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新人教育(2)

新人教育(2)






 昨日まで降り続いた雨はようやく止んで、今日はいくらか薄日が差している。しかし梅雨時の空は不安定で、重く立ち込めた雲は、いつまた水滴を落としてくるかわからない。
 そんな空模様とは対照的に、青木は上機嫌でハンドルを握っていた。

 青木は、ある遺族の自宅へ向かう途中だ。
 死亡した人物は、自宅付近で起きた連続殺人の目撃者と思われる若い女性だ。殺人現場のほうから慌てて走ってきて、車に飛び込んで亡くなった。目撃者の話によると、何かに追われるように怯えた表情で駆けてきたと言う。偶然にも殺人現場を目撃してしまい、パニック状態で走り出して車道に飛び出してしまったものと考えられる。
 こういう場合、直接犯行の被害に遭ったわけではないので、遺族の承諾が無ければ司法解剖には回せない。犯罪による被害者であることが確定できれば半ば強制的に司法解剖を行い、遺族の承諾書を取りつけてMRI捜査にかけることができるのだが、今回の場合はそうはいかない。あくまで交通事故による死亡であることしか立証できないからだ。
 しかしながら、当日殺された被害者の死亡推定時刻によると、この若い女性が殺人現場を目撃している可能性は非常に高い。そこで警察庁の方から働きかけて、遺族に承諾を得て、MRI捜査に協力してもらう運びになった。
 MRI捜査のためには、遺体から脳を抜き取らなければならない。その外科手術のため遺体を病院に引き渡すのだが、それには警察庁の人間の立会いが必要とのことで、青木の出番となった。
 
 もちろん、青木の上機嫌の理由は研究室を出られて息が抜けるといったことではない。好きな車の運転ができることが1割、残りの9割は隣で窓の外を見ているきれいな横顔の持ち主のおかげだ。
 たかが遺体の引渡しの立会いにわざわざ室長が出向くということにも驚いたが、同伴者に青木を指名してくれたことにはもっと驚いた。室長はたいてい、岡部と一緒に行動することが多い。青木が室長と2人で仕事に出るのはこれが初めてだ。
 目的の家は越谷だ。霞ヶ関からは車で30分ほどの距離である。たとえ短い時間でも、薪と2人きりでいられることは青木にとって嬉しい。狭い車中で薪と同じ空気を吸っていられる。まるでドライブデートのようだ。

「おまえ、なんでそんなに機嫌が良いんだ? これからどこへ行くか分かってるのか」
 うれしさが顔に出てしまっていたらしい。室長の厳しい言葉に、青木は姿勢を正した。
「遺族の前で、そのにやけたツラ晒してみろ。塩撒かれるぞ」
「すみません」
 青木の謝罪を受け入れてくれる様子もなく、室長の眼は冷たい。仕事のときは本当に怖いひとだ。
 仕事中に無駄口を叩くのを嫌う室長とは、会話が続かない。重い雰囲気になってしまうのは嫌なので何かしら話しかけるが、うるさいと一喝されてしまう。以前なら胃が痛くなってしまう状況だが、今の青木の精神状態は少し違う。

 自分がこのひとに恋をしていると気付いたのは、つい先日のことだ。青木の中に生まれた感情は、自制心の及ばない日陰の場所で徐々に育ってきている。
 薪にどんどん惹かれていく自分を、まずいな、と思う。
 これは憧れだ、室長は男の人だ、と自分に言い聞かせるが、違うぞ、と頑固に反論する自分がいる。憧れと恋の間の境界線が、いまひとつはっきりしなくて困っている。
 
 今だって、こうして薪の姿を見るだけで幸せな気分になるのだ。

 こんな気持ちは、中学生の時の初恋以来ではないだろうか。
 大学の頃付き合っていた彼女とは一緒にいて楽しかったが、そこは大人の関係なので、将来のこととかもっと切実な男の事情とか――― どうやってベッドに連れ込もうとか――― そういうものが絡んできて、純粋に相手を想うばかりでは立ち行かなくなってくる。恋愛の駆け引きというやつだ。
 薪はちがう。
 何と言っても室長は男のひとだ。結婚のことなんか考えなくていいし、ベッドのことはもっと必要ない。恋心が性欲に繋がらないこともあるのだ。薪は確かにきれいだが、青木にはそういう趣味はない。……今のところは。

 ろくな会話もないまま、青木の運転する車は目的の家に到着した。
 今時珍しい古風な日本建築の屋敷で、玄関には忌中の札が掲げてある。外観の通り内部も日本調で、障子と襖と畳の風景がノスタルジックな雰囲気だ。
 そして、強い線香の馨り。
 さすがに青木の顔も引き締まる。ここには死体があるのだ。

 薪が玄関で声を掛けるが、応えがない。呼び鈴を押しても誰も出てこない。警察庁のほうから連絡は入っているはずなのに、と青木は不審に思う。
 玄関は諦めて、庭に回ることにする。日本家屋の便利な点は、玄関以外にも庭に面した出入り口が多いということだ。
 二人が建物に沿って歩いていくと、奥の部屋のサッシが開いていて、中の様子が見えた。
 昔の日本家屋によくあるように、サッシから直接廊下に上がれるようになっていて、その奥に八畳間がある。暗い部屋の隅に棺があり、その周りに様々な葬具が置かれている。一見すると華やかな装具は、やはり蒼を基調とした寂しい色彩で、死者の魂を安らかに眠らせようとしている。黒い縁取りが為された大きな写真立てには、まだ死ぬには早すぎる若い女性の姿がある。

 ひとりの中年の男が、コップに入った酒を飲みながら遺影の前に座っている。亡くなった女性の父親だ。その悲痛な表情は深い悲しみを慮らせ、周囲の人間の声を失わせる。
「太田さんですね。警察庁から参りました法医第九研究室室長の薪と申します。この度は突然のことで、さぞお力落しのことと存じますが」
 薪がそっと声を掛ける。いたわりの心が表れた哀しげな表情―――― いや、薪は車の中から、既に沈痛な顔つきだった。この光景を予想していたのだろうか。

 薪の言葉を聞いているのかいないのか、相手には何の反応もない。娘に先立たれた親の心痛は計り知れない。しかし、こちらも仕事だ。
 ところが、男は意外なことを言い出した。
「帰れ。娘は渡さん」
 青木にはびっくりだ。警察庁からの連絡で、今日この時間に遺体を取りに来ることは、遺族には了承済みのはずである。もう病院の手配もしてあるのだ。今更そんなことを言われても困る。

「なにを言って」
 反論しようとした青木を、薪の華奢な手が制した。横目で睨まれる。黙っていろ、ということだ。
「お気持ちはよく分かります。大切な人を亡くされたんです。ご遺体を他人の手に渡すのは、身を切られる辛さだと思います。しかし、娘さんの無念を晴らすためにも、ぜひMRI捜査にご協力を」
「そうしたら、娘は生きて帰ってくるのか」
 無茶苦茶なことを言っている。
「だいたい、あんたらが早く犯人を捕まえないから娘がこんな目にあったんだ。警察の怠慢のせいで娘は死んだんだ」
 支離滅裂だ。第一、現場の捜査は警察庁の仕事ではなく警視庁の仕事だ。一緒くたにされて、他の部署の非でこちらを責められてはたまったものではない。
 もちろん、警視庁の捜査官も必死で頑張っている。その努力を見もしないで怠慢とは、被害者遺族とはいえ、あまりにも言葉が過ぎるだろう。

「お言葉ですが、それは」
 青木の反論は再び、薪の細い腕に阻まれる。
 薪は青木の眼を見て左右に首を振ると、一旦その場を離れた。庭の隅まで歩いて立ち止まり、まるで青木を糾弾するかのように険しい目でじっと見つめる。
「黙ってろ、青木。余計なことを言うな」
「だって室長。あの親父、めちゃくちゃですよ。まるでオレたちが悪者みたいじゃないですか。オレたちは遺体を預かりにきただけなのに」
 家人に聞こえないように声を抑えて、青木は謂れのない非難を受けたことに対する憤りを吐露する。薪はその言葉を黙って聞いていたが、何も言わなかった。
 薪だってそう思っているに決まっている。自分たちは何も悪いことはしていないし、娘が事故にあった元凶の犯人を捕まえてやろうとしているのだから、逆に感謝されてもいいくらいだ。あの男のほうがおかしいのだ。大きな悲しみが彼の正しい思考を奪ってしまっているのだろうが、こういうことははっきりさせなければ。

「青木。おまえ、先に第九に帰れ。僕はもう少しご主人と話をするから」
「オレも行きます。あの親父、頑固そうですよ」
「いいから、帰れ」
 声は低いが目は厳しい。部下に否と言わせない威厳を、この室長は持っている。
「……はい」
 青木が頷くと、薪は踵を返して今来た道を辿り始めた。
 青木は植え込みの陰に隠れて、そっと後を着いていく。命令とはいえ、室長を独り残して帰ることなどできない。あの親父は酒も入っているようだった。薪に危害を加えるかもしれない。

 開け放された窓から、薪は家人に向かって説得を続けている。廊下に上がり込むこともしない。庭に立ったまま背筋をぴんと伸ばして真摯な姿勢を崩さない。
「太田さん。ご心痛のほどはお察しします。しかし」
 薪はそこで深く頭を下げる。腰を90度に折り曲げて、平身低頭というありさまだ。
「犯人を捕まえるためには、どうしても必要なことなんです。娘さんのご遺体を、ほんの少しだけ預からせていただけませんか」
 薪の態度が、青木には少し意外だ。
 警察官は基本的に、15度より深いお辞儀はしない。警察学校でこの角度はいやというほど仕込まれるのだ。最敬礼でも30度。だから 体がそれ以上は曲がらないように、自動的にセーブがかかる。それは警察庁のトップである警察庁長官に対しても同じだ。ましてや市井の人間相手にこのような深いおじぎなど、警察の威信にも関わることではないか。

 警察庁の管理職であり研究室室長という肩書きを持つ薪が、そこまで礼を尽くしているというのに、相手の態度には変化がない。薪の方が年は下でも、社会的地位を鑑みればこの男よりずっと偉いのだ。
「脳みそを取り出すっていうじゃないか。娘がうちに帰ってくるときは、脳の代わりに紙切れでも詰めてよこすのか?」
「データを引き出した後は、ちゃんと元通りにしてお返しします。腕のいい外科医が、なるべく傷が残らないように最大限の注意を払います」
「娘の脳を見るんだろ? 親の俺も知らないような娘のすべてを、おまえらが見るんだろ? 頭を割られて脳を抜かれて、おまえらの視線に散々汚されて……そんなことを許す親がいると思うか!?」
「MRIに掛けるのは、事件に関わる最低限の箇所だけです。娘さんのプライバシーも絶対に守ります。私たちにできるだけのことはします」
「やかましい! おまえらなんか信用できるか!」
 真剣な薪の声に耳も貸さないとは、あまりにも酷すぎる。こっちがこれだけ下手に出ているのに、どこまで傲慢な親父だろう。

「帰れ!このハイエナ野郎が!」
 憤怒の表情で自分を罵る男に対して薪が次に取った行動は、青木を驚愕させた。
 地面の上に、薪は膝を折ったのだ。
 昨日までの雨で、庭の土はぬかるんでいる。スーツを汚した泥を気にする様子もなく、薪は両手を着いて頭を下げた。
「お願いします。これ以上の犠牲を出さないためにも、何卒ご協力を」

 あのプライドの塊のような室長が土下座するなんて―――― 薪の弱気な態度に、青木は少し幻滅している。
 何も薪がここまですることはない。土下座してまで頼み込まなくても、警察には公務執行妨害という伝家の宝刀があるではないか。これは殺人事件の捜査だ。力ずくで遺体を奪って行っても、罪には問われないのだ。
 あの無礼な男を怒鳴りつけてやりたい。が、薪の気持ちを考えて、青木は立ち上がりかけた足を自分の手で押さえつけた。土下座しているところを部下に見られるのは、室長のプライドが許さないだろう。
 警察庁の管理職にここまでさせたのだ。どんなに陰険な男でも満足だろう。慌てて「頭を上げてください」などと言ってとりなしてくるに違いない。

 しかし、青木の予測は見事に裏切られた。
 頭を地面にこすり付ける薪に、男は冷たく「帰れ」と言い放ったのだ。
 ここまでして犯人を検挙し、犯罪を未然に防ごうとする薪の正義感が分からないなんて、この男こそ人間じゃない。青木は怒りで目の前が赤く染まるのを感じた。
 それでも薪が食い下がる気配を見せると、男は突然立ち上がり、バケツに水を汲んできて薪の頭からぶっ掛けた。更にはずぶぬれになった薪に、空のバケツを投げつける。
 もう、じっとしてはいられない。反射的に青木は薪の前に立ちはだかり、飛んできたバケツを叩き落していた。

「なにを乱暴な!」
「引っ込んでろ、青木!」
 助けようとしたのに、怒鳴りつけられる。理不尽なことだらけだ。
「だって室長。事前に連絡したときにちゃんと許可を得ているのに、今になってこんなことを言う方がおかしいんですよ!」
「あれは妻が勝手に、俺は了解などしていない!」
 妻は後妻で娘とは血は繋がっていないから、と父親は弁解がましいことを言っている。が、それはそっちの都合だろう。承諾書に印鑑まで貰ってあるのだ。どこに出てもこちらの言い分が通るはずだ。
 それは百も承知しているはずなのに、薪はどこまでも低い姿勢を崩さない。

「失礼致しました。この男は新人でして。私の教育が行き届きませんで、誠に申し訳ありません」
 バケツがぶつかっていたら、薪は怪我をしていたはずだ。それなのに謝罪をするのはおかしい。この態度は、もはや謙虚というのではない、卑屈というのではないか。
 薪のきれいな顔も髪も泥まみれだ。室長としての身だしなみにと用意してきた英国製のスーツも泥だらけになって、もう使い物にならないだろう。せっかく薪の細身の身体によく似合っていたのに、この男のせいで台無しだ。
 そんな情けない姿になっても、薪の熱心な説得は続く。ここまでしなければならない理由が、青木にはわからない。

「太田さん。犯人はまだ大手を振って歩いているんです。娘さんのような被害者がもっと増えるかもしれない。それを防ぐには、太田さんのご協力がどうしても必要なんです。お願いします、お願いします!」
「……一日だけだ。それ以上は貸さんぞ」
 消え入るような声で、男は言った。やっと引き出した了承の言葉だ。
「ありがとうございます!」
 本来なら、礼など必要ないはずだ。それに、一日だけという限定つきでは徹夜作業になってしまう。まったく迷惑な話だ。
「感謝します」
「あんたは警察のお偉いさんだと聞いてたが、違うのか?」
「警察庁の者ですが、偉くなどありません」
「そうか」
 あなたより遥かに偉いんですよ、と教えてやりたい。薪は警察庁始まって以来の天才と呼ばれていて、出世の最短記録を更新中なのだ。

 薪はようやく立ち上がり、無愛想な家人にもう一度頭を下げた。ハンカチを絞って髪を拭き汚れた顔を拭く。とても拭き取りきれるものではないが、この家の風呂を借りるわけにもいかない。
「青木。病院に連絡だ。僕の携帯は浸水して使い物にならん」
「はい」
 室長の指示通り病院に連絡を入れながらも、青木は不満を隠しきれない。しかし、それをここで話すことはできなかった。もしあの男に聞かれて臍を曲げられでもしたら、室長の苦労が水の泡だ。

 程なく病院の車が来て、遺体を搬送していった。泥まみれの薪を見てびっくりしている病院の担当者に、薪はくれぐれも遺体に傷を残さないようにと頼み込んだ。
 午後には第九へ脳が届く。この男のせいで今夜は徹夜だ。

 薪が父親に再度丁寧に礼を言って、2人はその家を辞した。
 車に乗り込もうとして、薪は足を止める。自分の泥だらけの格好を見て、困惑した表情を浮かべる。車のシートが汚れてしまうことを気にしているようだ。
「室長。オレのジャケットで良ければ着てください。ズボンを脱いでも、ワイシャツとジャケットだけ着てれば外からはわからないと思います」
「そうだな。そうするか」
 庭の片隅で車のドアに隠れて、薪はスーツを脱いだ。白いワイシャツにも所々泥は跳ねているが、直接地べたに着いたわけではないので、見苦しい程ではない。

 ズボンを脱ぐと、人形のように形の良い足が現れる。その肌の白さは、目に痛いくらいだ。思わずワイシャツの裾のあたりを凝視してしまう。なんというかその……色っぽい。
「青木。ジャケット貸してくれ」
 ワイシャツの裾を絞ると、ぼたぼたと水が垂れてくる。ちらりとグレーの下着が見える。ごく普通のボクサーパンツなのだが、なんだか妙に……。
「青木。上着!」
「あ、はい」
 慌てて上着を脱いで薪に手渡す。薪は怪訝な顔をしたが、何も言わなかった。

 青木のジャケットはとても大きくて、丈が薪の膝の辺りまである。そのことは室長のプライドをいくらか傷つけたようだ。
 人間でかけりゃいいってもんじゃないぞ、と口の中で言って、汚れたスーツを無造作に丸め足元に積み込む。土下座よりも背丈のほうが気になるなんて、室長のプライドの基準はよくわからない。
 助手席に座った薪は、ジャケットの前を掻き合わせるようにして身体に巻いている。頭から水をかけられたのだ。ズボンも履いていないし、寒いに決まっている。
「ひどい目に遭いましたね」
「ああいうことは珍しくない。誰だって、大切な人の遺体を傷つけるのは嫌だろう」
 他人に聞かれる心配のない車内でまで、薪は父親を弁護した。青木はますます薪という人が解らなくなる。お人好しなのか、偽善者なのか。どちらも普段の冷徹な室長の姿からは、かけ離れた人物像だ。

「あんなの、おかしいですよ。ちゃんと本部のほうから遺族には話を通してあって、遺体の受け取りに立ち会うだけだって言ってたじゃないですか」
「いざとなると躊躇ってしまうんだ。そういうものだ」
 室長らしくない。
 室長はいつでも冷静で、ちょっと皮肉屋で。誰よりもきれいでスマートで。土下座なんて想像もつかなかったのに。裏切られた気分だ。

「別にいいじゃないですか。すぐ返すんだし」
 何より、薪をあんなひどい目に遭わせたことが許せない。こんなにきれいで可憐で気高いひとに、よくあんな真似をさせられたものだ。もはや犯罪だ、と青木は憤慨している。
「遺体はどうせ焼いちゃうんでしょ。無くなってしまうものじゃないですか。脳を抜かれたからって、死んだ人間が痛みを感じるわけじゃなし。室長があそこまですることないですよ。公務執行妨害で引っ張っちゃえばよかったじゃないですか」
 突然、青木の頬に薪の平手打ちが炸裂した。華奢なくせに、かなり強い平手打ちだ。
 昔から優等生で育ってきた青木は、親に叩かれたことがない。ましてや他人に叩かれるのは、これが初めての経験だった。
 痛みよりも驚きのほうが大きい。
 薪を見ると、なぜか悲しそうな表情をしていた。

「なんでオレがひっぱたかれなきゃならないんですか。ちゃんと説明してくださいよ」
「なぜ叩かれたのか分からないなら、おまえには第九を辞めてもらうしかない。異動願いを書いておくんだな」
 ふい、と横を向いた薪の顔は、とても冷たかった。
 わからない。
 法学部の青木は刑事訴訟法にも詳しい。自分は間違ったことは言っていないはずだ。ああいう場合、公務執行妨害を適用して任務を速やかに遂行するべきだ。それが迅速な捜査活動の為にもなるし、警察の威信を示すことにも繋がる。警察庁の人間なら、そう考えるのが正しいはずだ。

 久しぶりに異動願いを書けと言われてしまった。この頃、ようやく言われなくなったと思っていたのに。あの親父のせいだ。

 押し黙ったまま、青木は車をスタートさせた。
 曇天の空は陰鬱だ。いっそ雨でも降ればいいのに―――― 何もかもが面白くなくて、青木は帰りの車中でとうとう一言も口を利かなかった。


テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

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Jさまへ

Jさま。

はじめまして、でしょうか?
コメントありがとうございます。

過去記事を読んでくださっているのでしょうか?
もしかしたら、先日からのたくさんの拍手もJさまでしょうか?
併せて、ありがとうございます。


>想像力の欠如

そうですねえ。若い人ほど顕著なものかもしれませんねえ。
ただ、無理もないとも思うんですよ。学校という限られた世界しか知らないわけですから、相手の立場や先のことを想像してみろ、と言われても。学生と先生という人種しか知らない、社会の仕組みもまだよく分からない、そんな状況で的確な判断を下すのは難しいと思います。
Jさまの仰る通り、「そういったものを教えるのは社会人の役割りが大きい」のですよね。

かくいうわたしも、新人の頃は先輩にさんざん迷惑かけました。
「新人教育」に書いた青木さんや、「折れない翼」に書いた薪さんの失敗談は、自分の経験をアレンジしたものばかりです。



>社会に出て間も無い頃に出会う大人の影響は少なくない

同意です。
わたしの就職先は、真面目でいい先輩が多かったんです。わたし、デキがよくなかったから、よく怒られましたけどね(^^;
でもその先輩から、仕事に対する姿勢と責任を学びました。
そのことは、今も役に立ってます。


>青木君は幸せですね。

ど、どうなんだろう?!
や、この時はそれなりにいいこと言われてるっぽいですけど、この後グダグダに、いやその。


Jさまのまたのお越しを、心よりお待ちしております。
プロフィール

しづ

Author:しづ
薪さんが大好きです。

2008年の夏から、日常のすべてが薪さんに自動変換される病に罹っております。 
未だ社会復帰が難しい状態ですが、毎日楽しいです。

しづの日誌

法医第十研究室へようこそ!
10万拍手ありがとうございます!
いつの間にか9歳になってました。( ゚Д゚)
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