運命のひと(18)

運命のひと(18)







 「薪さんのバカ」

 本人の前ではとても言えないセリフをレンタカーのハンドルにぶつけて、その夜は帰途に付いた青木だが、週明けの第九に薪の姿がないのを確認すると、途端に寂しくなった。
 薪に対する怒りなど、翌朝にはもう消えていて。薪の携帯に電話を入れたが、留守番電話に切り替わるだけで、何度掛けても薪の声は聞けなかった。
 水曜日には帰国する予定だったから第九で待っていたのだが、夜の8時を回っても薪は姿を現さなかった。自宅にいるかもしれないと吉祥寺まで足を伸ばしたが、薪の部屋には明かりが点いていなかった。
 もしかすると、帰国が延びたのかも。岡部なら何か聞いているかもしれない、と考えたが、それを岡部に確かめるのも何だか業腹だった。恋人としてのプライドというか、男の見栄のようなものがあって、薪のことを何も知らない自分が哀れだと思った。

 吉祥寺の駅に着いたときに、コートのポケットで携帯が震えた。慌てて確認すると、それは待ちに待ったひとからの電話だった。
「薪さん。お帰りなさい。日本に着いたんですね?」
『青木。今から出てこれるか』
「はい。今、薪さんのお家の近くにいるんですよ。薪さんから管理人さんに電話してくれれば、いつかみたいに食事とお風呂の用意をしておきます」
『要らない。おまえが僕のところまで来い。空港近くのNホテルにいるから』
 時刻は9時を回っている。これから千葉まで行くとなると、帰りは確実に真夜中過ぎだ。
「はい。すぐに行きます」

 相手の都合などまるで考えてない薪の我侭な呼び出しに、青木は弾んだ声で応える。
 薪から、しかもホテルへの呼び出しだ。嬉しくないはずがない。
 恋人から遠く離れて、異国の地でたった一人の休日を楽しんだはいいが、独りはやっぱり淋しいと、しみじみ感じたに違いない。
 おまえと一緒に行けばよかった、なんて、縋ってこられたらどうしよう。4日ぶりということもあるし、仲直りの意味もあるし。そんなこんなで、一晩中ぶっ通しで鳴かせてしまいそうだ。

 Nホテルに到着し、連絡のあった部屋のチャイムを押すと、予想どおりバスローブ姿の薪が青木を迎えた。何も言わずに、抱きついてくる。石鹸の香りがする濡れた髪に鼻先を埋めて、青木は恋人の身体を抱きしめた。
 薪は青木のジャケットを脱がせ、ワイシャツのボタンを外した。インナーをめくり上げて、裸の胸に頬を寄せてくる。青木の背中に小さな手が回り、ぎゅっと力がこもった。
 ドアの側に立ったままの性急な誘惑に、青木は軽いデジャビュを覚える。
「スウェーデンの中学生に、自慢話でもされたんですか?」
 昔のことを揶揄して、ちょっと意地悪をしてやる。怒るかな、と思ったが、薪は青木にしっかりと抱きついたまま、身じろぎもしなかった。
 これはよっぽど淋しかったのかな、と青木は心の中でヤニ下がる。たまには、距離を置くのもいいものだ。再会のテンションは、否が応にも上がろうというもの。

 細い身体を抱き上げて、ベッドに運ぶ。
 清潔なシーツの上に押し倒して、バスローブを脱がせる。薪は少しだけ抵抗したが、すぐに大人しくなった。目を閉じてじっとしている。
 シャツを脱いで肌を合わせる。キスをして、髪を撫でる。首に絡んでくる薪の腕をやさしく取って、シーツの上に押し付ける。抱きつかれるのは嬉しいが、これでは動けない。
 青木の舌先は器用に動いて、薪が悦ぶ首筋から、鎖骨を通って胸の突起へ辿り着く。腰やわき腹の辺りを擦り、薪の熱を高めようと試みる。

「青木……んっ……」
 薪のそこはまだ慎ましいままで、でも、このひとの反応が遅いのはいつものことだ。特に今日は長時間のフライトで、体力も消耗しているだろうから、時間が掛かるかもしれない。それでも、念入りに愛してやれば大丈夫。薪の急所は押さえている。
「あっ、ああ」
 可愛い声も上がってる。薪は最初の頃、声を殺してしまうことが多いのだが、今日は早い段階から声を出してくれている。感じたがっているのだ。
 しかし、青木の予想を裏切って、薪の身体は愛撫に応えようとはしなかった。薪の蕾は固いままで、青木の指に綻ぶこともなく、いつぞやのように蜜を滴らせることもなかった。

「青木。大丈夫だから」
「でも」
「ローション多めに使えば、ちゃんとできるから」
 言い訳がましく言葉を重ねる彼の亜麻色の瞳には、涙が滲んでいたけれど。その涙は、いつもの快楽の涙ではない。
「だから……」
 ぎゅっと自分の首に抱きついてくる薪の仕草に、青木はようやく気付いた。
 この人は、セックスがしたくて自分をここに呼んだのではなかったのだ。ただ、抱きしめて欲しかったのだ。
 性的な意味ではなく、一刻も早く、抱いて温めて欲しかった。
 だけど、青木がどれだけ薪のことを欲しがっているか知っているから、そうとも言えなくて。何もせずに裸の薪を抱きしめていることが、青木を苦しめることだと分かっているから、黙って為されるがまま、出したくもない声を上げて。

「今日みたいな寒い日は、こうやって抱き合ってるの、気持ちいいですよね」
 掛け布団を羽織り、はだかの薪を胸に抱きこむ。枕の上で擦られながら自然に乾いた髪は少しクセがついて、青木の指に絡んだ。
「あったかくなりました?」
「……うん」
 薪のくちびるは、素直じゃない。
 憎まれ口や意地悪はぽんぽん出てくるくせに、大事なことは何も言わない。自分が本当に欲しいものは、絶対に口にしない。それを分かってやれるほど青木は大人ではないから、いつも盛大にすれ違ってしまうけど。
 少しずつ、少しずつ、すれ違う距離を縮めていければいい。こうしてゆっくりと、薪の本音に近づいていこう。

 側臥した姿勢で抱き合い、薪はほっと息を洩らした。
 小動物のように青木の胸に額をこすりつけ、前半身を合わせ、足を絡めてくる。細い肩から首から薪の匂いが立ち上ってきて、青木の理性を翻弄する。やっぱり、この状態は生き地獄だ。
 その時、サイドテーブルの上で、薪の携帯が震えた。
 びくっと肩を震わせて、怖いものでも見るように薪がそちらを振り返る。顔をこわばらせ、青木の腕の中から抜け出して、薪は電話に出た。
 
「はい。薪です」
 敬語を使ったところを見ると、相手は目上の人間か。小野田か、田城か、あるいは青木の知らない誰かか。
「そうですか」
 小さな声で呟くと、後は何も言わずに電話を切った。目上の相手に、きちんと挨拶もしないなんて、薪らしくないと思った。

 立ち尽くした背中が、とても頼りなく見えた。薄暗い闇の中に、溶けていってしまいそうだった。
 静寂の後、裸のまま床に崩折れて、静かに薪は泣き始めた。
 何があったのか見当もつかなかったが、それが悲しみの涙であることだけはわかった。何も聞かず、青木は裸の薪を後ろから抱きしめた。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(17)

運命のひと(17)







「薪さん。これ、ものすごくしょっぱいんですけど」
 いい加減に盛り付けられた煮物を一口つまんで、青木は顔をしかめた。
 食卓の上に並んだ薪の手によるものとは思えない哀れな料理。味付けも盛り付けもめちゃめちゃだし、ところどころ焦げてるし。キャベツの千切りはつながってるし、味噌汁に至ってはウインナーが入っている。
 だいたい、煮物と生野菜の夕食って微妙じゃないか? いつもだったらこれに、唐揚げとかハンバーグとか、メインディッシュの品がついてくるのに。

「文句言うな。食ったら帰れ。僕は今日はその気になれないから」
「帰れって……スキーに行くんですよ? 今から」
 スキー場へは夜中に出発するのがセオリーだ。3時ごろ家を出て、明け方にゲレンデに着くよう時間を調整する。雪山の夜明けは、背中に震えが走るほど美しい。必ず薪の気に入るはずだ。
「それはキャンセルだ」
「えええ! ゲレンデで朝を迎えて、スキー場で薪さんの誕生日のお祝いをしましょうって約束したじゃないですか」
「スキー場は寒いからイヤだ」
「だったら誘ったときにそう言ってくださいよ」
 先月このプランを話したときには、そんなことは一言も言わなかった。「晴れるといいな」などと笑みまで浮かべて、けっこう乗り気のようにも見えたのだが。

「その時は行くつもりだったんだ。急に行きたくなくなった」
「なんでそんなに勝手なんですか!?」
「うるさいな。文句があるなら、いつだって別れてやるぞ」
「あっ、あっ、またそんなこと言って……はああ、なんでこんな人を好きになっちゃったんだろ」
 後悔しても遅い。この人は、こういう人なのだ。
 青木の方が一方的に薪のことが好きで、デートもベッドも拝み倒して付き合ってもらっている状態だから、何も言い返せないのだが。
 薪は基本的にノーマルな男だから、本当は女の子と交際したいと思っていることも知っている。何ヶ月か前に行った自動車の展示会でも、あからさまにコンパニオンの足ばかり見てたし。青木のお気に入りのメーカーのブースは、スタッフの女の子がパンツスーツだったという理由で、クソミソに貶されてたし。
 それでも、やっぱり好きだから。
 青木は、顔の筋肉をムリヤリ動かして笑顔を作る。

「月曜日のディナーは大丈夫ですよね? 今年こそ、山水亭ですよ」
 12月24日は薪の誕生日。青木にとっては神の降誕祭ではなく、大切な恋人がこの世に生まれた記念すべき日だ。
「それもキャンセルしとけ。僕は明日から、スウェーデンだ」
「は!?」
「岡部に留守を頼んである。水曜には帰るから」
「仕事ですか?」
「ちがう。プライベートだ」
 仕事の鬼が、休暇をとって海外旅行?
 赤い雪どころか、レインボーカラーの雪が降ってきても不思議じゃない。

「プライベートで海外へ? お一人でですか?」
 一応は恋人として付き合っているはずの自分に一言の相談もなく、4日も日本を離れると言う。
 しかも、クリスマスに。
 何故だかこの日は昔からツキがなくて。クリスマスデートの申込みはこれで4回目だが、1年目は青木の父親が倒れ、2年目は薪が余計な気を回して雪子と食事をする羽目になり、3年目は突発の捜査が入って料亭から第九に直行し、4年目の今年は海を隔てて離れ離れ。何かの力が働いているとしか思えない。
「なぜ、スウェーデンなんですか?」
「北欧の雪が見たくなった」

 寒いからスキーはイヤだって言っといて、なんなんですか、それっ!

 怒鳴りたいのを必死で堪える。ここで感情を爆発させてしまったら、薪は機嫌を悪くする。薪が日本を離れる日数の10倍くらいは、徹底的に無視されるだろう。
「もういいです。今日は帰ります」
 薪の気まぐれには付いていけない。
 こういうときに話し合いを持とうとすると、修復不可能なケンカにまで発展してしまう可能性が高い。今まで何度もそんなことがあった。薪は絶対に自分から謝ろうとはしないし、青木の方がキレてしまったら、二人の関係はいとも簡単に破綻する。少し頭が冷えてから話をした方がいい。

 青木は黙って食事の後片付けをして、キッチンの掃除をする。それを手伝おうともせず、薪はリビングでテレビを見ている。騒がしいバラエティ番組の音。薪はこういう番組は嫌いだったはずだが、ソファの上に両膝を抱えて画面に見入っているところをみると、それほどの嫌悪感はないらしい。
「じゃあ、失礼します」
 声をかけるが、振り向いてもくれない。薪の背中はとても冷たくて、青木は悲しくなる。今夜の薪は、自分の恋人になる前の薪に戻ってしまったようだ。

 こんなに勝手なひとなのに、どうして嫌いになれないんだろう。
 青木は今まで、相手の人間性を重要視して交際相手を選んできたつもりだ。ところが、薪は恋人としては最低の部類で、やさしくもないし可愛くもない。見かけ以外はいいところがまるでない。たまにしおらしいことをするかと思えば、それは青木を焚きつけて事件を早期解決させるためだったりする。そんな計算高い人間に惹かれることなど、これまでは無かったはずだ。
 精一杯の純真を掌の上で転がされて、いいように使われている。こういうの、なんて言うんだっけ。都合のいい男――ミツグくんとか、アッシーくんとか――いや、奴隷か。

 地下駐車場の隅に停めた車に乗り込んで、不要になってしまった後部座席の荷物を振り返る。昨夜この荷物を詰めたときは、あんなに浮き浮きした気持ちだったのに。
「せっかく予約取ったのに」
 4WDのレンタカーも用意したし、スキーウェアだって新調したのに。山水亭の予約だって、何ヶ月も前から。
 みんなみんな薪の為なのに。薪はちっとも自分の苦労をわかってくれない。
 今に始まったことではないが、やっぱり薪と付き合うのは試練の連続だ。すれ違いは多いし、気持ちのズレはもっと多い。
 喜びも大きいが、ため息も深い。浮き沈みが激しいと言うか、良いときと悪いときの差が大きいと言うか。いつかこの気持ちが通じると、ずっと信じて頑張ってきたが、時々心が挫けそうになる。

「薪さん、オレのこと、本当にセフレだと思ってるのかなあ」
 自分のことをどう思っているのか、と薪に聞いたら、しれっとした顔でそう言われたことがある。もちろん、薪のいつものシュールな冗談だとその場は流したが、案外本気だったのかもしれない。
 過去に、女性に対してそうした愛のない行為をしたことをとても悔やんでいた薪だが、青木は男だし。女性と違って傷がつく、と言うわけではないから、悪いとは思わないのかもしれない。第一、青木の方から頼み込んでセックスしてもらってるわけだし。

 「薪さんのバカ」



*****

 って、またケンカかよ。 
 いい加減にしろよ、おまえら。←さも他人の仕業のように。


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ジャンル : 小説・文学

運命のひと(16)

運命のひと(16)







「あれ? なんだっけ、このCD」
 ラベルもシールも貼付されていないCDを予備の机の奥から見つけて、宇野は首を傾げた。
 捜査中は一刻も早く証拠の画を見つけ出すことが優先されるから、参考にした資料やそのコピーの整理などは二の次三の次で、あちこちに放りっぱなしのメディアが散乱する状態になる。繁忙時期には仕方のないことだと思うのだが、室長に見つかると雷が落ちるので、とりあえず予備の机の引き出しに突っ込んでおいて、暇なときにまとめて片付けるのだ。

「聞いたことないメーカーだな」
 CDの片面に入っている透かし文字は、英語ではないようだ。CDにウィルスが入っている危険性も考えて、宇野は自分のノートPCにそのCDを入れてみた。
 オートローディングが働き、自動的にプログラムが選択される。どうやら音楽CDらしい。
「音楽が関与した事件なんて、あったっけ?」
 再生ボタンを押すと、一昔前に流行ったホップスが流れ始めた。宇野は音楽にはまるで興味がないが、その彼でさえどこかで聞いた声だと思った。

「めずらしいな。宇野がS×××なんて」
 流行には詳しい今井が、歌い手の名前を教えてくれる。有名な歌手なのだろうが、宇野には初耳だ。
「へえ。そんな名前なんだ、このグループ」
「グループじゃなくて2人組。っておまえ、そんなことも知らないでCD買ったのか」
「だってこれ、俺のじゃないもん」
「じゃ、誰のなんだよ」
「さあ?」
「二階堂先生のじゃないか?」
 2つ隣の席で同じように資料の整理をしていた小池が、思い出したように言った。
「あ、そうだよ。それで聞き覚えあったんだ」
「そういえばあのひと、初日にこれ流して、薪さんに大目玉食らってたっけ」
 その日のことを思い出して、小池がにやりとする。
 あの時は笑ったっけ。二階堂に軽くあしらわれる薪の壊れっぷりが、とても愉快だった。

「こうして聞くと、いい曲だな」
「うん。俺もこいつら好き、って、室長!」
「すいませんっ! あの、CDの中身を確認して、あ、いや、片付けを怠っていたわけじゃなくって、たまたま」
 どんどん墓穴を掘っていく様子は、部下は上司の背中を見て育つという格言を実行に移しているかのようだ。
「すぐに破棄しますからっ!」
「捨てるなら、僕にくれ」
 薪が狂った。
 いや、こちらの耳がおかしくなったのか。
 仕事の鬼の室長が、職務時間中の音楽を聞きとがめることもなく、CDが欲しいと?

「貰ってくぞ」
 宇野のPCからCDを抜くと、薪は本当にそれを持って行ってしまった。
「どーしたんだよ、薪さん」
「ヘンだ……おかしいよ」
 一様に首を捻る部下たちを尻目に、薪は室長室へ入った。

 自分のPCにCDをセットして、ヘッドホンを付ける。再生ボタンを押して、二階堂が好んだリスニングサウンドに耳を傾ける。
 恋の歌。
 将来を共に生きていこうと決めた恋人へのラブソングだ。
 ――でもさ きみは運命のひとだから 強く手を握るよ――
 そんな歌詞が繰り返されて、二階堂の口説き文句のルーツを教える。
 軽薄なやつだ。
 小野田の電話を聞く前だったら、そう思っただろうに。

 初めて彼に会ったとき、第九で非業な死を遂げた被害者のMRIを見たとき、二階堂は長閑な口調でこう言った。
『仕方ないよ。ひとの生き死には、運命だから』
 運命。
 自分の死を目前にして、彼はそう言うしかなかったのか。

『じわじわと死を待つしかなかった彼女の気持ちが、あなたに解るとでも言うんですか』
 僕のあのセリフを、かれはいったい、どんな気持ちで聞いたんだろう。
 自分の命の期限を運命だと受け入れるしかなかった彼が、明日が来ることを当たり前だと思っている幸せな人間の叱責を、どんな気持ちで受け止めたのだろう。あの笑顔の裏に、どれほどの涙を隠していたのだろう。

 ――走る 遥か この星の果てまで 君を乗せていく――
 曲がサビの部分にかかると、ボーカルの声が美しく響いた。澄んだ歌声が、切々と主人公の恋心を歌い上げた。
 ロマンチックな歌詞。現実にこんなことを言ったら笑われるだろうが、メロディがつくとすんなり聞けるから不思議だ。
 この音楽の流れる部屋で、二階堂とした最後の会話を思い出す。

『僕だって、時間さえあればこんなことはしなかったよ』
 日本に滞在できる時間が限られている―――てっきり、そういう意味だと思っていた。二階堂の命にタイムリミットが切られていたなんて、思いもしなかった。
『口惜しいよ。青木くんが羨ましい』
『僕だって、時間さえあれば』
 あれはちがう。
 あれは、僕をものにできなかったことが口惜しいと言ったんじゃない。そんなことじゃない、そんな悠長な話じゃなかったんだ。

 口惜しいよ。
 僕だって。
 もっと、生きたいよ。
 
 そう、言いたかったんじゃないのか。

 薪は両手で顔を覆った。
 ヘッドホンから流れてくる明るい音楽が、まるで鎮魂曲のように薪の頭の中で鳴り響いた。

 二階堂は。
 生きることを諦めてなんかいなかった。諦められるはずがなかった。すべてを諦観して、受け入れることなんかできなかったんだ。
 周りの人間を羨み、無為に生きる人々に腹を立てることもあっただろうに、そんなことはおくびにも出さず、運命という一言ですべてを切り捨てて。
 そう口では言いながらも、自分に残された僅かな時間と成し切れなかった膨大な夢たちの亡骸に苦しめられて。
 どれだけ自分の不運を嘆いたのだろう。
 どれだけ神さまを呪ったのだろう。

 あいつは自分の意志で僕に会いに来た。小野田さんから僕のことを聞いて、写真を見て、僕を探しに来たんだ。もちろん、あいつの気持ちに応えてやることはできなかったけど。
 あんなに素気なくすることもなかった。
 ちゃんと話を聞いてやればよかった。何もかも運命だ、という言葉の裏側に隠れた彼の気持ちを、もっと考えてやればよかった。

「ふ……くっ……」
 警察庁の廊下でやり過ごしたはずの感傷は、大きさを増して薪の胸に還ってきた。
 今度は我慢ができなかった。
 細い指の隙間から、後悔の雫が滴り落ちてきた。とめどなく溢れ落ちるそれは、白い手の甲を伝って、ワイシャツの袖口に吸い込まれていった。



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ジャンル : 小説・文学

運命のひと(15)

運命のひと(15)






 室長会議終了後、薪は小野田のところへ顔を出すことにしている。
 定例報告と銘打っているが、事件の報告書はその都度所長に提出してあるので、大した報告事項はない。つまりこれは、小野田がかわいい秘蔵っ子の顔を見たがっているのだ。

「おはようございます、緑川さん」
 官房長付けの秘書にぺこりと頭を下げて、にっこりと微笑む。
 ここへはしょっちゅう来ているから、秘書とも顔なじみだ。薪が甘いケーキが苦手なことも知っているし、コーヒーには砂糖やミルクを入れないことも承知している。
「あれ? 小野田さん、電話中ですね」
 秘書の机の上の電話の外線ランプが点滅しているのを見て、薪は小野田が個人的な電話をしていることに気づく。
 官房室の外線は5つ。5つ目のラインは、小野田のホットラインだ。この番号は薪も知らない。
「電話は奥さまからですから。甥御さんのことみたいですよ。薪室長なら、入っても大丈夫だと思いますけど」
 小野田の甥と言われて、薪は豆台風のように自分の職場を掻き回して行った脳科学者のことを、苦笑と共に思い出す。

 二階堂が居なくなって、半年が過ぎた。
 季節は冬になり、2063年も暮れようとしている。
 第九にも平穏な日々が戻ってきて、仕事や日常の煩雑さの中に紛れ、彼のことも忘れかけていた。そういえば、論文は完成したのだろうか。あれほど協力してやったのだから、論文が出来上がったら連絡を寄越すのが当たり前だと思うが。
 まあ、学者なんてそんなものか。あの男に常識を期待しても無駄だ。

 薪はファイルを両手で持つと、秘書に向かってそれを差し出した。
「いえ。この報告書を渡しに来ただけなので。緑川さんから、渡しておいていただけますか」
 肉親からの電話なら、職務に関する機密事項ではない。しかし、小野田のプライベートに立ち入るのも気が引ける。
「あら。それは困ります。せっかく薪くんが来たのに、どうして帰しちゃったんだい、って叱られちゃいます」
 小野田の口調をそっくり真似て、彼女は片目をつむって見せた。さすが小野田の秘書だ。茶目っ気がある。
「直接お渡しになられたほうが、よろしいかと」
 少し迷ったが、時計を見て秘書の勧めに従うことにした。今朝は会議が長引いて、時刻は10時近い。早く第九に行って、仕事の指示をしなければ。

 天然木材を使用した重厚なドアをノックする。さすが、官房室長。第九の室長室のドアの倍は厚みがある。防音効果も高く、これなら大声を出しても隣室には聞こえないだろうと思われる。
 ドアを開くまで、小野田の声は全く聞こえなかった。通話ランプに気付かなかったら、電話をしていたことは分からなかった。
 ましてや通話の内容が、薪も知っている人物に関する重大なことだという事実も。

 知るはずがなかった。いや、知らなくて良かった。
 その人物は、彼にこの事実を知られることを望んではいなかった。

「そう……やっぱり、手術することにしたんだ。月曜日? ちょっと待って」
 ついぞ聞いたことのない小野田の深刻な声に、薪は足を止めた。
「困ったな。ぼくはその日はどうしても外せないんだ。君が立会いに行ってくれる? うん、頼むよ」
 手術、と小野田は言った。
 その手前の会話は、よく聞き取れなかった。聞き覚えのある名前が小野田の口から出たような気がしたが、自分の聞き間違いだと思った。
「潤也には、今夜にでも会いに行くよ。多分、これが最後だろうからね。姉さんたちも覚悟はできてるみたいだし。潤也も、これでようやく楽になれると思うしかないって、泣いてたけどね……。
 今夜、君も一緒に来る? うん、ぼくは潤也の顔見たら、一足先に日本に帰って」

 バサッと耳障りな音がした。
 小野田が大事な電話をしているのに、なんて無神経な、と腹が立ったが、その音の原因は自分が持っていたファイルが床に落ちたからだと分かって、薪は自分の手がひどく震えていることを知った。手の震えは指先だけのものではなく、身体全体が戦慄いた余波によるものだったと気付くころには、まともな呼吸ができなくなっていた。
 小野田は薪の姿を目に留めて、電話を切った。
「ごくろうさま。できたら、そのファイルは床じゃなくて机の上に置いてくれないかな」
 いつものように呑気な口調で薪に話しかける小野田には、電話をしていたときの沈痛な表情はなく、薪は一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思った。

 提出用のファイルを拾うでもなく、呆然とその場に立ち尽くしている薪を見て、小野田は軽く肩を揺すった。席を立って薪の足元にかがみ、自ら床に散乱した紙片とファイルを拾い集めた。
「いつもながら、君の報告書は解りやすいね」
 上司に床の書類を拾わせた無作法な部下の態度に怒るでもなく、小野田はにこにこして薪の提出物に及第点をくれた。ありがとうございます、と言おうとして、薪は自分のくちびるが動かないことに焦った。

「……小野田さん」
 細くて、かすかに震えている情けない声。
「行っていいよ」
「小野田さん!」
 薪が声を荒げると、小野田はとても困った顔をした。
 その顔は、半年前は頭痛の種だったモヤシのような風貌の男に似て、薪の心臓をぎゅっと締め付けた。

「ああ、潤也が怒るだろうな。君には絶対に知られないようにしてくれって、あれほど念を押されてたのに」
「知られないようにって、どういうことですか? 事故か何かに遭われたんじゃないんですか?」
「ちがう。潤也はね、脳腫瘍を患ってたんだ」
「脳……腫瘍……」
「うん。脳幹に出来た腫瘍で、手術は不可能だと医者に言われた」
 脳幹は脳と脊髄をつなぐ場所にあり、大脳と自律神経の制御を行なっている。脳幹が壊れれば自律神経が失調し、呼吸も心臓も停止してしまう。人間の生命維持そのものに関わる器官なのだ。
 深いところにあるから、脳を掻き分けるようにして手術をしなくてはならないし、髪の毛ひとすじのミスも許されない。ミスは患者の死に直結する。ミスをせずに手術を終えたとしても、植物状態になる可能性が9割を超えるという。初めから悲惨な結果が分かっているような手術を、執刀してくれる医者を探すこと自体が難しい。
 脳幹は、脳外科医にとって禁忌の領域なのだ。

「きみが潤也に初めて会ったときに話してた論文。あれが潤也の最後の論文だったんだよ。あのあと、すぐに療養生活に入ったんだ。ストックホルムの脳専門の病院でね。薬物治療しか道がなかったから、潤也は8年もそこで過ごすしかなかった」
 8年。
 その月日が、彼の風貌を変えたのか。
 病院で過ごす日々が、毎日投与される薬品が、彼を白く細く作り変えていった。機関紙に掲載された写真と似ても似つかぬ姿になっていたのは、そのせいだったのか。
「一時期は効いた薬も、だんだん効かなくなって。何度も薬を変えたけど、やっぱりダメで。病巣は広がる一方で、もう長くないことは解ってたんだ。だから思い切って日本に来たんだ」
 いよいよ自分の命が終わりに近づいたとき、故郷の地が踏みたくなった。そういうことか。
 それが最初からわかっていれば、乱暴なことはしなかったのに。

「そうだったんですか。彼は、自分が生まれた国で最期のときを過ごそうと……」
「ちがうよ。潤也は君に会いに来たんだよ」
「は? 何でそこに、僕が出てくるんですか?」
 相変わらず自覚のない子だね、と意味不明の前置きをして、小野田は薪が知らなかった叔父と甥のプライベートを教えてくれた。
「ぼくがいつも話して聞かせる君の武勇伝が、潤也は大好きだった。君が関わった事件のことは、全部かれに話してやったんだ」

 小野田が甥の慰みにと、面白おかしく話したという事件の数々。個人情報や残虐な部分はオブラートに包み、薪の活躍を大げさに装飾して、心躍る冒険活劇のように語って聞かせたのだろう。
「潤也は君に憧れてた」
 警察庁の要職に居る叔父の口から聞かされる、現実的で痛快な物語。その主人公に会いたくて、二階堂は第九に来たがったのか。
「潤也はね、すごく喜んでたよ。きみがあの論文を今でも覚えてくれてて。8年前も喜んでたけど、こないだはもっと嬉しかったと思うよ」
 やっと思い出した。
 あの当時、脳に関する論文に目を通すようにと薪に科学雑誌を与えたのは、小野田だった。その論文について小野田と議論を交わした覚えはないが、何がしかの感想は述べたような気がする。それを彼に伝えたのか。

「ツヨシとは運命的なものを感じる。そう言ってたよ」
「……戻ります。失礼します」
 短い退室の挨拶を口の中で呟いて、薪は官房長室を出た。
 秘書が「お帰りですか」と笑いかけてきたが、笑みを返すことができなかった。
 廊下に出て、薪は右手で顔を覆った。
 こみ上げてくる感傷を奥歯で噛み殺して、薪は警察庁の長い廊下を歩いていった。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(14)

運命のひと(14)







 蛍光灯が輝く明るいキッチンに、コーヒー豆を挽く音が響く。
 ふわっと広がる薪の大好きな香り。この匂いは薪を幸せにしてくれる。

「薪さんはあの病院で何を?」
 薪のマンションで遅い夕食を摂ったあと、青木は今夜の薪の行動に探りを入れてきた。どこまでも心配性の恋人を心の中で嗤いながら、薪は短く答えた。
「脳波検査」
「二階堂先生とは、どんな話を?」
 さりげなさを装いながらも、コーヒーカップを差し出す手が強張っている。仕方のないやつだ。
「GABA神経系と脳内オピオイド受容体の関連について聞きたいのか?」
 専属バリスタからカップを受け取って、薪は適当な用語を口にした。青木の質問を断つには、これが一番だ。
「いいです……オレには理解不能です……」
「だろうな。僕と彼が話すことでおまえに解ることなんか、何もないだろうな」

 芳しい香りを吸い込みつつ、白いカップにくちづける。
 たちまち口中を満たす苦味と微かな酸味。さらっと切れる爽やかな後味。夜だから薄めに淹れてあるが、薪の好みは外さない。

「どうせオレは二階堂先生とは頭のレベルが違いますから。薪さんと対等な会話なんかできませんよ」
 自分のカップを持って、薪の向かいの席に腰を下ろした恋人は、僻みっぽい口調で不満げに言った。必要以上に尖らせた唇で、わざとらしくコーヒーの湯気を吹き飛ばす。
 子供じみた仕草に、またしても心をくすぐられて、薪の背筋がぞくりと震えた。

「おまえの口は、喋るしか能がないのか? 喋るよりも得意なことがあるんじゃないのか?」
 ダイニングテーブルに肘をつき、細い指を組み合わせて、その上に尖った顎を載せる。左に小首を傾げるポーズを取って、上目遣いに拗ねた男の顔を見る。
 目に力を入れて、瞬きをゆっくりと二回。微笑みの形に口端を吊り上げて、目を細める。
「あ、はい。オレ、みかん丸ごと一口でいけます!」
「……ホントに低レベルだよな、おまえって。頭いたくなってきた」

 組んでいた指をほどいて、そのまま髪に埋める。なんでこいつはこんなに鈍いんだ。
 今日は泊っていけって、こっちから言ってやったのに。ちゃんと風呂も使って、後は寝るだけなのに。
 まあ、いい。
 気持ちを伝えるのは、言葉だけではない。
 薪はそっと手を伸ばす。青木の大きな手に自分の手を重ねて、長い睫毛を伏せた。

「薪さん、もしかして」
 ようやく通じたらしい。
 普段、伝わることが少ないから、こうして気持ちが伝わったときはむちゃくちゃうれしくて。これが日常になってしまったら、たったこれだけのことでこんなに感動することもなくなってしまうのだろう。それはやっぱり、つまらない。
 
「みかん、食べたかったんですね? ごめんなさい。全部食べちゃいました」
 ……。

 ふたつのコーヒーカップが置かれたダイニングテーブルの下で。
 鈍い男の向こう脛を、薪は思い切り蹴り飛ばした。




*****



 明かりを落とした寝室に、衣擦れの音がひそやかに流れている。
 組み合わさったふたつの手が、ベッドの上で立てる音。絡み合った足が、シーツの間で擦れる音。
 薪は、残された片手で相手の背中に縋る。

 右手に引き続き、くちびるも舌も奪われて、侵略されていく心と身体。刻み込まれる征服の証。
 相手に隷属化することの屈辱と、ほの暗い悦び。様々な感情が綯い交ぜになった薪の中で、揺るぎなく佇む一本の柱が樹立される。
 すべての感情はそこに集約され、愛戯の最中で同化する。やがてはひとつの純化した想いだけが、薪のすべてを支配する。

 ―――僕は青木が好き。

「薪さん。オレたちがこうなるのって、運命だったような気がしませんか?」
 後ろから青木の声が、薪の左耳に吹き込まれる。ゾクゾクと粟立つ背中と、自然に竦み上がる華奢な肩。自分を抱く腕に添えた両手を握り締めて、その感覚をやり過ごす。
「運命? バカじゃないのか、おまえ」
 呆れた顔を取り繕いながらも、薪はこころの中で驚愕する。天才脳科学者とバカのセリフがかぶるなんて、これだから青木はこわい。

「くだらないドラマばっかり見てるから、そんな突拍子もないこと言い出すんだな」
「薪さんだって。二時間ものの推理ドラマが大好きなくせに。あれこそ下らないでしょ」
「だって面白いだろ、あれ。ありえないトリックを貫いちゃうところとか、目の前に証拠があるのにわざとそれを見逃す鑑識とか。とりあえず、3人死ぬまでは推理を始めない探偵とか」
「……楽しみ方、間違ってます」
 つつっと後ろ首を舐められて、びくりと背中が反り返る。最近、首がすごく弱くなってきた。他にも背中とか、膝の裏とか。回数を重ねるほどに、ウィークポイントが増えていく。慣れるほど弱点が多くなるなんて、理不尽な話だ。

「韓流ドラマ見て泣いてるおまえのほうが、男として間違ってるだろ」
「ひととして間違ってるよりは、マシだと思いますけど」
「あん? それは誰のことだ?」
「あ、自覚あるんで、痛い! 痛いです!」
 後ろから回されていた青木の腕に、容赦なく前歯を立てて、暴言に対する報復を果たす。こういうことは身体に覚えこませるのが、一番効果があるのだ。
「もう。薪さん、噛むの好きですよね。こないだもオレの肩、思いっきり噛んでましたもんね」
 あれとこれとは違うだろう。
 あの時は、どうしても声が抑えられなくて、それが恥ずかしくて。こいつには、そのニュアンスの違いも判らないのだろうか。

「いいですか?」
 まだ早い。
 今日は、濃い前戯が欲しい。いつかのように、舌で舐め溶かして欲しい。
 でも、そんなことは口が裂けても言えないから、薪は黙って頷くしかない。
「あくっ! ~~~っ!」
 やっぱり、こいつとの相性はとことん悪い。
 タイミングは合わないし、欲しいところにはこないし。ちっとも良くないし、とにかく痛い!

「青木っ、まだか!」
「すいません、もう少し」
「あと何往復だ!?」
「えっと、30回くらい」
「僕を殺す気か! 10回で済ませろ!」
「せ、せめて20回」
「ムリだ、死ぬ! 痛すぎるっ!!」

 まったく、滑稽だ。
 こんなカエルがひっくり返ったみたいな無様な格好で、12歳も年下の男の下になって。そこに快楽のオマケでも付いてりゃ理由のひとつもできるけれど、僕にはそれすらなくて。
 それでも幸せでたまらない、なんて。扁桃体が異常をきたしているに違いない。

「薪さんっ、好きです、大好きっ……!」
 突き上げられるたびに局部はもちろん、下半身が全部痛い。膝まで走る痛みと、内臓を押される圧迫感。口から胃の中身が出てきそうだ。
 それなのに。
 悲鳴を殺すために歯を食いしばらなければならないような痛みが、青木の単純な言葉でごまかされてしまう。好きだって言ってもらえるだけで、もうどうなってもいいと思ってしまう。この苦痛が朝まで続いても構わない、なんて正気じゃ考えられないようなことまで頭に浮かんでしまう。

「オレ、こんな気持ちになったの、薪さんが初めてなんです。あなたのためなら、何を失っても惜しくないって」
 身体の奥に注ぎ込まれる灼弾を感じながら、耳に流し込まれる麻薬のような言葉に酔い痴れる。青木の腰に足を絡ませて、もっと深いところにおまえの精が欲しいと身体でねだる。
「愛してます」
 始めと終わりは必ずやさしいキスで。耳にタコができるほど聞かされたセリフを、飽きもせずに繰り返して。
 それを聞くたび、ジンと震える心と身体。
 二階堂は全人類の宝だなんて大げさな評価をしてくれたけど、自分の脳も大したことはない。同じセリフを何度聞いてもこんなに嬉しくなるなんて、学習機能がない証拠だ。

「オレの運命の人は、やっぱりあなたしかいません」
 運命のひと。
 結ばれるべく定められた運命のふたり。
 
「違うな。おまえとは、そういうんじゃない」
「違いませんよ。薪さん以外のひとなんて、考えられません」
「ちがう。おまえの運命のひとは、きっと他にいる」
「薪さんがなんて言おうと。オレは信じてます」
 強情なやつだ。
 青木は思い込みが激しくて、時々ひどく頑固だ。ひとの意見を聞こうとしない。特に薪のことに関しては、絶対に自分の意見を曲げない。
 例えば、未来永劫、薪への気持ちは変わらないと主張する。そんなこと、あるはずがないのに。
 
 きっと、僕たちはお互い、運命の相手じゃない。
 好みも性格もまるで違うし、僕とおまえの意見はことごとく合わないし。出会った瞬間に何かを感じるどころか、思い切り人違いしてたし。
 おまえに告られる前から惹かれてた、なんてロマンチックな馴れ初めでもなかった。僕はずっと長いこと、昔の恋人の面影をおまえに重ねてて。そこまでは許されるとしても、からだの関係ができてからもそれが続いて、何度かベッドの中で間違えてしまったりして。
 こんなヒドイ運命の相手が、いるわけない。

 僕たちの人生は、ほんの一部分が交差しているだけで、いずれは離れていく。添い遂げられる関係じゃないし、そんなことは望んでいない。
 望めるわけがない。
 二階堂が言うとおり、この関係は不毛で無意味で、厄介ごとばかりを互いの人生に持ち込む疫病神みたいなものだ。
 なるべく早く清算しなくてはいけないと思いつつも、そこから抜けられないのは……。
 痛みを幸せと感じるほどに、僕の脳がイカれてしまっているから。

 
 ちくしょう、ムカつく。
 ああ、そうだよ。
 僕はとっくにおまえにメロメロだよ。




*****



「42回だぞ、42回! おまえはまともに数も数えられないのか!」
 大きな声を出すと傷に響く。それを堪えてでも、ここは怒るところだ。
「数えてたんですか?」
「数えたさ。あと何回我慢したら終わりだ、って自分に言い聞かせて。それなのにおまえときたら!」
「すいません」
 しょげた恋人の情けない顔を見ると、薪の気分は上向きになる。青木の困った表情は、薪のA10神経系を刺激する。

「で?」
「はい?」
 何のことだか、分からないのか。まったくイライラする。
「その……よかったか?」
「はい!」
 こういうことを口にするのが、どれだけ恥ずかしいか。薪の気持ちに、青木はちっとも気付かない。
「薪さんも気持ちよくなりたいですか?」
「もう疲れた。眠らせてくれ」
 本当はちょっとだけして欲しい。でも、そんなことは言えない。
 青木は残念そうな顔をして、寝室を出て行った。やがて開け放したドアから、シャワーの音が聞こえてくる。

 こいつは何もわからない。僕が欲しいものも、したいことも。
 僕がこんなにもおまえに参ってるってことすら、わかってないんだろう。
 だけど。

 わからなくていい。
 わからないほうが面白い。

 痛みの残る秘部を庇ってうつ伏せになり、青木が寝ていた枕を抱える。微かな汗の匂い。その湿気が愛おしい。
 青木の残り香に顔を埋めて、薪はアーモンド形の扁桃体がシナプスのハンモックで昼寝をしている夢を見た。




*****


 拍手のお礼はここまでです。(またこんな姑息な手を)
 結局はらぶらぶなのね、ということで。

 続きはちょっぴり切ないので、明るいお話がお好みの方にはごめんなさいです。



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ジャンル : 小説・文学

運命のひと(13)

運命のひと(13)






「つまらない?」
 電極に塗ったワックスの汚れを、薪の額から拭き取っていた手が止まる。怪訝な表情で、二階堂は薪の顔を覗き込んだ。
「自分の思い通りにならない連中を、何とかしてねじ伏せるところが楽しいんです。何もかも叶ってしまったら、きっと退屈ですよ」
「残念ながら、きみの望みをすべて叶えてあげられるのは、プライベートのときだけだ。仕事を続ける限りは退屈になんかならないよ」
 手慣れた動作で機械を片付けながら、二階堂はのんびりと喋る。この話し方に知らず知らず癒されている自分を感じて、薪は電気療法の効果を改めて認識する。

「きみが不愉快な思いをするのは仕事だけで充分だ、と言ってるんだよ。あれだけのストレスだ。プライベートがよほど快適でないと釣り合わないだろ? きみの脳を今の状態まで癒してくれる相手を選ぶべきだ」
 それが自分だと言いたいのか。脳から攻めてくるなんて、脳科学者ならではのアプローチだ。
 しかし、二階堂の真意は違った。
「僕は別に、自分を君の恋人として売り込むつもりはないよ。君には彼より、相応しい人がいると言いたいだけだ。第一、君の脳には同性愛者の特徴が見られない。君は女性と恋をしたほうが、安らぎを感じられるはずだよ」
「そうかもしれませんね」
 素直に頷いて、にこりと笑う。
 ひねくれ者の仮面を外せば、そこにあるのは愛され上手の天使のような笑顔。

「こんなに落ち着いた気持ちは久しぶりです。鈴木が死んでからは、一度もこんな気持ちになったことがなかった」
 いつもいつも、誰かに責められているような気がして。毎晩のように悪夢を見て。
 青木と付き合いだしてから、いくらかはマシになったけど。ここまで癒されたことは一度もない。あいつに抱かれて、その腕の中で眠りにつくときでさえ。罪を重ねているという事実から逃れることはできない。
 僕たちの関係は、紛れもない罪だから。
 きっと今も、誰かを悲しませている。
 大切なひとの泣き顔を思い浮かべながらも、相手を求めずにはいられない現実。罪に罪を重ねるように、僕たちは秘密を重ね続ける。
 深まっていく業に、堕ちていく身体。
 すべてを理解した上で、なお。

「でも、ダメです。相手が彼じゃないと、ワクワクしない」
「わくわく?」
「ええ。ワクワクもドキドキも、何もない。胸がぎゅうっと押しつぶされるほど辛いこともない代わりに、背筋がゾクゾクするほど嬉しいこともない」
「そういうのが疲れるって、思ってなかったかい?」
「疲れます。あいつには振り回されてばかりで、正直身が持ちません」
 メンタルな面だけでなく、肉体的にも青木とは釣り合わない。年が違いすぎるし、身体の相性も悪い。
 それでも。
 あいつの手は拒めない。

「だからって、僕がそれを望んでいないと、どうして言い切れるんです? すれ違いばかりの滑稽な喜悲劇を、僕が楽しんでいないとでも?」
「だってきみは、泣いてただろ」
「誰かのために泣けるって、幸せなことでしょう?」
「それは自己陶酔だ」
 たしかに。二階堂の言うことは正しい。
「そうですね。とても愚かな感情です」
「感情だけの問題じゃないだろう? 彼との関係は不毛で無意味で、互いの人生にトラブルばかりを持ち込む。無駄なことばかりだ」
「人生に無駄がいけないなんて、誰が決めたんです? 仕事じゃあるまいし、無駄なことは多ければ多いほど人生は楽しいですよ」

 時刻は9時を回った。
 気分もいいし、今夜は久しぶりに鈴木と飲もうかな、と薪は思う。
「わからないな。どうしてきみほどの優秀な脳が、あの男にそこまで肩入れするのかな」
「わかりませんか?」
 椅子から降りて上着を手に取り、ネクタイをポケットにしまう。
 ふと思いついてシャツのボタンを外し、青木に愛された証を二階堂に見せ付ける。
 鎖骨の下部にうっすらと残った赤い刻印。完全に消えないうちに重ねられることが多いから、そのうち本物の痣になってしまいそうだ。
 愛おしそうにその徴を指でなぞり、薪は夢見るように微笑んだ。

「僕は、恋をしてるんです」
「恋? きみは彼に恋をしている、と?」
「ええ。僕はいま、青木に夢中なんです」
「ツヨシ。それは一時の感情で」
「はい、わかってます。一時的なものです。そう長く続くものじゃない。だからここは、一生を安穏に添い遂げられる誰かを選ぶのが正しい選択なんでしょう」
 電極と枕で乱れた髪を、さっと右手で整えて、薪はゆっくり立ち上がった。

「だけど、先生。
 正しいことと、ひとの幸福とは一致しないんですよ。
 正しいことをしてさえいれば、幸せになれるとは限らない。それはあなたが一番良く知ってるんじゃないですか?」
 メインスイッチを落とそうとした手を止めて、二階堂は薪をじっと見た。
 薪の真っ直ぐな視線に出会って、彼は苦笑した。肩を竦めて機械に目線を戻すと、パチリと電源を落とした。
「口惜しいよ。青木くんが羨ましい」
 薪の本音を知って、脳科学者はとうとう敗北を宣言した。
「僕だって。時間さえあれば」

 薪は上着に袖を通して、シャツのボタンを閉め直した。カバンを脇に抱え、脳科学者に背を向ける。
「来週、お帰りになるんでしたね。先生のご活躍を祈ってますよ」
「ツヨシ!」
 薪の背中に、男の声がかかった。
 それは初めて耳にする、二階堂の強い口調だった。
「僕だってね、時間さえあればこんなことはしなかったよ。強制的に感情を操るなんて。人の道に外れることだって、ちゃんとわかってるよ」
 二階堂は、薪が初めて見る表情をしていた。
 細い眉が苦しげに寄せられていた。黒い瞳が苦悩の色を宿していた。薄い唇がぎゅっと結ばれ、骨ばった拳が握り締められていた。

「別に怒ってないです。あなたが僕に何をくれようとしたのか、理解したつもりです」
 二階堂は、自分を元気付けてくれようとしただけだ。
 薪の身体の自由を奪っておきながら、指一本触れなかった。彼に邪心はなかった。
 その方法は、明らかに間違っていたけれど。彼には時間がなかった。もうすぐ、二階堂は自分の研究室へ帰るのだ。
 検査室のドア口で、薪は二階堂に向き直った。お礼までは言えませんけど、と付け足して、にこりと笑う。

「……許してくれてありがとう。ついでに、もうひとつ懺悔しとこうかな」
「はい?」
「青木くんが、君に手を出さないでって僕に言ったって話。あれ、嘘だったんだ」
「嘘?」
 やっぱり、嘘だったのか。いくら青木がバカでも、ありえないだろうと思っていた。青木ならやりかねない、と思ったのも事実だが。
 しかし、これでデートの約束をなかったことにできる。
「卑劣ですね。そんな嘘でひとを騙して」
「ごめん。謝るよ」
「ごめんで済めば警察は要らないんですよ」
 実はそれほど頭にきているわけではなかったのだが、怒ったフリをして薪は二階堂に背を向けた。

「当然食事はキャンセルですからね。失礼します」
「ああ、待って。彼も連れて帰ってくれないか」
「は?」
 検査室の奥の扉を開けると、そこは仮眠室になっていて、薪の部下が寝息を立てていた。
 どうしてこいつがこんなところに。
 てか、実家に帰ったんじゃなかったのか。あれから姿を見なかったから、てっきり薪の勧めに従ったのだと思っていた。

「二階堂先生。青木になにを」
「だいぶ煮詰まってたみたいだったから。電気刺激でセロトニンを分泌させてあげたんだよ。青木くん、起きて」
 二階堂が広い肩に手を掛けてゆさゆさと揺すると、億劫そうに青木の目蓋が開かれた。
 目をこすりながら身を起こし、背伸びをしながら大きな欠伸をひとつ。
「気分はどう? 青木くん」
「とてもすっきりしました。落ち着いた気分です」
 驚いた。
 青木は二階堂に反発心を抱いていたはずなのに、いつの間に懐柔したのだろう。

「あれ? 薪さん」
 最悪の展開になった。
 二階堂と二人きりでいたことが、こいつにバレてしまった。
 昨日、脳波検査に同意したときは、青木に付いてきてもらおうと思っていたのだ。そうすればおかしな誤解を受けずに済むし、二階堂も下手なことはできまい。だけど、あの電話のおかげで、そんなことは言い出せなくなった。仕方なくひとりで来たのだが。
 
「薪さんも二階堂先生の脳マッサージを?」
「脳マッサージ?」
 なるほど、そういう言い方をしたのか。微妙だが、的外れでもない。
「ええ。すっごく快適ですよ。頭の中ぐちゃぐちゃだったのが、きれいに整理された感じです」
 脳幹の縫線核だの網様体だのセロトニンだのと、青木に専門用語を使っても、意味が通じないだろう。ちゃっかりとデータは収集したに違いないが、青木の機嫌を直してくれたことには感謝しよう。

「これ、商売にしたら当たりますよ」
「これだけの機械を自費で揃えようと思ったら、1回当たりの料金を100万円くらいに設定しないと」
「それは高いです。って、これ、お金取るんですか!?」
「特別割引で、80万にしてあげるよ」
「えええ~~!」
「月賦でもいいよ」
 すっかり打ち解けている。
 二階堂に対する好意を増量する電気信号でも送り込んだのだろうか。もともと騙されやすい青木のことだ。電極なんかなくたって、5円玉ひとつで言いなりになりそうだ。今度、青木がヤキモチを妬いたときに試してみよう。催眠術でヤキモチが静まるかどうか。

 病院側との約束は9時までだから、と二階堂は二人を追い出し、自分は病院の中に戻っていった。論文作成のため、今日は泊り込むと言う。ご苦労なことだ。
 救急の出入り口から中庭に出て、駅の方向へふたりで歩く。今夜は曇っていて、月も出ていない。
 所々に立てられた水銀灯の明かりで、駐車場から歩いてくる人影が見える。急に熱を出した子供や、思いがけぬ怪我をしたひとたち。夜の病院は、けっこう人が多いものだ。

「おまえ、今夜中に帰らなくていいのか? 明日、間に合うのか?」
「会食は断りました」
「断った? お母さんに叱られなかったか?」
「落ち着いて話したら、納得してくれました。こっちが苛立ってたら相手も苛立っちゃう、って二階堂先生に言われました。先生に脳マッサージをしてもらってから話をしたら、母もすんなりオレの言い分を聞いてくれて」
 青木の話に、薪は驚いて立ち止まった。
 二階堂が、青木にそんなアドバイスを?

「なんて言ったんだ? お母さんに」
「死ぬほど好きな人がいるからって」
 なんてバカなことを。
 薪はジャケットのポケットから携帯電話を取り出し、10桁の数字を押した。部下の実家の電話番号くらい、上司なら暗記していて当たり前だ。
「夜分にすみません。室長の薪です。あの、昼間お約束したことですけど、その」
 なんと謝罪したらいいものか、言葉が出てこない。自分が責任を持って青木を帰らせる、と約束したのに。
 薪が口ごもると、青木の母親は『お気になさらないでください』と明るく笑った。
 すみません、と頭を下げると、室長さんに言うことじゃないんですけど、と前置きして、彼女は嬉しそうに話した。

『あの子ったら、ようやく白状したんですよ。好きなひとがいるって』
 弾んだ声が聞こえてくる。本当のことを知らないから出せる、悪意のない声。
『一行が、自分の我を通すなんて初めてなんですよ。今までは当たり障りのない相手を選んでたっていうか、親の顔色を伺っていたっていうか。
 やっと本当の恋をしたのねえ』
 自分の息子に訪れた恋を喜ぶ親に、その真実を告げたときの衝撃を想像して。絶望に嘆き悲しむであろう彼女の姿を、まざまざと思い描きながらも。
 薪の胸を満たすのは、歓喜。
 本当の恋をしていると、彼を育て上げた母親ですら認めた青木の想いが自分に向けられていることに、体中が震えるような喜びを感じている。

 僕は、どんどんひどい人間になっていく。
 だれかが悲しむことが解っているのに、この事実に狂喜している。
 僕の中にはもう、良識や道徳なんかカケラも残っていないんだろう。残酷で身勝手で、表面上はどう取り繕っても、自分さえ幸せなら他人がどうなっても構わない、と心の底では思っているのだろう。

 穏やかな声で「失礼します」と挨拶して、薪は電話を切った。
 通話の間中、黙って自分を見つめていた男に、一歩近付く。

 ヒトデナシはヒトデナシらしく。他人のことなんか、気にしない。

 水銀灯に照らされた病院の中庭で、病気の子供を抱いて走ってくる母親を横目に。
 薪は背伸びをして恋人にキスをした。



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運命のひと(12)

運命のひと(12)









 思い出したように痛み始めた足腰を引き摺るようにして、薪が病院に着いたのは夜の8時ごろだった。
 今日の定例会は、脳波検査を理由に断った。本当はあの電話の一件で、酒を飲む気分ではなくなってしまったからなのだが、岡部に余計な心配を掛けたくない。

 二階堂から預かった名刺を夜間の受付に出すと、検査室へ案内された。つん、と鼻をつく消毒薬の匂い。その香りを纏った黒髪の女性のことを思い出して、薪は自分の失敗に気づく。
 そうだ、あいつには雪子さんがいたんだ。見合いなんか勧めて、失敗した。
 ヤケクソになって見合いしたからって、相手の女性の気持ちも考えずに行動するような男じゃないけど。このことを雪子が知ったら、やはり不愉快だろう。
 青木は無神経なところがあるから、悪気はなくても喋ってしまうかもしれない。雪子に見合いの話は黙っているように、注意しておかないと。

 暗い気分に拍車をかけるように憂鬱なことを思い出して、薪の足取りがさらに重くなる。先に立って案内をしてくれていた受付の女性が薪の方を振り返り、「おかげんが悪いのですか?」と声をかけてきた。初対面の相手にそんな心配をさせたことを知って初めて、薪は自分がひどく落ち込んでいることに気付いた。
「大丈夫です。ちょっと寝不足で」
 せめて、にっこりと笑ってみせる。どんな心境でも笑顔を作れる訓練をしておいてよかった、と薪は思う。

「よく来てくれたね、ツヨシ。そこに座って」
 広い検査室の中、見たことの無い機械に囲まれて、二階堂は薪を待っていた。
 どこかで聞いた曲が流れている。題名は知らないが、二階堂が初日に第九で流していたあの曲だ。
 脳波検査をするのに音楽を流すなんて、おかしなことをする。平常の状態で測定しなければ意味がないと思うが、何を考えているのだろう。
「カバンはそこの籠に入れて。上着脱いで。ネクタイも取った方がいいな。ワイシャツのボタンも外したら」
 ネクタイは取れるけれど、シャツのボタンは外せない。首の付け根に残った痣が見えてしまう。
 
 電極がたくさんついた機械の隣に、歯医者で使うようなリクライニングチェアが置いてある。その上に横たわって、薪は薄いベージュ色の天井を見た。
 額から後頭部まで、6つの電極が取り付けられる。
「えらく簡易的じゃないですか? 標準は21個じゃありませんでしたっけ」
「よく知ってるね。脳全体を多角的に見るときには60個くらい付けるんだけど、これはただのモニタリングだから。見るところも決まってるし」
 電極の具合を確かめるために、二階堂は薪の頭を抱えるようにして後ろ首から後頭部を触っている。白衣の下で、二階堂の貧弱な胸が動いているのが見える。骨ばった男の手が自分の首に触れるのを、不快に思う。青木に触られると気持ちいいのに、これはどういった現象なんだろう。

「じゃあ、始めるよ。リラックスしてね」
 二階堂はいくつかのスイッチを解除し、レバーを下げた。ヴォン、とハードディスクがうなる音がして、チカチカとモニターの画面が点滅する。モニターに映っているのは、脳の略画だ。全体的には緑色だが、ところどころに赤や黄色が分布している。
「ふうん。とても落ち着いてて理想的な脳だね。あの濃度でこの状態は意外だな」
 どういう意味だ。脳全体が迷彩色にでもなってるとでも思ってたのか。
「ツヨシ。ちょっとこの問題、考えみて」
 簡単な積数の計算問題。これを解けということだろうか。
「√2/3。52。3.8562」
「ちょっと待って。暗算でいけちゃうの? それ」
 答えを言わなくても良かったのか。それならそうと言ってくれればいいのに。
「しかも、殆ど稼動してない……いや、早すぎて視認できないのか。数字にはちゃんと表れてる」
 プリンターから打ち出される数字と記号の羅列は、薪にも理解不能だ。ここまでくると、さすがについていけない。
 
「すごいよ、ツヨシ。きみの脳は人類の宝だ。学問の道に進むべきだよ。どうして警察官なんて職業を選んだんだい?」
「小さい頃からの夢だったんです。ずっと警官に憧れてました」
「親が警官だったとか?」
「僕の両親は、小学校に上がる前に交通事故で亡くなったんですけど。そのときに僕の面倒を見てくれた巡査が、とても親身になってくれて。子供心に感激して、将来は絶対に警察官になろうと」
「そうなんだ」
 何故、こんなことを喋っているのだろう。
 こんな話、誰にも―――いや。鈴木には話したっけ。なぜ警察官になりたかったのか、どうして官僚を目指すようになったのか。何を目的として警察機構に身を投じたのか。
 
 鈴木とは、すべてを語り合った。お互いの夢の話を、一晩中でも喋り続けた。
 そのうち、鈴木は弁護士希望だった自分の夢を薪の夢に揃えてきて。一緒の部署に配属されたら最高のコンビになるな、と頷きあって。
 その夢は叶ったけれど。
 鈴木はもう、いない。

「ご両親のこと、思い出しちゃった? 前頭前野が動いてる」
「いえ。亡くなった親友のことを」
 二階堂は、はっと息を呑んだ。小野田から事件の顛末を聞いているのだろう。
「君の親友か。さぞ、いい男だったんだろうね」
 自分を実験体にしている男が、彼特有の暢気な口調を崩さずにいてくれたことに感謝して、薪は口を開いた。
「鈴木は……僕の親友はすごくやさしい男で。僕が何をしても怒ったことなんかなくて、全部許してくれて」
 そう。
 僕に命を奪われてさえ、鈴木は僕を愛してくれた。僕に生きることを望んでくれた。
 昔はとてもそんな風には考えられなかったけど、今はそう思える。あいつのおかげだ。あいつが、鈴木の真実を僕に見せてくれたから。

「彼のことが、とても好きだったんだね」
「ええ。大好きでした。だからとても辛くて。この世界と引き換えにしてもいいと思うくらい、彼に帰ってきて欲しかった」
 薪の脳の片隅で、微かな光が点滅した。
 おかしい。
 どうして自分は、こんなことを二階堂に喋っているのだろう。
 こんなプライベートのことを、両親や鈴木のことを。青木にだって喋ったことがないのに、どうして?

「ああ。彼を愛してた?」
「ええ。ずっと長いこと彼に恋をしていて」
 ちょっと待て。
 どうしてこんなことまで喋ってるんだ、僕は?
 喋ってるというか、喋らされてる。操られてる。

 薪は、官房室で二階堂とした会話を思い出す。
『ひとのこころの動きを作るのは、脳ですよ。脳内の電気信号が人間の行動のすべてです』
『その電気信号を操ることができれば、好意も悪意も思いのまま』
 ……まさか、こいつ!

 頭についた電極をむしりとろうとした。右手でコードを掴んで、自分を操る電波の糸をなぎ払ったつもりだった。
「その信号はブロックしてある。動かせないよ」
 突拍子もない仮説が的を得ていたことを知って、薪は驚愕する。
 外部的な刺激を脳に送り込んで、その人間の感情すらも支配する――こんなことが可能なのか。
「僕をどうするつもりですか」
 身体が動かせないのだから、何をされても抵抗できない。
 例えばこの場でレイプされても、悲鳴を上げることすらできない。それどころか、悦びの声を上げてヨガらされる可能性も……。

「君をどうこうしようなんて思ってないよ。たしかに、電気刺激でβエンドルフィンを分泌させて君をインフォマニアに仕立て上げることはできるけど。そんな下らないことには興味がない」
 こんなことをされているのに、怒りは湧いてこない。怒りを抑えるホルモンを分泌させる電気信号が送り込まれているのだろう。
「こうやって脳の状態を見れば、君が考えることは何でも分かる。好きなものもキライなものも、欲しいものもそうでないものも」
 分かるだけでなく、操ることもできる。
 マイナスの考えはプラスに。暗い思考は明るく前向きに。
 それは精神科医のセラピーを機械化したような技術で、非道と言われれば否定はできないけれど、現実に効果が上がればこれから普及するかもしれない。
「僕なら、君の望むままの快楽を与えてやれる。もちろん性的な快楽だって。快楽中枢に直接刺激を与えてやれば、肉体的な負担もないし。昨日みたいに、足を引き摺って歩かなくてもよくなるよ」
 マッサージで身体の疲れを取るのも、脳に電気刺激を与えてストレスを解消するのも、大きな差はない、と言いたいのか。学者らしい極端な考え方だ。
 
 頭の中で皮肉を言いながらも、薪の心は凪いでいく。
 こんな穏やかな気持ちを味わうのは、何年ぶりだろう。

「でも、君が本当に欲しいのは、こういう時間だ。安らぎが欲しい、と願っているはずだよ」
 その通りだ。
 穏やかで満ち足りた時間。
 第九の仕事でささくれ立った心を癒してくれる、至福のとき。充実した人生を送るために必要なのは、激しい恋愛感情ではない。そんなものは疲れるだけだ。
「君に必要なのは、そういう相手だよ。彼では、無理だ。彼を選んだのは、君の間違いだ。彼との関係は、君を追い詰めるだけだ」
 二階堂の指す人物が脳裏に浮かんで、薪は苦笑した。顔の筋肉は動かなかったが。

 間違い。
 そうかもしれない。あいつとは、趣味も性格も合わなくて。

 出会ってからずっと、すれ違いや誤解ばかり重ね合ってきた。
 傷ついたり傷つけられたりして、心から血を流し続けてきた青木との関係。
 僕を完璧に理解してくれる相手となら、そんなことはないのだろう。言葉も要らないし、その不足を身体で補うなんて下らない真似もしなくていい。
 何も言わなくても、思いが通じる。
 欲しいと口に出さなくても、それが目の前に差し出される。本当はこうして欲しいのに、と苛立つこともなく、恥ずかしさに身を捩ることもなく、この男は僕に望むままの快楽をくれるのだろう。
 脳が震えるほどの楽しさや、指先までしびれるような快感や、薪が求めてやまない永遠すらも。
 快適で、満ち足りて、欲しいものは何でも手に入るこの世の天国。

 それはひどく魅力的で。
 そして。
 なんてつまらない世界だろう。

「つまんないです、そんなの」
 時計の短針が9の文字に近付く頃、頭に取り付けられた電極を外してくれた二階堂に、薪は笑いながら言った。

 

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

運命のひと(11)

 拍手のお礼なのにすみませんー。
 絶賛ケンカ中です☆



運命のひと(11)







 室長室から聞こえてきた怒鳴り声に、第九の職員たちは度肝を抜かれた。
 青木がここへ来て3年になるが、彼のこんな声を聞いたのは初めてだった。しかもその怒号が、彼の敬愛する室長に向けられるとは。去年の夏に薪と衝突して、青木が第九を辞めると言い出したときでさえ、こんな大声は出さなかった。
 
 部屋から出てきた青木は、力任せにドアを閉めた。ドアが叩き割れるような音がして、モニタールームが振動したような錯覚すら覚えた。
「あ、青木。どこ行くんだ?」
「コーヒー豆、買ってきます」
 コーヒー豆の在庫は週始めに補充したばかりだ、と誰も声にする者はいなかった。モニタールームを出て行く広い背中は、一切のものを拒絶していた。
 自動ドアの向こうに青木の姿が消えると、職員たちは何となく、青木が怒りに任せて閉めたドアを見つめた。昨日、直したばかりのドアは、大男のバカ力によって早くも歪んでしまったようだ。

 そのドアの向こうでは、薪が頬杖をついて、憂鬱な顔をしていた。
 まったく、あいつときたら。聞き分けのない子供のように癇癪を起こして職場を抜けるなんて、社会人にあるまじき行為だ。戻ってきたら説教だ。
 部下の行動に対して怒りを感じているはずの室長の表情は、なぜかとても哀しげで。苦しそうに歪められた瞳から透明な液体が湧き上がるのを、必死で抑えているようにも見えた。

 だって、仕方ないじゃないか。
 僕があいつの子供を産んでやれるわけじゃなし。結婚どころか、付き合ってることだって誰にも知られちゃいけない。そんな間柄なのに。青木の縁談話に口を出すことなんか、できるわけがない。
 青木の親が僕との関係を知ったら、どんなに悲しむだろう。何食わぬ顔で話をしたけれど、本当は怖くて膝が震えてた。
『いつも一行がお世話になっています』と彼女は礼を言った。彼女にとって僕は、息子を誘惑して人の道から外れさせた悪魔にも等しいのに。謝らなくちゃいけないことをしているのに、それを告白する勇気は無くて……せめて、息子の顔を見せてやりたいと思った。
 こんな、世間から非難されるだけの関係なんて、青木にとっても僕にとってもマイナスになるばかりだ。早く清算したほうがいいに決まってる。
 でも。
 僕からは、とてもできない。あの手を放すことはできない。
 だってこんなに……。
 青木の方から、言い出してくれるのを待つしかない。覚悟はできている。みっともなく追い縋ることだけは、すまい。

 ぽたりと報告書の上に水粒が滴り落ちて、薪は慌てて目の縁を拭う。
 しっかりしなければ。今は仕事中だ。泣くのは後だ。
 ていうか、この泣き虫のクセもどうにかしないと。

「泣きたいときは泣いた方がいいんだよ、ツヨシ」
 後ろから声をかけられて、薪は文字通り椅子の上で飛び上がった。
 なんでこいつがここにいるんだ!?
「知ってるだろ? 涙を流すと、GABA神経系からエンドルフィンが分泌される。鎮静効果も高いし、免疫力の向上にも貢献する」
 二階堂は、寝椅子の背もたれに腕を掛け、こちらを見ていた。どうやら今まで横になっていたらしく、髪がいつも以上にくしゃくしゃになっている。
 
「いつからそこに居たんですか!?」
「モニタールームにいると邪魔だから室長室に篭ってろって言ったの、ツヨシじゃなかった?」
 相手に言われて思い出した。
 昨日、第九に回ってきた事件の被害者は現職の都議会議員で、通常以上に個人情報の流出には気を付けるよう念を押された。二階堂には室長室を提供するから、被験者のモニタリングはドアから覗くだけにして、モニタールームには絶対入ってくるな、と命令したのだった。

「今の話を」
「聞くつもりはなかったけど。聞こえちゃった」
 寝椅子はドアに背を向ける形で置かれているから、背もたれに隠れて彼の姿は見えなかった。平常なら人の気配に気がついたと思うが、さっきはふたりとも動転していて・・・・これは非常にまずい。
 今度は冗談では通じない。誰がどう聞いても、恋人同士の痴話ゲンカだ。
「ひとに喋ったら殺しますからね」
「ツヨシ。それは脅しじゃないの? 警察官がそんなことしていいの?」
「警官ですから。隠蔽工作はお手の物ですよ」
「あはは。完全犯罪成立だね」
 軽い調子で流されて、薪は心の中で舌打ちする。
 二階堂には、薪の眼力が効かない。暴力団対策課の捜査官たちにさえ、薪のブリザード攻撃は有効なのに。小野田家の血のなせる業か。

「ツヨシ。今日の帰り、忘れないでね。僕は先に病院に行ってるから」
 なんだっけ、と思いかけて、昨日の会話を思い出す。
 脳波の検査を受けてくれと頼まれたのだった。気乗りしないが仕方ない。約束は約束だ。
 わかりました、と頷いて、薪は席を立った。



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運命のひと(10)

運命のひと(10)







 金曜日の午後。
 大きな身体を二つに折って、青木は自分のデスクの脇にかがみこんでいた。
 携帯電話に向かって、何事か喋っている。声は低いが、明らかに憤った声だ。第九の職員たちはまだ、彼のこんな声を聞いたことがない。
「どうしてあんなものを送って来るんだよ。しかも職場に!」
『受取拒否で送り返されてきたからよ。中身も見ないなんて、あんまりじゃない』
 1ヶ月ほど前、実家から自宅に送られてきたのは、和服姿の若い女性の写真だった。要するに、見合い写真だ。それから何度か送られてきたのだが、2度目からは封筒の上からでもそれと解ると、封を切らずに運送会社に返却していた。

「要らないって言ってんだろ! オレにだって」
 恋人はいる。とことん惚れ抜いている相手がいるのだ。
 だけどそれは秘密の恋人で、口にしてはいけない。

「結婚相手くらい、自分で探すから。見合い写真はもう送ってこないでくれ」
『母さんはいいけど、俊幸さんがね。あなたは長男なんだから、結婚して家を継がないとってうるさいのよ』
 俊幸というのは父の弟で、ひとの家のことに何かを首を突っ込んでくるお節介なひとだ。見合いを強制するなんて母にしてはおかしいと思っていたが、あの叔父が絡んでいたのか。
『それでね、週末に写真のお嬢さんとの会食を取り付けちゃったのよ。会うだけでも会ってくれないと、俊幸さんの面目が立たないって』
「なに勝手なこと言ってんだよ! そっちが勝手にやったことだろ!? なんでオレが見ず知らずのひとと食事しなきゃいけないんだよ!」
 冗談じゃない。
 週末は、薪とふたりで過ごせるチャンスだ。そのために生きていると言っても過言ではないくらい、大切な大切な時間なのだ。邪魔されてたまるか。

「オレは行かないから、母さんのほうで」
 するっと携帯を手から抜かれて、青木は自分の声が高くなっていたことに気付いた。しゃがんだまま振り向くと、薪が青木の携帯を持って立っている。冷たい目で青木を見下ろしている。仕事中の私用電話を咎めているのだ。
「すみません、室長。すぐに切りますから」
「もしもし。室長の薪です」
 何を思ったか、薪は青木の携帯に向かって話しかけた。
「ええ。息子さんはとてもよく頑張ってますよ」
 青木の母親と、喋り始めてしまった。どういう気だろう。
「分かりました。必ず、そちらに向かわせます。僕がお約束します」
 何を約束するって?
「相手の方と、うまく行くといいですね。それでは」
 ぱたりと携帯を閉じて、青木の方へ返して寄越す。小さな手から受け取った薄い通信機器が、何故かとても重く感じる。

 薪の視線は下方をさまよっている。青木の顔を見ようともせず、黙って室長室へ入っていく。当たり前のように後を追いかけて、青木は薪の部屋へ入った。今の寸劇の説明を請わなければ。
「室長。母と何を」
「土曜日の11時。博多駅近くのKホテルだ。遅刻するなよ」
「なんですか、それ」
「封筒の中に相手の写真と、ホテルの地図も入ってるって言ってたぞ。ちゃんと確認しとけよ」
 椅子に腰掛けて、いつものように書類を手に取る。左手でPCを操りながら、報告書の内容と画面を見比べて、不明瞭な個所に付箋を付けていく。
「女性が喜びそうな褒め言葉のひとつやふたつ、あらかじめ考えていけよ。こういうことは、下準備が大切」
 ばん! と青木が机を叩くと、薪は口を閉ざした。
 不愉快なお喋りは止まっても、こちらを見ようとはしない。この件はすでに薪の中では決定事項で、話し合う気はないらしい。
 恋人に見合いを勧めるなんて。これでは相手の愛情を疑うな、と言うほうが無理だ。

「見合いしたからって、その相手と結婚しなきゃならないわけじゃないだろ。いい機会だから、今度の週末は親孝行してこい。おまえ、今年になって一回も実家へ帰ってないだろう」
 実家へ帰ったのは、父親の1周忌が最後だ。薪と一緒に新年を迎えたくて、法事が終わったその日のうちに帰ってきてしまった。
「実家へ顔を出すのはいいですけど、見合いはしません。相手のひとにだって失礼でしょう。オレが愛してるのは」
 亜麻色のキツイ眼に、ぎろっと睨まれた。それ以上喋るな、と薪の瞳が言っている。

「最初に言っただろ? 僕がおまえにやれるのは、身体だけだって」
 たしかにそう言われた。だけど、あれは。
「わかってるだろ。僕たちは、ずっと一緒にはいられない。おまえだっていつかは結婚して、家庭を持つんだ。準備はしておいても無駄にはならない」
「本気で言ってるんですか」
「僕はいつだって本気だ」
 薪は冷静だった。冷静に、自分との未来を切り捨てようとしていた。

 青木は、自分が立っている地面が揺れるような錯覚を覚える。
 結局は、自分の片思いなのだ。
 週末を一緒に過ごすようになっても、薪の部屋に泊るようになっても、同じベッドで朝を迎えるようになってさえ。
 青木の胸を締め付ける想いは、3年前から変わっていない。それと同じように、薪の心も変わらないのか。

「今日は半休扱いにしてやる。さっさと飛行機の手配をしろ」
 そのとき青木を包み込んだのは、絶望か怒りか。
 名称の付け難い感情に支配されて、青木は叫んだ。
「わかりましたよ。行きますよ、行けばいいんでしょう!」




*****

 この二人、この調子でいつもケンカばっかりしてる~。
 ちょっとはよそ様のあおまきさんを見習えよ、おまえら。(--;



追記 訂正しました。
 作中の駅名を訂正いたしました。
『福岡駅』→『博多駅』に直しました。
『福岡駅』って、福岡県にはないんですって。(教えていただいて、ありがとうございました)
 福岡県の駅は福岡駅だと思ってました。(←バカ)
 九州なんて20年くらい前に1回行ったきりだからなあ。(じゃあ路線図を調べろって、反省します、はい)
 わたしは色んな知識や常識が欠落しているので、こんなふうに教えていただけると、とてもありがたいです。これからも何か気付いた点がありましたら、教えていただけると嬉しいです。よろしくお願いします。
 

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運命のひと(9)

運命のひと(9)






「二階堂先生、また眠ってる」
 自分の捜査に行き詰まりを感じ、上司に相談をするために室長室へ入っていった小池が、呆れたような声を出した。どうやら薪は不在で、代わりに脳科学者が惰眠をむさぼっていたらしい。
「室長を部屋から追い出しといて、いい度胸だよな」
「薪さんもよく黙ってるな」
「仕方ないだろ。官房長と三好先生にだけは、薪さん頭が上がらないんだから」
「他の人間に対しては、20階建てのビルの屋上から見下すような態度だけどな」
「ひとをひととも思わないってか」
「どうせ俺たちのことなんか、ドレイだと思ってんだよ、あのひとは。何か面白くないことがあるたびに、バックアップだリーディングテストだって。先週だって、青木がうまいこと言わなかったら」

「そんなこと、思ってない」
 涼やかなアルトの声が背後から響いて、小池は自分が探していた人物が、同じモニタールームにいたことを知る。
 薪は身体が小さいから、大型のモニターやうず高く積まれた書類の山に、いとも簡単に埋もれてしまう。しかも職務中は無駄口を叩かないので、居るか居ないかわからない。

「大事な部下を奴隷だなんて。僕がそんなこと、思うはずないじゃないか」
 薪がてっぺんに来ているとき特有の猫なで声。この声が出たら、警報発令だ。命が惜しかったら、一目散に逃げ出すことだ。
「おまえらは奴隷なんかじゃない。でも」
 小池以外の職員たちは、素早く机の下に潜る。スケープゴードになった小池には気の毒だが、全員が一度にこの被害に遭ったら、第九は機能停止に陥ってしまう。
「証拠を見つけられない役立たずは家畜以下だ! さっさと仕事しろ!!」
 ……人間ですらない。
 道理で人権を認めてもらえないわけだ。

「僕の人間性を非難するヒマがあったら、モニターを見ろ! おまえに預けた事件はどうした? 一体、いつまでかかるんだ。検証期間はたった3か月だぞ」
「さ、3か月分を一人で見るには、2週間は掛かります」
「全部見ろって言ってないだろ。事件に関係するところだけ見ればいいんだ。いつも言ってるだろ、捜査資料を読んで当たりを付けろって」
「それがその、いくつか仮説は立てたんですが、どれも見当違いだったみたいで」
「どれ、見せてみろ」
 おずおずと小池が差し出した捜査メモに、薪はさっと目を走らせた。亜麻色の瞳が、限りない侮蔑の光を宿す。

「おまえの頭には何が入ってるんだ? 廃油か、ヘドロか。ゾウリムシが頭の中で繁殖してるのか? アメーバーだってもう少しマトモな説を立てるぞ、この原生動物が!!」
 小池が立てた仮説が書かれたメモを見て、薪は部下の説明も聞かず、一方的にがなり立てた。まったく、ひどい上司だ。
 言葉にするのも憚られるような罵詈雑言が聞こえてくる。薪のきれいな顔と声で、面と向かってあんなことを言われたら。
 普通の人間では、神経がもたない。可哀想に。小池は午後から仕事にならないだろう。
「わかったな。今日中に見つけろよ。できなかったら週末どころか、盆休みもないと思え」

 現在、地球上で一番気温が低いのはこの部屋ではないのか。
 薪が小池の前から離れて、もといた席に戻ると、ようやく溶け始めた氷の中で、職員たちはそうっと地表に顔を出した。
「だ、大丈夫か? 小池」
「平気……原虫には心なんかないから……」
 崩壊している。
 職員たちは同僚に哀れみの眼差しを向けたが、長くそちらを見ていると自分にもとばっちりが来ると考え、仕方なく自分の仕事に戻った。

 ぼうっとしている小池の前に、再び小さな、しかし凶悪な人影が差し、幾枚かの紙片を突きつけた。小池の目が、反射的にその紙に記された文字を追う。
「え? これって」
 小池はにわかに目を光らせると、MRIマウスを操作した。キーボードを素早く打ち込み、1時間ほどで目的の画を探し当てた。その間、薪はずっと小池のそばにいて、何も言わずに小池がサーチする画像を見ていた。

「これ、ここです!」
 興奮した声を嘲るでもなく、かと言って過剰に反応するでもなく、薪は静かに応えを返した。
「見つかったじゃないか」
「……室長のおかげです」
「ちがう。おまえはちゃんと気付いてたんだ。だからこれだけのヒントで、その画に辿りついた。あと一歩、いや、数ミリのところまで来てたんだ」
 先刻と同じ涼やかな、しかし限りない慈しみを感じさせる声。ふっと微笑みかけた笑顔の美しさに、小池の心臓がさっきとは別の意味で跳ねる。
「いいか、小池。おまえに足りないのはこの感覚だ。常識に捕らわれていては、異常な犯罪心理には近づけない。あり得ない、と思い込んで可能性を切り捨てるな。とはいえ、この反射鏡に気が付いたのはさすがだな」
 華奢な手を小池の肩に置いて、その顔を間近に覗き込み。にっこりと笑って、しかし言葉は辛辣に。
「よくやった。奴隷に格上げしてやる」
「はい! ありがとうございます!」
 喜ぶところか!?
 一度、強制的に自己崩壊させられた小池には、常識が解らなくなってしまったらしい。

 薪がその場を離れると、部下たちはわらわらと小池の側に寄ってきて、口々にその手腕を褒めた。事件の重要な手がかりを発見した同僚に温かい言葉をかけ、励まし、彼の努力を認めてねぎらう。
「すげえじゃん、小池。薪さんにあんなに褒められるなんて」
「滅多に出ないぞ、あの顔は」
「うひゃあ、これは難しいよ。ってか、普通は気付かないだろ、こんなの」
「これ見つけられたら、薪さんも褒めるしかないだろな」
 奴隷に格上げする、というのが褒め言葉かどうかはかなり疑問が残るところだが。とにもかくにも、小池のテンションは上がったようで、上機嫌でパソコンのキーボードを叩き始めた。

 それを確認して、薪は室長室へ入る。
 小池の事件は片がつきそうだ。あと懸念があるのは宇野の案件だ。自分のパソコンに、あの事件のデータは転送しておいた。宇野に気付かれないように、目を通しておこう。
 週末を安心して過ごせるように、なるべく今日明日で仕上げておきたい。青木とのデートの最中、部下から掛かってくる電話ほど薪の気を削ぐものはないからだ。

 室長室の寝椅子には、怠惰な脳科学者が長々と手足を伸ばしていた。
 二階堂は、薪に負けず劣らずよく昼寝をしている。薪とは理由が違うが、夜はろくに眠っていないのだろう。
 薪が席についてPCを立ち上げたとき、ゆらりと人の動く気配がして、二階堂が目を覚ました。
「どうせなら、仮眠室を使ったらいかがです?」
 寝ぼけ眼の脳科学者に皮肉をぶつけて、薪は自分の不満を解消する。
 薪だって、時間があれば眠りたい。ヤキモチ妬きの恋人のせいで、最近ずっと寝不足気味なのだ。いや、もともとの原因はこいつじゃないか。

「なるほど。みんなのノルアドレナリン濃度は、君が調整しているわけだ」
 眠っていたはずの脳科学者は、寝椅子に寝転がったまま、訳のわからないことを言い出した。
「相手の自尊心を傷つけないように、さりげなくヒントを出してあげてるの?」
「……何のことですか」
「昨日ツヨシの机にあったメモと、さっきモニタールームから聞こえてきた言葉が同じだったのは、偶然?」
 捜査には首を突っ込むな、とあれほど言ったのに。懲りない男だ。

「二階堂先生。勝手に資料を読まれては」
「そうやって、部下に気を使い上司に気を使い。君はいったい、いつ休むの?」
「僕はひとに気を使ったりしませんよ。そういうのは苦手なんです」
「苦手と言いながら、君は僕にも気を使ってる。僕が休めるように、わざとモニタールームで仕事をしてくれてるんだろう?」
「あなたと一緒にいたくないだけです」
 なにを自惚れてるんだ、こいつ。
「やれやれ。嫌われちゃった」
 ため息混じりに、二階堂は半身を起こした。困った顔で、薪の方を見る。

「あんなことをするからですよ」
「ただの挨拶だったのに。研究室では、あれが普通だよ」
 たしかに。
 薪もロスにいた頃は、男からも女からも、半強制的にキスをされてた。特に事件が解決したときには、みんなテンションが上がりまくってて大変だった。服を脱がされて、とんでもないところにキスを……これも青木に知られたら、地獄を見ることになりそうだ。
「ここは日本です」
「反省してるよ。もう、しない。ごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げた二階堂に、薪は思わず苦笑した。
 今まで青木の手前、随分がんばってきたが、そろそろ限界らしい。小野田の血縁だけあって、どうもこの男は憎めないのだ。
 二階堂の謝罪は、これまでにも何回も受けている。素直に謝ってくる相手をいつまでも無視し続けるというのも、存外難しいものだ。
 
「どうして最初の日、みんなにあんなことを言ったんです?」
「セイジが、いつもこういう冗談を言ってるって。みんなに早く馴染むには、この手に限るって」
 黒幕は小野田さんか。
 なるほど、それでセクハラジョークだったのか。まったく、自分が急がしくて嫌がらせにこれないからって、甥を使うなんて。
 二階堂から状況報告を受けて爆笑する小野田の顔が脳裏に浮かぶ。今度会ったら、つまづいた振りをして小股払いを掛けてやる。

「論文のほうは、順調ですか?」
「うん。おかげさまで。君の協力のおかげだよ。ありがとう、ツヨシ」
 率直な感謝の言葉に、屈託のない笑顔。
 昔、薪の傍にはいつも。
 こんな風に自分に微笑みかける、大切な人がいた……。

「あなたのように笑う男を知ってます」
 意識せず、そんな言葉が口をついて出た。薪は自分でも驚き、次いで何故この男にそんなことを言ってしまったのだろう、と考えた。
「僕に似ているの? 会ってみたいな」
「いえその……彼はもう、この世にはいません」
 薪がその事実を告げると、二階堂は少し戸惑った表情になった。
「すみません、不愉快なことを。死んだ人間を引き合いに出したりして」
「いや。大事なひとだったの?」
「ええ。とても」
「そうか。それで君の扁桃体は人の死に対して過剰な反応をするのか。ますます持って、君はこの仕事に向かないな」

 畑違いの科学者から適性不合を指摘されて、薪はむっと眉を顰めた。上司に諭されるならともかく、警察の仕事を知りもしない学者に言われる筋合いはない。
「強い喪失体験を経験すると、人はその事象に対して過敏になる。つまり、君は普通の人間より人の死に対するストレスに弱い、ということだよ」
 室長の資質に欠ける、と言いたいのか。失礼な。
「たしかに、僕はそんなに強い人間じゃありませんけど。でも、室長の椅子に座って10年になります。それなりの実績は上げてきましたし、それほど不向きだとも思いませんが」
「うん。君はこの仕事に誇りを持ってる。それはよくわかるよ。けど、君が受けるストレスは深刻なものだ。プライベートで君のストレスを上手く解消してくれるものはある?」
「今のところ、風呂と日本酒ですね」
 実は恋人がいるが、それは秘密中の秘密だ。話すわけにはいかない。
「友だちとか、いないの?」
「この仕事についてから、疎遠になりまして」
「じゃあ、恋人の青木くんだけが君の安らぎってわけか」
「いや、あいつは安らぐって言うよりは振り回されてるっていうか、頭痛の種っていうか、えっ!?」
 薪の手から数枚の書類が落ちて、彼の周りに散らばった。振り返りざまに落としたものだから、そのうちの何枚かは二階堂の足元に落ち、骨ばった手がそれを拾い上げた。

「何をバカなことを」
「あれ? 青木くんが言ったんだよ。オレの薪さんに手を出さないでください、って」
 あ、あ、あ、あの、バカ!!!
「なんだ。青木くんの片思いってことか」
「違います。それは青木の冗談です。こういうジョークが流行ってるんですよ」
 何気なさを装って、薪は床に落ちた書類を集めた。ここで狼狽したら、それを肯定することになってしまう。
 ポーカーフェイスの影では、浅はかな恋人に対するこの世のものとも思えぬ罵りの言葉が次々と湧いてくる。沸点に達する怒りに、からだが熱くなってきた。頬が赤くなってしまっているかもしれない。
 薪は書類で顔を隠すようにして、室長室を出ようとした。

「ツヨシ。書類」
 二階堂の手に残った3枚の書類。宇野の事件の捜査資料の一部だ。
 薪は大股に彼に近付き、白衣から突き出た枯れ木のような手から書類をひったくった。
「ツヨシ。明日の夜、デートしようよ」
 二階堂のデートしようよ、は挨拶の代わりと言ってもいいくらい、頻繁に聞いている。まったく、懲りない男だ。
「脳波検査の後にさ。食事して、映画見て、軽くお酒飲んで。扁桃体とモノアミン神経伝達物資の関係について話してあげるから」
 だれが食事中にそんなこと聞きたがるんだ。てか、そんな誘いに僕が乗るとでも思っているのか。

「お断りします」
「あ、そう。じゃ、青木君が言ったこと、みんなに喋っちゃおうかな」
「あれは冗談だと」
「冗談なら構わないだろ? 青木君がこんな面白いこと言ってたよって」
 まずい。
 いや、本気にするバカはいないと思うが、万が一ということもあるし。
「……食事だけなら」
「ダメ。映画とお酒も」
「映画までです。お酒は、緊急の事件があったときに困るので」
 というのはタテマエで。
 青木は、自分の目が届かないところで薪が酒を飲むのをひどく嫌がる。薪は全然記憶にないのだが、昔、薪が酔って前後不覚になったおかげで、青木はとても不愉快な思いをしたのだという。詳細については話してくれないが、あの単純な男が根に持っているくらいだから、さぞかし酷いことをしたのだろう。そうなると、薪も知りたくない。

「わかった。ああ、明日が楽しみだな」
 誰が二人きりでデートなんかするか。青木と打ち合わせて、適当なところで電話で呼び出してもらおう。二階堂の言うことを聞かなければならなくなったのは青木のせいなのだから、少しは役に立ってもらわないと。
 ニコニコと嬉しそうに笑っている二階堂を見ていると、僅かに心が痛んだ。
 本来なら正直に恋人がいることを話して、自分のことは諦めてくれと頼むのが筋なのだが。男の恋人ってのは、こんなことでも苦労する……。

 重苦しい気持ちで室長室を出た薪だが、結局、二階堂とのデートはキャンセルされた。
 それは、翌日薪の身に訪れた思いもかけない出来事の余波と、二階堂自身の都合によるものだったのだが。
 後に、薪はその夜の自分の行動をとても後悔することになる。しかし、それは致し方のないことだった。

 人間には。
 未来に何が待っているか、知ることはできない。他人の心の奥底に眠る秘密を、透かして見ることもできない。
 二階堂が何を考え、何を思って薪にあんなことをしたのか。
 その真実を薪が知ったのは、すべてが終わった後だった。




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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
メロディ6月号、読みました。
一言感想 「どひゃー……」
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