バレンタイン・ラプソディ(4)

 現在、施工中の工事の工期が延びまして。
 工期遅れの心配がなくなったのはいいのですけど、それだけ現場代理人としての責務が続くと言うことで。どうやら、3月末の竣工検査が終わるまでは落ち着いてSSに取り組む時間を作ることが難しそうです。
 昨年の12月に現場に入ってから、一行も書いてないんですよね。こんなに長くSS書かなかったの初めてです。書き方忘れそうだ~。






バレンタイン・ラプソディ(4)






「ほら。みんなに見つからないうちに、早く出せ」
「はっ? 何をですか」
「なにって。チョコレートだろ」
「え。薪さんがオレにくれるのが普通じゃないですか?」
 青木は素で聞き返してしまった。だって、本当にそう思っていたから。
「なんで」
「なんでって、今日は女の子の方から」
「僕はオンナノコじゃないぞ?」
 それはそうだけど、こういう場合はビジュアルが優先されるものだと思う。身長190センチの大男が頬を染めてハート形のチョコを買うのは、どう考えてもキモい。
「オレだって女の子じゃありませんよ」
「当たり前だ、気持ち悪い。いいからさっさと出せ。一番最初に食ってやるから」
「さっき先生のチョコ食べてましたよね。あれは数に入らないんですか」
「あれはチョコじゃなくてダークマターだろ」
 20年来の友情を疑いたくなる薪のセリフは置いといて。問題はチョコレートだ。

「……用意してません」
「なんで?」
「てっきり薪さんがオレにくれるものだと」
 薪は心底不思議そうだったが、青木だってこんな展開になるとは予想もしていなかった。正直な青木は自分の考えていたことをそのまま口にし、しかしそれは薪のプライドを深く傷つけるものだった。
「それはおかしいだろ。青木の方が年下なんだから」
「年は関係ないんじゃないですか。こういうのはベッドでの役割に準ずるべきだと」
「なっ」
 ピシッ、と空気が凍ったのが分かった。薪の表情は見る見る険悪になり、青木は自分の失言を悟って青ざめた。謝ろうと開きかけた青木の唇に氷雪を浴びせる勢いで、薪が鋭く宣言した。
「そんなんで女の子になるんだったら、もう寝ない」
「えっ」
 突然の打ち切り通告に、青木は目の前が真っ暗になる。失恋くらいで大袈裟なとか言わないで欲しい、青木にとっては薪とのプライベートを失うことは世界の終りと一緒だ。

「待ってください、そんなつもりじゃなかったんです。謝ります」
「時間だ。執務室に戻れ」
 薪がファイルを開いたら、それはプライベイトタイムの終わりを意味する。仕事モードに切り替わった薪に何を言っても無駄だと分かり過ぎるほどに分かっていて、それでも言わずにいられない。こと、薪に関して青木は悲しいくらい潔さを持てない。
「オレが悪かったです。お昼になったらチョコレート買ってきますから」
「聞こえなかったか。戻れと言ったんだ」
 執務席に座って書類をめくる、冷徹な横顔に怒りの色はなく、でもやさしさはもっと無い、それは見事なポーカーフェイス。薪がこうなったら本当にダメなのだ。怒りを露わに怒鳴っているうちは得意のコーヒーで宥める自信があるが、鉄仮面を付けた薪にはそれも通用しない。

 失敗した。
 薪のプライドの高さは分かっていたはずなのに。浮かれ過ぎてた。
 かくなる上はチョコレートに深田●子のハイレグ水着食い込み写真を添えて贈るより他ない、と青木は愚かしくも切ない懐柔策を考えたが、事態はそんなに甘いものではなかった。それを青木は程なく悟ることになる。

 その予兆は、カタン、という軽い音だった。ロッカーから聞こえてきたその音に、薪はさっと立ち上がった。慌てて扉を閉めたから、中で何か落ちたらしい。
 薪は鍵を回して中を確かめ、下方に落ちていたグレーの箱を大事そうに棚に戻した。さっき小池たちに渡そうとして断られたチョコだ。貰い物だと思っていたが、どうやら違ったらしい。薪の性格から言って、親しくもない女性から贈られたチョコなら棚に戻したりしない。それ以前に、あの段ボール箱の中に混ぜてしまうだろう。
 青木は素早く考えをめぐらせ、幾つかの仮説を立てた。
 密かに付き合っている女性がいて、その彼女からもらったとか? いやいや、薪はそんな器用なタイプではない、と言うかその場合、薪の自分勝手度数を考慮すると青木はとっくにお払い箱、うええええんっ!
 となると可能性が高いのは、やっぱりあれは青木のために用意してくれたチョコで、さっきは曽我たちの勢いに押されて思わず差し出してしまっただけ、という事情ではないか。だとしたらどうして、薪はそれを青木に渡してくれないのだろう。

 そうか、と青木は思った。
 自分たちは同じ性なのだから、こういうイベントに参加するなら、どちらかがではなく互いに贈り合うべきなのだ。薪はそう考えて、なのに自分は貰うことばかり。なんて図々しい。
 恥じ入るような気持ちでその場を退室した青木は、薪の気持ちに報いる為ならと、恥を承知で昼休みに庁舎内の売店にチョコレートを買いに行った。バレンタインデーも半ば過ぎ、薪が用意してくれたようなセンスの良いラッピングのものは商品棚にはなかったが、薪の好きな日本酒の入ったチョコレートを見つけた。これなら喜んでくれるかもしれないと、意気揚々と室長室に乗り込んだ。

 昼食後のコーヒーと一緒にチョコレートを差し出すと、薪は青木の手元に残された店のマークが印刷してあるレジ袋に眼を丸くして、
「庁舎内の売店で買ってきたのか? 恥ずかしいやつだな」
 明日には、青木が見栄を張って自慢用のチョコを買っていたという噂が広まるかもしれない。構わない、と青木は思った。真実を知られるよりずっといい。
 ピンクの包装紙に赤のハートという男が買うにはあまりにも恥ずかしいラッピングを丁寧にはがして、薪は箱を開けた。金色の薄い包み紙を開いて、ボトル型のチョコレートを口に入れる。
「おまえこれ、アルコール」
「大丈夫ですよ。ほんのちょっとですから」
 職務中だぞ、と言いつつ薪は二つ目を剥き、「ほら」とそれを青木に食べさせてくれた。薪の細い指先に青木の唇が吸い付くと、薪は熱いものにでも触れたように手を離した。職場でのスキンシップを許さない。その姿勢は特別日でも変わりないようだった。

「あの。薪さんからのもいただけますか」
「まだ言ってるのか。僕はこういうイベントには興味がないって、朝も」
 薪の頑固さを青木は、言った手前引くに引けなくなっていると解釈し、ならば彼が素直になりやすいようにとの思いを込めて軟弱な笑いを浮かべた。
「ロッカーの中にリボンの付いた箱があるの、さっき見ちゃいました」
「あれは」
 説明に窮したのか薪は口ごもり、コーヒーカップに口を付けた。青木が回答を目で訴えると、薪は言い辛そうに、
「あれはおまえのじゃない」

 自分のじゃない? まさか、薪が自分以外の誰かにチョコレートを?

 疑惑が青木の目元を赤く染め、不安に押されるように青木は薪に詰め寄った。執務椅子を回して自分の方を向けさせ、床に膝を着いて彼の両腕を掴む。その表情から何も読み落とすまいと、極限まで顔を近付けた。
「じゃあ誰のなんですか」
「誰でもいいだろ。それに、あれはおまえが考えてるようなことじゃ」

 青木どこだー? とモニタールームから声が聞こえて、二人は自分たちの距離に気付く。顎を突き出したらくちびるが触れそう、こんな場面を誰かに見られたら。
「長くいると怪しまれる。執務室へ戻れ」
 それには大人しく従って、青木は室長室を出た。朝に負けないくらい、重い足取りだった。




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バレンタイン・ラプソディ(3)

バレンタイン・ラプソディ(3)




 薪が意識を取り戻したのは、竹内がびっこを引きながら一人で捜一に帰って行った後だった。帰り際、彼は遠い目をして、
「今日は家に入れてもらえないから捜一の仮眠室で寝るか」と呟いた。勝者のコメントにしてはあまりにも切ない響きだった。
「勝負に勝って人生に負けるってやつだな」
「三好先生を選んだ時点で先は見えたろうに。何を血迷ったんだろうな」
「しぃっ。室長の耳に入ったら只じゃすみませんよ」
 青木に介抱されている薪を見て、山本が曽我と小池の軽口を諌める。薪の怒りは周り中に飛び火するタイプだから性質が悪いのだ。

「おまえら、仕事に掛かれ」と岡部が号令を出し、職員たちが自分の席に戻って行く中で、青木は薪の介抱を続けていた。彼の背中を抱き起し、気付け薬の代わりに室長専用ブレンドの匂いを嗅がせる。と、夢幻を彷徨うごとく虚ろだった亜麻色の瞳が生気を取り戻し、その網膜に最初に映った青木の顔に向かって微笑んだ。
「鈴木に会ったんだ」
 心配そうに眉根を寄せる青木に、薪は自らの体験を話してくれた。それが旅行のお土産話でも聞かせるような口調だったから、青木は少しだけ拗ねた気持ちになる。あんなヒドイ目に遭ったのに、鈴木さんに会えたことがそんなに嬉しいですか?
「すごくきれいなお花畑でさ。鈴木が僕に花冠を作ってくれた」
 臨死体験をここまで楽しそうに語る人を初めて見ました。
「でもそこに貝沼が出てきて。怖かったから夢中で逃げて、気が付いたらここに」
 貝沼さん、ありがとうございました。あなたは薪さんの命の恩人です。
「鈴木とはお盆にしか会えないから。今年は2回会えてラッキーだった」
「……よかったですね」
 もうそれしか言いようがなかった。このくらいでないと第九の室長は務まらないのかもしれないが、それにしても剛毅なことだ。
「雪子さんのおかげだな」
 おかげと言うか責任と言うか、まったく何て非常識なハンドメイドだろう。あの事件が無くても、雪子と結婚する予定だった以上鈴木の寿命は変わらなかったのではないか、と不謹慎にも青木は思う。たった一口で大の大人を気絶させることができるのだから、雪子のクッキング能力はダブルオー要員の戦闘力に匹敵すると言っても過言ではない。彼女は色んな意味で最強なのだ。

 少し休んだ方がいいですよ、と青木は懇願したが、薪は即座に首を振った。青木が持っていたコーヒーカップを取り上げ、一口すする。
「大丈夫だ。もう元気になった」
 立ち上った薪の、頬はまだ青白い。不安げに見上げる青木の耳に、近くで話していた岡部と曽我の会話が聞こえてきた。
「岡部さん。歌舞伎町の通り魔殺人の資料、この箱ですか?」
「いや、それは薪さんのだ。廊下で庶務課の配達係と会ってな、受け取ったんだ」
 少々そそっかしいところのある曽我は、岡部の説明を聞く前に箱を開けてしまった。おそらく、彼の耳に岡部の説明は届かなかったに違いない。会話の途中で曽我は弾かれたようにその場を離れ、足音も高く室長を追いかけて行ったからだ。

「室長! 少しは悪いと思ってくださいよ!」
「なんだ、出し抜けに」
 突然怒鳴りつけられて、薪は怯んだ。普段従順な曽我だけに、その激昂が意外だったのだろう。こんな曽我は青木も初めてだったから、呆気に取られて仲裁に入る機会を逃してしまった。
「東京都の人口数以上のチョコレートが売れるってのに、一人で独占しちゃう室長みたいな人がいるから! おれたちにまで回ってこなくなっちゃうんじゃないですか!」
「……それ、僕のせいなのか」
「「「そうですよっ!!!」」」
「ご、ごめんなさい」
 曽我一人に言われた時には不機嫌そうに眼を眇めた薪だったが、小池と宇野が参戦してくると急に弱気になった。
「で、でも、送られてきちゃうものは断りようがなくて」
「なんですか、その言いぐさ! 直接手渡してきた相手には突き返してるとかバチ当たりなこと言うんじゃないでしょうね?!」
「いやあの、不思議なことに、直接渡してくる人は一人もいなくて」
「自慢ですか?! 自分は高根の花だから面と向かってチョコを渡せる勇気がある女子なんか存在しないって言いたいんですか!?」
「……ごめんなさい」

 何をどう言っても怒られる。己が劣勢を悟ったのだろう、通勤途中にでも貰ったものか、薪は鞄からPCタブレットサイズの箱を取り出し、
「あの、よかったらこれ、みなさんで」
「いりませんよっ! 他人宛てのチョコレートなんて!!」
 薪の気遣いが裏目に出て、独男トリオがいっそう声量を上げる。どう考えても逆恨みなのだが、謝られたくらいでは彼らの気持ちは治まらないのだ。
「室長に贈られてきたんだから、あの箱全部、室長一人で食べたらいいでしょ! でもってまた虫歯になってほっぺた腫らして泣けばいいんですよっ!」
 ちなみに、ほっぺを腫らした薪の隠し撮り写真は愛でる会のオークションでプレミア価格がついて6ケタで落札した。もう一声出ればミリオンになっていたとかいないとか、まったく人間ヒマと金を持てあますとロクなことをしない。

「いや、これは」
「お。これ『第九一同様』って書いてあるぞ」
 副室長の岡部が、刺々しく逆立った3人の背中に声を掛ける。彼が段ボール箱の中から取り出したA5サイズの箱には、赤いリボンとメッセージカードが添えてあった。
「「「本当ですか?」」」
 自分たちにも権利があると知るや否や、3人は猛ダッシュで箱に群がった。その隙に、薪はさっさと室長室へ逃げて行く。さすが岡部、見事な助け船だ。

 3人が箱を覗いてみると『第九の皆様へ』と書かれた箱は他にも幾つかあって、彼らを喜ばせた。
「開けてみよ、痛ってー!」
 曽我の声に驚いて振り返れば、彼が手にした包装紙の縁に櫛のように整然と貼り付けられた待ち針の列。研究室は重い空気に包まれた。
「爆発物以外の危険物はスルーしちゃうんだよな。数が多いから」
 金属探知機で調べてみると、薪宛のものにも多くの反応が出た。受ける好意も多いが、悪意はその何倍も多いと予想できる。こんな風にして、敵意をあからさまに表に出す人間はほんの一握りだからだ。
 室長の薪は、矢面に立つ立場にいる。公式発表の場でマスコミの質問に答えるのが室長の仕事だ。それが公共の電波に乗って流れるとき、そのビジュアルによって人々に強烈な印象を残すこともできるが、その分こうして悪意の対象となる危険にいつも晒されている。

「こういうのってさ、研究室名で送られてくるより、個人宛ての方が辛いよな」
「第九に対する非難だって分かってても、やっぱりな」
「室長、可哀想だな……そうだ青木。おまえ、ひとっ走り行って室長の好きなハーゲンダッツ、あれ、青木は?」
「青木さんなら、室長と一緒に室長室へ」
 後輩の長身を探してキョロキョロする3人に、山本が青木の所在を明らかにする。書類に集中しているようで、山本はいつも周りをよく見ている。検事時代の、書類と被疑者を同時に見るクセが付いたままなのだろう。
「さすが青木」
「フォローが素早いな」
 モニタールームに残った職員たちは一様に思ったが、それは買いかぶりと言うもので、青木の行動理由はもっと単純で我欲塗れだ。つまり。

「薪さん。今日はバレンタインデーですね」
 ニヤニヤ笑いが止まらない青木が薪の後を追って室長室に入ると、薪はロッカーの扉を慌てて閉めた。「そ、そうだな」と背中にロッカーを隠す仕草、さては其処に青木宛てのチョコレートが入っているに違いない。
 確信が、青木に新しい幸せを運んでくる。うきうきと気持ちが弾んで足が宙に浮きそう。恋って本当に素晴らしい。ここは3階だが、その窓から空を飛んで見せろと言われたらできそうな気がする。
 対する薪は、ちょっと頬を赤くして、「こほっ」と咳払いなぞしてみせる。照れ臭いのか、視線を空に固定したまま妙に堅い口調で、
「僕はそういうの、あんまり興味ない。だから気にもしてない」
「オレは興味あります。ていうか、楽しみで昨夜は眠れませんでした」
 そうかと薪は頷き、それから気乗りしなさそうに肩を竦め、仕方なさそうに手を差し出した。




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バレンタイン・ラプソディ(2)

 またもや雪で頭が痛い現場代理人です。
 現場できない、工期間に合わないよー。
 泣きついたら工期延ばしてくれるって。いい監督さんでよかった。
 
 現場がお休みになったので、お話の続きです。

 の前に、読者の方から質問があった『男爵』について。
 
 ご新規さんには何のことやらですよね(笑)
 思い込みが激しくてカンチガイも果てしないうちの薪さんを、とある秘密ブロガーさんが「スットンキョー男爵」って呼んだのが始まりです。それから薪さんがスットコドッコイな行動をとるたびに「男爵」というツッコミが入るようになりました。
 他にも「カンチガイ大王」とか「やんちゃ小僧」とか、とりあえず薪さんにあだ名が付いた時点で二次創作的にはアウトだと思うんですけど(^^;
 いろいろな意味ですみませんです。
 このお話の内容もすみませんです。

 ほんと、このブログ、心の広い方じゃないと読めない。読者さまにはいつも感謝してます。ありがとうございます。


 




バレンタイン・ラプソディ(2)







「ぐうっ、なんて破壊力だ……し、室長! 大丈夫ですか、しっかりしてください! おい、誰か医者を呼んでくれ!!」
「医者なら此処に居ますけど。一体どういうことかしら」
 SOSを聞き付けた職員たちが何事かと室長室を覗けば、床に転がって悶え苦しむ岡部と、泡を吹いて倒れている薪の姿。床には開封されたラッピング袋が落ちていて、二人の身にどんな厄災が降りかかったかは明々白々であり、同時に、曽我と青木のチョコを奪った犯人も暴かれた。自業自得の見本みたいな人たちだ。
 いつの間に、と青木は思ったが、薪は小柄で物陰に潜むのが得意だし、岡部は尾行の達人で自分の気配を消すことができる。加えて薪は猿並みにすばしっこいので、青木の視線から逃げおおせ得ることは充分に可能だ。おそらく、雪子がばら撒いたチョコレートに全員の視線が集中した一瞬の隙をついたのだろう。

 盗っ人たちの哀れな末路に、職員たちは緊張した面持ちで、
「あ、危なかった……」
「命拾いしたな」
「だからどーゆー意味」
 一本調子で突っ込みを入れ、雪子は床に倒れた薪の傍に歩み寄る。
「ちょっと、ふざけるのもいい加減にして。市販のチョコを湯煎で溶かして固めただけで、どうして薪くんが泡吹くのよ」
 肩を揺すっても頬を叩いても目覚めない彼に、法一の女薪はマジギレ寸前だ。額に青筋を立てながらも面倒見のよい彼女は薪の半身を抱き起こし、薪の背中に膝を入れた。一見乱暴だが、これは柔道の活法という技で、脊髄に刺激を与えることで失神から覚醒させるのだ。

「はっ。……鈴木、いま鈴木が川の向こうに」
 本気で寸前まで行ったらしい。
 鈴木の名前を出されて、雪子の額の青筋が3本ほど増えた。怒りが大き過ぎて言葉にならない様子の彼女を懸命に宥める青木の横で、他の職員たちが薪を手厚く介抱する。彼のおかげで自分たちは被害に遭わずに済んだのだから感謝している、だけど、彼にこんな無謀を繰り返されたらこっちの身が持たないから、職員たちの口調はついつい説教じみたものになる。
「欲張るからですよ。薪さん、毎年山のようにチョコレート貰うじゃないですか。何も先生の義理チョコまで狙わなくたって」
「雪子さんのチョコってとこが大事なんじゃないか」
 雪子と薪は20年来の友人で、薪は彼女をとても大切にしている。薪には彼女の婚約者を殺めてしまったという過去もあったりするから気を使うのは当たり前なのだが、それ以前に、薪は雪子が大好きなのだ。

「人のを取ることないじゃないですか。室長の分は別に用意してありますよね、先生」
「岡部さんのはあるけど」
 差し出されたチョコの包みを、岡部が恐る恐る受け取った。緊張した面持ちで水平を保って運び、そうっと机の上に置いて額の汗を拭う。岡部さん、それバクダンじゃないです。
「薪くんのは作らなかったわ」
「そんな。酷いじゃないですか、雪子さん。どうして僕の分だけ無いんですか?」
「だって。薪くん、歯医者に行かせるの大変なんだもの」
 理由を聞いて、部下全員が深く頷く。みんなで薪を追い込んで歯医者に行かせたあの騒動は、まだ記憶に新しい。

「大丈夫です。薬を飲みますから」
「だから虫歯はクスリじゃ治らないの」
「それはまた時代遅れなことですね。ガンでさえ薬物治療が主流になったこの時代に、ドリルだのペンチ(抜歯鉗子)だのって、僕は彼らのそう言った原始的な部分が嫌なんです。新たな治療法を開発しようと言う向上意識がまるでない。僕が歯医者に行かないのは、そういった彼らのフロンティア精神に欠けた部分に義憤を感じるからであって、決して怖いわけじゃ」
「あ、薪さん。来週水曜日、歯医者の定期検診日ですからね」
「やだっ! あいつら、行くと必ず歯石があるだの歯周病になりかけてるだのって、有りもしない病気をでっちあげて僕に苦痛を与えようとするんだ!!」
「歯周病はれっきとした病気です。定期的にケアしないと、歯が溶けちゃうんですよ」
「青木、おまえは騙されてるんだ。歯が溶けるのはコー●の飲み過ぎだ。僕は炭酸飲料はあまり飲まないから大丈夫だ」
「なんで医者の言うことより都市伝説を信じるかな」
 水曜日はまた苦労しそうだ、と肩を落とす青木の耳に、悲哀に満ちた男の声が飛び込んできた。捜査一課の、いや、雪子の夫の竹内だ。

「酷いじゃないですか、先生!!」
 普段はすっきり開かれた眉根を寄せ、形の良い唇を歪めて、竹内は雪子に詰め寄った。何事かと職員たちが息を飲む。彼らは去年結婚したばかり。新婚夫婦がバレンタインに諍いなんて、只事ではない。
「第九のみんなに配ってるのに、どうして夫のおれにチョコがないんですか?!」
 男爵2号の登場に、モニタールームが白い空気に包まれる。竹内は捜一の光源氏と異名を取るくらいのモテ男、贈られてくるチョコレートの数は薪といい勝負だ。その二人が揃って雪子の劇薬、もといチョコを欲しがっている。新しい警察庁七不思議伝説が生まれそうだ。

「先生の手作りチョコ、楽しみにしてたのに。どうして」
 ズバリ、それは愛情だと思います。愛されてますね、竹内さん。
「あんた今、虫歯の治療中でしょ」
「そんなあ」
 竹内が情けない声を上げると、薪は先刻自分を悶絶させた悪魔の果実をこれ見よがしに掲げ、
「ふっ、竹内さん。僕の方が一歩リードと言うわけですね」
 リードには違いないですよね。確実にあの世に近付きましたからね。
「いやあの、それバラ撒きチョコだし。あたしと竹内は去年結婚し」
「何も聞きたくないですっ!!」
 まだ認めないのか、このスットンキョー男爵は。
 繰り返すが、薪は雪子が大好きなのだ。当然、彼女が人妻になった事実を受け入れたくない。前々から持っている竹内への悪感情と重なって、彼の現実逃避は激化の一途を辿っている。

「室長。いい加減、うちの奥さんのことは諦めてもらえませんか」
「いやです」
「じゃあ、どちらの愛が深いか、勝負をしましょう」
「望むところです。どんな競技でもあなたには負けません」
 一人の女性を巡って火花を散らす二人の男、しかも超美形同士の戦いとくればこれは完全にドラマの世界だ。しかしそのヒロイン役が雪子になると、話は一気にコメディに傾く。
「先生の愛が籠もったこのチョコレート、食べて立っていられた方が勝ちって事で」
「どーゆー勝負!?」
「早まるな、竹内! それは自殺行為だ!」
 雪子の叫びに岡部の声が重なる。岡部はその物体の破壊力を身を持って知ったばかり、我を忘れるのも無理はなかった。しかも薪には二度目のダメージ、鈴木も迎えに来てることだし、今度は川を渡ってしまうかもしれない。不安に駆られて青木も言った。
「もっと平和な方法にしませんか。殴り合いとか」
「なんでチョコ食べるより殴り合いの方が平和なのよ?!」
 世界の常識は第九の非常識。薪に冷たい眼で無言のプレッシャーを掛けられるくらいなら、怒鳴りつけられたほうが救われる。長く続くと、もういっそのこと殴って終わりにして欲しいと思う。これは薪の部下になったことのある人間でないと理解し得ない価値観だ。

「いやー、それにしても三好先生、すごいですね。署内モテ男ナンバー1の竹内さんと、男女問わずモテまくりの室長、その二人に取り合われるなんて」
「うれしくないんだけど!!」
 シチュエーションだけ見れば署内中の女性の嫉妬で焼き殺されそうな雪子だが、それほど陰湿なイジメに遭うこともないようだ。彼女が柔道4段の猛者だということは署内中に知れ渡っているし、薪の親友であることも知られている。つまり、下手なことを仕掛けてバレたら命が危ない。そう思われているのだろう。
 雪子はともかく、当面の命の危険はこの二人だ。彼らはハート型の小ぶりなチョコを前に、青い顔をして脂汗を流している。経験に裏打ちされた恐怖ゆえ、大丈夫だと自分に言い聞かせることもできない。薪に至っては先刻のダメージから回復しきっていない状態での再チャレンジ、今度こそ致死量を超えてしまうかもしれない。

 小さいけれど、それは激烈な一口サイズ。以前、雪子の手料理を味見をした青木に「ダークマター」と命名されたその物質の起源は堆積層の遥か下方か、それとも宇宙か。
 広いモニタールームを緊迫感が押し包む。全員が固唾を呑んで見守る中、先に動いたのは竹内だった。
 彼は、生存本能に従ってチョコを投げ捨てようとする右手を左手で抑える形で口に近付けていき、やがて口内に落とすことに成功した。口に入れた瞬間、整った顔を映画俳優が断末魔を演じるときのように見目良く凄惨に歪めたが、第九の盗み食いペアのように絶叫することもなく、2,3回の咀嚼のあと飲み込んだ。床に泡を吹いて倒れていた薪の姿がフラッシュバックしたのか、気弱な山本が目を背ける。
 3秒後に彼が勝利宣言の片手を上げると、ワッと歓声が上がった。
「「「「すごい! やりましたね、竹内さん!」」」」
 やんやと囃し立てるギャラリーに、竹内はにこやかに手を振り、
「俺は毎日先生の手料理を食べてるんですよ。耐性だって付きますよ」
「忍者は自分の身体を毒に慣らすため、普段から少量の毒を摂取すると言うが」
「見事だ、竹内」
「ちょっとあんたたち。あたしの手料理が毒薬みたいに聞こえるんだけど」
 竹内の根性を皆が称賛する中、薪は雪子お手製のチョコレートを睨んでいたが、やがて意を決し、禍々しい空気を纏うそれを指で摘み上げた。

「ぼ、僕だってっ!」
 ぱくっ。ぱたん。きゅう。

「竹内さんの勝ちですね」
 床に突っ伏した薪の口から、プスプスと煙が上がっている。華奢な胴体に収納された彼の消化器官がどうなってしまったのか、想像するも恐ろしい。
「帰るわよっ、竹内!」
「あ、ちょっと待ってください。これ、吐いておかないとこのあと仕事にならな、あ、いえその、……きゅう」
 一陣の風と共に雪子の姿は消え失せた。その動きは武道に精通した者でなければ捕えることも不可能で、事実、雪子が竹内の腹部に3発と後ろ首に1発の手刀を叩き込んだのを視認できたのは岡部だけだった。

「良かったですねえ、室長。相打ちになって」
 残された2つの屍の、小さい方の傍にしゃがんで山本が言った。もはや何処から突っ込んでいいのか分からない青木の隣で、小池と曽我がしみじみと頷く。
「日に日に鋭くなってくるな、山本の天然ボケ」
「室長を凌駕する日も近いかもしれないな」
 俺たちも負けていられないな、と闘志を燃やす先達の姿に青木は、第九がどの時点でエリート集団からお笑い集団になったのか必死に思い出そうとしていた。





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バレンタイン・ラプソディ(1)

 こんにちは。

 今日から公開しますこのお話はバレンタイン特別企画、
「Dog not to eat it」に続く「楽しい第九」第2弾でございます。コンセプトから分かるようにロマンチック度低め、バレンタインデーの甘い恋人同士のやり取りを期待してた方にはごめんなさいです。

 時期は、まだ二人が別々に暮らしてる頃です。第九のみんなは二人の関係に気付いておりません。
 それと、薪さんは男爵率高いです。広いお心でお願いします。






バレンタイン・ラプソディ(1)





 一年のうちで一番、独身男性が期待に胸を膨らませる日といえば、2月のこの日を於いて他にない。
 普段まったく女性に縁のない男子でも、自分が気付いていないだけで、例えば通勤途中の街路樹の陰から自分に熱い視線を注いでいる可愛い女子(希望)がいるかもしれない。恥ずかしがり屋の彼女が一年に一日だけ大胆になれる、今日はそんな魔法が使える日。ならば自分にもそのチャンスはあるかもしれないと、合コン10連敗中の第九メンズは3人揃って夢を見る。朝からソワソワと落ち着かない、いつ自分宛に手作りのチョコレートが届くのだろうと研究室の入り口ばかり見て、モニターに集中できない。副室長をお供に、早朝会議に出席中の室長が戻ってきたら雷が落ちること請け合いだ。
 浮ついた3人の隣で、彼らが想像するような奥床しい女子は既に絶滅している可能性が高いと彼女持ちの今井は思い、彼らはエリートのはずなのにどうして女子に対する見解だけが中二のまま止まっているのだろうと妻子持ちの山本は首を傾げる。愛の祝日を共に過ごす相手がいる者といない者、二派に分かれた職員たちの両方に平等に朝のコーヒーを配る青木もチラチラとドアを見て、どうやら彼も後者の仲間入りか。

 今井と山本はそう判断したが、それはもちろん間違っている。
 皆には秘密にしているが、青木には恋人がいる。だから今日は、研究室の誰よりも期待している。それで研究室の入り口を何度も見ている。つまり青木の恋人は同じ研究室の職員、それも仕事の鬼と怖れられる薪室長だったりする。
 男の人とこんな関係になるなんて、第九に入る前は想像もつかなかったけれど。彼を好きだと言う気持ちがどんどん膨れ上がって、性別なんかどうでもよくなった。青年期によくある気の迷いだとか、彼への憧れを恋と混同しているだけなのだとか、青木に回れ右を命じる声は自分の中にもたくさんあったのに、どうしても引き返せなかった。
 何年もの片思いの末、口説き倒してやっとの思いで恋人になってもらった。その記念すべき日から現在まで青木は幸せの絶頂にいるが、彼はどうなのだろうと不安になることもある。と言うのも薪はとても照れ屋で、自分の気持ちと正反対のことを口にしてしまう癖があるのだ。得意のポーカーフェイスとのコンボで繰り出されると、青木は3時間くらいトイレに籠もりたくなる。
 でも、今日はセントバレンタインズデー。恋に落ちている者同士、消極的な女の子にかかる魔法が、彼にかかっても不思議じゃない。
「愛してる」の言葉と一緒に差し出されたチョコレートを受け取って、青木の腕に投げ出された彼の身体も受け止めて、今夜はきっと最高の夜になる。妄想も逞しく、青木は彼との甘い夜を脳裏に思い描いていた。

 そんなことは露知らない小池、曽我、宇野の3人は、自分たちの仲間として青木を認め、友情に溢れた笑顔で彼に語りかけた。
「青木、おまえも今日は期待していいと思うぞ」
「そうですよねっ。今日は特別な日ですものね!」
 小池の言う「期待」とやらが自分には無用のものであることを青木は知っていたが、敢えて話に乗った。彼は秘密の恋人。カモフラージュは必要だ。

「ああ。一人くらいは俺のこの切れ長の眼にメロメロの女子が居てもおかしくない」
 小池さんの眼は切れ長というよりは線ですよね。まあ、人の好みはそれぞれだと思いますけど。
「この豊満なボディにうっとりした女子も、何人かは」
 曽我さん、豊満てのは女性専用の褒め言葉です。男の場合はただのデブ。
「俺は最低5人は来ると思う。クール系メガネ男子は今年のモテ男のトレンドだからな」
 宇野さん、メガネかけてりゃいいってもんじゃないです。アキバ・イン・オタクメガネ男子は駄メガネ系、いずれにせよバラ柄のネクタイしてる時点でクール系はアウトだと思います。
「そうですか、今年はメガネがモテ男の要因に……未婚女子が告白してきたらどうしましょう。わたしには妻と子供が」
「「「「こねーよ」」」」
「いま声が4人被ったように聞こえましたけど。気のせいですよね、青木さん」
 他の3人の時には心の中に留められたツッコミが、山本の時には声に出てしまった。そこは申し訳ないと思ったが、どうして青木が名指しなのだろう。
「いいじゃないですか。山本さんには美人の奥さんと可愛い娘さんがいらっしゃるんですから。羨ましいです」
 若輩者の宿命と早々に諦めて、にっこりと笑顔を作る。言葉に羨望を滲ませて、でも青木は山本を羨ましいなんてこれっぽっちも思ってない。山本の奥さんは確かに美人だけど、薪の方がずっときれいだし。娘は可愛いけれど、薪の方が絶対にかわいい。古今東西、薪以上に魅力的な人間なんてこの世にいない、と言うのが第九に入ってから現在に到るまでの青木の誤った思い込みであり、多分それは一生正されることは無い。

 なんやかやで真面目に仕事をしているのは今井だけという警察機構にあるまじき状況の中、モニタールームの自動ドアが開く。カツン、と響いたヒールの音。女子だ。
「な、なに?」
 瞬間、部屋中の男に血走った眼で見られて、彼女は思わず白衣で身体を隠すようにした。法一の三好雪子女史である。
「なーんだ、三好先生か」
「期待してソンした。ていうか幸先悪いな」
「どーゆー意味」
 ヒクッと引きつった頬に無理矢理笑いを浮かべて、彼女はこちらに近付いてきた。カツカツと甲高いヒールの音が彼女の怒りを表わしている。彼女は薪の親友だ。自分の部下が総出で彼女を怒らせたことを知ったら、薪の機嫌は確実に悪くなる。フォローのため、青木は一歩進み出た。
「すみません、先生。みなさん、モジモジ系女子を待ってたもので」
「ジョシ違いですね」
 山本さん、ナイス。
 周囲から拍手が沸き起こる。先刻まで画像に集中していたはずの今井まで「おお」と感嘆の声を上げ、山本は照れたように微笑んだ。

「うまい、山本! きっと来るぜ、インテリ好きの女子が」
「いや、ですから困りますって。うちの玲子さん、けっこうヤキモチ妬きで。こないだなんか娘の玲奈にまで妬いて、宥めるの大変だったんですから」
 山本の言うことは虚飾のない事実であったが、同僚たちの真実は違う。失礼な話だが、山本の外見とか男のプライドとか色々なものが重なって、彼らが思い描く山本家は事実と若干のズレがあるのだ。
「それは大変だったなあ」
「分かる、分かるよ、山本」
「うんうん。生きていくためには妄想も嘘も必要だよな」
「はあ?」と首を傾げる山本を置き去りに、現実の独男たちは自嘲で我が身を振り返る。
「かく言う俺だって、本当は今年もダメなんじゃないかと弱気になる自分を必死で奮い立たせて」
「俺も、俺もだよ! 分かるよ、その気持ち」
「みんな同じ気持ちだよ。俺たち、一生いい友だちでいようなっ」
 ……どこのEクラスですか、あんたたち。

 心の中で激しく突っ込みながら笑顔を取り繕う青木の横で、雪子がハーッと大きなため息を吐いた。
「どうして男ってバレンタインになると中二に戻っちゃうのかしらね」
 永遠の友情を誓い合う男たちに呆れながらも、雪子は彼らへの日頃の感謝を彼女らしい慎ましさで表現する。
「ほら、あんたたち。どうせ今年も誰からも貰えないんでしょ」
 断じられてムッと眉を顰めた男たちの顔つきが、彼女の手元を見て笑顔になる。A3サイズの手提げ袋、彼女の指先でざくざくと波打つのは赤いリボンの付いたラッピング袋。
「ほーら、好きなの持って行きなさーい!」
 号外ビラのように勢いよくばら撒かれた小粒のハートたちには、雪子のやさしい気持ちが詰まっている。彼女は去年結婚したばかりだから完全な義理チョコだが、貰えればやっぱり嬉しい。

「「「「ありがとうございまーす!!」」」」
 大きな声でお礼を言ってチョコに殺到する3人の嬉しそうな様子に、青木は胸を撫で下ろす。この事実を盾に、「1個も貰えなかった。青木、ヤケ酒に付き合え」と言う彼らの誘いを回避することができるからだ。
「良かったですね、みなさん。……あれ? 今、一人多かったような」
 彼らの戦果を心から祝いつつ、青木は自分の耳に疑問を持つ。雪子のチョコに感謝の咆哮を上げるのはこの部屋には3人しかいないはずだが、4人分の声が重なっていたような。
 不審に思った青木が周りを見回す前に、「俺の分が無い!」と、曽我が悲しげな声を上げた。
「え、うそ。ちゃんと人数分持ってきたわよ」
「よく探してみろよ。何処かに落ちてるはずだ」
「おかしいわね。本当に無いわ」
「先生、飛ばしすぎなんですよ。だいたい食べ物を投げるなんて」
 投げたのはよくないかもしれないけど、雪子はちゃんと人がいる場所に、相手が受け取りやすいように放っていた。それがあまりに素早かったから無造作にばら撒いたように見えただけだ。事実、山本などは気が付いたら手の中にチョコがあったのだ。

「青木くんのも無いの?」
「はあ」
 言われて気付く。青木の分もない。
「ごめんなさい、確認したつもりだったんだけど。冷蔵庫に残りがあるから、2人の分は明日持ってくるわね」
「冷蔵庫? 先生、まさか手作りとか」
「あたしも主婦になったことだし。一応ね」
「「ぐあああああっ!!!」」
 地を裂くような悲鳴が聞こえて、モニタールームに緊張が走る。悲鳴は室長室からだった。



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ミラー(4)

 先日からの雑文、これでおしまいです。
 読んでくださってありがとうございました。






ミラー(4)






 休日の午後4時は、少し遅めのティータイムだ。
 今日のスイーツは『タルトタタン風リンゴケーキ』。スーパーで買ってきたリンゴを使って、薪がささっと作ってくれた。「本格的なタルトタタンは2時間くらいかかるけど、これなら1時間くらいでできるから」と薪は言ったが、青木はパイよりスポンジケーキ派だ。きっと、それを考慮した上でこちらを選択してくれたのだ。
 彼の気遣いに気づけたことに、青木は満足する。
 あまり口には出さないけれど、薪はいつも青木の好みを優先してくれるのだ。素っ気無い態度とは裏腹に彼はとても甲斐甲斐しくて、見えないところでたくさん気を配ってくれて、これはそのほんの一例。なんて可愛らしいひとだろう。
 やっぱり、薪のことは自分が一番よくわかっている。

 健気な恋人のために、青木はまごころを込めてコーヒーを淹れる。かぐわしい香気がダイニングに広がると、それを嗅ぎつけたように薪が姿を現した。
「あ。切っちゃったのか、それ」
 ケーキ皿にリンゴケーキが載っているのを見て、薪が眉をひそめた。青木のために焼いてくれたのだと思っていたのだが、もしかしたら誰かにプレゼントしようと思っていたのか。
「すみません。オレのじゃなかったんですか」
「いや、おまえのだけど。そのケーキ、一日おいて、カラメルソースがスポンジに染みたところが美味いんだ。だから今日はリンゴのパルフェでも作ろうかと」
 薪は食器棚の引き出しからフォークを取り出し、両手にケーキの皿を持った。ティータイムはゆっくりくつろげるリビングで楽しむのが薪の流儀だ。
「これはこれで美味いよ。明日残りを食べれば2種類の味を楽しめるしな」
 薪がいなくなってから冷蔵庫を開けてみると、パルフェ用に取り置いたリンゴのコンポートにきちんとラップが掛けられていた。

「そっか。パルフェか」
 それは髪の毛一本ほどの些細な相違で、しかも塵ほどの遺恨も残さず解消されたのに、青木はとても不安な気持ちになった。
 何でも分かるなんて、やっぱり自惚れだった。自分は薪のことを完全には理解できていない。
 自分以外の人間を完全に理解しようなんて考えること自体おこがましい、それは分かっている。だからと言ってその努力を怠ってはいけないと青木は思う。
 青木はこれまで、薪の気持ちを理解したいと思い、観察し、その言動をできるだけポジティブに受け止めてきた。それは薪が好意を行動に表すことが苦手で、そうしなかったら彼に愛されている自信が持てなかったからだ。
 でも今は違う。こうして共に人生を歩もうと決めて、彼の傍に一生居続けることを許されたのだから。彼の好意だけでなく、嫌悪や怨嗟も全部受け止められるようにならなくてはいけないのだ。彼が自分に対して腹を立てているときでさえ、その気持ちを受け止めて、宥められるようにならなければ。

「もうちょっと、甘いほうがよかったか?」
 ふと気がつくと、薪が自分の顔を覗き込んでいた。
 つまらなそうな顔をして食べていたのだろう。せっかく薪が焼いてくれたケーキなのに、自分は何をしているのだろう。
 こんなことではダメだ。心が不安に囚われている状態で、薪を癒せるわけがない。
「薪さん。オレといると苦しいですか?」
 率直さは青木の武器だ。薪には持てない青木の強さ。意識せず、その違いを露呈させた青木に、薪は2,3秒考えると、
「10歳も年下の若造に言われたことで、そんな弱気になってどうするんだ」
 アホらしい、と横を向いて呟いた。
 薪の聴覚機能の秀逸さに、青木は畏怖すら覚える。あの時、薪はすでにスーパーの出口付近に差し掛かっていた。あの距離で会話を聞き取る事ができるなんて、まるで超能力者だ。
「薪さんの耳って、本当に特別製なんですね」
「あほか。そんな特殊能力があったら、とっくに監査課からスカウトがきてる」
 いろいろあって、薪は監査課の人間が全員諜報部員だと信じている。
「顔見れば分かる。おまえ、分かりやすいから」
 言われて青木は眉根を寄せる。聴覚の特殊能力なんかなくても、青木の心を読むことにかけては薪は能力者だ。

「ものすごく頭に来たんです」
 隠しても無駄だと悟って、青木は第二の武器を使うことにした。つまり、正直さだ。
「彼が生意気とかじゃなくて、薪さんのことを何でも分かってるみたいに言うから。オレよりも分かってるみたく言うから」
 薪は今度は4,5秒間考えて、青木の方へ顔を向けた。
「彼は僕に近い場所にいる。だから分かるような気がしたんじゃないかな」
 そう言ってコーヒーカップを口に運ぶ、薪の睫毛に見惚れつつ、青木は不満げな質問を発した。
「恋人のオレよりですか?」
「そういう意味じゃない。魂が似てるって言うか」
「ぜんぜん違います! 薪さんは、強くて男らしくて、高潔な人です!」
 ハルと出会った時のことを思い出して、青木はついムキになる。あの時ハルは、自分を誘惑してきたのだ。いくら寂しいからって、初めて会った男性に一夜限りの関係を求めてくるような、そんな人間と同じはずがない。
 青木が強く主張するのに、薪はコーヒーカップを口につけたまま、
「一緒に暮らしてるんだから、そろそろ化けの皮が剥がれそうなもんだけど」
 一緒に暮らし始めてから、ますます薪が好きになった。薪は思っていたよりずっとやさしいし、想像していたより遥かに実直だ。静かに流れる穏やかな毎日は、しかし青木を鈍感にしたのかもしれない。
「そんなことないです。薪さんは勤勉で、清廉で」
「アイドルの水着写真集を作ってる男を清廉とは言わんだろ」
 そこは否定しない。

「ハルくんは」
 薪が焼いてくれた林檎のケーキを一口頬張って、その味をしっかり味わってから、青木は言った。
「彼は、薪さんが持てないものをオレが持ってるって。それを目の当たりにするのは苦しいはずだって言ってました。
 薪さん、オレといると辛いですか?」
「…………ばっかじゃないのか、おまえ」
 心底呆れ果てたように薪は答えて、フォークで自分のケーキを切り分けた。ぱくりと口に入れて、もごもごと咀嚼しながら、
「どうして一緒にいるのが苦痛な人間と同じ家で暮らさなきゃいけないんだ。僕はマゾヒストじゃないぞ」
 続いてもうひとつ、今度は少し大き目のピースを口に放り込んで、
「だいたい、僕が持ってなくておまえが持ってるものって何だ? 身長か? 剣道大会のトロフィーか? それともバレンタインにもらった本命チョコ―― いい気になるなよ、青木! チョコに添えられたプレゼント率が僕より多かったからって勝った気になってんじゃないぞっ!!」
「いえあの、彼が言ったのは、そういうことじゃないと思うんですけど」
 勝手に思い込んで勝手に怒り出す薪のクセは治らないけれど、こういうことで怒った薪の顔はとてもかわいいから、直して欲しいとも思わない。
「じゃあなんだ。おまえ、僕より優れた何かを持ってるとか自惚れてるんじゃないだろうな? 僕がおまえの年にはもう警視正になってたんだぞ。僕に認めて欲しかったら早いとこ試験に受かってみせろ!」
 やぶへびだ……。

 反論したら薪を激昂させるだけだと悟った青木は、ケーキを食べることに専念した。スポンジケーキの下に敷かれたリンゴの甘煮が、とても爽やかで美味しい。酸味と甘みのバランスが最高だ。スポンジはやわらかくきめ細やかで、奥歯に心地よい弾力を感じる。
 青木は食べることが大好きだ。ちょっとくらいの落ち込みなら、美味しい食事で浮上することができる。生命に直結するその営みを、青木は人生の中心近くに据えている。
 ケーキの美味しさに、自然と笑みをこぼしていた青木を見て、青木の人生の中心に据えられた人物が口を開いた。
「そういうところかな」
 はい? と青木が顔を上げると、薪は苦笑して、
「僕にはケーキ一つで気分を上げるなんて器用なことはできない」
「それ、オレがコドモってことですか」
「正解者にはご褒美だ。パルフェ作ってきてやる」
 結局バカにされていることを知って青木はむくれるが、自分でも単純すぎると思っているから返す言葉もない。軽い足取りでキッチンに歩いていく薪の背中を見送って、青木は残りのケーキをまとめて口の中に入れた。



*****



 冷凍庫を開けて、薪はファミリーサイズのアイスクリームを取り出した。スプーンで大きく抉り取って、オンザロック用のグラスに入れる。適当に砕いたクラッカーをはさみ、その上からもう一度アイスを載せる。リンゴのコンポートを飾って、上からキャラメルソースをかける。仕上げにミントの葉を添えて出来上がり。生クリームがないとちょっと寂しいけど、今日は買ってくるのを忘れた。

 恋人のために追加のデザートを作りながら、薪は思う。
 青木の中には邪心がない。自分にないものは他人の中にも見つけることができない。その可能性を思いつくことができない。だから彼は、ハルが人に雇われて自分たちの仲を裂こうとした刺客だったことにも気付かない。未だにハルの作り話を信じているのだ。
 他人の言葉の裏側を探り、笑顔に隠された悪意を暴き出すことばかり考えてきた薪にとって、青木のような人間はとても眩しい。眩しくて、まともに見られないくらいだ。
 と同時に、自分の汚さを強烈に思い知らされて息苦しくなる。きっとハルは、そう言いたかったのだろう。

 侮るなよ、と薪は心の中で、スーパーで再会した青年の顔を思い出す。
 憧れて憧れて、でも決して手に入らない。そういう人間との付き合いは僕は慣れているんだ。19の時からずっと、もう20年以上だ。苦しさなんかとっくに忘れた。
 羨望もある、自己嫌悪もある。おそらく、生れ落ちたときから彼らと自分は違うのだ。魂の色が違う。
 他人と接したとき、無意識に湧き上がるいやらしい疑心を、僕が努めて考えまいと意識する負の思考を、青木は思いつくことすらない。なんてきれいな精神。
 それを無垢と取るか愚かと捕らえるかはひとの自由だけど、僕にはとても美しく見える。
 それを壊したくないと思う。守りたいと思う。
 その気持ちは、絶えず自省する苦しさを超えて、強く大切なものなんだ。
 上条、おまえには分かるまい。哀れなやつだ。別れさせ屋なんて商売してるからだ。自業自得だ、いい気味だ。過去のこととはいえ僕の青木を誘惑しやがって、しかも抱きついて頭と背中を撫でてもらっただと? 自慢そうにほざきやがってあの小僧っ……いかんいかん、また負のスパイラルが……。

「薪さん、頭痛ですか? お薬飲みますか?」
 無意識のうちに手を額に当てた薪に、青木が心配そうに訊いてくる。大丈夫だ、と断って薪は、青木が淹れ替えてくれたコーヒーに手を伸ばした。
 額に手を当てていれば頭痛だと思い込む。青木の単純さを愛しく思いながら、絶品のコーヒーに頬を緩ませる。
 至福のときだ。
 この一瞬一瞬が、替えがたく貴重だ。青木がいるだけで、すべてのものが愛おしく感じる。目の前の大男はもちろんのこと、揃いのコーヒーカップや色違いで買ったクッション、そんなものにまでうれしさを感じる。
 この高揚感を味わってしまったら、どんなに苦しくても抜けられない。そしてそのうち、苦しみは幸福感にすり替わってしまうんだ。

「しみじみ考えたんですけど。薪さんがオレに劣等感を持つことなんか、それこそあり得ないんですよね。ハルくんだって薪さんの階級を知ってるんだから、そんなの分かってたはずなのに」
 スプーンでアイスクリームを口に運びながら、青木は不思議そうに言った。
「どうしてハルくんは、オレにあんなこと言ったんだろう」
「バカだな、まだ分からないのか?」
 愚かに悩み続ける青木の様子が可愛くて、薪はついつい彼をかまいたくなる。
「あの子、昔おまえに一目惚したんだろう? 僕にヤキモチ妬いたに決まってるじゃないか」
「あっ、なるほど。まだオレに気があったってことですか」
 ……なんだろう。急に青木の後頭部を蹴り飛ばしたくなったぞ。
「そういえばさっきも『けっこう本気になりかけた』とかって言ってましたね。あれってそういう意味だったのかな」
 先刻の会話から都合の良いところだけを抜き出して、青木はうんうんと頷いた。
 どうしてだろう、凶悪な気分が抑えられなくなってきたぞ。てか、すべてのものが憎たらしい。特に目の前の大男。

「青木。コーヒーお代わり」
「いやあ、まいったな――痛っ!!」
 空になったコーヒーカップを、テーブルではなく青木の頭頂部に置く。ゴツン! と派手な音がして青木が両手で頭を押さえた。痛かったらしい。
「何するんですか、いきなり」
「今日の夕飯は人参オンリーの散らし寿司だからな。覚悟しとけよ」
「そ、そんなあ」
「うるさい、さっさとコーヒー淹れてこい!」
 背中を丸めて台所に姿を消す恋人に、薪はふんと鼻を鳴らす。それからふと、青木の単純さを思い出して頬を緩めた。
「本当に、救いようのないバカだな」
 青木が食べ終えたパルフェのグラスを持って立ち上がり、薪は恋人がコーヒーを淹れているキッチンへと向かった。




(おしまい)



(2011.5)




 古い話ですみませんでしたー。
 次は新しいの行きますね。
 時季的にバレンタインネタで……うけけけっ。←不吉な笑い。



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ミラー(3)

 前回、言及した車両盗難の顛末、報告し忘れてました。
 事件から半年くらい経って、実行犯は捕まりました。供述の検証の為に、警察の方が犯人連れて家に来ました。もちろん犯人は車に乗ったまま、現地を確かめただけですけど。その際、警察の方から説明がありました。
 実行犯は捕まるんですけど、組織の摘発までは難しいって担当の方がおっしゃってました。
 最近、また流行りだしてるみたいです。近くの現場でも、ユニック車が1台被害に遭ったって役所の方から聞きました。みなさんも気を付けてくださいね。






ミラー(3)






「おまえ、本当に忘れてるのか。上条くんだぞ」

 薪に名前を告げられた彼は、ニコッと笑って首を右に倒した。
 上条。
 どこかで聞いたような気がするその名前を、青木は必死に思い出そうとする。しかし、青木の頭の中のコンピューターは薪のように高性能ではない。名前を聞いただけで瞬時にこれまでに会った人間すべての顔写真がスクロールされる便利なシステムは搭載されていない。
「ごめん、本気で思い出せない」
 記憶の引き出しに失敗した青木が素直に謝ると、残る二人は顔を見合わせ、何とも言えない表情を作った。
 絶対にバカだと思われている。家に帰ったら「僕に恥をかかせやがって。どうしてそんなにバカなんだ? 脳みそごと交換してこい」とか言われそうだ。

「ぼくってそんなに人の印象に残らない人間なのかな」
 不服そうに青年に言われ、困り果てて薪を見上げる青木の目線を受けて、薪は肩を竦め、苦笑交じりに上条と呼ばれた青年に向かって口を開いた。
「まあ、許してやってくれ。こいつは現場慣れしていないから、髪形と瞳の色を変えられたら、もう見分けがつかないんだ」
 てっきり叱られると思ったのに、薪が自分を庇ってくれた。それが嬉しくて青木はついつい笑顔になる。ここは何とかして彼のことを思い出し、薪の恩情に報いなければ。
 必死に頭を巡らせる青木をよそに、上条青年は呆れたように、
「青木さんて、ほんっとうに薪さん以外の人間に興味ないんだね」
「いや。単なるバカだ」
「こんなに愛されてるんだもんねえ。ぼくがちょっと突いたくらいじゃ、揺らぎもしなかったわけだ」
 自分ひとりだけ話が見えない状況で、青木は尚も考え続けた。薪の言によると、青木の知っている彼とは、髪形と瞳の色が違うらしい。彼の顔立ちと体つきだけを手がかりに、過去の記憶の中から正しい人物像を引き出すことは、青木にはとても難しいことに思えた。

「女性を使えばよかったんだ」
 薪はスマートに腕を組み、自分よりもいくらか背の高い青年を見上げた。
「あの頃の僕なら、大人しく引き下がった」
 薪はそれを、相手の愚かさを揶揄すると同時に自分を嘲る口調で言い、それでいてとてもやさしそうに微笑んだ。
「あの頃の、てことは過去形だね?」
「うん。今はもうダメだ」
「進行しちゃったんだ」
「認めたくないけど、そういうことかな」
「……あれがいい起爆剤になったとか言わないでね。ぼく、失業しちゃうから」
「その方が君のためじゃないのか」
 目の前で展開する二人だけの会話に、青木は置いてけぼりを食ったような気分になる。これがまるで自分に関係のない官房室等の話なら席を外すところだが、どう聞いても薪と自分のプライベイトに係わることに思える。なのに、何を話しているのかまったく分からないというのは焦燥を超えて腹立ちを感じる。

「あのっ!」
 無礼を承知で、青木は二人の間に割って入った。
「オレにも分かるように説明してくれませんか」
「青木さんは知らなくていいよ。こっちの話だから」
 青木の懇願を袖にして、上条青年は冷たく言い切った。
 もとより、彼には期待していない。顔も覚えていない相手に何かを求めようとは思わない。二人に向けた言葉も、本当は恋人にこそ伝えたかった言葉なのだ。
 それなのに薪は、上条以上に冷たく、つんと横を向いて、
「こちらの話だ」
「そんなあ……」
 情けない声を出した青木に、上条青年はくすくすと笑い出し、薪はそっぽを向いたまま。だけどそんな薪の、そびやかした細い顎と半分閉じられた目蓋がギリシャ神話の彫刻みたいにきれいで。こんなときですら青木は彼に見惚れてしまう。
 ぼうっとした青木の耳に、上条青年のからかうような声が聞こえた。

「あーあ。引ったくり犯を投げ飛ばしたときには、あんなにカッコよかったのに」
「引ったくり?」
 事件に関するキーワードが入力されて、青木はようやく記憶のサルベージに成功する。何年前だったか、悪友たちと夜の街を飲み歩いていたとき、引ったくりに遭った少年を助けたことがあった。

「あ、ハルくん? いや、でも、あの子は金髪に緑色の眼だったような」
「あの時はね。その節はお世話になりました」
「なんだ、言ってくれれば良かったのに。元気だったかい?」
 やっと記憶の符号が取れて晴れ晴れとした気持ちで笑った青木に、何故だかハルは訝しげな顔をして、大きな目を2,3度しばたいた。
「大人っぽくなったね。もしかして、いいひと見つかった?」
 その可能性を考えたのは、ハルの態度が昔とは別人のように変貌していたからだ。
 青木が知っている彼は、とても寂しそうな子だった。一人でいるのが耐えられない、と涙を浮かべていた。その彼が今はどうだろう。自信に満ち溢れて、ちょっと溢れすぎて常識の枠から零れてるみたいだけど、とにかく、人生を謳歌しているように見える。その陰にはきっと、彼の元気の元になっている大切な人の存在があると青木は考えたのだ。
 薪さえいれば、どんな落ち込みからも浮上できる自分のように。彼もきっと。

 しかしハルは、青木の言葉に怪訝そうな様子を一層強め、
「薪さんから聞いてないの?」
 ハルの問いかけに、青木は驚く。ハルは近況を薪に報せていたのか。
「薪さん。ハルくんと連絡取り合ってたんですか?」
 薪は青木の質問には答えず、代わりにハルが「そうじゃなくて」と言い掛けたが、薪に眼で黙らされた。泣く子も黙る鬼の室長のひと睨みは今でも健在だ。

「青木さんに説明しなかったの? なんで?」
「したさ。でも彼は信じないんだ、バカだから」
 また青木を蚊帳の外に置いて、二人は話し始める。
「誰かが自分を罠に填めようとするなんて思いもしないんだ。親切な笑顔の裏に込められた悪意を感じ取れない」
「お人好し選手権に出たら、優勝間違い無しだね」
 ハルはそれを屈託のない笑顔で言ったが、さすがに青木でもこれは分かった。褒められてるんじゃない、バカにされてるんだ。
「でも、ぼくはそういう青木さん、好きだな。あの時もすごく親身になってくれてさ、けっこう本気になりかけたんだよ」
「表面上のものしか見えない。救いようのないバカだ」
 ハルのフォローを一刀両断に切り捨てて、薪は苦虫を潰したような顔で青木を罵倒した。薪にバカバカ言われるのは慣れているけれど、あんまり他人の前では言って欲しくない、と少しだけ傷ついた。

「他人は自分を映す鏡とはよく言ったものだ。僕にはあんなにはっきりと見えた君の真実が、彼には見えなかった。それは彼の中に薄汚れたものが存在しないからだ。自分にないものは、他人の中にも見えないんだ」
 その言葉は、青木にはよく聞き取れなかった。
 薪は人と話すときの彼らしくもなく俯いて、その声はひどく小さく、傍にいたハルには聞こえたと思われたが、青木の耳には意味を成さない断片でしか入ってこなかった。

「帰る」
 唐突に宣言して、薪はくるりと後ろを向いた。
「えっ? だってまだ買い物途中」
 止めようとした青木を無視して、レジの方へ歩いていってしまう。薪の気まぐれには慣れたつもりでいても、戸惑うことは未だに多い。
「人参とパプリカと潰れたほうれん草で、何を作る気なんだろ……」
 豪華な夕食は諦め、薪を追いかけようとして青木は、ハルに「じゃあね」と声を掛けた。

「今日は会えてよかったよ。ハルくんが元気にやってるみたいで安心した」
 青木は心から、彼の充実した人生を祝ったつもりだった。しかしハルは何故か形の良いくちびるを皮肉に歪めて、
「青木さんはやさしいね」
 苦々しく言った後、今度はにっこりと笑って、
「でも、すごく残酷なひとだね」
 表情と言葉の乖離に、青木は翻弄される。彼の真意が分からない。彼はいったい何が言いたいのだろう。
「薪さんのことも、いつもその調子で傷つけてたりする?」
「オレは薪さんを傷つけてなんか」 
 たまに薪があんまり可愛くて暴走しちゃうことはあるけど、あれは傷つけると言うよりは可愛がりすぎちゃうって感じで、薪にしてみれば迷惑な話なんだろうけど、そう怒ってる風でもないし。

「ぼくだったら耐えられないな。あなたみたいな人間を間近に見て暮らすなんて」
 そう言ったハルの口調が、昔聞いた彼のものに近しい気がして、青木は眼を瞠った。
 見れば彼の茶色の瞳は、青木が知っている緑色の瞳とはまるで違うそれは、しかし湛えられた孤独だけは記憶の中の彼と同じ、否、よりいっそう深まる寂寥を耐え忍ぶように、暗く虚ろに見えた。
「あなたを好きだったら余計耐えられない。死にたくなるよ、きっと」
「どうして」
「自分に絶望するから」
 彼の声の調子はとても明るくて、スーパーの照明も眩しいくらいで、なのに青木は此処が、自分が被告に立たされた法廷でもあるかのような緊張を強いられる。
 昨夜見たドラマの話にでも興じるかのように、軽やかにハルは続けた。

「青木さん。青木さんは、薪さんが持ち得ないものを無自覚に持ってて、それを目の当たりにするのは薪さんにとって嬉しいと同時にひどく苦しいものなんだってこと、分かってる?」
 ハルの質問は、イエスかノーで解答できるマルバツ問題にも等しかった。でも、答えられなかった。
 質問の意味が分からなかった。去年受けた警視正試験の、青木の苦手な解剖学の設問より意味不明だった。
「そのお人好しを直す事ができないなら、せめてそれだけは気づいてあげなよ」
 捨て台詞のようにうそぶいて、青木の横を通り過ぎていく。薪とは反対の方向に歩いていく彼を追って、青木の頭が右回りに巡らされた。
「薪さんより身長が高いことくらい、自覚してるよ!」
 遠ざかっていく背中にぶつけた言葉に、ハルはぶふっと吹き出して、右手を頭の横に上げ、青木に背中を向けたままひらひらと振ってみせた。そのまま、彼は振り返ることなく青木の前から姿を消した。

 咄嗟に出した解答が絶望的に間違っているのは分かっていたけれど、どうにも腹立ちを抑え切れなかった。
 無礼にもほどがある。薪は自分の恋人で、一緒に暮らし始めて半年にもなるのに、どうしてロクに面識もない彼にそんなことを言われなければならないのだ。彼が薪の何を知っていると言うのだ、何も知らないくせに勝手に薪の気持ちを語るな。
 薪のことなら自分が一番よく分かっている。6年も付き合っている恋人で、今は24時間一緒にいることも珍しくないのだから、理解して当然だと思う。他者のアドバイスなんか要らない、とそこまで傲慢になるつもりはない。これが雪子あたりから出た言葉なら素直に聞いたかもしれない。でも、彼に言われる筋合いはない。

「ったく、最近の若い子は」
 恋人の口癖を真似て苛立ちを吐き捨てた後、青木は3種類の野菜と林檎しか入っていない寂しい買い物カートを押してレジに向かった。





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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
メロディ6月号、読みました。
一言感想 「どひゃー……」
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