青木警視の殺人(22)

 発売日ですね!
 仕事があるので会えるのは夜になりますが、待っててね、薪さん♡


 最終章でございます。
 お付き合いいただき、ありがとうございました。





青木警視の殺人(22)




 警察庁の長い廊下を軍人のように薪は歩く。姿勢を正して速足で、脇目も振らず。後ろから青木が自分を追ってくるのには気付いていたが、和む気にはなれなかった。
「薪さん、歩くの速いです」
 これだけの身長差があるのだから、脚の長さは青木の方がずっと長い。それでも薪の速度に合わせると、青木は急ぎ足になる。

「一人でどんどん行かないでください。ボディガードのオレが困ります」
「自分の身くらい自分で守れる」
 前を向いたまま、薪は言った。
「安全な場所に隠れていたら何もできない。刑事にとって大事なのは保身じゃない。事件を解決することだ」
 横に並んだ部下の顔も見ず言い分も聞かず、薪は官房室で言えなかったことを無人の廊下に向かって捲し立てる。青木に言っても仕方ないことなのに、だって彼は薪の気持ちを理解してくれている。あまり無茶をしないでくださいね、と控え目に零しながらも、薪の行動を妨げたりしない。青木もまた、同じ理念の基に奉職しているからだ。

「僕に官房室の守番になれって言うのか。冗談じゃない」
 階級が上がれば上がるほど、仕事がつまらなくなる。正直、捜査一課で現場に出ていた頃が一番面白かった。
 派閥や利権やしがらみ、そういったものに囚われて徐々に身動きが取れなくなる。それが上層部入りの条件だと言うなら、出世なんかくそくらえだ。
 小野田には感謝している。自分がここまで来れたのもみんな彼のおかげだし、第九の危機を救ってくれた恩人でもある。だけど、これは捜査官としての在り方の問題で、そこを譲ってしまったら薪は警官である意味がなくなってしまう。
 警察官は、市民の安全ために存在すると薪は考える。守るべき市民よりも自分の保身を優先させるなんて、本末転倒ではないか。

 眉を吊り上げて肩を怒らせて、他人を拒否するオーラを全身にみなぎらせる。すれ違った職員が、次々と道を開ける。それも薪が3人並んで通れるほど。まるで小さな戦車だ。
 引き止めるどころか誰も声を掛けられない。氷の警視長全開の薪に、青木はにっこりと笑いかけた。
「よかったですね、薪さん」

 不意に戦車が止まった。ものすごい眼で睨まれる。青木の後ろにいた男子職員が、手に持ったファイルを取り落とす音が聞こえた。
「大丈夫ですか? はい、どうぞ」
 さっとその場に屈み、書類を拾い集めて彼に渡すと脱兎のごとく走り去っていく。青木はもう慣れてしまったが、薪の殺人光線は免疫のない人間には恐怖だろう。

「なにがよかったって?」
 薪は指を2本揃えてピストルの形にし、その場に屈んだままの青木の頬をぴたぴたと叩いた。先刻の男子職員がこれをされたら刃物を押し当てられたように感じたかもしれないが、青木にとっては愛しい人のかわいい手指だ。
 青木は薪の手に自分の手を重ね、改めて薪に微笑みかける。逆三角形だった亜麻色の瞳が、微妙に丸くなった。
「オレは嬉しかったです。小野田さんたちが薪さんのこと、あんなに大事に思ってくれるの」
 薪は一瞬、困惑の表情を浮かべた。それから青木の手をパシッと払う。それは明確な拒絶の仕草だったが、今更これくらいのことに怯む青木ではなかった。
「オレ、ずっと心配だったんです」
 廊下に片膝を着いたままで、青木は言った。
「第九で何か困ったことが起きると、みんな薪さんに相談するでしょう? でも、薪さんが困ったときは何もおっしゃらないから。薪さんの『困った。どうしよう』は誰が聞いてくれるんだろうって」

 みんながあなたを心配してるんです。あなたが大事だから。あなたの役に立ちたいと、みんな思っているんです。
 だから一人で何でも片付けようとしないで。もっと周りを頼ってください。そのために、オレたちはあなたの傍にいるんです。

「小野田さんも中園さんも。薪さんの『困った。どうしよう』をいつでも聞いてくれるって、そう仰ってるんですよね」
「おまえって」
 バカだとか能天気だとか、そういう系統の罵り言葉を青木は予期して、だけどそれはとうとう訪れず。薪はぷいと横を向いて、さっと身を翻した。青木を置き去りにして、すたすたと廊下を歩く。でもその歩みは、先刻よりずっと遅かった。

 青木が苦も無く隣に並ぶと、薪は小さな声で、
「小野田さんにあんなに怒られたの、初めてだ」
 ちょっとやりすぎたかな、とくちびるを尖らす、その様子がまるで親に悪戯を叱られた子供みたいで。青木はほっこりと胸が温かくなる。薪だって、ちゃんとわかっているのだ。自分が彼らに愛されていること。
「大丈夫ですよ、後でちゃんと謝れば。そうだ。小野田さんの好物の茶巾寿司、久しぶりに作ってあげたらどうですか?」
「宇野が五目稲荷食いたいって言ってたな。中身は同じだし、両方作って明日差し入れに行くか」
 切り替えの早い薪らしい。今はすっきりと開かれた眉のカーブの緩やかさと、澄み切った亜麻色の瞳。その柔らかさが青木に勇気をくれる。ずっと薪に言いたかったこと、今なら言える。

「薪さん」
 なんだ、と横目で聞いてくるセルフィッシュな恋人に、青木は真剣な表情で、
「お仕事のことは仕方ないですけど、それ以外のことはオレにも相談してくださいね。オレ、いつまでも子供じゃないです」
 こうして隣に並んでいても、青木と薪の立場には大きな格差がある。まだまだ薪には追いつけない、それどころか離されていく気さえする。

 それでもどうか。何でもいいからオレを頼って。あなたに頼りにされたいんです。

 薪は青木から眼を逸らし、黙って前を向いて歩いていたが、やがてぽつりと言った。
「『困った。どうしよう』」
「はい?」
「職場にいるのに。おまえにキスしたくてたまらない」
 青木はさっと辺りを見回した。廊下の曲がり角近くに女子職員の背中、奥のエレベーターは地下2階、反対側の角に人はいない。あの娘が角を曲がったら。

「そこ、座って。眼、つむれ」
 ブラボー、オフィスラブ!
 素早く床に正座して眼を閉じる。恋に落ちたばかりの少年のように、心臓がドキドキする。こんな場所でキスなんて初めてだ。恋人関係も7年、慎重な薪がスリルを求めるようになっても不思議ではない年月だ。
 青木はじっと薪のくちびるを待った。せっかくの薪のアプローチに余計な手出しをしたら、台無しになってしまう。ここは薪のリードに任せて、あれ、でも随分タメが長いな、焦らしてるのかな、その方が気分は高まるけどあんまり長いと誰か来ちゃうんじゃ。

 青木の嫌な予想は当たり、やがて聞こえてきたのは中園の声だった。
「何してるの、青木くん。お地蔵様ごっこ?」
 眼を開ければ首席参事官の怪訝な顔。慌てて周りを見れば、廊下の突き当たりのエレベーターの中で薪がニヤニヤと笑っていた。
『バーカ』
 エレベーターのドアが閉まる寸前、読み取った薪のくちびるはいつも通りの憎まれ口だったけれど。きっと、薪は警察庁の出口で自分を待っていてくれると青木は思った。


―了―


(2014.8)


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ジャンル : 小説・文学

青木警視の殺人(21)

 日曜日は近所にお葬式ができちゃいまして、更新する時間が取れませんでした。現場も現道の部分に入って、やたら忙しい……でも、今週末は薪さんに会える! がんばらなきゃ!
 てなわけで更新します。このお話も次で最終章です。今回は、メロディ発売前に終れそうです(^^)/ ←2ヶ月前の予定が延びただけなのであんまりエラくない。

 そうだ、前回の章、コメントいただいて思い出したんですけど、「西園冴子」について注釈を入れ忘れてました☆
 彼女は「ハプニング」(男爵カテゴリの一番下にあります)というお話に出てくる死刑囚です。彼女を知らなくても話は通じると思うんですけど、興味がありましたらそちらもどうぞ。男爵カテゴリなので話は無茶苦茶ですけどw





青木警視の殺人(21)






 青木が守った映像データが決定的な証拠となり、宮下昌男は逮捕された。捜査本部は解散、残りの捜査は宮下を逮捕した捜査一課が引き継ぐことになった。
 当初、警察庁刑事局の鼻を明かしたと、刑事部長の鼻息は竜の如しであったが、宮下に手錠を掛けて捜査一課に引き渡したのが第九職員であることが人伝てに知れ渡ると、警察庁に対する態度を改めざるを得なくなった。結果、警察庁と警視庁の均衡は保たれている。

 宮下の自供によって、次長派の策略も明るみに出た。薪の予想通り、宮下は次長派閥の人間であった。諍いによって北川を殺してしまった宮下は、かつての上司に助けを求めた。ゼロ課の上司に報告すれば制裁が待っているだけだと分かっていたからだ。
 次長はゼロ課と交渉し、自分たちが捜査本部を立ち上げることを提案した。青木を使って警察官房をスキャンダルの渦中に突き落し、と同時に自分の権力を盛り返す絶好の機会だと踏んだのだ。
 だが、蓋を開けてみれば。
 罠に掛けたつもりの青木にすべての謀を覆され、その策略のすべてを白日の元に晒す羽目になった。政敵を貶めるどころか自分が止めを刺されてしまった。ロクな現場経験もない若造と、青木を見くびったのが敗因であった。

「青木くん、役に立ったじゃない。ねえ小野田」
 危機を乗り越えたことと犯人逮捕に満足した中園は、すこぶる機嫌が良かった。中園はどちらかと言えば結果オーライ主義。青木の命令違反には大して腹も立てていなかった。
 中園に同意を求められ、小野田は不承不承に頷いた。殺人犯を逮捕したのもゼロ課から証拠を守ったのも、青木の功績だ。坂崎を出し抜いた失点を補って余りある釣果だった。

「そうだね。道端の石ころってのは訂正するよ」
 自分が石ころ扱いされていた事実を初めて知って、青木は何とも情けない気持ちになる。評価されていないのは知っていたが、無機物扱いとは。薪の「バカ」は、人間扱いしてくれる分だけマシだったのだ。
「昔ぼくがそう言ったら、薪くんが怒ったっけ」
「おまえ、そんなヒドイこと言ったの」
 毒舌家で知られる中園にまでドン引かれた小野田の酷評に、それでもお人好しの青木は考える。自分は薪のように特別な才覚を持たない末端の一職員だ。官房長ともなれば、それが普通の感覚なのかもしれない。
 それより、そのとき薪がどんな反応を示したのかが気になった。昔の話らしいし、軽い気持ちで聞いてみた。
「薪さんはなんて」
「『石ころじゃない。青木は岩みたいな男です』って」
「……それ、大きさが変わっただけで組成は変わってませんよね」
「そうだねえ。薪くんらしいねえ」
 小野田のとぼけた答えに、青木の向かいで、中園がふっと笑うのが聞こえた。いつものシニカルな笑いではなく、微笑ましさが滲んだ笑い声だった。珍しいと思ったが、彼の深層を読み解く時間はなかった。薪が扉を開けて入ってきたからだ。

「青木? おまえまた何か」
 業務終了後に官房室に呼び出された青木を見て、薪は不機嫌そうに眉を寄せる。一見、部下の失態を迷惑がっているようだが、これは彼の癖みたいなもので。本当は青木の身を案じてくれているのだと、青木には分かっている。
 自分が此処に呼ばれた理由を、上官二人を差し置いて説明していいものかどうか青木が悩んでいると、中園が「はいこれ」と薪に一通の封書を手渡した。表書きには青木一行殿とある。それを躊躇いなく開けるあたり、薪が抱いている青木のイメージは小野田のそれと限りなく近いのではないかと、不安に駆られる青木の耳に薪の意外そうな声が届いた。
「合格?」
 それは青木の監査合格証だった。通常であれば人事部から発行され、薪の手元に届くはずの合格証だ。しかし今回、監査の号令を下したのは警察庁長官。そちらのルートを通って小野田の元に届いたのだろう。
 さまざまな思惑が絡みあって仕組まれたものだったが、監査は監査。合格証が発行されるのは不自然ではない。だが、薪は堅物だ。「あの監査は本物ではなかったのだから、この合格証は無効でしょう」とそれを中園に突き返してしまった。

「確かに、あの監査はゼロ課の作戦の一部だったわけだけど。この合格証は本物だよ。ちゃんと警務部長の押印がある」
「偽の監査で本物の合格証が出るなんて。おかしな話だと思いませんか」
「薪くんは相変わらず石頭だなあ」
 きみって本当にメンドクサイ子だよね、と匙を投げられてムッと膨れる、薪が可愛いと思った。青木には仕事場での薪は完璧に思えるけれど、小野田や中園の眼から見れば、薪にもまだ至らないところがあるのかもしれない。
「青木くんは? きみの出世の話だよ」
「室長の言う通りだと思います」
 中園に振られて、青木は迷いなく答えた。
 自分の名前が入った合格証を一目くらい見たかったが、青木は薪には絶対服従だ。薪が未だ青木は警視正には早いと判断するなら、それはきっと正しいのだ。

「本人がそう言うなら仕方ない。これは僕が預かるよ」
 そんなやり取りがあって、合格証は中園のバインダーに戻された。青木の用事はこれで終わりだ。
「それで? 薪くんの用事はなに」
 ここから先は官房室の職務に関する話だろうから、青木は邪魔になる。敬礼で退室しようとした青木を、止めたのは小野田だった。
「残りなさい」
「え。でも」
「いいから。座って」
 青木が席に戻ったことで、薪は開きかけていた口を閉じてしまった。やはり青木には聞かせたくない話なのだ。
 二名の上官の命令が異なるとき、的確に状況を判断した上でより階級の高い上官の命令に従う。それがセオリーだが、青木はどうにも尻の座りが悪かった。

「薪くん、ぼくに話があるんだろう。言いなさい」
 小野田に促され、薪はあからさまに青木に邪険な視線を送った。それでも小野田が青木に退室を命じないのを知り、彼は青木に背を向けた。
「ゼロ課が解体されないのは何故ですか」
 当然だが、薪は腹を立てている。内部の揉め事で殺人事件まで起こし、その濡れ衣を自分の部下に着せられ。ハッキングの報いとは言え、掛け替えのない部下を傷つけられて。なのにゼロ課になんの罰も下されないなど、到底納得できない。
「残念ながら、ゼロ課には手が出せない。長官の管轄だからね」
 小野田の代わりに答えた中園に、薪のナイフのような視線が突き刺さる。バインダーを盾にしてその攻撃を防ぎながら、中園は苦く笑った。
「今回は我慢してよ。小野田が長官になったら、ゼロ課は解体するから」
「本当に?」
「本当だよ」
「……約束ですよ」と引き下がるが、薪の背中は固く強張ったままだった。まだ何か言いたいことがあるに違いない。
 薪がすうっと息を吸い込む、細い肩が上がってそれを青木に教える。腹を括らないと言えないことなのだと察した。

「北川舞が殺されたのは僕のせいですか」
 思わず青木は腰を浮かした。薪の言葉はそれほど意外なものだった。
 緊迫する室内で、しかし驚いたのは青木だけだった。中園の冷静な声が、薪の質問に答える。
「彼女が死んだのはゼロ課の内輪揉めが原因だ。きみは関係ない」
「では聞き方を変えます。北川舞が顔を変えたのは、僕の影武者になるためですか」
 中園は口を噤み、小野田とさっと眼を合わせた。彼らのアイコンタクトを待たず、薪は畳みかける。
「僕の代わりにMRI法案反対派の眼を引く。それが目的だったんじゃないんですか」

 瞠目したのは青木だけではなかった。ここまで見抜かれているとは、上官たちにも計算外であったらしい。
「驚いた。村山長官と話したの?」
「中園」
「仕方ないだろ、バレちゃってるんだから」
 北川が薪の身代りに? 薪がMRI法案を通すために閣僚と話を煮詰めているのは知っていたが、反対派に狙われるなんて。薪はそんな危険な仕事をしていたのか。
 ボディガードの自分がその事実を知らされていなかったことに、青木は腹立ちを覚える。職務中の薪の外出にはSPを付けることになっているが、それにしたって。話くらいはあってもよさそうなものだ。

「小野田が頼んだわけじゃないよ。青木くんを軽んじたわけでもない。ちゃんと調査したけど、そこまで危ない集団じゃなかった。嫌味くらいは言われたかもしれないが、暴力沙汰にはならなかったはずだ。長官が先走って、ゼロ課を動かしちゃったんだよ」
 ゼロ課が長官の直属部隊であることを青木は知らなかったが、北川が特殊な課に属していることは察しがついていた。以前青木はなぜ任務を拒否しなかったのかと北川に尋ねたが、長官命令では青木だって断れなかったかもしれない。
「長官が細かい指示をしたわけじゃない。作戦は彼らの発案だ。きみの護衛と万が一の時の囮。もし反対派の襲撃を受けたら薪くんを安全な場所に保護して、北川くんが彼らをおびき出す。そこを一網打尽。ゼロ課のいつもの手だ」
 ゼロ課が関わることになった経緯と彼らの計画を説明する中園に、薪は噛みつくように言った。
「どうしてもっと早く話してくれなかったんですか。彼女が第九に来る前にそれが分かっていれば、彼女は死ななくて済んだ」

 中園は顔をしかめただけで、何も言わなかった。代わりに発言したのは小野田だった。
「もしも本当のことを言ったら、薪くんはこの作戦に乗ったかい」
「そんなわけないじゃないですか」
 整形なんか止めさせた。身代りになんかしなかった。彼女は写真を捏造することもできなかった代わりに、死ぬこともなかった。
「だから黙ってたんだよ。きみだって3年前、同じことをぼくにしただろう」
 小野田に話したら絶対に止められる。そう予想して薪は、小野田が海外出張の時期を狙って、3年前の計画を中園に持ち掛けた。
 自分がしたことが痛烈に返ってきて、薪を打ちのめす。薪はぎりっと奥歯を噛みしめた。

「僕は、誰にも死んでほしくないんです」
 何よりも切実なその願い。薪の中には自分のせいで失われた命がたくさんあって、それは本当は彼の咎ではないのに、でもどうしても薪にはそうとしか考えられず、彼らの死に囚われてきた。そんな薪だからこそ耐えられない。誰かが自分の身代わりに命を落とすなど。
「僕のために、いや、誰かのために犠牲になる命なんて。あってはならない」
「きみがそれを言うかい」
 突然、小野田は立ち上がった。マホガニーの事務机に両手を着き、正面に立った薪の方へと身を乗り出す。

「きみがもっと自分を守ることに積極的だったら、隠し事なんかしなかった」
 その口調があまりに激しかったから、青木はその場を動けなくなる。薪と付き合い始めた頃、その秘密が小野田にばれて此処に呼び出された。警察庁ナンバー3の恐ろしさを、そのとき青木は初めて知ったのだ。
 あの時と同じくらい。小野田は怖かった。

「この際だからハッキリ言わせてもらう。彼女の死は犠牲なんかじゃない。きみの危険を顧みない姿勢が彼女を殺したんだ。
 これまでだってそうだ。きみのせいでどれだけ岡部くんや青木くんが危ない目に遭ってきたか。きみが現場から遠ざかり、自分の身を安全な場所に置くよう心掛けていれば、彼らを危険に晒すようなことはなかったはずだ。
 ああ、頼むから『頼んでない』とか子供みたいな言い訳はしないでくれよ。これ以上イラついたら脳の血管が切れそうだ」
 相手に台詞を盗られて、薪の口が開いたまま止まる。反論する隙を一ミリも与えず、小野田は薪を糾弾した。
「3年前の事件だってそうだ。きみは第九や青木くんを守りたかった、そのために自分の命さえ懸けた。ふざけるんじゃないよ!」
 怒りに任せて叩いた机の音が、薪の肩を強張らせる。そのとき薪の舌を上あごに張り付かせていたのは、恐れよりも驚きだった。
 小野田にこんな風に叱られたことは過去になかった。心の準備ができていない彼は驚愕を全身に露呈させ、だけどそれは薪が小野田に心の底で甘えていた証拠でもあった。命令違反をしたばかりの彼が上司の部屋を訪れたのだ。叱責を覚悟していない方がおかしい。その自覚が薪にあるかどうかは微妙なところだが。

「青木くんもそうだけど、きみたちは自分を簡単に投げ出し過ぎる。このままじゃいずれ破滅するぞ」
 脅しつけるように言って、小野田は官房長の椅子に腰を下ろした。第九の室長席よりも一回り大きく、高級な皮で作られた椅子は小野田を大きく見せる。青木の方が身体は大きいが、椅子に負けそうだと思った。
「相手のために自分を犠牲にすることが、必ずしも相手のためにならないこと。それを一番よく分かっているのは薪くん、きみだと思っていたけどね」
 薪はもう、顔を上げることができなかった。小野田の言わんとすることはよく分かったし、何度も何度も自分の部下に言われたことだった。

「――鈴木くんも浮かばれない」
 最後の一言を、小野田は少しの間を挟んで言い落した。
 その間隙に、青木は小野田のやさしさを見る。小野田は本当に薪が大事なのだ。だからあの時も。

「ま、そういうことだから。薪くんも次からは気を付けてね。戻っていいよ。青木くんも」
 重苦しく下りた沈黙の帳を、中園の軽妙な声が払う。小野田とは対照的に軽い口調で、まるで父親が子供を叱ったあと母親が敢えて明るく「ご飯にしましょう」と声を張り上げるように。互いに難しい顔をして眼を合わせないようにしている小野田と薪の間を、皮肉屋の中園が修復しようとしているのが分かって、青木はそれでやっと動けるようになる。直属の上司がその上の上司に叱責されている場面なんて、部下には針の筵だ。
 明らかに納得していない様子で、薪がぞんざいに敬礼をする。薪はいつも丁寧に、とてもきれいにお辞儀をするのに、その時ばかりは水飲み鳥のおもちゃみたいに機械的な仕草で、だから青木は慌てて彼の後を追う。薪の心のケアは自分の役目だ。

 二人の部下がいなくなった部屋で、官房室のおしどり夫婦は殆ど同時に息を吐く。これだけ長いこと相棒をやってると、呼吸のテンポまで似通ってくる。
「小野田。鈴木くんのことまで持ち出すなんて、ちょっと厳しすぎない?」
「おまえこそ、いつの間にそんな甘ちゃんになったんだい。ゼロ課を糾弾できない理由を『長官の管轄だ』なんて誤魔化して」
 仲間内の殺人を理由に処分を提起すれば、9年前、同じ状況でありながら降格処分を受けなかった警視正のことが蒸し返される。だから攻めきれなかった。薪はそれを分かっていない。

 怒り冷めやらずの上司に肩を竦めて、中園はバインダーを開く。そこから二、三の書類を抜き出して、小野田の机に置いた。
「薪くんの性格は、そんなに簡単に直らないと思うけど」
 背負ってる過去が過去だからね、と薪の心境を慮る様子の中園に、小野田はあくまでも厳しく、
「薪くんは、あと3年もしたらこの椅子に座ることになる。今までのような一室長でも一参事官でもなくなるんだ。立場を弁えてもらわないと」
「おまえと五十歩百歩って気もするけど」
 いま正に紙面に接しようとしていた判が止まる。睨み上げられて中園は後悔した。しまった、認め印を押してもらってから言えばよかった。
「首席参事官秘書室の備品、新型パソコン5台。今のやつ、まだ使えるだろ」
「でも、3年も経つとスペックが全然」
「却下。贅沢だよ、こんなの」
 突き返された書類の中央にべったりと押された不可の赤判を見ながら中園は、小野田と薪はやっぱり良く似ていると思った。




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ジャンル : 小説・文学

青木警視の殺人(20)

 こんにちは~。
 雨で休工になりました。更新します。


 連日、たくさんの拍手をありがとうございます(〃▽〃) 
 過去作、読んでくださってる方、あんまり夜更かししないで休んでくださいね。インフルエンザも流行ってることですし。

 インフルエンザって言えば、楽しい現場その2。
 現場の側にある家の子供が平日なのにウロチョロしてるから訊いたら、インフルエンザで幼稚園が学級閉鎖になったとか。で、下請さんの職長さんに、
「職長さんは(インフルエンザに)なったことないでしょw」て言ったんですよ。『バカは風邪引かない』のニュアンスを感じ取ったんですかね、その返しが、
「来週から1週間、インフルエンザで休みます」
 予告?!
 焦ったわたしが、お身体強そうですものね、とフォローを入れる間もなく、隣の人が、
「社内感染で」
「次の週はおれ行きます」
「じゃあ次の週はオレが」
「待て待て、2人休めば現場動かなくなるから。2人ずつペアで」
 ……すみません、わたしが悪かったです、勘弁してください。




青木警視の殺人(20)






 夜中の街道を飛ばして薪が駆け付けた先は、自身の職場であった。

 受付にはなぜか守衛がおらず、代わりに立っていた制服警官に職質を受けた。提示された身分証に恐縮する警官に警護を交代した理由を尋ねると、「青木警視の指示であります」と答えた。ごく限られた本部内手配だったから末端の警官にまで手配書は届いていない、しかしそのことを青木は知らなかったはずだ。ほとほと犯罪者に向かない男だ。警戒心が無さ過ぎる。

 青木は研究室の自分の席に座って、モニターを見ていた。
 彼が携帯電話の電源を切っていると聞いた時、多分ここだろうと思った。薪は、捜査中は携帯電話の電源を切るよう部下に徹底している。クセで切ってしまったのだろう。
「今頃まで残業か」
 薪の呼びかけにぎくりと肩を緊張させる。マウスに手を置いたまま、青木は恐々と振り返った。その顔に掛けられたメガネのフレームは歪み、滑らかな額には血が滲んでいた。室内が暗いから見え難いが、黒いジャージのズボンは土で汚れている。誰かと激しく争ったらしい。
「どうしたんだ、その怪我」
「宮下さん、意外と強くて。あ、宮下さんて、守衛さんです。脇坂さんの代わりに入ってた臨時の……北川さんを殺した犯人、宮下さんでした」

 薪は黙って上着のポケットからハンカチを取り出し、青木の額に押し当てた。触ると痛いらしく、青木は顔をしかめた。
「そうか、守衛か。それで緑川たちが第九に入って来れたのか」
 緑川と言う人物を青木は知らなかったが、薪は説明してくれる気もないようだった。ひとり頷くと、すっと人差し指を伸ばし、
「その中に映像が入ってたんだな」
 薪が指差したのは、MRIシステムの端末にUSBケーブルで繋がれたハードディスクだった。さっき、田上たちの手によって壊されたばかりのパソコンの中身だ。
 宇野の家に向かう前、青木はこれを取り外して持ち出した。不自然なチャットの切れ方から、宇野が襲撃されたことを察したからだ。宇野のパソコンを調べれば、このパソコンにデータを送信したことはすぐに分かる。このままにしておくわけにはいかないと思った。

「なぜ僕の言いつけを破った」
「……すみませんでした」
 青木があのままホテルにいたら、このデータは守れなかったかもしれない。しかし結果がどうあれ、命令違反は処罰の対象である。それが警察だ。青木は素直に謝った。
「僕は理由を聞いている。宇野との会話が途絶えた時点で報告、上の指示を仰ぐべきだった。そのために坂崎さんをおまえに付けてもらったんだ。なのに、ペテンみたいな真似をして」
「北川さんが言ったんです。オレには恩があるって。だからこの任務を引き受けたんだって、そう言ってました」
 立ったままで青木を見下ろす無表情な亜麻色の瞳に、でも恐怖は感じなかった。青木は薪に話せずにいたことを、思い切って告白した。
「ずっと不安だったんです。北川さんが任務上のトラブルで死んだなら、その責任はオレにあるのかもしれない。そうしたら、事件を調べてた宇野さんまで被害に遭って。オレ、じっとしていられなくて」
 青木は薪に殴られるのを覚悟したが、その一撃は見送られた。代わりに、ポンと頭に手を載せられた。やさしい手だった。

 それから薪は青木の隣に腰を下ろした。背もたれに寄りかかって腕を組む。
「見せてみろ」
 はい、と青木は頷いて、ハードディスクから取り出した映像をモニターに流した。
 画面のほぼ中央に映った男に、右奥から北川が駆け寄ってきた。彼女は男の手を掴み、激しい怒りを顕わにする。映像を一旦止めて、青木が説明を挟んだ。
 映像から読み取れる会話で二人の諍いの理由は判明した、と青木は言った。
「宮下さんの背格好と顔立ちは、オレに少し似てます。例の写真は彼と北川さんが協力して拵えたものでしょう。だけど北川さんは、それを警務部に送るつもりなんかなかった。宮下さんが勝手にしたことで、だから北川さんはこんなに怒ったんです。
 言い争いになり、宮下さんは彼女を殺してしまった」
 画面には、男が北川を刺し殺す瞬間がしっかりと映っていた。特殊メイクをしていても、青木の体つきは真似られるものではない。明らかに別人であった。
「動機については、この諍いの他にもいろいろあったんだと思います。こんな写真が撮れるくらいです、もともと特別な関係だったんでしょうし」
 写真を警務部に送ったことから察せられるように、宮下は次長派の人間だったのだろう。事件を起こした後、彼は次長に助けを求めた。だから捜査本部が次長派の仕切りになったのだ。
「宮下は?」
「今は捜一の大友さんのところです」
 格闘の末、逮捕して捜一に引き渡した。青木の額の怪我は、その勲章と言うわけだ。

「ここで何を探していた?」
 事件は解決し、青木の本部内手配は取り消された。しかし、謎はまだ残っている。北川舞という大きな謎が。
「ハードディスクの映像を見るためだけに、第九に来たんじゃないんだろう」
 持ち出したデータを確認するだけなら、パソコンさえあれば可能だったはずだ。それこそ病院のパソコンを借りてもいいし、24時間営業のネットカフェもある。でも青木はここに来た。彼女の謎は第九にあるのだ。
「まだ完全には分からなくて。それで報告ができないんですけど」
「かまわん。話せ」
 躊躇いがちに青木が選んだのは、画面のアンダーバーに最小化されていた一枚の写真であった。クリックすると同時に画面に映し出された女性の顔を見て、薪は呟いた。
「西園冴子」

「薪さんて、どうしてそんなに人の顔覚えてるんですか」
 この人物は青木が担当した特捜の死刑囚で、青木は彼女の顔を写真でしか見ていない。しかも彼女は整形を繰り返していて、資料にあった逮捕時の顔とこの写真とでは別人と言っても通るほど印象が異なる。資料の中には整形前の顔もあったが、特捜にそれは必要なかった。思い出せなかったのも無理はないと納得していたのに、さっと資料に眼を通しただけの薪にこんなにあっさり言い当てられると、自分がものすごくバカに思えてくる。
 今に始まったことじゃないけど、といささか落ち込みながら青木は言った。
「でも実はこれ、西園さんじゃないんです。北川さんの整形前の顔です」

 驚くのは薪の番だった。
 宇野のやつ、ゼロ課の職員情報まで引き出していたのか。あれは警察のスパイリストみたいなものだ。連中が口封じに動くわけだ。それはともかく。
「彼女は西園冴子の身内だったのか。それでゼロ課に」
 警察官の身内が重大犯罪を起こした場合、普通なら依願退職を打診される。職場に残りたければ、ある程度警察側の意向を飲まなければいけない。北川舞はこの件を理由に、ゼロ課への異動を余儀なくされたのだ。
 雪子が「ひっかかる」と言ったときに気付くべきだった。化粧を落とした北川は、薪にそれほど似てはいなかった。やはり彼女もゼロ課の変装術を使っていたのだ。ならば、雪子の既視感はどこからきたのか。
 その答えは西園冴子だ。雪子は特捜のため、彼女の脳を取り出していたのだ。

「宇野さんから送られてきたデータの中に、この写真がありました。北川さんは西園さんの妹、正確には異父妹です」
 西園冴子の母親は、冴子が幼いときに彼女を捨てて男と逃げた。その男との間に生まれた子供が北川舞だった。
「北川さん、オレに恩があるって言ったんです。彼女とオレの接点は、この特捜しかありません。でも、感謝されるようなことはオレはなにも」
「なるほどな」
「え。薪さん、分かるんですか?」
 青木はびっくりして振り返った。当の自分がいくら考えても分からなかったのに、書類に判を押しただけの薪がどうして、ああ、オレって本当に馬鹿なのかもしれないと青木は広い肩をやるせなく落とす。眉をハの字に下げた情けない顔で、決して追い付けない上司に頭を下げた。
「教えてください。お願いします」
「駄目だ。自分で考えろ」
 返ってきた薪の回答はとても冷たくて、青木はますますがっくりと肩を落とす。その様子を微笑ましく思いながら、だけど表情はあくまでも冷静に、薪は北川舞の心を読み解く。

 推測でしかないが、この姉妹は周りの大人たちに隠れて交流を持っていたのではないだろうか。冴子の実家と北川の生家は隣町。子供の足でも会えない距離ではない。顔立ちもよく似ていた彼女たちには共通することも多く、気が合ったと考えられる。再婚しても母親の奔放な性質は変わらなかったようだし、お互い、そのことを相談できる相手は他にいなかったに違いない。
 後に、姉の冴子が殺人を犯し「稀代の魔女」などと日本中に非難されたとき。北川舞は悲嘆に暮れたはずだ。その姉の特捜を、青木が担当した。
 その報告書には、こう書かれてあったと薪は記憶している。
『母親に置き去りにされた幼少期の傷と、彼女を育てた祖母の教育がトラウマとなった。繰り返し聞かされた母親への呪詛と自分がしたことが重なってしまったとき、彼女の心の均衡は崩れ、あのような凄惨な事件を起こすことになってしまった。
 西園冴子は魔女などではなく、悲しい女性であった』
 あのとき薪は、同情心に溢れた青木の報告書を問答無用で書き直させたが、思うところあって、最初の報告書に自分の認印を押して提出した。北川はそれを見たのだろう。
 世間から後ろ指を刺されまくった人間は、少しでも庇ってもらえると嬉しいものだ。青木の純粋な尊敬が、あの頃の薪を救ってくれたように。ゼロ課に異動して辛酸を舐めていた彼女もまた。被害者にも加害者にも平等な、青木の公平さに救われたのだ。

 北川舞は、姉の気持ちに寄り添おうとしてくれた青木に感謝した。そしておそらく青木のために、あの写真を捏造した。
 ゼロ課の情報網により薪と青木の秘密の関係を知った北川は、その発覚を恐れた。だから青木と自分が恋仲であると言う証拠写真を撮った。二人の秘密が悪意を持って暴かれた時の免罪符として。
 万が一、二人の決定的瞬間をスクープされたとしよう。それが三流週刊誌の紙面を騒がせた際には、これは北川舞と言う女性であると言い張ればよい。そのために、薪そっくりに整形した顔を利用したのだ。

 薪はそんな風に彼女の行動を推理し、それは概ね当たっていた。しかし一つだけ、薪が読み切れなかったことがある。
 北川舞は最初、本気で青木を射止めるつもりだった。と言っても、青木と恋仲になろうとしたわけではない。ゼロ課に所属している自分が青木の恋人になれるはずがない。ただ、薪とは別れさせた方が青木のためだと思い、それを実行しようとしたのだ。
 しかし第九で監査聴取をするうち、二人が強い絆で結ばれていることを知った。同僚の話ではどうも青木の方が薪に夢中らしいし、薪も薪で、青木が可愛くて仕方ない様子だ。これは下手に手を出したらバカを見ると考え、作戦を切り替えることにした。秘密が発覚した時の保険としてあの写真を作り、青木に渡してやろうと思ったのだ。



 第九の職員たちに自分たちがそのように語られていたことなど露ほども知らない薪は、ゼロ課の情報収集能力に脅威を抱いていた。あれだけ巧妙に隠していた(と薪は思っている)二人の関係が、北川舞には筒抜け状態だった。実際、極秘扱いの特捜の報告書まで見られるくらいだ。他の第九の機密情報も洩れている可能性がある。宇野に言って、セキュリティを強化しなければ。

「薪さん、後生ですから教えてください。お願いします」
 珍しいことに、青木がお願いを繰り返した。青木は薪の言葉にはいつだって従順で、逆らうことは滅多とない。ベッドの中では時々やんちゃになるけれど、仕事のことで薪の命令に従わなかったことは一度もなかった。
「彼女、整形も任務のためだったって。オレのせいで整形までしたのに、そのオレが彼女が何を考えていたのか分かってやれないなんて」
 彼女が可哀想です、と零れ落ちた言葉は、青木と言う人間の性質を如実に表している。やさしくて、同情心が豊かで、責任感が強い。

 いま薪が考えたことを説明してやれば、彼の心の重荷は取り除けるかもしれない。でも同時に、青木には分からないとも思った。
 世間から袋叩きにされたことがある人間でないと、あの気持ちは分からない。ましてや、見ず知らずの他人のほんの少しのやさしさで生きる希望が湧いてくる、そんな奇跡のような心境など、施す側の人間には想像もつかないだろう。
 そして、そんな青木だからこそ。やさしさが偽善にも押しつけにもならず、素直に人の心に入っていくのだ。
 そういった自分の特性を、彼はまるで理解していない。天性の救済者。

「彼女が整形したのはおまえのためじゃない。僕のためだ」
「えっ?」
 歪んだ眼鏡の奥の、黒い瞳がまん丸になる。その素直さを好ましく思う。自分はもう、彼のように感じたままを表現する術を忘れてしまった。いつもなにかを隠して、誰かに嘘を吐いて。紡ぎ続けた長い虚構の彼方、そこには確かに彼のように素直な自分がいたはずなのに。
 それでも、戻りたいとは思わない。この世界で生きるには幾つもの仮面が必要だ。彼が此処に留まりたいと願うなら、僕は全力で彼を守る。必要ならば、閻魔が腰を抜かすほどの嘘でも吐きまくってやる。

「おまえは何も気に病むことはない。僕が保証する」
 青木は少しだけ眉を寄せたが、やがてこっくりと頷いた。
「薪さんを信じます」
 そのとき薪に向けられた憧憬の眼差しはあの日のまま。出会った日の感激のままに、今もその気持ちは青木の心にあるのだと。その子犬のように煌めく瞳を見ればそれは明確に分かって、だから薪の心は錐で穿ったようにキリキリと痛む。

 叶うことならこれから先。どうか誰も彼を汚さないで。

 自分に微笑みかける青木に、願うことしかできなかった。警察機構に身を置く限りそれは無理な相談だと、身をもって知る薪には。



*****

 2015.2.23 追記
 コメントいただいて気付いたんですけど、ごめんなさい、注釈入れるの忘れてた~。「西園冴子」って誰だか分からない方、もしかしなくてもたくさんいますよね(^^;
 男爵カテゴリの一番下にあります、「ハプニング」と言うお話に出てくる死刑囚でございます。青木さんが特捜で脳を見たんですね。で、実は薪さんは、夢で素顔の彼女と会って話をしてるんですよ。だから彼女の顔が一発で分かったの。
 もっとも薪さんなら、その夢が無くても覚えてたでしょうね(〃▽〃)


 

テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

青木警視の殺人(19)

 昨日は、たくさんの拍手をありがとうございました~。
 どうもありがとうございます、うれしいです(^^)
 最初の記事からだから、ご新規さんかな? それとも再読の方かしら。
 励ましてくださってありがとうございます。がんばります♪



青木警視の殺人(19)







 宇野が看護師を脅して病院の機密情報満載のパソコンを奪い取り、キィを夢中で叩いていた頃。薪は青木が隠れていたホテルにいた。
 宇野が襲われた時、彼は青木とチャットをしていた。IPアドレスを辿れば、宇野がどこのパソコンと話をしていたのか解る。敵側が此処を襲撃する可能性は十分にある。
 上手いことに、青木はホテルを留守にしている。岡部にも保護を頼んであるし、青木には危険はないはずだ。
 応援を呼ぼうとは考えなかった。ゼロ課との直接対決に、巻き込みたいと思えるような部下は薪には一人もいなかった。だれも危険な目に遭わせたくない。誰ひとりとしてこれ以上、傷ついて欲しくない。
 小野田にだけは電話をしておいた。自分がゼロ課とやりあえば、小野田と長官の間に溝ができるだろう。小野田には、またも恩を仇で返すことになる。それでも。

「夜分に恐れ入ります。捜査にご協力を」
 フロントで身分証を提示し、カードキーを借り受けた。
「僕の前に、このキーを借りに来た人はいませんか?」
 薪の質問に、フロントマンはいないと答えた。自前の工作員で電子ロックを外す気なのだろう。自分たちの痕跡を残すことを嫌うゼロ課らしいやり方だ。

 目的の部屋へ行き、キーを差し込んでドアを開ける。具合の悪いことに自動照明だ。外から見張られていたら、今帰宅しましたと大声で叫んでいるようなものだ。
 いつでもドアから逃げられるように手をドアノブに掛けたまま、薪はさっと室内を見回した。動体視力に優れた亜麻色の瞳は羽虫の動きすら捉える事ができたが、その眼をもってしても侵入者の存在は確認できなかった。
 どうやら取り越し苦労だったらしい。ほっと息をついてリビングを通り過ぎる。ここには坂崎がいたはず、彼の前でチャットはできないはずだから、パソコンは寝室にあるのだろう。そう見当をつけて寝室の扉を開いた。

 中は真っ暗で、パソコンの明かりだけが点いていた。それを視認した瞬間、薪はホルダーから拳銃を取り出し、腕を伸ばした。暗闇に向かって威嚇する。
「そこにいる者、出てこい」
 青木がホテルを出たのは2時間も前だ。パソコンの電源を切り忘れたとしても、オートオフ機能が働いていないのは不自然だ。直前まで誰かが、このパソコンを操作していたのだ。
 明るいリビングを通ってきた薪の目に、寝室の人影は見ることができない。明るさに眼が慣れてしまっていたせいだ。中にいる人物を見つけ出そうと、薪は意識を集中した。自然と背後の警戒は薄くなる。そこを衝かれた。
「薪警視長。銃を捨ててください」
 ゴツン、とこめかみに当てられた金属の冷たさ。撃鉄を起こす音で銃だと分かる。敵が単独行動を取らないことは分かっていたのに、油断した。
 両手を上げて手のひらを開いた。薪の右手から拳銃が落ちる。ベッドの陰から姿を現したもう一人の男が、それを余裕で拾い上げた。
「捜査本部の」
 そこにいたのは管理官の緑川警視長だった。わざわざ第九まで薪たちを牽制しにきた、あの嫌味男だ。薪に銃を突きつけているのは声と身長から判断して、緑川に着いてきた田上巡査部長だろう。

「余計なことはしないでくださいと、あれほどお願いしたのに。あなたほどの重要人物を葬るのは、こちらとしても大変な作業なのですよ。察して欲しいものだ」
「僕の部下に手を出したおまえらが悪い」
「ハッキングなどという卑劣な手段でうちの情報を盗みに来たのはそちらの方でしょう。我々はそれに対する報復をしたまでだ」
 答えたのは田上だった。
 やはりそうか。緑川は次長派の人間、田上はゼロ課の人間だ。

「青木を殺人犯に仕立てようとしたくせに」
「あれは、そちらの緑川管理官の命令で仕方なく。長官不在の折は次長がその指揮を執る。ゼロ課の規則ですから、我々としても逆らえなかったんです」
「よく言うよ。おまえらにしても、青木が犯人である方が都合がよかったんだろ。訓練を積んだゼロ課の人間が一般人に殺されるのは不自然だからな。僕のSP代わりの青木が犯人なら、長官も不思議に思わない」
 捜査本部の管理官が次長派の職員だと知って、中園は北川の殺人そのものを次長派の謀略と疑ったが、薪の考えは違っていた。ゼロ課を動かせる、次長派にそんな力が残っていたならもっと早くに何か仕掛けてきたはず。そもそも殺人はリスクが大きすぎる。北川を殺したのは次長派ではない。
「彼女を殺したのは同じゼロ課の人間だ。おまえらはそれを長官に隠したかった。だから次長の言うことに従ったんだ」

 薪が事件の真相を言い当てると、田上の顔色が変わった。
「図星か。そんな正直者で、よくゼロ課の仕事が務まるな」
 せせら笑うと、銃口でこめかみの上部を殴られた。軽い殴打でも鉄の塊だ。皮が破れて血が流れた。
「やわな肌をしているな。本当に男なのか」
 カッとなって振り向きざまに相手の襟を掴むも、薪の銃を拾った緑川が薪の背中に銃を押し当てる。薪は悔しそうにくちびるを噛んで、田上から手を離した。

「第九は腰抜けぞろいだな。さっきの男も、呆れるくらい弱かったぞ」
「あいにくだが、第九は頭脳労働だ。僕の部下におまえらみたいな筋肉バカは必要ない」
「岡部警視が聞いたら悲しむんじゃないのか」
「いや。ああ見えて岡部は意外と神経細くって。慎重派だし心配性だし、お母さんだし」
「お母さん?」
「夜はちゃんと寝なさいとか、夏の外出にはサングラスを掛けなさいとか」
「見かけによらんな」
「本当だぞ。外出先までサングラス持って追いかけてくるくらいだ。――なあ、岡部」
 ひょいと上がった細い顎が示す先、まさかと思って振り返る。そこに田上は信じられないものを見た。

「岡、ぐっ!」
 突進してくる岡部の体当たりよりも、薪の拳の方が速かった。田上の鳩尾に見事に決まった正拳突きの強さと正確さは、彼の細い腕から繰り出されたとは信じ難い威力で、その痛みに田上は思わず身体を二つに折り曲げた。緩んだ右手を狙って薪の手刀が振り下ろされる。が、さすがに田上はゼロ課の人間だ。さっと身をかわし、空振りになった薪の腕を捕えて下方に引き倒す。体勢を崩して床に膝をついた薪の背中に肘を打ち下ろす寸前、岡部の強烈な蹴りが田上の背中を捕えた。床に丸まった薪の身体に蹴躓づく。
 床に転がった田上の身体を二人掛かりで押さえたその時、寝室から鋭い声が響いた。

「そこまでだ!」
 田上の後ろ首を上から押さえつけながら横目で見れば、緑川が銃を構えていた。銃口はぴたりと薪の頭に向けられている。
「おまえの銃は私が持っているんだぞ! 大人しく手を上げろ!」
 緑川の脅しに怯む様子も見せず、二人は田上の確保を続行した。銃を持った右手を、岡部の頑強な手が捻り上げる。ぎりぎりと手首を締め上げると、ぽろりと銃が床に落ちた。銃を相手に拾われたらお終いだ――焦った緑川が声を張り上げる。
「私が撃てないとでも思っているのか、バカにしやがって。地獄で後悔しろ!」
 恐怖に駆られた緑川が引き金を引いた。その指に伝わったのは、カチリと言う軽い音。

「……え?」
 銃口から飛び出したのは弾丸ではなく、小さな火であった。つまり、これはライターだ。
「それはモデルガンだ。よく出来てるだろ」
 俄かには信じ難い。つい先刻薪は、この銃を構えてここに乗り込んできたのだ。モデルガンであそこまで強気に出るか、普通。
 緑川が滑稽なピエロを演じている間に、田上は岡部によって完全にその動きを封じられていた。圧倒的な力の差であった。
「無法地帯のゼロ課じゃあるまいし。この時間に拳銃なんか持ち出せるか、バーカ」
 警察では、捜査員に拳銃の携帯を許していない。銃は厳重に保管され、凶悪事件が起きた時など特別な場合にのみ所持することを許される。それにはきちんとした手続きが必要だ。必要になったからと言って、さっと持ってこれるものではない。

 バスローブの紐や電気ポットのコードなどで手足を縛られ、芋虫のように床に転がされた田上の頭に足を乗せ、薪は楽しそうに笑った。こんな性格の悪い男、見たことない。
 心を読んだわけでもあるまいが、薪が緑川をぎろりと睨む。その気迫の禍々しさ。緑川の身体が勝手に震え始める。
「岡部。捕まえろ」
「はい」
 バキボキと必要以上に指を鳴らして近付くあたり、岡部も緑川の暴言には相当キていたらしい。
「わ、私は警視長だぞ! 警視の君が私に逆らえるのか!」
「同じ警視長の命令ですから」

「僕の後ろには官房長も付いてるぞ。なんたって、お気に入りだからな」
 以前、緑川に当てこすられた不愉快な噂を逆手にとって、薪はうそぶいた。パソコンデスクにもなっているサイドボードの引き出しを開け、何かを探しながら、
「おまえの腕の一本や二本折ったところで、僕がベッドの中で官房長にお願いすれば、無かったことになるんだよ」
「薪さん。楽しいのは分かりますが、そういう発言はご自分の首を絞めますよ」
「こいつが言い触らすかもしれないって? 大丈夫だ。この場でこいつの舌を切り落とすから」
 シャキン、と軽やかな音を立てて開かれたのは、どこにでもある事務ハサミ。

「な、やっ、やめ、あだだだっ!」
 岡部の太い指が緑川の細い顎を挟み上げ、無理やりに口を開かせた。口中に縮こまる舌を、薪の細い指が強引に引っ張りだす。根元に近い部分にハの字に広げた刃をあてがい、薪は無邪気な声で尋ねた。
「なあ、岡部。人間の舌って、切ったらどれくらい血が出るのかな」
「さあ。おれも切ったことありませんから」
「僕も初めてだ。ワクワクするなっ」
 子供のように眼を輝かせるとか、こわい、ものすごく怖い。こういうのがシリアルキラーになるんだ、絶対にそうだ。

 かくん、と緑川の膝が崩れた。岡部が手を離すと、糸が切れた操り人形みたいにおかしな動きで床に倒れた。
「気絶しちゃいましたよ」
「なんだ。冗談の通じないやつだな」
 冗談で通るか、あんなもの!
 こいつらの容赦の無さはゼロ課の上をいく。戒められた手足を不自由に曲げながら、田上はぐったりと床の上に横たわった。

「ところで岡部。よくここが分かったな」
「宇野から連絡をもらいました。薪さんが青木が隠れてたホテルにいるはずだからって」
「青木の隠れ場所は、おまえも宇野も知らないはずだが」
「病院でパソコン借りて、チャットのログを辿ったらしいですよ」
 あの怪我で、と薪が眉を潜める。宇野の無茶は上司譲りだと思ったが、賢明な岡部はそれを口には出さなかった。
「ここのパソコンに映像を伝送したから押収してくれって言われましたけど、ああ」
 パソコンを見て岡部は呻いた。一足遅く、それは破壊されていた。データが保存されているはずの本体が、ぐしゃぐしゃに潰されている。緑川たちは元々これが目的で来たのだ。部屋に入って一番に仕事を済ませ、青木を待ち伏せしていたのだろう。

「宇野のパソコンも壊されちまったし。これで証拠は無しか」
「いや、大丈夫だ」
 落胆する岡部とは対照的に、薪は余裕の表情だった。パソコンに詳しくない岡部には分からないが、ボディをここまで破壊されたパソコンからデータを引き出す方法があるのだろうか。

「青木は?」
「それがですね。青木のやつ、携帯の電源を切ってるみたいで」
 居場所が分からないようにと思ったんですかね、と岡部が理由を推測すると、薪は困惑に首を振って、
「青木が持っているのは宇野の携帯だ。あいつもそこまでバカじゃない。切る必要なんか」
 言い掛けて考え込んだ。右手を口元にやる、いつもの癖。
「もしかして」
 呟いて、薪は踵を返した。
「岡部、後を頼む。僕は青木のところへ行く」
 わざとらしく田上の肩を踏ん付けて、一直線に駆けて行く、薪の背中に岡部の声が掛かる。
「青木の居場所、分かるんですか?」
「相手の居場所を当てるのは、青木の専売特許じゃない」
 足を止めて肩越しに言い返した薪の声は、自信に満ちていた。

テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

青木警視の殺人(18)

 昨日はお休みだったのに、更新しないでしまいました。なんかぐーたらしちゃって(^^;

 続きです。



青木警視の殺人(18)





 深夜の電話は薪にも掛かってきた。小野田が青木からの電話を受け取る一時間ほど前のことである。

「青木?」
 手厚く匿われているはずの部下の声に薪は、普段の低血圧を潔く返上し、ベッドの上に飛び起きた。青木は坂崎によって外部との接触を断たれているはず。その彼がこうして電話をしてくるのはおかしい。嫌な予感は、果たして的中した。
『薪さん。宇野さんが怪我を』
「宇野が?」
 宇野は頭痛で休暇を取っていると聞いたが、多分ズル休みだと噂されていた。北川に好意を抱いていた宇野は、彼女が亡くなったショックで仕事が手に付かなくなったのだろうと、それが仲間たちの予想だった。第九の職員たちも、10日程ではあったが毎日顔を合わせていた女性が突然命を奪われたことに衝撃を受けていた。それでも、宇野ほど傷ついた者はいなかったはずだ。

『ああ、ひどい……こんな、どうして。宇野さん、宇野さん、しっかりしてください』
「落ち着け。しっかりしなきゃいけないのはおまえだ」
 首を傾けて肩と耳の間に電話を挟み、青木を励ましながら、薪は急いで身支度を整えた。
「状況を説明しろ。宇野の怪我はどうなんだ」
『頭を殴られたみたいです。血がたくさん出てます。止血はしてますが、止まりません』
「救急車は呼んだのか」
『はい。あ、でもどうしよう。オレが付き添うわけにはいかないし』
 青木は本部内手配されている。警察病院にも人相書きが出回っているだろう。この時間帯なら警察関係者は夜勤警邏しかいないから通報される可能性は低いが、警察病院は捜査本部のお膝元。長居は危険だ。
「僕が行く。病院で交代しよう」

 部屋を出て廊下を走り、階段を駆け下りる。マンションの駐車場は地下だ。
 車のエンジンを掛けて携帯電話のハンズフリーをセットする。警察病院は中野区にある。薪が住んでいる吉祥寺からだと車で40分、この時間帯なら30分で着く。
「おまえはどうしてそこにいるんだ?」
『宇野さんからホテルのパソコンにメールが来たんです。チャットで話をしたんですけど、宇野さん、事件の証拠を掴んだって言ってました。その話の途中でいきなりチャットが切れて、データフォルダが送られてきて……不安になったから宇野さんの家に来てみたら、宇野さんが倒れてて、部屋が滅茶苦茶になってました』
 ちらっとナビの画面を見ると、宇野の名前が表示されていた。青木は宇野の携帯を使って薪に連絡をしてきたのだ。
「よく坂崎さんが外出を許してくれたな」
『あー、えっと、すみません。小野田さんの声で坂崎さんの携帯に電話を。UNOボックスに音声合成ソフトが入ってたから』
 詐欺師紛いの真似をしたと聞いて薪は驚く。青木はいつの間にそんな小賢しい男になったのだろう。
 薪が絶句している間に救急車が到着したらしい。周りが騒がしくなり、青木は「また連絡します」と言って電話を切った。

 警察病院の敷地に入った時、青木から再度電話が入った。病院に到着した旨を伝えると、宇野の手当てが無事に済んだこと、見た目よりも怪我は軽く命に別状はないこと、それから宇野の部屋番号を教えられて最後に「宇野さんをお願いします」と言われた。
「一人でホテルに戻れるか? 坂崎さんを呼ぼうか?」
『あ、いえ。オレ、ちょっと行きたいところが』
「なに言ってんだ。おまえは隠れてなきゃダメだ」
 病院敷地内携帯電話禁止という張り紙が眼に入り、薪は足を止めた。ここから先へは電話を切らないと進めない。
「僕が坂崎さんに電話を」
『用事が済んだら自分で電話します。薪さん、宇野さんの傍に付いていてあげてください』
 ぷつりと電話が切れる。折り返したが無視された。青木は素直で大人しい、でも強情な男だ。その発想は突拍子もなく、薪ですら予測のつかないことをしでかしてくれる。
「仕方ないな……岡部、こんな時間にすまん」
 薪は、電話で岡部を呼び出した。宇野が怪我をして病院に搬送されたこと、青木が宇野の携帯電話を持っていること、居場所を特定して保護して欲しい旨を伝え、自分はこれから宇野に付き添うことを話した。
 青木を岡部に託し、薪は宇野の病室へと急いだ。命に別状はないと聞いても、やはり心配だった。

 飾り気のない病院のベッドで、宇野は眠っていた。
 頭に包帯を巻かれ、さらにネットのようなものを被せられていた。そっと布団をめくると、腕や足にも絆創膏や湿布薬が貼られていた。
 いつも家の中でパソコンを弄っている宇野の手足は白くて、細い割には柔らかくて。頭はいいけど腕っぷしは強くない。所轄にいた時も、それでお荷物扱いされていた。薪が見つけて第九にスカウトして、それからどれだけこの男に助けられてきたか。IT関係のことなら無敵の宇野は、MRIシステムと言う高度な技術を基盤にした第九の要で、薪の自慢だった。

 絶対に、許せないと思った。
 大事な部下を傷つけられたこと、青木に濡れ衣を着せられたこと。実行犯も黒幕も、その罪を暴いて償わせる。それが刑事の仕事だ。派閥の勢力調整なんか知ったことか。

「薪さん、どうしたんですか。そんな怖い顔して」
 名を呼ばれて我に返った。いつの間にか、宇野が眼を覚ましていた。
「おまえこそ。なんだ、その情けない姿は」
「すいません、しくじりました。最後のトラップ外すのに手間取っちゃって」
「まったく。危ない橋を渡りやがって」
 宇野が何処のシステムに潜入したのか、この報復を見れば察しがつく。おそらく北川舞の本当の所属部署――公安部だ。
「北川舞のためか」
 殺人犯の濡れ衣を着せられた青木を救うため、でも宇野の心の底にあったのは。
「初めてだったんです、あんな気持ちになったの。だから」

 事件の裏側を探るべく、宇野は北川舞の正体を調べた。被害者を知ればその交友関係も浮き上がる。だが、人事部に彼女のデータはなかった。それどころか、警察庁の職員名簿にすら載っていなかった。念のため他の部署も調べたが、どこにも彼女の名前を見つけることはできなかった。見つけられなかったことで、宇野は逆に彼女の正体に気付いた。
 職員名簿に載らない警察官。その所属部署は一つしかない。
 北川舞は公安部の職員、それも特殊班――ゼロ課の人間だ。特殊班は職務内容に違法性が強い仕事が含まれるため、名簿に名前を載せないのだ。今回の監査も、すべて公安部の仕込みだったに違いない。公安部の仕事絡みで北川舞は殺されたのだ。もちろん青木は関係ない。
 そのことを宇野は探り当てた。青木を犯人に仕立て上げるべく、捜査本部がゼロ課の人間で構成されたこと、さまざまな証拠を捏造、或いは隠匿したこと。罪はないが警察にとって不都合な人間を闇に葬るための手順に従って、彼らは素早く偽の事件調書を作り上げた。結果、ベッドで拾った青木の毛髪は彼女の傷口の血に絡み、ドアノブから採取した指紋は彼女が持っていたバックから発見されることになった。
 勿論これは極秘事項。公安部側にしてみれば、決して他部署の職員に知られてはならないものだ。そこで彼らは宇野に制裁を与えたのだ。

「同じ公安でも、南雲たちの部署とゼロ課は別物だからな」
 以前、宇野は公安部のシステムをハッキングしたことがある。そのときも侵入には気付かれてしまったのだが、薪が南雲課長に嫌味を言われるくらいで済んだ。宇野は今回も同様に考えていたが、それが間違いの元であった。
 俗に、ゼロ課と呼ばれる特殊班は警察庁長官の直属部隊だ。一課から四課まである公安部の指揮決定権は官房長の小野田が握っているが、ゼロ課の指揮権は長官が持っている。ゼロ課職員は、長官の意向に副って動き、その身を任務に奉じる。噂によれば、仕事で大きなミスを犯した者や身内が犯罪を起こした者など、命令に逆らえない立場の者を選んでメンバーに加えているとか。
 決して表舞台に立つことはない。が、警察の威信が守られるために誰かの口が永遠に閉ざされる、そのようなことが起こるときには必ず彼らがそこにいる。
 警察機構の闇部隊のひとつ。それがゼロ課である。

「これだから筋肉バカは困るんですよね。あいつら手加減手ものを、痛てて」
「宇野。この仇は僕が」
「危ないことはしないでください。また岡部さんに叱られますよ」
 宇野に心配を掛けたくなくて、薪は「分かった」と素直に頷く。無論、腹の底では大人しく引き下がる気など毛頭なかった。
 薪の言葉を聞いて安心したのか、宇野は妙にサバサバした口調で、
「あー、くそ。あいつら、おれのパソコンめちゃめちゃに壊しやがって。あいつらのアタマ、10個集めたってセーラーシスターズの一人にも敵わないくせに」
「セーラーシスターズ?」
「パソコンの名前です。ルーナ、マーキュリー、ジュピター、マーズ、ヴィーナス。5台合わせてセーラーシスターズです」
「宇野……僕がぜったいに仇を取ってやるからなっ!」
「や、打ちどころが悪くて退行現象起こしたとかそういうんじゃないですから」
 二次元と三次元の中間地点で生きている宇野に生身の恋を教えた北川舞の功績は大きい、と薪は微笑ましく思ったが、宇野の恋心の大半が薪にそっくりな彼女の顔にあったことを彼は知らない。

「薪さん。北川さんを殺した犯人の画、青木のホテルのパソコンに送っておきました」
「そんなもの、どうやって」
「メモリーに上書きされた映像なんて、復元するのは簡単です」
 デジタル映像なら復元できる。ITの申し子、宇野の手にかかれば朝飯前だ。
「おまえ、いつの間にあの店に行ったんだ?」
「コンピューターさえ使われてれば、おれは世界の何処へでも行けます。ま、今回はサッチョウ(警察庁)でしたけど」
 捜査本部のパソコンで書き換えが行われたのなら、偽造前のデータを読み込んだパソコンがどこかにあるはず。宇野は十八番のハッキングでそのパソコンを探り当て、消去された映像を取り出したのだ。こんな無茶をすると分かっていれば、宇野には事件の情報を入れるなと岡部に口止めしておくのだった。
「カメラにばっちり映ってましたよ。捜査本部の誰かが消したんです」
 監視カメラには何も写っていなかったが、それは捜査本部の捏造であった。メモリーカードを徴収し、データを改竄してから店に返した。後から出向いた薪たちが何も発見できなかったわけだ。

「他人に見られないように、フォルダに鍵を掛けておきました。おれの携帯のストラップが解除キーになってますんで、解除したらデータを捜一に送ってください」
「分かった、すぐに僕が」
 立ち上がりかけて気付いた。宇野の携帯電話は青木が持っている。
「何処に行ったんだか、あのバカ」
「え。青木、ホテルで缶詰めじゃなかったんですか」
「それが勝手に抜け出して、うん? 僕、青木の名前出したか?」
「いいえ。でも薪さんがバカって言ったら青木のことでしょ」
 部下の間で「バカ=青木」の公式が成り立っていることを知って、薪は少しだけ申し訳ない気持ちになったが、即座にその殊勝さを打ち消した。だって本当にバカなんだもん、あいつ。

「携帯の電源さえ入っていればGPSで探せる。岡部に連絡して探すように頼んでおいた」
「おれを助けてくれたの、青木だったんだ。直前まで青木とチャットしてたから、青木が薪さんに連絡してくれたんだとばかり」
「そうか、チャット……」
 薪は無意識に立ち上がった。
「じゃあ、僕は帰るから。大人しく寝てろよ」
「動きたくても、これじゃ動けませんよ」
 苦笑する宇野に微笑みを返し、薪は病室を出て行った。



 薪が病院を去って、20分後。東京都警察病院のナースステーションではちょっとした騒ぎが起こった。入院患者の一人がパソコンを使わせて欲しいと頼んできたのだ。
「何を無茶なことを。あなた、今夜入院したばかりでしょう」
 この患者は救急搬送されてきた。骨折は肋骨が4箇所、打ち身と捻挫が2桁。明らかに暴行による怪我で、だから常に警官が巡回しているこの病院に来たのだろう。勤続7年になる看護師の眼から見ても重傷で、特に今夜は痛み止めが効かないレベルの苦痛であろうと察せられたから、夜中に痛くて眠れないというナースコールを覚悟していた。それが壁を伝って歩いてくるとは。それだけでも驚いたのに、パソコンを貸してくれとは何事か。

「早く病室に戻りましょう。お仕事が気になるのは分かりますけど、まずは身体を治してから」
「そんな暇ありませんよ! これでも遅いくらいなんだ!」
 乱暴に怒鳴られて、彼女は怯んだ。深夜の病院で大声なんてとんでもない、といつもなら我儘な患者には反射的に出てくる叱責が、なぜか喉に張り付いた。彼の気迫に押されたのだ。
「バカはおれだ。なんですぐ気が付かなかったんだろう、あの人の性格分かってたのに……いいからパソコン貸してくださいよ! それと電話も、早く!!」



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青木警視の殺人(17)

青木警視の殺人(17)






 その夜、深夜の眠りを破られたのは青木だけではなかった。中野の一等地に家族と一緒に住んでいる小野田官房長官も、携帯電話のベルで起こされた被害者であった。

「はい……坂崎か。青木くんに何かあった?」
 隣で眠っている妻を起こさないように寝室を出る。蒸し暑い廊下を歩く小野田の耳に、ボディガードの不思議そうな声が聞こえた。
『私をお呼びになったのは官房長では』
「ぼくが?」
『30分ほど前に電話をいただきました。急な用事ができたから、すぐに家に来てくれと』
 30分前なら、小野田は娘と薪の結婚式に出席していた。夢の中で。
 チャペルの陰で青木がびーびー泣いてた。それに気付いた薪が、彼のところへ行こうとした。引き止めたが、「ごめんなさい、小野田さん」と申し訳なさそうな顔で一本背負いを掛けられた。まったく、夢の中でも邪魔な男だ。

『確かに官房長のお声でした。夜中に申し訳ないと私を気遣ってくださるお言葉も、間違いなく官房長の』
「坂崎。急いでホテルに戻って。青木くんが部屋にいるかどうか確認して」
『は?』
「大至急だ!」
『は、はい!』
 書斎に入った小野田は、クローゼットから部屋着を取り出した。坂崎の連絡を待つ間に着替えを済ませる。小野田の予想が当たっていれば、今夜はもう眠っている暇はない。

 40分が経過した頃、坂崎から連絡が入った。果たして、青木は部屋にいなかった。
「やってくれるね」
 具体的な方法は分からないが、青木は偽電話で坂崎をホテルから遠ざけ、その隙に逃げた。本物の逃亡者になったわけだ。

 付近を探すようにと坂崎に命じて、小野田は電話を切った。少し考えて、切ったばかりの携帯電話を操作する。画面に表示されている時刻は夜中の3時半。しかしその手は迷いなく電話帳の中からある人物を選び、相手を呼び出した。
 相手は2コールで電話に出た。この男は昔から、小野田よりも眠りが浅い。
『なにか事件でも?』
「青木くんが逃げた。坂崎を偽電話で騙して」
『ひゅう。やるね』
 まったく同じ感想を抱いた小野田だが、中園に言われるととてつもなく腹が立った。
「感心してる場合じゃないだろ。一刻も早く保護しないと。青木くんまで殺されたらどうするんだい」
『あれ。馬に蹴られて死んで欲しかったんじゃなかったの』
 揚げ足取りが得意な部下の、呑気な言い草が神経に障る。強制された寝不足の苛立ちも手伝って、小野田は刺々しく言い返した。
「馬に蹴られて死ぬのはいいけど、警察内の人間に殺されるのは駄目だ」
『了解。馬を調達するよ』
 冗談を最後に電話は切れた。ふざけた男だが、彼に任せておけば間違いはない。

 書斎の机に向って、小野田はこれからのことを考える。青木の脱走は想定外だった。まさか彼に、そんな気概と技量があるとは思ってもみなかった。
「たった5日が、どうして待てないかなあ」
 小野田の計画では、金曜日には青木の濡れ衣は晴れるはずだった。もっと言えば、捜査本部自体を強制的に解散させる手筈を整えていたのだ。なのに青木は逃亡した。
 問題は、その期日を知っているのは小野田陣営だけではないということだ。彼らにも、いや、彼らにこそタイムリミットは切られている。その前に手を打たなければいけないと、焦っているのは彼らの方なのだ。そこに青木が出て行けば、飛んで火にいる夏の虫ならぬ殺人警官。抵抗による射殺なんて筋書きは、彼らなら5分で書き上げる。
 こんなことになるのなら、初めから本当のことを話しておけばよかった。この計画を薪が知ったら絶対に首を縦に振らないと思った、だから隠した。それが仇になった。
「あの薪くんでさえ5日間の忍耐を受け入れたって言うのに。どこの誰だよ、青木くんが忠実な飼い犬だなんて言ったのは。立派な野犬じゃないか」
 かくなる上は、金曜日のタイムリミットを早めるしかない。あの人に事情を話し、帰国を早めてもらうのだ。時差を計算に入れると、今は会食の真っ最中だろう。機嫌を損ねるのは拙い。彼の身体が空くまで待った方が賢明だ。
 小野田はそう考え、夜が明けるのをじっと待った。

 机に置いた携帯電話が再び鳴ったのは、気の早い夏の太陽が東の空に昇る頃だった。中園か坂崎からの連絡だと思ったが、どちらでもなかった。それは、小野田をさらに疲弊させる悲報であった。
『こんな時間にすみません、小野田さん』
 電話の相手は薪だった。彼は怒りのあまり震える声で、小野田に訴えた。
『宇野が襲われました。捜査本部の連中にです』
「宇野くんが? どうして」
『ハッキングで彼らの正体を探っていたんです。それが彼らに知れて』
 宇野がそんなことをするとは、これも想定外だった。彼らとて、無暗に人を襲ったりしない。宇野は大分深いところまで侵入してしまったに違いない。
『小野田さん。僕はもう我慢できません』
「ちょっと待って、薪くん。落ち着きなさい」
『小野田さんが動けない事情は分かります、これは僕が勝手にやることです。処分は後で受けます』
「ま……!」
 たった2文字の名前さえ、最後まで呼ばせてもらえなかった。自分の言いたいことだけ言って電話を切る、いつもなら苦笑で許す部下の無礼を今日の小野田は流せなかった。

「ああもう、みんな勝手なことばかりして! 少しはぼくの苦労も」
 一方的に切られて、思わず床に投げつけようとした電話が再度リリリンと鳴る。振り上げた右手の親指を画面に滑らせて、小野田は噛みつくように電話に出た。
「なんだよっ!」
『す、すみません、勝手なことして。でもあの、犯人を捕まえたのでご報告を』
「青木くん? 無事でよかっ、いや待て、なんだって?」
『北川さんを殺害した犯人を捕まえて、捜査一課に引き渡しました』
「どういうこと?」
『宇野さんがオレに犯人を教えてくれて。知ってる人だったからここに』
「ここって、きみ、どこにいるの?」
『第九です』
「えっ?!」
 犯人を捕まえに第九に来た? それでは、実行犯は第九の人間だったのか?

『すみません、小野田さん。詳しい報告は明日、あ、もう今日ですね、させていただきますので今はこれで。オレ、ちょっと調べなきゃいけないことがあるので。失礼します』
「待ちなさい、青、っ、先に切るなよ、もうっ」
 部下は上司の背中を追うというか恋人同士は似てくるというか、まったくあの二人は。

 小野田は、青木を探しているであろう二人の部下に急いで電話を入れた。坂崎は青木の保護のために第九へ向かわせ、中園は薪の暴走を止めさせるために捜査本部へ行くように命じた。青木が犯人を捕まえたことを知れば薪の暴走は止まったかもしれないが、彼は携帯電話の電源を切っていた。
「そんなわけで、坂崎くん。至急、第九へ行って欲しいんだ」
『かしこまりました。お任せください』
「というわけなんだよ、中園。なんとかしてよ」
『分かった。すぐに行くよ』
 状況を正確に把握している彼らは、コロコロと変わる小野田の命令に不平一つ零さず、深夜の職務に全力を尽くす。同じ部下でも、あの二人とはえらい違いだ。

 その問題児たちの方が先に犯人を捕らえてしまう。これは能力差ではなく行動力の差、もっと言えば状況判断の未熟から起きる先走りだ。小野田たちにも、犯人を挙げることはできた。それこそ北川の脳をMRI捜査に掛ければいい。彼女の脳には制約があるが、それは小野田の立場なら外せる縛りだ。
 だが、それでは駄目だ。事件の背後にいる人物に逃げられてしまう。肝心なのは、実行犯を捕まえることではないのだ。
 それがあの二人には分かっていない。特に薪には困ったものだ。仲間を傷つけられて我を失い、暴走する。目先のことに囚われ過ぎだ。事後処理が終わったらきつくお灸を据えてやらねば。

 予定していた電話を掛ける前に、小野田はコーヒーを飲んだ。急転する展開に、気持ちが高ぶっている。少し落ち着いてからでないと無礼を働いてしまいそうだ。
 ギラギラと容赦なく照りつける太陽がアスファルトを焼き、夏の朝の貴重な爽やかさを追い払う頃、小野田はコーヒーカップを置いて携帯電話を取り上げた。10回近くコールしてやっと電話に出た相手に、小野田は丁重に話しかけた。
「お休みのところ恐れ入ります、小野田です。例の作戦ですが、残念ながら頓挫してしまいました。――ええ、はい。それで、至急お戻りいただけないかと」
 簡単に事情を説明し、お願いしますと頭を下げて電話を切る。時刻を確かめると、ちょうど6時だった。

「みんな大概元気だよねえ……ああ、二度寝したい」
 寝不足が堪える年になったとぼやきつつも、二度寝する余裕などあろうはずもなく。小野田は出勤のため、警視庁SPにその朝最後の電話を掛けた。

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青木警視の殺人(16)

 雨で午後から休工になりました。
 更新しますー。


 現場は大変ですけど、面白いことも多いです。
 もちろん仕事は真剣にやってるんですよ。重機が動きますからね。ふざけてて、事故でもあったら大変ですので。
 ただ、男の人ばかりなのでノリがいいと言うか冗談がきついと言うか。女性の代理人は珍しいから、構われるんですかね(^^;

 年末、役所の安全パトロールがあったんですよ。でね、
「2×日は役所のパトロールがあるので、安全管理をしっかりお願いします」と言いましたら、
「その日は休むかー」「みんなして腹痛くなって」「誰も電話に出ないで」
 ひーどーいー!!
 てな調子で毎日遊ばれてます。楽しいけどねっ。





青木警視の殺人(16)





 それから3日間、青木はホテルに閉じ込められた。すぐに容疑は晴れるものと思っていたが、事態は青木の予想よりもずっと深刻であるらしかった。
 青木の耳には、現在の状況が全くと言っていいほど入ってこなかった。雪子に付いていた監視は、当然薪にも付いただろう。薪が小野田を頼ることは捜査本部も察しているだろうから、官房室の人間にも。それで連絡をしてくることができないのかもしれない。

 小野田が寄越した坂崎と言うボディガードは、青木の身辺警護と同時に監視役も担っていた。外出どころかロビーにも出してもらえなかった。身を隠しているのだからと、外部へ連絡することも封じられ、携帯電話も取り上げられた。一日中同じ部屋にいて、青木が席を立てば後ろから着いてきて、窓に近付こうものなら強引に引き戻された。夜は寝室にこそ入ってこなかったが、リビングのソファで仮眠を摂りつつ見張りをしていた。
 どうして薪や小野田がSPを嫌がるのか、青木はやっとわかった。職務に忠実な彼らには悪いが、ウザ過ぎる。
 せめてもの慰みに、青木は寝室にパソコンを持ち込むことにした。幸い、インターネット回線は寝室にも引かれていた。検索しても事件の情報は得られなかったが、朝から晩まで部屋に籠り切りなのだ。何かすることがなかったら過ごせるものではない。

 最初の日、青木は朗報がもたらされることを信じて、じっと待った。2日目は、部屋の中をうろつくことで過ごした。座っていることが苦痛に感じられたのだ。
 3日目には、貧乏ゆすりが止まらなくなった。終始イライラして、食事も喉を通らなくなった。最初食べたときには感動を覚えるくらい美味しかったホテルのルームサービスは、いまやレトルトのカレーよりも味気なかった。
 軟禁は、神経に堪えた。
 自分が動くことは、青木の濡れ衣を晴らすべく奔走している小野田たちの足を引っ張る行為だと、分かっていても辛かった。知り合いの女性が死んだのだ。監査官と監査対象者という関係ではあったが、二人で食事に行ったりもした。色々な話をした。監査の聴取だったのに、なぜか仕事以外の話が多かった。その分、彼女に対して親しみも湧いた。薪に誤解されたくないと身構えてはいたが、彼女と過ごす時間は決して不快なものではなかったのだ。
 その彼女が殺された。なのに、自分は何もできない。警察官として、これ以上の苦痛はなかった。

 悶々とした時間を過ごして3日目の深夜。ポーンポーンと繰り返す電子音に、青木は眠りを破られた。
 軟禁生活のせいで眠りが浅くなっていたこともあって、青木は眼を覚ますと同時にそれがメールの着信音であることに気付いた。暗い部屋の中、画面に点滅する手紙のマークをクリックする。メーラーが起動され、青木宛のメールが表示された。
「宇野さん?」
 それは、第九の先輩である宇野からのものだった。どうして宇野がこのパソコンにメールを送ってくることができたのか、青木には見当もつかなかった。外部との接触を禁止されている青木は、メーラーを起動させるのも初めてだ。アドレスも登録されていないパソコンに、どうやって?

 不思議だったが、その疑問は後回しだ。宇野から事件の情報を聞けるかもしれない。
 手紙の文面は実にシンプル、なんてものじゃなかった。タイトルもなし、前置きもなし。2行目に行き先不明のURLが張り付けてあるだけだった。
「差出人が『マーキュリー宇野』じゃなかったら、絶対に怪しいメールだと思われますよ」
 差出人が誰だって十分に怪しいメールだ。URLをクリックした途端、請求書が届く類だ。宇野からのものだと分からなかったらクリックはしない。ちなみに、マーキュリーは宇野のハンドルネームだ。何度説明されても覚えられないのだが、何とか言うアニメのキャラクターらしい。

 青木はマウスをクリックし、宇野が用意した電脳世界の部屋に入った。反応はすぐに表れた。緑色の文字が画面に表示されたのだ。
『入室者は次の質問に答えよ。室長のホクロはどこにある?』
「宇野さん……」
 セクハラネタに眩暈を感じながらも『右のお尻の下』と打ち込む。第九職員であるか否かを判断するにはナイスな質問だが、薪に知られたら二人とも回し蹴りの刑だ。
『青木か?』
 一旦画面が暗くなり、再び緑色の文字が現れる。「そうです」と打ち込むと、『無事か?』と応えが返ってくる。どうやらチャットルームのようだ。
「無事です」
『今、何処にいる?』
「あるホテルに缶詰めになってます」
 いくら宇野が相手でも、この会話を誰かに傍受されたら困る。用心するに越したことはない。
「どうやってこのパソコンにメールを?」
『UNOボックスにアクセスしたログが残ってた』
 ログから辿ってパソコンを特定したのか。そのパソコンにハッキングしてシステムを乗っ取り、メーラーを動かした。まったく、宇野は職業を間違えた。表向きシステムエンジニア、裏の顔ハッカーとして大企業に就職すれば、年俸ウン千万の生活だったろうに。

「外部との接触を断たれて事件の情報が得られません。状況を教えてください」
『俺も岡部さんから聞いた話なんだけど。捜査本部は完全におまえを犯人扱いしてるらしい。遺留品とか指紋とか、物証が作られてるって』
 一瞬、『作られている』と言う言葉の意味が分からなかった。理解したときには、ゾッと背筋が寒くなった。
 捜査本部内で証拠が捏造されている。このままでは本当に自分が犯人にされてしまう。「オレ、本当に北川さんを殺したりしてません。あの写真も偽物です。レストランで食事してるのはオレですけど、ベッドは違います。オレの偽者が彼女と」
『分かってる。薪さんから聞いたよ』
 第九のメンバーはみんな青木の無実を知っている。そう聞かされて、青木はいくらか落ち着いた。信じてくれる人がいる。それだけで、人はしっかりと立つことができる。

『安心しろ。おれが証拠を掴んだ。これを捜査一課に持ち込めば』
「もしかして、MRIですか」
 第九が青木の無実を証明してくれるなら、真っ先に浮かぶのがMRI捜査だ。青木はそう考えたが、宇野はそれを否定した。
『彼女の脳はMRIには掛けられない』
「何故です? 頭部外傷はなかったはずでしょう」
『無理だ。彼女は』
 会話はそこで途切れ、青木はしばらく待たされた。焦れて、「彼女は、なんですか?」と質問を入れてみたが答えがない。

「深夜アニメの時間だとか言わないでくださいよね」
 宇野ならあり得るが、勘弁してくれと思った。同じ質問を繰り返そうとマウスを握った青木の視界が、不意に真っ赤になった。
「えっ?」
 パソコンの画面が深紅に染まっている。そこに白抜きの文字が目まぐるしい速度で流れていく。マウスは青木が握っている、それなのに、画面は勝手にスクロールされ、エンターキーが押下される。コマンドプロンプトが表示され、文字が魔法のように打ち出されていく。セレクト、クエスチョン、承認、承認、承認。

 始まりと同じように、それは唐突に終わった。画面が真っ暗になり、ひとりでに電源が切れた。再起動させて画面を確認すると、さっきまではなかったフォルダがデスクトップに追加されていた。クリックすると、解除キーの挿入を求められた。特定のキーアイテムがないと、このフォルダは開かないのだ。
 流れ去った文字列は、青木が追い切れる速度ではなかった。が、電源が落ちる直前に画面に現れた映像は、青木の網膜に焼き付いていた。

 長い黒髪を真ん中分けにした女性。それが誰かは分からない、でも何処かで見た覚えがある。

 青木は1分だけ自分の記憶を探ったが、彼女を思い出すことはできなかった。潔く切り替えて、インターネットのブラウザを開く。UNOボックスにアクセスし、青木はその中から一つのアプリケーションを選んでインストールした。

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青木警視の殺人(15)

 ご無沙汰です。

 コメントのお返事と更新、滞っててすみません。
 お義母さんが腰を痛めてしまいまして。現場とお世話のダブルパンチで、忙しい忙しい(^^;

 わたしが現場に出てたから、お義母さん頑張っちゃったんだろうなあ。それで疲れが出ちゃったんですよね、きっと。
 ゆっくり休んで、早く良くなって。5月になったら一緒に温泉行こうね。 






青木警視の殺人(15)





 勢い込んで出て行った薪だが、捜査の結果は思わしくなかった。
「Zen」の裏口には青木の証言通り防犯カメラが仕掛けられていたが、田上の言うように、そこには何も映っていなかった。店にはモニターがなかったため薪が持っていたタブレットを使用したのだが、延々と夜の路地の風景が続いており、犯行時刻の前後2時間に道を通ったのは猫が一匹だけであった。
 2度目の聴取にも関わらず、店主は協力的だった。だが、彼から得られた情報は青木にとって不利なものばかり。犯行があった時刻、不審な物音を聞かなかったかとの質問に対しては首を振り、代わりに厄介な証言をくれた。金曜日の夜、この店で青木と彼女が言い争っていたと言うのだ。

「あれだけの美人ですからね。彼女の方は見間違いようがありません。男の方は、あ、この男ですね。黒髪のオールバックでメガネを掛けてて、背が高かったです」
「それは金曜日ではなく、木曜日のことではないですか」
 青木の話では、木曜の夜この店で食事をしたのが彼女と過ごした最後だったはずだ。店主が曜日を間違えている可能性はある。しかし店主はその質問にも首を振り、
「その時間、ちょうど松瀬七海の曲が流れててね。わたし、彼女のファンなんですよ。で、聞いてたら喧嘩の声が曲に被って、せっかくのハスキーボイスが台無しに。だからよーく憶えてるんですよ」
 店主の証言は裏が取れていた。そのシャンソン歌手の歌声が有線から流れたのは22時05分。雪子が算出した死亡推定時刻は22時から24時の間。この時間、彼女と争っていた男に容疑が掛かるのは自然な成り行きだった。

「もう一度、しっかり写真を見てください。この男に間違いないですか。よく似た別の男ではなかったですか」
「おかしな聞き方をしますね。そりゃこの男に双子の兄弟でもいれば、わたしには見分けがつかないかもしれませんけど」
 怪訝な顔をされて薪は口ごもる。確かに、これは自分の聞き方が悪い。
「すみません。少し焦りました」
「いや、無理もないですよ。殺されたんでしょ、お姉さん」
「は?」
「あなたのお姉さんでしょ。そっくりじゃないですか。もしかして双子ですか?」
「だれがふた、ふごっ」
 大きく開きかけた薪の口を、岡部が慌てて押さえる。ここで薪の一喝が轟いたら、恫喝で証言させたことになりかねない。

「え、ちがう? 他人の空似ってやつですか。へええ」
 どこが似てるんだ、僕はもっと男らしい、てかお姉さんてなんだよ! 僕の方が10も年上だぞ!!
 岡部は手のひらに伝わる振動からそれらのセリフを推察し、もう一方の手で薪の肩を引いて自分の後ろに隠した。この怒りようでは咄嗟に手が、いや、足が出るかもしれない。証言に協力してくれた一般人を蹴ったりしたら間違いなく査問会だ。
「何だか自信が無くなってきました。お店の中は夜は暗いしね。あなたと彼女くらい似ていれば、見分けがつかないかもしれませんねえ」
 似てる似てると繰り返され、ジタバタと暴れる薪を引っ張って岡部は店を出た。裏口を開けるとそこは事件現場で、捜査員たちの姿はなかったが、黄色いテープにKeep Outの赤い文字が幾重にも空中を走っていた。

「あの店主の証言は当てにならないな。彼、眼が悪いんだ。僕と彼女が姉弟だなんて」
「姉妹って言われなかっただけよかったじゃないですか。……すいません」
 ドンッ、と壁に薪の手が衝かれ、岡部は壁と薪の間に封じ込められた。岡部より20センチほど小さい薪の手のひらは岡部の脇の下付近の壁を押さえており、いわゆる世間一般の壁ドンとは構図が異なっているが、その拘束力は大きい。自分の半分くらいしかない身体なのに、振り払える気がしないから不思議だ。

 下からギロッと睨み上げられる、薪の視線に微妙な誤差を感じる。気付いて上を見れば、そこには問題の防犯カメラが取り付けられていた。
「やっぱりおかしい。あの位置にあの角度でカメラがあって、犯行現場が映らないはずがない」
「どこか他の場所で殺されて、此処に運ばれたってことですか」
「それなら死体を運ぶ画があるはずだ」
「てことは」
 ここの防犯システムはカメラのみで、モニターは付いていない。泥棒避けの目的で安価に済ませようとすれば、そう言った仕組みになる。万が一の時にはカメラのメモリーを警察に提出すれば、警察の方で再生して犯人を捕まえてくれる。
 今回の場合、映像データは誰の眼にも触れず捜査本部に渡り、後に店主の元に返された。つまり。
「間違いないですね。やつらが証拠を消したんだ」

 到達した結論に、岡部は背筋を寒くする。
 警察が正義を捨てたなら、一人の人間を葬ることなど実に簡単だ。だからこそ、こんなことは行われてはいけない、絶対にいけない。
 彼らの暴挙を許すわけにはいかない。

「薪さん。北川舞にはスパイの可能性があると言ってましたよね」
 黄色地に赤文字のテープで切り取られた非日常空間を砂を噛むような思いで見つめながら、岡部は言った。
「同期のやつに聞いたんですけどね。公安部には、秘伝の特殊メイクがあるそうですよ。潜入捜査で誰かに化けるときに使うとか。そのメイクを施した男と北川が、この店で言い争いをしていたとは考えられませんか」
「おそらくそんなところだ」
 隣で、岡部と同じ場所を厳しい眼で見ながら、薪が頷く。それから薪は身軽な動作でテープの中に入り、地面に残った血の染みの傍に立った。
 量から判断して、殺害現場はここで間違いない。ならば必ず写っていたはずだ。彼女を殺した男の姿が。

「画が消されていることを証明したら、青木の無実につながりませんか」
「無理だな」
「でも、消したのはやつらです。逆説的に言って、そこに映っていたのが青木じゃなかったから消したってことになりませんか」
 それはこちら側の理屈であって、相手側にはもちろん、第三者にも通用しない言い分だ。証拠で大切なのは理屈ではない。一目瞭然であること、誰が見てもそれが明らかであること。分かりやすさの方がずっと大事なのだ。
「被害者の血に付着した髪の毛という物証が上がってるんだ。それに対抗するには、状況証拠では駄目だ」
「物証って言ったって、捏造でしょうが。そんなもの」
「捏造を証明できなければ事実と同じ――やば」

 さっと身を翻して走り出そうとする、その細い身体を鋭い声が地面に縫い止める。「薪警視長!」と階級で呼ばれて薪は、相手が怒り心頭に発していることを悟った。諦めて振り返り、自分から彼の元に歩いて行く。
 路地裏にはまったく相応しくない黒塗りの公用車で現場に乗り付けた中園は、夏の日差しの下でもピシッと決まったスーツ姿で、部下が自分に近付いてくるのを腕組みして待っていた。立ち止まって敬礼した部下に、厳しく言い放つ。
「本部長の千川次官から、官房長宛にクレームが来たよ」
「言い付けたりしないって言ったくせに。あのキザ眼鏡」
 口の中でぼそりと呟いたのは責任転嫁の証拠。言いつけを破った自分が悪いのではなく、密告った緑川が悪いと薪は思っている。
「動くなって言っただろ。相手が警戒して、僕の仕事がやりにくくなる」
 敵対派閥仕切りの捜査本部を懐柔するのは、中園の裏の力を持ってしても難しい。5人の管理官がすべて次長派で占められているのだ。方針を変えることはもとより、本部会議に意見を通すことすらできない。裏の人間を何人か捜査本部に紛れ込ませるのがやっと、という状況だった。

「お忙しい中園さんが、わざわざ僕を迎えに?」
 もちろん薪の言葉は気遣いではなく、こんなところに来る暇があったら青木の手配を解いてくれと皮肉を言っているのだが、しかし。
「小野田がね。部下を使いに出したらきみは殴り倒してでも逃げるからって」
 さすが官房長。目的のためには手段を選ばない薪の性格を見抜いている。
 薪は面白くなさそうに横を向いた。不貞腐れたように言い返す。
「心外ですね。僕はそんな乱暴な真似は」
「謝罪の言葉が聞こえてこないんだけど! 僕の耳がおかしいのかな?!」
「……すみませんでした」
 心の籠らない謝罪に、中園は大きくため息を吐く。連日の暑さでその頬は、多少やつれて見えた。
「いい加減にしてくれよ、薪くん。きみのせいで僕の白髪がどれだけ増えたか知ってるのかい? だいたいきみはね、自分の立場ってものを」
 懇々と諭されている薪の神妙な顔つき、しかし岡部は見ていた。中園の小言をじっと聞いてはいたが、薪は一度も頷かず、返事もしなかった。
 岡部が見て分かるくらいだ。真正面から見ている中園には、薪の不満はもっとダイレクトに伝わったに違いない。中園は頭痛を押さえるときのように額に手をやり、仕方なさそうに譲歩した。

「金曜日まで待てないかい」
「金曜日?」
「正直言って、捜査本部の暴走を止めるのは不可能だ。だから捜査本部を解体することにした。予定は今週の金曜日。小野田がその手はずを整えている」
 俯く振りで地面の蟻の行列を眺めていた薪が、ハッとして顔を上げる。小野田の名前が出たからだ。
「きみが下手に動くと、小野田の計画が台無しになる。あいつの立場も」
 参事官の中園ではなく官房長の小野田が動くと言うことは、官房室の公式な活動として記録に残ると言うことだ。その過程で問題が起きたら、すべて小野田の責任になる。
 今後、薪が緑川らと諍いを起こしたら。それは官房室が捜査本部に刃向ったことにされてしまうのだ。

「僕はこの事件、次長派の陰謀だと思っている」
 北川舞を殺してその罪を青木に被せ、第九と官房室を一挙に葬る。それが次長派の計画ではないかと予想する中園に、薪は表情を曇らせ、
「そこまでやりますか」
「やるよ。次長はもう後が無いんだ。権力にしがみつくためなら、人なんか簡単に殺す」
 中園の言葉を聞いて、岡部は顔をしかめた。キャリア同士の派閥抗争で殺人なんて舞台裏、ノンキャリアの岡部が知って得する事なんか何もない。
「岡部くん、悪いね。ちょっと待っててくれるかい」
 岡部の複雑な心境を慮ってか、中園は薪を車の後部座席に引っ張り込んだ。後部座席は黒いスモークガラスになっていて、中は見えない。そこでどんな会話が交わされたのか岡部には知る由もなかったが、再び車から出てきた薪の顔つきから察するに、金曜日まで大人しく待つことを約束させられたようだ。

「じゃあね、岡部くん。薪くんを頼んだよ」
 はい、と答えて敬礼する岡部の横で、薪が思いついたように身を屈め、車の窓に手を掛けた。
「中園さん。例のアレ、貸してもらえますか?」
「薪くん。余計なことはしないって今」
「分かってますよ。でも、相手が相手ですから。やりあったばかりだし、向こうから仕掛けて来られた時、丸腰ってのは心細いです」
「あくまでも護身に使うんなら貸してあげるけど」
「助かります。では後ほど」

 そんな会話を最後に、中園の車は狭い路地を走り抜けて行った。アレって何ですか、と聞いていいものかどうか岡部が迷ううち、薪がこちらを振り向いて言った。
「さて、そろそろ昼だな。岡部、蕎麦でも食って帰ろう」
 薪が食事に気を回すということは、薪の中で推理は終わっているということだ。大通りに向かってさっさと歩きだす薪を、岡部は夢中で追いかけた。
「待ってください、薪さん。中園さんの言う通り、この事件は次長派の陰謀なんですか」
「いや、僕はそうは思わない。むしろ、犯人が次長と公安を結びつけたんじゃないかな」
「それはどういう」
「岡部。知らない方がいいことも世の中にはたくさんあるぞ。特に、警察の暗部に関しては知らない方が仕事が楽しくできる」

 言いたくない素振りの薪から無理にでも聞き出すべきかどうか、岡部が再び迷う間に、薪は大通りに出ていた。追い付いた時には――、見知らぬ男にナンパされていた。
 青木と一緒に暮らすようになってから、薪はますますそういったフェロモンを撒き散らすようになって、小池たちの陰口を引用すると人妻の色気ってやつらしいがとにかく、スーツを着ていても頻繁に男に声を掛けられるようになった。本人は道を聞かれているものと信じて疑わないが、他人から見たらあからさまにナンパだからそれ。一番近いコンビニ何処ですかって真向かいにあるからね、信号渡って3歩だからね。
「じゃあ、僕が案内して」
「コンビニならおれが案内します。どうぞ、こちらです」
 岡部が案内役を買って出ると男は急に方向音痴を返上し、ひきつり笑いで去って行った。
「一人で大丈夫かな」と相手を心配する素振りの、妙なところでお人好しの上司に、岡部は夏の必須アイテムを差し出す。
「サングラスは面倒だ」
「紫外線は眼によくないんですよ。煩わしくても、外に出るときは掛けなきゃダメです」
 ナンパ避けに。

 岡部に諭されてしぶしぶ黒メガネを掛け、「これでいいか」と聞いてくる上司の顔を見て岡部は絶句する。
 眼が隠れたら異様に若く見える。鼻と口が小さくてほっぺたが丸いもんだから、まるで十代の性別不詳モデルみたいになっちゃったよ。
 ランチタイムで賑わう大通り、限られた休み時間を有意義に使いたいはずのOLやサラリーマンが、飲食店へ向かう足を止めて薪を見る。そのことに本人はまったく気付かず、蕎麦屋を探してきょろきょろと頭を動かしているのがヘンに愛らしくて、あ、あそこの顔赤くしてるやつ、要注意。あっちのカバン落としたやつはストーカー予備軍。
 ウィークディのスーツ姿でこの調子だ。休日の青木の苦労が忍ばれる。

「すいません、中園さん。もうおれでは面倒見切れません」
 青木が解放される金曜日まで、一日が一時間になればいいのにと、叶うはずのない願いを抱く岡部であった。

テーマ : 二次創作:小説
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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
おかげさまで8歳になりました(^^♪
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