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ゲスト(2)

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「ところで、室長さん」
 軽やかな彼女の切り出しに、薪は「はい」と顔を上げた。
 息子によく似た彼女のやさしい笑みに安心を覚えながら、決してこの笑顔を曇らせてはいけない、その頬に嘆きの涙を流させてはいけないと心に決めて、薪は彼女の言葉を待った。

「いったいあの子のどこがお気に召しましたの?」
「ですから、それは今申し上げましたとおり。優秀な頭脳と体術を兼ね備えた人材は、そう簡単に見つかるものではなく」
「まあ、そうなんですか。普通はやさしさとか性格とかが重要視されると思うんですけど、やはり男の方だと選定基準が違いますのね」
「……はい?」
 なんだろう、微妙な会話の食い違いを感じる。てか、すごく嫌な予感がするんだけど。

「昨今では外見とか年収を気になさる方もいらっしゃいますわね。後者はどうかと思いますけど、やっぱり生活を共にするとなると大事なことですものね」
 どうしてだろう、今すぐここから逃げ出したくなってきたんだけど。本能がガンガン警鐘鳴らしてるんだけど!

「いえね、今まで一行がお付き合いしてきた女性の方々は、口を揃えて『やさしいところ』と仰ってたものですから。てっきり室長さんも、同じことを仰るのかと」
 なんか、青木の過去の女性たちと同列に並べられてるような気がするんだけど。僕の気のせい? 気のせいだよね?

「でも困ったわ。一行がそんなに優秀なわけはないし、すぐにボロが出てしまうでしょうねえ。
 室長さん、親バカを承知でお願いします。もしもあの子が室長さんの期待に応えられなくても、見捨てないでやってくださいね。あの子にはもう、あなたしかいないんですから」
 彼女の言い回しに不可解な響きを感じて、薪は恐ろしい予感を打ち消せない。考え過ぎかもしれないけれど、まさかお母さん、僕たちのこと知ってるんじゃ。
 いや、それはないか。知っていたらこんなに平然と、僕と話ができるわけがない。僕は彼女にしてみれば、大事な息子を男色の道に迷い込ませたサキュバスなのだから。

「あの子は本当に、あなたのことが好きなんですよ。どうか、一生面倒見てやってくださいね」
 彼女の言葉を額面どおりに受け取って、薪は「はい」と肯いた。上司として、青木の面倒は見る。青木が自分の部下である以上、それは当たり前のことだ。
 ……でも、一生って……なんかやっぱりおかしくないか?

「ありがとうございます。これで一安心ですわ。この年になると、どうしても保証が欲しくなりまして。かと言って、おふたりには結婚することも籍を入れることもできませんでしょう。だから今日は、室長さんの言質が欲しくて参りましたの」

 ガシャン! と遠くから聞こえたはずの音の原因が、自分の手元で倒れた湯飲みの音だったと分かって、薪はひどく驚いた。あらあら大変、と言いながら手早くテーブルを拭いている青木の母親の姿を、まるで映画のワンシーンのように感じる。
 現実感がない。夢の中の一コマみたいだ。
 カラカラに乾いた唇を亞者のように動かして、薪は訊いた。

「僕と青木のことを、ご存知だったんですか?」
 想像もつかなかった展開に、薪は言葉を吟味する余裕を失くす。もう少し婉曲な訊き方をすべきだったと悔やむが、もう遅い。
 彼女の顔が嫌悪に歪むさまを想像して、薪は心臓が止まりそうになったが、現実の彼女はそんなことはしなかった。それどころかぷっと吹き出すように笑って、
「そりゃあ分かりますよ。あの子ったら、室長さんの話しかしないんですもの」

 アホか―――っ!!!

「いえね、最初は仕事の話やお友だちの話をしてるんですよ。でも、何を話していても、いつの間にか室長さんの話になっちゃうんですよ。
 こないだも仕事で2日も徹夜した話をしていて、『それは大変ね』とわたしが言ったら、大したことない、室長さんは4日も寝なかったって。『室長さんはすごいのね』と言ったら今度は、室長さんがすごいのは根性だけじゃなくて、って延々と自慢話が始まって。だけど無理をしすぎて突然倒れてしまうクセがあるから、すごく心配だ。あのクセだけはどうにかならないものかって」
 クスクスと笑いながら、彼女はおかしそうに息子の様子を話した。

 バカだバカだと思ってきたけど、本当にバカだ、あいつ!この世で一番隠さなきゃいけない相手に、どうしてそんな話をするんだ!
 てか、この人もおかしいよ! なんで呑気に笑ってられるんだ。自分の息子と一緒に住もうとしている恋人が、12歳も年上の男なんだぞ!?

「どうして反対なさらないんですか?」
 その質問は自分がしてはいけないものだと思ったけれど、どうにも我慢がならなかった。だって、不思議でたまらない。自分が彼女の立場だったら、どんな手を使ってでも阻止しようとするだろう。それが普通だ。
 薪の無礼な態度にも、彼女は不快な様子を見せなかった。眉を顰めることもなく、変わらぬ笑顔で薪の質問に応えた。

「一緒に住むことになった、って電話してきたときのあの子のはしゃぎようったら。舞が生まれたとき以上の興奮振りで、あんなに嬉しそうな声を聞いたら、反対なんてできませんよ」
「だけど!」
 どういう気持ちからか、彼女は穏便に事を済まそうとしてくれているのに、何よりもトラブルを恐れていたはずの自分がこんな質問をするなんて、でも、やっぱり訊かずにはいられない。

 自分と青木の関係は彼の親を泣かすことになると、何年もの間悩み続けてきた。幾度も訪れた破局の理由には、いつも少なからず含まれていたその事実。
 今、思いがけなく当人から話が聞ける機会を得て、だったらこの際、彼女の気の済むまで罵ってもらったほうがいい。

「僕が訊くのはおかしいんですけど、でもどうして、僕に抗議してこなかったんですか。彼の気持ちに気付いていたなら、どうして息子さんを諭さなかったんですか。
 ましてや一緒に住むなんて、お母さんにしてみたら耐え難い苦痛なんじゃないんですか?」
「わたしこそ、室長さんにお聞きしたいですわ。どうしてわたしが息子の幸せを苦痛に感じなければならないのでしょう?」
 
 子供の幸せを願うのが親のこころ。
 彼の行く道が暗闇に包まれれば光となって足元を照らし、彼が渇きを覚えれば露となってその喉を潤し、日暮れて一日が終われば歩き疲れた彼の足を休める褥になる。無償で尊い、比類なき愛情。
 だからこそ、許せないことがあるはずだと薪は思う。

「僕の存在が必ずしも彼の幸福を生み出すとは限りません」
 自覚はある。自分さえいなければ、青木には他の人生があったのだ。もっと大らかに、堂々と周囲の人々に祝福される人生が。
「僕は、エゴの強い人間です。以前、彼には総務部長の娘との見合い話が来ていました。例え恋愛感情はなくとも、慈しみの心を持って彼女との生活を営んだほうが彼にとっては実りある人生になるはずだと……思って僕は、でもどうしてもそれを為せずに、彼の幸せを潰しました」
 親戚や友人にも胸を張れる素晴らしい伴侶。その絵図を握りつぶしたのは自分だ。言い訳はしない。

「失礼ですけど、室長さんが仰るのは幸せな人生とは言わないんじゃないかしら。それはそう、楽な人生と言うのだと思います」
 彼女の反論に、薪は目を瞠る。
 「室長さんのような学のある方に、こんなことを申し上げるのは恐縮なんですけど」と前置きして、彼女は言葉を継いだ。

「毎日を面白おかしく暮らすよりも、苦労の中にひとかけらの幸福を見出す、それでこそ幸福の価値が分かるのだと思います。どんなに恵まれた生活も、それが当たり前になってしまったら、幸せを実感できないでしょう?」
 彼女の幸福論を黙って聞く薪に、彼女はにこっと笑いかけて、
「あの子にはそれくらいで丁度いいんですよ。すぐに調子に乗るんだから」
 と、母親らしい一言で締めくくった。

 薪は自分の膝の上で、ぎゅっと拳を握り締めていた。
 彼女に言いたいことがある、だけどそれを言っていいものか、言葉にすることが許されるのか。
 迷いに迷って、薪はやっとの思いで口を開いた。

「僕のすべてをかけて、彼を守ると誓います。彼の人生を僕に預けてください」






テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ゲスト(1)

 本編に戻ろうと思ったんですけど~。
 メロディ12月号の青木さんのお母さんに、カウンターショックを食らいまして。

 10月号の段階で、お姉さん夫婦は絶望的だと思ってたので、青木家の子供は青木さんひとりになっちゃう。 そのたったひとりの息子が薪さんと恋仲になったら、お母さんはどうするかしら、てなことを考えまして。
 原作ではいざ知らず、わたしの脳内ではこうだわ、的なお話を書いてみたのですよ。

 で、12月号を読みましたら。

「うひゃ― ……」 



 原作との乖離が激しすぎて、お目汚しするのもためらわれるのですが、
 でも、今じゃないと公開できない気もするので、晒しちゃいます。



 ふたりが付き合い始めて、6年目のお話です。
 原作とも、現在公開中の本編ともかなりの隔たりがありますが、ご容赦ください。





ゲスト(1)






 ピンポン、と玄関のチャイムが鳴った瞬間、薪は椅子の上で飛び上がる自分の身体を押さえ切れなかった。
 
 この時間に彼女が来訪することは、事前に連絡があった。それは彼女の立場上自然なことで、心理的にはどうしても成したいことだと思われた。だから拒まなかった。だけど、いざその場面を迎えてみると、予想したよりも遥かにうろたえている自分を見つけて、薪は懸命に自分を叱咤した。
 ドアノブを握る手は震えてるし、足はクローゼットへの避難を強烈に誘惑してくる。それらを必死に腹の底に押し込めて、薪はドアを開けた。

 毎日開け閉めしている自分の家の玄関の戸が、ひどく重く感じられた。その重圧に耐えつつ開いたドアの向こうに、彼女は涼やかに立っていた。

「初めまして。青木一行の母でございます」



*****



「愚息が大変お世話になっております」
 穏やかに微笑んで、彼女は深く頭を下げた。短くまとめた黒髪の、つむじがとてもきれいだった。季節は夏の到来を思わせる時期だったが、彼女は着物を着て、汗ひとつかいていない。その動きは着物慣れしていて、美しい立ち振る舞いだと薪は思った。
 
 こちらこそ、と頭を下げて、薪は彼女を中にいざなった。ソファを勧めて、お茶を用意する。整えてあったお茶のセットを持って、リビングの彼女のところへ戻った。
 手が震えないように注意して、来訪客の前に茶菓を置く。毅然とした佇まいの彼女を前に薪は、ぎゅっと心臓をつかまれるような苦しさを味わう。

 大丈夫、上手くやれる。彼女の来訪に備えて草稿は完璧に仕上げた。説明文は暗記したし、常ならしない音読までしてみて、何回も練習したじゃないか。

 自己暗示をかけるように自分に言い聞かせ、薪は口火を切った。
「ゴソソクから」
 ……噛んだ。

 失態に固まる薪を見て、しかし彼女は穏やかに微笑んでくれた。冷たいお茶で喉を潤し、添えた抹茶のパウンドケーキにフォークを入れる。出されたものを遠慮なく食べるところは、さすが青木の母親だ、と妙なことに感心した。
 ケーキの味に満足してくれたらしい彼女は、目を細めて二口目を食べた。笑うと、目元が青木にそっくりだ。この女性が彼をこの世に生み出してくれたのだと思えば、薪にとっては神さまよりも彼女のほうが尊い存在になる。

「ご子息からお聞き及びかと存じますが、彼には私のボディガードを務めてもらうことになりまして。そのために、同居という形式を取りました」
 はい、と頷いて、彼女は室内を見回した。
 彼女の来訪の目的は、これだ。自分の息子がこれから生活をする場所を見ておきたい。一緒に住むという上司に挨拶をしておきたい。母親として、当然の気持ちだ。

「室長さんのボディガードなんて、そんな大層な役があの子に務まるのかと、不安もございますが。どうかよろしくお願い致します」
「ボディガードと言っても、形式的なものです。役職上のこともありまして、数年前からボディガードを付けるようにと上司に言われていたのを、私の怠慢から伸ばし伸ばしにしてまいりました。
 ご子息を選んだのは、彼が長年私に仕えてくれていて、私の性格を飲み込んでくれているのと、武道、射撃、共に優れた能力を身につけているからで」
 上司に提出した上申書に書いた理由をそのまま告げようとして薪は、自分の声の空々しさに泣きたくなる。

 これは事実じゃない。
 でも、本当のことは言えない。

 あなたの息子と僕は男同士で愛し合ってて、だから一緒に住むことにしました、なんて口が裂けても言えない。

「室長さん。遠慮なさらないで仰ってくださいね。室長さんの眼から見て、あの子はどうですか? 人さまのお役に立ててますか?」
「それはもう。彼のこれまでの功績があればこその、この人事です。才覚、実力共に、彼は平均より遥かに優れています。私が保証します」
「まあ。室長さんにそこまで買っていただけるなんて。ありがたいお話です」
「彼の努力の結果です。素晴らしい息子さんですね」

 青木を産んでくれた偉大なひとに、彼の大切なひとに、僕は平然と嘘を吐く。
 この行動は、よくよく考えた結果だ。姑息に隠そうとしているのではなく、不用意な言葉で彼女を傷つけたくないだけだ。

 ……というのは、もちろんタテマエで。

 彼女が真実を知ったら、僕たちは一緒にいられなくなる。青木も30を超えた大人だ、無理矢理引き裂かれることはないかもしれない。だけど、絶対にトラブルは起こる。
 彼女が住んでいるのは北九州。東京には滅多に出てこない。今日さえ乗り切れば、これまで通りの平穏な日々が続くのだ。波風は起こしたくない。ここは完璧に青木の上司役を演じきってみせる。
 卑怯者と言わば言え。僕は今の生活を守りたい。

「いいえ、室長さんのご指導の賜物ですわ。あの子は昔から争いごとが苦手で、だからスポーツも不得手でしてねえ。親元を離れて、立派になったこと……あら、つい親バカ振りが出てしまいましたわ。申し訳ございません」
 たった一人の愛息子、可愛くないはずがない。彼女がこの世で一番愛しているのは、彼をおいて他にない。

「いいえ。堂々と自慢なさってよろしいと思います」
 彼がこの世に生を受けてからずっと、30余年の時を経て、この人は彼に絶え間ない愛情を注ぎ続けてきた。彼を慈しむこと、愛し続けること、理由などない、母親ならそれは当たり前の、でもこの世で一番尊い愛情。
「特に、ご子息の武術の上達には目を瞠るものがあります」
 彼女の長年の愛情が積み重なって、彼はあんなに美しい人間になった。真っ直ぐに伸びやかに、呆れるほど健やかに。僕を惹きつけて放さない彼の魅力は、この女性が作り上げたと言っても過言ではないはずだ。その彼女に対して、恩を仇で返すような真似をしたばかりか、虚言で彼女を騙そうとしている。
 でも、これはお互いのためだ。知らないほうが幸せということは、たくさんある。

「柔道初段、剣道4段、AP射撃5段というのは、私の部下の中でも秀逸で……すみませんっ!」
「はい?」
 訝しげな相槌が聞こえて、薪はハッと我に返る。
「なにを謝ってらっしゃるんです?」
 しまった、声に出てしまった。
 あんまり申し訳ない申し訳ないと思ってたから、つい。

「あ、いえ、その」
 まずい、頭の中真っ白になってきた。パニックになったらお終いだ、何とか切り抜けないと。切り替われ、僕のジョブスイッチ!

 マスコミの答弁や会議の質疑応答は、薪の得意とするところだ。このくらいの切り返しは、眠っていてもできる、できるはず。
「えっとですね、ご子息の転居が事後承諾の形になってしまったことについて、お詫びを」
「あら。それは一行からの連絡が遅れたからで、室長さんに謝っていただくことじゃ」
「そ、そうですね、ええ。お母さんの仰る通りです」
「本当に、あの子はいくつになってもポーッとした子で」
「そうですね、全くその通りで、いえっ! 青木は、あ、いえ、青木、くん、は、やるときはやる男で、特に剣道してるときはカッコよくて、――っ、あ、いや、つまり、えっとその」

 グダグダになってしまった会話を取り繕おうと、力めば力むほどにボロが出る。終いには何も言えなくなって、とうとう薪は俯いてしまった。
 薪はこういうプレッシャーには弱い。これが仕事のことなら、どんな相手にも臆することなく思ったことを堂々と述べられるのだが、こちらの方面のことになると清清しいほどに崩れる。仕事モードのスイッチが入らないと、びっくりするくらい口下手なのだ。
 何とか立て直さなくては、と焦るが、一旦乱れてしまった精神は元に戻らない。あれだけ周到に用意しておいた草案も、殆ど白紙状態だ。確かこの後は青木の姪、つまり彼女の初孫の話をして、彼女の気持ちを和ませる計画だったと、あ、いや、それは青木の結婚話につながりそうだから止めたんだ、代わりに用意した話題はなんだったっけ。……ダメだ、思い出せないっ!

 真っ白になった頭で、それでも薪は考える。

 薪だって、青木の母親にその場凌ぎの嘘を吐くなんて、不誠実な真似はしたくない。できることなら本当のことを話したい。1年前、小野田さんに辛くも認めてもらったように、青木のお母さんにも認めてもらうことはできないだろうか。

 青木と付き合いだしてから6年。昨年の大きな過ちがきっかけになって、僕は、いや僕たちは誓った。僕たちは一生を共にする、生涯のパートナーになったんだ。だから一緒に住もうと思った。それは周りへのカミングアウトと同じことだったから、なかなか勇気が出なくて言い出すのも遅れたけれど。
 確かに普通の男女の関係ではないけれど、僕たちは真剣に愛し合っていて、互いになくてはならない存在だと分かっている。だから、この気持ちは誰に恥じるものでもないと、他人に非難される謂われはないと、例え相手が彼の親だとしても、堂々と言えるものだと――。

 無理ッ! 僕には無理だ、絶対ムリ!!

 どれだけ自分の気持ちに誇りを持ったところで、所詮は自己満足。彼女の悲しむ顔を想像するだけで、それはいとも簡単に崩れ去る。
 やっぱりここは、真実を隠し通すべきだ。彼女と自分たち、双方の平穏のために。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

ハプニング(19)

 ラストです。
 ここまで読んでいただいて、誠にありがとうございました。




ハプニング(19)




 食事の後、軽く飲みに行くという小池たちと別れて、薪と青木の二人は帰途についた。
 自分たちから疑いを招くような真似は決してしない彼らだが、今日は岡部が「青木、悪いが薪さんを送ってやってくれ」とさりげないフォローを入れてくれて、心の中で照れながらも、それに甘えた。
 真実こそわかっていないが、二人の間に何かがあったことは、おそらく第九の全員が気付いている。だから薪が元の溌剌さを取り戻した今日は、お祝いに付き合ってくれたのだろう。

「ったく、あいつら。奢りと聞いた途端に群がってきやがって」
「またそんな言い方して」
 お得意の皮肉で仲間の好意を否定する薪を嗜めようとして青木は、滅多に見られない彼の表情を見て口をつぐむ。
 幸せそうな、素直な笑顔。薪にもちゃんと分かっているのだ。

 辺りはすっかり夜の帳が落ちて、街灯や店の明かりが眩しく輝いている。通り過ぎる車のライトに目を細めて青木は、先日の出来事を思い出していた。

 日曜日のモニタールームで、二人は初めて自分の身体とキスを交わした。互いの指を絡ませた両手を肩の横に置き、何度も角度を変えて重ね合わせた。
 しっかりと絡んだ舌の甘さに酔いしれたとき、それが起きた。ジンと頭が痺れるような感覚がふたりを襲い、ライトに照らされたように辺りが明るくなった。目を開けたら、互いの姿が見えた。
 ふたりとも、何故か驚かなかった。それを不思議とも思わなかった。
 ああ、戻ってきた、と思っただけだった。

「これで鏡を見なくても、あなたに会える」
 薪は珍しく、うん、と素直に頷き、ふたりはもう一度、甘いキスを交わした。

 薪の舌の甘さと濡れたくちびるの感触を思い出し、青木は彼が欲しいと思う気持ちを止められなくなる。幸い、周りには誰もいない。信号待ちで立ち止まった彼の小さな耳にくちびるを寄せ、青木はこっそりささやいた。
「あの。今夜、いいですか?」
「ダメだ」
「オレ、もう1月もお預け食ってるんですけど」
 即決で返ってきた拒絶に、青木はつい非難めいた口調になる。
 短い間とはいえ青木の身体で生きてきた薪には、彼の気持ちも逼迫した状況も良く分かっていたが、ここはもう少し我慢させないといけない。薪にも考えがあってのことだ。理由は言えないが。

「どうしてですか? せっかく元に戻れたのに。昨日も、もう少しだけ待てって。いつまで待てばいいんですか」
「7月29日の午後14時34分22秒までだ」
「……なんでそんなに明確なんですか?」
 この日時の49日前に、彼女の死亡が確認されたからだ。

 あれは自分の脳が作り出した幻だったと、薪は確信を持っているが、それでも念には念を入れておくべきだ。
 青木には言えない。彼女と交わした会話は、青木には秘密だ。
 だから薪は、また小さなウソを吐く。

「キスで元に戻ったんだぞ? セックスなんかしたら、また入れ替わっちゃうかもしれないだろ。この不安定な細胞が全部生まれ替わるまで、おあずけだ」
「そ、そんなあ……」
 青木警視の苦悩の日々は、つづく。




―了―




(2010.6)




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ハプニング(18)

ハプニング(18)




「何をやってんだ、おまえら!! 」
 ほぼ一月ぶりに響いた室長の怒号は、第九全体を揺るがすような威力だった。

「今井、宇野! 何処に目をつけてるんだ!! モニターは四角形だぞ、三角形のつもりで見てるのか? だからこんな見落としをするのか?」
「小池、おまえの頭の中には何が入ってるんだ、豆腐か? 耳から熱湯注ぎ込んで頭ン中湯豆腐にされたくなかったら、さっさと証拠を見つけろ!」
「青木、それっぽっちの書類を作るのに、よくそれだけの時間を費やせるな? 文字を一つ一つドット画で書いてるのか? 10分以内に提出、できなかったらドット画のゲームキャラにおまえの顔をビジュアル変更してやるぞ、この拳で!」
「曽我、いつまで同じ画を見てるんだ、面で見ろ、面で! なに? できない? 人間ならできるはずだ。昆虫以下か、おまえの頭は!」

 溜まりに溜まったストレスを一気に発散させるかのように、薪の暴君ぶりは凄まじく、主にその被害を受けるはずの後輩は何故か今日は集中攻撃を免れて、室長の罵詈雑言は全職員に平等に降り注いだ。
「うひゃー、薪さん全開だな」
「ここんとこ静かだったのに。やっぱり平和は長く続かなかったか」
「だからずっと眠ってりゃいいんだよ、あのひとは」
「聞こえてるぞ、曽我、小池!」
 怒鳴りつけられて、二人はヒッと首をすくめる。室長の地獄耳を舐めるなよ!
 
 薪の激励に煽られた彼らは、いつもの数倍の熱心さで与えられた仕事に取り組む。死に物狂いで職務に励む部下を見るのは気持ちがいい。顔色が紙のように白いことと眼が血走っていることを除けば、なんて理想的な職場だろう。仕事意欲に溢れている。
 熱心さでは引けを取らないが、ひとりだけ普通の顔をしている部下がいる。副室長の岡部だ。岡部には、どうも薪の睨みが効きにくい。裏の顔を色々と知られているせいだ。ここは攻撃の方向を変える必要がある。

「岡部。昇任試験の勉強はしてるんだろうな?」
「は、はい! やってますとも!」
「じゃ、これ。僕が作った模擬テスト。やってみろ」
「ひ―――っ!!」
「なんだ、その情けない悲鳴は」

 数式の並んだテスト用紙を見た途端、部屋の誰よりも青い顔になってだらだらと汗をかき始める岡部を見て、薪は我慢しきれずにクスクス笑い始めた。
 薪の笑いに気付いて、他の職員たちもこちらを見ている。コワモテで警察官の経験も長く、滅多なことでは動じない岡部のうろたえる姿に、悪気のない失笑が洩れた。
 薪はしばらくの間、笑いながら岡部の様子を見ていたが、やがてきれいな手を問題用紙の上に被せて、やさしく言った。
「それは宿題だ。家に帰ってからゆっくり考えろ」

 岡部の顔がほっと緩み、次いで嬉しそうに破顔した。
 それは今、苦手な数式から解放されたことによる単純な喜びではなく。薪が薪らしく、元気でパワフルに職務に邁進する姿を久しぶりに見ることができた、それに対する心からの喜び。他の連中も、きっと同じ気持ちだと薪は確信する。

 僕は僕のまま、ここにいていいんだ。

 ふと目を落としたPC画面の右下の時刻表示を見て、薪は時計を確認した。18時20分。
「岡部、晩メシ食いに行かないか。銀洋亭のスペシャルディナーなんかどうだ」
「珍しいですね、薪さんが洋食なんて」
「たまにはいいだろ。僕が奢るから。おまえらもどうだ?」
 振り向いて、全員に声を掛ける。付いてくるのは青木ぐらいだと解ってはいたが、平等に誘わないと不自然だからな。
 しかし。

「やった、薪さんの奢りっ!」
「お供します!」
「ご馳走さまです!」
 俄かに活気付くモニタールームの空気に、誘った薪の方が怯んでしまう。なんだ、この食いつき方。
「オレ、2人前食べてもいいですか?」
「ずるいぞ、青木。じゃ、俺、デザートにマンゴープリンいいですか?」
「フルーツパフェ食ってもいいですか?」
 半分、ノリで言ってみただけなのに、奢りと聞いたらこいつら。

 薪を中心に、わいわいと喋りながらエントランスを出た第九職員たちは、正門の手前で一人の男に呼び止められた。焦げ茶色の髪をお洒落に流した警視庁きってのモテ男、竹内警視だ。天敵であるはずの薪ににこやかに笑いかけながら、こちらに向かってスマートに足を運んでくる。
「室長。これ、DARPAの資料です。あれから色々調べてみたんですよ、この施設の研究内容とか。良かったらどうぞ」
 薪に向かってA3サイズの封筒を手渡す。かなり厚みがあって、重かった。
「DARPA?」
 竹内がどうしてそんなものを持ってきたのか、薪は見当もつかなかった。
 押し付けられた封筒の中身の頭だけを引き出して確認し、その枚数にちょっとびっくりする。これだけの資料を集めるのは大変だっただろう。こんなムダなことをしているヒマがあったら、指名手配犯のひとりでも捕まえたらどうなんだ。

「何の嫌がらせですか?」
「え。いや、こないだ興味がありそうだったから」
 こないだ、と聞いて青木に目を走らせる。眼鏡の奥の眼がウロウロしている。なにか、やらかしてくれたらしい。後でとっちめてやる。
「ダーパでしょう? 最先端科学を速やかに軍事技術に転用する目的で創設されながら、国費を使って空想に近い研究ばっかりやってるトンデモ施設ですよね。国費を浪費している、第九と同じだって言いたいんですか?」
「ち、違います! 確かにここはユニークな研究をしてますけど、俺は決してそんなつもりでは」
「失礼。これから部下たちと食事に行くので」
 威嚇するような低めの声と氷の壁で竹内の言葉を遮って、薪は仲間の輪の中に戻る。残された竹内は、呆然と立ち尽くすしかない。

「……やっぱりあれは夢だったのかな」
「すみません、竹内さん。本当にごめんなさい!」
 謝罪の声に気付いて竹内が我に返ると、第九の新人が頭を下げている。
「なんでおまえが謝ってんの?」
 おかしなやつだ、と竹内は思い、「置いてかれちまうぞ」と彼を急かして仲間の元へ走らせた。青木の大きな背中が第九の輪に溶け込むのを何となく見ていた竹内は、自分と同じ目的で彼らを呼び止めたもうひとりの男に気付いた。

「薪くん。こないだの資料、役に立った?」
 警務部長の意味ありげな視線に、薪はすっと仲間から離れて間宮の側に寄って行った。その様子を見て、竹内は薪の身を案じる。岡部が睨みを利かせているから間宮も滅多なことはしないと思うが、それでも心配だ。
 ふたりはコソコソと秘密めいた会話をしていたが、やがて間宮が大きく頷き、薪の腰に手を伸ばした。以前の薪なら5秒で蹴り飛ばしていたが、こないだの薪は辛そうに震えていた。あんな薪を見るくらいなら、査問会覚悟で間宮をぶっとばしても―――。

「そっか、上手く行ったんだ。じゃ、ご褒美に、ぎゃんっ!」
 ……3秒だった。

「さすが室長、素早い反撃だな」
「蹴りが鋭くなったよな」
「間宮部長も可哀相に」
「そうかあ。ああすればよかったんだ……」
 ひとりだけズレた会話をしている仲間たちの中に薪がようやく収まって、彼らは歩き始める。室長を中心としたその輪は、活気と明るさに満ちて、梅雨空を吹き飛ばすかのように楽しげだった。



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ハプニング(17)

ハプニング(17)




 日曜日の第九研究室は、ひっそりと静まり返っていた。
 MRIの電源が落とされているため、ハードディスクの音もファンの回転音もない。青木の釈明を聞く場所として薪がここを選んだのは、他人の耳を気にしたのと、彼なりの考えがあってのことだった。

 モニタールームに入って薪が真っ先にしたのは、キャビネットの中に設えた簡易式の神棚から鈴木の写真を下ろすことだった。それを室長室に持って行き、すぐにモニタールームに戻ってくる。
「室長室じゃなくていいんですか?」
 てっきり室長室で話をするものと思っていた青木は、意外そうな顔で疑問を口にした。モニタールームは廊下のドアから直結だから、間にドアがある室長室のほうがより安全と言える。彼の意見は尤もだと思われたが。
「室長室はダメだ」
 薪の机の一番下の引き出しには、鈴木のアルバムが隠されている。彼の目があるところには、彼女は出て来れない。

 青木の席に座り、薪はぎこちなく足を組む。慣れない長足を、薪は少々もてあましている。
「で? 言い訳があるなら聞こうか」
 あのノートを見た今では、薪の中に青木の不実を疑う気持ちは残っていなかった。青木は、自分を裏切るような真似はしない。

「あの。怒らないで聞いてもらえます?」
 ……怒られるようなことなのか?
 こいつやっぱり、いやまさか、だけどああでもっ。

 ぐるぐると渦巻く疑問詞が頭の中から漏れ出ないように懸命に自分を抑えて、薪は拳を握り締めた。事と次第によっては、殴るぞ。
「内容による」
 薪が冷たく返すと、青木は俯いてため息を吐き、細い膝に乗せた小さな手を組み合わせた。それから恐る恐る顔を上げ、薪のほうを見て「本当のことを言いますから、怒っても殴らないでくださいね」と取引を持ちかけてきた。第九に入って3年、交渉術も達者になった。
 わかった、と頷いて薪が了承の意を示すと、青木は安心したように話し始めた。

「薪さんて、すごくモテるじゃないですか。薪さんから声を掛けたら、みんなホイホイついてきますよね。その、大人の付き合いまで了承の上で」
 それは決してお世辞でも尾ひれの付いた武勇伝でもなく、純粋な事実だった。青木が薪の口で誘いをかけた相手は、見事百発百中、約束の場所に来た。男も女も、独身者も既婚者も、呆れるくらい簡単だった。薪の性質がここまで淡白でなかったら、彼の人生はもっと華やかな恋愛関係に彩られていたことだろう。
「大人の付き合いって……まさかおまえ、僕の身体で軽はずみなことを」
「いえ、逆です。いくら想ってくれても無駄だから、二度と手紙は送ってこないでくださいって言っちゃいました」
 呼び出した人々に、青木はきっちりと引導を渡しておいた。薪本人の口からはっきりと、将来を誓い合ったひとがいる、と彼らに伝えたのだ。相手の名前は濁すしかなかったが。

「なんでこないだ、そう言わなかったんだ? 僕はてっきりあの娘とおまえが、その」
「え? 話の内容を聞いてなかったんですか? あの距離なら、聞き取れたはずですけど……そうか。オレの耳じゃ聞こえないんですね」
 初めてそこに気付いた、というように、青木は軽く手を打ち合わせた。
「本当に、薪さんは目も耳も特別製ですね。よっぽど神さまに愛されて生まれてきたんですねえ」
 青木はそれをとても嬉しそうな口調で言い、「さすがはオレの薪さんです」とわけのわからない自慢をした。

「僕があそこにいるの、解ってたのか」
「薪さんが木の後ろに隠れたときから、全部見えてました。オレの身体は大きいから、あの木じゃ目隠しにはなりません」
「知ってて、彼女と抱き合ったのか?」
「あー、すみません。一度だけ抱きしめてくれたら諦めるって言われて。キスを求められたら断リましたけど……あのとき、薪さん黙って見てたじゃないですか。オレは薪さんに話が聞こえてると思ってたから、口を挟んでこないって事はさっさと済ませて彼女を追い払えってことなんだろうと思って」
 ショックで動けなかったんだ! それくらい解れよ!

「すみません、勝手なことして」
 なるほど、それで怒らないでください、か。
 他人に来たラブレターの相手を呼び出して、本人の意向も聞かずにその返事をしたのだ。本人に無断で、広がるかもしれなかったパラダイスをぶち壊したのだ、怒られて当然だ。
 が、それは普通の男の場合だ。せっかくお膳立てしてもらっても、その関係を維持できる体力も時間も薪にはないし、その気もない。ラブレターに関しては、数も多いし返事をするのも面倒で、ほったらかしていたのだ。きちんと断ってくれて良かったくらいだ。それに、青木は自分の恋人だ。全く権利が無いとも言いきれない。
 しかし。

「どうしてそんなことを」
 青木は、薪が自分宛てのラブレターを読み捨てているのは知っているはずだ。読んだ後の手紙をシュレッターに掛けるのは、青木の仕事だからだ。なのに、どうしてそんな面倒なことをしたのだろう。

「オレ、正直言うと心配でたまらなかったんです。薪さんにラブレターを送ってくる人たちの中には、オレなんかより素敵なひとは沢山いたし。ていうか、薪さん本当は女性の方がお好きでしょう? だから、陰でこっそり浮気してるんじゃないかって」
「ば……っかじゃないのか! 僕がそんなことするはずないだろ!」
「だって、薪さん異様に薄いから。もしかしてオレ以外の人ともしてて、だから欲しがらないのかなって」
「ちがう! 僕は根っから薄いんだ。若い頃から3ヶ月に1ぺんくらいしかその気にならなくて、だから女の子も本当は2,3人しか」
 しまった、口が滑った。青木があんまり馬鹿なことを言うから、トサカに来て、つい。

「そうなんですか?」
 ええい、こうなりゃヤケだ。

「風俗入れても3人しか知らない。一人は僕の初めての女性で、名前も知らない。もう一人は、おまえと一緒に行ったソープに昔勤めてた人で、風俗はこの二人。普通の女性で身体の関係まで持ったのは一人だけ。でも、彼女はもう、この世にいない」
 青木は、その彼女のことを雪子から聞いている。鈴木と別れた後に、寂しさを埋めるためだけに付き合っていた。薪がそのことを、とても後悔していることも。

「疑ってすみませんでした。あなたの身体に入って、あなたの美しさを改めて知って、オレなんかが薪さんを独占できるわけはないって、そう思っちゃったんです。
 だから、戻れなくてもいいって、チラッと考えてしまいました。だって、オレがこの身体に入っていれば、そんなことは防げる。完全にあなたの行動を掌握できる、独占できる」
 バカなやつだ。僕はとっくにおまえのものなのに。でなきゃ、この僕が男とあんなことするか。基本が解ってないんだ、こいつは。まあ、そこが可愛いんだけど。

「それだけじゃない。オレの思うままに、どんなことでもさせられるし……」
「どんなことでもって」
「あ、だからその、薪さんが絶対にしてくれないこととか、あるじゃないですか。色っぽい下着をつけてくれるとか、スケスケのナイトウェアを着てくれるとか。そういうことを鏡の前で」
 人の体で何してくれてんだ!! このドヘンタイっっ!!
「色目を使いながら服を脱いでくれるとか、エロいポーズで誘ってくれるとか」
 青木との約束も忘れて、薪は咄嗟に拳を握り締めた。
 鉄拳制裁、性犯罪被害者の怒りを思い知れ!!

「オレのこと、愛してるって言ってくれるとか」

 顔面5センチのところで、大きな拳が止まった。呆れ果てたため息と共に薪は拳を開き、椅子にどっかりと腰を下ろした。
「虚しくなかったか、それ」
「ええ、まあ。興奮が冷めると、ガックリきました」
「バカ」
「……反省してます」
 とりあえず、青木の釈明は済んだ。
 これで今日ここに来た目的の半分は達成された。ここからが、本当の勝負だ。

 西園冴子との決着。
 彼女の脳データはMRIシステムに保存されている。だから薪はこの場所を選んだのだ。
 彼女の要求どおり、ここで薪が『理想の自分』になって見せれば、元に戻れるかもしれない。可能性は低い、というか、そもそもあれは夢だ。だから、これは自分の身体を取り戻すための試行錯誤のひとつというよりは、自分自身に決着を付けたいだけかもしれない。
 正直に言うと、MRIの神さまを騙ったあの死刑囚が求める解答がどんなものかは分からない。それでも、自分の理想に近付く努力は怠ってはならない。日々精進するのが人間の在り方だ。

 自分のなりたい自分になる、そのために必要なのは勇気と理想に近付く努力。
 薪の理想は、強く、たくましく、男らしく。大事なひとを守れる力、しっかりと身体に通した信念。努力に努力を重ねて手に入れてきたそれらを、これからもっとレベルアップする気でいる。

 そして自分に欠けているのは。
 前へと進む勇気。

「これはおまえの口であって、僕の口じゃない。だから、僕から聞いたことにはならないかもしれないけど」

 細い膝の上に置かれた小さな手を握る。青木の半分ほどしかない、薪の手。細くて女のように繊細で、でもその手に託されたものの何という重みだろう。今までこの手が支えてきた重みを、薪は誇りに思う。
 
「僕はおまえが好きだから。誰よりも好きだから」

 薪は青木を、自分の顔をじっと見る。
 亜麻色の大きな瞳、その澄み切った美しさ。この瞳を曇らさないように、清浄を保てるように、僕は精一杯の努力をする。鈴木が僕に遺してくれた僕の純真、僕が心から笑うために必要な僕の中核。それを守れるのは僕しかいないのだから。

「だから、自分に戻りたい。おまえが愛してくれる僕に戻って、おまえに愛されたい。おまえを愛してる僕に戻って、おまえを愛したい」

 冴子が自分と青木を入れ替えた本当の理由に、薪はひとつの答えを出していた。それはこの珍現象に納得の行く説明をつけて、冴子という特殊な要因がなければこんなことは二度と起きない、そう信じたい薪のこじつけに過ぎなかったが。
 彼女は、僕に脳を見て欲しかった。だから、自分の脳を見ることに決まっていた青木の身体に僕を入れたんだ。
 あれだけの大罪を犯してやっと学んだ彼女なりの真理を、僕に伝えたかった。自分と同じように過去に囚われてもがいている僕に、後ろばかり見て今目の前にある大事なものを見失おうとしている僕に、一番大切なのは何かを気付かせたかった。
 でっかいお世話だ、超ド級のお節介め。てか、死刑囚の脳に心配されるって、どんだけだ。

 目の前の小作りな美貌が、ふわりと微笑む。周りのすべての生物を癒すような、そのやわらかさとあたたかさ。
 よく覚えておいてくれ、僕の細胞たち。僕がその身体に戻っても、こんなふうに微笑めるように。

「今の、戻ったらもう一度言ってくれます?」
「やなこった」
「お願いします、薪さんの声で聞きたいんです」
「自分で言ったらいいだろ。鏡の前で」
「ええ~……」
「いいから、目つぶれ」
 ふっくらとした頬に両手を添えて上向かせ、薪は咲き初めの薔薇みたいに開きかけた彼のくちびるに、自分のくちびるを重ねた。小さな舌を捕らえて吸い、突き、角度を変えてさらに深く。

 吐息と共にくちびるを離して、薪は呟く。
「なんか、ヘンな感じだ。自分で自分にキスしたみたい」
「オレもです」
 額を合わせて手を握り、指と指を絡める。ぎゅ、と握り合ってもう一度キスをした。

 そして――――。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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