アイシテル 前編(2)

アイシテル 前編(2)







 金属製の階段が薪の足下で鈍い音を立てた。若者らしくない足取りで、それも仕方ない。彼は少々疲れていた。
 誰も待っていない部屋のドアを開け、むせ返るような蒸した空気に顔をしかめる。ただいまも言わずに中に入り、すぐにエアコンのスイッチを入れた。水遊びで疲れた身体をベッドに横たえる。
 夜は彼女と約束があるから、と鈴木に言われて別れたのが6時前。夏の夕刻は明るくて、「まだいいだろ?」という言葉を飲み込むのに苦労した。

 最近の自分は、彼と一緒にいたいという気持ちが大きくなり過ぎている。薪は自分を客観的に判断し、そこに潜む多大な危険性に慄きながらも、じわじわとそれが自分を蝕む感触に身を震わせた。
 拒み難いのは、それが快感だから。彼のことを考えると頭の芯が痺れるよう。こんな快感は初めてだった。

 カーテンに遮られた西日が窓の向こうを朱に染めている。閉め切った部屋の中は薄暗くて湿気臭い。明かりを点けるのを忘れたな、と照明器具を見上げながら、でも動くのが億劫だった。
 ふと思いついて、薪は自分の隣に横たえたデイパックから、今日の記念品を取り出した。
 紙製のケースには2Lサイズの写真が二枚。一枚は鈴木のものだ。プールの係員から薪が預かって、帰り際に渡すつもりだったが、彼女との約束の時間が迫って焦っていた鈴木を引き留めるのが悪くて、この次会ったときに渡せばいいと敢えて口にしなかった。

 写真には、若い男性二人が二人乗りのボートでプールに飛び込む瞬間が写っていた。
 ほんの僅かの時間で済むのだから、渡せばよかった。この写真を見ながらだったら言えたかもしれない。薪がこの日飲み込んだ、二つ目の言葉。「楽しかった」。

 プールサイドでのやり取りを思い出す。男同士でペアボートなんておかしい、と薪が主張すると、鈴木はヤシの木と海岸が描かれたウォータースライダーの看板を指さしてにっこりと笑った。
「ペアチケットの方が安い」
 言われて料金表を確認すると、一人乗りは700円、二人乗りは1000円で確かに得だった。しかしあれは男女のカップルが利用するものだろう、と薪が尚も拒むと、
「みんなそうしてるぜ。ほら、あの子たちとか」と鈴木は、ペアボートを抱えて順番待ちの列に並んでいる人々を振り返った。
「子供じゃないか」
「あっちも」
「女の子同士だろ」
「実に嘆かわしい。当校の法学部に在籍しながら男女平等の理念も解さないなど」
 鈴木は眉間に寄せた縦皺に二本の指を当て、険しい表情で首を振った。共通の授業を受けている葛西教授のモノマネだ。思わず吹き出した薪に鈴木は顔を近付けて、
「ヤロー同士でも普通にするって。みんな小遣い無くてピーピー言ってんだから」
 彼は笑って、本当に太陽みたいに眩しく笑って、だから薪は何も言えなくなる。友だちのセオリーについては鈴木の方が詳しいし、そういうものかと自分を納得させた。
 冷静になって考えてみたら謀られた気もするけれど後の祭り。証拠写真まで撮られて、もう二度とあのプールには行けない。

 写真を眺めていたら、背中に当たっていた彼の胸の感触を思い出した。
 厚い胸だった。弾力があって、温かくて。前に回された腕は長くて太くて、特に二の腕は筋肉質で硬かった。
 スライダーの加速度に驚いた彼に、咄嗟に抱きしめられた。そのときの感触が蘇る。ぞくん、と背筋が震えた。さっきよりもずっと強い快感。荒々しい衝動に追い詰められる感覚。薪は眼を閉じ、唇を噛んだ。

「また……」
 いけない事だと拳を握りしめるが、抑えられないことは経験済みだった。右手がそろそろと下りていく。ジーパンの上から触ると、立ち上がりかけているのが分かった。戒められる痛み。ジーンズの前を寛げて下着の位置を調整すると楽になった。
 このまま放っておけばいい。別のことに気をやって、数学の課題のことでも考えて。だっておかしい、まだ外が明るいのにこんなこと。
 思考とは裏腹に身勝手な薪の手は下着の中に忍び込み、彼に快楽を強制する。握られて腰がわなないた。指先で穂先を弄られる快感に「あ」と声が漏れた。少しでも感じてしまったら止まらなくなる。太腿が震えた時点で負けだった。諦めて、薪はズボンと下着をずり下げた。
 狭い下着の中という制約から逃れた右手は奔放に動き、薪は堪らず喘いだ。何も付けなくても手指が滑るくらい、先端からは若さが溢れだしていた。

「んっ」
 余計なことを口にしないように歯を食いしばる。他人を警戒しているのではない、その言葉を自分が聞きたくないのだ。
 薪の脳裏に浮かんでいるのは帰りの更衣室で着替えていた彼の姿。ロッカーは隣同士で、彼と喋りながら着替えをした。自然に眼に入った鈴木の裸体は、ポジフィルムのように薪の海馬に焼きついた。
 薪本人に断りもなく、頭の中に勝手に浮かんでしまう映像は消すことができない。オートフォーカスのように自動的に焦点が結ばれるのを防げない。だからせめて音声だけは。
 そう強く念じるのに、薪のくちびるは薪の切なる想いを残酷に裏切る。口を開けたのは苦しくなった呼吸を補うためであって、彼の名前を呼ぶためじゃない。

「す……ずきっ……」

 それは薪にとって許しがたい裏切りであった。少なくとも薪は、他人からそれを向けられたときにそう感じた。その自分が。
 あり得ない。同性の友人に欲情するなんて。

 何かの間違いだと思いたかった。20歳前後の男の身体は過敏で、ほんのちょっとの視覚刺激や物理刺激でそういう状態になることもある。耳に挟んだ話に便乗し、自分にもその現象が起きたのだと強く言い聞かせた。
 薪は生まれつき淡白でそちらの方面にはあまり関心が持てず、未だ女性経験もなかった。だからと言って同性の身体にはもっと興味がなかった。はずだった。

 先月、薪にはとてもショックな出来事があって、鈴木の前でボロボロ泣いてしまった。やさしい鈴木は目の前で泣きじゃくる友人を放っておけなかったのだろう。自分の胸に抱いて慰めてくれた。
 友だちの少ない薪は、それまでこんな風に他人と触れ合った経験がなかった。もちろん、肉親でもない人間に取り縋って泣いたのも生まれて初めてだった。その体験がこんな馬鹿げた衝動の遠因になったのだろうと、最初はそれくらいにしか考えなかった。男に抱き締められるなんて気色悪いことだと決め付けていたけれど、現実にはそんなに嫌じゃなかった。鈴木に邪心がなかったこともあるだろうが、大事なのは自分の感じ方で、あのとき薪は純粋に嬉しかった。周りの人間が何と言おうと薪は自分の味方になってやれと、鈴木に自分を肯定してもらえたことが嬉しかったのだ。

 その時点で薪は、実際には性体験の一つもなかった。でも幼い頃から他人に色眼鏡で見られ続け、事あるごとに誘っただの色目を使っただの言われていたら、本当に自分が厭らしい人間みたいに思えてきて。自分の顔も身体も、どんどん嫌いになっていった。

 薪が初めて自分の顔の造作を呪ったのは、中学生のとき。
 クラスメイトが次々と二次性徴期を迎えていく中で、晩熟だった薪は皆の話に交ざれないでいた。もともと孤立気味だったこともあって、その時期、彼らと薪の間には断絶に近い距離感があった。だからあんなことになったのだろうと、大学生になって分かった。普段から彼らと親睦を深めていればあんな役割を振られずに済んだのだ。
「北沢のやつ、昨夜おまえの顔に掛けたんだってよ」
 なにを? と首を傾げた薪に、そのクラスメイトはニヤニヤと笑った。彼は髪を赤く染めて自己主張しており、不良と言うほどではない半端に粋がったお調子者で通っていた。薪とは親しくも不仲でもなかった。
「昨日、北沢とは教室以外では会ってないけど。僕の顔に何を掛けたって?」
 聞き返した薪を、クラスメイトの半分が嘲笑った。半分、つまり男子生徒全員だ。女子は一様に眉を顰めて、要するに分かっていないのは薪一人という状況だった。

 同じクラスで一緒に図書委員をしていた子が、委員会の時にこっそり教えてくれた。宿泊学習の時に撮られたパジャマ姿の薪が一人で写っている写真が焼き増しされ、男子生徒の間で回されているのだと。
「顔に針でも刺されてるのか」
 自分が人気者ではないことを自覚していた薪は、彼にそう尋ねた。そこまで嫌われているとは思っていなかったから、かなりショックだった。でも真実はもっと酷かった。
「違う違う。むしろ逆って言うか、まあ薪にしてみたら針の方がマシかもしれないけど」
 言葉を濁す彼を問い詰めて白状させた。自分の写真は彼らの性の捌け口に使われていた。
「なんで!?」
「だって、薪はうちの学校の女子の誰よりも可愛い顔してるから」
「でも僕は男だよ?」
「だからさ、パジャマの下は女の子なんだよ」
 自分の性別を否定されるのは、存在自体が間違いだと断ぜられる気分だった。実際に被害に遭ったわけではなくとも、自分が慰みものにされた気がした。

 進学し、彼らとの縁が切れてホッとした。が、学校が変わっても薪の待遇にはあまり変化がなかった。それどころか現実に痴漢に遭ったり変質者に付きまとわれたりして、そのたびに薪は自分がますます汚れていくような錯覚を覚えた。
 高校生のときに流された噂は気にしていない風を装っていたけれど、心の中ではひどく傷ついていた。たった一人、憤ってくれた友人にまで裏切られた時には、薪の中には温かいものは何も残っていなかった。
 二度とこんな目に遭わないように、薪は自分の周りを氷の壁で囲むことにした。他人には隙を見せず、下手に微笑んだりやさしい言葉を掛けたりしない。人形のように無表情に、貝のように無口に。友人付き合いは今まで以上に希薄になったが、高校時代の友人のように築いた信頼関係を壊されるよりずっといいと思った。

 鈴木に出会ったのはそんな時期だった。
 何が珍しいのか、興味本位で自分に近付いていくる人間は何人かいた。彼もその一人だと思い、最初は素っ気なくあしらった。大抵の人間はそこで引く。でも鈴木は違った。遠ざかっても不思議ではない出来事がいくつもあったのに、鈴木は薪の隣に立ち続けた。
 薪とて、寂しくないわけではなかった。本音で話せる友人が欲しいと思っていた。過去の経験からそれを抑えていたわけだが、この鈴木と言う男に限ってはその必要はないと思われた。友人に聞いた話では、彼は無類の女好きという話だったからだ。
 入学以来、女が切れた時期が1週間とない。そんな男なら自分を女の代わりに見ることもないだろう。だから薪は安心して鈴木との距離を縮めることができた。

 ……それがこの体たらく。

 朝起きてから寝るまで、彼のことが頭から離れない日もあった。何の前触れもなしに彼に会いたくて堪らなくなる時もあった。
 どうして彼のことがこんなに気になるのか、なんて疑問が浮かぶ余地はなかった。その感情が恋であることは、自分が人間であることと同じくらい明確な事実だった。
 自分の中に生まれた感情を認めたら、当然のように欲求が湧き起こった。彼が欲しいと思った。
 彼の髪に触れてみたい、と最初はその程度の望みだった。それはすぐに叶って、そうしたら瞬く間に次の欲求が生まれた。手を握りたい。肩を抱いてみたい。クリアしたら次、そのまた次と、厄介なことに内容はどんどんエスカレートした。

 とても実行に移せない欲求を抱くに到って、薪は自分に線引きをした。これ以上進んではいけない。だけど、生まれてくる欲求は自分でも抑えられない。仕方なく、薪はそれを自分自身で処理することにした。多くの男性がするのと同じように、夢想の中で好きな人と結ばれたのだ。でもそれは普通の男性のように楽しく興じられる類のものではなかった。激しい自己嫌悪と罪悪感を伴う行為だった。
 何食わぬ顔をして鈴木と笑い合う度、自分が卑怯者になっていくのを感じた。初めて親友と呼べる相手ができたのに、その友情を裏切ってこんな汚らしい欲望を彼に抱いて。
 自分を辱めた連中と同じことを自分も彼にしている。自覚することで、苛烈な自虐衝動が生まれた。いっそ背徳感に酔い知れることができたら、そこに楽しみを見出せたかもしれない。が、生憎、薪はその領域から遠い場所にいる人間だった。自分に対する悪感情以外何一つ、薪はそこから見つけることができなかった。

 その後は、自分なんかこの世から消えてしまえばいいとまで後悔するのが分かっているのに。やっぱり途中では止められなくて、彼の名前を繰り返し呼びながら腐りきった欲望を吐き出した。冷めていく意識の中、こんな薄汚れた自分が今さら何を悲しむのか理解しようのない涙が一粒だけ零れた。

 年代物のエアコンがやっと効き始めた部屋の中、だらしない恰好のままぼんやりと天井を見上げる。ちょっと気を抜いたらすぐに鈴木の顔が浮かんで、泣きたくなった。彼にだけはこんな姿を見られたくない。
 鈴木は今ごろ何をしているのだろうと考えて、たちまち後悔した。恋人に会うと言って別れたのだった。彼女と甘い時を過ごしているに決まってる。
 時計を見たらちょうど7時だった。食事も終わって、軽く飲みにでも行っただろうか。それとも、今自分がしていたようなことを二人でしているのだろうか。

 スライダーに乗った時、加速度に慌てた鈴木は薪を抱きしめるように後ろから被さってきた。そのとき彼の大きな手が薪の左胸に触れて、この異常な動悸が彼に伝わってしまうのではないかと不安になった。それが心配で、薪はスライダーを楽しむどころではなくなった。思い返せば返すほどに自分はバカだと思った。
 あんな些細な触れ合いで、胸が潰れるほど苦しくなって。その相手は今、たぶん他の誰かを抱いてる。そう思ったら目の前が真っ白になるくらい頭に来た。怒る権利なんてないのに。

 彼の声が聞きたかった。それは猛烈な衝動で、叶わなかったら息もできないほどだった。普段の怜悧な思考は完全に停止し、気が付いたら電話のコール音が聞こえていた。
『薪? どうし』
「うちに来て」
『へっ、なんで? オレいま彼女と』
「いいから早く来いよ!!」

 叫ぶと同時に通話を切り、数秒して我に返った。
「どおしよおぉぉ……」
 呻いて枕に突っ伏した。5分でいいから時を遡りたいと願う心の隅っこで、自分の滑稽さに笑いだしたくなる。上半身裸でジーパンと下着は膝まで降りてて、もちろん大事な所も丸出しで、その状態で携帯持ってベッドに平伏して。他人に見られたら悶死する姿だ。
 口から出てしまったものは取り返せない。この次会ったときに謝るしかないと覚悟を決めて、薪は頭から布団をかぶった。いわゆるふて寝だ。

 大した量が出るわけでもないのに、欲望を処理した後は何だか身体が軽くなって、ふわふわした心持ちになる。そのまま横になっていると大抵は眠ってしまう。
 この時間に眠ったら夜中にお腹が空いて眼が覚めるだろうな、と薪は思い、冷蔵庫の中身を頭の中で浚った。昨夜作ったカレーの残りがある。でも夜中に食べたら胃もたれするだろう。勿体ないけど明日は捨てるしかないな、とそんなことを考えながら眠りに落ちた。





テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

Aさまへ

Aさま。

>原作の目隠しプレイ

びっくりしましたよね。
あって当たり前の欲求なんですけど、そういうの、あんまり少女漫画では出さないから。しかも突然だったし。

突然と言えば、
わたし、あの話が出るまでは薪さんは雪子さんを好きなんだと思ってたんですよね。二重の意味でびっくり(@@)


>皮肉にも今迄と逆の立場。

そおなんですよお。
でね、
鈴木さんは鈴木さんで、薪さんには絶対にそういうのはタブーだと思ってるもんだから、彼を安心させようとして必要以上に彼女の話とか振っちゃうんですよ。結果、薪さんの切なさ倍増と言うドSには垂涎物の展開になっております、すみません。(じゅる)
プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
おかげさまで8歳になりました(^^♪
文字サイズをお選びください
最新記事
最新コメント
拍手のお返事
いつもありがとうございます!

最新拍手コメのお返事はこちらです。

過去の拍手レスの確認は、該当記事の拍手欄を押してください。
鍵拍手コメのレスは、記事のコメント欄にお返しします。
月別アーカイブ
カテゴリ
詩 (1)
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
QRコード
QRコード
FC2カウンター
こんにちは(^^
現在の閲覧者数: