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天国と地獄3 (2)

天国と地獄3 (2)





 新橋駅から歩いて10分の築8年になるマンションの5階。岡部はここに、母親と二人で住んでいる。はずだった。

「…………えっ?」
 予想もしない事態に、薪は固まる。目と口をポカンと開けたまま、蝋人形のように硬直してしまった。
 7年前に警察官であった父親を亡くし、独りになってしまった母親の面倒を見ている、と薪の人事ファイルには記してある。だから、間違っているのは自分の眼のほうだ、と薪は思った。雨に打たれて熱でも出たらしい、幻覚を見ているんだ、きっと。

「あらあら、靖文さんたらびしょ濡れですのね。まあ、そちらの方も。どうぞ、お風呂を使ってくださいな」
 準備万端に整えていたらしいタオルと温かい風呂で彼らを迎えたのは、年の頃20代後半、フワフワした薄茶色の髪を少女のように背中に流した、あどけなささえ残る女性だった。

「岡部。このファンシー系の美女はどちらさま?」
「なんでいるんですか!?」
 大きな声で薪の質問を遮った岡部は、その厳しい詰問口調とは正反対のやさしい手つきで彼女からタオルを受け取り、ひとつを薪の頭に、もうひとつを自分の頭に載せた。髪を拭きながら靴を脱いで部屋に上がり、薪の眼から彼女を隠すように、彼女を一番手前の右側の部屋に引っ張っていった。

 玄関口に立ち尽くしたまま、薪はショックで動けなかった。
 あれが岡部の恋人か。なんてことだ、めちゃくちゃ可愛いじゃないか。端から見たら美女と野獣だが、しっかりファーストネーム呼びしてるし、それに、お風呂を使ってください、なんて言葉が出てくるところを見ると、彼女はかなり頻繁にこの家に出入りしている。もしかして、結婚も近いんじゃないか?
 岡部のやつ、それならそうと言ってくれないと、新婚旅行のときとかシフト組むのが大変なのに、いやいや、そんなことよりどうして僕に一言の相談もなくこんな。

 少なくとも、薪は岡部のことを友人だと思っていた。でも、岡部は……自分が思っているほど、岡部は自分のことを友人だとは思っていなかった、ということか。
 そのことに軽いショックを受けて、薪は俯く。
 第九の室長と副室長として、何年もコンビを組んできて、他の職員には鬼の室長と敬遠されても、岡部のことだけは頼りにし、心を開いてきたつもりだったのに。

 やがて彼らの間で交わされる会話が、薪の耳に自然と入ってきた。
 岡部が彼女を連れ込んだ部屋にドアはなく、間仕切りは入り口に下げてある小花柄の暖簾で為されていたおかげで、中の会話はハッキリと聞こえてきた。もともと地声が大きい岡部は、ナイショ話が不得手なのだ。
「どうしてここにいるんです。今夜は同窓会だって、今朝言ってたじゃないですか」
 今朝? 今朝も一緒だったのか? もしかしなくても昨夜から? な、なんてうらやまし、いや、ふしだらな。
「わたくしだって、楽しみにしていたんですのよ。それが急な頭痛で」
「……雨で出かけるのが面倒になったんですね?」
 岡部が決め付けるような言い方をしたその後、わずかに沈黙が降りて、続いて岡部の呆れたようなため息が聞こえた。
「ったく、あなたって人は。雨くらいでドタキャンなんて、同窓会を取りまとめてる幹事さんの身にもなりなさい。料理の手配とか席順とか、急に欠席者が出ると大変なんですから」

 オヤジ臭く説教を始めた岡部に、薪は少しハラハラする。
 そんなきついことを言って、嫌われちゃうぞ、岡部。いくら結婚を約束した相手だからって、今から亭主風吹かすのはまずいだろう。

 心配になって薪は、初めて訪れた他人の家に家主の承諾も得ずに上がりこむという暴挙に出た。
 この眼で様子を見て、険悪になるようだったら止めなければいけない。岡部の幸せのためだ。遠洋訓練中の海軍兵士並みに女性に縁のない岡部のこと、彼女を逃したら生涯独身だと断言できる。

 薪は短い廊下を進み、岡部たちが姿を消した右側の部屋の前に立った。ファンシーな暖簾の隙間から中を伺う。
 そこは、ごくありふれた家庭のリビングだった。ソファに並べてある濃桃色のクッションや窓辺に飾られたクマの人形など、居住者の年齢を考慮するとかなり違和感があったが、母親の趣味なのかもしれない。
 フリル付きのカバーに包まれたソファの前で、二人は立ったまま向き合っていた。岡部の恋人は小柄で痩せていて、大柄な岡部と比べると、一層幼く見えた。

「ごめんなさい。でもね」
 岡部の叱責に素直に謝罪し、彼女は床に屈んだ。直ぐに立ち上がって岡部を見上げた彼女の腕には、小さな猫。貧相にやせ細って、首輪もついてないし、雑種のノラのようだ。
「下まで降りたら、この子がずぶ濡れになって泣いていたものですから」
 彼女の弁護をするように、子猫が『にゃ~ん』と愛くるしく鳴いた。
「何度言ったら分かるんです、うちでは猫は飼えません」
 今の時点で彼が持ち得る最大の武器であろうそれを存分に発揮して挑んできた子猫に、岡部は冷たかった。彼の言葉と態度から、彼女との間でこの類の会話が交わされるのは初めてではないことがわかった。
「捨ててきなさい」
「そんな。まだ、こんなに小さいのに」
「俺は猫の面倒が見られるほど、暇じゃないんですよ。あなただって、お店があるでしょう? 世話もできない人間にペットを飼う資格はないんです」

 ずい分、厳しい言い方だ。
 子供を叱ってるわけじゃあるまいし、もうちょっとソフトにしないと。「なんてやさしいんだ、君は女神のようだ。でも僕たちには猫の世話は無理だから、残念だけど」とか言っとかないと、今夜のベッドは断られちゃうぞ?
 その台詞を口にしたら世の中の女性の9割はドン引く、という事実を恋愛経験の少ない薪は知らない。

「岡部」
 岡部の楽しい夜を守るために僕が一肌脱ごう、と決意し、薪は部屋の中へと一歩を踏み出した。
「さっきから聞いてれば、言いすぎじゃないのか? こんな美人相手にそんな言い方」
 とりあえず、褒めとけ。
 自分の恋人を褒められれば男は悪い気はしないから、岡部もきっと態度を軟化させると思った。しかし、岡部は厳しい顔つきのまま薪の方を見て、
「美人は関係ないでしょう」
「なに言ってんだ、彼女に失礼じゃないか。胸がちょっと寂しいから僕の好みじゃないけど、顔はかなりのハイレベルだぞ? ここで逃したら一生後悔す……いやその」
 まずい、本音が。

「その人とどういう関係なのか知らないけれど、岡部にとって『大切な人』なんだろう?」
 薪が確認の意味で尋ねると、岡部はらしくもなく頬を赤くして、
「ち、違います! いや、違わないですけど違います、ていうか、そこは違わないといけないところなんです!!」
「おまえ、日本語が崩壊してるぞ?」
 おーおー、かわいいな、照れちゃって。

「あらあら。わたくしったら、靖文さんのお友だちにご挨拶もせずに。失礼いたしました」
 引き換え、彼女の方は冷静だった。
 部下の未来の妻になるであろう彼女の沈着に、薪は好感と安心感を抱く。彼女なら、第九のハードな業務をこなす夫を労わり、安らがせ、癒してくれるに違いない。充実した家庭生活は、クオリティの高い仕事を為すための必須要件だ。室長として、ふたりのことは全面的に応援しよう。何なら、明日岡部は昼出勤にしてやっても。

 100万回馬に蹴られても済まないような究極のお節介を薪が申し出ようとしたとき、彼女はすっと薪にその頭を下げ、未婚女性にしてはひどく落ち着いた口調で、薪を恐慌の渦に叩き込んだ。

「初めまして。靖文の母でございます」






テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

天国と地獄3 (1)

 こんにちは。

 こちら、『天国と地獄』シリーズで書いたんですけど、なぜか内容が岡部さんの話に……。
 実は本編の方で、岡部さんの好きなひとについて幾つか伏線を張っておいたのですが、(『仮面の告白』とか『ファイヤーウォール』あたり) 回収しきれなくなりまして。(^^;  
 暴露しますと、回収しようにもあまりに絶望的な恋路なので、本編では絶対に悲恋になる、ので、ハッピーエンド主義者の筆者には荷が重く。 苦し紛れに、何でもありのこちらで回収を目論んでみました。
 
 男爵カテゴリにしても悲恋に違いはないのですけど、こちらはギャグなので~、
 笑っていただけるとうれしいです。(^^ 


 あ、それと、こちらリハビリ第2作目で、文章がかなりぎこちないです。 ストーリーもギャグもいまいち☆
 どうか、広いお心で。


 


天国と地獄3 (1)





 地球温暖化の影響かオゾン層の破壊か、とにかくあまり慶ばしくない環境問題が原因であろうと察せられる暴力的なまでの集中豪雨。『ゲリラ豪雨』という名称も聞き慣れて久しいが、その名のごとく、こちらに準備をする間も与えず突然襲い掛かってくるのが特徴だ。

 慌てて逃げ込んだ店舗の軒下で、岡部靖文は恨めしそうに空を見上げていた。
 人間相手なら怖いものなど無い岡部だが、自然現象には勝てない。自分ひとりならともかく、連れを雨に濡らすのは避けたかった。
 彼は岡部の横で、同じように空を見上げている。こんなところで時間を無駄にしているのが腹立たしいのか、一向に弱まる気配のない雨脚に軽く舌打ちして、
「最初の雨粒が地面に落ちて、3分もしないうちにずぶ濡れなんて。ここまでくると自然現象というよりは、兵器だな」
 積乱雲に突拍子もない言いがかりをつけているのは、岡部の直属の上司だ。仕事が引けて、一杯飲みに行こうと目当ての小料理屋への道すがら、この集中豪雨に見舞われて雨宿り中、というわけだ。

「確かに、ここまで勢いがつくと雨粒も痛いですね」
 苦笑しつつも上司の意見を否定することはせずに、岡部は相槌に近い言葉を返す。
「相変わらず、面白いこと考えますね」
「できないことじゃないだろ? ヨウ化銀やドライアイスを用いて、人工的に雨を降らせることは可能だ。ヒートアイランド化している都市の上空に限定してばら撒けば、簡単にこの現象を起こせるはずだ」
「だれがやってるんですか、そんなこと」
「ロケ○ト団あたりじゃないか?」
 岡部が子供の頃に流行ったアニメの悪役の名称が出て、岡部はそこでやっとそれが薪の冗談だったことに気付く。このひとは真面目な顔で小難しい冗談を言うから、本気と冗談の区別が付き難いのだ。
「見てたんですか? ポケ○ン」
「あはは、やっぱり岡部は話が通じるな。こないだ青木に言ったら、ぜんぜん通じないんだ。12歳も違うと、思い出のアニメも違うんだな」
 苦笑いをして下を向き、華奢な肩を竦める。細い首を左右に振ると、亜麻色の髪から水滴が飛び散った。

 薪の向こう側で同じように雨宿りをしているサラリーマンの2人組が、ちらちらとその様子を見ている。片方の男が、もう一人の男にそっと目配せしたのに気付いた岡部は、雨の中を一歩踏み出した。
「いや~、お互い参りましたね、この雨で……」
「ええ、まったくですな」
 隣の男に声を掛けられたことに気付いた薪が顔を上げるより早く、岡部は薪とその男の間に滑り込んだ。薪の代わりに至近距離で応えを返してやると、2人組はじりじりと後ずさり、何を思ったかゲリラ豪雨の中を走って行ってしまった。

「ひゃー、本物のヤクザ、初めて見たよ! やっぱ迫力あるな」
「あの娘、清純そうな顔してヤクザの情婦かよ。人は見かけによらないな」
 ちょっと待て、禁句を発して消えるのはやめてくれ! とばっちりはこっちに来るんだぞ!

 先刻、人間相手なら怖いものはない、と岡部は言ったが、ひとつだけ例外がある。この上司だ。
 先ほどの2人組が勘違いしたように、彼の見てくれはスーツを着ていてすら女性に間違われてナンパされるほどの優男だが、中身は猛禽獣だ。怒るととてつもなくコワイ。本気で怒った薪に見据えられると、岡部は身体が動かなくなる。
 そして、彼の最も危険な逆鱗が『女性に間違われること』なのだ。

 恐る恐る振り返ると、意外なことに薪は平気な顔をしていた。不思議そうに首を傾げて、
「どうしたんだ? あの二人」
 どうやら、彼らの捨て台詞が聞き取れなかったらしい。雨音のおかげで命拾いした。
「この雨の中を、あんなに急いで」
「さあ。ポケ○ンの再放送でもあるんじゃないですか?」
 薪の疑問を、岡部は冗談で煙に巻く。真実は言えない。岡部だって、まだ命が惜しい。

「あのう」
 控え目な声掛けに、岡部は再び焦燥する。
 一難去ってまた一難、続いて薪に声を掛けてきたのは、さっきまで岡部の隣にいた大学生風の若い男だ。
「よかったらこのタオルを使っ、ひいっ!!」
「ありがとうございます、使わせていただきます」
 再び薪の前に回り込み、男子学生からタオルを奪い取る。顔を近づけ、相手の目を見てきちんと礼を言い、取調室で鍛えた低く野太い声で、
「洗濯してお返ししますから、ご住所とお名前を」
「か、返さなくて結構ですからっ!!」
 お化けでも見たような真っ青な顔になって、男子学生は雨の中へ消えて行った。消え去る間際に言い残した言葉が、
「やべー、美人局って本当にあるんだー」
 とうとう犯罪者だ。

「……あの人も、ポケ○ン見に帰ったのか?」
「ええ。そうらしいですね」
 白々しい岡部の言葉に、クスクスと笑い出す薪を見て、彼らの間違いは彼らだけの咎ではないと岡部は改めて思う。
 雨に濡れた薪は扇情的だ。
 つやつやした亜麻色の髪から滴る水滴が、真珠色の頬を流れ落ちる。その水玉たちが行き着くのは細い首筋、それからボタンを外した胸元だ。広げた襟から、きれいな鎖骨が覗いている。蒸し暑い夏の夕暮れ、ネクタイを取ってしまっているのも、彼が女性に間違われる要因のひとつになっている。
 さらに、仕事中はギンギンに張り詰めている人を寄せ付けないオーラが、プライベイトの薪には感じられない。特に岡部や自分の部下たちと共に過ごすときには、和んだやさしい雰囲気になる。その分、他人からも声を掛けられやすくなるのだ。

 きりがない、と岡部は思った。
 今のところ薪は、自分が連続で女性に間違われていることに気付いていないようだが、いずれ本当のことを知るだろう。が、その怒りは間違いを犯した彼らには向かない。薪は警察官だから、一般市民に対して危害を加えるような真似は絶対にしないのだ。
 しかし、彼の怒りが消えるわけではない。どこかで発散しなければならない。
 こういう場合、ほぼ100%の確率で怒りの捌け口となるのは、自分たち部下だ。

「冗談じゃねえぞ」
 非常事態だ、と岡部は思う。
 雨が小止みになって、目的の小料理屋に行ったとしよう。薪が暖簾をくぐった途端店中の注目を集めて、その抜きん出た容姿でもって彼らの視線を固定し、さらには絶世の美女と自分のような無骨な男との関係を面白おかしく推測されて、それを薪が耳にしようものなら、明日の太陽が拝めるかどうか。
 きちんとスーツを着たいつもの薪ならそこまでの心配は要らないが、今日の薪はそうなる確率が大きい。雨が止んだら飲みに行くのは諦めて、家に帰らせよう。

 命の危険を感じている岡部の隣で、薪は濡れた前髪をかき上げた。
 それは、鼻先に落ちかかる水滴を後ろに流そうとしているだけのことなのに、何を思ったか隣の店舗で雨宿りをしていた連中がこちらの軒下に移ってきて……。

 雨が止むのを待っている猶予はない、早いところ薪を人目に付かないところに避難させないと。
 いったいどこへ、と考えて、岡部は一番最初に自分の家を思い浮かべ、直ぐにその案を却下した。家には母がいる。彼女を薪に会わせるわけにはいかない。
 しかしそこで岡部は今朝、母親と交わした会話を思い出す。彼女は今夜、同窓会で遅くなると言っていた。ならば、薪を自宅に招いても何の問題も起きないはずだ。

「薪さん、俺の家に来ませんか。ここから走って3分くらいです」
「え?」
 苦し紛れの岡部の提案に、薪はきょとんと眼を丸くして、
 ちょっ、ダメですってば、あなたがそんな顔するもんだから、向かいの店舗の連中までこっちに走ってきたじゃないですか。

「いや、濡れたままだと風邪引きますから」
「ありがとう、岡部。シャワーを貸してもらえると助かる。雨でシャツが張り付いて、気持ち悪かったんだ」
 あー、ほらほら、そんな、湖から出てきた女神様みたいに微笑んだりしちゃダメですって。斜向かいの店舗の連中までどよめいてるじゃないですか。てか、シャワーに反応して薪の横で鼻血出した男の顔、警視庁のブラックリストに追加決定。

「じゃ、行きますか」
 二人はひょいと鞄を横にしてそれぞれの頭の上に乗せると、斜向かいの店舗から走ってくる男たちを尻目に、未だ弱まらない雨の中を駆け出した。




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天国と地獄2 (3)

天国と地獄2 (3)




 翌日の夕刻。
 部下たちが帰宅した後、岡部は室長室へ向かった。気乗りはしないが仕方がない。最後の希望とまで言われては、何のアクションも起こさずにいるわけにはいかない。

「薪さん。ちょっといいですか」
 執務席に向かって熱心に書類を読む薪に、岡部は控えめに声をかけた。薪が顔を上げて、岡部に微笑みかける。進行中の事件がないときの薪は、比較的穏やかだ。
「どうした?」
「青木のことなんですけど」
「あいつ、またなんかミスったのか?」
 すぐに仕事に結びつく。薪にとって、青木はまず部下だ。そこから切り離さなくては。

「いえ、違います。その……仕事は抜きにして、薪さんは、青木のことをどう思ってらっしゃるんですか?」
 鋭い人間なら、このセリフで察するものだが。まあ、薪には無理だろう。
 予想通り、薪は色事とは無縁の快活な笑いを浮かべ、
「あいつ、世界びっくり人間ショーとか中国雑技団とか、いけるんじゃないか」
「はあ?」
 予想もしない答えを返してきた。

「こないだ、熱いコーヒーが足にかかってるのに、まるで平気だったんだ。熱さを感じないらしい」
「それは、どういう状況で?」
「風呂から上がって、キッチンに水を取りにいったんだ。そしたらそこで、青木が自分の足にコーヒーを注いでた」
 風呂から上がったら、薪はいつも素っ裸だ。青木はそれに見蕩れていたに違いない。
「寒いのも感じないみたいだぞ? いつだったか雪山でコート脱いで、僕に着せて」(←『ラストカット』)
 あれはあなたを助けようとしたんでしょうがっ!!
 報われない後輩の境遇に、涙が出そうになる。青木、このひとだけは止めた方がいいぞ、と岡部は、無駄なアドバイスを胸中で呟かずにはいられなかった。

「もしかしたら、ナイフとか飲めるかも」
 止めてください! 青木はあなたの命令なら本気でナイフ飲みますよっ!!
「口から火を吹く大技もマスターできるかもしれないな」
「青木は不器用ですからね。自分が火だるまになっちまうんじゃないですか?」
「火だるまか。あいつ、背が高いからな。見ごたえありそうだなっ」
 そんな、サーカスを観にきた子供じゃないんですから、目をキラキラさせないでくださいよ……。 

 このひとだけは絶対に止めた方がいい、命にかかわるぞ青木、と心の中でもう一度忠告してから、岡部は青木との約束を果たそうと言葉を継いだ。
「青木の特技はともかく、仕事は頑張ってるでしょう? 日曜出勤とか残業とか、全然嫌がらないし。毎日遅くまでモニタールームに残って自主学習してるし。何故だと思います?」
「何故って。一生懸命に仕事をするのは当然のことだろ?」
「それはそうですけど。でも一番の理由は、あなたに認めて欲しいからです」
「まあ、人事査定は僕の仕事だからな」
「違いますよ!」
 岡部は思わず、声を荒げた。あの努力を査定のためと誤解されたら、青木があまりにも可哀想だ。

「そんないやらしい気持ちじゃないですよ。青木は薪さんのことが好きなんです」
 しまった、匂わすだけでいい、と言われていたのに、ハッキリと口に出してしまった。この言葉は自分で告げたかっただろうに、悪いことをしてしまった。
 何とかフォローが効かないかと、岡部が薪の様子を伺うと、薪は赤くなることも照れることもなく、平然とした顔で読み終わった書類を揃えていた。

「驚かないんですか?」
「驚く? なんで?」
「なんでって……普通はびっくりしませんか? 好きとか言われたら」
「そんなの当たり前だろ。僕はあいつの直属の上司なんだから」
 いや、青木の気持ちが当たり前だったら、人類はとっくに滅びてますから。生物学的に。
「僕だって、捜一にいた頃は羽佐間さんのこと大好きだったし、今だって直属の上司ってわけじゃないけど、小野田さんのことは尊敬してるし、大好きだぞ」
 ……よかったですね、いい上役に恵まれて。理想の上下関係ですね

「岡部だって、僕のこと好きだろ?」
「いや、違います。あのですね」
「え、違う? 岡部、僕のこと好きじゃないのか」
 青木が薪のことを好きだ、と告げたときより、ずっと驚いた顔をして、薪は岡部を見た。哀しそうに眉尻を下げて、ひどく沈んだ顔になる。

「他の職員には嫌われても仕方ないと思ってきたけど、岡部までそんな……おまえにだけは、本音で話してきたつもりなのに」
「いや、そうじゃなくて! 好きですよ、俺は薪さんのこと尊敬してます!」
 薪の様子に焦りまくり、岡部は当初の目的から遥かに遠ざかったセリフを叫んだ。それは青木に頼まれたこととは激しく食い違っていたが、彼を責めるのは酷というものだ。薪の幼げな美貌を向けられて、亜麻色の大きな瞳をうるうるさせて、思い詰めた表情で見られたりしたら、地獄の閻魔だって彼を慰めずにはいられないだろう。

「本当に?」
「本当ですよ。俺がおべんちゃら苦手なの知ってるでしょ。でも、青木のやつは、俺とは違った意味であなたのことを」
 岡部が誤解を解こうと普段は言わない本音を吐くと、薪はぱあっと笑顔になった。
「よかった。岡部にだけは嫌われたくないと思ってたんだ」

 普段はあれだけ皮肉屋でへそ曲がりなくせに、どうしてときどき豹変するんだろう。これは青木じゃなくても持っていかれる。ガチガチノーマル派の岡部には効かないが。
 青木のような感情を持ち合わせていなくても、薪のこの笑顔を誰よりも望んできたのは岡部だ。薪が笑ってくれると、岡部は本当に嬉しいのだ。

「じゃ、今日はもう帰っていいぞ。お疲れさん」
「はい、失礼します」
 薪の笑顔に釣られるようにニコリと笑って、岡部が部屋から出て行った後、薪は書類に向かって呟いた。
「ん? 青木が何とか言ってたような気がするけど……ま、いいか」

 薪の笑顔にいなされて岡部が室長室を出ると、すぐさま青木が駆け寄ってきた。岡部が持ち帰る成果を楽しみにしていたであろう彼は、期待に目を輝かせて、せっつくような口調で岡部に問いかけてきた。
「岡部さん、どうでした?薪さん、オレのこと意識してくれそうですか?」
「世界人間びっくりショーを目指して修行に励めとさ」
「????」

 疑問符の渦に飲み込まれた青木を置き去りにして、岡部は帰り支度をする。
 青木には悪いが、このままにしておいたほうが、薪は幸せかもしれない。青木の気持ちを知らないからこそ、あんなふうに楽しくやっていられるのだ。知ってしまったら態度も変わるだろうし、悩みも増えるに違いない。
「青木、あの人のこと諦める気は」
 振り返ると、今いたはずの場所に青木の姿はなかった。ぐるりと頭をめぐらせて、その長身を室長室の戸口に見つける。
 室長室から出てきた薪と、何か話している。若く張った頬を紅潮させて、黒い瞳を恋をするもの特有の熱っぽさにきらめかせて、口元をだらしなく緩ませて。
 ……何を言ってもムダか。

「岡部さん、薪さんが3人で食事に行きましょうって」
 本体から離脱して空中を舞う青木の魂が見える。食事に誘われたくらいで、そんなに嬉しいのか。
 痛々しいまでに純朴な後輩の様子を見ていると、岡部はまた迷ってしまう。薪に悩みを増やすのは不本意だが、こいつの気持ちも何とかしてやりたい。
「俺は今夜は遠慮します。おふくろを食事に連れて行く約束してるんですよ」
 意味ありげに青木に視線をくれてやると、青木は岡部の気遣いを悟ったらしい。ぺこりと頭を下げて、胸の前でぐっと拳を握って見せた。

「そっか、残念だな。じゃ、青木。『瑞樹』でいいか?」
「はい! オレ、薪さんとならどこでもいいです!」
 薪が一緒なら、コンビニの握り飯を公園のベンチで食べたって、青木には最高のごちそうなのだろう。こんなにひたむきに思われているのに、薪ときたら。可哀相に、青木のやつ。

「そうだ、青木。メシが済んだら、日曜日に行けなかった所、今夜行こう」
「……イメクラですか?」
 連れ立って廊下を歩きながら、隣で交わされる会話に、岡部は思わず涙ぐみそうになる。青木、どこまで不憫なやつなんだ。
「違う、海の見える公園。帰りに車から見えて、寄りたかったけど時間がなくて諦めただろ?あそこの夜景はきっと、すっごくきれいだぞ。おまえとふたりで見たいと思ってたんだ」
 ……薪さん、計算してます? それはいわゆる、ツンデレってやつですよね?
 
 というか、薪の気持ちがいまひとつ分からない。普通、夜景を見るのに男を誘うか?しかも、『おまえとふたりで見たかった』とか平気で言ってるし。自覚はないけど、青木のこと好きなんじゃないのか、このひと。
 青木が女の子に囲まれてたときも不機嫌になってたけど、あれは自分よりモテる男に嫉妬したんじゃなくて……て、まさかな。

「あれからずっと楽しみにしてて……何してるんだ?青木」
 男相手に恋愛が成立するはずがないと信じ込んでいる薪には、青木がどうして壁に突進して額をコンクリートに打ち付けているのか分からない。
「もしかして、新しい芸か? 額から血が吹き出てるのに、痛くないのか? スゴイな、おまえ!」
 だから、その期待に満ちた目で青木を見るのは止しなさいよ! 青木がどんどんおかしな方向へ突っ走って行くじゃないですか!

 口元をむずむずさせて、薪は青木を見上げた。長い睫毛をゆっくりと瞬かせて、青木に投げたのは一撃必殺の上目遣い。
「青木。おまえ、火吹ける?」
「はい!」
「止めろ、青木。死ぬぞ」
「ナイフ飲める?」
「はい!」
「止めろ、青木。本当に死ぬぞ」
 この先、薪に恋心が伝わったとして、果たして青木は五体満足でいるのだろうか。
「こういう場合って、労災になるのかな……」
 近い将来必要になるかもしれない厄介な事務手続きを憂いて、第九の副室長は深いため息を吐いた。


(おしまい)



(2010.7)



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天国と地獄2 (2)

 みなさん、連休いかがおすごしですか? 楽しまれてますか?
 
 昨日は、16回目の結婚記念日でして。
 連休中はそのお祝いも兼ねて、毎年オットと小旅行に出かけていたのですけど、今年は余震が続いているので、家に一人お義母さんを残すのが怖くて、旅行はやめました。

 その代わり、一昨日、サファリパークに行って来ました♪ 
 自分のペースで動ける動物園と違って、あまり長く同じ場所に留まれないのが難点ですが、(←ひとつの柵の前に20分は居座るやつ)
 動物達が自由に動き回っているところがいいですね~。 
 水鳥と鹿が仲良く遊んでいたり、ラマとアルパカが並んで歩いていたり。 動物の種類ごとに柵を区切ってしまう園では見られない光景に、癒されまくりました。

 朝早く出かけたので、かなり時間が余りまして、それから牧場を回ったんですけど。
 馬に乗りまして、(←周りが子供ばっかりでかなり恥ずかしいのを我慢すれば楽しい、てか乗ったらやみつき)
 ロバと戯れまして、(←なつこい。 岩になった気分でじっとしてると肩に頭を付けてくる)
 ヤギと羊にもみくちゃにされました。(←エサに突進してくる)

 動物系のテーマパークは、うちのあおまきさんの定番デートコースなので、きっとこんな感じなんだろうなー、と微妙にずれたことを考えつつ、お休みを満喫してきました。
 気持ちが残っているうちに、あおまきさんの楽しいデートの様子でも書こうかな。

 でも、公開中のお話はこんなん↓(笑)




天国と地獄2 (2)




「聞いてくださいよ、岡部さん。薪さんたらヒドイんです」

 週の最初のアフターから後輩の愚痴に付き合わされて、岡部はげんなりしていた。
 後輩が持ち込んでくる相談といえば、仕事のことか職場の人間関係についての悩みと相場が決まっているのだが、この後輩に関しては、ほぼ100%特定の人物との人間関係だ。それは確かに彼らの共通の上司のことだったが、仕事とも職場とも、何の関係もない。実にプライベートなことだった。

「オレ、すっごく楽しみにしてたんですよ、昨日のデート。それなのに」
 上司と二人で出かけることを『デート』と表現していることからも解るように、青木は何年も前から薪に惚れている。仕事上の悩みなら一緒に解決策を模索することもできるが、恋愛問題、しかも成功確率マイナス値の恋となれば、これはもう、どうやって諦めさせるかに尽きる。

「電車の中では前の席に座った女の子の胸元、じーっと見てるし、モーターショーの会場ではコンパニオンの生足に釘付けだし」
「だから前にも言っただろ? 薪さんは見てくれはああだけど、中身は普通の男だって」
 何度も諦めろと忠告したのだが、この男は見かけによらず頑固者で、一向に岡部の忠告に耳を貸さない。男同士ということもあるが、それ以上に薪という男には、色々と問題があるのだ。

「わかってます、それだけならオレだって泣き言は言いませんよ。でも薪さんたら、イベントコンパニオンのコスチュームに刺激されたみたいで、帰りにイメクラ寄って行こうって……あんまりです!!」
 薪の性格を知っている岡部には、それが純情な年若い部下を揶揄しての冗談だと分かったが、青木にしてみれば恋をしている相手に風俗店に誘われるなんて、大きなショックだろう。しかも自分とのデート中に。
「どーしてホテルじゃなくてイメクラなんですか!?」
「いや、そこでホテルもおかしいだろ」
「おかしくないです。ホテルによってはサービスで、色んな制服を置いてるところも」
「……おまえが着るのか、それ」
 外見と中身の離反が激しい薪が、女物の衣装に身を包むことなどあるはずがない。それくらいは心得ていたのか、青木はウィスキーのグラスを持ったまま固まった。

 肘をついて掲げたグラスより下に頭を下げて、青木はテーブルの上にため息を落とした。青木の息が掛かった場所から、どろどろと淀んだ空気が漂ってくる。
「だから、あのひとは止めとけって言っただろうが」
「そんなこと言われたって……好きなんですよぉ。自分でも、どうにもならないんです、薪さんは男のひとだって分かってても、諦めきれないんですぅ……」
「問題はそこじゃないだろ、あのひとの場合」
 相手が同性だという理由だけで、青木の恋にストップをかけてきたわけではない。岡部は、そんな了見の狭い男ではない。
 時代が進み、同性間の恋愛についても理解が増して、その感情を昔ほどひた隠しにしなくても良くなっている現代、薪のように「普通の男は男に恋なんかしない」と思っている方が時代遅れなのだ。

「あのひとの頭の中に、おまえが恋愛の対象として自分を見ているっていう意識がカケラもないのが一番のネックなんじゃないか。まずはそこからだろ。もっと、恋愛感情を表に出してだな」
「これ以上、どうやって表現しろって言うんですか? オレ、あのひとに好きだって何回も言いましたよ。でも軽く受け流されるばかりで、しかもそのたびに仕事が増えていくし」
 自分を好きだと言う部下に対して、「そうか。じゃ、これ頼む」と書類を押し付ける薪の姿が簡単に想像できて、岡部は引き攣り笑いを浮かべた。
 薪らしい、らしすぎる。上司として尊敬されていると信じて疑っていないのだ。

「言葉がダメなら、行動で表したらどうだ。デートに誘うとか」
「その結果がイメクラでした」
 そうだ、青木はちゃんと行動もしているのだ。
「じゃあ、もう一押し。抱きしめてみるとか」
「やりました。2秒で投げ飛ばされました」
 薪は柔道の有段者だ。素人の青木を投げ飛ばすくらい朝飯前だ。柔よく剛を制す、この武術に体格差は関係ない。

「『柔道の稽古をつけて欲しいのか』とか言われて、その後、道場で1時間もしばき倒されて」
「ああ、面倒臭えなあ。いっそのこと、唇でも奪っちまえば」
「それはイヤです。気持ちも伝わっていないうちに、そういうことはしたくないです」
 それぐらいやらないと、薪には伝わらないのに。薪も薪だが、青木も青木だ。ふたりとも、自分のポリシーに執着するタイプなのだ。

 青木はしばらく考え込んでいたが、やがて意を決したように、岡部を真剣な眼で見た。
「岡部さんから、言ってもらえないですか?」
「俺が?」
「はっきり伝えなくていいんです、匂わせてくれるだけで。岡部さんに言われれば、薪さんだって真面目に考えてくれると思うし、そうなればオレの言葉も正確に伝わるはずです」
「どうだかなあ」
 正直、あまり自信がない。どんなに複雑に絡み合った人間関係でも、それが事件の背後にある限り、瞬く間に看破してみせる薪だが、我が身に降りかかると途端に鈍くなるのが彼の特徴だ。相手が女性ですら中々気付いてもらえないのに、同性ともなれば言わずもがな。

「お願いします。岡部さんが最後の希望なんです」
 それでも、こうして頭を下げられれば嫌とも言えない。あんまり期待するなよ、と渋く承諾してやると、青木は頭を上げて、その日初めての笑顔を見せた。




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

天国と地獄2 (1)

 こちら、男爵シリーズ『天国と地獄』の続編でございます。
 書いたのは、10ヶ月ほど前です。(お古ばっかですみません)

『天国と地獄1』を未読の方にご説明いたしますと、
 このお話では、あおまきさんは恋人同士ではありません。
 薪さんは完全ノーマル設定で、原作の青木さんのように、男が男に恋をする感覚が理解できません。 当然、鈴木さんと恋人同士だった過去もありません。(←ここを外すのは迷いました) 
 青木くんはがっつりヘンタイで薪さんにメロメロですが、(←ここだけは外せません) ノンケの薪さんは彼の気持ちに気付いてくれません。 
 そのあたりのすれ違いやとんちんかんな言動に焦点を当てた、ギャグ小説です。

 うちの話で、青木くんが告ったときに実力行使しなかったらこうなってたかも的なパラレルとして書いてみました。
 男爵カテゴリなので、薪さんのカンチガイっぷりはMAXになっております。 いっそバカと言ったほうが、いえその。


 どうか、広いお心で。


 





天国と地獄2 (1)


「お疲れ様でした」
 ゴール地点から500m程の位置にある選手たちの休憩スペースに入ってきた上司の姿を見つけて、岡部は彼に声をかけた。
 薪は片手を上げて岡部に応え、しかし言葉を発することは能わずに、息を弾ませながら岡部の隣に腰を下ろした。休憩スペースといっても、研究所の中庭をロープで区切っただけのもの。薪が座ったのは、当然芝面の上だ。
 袖なしのランニングシャツから覗いた華奢な肩が、大きく上下に動いている。その動きは彼の肺の激しい収縮から伝わる余波で、のけぞった顎から首に流れる汗は、彼の懸命の努力を証明する。
 上を向いて、薪はハアッと大きく息を吐いた。芝生の上に仰向けに寝ころがり、両手を太陽にかざして、悔しそうに叫ぶ。
「ああっ、くっそー! 青木なんかに負けた!」
 その雄叫びの原因がひとりの男に由来するものだと理解して、岡部は思わず吹き出した。

 抜けるような青空が広がるも、凍てつく空気の冷たさに外出が躊躇われるような2月の日曜日。警視庁警察庁合同の持久走大会が開催された。
 基本的に参加は自由で、コースは皇居と日比谷公園周囲の道路。距離は約20キロ。
 身体を鍛えることは警察官の責務だ、と認識している岡部と薪は毎年参加しているのだが、3年前から第九の若い捜査官がそのメンバーに加わった。薪が負けた、と口惜しがっているのは、その彼のことだ。

「岡部、僕はもうダメだ。人間としてお終いだ」
「持久走で負けたくらいで大げさな」
「だって、相手は青木だぞ?」
「無理ないですよ。青木のやつ、スタミナ付きましたからね。今年は俺だって冷や冷やしましたよ」
「青木のくせに生意気な。2年前は2キロも走れなかったのに、いつの間にあんな」
 ぴたりと口を閉ざして、薪は冷ややかな視線を前方に送った。
 話題の後輩が、10人くらいの女子職員に囲まれている。彼女たちは青木の周りに群がり、色とりどりのタオルやスポーツドリンクなどで自分をアピールしようと躍起になっている。

「モテるようになりましたよね、あいつ。男らしくなったし。やっぱり武道に親しむと、一本芯が通りますからね」
「どこが男らしいんだ。ニヤニヤしやがって。軟派ヤローが」
 薪の辛辣な言葉は、現況にまるで合っていない。青木はニヤけてなどいないし、どちらかというと迷惑そうな素振りさえ見える。
 次々と差し出されるタオルも、自分のがあるから、と断っているし、スポーツドリンクにも手を伸ばさない。笑みを浮かべながらも固い態度は崩さずに、挙句の果てには「すみません。休ませてもらえますか」とかなりキツイ一言を放って、彼女たちを追い払った。
 それを見ていた薪は、ふん、と鼻を鳴らすと、
「硬派気取りか。本当は嬉しいくせに」
「……どっちにせよ、気に入らないんですね」
 薪は、自分より女の子にモテる男が好きではない。捜査一課の竹内のことを嫌っているのも、彼が自分より女性に人気があるから、という要因がかなりのウエイトを占めていることを岡部は知っている。

 ベスト10に食い込んだ岡部の後輩は、俯いて嘆息すると、肩の力を抜いてその広い背中を開いた。よく知らない女子職員に集団で来られて、大分緊張していたらしい。
 ふと頭を巡らせた青木が、岡部の姿を捉えた。
 軽い微笑を浮かべた青木の目が、次の瞬間キラキラと輝き出すのを見て、岡部は彼が自分の隣で胡坐をかいてそっぽを向いている上司の姿に気付いたことを知る。岡部たちの周りには走り終えたばかりの走者が大勢いて、彼らの中に埋もれてしまう小さな姿を見つけるのは困難と思われたが、青木の目は特別製らしい。

「薪さん!」
 青木は弾んだ声で薪の名を呼ぶと、さんざん悪口を言われていた本人のところへ、満面の笑顔で駈けてきた。先刻の女の子たちに向けていた態度とは雲泥の差だ。
「薪さん、ベスト10に入りました! 約束、覚えてくれてますよね」
「知らん」
「えええ!? ひどいですよ! 10位までに入ったら、デートしてくれるって、鼻の骨が折れそうですけど薪さんにされることなら平気ですっ」
 薪が勢いよく青木の顔面にめり込ませたプラスチックの容器から、甘酸っぱい匂いがする。どうやら中身はレモンの蜂蜜漬けらしい。

「もう、乱暴なんだから……ん、美味しいです。薪さん、今日のお弁当なんですか?」
「おまえのなんかあるわけないだろ。岡部と僕の分だけだ」
「ええ! だって、今日は楽しみにしてろって、耳が千切れそうに痛いですけど薪さんの指がオレの身体に触ってくれるのは嬉しいですっ!!」
 目的のためには手段を選ばない薪の人並み外れた行動力のおかげで、会話を始めて2分も経たないうちに青木の顔にはいくつもの傷がついている。自分がいると、それがさらに増えていきそうな予感がして、岡部は小さな嘘を吐く。

「俺はいいです。お袋が作ってくれましたから」
「そうなのか?なんだ。じゃあ、犬にでも食わせるか」
「意地悪ばっかり言わないで、オレに食わせてくださいよ。なんでそんなにつんけんしてるんですか?」
「薪さん、ヤキモチ妬いてんだよ。おまえが女の子に囲まれてたもんだから」
「え?本当ですか。薪さんが、ヤキモチ?」
 背の高い後輩の耳元で、こっそり真相を教えてやると、青木は何故か嬉しそうに笑って、ぐっとガッツポーズを取った。
「ヤキモチだなんて……くっ! 薪さんて、本当にかわいい……!」
「違うと思うぞ、青木」

 ベスト10に入ったことより遥かに満足そうな青木の様子に、岡部は呆れながらもお約束の突っ込みを入れる。 青木の勘違いに苦笑する傍ら、そのいたいけな気持ちを応援してやりたいと、お人好しの岡部は思う。
 だから岡部は顔見知り程度の捜一の後輩に声をかけ、その男と一緒に昼食を摂りたいと薪に頼み込む。自然の流れで中庭に歩いていくふたりの後姿を、岡部は苦笑交じりに見守った。



*****



「薪さん、何位でした?」
「……26位」
 少し口惜しそうに唇を尖らせて、ぼそりと薪は白状した。
 参加した人数は200人を超えているし、現役の警察官ばかりの大会だから、それだって立派な数字だ。青木が初めて参加した3年前なんて、順位は三桁だった。

「年々、順位が下がってる。やっぱり年には勝てないな」
 薪の顔に似合わぬ台詞にはすっかり慣れて、今更突っ込む気も起こらない。実年齢に合った発言でも、このひとの場合は外見が外見だけに、耳にした者は失笑を禁じえないのだが、薪に対する特別な感情からか青木はまた受け取り方が違って、まるで小さな子供が大人の真似をしてオマセなことを言っているような可愛らしい印象を受けてしまう。だからついつい微笑んでしまって、それが薪の不興を買うのだ。
「僕はもともと、スプリンターなんだ」
 確かに、薪のスタートダッシュは猛烈だ。400m走では勝てた試しがない。

「それで薪さん。来週の日曜日、幕張メッセで自動車の展示会が」
 薪のお手製のミートボールを口に入れて、そのやさしい味わいに目を細めつつ、青木は自分が考えたデートプランを薪に説明する。薪は自然のものが好きだから、帰りに海沿いのH公園に寄って、それから磯料理が自慢の店で夕食をとって、それからそれから、できれば友人から脱却するためにそういう雰囲気を作って、今度こそ告白を。
「仕事が入らなきゃな」
 熱心な青木とは対照的に、薪の言葉は素っ気無い。なんだか少し、機嫌が悪いような気がする。

「ていうか、僕なんかよりさっきの娘たちの中から、誰か誘った方がいいんじゃないのか?」
「どうしてそんなこと」
「おまえが純情で女の子に声を掛けられないのは知ってるけど、いつまでもそんなことじゃ困るだろ」
「オレが他の女の子とデートしても、薪さんは平気なんですか」
「いや。それは僕だって、心中穏やかじゃないけど」
 薪の素直な言葉を聞いて、青木は嬉しくなる。さっきもヤキモチを妬いて、と岡部が言っていた。嫉妬という感情は、好意があってこそだ。

「雪子さんのことを考えるとな。なあ、青木。もう一度、彼女のこと考えてみてくれないか?」
 ……こっちですか。

 途端に口の中のミートボールの味が分からなくなって、青木は力なく箸を持った右手を膝の上に載せる。薪は青木の気持ちには全然気付いてくれないばかりか、雪子と自分をくっつけたがっている。
 親友の恋人だった彼女に、薪はどうしても幸せになってもらいたい。そう思って、自分が見込んだ将来有望な恋人候補の男性を次々と雪子に紹介しているのだが、雪子の方はかなり迷惑している。薪の気持ちを思うと無碍にもできないが、正直これ以上のお節介は止めてもらいたい。雪子が青木のことをはっきりと薪に断らない裏側には、彼女のこんな本音が隠されている。「青木くんとのことをきちんと考えたいから、友人の紹介は中断して」という雪子の言い訳を真に受けて、青木のことをかき口説いているというわけだ。

「オレにはその気はないです」
「だけど、よく考えてみろ。おまえが女性の中で、唯一平気で話せるのは雪子さんだけだろ? 彼女以外の女性と付き合うより、ずっとスムーズに行くと思わないか」
 別に、女性が苦手なわけではない。薪に余計な誤解をされたくないから、喋らないようにしているだけだ。
 年長者ぶった薪の説得に、青木は心の中で反論する。口に出してはいけない想いが、青木の心とくちびるを固く凍りつかせる。

「たしかに彼女はおまえより12歳も年上だけど、女性の方が平均寿命は長いんだぞ。若い娘の方がいいっていうおまえの気持ちもわかるけどな」
 そんなこと、一言も言ってないじゃないですか。オレは12歳年上のあなたが好きなのに。
「広い心を持った年上の女性を妻にしたほうが利口だぞ。この職業についた男にとって、家庭は安らげる場所じゃないとな」
 そんなもの、いらないです。オレはいつでもあなたと一緒にいたい、切なくても苦しくてもいいから、あなたがいいんです。

「オレのことより、薪さんはどうなんですか? 見合い話、片っ端から断っちゃって。ひとに結婚を勧めるなら、まずはご自分が実践されたらいかがです?」
 実行して欲しいとは露ほども思っていないが、とにかくこの話を終わらせたくて、青木は薪に自省を促した。素直に頷かれても困ってしまうが、しかし青木には、薪が次に何と答えるか、解っていた。

「僕はいいんだ」
「じゃあ、オレもいいです」
「そんなわけにいくか。あのな、青木。警察官僚ってのは40までに結婚しないと出世に響く」
「オレは、女の人といるよりもあなたといた方が楽しいんです」
 あ、しまった、口に出ちゃった。
「まあ、気持ちは解るけどな。何のかんのいっても、男同士の方が気楽だよな。気取りも見栄もいらないから、落ち着くし」
 いえ、今も心臓バクバクいってるんですけど。
 ていうか、今のセリフで気付かないって、この人どんだけ鈍いんだっ!

 薪にはどうも、男が男を性愛の対象として好きになる、という感覚が理解できないらしい。薪に言わせると「そんなことはありえない」ことで、「そういう気持ちを持つのは特殊な人種だけ」だそうだ。偏見に満ちた薪の定義は納得できないこともない。青木も薪に恋をする前は、全く同じことを思っていたからだ。
 だからはっきりと、「オレは薪さんが好きです」と言ったとしても、それは友人としての好きとしか受け取ってもらえない。言葉で理解してもらえないなら行動で示したいところだが、きちんと意思が伝わらないうちにそんなことを仕掛けるのはためらわれるし、嫌われる要因になりかねない。薪は「特殊な人種とはお近づきになりたくない」と明言しているからだ。

 男なら誰でもいいわけではなく、というか、薪以外の男なんか気持ち悪い、だけど薪とだけはそういう関係になりたい。
 青木のこの複雑な心情を薪が理解してくれるのは、遥か先のことと思われた。



*****


 恋人同士になる前の二人を書くのは、とっても楽しいです。
 青木くんがひたすら薪さんのことを追いかけている様子が、3巻までの彼らを彷彿とさせるからです。 
 ……よくぞ帰ってきた、青木。(感涙)


テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

いただいちゃいました♪

 
 コハルビヨリさんに、イラストをいただいちゃいました♪

 ずっと以前に描いてもらったものなんですけど、このたび当ブログへの掲載許可をいただくことができたので、公開しちゃいます。
 こんなきれいなもの、独り占めしたらバチが当たるもん。


 まずは、ちょびっと季節は過ぎちゃいましたが、桜の中の薪さん。
 うちの薪さんなので、ちゃんとネクタイを締めてます。


yokan.jpg
 
                     『 予 感 』

 コハルさんによりますと、こちらは、

 青木さんに恋をする前の薪さんです。
 桜舞い散る春の風に、これから起こる何かを感じて、ふっと空を見上げる。 そんな一瞬を切り取ったもので、青木くんとの未来を予感している場面です。
 
 
 薪さんの瞳とくちびるが、ありえないくらいきれいだと思います
 桜はうちのあおまきさんにとって、始まりの風景であり、(青木くんが薪さんに最初に恋をしたのは桜の下でした) 恋人同士になる直前の告白の舞台でもあり、とても大事なアイテムで・・・・・・・・すみません、イラストのイメージを小説で壊してます、すみません。 





 続きましてこちら、
 拙作全体のイメージイラストとして描いていただきました。

 一番の理解者だった鈴木さんを殺めてしまい、真っ暗闇の人生を歩んでいた薪さんを、青木さんが救いあげる、というシチュエーションだそうです。
 後ろのきれいなお月さまは鈴木さんで、
 薪さんは青木さんにも鈴木さんにも守られているんだよ、というコハルビヨリさんの愛情がたっぷり詰まってます。



gekkkou.jpg

                      『 月 光 』 



 ふたりの間にある何とも言えない空気が、その甘やかさが、揺るぎない想いが、伝わってきます。
 そして、彼らを見守る鈴木さんの化身のような月の光が、温かく二人を包み込む。
 ・・・・・・・・・・・さいこー・・・・・もう、言葉がありません。


 こんなきれいな絵を一記事にするのはもったいないので、トップ固定してあります「はじめまして」の記事の追記に追加して、いつでも見られるようにしておきますねっ。


 コハルさん、ありがとうございました。
 うちの話はこんなにステキなイラストをいただけるような、ロマンチックな話じゃないんですけど(^^;
 ギャグだし、薪さんはオヤジだし・・・・・・本当にすみません・・・・・・。

 コハルさんの美麗イラストに相応しいブログになれるように、精進します。
 ありがとうございました。


プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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