Today&Tomorrow(5)

 メロディ発売日は目覚まし時計が要らないしづです。
 今朝も4時に眼が覚めました。でも、そわそわして何も手に着かない。早起きの意味ないんですけど、何か有意義なことをしようと思って起きたわけじゃないからいいや。←ダメ人間の思考法。

 一昨日から過去作読んでくださってる方、たくさん拍手いただいてありがとうございます(*^^*)
 公開中のお話にもいっぱい。どうもありがとう(〃▽〃) 妄想がんばります。
 え。物騒なものはいらない? ううーん。


 つづきです。
 発売日までに終わらせたかったんですけど、やっぱり終わらなかったです。(ダメ人間……)



Today&Tomorrow(5)





危険ポイントその6 貸切風呂



『男子浴場の準備が整いましたので、どうぞお越しください』
 お客さまにはご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございませんでした、と続くアナウンスに、青木は眼を覚ました。鼻先に当たる髪の感触に眼を開けば、薪が青木の腕の中で裸のまま眠っていた。薪は普段は眠りが浅いけれど、情事の後はよく眠る。ホテルのアナウンスくらいでは起きないだろう。

「薪さん。大浴場、入れるみたいですよ」
 本当はもう少し寝せておいてやりたいのだが、放っておいたら「どうして起こさなかった、温泉に入れる時間が短くなった」と後で文句を言われる。でも薪は低血圧だから昼寝の途中で起こすとイライラして青木に当たり散らす。どちらにせよ青木は怒られるのだが、だったら早く起こした方が得だと思う。寝ぼけて怒る薪の可愛い姿が拝めるからだ。
 華奢な肩を揺さぶると、薪は、ううんと呻いて青木の胸に顔を埋めた。眠り足りないらしい。もう30分したら起こそうと心に決めて、青木は薪の身体を抱き直す。二人分の体温で温まった身体が、自然にぴったりと重なった。

「貸切風呂。3時半から取ってある」
 半分寝言のようなフニャフニャした声で、薪が呟いた。最初に青木が貸し切りを提案したとき、そこは露天じゃないから嫌だと言われた。青木がそのことを蒸し返すと、薪はため息交じりに、
「今日はもう大浴場には入れないだろ」
 言われて初めて気付いた、薪の胸元のキスマーク。今日は薪が積極的だったから、青木の胸にもけっこうな数が残っている。これでは人前に出られない。

 薪は青木の肩に載せた頭の位置を微調整し、不明瞭な呟きとも呻きともつかぬ声を漏らした。時間まであと30分以上ある。その間こうやって、布団の中でうだうだするつもりなのだろう。薪の低血圧は筋金入りで、起き抜けは真っ直ぐ歩けないくらいなのだ。
 生まれたままの姿で、満ち足りた気持ちで、愛する人と触れ合える時間の貴重なこと。やさしく背中を撫で、腰や太腿の肉の柔らかさを楽しんで、激しい欲望に己を支配されることなく穏やかに脚を絡め合う。素肌の感触がすごく気持ちよくて、いつまでもこうしていたいと青木は願う。
 部屋の中は相も変わらず、潮騒の音で満たされている。ブラインドを下ろした居室は薄暗く、波の音以外は何も聞こえない。二人きりで海の底にいるみたい。青木がそう言うと、薪はようよう身を起こし、見下すように青木を見た。
「海の中にいたら波の音は聞こえないだろ」
 それはそうかもしれませんけど、そこはムードというかロマンというか。薪にロマンチックを期待しても無駄だと分かっているが、青木は夢見ることを止められない。だって薪はこんなにきれいなんだもの。
 重い頭を引きずるようにして起き上がった薪は怠そうにしているけれど、アンニュイな雰囲気が彼の美貌によく似合っている。情事の後だからか、デカダンスを感じさせる。白い胸に散らした赤い花びらの艶美は、浴衣で隠してしまうのが惜しいほど。これで中身がオヤジだなんて、完全に詐欺だ。

 予約時間の5分前、フロントから電話があった。貸切風呂まで案内するから受付に来て欲しいとのことで、いつものように青木が一人で行って説明を受け、それから薪を部屋まで迎えに行った。一人で風呂を使いたがる客は珍しくないが、男二人で貸切風呂に入る客は好奇の眼で見られる。面倒だけれど仕方ない。これは旅先のトラブルを避けるための知恵だ。

 風呂は大浴場より2階高い、3階にあった。
 脱衣所には鏡と洗面台、ロッカーに籐椅子、トイレ等、一揃いの設備が整っている。冷房は低めの22度。小型の冷蔵庫もあって、中にはミネラルウォーターと日本茶が入っていた。
「なんだ。酒はないのか」
 入浴時の飲酒は危険だ。ホテル側がそれを促すような真似をするはずが無い。
「持って来て正解だな」
 自慢気に薪が袂から出したのは、部屋の冷蔵庫に入っていた日本酒だ。こういう客がいるから入浴事故が後を絶たないのだ。
「薪さん。風呂での飲酒は」
「固いこと言うな。ほら、おまえの分」
 と、缶ビールを取り出す。青木を共犯にする気らしい。
「危ないですって。お湯に浸かってアルコールを摂取すると、急激に酔いが回って」
「僕って酔っ払うとエッチな気分になるんだよな」
 そういうことなら話は別です。
「お茶のコップとお盆が置いてありますよ。これ、使いましょう」
 悲しいくらいにあっさりと陥落した青木を、薪が嘲笑う。たぶん青木は一生この調子で、薪には逆らえないのだろう。他人から見たら随分情けないことで、おそらくは憐憫の眼で見られまくり。でも本人たちはその状況を楽しんでいる。他人には分からない、舞台裏の予定調和。

 貸切風呂は贅沢な間取りで、詰めれば8人くらいは入れそうな広さがあった。前面は一枚ガラス、側面には通風窓があり、室内に風が通るようになっている。浴槽の右上には竹を斜めに切った湯管が置かれ、そこから新しい湯が注がれていた。微量の湯が、絶えず浴槽の縁から零れ落ちている。ホームページの写真の通りだった。
 シャワーを使ってから二人で同時に湯船に浸かると、大量の湯が押し出された。ザーッと言う派手な水音にテンションが上がる。もったいない気もするけれど、これが掛け流しの醍醐味だ。
「はー。極楽だー」
 オヤジくさい感想は聞かなかった振りをして、青木は顔を上げた。
 一面ガラス張りの窓からは、コバルトブルーの海が見える。見る角度によって色が違う、そこが海の魅力だ。風呂は薪の好きな檜風呂。白檀の香りを吸い込むと、身体の隅々まで浄化されたような気分になる。そこに潮の匂いが混じって躍動感が生まれ――。
「日本酒サイコー」
 ダメだ、アルコール臭に掻き消された。

 青木は苦笑して横を見た。湯に浸かって冷酒ぐいぐいとか、色気のイの字もない。ベッドの中の妖艶な彼とはまるで違う。無邪気で明るくて、コップを持ち上げる二の腕の内側のキスマークが無かったら、あれは別人だったのかと思ってしまう。
 でも薪は本当に幸せそうで。見ているこっちまで嬉しくなってくる。
 彼にはこちらの方が楽しいのだろうと青木は思う。部屋に籠って二人きりの秘め事に時を費やすより、こうして明るい場所で、誰に気を使うこともなく、後ろ指を指されることもない、つまりは友だち同士の関係。むかし薪はずっと、青木と特別な関係を結ぶことを拒んでいた。「友だちのままじゃダメなのか」と何度も聞かれた。彼が望んだその関係に満足できなかったのは青木の方なのだ。
 自分の我欲を通したことで薪に捨てさせた幾つかの貴重なものを思い、青木は憂鬱な気分になった。今さら詮無きことではあるが、この罪悪感は消えない。たぶん一生消えない。

「わぷっ」
 いきなり顔面にお湯を掛けられて、青木は顔をしかめた。この人は急に何をするのかと見れば、薪の澄ました顔。
「ぼーっとしてるからだ」
 ぼうっとしてたら顔に水を掛けるんですか。いつの時代の取調室ですか。
 何を考えてた、と訊かれて答えに迷った。言葉にしてはいけない気がした。青木が考え付くようなことに薪が気付かないとは思えないけれど。言葉にすることで、今までは漠然としていた不利益が具体化する。それが怖い。だからと言って空っとぼけられるほど、青木は面の皮が厚くない。結局、青木が口にしたのは巨大な恐れのほんの一部だった。

「オレが女ならよかったのかなって、――薪さん、汚いです」
 だらーっと薪の口から零れた日本酒がお湯に落ちる。掛け流しでよかった。
「おまえが気持ち悪いこと言うからだろ」
「でもほら。今日だってオレが女なら、薪さんと一緒に此処に来れたじゃないですか」
 口を手で拭いながら足で青木のふくらはぎを蹴る薪に、身近な例を挙げて説明する。一事が万事で、薪ならそこから多くを悟ってしまうに違いない。
 自分からは言えないから察して欲しい。青木のそんな卑怯な気持ちまで。そう思ったから青木は言ったのだ。
「もしもオレが女なら、薪さん今ごろ警視監になってたかも。結婚だって子供だって」
 同性の恋人にこの手の話はタブーだと、青木だって解っている。けれども、薪に卑怯者と蔑まれるくらいなら。自爆した方がマシだ。

 話を聞いて薪は眉ひとつ動かさず、くい、とコップの酒を呷った。
「バカらしい。考えても仕方ないことは考えないって、昔おまえが言ったんだぞ」
「オレ、そんな無責任なこと言いましたっけ」
「おまえ、本当に頭悪いな」
 マジマジと人の顔見てそういうこと言うの止めてもらえませんか。泣きたくなっちゃいます。
「だから忘れるんだよ。大事なこと」
 空になったコップに手酌で冷酒を注ぎ、前方のコバルトブルーに眼を据えたまま、薪は言った。
「思い出してみろ。おまえと会う前の僕は、何も持ってなかった」
 みんなおまえが僕にくれたんだ。

 薪がそういう気持ちでいてくれたのは知っていたけれど、それは違う。昔も今も、彼の人生は価値あるもので満たされている。あいつはもうお終いだと他人の謗りを受けていた時期でさえ、彼の周りに愛はあった。薪が手を伸ばそうとしなかっただけだ。
 岡部や第九の部下たち、雪子に小野田。彼らは正しかった。薪に、何ひとつ余計なものを背負わせることなく彼を再生させた。それに比べて青木がしたことは。

「オレのはシタゴコロありましたから」
 冗談に紛らせながらも心が痛みを訴える。本当のことなのに、どうにも悪い酒だ。
「岡部さんや雪子先生のやり方が正しかったんです。オレも、そうすべきだったのかも」
 最後の言葉はコップの中に濁した。ビールの泡と一緒に消えて欲しいと願いながら。

「おまえ、一番大事なこと忘れてないか」
 さっきも言われた。青木はバカだから大事なことを忘れてしまうと。その通りかもしれない。薪に笑ってほしいから彼の恋人になりたいなんて、よくよく考えたらおかしな理屈だ。同性を恋人にすることのリスクを考慮したら、笑顔どころの話じゃ……。

「僕がおまえを好きになったんだぞ?」
「え」
 あんまり思いがけない言葉だったから。青木の時間は一瞬で凍りついた。眼を丸くして薪を見つめる。と、薪はチッと激しく舌打ちして、
「なんだ、その反応は。知らなかったとか言ってみろ、沈めるぞ」
「あ、いえその」
 ものすごく怖い眼で睨まれて、舌が上顎に張り付いた。苦労して引きはがす。ビールの苦みが口中に広がった。
「うれしいです。すごく」
 本当に嬉しかったのに、何故だか上手に笑えなくて。強張った笑顔しか作れなかったのだと思う、薪の額に青筋が立ったから。

 薪は青木からビールを取り上げ、自分の冷酒と一緒に盆に載せた。それを浴槽の縁の置くと、青木の正面にずいと顔を寄せた。首に両腕を回し、青木の膝に座る。密着すると嫌でも薪の尻の感触が伝わってきて、多分それも計算のうち。
「海に温泉に僕のヌードだぞ。もっと楽しそうな顔しろ」
「薪さんの顔以外見えませんけど」
「おまえ、僕の睫毛とくちびるでヌケるんだろ。顔だけ見えりゃ充分じゃないか」
 薪の憎まれ口にハイと答えると、「素直でよろしい」とお褒めの言葉をいただいた。今度は自然に笑えて、そうしたら薪がキスをしてくれた。
 塩辛くてアルコール臭い。でも最高に幸せなキスだった。




テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

Today&Tomorrow(4)

 今日はお義父さんの7回忌法要で、久々に長男の嫁らしいことをしております、しづです。
 メロディ発売も近いですし。励みにしてがんばります。
 



Today&Tomorrow(4)



危険ポイントその4 客室


「ここからも海が見えるんだな」
 部屋に入った薪は、さっそく窓に張り付いた。海岸縁に建てられたホテルは、全室オーシャンビューを売りにしている。潮で傷みが早いせいかホテルの外観はあまり豪奢な印象ではなかったが、中に入ってしまえば内装は綺麗だし、自慢するだけあって眺望は最高だ。
「下の砂浜はホテルのプライベートビーチだそうで。利用客は、岩ノリや貝を自由に獲っていいそうですよ」
 ふうん、と薪は漁には大した興味も示さなかったが、夕暮れの散歩には同意してくれた。このホテルは東を向いて建っているから海岸線に陽が沈む光景は見えないが、夕焼けで赤く染まった空の色を映した海も、きっと薪の心を和ませてくれる。

 二人が通された部屋は薪が好む純和室で、十畳の二間続き。二人で使うのがもったいないくらい広い部屋だ。一間に一台、大型のテレビが置いてある。それぞれにビデオデッキがセットされているのを見て、青木はロビーにDVDの貸し出しコーナーがあったのを思い出した。温泉街と言えば必ず近くに観光客向けの盛り場があるものだが、ここは田舎の漁師町で夜は早い。客は、海の見えない夜間はもっぱらこれで時間を潰すのだろう。
 お昼寝プランなので、奥の部屋には二組の布団が用意されている。海の幸のフルコースでお腹も一杯だし、男湯が使用可能になる3時までの間、お昼寝タイムと行くことにした。
 布団の上に、腹ばいになって手足を伸ばす。隣を見ると、薪がうつ伏せになって枕を抱えていた。盛り上がった腰のラインが妙に色っぽい。浴衣は濃紺の布地に白でホテルのロゴが入っている一般的なものだが、黒っぽい着物は肌の白さを強調する。だから余計に色気を感じてしまう。まくれ上がった浴衣の袖から覗く白い腕から、青木は慌てて眼を逸らした。
 薪は、髪の色も瞳の色も日本人離れした明るい色なのに、和装がとてもよく似合う。浴衣も甚平も、紋付き袴も堂々と着こなす。それは薪が主張するように、彼が日本男児だからなのだろうか。まあ、振り袖も似合ってしまうとなると日本男児からは遠ざかるような気もするが。

「波の音がする」
「今日は、風がありましたからね」
「不思議だ。けっこう大きい音なのに、ぜんぜん耳触りじゃない」
「自然の音ですからね」
 ザーザーと繰り返す音の響きはラジオの雑音に似て、でもまったく違う。モーツァルトの楽曲みたいに華やかじゃないけれど、その単調さが眠気を誘う。段々に手足が重くなって、海の底にいるみたい。
「おまえの声と似てる」
 え、と青木は枕から顔を上げた。薪は先刻と同様、枕に顔を埋めたまま、モゴモゴと、
「説教ばかりでうざったいのに。聞いてると気持ちいい」

 ふいに、そんなことを言われたら。
 大好物のビーフジャーキーを見せられた犬のように、青木は布団の上に身を起こす。うつ伏せたまま、早くもまどろみに入っているらしい薪に声を掛けた。
「そっちへ行ってもいいですか」
「来るなって言っても来るんだろ」
「薪さんが一人でお休みになりたいなら諦めます」
 いささかシュンとして、それは薪に素気なくされたからではなく。仕事で疲れている薪にリフレッシュして欲しいと思って此処に連れてきた、だから彼を疲れさせることはする気はなかった、はずなのに。薄い浴衣一枚で寝具に寝そべっている彼を見ているとやっぱり欲しくなってしまう、自分の意志の弱さにがっかりしたのだ。

 すごすごと自分の布団に戻ろうとした青木の耳に、薪の声が聞こえた。枕に口をつけた不明瞭な発音ではなく、いつもの澄んだアルト。
「風呂が使えるまで2時間以上ある。昼寝には長すぎる時間だ」
「ですよね! 昼寝が過ぎると夜眠れなくなりますし」
 サカサカと四本脚で薪の布団に擦り寄る、変わり身の早さは天下一品。相手が薪でなければもう少しは自分の主義主張を通せるのだが、いかんせん、青木は薪の前では完全なるイエスマンだ。例えそれが明らかな間違いだったとしても、薪の言うことには逆らえない。

 薪の隣に寝る、というか覆いかぶさると言うか、とりあえず身体を寄せると、湯上りの肌からはいい匂いがする。さらさらした髪を耳に掛けて、小さな耳たぶを口に含んだ。潮の味。
「薪さん。下着」
 浴衣の上から撫でてみて分かった。薪は下着を着けていなかった。道理で色っぽいはずだ。
「どうせ脱がされると思ったから」
 その気でいてくれたってことですか?
「おまえがこの状況で何もしてこないとは思えない」
 はい、すみません。おっしゃる通りです。
「対象と関係を持つのはSPのご法度だぞ」
「意地悪言わないでくださいよ」
 薪の言う通り、それは確かに掟破りだが、青木の場合はボディガードになる前から薪の恋人だったわけだし。当てはまらないと思ったけれど強く反論することもできなくて。お腹が空いた犬のような顔をした青木を見て、薪がクスッと笑う。
「うん、分かった。今日は意地悪はやめる」
 いきなり素直にならないでもらえますか、気持ち悪いです。
「どうしたんですか?」
「バスの中で言ったこと、おまえ、本当に聞いてなかったんだな」
 薪の笑顔に骨抜きになって話を聞いていなかった。聞き直したが、薪は答えてくれなかった。異動の打診かと思ったけれど違った。本当は何だったのだろう。

「来週の火曜、おまえの誕生日だろ」
 そうですけど、それがなにか。
「毎回、何も要らないって言われるから。今年は物じゃなくて、思い出作りにしようかなって」
 薪は毎年気遣ってくれるが、青木は本当に何も欲しくないのだ。もう何年も前から青木が欲しいのは薪だけで、その薪がこうして自分の恋人でいてくれる。以前のように、抱き締めても投げ飛ばされたりしない。ちゃんと青木を受け入れてくれる。青木に笑い掛けてくれる。毎日プレゼントをもらっているようなものだ。
「そんなの当たり前だろ。恋人なんだから」
 薪は当然みたいに言うけれど、その当たり前のことが実はけっこう難しい。年が重なるにつれて慣れ合いになる、手抜きが増えていく。薪の場合は最初から我儘方題だったから、変わる必要性が無かったのかもしれないが。

 薪はゆるゆると身を起こし、浴衣の裾を乱して布団の上に座った。下着を付けていないと分かったせいで、奥の暗がりが気になって仕方ない。白い太腿に眼を奪われている青木に薪は膝でにじり寄り、大胆にも腰の上に跨った。青木の身体の中心に手を載せて意地悪そうに笑う。
「毎年、誕生日が来るたびにココが疼いて堪らなくなるくらい。過激な思い出作ってやろうか」
「はいっ!」
「脅し甲斐のないやつだな。少しは怯えてみせろよ」
 Sっ気の強い薪には、怖がる相手を苛めたい欲望があるのかもしれない。でも青木は薪にされることならなんでも嬉しい。多分、鞭で打たれても抵抗しない。薪がそうしたいなら、自分もその快楽を得られるように努力しようと思う。
 どんな形でもいい。薪と愛し合えるなら。

 薪のやさしい手が青木の前髪を後ろに向かって撫でた。露出した額にくちづけを落とす。目蓋、鼻先と下ってきて、青木の唇を捕えた。
 やや強引に入ってきた薪の舌が、青木の口中を侵略する。舌が触れ合うと、痺れるような甘さが全身に広がる。薪はキスが上手い。
 細い背中を抱いていた手をずらし、浴衣の合わせから手を入れると、乳首が硬くなっていた。コリコリと転がせば、薪の背中がびくりと波打つ。んっ、とくぐもった声を青木の口の中に残し、薪はくちびるを離して息を吐いた。
 浴衣の裾をまくり、中を探る。少し汗ばんでしっとりした太腿と、やわらかい尻と、それから――。

「あ、ちょっと待ってください。襖、閉めてきますから」
「この部屋には僕たちだけだぞ?」
「そうなんですけど、一応」
 不思議がる薪の前で青木は部屋を隔てる襖に近付き、静かにそれを閉めた。



*****



危険ポイントその5 密室

 当人たちの強い希望により、公開を控えさせていただきます。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

Today&Tomorrow(3)

 今年も現場の時期になりまして。思うように更新ができないしづです。
 毎日たくさんの方に訪問いただいてるのに、拍手もいっぱいもらってるのに、お返しできなくてすみません。もっと上手に時間を使えるようになりたいです。

 去年は現場で神経消耗しちゃって、SSが惨敗だったんですけど(「イヴ」が未だに心残り)、今年はそんなことのないようにしたいです。
 リアルがいかに厳しくても、それに飲み込まれてしまったら楽しくないものね。人生、楽しまなくちゃね。(*^^*)




Today&Tomorrow(3)





危険ポイントその3 大浴場



「お兄ちゃん、どこから来たの?」
「東京です」
「へえ、そうかい。やっぱり東京の人は男でもきれいやねえ。うちの息子とはえらい違いだ。モデルさんか何かかい?」
「いえ。公務員です」
「ふわあ。東京の役場にはこんなきれいな兄ちゃんがおるんか。そりゃあ税金も高いわな」
 右手に居た仲間たちと一緒にワハハと笑う。薪も呑気に笑ってるけど、青木はそれどころじゃない。
 ここは大浴場の脱衣室。薪も、薪に声を掛けてきた男も、服を脱ぎかけた状態だ。脱衣室は広くて、バスの中のように自然に薪を隠せない。気が気ではなかった。

 街中で、ユニセックスな私服に身を包んだ薪に声を掛けてくる男は、実はそれほど危険ではない。その半数が彼の性別を間違えているからだ。男たちの殆どは自分の間違いに気付けば照れ笑いで去っていく。まず安心していい。
 これが仕事帰りのスーツ姿だと少々厄介だ。男性であることがほぼ確定的なのに声を掛けてくるなら、それは確信犯だ。強気の対応が必要だ。
 そして、大浴場。この状況下で薪に粉を掛けてくる男は危険度200%だ。人の善さそうな笑顔に騙されてはいけない。「おれの息子も君くらいでねえ」とか、いかにもお父さんが自分の息子に声を掛けるみたいな風情を装っているけど、そんなわけないから。そのひと、あんたと同年代だから。

「東京の人は、こんなに肌が白いの」
「陽に当たらない仕事なもので。お父さんはいい具合に日焼けしてますね」
「ここは漁師町だもの。あんたは背中も真っ白で、ほお、すべすべしてるねえ」
「あは。くすぐったいです」
 純朴の皮を被って薪に触るような輩は問答無用で殴り倒していいと思う。憲法で制定するべきだと思う。
「尻もこんなに小さくて、おうっ」
 突然の衝撃に驚いた男が、ビクッとして手を引っ込める。「すみません」と愛想よく笑いながら、青木は取り落とした脱衣籠を男の足元から拾い上げた。
「何やってんだ、青木。危ないじゃないか」
「すみません。手が滑ってしまって」
 青木の脱衣籠が左隣の薪を通り越して男の足元に落下するためにはどういう動線を描いたらいいのか、もしも相手が訊いて来たら実演してやろうと思っていた。今度はこの扇風機で。

「お怪我はありませんでしたか?」
「ああ大丈夫。じゃあ、おれたちは帰るから」
「お仕事ですか」
「帰って寝るんだよ。おれたちは猟師だから。朝早く漁に出て、風呂に入って休むんだ」
「そうなんですか。お疲れさまでした」
「あんたたち、ここで昼飯かい?」
「ええ。風呂の後に」
「そうかい。ここは刺身が旨いよ。今日はメバルのいいのが揚がったから、それにしなよ」
「ありがとうございます。そうします」
 日焼けした顔をほころばせて、漁師たちは和気藹藹と帰って行った。その時薪はズボンを脱ごうとしていたが、彼らがこちらに未練がましい視線を送って来ることはなかった。
「いいこと教えてもらったな」
「そうですね」と頷きながらも、青木には些少の罪悪感がある。彼らが薪に声を掛けたのは地元民のお愛想で、ナンパではなかったのかもしれない。悪いことをしてしまった。

 無闇に人を疑わないようにしよう、と青木は心に決め、薪の後に続いて大浴場の引き戸を潜った。瞬間。2秒前の決意も忘れて、青木はピリピリと神経を尖らせる。浴場の空気が明らかに変わったからだ。
 空いている洗い場に腰を下ろす薪を、周りの男たちが茫然と見ている。特に隣の人、シャンプー眼に入ってますけど痛くないんですか、それ。
 気持ちは分かりますけど、と心の中で呟きながら、青木は薪の隣の席に座った。だから貸切風呂にしようと言ったのに、大浴場の方が広いとか露天風呂が無いと嫌だとか、終いには「一人で入るからいい」。青木の恋人は理屈を捏ねさせたら日本一、我儘を言わせたら世界一だ。

 思いつきで訪れた温泉だが、この施設は「手ぶらで温泉」をキャッチフレーズにしており、部屋付きプランを申し込むと格安で入浴セットを購入できる。石鹸とボディタオル、シャンプーとリンスのセット、レンタル品のフェイスタオルと湯上げタオルに浴衣が付いて三百円。入浴のみの場合は千円で、差額はプラン料金に上乗せされているのかもしれないが、とりあえず破格だ。値段の割に質は良く、特にこのボディタオルは肌触りがいい。
「薪さん。背中、流しましょうか」
「大丈夫だ。一人で洗える」
「遠慮なさらず。ほら、気持ちいいでしょ」
 やや強引に薪の背中で石鹸を泡立てる。別にボディタオルのアピールをしたいわけじゃない。こうすることで薪には自分が付いているのだと周りの人間に教えるためだ。

「はい、OKです。髪の毛も洗ってあげましょうか」
「おまえが僕の世話を焼いてどうするんだ。今日は」
「はい?」
「……なんでもない」
 薪は黙って髪を洗い、終えるとふいと席を立って、青木に声も掛けず露天風呂へ行ってしまった。周りに人がいるのに、親しげにしたのが拙かったらしい。薪が人目を気にすることを忘れていた。

 青木は念入りに身体を洗い、髪を二度洗いして時間調整をした。すぐに後を追ったりしたら薪にウザがられる。こういった心遣いは意外と大切なのだ。青木は好きな人となら24時間一緒にいても平気だが、薪は多分、一人になれる時間を作らないと疲れてしまうタイプ。だからこうして少し距離を置いて、なおかつボディガードとして彼を見守ることが肝要だと――。
 髪を洗いながら、ちらりと対象の様子を伺った青木の眼が見開かれた。思いっきりシャンプー目に入ったけど、うん大丈夫、痛くない。隣の人といい、人間、本気でヤバいと思ったときは痛覚がマスキングされるんだな。
 なんて暢気に分析してる場合じゃない。ガラス張りの大浴場から見える露天風呂には5人の先客がいて、薪が引き戸を開けるや否や一斉にそちらを見た。薪が、眼下に広がるパノラマの海に夢中で周りの視線に気付かないのをいいことに、頭のてっぺんから爪先までジロジロと。
 いくらなんでも見過ぎだ、と青木は腰を浮かし掛け、先刻の失敗を思い出して留まった。これも田舎の流儀だ。彼らは人を見るときは真っ直ぐに、横目で見たりしないのだ。
 彼らの視線は、薪の顔と胸と腰を行ったり来たり、その比率は1:2:3。顔より身体を見る時間が長いのは単純に面積の関係で、決して彼の腰骨とタオルから伸びるモデルみたいな腿に眼を奪われているわけじゃないと思いたい。
 水面の輝きに引き寄せられるように、薪は海に向かって歩を進め、展望露天風呂の外枠の手摺を掴んで身を乗り出し、すると腰のタオルがずり上がって、ちょ、待て、いくらなんでも比率0:0:10はあからさますぎだろ!
 田舎の無遠慮な視線は凶器だと思う、視姦と変わらないと思う、取り締まるべきだと思う、ていうか、薪さんもいつまでも突っ立ったまま海見てないで浴槽に入って! 内風呂のお客さんまでみんな見てるから!!

 どうにも我慢が出来なくなって、青木は露天風呂の引き戸を開けた。薪がすぐに気付いて、こちらに寄ってくる。「あそこ空いてる」と指を指す、どうやら青木を待っていてくれたらしい。
 青木は薪の前に立って、先に浴槽に入った。普段は薪の後ろに立つが、危険箇所に進む場合は対象者がボディガードの後ろに続く形になる。自然に前後位置が定められるくらいには、青木はこの仕事に慣れてきていた。
「ちょっと待て。おまえ、髪に石鹸が付いてる」
 背後から言われ、浴槽の階段で立ち止まる。慌てて来たから泡が残ってしまったらしい。
「ちゃんと流さないとダメだろ」
 薪はお湯に浸けたばかりの足を抜いて、露天風呂の入り口の横にある掛け湯用のシャワーに向かった。海を見る態で薪を見ていた男たちの視線が、こちらに集中する。一番遠くの男なんか乗り出して首曲げて、曲げ過ぎて首攣ったみたいだけどその首90度に固定してやろうか。
 薪から受け取ったシャワーで髪を流す間も、薪への視姦、ちがった、視線が気になって仕方ない。見るなと怒鳴りたい、もとい全員海に投げ落としたい。

「どこに当ててんだ。貸してみろ」
 ひたすら壁を打っていたシャワーを、薪は青木の手から取り上げた。それから青木に屈むように顎で指図すると、青木の頭にシャワーを掛けた。
「まったく。子供みたいだな、おまえは」
 叱り口調とは裏腹に、やわらかな水流と一緒に青木の髪を梳く薪の手は、どことなく楽しそうで。青木は夢見るような心地になる。ほんの1分くらいの間だったけれど、すごく幸せな気分だった。

「よし、いいぞ。早く入ろう」
 待ちきれない様子の薪は青木を置いて湯船に入ろうとし、青木は現実に引き戻された。先に立って足場を確認する。あくまで対象者はボディガードの後ろだ。
 とぷんとお湯に入って肩まで沈む。背筋を這い上がるような快感がある。心臓に悪いと聞くが、風呂好きはこの感じが好きなのだそうだ。だから温泉に来ると、薪は何度も風呂に入りたがる。

 風呂は岩風呂で、うっかり寄り掛かると背中を痛くするけれど、タイル張りよりずっと情緒がある。座って、壁にそっと背中を預けて前を向くと水平線が見える。シー・グリーンの海が、眩しいくらいに輝いている。太陽はもうすぐ真上だ。
 海からの風は心地よく、潮の匂いがする。都会人には貴重な匂いだ。青木も山の中で育ったクチだから、海を見ると純粋に嬉しくなる。海の温泉もいいものだ。温泉の質は山に敵わないが、風光と言う点では決して引けを取らない。

「あの辺の海の色。すごく綺麗だ」
 あそこら辺、と薪は海を指差した。
 お湯の中から伸ばした腕が、たおやかな百合のよう。葉の瑞々しさと茎の伸びやかさ、そして花弁の白。その先端は桜貝のピンク色。爪の先まで美しい人だ。
「気に入りました?」
 うん、と薪は頷き、湯から上がって岩に腰かけた。タオルを腰に置き、軽く足を組んで、濡れた前髪を右手で梳いて後ろに流す。まるで映画のワンシーン。
 青木は薪の恋人で、彼の身体で知らないところはないくらいの深い仲だ。その青木でさえうっとりと見惚れてしまうほど、今日の薪は美しい。桜色に染まった裸体を彩るたくさんの水玉が、日光に反射してきらきら輝く。自然の力を借りずにこの情景を再現するとしたら、小粒のダイヤモンドを千個も用意して彼にちりばめる、いや、そんなものじゃとても追いつかない。
 ほぼ毎日薪と顔を合わせている青木でさえこの始末だ。免疫のない周りの人間には、さぞや衝撃的な光景だったに違いない。
「潮風に抱かれてるみたいだ。すごく気持ちいい」
 ダメですよ、薪さん。そんな官能的なセリフ、純朴な田舎の人に聞かせたら。みんなユデダコみたいになってるじゃないですか。
 上がるに上がれなくなっているのだろう。こんな美しいもの、見逃したら損だ。気持ちは分かるが、このままでは湯あたり患者大量発生だ。青木は公共の利益に寄与することを決意し、薪に退出を促した。

「食事前ですし、そろそろ上がりましょうか」
 食事の後にもう一度入りましょうと、言えば薪は一も二もなく賛同して、ザバッと水しぶきを立てて立ち上がった。周りの人間が慌てて眼を逸らす。見ない振りでこっちをチラチラ、さっきまではガン見してたくせに、どういった心境の変化だろう。
「湯上げにシャワー使った方がいいですよ。ここの温泉は塩がキツイですから」
「しお?」
 不思議そうに薪は首をかしげて、自分の人さし指を口に含んだ。
 温泉効果でつやめき率250%のくちびるが細い指を咥え、赤い舌がそれを舐める。モンローも真っ青だ。
「本当だ。塩辛い」
 青木を見上げてにこっと笑う。「でしょう」と返しながらも青木は、何故か急に海に背を向けて内風呂を眺め出した何人かの客を憐れに思う。彼らは多分、自己崩壊を起こしている。これまでの人生に無かった経験、つまり同じ風呂に入っている男にときめくと言うあってはならない感覚を自覚し、必死でそれを打ち消そうとしている最中なのだ。青木もかつては通った道だから、彼らの気持ちはよく分かる。ここは一刻も早く、薪を連れ出すことだ。今ならまだ彼らは、白昼夢で自分を納得させることができる。いま湯の中で股間を押さえてる人たちは無理かもしれないけど。

 浴室を出て、暑がる薪に急いでバスタオルを被せる。早く行かないと食堂が混む、という嘘で彼を急き立て、早々に脱衣室を出ることに成功した。昼食付のプランなのだから、席は当然予約席だ。青木の思惑通り、ホテルは二人のために窓際のテラス席を用意してくれていた。
「青木さま、お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
 案内に立った給仕は白いワイシャツに黒いスラックス姿で、恰幅の良い中年の男だった。ネームプレートには支配人とある。あまり大きなホテルではないから、忙しい時は支配人自らホールスタッフに早変わりするらしい。

 席に着いて、食事の前に生ビールを注文すると、突き出しと一緒に白身の刺身が運ばれてきた。
「こちら、高宮からです」
 聞いたことのない名前だ。調べれば職場にも同姓の人物はいるかもしれないが、少なくとも青木の知り合いにはいない。薪を伺うと、小さく首を振った。薪も知らないのだ。
「誰かとお間違えじゃ」
「高宮は当ホテルの専属漁師でして。東京からいらした青木さまとお連れさまに、ぜひこちらをご賞味いただきたいと」
「ああ、さっきの」
 先刻の漁師は高宮と言うのか。ならばこれは彼が推奨していたメバルの刺身だろう。差し入れてくれるなんて、よほど薪が気に入ったらしい。

「どうしてオレの名前を?」
「高宮は青木さまのお名前を存じません。しかし、東京からのお客さまと言うことと、高宮が申しておりましたお二方の特徴で」
「支配人、大変です」
 話に割って入ってきたのは、20歳くらいの若いスタッフだった。「お客さまの前ですよ」と支配人は窘めたが、彼のパニックは収まらない。黒いエプロンにジーンズ姿の彼は、青木たちにペコッと頭を下げると、支配人の太い腕を引いて「大変なんです」ともう一度繰り返した。

「男湯のお客さんが、みんな湯船に浮いてて」
 すみません、と青木は心の中で頭を下げる。自分たちが風呂から上がった後、何が起きたのか察しがついたからだ。
 あの状態はタオルを巻いたくらいじゃ隠せまい。男湯で同性の身体を見て欲情したなんて、いくら男同士でも他人には知られたくない現象だ。大人しくなるのを待って、その間にのぼせてしまったのだろう。
「救急車が必要ですか」
「いえ、単なる湯あたりですから。みなさん湯船から上がられて、脱衣室の床でお休みになってます」
 すみません。本当にごめんなさい。
「では、脱衣室が使えないと。ならば湯あたりされたお客さまには、空いている部屋でお休みいただいて」
「それが、浴槽が血の池地獄みたいに真っ赤なんです。お湯を入れ直さないと使えません」
 すみませんーー!!
 だから貸切風呂にすればよかったのだ。そうすれば、誘惑に負けた青木が蹴り飛ばされて浴槽に浮かぶくらいで済んだのに。被害が拡大したのは薪のせいだ。自分の美しさに自覚がない、天性の誘惑者。

 支配人たちが去った後、すぐにアナウンスが流れてきた。男湯で揚水ポンプのトラブルがあり、2時間ほど入浴ができないとの内容だった。浴槽のお湯を入れ替えるのに、それくらい掛かるのだろう。お湯が濁った原因を入浴客の血ではなくポンプの故障に依るものとしたのは、風評被害を恐れたホテル側の保身か、あるいは客に対する配慮だろうか。
 事件の真相を知っているのは、現在男湯の脱衣室に転がっている客たちと青木たちだけだ。青木は薪の自覚と反省を促すべく、厳しい顔つきを作って言った。
「薪さん。聞きましたか」
「ああ。迷惑な話だ。何処の慰安旅行も一緒だな」
 我慢大会だろ、と薪は断定し、気の良い漁師が差し入れてくれた刺身を旨そうに食べた。慰安旅行に行くたびに風呂場で我慢大会やってるのは第九だけだと思いますけど。
 反論の糸口を掴めず口をパクパクさせる青木に、薪は感心したように、
「しかし、鼻血を出すまで我慢するとは。C県の人は根性があるな。――なんだ、その脱力しきった顔は。おまえものぼせたのか?」
 真に守られるべきは薪か彼らか。新鮮なメバルの刺身を前に、青木は頭を抱えた。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

Today&Tomorrow(2)

 平和な青薪さんの続きです。
 この先の展開をみんなに疑われてる気がしますけど、本当に今回は平和なお話なんですよ。
 ……信じてえええッ!!! ←大文字にしないと信じてもらえないSS書きのクズ。





Today&Tomorrow(2)




危険ポイントその2 高速バス

「どちらから?」
「東京です」
「ぼくもです。奇遇ですね」
「はあ」
「このバス、東京駅から出てますから。奇遇でも何でもないですよね」
 薪の曖昧な返事に被せるように、青木はシビアに言い放った。前の席から身を乗り出して、あわよくば薪の隣の席に移動しようと言う魂胆がミエミエの若い男性は、気まずそうに自分の席に座り直した。出発までの隙間時間に、ほんのちょっと飲み物を買いに行っただけなのに。まったく油断も隙もない。

 買ってきた枝豆とビールのセットを黙って渡すと、薪はそれをカップホルダーに落とし、枝豆の袋を開けた。2,3粒口に放り込み、ビールに手を伸ばす。コンビニの全力疾走に続き、バスの発着所を探して東京駅構内を歩き回って、青木もいい加減喉が渇いていた。薪に倣ってビールのプルタブを開け、ぐっと呷ってふうとため息を吐く。横を見ると珍しいことに、薪がニコニコしている。ずっと飲みたかったビールが飲めて満足らしい。

『ご乗車ありがとうございます。このバスはS温泉Iホテル行、直通バスでございます』
 出発時刻になると、バスの中にアナウンスが流れた。乗車率は6割といったところだ。
 行先が温泉だからか、中年の夫婦やカップルが多かった。前の席の若者は数人の男友達と来ていて、多分ナンパ目的。その証拠に彼らは、先に声を掛けた薪に連れがいると分かって席を移動し、後部座席にいた女の子のグループとお喋りをしていた。その様子を横目で見ている青木に、薪がこそっと囁いた。

「青木。あんな言い方したら相手が可哀想だろ」
 すみません、薪さんの口からそんな言葉を聞くともうすぐこの世は終わるんだなって気がするのはオレだけですか。
「旅は道連れって言うじゃないか。初対面の相手との会話を楽しむのも一興だぞ。明るくて感じのいい若者だったし」
 なんでそんなに市民の方にはやさしいんですか。その100分の1でもオレに分けてくれませんか。
 もう警察辞めちゃおうかな、そしたら薪さんにやさしくしてもらえるかもしれない。そんな考えが頭を過った時点で青木の脳は煮立っている。だって無理もない、ビールに温泉でウキウキの薪は、眩暈がするくらい可愛いのだ。どうしてだか、今日はやけにめかしこんでるし。
 今朝、会った時から思っていた。こないだ買ったばかりのワイン色のミリタリーシャツとか英国製のバミューダパンツとか、職場近くのスポーツ店に行くにしては気合が入り過ぎている。休日の少ない彼は、買ったはいいが着る機会の無い服が多いと嘆いていたから、そのせいかもしれないが。

 やがてバスは都心を抜け、目的の温泉地へと進路を向ける。徐々に高層ビルが減り、民家と緑が増えてくる。しばらく続いた松林が切れると、そこに海が見えた。
「青木。海だ」
 声を弾ませた薪は小さな頭を窓に近付けて、飲みかけのビールをホルダーに戻した。騒いでいた割に大した量は飲んでいない。本来薪は日本酒党で、ビールはあまり好きではなかったはずだ。休日の気紛れ小僧が顔を出したのだろうが、予備に買った一本は青木が飲むことになりそうだ。
「窓際の席と替わってやろうか」
「いえ。ここでいいです」
「遠慮するなって」
「結構です。オレは通路側の席が好きなんです」
「……変わった奴だな」
 青木は別に、気を使ったわけではない。これだけの身長差があれば十分に外の風景は見えるし、海を見る振りをして自然に薪を見ることができる。熱い眼で見つめても、周りの人間に不自然に思われない。いいこと尽くめだ。

 どことなく気落ちした風に、薪は窓の外を見た。一面に光る海が見えて、それはきっと薪の心を癒してくれると思った。薪は雄大な自然の風景が大好きなのだ。
「サーフィンやってる。楽しそうだな」
 潮干狩りの時季は過ぎ、海水浴には早い今時分、幅を利かせているのはサーファーだ。サーフボードを器用に操って、絶妙のバランス感覚で波に乗る。鈍くさい青木にはとても無理だが、薪ならやってのけるかもしれない。薪はとても運動神経がいいのだ。訊いてみると、果たして若い頃に経験があると言う。
「今度、教えてやろうか」
「遠慮します」
 テイクオフとワイプアウトを繰り返すサーファーたちに眼を据えながら薪が誘ってくれたサーフィンデートを、青木は辞退した。長身の青木には、バランス物は相性が悪い。スキーもスケートも苦手だ。平らな所でさえ転ぶのに、絶えず動く波の上だなんて。薪の前で恥をかくだけだ。
「そうか、残念。じゃ、一人で行こうかな」
「ぜひお願いします! 前からやってみたかったんです!」
 慌てて弟子入りを申し込むと、薪はくるっと振り返り、意地悪そうに笑った。

 その顔、オレ以外の誰にも見せないでくださいね。

 思わず口に出そうになった言葉を舌の根で押さえる。今はこうして自分が薪を隠しているからいいけれど、無防備にその笑顔を振りまかれたら。後部座席で女の子たちとポッキーゲームやってる男どもがポッキー咥えたまま突進してくる、自分ならそうする、だって立場とか常識とか考えられないもん、いま。

「青木。おまえさ」
 上目使いに自分を見上げてくる、彼の小さく整った顔立ちの愛らしさと言ったら。天使とか女神とか俗な言葉が浮かぶけど、そんなものじゃとても表しきれない。彼を喩え得る言葉はこの世にはない。
「来週、……だろ?」
 いつも思うけど、薪の肌はなんでこんなに白いんだろう。陶器みたいにつるんとして、それでいて透明感がある。女性のように乳液とかファンデーションとか、人工的なものを何一つ付けていない素肌の美しさ。だから思わず触りたくなってしまうのだ。微粒子の粒ひとつ彼との間を邪魔しないことの充足感。くちびるも睫毛も同じ、神さまにもらったそのままの造詣美。ここがバスの中でなかったら、とっくにくちづけてる。
「で、いろいろ考えたんだけど、これが一番喜ぶかなって。どうだ?」
 青木を誘惑するように動いていたくちびるの動きが止まり、その花弁が緩く結ばれる。しばらくして「青木?」と呼ばれた、自分の名前には疑問符が付いていた。

「なんだ。聞いてなかったのか」
 何か話をしていたのか。いや、今の今まで薪のくちびるの動きに目を奪われていたのだから、確実に喋っていたのだ。もう一度話をしてくれるように頼むと、機嫌を損ねたのか、薪はぷいと横を向いてしまった。
「二回話すような内容じゃない。聞かなかったならそれでいい。ていうか」
 窓枠に肘をつき、頬杖をして外を眺める。細い肩は怒ってないけれど、些少の落胆が感じ取れた。
「相談した僕が悪かった。本人に訊くことじゃないよな」

 重要なことだったのだろうか。それも青木に関することで。
 時期を考え合わせると、異動のことか。今は6月。7月は4月に続く人事改変の月だ。期初めに一度に済ませた方が効率的だと思うが、これには人事部の仕事量を分散する狙いもあって、て、人事部の都合はどうでもいい。問題は、青木に異動の話が来ているかもしれないということだ。
「オレは第九を離れたくありません。薪さんの傍に居たいです。一生薪さんと仕事がしたいです」
 嫌な予感に駆られて、青木は思わず口走る。不用意な発言だったが、薪がぽかんと口を開けたので、自分が見当外れのことを言ったのだと分かった。
 薪はものすごく怪訝な顔をした後、恐縮する青木に、
「おまえみたいな出来損ない、客に不良品を売るようなものだ。寝覚めが悪くて他の部署に渡せるか」
 と、キツイ一言をくれた。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

Today&Tomorrow(1)

 本日はお日柄もよく。みなさま、お運びありがとうございます。
 お礼、その2でございます。よしなにお願いいたします。
 





Today&Tomorrow(1) ~彼を守る9つの方法~




 2065年の秋、薪剛警視長(40)の正式なボディガードに任命された青木一行警視(29)は、この重要な任務を完遂すべく日夜研鑽を重ねて現在に至る。以下は、警視の実体験に基づき、注意すべきポイントとその対処法を要約記述したものである。


危険ポイントその1 街の中


「すみません。この近くにドラックストアってありますか」
「ええ。その信号渡って2軒目のコンビニの手前の路地を入って、100mくらい歩くと右手にありますよ」
「この辺、詳しくないんで。連れて行ってもらえませんか」
「いいですよ」
 そんな会話を交わして1分後、50m先の路地に連れ込まれる。急いで駆け付けるが、青木が現場に到着する前に、男が路地から蹴り出されてきた。

 相手が集団でもない限り心配は要らない。薪はとても強いのだ。一対一なら大抵の相手には負けない。しかし、青木の神経には限界がある。街に出る度にこの調子では心臓が持たない。逃げていく男を睨みながらの説教も、厳しくなろうと言うものだ。
「ダメですよ。知らない人に着いて行っちゃ」
「着いてきたのはあっちだぞ?」
 薪は基本が分かっていない。
「道案内は警官の仕事だろ。だから僕は」
 道案内にかこつけたナンパを見抜けなかった、間抜けな自分を正当化しようと薪は必死だ。でもその理由は本当のこと。
 薪は本当は交番勤務をしたかったのだ、といつだったか酒の席で話していた。詳細には触れなかったが、子供の頃、交番のお巡りさんに憧れていたのだそうだ。それが今では、警察官房室付次席参事官。階級は巡査の遥か上の警視長だ。そろそろ科警研の所長に就任する話も出ている。現所長の田城は再来年定年だから、その後任に収まるのだろう。直接の上司から更に上の上司になるわけで、青木はますます薪に頭が上がらなくなる、というか、今まで薪に上から物を言ったことなんか一度もない。それもそのはず、青木は薪の奴隷なのだ。

 ――まあ、奴隷って言っても恋の奴隷だけど。

 青木は薪の秘密の恋人だ。頭が上がらないのは一緒だが、彼への奉仕は愛と幸福で満たされている。
 青木はそう考えているが、青木以外の人間の眼には只の奴隷にしか見えない。彼の幸福はその事実に気付かないことと、『青木以外の人間』というカテゴリーに薪も含まれていることを知らない点に掛かっている。不憫だ。

「それより、ビール買ってきたか」
「はい。良く冷えてますよ」
 差し出した缶ビールを受け取り、その場でプルトップを引く。と、白い泡がぶわわっと飲み口から溢れて、歩道のアスファルトを白く汚した。コンビニからたった50mとはいえ、全力疾走したのだ。当然、ビールはしっかりシェイクされていた。
「この役立たず!」
 道路でプルトップを引くほど飲みたかったビールを地面に飲ませてしまった、薪の怒ること怒ること。通り掛かったお婆さんがビクッと身を竦ませたのを見て、青木は慌てて薪を歩道の真ん中から建物の角の目立たないところに引き込んだ。

「すみません」と素直に謝る青木に、薪はずいっと泡だらけになった缶ビールを突き出し、
「こっちの量が減ったの、おまえの分だからな。そっちの寄越せ」
「ごめんなさい。ビールは薪さんの分しか買いませんでした」
「なんで」
 かっきりとスケジュール管理されたウイークディを過ごしている反動か、休日の薪は気紛れだ。急に「海に行きたい」とか言い出すかもしれない。そしたら青木が車を運転するのだ。アルコールは飲まない方が賢明だ。
 青木がそれを説明すると、薪はムッと眉をひそめ、缶ビールに口を着けた。缶の中に呟くように、
「二人で飲むのが楽しいんじゃないか」
「なにか言いました?」
「これ、ものすごくマズイ。傾けても泡しか出てこない」
 斜め下から睨み上げてくる薪は、どうやら本格的に怒っている。ここでご機嫌を取らないと、今日のデートはキャンセルされてしまうかもしれない。焦った青木はコンビニに戻ろうとした。
「もう一本買ってきます」
「もういい。飲む気が失せた」
 素っ気なく言ってスタスタ歩く。薪の背中を追い掛けて、青木はおずおずと彼に話しかけた。

「あの、薪さん。今日、どこか行きたいところってありますか」
「何処かって、日比谷スポーツ店だろ?」
 薪は不思議そうに瞬きをした。そのきょとんとした顔の可愛いこと。
 今日の外出の目的は、青木の剣道衣を受け取ること。青木は平均より20センチばかり背が高く、市販のサイズでは合わないから道着はいつも特注品だ。日比谷スポーツ店からは、先週末に入荷の連絡を受けていた。だけど、その受け取りは今日でなくてもいい。もともとが薪を外に連れ出すための方便のようなものだったのだ。

「それは明日の昼休みにでも行くとして。ここなんですけど」
 スマートフォンの画面に美しく広がる海原の写真を薪に見せると、薪はそれを受け取って、自分でホームページを読み始めた。歩く速度は緩めずに、器用に通行人を避けながら、人差し指を滑らすごとに頬を緩ませ、やがて青木を振り仰ぐ。
「海辺の温泉か」
 青木を見上げる薪の、穏やかに開かれた眉を見て、青木はほっと胸を撫で下ろす。怒りは治まったらしい。
「日帰り入浴なら行けますよ。ほら、このお昼寝セットなんてどうです?」
 11時からのコースで、温泉、昼食、部屋付き寝具付きで夕方の5時まで。日曜日限定だからこそのプランだ。これが休前日となると宿泊客が多いから、3時以降は部屋が塞がってしまう。翌日が月曜の今日なら、宿泊客は土曜の半分以下になる。部屋を開けておくのは勿体ない、とホテル側の考えは実に合理的だ。

「Ⅰホテルまでの所要時間は1時間ほどです。どうですか」
 一応訊いてみたけれど、答えは分かっていた。亜麻色の眼がきらきらしている。それはもう、写真の海に負けないくらい。
 温泉、海の幸、昼寝は薪を籠絡する三種の神器だ。ここに美味い日本酒でも加わったら、相手が見ず知らずの男だってホイホイ着いて――マズイ。
 温泉でご機嫌の薪は警戒心が薄れ、愛想がよくなる。相手が青木限定ならよいのだが、この人は公僕の精神とやらを持っていて、一般市民には元々愛想がいい上に彼らを自分が守るべき存在と考えている。だから先刻のようなナンパにも簡単に引っ掛かってしまう訳だが、それが温泉の効果で更に増すとなると……ホテルの掃除のおばちゃんにまで物陰に引き込まれそうだ。絶対に目を離せない。

 青木の心配をよそに小旅行の話はとんとん拍子に決まって、青木はスマートフォンでプランの予約を済ませ、通り沿いのレンタカーショップで車を手配しようとした。その足を、薪が止める。
「東京駅から直通バスが出てるって書いてあったぞ」
「いや、でも」
 直通バスは無料だけど乗り合いだ。薪と二人きりにはなれない。私用車なら行きも帰りも二人だけの空間で、薪のきれいな横顔を眺めるとか手を握るとか太腿を触るとか、もっと大事な所を触るとか途中で横道に入って車停めてシートを倒し……さすがにそれは温泉に着かなくなっちゃうから我慢するけど前半3つくらいはやってみたい。
「おまえ、脇見運転多いから。バスの方が安心できる」
 見抜かれたか。

 出発時刻を確認すると、後30分ほど。霞が関から東京駅までは地下鉄で二駅、所要時間は約5分。飲み物などを購入したとして、ちょうどいい時間だった。
「よし、東京駅でビールを買おう。それから枝豆と柿の種」
「はいはい」
 今日も薪さんのガードは固い、と青木がいささかげんなりと彼の後を追うのに、薪は、これでやっと二人で一緒にビールが飲めるとご満悦であった。



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Yesterday(4)

 お礼その1、こちらでおしまいです。
 次からお礼その2に入ります。引き続き、読んでいただけると嬉しいです(^^




Yesterday(4)





「えーと、ほっぺでいいですか」
 と竹内が苦笑するのに、薪は、「子供じゃあるまいし」とシビアに返した。
「キスと言ったら唇に決まっているでしょう」
 そこでちらっと青木を見る。薪と目が合ってニコッと微笑んだ。大丈夫、ブービー賞は青木じゃない。
「早くしてください。次のゲームが始められませんよ」
「……じゃ、遠慮なく」
 薪に急かされ、竹内は両の掌を上に向けて白旗を上げると、隣に座った雪子の肩を抱いた。雪子は少し困った顔をしたが、先に周りから拍手が出てしまい、諦めたように目を閉じた。
「な」
 雪子の身体が自然な動きで抱き寄せられる。ぎこちなさは微塵もなかった。

「必要以上にくっつくな、そこ! あー!!」
 二人のくちびるが重なるのと、岡部が薪を羽交い締めにしたのはほぼ同時だった。沸き起こる拍手の中、薪の怒ること怒ること。岡部に拘束されていなかったら、乱闘間違いなしだ。
「なにやってんだ、あの二人! みんなの前で!」
「薪さんがやれって言ったんでしょうが。ビリっけつとブービー賞のキス」
「どうして雪子さんがブービー賞なんだ?!」
「当たり前でしょ。第九職員じゃないのはあの2人だけなんですから」
「くそー、こんなことなら僕がビリになるんだった。竹内のやつー!」
 キスくらいで地団駄踏んでますけど、この二人夫婦ですからね。子供できちゃってますからね。

 すっかりイジケタ薪が岡部の後ろに隠れてしまったので、ゲームは一時中断となった。罰ゲームの流れで初キッスの話になり、幾つのときに誰それと、悲しいことにおれの相手は父親で、いやいや、おれなんか犬だった、などと酒の席ならではの冗談を交えた暴露話に盛り上がる中、KYには定評のある曽我が、懐かしい話を持ち出してきた。
「キスって言えば昔、酔っ払った薪さんが竹内さんにキスしたことありましたよね」
 ブーッと盛大にビールを吹き出した竹内が、泡を食って薪を見る。が、薪は雪子のくちびるを竹内に奪われたのが悔しくて仕方ないらしく、岡部の背中に隠れていちびっている最中だった。こちらの話など、当然耳に入っていない。

「ちょっと曽我さん。先生の前でその話は」
「あ、大丈夫よ、知ってたから。青木くんから聞いたのよね」
 竹内は無言で立ち上がり、青木の襟元を締め上げると、懐から黒光りするそれを取り出し、
「おまえ、なに要らんこと先生に吹き込んでくれてんだ」
「竹内、拳銃しまえ。スジもんの集まりだと思われる」
 てか、なんで持ってんだよ。始末書だぞ。
「手遅れだと思いますが。岡部さん側の芝生だけ異様に空いてますし」
「ああ?」
 山本が冷静に指摘する。確かに、岡部の座っている左側だけが5mほど空間になっていた。岡部はそれをただの偶然と思いたかったが、生憎、それを許すような常識人は此処には一人もいない。

「「「「とりあえず岡部さんが組長だろ」」」」
 とりあえずで人を組長に就任させるなと言いたい。てか、なんで満場一致なんだ。
「今井さんが若頭、おれたちは若頭補佐ってところかな」
 睨みの利かない坊主頭とひょろっこい糸目のコンビでは、三下がいいところだ。組対5課の脇田辺りに聞かれたら、マル暴を甘く見るなと叱られそうだ。
「じゃ、おれはハッキングで情報取りまくって、インサイダー取引で組の資金を稼ぐ」
 宇野は本当にやりそうで怖い。
「ならば私は顧問弁護士をやりましょう。どんな商取引も合法にしてみせます」
 法律家が悪魔の手先になるほど恐ろしいことはない。ていうか、山本、キャラ変わってないか?
「はいはい、オレ、運転手やります」
 それならヤクザじゃなくてもいいだろ、青木。
「黒塗りベンツの改造車に9000ccのエンジン積んで夜の首都高爆走。パトカー、白バイぶっちぎり。男のロマンですよねっ」
 考えようによってはこいつが一番こわい。犠牲者数が見当もつかない。

「竹内さんは岡部さんの舎弟で、風俗店のシノギをしてる。美人ぞろいのスナック経営してて、宇野と肩を並べる組の稼ぎ頭」
 部外者まで巻き込む気か、おまえら。
「わかりました。チャカの調達は任せてください。いい売人知ってますんで」
 のるなよ、竹内。
「ねえ、あたしは?」
 暴力団同士の抗争になった際、腕の良い主治医がいると安心だが、雪子の場合は、
「「「用心棒お願いします」」」
「任せなさーい!」
 だめだこりゃ。

「薪さん、何とか言ってやってください。あいつら悪乗りしすぎです。このままじゃ、第九が組になっちまいますよ」
 後ろで膝を抱えている薪に、岡部は訴えた。このまま話が進んだら、周囲10mが無人になる。迷惑すぎる花見客に成り下がってしまう。公僕としてそれはマズイ。しかし薪は両膝に顔を伏せたまま、
「いいじゃないか。どうせこの世には神も仏もいないんだし」
 あんたはいつまでいちびってんですか。
「いいんですか。おれが組長ってことになってますけど」
 雪子が竹内の妻である事実を変えられない以上、何と言って慰めても薪は浮上しないと悟った岡部は、アプローチを変えることにした。薪の男気に訴えるのだ。薪は第九室長の立場に誇りを持っている。第九が組になるなら当然組長は自分だと言い出すだろう。そうしたらまた陽気に宴に参加するかもしれない。
 ところが薪は、いや、と首を振った。
「僕はもう官房室の人間だし。実質的に第九を動かしているのは岡部、おまえだ」

 ――僕の後を継いで第九の室長になるのはおまえしかいないと思っている。頼んだぞ。

 背中合わせに伝わる薪の言葉が、岡部にはうれしかった。
 何よりも欲しいと願ったものがそこにはある。薪の信頼と、穏やかな笑み。

「そうなると、僕は相談役と言ったところかな」
 振り返った薪に、みなが一様に答えた。
「姐さん」
「姐さん」
「姐さん」
「姐さん」
「姐さん」
「姐さん」
 みんなで言えば怖くない、と胸を張る第九メンズに季節外れのブリザード。グラスに残ったビールの泡が瞬時に凍りつく。
「おまえら全員、うさぎ跳びで公園1周」
 ――やっぱり怖かった。

 アルコールでフラフラの身体で、ウサギ跳びだかウサギ歩きだか分からないモーションで仲間たちがいなくなると、薪は再び岡部の背中にもたれかかった。「ザマーミロ」とケタケタ笑ってコップ酒をあおる。どうやら王様のプライドは回復したらしい。

 傲慢で横暴で家来泣かせの王さま。でも岡部は知っている。
 これだけ好き勝手やって薪が平気でいられるのは、そこにしっかりとした信頼関係があるからだ。ちょっとやそっとでは壊れない絆を、彼らとの間に培ってきた。だから薪は自分を殺さず、彼らの前で奔放に振る舞えるのだ。
 あの頃の自分に教えてやりたい。
 おまえがお節介を焼かずとも、薪さんは大丈夫だ。よき理解者とパートナーと仲間を、自らの力で獲得した。
 まるで自分が光の中に生まれる影であるかのように、孤立していた彼はもういない。彼を見えない牢獄に繋ぐあの壁は、消え去ったのだ。
 今、彼は光の中にいて。誰よりも眩く輝いている。強く温かい、その光。

「なに笑ってんだ、岡部」
「人間、変われば変わるもんだと思いまして」
「あん? おまえだって年取っただろ。目尻のシワ、増えたぞ」
 そう言う薪の外見は、昔とちっとも変らない。これが44歳の男って、ここまで来ると犯罪だと思う。

 周りに人気がなくなったせいか、風が出てきた。火照った身体に気持ち良い、やや冷たい風だった。
 風に吹かれて舞う花びらを、岡部はぼんやり見ていた。岡部の背中で薪もたぶん、同じものを見ている。
 やがて薪は言った。
「おかべ」
「なんですか」

 ――ありがとうな。

 振り返ろうとしたけれど、それにはあまりにも自分が呆けた顔をしていることに気づき、岡部はその衝動を抑えた。
 ゴザの上に投げ出された薪の手から、空のコップがコロコロと転がる。眠ってしまったらしい。そこへ、調達係の仕事のおかげで皆よりアルコールが進んでいなかった青木が一番先に帰ってきた。薪を帰らせるいいタイミングだ。
「青木。薪さんを」
 タクシーで連れて帰ってやれ、と岡部が言い終る前に、青木はゴザの隅に丸めてあった薪のスーツを広げ、彼の身体に掛けた。「寝ちゃってるから動かないでくださいね」と、岡部にそのままの姿勢でいるよう、両手を合わせる。
「今日は久しぶりに岡部さんと飲めるって。薪さん、すごく楽しみにしてたんですよ」
 みんなもそろそろお開きですね、と呟いて、青木はゴザに散らかった紙皿や空き缶を片付け始めた。みなが帰ってくるころには、あらかた終える気でいるのだろう。本当に、よく働くやつだ。

 風に踊った花びらが一枚、岡部のコップに舞い込んだ。酔いがまわった薪の頬のような桜色。
 風流を浮かべた透き通る甘露酒を、岡部は心地よく飲み干した。


―了―


(2014.6)

テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

Yesterday(3)

 言われて気付いたんですけど、前章の「夜桜を一緒に見る青薪さん」の話は、一番最初の「桜」というお話です。カテゴリの一番上にあるので、未読の方はよろしかったらどうぞ。
 この話を書いたきっかけも、やっぱり言われて思い出しました。そうそう、春頃、ツイッターで話題になってたんですよね。半年も経つと、すっかり忘れちゃうねえ。鳥と同じくらいしか脳みそ入ってないからねえ。
 ……今を生きてます。






Yesterday(3)





「……べ、岡部!」

 名前を呼ばれて我に返った。ふと目を落とすと、コップの酒は無くなっていた。横を見やれば、いつもと変わらぬ冷涼な、でも岡部には明らかに酔っていると分かる薪のきれいな顔があった。
「何ぼーっとしてんだ。おまえの好きなダシ巻き卵、無くなっちゃうぞ」
 後から騒いでも作ってやらないからな、と耳打ちされる。周りのみんなには秘密だが、この五段重ねの重箱の中身は殆ど彼が作ったのだ。
 それを知ってか知らずか、芝生の上に敷いたゴザに車座になった部下たちが、料理に「美味い」を連発する。手に手に冷えた缶ビールを持って、豪快に呷ればそこには満開の夜桜。ゴザの周囲に置いた照明代わりのLEDランプが、桜花を夢幻のように浮かび上がらせている。日本に生まれてよかった、と誰もが思う光景だ。

「薪さん、どうぞ」と部下に勧められて酌を受ける、上司の顔はまんざらでもない。コップ酒に満足そうに目を細めて、小さくため息を吐いた。
「山本の酌ばかりずるいですよ」と向かいにいた小池が酒瓶を取り上げるのに、「ピッチが速すぎます」と山本が薪のコップに手で蓋をする。飲む気マンマンだった薪はチッと舌打ちし、
「おまえ、このごろ岡部に似てきた」
 お預けを食らって不平をこぼす薪の様子に、みなが笑う。そんな風にして、少しの間だったが考え事をしていて一人になっていた岡部を、上手に輪の中に戻してくれる。薪は酔が回っても、周りをちゃんと見ている。

 岡部もみなと一緒に笑い、幸せな気分で自分の仲間たちを眺めた。アルコールが入っているから少々騒がしいが、他のグループも似たようなものだ。交ざってしまえば気にならない。他所のグループの笑い声でこっちまで楽しくなる。酔ったもの勝ちだ。
 隣で薪も笑っている。気の置けない仲間たちと楽しそうに、薪は自分から積極的に喋る方ではないけれど、いつも輪の中心にいる。
 花見なんて、昔は誘われても絶対に顔を出さなかったのに。人間、変われば変わるものだ。

「岡部。さっきから何を考えている?」
 岡部の様子がいつもと違うことに気付いたのか、薪がこそっと呟く。昔のあなたのことを考えていたんです、とも言えず、岡部は曖昧に笑って、薪の質問から逃げた。それをどう受け取ったのか、薪は「ははーん」とイヤラシイ笑いを浮かべ、
「雛子さんのことだろ」とズレまくった推理を披露した。まったく、薪のこの誤解はいつになったら解けるのだろう。
「春だからなー。雛子さんも家の中では薄着になってきただろうし」
「スカートも短くなってきたんじゃないのか」と下品な想像をする上司に、「おふくろはロングスカートしか穿きません」と冷静に返すと、
「ロングスカートってさ、ちょっとの風でもぶわっとめくれるんだよな。でもってまた、布の間から見える太腿がたまんないんだ」
 本当に、変われば変わるもんですよねっ!!
「人の母親をイヤラシイ目で見んでください」
「雛子さんは、母である前に一人の女だ。それも十分若くて魅力的な。一緒に住んでれば風呂場で『きゃっ』とか言うイベントもあるんだろ」
 肘でぐりぐりとか、マジで止めてもらますか。隣で山本が青くなってるじゃないですか。奴さんの額の面積がこれ以上広がったら風邪を引かせちまいますよ。
「薪さんもやればいいじゃないですか。青木と」
 岡部が小さな声で反撃すると、薪は急に顔を背けて黙ってしまった。想像して気持ち悪くなったらしい。薪のことだ、裸を隠しながら悲鳴を上げるのは青木の役なのだろう。

「お待たせしました! 冷たいビールと、追加の氷です」
 ちょうどそこに、買い出しに行っていた青木が帰ってきた。大型のクーラーボックスに水を張って、買ってきた氷を浮かべる。そこに缶ビールを沈めれば簡易式冷蔵庫の出来上がりと、これは青木のアイディアだ。
 本来なら後輩である山本の仕事なのだが、気の良い青木は自分から進んでこういう役目を引き受けてくれる。花見会場付近の商店街に詳しいこともあるが、人数分となると酒類は重い。山本は決して体力のある方ではなく、買い出しの時間が掛かり過ぎると場がしらける。それも考慮しての自薦なのだろうが、こうして自前で簡易冷蔵庫を用意するなど、第九の宴会が楽しいのは青木の気働きに依るところが大きい。

「青木。これも冷やしといてくれ」
 薪に差し出された吟醸酒の四合瓶を、はいと一旦は受け取った青木は、買い出しに行く前に沈めておいた吟醸酒の瓶が2本とも無くなっているのを確認し、
「薪さん。これ、何本目ですか」と薪の飲酒にストップを掛けた。
「飲みすぎないでくださいね。今年はオレの部屋に雑魚寝って訳にはいかないんですから」
 花見会場の公園の前には二階建てのアパートがあり、青木は去年の春までそこに住んでいた。急に決まった引っ越しだったから荷物の整理が間に合わず、アパートを解約したのは去年の暮れだ。高い倉庫代を払ったものだ。

 山本に続いて青木にまで飲む気にブレーキを掛けられた薪は、不満そうに眉を吊り上げ、
「なにぃ。このくらいの酒で僕が酔うとでも思うのか、あぁ?」
 その口調がすでに酔っぱらいですよね。
「いえ。でも薪さん、こないだの健康診断で肝機能の数値が高かったでしょ。先生にお酒を控えるよう言われてたじゃないですか」
「医者が怖くて酒が飲めるか」
 医者を敵に回してまで飲むものでもないと思いますけど。
「そんなこと言って。また雪子先生に怒られますよ」
「まさかおまえ、雪子さんに僕の健診の結果表、見せたんじゃないだろうな?」
 ぎょ、と青ざめた薪に、悪びれない様子で「はい」と答える。この辺の無邪気さは、いくつになっても青木から失われない美点か愚かさか。

「なにしてくれてんだ、おまえ!」
「薪さんの健康管理をする上で、アドバイスが欲しかったので。いけませんでしたか?」
「何年か前、うっかり机の上に置きっ放しだった健診シートを雪子さんに見られたんだ。そうしたら無理矢理病院に引っ張って行かれて、CTやら胃カメラやら大腸検査やら、本気で殺されるかと思った」
「なるほど。薪さんを病院に行かせるには雪子先生にお願いすれば、ひいいいーっ!!」
 雑巾を引き破るような悲鳴に何事かと振り返れば、薪が、青木の後ろ襟を捕えて背中に氷を投げ込んでいる。第九名物、室長の青木苛めが始まった、と誰一人薪を止めないところが第九には絶対君主制ならぬ絶対室長制が敷かれていると警察内部で囁かれる所以である。
 薪は、他人を苛めるのが大好きなのだ。無趣味の彼にとって、それは唯一の楽しみと言っていい。そこに余計な口を挟もうものなら、その矛先は自分に向けられることになる。薪の苛めの標的になって生き残れる人間は少ない。青木は特殊な例だ。

「相変わらず賑やかねえ、第九は」
 苦笑する女性の声に、薪はパッと青木から手を離した。アンカーの抜けた擁壁のごとく、青木がドドンとつんのめる。缶ビールの箱を小脇に抱えて颯爽と登場したのは、薪に招待を受けた雪子と、その夫の竹内だった。
「雪子さん、ようこそ!」
 諸手を上げて歓迎する様子の薪は、「これ差し入れ」と雪子が片手で差し出したビールの箱を両手で受け取った。は良いが、酔いの回った足に500ミリの箱はきつかったらしい。よろけたところを先刻まで自分が苛めていた青木に支えられ、ひょいと荷物を取り上げられた。青木は本当に人が善い。

 引き換え薪ときたら、「大丈夫ですか」と自分を気遣う青木に目もくれず、「どうぞこちらに」と雪子に席を勧め、
「雪子さんに来ていただいて、場が華やかになりました。やっぱり宴席には女性がいないとね。あ、竹内さんはもう帰っていいですよ。雪子さんは僕が家までお送りしますから」
 うわー、と誰もが心の中で冷や汗をかく。相変わらず薪は竹内には鬼のように冷たい。
 前々から嫌っていたのが、雪子が彼と結婚してからますますひどくなった。要はやきもちで、今ではほとんど親の仇だ。
「まあアルコールも入りますしね、僕も男ですから。雪子さんのような魅力的な女性を前に理性が壊れないとも限りませんけど。そこは大人ですので責任は取ります。無論、お子さんは僕と雪子さんで立派に」
「竹内。ここ、並んで座れるって」
「あ、どうも」
 二人に気を利かせた今井が、横の三人に席を詰めさせ、二人分のスペースを作った。一人芝居状態になってしまった薪が、額に青筋を立てて振り返る。
「今井、余計なことをッ……!」
 たぶん、今年の今井のボーナスは3割カットだ。
 まあまあ、と岡部は薪を座らせて、青木が用意した吟醸酒の封を切った。好みの銘柄に、薪はコロッと相好を崩す。何のかんのと言いながら、薪の気に入りの酒をちゃんと調達してきているあたり。薪のことは青木に任せておけば安心だと思えた。

 人数も増えて、宴もたけなわとなり。ちょっとしたゲームでもやろうと言う話になった。
 宴会での定番ゲームと言えば手軽にできる古今東西や山手線ゲームなどだが、ひらめきが必要なこの手のゲームは常に薪と竹内がいい勝負で、なかなか雌雄がつかなかった。酔っているとはいえ天才の薪についていけるのは、この中では京大卒エリートの竹内だけだ。
 どうにかして彼に水を開け、雪子にいいところを見せたい薪は、卑怯にも「伝言ゲームをやろう」と言いだした。背中に文字を書くのではなく、声を出さずに唇の動きで内容を読むのだ。当然、薪を始めとする第九職員は余裕の勝利、読唇術に縁のない竹内は惨敗を喫する羽目になった。

「さあて。ビリっけつの竹内さんには罰ゲームと行きましょうか」
 腕を組んで仁王立ちになり、見下し目線で勝利宣告をする。鬼の首を獲ったようとはこのことで、薪はものすごく楽しそうだ。いくら気に入らない相手だからって人間としてその態度はどうかと思うが、誰も突っ込まないのが第九で生き残るためのバイブルだ。誰だって命は惜しい。
「ブービー賞の人とキスとかどうですか、薪さん」
「よし」
 薪が、曽我の提案をすぐさま採用したのは悪魔の企み。どうせブービー賞は経験の浅い山本か鳥目の青木だ。ちなみに、青木は本当は鳥目ではない。薪との夜を楽しみたいがゆえの「暗いところはよく見えなくて危ないから明かりは点けたままでお願いします」という彼の姑息な嘘に騙されているのだ。
 それはともかく、奥方の前で男、それもオヤジとキスなんて、雪子に愛想を尽かされること請け合いだ。隙あらば雪子を竹内の魔の手(と薪は思っている)から救い出そうとしている彼が、この機会を逃すはずが無かった。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

Yesterday(2)

 最近ハマってる曲があります。
 福山雅治さんの「beautiful life」という2年前に世に出た歌なんですけど、この曲、すごく青薪さんだなあって。

 曲の中で何度も『美しいあなた』て呼びかけがあるんですけど、この『美しいひと』は薪さんじゃなくて青木さんです。薪さんが青木さんの心の美しさを謳い上げてるの。

 この『美しいあなた』は、
「(他人を)許すことでしか変えられないことを知っている」人で、
「裏切られても受け入れることを選ぼうとする」人なんですよ。
 そしてその『美しいあなた』を見ている僕は、
「美しいあなたといると 生まれ変われる気がする」
「美しいあなたといると 人生は美しいって思える」んだって。

 ね、あおまきさんでしょ?

 こういう話を書きたいと思ったらうちの青木さん腹黒過ぎて曲に合わない。残念。






Yesterday(2)






 膨れた腹をさすりながら、彼らが科警研への近道にと辿るのは、都会のオアシス日比谷公園。めっきり春めいてきた今日のような日は、憩いを求めるたくさんの人で賑わっている。天気もいいから芝生にレジャーシートと弁当持参で、花見がてらの昼食を摂る会社員たちも散見された。平日の昼間だからアルコールは入っていないが、陽気につられて話も弾むようで、総じて騒がしかった。

「いいなー、美味そう」
「今食って来たばかりだろ。……でも、楽しそうだな」
 他人の財布を当てにして2人分の昼食を胃袋に収めた曽我が、なお羨ましそうに彼らを見るのに、一旦はそれを咎めた小池が最終的には同意を示す。実にいいコンビネーションだ。
「おれたちもやりましょうよ、お花見」
「そうだな。どうですか、室長」
 皆の期待を受けた岡部が、研究室の王様に話を振った。薪は持っていた書類袋ですいと公園の奥を指し、
「あれを見ろ」
 七分咲きの桜の下、大仰に広げたブルーシートの上にぼんやりと座って桜を眺めている中年の男は、おそらくどこかの会社員。他にも何人か、同じような人間が点在している。花見に適した場所は、こうして誰かが見張っていないと他のグループに取られてしまうのだろう。
 場所取りなんかに時間を割ける職員は第九にはいないと、薪は持ち上がった企画を却下した。室長の決定に逆らうわけにもいかず、名残惜しげに公園を眺める小池たちと、花見にはまったく興味を示さない薪との間に、眼には見えない壁が現れる。

 その壁は高く。ひたすら堅固にそびえたつ。

 以前、この壁に阻まれたときのことを、岡部は痛切に思い出す。あれは2週間ほど前のこと。全員が定時で帰ったその日、家に帰り着いてから岡部は、携帯電話をロッカールームに置き忘れてきたことに気付いた。自宅に居るなら問題はないが、母親が、せっかく早い時間に夕食が食べられるのだから外食にしましょう、と言い出した。食事に行くのは構わないが、緊急の事件が起きた際に連絡が取れないのは困る。岡部は母親の乗ったタクシーを第九の正門前に待たせ、誰もいないはずの研究所に入った。
「やっぱりここか」
 ロッカーの上棚に置き忘れていた携帯電話をポケットに入れ、扉の鍵を閉める。ロッカールームを出て、待たせている母親とタクシーの料金メーターを気にしながら急ぎ足に廊下を歩く、彼の足がふと止まった。

 目の奥に蘇る残像は緑色のランプ。モニターのある部屋は全部ロックされているはずだから、ランプの色は赤のはずだ。
 そう思って振り返ると、果たして、モニタールームのロックが解除されていた。あの用心深い室長が施錠を忘れたとは思えない。よもや、侵入者か。
 MRIシステムのハードディスクには国家機密が満載だ。室長しか見られないようセキュリティが掛けてあるが、ハッキングのプロにかかれば破れないこともない、とコンピューターオタクの宇野が言っていた。試しにやらせてみたら、2時間ほどで見事にデータを引き出してみせた。勿論そのデータはダミーだったが、宇野と同じくらいの実力を持ったハッカーなら破ることは可能だということが証明されてしまった。それが分かって、目下、宇野はセキュリティ強化のプログラムを組んでいる。自分が破ったのだからおまえが組めと薪に命じられてのことだ。やぶへび過ぎて笑うしかない。

 中の人間に気付かれないよう、岡部は慎重にドアに近付いた。自動ドアの横に設けられている非常用の手動ドアをそおっと開ける。中は真っ暗で、モニターが動いている様子はない。ハードディスクが回る音も聞こえない。どうやらスパイではなさそうだ。
 じっと目を凝らすと、奥の席に人影が見えた。
 それは、メインスクリーンに向かって一番左側の、後ろから二番目の席だった。そこを使っている者は、今は誰もいない。現在の第九は人間よりも机の数の方が倍も多いのだ。

 その人物は机に肘をつき、手のひらで自分の額を支えるように俯いていた。細い肩と短い髪が、不規則に震えていた。
「無理だよ、鈴木」
 小さな小さな囁き声。でも岡部の耳にはハッキリと聞こえた。
「おまえがいないと一歩も進めないよ……」

 岡部は、なぜ今日が定時退庁になったのかを思い出した。午後一番で所長室に出向いたはずの薪が予定時間を過ぎても戻らず、何かあったのかと気にしていたら5時頃ひょっこり帰ってきた。彼は真っ直ぐに被害者のMRIを見ていた岡部たちのところへやって来て、
「この事件は僕が担当することになったから、おまえらはもう見なくていい」
 そう言って、データを持って行ってしまった。仕事が無くなった岡部たちは定時で帰るよう薪に言われ、薪も、どうせ急ぎの仕事ではないから早めに切り上げる、と言っていたはずだ。

 いったい何があったのか、部屋を観察して分かった。
 機械類の電源はすべて落ちていたが、一つだけ、部屋の隅に置いてある機械の赤ランプが点滅していた。シュレッダーだ。よくよく見れば床にゴミ箱のトレイが転がっていて、クロスカットされた紙片が大量にぶちまけられていた。
 可哀想に、規定量を遥かに超えた枚数を突っ込まれたのだろう。紙に歯が食い込んで止まってしまったのだ。それに苛立った使用者に蹴り飛ばされた。今日の一番の被害者は、どうやらこのシュレッダーだ。物に当たるなんて、まるで子供だ。

 半年前まで捜査一課にいた岡部には、薪がなぜこんなに荒れているのか、おおよその察しがついた。上に、捜査の差し止めを食らったのだ。
 しかし、それを部下に告げることはできず。自分が担当することになったと嘘を吐いた。一人残ってデータを消去し、資料をシュレッダーに掛けた。

 あの席は多分、亡き親友の席なのだろう、と岡部は思った。
 自分たちの前では吐けない弱音も、見せられない涙も。彼には隠さずにいられたのだろう、受け止めてもらえたのだろう、それが心の支えだったのだろう。そうやって薪は、室長の重責に耐えて来たのだ。
 そんな大事な人を自らの手で殺めてしまったら。どこか壊れてしまうのは、むしろ当然じゃないのか。

 岡部はそっとドアを閉めた。とても声を掛けられる雰囲気ではなかった。ひっそりと涙を零す彼はまるで、見えない牢獄に繋がれた囚人のようであった。
 翌朝、モニタールームの床はきれいに掃除されており、室長は普段と変わらぬ冷静な顔で室長席に座っていた。いつも以上にぴしりと伸びた背中が、悲しかった。

「室長、やりましょうよ。時間を遅らせれば、場所取りしなくても大丈夫ですよ」
 儚くも流れ去ろうとする春のイベントを、岡部は単独で押し留めるべく声を張り上げた。薪も、既に諦めムードだった他の部下たちも、驚いた顔で岡部に注目する。
「今あそこに陣取っている男はサラリーマンです。今日は平日だし、会社の行事ならそんなに遅くまではやらんでしょう。きっと9時ごろには場所が空きますよ」
「その時間から花見なんかしたら、翌日の仕事に影響するだろ」
 薪の言うことはもっともだ。夜遅くまで花見をしていて翌日全員二日酔いとか、シャレにならない。
「じゃあ、今度の金曜はどうですか。翌日が休みの日なら」
「そんなにやりたいのか? なら勝手にやるといい」
 言うと思った。が、これくらいで引きさがるなら岡部だって初めから言い出さない。
「室長も、ぜひ参加を」
「僕はいい」
「そんなこと言わず。せっかくの桜を見ないなんて、もったいないですよ」

 食い下がる岡部に何かしら感じるところがあったのか、薪はぴたりと足を止め、岡部の顔をじっと見上げた。立ち止まる二人を、君子危うきに近寄らずとばかりに他の三人が追い越していく。短い沈黙の後、薪が口を開いた。
「今年の桜なら、もう見た」
「こんな通りすがりじゃなくてですね」
「ちゃんと見たさ」
 そうか、薪の家は吉祥寺、井の頭公園の近く。井の頭公園は桜の名所だ。そもそも薪のマンションから駅までの街道には、手入れの行き届いた桜並木がある。毎朝毎晩、見飽きるほど見ているのだ。

「いやあの、吉祥寺の桜が見事なのは知ってますが、霞が関の桜もなかなか」
「吉祥寺の桜じゃない。別の場所だ」
 この人に桜を見る暇なんかあっただろうか、と考えて思い当たる。薪がよく昼寝をしている研究所の中庭にも、桜の樹は何本もあるのだ。
「しかしですね、一人で見るのと誰かと一緒に観るのではまた」
「ひとりじゃなかった」
 えっ、と思わず岡部は声を詰まらせた。仕事ばかりしているように見えて、実は薪には一緒に桜を愛でるような関係の女性がいたのか。

「し、失礼しました。プライベートなことを」
 反射的に岡部が赤くなると、薪はお得意の皮肉な笑いを浮かべて、
「なに誤解してるんだ。相手は青木だ」と花見の相伴を岡部に打ち明けた。つい、と前を向いて歩きだす。
「先週の水曜だっけ、あいつ、また倒れただろう。心配だったから家まで送って行ったんだ。そしたらあいつのアパートの前に、桜がきれいな公園があってさ」
 青木の安眠対策も兼ねて、10分ばかり付き合ってやったんだ。
「なんだ。仕事ですか」
 半ばがっかり、残りの半分は自分の早とちりに苦笑して、岡部は薪の後を追った。岡部が隣に並ぶと、薪は前を歩いている3人に聞こえないように声をひそめて、
「だいぶ参ってるみたいだった。やっぱり、青木は異動させた方がいいと思う。僕が言っても承知しないから、おまえから」
「そう言えば青木のやつ」
 偶然にも前の方から新人の名前が聞こえてきて、薪は口を噤んだ。青木の話題を出したのは、主に読唇術の指導をしている小池だった。

「先週あたりから、急に張り切りだしたような」
「おれもそう思った。前から真面目なやつだったけど、意欲的になったって言うか」
「昨日なんか俺のところにMRIシステムのマニュアル持ってきて、システムフローのやり方教えてくれって」
 3人の話に聞き耳を立てていた薪が、ぎゅ、と眉をしかめた。お世辞にも、青木の変貌を喜んでいる表情ではない。どちらかというと思惑が外れて腹を立てている顔だ。
「まあ、おれの指導がよかったんだろうな」
「青木の指導員は岡部さんだろ」
「そう言うことじゃなくてさ。事件解決の重要な画を見つけたら、室長から金一封出るって教えてやったんだ」
「なんだ。それで急に張り切りだしたのか。現金なやつだな」
「仕方ないよ。おれも経験あるけどさ、警察の初任給って安いもん」
 すっかり報奨金目当てのさもしい男にされてしまった青木だが、岡部はその裏にある真実を見抜いていていた。青木はもともと、薪に憧れて第九に来たのだ。その薪に気に掛けてもらえて、嬉しかったのだろう。それで急にやる気を出したのだ。あのとき、誤解されやすい薪のフォローをしておいて正解だった。

 隣で困惑の表情を浮かべる薪を見て、岡部は決心する。次は青木をフォローする番だ。
「程度の差こそあれ、あいつらも最初はひどいもんでしたよね」
「……そうだな。お宝画像を見て、最初から平気だったのはおまえだけだな」
「俺は現場で慣れてましたから。匂いが無いだけマシでしたよ」
 未だ迷う素振りの薪に、岡部は副室長代理として公正に進言した。
「青木のことは、今しばらく様子を見ましょう」
 薪は黙って歩いていたが、やがて前を向いたまま、諦めたように言った。ちょうど第九の正門前だった。
「指導員はおまえだ。おまえに任せる」
「はい」と岡部は力強く頷き、薪に続いて門をくぐった。


テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

Yesterday(1)

 10万ヒットありがとうございました~~!!!(いつの話)(去年の12月デス(^^;)
 こちら、お礼のSSでございます。

 内容なんですけど、今回はセット物で。
 本日から公開します雑文2作、プラスお盆にフライング公開しました「Someday」、3つ合わせて1セットになっております。3作品のストーリーはバラバラなので連作ではないのですが、一括りと言うか一山幾らと言うかオマケするから買って行ってよ奥さん的なニュアンスで……本日も広いお心でお願いしますっ。

 あ、それと、この話、個人的に、8月のオフ会でお会いしたみちさんに。
 あの時お話した岡部さんと薪さんのSSなので、読んでいただけると嬉しいです。





Yesterday(1)




 捜査協力依頼のあった所轄で捜査会議に出席した帰り道のこと。昼が近かったので、その辺で昼食を摂ろうと言う話になった。
 食事の話が出た瞬間、小池と曽我がスーツの袖口に隠すようにして親指を立てたのを岡部は見逃さなかった。メンバーは室長の薪、副室長代理の岡部、小池、曽我、宇野の5人。この面子なら薪のおごりだ。和牛ステーキの昇り旗に目を輝かせる曽我の首根っこを掴み、岡部は、リーズナブルな値段でボリュームたっぷりのランチを提供する定食専門店へ彼を引きずり込んだ。他人の懐を当てにして豪華な昼食をせしめようなんてちゃっかり者は曽我の他にはいないから、彼さえ押さえておけば薪の財布は安泰だ。
 いくら副室長が室長の女房役だからと言って、普通は、室長の預金残高まで心配することはない。薪の場合は特別だ。
 仕事なら誰よりも目端が利くのに、それ以外のことにはてんで無頓着な室長は、給料前で懐が寂しい部下たちにいいように利用されてしまう時がある。「僕も新人の頃は先輩たちにタダ酒飲ませてもらったから」と岡部たちが顔も知らない先達への恩義を忘れない彼は、部下から飲み会に誘われるとホイホイ金を出す。それが分かっていて室長に話を振る彼らを見ていると、室長はおまえらのATMじゃない、と言いたくなる。

 店は、正午前で客の入りはまだ三割と言ったところだった。岡部たちは6人掛けのテーブル席を占領し、それぞれに注文を済ませた。
 食事が運ばれてくるのを待つ間、小池と曽我はいつものように雑談に花を咲かせ、宇野は、手持無沙汰にメガネ店のチラシを見ていた。定食屋の隣はメガネ店で、店員が路上でチラシを配っていた。この中で眼鏡を掛けているのは宇野ひとりだから、彼だけがチラシをもらったらしい。
 やがて食事が運ばれてくると、宇野はそれを店のクズ籠に捨てた。チラシの99%は捨てられる運命にある。資源の無駄遣いだ、と岡部はいつも思う。

 豚の生姜焼きに大盛りのごはんを美味そうに頬張る曽我たちの横で、気乗りしなさそうに焼き魚の身をほぐしている薪を見て、この人は何が楽しくて生きているのだろう、と岡部はまた副室長の職務を超えたことを考える。
 この人の部下になって半年。ファーストコンタクトは最悪だったが、その感情はとうに拭い去られている。止まらないお節介がその証拠だ。
 薪は、食べることにも遊ぶことにも興味がない。友人もいなければ趣味もない。休日も殆ど第九に出てきている。唯一の息抜きと言えば、金曜の夜、岡部と二人で飲むことくらいか。それも家飲みとあっては派手さのハの字もない。外見からは想像もつかない地味なライフスタイルである。
 去年の夏、あんな事件があったばかりで、今は第九も薪も大変なときだ。そう思って半年間様子を見てきたが、薪のワーカホリック振りは一向に改善される気配がない。自傷行為も止まっていないようだし、と岡部は、汁椀を持ち上げた薪の腕に残る爪跡を、彼のワイシャツの腕ボタンの間から確認して眉をひそめた。

「あー、食った食った」
「旨かったー」
「「室長、ごちそうさまです」」
「ん? ああ」
 奢ると言わないうちから部下に礼を言われて、薪は曖昧に頷いた。捜査中の事件のことでも考えていたのか、止まりがちだった箸のせいでまだ半分も減っていないランチプレートを両手に持つと、誰よりも早く返却口へと向かって行く。
「図々しいぞ、おまえら。室長、奢ってくれるなんて一言も言ってないだろが」
「や、だってもうお金払ってくれちゃってるし」
 薪は仕事のこと以外は過ぎるほどに寛大なのだが、これじゃ野放し状態だ。だから連中が図に乗るのだ。岡部は急いで薪に追いつき、支払いにストップを掛けた。
「薪さん、今日は割り勘で行きましょう。あいつらクセになりますから」
「別にいいだろ。食事代くらい」
「室長だからって毎度毎度、一人で勘定持つことないんですよ」
「うん。でも今は、特に欲しいものもないから」

 その『今』とやらは永遠に続くんじゃないんですか。

 思わず口から出そうになった言葉を止めるために、岡部は心の中で3つ数を数えた。たったそれだけの間に、薪は支払いを済ませて外に出て行ってしまった。後ろから来た曽我たちにも抜かされ、一行の最後に店を出た岡部の視界に、早くも信号待ちをしている薪の、ぽつねんとした後ろ姿が映し出される。
 部下たちに囲まれているのに、強い孤独を感じさせる。世界にたった一人で生きているような印象すら受ける。

「岡部。信号が変わるぞ」
 薪に呼ばれて我に返った。思わず、立ち尽くしてしまっていた。
 他の連中は既に道の向こう側にいた。薪だけが横断歩道の真ん中で、岡部を待っているのだ。インジケーターの目盛は残り2つ。間もなく信号が点滅し始める。

 ふと。自分が此処から動かなかったら、薪はどうするだろうと考えた。
 信号が点滅しても赤になっても、焦らずその場に立ち続けるのではなかろうか。

 薪の、首元まできちんとボタンの掛けられたシャツの下には赤い蛇が住んでいる。夜ごと自身の爪で刻まれる蛇が。それを思うといっそのこと、ここに立っていれば楽になれるかもしれないと、今この瞬間も彼は自分の死に場所を探しているのではないのかと、不安でたまらなくなる。
 ふん、と岡部は地面を踏みしめた。地球を蹴り飛ばすつもりで足に力を入れた。革靴の底と歩道のインターロッキングが摩擦で火を噴きそうな猛ダッシュである。道の中央で薪の腕を捕まえると、そのままの勢いで横断歩道を渡りきった。

「危ないじゃないですか、道の真ン中で立ち止まったりして。曲がってくる車に迷惑でしょう」
「おまえの方がずっと危ないし、他人の迷惑だ。ほら」
 薪が顎で後ろを指し示す。岡部が走ってきた歩道には、何故かメガネのチラシがばら撒かれており、メガネ店の店員が総出でそれを拾い集めていた。薪の眼が岡部を責めるように細められる。岡部は慌てて自身の無実を訴えた。
「おれはぶつかってません」
「なるほど。ソニックブームだな」
 薪の喩えに吹き出す部下たちと、バツの悪そうな顔をする岡部を見比べて。薪は、ほんの少しだけ笑った。



テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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