タイムリミット(17)

タイムリミット(17)





 7月の日差しに焼かれて、白いチャペルが眩しく輝いている。
 黒塗りのレクサスが滑るように入ってきて、式場のエントランスに乗客を降ろした。車を運転していた亜麻色の髪の青年は、駐車場に車を停めると急ぎ足で式場に入った。素早く目を走らせて、花嫁の控え室に向かう。
 彼は、両手に大きな薔薇の花束を抱いている。赤い薔薇は彼の美貌を引き立て、華やかさを添えていた。

 たくさんの花に囲まれた今日の主役は、椅子に腰掛けて2,3人の友人と話をしていた。薪の姿に気付いて、驚いた顔をする。気遣いのできる友人たちは、自然に席を外してくれた。
「おめでとうございます、美和子さん」
「ありがとう。みんなあなたのおかげよ」
 彼女の花嫁衣裳は、ウエストのゆったりとしたドレープタイプ。裾引きのスカートもヴェールもなく、靴はシンプルなローヒール。それでも充分優雅で美しかった。

「ていうか、あなたの残念な下半身のおかげよね」
 ……式場にバクダン仕掛けたってガセ電入れてやろうか、コラ。

「美和子さんが勇気を出して、小野田さんに本当のことを言ってくださったから。その気持ちに、小野田さんも応えてくださったんだと思います」
「娘のわたしが、一番にお父様を信じなきゃいけなかったのにね」
「いいえ、僕が脅しつけるようなことを言ったから。人との信頼においても、真実に勝るものはないんですね。捜査官の基本を忘れてました。恥ずかしいです」
「だけど、この子が無事に生まれてこれるのは、本当にあなたのおかげよ。あの時あなたに気付いてもらわなかったら、わたし、ひとりで先走ってたかもしれない。感謝してるわ」
 きれいに化粧された美和子の表情は、今までと違った小野田家の父娘の関係を薪に伝えてきた。それは薪の心を温かくさせ、自分がやらかしたあれやこれやの失敗も、まったくの無駄ではなかったのかもしれないと思わせた。

「彼のお兄さん、執行猶予がついてよかったですね」
 美和子の結婚相手の兄が起こした致死傷害事件は、実刑4年、執行猶予5年という判決が出た。もともと被害者側から仕掛けた暴力を伴う挑発に乗せられたものであり、被告人に殺意は無く、深い俊悔が見られ、相手が素行に問題のある人物だったことも考慮され、殺人という事実がありながらも寛大な裁きが降りた。
「お父様が、とびきりの弁護士をつけてくれたから」
「小野田家のお抱え弁護士ですか。検察の苦い顔が浮かびますねえ」
 長年の経験から司法制度の裏側に詳しいふたりは、ふふ、と笑う。
 ほんの一時、自分の婚約者だった女性と微笑み合いながら、薪は彼女の幸せを心から祝福していた。

「剛さん。本当に、ありがとう」
「こちらこそ。おかげさまで、大事なことがわかりましたから」
「真実に勝るものはないってこと?」
 いいえ、と首を振り、薪は初めて美和子の前で満面の笑みを見せる。アイラインに縁取られた鳶色の瞳が、ひゅっと小さくなって彼女の驚きを表した。

 ふたりの間にある薔薇の花束の、すべての蕾が一斉に開いたかのような麗しさと眩しいほどの美しさ。こんな彼を見たことはない、と彼女は思った。
「僕は、あいつがいないと生きていけないみたいです」
「……結婚式3時間前の花嫁にノロケかますって、どーゆーひと?」
「いや、ノロケじゃなくて事実って言うか、あれ?」
 自分が言った台詞に照れて、薪は少し頬を赤くすると、美和子に花束を押し付けて控え室を出て行った。
 ひとり残された花嫁は、だいぶせり出してきたお腹をさすりながら、低い声で呟く。
「この子の名前『ツヨシ』にしたら、祐二さんが妬くかしら」



*****




 親族の挨拶ラッシュを済ませた後、小野田は喫茶室の窓際の席で紅茶を飲んでいた。
 一般客の来訪までには、まだ時間がある。ここらで一息入れないと、途中でへばってしまいそうだ。
 
 たった今会ってきた娘の夫となる人物に、小野田は心の中で舌打ちする。何の取り得もないつまらない男。薪の才覚の3割でもあれば、もう少し歓迎してやるのだが。
 しかし、薪が彼に敵わない一面も確かにある。美和子のあんな笑顔を引き出せるのは、彼だけだ。

「めでたい日だっていうのに、そんな辛気臭い顔するなよ」
 断りも無く向かいの席に腰を降ろした熟年の紳士が、気安い口調で小野田に話しかけてくる。洗練された動作で小野田と同じものをオーダーし、スマートに足を組む。
「花嫁の父親なんて、みんな複雑なものさ。おまえだけじゃない」
「まあね。娘はあと二人、残ってるしね」
 美和子の籍は、相手の家に入ることになった。執行猶予がついたとはいえ、犯した罪が消えるわけではない。彼は、小野田家に相応しい人間ではないのだ。

「そうだよ、おまえはいいよ。僕なんか、加奈子が嫁に行くときのことを考えると。あー、ダメだ。やっぱり別れさせてやる、あのふたり」
「手を切らなきゃいけないのは、おまえの方だろ。こないだの男の子、しつこそうだったぞ」
「後腐れのない相手を選んでるつもりなんだけどさ。たまに失敗しちゃうんだよな」
「いい加減にしなさいよ。終いにはアラスカ支局へ飛んでもらうよ」
 おどけた調子で小野田の気を引き立てようとしてくれる親友に心の中で感謝しつつも、口では辛辣な応えを返す。官房室付首席参事官の中園とは、幼馴染みの腐れ縁。ありがとう、なんて口が裂けても言いたくない。

 寒いところは嫌だ、どうせならハワイにしてくれ、などと減らず口をたたき続ける親友の話を聞き流して、小野田は手入れの行き届いた庭園を駐車場に向かって歩いていく人影に目を留めた。
 亜麻色の短髪をなびかせて颯爽と歩くその姿は、すれ違う人々を思わず立ち止まらせる。駐車場の方からやってきたカップルが、仲良く彼に見とれつつその傍らを過ぎたとき、彼はふと足を止め、ポケットから携帯電話を取り出した。着信画面を見て、ふわりと微笑む。
 何を話しているのかは知らないが、彼の瞳はキラキラと輝いていて。その表情は、限りなく幸せそうで。ちょうど彼の後ろには、庭園の奥に設置されたチャペルがあり、折りしも鐘の音が流れて――― まるで、ブライダルサロンのCMを見ているようだ。

「あの10分の1でもいいから、幸せな顔をしてくれてたらなあ」
 小野田の独り言を耳にして、中園がこちらに身を乗り出してくる。小野田の視線の先に薪の姿を見つけて、皮肉な口調で彼を揶揄した。
「まったく、顔に出やすい子だね。プリップリの頬っぺたしちゃって。ありゃあ昨夜、たっぷり若さを注ぎ込まれた顔だな」
「やめてよ。想像しちゃうじゃない。考えたくないよ、ぼくの薪くんがそんな」
「いっそ、アラスカに飛ばしちゃえば? 青木くんのこと」
「どこに飛ばしたって無駄だよ。離れていても心はひとつです、なんてクサイ台詞を真顔で言われるのがオチだよ。ごめんこうむるね、彼らのノロケ話を聞かされるなんて」
 薫り高いダージリンティーを口に運び、小野田は気分を落ち着かせようとする。同時にカップを取り上げた中園が、右手を宙に浮かせたまま小野田の顔を見据えた。

「分かってたんだろ? 最初から」
「まあね」
 カップをソーサーに戻し、正直に親友の質問に答える。昔から中園には、小野田の嘘が通用しなかった。
「ぼくは、それでもいいと思ってたんだよ。薪くんにあの嘘を貫いてほしいと願ってた。男女の仲なんて、どう転ぶかわからないしね。周りからできるだけフォローしてさ、時間さえかければあるいは、なんて淡い希望すら抱いてたんだよ。
 でも、当人たちがそれを望まないなら。無理強いするわけにも行かないだろ」
「へえ。おまえって、そんなにヌルイ男だっけ」
 目的のためには手段を選ばない。今の地位を守るために、小野田も一通りのことはしてきた。その中には、人には言えないこともある。古い付き合いの中園には、その辺のことも知られているのだ。

「仕方ないだろ。薪くんときたら、日に日にやつれていってさ。
 口数は減る、ミスは増える。終いには死人みたいな目になって。それでもぼくに気を使って、必死で笑おうとするあの子を見てたら、まるで8年前に戻ったみたいでさ。見ていられなかったんだよ」
「式のひと月前になっても招待状が届かないから。おかしいとは思ってたよ」
「式の予定は変わらなかっただろ。花婿の質は、だいぶ落ちたけど」
 あの男に引導を渡すつもりで薪に預けた第九の職員宛のものを除いて、招待状は小野田の手元に止めておいた。上層部や代議士に発送した後では、何があっても取り消せなくなる。
 念には念を入れて、行動は慎重かつ大胆に。小野田の戦法は、今回も効を奏した。小野田自身にとっても、苦い戦果となったが。

「薪くんにはガッカリだよ。たかが男と切れたくらいで、あんなにダメダメになっちゃうなんて。どうもあの子は、色恋に左右されすぎるっていうか」
「それだけじゃないだろ。みんなに嘘を吐いていることも、おまえを騙してることも、心苦しくして辛かったんだろうよ」
 おまえなんかに言われなくても分かってる、と小野田は心の中で舌打ちする。20年も前から見てきたのだ。薪の清廉な性格は、嫌というほど知っている。
 
 5年も前の約束なんて、忘れてしまう人間が殆どだろう。それを覚えていたばかりか、履行できないことで自分を責め、万死に値すると覚悟を決めて正面から謝罪にくるなんて。
 あの時は、本当に頭にきた。
 バカにつける薬はないというか、バカは死んでも治らないというか。いっそ豆腐の角に頭をぶつけて、そのまま豆腐に埋もれてしまえ、と叫んでやろうかと思った。

「純粋すぎるんだよ。あの子は」
 苦笑を洩らしつつ、中園が薪を庇う。きれいな男の子が大好きな彼は、何かと薪には甘いのだ。もちろん、薪の能力を高く評価した上での甘さだが。
「厄介な性質だね。その上頑固とくれば、もうお手上げだよ」
 もっとしたたかになってくれないと、自分の跡を継がせられない。自分のために他人を利用する術を覚えないと、この先は上っていけない。警察というところは、そういうところなのだ。
「先が思いやられるよ。今のままじゃ、とてもぼくの後釜には据えられない」
「よく言うよ。薪くんがもっとスレた子だったら、手元に欲しいなんて思わなかったくせに」
 小野田の言葉の裏側を、中園は見事に言い当てる。
 悩みの種とぼやきつつも、小野田は薪の純粋さに惹かれている。彼のような人間が伸び伸びと仕事ができる職場こそ、小野田が理想とする警察機構だ。自分は、それを創るための礎になる。

「今回の試験、見送らせたんだって?」
 一連の欺瞞の責任として薪に下した罰について、中園は早くも聞き及んでいるらしい。ああ、と軽く頷いて、小野田は厳しい口調を崩さずに言った。
「あの天然記念物指定が取れないうちはね。薪くんに警視監の試験は受けさせないよ」

 薪にこの処分を言い渡したときも、小野田はとても不愉快な思いをした。
『そんなことでは、僕の気がおさまりません。どうか、もっと重い処分を』
 そんなこと?
 警視監の受験資格を取り消されることが、『そんなこと』か。いったい、何人のキャリアが警視監になれると思っているのだ。何千人にひとりというその価値を、彼は分かっていないのか。
 血反吐を吐く思いをして、大事なものをたくさん切り捨てて、みんなここまでのし上がってくるのだ。無論、小野田もそのひとりだ。
 それを、『そんなこと』とはなんだ。小野田にしてみれば、あの背が高いだけで碌な能力もない道端の石ころのような男との絆のほうが、よっぽど『そんなこと』だ。
 小野田がそのことで薪を叱り付けると、薪はしゅんとうなだれて、すみません、と素直に謝った。充分に重い処罰と端からは見えるのに、本人はちっとも堪えてない。常識知らずの薪がきっとまた、「小野田さんが手心を加えてくれたんだ」などとあの男に説明するのだろうと思うと、はらわたが煮える思いだ。

「賢明だね。薪くんの性格じゃ、警察庁中引っ掻き回されちまうだろうな」
 警視監の昇格試験は、超が5つほど付く難関で突破したものは数えるほどしかいない。
 元来、昇格試験の目的は人員を篩いにかけることだから、ここまで階級が上がると受験の意味はなく、上層部の推挙によるものが殆どだ。今までの実績から鑑みて、薪には充分その資格があり、この上試験まで合格されると、彼を昇任させない理由がなくなってしまう。だから見送らせたのだ。
「おまえにはもう少し、ぼくの所にいてもらうことになりそうだよ」
「どうやら、先は長そうだな」

 ふたりの紳士の視線の先で、薪は電話を終えて携帯をポケットにしまうと、弾んだ足取りで駐車場へ歩いていった。細い後姿はしゃっきりと伸び、人類の希望と未来を背負っているかのように生気に満ちていた。
 薪の元気な様子は、小野田を微笑ませる。
 あれほど彼の言動に腹を立てていたはずなのに、薪の幸せそうな様子を見ていると、やはり嬉しくなってしまう。これが『デキが悪い子ほど可愛い』という心理か、と小野田は自嘲した。

「あーあ。あの子に『お父さん』て呼ばれたかったなあ」
「女々しいね、おまえも。スッパリ諦めろよ」
「おまえにぼくの気持ちは分からないよ。ぼくはね、20年も前から薪くんのことを」
「はいはい。後でゆっくり聞いてやるから。ほら、出番だぞ」
 喫茶室の入り口で、担当の係員が小野田に頭を下げる。集合写真の撮影準備が整ったのだろう。
「やれやれ。花嫁の父もけっこう忙しいね」
 片手を上げてそれに応え、親友に小さく愚痴って、小野田は立ち上がった。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(16)

タイムリミット(16)





 官房室に続く長い廊下を、薪は歩いている。
 公休日の警察庁に人影は少なく、薪の靴音だけが耳障りに響く。いつものように一分の隙もなく固めたスーツの背中では、不安と気概がせめぎ合っている。

 自分の職場に着いて、入り口の前で深呼吸をする。
 これから為すことを思うと、その罪の大きさに足が竦む。見慣れたドアが、地獄の門のようだ。

「どうしたの。今日はきみ、非番だろ」
 ノックに続いてドアを開けると、薪よりも休みの少ない上司が、ポロシャツにジーパンというラフな格好で机に向かっていた。
「ちゃんと休みなさいって言ったでしょ。ああ、でも顔色は少し良くなったみたいだね。安心したよ」
 薪の体調を気遣ってくれる、やさしい上司。小野田は昔から、薪にはずっと細やかな愛情を注ぎ続けてくれた。
 第九を快しとしない世間の迫害から、薪の早すぎる昇任を嫉む警察内部の政敵から、薪を守ってくれた。あの事件が起きたときでさえその態度は微塵も変わらず、ひたすら薪の身を案じ将来を嘱望し――― 薪にとっては父親のような存在。小野田に受けた恩を返すには、一生かかってもまだ足りない。
 それなのに。

「ぼくは大丈夫だから、早く帰りなさい。休めるときに休んどかないと、後悔するよ。次の休みはいつあげられるか、分からないんだから」
 薪はうつむいて、顔を伏せた。
 小野田の顔を見ることができない。恩人をここまで裏切る自分の非道さに、不誠実さに涙が出そうだ。
「どうしたの? 薪くん。何かあった?」
 心配そうな声が、薪の心を痛ませる。良心の呵責に耐えかねて、思わず踵を返したくなるのを、両足を踏ん張ってこらえた。

 大きく息を吸う。
 目蓋の裏に、真っ直ぐに自分を見ていた黒い瞳を描く。自分に注ぎ込まれた、彼の愛情を思い出す。
 僕はもう、迷わない。

「すみません! 僕は青木と別れられません!」
 目を瞑って腰を折り曲げ、お辞儀と一緒に叫ぶように謝った。勢いを付けないと言い出せないし、小野田の悲しそうな顔を見てしまったら、また決心が鈍ってしまう。
 そのまま床に膝をついて、薪は深く頭を垂れた。
「僕では、お嬢さんを幸せにはできません。どうか、僕と美和子さんの結婚は白紙に戻してください!」
 厚い絨毯の上は柔らかくて、正座した足には痛みもなく、それは薪をますます心苦しくさせた。絨毯に額を触れ合わさんばかりに近づけて、薪は床に向かって一気に喋った。
「どんな処分でも受けます。小野田さんの気の済むようにしてください。地方にとばされても文句は言いません。精一杯勤めさせていただきますから」

 額ずいたまま、小野田の審判を待つ。
 何を言われようと、反論はしない。どんな罰でも甘んじて受ける。だけど、小野田が一番望むことは叶えてやれない。

 さすがの小野田も言葉を失ったらしく、部屋は一時、静寂に包まれた。
 沈黙が重い。重みで押し潰されそうだ。
 このまま潰れてぺしゃんこになってしまえばいい、そうしてこの世から消えてしまえばいい。ともすれば否定的な考えに自分が傾くのを必死で堰き止める。
 もう、逃げないと決めた。この身体の奥には、彼に分けてもらった勇気が詰まっている。

 息を殺して重圧に耐えていた薪の耳に、やがて小野田の硬い声が響いた。
「家庭の事情で悪いんだけどさ、実はぼく今、ものすごく機嫌が悪いんだよ。はっきり言って、きみの顔を見るのも不愉快なんだ」
 当たり前だ。
 小野田からすれば薪の言い分は、『あなたの娘と子供は作ったものの、同性の恋人と別れられないから婚約は破棄して欲しい』というものだ。いっそ、殴りかかってこないのが不思議だ。
「出てってくれる? 君の手伝いは要らないから」
 穏やかだが、冷たい声。
 小野田にとってこの状況は、飼い犬に手を噛まれるどころか、大事な娘に噛みつかれ、一生消えない傷を負わされたようなものだ。殺しても殺したりないくらい、薪のことが憎いだろう。
 小野田は、ずっと自分を守ってきてくれたのに。今の自分があるのは、みんなこのひとのおかげなのに。その恩に報いるどころか、彼の社会的な立場にまで瑕をつけようとしている。

 心の中に良識の欠片でもあれば、こんな真似はできない。
 でも、僕は鬼だから。
 人でなしでいい。極悪人でいい。世界中の人に後ろ指を差されてもいい。

 僕は、青木と生きる。

「美和子がさ、きみと結婚するのはゴメンだって」
「は?」
「死んだサカナみたいな目をした男の相手なんか、ゾッとするってさ」
「あの……?」
 床に正座したまま、薪は顔を上げて上司の顔を見た。やってられないよ、まったく、と常にないむくれた表情で吐き捨てて、小野田は行儀悪く頬杖をついた。

「いいよ、もう分かったから。美和子と一緒になって、ぼくを騙してたんだろ」
 小野田の話についていけない。美和子がなんだって?
「きみ、美和子と何もしてないよね」
 本当のことを言っていいものかどうか判断がつかずに、薪は口を噤んだ。
「君が父親だとすると、美和子と会って1ヶ月足らずで子供ができたことになるだろ。そんなに上手くいくものかと思ってね。で、娘に訊いてみた」
 確かに可能性は低いが、それでもゼロとは言い切れないはずだ。美和子はシラを切りとおすことができなかったのだろうか。

「そしたら美和子がね、ベッドの中の君はすごいからって言ったんだよ。何回も続けてできるし、とても自分より12歳も年上には思えない。あれなら子供もできて当たり前だって。
 きみがあっちのほうはサッパリなの、ぼくは知ってるからね。すぐにウソだって分かったよ」

 そんなとこからバレたのか!?
 しまった、言っておけばよかった。僕はあっちのほうはめちゃめちゃ弱くて、3ヶ月に1回くらいが関の山、続けて二回なんてとてもムリ、って言えるか!!!

「問い詰めたら白状したよ。あの男の子供だとさ」
 無理矢理別れさせられたと言っていた、殺人者を兄に持つ、美和子の本当の恋人。
 気弱そうな彼の顔を脳裏に浮かべ、その写真を自分に見せてくれたときの美和子の笑顔を思い出して、薪は眉根を寄せた。
「小野田さん。祐二くん自身には、何の罪もありません。罪は加害者のみに課せられるものであり、親族に波及するものではない。それを小野田さんが身を持って証明されることは、決して官房長の名に恥じることではないと、僕はそう思います」
 差し出がましいとは思ったが、美和子の恋を応援してやりたい。
 自分と同じように、日向に出ることの叶わなかった彼女の苦しみは、薪には痛いくらい伝わってきた。彼女たちの障害は、小野田だ。彼の心を少しでも懐柔してやれれば。

「分かってるよ、そんなこと。きみに言われるまでもない。正直に言うとね、あの男、頼りないだろ。そっちのほうがイヤだったんだよ。それに、美和子にはどうしてもきみと結婚して欲しかったし。卑怯だとは思ったけど、彼のお兄さんのことを利用させてもらったんだ」
 小野田は一見やさしそうに見えるが、非情な策略家の顔も持っている。自分の目的を達成するためなら、使えるカードは徹底的に利用する。このひとが本気になったら、本当に怖いのだ。

「薪くん。きみも覚悟しときなさいよ。ただじゃ済まさないからね」
 小野田に向けられた初めての敵意に心が凍りつくのを感じながら、薪は殉教者のように何もかもを受け入れる覚悟を決めた。
「はい。存分に処罰してください。僕は小野田さんとの約束を守ることができませんでした。それだけでも、万死に値すると思っています」
「約束って?」
「5年前、僕と青木の関係に、小野田さんが執行猶予をくださるって。執行猶予の最長期間は5年ですよね、って僕が言ったこと、覚えてらっしゃいませんか」
 小野田が限りない寛容の心で自分たちを見逃してくれたとき、薪は小野田に『5年もあればお釣りがくる』と請合った。それを反故にするのだから、制裁は当然のことだ。

「薪くん。きみ、刑法、一から勉強し直してきなさい」
 小野田は手元の書類に視線を戻し、細めた目で文字を追う。その瞳は鋭く冷涼で、無情な管理者の眼でありながら、どこかしらやさしい光を宿している。
「執行猶予期間が満了したら、刑の言い渡しは効力を失う。前科もつかないし。ぶっちゃけ、そこで無罪放免なんだ」
 小野田の宣告に、薪の頭は凍る。
 感情も思考も停止した大脳で、無罪放免という言葉の意味を、薪は必死で思い出そうとする。

『無罪』ってことは、つまりええと……。

「そんなことも解らないなんて、呆れたね。そんなんじゃ、警視監の特別承認はあげられないな。今回の試験は見送りなさい」
「小野田さん。あの、あのっ」
 思わず立ち上がって、小野田の机に駆け寄る。一昨日まで義父として仕えようと心に決めていた上司の顔を、薪は下から覗き込んだ。
「きみには耳がないの?今日はきみの顔は見たくないって言ったでしょ。家に帰って休養する。それだって立派な仕事だよ」
「ありがとうございますっ……!」

 許してくれた、と思っていいのだろうか。
 青木と僕が一緒にいることが、決してマイナスの面ばかりではないと、認めてもらったと思っていいのだろうか。

「礼なんか言われたくないよ。さっさと出て行きなさいよ」
 言葉はとても冷たいのに。小野田の顔つきは、とても苦々しいのに。薪の頬はどうしても緩んでしまう。
「失礼します」と頭を下げて、薪は官房長室を出た。
 知らず知らず、早足になる。弾むような気分のままに、薪は走り出していた。甲高い革靴の音が廊下に木霊する。

 早く帰って、青木にこのことを知らせてやりたい。
 小野田さんが僕たちのことを認めてくれたと考えるのは都合が良過ぎるとしても、別れなさい、とは言われなかった。執行猶予が切れたら無罪だ、と言った台詞の裏側は不明だが、美和子との結婚は無くなったし、「青木と別れない」と言い切った薪に怒りを見せることもなかった。

 警察庁の門の前で、薪は足を止めた。
 逆光線の太陽をバックに、見慣れたシルエット。世界一愛しい、恋人の姿だ。
「どうして」
 薪がここに来たことは、青木は知らなかったはずだ。薪も言わなかったし、青木も聞かなかった。不思議そうに尋ねる薪に、青木は無邪気に微笑みを返す。
「小野田さんから電話をもらいました。1時間もしないうちに薪さんが警察庁を出るから、家まで送ってくれって」
「小野田さんが? おまえに?」
 薪の前で、小野田が電話を掛けた様子はなかった。ということは、薪が警察庁に入る前に青木に連絡を入れたのだ。
 おそらくは薪がこの門をくぐるのを見て、自分の部下が何をしに休日の職場を訪れたのか、小野田は瞬時に理解したのだろう。その上で、青木に電話をしたということは。

 全身を震わすような歓喜に矢も盾もたまらず、薪は恋人の胸に飛び込んだ。戸惑いながらも、青木がそっと腕を回してくる。渾身の力でしがみつく薪に、やがて青木の腕にも力が入る。
 しっかりと抱き合ったとき、薪の頬の辺りがブルブルと震えた。青木の胸ポケットで、携帯電話が鳴っている。

『青木くん。薪くんを送ってくれとは言ったけど、抱き合えなんて言ってないよ。離れなさい』
 携帯から、小野田の声が聞こえた。
 薪は泡を食って青木から離れ、仰ぎ見て小野田が窓からこちらを見ていたことを知る。
 官房室の窓から、シッシッと追い払うように手を振る小野田の表情は遠くてよく見えなかったが、苦笑してくれているかもしれないと楽観することにした。

 はるか上空の寛大な上司に深く頭を下げて、ふたりは警察庁を後にした。






テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(15)

タイムリミット(15)





 薪の身体は、すっかり衰えているように見えた。
 前々から細かった身体が、ありえないくらい痩せてしまっている。青木の片手で回ってしまうウエストは、手のひらに収まるほど細くなり、かすかに浮き出ていたあばら骨は目に見えてくっきりと、その形を明らかにしている。肉は殆どない。骨の間に、指が埋まってしまいそうだ。
 痛々しいほど頼りなげな薪の裸体に、青木の手が止まる。こんな状態の薪を抱いたら、壊してしまう。

「薪さん。今夜は止しましょう」
 身体の不調は当然、性感にも現れる。触ってもキスをしても、薪のそこは反応しなかった。シャワーを浴びたばかりの清潔な匂いのする薪の肩口に唇をつけて、青木は囁いた。
「早退しておいて、こんなことしちゃダメですよね。ちゃんと休まなきゃ」

 薪の体調が回復するまで、行為はお預けだ。
 待たされるのには慣れている。薪の我儘と気まぐれに掛かれば、デートのキャンセルなんて日常茶飯だし、1月以上させてもらえなかったこともザラだ。
 前戯と本番を飛ばして、後戯に入る。いつものように薪の頭を自分の肩に載せようとすると、薪は青木の腕を押しのけて下の方へ潜っていった。

 シーツがひとの形になって、モゾモゾと動いている。やがて目的の場所にたどり着いた華奢な手が、薪を前にしては大人しくなれない青木を捕らえた。
 やわらかい口唇が先端に触れ、すぐに濡れた内部に吸い込まれる。上下に擦られるたび、白いさざ波のようにシーツが動き、内からこみ上げる大きな波が青木の理性を奪っていく。
「薪さん、無理しなくていいです」
 息を乱さないように心掛けて、青木は薪の愛撫をやんわりと断る。
 しかし、シーツの動きは止まらない。小波のような動きは次第に大きくなり、男を狂わせる水音を立てる。

「いいですったら。我慢できなくなっちゃいます、ホント、っ!」
 付き合い始めて5年も経てば、薪の技巧も一流の域に達してきて、その口の中に注ぎ込むことも多くなった。薪も下で受けるより体力を消耗しないし、若い青木を満足させようと思ったら、こちらの技術に頼るしかない。
 後に引けないところまで追い込まれて、このままお終いまでして欲しいと、願いを込めて薪の髪に指を埋める。なのに薪はすっと頭を上げて、愛撫を中断してしまった。
 足を開いて青木の腰の上にまたがり、痛いくらいに脈動する青木の切っ先で入り口をなぞる。ぬるりとした感触は、薪が自ら準備した愛戯のための液体で、かれが先の行為を望んでいることを証明していた。
 しかし。

「無理です。薪さん、壊れちゃいますよ」
 薪の腰を押さえて動きを止め、右手を下方に滑らせる。その感触に、青木は悲しくなる。
 数ヶ月前までは、青木好みのふっくらした可愛い尻だったのに。今はごつごつとして固く、形も三角形に近い。
「平気だ」
「でも」
「いいんだ。これは、誓いだから」
「はい?」

 薪の顔が近付いてくる。あどけない頬が、青木の頬に頬ずりする。
 身体が痩せても顔にそれが表れない性質の薪の頬は、柔らかくすべらかで。つややかなくちびるは、アップで見るとたまらない蠱惑に満ちていて。

「お願いだから、僕の中に」
 ゆっくりと瞬く睫毛の動きは、孔雀が羽根を広げるように、薪の魅力を最大限に魅せつける。
「おまえの勇気を注いで」

 青木はやさしく薪の身体を自分の下に抱きこむと、骨ばった足を自分の肩に載せた。そうっとあてがい、見つめ合いながらゆっくりとひとつになる。

 少しずつ、慎重に。
 敬虔に、神聖な態度で。
 水鳥の羽毛のようにやさしく。
 ふくろうの羽音のように密やかに。
 声もなく。
 音もなく。
 愛の言葉さえ、いらない。

 微かに眉を顰めた薪が、切ない目をして青木の腕を掴む。引き寄せられるようにくちびるが触れ合い、あまやかな糸がふたりを結びつける。
 薪の背中に腕を回し、青木は薪の中を進む。自分の背中に縋る薪の手の弱々しさを感じて、青木は庇護と愛情を新たにする。

 このひとを。
 弾劾するものがあれば、自分はその口を塞ごう。
 殴ろうとするものがあれば、自分はその腕を折ろう。
 憎むものがあれば、その心を潰してしまおう。

 これから何があっても。
 必ず、このひとを支えていく。

 その夜の青木は、最後までやさしさを通した。



*****




「メシ食ってから、どのくらい経った?」
 青木の腕の中でため息交じりに薪が吐き出した言葉は、情交の直後には相応しくないロマンの欠片もないセリフだった。
「え? あー、2時間くらいですか」
「なるほど」
 何を納得しているのだろう。相変わらず、薪は謎だらけだ。

「もう寝るぞ。明日は戦争だ」
「あれ? 月曜までお休みもらったんじゃなかったんですか?」
 薪は答えなかった。
 もしかしたら、結婚式の準備が忙しいのかもしれない。むかし姉に聞いた話では、式の前の2ヶ月というのは寝る間もないほどやることがあって、舞の結婚式は楽しみだが準備のことを思うと憂鬱になるそうだ。

 そのことは考えないようにして、骨ばった硬い身体を抱きしめる。
 ……こんなに痩せてしまって。
 宇野の言った通りだ。画や言葉に惑わされて、ひとを見ることを忘れていたなんて。第九職員失格だ。

 辛い現実から逃れようと塞いでいた目を開いて、改めて薪を見れば。
 ドアを開けてくれた細い手は震えて、亜麻色の瞳はもっと震えて。あんな、親を亡くした子供のような目をして。どうやって生きていけばいいのか、考えることもできない迷い子のような瞳で。
 薪は、ずっと青木への気持ちを叫び続けていたのに。

 どうして信じなかったのだろう。薪は、恋人に抱かれながら他の人間に心を移すような器用なひとではないと、何故すぐに思わなかったのだろう。

 それに薪の性格なら、別れたいなら別れたいとはっきり言うだろう。それが言えなかったということは、まだ青木に心を残しているのだ。こうして青木に抱かれるということは、青木を愛しているのだ。
 自分たちがしている行為は恥ずべきことだが、薪の身体の方が大切だ。
 これから先、積み重なる季節の中で、薪が美和子を本当に愛するようになったら。その時こそ自分の役目は終わる。
 しかし今はまだ、そのときではない。

「そうだ。薪さん。今度宇野さんに、好物の五目稲荷を作ってあげてくれませんか?」
 宇野に何か礼をしたいと思ったが、彼が喜びそうなものといったらPC関連か薪の手料理だ。結果を報告するためにも、後者の方が望ましいだろう。
「すっごく食べたがってて……薪さん?」
 青木が覗き込むと、薪はすでに寝息を立てていた。
「墜落睡眠は健在ですか」
 久しぶりに見る恋人のかわいい寝顔にキスをして、青木は目を閉じた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(14)

タイムリミット(14)





 自宅のソファで膝を抱えて、薪はテレビを見ている。
 こんな悠長にしていられるほど暇ではないのだが、上司に休養を取るように言われて、強制帰宅させられてしまった。小野田が言うには、薪の顔は土気色で生きた人間のものとは思えないそうだ。
 まったく、ひとをゾンビ扱いして。心配性の部下も困りものだが、心配性の上司にも苦労する。

 薪は膝を抱えたまま、ころりとソファに横になる。目をつぶって、テレビの音が両側の鼓膜を震わせるのを茫漠と感じる。
 番組の内容は、ぜんぜん頭に入ってこない。でも、何か音がないと落ち着かない。静寂を恐ろしく感じるなんて、幼い子供に帰ったみたいだ。 
 目を閉じたままじっとしていると、岡部に言われたことが頭の中でぐるぐる回る。絶望的な未来図が浮かび、刹那、薪は激しい後悔に襲われた。

 もしかしたら、自分と美和子は方法を誤ったのかもしれない。
 正直に、小野田に告白するべきではなかったのか。その上で、最善の策を講じるべきではなかったか。こんな詐欺まがいの手で、大切な人々を騙して……。
 いや、やはり無理だ。
 殺人犯の実弟と自分の娘の結婚を、官房長の小野田が許すはずがないし、将来の厄介ごとに繋がりそうな子供の存在は、もっと許してくれないだろう。

 しかし、今となっては。
 美和子の子供は、すでに中絶が難しい時期に入っている。娘の命に関わるとなれば、このまま産ませてくれるかもしれない。今、本当のことを言えばあるいは。

 パッと開けた亜麻色の瞳に、ローテーブルに置かれた封筒が映る。宇野に渡し忘れた招待状だ。
 ――― もう、遅い。
 薪は再び目を伏せる。長い睫毛の間から零れそうになる弱さに、ぐっと奥歯を食いしばる。

 大丈夫。
 僕の中には、たくさんの青木がいる。
 いつかくるこの日のために、もう何年も前からストックしていた彼の思い出がたくさんある。目を閉じれば、はっきりと思い出せる。彼の顔も身体も、自分に注がれた愛情も。
 それだけで充分だ、と薪は思う。
 それに、青木は生きている。鈴木みたいに、死んでしまったわけじゃない。
 ちゃんと生きて動いて、僕はそれを見ることができる。この先、青木にも運命の女性が現れて、彼女と恋に落ち、やがては結婚して幸せな家庭を築いていくだろう。僕が本当に青木を愛してるなら、それを自分のこととして喜べるはずだ。
 だからこんな風に胸が痛むのはほんの一時のことで、こうして青木の笑顔で脳内を満たしておけば、そんな時間はあっという間に過ぎる。

 しっかりと思い出す。
 その声を、仕草を、僕を見る瞳を。
 瞬きする睫毛の動きを、風になびく髪の流れを。
 僕の手を握るときの指の曲がり方を、腕を曲げたときの肘の形を、若々しく張った筋の一本一本までを、脳細胞をフルに使って克明に描く。

 思わず声が出そうになって、薪はくちびるを噛みしめる。
 やさしかった恋人の姿をリアルに思い浮かべながらも、胸の痛みは治まらない。それどころか、画像が鮮明さを増すほどに、痛みは強くなっていくようで。

 ―――― 苦しい。

「なんだよ……思ったよりも、うまく行かないな」
 仰向けになって天井に顔を向け、両腕を交差して目の上に乗せる。こみ上げてくるものをやり過ごすために、大きく息を吸った。
 瞬間、チャイムが鳴る。
 誰かと約束をしていたか、と薪は記憶を探る。予定はなかったはずだが、近頃、他人との約束を忘れてしまうことがあるから、今日もそれかとカメラを確認するために席を立った。

「な!」
 来訪者を映し出す小さな液晶画面を見て、薪は飛び上がるほど驚いた。
 青木が映ってる。

 何故? どうして?
 もしかして、結婚式の招待状の返事を持ってきたのか? ウスラバカが。あれは郵送するものだ。しかも受取人は薪ではなく、小野田だ。

 早鐘のように打ち出す胸を押さえて、薪は必死で平常心を取り戻そうとする。
 後戻りはできないと、覚悟は決まっていると、昼間、岡部に豪語したばかりなのに。この息が止まりそうな焦燥感は何なのだろう。

『薪さん、お願いします。開けてください』
「何しに来たんだ、おまえ」
『ごはん食べさせてください。空腹で倒れそうなんです』
「ああ?」
 何をふざけてるんだ、こいつは。
 青木とはもう、ただの上司と部下だ。結婚が決まった上司のところへ、食事をたかりに来るなんて……いや、別におかしくないか。かといって、開けてやる義理も無い。部下の食事の世話までしていられるか。

 心の中で毒づきながら、薪はカメラに映る男の顔を食い入るように見つめる。
 この2ヶ月、薪は青木の顔をまともに見ていない。それは別に青木のことを避けていたわけではなく、官房室の仕事が忙しかったからだ。見たら冷静でいられなくなってしまうかもしれないとか、決意が揺らいでしまうかもしれないなんて、心配してたわけじゃない。

 ……そうじゃない、けど。

 薪は、そっと画面に手を伸ばした。
 指先で青木の頬をなぞり、くちびるを撫でる。額を髪を、細い指先が愛おしそうに滑っていく。

 見るだけなら。
 少しだけ、少しだけ。彼を見るだけなら。

 薪が震える手でドアを開けると、青木は昔のように笑って、「お邪魔します」ときちんと挨拶をした。物怖じしない態度で部屋に上がりこむと、真っ直ぐ台所へ行き、断りもなく冷蔵庫を開けた。
「うわー。薪さんちの冷蔵庫がここまで空っぽなの、初めて見ました」
 冷蔵庫の中には、500mlのミネラルウォーターが3本だけ。他には何も入っていない。
「この頃、外食ばかりだから」
 それは青木の手前吐いた、ささやかな嘘で。本当は、殆ど食事をしていない。たまに食べても、1時間後にはバックしてしまうし。
「買い物してきて良かった」
 買い物をしたなら、どうしてここに来る必要があったんだ。相変わらず、訳の分からないやつだ。
「病気で早退したって聞いたから。オレが美味しい卵ぞうすい作ってあげます」
 押しかけ女房ならぬ、押しかけ家政夫か。なんてお節介なやつだ。いい迷惑だ。
 帰れ、と言いたいのに、薪のくちびるは動かない。呼吸も上手にできない。まるで水の中にいるみたいに、息が苦しい。

 青木は慣れた手つきで野菜を刻み、鍋にお湯を沸かし、パックに入った米飯を一度水に晒してからだし汁の中に入れた。片手でボウルに卵を割るとざっくりと掻き混ぜ、鍋の煮え具合を確認する。
 薪はその様子をじっと見ていた。
 何も言わず、突っ立ったまま。ただただ青木を見ていた。

「薪さん。味見、お願いします」
 突き出された小皿に、薪は戸惑う。
 恒常的な嘔吐に薪の味覚は完全に崩壊して、最近は何を食べても味がしない。おかげで、料理も満足に作れなくなってしまった。
 案の定、小皿の中の液体もただのお湯と変わらなかった。でも、温度は感じられる。温かくて、薪の胃をほっと緩ませてくれる。
「うん。いいんじゃないか」
「そうですか? じゃあ、卵入れますね」
 卵を流し込み、鍋の蓋を閉める。二分ほど置いて再び蓋を取ると、ふわっと香る昆布出汁。半熟の卵がとろりとして、見た目はとても美味しそうだ。

「さ、冷めないうちに食べましょう」
「おまえこれ、ネギ入れすぎじゃないのか」
「薪さんが風邪引いたんじゃないかって、中園さんが言ってたから。ネギは風邪に効くって」
「風邪なんか引いてないぞ。まったく、小野田さんといい中園さんといい、ひとを勝手に病気にして」
 ぶつぶつ言いながらも食卓につく。
 一時間後には汚物になると分かっていても、せっかく部下が作ってくれたのだ。上司として、部下の好意を無にするのはよくない。
 くちびるを尖らせて、ふーふーと雑炊を冷ましていると、青木が蕩けそうな顔をしてこちらを見ている。妙にニヤけているのを不思議に思って聞くと、薪さんがあんまりかわいくて、と失礼なことを言うからレンゲを投げつけてやった。

「聞いてくださいよ。今日の研修が延期になったのって、実は宇野さんが」
「あのめちゃくちゃ重いプログラムを稼動させたのか? システムが吹っ飛ぶのも当たり前だ。あれはまだ、試作品なんだから。須崎のやつも可哀相に」
「宇野さんが言うには、あのプログラムを動かすくらいのスペックがなきゃ、将来使い物にならないって」
「こだわりすぎなんだ、あいつは」
 青木が作った雑炊を一口食べて、少し塩辛い、と思った。でも、まあまあ食べられる。こいつも料理が上手くなった―――。

 ぎくりと薪は手を止めた。
 日本一の料亭の懐石料理も、3人前で6桁のフランス料理も、砂を噛むようだったのに。ネギと卵しか入っていない雑炊が、美味いなんて。

「食い終わったら帰れよ。今からここに、美和子さんが来るんだ」
 約束などしていないが、青木を追い出すにはこれが一番だろう。
 息の苦しさは相変わらずだ。そろそろ呼吸困難に陥りそうになってきた。このままここに居すわられたら、終いには窒息死しそうだ。
「いいですね。彼女に看病してもらえば、病気なんて一発で治っちゃいますね」
 青木は笑顔を崩さずに、薪を見ている。美和子の名前を出せば青木が泣いて出て行く、と思っていたのは薪の自惚れだったか。

 そうだ。昼間、青木に言われたばかりだった。
『ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに』

 青木のこころは、もう自分にはないのだ。
 そう思ったら、途端に味が分からなくなった。
 単なる炭水化物の塊に変貌した茶碗の中身を、薪は黙々と食べる。咀嚼し、飲み込むたびに喉が引き攣れるように痛い。

「あれ? でも薪さん、病気じゃないってさっき。あ、さては彼女の気を惹こうと、仮病を使いましたね?」
「おまえじゃあるまいし」
「あの時は、すみませんでした」
 薪が返した軽口を、青木は昔の狂言自殺を皮肉られたと勘違いしたらしく、両手をテーブルについて、ぺこりと頭を下げた。
「でも、とっても嬉しかったです」
「ちがう。そのことを言ったんじゃない。僕はただ」
「すごくすごく、嬉しかったです。薪さんにあんな風に言ってもらえて」
「違うんだ、あれは。あの時は動転してて」
 薪の抗弁を馬耳東風と受け流し、青木は眩しいくらいの笑顔を見せた。
 青木の全開の笑顔は、薪から瞬間的に声を奪う。その僅かな時間に、青木は薪が忘れたがっている失言をことごとく再生した。

「『僕が結婚しても他のひとを好きになっても、おまえは僕を一番好きでいろ』」
 歌うように言って、青木は席を立った。
「『子供ができても孫ができても、僕の一番近くにいろ』」
 テーブルをぐるりと回って、薪の隣に膝をつく。強張った薪の肩をやさしく掴んで、自分の方に向けた。
 青木は昔から薪のことだけは、天才的な記憶力を発揮する。1年以上も前のことを、言った本人もうろ覚えの台詞を、見事に再現してみせた。
「『死んでも僕を好きでいろ』でしたよね? なんたって、神さまの前で誓っちゃいましたからね。破るわけには行かないんですよ」
 最後の台詞だけは、はっきり覚えている。雪子の結婚式の日だ。
 教会の中、祭壇の陰に隠れて、誓いのキスをした。タイムリミットを忘れたわけではなかったが、青木との付き合いが5年も続くとは思っていなかったし、何より幸せに輝く雪子の姿が嬉しくて、薪自身かなりハイになっていた。

「オレは誓いを果たします。あなたが結婚しても、父親になっても。オレは一生あなたを好きでいます」
 組み合わされた薪の手が、青木の両手にすっぽりと包み込まれる。
「オレの恋人は、生涯あなただけです」
 熱のこもった恋人の瞳。キラキラと輝いて、真っ直ぐに薪を見る黒い宝石のような瞳。

 ダメだ、もう限界だ。
 薪は、青木の思い出の中に生きることを諦めた。

「じゃあ、捨てろ」
 搾り出すように、薪は言った。
「僕のために、この世でたった一人残った母親を捨ててみろ」
 せっかくひとが気を使って、思い出を作ってやったのに。恥ずかしいのを我慢して、自分からベッドに誘ったり人前でイチャついたり、旅行先では夫婦の真似事までしてやったのに。ひとの苦労を台無しにしやがって。
「友人も仲間も、自分の将来も。ぜんぶ捨てて、おまえの残りの人生、僕に捧げてみろ!!」
 きれいなままで別れたかったのに。醜い本性を出さなければ、青木は僕から離れない。
「おまえにそれができるのか!? 僕を選ぶってことは、そういうことだぞ。わかってんのか!」

 とうとう言ってしまった。これが僕の本音だ。
 世界と引き換えに、僕を選んで欲しい。すべての夢を諦めて、僕だけを見て欲しい。祝福される人生を捨てて、僕と日陰を歩いて欲しい。
 口では青木の人生を元に戻してやりたい、なんて言ってたけど、心の中ではずっとそう思っていた。
 僕はとことん汚くて。
 青木の親を泣かせても、こいつと別れたくない。人生を棒に振ってでも、僕を愛して欲しいと、心の底では願っていた。
 青木には知られたくなかった。彼の美しい心が描く美しい僕の偶像を壊したくなかった。
 でも、これでいいのかもしれない。青木も目が醒めただろう。現実を知っただろう。
 どちらにせよ、僕たちに未来はない―――。

「はい」
 あっさりと頷かれて、薪は耳を疑う。こいつ、僕の言葉の意味が理解できなかったのか。
「ちゃんと聞いてたのか? おまえ、親をなんだと思って」
「オレはとっくに覚悟してます。もう5年も前に。5月だったかな、その証は、小野田さんに預けてあります」
「小野田さんに? いったい」
「薪さんは知らなくていいです。これはオレと小野田さんの秘密です」
 薪は追求を断念した。青木がこういう言い方をしたら、口が裂けても喋らない。
「宇野さんの言ったとおりだったなあ。オレ、第九に勤めて良かったです」
 何を言っているのか分からない。青木の言動は、ときどき薪の理解の範疇を易々と超える。

「薪さん。結婚なさっても、オレと会ってください」
 また青木が、とんでもないことを言い出した。これから結婚しようという男に、婚前から不義の約束をさせようというのか。
「そういうの、間男って言うんだぞ。重ねられて4つに斬られても、文句言えないんだぞ」
「いつの時代の法律ですか」
 極端な返事に吹き出して、青木はクスクスと笑う。笑える内容でもないと思うが。
「僕がそういうこと嫌いなの、知ってるだろ」
「オレは、そんなことは望んでません。こうして会って、ごはん食べてお喋りして。オレはそれだけでいいです。薪さんが笑ってくれれば、オレはそれで充分です」
 青木はいつもきれいごとばかりだ。そんなことができるはずがない。……そう思う僕のほうが、汚れきっているのか。
 青木といたら、抱き合いたくなる。迫られたら拒めない。今だって、彼に触れたいと願う自分がいる。あんなに苦労して別れたのに、ふたりきりで会ったりしたら元の木阿弥になるのは目に見えている。

「美和子さんは、僕たちのこと知ってるんだぞ。何もしてないって言っても、信用してくれるわけないだろ」
 青木は知らないが、美和子には自分がゲイだと嘘を吐いている。美和子にだって愛する男性とその子供がいるのだから、薪が青木と縁りを戻しても彼女からクレームがつくことはない。むしろ、問題は青木のほうだ。
 このまま、青木を牢獄につなぐような真似を続けていくわけにはいかない。
「おまえが悪者になるんだぞ」
「オレは、泥棒猫でいいです。変質者のストーカーでいいです」
 スパッと言い切った青木に、薪はまたもや返す言葉を失う。
 前々から言葉の意味を知らないやつだと思っていたが、こいつは本当のバカだ。泥棒猫とかストーカーなんて、そんな爽やかな笑顔で言うもんじゃない。

「薪さんと一緒にいられるなら。他人になんて思われても、構わないです」
 薪の両手を包む青木の手に、ぐっと力が籠もる。じっと見つめられて、逸らすこともかなわずに、薪は青木の視線に射抜かれる。

 迷わない瞳。
 ああ、そうだ。
 青木は、ずっとこの眼で自分を見ていた。もう何年も前から、青木の気持ちは固まっていたのだ。
 覚悟ができていなかったのは、僕のほうだ。

「身のほど知らずが」
 自分の手を包む大きな手を乱暴に払いのけ、強い口調で薪は言う。
「僕のカウンセラーにでもなるつもりか? ただのセフレのくせに」
 できる限り辛辣な声音で吐き捨てるように告げたつもりだが、どうやら失敗したらしい。青木の顔が、笑ったままだ。
「おまえみたいな低脳に、そんな大層な仕事ができるもんか」
 夏らしい水色のネクタイをぐいと掴み、薪は青木の身体を引き寄せようとする。が、思ったよりも体力が落ちていて、逆に自分の身体が動いてしまった。
 彼の顔が、間近に迫る。思惑とは違ったが、結果は一緒だ。

「セフレならセフレらしく、僕を抱いてりゃいいんだ」
 薪は憎々しげにくちびるを歪めると、青木の唇を強引に奪い、舌を割り込ませた。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(13)

タイムリミット(13)





 金曜日の室長会議の後、薪は第九の部下たちに、金箔の封緘が貼られた白い封筒を配って歩いた。見事な文字は毛筆で書かれており、小野田の知り合いの書道家の手によるものだった。
「え? 俺たちも招待してもらえるんですか?」
 招待状を受け取って、小池と曽我は揃って声を上げた。相変わらず、この同期生は仲がいい。
「ああ。美和子さんのお友だちは、美人ぞろいだぞ。おまえらも頑張れよ」
「はい!!」
 この二人はまだ独身だ。こいつらもそろそろ、落ち着いてもいい年だ。
 40過ぎまで独身でいた自分が、説教する権利はないが。

「青木は?」
「青木は宇野さんと一緒に、新システムの研修です。夕方まで帰ってきませんよ」
 知っている。だから、今日これを持ってきたのだ。
「そうか。じゃ、これ渡しといてくれ」
 差し出した封筒を曽我が受け取ろうとしたとき、野太い男の声が響いた。

「ご自分で渡したらどうですか。まだ日数もあることですし。その方が青木も喜びますよ」
 第九の副室長、岡部警視だ。薪が官房室との掛け持ちになってから、岡部は実質的に室長の職務をこなしている。
「そうですよ。青木は室長を尊敬してますから。きっと直接、お祝いの言葉を言いたいと思ってるはずですよ」
 岡部の言葉尻に乗って手を引っ込めた曽我に、薪は頷くしかない。受け取り手のいなくなった招待状を、仕方なく内ポケットにしまいこんだ。

「そう言えば青木のやつ、この頃元気ないんだよな」
「そうそう。食欲もなくて。ずい分やせたみたいだし」
「このところ薪さんが、ずっと官房室に詰めてるからじゃないですか? 顔が見れなくて寂しいんだと思いますよ」
「青木は室長っ子だから」
「おかしな日本語を作るな、バカ」
 薪が怒ったフリをすると、すいません、と明るく笑って二人は仕事に戻った。

 招待状の返事は、小野田のところへ郵送するようになっている。結婚式の2ヶ月前といえば、式の準備でてんやわんやの時期だが、婿養子に入る薪にはさほどの負担はない。小野田が気を使って、仕事を優先させてくれているからだ。美和子と小野田の妻に任せきりで申し訳ないとは思うが、小野田家の付き合いのことなど分からないし、女性のドレスのことなどもっと分からない。

「室長。さっきの会議のことですけど」
 岡部に促されて、薪は室長室へ入る。部屋にふたりきりになると、岡部はファイルを閉じてしまい、薪は嫌な予感が当たったことを知った。

「薪さん。いま、幸せですか?」
 岡部のお節介が始まった。
 岡部は薪の後継者で、腹心の部下だ。彼の捜査能力の高さと人心を掌握するスキルは、第九の誰よりも高いと評価している薪だが、このお節介だけはマイナス点だ。

「2ヵ月後に結婚する男が、幸せじゃないわけがないだろう」
「俺にはそうは見えませんけどね」
 太い腕を組み、グローブのような手を無精ひげの生えた顎に当て、岡部は何かを思い出すように視線を上空に泳がせた。
「何年か前、足を引き摺りながら歩いてたあなたのほうが、ずっと幸せそうでしたよ」
 
 岡部は、薪と青木の関係を知っている。
 青木とこういう仲になる前から、岡部には自分たちの気持ちを悟られていた。ふたりが恋人同士になってからは、陰になり日向になり、その秘密を他の職員の目から隠してくれた。
「あの頃のあなたは、まともに座ることもできなくて。よく前傾姿勢になってましたよね」
「岡部。やめろ」
「怒った俺が青木を道場で締め上げたら、あなたは真っ赤になってあいつを庇って」
「やめろ!!」

「あなたが決めたことなら、俺は何も言いません。でも、今度は引き返せないですよ」
 岡部の声には、心配と叱咤が入り混じっている。その割合は9対1。これはずっと昔から変わらない、岡部の黄金比率だ。
「そんな無責任なことはしない。夫としても父親としても、精一杯務めるつもりだ」
「責任とかで務めとかで結婚される女性も、たまったもんじゃないでしょうね」
 ぐっと言葉に詰まって、薪は俯いた。

「薪さん。嘘から始まった供述は、必ずどこかに歪みがでるもんです。そこで本当のことを言えばマルヒは楽になれますけど、あなたは一生、歪んだままの人生を背負っていかなきゃいけないんですよ」
 畳み掛けるように、岡部は言葉を重ねる。相手の弱みに付け込むのは、容疑者を自白に追い込むときの常套手段だ。
「イビツなものってのは、持ちづらいんですよ。あっちこっちで落っことしては、その度に相手も自分も苦しむことになるんです。でっかい岩の方が、よっぽどマシじゃないですか? 疲れたら岩を道に下ろして、寄りかかって休むこともできるんですから」
 岩の例え話を、誰から聞いたんだ。小野田さんが岡部にそんな話をするはずはないから、青木のやつか。あのお喋りめ。

「寄りかかろうにも形が悪いと、相手もろとも崖下に真っ逆さまですよ」
「大丈夫だ。おまえの心配してるようなことにはならないから。夫婦ってのは、長い時間かけて愛を育てていくものだろ」
「それまで、あなたが保てばいいですけど」
 僕はそんなに脆弱な人間じゃない、と言おうとして、薪は言葉を飲み込む。岡部の右手がさっと薪の身体を抱え、肩に担ぎ上げたのだ。

「下ろせ! 何のつもりだ」
「この軽さは、俺達が初めて会った夏以来じゃないですか」
 何を食べても吐いてしまうものだから、びっくりするくらい体重が落ちた。パット入りのスーツを着ていたのだが、やはり岡部の眼は誤魔化せないか。
「仕事が忙しかったから、それだけだ。来年までには官房室へ完全異動になるだろうから、そうしたら接待や付き合いでブクブク太るさ。立派なメタボになって貫禄つけてやるから、楽しみにしてろ」
 岡部の背中に向かって、薪は悪あがきをしてみる。何を言っても岡部には通用しないと思うが、もう後戻りはできない。
 きれいにアイロンが掛けられた、岡部のワイシャツの白さが目に沁みる。頭が下になっているせいか、水分が頭部に集まってきたようだ。

「あれ? おまえらどうしたんだ。研修は?」
 モニタールームから聞こえてきた声に、薪はびくりと身を震わせる。岡部が薪の身体を床に下ろし、室長室の扉を細く開けた。ドアの向こうに、メガネを掛けた男がふたり、顔を見合わせて苦笑している。
「研修所のシステムに障害が発生しまして。復旧の目途が立たないので、研修は先送りになりました」
「さては宇野。新システムにウィルス入れたろ」
「そんなことするかよ。楽しみにしてたんだせ、俺は。須崎の作った新しいシステムが、俺の作ったスーパープログラムの負荷にどこまで耐えられるかなって」
「まさか、入れたのか? MRI専用のスパコンでさえ悲鳴を上げるおまえの悪魔のプログラム」
「……ちょっとだけ」
「研修段階でシステムをショートさせてどうするんだよ」
「どっちにせよ、あんなスペックじゃ使い物にならないよ。俺は先のことを考えてだな」
「ほー。そのセリフ、室長の前でも言ってみろ」
「え? 薪さん、来てるのか」
「結婚式の招待状。俺たちも式に呼んでくれるって」
 小池が室長室のドアを指差したのを見て、宇野が嬉しそうな顔をする。その様子を見て、岡部は後ろを振り返った。

「良かったじゃないですか。これで直接あいつらに招待状を……っ!?」
 そこにいるはずの上司の姿はなく、岡部は言葉を失う。窓が開いて、風に煽られたブラインドがカタカタ音を立てている。
「なんて無茶を! ここは3階だぞ!」

 窓に走り寄って下を見るが、薪の姿はない。
 薪に会うために室長室に入ってきた宇野と青木が、岡部の様子に気付いてこちらに寄ってくる。
「どうしたんですか? 岡部さん。室長は?」
「知らん! 窓から帰りたくなる人間の心理なんか、理解したくもない!」
「え!?」
 宇野が驚いて、窓から顔を出す。岡部の顔と交互に下を見て、まさか、という顔で首を捻った。

 ぎりっと奥歯を鳴らして口惜しそうに眉を吊り上げる岡部の後ろで、そうっと床を這っていく小さな人影。机の下から出てきたその影は、岡部の様子を伺いながら、ドアの隙間に滑り込もうとした。
 何かにぶつかって、行く手を阻まれる。亜麻色の頭がごつんと音を立てたのは、薄い灰青色のズボンに包まれた長い足だった。
「何してるんですか?」
 四つん這いの犬のような格好で固まってしまった薪に視線を合わせるように、衝突事故の相手はその場に屈み、薪の顔を覗き込んだ。

「青木」
 騙されたと知った岡部が、怒りよりも青木の炯眼に驚いて振り向き、彼の名前を呼んだ。隣で宇野が妙に落ち着いた態度で腕を組み、窓枠にもたれて足を交差させた。
「薪さんの行動は、だいたい読めますから」
 静かに言って、手を差し出す。薪がその手を取るのを躊躇っていると、青木は乾いた声で薪に話しかけた。

「ご結婚おめでとうございます、室長」

 床に正座して、薪は硬直していた。大きな目をいっぱいに見開いて、小さなくちびるを引き結んで。
「どうか末永くお幸せに。結婚式には必ず出席させていただきます」
 自分を敬愛している部下からのお祝いの言葉に、薪は目の前に出された大きな手の意図を知る。
 自分に向けられた手は、自分を助け起こすためのものではなく、さっさと招待状を置いてオレの前から消えろ、という意味だったと。思い知らされて、息が上手くできなくなる。
 促されるままに内ポケットから招待状を出し、青木の手の平に載せる。膝に手を当てて立ち上がり、崩折れそうになる足に力を込める。
 薪は室長室を出て行った。岡部がその後を追って行き、部屋には青木と宇野が残った。

「薪さん、俺には招待状くれないのかな」
「忘れちゃったんじゃないですか。あのひと、意外とドジだから」
「おまえがあんなこと言うからだろ」
 あからさまな舌打ちの後の宇野の言葉に、青木は驚いて先輩の顔を見る。ITの申し子のような彼の顔は、厄介なウイルスを発見したときのように歪められていた。

「あんなことって……オレ、なんかおかしなこと言いましたか?」
「もう少し言葉を選べよ。薪さんが可哀想だろ」
 理不尽だ。
 結婚が決まった上司に、おめでとうございます、とお祝いを言って叱られるなんて。

「何か他の言い方あるだろ。例えば」
 宇野は両目をぐるりと回して、なにかうまい言い回しを考えているようだったが、やがて肩を竦めて、ハッと短く息を吐いた。
「何を言っても同じか。仕方ないよな」
「宇野さん?」
 四角いレンズの向こうから、どんな小さなバグも見逃さない目が、青木の顔をじっと見ている。まるで自分がプログラムになって宇野に解析されている―――― そんな錯覚を、青木は覚えた。

「おまえはそれでいいのか」
「なにがですか」
「このまま薪さんが結婚して、それでいいのかって聞いてんだよ」
「おめでたいじゃないですか。これで薪さんの警視監昇任は決まったようなもんだし。上手く行けば、どこかの局長とかに就任できるかも」
 宇野はわざとらしく額に手を当てると、天を仰いで大きなため息を吐いた。芝居がかった仕草に、微かな苛立ちが感じられる。

「はあ……ほんっと、デキの悪い後輩もつと苦労するわ」
 突然、自分の能力にケチを付けられて、青木はムッとするより先に意外に思う。宇野はいつも頑張り屋の青木を、高く評価してくれていたはずだ。

「青木。おまえ、第九に来て何年だっけ」
「7年です」
「7年もかかって、おまえはここで何を学んできたんだ」
「……MRI捜査の手法と技術を」
 それが宇野の求める解でないことは分かっていたが、青木には他に答えが見つからない。
「MRIには、音声は無い。だから俺達は読唇術を習得して、必死こいて事件関係者の唇を読むわけだけど」
 青木の答えに可も不可も付けず、宇野はズボンのポケットに両手を入れて室内をゆっくりと歩き始めた。
「そうやって読み取った言葉が捜査を混乱させたことが、今まで何回あった?言葉だけじゃない。意識的に作った表情にミスリードされて、袋小路に迷い込んだこともあっただろう。失敗から何も学べないなんて、爬虫類以下だぞ」
 ぐるぐると室内を歩いて青木の側までやって来た宇野は、今まで見たこともないような凶悪な目つきで、オチコボレの後輩を睨みつけた。

「このクソムシ野郎が。薪さん、泣かせてんじゃねえよ」
 薪の陰に隠れて目立たないが、ノンキャリアの宇野は口が悪い。第九で薪の次に罵倒文句がキツイのは宇野である。

「宇野さん。あの、もしかして」
 はっきりと言葉にすることはできないが、宇野の言動は青木にある危惧を抱かせる。人に知られてはいけない自分たちの秘密に、宇野は気付いてしまったのだろうか。
 後輩の青くなった顔を見て、宇野が意地悪そうに笑う。室長の影響か、第九には意地悪な先輩が多くて困る。

「俺だけじゃないぜ。みんな薄々気付いてるよ。薪さんが嫌がるから、知らない振りしてるだけだ」
「えっ!」
「あんだけイチャイチャしてて、気付かれないとでも思ってたのかよ」
「仕事中にそんなことはしてないです。どっちかって言うと、薪さんにはイジメられることが多かったかと」
「それがあのひとの愛情表現だって、第九の人間なら常識だろ」
 青木は言葉に詰まった。
 たしかに、むかし薪は自分を愛してくれた。でも、今は……。

「青木。薪さんとは、ちゃんと話したのか」
「話も何も。いきなり婚約したって知らされて、美和子さんのお腹には薪さんの子供がいるって聞かされて。アアもウウも無かったです」
「俺はさ、薪さんの結婚に反対してるわけじゃないよ。だた、薪さんがあまりにも」
 宇野はそこで言葉を切った。辛そうに伏せられた眼鏡の奥の瞳が、その先の言葉を雄弁に語っていた。

「その蛆虫みたいなチンケな脳みそで、もう一度考えてみろ。おまえがしなきゃいけないことが、まだ残ってるはずだ」
 かつて薪がよくしたように、宇野は青木のネクタイをぐいと掴み、脅し文句を叩きつけた。

「オレが……しなきゃいけないこと……」
「おまえも第九の捜査官なら、最後まで真実を見究めろ」
 真剣な目で言って青木を突き飛ばすと、宇野は室長室を出て行った。




*****


 この話を書いてしまってたのでね、トイレで、滝沢さんの手が宇野さんに掛かったときはどうしようかと思いましたよ。 
 うちじゃこの役、宇野さんにしかできないもん。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(12)

 今週から堤防の修繕工事が始まりまして、代理人なので現場に出てます。
 でもこの現場、今まで経験したどんな現場よりも、

 くそ寒いっ!
 骨まで染みとおるくらい風が冷たい! (そりゃそうだよね、川っぺりだもん)
 冷凍庫なんかに入らなくても、人間シャーベットになりそうです☆

 この現場に年末までいるのか……。
 せめてアツアツのあおまきさんでも妄想して暖を取ろう、と思えば、うちの薪さん、こんなことしてるし。 あー、さむい。
  





タイムリミット(12)




 彼女に会ったのは、小野田の家だった。薪は小野田のお供で出張や会議に出席した後、自宅で労をねぎらわれることがしばしばあった。小野田の末娘の香が、薪の来訪をことのほか喜んだからである。

「剛さん、いらっしゃい!」
「こんばんは、香ちゃん。元気だった?」
「うん! 剛さんは相変わらず素敵ね。うっとりしちゃう」
「こらこら。彼に怒られるぞ」
「あ、あ、ナイショにして。彼、意外とヤキモチ妬きなの」
 香は今年、19になる。
 色々と気になる年頃で、小野田は彼女のことが心配でたまらないらしく、大学のボーイフレンドからかかってくる電話に戦々恐々としている。香と仲の良い薪は、彼女の恋人が2歳年上のゼミの先輩であることを知っているが、パパには黙ってて、と固く口止めされている。

「そうなの?」
「うん。わたしが他の男の子と喋ってたりしたら、もう大変」
「ああ~、わかるわかる。ものすごくウザイよね、そういうの」
「そうなの。ウザイんだけど、でも」
「ちょっと嬉しいんだよね」
「さすが剛さん。女心が分かるのね」
「いや、僕、男なんだけど」
 香のガールズトークに付き合っていた薪は、自分に向けられる密かな悪意を感じて頭を巡らせた。この家に、自分を嫌っている人間はいないはずだ。少なくともこれまで、それを表面に滲ませるような人物は存在しなかった。

 ドア口を見た薪の瞳に映った、小野田の妻によく似た美しい女性。それが美和子だった。

 彼女は実家に住んでおらず、神楽坂のマンションで一人で暮らしている。これまで彼女を見かけたことがなかったのは、香曰く「美和子姉さんはお見合い写真を見ると鳥肌が立つ」から。要は、結婚しろと親にうるさく言われるのが嫌で、実家に寄り付かなかった、ということらしい。
 しかし、美和子も30歳の誕生日を迎え、諦めの境地に入ったのか、最近は夕食の誘いを受けるようになった。「こないだもママにお婿さん候補の写真を見せられていたわ、長女って大変ね」と末っ子ならではの無邪気さで、香は笑った。

 小野田に紹介されたとき、美和子は薪を恨むような目で見た。
 初対面の女性にどうしてそんな目で見られるのか、訳が分からなかった薪はひどく戸惑ったが、小野田に言われて彼女の運転手を何度か務めるうちに、彼女が自分を警戒している理由に思い至った。
 10年ほど前に、「ぼくの娘と付き合ってみないか」と小野田に言われたことがある。
 小野田は、現在の薪の恋人のことを知っているから、薪には何も言ってこない。しかし、彼は今でも自分の娘と薪との結婚を望んでいる。その気持ちはありがたいが、薪にはそれに応じることはできない。
 薪の心の定員は、ひとりだけ。不器用な男なのだ。
 美和子は、そんな父親の気持ちを察しているのだろう。父親が自分と結婚させたがっている男、という目で見られているのだ。
 ここは、先手必勝だ。

「美和子さん。お付き合いしてらっしゃる男性はいるんですか?」
 美和子は何も言わなかった。
 彼女は無口で、薪とふたりで車に乗っていても、何も喋らないことが殆どだった。薪も必要がなければ口を開かないタイプだから、二人が乗った車はいつもとても静かだった。
「僕はいますよ。一生、思い続けようと心に決めているひとが」
 赤信号の手前で注意深くブレーキを踏みながら、薪はさらりと言った。ルームミラーの中で俯いてた美和子が、薪の言葉に顔を上げた。
「あなたにもいるんでしょう? 例えば」
 フロントガラスの向こう側を、泳ぐように歩く人々を見ながら、薪は言葉を切る。息を吸い込んで、何気ない口振りで美和子の秘密を暴露した。
「そのお腹の子の父親とか」

 ミラーの中の美女は、ギョッと両目を見開いた。見る見る青冷めていく頬に、細い右手が当てられる。
「なぜ?」
「初めてお会いしたときは、ハイヒールを履いてらっしゃいましたよね。最近はローヒールに変えられたみたいでしたので」
「それだけのことで?」
「香水も、つけられなくなりましたよね。色々な匂いに、敏感になられているのでしょう」
 信号が青に変わり、薪は慎重にアクセルを踏む。左側の車線をゆっくりと走る黒のレクサスを、周りの車が追い越していく。

「余計なお世話だとは思ったんですが。隠していても、いずれ分かることです。早くご両親に打ち明けた方がいいですよ。デキちゃったもの勝ちで、彼との結婚を許してもらえるかも」
 一人暮らしをしていても、美和子は放蕩娘ではない。長女らしく落ち着いているし、きちんと礼儀も弁えている。彼との付き合いも、いい加減な気持ちではなかろう。
 お腹の子にしても、愛し合った相手との結晶なら、誰に恥じることもないはずだ。靴の踵を低い物に変え、季節的にまだ早いと思われる厚手のハイソックスを着用していることから、お腹の中の子供を慈しんでいることが分かる。これは間違いなく、愛した男性の子供だ。
「よく気が付いたわね。お母さまでさえ知らないのに」
 その事実に少し驚く。が、あり得るかもしれない。高名な政治家の末娘である小野田の妻は、よくも悪くもお嬢さまで、世間知らずというか純真無垢というか。
 
 やがて車は、彼女の父親と母親が待つレストランに到着する。薪の今日の仕事はこれで終わりだ。
 小野田はもちろん薪を誘ってくれたが、第九の仕事が残っていると嘘を吐いた。親子水入らずの夕食を邪魔するのも気が引けたし、今日は水曜日だから。どこかの誰かさんが、薪の帰りを待っているはずだ。

 今日こそ、別れ話をしなきゃいけないな、と薪は苦笑する。
 これから青木に電話をして、この店ほど高級でなくても、近くのレストランに呼び出そうか。最後に食事くらいはいいものを食べさせてやって、思い出に夜景のきれいなホテルとかで愛を交わして、それから……駄目だ、ぜんぜん別れられる気がしない。

「あなたはどうして結婚しないの?」
 車をレストランの駐車場に入れても、美和子は車から降りようとしなかった。薪のお節介への報復か、弱味を握られたことへの牽制か、そんなことを聞かれた。
「僕の相手は、絶対に結婚できない相手なので」
「わたしと一緒ね」
「……もしかして、不倫ですか」
「違うわ。だったらとっくに奪い取ってる」
 強気の発言とは裏腹に、美和子の表情は今にも泣き出しそうだった。

「じゃあ、どうして? 年が違いすぎるとか、身分が違うとか?」
 この女性がどんな恋に苦しんでいるのか詮索する気はなかったが、彼女の秘密を暴いた本人としては、話に付き合う義務があると思った。
「彼とは大学の頃からの付き合いなの。でも、お父様はわたしたちの仲を認めくださらなかった。彼は将来を託するに値しない男だって。その上」
「大丈夫ですよ、少しくらい反対されても。子供がいるって言えば、少々のことには目をつぶりますよ。親って、結局は子供の幸せを願っているものじゃないですか」
「彼のお兄さんが、人を殺してしまったの」

 低い女の声に、薪は振り返った。
 警察官僚の長女として、いやでも内部事情に詳しくなってしまった彼女は、それがどんなことか、よく分かっていた。
「傷害致死。はずみだったのよ」

 殺人犯の実弟と、官房長の娘。
 かける言葉が見つからず、薪は黙り込んだ。

「それが父の耳に入って、わたしたちは無理矢理別れさせられたわ。子供がお腹にいることが分かったのは、その後」 
「かれは、知ってるんですか? 自分の子供があなたの」
 美和子は首を振った。
 その理由を、薪はすぐに察した。
 親にこの事実が知れたら、間違いなく堕胎させられる。美和子もそう思ったから、母親にも相談できずにいたのだ。産めるかどうかも分からない子供の存在を、別れた相手に告げることはできない。相手は美和子と一緒になりたいと思っていても、彼らは引き裂かれる運命で。結局は愛する女性も子供も失うという悲痛を、彼に味あわせるだけだ。

「彼を愛してるわ。この子も、産みたい。小野田家と縁を切って、彼と一緒になることも考えたわ。でも、親のことも悲しませたくない。わたしがそんなことをしたら、お父様の名前に泥を塗ることになるし。
 だけど、彼が好きなの。彼と一緒に、この子を育てたいの」
 話しているうちに、美和子の鳶色の瞳からは、ほろほろと涙が零れ落ちてきた。
「どうしていいのか、わからない」

 両手で顔を覆って俯く姿に、美和子の頑なで高慢な態度は、彼女の精一杯の強がりだったことを知る。
 この女性は、自分と同じだ。
 添い遂げられない相手と恋をして、その想いに胸を焼かれて。別れなくてはいけないと思いつつも、相手を思い切ることができない。

 薪は携帯を取り出すと、メモリーの中からひとつのアドレスを選び出した。「今日は行けない」と用件だけを発信し、車を降りて外に出た。ふっと夜空を仰いで、きっとあいつもこの空を見ている、と何故か確信し、そのことに心が凪いでいくのを感じながら後部座席の女性の隣に座った。

「美和子さん。僕と結婚しませんか」
「え!?」
 美和子は、びっくりして薪を見た。
 彼女の目の周りは涙で流れたアイメイクで無残な有様だったが、薪はそれを滑稽とも思わず、笑ったりもしなかった。

「あくまでひとつの方法ですけど。僕と結婚して、その子を産むんです。で、彼と一緒に育てればいい」
「なにをバカなこと言ってるの? そんなことできるわけが」
「一番誠実なのは、ご両親に本当のことを話して、彼との仲を許してもらうことです。でも、今の状態でご両親が本当のことを知ったら、その……お子さんは、殺されてしまうかもしれません。僕には、それを阻止する力はありません」
 小野田は、やさしいばかりの男ではない。目的の為には手段を選ばない、非情な一面も持っている。薪にそれが向けられたことはないが、敵には容赦しない。そうしなければキャリア組の熾烈な出世競争の中では生き残っていけないし、官房長の役職を得ることは不可能だ。

「もしもご両親が真実を知っても、子供が生まれてしまった後では、それはできなくなります。お子さんの命だけは確実に守れる。彼とのことだって。僕をカモフラージュに使えば、会うこともできるでしょう?」
 細い眉を寄せて、美和子は怪訝な顔をしている。薪の突拍子もない提案に、どう反応していいのか分からない、と言った表情だ。
「彼と会う時は、僕に連絡をください。話を合わせておきますから」
 
 薪には、彼女の気持ちが痛いほどわかる。
 自分と同じ苦しみを舐めている女性。愛するひとと共に生きていくことが、周りの人間を不幸にする。でも、彼女の場合はまだチャンスがある。子供という強い切り札が。
 薪には子供がいないし母性本能もないから、子供を利用しようなどという冷酷な考え方ができるのかもしれない。だが、手札は出来る限り有効に使わなければ。

「問題は彼の気持ちです。偽装とはいえ、あなたが他の男の妻になるわけですからね。だから、これはひとつの企画案です。彼と相談して、よく考えて決めてください」

 美和子の恋は、叶えてやりたい。
 捨てなくてはいけない僕の恋の代わりに、この女性の恋は成就させてやりたい。僕が青木と別れることで、日陰とはいえひとつの愛が貫けるなら。僕も青木も、少しは救われるかもしれない。

「あなたはそれで、何を得るの?」
「僕にだってメリットはあるんですよ。あなたと結婚できれば、僕の将来は約束されたも同然ですから」
「尤もらしい理由ね。でも、それをわたしに信じさせたかったら、普段の行動にもう少し気を配らないと。あなた、わたしのことなんて眼中になかったでしょう」
 たしかに。
 香とはよく話をするが、美和子とふたりでこんなに喋ったのは初めてだ。皆と一緒のとき、それも誰かを挟んで話をしていた気がする。

「わたしの周りに集まる男たちはね、もっとギラギラした目をしてるわ。あなたは出世なんか望んでない」
 さすが幼い頃から、警察関係者に囲まれて育っただけのことはある。官房長の娘ともなれば、妻にしたがる男がわんさか押しかけただろうし、自然とひとを見る目も養われたというわけか。
 美和子を納得させるために、薪は小さな嘘を吐くことにした。

「実は僕、男のストーカーに悩まされてまして」
「え? 男のひとなのに?」
「あ、僕ゲイなんです。だから結婚しても、あなたには指一本触れません」
 薪は本当は女性とのセックスのほうが好きだが、こう言っておけば相手の男も安心するだろう。

 薪の衝撃の告白に、美和子は大きく頷いた。……なぜ驚かないんだろう。
「やっぱりね。そうじゃないかと思ってた」
 なんでっ!?
「まあ、あなたの顔を見れば大体ね」
 顔ってなんだ! 女っぽいとか言いたいのか!!
「アレ取って、女性ホルモン注射してるんでしょ。そうでもしなきゃ、その顔は無理よね」
 拡声器で洗いざらいぶちまけてやろうか、このオンナあああ!!!

 荒れ狂う心を必死で抑えて、薪は美和子の誤解を敢えて解かない。誤解させておいたほうが都合がいい。そう思いつつも泣きたくなるのは、彼のなけなしのプライドだ。
「僕が結婚してあなたの家に住むようになれば、彼も諦めると思うんです。この計画に乗ってくださるなら、僕のことも助けてくださいませんか」
「結婚しても、お互いの恋人については干渉しない。そういうことでいいのね」
「はい」
 考えてみる、と美和子は言った。

 薪は車を降りてドアを開けてやり、ご両親がお待ちかねですよ、と微笑んだ。
 レストランまでの小道を歩いていく美和子の足取りは、しっかりしていた。芯の強い女性なのだろう。

 薪は運転席に乗り込み、警察庁に向かった。
 今夜の予定はなくなった。少し早いが、来週末の支部会議の資料を作っておこう。
 運転をしながら、美和子の顔を見たレストランの支配人がどんな顔をしたかな、と考えてクスクス笑う。美和子の化粧の乱れを指摘しなかったのは、傷つけられたプライドのささやかな報復だった。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(11)

 50000HITありがとうございます。m(_ _)m (キリバンリク受けようと思ってたのに、忘れちゃいました(^^;)

 何か記念のSS書きますね、甘いやつ。
 わたしの中のロマンチック精神で、がんばって妄想しますね。 
 さー、まずはロマンチック細胞の培養からだなっ。 ←神経細胞に育つまでに何億年かかることやら。


 そして、ロマンの欠片もない本編の続きです。
 まことに相すみません……。





タイムリミット(11)





「また余計なこと考えてるでしょう」
 苦笑交じりの声が聞こえた。
 一度では満たされず、更なる高みを目指そうと、四つん這いになって互いを愛し合っている最中にそんなことを言われて、薪は驚いて口の動きを止めた。薪の秘部から指が抜かれ、愛撫が中断される。
「薪さんの身体は正直だから。ほら、全然濡れてこない」
 そんな風に冷静に判断されてしまうと、青木の顔の上に跨るような体勢を取っている自分が、ひどく恥ずかしくなる。

「ちょっと、疲れてて」
 腰の位置をずらして、ローションを手に取る。薪の口の中で屹立していた恋人にローションを垂らし、青木の視線を感じながら彼を受け入れる部分にも塗る。
「でも、大丈夫だから」
 青木に背中を向けたまま、薪は彼の上に自分の腰を重ねる。自分を欲しがってくれている恋人の証を手に持って、熟練した仕草で飲み込む。
 この行為にもすっかり慣れて、今は青木が相手なら、眠っている最中に犯されたって平気だ。薪のそこは青木の形を細部まで覚えて、彼に沿うように自然と開いていく。最初の門を抜けるときだけは抵抗があるが、そこから先はすんなりと進む。内壁も奥の空間も、自由に操ることができるようになった。

「あっ、あ、んっ!」
 よがり声も腰の振り方も、いつもの夜を演じてみせる。快楽に溺れる振りをして、ともすれば萎えてしまいそうになる自分自身を両手で扱く。勃たせておかないと、青木が気にするから。
 青木の両手が薪の腰にかかる。起き上がる気配がする。
 一度目は正常位だったから、きっと次はバックで来る。好都合だ。顔は見えないし、不自然さに気付かれる可能性も低くなる。
 しかし、青木の言葉は薪の期待を裏切った。

「薪さん。止しましょ。ムリしなくていいです」
「無理なんかしてないだろ。ほら、こんなに感じてる」
 薪の腰を押さえる青木の手を取って、前に導く。反応している男の証拠を握らせて、自分の手を添えて動かす。
「甘く見ないでください。あなたの身体を仕込んだのは、オレですよ」
 年下のクセに、生意気なことを言うやつだ。それは確かに事実だったけれど。
 青木は薪の分身から手を放し、後ろからぎゅっと抱きしめてきた。耳元にくちびるを寄せて、愛しそうに耳を噛む。
「演技かそうじゃないかなんて、すぐに解っちゃいます」

 紳士的な言葉とは裏腹に、薪の中の恋人は激しく薪を求めていたけれど。青木は自分から動こうとはせずに、ただ薪を後ろから抱きしめていた。
 刺激を与えられなくなった薪のものは、すぐに萎れて落ち、青木とつながった部分はたちまち乾いていった。満たせなかった欲望をそっと引き抜いて、青木は薪の身体をゆっくりと横たえた。長い腕に絡め取られ、広い胸に抱きこまれて、やさしく背中を撫でられる。
「さて。男爵さまの釈明を聞きましょうか?」
「あん? 男爵ってなんだ?」
 青木はそれには答えず、薪の背中を撫で続けた。

「せっかくの夜をフイにされたんですから、理由を尋ねる権利はあるでしょう?」
「だから、ちょっと疲れてただけだって」
「さしずめ、部長の娘との縁談のことですか」
「ああ、そんな話もあったみたいだな」
 自然に口をついて出た言葉に、薪は絶望でいっぱいになる。
 違うだろう? 青木を説得するように田城に頼まれて、でもできなかったことを告白して謝るのが本当だろう?
 自分で握りつぶしておいて、空惚けられる自分にびっくりだ。取調室で嘘を重ねる犯罪者と変わらないじゃないか。
 ここまで最低の人間に成り下がってしまった自分に、彼の恋人でいる資格があるのか。愛される資格があるのか。こんなくだらない人間に関わること自体、彼の人生にとって大きな損失ではないのか。

「僕には関係ないけど」
 関係がないというのは適切ではない。口を出す権利がない、というのが正しい言い方だ。だって、僕はこいつの伴侶にはなれないから。青木と人生を歩んでいくのは、どこの誰かは知らないが、女性であることだけは間違いない。
「またそんな意地悪言って」
「で? どうするんだ」
 非難めいた青木の言葉に被せるように、薪は軽い調子で青木の予定を尋ねる。恐れ戦いている自分の本心に気付かれないように。青木が本音を言いやすいように。

「断りましたよ。当たり前でしょう。熱愛中の恋人がいるのに」
 当たり前と来た。こいつの日本語の使い方は間違っている。
 部長の娘と結婚できるチャンスを棒に振って、40過ぎの男を選ぶと言う。その選択のどこが当たり前なんだ。
「青木。いい機会だからちゃんと考えろ。自分の将来のこと、親のこと、友人のこと。よく考えて答えを出すんだ」
 年上らしく諭す自分の声を聞きながら薪は、心中で激しい罵倒を繰り返す。自己嫌悪を通り越して、殺意まで生まれそうな勢いだ。

 青木が縁談を断ったと聞いて、やっと正しいことが言えるようになった声帯など、腐り落ちてしまえ。自分に都合のいい時しか動かない声帯なんか、あっても無意味だ。
 そのセリフはもっとずっと前、田城から写真を受け取った時に彼に告げるべき言葉だったはずだ。縁談を断ってしまってから言っても、まったく意味がない。それは充分承知の上、さも自分は青木の将来のことを大切に考えている、美しい自分を演出するために利用して。あざといなんてレベルじゃない、もう存在すら許せなくなってきた。

「オレはあなたのこと以外、考えたくありません」
「……それは、現実逃避だろ」
 青木の胸から、顔を上げることができない。
 僕はどんどん駄目になる。嘘を見破られるのが怖い、醜い自分を見られたくない。
 ああ、もう、早く早く、青木から離れたい。虚装に塗れた自分を守るのが精一杯、そんな蛆虫みたいな人間が彼の一番大事な場所にいるなんて、許せない。

「考えましたよ。色々と。でも、無理なんですよ」
「何が」
「例えば、オレの将来。このまま警察に勤めているにしても、別の職業に就くとしても、隣には必ずあなたがいて。オレのこと能無し呼ばわりするんですよ」
 青木の胸に顔を埋めている薪に、彼の表情は見えない。が、その声は、話題に不釣合いなほど明るかった。
「家に帰ったらやっぱりあなたがいて。オレは仕事で疲れているのに、優しい言葉もかけてくれないどころか、意地悪ばっかりするんです」
 僕は意地悪なんかしたことないのに、と薪は心の中で言い返す。
 青木が聞いたら顎が外れるほど驚きそうな事実だが、薪に意地悪をしているという自覚はない。薪は、青木が凹む顔を見るのが好きなのだ。あの顔に愛しさを感じている。嫌味も皮肉も、愛情確認の手段に過ぎない。

「だけど、すごく美味しい夕飯ができていて。皮肉ばかり言うあなたの顔はとっても可愛くて。ベッドの中ではもっと可愛くて」
 薪はムッと眉を顰めたが、青木のこの台詞は嫌味ではない。意地悪をするときの薪の顔は、掛け値なしに可愛い。心の底から楽しそうだし、間違いなく生き生きしている。
「でも結局、セックスの途中で眠っちゃうんです」
「なんだ、そのオチ」
 落語のような結末に、薪は思わず顔を上げる。形の良い眉を思い切りしかめて、失礼な男をぎろりと睨みつける。
 亜麻色の瞳から発せられる殺人光線に怯む様子もなく、青木はにっこりと笑う。どんな恐ろしいものでも、慣れてしまうとその威力は半減するものだ。

「ね、幸せでしょう」
「幸せなのか? それ」
「はい」
 自信たっぷりに頷く青木に返す言葉が見つからず、薪は嘆息した。
「まあ、残り半年だからな」
「何が半年なんですか?」
「なんでもない」

 来年の4月。
 僕は青木と絶対に別れなければならない。5年前、小野田さんと約束したから。それを条件に、見逃してもらったんだから。約束は守らなければ。
 この胸も腕も、笑顔も。全部、捨てなきゃいけない。

 ……見つからないようにすればいい。
 小野田さんには別れたって言って、こっそりと会えばいい。青木が誰かと結婚してからだって、そんな風に会えばいい。そうすれば、ずっと一緒にいられる。

 そんな考えが浮かぶくらい。
 僕は最低の人間になってしまった。
 僕は、嘘つきが大嫌いだったはずだ。不倫とか浮気とかする人間を、軽蔑していたはずだ。
 それなのに。
 みんな、こんな気持ちで罪を重ねるのだろうか。愛し合って、でもどうしても公に結ばれることは叶わなくて。もてあますほどの愛しさに焼かれるように、その身を堕としていくのだろうか。

 若い恋人の規則正しい心音を聞きながら、薪は深いため息を吐く。
 もう、20回くらい、このパターンで失敗してるような気がする。一体、いつになったらこいつと別れられるのだろう。
 この責務を遂行するには、自分ひとりでは難しいかもしれない。共犯者が必要だ。薪と一緒に、地獄に落ちてくれる相棒が。

「いないよな。そんな都合のいい相手」
 最終手段として、金でひとを雇うことも考えたが、金で言いなりになる人間は金で裏切るものだ。あまり頭のいいやり方とは言えない。
 困り果てた薪の前に現れたのが、美和子だった。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(10)

タイムリミット(10)





 計画の発端は、半年前に遡る。
 所長の田城を通して、青木のところに見合いの話が来た。
 相手は総務部長の末娘。年のころも相応で、見た目も悪くない。何より、彼女の父親の役職は魅力だ。
 彼女と見合いをするように青木を説得してくれと、薪は田城から頼まれた。青木のためにもなることだし、言われた通りにしようと一旦は決意して、でもどうしても為せなかった。見合い写真を青木に見せることもせず、浅ましい嘘と共に田城に返したとき、薪の中の何かが壊れた。

 自分は、青木の未来を潰した。
 結果は同じだったかもしれない。青木は心から薪を愛していて、だから彼の答えは聞かなくても分かる、でも。
 それを選ぶのは青木でなければならない。自分が手を出してよいことではない。そんな、子供にも分かる事ができなくなってしまうなんて。

 もう、駄目だと思った。
 自分の存在が、彼の未来の可能性を奪う。そんなことは許されない、許せない。自分が、彼に不利益な人間になっていくことが耐えられなかった。
 別れようと決意した。自分がこれ以上、醜い生き物にならないうちに。

 その日も、別れ話をするつもりで家に誘った。薪の思惑を知らない青木は、尻尾を振って着いてきた。別れたがっている恋人の真意に気付かずに、バカな男だな、と心の底で彼を嘲り、そんな自分を最低だと思うことで自身を鼓舞した。
 繰り返し繰り返し、呪文のように。自分に言い聞かせる。
 今日こそ片をつけなければ。
 言わなくてはならない。終わりを告げなくてはならない。それも手ひどく、痛ましく。青木が自分に未練の欠片も残さないように。

「この鯛の煮付け、絶品ですね」
「そうか?」
 薪が作った料理を美味そうに食べる恋人の姿に、つい微笑んでいたことに気づいて、薪は自分を戒める。
 今日は笑顔は禁止だ。青木が取り付く島もないように、徹底的に冷酷に。

「薪さんて、本当に料理上手ですよね。惚れ直しちゃいます」
「これ以上エスカレートしたら犯罪になるだろ。おまえの場合」
「薪さんが悪いんですよ? そんなに可愛くて料理も上手で、あっちのほうもすごくって、惚れるなって方が無理――――― 痛ったあ!」
 薪の足が素早く動き、青木の向こう脛を蹴り飛ばす。大仰に声を上げるが、そんなに強く蹴った覚えはない。その証拠に青木は照れ笑いを浮かべると、嬉しそうに食事の続きに戻った。
 ……まあいいか。食事くらい。

「惚れるで思い出しましけど。曽我さんに新しい彼女ができた話、聞きました?」
「本当か? また、騙されてんじゃないのか?」
「前回で懲りてるはずだから、今度は大丈夫だと思いますけど」
「あいつって学習機能がないから、ちょっと心配なんだよな。典型的なO型人間ていうか。騙された翌日、また同じ女に騙されるタイプ」
「もしも騙されてたら、また薪さんが彼女の振りして相手の女性を懲らしめてやれば―――― あいた!」
 薪は手を伸ばし、青木の耳を引っ張る。痛いと言いながらも、青木は薪の手を払わない。ムッと眉をひそめながらも、亜麻色の瞳は笑っている。
 ……食事の時には、楽しい会話をしないと。消化にも悪いし。

 食後のコーヒーを飲みながら、四方山話に興じる。
 観たい映画の話とか、今度休みが取れたら行きたい観光地とか。秋の空はきれいだし、そろそろ紅葉も見ごろになってきたし。
「H渓谷とかどうですか? つり橋から見る紅葉と渓流が最高みたいですよ」
「つり橋?面白そうだな」
「今度の週末、休み取れますか?」
「うん。小野田さんに頼んでみる」
 ……行く気はないが、少しくらい話に乗ってやっても。

 尻尾があったら千切れそうな勢いで振り回しているだろう表情で、青木は食事の後片付けを始める。シンクの前に並んで食器を洗いながら、さして重要でもない会話を続けている。
「美味しい食事のお礼に、後でお風呂掃除しましょうか」
「ああ、頼む。天井の隅のカビが気になってたんだ」
「そうだ、お風呂と一緒に薪さんも洗ってあげま、痛っ!!」
 三度蹴り飛ばされた左足を痛そうに擦り、青木は顔をしかめて床に座り込んだ。まったく、大げさなやつだ。

「骨が折れたかもしれません」
「そんなわけないだろ」
「だって、見てくださいよ。こんなに腫れ上がって」
「どこが」
 咎めるような口調に辟易しながらも、仕方なく屈んで年下の我が儘に付き合ってやることにする。3回目の蹴りは、ちょっと力が入ってしまったかもしれない。

「ここです」
「……蹴ったところと腫れた場所に、ずい分隔たりがあるみたいだけど」
 確かにそこは下半身だけど、脚の付け根というかその間というか。
「薪さんにここを撫でてもらうと、痛みが止まるんですけど」
 抜け抜けとほざいて、薪の手を取る。手当てが必要だと主張する患部に導いて、ズボンの上から触れさせる。
「人間の身体って、不思議ですね」
 ていうか、おまえが不思議なんだ。いったい、どのタイミングで欲情したんだ。

「薪さんの不思議も知りたいです」
「僕のどこに謎があるんだ」
「薪さんは謎だらけですよ? どうしていくつになっても顔が変わらないのかな、とか。意地悪で自分勝手なくせに、なんでこんなに可愛いんだろうとか。年上の男のひとなのに、守ってあげたくなるのは何故だろうとか」
 大きなお世話だ。いつ、だれがそんなことをおまえに頼んだ。
「何故これほどまでに、オレの心を捉えて放さないのか。あなたとの付き合いが長くなるほどに、あなたが好きになっていくのは何故なのか」
 彼に触れた手のひらから、青木の熱と脈動が伝わってくる。熱伝導で温められる金属のように、薪の身体が彼と同じ温度に近付いていく。

「疑問があるなら、徹底的に追求したらどうだ。おまえも第九の捜査官だろ」
「はい」
 ふたりの周辺の空気がふわっとなごみ、それに釣られて薪の頬も緩むと、青木は嬉しそうに薪を見る目を細くする。
 ……いかんいかん。こんな甘い雰囲気にしてどうするんだ。

 大きな両手で頬を挟まれて、青木の熱っぽい視線に包まれる。
 何となく気恥ずかしくて目を伏せると、それをカンチガイしたバカが唇を重ねてくる。
 温かくぬめった舌が口の中を這い回り、薪の舌と一瞬だけ触れ合って離れていく。思わず追いすがった薪の舌を待ち受けていた青木の舌の動きに、先刻の掠めるだけの接触は、実は計画的だったことを知る。
 くそ、引っかかった。
 こちらから差し出した手前、引くに引けなくなり。思う存分、ねぶられて舐め溶かされて、息をするのも苦しくなってきた頃、青木はやっと薪のくちびるを開放してくれた。

 頭がぼうっとしたせいで、当初の目的が曖昧になる。そもそも、今日こいつを家に誘った理由はなんだったか。
 太い首に両腕を回すと、それを合図に抱き上げられた。胸に顔を伏せたまま運ばれて、目を開けたときにはベッドの上。
 白い天井と照明器具が目に入って、薪は我に返る。
 そうだ。今日は別れ話をするはずだったんだ。それなのに、この状況は。
「薪さん。愛してます」
 強く抱きしめられて、うっとりする。朝晩めっきり冷えてきた10月の空気の中、人肌のぬくもりはとても心地よくて。
 ……まあいいか。最後に、一度くらいセックスしても。

 いつもの手順で、青木が薪の身体を開いていく。薪の身体を知り尽くした男の手。
 持ち上げられて撫でられて、口に含まれて舌でしごかれる。広げられた脚の間に、青木の指先が忍んできて、入り口の周辺を捏ね回す。ゆっくり入ってくる長い指は、薪にいくばくかの異物感を与えるが、すぐに捕らえられた果実への刺激で、またたく間に快楽の波にさらわれる。
 熱心な愛撫に薪の身体が緩めば、薪の中にいる青木の指は自由になって、好き勝手に振舞い始める。やがて、すっかり準備の整ったそこにかれが押し当てられると、そのカタチを覚えている薪は自分から形状を変えて、かれをすっぽりと飲み込んだ。

 ひとつになる幸福感に酔いしれながら、薪の頭の隅には例のことがあり、行為にのめり込むことを防いでいる。 怪我の功名とでも言うべきか、その夜の薪は常より長く、青木の攻撃に耐えた。
 薪は青木を受け入れながらも、落ち着いた目で彼を見つめていた。

 冷めたこころが、薪に冷静さをくれる。
 知らなかった。こいつ、こんな顔して僕のこと抱いてたのか。
 なんて、なんてセクシーな顔をするんだろう。
 僕の中に入ってくる瞬間の、苦しいような、それでいて悦びに震えるような顰められた眉の形に、じんわりと身体の芯が痺れるような感覚を覚える。僕の手を押さえつける長い指の曲がり方に、かれの切羽詰った官能を知る。僕の腰を持ち上げる腕の筋肉が、浮き上がる首から鎖骨にかけての筋の曲線が、ゾクゾクするくらい色っぽい。

「薪さんっ」
 熱い息を吐く唇が近づいてきて薪のくちびるを塞いでも、薪は目を閉じることなく青木の顔を凝視していた。
 見ておきたい。青木のすべてを覚えておきたい。
 
 よく見ると、閉じられた目蓋には睫毛がたくさん生えていて。高い鼻梁は慎ましい小鼻に支えられていて。大食漢に相応しい大きめの唇は、適度な厚みでやわらかくしっとりとして。いつもは両側が上がった形か、あるいは情けなく歪められている口角は、今はぎゅっと引き結ばれている。
 こめかみに汗が浮いている。つっと流れて、目に入りそうだ。
 指先で拭って口に含む。塩辛い、恋人の汗。
 
 くっ、と歯を食いしばり、自分に向かって懸命に動いている彼を見て、薪は青木を愛しいと思う。がんばれ、って声をかけたら、青木はどんな顔をするだろう。
 胸をぎゅうっと掴まれるような感覚。心臓を押し潰されるような苦しさ。内側から圧力が掛かって、身体が破裂しそうだ。

 ああ、青木、青木。
 好きだ好きだ好きだ。

 別れ話をしなきゃいけないのに、もうとっくに済まさなきゃいけなかったのに、どうしても言い出せなくて。
 今日もまた言えない。だって口を開いたら、本音が出てしまう。
 おまえが好きだって。別れたくないって。
 それだけじゃない、もっとひどいことも言ってしまう。
 心の底に押し込めた、僕の醜さ。それを知ったら、青木は僕に幻滅するだろう。
 きれいごとだけで別れられるとは思っていない。別れるときなんか、誰だって修羅場に決まっている。でも、できることなら彼に嫌われたくない。彼の中の僕を、永遠にきれいなまま残してほしい。そんな卑怯な考えに囚われて為すべきことを為せない自分に、反吐が出そうだ。

 小野田に約束した期限までは、あと半年ほど。時間はあまり残されていない。
 それにしても長かった。まさか、期間いっぱい使うことになるとは夢にも思わなかった。僕にとっては嬉しく、青木にとっては不利益な誤算だ。何故なら、自分との関係をいくら強めたところで、青木の人生には何のメリットもないからだ。

 だから探して。青木にたくさんの幸せを運ぶことができる、そんな女性を探して欲しい。
 愛し合っている恋人に、他の女性を探せだなんて、僕の考えはおかしいとおまえは言うだろう。
 そう、僕たちは相思相愛だ。でも、それがどうした。恋ってそんなに大事なのか?
 恋だけじゃ生きられないことを、僕は知っている。それに、激しい恋をせずともお互いを慈しんで、幸せな家庭を作ることはできる。青木はむしろ、そういうタイプだったはずだ。
 僕とでは作れない、あげられない数多の笑顔と幸福。その中にこそおまえの人生はあるべきだ。おまえが本来辿るべきだったのは、そちらの道なんだ。
 長いこと付き合わせて悪かった。もう充分だから、帰ってくれ。正しい道へ引き返せ。僕も僕の道を行く。
 
 頭の中の草案は完璧なのに、いざ声に出そうとすると声帯が固まる。無理に押し通そうとすると、声がひっくり返る。
 脳の命令を、身体が裏切る。

 いつからこんなに弱くなったのだろう。昔はこうじゃなかった、どんなに辛くても本当にしなければいけないことはできた。いつだって、私情よりも正しいことを優先してきたはずだ。それが僕の男としての気概と誇りだった。
 それがいつの間にこんな―――――。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(9)

タイムリミット(9)





 その晩、薪は久しぶりに親友の夢を見た。
 場所は何処だかわからない。だだっ広い枯野に、鈴木はひとり風に吹かれていた。セピアに染まる空気の中に、所在無げに立っていた。
 鈴木の姿を見つけて、薪は彼に駆け寄った。いつもそうするように、その胸に飛び込んで彼のぬくもりを確かめようとした。
 常なら薪の身体を抱きしめてくれる鈴木の腕は、何故かだらりと垂れたまま、しかし薪のことを払おうとはせずに、薪のするがままに任せていた。

「鈴木?」
 無反応な彼に異変を感じて、薪は顔を上げる。鈴木は眉根を寄せて、黒い瞳を曇らせて、とても困った顔をしていた。
 彼の夢はこれまでに何度も見たけれど、こんな鈴木は初めてだった。鈴木は薪の夢の中では必ず笑顔だった。昔、薪を責め苛んだときでさえ、笑顔を絶やしたことはなかった。

「どうしたんだ? なにか心配事?」
 すでにこの世のものではない友人に向けるにはおかしな質問だと思ったが、鈴木の憂いは放っておけない。
「あ、もしかして、雪子さんのこと?」
 雪子は昨年竹内と結婚して、秋には子供も産まれる。あの遊び人のこと、いつかはやらかすだろうと思っていたが、竹内のやつ、とうとう尻尾を出したか。
 統計的にも、妊娠中の浮気が一番多いのだ。薪も男だからその気持ちは分からなくはないが、雪子が絡むなら話は別だ。120%竹内が悪い。

「わかった。僕が明日、竹内をとっちめて」
「違うよ」
 苦笑して、鈴木は薪の頭をくしゃくしゃと撫でた。その手は大きく温かく、薪にとってはとても懐かしいものだった。
「しょうがないなあ、薪は。相変わらず早とちりばっかりして」
「じゃあ、何だよ」
「おまえのことだよ」
「僕? 僕は順調だよ。鈴木の夢に、一歩ずつ近付いてる。来年は警視監になってみせるよ。小野田さんの娘婿になれば、上の連中も押さえ込めると思うし」
 鈴木は薪の髪に指を埋めたまま、ゆっくりと首を振った。

「分かってるだろ? オレの望みは」
「……分からないよ。なに?」
「本当に、わからない?」
 鈴木の両手が薪の頭をやさしく掴み、彼の背中が丸められた。間近に迫ってきた鈴木の唇にびっくりして、薪は顔を背けた。

「や、今は……ちょっとその、ダメ」
 思わず拒んでしまったことで鈴木が気を悪くしなかったらいいのだけれど、とビクつきながら彼を見上げると、鈴木は何故か、今度はにっこりと微笑んでいた。

 親友の意外な反応に驚いて瞠られた亜麻色の瞳が、鈴木の後ろで起こった変化に、さらに大きくなる。
 鈴木の笑顔が魔法を発動したかのように、ふたりを取り巻く枯野が、みるみる緑の草原に変わっていく。柔らかそうな草の間からは名もなき花が一斉に芽吹いて、色とりどりの花弁を開く。
 笑顔ひとつでこんなことができるなんて。やっぱり鈴木はすごい。

 可憐で、それでいて力強い野花の美しさに心を奪われながら、薪は頭の隅で、あのとき青木と見た桜も、鈴木とだったらこんな風に花開いたのかもしれないと、詮無いことを考えた。

 次々に塗り替えられていく自分の足元を、目を丸くして見ている薪に、鈴木のやさしい声が響く。
「ちゃんと、わかってるじゃないか」
 なにを? と薪が顔を上げようとしたとき、目が覚めた。
 見慣れた照明器具に、薪は自分が自宅のソファで転寝していたことを知る。

 ローテーブルの上には、白い厚みのある封筒が何通か重なっている。中には返信用の葉書が入っており、その宛名は小野田聖司。これまでに薪が何度か貰ったことのある、自分からは初めて出すことになる招待状だ。
 第九のみんなには薪くんから直接手渡して、と小野田から預かってきた。残りは小野田の方から郵送してもらう手筈になっている。
 もう、後戻りできない。

 一番上になっている招待状の宛名に、薪のこころが冷える。どうして役所の人間というのは、すべてのものを50音順に並べたがるのだろう。
 薪は封筒を手に取り、一番上にあった封筒を最下層に入れ直した。こういうものは、年功序列でいくものだ。

 そう思いながらも、岡部宛の封書を上に持ってくることはせず、テーブルの上に戻す。それだけを為すと、あとはすべての興味を失ったかのようにその場を離れ、付きっぱなしだったテレビを消して寝室へ入っていった。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

タイムリミット(8)

 はい、サクサク行きますよ。
 さくさく、さくさく。




タイムリミット(8)




 青木の姿が消えると、美和子はすぐに薪の手を放し、ソファに腰を下ろした。マタニティドレスのお腹をそっと擦りながら、澄ました顔で強烈な皮肉を薪にくれた。

「あれがあなたに付きまとってるヘンタイ強姦野郎? とてもあなたが言ってたような人には見えないけど」
 美和子の協力を得るために、青木には泥を被ってもらっている。薪の計画には、彼女の力がどうしても必要だ。
「ていうか、あなたの今の顔が『ストーカーと縁が切れて清々している男』には、ぜんぜん見えないんだけど」
 痛いところを突かれて、薪は下を向く。彼女には、薪の本当の気持ちは伝えていない。

「すみません。美和子さんにまで嘘を吐かせてしまって」
「あら。わたしは嘘なんか言ってないわよ。あなたと婚約したのはホントだし、赤ちゃんがいるのも事実でしょ。あなたの赤ちゃんだ、とは一言も言ってないわ」
 さすが小野田の娘だ。機転も利くし、頭もいい。とりわけ、相手をミスリードする話術は巧妙だ。
「わたしたちは、共犯者みたいなものでしょ。わたしはこの子の父親が必要だし、あなたは父の後ろ盾が欲しい。そういうことでしょう」
「ええ。いい加減、お遊びは終わりにしないとね」
 そう、いつまでもゲームは続かない。そしてゲームの終局は、最初から決まっているものだ。

 ソファに座った美和子に手を差し伸べて、薪は彼女をエスコートしようとする。しかし、美和子は薪の手を取ろうとはせず、手を口元に当ててクスクス笑い始めた。
「あなたって、わたしの前では見事なポーカーフェイスだけど、彼の前に出るとボロボロなのね」
 ソファの背もたれに寄りかかり、悪戯っ子のような目で薪を見上げる。育ちの良い娘らしく、年齢の割に甘えの残ったその顔は、とても魅力的だった。

「覗いてらしたんですか?」
「人聞きの悪いこと言わないで。出るタイミングを見計らっていただけよ」
 差し出された手を取ろうとはせず、美和子は自力で立ち上がり、薪の顔を正面から挑むように見た。

「わたしはあなたに本当のことを話したんだから、あなたも本当のことを言ってくれないと。この先、上手くいかなくなるわよ」
 優雅に腕を組み、尖った顎を反らす。裕福な家庭に育ったもの特有の、自然で高慢な態度。
「父に気兼してるんでしょ? 彼にだけは、本当のことを言ってあげたら?」
 そのくせ、お人好しでやさしいのだ。彼女のことを、薪は決して嫌いではない。

「本当のことを言いましたよ。あなたと結婚するって」
「子供のことは?」
「嘘じゃありませんよ。僕の子として生まれてくるんですから」
 6ヵ月後にこの世に誕生する子供は、薪の籍に入る。薪は婿入りするから、戸籍上は小野田剛の子として生まれてくることになる。
「その子は、僕の子供です」
 すでに腹は決まっている。美和子の子供の父親としての世間的な責任は、きちんと果たすつもりだ。

「何度も聞くけど、あなたは本当にそれでいいの? わたしはあなたを一生、愛さないわよ? わたしが愛せるのは、この子とこの子の父親だけ。この子にも本当のことを話すわ。そうしたら、この子もあなたを愛さないのよ?」
 矢継ぎ早な尋問口調。妊娠時期の不安定な精神状態と未来への不安に駆られて、ついつい厳しい話し方になってしまうのだろう。
 彼女の声から感じられる、不甲斐ない男に対する苛立ちと怒り。その裏に見え隠れしている、一抹の憐憫。

「解ってます」
 簡潔に答えを返し、美和子の目を見る。
 同情は要らない。自分だって、彼女を利用しようとしているのだから。お互い様だ。

「だからあなたと結婚することにしたんです」
 彼女のためにドアを開けてやりながら、薪はにっこりと微笑んだ。



テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
毎日たくさんの拍手をありがとうございます。励まされてます。
おかげさまで、しづは元気で仕事してます。(10/28)
文字サイズをお選びください
最新記事
最新コメント
拍手のお返事
いつもありがとうございます!

最新拍手コメのお返事はこちらです。

過去の拍手レスの確認は、該当記事の拍手欄を押してください。
鍵拍手コメのレスは、記事のコメント欄にお返しします。
月別アーカイブ
カテゴリ
詩 (1)
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
QRコード
QRコード
FC2カウンター
こんにちは(^^
現在の閲覧者数: