アイシテル 前編(3)

アイシテル 前編(3)






 チャイムが鳴ったのは、レム睡眠の真っ最中。薪は低血圧症だ。当然、寝起きは悪い。2回目のチャイムが聞こえたが、居留守を決め込むことにした。
 しかし次の瞬間、彼の瞼は限界まで開くことになる。
『薪くん、早く開けてー。鈴木くんの干物ができちゃうー』
 布団を跳ね除けて起き上がり、玄関に突進しようとして転びそうになった。ズボンと下着が膝のところに引っかかったままだ。慌てて引き上げて前を閉めた。
 消臭スプレーを撒き、念のために窓も開けた。鼻が慣れてしまって自分では分からないが、他人に気付かれたら恥ずかしい。男ならこれが何の匂いかすぐにわかる。

「なんで」
 信じがたい思いでドアを開け、声の主がそこにいることに驚いた。声がしたのだから彼がいるのは当然で、でも薪にはやっぱり信じられなかった。彼女と一緒にいるはずの鈴木が、自分の目の前に立っていること。
「おまえが来いって言うから来たんだろ?!」
 当たり前だが、鈴木は怒った。謝らなきゃ、と思いつつも驚きが薪の正常な思考を奪っていた。エラー信号を発する頭脳は「無理を言って悪かった」という正しい言葉を選ぶことができず、薪はペロッと本音を喋ってしまった。
「言ったけど来るとは思わなかった」
「なんだよ、それ」
「……なんだろう」
 鈴木は呆けたような薪の顔を見て吹き出し、げらげら笑った。

「さては寝ぼけたんだな。アタマ、寝癖ついてる」
 髪を撫でられて、櫛を通していなかったことに気付いた。先刻、ベッドの上で何度も頭を振ったからボサボサになっているに違いない。薪はすっと身を引いた。そんな状態で鈴木に触られるのは嫌だった。
「寝てない。寝ぼけて電話したんじゃない」
「そう? じゃ、何の用事だったの」
「用事は、その」
 せっかく鈴木がうまい言い訳を用意してくれたのだから乗っておけばよかった。いつものことながら後悔先に立たずで、薪は黙って俯いた。
 話しながら部屋に上がった鈴木が、すたすたと奥の部屋に入って行く。彼は何度かこの部屋に泊まったことがあって、だから遠慮する気配もなかった。
 普段は閉めてある寝室の戸が開いていることも、ベッドが寝乱れて枕に亜麻色の髪の毛が付着していることも、つい先刻までここで薪が眠っていたことの証明だった。が、鈴木は何一つ指摘することなく、枕の横に置いたままだった写真を手に取った。
「そっか、薪に預けといたんだっけ」
 自分の写真だけを持って、鈴木は居間に戻ってきた。さりげなく寝室の引き戸を閉める。彼のそういう小さいやさしさに触れるたび、薪は切なさでいっぱいになる。彼への気持ちが膨らむ。走り出しそうになる。薪は必死に言い聞かせた。

 鈴木は誰にでもやさしいんだ。僕にだけじゃない。僕は特別じゃない。

「よく撮れてるよな、これ」
 ローテーブルの前に座り、鈴木は薪に同意を求めた。彼の隣に座って、手元の写真に顔を近付ける。彼の首筋からはフローラルな香水の移り香がして、薪の胸をずきずきと痛ませた。
「薪くん焦っちゃって。かーわいい」
「焦ってるのは鈴木だろ。なっさけない悲鳴あげてたじゃないか」
「薪だって本当はビビッてたくせに。心臓、めちゃめちゃ速く打ってたぞ」
「あれは」
 スライダーが怖かったわけじゃない。だけど理由を説明することはできなくて、薪はぷいとそっぽを向く。それを自分の言い分が通ったものと解釈した鈴木が、偉そうに胸を張るのを見てムカついた。
 相手を論破することはできなくても何か一言は言ってやろうと薪が考えをまとめているうちに、鈴木の腹がぐーっと鳴った。その音に生理的欲求を揺り起こされて、組み立てた理論が霧散する。時計は8時を回っていた。

「鈴木、お腹すいてるの?」
「メシの途中だったんだよ。カレーライス二口しか食ってない」
 食事中だったと聞いて、ますます悪いことをしたと思った。理性が戻ってくれば常識的な判断も心配りもできるようになる。薪は気まずさに眼を逸らしながらも尋ねた。
「彼女のところに戻らなくていいのか?」
「んー、あの娘はもういいや」
「いいやって」
 鈴木から返ってきた答えはあまりにも意外で、薪は思わず鈴木を見直した。ふっと細めた彼の黒い瞳に苦渋や後悔の色はなく、話してくれた経緯もまるで他人事のようだった。
「店を出ようとしたら『アタシと薪くんどっちが大事なの?』って聞かれて『今は薪』って答えたら怒り出したから。オレが別れようって言ったら、彼女もそうねって」
「そんなことで?!」
 薪は鋭く切り込んだ。自分でもびっくりするくらい凶悪な声だった。
「軽いにも程がある。鈴木、女性をなんだと思ってるんだ」

 フェミニストを装ったけれど、それは欺瞞だった。本当は彼女が羨ましくて堪らなかった。
 もともと鈴木は彼女のことを大して好きじゃなかったのだろう。別れるきっかけを探していたのかもしれない。おそらくは彼女も。でなかったらそんなつまらないことで別れ話になんかならないはずだ。
 その程度の付き合いなのに、薪が絶対に越えられない一線を彼女は越えられる。鈴木に直接触れて、彼を受け入れることができる。猛烈に嫉妬した。

「身体の関係もあったんだろ。それをそんなに簡単に、無責任じゃないのか」
 こんなに彼を想っているのに、指一本触れられない自分が憐れだと思った。夢想することにすら罪悪感を覚える、そんな自分の立場が悔しくて滑稽で。鈴木は、その苛立ちをぶつける正当な相手ではない。分かっていても止められなかった。
「僕は一生大事にするって決めた相手としか寝たくないし、寝ない。絶対に」
 暴走する感情を制御することができない。自分の未熟さにも腹が立って、悔し涙まで浮かんできた。これ以上鈴木の顔を見ているともっと乱れてしまいそうで、そうしたら、苦労して飲み込んだ言葉がみんな出てきてしまいそうで。薪は鈴木に背中を向けた。

 気持ちを落ち着けようと深く息を吸い込んだ。何回か繰り返すうちに思考力も戻ってきて、薪は自分が不当な怒りを鈴木にぶつけたことを後悔した。それもあんな卑劣に。彼女が可哀想だなんてちっとも思わなかったくせに。結局最低なのは自分で、薪はつくづく自分が嫌になった。

「修羅場ったに決まってんだろ」
 沈黙した薪の背中で、鈴木が言った。
 振り向くと、鈴木は苦く笑っていた。今まで見たことのない彼の表情は何だかひどく大人びていて、薪の胸は新しい痛みを覚える。疼くように痛むのに、甘い気分になる。これもそうなのだと薪は最近知ったばかり。恋の痛みにはたくさん種類があるのだ。
 じっと見つめる亜麻色の瞳を今度は逸らさずに、薪は鈴木の言葉を待った。彼がこれから話すことが真実だと分かったから。
 鈴木は普段は調子のいいことばかり言って本音を語らない。怒っても声を荒げたりしない。でも薪に大事なことを教えてくれる時には少しだけ厳しい声を出す。薪は鈴木のその声を聞くと、身体の芯がじんわりと温かくなる。

「恋愛ってのは、付き合い始めるときは簡単でも別れるときは修羅場なの。女の子はその場で泣いて、男は心の中で泣くの。どんなカップルでも、涙一つなしに別れられるカップルなんかいないの。オレも彼女もちゃんと泣きました」
「それならどうして」
 最初からそう言わなかったのかと聞こうとして、鈴木が彼女と別れることになった決定的な要因に思い至る。薪が掛けた電話のせいでこうなったのだと、本人を前にして口にできるわけがない。薪に対する気遣いからわざと何でもないことのように振る舞ったのだとようやく分かって、薪は、我が身の憐れさにばかり囚われていた自分を恥じた。
「ごめん」
 薪が謝ると、いいよ、と鈴木は微笑んだ。
「薪は未だ女の子とちゃんと付き合ったことないんだろ。分からなくても仕方ない」
「分からないついでに訊いてもいい?」
 尋ねながら、薪は鈴木に歩み寄った。一歩近づくごとに胸の痛みは増していく、息が苦しくなる。甘さは背筋を駆け降りて、両脚を痺れさせるほど。しっかり立とうと足を踏ん張った。

「そんな思いして別れて、どうしてまた新しい恋ができるの? 嫌にならないのか?」
「嫌になんてならないよ。楽しいもん」
 そうか、と薪は思った。鈴木の恋と自分のそれは違うのだ。
 他人に知られてはいけないものでも罪悪感を伴うものでもない。別れのときには少々嫌な思いをするが、愛し合っている間は幸福感に満たされた楽しい日々が続くのだろう。だから何度でも挑むことができるのだ。
 薪はそう結論付けたが、その考えは鈴木に否定された。
「楽しいからって言い方は正確じゃないな。ぶっちゃけ恋愛って、辛いことと楽しいことの比率は半々くらいだもんな」
「え。そんなもんなのか」
「そう。そんなもん」
 だったら自分とそれほど変わらないと思った。鈴木と一緒にいると、独りの時に味わった辛さを忘れてしまうほど楽しい。ついさっき自分を慰めながら彼を思って泣いた、その痛みの片鱗すら、彼がいれば喜びに変わる。彼さえいてくれたら。

「でも、片思いにしても両思いにしても好きな人ができるとさ、パーッと心に花が咲いたみたいになるだろ」
「花?」
「うん。世界が輝くって言うか人生に張りができるって言うか、色んなこと頑張れるじゃん。だから恋はしてた方が楽しい」
「片思いで、辛いばっかりの恋でも?」
「うん。してた方がいい。ぜったい」
 ニコッと鈴木に笑いかけられたら、つうんと鼻の奥が痛くなった。息を止めてやり過ごす。
 しばらくして薪は言った。
「鈴木のドM」
 涙腺が緩まないように顎を上げたから、見下すような目線になった。すごく嫌な目つきだったと薪は思うのに、鈴木は何故だかとても嬉しそうに笑った。
「センセー。薪くんがボクを誤解してまーす」

 失笑しながら薪は台所に行き、すると鈴木も着いてきた。冷蔵庫に鍋ごと入れておいたカレーと密封容器に保存しておいたサラダを取り出す。福神漬は一人だと無駄になるから買ってないが、キュウリのピクルスがあるからそれで代用することにした。
「昨日のだけど。よかったら」
 鈴木の口に合うかな、と一匙掬って差し出すと、間髪入れずに食いつかれた。冷たいカレー、夏は意外とこれが旨い。
「お? おおお?!」
 鈴木は薪の手からスプーンを奪い、二口三口とカレーを口に運んだ。鍋のまま完食しそうな勢いだ。
「鈴木ストップ。ちゃんと温めるから」
「薪、これ美味い。すっげー美味い」
 ぬいぐるみを抱く子供のように鍋を抱える彼から何とか鍋を取り返し、今夜の夕食を確保する。ご飯は炊くのに時間が掛かるから、冷凍保存してあるものを使うことにした。
「おふくろが作るカレーに負けないくらい美味いよ」
「それはどうも」

 薪は素っ気なく頷いて、でも心の中ではガッツポーズを決めていた。鈴木には内緒だが、塔子さん、つまり鈴木の母親に料理を習っている。表向きは健康のためにバランスの良い食事を作れるようになりたいから。本音は、しょっちゅう遊びに来る友人に美味しいものを食べさせたいから。男が料理なんて恥ずかしいから鈴木には秘密にしてくれと頼んでおいたのだが、彼女の口は堅いようで安心した。
 カレーをコトコト煮立てながら、じゃが芋を潰さないように木べらで混ぜる。加熱することでスパイシーな香りが立ち上って、口中に唾が沸いた。待ちきれなくて、レンジにかけたご飯が温まった時点でカレーを掛けたら微妙に温かったが、どちらからも文句は出なかった。薪も鈴木も健康な19歳。食欲は一番に満たすべき欲求だ。
 食べながら、いつものようにあれやこれやと話をした。昼間行ったプールの話は出たけれど、彼女の話は出なかった。鈴木の口から女性の話が出ないことは珍しく、薪は、それだけで自分がとても穏やかな気持ちになることに気付いた。
 ずっとずっと、鈴木の彼女たちにやきもちを妬いていたのだと知った。本当にバカみたいだ。嫉妬できる立場じゃないのに。

「今夜、泊まってもいい?」
「いいけど、家に連絡しろよ。塔子さんが心配する」
「大丈夫。元々今日は薪の家に泊まるって言ってあるから」
「泊りがけのデートのたびに僕の名前使うのやめろ」
 鈴木が彼女と朝まで過ごすつもりだったと知って薪は、たった今、自分にはその資格がないと理解したはずの権利を行使する。この感情には薪の得意な理屈も方程式も通じない。厄介なことだ。
「こないだも塔子さんにゼミの実験が長引いて家に帰れなかった話をしたら、その日は克洋を泊めてもらったんじゃないの、て訊かれてすごく困った」
「ちゃんとごまかしてくれた?」
「ああ。鈴木は合鍵の場所を知ってるからいつも勝手に入ってるんですって言っといた」
「さすが薪くん。頼れる男性ってステキ」
「まったく。あんないいお母さんに嘘吐くなんて」
「オレも胸が痛むけど。この息子が言うこと聞かなくて」
「……切れば」
「センセー。薪くんの眼が笑ってませーん」
 薪は笑いながら立ち上がり、鈴木にカレーのお代わりをよそった。




テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

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Sさまへ

Sさま。

>薪さんの過去に幸せな瞬間があってよかった。

そうですねえ。
未来を知ることができない人間の限界は、実は良いことなのかもしれませんね。
先のことが分かっていれば選択を誤ることはない、と思いがちですけど。
Sさんが以前おっしゃってらしたように、例え違う道を選んだとしてもまた別の幸不幸があったかもしれない。どっちにしろ、と思ってしまうと、投げやりになってしまいそう。


現実の幸せは、
うーん、どうなんだろう、確かに努力は必要かもしれませんけど、巡りあわせ的なものも大きいような。
どんな綺麗な花でも地面の下でひたすら我慢しなきゃいけない時期があるように、人の一生の中にも忍耐が必要な時期があるのかもしれませんね。

早くSさんの春が訪れますように。
心からお祈りしています。


Aさまへ

Aさま。


>原作の薪さんも澤村さんの為に料理をつくることがあったでしょうからある程度の料理は作れたかもしれませんね。

きっとできたと思いますよ。薪さん、器用そうだし。
絶対に雪子さんよりは上手だと思いません?(笑)


>薪剛という人は何にもかえがたい人だと思うのです。

いないっすね。
あんなひと、何処にもいない。
少なくともわたしには、まだ薪さん以外の人はアウトオブ眼中でございます。←視野狭すぎ。
プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

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