きみに咲く花(1)

 中国当局によるウィグル族弾圧の記事がネットに載ってて、思わず読みふけってしまいました。現実に、滝沢さんは存在するんですよね。つくづく重い話だったんだなあ。呑気な二次創作書いてて何だか申し訳ないです。


 さて。
 すずまきさんの後編に入る前に幕間のあおまきさんです。
 どうしようもなくあおまきすとなわたし。






きみに咲く花(1)






 キラキラと輝く水しぶきが跳ねるたび、甲高い歓声があちこちで上がる。きゃっきゃとはしゃぐ子供と華やかな若い女性の笑い声。そんな情景にはまったく相応しくない、いっそ呪詛のような声で青木は薪に訴えた。
「なんでですか」
 声も呪わしいが表情はもっと恨めしい。蒸し暑い夜にはぴったりの風物詩かもしれないが、生憎ここはレジャープールのド真ん中。KYもいいところだ。
 青木が執拗に薪を責める理由がこれまた頭にくる。ものすごく下らないことなのだ。つまり、
「なんで鈴木さんとはペアで滑れて、オレとはできないんですか」
「当たり前だろ。僕とおまえ、いくつだと思ってんだ。43と32だぞ。気色悪いと思わないのか」

 2週間ほど前のこと。休日を利用してアルバムの整理をしていたら、鈴木とペアスライダーでプールに飛び込む写真が出てきた。懐かしくて眺めているのを青木に見られていた。内心、しまったと思った。青木は頭に超の字が付くヤキモチ妬きで、死んでしまった人間にすら嫉妬するのだ。
 その報いは当日の夜、嫌というほど受けたのに。それでも腹の虫が治まらなかったらしい彼は、休日が確定すると薪に内緒でプールのチケットを取った。薪は久しぶりに朝寝ができると期待していたのだが、目が覚めたら車の中だった。訳が分からず辺りを見回した薪に、青木は楽しそうに微笑んで「おはようございます。もうすぐ着きますからね」ってオカシイだろ、そのセリフ。
 これは立派な犯罪だ。本人の同意を得ずにその身体を車に乗せて走る行為には、拉致監禁罪が適用される。相手が一緒に暮らしてる恋人じゃなかったら、の話だが。
 仕方がないので水着に着替えてプールサイドに来たものの、そんな経緯だから、薪は青木に甘い顔をしてやる気など一切なかった。泳ぐのは好きだからプールは楽しませてもらうが、青木が期待している水の中で戯れ合う恋人たちとか絶対にごめんだ。ましてや男とペアスライダーなんて、死んでもするか。

「でも鈴木さんとは」
「あのときは未だ学生で、2人とも20歳前だった」
「嘘ですね」
 青木の言う通り、それは嘘だった。本当は年齢ではなくて値段の問題だった。さすが第九の捜査官、よく見抜いた。褒めてやろうとして次のセリフに脱力する。
「年の問題じゃなくて気持ちの問題でしょ」
 そんなだからおまえは出世できないんだ、万年警視が。
「だから気色悪いって言ってんだろ。おっさん2人でペアスライダーなんかしてみろ。公然猥褻罪で現行犯逮捕だぞ」
 薪は心底嫌そうに、否、嫌そうなのではなくて実際に嫌なのだ。今の薪は、あの頃のような世間知らずの子供ではない。公共の場所で取るべき行動を正確に理解している、良識ある大人なのだ。

「薪さんがそこまで拒否するなら、オレにも考えがあります」
 薪が厳しい態度を貫くと、青木は思い詰めた表情になった。黒い瞳に宿る不退転の決意。プライベートではちょっとお目に掛かれない恋人の貌に、薪は些少の不安を覚える。まさか、こんなつまらないことで別れるとか言い出す気じゃないだろうな?

「泣きます」
「……あ?」
「この場で薪さんの名前を呼びながら泣きます。一緒に滑ってくれるまで泣き続けます」
 なんて恐ろしい脅迫だろう。別れ話の方がなんぼかマシだ。
 衆人環視の中、只でさえ人目を引くこの大男にわあわあ泣かれたら何十人の白眼視を受けることか。友人をプールに突き落としたどころの騒ぎじゃない。ここから走って逃げたとしても、一度受けた蔑みの視線は夜毎薪に悪夢を見せるに違いない。それは薪のこれからの人生に影を落とし、てかもうこいつメンドクサイいっそ別れたい。

 断腸の思いで薪は答えた。
「一度だけだぞ」
「ありがとうございます! ああうれしい!」
 薪は苦虫を潰したような顔をして、ものすごく嫌そうに言ったのに。青木があんまり素直に喜ぶから、その横っ面を張り倒してやりたくなる。

「礼には及ばない。もう二度とこのプールに来なきゃいいだけの話だ」
 皮肉たっぷりに薪は言った。残念だった。このレジャープールには天然温泉を引いた入浴施設があって、隣の部屋ではマッサージも受けられて、とても気に入っていたのに。
 いつものことながら、薪の皮肉は青木にはぜんぜん通じなかった。彼はしょげるどころか我が意を得たりとばかりに頷き、なんでそんなに満足そうなんだと訊いたらこんなことを言い出した。
「オレ、このプールもともと嫌だったんですよね。薪さんがオレのことほったらかしにして、フラガールばっかり見るから」
「どこのプールに行っても僕はおまえより水着の女の子を見るけど」
「うあああんっ!」

 泣き声を上げる青木を、スライダーのてっぺんからループ外に突き落としてやりたいと思った。まったく分かってない。薪は青木と一緒にプールに来ると、いつも戦々恐々なのに。
 青木は背が高くて顔もイケてて、なによりも鍛え抜かれた身体が女子の視線を引き寄せる。熱っぽい瞳で青木を見つめる彼女たちはみんな若くて可愛くて華やかで、どう考えても中年オヤジの自分が勝てる相手じゃない、ていうか、それこそ年齢の問題じゃない。自分が男って時点で勝負は着いてる。
 それと、もう一つ。
 薪は青木の逞しさを視覚以外の感覚で知っている。身体に教え込まれていると言うべきか。だから裸に近い彼の姿を見ていると、うっかりそういう事を連想してしまう。そんな時は自分の浅ましさが視線に現れているのではないかと心配になる。
 それでも薪は青木を見てしまう。顔を赤らめてきゃあきゃあ騒ぐ彼女たちよりずっと頻繁に。
 そんな裏事情に全く気付かない、そこが青木のいいところだけど。たまにムカついて苛めたくなるのは薪だけじゃないはず。青木が抱えたペアボートの陰に隠れるようにしてスライダーの列に並びながら、薪は不機嫌に眉を寄せた。

「一緒に滑ったら泣かない約束だろ」
「だって薪さんが意地悪ばっかり言うから」
「意地悪じゃない。本音だ」
「うええええんっ!!」
 自分たちの後ろに並んだカップルに笑われてる気がする。隣を通り過ぎて行った女の子同士のグループにもじろじろ見られた。チケットをもぎる係員にも笑顔の裏で「プールにホモ菌ばらまくなよ汚ねえな」とか思われてる絶対。
 あからさまな言葉や態度には表れないそれらを薪は過剰に感じ取り、でも鈍い青木は気付かない。本当は気付かないのではなくて気にならないのだが、だって青木は薪と一緒に過ごせたら他のことはどうでもいいから。
 薪が悲愴に考え青木が楽観するその現実は、二人の中間と言ったところ。この国は未だ、全国民が同性のカップルを認めてはいない。しかし、昔よりはずっと寛容になってきている。公共の場所でふしだらな行為に及ばなければOK、とそれは男女のカップルにも言えることで、他人に迷惑を掛けず節度を持って付き合うなら個人の自由だと考える人間が殆どだ。少なくともここには、彼らがこの世に存在することも認めない、などと言う強い弾劾意識を持った人間はいなかった。要するに、薪の考え過ぎだ。

 被害者妄想とは別のところで、薪はすでに諦めている。他人から好奇の眼で見られること、子供の頃からそうだった。もう慣れっこだ。大した問題じゃない。それが青木を傷つけない限りは。
 彼が笑ってくれるなら、他人になんて思われたっていい。て、いま彼は泣いてるけどな。

 彼に笑顔を取り戻させるべく、薪は青木にやさしい言葉を掛けた。
「だから泣くなって。本音も話せない関係なんて長続きしないぞ」
「オレの心が長続きしません」
「柔軟でしなやか、耐摩耗性に優れてるのがおまえの長所だ」
「オレはファンベルトですか」
「いや、ゴムパッキン。簡単に取り替えが効くやつ」
「しくしくしくしく」
 しまった。マジ泣きさせちゃった。
 仕方ないからゴムボートの死角を利用してそっと彼の手を握った。ピタッと泣き止んだ青木に、薪はニコリと微笑みかける。
「次、僕たちの番だぞ」
「はいっ!」
 嘘泣きか、テメー。

 むかっ腹立つけど、彼の全開の笑顔にはどうも弱くて。彼の気分のアップダウンを操っているつもりでも、実際に翻弄されてるのは自分かもしれない。薪は肩を竦めてボートの前席に座った。
 少し間を置いて後ろに青木が乗った。安全のために眼鏡を外しているからよく見えないのだろう、足元がおぼつかないようだった。薪の倍くらいの時間をかけて彼が着座すると、係員が「行きますよー」とボートの取っ手から手を放した。

「う、ぎゃあああああ!!」
「ひゃあっ!?」
 スライダーが発進した途端、後ろから物凄い悲鳴が聞こえた。同時にがしっと抱きつかれて、こっちまで奇声を上げてしまった。背後から動きを封じられ、何が起こったのか振り返って確かめることもできない。激しい加速度の中、薪は大声で尋ねた。
「青木っ、どうした?!」
「こわいですっ!」
「怖い? 航空機免許持っててホイストもできて、レーシングカーで300キロ出しても平気なおまえが?」
「高いところから落ちるのは嫌ですー!!」
 あほか。
「じゃあスライダーなんか乗らなきゃいいだろ」
「だって鈴木さんばっかり薪さんにくっついて悔しいから、ひいいいいい!!!」
 ああホントにメンドクサイこいつ。

 恋人の馬鹿さ加減はいっそ気絶したいくらいだと思うのに、彼にぎゅっと抱きしめられる高揚感と落下するスリルに薪のテンションはどんどん上がって。
「バァ――カ」
 毒づきながら笑い転げた。






テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

アイシテル 前編(4)

 11月から現場に出ることになりました。
 その準備でちょっち忙しくてご挨拶とか省略してました、ごめんなさい。
 2月末の工期まで、日中はPCに触れなくなるので、更新がゆっくりになると思います。気長に待ってやってください。


 公開中のお話はこれで一時幕です。
 読んでくださってありがとうございました。






アイシテル 前編(4)







 その夜。
 薪は、ベッドの横に敷いた布団で寝息を立てている友人を見ていた。短い時間でも深く眠ったせいか、一向に眠気は差してこない。好都合だと思った。鈴木の寝顔なら、何時間でも見ていたい。
 文句なしにハンサムだと思った。

 鈴木は恋人と別れてもすぐに新しい彼女ができる。「あっちから来るんだもん」と、それは薪には都合のよい言い訳に聞こえて、つい「大して好きでもないなら断ればいいのに」と彼の軽さを非難するような言葉が口から零れた。それに対する自己弁護がまた鈴木らしくて、
「断ったら相手が可哀想だろ。女の子なのに」
 付き合ってるうちに好きになることもあるよ、とも鈴木は言った。確かに、付き合ってみなきゃ相手のことは分からない。薪だって最初は、彼をこんなに好きになるなんて思わなかった。

 どうせ1週間も続かないのだろうが、とにかく、今の鈴木には恋人がいない。鈴木は人気者だから友だちもたくさんいるけれど、特別な人はいない。

 ――今なら、言ってもいいかな?

 最初の文字は口にカレースプーンを入れるときの形。それから歯を噛み合わせて唇を横に開く、そのまま2文字。その次は舌先が前歯の裏を打ったから、タ行の文字。最後に、キスをするときのようにくちびるを窄めて完成。

「ふふっ」
 ひとり笑って薪は、枕に顔を伏せる。
 声には出せなかったけれど。たまらなく幸せな気分になった。
 心臓がどきどき言ってる。初めて味わう種類の高揚感。身体の奥底から込み上げてくる、この温かいものはなんだろう。薪の中にあって、薪の知らない何か。

 もう飽きるほど見ているのに、また彼の顔が見たくなって薪は枕から顔を上げた。うつ伏せになって、組んだ腕に頬をのせて。見下ろせば穏やかな彼の寝顔。彼は眼を閉じているから好きなだけ見ていられる。今夜はなんて幸せなんだろう。

 彼の顔を見ながら、彼の言ったことを思い出す。
 あれは鈴木に限ったことじゃない。みんな同じなんだ。
 誰もが自分の中に花の種を持っていて、咲いた花を大事に守ってる。誰かと愛し合うってことはそれを見せ合うってことで、相手の花も自分のと同じように守っていくってことなんだ。二人で守っていくってことなんだ。

 友人の恋愛話には疎いが、身近な実例がある。薪の両親だ。
 彼らは親の反対を押し切って駆け落ち同然で結婚したから殆どの親戚から無視されていた。子供だった薪は詳しい事情は聞かされていないが、叔母がぽろっと漏らした話では、とある資産家が母を見初めたが母は既に父と恋仲になっており、その縁談を断ったせいで実家が破産してしまったとか。そんな状態だったから暮らしも楽ではなかったし、他人に後ろ指を指されることも多かっただろう。それでも。
 愛し合って結婚した二人は幸せだったと思う。父と母は守り抜いたのだ、自分たちの花を。そして薪が生まれた。
 鈴木が言うことは本当だと思った。恋をして、それを守ることは尊くて素晴らしい。

 その夜、薪は誓った。
 鈴木のように、父と母のように。自分も自分の花を守っていこう。いびつな花かもしれないけれど、薪にはたったひとつ咲いた花。枯れないように折れないように、この花を守れる人間は自分しかいない。
 僕の胸の中でしか咲けない花だけど。僕はこの花を大切に守る。

 薪はその日、三度目の秘密の言葉を飲み込んだ。しかしそれは前の2つとは違って、ひどく甘い疼きを薪の胸に植え付けたのだった。





*****





「表面が半生の状態になったら菜箸で、いえあの掻き回すんじゃなくてそっと持ち上げるように、だから力入れ過ぎなんですってば」
 言いながら薪はクッキングヒーターのスイッチを止めた。フライパンの中にはガチガチに固まったスクランブルエッグ。いったいどうやったら卵をここまで固く焼き上げることができるのか、薪には見当もつかない。笑顔の下にため息を隠し、薪は「大分上手くなりましたね」と労いの言葉を掛けた。
「まだ見た目はちょっとアレですけど、味は、……雪子さん、僕ここで何してたんでしたっけ」
 切れ端を口に入れたら一瞬だけど記憶が飛んだ。二口目は命に関わると思って、無言でディスポイザーに投入した。相変わらず雪子の料理はバイオハザードだ。

「ごめん、薪くん」
「いいですよ。雪子さんには柔道を教えていただきましたから。これはそのお返しです」
 しおらしく謝る雪子に、薪はやさしく微笑みかけた。両手を胸の前で握り、ファイティングポーズを決める。
「次はきっと上手く行きますよ。がんばりましょう」
 薪に元気付けられて、雪子の顔がホッと緩んだ。よし、と彼女は気合を入れて卵を握る、ぐしゃりと潰れる、だから力入れちゃダメなんですってば。

 ぬるぬるした白身の感触に顔を歪める、雪子は最近鈴木にプロポーズされたばかり。結婚が本決まりになったからには逃げるわけにはいかないと、苦手科目の料理を特訓中だ。プロでもない薪が彼女に料理を教えているのは、たった一度の授業で料理学校の教師陣の味覚を破壊した雪子が出入り禁止を言い渡されたことと、もう一つ。薪が若い頃、鈴木の母親から料理を習っていたからだ。
 鈴木家のレシピは殆ど薪の頭の中に入っている。それは鈴木の妻になる彼女にこそ必要なものだ。

 雪子は真剣な顔でボール内に落ちた卵の殻を拾おうとしている。つるつる滑る白身に苦労しながら菜箸で何度も探って、て、高速で掬うもんだから白身が泡立っちゃってますけどいっそのことメレンゲでも作りましょうか?

 薪の心に、懐かしい痛みが蘇る。鈴木のために自分の苦手を克服しようと懸命に努力する雪子が昔の自分と重なった。
 あの頃、薪はただただ鈴木を喜ばせたくて、それだけのためになんでもやった。どんな類の努力も厭わなかった。鈴木が望めば、苦手なことも頑張った。身の置き所に困るような羞恥にも耐えた。彼のことが、好きで好きでたまらなかったから。

 ――今も。

 数えきれないくらい飲み込んだ言葉を、薪は今日も飲み込む。
 あれから十余年、色々なことがあったけれど。
 あの時の花はまだ咲いている。これからも枯れることはないだろう。



―了―



(2013.7)





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アイシテル 前編(3)

アイシテル 前編(3)






 チャイムが鳴ったのは、レム睡眠の真っ最中。薪は低血圧症だ。当然、寝起きは悪い。2回目のチャイムが聞こえたが、居留守を決め込むことにした。
 しかし次の瞬間、彼の瞼は限界まで開くことになる。
『薪くん、早く開けてー。鈴木くんの干物ができちゃうー』
 布団を跳ね除けて起き上がり、玄関に突進しようとして転びそうになった。ズボンと下着が膝のところに引っかかったままだ。慌てて引き上げて前を閉めた。
 消臭スプレーを撒き、念のために窓も開けた。鼻が慣れてしまって自分では分からないが、他人に気付かれたら恥ずかしい。男ならこれが何の匂いかすぐにわかる。

「なんで」
 信じがたい思いでドアを開け、声の主がそこにいることに驚いた。声がしたのだから彼がいるのは当然で、でも薪にはやっぱり信じられなかった。彼女と一緒にいるはずの鈴木が、自分の目の前に立っていること。
「おまえが来いって言うから来たんだろ?!」
 当たり前だが、鈴木は怒った。謝らなきゃ、と思いつつも驚きが薪の正常な思考を奪っていた。エラー信号を発する頭脳は「無理を言って悪かった」という正しい言葉を選ぶことができず、薪はペロッと本音を喋ってしまった。
「言ったけど来るとは思わなかった」
「なんだよ、それ」
「……なんだろう」
 鈴木は呆けたような薪の顔を見て吹き出し、げらげら笑った。

「さては寝ぼけたんだな。アタマ、寝癖ついてる」
 髪を撫でられて、櫛を通していなかったことに気付いた。先刻、ベッドの上で何度も頭を振ったからボサボサになっているに違いない。薪はすっと身を引いた。そんな状態で鈴木に触られるのは嫌だった。
「寝てない。寝ぼけて電話したんじゃない」
「そう? じゃ、何の用事だったの」
「用事は、その」
 せっかく鈴木がうまい言い訳を用意してくれたのだから乗っておけばよかった。いつものことながら後悔先に立たずで、薪は黙って俯いた。
 話しながら部屋に上がった鈴木が、すたすたと奥の部屋に入って行く。彼は何度かこの部屋に泊まったことがあって、だから遠慮する気配もなかった。
 普段は閉めてある寝室の戸が開いていることも、ベッドが寝乱れて枕に亜麻色の髪の毛が付着していることも、つい先刻までここで薪が眠っていたことの証明だった。が、鈴木は何一つ指摘することなく、枕の横に置いたままだった写真を手に取った。
「そっか、薪に預けといたんだっけ」
 自分の写真だけを持って、鈴木は居間に戻ってきた。さりげなく寝室の引き戸を閉める。彼のそういう小さいやさしさに触れるたび、薪は切なさでいっぱいになる。彼への気持ちが膨らむ。走り出しそうになる。薪は必死に言い聞かせた。

 鈴木は誰にでもやさしいんだ。僕にだけじゃない。僕は特別じゃない。

「よく撮れてるよな、これ」
 ローテーブルの前に座り、鈴木は薪に同意を求めた。彼の隣に座って、手元の写真に顔を近付ける。彼の首筋からはフローラルな香水の移り香がして、薪の胸をずきずきと痛ませた。
「薪くん焦っちゃって。かーわいい」
「焦ってるのは鈴木だろ。なっさけない悲鳴あげてたじゃないか」
「薪だって本当はビビッてたくせに。心臓、めちゃめちゃ速く打ってたぞ」
「あれは」
 スライダーが怖かったわけじゃない。だけど理由を説明することはできなくて、薪はぷいとそっぽを向く。それを自分の言い分が通ったものと解釈した鈴木が、偉そうに胸を張るのを見てムカついた。
 相手を論破することはできなくても何か一言は言ってやろうと薪が考えをまとめているうちに、鈴木の腹がぐーっと鳴った。その音に生理的欲求を揺り起こされて、組み立てた理論が霧散する。時計は8時を回っていた。

「鈴木、お腹すいてるの?」
「メシの途中だったんだよ。カレーライス二口しか食ってない」
 食事中だったと聞いて、ますます悪いことをしたと思った。理性が戻ってくれば常識的な判断も心配りもできるようになる。薪は気まずさに眼を逸らしながらも尋ねた。
「彼女のところに戻らなくていいのか?」
「んー、あの娘はもういいや」
「いいやって」
 鈴木から返ってきた答えはあまりにも意外で、薪は思わず鈴木を見直した。ふっと細めた彼の黒い瞳に苦渋や後悔の色はなく、話してくれた経緯もまるで他人事のようだった。
「店を出ようとしたら『アタシと薪くんどっちが大事なの?』って聞かれて『今は薪』って答えたら怒り出したから。オレが別れようって言ったら、彼女もそうねって」
「そんなことで?!」
 薪は鋭く切り込んだ。自分でもびっくりするくらい凶悪な声だった。
「軽いにも程がある。鈴木、女性をなんだと思ってるんだ」

 フェミニストを装ったけれど、それは欺瞞だった。本当は彼女が羨ましくて堪らなかった。
 もともと鈴木は彼女のことを大して好きじゃなかったのだろう。別れるきっかけを探していたのかもしれない。おそらくは彼女も。でなかったらそんなつまらないことで別れ話になんかならないはずだ。
 その程度の付き合いなのに、薪が絶対に越えられない一線を彼女は越えられる。鈴木に直接触れて、彼を受け入れることができる。猛烈に嫉妬した。

「身体の関係もあったんだろ。それをそんなに簡単に、無責任じゃないのか」
 こんなに彼を想っているのに、指一本触れられない自分が憐れだと思った。夢想することにすら罪悪感を覚える、そんな自分の立場が悔しくて滑稽で。鈴木は、その苛立ちをぶつける正当な相手ではない。分かっていても止められなかった。
「僕は一生大事にするって決めた相手としか寝たくないし、寝ない。絶対に」
 暴走する感情を制御することができない。自分の未熟さにも腹が立って、悔し涙まで浮かんできた。これ以上鈴木の顔を見ているともっと乱れてしまいそうで、そうしたら、苦労して飲み込んだ言葉がみんな出てきてしまいそうで。薪は鈴木に背中を向けた。

 気持ちを落ち着けようと深く息を吸い込んだ。何回か繰り返すうちに思考力も戻ってきて、薪は自分が不当な怒りを鈴木にぶつけたことを後悔した。それもあんな卑劣に。彼女が可哀想だなんてちっとも思わなかったくせに。結局最低なのは自分で、薪はつくづく自分が嫌になった。

「修羅場ったに決まってんだろ」
 沈黙した薪の背中で、鈴木が言った。
 振り向くと、鈴木は苦く笑っていた。今まで見たことのない彼の表情は何だかひどく大人びていて、薪の胸は新しい痛みを覚える。疼くように痛むのに、甘い気分になる。これもそうなのだと薪は最近知ったばかり。恋の痛みにはたくさん種類があるのだ。
 じっと見つめる亜麻色の瞳を今度は逸らさずに、薪は鈴木の言葉を待った。彼がこれから話すことが真実だと分かったから。
 鈴木は普段は調子のいいことばかり言って本音を語らない。怒っても声を荒げたりしない。でも薪に大事なことを教えてくれる時には少しだけ厳しい声を出す。薪は鈴木のその声を聞くと、身体の芯がじんわりと温かくなる。

「恋愛ってのは、付き合い始めるときは簡単でも別れるときは修羅場なの。女の子はその場で泣いて、男は心の中で泣くの。どんなカップルでも、涙一つなしに別れられるカップルなんかいないの。オレも彼女もちゃんと泣きました」
「それならどうして」
 最初からそう言わなかったのかと聞こうとして、鈴木が彼女と別れることになった決定的な要因に思い至る。薪が掛けた電話のせいでこうなったのだと、本人を前にして口にできるわけがない。薪に対する気遣いからわざと何でもないことのように振る舞ったのだとようやく分かって、薪は、我が身の憐れさにばかり囚われていた自分を恥じた。
「ごめん」
 薪が謝ると、いいよ、と鈴木は微笑んだ。
「薪は未だ女の子とちゃんと付き合ったことないんだろ。分からなくても仕方ない」
「分からないついでに訊いてもいい?」
 尋ねながら、薪は鈴木に歩み寄った。一歩近づくごとに胸の痛みは増していく、息が苦しくなる。甘さは背筋を駆け降りて、両脚を痺れさせるほど。しっかり立とうと足を踏ん張った。

「そんな思いして別れて、どうしてまた新しい恋ができるの? 嫌にならないのか?」
「嫌になんてならないよ。楽しいもん」
 そうか、と薪は思った。鈴木の恋と自分のそれは違うのだ。
 他人に知られてはいけないものでも罪悪感を伴うものでもない。別れのときには少々嫌な思いをするが、愛し合っている間は幸福感に満たされた楽しい日々が続くのだろう。だから何度でも挑むことができるのだ。
 薪はそう結論付けたが、その考えは鈴木に否定された。
「楽しいからって言い方は正確じゃないな。ぶっちゃけ恋愛って、辛いことと楽しいことの比率は半々くらいだもんな」
「え。そんなもんなのか」
「そう。そんなもん」
 だったら自分とそれほど変わらないと思った。鈴木と一緒にいると、独りの時に味わった辛さを忘れてしまうほど楽しい。ついさっき自分を慰めながら彼を思って泣いた、その痛みの片鱗すら、彼がいれば喜びに変わる。彼さえいてくれたら。

「でも、片思いにしても両思いにしても好きな人ができるとさ、パーッと心に花が咲いたみたいになるだろ」
「花?」
「うん。世界が輝くって言うか人生に張りができるって言うか、色んなこと頑張れるじゃん。だから恋はしてた方が楽しい」
「片思いで、辛いばっかりの恋でも?」
「うん。してた方がいい。ぜったい」
 ニコッと鈴木に笑いかけられたら、つうんと鼻の奥が痛くなった。息を止めてやり過ごす。
 しばらくして薪は言った。
「鈴木のドM」
 涙腺が緩まないように顎を上げたから、見下すような目線になった。すごく嫌な目つきだったと薪は思うのに、鈴木は何故だかとても嬉しそうに笑った。
「センセー。薪くんがボクを誤解してまーす」

 失笑しながら薪は台所に行き、すると鈴木も着いてきた。冷蔵庫に鍋ごと入れておいたカレーと密封容器に保存しておいたサラダを取り出す。福神漬は一人だと無駄になるから買ってないが、キュウリのピクルスがあるからそれで代用することにした。
「昨日のだけど。よかったら」
 鈴木の口に合うかな、と一匙掬って差し出すと、間髪入れずに食いつかれた。冷たいカレー、夏は意外とこれが旨い。
「お? おおお?!」
 鈴木は薪の手からスプーンを奪い、二口三口とカレーを口に運んだ。鍋のまま完食しそうな勢いだ。
「鈴木ストップ。ちゃんと温めるから」
「薪、これ美味い。すっげー美味い」
 ぬいぐるみを抱く子供のように鍋を抱える彼から何とか鍋を取り返し、今夜の夕食を確保する。ご飯は炊くのに時間が掛かるから、冷凍保存してあるものを使うことにした。
「おふくろが作るカレーに負けないくらい美味いよ」
「それはどうも」

 薪は素っ気なく頷いて、でも心の中ではガッツポーズを決めていた。鈴木には内緒だが、塔子さん、つまり鈴木の母親に料理を習っている。表向きは健康のためにバランスの良い食事を作れるようになりたいから。本音は、しょっちゅう遊びに来る友人に美味しいものを食べさせたいから。男が料理なんて恥ずかしいから鈴木には秘密にしてくれと頼んでおいたのだが、彼女の口は堅いようで安心した。
 カレーをコトコト煮立てながら、じゃが芋を潰さないように木べらで混ぜる。加熱することでスパイシーな香りが立ち上って、口中に唾が沸いた。待ちきれなくて、レンジにかけたご飯が温まった時点でカレーを掛けたら微妙に温かったが、どちらからも文句は出なかった。薪も鈴木も健康な19歳。食欲は一番に満たすべき欲求だ。
 食べながら、いつものようにあれやこれやと話をした。昼間行ったプールの話は出たけれど、彼女の話は出なかった。鈴木の口から女性の話が出ないことは珍しく、薪は、それだけで自分がとても穏やかな気持ちになることに気付いた。
 ずっとずっと、鈴木の彼女たちにやきもちを妬いていたのだと知った。本当にバカみたいだ。嫉妬できる立場じゃないのに。

「今夜、泊まってもいい?」
「いいけど、家に連絡しろよ。塔子さんが心配する」
「大丈夫。元々今日は薪の家に泊まるって言ってあるから」
「泊りがけのデートのたびに僕の名前使うのやめろ」
 鈴木が彼女と朝まで過ごすつもりだったと知って薪は、たった今、自分にはその資格がないと理解したはずの権利を行使する。この感情には薪の得意な理屈も方程式も通じない。厄介なことだ。
「こないだも塔子さんにゼミの実験が長引いて家に帰れなかった話をしたら、その日は克洋を泊めてもらったんじゃないの、て訊かれてすごく困った」
「ちゃんとごまかしてくれた?」
「ああ。鈴木は合鍵の場所を知ってるからいつも勝手に入ってるんですって言っといた」
「さすが薪くん。頼れる男性ってステキ」
「まったく。あんないいお母さんに嘘吐くなんて」
「オレも胸が痛むけど。この息子が言うこと聞かなくて」
「……切れば」
「センセー。薪くんの眼が笑ってませーん」
 薪は笑いながら立ち上がり、鈴木にカレーのお代わりをよそった。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

アイシテル 前編(2)

アイシテル 前編(2)







 金属製の階段が薪の足下で鈍い音を立てた。若者らしくない足取りで、それも仕方ない。彼は少々疲れていた。
 誰も待っていない部屋のドアを開け、むせ返るような蒸した空気に顔をしかめる。ただいまも言わずに中に入り、すぐにエアコンのスイッチを入れた。水遊びで疲れた身体をベッドに横たえる。
 夜は彼女と約束があるから、と鈴木に言われて別れたのが6時前。夏の夕刻は明るくて、「まだいいだろ?」という言葉を飲み込むのに苦労した。

 最近の自分は、彼と一緒にいたいという気持ちが大きくなり過ぎている。薪は自分を客観的に判断し、そこに潜む多大な危険性に慄きながらも、じわじわとそれが自分を蝕む感触に身を震わせた。
 拒み難いのは、それが快感だから。彼のことを考えると頭の芯が痺れるよう。こんな快感は初めてだった。

 カーテンに遮られた西日が窓の向こうを朱に染めている。閉め切った部屋の中は薄暗くて湿気臭い。明かりを点けるのを忘れたな、と照明器具を見上げながら、でも動くのが億劫だった。
 ふと思いついて、薪は自分の隣に横たえたデイパックから、今日の記念品を取り出した。
 紙製のケースには2Lサイズの写真が二枚。一枚は鈴木のものだ。プールの係員から薪が預かって、帰り際に渡すつもりだったが、彼女との約束の時間が迫って焦っていた鈴木を引き留めるのが悪くて、この次会ったときに渡せばいいと敢えて口にしなかった。

 写真には、若い男性二人が二人乗りのボートでプールに飛び込む瞬間が写っていた。
 ほんの僅かの時間で済むのだから、渡せばよかった。この写真を見ながらだったら言えたかもしれない。薪がこの日飲み込んだ、二つ目の言葉。「楽しかった」。

 プールサイドでのやり取りを思い出す。男同士でペアボートなんておかしい、と薪が主張すると、鈴木はヤシの木と海岸が描かれたウォータースライダーの看板を指さしてにっこりと笑った。
「ペアチケットの方が安い」
 言われて料金表を確認すると、一人乗りは700円、二人乗りは1000円で確かに得だった。しかしあれは男女のカップルが利用するものだろう、と薪が尚も拒むと、
「みんなそうしてるぜ。ほら、あの子たちとか」と鈴木は、ペアボートを抱えて順番待ちの列に並んでいる人々を振り返った。
「子供じゃないか」
「あっちも」
「女の子同士だろ」
「実に嘆かわしい。当校の法学部に在籍しながら男女平等の理念も解さないなど」
 鈴木は眉間に寄せた縦皺に二本の指を当て、険しい表情で首を振った。共通の授業を受けている葛西教授のモノマネだ。思わず吹き出した薪に鈴木は顔を近付けて、
「ヤロー同士でも普通にするって。みんな小遣い無くてピーピー言ってんだから」
 彼は笑って、本当に太陽みたいに眩しく笑って、だから薪は何も言えなくなる。友だちのセオリーについては鈴木の方が詳しいし、そういうものかと自分を納得させた。
 冷静になって考えてみたら謀られた気もするけれど後の祭り。証拠写真まで撮られて、もう二度とあのプールには行けない。

 写真を眺めていたら、背中に当たっていた彼の胸の感触を思い出した。
 厚い胸だった。弾力があって、温かくて。前に回された腕は長くて太くて、特に二の腕は筋肉質で硬かった。
 スライダーの加速度に驚いた彼に、咄嗟に抱きしめられた。そのときの感触が蘇る。ぞくん、と背筋が震えた。さっきよりもずっと強い快感。荒々しい衝動に追い詰められる感覚。薪は眼を閉じ、唇を噛んだ。

「また……」
 いけない事だと拳を握りしめるが、抑えられないことは経験済みだった。右手がそろそろと下りていく。ジーパンの上から触ると、立ち上がりかけているのが分かった。戒められる痛み。ジーンズの前を寛げて下着の位置を調整すると楽になった。
 このまま放っておけばいい。別のことに気をやって、数学の課題のことでも考えて。だっておかしい、まだ外が明るいのにこんなこと。
 思考とは裏腹に身勝手な薪の手は下着の中に忍び込み、彼に快楽を強制する。握られて腰がわなないた。指先で穂先を弄られる快感に「あ」と声が漏れた。少しでも感じてしまったら止まらなくなる。太腿が震えた時点で負けだった。諦めて、薪はズボンと下着をずり下げた。
 狭い下着の中という制約から逃れた右手は奔放に動き、薪は堪らず喘いだ。何も付けなくても手指が滑るくらい、先端からは若さが溢れだしていた。

「んっ」
 余計なことを口にしないように歯を食いしばる。他人を警戒しているのではない、その言葉を自分が聞きたくないのだ。
 薪の脳裏に浮かんでいるのは帰りの更衣室で着替えていた彼の姿。ロッカーは隣同士で、彼と喋りながら着替えをした。自然に眼に入った鈴木の裸体は、ポジフィルムのように薪の海馬に焼きついた。
 薪本人に断りもなく、頭の中に勝手に浮かんでしまう映像は消すことができない。オートフォーカスのように自動的に焦点が結ばれるのを防げない。だからせめて音声だけは。
 そう強く念じるのに、薪のくちびるは薪の切なる想いを残酷に裏切る。口を開けたのは苦しくなった呼吸を補うためであって、彼の名前を呼ぶためじゃない。

「す……ずきっ……」

 それは薪にとって許しがたい裏切りであった。少なくとも薪は、他人からそれを向けられたときにそう感じた。その自分が。
 あり得ない。同性の友人に欲情するなんて。

 何かの間違いだと思いたかった。20歳前後の男の身体は過敏で、ほんのちょっとの視覚刺激や物理刺激でそういう状態になることもある。耳に挟んだ話に便乗し、自分にもその現象が起きたのだと強く言い聞かせた。
 薪は生まれつき淡白でそちらの方面にはあまり関心が持てず、未だ女性経験もなかった。だからと言って同性の身体にはもっと興味がなかった。はずだった。

 先月、薪にはとてもショックな出来事があって、鈴木の前でボロボロ泣いてしまった。やさしい鈴木は目の前で泣きじゃくる友人を放っておけなかったのだろう。自分の胸に抱いて慰めてくれた。
 友だちの少ない薪は、それまでこんな風に他人と触れ合った経験がなかった。もちろん、肉親でもない人間に取り縋って泣いたのも生まれて初めてだった。その体験がこんな馬鹿げた衝動の遠因になったのだろうと、最初はそれくらいにしか考えなかった。男に抱き締められるなんて気色悪いことだと決め付けていたけれど、現実にはそんなに嫌じゃなかった。鈴木に邪心がなかったこともあるだろうが、大事なのは自分の感じ方で、あのとき薪は純粋に嬉しかった。周りの人間が何と言おうと薪は自分の味方になってやれと、鈴木に自分を肯定してもらえたことが嬉しかったのだ。

 その時点で薪は、実際には性体験の一つもなかった。でも幼い頃から他人に色眼鏡で見られ続け、事あるごとに誘っただの色目を使っただの言われていたら、本当に自分が厭らしい人間みたいに思えてきて。自分の顔も身体も、どんどん嫌いになっていった。

 薪が初めて自分の顔の造作を呪ったのは、中学生のとき。
 クラスメイトが次々と二次性徴期を迎えていく中で、晩熟だった薪は皆の話に交ざれないでいた。もともと孤立気味だったこともあって、その時期、彼らと薪の間には断絶に近い距離感があった。だからあんなことになったのだろうと、大学生になって分かった。普段から彼らと親睦を深めていればあんな役割を振られずに済んだのだ。
「北沢のやつ、昨夜おまえの顔に掛けたんだってよ」
 なにを? と首を傾げた薪に、そのクラスメイトはニヤニヤと笑った。彼は髪を赤く染めて自己主張しており、不良と言うほどではない半端に粋がったお調子者で通っていた。薪とは親しくも不仲でもなかった。
「昨日、北沢とは教室以外では会ってないけど。僕の顔に何を掛けたって?」
 聞き返した薪を、クラスメイトの半分が嘲笑った。半分、つまり男子生徒全員だ。女子は一様に眉を顰めて、要するに分かっていないのは薪一人という状況だった。

 同じクラスで一緒に図書委員をしていた子が、委員会の時にこっそり教えてくれた。宿泊学習の時に撮られたパジャマ姿の薪が一人で写っている写真が焼き増しされ、男子生徒の間で回されているのだと。
「顔に針でも刺されてるのか」
 自分が人気者ではないことを自覚していた薪は、彼にそう尋ねた。そこまで嫌われているとは思っていなかったから、かなりショックだった。でも真実はもっと酷かった。
「違う違う。むしろ逆って言うか、まあ薪にしてみたら針の方がマシかもしれないけど」
 言葉を濁す彼を問い詰めて白状させた。自分の写真は彼らの性の捌け口に使われていた。
「なんで!?」
「だって、薪はうちの学校の女子の誰よりも可愛い顔してるから」
「でも僕は男だよ?」
「だからさ、パジャマの下は女の子なんだよ」
 自分の性別を否定されるのは、存在自体が間違いだと断ぜられる気分だった。実際に被害に遭ったわけではなくとも、自分が慰みものにされた気がした。

 進学し、彼らとの縁が切れてホッとした。が、学校が変わっても薪の待遇にはあまり変化がなかった。それどころか現実に痴漢に遭ったり変質者に付きまとわれたりして、そのたびに薪は自分がますます汚れていくような錯覚を覚えた。
 高校生のときに流された噂は気にしていない風を装っていたけれど、心の中ではひどく傷ついていた。たった一人、憤ってくれた友人にまで裏切られた時には、薪の中には温かいものは何も残っていなかった。
 二度とこんな目に遭わないように、薪は自分の周りを氷の壁で囲むことにした。他人には隙を見せず、下手に微笑んだりやさしい言葉を掛けたりしない。人形のように無表情に、貝のように無口に。友人付き合いは今まで以上に希薄になったが、高校時代の友人のように築いた信頼関係を壊されるよりずっといいと思った。

 鈴木に出会ったのはそんな時期だった。
 何が珍しいのか、興味本位で自分に近付いていくる人間は何人かいた。彼もその一人だと思い、最初は素っ気なくあしらった。大抵の人間はそこで引く。でも鈴木は違った。遠ざかっても不思議ではない出来事がいくつもあったのに、鈴木は薪の隣に立ち続けた。
 薪とて、寂しくないわけではなかった。本音で話せる友人が欲しいと思っていた。過去の経験からそれを抑えていたわけだが、この鈴木と言う男に限ってはその必要はないと思われた。友人に聞いた話では、彼は無類の女好きという話だったからだ。
 入学以来、女が切れた時期が1週間とない。そんな男なら自分を女の代わりに見ることもないだろう。だから薪は安心して鈴木との距離を縮めることができた。

 ……それがこの体たらく。

 朝起きてから寝るまで、彼のことが頭から離れない日もあった。何の前触れもなしに彼に会いたくて堪らなくなる時もあった。
 どうして彼のことがこんなに気になるのか、なんて疑問が浮かぶ余地はなかった。その感情が恋であることは、自分が人間であることと同じくらい明確な事実だった。
 自分の中に生まれた感情を認めたら、当然のように欲求が湧き起こった。彼が欲しいと思った。
 彼の髪に触れてみたい、と最初はその程度の望みだった。それはすぐに叶って、そうしたら瞬く間に次の欲求が生まれた。手を握りたい。肩を抱いてみたい。クリアしたら次、そのまた次と、厄介なことに内容はどんどんエスカレートした。

 とても実行に移せない欲求を抱くに到って、薪は自分に線引きをした。これ以上進んではいけない。だけど、生まれてくる欲求は自分でも抑えられない。仕方なく、薪はそれを自分自身で処理することにした。多くの男性がするのと同じように、夢想の中で好きな人と結ばれたのだ。でもそれは普通の男性のように楽しく興じられる類のものではなかった。激しい自己嫌悪と罪悪感を伴う行為だった。
 何食わぬ顔をして鈴木と笑い合う度、自分が卑怯者になっていくのを感じた。初めて親友と呼べる相手ができたのに、その友情を裏切ってこんな汚らしい欲望を彼に抱いて。
 自分を辱めた連中と同じことを自分も彼にしている。自覚することで、苛烈な自虐衝動が生まれた。いっそ背徳感に酔い知れることができたら、そこに楽しみを見出せたかもしれない。が、生憎、薪はその領域から遠い場所にいる人間だった。自分に対する悪感情以外何一つ、薪はそこから見つけることができなかった。

 その後は、自分なんかこの世から消えてしまえばいいとまで後悔するのが分かっているのに。やっぱり途中では止められなくて、彼の名前を繰り返し呼びながら腐りきった欲望を吐き出した。冷めていく意識の中、こんな薄汚れた自分が今さら何を悲しむのか理解しようのない涙が一粒だけ零れた。

 年代物のエアコンがやっと効き始めた部屋の中、だらしない恰好のままぼんやりと天井を見上げる。ちょっと気を抜いたらすぐに鈴木の顔が浮かんで、泣きたくなった。彼にだけはこんな姿を見られたくない。
 鈴木は今ごろ何をしているのだろうと考えて、たちまち後悔した。恋人に会うと言って別れたのだった。彼女と甘い時を過ごしているに決まってる。
 時計を見たらちょうど7時だった。食事も終わって、軽く飲みにでも行っただろうか。それとも、今自分がしていたようなことを二人でしているのだろうか。

 スライダーに乗った時、加速度に慌てた鈴木は薪を抱きしめるように後ろから被さってきた。そのとき彼の大きな手が薪の左胸に触れて、この異常な動悸が彼に伝わってしまうのではないかと不安になった。それが心配で、薪はスライダーを楽しむどころではなくなった。思い返せば返すほどに自分はバカだと思った。
 あんな些細な触れ合いで、胸が潰れるほど苦しくなって。その相手は今、たぶん他の誰かを抱いてる。そう思ったら目の前が真っ白になるくらい頭に来た。怒る権利なんてないのに。

 彼の声が聞きたかった。それは猛烈な衝動で、叶わなかったら息もできないほどだった。普段の怜悧な思考は完全に停止し、気が付いたら電話のコール音が聞こえていた。
『薪? どうし』
「うちに来て」
『へっ、なんで? オレいま彼女と』
「いいから早く来いよ!!」

 叫ぶと同時に通話を切り、数秒して我に返った。
「どおしよおぉぉ……」
 呻いて枕に突っ伏した。5分でいいから時を遡りたいと願う心の隅っこで、自分の滑稽さに笑いだしたくなる。上半身裸でジーパンと下着は膝まで降りてて、もちろん大事な所も丸出しで、その状態で携帯持ってベッドに平伏して。他人に見られたら悶死する姿だ。
 口から出てしまったものは取り返せない。この次会ったときに謝るしかないと覚悟を決めて、薪は頭から布団をかぶった。いわゆるふて寝だ。

 大した量が出るわけでもないのに、欲望を処理した後は何だか身体が軽くなって、ふわふわした心持ちになる。そのまま横になっていると大抵は眠ってしまう。
 この時間に眠ったら夜中にお腹が空いて眼が覚めるだろうな、と薪は思い、冷蔵庫の中身を頭の中で浚った。昨夜作ったカレーの残りがある。でも夜中に食べたら胃もたれするだろう。勿体ないけど明日は捨てるしかないな、とそんなことを考えながら眠りに落ちた。





テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

アイシテル 前編(1)

 先日、いっぱい拍手いただきました。嬉しかったです♪
 ご新規さんも常連さんも、いつもありがとうございます(^^


 
 さて。
 最近、すっかり鈴薪ブログになってる自覚がありますが、管理人はコテコテのあおまきすとです。おかげで深刻な青薪欠乏症です。だれかわたしに青薪さんを恵んでください。贅沢は言わないので甘いのお願いします。

 そんなわけでこちら、
『管理人は本当にあおまきすとなのかSS第1弾』でございます。←おい。

 鈴木さんに片思いする薪さんです。
 薪さんと一緒にきゅんきゅんしてもらえたらうれしいな~。




アイシテル 前編(1)





 想像もつかなかった。自分にこんな感情が生まれるなんて。


 派手な水しぶきと共にプールに波柱が立った。爆音に近い水音と波柱の高さは落下物の大きさを示している。かなりの大物だ。
 周囲で談笑していた人々が何事かと注目する中、水面から勢いよく顔を出した若い男性がプールサイドに向かって叫んだ。
「ひどいわっ。何するのよ薪くんたら!」
 黒髪を額に張り付かせ、喚きながらも笑っている彼はかなりのハイレベル。プールサイドの女子が浮足立って頬を染めるくらいのハンサムだ。
「蹴り落とされるようなことする鈴木が悪い」
 冷たく言い捨てた彼は、細い腰に手を当ててプールサイドに立っている。こちらは何と言ったらいいものか、つまり生物学的な論争が巻き起こりそうなレベル。フォルムは男性、髪型や水着もごくごく一般的なもの。なのにその美しさと言ったら。
 プールに落ちたイケメンを指して『ね、あの人ちょっとカッコいい』と友人の耳元で囁いていた女子が言葉を失う。見惚れてぽーっと赤くなる。それが隣の人間に伝染する。賑やかなアミューズメントプールの一角だけが、一瞬、妙に静かになった。

 静まり返った気配と大勢の視線を感じて、薪はその原因が自分にあることを知る。理不尽だと思った。飛び込み禁止と書かれているけれどみんなやってる。なんで僕だけ。

 不平等に扱われることへの反発はあったが、何十人もの眼に注目されたら自分の非を認めないわけにはいかない。薪はすっとプール縁に屈み、自分が突き落とした友人に手を差し伸べた。
「悪かった。ついカッとなって」
「周りの人に迷惑っしょ」
「大丈夫だ。ちゃんと確認してから蹴った」
「冷静じゃん」
 救いの形に伸ばされた手を握り、長い脚を有効に使ってプールサイドに一足で上がった鈴木は、長身を屈めて友人の顔を覗き込み、楽しそうに笑った。
「ちょっとふざけただけなのにー」
 そのちょっとが問題なんだ、と薪は動揺を表に出さないように顔の筋肉を引き締める。鈴木は本当に、何も分かっていない。

『薪の背中、すっげーキレイ』

 プールサイドで鈴木と落ち合ったとき、開口一番に言われた。それでこんなことになったのだ。
 薪は、一身上の理由で男子更衣室に長居したくない。だからプールに行くときは必ず家から水着を着てくる。ロッカーに荷物を入れ、「プールサイドで待ってるから」と連れに声を掛け、誰とも眼を合わせないようにして足早に居室を出た。
 未だに更衣室はトラウマだ。早く忘れたいのに、この季節に蒸し暑い更衣室に入ると嫌でも思い出してしまう。口に突っ込まれた汗臭いタオルと、無理やり服を剥がされる痛みと恐怖。吐き気を伴う記憶に胃の下底が疼いた。
 薪のダークな心中とは裏腹に、周りは水遊びに興じる人々の歓声に満たされていた。賑やかな水しぶきが時おり虹を作る、平和で幸せな光景。その中でこんな事を思い出している自分は、この場に相応しくない気がして。薪は室内プールの屋根を支える大柱の陰に隠れるようにして友人を待った。

 程なくして友人が現れ、おかげで薪はやっと自分の居場所を広い空間内に見つけ出すことができた。此処へは彼に誘われたから来たのだ。彼の傍になら、居てもいいはず。
 そこまでは彼に感謝したが、その後がいけない。鈴木は男相手に先刻のセリフをしゃあしゃあと言ってのけた後、「エステとか行ってんの?」とバカみたいな質問をした。
「僕は女の子じゃないし、そんなことに使うお金もない」
「何もしなくてこの状態? いいなあ。ニキビ跡一つないじゃん」
「鈴木だってないだろ」
「オレはあるよ。左の肩甲骨の辺り」
 同性だからと言ってあまりジロジロ見たら失礼だと、それまで薪は鈴木の身体から眼を逸らしていた。思いがけなく許されて、欲求に勝てずに見蕩れた。広い肩幅、逞しい胸に引き締まった腹と腰。腰の位置が高くて脚が長い。理想的なプロポーションだと思った。

「な、けっこうヒドイだろ」
 返答を促されて、慌てて彼の背中を見る。全体的な均斉美に心を奪われて、指示された部分を見ていなかった。薪の視力は両目とも2.0だが、鈴木が言う「ヒドイ」箇所は見つけられなかった。
「よく分からないな」
「そうか? じゃ、さわってみ」
 何でもないことみたいに鈴木は言うが、誰かの背中に直に触るなんて薪には初めての経験だった。でもそれは自分に友人が少ないせいで、鈴木やみんなには普通のことなのだろうと考えた。友人とのコミュニケーションスキルに関しては、薪は鈴木の足元にも及ばない。その自覚があるからか、薪はこの手の鈴木の言葉には比較的素直だった。

「ああ、うん、さわると少し。でも全然目立たないよ」
「ほんと? よかったあ。背中汚いと彼女に嫌われちゃうからさ」
 鈴木が彼女に背中を見せたり触らせたりする状況を想像して薪は、水着姿の彼に見蕩れたり、ほんの少し彼の肌に触れただけで胸をときめかせている自分をバカだと思った。
 なるべく考えないようにしているのに、鈴木は割と無神経で。たびたび変わる彼女のことを逐一薪に話して聞かせる。どういう所が可愛いとか、ベッドの中ではこんなだったとか。聞きたいなんて、せがんだことは一度もないのに。

「薪の背中はキレイだよな。しかもすっべすべ」
「ちょ、さわるなよ」
 彼の大きな手に背中をひと撫でされて、心臓が口から飛び出るかと思った。こんなにドキドキしてるのに、普通に話せるのが不思議だった。
「いいじゃん。真っ白だし細いし、なんかこう」
「うん?」
「後ろから抱きしめたくなっちゃう感じー」
 冗談は口だけにしておけばいいのに、実行に移したから堪らない。驚いた薪は爆発的な力でそれを振り解き、彼の脛を思い切り蹴り飛ばした。結果、周り中の顰蹙を買う羽目になった、というわけだ。

「薪はホント性格キツイよなー」
 耳に水が入っちゃった、と右に傾げた頭を手首でトントン叩いている鈴木を、でき得る限り冷たく見据え、薪は腹立ちを装って腕を組んだ。手の震えをもう片方の手で押さえる時の要領で、一向に落ち着かない心臓を抑えようとした。
「いきなりああいうことされたら、10人中9人の男は僕と同じように相手をプールに突き落とすと思う」
「残りの一人は?」
「刺し殺す」
 抱き返すんじゃないんだ、と口の中で呟く鈴木に、
「よかったな。僕が穏やかな性格で」
 言い放って薪は意地悪く笑った。




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ライン(3)

 あとがき代わりの青薪SS、これで最後です。
 お付き合いくださってありがとうございました。


 



ライン(3)





 家に帰って夕飯の支度をした。

 並んでキッチンに立って、青木は野菜を洗い、薪はそれを刻む。軽快な包丁の音が響き、クッキングヒーターの上では薪特製酢豚のタレが芳香を立ち上らせる。
 食欲を刺激する芳醇な香りの中、青木が薪に話しかけた。
「あの方とはどういったお知り合いだったんですか」
「佐久間は僕の」
 幼馴染み、と言いかけて、薪は口を噤んだ。青木の声に含まれた微かな刺に、先刻の秋波の正体を知る。青木は、彼と薪との間に何かあったのではないかと疑っているのだ。
 年下の恋人の可愛いやきもち。汲んでやらなかったから男がすたる。

「僕のファーストキスの相手だ」
「えっ!」
 なんでそんなに驚くんだ、予想してたんじゃないのか。
「舌、入れられました?」
 青くなって聞き返す。質問の内容に眩暈がした。
「そこ、気にするところなのか」
「キスだけですよね? その先はするつもりなかったんでしょう?」
「だからどうしてそんなに気にするんだよ。ガキの頃の話だぞ」
「だって薪さん、昔、男には興味ないってオレにはさんざん」
「今も興味ないけど」
「ええーんっ!」

 先のことなんてあるわけないだろ、と言い掛けて薪は、そこに微かな引っ掛かりを覚える。
 あの当時、自分は彼のことがとても好きだった。佐久間の他に友と呼べる人間はいなかったし、好きか嫌いかと訊かれたら迷わず好きだと答えた。級友たちの心無い陰口や侮辱に晒される時も、佐久間だけは本当の自分を理解してくれている、という確信は薪の大きな支えになっていた。
 いきなり求められて、例の体育教師のことを思い出した。それで怖くなって突き放してしまったけれど、もっと時間を掛けて触れ合ったら。友人とは別の関係に発展していたかもしれない。

「少しだけ恋してたのかな。顔見たとき、ちょっとドキッとした」
「薪さん、オレの顔はどうですか? ドキドキしますか?」
「見慣れ過ぎてもう何も感じない」
「うわーんっ!」
 ウソだ、バカ。
 同じ家に暮らしてて、今日なんか朝から晩まで一緒にいて、なのにこうして野菜の受け渡しの時にちょっと手が触れたりする、そんなことでときめくとか自分でも気持ち悪いと思うけど自律神経の問題なんだから仕方ないだろクソバカヤロー。

「オレなんかこうして、薪さんの顔をじっと見るだけでドキドキするのに。ほら」
 急に顔を近付けられてドキッとする。遠慮なく取られた手が青木の厚い胸板に押し当てられた。手のひらに伝わる鼓動は、薪と同じエイトビート。
「医者に行け」
「うええええんっ!!」
 しくしく泣きながら人参を茹でる大男を横目で見やり、薪はニヤニヤ笑う。やっぱり青木を苛めるのは最高に楽しい。

 酢豚に絡める甘酢ダレの酢を微調整しながら、薪は考える。

 佐久間とはあれでよかったんだ。
 もしも僕が彼の恋人になっていたら、多分鈴木とは恋仲にならなかった。そうしたら僕は鈴木を殺めることはなかったかもしれない、でもその代わり、青木ともこんな関係にはならなかっただろう。
 それはちょうど川の流れの中で、上流で切り取られた岩の欠片が下流に行くにしたがって丸みを帯びるさまにも似て。
 さまざまな経験の積み重ねが現在の僕を作っていて、どれ一つ欠けても今の僕にはなれないのなら、僕は僕の人生のすべてを認めよう。過ちだらけの僕の軌跡、掘り起こすほどに眼を背けたくなる。それでも僕は、30年掛けてこの場所にたどり着いた。
 鈴木のことを想うと当たり前のように息ができなくなるけれど。
 でも、僕を僕が肯定しなかったら、今の僕をこんなに愛してくれる青木に申し訳が立たない。

「どうだ、タレの味」
「美味しいです。ああ、困っちゃうな、本当に太りそう」
「食った分だけ運動すればいいんだ」
「え、夜の運動ですか? もしかしてオレ、誘われてます?」
「当然だ。おまえ以外、僕の相手はいない」
「え、え、どうしちゃったんですか。薪さんたら急にそんな嬉しいこと」
「食ったら道場に行こう」
「…………はい」
 しょんぼりと背中を丸める青木の横で、薪は器用に鍋を振る。黒い中華鍋の中、ピーマンとパプリカでカラフルに彩られたメインディッシュが極上の甘酢ダレに抱かれてジュウッと音を立てた。





(おしまい)



(2013.6)







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 旧友と肩を並べてベンチに座るのは、ほぼ三十年振りだ。
 高校生の時と変わらない、と薪に暴言を吐いた友人は、少年の頃の面影を僅かに残した大人の男性になっていた。あの頃と同じように短く刈り込んだ黒髪に浅黒い肌。黒い瞳は年月を経て、いくぶん細くなった。削げた頬に手入れの行き届いた顎鬚。俊敏な雰囲気だけは変わらない。いい年の重ね方をしていた。

「息子さん、佐久間にそっくりだな」
「ああ、あれは3番目。3人とも男の子なんだけどさ、あれが一番サッカーのセンスがある」
「佐久間の子供なら、みんな運動神経はいいだろうな。何年生?」
「4年生。もうすぐジュニア選手の選抜試験があるんだ」
 子供の練習相手は青木が務めている。長い脚を素早く動かして、子供が蹴ったボールを、あ、空振り。ダサいぞ、青木。
 思わず顔が綻んだ。青木の母親が「一行は子供の頃から球技が苦手だった」と笑っていたのを思い出す。彼女の談によると、テニスのネットに絡まって転ぶという器用な特技もあったらしい。

「薪と最後に会ったのって、ここに来る途中の道だよな。大学2年の時だっけ」
 薪も覚えている。それまでは実家に帰ると、待ち伏せでもされているのではないかと疑いたくなるくらいに彼と出くわせたのに、あれを最後に彼の姿を見なくなった。

「あの日おれさ、その、鈴木ってやつに」
「ああ。聞いたよ」
 佐久間は鈴木に薪の過去を話した。断りもなく他人に秘密を暴露されたことに薪は大層腹を立てたが、逆に鈴木が諌められた。
 話を聞いてやれと言われた。彼は心の底から後悔して、薪に謝りたいだけなんだと。
「鈴木に叱られた。謝罪に来てるのに話も聞かないなんて、狭量過ぎるって」
 薪を叱ってくれた親友は、もうこの世にいない。あの事件を佐久間は知らないのか、あるいは知っていて口にしないだけなのか。彼の性格から言っておそらくは後者だろうと薪は思った。

「あの時は本当にごめん」
 ジーンズの膝に両手をついて、佐久間は男らしく頭を下げた。休日のスタイルでパーカーにチノパン姿の薪は何処から見ても高校生。その彼に大の大人が頭を下げている様子は実に奇妙な光景だ。
 薪がいかに粘着質でも、20年以上も怒りを持続することは難しい。第一、彼と別れたのちに自分が歩んだ人生を思うと、怒る資格も消え失せる。人目もあることだし、「もう気にしてないから」と言って話を切り上げたかった。だけど堪えた。きちんと謝罪させてやらなかったら、佐久間の後悔は消えないのだ。
 言いたいだけ言わせてやろうと思った。当時あったことの何を聞いても、悲しみは蘇らない。あのとき全部、鈴木が溶かしてくれた。
 おずおずと顔を上げた佐久間を、薪は瞳で促した。部下の悩みを聞いてやる時の要領で、ゆっくりと頷いて見せた。果たして佐久間は、30年前に届けられなかった言葉を薪に伝え始めた。

「薪はそんなつもりじゃなかったのに、おれが勝手に誤解して。薪にしてみればあり得ないことだったんだよな。男と恋愛沙汰なんて」
 ……すみません、その3年後に鈴木とデキちゃいました。
「薪は普通に女の子が好きだったのに」
 それは間違いではありませんがごめんなさい、今現在あそこにいる男と付き合ってます。
「考えてみたら失礼な話だよな。同じ男に欲情するなんて」
 申し訳ありません、彼とは週に2回は、……もう勘弁してください。
「人間としてしちゃいけないことだった。恥ずかしいよ」
 ねえ、わざと? それわざと言ってるの、佐久間くん。
「今考えると、とても正気だったとは思えな……どうした? 薪」
 耐えきれなくてベンチに突っ伏してしまった。佐久間は昔からこういう奴だ、悪気はなくても空気が読めない。

「お父さん。あのおじさん、トロくて練習相手にならない」
 サッカーボールを小脇に抱えて走ってきた子供が、佐久間に向かって訴えた。伏せた腕からちらりと覗けば、しゃがんで地面にのの字を書いている大男の姿。
 情けないぞ、青木。

「すぐ行くよ」と佐久間は笑って、先に広場に戻るように息子に命じた。薪がベンチに座り直して子供が走っていく方向を見ていると、彼に免職を言い渡された見かけ倒しのストライカーが、とぼとぼとこちらに歩いてきた。
「あいつ、球技は苦手なんだ。剣道だったら好い線行くんだけど」
「へえ。ずいぶん年が離れてるみたいだけど、彼は友人?」
「いいや。青木は僕の、……部下だ」
「え。だって今日休みなんだろ。休みの日でも部下と一緒?」
「そ、それはそのっ、か、彼はつまり僕のボディガードで、公私共にその」
 しまった、と薪は思った。頭をプライベートモードに切り替えたのがまずかった。対外仕様の言い訳が上手くできない。しかし、
「ボディガードか。さすがだな、薪は」
 佐久間は感心したように頷いてくれた。旧友の変わらぬ素直さに救われた思いで、薪はそっと胸を撫で下ろす。

「薪。ちょっと性格変わったな」
「そうか?」
 言い当てられたのは少しショックだった。成長するに従って性格が捻じ曲がったのは自覚していた。だけど今日の相手は少年時代の友人。あの頃のような純朴な気持ちで彼に接していたつもりだった。
 曲がった性格は隠しても滲み出るのか、と薪がいささか凹むと、佐久間は昔と同じ爽やかな笑みを浮かべて、
「うん、変わった。おれといた頃よりも砕けた感じ。いい感じだよ」
「朝から晩まであのバカと一緒にいるからな。バカが伝染ったんだ、きっと」
 性格の悪さを見抜かれずに済んで安堵した薪は、苦笑して軽口を叩いた。実際、青木の影響力は大きい。毎日毎日何がそんなに楽しいのか、笑ってばかりいる。そんな彼を見ていると、この幸せを守るためにはどういった行動を取るのが正解なのかと家の近所を歩く時ですら恐々とする自分がバカらしくなってくる。薪さんは考え過ぎです、と青木は言うけれど、おまえが何も考えないから僕が考えなきゃいけなくなるんじゃないか。なんか腹立ってきた、帰ったら苛めてやる。

 青木を泣かせる方法をあれやこれやと考える。自分がその時どんな表情をしていたのか薪は知らない。でも佐久間に言われた。
「今は、幸せなんだな」
「まあそれなりに」
 青木とも青木の家族とも上手く行ってる、仕事も順調、第九の検挙率も好調。職務に関するトラブルはたくさんあるけど、それを解決するのが今の薪の仕事だ。それは不幸とは言わない。
「よかった。薪が元気にやってて、本当によかった」

 痺れを切らした3男坊が、お父さん、と非難がましい声で父親を呼んだ。「それじゃ」と立ち上がる佐久間を、今度は薪が呼びとめる。
「佐久間」
 薪の呼びかけに佐久間は足を止めた。やおらに振り向く。
「子供の頃、何回も助けてくれてありがとう」
 振り返った佐久間の眼が眩しそうに薪を見る。薪は立ち上がって彼に近付き、パーカーのポケットから名刺入れを出した。
「今度、時間あったら一緒に飲もう」
 連絡先、と名刺にプライベートの携帯番号を書いて差し出すと、佐久間は複雑な顔でそれを受け取った。
「変わんないなー、そういうとこ」
「え」
「そんなんだからおまえは」
 敵わないよなあ、と嘆かれたが、薪には何の事だか分からない。少し離れたところに立って薪たちが話し終わるのを待っている大男の方から刺々しい秋波のようなものが送られてきた気もするが、もちろん薪に心当たりはない。

 佐久間はチラッと青木の方を見て、失笑しながら言った。
「もしかすると、おれにも可能性あったのかな」
「可能性って、何の?」
 それには答えず、佐久間は薪に手を振ると息子の待つ広場に駆けて行った。「お父さん、遅いー!」と不満を訴える子供の声を聞きながら、薪は青木に歩み寄る。

「待たせたな。帰るか」
「はい」
「夕飯、なに食いたい?」
「そうですね。昼は麻婆豆腐だったから、夜は酢豚がいいです」
「2連チャンで中華食ったらブタになるぞ。おまえ、最近ハラ出てきた」
「そういう薪さんだって。ベルトの穴、一つ増えましたよね」
「年のせいだな。四十過ぎりゃ誰だって」
 ふと気付いて薪は言った。
「そうか。佐久間にこの腹を見せればよかったんだ。そうしたら高校生の体型じゃないってすぐに分かって」
「……今夜は覚悟してくださいね」
「ん?」
 自覚ないんだから、と青木はブツブツ言うが、薪にはさっぱり分からない。多分、世代の差ってやつだ。

 子供が蹴り飛ばすサッカーボールの軌跡を眼で追いながら、同時に佐久間は去っていく旧友の背中を見送る。広いフィールドで敵と仲間の居場所を瞬時に見分けながらボールを蹴っていた彼には容易いことだ。
「青木くんか。彼も苦労するな」
 飛んできたボールを器用に脚で受け止め、蹴り返しながら彼はにやりと笑った。




*****


 青薪SSになると薪さんが一瞬で男爵に(笑)




 

テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

ライン(1)

 鈴薪さんは青薪さんにつながっていく、と言うのがわたしの信念です。
 ので、あとがきは青薪さんです。←単なる青薪欠乏症だったりして。







ライン(1)





 大森駅に降りたのは十年振りだった。

 休日に買い物に出た折、青木が中華街でランチを食べたいと言うから京浜東北線で横浜まで来た。帰りの電車の中で、先日訪れた青木の実家の話になった。
「とんだ田舎で恥ずかしかったです」と彼が照れ笑いしたから、僕の実家も大して都会じゃなかった、と薪は言った。
「どんな所だったんですか?」
 興味津津、青木は訊いた。吊革の取っ手ではなくバーを握って、身長の高い彼はその方が安定するらしい。彼の背丈を羨ましく思いながら、薪は質問に答えた。
「普通だ」
「普通って言われても」
「本当に普通の町なんだ。何処にでもある」
 何の特徴もない町だった。中流の民家が建ち並んでいて、徒歩で通える範囲に小学校から高校まであって。公害を出すような工場等はなかった。その代わり、大きなショッピングモールやビルもなかった。そう言った生活に便利なものは駅の東側に集中していて、薪が住んでいた西側には目立ったものは何もなかった。
「場所はどの辺なんですか?」
「次の駅を降りて徒歩25分」
 言ったが最後、強引に途中下車させられた。帰って読みたいミステリー小説があったのに、青木の自分勝手にも困ったものだ。いったい誰の影響だか。

 十年振りの故郷はびっくりするくらい変わっていなかった。
 駅前は再開発が進んで知らない街のようになっていたが、10分ほど歩くとタイムスリップでもしたかのように、古臭い街並みが残っていた。道の左右には見覚えのない家が何軒も建てられていたものの、全体的な空気は昔と同じだった。

「ここ」
 薪が指し示した場所には何もなかった。木杭にチェーンを張って立ち入り禁止であることをアピールしている更地。両側には新しい家が建っているから、そのうち此処にも誰かが住むことになるのかもしれない。
 叔母夫婦がアメリカに旅立って7,8年した頃、あちらに永住することになったと連絡が来た。日本の家をどうするか叔父と話し合って、処分することに決めた。彼らがそこに住まないなら、家は只の器だ。思い出のために保存しておけるほど裕福ではないし、税金もバカにならない。

「ちょうどあんな感じの家だった」
 道の向かいに建っている築50年くらいの古びた民家を指さし、青木の反応を見る。へえ、と青木は眼を輝かせ、何が嬉しいのかニコニコと笑った。
「あんな感じのお家に小さい薪さんがいらしたんですね」
 何を想像しているのか、青木は夢見るような瞳でいっそうっとりと視線を虚空にさまよわせながら、
「あああ、すっごいかわいい……きっとご近所中のアイドルだったんでしょうね」
「いや。女みたいで気持ち悪いって苛められてた」
「え。本当に?」
 ああ、と薪が頷くと、青木は憤慨して、
「この辺の子供はクソガキばっかりだったんですね」
 口が悪いぞ。誰の影響だ。

「悪いやつばかりじゃなかったさ」
 顔が女みたいだという理由で苛めを受けるからには、その内容も自ずとセクシャルなものになる。ぶっちゃけて言えば、よくズボンを脱がされた。「こいつ女じゃねーの、確かめてみようぜ」と誰かが言い出して、それは3日前にも確かめたじゃないか覚えてないのかこいつら本当にバカだな、と心の中では精一杯相手を罵っていたけれど、実際はめそめそ泣いてた。
 そんな薪を助けてくれたのが、佐久間忍という幼馴染みだ。
 彼は幼い頃からスポーツ全般に秀でていて、子供たちの間ではちょっとしたヒーローだった。性格は明朗快活、思いやりがあって公平。薪とは家が近くて、だから少しだけ他の子よりも眼を掛けてくれたのかもしれない。

 目的の場所を青木に教えたら、もうすることもなくなって、駅に向かって歩く途中にその幼馴染みの家があった。
 佐久間の家は、新しく建て直されていた。あの頃は二階建てだったが、今は三階建てになっている。庭もきれいに手入れされていて、豊かな生活を送っているようだ。
「知り合いのお宅ですか」
「……旧い友だちだ」
 すぐに答えられなかったのは、彼を友人と称することに迷いがあったからだ。佐久間とは高校生の時に絶交していた。
 子供の頃から何度も助けてもらったのに。でもあの時は、どうしても彼を許せなかった。

「寄り道されるなら、オレ、何処かで時間潰してきましょうか」
「まさか。二十年も連絡とってなかったのに、急に訪ねて行ったら迷惑だろ」
 彼に会う気なんかさらさらない、ていうか、どんな顔で会えばいいのか分からない。何度も謝罪に来た彼を薪は拒絶した。その理由を考えると、もうどのツラ下げてって感じだ。
 自身の狭量のせいで僕は彼に会う資格も失ってしまった、と薪は思い、重苦しい気持ちになった。

「オレ、小さい頃は田んぼのあぜ道を走り回ってましたけど。薪さんは何して遊んでたんですか?」
「遊んだ記憶はあまりない。一人で本を読んでいることが多かった」
「友だちと遊ばなかったんですか?」
「だから言っただろ、苛められてたって。一緒に遊ぶ友だちなんかいなかっ、……その角を曲がると小さな公園があって。そこで偶にさっきの家の子と遊んでた」
 正直に言ったら青木が、まるで自分が苛められっ子だったみたいに悲しそうな顔になったので、慌てて薪はフォローを入れた。通行人は少ないとはいえ皆無ではない。泣き虫の大男を連れて歩くなんて願い下げだ。

 遊び道具など何もないつまらない公園だぞ、と何度も念を押したのに、青木が見たいと言い張るので仕方なく案内した。
 公園は薪の記憶とは違って、新しく整備されていた。大きな砂場に整えられた樹木、遊具もたくさん置いてある。最近の子供はテレビゲームばかりして外に出ない、それは周辺に遊べる環境がないからだ、という説を基に、どの地方公共団体も公園事業に力を入れているそうだが、過剰な整備は税金の無駄遣いだと薪は思う。大人が環境を整えてやらなくたって、子供は遊びの天才だ。何もない原っぱを一瞬で劇場に変えられる。今の子供たちに足りないのは整備された遊び場ではなく、想像力ではないかと思う。
 子供の想像力の先回りをして大人が何でも与えてしまうから、空想を膨らます訓練ができないのだ。その証拠に見ろ、田んぼの真ん中で育った男のドリーマー精神の強いこと。こういう人間がストーカー犯罪を起こす、ってダメじゃん。
 持論に破綻を覚えて薪は思考するのを止めた。休日は頭をオフして堅苦しいことは考えない。青木との約束だ。

「立派な公園じゃないですか。いいなあ。オレの田舎にはこんなのなかったです」
「僕がいた頃は何もなくて。そこに砂場と、あっちにブランコが」
 薪は息を飲み、その場に立ち尽くした。
 ブランコの手前の広場で、サッカーボールで遊んでいる子供の顔に見覚えがあった。父親と一緒にリフティングの練習をしている。その父親がこちらを見て「薪」と呼びかけた。
「佐久間……」

 バック&アウェイで逃げ出そうとする両脚を理性で縫い止める。会わせる顔がないと思っていた相手に会ってしまったとき、人はいったいどんな顔をすればよいのだろう。
 その答えは旧友がくれた。佐久間は薪に走りより、せっついた様子で、
「きみ、もしかして薪の息子さん?」
 バリッと引き攣った薪の隣で、青木がぷっと吹き出す。それを素早く蹴り飛ばしておいて、失礼な旧友に向き直った。
「20年ぶりに再会した友人にどういう挨拶だ、それは」
「えっ、本人?! まさか。高校の時と顔変わってな、あ、いやその」
 びきびきびきっと薪の額に立った青筋の本数に恐れをなしたのか、佐久間は自分の口を押さえた。改めて見直して、それが本人だと理解したらしく、ようやく表情を和らげた。

「懐かしいな。会えてうれしいよ、薪」
 何もなかったように、佐久間は笑った。薪は緊張に固まっていた肩の力を抜き、あの頃と同じように曖昧な微笑みを返した。






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きみはともだち 後編(12)

 10月なんで、ハロウィン時計を貼ってみました。テンプレも変えようと思ったんですけど、面倒で。←おい。
 今ちょっと入札の内訳書作りに追われてて(^^;) 落ち着いたらテンプレ探します。


 お話の方は最終章ですー。
 読んでくださってありがとうございました。






きみはともだち 後編(12)






 その後の薪の最大の変化は、この言葉に集約される。
「勝手だなー」
 その日も鈴木は一方的に切られた電話に向かって呟いた。12時半に科警研の食堂で待ってる、とそれだけ言われた。鈴木の都合は聞かれなかった。
 身勝手な親友に振り回され続けて早5年、鈴木の神経の消耗は半端ではない。その上、彼は警察にキャリア入庁しながら捜査一課に所属願いを出し、現場で凶悪犯と渡り合うという危険な日々を過ごすことで鈴木の胃に穴を開けようとしている。鈴木の心配もどこ吹く風で、全く、とんでもなく厄介な男と友だちになったものだ。

 壁は取り払われた。と同時に、気遣いや遠慮も消え失せた。
 消えたものは他にも幾つかある。それは彼の冷たい態度に見られた拒絶と、穏やかな笑みの下に隠した翳りだ。その代わりに鈴木が得たもの、それは。
「鈴木、こっち」
 テーブル席から、薪が大きく手を振っている。呼びかけと共に鈴木に投げられるのは全開の笑顔。

 携帯用のマグボトルを置いて席をリザーブし、二人で列に並んだ。カフェテリアはセルフサービス、縦社会の警察もここは階級に関係なく平等だ。もっとも、警視正以上の階級の者は普通は此処には来ないが。
「今日は昼飯の時間取れたんだ。平和でよかったな」
「そうでもない。事件発生は昨夜の21時、昨日は泊まり込みで目下地取り捜査中」
「それじゃ忙しいんじゃないか」
「午後一で捜査会議なんだ。聞き込み行くにしても時間が半端だから。鈴木とメシでも食おうかと思って」
「捜査一課のエース殿の時間潰しに貢献できて光栄です」
 鈴木が皮肉ると、薪はあははと笑った。
 同じ定食のトレーを持って席に着く。口に上るのは仕事以外の四方山話。意味のない日常会話も、薪はすっかり上手くなった。
 食事の膳が半分も片付かないうちに、薪の電話が鳴った。捜査一課の宿命だ。事件は時間を選んでくれない。事件解決の目星も付かないのにまた新しい事件かと、眉を険しくする薪は完全に刑事の顔つきだ。警大時代に見られた甘さは、もうない。

 鈴木の目の前で、着信画面を見た薪の顔がふっと柔らかくなった。そのまま電話に出る。
「叔父さん。お久しぶりです」
 柔らかく微笑んで、薪は言った。
 薪の叔母夫婦はアメリカに渡ることになっていた。叔父が独自に開発したソフトにアメリカの企業からオファーがあって、その企業のプロジェクトに参加することになったそうだ。条件もかなり良く、この仕事が上手く行ったら叔母たちはロスに住むことになるかもしれない、と薪から聞いていた。
「そうですか。お元気で」
 永い別れを感じさせる薪の口調で、今日が旅立ちの日なのだと分かった。日本を発つ前に、空港から電話を掛けてきたのだろう。
「大丈夫ですよ。飛行機が落ちる確率は交通事故よりずっと少ない……ええ、たしかに死亡率は高いですね、叔父さんの言う通り。だからってダメですよ、あんまり叔母さんに面倒掛けちゃ」
 どうやら薪の叔父は飛行機が苦手らしい。薪は可笑しそうに笑い、やさしく眼を細めた。

「叔父さん」
 親しみを込めて薪は呼びかけた。それからしっかりした声で、
「叔父さんの言った通りでした。此処は厳しくて、僕の意見なんか一つも通らない上に納得できない仕事も山ほどやらされて。現実は甘くないです。でも」
 薪は言葉を切り、自分の心の中を確認するように眼を閉じた。再び開いた彼の瞳は、生き生きと輝いていた。
「僕は警察に入って本当に良かったと思っています」

 それから二言三言、言葉を交わして薪は電話を切った。携帯電話をポケットにしまい、冷めかけた飯を口に入れた。
「見送り、行かなくていいのか」
「殺人事件の捜査中だ。そんな暇ない」
 会議の時間が迫っているのか、薪は掻き込むようにして食事を終え、箸休めの暇もなく席を立った。
「叔父さんに頑張れって言われた。この事件、必ず獲る」
 強く言い切った、友人に頼もしさを覚える。薪は本当に逞しくなった。

 カフェテリアから外に出ると、6月には珍しいくらいの青空が広がっていた。眩しさに釣られて見上げれば、くっきりと飛行機雲。
「じゃあな、鈴木。またあとで」
「ああ。――薪」
 呼び止めると薪は振り返った。童顔のせいで七五三みたいだったスーツ姿はいつの間にか板について、きりりと締めた臙脂のネクタイが彼の闘志を表しているようだった。
「がんばれ」
「うん」
 頷いて、薪は歩き去った。
 警視庁に戻る友人の、細いけれどしゃんと伸びた背中を眼で追って、鈴木は温かいものが胸に満ちてくるのを感じていた。

 もうすぐ、夏が来る。




―了―



(2013.6)

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きみはともだち 後編(11)

 先週、過去作にたくさん拍手くださった方、ありがとうございました。
 昔の話を読むと、薪さん変わったなあって思います。作中で8年経ってますからね、オヤジになりましたよね(笑)
 鈴薪カテゴリの薪さんは未だ20歳くらいだから初々しくて傷つきやすいの、そういうのも魅力ですけどそろそろオヤジが書きたいです。というわけで、女子高生のセーラー服に鼻の下伸ばす男爵を妄想してます。形になるといいな。



きみはともだち 後編(11)






 市村家に到着した鈴木を迎えたのは、その日は薪一人だった。薪の叔母と叔父は揃って留守で、薪は合鍵で家に入ったらしかった。
 先日は上らなかった階段を上がり、薪の部屋に通された。主を失って4年になる部屋は殆ど物置と化していて、狭いアパートには置いておけない雑多な学用品で溢れ返っていた。定期的に掃除はされているようで埃臭くはなかったが、とにかく量がすごい。6畳間の和室の畳が2畳しか見えない。その狭いスペースに、二人は向かい合って座った。

「古いものは捨てたらって言ったんだけど。残しておきたいんだって」
 言葉が出ない様子の鈴木に薪は苦笑し、見れば部屋の奥には使い古した黒いランドセルが置いてある。埃が被っていないから逆に古さが分からなかった。この部屋には、親を亡くしてここに引き取られてから薪が使った物が全部置いてあるのだ。
「オークションに掛けたら大儲けできるのに」
「何か言った?」
 聞こえない振りで鈴木は、その部屋の占有物を眺めた。漫画本や遊び道具は一切ない。現代の子供の必須アイテムとも言えるゲーム機もない。ミステリー小説だけはたくさん並んでいて、それが子供時代の彼の唯一の娯楽だったと思われた。

 論文の原稿と資料は結構かさばって、薪は持ち運びに便利なように紙製の手提げ袋を用意してくれていた。多分、何処かの買い物袋の使い回し。エコロジーと言えば聞こえがいいが、節約が必要な生活状況なのだろうと鈴木は想像した。
 自分の会社が倒産したということは、多額の負債もあったに違いない。その状況で、彼らは親戚の子供を引き取って育てたのだ。薪はちゃんとそれを理解して、彼らに感謝と好意を抱いている。そして子供の思い出が染み込んだ古い学用品を、曲がったペンケース一つ捨てられない養い親。
 本当の親子ではないけれど。思い合う気持ちはきっと負けない。

「鈴木。こないだはごめんね、迷惑掛けて」
 思い出したように薪は言った。先週の飲み会の夜のことだ。
「迷惑っていうか、掛けられたのはゲロだよね」
 ごめんなさい、と素直に謝る薪に、鈴木はそれ以上の言葉を持たない。彼に服をダメにされたのはこれで2度目だが、いつもツンケンしている薪のしおらしい表情を見られるなら安いものだと考えている自分に気付いて、鈴木は自分が絶壁に立っていることを悟った。いよいよ末期状態だ。早く彼女に電話しないと。

「論文で忙しいとこ悪いけど、二つだけ話いい?」
 用事が済んだにも関わらずこの場に鈴木を引き留めることの理由を、薪はそんな風に切り出した。軽く頷く。
「いい話と嫌な話、どっちが先に聞きたい?」
「当然いい話」
「当然? 僕だったら後々の精神的ダメージを考慮して悪い話から聞くけど」
「いい話だけ聞いたらソッコー逃げる」
 鈴木らしい、と薪は失笑して、片方だけ立てた細い膝に手を置いた。

「叔父さんと話してみた」
 鈴木は息を飲んだ。自分の勧めに従って、薪は行動を起こした。結果、どうなった?
「僕、交番勤務は諦める」
 結局は薪が折れたのか、と鈴木は友人の夢を潰してしまったことに深い罪悪感を覚えた。が、そうではなかった。
 薪は片膝を抱えるようにして上体を前に倒し、尖った顎を膝の上に載せるようにしながら鈴木の顔を上目遣いに見た。
「もっと上に行かなきゃ駄目だ。僕が」
 その決心を聞いて鈴木は、薪がすべてを知ったことを悟った。薪が自分の気持ちを正直に話したから、叔父も本当のことを彼に告げたのだ。そうして彼に選ばせた。彼が出した結論を、今度は叔父は否定しなかった。
 つらい現実から子供を遠ざけようとするのは親の心。そしてまた、現実を子供に教えるのも親の責務。そうして選び取った道なら黙って見守るのが親の役目。彼はもう、子供ではないのだ。
「警察官僚になって国家権力を行使する。鈴木の言う通り、僕にはそれが似合ってる」
 叔父の兄が警察の隠蔽工作の犠牲になったことを鈴木は知らない、と薪は思っている。だから鈴木も言わなかった。言うべきではないと思った。同様に、ここに来る前に知った薪の秘密も。
 しかし、天才の洞察力はそう甘くはなかった。

「次は嫌な話だ」
 薪は宣言通りに話題を移し、鈴木は予定通りに逃げようとした。でも薪の方が素早かった。鈴木が立ち上がろうとしたときには、薪は一つしかないドアの前に立っていた。
「佐久間と何を話した?」
「佐久間ってだれ?」と惚けたら、いきなり両腕を捕えられて壁に押し付けられた。意外と強い力で驚いた。
「……そう怖い顔するなよ」
 佐久間に詰め寄られた時、ちょうど薪と電話をしていた。不自然な切り方で分かったのだろう、鈴木が佐久間と接触を持ったこと。
 隠しても無駄だ。自分が話さなければ、薪は佐久間のところへ行くだろう。関係のない人間にいったい何の話があったのかと、責め立てるに違いない。それは佐久間が可哀想だ。彼はただ薪に謝りたくて、でも聞いてもらえなくて、だからそれを鈴木に託したかっただけなのに。

「全部聞いた。薪が高校生の時のこと」
 薪の顔色が変わった。鈴木の腕を戒める力が緩み、その両手が微かに震えだした。
「それで」
「それでって?」
「鈴木はそれでどうしたい」
「どうって?」
 質問の意味が分からなかった。過ぎたことを今さらどうしようもない。ましてや他人の鈴木にどうこうできるものでもない。
 頭の良い鳥のように質問を繰り返す鈴木に、薪は思いがけないことを訊いた。
「気持ち悪くないのか、僕のこと」
 思いつきもしない質問だった。薪が嫌悪の対象として挙げているのは自分を襲った彼らではなく、自分自身だった。

「なんで?」
「だって! みんな僕が悪いって」
 鈴木の腕を拘束した薪の手は、今や鈴木に取り縋るようであった。どこか痛むかのようにきれいな顔を歪めて、彼は訴えた。
「僕が誘ったって、僕がそう仕向けたって、僕は何もしてないのにあいつら勝手なことばかり言って。あんなやつらみんな死ねばいいっ……!」
 びっくりした。薪は被害者なのに、どうしてか自分を責めている。「死ねばいい」と激しい言葉で、でも彼が罵っているのは自分自身。彼の亜麻色の瞳に充満しているのは憎しみではなく悲しみと後悔で、それはちょうど虐待を受けて育つ子供が自分にその責があると思い込む様子に似て、だから鈴木は彼が可哀想で堪らなくなる。
 彼に教えてやらなきゃいけない。一番大切な真実。

「悪くない」
 気づいたら薪を抱きしめていた。
「大丈夫。薪はなんにも悪くない」
 小さな亜麻色の頭を右手で抱き込んで、左手でその細い腰を自分の身体に引き寄せた。
「だからそんなに自分を責めるな。他人が薪を責めるなら、せめて薪は自分の味方になってやれよ」
 この手の行動が薪にとっては最大のタブーだということを鈴木はさっき認識したばかり、でもそんなことはすっかり頭から抜け落ちていた。

 鈴木の抱擁を、薪は解こうとしなかった。鈴木が髪を撫でても背中を擦っても、動かずにじっとしていた。時間とともに理性を取り戻した鈴木が腕の力を緩めて彼に自由を返すと、今度は自分の意志で彼は鈴木の胸に顔を埋めた。
 こういうことをするからこいつは誤解されるんだ、と鈴木は頭を抱えたくなった。薪はボロボロに泣いていて、多分泣き顔を見られたくない、それだけのこと。彼は言葉が足りないからその行動が思わせぶりに見えるが、根っこは意外と単純だ。でも常に彼の傍にいて、彼の無意識の誘惑に晒され続けた人間にそれを理解しろと言うのは難しい。
 好意が人を傷つける。抱いたものも受けたものも傷つける。それを上手にやり取りすることで人間の社会は成り立っている。
 授業では教えてくれない大事なこと。不親切ではなく、教えようがないのだろう。こうして思いをぶつけ合って、実地で覚えていくしかないのだ。不器用で頑固な薪がそれをマスターするには、人の倍も時間がかかりそうだ。
 泣き続ける薪の背中を撫でながら、長い付き合いになりそうだと鈴木は思った。




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ジャンル : 小説・文学

プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

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