執行猶予(7)

執行猶予(7)







 青木には、その日の午後の記憶がない。
 モニタールームに帰ったら、何かの理由で薪に怒られたような気がするが、よく覚えていない。頭の中は小野田に言われたことでいっぱいで、うまくものが考えられない状態だった。

 それは、夜になっても続いた。
 薪の自宅のベットの上。薪は例によってシーツで身体を隠している。
 薪は、明るい部屋の中で裸体を晒すのを嫌がる。風呂上りや着替えなど、色事が絡まなければ平気だが、こういう状況になると途端に恥ずかしくなるらしい。
「青木。どうした」
 熱がこもらない青木の様子を不審がって、小首を傾げている。無意識のかわいらしい媚態。いつもなら、それを見ると抱き締めずにはいられないくらい愛しさがこみ上げてくるのに。

「僕に怒られたこと気にしてるのか? でも、あれはおまえが悪いんだぞ。岡部にマッサージ頼むのも僕を起こすのも忘れるなんて」
 ああ、そうだ。そんなつまらないことで叱られたのだった。
「そりゃ、吠える分だけ犬のほうがマシだ、ってのは言い過ぎだったかもしれないけど」
 そんなことまで言われていたのか。ぜんぜん覚えていない。
「機嫌直せ。今日はその……最後までしてもいいから」
 薪の叱責くらいでこんなに落ち込む青木ではない。それは薪もわかっているはずだ。
 だから薪は、それ以上は聞こうとはしない。何があったのか追求しようとはせずに、自分の身で青木を癒そうとしてくれているのだ。
 
 薪はやさしくて、だれよりもきれいで、しかも天才で。
 非の打ち所のない完璧な人間。神様の祝福を独り占めにして生まれてきたかのような、天与の才覚。あの事件さえなければ今ごろは、青木なんか口もきけないくらいの役職に就いていたはずの超エリート。

 わかってる。
 自分がこの人と釣り合わないことも、自分との関係がこの人の足枷になることも、他人に言われるまでもなく自分が一番良くわかっている。
 小野田の言ったことは、逐一もっともだ。自分が薪を不幸にする――――。

 だけど。
 ただ一緒にいたいだけなのに。こうして愛し合いたいだけなのに。

「……き、青木、痛い!」
 バシッと頭を叩かれて、青木は我に返った。
 顔を上げると険しく眉を吊り上げた薪の顔があった。キツイ眼で青木を睨んでいる。
「なにすんだ、バカ!」
 見ると、小さな乳首の周りが真っ赤になってしまっている。自分でも気付かないうちに歯を立ててしまっていたらしい。
「すみません」
 今日はだめだ。やっぱりそんな気になれない。せっかくの週末なのに。薪が最後まで許してくれる特別の日なのに。
 薪は胸を押さえて、ベッドの上に座っている。よっぽど痛かったのだ。ああいう部分の皮膚は柔らかいし、噛まれたりしたら痛いに決まっている。

「オレ、今日は帰ります」
 青木は自分が傷つけてしまった恋人をベッドに残したまま、寝室を出た。リビングで身支度を整える。ネクタイを締めてジャケットを着たとき、薪が寝室からパジャマ姿で出てきた。引き止めてくれるのかと期待したが、薪はそのまま机に向かってしまった。
 警視長の昇格試験まであと2ヶ月。青木が帰るなら、と勉強しに出てきたのだ。
「じゃあ、また月曜日に」
「……うん」
 明日の予定はわざと聞かずに、青木は週明けに職場で顔を合わせることを選んだ。
 試験勉強も大詰めだ。休日を自分と過ごすよりも、勉強したいはずだ。

「青木」
 玄関口で靴を履く青木の背中に、薪の声が届いた。
 振り向くと、薪は机に向かったまま真剣な目で参考書を読んでいる。亜麻色の瞳は振り子のスピードで左右に動いて、細い指がページを繰る。あれで内容が頭に入ってしまうのだから驚きだ。
「僕、もっとがんばるから」
「これ以上がんばらなくていいです」
 つい、本音が出てしまった。
 薪が意欲的になるのは結構だが、そんなことをされたらますます自分との差が広がってしまう。こちらが必死に追いつこうとしているのに差は開くばかりで……いつまでも自分は薪と釣り合いがとれないまま、薪に相応しい人間になれない。

 青木の心ない言葉は、プライドの高い薪を少なからず傷つけたらしい。むっとした顔でこちらを向くと、参考書を机に伏せ椅子を蹴って立ち上がり、素早く青木に詰め寄ってきた。
「初めから上手くできる人間なんていないだろ! それとも僕には無理だっていうのか?」
 どうやら試験の話ではないらしいが、薪が上手にできないことなど何もない。いったい何のことだろう?
「もう少し練習期間を与えてくれたっていいだろ。そしたらもっと上手くなって、おまえに満足してもらえるようになるから」
 練習? 満足?
 青木がいまひとつ意味不明の顔をしていると、薪はとうとう真っ赤になって叫んだ。
「僕が本気になったらすごいんだぞ! ま、毎日だって僕としたくなるくらい、上手になってみせるから!」

 ……別れろと?
 このかわいいひとと別れろと?

「無理です」
「結論を急ぐな! まだ10回もしてないだろ。二桁こなせばきっと」
 喚いている薪のくちびるを強引に塞ぐ。舌を絡めて吸い上げる。甘いキスに弱い薪はすぐにおとなしくなって、青木の腕に身を預けてきた。
「そうですね。じゃ、練習しましょうか」
 薪がこくっと頷くのを確認して、細いからだを抱き上げ、さっき出てきたばかりの寝室へと逆戻りする。服がしわになるのも気にしないで、寝室の床にジャケットとズボンを脱ぎ捨てる。ベッドの上で、薪もパジャマを脱ぎ始める。部屋が明るいので恥ずかしそうに後ろを向いたままだ。
 
 裸の背中を抱きすくめる。華奢な肩がびくりと緊張を孕む。本当はまだ迷いがあるくせに、あの行為の際には泣くほど痛がるのに、それでも自分と愛を交わしたいと……。
 絶対に無理だ。
 別れることなんてできない。
 自分はこんなにも薪を愛していて、薪もそれに応えようと一生懸命に努力してくれている。同じ方向を向いて、しっかりと心を通わせあっているのに――――。

 しかし、気持ちだけではどうにもならないこともあったりする。例えば、この痛みとか。
「痛い痛い痛い!」
「すいません、もう少し我慢してください。もうちょっとですから!」
「無理! やっぱり僕には無理だ!」
「本気になったらすごいんじゃなかったんですか」
「本気ですごく痛いんだ!!」
「……今日はここまでにしましょうか」

 動きを止めて、青木はそうっと自分を薪のからだから引き抜く。うぐっと薪が息を詰めて、その痛みに耐える。異物が自分の中から消えると、薪はほっと息を吐いた。きれいな顔は痛みのために蒼白になってしまって、涙の跡が痛々しい。
 薪がティッシュで秘所の血を拭っている。痛みに負けて途中でリタイアしてしまった自分が情けないらしく、しょげきった表情だ。ものすごくかわいい。
「大丈夫ですか?」
 電子レンジで作ってきたあたたかいお絞りを渡して、いたわりの言葉を掛ける。本当は傷の手当もしてやりたいのだが、薪はものすごくそれを嫌がる。こういう関係になったのだから、恥ずかしがることもないと思うが。

 失敗に肩を落としている恋人を抱きこんで、ベッドに横たえる。青木の腕の中で、程なく薪は眠ってしまった。今日は特別疲れているのだ。昼間、9画面同時検証などという人間離れしたことをやってのけたのだから。こんな日は、ベッドの方もうまく行かないものだ。痛みもいつもよりひどいみたいだった。
 ううん、とうなり声を上げて、薪の腕が青木の胸を押しのける。腕の中から抜け出して、仰向けになる。抱き合ったまま朝を迎えるというのは物語の中だけのことで、実際はこうして離れてしまうことが多い。青木の昔の彼女もこんな具合だった。

 青木はそっとベッドを抜け出して、寝室を出る。今日はこのまま帰ったほうがいい。薪の勉強の邪魔をしたくない。
 リビングに戻ってみると、明かりが点いたままだった。先刻は健気な恋人に対する愛おしさでいっぱいになってしまって、消すのを忘れてしまったらしい。

 ふと、薪の机の上に伏せられたままの参考書が目に入る。
 警視長の昇格試験は合格率0.8%という、まるで合格者を出さないためにあるような試験だ。その参考書とは、どんなものなのだろう。薪はこれを雑誌でも捲るようなスピードで見ていた。自分に理解ができるとは思わないが、興味はある。青木は白いカバーの掛かった厚い本を取り上げた。

「え!?」
 頓狂な声を上げて、青木は我が目を疑った。
 そこに書かれていたのは難しい数式でも事件の判例でもなく、さっきまで自分たちがベッドの中で行っていたことの解説だった。初心者のための図解から始まって、具体的な挿入方法とか、痛みが少なく入りやすい体位とか、より快感を高める方法とか、つまりセックスのハウツー本だ。
「薪さんてば、あんな真剣な顔して……くくくっ」
 てっきり参考書を読んでいるのだと思った。真面目な顔でこんな本を読んでいたなんて。
 
 薪は真剣だったのだ。
 少しでも早く、青木のベッドの相手が務められるようになりたくて。さっきだって最終的には痛み負けしてしまったが、ずいぶん頑張ってくれていた。

 青木の心が、暖かいもので満たされていく。
 覚悟していたはずの風当たりの厳しさに、何よりも大切なことを忘れるところだった。
 一番大切なのは、薪の気持ちだ。薪は自分との関係を望んでくれている。それ以上に重要なことなどないはずだ。

 薪の大事な参考書を元通りに伏せて、青木はバスルームへ向かう。
 その目にもう、迷いはなかった。



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ジャンル : 小説・文学

執行猶予(6)

 こんにちはっっっ!!!!(テンション高っ!)
 今日はメロディの発売日ですねっっっ!!!!!(うるさいよ)
 待っててね、今行くからね、わたしの薪さああああんんっっ!!!!!!(愛愛愛愛愛)


 腐ったオババの雄叫びはこれくらいにして、お礼を言わせてください。
 日曜日くらいから新しいお客さまに来ていただけたみたいで、いつも来てくださる方々と合わせて、すごくたくさんの拍手をいただいてます。ありがとうございます、本当にうれしいです。
 正直に言うと自分の書いたお話というのは、自分で読んでは面白くも何ともなくて。 書いてるときは楽しくて止められないんですけど、冷静になって読み返すと、ほんっとつまんないんです。 もともと、R系のくだらないギャグ小説だし。
 こんなのを公開してもみんなにバカにされるだけだよな~、思ってしまうこともよくあるのですが、こうして拍手をいただけると、「読んだよ、がんばってね」と励ましていただいてるように思えて、書き続けることを許していただけたような気分になるのです。 落ち込んだときとかは、本当に救われます。


 最近、かなり仕事が忙しくて、この冬は殆ど書けなかったんです。
 1~4月までで、5作品125ページしか書いてないです。
 充分じゃん! と思われます?
 どっこい、去年は同じ期間で、14作品507ページ書いてるんですよ。(こっちの方がおかしいんじゃ(^^;)) 
 ちょうどラストカットの辺りだから、物語的にも佳境だったんだと思いますが、それにしてもこの差は。 書きたいお話はいっぱいあるんです。ただ、気力がついていかなくなってしまったというか。
 年齢的にも無理が利かなくなってきて、このまま段々書けなくなっちゃうのかな、と多少弱気になってたんですけど、連日の拍手に励まされて、よし、がんばろう! と奮起しました。

 本当に、いつもいつもありがとうございます。
 こころからお礼申し上げます。
 これからもよろしくお願い致します。






執行猶予(6)






 官房室室長の部屋は、重役の部屋らしく高級感溢れる造りになっていた。
 20畳ほどの広い部屋。マホガニーの事務机に革張りの応接セット。書類を収納する棚も無機質なスチール製などではなく、天然樹木を使った飾り棚だ。

「もう食べないの?」
 向かいのソファに座った青年は、せっかく小野田が取り寄せてやった弁当にロクに箸をつけないまま、緊張した顔で蓋を閉めた。
「そんなに大きな体して、ずい分小食なんだね」
 第九の若い捜査官。小野田が目を掛けている警視正の部下で、25歳の警部だ。
 このソファに警部が座るのは珍しい。昨日ここに座っていたのは、政界とのパイプになってもらっている宮村議員だった。一昨日は東野産業の社長。警視総監に刑事部長。先週はこの捜査官の上司も来ていた。
 警視長の昇格試験を受けることにした報告と、それから「もの凄く身勝手なお願いなんですけど」と言って、本当に自分勝手な頼み事をしていった。かわいい薪の言うことなら大抵のことは叶えてやる小野田はその申し出を認めてやったのだが、あれは取り消さざるを得なくなるかもしれない。それはこの青年の言い分にかかっている。

 お茶を淹れてくれた秘書に礼を言い退室させると、小野田は部屋の鍵を閉めた。話の邪魔はされたくない。
 小野田が鍵を閉めたのを見て、青木はますます強張った顔つきになった。その顔は、高官の前で単純に緊張しているだけには見えない。小野田に対して後ろめたいことがあるのだ。
 
「青木くん。どうしてここに呼ばれたか、わかってる?」
「……いえ」
「お礼を言っとこうと思ってさ。薪くんに昇格試験を受けるよう説得してくれたの、きみなんだろ?」
 小野田がやさしい言葉を掛けると、青木はほっとしたように頬を緩めた。
 素直で明るくて、気配りが上手い新人捜査官。小野田もこの男のことは嫌いではない。彼の淹れるコーヒーは、第九を訪問するときの楽しみのひとつだし、見るからに純情そうな彼をからかうのも面白かった。
 しかし、それとこれとは話が別だ。

「お礼なんて、そんなもったいない」
「こういうことはきちんとしなくちゃね。薪くんを説得してくれて、どうもありがとう。でも、その先のことまでは頼んでないよ」
 声質を変えた最後のセリフに、青木の顔が再び強張った。男らしい眉を寄せて、目を瞠っている。

「仮眠室でしてたみたいなことは、もうしないでね」
「何のことだか解りませんけど」
 言葉だけ言い繕っても、顔がぜんぜん反対のことを言っている。正直な男だ。自分にはやましいところがあります、と拡声器で叫んでいるようなものだ。薪のポーカーフェイスならマスコミの追求を逃れられるかもしれないが、相手がこの調子では隠し通すことなど不可能だろう。
 ふたりの間に漂っていた、これまでとは種類が違う親密な雰囲気。秘め事めいた会話。濃密なキス。あのお堅い薪が軽い気持ちであんな真似をするとは思えないから、この男にこころを委ねていることは間違いない。
 
「困るんだよ。ぼくの薪くんに手を出されちゃ」
 薪は小野田の掌中の珠だ。26歳の特別承認以来、いやその前からずっと目を掛けてきたのだ。それをこんな青二才に食われるなんて。
「お言葉ですけど、お二人の間にそういった関係はないと」
 いくらかムッとしている。『ぼくの薪くん』という言葉に反感を持ったらしい。ヒヨコが一人前にヤキモチとは笑わせてくれる。
「恋愛は自由だ、他人にとやかく言われる筋合いはない。そう言いたいの?」
 小野田は穏やかな口調と表情を崩さない。空気だけを重くしていく。その重圧感に相手は次第に苦しくなって、終いには息もできなくなる。
 青木の表情が弱気になる。落ちつかなげに目線をうろうろさせて、無意識のうちに襟元を緩めた。

「そんなつもりはありません。官房長のご心配も分かります。でも、薪さんとオレは決していい加減な気持ちでこうなったわけじゃありません。オレはあのひとのことを命に代えても守りたいと思ってます」
「だから別れろって言ってるんだよ」
 ガラリと口調を変えて、吐き捨てるように小野田は言った。
 これだから青二才は嫌いだ。世間というものがわかっていない。

「きみたちがただのセックスフレンドだったら、こんなことは言わないんだよ。薪くんだって大人だしね、そういう相手も必要だろうさ。噂が立ちそうになったら簡単に別れられる相手と火遊びをしてるんだったら、男だろうと女だろうとそれは見逃すよ」
 気持ちが入らない関係なら、簡単に揉み消すことができる。小野田の人脈を使えば、それは造作もないことだった。
「でもね、薪くんは天然記念物みたいな男でさ。そういう遊びなんか出来ない子なんだよ。マスコミに嗅ぎ付けられそうだからほとぼりが冷めるまで会わないでいよう、カモフラージュに適当な女性と付き合おうなんて、大人の恋愛はあの子には無理だ」
 薪の弱点ははっきりしている。もういい年なのだから、少しはスレてもいいと思うのだが、薪の純真さと言ったら泣きたくなるくらいだ。尻拭いをするほうは堪ったものではない。

「オレが守ってみせます。あのひとに辛い思いはさせません」
 きっぱりと返ってきた答えに、小野田は心の底が凍るような怒りを覚える。
 なんて軽いことを言う男だろう。いったい自分に何ができると思っているのだろう。薪を守るためには関係を断ち切るしかないと、どうして気がつかないのだ。
「薪くんを守ってみせるって? きみ、自分のことを何様だと思ってるの。しがない警部になにができる? ぼくぐらいの力がなきゃ、薪くんを守ることなんかできないよ。
 ぼくがどれだけ長い間、彼を見てきたかわかる? 薪くんが警視庁に来たときから目をつけてたんだよ。彼が22のときから、もう15年だ。君みたいなくちばしの黄色いヒヨコの相手をさせるために、彼をここまで育ててきたんじゃないんだよ」
 その年月の長さに、青木は驚いたようだった。この男が第九に入ってきたのは3年前。その12年も前から小野田が薪を守っていたことを知って、自分に言い返す権利はないと悟ったらしい。青木は黙って小野田の話を聞いていた。

「I種試験のトップが捜一に入りたがってるって聞いて、面白い男だと思った。初めはあの外見だったから、きっと長持ちしないだろうと思ったけど、彼は次々に手柄を立てて。そのころからいい根性してたよ。先輩のシゴキにも耐えて、実力で外野を捻じ伏せた。2年後に警視になったときには、誰も彼を貶めようとするものはいなくなってた。
 26のときに特別承認の話をして、27で彼は見事に警視正になった。箔付けにロスに研修にも行かせて、第九の準備室長にして。自分と比較してごらん。考えられないだろ? 彼は天才だよ。きみみたいな凡人とはレベルが違う。進むべき道が違うんだ」
 青木はじっと小野田の目を見て、小野田の気持ちを理解しようと務めている。耳が痛いことを言われているのに、それでも誠実で素直な態度を崩さない。人間としては好感が持てる相手だが、そこで手を緩めるわけにはいかなかった。

「ぼくがどうして薪くんの不利益な噂を放っておいたかわかる? ぼくの愛人だって噂があれば、よっぽどのバカじゃなければ彼にちょっかい出したりしないだろ。あの噂は薪くんを守ってたんだよ」
 たまに間宮みたいなバカがいるけど、と小野田はこころの中で付け加える。ぺニンシラホテルの一件や第九に仕掛けられたCCDカメラの真相を、青木は知らないはずだ。
「でも、相手がきみなら話は別だ。あの容姿だからね、薪くんを手に入れたいと思っている人間、あるいは陥れようとしている人間はたくさんいるんだよ。そいつらが団体で押しかけてくるよ。そうなったらどうするの? きみにだって職務があるよね。24時間薪くんを見てるわけにもいかないでしょう。
 警視長に昇任すれば、薪くんは警察庁に帰ってくる。嫌でも君の目の届かないところに行くんだよ。それとも君も警察庁に異動願いでも出してみる? そんな異動はもちろんぼくが阻止するけどね」
 「薪さんが、警察庁に?」
 自分で昇格試験を勧めておいて、その後のことを考えていなかったらしい。なんて考えの浅い男だ。未熟すぎる。

 薪もどうしてこん未熟(あお)い男を選んだのだろう。もう少ししたたかな人間だったら、別の説得の仕方もあったのに。転属や昇任をちらつかせるとか、実弾(現金)を握らせるとか。それができれば、もっと話は簡単だったはずだ。
 
「薪くんは過去に大きな事件を起こしてる。あのときは大変だったんだよ。薪くんがどうしても室長を降りたくないって言うから、外野を黙らせるためにぼくは大切なカードを3枚も手放したんだ。おかげでぼくの次長昇任の話はなくなった。っと、これは薪くんには内緒だよ。彼が知ったらまた気にするから」
「小野田さんて、薪さんのこと……?」
「愛してるよ。きみのとは種類が違うけどね。きみみたいに、彼と寝たいとは思わない。彼には絶対にぼくの跡を継がせるんだ」
 小野田は青木に負けないくらい、薪のことを大切に思っている。
 性欲に結びつかない愛なんか、この世にごろごろしている。若いうちはそれに気づかないだけだ。

「薪くんのやる気を引き出してくれたことには礼を言うけど、それ以上のことは余計だよ。きみの役目はここまでだ、青木一行くん」
 懲戒処分を言い渡すときの感情を切り捨てた口調で、小野田は命令した。
「薪くんとは別れなさい」
「いやだと言ったら?」
「どんな手を使ってでも引き離すよ。もちろん、薪くんは泣くだろうけど。
 でもね、もしきみたちのことが世間にばれて、痛烈なバッシングに晒されることにでもなったら薪くんはどうなるの? 世間の批判はね、きみじゃなくて階級の高い薪くんに集中するんだよ。その理屈は分かるだろ?」
 青木はこくりと頷いた。その可能性については考察済みらしい。しかしそれに気付きながら薪とこういう関係になるなんて、小野田には身勝手としか思えない。

「薪くんは一度、マスコミや世間には酷い目に遭わされてる。毎日毎日レポーターや新聞記者に追い掛け回されて、顔も知らない人たちから嫌がらせを受けて。前のマンションはそのせいで追い出されたんだ。今のマンションだって、ぼくの紹介じゃなきゃ入れなかったんだよ。あの事件のとき、薪くんは本当に辛かったんだ。ぼくは二度と彼をあんな窮地に追いやる気はないよ」
 そこで小野田はとっておきの表情を作った。
「もう一度言うよ。薪くんとは別れなさい。ぼくが本気になったらすごいよ」

 すべての感情を切り捨てた、能面のような無表情。いつも穏やかに微笑んでいる小野田がそんな顔をすると、大概の相手は絶句する。
 が、氷の警視正のブリザード攻撃で鍛えられた第九の捜査官は、苦笑交じりに応えを返してきた。
「薪さんの口癖って、小野田さんから伝染ったんですね」
 肝は据わっているらしい。開き直ると強いタイプだ。これは意外と手こずるかもしれない。

「ぼくが今日きみと話した事は、薪くんにはくれぐれも内緒だよ。薪くんの性格、知ってるだろ。自分の保身のためにきみを悲しませるような真似をするくらいなら、自分からカミングアウトしかねないよ。そしてあの澄ました顔で嘘を吐くんだ。自分が室長の立場を利用して、きみを無理やり行為に及ばせたんだって。で、薪くんだけが悪者になるんだよ」
「はは、やりかねないですね。あのひとなら」
「だろう?」
「分かりました。よく考えてみます」
「あまり時間はあげられないよ。長引けば長引くほど、危険性は高くなるんだ」
 深く頭を下げて、青木は官房室を辞した。第九の職員はみなそうだが、警察官にしてはお辞儀が深い。室長の影響だろうか。

 警察庁の玄関から研究所までの道を歩いていく背の高い後姿を睨みながら、小野田は冷酷な管理者の目で呟いた。
「ここまで育てたんだ……潰されてたまるか」






*****

 
 うふふ~、楽し~~。(←人間の心なんかとっくに捨てました)
 





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執行猶予(5)

執行猶予(5)






「薪さんの言う通りにしますから。また週末、行ってもいいですか?」

 週末限定の特別なデートの申し込みに、薪は少し迷うふうだった。
 タオルを下にずらして、亜麻色の目を覗かせる。いくらか充血した目が、何か言いたげだ。
「今日は?」
 長い睫毛を伏せて、恥ずかしそうに目を逸らす。どうやら土曜日の予定を繰り上げてくれる気らしい。
 
「懇親会は?」
「岡部とは昨夜飲んだばかりだから」
「うれしいですけど、今日は薪さんが疲れてるんじゃ」
「うん。だから僕を元気にしてくれ」
「どうすればいいんですか?」
「色々あるだろ。例えば」
 薪はベッドの上に起き上がり、アメリカ人が犬を呼ぶときの仕草で手招きをした。青木が身を乗り出すと、ネクタイと後頭部を引き寄せられた。

「こんなこととか」
 くちびるを奪われる。小さな舌が青木の口の中を蹂躙していく。
 普段なら絶対にしない。でも、今の薪は自分のスペックをフル活用して頭も身体も活性化された状態にいるのだろう。そんな素振りはおくびにも出さないが、不可能を可能にしたMRI捜査の進化を喜び、興奮している。平たく言うと、ハイになっている。ひとはこんなとき、つい浮かれた行動をとってしまうものだ。
 ましてやこの二人は、恋人同士になってまだ1月あまり。蜜月の甘さで溺れ死にしそうな時期だ。

「いいんですか?職場でこんなことして」
 まったく、薪は勝手だ。
 先日室長室で薪の肩を抱いたときには、青木の頬を思いっきり引っぱたいて「仕事にプライベートを持ち込むな」と鬼のように怒ったくせに。キスをするのは、そのポリシーに反することにならないのだろうか。

 しかし、青木はそんなところに突っ込むつもりはない。薪の自分勝手は今に始まったことではないし、それをいちいちあげつらっていたらキリがない。
 ここで大切なのは、薪の方から自分にキスをしてくれたという事実だ。青木とっては薪のこころを推し量る重要なキーになる。薪の気持ちは少しずつ、自分に傾いてきていると思っていいのだろうか。
 薪は、青木を好きだから恋人になってくれたわけではない。もちろん嫌いではないが、青木のように薪がいなければ夜も昼も明けない、とまで恋情を募らせているわけではないのだ。薪には忘れられないひとがいて、そのことを青木は知っている。恋人として付き合い始めるときにも、『僕は一生彼のことを忘れられないと思うし、忘れる気もない。それでもよかったら』という話だったのだ。
 ベッドの中でからだを重ねていても、想いが通じ合っているわけではない。認めたくはないが『限りなくセフレに近い恋人関係』というのが現状である。

「ただの充電作業だ」
 その関係を反映するかのように、薪の言葉は素っ気無い。キスをした相手に恋心を抱いているかというと、このひとの場合は微妙だ。ここは日本だし相手は選ぶが、ロスに住んでいたこともある薪にとって、ハグとキスまでは友だちの範囲なのだ。本人は知らないが、酔うとキス魔になる、という困った性癖もある。

「オレはバッテリーですか?」
「そんな高級なもんか。せいぜい乾電池だろ」
 それでは使い捨てである。
「せめて充電式の乾電池にしてくださいね」
 薪がクスクス笑っている。充電式に込められた青木の気持ちが分かったらしい。
「今夜僕のうちへ来れば充電してやるぞ」
「是非お願いします」
 薪の笑顔は、青木に力を与えてくれる。そのパワーはソーラーシステム、いや、太陽そのものだ。

 薪とこういう関係になって、青木の想いはますます深くなった。今このひとにもしものことがあったら、衝動的に後を追ってしまうかもしれない。
 何があっても離れたくない。どんな犠牲を払っても失いたくない。
 青木はもともと恋に溺れるタイプではない。恋人との関係も大切だが、友人や親兄弟も大切にしたい、と以前は考えていた。親が喜ばないような女性とは決して付き合わなかったし、友人の彼女と恋仲になってしまったこともない。そういう相手には自然とブレーキが掛かるのだ。

 でも、薪は特別だ。
 周囲に気を配ることなんか、頭から吹き飛んでしまった。このひとは青木から他人に対する気遣いや常識や、人間として大事なものをどんどん奪っていく。
 悪友たちから「最近付き合いが悪い」と文句を言われても、薪の都合が許す限り週末は一緒に過ごしたい。第九の室長として繁忙を極める薪に、休日はとても少ないのだ。おかげで青木は、すっかり友人たちと疎遠になってしまった。

 面白味のないチャイムが鳴って、時刻を知らせる。昼休みだ。薪はこのまま昼寝をするのだろう。いつもの時間に起こしに来ます、と言って青木は仮眠室を出た。
 昼休みの研究室は、なにやらお祭りのような騒ぎになっていた。
「なにかあったんですか?」
「これこれ」
 曽我が手に持っていた葉書サイズの厚紙を青木の方に差し出す。薪の写真付の受験票だ。昇格試験の申請書を出したと言っていたから、その受験票が届いたのだろう。

「あれ? これ、いつ来たんですか? 今朝のメールには入ってませんでしたけど」
「官房長が届けてくれたんだ」
「そうなんですか? 官房長が自ら?」
「そうなんですかって、おまえ、あそこにいたんじゃないのか?」
 小池がモニタールームの一角を指差す。そこにはパーティションが置いてあり、その奥に青木がさっきまでいた仮眠室がある。
「いましたよ」
「じゃ、官房長が行っただろ?」
「え?」
「中を覗いたらよく眠ってるみたいだからって言ってたぞ」
「おまえ、相変わらず注意力散漫だな。ドアが開いたのに気付かなかったのか?」

 気付かなかった。捜査官失格だ。
 いや、そんなことより。
 小野田がどうして中に入ってこなかったのか。その原因の可能性に気付いて、青木は青ざめた。

「なんか顔色悪いぞ、青木」
「薪さんに苛められたのか?」
「昼メシ奢ってやるから元気出せよ」
「ありがとうございます。でも、お昼は角膜バンクへ行かないと」
 先輩たちの誘いを室長直伝のシュールなジョークで断って、青木は研究室を出た。重い足を引き摺って中庭に向かう。いつだったか薪と一緒に弁当を広げた樹木の下に座って、青木は深呼吸を繰り返した。

 小野田が仮眠室での出来事を目撃したとは限らない。部屋が暗かったから、眠っているものと思っただけかもしれない。
 でも。
 もしも、あれを見られていたら。
 薪に迷惑が掛かる。

 ジャケットの内ポケットの中で、携帯電話が震えた。見覚えのない着信番号。はい、とだけ言って電話に出る。
『青木くん? 小野田だけど。ごはん食べた?』
 青木は思わず携帯を取り落としそうになる。咄嗟には言葉が出てこない。
『まだだったらぼくの部屋へおいで。末広亭の松花堂弁当があるよ』
 小野田の声は、いつもどおりの穏やかな声だった。しかし、青木の背中には一気に冷や汗が噴き出した。
 これまで一度も官房室へ呼び出されたことなどない。この呼び出しの目的は明白だ。

「すぐに伺います」
 やっとそれだけ喉から搾り出して、青木は震える足で立ち上がった。
 見上げた空は暗澹として、青木の不安を煽るかのように暗かった。




*****


 あ、かゆいの止まった。(笑) 


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執行猶予(4)

執行猶予(4)







「角膜バンクはあんまりじゃないですか?」
 向かいのベッドに腰を下ろして、青木は拗ねたように言った。
「おまえが間抜けだからだろ。あんな画を見逃しやがって。もっと訓練しとけ」
 すみません、と素直に頭を下げる。これに関しては反論する気はない。たしかに犯人が映った画を見逃した自分が悪い。
 ベッドに横たわった美貌の室長の目には、冷たいおしぼりが置かれている。タオルの下から、こじんまりした鼻とつややかなくちびるだけが覗いている。目隠し状態の薪は、なんだかエロティックだ。

「岡部が帰ってきたら、ここへ呼んでくれ。マッサージ頼みたいんだ」
「オレがやってあげますよ」
「おまえ、いつも途中から別のことになっちゃうじゃないか」
 それは薪があんな声をあげるからだ。
 風呂上りのいい匂いと、色っぽいうめき声。しなやかに仰け反る四肢と、びくびく動く腰。あれで我慢しろと言う方が無理だ。

「いいから、おまえはさっさと角膜バンクへ行ってこい」
「目が見えなくなっちゃうのは困ります。薪さんの顔が見られなくなるなんて、耐えられません」
「僕はその方が都合がいいけどな」
「またそんな意地悪言って」
「おまえに言われたくないぞ。僕にあんなことしといて」
「あんなことって?」
「僕がイヤだって言ってるのに無理矢理。いくら頼んでも止めてくれなかったくせに」
 薪の声は平静を装っているが、タオルの下の頬が赤くなっている。この文句は、たぶん一昨日の夜のことだ。

「汚いと思わないのか? あんなところ」
 思わない。薪に汚い所などない。
 シミひとつない白い肌。優美な手足に華奢な背中。細いながらに強いばねをもった腰。顔もきれいだが、身体も非の打ち所がない。こういう仲になって解ったことだが、100人は斬ったと豪語していた薪の女性遍歴は真っ赤なウソで、実は性経験は青木より少ない。そのせいか、薪のそこはとてもきれいな色をしている。
 それに、薪はひとに気を使う性格だから、青木に会う前には必ず風呂に入っておいてくれる。青木が好んでキスをしたがる場所も念入りに洗ってくれるらしく、顔を近づけると石鹸の匂いがする。
 ピンク色をした清潔な香りのそれを、口に含んで舐め上げてやることになんの抵抗も感じない。それから、もっと秘められた部分も。

 近い将来、自分を受け入れてくれるはずのその場所をひと舐めしたら、ものすごい勢いで抵抗された。足をばたつかせて逃げ出そうとしたから、力づくで押さえつけてやった。
 やめろ、と叫ぶ声を無視して奥の方まで舐め溶かしてやった。石鹸の香りとは違う、強いフェロモンを持った香りが奥のほうからしてきて、これが薪の匂いなのだな、と思った。薪の体臭を濃縮したような、甘やかで清冽な香。香りに酔って、夢中で責めてしまった。
 薪のその部分は長いブランクのせいで未だに固く、血を流さずに青木を受け入れることはできない。だから一昨夜はベッドの中でじゃれていただけだ。からだを繋げる行為はしていない。
 薪が最後まで許してくれるのは、土曜日の夜。
 その日だけは特別で、薪はとても健気な恋人になる。これから味わう苦痛を知ってなお、青木に身体を開いてくれる。薪のからだを気遣う青木に、「僕がそうしたいんだ」と言ってくれる。身も心も、全部自分に捧げてくれる。そんな薪が愛しくて愛しくて、だから青木はどれだけ薪に苛められても、薪から離れられない。

「あれはもう禁止だからな。二度とするなよ」
「そんな約束はできません」
 職務において部下が上司の命令に背くことは重大な違反行為だが、この場合は当てはまらない。熱愛中の恋人同士のベッドの中に、決まりも規則もないからだ。
「じゃあ、もうおまえとはしない」
 さらっと打ち切りを宣告されて、青木は真っ青になる。
 規則はないが、上下関係はたしかに存在している。結局は惚れたほうが負けだ。

「それだけはカンベンしてください」
 神様に祈るように、両手を合わせて頭を下げる。意地もプライドもあったものではない。薪にこころを奪われた時点で、そんなものは青木の中から消滅してしまった。自尊心の欠片でもあったら、薪とは付き合えない。
 青木にとっては悩みの種だが、薪のセリフは強がりではない。薪は昔からそちらのほうの欲求は極端に薄くて、なくてもちっとも困らない。そもそもゲイではないから、男に抱かれて悦ぶ趣味はないのだ。その証拠に、彼の数少ない性経験のうち男性はひとりだけで、他はみんな女の子だ。とある事情から今は行かないが、若いころは風俗にも通っていたみたいだし、鈴木のことさえなければ本当に普通の男の人なのだ。
 運命の悪戯としか思えないが、青木はその普通の男に恋をしてしまった。それから2年も掛かって口説き倒して、ようやくOKしてもらったばかりなのだ。青木の立場が弱いのは、仕事上の上下関係だけが理由ではない。

「わかりました。もうしません」
 素直に薪の言い分を受け入れるふうを装って、青木は神妙な顔つきを作った。
 ここはこう言っておけばいい、とこころの中で呟く。恋人同士になったのは最近でも、薪との付き合いは3年目だ。薪のヒネくれた性格は心得ているし、このセリフがただの意地悪だということもわかっている。
 それに、一昨夜のことだって本当に嫌がっているようには見えなかった。あのときの薪は追い詰められたような声を上げて……最後の頃はたまらなくなって、足を青木の肩に絡めて腰を使ってきたくせに。
 でも、このことは言えない。薪の痴態を指摘しようものなら、本気で絶交されかねない。一回りも年下の男によって自分が快楽に導かれることを、薪は屈辱だと思っている。それを慮らせるのは、行為の最中に薪が頻繁に口にするセリフだ。

『僕はおまえより12歳も年上なんだぞ』
『僕は女の子じゃない』
 どちらも恋人同士のベッドには不必要な事実だ。

 青木と違って薪のプライドは天より高い。それを忘れて軽口を叩くと、青木にとって甚だ芳しくない結果になる。だから青木はどこまでも低い姿勢を崩さない。

「薪さんの言う通りにしますから。また週末、行ってもいいですか?」




*****

 いちゃつく二人なんか書いたことがないから、むず痒いのなんのって。
 読むのは好きなんですけど、書くのは苦手です。 身体中、カユイよ~~。(^^;


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執行猶予(3)

執行猶予(3)







 モニタールームは異様な緊張感に包まれていた。
 全員がメインスクリーンに注目している。これから事件の検証が始まるのだ。それは別に珍しいことではない。このぴりぴりと張り詰めた空気は、モニタールームの後方に仁王立ちになって腕を組んでいる室長から漂ってくる雰囲気のせいだ。
 目を閉じて、集中力を高めている。自分の能力を限界まで引き出そうとするときに、人間はこんなオーラを発するものだ。
 室長のこの状況は、朝一番で掛かってきた捜査一課からの捜査協力依頼に由来する。

「今日の3時で拘留が切れる?」
 異動後も自分を慕う後輩からの電話に、第九の副室長は眉を顰めた。
「あのな、竹内。MRIは魔法じゃないんだ。半月分見るのに半日はかかるんだぞ。いくら容疑者が絞れてても、そんな短時間じゃムリだ。せめて5日くらい猶予を……え? 黒部代議士の息子? 確かに今を逃すと手が出せなくなる可能性が高いな。いや、でもなあ。ムリなものはムリ」
 岡部の言葉は、途中で遮られた。捜一のエースにMRIの時間的な限界を説明する岡部の手から、突然受話器をひったくった者がいたのだ。

「検証しなければならない日数はどのくらいですか?」
 岡部から受話器を奪い取ったのは、第九で唯一の岡部の上司だった。岡部の机に腰掛けて、詳しい内容を聞きだしている。
 間に合わないかもしれないが、やれるだけはやってみようということか。仕事熱心な薪らしい判断だ。
「3ヶ月ですね。わかりました、こちらへ回してください。……気遣いは無用です。きちんと依頼書を付けてください」
 岡部は耳を疑った。
 正式な依頼書を受諾しての捜査となると、この責任は第九が負うことになる。MRI捜査による検証が拘留期限に間に合わず、犯人をみすみす逃さなければならなくなったら、それは第九の失点になるのだ。竹内はその事情を知っているから、こうして内々に電話をしてきたのに。

 驚きを隠せない岡部の前で、薪は不遜に笑った。
「受けたからには半端な真似はしません。3ヶ月なら4時間もあれば充分です」
 データの抽出に1時間はかかるはずだから、実質3時間だ。第九の職員は室長を除いて6名。データを分け合って全員で見ても間に合わない。
 しかし薪は、できもしないハッタリを言う男ではない。いや、女性遍歴と性経験に関しては大ホラ吹きだが、仕事では絶対に言わない。

 果たして、電話を終えた薪はまっすぐに宇野のところへ歩いていった。それを見た職員たちが、ざわざわと騒ぎ始める。彼らには、これから何が始まるか解っているのだ。
「薪さんのあれ、久しぶりだな」
「あれ見ると、薪さんて本当に人間じゃないかもって思っちゃうよな」
「うん。バケモノみたいだもんな」
 こそこそと失礼なことを言って、職員たちは検証の準備に掛かる。名前の順に右端の上から、という副室長の指示を受けて自分の持ち場を確認する。

「宇野。メインスクリーン、何分割できるようになった?」
「現在は9つです」
「さすがだな。よし、じゃ、それで頼む」
 薪はにっこりと宇野に微笑みかけ、システムの起動を命じる。滅多に出ない薪の笑顔は、宇野のたゆまざる努力に対する褒美だ。
 2年前まで、スクリーンの分割は3つが限度だった。それをプログラムの追加で6つ、9つと増設していったのだ。
 分割できる数を1つ増やすのは、実は大変な作業だ。同じものをもう一度コピーしてインストールすればいい、という単純な作業ではない。画面が1つ増える、ということは色々なプログラムに影響してくる。解像度、サーチ、停止画の自動修正機能など、それによって追加を余儀なくされるプログラムの量は半端ではない。足し算ではなく、3乗根になると思って間違いない。

「9つだってよ」
「ますます人間から離れていくな、あのひと」
「ていうか、9つだと俺たちの頭数のほうが足りないぜ」
「2回に分けるしかないだろ。まあ多分、2回目は必要ないと思うけど」
 職員たちの中で、ひとりだけ訳のわからない顔をしている捜査官がいる。待機中のメインスクリーンが9つに分割されたのを見て、彼は驚きの声を上げた。
「これって……ええ?」
「あれ? おまえ、見るの初めてだっけ」
「薪さんもよっぽど時間的に追い詰められなきゃやらないからな。ものすごく疲れるみたいだし」
「青木、おまえは右端の一番上の画だけ見てろ。欲張って隣まで見ようなんて思うな」
 副室長が新人に指示を与えるのを横目に、薪はモニタールームの後方に下がった。メインスクリーンが端まで見渡せる位置に陣取って、腕を組む。目を閉じて、深呼吸を2回。周囲の風景が揺らめいて見えるくらいの気迫が発せられ、前方に座った職員たちは、首の後ろがちりちりと焼けるような緊張感を味わう。
 亜麻色の瞳に天才の輝きを宿して、薪は頭を上げた。

「いいぞ。始めろ」
 落ち着いたアルトの声が響き、メインスクリーンには9つに分割されたMRI画像が流れ始めた。9つとも同じ被験者の画だが、まったく別々の場面である。9日分をいっぺんに映しているのだ。
「青木。自分の担当の場所だけ見てろよ」
「は、はい」
 新人の隣の席に座った今井が、落ち着かない素振りの後輩を注意する。慣れない者は逆に他のところに目が行ってしまうものだ。

 開始後、約1時間。
「見つけたぞ! 右端上、10秒戻せ!」
 鋭い声が響いて、MRIが静止画面になった。巻き戻して、スローで再生させる。薪の指摘通り、人ごみの中に紛れて被疑者の姿がある。拡大しなければ分かりにくいが、たしかにこの男だ。
「直ちにこの場所の特定! 通行人の腕時計をいくつか拡大して時刻を確定しろ。画像を捜一に電送しておけ。岡部、直接竹内のところへ行って、至急裏を取るよう要請してくれ」
「はい!」
 矢継ぎ早の指示に各々がキビキビと動き、たちまち捜査に必要な情報が集められた。プリントアウトされた数枚の画を持って、岡部が研究室を出て行く。後は捜一の仕事だ。

 停止画面の状態を見て、薪はいくらか眉根を寄せている。自動ブレ補正の働きに若干不満のようだ。特に下部の3画面には改善の余地がある。他の誰にも分からない言葉で宇野とその話をしている室長を、職員たちは遠巻きに見ている。
 9つの画面を同時に検証する。いったいどんな眼球運動ができればそんなことが可能なのだろう。薪の目が特別製なのは知っているが、ここまでくると最早人間業とは思えない。

 追加のプログラムについて宇野に新たな課題を与えた後、薪はくるりとこちらを振り向いた。亜麻色の目が不機嫌そうに細められている。
「この画、見てたの誰だ」
「すみません、オレです……」
 6分の1の確率だったのに、青木は運が悪い。このパターンの検証は初めてだったのだから無理もないと思うが、室長の言葉は辛辣だった。
「役に立たない目玉なら、今すぐ角膜バンクに寄付して来い。その方がよっぽど世の中のためになる」
 相変わらず青木には特別キツイ。果てしなく冷たい口調で言い捨てて、薪は仮眠室へ入って行った。

 広い肩をがっくりと落として、青木はため息をついている。見かねて小池が慰めの言葉を掛けた。
「そんなに落ち込むなよ、青木。薪さんと同じことやろうっていうほうがムリなんだ。俺たちは人間、あのひとはバケモノなんだから」
「バケモノというよりは宇宙人。いや、もののけ?」
「妖怪百目小僧」
「それ、採用」
「小僧ってとこがナイス」
 先輩たちのブラックな励ましを苦笑いで受けて、青木は席を立った。

 新人にとっては第二の職場である給湯室へ入っていく。しばらくして出てきた青木の手には、盆に乗せたコーヒーと冷たいおしぼり。さらに救急箱から目薬を取って、仮眠室へと姿を消した。どうやら休憩中の百目小僧への差し入れらしい。
 眼精疲労には、薄暗い部屋の中で瞼を閉じているのが一番だ。新人の心配りの目薬と冷たいおしぼりは、その効果を上げてくれるはずだ。

「青木ってさ、なに言われても平気で薪さんのところへ寄ってくよな」
「苛められるの分かってるのに。あいつもMだよな」
「おかげで俺たちへの攻撃は減ってるけどな。薪さん、この頃ずっと機嫌いいし」
「前々から仕事には熱心だったけど、最近は特に充実してるって感じだよな。笑い顔も増えたし、重箱の隅をつつくような指摘もしなくなったし」
「何かあったのかな? 薪くんの意欲を喚起するような出来事」
「何かって?」
「例えば恋人ができたとか」
「ないないない!あのひとが恋人なんて―――― かっ、官房長!」
 いつの間にかひとり増えている。まるで座敷ワラシのようだ。

 小野田官房長は気さくな人柄で第九への出入りも多いが、一介の職員が気安く口をきけるような相手ではない。職員たちは一斉に席を立って敬礼の姿勢をとった。
「すみません。ただいま室長も副室長も席を外してまして」
「うん。岡部くんとはエントランスですれ違ったよ。薪くん、久しぶりにあれやったんだって?見たかったな」
「はい。それでいま、仮眠室に。すぐに呼んで参ります」
 室長の休息を破りたくないのはやまやまだが、これは宮仕えの定めだ。
「あ、いいよ。休ませてあげて」
「しかし」
「大丈夫だよ、ぼくが仮眠室へ行くから」

 青木はまだ仮眠室から帰ってこない。仮眠室で何が起きているか、おおよその察しはつく。先ほどのミスのことで、また薪にネチネチと皮肉を言われているのだろう。
「あの、差し支えなければ私がご用件を伺います」
 警視の今井が進み出て、小野田に進言する。出すぎた行為ではなく、舞台裏で行われている室長の陰湿なイジメの実態を官房長に見せるのはまずい、と判断してのことだ。

「事件のことじゃないんだ。薪くんを激励に来たんだよ」
 いつもにこにこしている小野田だが、今日は特別機嫌がいいようだ。目じりの笑い皺が、普段より多いような気がする。
「激励とおっしゃいますと?」
「警視長の昇格試験、頑張ってねって」
「えええ!?」
 小野田が差し出したのは、警視長昇格試験の受験票だった。受験者の欄に薪の氏名がある。
 モニタールーム中が騒然となった。

「昇格試験? 薪さんが?」
「やった! とうとうやる気になってくれたんだ!」
「すげえな。37歳で警視長かよ」
 仲間たちの喜びは当然のこと、官房長が自ら受験票を届けてくれたという事実は、もうひとつの喜ばしい真実を彼らに知らしめることになる。
 官房長は、薪のことを諦めていなかった。現在も自分の後継者に、と考えてくれているのだ。この試験に合格すれば、薪は再び桧舞台に返り咲くだろう。

「さて。寝顔にキスでもしてこようかな」
 得意の色モノジョークを放って、小野田は仮眠室へ入っていく。残された職員たちは、小野田が置いていった受験票を嬉しそうに見て、笑いあった。




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執行猶予(2)

執行猶予(2)







「薪。室長の仕事、つらい? 我慢できない?」
「うん。でも辞めたくない」
「じゃあ、頑張らなきゃ」
「うん」
「オレがついてるよ。ずっとおまえの傍にいるから。だから一緒に頑張ろう」
「うん。頑張る」
 皮肉屋だと評判の第九の室長は、親友の前では呆れるほど素直だった。

「オレにできることなら何でもするから」
「じゃ、これ」
 薪はすっと鈴木から離れると、部屋の明かりを点けた。キャビネットから大量の書類を出してくる。
「期限は明後日だ。よろしくな」
「ええ!? だってこれ、おまえが溜め込んだんだろ」
「仕方ないだろ。VIP捜査に掛かりきりで、ぜんぜん書類ができなかったんだから」
「これだけの量を明後日までにって、徹夜してもきついぞ」
「何でもするって言っただろ。警察官に二言はないよな、鈴木警視」
「……はい、室長」

 鈴木がため息混じりに薪から受け取った書類の多くは、室長所見をつける段階まで仕上がった報告書だ。室長の仕事はこれに目を通すことだが、その確認作業を鈴木にやらせるつもりなのだ。
 報告書には元となった画のカウンタが記されているから、それを引き出せばいいのだが、とにかく量が半端ではない。こういう場合は重要な部分だけ2,3箇所確認して判を押してもいいのではないかと思われるが、何事もきっちりとやりたがる薪はすべての内容を逐一確認しないと判を押さない。それを鈴木に手伝わせるということは、薪が彼に絶大な信頼を寄せていることの証明でもあった。

「官房長が言ってた。自分の信念を貫くためは、出世するしかないって」
 肩を竦めて書類の束を抱え、室長室を出ようとした鈴木は、薪の言葉に足を止めた。
「僕、絶対に偉くなってやる。僕の意見には誰も逆らえないくらい。僕がこの事実を公にするって言ったら、誰にも手出しができないくらい。すべてを掌握してみせる」
 書類につける所見をPCで打ち込みつつ、薪は冷静な口調で言った。
「うん。がんばれ、薪。オレがついてる」
「おまえなんか何の役に立つんだよ。僕がせっかく所長に特別承認申請してやったのに、昇格試験に2回も落ちやがって」
 先刻、大泣きしていた人間とは思えないセリフだ。たった今まで、この男に慰めてもらっていたのではないのか。
 その変わり身の早さに怒るでもなく、鈴木は申し訳なさそうにうなだれた。

「だって、あの試験めちゃめちゃ難しいんだもん」
「僕があれだけ教えてやったのに。今回はヤマも当たってただろ」
「問題自体が難解でさ。読んでるだけで時間がなくなっちゃったんだよ」
「なに大げさなこと言ってんだ。1時間もあれば充分だろ、あんなの。あとの2時間は昼寝のためにあるんだぞ」
「おまえだけだよ、そんな非常識なやつ」
 短い会話の間に、早くも2件の報告書が仕上がっている。3件目に取り掛かりながら、今年も申請しておくからな、と薪は厳しい口調で宣告した。

「今度は外すなよ。おまえが警視正になったら、二人で本部に殴り込み掛けるんだから」
「オレも一緒にか?」
 殴り込みとは穏やかではないが、これはもちろん比喩だ。出世のためには警察庁に戻って内勤に励み、本部に人脈を作り上層部に入っていかなければならない。実は薪の元にはすでに、官房室への転属の打診が幾度か来ている。何故かれが上層部への近道を断り続けているのか不思議だったのだが、どうやらこの辺に原因があったと考えるのは単純すぎるだろうか。

「当然だろ。おまえは僕の……一番の部下なんだから」
 命令的な言葉とは裏腹に、そのときの薪の表情はひどく不安げだった。キーボードを叩く手を止めて、じいっと鈴木の顔を見つめる亜麻色の瞳には、ありったけの懇願が含まれているように思えた。
 鈴木はにっこりと笑って、薪に近付いていった。自分に向けられた小さな頭に手を置く。部下が上司に取る態度ではないが、薪の目も部下を見る目ではない。
「わかったよ。今年は必ず合格するから」

 その言葉を聞いたときの薪の顔は見ものだった。
 ぱっと花が開くように、明るい笑顔だった。まるで無邪気な子供が母親に笑いかけるような無心さだった。田城は彼のこんな笑顔を、今まで一度も見たことがなかった。
 こころから信頼している相手にだけ見せる顔。そして鈴木もまた、薪のことをこころから大切に想っている。ふたりの様子を見れば、それがわかる。
 薪にとって、親友とのこの絆こそが第九の室長という重責に耐えるための原動力になっているのだ、と田城は知った。

 それほど信頼しあった彼らの上に、あの災厄は振りかかってきた。
 自分の支えだった親友をその手で撃ち殺し、生ける屍のようになった薪を見て、田城は心を痛めた。薪は平静を装っていたが、彼の今までの仕事ぶりを知っている田城から見れば、彼の精神が崩壊し始めていることは明白だった。
 その当時、所長の田城のところには、さかんに薪の人事異動の打診が来ていた。
 それは事件の責任を被っての降格人事ではなかった。薪のパトロンと称される官房長が用意した警察庁官房室付けの参事官という役職は、現在と同等の階級だった。彼の心を癒すためにも、第九を離れたほうがいい。この人事は最適のものと思われた。
 しかし、薪はその提案を断った。

『僕がいま、ここを離れるわけにはいきません』
 部下をすべて失ったこの状態で、室長の自分までいなくなったら第九は潰れる。彼はそう考えていた。彼は何とかして第九を存続させようと、たったひとりで研究室の仕事を切り盛りした。
 彼はまるで自分に罰を与えるかのように、がむしゃらに働き続けた。時々、床に倒れたまま眠っていることもあった。田城が気づいたときには仮眠室へ運んでやったが、あのころは田城自身事件の整理に追われていたから、床で目覚めることのほうが多かったはずだ。
 
 薪が選んだのは、庇護者が用意してくれた歩きやすい街道ではなく、いばらの道だった。
 彼にとってその道は、針の上を歩き続ける苦行にも等しかった。心無い人々の言葉に傷ついて、彼が夜中にひっそりとモニタールームで泣いているのを田城は何度も見ている。
 そんなとき、彼が座る席はいつも決まっていた。左端の前から二番目。かつての親友のデスクだった。
 自分が殺した部下の席に座って、薪はぼんやりと空を見ていた。
 かつては叡智に輝いていた亜麻色の瞳は、一生を後悔で終えた老人のように曇っていた。わずかな希望も未来も、そこには見出せなかった。どこまでも深い闇だけがそこにはあって、田城はこの青年が自分の未来を諦めてしまったことを悟った。

 自分自身が諦めた時点で、その人間の進歩は止まる。
 周囲の弾劾を撥ね退けてでも上に行こうという気迫が、当時の薪からは感じられなかった。親友相手に「本部に殴り込みを掛けてやる」と意気込んでいた彼とは別人のようだった。警察庁始まって以来の天才と謳われた彼が警視正止まりで終わるなどと、いったい誰が予想しただろう。

 それほどまでに憔悴していても、薪はとびきり優れた捜査官だった。
 鈴木の死後もあまたの事件を解決に導いた。捜査一課との合同捜査も幾度か試み、多大な功績を立てた。その実績は世間や署内の第九に対する白眼視を覆し、一部のものには絶大な支持を得るまでになっている。
 本人さえ昔の気概を取り戻してくれれば、まだ巻き返せる。
 薪ほどの人材を、一研究室の室長ごときで終わらせるのはもったいない。第九の特殊性を鑑みても、8年という就任期間は長すぎる。
 田城はそう思って、幾度となく薪に警視長の昇格試験を受けるよう持ちかけた。が、彼はどうしても首を縦に振らなかった。
 薪は警視正になって10年。試験を受けるのに特別承認も上司の推薦もいらない。しかし試験にパスしなければ、いくら実績があっても警視長にはなれない。長官や次長の命があれば別だが、2年前にあれだけの事件を起こした彼がその特別昇任を得られるのは、まだ先のことと思われた。

 田城がいくらヤキモキしたところで、本人のやる気を引き出せない分にはどうしようもない。本人が満足しているのならこういう生き方もありか、などと薪のことは半分諦めかけていた田城は、5月半ばの月曜日、第九から上がってきた報告書の一番下にあった一枚の書類に驚愕の声を上げた。
 そしてすぐに1本の電話を掛けた。それは、田城以上に彼の決心を喜んでくれるはずの人物に宛てたものだった。
 
「小野田官房長。あなたの秘蔵っ子が、ようやく目を覚ましてくれたみたいですよ」




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執行猶予(1)

執行猶予(1)






 田城良治はとても温厚な人物である。
 警察に入って35年。12年前から科学警察研究所の所長という要職に就いている。
 科学警察研究所、通称『科警研』は最先端の科学をもって犯罪解明に当たるべく、日々研究を重ねている組織である。警察庁の附属機関だが、警察官採用試験ではなく国家公務員Ⅰ種試験の合格者で構成される実態は学者の集まりだ。現場に出て証拠品を探したり、目撃者を見つけようと聞き込みをしたり、ということはしない。検挙した犯人に手錠を掛けることもしない。それは警視庁や所轄の職員の仕事だ。
 が、その中にも例外があって、第九研究室だけは独立した捜査権が認められている。

 これには二つの理由がある。
 第九研究室が行う科学捜査は、死者の脳をMRIにかけて被害者や犯人の記憶から直接情報を引き出す、という特殊なもので、知り得た情報をすべて警視庁や所轄の捜査員に開示するわけにはいかない、という理由が一つ目。 もう一つは、警察庁の保身のためである。
 死体の脳を見るという甚だしく他人のプライバシーを侵害する捜査方法は、何かと世間の非難を浴びることが多い。事件を解明に導き犯人を検挙してさえも、「死者を冒涜するような真似を」と眉をひそめられるのが実情だ。
警察というところは、国民の公僕たる立場から世間体をひどく気にする。そこで第九に独立捜査権を与えることによって、国民の非難は警察機構全体に波及することなく第九に集中させる形を取っているのだ。

 よって、第九の責任者たる室長の立場は、他の研究室の室長に比べてかなり厳しいと言わざるを得ない。
手柄を立てれば高い評価は得られるが、世間の非難の矢面には常に立たなければならない。人権擁護団体との折衝やマスコミの対応など、対外的な仕事はすべて室長の肩に掛かってくる。これは他の研究室の室長にはありえない職務だ。
 室長の心労はそれだけではない。
 政府の要職についた人物がMRIにかけられる際には、機密保持の観点から室長がたった一人で捜査に当たることになる。一般の捜査官が5人がかりで10日かかる捜査を単独で行わなければならない肉体的負担もさることながら、その知り得た情報を秘密にしなければならないこともしばしばある。現在第九の室長に就いている人物には、連日の徹夜捜査よりもこちらの精神的苦痛のほうが大きいようだ。もちろん、守秘義務はすべての警察官に課せられているが、同じ研究室の仲間にまで捜査内容を話せない、というのは第九だけだ。

 かように、何かと気苦労が多い第九の室長を務めている捜査官は、薪という弱冠37歳の警視正だ。今でこそ彼の実績や実力からこの階級は当然のものだが、彼は何と10年前にすでにこの階級に就いていたのだから驚きだ。この人事は普通では考えられない。警察の階級制度には年齢的な縛りがあって、通常警視正に昇任できるのは35歳以上の職員に限られるからだ。
 彼の身に与えられた通例を覆すこの人事を、特別承認人事という。
 薪のように飛び抜けた実力があり上層部からの抜擢があれば、この特殊な人事を受けられる。これは上層部によるお墨付きのようなもので、いわば超エリートの証だ。彼の場合はその超が3つばかり付くかもしれない。他人より8年も早い昇任は尋常ではない。

 若くして警察庁中の嫉妬を一身に集めるような出世をした薪は、それに奢ることなく冷静に第九の室長という重大な職務を遂行していた。最初の頃はかなり大変な思いをしていたようで、ひとり懊悩する彼の姿を田城は何度も見ている。
 真っ暗な室長室で机に肘をつき頭を抱え、時折涙を流していた。彼の涙の原因は田城には解らなかったが、彼が計り知れない苦悩を抱えていることは察しがついた。
 その頃の薪には同じ部署に親友がいて、彼の存在が室長の苦悩を和らげていたようだった。薪室長の親友の名前は鈴木といい、薪と同い年で階級は警視だった。

 田城は1度だけ、鈴木が薪を慰めているところを目撃したことがある。
 そのとき、鈴木はひとりで研究室にいた。ちょうど電話が鳴ったところで、田城が入ってきたのに気付かないようだった。
 鈴木は電話を切ると黙って席を立ち、モニタールームの明かりを消すと室長室へ入っていった。室長室の明かりは消えていたから、室長は不在と思われた。今の電話は室長室から何かを持って来るように、との指示だったのかもしれない。
 が、それならモニタールームの明かりは点けたままにしておいてもいいはずだ。いや、それよりも、鈴木がいるはずの室長室が暗いままなのは何故だろう。

 彼の怪しい行動に、田城はある疑念を抱いた。
 第九での情報は高く売れる。特に室長が握っている秘密の中には国家機密に関するものもあるはずだから、諜報関係者に売れば莫大な金が手に入る。室長の留守に、それを探しているのかもしれない。
 田城は鈴木の人柄を知っていたから、それほど強い疑いを持ったわけではないが、魔が差すということもある。田城は足を忍ばせて室長室へ近付いた。

 ドアに手を掛けたとき、ものすごい声が聞こえてきた。
 子供が泣き喚くような声だった。室長の部屋に赤子でもいるのかと思った。
 そっと中を伺って、田城は我が目を疑った。
 いつも冷静で粛々と職務をこなす室長が、部下に抱きついて泣き叫んでいた。鈴木の手は薪の背中に回されていて、ふたりはしっかりと抱き合っていた。ふたりの仲の良さは署内でも評判で、薪の外見から一部の職員の間では密かにその手の噂がされていたが、さては事実だったのか、とそのときは思った。
 しかし、違った。

「僕はこんなことをするために警察官になったんじゃないっ!」
 慟哭の間から、彼は親友に訴えていた。
「ちがう、こんなのは違う。あんな汚いやつらのためにっ、ちくしょう……!」
 室長の言葉は終始曖昧で感情的で、意味を成さなかった。捜査の内容には関しては、一言も洩らさなかった。それに触れず他人に理解を求めるのは難しいと思われた。しかし鈴木は、
「うん。わかってるよ、薪」
 親友の背中をポンポンと叩きながら、穏やかにそう言った。胸に抱き込んだ亜麻色の頭を撫でながら、大丈夫だよ、と繰り返した。

 二人の間には、色事めいた雰囲気はなかった。ただ純粋に、傷ついた親友を慰めているだけだった。その方法はかなり特殊と言わざるを得ないが、きっとこの方法が薪をいちばん元気にしてくれるのだろう。
その証拠に薪の泣き声はだんだん低くなり、やがては低いすすり泣きに変わっていった。薪の呼吸が落ち着いた頃合を見計らって、鈴木は薪の心のケアに入った。



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土曜の夜に花束を(15)

土曜の夜に花束を(15)







 フラワーショップしらいしの女店主は、今日も白百合の花束を作っている。
「何色のリボンになさいますか?」
 常連客の長身の男に声をかける。この男がこの店に来るようになってから、2度目の春が巡って来た。飽きもせず白百合を選ぶところを見ると、想い人は変わっていないらしい。
「そうですね。この薄紫で」
 相変わらずの幸せそうな顔。この男の変化を敢えて挙げるなら、来店する曜日が変わったことくらいか。

「以前は金曜日によく来ていただいてましたけど。最近は土曜日が多くなりましたね。お仕事の関係ですか?」
「ええ、まあ」
 この男の恋路が順調に進展しているらしいことは、口元の緩み具合でも察することができる。白百合の化身のような女性と、うまくいっているらしい。今日だって蕩けそうな顔をしている。
 きっと今夜は彼にとって、スペシャルな夜なのだ。朝まで彼女と過ごす約束でもしているのだろう。
 土曜の夜に花束を持って恋人に会いに行く。この男の幸せがいつまで続くのか店主に興味はないが、大切なお客様だ。ここはヨイショしておこう。
「お幸せそうですね。素敵な恋人なんでしょうね」
「はい! オレの恋人は世界一キレイでカワイイひとなんです!」
 ……正面から頭突きをくれてやりたい。

「ありがとうございました」
 スキップどころか三段跳びで駆けて行きそうな男の背中を見て、店主は頭を下げながらも苦笑している。
 あそこまで手放しで、自分の恋人を賞賛する男は見たことがない。もうメロメロというカンジだ。よほど美しい女性なのだろう。
 半ば呆れつつも客を見送っていた店主は、横断歩道を渡ってこちらに近づいてくる小さな人影に気付いた。
『白百合のきみ』だ。
 まずい。今の客に作った花束で、白百合はカンバンだ。明日の入荷を待ってもらうしかないが、配達料を無料にすることで納得してもらえるだろうか。
 
 彼は最後の白百合を抱いた男と、横断歩道の中心ですれ違った。皮肉な光景を店主が見ていると、それは次の瞬間、不可思議な画に変わった。
 道の真ん中で、長身の男が白百合のきみに花束を手渡している。亜麻色の髪の青年は何事か言ったようだが、声は聞こえない。表情はいくらか不機嫌そうだ。
 つややかなくちびるを尖らせながらも花束を受け取って、彼は踵を返した。振り返りもせず道の向こう側へ戻っていく。その後を黒髪の男がいそいそとついていく。
 これは、どう理解したらいいのだろう。

「そうじゃないかと思ってたんですよ」
 アルバイトの女の子が、我が意を得たりとばかりに何度も頷いた。
「百合の化身みたいにきれいな人なんて、そうそういるもんじゃないですから」
 自分の予想が当たったと彼女は言うが、店主には状況が理解できない。というか、したくない。
「真奈美ちゃん、気持ち悪くないの?」
「なにがですか?」
「だって、あれ男のひとよ」
「それがどうかしました?」
 最近の若者はこういう関係に比較的おおらかだが、50に差し掛かろうとしている自分にはとても肯定できない世界だ。

「店長だって喜んでたじゃないですか。最近、白百合のきみに笑顔が増えたって」
「そりゃそうだけど。男同士なんて」
「いいじゃないですか。あんなに幸せそうなんですから」
 並んで小さくなっていく後姿は、たしかに彼女の言うとおり、いい雰囲気だった。イチャついているわけでも手を繋いでいるわけでもないのだが、その間には温かい空気が流れているようで。時おりキスをしながら彼らの少し前を歩いているカップルより、よほど好感が持てる。
 こっそりと前のカップルを指差して、長身の男が白百合のきみに何か囁いた。すると、白百合のきみは思いもかけない素早さで左足を回して、男の腿の裏を蹴り飛ばした。どうやら「あのカップルのようなことがしたい」とでも持ちかけて、蹴られたようだ。

「ぷっ」
「あはは。見かけによらず逞しいところは、やっぱり百合ですね」
「そうよね。百合ってか弱そうに見えて、実は強い花なのよね」
 あの二人がどういう関係だろうと、大切なお客様であることには変わりない。これから土曜の夜には、白百合のストックが切れないように気をつけなければ。でないと黒髪の男に生傷が増えていきそうだ。

 自分の店の花が二人の人間を結びつけた光景を実際に見ることができて、店主は満足している。やっぱり花はひとを幸せにする力を持っているのだ。

「いらっしゃいませ」
 次の来店客に笑顔を向けて、店主は晴れやかに声をあげた。




 ―了―



(2009.4)



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土曜の夜に花束を(14)

土曜の夜に花束を(14)







 翌週の月曜日。
 第九の年若い捜査官は、早朝からモニタールームの掃除に精を出していた。大きな手を休みなく動かして、鼻歌交じりにてきぱきとモニターを拭いている。
 シュッと自動ドアが開く音に振り返ると、職員たちが団体で出勤してきた。月曜の朝はミーティングがあるから、比較的みなの出勤が早いのだ。
「おはようございます」
「おはよ。いつもご苦労さま」
 青木に労いの言葉を掛けて、今井が穏やかに微笑む。彼女持ちの余裕か、第九で一番温厚なのは今井だ。逆に一番のお天気屋が第九でいちばん性経験の少ない人物と同じ人間である事実は、心の平穏と恋人の有無は密接な関係にあることを暗示している。

「ゴキゲンじゃないか。うまくいったみたいだな、初体験」
「おかげさまで」
 自分に掛けられた童貞疑惑を否定する気にもなれない。このくらいで怒っていたら、薪に悪いような気がする。
「ご感想は?」
「すごく楽しかったです。といっても、まだ半分ですけど」
「半分?」
「痛そうで可哀相で。途中までしかできなかったんです」
「あ、わかった。相手の娘、バージンだったんだろ」
 笑いで誤魔化してその場を離れる。本当のことは口が裂けても言えない。

「青木の相手の女の子、バージンだったみたいだぜ」
「童貞と処女かよ。じゃあ初めは上手くいかなくても仕方ないな」
「でも青木の相手って、三好先生じゃなかったのか?」
「あ、そうだよな。あれ?」
「あのひと室長の親友と婚約してたんじゃ」
「婚約してて処女? 今時、ありえないだろ」
「清い仲だったんだ。すごい人だな、鈴木さんて」
「うん。本当に三好先生のこと大切に思ってたんだな」
 ありえない仮説を貫いてしまうところは、着実に上司の背中を追いかけている。
「三好先生も嬉しかっただろうな。あの年でバージンはきついもんな」
「よかったよかった」
 雪子がこの会話を聞いていたら、多分明日の第九は機能停止になる。6人中4人の部下が入院したら、残された2人は地獄を見ることになるだろう。

「あれ。室長は?」
 室長室を覗いた宇野が、意外そうな声を出す。いつも一番乗りの室長がこの時間に来ていないなんて、滅多にないことだ。
「めずらしいな。あのひとが始業時間ギリギリなんて」
「もしかすると今日は、お休みかも」
 青木が不自然に目をウロウロさせて、欠勤の可能性を示唆する。仕事命の薪が欠勤なんて、それこそこの季節に雪が降ってもありえない。
「なんで」
「いや、なんとなく」
「あ、来た。おはようございます、室長」
 どこか怪我でもしているのか、ゆっくりと足を引き摺りながら薪がモニタールームに入ってくる。部下たちの挨拶に軽く頷いて、そのまま室長室に入ってしまった。

 そんな薪を見て、青木は心の中で手を合わせる。やっぱり、昨夜は休ませるべきだった。薪の方から誘ってくれたとはいえ、まだ傷も治りきっていなかったのに。
 それでも、回数を重ねるごとに少しずつは慣れていくようだ。とても中で動かせるような状態ではなかったが、昨夜は金曜の夜よりずっとスムーズだった。少なくとも前戯の途中で蹴られることはなかった。

『この次の土曜日に、またここに来てもいいですか?』

 青木の申し入れに、薪はこっくりと頷いてくれた。
 薪のからだが行為に慣れるまで、夜のデートは週末限定だ。週末といえば普通は金曜の夜を指すが、定例会は薪の数少ない楽しみのひとつだし、奪うのは可哀想だ。それに1週間の疲れが溜まった金曜の夜より、一日ゆっくり休んだ土曜日のほうが薪の身体の負担は軽いはずだ。
 
 だから、秘密のデートは土曜の夜に。
 花束を持って愛しいひとに逢いに行こう。
 
「室長、なんか調子悪そうだな」
「ていうか、明らかに患部を庇った歩き方だな」
「だから早く病院に行ったほうがいいって言ったのに」
 薪の病名は、とうとう確定してしまったらしい。
「やっぱりこれ、必要だろ」
 小池がドーナツ型のクッションを引っ張り出してくるのを見て、青木は心の中で薪にひたすら謝り続けていた。



*****



 同じ日の昼休み。
 法医第一研究室の監察医助手、菅井祥子は上司宛の付け届けに首を傾げていた。
「雪子先生。なにかお祝い事でもあったんですか?」
「べつに。どうして?」
「第九から、お赤飯届いてますけど」
「……なんで?」
 室長の勘違いと思い込みの強さは、第九の部下たちに日々浸透していくようだった。





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土曜の夜に花束を(13)

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2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
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