目で腰にネクタイを巻き始める自分の姿を見て、青木は頭を抱えた。現実主義者の薪は、こういう科学で説明のつかない状況にはひどく弱いのだ。秘密だが、同じ理由でお化けの類も苦手だ。
 青木とて、どうしてこんなことが起きたのかは理解できないが、薪と自分の身体が入れ替わってしまったことは事実だ。若くて発想も柔軟な青木は、薪のようにこの現象に姑息な説明を付けようとはせず、冷静に理由を究明しようと努めた。

「入れ替わりは事実みたいですね。どうやったら元に戻れるか、考えないと」
「入れ替わりだと!? そんなこと、あるわけないだろ!」
「いや、だって現実に」
「これは夢だ!! 一晩寝て明日になったら元に戻ってる、絶対にそうだ!」
「そんな。それじゃ何の解決にもならな……ちょっと薪さん、どこ行くんですか」
「10時だ、帰る。また明日な!」
「待ってくださいよ、帰ったって家の鍵が開きませんよ。薪さんのところ、瞳孔センサーでしょう」
 自動ドアへ向かった青木、いや薪が、がっくりと肩を落として帰ってくる。大きな背中を丸めて、しょぼくれると自分はこんなに情けない顔になるのか、薪が自分を苛めたがるわけが分かった、と青木はまた妙なことを考えた。

 その夜は、第九の仮眠室で休むことにした。
 翌朝になれば元に戻るのではないかという、薪の根拠のない希望はもちろん叶わなかった。こんな状況でも深い眠りに就いた青木は、朝練の時間にすっきりと目を覚まし、窓から差し込む爽やかな朝日の中で、昨夜は徹夜だったに違いない真っ赤な眼をして憔悴しきった自分の姿を見たのだった。






テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ハプニング(2)

ハプニング(2)





 木曜日の朝、岡部は道場で後輩を待っていた。
 これは何年も前からの習慣で、火曜日と木曜日の朝7時から、自分の得意分野である柔道と剣道について、後輩に指導をしてやっている。キャリア組でありながら肉体の鍛錬に熱心な後輩の名を、青木一行という。
 青木は職務上の理由ではなく、目一杯私的な事情から強い男になりたいと欲していて、この早朝訓練もその為だ。その目的は決して純粋な向上心ではないが、修行のきっかけが何であれ、大事なのは継続と努力だ。その点、青木はとても優秀な生徒だった。

「遅いな」
 準備体操を済ませ、壁に掛かった時計を見た岡部は、口中で小さく呟いた。
 青木は真面目で、いつもなら岡部より先に道場に到着している。まだ約束の時間から5分しか過ぎていないが、それでも青木にしては珍しいことだ。
 相手が来ないのでは仕方ない、岡部は独りで柔軟体操をして、腹筋を始めた。52回目に上体を起こしたとき、道場の入り口から背の高い後輩が姿を現した。

「おう、青木。こっちだ」
 軽く手を上げて後輩の名前を呼ぶと、彼はすぐに気がついて、こちらに歩いてきた。自分たちと同じように自己研鑽に励む職員たちの間を通って、岡部の傍に立った青木は、なにやら物珍しそうに周りを見回した。
「へえ……結構ひとがいるんだな」
 ヘンだ。
 岡部の顔を見て真っ先に挨拶をしないのも、時間に遅れた詫びを言わないのも青木らしくない。青木はとても礼儀正しい男の筈だが。

「おまえ、竹刀は? 忘れたのか?」
 今日は木曜日だから、剣道の日だ。竹刀を忘れるなんて、青木らしくない。
「あ、いやその、昨日は第九に泊って、ていうか、ちょっと困ったことに」
「仕方ないな、今日は柔道に変更だ。さっさと柔軟始めろ」
 ぼうっと突っ立っている後輩を座らせ、前屈運動の体勢を取らせる。何やらゴチャゴチャ言っていたようだが、遅れた言い訳なんか聞かんぞ。昨日は水曜日、おおよその察しはついている。

「違うんだ、岡部。ちょっと話を……いっ、いたたた!!」
 足を開かせて座らせ、背中にぐっと体重をかけてやると、青木が情けない悲鳴を上げた。
「なんだ、この身体! 固い!」
 おまえの身体だろうが。
「最初の頃は前屈マイナス30センチだった男が、今更なに言ってんだ」
 腰にキタか? と余計なことを言いかけて、岡部は心の中で不満のため息を洩らす。青木のやつ、若さに任せて薪さんの身体に負担を掛けていないだろうな。

 ……今日の重点項目は、受身の取り方にしよう。1本背負い、ガンガン決めてやる。

「マイナス30? 性格と柔軟性が一致しないやつだな……いや、そんなことはどうでもいい、あのな、岡部。聞いて欲しい話が」
「ほら、次! 腹筋と腕立て、100回ずつ! 早くしないと組み手まで行き着かんぞ」
 どうも今日の青木は私語が多いな。
 ん? なんか今、呼び捨てにされたような気がするが、気のせいだよな、きっと。

「ひゃ、100回!?」
「何をそんなに驚いてるんだ。いつもやってるだろう」
「いつも? あのヘタレが?」
「何を他人事みたいに言ってるんだ。薪さんを守りたいから強くなりたい、って言い出したのはおまえの方だろう」
 何年か前に目の前の男が言ったセリフをそのまま返してやると、何故か青木は赤くなってプイとそっぽを向いた。その仕草は照れくささを隠すときの誰かにそっくりで、恋人同士と言うのはだんだん似てくるものなのか、と岡部は自分まで恥ずかしいような気分になった。

 ……今日の仕上げは、痛みの強い関節技にしよう。

 それから青木は黙って腕立て伏せを始め、岡部のスペシャルメニューを黙々とこなした。寡黙に真剣にトレーニングに打ち込む後輩を見て、ようやくいつもの青木らしくなったと岡部は思い、続く一本背負い10連発で些少の違和感を忘れ去った。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ハプニング(3)

ハプニング(3)





 木曜早朝の合同会議の席に、竹内誠は目当ての人物の姿を見つけ、彼の姿が目に入る位置に自分の席を定めた。真正面ではなく、3席ほどずれた斜め前。このくらいの位置が彼と自分の関係には相応しいと、竹内は考えている。

 席に着いてレジュメをめくりつつ、そっと横目で彼を見る。
 亜麻色の髪が朝日にきらめき、長い睫毛が影を落とし、白い肌が真珠のように淡く光っている。つやつやとした薄ピンク色のくちびるを僅かに開いて物憂げに息をつく、その姿はまるで一枚の絵のようで。
 相変わらず綺麗だな、と今日も竹内は胸をときめかせる。

 竹内の目を捕らえて放さない彼は、第九研究室の室長。捜一のエースとして1課を代表する竹内とは敵対関係にある部署の最高責任者だ。部署同士の対立そのままに、数年前までは親の仇のようにいがみ合っていたのだが、ある事件をきっかけに、竹内の彼を見る目は180度方向転換した。それからは、誠意をもって彼に接しているつもりだ。彼の方は相変わらずだが。

 竹内の視界の隅で、薪は細い指をレジュメに伸ばし、紙をめくって内容を読み始めた。天才と名高い彼は、書類を読むのも他人の何倍も速く、いつもあっという間に読み終えてしまうのだが、今日は何故か妙にゆっくりと内容を確認しているようだ。
 きれいな睫毛を伏せて、亜麻色の瞳を左右に動かし、ロマンチックな詩を読むように穏やかな表情で書類を眺める。桜貝のような爪が愛らしさを強調する指先を、オーケストラの指揮でもするように華麗に動かして、その流れるような彼の所作に竹内はいつも、無機質で飾り気のない官公庁の会議室が優雅なサロンでもあるかのような錯覚を覚える。
 ……はずなのだが。

「?」
 何だか今日の薪は、妙にぎこちない動きをしている。書類の捲り方もオーバーリアクションだし、キョトキョトと周りを気にしてばかりいるし。一番、彼らしくないのはその姿勢だ。薪はいつも背筋をピンと伸ばして椅子に深くかけているのに、今日の彼は猫背になっていて、しかも緊張しているとはっきり分かる形に肩をこわばらせて、まるで借りてきたネコのようだ。
 何かあったのだろうか、と老婆心を止められない竹内がなおも薪を見ていると、亜麻色の瞳と視線がぶつかった。瞬間、竹内は薪がプイと横を向く姿を予想した。薪から発せられる『捜一は第九の敵』オーラはとてもあからさまで、顔を見るのもイヤだと思われていることを竹内は知っているからだ。
 ところが。

 薪は竹内の顔を見るとパッと笑顔になって席を立ち、こちらに歩いてきた。
「おはようございます、竹内さん。竹内さんもこの会議のメンバーだったんですか」
 ものすごい強烈なイヤミがきた。もう何度も顔を合わせている定例会議なのに、今までおまえの顔なんか目に入らなかったぞ、というわけだ。
「ええ、一応」
 まあ、このひとの皮肉と嫌味には慣れている。どんな内容でも、薪に話しかけてもらえるのは嬉しいし。皮肉を思いついたときの意地悪な笑みだとしても、薪の笑顔はとても可愛い……なんか、本当に可愛いんだけど。

 思わず、竹内の目は薪の顔に釘付けになる。
 いつもの片頬を吊り上げるような笑みではなく、自然に、長年の友人に笑いかけるような素直な笑顔。このひとがこんな風に、自分に笑いかけてくれるなんて。いつも彼の周りを取りまいている氷のオーラも感じられない。やわらかくて暖かく、夢幻のように美しい――― 春の女神が地上に降りたら、こんな感じだろうか。

「隣に座ってもいいですか?」
 親しげな中にも奥ゆかしさを潜めた、明るい響きの美声。薪がこんなにやさしく自分に話しかけてくれたのは初めてだ。
「あ……どうぞ」
 ようやくそれだけ言うと、竹内は薪の顔から視線を外した。あのまま見ていたら、場所柄もわきまえず惚けてしまいそうだ。

 薪は体重を感じさせない身のこなしで竹内の隣にすとん、と座って、小さな声で言った。
「よかった、知らない人ばかりで緊張しちゃって」
 薪らしい皮肉だ。『知らない人』というのは派閥違いの人間のことだ。官房長の秘蔵っ子である薪は、当然次長の派閥とは敵対している。その連中に囲まれているよりは、自分の方がまだマシということか。

「あの、竹内さん。ここに書いてあるこれって、どういう意味ですか?」
「え?」
 レジュメにある略語を差して、薪は竹内の顔を覗き込んでいる。これはあれだな、この略語の説明をさせて、それが少しでも違っていたら皮肉ってやろうという計画だな。
 それが分かっていても、この上目遣いの愛らしい表情を見せられては、彼を無視するなんてことは竹内にはできない。

「DARPA……米国国防総省高等研究計画局、だと思いましたけど」
「へえ。何をするところなんですか?」
「国防省の機関ですから。軍事に関する新技術の開発とか」
 一般常識の範囲を超えない竹内の解答に、薪は感心したように頷いた。
「よくご存知ですね。さすが竹内さんだなあ」
 薪の素直な賞賛に、竹内は椅子から転げ落ちそうになる。薪の方から話題を振ってきたのだ、自分の知識の豊富さをひけらかすように捲くし立ててくると思ったのに。
「見習わなきゃ」
 独り言みたいに呟く薪の姿に、竹内は開いた口がふさがらない。

 いったい、今日はどうしたんだろう? 自分の前でこんな態度を取るなんて、彼に何が起こったのだろう?
 熱でもあるのだろうか。そういえば、ちょっとダルそうだ。動きも緩慢だし、目つきも……うわ、やばい、すっごくかわいい。

 会議の間中、竹内は隣の薪のことが気になって仕方なかった。眉毛が穏やかに垂れていると、本当にやさしそうに見える。時々目が合うと、にこっと微笑んでくる。もしかしたら、俺はまだ夢を見ているのかな。夢の中で、今朝の会議に出席しているのかな。夢なら醒めないで欲しい……。

 いっそ永遠に続けばいいと竹内が願った会議が終り、薪は席を立った。
 失礼します、と礼儀正しく挨拶をして、竹内から離れていく。生返事を返しつつ、夢の余韻の中で竹内は彼の背中を追いかける。

「薪くん。これ、頼まれてた資料」
 細い背中に声が掛かり、薪は足を止めた。会議室を出て行こうとした薪を呼び止めたのは、警務部長の間宮だった。
 竹内はすっと表情を引き締め、さりげなく二人に近付いた。間宮の動向には気をつけてくれ、と岡部にも頼まれているし、竹内自身、ふたりの接近には心穏やかならぬものを感じている。
 
 間宮という男は多情な男で、すでに何人もの愛人を持っているにも関わらず、薪を狙っているらしい。清廉な薪をそんな目で見るなんて、それ自体許せない話だ。間宮の毒牙に掛かるくらいならいっそのこと自分が、いやその……。
 薪も、自分が彼にどんな目で見られているか分かっているから、その警戒心たるや見事なものだ。間宮が半径1m以内に近付いただけで、絶対拒絶のオーラを出しまくり、剣呑な目つきで相手を睨み―――――。

「間宮部長。いつもお世話になってます」
 睨み……あれ?

 おかしい、薪が間宮に普通に挨拶している。いつもの薪なら無愛想に「どうも」が関の山なのに。
 薪のガードが甘いものだから、間宮はさっさと薪の肩を抱き、部屋の隅に連れて行って何やら話し始めた。

「今日も色っぽいね。昨夜、デートだった?」
「ど、どうしてそれを、ひゃ!」
 薪のスーツの裾がもぞもぞと蠢いて、間宮の手が見え隠れしている。助けてやりたいが、それは余計なお世話だ。見かけによらず薪は強いし喧嘩っ早い。5秒もしない内に蹴り飛ばされるのがいつものパターンだ。
 が、その日に限って薪は身を固くして、じっと間宮の仕打ちに耐えるふうだった。どうしたのだろう。大人しくしていれば止めてくれる、そんな生易しい相手じゃないことくらい分かっているだろうに。

「薪室長! 官房長がお呼びですよ」
 見かねて、竹内は助け舟を出した。余計なことを、と後で薪に怒られるのは承知の上だ。
 間宮より高い階級にいる薪の守護者の名前を出して、いやらしい手から薪の身体をひったくるように庇うと、間宮は一瞬、蛇のような目で竹内を睨み、しかしすぐにいつもの余裕を持ったプレイボーイの貌に戻って、「じゃあまたね、薪くん」と右手を上げて去っていった。

「大丈夫ですか、薪室長」
 薪は真っ青になって、小刻みに身体を震わせている。A4サイズの封筒を胸に抱きしめるようにして肩を竦ませ、寒さに震える小鳥のように。
 どうしたのだろう、今日の薪は本当におかしい。いつもなら顔に似合わない悪態を吐くか、腹立ち紛れに近くの椅子を蹴り飛ばすかしているところだ。
 しかし、傷心を表面に出した彼の、なんて庇護欲をそそることだろう。守ってあげたい、抱きしめて慰めてあげたい、と心の奥底から湧き上がってきた彼への気持ちを、竹内は必死で抑えた。

「気持ち悪い……」
 ぽつり、と薪は言った。
「知りませんでした、こんなにおぞましいものだったなんて……何だか、自分が汚れたような気がします……」
 潔癖な薪には、耐え難い屈辱なのだろう。清く美しい彼、その彼をこんなに傷つけて、どうしてくれよう、間宮のやつ。
 とりあえず、間宮の愛人(女性に限るが)を何人かモノにして口惜しがらせてやるか、と捜一の光源氏の異名を持つ竹内は下賎な仕返しを思いつくが、このところ女性キラーの才能もすっかり錆付いてしまって、というのも薪に恋をしてからというもの、軽い恋愛ができなくなってしまった彼は、現在振られ記録を更新中である。

 それにしても、泣き寝入りとは薪らしくない。抵抗しなかったのは、胸に抱えた資料と何か関係があるのだろうか。
「大丈夫ですよ、薪室長は汚れてなんかいません」
 そう言って細い肩を叩いてやると、薪はホッとしたように竹内を見上げて、「もちろんです」と笑い、ぺこっと頭を下げて会議室を出て行った。その姿はやっぱり普段の彼よりずっと頼りなくて、しばらくの間竹内は、薪の後姿から目を離せなかった。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ハプニング(4)

 こんにちは。
 現場に出始めてから、体重と体脂肪が自然に落ちたのは嬉しいんですけど、ときどき意識がオチそうになります(@◇@
 ネットもオチぎみですみません~。 みなさんのところへも、行けなくてすみません~~。
 今日は雨なんですけど、現場は休みでも、挨拶回りとか材料の搬入とか立会いの書類とか、あれやこれやの雑用が。
 現場が上がる予定の10月末まで、亀更新&不義理をお許しください。

 




ハプニング(4)





「青木、おまえ顔色悪いけど大丈夫か? 身体の調子でも悪いのか」
「いや、平気だ。……です。それより曽我、さん。この窓の隅に映ってるの、犯人の車じゃないのかありませんかですでしょうか」
 「……大丈夫か? 青木。ちょっと休むか?」
 不自然な会話を交わしているふたりの様子を見て、室長は宇野に「青木を室長室に」と声を掛けた。時刻は定時の10分過ぎ。急ぎの案件もないし、他のものは退室するように、と言い於いて、先に室長室へ入る。

「青木、帰る前に室長室だってよ」
「きっとお説教だぞ。おまえ、今日一日おかしかったから。コーヒーの味は冴えないし」
「そうそう。資料探すのも、やたら時間がかかるし」
「買出しだって、俺の嫌いな鶏肉避けるの忘れてるし」
「……すみませんでした」
 
 そんな会話が聞こえてくる。それから帰り支度をする音と、MRIの終了確認のブザーが鳴り、お先に失礼します、と職員たちに挨拶をされ、思わず反射的に下げようとした頭をすんでのところで止める。身に付いた習性は、咄嗟のときに出てしまうものだ。
 
 居残りを命じられた青木が室長室に来ると、薪は部屋に鍵を掛けた。青木はふらふらと歩いて室長席に座り、デスクの上に両肘をついて頭を抱えた。相当キているらしい。
「薪さん、大丈夫で」
「大丈夫じゃない!!」
 ばん! と机を叩き、その威力にびっくりしたように目を瞠る。自分の手の大きさと力の強さが何倍にもなっていることに、彼はまだ実感がない。

「もう、どうしていいかわからん! 何がなんだか……てか、何でおまえってあんなに仕事が多いんだ? 捜査に割く時間がないじゃないか。みんなしていいように使いやがって」
 苛立った声で、自分が自分に詰め寄ってくる。何とも不思議な光景だ。
「何がコーヒーの味が冴えない、だ! 文句があるなら自分で淹れろ、バカヤロー! 5年も前の新聞記事なんか、そんなに早く見つかるかっ、てか、あいつらの好き嫌いまで僕が知ったことか! イヤなら食うな!!」
 あの沈黙の間に頭の中で叫ばれたに違いないセリフを音声にしてスッキリしたのか、薪はどさっと椅子の背にもたれ、優雅に足を組んだ。
 
「あんな大量の雑用、よくひとりでこなしてたな」
 普段、青木に言いつけられる雑用は薪からのものがダントツに多いのだから、今日はそれほどでもないはずだ。しかし、それを言うと張り飛ばされるかもしれない。痛いのも嫌だが、薪の身体に傷をつけたくない。
「朝練もきついし。腕立て伏せと腹筋100回って、おまえプロレスラーにでもなるつもりか?」
 岡部が決めた特訓メニューは、特殊班並みの厳しさだ。薪は実際に不特定多数の団体から命を狙われているのだから、彼を守ろうと思ったら、いくら鍛えても足りないくらいだと言われた。
「岡部は全然容赦しないし。投げ飛ばされて、あちこちアザだらけだ。おまけに先週の木曜、僕がだるそうにしてたけどあれはおまえのせいだろう、って言われて何度も関節技決められて、痛いのなんのって」
「岡部さんはそれだけ、薪さんのことを大事に思ってるんですよ」
「どうしてその報いを僕が受けなきゃならないんだ! 理不尽じゃないか!」
「すみません……」
「僕の顔して謝るなっ! なんかむちゃくちゃ腹立つぞ!」
 どうしろと言うのだろう。
 薪の中にも明確な答えがあるわけではなく、現況の不満を事情の通じる青木にぶつけたい、それだけらしい。

「おまえの方はどうだ。会議とか、おかしな発言してないだろうな」
「発言どころか、話してる内容が良く分かりません」
「それでいい。何を聞かれてもその場での即答は避けて、僕に指示を仰げ。特に、第九の権限を侵そうとする捜一には、甘い顔するんじゃないぞ」
 眼鏡の奥から切れ長の黒い眼が、ぎろりと青木を睨んでいる。見慣れた自分の顔のはずなのに、何故だかすごくこわい。オレって、こんなコワイ顔できたんだ。

「会議と言えば、これ。間宮部長から預かりました」
「お、早いな」
 今朝の会議の際、間宮に渡された封筒を差し出すと、薪はすぐに中の書類を検めた。細かい文字がぎっしりと並んだそれを一瞬で読み下し、満足そうに頷くと、
「バカとヘンタイは使いようだな」
 と、有名な格言をもじった。間宮の用意した書類は、薪を満足させたらしい。
「それって、二課の課長の身上調査ですよね?」
「なんだ、見たのか。他言無用だぞ」
「もしかして、こないだ小池さんにイチャモン付けてきた件ですか?」
 
 二課の課長は警視総監の息が掛かった男で、昔から薪とは仲が悪かったのだが、二課に在籍して詐欺事件を担当し、見事な検挙率を誇っていた小池が第九に引き抜かれてからというもの、薪を目の仇にしていた。今回の件も言い掛かりに近く、以前小池が担当した事件の犯人に余罪が出てきて、その責任の在りかを明確にするとか何とか。
 確かに自分が担当した事件ではあるが、何年も前の事件を持ち出されても、と小池も困っていた。

「イチャモンじゃなくて、引抜きだ。二課は小池が欲しくてたまらないんだ。小池は生まれつき、言葉に対する感覚が優れている。微妙なニュアンスを読み取るのが上手いんだ。詐欺事件を洗うのに、これ以上強い武器はないからな」
 一言多いのが欠点の第九の失言王子は、裏を返せばそれだけ優秀な言語能力を持っているということ。薪もその点は高く評価している。
「でも、おいそれと渡すわけにはいかん。第九にとっても小池の読唇術は貴重なんだ」
 面と向かって言葉にしたことはないが、薪が部下たちを大切に思っていることはよく解っている。今度のことだって、二課の課長に対抗するために、反りの合わない警務部長に頼んでこの資料を……。

「どうした?」
 急に顔色の曇った青木に気付いて、薪が首を傾げる。この動作を薪がするとアッパーカットに似た衝撃が来て、青木はいつも頭がクラクラするのだが、自分がやると何と言うかその……アホっぽい。
「いえ。それを受け取るときに、お尻さわられたの思い出して……」
 青木が嫌悪と共にそのことを告白すると、薪は烈火のごとく怒り出した。無理もない、さわられたのは薪の身体なのだ。

「間宮には隙を見せるなって、あれほど言っただろ! 顔見たらとりあえずグーパンチで一発行っとけって、僕のアドバイスを実行しなかったのか」
「できませんよ、そんな乱暴なこと。仮にも相手は警視長ですよ」
「僕だって警視長だ」
 そういう問題ではないと思うが。
「でも、この資料欲しかったんでしょう?」
「大丈夫だ。殴ったくらいじゃ、間宮は懲りないから」
 間宮と薪の関係がよく分からない。ある意味、彼を信頼しているのだろうか、それとも限りなくバカにしているのだろうか。
「いいか、この次からケツ触られたら腹に蹴り、揉まれたら股間に蹴りだ。でないと、その場でズボン降ろされて突っ込まれるぞ」
 どこまで危険人物、いや、ヘンタイだと思われているのだろう。少し可哀相になってきた。この資料だって、薪の頼みだから用意してくれたのだろうに。

「いくら何でも過剰防衛じゃないんですか」
「うるさい、誰のために守ってやってると思ってんだ」
 言ってしまってから、ぱっと頬を赤らめて口元を手で覆う。薪は興奮すると口が滑るタイプだから、こういう可愛らしい失言はけっこう多くて、その度に青木は彼を抱きしめたくなるのだが。

「……そそらない……」
 いくら人間見た目じゃないと言っても、あれはやっぱりタテマエだ。しかもそれが自分の姿とくれば、また別の意味で歯止めが掛かる。

「そうだ、岡部さんには事情を話してくれたんですよね?」
 思いついて、青木は確認する。
 入れ替わりの事実は、みんなには秘密にしておくことに決めた。そんな非科学的なことを誰が信じるか、というのが一番の理由だが、実はもうひとつ、大きな危惧がある。
 入れ替わったときの状況だ。
 何故あんな時間にふたりきりで職場にいたのか、何をしていたのか、何が原因でこの珍現象が起きたのか(これは当人たちも知りたいが)それらを追求されたら、ふたりの秘密の関係が公になってしまう。これが職務に関することなら鉄壁のポーカーフェイスで撥ね退ける薪だが、こういうことになると途端にヘタってしまうのがこのひとの特徴で、下手をすると青木より分かりやすい。第九の職員たちの嵐のような尋問に、耐え切れるとは思えない。
 岡部だけはふたりの特別な関係を知っているから、協力してもらおうということで話が決まったのだが。

「いや、それが……なんか、上手く言えなくて。言わないほうがいいような気もするし」
「岡部さんにだけは本当のことを話してフォローしてもらおうって言ったの、薪さんじゃないですか」
「だって、あんなこと言われたら気恥ずかしくて! 元はと言えば、おまえが悪いんじゃないか!」
 また人のせいにして。それは薪の専売特許だが、あれは薪がやるから可愛いんであって、自分がやったら可愛くも何ともない、てかムカツク。
 それでも中身はやっぱり薪で、照れたときのクセで横を向いて口元を覆う仕草を見れば、何となく彼の面影をそこに重ねて青木は心をざわつかせる。
 一刻も早く、元に戻りたい。可愛い薪を見たい。

「あの、今日一日、元に戻る方法をネットで調べてみたんですけどね」
「おまえ、仕事もしないでそんなことやってたのか」
 ボロが出るといけないから、不機嫌を装って室長室に閉じこもっていろと命令したのは薪だったはずだが。
「一番多いのが、入れ替わったときと同じシチュエーションで同等級の衝撃を与える、というパターンみたいです」
「同じシチュって、おまえ」
 薪の、いや青木の顔が歪んだ。何を考えたのかすぐに解ったが、それは自分でも無理だと思っていた。自分相手に欲情なんかできないし、自分に抱かれるなんてありえない!

「いや、それは不可能ですから。ええもう色んな意味で」
「だよな。僕、男のハダカ見ても勃たないし」
 そうなのだ、このひとは普通に女性の身体に反応するのだ。昔、ただの友だちだったころには一緒にAVを見たこともあるし、歌舞伎町のお風呂屋さんに連れて行かれたこともある。女の子の裸体を見て、薪はちゃんと反応していた。あのとき青木は、真面目に性転換を考えた。

「椅子から転がり落ちる、というのだけ試してみましょうか。場所も関係してるかもしれませんから、そちらのモニタールームで」
 少々の痛い思いは仕方ない。事態は急を要するのだ。
 今はまだ凶悪事件が起きていないから仕事も何とかなっているが、何かしらあればそこでアウトだ。薪が室長として動けなかったら、第九は機能しない。職務上の失態は許されない。ひとの命に関わることだし、第九の失墜を狙っているものはたくさんいる。その者たちに付け込まれる隙を与えてはならない。

 薪と第九を守らなければ。
 青木は強く心に誓い、室長室の扉を開けた。


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ハプニング(5)

 最近、キーボードを変えたのですよ。

『FILCO』 というメーカーのキーボードなんですけど、これがすっごく打ちやすい!!
 わたしはもともとメカニカルキーボードの感触が好きで、今まではサンワの製品を使っていました。 
 前のキーボードは壊れたわけではないのですが、キーの文字が掠れて見えなくなってしまって。 その消えた文字というのが、
『A、M、O、K、I、U、N』
……わはははは!!! (掠れた理由に心当たりがありすぎて、笑うしかない)

 別に文字は見えなくてもタイピングに差し支えはないのですが、オットに勧められて事務所のキーボードを FILCO に替えてみましたら。
 これがしっくりと指に馴染むようで~~、今もキーを叩きながら恍惚としております♪
 好みもあると思いますけど、値段的にも千円くらいの差だったら、わたしは絶対にこっちですね。

「すっごくいい!」と褒めまくったら、気を良くしたのか、オットが自宅のPCの分も買ってくれました。 というわけで、現在わたしはキーボードを叩くのがとても楽しいのでした~~♪
 と言っても、現場に出なきゃなので、なかなか事務所にいられないんですけどね☆
 でも、今日と明日は現場がお休みなので、更新したいと思います。 よろしくお願いします(^^








ハプニング(5)





 青木の提案で、ふたりはモニタールームで実験を試みることにした。青木はどこからか大判のマットを用意してきて、昨夜自分たちが倒れこんだ辺りに置いた。元に戻れても大怪我をしたら何にもならない。椅子から転がり落ちるだけとはいえ、打ち所によっては脳障害も起こりうる、その危険性は二人とも承知していた。
 あの時と同じように青木の席で、向かい合わせに抱き合って青木の膝に薪が腰を降ろす。それで準備は完了だ。

 自分の腿に座った身体に、薪は納得できない気持ちになる。
 自分はこんなに小さかっただろうか。手も足も情けないほど細くて弱々しくて、青木の立派な体躯に比べたら寸足らずの人形のようだ。青木はいったい、こんな身体のどこが良くてあんなに僕を欲しがるのだろう?

「昨夜と同じ体勢になったほうが、成功率が高いと思われます。薪さんが足で床を蹴って、イチニイサンでマットの上に倒れましょう。いいですか? 1、2」
「ちょっ、ちょっと待て。僕、そんなに足開いてたか?」
 薪の足は身長に比例してそれほど長くはないから、青木の体型に合わせると大きく広がる形になってしまう。自分の姿は自分には見えないし、その最中は夢中だから自分がどんな格好をしているか気にする余裕はなかったが、頭が冷静な状態で相手の目から改めて見ると、その姿はひどくはしたない。服を着ていてこれだから、これが裸になった暁には……ダメだ、脳内映像にモザイクがかかった。

「いえ、実際はこんな具合にオレの腰に絡んで、薪さん自身はこんな風に上下に動いて」
「うそだ! そんなことしてないぞ!!」
「してましたよ。昨夜の薪さん、すごかったんですから」
「僕が動いたんじゃない! おまえがこんな感じでガンガン突き上げてきたから、だから自然に」
 はた、と薪の顔、いや青木の顔が固まった。おずおずと自分の足の間に目を落とす。

「あれ? なんか……反応しちゃったんだけど……」
「雰囲気なんか何にもなくたって、物理刺激で反応しますからね。木の枝に擦り付けたってイケますものね。男って悲しい生き物ですよね」
「木の枝ってなんだ、どーゆープレイだ!」
 若い頃から淡白だった薪には、思春期の頃にも劣情を持て余した覚えはない。すべての能力を頭脳と美貌に使い果たして、こちらの方面には残り滓しかない、薪は正にその典型だった。
 昔からそういう気分が盛り上がらないと身体も反応しない、例え反応しても自己処理をすればそれで満足で、特に相手を必要としなかった。だから本当は女性経験も5本の指に余るのだが、それは青木には秘密だ。12歳も年上の自分の方が経験が少ないなんて、男の沽券に関わるからだ。

「どんだけ溜まってんだ、エロガキが」
「だって、薪さんなかなかOKしてくれないし、昨夜だって途中で……1ヶ月に2回じゃ足りないんですよ」
 薪にしてみればそれだって多いくらいなのに。若いってのは面倒だ。

「まあ、昨日のオレもその状態だったわけだから、いいんじゃないですか。じゃ、行きますよ」
 数を3つ数えて、薪は思い切り床を蹴った。鍛え上げられた脚力は薪の想像を遥かに超えて、思ったより軽々と二人の身体は宙に浮いた。と思うと、自然の法則で下方に落下し、青木が用意したマットの上に右肩から突っ込んだ。

 どすん。

 マットのおかげで大した痛みはない。しかし、彼らが期待した奇跡も起きなかった。
「……もう一度、試してみますか?」
「そうだな」
 何度か繰り返してみるが、一向に奇跡は訪れない。二人とも柔道を習得しているから、きちんと受身は取れているのだが、逆にそれが失敗の原因かとも思い、敢えて受身を取らずに試してみるが、やっぱりうまく行かない。
 大した期待はしていなかったが、所詮青木の考えることなんかこの程度だ。

「どうしましょう。これからオレたち」
 失意にうなだれる小さな人影。心なしか、声も震えている。
 マットの上に正座して呆然と視線を浮遊させる、自分の丸まった背中をぱしんと叩き、薪はすっくと立ち上がった。
「大丈夫だ、僕に任せとけ。必ず元に戻れる方法を探し出す」
 昨夜のパニックが嘘のように、薪は毅然とした口調で言い切った。勝算があるわけではないが、部下の不安を取除くのは上司の役目だ。
 一日過ごして、これが夢でも幻でもないことが分かった。現実なら受け入れるしかない。その覚悟ができれば、薪は強い。

「それまで、僕はおまえの務めを果たすから。おまえは僕になりきれ」
「そんな、無茶ですよ。オレに室長の仕事なんて!」
 甲高く裏返った情けない声で、青木は叫んだ。無理もない、自分だって入れ替わった相手が小野田あたりの高官で、明日からその仕事をこなせと言われたらパニックになってしまうだろう。
 青木がオタオタする様子はいつもなら笑えるのだが、それが自分の姿をしているとなると笑うどころかしっかりしろと怒鳴りつけたくなる。しかし、これの中身は若干25歳の青木一行で、その年の自分がまだ一課の一職員で大した責任も担っていなかったことを考え合わせると、充分に同情の余地はある。
 そこで薪は青木の目線に合わせて長身を折り、細い膝に置いた小さな手をじっと見つめている青木を安心させるよう、しっかりした声音で言った。
 
「安心しろ、僕がフォローしてやる。上手い具合に、てのは語弊があるけど、おまえの次の仕事、特捜(すでに刑が執行された死刑囚の脳を起訴内容と照合する捜査)だろ?」
「ああ、昨日刑が執行されたんでしたね」
 猟奇事件の死刑囚の脳は、処刑当日に第九に回される。それはすでに慣例になっており、職員のシフトの都合上、事前に担当者を決めることにしている。特捜は通常の捜査に比べて精神的な負担が大きいから、ひとりに集中しないよう、なるべく公平に当たるようにしている。今回は青木の番なのだ。
「昨日の夕方に脳が届いてたから、明日にでも捜査にかかれる。そのサポートに僕が入ることにすれば、職務時間中は二人きりでいても不自然じゃない。休日も休み時間も、なるべく一緒に」
 薪が、ふたりが一緒にいるのが自然に見える方法をあれこれ考えていると、青木はそれまで不安そうに揺らしていた亜麻色の瞳に暖かいものを湛え、薪の顔を見てふわっと笑った。自分の顔だが、それはなかなかにかわいいと不覚にも薪は思い、青木が自分を可愛いと言うたびに殴り倒していたことを思い出して、軽いジレンマに陥った。

「なんで笑ってんだ、おまえ」
「薪さんと一緒にいられる時間が増えるのはうれしいです」
「呑気なこと言ってる場合か!」
 青木のKYを嗜めるが、彼の気持ちが上向きになってくれたのは嬉しい。ここからは、ふたりのチームプレイが鍵になる。

 薪は右手の拳を握って青木の前に出した。気付いて、青木が自分の拳を合わせてくる。
 亜麻色の瞳を見つめて、薪は削げた頬に好戦的な笑みを浮かべた。


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ハプニング(6)

ハプニング(6)




「青木、ちょっと来い」
 名前を呼ばれて、彼は机の上を拭く手を止めた。声のした方を振り向くと、大きな背中が部屋の隅っこで何かしている。資料用キャビネットの整理をしているらしい。手伝え、という意味だろうと思ってそこに駆け寄った彼は、大きな目を細めて呆れ果てた声を出した。

「なんですか、これ」
 半開きになった亜麻色の瞳がかろうじて映しているのは、キャビネットの一番上の棚に置かれた一対の榊と、小皿に盛られた塩と米。
「見れば解るだろ。神棚だ」
 こともなげに答えて長身の男は、薄い和紙に包まれた四合瓶をお神酒に捧げ、パンパンと拍手を打つ。

「あの、薪さん。これは一体……」
「あんまり大っぴらに飾るわけにもいかないだろ? だから中身の整理をして、キャビネットの中にスペースを作ったんだ。元に戻れるように、これから毎日拝めよ」
 資料を探すのは新人の仕事だから、この扉を開けるのはこれを設置した本人だけ、とそれは納得のいく場所のチョイスだったが、彼が聞きたいのはそういうことではない。
 
「元に戻れるようにって、まさか、本気でMRIの神さまが、オレたちを入れ替えたと思ってるんですか?」
「今のところ、それ以外の理由が思いつかない」
 美貌の青年は何事か言いかけたが、すぐに細い首を振って諦めたように息を吐き、再度上方を見上げた。小柄な彼がそれを見るには、首を思い切り反らせる必要があった。

「……なんでご神体が鈴木さんの写真なんですか?」
 ヘンに抑揚のない調子で質問を投げた彼に、長身の男は平然と答える。
「第九の神様的存在って言ったら、鈴木しかいないだろう?」
「神さまなんだ……勝てないわけだ……」
 意味不明の呟きを洩らすと、青年は投げやりに小さな手を2回打ち鳴らした。青年が神棚に向かってお辞儀を終えたのを確認して、大柄な男はキャビネットを閉じ、鍵を掛けた。
 それから時計を確認して、青年に室長室へ行くよう指示をする。そろそろ職員たちが出勤してくる頃だ。ここで一緒に掃除をしていたら、みなにおかしく思われる。

「おはようございます!」
 朝の掃除をしているところに入ってきた小池に、陽気に挨拶をする。入れ替わって3日目、部下相手の敬語にもやっと慣れてきた。
「おはよう。おまえはいつも元気でいいなあ。悩みとかないんだろ」
「失礼な。ありますよ、オレだって悩みくらい。今日の昼メシ、何にしようかなあとか」
「ははっ、青木らしい」
 ざっとこんなもんだ。だれも中身が薪だとは気付くまい。

 青木一行という自分とは正反対のキャラクターを演じながら、薪はこの状況を密かに楽しんでいる自分を見つける。
 不謹慎だが、これは正直な気持ちだ。というのも、青木の身体は思ったよりずっと快適なのだ。
 まず、身長が高いから周りの人間を見下ろすことができる。常に他人のつむじが見えるという優越感を、薪は生まれて初めて味わった。中々に気分がいい。
 更にうれしいのは、セクハラの被害を心配しなくていいということだ。電車に乗っても痴漢に遭わないし、間宮の姿を見かけても遠回りしなくて済む。第九の連中の人使いの荒さは室長命令で減少しているし、キライな会議には出なくていいし。いいこと尽くめだ。

 薪の楽天的な心境には、理由がある。
 不安の要素は多々あるが、どうせこれは一時的なものに過ぎないと薪は踏んでいる。科学的に説明が付かないことは、長続きしないものだ。長期的かつ多発的な現象なら、とっくに学説が確立されているはずだ。それがないということは、研究に足るほどの期間、この珍現象は続かないということだ。
 長くても1週間と言ったところだろう。だったら、楽しんだほうが得だ。

 引き換え、青木の方は大変らしい。
 謙虚さが身に染み付いている青木は、どうしても部下である職員たちに上司らしく振舞うことができない。部下なんか家畜と一緒だ、とまで言い切る薪の暴君振りを模倣することはおろか、タメ口さえあやしい。
 おかげで薪は大忙しだ。
『さん』付けで呼ばれて青ざめていた宇野には、「薪さんが新しい嫌がらせを開発したみたいですね」と嘘を吐き、付箋が付いた報告書を「お願いします」と渡されて卒倒しそうになっていた曽我には、「嫌味な言い方ですねえ」とフォローを入れておいた。それで部下たちに納得されてしまう自分の上司像が少々、いやかなり腑に落ちなかったが、事態が発覚するよりはマシだ。本当は岡部にだけは事情を話そうと思っていたのだが、なんかもう、今更言えないって感じだ。

 日中、ふたりは特捜にかこつけて第四モニター室に篭り、画の確認のほうは青木に任せ、薪は上がってきた報告書の精査をする。指摘箇所に付箋をつけ、青木に持っていかせる。これで第九のほうは何とかなる。問題は部署外の仕事だ。
 薪がフォローできるのは、あくまで室長と部下が行動を共にできる範囲だ。室長のみが参加を許された会合や、人権擁護団体役員相手の接待等には同席できない。青木からトラブルの報告は受けていないが、自分の目の届かない所はどうも心配だ。

「薪さん、新しい方法を見つけたんですけど」
 第四モニター室で薪が買って来た昼食を摂りながら、青木が言う。この3日で、このセリフを聞くのは何度目だろう。
「雷に打たれて入れ替わった話があるみたいです」
「……却下」
「滝つぼに落ちたら、元に戻ったって話も」
「意識が戻らない確率の方が高くないか?」
 無謀な提案を打ち捨てるように没ると、青木は主に叱られた子犬のようにうなだれた。青木の気持ちは分からなくはない。早く元に戻りたいのだ。青木の生活は快適だ。薪の生活よりずっと楽しい。

「薪さんの方は、何か収穫ありましたか?」
「うん。調べてはいるけど。おまえの案と似たようなもんだ」
 そうですか、とため息を吐いて箸をしまう。弁当の中身は半分も減っていない。
「青木、それ残すのか? 食っていいか?」
「あ、どうぞ」
 とにかく、この身体は腹が減る。自分でもびっくりするくらいたくさん食べられるのだ。この身体でいるうちに山水亭に行って、フルコースを食べ切ることができたら、一生の思い出になるに違いない。

「おまえの身体って快適だな。食事は旨いし、夜はよく眠れて。思いっきり仕事しても疲れないし」
 楽しそうに食事をする薪とは対照的に、青木は深いため息を吐くと、モニター室を出て行った。程なく、2人分のコーヒーを持って帰ってくる。薪の姿で頻繁にコーヒーを淹れていたら怪しまれるから、研究室に職員がいないこの時間帯だけが青木のコーヒーを飲めるチャンスなのだ。

「お、サンキュ。う~ん、いい香りだ」
 鼻孔をつくコーヒーの香は、自分が淹れたものとはまるで違う。魂を揺さぶるような、深みのある馨だ。
「そうだ、後でコーヒーの淹れ方教えてくれ。これさえマスターすれば、僕は完璧な青木一行だ。いっそのこと、このまま青木一行として人生やり直そうかな」
 薪がおどけると青木は微笑して、「薪さんは」と言った。気楽でいいですね、と言われるのかと思ったが、青木はそんな嫌味は言わなかった。

「薪さんは、本当に大変な毎日を送ってらしたんですね」
 青木は自分のコーヒーカップを机の上に置き、軽く握った手を右目の下に添えた。それは彼がいつもしている眼鏡を押し上げる動作だったが、曲げた中指に触るものはなく、そのことに気付いて青木は苦笑した。
「オレはずっとあなたを見てきたつもりでした。だけど、全然わかっていなかった。仕事量が多いのは覚悟してましたけど、何よりも針の筵みたいな他部署との会議や擁護団体との会合や……あなたの偉大さを改めて知りました」

 湯気で曇るレンズの向こうに見える彼は、打ちひしがれて弱りきっていて、この入れ替わり生活にほとほと嫌気が差しているようだった。無理もない、青木は元々、他人と諍うことが苦手な平和主義者だ。面と向かって非難されることには慣れていない。その心痛は、察して余りある。
 しかし青木は、ぱあっと太陽みたいに笑って、
「もしかしたら、これは神さまが薪さんに与えてくださった休暇なのかもしれません。オレなんかの身体で申し訳ないですけど、あなたが少しでも楽しい思いをしてくださってるなら、オレ、このままがんばりますから」

 もう何年もこんなふうに笑ったことのない自分の笑顔を見るのはとても違和感があって、薪の胸がざわざわと騒ぐのはそのせいだ。青木のこういうところに僕は心底参ってる、とか今更思ってるわけじゃない。
 思ってるわけじゃないけど……本当に、こいつにはかなわない。

「そうだな。神さまってのは、ちゃんといるのかもしれないな。この健康で大きな身体は、そのご褒美ってわけだ」
「ええ。きっと薪さんの頑張りを見て」
 バカ、神さまにご褒美をもらってるのはおまえの方だ。僕のひねこびた性格には、チンケで貧弱な身体がお似合いってことだ。
 きれいで真っ直ぐな青木。その伸びやかな魂。その器に、矮小な肉体は相応しくない。

「もう一度、試してみようか」
「はい?」
「モニタールームで、おまえの席で。なんか、今なら戻れそうな気がする」
 急な話の展開についていけず、きょとんとする青木の腕を引いて立ち上がらせ、モニタールームに向かう。昼休みで誰もいない職務室で、ふたりはあの夜の体勢を取る。

「マットの用意がありませんけど」
「試すのは1回だけだ。ちゃんと受身取れよ」
「オレの身体、反応してないけど平気ですかね」
「それは関係ないだろ。いくぞ」
 左足で床を蹴って、椅子ごと右側に倒れる。ガシャン!という大きな音がして、リノリウムの床が振動した。

「て、痛って……やっぱ、マットが無いときつい」
「そうですね」
 薪は痛めた右肩をさすりながら、上体を起こした。同じように左足を擦っている相手を見る。薪の視線に気付くと、青木は少しだけ困ったように笑った。
「痛み損でしたね」
「そうだな」

 気持ちの問題ではないらしい。
 衝撃、タイミング、元の身体に戻ろうとする強い意志。そんなものとは関わりの無いところで、このハプニングは起きたということだろうか?
 認めたくはないが、人智を越えた何かが関与しているとなると、じたばたしてもムダ、ということになるが。

「手の出しようが無いか」
 神棚を設えてみたりしたけれど、薪は基本的に神の存在など認めてはいない。あれは、何というかシャレ的なもので、だって青木があんまり不安そうだったから。何かしら拠り所を作ってやろうと思って。
「自然に任せるしかないかもしれないな」
 薪がため息混じりに呟くと、青木は神妙な顔つきになり、はい、と頷いた。


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ハプニング(7)

ハプニング(7)





 正午を告げるチャイムを聞くと同時に、曽我は席を立った。隣の席で小池が、うーん、と唸りながら背伸びをしている。
「小池、今日の昼メシ、銀洋亭のランチにしようぜ」
「おう。薪さんが特捜に掛かってる間くらい、外へ食いに行かなきゃな」
 悲しいことに彼らは、「仕事最優先、食事は単なるエネルギー補給に過ぎない」という自論を部下にまで押し付ける室長のせいで、しばしば食の楽しみを奪われている。室長の目が届かないときくらい、昼休みを満喫したいと思うのは当然の心理だ。

「青木はどうする?」
「そうだな。一応、声掛けてみるか」
 小池は携帯電話を取り出し、後輩のアドレスに手早くメールを打った。
 青木は現在、室長とふたりきりで特捜に掛かるという、第九職員にとってこれ以上はないくらい不幸な境遇にある。あの状態は、例えるなら地獄の最下層だ。せめて昼休みくらい、哀れな亡者から人間に戻してやりたい。

「あ、でもどうだろう。あの事件て、あれだろ? かなりグロイ画を見てるはずだけど、青木のやつ食欲残ってるかな」
 特捜に掛けられた事件の概要は、小池たちも知っている。
 不倫の果ての一家惨殺事件の犯人、世間から魔女と罵られた女性が今回の捜査のターゲットだ。不倫関係にあった男とその妻、子供2人を殺して逮捕された。死刑が求刑されたのは4人もの人を殺した罪の重さもさることながら、その遺体に加えられた残酷な仕打ちも大きな要因を占めていた。
 殺された4人の被害者は、顔の皮を剥がされていた。
 男も妻も子供たちも、剥き出しの筋繊維と神経を晒し、初動捜査に当たった警察官たちを戦慄させた。その惨状から『魔女』という流言も生まれたのだ。
 犯人の脳には当然、皮を剥ぐ様子も映っている。グロテスクな画が苦手な青木には、かなり厳しいはずだ。

「そうだなあ。青木が行くって言ったら銀洋亭のハンバーグは諦めて、三笠屋の天ぷらにするか」
「天ぷらもきついだろ。松乃の蕎麦にしといてやれよ」
「えー、蕎麦じゃ夕方まで持たないよ。3時には腹が減っちまう」
 そんなことを話しながら、特捜が行なわれている部屋へ向かう。

 第九には、モニター室が4つある。第一モニター室には巨大なメインスクリーンがあり、ここが普段の捜査に使われている。第二から第四は特捜など、担当者以外の者が情報を得ることはできない極秘捜査のための個室になっている。
 その第四モニター室から、おぼつかない足取りで出てきた人影を見て、ふたりは首を傾げた。

 廊下の壁にもたれるようにしてよろよろと歩く姿は、間違いなく鬼上司のものだったが、彼のこんな頼りない背中はこれまで一度も目にしたことがない。第九では連続の徹夜作業も珍しくもないが、徹夜明け屍累々といった有様の中、薪だけはシャキッと背筋を伸ばして昂然と頭を上げているのが常である。
 かといって、薪が人並みはずれてタフかというと、そうでもない。年を重ねても一向に衰えない美貌からサイボーグ説まで浮上している薪だが、実際はその細い体躯に見合った体力しか持っていない。結果、薪の身体は、限界を超えると同時に意識を失い自動的に体力回復を図るという荒業をやってのけるようになった。その生命維持機能が働いて突然倒れる直前ですら、彼の背筋はきれいに伸ばされているのに。
 これは只事ではない。

「大丈夫ですか、室長」
「俺に摑まってください、仮眠室へ」
 曽我の腕にすがった室長は、真っ青な顔をして右手で口元を押さえている。ぎゅ、と目をつむって、とても辛そうだ。
「仮眠室の前にトイレだ。……ですね」
 モニター室から現れたもうひとりの男が、冷めた口調で言った。曽我の腕から薪の身体を引き取り、荷物でも扱うように自分の肩に担ぎ上げた。

「薪さん、体調悪いのか?」
「いや。けっこうキツイ画だったんで、そのせいですよ」
「そんなわけないだろ。あの薪さんが画に酔うなんて」
 青木はそれに答えず、黙って洗面所がある方向へ大股に歩いて行った。

「あ、今日は銀洋亭ですよね。ちょっと待っててくださいね、これ運んだら直ぐに行きますから」
 思いついたように振り返ると、ふたりに声をかけて、青木は廊下の角を曲がった。廊下に立ったまま、小池と曽我はまたもや首を傾げる。
「コレ?」
「運ぶ?」
 青木が薪に心酔していることは、すでに第九の中では朝太陽が昇ることと同じくらい当たり前のことだった。薪が倒れたりしたら青くなって飛んできて、大事そうに抱えてベッドへ運び、薪が眠っている間も何度も仮眠室へ様子を見に行く。眠って食べれば元気になるのが分かっていても、平静ではいられないらしい。
 その青木が、薪の身体をモノ扱いするなんて。

「何かあったのかな、青木のやつ」
 細い目を一層細めて、小池は思慮深げに腕を組んだ。
「ここ最近、どうもヘンなんだよな。何日か前もさ、青木に『おまえ悩みなんかないだろう』って言ったんだよ。そしたら『失礼な、悩みくらいある。今日の昼飯のこととか』みたいな返事が返ってきて」
「はは、青木らしいな」
 坊主頭を掻いて、曽我はひとの良さそうな笑みを浮かべる。陽気で朗らかで、自分とは正反対の友人の性格を、小池は少しだけ羨ましいと思っている。
 
「内容はな。でも青木なら、最初の一言は言わないと思う」
 小池が指摘すると、曽我はきょとんとした顔になって、ああ、と頷いた。
「咄嗟の一言って、人間性が出るんだよな。あれは青木には相応しくない言葉だ」
「そうだな。でもまあ、青木もここに来て3年だろ? いつまでも新人じゃないし、喋り方もくだけてきて当たり前じゃないのか」
「馴れ馴れしいのとは、また違うんだよな。なんかこう、ニュアンスが」
 そこで小池は言葉を切った。青木の姿が廊下に現れたからだ。

「お待たせしました、早く行きましょう」
「薪さんは?」
「仮眠室に寝せてきました。まだ気持ち悪いって」
「おまえ、ついてなくていいの?」
「え? どうしてですか?」
「どうしてって」
 それはこっちが聞きたい。

「早く行かないと、昼休み無くなっちゃいますよ」
 先に立って歩き始める青木に、またふたりは違和感を感じる。青木はいつも、ふたりの後を付いて来ていたのに、自分が先頭に立つなんて。
「小池さん、曽我さん。どうかしました?」
 ふたりの歩みの遅さを不審がったのか、青木が振り向いた。いくらか眉を寄せたその顔つきは、中々に精悍で男らしい。最近、女子職員の間で青木の人気が鰻登りだという眉唾物の噂は、1%の真実を内包しているのかもしれない。
「いや。早く行こうぜ」
 曽我が青木の横に並び、ふたりは小池の前を歩き始めた。青木はちらりと不審がる顔を見せたが、すぐにいつものように笑って、曽我と他愛ない話を始めた。
 
 青木の大きな背中を見ながら小池は、こいつも逞しくなったもんだ、と感慨深いものを抱く。
 第九に入ったばかりの頃は甘ったれたツラして、図体はでかいが威圧感は感じなかった。取っ組み合いのケンカになっても、勝つ自信があった。
 現在の青木は、柔剣道共に岡部に仕込まれて、身体も引き締まったし武道の実力も上がった。精神面も強くなり、凄惨な画も正視できるようになった。こいつはずっと、努力してきた。その自信がようやく表に出てきた、そういうことなのかもしれない。
 そんな理屈で小池は、自分の中に生まれた僅かな疑念に折り合いをつけ、同僚の後を追いかけた。




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ハプニング(8)

ハプニング(8)




「おーい、青木くん!」
 昼の弁当の買出しに行く途中の廊下で、聞き覚えのある声に呼び止められた。
 青木と呼ばれて、自然に振り返る。青木の身体に入って1週間、名前を呼ばれると反射的に身体が反応するようになった。

「雪子さ……三好先生。こんにちは」
 白衣の裾を蹴立てるようにして駆けてくる女性に、薪はにっこりと笑いかける。薪が世界で一番幸せになって欲しい女性、それが彼女だ。
 三好雪子は薪の親友で、将来は青木の奥さんになるかもしれない女性だ。矛盾極まりない話だが、青木と恋人関係にありながら、薪は彼女と青木が結ばれてくれることを期待している。
 自分には決して与えてやれない青木の幸せがあることを、薪は知っている。それは女性にしかできない、つまり彼の妻となり、彼の子供を産むこと。
 青木が子供好きなことは周知の事実だ。青木は今のところ薪に夢中で、そんなことは頭の片隅にもないのかもしれないが、将来的にはきっと出てくる問題だ。そうなったときには、自分は身を引かないと。青木の幸せを妨げるようなことだけはしたくない。そして彼の子供を産む幸せな女性は、できれば雪子であって欲しい。
 雪子なら、諦めがつく。彼女には逆立ちしたって勝てない。

 ヒールの音をカンカン響かせて薪の傍に立ち、雪子は薪を見上げた。黒いキラキラした瞳に上目遣いに見られて、薪はときめいている自分を自覚する。
 驚いた、上から見ると雪子さんは可愛い。ゴージャスな美人というイメージが強かったのに、自分の身体が大きくなったせいか、雪子が華奢に見える。それでいて盛り上がった胸の魅惑的なことと言ったら。
 それが目に入った途端、こめかみの辺りがカッと熱くなる。これは、青木の身体が反応しているのだろうか。男として当たり前の、女性に対する本能的な欲求。青木はいつもそれを雪子に感じているのだろうか。
 
 胸の中でざわりと蠢いた不愉快な感覚に気付かない振りをして、薪は「何かご用ですか」と雪子に尋ねた。真っ赤な口紅を塗った魅力的な唇が開いて、歯切れの良いアルトの声が響く。彼女のきっぱりと潔い話し方を、薪は好ましく思っている。
 
「こないだのあれ、試してみた? うまくいった?」
「あれってなんですか」
「帆掛け舟。図解してあげたでしょう?」
 ふね? 図解?
 さっぱり解らないが、おかげさまで、と答えておく。青木と入れ替わっていることは、もちろん雪子には内緒だ。お祭り好きの雪子にこの事実を知られたら、想像を絶する騒ぎになるに違いない。当たり障りのない会話を心掛けて、この場を凌がないと。

「次はツバメ返し、行ってみる? 薪くん、身体柔らかいからイケルと思うんだけど」
 ツバメ返しは知っている、柔道技の一つだ。が、雪子の言う「身体が柔らかいからいける」の意味がわからない。柔道のツバメ返しは、相手の足払いを避けて逆に足払いをかける技だ。相手の柔軟性に左右される技ではない。
 あと思い当たるのは剣術。宮本武蔵のライバル佐々木小次郎の技だ。じゃあ、これは剣道の話か。しかし、剣道に柔軟性が必要なのか? そもそも、どんな技だっけ?

「薪さんには無理ですよ。経験もないのに」
 薪は、剣道はやったことがない。身体の柔らかさには自信があるが、いきなり高等剣術を要求されても。
「あら、大丈夫よ、試してみなさいよ。あんた初めは信じなかったけど、×××の×××スポットだって、あたしが言ったとおりだったでしょう?」
「はっ!?」

 女性の口から信じられない言葉、というか放送禁止完全アウトの用語を聞いて、薪は目が点になる。雪子とは15年来の付き合いになるが、彼女の口からこんな言葉を聞いたことはただの一度もない。強く気高く美しい、雪子は薪にとって女神のような存在だったのだ。その女神がこんな下品な言葉を発するなんて。
 驚きの後に思いついたのは、あれを青木に教えたのが雪子だったという事実。青木は20歳年上の恋人に教えてもらった、と言っていたが、本当は雪子に教わったのか? もしかしなくても、実践で?

 一瞬、自分の恋人と友人の女性の情事が脳裏に浮かんで、薪は絶望的な気分になる。
 足元が、周りの風景が。
 砂になって崩れていく感覚。信じていたものがすべて風化して――――― きっと何も残らない、今、青木が僕から去ったら、僕には何も残らない。だって急すぎる。先日あんなに激しく愛し合ったばかりなのに、今日こんな事実を知らされても。
 できれば、この事実は青木の口から聞きたかった。もう少し、心の準備をさせて欲しかった。
 青木の子供を産むのは雪子さんであって欲しい、などと口では言いながら、いざそれが現実になると心は千々にも乱れて……ああ、僕は相変わらず口ばっかりだ。心の底から二人の幸せを願うのは、口で言うほど楽じゃない。

 薪の胸中を露ほども知らず、雪子はカラカラと笑って、
「まあ、これからも彩華からノウハウ聞いて、あんたに伝授してあげるわよ。本当はあんたが直接彩華に教わるのが、一番手っ取り早くていいんだけどね」
 シナプスの連結が所々切れてしまったかのような壊れた脳細胞で、薪は雪子の言葉を理解しようと努める。
 彩華って誰だろう。雪子の友人だろうか。
 いや、直接教わってはマズイだろう。雪子の友人とも、なんてどんだけ乱れた関係だ。本気ではないのだろうが、それを口に出す雪子も雪子だ。

「オレは、そんな軽い男じゃありません」
 つらいセリフだが、こう言っておかないと。ふたりの関係を壊すわけにはいかない。
『薪さんとは、ちゃんと別れます。オレが愛してるのは貴女だけです』
 何とかしてその言葉を口にしようと呼吸を整えている薪の耳に、雪子の声が聞こえてきた。

「言葉と図解だけってのは、限界があるのよ。彩華も身体で覚えるのが一番いいって言ってたじゃない。ウケを経験した男って、いいタチになれるって話よ。頑張ってみたら?」
 ……何だか話がおかしい。青木にホモの女役を勧めているように聞こえるが、気のせいだろうか。
「薪くんを愛してるんでしょう? あたしだって薪くんには幸せでいて欲しいんだから。がんばってよ」
 そう言った雪子の顔は、心からのやさしさに満ちて。一瞬でも二人の仲を疑った自分を、薪は激しく後悔する。
 雪子さんも青木も、そんな人間じゃない。何食わぬ顔で友人を裏切り続ける、そんなことができるほど器用じゃない。青木と雪子さんが知り合って3年、その間に男女の関係が一度もなかったとは言い切れないけれど、現在はないと信じよう。

「それとね、これも彩華に聞いたんだけど、×××を××するときには、直線的に動かすより回転させて、ぴーぴーぴー」(放送禁止コード底触)
 …………ないな、この二人は絶対にそういう関係になったことないな。ちょっとでも色気があれば、こんな話をするとは思えない。ていうか、雪子さんは本当に青木のことが好きなのか? だんだん自信なくなってきた……。
 
「ツバメ返しの体位はね、肩に乗せた相手の足の引き具合がポイントで、左右に動かすことでぴーがぴーしてぴーーーーー」(放送不能)
 ツバメ返しって、セックスの体位なのか?! てか、なんでそんなに詳しいんだ!? あああ、僕の女神が穢れていく!!

「雪子さ、いえ、三好先生! やめてください、女性の口からそんなっ」
 聞くに堪えない卑猥な言葉を連呼されて、薪は真っ赤になって叫ぶ。もともと猥談の類が苦手な薪は、そういう言葉に慣れていない。
「何よ。あんたが薪くんを悦ばせてやりたいって言うから、色々調べてやってんじゃない」
 僕の女神に何をやらせてんだ、あいつはっ!!

 声にならない叫びを体内中に駆け巡らせる薪の前で雪子は、白衣のポケットに手を入れ、ゴソゴソと中を探った。
「あ、そうだこれ。薪くんの反応が薄いときには使いなさい」
 チューブに入った塗り薬のようなものを渡される。薬品らしいが、名称も成分表示も見当たらない。しかし、雪子のにやーっと崩れた表情から察するに。
「これで楽しい夜が増えるわよ」
「い、いりませんよ、こんなもの」
「だって、薪くんが薄くて1度しかできないって不満がってたじゃない。これがあれば2回目もいけるわよ。薪くんの×××に塗り込めば、バッチリだから」
「うわ―――んっ!!」
 雪子にクスリをつき返して、泣きながらその場を走り去る。
 ひどい、あんまりだっ、そんなことまで雪子さんに話すなんて!! あいつ絶交だっ!!!

「……ヘンな青木くん」
 一人残された白衣の美女は長い首を傾げると、短い黒髪を一振りして自分の庁舎に帰っていった。


*****

 あおまきさんの入れ替わりを考えたとき、一番最初に思いついたのがこのネタでした。
 あー、楽しかった♪

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ハプニング(9)

ハプニング(9)





「室長。特捜の報告書、見てもらえますか」
 十数枚に渡る緻密な報告書の束を持って、青木は恐る恐る言った。
 何があったか不明だが、今日の薪の機嫌は地面スレスレの低空飛行。二人きりの特捜だというのに朝から一言も喋らないし、にこりともしない。
 
「あの……?」
 長方形の角だけが丸みを帯びたレンズの向こうから、ぎろりと凶悪な視線が青木を見据える。ふん、と鼻を鳴らして青木の手から書類をひったくり、乱暴に頁をめくり始める。イライラしたときのクセでつま先を上げ下げし、時折、やりきれないというようにハッと強く息を吐く。そんな薪と二人きりで部屋にいる青木はたまったものではない。
「ツバメも真っ青の超低空飛行だ……どわっ!!」
 ぼそりと呟いた陰口に、ワイヤレスキーボードが飛んできた。青木の身体になっても、薪の手の早さは変わらない。
「危ないですよ」と青木が思わず言うのに、
「僕はあんなこと絶対にやらないぞ!!」と真っ赤になって叫んだ。相変わらず、薪の思考回路は理解不能だ。

 尚も不機嫌な顔つきで報告書を読んでいた薪の顔が、急に真顔に戻った。口元に手を当ててじっと考え込むようだったが、やがて、
「青木。この最後の文は不要だ。削っとけ」とぶっきらぼうに言った。
「死刑囚に同情してどうする。何の罪もない女性と、更には子供を2人も殺した女だぞ」
「そうなんですけど。彼女、ずっと辛い人生を送ってきていたから」

 先日刑が執行された西園冴子(38)は、8年前に不倫相手とその家族、1家4人を惨殺して死刑が確定した。 捜査の過程で不倫相手に騙されての交際だったことが判明し、彼女に僅かな同情が集まったものの、そのあまりにも残酷な殺害方法が人々の同情心を遠ざけ、彼女は稀代の魔女として世間を震撼させた。
 更に、誌面を賑わせた彼女の美しい顔が作り物だったことを知るや、世論はますます彼女に辛いものとなった。
 冴子は、何度も整形手術を繰り返していた。元からそれ程、醜い顔だったわけではない。しかし何かに取り付かれたように、彼女は自分の顔を変え続けた。

「人間関係に躓くたびに、整形を繰り返していたように思うんです。外見が変わることで、何かが改善する――― そんな思いに取り付かれていたんじゃないかと。彼女の整形歴は15年にも及びますから、過去のことは推測でしかありませんが。
 彼女の母親はシングルマザーで、不倫の末に彼女を産んだそうです。母親はすぐに新しい男を作って冴子を置き去りにし、彼女は祖母に育てられたんですが、彼女の顔は母親にそっくりで、そのことをいつも祖母に責められながら育った、との証言が冴子の幼馴染みから取れてます。
 こんなことを身内から言われたら、きついですよね」
 青木は取調べ調書の該当頁をさぐり、その一行を指で指した。細い指の先の、桜貝のような爪が触れた一文を、眼鏡の奥の黒い眼がさっと読む。

『おまえみたいな顔の女は、他人様のものを盗む泥棒猫になる』

「だから彼女は整形を繰り返して、母親の呪縛から逃れようとしたんじゃないでしょうか。なのに、この男に騙されて関係を持って、結局はお祖母さんから言われたとおりに。真実を知ったときの彼女の絶望は、とても深かったと思います。だから」
 青木はもう一度ページを繰り、冴子自身の供述調書にある一文を示した。

『幸せそうな家族を見ていたら、気が狂ったみたいになって、自分が止められなかった』

 それから、モニターに被害者となった一家の画を呼び出した。
 ごく普通の、当たり前の4人家族。何と言うことはない、ただ一緒に夕飯を摂っているだけの画だ。取り立てて賑やかでもなく、笑い合っているわけでもなく、テレビはついたままだし会話をしている様子もない。ギスギスしているわけではないが、愛情一杯という様子もない、こんな家庭が今は普通だ。
 しかし、西園冴子というフィルターを通した途端、その光景は光り輝いた。
 4人の間に流れる愛情のパルスが、光の奔流のように溢れていた。表面に現れるものはなくとも、彼らの間にはしっかりと繋がった糸がある。
 それはきっと、彼女が求めて止まなかったもの。死ぬまで手に入れることの叶わなかったもの。

「こんな平凡な家庭が、彼女にはこんなに眩しかったんですね。彼女の犯行は許されることじゃありませんけど、ひとかけらの同情の余地もないとは」
「ない」
 青木の熱意に冷水を浴びせるように、薪はにべもなく言い捨てた。薪はやさしいひとだと思うが、時々こんなふうにひどく冷たい言い方をする。
「同情の余地はない。いくら何でもやりすぎだ。普通なら、騙した男に平手打ちのひとつでもして、不倫の事実を奥さんにばらして、夫婦喧嘩でオチがつく話だろ」
「これを見てください」
 青木はマウスを操作して、犯行現場をモニターに映した。そこには、包丁で滅多突きにされた男の死体と、同じく喉を裂かれて息絶えた妻が台所の床に転がっていた。

「……っ!」
 モニターを見た薪が、思わず息を飲む。
 部屋中に飛び散った大量の血液は、平凡なキッチンを地獄絵図に変えていた。ダイニングテーブルの上に置かれた四人分のポークソテーにと、大きな器に盛りつけられたポテトサラダが血に染まっている。冷蔵庫の扉に貼られた子供向けのアニメキャラのシールに赤い飛沫が飛んでいる。木目の床に、血溜りができている。血の池に顔を伏せるようにして息絶えている、子供の後頭部が見える。
 凄惨な画の中で冴子は、手にした包丁で女の死体から顔の皮を剥いでいた。身に付けた白いワンピースを返り血で真っ赤に染め、血の池に膝を着いて被害者に覆いかぶさるその姿は、魔女の称号に相応しかった。

 包丁を立てて切っ先を使い、顔の周りをぐるりと切り取る。眼窩に人差し指を入れ、親指の爪でこめかみの皮を剥く。女の皮の下にびっしりと付いた黄色い脂肪と真っ赤な血が、冴子の爪の間から溢れ落ちる。
 慎重な手つきで冴子は悪鬼のような作業を進め、やがて女の顔は赤黒く潰れた石榴のようになった。冴子はそれを一瞥し、すぐに自分が切り取った皮膚を見つめた。
 彼女の戦利品ともいえるそれは、人間の肌の色をして、ぐにょぐにょと布のように波打つ。冴子はそれを食卓の上に置くと、指で丁寧に広げ、布巾で汚れを拭き取った。額の部分を両手の人差し指と親指で挟むように持ち上げ、自分の目の前にかざす。

 徐々に近付いてくる皮膚の内側がモニター画面を満たし、薪は不覚にも腰が引けた。生皮の仮面に開いた二つの穴を通して再び部屋の中の光景が映ったとき、まるで自分の顔に他人の生皮が張り付いたような錯覚を覚えた。
 体温を失った人の皮膚の、ひやりとした感触。生理的な嫌悪感に、背筋がゾッと粟立つ。刹那、床に落ちていくかと思われた両膝が何かに引っかかって止まり、薪は自分の腰にさりげなく添えられた小さな手に気付く。
 ぐっと足を踏ん張って、薪は冷静な口調で言った。

「これが本物のデスマスクってやつだな」
「室長はさすがですね。オレはここで吐きました」
 苦笑して、青木は大きな眼で薪を見た。亜麻色の瞳の中に、強張った男の顔が映っている。

「この後、西園冴子は自分の姿を鏡に映します」
 サニタリーに備え付けられた手洗い用の鏡に、不気味な仮面をつけた女が写っている。しかし仮面はすぐに剥がされ、その下から美しい女の顔が現れた。所々、血に汚れた凄惨な美貌。額の真ん中から長い黒髪を両脇に垂らし、一見儚そうに見える彼女の眼は、絶望と狂気に濁っていた。
「それから彼女は、この作業を残りの3人に施し、やはり同じように剥いだ皮を自分の顔に当て、鏡に写すことを繰り返します。最後に当てたのは、自分が愛した男の皮でした。
 それを外したとき、彼女は初めて涙を零しました」

 鏡の前で、彼女は男の皮を頬に当て、身も世もなく泣いた。それは自分が犯した罪の重さに気付いての悔恨なのか、愛した男を永遠に失ったことへの悲しみなのか。
「どちらでもないと思うんです。室長も、同じ考えですよね」
「顔だけ変えたって、別の人間にはなれない。やっとそのことに気付いたんだろ。バカな女だ」
 冷酷な薪の言葉に、青木は自分の立場を忘れる。室長の薪に対する反論の言葉が、自然に口をついて出た。

「変身願望は誰にでもあります」
 不幸な子供時代を過ごして、近しい人からの非難を恒常的に受け、深い闇を抱えることを余儀なくされた挙句に過ちを犯してしまった彼女を馬鹿な女と言い捨てる、その酷薄な態度に憤りを覚える。
「西園冴子の場合、子供の頃に受けた祖母からの刷り込みによってその願望が異常なまでに大きくなり、その結果この凶行に到ったものと思われます。なので、検察側の起訴内容にある『自分を騙した不倫相手への恨みと、その家族への嫉妬心から顔の皮を剥いだ』という記述には、疑問があると」
「その疑問は不要だ」
 断定的な口調で、薪は青木の言を遮った。

「青木、特捜は犯行の事実だけを確認すればいいんだ。死刑囚の動機まで追うことはない。情状酌量の可能性があったとしても、彼女はもう死んでいる。無駄なことだ」
 青木にも、それは分かっている。特捜は、犯人の罪状に誤りがないか、余罪がないかを調査するものだ。犯行の動機や犯罪に至った心情を掘り起こすものではない。
 しかし、今回の件はあまりにも世間の誤解が酷い。このままではこの女性は、冷酷非道で血も涙もない魔女の烙印を押されたままになってしまう。

「でも」
「自分を認めることができなくて、整形手術を繰り返す。そこが既にバカだろ。外見だけ変えたって、中身が変わらなきゃ意味がない」
「彼女だって、変わりたかったんです。整形はきっかけにしたかっただけだと思います。でも、変われなかった。持って生まれた性質を変えるのはとても難しいし、今まで積み重ねてきた過去を消すのはもっと難しいからです」
 青木も時々、自分のこの愚鈍さを何とかしたいと思うときがある。おおらかと言えば聞こえはいいが、要は鈍いのだ。早い展開には付いていけなくて、目から鼻に抜けるタイプの薪をしばしば苛立たせる。

「他人を変えるのは大変だけど、自分を変えるのは簡単だ。努力次第でどうにでもなる。なりたい自分になればいい」
 それは薪が、生まれつき優れた能力を持っているからだ。あれだけの頭脳と運動神経、さらにその美貌を持ってすれば、努力で叶わないことなんかこの世にないだろう。でも、普通の人間はそうじゃない。いくら努力しても手に入らないものがあることを、幾度も思い知らされて大人になるのだ。
「そりゃ、薪さんくらいの地力があれば」
「顔を変えたくらいで、自分の過去が消せるもんか。そんなことをしなくたって、いくらでも人生をやり直すチャンスはあったのに。この女はバカだ」
 ぎゅ、と唇を噛む薪の仕草に、青木はようやく彼の本音に気づく。

 自分の感情を素直に出せない薪は、偽りの言葉で自分の本心を幾重にもガードする。中心に収められたそれが、ひどく脆いものだと自分でも分かっているからだ。常ならば、亜麻色の瞳を見れば彼の気持ちが伝わってくる、しかし今、薪の心は眼鏡の奥の黒い瞳に隠されてしまっている。小さくて色素の濃いその瞳は、情感を表すには単調すぎる。

 自分の人生をやり直したい、過去を抹消したい。
 夜毎、自分の罪に恐れ慄く薪が、夢で幾度も自分の親友に殺される薪が。
 それを思わないわけがない。

「そうですね」
 やっとの思いでそれだけ搾り出し、青木は薪を見つめた。他に、どう言っていいか分からなかった。
 青木は黙って報告書の訂正に取り掛かった。重い沈黙がふたりの間に落ち、部屋の中には紙を捲る音と青木が叩くキーボードの音だけが響いた。

「……僕は、思ってない」
 やがて薪は、静かに言った。
「別の人生を歩みたいなんて、僕は思わない。これは、僕の道だ」
 青木が振り向くと薪は、強い意志を宿した黒い瞳で、じっと空を睨んでいた。





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ハプニング(10)

ハプニング(10)




 特捜が終了し、第九に日常の風景が戻ってきた。研究室で青木が忙しく雑用をこなし、薪は室長室で職務に励む。
 入れ替わり生活も10日を過ぎた。
 青木の仕事の煩雑さと守備範囲の広さに初めは戸惑った薪だが、持ち前の器用さを存分に発揮して、程なく職員たちの期待に応えられるようになった。コーヒーの味だけは、青木のようには行かなかったが。
 責任の軽い数多くの仕事は熟考を要せず、すべてを片付けた後にはスポーツにも似た爽快感を味わえる。その感覚を楽しむことすら覚え始めている自分の順応性に呆れつつも、一日の終わりに飲むビールは最高に美味い。昔、捜一で羽佐間の下にいた頃は、毎日がこんな感じだったな、と懐かしさに駆られたりもしている。
 そんな具合に、薪の方は新人だった頃のことを思い出したりして楽しくやっているが、青木の方はそろそろ限界だろう。夜もよく眠れないらしく、日に日に顔色が悪くなっている。
 
「薪さん、最近顔色が優れないみたいですけど。いっぺん、医者に診てもらったらいかがですか」
 モニタールームで職員たちの捜査の様子を見回っていた薪に、岡部が声を掛ける。岡部のお節介が始まった、と薪は横目で彼らの様子を見やった。
 心配かけてすみません、と青木が頭を下げかけるのを眼力をぶつけて制し、らしく振舞え、と無言のプレッシャーをかける。
「いや、大丈夫だ」
「しかし」
「僕の身体のことは、僕が一番よくわかってる。余計な気遣いは無用だ」
 よしよし、なかなかいい受け答えだ。もうちょっと険のある声が出せれば満点なんだが。

 すげなくされて口を噤む岡部に、室長はにこりと笑って、
「岡部。心配してくれてありがとう」
 こら、それは余計だ! 岡部がびっくりして腰砕けになってるじゃないか。隣の宇野まで巻き込んで、床に椅子ごと倒れこんだぞ。こいつらまで入れ替わったらどうするつもりだ。

「本当におかしいですよ、室長。絶対に病院に行かなきゃダメですって!」
「熱でもあるんじゃないですか?」
 室長と一緒にモニターを覗いていた今井が、回転椅子を回して薪の額に手を伸ばす。払いのけろ、と目で指令を下すが、青木はじっとしたまま、と思ったら。
 細い膝が不意に崩れ、薪の身体が今井に向かって倒れた。

「やっぱり……調子悪かったんじゃないですか。無理するから」
 今井は薪の身体を支えて、青木の方を見た。少しの間青木の顔を見ていたが、やがて不思議そうに首を傾げると、薪の身体を抱き上げて椅子から立ち上がった。腕の中の青白い顔に眉をひそめ、仮眠室へと歩き出す。
 自分の身体が誰かに抱き上げられているのを見るのは、何だかフクザツな気分だ。青木に抱かれてるところは見たことがあるが、ていうか強制的に見せられたのだが、つまり鏡の前でムニャムニャ……。

「何やってんだ、青木。早くしろ」
「は?」
 早くしろ、と言われたが、別に今井から時間制限のある仕事を預かった覚えはない。
「ベッドの用意だよ。てか、薪さんが倒れたのにおまえが泡くって走ってこないって、おまえもどっか具合悪いのか?」
 ……バカか、あいつは! そんなあからさまな態度を取るなんて、僕たちの関係に気付かれたらどうするんだっ!

 頬が熱くなるのを感じながら、薪は仮眠室の扉を開け、ベッドを整えた。シーツを伸ばし、今井がそうっと寝かせた細い身体の上に、さっと毛布を掛ける。
 今井は腕を組んで、じっと室長の寝顔を見つめている。
 そんなに心配することはない、これは寝不足によるただの貧血だ。1、2時間も眠れば回復する。薪の身体は、薪が一番良く分かっている。
 さっさと仕事に戻れ、と言いたいのを我慢して、薪は仮眠室を出ようとする。自分の寝顔を見ているのも、気恥ずかしいものだ。

「青木、おまえがついてろよ。俺はやりかけの捜査があるんだから」
「ただの貧血でしょ? 付き添いなんて、大げさですよ」
「……薪さんとケンカでもしたのか?」
 踏み込んでいいものかどうか、逡巡が見える口調で今井は尋ねた。スマートで人付き合いの上手い、今井らしい気の回し方だった。薪が曖昧に頷くと今井はクスッと微笑を洩らして、組んだ腕を解き、右手を腰に当てた。

「大方、特捜の意見が合わなかったんだろ。あの死刑囚の生い立ちは俺も知ってる。おまえの性格なら、同情するだろうと思ってたよ」
 さすが今井。青木のヘタレを見抜いている。
「薪さんはああいう性格だから。凶悪犯には同情の余地無し、とでも言われたんだろ」
 ……僕の性格も見抜かれてるのか。
「でも、あのひとの口の悪さは今に始まったことじゃないし。薪さんの正義感の強さと、誰よりも犯罪を憎む気持ちの根底に何があるのか、おまえだって知ってるだろ?」
 今井は光の加減によっては青みがかっても見える魅惑を秘めた瞳で、青木の顔を射るように見た。鋭い眼だった。
「今日の薪さん、元気なかったぞ。目が覚めたら、美味いコーヒーでも淹れてやれ」
 そう言って、今井はモニタールームに戻っていった。

 取り残されて仕方なく、薪は自分の寝顔と向き合う。背もたれのない丸椅子に腰を降ろし、その座り心地の悪さと青木の体格とのアンバランスさに驚きつつ、こんな不快な環境で無為な時間を過ごすことへの苛立ちと焦燥を覚えながら、薪は広い肩を竦めた。
 いつ目覚めるかわからない他人の寝顔を見ているだけなんて、薪には考えられないくらい無意義な行為だ。見ていたからと言って、回復が早まるわけでもないだろう。無駄だ。

 そういえば。
 薪が目を覚ますと、たいてい誰かが側にいた。その誰かはほぼ100%の確率で、薪に叱られた。
『こんなところで何をしている。早く仕事に戻れ』
 何度叱り付けても次の時にはやっぱり誰かいて、どうしてこいつらは学習しないんだ、副室長なら僕がいない間はしっかり部下を見張っておけ、と岡部に当り散らしたこともある。岡部は素直にすみません、と頭を下げたが、その状況が改善されることはなかった。結局、薪が自分で貧血を起こさないように、仕事のペース配分を考え直さなくてはならなくなったのだ。

「青木。薪さん、大丈夫か?」
 仮眠室のドアを静かに開けて、宇野がこっそり入ってくる。「大丈夫です」と応えを返し、薪は席を立った。何か後輩に頼みたい用事があって来たのだろうと思い、指示を待つ。しかし宇野は後輩の顔さえ見ずに、懇々と眠り続ける室長を見ていた。
「うん。さっきより、顔色よくなってきたみたいだな」
 頬を緩ませて、微笑する。宇野のこんな顔は、あまり見たことがない。小池の影に隠れて目立たないが、宇野はけっこう辛辣で辛口批評が得意だ。素直に人を褒めないタイプだし、だからこそ宇野が勧める映画や本にはハズレがないのだが。
「薪さん、食が細いからな。青木、昼休みに薪さんの好きなハーゲンダッツのアフォガード買ってこいよ。その間、俺が見ててやるから」
 そう言って、宇野は仮眠室を出て行った。

 ……今、代わってくれるんじゃないのか? てか、自分で買ってくればいいだろう。今井も宇野も、なんで青木にばっかり僕の面倒を頼むんだ。コーヒーだのアイスだの、僕のために買ってこいって言うけど、僕の口には入らないんだぞ? 美味しい思いができるのは青木で、しかも青木はアフォガードよりクッキーアンドクリームが好きだし、ああ、なんか納得できない!

「青木。薪さん、どうした?」
 今度は曽我と小池のコンビだった。
 こいつら、僕がいないと本気でサボリやがって。全員、地獄のシステムチェック48時間ぶっ通しコースに叩き込んでやろうか。
「寝顔だけは可愛いよな。ずっと眠ってりゃいいのに」
 小池、チェックメンバー確定。
「薪さん、また少し痩せたか?」
「そうだなあ。青木、ちゃんと薪さんにメシ食わせてるのか?」
 なんだ、その質問は! 青木は僕の保護者か!!
 冗談じゃない、いつもこっちが作って食わせてやってるのに。なのにどうして、まるで僕の方が世話になってるみたいな言い方をされなきゃならないんだ!?

 憮然とした気持ちが表に出てしまったのか、曽我は少し怯んで、それでもいつもののんびりした口調で言った。
「薪さんさあ、おまえが一緒だと良く食べるんだろ? きっとおまえの食欲に釣られるんだって、岡部さんが言ってたぞ」
 岡部のやつ、余計なことを。
 
 その後、なんだかんだとどうでもいい雑談を交わして、ふたりは出て行った。まったく、何をしに来たのかさっぱりわからない。



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ハプニング(11)

 最近ですね、アクセスしてくださる方が増えたみたいなのですよ。
 とっても嬉しいのですけど、間違って来ちゃった方が多いのかな、って不安も大きかったりして(^^;
 で、検索キーワードを確認してみたら、殆どの方が『法医第10研究室』で来てくださってるみたいで安心しました。 
 一部、『警視庁 昇任試験』『一本背負いのコツ』で来て下さった方、スミマセン☆
 

 そうそう、一番面白かったキーワードは『一糸まとわぬ捜査官』
 どんな捜査官だよっ! と突っ込みたくなりましたが、身に覚えがありすぎて……自爆★





ハプニング(11)





 3度目にドアが開いたとき、薪はもう驚かなかった。
「青木。薪さんの具合、どうだ?」
 副室長までこの始末だ。小1時間の間に入れ替わり立ち替わり、第九はいつからそんなに暇な部署になったんだ。

「おまえ、薪さんに無理させてるんじゃないのか?」
「どういう意味ですか」
「おまえの若さと体力で押しまくったら、薪さんはこうなっちまうってことだ」
 岡部の誤解に眩暈を覚えながら、薪は首を振った。入れ替わってから10日以上、セックスどころかキスもしていない。自分相手にそんなことができるほど、ふたりとも自己愛が強くない。

「いいえ。薪さん、ちょっと風邪気味なんですよ。そのせいだと思います」
 適当な嘘を吐き、岡部の邪推を撥ね返すと、薪はせいぜい青木らしく笑って見せた。岡部は鋭いから、他の職員たちよりも注意が必要だ。
 薪が最も信頼している第九の副室長は、いくらか思案する素振りを見せたが、それ以上は追求しなかった。岡部はお節介だが、プライベートに立ち入り過ぎない大人の分別を持っている。
 
「それじゃ、今週の定例会もお流れだな」
 先週は特捜の最中だから、という理由で定例会は中止した。2週続けてのキャンセルに、岡部は少々がっかりするようだった。
「仕方ないですね。また来週ということで」
「来週はダメだ。室長会の暑気払いがある」
 そうだった。予定では、海辺のホテルに一泊して高級バイキング食べ放題……考えただけでヨダレが出そうだ。

「楽しみですね、バイキング」
「ははは、おまえも早く出世して室長になれば、参加できるかもな」
 このままだと青木が参加することになるのに気付き、宴席は体調不良を理由にキャンセルさせた方がいいか、と薪は考える。しかし、それまでに戻れれば自分が参加できるのだ。今の薪は、ホテルのディナーバイキングを逃すことには大いに不満がある。
 だって、海沿いのホテルだぞ。刺身の鮮度はバツグンだろうし、オプションで平目の活け造りとか食べられちゃうかもしれない。その機会を棒に振るなんて。
 食欲本能が突き抜けた青木の身体にいるうちに、薪はすっかり意地汚くなってしまった。売店のおにぎり一個で昼食を済ませ、昼休みの殆どを睡眠時間に充てていた昔の自分が信じられない。
 
 岡部がいなくなった後、仮眠室に二人きりになって、薪は見るともなく自分の顔を見る。
 連中は、何が楽しくてこんな顔を覗きに来たんだろう、と薪は思う。眠ってるわけだから変化もないし、面白いこともない。寝てる間に普段の仕返しをされるのかと思えば、そんなことはなかったし。

 我ながら可愛くないな、と薪は自分を嘲笑う。だけど、自分にはこんな考え方しかできない。

 だって。
 この身体の持ち主は、他者の愛情を受けるに値しない人間だから。

 それなりの地位と権力は持っている、仕事の面では部下を絶対服従させることができる。でも、それはあくまで仕事上のことだけだ。みんなに心配してもらえるような、そんな価値のある人間じゃないんだ。
 上司への義務的な見舞いならともかく、こんな意識が無い状態のときに見舞われて、起きたらあれを食べさせろだの、身体に気をつけてやれだのと親身な言葉を掛けられて。心配で堪らない眼で見られて、頬に赤みが差しただけで嬉しそうに微笑まれて。
 あいつらは、どうして学習しないんだ。なんで僕なんかに、そんなに――――。

「……ちくしょ。あいつら、まとめて減俸だ」
 思いがけず溢れてきた涙は、とても甘く。口汚く罵りながらも、薪はそれを止めることはできない。

 昔、青木にも言われたっけ。
『みんながあなたを大切にしてるんです。それを壊す権利は、あなたにはありません』
 あのときは、何を言ってるんだ、自分の身体をどう使おうと自分の勝手だと思ったけれど。今こうして青木の言葉の裏側に隠された真実を見せられれば、自身の安全を省みない薪の捜査方法に対する青木の怒りにも納得がいって、改めてあの時の自分は愚かだったと自省する。
 自分のことは世界一嫌いな薪だが、自分の大切な人たちがこんなに愛してくれるものを、そんなに嫌っては申し訳ないか、とほんの少しだけ思えるのは、流した涙の甘さに酩酊した扁桃体のミスか。

 大きな手が枕の上に散らばった亜麻色の髪に触れ、やさしく梳いた。サラサラとした手ざわり、青木が薪の髪を撫でるのが大好きだったことを思い出す。
 自分が今、この亜麻色の髪を、その持ち主を好ましいと思っているのは、青木の手の細胞に僕を愛した記憶があるからなのか。撫でられた僕の身体が喜びを覚えていると確信できるのは、僕の髪の細胞に彼のぬくもりが刻まれているからなのか。
 自分を慈しむ気持ちなんて、死ぬまで持てない、持っちゃいけないと思っていたのに。僕にそんな権利はないと、ずっと思っていたのに。
 彼らに愛されている自分を、誇らしく思うこの気持ちを捨てることができない。

 青木の眼から零れ落ちた薪の涙が、ふっくらと丸い頬に落ち、長い睫毛が微かに震えた。薪の見守る中で、類稀なる美貌が目を開けた。その亜麻色の瞳は果てしなく澄んで、夜空に輝く冬の星座のよう静謐だった。
「薪さん……どうなさったんですか?」
 急いで指で涙を拭くが、メガネが邪魔だった。慌てたものだから、耳から外れて床に落ちてしまった。床に屈んで眼鏡を拾う薪に、心配そうなアルトの声が降ってきた。
「大丈夫ですか?」
「こっちのセリフだ。いきなり倒れやがって」
 何とか平常心を取り戻して、薪は小さな椅子にどっかりと腰を下ろし、途端バランスを失って転びそうになった。仮眠室の椅子はもっと大きなものに取り替えるよう、総務に申請を出しておこう。

「オレ、倒れたんですか? はあ……貧血なんか、生まれて初めてです。吐き気がするんですね。知らなかった」
 青木にしてみれば、慣れないことの連続だ。薪には新人だった頃の記憶があるが、青木に室長の経験はないのだ。実際に室長の仕事をさせているわけではないが、その立場にいるだけでも気疲れして当然だ。
「色々、他人に言われることもあると思うけど、そんなに気にするな。あいつらはおまえに言ってるんじゃなくて、僕に言ってるんだ。聞き流しておけばいい」
「違います、彼らは薪さんに言ってるんじゃありません。第九の室長に言ってるんです。薪さん個人に対してあんなことを言われたら、オレ、とっくにキレてます。
 薪さんの方は大丈夫ですか? どこか、痛むんじゃありませんか?」
 相変わらずお人好しの青木は、心労で自分が倒れたというのにひとの心配ばかりする。

「人のことはいいから、まずはその青白い顔を何とかしろ。食欲がなくても、ちゃんと食べなきゃダメだ」
 岡部から耳にタコができるほど聞かされているセリフを自分が口にする滑稽さに、思わず笑いが込み上げてくる。ここで甘い顔を見せては駄目だと自分に言い聞かせ、薪は口元を引き締めた。
「すみません、ご迷惑かけました。岡部さんにも心配掛けちゃって」
「岡部に礼なんか言うことないんだ」
 そうだ、ここはきちんと言っておかないと。後で大変なことになる。
「あいつは本当にお節介なんだから。こないだなんか、ちょっと胃が痛いって言っただけで胃カメラ飲まされたんだぞ? あいつの言うことを全部実行してたら、病院の検査予約でスケジュール表が埋まっちまう。仕事してるヒマなんて無くなるぞ」

「岡部さんは、本当に薪さんのことが心配なんですよ」
 ……知ってる。
「岡部さんだけじゃなくて、みんなも」
 そう言って彼は、とても幸せそうに笑った。薪の身体で薪の顔で、薪がとうに忘れてしまった無垢な笑顔で。
 その笑顔を守りたいと思うこの気持ちは、一体何処から湧いてくるのだろう。

「……分かってるなら、僕の身体で貧血なんか起こすな。業務が停滞する」
 薪は、素っ気無く言い捨てて席を立った。
「弁当とアイス買って来てやる。それまで寝てろ」
 努めて不機嫌な態度を崩さずに、薪は部屋を出た。束の間、その場に立ち尽くす。
 仮眠室のドアを背に佇む薪の胸の中には、先刻の自分の笑顔が鮮明に残って、彼を微笑ませた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ハプニング(12)

 こんにちは~。
 えらく間が空いてしまって、すみません~~。


 ブログ開設以来、お話の間が20日も空いたのは初めてです。
 もうなんの話だったか、書いてる本人も忘れそうなお話にお付き合いくださる女神さまが、この世に何人くらいいらっしゃるのかしら。
 しかも、あおまきすとさんに叱られそうな展開になってきて……。(^^;)(←またか)

 どうか広いお心でお願いします。 




ハプニング(12)





 最近の薪の楽しみは、アフターの焼肉屋だ。
 この身体になってから、やたらと肉が食べたくなるのだ。しかも大量に。その割にすぐお腹が空くし、まったく燃費の悪い身体だ。

「すいません、カルビ3人前とビール追加!」
「よく食うなあ、おまえ」
「若いですから、オレ」
 小池に曽我、宇野の3人が呆れ顔で見守る中、薪は10皿目のオーダーを入れた。
 第九の仲間たちとワイワイやりながら、ビールを片手に肉を焼く。室長という立場になってからは、こういうコミュニケーションからすっかり遠ざかってしまっていたが、こうしていると捜一の頃に戻ったみたいで、とても楽しい。室長の重責で苦しんでいる青木に悪いという気持ちもあるが、これまで通り仲間たちとの付き合いもこなしておかないと、元に戻ったときに青木も困るだろう、と自分を納得させて、アフターの時間を思い切りエンジョイしている。

「そういえば小池。二課の課長、あれからどうした?」
「ああ。なんか、諦めたみたいだ。何も言ってこなくなった」
 曽我と小池のやり取りを聞いて、薪は密かに安堵する。間宮にもらった資料を基に、差出人不明のメールを送っておいたのだが、どうやら効いたらしい。
「薪さんが裏から手を回してくれたのかな」
「まさか。俺、薪さんには何にも言ってないし」
 直接相談を受けなくても、部下の身に何が起こっているのか把握するのは室長の役目だ。職務上のことはもちろん、プライベートにおいても最低限のことは知っておく必要がある。どんな友だちと付き合っているか、結婚を予定している相手はいるか。警察官という立場上、切らなければならない付き合いもある。監査課あたりにすっぱ抜かれるまで部下の素行不良に気付かなかったら、室長の職を辞さなければならなくなる。

「薪さんに言ったところでさ、また嫌味言われるのがオチだしな」
「そうかあ? ちゃんと相談すれば、きちんと答えてくれるだろ」
「答えはくれるんだけどさ、言い方がきついんだよ。とにかく、あのひとの言葉ってグッサリ胸に刺さるんだよな」
 酒が入ると話題に上るのが、女の子の話と自分の話、つまり室長の陰口だ。
 こういう席での上司のこき下ろしは当たり前のことだし、薪は心が広いから何を言われても平気だが、とりあえずはいつ誰が何を言ったか、すべて記憶しておくことにしている。別に100倍にして返してやろうと決意しているわけではない。一応、念のためだ。

「こないだ射撃か柔道の訓練のコースに参加してみろって言われて、今のところ業務に使わないからって断ったら、薪さんに何て言われたと思う?」
 口火を切るのは大抵小池だ。……今度の土日のメンテ当番は小池に変更するよう、青木に指示しておこう。
「『向上心を持たない生き物を、僕は人間とは認めない』。こうだぜ」
「うわ、ひっでー」
「きっついなー」
 ……そんなこと言ったっけ?

「本当にそんなことを?」
「本当だよ。まあ、青木は俺たちの目から見ても努力してるからな。言われたことないだろうけど」
 あ、思い出した。たしかその後に、おまえなんかサル以下だ、って言った覚えがある。それは敢えて省いたのか、それとも忘れたのか。
「バカとかマヌケとかは、しょっちゅうですけどね」
 だって本当にバカなんだもん、こいつ。
 
「そうそう、一日に一回は『バカ!』って言われてるよな。……あれ? でもこの頃聞かないな」
「そうなんだよ。薪さん、近頃何となく元気ないんだよ」
「こないだも貧血起こしたしな。疲れが溜まってるのかな」
 彼らが倒れた自分を心配して代わる代わる仮眠室に訪れてくれたことを知っている薪は、気恥ずかしさにうつむいた。同情されるのではなく、もちろん義理立てでもなく、純粋に気遣われるのは、照れくさいようなこそばゆいような、不思議な気分だ。

「青木とやってた特捜のときも、気分悪くなってたろ? あの人が画に酔うわきゃないから、風邪でも引いてるのかと思ったんだけど」
 青木のヤツが未熟なんだ、と真実を口にすることもできず、薪は黙って箸を動かし続けた。
「最近は仕事も落ち着いてるし、薪さんも定時で帰ってるみたいだから、特に疲弊する要因は無いはずなんだけど。以前みたいな溌溂さがなくなったっていうか」

「仕事は暇でも、アフターが忙しかったりして」
 情報通の小池が、意味ありげな口調で思わせぶりなことを言う。
「アフター? もしかして、昇格試験の勉強でもしてるのか」
「ちがうちがう。もっと色っぽい話」
 小池の言葉に、周りの3人は顔を見合わせる。どの顔も、信じられないという表情だ。
 薪と艶話の取り合わせは、ありそうでないものの代名詞だ。
 あの容姿から推し量るに、さぞ豊富な恋愛経験を積んでいるかと思いきや、いざ蓋を開けてみると薪は第九の誰よりもオクテだったりする。もともと恋愛には興味がなく、どんなときでも仕事最優先。プライベートの時間が皆無に近い室長と恋をしようと思ったら、MRIのモニター画面にでも住み着くしかない。

「薪さん最近、色んな女の子と付き合ってるみたいだぜ」

 ……だれが!?
 その場の誰もが驚きの声を発する中、誰よりも驚いている薪本人は、声も出せずにいた。

「へえ? あの唐変木が?」
 覚えとくぞ、宇野。
「相手は生きてる女の子か?」
 どういう意味だ、曽我!
「似合わないよな、あのひとに女の子なんて――― 痛って! 青木、レモン目に飛んだぞ!」
 小池の細い目にヒットするとはナイスコントロールだ、ってそれどころじゃない!

「まさか。室長がそんなことするはずがないですよ」
 おかしな噂を立てられたら、戻ったときに苦労するのはこっちだ。ここは否定しておかないと。
 薪が保身から無責任な噂話を否定すると、3人の部下は苦笑して、
「青木の室長びいきが始まったよ」
 まずい、ここで庇うとやぶへびだ。
 それ以上、否定することもできず、事情を話すことはもっとできず、薪は自分の醜聞を聞く羽目になった。

 小池の話では、薪が女性と会っている姿が何度も目撃されているそうだ。その手の噂には尾ひれが付くものだから、この情報は当てにならないが、建物の陰で抱き合っていたとか、エレベーターの中でキスをしていたとか、中庭の茂みの中でその先の行為に及んでいたとか、僕がそんなことするかっ、間宮じゃあるまいし!
 職場だぞ!? 神聖な職場でそんなこと―――― したから、こうなったんだっけ……。

「小池、それくらいにしてやれよ。青木は純情なんだから」
 曽我の言葉に薪は一瞬、何もかも暴露してやりたい誘惑に駆られる。
 青木が純情だって?
 冗談じゃない、ベッドの中ではいやらしいことばかり言ってくるし、時と場所を選ばないし、以前なんか真っ昼間から台所で……明るいところであんな格好にされて……。
 
「真っ赤になっちゃって、カワイイねえ、青木くん。でもちょっと、知り合いの艶聞は生々し過ぎるよな」
 赤面の理由を取り違えた宇野と曽我が、からかう口調で小池のお喋りを止める。よし、おまえらボーナス査定プラス1だ。小池はマイナス1。
「毎日見てる顔だからな。想像してんだろ、このスケベ」
 想像じゃなくて、思い出してるんだ。

 あれからもう半月。この若い身体は渇きを覚えていて、そういう話題には敏感になっている。
 青木の身体は薪には理解しがたい構造になっていて、聖職者の暮らしが3日ともたない。オスの機能が一番盛んな10代ですら、その現象が週に1度くらいだった薪には、毎朝のように暴れる身体の中の問題児にどう対応して良いのかわからない。仕方ないので処理はするのだが、これがけっこう時間が掛かって、自分なら清掃込みで5分で済むのに面倒なやつだと、やっかみ半分でヤケクソに手を動かしている。
 これだけ欲求が強ければ、デートの度に求めてくるのは当然かと思い当たるが、そこを納得してしまうと自分が地獄を見るので、敢えて改善策は提示しないことにした。元に戻っても今までどおり、原則1ヶ月に2回のベースライン、後は臨機応変=仕事の状況と薪の体力に合わせる、ということで。
 そこまで考えて、薪はふと不安になる。

 噂を聞いた直後は、青木本人に確かめるのも馬鹿馬鹿しいと思ったが、自分の身体に入った青木が、以前と同じ貪欲さを持っているとしたら?
 性的な欲求には精神面が強く影響するから、可能性がなくはない。そこまでバカではないと思うが、引っ叩いても蹴り倒してもしつこく求めてくる青木を思い出すと、そして最終的には9割の確率で青木が目的を遂げている事実を鑑みると、嫌でも不安が募る。

 まさか青木のヤツ、言い寄ってくるのをいいことに、片っ端から食ってるのか? 外見は40のオヤジだけど、中身は28歳の男だ、それはやりたい盛りだろう、でも僕の身体だぞ!?
 僕だっておまえの身体を手に入れて、これなら栄光の5人斬りも夢じゃないと思ったけど、必死で堪えたんだぞ!

 いつ元に戻れるチャンスがあるかわからないから、なるべくふたりきりでいる時間を作ろうと最初は思ったものの、現実はこうして薪は青木の交友関係をこなし、青木は薪の義理を果たしている。青木は今日は田城所長と一緒に市民団体の会合に参加しているはずだ。予定では、あと2時間ほどでマンションに帰ってくるはず。それまではここで時間を調整しないと。この身体では自分の家に入れないのだ。
 戻った後のこと、そして想像したくはないが戻れなかったときのことを考えると、人間関係の保持は大切だ。さらには、不自然なまでにふたりきりだと、あらぬ疑いを掛けられる。そこに真実が含まれているとなると、これはもう完全なやぶ蛇だ。
 話し合いの上、3週目に入ってからはお互いに距離を取っていたのだが、こんな噂が出てくるなんて。

 青木に限って、そんなことはないと思うけど。好きな相手とじゃないとできない、って言ってたし。
 ……でも。

 一応本人に質しておくか、と心に決めて、薪は11皿目の牛カルビを追加した。




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ハプニング(13)

ハプニング(13)




「お先に失礼します」
「ご苦労」
 上司と部下の挨拶を交わして、薪は小池たちと一緒にモニタールームを出た。金曜日だし、軽く飲んでいくか、と誘われるのを大学時代の架空の友だちの協力で断り、みなが帰ったのを確かめてから研究室に戻る。
 噂の真偽を確かめるためだ。

 昨夜は思いのほか会合が長引き、青木が疲弊しているようだったから見送った。今朝は室長会議があって、慌しかった。電話やメールも考えたが、こういうことは面と向かって、いきなり切り出さないと相手は尻尾を出さないものだ。昔鈴木に浮気されたことがあるから良く分かって……ああ、くそ! 今思い出しても腹が立つ!
 鈴木だって決していい加減な男じゃなかったけど、男って浮気する生き物なんだ。心と下半身は別っていうか。
 僕だって青木の恋人やってるけど、視覚的に興奮するのは女性の裸体だし。本能的に、男が女を求めるのは仕方のないことだ。男の視床下部には、女性を求めるための細胞がつまってるんだから。
 
 だけど、人間は本能だけでは動かないから。本能的な衝動をも上回る、もっと強い情感があるから。
 それを伴うセックスは、本能だけで行うそれとは比較にならない快感があり、比較しようもない幸福感がある。青木の身体も僕の身体も、それを知っているはずだ。
 そう思うと訊くことも躊躇われるが、やはり青木の口からはっきりとした否定の言葉が欲しい。

『オレが愛してるのはあなただけです』
 考えてみたらこのセリフ、もう何日言われてないんだろう。

 研究室に戻ってみると、宇野が一人でMRIモニターとにらめっこをしていた。画面に映像ではなく英数字が並んでいるところを見ると、プログラムで遊んでいるのだろう。宇野はこうして新しいプログラムを開発しては、MRIを進化させている。いわば、MRIシステムの母親的存在だ。MRIも宇野に一番なついているようだし。
「どうした、青木」
「あ、室長知りませんか」
「薪さんならさっき出てったけど。鞄持ってなかったから、外の空気でも吸いに行ったんじゃないか?」
 どうやらすれ違いらしい。宇野に礼を言って、薪は第九を出た。

 広い研究所内で、自分の姿を探す。
 青木のイメージから、まずは職員食堂、次にティーラウンジ、さらには売店の自販機コーナーまで当たってみたが、どこにもいない。以前なら、このどこかに必ずいたものだが。
「あ、そうか」
 探索を終えてから、薪はようやく気付く。今日は、室長会の暑気払いの日だ。今からパーティでご馳走を食べる人間が、食べ物関連の施設に用事があるはずがない。同じ理由で、ジムや道場に行くはずもない。
 残るは、中庭の散歩か。

 中庭と言っても、これが広い。あちこち探し回って、ようやく自分の姿を見つけたときには、一年で一番長い6月の日が暮れかける頃だった。
 その光景を見て、薪は咄嗟に立ち木の後ろに隠れた。
 黒い瞳に映っているのは、自分と見知らぬ女性。ショートカットの可愛らしいぽっちゃり系で、薪の好みのタイプだ。向き合って立ったまま、何か話しているようだが良く聞こえない。青木の耳は、薪ほど性能が良くない。
 尚も様子を見ていると、ふたりはその距離を縮め、抱擁を交わした。

「な……」
 何やってんだ、僕の身体で! そりゃ、その娘は僕の好みだけど、彼女のやわらかい感触を味わってるのは青木じゃないか。納得できない!
 すぐに離れるならまだしも、青木は彼女を放そうとしなかった。つまり、双方の合意の上にこの抱擁はなされているということだ。
 まさかこの二人、すでに関係を持ってるのか? いや、小池の話では『色んな女性と』ということだった。その気になれば、薪は相手には不自由しない。真剣に付き合いたいという相手も、アソビの関係を持ちたいという相手も、向こうから押し寄せてくるのだ。選び放題だ。不自由なのは、薪の下半身だ。って、やかましい!!!

 亜麻色の頭が女性の肩から離れて、その大きな瞳が薪の方を見た。遠くて表情は良く分からないが、はっきりとした動揺が伝わってくる。女性の方はうっとりと目を閉じて、全く気付かない様子だが、青木は間違いなく薪に気付いている。
 その証拠に青木は彼女を放すと、なにやら言って聞かせ、穏やかに別れた。「また後で」とでも言ったのだろうか。

 一人になった自分の身体に向かって、薪は大股に近付いた。上から彼を見下ろして、厳しい眼で相手を威嚇した。
「どういうつもりだ。僕の身体で何をしているんだ!」
 恨みがましい声が出た。
 当然だ、怒ってるんだ。声を抑える理性も蒸発するほど。

 冗談じゃない。
 青木と特別な関係になってからだって、誘惑はたくさんあった。正直、僕の好みド真ん中のぽっちゃり系の小柄な娘だって何人かいたんだ、1度だけって言葉に乗っかりそうになる自分の中の雄を必死で抑えたことだって、何度もあったんだぞ。
 女性だけじゃない、どこかのオヤジにいきなりトイレの個室に連れ込まれそうになったり、若い男に物陰に引き摺って行かれそうになったり……。
 誰のために必死で守ってきたと思ってんだ!! それを当の青木にこんな!

 それよりなにより。

 僕が念願の5人斬りをやらなかったのは、元に戻った後のこととか青木の経歴に瑕がつくとか、そういうことも考えたけど一番の理由は。
 青木の身体を、誰にも触らせたくなかったから。

 だってこれは僕のものだ、今青木は僕の恋人なんだから、僕だけのものだ。だから誰にもさわらせたくない、僕以外のひとに触れて欲しくない。それが青木の意志じゃなかったとしても、絶対に嫌だと思った。
 青木も同じ気持ちだと思っていたのに。それは僕の勝手な思い込みだったのだろうか。

「薪さん、ごめんなさい。勝手なことをして」
 青木はあっさりと、浮気の事実を認めた。

 ちょっと待て、白状するの早すぎるだろう。言い逃れする気ないのか、おまえ。それはなにか、このまま僕と切れてもいいということか?
 いや、彼女たちと会うことは内緒にしていたのだから、別れるつもりはないのだろう。これはあくまで浮気だ。男の本能が理性に勝っただけだ、ただの生理現象だ。自分がAV見てヌクのと一緒だ、と薪は懸命に自分に言い聞かせ、努めて冷静な口調で言った。

「どうして、こんなことをしたんだ」
「不安で……どうしても、我慢できなかったんです」
 精神的な不安を一時の快楽で紛らわせていた、ということか。今の薪が相手をするわけにはいかないから、声を掛けてくる女性たちを相手に。
「元に戻ったとき、トラブルの元になるようなことはやめてくれ」
「そんなことにはなりません。ていうか、オレ……このままでもいいかなって」

 青木の言葉に、薪は驚愕する。
『このままでもいい』とはどういうことだ、元に戻れなくてもいい、ということか? このまま、薪剛としての人生を歩んでもいいと?
 たしかに、もう元に戻れない可能性もある。その身体は永久に青木のものになるのかもしれない。だったらどう使おうと自分の勝手、というわけか。
 元に戻れなかったら、僕たちはもう愛し合えない。気持ちだけでつながってたわけじゃない僕たちには、肉体関係のない恋人同士としてやり直すことは難しいだろうし、相手を愛しいと思うのは、その姿形もひっくるめて愛しいのだ。自分の姿をした人間に恋心を抱くなんて、僕にはできない。

 薪は劣等感が強い。自己評価も極端に低い。いくら中身は青木だと自分に言い聞かせても、自分の姿を目にした途端、咄嗟に嫌悪感を抱いてしまう。

 ――――― 自分なんて、愛せない。

「もういい! おまえがそのつもりなら、おまえとはこれで終わりだ」
 突然張り上げた大声に、亜麻色の瞳が大きく見開かれた。急変した薪の態度をどう受け止めていいのかわからないと言いたげに、つややかなくちびるが驚きの形に開かれる。
 呆然としている自分の身体に背を向けて、薪は急ぎ足でその場所から遠ざかった。慌てて青木が後ろから追いかけてくる。
「待ってください、薪さん。なんか誤解してます。オレは何も」
「うるさい!」
 掴まれた手を思い切り払ったら、薪の身体がびっくりするくらい遠くに吹っ飛んだ。自分から2mも離れた地べたにみっともなく突っ伏したその姿を、薪は臍を噛む思いで見つめた。

 なんて軽くて手ごたえの無い身体なんだろう。青木が本気になったら、僕なんか相手にもならない。
 青木はいつも、壊れ物を扱うみたいにやさしく僕を抱く。本能的な衝動に押し流されるときでさえ、彼の手が僕への気遣いを忘れたことはない。

「乱暴は止してください。これは薪さんの身体なんですから。怪我でもしたらどうするんです」
 起き上がってスーツについた土を払いながら、青木は悲しそうに言った。
 お人好しめ、いま痛いのはおまえだろうが。

「軽い打ち身だけですね。よかった」
 青木は愛おしそうに自分の身体を自分で触り、怪我のないことを確かめると、ふっと微笑した。
 その様子に、早とちりだったかも知れない、と薪は思った。
 はっきり「他の女と寝た」と言われたわけじゃない。ごめんなさいと謝られたから、てっきりやったんだと思ったけど、別のことで謝ったのかもしれない。抱擁の事実はこの目で見たけど、ホテルに入るところを見たわけでもないし、マンションに連れ込む様子を目撃したのでもない。証拠としては弱い。
 何より、こんなに僕の身体を大事にしてくれる青木が、一時の快楽のために僕の身体を使ったりするだろうか。
 いや、待てよ、逆かもしれないぞ。薪さんの身体にキモチイイコトしてやろう、なんてトンチンカンなことを思ってるのかもしれない。だってこいつってベッドの中じゃものすごくしつこくて、もうカンベンしてくれって何度も訴えてるのに「薪さんたら、まだ欲しいんですか」とか真逆のこと言ってくるし。
 そりゃ身体は反応してるけど、僕は本当に嫌なんだ! 一晩に何度も何度も、頼むから一回で済ませてくれ!

「薪さんの許可もなく、勝手なことをしたのは謝ります。これがオレの我儘だってことも分かってます。だけどオレ、どうしても我慢できなくて」
「薪さん、探しましたよ!」
 青木の供述を遮ったのは、第九研究室の副室長だった。緊急の事件かと身構えるが、岡部の手に握られているのは薪の鞄だ。
「みなさん、お待ちかねですよ。バスを待たせてるんですから、急いでください」
 今年の懇親会は、海の見えるホテルに1泊しての宴会だった。残念だ、今のこの身体で参加できたら、ホテルの豪華バイキングをたらふく味わえるのに。

 青木は岡部の手前を取り繕って冷静な表情を作ると、「話の続きは帰ってから」と薪に向かってきっぱり言い、いつも薪がするようにくるりとこちらに背を向けた。
「行ってらっしゃい。お気をつけて」
 薪は二人の背中に頭を垂れ、青木がここで言うであろう言葉を口にし、じっと自分の爪先を見つめた。



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ハプニング(14)

 メロディ発売前に、こちらのお話を終わりにしようと思ったんですけど。 現場の中間検査が27日の午後に決まりまして、ちょっと難しいです。
 みなさんが12月号の衝撃で大変な時期に(←なぜ衝撃的な内容だと決めつける?) ちんたら更新するハメになりそうです。 
 KYですみません。(^^;





ハプニング(14)




 ―――― あなたなら、分かってくれるわよね?

 聞き覚えのない、女の声が聞こえる。

 ―――― 分かってくれるでしょう? わたしの気持ちが分かるでしょう?

 知らない女の声だ。記憶の片鱗にもない。
 否。
 何処かで……?

 薪はその声をどこで聞いたか思い出し、確信を持って目を開いた。果たして、薪の前には人皮のデスマスクを付けた女が、血まみれの包丁を持って立っていた。MRIの画と同じく、白いワンピースが返り血で真っ赤に染まっている。
 周囲の風景に、薪は見覚えがある。4人掛けのダイニングテーブルに、アニメのシールが貼られた冷蔵庫の扉。これは事件の現場だ。しかし、床に血溜りは無く、4つの死体もない。木目が美しく輝く明るいキッチン。それは彼女の憧れの象徴とも言える場所なのか。

「僕になんの用だ」
 恐ろしい女の姿に怯みもせず、薪は強気に言い放った。
「あなたとは、話が合うと思ったの」
「警察官の僕と死刑囚のおまえがか? 笑わせるな」
「でもあなたなら、わたしの気持ちを分かってくれるでしょう」
「あいにくだな。僕は犯罪者には同情しないタイプだ。話を聞いて欲しいなら、青木のところにでも出るんだな。もっとも、鈍いあいつにおまえの姿は見えないだろうが」
 幽霊相手でも、意地悪な性格は変わらない。いや、これは幽霊でもなければ生きた人間でもない。だから平気でいられるのだ。

 実は薪は、幽霊の類は苦手だ。部下たちには絶対に内緒だが、科学では説明の付かない心霊現象とは、あまりお近付きになりたくない。あいつらには理屈が通用しない、だから怖いのだ。
 なので、これが本当の幽霊だったらこんなに落ち着いてはいられないのだが、長い経験から薪には、この状態がMRIを見た後に良く起こる『引き込まれ』に過ぎないと分かっている。これは自分が作り出した幻だ。彼女の脳に影響を受けた自分の脳がその情報を整理しようとしている、それだけのことだ。

「分かるはずだわ。誰よりも、自分の過去を消したいと思っているあなたなら。過去に囚われて一歩も前に進めずにいるあなたなら」
「僕はおまえとは違う。過去を消したいなんて」
「考えなかった? 一度も?」
 いきなり目の前に死仮面が迫って、薪は大きく目を瞠る。さっきまで、3mくらい離れていたのに。この女は人外の速さを持っているのか。

「彼を失わなかった人生を考えたことはない?」

 古傷を抉られて、薪のガードにひびが入る。否定しなくては、と思いつつも、これは薪のアキレス腱だ。咄嗟には言葉が出てこない。
「鈴木さんが今でも生きていたら。あなたの親友として、ここにいたら。或いは……恋人だったら」
「やめろ、その口で鈴木の名前を呼ぶな」
 つややかなくちびるから零れたのは、押し殺したアルトの声。乱れた心を隠しきれないその響きを聞いて、彼女は嘲るように言った。
「考えないわけないわよね」
 彼女の言葉を否定できず、薪は目を逸らした。

 彼女の言うとおりだ、思わなかった日はない。あの日、この右手が引き金を引かなかったら、せめて急所を外れていたら。
 過去は消せない、変えられないと分かっていても、考えずにはいられない。

「そうやって、毎日毎晩、おんなじことを繰り返し考えてるくせに」
「想像したことがないとは言わない。でも、僕は君みたいに直ぐに逃げ出したりしない」
 薪は反論を開始した。赤の他人に好き放題言われて、黙って引き下がるほど穏やかな性格ではない。
「君が人間関係で辛い思いをしたのは、お祖母さんに罵られながら育ったからじゃない。それは確かに君の心に傷を残しただろう。でも、そんな人間は世の中にはたくさんいるんだ。もっと酷い虐待を受けて育つひとだって。彼らが全員社会に適合できないかというとそうじゃない。辛い子供時代をバネにして大きな成功を収める人だって、大勢いるじゃないか。
 君が周りと上手く行かなかったのは、君の力が足りなかっただけだ。周りの人間と和を持つ努力をしたのか? 自分から彼らに働きかけたか? 1度や2度冷たくあしらわれても、好意と誠意を相手に与え続ける、人間関係はそうやって自分で作るもんだ。
 上手く行かないことがあるたびに整形を繰り返すなんて、愚の骨頂だ。外見を変えたって、中身が変わらなきゃ一緒だ。君はバカだ」

 薪の反駁が終わると、彼女はゆっくりとデスマスクを外した。美しく作られた細面の顔。赤くて薄い唇が、アルカイックに釣りあがった。
「ずいぶん、偉そうだこと」
 自分のことを棚にあげて、と彼女は皮肉な口調で言い、薪を侮蔑の表情で見据えた。

「努力次第でなりたい自分になれる? よく言えたものね」
 にやりと笑って、冴子は大きな姿見をかざす。そこには薪の本当の姿が映っている。
 自分自身ですら実年齢を疑いたくなる少年めいた顔。色素の薄い日本人離れした肌の色と華奢な体つき。薪が憧れる男らしさとは無縁の姿だ。

「それがあなたの望んだ姿? あなたが歩みたかった人生?」
 この外見のせいで、色々といやな目に遭ってきた。軽んじられたり、謂れのない中傷を受けたり、おかしな男に目をつけられたり。思い出したくないことばかりだ。
「誰よりも、自分を捨てたいと思ってるくせに」
「……思ってない。僕は今の自分に満足してる」
「うそ。成り代わりたいと思ってるでしょ? あの、女医先生に」
 予想外のことを言われて、薪は眉根を寄せる。一瞬にして幼くなった自分の顔に、疑念と不安が浮かんでいる。

「なに……?」
「彼女はあなたの憧れですものね、強くて気高くて美しい。その上、愛するひとの想い人」
 とんでもない言いがかりだ、僕が雪子さんを妬んでいるとでも言うのか。
 侮辱を受けた怒りに、薪の拳が固く握り締められる。雪子の幸せを願う気持ちは、薪の中で一番純粋な思いだ。それをこんなふうに穢すことは許さない。

「そんなことは思っていない。僕は彼女の幸せを心から願っている」
「嘘おっしゃい。自分の大事なひとを奪っていく彼女が、憎くてたまらないくせに」
「昔はそうだったけど、今は違う。青木は僕のことを」
「アハハハハハ!!」
 薪が言いかけると、冴子はけたたましく笑った。耳を劈くような不快な哄笑に、咄嗟に耳を塞ぐ。

「必死になっちゃって、ああ、おかしい。
 わかってるんでしょ? 自分じゃ一生彼の側にいることはできないって。
 男のあなたには結婚もできない、子供も産めない。あなたは所詮、一時の恋人」

 冴子は軽快に爪先を運び、薪の周囲を歩き回った。右手に包丁を握ったまま、手を後ろに組んでいる。刃物の切っ先から、血の雫が滴る。どこから沸いてくるのか、包丁から流れる血は一向に止まらず、薪の周りには血の輪ができた。

「彼の人生のパートナーにはなれない」

 耳に当てられた細い指が、そのまま亜麻色の髪に絡んだ。ぐしゃりと髪を摑んで、歪んだ顔を下に向ける。キッチンの床に土足で立っている自分の革靴の紐が、幾重にもダブって見える。美しく磨かれた木目に、透明な雫が零れ落ちた。

 いつも。
 いつも自分で思っていることを他人に言われるのは、こんなに衝撃的なものか。反射的に涙が零れるほどに、それを止められないほどに。
 
「彼女が羨ましいでしょう? 彼女になって、彼に愛されたい、彼の子供が産みたいと思うでしょう。彼と確かに愛し合った証を、彼との間に残したいと思うでしょう」
 薪は夢中でかぶりを振った。床に幾つもの水滴が落ちる。
「思ってない。僕は本当に雪子さんと青木がそうなってくれたらいいと」
 冴子に向かって一歩踏み出した薪の足が、何かにぶつかった。下を見ると、女の死体だ。冴子が殺した不倫相手の妻の―――― ちがう、これは……。
 白衣が真っ赤に染まって、短い黒髪が血溜りの中に散らばって、顔は分からない、皮を剥がれていて判別が付かない。だけどこの女性は、ちがう、ちがう、これは現実じゃない――――。

「自分の姿を見るといいわ」
 嘲笑と共に投げつけられた言葉に、薪は顔を上げた。

 鏡に映っていたのは、右手に血に濡れた包丁を握り、雪子のデスマスクを被った自分の姿だった。






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ハプニング(15)

 こんにちは。
 メロディ、発売されましたね。
 ふふふ……さすが清水先生だと思いました。 本当に容赦ないデス。


 ちょっと私信です。

 Mさま。
 そうです、ご指摘のアニメの主題歌です。(笑)
 これ書いた頃から再放送してて、今、翔陽戦が終わったところかな。
 うちの話の題名って、曲名から取ってるの多いんです~。
「桜」とか「鋼のこころ」(ハガレン)とか「運命のひと」とか「消せない罪」(これもハガレン)とか「天国と地獄」とか「ジャイアントキリング」とか。(最後のはまだ公開してませんが)
 曲のイメージからお話を作ることも多いです。 何を聴いてもあおまきさん、あるいはすずまきさんに自動変換されるので。(←人として終わってる)

 それと、言い忘れましたが。
 読んだら削除してくださいねっ!!! ぜったいですよっ!!


  
 


ハプニング(15)





 鏡の虚像を打ち壊そうと大きく振り回した手が、何かに当たって痛みを覚えた。カシャン、という音に目を開けてみると、薄暗がりの中、ベッドシェルフの遥か上に伸ばされた大きな手が見えた。
 続いて見慣れない天井と照明器具が目に入り、薪は一瞬、自分の居場所に不安を覚える。ここは事件のあった家の寝室で、今にもあのドアを開けて西園冴子が姿を現すのはではないかと愚にもつかない妄想が頭を過ぎるが、続いて辺りを見回せば、目に付いた車のポスターがその惑いを消してくれる。
 ここは青木の部屋だ。
 今日は室長会の懇親会で、薪の身体は海辺のホテルにいるはずだ。酒が入るからホテルに泊まって、軽く観光を交えて、明日の夕方帰ってくる。薪の眼がないと自宅には入れないから、今日は青木の部屋で寝ることにしたのだ。

 シェルフに置いたリモコンで、薪は部屋の明かりを点けた。夢を見た後は、部屋を明るくしないと落ち着かない。闇の中には悪夢の根源が潜んでいるような気がして、身体の震えが止まらない。
 入れ替わってから一人で夜を過ごすのは初めてだ。それで不安になって、こんな夢を見たのか。相変わらず、情けない男だ。
 そう、青木の姿になっても、何も変わらない。僕は僕でしかない。
 
 いつもするように、薪はベッドの上で自分の身体をぎゅっと抱いた。膝を抱え込もうとして、その長さに戸惑う。大きすぎるのも考え物だ。
 うずくまって視線を下に落とせば、床には先ほど自分の手が払い落としたフォトスタンドがある。薪は腕を伸ばしてそれを取り上げ、苦笑混じりにひとりごちた。

「ったく、こんなもの飾って。誰かに見られたらどうするつもりだ」
 亜麻色の髪の青年が、陽だまりの中で笑っている。白いシャツを着て、細い腕を前髪の上で交差させ、蕩けるような笑みを見せている。
 青木の前でこんな表情をしたことはないし、こんな写真を撮らせた覚えもないから、これはおそらく薪の昔の写真で、雪子から青木の手に渡ったものだろう。

 自分のこの笑顔の先に必ずいたひとのことを思い出して、薪の胸がずきりと痛んだ。 
 彼がいなくなった今、自分は二度とこんなふうに笑うことはできない――――。

 落としたはずみに写真の位置がずれて、その裏に隠された二枚目の写真の角が見えている。自分もこうして、鈴木がひとりで写っている写真の裏に二人で撮った写真を入れていたから、青木も同じようにしているのかもしれない。そう思って覗いてみると、そこに現れたのは。

「……あのバカ」
 いつだったか、ふたりでベッドに入っているときに撮った写真だ。警視昇任のお祝いに何が欲しいか聞いたら、薪と一緒に写真を撮りたいと言った。天気が良かったから近くの公園に出かけて普通の写真も撮ったのだが、その夜、ベッドの写真も欲しいと言い出して。哀れっぽく土下座までして頼むから、仕方なく撮らせてやったのだ。
 写真の中で青木は、薪の後ろに座って薪の身体に左腕を回し、右手を伸ばしていた。フレームアウトした右手の先には、カメラがあるのだ。
 薪は赤い顔をして、青木の腕の中にすっぽりと納まっていた。腰から下には毛布がかかっているが、この下はもちろん裸だ。

 レンズから目をそらした自分の顔を見て、薪は意外に思う。
 笑ってる。
 嬉し恥ずかしって感じで、笑ってるじゃないか。

 あの時、僕はこんな顔をしていたのか。青木が携帯に送ってきた写真は小さかったし、恥ずかしくてロクに見ていないから気付かなかった。
 二枚の写真を見比べて、薪は少し頬を赤らめると、元通りにしまってベッドシェルフに立てた。それから床に散らばった雑誌を本棚にしまおうと、拾い上げる。ついでに何か拝借してベッドで読もう。今夜はもう眠れそうにない。
 自分がシェルフから落としてしまった本は、薪にはまったく興味の無い雑誌だ。青木が眠る前に見ているのだろう数冊の車専門誌。それを薪は本棚に戻そうとして、頁の間に挟まれた薄い冊子に気付いた。

「なんだ、これ」
 それは一冊のノートだった。表紙に、『研究書 極秘扱』と書いてある。

 極秘などと言われたら読みたくなるのが人情というものだ。それに、研究書というからにはMRI捜査に関することに違いない。室長として、部下の業務レベルを確認するのは当たり前のことだ。
 薪は勝手な理屈をつけて、本棚の前に立ったままノートを開いてみた。そこには青木のかっきりした四角い文字が並んでいて、日付順に記載されているところから日記かと思い、咄嗟に読むのを止めようとしたのだが、そこに何度も自分の名前が出てくるのを見て、好奇心が抑えられなくなった。

「こんなに細かく……」
 ざっと目を通して、薪は思わず呻いた。
 それは日記ではなかった。まさに極秘の研究書だった。


*****

 2060年6月×日。薪さんがコーヒー好きだと三好先生に教わった。珈琲問屋でキリマンジャロAAを購入。淹れてみるが店で嗅いだほどの香りは感じられない。淹れ方の問題か?

*****

 2060年9月×日。今日のコーヒーは上手くできた。薪さんは一口飲んで、ちょっと目を見開いて、再度香りを確かめるように湯気を吸い込んで、少しだけ笑ってくれた。オレのコーヒーであのひとの笑顔が見れるなんて、サイコーの気分!

*****

 2060年12月×日。とうとう、薪さんの好みにぴったりのブレンドを編み出した。BM10、M10、JR5、B40、C35。これを飲んだとき、薪さんの顔がふわっと笑ったんだ! やった!!

*****

 2061年4月×日。須崎の前で、オレのコーヒーが飲みたいと薪さんが言ってくれた。胸がスカッとした。キリマンジャロのストレート。明日からは、薪さんの好きなブレンドを用意しよう。

*****
 
 2061年5月×日。今日は記念すべき日。なんと、薪さんがオレを専属のバリスタに任命してくれた!! これは世界的な祝祭日にすべきだ!!! ヤッホー!!!

*****

 試行錯誤と結果が連綿と記され、それに対する薪の反応が事細かに書かれたその記録は、つい最近の日付まで記されていて、青木の研究は現在も続いていることを示していた。

「……バッカじゃないのか、あいつ」
 これが、東大法卒の男の研究書か。なにが極秘だ、アホらしい。

 呆れ果てた口調で吐き捨ながら、薪はそのノートを見つめる。ふと、本棚のガラスカバーに映っている自分の顔が綻んでいるのに気付いて、慌てて厳しい表情を作った。鏡面の自分を指差して、
「職務の習得に割くべき余暇をこんな無駄なことに使って。次に顔を見たらソッコーで説教だ。覚悟しとけよ、青木」
 そして本棚にノートを戻そうとして躊躇い、だれが見ているわけでもないのにコソコソとそのノートを胸に押し付けるように抱いて、ベッドに戻った。

 今夜はあんな夢を見てしまって、もう眠りは諦めていたのに、布団の中に入って青木の匂いに包まれるとまた眠気が差してきた。
 ノートを傍らに置き、その上にそれを書いたであろう手を載せて、薪は眠りに落ちた。




*****

 原作の青木さんが大変なのに、呑気なことやっててすみません。(^^;


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ハプニング(16)

ハプニング(16)




 再び夢の中に戻って、薪は先刻と同じ場所に立っている。眠ったら、ここに来ることは分かっていた。悪夢とはそういうものだ。
 
 目覚める直前の光景は、既にそこには無かった。床の血溜りはきれいに拭かれ、雪子の死体は消え失せて、そうしてみればごくごく普通の、どこの家にもある風景だ。時間が来れば家族が集まってきて一緒に食事を摂る、当たり前で普遍的なコミュニケーションの発祥地。
 じっくりと観察すれば、食器棚にある子供用の食器や、夫婦揃いの茶碗や湯飲みが置いてある。電子レンジの横には炊飯器と電気ポット、そのいずれにもアニメのシールが貼られていて、両親はどうやら末の娘に甘いらしい。

「おかえり」
 声を掛けられて、薪は振り向く。別に驚いてはいない。予測していたことだ。
「まだなんか用か」
 ダイニングの椅子を引いて、薪はどっかりと腰を落ち着けた。長い黒髪の美しい女性を、ギッと睨み据える。
 弱みなんか見せない、引く気もない。さっきは不覚を取ったが、今度は負けない。自分で作り出した虚像の戯言なんかに惑わされてたまるか。

「ケンカなら買ってやるぞ」
 薪の強気な態度に怯んだか、冴子は苦笑して肩を竦めた。その仕草は彼女の肢体を包むフェミニンなワンピースとの相乗効果で、彼女を可憐に見せた。
 彼女は、整形を受ける前の顔に戻っていた。どこにもメスを入れる必要なんかない、かなりの美人だ。きれいな額と、美しい眉をしている。目はいくらか垂れて、長い睫毛と潤んだような瞳が印象的だ。鼻筋は細く通り、長卵形の輪郭から受ける儚い印象を崩さずに、奥ゆかしく顔の中心に収まっている。唇は小さく、ぽってりとした朱色。

「それ、なあに?」
 彼女が目で示したのは、薪の右手に握られたままの研究書だった。そのつもりは無かったが、持ってきてしまったらしい。
「何が書いてあるの?」
「おまえには関係ない」
「見せて」
「いやだ」
 冴子はすうっと空を滑ってきて薪の傍らに立つと、手を使わずに薪の右手から薄いノートを奪った。

「返せ!」
「いいじゃない。ちょっと貸してよ」
 冴子は薪の手を逃れて、天井へ逃げた。後を追いかけようとして、薪は自分の体が浮き上がらないことに驚いた。冴子は飛べるのに、自分はダメなのか。ここは自分の夢なのだから、自分に有利な設定になってもいいのに。

「降りてこい、卑怯者!」
「えーっと、なになに? 『今日、誰よりも早く事件の鍵になる画を見つけて薪さんに報告したら、薪さんがオレに笑いかけてくれた。春の女神みたいにきれいだった』……ポエム?」
「声に出して読むなあああ!!」
「『勇気を出して、昼休みが終わる10分前に薪さんを起こしてみた。出すぎた真似を咎められるかと思いきや、おまえが起こしにきてくれるなら安心して昼寝ができる、と言ってくれた。これで毎日、薪さんの寝顔が見れる。(はーとまーく)』……なにこれ、恥っずい!」
「やかましい!!」
 怒鳴り返したものの、確かに恥ずかしい。帰ったらこのノートは灰にしてやろうと、薪は固く決意する。

「『今日は初めて薪さんの方からキスを……』」
「ぎゃ―――!!!」
 なんだ、この羞恥プレイは!! 僕に恥をかかせやがって、これを書いた本人ごと燃やしてやるうぅ!!

「あらら、ここからはちょっと口に出せないわ」
 口に出せないって、どういうことだ? ぱらっと見ただけだから気付かなかったけど、まさか!?
「まー、すごい。へー、こんなことまで。ひゃー、一晩に5回も? あなたよく身体もってるわねえ」
 何を書いてんだ、あいつはっ!!!

 初めの毅然とした態度はどこへやら、薪はダイニングテーブルの下に隠れるように身を潜ませていた。
 もう恥ずかしくて恥ずかしくて、顔を上げていられない。床下収納庫に閉じこもりたいくらいだ。

「ああ、面白かった。はい、返すわ」
 真っ赤な顔をしてうずくまり、羞恥のあまり涙目になった薪に、冴子は青木の研究書を差し出した。ひったくるように受け取って、すぐさま破り捨てようとした薪の手を摑んで、冴子はクスクスと笑った。
「愛されてるわねえ」
 薪の目線の高さに合わせて自分も屈み、冴子はしんみりと言った。思わず、薪は真顔になって冴子を見た。
 彼女の黒い瞳は追憶の憂いを湛え、失くしたものを、もう取り返しのつかないそれらを悼み、静かに耐えるように震えるように、哀しみに満ちてそこにあった。短い人生の中で彼女が望んで止まなかったもの、それがこのノートには詰まっている。

「……知ってる」
 薪はぼそりと呟いた。
 そのことを、心から喜ぶ気にはなれなかった。切ないような、悲しいような、かすかな罪悪感を伴ったその感情は、彼女の不幸な人生に対する同情からか、それとも彼女に言われたように、これがかりそめの幸せだと分かっているからか。

「それなら、もう過去に囚われるのはやめなさい」
 彼女の言う過去が何を指しているか理解して、薪は心を強くしようと腹の底に力を込める。そこを突いてくる気なら、僕は負けない。鈴木のラストカットまで浚ってくれた、青木の努力を無駄にはしない。
「囚われてなんかいない。僕はちゃんと自分の人生を全うしようと思ってる。だから、青木のことも受け入れたんだ。彼を愛してる」
「じゃあ、どうして彼にそれを言ってあげないの?」
「それは」
「いつでも彼と別れられる準備をしているのは何故? これは一時の夢だと、自分に言い聞かせ続けているのは何故?」

 畳み掛けるように訊かれて、薪は口ごもる。出世のこととか相手の親のこととか、薪なりに理由はちゃんとある、だがそれを彼女に分かりやすく説明するのは難しい。
 言いあぐねる薪に、冴子は自分の意見を述べた。
「自分は幸せになっちゃいけないって、今でも思ってるからじゃないの?」
「ちがう。男同士ってのは、色々と難しいんだ。世間的なこととか、将来のこととか。僕は青木のためを思って」
「嘘」
 短い断定の言葉で、彼女は議論を打ち切った。さっと立ち上がり、スカートの皺を直すように手で整える。その仕草はとても女らしく、彼女本来のしおらしさを偲ばせた。

「あなたはとっても嘘が上手だけど、わたしには通用しないわ。あなた自身を騙せても、わたしは騙せない。だって」
 彼女は急に悪戯っ子のような表情になると、テーブルの陰に座ったままの薪を見下して言った。
「わたしは――――MRIの神さまだもの」

 聞き覚え、いや、言った覚えのあるたわ言に、薪は目を丸くした。
 あの夜、既に彼女の脳は第九に送られてきていた。見られていた、ということか?それはそれでめちゃめちゃ恥ずかしいが、彼女が敢えてその名詞を自分に冠した理由は?

「……まさか、おまえ!!」
「ぴんぽーん。入れ替えてみました」
 マジでか!?

「どうしてそんなことを」
「面白そうだったから」
「……死にたいか、こら」
 捜一時代に培った凄みを総動員して脅しをかけたつもりなのに、冴子は平気な顔でからからと笑い続けた。
「わたし、もう死んでるし」
 そうだった、幽霊相手にこの脅しは無意味だ。じゃあ、除霊か、お札か。いや、いま成仏されたら大変だ、元に戻れなくなる。

「戻せっ!! おまえがやったんなら、僕たちを元に戻せるだろう!」
 詰め寄ってくる薪の手をひらりとかわして、自称MRIの神さまは足を使わずに移動した。それはたしかに人外の移動手段だったが、こいつの場合は明らかに魔のほうだ。
 ああっ、くそ、こんなやつがMRIの神さまの正体だと解ってたら、お供えなんかするんじゃなかった! 僕の綾紫、返せ!!

「それはあなた次第。努力すれば自分が望む自分になれるんでしょう? わたしを納得させてみてよ。そうしたらわたしが間違っていたことを認めて、あなたたちを元に戻してあげる」
「この入れ替わったままの身体でか!? 無理に決まってるだろ、そんなの!!」
「ひとは外見じゃないんでしょ?」
 なんて意地悪な幽霊だ、さすがは僕の夢だ。意地悪が見る夢はやっぱり意地悪、ってなんでだ! てか誰に突っ込んでるんだ、僕は!!
 お定まりの独りツッコミでいくらか冷静さを取り戻した薪は、空いた左手を腰に当て、上空にいる女性を見上げた。

「もっと早くに出てくれば良かったのに。このアザ、どうしてくれるんだ」
 何度も床に倒れたものだから、自分たちの身体に傷がついた、と薪は主張した。そのほとんどは岡部との早朝訓練でこしらえたものだったが、自分が痛い思いをする原因になったのはこいつだ。責任の所在はこいつにあるはずだ。

「あなたがひとりになる機会を狙っていたの。それと、今までは場所が悪かったから」
「場所?」
「職場でもあなたの家でも、彼が目を光らせてるんだもの。怖くて近寄れなかったの」
「……彼って?」
 冴子は鼻で笑う素振りで、その問いに答えなかった。
 ムッときたが、実は薪もよく部下の前ではそういう顔をしている。わかりきったことを聞くな、と声にするのも面倒なほど、明確な事実に対する質問を受けたときにする顔だ。

「たしかに。ここには彼の写真はないな」
 薪が答えを出すと、冴子はそれに満足したのか、にっこり笑った。彼女の笑顔はあたたかかった。

「魔女の称号は、返上だな」
「あら。わたしはけっこう気に入ってたんだけど」
「性格は良くないけど、そんな顔ができるなら、友だちなんか直ぐに作れただろう」
「仕方ないわよ。こんな顔ができるようになったのは、死刑が決まってからだもの」
 自分は自分。他の何ものにもなれないと、やっと解ったから。
 だから自分を認められなかったら、誰も自分を愛してくれない。自分の中に、他人に愛される要素をたくさん植えて育ててやれるのは自分だけだと理解して初めて、彼女はこんなふうに笑えるようになった。生まれたままの素顔で。

「さて、そろそろ時間切れかしら。夜が明けるわ」
 静かに微笑んだ彼女の姿は、静謐に美しく。色素が徐々に抜けるように、その輪郭を曖昧にしていく。
 だんだんに薄くなっていく彼女の最後の声が、薪の耳に届いた。

「あなたはいつだって守られてる。そのことを知るべきよ」
 
 彼女の姿が完全に消えて、薪は目を開けた。朝の清浄な光の中、恋人の部屋の天井が見える。
 恋人のベッドで彼の匂いに包まれながら、薪はぽつりと呟いた。

「知ってるよ」



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ハプニング(17)

ハプニング(17)




 日曜日の第九研究室は、ひっそりと静まり返っていた。
 MRIの電源が落とされているため、ハードディスクの音もファンの回転音もない。青木の釈明を聞く場所として薪がここを選んだのは、他人の耳を気にしたのと、彼なりの考えがあってのことだった。

 モニタールームに入って薪が真っ先にしたのは、キャビネットの中に設えた簡易式の神棚から鈴木の写真を下ろすことだった。それを室長室に持って行き、すぐにモニタールームに戻ってくる。
「室長室じゃなくていいんですか?」
 てっきり室長室で話をするものと思っていた青木は、意外そうな顔で疑問を口にした。モニタールームは廊下のドアから直結だから、間にドアがある室長室のほうがより安全と言える。彼の意見は尤もだと思われたが。
「室長室はダメだ」
 薪の机の一番下の引き出しには、鈴木のアルバムが隠されている。彼の目があるところには、彼女は出て来れない。

 青木の席に座り、薪はぎこちなく足を組む。慣れない長足を、薪は少々もてあましている。
「で? 言い訳があるなら聞こうか」
 あのノートを見た今では、薪の中に青木の不実を疑う気持ちは残っていなかった。青木は、自分を裏切るような真似はしない。

「あの。怒らないで聞いてもらえます?」
 ……怒られるようなことなのか?
 こいつやっぱり、いやまさか、だけどああでもっ。

 ぐるぐると渦巻く疑問詞が頭の中から漏れ出ないように懸命に自分を抑えて、薪は拳を握り締めた。事と次第によっては、殴るぞ。
「内容による」
 薪が冷たく返すと、青木は俯いてため息を吐き、細い膝に乗せた小さな手を組み合わせた。それから恐る恐る顔を上げ、薪のほうを見て「本当のことを言いますから、怒っても殴らないでくださいね」と取引を持ちかけてきた。第九に入って3年、交渉術も達者になった。
 わかった、と頷いて薪が了承の意を示すと、青木は安心したように話し始めた。

「薪さんて、すごくモテるじゃないですか。薪さんから声を掛けたら、みんなホイホイついてきますよね。その、大人の付き合いまで了承の上で」
 それは決してお世辞でも尾ひれの付いた武勇伝でもなく、純粋な事実だった。青木が薪の口で誘いをかけた相手は、見事百発百中、約束の場所に来た。男も女も、独身者も既婚者も、呆れるくらい簡単だった。薪の性質がここまで淡白でなかったら、彼の人生はもっと華やかな恋愛関係に彩られていたことだろう。
「大人の付き合いって……まさかおまえ、僕の身体で軽はずみなことを」
「いえ、逆です。いくら想ってくれても無駄だから、二度と手紙は送ってこないでくださいって言っちゃいました」
 呼び出した人々に、青木はきっちりと引導を渡しておいた。薪本人の口からはっきりと、将来を誓い合ったひとがいる、と彼らに伝えたのだ。相手の名前は濁すしかなかったが。

「なんでこないだ、そう言わなかったんだ? 僕はてっきりあの娘とおまえが、その」
「え? 話の内容を聞いてなかったんですか? あの距離なら、聞き取れたはずですけど……そうか。オレの耳じゃ聞こえないんですね」
 初めてそこに気付いた、というように、青木は軽く手を打ち合わせた。
「本当に、薪さんは目も耳も特別製ですね。よっぽど神さまに愛されて生まれてきたんですねえ」
 青木はそれをとても嬉しそうな口調で言い、「さすがはオレの薪さんです」とわけのわからない自慢をした。

「僕があそこにいるの、解ってたのか」
「薪さんが木の後ろに隠れたときから、全部見えてました。オレの身体は大きいから、あの木じゃ目隠しにはなりません」
「知ってて、彼女と抱き合ったのか?」
「あー、すみません。一度だけ抱きしめてくれたら諦めるって言われて。キスを求められたら断リましたけど……あのとき、薪さん黙って見てたじゃないですか。オレは薪さんに話が聞こえてると思ってたから、口を挟んでこないって事はさっさと済ませて彼女を追い払えってことなんだろうと思って」
 ショックで動けなかったんだ! それくらい解れよ!

「すみません、勝手なことして」
 なるほど、それで怒らないでください、か。
 他人に来たラブレターの相手を呼び出して、本人の意向も聞かずにその返事をしたのだ。本人に無断で、広がるかもしれなかったパラダイスをぶち壊したのだ、怒られて当然だ。
 が、それは普通の男の場合だ。せっかくお膳立てしてもらっても、その関係を維持できる体力も時間も薪にはないし、その気もない。ラブレターに関しては、数も多いし返事をするのも面倒で、ほったらかしていたのだ。きちんと断ってくれて良かったくらいだ。それに、青木は自分の恋人だ。全く権利が無いとも言いきれない。
 しかし。

「どうしてそんなことを」
 青木は、薪が自分宛てのラブレターを読み捨てているのは知っているはずだ。読んだ後の手紙をシュレッターに掛けるのは、青木の仕事だからだ。なのに、どうしてそんな面倒なことをしたのだろう。

「オレ、正直言うと心配でたまらなかったんです。薪さんにラブレターを送ってくる人たちの中には、オレなんかより素敵なひとは沢山いたし。ていうか、薪さん本当は女性の方がお好きでしょう? だから、陰でこっそり浮気してるんじゃないかって」
「ば……っかじゃないのか! 僕がそんなことするはずないだろ!」
「だって、薪さん異様に薄いから。もしかしてオレ以外の人ともしてて、だから欲しがらないのかなって」
「ちがう! 僕は根っから薄いんだ。若い頃から3ヶ月に1ぺんくらいしかその気にならなくて、だから女の子も本当は2,3人しか」
 しまった、口が滑った。青木があんまり馬鹿なことを言うから、トサカに来て、つい。

「そうなんですか?」
 ええい、こうなりゃヤケだ。

「風俗入れても3人しか知らない。一人は僕の初めての女性で、名前も知らない。もう一人は、おまえと一緒に行ったソープに昔勤めてた人で、風俗はこの二人。普通の女性で身体の関係まで持ったのは一人だけ。でも、彼女はもう、この世にいない」
 青木は、その彼女のことを雪子から聞いている。鈴木と別れた後に、寂しさを埋めるためだけに付き合っていた。薪がそのことを、とても後悔していることも。

「疑ってすみませんでした。あなたの身体に入って、あなたの美しさを改めて知って、オレなんかが薪さんを独占できるわけはないって、そう思っちゃったんです。
 だから、戻れなくてもいいって、チラッと考えてしまいました。だって、オレがこの身体に入っていれば、そんなことは防げる。完全にあなたの行動を掌握できる、独占できる」
 バカなやつだ。僕はとっくにおまえのものなのに。でなきゃ、この僕が男とあんなことするか。基本が解ってないんだ、こいつは。まあ、そこが可愛いんだけど。

「それだけじゃない。オレの思うままに、どんなことでもさせられるし……」
「どんなことでもって」
「あ、だからその、薪さんが絶対にしてくれないこととか、あるじゃないですか。色っぽい下着をつけてくれるとか、スケスケのナイトウェアを着てくれるとか。そういうことを鏡の前で」
 人の体で何してくれてんだ!! このドヘンタイっっ!!
「色目を使いながら服を脱いでくれるとか、エロいポーズで誘ってくれるとか」
 青木との約束も忘れて、薪は咄嗟に拳を握り締めた。
 鉄拳制裁、性犯罪被害者の怒りを思い知れ!!

「オレのこと、愛してるって言ってくれるとか」

 顔面5センチのところで、大きな拳が止まった。呆れ果てたため息と共に薪は拳を開き、椅子にどっかりと腰を下ろした。
「虚しくなかったか、それ」
「ええ、まあ。興奮が冷めると、ガックリきました」
「バカ」
「……反省してます」
 とりあえず、青木の釈明は済んだ。
 これで今日ここに来た目的の半分は達成された。ここからが、本当の勝負だ。

 西園冴子との決着。
 彼女の脳データはMRIシステムに保存されている。だから薪はこの場所を選んだのだ。
 彼女の要求どおり、ここで薪が『理想の自分』になって見せれば、元に戻れるかもしれない。可能性は低い、というか、そもそもあれは夢だ。だから、これは自分の身体を取り戻すための試行錯誤のひとつというよりは、自分自身に決着を付けたいだけかもしれない。
 正直に言うと、MRIの神さまを騙ったあの死刑囚が求める解答がどんなものかは分からない。それでも、自分の理想に近付く努力は怠ってはならない。日々精進するのが人間の在り方だ。

 自分のなりたい自分になる、そのために必要なのは勇気と理想に近付く努力。
 薪の理想は、強く、たくましく、男らしく。大事なひとを守れる力、しっかりと身体に通した信念。努力に努力を重ねて手に入れてきたそれらを、これからもっとレベルアップする気でいる。

 そして自分に欠けているのは。
 前へと進む勇気。

「これはおまえの口であって、僕の口じゃない。だから、僕から聞いたことにはならないかもしれないけど」

 細い膝の上に置かれた小さな手を握る。青木の半分ほどしかない、薪の手。細くて女のように繊細で、でもその手に託されたものの何という重みだろう。今までこの手が支えてきた重みを、薪は誇りに思う。
 
「僕はおまえが好きだから。誰よりも好きだから」

 薪は青木を、自分の顔をじっと見る。
 亜麻色の大きな瞳、その澄み切った美しさ。この瞳を曇らさないように、清浄を保てるように、僕は精一杯の努力をする。鈴木が僕に遺してくれた僕の純真、僕が心から笑うために必要な僕の中核。それを守れるのは僕しかいないのだから。

「だから、自分に戻りたい。おまえが愛してくれる僕に戻って、おまえに愛されたい。おまえを愛してる僕に戻って、おまえを愛したい」

 冴子が自分と青木を入れ替えた本当の理由に、薪はひとつの答えを出していた。それはこの珍現象に納得の行く説明をつけて、冴子という特殊な要因がなければこんなことは二度と起きない、そう信じたい薪のこじつけに過ぎなかったが。
 彼女は、僕に脳を見て欲しかった。だから、自分の脳を見ることに決まっていた青木の身体に僕を入れたんだ。
 あれだけの大罪を犯してやっと学んだ彼女なりの真理を、僕に伝えたかった。自分と同じように過去に囚われてもがいている僕に、後ろばかり見て今目の前にある大事なものを見失おうとしている僕に、一番大切なのは何かを気付かせたかった。
 でっかいお世話だ、超ド級のお節介め。てか、死刑囚の脳に心配されるって、どんだけだ。

 目の前の小作りな美貌が、ふわりと微笑む。周りのすべての生物を癒すような、そのやわらかさとあたたかさ。
 よく覚えておいてくれ、僕の細胞たち。僕がその身体に戻っても、こんなふうに微笑めるように。

「今の、戻ったらもう一度言ってくれます?」
「やなこった」
「お願いします、薪さんの声で聞きたいんです」
「自分で言ったらいいだろ。鏡の前で」
「ええ~……」
「いいから、目つぶれ」
 ふっくらとした頬に両手を添えて上向かせ、薪は咲き初めの薔薇みたいに開きかけた彼のくちびるに、自分のくちびるを重ねた。小さな舌を捕らえて吸い、突き、角度を変えてさらに深く。

 吐息と共にくちびるを離して、薪は呟く。
「なんか、ヘンな感じだ。自分で自分にキスしたみたい」
「オレもです」
 額を合わせて手を握り、指と指を絡める。ぎゅ、と握り合ってもう一度キスをした。

 そして――――。



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ハプニング(18)

ハプニング(18)




「何をやってんだ、おまえら!! 」
 ほぼ一月ぶりに響いた室長の怒号は、第九全体を揺るがすような威力だった。

「今井、宇野! 何処に目をつけてるんだ!! モニターは四角形だぞ、三角形のつもりで見てるのか? だからこんな見落としをするのか?」
「小池、おまえの頭の中には何が入ってるんだ、豆腐か? 耳から熱湯注ぎ込んで頭ン中湯豆腐にされたくなかったら、さっさと証拠を見つけろ!」
「青木、それっぽっちの書類を作るのに、よくそれだけの時間を費やせるな? 文字を一つ一つドット画で書いてるのか? 10分以内に提出、できなかったらドット画のゲームキャラにおまえの顔をビジュアル変更してやるぞ、この拳で!」
「曽我、いつまで同じ画を見てるんだ、面で見ろ、面で! なに? できない? 人間ならできるはずだ。昆虫以下か、おまえの頭は!」

 溜まりに溜まったストレスを一気に発散させるかのように、薪の暴君ぶりは凄まじく、主にその被害を受けるはずの後輩は何故か今日は集中攻撃を免れて、室長の罵詈雑言は全職員に平等に降り注いだ。
「うひゃー、薪さん全開だな」
「ここんとこ静かだったのに。やっぱり平和は長く続かなかったか」
「だからずっと眠ってりゃいいんだよ、あのひとは」
「聞こえてるぞ、曽我、小池!」
 怒鳴りつけられて、二人はヒッと首をすくめる。室長の地獄耳を舐めるなよ!
 
 薪の激励に煽られた彼らは、いつもの数倍の熱心さで与えられた仕事に取り組む。死に物狂いで職務に励む部下を見るのは気持ちがいい。顔色が紙のように白いことと眼が血走っていることを除けば、なんて理想的な職場だろう。仕事意欲に溢れている。
 熱心さでは引けを取らないが、ひとりだけ普通の顔をしている部下がいる。副室長の岡部だ。岡部には、どうも薪の睨みが効きにくい。裏の顔を色々と知られているせいだ。ここは攻撃の方向を変える必要がある。

「岡部。昇任試験の勉強はしてるんだろうな?」
「は、はい! やってますとも!」
「じゃ、これ。僕が作った模擬テスト。やってみろ」
「ひ―――っ!!」
「なんだ、その情けない悲鳴は」

 数式の並んだテスト用紙を見た途端、部屋の誰よりも青い顔になってだらだらと汗をかき始める岡部を見て、薪は我慢しきれずにクスクス笑い始めた。
 薪の笑いに気付いて、他の職員たちもこちらを見ている。コワモテで警察官の経験も長く、滅多なことでは動じない岡部のうろたえる姿に、悪気のない失笑が洩れた。
 薪はしばらくの間、笑いながら岡部の様子を見ていたが、やがてきれいな手を問題用紙の上に被せて、やさしく言った。
「それは宿題だ。家に帰ってからゆっくり考えろ」

 岡部の顔がほっと緩み、次いで嬉しそうに破顔した。
 それは今、苦手な数式から解放されたことによる単純な喜びではなく。薪が薪らしく、元気でパワフルに職務に邁進する姿を久しぶりに見ることができた、それに対する心からの喜び。他の連中も、きっと同じ気持ちだと薪は確信する。

 僕は僕のまま、ここにいていいんだ。

 ふと目を落としたPC画面の右下の時刻表示を見て、薪は時計を確認した。18時20分。
「岡部、晩メシ食いに行かないか。銀洋亭のスペシャルディナーなんかどうだ」
「珍しいですね、薪さんが洋食なんて」
「たまにはいいだろ。僕が奢るから。おまえらもどうだ?」
 振り向いて、全員に声を掛ける。付いてくるのは青木ぐらいだと解ってはいたが、平等に誘わないと不自然だからな。
 しかし。

「やった、薪さんの奢りっ!」
「お供します!」
「ご馳走さまです!」
 俄かに活気付くモニタールームの空気に、誘った薪の方が怯んでしまう。なんだ、この食いつき方。
「オレ、2人前食べてもいいですか?」
「ずるいぞ、青木。じゃ、俺、デザートにマンゴープリンいいですか?」
「フルーツパフェ食ってもいいですか?」
 半分、ノリで言ってみただけなのに、奢りと聞いたらこいつら。

 薪を中心に、わいわいと喋りながらエントランスを出た第九職員たちは、正門の手前で一人の男に呼び止められた。焦げ茶色の髪をお洒落に流した警視庁きってのモテ男、竹内警視だ。天敵であるはずの薪ににこやかに笑いかけながら、こちらに向かってスマートに足を運んでくる。
「室長。これ、DARPAの資料です。あれから色々調べてみたんですよ、この施設の研究内容とか。良かったらどうぞ」
 薪に向かってA3サイズの封筒を手渡す。かなり厚みがあって、重かった。
「DARPA?」
 竹内がどうしてそんなものを持ってきたのか、薪は見当もつかなかった。
 押し付けられた封筒の中身の頭だけを引き出して確認し、その枚数にちょっとびっくりする。これだけの資料を集めるのは大変だっただろう。こんなムダなことをしているヒマがあったら、指名手配犯のひとりでも捕まえたらどうなんだ。

「何の嫌がらせですか?」
「え。いや、こないだ興味がありそうだったから」
 こないだ、と聞いて青木に目を走らせる。眼鏡の奥の眼がウロウロしている。なにか、やらかしてくれたらしい。後でとっちめてやる。
「ダーパでしょう? 最先端科学を速やかに軍事技術に転用する目的で創設されながら、国費を使って空想に近い研究ばっかりやってるトンデモ施設ですよね。国費を浪費している、第九と同じだって言いたいんですか?」
「ち、違います! 確かにここはユニークな研究をしてますけど、俺は決してそんなつもりでは」
「失礼。これから部下たちと食事に行くので」
 威嚇するような低めの声と氷の壁で竹内の言葉を遮って、薪は仲間の輪の中に戻る。残された竹内は、呆然と立ち尽くすしかない。

「……やっぱりあれは夢だったのかな」
「すみません、竹内さん。本当にごめんなさい!」
 謝罪の声に気付いて竹内が我に返ると、第九の新人が頭を下げている。
「なんでおまえが謝ってんの?」
 おかしなやつだ、と竹内は思い、「置いてかれちまうぞ」と彼を急かして仲間の元へ走らせた。青木の大きな背中が第九の輪に溶け込むのを何となく見ていた竹内は、自分と同じ目的で彼らを呼び止めたもうひとりの男に気付いた。

「薪くん。こないだの資料、役に立った?」
 警務部長の意味ありげな視線に、薪はすっと仲間から離れて間宮の側に寄って行った。その様子を見て、竹内は薪の身を案じる。岡部が睨みを利かせているから間宮も滅多なことはしないと思うが、それでも心配だ。
 ふたりはコソコソと秘密めいた会話をしていたが、やがて間宮が大きく頷き、薪の腰に手を伸ばした。以前の薪なら5秒で蹴り飛ばしていたが、こないだの薪は辛そうに震えていた。あんな薪を見るくらいなら、査問会覚悟で間宮をぶっとばしても―――。

「そっか、上手く行ったんだ。じゃ、ご褒美に、ぎゃんっ!」
 ……3秒だった。

「さすが室長、素早い反撃だな」
「蹴りが鋭くなったよな」
「間宮部長も可哀相に」
「そうかあ。ああすればよかったんだ……」
 ひとりだけズレた会話をしている仲間たちの中に薪がようやく収まって、彼らは歩き始める。室長を中心としたその輪は、活気と明るさに満ちて、梅雨空を吹き飛ばすかのように楽しげだった。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ハプニング(19)

 ラストです。
 ここまで読んでいただいて、誠にありがとうございました。




ハプニング(19)




 食事の後、軽く飲みに行くという小池たちと別れて、薪と青木の二人は帰途についた。
 自分たちから疑いを招くような真似は決してしない彼らだが、今日は岡部が「青木、悪いが薪さんを送ってやってくれ」とさりげないフォローを入れてくれて、心の中で照れながらも、それに甘えた。
 真実こそわかっていないが、二人の間に何かがあったことは、おそらく第九の全員が気付いている。だから薪が元の溌剌さを取り戻した今日は、お祝いに付き合ってくれたのだろう。

「ったく、あいつら。奢りと聞いた途端に群がってきやがって」
「またそんな言い方して」
 お得意の皮肉で仲間の好意を否定する薪を嗜めようとして青木は、滅多に見られない彼の表情を見て口をつぐむ。
 幸せそうな、素直な笑顔。薪にもちゃんと分かっているのだ。

 辺りはすっかり夜の帳が落ちて、街灯や店の明かりが眩しく輝いている。通り過ぎる車のライトに目を細めて青木は、先日の出来事を思い出していた。

 日曜日のモニタールームで、二人は初めて自分の身体とキスを交わした。互いの指を絡ませた両手を肩の横に置き、何度も角度を変えて重ね合わせた。
 しっかりと絡んだ舌の甘さに酔いしれたとき、それが起きた。ジンと頭が痺れるような感覚がふたりを襲い、ライトに照らされたように辺りが明るくなった。目を開けたら、互いの姿が見えた。
 ふたりとも、何故か驚かなかった。それを不思議とも思わなかった。
 ああ、戻ってきた、と思っただけだった。

「これで鏡を見なくても、あなたに会える」
 薪は珍しく、うん、と素直に頷き、ふたりはもう一度、甘いキスを交わした。

 薪の舌の甘さと濡れたくちびるの感触を思い出し、青木は彼が欲しいと思う気持ちを止められなくなる。幸い、周りには誰もいない。信号待ちで立ち止まった彼の小さな耳にくちびるを寄せ、青木はこっそりささやいた。
「あの。今夜、いいですか?」
「ダメだ」
「オレ、もう1月もお預け食ってるんですけど」
 即決で返ってきた拒絶に、青木はつい非難めいた口調になる。
 短い間とはいえ青木の身体で生きてきた薪には、彼の気持ちも逼迫した状況も良く分かっていたが、ここはもう少し我慢させないといけない。薪にも考えがあってのことだ。理由は言えないが。

「どうしてですか? せっかく元に戻れたのに。昨日も、もう少しだけ待てって。いつまで待てばいいんですか」
「7月29日の午後14時34分22秒までだ」
「……なんでそんなに明確なんですか?」
 この日時の49日前に、彼女の死亡が確認されたからだ。

 あれは自分の脳が作り出した幻だったと、薪は確信を持っているが、それでも念には念を入れておくべきだ。
 青木には言えない。彼女と交わした会話は、青木には秘密だ。
 だから薪は、また小さなウソを吐く。

「キスで元に戻ったんだぞ? セックスなんかしたら、また入れ替わっちゃうかもしれないだろ。この不安定な細胞が全部生まれ替わるまで、おあずけだ」
「そ、そんなあ……」
 青木警視の苦悩の日々は、つづく。




―了―




(2010.6)




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Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
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