たとえ君が消えても(8)
7万ヒットありがとうございますー!!
みなさまのおかげです。 心からの感謝を捧げます。
キリバンの方、お祝いコメントありがとうございました。
でもアレですよね、言った当日じゃリクとか言われても準備ができないですよね。 もっと前から予告しないとね。(^^;)
ドキマギさせちゃってごめんなさいね。 後ほど、コメント欄でゆっくりお話しましょうね。
今日は実家のおばあちゃんに、敬老の日のプレゼントを。
お彼岸のお供えもしなきゃで、お休みでもけっこう忙しいです。
でもほら、ポストカードの薪さんがわたしを睨むから♪ がんばらないとね。
たとえ君が消えても(8)
「ちょっと待ってください!」
両手が痺れるほどの勢いで、薪は机を叩いた。会議用の長テーブルが大きく揺れ、積み重ねてあったファイルが滑り落ちる。咄嗟に床を見た薪の眼と、広がった頁に記載された写真の男の眼が合った。強そうな短髪に髭面の男。彼が今回の首謀者と思われる。写真の下に、彼の役職と名前だろう、「副長・真鍋哲夫」と書かれてあった。
中園の尽力で、捜査本部は当日の午後には立ち上げられ、30名ほどの捜査員が集められた。これだけの事件に対してその人員数は少なく感じられるが、捜査は神戸市警との合同捜査になるので、総合的な人員は100人程度になる。問題は、この顔ぶれだ。
此処にいるのは、警視庁・警察庁から厳選された精鋭たち。しかしながら、その殆どが公安二課の人間で占められていることに、薪は不安を覚えた。これでは公安の都合の良いように捜査方針が決められてしまう。彼らにとって大事なのは国家の安泰であり、個人の命ではないのだ。
薪は顔を上げ、捜査本部長に任命された公安二課の課長、南雲修一警視正の顔を見据えた。
「その人質救出計画は、あまりにも杜撰ではありませんか」
予期した通り、テログループの逮捕にばかり重点を置いた捜査計画に、薪は意義を申し立てた。捜査方針の偏りは、壇上のホワイトボードを見れば明らかだ。メンバーを一人残らず捕まえる方法ばかりが協議されて、人質救出の題目の横には何も書かれていない。薪が具体的な手段について問えば、「臨機応変に対応する」と政治家の答弁のような答えが返ってくる。とうとう堪りかねて声を荒げた薪に、南雲がうんざりした顔つきで答えた。
「本格的な捜査会議は、神戸西署に本部を設置してから行います。今は市警に乗り込む前に、捜査員たちの考えを一つにまとめるための簡易的なミーティングです。市警で正式な総合捜査本部を発足し、全員で捜査会議を行えば、人質救出についても具体的な策が出ますよ」
「僕はこの場で策を出せと言ってるんじゃありません。人質の安全を第一に行動する、捜査の基本を守ってくださいと言ってるんです」
南雲の眼が不穏な光を宿す。公安部に籍を置いて10年以上になる彼の眼光は一般の刑事よりも遥かに鋭く、その堂々たる体躯は彼を見る者にある種の危惧を抱かせる。南雲の相貌は街中にあっては一般人に遠巻きにされる類のものだが、一クセも二クセもある公安職員を従わせるのには役立っているに違いなかった。
「薪警視長。これは公安のヤマです。我々に任せてください」
「あなた方に任せておいたら、僕の部下は死にます」
「ご理解ください。大儀の前には、少々の犠牲は止むを得んのです」
「止むを得ない? 僕にはあなた方の言い分は、テログループを捕まえるためには人質は死んで当たり前って聞こえますけど」
言葉と表情が厳しくなるのを、抑えることができない。公安が普通の部署とは異質であることは知っていたが、ここまでとは。捜査の目的からして違っている。
普通の誘拐事件の場合、一番の目的は人質の救出だ。交渉も、人質の安全を優先するのがセオリーだ。犯人の要求は一通り呑んでみせて、その中で時間を稼いだり、人質の声を聞かせるよう要求したりする。犯人が逆ギレして人質を殺してしまったりしないように、できるだけ犯人側の要求に応じる姿勢を見せ、人質の解放まで持っていく。
警察が本気を出すのはそれからだ。人質の安全さえ確保できれば、後はもう容赦しない。紙幣に紛れ込ませた発信機も、札のナンバーを控えないという約束を反故にすることも、卑怯だなんて思わない。犯罪者との約束を破るのなんか、ホステスとの同伴の約束を破るより心が痛まない。それが警察だ。
が、今回捜査本部が打ち出した計画は、その基本から大きく外れていた。
「神戸市警と協力し、誘拐犯のガサ(隠れ家)を見つけ次第突入、犯人の射殺を許可するって、そんな乱暴な計画がありますか。突入の前に投降を呼びかけるなり交換条件を提示するなり、人質を救う為にしなければいけないことは沢山あるじゃありませんか」
「これは普通の誘拐事件じゃありません。相手はテロリストですよ」
南雲は冷たく言い放った。執拗なクレーマーを相手にするときのように、マニュアルでも読んでいるかのごとく平坦な口調で、
「3年前の赤羽事件でやつらが何人殺したか、ご存知ですか? 20人ですよ。怪我人に到っては100人以上だ。たった17人で、あいつらは普通の犯罪者とは違うんです。殺す気で行かなければ、アカバの二の舞になります」
「殺す気? 戦争にでも行くつもりですか」
「その通りですよ。こいつは戦争です」
今や、部屋中の人間が薪を睨んでいた。テロと一般の犯罪者は違う、その違いも分からない人間は引っ込んでろ。そう言いたげな視線が薪を取り囲み、薪は彼らの敵意を肌で感じ取った。
孤立無援の状況の中、持ち前の負けん気に火が点いた。周り中が敵、こんな状況は久しぶりだ。緊張感が刺激になり、頭が冴えてくる。論戦に必要な程良い興奮を携えて、薪は南雲に挑みかかった。
「何をバカなことを。テロリストとは言え、相手は人間ですよ。我々警察に、そんな心構えが許されるとでも」
「我々だって穏便に事を運ぼうと、内偵を進めてたんですよ。それをあんたの部下が台無しにしたんじゃないか」
「その件に関しては謝ります。でも、あれは不可抗力です。彼に罪はない」
「ええ、分かってますよ。だからそれについちゃ、こちらも黙ったんだ。痛み分けってことで、あなたも黙ってくださいよ」
「そうはいかない。僕は官房室の人間として此処に居るんです。立場上はあなた方の監督者だ」
「いい加減にしてくれ!」
先刻の薪に勝るとも劣らぬ勢いで、南雲は立ち上がった。コの字型に組んだテーブルの端にいる薪の所まで来ると、薪が両手を付いたままの机上を拳で叩き、
「現場に突っ込むのはあんたじゃない、我々公安と神戸市警だ!」
「人命よりも破壊を優先する捜査活動なんか、僕は認めません!」
「覗き部屋で死体ばかり相手にしてきたあんたに何が分かる!」
第九上がりの警視長の噂は、公安にも届いている。それを理由に彼らに蔑視されていることも、薪は承知していた。
「こうなった以上、相手を殺す覚悟はせにゃならん! あいつらを放っときゃ、また何十人も死ぬんですよ!」
「それは警察の正義じゃない! 人殺しの言い訳だ!」
「なにぃ!?」
言い過ぎたか、と思った時には遅かった。ガタガタっと椅子の動く音が重なり、彼らは一斉に薪に詰め寄る気配を見せた。南雲が止めなかったら、薪はその場で袋叩きにされていたかもしれない。そうなったらそうなったで自分が有利に立てると踏んでの挑発だったが、南雲はさすがに百戦錬磨だ。二課の課長は単細胞では務まらない。
「ちょっと。廊下まで丸聞こえだよ」
「中園さん」
ちょうどそこに現れた首席参事官に、薪と南雲の声が重なった。良すぎるタイミングに、薪は疑いの目を向ける。ドアの向こうで様子を伺っていたに違いない。廊下は冷房の効きが悪いから暑かったのだろう、額にうっすらと汗が浮いている。
「参事官。この人、連れて帰ってくださいよ。人殺し呼ばわりまでされて、一緒に仕事なんかできやしません」
「それはこちらのセリフです」
顔を合わせてから1時間も経っていないのに、もう親の仇みたいになっている。課長の南雲だけではない、部屋中の人間から憎まれている感じだ。小一時間の間にこれだけ大勢の人間に恨まれるなんて、一種の才能だな、と中園は呆れ顔で薪を眺めた。
「薪くん。公安のやり方に従う約束だろう?」
「でも中園さん。彼らは人質を助ける気がないんです。テログループさえ根絶やしにすることができれば、人質は死んでもいいと」
対立するだろうとは思っていた。数々の修羅場を経験してきた彼らと違って、薪はテロ現場に立った経験がない。だからこの局面に於いても、人命優先の法則が成り立つと信じているのだ。
そう諭せば薪は、自分にもテロ現場の悲惨さは分かっている、と反論するだろう。しかし、彼が知っているのはあくまでスクリーンに映った他人の記憶であり、虚像に過ぎない。戦争映画を観るようなものであって、実際に現場に居合わせた人間の受ける衝撃とは比べ物にならない。テロ専門家の公安が薪を素人扱いするのも当然だ。
が、公安の人間もまた、第九の職員たちが抱える秘密の重さを知らない。自分たちと同じように、悲惨極まりない現場の光景を夢に見て飛び起きる、そんな日常を彼らがこなしていることを知らないのだ。互いの仕事に理解が及ばないと歩み寄りは難しい。ましてや青木の命が懸かっている。薪に、冷静になれと言う方が無理だろう。
それでも、これは公安のヤマだ。彼らから指揮権を奪ったりしたら、後々の業務に差し支える。警察庁全体のことを考えなければならない立場の中園には、薪を抑えるしかなかった。
「君の気持ちは分かるけどね、今回は黙って彼らの言う通りに」
「納得できません。こんなやり方を許していたら、警察の正義が」
「正義正義ってあんたな、自分だけが正しいような顔をしなさんなよ!」
第九がやっていることだって正義とは程遠い、覗き部屋の主が笑わせる、などと、二課の捜査員たちが口々に喚き立てる。第九は警察庁の鼻つまみ者だ。嫌われ指数は公安といい勝負、だったら仲良くすればいいのに、同族嫌悪と言うやつか。
「ちょっとみんな静かに。これじゃ会議にならないだろ」
官房室首席参事官の威光をかざして、中園が論争に口を挟む。二課の職員は賢明に口を閉ざしたが、聞き分けのない警視長が一人。
「一緒にしないでください。第九は人の命を職務の犠牲にしたことはありません」
せっかく静まった水面に石を投じるごとき彼の愚言の、その波紋が広がるように、二課の職員たちの間に再びざわめきが起こる。
「そりゃあないだろうよ、最初から死体が相手なんだから」
「職務内容の詳細も知らず、分かったようなことを言わないでください。これまでにもMRI捜査は、何度も貴重な人命を救って」
「それを言うならおれ達は、もっと多くの人命を救ってるさ! あいつら、放っておけばいくらでも殺すんだからな!」
「全員、黙りなさいッ!」
壇上のホワイトボードを震わすほどの大声で、中園が叫んだ。クールが売りの彼が怒声で他人を威嚇するなど、薪も南雲も見るのは初めてだ。思わず互いに顔を見合わせ、珍しいものを見ました、と眼で語り合う。
「薪くん、ちょっとおいで」
「ちょ、中園さん。猫の子じゃないんですから」
後ろ襟を掴まれて、薪は部屋から引きずり出された。夏の強い日差しが乱反射する廊下には何故か岡部が待機していて、自然照明の明るさ以上に薪を驚かせた。
「どうしておまえが此処に」
薪の問いに岡部は答えず、困惑したように額を掻いた。代わりに口を開いたのは中園で、しかしそれも薪の疑問への答えではなかった。
「薪くん。頼むから、これ以上僕の白髪を増やさないでくれ。捜査は公安に任せて、君は大人しく犯人からの連絡を待つこと。いいね?」
「そんな悠長なことはしていられません! 捜査本部に僕の居場所がないなら、僕は僕で勝手にやらせてもらいま、っ、岡部、何をする! 放せ!」
腹心の部下に突然羽交い絞めにされて、薪は慌てた。岡部の大きな手が薪の細い手首をがっちりと掴み、拘束する。薪がいくら力を込めてもびくともしなかった。
「じゃあね、岡部くん。頼んだよ」
「任せてください。先程お話した通り、薪さんには第4モニター室で大人しくしててもらいます。モニター室の窓は嵌め殺しになってますから、窓から逃げることもできませんよ」
「中園さん、待ってください! 神戸西区警察署から提出された赤羽事件の調書を読みましたけど、あの事件には不自然な点が」
「やめてくれよ。終わった事件は掘り返さないのが警察の鉄則だろ。岡部くん、早く連れてって」
「こら岡部、おまえ人を荷物みたいにっ、放せこの!」
腹心の部下に担ぎ上げられ、口汚く罵りながら去って行く薪を見送って、中園は大きく息を吐きながら右肩を回した。ボキボキと関節の擦れる音が聞こえる。あの子の相手は本当に疲れる。
「後は宜しくね、南雲君」
ドアを開けて声を掛けると、廊下でのやり取りが聞こえていたに違いない、南雲は複雑な顔で中園の言葉に頷いた。あんな部下を持って可哀想に、と同情されたのかもしれない。
ったく小野田のやつ。こんな役回りばかり人に押し付けやがって。
中園は、誰もいない廊下で苛立たしげに舌打ちすると、身勝手な上司に事の顛末を報告するため、エレベーターに乗り込んだ。
みなさまのおかげです。 心からの感謝を捧げます。
キリバンの方、お祝いコメントありがとうございました。
でもアレですよね、言った当日じゃリクとか言われても準備ができないですよね。 もっと前から予告しないとね。(^^;)
ドキマギさせちゃってごめんなさいね。 後ほど、コメント欄でゆっくりお話しましょうね。
今日は実家のおばあちゃんに、敬老の日のプレゼントを。
お彼岸のお供えもしなきゃで、お休みでもけっこう忙しいです。
でもほら、ポストカードの薪さんがわたしを睨むから♪ がんばらないとね。
たとえ君が消えても(8)
「ちょっと待ってください!」
両手が痺れるほどの勢いで、薪は机を叩いた。会議用の長テーブルが大きく揺れ、積み重ねてあったファイルが滑り落ちる。咄嗟に床を見た薪の眼と、広がった頁に記載された写真の男の眼が合った。強そうな短髪に髭面の男。彼が今回の首謀者と思われる。写真の下に、彼の役職と名前だろう、「副長・真鍋哲夫」と書かれてあった。
中園の尽力で、捜査本部は当日の午後には立ち上げられ、30名ほどの捜査員が集められた。これだけの事件に対してその人員数は少なく感じられるが、捜査は神戸市警との合同捜査になるので、総合的な人員は100人程度になる。問題は、この顔ぶれだ。
此処にいるのは、警視庁・警察庁から厳選された精鋭たち。しかしながら、その殆どが公安二課の人間で占められていることに、薪は不安を覚えた。これでは公安の都合の良いように捜査方針が決められてしまう。彼らにとって大事なのは国家の安泰であり、個人の命ではないのだ。
薪は顔を上げ、捜査本部長に任命された公安二課の課長、南雲修一警視正の顔を見据えた。
「その人質救出計画は、あまりにも杜撰ではありませんか」
予期した通り、テログループの逮捕にばかり重点を置いた捜査計画に、薪は意義を申し立てた。捜査方針の偏りは、壇上のホワイトボードを見れば明らかだ。メンバーを一人残らず捕まえる方法ばかりが協議されて、人質救出の題目の横には何も書かれていない。薪が具体的な手段について問えば、「臨機応変に対応する」と政治家の答弁のような答えが返ってくる。とうとう堪りかねて声を荒げた薪に、南雲がうんざりした顔つきで答えた。
「本格的な捜査会議は、神戸西署に本部を設置してから行います。今は市警に乗り込む前に、捜査員たちの考えを一つにまとめるための簡易的なミーティングです。市警で正式な総合捜査本部を発足し、全員で捜査会議を行えば、人質救出についても具体的な策が出ますよ」
「僕はこの場で策を出せと言ってるんじゃありません。人質の安全を第一に行動する、捜査の基本を守ってくださいと言ってるんです」
南雲の眼が不穏な光を宿す。公安部に籍を置いて10年以上になる彼の眼光は一般の刑事よりも遥かに鋭く、その堂々たる体躯は彼を見る者にある種の危惧を抱かせる。南雲の相貌は街中にあっては一般人に遠巻きにされる類のものだが、一クセも二クセもある公安職員を従わせるのには役立っているに違いなかった。
「薪警視長。これは公安のヤマです。我々に任せてください」
「あなた方に任せておいたら、僕の部下は死にます」
「ご理解ください。大儀の前には、少々の犠牲は止むを得んのです」
「止むを得ない? 僕にはあなた方の言い分は、テログループを捕まえるためには人質は死んで当たり前って聞こえますけど」
言葉と表情が厳しくなるのを、抑えることができない。公安が普通の部署とは異質であることは知っていたが、ここまでとは。捜査の目的からして違っている。
普通の誘拐事件の場合、一番の目的は人質の救出だ。交渉も、人質の安全を優先するのがセオリーだ。犯人の要求は一通り呑んでみせて、その中で時間を稼いだり、人質の声を聞かせるよう要求したりする。犯人が逆ギレして人質を殺してしまったりしないように、できるだけ犯人側の要求に応じる姿勢を見せ、人質の解放まで持っていく。
警察が本気を出すのはそれからだ。人質の安全さえ確保できれば、後はもう容赦しない。紙幣に紛れ込ませた発信機も、札のナンバーを控えないという約束を反故にすることも、卑怯だなんて思わない。犯罪者との約束を破るのなんか、ホステスとの同伴の約束を破るより心が痛まない。それが警察だ。
が、今回捜査本部が打ち出した計画は、その基本から大きく外れていた。
「神戸市警と協力し、誘拐犯のガサ(隠れ家)を見つけ次第突入、犯人の射殺を許可するって、そんな乱暴な計画がありますか。突入の前に投降を呼びかけるなり交換条件を提示するなり、人質を救う為にしなければいけないことは沢山あるじゃありませんか」
「これは普通の誘拐事件じゃありません。相手はテロリストですよ」
南雲は冷たく言い放った。執拗なクレーマーを相手にするときのように、マニュアルでも読んでいるかのごとく平坦な口調で、
「3年前の赤羽事件でやつらが何人殺したか、ご存知ですか? 20人ですよ。怪我人に到っては100人以上だ。たった17人で、あいつらは普通の犯罪者とは違うんです。殺す気で行かなければ、アカバの二の舞になります」
「殺す気? 戦争にでも行くつもりですか」
「その通りですよ。こいつは戦争です」
今や、部屋中の人間が薪を睨んでいた。テロと一般の犯罪者は違う、その違いも分からない人間は引っ込んでろ。そう言いたげな視線が薪を取り囲み、薪は彼らの敵意を肌で感じ取った。
孤立無援の状況の中、持ち前の負けん気に火が点いた。周り中が敵、こんな状況は久しぶりだ。緊張感が刺激になり、頭が冴えてくる。論戦に必要な程良い興奮を携えて、薪は南雲に挑みかかった。
「何をバカなことを。テロリストとは言え、相手は人間ですよ。我々警察に、そんな心構えが許されるとでも」
「我々だって穏便に事を運ぼうと、内偵を進めてたんですよ。それをあんたの部下が台無しにしたんじゃないか」
「その件に関しては謝ります。でも、あれは不可抗力です。彼に罪はない」
「ええ、分かってますよ。だからそれについちゃ、こちらも黙ったんだ。痛み分けってことで、あなたも黙ってくださいよ」
「そうはいかない。僕は官房室の人間として此処に居るんです。立場上はあなた方の監督者だ」
「いい加減にしてくれ!」
先刻の薪に勝るとも劣らぬ勢いで、南雲は立ち上がった。コの字型に組んだテーブルの端にいる薪の所まで来ると、薪が両手を付いたままの机上を拳で叩き、
「現場に突っ込むのはあんたじゃない、我々公安と神戸市警だ!」
「人命よりも破壊を優先する捜査活動なんか、僕は認めません!」
「覗き部屋で死体ばかり相手にしてきたあんたに何が分かる!」
第九上がりの警視長の噂は、公安にも届いている。それを理由に彼らに蔑視されていることも、薪は承知していた。
「こうなった以上、相手を殺す覚悟はせにゃならん! あいつらを放っときゃ、また何十人も死ぬんですよ!」
「それは警察の正義じゃない! 人殺しの言い訳だ!」
「なにぃ!?」
言い過ぎたか、と思った時には遅かった。ガタガタっと椅子の動く音が重なり、彼らは一斉に薪に詰め寄る気配を見せた。南雲が止めなかったら、薪はその場で袋叩きにされていたかもしれない。そうなったらそうなったで自分が有利に立てると踏んでの挑発だったが、南雲はさすがに百戦錬磨だ。二課の課長は単細胞では務まらない。
「ちょっと。廊下まで丸聞こえだよ」
「中園さん」
ちょうどそこに現れた首席参事官に、薪と南雲の声が重なった。良すぎるタイミングに、薪は疑いの目を向ける。ドアの向こうで様子を伺っていたに違いない。廊下は冷房の効きが悪いから暑かったのだろう、額にうっすらと汗が浮いている。
「参事官。この人、連れて帰ってくださいよ。人殺し呼ばわりまでされて、一緒に仕事なんかできやしません」
「それはこちらのセリフです」
顔を合わせてから1時間も経っていないのに、もう親の仇みたいになっている。課長の南雲だけではない、部屋中の人間から憎まれている感じだ。小一時間の間にこれだけ大勢の人間に恨まれるなんて、一種の才能だな、と中園は呆れ顔で薪を眺めた。
「薪くん。公安のやり方に従う約束だろう?」
「でも中園さん。彼らは人質を助ける気がないんです。テログループさえ根絶やしにすることができれば、人質は死んでもいいと」
対立するだろうとは思っていた。数々の修羅場を経験してきた彼らと違って、薪はテロ現場に立った経験がない。だからこの局面に於いても、人命優先の法則が成り立つと信じているのだ。
そう諭せば薪は、自分にもテロ現場の悲惨さは分かっている、と反論するだろう。しかし、彼が知っているのはあくまでスクリーンに映った他人の記憶であり、虚像に過ぎない。戦争映画を観るようなものであって、実際に現場に居合わせた人間の受ける衝撃とは比べ物にならない。テロ専門家の公安が薪を素人扱いするのも当然だ。
が、公安の人間もまた、第九の職員たちが抱える秘密の重さを知らない。自分たちと同じように、悲惨極まりない現場の光景を夢に見て飛び起きる、そんな日常を彼らがこなしていることを知らないのだ。互いの仕事に理解が及ばないと歩み寄りは難しい。ましてや青木の命が懸かっている。薪に、冷静になれと言う方が無理だろう。
それでも、これは公安のヤマだ。彼らから指揮権を奪ったりしたら、後々の業務に差し支える。警察庁全体のことを考えなければならない立場の中園には、薪を抑えるしかなかった。
「君の気持ちは分かるけどね、今回は黙って彼らの言う通りに」
「納得できません。こんなやり方を許していたら、警察の正義が」
「正義正義ってあんたな、自分だけが正しいような顔をしなさんなよ!」
第九がやっていることだって正義とは程遠い、覗き部屋の主が笑わせる、などと、二課の捜査員たちが口々に喚き立てる。第九は警察庁の鼻つまみ者だ。嫌われ指数は公安といい勝負、だったら仲良くすればいいのに、同族嫌悪と言うやつか。
「ちょっとみんな静かに。これじゃ会議にならないだろ」
官房室首席参事官の威光をかざして、中園が論争に口を挟む。二課の職員は賢明に口を閉ざしたが、聞き分けのない警視長が一人。
「一緒にしないでください。第九は人の命を職務の犠牲にしたことはありません」
せっかく静まった水面に石を投じるごとき彼の愚言の、その波紋が広がるように、二課の職員たちの間に再びざわめきが起こる。
「そりゃあないだろうよ、最初から死体が相手なんだから」
「職務内容の詳細も知らず、分かったようなことを言わないでください。これまでにもMRI捜査は、何度も貴重な人命を救って」
「それを言うならおれ達は、もっと多くの人命を救ってるさ! あいつら、放っておけばいくらでも殺すんだからな!」
「全員、黙りなさいッ!」
壇上のホワイトボードを震わすほどの大声で、中園が叫んだ。クールが売りの彼が怒声で他人を威嚇するなど、薪も南雲も見るのは初めてだ。思わず互いに顔を見合わせ、珍しいものを見ました、と眼で語り合う。
「薪くん、ちょっとおいで」
「ちょ、中園さん。猫の子じゃないんですから」
後ろ襟を掴まれて、薪は部屋から引きずり出された。夏の強い日差しが乱反射する廊下には何故か岡部が待機していて、自然照明の明るさ以上に薪を驚かせた。
「どうしておまえが此処に」
薪の問いに岡部は答えず、困惑したように額を掻いた。代わりに口を開いたのは中園で、しかしそれも薪の疑問への答えではなかった。
「薪くん。頼むから、これ以上僕の白髪を増やさないでくれ。捜査は公安に任せて、君は大人しく犯人からの連絡を待つこと。いいね?」
「そんな悠長なことはしていられません! 捜査本部に僕の居場所がないなら、僕は僕で勝手にやらせてもらいま、っ、岡部、何をする! 放せ!」
腹心の部下に突然羽交い絞めにされて、薪は慌てた。岡部の大きな手が薪の細い手首をがっちりと掴み、拘束する。薪がいくら力を込めてもびくともしなかった。
「じゃあね、岡部くん。頼んだよ」
「任せてください。先程お話した通り、薪さんには第4モニター室で大人しくしててもらいます。モニター室の窓は嵌め殺しになってますから、窓から逃げることもできませんよ」
「中園さん、待ってください! 神戸西区警察署から提出された赤羽事件の調書を読みましたけど、あの事件には不自然な点が」
「やめてくれよ。終わった事件は掘り返さないのが警察の鉄則だろ。岡部くん、早く連れてって」
「こら岡部、おまえ人を荷物みたいにっ、放せこの!」
腹心の部下に担ぎ上げられ、口汚く罵りながら去って行く薪を見送って、中園は大きく息を吐きながら右肩を回した。ボキボキと関節の擦れる音が聞こえる。あの子の相手は本当に疲れる。
「後は宜しくね、南雲君」
ドアを開けて声を掛けると、廊下でのやり取りが聞こえていたに違いない、南雲は複雑な顔で中園の言葉に頷いた。あんな部下を持って可哀想に、と同情されたのかもしれない。
ったく小野田のやつ。こんな役回りばかり人に押し付けやがって。
中園は、誰もいない廊下で苛立たしげに舌打ちすると、身勝手な上司に事の顛末を報告するため、エレベーターに乗り込んだ。