タイムリミット(4)

 こんにちは。

 更新、空いちゃいました。 すみませんでした。 今日から再開します。


 3回目にして早くも鍵コメ率100%になっている『タイムリミット』ですが。
 大丈夫ですから、どうかご安心くださいね、って何度目だろう、このセリフ。 そしてこれから何回言うことになるんだろう。(笑)




タイムリミット(4)



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テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(3)

 ここから本編です。

 この話、2年前の秋に書いたんですけど、読み直したら展開が唐突すぎる気がして、プロローグを書き足しました。 
 なので、前回までのプロローグは現在の文章で、ここから2年前の文章なんです。 読みにくかったらすみません。 
 え、書き直せって? いやー、本編70ページはちょっと~。(^^;
 は? 内容的にヒドイから書き直せって? 
 ううーん……。(@@)






タイムリミット(3)





 華やかなゴブラン織りの絨毯の上に胡坐をかき、薪は書類をめくっている。指先を彩る桜色の爪は、磨きあげられたピンクオパールのように奥ゆかしい輝きを放っている。
 豪華な絨毯に相応しく、高価な調度品で設えられた部屋。女性らしいピンク系のクッションやカーテン。壁に掛けられた明るい風景画。サイドボードには大きな花瓶に生けられた蘭の花が、高貴な香りを振りまいている。

 薪はきちんと髪を撫でつけて、正装に近い服装をしている。チャコールグレイのスーツはタリア・デルフィノ。ブルガリのネクタイは少し派手目のシルバーを。カフスとタイピンは、近い将来、義父となるひとからもらったエメラルド。
 薪の隣には、ソファに座った美しい女性の姿がある。
 ドレスアップした彼女の年のころは、30歳前後。いくらか目立ち始めたお腹を、フレアーのたくさん付いたワンピースで、上手く隠している。
 彼女の咎めるような視線に気付いて、薪はふと手を止めた。
「すみません。これ、明日の朝使うもので」
 弁解がましい薪の言葉を、彼女は笑って許してくれる。その笑顔は薪のものではないけれど、自分はたしかにこの女性に救われたのだ、と薪は思った。

 青木と別れてから、2ヶ月が過ぎた。
 悲しみのあまり死ぬこともなく、涙の海に溺れることも無く。薪は穏やかに毎日を過ごしている。
 付き合っていた頃と、薪自身は何も変わらない。相変わらず、第九と官房室の掛け持ちで忙殺される日々だ。が、仕事の方はあと半年もすれば落ち着くだろう。警視監の試験を受けて結果を出したら、官房室に完全異動する予定だ。

 変化のない薪の周囲で、変わっていくものがひとつ。
 婚約者の中で息づく、新しい生命。日を追うごとに成長し、彼女の子宮を少しずつ広げていく。その命を、愛おしいと思う。
 これは、自分の子だ。

「支度できた?」
 ノックの音と共に、声が聞こえた。
 薪の耳に親しい、聞き慣れた男の声。職場でも毎日聞いている。薪にはとてもやさしいが、怒ると背筋が凍るほど怖い直属の上司。そして2ヵ月後には、薪の義父になる。
「はい、お父様。行きましょう、剛さん」
「はい」
 書類を鞄に入れて、薪は立ち上がった。すっと右手を婚約者に差し出し、彼女の手を取る。
 開いたドアから姿を現した彼女の父親が、目を細めて仲睦まじいふたりの様子を見ている。嬉しそうなその表情に、薪の心も温かくなる。

「今日は薪くんが次席参事官になる前祝いだからね。きみが行きたがってた『仙岳』だよ」
 日本料理の頂点を何年も独占している赤坂の料亭の名前を出して、彼はにっこりと薪に笑いかけた。薪も心からの笑顔を返す。
「お父様は剛さんに甘いのね。わたしがチボーに行きたいって言ったときには、忙しい忙しいって。結局、連れて行ってもらってないわ」
「薪くんに連れて行ってもらいなさい。もう、美和子は薪くんに預けたんだから」
「美和子さん。僕でよかったら」
 仲の良い父娘の会話に、娘婿が控えめに口を挟む。薪は自分の立場をわきまえている。
「だれがお金払うのよ。一食、いくらするか知ってるの?」
「……すいません、小野田さん。お給料、前借りさせてください」
「ほーら。やっぱりお父様が一緒じゃなきゃ、ダメよ」
 冗談を言い合って、カラカラと笑う。美和子は明るい女性だ。

 官房長付の運転手が操る黒いレクサスは、四方山話の間に料亭の駐車場に滑り込む。凝った作りの日本庭園から奥の間に通されて、薪は美和子と並んで腰を下ろした。
 久しぶりに吸いこむ、イグサの香り。三ヶ月前に嗅いだ同じ香りを思い出しそうになって、薪は慌てて心に蓋をする。思い出を捨てる気はないが、ここではまずい。

 上品な着物を着た給仕係が、一品ずつ料理を運んでくる。食前酒と前菜から始まる、日本一の名に恥じない見事な日本料理の王道を味わいつつ、冷たい吟醸酒を傾ける。小野田は薪の好みの酒まで用意してくれていて、薪が楽しい一時を過ごせるように図らってくれていた。小野田はいつも薪にはやさしいのだ。
「薪くん。憧れの仙岳はどう?」
 美和子が化粧室へ立つ間、小野田は薪にこっそりと囁く。
「すごく美味しいです。さすが日本一ですね」
 言葉のとおり、薪は料理を残さずに平らげた。昔はもっと小食だったのだが、何年か共に過ごした誰かの影響で、胃袋も大きくなったらしい。

「最近、痩せたみたいだったから、ちょっと心配してたんだけど。大丈夫のようだね」
「いいえ。痩せてないですよ。元からこんなものです」
「そう?」
「いつも気に掛けていただいて。小野田さんには感謝しています」
 軽く小首を傾げるようにして自分を慈しみの眼で見る上司に、薪は正直に心の内を吐露する。本当に、小野田には感謝しているのだ。
「プライベートのときは、『お父さん』て呼んでくれない?」
「はい。お義父さん」
 薪が照れを含んだ口調で彼を呼ぶと、小野田は嬉しそうに笑った。

 自分は幸せだ、と薪は思った。
 美しい妻に優しい義父母。可愛い義妹がふたり、いっぺんにできた。
 再来月からは、小野田の家に住むことになる。薪が昔から、ずっと欲しかった家族。それがようやく手に入る。遠回りしたけれど、ここに辿り着けてよかった。

「ごちそうさまでした」
 マンションの前に停まった車の中で、小野田に頭を下げる。運転手にも礼を言って、薪は車から降りた。
「どういたしまして。ぼくも美和子も、とても楽しかったよ」
微笑み合う3人。残業を強いられた運転手まで、その雰囲気に釣られたかのように微笑んでいる。
「悪いけど、明日の会議に使う資料。用意しておいてね」
「はい」
 それは既に作成済みだ。右手に抱えた鞄の中に入っている。ここで渡してもいいが、今夜は小野田にとっても貴重なオフだ。明日の朝にしよう。

 おやすみなさい、と挨拶をして、薪はエントランスのドアをくぐった。ちょうど向かいから歩いてきた管理人が、薪に会釈する。
「お帰りなさい。こりゃまた、えらくめかし込んで。デートですか?それにしちゃ帰りがお早いですね」
「義父と3人で食事だったんです」
「ああ。結婚されるんでしたね。おめでとうございます」
「ありがとう」
 薪は階段を上がって、自分の部屋に入った。
 真っ暗な、寒々とした部屋。誰もいない部屋の静寂に心が冷えるのも、あとしばらくの我慢だ。
 2ヵ月後、薪が帰るところはここではない。妻とその家族が待つ、あの豪勢な屋敷だ。

 ドアを閉めて靴を脱ぐと、薪はサニタリーに直行した。トイレのドアを開けて、スーツの汚れも気にせずに膝を折る。背中を丸めて小さく口を開けると、まるでそれが自然の摂理だというように、胃の中身が全部出てきた。
 恒常的に食事を吐くようになって、しばらく経つ。
 食事をして1時間もすると、いつも耐え難い吐き気に襲われる。この行為も慣れてくると、コツがつかめるというか、胃の弁と食道が自然に動くというか。端から見るほどの苦痛はない。

 しかしその日は、料亭で食べたものがすべて汚物になっても、吐き気は治まらなかった。こうなると、少し苦労する。胃液を吐くのは苦しいし、みっともなくゲエゲエ呻かないと出てこない。
 こみ上げるままに、嘔吐を繰り返す。自分の耳に響くうめき声が、だんだん泣き声になってくるのが聞くに堪えないくらい情けない。
 やっと吐き気が治まって、薪は汚れた口をトイレットペーパーでぬぐい、汚物を流す。そのままトイレの床にごろりと横になって、胸のつかえが取れるのを待つ。
 ブランドのスーツもネクタイも、汚物まみれだ。それに、この臭い。また後始末が大変だ、と顔を横に向けると、涙が下方につつっと流れ落ちた。耳を伝って、亜麻色の髪に吸い込まれていく。

 薪は自分のくちびるが、何かを言っているのに気付く。
 よく、聞こえない。こめかみを流れる血液の音がうるさくて、言葉が聞き取れない。

「……」
 だれかの名前。薪の胸を抉るように痛ませる、ひとの名前。

「…………会いたい」

 最後の一言だけは、はっきりと聞こえた。
 しかし、それが自分の声なのか、あるいは薪が呼んだ誰かの声による幻聴だったのか。
 薪には判断がつかなかった。





*****


 やっぱり書き直さなきゃダメ?(笑)


 

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タイムリミット(2)

 こんにちは~。

 何日か前から過去作品を読んでくださってる方々、毎日拍手をありがとうございます。
 おかげさまで16000を超えました。 ありがとうございます。

 みなさまの温かいお気持ちに支えられて、しづはPCに向かっております。
 感謝の気持ちを込めまして、2番目のプロローグです。
 ええ、恩を仇で返すとはこのことで……すみません……。 

 




タイムリミット(2)



          プロローグ2 ~2066.秋 カウントダウン~





 残暑と言うにはあまりにも強い日差しが肌を焼く、文月も半ばを過ぎたある日のこと。薪は所長の田城に呼び出され、流麗な飾り台紙に挟まった若い女性の写真を手渡された。
 中身を見なくても、薪にはそれが何だか一目でわかった。見合い写真だ。
 この世には、他人の結婚を世話したがる人種がいる。彼らの気持ちは、薪にはさっぱり分からない。どうして彼らは人の人生を左右するような重大時に軽々しく口が出せるのだろう。誰かの人生を変えるきっかけを自分が生み出すかもしれないことに、懼れはないのだろうか。対象者の人生を背負う気もないくせに、無責任に出会いを押し付けてくる彼らを、薪はどうしても好きになれなかった。

「総務部長のお嬢さんなんだがね。先日、部長を訪ねてきたときに見かけて、どうやら一目惚れらしい。部長の方から是非にとのことでね」
「縁談ならお断りします」
「いや、あのね薪くん」
 二つ折りの台紙を開こうともせず、薪は冷ややかに切り捨てた。田城には普段から世話になっているし、特に追加予算の認可の件では感謝している。でも、それとこれとは別だ。

「以前にも申し上げたはずです。僕は誰とも結婚する気は」
「君じゃなくて、青木くんにだよ」
「もっとお断りします!」
 思わず反射的に返してしまった。だって、予期していなかった。どうして青木の見合いの件で自分が呼び出されるのだ。
 ぽかんと口を開けて薪を見ている上司の前で、薪は必死に平静な顔を取り繕う。恋人の見合い話なんてぶち壊して当然だけど、それをここで暴露するわけにはいかない。

「いえその……ほ、本人に訊いてみませんと」
「もちろん話したよ。でも彼、聞く耳持たなくてねえ。青木くん、普段はあれだけ気配りのできる男なのに。写真も見てくれないどころか、話だけでも物凄く迷惑そうな顔されたよ」
 ソファを勧められて、座面に腰を落ち着けながら、薪は緩みそうになる頬を意識して緊張させる。
 田城には悪いが、青木が迷惑がるのは当然だ。彼には意中の人がいるのだから。

「三好くんに振られたこと、かなり引きずってるみたいだねえ」
 青木の想い人は、法一の三好雪子。世間的にはそういうことになっている。真実を知る者は、片手ほどしかいないはずだ。
 雪子の結婚式から、3ヶ月が過ぎていた。
 結婚相手が相手だけに心配は尽きないが、今のところは平和にやっているようだ。薪としてはあんな不誠実な男とは一刻も早く別れて欲しいのだが、肝心の雪子はとても幸せそうで、薪も迂闊には手が出せないでいる。

「三好くんも酷いよね。青木くんと竹内くん、両天秤に掛けて顔がいい方取るなんて」
「田城さんまでそんな噂を信じてるんですか? 雪子さんがそんなこと、するわけないじゃないですか」
 竹内のファンクラブから相当の悪意を持って発信されたその流言は、薪の耳にも届いていた。大切な親友の風聞に薪は腹を立てたが、しかし当の本人は『薪くんの悪女伝説に比べたら何てことないわ』とケラケラ笑って……男の自分が悪女伝説って、いったいどんな噂になってるんだか、もう怖くて質すこともできない。

「雪子さんは素晴らしい女性ですよ。誠実で、やさしい人です」
 雪子が沈黙を守っているのは自分たちのためだと、薪には分かっている。その噂に心を痛めないはずはないのに、竹内の耳に入ったら自分の立場も悪くなるだろうに、それでも青木との間には何もなかったと彼女が誰にも言わないのは、薪が彼と恋人関係にある事実を隠すため。人の妻になってからも、彼女は薪を助けてくれているのだ。

「そうか、君たちは長年の親友だったね。いや、悪かった」
 薪の剣幕に押されたように、田城は流言に乗った自身の軽挙を謝罪し、改めて薪に青木を説得してくれるように頼んできた。
「青木くんが他の女性と付き合うようになれば、彼女の不名誉な噂も下火になると思うんだがね」
 雪子のためと言われては断ることもできず、薪は写真を受け取ってしまった。彼女の悪評は、元はと言えば自分たちのせいなのだ。

「まあ、見合いしたからと言って必ず結婚しなきゃいけない訳でもないから。一度会うだけでも、って薪くんから説得してみて」
「わかりました。青木は今日は非番ですから、明日にでも」
「そんなに急がなくていいから。週末にでも、一献傾けながらゆっくり話してみてよ。よろしく頼んだよ」
 そう言われて所長室から追い出されて、薪は大きなため息を吐いた。押し付けられた写真と薪を信じて疑わない田城の実直に、ずん、と心が重くなる。

 何年か前にも、薪は青木に見合いを勧めたことがある。
 青木の叔父がセッティングしたとかで、相手は青木と同郷の女性だった。薪は青木の母親に「必ず見合いに行かせる」と電話で約束し、彼に休暇を与え、見合いをするように命令した。ところが青木は薪の命令を無視して自ら母親に電話を入れ、好きな人がいるからと、直球で見合いを断ってしまった。
 きっと今度も同じだ。だったら言わない方がいい。

 所長室から第九へ帰る僅かな間に、薪の気持ちは口を噤む方向へと向かっていた。
 青木が首を横に振るのは、火を見るよりも明らかだ。結果が分かっているのだから、言うだけ無駄だ。写真を見せる必要もないだろう。田城には「説得したが、青木の気持ちは変わらなかった」と報告すればいい。
 嘘じゃない、僕が何を言おうと青木の気持ちは変わらない。それは事実なのだから、嘘を吐いたことにはならないはずだ。

 卑劣な理論武装を固めて、薪は拳を握りしめる。
 何が正しいかなんて、もうわからない。

 雪子が結婚したことで、青木と過ごすたび頭の片隅に浮かんでいた憂い顔のひとつは減った。それだけでも薪の心は軽くなったのだ。
 軽くなった心は浮遊して、彼の元へと自然に流れた。これ以上嵩を増やすことは危険だと分かっていた、後戻りできなくなると恐れていた。しかし、その流れを堰き止めることは薪にはできなかった。日に日に流量と勢いを増していくそれに恐れ戦きながら、有効な手立てを講じるどころか思考すらまともにできず、自分が流されていくのを感じていた。

「お帰りなさい、薪さん。所長の話って何だったんですか?」
 定時をとうに過ぎているのに、第九には部下たちが全員残って薪の帰りを待っていた。田城からの呼び出しは仕事関係ではないと言ってあったのに、暇な連中だ。
「おまえらには関係ない」
「もしかして、また縁談ですか?」
 小池の核心を付いた指摘に、薪は眉をひそめる。仕事の時にもこれくらいの鋭さを見せて欲しいものだ。
「それ、お見合い写真ですか? 見せてくださいよ」
 薪の沈黙を肯定と取って、曽我が無邪気に手を伸ばす。脊髄反射もかくやの勢いで、薪は右手に抱えた茶封筒を彼の手から遠ざけた。
「詮索好きも大概にしろ。プライバシーの侵害だぞ」

 薪が叱ると、曽我を初めとした全員が眼を点にして、
「どうしたんですか? 薪さんいつも、『僕の代わりに誰か行って来い』って見合い写真を放り投げてきたじゃないですか」
 ……そうだっけ?
「それから『縁談をスムーズに断るために、この女の過去を洗い出せ』って」
 それは違法だよね? 警察官がやっていいことじゃないよね?
「どうしても汚点が見つからないときは、宇野が彼女のイケナイ写真を捏造して」
 犯罪だよね!?

「ちょっと待て! 確かにその考えは一瞬頭を掠めたような気もするけれど、警察官の良識に懸けて、それを実行に移したことはなかったと」
「それはほら、実行に移す前に、薪さんの悪女伝説を聞いた相手の方から100%断ってきたからですよ」
 だからどんな悪女伝説なんだよっ!!

 本人の与り知らぬところで想像を絶するほどに成長する、噂という怪物に助けられたり落とされたり。迷惑極まりない。これも無責任に他人の噂話に興じる人間が多すぎる証拠だ。無駄口叩く暇があったら仕事しろ、給料ドロボーめ。

 破談に向けての作戦会議を始めようとしない薪に、予想を違えたか、と部下たちは思う。定時過ぎにプライベートの用事で呼び出されて、薄いA4の茶封筒を抱えて帰ってきたからてっきりそうだと思ったが、早とちりだったのか。
「とにかく、おまえらの手は必要ない。さっさと帰れ」
 薪が厳しく言い渡すと、部下たちは顔を見合わせて、「じゃあお先に失礼します」と次々に帰って行った。最後に残った副室長の岡部が「送りましょうか?」と声を掛けてくれたが、薪は仕事があると言って断った。どうしても今日やらなければいけない仕事ではなかったが、家に帰る気にはなれなかった。

 モニタールームの明かりが消され、研究室全体が静かになると、普段は気にならないパソコンのファンが回る音さえ耳につく。そんなものにまで苛立ちを覚える自分を発見して、呆れ気分でパソコンの電源を落とすと、自分以外は何も動かなくなった部屋の静寂に、薪の耳は痛みを覚える。
 ようよう諦めて薪は、田城からの預かりものを手に取り、中を確認してみた。
 華やかなパーティドレス姿の、愛くるしい女性だった。写真で見る分には中肉中背、童顔だが胸は大きい。年下の可愛い娘がタイプの男には好かれそうだ。

 写真を見て、薪は想像する。
 この女性の隣に、青木を立たせてみたら。彼の大きな手に、彼女の柔らかそうな肩を抱かせてみたら。なんてしっくりくるんだろう。自分と青木では、こうはいかない。年は離れているし、男同士だし、違和感だらけだ。
 この世は男と女で成り立っているのだ。男女が対になった姿が絵になるのは当然だ。それが自然なんだ。

 じりっと胸が焼ける。
 嫉妬した。
 会ったこともない、名前も知らないこの女性に。

 羨ましい。雌雄の蝶が戯れるように、自然に青木の傍にいられる彼女が。誰もが微笑ましい眼で見てくれる、その約束された幸福感が。なにより、彼に安定をもたらすことのできる彼女の性そのものが、妬ましかった。
 自分が夢見ることすらできない未来を、彼女は彼に与えることができる。自分では未来どころか、現在のことだって。

 青木は今日は非番で、今頃は家で薪からの電話を待っているはずだ。時計と電話を代わる代わる見ながら、今か今かと恋人からの誘いを待っている。
 自分に有益な情報を握り潰そうとしている恋人のことを疑いもせず――――― そうだ、これは青木にとって貴重な情報だ。いくら頑張っても、自分たちは一生を共にすることはできないのだから。

 パソコンをオフにして、写真を片付けて、もう薪がすべきことはこの部屋には何ひとつ残っていないのに、彼は席を立とうとはしなかった。あまつさえ、仕事中には滅多につかない頬杖までついて。今夜は此処に籠城を決めたというように、肩の力を抜いて背中を丸め、沈痛な面持ちで眼を閉じた。

 忘れていたわけじゃない。僕たちは期限付きの恋人同士。
 執行猶予の最長期限は5年、それを限度として関係は解消する。小野田にそう約束したのは、他でもない自分だ。

 でも。
 あの時と今では事情が違う。あの頃は、青木が自分をこんなに長く愛してくれるなんて思わなかった。夢に浮かされたような時間が過ぎれば、彼は自然に自分から離れていくだろうと考えていた。決してネガティブになっていたわけではなく、過去の経験から冷静に未来を予見しただけだ。

 どれだけ愛し合っても、男同士には未来がない。何も生み出せないし、自分たち以外誰一人として喜ばない。たとえ青木と自分の間に最上級の愛を育む事ができたとしても、それを周りに広げることはできない。
 愛というのは、広がっていくものだ。
 愛し合うふたりがいれば、それを微笑ましく思う家族や友人がいて、ふたりの間で毎日生まれ続ける愛は彼らに伝播していく。愛しい子供に、父母に、大切な人々に。ふたりから愛情のお裾分けをもらった彼らはそれを更に周囲に分け与え、数多くの人々を幸せに導く。だから愛は素晴らしいのだ。

 だけど、僕たちの愛は閉塞する。
 秘密厳守の閉じられた世界。その狭い閉鎖空間の隅っこで、ふたりぼっちでコソコソ愛し合って、それが何になる。青木の未来に、一片の光すら差せないではないか。

 頬杖をついた右手に濡れた感触があって、薪は肘を机上から外した。つっと顎に流れる一筋の涙。この年になっても泣き虫のクセが直らない自分にガッカリだ。

 青木の未来を幸多きものに。たくさんの祝福と笑顔の真ん中に、彼の人生を据えてやりたい。
 何よりも重視すべきその一点に於いて、僕は彼女に勝てない。青木と4年も関係を持っている自分が、彼が未だ顔も知らない女性に負けるのだ。
 青木は子供好きだし、自分の子供も欲しいだろう。親思いだから、親の喜ぶ顔も見たいだろう。さらに総務部長の娘なら、彼の将来にどれ程の光を投げかけてくれることか。

「……潮時か」
 ひっそりと呟いて、薪は涙を止める努力を放棄する。水滴が、ぱたぱたと机面に不恰好な円を作る。いくつかの円は融合してアメーバーのような不定形体になる。
 アメーバーは口々に、嫌だ嫌だとダダを捏ねている。彼に捨てられるのは嫌だと、身勝手なことを口走る。

 手のひらでエゴの集合体を拭って、薪は自分を叱咤する。
 なにがそんなに悲しいんだ。
 おまえの大切な青木一行に訪れた、千載一遇のチャンスだぞ。おまえが尻込みしてどうする。自分の目的を、もう一度思い出してみろ。
 彼を幸せにしたい。そのためには何でもする、彼を本当に愛しているなら、何でもできるはずだろう。自分の気持ちを殺すことくらい、今までさんざんやってきたはずだ。

 そう言い聞かせるのに、涙は止まらない。
 自分も弱くなったものだ。青木に別れを告げたことは何度かある。悉く失敗に終わったものの、自分から別れを切り出すまではできたのだ。以前はできたはず、それが今はどうにも為せそうになくて、薪は自分の惰弱に唾を吐く。

 だって、年々、好きになる。
 付き合いが長くなればなるほど、好きの度合いが大きくなる。離れなければ、と思うが先に、絶対に離れたくないと叫ぶ自分がいる。下手したらこれ、青木の方から別れてくださいって言われたら、泣いて取り縋っちゃうんじゃないか。

 これ以上好きになれない、今までに何度もそう思った。でも。
 今日の好きは昨日の好きを易々と超えて、きっと明日の好きはもっと上を行く。天井知らずに育った想いはやがて僕の自我を潰し、青木に重荷となってのしかかる。その一歩手前まで来ている。

 僕が、青木の未来を潰す。それだけは、あってはいけないことだ。

 ぐいっと手の甲で涙を拭く。肺の中の空気を全部吐き出して、気持ちを落ち着ける。
 携帯電話を取り出して、いつものようにメールを打つ。「帰宅時間 20:00」。たったこれだけの文面に、彼が飛び上がって喜ぶことを薪は知っている。
 満面に笑みを浮かべ、自分の所にやって来るであろう彼。彼の顔が悲哀に歪む様を見たくはないけれど。
 でも、早い方がいい。延ばせば延ばすほど辛くなる。夜を一緒に過ごしたら、明日の朝は今よりもっと彼を好きになっているに決まってるんだから。

 ぱたりとフラップを閉じ、色気のない茶封筒を右手に抱える。これが、今夜の自分の武器になる。効果的な使い方を幾通りかシミュレーションして、そのどれもが不成功に終わる気がして、だけどこれは完遂させるべきミッション。
 いつの間にか残り半年に迫った約束の日に向けて、カウントダウンを始めなければ。

 正門を出ると、きれいな円形の月が見えた。
 青白く、小さく、美しく。
 それは薪の背中を押すように、いつでも薪に勇気をくれる。何故か分からないけれど、薪は昔からこうなのだ。月の光を浴びると気持ちが落ち着くというか、頭の中が整理されるというか。
 大きな自然の理の中、人間の憂いなど些末なことに過ぎないと、その永遠とも思える雄大な営みが、卑屈に萎縮した自分の世界を広げてくれる。酷暑を引きずる昼間とは打って変わった夜の清涼な空気に包まれれば、この痛みも克服できるような気分になって、薪はそのしなやかな背筋を伸ばした。

 なのに、その直後。
 彼は悲しいくらいに人間で、それもどうしようもなく卑小な存在であることを、残酷にも思い知らされる。

「すみません、待ちきれなくて。お迎えに来ちゃいました」
 第九の正門から歩いて2分、科学警察研究所と刻まれた門の影から現れた長身に、薪は一瞬棒立ちになる。予期せぬ出会いは薪の胸を高鳴らせ、やっと固まりかけた決意をあっけなく突き崩した。
「お荷物、お持ちします」
 自分が今なにを壊したのか、青木は知る由もない。薪から鞄を受け取って、ニコニコと悪意のない笑いを振りまきながら、ただただ恋人に会えた喜びを全身から溢れさせている。
「それは?」
 薪が右手に抱えた茶封筒に目を留めて、青木は無邪気に尋ねる。薪は一筋の乱れもなく、平然と応えを返した。
「預かりものだ。おまえには関係ない」

 答えたら、腹の底が氷を飲み込んだみたいに冷たくなった。
 嘘だ。大有りだ。
 本来なら青木にこそ関係するもので、自分には口を出す権利もないものじゃないか。

「そんなことより、夕飯、なに食いたい?」
「今日は魚が食べたいです」
「じゃあ、季節から言って秋刀魚かな」
 意識して話題を逸らそうとする、なんだ、この醜い生き物は。こんな卑怯なことをしてまで、彼を自分につなぎとめておきたいのか。彼の愛を失うのがそんなに怖いのか。彼の幸せと自分の欲望を天秤に掛けて、それが後者に傾くからと、どの面下げて言えるんだ、このエゴイストが。呪われろ。

「薪さん? 眼が赤いような?」
「モニターの見過ぎでな」
 濁った、薄汚れた眼をしているに違いない。眼は心の鏡とか言うし、内面の醜悪さが滲み出てしまっているのだろう。
 汚い自分を彼に見られるのが耐え難くて、薪はふいと横を向く。右隣の青木を見ないように、彼に自分の真実を気付かれないように、左手にあるプリペットの生垣に注意を向ける振りをして、ひたすらに己を匿う。

「だから休み取るの嫌なんですよね。薪さん、オレがいないとぶっ続けでモニター見ちゃうから」
「おまえがいても、僕の職務内容は変わらんが」
「そんなことないですよ。オレ、ちゃんと2時間にいっぺんは薪さんの様子見に行きますもん」
「様子見? 嫌がらせされてるのかと思ってた」
「ええ~……」
 青木の不満顔に、クスクス笑える自分に、吐き気がした。

 結局、薪は青木に田城からの預かり物を渡さなかった。茶封筒の中身は一度も青木の目に触れることなく、発信者に返されることになった。
 
 その晩、薪が握り潰したのは青木の縁談だけではなかった。薪がずっと守ってきた大切なもの、自分を守って死んだ親友が最期まで守ろうとしてくれたもの、それを自分は己が手で潰してしまったのだと、だからこんなことになったのだと。
 気付けたのは、ふたりの恋人関係が解消されて2ヵ月後。薪の結婚式のひと月前のことだった。







*****


 こちらは、『ゲスト』というSSに書いてあった「青木さんの縁談を薪さんが潰した話」です。
 薪さんが青木さんに見合いを勧める話は、『運命のひと』の中のエピソードです。
 


 

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タイムリミット(1)

 お待たせしました、サードインパクトですっ。(絶対に誰も待ってないと断言できる)

 最後のバクダンです、おっきいです!(>∇<) ←なぜこんなに嬉しそう?
 お付き合いくださるみなさまには、どんなに絶望的な状況でも、最後まであおまきさんの絆を信じて読んでください。 原作と同じように!! (エライ傲慢ですが、原作も同じ気持ちで待ちましょうよ、と言う意味で理解してください)

 ではでは、
 よろしくお願い致しますっ!!





タイムリミット(1) 


     プロローグ1  ~2062.春  ファースト・カウント~




 場に存在するだけで、周囲に緊張と勤勉を強いる。薪が『鬼の室長』と呼ばれるのは、その特質のせいだ。
 身体は小さいのに、その威圧感は聳え立つ山の如し。彼の顔色ひとつに部下たちの心拍数は激しく変化する。もし彼が提出された報告書を前に眉を顰めようものなら、それを書いた者は蛇に睨まれた蛙のごとく冷たい汗をかきながら、心の中でひたすらに神の加護を願う。
 そんな室長に会議の予定が入れば、研究室全体の空気が緩むのも無理からぬことだ。鬼の留守居はたった半日。短いけれども約束された穏やかな時間に感謝して、職員たちは伸び伸びと職務に向かう。皆、足取りも軽く笑顔も多い。一人だけ、一番年若い捜査官を除けば。彼は室長がいないと萎んだ風船のようになってしまう。いつも室長に苛められてばかりいるのに、おかしな男だ。
 
 室長の留守中は、副室長の岡部が室長代理を務める。新しい事件が起こらない限り、職務内容は前日の延長だ。事前に室長から指示を受けていた幾つかの点を職員たちに伝達し、捜査の進み具合を確認し、緊急の用件があれば室長の携帯にメールで報告をする。
 その日は特段処理に迷うようなことも起こらず、また、捜査対象も既に犯人が確保された事件の検証作業が主だったため、比較的のんびりと第九研究室の時間は動いていた。

 研究室の時計が凍ったのは、昼前。

「ちょっといいかな」
 飄々とした足取りで、開いた自動ドアから入ってきた人物に、弾かれたように職員たちは立ち上がる。本来なら研究所勤めの一職員など目通りも叶わないほどの高官、小野田官房長だ。
 室長代理の岡部が、さっと前に出て敬礼した。
「申し訳ありません。生憎、室長は会議で警視庁に出向いておりまして」
 小野田は、第九の影のパトロンだ。それはもちろん、口さがないお喋りスズメどもが囀るような、官房長と薪の不埒な噂を肯定するものではない。噂の真偽は重要ではない。何故なら例えそれが事実だとしても、一個人の感情で動かせるほど、警察は甘い組織ではないからだ。

「知ってるよ。今日は薪くんじゃなくて、きみを誘いに来たんだ」
「は?」
「昼ごはん付き合ってよ、岡部くん」
「……はあ」

 官房長が一警視を食事に誘うなんて、常識では想像も付かない光景が、ここ第九研究室ではまかり通っている。それは小野田と第九研究室の密接な関係によるものだ。
 第九研究室創立の青写真を描いたのは当時官房長に就任したばかりの小野田で、まだ警視だった薪の才覚を見抜いて室長に抜擢したのも彼だった。第九が修めた数々の功績によって、小野田は己の勢力を広げてきたといっても過言ではない。第九と小野田は、いわば運命共同体なのだ。

 後のことを今井に預け、岡部は小野田の後につき従い、第九の正門を出た。
 小野田は、黙って岡部の前を歩いている。普段の彼は、官房長である自分に対する岡部のプレッシャーを軽くしようとしてか、あれこれ気負わない話題を振ってくれるのだが、今日の小野田は軽口どころか、いつも口元に浮かべている微笑みすらない。
 彼の沈黙に、岡部は嫌な予感を覚える。あまりいい話ではないらしい。

 自分の身上よりも、薪のことが心配になって、岡部は薄い眉根を寄せた。
 小野田が自分に話があるなら、それは薪のことに決まっている。公私ともに薪の面倒を見て欲しいと、小野田に直接頼まれているからだ。
 官房室に定例報告に来る薪の様子が何処となくおかしければ、こんな風に食事に誘っては、その理由を岡部に訊いてくる。それは和やかな雰囲気で相手から話を聞きたい、と言うよりは、人は嘘を吐くとその動揺が箸使いに現れるものだから、そこから真実を見抜こうとする小野田の計算なのだと、お人好しの岡部は未だに気付けないでいる。

 小野田が行きつけの蕎麦屋に顔を出すと、当たり前のように奥の座敷に通された。個室で二人きりになって、開口一番、小野田は言った。

「薪くんが青木くんと不適切な関係に陥ったみたいなんだけど」

 ……もうバレたのか。青木から報告を受けて、まだ一月も経ってないのに。
 こちらの方面にはとことん不器用な薪のこと、隠し事も不得手だろうと予想はしていたが、何も初っ端から、バレたら一番厄介な相手にカミングアウトしなくたって。

 思わず出そうになった溜息を飲み込んだ岡部に、小野田は容赦なく畳み掛ける。
「いったいどういうことなのか、説明してくれないか。君はあの二人をずっと見てきたはずだ。気付かなかったなんて言わせないよ」
 小野田の薄灰色の瞳には焦燥と心配が滲み、それは親が子供の身を案じて浮かべる苦慮の色にとてもよく似ていた。
 珍妙な噂を立てられるほどに小野田が薪に眼を掛けるのは、利害が一致している部分も大きいのだろうが、決してそれだけではない。小野田は薪の才覚に惚れ込んでいる。愛娘の婿に迎えて、自分の跡継ぎにしたいと本気で考えているのだ。だから、今回のことは見過ごせないのだろう。

「君が着いていながら、何てザマだい」
 岡部は一言も言い返さず、黙って小野田の苛立った声を聞いていた。彼の気持ちはよく分かった。自分だって、最初は反対だったのだ。
 青木が薪のことを特別な眼で見ていることに気付いたとき、岡部はそれを諦めさせようとした。想いが通じ合ったとしても茨の道。薪も青木も大事な友人だ、そんな道を歩ませるのは忍びなかった。
 岡部の放った鋭い牽制球を、しかし青木は見事に場外まで飛ばしてみせた。逆転ホーマーだ。あそこまでされたら味方につくしかない。

 何よりも薪が。
 青木と一緒だと、よく笑った。青木を見つめる亜麻色の瞳が、生き生きと輝いた。死んだ魚のような眼をして、ひとりモニタールームで放心していた薪を何度も見ていた岡部には、そのことがとても嬉しかった。

「ったく、薪くんにも参ったよ。あんなに分別の付かない子だとは思わなかった」
「お言葉ですが。ふたりとも、いい加減な気持ちではないと」
「分かってるよ! だから困ってるんじゃないか」
 彼には珍しく小野田が声を荒げたとき、笊に載った冷たい蕎麦が運ばれてきて、話は一時中断した。店員が下がると、小野田は乱暴に箸を割り、常になく大雑把な箸使いで蕎麦を持ち上げた。よほど頭に来ているらしい。

「薪くんは真剣だよ。もともと遊びで恋なんかできない子だからね。あの子がなんで昔、風俗通ってたか知ってる? 結婚するつもりもない女の子とそんなことできない、って真面目に考えてたからだよ。呆れるくらい古臭い男なんだよ」
 薪が若い頃、その手の店に出入りしていたことは知っていたが、そんな理由だったとは。今時どんだけメンドクサイ男なんだか、我が上司ながら眩暈がしそうだ。

「こんなことになるなら、あの息抜きを辞めさせるんじゃなかった。あの子には男と寝る趣味なんかなかったはずなのに」
「そんな気持ちからじゃないことはご存知でしょうに」
 薪の淡白さを小野田は知っている。どうして小野田が彼の極秘事項にそこまで詳しいのか、その裏事情は未だ解明していないが、あの淡白な薪が身体の欲求から、自分の部下、しかも男と関係を持つなんて。不自然極まりない。

「岩を背負って歩く覚悟があるって言われた」
 唐突に言われて、岡部は啜り上げた蕎麦を途中で止めた。
 何のことです、と岡部が問えば、小野田は蕎麦に苦いものでも混じっていたような顔になって、
「ぼくが『青木くんなんか道端の石ころだ』って言ったら、『青木は岩みたいな男です』って返してきてさ。で、自分はその岩を背負って歩く覚悟があるって」
 薪らしい。仕事も恋も、スタンスが一緒だ。
 薪は慎重派だ。新しい機械を導入したり、通常とは違ったアプローチで捜査をしようとするとき、彼は最初、ありとあらゆる可能性を考え、最悪の事態を想定する。だから踏み出すのに多少時間がかかる。反面、捜査中にどんなハプニングが起きても動揺を見せずに冷静に対処する。その事態は想定済みだからだ。

「あの子がぼくに、ここまで逆らうなんて初めてだ。どんなに意に副わない仕事でも、最後はぼくを信じて肯いてくれたのに」
 小野田にしてみれば、ショックもあるのだろう。薪が捜査一課にいた頃から眼を掛けてきたというから、その歳月は10年以上。科警研始まって以来の大スキャンダルに塗れた薪を見捨てず、己の公正性を地に落としてまで彼を第九の室長に据え置いた。そこまでして薪の希望を叶えてやったのに、こんな仕打ちが返ってくるとは。手塩にかけて育てた自分の子供に裏切られたような気持ちになっているのだろう。
「君から青木くんに手を引くように、話してくれないか?」
 それでも、小野田はやっぱり薪のことが可愛いのだ。説得を試みる相手を薪ではなく青木にしてくるあたり、彼の心痛を思いやっているのだろう。その分、怒りは青木に向くのだろうな、と岡部は憂い、大事な後輩が小野田の不興を買わない手はないものか、と考えを巡らせた。

「俺にはできません」
 熟考の末、岡部は首を振った。小野田の顔が、憤慨に歪む。
「ぼくの頼みを断るだけの、正当な理由があるんだろうね?」
 初めて聞く、小野田の脅しつけるような声音に、ぞっと背筋が冷たくなる。
 自分の警察人生もここまでか、とちらっと頭を掠めたが、仕方ない、自分は彼らの味方になってやると決めた。
「説明するより、見てもらった方が早いと思います。お付き合いいただけますか、官房長」




*****




 一年で最も気候が爽やかな季節、多くの職員たちは研究所の中庭でランチを楽しむ。暖かな日差しと涼やかな微風。美味しい食事と楽しいお喋り。それは平和で幸福な、日常の風景だった。
 その一翼で、二人の男性がコーヒーを飲んでいた。大きな樹の生い茂った枝葉の陰、芝生の上に胡坐をかいて楽しげに談笑している。

 彼らからは死角になっている別の樹木の幹に身を隠し、岡部は「どうです?」と尋ねた。それを無視して、小野田はだんまりを決め込む。
 岡部が自分に何を確認して欲しかったのか、合点が行った。恋人と二人でいるとき、薪がどんな顔をしているのか、自分に見せたかったのだ。

「あの人のあんな穏やかな顔、なかなか見られるもんじゃありませんよ」
 岡部に補足説明されて、小野田の不満は余計煽られる。言われなくたって、見れば分かる。薪は心の底から満ち足りた顔をしていて、それはポットから注いだコーヒーを彼に差し出している背の高い男の存在ゆえだ。
「俺は、事件当時の薪さんを知ってますからね。壊れかけてたあの人が、あんなに楽しげに笑えるようになって。それだけでも青木の努力は評価されるべきだと思いますがね」
「薪くんが立ち直ったのは青木くんの手柄だって言うのかい?」
「青木が寄与した部分は大きいです。俺では、とてもあそこまで踏み込めなかった」
「いくら何でも踏み込み過ぎだろ。身体の中にまで入っちゃうなんて」
 それには苦笑いを返して、岡部は直ぐに真面目な顔になった。

「あそこまでの笑顔を見せてくれるようになったのは、つい最近です。薪さんは、やっと立ち上がったばかりなんです。今のあの人から青木を奪うことが、何を意味するか」
 岡部は、薪のことを心から案じている。真剣に、それは真剣に、彼の幸福を願っている。官房長の小野田に逆らうほどの愚直さで。

「岡部くんの言いたいことは分かったよ」
 何処にもぶつけようのない怒りを腹の内に抱いて、小野田は静かに言った。なにが頭に来るって、自分の後継者にと望んで心血注いできた掌中の珠が、あんな青二才に骨抜きになって新婚気分で浮かれている現実、それを自分が心のどこかで嬉しく感じている事実だ。

 幸せそうな薪の顔。屈託なく笑う、それは未だ罪を知らない昔日の彼のようで。
 小野田では、薪にあんな顔をさせることはできない。それは上司と言う立場上、仕方のないことではあったが、相手があのつまらない男だと思うと妙に悔しい。

 舌打ちしたくなる感情に既視感を覚えて、小野田はもう一つの不愉快なことを思い出す。
 先日、長女の美和子に付き合っている男がいると聞いて、調査部に調べさせた。同じ大学の同級生だということだったが、成績も中の下、特筆すべき才覚もない。取るに足らない男だった。
 もちろん、娘には別れるように諭した。彼女には小野田家の長女としての責務がある。小野田家に相応しい婿を取り、家を盛り立てていくという使命が。
 美和子は悲しそうな顔をしたが、小野田の言葉に従った。当たり前だ。恋愛は自由だ、などと寝言をほざくような娘には育てていない。
 ただ、完全に切れたかどうかは怪しいものだ。何と言っても自分の娘だ。彼女の嘘とポーカーフェイスは、実の親でさえ見破るのが難しい。
 小野田は娘と薪を結婚させたいとまで思っていたのに、二人して自分を裏切るような真似をして。

「確かに、いい顔してる。鈴木君が生きてた頃を思い出すよ。でもねえ」
 二人が真剣に想い合っていることは解っている。彼らには個別に面談したのだ。簡単には引き離せそうになかった。だから小野田も、一旦は矛を収めたのだ。
「岡部くんなら分かるだろ? こんなことがマスコミに流れでもしたら、薪くんがどんな目に遭うか。薪くんを大切に想っているなら、身を引くのが本当の愛情だと思わないかい?」
「その辺はあいつも分かってますよ。充分、注意しているはずです」
 しばらく様子を見てみろと、ロンドン赴任中の悪友にも言われた。でも、どうにもじっとしていられなくて、事情を知っていそうな岡部に相談してみたのだ。彼の良識に賭けた。結果は見事に裏切られたが。
 いや、最大の裏切り者は別にいる。自分自身という、最低のコウモリが。

「ぼくがあの二人の関係に気付いたのは、第九の仮眠室でキスしてたのを目撃したからなんだけど」
「…………青木をシメときます」
「頼んだよ」
 あのキスは薪から迫ったものだったが、敢えてそこには言及せず、小野田は薄く笑った。あんなに不愉快な思いをしたのだ、これくらいの腹いせはさせてもらおう。

「薪くんには執行猶予を与えてあるんだ」
 三白眼をパチパチさせて、岡部が小野田を見る。
「約束どおり、待つことにするよ。彼が自分で歩き出せる力を取り戻し、自分から青木くんとの仲を清算して、ぼくのところに帰ってくるのをね」
 あんまり長く待つ気もないけど、と心の中で言い添えて、小野田は踵を返した。背後で岡部が、黙って頭を下げる気配。

 警察庁に向かう小野田の脳裏には、遠目に見た薪の暖かい笑顔が、美空の煌きのように揺れていた。






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天国と地獄8 (7)

 薪さんの女装話、ラストでございます。
 お付き合いくださって、ありがとうございました。(^^




天国と地獄8 (7)





 昼間の蒸し暑さも風に払われて、汗ばんだ肌から水蒸気と共に奪われる体温が心地よい夏の夕暮れ。
 人気のない公園のベンチに、美しい少女と坊主頭の男が並んで座っていた。

 もしも誰かがその光景を見たら、思わず自分の見たものを疑い、懸命に眼をこすったかも知れない。というのもその美少女が、見目麗しい脚を下品にも大きく開いて、まるで中年の男性が座るように座していたからだ。開いた膝の上に右手首を載せ、もう片方の膝には反対の足の踝を載せ、顔は非の打ち所のない美少女なのに、まるで彼女にオヤジの霊が取り付いてしまったかのようだった。
 男の方はうつむいて、じっと自分の靴先をみている。両手を握って膝の上に置き、沈んだ様子であった。

「悪かったな。勝手なことして」
 美しい少女の口から、今度は男の声が洩れた。やはり彼女は憑依されて、などということはもちろんなく、白いドレスに包まれた彼女の華奢な肢体は、よくよく観察すればその骨格は男のもので、類稀なる美少年が女の衣装を身につけているのだと分かる。しかしどうしても看破できないのは彼の年齢で、今年38になる立派なオヤジだという事実はシャーロックホームズにも見抜けまい。

「いいえ」
 彼の実年齢はもちろん、本名も職業も知っている曽我は、先刻の猿芝居を思い出してクスクス笑うと、
「室長やみんなが、あそこまでノリがいいとは思いませんでした」
 舞台がはねた後、曽我は薪と二人でこの公園に置いてきぼりにされた。青木が運転してきたのは警備部所有の要人用のエスコートカーで、警視庁に返しがてら他の皆を家まで送り届けるつもりらしい。警視正の特権を振りかざしたのだろうが、こんな目的のためにエスコートカーを借り出すなんて。本当のことが知れたら、所長から大目玉を喰らいそうだ。

「岡部さんなんか、完全に楽しんでましたよね」
「岡部はなー。ああいうの、意外に好きだからなー」
「室長も楽しそうでしたよ?」
「馬鹿言え」
 薪は膝に持たせた手首を離すと、両の踵をきちんと地面につけた。執務室にいるときのように背筋を伸ばして腿の上に拳を置くと、
「僕は反対だったんだ。結局はウソなんだから、こんなことしたって納得できるわけがない。だから青木に頼まれたとき、最初は断ったんだ。余計なお世話だって」
 それはおれが青木に頼んだんです、と曽我が青木の事情を明かすと、薪は意外そうに大きな瞳を瞬かせた。どうやら曽我の頼みだとは言わず、自分の勝手なお節介として薪に協力を頼んでいたらしい。

「どうして協力してくれる気になったんですか?」
「そりゃあおまえ。青木がおまえの恋人役をやるなんて言い出すから。それだったら僕がやったほうが、市民に与える視覚的衝撃が少なくて済むと思って」
 確かに。悲惨なことになりそうだ。

 青木は何とかして曽我を元気付けたくて、何度も薪に頼んだのだろう。青木の女装を防ぎたかった、と言うのは薪の照れ隠しで、本当は青木の熱意に負けた、と言うのが真相だろうと曽我は思った。なんのかんの言って、薪は青木の『お願いします』には弱い。
「青木はやさしいですね」
 薪は答えなかった。
 答える代わりにふっと微笑んで、それは幸せそうに微笑んで、「バカだ」と彼の思いやりを切り捨てた。

「彼女も懲りたでしょうね」
「は。どうだかな」
 彼女の話題が出ると薪は表情をがらりと変えて、不愉快極まりないというように、ぞんざいな口調で吐き捨てた。
「彼女も反省してますよ。公衆の面前で、こてんぱんにやられたわけですから」
「あのギャラリーは計算外だった。なんであんなに注目されたんだか……??」
 相変わらず、自分が分かっていないひとだ。
 しかし曽我もまた、薪というひとがわかっていなかった。

「あの女、どうしておまえが自分と話したかったのか、その理由もわかってない」
 曽我は弾かれたように振り向いた。小さな眼をいっぱいに開いて、上司の美しい横顔を見つめる。
「男が出てきた途端におまえがどうして黙ったか、そんなことにも気付かない。本命の彼氏の前で、彼女の立場が悪くなることを懸念して引こうとしたおまえの心遣いを卑しい自己保身なんかに貶めやがって。
 あんなバカ女に部下が愚弄されるなんて。不愉快だ。室長の沽券に関わる」

 瞬間、曽我は薪を知る。
 曽我がどうして自分を振った彼女ともう一度話したいと思ったのか、その理由を彼は知っている。誰にも言わなかったのに、彼女のことについては薪には直接話すらしなかったのに、なぜ?
 
 彼女は確かにひどい女だった。でも、曽我は彼女からたくさん楽しい思い出をもらった。別れ間際の言い草に腹が立ったのは事実だが、それ以上に、曽我は彼女の行く末が心配だった。
 不誠実な行為で得たお金で本当の愛を育むことなどできるわけがないと思った。そのことに気付いていない彼女の、いや、彼女たちの未来が不安だった。自分と切れたあと、もう二度と彼女にこんなことをして欲しくなかった。曽我は、それをこそ彼女に訴えたかったのだ。
 しかし、それはどう贔屓目に見ても『バカ』が付くお人好しの考えることで。お人好しの代表格の青木にすら呆れられると思ったから、口にはしなかった。
 でも、薪は知っていた。曽我の本当の気持ちに気付いていた。その上で曽我を、『本当の男だ』と言ってくれたのだ。

 怒りに頬を紅潮させた薪のきれいな横顔を、曽我は、知らない人を見るような心持ちで見つめていた。
 こうしてこのひとは、どれだけの人の心を見抜いてきたのだろう。闇を、光を、やさしさを、憎しみを、ありとあらゆる感情の揺らめきを感じ取って飲み込んで抱きしめて慈しむ。バカ女、と評した彼女のことだって、彼は本当は気になっている。彼女を語るとき亜麻色の瞳にわずかに浮かんだ憂いを、MRI捜査に慣れた曽我の眼は見逃していない。

「遅いぞ、青木」
 薪の声に我に返り、曽我が前方を見やると、そこには糸目の親友と高身長の後輩が並んで立っていた。青木は手に紙製の手提げ袋を持っており、それを受け取った薪が真っ直ぐ公衆トイレに向かったので、中には着替えが入っていたのだと分かる。女装したまま自分のマンションに帰りたくない薪の気持ちを汲んで、薪の家に自由に出入りできる青木が彼の着替えを持ってきたのだろう。
 
 男3人でベンチに腰を下ろして、夕暮れの風に吹かれる。遠くに見える街では、気の早い飲食店の明かりが、ちらほらと燈り始めている。
「青木。ありがとな」
「いいえ、オレは大したことしてなくて」
 計画も筋書きも、青木が立てたと聞いた。配役も彼が決めて、みんなに交渉したのだろう。この後輩は謙虚なくせに、意外と押しが強いのだ。

 右隣に座った後輩の、額に落ちた前髪が風に揺れるのを眺めながら、曽我は感謝の気持ちを込めて彼に言った。
「おれ、今度は薪さんみたいなひと好きになるよ」
「えっ!?」
 それはもちろん、人の気持ちが分かる大人の女性という比喩的な意味合いで言ったのだけれど、何故だか青木は慌てふためいて、
「だ、だめです!薪さんはいけません、薪さんはオレのっ……!!」
 言いかけた言葉を無理矢理飲み込み、両手で口を押さえて眼を白黒させる。どういう理由からか、夕焼けの空に負けないくらい真っ赤に頬を染め替えて、青木は地面に付けた長い脚をバタバタと意味なく動かした。

「『薪さんはオレの』、なんだよ?」
「……オレの上司です」
「おれの上司でもあるぞ?」
「………………はい」
 短い肯定の言葉の前の長い沈黙の間、青木は両の拳を胸の前で振り動かし、地面をドスドスと蹴って、3人が座っているベンチを揺り動かした。
「おまえは何がしたいんだよ?」
「……すみません……」
 
 謝りつつ、なおも衝動が自分の身を動かすのを止められないでいた青木は、着替えを済ませてやってきた上司の姿を眼で捉えるや否や、勢い良く立ち上がった。職場では見られない薪の私服は半袖パーカーに膝丈のジーンズというラフなもので、実年齢よりも20歳は若く見える上に、限りなく中性的だ。
「帰るぞ、青木」
「あれっ、飲みに行くんじゃなかったんですか?」
「予定変更だ。疲れた」
「車、返してきちゃいましたけど」
「歩きたくない。負ぶっていけ」
「!!! はい!!」
「……真に受けるなよ」
 幼い顔をして言葉だけは横柄に、一回りも年の離れた部下と頭の悪そうな会話をして、薪は足先を公園の出口に向けた。

「じゃあな。小池、後は頼んだぞ」
「はい。お疲れさまでした」
 青木が二人にぺこりと頭を下げて、薪の後ろを飼い犬のように付いていく。薪が脱いだ衣装の入った手提げ袋を当然のように持たされて、彼は小さな背中を追いかけていく。
 二人の姿が見えなくなってから、曽我はポツリと呟いた。
「なあ、小池。あのふたりってさ」
「ああ」
 それ以上言わずとも、小池は察したらしかった。ベンチの背にもたれ、さっと脚を組んで群青色に変わり始めた空を見上げる。
「いいんじゃねえの、別に」
「そうだな」
 小池の言うとおり、べつに、どうでもいいと思った。好奇心もないではないが、それこそ余計なお世話だと思った。

 小池はしばらく何も言わずに色濃くなっていく群青を見つめていたが、やがてその藍色に微かな星の瞬きが混じり始める頃になって、唐突に口を開いた。
「曽我」
「ん?」
「なんでおれが皆に協力しなかったか、分かるか」
 小池は上を向いたまま、閉じているのか開いているのか分かりにくい眼で、天空に何かを探しているようにも見えた。
「面倒だったんだろ」
「ちげーよ、バカ」
 罵りながらも小池の視線は空に固定されたまま、曽我の顔には至らなかった。しかし彼の声は職務中のように真摯で、凶悪犯罪に憤るときのように激しかった。

「おれ、絶対にその女、許せねえから。おまえには悪いけど、分からせてやることなんかないと思った。勝手に痛い目見ればいいと思った」

 もうひとり。
 誰にも言わなかった気持ちを、むしろ隠していた気持ちを、いつの間にか知られている。そのことの幸福と不利益を秤にかければ前者に大きく傾いて、それは時と場合によると思うが、今日は祝杯でも上げたい気分。

「さて。店も開いた頃だろうし、飲みに行くか」
 小池は身軽に立ち上がり、初めて曽我の顔をしっかりと見た。細くて感情の分かりにくい眼には、いつもの少しだけシニカルな彼の優しさが輝いていた。
「おお。当然、おまえの奢りだろうな?」
「何バカ言ってんだ、割カンだよ、割カン」
「ええ~、だっておれ、金ないもん。彼女に貢いじゃって」
「ったく。仕方ねえなあ」
 連れ立って歩き出す、自分より少しだけ高い親友の肩は細く尖っている。

「やった。じゃ、叙々苑に行こうぜ」
「ば……ふざけんな、てめえ。どんだけタカル気だよ」
「この胸の痛みは、あそこの特選和牛じゃないと癒されないんだよ」
「なにが特選和牛だ。居酒屋でモツ煮込みでも食ってろ」
「あ、そっちもいいな」
 食えれば何でもいいんだろうとか、そんなんだからメタボ体型になるんだとか、余計な一言は相変わらず多いけれど、曽我は彼のことが嫌いになれない。
 それは第九で一番最初に知り合った同僚だから、ということばかりではなく。彼の失言の裏に隠された不器用な彼のやさしさを、曽我は知っているから。それ以上に、自分の不器用さを彼が分かってくれるから。

 すっかり夜の空気に包まれた街の中、暖かな色合いの明かりがビルの窓に点る。それを目指して、二人はふざけ合いながら歩いていく。
 彼らが去った公園では、やっと点き始めた外灯が、誰もいないベンチを照らしていた。



(おしまい)



(2011.6)



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天国と地獄8 (6)

 こんにちは~。
 て、呑気に語尾を伸ばした挨拶してる場合じゃないですよね。

 ごめんなさい、放置しちゃってすみませんでした~っ
 しかも、章の途中と言う非道な切りっぷり!!(長かったので2つに分けた) 鬼だね、しづ!!!

 ちょーっとリアルがバタバタしておりまして、コメレスは、もうしばらくお待ちください。
 記事は見直し済みなのでね、残り2回、レスより先に公開させていただきます。←不義理の極み。


 みなさまに、楽しんでいただけますように。
 
 




天国と地獄8 (6)




「ごめんなさい、曽我さん。わたくしのこういうところがお嫌なのでしょう?でもマキは、あなたの為なら家なんかいつでも捨てる覚悟がございますのよ」

「何を仰います、マキさま! 資産254億の小野田家を継がれるのはお嬢さましかいないのですよ!!」
「「資産254億!?」」
 事実とはゼロの数が9つほど違っているようだが、細かいことを気にしてはいけない。
 しかし、あまりにも現実から掛け離れた嘘はリアリティを損なうものだ。観客の中に「小野田家なんて聞いたことあるか?」という声がちらほらと上がったとき。

「小野田、小野田……おっ、これか!!」
 カフェにいたひとりの男がノートパソコンを広げ、インターネットから記事を引き出した。「こりゃすごい、本物だ!」と彼が声を上げるので、気になった連中は一人二人と彼の席に寄っていき、彼のPCの画面を覗き込んでは、おお、と感嘆の声を上げた。
 平均よりは大分小柄な山本が人垣の後ろから爪先立って、見ると、画面には現職の法務大臣と握手をしている警察庁長官と隣に並んだ薪の姿が映っていた。これは多分、先日の事件解決の折に法務大臣と会談をしたときの写真だと思うが、長官の衣装はタキシードに、薪の衣装は豪奢なイブニングドレスに変わっていた。

 宇野さん……これは一種の詐欺行為では……いや、まあ、偽造したのは公文書ではないし、でも軽犯罪法には抵触しているような……。

「これって、何とかって大臣だよね? テレビで見たことある」
 法務大臣の名前くらい覚えておきましょうね、君たち。
「毎週土曜、定例となっている昼食会、とか書いてあるぜ。すっげーセレブ」
 うん、現職の法務大臣はそんなにヒマじゃないと思いますけどね。
「しかしこの親父、あの娘と似てないなー」
 そりゃあ、本物の親子じゃありませんから。

 いくらか浮世離れした設定も、インターネットという魔法をかけられれば現実になる。今や観衆の誰もが、マキという女性は自分たちとは異なった世界で至宝のように育て上げられた温室の薔薇であることを信じていた。
 そして当然、生まれる疑問がひとつ。
 美人で、若くて、お金持ちで、約束された幸福な未来を持つ彼女が、そのすべてを投げうってまで付いていきたいと思う男性、それがこの坊主頭の冴えない男?

「その男のどこがそんなに?!」
 ヒロシと呼ばれた男の質問は、観衆の総意だった。
 マキはニコニコと品良く微笑みながら、小鳥が羽繕いをするように小首を傾げ、
「曽我さんは、ステキな方ですのよ」
「どこが?! あんたの目、節穴じゃないの?」
 アカネの叫びは、これまた観衆の代弁。しかしマキは臆することなく、静かな口調で、しかし力強く言い切った。
「失礼ですけど。表面上のものだけ見ていては、曽我さんの素晴らしさはわかりません」

 それは、実に教師的な物言いだった。あどけない頬のラインから自分よりも年下と見受けられる少女に上から目線で諭されて、アカネは腹に据えかねたのだろう。自分だって男を見てくれだけで判断するほど愚かな女ではないことを主張するため、曽我の内面的な部分に対する非難を早口にまくし立てた。
「この男はね、無神経で空気読めないし、見当違いのことばっかり言うし、女の言いなりになってばかりの情けない男なの! あたしの嘘に何度も騙されるくらいバカだし……とにかくバカなの! いいとこなんて、ひとつもないわよ!」
 公衆の面前で罵倒されて、それでも曽我は何も言わなかった。卑屈なまでに寡黙な彼の横顔をちらりと見やり、麗しの少女はぽつりと一言、
「馬鹿はおまえだろう」

 ざわめいていた観衆が、シンと静まり返った。
 それは唐突に打ち捨てられた上品な言い回しとか、現れてから今までずっと彼女の顔に浮かべられていた笑顔が失せたこととか、そういった眼に見えるものの影響ばかりではなかった。冷たい波動が彼女の細い身体から発せられ、それが彼女の怒りであることを本能で感じ取ったことによる恐怖が集団に伝染したからだった。
 透き通るアルトの声音に氷の冷たさを添えて、薪は言った。

「曽我は、一見無神経に見える行動の裏で、たくさんのものを見てたくさんのことに気付いている。MRI画像をあれだけ細かく読み解ける曽我に、それができないわけがない。曽我はその上で言葉を選んでいる。相手の気持ちを、プライドを考えるから。隠しておきたい人の心を大事にするから。それは曽我のやさしさで、それに気付かない人間が愚鈍なんだ」
 淡々と、でも力強く、彼女の声はそれが真実であることを他人の心に伝える。心から信じているものは心に伝わる。頭で理解するのではなく、第一印象からでもなく、彼女の言葉から真実の彼を感じ取って、ギャラリーは沈黙する。

「誠実で正義感が強く、同情心が篤い。強く、やさしい心を持っている。今どき珍しい本物の男だ」
 曽我の手を離し、薪は一歩前に出た。自分よりも若干背の高いアカネに、至近距離から氷柱のような眼光をぶつける。
「曽我は、おまえなんかにはもったいない」

 ひくっと頬を引きつらせて、アカネは一歩下がった。彼氏に至っては素早くアカネの背後に隠れて、まったく今時の男は情けない。
「お嬢さま、お言葉が。お顔も少々」
 澄ました口調で執事が注意を促すのに、お嬢さまはハッと我に返り、こほん、と子リスが首を縦に振る風情で咳払いをし、レースつきの白い日傘をくるりと回した。
 すると彼女を包んでいた氷壁は幻のように融解し、彼女は再び、少しだけ世間知らずで屈託のない深窓の姫君に戻る。そこにすかさず攻撃をかけるアカネは、中々根性が入っていると山本は思った。

「なっ、なによ、小野田家のお嬢様だか何だか知らないけど、あんたあたしより年下でしょ。偉そうに説教しないで、きゃああっ!!」
 アカネの反撃は、途中から悲鳴に変わる。
 ずうん、と重苦しい音と共に現れたのは見上げるような大男で、その三白眼から照射されるのは間違うことなき殺気。ぼきぼきと指の骨を鳴らし、毛深い腕をぐっと曲げれば、ボディビルダーのような筋肉が白シャツの下に浮き上がる。
 今度こそ二人は悲鳴を上げて2mほど飛びのくと、熱せられたアスファルトの上の膨張した空気の中で震え上がった。

 最後は脅しなんだ、といささか滑るような心持ちで山本は、すっかりぬるくなったアイスコーヒーを飲み干した。岡部が出てくれば、これで幕だろう。

「宅のお嬢さまを侮辱する言葉が聞こえたようでしたが、空耳でしたかな」
「岡部、弁えなさい。空耳ですよ」
 微笑みつつ用心棒を諌める、その自然さは、彼女が確かに命令することに慣れた特権階級の人間であることを感じさせる。強い主従関係を認めて衆目が感心するのに、山本はひとり心の中で呟いた。
 そりゃ自然ですよね。室長、岡部さんには普段から言いたい放題ですものね。

「お嬢さま。旦那さまがお屋敷でお待ちです。曽我さまも、どうぞご一緒に」
 岡部が大きな手で指し示した先には、黒塗りの高級車が停まっていた。運転手らしき男が後部席のドア前に立ち、お嬢さまの乗車を待っていた。彼もまた背が高く、きちんと撫で付けた黒髪のオールバックとクスエアな眼鏡がよく似合う美形だった。
「さ。行きましょう、曽我さん」
 曽我の手を取り、車へと導く彼女の足取りはとても軽く。スキップでも踏みかねないその様子は、曽我への好意を物語る。

「どうぞ」
 運転手はドアを開けて姫君を乗せ、反対側のドアから執事と曽我を乗せる。助手席には用心棒が乗り、最後に運転手が運転席に納まった。
 美丈夫たちに慈しまれ守られて、美しい姫君は花のような人生を歩むのだろう。しかしその彼女が選んだのは、坊主頭の垢抜けない男。

 否。そんなはずはない。
 彼女が選び、それを周りの彼らも認めている。ということは、彼はもしかしなくても、大した男なのではないか? 若さゆえにそれが見抜けず、アカネという女はとんでもない損をしたのではないか?

 そんな声もちらほらと上がる中、車はゆっくりとスタートを切り、衆目の中で道化を演じる羽目になったアカネは、不貞腐れた表情で足早にその場を去っていった。ちょっと待って、と後ろから追いすがる男を振り返りもしない様子から、「彼らの仲も長くないかも」「あの女の気の強さじゃね」などという失笑も洩れ聞こえてきて、本当に集団というものは心無い発言をすると山本は思う。
 そっと後ろを伺うと、いつの間にか宇野は姿を消していた。もうここに、山本の知り合いはいない。

 カフェの話題は先刻の一幕のことに染まり、小野田家の令嬢の美しさや、執事のスマートさ、あらわたしはあの運転手が素敵だと思ったわ、いやいやあの用心棒は名の通った武道家に違いない、などと空想も逞しくお喋りに花を咲かせるが、彼らがどんなに熱心にiモード検索をかけても、先刻確認したはずの記事は見つけることができないのだった。
「それにしても、あのお嬢さまオトコの趣味悪いよな?」と誰かが言うのに、「ホント、てんで釣り合わない」「あれだったら最初の彼女の方がお似合い」という声がそこかしこで上がる。全体でまとまった話をしているわけではなくとも、共通のスレッドが立った状態の今、グループごとの会話も全体の会話も似たようなものになるのだ。

「世間知らずっていうかさ。ちょっと非常識だよな」
「浮世離れしてるっていうの? まあ、金持ちなんて皆そんなもんかもしれないけど」
「あのお嬢さまが特殊なんじゃん? でなきゃ、あんな冴えない男選ばないっしょ」
「いやいや、分からんぞ。ああ見えてあの男、ビルゲイツも真っ青のITの申し子とか」
「どっちにせよ、あのお付きの数は非常識でしょ」
「でもみんないい男だった~」

 みんなの言うとおり、なんて非常識な上司と同僚なのだろう、と山本は思った。
 同僚が女性にこっぴどい振られ方をしたからと言って、こんな大仰な仕返しをするか? 良識のある大人のすることとは思えない。
 しかし、この胸が熱くなるような感覚はなんだろう。彼らはどこまでも愚かしい、でも、その愚考の目的を思えば下らないと切り捨てることのできない何かが山本の中にも生まれつつあって、その何かが新しい山本賢司を作り出していく。

 今日は天気も良いし。梅雨も明けたことだし。
 少し、非常識になってみようか。

 やがて山本の待ち人が現れて、いつものように周囲の人々からざわめきが起こった。常なら逃げるようにその場から去る山本だが、今日はゆっくりと座ったまま、自分の妻と娘を見上げた。
 店中の客が彼女たちに注目しているのが分かる。マキ嬢ほどではないが、彼女たちは道行く男たちを振り返らせるのに充分すぎるほどの容姿をしていた。豊かな黒髪をアップにまとめ、中学生の子供がいるとは思えないほどに若々しい肢体を持った妻に、山本は尋ねる。

「ねえ、玲子さん」
「なあに?」
「きみは私の何処がよくて、私と結婚したのかな?」
 妻はデパートの袋を両手に持ち直すと、その美しい顔に輝くばかりの笑みを浮かべ、
「賢司さんみたいに素敵なひとは、他にいません。思いやりがあって、頭が良くて、正義感が強くて、勇ましくて。わたしがこれまでに会った男性の中で、あなたが一番ステキ」
 15年前に聞いた台詞と全く同じことを、彼女は録音機のように繰り返した。彼女の気持ちはあの頃のまま、いや、年々強くなるようですらあると山本は感じている。
「だから学生のうちにプロポーズしたのよ、あなたを誰にも取られないうちに。社会に出たら、たくさんの女性があなたに夢中になるって分かってたから」

 あまりにも現実との開きが大きい彼女の言葉に、カフェの客たちが呆然としている。我が妻ながら彼女のドリーム精神には恐れ入る、と山本も密かに思っている。しかし今日だけは、彼女の気持ちを素直な気持ちで聞きたかった。

「ママ、ずるい!」
 中学1年になる娘が、玲子を押しのけるようにして山本の前に顔を出す。母親そっくりのきれいな顔をして、同級生の男の子からしょっちゅう交際の申し込みをされているらしいが、本人は彼らを歯牙にもかけないと聞く。
「わたしだってパパのこと、世界で一番ステキな男性だって思ってるのに! パパ、ママとわたし、どっちが好き?」
 さすが玲子さんの娘。男の趣味の悪さは母親譲りだ。
「まあ、玲奈ったら」
 さすがに玲子は母親だ。彼女は娘の言葉を軽く諌め、ホホホと上品に笑い、
「そんなのわたしに決まってるでしょ。わたしは賢司さんの奥さんなんですからね」
 ……もしもし、玲子さん? 眼がすわってますけど。

「わたしの方が若いし、これからもっともっと美人になるもん! お父さんだって、若い子の方がいいに決まってるわ!」
 いや、玲奈ちゃん。美人になってもお父さんには何もできないからね?
「大人にはね、子供に真似のできないテクニックってものがあるのよ! 賢司さんはわたしのもの、手を出さないでちょうだいっ!」
「なによ、負けないわよ!」
 …………彼女たちも充分非常識だった……。

「帰りに何処かでごはん食べていこうか」
 大人の良識を捨てきれない山本がぼそりと呟くと、二人の美女は山本の右腕と左腕をそれぞれ抱きしめて、はい、と素直に返事をした。そのまま3人で連れ立って、夕暮れの迫る街へと消えていく。
 彼らがいなくなって平均年齢が10歳ばかり下がったカフェで、「人間、やっぱり中身だよな」という低い呟きが、誰からともなく洩れた。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

天国と地獄8 (5)

 日曜日の夜、オットと一緒に『平成教育委員会』というクイズ番組を見てましたら、『亜麻色ってどの色?』という質問がありまして。 
 
「あ、うちの薪さんの髪の色だよ! とってもきれいなんだよ! 答えはDだね!」
 と、わたしが自信満々に言い放ちましたら、しっかり間違ってて。(笑) 答えはCでした。

 ええーーっ、亜麻色ってあんなに薄いの?!
 と驚くくらい、殆ど白に近い茶色で。うちのテレビ映りの問題かもしれないけど、こんなんだったよ?
 ↓↓↓

 『こんな色』  

 しかも、映像で見たら全然キレイじゃないんですけど。(←これ、モデルさんに失礼かもだけど、後姿だったから)
 おかしいなあ、ネットで調べたときはもっとずっと濃い色だったんだけどなあ。

 『亜麻色の色見本』 

 まあ、字面がいいので使ってた部分も大きいのですけど。 亜麻色は栗色の表現に用いられることも多いので。
 実際、ネットで調べた亜麻色より、薄茶色の方が見た目もキレイだったし。
 でも、『こんな色』で『亜麻色の髪の乙女』を想像しても、ちっともキレイじゃないわ、と思うのはわたしだけ? 金髪と言うより白髪だよね? ……痛くね?

 テレビの映像を見たオットが、
 「そうか、薪さんは白髪なのか。しづは老け専か」 と何事か呟いておりましたが、そんなことはどうでもよろしい。(いいの?)


 疑問に思った時のWiki頼みで調べてみたのですけど、
「こんな色」は エルクベージュ と言って、これも亜麻色と称されるんだそうです。 
 つまり、亜麻色って2色あるんですね~。 まぎらわしいな~~。

 テレビでやるなら、ここまできちんと放映して欲しいもんです。 おかげでオットに老け専だと誤解されました、ってクレームつけたら、意味分かってもらえるかしら。(笑笑)
 






天国と地獄8 (5)




 梅雨が明けたばかりの日本列島は、その日快晴に恵まれていた。
 
 アイスコーヒーのグラスを片手にすっかり薄くなった頭を自然の風に晒して、山本は休日の午後の一時を過ごしていた。
 山本がいるのはヨーロッパの街中によく見られるような路上にまで席を置いたオープンカフェで、周りにいるのは派手な恰好をした若者たちばかり。山本が実年齢より20歳老けて見えることを差し引いても、彼がその場所で浮いていることは否定できない。その証拠に、「あのオジサンさあ」という苦笑紛れの声が風に乗って聞こえてくる。見た目で判断されて耳も遠いだろうと思われているのかもしれないが、残念、山本は耳はいいのだ。
 山本自身、自分の外見については自覚しているから、本音を言うとお洒落なオープンカフェは苦手なのだが、合流に便利だからこの席で待っていてくれと頼まれたのだ。そうでもなければ、こんな気取った店の金属製の椅子になど座るものか。

 不愉快な囁きには耳を塞ぎ、文庫本のニーチェをめくりながら連れが迎えに来るのを待っていると、カフェから少し離れた路上でちょっとした騒ぎが起きた。公共の場所には相応しくない女の大声が聞こえて、何事かと顔を上げると、ちょうど山本の席の方へ向かって、大胆に腕と足を露出させた若い女性が歩いてくるところだった。

「ちょっと待てよ」
 後ろから、彼女よりは大分年上と思われる男が追いかけてくる。その男の顔を見て、山本は慌てて文庫本で自分の顔を隠した。
 山本の目前で女性の腕を掴んで彼女を引き止めている30前後の小太りな男、それは山本と同じ研究室で働く先輩職員だった。

 偶然にも同僚の修羅場を目撃する羽目になって困惑する山本の前で、若い女性は強気に彼の手を払い、苛立った口調で、
「話なんかないって言ってるでしょ。あんたがあたしに未練たらたらなのは分かるけど、あたしたちはもう終わったの!」
 脱色したストレートの長い髪を左右に振って、そうすると彼女は戦いの女神ミネルバのようで、傲慢なまでの我の強さは彼女の魅力のひとつとして立派にその役目を果たしていることが分かる。女性に従順を求めつつ、こういう女性に惹かれる男性もまた多い。
 青みがかった大きな瞳も、それを縁取る睫毛を強調した今時の化粧も、彼女の魅力を引き立てている。季節的にはまだ早いかと思われる二枚重ねのタンクトップにホットパンツという彼女のいでたちも、その眩しいまでの若さ溢れる肢体にはよく似合っていた。

 男はしかし、そんな彼女の迸るような激しい美しさに惑わされることなく、強い口調で言い放った。
「おまえに未練なんかない。だけど、おまえがしたのは悪いことだ。それをきちんと認識して謝罪しろって言ってるんだ。そうしなかったら、おまえはまた同じ間違いを繰り返すだろ」
「何よ、あんただってスケベ心があったからあたしに宝石やらバックやら買ってくれたんでしょ。お互い様じゃない」
「ちがう、おれはちゃんと結婚まで視野に入れて」
「それはあんたの勝手でしょ?! 冗談じゃないわよ、あんたみたいな冴えない男と結婚なんて! あんた、あたしに釣り合うとでも思ってんの!?」
 詳しいことは分からずとも、彼らの間でどんなトラブルがあったのか、凡その予想はついた。それはカフェの他の客も同様だったらしく、しかし客の殆どは自分たちに年の近い女性側の味方で、「あの男じゃ、あの娘はムリっしょ」などという失礼な言葉が、また風に乗って山本の耳に入ってきた。

 腹が立った。
 男が山本の同僚だったから、だけではない。曽我のことを何も知らない連中が、彼の価値を勝手に決めつける、その行為が許しがたく不愉快だった。

 が、公共の場で騒ぎを起こすほど、山本は非常識ではなかった。腹立ちは胸の中に押し留め、第三者の素振りでその場をやり過ごそうと思った。ここにいたのが自分でなく、第九の他の誰かでもそうするだろう。下手に騒ぎ立てたら曽我にも迷惑が掛かる。
 しかし、彼らは山本の一つ隣の空テーブルの前で揉めているのだ。会話はイヤでも耳に入ってくる。繰り返すが、山本は耳はいいのだ。

「ひとの外見にばっかり捉われてると、そのうち痛い目見るぞ」
「あんたみたいな男に言われてもね。これくらいイイ男が言うんだったらサマになるけど」
 そう言って彼女はすらりと長い腕を後方から現れた男の首に回し、これ見よがしに彼に擦り寄った。
 彼女の言うとおり、男は若く、なかなかの美男子だった。彼氏の出現に、曽我が思わず後ずさる。
 彼は彼女と同じような表情をして、自分の正当性を心から信じる十字軍の戦士のように強く曽我を非難した。

「オッサン。おれのアカネに何か文句あるの?」
「ヒロシはケンカ強いわよ。謝っちゃった方がいいわよ」
 ヒロシとやらが殴りかかればいい、と山本は思った。警察官と言う立場上、自分から手を出すことはできないが、曽我は柔道は初段だ。こんな優男を地面に叩きつけることなぞ、片手でやってのける。

 しかし、曽我は彼氏が出てきた途端に弱気になった。
 曽我の表情を見て取って、女は勝ち誇ったように彼を嘲った。
「女には強く出られても、男には引いちゃうのね。情けない男」

 曽我はぎゅっと唇を引き結び、その拳は怒りに震えて、でも決して一歩を踏み出そうとはしなかった。何も知らない者たちにとって、その様子は曽我が男の出現に恐れをなしたように受け取られ、か弱い女相手でなければ啖呵も切れない、なんと情けない男よと、カフェのあちこちで沸き起こる失笑に、思わず山本が立ち上がりかけたとき。

「曽我さん」

 鈴を転がすようなアルトの声が響き、軽やかなヒールの音が山本の席に近付いてきた。白い日傘を差した彼女は、亜麻色のふわふわした長い髪とほっそりした体つき、胸元にフリルのたくさんついたチュールワンピースを着ていた。開いた胸元にはシンプルなプラチナのネックレスが奥ゆかしく輝き、華奢な両肩を慎ましく覆う短い袖から伸びた腕と、品の良い長さのスカートから伸びた脚の白さは驚くばかり。それらのアイテムと彼女の優雅な身のこなしを併せれば、どこからどう見ても良家の子女に間違いない。間違いないが、山本の観察眼も間違いではなかった。

「室……!!」
 カフェの客たちが騒然とする中、突然現れたお嬢さまは満面に浮かべた笑顔をそのままに、ちらりと山本の方を見て、しかし立ち止まることなく、細い人差し指を自分のくちびるに当てただけで山本の横を通り過ぎた。

 ふんわりしたスカートの裾をひらめかせ、無邪気な笑顔をその美しい顔に浮かべて彼女は、「お会いできて嬉しいわ」と、曽我の手を取った。
 その場で呆然としていないのは、日傘を差したお嬢さまだけだった。誰もが自失していた。彼女に手をとられた曽我でさえ。

 曽我の顔を見上げる彼女の、前髪の下の秀麗な眉とその下の大きな瞳。長い睫毛はその色合いと形から、人工的なものではなく生まれつきのものだと分かる。女の子らしい小さな鼻と、桃の花色に彩られたくちびる。笑うと、真珠のような前歯が少しだけ覗いて、さっきの彼女がミネルバならこちらはフレイアだな、と山本は思った。俗に言う「愛と美の女神」ってやつだ。
 亜麻色の豊かな髪は彼女の華奢な背中を覆い、その美しい曲線を日傘と協力して隠していたけれど、品よく晒した腕と脚の造形から、服に隠れた部分の麗しさは十分に推し量れる。本当に美しいものはどれだけ巧妙に隠匿しても、その輝きを自然と滲ませるものだ。何より、彼女の全身から発せられる気品と清涼感は付け焼刃で身につくものではない。タンクトップにホットパンツという若さに任せたアカネの姿が、何故だかとても薄っぺらく、いっそ下品に見えてくる。鑑定書つきのダイヤモンドの隣にキュービックジルコニアが並んだみたいだ。

 曽我は自失から戻り、若い彼女との諍いのときより遥かに多くの耳目を集めていることに気付いたようだった。焦った顔で深窓の姫君を見やり、
「ま、薪さん……どうしてここに」
『あの娘、マキって言うんだ』という呟きが聞こえる。マキは苗字ですよ、と突っ込みたくなるが、それをしたら只では済まないことを山本は経験から学んでいる。

「車から曽我さんのお姿をお見かけして、はしたなくも追いかけてきてしまいました」
 彼女は自分の軽率さを恥らうように、でも嬉しくてたまらないといった様子で曽我の手を握った自分の手に視線を落とした。
「曽我さん。よろしかったらこれからわたくしの家に……あら。そちらの方、どなた?」
「あ、彼女は」
 曽我がアカネを振り返ると、そこにいたのは何故か彼女の本命の彼氏の方で、後ろを向いていた曽我は知らないが、マキの姿を見た途端に彼はアカネの肩に回していた手を解き、殆ど彼女を突き飛ばすようにして前に出てきていた。

「ちょ、ちょっと待って。君、こいつと付き合ってるの?」
 ヒロシと呼ばれた若者は無遠慮にマキに顔を近づけ、我知らず赤くなって何とも下卑た笑いをその口元に浮かべた。言われてマキは、長い睫毛を瞬かせ、口元を右手で隠すと、恥ずかしそうに首を振った。
「いいえ、そんな。とんでもない」
「だよね、君みたいな可愛い娘が、こんな冴えない男と」
 うんうんと頷いて、それは山本を除いたギャラリーたちも同じ気持ちだったのだろう。何となく安心したような空気が流れて、場の緊張は幾らか和らいだように見えた。
 が、山本には分かっていた。本番は、ここからだ。

「ねっ、よかったら、おれとこの後」
「あんた、なに言ってんのよ!」
 自分の本命彼氏が図々しくマキに声を掛けるのにマジギレして、アカネがヒステリックに喚き立てる。先刻、彼女の啖呵はとても気風よく感ぜられたのに、今はなんだか雌猫がぎゃんぎゃん鳴いているみたいだった。
 対照的に、涼やかに透き通ったアルトの声が、せっかく落ち着いてきた観衆に再び爆雷を落とす。

「わたくしの方が一方的にお慕いしてて。曽我さんには、きっとご迷惑だと思うのですけど」
「「「ええ~~~~!!!」」」
 そこで一緒に驚いてはダメだろう、曽我!!
 しかし、無理もなかった。カフェの客の中には思わず席を立つものもいたし、店員は客のコップに注いだ水が溢れているのにも気付かない。

 薪がその気になれば、帝国が築けるのではないかと山本は思う。カリスマ性があるというか自然と人の憧憬を集めてしまうというか。普段から衆目を攫う美貌のひとではあるけれど、意識してそれを操ることができたら、警察機構なんか簡単に牛耳れる気がする。

「お嬢さま。探しましたよ」
「今井」
 半袖シャツの人ごみを背景に、ダークグレイのスーツに白い手袋をはめた、いかにも執事然とした男が姿を現した。きっちりと撫で付けられた髪は、主の髪より幾分薄めのブラウン。見目良く品良く、洗練されたその物腰に、うっとりと見ほれる女性もちらほら。
 ……今井さんて、こういう人でしたか?

 交通課の彼女に連絡してやろうか、と山本が余計なお世話を焼きたくなるくらい、堂に入った執事っぷりだった。つまり、ノリノリということだ。
「突然いなくなられては困ります。ボディーガードもつけずに。私が旦那さまに叱られます」
 咎める口調で諭されうつむいて、しかし彼女が気にしているのは執事の機嫌ではなかった。

「ごめんなさい、曽我さん。わたくしのこういうところがお嫌なのでしょう? でもマキは、あなたの為なら家なんかいつでも捨てる覚悟がございますのよ」




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ジャンル : 小説・文学

天国と地獄8 (4)

天国と地獄8 (4)





「薪さんには女性に扮していただいて、曽我さんを騙した女の前で、曽我さんの新しい恋人のフリをしていただきたいんです」

 この計画は、青木と曽我で立てた。
 曽我本人にどんな仕返しがしたいかと聞いたところ、お金を取り戻そうとは思わない、という答えが返ってきた。曽我が一番頭に来たのはさんざん貢がされたことではなく、彼女の自己弁護の内容だったらしい。

『あんたみたいな冴えないオッサンが、あたしみたいに若くて美人の女を連れ歩けたんだから、それで満足しなさいよ』

 確かに彼女は若くて美人だった、そして曽我は見てくれは良くない。でも、人間容姿だけじゃない。まったく人生に影響がないとは言わないが、絶対にそれだけじゃない。大事なのは中身だ。平凡な顔立ちでも相手の人となりが分かってくるに従って可愛く見えてくるものだし、実際、何十年も一緒に連れ添ったら見てくれなんかどうでもよくなる。
 それを証明するためにも、彼女より遥かに美人の恋人を作って、その彼女に見せ付けてやりたい。男は中身で勝負するものなんだと、若さに思い上がった彼女に思い知らせてやりたい。
 それには曽我の恋人の振りをしてくれるとびきり美人の協力者が必要で、青木と曽我が思い当たる人物といったら、彼らの知り合いには一人しかいなかった。

 薪には容易い事だと思った。女性の振りをするのはおとり捜査で慣れているし、青木のために自分の身を差し出す決意までした彼なら、二つ返事で引き受けてくれると思った。しかし。

「アホらしい」
 さっきとは打って変わって冷たい口調で言い捨てると、薪は冷奴に箸を伸ばした。
「なんで僕がそんなことしなきゃならないんだ」
 まさか断られるとは思っていなかった青木は、薪のお手製のアジフライを頬張りつつ、そのふっくらとした身の柔らかさに感激しながらも、説得の続きにかかる。
「このままでいいわけないですよ。曽我さんは彼女と真面目に付き合っていたのに、あんな目に遭わされて。薪さんにとっても、曽我さんは大事な部下でしょう?」
「それは曽我と彼女の問題で、僕たちが口を出すべきじゃない」
「薪さんは口惜しくないんですか?彼女、曽我さんから貢がれた品を全部質に入れて、そのお金で本命の男とデートしてたんですよ。あからさまに利用されて……!」
「次からそんな女に引っ掛からなければいい。いい教訓になっただろ」
「薪さん」
 咎める口調で青木が薪の名前を呼ぶと、薪は箸と茶碗を置いて、両手をテーブルの上で軽く握った。

「青木。こういうことは、他人が何をしてもだめだ。曽我が自分で立ち直らないと」
 薪はずるい、と青木は思った。職務中のように姿勢を正して、澄み切った亜麻色の瞳で見つめられたら、青木はそれ以上何も言えない。
「大丈夫だ。曽我は、強い男だ」
 薪は、自分の部下を信じているのだと思った。彼が自分の力で己を取り戻すのを、黙して待つ心算なのだ。
 だからと言って、職務中に手心を加えたりしない。あくまで厳しく、やや独善的な上司像を崩さない。でも、居丈高にそらされた薪の胸のうちにはいつも、部下に対する信頼と愛情が溢れていることを青木は知っている。

「わかりました」
 神妙に頷いて、青木は食事に戻った。
 丁寧に細切りされた春キャベツの甘さと食感を楽しみながら、一連の会話のせいか、まるで仕事中のように整然とした所作で食事をする薪をプライベイトの彼に戻したくて、青木はちょっとしたイタズラを思いつく。

「薪さん。今夜、期待していいんですよね?」
「……えっ?」
 アジフライを分けていた薪の箸が止まる。顔と手の位置はそのまま、青木の顔を眼だけで見上げて、その瞳は不安に揺れている。
 薪は青木の期待の対象に気付いて、それは薪の最も不得手とする項目で、だから突然彼は挙動不審になる。青木と眼が合うとパッと横に逸らし、瞳があさっての方向を向いているものだからテーブルの上にキャベツが散らかっちゃってますけど。

 彼の焦りが伝わってきて、青木は心の中でニヤニヤ笑う。得意なことと苦手なことの差に天と地ほどの開きがある、それも薪の魅力のひとつだ。そのギャップがたまらない。
「さっき、今夜がんばってみるって」
「そ、それは!!」
 薪はくちびるを開いて、空気だけを飲み込んで閉じ、また開き。
 どうやら自分の発言をなかったものにしようとあれこれ考えているようだが、青木はそこまでお人好しではない。
「初めては、オレって決めてくれてるんでしょう?」
「うっ……」
 長い指を組み合わせて肘をテーブルに付き、薪の瞳を真っ直ぐに見つめれば、彼が自分から逃げられなくなることは分かっている。

「ごはん食べ終わったら、一緒にシャワー浴びましょうか」
 案の定、固まってしまった薪に笑いかけると、薪は白い薔薇が紅いインクを吸い上げて発色するように見る見る顔を赤くして、それでも終いにはこっくりと頷いた。




*****





 翌日、青木は曽我に、薪の協力を得られなかったことを正直に話した。曽我はそれほど期待していなかったようで、やっぱり、と軽く呟いただけだった。
 休憩室で自販機の紙コップに入ったコーヒーを飲みながら、青木は自分の隣で杜仲茶を飲んでいる曽我に、計画の修正案を提示した。

「どうしますか? 他に美人の心当たりと言うと、法一の三好先生か、助手の菅井さんくらいですけど」
「うーん、どっちもハイレベルだけど、年がなあ。彼女、まだ二十歳でさ。それと同じか年下に化けるとなると、苦しいだろうな」
「薪さんだったら年齢的にも文句なしだったんですけどね」
 薪の実年齢は37歳だが、服装によっては高校生くらいに見える。ラフな服装で居酒屋で飲んでいて、何度店の人から注意を受けたことか。

「あとは捜一の竹内さんに頼んで、女の子の知り合いから誰か見繕ってもらうとか」
「ダメダメ。竹内さんは、人妻と子供には手を出さないから」
 捜一の光源氏と異名をとるプレイボーイは、浮名を流す一方思慮深い一面もあって、自分の警察官としての立場を危うくするような相手とは初めから付き合わない。いつ監査課に突っ込まれても自由恋愛だと主張できるような、自立した大人の女性しか相手にしないのだ。その中に、親のすねを齧っている娘はいない。親がうるさいからだ。

「じゃあ、どうします? 諦めますか?」
「冗談だろ。今週末に決行する」
「わかりました! オレが曽我さんの彼女になります!」
「……おまえ、薪さんに毒されてない?」
 薪のスットンキョーが伝染ってきたみたいだ、と曽我に言われて、青木は照れ臭さを覚える。恋人として付き合うようになって一緒に過ごす時間が長くなったから、今までよりも彼の影響を強く受けているのかもしれない。主に、プライベイトの。

「こないだ、あんまり頭に来て言葉が出てこなかったから。相手に言いたい放題言われて、そのまま別れちゃってさ。新しい彼女なんかいなくたって、言いたいこと、バシッと言ってやるんだ。そうしたら吹っ切れそうな気がする」
 そう言って前を向いた曽我の横顔は、なかなかに男らしかった。

「悪かったなー、青木。さんざん付き合わせて。でも、おかげで勇気出た」
 曽我はKYだと評されることも多いが、基本的に平和主義者だ。腹に据えかねることがあっても、他人を攻撃したりしない。自分の意見を強く主張することよりも、ジョークや笑いに紛れさせてしまうことの方が遥かに多い。 それは、彼のやさしさの裏には自分の考えを堂々と言えない臆病な彼が隠れていることの証明に他ならず、そこが自分の弱さだと曽我自身も分かっているのだろう。

「自分を応援してくれる誰かがいるって、幸せなことだな」
「オレだけじゃないです。みんな口には出さないけれど、曽我さんのこと応援してますよ」
「うん。わかってる」
 曽我は残りの杜仲茶を一気に飲み干すと、右手の中で紙コップをくしゃりと潰し、立ち上がった。

「早いとこ、ケリつけないとな」



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天国と地獄8 (3)

天国と地獄8 (3)





 小鉢の中で冷奴を割る箸を止めて、薪は大きく眼を瞬いた。
 亜麻色の瞳には、青木の困り果てた顔が映っている。きっと薪も、自分が困っていることは察してくれている。でも薪には怒りの方が大きいのだろう、大きな瞳を険しく伏せて、
「年のせいか、このごろ耳の調子が優れなくてな。よく聞き間違いをするんだ」

 薪は努めて冷静に、摩り下ろした生姜をたっぷりと豆腐に載せた。下ろし生姜の無い冷奴なんて、炭酸の抜けたビールみたいなものだ、と薪が言うので、自分は無くても平気だと青木が答えると、冷たい豆腐に醤油をかけただけなんてあり得ない食し方だと叱られた。豆腐に失礼だとまで言われた。意味は分からないが、なんだか薪らしくて笑えた。

「僕の悪口が聞こえたような気がして問い質すと、誰も言ってない、って言われるんだ。今聞こえたのは、それと同じ現象だよな?」
 口の中のものをきれいに飲み込んでから口を開く。薪は上品でも気取ってもいないが、とてもきれいに食事をする。

「『曽我の彼女になって欲しい』って聞こえたんだけど。ありえないよな?」
「すみません、お願いします! この通りですっ!!」

 一転、青木はキッチンの床に正座して頭を下げた。
 薪に怒られるのは覚悟の上。これも大事な先輩のため、ひいては室長である薪のためだ。

 曽我は彼女に振られて以来ミスを連発し、先日とうとう第九内だけでは収まらない大ポカをやってしまった。薪が捜一まで出向いて課長に頭を下げ、事態はそれ以上悪化しなかったが、第九の失点として累積されてしまった。
 起こってしまったことに対しては意外なくらい寛容な薪は、そのときも「これから気をつけろ」と曽我に言い渡しただけだったが、曽我の仕事のクオリティが下降傾向にあることは明らかだった。しかしそこには深く傷ついた心の問題が存在しているが故に、単なる励ましや一時の憂さ晴らしでは彼を元の優秀な捜査官に戻すことは困難で、事実青木のアフターと自腹を削っての激励会はあまり効を奏していなかった。

 曽我が彼女のことを吹っ切ることができたら職務も充実するに違いない。今のままでは薪の立場にまで悪影響を及ぼしかねない。曽我自身のためにも、第九のためにも、何とかしなくては。
 青木はそう考えて、この計画を立てたのだ。

「青木。そこまで……」
 青木の真剣さが伝わったらしく、薪はしばらく考え込んだ後、ガタリと音をさせて席を立った。それから青木の前に膝を付き、頭を上げろ、とやさしく言った。
「わかった。でも、一度だけだぞ」
「ありがとうございます!」
 自分の気持ちを理解してもらえたことが嬉しくて、青木は明るく笑みを返す。しかし薪は何故か悲しそうに眦を下げて、
「おまえの頼みだからやるんだからな。何があっても僕の意志じゃない。そこは分かってくれるな?」
「は?」
 思いつめたような表情をして、いっそ悲壮感さえ漂わせて薪は、きちんと折った細い膝の上に置いた両手をぎゅっと握り締めた。
「それと、ハグまでは我慢するけど、それ以上はちょっと」
「はい?」
 薪の言っていることがさっぱり分からなくて、青木の瞳は小さく引き絞られる。我慢するって、なにを?

 青木が訝しげに首を傾げると、薪はこれまたどうしてか頬を朱く染めて、
「おまえとだってまだキスとボディタッチくらいしかしてないのに、曽我とそれ以上の関係になるなんて。僕にはとても」
「はあ!?」
「僕は初めてはおまえって決めてるし、もしそこまで覚悟しなきゃいけないなら……こ、今夜、がんばってみようかな」
「ちょっと待ってくださいっ!! なんでそうなるんですか!?」
 突っ込んでしまってから気がついた、今夜頑張ってみるっていま薪の方から言ってくれたのに。千載一遇のチャンスを逃して、でもここは彼の勘違いを正すのが急務だ。
 
 自分の言を強く否定されて薪は、青木の顔を見てぱちりと瞬きをした。それから愛らしく小首を傾げて、
「先輩に強要されて、自分の恋人をレンタルするって話じゃ? この世界ではよくある話なんだろ?」
「ちがいますよ!!! 7.5といい今度といい、いったい何処から仕入れてくるんですか、その5流小説ネタは!!」
「ネットで『びーえる』って検索掛けると薪室長に役立つ知識がたくさん出てきますよ、って菅井さんが」

 腐女子の親切大きなお世話っっ!!!
 
 余計なことを吹き込まないで欲しい。それじゃなくても薪は捜査の役に立たないと思われる分野の常識には疎くて、それを自分も自覚しているから、尤もらしく書かれてあったり他人から教えられたりしたことを鵜呑みにする傾向があるのだ。男同士の恋愛事情なんてその最たるもので、彼は同じ性を持つものたちがどうやって愛し合うのかも漠然としか知らなかった。
「『801穴』の存在も、そこで知ったんだ」
 それでこないだの騒動が……あ、ダメだ、虚無の海に飲み込まれそうだ。
 
 遠ざかる意識を必死に引き戻し、青木はできるだけ平静な声で薪を諭した。
「そういうのは若い女の子が実情を知らずに妄想だけで書き散らしているものが殆どなので、信じちゃダメです」
 あの架空の器官には、美しき愛の象徴として描かれるべき性交渉に排泄器官を使うのが忍びない彼女たちの乙女心が生み出したファンタジーの産物、という見解もあるらしいが、どっちにせよ迷惑この上ない。そのせいで別れ話に発展しそうになったこっちの苦労も考えて欲し……いや、世界中探してもあんな幻想を信じるのは薪だけだ。彼女たちに罪は無い。

「え、そうなのか? でも、色とか形状とかすっごく詳しく書いてあったし、それさえあれば初めから気持ちよくって、しかも何回でもイケるみたいだぞ?」
 そんな便利なものがあれば、どこかの誰かさんも苦労しなかったでしょうね……。

 ズレた話を戻そうと、青木は薪の両肩に手を置いた。とんちんかんな誤解をしているとき特有のあどけない表情でぽかんと口を開けている薪の顔を覗きこんで、ありったけの好意を瞳と声に溢れさせる。
「薪さん。こんなに薪さんに夢中なオレが、薪さんと他の男が触れ合うことを望むと思いますか?」
「うん、分かってる。だから、止むに止まれぬ事情があるんだろうなって」
 それであんな思いつめた顔をしていたのか。このひとの思考回路って、いったいどこまで――。

「青木?」
 青木がものも言わずに薪の身体をぎゅっと抱きしめたから、薪は息を呑みながらも不思議そうに青木の名を呼ぶ。薪が説明を聞きたがっているのは分かったけれど、今はこちらを優先させて欲しい。青木が自分の気持ちを抑え切れなくなるのは、こんな風に不意を衝かれた瞬間だ。今青木は、薪のことが愛しくてたまらない。

 青木が頭を下げただけで、詳しい事情も聞かず、彼は自分の身を差し出そうとしてくれた。
 普段は青木のお願いなんか100個のうち1個くらいしか聞き届けてくれないくせに、青木が深刻な状況にあると思えば何も聞かずに協力してくれる。薪はとても意地悪だけど、本当に必要なときには迷いなく手を差し伸べてくれる。そういう人だと分かっていて、でも改めてそれを目の当たりにしたら、強く強く沸き起こる彼への愛しさを青木は止めることができない。

「薪さん、大好きです。オレ以外の男になんか触らないでください」
「じゃあ、何もしなくていいのか?」
「いや、して欲しいことはありますけど、そういうことじゃなくて」
 とりあえず薪を立たせて、途中だった夕食の膳に向かわせる。自分も向かいの席に腰を下ろして青木は、頭の中を整理した。誤解しやすい彼の性質を考慮に入れて、できるだけ明確な言葉を選ぶ。

「薪さんには女性に扮していただいて、曽我さんを騙した女の前で、曽我さんの新しい恋人のフリをしていただきたいんです」




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

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しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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