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仮面の告白(8)

仮面の告白(8)







 週末の金曜日には恒例行事となりつつある薪の自宅の飲み会に、第九の新人は姿を現さなかった。
「友達と約束があるとかで」
「そうか」
 もう少し驚いても良さそうなものだ。青木が誘いを断ったとき、岡部は飛び上がるほどびっくりしたのだ。
 青木が薪の料理を食べられるチャンスをふいにするなんて、どこか身体の具合が悪いとしか思えない。たとえ親が危篤でも、薪の料理を食べてから駆けて行きそうな男なのだ。

 薪は穏やかな表情のまま、鍋の中をかき混ぜている。
 大きな寸胴鍋の中には、ビーフシチューがたっぷりと入っている。デミグラスソースのいい匂いが部屋中に広がって、寒い夜には最高のごちそうである。
 しかし、薪も岡部も好みは日本食だ。牛肉ならすき焼きかしゃぶしゃぶだ。
 ビーフシチューは青木の好物だ。薪と一緒にここに帰ってきたときには既に出来上がっていたから、昨日のうちに煮込んで寝かせておいたのだろう。
 時間と手間がかかったビーフシチューは、和食党の岡部を洋食派に鞍替えさせそうなくらい美味だったが、薪はほとんど手をつけなかった。もともと食は細いほうだが、今日は特に少ない。

「青木がいないと、食べきれないですね」
「そうだな。ちょっと作りすぎたかな」
 若い新人がいないと、なにか物足りない。
 ついこの前までは薪とふたりで十分楽しかったのに、今はなんだか子供が結婚していなくなってしまった後の夫婦のような感じだ。火が消えたようで、会話も弾まない。
 いや、もともと岡部とふたりの時には、薪はあまり饒舌ではなかった。静かに食事をして静かに酒を飲んで、穏やかに笑っていた。
 それが青木が混ざると、薪は途端に元気になる。その素直な反応が楽しいのか、嬉々とした顔で青木をイジメはじめる。意地悪は薪のエクスポーションだ。岡部では、そのゲージを満たすことはできない。

 薪は席を立って、風呂の用意をしに行く。食器を流し台につけてしまったところを見ると、もう夕食は終わりのようだ。
「薪さん。マッサージしてあげましょうか?」
「うん」
 うれしそうに笑う。
 しかしその微笑はどこかしら寂しげで、その原因はおそらく。

「じゃあ、風呂に入ってくるから」
「後片付けは任せてください」
 薪が風呂に入っている間に、岡部は青木に電話を掛けた。
 ……出ない。
 先週のことがよほどショックだったと見える。バカなやつだ。薪の計画にまんまと引っかかっている。
 素直というのは、時に始末が悪い。
 特に薪のように複雑な性格の人間とは、相性が悪い。岡部ぐらい薪の言動の裏を読むことができればいいのだが、若い青木にそれを期待するのは酷というものだ。青木はまだ未熟だ。薪の相手はできまい。

「岡部。頼む」
 パジャマ姿の薪が、リビングで手招きしている。床に長方形の座布団を敷き、その上にうつ伏せになる。今日は青木がいないので、寝室のベッドは使わなくてもよさそうだ。
「うわ、凝ってますね。なんか今週、ストレスかかりました?」
「あれだな。間宮にケツ撫でられた」
「間宮って、新しい警務部長ですか?」
「あいつ、ゲイなんだって。気持ち悪い」
「気をつけてくださいよ」
「大丈夫だ。僕のほうが強い」
 しかし、身体は間宮のほうがずっと大きい。押さえ込まれてしまったら負けだ。ひとりで警務部に行かせないようにしなくては。

 薪の身体が、気持ち良さそうにくねりだす。息を詰めているせいで、頬や首筋が紅潮している。
 この姿態に逆らえるものは少ないはずだ。間宮とやらの気持ちも、分からなくはない。その手の男には堪らない魅力なのだろう。
 しかし、薪の性質を心得ている岡部には、その媚薬は効かない。さっき食べたビーフシチューのほうが心を惹かれる。青木のことは笑えない。

「力で来られたら勝てませんよ。もっとしっかり食べないと」
「うん……なんか食欲なくてさ」
「あんなに美味いシチューでもダメですか?」
「よかったら持って帰れよ。たくさん余っちゃったから」
「明日、青木を呼んでやったらどうですか? きっと喜びますよ」
 薪ははっと息を呑む。細い背中がぎくりとこわばる。
 ためらいがちに、薪は小さな声で言った。

「青木はもう、ここへは来ないんじゃないかな」
 岡部の下で、薪はそんなことを言い始める。
「なぜです? 友達も、そう頻繁に付き合ってはくれんでしょう」
「友達じゃなくて女だ。青木のやつ、雪子さんと付き合いだしたみたいだぞ」
 それは確かに、第九内部で噂になっている。が、岡部にはことの真相が分かっていた。あのふたりはそういう関係ではない。
「連中の噂、信じてるんですか? ありゃガセネタですよ」
「嘘じゃないさ。この目で見たんだ。一昨日も一緒に帰って行った」
「俺、おとといの夜、三好先生に会いましたけど。青木は一緒じゃなかったですよ」
 薪の背中がびくりと揺れる。ひどく驚いた顔をして、肩越しに岡部の方を振り返る。
 
「え? どこで」
「お袋とメシ食いに行った店で偶然。峰山中学同窓会って札が立ってましたよ」
「同窓会……それでお洒落して……」
 薪は右手で口を覆うようにして、何事か呟いた。口許に手を当てるのは、薪が仮説を立てるときのクセだ。
「同窓会なら、そんなに遅くならないだろ。その後きっと青木と」
「いや、あれはムリですよ。コース料理の途中で、すでにへべれけになってましたよ」
 岡部は一昨夜の雪子の様子を思い出して、苦笑した。
 同窓会に出席した雪子以外の女性はみな結婚しており、彼女たちの左手にはその証拠が燦然と輝いていた。『飲まなきゃやってらんないわ!』と叫びながら、雪子は赤ワインをジョッキで飲んでいたのだ。
「雪子さんらしいな」
「知り合いだって周りにバレないように、必死で顔を隠してました」

 再びうつ伏せて、薪は目を閉じる。気のせいか、さっきより背中のこわばりが解けている。マッサージの効果か、あるいは今の会話のせいか。
「あいつがいないと寂しいですか?」
「まさか。僕はおまえと二人の方がいい。静かだし、落ち着くし。こうして堂々とマッサージもしてもらえるし」
 青木は、岡部が薪のマッサージをするのを嫌がる。
 オレの前ではしないで下さい、とはっきり言われた。べつにやましいことをしているわけではないのだが、青木の主張は時々意味不明だ。

「あ~、気持ちよかった。いつも悪いな」
「いいえ。またいつでも言ってください」
 マッサージをしてやった後は、薪はいつも上機嫌で酒の用意をするのに、今日はしばらくそこに座ったままだった。
 片膝を立てて抱え込み、ぼうっとしている。なにかしら考え込んでいるようだ。
 勝手知ったる他人の家で、岡部が冷蔵庫からビールと吟醸酒を出してくる。適当につまみを見繕って、薪の前に差し出した。
 薪はまだ動こうとしない。右手を口許にあてて、またもや思考の世界に入ってしまっているようだ。
 この上司は頭が良すぎるせいか、なにかと考えすぎる傾向がある。こういうときは現実に引き戻したほうがいい。

「どうしてあんな嘘吐いたんですか?」
「なんのことだ」
「こないだの女の話です」
 岡部の質問に、薪は苦笑交じりの声で答えた。バツの悪そうな顔をしている。
「……嘘だって、わかった?」
「わかりますよ。あんな穴だらけの話。嘘っぽいし、矛盾だらけだし」
「矛盾してた?」
「26のときから10年も女ッ気なしだって言ったそばから、こないだの女はって始まっちゃダメでしょう。まあ、青木はパニクってて気づかなかったみたいですけど」
 青木はまだ捜査官としては半人前だ。所轄の経験もないから、容疑者の供述を懐疑的な視線で検証するクセもない。それでなくとも素直な男なのだ。人の言うことはなんでもそのまま信じてしまう。捜査官としては失格だ。
 
「男の見栄ですか? 薪さんらしくないですね」
 薪の真意を探ろうと、岡部はカマをかける。
 そんなくだらない理由でないことはわかっている。実は、薪はああいう話がとても苦手なのだ。素面では口にすることもできない筈だ。だから先週は深酒になってしまったのだろう。

「あいつ、このごろ僕に纏わりついてたろ。うざくってさ」
 それは嘘だ。
 3人で飲むとき、薪はとても楽しそうだった。岡部と2人で飲むときより格段に笑顔が増えていた。岡部にとってもそれは願ってもないことで、心の底では図々しい新人に感謝しているくらいだったのだ。
「いればいたで楽しいですよ。青木は話も面白いし」
「いや、もうたくさんだ。ガキの面倒は見切れないよ」
 岡部はじっと薪の目を見た。
 それだけでこの鋭い上司には、岡部が薪の嘘に気づいているとわかるはずだ。

 果たして、薪は重い口を開いた。
「……青木には、僕がちゃんとした男だって教えといたほうがいいと思ったんだ」

 もう何ヶ月も前から、薪が自分に隠し事をしていることに、岡部は気づいていた。それがこの新人に関わることだというところまでは察しがついていたのだが、岡部の性格では無理に聞き出すこともできず、そのままになっていた。薪のこの言い方だと岡部の予想は当たっていたようだ。

「おまえは僕のこと、普通の男だってわかってるだろ?でも、あいつはちょっと、僕のこと誤解してるみたいだから」
 何となく、気付いてはいた。
 青木は薪に執着しすぎる。薪に憧れて第九に入ってきたのは知っているが、単なる憧れの域はとうの昔に超えてしまっていたようだ。
「レイプ事件で囮になった時さ、写真をばら撒かれただろ。あれ、僕すごいショックだったんだ。どの写真も本当に女の子にしか見えなくて。きっとあれで勘違いしてるやつって多いんじゃないかな。男からのラブレター、確実に増えてるし」
 そのときの怒りを思い出したのか、薪の眉がむっと顰められる。女のように見られることも扱われることも、薪にとっては逆鱗に触れる、もとい引っ掻かれるようなものだ。
「青木も多分、あれ見て……あんなこと」
 薪は両手を前に伸ばし、ローテーブルに突っ伏した。思い出したくないことを思い出してしまったらしい。
 
「中身はそこらの男より、よっぽど男らしいんですけどね」
「岡部だけだよ。僕のこと分かってくれてるの」
「そのうち青木にも解りますって。遠ざけるのは逆効果かもしれませんよ。近くにいたほうが、本当の人間性は伝わるもんです」
「そんなもんかな」
「そうですよ。それに、嘘はダメです。ばれたときのリスクが高すぎます。いっそ、あれは冗談だったって白状しちまったらどうです?」
 岡部の提案はすぐに却下された。
 薪は首を左右に振ると、ふたたび黙り込んだ。

 これは根が深そうだ。

 薪は、囮捜査のときの写真が原因で、と言っていたから、薪が青木を自分から遠ざけなければならなくなったのは最近の話だ。しかし、薪の隠し事はそのずっと以前から続いている。岡部の読みが正しければ、青木が現れたころからだ。
 青木が第九に入ってきたのは1月の終わり。もう10ヶ月にもなる。その間ずっと薪は何か思い悩み続けている。
 これまでも、何度も薪はそれを岡部に話そうとして途中で止めている。薪自身の中で整理がついていない証拠だ。だから岡部は、薪が自分から話してくれるまで待とうと思っていた。
 しかしこの様子では、強制してでも吐かせてしまったほうがいいかもしれない。

「薪さん。あなたと俺は上司と部下で飲み友達で、それ以上でもそれ以下でもない。だからあなたから話してくれないことは無理に聞くべきじゃないと思ってました」
 岡部はそんな風に切り出して、薪に誘い水を向けることにした。
「2月の始めのころから、薪さんは昼間でもしょっちゅう眠るようになって。夜、眠れてないんだと察しがつきました。あの事件から半年近くが過ぎて、ようやく落ち着いてきたと思っていたところに貝沼の置き土産みたいな事件が起きて。それでぶり返してしまったんだ、とあの当時は思っていました。
 でも薪さんは、俺に来てくれとは言わなかった。以前は眠れない日が続いたときは、俺を頼ってくれてましたよね? それが何も言わなくなった。
 どうしてですか? 俺に聞かれたらまずいことを眠っている間に口走ってしまうかもしれない、と思ったからじゃないんですか?」

 薪はじっとぐいのみに入った透明な液体を見つめていた。そこには不安げな亜麻色の瞳が写っている。
 昨年の夏、岡部はよくこんな薪を見ていた。一年が過ぎた今なおこうして、薪を悩ませているのはあの事件の傷跡なのか。それとも新たな傷なのだろうか。

「話してください」
「言えない」
「薪さん」
「僕はおまえを失いたくない。だから言えないんだ」
「何を聞いても、俺は驚きません」
「知らないほうがいいこともある。おまえの性格じゃ、それを知ったら一秒だって僕と一緒にいたくなくなる」
 薪は、岡部がどれほど薪を大切に思っているのか、まるでわかっていない。一生このひとの部下でいたい、と思うほど岡部は薪に惚れこんでいるのだ。もちろん、青木とは違う感情だが。
 これはあまり言いたくなかったが、仕方ない。薪の殻を壊すためには、荒療治が必要だ。
「薪さんの鈴木さんに対する気持ちなら、とっくに知ってますよ」

 効果は覿面だった。
 カタカタと震える右手を左手で押さえて、薪はぐいのみをテーブルの上に置いた。華奢な両手を握り合わせて、必死に震えを止めようとする。
 もう隠しても無駄だと悟ったのか、薪は嘘で自分を糊塗するような見苦しい真似はしなかった。
「……もしかして、寝言で言ってた?」

 岡部にとって、沈黙は肯定の意味だ。
 昨年の夏、岡部は錯乱した薪に抱きつかれて、それらしきことを叫ばれている。薪はなにも覚えていないのだろうが、寝言などという生易しいものではなかった。
「軽蔑するか?」
「心外ですね。そんなことで人間性が否定されるわけじゃない。今まで俺がそんな態度を取ったことがありますか? 俺が不器用でおべんちゃらが苦手なことくらい、薪さんも知ってるでしょう」
 岡部には、同性愛者に対する偏見はない。ただ、自分には理解できない世界だと思うだけである。
 薪も多分、ゲイでないと思う。
 岡部が知っている連中とはタイプが違うのかもしれないが、あの連中は恋人の条件として、まずは同性であることから入る。薪の場合は女性経験もあるようだし、女性に対する興味もそれなりにある。
 同性愛者というよりは、鈴木という人間そのものに対する妄執のように思える。あんな事件があったせいで、彼以外だれも見えなくなってしまった―――― そういうことではないだろうか。

「それに、道ならぬ恋に落ちてるのは薪さんだけじゃありませんよ」
 おっと。これは余計なことだ。
 普段の冷静な薪だったら聞き逃したりしなかっただろうが、今は岡部の言葉尻を捉えるような余裕はないとみえる。命拾いした岡部である。
「第一、昔のことなんでしょ? 三好先生の話じゃ、先生が鈴木さんと付き合いだしたのは大学の終わりの頃だそうじゃないですか。だとしたらその前の話でしょう。もうとっくに時効ですよ」
「でも、雪子さんにはこのことは」
「言いませんよ。けど、引け目に感じることはないと思いますよ。薪さんはずっと鈴木さんにも三好先生にも誠実だった。三好先生の態度を見ていれば分かります。この……写真を見れば、3人の関係も分かりますよ」

 サイドボードの引き出しの中から何枚かの写真を取り出し、岡部はそれを薪のほうへ差し出した。
 そこには若い3人の男女が、楽しげに雪遊びをしている光景が写し出されていた。かれらの間には不信や疑惑と言ったマイナスの感情はなにもなく、ただ信頼と友愛に満ちて幸せそうに笑っていた。
 親友たちと自分の笑顔に満ちた写真を見る薪の顔は、とても哀しそうだ。
 もう二度と戻ってこない。もう一度創ることもできない。親友はこの世にはいない。
 
「青木を見て、鈴木のことを思い出したんだ。あいつは鈴木によく似てるから。頻繁に鈴木の夢を見るようになって……それをおまえに知られたくなかったから……」
 嘘だ。
 いや、嘘ではないが、まだ何か隠している。岡部の捜査官としてのカンがそれを岡部に教えてくれる。
 捜一の元エースを舐めるなと言いたい。弱気な瞳で、動揺を隠せない顔色で、これでは青木(コドモ)にだって通用しないだろう。
 
「そんな単純なことじゃないでしょう。青木のやつは2月にはPC工学の研修に行ってて、殆ど第九には顔を出さなかったはずです。でも、薪さんの睡眠不足は治まるどころか酷くなる一方だった。青木の顔も見ていないのに、どうして鈴木さんの夢を見続けたんですか?」
 薪は答えない。
 答えられない。黙ってくちびるを噛んでいる。
 可哀想になってきた。どうしても話せないことなのかもしれない。

「話したくなかったら、話さなくていいです。ただ、俺は何を聞いてもずっと薪さんの部下ですから」
 それだけは信じて欲しい。そして、いくらかでも自分を頼って欲しい。
 岡部はそう言ったきり黙りこんだ。黙って薪の言葉を待った。

「…………僕のせいだったんだ」
 長い沈黙の後、薪はぽつりと言った。
「貝沼が起こした28人殺しは、やっぱり僕のせいだったんだ。そうかもしれないとは思ってたんだけど……はっきり判ったら、やっぱりショックで」
 衝撃的な話だが、あの事件は捜査中止になったはずだ。その後、捜査を続けることは許されなかったし、データもMRIシステムから消去されていた。薪はその情報をいったいどこから得たのだろう。

「どうしてわかったんです?」
「鈴木の脳を見た。そこに映ってた」
 岡部は思わず目を瞠った。
 薪がそんな行動に出るとは思ってもいなかった。
 自発的なものとは考えにくい。1月に起きた連続自殺事件は、未だ塞がらずにいた薪の傷をさらに大きく広げた。その衝撃で入院までした薪が、自分から鈴木の脳を見ようと思うだろうか。
 強く見せかけているが、薪は実際はそれほど強くない。それを自分でも知っている。だからこそ余計に強がって見せる。岡部は薪のそういうところをとても心配している。

「貝沼は、僕にその……歪んだ愛情を持っていて。殺した少年たちは僕へのプレゼントだと言ってた。僕に似た子ばかり選んだって。僕のせいで37人、部下も含めて40人も死んだんだ。僕は」
 薪は声を詰まらせた。
 零れそうになる涙を必死で堪えている。言葉にすると、物事は明確になってしまうものだ。残酷さも痛ましさも、その罪の重さも。

「貝沼は薪さんに自分の脳が見られることを知っていて、そんな画を自分の脳に残したんですね? だったら自分を責めちゃダメです。貝沼の思うツボじゃないですか。あなたが自分のこと以外なにも考えられないような状態にすることこそ、貝沼の目的だったんじゃないですか?」
「僕もそう思う。でも、頭ではわかっててもなかなかさ。特に夢は制御できないから、とてもひとには言えないような夢も見ちゃうんだ。それでおまえのことも呼べなかった」
 自分が受けた衝撃を表に出さないように、努めて軽い調子で岡部は言った。
「それで? 俺に聞かれたくないことってのは?」
「いま言っただろ」
「はい?」
「僕のせいで40人も死んだんだぞ。そんな人間の下で働けるのか?」
「なんだ。もっとどえらい秘密かと思いましたよ。拍子抜けです」
「拍子抜けっておまえ、40人もの人命がっ……!」
 岡部とて、薪の話にショックを受けなかったわけではない。しかし、それは薪が悪いわけではない。
 貝沼に殺人を教唆したわけでもあるまいに、薪はなにもしていない。薪に罪があるとすれば、万引きを見逃したことくらいか。

 ただ。

 貝沼の狂気の引き金を引いてしまったのは、もしかすると薪かもしれない。
 荒んだ生活を送っていた貝沼の前に現れた薪の姿は、貝沼の目にどのように映ったのだろう。
 あのころの薪は、第九の室長に就任して着実に実績を上げ、順風満帆の出世街道を邁進していたはずだ。私生活においても頼りになる仲間と心から信じあえる親友がいて、充実した毎日を送っていたと思われる。その充実感は薪を内面から輝かせ、あの写真の笑顔を作り出した。
 若く美しく、輝かしい未来を約束された青年。その清廉な美貌は、貝沼に計り知れない衝撃を与えたに違いない。
 狂おしいまでの恋情と憎悪と嫉妬。激しい愛情と破壊衝動。何と引き換えにしてでも手に入れたいと思うと同時に、めちゃくちゃに壊してしまいたい―――― 貝沼は、そんな狂気に憑り付かれてしまったのかもしれない。
 だが、それは薪のせいではない。

「べつに、人の命を軽く見ているわけじゃありませんよ。でも、それは想定内のことでしたから。薪さんが貝沼と知り合いだったと聞いたときから、その可能性は考えていました。俺はそれでもあなたの部下になったんです。その予想が当たったからと言って、今更あなたの部下を辞めたりしませんよ」
 薪は、信じられないという目で岡部を見ている。
 亜麻色の瞳は涙に濡れて、いっそうきらめいている。岡部の答えがよほど意外だったらしく、涙をこらえるのを忘れてしまったようだ。
 薪の泣き顔は、実は岡部にとってはすでに見慣れたものだ。人前では滅多に泣いたりしないが、陰に回るとこのひとはけっこう泣き虫だ。昨年の夏に、岡部は何度も薪の泣き顔を見ている。
 
「いいのか? 僕は……人殺しだぞ」
「いいえ。薪さんは警察官です。自分の職務に忠実な、立派な警察官です。俺がいちばんの目標にしてる捜査官です」
 嘘ではない。
 薪を気遣って、この場凌ぎの言葉をかけたつもりもない。岡部は薪のことを心から尊敬している。
「それを人殺しだなんて。俺の大事な上司を侮辱しないで下さいよ」
「…………うん」
 うん、うん、と何度も頷きながら、薪はぼたぼたと涙をこぼしている。

 あなたが悪いんじゃありません―――― 誰かにこんな風に言って貰いたかったのだろう。
 自分では決して許せないから、せめて誰かには許して欲しかった。でも、だれかに話すにはその秘密は重すぎて―――― その誰かに重荷を背負わせることも躊躇われて、言い出すことができなかった。結局ひとりで抱え込んで、眠れぬ夜が増えたというわけだ。
 岡部に話したからといって、薪の十字架が軽くなったわけではない。これからも薪にはつらい夜が待っているのだろう。それでも、秘密を共有しているものがこの世にいるのといないのとでは、いくらか違うはずだ。

「ひとつだけいいですか?」
 薪が落ち着くのを待って、岡部は尋ねた。
 もうひとつだけ、どうしても確かめておきたいことがある。
「この件に青木は絡んでるんですか? 丁度あいつが来た頃ですよね」
「青木は関係ない」
 薪は即座に岡部の疑問を否定した。
 亜麻色の頭を左右に振って、無理に微笑って見せる。薪の笑顔が痛々しかった。
「まだ入ったばかりで、右も左もわからない新人に何ができたって言うんだ? 貝沼の事件が起きて、僕が自分から鈴木の脳を見たんだ。あいつは何もしてない」
 それが青木を庇っての嘘だということも、岡部には解っていた。事実を知ったら岡部は青木を責めるだろう。 仲間内で諍いを起こしたくない―――― 薪の思惑はそんなところだ。
 薪がそう言うのだから、岡部は頷くしかない。薪の気持ちを尊重して、このことは青木には言うまい。

 しかし、やっぱり許せない。
 青木が薪の家に来なくなって薪は明らかにしょんぼりしている。いま、薪を悲しませていることも許せない。
 青木のやつ、どうしてくれよう―――― その時、岡部の携帯がポケットの中で震えた。
 電話の主はたった今、岡部の頭の中で卍固めを決められていた後輩だ。自分の携帯に岡部からの着信があったことに気づいて、掛けてきたのだろう。
 
「なんか用か」
 不機嫌な声で電話に出る。こんな気分のときに愛想よく電話に出られるほど岡部は器用ではない。
『岡部さん。まだ薪さんの家にいますか?』
「ああ」
『ビーフシチュー残ってますか? オレ、腹ペコなんですけど』
「あるぞ。でも、おまえダチと飲みに行ったんじゃ」
『助かった! じゃ、今からそっちに行きますね』
 ここは岡部の家ではない。しかし、これで訪問の承諾は得たとばかりに青木は電話を切ってしまった。とにかく家主に報告しなくては。

「青木のやつが今から来るそうです」
「……なんで?」
「腹ペコらしいです」
「あいつ、僕の家を食堂かなんかと勘違いしてるんじゃないのか」
 迷惑そうな口振りで、しかし薪はいそいそと席を立つ。パジャマの上にエプロンをつけて、どうやら急な来客のために食事の用意をしてやるつもりらしい。
「まあ、捨てるのももったいないしな」
 薪の姿がキッチンに消えたあと、岡部はふとあることに気がついた。
「どうして青木が夕食のメニューを知ってるんだ?」


テーマ : 二次創作(BL)
ジャンル : 小説・文学

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プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

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いつの間にか9歳になってました。( ゚Д゚)
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