You my Daddy(16)
You my Daddy(16)
青木が呼んだ救急車と警察は、5分と掛からず現場に到着した。
所轄の刑事に男を引き渡し、薪と青木は救急車を車で追い掛けて病院へ向かった。途中、救急車と一緒に3回程信号を無視したが、今回ばかりは薪は青木の無謀運転を叱らなかった。
ゴッドハンドを抱えることで有名な大学病院の駐車場は混み合っていて、車を停められる場所を探して駐車場の奥まで行かなければいけなかった。更には応急処置に使用したワイシャツの代わりを病院内の売店で買い求め、その分のロスタイムを経て救急外来のドアから中に入ると、ちょうどミハルが手術室に運ばれるところだった。
テキパキと準備を整える看護師たちに混じって、ストレッチャーと並走しているヒロミの姿が見えた。
「先生、ミハルを助けてください。輸血が必要ならわたし、O型です。その子の母親です!」
「お母さん、大丈夫ですから落ち着いてください」
こちらでお待ちください、と看護師に留められる。手術室のドアが閉まると、ヒロミは糸の切れたマリオネットのように不自然な動きでソファに座った。その隣に、薪が静かに腰を下ろす。
「腕が擦り傷だらけだ。おまえも手当てをしてもらって来い」
「こんなの、舐めときゃ治るわ」
「傷だらけの腕でミハルを抱く気か? ミハルに嫌がられるぞ」
言われてヒロミはじっと自分の手を見た。そうね、と立ち上がる。ヒロミが処置室に入ったのを見計らって、青木は薪の隣に腰を落ち着けた。
「……ミハルは大丈夫だろうか」
独り言のように、薪の口から零れた弱音に青木は眉を寄せる。先ほど薪は、ミハルは助かるとヒロミに保証したのではなかったか。
「薪さん、ミハルちゃんの傷を見て大丈夫だって言ったんじゃ」
逆に青木が尋ねると、薪は力なく首を振った。心細い時によくするように、靴を脱いで片膝を抱える。折り曲げた膝の上に細い顎を載せ、彼は小さく嘆息して、
「子供がどれくらい痛みに耐えられる生き物なのか、僕は知らない」
長い睫毛が、震えながら重なった。
抵抗力の弱い子供の診断は、専門医でも難しいと聞く。いくら薪が天才でも、まるで畑違いの分野だ。確証など持てるはずがない。だが、自分が弱気になればヒロミの不安が増大する。そのために薪は自分を奮い立たせていたのだ。
自動ドアの上の、黄緑色に光る手術中の文字を見上げて、青木はミハルの笑顔を思う。
青木は今日初めて、ヒロミたちの過去を知った。父親に虐待の限りを尽くされてきた母親と娘。そんな中で生まれてきた小さな命。それはどこからやって来たのか。口に出すのも憚られる想像だが、可能性は高いと思った。
「あの。ミハルちゃんの父親って」
「言うな」
素っ気なく遮られた。
「それ以上は、言うな」
小さく、でも頑として拒絶されて、青木は自分の考えに確信を持つ。ヒロミが、子供の父親にも親戚にも頼らず、20年以上赤の他人として暮らしてきた薪に助けを求めてきた理由も、それならば合点がいくではないか。
「生まれてくる前に何とかできなかったんですか。親戚が駄目でも、行政に相談するとか」
「生まれてきてはいけない子供なんて、誰が決めたんだ。ミハルは此処に、こうして生きてる」
青木は思わず腰を浮かした。
青木が驚愕の表情で薪を見つめると、薪は膝の上から顎を外し、先刻までの青木と同じように入り口の点灯板を見上げた。
「今もあの中で、必死に戦ってるんだ」
廊下の奥の処置室から、ヒロミが出てくるのが見えた。薪は素早く脚を床に下ろし、すっと背筋を伸ばすと、腕に包帯を巻いた彼女に力強く頷いて見せた。
それから、どれくらい時間が過ぎただろう。
青木が座りっぱなしの尻に痛みを覚え、3度目のコーヒーを買いに立ち上がった時だった。手術室のドアが開き、ストレッチャーにうつ伏せに寝かされたミハルが出てきた。3人の保護者が一斉に走り寄る。
「先生、ミハルは」
「大丈夫ですよ。思ったより傷は浅くて、打撲も軽かった。念のため詳しい検査もしましたが、内臓に損傷はありませんでした。背中は10針ほど縫いました。しかし、子供の回復力は強い。1週間もすれば退院できるでしょう」
ほうっと息を吐く、ヒロミの身体がぐらりと揺れた。緊張の糸が切れたのか、倒れそうになるヒロミを青木が支える。抱え上げて、さっきまで自分たちが座っていた長椅子に寝かせた。安心して貧血を起こすなんて、まるでどこかの誰かさんみたいだ。血は争えない。
横たわったヒロミに苦笑すると、薪に睨まれた。青木の考えを見抜かれたらしい。天才の恋人を持つと、気軽に思い出し笑いもできない。
その後、看護師から入院の説明があった。病院側との話し合いにより、年齢と精神面のケアを考慮してミハルには個室を用意すること、母親のヒロミが同じ部屋に滞在することが決まった。
入院の準備をするため、ヒロミは青木の運転で一旦家に帰ることになり、その間、ミハルには薪が付き添うことにした。
「青木。ミハルのあれ、持ってきてやれ」
「え。病院にですか?」
「いいだろ、個室なんだから」
薪の命令には逆らえず、青木は巨大なぬいぐるみを抱えてヒロミと一緒に病院へ戻った。
病棟で、すれ違う入院患者にクスクス笑われ、子供に後ろ指を指され。薪もあの日、こんな思いをしてこの滑稽なゆるキャラを抱いて家に帰ったのかと、青木は改めて自分の愚挙を後悔したのだった。
青木が呼んだ救急車と警察は、5分と掛からず現場に到着した。
所轄の刑事に男を引き渡し、薪と青木は救急車を車で追い掛けて病院へ向かった。途中、救急車と一緒に3回程信号を無視したが、今回ばかりは薪は青木の無謀運転を叱らなかった。
ゴッドハンドを抱えることで有名な大学病院の駐車場は混み合っていて、車を停められる場所を探して駐車場の奥まで行かなければいけなかった。更には応急処置に使用したワイシャツの代わりを病院内の売店で買い求め、その分のロスタイムを経て救急外来のドアから中に入ると、ちょうどミハルが手術室に運ばれるところだった。
テキパキと準備を整える看護師たちに混じって、ストレッチャーと並走しているヒロミの姿が見えた。
「先生、ミハルを助けてください。輸血が必要ならわたし、O型です。その子の母親です!」
「お母さん、大丈夫ですから落ち着いてください」
こちらでお待ちください、と看護師に留められる。手術室のドアが閉まると、ヒロミは糸の切れたマリオネットのように不自然な動きでソファに座った。その隣に、薪が静かに腰を下ろす。
「腕が擦り傷だらけだ。おまえも手当てをしてもらって来い」
「こんなの、舐めときゃ治るわ」
「傷だらけの腕でミハルを抱く気か? ミハルに嫌がられるぞ」
言われてヒロミはじっと自分の手を見た。そうね、と立ち上がる。ヒロミが処置室に入ったのを見計らって、青木は薪の隣に腰を落ち着けた。
「……ミハルは大丈夫だろうか」
独り言のように、薪の口から零れた弱音に青木は眉を寄せる。先ほど薪は、ミハルは助かるとヒロミに保証したのではなかったか。
「薪さん、ミハルちゃんの傷を見て大丈夫だって言ったんじゃ」
逆に青木が尋ねると、薪は力なく首を振った。心細い時によくするように、靴を脱いで片膝を抱える。折り曲げた膝の上に細い顎を載せ、彼は小さく嘆息して、
「子供がどれくらい痛みに耐えられる生き物なのか、僕は知らない」
長い睫毛が、震えながら重なった。
抵抗力の弱い子供の診断は、専門医でも難しいと聞く。いくら薪が天才でも、まるで畑違いの分野だ。確証など持てるはずがない。だが、自分が弱気になればヒロミの不安が増大する。そのために薪は自分を奮い立たせていたのだ。
自動ドアの上の、黄緑色に光る手術中の文字を見上げて、青木はミハルの笑顔を思う。
青木は今日初めて、ヒロミたちの過去を知った。父親に虐待の限りを尽くされてきた母親と娘。そんな中で生まれてきた小さな命。それはどこからやって来たのか。口に出すのも憚られる想像だが、可能性は高いと思った。
「あの。ミハルちゃんの父親って」
「言うな」
素っ気なく遮られた。
「それ以上は、言うな」
小さく、でも頑として拒絶されて、青木は自分の考えに確信を持つ。ヒロミが、子供の父親にも親戚にも頼らず、20年以上赤の他人として暮らしてきた薪に助けを求めてきた理由も、それならば合点がいくではないか。
「生まれてくる前に何とかできなかったんですか。親戚が駄目でも、行政に相談するとか」
「生まれてきてはいけない子供なんて、誰が決めたんだ。ミハルは此処に、こうして生きてる」
青木は思わず腰を浮かした。
青木が驚愕の表情で薪を見つめると、薪は膝の上から顎を外し、先刻までの青木と同じように入り口の点灯板を見上げた。
「今もあの中で、必死に戦ってるんだ」
廊下の奥の処置室から、ヒロミが出てくるのが見えた。薪は素早く脚を床に下ろし、すっと背筋を伸ばすと、腕に包帯を巻いた彼女に力強く頷いて見せた。
それから、どれくらい時間が過ぎただろう。
青木が座りっぱなしの尻に痛みを覚え、3度目のコーヒーを買いに立ち上がった時だった。手術室のドアが開き、ストレッチャーにうつ伏せに寝かされたミハルが出てきた。3人の保護者が一斉に走り寄る。
「先生、ミハルは」
「大丈夫ですよ。思ったより傷は浅くて、打撲も軽かった。念のため詳しい検査もしましたが、内臓に損傷はありませんでした。背中は10針ほど縫いました。しかし、子供の回復力は強い。1週間もすれば退院できるでしょう」
ほうっと息を吐く、ヒロミの身体がぐらりと揺れた。緊張の糸が切れたのか、倒れそうになるヒロミを青木が支える。抱え上げて、さっきまで自分たちが座っていた長椅子に寝かせた。安心して貧血を起こすなんて、まるでどこかの誰かさんみたいだ。血は争えない。
横たわったヒロミに苦笑すると、薪に睨まれた。青木の考えを見抜かれたらしい。天才の恋人を持つと、気軽に思い出し笑いもできない。
その後、看護師から入院の説明があった。病院側との話し合いにより、年齢と精神面のケアを考慮してミハルには個室を用意すること、母親のヒロミが同じ部屋に滞在することが決まった。
入院の準備をするため、ヒロミは青木の運転で一旦家に帰ることになり、その間、ミハルには薪が付き添うことにした。
「青木。ミハルのあれ、持ってきてやれ」
「え。病院にですか?」
「いいだろ、個室なんだから」
薪の命令には逆らえず、青木は巨大なぬいぐるみを抱えてヒロミと一緒に病院へ戻った。
病棟で、すれ違う入院患者にクスクス笑われ、子供に後ろ指を指され。薪もあの日、こんな思いをしてこの滑稽なゆるキャラを抱いて家に帰ったのかと、青木は改めて自分の愚挙を後悔したのだった。