天国と地獄1 (3)

天国と地獄1 (3)







「なにやってんだ?」
 胸の中に抱き込んだ亜麻色の頭から不思議そうな声が聞こえて、青木はハッと我に返る。

 しまった。
 あんまりかわいくって、我慢できなくて、つい……。
 
 怒られると思ったが、薪は案外落ち着いていて、やんわりと青木の腕をほどいた。悪戯っ子のような表情で、亜麻色の瞳を宝石みたいにくるめかせると、
「もしかして、溜まってる?」と聞いた。

 溜まってるって、何が?

 こういう状況だからそういう意味だと思うが、薪のきれいな顔にはあまりにもそぐわない言葉なので、青木の頭は一瞬真っ白になる。
 青木の沈黙を肯定と取ったのか、薪は鷹揚に頷いて、ひょいと立ち上がった。
「よし、僕に任せろ」
 ……任せろって、どういう意味だろう。

「用意するから、ちょっと待ってろ」
 点目になった青木の視界で、薪は真っ直ぐにバスルームに向かった。

 え? え?
 えええええ!!???
 バスルーム直行、ということは、そういうこと!?

 いやいやいや、だってまだ告白もしてないのに。想いを告げてもいないのに、身体の関係を結ぶなんて、そんなふしだらな。

「ど、どうしよう……」
 何度も夢に見て、繰り返された妄想の回数は3桁にも及ぶ青木だが、いざその状況になると、どうしようもない焦燥感に襲われた。
 薪は自分と違って大人だから、こういうのもありなのか。
 大人の恋愛ってそういうものなのかもしれないけれど、でもやっぱり青木としては、告白して、お互いの気持ちを確かめ合って、何回かデートも重ねてからそういう関係になりたい。まどろっこしいかもしれないけれど、それが恋愛というものだと思う。
 好きだという言葉も聞けないうちからこんな、これじゃまるでセフレみたいで。

 それに、夢や想像の中でイメージトレーニングは充分といえども、実際に男のひととこういう行為に及ぶのは初めてだ。現実の知識は皆無といっていいくらい、ない。果たして上手くできるだろうか。
 そこまで思案を巡らせて、青木は重要なことに気付く。
 
 どっちが女の子になるんだ?

 想像の中では当然薪が女の子だったが、現実は薪の方が年上だし上司だしケンカも強い。『任せろ』との言葉からも察せられるように、こちらの経験も豊富らしい薪が男役を務めることになったらどうしよう。

 ……逃げ出したくなってきた。

 このまま帰っちゃおうかな、とソファから腰を浮かしかけたとき、薪がリビングに入ってきた。腰にバスタオルを巻いただけの格好で、もう、やる気マンマンという感じだ。
 その引き締まった裸体を見せ付けるように青木の前を過ぎって、キッチンへ入っていく。水分補給に行ったらしい。

 ……まむしドリンクとか飲んでたらどうしよう……!

 薪がタオル一丁の姿で手を腰に当て、強壮ドリンクをオヤジ飲みしているところを想像して、青木は気を失いそうになった。

「青木、どうした?」
 グラグラする頭を抱えていた青木は、涼やかな声に顔を上げた。
 至近距離に、薪の顔。腰を折って身を乗り出し、青木の体調を心配する素振りだ。

「い、いえ、あの」
 シャワーを浴びたばかりの瑞々しい肢体に、青木は声を失う。
「もしかして、おまえ、初めて?」
 見抜かれた。
「そっか、それで緊張してたんだな。大丈夫、おまえはじっとしてればいいから」
 じっとしてればって、やっぱりオレが女の子!?
「そ、それは嫌です!!」
 嫌です、と言い切ってしまったが、これは考えてみるとすごく勝手な言い分だ。
 自分が嫌なことは、薪も嫌なはずだ。見掛けはどうあれ、薪は普通の男の人なのだから。しかし、薪はクスリと笑って、青木の我儘を許してくれた。
「おまえの好きにしたらいい」

 その笑った顔が、目を疑うほどきれいで。
 潤った素肌が部屋の明かりを反射して、拭いきれていない水滴がキラキラと輝いて。青木がいつも真っ先に目を奪われるつややかなくちびるは、口にしたばかりのミネラルウォーターに濡れて、一層あでやかに艶めいて。

 青木は思わず目を閉じた。
 薪のこんな姿を見ていたら、後先考えずに男の本能に負けてしまいそうだ。

 やっぱり、こういうのはよくない。ちゃんと心を通じ合わせてから。
 でもでもでも、こんなチャンスは二度と訪れないかもしれない。
 薪も「好きにしたらいい」と言ってくれたし、自分からシャワーを浴びて準備をしてくれたということは、決して青木を嫌っているわけではない、ということだ。
 そうだ。今この場で、告白すればいいんだ。
 鋭い薪のこと、青木の気持ちにはとっくの昔に気付いていて、もしかしたら薪の方も自分のことを、という可能性もあるんじゃないか? きっとそうだ、そうに違いない、そうでありますように!

「薪さん! オレ、ずっと前から薪さんのこと好きでした!」
 叫ぶように言って目を開けると、そこには誰もいなかった。
 ローテーブルの上に置かれた鈴木の写真に告白する形になってしまった青木は、その事実に眉をしかめる。

「なにか言ったか?」
 カチャリとドアを開けて出てきた薪の姿を見て、青木はあんぐりと口を開けた。
 紫色の開襟シャツにダークなジャケット。上着に合わせた黒っぽいスラックスは細身のシルエットで、薪の足をすらりと見せる。ウエストを緩く飾るベルトのバックルに、さりげなく入っているのは有名ブランドのマーク。多分、胸につけた金のネックレスと同じブランドだ。
 この姿の彼を見て、警察官だと思うものはいないだろう。
 軟派で派手で、そこに薪のきれいな顔が乗ったら、完全にホストだ。間違いなくナンバー1だ。

「行くぞ」
「行くって、どこへ?」
「男の天国」
 顎を反らせて嘲るような笑みを浮かべると、薪は玄関のドアを開けた。



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天国と地獄1 (2)

天国と地獄1 (2)








 薪が目を覚ましたのは、夕方の6時過ぎだった。
 青木がキッチンで夕食を作っているところに、クシャクシャのワイシャツ姿で朦朧としながら歩いてきた。自分がどうしてここにいるのか解っていないような顔つきの薪の第一声は、「ハラへった」だった。

「今、お味噌汁できますから。あ、お風呂も沸いてますよ」
「飢え死にしそうだ。メシが先」
 珍しいこともあるものだ。薪が風呂より食事を優先するなんて。
 ……何日食べてなかったんだろう。

 薪のところで夕食をごちそうになるたびに料理を手伝わされているので、青木も簡単なものなら作れるようになった。
 今日の献立はスズキの刺身と南瓜の煮物。きゅうりとワカメの酢の物に、味噌汁は小松菜と玉ねぎと油揚げ。刺身には、すりおろした生姜がたっぷりと添えてある。薪はワサビが苦手なのだ。

「あ~、五臓六腑に染み渡る。味噌汁は日本人の魂だよな」
 顔に似合わない薪の台詞に、青木は思わず噴き出してしまう。
「なにが可笑しいんだ」
「いえ、別に」
 ビスクドールみたいな顔をして、そんなことを言われても。

 刺身に箸をつける薪に、青木は岡部からの伝言を報せる。事件のことが気になっているだろうと思ったのだが、薪は既にその情報を得ていた。
「携帯にメールが入ってた」
 なるほど。夕方まで寝ていたわけだ。
 事件が片付けば食欲も起こるらしく、薪は二杯目のごはんを茶碗によそった。

「共犯者は、やっぱり女性だったんですね」
「うん。相手が女性だと思えば、気を許してついていくのも無理はないからな」
「薪さんが睨んだ通りでしたね」
「ていうか、おまえ以外の全員が解ってたぞ?」
 事件が絡むと、薪の口は途端に辛辣になる。
「若い女性が、あんな中年オヤジに騙されるのは不自然だろ。連れ込まれるときに抵抗した痕跡がないんだから、共犯者が誘い込んでた、と考えるのが当たり前だ。気付かないおまえがバカだ」
「……食事のときに、仕事の話は止しましょうよ」
 せっかくの薪と二人きりの食事が、不味くなってしまう。
 青木がおずおずと、しかしパッキリと話の腰を折ると、薪は酢の物の酸っぱさに顔をしかめる振りをして、苦笑してくれた。

 それからは仕事の話はせずに、定例会の時のように取るに足らない四方山話に興じた。
 小池が彼女と縁りを戻そうとして見事失敗した話や、宇野が開発しためちゃめちゃ重い負荷テスト用のプログラムのこと、岡部の弁当に入っていたケシズミのような卵焼きのことなど、どうでもいいことをルーズな口調でうだうだと話した。
 そうこうするうちに、料理の皿がほぼ空になり、薪は箸を置いた。ごちそうさま、と言って席を立つと、リビングに行ってソファに仰向けにひっくり返る。
「うー、ちょっと食べ過ぎたかな」とぼやく声が聞こえる。人間、食べ溜めはできないんですよ、と教えてやりたくなる。

 跡片付けと洗い物を手早く済ませ、コーヒーを淹れてリビングに持っていく。コーヒーの匂いを嗅ぐと、薪はゆるゆると身を起こし、マグカップを青木の手から受け取った。
「どの料理が一番美味しかったですか?」
「刺身とごはん」
「それは料理って言わないですよね」
 青木が複雑な顔をすると、薪はイジワルそうに笑った。

 青木は薪の隣に腰を下ろして、テレビのリモコンを手に取った。ニュース番組にチャンネルを合わせ、第九に回されそうな事件が起こっていないかチェックする。
 交通事故や芸能ニュースで埋められたラインアップを見て、青木はほっと息をつく。今のところ、夜中に呼び出されるような事件はなさそうだ。今夜はゆっくり、自宅で過ごすことができるだろう。

 ほうっと嘆息する声が聞こえて、青木はテレビの画面から隣に視線を移す。
 薪は片膝を立てて背中を丸め、コーヒーを啜っている。ソファの座面に片足を載せるその体勢は、限られた人間の前でしか見せないくだけた姿だ。
 尖らせたくちびるをカップに近づけ、目蓋を伏せてふっと息を吐く。立ち上る湯気と香気に頬を緩めて、薪は唇の両端を吊り上げた。

「これだけは、誰もおまえに敵わない」
 マグカップを掲げ、青木の仕事を褒めてくれる。

 そうっとカップの縁に唇をつけ、薪はゆっくりとコーヒーを飲む。カップの底で顔の中心を隠すようにして一滴残さず飲み干すと、ふわっとやわらかい笑みを見せた。
「あー、美味い」
 職場にいるときとは別人のように穏やかなその様子に、彼の安寧のひとつに自分が関与していることに、青木は踊りだしたいくらい嬉しくなる。

 事件が収束を見せた安堵感からか、久方ぶりの自宅という開放感からか、薪はすっかりくつろいでいる。自然で素のままのかれは、本来の健やかで伸び伸びとした美貌を意識せずしてさらけ出す。
 モニターを見るときにはいつもキッと吊り上げられている眉が前髪の奥で緩やかに開かれ、厳しい光を放つ亜麻色の瞳は慈愛に満ちた聖女のような静かさをたたえ、長い睫毛に隠されながらも春の光にきらめく水面のような輝きを見せる。
 温かい食事と飲み物のおかげでほんのりと染まった頬は、触ったら溶けてしまいそうに甘そうで、その味を試したくなる。そんな幼げな相貌の中で、アンバランスとも言えそうな、それゆえに最大級の引力で青木を惹きつける色めいたくちびるが、見事な三日月の形にほころんでいる。

 ……くどくどした言い回しはどうでもいい。
 つまりは、めちゃくちゃ可愛いってことだ!

 単純な言葉を心の中で叫んだら、想いが一気に溢れ出すようで。
 思いがけず溢れた気持ちはとてつもなく巨大で、青木は制御が利かなくなる。我知らず伸ばした右手で薪の頬を包み、もう一方の手を背中に回し、細い身体を抱き寄せた。





*****


 はー、初々しい、懐かしい。
 またこういうの書きたいなあ。 ←Aサイトが今更(笑)



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天国と地獄1 (1)

 9千拍手のお礼です。

 こちら男爵シリーズです。 ギャグです。
 薪さんのカンチガイは最強、青木くんの受難はMAXになってます。 青木さんファンの方にはごめんなさいです。

 なお、こちらのふたりは恋人同士ではありません。 
 青木くん、まだ告白すらできてません。

 本編で言うと『告』以前の状態がずーっと続いてる感じです。 天然薪さんが青木くんを振り回してた、あの辺りですね。 
 思い返せば、あのころが一番楽しかったような。
 丁度、原作の3巻辺りが一番萌えたように、いえその。(^^;

 よろしくお願いします。


 

 



天国と地獄1 (1) 







 ひと目会ったときから、オレは薪さんに恋をした。
 初めはそうとは気付かなかったけれど、後から考えるに、きっとそういうことだったんだろうと思う。

 初めて会ったとき、薪さんは室長室のソファで眠ってた。
 警察に入って、当然のようにむさくるしい男ばっかり見てきたオレにとって、その姿は衝撃的だった。
 抱き枕よろしく分厚い本を抱えて、あどけない顔で眠っていた彼。警視正という肩書きから、自分より10は年上のはずなのに、その寝顔はまるで少年のようで。
 女っぽいとは感じなかったけれど、男のひとだとも思えなかった。

 彼を起こしてくれ、と所長の田城さんに言われたので、オレは恐る恐る薪さんの肩に手を掛けて、彼の身体を揺すった。薪さんの肩はとても華奢で小さくて、オレの手のひらにすっぽりと納まってしまうその頼りなさは、やっぱり男のひととは思えなかった。
 薪さんは目を覚ますと、いきなりオレの手首をびっくりするくらい強く握り締めた。

 大きく瞠った亜麻色の瞳でオレの顔を見て、「ずっと後悔していた」などと意味不明の言葉を重ねた挙句、オレの手首を摑んだまま再び眠ってしまった。
 眠りに戻る直前、長い睫毛の縁に光るものがあったように見えたのは、錯覚だったかもしれない。だけど、歪められた彼の瞳には間違いなく苦悩の色があり、原因は分からなかったが、その苦悩が彼をひどく痛めつけていることだけは理解できた。
 だから、薪さんが新入りのオレに辛く当たった時、この酷薄な言動は彼の本当の気持ちではなく、彼の懊悩が言わせる苦痛の叫びなのだと思った。

 眠りながら涙を浮かべるほどつらいことがあるのに、冷静さを装って職務をこなす。
 彼が必死になればなるほど、その姿は痛々しかった。猟奇犯罪が起きるたびに、自分を追い詰めるように非人間的なスケジュールで事件に挑む彼を見て、いつかぽっきりと折れてしまうのではないかと不安になった。

 オレは、そんな薪さんのことが気になって仕方なかった。不安が募るほどに、薪さんから目が離せなくなった。
 毎日毎日、彼のことを見続けた。彼を見ることができない日は、いまいちやる気がでなかった。お陰で周りの先輩たちからは、「室長がいないと青木はしぼんだ風船のようだ」とからかわれた。

 自分でもおかしいと思っていた。

 どうしてこんなにあのひとのことが気になるのか、その理由がさっぱりわからなかった。まさか男のひとに恋をするなんて、そんな馬鹿げたことが自分の身の上に起こるとは、夢にも思わなかった。あのひとが自分にとって、こんなに重要なひとになるなんて、その頃は予想だにしなかった。

 現在、オレは人生のパートナーを得て、毎日の職務に邁進している。充実した日々を過ごしながらも、当時の出来事は鮮明さを失わず、あの頃を思い出すたびに甘い痛みを覚える。

 これは、そんなオレの昔話だ。



*****



 まとめ上げた報告書をフォルダに保存し、青木は大きく伸びをした。

 昨日の仕事はきつかった。
 回されてきた脳は若い女性ばかりを狙った連続殺人犯のものだったが、怨嗟と狂気のフィルターを何重にも施され、さらに幻覚のラッピングまでされたSクラスの画だった。つまり、最悪ということだ。
 この事件には共犯者の存在が確認され、その画が犯人の脳に残っていた。プリントした共犯者と思しき人物の画を捜査一課に送ったのが、1時間前のことだ。

 徹夜明け、もう何日も寝ていない薪を自宅まで送るように言われて、青木は岡部の顔を見上げた。あの薪が、共犯者の逮捕を待たずに家に帰るなんて、よほど体力の限界にきているのだろうか。
「今、眠ってるから。そーっと運んで自宅のベッドの中に放り込んで来い」
 それは……午睡中のトラをオリに戻せということで?
 たしかに、そうでもしないと薪は休暇を取らない。猟奇事件の続くこの季節、薪の生活空間は、第九の仮眠室と室長室だ。仮眠室で睡眠をとり、仕事をしながら簡単な食事を摂る。そんな毎日がひと月近く続いている。

「あの、途中でもし、薪さんが目を覚まされたら?」
「そのときは、運が悪かったと思って歯を食いしばれ。俺を恨むなよ」
「ええ~……」
 青木がこの役目を仰せつかったのには、理由がある。
 青木は岡部と共に薪の飲み仲間で、彼の自宅への出入りを許されている。薪のマンションの鍵は瞳孔センサー方式で、本人がいないときは管理人に鍵を開けてもらうしか入る手立てがないのだが、この2人なら管理人とも顔なじみなので、事情を話せば鍵を開けてもらえるのだ。

 岡部に促されて室長室へ入ると、薪が執務机に突っ伏して眠っている。頬の下で書類が皺になっており、つまりこれは突発的な眠りだ。薪はいつも限界を超えるまで無理を重ねてしまうから、彼の意思とは関係なく生命維持機能が働いて、身体のほうが勝手に睡眠をとるようになったらしい。
「失礼しまーす」
 一応、声をかけてから薪の身体を持ち上げる。捜査中は食事をしなくなってしまうという困った癖が抜けない薪の身体は、びっくりするくらい軽い。

 薪を抱いてモニタールームを抜けるとき、今井がご苦労さま、と苦笑いした。この複雑な笑みの裏には、何日か前も青木がこうして薪を仮眠室に運ぼうとして、目を覚ました薪に「余計なことをするな」と怒鳴りつけられていた、という目撃事項が関与している。
 同じく徹夜明けで腫れぼったい目をした今井に、青木からはにっこりと笑いかけて、「眠り姫が起きないように祈っていてください」と冗談を言った。

 薪のマンションまでは、車で1時間ほど。
 昔はもっと職場に近いところに住居を構えていたそうだが、あの事件の後、こちらに引っ越したと聞いた。薪が昔どんなところに住んでいたのか、青木は知らない。

 マンションに着いて、再度薪の身体を持ち上げる。今日の眠りは深いらしく、薪はピクリとも動かない。
 管理人に訳を話してドアを開けてもらい、部屋の中に入ると、予想通り悪臭が立ち込めている。黴臭く、饐えた匂い。まったく、何日家に帰ってなかったことやら。

 息を詰めたまま薪を寝室に運んで、ベッドの上に下ろす。ジャケットを脱がし、ネクタイを取ってワイシャツのボタンを二つほど外してやる。ベルトを抜き、靴下を脱がせ、夏用の薄い布団を掛けてやる。
 それから家中の窓を開けて換気をし、リビングと台所の換気扇も回す。キッチンはきれいに片付いていたが、多分、冷蔵庫の中はまた魔窟になっている。時間があれば掃除をしてやりたいところだが、自分はこれから職場に帰らねばならない。
 枯れて腐っていた百合の花の始末をし、青木は薪の様子を見るために寝室へ戻った。

 薪はよく眠っている。
 初めて会ったときにも薪さんは眠っていたな、と昔の記憶が戻ってきて、青木は頬を緩めた。

 その時、ポケットの携帯電話が振動した。着信を見ると、岡部からだ。
 リビングに移動して、携帯電話を耳に当てると、果たして共犯者逮捕の吉報だった。これで幻覚だらけの犯人の脳に、報告書に記載できるような説明が付けられる。
『おまえも今日は休んでいいぞ。そのまま車で家へ帰れ』
 ありがとうございます、お言葉に甘えます、と礼を言った青木は、しかし自分の家に帰る気はさらさらなかった。

「さて、まずは冷蔵庫の掃除だな」



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女神たちのブライダル(11)

 こちらは以前お目汚ししました、『幸せな薪さん』のコピーです。
 もともとあのSSは、この話のエピローグだったので。


 最終章です。
 読んでいただいてありがとうございました。(^^






女神たちのブライダル(11)






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女神たちのブライダル(10)

女神たちのブライダル(10)








「薪くんの真骨頂も、ちゃんと入ってるから。まあ、本人は忘れちゃってると思うけど」
「え?」
 薪が我を失って身勝手な理屈を叫んでいたのは、まだ雪子が青木の家にいたときだ。ということは、初めから録音していた? もしかしたら、研究所に戻って輸血の道具を取ってくる、と言って外出したときに、すべての仕掛けを済ませていたのか?
 どうしてそんなことを、また何故あんな強引な方法を取ったのだろうと考えて、青木はあの事件の直後、雪子が竹内と婚約したことを思い出した。

「今度薪くんが馬鹿なこと言い出したら、それで黙らせなさい。動かぬ証拠よ」
 人の妻になったら、今までのように青木の面倒は見られない。雪子はこれから、竹内のことを一番に考えて生きていくのだ。これは、青木に残してくれた雪子の置き土産だ。

「ありがとうございます」
 本当に感謝している。薪が雪子に返しきれない恩があるように、青木も雪子に限りない優しさをもらった。強くてやさしくて美しくて聡明な女性。心から幸せになって欲しい。

 青木がメモリーカードを受け取って内ポケットに落としたとき、控え室のドアが再びノックされた。年配の女性が顔を出し、花嫁の友人たちに微笑みつつ会釈をする。初めて見るが、雪子の母親だろう。娘と良く似た強くてやさしい目をしている。
「雪子、早くしなさい」
「はーい。じゃあね、薪くん、青木くん。披露宴でね」
 母親に呼ばれて、雪子は控え室を出て行った。集合写真に親族の顔合わせ、来賓への挨拶に司会との最終打ち合わせ。花嫁は忙しい。今日一日は、食べる暇もゆっくり腰を落ち着ける暇もない。

 やがてアナウンスが流れて、結婚式の始まりを告げる。式場の敷地内にある小さな教会に人々が集まって、一組の夫婦の誕生を見届ける。
 祭壇の前に立ち、ふたりの男女は神父の言葉に誓いを立てる。集った人々は、その証人になる。指輪の交換をして誓いのキスをする。法一の仲間たちや第九の職員たちにも愛されていた彼女は、一人の男性のかけがえのない人になる。
 
 ふたりを祝福するために集まった人々は一足先に教会を出て、フラワーシャワーの準備をする。腕を組んで教会を出てきた主役たちに、歓声とともに色とりどりの花びらが降り注ぐ。
 花嫁のブーケがふわりと投げられ、一人の女性がそれを受け取った。次は彼女が主役になるのかもしれない。花嫁のブーケには、たしかそんな言い伝えがあったはずだ。

 誰もいなくなった教会内に、ひとり立ち尽くしている細い人影がある。亜麻色の頭を上に向けて、ステンドグラスを見つめている。
 つややかなくちびるが開いて、微笑みの形を作る。彼が笑いかけたのはおそらく、遥か頭上にいるはずの親友。そして新婦の昔の恋人だ。

「見てるか? きれいだろ、雪子さん」
 ―――― ああ、見えるよ。すごくきれいだ。
 一度も聞いたことのない彼の声が、青木にも聞こえたような気がした。

 ゆっくりと教会の中に戻り、薪が親友との会話を終えるのを待つ。薪はしばらくそのままでいたが、やがて青木に気がついた。
「三好先生、輝いてますよね。本当にきれいです」
「惜しいことしたと思ってんだろ。雪子さん、おまえに気があったんだぞ」
「だから、それは薪さんの誤解ですってば」
 青木はきっぱりと言い切ったが、本音では少しだけ、その可能性を考えたこともあった。
 でも、雪子はそれを口に出したことも態度に表したこともなかった。だからここは、薪の勘違いで通しておこう。どちらにせよ、自分にはこのひとしかいないのだから。

 薪はふっと遠い目をして、十字架に掛けられた神の化身を見上げる。その美しい横顔はこの場所に相応しく、限りなく穏やかで清廉だった。
「鈴木に振られて自棄になってたところを、雪子さんが助けてくれたんだ」
 このごろ薪は少しずつ、鈴木との過去を青木に話してくれるようになった。それは薪が、鈴木のことを大切な思い出として心にしまい始めている証拠だ。
「もう二度と鈴木の顔を見られないって思ってた僕を、鈴木のところへ連れて行ってくれた。雪子さんのおかげで、僕は鈴木と親友に戻れたんだ」
 薪は後ろを向いて、青木の目を見た。亜麻色の瞳がやさしく笑う。

「雪子さんはあの時から、ずっと僕の女神なんだ」

 それは薪の本心だった。
 薪は雪子のことを、とても大切にしてきた。雪子からもらったやさしさを糧に、つらい日々を乗り切ってきたのだろう。
 だから薪は、雪子に幸せになって欲しかった。例えあの事件が起こらなくても、薪の思いは同じだったはずだ。その幸せのためなら、自分の気持ちを殺してもいいと思うくらいに大切な女性。決して恋愛感情には変化しないが、この世で一番幸せにしたい女性。
 そんな男女の関係もあるのだ。

「三好先生が薪さんの女神なら、オレの女神は薪さんです」
「僕は男だから女神じゃないだろ、男神だろ。ヘラクレスとかアポロンとか」
「なんでみんなマッスル系なんですか?」
 自覚のなさは相変わらずである。そこが薪の面白いところなのだが。

 青木は薪に向かって、右手を差し出した。訝しげに瞬く亜麻色の瞳に、青木は騒ぎ出す心を抑えきれない。
「せっかく神さまが見ていてくれるんですから、ここで誓いを立てましょうか。薪さんを永遠に愛しますって」
「バカ。キリスト教はソドム禁止だぞ。そんなことしたら、地獄の業火で焼かれるぞ」
 決死のプロポーズを、薪はあっさりと拒否した。しかもバカ呼ばわりだ。

 青木は高々と掲げられた十字架を見上げる。すべてのものを受け入れた超越者の表情を見つめながら、祭壇の周りを回って薪のところに歩いていく。
「そうかなあ。真剣な気持ちで愛し合ってるって判れば、神様も納得してくれるんじゃないですかね。だって、愛と寛容の――――― 痛っ!」
 祭壇の裏側に置いてあった神父用の木製の台に、向こう脛を打ちつけてしまった。打った場所が場所だけに、思わずうずくまってしまう痛さである。
「ほらみろ。天罰テキメンじゃないか」
 薪が青木の方へやってくる。小さな手を青木の前に出して、薪は満面の笑みを浮かべる。以前は古い写真でしか見ることのできなかった、その希少な笑顔。

 差し出された華奢な手を掴んで、青木は彼を自分のほうへ強く引っ張った。バランスを崩した細い身体が、青木の上に倒れこんでくる。

「青木?」

 愛しい人の身体を抱きしめて、青木は神さまに宣戦布告する。
 できるものならやってみればいい。業火でも洪水でも起こせばいい。神さまからだって、この笑顔は守ってみせる。

 祭壇の陰に引き込んで、軽く口付ける。慌てる薪の顔がかわいらしい。
「バカ、おまえ。こんなとこで」
「永遠に愛してます。死がふたりを別つまで」
 青木の誓いに亜麻色の瞳が揺れて、困惑の表情が微笑に変わる。青木の好きな、少し意地悪そうな薪の貌だ。

「それはキリスト教徒の誓いだろ。僕のは」
 小さな両手が青木の頬を挟む。薪のきれいな顔が近づいてきて、つややかなくちびるが不遜に歪められた。
「死んでも僕を好きでいろ、だ」
 薪の傲慢さは果てしない。ソドムの罪より業(カルマ)のほうが重そうだ。

「神さまより厳しいですね」
「当たり前だ。おまえにとっては、神さまより僕の方がエライんだ。神さまは、こんなことしてくれないだろ」
 やわらかいくちびるが重なってくる。青木が仕掛けたような軽いものではなく、熱のこもったディープなキス。薪の手は青木のズボンにかかる。服の上からそこを撫でられる。嬉しいが、ここではさすがにヤバイ。
「薪さん、ダメですよ」
「僕は半端なことは嫌いなんだ。やるならとことんだ。でなかったら、初めからするな」
「……すみません」
「度胸のないやつ」
 ふふん、と嫌味な笑い方をして、薪は立ち上がった。

 これ以上何かしようとしたら、拳が飛んでくるに決まっている。キスより先のことをする気など自分でも毛頭無かったくせに、要は自分が優位に立てればこのひとはそれで満足なのだ。まったく困ったひとだ。これから一生、自分はこのひとに振り回されるのだろうか。
 どうやら、それは確定らしい。
 一生傍にいろと言われてしまったのだ。薪が結婚しても、誰かを好きになっても、一番近くにいるのはおまえだと命令されてしまった。警察官にとって、上司の命令は絶対だ。逆らうことなど思いもよらない。

 青木は、自分の受難を歓喜と共に噛み締める。
 死んでも薪を愛し続けることを、神さまの前で誓わされてしまった。神さまもさぞ困ったことだろうが、この際検察側の証人になってもらおう。薪のことだ。これからだってどんな勘違いをして何を言い出すか、わかったものではない。その時、薪の口から青木を遠ざける言葉が出た際には、雪子のくれたメモリーカードと共に、この証言がモノを言うのだ。
 そのときはよろしくお願いします、と心の中で頼み込んで、青木は教会の入り口に目をやる。薪は青木を置き去りにして、もう教会を出て行くところだ。

「青木、早く来い。披露宴が始まるぞ」
 岡部が教会の入り口で、青木を呼んでいる。青木たちを迎えに来てくれたらしい。
「よーし、今日は朝まで飲むぞ。岡部、付き合えよ」
「あんまり飲みすぎないで下さいよ。薪さんの場合は、周りのほうが大変なんですから」
「これが飲まずにいられるか! 雪子さんを竹内なんかに奪られたんだぞ、あんなゴミみたいな男にっ!」
「はいはい」
 岡部と一緒にさっさと歩いて行ってしまう薪の背中を追いかけて、青木は走り出す。建物を一歩出ると、強い日差しが肌に突き刺さるようだ。

 6月の空は眩しく晴れ上がって、蒼く蒼くどこまでも澄み渡っていた。




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女神たちのブライダル(9)

女神たちのブライダル(9)








「ダメです、雪子さん! あんな男と結婚なんて。苦労するのが目に見えてます。僕は絶対に認めませんからね!」
 色とりどりの花束が埋め尽くす小部屋の中、設けられたパーテーションに向かって、薪は喚き続けている。まったく、往生際の悪い人だ。

「今日が結婚式だっていうのに。まだ言ってんですか?」
「だっておまえ。だいたい、おまえが悪いんだぞ。しっかり雪子さんのこと捕まえておかないから、竹内みたいな男に騙されて!」
「はいはい、すいませんね」
 適当な謝罪文句で謂れのない非難を受け流す。このひとの八つ当たりを真面目に聞いていたら、胃薬がいくらあっても足りない。

 シルバーグレイのタキシードに白いネクタイを締め、胸に白い百合を飾って、今日の薪はとびきりの美人に仕上がっている。にも関わらず、その表情は険しい。晴れの日に相応しくない不穏な言葉を並べ立てて、事情を知らない者が聞いたなら、この美しい青年は実は花嫁に横恋慕していて、彼女の結婚をぶち壊そうとしているかのようである。いや、実際壊れて欲しいと思っているのだが。
「今からでも遅くありません、雪子さん。あんな男と結婚するくらいなら、僕と結婚してください!」
「花嫁に何言ってんですか!」
 他人が聞いたらどうする気だ、てか、マジでぶち壊す気だよ、このひと!

「ごめんね、薪くん。あたし、自分より小さい男は対象外なの」
 パーティションの向こうから、最後の化粧を済ませた花嫁が現れる。
 短い黒髪にきらきら光るティアラを差し、白いヴェールをつけている。豊かな胸元を華やかなネックレスで飾り、ピンクの薔薇のブーケを持っている。純白のドレスに身を包んだ彼女は、間違いなく今日の主役だ。
「うわあ……雪子さん、すごくきれいです」
「ありがと」
 薪は、頬を赤くして雪子を見ている。他人が見たら、本当に雪子に恋をしているようだ。

「薪くんにキレイって言われても、なんだかね」
「本当に綺麗ですよ。今日だけはオレの目にも、薪さんより綺麗に見えます」
「……この格好じゃなかったら、一本背負い決めてるわよ」
 口は災いの元。どうやら青木は命拾いしたようだ。

「雪子先生、おめでとうございます!!」
 ノックと共に勢いよくドアが開いて、雪子の助手の女の子が顔を出した。薄茶色のウェーブヘアを今日はシニヨンにまとめて、顔の両側にくるくるとした巻き毛を垂らしている。どちらかといえば幼い顔つきの彼女は、大きな向日葵の花束を雪子に渡すと、嬉しくて堪らない、と言った口調で祝いの言葉を述べた。
 
「わああ、綺麗です、雪子先生。よく化けましたね!」
「……ありがと」
「それにしてもまさか、署内ナンバー1のモテ男を雪子先生が射止めるとは。事実は小説より奇なりって、本当ですね!」
「どーゆー意味かしら」
 怖いもの知らずの物言いに、隣で聞いている青木の方が青くなる。こんなことを青木が口にしたら、間違いなく薪にぶちのめされる。

「いいですか、雪子先生。結婚したからって、調子に乗っちゃダメですよ。浮気のひとつやふたつ、目くじら立てちゃいけません。何たって、相手はあの竹内さんなんですから。女優もモデルも選び放題の彼が、雪子先生みたいなトウが立って雲の上まで到達しちゃったようなオバサンを選んでくれたんですから、感謝の気持ちを常に忘れずに。それが夫婦円満のコツです」
「まー、スガちゃんたら、心のこもったアドバイスありがとう!!」
 慣れているのか、雪子は引き攣りつつも笑顔で菅井に応えたが、治まらないのは雪子の信奉者だ。自分とは真逆の意見に、眉を寄せている。

「お言葉ですけど、菅井さん」
「きゃ、薪室長!」
 薪に気付いた菅井は、たちまちしおらしい女性に変貌した。彼女は薪のファンなのだ。さっきは青木の陰になって、薪の姿が見えなかったらしい。

「雪子さんを妻にできるなんて、男にとってこれ以上の幸運はありません。雪子さんがどれだけ素晴しい女性か、ずっと雪子さんを支えてきたあなたなら解っているでしょう?」
「ええ、もちろんですわ、薪室長。なんてステキなお姿」
「そうです。雪子さんは世界一素敵な女性です」
「そのタキシード姿で竹内さんの隣に立ったら、最高の絵になりますわ。ああ、ウットリ」
「はい?」
「あの、ちょっとでいいですから花婿の控え室へ参りません? 並んだ写真を一枚。こないだの間宮部長とのスクープ以上に盛り上がるかも」
「はあ??」

 わけのわからない会話を繰り広げている二人を尻目に、雪子は青木を手招きした。
 動きづらそうな裾引きのドレスを引き摺りながら、パーテーションの向こうに歩いていき、自分の鞄の中から一枚のメモリーカードを取り出す。
「これ、あげる」
「なんですか? これ」
「証拠物件」
 にやーっと笑って、雪子はメモリーカードを青木に手渡した。純白のドレスが紫色に染まりそうな、清純な花嫁が浮かべるには妖しすぎる笑みである。意味がわからない。
 わからないが、雪子がこういう笑い方をするときはだいたい相場が決まっている。つまり、夜の生活のことだ。このメモリーカードは、その様子を録音したものなのだろう。

 青木の耳に、雪子はこっそりと耳打ちする。
「薪くんのあのときの声って、本当にすごい声ね」
「ど、何処で……まさか、盗聴したんですか!?」
「あら、人聞きの悪い。偶然に決まってるでしょ。ほら、去年青木くんの家に携帯落として」
 あの時だ。
 昨年の狂言自殺のとき、雪子を駐車場まで送って行ったあと、アパートで薪と愛し合った。
「何故か、仕事用の携帯と通話中になってて」
 発信したまま置いていったんでしょ、それ!!

「あんたたちの会話が丸聞こえに」
「三好先生。プライバシーって言葉、知ってます?」
「なにそれ? 食べられるの?」
 独り占めしておきたかった薪の声を雪子に聞かれたのは頭に来たが、どうして雪子がそんなことをしたのか、と考えればそれ以上怒ることもできない。

 雪子は、薪が心配だったのだ。
 荒療治が必要だと言いきった彼女は、それでもやはり薪のことが心配で。あの時の薪には必要なことだと思って実行に移したけれど、彼が深く傷つくであろうことは予想に難くなかった。そのフォローを青木がちゃんとしてくれるかどうか、心配でたまらなかったのだろう。
 だから、雪子にとってはその後のベッドは想定外のことで、聞くつもりなんかなかったのについ――――――。

「ケンカばっかりしてるかと思えば、あんたたちってラブラブなんじゃない。好きだの愛してるだの、よくあんなに繰り返せるわね?」
 ……わざとだ!
 細部まで聞いてるし、てか録音してる時点で明らかに計画的じゃないか!!

 確かに、このデータは貴重だ。
 薪が青木を好きだと言ってくれるのは、理性を失うわずかばかりの時間だけ。シラフのときには一度も言ってくれたことがない。ベッドの中でもいつも聞けるとは限らないのだが、あの夜はお互いの気持ちが昂ぶっていたから、薪は何度もそう口走っていた。
 しかし。

 はいどうぞ、と差し出された証拠物件を、青木は受け取ろうとしなかった。大事なのは録音された音声ではなく、それを叫んだ薪の心だ。
「要りませんよ。オレには本物がありますから」
 自分たちのセックスをDVDに録画するのが流行っているそうだが、青木はそういうことをする気はない。本音では興味もあるし、薪の美しい姿を映像に残したいという気持ちもあるのだが、薪にそんなことを言ったら半殺しにされる。このメモリーカードも喉から手が出るほど欲しいが、こんなものを持っていることが薪にばれたら確実に殴られる。

「でも、捜査が混んできたときには必要になるんじゃない?」
 さすが雪子だ。痛いところをつかれた。
 進行中の事件があるとき、薪は仕事の鬼になる。当然、青木はかまってもらえない。薪はもともと性欲が薄いほうだから、青木が仕掛けない限り自分からは求めてこない。それが何ヶ月続いても一向に平気だ。若い青木には地獄の日々である。
 そういうときは仕方なく、薪との情事を思い出して自分で処理をするわけだが、その時に役に立つ、と雪子は言いたいわけだ。
 雪子の言うとおり、これがあれば我慢しきれなくなって無理やり迫って、薪に投げ飛ばされることも減るかもしれない。
 だが。




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女神たちのブライダル(8)

女神たちのブライダル(8)








 

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女神たちのブライダル(7)

女神たちのブライダル(7)








「実はもう、何回かデートもしてるの」
 雪子の告白に、氷の警視長はその美しい頬を真っ赤に染め、形の良いくちびるをまるで似つかわしくない罵りの言葉で彩った。
「あのやろう、いつの間にっ!」
 
 怒りを抑えるように大きく息を吸い、ハッと一気に吐き出して、薪は雪子のほうを強い目で見た。その亜麻色の瞳に、いつもの冷静さは欠片もない。
「ダメです、雪子さん! 竹内は人間のクズです、女性の敵です! あいつの女好きの噂、知らないわけじゃないでしょう。あいつは女なら誰だっていいんです。8歳の女の子だって口説くんですよ!」
 それは薪の誤解である。
 その事件の時には青木も居合わせていたから、事情を知っている。しかし、敢えて弁明はしてやらなかった。竹内が薪に惚れていることを知っていたからだ。

「それは昔の話でしょ。今はそんなことないわよ」
「だまされてるんですよ! 人間、そんなに簡単に変わるもんじゃないんです。女好きは一生、女好きのままです。傷つくのは雪子さんなんですよ」
 雪子の抗弁を聞こうともせず、薪は頭ごなしに竹内の人格を否定する。薪は思い込みが激しい。薪のこの性質には何度も泣かされてきた青木だが、竹内のことに関してだけは結果オーライだ。他のことならともかく、薪のハートを射止めることに関しては、青木は一流の策士になれる。

「大丈夫だったら。ああ見えても竹内は結構真面目で」
「まさか、まだ何もしてないでしょうね? ムードに流されて許したらおしまいですよ。犯り捨て御免なんですから、あの男は!」
 血の気の引いた顔で、たらりと冷や汗までかきながら、薪の狼狽振りは滑稽ですらある。まるで年頃の娘を心配する父親のようだ。
 雪子は薪の娘ではないし、もう40を超した大人なのだから、そんなことは大きなお世話だと思うのだが、それを指摘したりしようものなら薪の怒りは青木に向けられる。青木の顔の腫れは、間違いなく倍になるだろう。

「うーん。エッチは克洋くんより上手かも」
「なんて軽はずみな真似を! あの男は穴さえあれば何でもいいんですよ!」
「そこまで言う?」
「許しませんよ、僕は絶対に認めませんからね! 今ならまだ間に合います。即刻、別れてください!」
 なんて横暴な言い方だろう。許さないと言うが、薪に何の権利があるのだろう。

「だから、薪くんには言いたくなかったのよね」
 薪の理不尽な横車を予想していたのか、雪子は軽くため息をついて、助けを求めるように青木の方を見た。
「薪さん。薪さんは竹内さんのこと、誤解してます。竹内さんは三好先生のことを、本当に大切に想ってるんですよ」
 雪子のSOSを察知して、青木は竹内を弁護することにした。それはもちろん、雪子たちを応援する気持ちからの行動だったが、青木の中には策士としての考えも存在した。
 昔のことはさておき、竹内は現在真剣に雪子との未来を考えている。が、そう簡単に思い切れないのが恋というものの厄介なところで、まだ薪に些少の未練を残しているようだ。青木としては、ここで薪に竹内と雪子の仲を認めさせ、ふたりの仲を確実なものにして、恋敵にとどめを刺しておきたい。
 卑怯? 上等だ、きれいごとだけで自分のものにしておけるほど、薪を狙っている人間は少なくない。標的になっている本人に自覚が無いとなればなおさら、青木は狡猾になるしかない。

「おまえまで何言ってんだ! 雪子さんを竹内のクソなんかに奪られていいのか、くやしくないのか。おまえはそれでも男か!」
「いや、別にオレ、三好先生のことは何とも思ってないし」
 雪子にはいくらか怒気を抑えていた薪が、青木には遠慮なしに噛み付いてくる。さっきも青木のことはさんざん殴ったくせに、雪子にはちょっと睨んでみせただけでお咎めなしだ。この差はなんなのだろう。

「竹内みたいな外道に比べたら、このヘタレのほうがまだマシです! 雪子さん、考え直してください!」
「薪さん! なに言い出すんですか、オレの気持ちは」
「おまえの気持ちなんかどうだっていいんだ! 大切なのは雪子さんの幸せだ!」
「どうだっていいって、そんなあ」
 薪の優先順位はとても明確だ。好きなひとにはどこまでも甘く、そうでない人間には限りなく厳しいのだ。

「悪いけど、12歳年下の男はちょっとね」
「じゃあ雪子さん! いっそのこと僕と!」
 薪は完全にテンパッている。
「ごめんね、薪くん。あたし、自分より小さい男には興味ないの」
 スパッと急所を攻められて、薪はがっくりと肩を落とした。

「女の人に振られたの初めてだ、僕……」



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女神たちのブライダル(6)

女神たちのブライダル(6)








「おかしいとは思ったんですよ。こいつが自殺なんてする度胸、あるわけないんです」
 リビング兼住居スペースのカーペットの上に胡坐をかいて、薪は吐き捨てるように言った。投げやりな口調に合わせて右足に肘を当て、頬杖をついている。
 
 いつもの冷静な薪なら、初めから気付いていただろう。
 薪がここに駆けつけたとき、アパートの前に救急車がなかった。命に関わる怪我だというのに、救急隊員も病院関係者もいなかった。その時点で気付くべきだったのだ。
 青木の手にはそれらしく包帯が巻かれていたが、ワイシャツには血の痕もなかった。輸血の管は刺さっているように見えたが、パックの血液は一向に減らなかった。

「だから、やりすぎだって言ったんですよ。三好先生のせいですよ、このコブ」
「薪くんには荒療治が必要なの。これぐらいしないと、本音なんか言わないでしょ、あのひと」
「それにしたって」
「あたしだってね、それなりに忙しいの。いつまでもあんたたちのお守りばっか、してられないのよ」
 コソコソと不愉快な会話を交わす詐欺師たちは、薪がこんなに怒っているのにどこかしら楽しそうで、その原因は、彼らのブラフに見事に引っかかった自分のうろたえ振りを思い出してのことだと考えて、薪はもう一度拳を握り締める。くそ、あと2、3発殴ってやる。

「いくら何でもひどいんじゃないですか。狂言自殺なんて」
「狂言自殺なんて、そんなオオゲサな。ただのお芝居よ」
 青木の部屋に飛び込んできた薪を見た雪子は、突然床に突っ伏してしまった。泣いているものと思っていたが、あれは薪の姿を見て笑っていたのだ。声が震えていたのは青木の身を案じてのことではなく、笑いを堪えていたせいだ。道理で顔が赤かった。
「雪子さん」
「薪くん、こわーい」
「当たり前です。僕は怒ってるんですから」

 雪子の考えは読める。
 青木から事情を聞いて、薪の嘘に気付いたのだ。それでこんな大掛かりな芝居を打って、薪の本音を引きずり出そうとした。薪はそのコンゲームにまんまと引っかかって、先程のような醜態を晒してしまったというわけだ。
 もう、笑うしかない。自分のバカさ加減に目眩がしそうだ。

「雪子さんには、僕の芝居は通じないんですね」
 肩をすくめて、苦笑とも自嘲ともとれる笑みを浮かべ、薪は雪子への怒りを治めた。
 ずっと前にもこんなことがあった。
 あれは確か、雪子と青木のデートを演出してやろうと思って、ムードたっぷりのディナーを用意してやったのだ。その時も、薪の策略を看破した雪子に逆に騙されて、恋人同士が群れを成すレストランで後ろ指を指されながら、男ふたりの寒いメシを食う羽目になった。

「女のカンてやつですか」
「違うわよ。薪くんの嘘を見破ったのは、青木くんよ」
「え?」
 そんなはずはない。
 青木は典型的なO型人間だ。信じやすく騙されやすい。特に、薪の言うことは妄信する傾向にある。今まで何度薪のウソに踊らされて、泣いたり喚いたりしたことか。それでも次の時にはやっぱり騙される。捜査官にはとことん向かない男だ。
 そんな青木(バカ)に見抜かれるなんて。自分は何か、ヘマをやらかしただろうか。

「美和子さんですよね」
 信じられないという表情で青木を見ている薪に、青木が笑いながら言った。
「官房長の娘さんの名前は、栄子さんじゃなくて美和子さんです」
「……そうだっけ?」
「はい。上から美和子さん、裕子さん、香ちゃんです」
 思い出した。青木の言うとおりだ。小野田さんの長女の名は美和子だ。
「栄子ってだれだっけ?」
「この前観た映画のヒロインじゃないですか?」
「あー……」
 
 亜麻色の大きな瞳が天井を見て、左右に動いた。自分のミスを年若い部下に指摘されて、白い額に手を当てる。
「結婚しようと思っている女性の名前を間違うなんて、普通ありえないでしょ。だから結婚の話は嘘だって判ったんです」
 わずかな手がかりから被疑者の嘘に辿り着いた捜査官は、自分の推理を話し始めた。こいつもいくらかは成長しているらしい。

「ただ、結婚の話はカモフラージュで、本当はオレと別れたいだけなのかな、とも思って。それで騙された振りをして家に帰りました。
 ここで薪さんの本心を考えてたら、ちょうど三好先生が来てくれて。それで相談してみたんです。そうしたら三好先生は、薪さんの性格だったらそんな回りくどい事しないで、はっきり言うだろうって。飽きたから別れてくれって」
 そう言えばよかったのだ。余計なことを考えて余計なことになって。策士策に溺れるとはこのことだ。
 薪剛人生最大のミスだ。こんな大事な局面で、あんなつまらないミスで、結局なにもかも自分でダメにしてしまった。

「そろそろ、本当のことを話してくれてもいいんじゃないですか? どうしてあんな嘘を吐いたんですか?」
「それは」
 薪は、チラリと雪子のほうを見た。
 雪子の気持ちは、すでに確認済みだ。この機会にはっきりさせた方がいいかもしれない。やはり嘘を吐いてどうこうするよりも、正直に雪子の気持ちを青木に伝えることによって、彼らの未来を考える方向に持っていくのが正しいやり方だ。
 薪がそのまま雪子を見つめていると、雪子は観念したようにふっと息を吐いた。

「ごめんなさい。あたしのせいよね」
「三好先生?」
 薪の気持ちは、雪子に伝わったようだ。
 自分は席を外したほうがいい。あとはふたりの問題だ。

 薪は立ち上がり、部屋から出て行こうとした。その背中を雪子が慌てて追いかけてくる。
「待って、薪くん。違うの。あたしが好きなのは青木くんじゃなくて」
「もう嘘はやめましょう。雪子さんの気持ちは解ってますから」
 雪子なら許せる。
 雪子以外の女性だったら恨みがましく思ってしまうかもしれないが、彼女はすべてにおいて自分より遥かに優れている。とても勝ち目がない。

「あー、そうよね。薪くんの勘違いは名人芸だもんね。はっきり言わなかったあたしが悪いのよね」
 先刻の薪と同様、額に手を当てて雪子は上を向いた。目を閉じて、大きなため息をつく。
「この年になると、さすがに恥ずかしくって。それに、薪くん絶対に怒るから」
 怒ったりなどしない。恋愛は自由だ。
 それに、青木と自分の間に確かなものなど何もない。結婚できるわけでもないし、家庭を作れるわけでもない。だから、薪は青木に対して何の権利もない。雪子の恋を咎める資格などないのだ。

「あの日、薪くんとカフェテリアで会ったとき、あたしは彼を見てた」
 雪子は、自分の気持ちをようやく認める気になったらしく、密かに青木を見ていたことを告白し始めた。恥じらいからか、俯き加減に顔を横に向けている。
「あたしの視界には青木くんがいて、それを薪くんが見ていたのが事の始まりだったわけだけど」
 雪子はそこで言葉を切って、薪のほうを見た。
 ライバル宣言でもするつもりだろうか。だとしたら、不戦勝で雪子の勝ちだ。薪には雪子と争うつもりはさらさらない。

「もう一人、いたでしょ」
「……もうひとり?」
 薪は記憶を探る。混み合ったカフェテリアで青木の隣にいた男。あれは――――。

 その男を思い出すと同時に、薪のきれいな顔が歪む。薪はその男が大嫌いだった。
 警察官のクセに俳優のような顔をして、女にはモテるらしいが、次々と相手を変える不誠実な男だ。薪はそういう男がこの世で一番キライなのだ。

「雪子さん。まさか」
 自分の予想に青くなった薪にこっくりと頷いて、雪子は薪の「まさか」を肯定した。
「あたし、竹内のことが好きなの」



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女神たちのブライダル(5)

女神たちのブライダル(5)









 部屋の主は寝室にいた。
 左手首に包帯を巻かれ、力なくベッドに横たわり、右腕には輸血の管が刺されている。命は助かったらしい。急に力が抜けて、薪は思わずその場に膝をついた。

「薪くん……」
 雪子は薪を見ると安心したのか、床に突っ伏して泣き出した。肩が震えている。雪子の泣いている姿なんて、鈴木が死んだとき以来だ。自分のせいで、このやさしいひとをまた悲しませてしまった。
 雪子は気丈にも嗚咽を抑え、顔を上げた。息を詰めていたせいか、頬が赤くなっている。

「青木くん、薪くんが来てくれたわよ。青木くん」
 雪子の呼びかけにも、青木はなんの反応も示さない。雪子の声の震えに、薪の心の鎖がぶつりと切れた。

「起きろ、青木!」
 ワイシャツの襟元を掴んで引き摺りあげる。左右の頬を平手で何度も叩く。先刻、自分の家の床でつけた傷口が開いて、青木の頬に血がついた。
「ま、薪くん。それ、ほんとに死んじゃうから」

 腹が立って仕方がなかった。
 こんなことくらいで自殺なんて。自分から命を捨てようなんて。
 死んでしまったら、未来も何もない。雪子を幸せにすることもできないし、自分が幸せになることもできない。何のために僕があんなに泣いたと思ってるんだ。僕の涙を無駄にしやがって……!

 青木はようやくうっすらと目を開けた。黒い瞳が薪の顔を見る。弱々しく微笑み、そのくちびるが薪の名前を呼んだ。
 僕のせいで絶望して自殺未遂までして、それでも僕を見て笑う。どこまでバカなんだ、こいつは。国宝級だ。天然記念物だ。人類最高のバカとして博物館に陳列したいくらいだ。

「―――――― バカヤロウ」
 許せない。
 なにが許せないって、一番許せないのは、こいつが僕との約束を破ろうとしたことだ。
 こいつは僕に誓ったはずだ。絶対に僕より先に死なないと。僕をおいて逝かないと。僕を独りにしないと―――――この僕にかけて誓ったはずだ。それを裏切るなんて。

「おまえ、僕に言ったよな。僕より先には死なないって。約束したよな」
 それだけじゃない。一生僕を愛してるって、ずっと一緒にいるって、そう言ったはずだ。
「一生僕のそばにいるって、そう言っただろ!」
「だって。薪さん、結婚するんじゃ」
「関係ないだろ!」
 約束は約束だ。それを勝手に破ろうとしたこいつが悪い!

「僕が結婚したって他の人を好きになったって、おまえは僕のそばにいるんだ! 約束したんだから、おまえは一生僕のことを好きでいるんだ!!」
 怒りに視界が染まるというのは本当だ。
 いま、薪の視界は真っ赤でしかも極端に狭い。青木のバカ面しか見えない。自分がどこにいるのかも分からなくなってきた。何を言っているのかは、とっくにわからない。

「おかしくないですか? それ」 
「おかしくない! これから何があっても、僕の一番そばにいるのはおまえなんだ! 結婚しても子供ができても孫ができても、ずっとずっと僕を一番好きでいろ! 僕の一番近くにいろ!!」
 薪の怒鳴り声に驚いたらしく、雪子は肩を竦めて薪に背を向けた。青木の耳元に顔を寄せて、なにやらこそこそと内緒の話を始める。

「でたー……薪くんの真骨頂。薪節炸裂ってカンジ」
「このひと、昔っからこんな無茶苦茶な理屈通してたんですか?」
「普通の人には言わないんだけどね。自分のテリトリーだと思ったら、すべてこの調子よ」
「鈴木さんも苦労したでしょうね」
 なんだかとても失礼なことを言われているような気がするが、頭に血が上った薪の耳にはその正確な意味は伝わらない。

 怒鳴りまくったせいか、呼吸がうまくできない。大声を出したら、それに感情が煽られるように昂ぶって、部屋の中のものが歪んで見えるくらいに心がぐちゃぐちゃになっている。アタマがおかしくなりそうだ。
 言いたいことは全部言ってやったはずなのに、全然すっきりしない。胸の中に黒くてどろどろした塊が詰まっている感じだ。だから、呼吸がうまくできない。泣いているわけじゃない、ただ、自律神経がうまく働かないだけだ。

「ふ、ううう―――っ!」
 薪の脳は、自分の身体に指令を出すのを諦めたようだ。
 脳の支配を離れた薪の身体は、感情のままに動き出す。ベッドに起き上がった男の身体に渾身の力ですがりつき、その胸の中でわあわあ泣いた。
 そこに雪子がいることも青木の将来のことも、ぜんぶ吹き飛んでしまった。薪が苦心して書いた脚本は、思わぬ事態の急変にストーリーの変更を余儀なくされた。

「こわかっ……おまえが死、じゃ、うっ、うっ、~~~っ!」
「すみませんでした。心配かけて」
 うまく喋れない。自分でも何を言っているのか、よくわからない。しかし、青木にはそれが解るらしい。本人にもよくわからないことを、こいつはどうして解ってくれるのだろう。

「オレが悪かったです。全部薪さんの言うとおりにしますから」
 いつも通りのジンクスを、青木は薪に施してくれる。片方の手で頭を撫でて、もう片方の手でやさしく抱きしめてくれる。
 この儀式が始まりだった。繰り返すたびにふたりの距離は近付いて、近付くほどに濃度を高めたジンクス。
「一生、薪さんを好きでいますから。ずっとそばにいますから」
 自然にくちびるが重なる。これもジンクスのひとつ。

 泣くという行為は、激した感情を落ち着かせる最も有効な手段なのかもしれない。ひとしきり泣いた後は頭がすっきりするし、胸のつかえもきれいさっぱり無くなった。自分の中にあったもろもろの汚いものが、涙と一緒に流れ出たかのようだ。
 冷涼な薪の頭脳が帰ってくる。瞬間、雪子のことを思い出し、薪は慌てて青木から離れた。

 しまった。
 やってしまった。雪子の前で、こんな……まるで、彼女に見せつけるみたいに。

「ゆ、雪子さん」
 雪子はこちらに背を向け、うなだれて座っていた。白衣の背中が震えている。肩がびくびくと、不規則に上げ下げされている。
 泣いている。
 自分の好きな男が他の人間と抱き合ったりキスしたり、それを目の前で見せられたのだ。泣きたくなって当たり前だ。

「ち、違います、雪子さん! 僕は」
 否定の言葉は中途で止まった。目の前で黒髪が左右に振られ、薪は言葉を失う。
 なにが違うと言うのだろう。自分は、何をどう取り繕う気でいるのだろう。僕はまたこのひとを傷つけて。

「薪くん、ごめんなさいっ、あたしっ……!」
「雪子さんが謝ることなんかありません。僕のせいです、みんな僕が」
「だめっ、もうだめっ! 我慢できない!!」
 叫ぶや否や、雪子はその場に仰向けにひっくり返り、腹を抱えて笑い出した。

「雪子さん……?」
「だ、だって、薪くんの格好! あははははっ!!」
「かっこう? ―――― あ!」
 言われて初めて気がついた。
 薪はパジャマを着ていた。ベッドの後だったから寝巻きに着替えて、そのまま来てしまったのだ。雪子からの電話で動転して、服装のことなど頭に無くて。
 なるほど、タクシーの運転手が引き攣った顔をしていたわけだ。危険人物に思われたに違いない。よく考えたら身分証も持っていない。スピード違反で捕まっていたら、大恥をかくところだった。

「三好先生、そんなに笑っちゃ悪いですよ。薪さんはオレのこと心配して、ぷくくっ」
「パジャマ! 鬼の室長が、パジャマでタクシー!!」
「あはははっ! ダメですってば、笑わせないで下さいよっ」
 悪いと言いながら、青木もしっかり笑っている。
 たしかに可笑しいが、雪子の笑いは少し不自然だ。いまは笑っている場合ではないはずだ。未遂とはいえ、青木が自殺を図って―――――。

 ……あれ?

 電話では、青木の命が危ないような話だった。風呂場で手首を切って、生命に危険を及ぼすほど血が流れ出てしまっている、と言っていた。傷が動脈まで達していて、いくら止血しても止まらないと叫んでいたはずだ。そんな人間が、腹抱えて大笑いって。
 
「青木。おまえ、やけに元気そうだな」
「え?」
「動脈まで切れてるんじゃなかったのか、その右手」
「そ、そうなんですよ。もう、痛くって」
 誘導尋問に引っ掛かって、咄嗟に右手を押さえている。バカはどこまでもバカだ。
「ふーん。右利きのおまえが、左手で右の手首を切ったのか」
「あっ。いや、あの」
「30分前は意識不明の重態だったのに、ずいぶんと顔色がいいな。輸血とは大したものだな」
 青木の顔がザーッと青ざめる。輸血の効果が切れたようだ。

 バキボキと、華奢な指からは想像もつかないような音を立てて、薪が青木に近づいてくる。
「何か言い遺したいことは?」
「こ、これは三好先生が言い出しっ」
 そんなことだと思った。雪子の知識がなければ、このペテンは仕組めまい。

「雪子さん」
「な、なにかしら?」
「青木の解剖所見は階段から落ちたことによる打撲傷でお願いします」
「了解しました、薪警視長殿!」
「変わり身はやっ!」

 薪の拳が青木の頬を掠める。びゅっと風を切る音が、その威力を慮らせる。
「11月26日、22時17分。青木警視宅に強盗が侵入。警視は果敢に立ち向かうも揉み合いになり、階段から転落死」
「ま、薪さん、あの」
「よかったなあ、青木。殉職特進でおまえも警視正だ」
 にっこりと笑った薪のこの上なく美しい笑顔。それは、これから青木の身に降り注ぐ薪の怒りを表している。怒りのボルテージが高いほど、薪の笑顔は美しくなるのだ。

「た、たすけ―――――ぎゃあああっ!!」
 かくして。
 青木の悲鳴が夜の闇をつんざき、雪子と薪の計画は共倒れに終わったのだった。



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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
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