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折れない翼(8)

折れない翼(8)






 世良義之は自分の班の職員に号令を掛け、事件の概要が簡潔に書かれたホワイトボードの前に集合させた。現在捜査中の容疑者について、各々が持ち帰った成果を報告させる。
「で? 狩谷はなんて?」
「その場所には一度も行ったことがない、って言ってました。今のところ目撃者も出ませんし、最寄り駅の防犯カメラにも映ってません」
 部下の報告を受け、世良は太い眉毛を険しく寄せてボードを睨んだ。ボードには数枚の写真が貼り付けられ、事件関係者の相関図が書いてある。その中の一枚の写真に、五部刈頭の丸い顔に眼鏡を掛け、あごひげを生やした恰幅のよい男が映っていた。

「捜索範囲を広げるか。それとも、こっちの男の線を」
「嘘ですよ」
 捜査線上に浮かび上がった狩谷ともう一人の男、風間にターゲットを変更するべきかと言おうとした世良の声を遮って、涼やかなアルトの声が響いた。この部屋には相応しくない、気取った声。
 休憩に出てきたのか、右手に白いコーヒーカップを持っている。薄いグレーのスーツを着てモデルのように姿勢よく立った彼は、周りの空気がそこだけ浄化されたかのような清涼感を漂わせていた。

 初めて見た時から、世良はこの新人が気に食わなかった。男のクセに、女みたいな顔と細っこい体つき。こんなオカマみたいなやつが捜一の刑事だなんて、所轄に知られたらバカにされること請け合いだ。
 ていうか、こいつまだいたのか。
 課長に進言して資料室に追っ払ったと思ってたのに、そこまでされれば自分から異動願いを出すだろうと踏んでいたのに。意外と図太いやつだ。……少し、見直した。

「狩谷仁は嘘を吐いてます。任意同行して、調べるべきです」
「何で言いきれるんだ。いい加減なことぬかしてんじゃねえぞ」
「写真がありました。その」
 細い指がボードの写真を指差す。薪が示したのは、事件現場となったアパートを映したものだった。
「事件現場の周辺を映した写真と同じものが。そこに彼が写っていました。だから、その場所を一度も訪れたことがない、というのは明らかな嘘です」
「待てよ、おい! そんな写真をどこで」
 自分の仕事場、つまり資料室へと戻っていく薪を追いかけて、世良は部屋の中を横切った。同僚たちが呆然と見送る中、ふたりは奥の部屋へと入っていく。

 窓のない、息の詰まるような密閉された部屋に、ぽつんと机が置いてある。机上にはパソコンと何冊かのファイル。両脇には段ボール箱がいくつも重ねてあって、左に置かれたものにはきちんとラベルが貼ってあった。まだ朝の10時くらいなのに、もうあんなに終わったのか。まあ、資料整理なんか形だけで、事件発生の年数別に分けてラベルを貼って、神奈川の倉庫に送る分と手元に保存する分を分けるだけのことだから、箱の中をちらりと見て済ませているのだろうが。
 
 薪はコーヒーカップを机の上に置くと、更に部屋の奥へと進んだ。5列ほどある資料棚の2番目の列に入っていく。上を向いて一つの箱に手を伸ばすが、どうも微妙な高さだ。箱の底に背伸びをした薪の手がやっと届く、それくらいの高さで、ぎっしりと詰まった捜査資料が入っている箱がもしも落ちてきたら、さぞ見ものだろうと思った。
 思ったが、今は情報の方が大事だ。
「こいつか?」
「あ、すみません」
 ダンボールを床に降ろすと、薪は箱を開封して、中のファイルを探し始めた。けっこう、重かった。こいつの細腕では、かなりきつい作業だったろう。さっきからこいつの動きがぎこちないのは、もしかすると筋肉痛のせいかもしれない。

 周りを見ると、ラベルが貼られた箱がずらりと並んでいた。これはすべて検証済みということだろうか。
 黒い表紙の捜査ファイルを開くと、確かに事件現場は問題のアパートの直ぐ傍だ。目的の箱は、これで間違いないようだ。
 先刻、薪は迷う様子もなかったが、まさか中身を覚えているのか? 整理済みのダンボールは30個は下らない、中に入っている資料は最低でも10冊はあるはず。その内容を全部覚えて、ってそんな人間いるわけないか。いたらバケモンだ。

「確か、このファイルに」
 一冊のファイルを選び出すと、薪はそれを棚の上に置き、表紙を開いた。
 パラパラと中を見るのではなく、頁の端を指で弾いて枚数を数えている。まさか、その写真が添付してあったページ数まで覚えているのか?

「これです」
 薪に顔を寄せて、世良は資料を覗き込んだ。近付くと、薪はとてもいい匂いがした。
 細い指が示した写真には、事件現場に群がる野次馬が写されており、その中に容疑者の顔が鮮明に映っていた。髪型は今と違うが、間違いない。
「3年前に解決した事件の資料ですけど。揺さぶりの材料としては充分かと」
 事件の犯人は、事件現場に帰ってくるものだ。常識で考えても危険な行為だと犯人も分かっているはずなのに、何故かその確率は高い。犯人側のジンクスを逃すほど、警察は寛大ではない。肖像権の問題があるから表立っては映さないが、現状写真を撮るついでに、こうして必ず2,3枚は野次馬の写真を撮っておくのだ。

「おまえ、内容だけじゃなくて、どの頁に何が書いてあったかまで覚えてるのか?」
「ページ数は普通、覚えるでしょう? 覚えておかなかったら、続きから読もうと思ったとき不便だし。公式を探そうと思ったときにも」
「付箋とか栞が、何のためにあるか知ってるか?」
「あれは他人に該当箇所を知らせるためのものでしょう?」
 ……だからキャリアはキライなんだ。常識が通じない。

「まあ、本人は忘れてたって主張するでしょうけど、しょっぴくネタにはなると」
「ありがとな!」
 容疑者に迫ることができる、その単純な喜びに、世良はついつい普段の悪感情を忘れた。言ってしまってから失敗したと気付いて表情を戒めるが、言葉は戻せない。
 こいつはエリート意識剥き出しのキャリア野郎だ。礼なんか言ったら、図に乗ってキャリア風吹かされて、また嫌な思いをさせられるに決まってる。

「いいえ。お役に立てて嬉しいです」
 素直な言葉が素直な声音で帰ってきて、世良は驚いて下を見る。眼下、20センチの場所にあるいけ好かない新入りの顔は、あどけなく微笑んでいて。それが一瞬、7歳になる自分の目に入れても痛くないほど可愛い娘の笑顔と重なって、世良は自分の頭がおかしくなったのかと首をかしげた。

 世良はファイルを抱えて資料室を出た。ボードの前で待っていた部下たちに問題の写真を見せると、彼らは額を寄せ集めてそれを覗き込んだ。
「え、え? なんで? どうして3年も前の事件の現場写真に偶然写りこんでいただけの狩谷の写真を、3ヶ月前に捜一に来たあいつが見つけられるんですか?」
「資料室の整理をしてたからだろ」
「それって、整理した書類の内容を全部覚えてるってことですか? ありえないでしょ!」
「普通だろ」
「普通のわけないでしょ! しかもこんな群集の写真で、一瞬見ただけの容疑者を見つけるなんて。公安のベテランだって難しいんじゃ」
「難しかねえんだよ。あいつはキャリアなんだから。俺やおまえらとは、ここのデキが違うんだ」

 世良班の刑事たちは、一斉に口を閉ざした。
 班長の世良は今年の新人をことのほか嫌っていて、だからそれが嫌味な口調だったら、彼らはヘラヘラと追従の笑いを浮かべて、仕事に戻ったに違いない。しかし、その時の世良の口調は、自分に良く似た娘の写真を無理矢理同僚に見せて『世界一可愛いだろう』と自慢するときの口振りに果てしなく似通っていて、資料室に入る前の彼と同じ人間だとは思えなかった。
 もしかしたら資料室には魔女がいて、世良はそこで魔法にかけられたのかも。

「よし、早速この写真プリントして」
 世良の言葉が終わらぬうちに、捜査会議のテーブルに数枚の写真が差し出される。男とは思えないほっそりとした手を辿っていくと、資料室の魔女、もとい見るのもムカつく新入りだ。知り合って3ヶ月、碌な交流を持ったわけではないからこの男がどういう人間かは知らないが、決して自分たちの仲間ではない。キャリアはノンキャリアの敵だからだ。
「使ってください」
「おう。気が利くな」
 にこっと世良に笑いかける新人を見て、同僚たちは言葉を失う。さらにはそれを笑顔で受け取る自分たちのリーダーを見て、昨日までの記憶を失いそうになった。

「よし、行くぞ!」
 戸惑いの中、班長の号令が下って部屋を駆け出していく世良班を少し羨ましそうに見送って、捜一の新人は再び資料室に戻っていった。




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

折れない翼(7)

折れない翼(7)





 羽佐間が薪の練習に付き合ってくれるようになった週の金曜日、ふたりは初めて一緒に酒を飲んだ。場所は羽佐間の行きつけの小料理屋で、焼き鳥と日本酒がお奨めの店らしい。
 座敷に上がって座卓を挟み、二人は料理と酒を注文した。直ぐに突き出しと徳利が出てくる。羽佐間の自慢の女房のこと、薪の大学時代からの友人のこと、四方山話をしながら杯を傾ける。酒が進むにつれ興が乗り、ふたりは楽しいときを過ごした。
 ここ何日かで、薪の印象はずい分変わった。と言っても、いけ好かないキャリアから、それほど嫌いでもないキャリアになっただけだが。

「なんで捜一(うち)になんか来たんだ?」
 薪の酌を受けつつ、羽佐間はずっと聞きたかったことを切り出した。
「キャリアには無用な苦労を、どうして自分から?」
「出世への早道だと考えまして」
 こいつ、俺がノンキャリアだと思って舐めてんな。
 しゃあしゃあと言ってのけた薪のセリフが全くの的外れだということを、そして薪がそのことを承知していることを、羽佐間は知っていた。
 捜査一課は、キャリアの出世コースの主要道路ではない。キャリアというのは警視正まではそれほど苦労せずとも誰もがなれる、しかしそこから先は限られたポストを争って熾烈な生存競争がなされる。そうなった時いかにして自分が生き残るか、それを考えたら捜査一課でノンキャリアと付き合うより、本庁で上層部キャリアの味方を増やしたほうがいい。

 しかし、ここは騙された振りをしてやろう、と羽佐間は思う。何か言いたくない事情があるのだろう。警視庁の道場を使わずに研究所の道場で鍛錬を重ねていることからも解るように、薪は秘密主義者だ。容疑者でもないやつから無理矢理自白を取るほど、羽佐間は公私を混同する男ではない。

「異動することは考えなかったのか?」
「足りない分は、自分が成長すればいいって。僕を推薦してくれた教授が言ってました」
「そりゃそうだけどよ。現場で何度も犯人に吹っ飛ばされて、よくイヤにならなかったな」
 薪の失敗の数々をあげつらって、羽佐間は豪快に笑った。嫌味を言われて機嫌を悪くするかと思えば、薪は穏やかに笑っていた。

「犯人は、みんな僕の姿を見て御し易しと踏んで、僕の方へ逃げてきます。それって裏を返せば、彼らに手錠を掛けられるチャンスが向こうから飛び込んでくるってことですよね?
 僕の外見は刑事としては致命的な欠陥だと他人に言われたこともありますが、こんな使い方もありだと思います」
 合理的だ。キャリアと言うのは、こういう考え方が身についているものなのか。
「現状は未だ不十分ですけど。今に必ず、皆さんに負けないくらい強い男になってみせます」
「けっ、坊ちゃんらしいぬるい考え方だな。現実はそんなに甘かねえぜ」
 後輩の強く輝く亜麻色の瞳に満足を覚えつつ、しかし言葉は辛辣だ。羽佐間は相手への情を言葉に変換して満足する類の男ではなかった。

 その日は機嫌よく飲んで帰途についた羽佐間だが、途中、大事なものを職場に忘れてきたことに気付いた。明日は奥方の誕生日。そのための贈り物を購入しておいたのだが、家に置いておくと当人に見つかってしまうと考えて、職場のロッカーにしまっておいたのだ。明日は非番だ、出てくるのも面倒くさい。
 舌打ちしながらも大事な女房のため、本音は忘れたら何を言われるかわからない恐怖感から、羽佐間は職場に戻ることにした。

 夜の十時、捜査一課にはまだ明かりがついていた。
 どこかの班が残業をしているのだろうか。それほど難航している現場はなかったように思うが。

 自分のロッカーから目的のものを回収し、羽佐間は帰り際にそっと部屋の中を覗いてみた。そこには羽佐間の上司である捜査一課の課長と、さっき別れたばかりの新人の姿があった。こんな時刻に夜の職場でふたりきり、薪が女だったらドアの隙間に張り付くところだが。
 課長は席に座って、報告書らしきものに目を通している。薪は課長席の後ろに置かれた書類棚の前に立って、束になった報告書を読みふけっていた。いや、読んでいるというよりは、めくっているだけのように見える。あの速度で紙をめくって内容が頭に入るなんて、それは人間じゃない。人間の形をしたスキャンマシンだ。

「ありがとうございました、課長」
 やがて薪はすべての報告書を読み終えて、後ろを振り向いた。もう終わったのか?と驚きの色を隠せない課長の声が聞こえる。
「ええ。例の、ホステス殺しは進展がありましたね。問題は犯人の潜伏先ですが。おそらく、幼少の頃を過ごした山陰の」
「黒崎と同じ考えだな。あいつの班のやつが、2人ほど飛んでるよ」
「あと未解決なのは、大曽根班の強盗事件ですか。防犯カメラに何も映っていなかったのが、まずはおかしいんですよね。犯人が事前に調べて死角を知っていたのか、あるいは被害者の資産状況を鑑みて……狂言」
「大曽根は後者だと睨んでる」
 報告書の内容について課長と話している薪を見て、羽佐間は自分の常識がぐらつくのを感じた。

 どうなってんだ、キャリアってのは目がカメラにでもなってるのか? そういう生き物なのか?

 報告書の束を元通り棚に戻して、薪は自分の席に戻った。挨拶をして課長に頭を下げ、鞄を持ってこちらに歩いて来る。羽佐間は慌ててロッカーの陰に隠れた。
 羽佐間が物陰に潜んでいることにはまるで気付かず、薪は階下へ降りて行った。現場での経験が皆無に近い彼に、張り込みに慣れた刑事を見つけることは至難の業だ。いくら優れた頭脳を持っていても、身体で覚えるスキルに関して薪は素人と一緒だ。

 薪との間に充分な時間を置いて、羽佐間は警視庁を出た。
 薪が読んでいたのは、今週課長のところへ上げられた事件経過の報告書だ。今現在、どんな事件が起きていて、どこまで捜査が進んでいるのかが記載されている。
 資料室に篭もっていたら、情報は入ってこない。だから、薪はいつでも現場に復帰できるよう、情報を仕入れていたのか。そういえば、料理屋で薪は殆ど飲まなかった。あまり強くないので、と言い訳していたが、こういう予定があったからなのか。
 ったく、陰に回ってこそこそと。でも。
 嫌いじゃねえ。決して嫌いじゃねえ、と羽佐間は心の中で繰り返した。

 初めこそカンベンしてくれと指導員に当てられた自分の不運を嘆いたが、日が経つに連れてどんどん印象が変わってくる。もしかしたら、自分はとてつもなく面白い男を指導しているのかもしれない、と羽佐間は思った。

 月曜日。
 いつものように出勤してきて行儀よく挨拶をし、自分の持ち場、つまり資料室へと入っていく薪を、羽佐間はじっと見つめていた。そんな羽佐間に気付いて、部下の一人が声を掛ける。
「羽佐間さん? 薪がどうかしましたか」
「ありゃあ、化けるかもしれねえなあ」
「そりゃキャリアですから、出世はするでしょうね。でも、おれ達には関係ないっすよ」
「そうじゃなくてよ。近い将来、うちのエースになるかもしれねえぜ」
「……すんません、もう一回お願いします。次は外さずに笑いますから」
「冗談じゃねえよ。今は坊だけどよ、そのうちきっと」
「坊? ぷぷっ、ぴったりっすね。ガキみたいな顔してるし」
「薪坊か。そうだな、あいつの呼び名はそれで行くか」
 部下と一緒ににやにやと笑って、羽佐間は今自分が追いかけているゲームセンター強盗殺人事件の捜査に戻った。




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

折れない翼(6)

 こんにちは。

 先日、どなた様か、過去作品に拍手をありがとうございました。
 懐かしいなあ、と思ってちらっと読み返してみたら、あんまりアホみたいなこと書いてて泣きたくな  とにかく、ありがとうございました。 うれしかったです。





折れない翼(6)





 薪はその日も定時で1課を出た。
 捜査に参加もさせてもらえない身としては、職場にいても仕方がないし、資料室の仕事は、残業してまで進めたいと思えるような魅力のあるものではないのだろう。

「お先に失礼します」ときちんと挨拶をして帰っていく薪を、羽佐間は目で追った。薪の姿がドアの向こうに消えると、席を立って彼の後を追いかけた。
 スタスタと歩いていく彼の後ろを、物陰に隠れながらそっと着いて行く。尾行はお手の物だが、相手も刑事だ。気取られないように、間隔は普段より多めにとることにした。

 尾行の理由は、薪の足の痣。
 それほど気になっているわけではないが、あれは明らかに打撲痕だ。誰かに殴られたか、強く打ち付けたのだ。本人は転んだと言っていたが、刑事を舐めてんのか、あいつは。誰がそんなミエミエの嘘に騙されるか。膝や前脛ならともかく、ふくらはぎの後ろや足首にまで複数の痣をつけるなんて、どんな器用な転び方だ。
 薪の不自然な動きから、打撲痕は足だけではなく、腰や背中にも付いている感じだった。もしかしたら署内の悪い連中に目をつけられて、恒常的に暴行を受けているのかも。

 思いかけて、羽佐間はその可能性を否定する。薪の歩き方は迫害を受けているもののそれではない。多少ヨロヨロしているが、ビクついてはいない。
 薪は警視庁の地下通路を通って、隣接する科学警察研究所の敷地に出た。
 捜査の関係で何回か足を運んだことがあるが、羽佐間はどうもここの雰囲気は苦手だ。ここにいるのは警察学校を出た警察官ではなく、研究を生業とする研究者たちだ。管理者の中には警察官もいるが、大半は研究所が直接採用した研究者である。学者のような風体の彼らに囲まれると、自分が異端者のようで落ち着かないのだ。

 羽佐間の前を歩く後輩は、中庭を過ぎって、大きな建物の裏手に出た。そこには広大なグラウンドがあり、テニスコートにバスケットゴール、バレーボール等のネットのポールが立ててあり、様々なスポーツを楽しむことができるようになっていた。その片隅には小さな道場があって、薪はその中に入っていった。
 羽佐間が窓から中を覗きこむと、中の畳は青々として美しく、強いいぐさの匂いから、最近取り替えたばかりだろうと思われた。研究者たちの待遇の良さに羽佐間は、自分たちが利用している警視庁の汚い道場の擦り切れた畳を思い出し、面白くない気分になったが、インドア派の研究員たちがそこを利用する確率は極めて低いことに思い至り、単なる使用頻度の問題かと考えを改めた。
 それにしても、研究所に道場だの運動場だのと、なんて無駄なものを、とその時羽佐間が思ったとおり、この道場と運動場は数年後に取り壊され、そこには9番目の研究所が建つことになる。

 やがてジャージ姿の薪が、道場の中に現れた。童顔も手伝って、スーツを着ていないと本物の高校生に見える。それも、入学したての年頃に。薪の顔を知らない5課辺りの荒っぽい連中が見たら、襟を摑み上げて施設内から放り出しそうだ。
 彼は道場を出て、グラウンドに向かった。薪の顔には似合わないと思ったが、道場へは着替えの為に寄っただけらしい。
 薪は見られていることには全然気付かないようで、羽佐間が隠れている茂みのまん前を通って運動場へと歩いていく。足の屈伸運動をしてから、トラックを走り始めた。

 なるほど、体力作りのためのジョギングをしていたのか。誰にも何も言わず、こいつはけっこう気合が入ってるじゃねえか。気合の入ったやつは嫌いじゃない。表情が乏しい人間は苦手だが、キャリアというのは大概そうだ。もしかしたら警大で、表情を殺す訓練を受けてきたのかもしれない。
 しかし、あの痣は? まさか、本当に転んだのか?
 だとしたら、どこまでドンくさいやつだ。とても面倒見切れねえ。

 羽佐間が頭を抱えていると、薪はトラックを走り終え、息を弾ませながら道場へ戻っていった。4週、つまり4キロで限界か。まあ大卒のキャリアなんか、そんなもんだろう。
 道場の更衣室で着替えて帰るのかと思いきや、薪は今度は道着姿になって出てきた。羽佐間が窓からその様子を見ていると、誰もいない道場で柔軟体操を始めた。
 薪はびっくりするくらい身体が柔らかかった。座位前屈は胸が床につくくらいだし、背筋は90度を超えそうだ。180度開脚もいけるんじゃないだろうか。が、その後に続く腕立て伏せと腹筋運動は、悲しいくらいお粗末だった。捜一の連中なら最低でも50回はできる。それが10回しか続かない。

 しかし、これは薪が悪いわけではないと、羽佐間には分かっていた。
 羽佐間たちのように警察学校を卒業したものは、そこで徹底的に鍛えられる。日常的なトレーニングは強制されるし、柔道または剣道の初段は必須資格で、受かるまで何度も挑戦させられる。学校というよりは軍隊。規律も厳しいし、それを犯したときの体罰もかなりきつい。ちょっと集合時間に遅れただけで、竹刀で殴る教官もいる。
 引き換え、薪が大学で学んできたのは管理者としての心得だ。体力訓練も体罰も、無縁のものだったろう。ノンキャリアの羽佐間にその内容は分からないが、人を支配する術を学んできたと思えば間違いない。
 言い方は悪いが、ノンキャリアは兵隊、キャリアは司令官だ。命令を下す側の人間は、前線には出ない。強靭な肉体も武術も必要ないのだ。その司令官が、訓練期間も置かずにいきなり前線に出ようというのだから。無理が生じて当たり前だ。

 黙々とトレーニングを続ける薪を見て、羽佐間はどうしてこいつは捜一に来たがったのだろう、と不思議になる。
 変わったやつだ。他のキャリアのように、所轄で判を押しながら試験で出世して行こうとは思わなかったのだろうか。
 今のキャリアの昇任制度は、警視正までなら試験だけで昇進できたはずだ。そこから先は何か褒章に値する手柄を立てないと進めないが、警視正といえば、ノンキャリアが退職までに望める最高のポストだ。勉強さえしていれば、苦労せずにそこまで進めるというのに、どうしてこんな苦しい道を選んだのだろう。
 課内であれほどみんなに煙たがられても、異動したがる様子はないし。こうして自主トレをしているということは、これからもこの人間関係も仕事内容もキツイ職場で耐える覚悟をしている、ということだ。

 後輩が頑張っているのなら、指導員として手を貸すべきかと羽佐間は思う。しかし、薪は自分に何の相談もしてこなかった。足の痣を見られても、姑息な嘘で隠そうとした。キャリアのプライドというやつかもしれない。それを傷つけていいものだろうか。
 
 薪以外は動くもののない道場に、やがてひとりの人物が現れた。道場の入口から入ってきて、トレーニングを続ける薪に手を振ったのは、短く切り揃えた黒髪と意志の強そうな黒い瞳が印象的な女性だった。
 薪が軽く手をあげて、彼女に微笑みかけた。羽佐間が見たこともないような、やわらかい笑い方だ。いや、昼間電話をしていたときにも、薪はこんな顔をしていたか。

 幾何学模様の赤い半袖シャツに黒いズボンという派手めの格好をした彼女は、しっかりと胸腰が張っていて、遠目にもかなりの美人だ。薪のやろう、こんな美人の彼女がいたのか。ヒヨコどころかたまごのクセに。なんて生意気なやつだ。

 しかし彼女は薪の所へは行かず、道場の奥に二つ並んだ右側の扉、つまり女子更衣室へと姿を消した。しばらくして、道着に着替えて出てくる。背が高いおかげで、胴着姿がビシッと決まっている。女三四郎ってやつだ。
 道場でデート?しかし、ふたりとも道着姿なのが気になるが。

 女三四郎は、軽く準備体操をすると、薪に声をかけた。何を言ったかは聞き取れなかったが、薪が彼女に近付き、礼をしたところをみると、打ち込み(技の形の反復動作をする稽古法)でもする気かもしれない。
 彼女と柔道の稽古?いや、それは個人の自由だが。

 ずい分変わったデートもあったもんだ、と呑気なことを思っている羽佐間の目の前で、薪の細い身体が床になぎ倒された。
 打ち込みなんて、やさしいもんじゃねえ。こりゃ、乱取りだ。

 大外刈り、払腰、浮き落とし、内股―― 女子に次々と技を掛けられる不甲斐ない後輩を見て、このふたりは本当に付き合っているんだろうか、と羽佐間は思う。いくら何でも容赦がなさ過ぎる。痣だらけになるわけだ。
 しかし、これで納得がいった。後輩の痣の原因は、自己鍛錬によるもの。どういう知り合いだか知らないが、薪は彼女に特訓を受けていたのだ。おそらく、現場を外されてからずっと。

 何度倒れても、薪は直ぐに立ち上がって彼女に向かっていく。明らかに実力の違う相手から、それでも何とか隙を見つけては技をかけようと足を伸ばす。が、薪の蹴りは弱く、技は悉く返される。でも、諦めない。
 嫌いじゃねえな、と羽佐間は思った。
 資料室の無表情な後輩はいけ好かないが、道場の彼には好感を持てる。一生懸命な人間には、誰だって手を貸したくなるものだ。

 閑職に追いやられて、キャリアのプライドは悲鳴を上げただろうに、誰を恨むわけでもなく、ひねこびるわけでもなく。こうして自分を磨く努力を続ける。キャリアってのは思ったよりも、根性の座った人種らしい。
 嫌いじゃねえな、と羽佐間はもう一度心の中で思い、だから署内に戻って、自分のロッカーに常備してある道着を手に持って、再び道場を訪れた。

「羽佐間さん」
 道着姿の羽佐間を見て、薪は、羽佐間が噴き出しそうな顔をした。子供が親に悪戯を見つかったときのような、何ともバツの悪い表情。しかしそれは、とても可愛らしかった。
「あ、紹介します。友人の三好雪子さん。こちらは僕の指導員の羽佐間匡さんです」
 初めまして、と挨拶をして、ぺこりと頭を下げる彼女に、羽佐間は好感を抱く。近くで見ると、ますますいい女だ。うちの山の神ほどじゃねえが。
 聞くと彼女は今年度大学を卒業する予定で、早々と内定を定め、研究所内の法医学教室で研修前のアルバイト中だと言った。

「友人? 恋人じゃねえのか」
「違います。雪子さんは、僕の友だちの恋人で」
「ダチの恋人? なんだなんだ、三角関係か」
「「違います!」」
 ふたりの声が見事にハモって、3人は顔を見合わせる。誰からともなく笑いを洩らすと、後は言葉は要らなくなった。
 
 その日から、薪の練習相手は二人に増えた。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

折れない翼(5)

折れない翼(5)





『薪、仕事きつくないか? ちゃんとメシ食ってる?』
「大丈夫だよ。心配しすぎなんだよ、鈴木は」
 もはや日課と化した鈴木からの電話は、その日も当たり前のように掛かってきた。
 相手の迷惑にならないよう、それはほんの数分間のつながりだったが、その当時の薪の心を癒してくれる唯一の時間だった。

『周りの先輩たちと、うまくやってるか? またヘンなクセ出してないだろうな?』
「なんだよ、ヘンなクセって」
『いくら背伸びしたって、本当の身長は変わらないってこと』
「あっ、またひとが気にしてることを」
『いや、そうじゃなくて』
「なんだよ、自分がデカイからって、いっつも僕の身長のことからかって。鈴木なんかドアかまちに頭ぶつけちゃえ!」
『だから違うって』
 親友の言葉に戯れを返していると、指導員の羽佐間がドア口からこちらを見ているのに気付いた。職務中の私用電話に腹を立てているのかもしれない。新人のクセに生意気だと思われているのかも。

「もう切るよ。これから捜査会議なんだ」
 先輩に対する気兼ねもあって、薪は電話を切った。羽佐間の視線に応えて、自分から声を掛ける。
「羽佐間さん、何か」
「おめえ、笑えるんだな」
「……すみません、仕事中に」
「資料室の整理なんざ、仕事のうちに入らねえよ」
 捜査資料の山に埋もれている薪に向かって、羽佐間はバカにしたような口調で言った。

 3週目に入り、始末書の枚数が10枚に達したとき、薪はとうとう課長に見限られた。現場から外され、資料室の整理をするように言い渡されてしまったのだ。
 課長からは、『大事なキャリアに怪我をさせるわけにはいかない』と言われた。資料室の整理は新人の仕事だし、しばらくはそれに専念しなさい、と諭された。が、その本音は、現場の足を引っ張る新人キャリアを資料室に閉じ込めて、やっぱり自分は内勤向きだと気付かせたい、というところだろうと薪は思っている。

 まとめ終った資料を書類棚に戻そうと席を立ち、薪は足腰に走った痛みに眉をしかめる。昨日はちょっと張り切りすぎた。
「おめえ、身体の調子でも悪いのか」
 薪の動きの鈍さに気付いたのか、羽佐間が不思議そうに尋ねる。やっぱり刑事の眼は鋭い。
「いえ。何でもありません」
 羽佐間は薪の傍に駆け寄るように寄ってきて、素早く薪のズボンの裾を捲り上げた。膝から下を露わにされ、薪は驚きの声を上げた。
「なにを」
「どうしたんだ、このアザ」
「転びました」
 薪がそう答えると、羽佐間はふんと鼻を鳴らして、ズボン裾を乱暴に戻した。

「現場に出なくても怪我すんのか、おめえは。ドンくせえやつだな」
「放っておいてください」
「まあ、一息入れろや」
 右手に持った紙コップを机の上に置いて、羽佐間は部屋を出て行った。嘲笑いに来たわけではなかったのか。

 自分は少し、ひねくれていたかもしれない、と薪は思った。課長も本気で自分のことを心配してくれての資料室だったのかも。
 焦っていたのかもしれない。
 自分が考えていたより、現実はずっと厳しくて。これまでどんなに甘やかされて生きてきたのか、学生と社会人の差を思い知らされた。社会は常に百零の世界。90点では駄目なのだ。結果がすべてで、その結果を出すためにいかなる苦労を重ねようと、そんなものは評価の対象にはならない。
 自分はキャリアなのだから、それなりの成績を修めなければならないと自ら目標を掲げていたのに、何一つ思い通りに運ばない。理想と現実のギャップにストレスを感じて、空回りの連鎖に陥っていたのかも。

 薪は机に戻って、コーヒーに口をつけた。ミルクと砂糖がたっぷり入ったコーヒーは、薪の好みではなかったが、とてもやさしい味がした。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

折れない翼(4)

 こんにちは。

 実は今日は、お義父さんの3回忌なのですよ。
 でも昨日は現場に出なきゃいけなくて、仕方ないからお寺の確認からお昼の予約確認まで、現場から携帯電話で。ローラーとASフィニッシャーの音がうるさくて、何度も聞きなおしながら☆

 帰ってから提灯とかお供え物とか祭壇とか作ったんですけど。
 いつもは一人でやるんですけど、今回は現場に出ていたせいで間に合わず~、義弟とオットに手伝わせちゃいました。お義母さんにはお掃除、義妹には買い物をしてきてもらって。楽しちゃった♪←長男の嫁のくせに。
 さらに、3回忌が終わったらオットと義弟と一緒に測量にGO! なのです。仕事に追われて、片付けどころじゃありません。 
 もう、長男の嫁というよりは息子のひとりと化していて。嫁失格かなあ。 
 こんな駄文を書いてる時点で、今更って気もするなあ(笑)  





折れない翼(4)




 張り込みというのはひどく退屈で、でも簡単な仕事だと薪は思っていた。
 同じ場所に何時間も居座り、犯人が現れるのを待ったり、容疑者の様子を見張ったりする。刑事ドラマでは時間の都合上、張り込んで数分で犯人が現れるが、現実はそうはいかない。一晩中神経を尖らせていても成果が得られないこともあるし、警察が目をつけた容疑者とは他の真犯人が出てきて、何日も続いた監視が空振りに終わったりする。
 それは薪も、重々承知していた。待つのは辛いかもしれないが、体力的には楽なはず。犯人の姿が見えたら羽佐間に無線で連絡をする、それだけの仕事だ。しくじる余地はないと思った。

 しかし、現実は。
 梅雨明けの太陽がギラギラと照りつける炎天下、電柱の陰に立ち続けるという仕事は、考えられないくらいきつかった。
 沸騰したお湯から湯気が出るような勢いで、アスファルトから陽炎が立ち上っている。靴底が熱い。生卵を落としたら、目玉焼きができそうだ。
 ドラマだと、ちゃんと冷房の効いた車の中で座って犯人を待つことができるのだが、現実には車を止められない道路の方が多い。罰金も高いし取り締まりも厳しいから、何時間も違法駐車をする車は少ない。そんな道路に堂々と車を停めておいたら、ここで見張っています、と犯人に大声で知らせているようなものだ。
「……刑事ドラマって、嘘ばっかり」
 あれが刑事の現実だったら、警察官は憧れの職業№1の座から退くことはなかっただろう。

 灼熱地獄に立ち尽くして2時間、薪は先刻から痛みだしたこめかみの辺りを押さえて、深いため息を吐いた。
 なんだか気持ち悪くなってきた。水分補給を小まめにするよう先輩に言われて、ペットボトルの水を飲んでいたのだが、それが全部出てきそうだ。
 容疑者は、まだ現れない。
 交代の時間まで、あと1時間。それまでは頑張ろうと目的の部屋を見つめる目に力を込めるが、直ぐに視界がぼんやりと霞んでくる。霞むくらいなら良かったのだが、次第にそれが暗く翳ってきて、薪の視界は急に狭くなった。

 狭い視界がぐらぐらと揺れ始めたときには、地震が起きたのかと思った。不安定に揺れる狭窄した世界に容疑者の姿が現れたのは、そのときだった。手にコンビニの袋を提げて、駅の方向からやってくる。きっと自分のアパートに帰ってきたのだ。
 やった、羽佐間さんに報告だ。
 自分の仕事はここまでだ後は羽佐間がここに来てから一緒に横田のアパートに踏み込んで逃げたら追って捕まえて手錠をこんどはぜったいににがさないようにてじょうをあいてにかじりついてでもひきとめててじょうを――。

 頭の中のシミュレーションは、無線の送信機をつかんだところで途絶えた。急に身体が軽くなって、足が宙に浮いたような気がした。目の前が真っ白になり、夏の日差しの眩しさに驚きを覚え、次いで暗転した。
 次に目を開けたときには、白い天井とフードのない蛍光灯が見えた。蛍光灯の基盤に貼り付けられた備品番号から、ここが捜一の仮眠室であることを知る。瞬間、自分がどうしてここにいるのかを悟って、薪は泣きたくなった。

 枕もとの携帯がピリリと音を立てて、薪の涙を止めた。深く息を吸って、電話に出る。
『薪? 大丈夫か? おまえ、現場で倒れたって』
「……なんで知ってるんだ?」
『さっき、おまえに電話したら羽佐間さんて人が電話に出て。熱中症だって? 大丈夫なのか?』
「熱中症? 大げさだな。ちょっと眩暈がしただけだよ。今張り込み中なんだ、切るよ」
 有無を言わせず電話を切ると、薪は肘を上げ、腕を目蓋の上にのせた。
 自分が情けなくて涙が出てくる。ここの仕事をこなすには、自分は絶望的に体力が足りない。もっと身体を鍛えておけばよかった。大学時代、痴漢対策にと雪子が柔道の基礎を教えてくれたが、荒くれ者相手にも通用するように、徹底的に仕込んでもらえばよかった。

「大丈夫か、おい」
 枕元で先輩の声がして、薪は慌てて涙を拭いた。これ以上、自分のヘタレ伝説に拍車を掛けたくない。ぐらつく頭を右手で押さえ、ベッドの上に身を起こした薪に、羽佐間は冷たいスポーツ飲料を差し出した。
「次からは水じゃなくて、こいつにしとけ」
 羽佐間が自分をここまで運んでくれたのだろう。どうして羽佐間には、自分が現場を放棄したことが分かったのだろう。連絡する前に気を失ってしまったし、交代の時間はまだ先だったはずだ。

「どうして僕が倒れてるってわかったんですか?」
「無線持たせたろ。あれでよ」
 ピー、とスイッチが入った直後にガガッという雑音が入り、薪の身に何かが起きたことを羽佐間に教えた。現場に駆けつけながら尚も無線に耳を澄ますと、『おい、大丈夫か。しっかりしろ』という男の声が聞こえた。
 現場に到着してみると、男の腕に頭部を支えられ、介抱されている後輩の姿があった。
 羽佐間は迷った。親切な行きずりの男に礼を言うのが先か、彼に手錠を掛けてからにするべきか。

「犯人に助けられる刑事って、おめえよ。マンガじゃねえんだからよ」
「すみません」
 薪が神妙に謝ると、羽佐間は嫌味に笑って、
「ま、ものは考えようだ。相手もまさか、おめえみてえな刑事がいるとは思わなかったんだろうぜ。おかげでホシは捕まえたし、怪我の功名ってとこだ。おめえの手柄と言えなくもねえ。ひ弱で良かったな?」
 ニヤニヤと笑っているが、これはもちろん褒め言葉ではない。果てしなく蔑まれているのだ。その証拠に、
「てなわけで、これ頼むな」
 羽佐間が薪の膝の上にぽんと置いたのは、2枚の始末書。

「僕はともかく、羽佐間さんはどうして? 横田は逮捕したんでしょう?」
「俺もちぃとばかり焦ってな。本部への連絡を忘れて突っ走っちまった」
 言うことはきついが、羽佐間は悪い男ではない。自分のことを心配してくれたのだ。電話の向こうの親友と同じように。

「あ、そうだ。おめえをここに運んでくれたのは、世良だ。後で礼を言っとけ」
「どうして世良さんが」
「おめえが役に立たなくなったのは察しがついたからよ、近くで聞き込みやってた世良に応援を頼んだのよ。俺が横田をしょっぴいてる間に、世良がおめえをここまで運んでくれたってわけだ」
 選りに選って嫌なやつに借りを作ってしまった。またネチネチ言われるだろう。羽佐間には悪いが、知らぬ振りをしてしまおうか。世良だって、自分と話すのは不愉快だろうし。

「羽佐間さん、ここにいたんすか。課長が呼んでますよ」
 などと卑怯なことを考えていたら、当の本人が顔を出した。やっぱり、ズルはだめか。
「お。気が付いたか、粗大ゴミ」
 人生で他人にゴミと呼ばれたのは初めてだ。
 複雑な胸中を表に出さないようにして、薪は世良に謝罪した。

「すみませんでした。ご迷惑かけました」
 世良の視線が痛い。相手の顔をなるべく見ないようにして、薪は頭を下げた。
「これで分かっただろ? 現場は、おまえみたいな軟弱者が出てくるところじゃねえんだよ。今回は無事に犯人が捕まったからいいようなものの、こないだみたいに取り逃がしたらどうするんだ? あれはケチなコンビニ強盗だったけど、それが連続殺人犯だったら?
 おまえのヘマのせいで新しい犠牲者が出たりしたら、おまえ責任取れるのか?」
 握り締めた自分の手をじっと見つめながら、薪は世良の言葉を聞いていた。世良は現在の捜一のエースだ。自分にも他人にも厳しい。

「キャリアはキャリアらしく、部屋の中でハンコ押してりゃいいんだよ」
「まあ、そう言うなよ、世良。こいつも反省してるからよ」
「ったく。羽佐間さんは甘いんだから……っと、課長ですよ、課長」
「うう、また説教か」
「早くしてくださいよ、俺が怒られちまう」
 捜一のツートップでも課長は怖いらしい。オタオタとうろたえるようにして、二人は部屋を出て行った。

 自分も仕事に戻らなくては、と薪は思い、足を床に下ろして立とうとした。が、膝に力が入らず、ぺたんとその場に腰を落としてしまった。手も足も、小刻みに震えている。
 熱中症になったのも初めてだ。どちらかというとインドア派の薪は、学生の頃も夏は冷房の効いた室内で過ごしていた。もう少し、耐性をつけておけば良かった。
「何やってんだ。まだ寝てなきゃ駄目じゃねえか」
 数分後、何故か戻ってきた羽佐間が床に座った薪を立たせて、再びベッドに寝せてくれた。「課長のお説教は終わったんですか」と聞くと、「フケてきた」と言う。不良学生のような言い草が、ほんの少しおかしかった。

「そら、飲め」
 寝たまま飲めるように、ペットボトルの口に蛇腹つきのストローが差してある。見た目に合わない細やかな心配りが意外だった。
「大丈夫です。構わないでください」
 先刻の世良の苦言も手伝って、素直にひとの好意を受けられない心理状態だった薪は、つっけんどんにペットボトルを押し返した。
「ただでさえ僕のせいで世良さんに差をつけられて、焦ってるんでしょう。さっさと横田の自供を取って、少しでも点を稼がないと」
 世良に対する憤りを世話になっている先輩刑事にぶつけるのはおかしいと自分でも思ったが、心の中で渦を巻く自己嫌悪と敵愾心が薪の口を動かした。
「何なら、僕の指導員から外れてくれても結構ですよ。僕は一人だって」
 一人でだって立派な刑事になって見せます、と言おうとして、さすがにそれは大言が過ぎると判断して、薪は口を噤んだ。羽佐間から顔を背けて壁を見つめ、下唇をぎゅっと噛み締める。

「薪よ。警大の天才だか何だか知らねえが、一人は所詮一人だ。出来ることにゃ限りがあらあな。警察の仕事ってのは、一人じゃどうにもならねえもんばっかだぜ?」
 分かっている。だけど、こんなに誰かの足を引っ張ってばかりいる自分なんて、誰かに損害を与え続ける自分なんて、認めたくない。
「いっぱしの刑事になるのには、何人もの人間に育ててもらわなきゃならねえ。俺もそうだった。俺がおめえの指導職を受けたのは、その先輩たちへの恩返しだ。要は俺の都合だからよ、おめえの我儘は聞かねえよ」

 羽佐間は冷たいペットボトルを横になった薪の顔の上にまともに載せると、さっと踵を返した。
「いいな。寝てろよ。俺はこれから横田の取調べだ。おめえのお守りはしてられねえからな」
 そう言いつつ、それから2時間の間に、羽佐間は3回も薪の様子を見に来た。4回目に来たときには、薪はそこにいなかった。
「なんだよ、挨拶もなしに帰っちまうたあ。最近のガキはまったく」
 薪は大分落ち込んでいたようだった。これはいよいよ異動か。

 しかし、それは羽佐間の早とちりだった。二枚置いていったはずの始末書が一枚に減っており、薪はそれを課長に提出に行ったものと思われた。そして、残されているのは羽佐間が書くべきだった始末書だ。
 薪はさすがに大卒のキャリアだ。書類はやつに任せておいて間違いない。羽佐間はこれに判を押すだけでいい。
「……ああん?」
 いつもなら小難しい漢字が並んでいるはずのその書類には、薪のきちんとした文字で、
『羽佐間さんは何も悪いことはしてません』
 とだけ書いてあった。

「…………ほんっと、使えねえやつだな」
 苦虫を潰したような顔で呟くと、羽佐間はその書類をポケットにしまって、クククと笑った。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

折れない翼(3)

 こんにちは~。

 今日はちょっとだけ怒ってます。
 何故かと言うとですね、
 最近の若い人は、口の利き方がなってませんねっ!(←年寄りの得意のセリフ)

 昨日の交通誘導員さんとの会話。
「代理人さん、ちっちゃいですね~、身長いくつあるんですか?」
 ぐさっ!!
「……148センチです」
「うっわ、ちっさ!」
 ぐさぐさっ!!
 そのままフォローもなく去っていく誘導員。

 ひーどーいーよー!!
 誰がミジンコドチビだよーーー!!(←言ってない)

 女性に年と体重を尋ねないように、チビには身長を尋ねてはいけません。
 ぷんぷん。


 とか言いつつ、こちらは大分に失礼なお話で。あはは、ごめんなさい~~。

 





折れない翼(3)





 捜査一課の羽佐間班に新しい人員が加わって2週間が過ぎた頃、隣の世良班と合同で歓迎会が開かれた。
 捜査一課には約350人ほどの捜査員がいるが、7月の人事異動で捜査一課に配属されたニューフェイスは合計で20人ほど。全体の1割に満たない人数だ。そのほとんどが所轄からの栄転による者で、つまり現場の猛者たちである。その中で東大出身の23歳のキャリアは、どうしようもなく異色な存在だった。
 所轄と警視庁の違いはあるものの、他の新人たちには現場の経験がある。場所が変わっても捜査は捜査、基本的にやることは同じだ。飲み会ともなれば今まで手がけた事件の話に花が咲くが、現場経験のない新人キャリアは聞き役に徹するしかない。

 歓迎会が開かれた居酒屋の座敷で、20名ほどの膳が並べられたその末席にちんまりと座って、薪はひたすら沈黙を守っていた。他の者たちは現場の苦労話で盛り上がっているようだが、正直な話、薪には彼らの言っていることが良く分からない。警察官同士の会話には隠語が多く、まだこの職業について日の浅い薪にはちんぷんかんぷんだった。分からなかったら訊けばいいのだが、それも面倒くさく。また、わざわざ問い質してまで参加する価値のある会話とも思えなかった。
 というのも、
「でもって、捕まえたホシがエライいい女で。何とか見逃してくれってんで、仕方ねえから取調室で」
 下品な笑い声の混じるそんな話に加わるほど、自分は低俗な人間ではない、と当時の薪は思っていた。現場経験はないが、志の高さはここにいる誰にも負けない。自分は将来、彼らの上に立つ人間だと自負していた。

 世良班の新人の中に、佐藤という若い刑事がいた。薪より3つ年上の、がっちりとした筋肉質の男だった。
 彼は薪とは正反対で、その話を熱心に聞きたがった。彼の熱意をからかった先輩刑事が「佐藤は童貞か」と男ばかりのこういう席では当然のように出る笑い話に持ち込もうとすると、佐藤は真顔で、「実はそうなんです」と言ったものだから、年若い連中には次々とその質問が回ってくる羽目になった。
 座がその手の話題に遷り変るのを聞いて、咄嗟に薪は嫌悪感を抱いた。猥談の類は、聞くのも話すのも苦手なのだ。
 いっそのこと中座してしまおうか、と薪は思い、サークルのコンパと違ってこれは仕事の一環なのだからそれはよくないと考え直した。ただじっと身を固くして、時間が過ぎるのを待とうと思った。

「キャリアってのは酒の席でもすまし顔なんだな」
 すっと隣に指導員の羽佐間が座った。開けたばかりのビール瓶を薪の方に差し出して、
「先輩たちに酌でもして来いよ。それが新入りの務めだろ?」
「佐藤さんがやってるから、僕はいいでしょう」
 酒を注ぎまわりながら、よろしくお願いします、と頭を下げている。あれが普通の新人の姿なのだろう。それは薪にも分かっていたが、自分はキャリアだ。普通の警察官とは違う。

 そういうもんでもあるめえよ、と羽佐間は彼独特の言い回しで薪の態度を非難し、しかしすぐに翻って、
「まあ、強制はしねえけどよ。今は仕事中じゃねえからな」と矛を収めた。
 それから手に持っていたビールを、薪のコップに注いでくれた。世話になっている指導員の羽佐間には日頃の礼に酌をすべきだと思い、羽佐間の置いたビール瓶を取り上げ、彼のコップに差そうとしたところに、例の質問が回ってきた。

「次は薪だな。こら、白状しろ」
「僕もあんまり。でも一応は」
 当たり障りの無い答えを返そうとして、しかし次に浴びせられた言葉に、薪は絶句した。
「だれがおまえのオンナ経験なんか聞くかよ。オトコだよ、オトコ! 経験あんだろ?」
 ぎゃはは、とけたたましい笑い声が部屋中に響き、薪は一瞬でピエロになった。

 それは単なる酒の席の戯言で、その質問を発した先輩は別に薪に恨みを持っていたわけでもなんでもなかった。それどころか、どことなく周囲から浮いた存在の新人を場に馴染ませようと、そんな冗談を言い出したのかもしれなかった。しかし、それは若い薪にとっては決して許すことのできない侮辱だった。
 
 大切なひととの思い出を、嘲笑われたような気がした。

 言われたとおり、僕には男性との経験があるけれど、それをこんな風に茶化される筋合いは無い。
 あれは僕の初めての恋で、端から見たら浅はかな行動であったかもしれないけれど。あの頃の僕の精一杯を鈴木はちゃんと受け止めてくれて、たくさんたくさん僕に愛を返してくれて、それを貫き通すことはできなかったけれど、だけど僕には未だに一番大切な恋で。

「オンナは少なくても、オトコは多いだろ? 何人くらい知ってんだ? このスケベ! オトコ好き!」
 10年後の薪なら。
 酒に酔った振りをして彼に近付き、「いやだなあ、××さんたら! 僕は女の子100人は斬ってますよ!」と明るく笑いながら胸倉を掴んで張り倒し、関節技のひとつも決めているだろう。しかし、このときの薪はまだ23歳。生真面目さはそのまま固さにつながって、薪は純粋な怒りを感じた。

「おまえってそういう顔してるよな。大学ではさぞモテたんだろ、オトコに」
 無神経なこの男を殴りつけたいと思った。彼との大事な思い出を踏みにじられたようで、それは薪にとっては極刑に値する蛮行だった。
「おい、佐藤。なんなら薪に筆卸ししてもらえ!」
 狂ったような笑い声が部屋に溢れかえった。我慢ならなくなって、薪は席を立った。
 後ろで羽佐間が、「悪りい、ちいと飲ませすぎちまった」とフォローを入れてくれていたが、それに感謝する余裕も無かった。

 部屋中の人間が自分と鈴木の関係を知っていて、それを笑っているような気がした。これまで一度も考えたことがなかった、同性と愛を交わすことが他人に嘲笑される理由になるなんて。
 大っぴらに、ひとに自慢することはできない関係だということは分かっていた。だけど、それが侮蔑の対象になるなんて。僕たちはあんなに真剣に愛し合っていたのに、それが笑いものにされるなんて。

 ショックだった。
 悲しみと憤慨に掻き乱された心で、それでも薪は考えた。

 鈴木の耳に、こんな流言を入れちゃいけない。あからさまな蔑みの口調で囁かれる無責任な噂話は、きっと鈴木を悲しませる。
 鈴木は何も悪いことはしていない。彼に恋をしたのは僕、身体の関係を迫ったのも僕。やさしい鈴木はそれを拒めなかっただけ、僕を傷つけたくなかっただけ。だから鈴木が悲しい思いをするのは間違ってる。

 強くなりたいと思った。
 実力があれば、誰にも何も言わせない。鈴木に迷惑を掛ける心配もなくなる。だけど今の僕の力じゃ……。

 こんなにも、自分の非力を嘆いたのは生まれて初めてだった。
 口惜しかった。

 薪はその晩、捜査一課に入って初めての涙を流した。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

折れない翼(2)

折れない翼(2)





『どうして捜一なんか希望したんだよ? 警察庁の内勤から始めるって、おまえそう言っただろ?』
 携帯電話から聞こえてくる親友の心配を含んだ声に、薪は頬をほころばせた。
「僕は早く出世したいんだよ。手柄を立てるなら、ここが一番手っ取り早いだろ」
『おまえが決めたことなら、仕方ないけどさ。でも、本当に大丈夫か、薪。危ない目に遭ったりしてないか? 』
「大丈夫だって」
 親友の言葉を遮るように、薪は言葉を重ねた。

「僕をだれだと思ってるんだ? 行く行くは、警察庁のトップに立つ男だぞ。捜一なんて、軽いよ」
『……おまえ、鼻っ柱折られて泣くなよ』
「鈴木こそ。所轄の人間に舐められるなよ。僕たちはキャリアなんだからな」
 わざと高慢なセリフで自分の弱気を隠し、薪は胸を張った。

 鈴木はいつも自分を気遣ってくれる。自分だって新しい職場に入ったばかりで気苦労も多いだろうに、こうして毎日のように連絡をくれる。
 薪はずっとその気持ちを嬉しく受け止めてきたし、彼に頼っても来た。しかし。
 いい加減、彼からは卒業しないといけない。でなかったら、いつまでも鈴木と対等な人間になれない。

 彼の親友に相応しい男になりたかった。
 捜査一課は刑事にとっては花形部署だが、仕事がきついことでも追随を許さないと聞いた。そこを職場に定めれば、嫌でも自分を鍛えられると思った。

 携帯を閉じて、薪はため息を吐く。
 学生の頃は滅多に吐かなかったのに、この頃はめっきり多くなった。社会人の苦労というやつが分かってきた証拠だ。
 今日のため息の原因は、昨日の現場での大失敗。自分のせいで犯人を取り逃がした。刑事にとって、これ以上のしくじりはない。

 先輩と一緒に強盗犯を追いかけて、狭い路地で挟み撃ちにした。犯人は自分が追い詰められたことを悟ると、迷うことなく薪の方に突進してきた。
 相手の勢いに押されながらも、薪は雪子に習ったことを思い出そうとした。走ってくる相手の左側に避けて、腕を決めて足払いをかけて……頭の中のシミュレーションは完璧だったのに、現実は厳しかった。
 相手の腕をつかむまではうまくいった。しかしその後、見事に引き摺られてしまった。足を踏ん張ろうとしたが無駄だった。強盗犯の太い腕が振り回され、薪はあっけなく吹っ飛ばされて塀に背中を打ちつけられた。胃が胸から飛び出るかと思った。よくも悪くも優等生だった薪に、コンクリートの塀に叩きつけられた経験などあるはずがなかった。
 薪が痛みに息を詰めている間に、犯人はいなくなっていた。地べたに座って背中をさする薪の前を走り抜けた人影から舌打ちが聞こえて、立ち上がろうとしたが、痛みが強くて動けなかった。
 薪の空けた穴から逃げた犯人は、先輩刑事の追走を振り切り、まんまと逃げおおせた。薪は指導員の先輩と共に課に戻った。薪の背中には大きな痣ができて、後頭部に擦過傷もあったが、薪に与えられたのは叱責だけだった。

 すみませんでした、と深く頭を下げた薪の背中に、不愉快な声が飛んできた。声の主は世良義之。同じ課の先輩の巡査部長だ。
「課長。こいつを現場に出したのが、そもそもの間違いなんですよ。勉強ばっかりしてきたモヤシ野郎なんか、足手まといになるに決まってるじゃないですか」
 自分がミスをしたことは分かっていたが、公衆の面前で自分が役立たずだと決め付けられて、薪はカッとなった。課長や指導員の先輩に叱られるのは仕方ないとしても、この事件とは何の関係もない別班の人間に侮辱を受ける謂われはないはずだ。
 言い返してやりたかったが、世良は羽佐間と並んで捜一のエースだ。今現在薪が彼に勝るものといったら、階級くらいしかなかった。使い勝手の良くない武器だとは思ったが、薪はそれを使うことを選んだ。
 このとき、薪は23歳。悲しいくらいに若かった。

「世良さん。警部補の僕にそんな口を利いて、後で後悔しま……っ!」
 精一杯の強がりですら、最後まで言わせてもらえなかった。
 世良に胸ぐらを掴まれて、身体を持ち上げられた。息が止まる。

「ここではホシを挙げたやつがチャンピオンなんだ。階級なんざ、何の役にも立たねえよ」
 世良の乱暴な振る舞いを咎めるものは、ひとりもいなかった。
 薪がキャリア入庁していることは、皆が知っている。そのことで疎まれていることも承知していた。ここでは自分の味方は誰もいない。薪は痛烈に孤独だった。

 床に投げ落とされて、傷めた背中がずきりと痛んだ。表情を隠すために、薪は俯いた。
 世良は薪を馬鹿にしたように鼻で笑うと、自分のデスクに戻って行った。口惜しかったが、腕力の差はどうにもならない。そしてここでは、頭脳よりも体力の方がものを言うのだ。
 証拠物件から犯人のプロファイリングを行ったら、大学で犯罪心理学を専攻していた薪の方が上かもしれない。しかし実際の捜査では、推理力が問われる場面は少ない。犯人が防犯カメラに映っていたり、目撃者や証拠が山ほど現場に残されていたりして、考えを巡らせる間もなく犯人の正体が分かってしまう。そんな事件が殆どなのだ。
 例え謎めいた事件が起こったとしても、それはベテラン刑事の仕事だ。新入りには、意見することすら認められない。執行部からの指令にひたすら従うだけだ。そこに必要なのは、体力と根性。薪のこれまでの人生には、どちらも必要のないものだった。

 背中に響かないように気をつけて、薪は立ち上がった。自分のデスクについて、始末書を書き始める。捜一に配属されてわずか1週間の間に、この書類はもう3枚目だ。
「おい、薪。俺の分も一緒に書いといてくれ。得意だろ?」
 ペンの上にわざわざ書類を落とされて、薪は苛立ちを奥歯でかみ殺す。自分が書くべき書類を薪に押し付けようとしているのは、羽佐間匡。先刻、薪と一緒に強盗犯を追いかけていた先輩だ。

 羽佐間は世良と同じ巡査部長で階級的には薪の下だが、彼は自分の指導員だ。逆らわないほうがいい。
 部屋の中では比較的穏やかな羽佐間だが、現場に出るとものすごく怖い。初めて羽佐間に怒鳴りつけられたときには、ショックで棒立ちになってしまった。幼い頃から優等生で通してきた薪は、他人からあんな風に怒鳴られたことはなかった。

「ついでに、異動願いも書いたらどうだ」
 冗談じゃない、1週間で異動なんて。
 キャリアの異動が多いのは常識だが、あれは昇任システムの関係から派生する人事であって、力不足で職務がこなせないから逃げるわけじゃない。何も為さないまま、逃げ出すなんて真っ平だ。推薦してもらった警大の教授にも合わせる顔がない。

「羽佐間さんにはご迷惑かもしれませんが、もう少しここで頑張りたいと思います。引き続き、ご指導ください」
「頑張るったって、おめえよ。人には向き不向きってもんがあらあな。怪我しねえうちに内勤に移った方が、てめえの為だと思うぜ」
 ひとの良い振りをしてやさしい言葉を掛けるが、羽佐間の本音は分かっている。デキの悪い新入りを追い払いたいのだ。
 だからと言って、羽佐間を冷たい人間だと詰る気はない。今日の捕り物の顛末からも分かるように、薪は羽佐間の足を引っ張ってばかりだ。指導員として薪とコンビを組む前の羽佐間は、逮捕数トップの座を世良と競っていたのだ。自分の成績が落ちる原因を取り除きたいと思うのは、当たり前のことだ。
 
 申し訳ない気持ちもあって、薪は俯くことしかできない。
 元々、薪は人前で自分の意見を言うのは苦手だ。研究発表のように資料があれば淀みなく喋れるが、普通の会話は苦手なのだ。仲の良い友だちになら気兼ねなく話せるが、それ程心を許していない相手にはどうしても寡黙になる傾向がある。
「また黙んまりか。ったく、扱いづれえなあ、キャリア様ってやつは。泣きもしねえ、笑いもしねえ。人形みてえに澄ました顔しやがって」
 羽佐間は肩を竦めて、机の前から離れた。

「俺あ、人形に仕事を教える気はねえからよ」
 羽佐間の広い背中から放たれたその一言が、薪の心に深く突き刺さった。

 自分がとてもつまらない人間に思える。これまでずっとエリートの道を歩いてきた薪は、誰かに足を引っ張られた事はあっても、逆の立場になったことはなかった。生まれて初めて味わう挫折感に、そのあまりの絶望感に萎縮して、本来の力を発揮できない。

 2065年の現在、天才との呼び名も高い警察庁の星、推理の神さまとまで讃えられる薪剛警視長の刑事人生のスタートは、その名声に相応しくない屈辱の幕開けで始まったのだった。



*****


 ぷぷぷ。
 劣等生の薪さん、かわいい♪(←鬼畜)



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

折れない翼(1)

 予告と違う作品ですみません。 
 ちょっと事情がありまして、こちら、急遽公開することにしました。

 このお話は、以前、わんすけさんにリクエストいただいた『捜一時代の薪さん』でございます。
 なので、わんすけさんに捧げます。
 今までのお礼と、これからもよろしくお願いします、の貢物(?)です。 
 拙いものではありますが、どうかお受け取りください。

 
 過去のお話なので、カテゴリはADです。
 薪さんが捜一にいたのは、わたしの勝手な設定です。 なので、オリキャラ100連発のお話になってます。
 ご了承ください。






折れない翼(1)





 3月の房総半島は、東京より大分暖かい。
 ここへ来る途中で見かけた花畑にはポピーが満開で、多くの観光客が花を摘んでいた。緑は柔らかでとても明るい色をして、色とりどりの花々をやさしく包んでいた。時間さえ許せばゆっくりと散策したいところだが、生憎ここへは遊びに来たのではない。

 K警察署の門をくぐり、3階建ての建物を見上げる。レトロなレンガ造りを模してあるが、中身はカチカチの鉄筋コンクリートだ。しかし、警察の建物にしては味がある方だ。少なくとも薪が勤めている研究所の建物よりは、ずっと市民に親しまれそうだ。
 門前で様子を伺っていると、定刻を過ぎた頃から何人かの職員が玄関に姿を見せ、やがて目的の人物が現れた。
白髪の目立つ五分刈の頭に、いかつい顔立ち。身体はがっちりと締まっており、肩幅が広い。骨太い手に、顔に似合わない可愛らしい花束を持っている。署の女の子が選んだらしい花束は、彼の破天荒な雰囲気を見事に裏切って、見るものをつい失笑させる。

「こんにちは、羽佐間さん。ご無沙汰してます」
 薪が声をかけると相手はすぐに気付いて、素直な驚きをその四角い顔に表した。署の外で待っていた薪の気配りに応えて、こちらへ歩いてくる。
「よお、薪坊」
 花束を持っていない方の手を上げて、薪の名を呼ぶ。懐かしい呼びかけは、薪の心の底に甘酸っぱい感覚を甦らせる。

「っと、呼び捨てにしちゃあいけねえな。薪警視長殿、とお呼びせんとな」
「やめてくださいよ。気持ち悪いです」
 薪は苦笑して、左の肩を少しだけ上げ、左側に細い首を倒した。好ましく思っている相手と対峙したときの薪の仕草は、とても可愛らしい。もちろん本人は気付いていないが。

「長い間、お疲れ様でした」
 心を込めた労いの言葉と共に、箱に入った日本酒を差し出す。羽佐間の好みが変わっていなければいいのだが。
「わざわざ千葉くんだりまで来たのか?天下の薪警視長が。それとも、部下の女子職員に手を出して、クビになったか」
 嬉しいときのクセで、羽佐間は両手をすり合わせると、薪から箱を受け取った。この贈り物に満足しているはずなのに、礼も言わないどころか憎まれ口を叩くところが彼らしい。
「残念ながら、第九に女子職員はいません」
「んじゃ、オトコか」
 ……ものすごく身に覚えがあるが、ここはシラを切らないと。
 薪は思い切り眉をしかめ、剣呑な表情を作った。

「相変わらず口が悪いですね。羽佐間さん」
「おめえに言われても、なんだかなあ」
 羽佐間は薪から受け取ったプレゼントと花束を門前の花壇に置き、苦笑混じりの声でぼやいた。日焼けしたいかつい顔がくしゃりと歪み、鋭い眼光が皺の間に埋もれると、羽佐間はびっくりするくらい優しい顔になった。
 そんな羽佐間を見て、薪は咄嗟に身構える。羽佐間がこういう顔をしたときは、ヤバイのだ。

 腰を落とした瞬間、定年退官する老人とは思えない動きで、羽佐間がつかみかかってきた。
 太くて短い指が、薪のスーツの襟を摑む。押されるままに後方へ身を引き、身長差を逆に利用して、薪は相手の下方へ潜り込んだ。先月仕立てたばかりのスーツが汚れるのも構わず地面に膝をつき、左足で羽佐間の足を払う。靴のままの蹴りだから相当痛かったかもしれないが、そこまで気遣う余裕はない。
 羽佐間は重心を失って、どう、と地面に仰向けに倒れた。それでも薪の襟は放さない。自然と引き摺られて、羽佐間の上に乗る格好になる。
 現場で接近戦になったら、犯人を逃がしたことはない。羽佐間の犯人逮捕にかける執念は健在のようだ。

「か弱い老人に、なんてことしやがる」
「よく言いますよ」
 無骨な手が仕立てのいいジャケットの襟から離れると、薪は身軽に立ち上がった。羽佐間は地面に寝転んだまま、ニヤニヤと笑っている。
「まあ、柔道の腕は落ちちゃいねえみてえだな。それに関しちゃ褒めてやる」
 ゆっくりと身を起こす羽佐間を見て、思わず差し伸べようとした手を止める。これは余計なことだ。
「ありがとうございます。実は、この前初めて雪子さんから1本取ったんですよ」
「ほう。あのユッコちゃんから? そりゃあ、たいしたもんだ。あの娘は元気かい」
「ええ」
「ありゃあ、いいオンナだったな。早くモノにしねえと、他の男に取られちまうぞ」
「……盗られちゃいました。先月結納が終わって、6月に結婚式だって」
 脳裏に浮かんだ男の顔に、薪は思い切り唾を吐いた。
 雪子のような素晴らしい女性が、どうしてあんな人間のクズと。悪夢としか思えない。

「あんなやつに雪子さんを持っていかれるなんて。一生の不覚です」
「かあ。変わんねえな、おめえ。女なんか押し倒して突っ込んじまえばこっちのもんだって、俺が教えてやっただろ」
 言葉だけはポンポン出てくるが、羽佐間の動きは遅い。時間をかけて立ち上がり、腰に付いた芝生を払う。
 その緩慢な動作に老いを感じて、薪は微かな淋しさを味わった。

「だって、雪子さんは僕より強いから」
「情けねえな。ま、この身体じゃ仕方ねえか」
「わっ、ちょっと羽佐間さん!」
 薪の脇の下に両手を入れて、羽佐間は薪を持ち上げた。地面から離れた薪の足が、じたばたと動く。

「おーおー、相変わらず軽い軽い」
「もう。40を超えた男を捕まえて、何するんですか」
「へ? おめえ、いくつだっけ」
「今年で42です」
「……警察庁の七不思議か」
「はい?」
「いや、なんでもねえよ」
 すとん、と薪を地面に降ろすと、羽佐間は薪の頭に手を置いて、親が子供の頭を撫でるようにくしゃくしゃと掻き回した。

「よく来てくれたな、薪」
「羽佐間さんには、お世話になりましたから」
「ああ、確かに。おめえを仕込むのは骨が折れた。とにかく軟弱で役立たずで、次から次へとヘマばっかりしやがって」
 羽佐間に乱された髪を整えながら、薪は神妙に首をすくめる。
 羽佐間の言ったことは本当だ。誰だって新人の頃はヘマをする。頭の良し悪しではなく、慣れの問題だ。

「すみません」
「すいませんで済みゃあ、警察は要らないんだよ」
 使い古されたセリフを吐いて豪快に笑うと、羽佐間は薪が整えたばかりの頭をもう一度くしゃくしゃに掻き回した。イタズラを繰り返す彼の手の温もりを、薪はうれしく思う。それが彼の親愛を現す仕草であることを、薪は知っている。

 羽佐間には、色々なことを教えてもらった。
 効果的な聞き込みの仕方から、尾行の極意(身体の小さい薪は、これだけは初めから及第点だった)現場検証のポイントや張り込みの心得。柔道や空手の手ほどきも受けた。柔道の基本は雪子に習ったが、薪を本当に鍛えてくれたのは羽佐間だった。
「今日は酒の一杯くらい、付き合ってくれるんだろ? もちろん、おめえの奢りで」
「ええ。お手柔らかにお願いします」
「ま、俺も昔ほど飲めるわけじゃねえからよ。20年も経ちゃあ、あちこちガタがきて当然だ」

 20年前。
 もう、そんなになるのだ。

 若かった頃の自分と羽佐間を思い出して、薪はあの頃と同じ、満面の笑みを浮かべた。





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 サイドボードの上に置いておいた携帯電話に着信があったことに気付いたのは、ホテルの手狭い浴室でシャワーを浴びた後だった。
 メール着信、と表示された携帯のフラップを開き、手紙の内容を確認する。差出人は思った通り、息子の恋人からだった。

 初めて息子の口から彼の名前を聞いたのは、もう10年以上も前になるだろうか。
 世の中にはすごい人がいる、オレもこんな仕事がしてみたい。
 大学に入った頃から騒ぎ始めて、彼がこんな事件を解決した、また手柄を立てた、彼は日本一の捜査官だ―― 付き合っている女の子の話より、彼の話題のほうがずっと多かった。

 同じ職場で働くようになってからは、それが益々激しくなって。薪さんがこんなことを言った、こんなことをした、薪さんが薪さんが薪さんが。
 あまりにも長い間、あまりにもたくさんの情報を息子から受け取っていたおかげで、初めて会った気がしなかった。ついつい親しげに失礼な口を利いてしまったが、それを咎めるほど狭量な権威主義者でもないようで、ホッとした。無礼を承知で言わせてもらうなら、とても愛らしいひとだった。

 最初に受けた印象は、息子の言うとおり聡明で冷静なエリートというイメージだったが、話しているうちにそれがだんだんに崩れてきて。彼の大きな瞳が落ち着きを失い、きれいに掃除された床をウロウロするのを見て、自分と会うことが彼にとってどれ程のプレッシャーになっていたのかを知った。
 そのくせ繰り出してきた質問は鋭く、しかも彼の身を危うくするものばかりだった。互いの気持ちを貫くことがどれだけのリスクを伴うか、それは火を見るよりも明らかで、しかし彼はきっと何年もの間、そのことで心を痛めてきたのだ。

 とても好ましいと思った。天才などと人に呼ばれていても、彼自身は、悩んだり失敗したりするごく普通の人間なのだ。

 気弱そうな眼で、自信の欠片もない様子で、「自分が彼の幸せを産むとは限らない」と我が身を卑下する彼は痛々しかった。可哀相だと思うと同時に、不安にもなった。そんな弱気でこの先どうするつもりなのかと、彼の心痛を心得た上で口にしようかと思った矢先。
『守ります』と言い切った瞬間の、彼の力強さ。見た目は女性と見まごう程に優雅で淑やかなのに、まるで勇猛果敢な騎士のような印象を受けた。彼の華奢な身体、その全身から迸るような情熱。

 彼は全身全霊で、恋人を愛している。自分があの子にしたのと同じように、ありったけの愛情を注いで、愛しても愛してもなお足りないと身悶えするようなあの幸福な日々を、彼もまた経験している。
 彼の寵愛を受ける自分の息子を、誇らしいと彼女は思った。

 雲の上の人に手を伸ばし、ひたすらに伸ばし続け、彼に一歩でも近づけるようにと己を高め、ついには彼からそこまでの愛情を捥ぎ取った。さすがわたしの息子。

 質問の答えは息子から直接聞いてください、と自分が言ったときの、彼の焦りまくった可愛らしい顔を思い出しながら、メールの内容を確認する。携帯の細長い画面に5段書きになった文面を見て、彼女はしばし呆然とした。

『道場で決着をつけることになりました。ご報告は後日』

「…………なにやってんの、あの子たち」




(おしまい)



(2010.9)




*****



 てな具合にですね、母親というものは、いついかなるときも子供を庇うものだと、わたしは思っていたのです。
 たとえ我が子が他人を殺め、傷つけ、悪虐の限りを尽くしてさえ「この子は本当はいい子なの。今は道を誤っているだけなのよ」と子供を庇う生き物だと。 

 だから、12月号では本当にびっくりしました。

 わたしは母性に憧れを持ちすぎているのかも知れません。
 自分が母親になれないせいか、世の中の母親はみんな聖母に見えます。 
 赤ちゃんのころ、たまーに預かった甥っ子や姪っ子の世話の大変だったこと。 学校に入れば友人関係や成績のことで悩み、大人になれば就職先や結婚相手のことで悩む。 そんな気遣いと愛情を何十年にも渡って彼らに注ぎ続けられる彼女たちは、聖母以外の何者でもないと、真面目に思っているのです。

 作中に書いたように、『彼の行く道が暗闇に包まれれば光となって足元を照らし、彼が渇きを覚えれば露となってその喉を潤し、日暮れて一日が終われば歩き疲れた彼の足を休める褥になる。無償で尊い、比類なき愛情』
 それが母親の子供に対する愛情だと、本気で考えていたのです。

 ですからね、青木さんがこれまでのことを思い出して苦しむ場面を読んだとき、
 もしかしたらお母さんが、彼の背中を押してくれるのかもしれない、とさえ考えていました。
(青木さんがお姉さんの脳を見ることになるのは、ストーリー的に必然だと思います。 いくら現実的にはありえなくても、これはマンガだし、その方がお話としては面白いです、よね)
 それまでは他人の脳を見るというMRI捜査に反対だったお母さんが、ここで初めて息子の仕事に理解を見せて、「和歌子の仇を討って」的なニュアンスで青木さんを奮い立たせるのかと。

 そしたら葬儀のシーンで、
 あぼーーーーん、って…………。

 わたしは子供を持ったことがないから、彼らを失ったときの悲しみも分からないのかもしれません。
 でも、青木さんは『自慢の行ちゃん』で、たったひとりの息子なのに、あんな。

 真っ直ぐにすくすく、あたたかい家庭に育った青木さん。 その家庭を築いてきたはずのお母さんが取った、あの行動。
 それほどのショックだった、ということなのでしょうが、どうにもやりきれませんでした。


 でもきっと、後で彼女は自分の取った行動を後悔して、息子に詫びる日が来るのでしょう。 それは事件が解決して、すべてが終わったときかもしれませんね。
 早く和解してくれるといいな。

 
 そしてこのシーン。
 うちの男爵なら無謀にも青木さんの前に飛び出して、彼の代わりにお母さんに殴られて、さらに場をかき乱すんだろうな、と思ったのでした。 
 親子の間に入っちゃいかんよ、男爵。(笑 ←自分の想像に自分で突っ込む)



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「ただいま帰り薪さん会いたかったで痛いっ!!」
 ドアを開けた途端に抱きついてきた大きな身体に遠慮のない拳を入れ、薪は呆れる。挨拶も他の言葉も中途半端になって、崩壊した日本語が聞き苦しい。
 
 2日ぶりに会う恋人にさっさと背中を向けると、薪はダイニングへ向かった。いそいそと後ろを付いてくる青木の気配を感じながら、自分の心臓が高鳴っているのを自覚する。
 慣れないことをするのは緊張する。青木のお母さんに会ったときといい勝負だ。

 冷蔵庫から冷茶を取り出して、氷を入れたグラスに注ぐ。ひとつを青木に渡してやって、もうひとつに口をつけた。カテキンの渋みが舌に心地よい。
「水出し緑茶ですか? 珍しいですね」
 今日のゲストを、青木は知らない。明日になれば知ることになるかもしれないが、薪のほうからは言わないつもりだ。

「青木。出張から帰ったばかりで悪いが、話がある」
 リビングに場所を移して、恋人をソファに座らせる。2時間前までその位置に座っていた女性との約束を果たすべく、薪は口を開いた。

「おまえのことは僕が一生守るから。僕のパートナーになって欲しい」



*****



 2時間前にこのセリフを聞いた彼の母親は、嬉しそうに笑って、しかし困ったように首をかしげた。
「それはわたしじゃなくて。一行に直接聞いてもらえます?」
「えっ? 青木に聞くんですか、これ」
「……普通は、先に本人に聞くものじゃないんですか?」
 だって今更、何をどう言ったらいいのか。

 頬を赤くして俯いてしまった薪の姿に、彼女はクスクスと笑いながら、
「では、今夜一行が帰ってきたら聞いてください。結果はちゃんと報告してくださいね」
 そう言って連絡用のメールアドレスを残し、彼女は帰っていった。今日は新宿のホテルに泊まるとの事だった。明日は息子に会いに来る気でいるのだろう。

 薪は青木の顔を見つめ、彼の返答を待った。
 心臓がバクバクいっている。無理もない、答えが分かっているとはいえ、これはプロポーズだ。結婚という言葉が入らないだけで、実質的な意味は同じだ。

 僕が守るから。僕と一生を共にして。
 僕の人生の伴侶として、死ぬまで一緒にいて欲しい。

 そして返ってきた答えは。

「いやです」
 …………ありえないっ!!

「なんでっ!? おまえ、僕のこと好きだろ?!」
 めいっぱい断定的に訊いてしまった。
 だって、びっくりしたんだもん! まさか断られるなんて、毛ほども考えなかったっ!
 が、それは少し違った。青木の拒否の理由は、別にあった。

「守られるなんて嫌です。オレが薪さんを守るんです」
「はあ?」
 一気に力が抜ける。ソファにへたり込んで、薪は額を押さえた。

「なに寝ぼけたこと言ってんだ。僕の方が年上なんだぞ? 年長者が年下の者を守るのは当たり前だろうが」
「薪さんの方が身体的には弱いです。強い者が弱者を守るのは当然です」
「思いあがるな。柔道なら僕の方がまだ上だぞ」
「いいえ。本気でやれば負けませんよ」
 なんて生意気なやつだ。
 お母さんの言ったとおりだ、こいつはすぐに調子に乗る。この辺で締めておかないと。

「よし、わかった。そこまで言うならこれから決着をつけよう。道着に着替えて道場へ行くぞ」
 薪はソファから立ち上がり、上から目線の傲慢な口調で言い放った。
「覚悟しろよ。負けたほうが守られ役だからな?」
「望むところです」
「分かってんのか? 姫役ってことは、ベッドの中でも僕の下ってことだぞ」
「えっ。……あの、柔道と剣道と射撃の3本勝負で」
「却下」

 なにやら真剣に考え始める青木の青ざめた顔を横目で見て、薪は心の中でにやりと笑った。





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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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10万拍手ありがとうございます!
いつの間にか9歳になってました。( ゚Д゚)
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