パンデミック・パニック(16)

 ラストです。
 お付き合いくださったみなさま、ありがとうございました。





パンデミック・パニック(16)






 土曜の第九に一人、青木は溜まった通達類を片付けていた。
 こういった庶務的な書類は、事件が入るといつも後回しになってしまう。暇なときに片付けようと、溜めに溜めた回覧済通達の日付は遡ること半年前。さすがに限界だと思い、休日出勤に踏み切った。
 職員の自己啓発を促すための講習会の通知や、師範代による武道指導の案内、さらには職員食堂からメニュー改変のお知らせだの、売店の営業時間の変更だの、広報部からの人気女子職員アンケートに至っては絶対に職務に関係しないと思うものまで、配布されたものを捨てることはできないから、きちんと通達の種別に分けて綴りこまなくてはならない。そんなものまとめて焼いちまえ、と薪は言うが、公費で作られた通達類を焼いてしまえる訳がない。バレたら総務から何を言われることか。

 青木がせっせと書類を片付けていると、執務室のドアが開いて、適正より3サイズは大きいと見込まれる背広を羽織った薪が現れた。
「庶務系の書類整理か。ご苦労」
 焼いてしまえ、と言ったことなど忘れた素振りで労をねぎらうと、薪は上着を脱いで手近な椅子の背に掛けた。上着の下から現れたのは、白いミニワンピース。フリルが沢山ついていて、バレリーナが着る何とかいう衣装みたいだ。膝下を覆う編上げブーツはワンピースに付いたフリルラインと合わせた黒。薪の白い太腿と黒いブーツのコントラストが眼に痛い。
 急激に上がった心拍数を悟られないように気を付けて、青木は尋ねた。
「なんでそんな格好してるんですか」
「似合うか?」
「よくお似合いですけど、うわっ!」
 コードレスマウスが飛んできた。怒るなら最初から訊かないで欲しい。

「それ、後どれくらいかかる?」
「急ぎの仕事じゃありませんから。他の仕事があれば、そちらを」
 書類の束を指差して仕事の予定を尋ねる薪に、青木はいつでも彼の命令を優先する心構えがあることを告げる。うん、と軽く頷いて薪は、室長室に姿を消した。
「中園さんの所に行ってくる。直ぐに帰るから、待っててくれ」
 再び姿を現したときは、いつものチャコールグレイのスーツ姿。この秋流行のグレーと紺のストライプ柄のネクタイをきちっと締めて、一分の隙もない第九室長の姿だ。

 言葉通り、薪は半時もしないうちに戻ってきた。
 何を頼まれるのだろうと指示を待つ青木の前で、薪は上着を脱いでシャツの袖をまくった。それから青木が片付けていた書類に手を伸ばし、手早く分類を始めたものだから、青木はひどく驚いた。
「室長の手を煩わせるような仕事では」
 白くてきれいな手首をそっと包むように握って、青木は薪の手を止める。手の動きを止めたら身体全体の動きが止まってしまって、それは薪が平静を装いながらも必死で何かを考えていた証拠。

「ハシカ、治ってよかったですね」
 腕まくりしたワイシャツの、袖口から覗く滑らかな肌。元通りの美しい肌だ。
「皮膚がボロボロ剥がれてきたときにはびっくりした。蛇の脱皮みたく、抜け殻ができるんじゃないかと思うほど、大きく皮が剥けてな」
「ぶふっ。抜け殻は無理でしょう」
「指なんか筒になって剥けたんだぞ。慎重に剥けば出来たかも」
 真面目な顔であり得ないことを言うから何処まで本気なのかと疑ってしまうが、実は薪はこういうバカバカしいジョークが大好きだ。笑っておくに限る。
「そうですね。薪さんの抜け殻なら、家に飾っておきたいです」

 笑いながら青木は言って、薪から手を離した。再び書類の仕分けに戻る薪を今度は止めずに、彼が口を開くのを待つ。何か、自分に話があって来たのだろう。さっきは頭の中で、会話を組み立てていたに違いない。薪は仕事のことなら瞬時に判断するから、多分、これはプライベイトだ。
 しかし、薪は黙って書類整理を続け、結局口火を切ったのは焦れた青木の方だった。
「あんな格好で、今日はどちらへ?」
「捜一の連中と一緒に、殺人犯を捕まえてきた」
 さらっと打ち明けられた逮捕劇に、青木は手にしていた書類を取り落とした。せっかく分けたのに、とぶつぶつ言いながら薪が拾ってくれた紙束を、青木は受け取ることが出来なかった。

「なんでそんなことを!?」
「雪子さんから聞いたんだけど、山岡はヘンタイでな。ああいう格好の女に目がないんだそうだ。だからって、その役が僕に割り振られるのは納得いかないけど」
「そうじゃなくて! どうしてオレに黙ってそんな危険なことを!」
 青木が書類を受け取ろうとしないので、薪は仕方なくそれを自分の手で整え、ファイルに綴るための穴を開けようとパンチを手に取った。
「おまえの仕事とは、何の関係もないだろう?」
「オレはあなたのボディガードですよ。どうして関係ないんですか」
「中園さんに言われただろう。あれは便宜的なもので」
 華奢な肩を掴んで、こちらに無理矢理向けさせた。不意に与えられた強い衝撃のせいで、再び床にばら撒かれる紙片たちに、薪が困惑した息を吐く。
「……青木。これじゃいつまで経っても終わらない」

 床に屈もうとした薪の身体を、肩を掴んだ手で止める。さっきから仕事の妨害ばかりしている部下に苛立った視線を浴びせて、薪は自分を拘束する青木の手を振り払った。
「現場には岡部も竹内もいた。おまえがいなくても大丈夫だと思った」
「オレは、あなたのなんなんですか」

 質問を無視して、薪は床に屈んだ。もう一度書類を集め、ついでに床面で紙片の縁を揃えた。
 屈んだままの薪に合わせて、青木は床に片膝を付く。ようように薪から書類を受け取りながら、
「恋人だとは言ってくれないんですか」
「ここでは止そう。こういう話は、家に帰ってから」
 そのつもりで書類整理を手伝おうとしたのか。その気持ちは嬉しいけれど、青木はもう一分も待てない。

「嘘吐いたことは謝ります。あんな嘘吐いちゃいけないって子供にも分かる、でもオレはどうしても確かめたくて。オレといた6年間、あなたの気持ちは全然変わってないんですか?」
 薪と出会って6年、ずっと彼に望んできたことがある。
 人生に絶望した彼に、死を待ちわびるようですらあった彼に、生きて欲しかった。下を向いて過ぎ去るのを待つだけではない、本当の人生を生きて欲しかった。
 広報誌に載っていた古い写真のように、笑って欲しかった。世の中には楽しいことが沢山ある、と思い出して欲しかった。

「初めてオレと一緒にヘリに乗ったとき。今もあの時と、同じ気持ちですか?」
 言われて、薪は6年前のことを思い出す。彼が第九に入ってきて僅か一週間。一人の少年を助けるため、悪天候の中、無理矢理ヘリを発たせた。
 ――― あなたは、自分なんかいつ死んでもいいと思ってるのかもしれませんけど。
 彼の言うとおり、いつ死んでもいいと、いや、早く死にたいとすら願っていた。この世には辛いことしかなかった。苦しかった。楽になりたかった。でも、それは6年前のこと。

 静かな声で、薪は言った。
「死にたくないと思ったよ」
 潔くなれないのは幸せの証拠。この6年の月日が、目の前の男が、薪の潔さを奪った。

「おまえと、もっと一緒にいたいと思った。一人で逝くのは嫌だと思った。でも、それ以上に」
 奪われてなお、薪を支配したのは。
「おまえに生きてて欲しかった。目の前で谷島が死んだのを見て、世界中の人が彼と同じに血を吐いて死んでも、おまえだけは無事でいて欲しいと、僕はそんなことさえ思ってしまった。だから必死で」
 床に両膝を抱えてしゃがみ込んで、そうしていると彼はひどく小さく見えた。子供みたいに頼りなげに、誰かの庇護無しでは生きられない儚い生物のように。でも本当の彼はとても強くて、いざとなれば自分を盾にして他人を守れるくらいに強い強い生き物で、それを世間では男と言うのだ。
 敵わない、と青木は思った。薪にはとても敵わない。

「それなのに、おまえときたら。第五の職員と一緒に、僕を助けに来たんだって? しかも、僕を人質に取って第九に立て篭もったそうじゃないか」
「あれはちょっとした誤解で」
 青木が困った顔をすると薪はクスクス笑って、どうやら本当のことは既に聞き及んでいたらしい。
「雪子さんが遺体の解剖をしたことも、知らされて驚いた。まったく、僕が死んで欲しくないと思っている人間が、我先にと危険な場所に踏み込んできて……どうしてみんな、勝手なことばかりするんだろうな」
 世界自己中選手権があったらダントツ優勝間違い無しの薪に言われたくはないが、薪の気持ちは解っている。自分のせいで死んだ親友、自分のせいで殺された少年たち。彼はもう自分に関わることで、一つの死骸も増やしたくはないのだ。

「いつかおまえにも言ったよな。僕のために誰も死んで欲しくない、危険な目に遭って欲しくないって。その気持ちは変わってないけど、でも」
 薪は膝を抱えたまま、すっと顔を上げた。青木を見上げる、暖かく和らいだ亜麻の色。

「でもここに、みんなが僕を救おうと動いてくれた事実がある。こんなにも明らかに目の前にあるものを、頼んでないとか望んでないとか言うのは、男らしくないよな」
 薪はその瞳にいっぱいの幸せを、戸惑うように躊躇うように、でも確かに浮かべて、照れくさそうに笑った。
「感謝してる」

 その笑顔はほんの数秒、たったそれだけで青木はあれだけの憤慨を忘れてしまう。
 彼と過ごした6年間。自分がしてきたことはすべて無駄で、彼の心持ちを1ミリも変えることができなかったのだという嘆きも、これからいかなる術を用いて、たとえ自分の命を削ってまで彼を愛しても、彼は自分との未来を望んでくれないのだという絶望も、取るに足らないことに思えた。
 だって、薪は今、自分の前で笑ってくれているのだから。

「だけど青木。おまえがやったことは間違いだぞ。NBCの現場調査は第五の仕事だ。やりたかったら第五に異動してからにしろ」
 すっくと立ち上がって膝を伸ばし、背中をこちらに向けながら、薪は説教を始めた。
 薪の切り替えの早さは神業とも言えるくらい素早くて、青木はいつも取り残されてしまう。それは薪が元気な証拠だから責めるつもりはないけれど、ほんの少しだけ腹立たしくて、ついつい青木は薪の正論に邪論を返す。
「間違ってないです。薪さん、オレの異動願、受理してくれたじゃないですか」
「異動願? 聞いてないぞ。いつ出したんだ、そんなもの」
 びっくりして振り返った彼の一瞬の隙をついて、青木は彼のくちびるを自分の人差し指で制圧する。彼の動きも言葉も指先で止めて、青木はにこりと笑った。
「忘れちゃったんですか? ちゃんと承認印、押してくれたでしょ」

 承認印の意味を理解した薪が、青木の指を払うことも忘れて固まる。あの異動願は受理されたまま、未だ新しい届は出されていない。つまり、今でも青木の部署は変わっていないということだ。

「あなたが生きるか死ぬかの時、傍にいるのはオレの役目です」
 青木にすれば、それは職務規定の第一条。憲法で言えば冒頭の誓約部分で、この規律が存在する意義と目的を明確に記している、一番大事な魂の柱だ。同様に、その条文こそ青木一行と言う人間がこの世に存在する意義と目的であると、青木は主張して憚らない。その蒙昧さが、彼をしっかりと立たせている。
 薪には到底理解できない。できないが彼の主張だけは分かって、どうしようもない虚脱感に包まれつつ、だけどそれも、目の前にある明らかな真実。

「ったく。バカには勝てん」
 心底呆れ果てた口調で吐き捨てた言葉と一緒に、薪は右手の人差し指を折り曲げ、ちょいちょいと青木を呼んだ。応じて傍に立った青木に向かって、秘密の話をするときのように口の横に手を当てて見せる。青木が腰を屈めて耳を寄せると、薪は細い指を青木の髪に差し入れ、後ろ頭を押さえると、青木の唇に二度目の承認印をくれた。

「どうだ。舌の表面も口の中も、すっきりきれいになっただろ」
 我に返って青木が両腕を前に回そうとしたときには、薪はすでに青木から1メートルほど距離を取っていた。何事もなかったように書類の整理に精を出しながら、からかうような口調で、
「他のところも確かめてみるか?」
「はい、ぜひ、っ痛――っ!!」
 近寄って抱きしめようとしたら、靴の踵で足を踏まれた。急所に食らった痛みに、青木が飛び上がるのを愉快そうに見て、まとめた紙束を二穴パンチに差し込む。

「家に帰ってからに決まってるだろ、バカ。さっさと終わらせるぞ」
「はいっ」
 鼻先にぶら下げられた人参を追いかける馬車馬のごとく、青木は再び仕事に邁進する。通達書類の山に埋もれた青木の耳に、ガシャン、と薪がレバーを下ろす音が響いた。




―了―



(2011.10)


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ジャンル : 小説・文学

パンデミック・パニック(15)

パンデミック・パニック(15)






「どうやって?」

 好戦的に、山岡は薪の眼を見返した。普段の髪型に戻っても未だ男だとは思えない彼に、自分が犯人ではない証拠を叩きつける。
「副室長に聞きましたよ。谷島は、アルカロイド系毒物による中毒死だったそうじゃないですか。アルカロイドは即効性の毒物。その場にいなかった僕が、彼に毒を盛れるはずがない。あれが殺人だとしたら、一番怪しいのは彼が死んだとき同じ部屋にいた室長、あなたじゃないですか」
 薬品の相乗効果で人を殺せるなんて、その研究を極めたものでなければ想像もつくまい。第一、証拠は何処にもないのだ。
 絶対の自信を持って胸を張る山岡に、しかし薪は怯む様子も見せなかった。

「おまえ、彼と最後に一緒だった人物に罪を着せる心算で彼を第九に案内したのか? だとしたら、他の部署を選ぶべきだったな」
 薪はくるりと踵を返し、ふわりとトランクに座りなおした。細い足を組み、上になった右側の爪先を揺らしながら、滔々と語り始める。

「ケースから噴出した気体を吸って、彼は死んだ。それは間違いない。でも、僕もその場にいたんだ。どうして僕は死ななかったのか。彼と僕の違いは何か。
 現場の空気からも毒物は検出されなかった。あの気体は毒物ではなかった。しかし彼は死んだ。つまり、彼にとっては、あれが毒になったんだ」
 竹内が、地面に落ちた上着を拾い上げて埃を払い、それをもう一度薪の膝に被せてやった。しかし薪は、彼の姿が眼に映らないかのようにそれを無視した。否、本当に見えていないのだ。彼の琥珀の瞳は、非道な殺人者を追い詰める、そのことだけに集中していた。

「事前に薬物を摂取させておき、それを意図的に毒に変える。有名どころでは、蜂毒によるアナフィラキシーショックがあるな。君はそれと同じ状況を、たった二種類の薬物で作り出した」
 押されつつ、山岡は奇妙な胸の高鳴りを覚える。
 獲物を追う彼の、なんて美しさだ。きらきらと輝くのは瞳だけではない。身体全体から迸る波動のようなもの、眼には見えないそれが彼に鱗粉のようなフィルターをかける。
 ピンク色に塗られた愛くるしいくちびるが、その色と形状に相応しくない言葉を連ねる様子に、山岡は見蕩れていた。そしてとうとう、彼の口から出た二つの薬品名。

「CメピジウムとAラセプリルの複合摂取による中毒死」
 山岡の顔色が変わる。正確な薬品名だ。いったい何処からその情報を?

「どうして」
「言っただろ? うちには器用なパソコンマニアがいるって」
「まさか、僕のパソコンにハッキング……そ、それは違法捜査じゃないのか!」
「だからおまえは他の部署を選ぶべきだったんだ」
 美しい肘を反らして、薪は前髪を手櫛で上げた。

 ああ、本当に彼はきれいだ。
 真っ白な額、なんて造形の見事さだ。その奥に隠された頭脳にふさわしい、それとも逆か。収められたものの秀逸が彼の美を作ったのか。

「第九以外の研究室に捜査権は無い。捜査は捜一に委ねるしかない。そして捜一には出来ないことも、第九には出来るんだ。
 うちの職員が捜査のために為したこと、そのすべての責任は、僕が負うからだ」
 頭脳だけではない、と山岡は思った。
 その潔さも男らしさも、上司としての度量の広さも、全部彼の美しさに結びついているのだ。先刻の、ちょっとズレた癇癪さえ、彼の美にある種のスパイスを付け加えていると言っていい。

「あくまで否認するなら、第九にしかできない捜査に踏み切るぞ。僕の権限で、谷島の脳をMRI捜査に掛ける」
 完敗だった。MRI捜査の宣告をされる前に、山岡は自分の負けを悟っていた。
 項垂れる山岡に畳み掛けるように、薪の声は容赦なく響く。
「谷島の細菌培養も、おまえの薬物実験も、本来なら医療に貢献するためのものだろう。病気の人々を一人でも多く助けるため、そのための研究室だ。その成果を殺人に使うなんて、研究者が一番やってはいけないことだ。おまえに法一職員の資格はない」
 山岡だって、昔はそのつもりで実験を重ねていた。山岡の両親は揃って心臓が弱く、そんな彼らに一日でも長生きして欲しくて、薬物研究者の道を選んだのだ。それが、どこで道を違えたのか。

 いや、違う。自分は今でも薬物研究に勤しんでいる。谷島がドジを踏まなければ、借金を返して、元の研究に打ち込む日々に戻れる予定だったのだ。
「あの谷島のバカが。一人で死ねばよかったのに。あんたを脅したりするから」
 やり切れない口調で呟いた山岡の声を、薪の高性能の耳が拾い上げた。薄笑いさえ浮かべて山岡を追い詰めていた彼の表情が、にわかに氷の冷たさを宿す。

「おまえ、谷島とは仲間だったんじゃないのか」
「仲間?」
 薪の誤解に、山岡は笑い出したくなる。天才と称される彼の頭脳でも、こんなミスをするのか。
「よしてくださいよ。僕とあの単細胞とじゃ、釣り合いが取れないでしょう。谷島の研究だってね、アイディアは彼だけど、途中僕がずっと指示をしてたんですよ。その細菌は僕の作品なんです。だから報酬も、僕が手に入れて当たり前なんだ」
 すうっと瞳を細くして、薪は腕を組んだ。
 先刻まで彼を彩っていた犯人逮捕の高揚は消えて、無表情な、本物の人形のような冷えた硬質感が彼を包む。

「谷島は、おまえのことを最後まで喋らなかったぞ」
 抑揚のない無機質な声で、ビスクドールは語った。
「僕がどれだけ脅しても言わなかった。細菌のことや、それをテログループに売るつもりだったことはペラペラ喋ったのに、おまえのことは言わなかった。
 第九と法一の建物を間違えた件についても『そんなはずはない』。ワクチンについても『おれは持っていない』。
 この場所は相棒が教えてくれたのだから、間違っているはずはない。ワクチンは相棒が持っているのだから、自分が持たなくても大丈夫。彼はそう思ってたんじゃないのか」
 暗闇を氷で穿つような声音に、山岡は身を竦ませる。冷徹極まりない表情の彼は、最初に声を荒げていたときより数段恐ろしかった。

「谷島は確かに思慮が足りなくて粗忽者だったかもしれないが、彼はおまえを信頼していた。毒を飲まされたと知るその瞬間まで、いや、もしかすると訳も分からずに死んでいったのかもしれない」
 暖かさを微塵も感じさせない彼の顔の中で、亜麻色の瞳だけが強く輝いていた。長い睫毛に縁取られた美しいその輝きは、山岡の中に鮮烈な恐怖として刻み込まれた。
「殺人は許されない。それと同じくらい、友人の信頼を裏切ることは許されない大罪だ。おまえは一生かけて、その罪を償え」
 下された宣告の荘厳な響きに、山岡は一言も言い返せなかった。心中では谷島を仲間と認めることも、ましてや友人などと思うこともできなかったが、薪の言葉には逆らえなかった。強い敗北感が、彼を支配していた。

 山岡が完全に抵抗する気力を失ったのを見て取ると、責任者の竹内が、彼を連行するよう部下に指示を出した。「お先に」と彼が薪に挨拶をすると、返事の代わりに貸した上着を投げつけられた。相変わらずの手厳しさだ。
 捜一の刑事たちが山岡を連れて行ったのと入れ違いに、凶悪な面をした熊のような大男が現れて、トランクに腰かけたままの少女に近付いてきた。傍から見たら即座に110番されそうな光景だが、少女は男に微笑みかけ、戯れに自分が被っていたカツラを彼に放り投げた。
 代わりに男が着ていた上着を渡されて、少女はそれを素直に羽織る。礼のつもりか微笑みまで添えて、先刻、ひざ掛け代わりに上着を貸してくれた男への態度とは雲泥の差だ。

「悪いな、岡部。休みの日に」
「ご命令とあらば、いつでも馳せ参じますよ。休日でも夜中でも」
「おまえも皮肉を言うようになったか」
 岡部の言葉を素直に聞けないのは、薪の曲がった性格と、先日の失態による引け目のせいだ。自分の身体に何の変化もなかったら、とりあえずは第五の衛生班だけを手配して、検査結果が出るまで第九で待機、調査は翌日から行えば済んだ話だったのに。間が悪かったのだ。

「さてと。これ、中園さんに返さなきゃ」
「官房室の見せ金ですか?」
「そうだ。誘拐犯に掴ませて泳がせるための見せ金」
 ひょいと立ち上がり、当然のように重いトランクを岡部に持たせて、軽い足取りで前を行く。
「これで全部解決だな。あー、スッキリした」
「もうひとつ、残ってるんじゃありませんか? デカいのが」
 薪が上機嫌で閉幕を告げると、後ろを歩く大男がそれを引き留める。明らかに窘める口調に、薪は足を止めた。

「…………めんどくさ」
「薪さん」
 ますます責め気を強める男の口調に、薪は辟易する。
 岡部が指摘する残務は、薪にとっては山岡を罠に嵌めることより遥かに困難だ。自信もない。相手も、どう動くか分からない。そもそも、どうしてあの男があんなに怒ったのか、それもまだ、薪には解っていない。

「雪子さんには、僕が青木に嘘を吐かせたんだって言われたけど。岡部もそう思うか?」
「さあ。俺ならやりませんね」
「だよな。あいつの虚言癖まで僕のせいにされたんじゃ、たまったもんじゃない。やっぱりここは説教だよな」
 青木に正座させるのに、コンクリートの上と砂利の上、どちらが効果的だろうと薪は思案を巡らせる。幾らなんでも生死に係わることで嘘を吐くなんて、非常識すぎる。それを解らせるためにも、相応の痛苦は与えるべきだ。

「それはあなたの自由ですけど。どうして青木があんな嘘を吐いたのか、それくらいは考えてあげたらどうですか?」
「岡部、分かるのか?」
 薪はびっくりして振り返った。
 恋人の自分が分からない彼の嘘の理由を、知っているような口振りではないか。
「まあ、俺は薪さんだから仕方ないかとも思いましたけど。あいつには許せなかったんじゃないんですかね」
「……それ、雪子さんにも言われた」

 雪子も何か含むところがあるようだったし、分かっていないのは自分だけなのかもしれない。そう思ってしみじみ考えて、でもやっぱり分からない。あの場合、誰だってああしたはずだ。
 恋人の命が危ないと思ったら、どんな手を使ってでもその場から遠ざけるだろう? それのどこが間違ってるんだ?

 事件の裏側は、あんなに明確に分かるのに。物言わずに死んだ人間の気持ちまで、大凡の察しは付くのに。
 薪にとって恋人の気持ちは事件より遥かに難しく、早くも迷宮入りの様相を呈していた。




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パンデミック・パニック(14)

 こんにちは。

 ゴスロリ薪さんに非難コメがこなくて良かった、と密かに胸を撫で下ろしているしづです。
 ちょ、待て、薪さんに何してくれんの、と叫びたいのを我慢してくださってる方々、ありがとうございます。 このお話、あと3章で終わるので、もうちょっと我慢してください。(^^;

 しづと一緒になってきゃーきゃー言ってくださった方々、ありがとうございました。
 コメントいただいて気が付いたんですけど、ゴスロリ服と言えば黒のフリルが定番ですよね。 でも何故か、わたしは薪さんは黒のイメージがなくて。 定番のスーツはチャコールグレイなんですけど、むしろベージュや薄いグレーの方が似合う気がします。 
 そんなわけで今回も、白いゴスロリ服を着せちゃいました。 が、ここで大事なのはゴスロリ服なので。 みなさんの頭の中で、お好きなゴスロリ服を着せていただけたらと思います☆
 
 一応ですね、わたしが参考にしたゴスロリ服はこちらです。 
 姫系ワンピ ←ポチルと衣装のHPに飛びます。
 さすがに肩むき出しは無理があるので~、わたしは長袖で妄想しましたけど、こんなのと組み合わせてもいいかもしんない。
 上着

 可愛い服がたくさんあってね~、どれ着せようか悩むの楽しくて~。 こういう妄想してると、あっという間に時間が過ぎるの~。 
 ……世界一無駄な時間の使い方してる自信があります!(胸張って言うことか) 
  

 戯言に付き合っていただいて、ありがとうございました。
 お話の続きです。 本日も広いお心でお願いします。


 


パンデミック・パニック(14)







 事情聴取と言う名目で捜査一課と直接話す機会を得た薪は、山岡共犯説を提示し、裏を取るよう働きかけた。
 結果、山岡と谷島は同じ賭場に通っていたこと、二人ともかなりの借金があったこと、谷島の研究内容、それが上司によって中断されそうになっていたこと、と言った調査結果が上がってきた。

「君が賭場へ行ってくれれば、そこで違法賭博の容疑で捕まえるつもりだった。家宅捜査さえできれば、細菌の保存場所を見つける自信はあったからね。でも、賢い君は行こうとしなかった」
 上がってきた調査結果だけでは、山岡の犯罪を立証するのは難しかった。薪の主張は、小さな可能性に過ぎなかった。薪は谷島との最後の会話で、共犯者がいることを仄めかすようなことを言われたと証言したが、それが山岡である証拠は何処にもなかった。
「で、仕方なく、あんな電話で君を呼び出したわけさ」

 三億円入りのトランクに腰を下ろして、薪は優雅に脚を組んだ。こんな状況下にあっても、山岡の眼はその脚を追いかけてしまう。男だと分かっているのに、これは異常だと我が身を恥じるが、異常なのはこの男の方だと思い直した。山岡を両側から拘束している刑事たちも、自分と同じ反応を見せていたからだ。

「病み上がりなんですから、身体を冷やさない方がいいですよ」
 そう言って薪の隣に立ったのは、3ヵ月前に結婚したばかりの警視庁一のモテ男だ。この男が山岡の研究室の副室長を結婚相手に選んだ時には、パニックに陥る女子職員で一時業務が停止するほどの騒ぎになった。今では彼らの結婚は、科警研の七不思議のひとつに数えられている。
 彼は上着を脱ぎ、薪の脚に掛けた。明らかに男の目線から庇う仕草だったが、薪は彼の好意にチッという舌打ちを返し、それでも10月のミニスカートはやはり寒かったのだろう、上着の端を腿の下に挟むようにして暖を取った。

「あの電話は薪室長の部下の方が掛けてらしたんですね。さすがエリート集団。室長を初め、第九には芸達者な方が揃ってらっしゃるようで」
 山岡が皮肉を言うと、薪は人を見下すような嗤いを浮かべて、
「うちには小器用な男がいてな。あれはコンピューターの合成音だ」
「へえ、大したものですね。肉声にしか聞こえませんでしたよ。引き渡しを一週間後に指定したのは、衣装合わせのためですか?」
「違う。この格好は、おまえを油断させるためにって言われて」
 さすが稀代のファムファタール。見事な誘惑でした。
「僕はイヤだって言ったんだけど、この衣装で授受するのでなければ僕の介入を認めないって捜一が条件出してきて」
 近くの茂みで、キラッと何かが光った。多分、カメラのレンズだろうと山岡は思った。不憫な人だ。
「おまえのヘンタイ趣味のおかげで、こっちはえらい迷惑だ」
 ゴスロリファッションがここまで似合う四十男に言われたくない。

「どちらにせよ、捜一は動けませんでした。証拠がありませんでしたから」
「第九は証拠が無くても動けるのか……?」
「そこは薪室長だから」
「それで通るんだ……」
 証拠が無ければ動けないのは警察官の良識ではなく、上の判断によるものだ。第九では薪が法律だし、彼がGOと言えば大抵の違法捜査はまかり通る。恐ろしい集団だ。法律無視の国家権力ほど怖いものは無い。

「もう二度と、ゴスロリの女の子には付いて行かないようにしますよ」
「よかったな。おまえの腐った性癖が一つ改善できて」
 ふん、と嘲る口調で皮肉に笑う。鼻持ちならない高慢そうな笑顔が、しかしこの衣装にあっては最高に映える。

「作戦の決行を遅らせたのは、その、麻疹が」
「ハシカ?」
「……てっきり細菌による感染症だと思ったら、ハシカだったんだ」
 第九室長が入院したとは聞いていたが、そんな理由だったとは。
 そうか、それで感染パニックが起きたのか。これはこれで笑える。
「薪室長、犯人に呆れられてます」
「ハシカ舐めんなっ! 子供が罹る病気だと思って甘く見たら痛い目見るぞ!」
 だいぶ痛い目を見たらしい。

「何故第九が現場に?」
 不思議に思って山岡が尋ねると、薪は大きな亜麻色の瞳を冷酷に光らせて、
「おまえのせいで死にかけたんだ。自分の手で捕まえなきゃ気が治まらない」
「室長が死にかけたのは麻疹のせいで、てか、熱が高かっただけで死にかけてないし」
 隣の男に突っ込まれて、ぐっ、と呻いた室長の額には何本もの青筋。我慢ならないと言うように彼は立ち上がり、借り物の上着を地面に落として足を踏み鳴らした。
「うるさい、本当に死ぬかと思ったんだから、死にかけたのと同じだ!! おまえの罪状には僕への殺人未遂も付け加えておくからな!」
 冤罪だ。淫行未遂は認めるが、殺そうなんて思ってない。
 言ってることが無茶苦茶だ。第九の室長は氷の室長とも呼ばれていて、どんなときでも冷静な顔を崩さないと聞いたが。聞くと見るでは大違いだ。

「要するに、僕には谷島から辿り着いたんですね」
 バカと組むものじゃないな、と山岡は心の中で舌打ちした。
 谷島のことは、軽はずみで思慮の足らない男だと思っていた。賭け方を見ていても分かった。彼はヤマ勘に頼るタイプで、統計を取ることも勝負の裏を読むこともしなかった。
 しかし、自分は違う。何事も計画を立てて実行する。これも想定の内だ。

「認めます。細菌のことは、谷島に頼まれました。自分が騒ぎを起こすから、それを隠れ蓑にして細菌を培養してくれって」
 細菌を持って取引現場に来てしまったのだから、その罪から逃れることはできない。潔く認めてしまった方がいい。だが。
「僕も心が痛みましたよ。自分が作った細菌を守るためとはいえ、まさか自殺するなんて」
 自分が谷島を殺した証拠は何処にもない。殺人と窃盗幇助では、罪の重さがまるで違う。この細菌がテロに使われる予定だったことについては勿論、『自分は知らなかった』。

「バカな。そんな理由で人間が死ぬもんか」
 山岡が浮かべた沈痛な表情は、薪の信用を勝ち得なかった。彼は警察官だ。研究者の心情は理解できないのだろう。きちんと説明してやるか。
「そんなことはないですよ。細菌学者にとって、自分が開発した細菌は我が子にも等しいんです。僕も学者の端くれですから、その気持ちはわかります。だから彼の遺志を継いで」
「谷島は自殺じゃない」
 説明に力を入れる山岡に、薪は声のトーンを落とした。明確な敵意が伝わってくる。
「おまえが殺したんだ」

 断定的に、薪は言った。燃えるような瞳が、じっと山岡を見ている。
 あくまでも、自分を殺人の罪で逮捕するつもりか。ならば戦わねばなるまい。

「…………どうやって?」




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パンデミック・パニック(13)

パンデミック・パニック(13)





「おじさん、山岡さん?」


 高校生くらいの女の子だった。栗色の髪をツインテールにして、それが彼女にはとてもよく似合っていた。前髪はふわりと額に落ちかかって眉毛を完全に隠し、丸みを帯びた頬のラインと協力して彼女のあどけなさを強調していた。
 彼女の格好は特徴的で、それは山岡の好みにぴったりと合っていた。白くて薄い布地に、黒のレースラインが縦に三本入ったフリルだらけのワンピースを着て、頭にはドレスと同じデザインのヘッドドレスを付けていた。短いスカートから覗く太腿は彼女が身に着けている服と同じくらい白く、膝から下は編上げの黒いロングブーツに覆われていた。

 山岡は思わず席を立った。
 見たこともないくらい可愛い娘だ。山岡はゴスロリファッションの娘たちには多大な興味を持っていて、時々、その系統の店にも足を運んでいるが、ここまで人形みたいにかわいい娘には出会ったことがない。それも当たり前で、ああいう店は成人女性が客の趣味に合わせて商売用の衣装を着けているだけ、やはりゴスロリは少女にだけ許されたファッションなのだ。

「そうだけど、君は?」
 山岡が答えると、彼女は妖精みたいに歩いて山岡の傍に寄ってきた。
 近くで見ると益々かわいい。
 こういう服を着こなすには必須条件だと思われる小柄で華奢な体つき。亜麻色の瞳は文句なしの大きさ、しかも黒目がちで、びっしりと生えた睫毛に覆われていた。重量感のある睫毛は瞬きにすら支障をきたしそうだったが、逆に、彼女の軽やかな足取りは、重力の影響を微塵も感じさせなかった。

「シロヤマって言えば分かるって」
「えっ。君が城山さんの代理人なの?」
 鈴を転がすような美声が語った言葉に、山岡は驚愕した。予想だにしなかった、この娘が犯罪に加担するような娘だなんて。
 しかし、それは山岡の早とちりだった。
「代理人て何のこと? ミホ、知らない。この鍵を山岡って人に渡して、代わりの物をもらって来ればお小遣いくれるって言われて、それで」
「鍵?」
「滑り台の処にトランクが置いてあるって、あ、あれかな?」

 ミホが指差す先を見れば、公園の奥まった場所に古ぼけた滑り台が置いてあって、その陰に銀色のトランクが置いてあった。言われなければ分からないような置き方で、ミホが現れた方向とは全く別の場所であるし、彼女はトランクの中身をまるで知らないと思われた。
 ミホは鍵を持ったまま、やっぱり妖精みたいに重さを感じさせない歩き方で滑り台に近付いた。前を歩く彼女の短いスカートが揺れ、白い太腿が露わになるたび、山岡は今日ここに来た目的を忘れそうになった。

「わあ、大きなカバン。重いわ、持ち上がらない。中に何が入ってるの?」
 君には関係ない、鍵を渡してくれ、と言おうとして、山岡は言葉を飲み込んだ。言葉と一緒に、多量の唾液が喉に流れ込んできた。
 ミホは鞄を持ち上げようと、前かがみになって両手で取っ手を持った。力を込めると自然に内股になった彼女のスカートが上がり、下着が見えそうになる。そのギリギリのラインの色っぽいこと。
 お小遣いをくれるから、とミホは言った。彼女はお金が欲しいのだ。このトランクいっぱいの金を見せたらどうだ、彼女は自分の言うことに応じてくれるのではないか。何でも好きなものを買ってあげる、と言えば、どこまでも付いてくるに違いない。

「開けてごらん」
 山岡はトランクを地面に倒して、その前に屈んだ。一緒に膝を屈めたミホに、にこりと微笑みかける。
「え? わたしが?」
「うん、いいよ。君が開けて。きっと君の大好きなものが入ってるよ」
 ミホは不思議そうな顔をして(それがまた何とも愛らしかった)、でも従順に鍵をトランクの鍵穴に差し込んだ。その素直さも好ましい、と山岡は思った。

 パチン、と鍵の外れる音がして、トランクが開いた。わあ、とミホの驚く声が聞こえる。山岡も一緒に覗き込むと、大量の紙幣がぎっしりと詰まっていた。咄嗟に数えきれる量ではなかったが、一見して百枚の束が横に6列、縦に5列。下方を探って一束抜き出し、中身が本物かどうか確かめる。すべて本物だ。
 一瞬、金だけ奪おうか、と思ったが、それは得策ではないとすぐに考え直した。この細菌は犯罪の証拠。処分した方がいいに決まっている。それに、この娘。ここで別れるのは惜しい。

「じゃあこれ。君がお使いを頼まれた人に渡してもらえるかな」
「うん」
 黒い小箱と研究データを入れたUSBメモリを、ミホの手に握らせる。華奢で美しい手だった。ネイルアートはパールを散らした白とピンクの天使系で、彼女の雰囲気にぴったりだった。
「ねえ、君」
 彼女の手を握ったまま、山岡は言った。
「そのお使いが済んだら、またここに帰ってきてくれないか」
「……どうして?」
「お小遣い、欲しいんだろ? 見ての通り、ぼくは大金持ちだ。好きなもの、何でも買ってあげるから僕と」

 ミホは、山岡から預かったケースを慎重に地面に置き、スッと立ち上がった。つられて山岡が立ち上がると、驚いたことに山岡の腕に自分の腕を絡めて、もう一方の手を山岡のシャツの襟元に添えた。
「お金は要らないけど、山岡さんのことはもう離さない」
 何と言う幸運だ。金の力は偉大だと思うが、それでもこんなにかわいい娘が自分なんかに。
 身を寄せると、髪から身体から、とても良い匂いがする。我慢しきれなくなって、山岡は彼女のスカートから伸びた太腿に手を伸ばした。

 ぎりり、と強い力で手首を握られた。痛い、と思ったときには少女は山岡の後ろに回り、もっと強烈な痛みが山岡を襲った。
「いっ、痛い! 何をするんだ!」
 腕を捻じり上げられている。関節をおかしな方向へ曲げられて、山岡は悲鳴を上げた。痛いなんてもんじゃない、折れる瞬間の痛みがずっと続いているみたいだ。

 ちっ、と舌打ちする音を聞いた後、山岡の足を編み上げブーツの足が攫った。強い力で蹴られてバランスを崩し、山岡は正面から地面に突っ込んだ。硬い地面が山岡の顔にいくつもの傷を作り、山岡はその痛みに呻いた。
 次の痛みは背中だった。右腕の関節を決められた上、背中に膝頭を打ち込まれた。そのまま押さえつけられ、痛苦に喘ぐ山岡の耳に、澄んだアルトの声が聞こえた。
「雪子さんが言ってたとおりだ。とんでもない変態だな、こいつ」
 彼女の声を合図に、数人の男が茂みや木の陰から出てきて、山岡の身体を拘束した。山岡を男たちに預けると、少女はトランクの蓋を閉め、それを片手で持ち上げた。

「き、君はいったい」
 男たちに両側を挟まれて身動きの取れなくなった山岡が問うと、彼女はトランクを持ったまま、ヘッドドレスの顎紐を解き、それを髪の毛ごとむしり取った。
 ツインテールの下から現れたのは、亜麻色の短髪。この髪型なら彼だと分かる、幾度か仕事場で見かけたことがある。山岡が所属する研究室の副室長と仲の良い、科警研一の美人。

「そんな……」
 信じられないと呟く山岡を、ゴスロリ姿の麗人は、大きな亜麻色の瞳にゾッとするほど酷薄な光を浮かべて見下していた。





*****

 そしてまた謝罪の種がひとつ増えると☆ ←反省の色が見えない。


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ジャンル : 小説・文学

パンデミック・パニック(12)

 先月くらいから、
 昔のお話にたくさん拍手いただいてて、とってもありがたいです。
 同じ記事に複数入ってるから、何人かご新規の方がいらっしゃってると思うのですけど。 コメントいただかないと直接はお礼が言えないので、こちらで返させていただきます。
 
 すみませんっ!!
 薪さんのイメージ壊してすみません、原作無視のストーリーですみません、オリキャラばんばん出してすみません、青木さんがストーカーで (あり得ねえ)、雪子さんと薪さんが仲良くて (もっとあり得ねえ)、薪さんにカンチガイ大王とかあだ名ついててすみません! (これが一番あり得ねえ)
 どうか寛大なお心で! 怒りを鎮める練習だと思って! いっそ精神修行だと思って!! 大目に見てやってください。

 ↑↑↑ ……お礼じゃなくて、お詫びじゃね? 

 本人は真剣です。
 追放しないでください。






パンデミック・パニック(12)





 O市の小さな公園で、山岡宏は指定されたベンチに座り、腕時計を確認して幾度目かの深呼吸をした。
 土曜日の昼間、しかもこんな場所を指定されるとは、山岡には全くの予想外だった。こういうことは夜中、怪しげなバーとか路地裏とかで秘密裏に行われるものだとばかり思っていた。ろくな遊具施設もない公園に人気はなく、それだけは今日の取引にプラスの要因だと思えたが……いや、逆にこういう場所の方が怪しまれないのかもしれない。多くの闇取引は日中、衆目の中で行われているものなのかもしれない。
 山岡は商品の入ったケースを鞄の上からそっと押さえ、その存在を指先で確かめた。鞄の生地に遮られて見ることは叶わないが、それは2週間ほど前、第九研究室のモニタールームで白煙を吹き上げた黒い小型ケースと寸分違わぬものだった。

 谷島とは、闇の賭博場で知り合いになった。

 ギャンブルは、この世の何よりも刺激的な遊びだ。山岡がこの味を覚えたのは2年前。親が死んで、それまで手にしたことがないような大金が転がり込み、軽い気持ちで買った馬券が大当りして、その金がさらに増えた。数時間で、元金が数倍に膨れ上がる。それも、山岡が夜中まで働いて手にする一ヶ月の給金の何倍もの額だ。真面目に働いているのが馬鹿馬鹿しくなった。
 山岡の最初の大当たりはビギナーズラックと言うやつで、それからは勝ったり負けたりを繰り返していたのだが、賭け事に夢中になる人間の心理と言うのは不思議なもので、勝った時の快感しか心に残らない。大きく負けた時はがっかりし、落ち込んだりもするのだが、そちらはすぐに忘れてしまう。

 時が経つうち、山岡は次第に強い快感を求めるようになった。
 賭け事の快感は、勝ち金の大きさに比例する。普通のレートでは、高額の勝ち金は得られない。そこで彼は、闇賭博に手を出した。
 科警研勤めの山岡が、何処から賭場の情報を、と思われるかもしれないが、これはちっとも不思議ではない。一般の競馬場や競輪場に、闇賭博の入り口は開かれている。闇賭博の主催者は殆どが暴力団で、その目的は資金集めだ。少しでも多くの顧客を集めるため、彼らは、競馬場で外れ馬券をばらまいている集団の中に賭場への案内人を紛れ込ませている。
 負けた者同士、妙な連帯感をうまく使って相手の勤め先や家族構成を聞き出す。特に公務員は眼を付けられやすい。給与が保証されているから、定期的な資金源になる。

 闇賭博へ出入りするようになって、あっという間に山岡の貯金は底をついた。主催者に言われるがままに借金を申し込み、その借金を返すため、という矛盾した目的のために賭博に精を出した。自分でもどうしようもない状態だと分かっていたが、抜けられなかった。抜けるためには一億近い金が必要だった。

 似たような境遇にあった谷島とは、話が合った。二人の職業には共通点が多く、それは益々彼らの親交を深めた。
 谷島はT大の研究室で細菌の研究をしていた。自分が培養した細菌を売って金に換える気でいたが、上司に仕事以外の研究をしていたことが知れて、研究を進めるのが難しくなってきた。既にサンプルは完成し、ワクチンもできている。これを捨てるなんて事はできない。かくなる上は、どこかの実験室を借りて細菌を増やし、ある程度の量を揃えたら賭場の暴力団を介して外国に売る。そこまで話が決まっていた。

 培地と設備を提供するから、うちの研究室で増やせばいい、と山岡は彼に持ちかけた。
 科警研とは灯台下暗しだ、と谷島は笑った。山岡の案を気に入ったようだった。

 決行の夜、細菌と研究資料を抱えて約束の場所に来た谷島を、山岡は歓迎し、自分の仕事場へと導いた。途中、これからすぐ培養に入るのだから腹ごしらえだと言って、用意しておいたパンと牛乳を彼に食べさせた。
 その後、ビタミン剤だと偽ってCメピジウムという薬品を飲ませた。
 自分も同じ瓶から出したタブレットを噛みながら、パンだけでは栄養が偏る、科学者は健康に気を使わないと駄目だ、と山岡が言うと、谷島は笑いながら錠剤を口に含んだ。
 警視庁のお膝元の科警研で殺人細菌を培養する。それを作る科学者が健康に留意する。谷島はこういう皮肉なシチュエーションを好む性癖があった。

 夜の科警研を訪れて、細菌だけを先に研究室へ運ぼう、と山岡は言った。
 研究データは段ボール2箱もある。これは研究室には置いておけない、もしも誰かに見られたら困る。だからこの場は山岡の車に残して行こう。これからは自分も細菌の世話をすることになるから資料は読んでおきたい、自宅に持って帰ってもいいか、と言葉巧みに資料を自分のものにする算段を付けた。

 正門を潜ってすぐ、山岡は急な腹痛を訴えた。
 牛乳を飲むと必ずこうなるんだ、先に行っててくれ、と目的の建物の方向を指さし、谷島に細菌の入ったケースと自分のIDを差し出した。どうして腹を壊すのが分かっていて牛乳を飲むんだ、と呆れ顔の谷島に、健康にいいからだ、と返すと、谷島は楽しそうに笑って黒いケースを受け取った。

 ケースには、眼に見えないくらいの小さな穴を開けておいた。中に入っているのはAラセプリルという薬液を注入したドライアイスだ。時間が経てば、薬もろとも気化して消える。
 様々な食物の中に危険な食べ合わせがあるように、ある種の薬物も、重ねて摂取することによって毒性を発揮するものがある。先に谷島に飲ませたCメピジウムという薬物は、それだけでは何の毒性も持たない。しかし、それを摂取した状態でAラセプリルから発生したガスを吸い込むと、肺の中でアルカイロイド系の劇薬に変化するのだ。

 谷島に多くの証拠を残して欲しくなかったから、できるだけ正門から遠い建物を選んだ。山岡が第九を指さしたのは、それが理由だった。
 計算外だったのは、ドライアイスの溶ける速度が意外と遅かったことだ。山岡の計画では、建物に到達する前、科警研の中庭で彼は死ぬはずだった。そうしたら彼からIDを回収して、死体は放置すれば良いと思っていた。細菌は、谷島の代わりに自分が売ってやる。もちろん、彼が得るはずだった報酬も。

 ところが、谷島はなかなか死なず、とうとう第九の建物に入ってしまった。
 これはまずい。IDカードから、自分との関係が露呈する可能性がある。

 咄嗟に山岡は管理棟に走って、谷島に襲われた風を装った。管理棟を選んだのは、ここだけがID無しで入れる唯一の建物だったからだ。
 谷島にIDカードを奪われた、と主張した山岡の証言は、あっさり認められた。なんでも、谷島は第九の室長相手にメスを振り回す暴挙に出たらしい。危険な人物との印象を捜査陣に植え付けてしまったのだ。
 以前から、科警研のことは少しずつ谷島に話していたから、冷酷無比な第九の室長と知って過剰防衛に走ってしまったのか、誰もいないと思っていた研究室に人がいて取り乱してしまったのか。詳細については不明だが、いずれにせよ、谷島の取った浅はかな行動が山岡に有利に働いたことは確かだった。

 第九が感染パニックに陥ったと聞かされて、山岡はひどく驚いた。谷島が細菌のことについて他人に話すとは思えなかったし、話したところで何故細菌がばら撒かれたという誤解が生まれたのか、見当もつかなかった。第五まで出動して、第九の室長は入院したというし、いったい何がどうなったのか、しかしその騒動に紛れて、山岡は単なる被害者の一人になりおおせた。
 谷島が死んだ後、山岡は直ぐにでも細菌を金に換えたかったが、あまり焦ってはいけないと考えた。証拠固めのため、捜査一課の人間が研究室をうろついている今、危険な行動は避けた方がいい。少なくとも事件解決までは賭場へも行かないようにしよう。
 山岡は何食わぬ顔で今まで通り日々の業務をこなし、平常の生活を続けた。そうこうするうち、事件は谷島の自殺で決着がついたという情報が入った。科警研をうろつく刑事の姿は消え、山岡はいよいよ大金を手にする時が来た、とほくそ笑んだ。

 そんなとき、山岡の携帯に一本の電話が掛かってきた。
『三億出しましょう』
 電話の相手は、いきなり言った。山岡がかろうじて理性を保ち、何の話だ、と返すと、相手は含み笑いをして、
『おや、これは失礼。てっきり谷島君から話が通じているものと思っていました』
 谷島の名前を出したところを見ると、細菌の取引に間違いない。しかし、谷島は賭場を開催している暴力団を介して売却するつもりだと言っていた。報酬も一億という話だった。買い手から直接連絡が来たうえ、報酬額が三倍に跳ね上がった。怪しい。

 谷島とは誰です、と山岡は惚けた。もう少し、相手のことを探った方がいいと思った。
『そう警戒されずとも。あなたにとっても悪い話ではないでしょう? 我々としても、間に彼らを入れたくないのです。我々は革命軍の指揮下にありますが、一研究所として社会活動を営んでいる。暴力団とのつながりなど、作りたくはない。
 あなただって、彼らを間に挟めば損をする部分も出てくるはずだ。研究資料を見せてもらった上でわたしが彼らに提示した額は五億。しかし、谷島君が受け取るはずだった金額は、もっと少なかった。違いますか? でなければ、彼はわたしに『三億欲しい』という交渉はしてこなかったはずだ』
 電話の相手は、谷島と山岡が通っていた賭場を経営している暴力団のことにも詳しかった。もちろん、山岡の勤め先や研究についても。これは谷島から情報が渡っていたものと判断し、山岡は相手を信用することにした。

『引き渡しは一週間後。O市にある××公園に、午後二時に来てください』
 一週間とは時間のかかる。早いところ証拠品を手元から離して、金を手に入れたいのに。もう少し早くならないのか、と山岡が問うと、三億となると用意するのに相応の期間がいる、と尤もな答えが返ってきた。なるほど、と山岡は考え、その日に指定された場所に赴くことを約束したのだ。
 
 そんなわけで山岡は、土曜日の公園に一人きり、ベンチに座っている。他人から見たら、妻に掃除の邪魔だと追い出された亭主のようにも見えるかもしれない、と心の中で苦笑する。ここが面白みのない公園でよかった。

「おじさん、山岡さん?」
 名前を呼ばれて顔を上げると、いつの間に現れたのか、2メートルほど離れた樹の傍に見知らぬ少女が立っていた。



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ジャンル : 小説・文学

パンデミック・パニック(11)

 お彼岸ですね。 
 今日は実家のお父さんに、お花を手向けに行ってきます。 オットはどうしても仕事が抜けられないので、今年はわたしだけ。 母も祖母も、えらくオットを気に入ってるので、がっかりされちゃうかも。(笑)

 本当にね~、特に祖母はオットにメロメロなんですよ。
 オットとわたしと祖母の3人で旅行に行った時、車の運転代だと言って、ティッシュに包んだお札をオットに差し出して、
「まーくん (オットの愛称) にだからね。しづのじゃないよ」
 ……孫と婿とどっちが大事なんだか。
 そしてわたしにはこの一言。
「おまえ、取り上げるんじゃないよ?」
 あんたの孫でしょうが! 信用せんかいっ!!


 祖母は93歳。 現在は韓流ドラマにハマってるそうです。 





パンデミック・パニック(11)






 倒れ掛かった点滴スタンドを雪子から譲り受け、きちんと立て直した後、岡部は問答無用でベッドに手を入れて、薪の身体を仰向けにひっくり返した。これ以上面倒かけんでください、と腹心の部下に睨まれれば、昨夜の自分の失態に恐縮する気持ちでいっぱいの薪には、返す言葉も失われる。

「犯人の身元が分かりました。と言っても、調べたのは捜一の連中ですがね」
 壁際に立てかけてあったパイプ椅子を持ってきて雪子の反対側に腰を下ろし、岡部はこれまでの捜査で分かったことを薪に教えてくれた。さすが岡部だ。薪が一番気にしていることが何なのか、ちゃんと分かっている。
「T大学医科学研究所在籍の助手で、谷島史郎、28歳。こいつのやってた実験てのが俺にはさっぱり意味が分からんのですが、ソラなんとかって細菌を遺伝子操作して、微生物による病気の治療薬を作る事だったとか。今朝になって研究所の職員が確認したところ、彼が実験中だった細菌と研究データが持ち出されていたそうです。彼の仕業と見て間違いないでしょう。
 動機は金ですね。谷島には多額の借金がありまして、金が必要だったらしいです。その細菌を売って、金に換えようとしたんでしょう」
 岡部の口から事件の顛末について聞かされ、結局自分が犯人に踊らされたことを再確認する。底なし沼のような自己嫌悪に落ちかける自分を止めつつ、薪はかろうじていくつかの疑問点を口にした。

「科警研には、何の目的で?」
「谷島は、必要以上に毒性を高めた細菌を開発していることが上にばれて、今後、目的以外の研究を続けるなら研究所を辞めてもらうと言われたそうです。それで、彼は研究中の細菌をどこかへ移す必要があった。
 研究所の話では、谷島の作った細菌は微生物が発生する毒素によるもので、元が微細な生き物だけに、保温ケースから出すと半日で死滅してしまうんだそうです。衝撃や振動にも弱いとか。だから、自分の大学から一番近いこの研究所に眼を付けたんじゃないかと。
 保温ケースと一定の設備があれば、細菌は自宅でも育てられるそうで。設備を盗むつもりで侵入したというのが妥当なところかと」
 犯罪に使う細菌を培養する設備を調達するのに、警視庁の隣に建っている科警研を選定するのはどうかと思われたが、科警研への侵入目的は納得がいった。
 しかし、どうしても納得がいかないのが谷島の死だ。

「薪さんから事情聴取をすれば見解は変わるかもしれないとは言ってましたが、今のところ捜一は自殺で見ています」
「違うな。あれは死を覚悟した人間の態度じゃなかった」
「しかしですね、谷島の死因はアルカロイド系の毒物なんですよ。即効性の毒ですから、自殺じゃないとなると、犯人は薪さんてことになっちまいます」
 そこは薪にも謎だ。すでに薪の中でひとつの解答は導き出されているが、決定的なピースがいくつも欠けている。
「僕的には『薪剛犯人説』の方が、まだ賛同できるが」
「冗談は止してくださいよ」
 慌てて両手を振り回す岡部の好ましい愚直にクスクス笑いを洩らして、薪は質問を続けた。

「自殺の動機は」
「谷島はあまり質の良くないところから金を借りてまして。職場にまで押しかけられて、かなり追い詰められていたようです。ただでさえ取り扱いの難しい細菌を研究室から持ち出して、結果駄目にしてしまって、ヤケクソになってあんな真似を―― 納得してませんね?」
 長年の部下は、薪の微細な表情の変化を読み取ることなど造作もなくやってのける。薪はたった一度長い睫毛を瞬かせただけなのに、それだけで分かってしまうのだ、この男には。

「いいですか、薪さん。気持ちは分かりますが、あなたは病気を治すことに専念してくださいよ。どちらにせよ、この事件は捜一に渡ったんです。俺たちに口を挟む権利はありません」
「そんな常識のないことはしないさ。捜一の連中に、早く事情聴取に来いと言ってくれ。その場で覆してやるから」
「……挟む気満々じゃないですか」
 クスッと笑って薪は、自分の頬に手をやる。普段なら剥き身のゆで卵のようにつるんとした皮膚には、身体と同じ発疹の凹凸が感じられる。先刻、青木がこの頬に頬ずりしたことを思い出して、薪は何だか申し訳ないような心持ちになった。

 室長不在で忙しい岡部は、報告を済ませると第九へ帰らねばならなかった。薪の身体が心配でたまらない彼は、病室を出るまでに3回も振り返って、雪子を失笑させた。
 岡部がいなくなると、雪子は「何か喉越しのいいものでも買ってきましょうか?」と薪の希望を聞いた。食欲は無かったが、口の中が乾いてザラザラしていたので、アイスクリームを頼んだ。
 雪子はカップアイスを二つ買ってきて、一つを薪にくれた。秋のアイスもイケるわ、と大きくアイスを掬いながら雪子が笑う。本当に、雪子は何でも美味しそうに食べる。

「雪子さん。山岡さんてどんな人なんですか?」
「有能な職員よ。研究熱心で、職務態度も真面目」
「研究課題は?」
「今やってるのは大腸菌の培養と経過観察かな。でも、培養に興味を持ち出したのは今年になってからで、去年までは薬品の競合による相乗効果と拮抗効果について論文を書いてた覚えがあるけど……いずれにせよ、とても優秀」
「上司としての評価じゃなく、雪子さんの眼から見て、いい男ですか?」
 上司として、という条件が消えた途端、雪子の顔は苦々しく歪んだ。

「ゴスロリ好きのヘンタイ。机の中に、写真がいっぱい入ってた」
「彼の女性の趣味はどうでもいいです。性格的にはどうですか?」
「友だちにはなりたくないわね。優秀なんだけど、自分に自信を持ちすぎてて、他を見下してる感じ。あ、薪くんと一緒ね?」
 悪戯っぽく笑った雪子に、薪は大仰に顔をしかめて見せる。
「ひどいですよ、僕はそんな」
「あはは、冗談よ」
 雪子がそんなことを思っていないのは百も承知だ。薪は誤解されやすいタイプだが、何人かの人は自分の真実を分かってくれて、信じてくれる。それで十分だと思う。

「それにしても、本当にこれ、ハシカなんですか?」
「そうよ。発疹が出た時点で気が付かなかった?」
 不自然だとは思った。犯人には発疹が出なかったのに、自分には現れた。でもまさか、こんなタイミングで発症するなんて。
「ハシカって、子供が罹る病気じゃないんですか? それに、ハシカの発疹って、こんなに大きくないですよね?」
「麻疹ウィルスさえ取り込めば、大人も子供も関係ないわ。あんまりバカにしない方がいいわよ、麻疹って大病なんだから。大人になってから罹ると余計大変なのよね。発疹も大きくなって、熱も続くし。完治には2週間くらい掛かる人もいるわよ」
「でも僕、子供の頃に予防接種を」
「予防接種だけだと、身体の中にできた抗体が消えてしまうことが多いの。実際に罹病していれば抗体が消えることはないんだけど」
 そうなのか。知らなかった。

「それにしても、ハシカなんて一体どこで」
 宇野の見舞いに行ったとき、夜遅い時間だったから正面玄関が開いてなくて、救急センターから病院へ入った。急な発熱で親に連れてこられた子供の中に、麻疹に罹った子がいたのかもしれない。
「救急センターはね、本当に色んなウィルスがうようよしてるから。できるだけ避けたほうがいいわよ」
 肝に銘じます、と薪は神妙に言って、アイスをもう一匙口に含んだ。口の中が高温になっているから、冷たいものは心地が良い。風邪の菌が胃腸に悪さをしている時は別として、発熱時の栄養補給はだいたいこれだ。

 薪が熱を出すと、青木は必ず薪の好きなアイスクリームを買って見舞いに来る。それから頼みもしないのにおかゆだのスープだのって家政婦の真似事をして、それをものすごく楽しそうにされるものだから、僕が熱を出して寝込むのがそんなに嬉しいか、と皮肉の一つも言ってやりたくなる。
 熱を出した時とばかり限らない。青木は薪がほんのちょっと疲れを感じて休んでいるだけでも深刻な表情になって、あれやこれやと世話を焼きたがる。健康なときでさえ、風呂で髪を洗ってやるだの着替えさせてあげるだの、まあアレは下心てんこ盛りの親切心なのだろうけど、とにかく、薪が病魔に苦しんでいるのに、あんな捨て台詞を吐いて背中を向けてしまうような、冷たい恋人ではなかったはずだ。

「……青木のやつ、一体どういうつもりなんだろう」
 事もあろうに病人に対して「もう長くない」なんて、言っていい嘘と悪い嘘がある。許されていいことじゃない。病気が治ったら説教だ。エントランスの打ちっぱなしコンクリートの上で二時間、正座で説教聞かせてやる。
「まあ、あたしは薪くんのこと20年も見てるからね。仕方ないなって思うけど、青木くんは許せなかったんじゃないのかな」
「許せなかったって……騙されたのは僕ですよ?」
「その前に騙したのは薪くんじゃない」
「だってあれは」
 青木の命を守るためだった。あの時点で、薪は本物の細菌が播かれたと信じ切っていたのだ。止むに止まれぬ嘘だった。

 薪が不機嫌に押し黙ると、雪子は空になった紙製のカップをくしゃりと潰し、
「青木くんが薪くんの口からどんな言葉を聞きたかったのか、薪くんなら分かるでしょう?」
「分かりませんよ。言ってくれなきゃ分かりません」
「相変わらずズルイのね」
 ひょいっと雪子が放り投げた紙くずは完璧な放物線を描いて、見事ゴミ箱に落下した。フリーになった両手を彼女は豊かな胸の前で組み合わせ、いつものハキハキとした口調で遠慮なく言った。
「自分の気持ちは決して言わないくせに、相手には理解して欲しいと思ってる。そのくせ、相手の気持ちは『言ってくれなきゃ分からない』。
 大したものだわ。学生時代とちっとも変わらない。それがあなたのスタイルだものね」

 何故だろう、と薪は思う。
 どうして今日は、みんな自分に冷たいんだろう。病気だからってやさしくして欲しいわけじゃないけど、青木といい雪子さんといい、自分は何か彼らを怒らせるようなことをしただろうか。
 考えるが、まったく心当たりがない。
 確かに、自分のカンチガイでとんだ迷惑を掛けた、だけどそれで怒るような彼らじゃない。自分たちの労苦などどうでもいい、ただのハシカでよかったと喜んでくれる、彼らはそういう心根の人たちだ。

「雪子さん、あの」
「薪くんは正しいわ。薪くんの嘘も正しい。でも、青木くんに嘘を吐かせたのは、薪くんのその正しさだと思う。て、あたしが口出すことじゃないわね」
 座るときと同じくらいのオーバーアクションで立ち上がり、雪子は背筋を伸ばした。ひらひらと手を振って、そろそろ仕事に戻るわ、と笑う。笑うと目尻に皺が出来るようになったけれど、彼女は結婚して益々美しくなったと薪は思う。
 大分温んできた水枕に頭を預け、薪は扉の向こうに消える白衣の背中をじっと見ていた。





*****


 と言うわけで、薪さんの病状は麻疹によるものでした~。
 いやん、怒らないで、だからギャグだって言ったじゃん☆

 実はですね、2年前にオットがまんまこの状態になりまして。 
 実家の父が入院してたので、現場が終わってから2人でよくお見舞いに行ってたのですけど、当然のように玄関が閉まってて、救急から出入りしてました。
 ある日、いきなりオットが熱(39度越してた)を出したと思ったら、2時間くらいのうちに身体中に発疹が!! これが本当に大きなブツブツで、気持ち悪いのなんのって、すごく怖かった。 
 高熱と湿疹から直ぐにハシカを疑ったのですけど、お義母さんに訊いたら「子供のころ、予防接種はちゃんとした。それに麻疹のブツブツはこんなに大きくない」って言われて。
 とりあえず近くの内科に連れて行ったら、「うちじゃ手に負えないから大きな病院で検査してもらって」と紹介状を書かれました。 内科の先生、診察だけじゃ病名が判断できなかったんですね。
 見た目だけでは医者にも診断が下せないなら、素人には分からなくて当たり前ですよね。

 大きな病院で診察してもらって、「どうも麻疹っぽいですね」と先生に言われたのですけど、血液検査をしてみたら、
「麻疹の抗体はありますね。じゃあ、麻疹に似た別のウィルスかな? それともアレルギー反応かな?」
 結局、分かりませんでした。

 検査を重ねれば突き止めることはできるけど、それにはお金も時間もうんと掛かりますよ、症状が治まれば大丈夫ですから、と先生に言われて、そのままにしちゃいましたけど。 本当に、なんだったんだろうなー。

 みなさんも、救急センターの出入りの際には十分注意して、必ずマスクを着用してくださいね。






テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

パンデミック・パニック(10)

 こんにちは。

 お彼岸の日曜日、みなさまいかがお過ごしでしたか? うちは当たり前のように仕事です。(←4週連続日曜日仕事)
 もうね、3月だけは60日あっても多くない。 土木業者はみんなそう思ってる、少なくとも友だちの業者はみんなそう言ってる。
 だって雨が~、埋設管の競合が~、仮設給水が~、公共桝位置の変更が~~。 その他もろもろ、えーい、
 期越えが怖くて工事ができるかー! ←役所に聞かれたら大目玉。

 せめて雨だけはカンベンして欲しいです。



 ところで、
 こちらの薪さんの病気についてですけど、
 なんかすっかりバレてるみたいで~(笑) 鍵でコメントくださった方、全員正解です☆
 
  



パンデミック・パニック(10)







 太陽が高くなるにつれて体温も上昇していくようで、朝はいくらか楽になったと思っていた薪の身体は、再び昨夜の高熱に痛めつけられていた。
 点滴に解熱剤が入っていると思われるのに、ちっとも効かない気がする。普通の病気ではないのだから当たり前かもしれないが、それにしてもこの熱と発疹は異常過ぎる。自分で見ても気持ちが悪くなるくらいだ。
 岡部を呼んで仕事の話をしたいのに、この調子ではまともな会話ができそうにない。身体はふわふわと宙に浮いているようだし、視界はときどきブラックアウトする。

「薪くん。具合どう?」
「雪子さん」
 スライド式のドアを開けて顔を覗かせた白衣の女性を認めて、薪はうっすらと微笑んだ。どうやら雪子もワクチンを投与されたらしい。開発中の細菌のワクチンのストックが、それほど多くあったとは考え難いが、犯人の遺体が司法解剖されたであろう第一の職員には優先的に投与されたのかもしれない。なんにせよ、彼女の安全が確保されていることは喜ばしい限りだ。

「今まで、本当にありがとうございました。僕がここまでこれたのは、みんな雪子さんのおかげだと」
 最後になるのだからきちんと礼を言っておこうと、薪が感謝の言葉を述べようとすると、雪子はそれを遮って、
「どうしたの、急に。薪くんらしくない」
 さすがに雪子は医者だ。患者に死期を悟らせないように、その演技は完璧だ。だが、その必要はない。
 今朝方、薪の恋人が座っていたパイプ椅子に、どすんと音をさせて腰を下ろした雪子に、薪は微笑を向けたまま、できるだけ穏やかに言った。

「いいんですよ、雪子さん。僕は知ってるんです。青木が本当のことを話してくれましたから」
「そう。ふふ、竹内ったらね、薪くんが本当のことを知ったら、あまりの衝撃に暴れだすんじゃないかって言ってたのよ」
「そんなみっともない真似はしませんよ。僕は男ですから」
 竹内の暴言も、聞けるのは最後だと思うと、寛大に許せる気持ちになれた。人間死ぬ前は仏様みたいにやさしくなれるって言うけど、あれは本当なんだ。

「警官になった時から、覚悟はしていました。これは謂わば、僕の最後の事件です。犠牲者が僕一人で済んだなら、満足の行く結果です」
「最後の事件? 薪くん、警察辞めるの?」
「自動的に辞めることになるかと」
「どうして?」
「どうしてって」
 薪は訝しそうに雪子を見て、口を結んだ。
 自分はもうすぐ死ぬ、それを薪は知っている。そう伝えたのに、雪子がいつまでも白々しい演技を続けることが、薪には意外だった。必要のない嘘を重ねるなんて、聡明な雪子らしくない。それともこれは雪子が医者である以上、避けられない欺瞞なのだろうか。

「僕、助からないんでしょう?」
 ズバリと訊くと、雪子は眼を真ん丸にして、はあ? と間の抜けた声を出した。本気で驚いているように見える。雪子は嘘が苦手な方だとばかり思っていたが、なかなかどうして、大した演技力だ。
「薪くん。青木くんから本当のことを聞いたのよね?」
「はい。引継ぎをしなければいけないことが幾つか残っていますから、教えてもらってありがたかったです」
 口紅が擦れるのも構わず、雪子は右手の拳を唇に強く当てた。女性にしてはキッカリした眉を寄せて、黒い瞳を細くする。
「もしかして青木くん、伝える病名を間違ったんじゃ」
「病名? この症状に、病名があるんですか?」
 なんだかヘンだ。開発中の細菌による感染症、それにもう病名が付いたのだろうか? 昨日の今日で? あれってある程度研究が進んで、学術発表とかされて決まるもんじゃないのかな。

「うん。麻疹」
「そうですか、ハシカ ―――― はああ!!?」

 薪は思わずベッドから起き上がり、するとぐらぐらと世界が揺れる。エアポケット級の失墜感。耐え切れず、ベッドに戻った薪の身体が描いた軌跡は、横たわるというよりは落ちるという表現が正しい。
 ハシカって子供が罹るあれか? いや、そんなわけがあるか。だって、あの男は死んだのだから。

「何を言ってるんですか? 犯人は血を吐いて死んだんですよ、僕の目の前で」
「遺体の解剖はわたしが担当しました。死因はアルカロイド系毒物による中毒死」
「アルカロイド? まさか。だって、犯人は吐血して死んだんですよ?」
 アルカロイド系毒物は嘔吐や呼吸困難を引き起こすが、吐血はしない。それに、彼の毒物は即効性があるが、犯人は何も口にしていなかった。
「食道に、焼け爛れたような痕がありました。吐血はそこからのものと考えられます」
 では、あの白煙は? 彼が持ち込んだケースの中身は、いったい何だったのか。
「第五の調べでは、空気中にも毒性のある物質は発見されなかったそうです。清掃と消毒は彼らが行ってくれたから、本日の第九の業務に支障はありません」
「ちょ、ちょっと待ってください」

 熱のせいで動きの悪い脳を回転させて、脳内シナプスを根性でつなげる。
 犯人は服毒によって死亡。彼が持ち込んだケースから出てきた気体は無害。自分の症状は、細菌とは関係ないただの病気。

「つまり、あれは狂言だったと? 僕は犯人に騙されて第五と警備部を動かした挙句、子供が罹るような病気で倒れてここに運び込まれたわけですか?」
「ご名答です、薪警視長殿」
「~~~~!!!」
 新人の時以来の大失態に、薪は反射的にうつ伏せて枕を抱え込んだ。強く引っ張られた点滴スタンドが倒れそうになって、それを雪子が咄嗟に足で押さえたが、そんなものは勿論薪の眼に入ろうはずもない。

 どうするんだ、この不始末!! 
 カンチガイで夜中に警備部と第五を動かして、てか僕、中園さんにも連絡入れちゃったから多分指揮は中園さんが取ってたはず、仕事の早い中園さんのことだから厚生省に連絡入れちゃってたりして、それが間違いだと分かったら中園さんの責任問題に……!

「ちょっと薪くん、起きちゃダメよ」
「悠長に寝てられません! もしも厚生省へ謝罪に行くなら、それまでに僕の処分を確定させてもらわないと中園さんに迷惑が」
 四足で起き上がった薪をベッドの上に留めようと、雪子は両手で薪を毛布ごと押さえる。薪が暴れるものだから点滴スタンドは益々揺れて、とうとう倒れ掛かってきたスタンドを受け止めるために雪子が左手を離すと、その隙を逃さずに起き上がった聞き訳のない患者を止めるため、ついには足が出た。
 雪子の長い脚がモロに背中に乗って、今の薪の体力では動かせない。観念して、薪が参ったと言おうとした時、スライドドアの滑る音がした。

「安心してください。中園さんは慎重でした。厚生省へは、今回の事件は伝わっていません」
 岡部の声がして、背中に掛かっていた重力が消える。素早く脚を下したものの、雪子はとんでもない場面を目撃されてしまった。
「三好先生……この拘束の仕方は医者としてと言うよりは女性としてどうかと」
「だって薪くんが暴れるから。つい」
「やっぱり暴れたんですか? 竹内の言った通りになりましたね」
 宿敵の暴言を思い出し、薪は反射的に沸き起こった憤りに胸を焼く。先刻の寛大さはどこへやら、脳裏に浮かんだいけ好かない女たらしの顔に、心の中で唾を吐いた。

「竹内もお見舞いに来たがってたんだけど、麻疹を発症した記憶が定かじゃないから我慢するって」
「薪さん、後で竹内にはちゃんと礼を言ってくださいよ。山岡氏の携帯からGPSを辿って彼を見つけたのは、あいつなんですから」
「どうして竹内が?」
 青木に連絡を受けた雪子が竹内と共に夜の研究室を訪れたことを知って、薪は驚く。竹内にはまるで係わりのない事件だったはずなのに、夜中に労を惜しまず動き回ってくれたのだ、と岡部に言われては、頑固な薪も彼に感謝せざるを得ない。山岡が無事に保護されたのは、竹内の迅速な行動のおかげなのだ。

「岡部さん、お願い。脚で薪くんを押さえてたことは、竹内にはナイショにして」
 雪子が苦笑いしながら頼むのに、はい、と岡部は頷いて、薪の耳元に顔を寄せてこっそりと、
「女心ですかね。先生もカワイイとこありますね」
 前言撤回。誰が礼なんか言うか。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

パンデミック・パニック(9)

 連日更新、えらいぞ、しづ! ←自画自賛。  て、前の章短すぎだろ。(笑)

 多分同じ方、昨日も引き続き、読んでくださってありがとうございました~。 楽しんでいただけてるといいな。
 ……眠ってくださいねっ。(くどい)


 ちょっと私信です。

 Mさま。
 この章に、関白宣言出ます☆
 果たして青木さんは涙の雫を2つ以上こぼすのか?(笑)


 



パンデミック・パニック(9)






 眼を開けて、そこに白い天井と棒状の蛍光灯を見た時、薪は不思議に思った。熱のせいで茫洋とする頭を懸命に動かして、自分の置かれた状況を把握しようとする。
 天国でも地獄でもない。自分はまだ生きている。

「気がつきました?」
 ひょいと自分を覗き込んできた恋人に、薪は自然に微笑んだ。素直に嬉しかった。一時は、死を覚悟したのだ。彼にもう一度会えたのは幸運だ。
「なかなか熱が下がりませんね。苦しいですか」
 いや、と薪は首を振ったが、本当は頭痛がひどかった。首を振ると頭蓋骨の中で脳がゼリーみたいに揺れる感覚があって、吐き気がした。
 どうやら自分は病院に収容されたらしい。廊下から靴音が聞こえてくるから、ここは隔離病棟ではないようだ。つまり、二次感染の危険はないと判断されたわけで、だから青木がこの部屋にいられるのだろう。

 頭の下がひんやりして気持ちいい。水枕なんて何年ぶりだろう。
 毛布の上に載せられた腕に、点滴の管が刺さっている。その腕には、赤い発疹がびっしりと浮き出ていた。
 それを見た途端むず痒さを感じて、薪は点滴の管が刺さっていないほうの手で自分の首に触れてみた。指先に感じる凹凸。一つ一つがけっこう大きい。膿胞になっているのかもしれない。あちこち触ってみると疱疹は身体中を覆っていて、自分でも気味が悪いくらいだった。
 感染による症状だろうか。いや、あの男には発疹など出なかった。容器から細菌が漏れ出したと思ったら、瞬く間に血を吐いて死んでしまったのだ。それとも、人によって発症が異なるのだろうか。開発したての細菌だとか言っていたから、発症も不安定だとか?
 ……そんな細菌、テロに売れるのか? 犯罪者でも死んだ人間を悪く言うのはいけないことだと思うが、やっぱりあの男、底なしのアホウだ。

「山岡宏は無事に保護できたか? 犯人の身元は?」
 捜査の進捗状況を確かめようとすると、青木はゆっくり首を振って、
「事件のことは気にしないで。ご自分の身体のことだけを考えてください」
「そんなわけに行くか。あの男は何処かの研究室から毒性のある細菌を盗み出して、テログループに売ろうとしてたんだぞ。男の身元を確かめて、被害に遭った研究室を洗い出して、他に盗まれた細菌がないか確認しないと」
「それには時間が掛かります。残念ながら、間に合わないと思います」
 珍しいことに、青木は薪の命令を拒否した。
「間に合わない? なにが」
 薪の問いに、青木は苦しそうな瞳で薪を見た。それが答えだと薪は知った。

「…………僕、死ぬのか」
 昨夜よりも身体が楽になっているから、てっきり助かったと思っていたのだが、そうか、死ぬのか。
「薪さん……!」
 思い余ったように、青木が覆いかぶさってきた。個室だから人目を気にする必要はないが、不用意な接触は危険だ。
「青木、触らないほうがいい。伝染ったら大変だ」
「大丈夫です。オレには抗体がありますから」
「ワクチンの投与を受けたのか? じゃあ、細菌の特定ができたんだな?」
 ならば万が一、第九に入った誰かが感染しても、その者の命は失われないわけだ。薪は心底ホッとして、よかった、と安堵の溜息を吐いた。

「何が良かったんですか? ご自分の身体のこと、気にならないんですか」
 不意に薪の両肩を掴んで、青木は厳しい声で問い質した。肩をベッドに押さえつけられて、至近距離に青木の顔。何だかえらく不機嫌そうだ。
「ん? ああ、そうだな、仕事の引継ぎとかあるし……青木。岡部に言って、できるだけ早く」
「いい加減にしてくださいっ!!」

 いきなり怒鳴りつけられて、薪は驚いて青木を見上げた。青木は叫ぶと共に薪の身体から離れ、その長身でベッドに横たわった薪を見下ろしながら、
「なんでそんなにアッサリ受け入れちゃうんですか!? 自分が長くないって言われたら、もっと狼狽えるのが普通でしょう?」
「普通って言われても」
「この世に未練はないんですか? オレに会えなくなっても平気なんですか?」
「いや、平気ってことはないけど」
 上ずった声で質問を重ねる青木とは逆に、薪はどんどん冷静になって行く。
 青木の気持ちは分かる。最愛の恋人が死ぬ、その悲しみに耐え切れないのだろう。それを当の恋人にぶつけるのはどうかと思うが、やり場のない辛さが彼を突き動かしているに違いない。愛されている証拠だ、と薪は、彼の筋違いの怒りを微笑ましく思う。

「でも、現実的に無理なんだろ?」
「現実の話はどうでもいいです! 薪さんの気持ちを訊いてるんです!」
 ……それ、僕が死ぬのはどうでもいい、って聞こえるけど? 言葉のアヤだよな?

 青木の悲しみを少しでも軽くするにはどうしたらいいのだろう、と薪は考える。
 困らせるのは得策ではない。取り乱したり泣いたり、彼の負担を増やすようなことはしたくない。
 薪は深く自分に問いかけ、心の中から幾つかの気持ちを拾い、残りを打ち捨てた。拾い上げた気持ちを基にして声と表情を調整し、彼に語りかけた。
「そうだな。未練はないな」
「オレにも?」
 薪は、にこりと笑った。上手に笑えたかどうか自信がなかったが、今の自分にできる精一杯で彼への感謝を表した心算だった。
「たくさん愛してもらったからな。もう充分だ」

 こんな状況を夢見たときがあった。
 青木が僕を愛してくれるうちに僕の人生の終わりが訪れて、さらには彼が僕を看取ってくれる。彼の愛に包まれたまま、時を止めることができる。それはなんて幸せなことだろう。
 そんな幸運に恵まれたら、言おうと思っていた。
 この世の誰よりも、おまえを愛してる。

「青木。僕は」
「そんなに鈴木さんの処へ行きたいんですか?」
 尖った青木の声に、薪は言葉を失う。
 青木の被害妄想は今に始まったことじゃないけど、時と場合を考えて欲しい。鈴木のことなんか一言も言ってないのに。
 薪は口惜しさにくちびるを噛んだ。今、正に愛を告白しようとしていたのに、身に覚えのない疑惑を掛けられて。ちょっと気の弱い人間なら泣いちゃうぞ。
 高熱と憤慨に眼を潤ませて薪が目蓋を開けると、泣いていたのは青木だった。

「なんでおまえが泣いてんだ? どう考えても、ここで泣いていいのは僕のほうだと」
「オレはそんな言葉を聞きたくて、あなたを愛したんじゃありません!」
 青木の剣幕に押されるように薪は口を噤み、薪の言い分は三度遮られた。自分は明らかな被害者なのに、どうしてこんなに怒られなければならないのだろうという素朴な疑問が頭を掠めたが、涙を流しながら訴える青木の様子の切実さに、その疑問は吹き飛んでしまった。
「あなたにもっと積極的に生きて欲しくて、この世界はあなたにとって素晴らしいことでいっぱいだって分かって欲しくて、だからたくさんたくさんあなたを愛して!
 それをなんですか。もう十分? 未練はない? ふざけないでくださいよ、まだ何も成し遂げていないくせに!!」

 青木にこんな乱暴な物言いをされたのは初めてだ。青木はいつも慎重に言葉を選んで、薪の機嫌を損ねないように気をつけていた。薪の耳に痛いことを言うときでもその態度は温かで、薪のことを思いやるからこその苦言だと分かって、だから彼の言葉に傷つけられたことなど一度もなかった。

 青木は大股に歩いて、病室を出て行ってしまった。
 自分以外誰もいなくなって静まり返った病室の中、薪は再び白い天井に視線を据えて呟いた。

「言えなかったな……愛してるって」




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ジャンル : 小説・文学

パンデミック・パニック(8)

 こんにちは!

 一昨日の夜から昨日に掛けて、たくさん拍手いただいた方、ありがとうございました♪♪♪
 おかげさまで、一日の拍手数の最多記録を更新しました。 多分、200超えたのは初めてだと思います。 拍手いただいた具体的な時刻は、一昨日の23時頃から朝の5時くらいまで、
 あのっ、いつお休みになられるんでしょう!?
 すみません、日中も引き続き、ありがとうございます、でも、
 寝てくださいーー!!!

 別々の方だったらいいのですけど~、わたしだったら気がkur、クルクルってなる~~~。
 どうか、お身体にご負担の無い範囲で読んでくださいねっ。

 でも、とっても嬉しかったので、がんばって(13)まで読み直ししました。(←現金)
 拍手はブロガーの栄養剤でございます。 いつもありがとうございます!!


 
 で、お話の方なんですけど~、
 薪さんに生命の危機が、ってそれはもはやうちのスタンダードなので、(<おいおい) どうか心配しないでくださいね。 これ、基本ギャグ小説だし。

 ということで、続きです。



パンデミック・パニック(8)






 山岡宏は、科警研管理棟の倉庫で発見された。
 口をガムテープでふさがれ、手足を縛られて用具入れに押し込まれていたのを岡部と竹内が見つけ出した。襲われたことにひどいショックを受けていたが、命に別状はなく、目立った怪我もしていなかった。

 犯人の男にはまったく見覚えがない、と山岡は言った。

 山岡は二日ほど前から、溜まった有給を消化するための予定もない休暇を取っていたが、今夜は実験途中の細菌のデータを取るために研究室に来ていた。法一の職員の多くは研究者であり、常に何がしかの実験を行って論文を著している。山岡のように休暇中に研究室を訪れる職員は珍しくもない。
 山岡は実験に没頭し、夜中になって空腹を覚えたので、管理棟のコンビニに夜食を買いに来た。その道中、犯人に出くわせてしまった。運が悪かったのだ。

「山岡からは、犯人につながるような証言は得られませんでした」
 中園に対する報告を終えて、岡部は電話を切った。細菌事件の詳しい情報は第五研究室から報告されるはずだから、岡部が言及したのは行方不明になっていた法一の職員のことについてだけだ。
 ふう、と岡部は溜息を吐いて、ソファにもたれた。まったく、大変な夜だった。
 此処は法一の副室長室、つまり雪子の部屋だ。岡部同様、今宵の騒動に巻き込まれた面々が集まっている。

「ご苦労だったな、竹内」
「いえ、俺はうれしかったです。久しぶりに岡部さんとご一緒できて」
 嫌味なく笑う後輩の顔は、相変わらず俳優のように整っている。まさかこの男が、結婚相手に雪子のような女性を選ぶとは思わなかった。人の縁とは分からないものだ。
「先生もお疲れさまでした。家に帰って休んでください」
「そうします。さすがに20キロは効いたわ」
 四時間掛かってもおかしくないハードな司法解剖を、雪子は二時間で終わらせた。助手に付いた職員の話では、その指先は普段となんら変わらぬスピーディさで、20キロの防護服をものともしなかったそうだ。雪子の「鉄の女伝説」がまた一つ増えるだろうと岡部は思い、その噂が薪の機嫌を悪くすることを予想して憂鬱になった。

「でも、これで臨月でも解剖ができるって自信がついたわ」
「……おい、竹内。何か言ってやれ。夫としてというよりは人として」
「さすが先生。惚れ直します」
 ……いいのか、それで。

 多大な疑問に太い首を傾げる岡部を他所に、新婚夫婦は眼と眼で想いを交わす。勝手にしてくれ、と岡部が匙を投げると、彼らは申し合わせたようなタイミングで立ち上がった。
「じゃあ、俺と先生は一旦帰ります。岡部さんは、病院へ?」
「ああ」
 司法解剖が終わり、血液検査の結果も出たおかげで治療方針が決まり、薪は病院に移された。第九には再び衛生班が入り、室内の洗浄と消毒を行って、今日の職務に支障が出ないように後始末を進めてくれている。
「こいつとの約束だからな。薪さんの傍に付いていてやらないと」

 そう言って、岡部は執務机の横を見やる。
 雪子が仮眠に使っている寝椅子に長々と伸びているのは、先刻まで第九に立て篭もっていた凶悪犯、もとい、暴走迷惑男の青木だ。こいつのせいで、今夜の疲れは二倍になった気がする。
 薪が病院に収容されて安心したのか、青木は目眩を起こして倒れてしまった。防護服を着て何時間も過ごしたのだ、体力を削られて当たり前だ。しばらく休めば元気になる。それまでは自分が薪についている、と青木に約束した。
「事件の顛末と、薪さんの身体について、説明もしなきゃならないし」
「室長に本当のことを言うの、勇気が要りますねえ。あの人のことだから、あまりのショックに暴れ出すかも」
「あたしから言いましょうか? 患者への告知は医者の仕事だし」
「すみません、その役目、オレにやらせてください」

 寝椅子から上がった声に、ソファの3人が一斉に振り返る。
「なんだ青木。起きてたのか」
 眠っているとばかり思っていた後輩はやおら起き上がり、秀でた額を押さえながら椅子に座り直した。
「薪さんにはオレから話します。だから、もし岡部さんが付き添っているときに薪さんが目覚めても、薪さんの身体のことは伏せておいてもらえますか」
「それは構わんが」
 薪の気持ちを考えたら、一刻も早く知らせてやった方が良いに決まっている。青木がそんなことも分からない訳はないから、青木なりに何か考えがあるのだろう。

 常なら「ありがとうございます」と素直に礼を言うはずの後輩は、未だ目眩が治まらないのか、岡部の応諾に頷くこともしなかった。眼鏡を外しているせいでいつもより鋭く見える青木の瞳は、暗い焔のような憂慮に満たされていた。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

パンデミック・パニック(7)

 今年は花粉、スゴイみたいですね。 花粉症の方々に、お見舞い申し上げます。

 うちのオットは重度の花粉症患者でして、殆ど廃人と化しています。 PCの前でね、鼻にティッシュ詰めて、口開いてボー。 ←薬飲んでてこの状態。 
 仕事にならないので、病院に行ったら薬を二倍に増やされて、でもこの薬はステロイド系とかであんまり身体にはよくないんだそうです。 だけど、外の仕事なのでね、服用しないとどうにもならないらしくて。 (くしゃみと涙でレベルが読めないらしい)
 本当に、花粉に殺されそうな勢いです。(--; 

 まだ発症してない人も、マスクとかした方がいいそうですね。
 わたしは現代人とは思えないくらいアレルギー皆無の女なんですけど、今年から花粉症予防のマスクをすることにしました。 夫婦してぼーっとしてたら、会社潰れちゃう☆
 みなさんも気を付けてくださいね。

 



パンデミック・パニック(7)





『というわけで、立て籠もりじゃありません』
 青木から大凡の事情を聞き終えた岡部は、口中に沸いた苦みを奥歯で噛みつぶした。青木は薪のことになると暴走する。今回もやってくれたか、と言う感じだ。
『岡部さんは、どうして状況を知ったんですか?』
「薪さんから山岡宏と言う男の保護を頼まれてな。今、法一に来てるんだ。彼の携帯番号を調べて、GPSで居所を特定しようと思って」
『あ、その件でしたら』

 青木の声を聞きながら、岡部は法一の廊下で擦れ違った白衣の女性を振り返る。短い黒髪を弾ませて彼女は、脇目もふらずに突き当りの部屋へと歩いて行く。彼女が向かう自動ドアの上には赤く点灯する標示板があり、第一解剖室と明記されていた。
 なぜ彼女が解剖室に? そもそも、こんな時間にどうして彼女がここにいる?

『オレが三好先生に連絡を。法一の連絡網をお持ちだと思って』
 おまえか――――!!!

「先生!」
 呼び止められて振り返り、雪子は初めて岡部に気付いたようだった。「あら、こんばんは」と当たり前の、しかしこの状況に置いては暢気と呆れられそうな挨拶を寄越し、岡部に会釈する。
「まさか、先生が感染者の遺体を解剖するわけじゃないですよね?」
「そのつもりですけど。……なんかマズイ?」
「第五の連中、なんて非常識な。新婚の先生に解剖を頼むなんて」
「新婚は関係ないでしょ」
 クスッと笑う雪子の鷹揚に、もしかしたら彼女は薪の窮状を知らないのか、と岡部が思ったのも束の間、雪子は厳しい顔になって、
「ごめんなさい、急いでるの。感染者の命が係ってますから」

「待ちなさい!」
 踵を返した彼女の背中に、鋭い制止が飛んだ。
 横通路から歩いてきたのは、第五研究室室長の佐伯だった。三人とも室長会議で顔を合わせているから、お互い顔は見知っている。
 佐伯は、縁なし眼鏡を掛けたインテリ然とした男で、見るからに神経質そうだ。ミクロサイズの生き物ばかりを相手にしているからか、彼はガサツな人間が苦手なんだと第五の副室長から聞いたことがある。雪子とは反りが合わなそうだ。

「勝手な真似はしないでください。あなたに解剖を頼んだ覚えはありませんよ、三好副室長」
「ええ。でも、佐伯室長ご指名の監察医がここに到着するまでには、あと1時間ほど掛かります。解剖は一刻を争うのでしょう? ならば現在研究室にいる職員の中で、わたしが一番適任だと思ったまでです」
「あなたは第九室長の友人だ。気持ちは分かるが」
「感染者が誰であろうと関係ありません。そこを退いて、わたしに仕事をさせてください」
 黒い瞳を熾烈に光らせて、自分より十も年上の第五室長に言い放つ。さすが女薪。仕事のことになると一歩も引かない。
 岡部とて、一秒でも早く細菌の種類を特定して、薪の命を助けてほしい。しかし、彼女が解剖室に入ったことで、気も狂わんばかりに心配する人間がいることも知っている。その人間の中には、当の薪も入っているのだ。それに、これは雪子の仕事ではない。彼女は青木から連絡を受け、部下の身を案じて職場に出て来ただけ。解剖のために出向いたわけではない。

「三好先生、俺からもお願いします。思い留まってください。あなたに万が一のことがあったら、竹内も薪さんも」
「夫には承諾を得ました」
 なんて夫婦だ。監察医と捜査一課の刑事なんか、結婚するもんじゃない。お互いの仕事に理解がありすぎる。
 夫の竹内が認めたなら、岡部に口を挟む権利はない。黙って道を開けるしかなかった。

「あ、そうだ。三好先生、山岡宏という職員の携帯の番号をご存知ですか?」
「山岡なら、竹内が捜索中です。見つけ次第保護してくれるって」
「その仕事は俺が薪さんに頼まれたんですけど。すでに竹内が動いてるんですか?」
「勝手な真似をしてすみません、わたしが頼んだんです。青木くんから聞きました。犯人は、彼のIDを使って第九に侵入したのでしょう? 山岡の身も心配ですし、もし彼の管理ミスで犯人の手にIDが渡ったのだとしたら、わたしにも責任がありますから」
 一を聞いて十を知る性質。そしてこの行動力。それもまた、彼女が女薪と呼ばれる所以だ。本人に言えば、「あたしは薪くんみたいな悪女じゃないわ」と笑い飛ばすだろうが。

 法一の副室長が解剖室へ姿を消した後、第五室長の佐伯は、チッと舌打ちした。広い額に青い静脈が浮いている。相当頭にきているらしい。
「ったく、生意気な女だ。20キロの防護服背負って解剖だぞ。女にできる仕事か」
「三好先生ならやるでしょうね」
「ますます生意気だ」
 ふん、と鼻を鳴らした佐伯室長は、白髪交じりのパサついた頭髪に手をやり、次いでハハッと苦笑いした。笑った佐伯の眼は人間味を帯びて、彼の「生意気な女」は「大した女だ」という意味だったのかもしれないと岡部は思った。

「彼女に解剖させたなんて分かってみろ。第一の室長はもちろん、あんたのところの室長にも何を言われることか」
「薪さんは、大丈夫でしょうか」
「当たり前だ、絶対に助ける」
 力強く言い切る細菌研究室の責任者に、岡部は頼もしさを覚える。彼の人となりを完璧に理解しているわけではないが、それでも専門家の強気の発言はありがたい。
「二度と彼の女装が拝めないなんて、考えたくもない」
 ……前言撤回。ヘンタイの言うことなんか、誰が信用するか。
 室長会のメンバーには多いと聞いたが、こいつもか。嘆かわしい。やはり原因は何年か前の暑気払いで披露した日本舞踊のせいだろうか。

「今、全職員を叩き起こして遺体から採取した血液の調査と、遺体の男の勤務先を洗わせている。研究員の中には、警察よりも民間研究所のネットワークを持っている者も多いからな」
 夜中の1時に全職員を総動員してくれるとは、しかもワクチンの入手にまで尽力して、佐伯はさすがに警察官だ。職務への熱意と厳しさと、何よりも人命を重んじる公僕の精神を持っている。
「あの頭脳は、日本警察の宝だ。失ってたまるか」
 佐伯の真剣さに岡部は感動すら覚え、先刻の女装云々はいささか場を弁えない彼のジョークだったか、と寛大な心持ちになる。心からの感謝を込めて、岡部は佐伯に頭を下げた。

「ありがとうございます。うちの室長のことを、そこまで」
「『女装を愛でる会』会員ナンバー1ケタの栄誉会員として、全精力を傾ける所存だ」
 高校野球の宣誓のように誇らしく言って、佐伯は自分の仕事場へ戻って行った。
 顕微鏡ばかり覗いているせいですっかり曲がった彼の背中をへし折るのは、薪が健康体に戻ってからにしようと岡部は思った。



*****


 薪さんが室長会で着物着たのって、元はと言えば岡部さんのせいなんだけど。(『新人騒動』及び『岡部警部の憂鬱Ⅱ』)
 人間、自分に都合の悪いことは忘れちゃうもんですよネ。(・∀・)


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
毎日たくさんの拍手をありがとうございます。励まされてます。
おかげさまで、しづは元気で仕事してます。(10/28)
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