たとえ君が消えても(21)
こんにちは。
この回は、にに子さんに殴られそうです。 ごめんねっ。
たとえ君が消えても(21)
南雲に連絡を入れてから1時間後、薪は目当ての自動車学校の敷地内にいた。
10年ほど前廃校になった教習所の敷地は広く、騒音対策の為か、壊れかけた門を除く正面と側面は深い林に囲まれていた。練習場だったはずのコースは雑草が伸び放題で、地面は見えない。校舎と倉庫はかなり離れていて、ここが教習所だったことを知らない人間には両者を結びつけることは難しかろうと思えた。
薪は、そっと倉庫に近付いていく。伸びた草が薪の身体を隠してくれる。斥候にはもってこいの環境だ。
10m付近まで接近して中の様子が見える場所を探したが、窓はひどく汚れており、見通すことはできなかった。この暑さだ、どこかしら開いている窓があるに違いないと踏んで、周辺をぐるりと回ってみた。が、どの窓も閉まっている。しかし、人の気配はある。目を凝らせばぼんやりとだが、窓に人影が映る。間違いない、青木はここにいる。
薪は倉庫の裏手に回り、するとそこには青木が薪にくれたヒントがあった。第九の近くにもある珈琲豆専門店。店のデザインが同じだから直ぐに分かる。
第九のバリスタご自慢の「室長専用ブレンド」は、実に15種類もの豆をブレンドして作られている。そのことを青木から聞いていた薪は、青木との一見呑気な会話の裏に隠された彼のメッセージを正確に受け取った。
官房室に異動が決まって青木にコーヒーの手ほどきを受けた際に教えてもらった、豆の味は農園や焙煎機によって変わってくるから店ごとに味が違う。店が違えば同じ味は出ない。実際は水によっても違いが出るから神戸と東京では同じ味にはならないのだが、その上で青木が「同じ味になった」と言えば、それはコーヒー豆を購入した店舗が同じであることを暗示している。
青木は以前、ブレンドの内訳について薪に話したことがあり、薪がそれを覚えていると思ったのかもしれない。残念ながら薪は興味のないことはきれいに忘れる性質で、まったく憶えていなかった。しかし青木がブレンドの配合をノートに記していることを、とある事情から薪は知っていた。忘れたかった記憶を呼び出してみると、それは暗号のような記号で書かれており、コーヒー豆の知識がない人間が読んでも分からないと思われた。それで岡部に確認させた上、第九近くの珈琲問屋まで走らせて店員に豆の種類を確認してもらい、本社にそれを送って神戸市にある支店の売り上げ記録を調べさせたのだ。
時刻が遅かったため確認できたのは今朝になってしまったが、成果はあった。昨日の昼間、午後3時ごろ、ここ伊川谷町支店で15種類の豆を一度に買った客がいた。青木が買いに行かせたくらいだ、隠れ家から見える位置に店舗はあったはずだ。そう考えて地図を調べてみると、通りを挟んで廃校になった自動車教習所があった、と言うわけだ。
中の様子が分からない以上、迂闊に近付くのは危険と判断し、薪は応援が到着するまでその場で待つことにした。闇雲な進撃は彼らの命を危うくする。捜一時代にやらかした勇み足の数々とその苦い報酬を、薪は忘れていない。
薪の方針が覆されたのは、そこに一発の銃声が響いたからだ。
重い破裂音のようなその音は、薪の耳の底に残る記憶を瞬時に甦らせた。自分でも呆れるくらい鮮明に浮かぶ、胸を真っ赤に染めて倒れている男の姿。8年も前のことなのに、流れた血液が床に描いた模様まで思い出せる。
自分が殺した親友の顔は、即座に現在の恋人の顔になる。鈴木と同じように、まるで眠っているかのように安らかな死に顔。
足が竦む。しばらく見なかった白昼夢、でもこの夏の暑さと銃声にタッグを組まれたらひとたまりもない。すうっと視界が暗く狭まっていく感覚に、薪は奥歯を噛み締めて対抗した。
竹内から借り受けた銃をホルスターから取り出し、右手に持つ。その質感が、薪の心を鉛のように重くした。意識すまいと思っても、その感覚は自然に湧き上がってくる。心臓の辺りがギリッと痛む。その痛みは瞬く間に全身に広がり、薪の手足を見えない針で空中に縫いとめる。薪は奥歯を噛む力を倍にして、自分を叱咤した。
僕の身体、しっかり動け。貧血は後だ、しゃんと立て。
僕の心、強くあれ。罪深さを嘆く高徳者の誠実は要らない、私利私欲に塗れた強欲な咎人でいい、そのせいで何を失うことになろうとも。今は、青木を助けることだけを考えろ。
自分が踏ん張らなければ、青木は死ぬ。その思いだけが彼の足を支え、前へと進ませた。
侵入は容易かった。浮浪者の出入りでもあったのか、シャッターの一部が曲げられており、その隙間から簡単に入ることができた。現場が倉庫であることも幸いした。内部にはドラム缶や壊れた工具、クレーンなどの大型機械がそのままになっており、隠れ場所には困らなかった。
物陰に隠れながら銃声のした方向へ足を進めると、薪の背の高さの2倍近くに積まれたドラム缶の陰に、大きな革靴を履いた足が見えた。咄嗟に青木だと思った。日本人で29センチの足の持ち主はそうそう居ない。
そっと覗き込む薪の瞳に、恐ろしい光景が飛び込んできた。
青木はうつ伏せに倒れていた。後頭部から流れた大量の血が、彼の横顔を幾筋にも伝い落ち、埃まみれのコンクリートの床に血溜まりを作っていた。
「青木っ」
警戒も忘れて、思わず飛び出した。何も考えられなかった。
人間の生死を確認するためには顎の下で脈を取る。重傷者の場合、手首の脈は弱くなっていて、振れないことがあるからだ。薪の知識は取るべき行動を教えていてくれたのに、彼にはそれができなかった。
「青木、あおきっ!」
さすがに身体を揺さぶって症状を悪化させるようなことはしなかったが、無意識に頭部に触れてしまった。左手にべったりと着いた血の色を見た瞬間、辺り一面が血の海になったような錯覚を覚える。
本能的に縋るものを求めた薪の腕は青木の頭部を抱き、薪はうつ伏せになった青木を上から抱きしめるような形になって彼と重なった。彼の頭部は血液特有の鉄臭い匂いがして、薪をますます混乱させた。頬を摺り寄せると乾きかけた血が薪の頬を汚し、自然と涙が溢れた。
「青木……ん?」
ふと気付いて後ろを振り返ってみると、誰かの手が薪の尻を撫でていた。誰かと言っても、此処には薪以外の人間は一人しか居ない。
「この非常事態に……!」
薪は右の肘を鋭角に曲げ、青木の広い背中に容赦なく叩き込んだ。
この回は、にに子さんに殴られそうです。 ごめんねっ。
たとえ君が消えても(21)
南雲に連絡を入れてから1時間後、薪は目当ての自動車学校の敷地内にいた。
10年ほど前廃校になった教習所の敷地は広く、騒音対策の為か、壊れかけた門を除く正面と側面は深い林に囲まれていた。練習場だったはずのコースは雑草が伸び放題で、地面は見えない。校舎と倉庫はかなり離れていて、ここが教習所だったことを知らない人間には両者を結びつけることは難しかろうと思えた。
薪は、そっと倉庫に近付いていく。伸びた草が薪の身体を隠してくれる。斥候にはもってこいの環境だ。
10m付近まで接近して中の様子が見える場所を探したが、窓はひどく汚れており、見通すことはできなかった。この暑さだ、どこかしら開いている窓があるに違いないと踏んで、周辺をぐるりと回ってみた。が、どの窓も閉まっている。しかし、人の気配はある。目を凝らせばぼんやりとだが、窓に人影が映る。間違いない、青木はここにいる。
薪は倉庫の裏手に回り、するとそこには青木が薪にくれたヒントがあった。第九の近くにもある珈琲豆専門店。店のデザインが同じだから直ぐに分かる。
第九のバリスタご自慢の「室長専用ブレンド」は、実に15種類もの豆をブレンドして作られている。そのことを青木から聞いていた薪は、青木との一見呑気な会話の裏に隠された彼のメッセージを正確に受け取った。
官房室に異動が決まって青木にコーヒーの手ほどきを受けた際に教えてもらった、豆の味は農園や焙煎機によって変わってくるから店ごとに味が違う。店が違えば同じ味は出ない。実際は水によっても違いが出るから神戸と東京では同じ味にはならないのだが、その上で青木が「同じ味になった」と言えば、それはコーヒー豆を購入した店舗が同じであることを暗示している。
青木は以前、ブレンドの内訳について薪に話したことがあり、薪がそれを覚えていると思ったのかもしれない。残念ながら薪は興味のないことはきれいに忘れる性質で、まったく憶えていなかった。しかし青木がブレンドの配合をノートに記していることを、とある事情から薪は知っていた。忘れたかった記憶を呼び出してみると、それは暗号のような記号で書かれており、コーヒー豆の知識がない人間が読んでも分からないと思われた。それで岡部に確認させた上、第九近くの珈琲問屋まで走らせて店員に豆の種類を確認してもらい、本社にそれを送って神戸市にある支店の売り上げ記録を調べさせたのだ。
時刻が遅かったため確認できたのは今朝になってしまったが、成果はあった。昨日の昼間、午後3時ごろ、ここ伊川谷町支店で15種類の豆を一度に買った客がいた。青木が買いに行かせたくらいだ、隠れ家から見える位置に店舗はあったはずだ。そう考えて地図を調べてみると、通りを挟んで廃校になった自動車教習所があった、と言うわけだ。
中の様子が分からない以上、迂闊に近付くのは危険と判断し、薪は応援が到着するまでその場で待つことにした。闇雲な進撃は彼らの命を危うくする。捜一時代にやらかした勇み足の数々とその苦い報酬を、薪は忘れていない。
薪の方針が覆されたのは、そこに一発の銃声が響いたからだ。
重い破裂音のようなその音は、薪の耳の底に残る記憶を瞬時に甦らせた。自分でも呆れるくらい鮮明に浮かぶ、胸を真っ赤に染めて倒れている男の姿。8年も前のことなのに、流れた血液が床に描いた模様まで思い出せる。
自分が殺した親友の顔は、即座に現在の恋人の顔になる。鈴木と同じように、まるで眠っているかのように安らかな死に顔。
足が竦む。しばらく見なかった白昼夢、でもこの夏の暑さと銃声にタッグを組まれたらひとたまりもない。すうっと視界が暗く狭まっていく感覚に、薪は奥歯を噛み締めて対抗した。
竹内から借り受けた銃をホルスターから取り出し、右手に持つ。その質感が、薪の心を鉛のように重くした。意識すまいと思っても、その感覚は自然に湧き上がってくる。心臓の辺りがギリッと痛む。その痛みは瞬く間に全身に広がり、薪の手足を見えない針で空中に縫いとめる。薪は奥歯を噛む力を倍にして、自分を叱咤した。
僕の身体、しっかり動け。貧血は後だ、しゃんと立て。
僕の心、強くあれ。罪深さを嘆く高徳者の誠実は要らない、私利私欲に塗れた強欲な咎人でいい、そのせいで何を失うことになろうとも。今は、青木を助けることだけを考えろ。
自分が踏ん張らなければ、青木は死ぬ。その思いだけが彼の足を支え、前へと進ませた。
侵入は容易かった。浮浪者の出入りでもあったのか、シャッターの一部が曲げられており、その隙間から簡単に入ることができた。現場が倉庫であることも幸いした。内部にはドラム缶や壊れた工具、クレーンなどの大型機械がそのままになっており、隠れ場所には困らなかった。
物陰に隠れながら銃声のした方向へ足を進めると、薪の背の高さの2倍近くに積まれたドラム缶の陰に、大きな革靴を履いた足が見えた。咄嗟に青木だと思った。日本人で29センチの足の持ち主はそうそう居ない。
そっと覗き込む薪の瞳に、恐ろしい光景が飛び込んできた。
青木はうつ伏せに倒れていた。後頭部から流れた大量の血が、彼の横顔を幾筋にも伝い落ち、埃まみれのコンクリートの床に血溜まりを作っていた。
「青木っ」
警戒も忘れて、思わず飛び出した。何も考えられなかった。
人間の生死を確認するためには顎の下で脈を取る。重傷者の場合、手首の脈は弱くなっていて、振れないことがあるからだ。薪の知識は取るべき行動を教えていてくれたのに、彼にはそれができなかった。
「青木、あおきっ!」
さすがに身体を揺さぶって症状を悪化させるようなことはしなかったが、無意識に頭部に触れてしまった。左手にべったりと着いた血の色を見た瞬間、辺り一面が血の海になったような錯覚を覚える。
本能的に縋るものを求めた薪の腕は青木の頭部を抱き、薪はうつ伏せになった青木を上から抱きしめるような形になって彼と重なった。彼の頭部は血液特有の鉄臭い匂いがして、薪をますます混乱させた。頬を摺り寄せると乾きかけた血が薪の頬を汚し、自然と涙が溢れた。
「青木……ん?」
ふと気付いて後ろを振り返ってみると、誰かの手が薪の尻を撫でていた。誰かと言っても、此処には薪以外の人間は一人しか居ない。
「この非常事態に……!」
薪は右の肘を鋭角に曲げ、青木の広い背中に容赦なく叩き込んだ。